[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月16日 09時01分04秒 ) | パスワード |
口絵
天文20年頃の天竜川流域地図
秀吉がいた頃
遠州灘の2つ目の島に「後の世の松島」 あり。
遠州浜温泉や浄化センターがある。
この「松島」はどういう位置づけでしょう?
たとえば
紀伊国熊野の穂積姓鈴木系松島でしょうか?
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月16日 09時09分47秒 ) | パスワード |
8ページ
常慶は御師になって情報収集をして家康に曳馬城を手に入れさせた。
その功で常慶は慶長年間引佐郡の代官をしていた。
刑部城にいた。
しかし家康の「このような小さな城はもう必要じゃない」ということで
駿府に移動した。
刑部!
意外でした。
刑部は服部中ゆかりの地です。
そこに松下常慶がひところいた。
へえ〜
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月16日 09時14分26秒 ) | パスワード |
城東郡浜野新田村の開発
大須賀町
最初 松下家
2番目 山下家
3番目 杉浦家
松下家の屋敷は吉兵衛屋敷と呼ばれていた。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 11時29分44秒 ) | パスワード |
方広寺の大仏さんが巨大という話は知っていたけれど
松下家から三面大黒天像を秀吉がカッパラって尾張に出奔して信長に仕えた
というのは100%知らなかったです。
また秀吉の父上が比叡山に関係するという話も知らなかった。
有り得るとしたら、竹阿弥の話なのかなと思った。
とにかく秀吉の空白の20数年間については 脚色 がすご過ぎる!
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 11時38分21秒 ) | パスワード |
秀吉は ただの人 だったというのは事実なのかな?
お父さんが織田達勝(藤原氏)に仕えていた
というのは聞いたことがある。
足が悪かったというのも聞いたことがある。
父が2人いたらしかったことも聞いている。
旭と小一郎は竹阿弥の子だったらしいし。
でも秀吉が平氏を称していたというのは
母上のことからはそう思う。
母上のなかさんは御器所の人だから
御器所は清盛が父上の忠盛から相続した土地だから
母上のなかさんの家が平氏系というのは信じている。
だから秀吉の父上が中さんの遠縁であろうから
父上の家も平氏系というのは有り得ると思う。
前に平熱で書いたけれど
中村出身の服部氏が秀吉に仕えた話。
この服部氏と秀吉の家は 平家 繋がりなのかな?
といよいよ思った。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 11時44分30秒 ) | パスワード |
さらに秀吉の父上は蜂須賀小六の父上の家来だった?
それで秀吉と小六が親しくなる素地はあった?
秀吉の中村と小六の勝幡ってあの時代の人にはスグ近所だったのかな?
近いと言えば近いけど
土地勘ゼロというか学校と家を振り子運動してただけのワタシには良く分からない。
小六の家と信長最愛の吉乃さんの実家の生駒家とは遠縁だから
この縁から秀吉が信長に仕えることにしたのだろうとは
ハシッコイ秀吉からは予想がつく。
そしてその後小六が秀吉に仕えて
信長とは直接に主従関係を持たなかった小六の矜持も分かる。
でもやっぱり後付というか 脚色に満ちている という印象を受けた。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 11時58分17秒 ) | パスワード |
この人は秀吉の親戚だと思う。
木下 吉隆(きのした よしたか、生年不詳 - 慶長3年3月20日(1598年4月25日))
安土桃山時代の武将・大名である。豊臣氏の家臣で、秀吉の側近。字は半介、他の諱として吉俊・吉種も名乗った。
書状などでは「木下半介」の名前で登場する。従五位下・大膳大夫。
出身、前半生に付いては不明である。木下姓を名乗ってはいるが、諸説あって豊臣秀吉の親族であったかどうか定かでない。
吉隆(半介)は、美濃国安八郡(現在の岐阜県大垣市津村町付近)にあった称名寺の住職の次男であったという説があり、
この称名寺は秀吉と深い関わりが指摘される寺で、
彼の出世に伴って長浜(長浜市尊勝寺町)の現在の場所に移転した。
本能寺の変の際にこの寺の住職・性慶が、おねら秀吉家族を助けた功があった。性慶は称名寺を継いだ兄の子で、半介の甥とあたると伝えられる。
吉隆は、はじめ右筆として秀吉に仕え、天正11年(1583年)頃から秀吉の発給する朱印状の副状の発給をしたり、奏者として活躍したと考えられている。秀吉が発したたくさんの書状に、木下半介の連署が残っている。
文禄の役に際には馬廻衆の一員として、1500人の兵を率いて名護屋城に控えた。文禄2年(1593年)、大友吉統の改易に伴い、その旧領豊後国の一部2万5千石を与えられた上、従五位下大膳大夫に任ぜられ、諸侯に列せられた。文禄4年(1595年)には更に1万石を加増される。
同年8月に豊臣秀次が失脚すると、
秀次の軟禁と監視役を命ぜられ、更に高野山への秀次の護送役を務めるが、
高野山に着いた後に吉隆自身も秀次の謀反の一味であったとされて、突如改易。
島津義弘に預けられ薩摩国坊津に流刑された。
慶長3年(1658年)、流刑先にて自殺した。秀吉の命をうけた島津義久によって殺されたとも言う[1]。
秀次の側近でなくその処罰に関わっていた吉隆が秀次謀反に関わっていたとは考えにくいことから、
豊臣政権内の権力争いに巻き込まれた可能性も高いとされる[2]。
家族[編集]
西尾光教の娘の夫「木下大膳大夫」はこの吉隆である可能性が高いが詳細不詳。
もし、木下大膳大夫=木下吉隆となると、
外祖父・光教に引き取られたという大膳大夫の息子3名(西尾教次、西尾嘉教、西尾氏教)は吉隆の遺児と言うことになる[3]。
関連作品[編集]
歴史火坂雅志、「冥府の花」 『壮心の夢』 徳間書店、1999年。ISBN 4198610355。
脚注[編集]
1.^ 「三国名勝図会」参照
2.^ 「三国名勝図会」では「石田三成の為に讒せられ(失脚)」とある。
3.^ 「寛政重修諸家譜」参照
結局はこの木下半介は秀次失脚の後に後継者になろうと野心を持っているのでは?
と秀吉または三成に疑われたのでは?
と思う。
∴木下半介は秀吉の親戚。
と思う。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月18日 08時23分29秒 ) | パスワード |
秀吉が長浜に城持ちになって松下加兵衛に恩返しをしたのは知っていたけれど
その後も引き続き好意を与えていたというのは知らなかった。
今川でも瓦葺きにしていないのに
松下家の久野城は瓦葺きどころか金箔も使っていたとは驚いた。
また74ページに山下家との関係が書かれていました。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月18日 08時30分18秒 ) | パスワード |
74ページ
元亀・天正年間、浜松に住み、武術を修練していた山下和泉政豊は
久野城主松下之綱に仕え
松下重綱が常陸の小張に行った時も従っている。
山下氏は清和源氏小笠原氏流で
慶長年間の初め
分家が豊田郡池田庄大当所村=豊岡村大当所=に居住して郷士となり
子孫は名主を世襲している。
江戸後期に国学者 山下正彦を生み出した。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月18日 08時55分17秒 ) | パスワード |
こちらも重複ですがコピペ:
山下家の分家が豊田郡池田庄大当所村に居住して郷士となったのは慶長8年(1603年)でしたか。
その理由は徳川幕府から叱責があって常陸に転府になったから?
本家の山下家は松下家に従って元和9年(1623年)3月に下野烏山藩2万8000石に転府していったのでしょうね。
更に松下重綱は2万2000石を加増されて5万石で二本松藩を立藩。
重綱は豊臣秀吉が若い頃に主君として仕えていた時期がある之綱の息子である。松下領は東安達郡18村と西安達郡28村を支配した。
しかし重綱は同年10月に病死し、嫡子長綱が跡を継ぐが、幕府は長綱幼稚を理由にして
寛永5年(1628年)1月に2万石を減らした3万石で陸奥三春藩に移封した。
ひどいね〜
本家のこういう浮き沈みを分家はどう見てたのでしょうね。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月26日 05時26分17秒 ) | パスワード |
P75
茨城県伊奈町小張に転封。
「松下流綱火」
忍者の狼煙ですね。
やっぱり松下家も忍者をたくさん使っていたんでしょうね。
花火の調合とカラクリの技術は一子相伝。
いつまでも絶えることなく伝えられていけば良いのですが。
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月26日 05時30分53秒 ) | パスワード |
P86
山内氏の娘との間の土佐高知の松下家の他にも
長綱には側室鈴木氏との間に男子=繁綱=がいて、この子は母の死後、宮城県加美郡中新田の母の実家を継ぐ。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月26日 05時44分10秒 ) | パスワード |
P115
浜松の松下家には有力な家が3つある。
1.松下源太郎清景
2.松下加兵衛之綱
3.松下為雲 この人の孫が加兵衛之綱の嫡男・暁綱。母の家が家康と敵対していたので相続できず 浜松の中島付近に子孫が存続
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月28日 07時04分22秒 ) | パスワード |
読み終わりました。
大名も大変!
中名も大変!
小名も大変!
旗本も大変!
庄屋も大変!
みんな頑張って報われて裏切られて五里霧中の中を生きていたのだなと。
今の時代は一生懸命働いてお給料が下がって余計に苦しくなって疲弊していくけど
幕末を一生懸命勤王で尽くして褒美を頂いて残ったのは借財だっただなんて。
でも、頑張った人がこうして名を刻まれて、草葉の蔭で喜んでくれてたらと願います。
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月28日 08時51分17秒 ) | パスワード |
松下氏は宇多天皇系で佐々木の子孫だから 甲賀あたりと 絡んでただろうなと思っていましたが
ぴんぽーん!
なんと松下氏は 六角泰綱の曾孫の家じゃありませんか!
だから「綱」がつくんですね。なるほど!
六角氏出身だったら甲賀と関係大有り!
常慶が情報収集してたのは当たり前だったわけです。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月28日 09時07分39秒 ) | パスワード |
こんな当たり前のことがハッキリ分かっていなかったとは。
だから井伊家が近江に移って何をしていたか?
京都のお守りは表向き
実は情報収集に余念が無かったわけだ。
井伊直弼の愛人のお多賀さんが朝廷の人々にもスパイ活動が出来たのは
井伊家のバックがあったからなのねえ。
なるほどね。
お多賀さんは幕末の「望月千代女」ですね。
望月氏はもとが甲賀ですし。
なるほどハニートラップはお手のものだったんでしょうね。
望月 千代女(もちづき ちよめ、もちづき ちよじょ、生没年不詳)、別名・望月 千代
戦国時代の女忍者(くノ一)。信濃国望月城主望月盛時の妻。
甲賀流忍者を構成する甲賀五十三家の筆頭である上忍の家柄 「甲賀望月氏」の出身で、
甲賀望月氏の本家に当たる信濃豪族の望月氏当主であり、武田信玄の甥に当たる望月盛時(望月信頼の間違いと思われる)に嫁入りした。
第4次川中島の戦いで夫が討死し、若くして未亡人となったが、くノ一としての腕を買われ、
武田信玄の命にて甲斐・信濃の巫女の統帥「甲斐信濃二国巫女頭領」を任され、「歩き巫女」の養成を行うため、
信州小県郡祢津村(現長野県東御市祢津)の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開いた。
戦乱の世で、孤児や捨て子となった少女達数百人(200 - 300人)を集め、
呪術や祈祷から忍術、護身術の他、相手が男性だった時の為に色香(性技等)で男を惑わし情報収集する方法などを教え、
諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませた。
わたしもまだまだ甘いな。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月06日 06時13分43秒 ) | パスワード |
今朝、買い物に行く途中で知り合いと出会ったので
「おたくのご先祖さま=朝比奈泰朝=が井伊直政の父上を殺したんだって」
と言ったら
「ああ、それでうちの両親がものすごく仲の悪い夫婦だったのね」
と言ってました。
笑
母方=朝比奈子孫
父方=井伊氏子孫
朝比奈 泰朝
父・泰能の死後に家督を継承し、備中守を称する。
永禄元年(1558年)には駿東郡(現・沼津市)の霊山寺を再興している。
永禄3年(1560年)には、今川義元の尾張国侵攻で井伊直盛とともに織田氏の鷲津砦を攻略。
窮地にあった大高城を救ったが、後続本隊の義元が桶狭間の戦いで討死。
やむなく放棄し、撤退した。
義元の横死後、三河国・遠江国の今川領内では動揺が拡大、離反する諸将もある中で、今川氏真を支える姿勢を貫いた。
永禄5年(1562年)3月には謀反の疑いのある井伊直親を氏真の命により成敗している。
永禄期には三浦氏満とともに越後国の上杉氏との交渉に当たった。
永禄11年(1568年)12月、甲斐国の武田信玄が同盟を一方的に破棄して駿河国に侵攻。
それによって氏真が駿河国を追われると、泰朝は氏真を掛川城に迎えて保護した。
同年末には三河国の徳川家康が遠江国に攻め寄せている。
家康は曳馬城を陥落させるなど順調に遠州を制圧し、掛川城を攻囲した。
こうした状況の下で、今川氏の重臣の大半は氏真を見限って武田氏や徳川氏に寝返ったが、泰朝は今川氏に最後まで忠義を尽くしている。
[18] | 松下光男さんからのコメント(2015年09月05日 20時58分53秒 ) | パスワード |
初めまして、コメント拝見致しました。良く研究されてみえる事が分かりました私の先祖は、松下之綱家の13ある分家の1家で江戸時代の先祖の中に美濃國笠松第21代の郡代を勤めた松下内匠堅徳と言う者がいます江戸時代は650石の旗本でした。曾祖父は、山梨大学の前身の甲府きてん館の教授を勤め祖父は現林野庁の前身皇室林野管理局の技師でした
[19] | こーちゃんさんからのコメント(2016年04月05日 20時40分05秒 ) | パスワード |
松下光男さんのお宅は、甲府勤番旗本松下家の子孫です。
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