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 投稿番号:101450 投稿日:2015年05月14日 07時21分38秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XL(M氏家譜4)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101449_52.html
「長上郡の服部氏族]]]IX(M氏家譜3)」からの続きの XL 40 です。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 22時33分37秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101449_74.html

[73] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月14日 17時02分36秒 )


 本日は筆の手習いの日だと勘違いしておりました。出かけついでに、宗安
寺にもう一度調べに行って発見したことと、再確認したことが「3つ」ござ
います。

 それは、市野家の初代の墓に、

 @「元祖 市野惣太夫 藤原朝臣 真久 」と彫られていたことです。
 Aそれと、家紋が「丸に一文字」であるということ。
 B市野家の何代目かわかりませんが、「元禄12年 市野内匠吉兵衛 トモ
  藤原真郷 塔」と彫られていたことです。

 それからもう1つの再発見は、ウェブサイトからですが、
 C市野氏は「牧馬」に詳しかったということです。即ち馬を放牧して育て
  ること。

 以上のことにより、どんな推理が成り立つか・・・


 @家系譜は7掛けで考えた方がいいということ。間違い・脚色が3割位は
  含まれていると思った方がいいということ。
 A家紋からいうと、「丸に一文字」は市野氏だけの定紋。「M氏」は
 「市野氏」の影響を相当受けたのではないか。
 B「M氏」と「藤原(智常)氏」の関係は「市野氏」の祖先の関係を取り
  入れたのではないか。
 C「М氏」のもう一方の「源左衛門家」の方ですが、過去帳を見ますと、
  3代めより「吉兵衛」が5代に亘って使用されており、市野家との間に
  養子縁組があったのではないか。
 D「市野氏」と「山下氏」は「馬・牧、牧官あるいは馬係」という共通
  点で結ばれている。
 E「小笠原氏」と「山下氏」と「市野氏」も馬で結ばれる(小笠原氏は弓
  馬であったが)。
 F「市野氏」と「М氏」と「山下氏」と「小笠原氏」は親戚関係でつなが
  っていた。

 更に言えば、
 @浜松藩主「太田氏」と領地としての「箕輪」との関係
 A「太田氏」と「市野氏」の藩主・代官の関係
 B「大草氏」と「市野氏」の代官同士の関係
 C「М氏」と「大草氏」の信濃でのルーツの関係
 
 更に言えば、
 @「山下氏」(分家)と「松下之綱」との主従の関係
 A「松下氏」と「服部中」との警備・婚姻関係の関係
 B「山下家」(分家)と「大草家」との中泉代官所での関係

 ・・・といろいろおもしろい関係が見えてきます。

 たった今、箕輪博物館より資料が届きました。これから病院へ健康診断
の結果報告を聞きに行きますので、待ち時間に読んでみます。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 02時21分25秒 ) パスワード

市野惣太夫 藤原朝臣 真久

復習
http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100020/?hid=ht002510&word=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C


『新訂寛政重修諸家譜』によると、市野氏の先祖は近江の浅井氏の一族で、真久(さねひさ)(惣太夫)の時(永禄年間)から家康に仕え、とくに馬のことにくわしく(『駿府記』に「慶長十六年十月一日、遠江国住人市野、生姜を献ず、すなわち御前に召し……牧馬の談あり、市野馬を知ればなり」と)馬掛りとして活躍し、慶長五年(一六〇〇)遠江の代官となり浜名十郷その他を支配し(『随庵見聞録』に浜名代官「浜名十郷辺ハ慶長五年ハ堀尾殿領浜松分、同六年ノ暮ヨリ市野五郎右衛門殿御代官九年之勤」)、慶長九年には長上郡市野村のうちで十七石余の屋敷地を賜わり、その後家号を市野と改めた。


元和二年死去(市野村の宗安寺に葬る)するや、代官職と惣太夫の称号は実次(さねつぐ)・実利(さねとし)・真防(さねあき)とうけつがれた。寛文のころの市野代官支配地の一端を表に示そう。



村名    石高    家数    天領(公料)    浜松領    旗本領    備考
市野     894    118  代官市野惣太夫    488
笠井新田   528     62     〃
石原     228     35      〃
寺嶋     381     57     〃
新寺嶋    184     29      〃
上石田    615     94 126   〃                   相給

[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 02時24分46秒 ) パスワード

http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100020?hid=ht002520&word=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C


            驚いた!


【市野村】

市野家の真防は元禄十年(一六九七)代官職を辞し、小普請に就任し、
正徳四年(一七一四)致仕(ちし)し、市野村に住んだ。

『元禄高帳』には市野村九百五十二石余のうち、除地十七石六斗九升八合が市野惣太夫屋敷と記されている。

真防の子真則は元禄六年小十人となり廩米(りんまい)百俵を給せられ、
同家はその後代々主として小普請に就任して十七石余の采地(さいち)と廩米百俵をうけついでいた。


【土豪代官】

市野代官の治績については不明であるが、
市野氏が前に述べた初期の浜松藩の代官と同じような土豪的給人的性格の代官であること、
また元禄期に代官職からはなれているという点は代官制度の転機を示すものとして留意したい。



秋鹿氏

代官秋鹿氏も元禄十年以後は無役となり、本来の遠江国府八幡宮神主に専念している(『秋鹿家文書』)。

                へえ〜
                代官が神主に?
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 02時27分26秒 ) パスワード

http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100020?hid=ht002530&word=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C


                   服部氏の名も!


旗本領

143 〜 144 / 686ページ



 元禄期遠江の旗本三十六人(前掲領主表)の知行高の内訳をみると三千石以上のいわゆる大身が二十二人におよび、
大身層の多かったことが注目される。


一般に旗本領の基礎は寛永(かんえい)二年(一六二五)台徳院殿朱印状に負うところが大きいといわれている。


【金指気賀の近藤氏 大久保の服部氏】

このことは当地方の伝統的な旗本である金指(かなさし)・気賀(きが)の近藤氏、堀江(ほりえ)の大沢氏、大久保の服部氏などの場合にもあてはまる(葵文庫蔵『記録御用所本古文書抄』)。


【知行地】このうち、服部氏についてみると、寛永二年十二月十一日付の朱印状により服部権太夫(政信)は敷智(ふち)郡のうちで四千石(山崎・小人見・高塚・大窪・志都呂・篠原・神ケ谷・伊左地の八か村)と「所々開発之地」二百九十五石七斗余を合して四千二百九十五石七斗余の知行地を得ている。

【関所奉行】権太夫はこの当時今切の関所奉行(前後二十一年間)であった。

【新居関所奉行志都呂役屋敷】慶安(けいあん)元年(一六四八)から、服部中(保俊)が権太夫に代わって関所奉行となり、
歴代の今切関所奉行の役屋敷(敷地は四千百七十一坪あったという)は元和五年から元禄九年まで、
新居へ舟路二里といわれた志都呂(しとろ)村(当市志都呂町)に設けられていた。


[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 02時28分51秒 ) パスワード


志都呂の松平氏

145 〜 146 / 686ページ


               続き


 元禄八年から九年にかけて松平半右衛門(忠明)が関所奉行をつとめ、
その知行地は役料千石を含めて七千石に達した。


【知行地】服部・松平両氏とも今切関所奉行の要職にたずさわり、
服部氏は知行地の大窪(大久保)村(当市大久保町)に、
松平氏は志都呂村にそれぞれ陣屋を構え、幕末にいたったのである。


『元禄高帳』によると服部中は三千七百七十一石(敷智郡二千六百七十一石、長上郡千九十九石)、
松平半右衛門は六千二百二十九石(敷智郡)を所有し、

また嘉永元年(一八四八)当時の『志都呂領内村々』によると「新所・古見・鷲津・志都呂(しとろ)・大人見(おおびとみ)・下都田・上都田・小林・木舟・木舟新田・打上・寺嶋・寺嶋新田・上石田・笠井新田・貴平・前野・草崎・大当所・家田・岩村・片瀬・大平」の二十三か村が松平氏の所領となっている(貴平町『内藤家文書』)。

[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 02時32分31秒 ) パスワード

復習


志都呂松平(五井)略系




今切関所奉行
年代      関所奉行      役屋敷
元和4慶安1   服部権太夫     志都呂
       服部杢之助     志都呂
慶安1承応1    服部中      志都呂
       佐橋甚兵衛     橋本
承応1明暦3    佐橋甚兵衛     橋本
       三宅半七郎     志都呂
明暦3寛文9    三宅半七郎    志都呂
      土屋忠次郎       橋本
寛文9寛文4    本多彦八郎     志都呂
寛文4延宝6    中根平十郎     志都呂
延宝6天和3    石川又四郎     志都呂
天和3元禄8    松平主馬之助    志都呂
元禄8元禄9    松平半右衛門    志都呂
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 02時58分36秒 ) パスワード

http://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/ninja-database-nihon.pdf


三重大学の研究した忍者の話です。
初めの方は漫画とかの紹介。

     面白い本がいっぱいですよ。   市野家のお名前も。



[PDF]忍者関係資料データベース(日本) - 三重大学 人文学部・人文 ...

福山 松翠. 人類科学研究所. 1953年11月. 260円. 実験奥義 忍術極意秘伝. 書 全 ...... 服部半蔵奉納、仁王像、練馬区、御獄神社、鬼半蔵正成、寛政重修諸家譜、半三保長、万 .... 同心200人、石川五右衛門、日本武道全集、第4巻、中忍11人、百地三太夫の .... 家、広田家、忍術、潜水の達人、

  
                ココね
            諏訪家、市野家、牧野家、松永家、豊島家、安藤家、.


詳細:
11ページの2段目
尾張の隠密組織   右枠の2行目に  市野家が出てます。
                   1行目≪怪力の持ち主≫の下です。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 03時01分12秒 ) パスワード

ん?
と思ったのですが



市野氏の旧姓は   近江浅井氏?浅井の関係者のようです。

          近江といえば  甲賀  。


そして尾張家の隠密組織の本に市野家の名がある?


遠江の市野といえば服部半蔵が関わる。


ということは市野惣兵衛の本当の姿は?

[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 03時19分48秒 ) パスワード

宗安寺                     このお寺さんもアヤシイ。



室町末期の1558年に市野惣太夫真久開基として開かれた由緒あるお寺。
レス2で市野惣太夫は  元和2年1616年 に亡くなっている。



ということは宗安寺の  1558年 市野惣太夫真久開基  というのは彼は若過ぎなくないですか?

桶狭間の戦いが1560年です。

               市野惣太夫真久「の父が」開基なら納得行きますが。
               でも父上のそのような財力があったなら父上も歴史上に=ネット上に=名がありそうですが。


               または 
               市野惣太夫真久 が今川義元に命じられて担当して開基、なら分かります。


でも1558年だったら市野惣兵衛はまだ若造だし、義元の命なら、そう記録されるでしょうし。


宗安寺は忍者関係の秘密のアジトだったのかもですね。
半蔵や正尚と知り合いだったかも。
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月15日 06時58分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがあを様、すごいところに斬り込みましたね。
 そこまでは想像していませんでした。戦国時代は諜報組織が網の目のように
張り巡らされていましたし、市野は本坂道の天竜川の西側で宿場町でもありま
したから、さまざまな人が集まるところ。情報のインターチェンジ。あを様の
ご指摘はあたっています。
 戦国時代から江戸時代は二面性の世界、忍者〜隠密の裏組織を認識しなけれ
ばなりません。そして隠密といえば柳生です。松下之綱とつながり、そしても
ちろん服部半蔵、服部中とつながってきます。服部半蔵の領地が小池町を中心
として有玉・市野あたりでしょうか、そして服部中が大久保周辺から東へとん
で上・下石田町、といことで、市野氏はその中心部分に陣取っていたというこ
とになります。ということは、とりもなおさず諜報関係に関係した中忍であっ
たということかも知れません。
 全く新たな地平線が見えて来て身震いがします・・・。
 おもしろくなって来ました。
 job-dayにつき一時中断します―
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 07時45分15秒 ) パスワード

市野家

                        @「元祖 市野惣太夫 藤原朝臣 真久 」と彫られていたことです。

市野氏は藤原姓ですか。


近江浅井氏
正親町三条家(嵯峨家)の支族で本姓を藤原氏とするが、
近江国浅井郡に居を構える古代豪族浅井氏があり、
近江の在地豪族、郡司クラスの末裔に公家の庶子が入り婿したという説が有力である


という事で @ は○のようですね。



                        Aそれと、家紋が「丸に一文字」であるということ。

浅井氏の「三つ盛亀甲に花菱」ではないんですね。

つまり名字の「市野」から  丸一紋にしたのかもですね。

ということで A は○のようですね。



                       B市野家の何代目かわかりませんが、「元禄12年 市野内匠吉兵衛 トモ  藤原真郷 塔」と彫られていたことです。

有り得るでしょうね。  B は○のようですね。 



                       C市野氏は「牧馬」に詳しかったということです。即ち馬を放牧して育てること。

市野惣兵衛と馬の話はアチコチで見掛けますね。
ということで  C も有り得ますね。  ということで○。


_______________________________


                       @家系譜は7掛けで考えた方がいいということ。間違い・脚色が3割位は含まれていると思った方がいいということ。

手書きなので書き間違いというか写し間違いがありますし
脚色というより「情報が飛んでる」んだと思います。

書いた当時は暗黙の了解だったのでしょう。

でも「事実」なんだと思います。
ところがそれを後世の我々は理解できないだけ、と思っています。



                        A家紋からいうと、「丸に一文字」は市野氏だけの定紋。
                        「M氏」は「市野氏」の影響を相当受けたのではないか。


丸に一は山下家も使っているので、市野氏⇔M氏⇔山下氏⇔市野氏 の関係を知りたいです。

よってAは未解決。



                        B「M氏」と「藤原(智常)氏」の関係は「市野氏」の祖先の関係を取り入れたのではないか。

M氏家譜の最初に登場する奥さまは1430年頃に生まれたのですから
市野氏よりかなり昔のかたですから
     後世に藤原智常の名を先祖として書き加えたのか
     本当に彼女は藤原姓なのか
これも未解決ですね。



                       C「М氏」のもう一方の「源左衛門家」の方ですが、
                         過去帳を見ますと、3代めより「吉兵衛」が5代に亘って使用されており、
                       市野家との間に養子縁組があったのではないか。


有り得ますね。
もともとが親戚ですから。

今後の調査が待たれますね。




                        D「市野氏」と「山下氏」は「馬・牧、牧官あるいは馬係」という共通点で結ばれている。

はい
木曽駒産地に近いし
甲斐の武田軍団は馬をしっかり機動力として使ってますし

市野氏と山下氏は共通点がありますよね。
これも保留ですね。
       

                        E「小笠原氏」と「山下氏」と「市野氏」も馬で結ばれる(小笠原氏は弓馬であったが)。

市野氏がいつ遠江に来たのか、分かると良いですね。
これも保留ですね。



                         F「市野氏」と「М氏」と「山下氏」と「小笠原氏」は親戚関係でつながっていた。

当然親戚関係にあったと思います。
市野氏とM氏は親戚ですしM氏と山下氏は親戚。
山下氏は小笠原氏の出。

だったら市野氏と山下氏・小笠原氏はどこかで親戚になってるはずです。
代官と土地の実力者ですもの
関係が無いはずがない。

どこかに書いてあると良いですね。



旗本の服部氏がハッキリ繋がっているのがどこかに書かれていると良いですね。



遠江国の旗本の全員36人の名前と家紋を知りたいものです。
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月15日 09時12分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そういえば、以前服部中保次の暗殺された刑部(細江町中川)に、その後
保次を慰霊するお寺ができましたよね。その名前が「宗安寺」。
 「宗」は「宗純」の「宗」、「安」は「安心立命」の「安」・・・戦国
時代には「法華宗」が即身成仏ということではやりましたから、藤堂高虎
等、勇猛な武将は帰依しています。ひょっとすると「服部中保次」もそう
だったかも知れません。この点は今後当たってみます。
 その時、宗安寺ってどこにあるのと探した時、市野にあったので何か関係
するのかと思った訳でありますが、やはり、何かつながっているかも知れま
せん。
 いままで、お寺というものに余り探究の目を向けてきませんでしたので、
一つの盲点だったかも知れません。かつて、馬込川(天竜川の西の支流)の
馬込というところに、お寺がたくさんあり、修験者がたくさんいたと書き
ましたが、今回、市野と馬込は近いところにあり、水路に近いという意味で
も共通しております。修験者、たとえば秋葉山のお札を売りに歩きまわった
という「松下常慶安綱」は「松下之綱」の一族で、忍者に近いと思われて
います。

 即ち、今回のあを様の推理により、遠江における「忍者のネットワーク(連
絡網)」があぶり出されたと言っても過言ではありません。松下系と服部系
が家康の元で連動していた。そして服部系(忍者系)は時代とともにすたれ、
松下系・柳生系(隠密系)が江戸時代に主流になって行ったということになり
ます。
 ところで服部と松島の関係ですが、永井は伊賀忍者におりましたが、甲賀
か甲斐に「松島」という姓の忍者はおりませんでしたか?
 一度調べていただければありがたいです。
いいのではないか
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 12時33分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


甲賀か甲斐で忍者の「松島」氏を捜していたら

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E8%80%85
                           なんと  藤原千方  という名がありました。
                           ビックリ!

                           それも平安時代ですし。
                           藤原秀郷の子孫?



実在した忍者[編集]

実在した人物でも、実体の部分と虚像の部分の両面がある。
藤原千方 - 平安時代

[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 13時03分25秒 ) パスワード

http://www.iganinja.net/gfoni/
文章がちょっと壊れています。


              忍者の祖
              役小角
              藤原千方(藤原秀郷の子で千常=智常=の弟!)
 
              諏訪左衛門源重頼の子・甲賀一二郎兼家


鬼の系譜上に、役小角がいる。
彼は、「山に諸神諸鬼を集めて、天下を傾けようとしている」

伊賀忍者の秘密・忍者の秘密とは?
戦国期に活躍した忍者その忍者の源流をたどる。



陰の系譜・鬼の正体は?
日本修験道の開祖であり、忍術にとっても一方の祖にあたる

この鬼の系譜上に、役小角がいる。


彼は、「山に諸神諸鬼を集めて、天下を傾けようとしている」とされ、文武帝によって島流しにあった。反逆性に満ちた男であったのだろいうまでもなく、日本修験道の開祖であり、忍術にとっても一方の祖にあたる。

その神通力は有名だが、ここでは修験道においてもっとも尊重される〃孔雀明王ノ法″について触れておく。

本来の意味は毒蛇を喰らう孔雀にちなむもので、印相は11手を外縛し、11親指、11小指をそれぞれ立てて合する。

唱える真言は、〈マユキラテイ、ソワカ〉という。そしてこれが、忍者たちが組む印相・呪文の祖型である。



藤原千方


村上帝の御代(平安中期)、体制に反抗して、        ← ありましたよね。秀郷一族が逆らった話

伊賀一一一国岳に拠って、旗揚げした武将がいる。藤原千方である。

朝廷に正一一位を望んで容れられなかったからだともいうが、理由は明らかではない。が、鬼の意思はだれでも、いつでも、心に宿すことのできるものである。


『小宰記』によると、その始末はこうである。

「村上天皇の御宇、正一一位を仰望したが、その甲斐なく、、日吉の神輿を奪って、当伊賀国の霧生郷へ篭もった。

紀朝雄という人が、将軍になってこれを追討した。


千方に陪従(くじゅうとも読む)の法師四人、山注記(鬼)、一二河坊、兵庫聖者、筑紫坊という者たちは、その力は大木を倒し、勢いは巌石を破るほどだったので、官軍は多く討たれて敗れそうになった。そこで朝雄は中臣赦を謂1)、神功を祈ったので、ついに千方は敗れ、柳の下でくびり果てた」


『太平記』によると、千方は四鬼を使って、官軍をさんざん悩ましたとある。
法師たち四人のことだろう。



能にも登場する。「現在千方」


能にも登場する。
「現在千方」がそうで、彼は風鬼・水鬼・火鬼・隠形鬼の四性の鬼を使い、鈴鹿山を防いだことになっている。

四鬼たちはそれぞれの名の通り、暴風、洪水、雨、猛火を起こし、または霧、霞に隠れて文字通り神出鬼没の働きをする。


「田村」では、坂 上田村麻呂の東征を妨げるものとして、〈千方ノ鬼〉となって登場する。

鬼を使う立場より、鬼そのものになっていくわけだ。この千方も、忍者の祖の一人とされている。



甲賀一二郎兼家という武将がいる。

彼は信濃国司、諏訪左衛門源重頼の一一一男で、
天慶 年間(九一二八〜九四六)、かの平 将門の乱のさい、平 貞盛や藤原秀郷に従い、功を立てた。

乱後、近江(滋賀県)へ来て甲賀郡の郡司となり、伊賀と併せて支配したといわれる。

伊賀国一の宮である敢国神社の近く、佐那具に居城していたという伝説もあり、現に同神社には、彼を記る洞もある。

この甲賀一二郎は元来、諏訪神社の本地讃として広まっている。
「郡司になって近江へ来た三郎は、兄の太郎・次郎と伊吹山へ狩りに出かけたとこる、妻の春日姫が行方不明になった。三郎は、兄たちとともに日本国中の山々をめぐり歩いて、妻を探して歩くうちに、謀られて信州謬科の人穴へ落とされ、地底の七十一一の国々を遍歴し、不思議な力で浅問岳へ出て、諏訪明神に示現した」
(『神道集』)


たちどころに思い当たるのは、兄たちからそねまれ、謀られて危地に陥る大国主 命の伝説である。大国11建御名方という出雲族の説話、つまり被征服者系に伝わるものだ。


この出雲系の神である諏訪神が、長い地底下の暮らしを経て、伊賀・甲賀に足跡を残し、やがて甲賀忍家の祖とされる話は、〃鬼の輪廻〃とも考えられる。鬼帰、また鬼隠というとを示唆してくれるものだ。


*********************************

藤原秀郷の家族



氏族    藤原北家魚名流

両親     父:藤原村雄、   母:下野掾鹿島某の娘
兄弟姉妹:  平国香室(平将門を一緒に討った平貞盛の父)つまり貞盛とは叔父甥の関係

妻     源通の娘


      つまり藤原秀郷は平氏とも源氏とも親戚

子供達
千時
千春(千晴)
千国
千種
千常(智常)     M氏右衛門尉源宗忠夫人の於美知さまの父上またはご先祖さま
千方         このスレッドの忍者の祖
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 13時13分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


M氏という御家がなんだか深い深い秘密があるように思えて来ました。

まだ甲賀や甲斐に松島という名の忍者の家は見つかりません。



藤原千方:
http://www1.atwiki.jp/occultfantasy/pages/488.html


伊賀・伊勢のあたりで勢力を持ったとされる伝説上の豪族で、朝廷に対して叛逆を企て、滅ぼされたとされる。

『尊卑分脈』などには藤原秀郷の孫に当たる人物に同名が見えるが、説話類が示す年代(これも異同があるが)とそぐわず、また正史にも記述がない。


伝承によると、千方は四人の鬼(四鬼)を使役した。鋼のように堅固な体を持つ「金鬼(きんき)」、風を操り敵城を吹き破る「風鬼(ふうき)」、水を操り洪水を起こす「水鬼(すいき)」、姿を消し突如襲いかかる「隠形鬼(おんぎょうき)」の四人がそれである。(なお、隠形鬼については、異なる名前・能力を伝える伝承もある。)


この鬼たちの猛威に官軍は大いに苦戦した。しかし紀朝雄(きのともお:伝未詳、架空人物か)が「草も木も我が大王(おおきみ)の国なれば いづくか鬼の棲(すみか)なるべき」との和歌を送ったところ、鬼たちは恐れをなして退散し、勢いを失った千方は討たれたという。


以上はおおむね『太平記』巻一六「日本朝敵事」の記事にもとづく。
この『太平記』における藤原千方説話が最も有名で、
これを受けた表現が謡曲「田村」や各種の御伽草子に散見される。


なお、現在知られているうちで最も古い伝承は、『古今和歌集』の注釈書、『毘沙門堂本 古今集注』(鎌倉時代中期成立)のものである。

そこでは『古今和歌集』仮名序の冒頭「力も入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。」の部分に対する注・例証としてあげられている。

ここから、この伝説は和歌の持つ霊的な力を讃える一種の「歌徳説話」であるといえる。

在地の伝承とはあまり関わりのない、創作性の強い伝説と言えるかも知れない。

参考文献
『太平記(二)』(日本古典文学大系36/岩波書店,1977)
『毘沙門堂本古今集注』(未刊国文古註釈大系4 所収/帝国教育会出版部,1935)
「田村」(新日本古典文学大系57『謡曲百番』所収/岩波書店,1998)
慶応大学蔵『大江山酒呑童子』(室町時代物語大成3 所収/角川書店,1983)

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 13時55分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


服部中保次のお寺が「宗安寺」。
市野惣太夫ゆかりの寺も「宗安寺」。


      その時、宗安寺ってどこにあるのと探した時、市野にあったので何か関係するのかと思った訳でありますが、
      やはり、何かつながっているかも知れません。


ですね。
普通お寺さんでも同じ名前はつけないように思いますが。


     かつて、馬込川(天竜川の西の支流)の馬込というところに、お寺がたくさんあり、
     修験者がたくさんいたと書きましたが、今回、市野と馬込は近いところにあり、水路に近いという意味でも共通しております。
     修験者、たとえば秋葉山のお札を売りに歩きまわったという「松下常慶安綱」は「松下之綱」の一族で、忍者に近いと思われています。


「松下常慶安綱」は「御師  おし」とかいう表の顔はお札を売りに歩きまわったという
裏の顔は 情報収集者 ですよね。




      遠江における「忍者のネットワーク(連絡網)」があぶり出されたと言っても過言ではありません。


市野惣太夫の開基の話で(宗安寺はアジトだったんだな)と思いました。  
初めは小さな小さな小屋のような寺だったんでしょうね。
市野惣太夫が代官になって、村の有力者と縁組して、更に後続の代官とも縁続きとなって、宗安寺は立派になっていったんでしょうね。



で、服部中家のお寺は香集院(庵)こうじゅういん=あん=だった?
このお寺は明治初年に廃寺となって
過去帳は大久保農協裏の休耕寺にあるようですね。

      

            そして服部系(忍者系)は時代とともにすたれ

服部系忍者は半蔵の息子がドジって配下の者達がストライキを起こしたし
その後の大久保長安事件でこの服部家は終わりましたから、
しょうがないですね。


             松下系・柳生系(隠密系)が江戸時代に主流になって行った

ですね。
柳生家にとって替わられた。

松下家もたいしたもんですね。
大名に収まりましたから。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月15日 13時56分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 おもしろくなってきました。久しぶりにエンドルフィンが湧いて命が輝い
ております。謎解きの手掛かりや、隠された真実を発見するということは、
何物にもましてワクワクするものですね。
 「藤原千方」とは、よくぞ見つけていただきました。智常から始まった宝
探しは、とうとう財宝のありかを突きとめるに至ったという感じですね。

 松島という姓の伊賀者(天正伊賀の乱後の伊賀国人衆)は伊賀三ケ村で見つ
かりました。この関係は引き続き調べたいと思っています。

その他に報告したいことがいくつかあります。箕輪の博物館より送られて
来た資料を解読しています。またまたいくつかの謎につながるキーワード
が・・・

 一旦切ります。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 14時35分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

>松島という姓の伊賀者(天正伊賀の乱後の伊賀国人衆)は伊賀三ケ村で見つかりました。


わたくしも見つけました。


天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。
天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。



勝地の       松嶋
上比奈知の     松嶋
奈垣の       松嶋

[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 14時40分02秒 ) パスワード

レス16に書いた服部家の過去帳の話。

お暇な時にでも大久保農協裏の休耕寺にお話を伺いにいらっしゃってはいかがでしょう?




>箕輪の博物館より送られて来た資料を解読しています

ネットに出てた情報と同じでしょうか?
でもネットの記事はなんだか繋がりが変のように思いましたが。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 15時08分14秒 ) パスワード

伊賀の地図を見てみました。

勝地 上比奈知 奈垣
そうか・・・

見てると悲しくなります。


伊賀の服部氏と松島氏は   遠江の松島氏と関係があるんでしょうか?


M氏家譜には「天正9年3月  当国高天神城落城」と書かれていますから
この高天神城の落城に関係があったように思います。


        天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、
        城代岡部元信以下そのことごとくが討死して高天神城は陥落した。
        わずかに生き残った城兵は助命されたが、武者奉行孕石元泰のみが切腹させられた。
        これは、徳川家康が今川氏の人質であった時代に、孕石が人質であった彼に辛く当たったことを遺恨に思ってのことであった。
        また、西側の尾根を伝って軍監の横田尹松が脱出に成功し、
        甲斐(山梨県)の勝頼に落城の事実を報告した(この脱出道は現在も残っている)。



この感じからすると  松島氏は武田方?武田方に親戚がいた?「落城」という言葉の使い方にそう思いました。

           武田方に信濃の親戚がいたのではないかなと。諏訪系または小笠原系の親戚?


もし家康方だったら、高天神の戦い勝利  と 意気揚々 書くのではないかなと。

あの「天正9年3月  当国高天神城落城」の書き込みにはどんな思いがあったのかなと
M氏の気持ちを考えてしまいました。



ひょっとしてM家の秘密に踏み込んだでしょうか?
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月15日 21時50分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 箕輪〜遠江の関係をまとめつつあります。意外と関係が深いのです。

 明日は、苗木城址〜岩村〜足助と行ってまいります。

 それにしてもМ氏は謎が深まるばかり・・・1500年以前のМ氏の
墓標を見付けたいと思いますが、源長院は1596年開山ですので、そ
れより古い正光寺にもう一度行って調べてみます。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 22時51分41秒 ) パスワード

三つ柏さん

お気をつけて。
無理をなさらないでね。


正光寺さんですね。
ここは今でも格式の高いお寺ですね。
驚きました。

檀家さんが守っているというのを感じます。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月16日 05時16分16秒 ) パスワード

1つ思い出しました。


信濃というか甲斐というか
こちらには諏訪氏もかかわる甲賀の望月氏が入り込んで
更に
地元の望月氏もいて


という複雑な話があるのでコピペします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E6%B0%8F


まず甲賀の望月氏:


甲賀望月氏(近江国)[編集]

望月の由来ともなった「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、
これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行っていた。


そこから望月氏と甲賀の地は古より関係があり、
平安時代には平将門の乱で武功があったとされる
望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり。尚、三郎は望月家嫡男に多い幼名であり、三男を意味しない)
が朝命により赴任し、
近江国甲賀郡主となり十六ヶ村を贈った。

これが甲賀望月の祖である。

恩賞としてその後、信濃の望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団へと発展し
戦国時代には、後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、
伊賀の「服部氏」、甲賀の「望月」と称されるようになる。


望月出雲守が望月城(現:甲賀市)を築城するなどの記録が残されており、
望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。


なお一族の望月千代女(もちづきちよめ)が、信濃の望月氏当主・望月盛時に嫁入りし、
武田家専属のくノ一として根津歩き巫女を養成して情報収集活動を行うなど、
交流は長きにわたり続いたと考えられる。



     信濃や甲斐は山続きなので線引きは簡単じゃないということですね。


続く
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月16日 05時28分43秒 ) パスワード

信濃国佐久の望月氏:    滋野氏の子孫。
              信長に負けた後は静岡にも落ちて来た。


信濃望月氏(もちづきうじ)
信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。



出自

公卿正四位参議・滋野貞主の嫡流、滋野氏の流れを汲み、
滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとさる。


滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、根津氏と並び、滋野三家と呼ばれる。



「望月」の姓の起こり[編集]


平安時代初期、貞観7年(865年)に、それまで8月29日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月(望月)の日8月15日に改めた。

この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼び、朝廷への貢馬の数が最も多かったのが、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏であり、
信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族にて望月の姓が与えられた。



滋野氏分家[編集]

海野信濃守幸恒の長男海野小太郎幸明の

次男の滋野直家は分家して小県郡祢津(根津)の庄を継承して根津氏(根津小太郎直家)を起こし、

三男の滋野重俊は佐久郡望月邑(望月ノ牧)を継承し望月氏(望月三郎重俊)を起している。


特に海野氏、根津氏、望月氏を滋野三家といい、三家は緊密で、出陣の次第によると海野氏が戦うときは海野幡中、左根津、右望月と称し、望月氏が戦うときは、望月幡中、左海野、右根津となり、祢津氏が戦うときは、根津幡中、左海野、右望月と、三家一丸となって外敵に当たったという。


この頃の家紋は
海野氏が洲浜や月輪七九曜、結び雁金、六連銭(六文銭)を用い、
望月氏は丸に七曜、九曜紋(九曜星)、下り藤を用い、
祢津氏は丸に月、六連銭、丸に違い鷹の羽を用いた。



鎌倉時代[編集]

望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曾義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月国親の時代と考えられ、

望月国親は後に源義仲の従臣として侍大将の一人として仕える。


当時の望月氏は佐久郡から隣接する小県郡にも勢力を伸ばしていたとされる。


義仲が越後の平家方を迎撃した寿永元年(1182年)9月の横田河原の戦いでは、木曾衆と上州衆(甲斐衆とあるが、甲斐衆は頼朝・北条時政方として黄瀬川に参陣しているため誤記と思われる)と共に佐久衆が中核となったとする記録があり、

この佐久衆の中心が古来より日本一の牧とも言われる「望月の牧」で育んだ強力な騎馬軍団を擁する望月氏であったと想定されている。


また、義仲の四天王といわれた根井光親も望月氏傍流である。



義仲の没落後は鎌倉幕府の御家人となり、
望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。

文治4年(1188年)、奥州藤原征伐に従い、
建久5年(1194年)の安田義定・義資父子の謀反を、幕命により追討している。

さらに建保元年(1213年)の和田合戦に際しても和田軍と戦い、重隆の孫・望月盛重は和田義氏の子・次郎太郎義光を討ち、信濃国和田を恩賞として賜っている。

幕府滅亡直後の元弘3年(1333年)10月には建武政権の国司清原氏から改めて所領を安堵されている。



室町時代[編集]

鎌倉滅亡後の中先代の乱では、望月重信が諏訪氏や海野氏・根津氏と共に北条高時の遺児北条時行を擁して挙兵、

足利側の信濃守護小笠原貞宗の攻撃を受け本拠地の望月城(現:佐久市)を喪うが、間もなく同城を再建し勢力を維持した。


続く南北朝の争いでは一族の多くが南朝に与して戦った。



戦国時代[編集]

戦国期に入り、望月氏も望月城を拠点に活動をするが、隣国甲斐国の武田氏や、越後国の長尾氏(上杉氏)などの度重なる侵攻により衰退し、

天文12年(1543年)9月に望月源三郎が実弟の望月新六と共に武田氏に対し最後まで抵抗するが、

同じく滋野氏の流れを汲む真田幸隆の仲介による説得を得て武田氏に服従し、
望月氏を継ぐことになる

    (源三郎は、臣従後に晴信の一字「信」を与えられ信雅と名乗る)。


その後望月盛昌の娘(昌頼の兄妹)を、武田信玄の弟・典厩信繁の嫁とし、
信繁の子(望月信頼、望月信永)を信雅の養子とするなどして、
名族望月氏は武田一門に組み込まれていった。



信雅引退(出家し印月斎一峰と称す)の後は、望月信永が家督を継ぎ、武田氏の「御親類衆」として60騎を率いて本陣旗本として活躍する。

しかし、その信永は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて討ち死する。


その後、しばらくは信永の実兄・武田信豊の管理下に置かれ、後に印月斎(信雅)が当主に復帰する異例の状態となる。


天目山の戦いで武田軍が織田軍に敗れ、多くの武将は織田信長によって誅殺されたが、
印月斎(信雅)や望月権兵衛など難を免れた者達は、富士川流域の山間(現在の山梨県南部(南部町や身延町、早川町)から、
静岡県富士市や静岡市北西部からあたり)に身を隠し移り住んだ。

現在でも子孫の多くがこの地域に住んでおり、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身である。



印月斎引退後、跡目は望月昌頼が継ぐことになったが、一族の出身かは不明(同名の盛時の兄とは年代的に別の人物と思われる)。

昌頼は後北条氏の傘下に入るが、天正10年(1582年)9月、徳川軍の依田信蕃一か月に及ぶ攻城戦の末に望月城は落城し、
望月昌頼は十八歳の若さで自刃し、望月氏嫡流は絶えたと言われている。


                              この依田信蕃は服部正吉が仕えていた蘆田信蕃のこと。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月16日 09時54分14秒 ) パスワード

甲賀くの一


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%A5%B3

望月 千代女(もちづき ちよめ、もちづき ちよじょ、生没年不詳)

別名・望月 千代は、戦国時代の女忍者(くノ一)。

            信玄の甥の妻ですって。

信濃国望月城主望月盛時の妻。(望月信頼のこと)



甲賀流忍者を構成する甲賀五十三家の筆頭である上忍の家柄 「甲賀望月氏」の出身で、
甲賀望月氏の本家に当たる信濃豪族の望月氏当主であり、武田信玄の甥に当たる望月盛時(望月信頼の間違いと思われる)に嫁入りした。

第4次川中島の戦いで夫が討死し、若くして未亡人となったが、くノ一としての腕を買われ、
武田信玄の命にて甲斐・信濃の巫女の統帥「甲斐信濃二国巫女頭領」を任され、「歩き巫女」の養成を行うため、
信州小県郡祢津村(現長野県東御市祢津)の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開いた。


戦乱の世で、孤児や捨て子となった少女達数百人(200 - 300人)を集め、
呪術や祈祷から忍術、護身術の他、相手が男性だった時の為に色香(性技等)で男を惑わし情報収集する方法などを教え、
諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませた。


一人前となった巫女達は全国各地に送りこまれ、彼女達から知り得た情報を集め武田信玄に伝えたと言われており、
武田家の情報収集に大きな役割を果した。


修行を積んだ歩き巫女達は、「ののう」と呼ばれ、禰津村には巫女の家が並んだののう小路や墓が残る。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月16日 15時19分30秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA14-PA18&lpg=RA14-PA18&dq=%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=LXfUTsL8Ne&sig=ny4Lgz6bN5TL1suX-dkvca1gZmg&hl=en&sa=X&ei=2dVWVZD6OdP-yQTMw4EI&ved=0CEgQ6AEwBQ#v=onepage&q=%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


続家紋でたどるあなたの家系
edited by 千鹿野茂


眺めていたら三階菱紋のところに

内山氏   信濃国佐久郡内山邑より起こる。
         清和源氏義光流小笠原氏族。
         旗本が出る

と書かれていました。


やっぱり山下家と内山家は同族ですね。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月16日 15時26分44秒 ) パスワード

M氏家譜を読んでいると   
   黒川出身なのかなと思うし
   地理的に信濃か甲斐なのかなと思うし
   それか全く別の所なのかなとも思うし

全く分からないです。



内山真竜は  服部・松島・鈴木・永井・加藤の5つは名家  と書いてるということは  旗本  ということかな?
とちらっと思いました。


結論:分かりません。
[28]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月17日 01時01分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、苗木城址を巡り、苗木遠山資料館を見学・図書購入、岩村「鳥兵」
にて食事・そして日本酒「女城主」を購入、足助の街散策・香嵐渓散策、足
助城址を巡りました。細かな報告は次回にします。

 帰ってから食事・休憩後、М氏についてずっと考察しておりました。
 謎を解くカギ、キーワードは次の通りです。
 @藤原氏(秀郷につながる系譜)
A一文字紋
 B市野氏
 C宗安寺
 です。
 当初は小笠原氏優先で、山下氏、大伴氏を考えておりましたが、もち論
そちらも関係するわけですが、本質を見抜くものは上記のキーワードだと
思います。
 本日は、すでに真夜中になってしまいましたので、明朝記します。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 04時19分11秒 ) パスワード

三つ柏さん

本当に遅い時刻の書き込みになりましたね。
でもご無事で何よりでした。


足助は戦国時代、当地の服部氏の活躍の場だったようなので、その関係が分かりましたらまたお出掛けください。


M氏のキイワード
@藤原氏(秀郷につながる系譜)
A一文字紋
B市野氏
C宗安寺



@藤原氏(秀郷につながる系譜)については貴族と武士の世界なら藤原秀郷にはどの家も殆ど繋がるでしょうね。
藤原氏はもとより源氏も平氏もその他も。

M氏も繋がっているようで、藤原千常関係者が嫁に来てますから、平安時代半ばから何重にも関係があったのでしょうね。


A一文字紋をいつから使用しているか、ですね。
これさえ分かれば。

そして何故使用することになったのか?



B市野氏
C宗安寺
アヤシイ。


佐渡にも  市野氏  っていらっしゃるそうですよ。
きっと佐渡金山関係で赴任していらっしゃった方の御子孫かしら?



ということで新たなご報告があります。
続く
ここでアップ。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 04時26分39秒 ) パスワード

M氏家譜に出て来る岩井新田ってこれを見たら分かりますか?

『引佐郡細江町岩井・気賀氏略系譜覧』(川島幸雄、1996)  


『伊那谷の地名』(伊那谷地名研究会編、南信州新聞社出版局、2008)
『伊那谷の地名 2』(伊那谷地名研究会編、南信州新聞社出版局、2010)
『伊那谷の地名 3』(伊那谷地名研究会編、南信州新聞社出版局、2013)
『伊那谷の人びと 第1編』(小松徹、1970)
『伊那谷の人びと 第2編』(小松徹、1970)
『伊那谷の人びと 第3編』(小松徹、1971)
『伊那地方の地名』(松崎岩夫、信濃古代文化研究会、1984)


『稲富稲冨一族』(日本家系家紋研究所編、日本家系家紋研究所、1984)
    どこかの服部氏と関係があったような?

以上
 http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2011-01.html?p=4
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 04時33分52秒 ) パスワード

復習


http://www.minami-nagareyama.org/museum/geographical-name.htm

千葉県流山の各所の地名の由来について


市野谷
いちのや
古い時代 

円東寺の門前に「市」がたったことによるといわれる。

また、馬の飼育をしていた代官の市野惣太夫が居住していたからともいわれる。




http://kazusanosukesengokusyoten.web.fc2.com/busyou/toujyoujinbutu-i.htm


市野 実利 いちのさねとし (伊岐真利)     小早川家?

市野惣大夫実利、
自称・伊岐遠江守真利、

棒術、槍術、弓術、柔術、水練の達人として小早川家に仕官した、武術指南役として五百石、秀秋の乱心で家老のほとんどが出奔し必然的に家老となった、しかし小早川家断絶後に牢人、その後徳川秀忠に仕えた。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 04時38分47秒 ) パスワード

開けられないのでご案内。


[PDF]PDFファイル - 東京大学社会情報研究所廣井研究室
www.hiroi.iii.u-tokyo.ac.jp/index-genzai_no_sigoto-kazan_joho-fujisan-...

Nov 14, 2003 -


えて「御代官様」(幕府直轄領を分担して支配していた代官)へ直接願書を提出 ...... が就任し、原宿代官として遠州で代官をやっていた市野惣太夫が任ぜ ...


原宿で代官?



ここから行ってみてください。

http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E4%BB%A3%E5%AE%98%E3%80%80%E5%B8%82%E9%87%8E%E6%83%A3%E5%A4%AA%E5%A4%AB%E3%80%80%E3%81%AF&start=10
[33]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月17日 16時32分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 関連する状況証拠的情報(点)がたくさんあり、それをストーリー(線)に
まとめるのがなかなか大変であります。そこには総合力が必要になって来
ます。
 
 @松島家家系譜について分析をしますと、養父を初代とした「対助」の
  家系譜は通常の家系譜として考えていいと思います。しかしながら、
  その前ページに書かれている「対助」までの家系譜ですが、遡って4
  代までは普通の書き方だと思われますが、そこからいきなり400〜
  500年前の藤原智常の娘の時代に飛んでしまう。
   そこでどんなことが推測されるかと申しますと、あの「将門」を討
  伐した「藤原秀郷」の孫娘を嫁にしているということは、松島氏の元
  祖は「秀郷」に近侍したそうとう地位も高く実力もあった源氏であっ
  たであろうということであります。
   松島氏はその前は小笠原氏であり、ずっと遡れば源氏の元祖「経基
  王」、即ち「秀郷」と一緒に「平将門」を討った源朝臣経基王」とな
  ります。「秀郷」の孫娘をもらうとなれば、経基王の孫あたりの者で
  はないでしょうか。
   (ちなみに、白羽の「山下氏」もその前は「大友氏」で、遡ると秀郷
  に行きつくようです。)
  「対助」という名前はちょっと普通にはない名前のように思われます。
  この「対」は何を表しているのであろうか。私は松島城初代の「松
  島対馬守頼実」の「対馬」の「対」を示しているのではないかと推測
  しています。

 一旦切ります。
 
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 21時51分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


なるほど〜
「対助」の「対」は「対馬」の「対」かも知れないのですか。


わたくしは100%想像できなかったです。
「たいすけ」なら普通は「泰助」あたりじゃないか、と思っていました。
なるほどねえ〜



あの「将門」を討伐した「藤原秀郷」の孫娘を嫁にしているということは、
松島氏の元祖は「秀郷」に近侍したそうとう地位も高く実力もあった
源氏であったであろうということであります。

復習:

藤原秀郷
父:藤原村雄、母:下野掾鹿島某の娘
兄弟姉妹:平国香室
妻:源通の娘


この源通という人がどなたかは分かりませんが確かに「源氏系」かも。
ま、当時ですから、貴族性の高い「源氏」じゃないかと。

続きます!
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 21時59分28秒 ) パスワード

藤原秀郷ですが

彼の綽名は   俵の藤太!


この「俵」ですが 

京都近くの「田原」にいたから  京都近くの田原と言えば!!!  宇治田原!!!


他にも相模国淘綾郡田原(秦野市)      秦野といえば!!!
近江国栗太郡田原郷に出自した伝説      近江と言えば!!!


すっごい!
その上に弟が忍者の先祖伝説の  千方  ですよ!!!


藤原秀郷  アヤシイ!


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7

出自を藤原北家魚名流とするのが通説だが、
「実際には下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」という説もある[2]

    (あるいは古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓とする)。


俵藤太(田原藤太、読みは「たわらのとうだ」、「たわらのとうた」、
藤太は藤原氏の長、太郎」の意味)という名乗りの初出は
『今昔物語集』巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」であり、
秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。


由来には、相模国淘綾郡田原(秦野市)を名字の地としていたことによるとする説、
幼時に山城国近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、
近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説など複数ある。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 22時11分14秒 ) パスワード

妻の家が源氏系なら   
当時は平安時代ですから  まだ天皇に近い時代ですから

身分のある源氏だったでしょうね。
でも源通とは、どの源氏出身なのか、ハッキリしないのが残念ですが。

当時の源氏とはどの天皇の子孫か捜せると良いのですが。
多分嵯峨天皇の子孫で、渡辺綱 に関係するのでは?と睨んでいます。

         続く



http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2704710.html
ゲンツウ 源通 富山県、北海道。富山県南砺市が本拠。

この富山、関係あるのかしら?
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 22時13分50秒 ) パスワード

源通とはどなた?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%9E%8D          嵯峨源氏?

     嵯峨系源氏で有名な武士と言えば  渡辺綱。


源 融(みなもと の とおる、弘仁13年(822年) - 寛平7年8月25日(895年9月21日))は、嵯峨天皇の十二男。侍従、右衛門督、大納言などを歴任。極位極官は従一位左大臣に至り、また六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれた。死後正一位を追贈されている。



嵯峨源氏融流初代。紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となった。また、別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。

六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。

872年(貞観14年)に左大臣にまで昇ったが、876年(貞観18年)下位である右大臣の藤原基経が陽成天皇の摂政に任じられたため、上表を出して自宅に引籠もった(『三代実録』及び『中右記』)。光孝天皇即位後の884年(元慶8年)、政務に復帰。

なお、陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後即位した例はないと基経に退けられたという話が『大鏡』に伝わるが、当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。

また融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見える。

現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったもの。

源融流嵯峨源氏[編集]

嵯峨源氏において子孫を長く伝えたのは源融の流れを汲み、地方に下り武家となった融流嵯峨源氏である。

その代表が摂津(大阪)の渡辺氏であり、祖の源綱は源融の孫の源仕の孫に当たり、母方の摂津国渡辺に住み、渡辺氏は大内守護(天皇警護)の滝口武者の一族に、また瀬戸内の水軍の棟梁氏族となる。

渡辺綱の子あるいは孫の渡辺久は肥前国松浦郡の宇野御厨の荘官となり松浦久と名のり、松浦郡の地頭の松浦氏は、肥前国の水軍松浦党の棟梁氏族となる。

筑後(福岡県柳川)の蒲池氏も源融の子孫であり、源融の孫の源是茂(源仕の弟)の孫の源貞清の孫の源満末が肥前国神埼郡の鳥羽院領神埼庄の荘官として下り、次子(あるいは孫)の源久直が筑後国三潴郡の地頭として三潴郡蒲池に住み蒲池久直と名のる。なお、歌手の松田聖子は、蒲池氏の末裔であるため、その意味では源融の子孫であると言える。

蒲池氏の末裔でもある西国郡代の窪田鎮勝(蒲池鎮克)の子で二千石の旗本の窪田鎮章が、幕将として幕末の鳥羽・伏見の戦いで討ち死にした際、大坂の太融寺で葬儀が行われた。この太融寺もまた、源融ゆかりの寺である。

また尾張(愛知県西部)大介職にあった中島宣長も源融13代目の子孫とされており、承久の乱に朝廷方として参加し、乱後の領地交渉の模様が吾妻鏡に記されている。なお宣長の孫の中島城主中島蔵人の子滅宗によって妙興寺等数寺が創建された。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 22時20分25秒 ) パスワード

結論   笑

秀郷の妻の出身は

恐らく
渡辺の綱のお祖父ちゃんか曽祖父あたりで
秀郷はとは仲の良い知り合いだったのでは?と。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 22時34分37秒 ) パスワード

以上は秀郷の妻の父が  源通  という1字の名前から想像しました。


以下は三つ柏さんのご想像の源 経基です。
この人も妻の父には有力ですね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%B5%8C%E5%9F%BA

源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)
平安時代中期の皇族・武将。経基流清和源氏の初代。

                              わたくしのDNAがこの人物を嫌っています。
                              「コイツは下品だから嫌い!」と言ってます。


                               秀郷もたぶん嫌いだったと思う。


『保元物語』によれば、父は清和天皇の第6皇子貞純親王で、母は右大臣源能有の娘。

皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされるが、当時の文献には見られない。居館は六宮とも八条御所ともいう。



生涯[編集]

太政大臣・藤原忠平の治世下の承平8年(938年)、武蔵介として現地に赴任する。
同じく赴任した武蔵権守・興世王と共に赴任早々に検注[2]を実施すると、
在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝が正任国司の赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから検注を拒否した為、
経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行った[3]。



この話を聞きつけた下総の平将門が私兵を引き連れて武芝の許を訪れると、経基らは妻子を伴い、武装して比企郡の狭服山へ立て篭もる。

その後、興世王は山を降りて武蔵国府にて将門・武芝らを引見したが、
経基は不服であるとしてなお山に留まった。

府中では双方の和解が成立して酒宴が行われていたが、
その最中に武芝の者達が勝手に経基の営所を包囲する。

経基は将門らに殺害されるものと思い込み、あわてて京へ逃げ帰り[4]、
将門・興世王・武芝が謀反を共謀していると朝廷に誣告した。


しかし将門らが承平9年5月2日付で常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を太政大臣藤原忠平へ送ると、

将門らはその申し開きが認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁された。


天慶2年(939年)11月、将門が常陸国府を占領、その後も次々と国府を襲撃・占領し、
同年12月に上野国府にて「新皇」を僭称して勝手に坂東諸国の除目を行うと、
以前の誣告が現実となった事によって経基は晴れて放免されるばかりか、
それを功と見なされて従五位下に叙せられた[5]。


その後、征東大将軍藤原忠文の副将の一人に任ぜられ、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討された事を知り帰京。


941年に追捕凶賊使となり、
小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧されており、純友の家来 桑原生行を捕らえるにとどまる。


武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。

           ここですね!!


晩年、臣籍降下を命じられたことに憤慨していたというが、
同時代の摂政太政大臣・藤原忠平の日記『貞信公記』の天慶2年(939年)3月3日付に「源経基、武蔵の事を告げ言う。」と記されているのもあり、
経基が果たして皇族であった時期があったかどうか疑問視もされている。


ただしこの記述については、忠平の子藤原実頼が抄録した際に源姓を書き入れたとする説もある[6]。


勅撰歌人であり、『拾遺和歌集』に2首が採録されている[7]。


嫡子の源満仲が建立したという六孫王神社(京都市南区)に祀られている。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月17日 22時44分56秒 ) パスワード

秀郷が何故平貞盛の味方をしたか?


最初に平将門が秀郷に助力をお願いしたけれど
将門の食事のマナーが下品だったから
     コイツとは事を起こせないと考えた
と読んだことがあります。

そこへいくと平貞盛は上品だった、と。



ということで藤原秀郷はいろいろな意味で美しくないヤツは嫌いだということで
貞盛を選んだ

    と、これは秀郷の子孫のオトコが言ってた。笑



あ〜あ、わたくしは他人のお箸の使い方の下品さは分かりますが
自分のこととなると・・・・
充分下品にガツガツとかっ食らっているのでは?と

ご先祖さまの貞盛さまの顔に泥を塗る子孫ではないかと恥じておりまする。


    あの秀郷の子孫のオトコは「立ち居振る舞いが・・・」なんて言うヤツで

    ワタシはひょっとすると貞盛ではなくて将門系の遺伝子が多いかも・・・
    2人は従兄弟ですから。
[41]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月18日 01時22分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の推理、今回は少し強引過ぎたかもしれません。自分の頭の中で、無理
にストーリー付けをして、そこから結論を創り出した。結論を急ぎ過ぎると
そうなります。法律の世界でもそうですね。少し反省をしています。
 「対」は余り深い意味はなかったという方が正解かもしれません。当て字
程度の話。
 それよりも、「左近」が気になったので、小笠原氏を中心にずっと調べて
いましたら、こんな時間になってしまいました。レスを書く時間より、調べ
る時間の方が数倍。

 松島氏が信濃より来たのであるとするならば、松島城の松島氏(小笠原氏)
の同族には違いないとみているのですが・・・。それをその家系譜から証左
を見つけ出すのは今のところ未達の状況であります。情報の整理、特に年代
の整理についてはある程度できました。小笠原氏のややこしさもおよそのと
ころはつかむことができました。

 家系譜からは一旦離れて、「一文字紋」についてのまとめと推理をしたい
と思います。
 私が『家紋でたどるあなたの家系』で調べた「一文字」使用者で、遠江・
信濃に関係する氏族は次のとおりです。
 @青山氏・・・遠江国より起こる。藤原秀郷流須藤氏族(寛政譜13)。替紋。
定紋は「細輪に葉菊」天方氏は青山氏が養子に入っている。
 A夏目氏・・・信濃国より起こる。清和源氏満快流(寛政譜6)。替紋。
 B服部氏・・・清和源氏義光流、または服部裔(寛政譜19)。替紋。
        定紋は「源氏輪に竪並び矢筈」。
 C市野氏・・・この本にも載ってはいましたが、詳しい解説は『浜松の史跡
        続編』によりますと、寛政譜の巻第987に市野 藤原氏流
        として次のとおりです。
        「実久(さねひさ) 惣太夫 今の呈譜真久に作る。母は某氏。
         永禄11年より、東照宮に仕え奉り、のち仰によりて信濃、
         陸奥両国に赴き、御馬を求む。慶長5年伏見において御馬
         を預り、且つ遠江国長上郡市野村にして、17石余の地を
         賜ひ、のち廩米(くらまい)100俵を加えらる。これより
         東照宮市野に放鷹したまふのとき、在名市野を称号とし、
         丸に一文字をもって家紋とすべき旨仰を蒙る。元和2年
         12月11日死す。法名舜清。市野村宗安寺に葬る。のち
         真防(さねあき 4代)に至るまで葬地とす。」

 ここから推理できることとして、私は松島氏の家紋「丸に一文字」は、市野
氏より入ったのではないかと見る。市野氏と松島氏の密接な関係は、対助の
室が市野氏の妹であることがまずは最大の関係。それと対助を市野村の庄屋に
しているということ。対助の分家独立を仲裁していること。そこには何か表
には出ない特別な関係があるような気配がある。
 市野氏は馬にからみ、信濃にもからむ(千葉の流山市の市野谷にも代官とし
て行っているようである)。

 謎めいたこの市野氏の存在、そして市野村の土地柄、さらに宗安寺・・・
これらにつきましては明日といたします。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月18日 04時38分09秒 ) パスワード

上記<レス37>にビックリ!

   尾張(愛知県西部)大介職にあった中島宣長も源融13代目の子孫とされており、
   承久の乱に朝廷方として参加し、
   乱後の領地交渉の模様が吾妻鏡に記されている。
   なお宣長の孫の中島城主中島蔵人の子滅宗によって妙興寺等数寺が創建された。



承久の乱で朝廷方
妙興寺さんで北朝方


この中島さん、うちの親戚です。
そして禅宗の僧侶でもあります。

これ以上は自慢になるので書かないでおきます。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月18日 05時16分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「対」は余り深い意味はなかったという方が正解かもしれません。当て字程度の話。

いえいえ逆に納得しました。

わたくしは不思議に思っていましたから。
   なぜ対助?
   変わった漢字!
と思っていました。


対馬から、ならば納得がいきます。



>それよりも、「左近」

これも不思議です。
どうして「左近」?

父上が右衛門尉で、叔父さまか・お兄さまに左衛門尉または右近がいらっしゃって、そういう名乗りが好きな一族で
その関係?
などとしきりに思いました。



>『家紋でたどるあなたの家系』で調べた「一文字」使用者
>遠江・信濃に関係する氏族は次のとおり。


     @青山氏・・・遠江国より起こる。藤原秀郷流須藤氏族(寛政譜13)。替紋。
                  定紋は「細輪に葉菊」天方氏は青山氏が養子に入っている。

    
服部氏からも青山氏に入ってますよね。
青山氏から天方氏に入る。

ここは仲良し3家組ですね。

 

     B服部氏・・・清和源氏義光流、または服部裔(寛政譜19)。替紋。
                  定紋は「源氏輪に竪並び矢筈」。

@から、服部氏が丸一を使っててもおかしくないけれど、
でも清和源氏系ですか。
なのに定紋が「源氏輪に竪並び矢筈」?笑

これって平氏系のあの服部氏=ヒバリさんの家=だと分かり易いのですが。


平氏の服部氏が信濃で源氏に化けた
     ヒバリさんの服部さんなら、
服部伊賀守が筑摩で源氏に化けた、
というなら大いに納得。
にっこり


       C市野氏

はい
市野氏は近江浅井氏系だから藤原姓。
また「いちの」だから丸一で当然。

分かり易い家紋の決め方だと思います。

      
    @青山氏・・・遠江国より起こる。藤原秀郷流須藤氏族。替紋。
           定紋は「細輪に葉菊」天方氏は青山氏が養子に入っている。
    A夏目氏・・・信濃国より起こる。清和源氏満快流(寛政譜6)。替紋。
    B服部氏・・・清和源氏義光流、または服部裔(寛政譜19)。替紋。
           定紋は「源氏輪に竪並び矢筈」。
    C市野氏・・・藤原氏流


>ここから推理できることとして、
>私は松島氏の家紋「丸に一文字」は、市野氏より入ったのではないかと見る。

>市野氏と松島氏の密接な関係は、
>対助の室が市野氏の妹であることがまずは最大の関係。
>それと対助を市野村の庄屋にしているということ。
>対助の分家独立を仲裁していること。

>そこには何か表には出ない特別な関係があるような気配がある。


なるほどね
対助さんは、そういう理由で家紋を丸一にした、ですか。

対助さんに財産を半分奪われた方のM氏にしてみれば「うちの家紋は使わないで!」というのがあったのかもですね。

それで対助さんは家紋を丸一にした、と。



そうしますと、浜松のお寺さんでM氏の名字なのに家紋が丸一でなかったら、
財産を半分乗っ取られた方のM氏、かも
ですね。


ということでM氏の本来の家紋が分かりますね。


いやあ〜
家譜に書かれていなくても家紋で分かる
ということですね。

日本はすごい!



そして山下家が丸一なのは偶然なのでしょうか?
山下家も市野氏と繋がっている?当然繋がっているだろうとは思っています。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月18日 08時39分25秒 ) パスワード

「松下之綱と豊臣秀吉」の74ページに山下家について書かれていました。



元亀・天正年間、浜松に住み、武術を修練していた山下和泉政豊は
久野城主松下之綱に仕え
松下重綱が常陸の小張に行った時も従っている。


山下氏は清和源氏小笠原氏流で
慶長年間の初め
分家が豊田郡池田庄大当所村=豊岡村大当所=に居住して郷士となり
子孫は名主を世襲している。

江戸後期に国学者  山下正彦を生み出した。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月18日 08時53分37秒 ) パスワード

山下家の分家が豊田郡池田庄大当所村に居住して郷士となったのは慶長8年(1603年)でしたか。

その理由は徳川幕府から叱責があって常陸に転府になったから?



本家の山下家は松下家に従って元和9年(1623年)3月に下野烏山藩2万8000石に転府していったのでしょうね。

更に松下重綱は2万2000石を加増されて5万石で二本松藩を立藩。

重綱は豊臣秀吉が若い頃に主君として仕えていた時期がある之綱の息子である。松下領は東安達郡18村と西安達郡28村を支配した。
しかし重綱は同年10月に病死し、嫡子長綱が跡を継ぐが、幕府は長綱幼稚を理由にして寛永5年(1628年)1月に2万石を減らした3万石で陸奥三春藩に移封した。


     ひどいね〜


本家のこういう浮き沈みを分家はどう見てたのでしょうね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BC%B5%E8%97%A9


戦国時代、小張は小田氏と結城氏(多賀谷氏)が争っていた場所である。
慶長8年(1603年)、遠江久野藩主であった松下重綱が、居城の石塁を許可なく築いたことから幕府により懲罰的な移封を命じられて小張に1万6,000石で入ったことが、小張藩の立藩である。


重綱はその後の大坂の陣で軍功を挙げたことから、
元和9年(1623年)3月に下野烏山藩に移され、ここに小張藩は廃藩となった。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月18日 12時10分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『清和源氏小笠原流遠江山下家系図』、もうすぐ控えが届くはずです。
 山下家は松島家の家系譜の記述にも多大な影響を与えているようであ
ります。
 婚姻で血脈が混じると、祖先の物語もごちゃ混ぜになる・・・これは
しょうがないことであります。いいところは全部拾いたい気持、よくわ
かります。自分でもそう願いますから。
 山下家に小笠原家の血が入った。山下家はもともとは大友家、大友家
はもともと近藤家、近藤家はもともと藤原家。藤原千常(智常)の6代後
の近藤景頼に始まるといいます。
 この山下家の伝承を祖先の話として松島家は取り入れていると思われ
る。婚姻のなせるわざでもあると思います。

 対助以前の系譜がよく見えてこない。箕輪町松島の図書館でも、また
歴史博物館でも2〜3代はある程度わかるけれど、全体的にははっきり
しないという回答であった。それを今調べているわけですが、なかなか
登頂は難しい。小笠原氏の系図の中で、松島氏の祖は「持長」であると
いわれていますが、この持長なる人物、何と系図に同名で並列で二人並
んでいる。一人は子孫なし。もう一人は信濃守【府中】となっている。
この意味するところは何であるか、謎めいている。
 松島氏はいつ誰と一緒に下って来たのかという重大なポイントがあり
ますが、いずれにしても元は小笠原氏、箕輪(松島)を中心にして考える
と、遠江の山下家に養子に入った小笠原氏は、松尾城陥落の頃に遠江に
来ています(1390年台後半)です。その時には対助は生まれておりま
せんので、その後4〜5代は経過するわけであります。松島城の松島氏
は1500年より後でありますので、こちらの松島氏は城主の家族・直
近の氏族ではないと思われます(5〜6代前に分かれたか)。

 さて、市野という地域を考えると、本坂道と笠井海道の交わる、また
天竜川の西側の渡しに近い宿場という戦略上重要なポイントでありまし
た。そのため、家康は忍者系の代官の領地として取り囲みました。
服部半蔵と服部政信のち服部中。中和泉代官(遠江・信濃の天領)として
大草氏のち秋月氏等に天領支配させた。市野のセンターには「市野氏」
を家康は置いた訳です。そして家紋は「敵なし、天下無敵」の意味の
「丸に一文字」をつけさせたということですから、その意味するところ
並大抵ではありません。
 市野氏の背景にある謎、それは「馬と弓」のみにあらず、もっと他の
要素が絡んでいるはずです。なんで流山に行ったのか、信濃・陸奥に行
ったのか、戦国時代の武力としては、まず馬は機動力として戦車、トラ
ックと同じで最重要だったことは確か。その後、鉄砲と火薬。鉄砲も火
薬あっての話であり、火薬は忍者系の秘伝であった。馬を調教するのも
ひょっとして忍者系の秘伝であったかもしれません。義経に代表される
ように。馬についてもっと探究する必要があります。

 いずれにしても、「忍者史観」というものの見方もあってもいいと思っ
ています。ほとんどの歴史記述は、歴史の表から見た歴史観であります。
しかしながら真実は、裏側にあり。戦国時代は特に情報戦・謀略戦が最大
の戦術でありましたから、従って忍者側から見た歴史観もあっていいと思
っていますがいかがでしょうか(現実的にはすごく難しいですが)。
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月18日 13時38分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一箇所訂正・・・笠井海道→笠井街道

 どうも「馬」がすべてにからんでくるキーワードかなとも思います。
 あを様がお調べになった忍者望月氏ですが、信濃の小県郡に望月牧
をもっていて飼育・調教をしたということですが、小県郡は松島城の
松島氏(小笠原氏)の出身地であります。望月氏と小笠原系松島氏との
関係はどうだったのか。望月千代女は歩き巫女を何百人も育て、全国
へ派遣した。当然徳川領への忍者・歩き巫女の派遣はかなりの数であ
ったろうと思われる。松島氏は小県郡出身であるので、武田側の情報
ルートはあったであろうから、ある意味市野氏の片腕になりえたので
はないか・・・とりあえずの推論ですが。松島氏が市野氏にかわれた
要因は何だったのかということ・・・。

 次は、宗安寺について書きます。 
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月18日 14時28分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


明日月曜あたりに届くと思います。
ありがとうございます。


もう錯綜ですね。
麻の葉のようにグチャグチャに込み入ってムクムク育って見通しがつかず何が何やらワケが分からないのですが

いいとこ取りで家譜に載せているから
それを解きほぐして整理すれば実態が掴めて来る

ちゃんと化粧部分は剥がれて来るようですね。



持長は信濃の小笠原持長の方でしょうね。

    持長は応永3年(1396年)に京都四条の小笠原家屋敷で生まれた。
    父の長将は結城合戦で戦死し、祖父の死後家督は2人の叔父長秀・政康に移り、
    嘉吉2年(1442年)の政康の死後は従弟の小笠原宗康に継承された。

    この状況に不満を抱いた持長は、畠山持国の後ろ盾で家督相続を主張
    文安3年(1446年)に実力行使で宗康を討ち取った(漆田原の戦い)。

    しかし、宗康は事前に弟の光康に家督を譲り、持国と対立する細川持賢及び甥の細川勝元も光康を支援したため、
    家督の奪取はならなかった。

    宝徳元年(1449年)に諏訪大社が上社と下社に分裂すると騒動に介入、下社を支援している。

    一方の上社は光康の松尾小笠原家と連合した。

    同年に勝元が管領を辞任、代わって持国が管領に就任すると宝徳3年(1451年)に光康に代わって信濃守護に任命された。

    しかし、翌享徳元年(1452年)に勝元が管領に再任されると享徳2年(1453年)に守護職を交替させられ光康が守護に再任された[1]。

     畠山持国の支援を受けられた背景には持長の母が持国の妾となって息子義就を産んだからとされるが、
     持長と義就の年齢差が大き過ぎるため近年では否定されている
     (義就は永享9年(1437年)生まれであり、兄とされる持長とは41歳も差があるため)[2]。


     寛正3年(1462年)に死去、享年67。子の清宗が後を継いだ。


                すごい・・・



市野惣兵衛は家康に永禄11年=1568年=に仕え始めて信濃や奥州に馬を買いに行っている
    信濃=木曽駒      松島氏と市野惣兵衛は知り合いだった?  
    奥州=青森だったら寒立馬が有名ですね

きっとそれなりの伝手があったのでしょうね。



明智光秀でも秀吉でも諸国を歩き回っていたのかもですね。
市野惣太夫も歩き回っていたのかも、ですね。
表向きは馬の買い付けで実態は諸国を調べていたのかも。
そうすると市野惣兵衛の正体も実は忍者だったのかもですね。


宗安寺の秘密も教えてください。
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月19日 08時05分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊那の松島氏の子孫らしき人が一人わかりました。それは、箕輪町郷土
博物館から送っていただいた資料『明音寺』の松島氏関連ページのコピー
から見つけました。その部分を抜き書きします。

 「松島城主は戦乱の末、浪人となり、天正10年の変革により一族皆離散
し終わったが、併し宮津藩に仕え江戸時代を通し「小笠原源太夫」度々展墓
の為に松島へ来たと云われる。又、明音寺へは、唐金の燈籠一対を菩提のた
め寄附もした。その後嗣15世小笠原長孝は、明治27年7月、祖先開基の
寺であるので、系譜4冊を明音寺へ寄進した。それが現存している参考文献
である。尚、開基小笠原の紋所が「三階菱」であるので、明音寺もこれを紋
所としている。」

 この小笠原源太夫は浜松において、大変活躍している「小笠原源太夫」に
比定されます。それには三つの理由がります。

 @明音寺の本山は駿河の真珠院であり、その三世霊乗大和尚によって開山
  され、元禄8年には遠州森一宮出身の本間氏の末孫が住職となり、松島
  城主小笠原氏の墓地も作り、太田陣屋と関係を持ちながら有名な梵鐘の
  鋳造もしたということ。
 A松島は浜松藩の飛び地(領地)で太田隠岐守の支配する「松島陣屋」が
  あったということ。
 B小笠原源太夫は、浜松では「源太夫堀」で有名あるが、浜松藩主松平
  資俊が家臣小笠原源太夫基長に命じて、馬込川から天竜川に至る35町
  にも及ぶ灌漑用水路兼物資輸送の水路を造ったということ。
 以上を総合すると、浜松との関係より、小笠原源太夫という人は、松島家
 の親族には違いないと思います。

 ここで一旦切ります。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月19日 09時02分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

ビックリ!ビックリ!ビックリ!
宮津藩を調べて更にビックリ!


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B4%A5%E8%97%A9

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後に細川忠興が豊前小倉藩へ移されると、
                   
                信濃からですよ!        
                   ↓
丹後国には信濃飯田城より京極高知が田辺城に入り
(幕府に届出た正式な居城は宮津城)、
丹後一国を領した(丹後藩)。のちに拠点を宮津城に移す。

         略

幕府直轄を経て、寛文9年(1669年)、永井尚征が山城淀藩より入城した。

                        次は永井氏ですよ

奏者番となった第2代藩主・尚長は延宝8年(1680年)、
第4代将軍・徳川家綱の葬儀が増上寺で行われた際、乱心した志摩鳥羽藩主・内藤忠勝に殺害された。


尚長には嗣子がなく、永井家は改易となった。

             略

代わって信濃飯山藩より青山幸秀が入封した。
                        信濃から青山氏ですよ!

第2代藩主・幸道は宝暦8年(1758年)、美濃郡上藩に移封となるなど、

目まぐるしく入れ替わった。


                    更にビックリ!次は浜松からですよ!
遠江浜松藩より松平資昌が7万石で入って、ようやく藩主家は定着をみることとなった。
松平(本庄)氏の家祖・宗資は第5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の異母弟ということで大名に取り立てられ、
宗資の子資俊より松平姓を許された。
        ↑
      資俊!


当家は7代続き、うち2人が老中、1人が寺社奉行と幕閣の中枢に進出している。



松島氏は   「小笠原源太夫」  と名乗ってましたか。
これまたビックリ!
そして三階菱紋ですか。   これが定紋なんでしょうね。



もうビックリですね。
ではこちらからも驚きの情報を。



松平 資俊(まつだいら すけとし)

江戸時代前期の旗本、のち大名。
常陸笠間藩第2代藩主、遠江浜松藩初代藩主。      ⇔  これですね  浜松藩主
本庄松平家2代。



生涯[編集]

万治3年(1660年)、笠間藩初代藩主・本庄宗資の次男として生まれる。
貞享元年(1684年)10月10日、寄合旗本となる。
元禄4年(1691年)12月28日に従五位下・安芸守に叙位・任官される。
元禄12年(1699年)、父の死去により家督を継いで笠間藩の第2代藩主となる。元禄14年(1701年)12月18日に従四位下に昇叙され、元禄15年(1702年)2月19日に侍従に任官する。
9月12日に備中において2万石を加増されて7万石となった上で、遠江浜松藩に移封された。

宝永2年(1705年)3月23日に第5代将軍・徳川綱吉より松平姓を与えられた。
そして豊後守、伯耆守へと遷任している。
享保8年(1723年)7月14日に死去した。享年64。跡を養子の資訓が継いだ。

なお、功績も無いのにここまで異例の出世を遂げたのは、
父・宗資が綱吉の生母・桂昌院の異父弟であり、縁者による引き立てがあったためである。


[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月19日 09時21分20秒 ) パスワード

51の書き直し


太田隠岐守については  分家  のところに出ています。

http://homepage3.nifty.com/hyuuga/daimyou/oota.htm
1番下です。
ここには壊れますのでURLでご確認を。



寛政譜四巻記載(清和源氏頼光流)


本家 遠江掛川城 太田新六郎重正    この人が家祖。

                  慶長5(1600) 関ヶ原の合戦
                  太田家の出世頭の太田備中守資宗が生まれる
                       (父が家祖の 太田新六郎重正)


5000石 | └ 太田隠岐守資良     ⇔  本家は遠江掛川城で父が 太田新六郎重正
500石 └ 太田因幡守資為      (重正の子)
200石100俵 └ 太田小左衛門資信 (重正の孫で資為の子)

[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月19日 09時32分11秒 ) パスワード

太田重正の妹のお梶は家康の愛妾なんですって!
だからヤッカンで太田は太田道灌の子孫かどうかアヤシイなどと噂をたてられたのでしょうね。

なるほど幕府の中では特別な家のはずです。


http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/toukai/kakegawa.html

掛川藩もビックリの流れです。

                   我々関係者の家としては青山家・井伊家・小笠原家・太田家が浮かびますね

松平(久松)家→駿府藩領→松平(久松)家→青山家→松平(桜井)家→本多家→松平(藤井)家→北条家→井伊家→松平(桜井)家→小笠原家→太田家



遠江掛川藩も、藩主家の交代が非常にはげしい。

関ヶ原の論功行賞の結果、山内一豊が土佐一国を与えられて、掛川を去ると、
家康は異父弟の久松(松平)定勝を下総3千石から、3万石に抜擢して入れる。

後に紀伊家となる徳川頼宣が駿遠両国50万石を与えられると、当然掛川もその領内となり、
久松松平家は伊勢桑名に移り、徳川頼宣の付け家老安藤直次が掛川に入る。

徳川頼宣が和歌山に移ると、常陸下妻より松平(久松)定勝の三男松平(久松)定綱が3万石で入るが、山城淀に。

徳川忠長が駿遠両国を与えられると、再びその領内になって、付け家老の朝倉宣正が入るが、忠長失脚で、除封。

常陸のうちより、青山幸成が入るが摂津尼崎へ。

駿河田中より、松平(桜井)忠重が入り、子の忠倶が信濃飯山へ。

摂津のうちから、本多忠義が入るが、越後村上へ。

駿河田中より、松平(藤井)忠晴が入って、丹波亀山へ。

駿河田中より、北条氏重が入るが嗣子無く改易。

三河西尾から、井伊直好が入って、直武、直朝と継いで、定着するかに思えたが、直朝が心身喪失して、家柄ゆえに除封をまぬかれ、井伊直矩を嗣子と認め、越後与板へ。

信濃飯山より、松平(桜井)忠喬が入るが摂津尼崎へ。

武蔵岩槻から小笠原長煕が入り、3代継ぐが、陸奥棚倉へ。

上野館林から、太田資俊が5万石で入ってようやく藩主家は定まり、
7代継いで、戊辰戦争後での徳川宗家駿府移封まで続く。


       太田家はご存知のように太田道灌資長の後裔だが、
       道灌資長の父、太田資清は関東管領扇ガ谷上杉家の家老となって、子の資長が江戸城を築いた。

       小田原後北条氏の伸張にともなって、道灌二男の孫、太田資正は佐竹氏と結んで、北条氏に対抗するが、
       嫡流の太田康資は北条傘下に入る。

        小田原落城後、太田康資の子太田重政は家康に召し出された。


        徳川譜代としては新参ではあったが、江戸城の故守としての家柄と、
        太田重政の妹が家康の愛妾お梶の方となったこともあり、
        重政の子の太田資宗は下総山川に1万5千石を与えられて、諸侯に列した。

       資宗はのち三河西尾を経て、遠江浜松に、その後、数代は各地を転々とするが、
       太田資俊が館林から掛川に入り、定着する。


太田家からは幕政の担当者を何人も出している。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月19日 09時42分03秒 ) パスワード

お梶の方


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%8B%9D%E9%99%A2

英勝院(えいしょういん、天正5年11月9日(1578年12月7日) - 寛永19年8月23日(1642年9月17日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。


出自[編集]

父は里見氏の旧臣で太田道灌の曾孫にあたる太田康資とする説と、
江戸城代の遠山直景(遠山政景の子)とする説、
常陸国の戦国大名で豊臣秀吉により支配地を失い、結城氏の元に身をよせていた江戸重通の娘が太田康資の養女になったという説などがある。


兄として太田重正が挙げられるが、
重正は(つまり母方の?)遠山氏の系図に含まれており、
父の死後その母方(遠山氏)で(つまり従妹の)英勝院と兄妹のようにして育てられた可能性が考えられる。

重正の母は、遠山綱景の娘の法性院(太田康資室)である。


英勝院が重正の妹を称するのは、それほど早い時期ではない。
いずれにしても、前述の通り多くの説があり、その出自は定かではない。
幼名は「於八」か。
後に「梶」「勝」、落飾後は「英勝院」と称した。

徳川家康を題材にした小説などでは「お梶」と称されている。



生涯[編集]

豊臣秀吉によって江戸に移封された徳川家康は、積極的に関東の名門の末裔を集めた。
その中に江戸城代であった遠山氏(道灌の流れを引く太田氏という説もある)も含まれており、
早くに(13歳頃)家康に仕えたと考えられている。
年齢的にも、最初から側室だったというのは推測の域を出ない。
少なくとも、女性官僚=側室ではない。


同じ遠山氏(武蔵遠山氏はもとは明知遠山氏、遠山直景参照)で徳川譜代の旗本となっていた遠山利景(明知遠山)
あるいはその兄とも一部で推測されている天海(同じ遠山氏の家紋を用いている)の推挙によるものともされる。

                  明知や天海も出て来ました!



「梶(八)」と呼ばれ、非常に聡明だったことから寵愛を受けた。

一時松平正綱に嫁されていたが、すぐに家康の元に戻されている。
家康の子を懐妊していることがわかったからともいわれるが、推測の域を出ない。


慶長12年(1607年)1月に、家康最後の子である五女市姫を30歳で産む。
市姫は仙台藩主伊達政宗の嫡男・虎菊丸(のちの伊達忠宗)と婚約するが、4歳で夭折する。

不憫に思った家康は蔭山殿(万)の産んだ鶴千代(徳川頼房。のち水戸藩・徳川家初代藩主)、
越前藩主結城秀康の次男である虎松(松平忠昌。越後高田藩などを経て福井藩を相続。)、
外孫であった振姫(姫路藩主池田輝政の娘)らの養母とした。

振姫はのち、伊達忠宗に嫁ぐ。


家康の死後は落飾して英勝院と称し、江戸田安の比丘尼屋敷に在した。



水戸徳川家では頼房の長男である頼重(後に高松松平家・讃岐高松藩主)、
三男・長(後の水戸藩主・光圀)がおり、
頼重は京都の慈済院へ入っていた[1]。

『讃岐高松松平家譜』に拠れば、英勝院は将軍・徳川秀忠に対して頼重の帰府を願い、
寛永9年(1632年)11月には頼重の江戸の水戸藩邸への帰府が実現したという[2]。

さらに、寛永11年(1634年)5月9日には水戸徳川家の世子となった幼い光圀を伴い、新将軍・家光への謁見を行っている[3]。

同年6月には太田道灌の旧領で以前は屋敷のあった相模国鎌倉扇谷(神奈川県鎌倉市)の地を徳川家光より賜り、
菩提所として英勝寺を建立して住持する。

                   やっぱり太田道灌ゆかりなんでしょうね。


65歳で没した。法号は英勝院殿長誉清春大禅定尼。墓所は英勝寺。



逸話[編集]

梶の聡明さを知らしめる逸話は数多く残る。


後に創作され尾ひれがついたもの、あるいは他の側室の話と混同されているものなどあるが、
いずれも家康がいかに寵愛していたかを証明するものとされる。



うまいものも塩、まずいものも塩[編集]             これは有名ですね。


家康が家臣たちを集めた時に突然「一番美味い食べ物とは何か」と尋ねた際に、他の者たちがそれぞれが答えをならべたのが、
家康がそばで控えていた梶にも尋ねると、「それは塩です」と答えた。

「塩がなければ味を調えられません」という意外な理由に一同が感心した。


「では一番不味いものは何か」と梶に尋ねると、彼女は迷わずに「それも塩です。
どれほど美味しきものでも、塩を入れすぎれば食べられません」と答えたという。[4]



戦への同行[編集]

梶は関ヶ原の戦いおよび大坂の役にも男装して騎馬にて同行した。
関ヶ原にて勝利した際にはそれを祝って「勝」と改名させたほどである。
また、豊臣秀吉存命中に人質として大坂城に捕らわれたが、単独で脱出し騎馬にて家康の元に帰ったという逸話もあるが、
これはさすがに創作であろう。



倹約家[編集]

梶が家康に寵愛された理由の一つに、その倹約家ぶりがあげられる。
小袖をこまめに洗濯させて、新しいものを着ようとはしなかった。
倹約して富を蓄えることこそ大切であり、それは天下の人に施すため、
また子々孫々まで国の富が不足しないようにするためであると日頃から言い含めており、
家康は駿府城の奥向きの大半を彼女に任せ、また金蔵の鍵すら預けていたとさえ伝えられるほどである。



春日局との関係[編集]

春日局との関係では、駿府にいた家康に会わせ、家光が秀忠の後継となることを助けたという話がある。

家康没後において、女性官僚として春日局と並んで最上位を占めた。
婚姻の際の駕籠の順序は英勝院が春日局より先であり、徳川内でいかに丁重に扱われていたかがわかる。



太田氏中興の祖[編集]

梶は兄とされる重正の子である太田資宗を養子とし、譜代格として徳川秀忠に出仕させている。

資宗は順調に出世し、徳川家光からの覚えも良く、六人衆(のちの若年寄)となり、さらには下野国山川藩1万5千石の藩主となる。


奏者番などを歴任し、
最終的には遠江国浜松藩3万5千石まで登りつめ、子孫は幕府の要職を歴任し、老中も出し、明治維新後には子爵となった。


彼女は没落寸前であった太田氏を近世大名として、明治の世まで生き残らせたといえよう。



英勝寺[編集]

英勝寺は神奈川県鎌倉市にある浄土宗の寺院で、山号は東光山。現在も鎌倉唯一の尼寺である。徳川頼房や、徳川家光から庇護をうけ、はじめ玉峰清因(徳川頼房の娘小良姫)を門主に迎えて開基したこともあり、代々水戸徳川家の子女を門主に迎えていたため、「水戸御殿」や「水戸の尼寺」ともいわれたという。仏殿、祠堂、唐門、鐘楼などには葵の紋が見られ、いずれも神奈川県指定の重要文化財に選定されている。

[55]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月19日 12時27分38秒 ) パスワード

空のあを海のあを様

 ありがとうございます。スゴイ情報の数々、一気にパースペクティブが
広がりました。ここの情報はひとつひとつ意味がありそうなので、丁寧に
追跡してまいりたいと思います。

 いずれにしても、太田氏を大いに見直す必要があります。それだけの実力
者だったということ。太田氏を中心にここ浜松を中心にして物事が進んだ、
動いたと言っても過言ではないでしょう。

 太田資宗を中心にして、どんな人脈がからむかというと―
 @母と「都築秀綱」の娘で、秀綱は「松下為雲」の子が太田家に養子に入
  った。この為雲の娘が「松下之綱」の室である。ついでながら、之綱の
  末裔の「松下源四郎」の四女が、一族の太田家へ再び嫁に入っている。
 A資宗には娘が6人いて、その内の1人は加藤光泰の子孫の「加藤泰義」
  の室となっている。
 Bもう一人の娘は「永井尚庸」の継室となっている。
 Cもう一人の娘は「一柳末礼」の室となっている。

 一旦ここで切ります。
[56]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月19日 12時52分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一部訂正:@空のあを→空の青
      A母と→母は

 太田資宗にとって、松下之綱は叔父さん(妻のお父さんの姉か妹の旦那)
となります。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月19日 13時12分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


本当にみんな繋がりますね。

太田家を中心に永井家も加藤家も松下家も
そしてM氏や山下氏もからむのは当然ですね。

当時は身分の縛りがありますから
大名は大名間で、旗本は旗本間で、郷士は郷士間で、名主は名主間で。

戦国時代からそうやって切れずに今に至る、
ですね。


ただ現代の人々は戦後70年間でいろいろな記憶を失っている。
でも初めて会って、何かピンと来るものが有ると思います。

自分の脳に記憶は無くても遺伝子に刷り込まれているんですから。
昔の人は「赤い糸で結ばれている」と表現したんでしょうね。


最近の離婚の多さは、一体、何なんだろう?と分かりません。
出会った瞬間に血と肉が踊って引かれあって結婚した筈なのに
どうして離婚になるのか分かりません。
子供がいて離婚するのはもっと分かりません。
子供は親の離婚でものすごく傷つくと思う。


お互いに相手の家のことを知って自分の先祖との関係を知っていたら?
相手の家や先祖を尊敬出来ていたら離婚にならないのかな?
とかいろいろ考えてしまいます。


昔のように着ているものに家紋を付けていたら?


戦いに負ければ身分が落ちてしまうけれど
先祖のことが分かっていれば相手を尊敬できるのだから
身分は違っていても婚姻ということがあったのだろうと思います
しかるべき家の養女養子ということにして結婚相手として迎える
ということは昔っから行われて来たのですから。


松下氏から太田家に行って、逆にも、太田から松下に行く、
非常に分かり易いです。
安心ですものね。双方の親も反対しないし、先祖も喜ぶし、生まれて来る子供も
両親の家を両方とも誇りにできるし。

   精神的に安定が保てるんじゃないかなと。
   だから離婚にならないだろうなと。


今日はつくづくと日本人のメンタリティとかアイデンティティを考えてしまいました。


家康もお梶さんの賢さに太田家に太田道灌に繋がるものを感じてたのかな、とか。
それで自分の子供を託したのかなとか。
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月20日 07時06分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、小笠原源太夫が奉行として造ったという「源太夫掘」を見に行って
きました。昔から堀があるのは見ていましたが、まさか江戸時代に作られたと
は思いも寄りませんでした。確かに橋には源太夫橋と書かれておりましたので
改めて感慨にふけりました。
 そしてこの源太夫と松島氏との関係、山下家に養子に入った小笠原氏との
関係等、思考にふけっておりました。
 一つヒントが見つかりました。
 一旦切りますが、後で書きます。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月20日 09時48分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


「源太夫掘」を見にいらっしゃいましたか。
不思議ですね
まさか江戸時代に
それも自分に関わる人が、采配した、なんてね。

>そしてこの源太夫と松島氏との関係、山下家に養子に入った小笠原氏との関係等、思考にふけっておりました。

考えてしまいますよね。

確実にご先祖さまたちが生きて頑張って人々のために働いた
それが21世紀になっても残っているんですから。


つい最近まで   自分には関係無いもの  と思っていたのですから。


有難さに涙がこぼれますね。



>一つヒントが見つかりました。

どんなヒントでしょうか?



あ、今日も届きませんでした。
ガックリ
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月20日 11時42分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 資料は12日に発送しましたので、本日20日で8日目となります。10日間位
かかると思っていた方がいいですね。
 それにしても、小笠原氏関係の詳細な系図がほしいです。でないと、頭の
中で小笠原氏の情報がなかなか整理できません。

 「ヒント」というのは、『東海展望』(1980年代のもの)の中に源太夫につ
いての記事があり、その中に松島家の謎にからむヒントが二つ見つかったこ
とです。それは―

 @源太夫堀が完成した後、小笠原源太夫によって「新羅大明神」という神
  社を勧請されたとあります。これは近江国志賀郡大津の園城寺(三井寺)
  の鎮守として祀られていたものですが、小笠原氏がなぜそれを勧請した
  のかの理由について、それは同氏の系統が帰化氏族大友氏とかかわりあ
  いを持っているところから、大友氏の氏寺の園城寺の鎮守として祀られ
  ている新羅明神社より分霊をいただいたということであります。
  でも、待てよと思いました。たしか小笠原氏が遠江に下って来て山下氏
  の養子になった。その山下氏は元々は大友氏であったということで、こ
  の源太夫は山下家に入った小笠原家と同族である可能性があると思いま
  した。

 A新羅大明神社の棟札(1723年)には、次のように書かれていたという。
  「遠州浜松城主 奉造立新羅大明神社頭一宇
          家臣 小笠原源太夫源其長
          嫡  小笠原忠史郎源長英
          二男  松島藤八郎源長賢
          嫡孫  小笠原  源弥源
          同   幸蔵、喜多子、喜
              久子、妹清智院
   つまり、二男が松島性となっているのである。

  振り返ってみますと、松島一族はもともと小笠原一族であり、箕輪松
島の小笠原氏ということで、松島が識別的な代名詞になって行った。いろ
いろな戦いの中で、殺害されたり討ち死にしたりして、結局1583年の与地
原の戦いにて義昌と戦い、最後の一族も討ち死にした後、離散した。
 この松島系小笠原氏と、既に1390年後半に遠江へ下りてきた山下系小笠
原氏はどうも同族的関係にある気配がするのであるが、どの程度濃い関係
にあるかが今後の課題である。

 松島系小笠原氏と山下系小笠原氏、
 市野氏と太田氏、
 小笠原源太夫と松島系小笠原氏、
 小笠原源太夫と太田氏、
 松島系小笠原氏と市野氏、
 ここまでは関係が少なからず見えた。

 最後に残るのは山下系小笠原氏と市野氏との関係―
 これを探ってみたいと思います。
 

[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月20日 22時26分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


二男  松島藤八郎源長賢  が  松島氏になっていますか。
驚きですね。


山下系小笠原氏と市野氏との関係は山下家の家譜に書かれているように思いますが。

市野氏は代官ですし、山下家は分家が郷士になっていて本家は松下氏に従っているんですから
当然名家の山下氏を市野氏が放っておくわけないです・・・

見つかると良いですね。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%85%89
源 義光(みなもと の よしみつ)

生誕   寛徳2年(1045年) 〜 死没  大治2年10月20日(1127年11月25日)

父:源頼義      母:平直方の 娘

兄弟:義家、義綱、快誉
           義家の子孫が清和源氏として出世頭ですね。


妻:甲斐守知実の娘ほか

子:義業、実光、義清、盛義、親義、祐義、覚義



平安時代後期の武将。
河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。
兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(加茂二郎)がいる。


近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。


嘉承元年(1106年)、甥の源義国(足利氏や新田氏の祖)と争って合戦に及び義国と共に勅勘を蒙る。


            あらあらあら
            さすが源氏
            一族の中での争いはすごい

同年の義家の没後に野心をおこし、河内源氏の棟梁の座を狙った。
その手段として、兄弟の快誉と共謀し、
義家の後継者として源氏の棟梁となっていた甥の源義忠、及び次兄の義綱の両者を滅ぼす算段を練った。

まず郎党の藤原季方を義綱の子の源義明の郎党として送り込み、
次いで長男義業の妻の兄の平成幹(鹿島三郎)を義忠の郎党として送り込んだ。


そして天仁2年(1109年)の春、義光は季方に義明の刀を奪うように命じ、その刀を成幹に与え、義忠暗殺の密命を下したのである。
その結果、義忠は闘死(源義忠暗殺事件)。

その現場に残された刀が源義明のものであることから、義忠暗殺の嫌疑は義明とその父である義綱に向けられる。
そして、義綱一族は、義光の勢力圏である甲賀山で義忠の弟で養子である源為義によって討たれるのである。

だが、実際に若年の為義が指揮をとっていたわけではなく、その背後には義光がいた(源義綱冤罪事件)。


また、義綱の郎党の藤原季方、鹿島三郎も義光(及びその指示を受けた園城寺の僧で快誉も含む)らの手によって殺害され、
事件の真相は闇の中へ消え行くはずであったが、
その真相が発覚し、義光は勢力の強い常陸国に逃亡せざるを得なくなり、源氏棟梁への野望は潰えた。


最期については大治2年(1127年)10月20日に三井寺で死去したとする説が有力。
病死とする説と殺害説がある。

殺害説では、自身が暗殺した義忠の遺児・河内経国に討たれている。

義忠の暗殺は源氏の凋落を招き、
源氏の凋落は院政の陰謀が原因であるが、
源氏内部での暗闘も衰退の原因であり、
その中心人物は義光であった。



義光は弓馬の術にたけ、音律をよくしたという伝説がある。古武道の大東流合気柔術では、義光を開祖としている。また、流鏑馬に代表される弓馬軍礼故実である弓術、馬術、礼法の流派である小笠原流や武田流などは、古の武家の心と形をいまに伝えている。そして武田氏の嫡流に伝わった盾無鎧や、南部氏が今に伝えた菊一文字の鎧などにもそれは見られる。

笙は豊原時忠から秘曲を学び、名器交丸を得た。後三年の役で兄義家の救援に赴く際、時忠が逢坂山に別れを惜しみ帰らぬので、義光は名器を失うことを恐れて返し与えた。この話が、時忠の弟時元が義光に秘曲を授け、その子時秋が秘曲の滅びることをおそれて足柄峠まで義光を送り、山中で伝授されたという、古今和歌集の時秋物語の伝説を産んだ。



義光の子孫は、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏、簗瀬氏と在地武士として発展した。


本家の河内源氏に対しては、
義光系の甲斐源氏(武田信義・加賀美遠光・安田義定など)が一族内で分裂をせず頼朝軍に合流したため、影響力を維持した。

ただしその勢力の大きさから警戒され、武田信義が失脚、
その子・一条忠頼が暗殺され、
加賀美遠光は逆に厚遇されるなど抑圧・分裂策により御家人化していった。

一方、常陸源氏の佐竹氏は、平家と結んで源義朝後の東関東に影響力を伸ばしたが、鎌倉幕府成立により所領没収となり、
後奥州合戦に加わって領地は戻るが振るわず、活躍は室町時代に入ってからである。


驚き・・・
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月20日 23時31分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:小笠原源太夫其長→小笠原源太夫基長

 小笠原氏のややこしい系図については、「日本の苗字七千傑」様の系図
を見させていただき、とてもよく分類されていて頭の中が整理できました。
おおよその見当はつきましたが、松島城の松島氏がこの筋だという確証は
まだありませんが、たぶん小笠原氏の中興の祖と言いますかミスター小笠原
の品格を確立した「貞宗」から始まって、「政長」「長基」「長将」「持長」
と続くその後裔の一画に松島小笠原氏は位置しているのではないか。
 山下小笠原氏については、「貞宗」「宗政」「宗安」、そして「政忠」が
山下氏に養子に入る。こちらはほぼ間違いなく確定と言っていいと思います。
 従って、両系統の共通の祖はミスター小笠原、後醍醐天皇に弓馬の指南を
した「小笠原貞宗」であろう。

 小笠原源太夫基長は松島小笠原系である確率は高い。通字でいくと「基」
がその証しになるかも知れません。まずは「長基」がいます。後は小笠原系
松島氏を各種資料から拾ってみましたら次の5人の内、BCの2人に「基」
が見られます。
 @松島貞実・・・1547年、木曽義昌により殺害
 A松島信久・・・1556年、狐島で処刑された8人の内の1人
 B松島刑部基忠・・・1565年死す
 C松島善兵衛基直・・・1582年、出川にて貞慶に加わり、深志城を攻
            めるも死す
 D松島 某・・・1583年、予地原にて義昌と戦い死す
 ま、これもまだほんのわずかな情報ではありますので、今後も拾って行き
たいと思います。

 小笠原源太夫は、また学者的頭脳もあり、次の著書もあるそうです。
 @『歴朝諌林 上・下』
A『新羅大明神祀記』

 なぜ源太夫は新羅三郎義光の「新羅」にとどまらず、大友氏までひきあい
に出したのだろうか・・・大友氏は大友皇子(親新羅派の天智天皇の皇子)に
直結するのだろうか。大友氏は一応ルーツは藤原氏となっているが・・・。
            


[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 02時26分05秒 ) パスワード

http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA82323912
『歴朝諌林』





歴朝諫林 5巻



小笠原, 基長
オガサワラ, モトナガ


小笠原, 長英
オガサワラ, ナガヒデ



書誌事項


歴朝諫林 5巻

小笠原基長編 ; [小笠原]長英校


瀬尾源兵衛, 享保13.11[1728][刊]
卷之1
卷之2
卷之3
卷之4
卷之5
.
タイトル読み
レキチョウ カンリン



大学図書館所蔵 1件 / 全1件


和漢古書につき記述対象資料毎に書誌レコード作成

表紙に「史三十七函」と墨書あり

印記: 「三合莊藏書」,「納戸藏本」


CiNiiについて
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[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 02時31分01秒 ) パスワード

歴朝諫林

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2518478


静岡県印刷文化史


永続的識別子info:ndljp/pid/2518478

タイトル   静岡県印刷文化史

著者     静岡県印刷文化史編集委員会 編

出版者    静岡県印刷工業組合

出版年月日   1967

請求記号   749.2-Si578s

書誌ID000001114383

公開範囲国立国会図書館/図書館送信参加館内公開



この資料は、国立国会図書館および図書館送信参加館の館内でご覧いただけます。

複写箇所が特定できる場合は、遠隔複写サービスもご利用いただけます
(歴史的音源、電子書籍・電子雑誌を除く)。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 02時36分01秒 ) パスワード

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152710/1/jor024_4_405.pdf

PDFなので開けられないです。



    窓8ではどうやるのか成功しないです。



編 ...



[PDF]KURENAI:Kyoto University Research Information Repository

by 衣川強 - ‎1966
禽史的考察を進めようとする前段階として、北宋前期五朝 ..... 歴朝宰相. の父租につい. て、その出身. 朕況をまとめ. が、この表について、今少し燭れ .... 書 諌林官補 ( 加〉士.



この本は中国の歴史と人物の考察?
または和訳をした?
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 02時43分48秒 ) パスワード

なんだか長上郡の服部氏は麻績服部氏と関係があったのでは?と思うようになりました。

麻績服部氏も伊賀服部氏ですから。
長上郡の服部氏も小笠原系でしょうか?
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 02時47分30秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101454.html

長上郡の服部氏族XLI(M氏家譜5)をご用意いたしました。
切りの良いところで  スレッド41へどうぞ。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 03時35分03秒 ) パスワード

http://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B0%8F%EF%BC%88%E5%BF%A0%E7%9F%A5%E7%B3%BB%EF%BC%89

小笠原長英について調べていたら、こんなのがヒットしました。
全然別人でした。


しかし三河や遠江関係の殿様もいらっしゃいます。
「基」の字の方も「この関係者かも!!!」の人=小笠原忠基
から頂いたのかな?と。



小笠原氏(忠知系)


小笠原忠知生没年:1599-1663父:信濃松本藩初代藩主 小笠原秀政幼名:虎松丸1625 書院番頭1626 大番頭1632 奏者番1632-1645 豊後杵築藩主1645-1663 三河吉田藩初代藩主従五位下壱岐守正室:(父:多賀光定)1624-1678 長矩長敦長定長秋




小笠原長矩生没年:1624-1678父:三河吉田藩初代藩主 小笠原忠知幼名:千勝丸別名:長頼1663-1678 三河吉田藩二代藩主1663 奏者番1666-1678 寺社奉行従五位下山城守正室:(父:丹波亀山藩初代藩主 菅沼定芳)1644-1690 長祐1650-1732 長重



小笠原長祐生没年:1644-1690父:三河吉田藩二代藩主 小笠原長矩幼名:千代松1663 従五位下1663 能登守1678-1690 三河吉田藩三代藩主壱岐守正室:黒田さん(父:筑前秋月藩初代藩主 黒田長興)1650-1732 (養子)長重




小笠原長重生没年:1650-1732父:三河吉田藩二代藩主 小笠原長矩義父:三河吉田藩三代藩主 小笠原長祐幼名:兵助通称:采女1672 従五位下1672 佐渡守1681 書院番頭1690-1697 三河吉田藩四代藩主1690 奏者番1690 寺社奉行1691-1705 京都所司代1691 従四位下1691 侍従1697-1710 老中1697-1710 武蔵岩槻藩初代藩主正室:(父:常陸谷田部藩三代藩主 細川興隆)長道1690-1752 長熙(養子)娘(信濃飯山藩初代藩主 本多助芳室)


                           このあたりかも!!!


小笠原長熙生没年:1690-1752父:武蔵岩槻藩初代藩主 小笠原長重1710-1711 武蔵岩槻藩二代藩主1711-1739 遠江掛川藩初代藩主従五位下壱岐守佐渡守山城守正室:松平染(父:陸奥守山藩初代藩主 松平頼貞)娘(遠江掛川藩二代藩主 小笠原長庸室)1715-1769 (養子)長賢1722-1744 (養子)長庸

                                 このあたりかも!!!


小笠原長庸生没年:1722-1744父:小笠原長丘義父:遠江掛川藩初代藩主 小笠原長熙幼名:久次郎1739-1744 遠江掛川藩二代藩主従五位下山城守正室:(父:遠江掛川藩初代藩主 小笠原長熙)1740-1776 長恭鍋姫(豊前小倉新田藩三代藩主 小笠原貞顕室)銀(河内狭山藩七代藩主 北条氏彦室)娘(丹波綾部藩五代藩主 九鬼隆貞室)



                            この関係者かも!!!!

小笠原長恭生没年:1740-1776父:遠江掛川藩二代藩主 小笠原長庸幼名:土丸従五位下佐渡守能登守1744-1746 遠江掛川藩三代藩主1746-1776 陸奥棚倉藩初代藩主正室:永姫(父:遠江守 小笠原忠貞、義父:豊前小倉藩三代藩主 小笠原忠基)1761-1812 長堯長富長英1763-1802 光(上野安中藩三代藩主 板倉勝意および出羽高畠藩初代藩主 織田信浮室)



小笠原長堯生没年:1761-1812父:陸奥棚倉藩初代藩主 小笠原長恭幼名:岩丸通称:津八郎従五位下佐渡守1776-1812 陸奥棚倉藩二代藩主1790 奏者番正室:(父:讃岐高松藩五代藩主 松平頼恭)千勝丸1788-1832 孝(河内狭山藩九代藩主 北条氏喬室)1789-1809 長瑗義八郎角之進篤三郎1793-1840 千重(小笠原長保室)1796-1823 長昌長恒



小笠原長瑗生没年:1789-1809父:陸奥棚倉藩二代藩主 小笠原長堯壱岐守正室:浅野時(父:安芸広島藩七代藩主 浅野重晟)


小笠原長昌生没年:1796-1823父:陸奥棚倉藩二代藩主 小笠原長堯幼名:篤三郎、津八郎従五位下主殿頭1812-1817 陸奥棚倉藩三代藩主1817-1823 肥前唐津藩初代藩主正室:連(父:肥前唐津藩三代藩主 水野忠光)側室:松倉氏1822-1891 長行言(播磨赤穂藩十代藩主 森忠徳室)1806-1862 (養子)長泰


小笠原長泰生没年:1806-1862父:出羽庄内藩七代藩主 酒井忠徳義父:肥前唐津藩初代藩主 小笠原長昌幼名:鎌之助従五位下佐渡守壱岐守1823-1833 肥前唐津藩二代藩主正室:1832-1911 [金民](父:生駒親道)1810-1836 (養子)長会


小笠原長会生没年:1810-1836父:小笠原長保、母:小笠原長堯女義父:肥前唐津藩二代藩主 小笠原長泰幼名:岩五郎従五位下能登守1833-1836 肥前唐津藩三代藩主正室:1821-1840 (養子)長和



小笠原長和生没年:1821-1840父:大和郡山藩四代藩主 柳沢保泰義父:肥前唐津藩三代藩主 小笠原長会幼名:元之助従五位下佐渡守1836-1840 肥前唐津藩四代藩主正室:1812-1877 (養子)長国


小笠原長国生没年:1812-1877父:信濃松本藩八代藩主 戸田光庸義父:肥前唐津藩四代藩主 小笠原長和幼名:賢之進従五位下佐渡守中務大輔1840-1869 肥前唐津藩五代藩主1869-1871 唐津藩知事正室:(父:常陸土浦藩八代藩主 土屋彦直)1848- 満寿子(老中 小笠原長行室)直子(出羽上山藩九代藩主 松平信庸室)1822-1891 (養子)長行



小笠原長行生没年:1822-1891父:肥前唐津藩初代藩主 小笠原長昌義父:肥前唐津藩五代藩主 小笠原長国幼名:行若通称:敬七郎1857 図書頭1862 奏者番1862 若年寄1862-1863 老中1864 壱岐守1865-1866 老中1868 廃嫡1876 従五位1880 従四位正室:満寿子(父:肥前唐津藩五代藩主 小笠原長国)側室:松田美和(父:松田迂仙)1867-1958 長生1872- 静1876- 艶子(夫:海軍中将 佐藤鉄太郎)1878- 丁(妻:小堀ツネ1892-)1882- 名村壬午郎(義父:名村泰蔵)



小笠原長生生没年:1867-1958父:老中 小笠原長行幼名:賢之進正二位勲一等功四級1884-1947 子爵1899 海軍少佐1904 軍令部参謀1904 海軍中佐1908 海軍大佐1914 海軍少将1918 海軍中将1921-1945 宮中顧問官妻:松平秀子(父:前橋藩知事 松平直方)1899-1979 武子(夫:子爵 藤堂高寛)1900-1946 長隆1902-1974 長英1906-1988 信子(夫:本庄宗久および今井泰蔵)1908- 日佐子(夫:佐々木隆一)1915-1946 長孝1916-1949 宏子(夫:松井久)1919-1994 長勝


小笠原長隆生没年:1900-1946父:子爵 小笠原長生映画監督1923-1926 小笠原プロダクション 小笠原明峰1935 廃嫡妻:行子



小笠原長英生没年:1902-1974父:子爵 小笠原長生俳優芸名:楠英二郎、小笠原章二郎妻:村田よし-1970(父:村田易国)



小笠原長勝生没年:1919-1994父:子爵 小笠原長生妻:加賀谷啓子1926-(父:加賀谷長一)








[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 03時47分48秒 ) パスワード

http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1200/WJJS24U/2213005100/?Word=%e5%b0%8f%e7%ac%a0%e5%8e%9f%e6%ba%90%e5%a4%aa%e5%a4%ab%e5%9f%ba%e9%95%b7&Relation=AND&TypPttrn=BODY&SelectPage=1&BfrDispId=WJJS06U


小笠原基長

『浜松市文化遺産デジタルアーカイブ』浜松市史 ニ


第五章 交通・産業経済の発展と町や村の生活 第四節 産業経済の発展 新田開発
五嶋新田と源太夫堀


浜松藩主松平資俊が五か村の願出により家臣小笠原源太夫基長に命じてこれを奉行させたので、村民がこれ

********************************


浜松市史 ニ

第七章 文化の興隆 第四節 教育の普及 浜松藩の藩校
水野氏以前の教育

【小笠原基長】なお、小笠原源太夫基長は元文六年(寛保元年、一七四一)佐野監物
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 03時55分50秒 ) パスワード

小笠原源太夫基長の殿様?



スレッド69に  小笠原源太夫基長は元文六年(寛保元年、一七四一)  とあるので

当時の殿様は  小笠原長熙公?

     小笠原長熙  生没年:1690-1752
            娘(遠江掛川藩二代藩主 小笠原長庸室)


次の殿様は娘婿の  小笠原長庸公  生没年:1722-1744
            父:小笠原長丘
            岳父:遠江掛川藩初代藩主 小笠原長熙

[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 04時04分50秒 ) パスワード

レス62
     小笠原源太夫は、また学者的頭脳もあり、次の著書もあるそうです。
       @『歴朝諌林 上・下』
        A『新羅大明神祀記』



Aについて   「ココ!!!」「ココも!!!」を付けました。
お読みください。

       って、三つ柏さんはご存じだったかも、ですね。



http://changon99.blog.fc2.com/blog-entry-81.html?sp


081.武田信玄と朝鮮半島.13.信玄の先祖


今日は『武田信玄と朝鮮半島』の最終回です。四の五の言わず、本題を短めに書きます。信玄のルーツをたどると、先祖は『源義光:みなもと の よしみつ』と言います。彼の本名は『新羅三郎義光:しんらさぶろうよしみつ』といいます。日本での出身は近江、現在の滋賀県となっています。歴とした朝鮮半島渡来人であり、『新羅国:しらぎこく:신라국』の人です。

Wikipediaや、インターネットでは「滋賀県の新羅善神堂(三井寺の近く)で元服をしてこの名前を授かった、新羅人ではない」と書かれていますが、これは間違いです。

私も最初の頃は、そう信じましたが、渡来人文化の書籍などで有名な、金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化 7』にも武田信玄の先祖は渡来人と書かれています。

その他、新羅善神堂や、静岡県浜松市史書などを調べると、分かってきます。これは明治以降に歴史を湾曲し、今に至るのだと私は思っています。詳しい内容は文章の後半に、私が簡単に書きましたので、お時間のある方はご参考にしてみてください。

つまり、前回書いたように『信玄の母の系統も朝鮮半島渡来人』『武田信玄直系も朝鮮半島渡来人の血筋』つまり武田信玄は朝鮮半島渡来人の血を、色濃く引き継ぐ人物ということになります。余談ですが信玄の旗『風林火山』の孫子の兵法も、中国から朝鮮半島渡来人が日本に持ち込んだものとされています。

そして、2013.5/13は、今からちょうど、440年前の1573.5/13に武田信玄が亡くなった日でもあるのです。さあ皆さんここまで知ったのですから、今日から武田信玄について、もっともっと知りましょう。

※源義光についての参考(お時間のある方はお読みください)
今回この結論に至るまで長い時間を費やしましたが、以下の内容でつながると思います。


                                 ココ!!!

浜松市に中田島砂丘という日本三大砂丘があります。この近くに新羅大明神という神社があります。だいぶ規模は小さくなり、中々見つけにくいのですが、これについて『浜松市史』の編集にたずさわった渥美清一氏が『浜松の新羅大明神と小笠原基長』という本にかなり詳しく書いています。



この本によると、浜松の新羅大明神は1723年の江戸時代に創建されたようです。そして小笠原基長が自分の祖神である滋賀県の新羅善神堂から勧請し、建てたそうです。さてこの小笠原基長という人物の先祖は、源義光で別名:新羅三郎義光であることから、新羅大明神を立てることは当たり前のことであったようです。


                                ココも!!!

ここで次の本になるのですが、小笠原基長は生前に『新羅大明神祀記』を書き残し、次の文章を残しています。


      「新羅善神堂は元々朝鮮半島渡来人の大友氏の神社であり、
       創建を新羅三郎義光がたずさわり、その上、新羅大明神の氏人(同族の意味)である。」
      と書かれています。


滋賀県の新羅善神堂は新羅系渡来人が建てただけでなく、義光自身が氏神を敬ったということなのです。また氏人とあることから新羅人ということも分かります。


つまりWikipediaや、インターネットなどで書かれている『源義光が新羅善神堂で元服して名前を新羅三郎義光にした』というのは間違いであり、源義光は歴とした渡来人だったのです。新羅三郎義光と名を改めたのは、先祖の名に戻りし行為だけでなく、自ら新羅一族の後裔(子孫)であることを名乗った行為だったのです。

そしてその直径の子孫、武田信玄は母も父も渡来人の血を引く子孫なのです。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 04時11分57秒 ) パスワード

数年前に、2005年から2006年あたりですが、
平熱で岡山の小林先生が


     平家はイスラエルのガド族で源氏はなんとかだ

とか


     平家は百済で源氏は新羅だ

とか


そんなことを何度も展開なさっていました。



新羅三郎なんて、まさに  シーラ=新羅  だろうなと思います。
                シーラってロスにあった焼肉の店の屋号=新羅の読み。


だけど本当に源氏って新羅?
そうなると源頼義って朝鮮の人?
遡って清和天皇が朝鮮の人?


桓武天皇の母上が朝鮮の人というのは知ってたけど。


よく分かりません。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 07時42分37秒 ) パスワード

小笠原家の系図を見ています。
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/ogasawar.htm


その流れの知久家を見ています。

http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/chiku.htm


 知久氏は信濃伊那郡の小豪族で、『寛政重修諸家譜』では清和源氏満快流を称し、
清和源氏の祖源経基の子満快の子孫中津小太郎頼継を知久氏の祖としていますが、

どうもその出自は諏訪上社・下社の大祝家と先祖を同じくする他田直に溯るようです。

      諏訪家って他田=オサダ=の子孫?




 他田左衛門尉信隆の三男信貞が上社大祝敦光の子知久十郎敦俊の養子となり知久右衛門尉を称し、伊那郡の土豪として続きました。


南北朝の頃は南朝に属しました。頼元は武田信玄と戦い没落しましたが、その子頼氏は信長・家康に仕え、
その子則直の時に采地三千石を賜い交代寄合に列しました。


 昌直の代に叔父直次に三百石を分知し、二千七百石で明治維新まで続きました。

 ところで、文政12年(1829)5月に、知久頼衍は江戸からの帰途、天竜川の竜ノ口の渡し場を渡ろうとしたところ、
雨降りで増水していたため頼衍の駕籠とお供の人々や道具類を満載した船が転覆し、頼衍自身は百姓に辛うじて助けられたそうです。

この話は「知久の殿様川流れ」として語り伝えられているそうです(^^;)
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 07時47分42秒 ) パスワード

http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/nakajima.htm#katuhidef

小笠原家の流れの中島家で
この家はなぜか藤原秀郷の子孫になっていて

この系図では藤原千方は千常=智常=の子になっています。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 13時37分52秒 ) パスワード

過去スレや、頂いた「M家資料展」を読みながらいろいろ思ったり発見したことがございました。

発見したことは「霞城」が存在したこと。


A)
    復習スレッド37のM氏家譜 2 
    http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101443_52.html

    のレス4より

     @満仲より数えて8代目の小笠原長清が松島氏の祖のようです。
     A長清より数えて7代目の小笠原長親が服部(麻績)氏の祖のようです。
     B長清より数えて11代目の小笠原持長が松島信久の祖のようです。
     C長清より数えて16代目の長時が武田信玄に敗れております。
     D  同    17代目の貞慶が家康に仕えております。
     E  同    18代目の秀政も家康も仕え、古河3万石、信康の娘を妻としております。
     F長清より数えて19代目の忠脩は家康の曾孫松平忠脩であります。
     G大草氏は小笠原氏を祖としています。


     ということで、長上郡の服部氏は  小笠原氏子孫  で良いのか?と。



B)

M氏11代格太郎さんですが松島十湖から「霞城」の雅号を頂いたと書いてありまして


雅号って
思い入れがあると思うのです。


それで検索したら実際に「霞城」がありました!


http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-155.html


2011ー06ー12


霞城(長野市)

Category: 信濃の城 > 北信濃 更埴・長野編
    ★総石積の城 最終進化形?★


この城への登城口は、山麓の大室公民館を西へ進み先の十字路の右の永福寺を目指すと案内板が立っている。

麓にある永福寺は、大室氏の菩提寺だったというが今では侘しいお堂が残るだけである。

比高60mなので、平山城の分類に入ると思う。



      ≪霞城のなりたち≫

       読みは「かすみじょう」又は「かじょう」跡。長野市松代町大室にある。
       別名・大室(おおむろ)城跡。

       奇妙山(きみょうさん)から伸びた尾根が崖となって千曲川に落ち込み、
       三方は断崖で囲まれた要害堅固な城で、松代町大室を領した大室氏の居城といわれる。

       地元の人々が「向山(むかいやま)」と呼ぶ山の頂上にあり、
       松代と高井郡の関門というべき交通の要衝に築かれ、川中島合戦のころは、海津城の北方を守護した。

       山の先端が切れた竜(たつ)の口と呼ばれる岩場のあたりまでかつては千曲川が流れていたが、現在は住宅地となっている。



       伝説によると、城主の守り本尊であった聖観音の加護により、敵が攻めてくると霞がかかって城を覆い隠し、
       攻め難かったことから「霞城」と名づけられたという。


       国指定史跡大室古墳群の中にあり、城域の中にも古墳がある。


              〜長野市「信州・風林火山」特設サイト川中島の戦い〜より引用


南の尾根を下ると大室古墳群となる。霞城一帯も古墳を利用した城で、金井山城、鷲尾城などと極めて類似している。

もともと北側尾根の先端にあった竜の口の南北朝の古い砦を南へ拡張して戦国期に新たに築城したと思われる。


                   明治天皇は南朝方天皇の子孫の大室寅之助だったとか
                   噂を聞いたことがあります。

                   伊藤博文の家に養われていたとか。


                   だから明治天皇がわがままを言うと「昔の身分に戻しますよ」と脅したとか。

                   さらに明治天皇は「南朝方が正統の天皇家」と発言して伊藤博文を慌てさせたとか。


                   この大室氏って、明治天皇と関係があるのかしら?
 


北側の尾根からは激戦を繰り返した旭山城、葛山城が望める。



≪霞城≫

小笠原長清の末裔が大室氏を名乗りこの地を支配する。

その後、村上義清に属するが、村上氏が武田に敗れ越後に逃れると武田に降る。

武田氏滅亡後は上杉の配下となり、上杉景勝の会津移封に大室氏が同行するに及び廃城。

標高600m 
比高60m
築城年代:不明
築城・居住者:大室氏
場所:長野市松代町大室
 
お勧め度:★★★★☆
所要時間:15分
見どころ:石積み、稜線からの景色、古墳群
その他:駐車場は大室神社を利用。



長野電鉄大室駅から見る霞城の左奥の山は尼巌城。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 13時43分26秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%9E%E5%9F%8E_ (%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD)

霞城 (信濃国)(長野県)


別名
大室城

城郭構造
山城

天守構造
不明

築城主
大室氏

指定文化財
なし


霞城(かすみじょう)は長野県長野市にあった日本の城。



概要[編集]

現在の長野市松代町大室付近の豪族、大室氏の居城であった。

敵が攻めてくると、霞がかかったように見えなくなることからこの名がある。
大室氏は武田氏滅亡後、織田信長の家臣、森長可に仕えた。

しかし森長可は本能寺の変で後ろ盾を失って撤退したため大室氏は上杉景勝に従う。
その後、上杉氏の会津移封後、大室氏も会津に移った。


現在は、主郭部付近に石垣が残り、保存状態も良好。
この付近でこのように堅固な石塁が残る山城は他に鞍骨城、鷲尾城、雁田城と数えるほどで珍しい。

また近くには大室古墳群があり、前方後円墳が城郭の一部になっている珍しい城である。



関連項目[編集]
川中島の戦い
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 13時46分44秒 ) パスワード

霞城について


http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/nagano/kasumi.html

コピペ出来ません。
内容は殆ど似ていますが
参考になりますので御一読を。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 13時48分40秒 ) パスワード

ということで
M氏11代目格太郎さんの雅号は「深い意味」があったのでは?と
想像しました。
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月21日 13時54分06秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101454.html

そろそろ  スレッドXLI 41  M氏家譜5に移りましょう。
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