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 投稿番号:101454 投稿日:2015年05月21日 02時41分40秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XLI(M氏家譜5)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101450_62.html

「長上郡の服部氏族XL(M氏家譜4)」からの続きの XLI スレッド41 です。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月21日 21時24分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 十湖が格太郎に与えた雅号「霞城」、十湖29才の時、羽鳥村格太郎が
入門しています。その時に与えた雅号が正式には「栄樹園霞城」でした。
 十湖は明治38年、57才の時、初めて信濃へ約4ヶ月に及ぶ旅をする。
 その中で、特筆すべきことがあった。即ち、十湖が旅行中も肌身離さず
秘蔵していた「芭蕉の直筆 年忘れの句」を、「新田貞順」に贈ったてい
うことである。「芭蕉直筆」そして「新田」・・・その意味する所は深く
謎を秘めている。

 本日は崩し字の勉強日。それが終ってから、まずは小笠原源太夫の勧請
したという「新羅大明神」を見に行きました。ご指摘のように中田島の近
くの江の島にあります。私も若い頃中田島の団地に住んでいましたし、母
の在所が中田島だったので、第2の故郷のような所でありますが、神社の
ことは全く気にも留めていませんでした。それが今回急に目覚めたように
行ったわけです。
 新羅大明神という名はどこにも書いてありません。ナビにも何も出てい
ません。目であちこち眺めながら探す。松林と神社・・・あそこだろうと
行ってみる。入口の石柱に「大明神」と縦書きで刻まれている。「これだ」
と車を隅に止め、鳥居をくぐり神社の正面へ向かう。確かに神社はあるけ
れど、小笠原源太夫の関係について知り得るものは何もない。知らない人
にはただの田舎の神社である。
 源太夫堀を造った小笠原源太夫を想いながら、お参りを済ませる。唯一
その偉業を暗示するものとして、神社の鬼瓦の一つに「水」の文字を見る
ことができたのが救いであった。
 
 次に、磐田郡竜洋方面、昔の白羽に向う。目的は、小笠原系山下氏の墓
を見るためである。白羽に3家あるということで、その菩提寺の聖寿寺に
向かう。ナビで検索して探しだすことができた。1988年に山下康一郎
氏が書いた「清和源氏小笠原流遠江山下家系図」の中に写真があり、白羽
の山下三家の墓地ということで、山下家の墓石群が写されていた。家紋も
良く見え、それは「三階菱」であった。私はこの三階菱より、実は「丸に
一文字」の家紋を山下氏が使っていたかどうかを調べたかった。
 寺の墓地を一巡する。まずは「鳥山」家がいくつか、「丸に三つ柏」で
ある。「抱き茗荷」もある。「違い鷹の羽」もある。
 次に「松島」家が目に入る。「丸に剣片喰(けんかたばみ)」である。苔
の生えた古い松島家の墓も同じ家紋であった。
 次に「鈴木」家であるが、「違い鷹の羽」、「丸に剣梅鉢」、「蔦」、
「丸に根笹」。そして以外にも「丸に三つ柏」があった。
 「青山」家、「丸に違い鷹の羽」。
 「武田」家、「丸に隅立て四つ目結」。
 「本間」家、「丸に違い鷹の羽」。
 「松下」家、「丸に隅立て四つ目結」。
 「山内」家、「丸に違い鷹の羽」。
 そして、ついに「山下」家・・・以外にも「丸に剣片喰」、そして「丸
に桔梗」。
 これで調査の対象に関係する氏族の家紋の調査は終わった。だが、あの
御三家の墓石群がない。ちょうどその時、一台の車が寺にやって来たので、
勇気を出して訊いてみることにした。
 「すみません。山下家の墓を探しているのですが・・・」そう言いながら、
例の山下氏の家系図に載っている御三家の写真を指し示す。
 「えっ、私も山下ですけど・・・ここの寺に墓はあるけど・・・ちょっと
見せて・・・。ああ、これは私の主人の本家の方にあるんじゃないかな。
白羽神社の方に本家はあるので、行ってみたら」とアドバイスをいただいた。
偶然にも、一族の方に偶然出会う幸運さに心強くなり、とりあえず白羽神社
に行ってみることにした。

 本日はここまで、続きは明日とします。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 21時59分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


中田島砂丘には幼い頃に父に何度か連れて行ってもらいました。
幼稚園児のあたりなので景色を覚えているぐらいです。

この中田島砂丘のくだりに背筋がゾクゾクしました。


そして山下家のお墓や他家の家紋のお話を興味深く拝見しました。
そして関係者の御婦人に出遭えたこと、ラッキーでした。


「三つ柏紋」もあって安堵しました。
でも服部家でなかったのが残念です。




>雅号は正式には「栄樹園霞城」

   どういう意味なのでしょうね?

日本人は言葉に魂が宿ると考えていますから、それなりの意味があるのだと思います。

また松島十湖の  「十湖」にも何か意味があるのだと思います。


「新田」もどんな心理的な関係なのでしょうね。


謎が深まります。


あ、お寺でどなたかにお会いしましたら
「先祖が親しくさせて頂いていたそうなので、お参りさせて欲しいので」
と「尊敬」または「感謝」の言葉も入れてくださいね。

そうしましたら、更に、会話に発展があるかもです。


では続きを楽しみにしております。
本日は小笠原氏山下家に挑戦です。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月22日 07時37分12秒 ) パスワード

山下氏の系図を読んでいます。


遠江に牧があって大伴氏が管理してた。
そこへ小笠原氏が養子に入った。
山の下の遠江だから「山下姓」がピッタリ合う。



山下氏は3つの流れがある。


山下泉政豊の妻は松下氏。
松下重綱の時、常陸まで行ったが、後、慶長の初めに豊田郡池田の庄  大当所村に住む。

       政豊の姉の子達は  筑後山下家と江戸牛込山下家に。


つまり、慶長8年(1603年)、重綱が無断で城の石垣を築いた罪科により常陸小張(おばり)に移封させられた時には同行。

この後、辞職。遠江へ帰農。
石垣無断改修工事の時に松下家中で何かあったのかも、ですね。

年齢も50代半ばだったから、武士は嫌になってたのかしら?



松下家が慶長19年(1614年)からの大坂の陣で活躍し、その功績により、元和2年(1616年)に2万800石に加増されたのは知っている。


元和8年(1622)亡くなる。
75歳
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月22日 07時43分04秒 ) パスワード

2代目さんはお姉さんの三男さんですか。

奥さんも山下家一族。


   代官高室氏に仕え
   その後は代官松平清兵衛に仕えた。


3代目さんは実子

3代目のことを3祖と言うんですか。
知らなかった〜
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月22日 07時48分58秒 ) パスワード

4代目さんがスゴイ。

「我が子孫は低居して高を望む勿れ」


     地道にコツコツが1番、と。


この人の弟さんが優秀な医者だったんでしょうね。

     半井に学び
     のちには伊藤仁斎に学び。

     さすがお金持ちの弟だし、当代最高の医術を学んだんでしょうね。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月22日 07時57分29秒 ) パスワード

5代目さんもスゴイ。


領主の命を受けて志都呂の干拓を行って数十町歩を献上。

    その報酬が  名字帯刀の許可  ですって。

        軍人が勲章を貰うみたいに
        お金では対価を払うことが出来ない領主は「身分」を与えて借金をチャラにしてもらった
        ということですね。


    わたくしでしたら、そんなもの要らない、と心の中で毒づきそう。
    武士なんか辞めて帰農した家に名字帯刀とは、と。


でも大人ですね。
借金を踏み倒された上に欲しくもない名字帯刀とは。

    元は領主より身分のある名家でしょうし
    刀や鎧だって蔵の中に眠っているんだろうし。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月22日 08時06分26秒 ) パスワード

5代目さんの娘が内山真竜の母ですか。


      それで真竜は5代目さんの血を受けて優秀なのね。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月22日 08時13分09秒 ) パスワード

8代目さんは従兄の真竜に学び、本居宣長に学び、学問で松平篤信の代官になって名字帯刀を許されましたか。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月22日 08時14分40秒 ) パスワード

分家の彦兵衛さんが大草家に仕える。



[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月22日 08時16分05秒 ) パスワード

10代目の後妻さんが  松島とせ  さん。
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月22日 12時11分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 山下家の系図の説明書きを読むと、いろいろな関係が浮き彫りになって
見えない世界が見えてきます。

 やはり、松下之綱の系統はこの地にしっかりと根を下ろし、影響力を発揮
していた。
 服部正信の系統も・その後を引き継ぐ服部中の系統もしっかりと影響力を
発揮していた。
 之綱や清景は別にして、両系統はいずれも、裏の方でつながっていたと考
えられます。家康直属の特殊部隊、ある意味では敵方の特殊部隊から身辺を
守る親衛隊として。
 そこへ大草氏・秋鹿氏がからむ、市野氏・山下氏(小笠原氏)がからむ。
 山下氏の八代目は「志都呂」の堤・干拓ということで、大久保代官・元
新居の関番ということで当然からむ。
 家康を頂点として、浜松藩主、特命部隊の連携・・・支配の裏側からの
世界が見えて来ます。
 市野氏については、もう少し情報がほしい。馬だけの関係にあらずと思い
ます。馬・牧でつながるのは山下氏→小笠原氏→(小県郡)→望月氏・・・
そして武田氏につながってくる。
 望月千代女の歩き巫女や武田忍者の情報網 vs.服部・服部中・松下系忍者
部隊の情報網・・・そこに市野氏は確実にからんで来ると思います。当然
山下氏もからんで来る。では松島氏の存在は?・・・松島氏は「小県郡」の
出身であるということ・・・この「小県郡」が松島氏・市野氏の謎を解くキ
ーワードかと推察いたします。

 一度ここで切ります。
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月22日 13時00分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 山下氏の八代目(天竜川河口掛塚の東の白羽の人)が何で離れた浜名湖東岸
の志都呂の堤・干拓事業を仰せつかったのかが謎であります。隣の大久保は
服部代官がいた、志都呂に代官屋敷をおき、新居には関所番として通っていた。山下氏と服部氏のつながり・・・服部と松下のつながり・・・松下と井
伊氏とのつながり、井伊家の御三家・・・近藤氏、鈴木氏、菅谷氏・・・。
 つまり、山下・大草・服部・松下・井伊/太田はつながっています。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月22日 13時03分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


たくさんの情報を一度に読んだので頭の中がこんがらがっています。
整理のために、しっかり眠らなくては。



清和源氏だけで740を超える家が始まったのですか。
すごいですね。


>いろいろな関係が浮き彫りになって見えない世界が見えてきます。

はい
驚きです。

あの中に書かれていない関係もなんとなく透けて見えますしね。
分家のことはすべてが書かれているわけじゃないですから
遠江国の中でのいろいろな家と山下家の分家との関係もあります。


山下家はかなり分家としっかり婚姻してますが
分家でよその家が婚姻して、山下一族のピラミッドを形成していたんでしょうね。



>やはり、松下之綱の系統はこの地にしっかりと根を下ろし、影響力を発揮していた。

はい、松下家が転封していった後の遠江国をまとめていたのが山下家なんでしょうね。


きっと重綱の無断石垣修理事件で幕府の容赦無い処分に危機感を持ったのかもですね。
誰かがちゃんと遠江で地盤を守っていないと松下家が崩壊した時に行き場所が無くなる
だから遠江に戻って受け入れ先を確保しておかなくては
と思ったのかも。


>服部正信の系統も・その後を引き継ぐ服部中の系統もしっかりと影響力を発揮していた。


はい
こちらは静かに深く暗く目立たぬように?

    松下加兵衛と秀吉の本を読んでいた時に
    松下家が忍者をしっかり活用しているのを感じました。
    想像以上でした。
    だから存続できたのかもですね。


>之綱や清景は別にして、両系統はいずれも、裏の方でつながっていたと考えられます。
>家康直属の特殊部隊、ある意味では敵方の特殊部隊から身辺を守る親衛隊として。


はい。


>そこへ大草氏・秋鹿氏がからむ、市野氏・山下氏(小笠原氏)がからむ。
>山下氏の八代目は「志都呂」の堤・干拓ということで、大久保代官・元新居の関番ということで当然からむ。

はい


志都呂の干拓事業には驚きました。
こんな大がかりな事業を押し付けられていたんですねえ。

    名古屋でいうと熱田神宮みたいな
    それぐらいの力のあった家なのかと驚きました。


>市野氏については、もう少し情報がほしい。馬だけの関係にあらずと思います。
>馬・牧でつながるのは山下氏→小笠原氏→(小県郡)→望月氏・・・
>そして武田氏につながってくる。

はい
そしてココに
>家康を頂点として、浜松藩主、特命部隊の連携・・・支配の裏側からの世界が見えて来ます。


市野惣兵衛がどう関わっていたのか
この人の正体は一体何だったのか?

浅井系ということで甲賀かなと思いますし伊賀かも知れないし望月がらみで武田も絡んでいるかもしれないし

    なんせ織田信長が日本中を敵に回してた時代がありましたから
    浅井の家来なら信長を共通の敵として武田と通じてたかも
    今川とだって繋がっていたかも知れないし
    それで家康に仕えたのかも知れないし。



>望月千代女の歩き巫女や武田忍者の情報網 vs.服部・服部中・松下系忍者部隊の情報網・・・
>そこに市野氏は確実にからんで来ると思います。

はい。
アヤシイですよね。



>当然山下氏もからんで来る。

ですね。


>では松島氏の存在は?・・・松島氏は「小県郡」の出身であるということ・・・
>この「小県郡」が松島氏・市野氏の謎を解くキーワードかと推察いたします。

はい。


土地勘が無いのでピンと来ないのが残念です。
方向音痴なのでどっちにしろピンと来ないんでしょうけど

松島氏は一体何者なのか?どこにいたのか?ハッキリすると良いのですが。

    なんせ松本も長野市もどっちがどっちかこんがらがってます。
    松島氏は長野市にもいたのか?


松島格太郎さんの雅号についてもっと考えてみたいと思っています。
   長野は遠過ぎるのですが
同じ国の中ですから長野の霞城と関係があったのかなとも思います。


また脳味噌休めて考えます。
とにかく勘が働くと良いのですが。



松島氏もすごいけど
山下氏もすごいですね。驚きました。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月22日 13時12分23秒 ) パスワード

>山下氏の八代目(天竜川河口掛塚の東の白羽の人)が何で離れた浜名湖東岸の志都呂の堤・干拓事業を仰せつかったのかが謎であります。

それだけの資金を持っている家だったから、
が答えでしょう。

ホントに不思議ですよね。



>隣の大久保は服部代官がいた、志都呂に代官屋敷をおき、新居には関所番として通っていた。
>山下氏と服部氏のつながり・・・服部と松下のつながり・・・松下と井伊氏とのつながり、井伊家の御三家・・・近藤氏、鈴木氏、菅谷氏・・・。
>つまり、山下・大草・服部・松下・井伊・太田はつながっています。

はい
繋がってます。

レス9で「大草」の名が出て来た時に「また繋がったのね」と思いました。


もともと繋がっていて、後世でもやっぱり繋がるんだ、と驚きました。


ただ三つ柏さんのお家がどう繋がるのか早くハッキリした記事が見つかると良いのですが。


そうすると大久保陣屋の服部氏が志都呂の干拓が出来る家は山下しか無いと言ったのかな?とか思ったりします。


志都呂の干拓の記事が検索できると良いなと思っています。
明日頑張ります。
[15]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月22日 17時14分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明日は一泊にて富士山麓での芝刈りです。パソコンの打ち込みができませ
ので、2日分書き込んでおきます。

 昨日、「聖寿寺」で山下氏の末裔に会ってのち、白羽の「白羽神社」に行
きました。外見は農村によくある普通の神社、周りは建て混んで来ている。
由緒書きには次のように書かれていた―
「所在地は磐田郡竜洋町白羽438番地。 長白羽命・倭健命・他24柱を祀る。
創立年代は不明。
 文武天皇4年3月、此の地を牧地として牛馬を放養す。牧官筑紫大伴某、
本社に奉仕せり。應永年間、山下与三郎政忠、信州より移住し、牧官大伴の
遺跡を嗣ぎ奉仕す。
 元亀年中、武田軍の兵火にかかり、旧宝物を焼く。
 慶長13年神殿再建のことあり。安政元年地震に弊殿及び拝殿倒壊し、慶應
元年造営せり。徳川氏朱印32石の寄進あり。」

 白羽神社の近くに山下3家の墓があるはずだと回りをぐるぐる回るけれど、
それらしいものはない。今から25年前の写真であったので、既に解体され
どこかの寺へ移されたのだろうか。
 白羽神社を起点にして、2キロ圏内のお寺を回ることにした。

 まずは「能泉寺」。目立ったものは「松島」家の墓四基、いずれも「丸に
剣方喰(けんかたばみ)」。
 それに鈴木家、「丸に三つ柏」。
 松下家・・・家紋は彫られていない。

 次に「松林寺」。ここは松山氏一族(池田輝政公と姻戚関係)の菩提寺らし
いく、一族の墓石群が並んでいた。
 「山下」家の墓、1つは家紋なし、一つは「丸に剣方喰」。
 「伊達」家先祖代々の墓もあった。
 「松嶋」家・・・「抱き茗荷」。
 「松島」家「丸に桔梗(ききょう)」。
 「伊賀野」家があった・・・「蔦紋」。

 そして最後に「西方寺」。
 ここにはついに「小笠原」氏の墓があった。家紋は「丸に桔梗」。
 さらに「小笠原家歴代の墓」という石でできた大きな墓がでーんと建てら
れていた。「小笠原角十」建立となっていた。

 小笠原家の墓に出会ったので、満足感が湧いた。山下三家の墓はとりあえ
ずあきらめることにしました。

 次に「馬伏塚城跡」に向かう―

 ここで一旦切ります。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月22日 22時00分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

富士山にご奉公ですか?

富士山は神様のお山なので、ご利益で、何かご褒美が後日降って来ると良いですね。
へへへ


山下家といえども  三階菱  とは限らないんですねえ。
やはり  本家の山下家に遠慮なさってなのか  大伴氏の紋を受け継いだのか
家紋もなかなか深いですね。


富士山でも芝刈り、蛇にはくれぐれもお気をつけて。
脅さないよう噛まれないよう。


山下家は明治に神道に宗旨替えした?
それでお寺を止めた、という書き込みもありましたね。

お寺さん自体が廃寺になって、移した、というのもありましたっけ。


    ご先祖さまは嫌だったでしょうね。
    子孫よ、勝手なことをするな、って。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月22日 23時25分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、浅羽に向う。先日、掛川からの帰り道で、偶然「馬伏塚城跡」の看
板を見つけ、走りながらもナビに地点登録しておいたので、まずは登録地点
に行けばなんとかなるはずであった。登録地点の近くにお寺が見えて来た。
とりあえずは行ってみようと、門前まで行ってみると、アッと驚いた。
 「馬伏塚城主 小笠原氏清の墓 浄土宗了教寺」と看板が出ている。待望
の小笠原氏に一発で出合えた―と喜ぶ。看板には ―
 「馬伏塚城の小笠原氏は、
  1代目 小笠原長高 天文13年(1544)57才にて死す。墓所は袋井市
            岡崎村長命寺
  2代目 小笠原春義(春儀) 高天神城主を兼ねる。元亀3年(1572)死す。
            墓所は小笠町河東村養徳院。
  3代目 小笠原氏清 高天神城主を兼ねる。永禄12年(1569)41才に
            て死す。墓所は浅羽町岡山村了教寺。」
と書かれていた。

 坂道を登ると、そこに寺が現れ、正面西側に大きな墓(五輪塔)と小さな墓
(宝篋印塔)、その奥の敷き地にはまとまった一群の墓があった。大と小の墓
の横には看板が出ていて―
 「小笠原氏清之墓・重右衛門之墓」と書かれていた。とりあえず、この墓
の前にて般若心経を唱え、そのあと奥の墓石群も見て回った。が、特筆する
ほどのインパクトはなかった。
 それでもここは了教寺というお寺、一体「馬伏塚城跡」はどこにあるのか
と車で探しに出掛ける。小山の脇を通り、100メートルも行かない内に幹
線道路に出る。と、そこに看板が出ていた。
 「馬伏塚城跡→」
 そして幹線道路を横切って30メートル程進むと、小山があり、ふもとに
看板が―
 「この城は、いつ築かれたか明らかではありませんが、文亀元年(1501)に
 遠江国守護であった斯波(しば)氏と駿河国守護であった今川氏が遠江国の
 支配をめぐって中遠地域で激しい戦闘を繰り広げられた時に、今川方の拠
 点として座王城(袋井市久野)・天方城(森町大鳥居)と共に登場しており、
 この時には城塞としての機能を果たしていたことがわかります。
  城主として確かな史料に登場する最初は、今川氏の重臣で遠江小笠原
 春茂(春義、春儀)とその子の氏興(氏清)であり、高天神城(大東町土方)の
 城主も兼ねていたとされます。
  今川氏が滅亡すると、小笠原氏は徳川家康の配下となります。
  天正2年(1574)6月17日、南遠地方の要であった高天神城が落城し、
 徳川方から武田勝頼の手に支配が移ると、家康は馬伏塚城(まむしづかじ
 ょう)を高天神城攻略の作戦本部と位置付け、8月1日から大改修を行っ
 て現在の岡山集落域を取り込む城郭に造り上げました。
  城主には家康の重臣である大須賀康高を置き、天正9年(1581)に高天
 神城が落城するまで、天正6年に築かれた大須賀城と共に、重要な位置
 を占めます。
  しかし、徳川家康による遠江支配が安定する天正10年には、その役割
 を終えて廃城となり、跡地に岡山村が形成されていきました。」

  以上が昨日の小笠原氏散策の〆であります。
 
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 08時16分06秒 ) パスワード

三つ柏さん


馬伏塚城については先月かその前あたりに読みました。


歴史
築城年代は定かではない。 今川氏の家臣小笠原氏が城主で、今川氏が没落すると小笠原氏は徳川家康の家臣となり、高天神城主も兼ねた。

天正2年(1574年)高天神城が武田勝頼によって攻略されると、家康は高天神城奪還の拠点として馬伏塚城を改修し、大須賀康高を城主に据える。

更に康高に横須賀城を築かせ、康高を横須賀城の城主として、馬伏塚城には高力清長を置いた。


                  高力清長ということは服部氏もからみますね

                  服部政信の母は  高力清長の娘です!


                  政信の父・政光は文禄元年1592年武蔵国太田庄内に采地3000石
                         政光の妻は高力清長の娘


                  この人の父もまた権太夫政光を名乗ってたんですよね。

                  遠江河の内の庄に3000貫
                  妻は千秋氏 
                   


天正9年(1581年)家康は高天神城を攻略して遠江国の支配を確立すると、天正10年(1582年)には役目を終えて廃城となったという。



これから分かること:

高天神城または馬伏塚城がらみで服部氏と高力氏さらに山下氏の祖である小笠原氏は知り合いだった可能性が一気に高まりました。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 08時35分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


もうご出発なさったのかしら?

>富士山は神様のお山なので、ご利益で、何かご褒美が後日降って来ると良いですね。
>へへへ

と書きましたが、既に、ご利益がありましたね。


服部政信の祖父の代に既に高力氏や小笠原山下氏と知り合いだったというのが分かりました。




富士山麓では蛇には気を付けて
マムシに噛まれないよう   

馬伏塚城の話題が出たことで既にマムシは出ましたね


とにかく富士山麓では  草刈中は  お気を付けて!
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 08時39分46秒 ) パスワード

ということは

山下氏 ⇔ 松下氏 ⇔ 服部半蔵     当然 ⇔ 山下氏とからみますよね


そして
小笠原氏  ⇔ 家康  ⇔ 高力  ⇔  服部政信の祖父  当然  ⇔ 小笠原氏 = 大庄屋の山下氏  ⇔ 大久保陣屋の服部氏


ちゃんと繋がってますね。 




[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 09時06分50秒 ) パスワード

栄樹園を名乗る別の人を見つけました:


小栗広伴 おぐり-ひろとも

1778−1851 江戸時代後期の国学者,歌人。

安永7年8月7日生まれ。1778年
遠江(とおとうみ)入野村(静岡県浜松市)で酒造業をいとなむ歌人竹村尚規(なおのり)の家につかえ,かたわら和歌をまなぶ。

石塚竜麿,本居大平(おおひら)に入門した。

嘉永(かえい)4年11月12日死去。

74歳。遠江出身。通称は勇吉,直輔。号は栄樹園(さかきえん),瑞枝。
著作に「栄樹園家集」「栗の佐衣太」など。




内山真竜

 元文5年(1740)1月1日〜文政4年(1821)8月22日。

遠江国豊田郡大谷村の庄屋の家に生まれた。

幼名、市六。通称、弥兵衛。宝暦10年、浜松を訪れた真淵に出会い、同12年入門。国学を習う。

また、明和2年(1765)、渡辺蒙庵に師事する。蒙庵は竹亭と号し、遠江の古文辞学派の拠点でもあり、真淵の漢学の師でもある。

師・真淵没後は宣長と連絡を取り合い研究に勤しんだ。古典の中でも『風土記』研究に熱心で、諸国を実地踏査して『出雲風土記解』、『遠江風土記伝』を相次いで完成。

また、『日本書紀』の注釈の集大成を目指した『日本紀類聚解』は朝廷に献上された。

著書はほかに『新撰姓氏録註』等。門人には石塚龍麿がいる。


                               石塚姓もちょくちょく見掛けます
                               どういう家なんでしょうね。




松島十湖
まつしまじっこ


誕生地
現:浜松市東区豊西町

生年
1849(嘉永2)年3月17日

没年
1926(大正15)年7月10日


明治、大正の時代に、第二の芭蕉といわれ、全国に多くの門弟を持った俳人



生涯

1849(嘉永2)年3月17日豊田郡中善地村(現:浜松市東区豊西町)の昔からの農家の家に誕生。6歳から撰要寺で教育を受けた。


父の死を経験し、その後15歳になると俳句に興味を持ち、当時遠州で有名な俳人だった栩木夷白(とちぎいはく)の弟子となり、雅号を十湖とした。


天竜川の大洪水で田畑や家屋が押し流され、家屋復旧に翻弄されながらも勉強を続け、わずか二年で俳句選者の地位を与えられた。


栩木夷白の死後は、伊東嵐牛(いとうらんぎゅう)や東京の俳人、橘田春湖に教えを受けた。国学、漢学、和歌、絵画などを学びながら、さらに人間を磨くためにと、報徳学者である小田原の福山竜助の元を訪ね、報徳主義者の一人となった。


1869(明治2)年、天竜川の堤防が決壊し、村民が大変な被害を受けたときには、自分の家の蔵を開いて、米麦を村民に与えた。


また中善地にも渡し船がほしいと浜松県庁に36回も直談判をし、開設許可を得た。


1874(明治7)年十湖は中善地村に「三方報徳社」を組織し報徳の教えを広め、1876(明治9)年には浜松県公選民会の議員に選出され、同年、静岡県に合併されると県会議員となった。


当時盛んだった養蚕に熱心で、村民に飼育法を教えたり、自らも飼ったりしていた。

それと同時に自宅横に「撫松庵」を建て、俳道の普及にも努めていた。


1880(明治13)年からは県庁に勤め尽力。さらに翌年からは引佐麁玉郡長として気賀に赴任。役所の精神改革をしたり、農業振興のために「西遠農学社」を創立したりした。また道路を作り、橋を架け、学校校舎新築も奨励ることも積極的に行った。

役所の仕事と同時に俳句の道も休むことなく、「西遠吟社」を設立。郡内をめぐった紀行文を出版して配布したり、行った先々で俳句を残したりした。

俳句を盛んにするため、後世まで残る句碑を建てることが必要と、多くの句碑を建設した。

1887(明治20)年笠井町に大火があったときには救助と復興に尽力。司祭を寄付。同年豊西小学校の前身である小学校の校舎新築にも寄付している。
1896(明治29)年浜名郡郡会議員就任。
1925(大正14)年鴨江寺(現:中区鴨江町)境内に十湖の銅像が建設され、翌年除幕式が行われた。この銅像は戦時中に供出したため、今はない。
そして1926(大正15)年7月10日死去。東区豊町の源長院に祀られている。



作品例

浜松は出世城なり初松魚(八幡宮:中区八幡町)

三日見ぬ細江のへりの青田哉(細江神社:北区細江町気賀)

何事もかかる浮世か月の雲(実相寺:北区引佐町金指)



人となり

奇人として知られ、貧しさを喜び、人に施すことを楽しみにしていた。

郷里を離れているときには、いつも母親に陰膳をあげて孝行心が深かった。

白ひげを長く伸ばし、長髪を後ろになでつけ、らんらんと光る眼が特徴的。
金原明善とともに「遠州の翁」と呼ばれた。



参考

『遠州偉人伝 第一巻』(浜松民報社)




M氏格太郎さん
安政5年生まれ    1858年

ということは松島十湖はこの小栗広伴を好きだったのかもですね。

[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 09時09分16秒 ) パスワード

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010790154-00



服織神社と小栗廣伴:服織神社創建千三百年記念祭と小栗廣伴歌碑建立

郷土の歴史と文化を学ぶ会 編,鈴木正之 監修



詳細情報


タイトル
服織神社と小栗廣伴:服織神社創建千三百年記念祭と小栗廣伴歌碑建立

著者
郷土の歴史と文化を学ぶ会 編

著者
鈴木正之 監修

著者標目
鈴木, 正之

著者標目
郷土の歴史と文化を学ぶ会

出版地(国名コード)
JP

出版地
[浜松]

出版社
郷土の歴史と文化を学ぶ会

出版年
2010

大きさ、容量等
63p ; 26cm

注記
浜松市東区「がんばる地域応援事業」助成事業

注記
年譜あり

注記
年表あり

JP番号
21731515

出版年月日等
2010.3

件名(キーワード)
小栗, 広伴, 1778-1851



件名(キーワード)
服織神社 (浜松市)



NDLC
HL61

NDC(9版)
175.954:神社.神職

対象利用者
一般

資料の種別
図書

言語(ISO639-2形式)
jpn:日本語
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 09時12分57秒 ) パスワード

http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/bunkazai/culture_art/mabuchi/mabuchijinbutu.html


賀茂真淵とその門流


古道説

『直毘霊(なおひのみたま)』『くず花』『玉くしげ』等があり、古道論の立場からの注釈に、35年もかかった『古事記伝』の大著があり、これは古学・古道の百科全書です。



宣長の門人は488名を数えますが、 すごい!



遠江の門人は、
石塚龍麿(いしづかたつまろ)、
夏目甕麿(なつめみかまろ)、
高林方朗(たかばやしみちあきら)、
小国重年(おぐにしげとし)、
竹村尚則(たけむらなおのり)の人たちの名前が知られています。


                 よく見掛ける名字です。


また、石川依平(いしかわよりひら)は春庭(宣長の実子)の、
小栗広伴(おぐりひろとも)は大平(宣長の養子)の門人です。

                  へえ〜
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 09時14分17秒 ) パスワード

竹内春平

歌人・医師。
遠江掛川の人。通称玄撮。
文政元年石川依平入門。

小栗広伴と親交あり。

文化年間の人。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 09時35分08秒 ) パスワード

山下家の4代目さん

「我が子孫は低居して高を望む勿れ」



ひょっとして、志都呂の干拓の話は山下家4代目さんに来てたのかもですね。
向うはいろいろ餌をぶら下げて。

   でもその手には乗るな、と戒めていたのかも。


でも5代目さんはとうとう断わり切れなかったのかな?と思いました。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 09時46分30秒 ) パスワード

寛延年間  1748年7月12日〜1751年10月27日  に志都呂の開発  を捜していたら!


http://murakushi.net/information/history.html

 松下康文さまのお名前が・・・・


下のレスにコピペ。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 09時48分11秒 ) パスワード

http://murakushi.net/information/history.html

村櫛の歴史(貧しさから抜け出すために)   松下康文


鎌倉時代以前の浜名湖の姿(推定)

鎌倉時代以前の浜名湖の姿(推定)

文化2年(1805年)伊能忠敬 測量図

文化2年(1805年)伊能忠敬 測量図


 「村櫛」といつ頃から言われてきたのだろうか。今から約500年前の明応の大地震(1498年)により注1、浜名湖の今切れ口辺りにあった村が津波により壊滅し、村ごと今の土地に移り住み、「 村越(むらこし) 」から「 村櫛(むらくし) 」となった「村櫛伝説」が有名であるが、鎌倉時代に作られた 吾妻鏡(あづまかがみ) に「 遠江(とおとうみ) の住人 村櫛三郎(むらくしさぶろう) 兵衛尉(びょうえのじょう) 」と名前が出てくることからこの地に住んでいた豪族の名前がもとになったと考えられる。


 村櫛の歴史を遺跡や伝承等から振り返ると、古くからこの地に人々が住み栄えていたことが伺える。北の台地には、縄文時代の「太田遺跡」や浜名湖岸の「湖底遺跡」からは土器片見つかっている。また、「 御山塚(おやまづか) 」と呼ばれている6〜7世紀の古墳からは、「 五鈴鏡(ごれいきょう) 」と呼ばれる鏡や 金環(きんかん) 等が出土しており、この地方一帯に大きな力を持っていた豪族の墓と言われている。さらに時代が下がり、正暦4年(993)に備中守「 藤原(ふじわら) 共資(ともすけ) 」が京都から遠江国にきて、後年、村櫛の志津城に住み、その子 共保(ともやす) が井伊家(彦根藩主)の先祖となったと言う伝承も残っている。


 明応地震の前、このあたりは「 村櫛荘(むらくしのしょう) 」という荘園であったと言われている。荘園の区域は、庄内半島から和地、伊佐見地区に及び陸地も今切口まで広がっており、この地域は荘園の中心として大いに栄えたという。


 大いに栄えていた村櫛も、明応の地震により、多くの土地が海底に沈み、僅かばかりの土地と、浜名湖での漁業により生計を立てる貧しい生活をしつつ明治を迎えた。特に安政の地震(1854年)による津波の被害により、困窮対策として、村人の節約精神と共同の考えで生まれた村営の酒専売所は、150年経った今も続いている。


 江戸末期から村人達が「生きるための土地がほしい」として浜名湖の開拓が始まる。個人的な地先の埋立から他地区有力者の援助、村全体の共同事業に発展し、終戦後の食料増産政策としての国営事業まで干拓事業は続いていく。新たに開拓された耕地は水田やウナギの養殖場として利用した。この養殖業は織物業と並び村櫛の二大産業として発展していく。やっと手に入れた耕地も食生活・産業構造の変化から利用されないままになっているのは非常に残念である。


 村人の生活の面では、貧しい生活の中での共同事業として、昭和の初め簡易水道の導入、村営汽船の営業、公民館活動など積極的に取り入れてきた。交通不便地として「陸の孤島」と呼ばれた村櫛も、浜名湖大橋の開通で汚名を返上した。干拓地を利用した「浜名湖花博」も記憶に新しいことである。


 以上簡単に村櫛の歴史を振り返ってみたが、この先人達が貧しさから抜け出すだすために、血のにじむ努力で作ったこの故郷を大事に活用出来ればと思う。

注1:応永13年(1406年)台風による高潮被害説もある。

[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 10時00分47秒 ) パスワード

http://murakushi.net/information/history_07.html

                                中安氏のお名前が出てます!

                                 御家人の松下氏のお名前も出てます!


村櫛の歴史7郷土の在地武士たちについて    松下 康文
(別表1)浜松市史1より

(別表1)浜松市史1より
 村櫛荘と呼ばれていたころ、この地方にはどんな人たちが住んでいたのだろうか。
今回は鎌倉時代の頃から戦国時代にかけて資料に出てくる在地武士などを拾ってみる。
(別表2「郷土の在地武士たち」)


 この時代(12世紀中頃)浜名湖周辺にはいくつかの武士の集団があり、村櫛氏のほか三ヶ日には「浜名氏」、引佐には井伊共保の子孫の「井伊氏」、曳馬には「蒲氏」等存在した。(別表1「遠江国の武士」)


 村櫛の地名のもとになったと思われる「村櫛氏」の名前が初めて出てくるのは「吾妻鏡(注1)」である。「建長3年(1251)、正月2日、年始の儀、一の御馬、村櫛三郎兵衛尉」と書かれている。鎌倉幕府は毎年元旦より数日にわたり、北条氏をはじめとする有力な御家人が将軍(注2)に対して太刀や名馬・弓矢とともに「 椀飯(おうばん) 」(注3)を献上する行事を行っていた。もてなしを行うことで主従の結び付きを再確認し、その関係をより強固にする意義があったという。


 同じ項には、同じく遠江国の在地武士と思われる「遠江六郎教時」や「浅羽左衛門尉次郎」の名前がある。



                              
      松下氏!

御家人の松下三郎兵衛が村櫛荘内のどこかに住んでいたのかなど、詳しいことはわからないのは残念である。ちなみに、「・・ 尉(じょう) 」とは大宝律令時代に定められた位( 將(かみ) ・ 佐(すけ) ・ 尉(じょう) ・ 志(さかん) )で上から3番目の位である。


 やや時代が下がり14世紀後半、長く続いた荘園制度も終わりを迎える。地方の武士達は、自分たちの住む荘園の代官を勤める程の力を持つまでになっており、東寺百合文書(村櫛の歴史5参照)に「村櫛惟家、遠江国村櫛荘徳大寺方本家米を年五貫文で請負う(明徳4年(1393)と書かれている。
 荘園領主側(東寺)の年貢を請け負う「請負代官」として、在地武士と思われる者をあげると、荘内に土地を所有していた 村櫛(むらくし) 惟家(これいえ) 、村櫛氏と思われる 左衛門尉(さえもんのじょう) 氏家(うじいえ) 、守護大名斯波氏の被官(注4)である堀江入道(注5)などである。(別表2「郷土の在地武士たち」) 請負代官は荘園の一切の管理を任され毎年一定額の年貢を納入したが、荘園領主側との間に年貢米をめぐり問題を起こすようになる。東寺百合文書には領主側と年貢の納入をめぐる 諍(いさか) いの記述や、年貢米を納期までに皆納しない者として、「大澤殿」(注6)、「呉松入道」(注7)の名前も出てくる。



 また、「元中〜文亀(1390〜1503)年間に村櫛九郎の活躍との情報もあるが詳しいことはわからない。


 明応7年(1498)、明応の大地震を境にここに住む人々の生活環境は大きく変わっていったと思われる。やがて村櫛荘は解体し大澤氏の支配となり、遠江国の守護も斯波氏から今川氏に代わり、大澤氏は今川氏そして徳川家康の配下となっていく。                  

 この時代、在地武士は大澤氏の配下として各地の戦いに参加している。


                               中安氏は堀江城主

堀江氏の流れをくむ中安兵部は堀江城主として活躍するが、姉川の戦いで家康の前で討死し、庄内町の「 茂山(もさん) 塚(づか) 」に葬られている。



また、紅林甚二郎は天文18年(1549)、見付での戦いに功があったとして今川義元から感状を受けている。さらに、野中三五郎は三方原の戦いで功があったとして家康から感賞の杯を受けている。また、天正7年(1579)家康の命により、佐鳴湖畔で家康の奥方である築山殿を殺害した話は有名である。さらに永禄3年(1560)、和田村(庄和町)の和田八郎次郎、和田二郎左衛門が今川方松井宗信の部下として働いている。



 以上、紙面の関係もあり主な在地武士などを挙げたが知られていない者も多く存在すると思う。

(別表2)郷土の在地武士たち


時代 氏名 摘要
鎌倉 村櫛三郎兵衛
浜名氏
井伊氏 吾妻鏡・幕府御家人
三ヶ日、在地武士
井伊氏の子孫
室町 村櫛九郎
村櫛惟家
左衛門尉氏家
堀江入道                          
呉松四郎
領家氏
丸山氏 南北朝時代の頃に在住、文亀元頃にも活躍
村櫛荘内に本領として安のり名を保有
村櫛氏か
守護斯波氏の被官、村櫛荘代官
村櫛荘、年貢米未納
村櫛荘領家方の子孫(大澤氏?)か
庄内町龍泉寺に墓、「丸山」の小字あり
戦国 井伊弥四郎
山崎権太夫
真瀬将藍
山下七郎右衛門                       ⇔  山下氏
紅林甚二郎
和田八郎二郎
和田二郎左衛門尉
中安兵衛                          ⇔  中安氏
野中三五郎
遠藤景誠 井伊氏の子孫、志津城を攻める
大澤氏家臣、志津城の守り
大澤氏家臣、志津城の守り
大澤氏家臣、志津城の守り
大澤氏家臣、今川義元より感状
今川方松井宗信の部下
今川方松井宗信の部下
大澤氏家臣、姉川の合戦にて討死、茂山塚
大澤氏家臣、築山御前事件
大澤氏家臣、三方原の合戦で討死

(注1) 吾妻鏡、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉時代の初代将軍・源頼朝から6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180)から文永3年(1266)までの幕府の事跡を編年体で記す。
(注2) 将軍、三代将軍実朝が暗殺たあと頼朝の子孫は絶え、京都の朝廷に対抗し、有力御家人たちを抑えるだけの高貴な血統の出身者が必要とされたことから、初めは摂関家の子弟(摂家将軍)次いで皇族(宮将軍・親王将軍)が京都から迎えられて将軍職に就いた。すでに実権は北条氏が握っており、将軍は名目的存在だった。
(注3) 椀飯、他人を饗応する際の献立の一種。当時の献立は椀飯と打鮑・海月・梅干の3品等を折敷載せて出した。
(注4) 被官、守護大名に対して主従関係を結んだ従者。
(注5) 堀江氏、初祖は足利家の支流で越前国坂井郡堀江荘から応永年間(1394〜1427)遠江国にきて堀江氏と称したという。役職は領家職と思われる。
(注6) 大澤殿、貞治年間(1362〜1367)に丹波国から藤原基秀が堀江にきて城主として住む。大澤氏は地頭職としてきたと思われる
(注7) 呉松入道、呉松地区の在地武士(呉松四郎)か
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月23日 10時31分19秒 ) パスワード

残念ながら山下家の5代目さんが関わった志都呂の開発の情報は見つかりません。


でも5代目さんのお気持ちが分かりました。


「遠江国は幕府の土地や旗本の土地それにいろいろな藩の土地があって
コレといった有力な大名がいなかったから
協力せざるを得なかったんだ」
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月24日 23時25分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芝刈りから戻りました。小笠原氏の探究に戻ろうとしましたが、疲れと眠気
のため思考能力が落ちていますので、充電することにいたします。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 02時19分17秒 ) パスワード

ごゆっくり・・・
お疲れ様でした。
[33]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月25日 16時48分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 箕輪町松島の松島氏はどこの系図上に見出せるのか、ということで必死に
探しておりますが、小笠原持長より5代の間にルーツがあると絞られますが、
それ以上の詳しい証左が出て来ません。
 また、小笠原源太夫基長は「源太夫堀」で有名な人、室は千代子で、室の
墓は浜松の宗源院に残されているという。基長は浜松藩より吉田藩へ移動に
なったあとの記録が出て来ません。

 考え方を変えてみて、由良氏の家臣として、即ち渡瀬繁詮が大須賀城に移
封になった時に一緒について来た家臣の中に、松島氏がいるはずという視点
で考えたらどうなるか。その中に、松島古伯、松島図書助等の松島一族がい
ます。
 市野のすぐ近くに渡瀬という村があり、その由来として、遠江国横須賀城
主渡瀬源左衛門繁詮の長男四郎が、秀次事件後にこの土地に落ちのびて住み、開発したと伝わっています。
 確かに渡瀬という苗字はこの地方に結構いる。「由良」という名前は、こ
の地方ではとても珍しいが、そういえば、私が中学の時、「由良」という名
前の先生がやっている塾に通ったことがありました(こわい先生でありました
)。
 渡瀬繁詮は秀次事件で処される。ということは、関係一族・家臣にも処罰
が及んだということ。それで逃げのびた者たちがいたということ。そのほか
にも秀次事件で連座になった人達はたくさんいる。加藤光泰の養子の実父の
一柳右近、服部一忠・・・。
 家康は、秀次関係の武将・大名を自分の側になびかせる作戦をとっていた。
小早川家も・・・というと、市野氏はその3代目の実利が、小早川家に志願
し家老になり、秀秋乱心後浪人となり、秀忠に仕えたという。
 家康の意志によって、秀次関係者が正に市野周辺に集められている・・・。
 ひょっとしてひょっとするかも知れません・・・。

 これが、今日の私の推理です。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月25日 17時20分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:渡瀬繁詮が「大須賀城」に移封→「横須賀城」に訂正。 
    横須賀城は家康により築城され、大須賀康高が初めての城主となっ
  ている。ちょっとややこしい。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 22時00分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


人名も地名も名字も、似てるのでこんがらがって来ますね。汗

    例えば、松下氏・松島氏
    加兵衛の本を読んでいる途中で松島氏のことだと思い込んだりしてしまうので
    時々休んで「これは松下氏のお話」と自分に言い聞かせています。



渡瀬氏というとやはり渡良瀬川の方の出身かな?新田と仲間かな?源氏かな?と思います。

それで渡瀬氏についてコピペしますね。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 22時08分52秒 ) パスワード

渡瀬氏    (横瀬→由良→渡瀬・長尾・矢場・由良の4氏へ)   (母方の有馬氏が、渡瀬繁詮が自害してのち、渡瀬氏の遺領と家紋を継引き継ぐ)

家紋:一つ目結(釘抜?)*
(武蔵七党横山氏流/新田氏族・佐々木氏流)

*渡瀬繁詮が自害してのち、渡瀬氏の遺領を継いだ有馬氏の軍旗より。
 渡瀬氏の遺領を継承した有馬氏は渡瀬氏の軍旗も引き継いだと思われ、その旗紋を渡瀬氏の家紋と推量した。
 江戸時代に久留米藩主となった有馬家では、釘抜紋を替紋の一つとしている。


 戦国時代、岩松氏の執事から身を起こし、下剋上によって主家を没落させ戦国大名となった横瀬氏がいた。

 成繁の代に足利将軍義輝から書を賜って横瀬を改め由良を名乗るようになった。

 永禄元年(1558)、越後の長尾景虎(上杉謙信)に 金山城を攻められ景虎に従うようになった。
成繁には嫡男国繁を頭に、長尾顕長・矢場繁勝そして渡瀬繁詮と 系図上で四人の男子があった。

 成繁のあとを継いだ国繁は上杉謙信に属し、その武勇は謙信に舌をまかせるほどであったというが、 永禄九年(1566)に後北条氏に属するようになった。

その後、横瀬由良氏は後北条氏の圧迫に抵抗したものの、 天正十二年(1584)、後北条氏の攻撃によって金山・館林両城を開き退去するにいたった。

 以後、横瀬由良国繁・長尾顕長 兄弟は後北条氏に仕え、天正十八年(1590)の小田原の役では兄弟ともに小田原城に籠城した。


 一方、繁詮も後北条氏に仕えていたが、やがて上方に上って羽柴秀吉の家臣になった。
天正十三年(1585)三月の 秀吉による紀州根来攻めに従軍し、羽柴秀次に属して和泉千石堀の戦いで戦功をあげた。
その後、秀吉の命で 豊臣秀次付の家老となり、                  ココですね 秀次の家老
同十八年、小田原征伐にも参加した。
戦後、遠江横須賀城を与えられ、三万石(のち五千石を 加増)の大名に抜擢された。


 繁詮ははじめ横瀬氏を称し、のちに渡瀬(わたらせ)を名乗るようになった。
太田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、 「新田族譜」という本をひいて、渡瀬詮資のところに「渡瀬又四郎、遠州渡瀬村に住す、母は有馬豊氏の女」とある。

 渡瀬詮資は繁詮の男子だが、遠州渡瀬村の比定地は明らかではない。
また、繁詮は詮繁と書かれることもあり、 別に氏繁・繁勝・重詮とするものもある。

[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 22時13分07秒 ) パスワード

はかない栄耀栄華

 遠江横須賀の領主となった繁詮は、千利休に茶道を学び、高山右近と知己でキリシタンであったともいう。

  一方、詮繁の領内統治には失政が多く、年貢率を上げ、また領内にいろいろな課役をかけたため、訴えられることもあった。

  しかし、暴政を布いたという逸話は「キリシタン=圧政者=改易」という単純な図式からもたらされたとするものもある。
 
  繁詮は豊臣大名の一人として、文禄元年(1592)の文禄の役には広島城に駐屯、同三年の伏見城工事に携わるなど賦役に活躍した。
ところが、文禄四年に起った関白秀次事件に連座し、改易処分となった。
そして、常陸の佐竹義宣に預けられることになった繁詮は、旅の途中の碓氷峠で自刃したと伝えられている。わずか、一代の栄耀栄華であった。



 なお、横須賀城と三万五千石の所領は、詮繁の家老であり岳父であった有馬豊氏にそのまま安堵され、渡瀬氏の家臣も すべて豊氏に付き従った。

形としては、秀次事件に連座した詮繁のあとを、そっくりそのまま有馬豊氏が継いだことに なった。

詮繁は有馬豊氏の女との間に又四郎詮資をもうけていたたというが、所領はこの詮資に相伝されなかった。

秀吉にすれば、時代は戦国の余塵のなかにあり、徳川家康への押えという意味からも年嵩の豊氏を渡瀬氏の後継と したのであろう。



 その後、有馬豊氏は秀吉に直仕し、秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いには東軍に属して出陣した。

そして、 戦後、丹波福知山六万一千石、子の代には摂津領を加えて八万石の大名となった。

さらに、大坂冬・夏両陣にも従軍した 有馬氏は、元和六年(1620)九州久留米へ移封され、一躍二十一万石の大大名に飛躍したのである。


以後、有馬氏代々は 久留米城に住して明治維新に至った。



 上記の通り、横須賀三万五千石の大名となった渡瀬氏に関して、由良横瀬氏から分かれたとするものが通説となっている。

しかし、豊臣秀吉に仕えるようになったきっかけ、摂津有馬氏との関係など腑に落ちないところがある。

[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 22時14分11秒 ) パスワード

上記とは別系統の話:    服部小平太のように2人いたお話?


播磨渡瀬氏の存在

 東播磨の一角美嚢郡吉川町に渡瀬というところがあり、そこに戦国時代の平山城址があり、その城主は渡瀬氏を 称していた。

  渡瀬城主の渡瀬氏は佐々木氏の祖秀義の末男に生まれた源十郎義範に始まるといい、義範は秀義が 源頼朝から与えられた播磨吉川庄を譲られて来住、地名をとって渡瀬氏を名乗ったと伝えられる。

室町時代 の明徳二年(1391)に起った明徳の乱に渡瀬右衛門綱光が活躍、戦後、将軍義満から摂津・播磨の境に二万石の領地を賜り、 渡瀬に渡瀬城を築いてみずからの本拠とした。その後、乱世を生き抜き、渡瀬小治郎好光のとき羽柴秀吉の 中国攻めに遭遇した。


 秀吉が干殺しにして落とした三木城合戦が起こると、小治郎好光は別所氏から妻を迎えていたこともあって 別所方に味方した。

そして、弟左馬介に兵を添えて三木城に送り込むとみずからは渡瀬城に立て籠もった。

しかし、三木城が落ちる前に 秀吉の大軍に攻められて落城、伊丹の荒木村重をたよって落ち延びた。

ほどなく、敗残の身を預けた荒木村重が 織田信長に謀反を起こすと、妹が嫁している京の本庄周防守のもとに身をよせた。


 やがて三木城が落ちると 羽柴秀次に仕え、有馬豊氏の娘を後妻に迎えた。

そして、天正十年(1582)、本能寺の変で信長が斃れ、 山・の合戦が起こると秀吉方として出陣、手柄を立てたという。

天正十八年、小田原の陣に参加、戦後、徳川家康が 関東に移封されると、遠江横須賀三万石を与えられ渡瀬左衛門佐重詮と名乗った。

そして、秀吉の覚えもめでたい 有馬豊氏が家老として重詮を支えたのであった。


 翌天正十九年、豊臣秀次が聚楽第留守居に任ぜられると、中村式部少輔・山内対馬・池田三左衛門らとともに 与力大名となった。

ところが、文禄四年(1595)、秀吉の怒りをかった関白秀次が高野山に放逐されたうえに 切腹の処分を受けた。

好光も秀次付きの大名としてこの事件に連座となり常陸国に流され、遠江横須賀の領地は 岳父である有馬豊氏に与えられた。

その後、好光は下野宇都宮において自害したため、渡瀬氏はまったく改易となってしまった。

子の忠好は大坂の陣に際して大坂城に入り天王寺の戦いで討死、子の忠宗は渡瀬において帰農したという。


[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 22時17分49秒 ) パスワード

渡瀬氏の名残

 渡瀬氏の旧臣の多くは有馬氏に仕え、有馬氏が久留米二十一万石の大名に出世すると久留米に移住していったと 伝えられている。先にも記したとおり、有馬氏は旗印に釘抜紋をつけているが、おそらく渡瀬氏の旗印を受け継いだ ものであろう。そして、釘抜とはいうが、 渡瀬氏が佐々木氏流を称していることから「平一つ目結」紋であったと思われる。


 渡瀬氏の場合、由良横瀬氏流とするにはいささか無理があり、当時の状況、旗印などの傍証から播磨渡瀬城主の渡瀬氏で あったとする方が、話はスッキリとするのだがいかがだろうか。その真偽はにわかに見極められないが、 有馬氏の運の良さと、旧主であった渡瀬氏の不運をみたとき、人の世にはなんとも抗いがたい運命があることを 感じさせる。




渡瀬氏の家紋を探る

渡瀬氏の家紋に関しては、大須賀町の三熊野神社に渡瀬氏が寄進した幕があり「大根丸」が 据えられているといい、境内の石灯籠にも同紋が刻まれている。しかし、写真を見たところ 「大根丸」は「三つ丁子巴【上】」の誤認であるようだ。一方、「吉川町誌」の渡瀬小次郎の項には 渡瀬氏の家紋は「三つ藤」を用いたと記されている。三つ藤の出典・意匠は明記されていないが、 なにやら三つ丁子に通じるようで出典と意匠が気にかかる。また、静岡県在住の渡瀬氏から、 大根の家紋【下】を用いているという情報をいただいたが、こちらは「大根の丸」に通じるものがあり 渡瀬氏の家紋の特定は一筋縄ではいきそうにない。





[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 22時19分17秒 ) パスワード

播磨渡瀬氏参考略系図


[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 22時21分59秒 ) パスワード

こちらの渡瀬氏でしょうね?


●横瀬(由良)氏 ●有馬氏

■参考略系図

[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 22時26分42秒 ) パスワード

遠江国横須賀3万石、の段階、で混乱したのでしょうか?
立派な家系図の家の方に乗り換えた?


考えれば考えるほどワケが分からなくなって行きます。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 22時29分03秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E7%80%AC%E7%B9%81%E8%A9%AE


渡瀬 繁詮(わたらせ しげあき、弘治元年(1555年) - 文禄4年(1595年))

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。由良成繁の次男で、由良国繁の弟、長尾顕長の兄にあたる。正室は有馬則頼の娘。

はじめ北条氏に仕えていたが、やがて中央に上って羽柴秀吉の家臣となり、紀州征伐(千石堀城の戦い)などで活躍した。その後、秀吉の命で豊臣秀次付の家老となるが、文禄4年(1595年)の秀次事件に連座して改易されたうえ、切腹を命じられた。嫡男がいたが遺領の相続は許されず、家臣で義弟(正室の弟)にあたる有馬豊氏が領地と家臣団を継承した。これは領内悪政のためと言われる。子孫は帰農した。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 22時32分03秒 ) パスワード

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%B8%A1%E7%80%AC


【名字】渡瀬

【読み】わたせ,わたらせ,わたるせ

【全国順位】 2,134位  

【全国人数】 およそ7,300人


現群馬県である上野国山田郡渡瀬村が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)新田氏流。

現兵庫県南西部である播磨渡瀬氏は宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)佐々木氏流。

「瀬」は流水が浅く流れているところを表す。




埼玉県 2,911位 およそ200人
東京都 2,598位 およそ500人
神奈川県 2,389位 およそ400人
富山県 2,445位 およそ60人
石川県 1,262位 およそ100人
山梨県 2,136位 およそ20人
岐阜県 1,333位 およそ200人

静岡県 498位 およそ1,200人 さすが!

愛知県 1,996位 およそ300人
三重県 873位 およそ300人
滋賀県 2,222位 およそ60人
京都府 2,788位 およそ90人
大阪府 1,906位 およそ600人
兵庫県 1,153位 およそ700人
奈良県 2,838位 およそ50人
和歌山県 581位 およそ300人
鳥取県 1,203位 およそ70人
岡山県 2,300位 およそ90人
広島県 3,430位 およそ90人
徳島県 2,902位 およそ30人
香川県 1,988位 およそ50人
福岡県 2,791位 およそ200人
佐賀県 861位 およそ100人
長崎県 1,955位 およそ80人
熊本県 1,557位 およそ100人
大分県 2,087位 およそ60人
宮崎県 2,550位 およそ50人
鹿児島県 783位 およそ400人

 


[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月25日 22時35分49秒 ) パスワード

状況証拠からワタクシは新田流の方だと想像します。



そうするとM氏はやっぱり新田系なのかな?とゴヤゴチャ考え始めてしまいます。



新田も小笠原も婚姻で絡むから当然新田であり小笠原である、とうことなんでしょう。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月26日 11時36分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いずれにしても、家康が浜松城へ入城してから関東移封になるまで、即ち
元亀1年より天正18年までの20年間の数々の動きを総合的かつ表裏2面
にて見て行かなければ真相はつかめないのではないかと思います。
 
 「源太夫堀」で有名な「小笠原源太夫基長」ですが、『浜北市史資料(近
世)』を調べておりましたら出て来ました。詳しい説明書きはありませんで
したが、13代の浜松城主松平資俊の時代に郡奉行であった訳ですが、領内
各地の新田開発の惣奉行となって活躍をいたしました。私が見つけたのは、
浜北の中条村の「年貢割付文書」の最後の署名押印です。そこに小笠原源太
夫の名前がありました。1712年から1727年まで署名押印があります。
1729年に、松平資訓の吉田への国替について行っています。その後は西
三河の郡奉行となり、享保15年、村々の巡視の記録を『西三紀行』という
書名で残しているそうです。
 ついでながら、「由良八郎左衛門」という人物も1693年から1698
年まで浜北の中条村の年貢割付文書に署名押印をしています。

 市野氏と小早川氏との関係の裏には、何か謎がありそうです。

 本日は、図書館へ行っていろいろ情報を収集してみます。

 
  
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月26日 12時00分18秒 ) パスワード

小早川氏


相模国を本拠地とする桓武平氏土肥氏の分枝で、
鎌倉時代初期、源頼朝に仕えた土肥実平の子・遠平が
土肥郷の北部・小早川(現在の神奈川県小田原市早川付近)に拠って小早川の名字を称したのが始まりと伝わる。


遠平は平氏討伐の恩賞として平氏家人沼田氏の旧領であった安芸国沼田荘(ぬたのしょう、現在の広島県三原市本郷町付近)の地頭職を拝領し、
これを譲られた養子・景平(清和源氏流平賀氏の平賀義信の子)が、安芸国に移住した。



小田原だったら静岡のすぐ近くになりますね。
伊豆ですか?


その上に小田原は後世、大久保家が支配していましたし、服部氏が家老でしたし
もともと静岡県関係者とは近かったのでしょうね。

[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月26日 12時12分56秒 ) パスワード

本貫地を見ていたら  麻績氏は筑摩  と出てました。
ということは戦国時代までは武士であったということでしょうね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%B2%AB


本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。

日本には律令制下の戸籍制度とともに概念が導入された。中世以降、武家の名字(苗字)の由来となった土地(名字の地, 一所懸命の土地)を「本貫」、「本貫地」(ほんがんち)と呼ぶようになった。



源姓麻績氏[編集]

麻績(小見)氏は、信濃国筑摩郡麻績郷(現・長野県東筑摩郡麻績村)の豪族。その始まりは鎌倉時代に遡り、小笠原長親が麻績の地頭となり麻績氏を称した。即ち小笠原氏の庶流であり、阿波小笠原氏や石見小笠原氏と同祖である。

このことは「中興武家系図」に、
麻績、清和、本國信濃、小笠原阿波守長房の男、四郎長親これを称す。
とあることからも伺える。

一族の詳しい動向や系図は不明だが、諏訪頼重の側室で武田勝頼の祖母にあたる女性は小笠原の家臣 小見(麻績)氏の娘とされており、麻績氏の一族と伝わる青柳氏の青柳清長(麻績城に入り麻績清長と改名)が武田信玄の下(軍役は10騎と伝えられている)で活動している。

生島足島神社に残された武田信玄配下多数の起請文の中に麻績清永の物は2通あって異彩を放っている。前日付の決まりきった内容と異なる翌日の再提出文は国侍同士で仲良くしないこと。特に互いに元村上氏の配下であって領地を接している屋代氏や室賀氏、大日方氏とは殊更仲良くしないことを誓わされている。

これらのことから、少なくとも戦国時代までは武家として存続していたようである。

藤原姓小見氏[編集]

小見(麻績)氏は、藤原秀郷を祖とする足利氏の庶流佐野氏の流れをくむ氏族である。戦国時代の末に、佐野秀綱の弟是綱が下野国安蘇郡麻績郷(現・栃木県佐野市小見)を領し小見是綱と名乗ったことが始まり。

また、武蔵国埼玉郡小見邑(現・埼玉県行田市小見)発祥の小見氏とは同族である。


平姓小見氏[編集]

下総国香取郡小見郷(現・千葉県香取市小見)発祥の小見(小海)氏は房総平氏の氏族で、以下の流れがある。
匝瑳党小見氏と呼ばれる上総氏の流れ
千葉常胤の弟胤隆の流れ
椎名胤光の子胤澄の流れ
東胤頼の子木内胤朝の孫胤直の流れ

鎌倉時代以降、千葉氏のもとで歴史に名を残した。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月26日 12時22分17秒 ) パスワード

もともとは下記のようなものだった、ということですね。


こういう家は時代の時々で婚姻などでゴチャゴチャになっていったんだろうなと思います。


信濃国

跡部氏:信濃国佐久郡跡部(長野県佐久市跡部)
大井氏:信濃国佐久郡大井庄(長野県佐久市)
香坂氏:信濃国佐久郡香坂(長野県佐久市香坂)
望月氏:信濃国佐久郡望月(長野県佐久市望月)
海野氏:信濃国小県郡海野庄(長野県東御市本海野)
根津氏:信濃国小県郡祢津(長野県東御市祢津)
伊那氏:信濃国伊那郡(長野県伊那市・上伊那郡・下伊那郡)
小出氏:信濃国伊那郡小井弖(長野県伊那市西春近字小出一区・字小出二区・字小出三区)
片切氏:信濃国伊那郡片切郷(長野県上伊那郡中川村片桐・下伊那郡松川町上片桐)
麻績氏:信濃国筑摩郡麻績郷(長野県東筑摩郡麻績村麻)
木曾氏:信濃国筑摩郡木曾谷(長野県木曽郡)
仁科氏:信濃国安曇郡仁科庄(長野県大町市)
村上氏:信濃国更級郡村上郷(長野県埴科郡坂城町上平)
屋代氏:信濃国埴科郡屋代郷(長野県千曲市屋代)
井上氏:信濃国高井郡井上(長野県須坂市井上)
保科氏:信濃国高井郡保科(長野県長野市若穂保科)
風間氏:信濃国水内郡風間邑(長野県長野市風間)
栗田氏:信濃国水内郡栗田(長野県長野市栗田)
高梨氏:信濃国水内郡高梨邑(長野県中野市)
飛騨国牛丸氏:飛騨国大野郡牛丸邑(岐阜県高山市荘川町牛丸)


駿河国

朝比奈氏:駿河国志太郡朝比奈郷(静岡県藤枝市朝比奈地区)
入江氏:駿河国有渡郡入江(静岡県静岡市清水区入江)
岡部氏:駿河国志太郡岡部郷(静岡県藤枝市岡部町)
吉川氏:駿河国有渡郡吉河邑(静岡県静岡市清水区吉川)



遠江国
石谷氏(遠江):遠江国佐野郡西郷石谷
井伊氏:     遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)
犬居氏/乾氏   :遠江国周智郡犬居庄(静岡県浜松市天竜区春野町堀之内字犬居)



三河国

足助氏:三河国加茂郡足助庄(愛知県豊田市足助町)
一色氏:三河国幡豆郡一色庄(愛知県西尾市一色町一色)
今川氏:三河国碧海郡今川庄(愛知県刈谷市今川)
加納氏:三河国加茂郡加納邑(愛知県豊田市加納)
吉良氏:三河国幡豆郡吉良庄(愛知県西尾市吉良町)
仁木氏:三河国額田郡仁木郷(愛知県岡崎市仁木町)
細川氏:三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市細川町)
松下氏:三河国碧海郡松下郷
松平氏:三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)



尾張国
戸田氏:尾張国海東郡戸田庄(愛知県名古屋市名古屋市中川区戸田)
丹羽氏:尾張国丹羽郡丹羽庄(愛知県一宮市丹羽)
蜂須賀氏:尾張国海東郡蜂須賀郷(愛知県あま市蜂須賀)
水野氏:尾張国山田郡水野郷(愛知県瀬戸市水野地区)


越前国

織田氏:越前国丹生郡織田庄(福井県丹生郡越前町織田)(平資盛の子、織田親真を始祖とする)

[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月27日 00時37分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 箕輪の松島氏について、少し情報を見つけました。小笠原持長、源太夫に
ついても少々。市野氏については情報を整理しています。

 本日は遅くなってしまいましたので、明日に―
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月27日 02時28分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


楽しみにしていますね。


松下加兵衛の本を読んでて(あら?松島氏のこと?)と重なるような気がしたりします。

これは混乱の方ではなくて
松下氏の中の1流れが松本氏と名字を変えたように
松島氏も松下氏の1流れなの?と思ったりします。


   確かに結婚によって結ばれているというのはあるでしょうね。


九州に行った松下氏が叔父甥でややこしいから甥の方は母方の久野と名を変えた話が出てましたが
松下氏にしてみれば久野も切っても切れない関係なんですから


人間関係はヤヤコシイですね。


箕輪の松島氏のお話など、楽しみにしていますね。
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月27日 06時43分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松下と松島、あり得る話かも知れません。どうもいろいろとってつけた
ような家譜の説明・・・何かカムフラージュの感もなきにしにあらずです。
市野氏と松島氏の関係・・・ひょっとするとトップシークレットが隠され
ているかも知れません・・・!?
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月27日 07時32分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


>どうもいろいろとってつけたような家譜の説明・・・何かカムフラージュの感もなきにしにあらずです

はい。


特に「松下加兵衛と豊臣秀吉」を読んでて、松下氏と松島氏の関係が  あら? と不思議に思えて来ました。


そして松下氏と市野氏と松島氏の関係も不思議に思えて来ました。



市野氏はもとは近江の浅井系ということで
そういえば
浅井氏は京極の家臣だったな
と思い出し


京極=佐々木 > 松下氏
ここに市野氏が絡む?
そして松島氏も絡む?

結局日本人なんですから  絡んで当たり前なんですが   やっぱり絡むなあと。


例えば遠江国内の旧今川方松下氏に対する家康方の冷たい仕打ちの数々が、
その分を市野氏などの新参の家来に振り分けられたのかな?と思ったり。


とにかくM氏家譜がいろいろ解釈できるし
昨日は  加兵衛の本に松下左近という人物が出て来て  そういえば松島左近もいたな  と思い出して

市野氏がらみで松下氏とM氏は繋がるんじゃないか、と思い

とにかくグルグルグルグル同じ処を堂々巡りしているような????


家康側の報復人事の恐ろしさに遠江に残った松下氏は何を思ったのかなとか
山下氏も磐田に戻って来て
この松下氏と山下氏はどんな話をしたんだろう?などと空想が膨らみました。



とにかくM氏の源姓はどの人の子孫なのか?

A)一応清和源氏みたいですよね。そして新田氏らしい。この線ですと上野国の松島
氏なのかなとアッチへ飛んで行ってしまいます。

B)でも信濃がらみなら小笠原氏らしい。そこに諏訪氏がからんでもちっともおかしくない。さらに新田が絡んでもおかしくない。

C)今は近江の市野==浅井==京極==佐々木==宇多源氏==松下路線も考えに入って来てしまったし。



こうして広がるだけ広がって、後に、縮めていけば良いので、それにはいろいろ読まなきゃ、です。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月27日 10時59分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それではお待たせいたしました。松島家と市野家について、その謎の解
明に迫ってみたいと思います・・・。

 その前に、以前私が「小笠原持長」が同時に二人いると述べたことがご
ざいましたが、『日本史諸家系図人名辞典』(講談社)を調べましたら、そ
の事実と説明が出ておりました。
 @「小笠原持長」(1384〜1458) 室町時代の武将。有職家。小笠原満長の
  子。6代将軍足利善政の近習。小笠原流弓馬故実の基礎を作った。歌人
  でもあり、清厳正徹(せいがんしょうてつ)や心敬と親交があった。著作
  に『騎射秘抄』『笠懸日記』など。
 A「小笠原持長」(1396〜1462) 室町時代の武将。応永3年6月22日生
  れ。小笠原長将(ながまさ)の子。叔父小笠原政康の没後、信濃守護職を
  継いだ子の宗康と家督を争い、文安3年宗康を討つ。一時信濃守護とな
  ったが、幕府が宗康の弟光康の分家相続を認めたため、以後小笠原家は
  分裂抗争が続いた。

 いずれにしても、小笠原家では家督騒動が絶えません。だから一族の中が
複雑な関係になって、わけがわからなくなります。持長と宗康、その親の
長将と政康、系図を下って長高と長棟・・・。
 でも家督争いは小笠原家に限ったことではありませんね。人間すべての
本性かも知れません。そこを親はうまくコントロールしなければなりませ
ん。

 さて、上伊那箕輪の松島城城主松島氏ですが、『長野県姓氏歴史人物
大辞典』(角川書店)を調べましたら、このAの持長の子孫と出ておりまし
た。即ち―
 ―諏訪郡下諏訪町友之町にあった松島家は、始祖は松本深志城主小笠原
  信濃守持長の6男、「左馬助政豊」という。初め小県郡にいたが、子
  「彦太郎政行」の孫「対馬助貞実」の代に伊那郡松島に移り、松島を
  称したという。
   弘治年間に武田氏に滅ぼされ、数代後の「源右衛門政利」が諏訪へ
  移り、剣術を教えていたと伝える。二、三代後の「長辰」、次の「政
  賢」、さらにその子の「政長」は医をもって業とした。次の「北渚」
  は京都で猪飼敬所に、江戸で古賀・佐藤の博士に儒学を学び、医学を
  多紀氏に学んだ―
ということで、出自(筋)ははっきりしました。

 問題は、その松島氏が本当に遠江羽鳥に来たかどうかであります。松島
家の家系譜の中で、事実上の初代であります「松島忠兵衛源宗吉」の幼少
時の名前が「対助」であり、この名前は「対馬助貞実」の中の「対」「助」
を暗示しているような感があります。松島貞実は松島家の初代となる人で、
木曽義昌に殺害されたといわれています。その初代のことを忘れないとい
う意味で「対助」という名前をつけた・・・とは考えられないでしょうか?

 また、小笠原持長vs.宗康の背景には、畠山持国vs.細川持賢・勝元がの
勢力争いもあった。また持長の母は、畠山持国の妾であったとも言われて
います。畠山貞政以下は家康と連携し、息子の政信以下はの徳川家臣とな
っていますので、先祖がらみで遠江にて受け入れられたと考えられないで
しょうか?

 対助は「松島源右衛門源忠吉」の養子となっているわけですが、箕輪の
松島城主の松島氏が滅ぼされた後で、その子孫は「源右衛門政利」を名乗
っているということは、「源右衛門」という家名を引き継いで来ていると
考えられないでしょうか?

 こう考えますと、箕輪の松島氏は遠江羽鳥の松島氏につながっているよ
うに思えます。

 ここで一旦切ります。
 
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月27日 13時54分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい!
解けましたね!


M氏は
    A「小笠原持長」(1396〜1462) 室町時代の武将。応永3年6月22日生れ。
      小笠原長将(ながまさ)の子。
      叔父小笠原政康の没後、信濃守護職を継いだ子の宗康と家督を争い、文安3年宗康を討つ。
      一時信濃守護となったが、幕府が宗康の弟光康の分家相続を認めたため、以後小笠原家は分裂抗争が続いた。



    松本だったんですねえ。
    そうしますと三つ柏さんの服部氏が麻績出身でもおかしくないですね


    上伊那箕輪の松島城城主松島氏ですが、
    『長野県姓氏歴史人物大辞典』(角川書店)を調べましたら、このAの持長の子孫と出ておりました。

    即ち――諏訪郡下諏訪町友之町にあった松島家は、始祖は松本深志城主小笠原信濃守持長の6男、「左馬助政豊」という。

    初め小県郡にいたが、子「彦太郎政行」の孫「対馬助貞実」の代に伊那郡松島に移り、松島を称したという。


    それで「対助さん」なのかもですね。
    一般的な「タイスケ」だったら「泰助」あたりでしょう。「対」の字は珍しいですよね。


    小笠原家の事情が分かる人にはワカルことだったんでしょうね。


箕輪の松島氏は遠江羽鳥の松島氏につながっているように思えますね。
なるほどね。


http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-gen-ogasawara.html

小笠原深志流=本来の嫡流=と言うんですね。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月27日 14時09分56秒 ) パスワード

この人は上杉系なので関係がありませんが、筑摩が絡むし後に家康に従う記事があるので、三つ柏系服部氏が関係するかも。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B4%9E%E9%9B%AA%E6%96%8E

小笠原 洞雪斎(おがさわら どうせつさい、? - 天正10年8月30日[1])は、戦国時代の武将。洞雪斎玄也と称し、諱は貞種か。通称孫次郎。信濃国守護小笠原長時の弟で、長時の子貞慶の叔父に当たる。母は浦野弾正忠の娘。

生涯[編集]

信濃国林城に生まれる。戦国期に信濃守護小笠原氏は甲斐の武田晴信(信玄)の信濃侵攻に際して没落する。洞雪斎も兄の長時や甥の貞慶とともに信濃を追われ京都へ亡命する。その後は越後国の長尾景虎(上杉謙信)の後援を得て武田氏に対抗した。

天正10年(1582年)の本能寺の変・天正壬午の乱に際して越後の上杉景勝は空白地域となった北信地域へ進出する。洞雪斎は景勝に擁立され、筑摩郡(信濃府中)の小笠原旧臣や、安曇郡の仁科氏遺臣の勢力を結集し、織田信長から両郡を安堵されていた木曾義昌の追放を画策した。洞雪斎の擁立に際しては、旧小笠原家臣のニ木氏一族が仲介したという。また武田氏に属していた大日方一族が貞慶方と洞雪斎方とに分かたれたと言われる。

景勝は洞雪斎に家臣の梶田[2]・八代[3]の両名200騎余を附属させ、木曾義昌を放逐して深志城(松本城)を奪還する。洞雪斎が深志に帰還した時期は同年6月のこととされ、7月初旬までに入城していたと考えられている。筑摩・安曇両郡の在地領主は義昌の支配を嫌い洞雪斎に協力したが、深志城奪還後の実権は梶田・屋代両名が握っていたため、洞雪斎の求心力を低下したという。


                      ココ

こうした状況のなかで小笠原旧臣は三河岡崎において徳川家康の後援を受けていた貞慶を擁立し、

洞雪斎は貞慶勢の北上により深志城を奪われ、上杉領へ退去した。

脚注[編集]
1.^ 『笠系大成』
2.^ 梶田については不詳
3.^ 「八代」は屋代秀正(左衛門尉)と見られている(平山(2011)、p.162)
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月27日 14時28分55秒 ) パスワード

M氏家譜に高天神城の落城の一節が書かれているのが引っ掛かります。
きっと松島家に関係があるんだと思います。



http://dynasty.dip.jp/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B0%8F

これ、面白いですよ

清時(十一男、母家女房、号尾州鳴海与一、後受?遠州之管領、高天神之小笠原この流なり)、



遠江の小笠原氏

信州小笠原氏の一族にして高天神小笠原氏と称し、長下郡馬伏塚城(また真虫塚城、岡山村)に拠る。


当城は三河記に?塚(マムシツカ)と見ゆ。

はじめ信濃の小笠原長高、今川氏に仕え当城を築く、その孫与八郎長忠、高天神山に拠る。

その後子左京進春儀、高天神城(久島左衛門)を陥れてその城を賜う。

その子与八郎徳川氏に降りしが、天正二(1574)年また武田氏に降る、よってその歳八月二日家康命じて、この地塁を修築し、大須賀五郎左衛門康高に守らしめて城東郡を与う。

同六年城を横須賀に移すとぞ。


この小笠原氏の事は小笠原系図に

「長清─ 長経─ 長忠─ 長政─ 長氏─ 宗長─ 貞宗─ 政長─ 長基─ 長秀─ 政康─ 持長─ 清宗─ 長朝─ 貞朝─ 長高(父・異腹の次男を愛す、故に長高と睦まじからず。これに依りて信州深志を立ち、のちに今川家に属し、馬伏塚城に住す、法名浄願)─ 春儀(左京進、父の跡を嗣ぎ、馬伏塚城に住する時、高天神城主久島左衛門謀叛、春儀・今川家の命を奉じ、久島を討つ。今川家これを褒め高天神城を賜いこれに居らしむ、と。

その弟 又次郎・置三河幡頭。雲波・左馬、住横須賀。宗三・庄大夫。)─ 氏興(美作守、初名与八郎、遠州城東郡、榛原郡、浅羽庄、山名郡、敷知郡を領す、永禄十一(1568)年辰年・東照宮に附属す云々)─ 氏?(与八郎、居高天神城)」

とあり。


また高天神小笠原家譜に

「一信濃守長高は信州深志の住修理大夫貞朝の長子なり。

父 貞朝別腹の次男を愛す。 これによって長高と不睦なる故に、深志を立ち退き、尾張へ赴き、織田殿を頼み属せんとす。 織田許容せずして曰く、親と不和なる子を我が手に属する事叶うべからず。 然れども領分には何方にも居住あるべしと申さるるに依って知田の名和と云処にしばらく居住す。

その後貞朝の死去を聞いて、家督を領せんと、家令三十六人を具し、深志に至る。 しかるところに次男 長棟・城郭を固め、から鉄砲を放ち、長高を拒む。老臣長高に申しきく、兄弟親の跡を争い戦いに及ばんこと、末代まで武名の瑕たるべし。 まず三河幡頭へお越し、公方吉良殿を頼ありて、時節をまたれ、三河へ越へ、吉良殿に属す。

その間に子二人を設く、次男を幡頭に留め置き、妻子嫡子を引具し、駿州今川殿を頼み赴く時、西郡より吉田へ出、それより比喜麻に久しく逗留ありて、下海道を通り、城東郡の三輪の庄屋が館に宿す云々」

と見ゆ。


その祖 長高を小笠原嫡流深志貞朝の子とし、長棟の兄となすごとき容易に信じがたし。

小笠原系図の説味わうべし、すなわち尾張知多小笠原の後ならん。


家紋三階菱、五七桐、茨。



三河の小笠原氏

信濃小笠原氏の一族なり。

まず小笠原三家系図、三河小笠原条に

「長清─長経─長房─孫六長朝(阿部野ともいう)弟 出羽守時直─孫二郎長泰(出羽守)─盛時(次郎、泰盛と?誅)─泰房(城入道合戦敗北の時、所領三州大陽庄一没落、はじめて三州に住す。小笠原祖)」

と見え、また高天神小笠原氏の一族も当国にあること、前項よりて知るべし。


当国小笠原氏は幡豆、宝飯、渥美の諸郡に多し。


まず幡豆郡寺部掛村城は、二葉松に

「小笠原安芸守長浮、同新九郎(康元)長晟(任摂津守)、永禄四(1561)年より幡豆形原五千石を領、同息?之丞、」

と。

また

「同村古城、小笠原左衛門、両城共。神君御出陣」

と。

また?塚砦(小牧村)条に

「小笠原三九郎長茲、安芸守弟なり」

と見ゆ。


高天神小笠原系図にてはこの幡豆の小笠原氏を同族と主張す、前項を見よ。


現今西尾付近花明村花蔵寺五十七戸中七戸・小笠原氏を称す。

蓋しこの小笠原氏の後裔なるや想像するに難からず。 その伝説によれば、東条より移るという。

花蔵寺は吉良氏の菩提寺のある地なれば、高天神家譜のいうごとく、吉良氏配下の将たりしならん。


つぎに宝飯郡豊川古屋敷に小笠原少目有、子孫豊川の名族となる、豊川天王社の棟札記録に見ゆ。


また永禄年間、家康吉田城を攻むの際、小笠原新九郎長晟をして、小坂井砦、糟塚塞を守らしむ。


つぎに渥美郡日留輪城(赤羽根村)は幡豆郡小笠原摂津守の子新九郎安元(康元)、徳川家康より赤羽根、芦、赤沢三邑を賜い、当城を築くと伝えらる。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月27日 14時58分59秒 ) パスワード

http://www.yomono.server-shared.com/yodan/yomono6/

長野県の話



小笠原家史『笠大系』抜粋

 天正10年(1582)残暑の厳しい8月、私こと幸松丸(14歳)は、母の実家である都の日野大納言邸で生活していました。そしてある日、信濃国に行った父の小笠原右近大夫貞慶(おがさわらさだよし)から思いがけない吉報が届きました。それは祖父の小笠原大膳大夫長時(おがさわらながとき)が、武田晴信(信玄)に信濃国の領地を奪われて33年、ようやくそれを奪い返したとの嬉しい便りでした。父上は祖父を裏切った筑摩郡(ちくまぐん)と安曇郡(あずみぐん)の元家臣を征伐するため、青柳城(筑北村)、麻績城(麻績村)、日岐城(生坂村)などへ出陣しているので、暫くは信濃国へ呼び寄せられないとのことでした。

 それから半年程が経った天正11年(1583)2月、信濃行きを今かと心待ちにしていたところ、突如家臣の丸田権六秀元と二木吉内吉為が都の私の所へやって来ました。そして私に、「徳川三河守家康公のもとへお連れするようにと、父上から命令された」と述べました。父上は今でも越後国(新潟県)の上杉弾正少弼景勝と筑摩郡境で小競り合いを続けており、更に南の諏訪頼忠(諏訪郡)殿、敵対していた保科正直(伊那郡)などが、次々と徳川家康公に臣従したので孤立していました。家康公も本領復帰に力を貸したのだからと臣従を強く迫り、信濃守護職の家柄ながら三河者の臣下となることに対して真に不本意でしたが、今の力だけでは領地を守りきれないと判断し、承諾したとのことでした。こうして私はいわゆる人質として差し出されることになり、三河国の浜松城(静岡県)へ向かうことになりました。

 都を遠く離れるのは初めてになります。日野大納言様や本国寺住職などの世話になった方々へお別れの挨拶を済ませ、見知らぬ東海道を東へと進みました。浜松城に到着するとさっそく徳川家康公と対面することができ、信濃国の中核となる小笠原家が従ったことで大変ご満悦でした。こうして小県郡の真田安房守昌幸殿と木曽郡の木曽義昌(羽柴秀吉に臣従)以外の信濃諸将が、全て徳川家に従うことになりました。人質の私への目付役(監視)は、父上の信濃復帰に尽力してくれた徳川家臣の石川伯耆守数正殿でした。石川数正殿は、その頃岡崎城代を務めていたので、私は三河国額田郡岡崎(愛知県)で暮らすことになり、家臣2人を連れて岡崎町奉行を務める江戸右衛門七直定殿の屋敷に入れられました。日常は岡崎城下の外郭まで外出を認められ、大林寺に詣で、乙川(菅生川)で鯉釣りなどをして過ごしました。しかし外郭の北側にある信濃門を見ると、この門を出て伊那街道を北へ歩めば、父上の所に駆け付けられるなどと心穏やかでない日もありました。

 岡崎に住んで数ケ月が経った時、信濃からの使いで、祖父の小笠原長時が2月25日に会津国で亡くなったことを聞かされました。同時に祖父の側室と、その娘である叔母も死んだとの事で、すぐに父上が殺害したのではと、苦い疑念を抱きました。殺したのは恐らく父上の命を受けた平林弥右衛門。父上の実母は、側室として飛騨国江間氏から嫁いで来た喜多姫で、父上は5男でした。本来は小笠原家の家督を継ぐ者ではありませんでしたが、兄達が相次いで病死し、先の天正6年に長兄の小笠原長隆殿が越中国外山(富山市)で戦死したので父が継ぐことになりました。話に聞く祖父の長時とは、領国を奪われても未だに自分の血統を傘にし、家臣や他国の者達を軽んじて見下し、結局は領民の心も掴めないような人間と聞いていました。そんな祖父を父上は受け入れられず、信濃に来ては国が乱れる元凶になると考えたのではと、私は思いました。

 翌年の天正12年(1584)2月、羽柴秀吉様と織田信雄殿が尾張国で合戦となり、徳川家康公は織田殿に加勢することになり、多くの兵が岡崎を出陣して行きました。家康公は小牧山(愛知県)に陣取って羽柴勢を次々と討ち取り、終いに和議となって引き揚げてきました。一方の父上は、家康公の命により羽柴方である上杉景勝の押さえを命じられ、麻績郷(麻績村)に本陣を置いて、川中島に小勢で攻め掛け、郡境の睡峠、篠木尾、猿峠、八幡峠などを無事に固めたと手紙で知らされました。私は2年もの間、何のお役にも立てず、肩身の狭い思いで日々退屈に過ごしていましたが、天正13年(1585)11月、私の部屋へ父上の家臣の葉山右京進真時と、岡崎奉行の江戸直定殿が入って来て私に驚くべきことを告げました。それは、「このたび石川数正殿と御館様(小笠原貞慶)が、秘かに徳川家康公の下を離れて関白羽柴秀吉様の臣下となることが決まった」とのことでした。ついては、「岡崎を夜中密かに脱出し、都へ御同道願いたい」と、私に言いました。突然の事で「江戸右衛門七殿の落ち度にもなり、迷惑がかかるので、納得がいかない」と返答しましたが、家臣の皆が脱出を勧め、江戸殿も「後のことは気遣い無用」と申されるので、都へ行くことを決心しました。そして手短な物だけを持ち、夜半に徒歩で屋敷を出ました。その後、既に出立していた石川数正殿とその家族の行列に追い付き、石川殿の妻の実家である尾張国 米野(愛知県名古屋市)にある中川邸に逗留しました。次の日には中川殿が用意してくれた馬100頭に荷などを付け換え、一路都へ向かいました。我々が出奔した後に徳川家康公はすぐさま岡崎城に入って詮議に入り、江戸直定殿は捕縛され、翌年に三河国碧海郡冨永村において磔にされたと家臣から聞かされました。真に申し訳ないことでした。

  およそ3年余ぶりの都、家康公の追っ手もなく、私達は都で落成したばかりの聚楽第に無事到着しました。そして先に来ていた父上と共に、関白秀吉様に謁見することができました。秀吉様は数ヶ月前の閏8月に、小県郡上田城の真田昌幸殿が徳川家康公に大勝し(上田合戦)、さらに父上が臣従の証として家康公支配下の高遠城主(伊那市)保科正光を攻めたことで大層満足していました。そしてお誉めの言葉を頂戴し、私に小笠原信濃守貞政と名付け、秀吉様の近習としてくれました。それから暫くして真田昌幸殿も関白秀吉様の配下となることが決まり、御子息で私とほぼ同年の真田左衛門佐信繁殿(真田幸村)が人質として聚楽第へやって来ました。私は真田信繁殿らと関白様の傍で日々努めていましたが、ある日秀吉様に声を掛けられました。「徳川家康が、背いたそなたの父を攻めるために井伊兵部少輔直政を大将にして甲斐国、諏訪郡、伊那郡の兵を率いて出陣したそうだが、小笠原貞慶は赤木山(松本市寿)という所に陣取って大勝したそうだ」と、嬉しそうに知らせてくれました。そして秀吉様の心は寛大で、今後は人質など必要ないと言われ、翌年の天正14年(1586)6月に信濃へ帰るようにと御暇をくださいました。こうして私は生まれて初めて信濃国へ行けることになりました。

 家康公の支配下である伊那谷を通ることを避け、美濃国から木曽谷を通って領内へ入りました。筑摩郡と安曇郡の中心地は薄川と女鳥羽川が合流する『深志(ふかし)』という地でした。父上は先年これを『松本(まつもと)』と改名し、職人や商人など多くの者達を城下に集めていました。まだ昨年から本格的な城下割がされたばかりなので、建築中の商家や寺が多く、通りには木の香りが濃く漂っていました。新しく城南に設けられた上町、中町の通りには、未だ人家が埋まらない所も多く、城はその通りの北にあり、本丸と二ノ丸から成る小さな構えでした。松本に到着した私はその二ノ丸の館に入りました。そこから見える山岳の夏景色は素晴らしく、天にも届きそうな壁のようでした。そして落ち着いたところで領内の巡察を行い、さらに帰国を感謝して各地の寺社を参詣しました。ある日、田川の脇を通ったところ、家臣から「この辺りが、南北朝の時代に小笠原貞宗公が功績により足利尊氏公から信濃守護を授かり、代々館を構えた井川(松本市)になります」と言われ、祖先の御導きに感謝しました。松本に着いて数日が経ったある日、父上は私にこれまで戦ばかりで教育をしてやれなかったことを詫び、小笠原家に代々伝わる糾方的伝(きゅうほうてきでん、弓馬礼法)をこの機会に授けたいと言いました。師匠は父上と、大叔父で刈谷原(松本市)城主の小笠原出雲守頼貞殿でした。小笠原頼貞殿は祖父の長時にも糾方的伝を授けたほどの人物で、老齢でしたが馬術の技は当代一流でした。父上からは家督を譲る日も近いかもしれないと言われ、日々研鑽しました。

 しかし、歯車が噛み合わないとはこの事のように、我が小笠原家の命運が傾き始めました。それは、私が松本に着いてから4ヶ月後の天正14年10月、豊臣秀吉様と徳川家康公の和睦が成り、大坂城で対面が行われて服属したことから始まりました。一方で隣国の大敵が無くなったので、これは喜ばしいことでしたが、やがて我等に暗雲をもたらす結果となるのでした。翌月になると、早速秀吉様と家康公の和睦の証として事が起こされました。それは、秀吉様の命により、私の宿敵である上杉左近衛少将景勝殿の仲立ちで、信濃国内で家康公に楯突いていた小笠原、真田、木曽が引き渡されることになりました。徳川家康公は天正13年に真田昌幸殿に上田で大敗し、今年になってから自ら討伐するために、軍勢を率いて浜松から駿府城(静岡県)まで出陣していました。秀吉様は真田殿が家康公に易々と討たれるのを快く思っておらず、思案した挙句上杉景勝殿にその調停を命じ、私達3家が家康公の臣下になることで避けようとしたのでした。天正15年(1587)2月、一度は裏切った家康公の臣下に戻ることを恐れた父上と、不服な真田昌幸殿は、豊臣秀吉様に大坂へ来るように呼び出されました。仕方なく真田殿と松本で合流し、私も一緒に大坂城へ行きました。その時に私は帰国させてもらったお礼として秀吉様に太刀と馬を献上して御挨拶をし、その返礼として過分な歓待を受けました。そして私は再び秀吉様の近習として大坂城に留まることになりましたが、父上と真田昌幸殿は、秀吉様の命で、徳川家康様の駿府城に向かうことになりました。父上は死も覚悟したそうですが、家康様は秀吉様の命なので慈悲の心で父を受け入れてくれたとのことでした。しかし心底は裏切った父上を憎んでいるようで、父上は気が抜けないと常々私に申していました。

 それから暫らく経ち、秀吉様は小笠原家と徳川家康公の不仲を聞き、「家康と貞慶が不仲なのは存じているので、貞慶は隠居して貞政が家督を継ぐように」と、父上に命令しました。こうして私は慌しく12月に家督を譲られ、筑摩郡と安曇郡8万石を治めることになりました。しかし家康様の小笠原家に対する怒りは消えず、秀吉様もその事を大変心配され、考えた挙げ句に家康公の息子である岡崎信康殿(織田信長の命により切腹して死亡)の娘を私に娶わせることにしました。そして更に小笠原を疎略に扱わないという誓紙まで家康様に書かせて私に寄こしました。天正17年(1589)1月、こうして私は安心して聚楽第を経って駿府城に赴き、家康様にこれまでの不義非礼を詫び、誠心誠意臣下の礼を尽くすことを誓いました。そして家康公は正式に小笠原家を許し、領地安堵状を下さいました。



ついては今度、その方の家督相続の儀、関白殿の御意であり、両郡の事は先規のとおり相違ない。よってこれからは軍役等を堅く申し付ける。そして忠をひき出し、信義を尽くすことが肝要である。謹言

  正月七日             家康

    小笠原信濃守殿




 そして半年程が経って私の婚礼が正式に行われることになり、福姫は父の信康殿を亡くしていたので、いったん家康様の養女となり、その後伊那谷を通って松本城の館へ輿入れしました。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月27日 14時59分39秒 ) パスワード

 天正18年(1590)、豊臣秀吉様は相模国小田原(神奈川県)の北条相模守氏政、左京大夫氏直親子を討伐することにしました。この時家康様も秀吉様の命により自領の三河、遠江、駿河、甲斐、信濃5カ国の兵を率いて出陣することになり、2月7日駿府城を出陣しました。私も1万5千石の軍役を命じられて松本から兵を率いて駿府城に到着し、榊原式部大輔康政殿と隊を組むことになりました。家康様は軍を3方から進める軍略を示され、我々は最も南ルートとなる三島(静岡県)まわりを命じられ、宮城野から明神岳の南を越えて相模国に入り、久野の諏訪原へと進軍しました。4月6日から小田原城の包囲を開始し、徳川家康公は酒匂川が相模湾に注ぐ河口に近い今井(小田原市寿町)という地に本陣を置きました。我々の隊は家康公本陣の背後の守りを命じられ、相模国大磯(神奈川県)の浜に陣を敷きました。武蔵野から小田原城に入ろうとする北条の兵が多数おり、浜辺などの間道で敵兵を待ち伏せしました。数ヶ月経った夏に、私は秀吉様の本陣である石垣山に呼ばれ、徳川諸将と共にねぎらいの言葉を頂戴しました。そして秀吉様はその場で私に褒美として自身の「秀」の字をくださり、この日から小笠原信濃守秀政 (おがさわら しなののかみ ひでまさ)と名乗ることになりました。

 私は福姫を娶り、義父となった家康様に心から仕えていましたが、この小田原の合戦で、未だに小笠原を嫌っていることを感じました。それは隠居している父上に対し、家康様から直に出陣の命が下ったのでした。こうして我が家は2軍を負担することになり、父上は私とは別行動で北国勢の総大将である前田筑前守利家様の軍に加わるように命じられました。父上は上野国松枝城、武蔵国松山城、八王子城などを攻め落としたと聞きました。小田原城が包囲されて7月、ついに北条は秀吉様に降伏しました。これにより私は家康様へ挨拶をし、松本城へ引き揚げました。

 この戦によって北条の領地は全て没収となり、翌8月に北条の没収領を含む関東8州が、主君の家康様に授けられることになりました。そして、これに代わってこれまで家康様が所有していた領地が没収となり、そこに含まれる私の領地も消えることになりました。それを聞いた父上は酷く落胆し、「苦労の末に取り返した松本を再び奪われるとは」と嘆いていました。そして私は9月10日に修築中の江戸城へ呼び出され、その仮殿で下総国葛飾郡栗橋城 (茨城県五霞町、埼玉県栗橋町)3万石への移封を命じられました。私の力ではどうしようもなく、ただ命じるままに松本を去るしかありませんでした。秀吉様は我が領地が8万石であることを御存知だったので、家康様へ「小笠原信濃守へは本領分を与えたのであろうな」と聞きました。すると家康公は「この度はこれまでの倍にして3万石を与えました」と答えました。それは小田原の時に私へ命じた軍役1万5千石のことを言っているので、結局5万石も減封されることになりました。大きく領地が減ったので家臣を全て連れていくことができず、浪人となる者、在郷に居して農民となる者、他国に出士する者達がいました。その者達に深く詫び、私は栗橋城へ行きました。

 領地が利根川によって南北に分断されていたので、父上は私とは別に利根川を挟んで北へ1里離れた古河城(茨城県古河市)に入ってもらいました。栗橋城は古河公方、足利成氏及び足利氏満に縁のある古城で、北の利根川と周辺の沼湿地を堀とした小さな平城でした。長く廃城となっていたので荒れ果て、仮屋住まいをしながら修築を行いました。

 一方の古河城は、これまで130年間あまり足利家の居城として使われていましたが、足利義氏公が7年前に亡くなってからは娘の氏姫が城主となっていました。そこで秀吉様は姫へ新しく下野国喜連川(栃木県)に領地を与え、その後に我等が入城しました。古河城は西に渡良瀬川、北と東を渡良瀬川から引いた水堀、南を利根川に囲まれた要塞で、奥州街道と利根川・渡良瀬川が交差する交通の要衝でした。城の東側の水堀沿いには奥州街道が南北に通り、街道に沿って長細い城下町が形成されていました。 私は小笠原家の菩提寺が古河に無かったので、速伝和尚を開山として松本から『畳秀山開善寺』を古河城下に移しました。このように私は栗橋に居住して初めて理解できましたが、利根川の南北に城を構えることで、一方の城が攻められたら篭城して時間を稼ぎ、もう一方の城に援軍が駐留して容易に敵に対応できることが分かりました。3万石に落ちても、上杉や伊達など東北勢から江戸を守る防御網の重要な箇所を守備する婿将として信頼されていると感じました。

 

 天正20年(1592)1月、秀吉様が朝鮮に出兵するとのことで、徳川家康様は1万5千の軍勢を率いて肥前国名護屋(福岡県)へ行くことになりました。その一軍として私も同行し、兵2700人を率いて4月中旬に名護屋の呼子に陣を敷きました。そして家康様は名護屋城下の屋敷に移られましたが、湾を挟んで対岸の呼子の高台に別陣を置くことにし、私はその呼子の陣屋で過ごしました。今回は長い滞在になると考え、父上に栗橋城へ入ってもらい、古河城には小笠原山城守長継と春日淡路守道次に留守を預けました。留守中、父上は箱根山の早雲寺で修行した準叟和尚を招いて古河城下に『竜興山大隆寺』を建立しました。名護屋の陣では、多古(千葉県)の保科正光殿とお会いすることもありました。私達には遡ること10年前の天正10年、父貞慶の松本奪還に尽力してくれた藤沢頼親殿が保科殿の父である正直殿に討たれ、その弔い合戦として上伊那に火を放ち、高遠(伊那市)に攻め込んだ遺恨がありました。その後も徳川様を巻き込んで何度かいざこざを起こしましたが、今は同じ徳川旗下の大名として昵懇にさせてもらいました。

 翌年の文禄2年(1593)4月になると吉報が舞い込んできました。ようやく朝鮮国で仮講和が成ったとのことで、5月には朝鮮から続々と兵が引き上げてきました。こうして1年以上にわたる異国との戦が終わり、妻と共に栗橋へ帰ることができました。目出度いことは続くもので、6月には妻が万姫を出産し、翌年には長男の幸松丸が誕生しました。さらに文禄4年(1596)には春松丸が誕生し、私は家康様からも祝儀を頂き、従5位下上野介を授かりました。しかし5月10日、父の貞慶が古河城で亡くなり、城下の『大隆寺』に埋葬しました。享年50歳。これにより私は古河城へ移り、栗橋城は犬甘半左衛門久知を城代にしました。

 この頃から世の中は大きく動き始め、豊臣家における家康様の立場がしだいに大きくなるのを感じました。慶長2年(1597)には、太閤秀吉様が再び朝鮮国を攻めることを諸大名へ命じましたが、徳川家への出陣の命はなく、伏見城や大坂城に詰めて秀吉様の側で補佐していました。私は徳川様の命により、国元で城下の整備や城の改修などに従事していました。朝鮮での戦果は芳しくないようで、慶長3年(1598)3月頃から順次撤兵が行われました。巷の噂では太閤様の容態が悪いようで、8月18日遂に大坂城で亡くなりました。

 徳川内大臣家康様は、豊臣家における自己の立場を強めるために、諸大名との姻戚を進めました。慶長5年(1600)1月、その1つに私の娘である於万が選ばれました。まだ8歳でしたが、阿波国(徳島県)17万5700石の蜂須賀阿波守至鎮(はちすか あわのかみ よししげ)殿15歳に嫁ぐことになりました。小笠原家の祖にあたる長清公は、承久の乱の功績によって鎌倉幕府から阿波国守護職に任ぜられました。その後、室町時代にかけて代々阿波国を統治してきた家柄だったので、新参の蜂須賀家が阿波国を統治するのに格好の縁組だったのです。家康様は井伊直政殿に輿入れの責任を命じられ、まずは家康公の養女として万姫は伏見城に入り、その後に蜂須賀の家老稲田修理が迎えに参って大坂城の玉造口にあった蜂須賀家の屋敷に輿入れしました。家康様はひ孫にもあたる万姫に、祝儀として阿波国内に化粧料3千石を与えてくれました。

 6月、会津国(福島県)の上杉権中納言景勝が、豊臣秀頼様の上洛命令に対して従わず、それが謀反の扱いとなり、秀頼様の命によって徳川家康様が総大将として討伐することになりました。家康様は6月16日に大坂を出陣し、私も古河から7千の兵を率いて参陣することになりました。ここで私の信頼 してきた家臣(士大将級)を述べると次の者達になります。


犬甘半左衛門久知、小笠原山城守長継、小笠原源太左衛門重貞、二木勘右衛門政成、岩波平左衛門重直、古幡伊賀守、宮本又兵衛、二木九左衛門政之、征矢野甚左衛門宗常

 家康様は奥州街道を北上し、7月23日の昼前に私の古河城に入りました。諸軍勢は城中や郭外に充満し、私は城内の食糧を惜しみなく兵糧として差し出しました。昼の御膳では私が直に家康様へお出しし、その日は古河城内へ逗留しました。翌7月24日、家康様をはじめ全軍は下野国小山(栃木県小山市)に着陣し、武蔵守秀忠様はさらに進んで北の宇都宮城 (栃木県宇都宮市)に入りました。そして小山に伏見城から早飛脚が到着し、石田治部少輔三成、小西摂津守行長、安国寺などが大坂において謀叛を起こし、西国の大半がそれに加わったと伝えました。家康、秀忠様で評議の結果、西国に向かって出陣することになり、上杉景勝への備えとして、家康様の息子である結城少将秀康様に宇都宮城の守備を命じて本丸に入れ、私が二ノ丸、里見安房守義康殿が三ノ丸に入りました。西上した家康様は9月15日に関ヶ原で大合戦をし、大勝しました。私は暫く上杉勢の動きに変化が見られないことを確認し、結城秀康様の命によってその日の内に古河に帰城しました。

 今度の戦では合戦らしい合戦もせず、恩賞についてはそれ程期待していませんでしたが、慶長6年(1601)1月に江戸城に呼び出され、家康様より信濃国伊那郡飯田城5万石を与えられました。それまで松本を石川玄蕃守康長殿、飯田を京極修理大夫高知殿が治め、共に徳川家康様に従っていたので、まさか飯田を頂戴するとは思ってもいませんでした。今回は石川殿の移封はありませんでしたが、京極殿は丹波国宮津(京都府)に移封となり、一族代々の領地である伊那郡飯田という栄誉を受けることになりました。暫くして城受け取りの家臣を派遣し、私は3月に飯田城に入り、信濃国復帰を祝って再び信濃守を名乗ることにしました。この度は領地が増えて本国に帰還できたので、家臣共々非常に満足し、信濃国中の神社へ御礼に参り、遠方には代参を遣わして感謝の意を述べました。そして家臣の知行割りを行い、古河へ移る際に当家を去って苦労していた者達を探し出し、新たに領地を与えて再び家臣としました。それまで小笠原家の居城となっていた松尾城と鈴岡城は長い年月で廃墟となり、鬱蒼とした森と化していました。領内には飯田城の他に、北に伊那郡箕輪の田中城(箕輪町)がありました。田中城は天竜川の河原にある方形土塁に囲まれた小さな平城で、藤沢頼親殿が討ち死にした福与城の眼下にありました。私の領地は南北に長いので、北の拠点として田中城にも家臣を多く置きました。また飯田城の北側に流れる谷川を深く掘り込んで城を堅固にし、近郷の松尾村から民を強制的に移住させて城下に松尾町を広げました。古河からは『開善寺』を飯田の上川路村へ移して蛮宿和尚を住職とし、『大隆寺』も飯田へ移し、準叟和尚の弟子である要叔和尚を住職としました。また、京極殿が行っていた領内を南北に縦断させる街道整備を引き継ぐことにし、家臣の春日淡路守信伴を作事奉行に命じました。春日は工事の手腕を発揮して速やかに完成させたので、領民は彼の功績を称えて『春日街道』と呼びました。旧領の栗橋と古河は、暫くの間幕府直轄領として私が預かっていましたが、慶長7年(1602)に上野国群馬郡臼井(群馬県)から松平丹波康長殿が2万石で移封となり、引き渡しました。この松平殿(本姓は戸田)は、後に松本藩主となり幕末まで治めることになります。

 

 父上も想像していなかった念願の信濃帰還を果たしてから10年間は、誠に平和で穏やかに生きることができました。
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 これまで古河から江戸へは1日足らずで到着することができたのですが、飯田からは早くても4日は要するので、予てから江戸に屋敷を普請しようと考えていました。するとこの度、徳川秀忠様から和田倉御門の内(皇居外苑)に上屋敷を与えられることになり、屋敷を建造していきました。この頃になると、小笠原家は秀忠様から親藩並みの扱いを受けるようになり、何かと厚遇を受けるようになりました。一方で時折、飯田の領内整備を行うために帰国しました。天気の良い日には鷹狩りをしたりして過ごし、羽広山観音堂(伊那市)を建立するなどしました。翌慶長8年(1603)には、上屋敷が手狭なので家臣達を詰めさせるのに難儀し、下屋敷として本郷追分(東京都祢津神社の北隣)に土地を手に入れて屋敷を造りました。この時、秀忠様に呼び出されて「あそこは原野のような所で、上屋敷より遠くて不便だろう。代わりに近くに土地を与えるからそこに屋敷を普請するように」と申してくれました。しかし私が「この辺りもしだいに繁昌して家が軒を連ねてきたので、いずれは町の中核となるでしょう」と答えると、秀忠様は御満悦の様子でした。またこの年、飯田城下に松寿山光久寺を建立し、阿闍梨良運を住職としました。この寺はこれまで松本にあって小笠原家累代の祈願所でした。しかし祖父が信濃国を去ってから衰退して荒れ果てていましたが、その後に父が松本に復帰したので修造して小笠原家の昌隆を祈らせていました。古河に移ってからも何度か呼び寄せて祈祷をさせましたが、この度は飯田へ移封となったので、松本から飯田へ移築させました。

 慶長10年(1605)2月、徳川秀忠様が将軍宣下のために上洛することになりました。私も上洛を命じられ、隊列の4番組となり、保科正光殿、諏訪頼忠殿と一緒に兵を進めました。秀忠様は一先ず二条城に入り、4月26日に御所へ入ることになりました。当日、私は束帯を着用して、7番騎馬諸大夫の後方に松平安房守信吉殿と並んで参内しました。この頃になると秀忠様直属の配下として常に呼ばれるようになり、私を信頼してくれてのことで誠に名誉でした。

 慶長11年(1606)正月、私は年賀の挨拶に伺う際に、将軍秀忠様から息子2人を連れて登城するように命じられ、幸松丸と春松丸を伴いました。そして幸松丸は叔父である秀忠様の1字を頂戴して「忠脩(ただなり)」と名付けられて従5位下信濃守を賜り、春松丸は「忠政(ただまさ)」と名付けられて大学頭を賜りました。これにより私は息子が信濃守を名乗ることになったので、さっそく小笠原兵部太輔秀政と名乗ることにしました。

 慶長12年(1607)、大御所家康様の孫にもなり、私にとってもかけがえのない妻が、看病の甲斐なく疱瘡で死亡しました。享年31歳。葬送の時に寂誉上人呑宿和尚を導師とし、飯田城下にあった『慶林寺』を修繕して『峯高寺』と改名して手厚く弔いました。私は落胆のあまり剃髪し、息子の忠脩に家督を譲りました。領地の2万石を自分のものとし、残りを忠脩に与えて家老の犬甘久知と小笠原政直を始めとした諸家臣を忠脩の附属としました。私の家老は二木政成、春日道次、小笠原政信としました。家督相続の件は幕府へ正式に届け出ていないので、他所の者は知らぬことでした。その後、9歳になった3男の虎松丸が将軍秀忠様に呼ばれ、真に名誉ながら幼年の家光様に付けられることになりました。この年、妻の叔父として関ヶ原以来親しい間柄の越前国藩主(福井県)の結城中納言秀康様から秘蔵の太刀(伝 長谷部国重作)を頂戴しました。結城秀康様は北ノ庄を福井と改名されたので、私もこれに倣って秘蔵の太刀を『福井江』と名付けて、以後我が家の家宝としました。



 慶長14年(1609)2月、将軍秀忠様の命により、私の娘である千代が養女とされ、豊前国の細川内記忠利殿に輿入れすることになりました。細川忠利殿は細川忠興殿の嫡男で豊前国中津城を居城としていました。土井大炊頭利勝殿が総取締りとなり、3月中旬に千代姫は江戸を発って駿府城に入りました。そこで大御所家康様から「そなたの母が存命であれば、どれほど喜んだことであろうな」と話されたと後で聞きました。その後、駿府で5日間逗留してから、東海道を西へ進みました。行列は華美を極め、道中の領主は裃を着用して御迎えし、輿の先に立って領内を通過するまで案内をしました。伏見では松平三河守忠直様の御宅へ逗留し、そこへ豊前国から家老の長岡佐渡守が迎えに来ました。淀川の川舟は豊臣秀頼様から故太閤様の鳳凰丸をお貸しいただき、河口では様々な饗応を頂戴しました。そこから豊前国の迎え舟に乗って4月22日に竹田津に到着しました。ここで細川忠利殿が御迎えに上がり、24日中津城において婚礼が行われました。千代姫には豊後国日田郡に3千石の化粧料を与えられ、誠にありがたいことでした。

 その後は飯田と江戸を往来して平穏な生活を過ごし、慶長15年(1610)には将軍の御前で行われた謡始に出席し、松平信吉殿と対座して歌を詠みました。慶長16年(1611)には忠脩に続いて忠政までもが従5位下を賜りました。慶長17年(1612)になると忠脩も17歳となり、そろそろ私と同じように糾方的伝を教えることにしました。糾方的伝は、世々嫡子1人に限るものでしたが、忠脩が「10世以前の小笠原長基公の時に、嫡男長秀公と次男政康公に糾方的伝をした前例がある」と、忠政にも教えるように訴えました。これにより2人に糾方的伝を授けることにしました。政治面では田中城を廃して、そして伊那街道沿いの木下村に陣屋を建て、田中城に詰めていた者達の屋敷割りも新たにして、北地域における政治の中核としました。慶長18年(1613)4月には、島田村(飯田市松尾)の八幡宮(昭和24年に鳩ケ嶺八幡宮と改称)の宝殿を修繕しました。15代以前の小笠原長政公が正嘉元年(1257)に山城国男山八幡宮を勧進して建立し、松田左近大夫清祇を神職にしました。それから源氏である小笠原家は代々この八幡宮を崇敬してきました。

 宝殿の修繕が成った数ヶ月後の10月19日、松本城主の石川康長殿が、大久保長安の事件に加担していたとして改易になりました。身柄は豊後国佐伯藩(大分県)の毛利伊勢守高政殿に預けられました。私は松本の様子を良く知っているので、幕府から松本城の受け取りを命じられました。松本城は私が在城していた頃とは全く様相を呈して変わり、見事な黒光りの天守が聳えた巨大な城となっていました。さっそく兵を率いて松本城に入り、見事な本丸と二ノ丸御殿などに眼を見張りましたが、城を無事に引き取りました。そして幕府は飯田の領地を天領として私に預けたままとし、加増して8万石となって松本を与えてくれました。飯田城には光三郎福清を置き、番人、役人定めて光を補佐させました。松本城の本丸には忠脩を入れ、私は隠居しているので二ノ丸の館に入りました。そして開善寺を再び飯田から松本へ移し、住職は蛮宿和尚の弟子である筠州和尚としました。また『峯高寺』と『大隆寺』も松本に移しました。さらに郭外の清水には『向南山臨済寺』を創建しました。

 石川殿の治世により、領内は以前とは大きく変わっていたので、差出検地を行って実際の石高を把握し、北国脇街道の整備や宿駅・伝馬制の設置を行いました。そしてこの年、石川康長殿の岳父で下野国佐野(栃木県)の佐野修理大夫信吉殿が大坂に内通していたとの罪で、私に預けられることになりました。既に亡くなっている佐野殿の父上である富田平右衛門知信殿は、豊臣秀吉公の直臣として石川数正殿を豊臣方へ寝返えらせた張本人になります。佐野殿の兄上である宇和島藩主富田信濃守知高殿が前年に改易されたので、佐野殿もいずれは改易になるのではと噂がありました。こうして幕府は、大御所家康様を裏切った過去を持つ石川、富田の血筋を消し去ることに成功しました。私も父上の命とは言え一度は出奔しているので、その一味とされないように注意すべきだとあらためて思いました。佐野殿は3名の家臣を伴って江戸から松本に移り、空いていた本町東にあった石川康長殿の家老であった渡辺金内長次の下屋敷に監禁しました。

 慶長19年(1614)2月、松本復帰の祝いとして安原山安楽寺、光久寺に寄進して本堂を修復し、忠脩は浅間郷(松本市浅間温泉)に『大雄山法性寺』を建立し、私の母の延寿院殿は『成道山本立寺』を建立しました。そして今度の松本復帰に配慮していただいた大御所様へ御礼するため、8月に忠脩を伴って駿府城の大御所様に拝謁しました。それから松本に帰城すると、ある母子が私に面会を求めてきました。母が言うには「岡崎の江戸右衛門七の妻です。小笠原様が出奔してから夫が処刑され、あれから食うにも困り生きてきました。その恩をお忘れでなければ息子を御願いします」と言いました。私はもちろん恩を忘れていなかたので、息子を江戸加兵衛と名乗らせて70俵を与えて家臣としました(その後、江戸加兵衛は100石に加増されて富永と改姓します)。

 このように関ヶ原以降の14年間、順風穏やかに暮らしてきた私でしたが、この年の冬が迫ろうとした10月から大きく揺さぶられようとしていました。大御所様と豊臣秀頼様が遂に戦を行うことになり、大坂城を攻めることになったのです。大御所様と秀忠様は大坂へ向けて出陣するととになり、私は松本城と中山道の守備を命じられ、忠脩は大坂への出陣を命じられました。忠脩にとっては初陣になります。初陣と雖も歴戦の犬甘久知、小笠原政直などが付いていたので安心していました。そして兵3300を率いて松本を出陣して行きました。忠脩はまず駿府城に入り、その後大坂へ向かい、河内国讃良郡須奈村(四条畷市)に陣を置きました。秀忠様の直属軍に編成され、大坂城を包囲していましたが、一度も実戦せずに10月19日和睦となりました。そのまま忠脩は大坂城の堀の埋め立てが完了するまで在陣を続けました。今回の戦の褒美として5男の虎松丸が従5位下壱岐守に任じられ、高井郡井上村(須坂市)5千石を賜りました。

 
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月27日 15時01分28秒 ) パスワード

元和元年(1615)1月、忠脩はようやく松本へ帰国しました。しかし間もなくの2月25日、秀頼様が約定を破り、再陰謀があるとして再び攻めることになり、慌しく私に出陣命令が下りました。忠脩と忠政には松本城の守備が命じられたので、2人とも悔しがっていました。忠脩は飛脚をもって大坂表への出陣願いを出しましたが、江戸の秀忠公からのお許しはありませんでした。しかし、それでも忠脩は松本に残ることを残念に思い、将軍家の尊慮にも叶わないと思って独断で出陣することにしました。忠脩は犬甘久知、二木重次に留守を任せ、小笠原政直、島立員正を供に命じて出陣の用意をしました。忠政も負けじと同じく出陣する覚悟を決め、老臣の赤坂盛昌をはじめ渋田見盛直などを供に定めました。

 4月4日大御所様が駿府城を出陣して摂津国へ向かいました。4月10日には将軍秀忠様が江戸城を出陣しました。4月11日私も兵3,300人を率いて松本を出馬して大坂へ向かいました。私は3月に大御所様に謁見した時、密かに「摂津国の一戦に勝利した後、秀政に大坂城20万石を与える」と約諾を受けていたので、命を賭して戦う腹積もりでした。4月16日忠脩と忠政が密かに松本を出馬しました。私の軍は近江国を経て京都へ入り、20日伏見城に着陣しました。そこの陣所に忠脩と忠政も到着して潜んでいました。途中の宇治田原を通った際、流浪の父と母が逗留して私を産んだ宿屋の前を通り、今はこのような軍勢を率いるまでになったことを涙ぐんで感謝しました。

 翌日になって、将軍秀忠様も伏見城へ到着したので2人の出陣を再度願い出ましたが許されませんでした。そこで忠脩は決意し、秀忠様には内密に二条城の大御所様を訪ねることにしました。大御所様は4月下旬とは思えない寒気の日だったので火燵に当たりながら「信濃守ここへ参れ」と、忠脩を火燵に呼び寄せました。そして「そなたは何故軍法を犯して出陣したのだ」と、忠脩に問いました。忠脩は「若気の故に松本に居るのは我慢できず、忠勇を尽くしたいあまりに参りました」と答えました。すると家康様は忠政も呼び寄せ、「よく来たな、いつのまにか大男になり」と喜悦の様子で言いました。その後、兄弟は大御所様に出陣を許されて御礼を申して退出しました。そして本多佐渡守正信殿を通じて将軍秀忠様へ、忠脩と忠政推参のことを報告させてもらい、私は直に違法を深々と陳謝しました。

 4月28日、私と忠脩、忠政の3人は、共に伏見城を出て淀に到り、河内国飯森(大阪府四条畷市)に陣を置きました。大御所様と秀忠様は5月1日に大坂へ御動座する予定でしたが、京都所司代の板倉勝重から急な使者が到着し、大坂城に入っている密偵からの報告により大御所様が都を出たら洛中を焼き払う企てがあるとのことで、動座を延引しました。そして5月4日私は飯森から清滝峠(大和街道)を越えて讃良郡須奈村(大阪府四条畷市)に陣を移し定めました。そこで榊原遠江守康勝、保科肥後守正光、諏訪因幡守忠恒、仙石兵部大輔忠政と備えを並べ、大和川を前にして陣を張りました。榊原殿とは小田原の時以来の御付き合いで、今回は御子息が出陣していました。そして我等5備には、将軍の命で藤田能登守信吉殿が軍奉行として配属されることになりました。藤田信吉殿とは初めてお会いしましたが、軍奉行となったからには、藤田殿の指図で動き、勝手に働くことを禁じられました。藤田殿は上杉景勝殿に仕えて武功を積み、近年になって家康様に召し出されて木曽郡に1万石を与えられていました。

 この日の内に、将軍秀忠様より「阿辺野の敵に向かって合戦するように」との命令が下りました。4月5日雨の中、秀忠様が伏見から須奈村に着き、家康様は二条城から河内国星田に陣を張りました。私はこの付近の地理が全く判らなかったので、東成郡阿辺野(大阪府大阪市)の地理を探索するために斥候を5騎出して念入りに調べました。そして夜半に前進して若江郡岩田村(東大阪市)に到りました。ここに私の陣の前に3町余の沼があり、春日などに命じて深浅を調べさせ、人馬の移動が自由なのを確認しました。4月6日晴、秀忠様から「敵が出てきた場合は速やかに合戦してもよいが、城には無暗に近付かないように」との命がありました。この日、木村長門守重成が城から出陣して若江郡若江村に出て、重成の弟である木村主計頭宗重が300騎余を率いて若江村の北である岩田村に現れました。私はこれを見て討ち掛かろうとしましたが、藤田信吉殿がこれを制し、「この敵は我等の敵にあらず。殊に備えの前に沼があり兵を進め難いので動いてはならない」と言いました。私は「近くに敵を伺って逃す法があろうか」と言い返しました。すると藤田が「この敵は是非に討つ敵ではない。ただその地形が不利なだけで、それを見定めてから攻めるものである」と言いました。このように言い争っている間に敵が去ろうとしていたので、榊原康勝殿に小笠原政信を使いに出して「小笠原はこれから敵へ攻め掛かる」と告げさせました。すると榊原殿も「もっとも」と同心し、兵に下知して進みました。しかし藤田が身を挺して押し留め、兎に角している内に木村勢は行ってしまいました。井伊掃部頭直孝と藤堂和泉守高虎は我等の備えより少し隔たった右にありました。この前に木村勢が長くなった隊列で通過したので、井伊と藤堂殿は一文字に討ちかかり、敵兵もこれに挑みましたが、終に討ち負かして木村重成(23歳)を討ち取りました。その首は井伊家の安藤長三郎が取りました。先ほど我等の前を通過して行った木村勢が井伊と藤堂殿に討たれているのを見て、私は急いで兵を進めました。しかし敵は散々に敗北しており、空しく陣所に帰りました。これはみな藤田の指図が悪かったからです。

 即日、秀忠様から軍使の玉虫次郎左衛門が私の所へやって来ました。玉虫は「今日、城兵が小笠原殿の備えの前に近付いた際、何故討たなかったのか?これは必定、小笠原殿の意が城中に有るのではないかとの上意である」と問いました。私は君命を奉っておきながら、尊答する言葉が見つからず、誠に武名を汚してしまいました。意が大坂に有るか否かは明日その証を戦場で表すしかないと思いました。すると藤田が「今日の合戦は小笠原殿の落度ではありません。私は木村勢が小勢なので怪しみ、さらに備えの前に沼があり、その深浅を察している内に他に功を取られてしまったのだ。我の罪である」と答えました。玉虫はこれをことごとく秀忠様に報告しました。翌5月8日早朝、この件を調査するために、上使の日下部五郎八と建部三十郎がやって来て、その地形や荒田の深浅を検分し、私の落度が無いことを秀忠様に報告しました。

 

 渋川郡久宝寺村(きゅうほうじ、大阪府八尾市)は浄土真宗の寺内町として二重環濠に囲まれた要塞でした。奈良を経て大和川を渡河して大坂へ向かう途中にあり、陣所としては格好の場所でした。私は榊原殿などと久宝寺村の屋敷を陣所に定め、食糧や武具などを運び入れ、城攻めの準備を行いました。家康様は千塚 (大坂府八尾市)の陣に居り、秀忠様は道明寺(大坂府藤井寺市)の傍に陣営を置きました。今日、藤田信吉に押し留められ、心ならずも眼前の敵を討ちもらしたことは、真に残念で怒りがおさまりませんでした。その後、本多出雲守忠朝殿(忠脩妻の兄にあたります)が私の陣屋にやって来ました。忠朝殿は「この度のことは無念である」と、激昂しながら話し、この上は「明日は互いに討死しようではないか」と語り合いました。忠朝殿は帰った後に自分の軍使を私の所へ遣わし、明日の戦闘の行動を打ち合わせしました。そして忠朝殿へ返書を送り、松本へも後の事を記した書状を送りました。

 7日早朝から出陣の支度をして将軍からの下知を待っていたところ、軍使の堀和泉守が私の陣に到着し、「将軍旗本の先手として合戦するように」との命令が下りました。そして用意が整ったところで、総人数攻め掛かるべしとの法螺貝が鳴り響き、陣を3段に編成し、久宝寺村の陣所を出ました。私は『荒波』という馬に乗り、桃形錆地に金箔の孔雀風の尾が左右に付いた兜を着けていました。忠脩は『碁盤』という馬に乗り、黒塗りの兜を付け、忠政は『香車』という馬に乗り、同じく黒塗りの兜を被っていました。私は馬上にて戦の最中に兜が脱げぬよう、兜を結んで余った紐を刀で切って落とし、酒を一献飲み干しました。大勢の武者の進む足音が地響きのように私の腹に伝わり、これから起こる出来事に心臓が大きく鳴りました。東成郡阿辺野の街道を進むと私達の前には毛利豊前守勝永、大野修理大夫治長、竹田永翁など大坂の精兵が待ち構えていました。私から見て左手に毛利、右手に大野が備え、その中間に竹田がやや前に出て備えていました。毛利と大野の前には堀溝が築かれ、その前には深田が広がっていました。毛利より更に左手の茶臼山には赤旗がなびき、陣取っていたのは真田左衛門佐信繁殿(真田幸村)でした。下野国小山で別れて以来、15年ぶりの対面でしたが、今は敵と味方。お互いに太閤秀吉様に仕えていた頃を思い出し、こちらへ攻め寄せて来ない事を祈るばかりでした。

 5月7日正午を過ぎた頃、我が軍左手の本多忠朝殿が毛利勝永と銃撃戦を始め、しだいに激しくなり、痺れを切らした本多忠朝殿が突撃していきました。すると、真田幸村殿が僅かな足軽を繰り出し、私の先陣左翼に襲い掛かってきました。そこで私は下知してこれを撃退して追撃させたところ、竹田永翁が待っていたとばかりに弓鉄砲を雨のように浴びせてきたので、白岩や森下などが討死しました。私は先陣がやや乱れたので、そのまま総軍を竹田永翁に向けて突撃させました。これによって竹田の陣形は崩れ、まもなく敗走しました。そして我が軍は勢いに乗って、備えを乱したまま堀溝を越え、毛利の背後に出ました。続いて2陣が堀溝を越えたところ、大野の手勢が2陣右翼へ討ちかかってきました。私はこれを見て、旗を手に取って声を挙げ、透間なく槍を並べて待ち構え、更に大野の後ろに布陣していた敵の結城権之助と橋本十兵衛の兵が大野に加勢して来たので、敵味方入り乱れての戦いとなりました。暫く雌雄が決せずにいたところ、ここに毛利が私の左翼に討ちかかってきました。左右挟み撃ちとなり、私は槍でその敵を無数に突き伏せていましたが、本多忠朝隊が壊滅して、後ろからも毛利が討ちかかって来ました。そして終には槍が折れたので、馬上から飛び降り、従者の槍を取って敵を突き立てましたが、6箇所ほど敵の槍に突かれ、黒塗りの甲冑は真っ赤になっていました。しだいに呼吸が乱れ、膝をついて意識をほとんど失っていたところ、これを見て岩付治左衛門安勝と千野儀大夫正種が私の傍に来ました。そして次々と向かって来る敵を斬り、岩付は傷付いた私を肩に担ぎ、久宝寺村まで退くことにしました。途中、小笠原主水政信が9人程の槍に串刺しにされて宙に浮いているのが見えました。相撲好きで力自慢の政信までもがやられ、涙が止まりませんでした。千野はなおも来る敵を斬り伏せ、2町ばかり退いた所で今度は千野が私を肩に担ぎ、岩付は近付いて来る敵を斬り伏せました。どこを見ても周りは敵だらけで、何時しか大勢の敵兵に囲まれて退くことができなくなりました。しかし従者を多数連れた騎馬武者が私達の横を通り、それを敵が私達の味方だと思って退散していきました。再び敵中を3人で退いていたところ、伊藤、川手、岡村、渡辺などが私を追って辿り着き、周りを固めました。川手才兵衛近友は近くから板戸を1枚持ってきて、私をそこに乗せ、4人でそれを持ち上げてようやく久宝寺村の陣屋に辿り着きました。

 忠脩は毛利勝永の先手に槍を持って討ちかかっていたところ、毛利の旗本が忠脩の後ろを遮り、襲い掛かってきました。忠脩は必死に勇戦して敵兵を多く突き伏せましたが、なおも敵兵が左右から来て槍で忠脩を突きました。敵の勢いに押されて忠脩の周りには味方が誰もいなかったので、助ける者もいませんでした。忠脩は馬から落ちたまま動きませんでした。享年22歳。敵兵は忠脩の鼻を削ぎ取ると、それだけを奪って去っていきました。やっとのことで原四郎兵衛雅綱、志津野金兵衛宗知などが敵を斬り抜いて忠脩の所に辿り着き、志津野が遺骸を肩に担いで久宝寺村の陣屋へ退きました。

 忠政は馬に鞭打って戦場を駆けていました。僅かに渋田見縫殿助盛直、横川佐野右衛門正吉が従い、浅香覚兵衛正信、牧野弥次左衛門重信、原治兵衛吉久は後を追っていました。忠政は槍を持って頻りに働き、縦横に敵を追い立て、馬煙を立てて後方の従者を見返すと、深入りしすぎて背後は敵だけでした。忠政は「何を!」と言って、何処までも討って通り、直に城に乗り入ろうと馬を蹴り立てて進むところに、城兵が群がって突き掛かって来ました。忠政はその中に突撃して行き、敵兵を大勢突き伏せました。その間に敵が横から急に来て、忠政を槍で突いたので落馬しました。槍が折れたので、馬手指を敵に投げ付け、刀を抜いて斬りました。そこに高い所から敵が槍を持って飛び掛り、忠政を強く突きました。そして小堀に落とされて危ういところに、横川が忠政の上になって楯となり、渋田見が敵を斬りました。その他の従者もようやくやって来て敵と戦いました。そして忠政を引き立てて退こうとするところに、敵兵がまた大勢来て、渋田見や浅香などが我も劣らんと働き、命限りに斬って勇を振るいました。さしもの大勢も追い立てられて退散し、忠政を肩に掛けて危うい所を退きました。忠政は途中で私と忠脩の事を尋ね、「深手ですが引き退きました」と何れの家臣も答えるので安心して退くことにしました。戦場から少し遠く離れましたが、7箇所に大きな傷を被り、従者も数度の戦いに心底疲れて陣所に引き取り兼ねているところに、浅香が「敵の馬を奪い取って来ます」と言って敵中に走って行きました。その後、原平七宗利が馬に乗ってやって来たので、その馬に忠政を乗せました。すると浅香も奪った馬に乗って飛び来て、前後左右を固めて久宝寺村の陣所に帰りました。横川は数箇所の深手を負っていたので動くことができなくなり、途中で戦場に残りました。忠政は陣所に着くと、さっそく平林加左衛門を呼び、横川を連れ帰るようにと命じました。平林は急いで尋ね行き、横川に逢って、よくよく介抱して陣所に連れ帰りました。

 秀忠様の馬前に参上して、私と忠政の深手を御覧になり、忠脩の戦死を上覧しました。甚だもって御感歎の御気色のようで、さっそく施薬院宗伯を久宝寺村の陣所へ遣わし、「よくよく手傷を治療すべし」と命じられました。別して忠脩の事を御痛み思し召されるとの仰せで、誠に有り難いことと思いました。そして、陣所に戻って暫くして私は息を引き取りました・・・・。

南無阿弥陀仏


長いので以下略
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月27日 15時25分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 麻績服部氏の家紋は何だろうか、伊賀服部系なら丸に並び矢系である
はずですが、平氏系服部氏で丸に三つ柏を使用している氏族もいるとい
います。いずれにしても、あを様のサジェスチョンもありますし、8月
に松本(深志)に一泊して安曇野〜麻績・他へ行って確認してまいります。
 (7月にはまた伊那へ行って調べてまいります。)
 (6月には、軽井沢〜善光寺へ行ってまいります。これはツアー)。
 
 たぶん、幕末に生まれた十湖は、自分のルーツについてある程度知って
いたと推測いたします。信濃に2ヶ月間の旅を行っています。
 群馬県の桐生についても何か興味を示しているようですので、一度桐生・
黒川・箕輪等へも行ってみたいと思っています。
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月27日 15時46分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 市野氏については、今晩、家にて書き込みます。

 馬についても考察してみたいと思っております。 
 水軍についても考察してみたいと思っています。
 現代のの認識を変える必要があると思っています。

 現代は車社会。江戸時代以前は馬と舟の社会。
 基本的な考え方を変える必要があると思っています。

 高天神城についてはいちど総合的にまとめます。
 
 
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月27日 21時55分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

予定がいっぱいですね。
お友達とも魚釣りとかで一緒に遊んであげないといけないし。人気者は大変ですね。笑


ヒバリさんが宮下姓なのは
お宮の下に住んでお宮を守ったからかも、です。

でも叔父さまやイトコさん達が(たぶん今でも)お住まいであって
ヒバリさんのご実家は今は小田原だそうですから
麻績で宮下姓の方にもお会い出来ると良いですね。

    この「小田原」というのにも引っ掛かります。
    小田原の服部姓は大久保がらみの半蔵の家系だと思思っていましたが
    忍者がらみで麻績服部氏も入っているのかも知れないし。


本当に今の感覚で考えていては過去は理解できないですね。



高天神城もいったいM氏はどう関わっているのか。
小笠原氏とM氏が一族だから、とセットで考えると簡単ですよね。
M氏が高天神城に思い入れがあるのは確かでしょうね。

    ホントに謎だらけの家譜ですね。


そして松下氏のことも読めば読むほど当時の過酷さが分かっていたたまれません。
そして分化していって、一族が日本のアチコチに存在しているのには驚きます。



箕輪という地名が結構アチコチにあって驚きました。 
千葉にもありました。
 
箕輪城(千葉県柏市箕輪)相馬氏
 http://srtutsu.ninja-x.jp/shiro221.html
千野原靖方著『東葛の中世城郭』掲載の縄張図

   千野原姓ですが一瞬ドキッとしました。
[65]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月28日 01時32分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 市野氏について

 情報@寛政重修諸家譜より
    市野 藤原支流
   〇実久(さねひさ) 惣太夫 今の呈譜真久(さねひさ)に作る。母は某氏。
   永禄11年(1568)より東照宮につかへたてまつり、のち仰によりて信濃、
   陸奥両国に赴き、御馬を求む。慶長5年(1600)伏見において御馬を預り、
   且遠江国長上郡市野村にして、17石余(約5000坪)の地を賜り、のち廩
   米(くらまい)100俵を加えられる。これより東照宮市野に放鷹したま
   ふのとき、在名市野を称号とし、丸に一文字をもって家紋とすべきむね
   仰を蒙る。元和2年(1616)12月11日死す。法名舜清。市野村宗安寺
   に葬る。のち真防(さねあき)にいたるまで葬地とす。
 
 情報A市野氏の先祖は近江の浅井氏の一族で、真久の時永禄年間から家康に
   仕え、特に馬のことにくわしく、馬掛りとして活躍し、慶長5年遠江の
   代官となり、浜名10郷その他を支配し、市野五郎右衛門、同6年より
   9年間代官を勤める。慶長9年には17石余の屋敷地。その後、家号を
   市野と改めた。元和2年死去。

 情報B市野惣太夫実利。自称、伊岐遠江守真利。棒術、槍術、弓術、柔術、
   水練の達人として小早川家に仕官した。武術指南役として500石、
   秀秋の乱心で家老のほとんどが出奔し、必然的に家老となった。しかし
   小早川家断絶後に浪人、その後徳川秀忠に仕えた。

 情報C市野において代官をつとめた市野氏歴代は実久―実次―実利―真防の
   4人で、この間90有余年にわたっている。市野における市野氏初代
   とされている惣太夫実久は、永禄11年から徳川家康に奉仕、慶長5年
   に御馬役を命ぜられ、同時に遠江国の代官を勤めるようになった。
   
 これらの情報のなかで、Bの実利の家老については年代からいって矛盾があ
ります。
 即ち、小早川秀秋の時代は1602年(死亡)まででありますので、その頃まで
家老をやれた人といったら、年代的には初代の実久であり、その孫の3代目の
実利では無理だと思われますが、何か事情があったのでしょうか。

 それでも、小早川秀秋といえば1600年の関ヶ原の戦いにて、キーマンとなっ
た人であります。小早川秀秋の徳川側への寝返り、島津軍への攻撃がなかった
ら家康の関ヶ原の戦いでの勝利はなかったものと思われます。
 その小早川家に家老として入り込んだということ。それはたぶん初代の実久
だと思われますが、それは全くの自主的行為だったのではなく、家康の戦略、
即ち豊臣方の大名を自分側へ取り込む戦略であったのではないかと思うので
すが。

 一旦、ここで切ります。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月28日 03時07分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


市野家は4代続きましたか。

もう1度M氏家譜を読んでみました。
気付いたことを1つ2つ3つ。


_____________________________

    対助さんの息子の妻が小野氏なのは松下家がらみなのかな?と2−3度思いました。
    息子の嫁が名家から来ているというのはやはり市野惣太夫がらみなのかな?と。

        このM氏家譜にある小野氏というのは何者なのかなと思っていましたが
        「松下加兵衛と秀吉」を読んでて小野氏が出ているので
         ひょっとしてこの松下家がらみの小野氏なのかな、と。


___________________________


    さらに、この市野惣太夫実久ですが
    永禄11年=1568年=に家康に仕えたということで
    惣太夫と対助さんは親子あたりの年齢だったと思います。  
    
        対助さんは永禄11年=1568年=の生まれなので。

           つまり惣太夫実久と対助さんは親子ほど年が離れていた、ということです。

     
____________________________

>小早川家に家老として入り込んだということ。
>それはたぶん初代の実久だと思われますが、それは全くの自主的行為だったのではなく、
>家康の戦略、即ち豊臣方の大名を自分側へ取り込む戦略であったのではないかと思うのですが。

はい、そう思います。


    わたくしがツラツラ思ったのは

    秀吉の正室の甥の小早川秀秋。1582 〜 1602  
    関ヶ原の後、2年後に、21歳で亡くなっています。

    この小早川秀秋の周りに淀殿の実家・浅井家で仕えていた人が竹原まで従ったというのはアリだと思います。

    
    その1人が市野惣兵衛実久 and/or 孫の実利の可能性がありますね。

    若い実利が  18歳あたりの小早川秀秋に仕えてても  おかしくないと思います。
 
    そして市野惣太夫実久の孫の実利が20歳あたりで小早川家の家老になっててもおかしくないと思います。

    この家老も毛利家がらみの人々が逃げ出したから消去法で市野実利が家老になってしまっただけのことですから。



     家康にとっても市野惣兵衛の身内が小早川家に入り込んでいたのは都合が良かったでしょう。

     小早川秀秋が西軍を裏切ることになったのは市野惣兵衛と孫・実利による工作があったからかも。


        小早川秀秋は関ヶ原の時に18歳あたりなんですよ。
        その家老が  トモダチ年齢だった  としてもおかしくないですよね。

        毛利家や吉川家にしてみれば小早川秀秋なんかドーでも良い存在だったでしょうし。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%B0%8F
    
小早川隆景には実子がなかったため、弟の秀包を養子としていたが、
後に廃嫡して別家を立てさせた(久留米小早川氏、のち毛利氏に戻り吉敷毛利家として続く)。

これに伴い家督は、代わって秀吉の正室高台院の甥・羽柴秀俊が隆景の養子として継いだ(小早川秀秋)。

この時点をもって、小早川氏は大江氏流毛利氏から豊臣氏流羽柴氏に移ったといえる。


慶長2年(1597年)の隆景の死後、
                                                                   ココ
毛利家から小早川家に送り込まれていた家臣、及び小早川家一門衆・譜代家臣の大半は毛利家に引き揚げており、
                              市野惣兵衛の工作は簡単だったかもですね

これ以降の小早川本家は毛利氏一門から、豊臣氏一門の有力大名へと変化した。

秀秋は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの功績により、徳川家康より備前岡山51万石に加増移封された。だが慶長7年(1602年)に21歳で嗣子無く没し、小早川家は名実ともに断絶した。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月28日 03時16分26秒 ) パスワード

>Bの実利の家老については年代からいって矛盾があります。
>  即ち、小早川秀秋の時代は1602年(死亡)まででありますので、
>その頃まで家老をやれた人といったら、年代的には初代の実久であり、
>その孫の3代目の実利では無理だと思われますが、何か事情があったのでしょうか。



つまり
矛盾は無かったかも。

市野惣太夫は関ヶ原の頃は60歳ぐらい。
孫の実利が20歳前あたり。

小早川秀秋の周りにいた毛利家の人々は隆景の死でみんな毛利に引き上げた。

こういう事情で市野実利は小早川秀秋の身近に仕えていたかも。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月28日 09時29分42秒 ) パスワード

「松下加兵衛と豊臣秀吉」を読み終わって「遠江の井伊領考」を読んでいます。


そこでスゴイ発見をしちゃったかも!


p1の「井伊谷3人衆私見」の9行目です。


      「堀川城の山村修理・尾藤主膳・新田喜斎」等の土豪が立て籠もり敵対。



新田喜斎!
家康に敵対!


新田ですよ、新田!
    M氏に新田が絡むかも知れないことは状況証拠から分かってました。


    つまりM氏が新田氏と本当に関わりがあったということはかなり信憑性が高まりました。

    だからM氏は帰農したのかも。
    堀川城の事件があるから家康の家来にはならない!そういう矜持があったのかも。
    それに「うちは本物の新田の子孫だ。家康のような系図の詐称はしていないぞ!」

        松下家から出て帰農した山下家とは気があったでしょうね。
        内山家とも気が合ったでしょうね。
        小野家とも気が合ったでしょうね。


この「新田喜斎公」のお名前で納得出来ました。

   源氏で源姓で「鍋の蓋紋」を「丸に一文字紋」にちょっと替えた。
   だからM氏の家紋はもともと@で良いのですよ。


お〜
なんかすごい
自画自賛
パチパチパチ(拍手)
[69]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月28日 20時22分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新田喜斎について調べてみました。旗本近藤家家臣の鶴洞池池谷則正が宝
暦10年にまとめた『新田喜斎伝』より―
 「東照公徳川家康が遠江国に侵入してきた時、気賀庄呉石に新田喜斎を名
乗っていた地侍がいた。大永5年(1525)の生まれで、先祖は上野国(群馬県)
の住人で、南北朝の時代南朝の臣として名をはせた武将新田義貞と同じ一族
の流れである。新田氏は南北争乱のあと衰退し、分家分流は諸国に散ってい
った。その内の1人が室町の後期、遠江に来往した。それが新田喜斎である。
 喜斎は天文15年(1546)引佐郡祝田村に住していたが、10有余年のちの
永禄元年(1558)気賀庄呉石村に移り住むようになった。その場所を御所平と
呼んでいる。喜斎に実子がなかったため、遠江国蒲庄の蒲明神の神官をして
いた名流蒲氏から男子を迎え、あとつぎとした。ところが乙若丸と呼ばれて
いたその子が某氏のために毒殺されてしまった。
 この事件が祟りとなって村人をなやますようになったため、村人たちが集
い話合いの結果、村の一角の鎮守のやしろを建立することとなった。これが
呉石の若宮社である。
 喜斎は慶長11年8月15日、訴訟にまつわる一件を理由に捕えられ、地
頭石川半三郎によって処刑された。享年82歳であった。葬儀は井伊谷龍潭
寺4世悦岫永怡和尚を導師として行われ、墓は知足院(現在廃寺)にある。

 一旦ここで切ります。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月28日 21時41分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


>喜斎は慶長11年8月15日、訴訟にまつわる一件を理由に捕えられ、
>地頭石川半三郎によって処刑された。
>享年82歳であった。
>葬儀は井伊谷龍潭寺4世悦岫永怡和尚を導師として行われ、墓は知足院(現在廃寺)にある。


ということは慶長11年=1606年ですから
関ヶ原はとっくに終わっていて大坂の両陣の少し前で
徳川幕府としては世の中を「きれいさっぱり」抑えたい時代背景ですね。

処刑するような面倒な理由が幕府側にあったということでしょうね。


葬儀が井伊谷龍潭寺4世悦岫永怡和尚の導師で行われたということは
    ここは井伊家がらみですし
    そして南朝方ですし

裁判はなかり不条理なものだったのでしょうね。



そして三つ柏さんのレスを拝見して、コレって去年とくに出てたわね、と思い出しました。



ということはやはりM氏は新田系で良いのでしょうね。
                南朝方だった
                源氏で源姓なのは本当にそうだった
                なのに幕府から重宝されなかったのは抵抗した過去の事実がある
                井伊氏とも南朝つながり
                井伊氏との繋がりで松下氏とも繋がり
                松下氏との繋がりで山下氏とも繋がり
                山下氏との繋がりで小笠原氏とも繋がり
                その背後の武田とも北条とも今川とも諏訪とも繋がる。



家康は今川を敵とすることから武田と密約があったというのはちょくちょく今回も読みました。
今川が没落した後は武田と激突。

そういう家康の戦略の転換の狭間に振り回され没落したのが内山氏でありM氏であり後の世には山下氏であり更に後世の松下氏である、か。



去年新田喜斎翁のお名前が出た時はここまでは読めなかったです。
そうすると上野国の松島氏とも関わりはあったでしょうね。
当然伊那の松島氏とも。


新田喜斎翁が不条理に処刑されたのが読めますね。

徳川幕府側にとって本物の新田の子孫が存在しては不都合だったのですよ。
当時は告白=自白=主義の時代ですから
証拠なんていかようにもデッチ上げることができたんですから
とにかく本物の新田子孫は邪魔でしかなかったんでしょうね。



それで盛郷の「岩井新田の書付の話」が記載されているのかもですね。
「岩井しんでん」と読んでましたが
「岩井という新田開発」の話の他にも「岩井氏と新田氏」という意味だったのかなと思い始めました。

http://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/
遠江・長岩砦
山城  (120m/60m) 石垣,郭
静岡県浜松市北区三ヶ日町只木字岩井


岩井姓:
・氷川神社神職(古代の氏族であり、物部の伴造(とものみやつこ)として軍事、刑罰を担当した物部氏)など神官系多くみられる。
・清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)頼親流など
・様々な流派がみられる。

「岩」は岩、硬い地盤を表す。



なんか泣けて来ました。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 02時35分39秒 ) パスワード

http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/?mode=m&no=639


戦国の足跡を求めて

家康の逆鱗に触れた気賀一揆
2011/02/22 00:00


前にもコピペしてるかもですね。


1568年末になり徳川家康は遠江進攻を開始した。
目標は今川氏真の逃げ込んだ掛川城。
徳川勢は遠江に入ると井伊谷城、引馬城と瞬く間に今川勢を駆逐して掛川城へ向った。

しかしすぐに掛川城が落ちなかった為に、
家康は三河に引き上げて出直そうと気賀にさしかかったところで、
気賀の小土豪たちが浜名湖北岸地域の今川方勢力(具体的には佐久城の浜名氏、堀江城の大沢氏)と連携し堀川城に拠っていることを知ったのである(気賀一揆)



堀川城築城は遠江侵攻の前年といわれている。
後部は浜名湖を背にし前部は都田川の水を引いて浮き城のように、徒歩で近寄れないようになっていたという。

その城主には寺子屋を開いていた浪人の新田友作がなり、
尾藤主膳、山村修理、竹田高正、新田義一(この人ですね)といった土豪が、
村人を動員しこの城に立て篭もっていた。

この期に及んで今川氏につき家康にたてつく豪族に対し、
家康は容赦無い態度で臨んだといわれる。

個人的な推測になるが、
当然ながら武田氏と共闘する形で今川領を侵食する家康にとって、
一刻も早く同地を平定しなければ、
やがて隣接するであろう武田氏の侵攻を受ける可能性を考えたのではないだろうか。


この気賀一揆における堀川城の戦いでは、
城に籠った老若男女約2千人のう1千人が
容赦なくなで斬りにされたという。

当時の気賀周辺の人口は約3千人だったと推測されているから、
この堀川城の戦いだけで実に周辺人口3分の1を滅したことになる。

(後日さらに関係者7百人が処刑されているというから同地では人口の半分が死んだことになる)

城将たちのその後であるが、
竹田高正は堀川城内で切腹、
尾藤主膳は大沢氏の堀江城に逃れ後に切腹して果て、
山村修理は小舟で逃れ小引佐まで行き切腹した。
新田義一は剃髪し喜斎と号していたものの、やがて代官の石川半三郎により捕縛され処刑されたという。


城址北方の全得寺では竹田高正と新田喜斎が祀られている。

また城址付近には「獄門畷」があり、石碑とともに
「桶狭間の戦いで今川義元亡き後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏の為に堀川城を造り、最期まで戦った。


堀川城址は、此処から南へ600m程にある。


永禄12年(1569)3月27日、堀川城に2千人の男女が立てこもり、
3千人の家康軍に攻められて、落城したと言われている。


大久保彦左衛門の記録には「男女共になで切りにした」とある。
そしてその後に捕らえられた約700人の人々も、同年9月9日にこの附近で首を打たれた。

その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「ごくもんなわて」と言われるようになった」と説明板が立てられている。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 02時43分11秒 ) パスワード

http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1192032761/l50


330 :人間七七四年:2013/03/05(火) 22:33:34.31 ID:yM8F4pvU.net

新田喜斎=二俣城主・松井宗信とする古文書もあるが、 実際には宗信の子を養子にしたので、その親と間違えられたらしい。

この養子の松井氏が瀬戸に住み、「瀬戸氏」と名乗り、現在も瀬戸に瀬戸家はある。
瀬戸にある新田喜斎の墓は、瀬戸氏が江戸時代に建てたものである。

新田喜斎は、徳川氏に寝返り、堀川城の戦いを避けるよう呼びかけたが、
逆に裏切り者として殺されそうになったので、城を出た。

堀川城の戦いの時は、松崎の自宅にいたと思われる。


堀川城の戦い後は、方久と名前を変え、親戚である雄踏の中村家と組み、武士よりも商人に近いことをしていた。

気賀の住民に頼まれて訴状を書いたところ、「身分不相応な要求である」と捕えられて処刑された。
塩の統制に苦しんだ住民を助けるために、塩を安く仕入れて売っていたのが役人には気に食わなかったらしく、処刑の機会を探していたらしい。


墓は知足院の跡地にあり、供養碑も建てられている。
井伊氏との関係も深く、龍潭寺に位牌がある。

参考:井村修著『新田喜斎』
http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-330.html



331 :人間七七四年:2013/04/05(金) 00:49:46.57 ID:aEkg7DPx.net

新田喜斎のお墓に案内板が建てられるそうです。



http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-359.html

332 :人間七七四年:2013/04/06(土) 01:38:43.85 ID:/N8l6WTF.net
新田喜斎の墓は、松崎、呉石、瀬戸の3ヶ所のようです。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 02時52分32秒 ) パスワード

http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192032761/


76 :人間七七四年:2007/10/23(火) 20:55:38 ID:uvWuovqN>>72
城主は、新田氏の一族といわれている新田友作、後に剃髪して喜斎。新田四郎義一。上野の国新田郡岩松の庄より家臣と共に南北朝の宗良親王にゆかりのある気賀に移り住む。
最初は、気賀・油田村松崎に在を構えるが、後に気賀・呉石村に移住。新田友作が最初に住んでいた場所を御所平・移り住んだ場所を御所と呼ばれる位、住民には信頼が厚かった。




83 :人間七七四年:2007/10/25(木) 17:11:47 ID:s4ExCS/4>>76
南北朝のときもそうだが、気賀は反骨精神
みたいな気風が強い。




86 :人間七七四年:2007/10/25(木) 22:44:19 ID:NTT1vbeI>>83
獄門畷の悲劇以後は、領主の近藤氏の仁政のおかげか現在まで比較的波風が立っていないですね。w

堀川城の代表の3人の城将は、片田舎の一揆にも間違えられそうな戦にも関わらず、ウィキペディアに名前を残しているね。しかも身内が真田昌幸の妻、石田三成の妻とか。


それと新田喜斎には、娘が3人いてそのうちのひとりを娶った子孫が現在も在住している。もっとも住んでいたのは、近くに処刑場があった位の場所だから隠棲していたと思われる。



>身内が真田昌幸の妻、石田三成の妻とか。

そうなんですか?

[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 02時59分55秒 ) パスワード

尾藤主膳、山村修理、竹田高正、新田義一この3人を調べているのですが


横にズレます。

これも去年コピペしているかも。



http://www.ai-trip.com/trip/horie/horie2/horie2.html

4.堀江城の中期

加増を受けた基相(もとすけ)

先代基房の時に、今川氏のために岡崎城や二俣城へ出陣して功を立てたことによって、天文2年(1,533)12月4日、今川氏輝から浜名湖往来の船を取り締まる権限を与えられた。また天文13年(1,544)11月9日には今川義元より上田(かみだ)村(協和)の90石1斗8升6合の加増を受けた。
更に天文18年(1,549)基相は上野端城の戦いに兵を出したが、この戦いで基相の家臣紅林甚二郎は大いに奮戦して抜群の功を立てたので、義元より次のような感状を受けた。

感状 去る23日上野端城落城に骨を刻み候条感悦なり、いよいよ忠節を励ますの状件の如し
天文18年12月3日  義 元  花 押
紅林甚二郎殿

堀江城の改築と基胤(もとたね)

堀江城の改築は永禄年中(1,558─1,569)とされているが、はっきりしていないし、誰が改築したかも不明である。基相の時だという説もあるが、基相がいつ頃まで生存していたかもわからないので決定しかねる。基胤の時だとすれば、恐らく永禄の前半であろう。なぜなら永禄後半は、属城堀川城へ援軍を送ったり、家康に対する作戦準備などでその余裕がなかったろうし、続いて徳川軍の井伊谷三人衆との決戦があって、その年、永禄は終わっているからである。
完成した城の規模は、わずかな資料で想像するしかないが、大体次のようなものであったろうか。
明治十年ごろ堀江藩邸の競売入札が行われたが、その時の入札物件によっておよその規模がわかる。

1号  表門代金3両
2号  同右長屋 3住居瓦葺平屋
   20両 3間梁桁付5間
3号  同左長屋 1住居瓦葺平屋
   10両 2間半梁桁4間
4号  大砲小屋 瓦葺
   3分 2間4方板張
5号  新土蔵 梁間3間奥行5間
   62両 2階付入口引戸窓
6号  内長屋 瓦葺3間梁桁行
   3両 5間2住居
7号  内長屋 瓦葺3住居梁間
   15両 3間桁行8間
8号  内長屋 瓦葺2住居梁間
   4両2分 3間桁行7間
9号  稽古場 ワラ葺梁間3間
   1両2分 桁行10間
10号 営繕小屋 ワラ葺5間に3間
11号 合薬基地 瓦葺7尺に18尺
   3分
12号 牢屋 瓦葺2間4間
   2朱 外番小屋4方矢来
13号 玄関広間 使者の間中の口まで
   28両
14号 座敷 2棟吟味共
   70両
15号 ○○所
   48両
   〆建物15号塗塀21間板塀3
   5両 17間
   境内立木 杉松3尺廻り1尺まで 60本
   80両
   椎の木3尺廻り8尺まで 60本
   同3尺以下 100本
16号 腰掛所 瓦葺2間3間外
   7両 押入2ヶ所
17号 土蔵外に木戸1ヶ所
   13両

落札 平地建物物置10
   78両1分
落札 境内山地一円
   83両1分
落札 西畑地並びに木戸1ヶ所
   3両 石垣敷石共残らず
   15両
代金総計 555両
右の通り入札仕リ候処相違御座無く候
落札の上は地代金畑地の分は5ヶ年
賦上納その外の代金は即日上納のこと


東丸に城主大沢氏が住み、西丸には大沢家臣の実力者中安氏が住んでいた。当時の領民は、大沢家を領家殿、中安家を堀江殿と言っていたが、後にはこの呼び名は両方とも大沢家に使われた。

堀江城の実力者中安氏

堀江和泉守光真(ほりえいずみのかみみつざね)が応永年間(1,394─1,427)に越前国(福井県)から遠江国へ来て初代の佐田城主となった。
光真の先祖は藤原時国で、越前国で新田氏に属して度々武功を立てたが、更に東方の反乱を静めようと、後醍醐天皇の第一皇子尊良親王に従って、伊勢湾から乗船して遠州灘にさしかかった時、逆風のため難破して将兵は四散し、やっとのことで親王と共に福田港に漂着した。そこから高部(袋井市高尾)へ行き行宮(あんぐう)を建てて住んだが、17年後親王は薨去(こうきょ)した。
時国は越前国坂井郡に帰り堀江の庄70か村を領有したので、堀江と姓を改め、元中3年(1,386)に死去した。時国の後は、景経(かげつね)、景重と続いて光真となった。

佐田という地名は「堀江、内山を佐田と号す」と三ヶ日金剛寺の過去帳に見えるけれども、さて佐田城の所在となると不明である。しかし光真以下六代の城主やその子孫が存在していたことは事実である。 堀江光真が佐田城へ来る4・50年前に、すでに大沢氏は堀江城にいた。
系譜でわかるように中安氏は佐田城主五代目の為清の次男豊種から出ている。
ここで知っておかねばならないことは、佐田城と堀江城に関する理解である。資料の少ないこともあるが、後世になって理解の混乱を招いた主な点は、佐田城主の堀江という姓と堀江城を結びつけやすいことである。すなわち堀江城の城主が堀江氏であったとの錯覚である。
佐田城、堀江城、大沢氏、堀江氏、中安氏が複雑にからみ合った当時の庄内地方の状況を年代別に整理してみると、

卓治年間(1,362─1,367) 大沢氏が堀江に下向。
応永年間(1,394─1,427) 堀江氏が佐田城に居住。
明応八年(1,499)    佐田城主五代為清の次男豊種が内山で生まれ、中安氏を名乗る。
永世元年(1,504)    堀江城、佐田城が今川氏に降り、大沢氏は村櫛に移る。?
大永二年(1,522)    佐田城落城後、中安兵部豊種が堀江城主となる。
天文四年(1,535)    大沢氏堀江城へ戻る。
弘治元年(1,555)    中安氏堀江城主となる。
永禄三年(1,560)    中安氏堀江城主として竜泉寺を建つ。
永禄五年前後(1,562前後)大沢氏堀江城改築。
元亀元年(1,570)    中安兵部死去

以上の記録をどう組み立て、どう解釈したらよいであろうか。中安兵部は佐田城落城後、堀江城主として十数年全盛を極めたという。ここでいう堀江城とは大沢氏の堀江城なのか、それとも領民たちが佐田を改めて堀江村と称したことから、佐田城のことを堀江城と言うようになったのか。
こう見てくると、中安氏が城主となったのは、もとの佐田城であったのかも知れぬ。
それを裏付けるような一つの資料がある。「徳川家康文書の研究」に

一、曾祖父 権田織部佐(ごんだおりべのすけ)(泰長)
一、母方尊々祖父 中安兵部少輔(しょうすけ)(定安)
一、同 大沢左エ門佐(基胤)
右三人遠州堀江城ニ住ス時、権現様永禄十二年右三人ヲ招出サレ、本知相違無ク下シ置カルノ旨御起請御直判ノ御証文頂戴致(中略)大沢左エ門佐、中安兵部親類ニテ罷リ在リ候由承伝候。

とあるように、本知行を下されたのであるから、中安氏も大沢氏と同様にもとの佐田城の知行を下されたものと受け取れる。
中安氏は永禄三年(1,560)三月に、菩提寺として大草山の山頂近くに竜泉寺を建てたが、天正五年(1,577)に内山(庄内町)に移転した。中安兵部の下屋敷が内山にあったからである。大草山の寺跡は「竜泉寺台」と言って今に伝えられている。移転後本堂などは改築されたが、山門だけは原形のまま400余年を経た今日でも昔の姿を見せている。

なお、神戸市在住の12代目当主中安武彦氏は、昭和44年5月18日、檀家総代や郷土史研究会の会員ら多数を招いて、石とうろうの寄進と祖先の供養会を、盛大に且つおごそかに執り行った。
堀江城主大沢基胤は後で詳述するように、永禄12年(1,569)3月家康軍と戦って和睦の末徳川氏の家臣となった。その翌年元亀元年、家康に従って江州姉川の合戦に参加し、大沢氏の同族中安兵部は華々しく戦って戦死した。「四戦紀聞」の「江州姉川合戦記」には「柴山小助、よき敵を討ち取り、なお進み戦って落命す。是は小兵衛正和の兄、時に22才。小川三十郎、中安兵部定安も戦い死す」と書かれている。
中安兵部の法号を「勇将殿茂山玄栄大居士」といい堀江村の平に埋葬した。これが「茂山塚」である。 中安兵部戦死後、家康より子息満千世に感状が渡された。

中安満千世に与えられた安堵状
今度江州合戦ニ父兵部少輔、馬前ニ於テ討死セラレ忠節ノ至リナリ。然シテ先判形ニ載セ候知行ノ員数永ク相違有ルベカラズ。ソノタメ重ネテ判形出シ置ク所ナリ。コノ旨ヲ守リ愈々忠功ヲ抽ンズベキモノナリ。
元亀元年8月13日  家康 御判
中安満千世

この感状の跡に次のような文言が付記されている。

野中氏ノ家伝ニ曰(いわ)ク、本名中安氏マタ堀江氏、後ニ野中氏ト改ム。家紋ハ初メ木瓜(ぼけ)ノ内花ベツ甲、後ニ丸ノ内三日月ト改ム。元祖ノ正国ハ遠江、中安兵部遠州堀江城主、元亀元年権現様江州御合戦ノ節御前ニ於テ討死候。嫡子(ちゃくし)彦次郎康勝初メ名ハ満千世所領相違無ク拝領仕リ候。

中安兵部には4人の男子があり、長男を彦次郎康勝と言った。この康勝の生涯は数奇な運命をたどっただけに種々の説が生まれ、いずれを正とすべきか判断に苦しむ。
例えば
1、乱心して転々と渡り歩いていたが天正18年(1,590)上州安中で自殺した。
2、永禄、元気、天正にかけて東奔西走(とうほんせいそう)、各地に転戦して上州安中で自害した。
3、小田原に出陣したとき、家康から本多の指揮下で合戦せよ、と命ぜられ、これを不満として上州安中に引きこもり自害した。

この説は相当信頼性があるので、その根拠となる「紅林家古文書」を引用すると、

御息(そく)中安彦次郎康勝公は家康に従い小田原陣に発向したところ、今度は本多中将の旗下で合戦せよと仰せられたので、中安家は先祖より一度も他人の旗下に従って一戦したことは無いのでお許し下さい。と申し上げたところ殊の外首尾悪そうに見えたので、元来短気な康勝公は無念の至りと思い、上州安中に引きこもり自害した。

康勝の家臣紅林武右エ門がその自害を見届けている。
4、竜泉寺過去帳には、堀江の主中安彦次郎こと慶長14年(1,609)3月死、早世して家絶つ。
5、そして諸説のうちで最も信頼のおけるものとしては、康勝の子孫で神戸市在住の中安武彦家にある記録であろう。それによると、

祖先は堀江丹波守と申す人。遠江堀江内山に生まれ、大沢中将殿遠州御預かりの頃、二の丸(東丸)を御預かり仰せられ、その後茶道を以て東照宮様の御茶頭に召し出され、姓を中安と改め中安立茶と名乗り、段々御意に入り御姫君を妻女に致すべしとの御意を下し置かれ男子を出生す、名を林斉とと称す。のち故ありて姫君と離別後切腹。

戦陣に明け暮れた基胤(もとたね)

(イ)曳馬城攻め

大沢基胤は永禄8年(1,565)9月、飯尾豊前守(ぶぜんのかみ)が守る曳馬城攻めのために、城飼郡(小笠郡)の新野(にいの)城主新野左馬助や井伊家の老臣中野信濃守(しなのかみ)らと共に出陣した。この時の堀江勢の奮戦は目ざましかったが、結果は和睦となった。戦後、今川氏真はその臣小鹿右馬助を堀江城に使わして、その功を深くたたえ特に感状を与えたのである。その頃の今川氏の所領は、駿河17万石、三河24万石、尾張12万石の計80万の大勢力であった。
このような勢力を持っていた今川氏も、氏真が暗愚(あんぐ)無能に加えて、遊興の日々を過ごしたため、その支配力は急速に落ち始めた。
薩た峠の合戦に敗れ、駿府に火をかけられた氏真は、遠江における今川勢の拠点(きょてん)掛川城主朝比奈泰朝(やすとも)のもとに身を寄せた。
一方、武田信玄(しんげん)から、駿河、遠江の分割を持ちかけられた岡崎城の徳川家康は、好機到れりとばかり、直ちにその実行に着手した。すなわち、浜名湖の北と南の二手にわけて東進し、その手始めに井伊谷城を血祭りにあげ、続いて刑部(おさかべ)、白須賀、宇津山の諸城をおとしいれ、威風堂々と曳馬城に入った。
家康が曳馬城に入るまでの、すなわち井伊谷、刑部の両城を攻略するまでの経緯を書き添えておこう。それは後で、堀江城攻めに出てくる井伊谷3人衆が、家康の家臣になった事情が理解されるからである。
遠江国都田村の土豪(どごう)、菅沼治郎右エ門忠久は、同族の三河国野田村の菅沼定盈(さだみつ)から来た書状を見た。それは、「このたび岡崎の家康公が、遠州へ向けて進発するが、土地不案内のためその先導を願いたい」というもので、思案に余った忠久は、日ごろ親しく交際している瀬戸の鈴木三郎大夫重路(だいふしげみち)、井伊谷の近藤石見守康用(いわみのかみやすもち)の考えを聞いた。
忠久、重路、康用ら3人は、鎌倉時代からの北遠の名族で、井伊氏の旧家臣であった。井伊家の当主直親が駿府へ行く途中、今川氏から反逆の疑いがあるとして、掛川城主朝比奈泰能(やすよし)に殺されたばかりか、その領地も没収されて一家は離散し、その子万千代はのがれて流浪するという悲惨なありさまとなった。その結果「我々が恥をしのんで今川氏に従ってきたのは、主家井伊氏の再興の機会を待っていたためである。それにはまたとない好機会である」と相談が一結して家康に参ずることにした。
なお万千代は、のちに登用されて彦根城主井伊直政となる。
定盈の手引きで3人が三遠国境で家康に初対面したのが永禄11年(1,568)の12月であった。家康は、屈強な遠州侍を味方にしたことで大変な喜びようで、その場で3人に気賀の郷、蒲の郷、万斛(まんごく)、橋爪、萱場(かやんば)、安間の郷、新橋(にっぱし)、小沢渡(こざわたり)、人見の郷などを与えることを堅く約束した。喜び勇んだ3人を道案内として家康は、今川勢の守る井伊谷城を追い、更に刑部城を攻略し、一挙に曳馬城に入ったのである。

(ロ)掛川城攻め

家康は更に、氏真のいる掛川城を攻略しようと、酒井忠次、石川数正、本多広孝、植村家政、小栗忠吉らに兵2,500余人を与えて進撃させた。
掛川城も三浦秀盛(ひでもり)らが家康軍を攻め、両軍はここを先途に激しく戦い、今川勢の討死した者は、伊藤次郎、同右近、同掃部助(かんべのすけ)、笠原七郎兵衛、菅沼帯刀(たてわき)、朝比奈小三郎ら名のある者38名、ほか雑兵180人ばかりであった。家康方も数人討死したが名のある者ではなかった。それにもかかわらず城は落ちないので、和睦をした。

(ハ)堀川城の悲劇

ここで堀川城合戦の模様をややくわしく述べる。堀川城は堀江城の属城で大沢氏の支配下にあり援軍0名を送っているからである。
掛川城攻めで和睦し、一時岡崎に引き上げようとした家康が、姫街道へ差し掛かったところ、堀川城に立てこもった浪人や農民たちが、家康に反抗の気構えを見せた。
堀川城は気賀の村はずれ油田(あぶらでん)の小高い丘の上に柵(さく)をめぐらし、前面に都田川の水を引き、背面を浜名湖に臨ませた砦(とりで)であった。
城主は新田友作という祝田(ほうだ)で寺子屋を開いていた浪人で、土地の豪族尾藤主膳(びとうしゅぜん)や山村修理(しゅり)、竹田高正などにあやつられて、気賀村一帯の農民をかり集めて築いたのがこの砦(城)で、永禄10年(1,567)に完成したばかりである。
農民たちの不穏(ふおん)の気配を知った家康は非常に驚いた。そこで諸将を集めて善後策を協議したが、諸将はただぼうぜんと顔を見合わせるばかりであったが、やがて渡辺図書(ずしょ)という者の計略で、家康に雑兵(ぞうひょう)の服装を着せ、17騎と共に先発させ、図書は後から200人ばかりの兵を従えて通った。
城兵は後の一団中に家康がいるものと思って攻めかかったが、求める家康がいないとわかって、がっかりした。
こうして岡崎に帰った家康は、3,000の兵を整えて、堀川城攻略に出陣した。
堀川城には、西光院、宝諸寺、桂昌院などの余類があり、基胤の属将には尾藤主膳、山村修理、その他竹田高正、新田四郎などの土豪がおり、刑部には給人、百姓などの内山党があり、また寺社人、地下人と称する者を合わせて1,500人が立てこもった。
平松崎に陣を立てた家康は、永禄12年(1,569)3月12日、満々とたたえられた外堀の水が、干潮(かんちょう)で引き始めた間髪を入れず総攻撃の火ぶたを切った。水が引いた堀川城は裸も同然、それに農民1,500人は、男と言わず女子供までがスキ、クワ、竹ヤリの武器を持っているとは言え、戦うまでもなく城内はたちまち悲惨な地獄絵と化し、女子供まで切り殺され突き殺されて、僅か1日であえなく滅び去ったのである。堀江城から出された20人の援軍もみな討死した。竹田高正は城内で切腹、山村修理は小引佐に逃げて切腹、新田四郎は逃げて僧になったが、後で惨殺された。
尾藤主膳は落城の様子を堀江城に報告するため部下10名と共に小舟でひそかに脱出して堀江城に着き、つぶさに報告したのち城内にかくまわれたが、その年4月、大沢氏が家康と和睦したため、無念の涙をのんで10人と共に切腹した。堀江の大木戸という所に十頂(とうず)(十頭)という古い地名が残っていて、10人の首を埋められた小社が建てられ、十頂八幡宮として祭られていたが、現在はその跡さえ見られない。
悲劇は落城後も続いた。堀川城内の農民兵や女子供は、その半数が戦死したり惨殺されたが、残る700人ばかりはとりことなり、都田川の堤に集められて惨殺された。そこを獄門畷(ごくもんなわて)として碑が建てられている。
その当時、気賀、刑部両村の人工は3,000人であったから、その半数が戦死あるいは惨殺されたのである。そして更にその上、気賀村の全家屋が焼き払われたのである。

堀江城の激しい攻防

城主大沢基胤は始めから家康を好まず、近郷入野村の木寺宮と謀(はか)って兵を集め、堀川城を助けるなど、事毎に反抗の態度を取っていたので、このたびの挙に出たのである。
基胤は、中安兵部や権太織部(ごんだおりべ)などの勇士を養って、近隣にその武名が高く、このほかに村櫛の志津城を守る山崎権太夫、真瀬将監(しょうげん)、山下七郎右エ門らの勇士もいた。
永禄12年(1,569)3月25日、井伊谷三人衆の近藤石見守康用その子登之助秀用(のぼりのすけひでもち)、鈴木三郎大夫重路、菅沼治郎右エ門忠久、新八郎定盈(さだみつ)父子らが堀江城を攻めた。
堀江城は三方湖に面し一方は沼で、潮が満ちれば攻めにくい要害の地であった。加えて強力な勇士が立てこもり、三人衆は全力を尽くして攻めたが容易に屈する気配も見えない。よって家康は鈴木権蔵に附城を築かせてその陣代とし、長期戦の腹を固めたものの、基胤はよく防戦し、時には城外に討って出て井伊谷勢を苦しませた。総大将近藤石見守でさえ堀江城士新村善左エ門とわたり合って、槍(やり)で股(もも)を突き刺されたほどである。またある時は、堀江勢の逆襲を受けてあわてふためき、具足をつける暇もなく素肌で防戦したこともあって、どちらが攻め、どちらが防いでいるのかわからない攻防が続いた。
この時の激戦の模様の一例を挙げてみると

城兵300ばかりがほこを揃えて討って出たので、井伊谷勢はわずか100人ばかりで防戦したが、井伊谷勢が城兵の勢いにのまれて、ほこを合わせないのを見て、城兵の中の一武者が群を離れて進み出で、すでに6─7尺ばかりの距離になったとき、近藤石見守が出てきてこれと一騎討ちをしようとした。同じ三人衆の鈴木三郎太夫は、近藤と同年で常に権勢を争っていたが、この有様を見て近藤の後から進み来て「彼はよき敵である。討ちもらすな。」と叫んだ。近藤は無言のままで進み、鈴木も続いて進んだ。井伊谷勢はこれに勢いを得て、ときの声をあげながら後に続いたので、城兵もたじたじと退いて門内に入った。残った武者が1人で戦っているうちに中から城門を閉じてしまったので、武者は入ることができず木戸わきに突っ立って防戦した。近藤と鈴木は互いに自分の功名にしようと木戸ぎわまで追いつめると、この時やぐらの上に2人の兵が銃を構えて現れ、2人をねらって発砲した。このため鈴木は銃弾を受けて戦死したが、近藤をねらった銃は不発に終わって助かり、直ちに武者を討ち取った。
この武者は数日前他国から武者修行に来ていた者で、生国も名前もわかっていない。

基胤は、この攻防の始まった10日目の4月4日、掛川城主朝比奈泰朝へ書状を送って、近況や心境を伝えている。それを要約してみると、

●久しく御無沙汰(ごぶさた)しているので其の地(掛川)が心配に思うこと。
●当城は今までは堅固であること。
●兵糧は当座2─3ヶ月ばかりは持っていること。
●城下の知行分も欠所になったこと。
●来作(麦)は少しもなくどこからも兵糧の入る当てのないこと。
●敵方から種々の難題をかけられていること。(降伏のことならん)
●今になってこのような次第で無念至極であること。
●堀川城は十分な備えが出来なくて、すぐに攻め落とされたこと。
●給人百姓ことごとく討死し加勢した二十人も討ち死にしたことはくやしいこと。
●末々のことは御下知(げち)を頂きたいこと。

しかしこの書状を送った時はすでに掛川城は家康と和睦した後で、果たして届いたかどうか不明である。
基胤は城外に討って出る時や、敵が攻め寄せる前には、士気を鼓舞(こぶ)するために必ず鐘をたたき太鼓を打ち鳴らしたと伝えられ、これが後世に再現された「堀江陣太鼓」の由来である。

堀江城が家康と和睦してその家臣となる

家康は堀江城の意外な反撃に驚き、これを力で攻め落とすことの困難を知って、使者渡辺成忠を城中につかわし、言葉をやわらげて基胤を説得した。
「大沢氏は由緒(ゆいしょ)の正しい家柄で、もとより今川氏の被官でもなく、家人でもない。それだのに古いよしみを重んじ盛衰(せいすい)をもって志を二つにせず、終始今川氏のために守って屈せず奮戦力闘日夜をわかたず、却って寄手を攻めること数度ならず、その忠勇義烈は最も深く感ずるところである。
しかし今や掛川との和睦もなり、遠州一円は我がものとなった。わが領にある者はわが命を聞く、これ天意人道ではないか。われはすでに氏の武勇を認めた。いま帰順したならば、間違いなく所領は元のままにしておこう」と。
家康からの降伏説得はたびたびあったようである。掛川城への書状にも、敵方から種々難題をかけられている、というのはこの説得のことを指しているものと思われる。
基胤はこれに対して「使者の言葉はよくわかった。その言葉が果たしていつわりで無かったら、家康自筆の誓書を得てから、おもむろに考えよう。それが得られぬ場合は我また答える言葉はない」と返事した。
使者は帰って家康にこれを報告した。家康は「基胤の言葉には理がある。我なんぞ誓書を与えることを惜(お)しまう」と言って次のような起請文(きしょうもん)を自ら血判して基胤に与えた。

敬(うやうや)しく白(もう)す起請文の事
1.当城へ居城のこと
1.諸事公事を抜くこと有るまじきこと
1.本知何(いず)れも前々の如く新居のため呉松に替地相違有るまじきこと。
1.当知行分諸不入並びに当城下の諸成敗山河と共に前々の如く為すべき事
1.万事に於いて虚説(きょせつ)などこれ有るに於いては訴人は糺明(きゅうめい)を遂(と)ぐべき事
右の条々偽(いつわ)るに於いては 上は
梵天(ぼんてん)、帝釈(ていしゃく)、四天王総じて日本国中大小神祇(しんぎ)、別して弓矢八幡麻利支天(まりしてん)、富士白山愛宕(あたご)山、秋葉天満大自在、天神様の御罰を蒙(こうむ)り、今生に於いては弓矢冥加(みょうが)を尽くし、黒白病を得、来世にては無間に落つべきものなり。
仍(よ)って起請文件(くだん)の如し
永禄十二年四月十二日  家康 血判
   大沢佐エ門佐殿
     中安兵部少輔殿
     権太織部佐殿

なお同文で同月同日、酒井佐エ門尉(じょう)忠次と石川伯耆守(ほうきのかみ)数正の血判による起請文が渡されて、誓いの固いことを示した。
こうして永禄12年4月12日、基胤は家康と和睦の形で、20日間の激闘が終わったのである。
破竹の勢いで諸城を陥(おとしい)れた家康が、かくまで礼を厚くして和睦したことは、一つには大沢氏の家系の貴(とうと)さにもよろうが、二つにはその士卒の勇武と堅固な自然的地形のために攻めあぐねた結果であり、更に推理を働かせれば、天下統一の大業を前に、このような小城にいつまでもかまってはいられぬ、というあせりの気持ちがあったのではなかろうか。
永禄11年家康は信玄と約して、今川義元の遺子氏真の暗愚に乗じて、駿遠を分取しようとした。すなわち信玄は駿河を攻めて氏真を掛川城に敗走させ、家康また掛川城を攻めた。
思えば、足利氏の一門として、また関東の副将軍として勢威の強大を誇った今川氏も、その末路のあわれさ。懸命の地と頼んだ掛川城も今や四面ことごとく楚歌(そか)。わずかに大沢氏が、家康の根拠地西遠の地において義のために抗戦よく奮戦した。
数代にわたる栄華を夢として、今や正に亡(ほろ)びようとする今川氏に取っては、基胤の善戦こそは無上のはなむけとなったことであろう。
これより10年後、家康の長男信康は信長の怒りを買い、家康の助命運動も空(むな)しく、三河の大浜から堀江城に入り、一宿して二俣城に至り自刃(じじん)して果てた。まことにふしぎな因縁と言うべきであろう。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 03時08分36秒 ) パスワード

尾藤主膳、山村修理、竹田高正、新田四郎義一この3人を調べているのですが
たぶんこの人達は親戚とか一族とか姻族とかですね。


山村修理    竹田高正の4男
http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%B1%B1%E6%9D%91%E4%BF%AE%E7%90%86%E3%80%80%E3%81%AF

     ⇅親戚ですね。母が山村家出身

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E6%B0%B8%E7%BF%81

竹田 永翁〈栄翁〉(たけだ えいおう、永禄10年(1567年) - 慶長20年(1615年))

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。幼名は乙若丸、通称は弥十郎、官位として左衛門督と称す。名を高治という。


永禄10年(1567年)、竹田高正の四男として誕生。母は山村修理太夫の娘。

父・高正(幼名龍若丸、通称は重郎(十郎)、官位蔵人・左兵衛督、従五位下)は信濃国の生まれで、村上義清姉の子という説がある。

武田信玄の信濃侵攻により天文年間に今川氏を頼って亡命し、遠江国引佐郡細江気賀の荒地六百余町を開墾し本拠とした。

ところが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、遠江は徳川家康に侵攻されることになり、頑強に抵抗するも永禄12年(1569年)3月27日落城。

この戦いで父・高正をはじめ、次男の雅楽介高直や三男の酒造介高道らは討死したため、この時3歳だった永翁は、金子五郎八弟・庄兵衛を連れて信濃木曽にいる兄・竹田稔右衛門西光(高正嫡男)の元に逃れた。

永翁は9年間、信濃木曽で過ごした後、兄・西光と共に気賀に帰郷した。

天正12年(1584年)に豊臣秀吉に仕えた。慶長20年(1615年)、大坂の陣に参戦し、嫡男の和吉高友と共に大坂城大広間千畳敷で自害した(一説に佐久間勝之に討たれたとする史料もある)。

なお現在、静岡県浜松市北区細江町気賀の旧家、竹田家の敷地内裏山に、五輪様と呼ばれる首塚がある。
その気賀地区を一望できる場所に眠るのは、竹田高正、竹田高直、竹田高道、斉藤為吉、尾藤主膳が葬られている。


金原明善の妻玉城(竹田家の血縁者)も供養塔を建てている。   これもビックリですね。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 03時13分18秒 ) パスワード

http://homepage1.nifty.com/sira/namiai/tyuusyaku/yosikazu.html

   新田義一は南北朝時代にも存在していたのですね。

   参考だけ

   でも「宮下」なんて名前も出てます。ヒバリさんのお家と関係する?謎



新田義一

 新田義一という人名は諸書に見えるが、他書は新田「四郎」義一としており、新田「小三郎」義一としているのは浪合記だけ。また、浪合記では応永三十一年(1424)の条に新田小三郎義一の名が見えるのに対して、他の文献では新田四郎義一は貞治三年(1364)討死としている。したがって、浪合記の新田「小三郎」義一は、他書にみえる新田「四郎」義一の数代後の世代にあたる。

 以下は、浪合記の新田「小三郎」義一ではなくて、その数世代前の新田「四郎」義一の解説。

 新田四郎義一は新田四郎の妾腹の子(鎌倉管領九代記)、あるいは、新田義顕の子(筑後佐田新田系図)という。また、宮下氏過去帳では、新田義一を鳥山右近将監頼仲の弟とする。鳥山右近将監は、岩松頼宥の所領の新田庄寺井郷を押領した人物として正木文書に名がみえる(正木文書、観応元年(1350)五月七日、観応三年(1352)六月十二日)。鳥山は、新田一族の名字である。

 足利基氏が世良田を攻撃した時に、当時十四(または十三)歳だった藤王丸を捕らえたが、基氏の前に引き立てられても臆せず、眉目秀麗だったので助命し、十八歳で元服させて新田四郎義一と名乗らせたという(鎌倉管領九代記、新田世良田諸抄、筑後佐田新田系図)。この事件の年代は伝わっていないが、あるいは、前述の鳥山右近将監の寺井郷押領に対する措置として起こった事件かもしれない。

 正平十七年(1362)、畠山国清が基氏に叛して伊豆修善寺に立て籠もった際、新田義一が討手の大将となった(喜連川判鑑、鎌倉管領九代記、新田世良田諸抄、筑後佐田新田系図)。

 貞治三年(1364)六月、芳賀禅可入道が基氏に叛した際、基氏に従って出陣して討死したという。(新田世良田諸抄、筑後佐田新田系図)。

 足利基氏の死後、新田義一の子の義光は所領を没収されたため、白倉、三浦、近藤、宮本、玉縄など十一人の家人と共に九州に下り、懐良親王から筑後国鳥飼郷を給り、上野介に任じられたという(筑後佐田新田系図)。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 03時19分12秒 ) パスワード

http://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11980474790.html

1番下の方を見てくださいね。
新田友作と知久氏が関係ある話です。知作氏については次のレスに書きますね。


         やっぱりみんな関係があるんですよ。遠江と箕輪も。



以下コピペ:

木寺宮家の雑多な補足資料です。



康仁親王 邦良親王第一王子 後二条天皇の孫王
元応二年(1320)生まれ



父宮の邦良親王 正安二年(1300)〜正中三年(1326)が
7歳の時に亡くなる。



元徳三年(1331)十月 親王宣下 12歳
同年 十一月 立太子
正慶二年(1333)四月二十三日 廃太子
文和四年(1355)四月二十九日 薨去 36歳



後二条院流は、「邦」の字を通字とする中で
康仁親王のみ、外れた名前になっている。



後二条天皇─┬邦良親王┬康仁親王─邦恒王
(邦治親王)+└邦省親王└邦世親王─邦成王



康仁親王は、持明院統に取り込まれ
同統の花園上皇が名付け親になったこともあり
持明院統の通字である「仁」が付いている。



邦世親王 邦良親王第二王子 後二条天皇の孫王
土御門宮
元亨二年(1322)生まれ
康仁親王の二歳年下



延文二年(1357)九月 親王宣下 36歳
康仁親王の弟宮。康仁親王の薨去の二年後に宣下
木寺宮家とは別家らしい



叔父の花町宮邦省親王は57歳で健在
正安四年(1302)〜天授元年(1375)



貞治四年(1365)四月 薨去 44歳



邦省親王は、邦世親王の薨去の時点でも健在



邦恒王 康仁親王の世子 後二条天皇の彦王
邦恒王は、早世したらしい



彦王という点で親王宣下が下る可能性は薄い
さらに早世したらしいこと
叔父邦世親王の存在も下る可能性が低くなる。



邦良親王 正安二年(1300)〜正中三年(1326)26歳
康仁親王 元応二年(1320)〜文和四年(1355)36歳
邦恒王  1345
世平王  1370
承道法親王(1408〜1453)
邦康親王 応永二十三(1416)〜不明
師熙親王(静覚入道親王)・法深法親王(1439〜1503)



師熙親王の弟宮として、中田憲信は、邦治王をあげる。
栗原信充は、邦平王をあげる。
この弟宮が遠江に下向する。



この遠江国に下向した木寺宮家を調べる。



栗原信充は手元に資料が無かったので

資料がある中田憲信の奴を元に系図を起す。



一代 康仁親王
二代 邦恒王
三代 世平王
四代 邦康親王
五代 邦治王 嘉吉三年
六代 邦久王 文明四年(1472)生まれ
七代 康久王 永正二年(1505)生まれ
八代 赤津中務少輔康朝(大宮)天文三年(1524)生まれ
九代 康昌



康朝┬康昌
++├瑞椿 出家 龍雲寺住持
++├定姫 大沢基胤に嫁ぐ
++├二の姫 知久頼氏に嫁ぐ
++└三の姫 出家 竜門和尚



二の姫 最初新田友作の父に嫁ぎ、友作を生み離縁
知久頼氏と再婚する。

一の姫の子 大沢基宿
二の姫の子 新田友作



なお、龍雲寺古文書によると康仁親王が建武中興(1334)時に遠江の入野に下向
現地出生の子として長男佐兵衛輔、次男宗寮(龍雲寺一世)、三男佐兵衛輔が生まれる。
この子孫の姫が、大沢基胤に嫁ぎ、基宿を生むとする。


この場合、本家は四代邦康親王で断絶となり、庶流の血筋が遠江で続いたことになる。

[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 03時25分27秒 ) パスワード

知久氏


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E4%B9%85%E6%B0%8F

知久氏(ちくし)とは、信濃国上伊那郡(現・長野県上伊那郡箕輪町)知久沢を発祥とする武家の氏族。

家紋は梶の葉。桔梗。御所車。


     からくも家康に臣従して旗本で残った。




本姓
清和源氏満快流?
他田氏?
科野国造後裔?

家祖
知久信貞

種別
武家

出身地
信濃国上伊那郡知久沢

主な根拠地
信濃国上伊那郡知久沢
信濃国下伊那郡阿島村


出自[編集]

『寛政重修諸家譜』には清和源氏満快流と記されているが、諏訪氏(金刺氏)と同祖となる他田氏(金刺舎人直金弓の子他田目古=他田直の系統)の末裔とする説もある。

知久姓の初見は、諏訪氏系図にある平安末期から鎌倉初期の諏訪大社大祝諏訪敦光(篤光)の子敦俊が知久沢に住み、「知久十郎左衛門尉」と記載されたことによるが、敦俊の養子となった知久信貞(知久右衛門五郎)が知久家系図上の初代となる。

清和源氏満快流とする説では、信貞は中津頼継の子で中津氏は満快の曾孫である為公の子の為衡(中津乗太郎)を祖としている事による。一方他田氏の末とする説では、信貞は中津頼継の猶子(被後見人ぐらいの意味)で実父は他田信隆(源義家に属して奥州合戦に参陣した記録が残る他田太郎重常の末裔)としている。



鎌倉時代[編集]

当初は知久沢に程近い上之平城を拠点としていたが、承久の乱で信貞が幕府側に属して伴野庄地頭(新補地頭)になったとされ、本拠地を知久平(現・長野県飯田市下久堅)に移している(ただし、諏訪大社の神官守屋家に伝わる「守矢文書」では、伴野庄の地頭として名がみえないことから、地頭職に関しては真偽不明)。また信貞は射術に長けていたらしく、正嘉2年(1257年)と弘長元年(1261年)、更に弘長4年(1261年)の「幕府的始」における射手に選ばれていることが「吾妻鏡」に見える。

また、長野県飯田市にある文永寺に残されている五輪塔(弘安六年(1283年)の紀年銘)には、信貞の子と見られる神敦幸の名が残されており、神氏を名乗っていることから諏訪神党に属していたことが判る。

南北朝期は南朝方として大河原を拠点とした「信濃宮」宗良親王に味方し、同じ諏訪神党に属する香坂氏や桃井氏らと共に親王を庇護した。この縁で、宗良親王の子尹良親王の生母は知久氏の女とも伝えられている。また知久敦貞は尹良親王の下で活躍したと伝えられるも、個々の事跡に関しては資料的な裏づけを欠く。この時期、尹良親王との関係から、家紋をそれまでの「梶の葉紋」(諏訪大社の神紋、諏訪神党の諸家に多い)から「御所車」に改めたと伝えている。


室町時代[編集]

南北朝の終焉と共に小笠原氏の傘下となり、応永7年(1400年)の大塔合戦では知久頼昭が信濃守護職小笠原長秀軍に属した。戦いは守護側の大敗に終わったが、頼昭は長秀と共に塩崎城に脱出して難を免れる。 永享12年(1440年)の結城合戦には、小笠原政康に属して参陣したことが「結城御陣番帳」に残されている。その後、小笠原家の内紛では松尾小笠原家の小笠原定基に属したが、定基の没落後は諏訪氏を後ろ盾として府中小笠原家と対峙することになる。



戦国時代[編集]

知久頼為と子の頼元の代に周辺の諸豪族を支配下に置き、知久氏は拡大期を迎える。また築城年は不明ながら、本拠地となる神之峰城を築いている(史料の初出は、天文2年(1533年)の醍醐寺理性院の厳助僧正の紀行文「信州下向記」)。特に頼元の代には飯田城を拠点とする坂西氏を圧迫しつつ、上野の座光寺氏を支配下におさめ、勢力を大きく拡大させている。

天文11年(1542年)、甲斐の武田晴信と上伊那の高遠頼継が組んで諏訪頼重を滅ぼし、更に高遠頼継も武田との争いに敗れると諏訪は武田の支配下となり、天文14年(1545年) には高遠城が落ちて頼継が没落すると上伊那は武田氏の支配下となる。この時期に知久氏も武田氏に臣従したとする説もあるが、知久平とは天竜川を挟んだ対岸に位置する松尾小笠原家や鈴岡小笠原家が独立を維持していたことから、まだ下伊那には支配が及んでいないとする見方が有力となっている。

また、天文17年(1545年)に上伊那の諏訪一族藤沢頼親が武田から離反した際に、高遠城に高遠頼継を復帰(〜天文21年自刃)させるなどの武田側の動向から、支配地の安定化を優先していると思われ、上伊那の武田支配が安定するのは天文20年(1551年)より後と考えられている。

武田氏が下伊那に本格的に侵攻するのは、上杉謙信の支援を受けた村上義清の反攻(第一次川中島の戦い)を退けた後の、天文23年(1554年)となる。松尾小笠原家を降して鈴岡小笠原家の鈴岡城を落とした武田氏に対し、下伊那の諸豪族はほとんどが恭順したが、知久頼元は臣従を拒否して神之峰城の落城と共に知久氏は没落する。残された一族は武田氏に臣従する者と他国(主に東海から関東各地)に散る者に分かれ、知久頼氏(頼元の次男あるいは孫)は徳川氏に身を寄せる。

天正10年、本能寺の変後の混乱する甲斐・信濃を手中に収めようと甲府に出陣した家康に連動して「諏訪表へ出陣」した頼氏は、旧領の知久平(69ヶ村・6,000貫)を安堵されて、およそ30年ぶりに知久家(阿島知久氏)は再興される(喬木村歴史民俗資料館所蔵の「知久文書」)。

その後も頼氏は徳川氏に従って各地を転戦し、天正13年(1585年)の第一次上田合戦にも徳川方の伊那衆として参陣しているが、同年、浜松にて家康の命により切腹させられている(寛政譜、理由は不詳)。『熊谷家伝記』には、頼氏が豊臣秀吉の疑を受けたこと、その際頼氏の娘が、三遠南信地方に逃れ、土着したことが記載されている。一方、柴裕之は『清和源氏知久氏之伝記』『知久家年譜』の説を採用して頼氏の切腹を天正12年(1584年)11月、翌天正13年に嫡男・万亀丸(後の知久則直)が家康に赦免されたとし、切腹の原因を同年4月に秀吉に寝返った木曾義昌に内応したことが原因と推測する[1]。


頼氏の嫡男・則直は、関ヶ原の戦いに参陣して旗本信濃衆として3,000石を与えられ、大坂夏の陣に参陣している。



江戸時代[編集]

江戸期は阿島村(現在の喬木村)に陣屋を構え、同じ信濃伊那衆の小笠原家(松尾小笠原家の分家)や座光寺家と共に柳間詰の交代寄合として12代続き、明治維新まで家門を伝えた。

脚注[編集]
1.^ 柴裕之「戦国大名徳川氏の伊那郡統治と菅沼定利」『駒沢史学』65号(2005年)/改題所収:「徳川氏の信濃国伊奈郡統治と菅沼定利」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-884-4


[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 03時31分10秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101457.html
そろそろ切りの良いところでスレッドXLII 42に移動してくださいね。
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 04時19分17秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%A2%E5%9F%BA%E8%83%A4


中安氏も出てます


大沢 基胤(おおさわ もとたね、大永6年(1526年) - 慶長10年6月28日(1605年8月12日)

戦国時代の武将。大沢治部基相の長男。大沢兵部基宿の父。官位は左衛門佐。



経歴[編集]

浜名湖の東岸に位置する堀江城を有し、今川氏に従っていた。

永禄11年末(1568年)、徳川家康による遠江侵攻を受けるが、居城堀江城への攻撃は後回しにされていたようである。
だが、それも束の間の事で、曳馬城を攻め落とし、引き続き掛川城を攻めたてる家康は軍の一部を割いて、
永禄12年3月12日(1569年4月8日)、基胤の属将が守る堀川城を一日で攻め落とした。


同25日(4月21日)には井伊谷衆(近藤石見守康用と登之助秀用親子、鈴木三郎大夫重時と、その婿菅沼次郎右衛門忠久)に命じて引き続き、
基胤の堀江城を攻撃させた。


渡辺図書高綱、菅沼定盈を正、副の目付けとした堀江城攻撃軍に対し、
基胤は中安兵部、権太織部泰長らを率いて、数度に渡り徳川勢に逆襲をかけるなど頑強な抵抗を示し続けた。
                                         中安氏


そのため、攻城軍は鈴木重時を始めとする多大な犠牲を払いながら、陥落させられずにいた。


今川氏真が逃れて来ていた掛川城への攻撃に専念したい家康は、いっこうに朗報の入らない堀江城の戦況に業を煮やすと、
渡辺成忠を使者として遣わし、徳川方への帰順を条件として大沢氏の本領安堵を約束する誓書を与えた。
基胤もその勧告を受け入れた。

                                  堀川城にも降伏勧告はあったのでしょうね。
                       新田喜斎は降伏勧告があった時に降伏しようと堀川城内で言って、
                       反対に遭ったのでしょうね



永禄12年4月12日(1569年5月8日)、堀江城の北に在った堀川城に於いて徳川方の石川数正・酒井忠次、大沢方の中安兵部・権田織部泰長の4名によって、和議が成立。

以後は、徳川配下として、小牧・長久手の戦いなどに従軍した。設楽原合戦には酒井忠次に従って参戦した。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 04時24分09秒 ) パスワード

http://www.hamamatsu-books.jp/essay/detail/37.html

山村修理(やまむらしゅり)

戦国時代末期、気賀領主で今川方の新田友作は、かつて今川義元の家臣だった尾藤主膳(しゅぜん)、山村修理等とともに1567(永禄10)年から翌年にかけて堀川城を築きました。


しかし家康の攻撃によって1569(永禄11)年に落城。

さらに攻め入った家康に対し、尾藤主膳(しゅぜん)と山村修理は一揆をおこし、地元の男女1500〜1600人とともに堀川城に立てこもりました。

しかし、1569(永禄12)年一日で落城し、捕虜700人が呉石の塔の下で処刑され、船で逃れた山村修理は、火に落ちていく堀川城を見ながら切腹したと伝えられています。


この画像、夕日が当たっているんでしょうけど、一瞬、最期のシーンを連想しました。

[82]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 06時22分13秒 ) パスワード

http://ameblo.jp/epistemology/theme-10044123868.html
http://ameblo.jp/epistemology/theme-10034047642.html

新田四郎義一喜斎の子孫の方のブログ。
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 06時36分15秒 ) パスワード


堀川城の尾藤一族

                       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E9%A0%BC%E5%BF%A0

石田三成の妻が尾藤の出身という話が出てます。

              宇多 頼忠(うだ よりただ)は、安土桃山時代の武将、大名。通称は下野守。宇田とする説もある。
              初名は尾藤二郎三郎、または久右衛門と称した。

              尾藤重吉の子として誕生。兄に尾藤知宣などがいる。

              尾藤氏はもともと信濃国中野牧を本拠とし、信濃守護・小笠原氏に臣従していたが、
              小笠原長時が武田信玄に敗れて所領を失い没落すると、
              本拠を遠江国引佐郡に移し今川氏に従ったとみられる。

              また、永禄7年(1564年)頃には、政略結婚のため武田氏家臣・真田昌幸に長女を嫁がせ、忠誠を誓ったと考えられる。



http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4012.html

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/14(水) 21:43:32 ID:jZTmGP3L
天文の頃、遠州気賀に住み着いたある一団があった。
信州の小笠原、木曽の傘下であったのが武田信玄に圧迫されて、今川氏を頼って移った尾藤主膳、竹田高正、山村修理らの諸将である。
彼らはここに堀川城を築き、新天地で安息の時を得るかに見えた。

ところが永禄三年、桶狭間の合戦で今川義元が敗死すると、ここ遠州には徳川家康の手が伸びてくる。

そして永禄十二年、押し寄せる徳川軍を前に気賀の住人は老若男女城に立てこもって善戦するも、家康の手によってついに陥落、住民3000人の内1700人が討たれるという壮絶な撫で斬りにあって滅亡した。

このとき、城将尾藤主膳、山村修理、斎藤為吉、竹田高正、同高直、同高道らも討死・自害して、高正の4男乙若丸と、桶狭間の後に尾張で森可成に仕えていた主膳の弟源内が残された。

しかしこの源内も嫡男又八郎とともに宇佐山城の戦いで主君可成に殉じ、
次男・甚右衛門と三男・久右衛門が残される。

後の豊臣家臣、尾藤知宣と宇多頼忠の兄弟である。


尾藤知宣は豊臣秀吉に早くから仕え、小牧の役、四国征伐に従軍して5万石を領し、黄母衣衆に名を連ねて羽柴四天王の一人とも称される。

遠州に残って武田氏に仕えていた頼忠も、兄を頼って秀吉に士官、秀長の家臣として1万3千石を領する重臣となる。

政権の腹心石田三成とも娘を嫁がせて結びつき、兄弟の行末は安泰かに見えた…


だが、さらにさらに悪い運命がこの一族を襲うのである。

まず兄・知宣は九州征伐で失態を演じて改易され、小田原攻めで秀吉の前に現われて許しを乞うも、許されずに処刑されてしまう。

そして頼忠も所領を返上し、三成の元へ身を寄せたのだが、後に起こる関ケ原の役で西軍は敗戦、彼も燃え落ちる佐和山城と運命を共にしたのであった…。


一方、堀川城の悲劇を免れた竹田乙若丸。

3歳で故地信州木曽に逃れた彼は、数年の雌伏を経て高治と称し、尾藤兄弟と同じく豊臣家に仕えた。

そして、大坂の陣では毛利勝永隊に属して戦っている。竹田永翁である。

しかし父兄の仇敵家康の率いる天下の軍勢の前に大坂も落城、
永翁も鴫野の戦いで戦死したとも、
大坂城千畳敷で自害したとも言われている。


そんな、代々ついてない一族の話

以下はURLへ。
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 06時52分00秒 ) パスワード

宇多頼忠
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E9%A0%BC%E5%BF%A0


父:尾藤重吉

兄弟
尾藤又八郎、尾藤知宣


頼重、
寒松院(真田昌幸室)確実な子供は長女の村松殿、嫡子の真田信幸(信之)、次男の真田信繁(幸村)ですって。驚
皎月院(石田三成室)
石川頼明室



ということで
石川頼明について。


石川 頼明(いしかわ よりあき)
安土桃山時代の武将、大名。忍びの名手ともいわれる。

天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いに参戦した兄・兵助一光は、賤ヶ岳の七本槍に並ぶ戦功であったが、
同合戦で戦死してしまったため、同年6月に羽柴秀吉より兄の一番槍の感状を得て、1000石を賜り小姓として取り立てられた。

慶長3年(1598年)、播磨国、丹後国内において、6450石を加増され、慶長5年(1600年)時点で同国内にて1万2000石を領している。


関ヶ原の戦いには西軍に与し、7月の伏見城の戦い、8月の安濃津城攻めに、9月には大津城の戦いに従軍し、城主京極高次退去後の大津城を守備する。

西軍が敗れると知人の脇坂安治を通じて、井伊直政に降伏するが、切腹となり首は京の三条河原に晒された。

これは、徳川家康が伏見に滞在している時に石田三成の命で屋敷に放火し、家康を暗殺しようとして家臣に捕まった前歴があったためという。

また、頼明を匿った罪により、同じく西軍に与した生駒修理亮(生駒親正の弟)も切腹を命ぜられている。

生駒家家系図
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/ikoma.htm

信長の最愛の愛人吉乃の従兄弟です。
生駒家は当時木曽川の商人でした。

それで吉乃と信長は「また従兄妹」関係。


ホントにみんな親戚関係で繋がってしまいますね。

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