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 投稿番号:101449 投稿日:2015年05月11日 10時06分40秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族]]]\(M氏家譜3)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「長上郡の服部氏族]]][(M氏家譜2)」からの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月11日 10時07分21秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101443_71.html
からの続きです。
[2]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月11日 13時23分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「家譜2」の方に私の「推理」を書きました。見て下さい。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月12日 04時10分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。

ずっと以前に「源右衛門と源左衛門」の件は教えてくださっていて、拝見していました。
まったく関連付けられませんでした。
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月12日 08時40分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は源右衛門家と源左衛門家の両方について、関連性をずっと調べて
おりました。まだまだ道は遠く感じております。
 この両家のこちらでの元祖の動き、そしてたぶん信濃であろう氏祖の動
きについて調べなければなりません。
 松島城の松島豊前守信久が処刑されたのは、1556年でありますので、
そちらの流れではない。同族だとしても、150年位先行してこちらに下
って来た松島氏一派があったはずです。
 また松島氏がいつから起こった(名乗った)のか、系統の違う松島氏が何
系統かいたのか・・・そこが調査の最大のポイントです。
 一度、寛政重修家系譜をあたってみます。

 本日山下家と松島家に関する資料を送ります。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月12日 14時22分41秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。
楽しみに待っております。


藤原智常さんが見つかりました。
大恥

M氏家譜の最初のご先祖さまの源宗忠さまの奥さまのお父上でした。
最初だった・・・


このご夫婦のお子様の宗茂さまが1451年生まれ。
この宗茂さまは  戒名が  天中院青渕3代目。

何か分かると良いのですが。



藤原千常の復習:

http://books.google.com/books?id=aasUStK2QNoC&pg=PA88&lpg=PA88&dq=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%83%E5%B8%B8%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=1qCSIL-4F1&sig=-8FJnOCAU3R6jheFc8TWag6Mq5o&hl=en&sa=X&ei=FYtRVYmXF4XyoATqkYDAAQ&ved=0CFwQ6AEwCQ#v=onepage&q=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%83%E5%B8%B8%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

寛永諸家系図伝 索引

千常
F147,243
G1、97,144,176,193
N249,265


智時=千時
F146
G143


千晴
G34,143
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月12日 14時26分31秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=xio3AAAAIAAJ&q=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%99%BA%E5%B8%B8%E3%80%80%E3%81%AF&dq=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%99%BA%E5%B8%B8%E3%80%80%E3%81%AF&hl=en&sa=X&ei=WI5RVbzZN4PwoAS8tIDwAQ&ved=0CCUQ6AEwAQ


姓氏と家紋

Page 49
參佐藤系図藤原秀郷に始まり、佐藤継信の曾孫公賢で終っている。
秀郷—智常 I 文倏—文行 I 條行 I 弟,公光 I 公仲 I 公輔(佐藤大夫) —師清とつづく。

(なお秀郷の子の智常は尊卑分脈はじめ諸系図では千常が多い。〕
次いで師文が秋田城介、師信が鎮守府 ...



やはり藤原智常=藤原千常で良いようです。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月12日 14時43分21秒 ) パスワード

藤原智常の娘とされる於美知さまですが戒名が  郷高院貞松大姉  です。

これ、すごい戒名ですよね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%92%E5%90%8D

院号・院殿号

生前に寺院や宗派に対して多大な貢献をした者、あるいは社会的に高い貢献をした者に贈られる号である。

本来ならば院は、皇族などが寺院の建立などの布施行をした場合に、その徳を称えて「院号」が送られ、
武士が寺院の興隆などの布施行した場合には「院殿号」が送られた。

そのため、院殿号より院号の方が格上とされる。
しかし、現在では字数や見栄えなどから院殿号の方が格上とされる。



ということは、このお美知さまはかなり身分の高い女性だった?

でも藤原智常は平安時代中期の人なので
お美知さんの父上は秀郷の子の秀郷ではないと思います。



しかし  戒名の「郷」の字は秀郷から来ているのかなとも思います。


智常は  小山荘寒河御厨を本領としてたそうなので  ここも調べなくては。
例えば、室町幕府と江戸幕府の歴代将軍の大半は院殿号を贈られている。 将軍は死後の古文書・古記録では戒名で呼ばれるが、これは貴人の実名を呼称することを忌む習俗によるものである。

また、金地院崇伝のように、生前から戒名の上に院号を付けて名乗る者もいる。 これは寺号・院号がもともと僧侶の住坊名・開基となった寺院名からきているためである。 具体的な院坊の名である場合と、法華宗の高僧(仏性院日奥)や真宗の本寺住持(信楽院顕如)のように名乗りや死後諡号である場合がある。

院号・院殿号を用いない宗旨

律宗では用いない。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月12日 14時46分46秒 ) パスワード

寒河御厨【さむかわのみくりや】

下野国都賀(つが)郡にあった伊勢神宮の御厨。
《和名類聚抄》所載の都賀郡小山(おやま)郷を中心とする地域に成立したとみられ,
現栃木県小山(おやま)市から下都賀郡野木町にかけての思川流域に比定される。


さむかわのみくりや【寒河御厨】

下野国都賀郡にあった伊勢神宮の御厨。
現栃木県小山市付近。
小山荘ともいい,小山氏の重代の屋敷があった苗字の地である。

平安末期,後白河院領であったが,
1166年(仁安1)長日御幣用の料紙を内・外二宮の供祭物として備進するため,
院より伊勢神宮へ寄進された。

92年(建久3)当時の給主は神祇権大副為季。

1213年(建保1)院より重ねて寄進され,一円神領となった。

面積180町。

御幣用の紙360帖のほか,
内宮へ絹5疋,雑用料として絹93疋・綿20把・白布200段,
外宮へは八丈絹10疋・四丈布10端,
雑用料として絹10疋・布90端を備進することになっていた。




伊勢神宮の名前が出ました。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月12日 14時56分10秒 ) パスワード

新田義貞の名前が出て来るのです。

目次あたりでもご覧ください。

岩松氏が気になるのです。



http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/html/10129/647/tm_428_yoshizawa.pdf


[PDF]東国武士と新田一族の盛衰 - 弘前大学

by 吉澤克明 -                     修士論文のようです


鎌倉を攻め滅ぼして、その後は悲劇的な最後をむかえたということぐらいしか、小・ ...... 配を行い、苗字地で「重代屋敷」たる小山荘(寒河御厨)、および国府郡内の国衙領を ...
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月12日 15時13分02秒 ) パスワード

http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/nogijinja.html#top

小山朝政が志田義廣率いる大軍を破ったと伝わる野木宮合戦の跡、野木神社の周辺


藤原秀郷の子孫

 
藤原千常・・・970年に鎮守府将軍、他に美濃守。本領は父から相続した小山荘寒河御厨(伊勢神宮領・現在の小山市。後に小山政光が領有)

藤原文脩・・・永延二年(988)鎮守府将軍。摂関家に従った軍事貴族。従五位下・鎮守府将軍・下野国押領使

藤原文行・・・兼光の兄。検非違使、下野守  寛弘三年(1006)に藤原正輔(顕忠(従二位・右大臣)の子)と争って罪を得る。

藤原兼光・・・1012年から鎮守府将軍

藤原成行・・・伊勢崎淵名城主(新田の西隣が淵名荘) 桐生氏・佐野氏・大胡氏の祖?

           「淵」という字が宗茂さまの戒名の天中院青淵3代目と関係があるのかな?と



要するに  藤原系足利氏  vs   源氏系足利氏   vs  源氏系新田氏 の関係があるから

藤原系足利氏と新田が手を組んでもおかしくないな、と。


     もしM氏の丸一紋が新田氏から来ているとしたら有り得るかな?と。




【 吾妻鏡 養和元年(1181) 9月7日 】  

従五位下藤原俊綱(足利太郎)は武蔵守藤原秀郷の後胤であり、
鎮守府将軍で阿波守に任じた兼光から六代後の子孫足利家綱の息子、
数千町に及ぶ所領を支配する地域の棟梁である。

にも関わらず仁安年間(1166〜1169年、清盛が従一位太政大臣に就いたのが1167年)にある女性を殺害した罪により
下野国足利庄の領主職を没収され新田義重が後任となった。

俊綱は上洛して重盛に愁訴し結果的に返還されたが、
その恩に報いるため最近は平家に臣従し、嫡男の又太郎忠綱は志田義廣に味方した。

また俊綱は鎌倉にも伺候していない。


頼朝はこれらの行為を容認せず、和田義茂に三浦義連・葛西清重・宇佐美實政らを副えて俊綱追討を命じた。
今日、まず和田義茂が鎌倉を出発した。

.
※数千町の所領:一町歩を約1ヘクタールとして約5,000ヘクタールと仮定。
現在の足利市は総面積18,000ヘクタールで半分は北部の山地だから
藤姓足利氏は当時の耕作地の少なくとも半分以上を占有していた強大な勢力と考えて良さそうだ。
.


[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月12日 15時18分39秒 ) パスワード

復習
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_30.html


藤原千常・兼光系

千常流では、秀郷から数えて5代に渡って鎮守府将軍に任じられ(「結城系図」によればですが)関東北部から奥州にかけて勢力を広げます。

秀郷から4代目の兼光については、あまり史料は残っていないようですが、その子、孫、甥に受領任官が多く、京武者・軍事貴族としてそれなりの評価と地位はもっていたと見ても良いでしょう。
しかし、「平忠常の乱」で疑われたためか、京武者・軍事貴族として秀郷流藤原氏を代表するのは兼光の甥にして娘婿、相模守公光の方に受け継がれた様に見えます。
その後、この兼光系の子孫達は受領の選考に登ることはなく、国衙の在庁官人を兼ねながら北関東の各地に土着していったと見て良いと思います。頼朝挙兵時に北関東で大きな勢力を持っていた小山、藤性足利、下河辺(常陸)はこの兼光の子孫です。

秀郷の子・千常

•従四位下・鎮守府将軍・美作守・大夫尉下野守護(結城系図)


•千晴が係争で調べられた同じ年の安和元年(968)末、信濃国から千晴の弟の千常の乱が奏上されている。


•さらに、約十年後、下野国が前武蔵介藤原千常と源肥が合戦におよんだという解文を奏上しているそうです。 坂東千年王国、「伝説の将軍藤原秀郷」(野口実 p52)


•子:文脩


藤原文脩

•父:千常 


•従五位上・鎮守府将軍・舎人頭・陸奥守(結城系図)


•「小右記」988年10月3日条「今日、直物、少叙目あり・・・・、鎮守府将軍藤文脩。選か、くだんの文脩は摂政の賀料、皇太后宮に任料を納めらるると云々」 「伝説の将軍藤原秀郷」(野口実 p68)
「選か」とあることで、文脩は中央に出仕してそれなりの評価を得、実績をあげていたことが判る。


•子:文行、兼光


藤原文行

•父:文脩、千常の孫


•左衛門尉 従五位下


•「御堂関白記」1006年6月16日条に平正輔と口論喧嘩から検非違使に追われ道長宅に逃げ込む。


藤原兼光

•父:文脩、千常の孫、


•従五位下・鎮守府将軍・阿波守(結城系図)


•従五位下左馬允・鎮守府将軍(小山系図)


•1012年から鎮守府将軍を二度務る。
同じ名前の太政大臣が居ますがもちろん別人です。時代も違うし。


•平忠常の乱のとき、忠常は下野の藤原兼光を通じて追討使に講和への意志を伝え兼光はそれを京へ伝える。京では後一条天皇から、兼光に忠常の所在を問い質してはどうかという意見が下される。(小右記) 


•乱の後、藤原兼光は忠常の乱への同与の風聞があり出家。(小右記)


•子:正頼、頼行、行範、貞光




藤原正頼

•父:兼光


•従五位下・左馬允・鎮守府将軍(小山系図)


•従五位下・下野権守(結城系図)


藤原頼行

•父:兼光、 


•右近衛将監、「小右記」1014年12月25日条 近江国に住み、悪事を働くので道長の子に召還され、その従者と合戦に及ぶ。


•1022年の叙目で鎮守府将軍


•従五位下・下野守・鎮守府将軍(小山系図)


•鎮守府将軍・従五位下・左近将監・安房守・下野守(結城系図)


•子:兼行、武行


藤原行範

•父:兼光、


•左馬充? 壱岐守  (結城系図)


•1024年の叙目で壱岐守、道長に臣従 「小右記」


•子:行高


  行高

•父:行範、


•武蔵守(結城系図)これは疑問、尊卑分脈では大田権守


行善(ゆきよし)

•尊卑分脈では父:行範だがおそらく誤記


•「春記」に「前将軍頼行の子行善」、文章生を採用する式部省の試験を受けている。


貞光

•父:兼光


•従五位下・対馬守(結城系図)


兼行

•父:頼行


•散位従五位下・安房守・下野守(結城系図)


•藤性足利氏の祖


武行

•父:頼行


•従五位下・壱岐守(結城系図)


行隆(尊) 


•父:武行


•太田大夫(従五位下)、下野介(小山系図)


•別当大夫宗行(結城系図)


行政(快實) 

•父:行隆(尊)


•太田大夫(従五位下?) (小山系図)


•二郎(結城系図)


行光 

•父:行政


•太田四郎(小山系図)


•四郎(結城系図)


•子:小山政光、下河辺行義


小山政光

•父:行政


•下野大掾


歴史学研究773(2003.3)での 松本 一夫著『東国守護の歴史的特質』 の紹介ですが。


 ・・・・相伝の職とされる権大介職と押領使を分析し、両者は同一のもの(兼帯)として認識されていたことを指摘し、・・・・国衙守護人制を鎌倉期守護の前提として把握する説を批判している。また、下野における支配権を相対化し、宇都宮氏や藤姓足利氏などをその下部に包摂するものでなく、野木の宮合戦の動員も小山一族に限定され、それを超える部分は源頼朝の指令によって成されたと指摘しており、小山氏の権力の強大さを一義的に説く論者に対して批判を加えている。


つまり、従来は『吾妻鑑』の記事をほぼ無批判に受け入れて、小山氏は既に平安末期段階で下野国内に圧倒的な支配を及ぼしうる実力を有していたととらえられてきたが、これは過大評価じゃないかと。そうなのかもしれません。


下野国の小山氏は頼朝挙兵以前から源義朝・頼朝親子と深い関係にあります。源義朝は保元の乱の前に下野守であり、乱後も下野守を重任しています。小山氏はその下野の国衙で世襲の権大介だった関係からか、小山政光の妻寒河尼は嫡男頼朝の乳母夫になっています。乳母は何人も居るのですが。 この小山政光の妻寒川尼は嫡男朝政三男朝光を連れ、武蔵隅田宿の頼朝の陣営に参向したことが『吾妻鏡』にあります。(参考: 源氏神話の創出)

下河辺行義

•父:行政
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月12日 15時23分06秒 ) パスワード

M氏の伝承の  新田・南総里見八犬伝 これは  於美知さんの家の藤原智常がらみのことでしょうか?


於美知さんは  藤原秀郷ーー智常父子   の子孫なんでしょうか?
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 03時44分50秒 ) パスワード

於美知さまから考えると黒川の松島氏がどうしても浮かんで来ます。


復習
http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1_0.htm

阿久沢・松島両氏と黒川八城


阿久沢氏と松嶋氏



かつて、黒川谷の郷士の旗頭は阿久沢、松嶋両氏であり、
永正7年(1510)以前に松嶋左衛門が、桐生氏に属したことから、黒川郷士は桐生氏に従属する一方で、

戦国期を生き抜くために、上杉、後北条氏と、大きな勢力を背景に、独自の勢力圏を確保、

後に太田金山の由良家に仕えることを余儀なくされ、
後北条氏の小田原合戦に加担したことで、多くは帰農したが、
その戦国期を生き抜いた戦略からは現代の我々も学ぶところがある。



黒川郷士は前九年の役で捕虜となった安倍宗任の家臣の末裔という伝承があるが、今回、本当のところはどうなのか、
阿久沢氏の出自を探ってその答えを模索したいのと、

松嶋氏で歴史上初めての登場人物となった松嶋左衛門とその子孫について述べ、また黒川郷士が拠った黒川八城についても紹介したい。



                      松島左衛門!
                      近いですよね。

続く
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 03時49分00秒 ) パスワード

阿久沢氏の出自について              なのでスルー願います。



阿久沢氏は、黒川郷士の旗頭的な存在であったが、俗に言う奥州安倍宗任の家来(族臣)が源義家の安堵状をもって土着したという話は、戦国時代に周囲の諸将からの侵略に対し、独立を維持するための方便であって、実は加賀の国に名前の由来をもつ桃井氏末流である。



安倍氏の子孫という伝承は、同じ群馬県の水上にもあり、やはり源義家の降人云々といった話である。


これは阿久沢氏が徳川家直参の旗本に取り立てられた所以でもあるが、後に幕府に提出された由緒書にも、阿久沢氏は桃井氏の系統であることが明記されている。



寛政重修諸家譜には「先祖は桃井の庶流にして加賀国津々井里愛久沢の邑に住せしより、地名をもって家号とし、のち文字を阿久沢にあらたむ」という阿久沢長右衛門行次〜弥左衛門広高の系統と「家伝に九条左大臣師輔が三男師高大隈国愛久沢に居住し、愛久沢判官と号す(略)其末孫対馬守直定入道道範上野国深沢城に住し阿久沢にあらたむといふ、此家伝證すべきものなく疑ふべし」という阿久沢専左衛門直富〜丑助直内の系統の二家をのせているが、後者の家伝は後世に作られたものと思われ、「疑ふべし」の言葉通り信憑性がない。


両系統とも家紋は洲山(須山:州浜)紋が共通しており、前者はさらに二引両の紋も使用している。二引両は言うまでもなく、源姓足利氏とその分流の用いた紋であり、桃井氏もこれを使用している。両家とも、深沢城主であった阿久沢氏の末裔で、いつの頃か分家したものであろうが、室町・戦国の世ならともかく、旗本として徳川幕府の内部にあってなぜ先祖を別々に名乗るのか理由がよく分らない。何か直富〜直内の系統は、桃井の流れであることを隠す事情でもあったのであろうか。一方、深沢城址に建つ正円寺に残る阿久沢氏代々の墓の銘には丑助直内などの名前が見られ、阿久沢専左衛門直富〜丑助直内の系統の方が深沢城主であった阿久沢氏直系と思われる。通字である「直」も、桃井直常の「直」など桃井氏の通字を思わせるのだが。また、阿久沢氏の旗下にあって戦国期に後北条氏から感状を受けるなどした目黒氏の先祖書でも、阿久沢氏の出自を「本国播州桃井の庶流」とし、武者修行のために上州へきて深沢城主となったとしている(黒保根村目黒八重治家文書)。これは本国を播州としている以外は、前記の阿久沢長右衛門行次〜弥左衛門広高の家譜に近い。



桃井氏は北朝・南朝と一族のなかが割れていたようであるし、桃井直常のような桃井氏主流も、足利直義に従った観応擾乱の後は、足利幕府に対して南朝に降伏して敵対し、数度にわたって京都を占領している。いわば足利幕府からみれば、お尋ね者であった。赤城山南麓の宮城村から神梅、深沢にかけて、山中に潜むように室町から戦国期に活動してきたことや、同じ赤城山南麓で新田氏ゆかりの新川には、「桃井の腹切石」(新里村新川字桃井大屋)という南朝についた桃井氏(桃井尚義か)の古跡もあり、阿久沢氏はこの南朝方の桃井氏の出自ではないかと推察する。



新川の鏑木氏所蔵古記録に「三寶院配下、桃井山南善寺照明院 在所新屋敷 當アラ宮 桃井大明神 大屋小社地 祭主照明院 新田旗下 桃井を祀ると云 本村異名村主格式帳中、安養院殿 新田義重公 桃井神社祭主桃井末孫照明院 桃井山照明院 御先祖新田末」とあり、この桃井神社は桃井次郎尚義を祀るという。


                              静岡の阿久沢さん?
明治4年に、前述の阿久沢直富〜直内の子孫である、静岡県少属阿久沢直道が前橋藩庁に提出した由緒書では、九条家云々ではなく奥州前九年の役で降った安倍宗任の家来が土着したとの伝承に続き、愛久沢対馬守直定入道道伴の代に至って上杉管領(関東管領上杉謙信)に属す、道伴より愛久沢の愛を阿に改めたとあり、対馬守直定より二代目が阿久沢対馬守貴綱、三代目阿久沢左馬允綱次は北条家に属し、四代目阿久沢能登守直崇は深沢城主にして北条家に属するため、北条家よりの感状数通あり、天正18年(1590)小田原北条没落の後、深沢城の麓なる神梅に退去、城地に天台宗正円寺を建立したという。今も正円寺には阿久沢氏の代々の墓があり、寛永14年(1637)6月20日に亡くなったという能登守直崇の墓も大きな自然石に「宗無居士」という戒名が刻されて墓地の中ほどにある。



筆者の母方の本家は、この阿久沢の四天王の一つといわれる家で、阿久沢氏から拝領したという越前下坂の脇差が残っていたが、その脇差は江戸初期のもので神梅に退去した能登守直崇か後代の当主の誰かから貰ったと想像する。



阿久沢氏に限らず、黒川郷士につきまとう安倍宗任の家来が土着したというルーツ話は、後世の「話」であって、これは確たる証拠もなく、あくまで筆者の推論であるが、高草木氏(元は真野氏)が京都周辺の出身であるといわれるなど、黒川郷士には上方から来た人々も多かったと思われ、南朝の影が感じられるのである。

[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 04時12分00秒 ) パスワード

五蘭田城に拠った松嶋左衛門の悲話とその後の松嶋氏



黒川郷士は室町中期くらいまでは独立した武士団として、諸大名の支配をうけていなかったと思われる。


ところが、桐生の領主であった桐生靱負亟重綱は、前原美濃に命じて突如黒川谷に出兵し、
五蘭田(五覧田、五乱田とも書く)城の松崎左衛門を降した(「桐生地方史」岡部赤峰、「桐生市史」桐生市)。
                      松崎は松島の誤字



そして、桐生重綱は家臣岩崎大六の姉を側室にしていたが、その側室が生んだ女子を左衛門に嫁がせ、友若という男子が生れている。


永正7年(1510)に北条早雲に呼応して主君である管領上杉憲房に反乱をおこした上田蔵人が立て籠る武州神奈川権現山城を攻めるという、山内上杉氏の号令に対して、桐生重綱はこの左衛門を名代にして派遣した。


                            松島左衛門殿お討ち死に
永正7年(1510)7月28日、左衛門は戦死し、残された妻子は一時同族によって夜討をかけられて避難したが、

後に和談がなって、友若が左衛門を名乗り、本家家督を継いだという。



この松崎氏は上杉謙信の作成させた永禄4年(1561)の関東幕注文には「松崎大和守 根篠」と記されている者の先祖であろう。

                  松崎にはあらず、正しくは松島


ところが、「松崎」という苗字は五蘭田城のあった勢多郡東村になく、周辺地区にも殆ど存在しない。


                 
                   渡良瀬は足利と新田が水争いをしたところ
                   西に新田⇔渡良瀬川⇔東に足利↗北東に藤原秀郷の佐野
「桐生地方史」の著者岡部赤峰も「渡良瀬沿岸地方史蹟」のなかで「松崎」は「松嶋」の間違いであろうとしている。


        実際、電話帳掲載の名前を調べても、勢多郡東村で松から始まる苗字は
       「松島」(「松嶋」等を含む)が63件、その他3件の登録であり、
        隣の黒保根村では「松島」(「松嶋」等を含む)が30件(うち上田沢居住が20件)、
        その他、黒川郷士で天正16年(1588)紀銘の石幢を建立した
        松井備後守の子孫と思われる「松井」4件ほか7件(「松崎」姓の登録はない)である。
        他地区からの流入者が多いと思われる大間々町や桐生市では「松崎」姓の登録もあるが、数の上では圧倒的に「松島」が多い。




やはり、松崎左衛門は、「松嶋左衛門」であって、
かつて関所があったといわれ、
小黒川と渡良瀬川が合流する現在の勢多郡東村荻原字関守に、
関所防備のために砦程度の単郭の城
      (通常五蘭田城という山頂にある城は戦国期に黒川郷士が築き、
真田や由良の手に落ちた後、
       後北条氏に後援された阿久沢氏らが奪回、整備したもの)
を構え、小中や沢入に同族がいたと思われる。

                 ⇅このあたり非常にM氏の関係を彷彿とさせます

元亀4年(1573)由良成繁から安堵状をうけた松嶋右京助は、
安堵状が見つかったのが黒保根村上田沢の松嶋家であり、
上田沢辺りの住人と見られ、

また上田沢には皿窪の砦や寄居など、五蘭田城の周辺城砦が存在することから、

五蘭田城に拠った松嶋氏は、上田沢に平常時住んでいたのではないだろうか。



権現山合戦の後、前述のような経緯があって左衛門の跡を継いだ友若と寡婦となった母とは、
かなり後にはなるが再び桐生氏の政略結婚で引き離されることになる。


つまり桐生氏は、左衛門未亡人を赤城南麓に勢力を張った膳城の城主膳因幡守に再嫁させ、
膳氏の取込のための政略に利用したのである。

膳氏と桐生氏の対立はいつに始まるかしれないが
      (一説に桐生氏の家老格であった、摂津細川氏の末裔である細川内膳が天文13年(1544)3月2日に
       突如桐生大炊介祐綱に討たれ、膳氏はこの妹婿の仇をうつ機会を狙っていたという)、


膳氏はついに天文13年(1544)7月15日に21騎500人の兵を組織し、桐生を攻撃すべく進軍、
桐生勢は家老の谷丹後守浄綱(一説に里見上総介勝広)を大将に迎え撃って、
桐生近くの渡良瀬川畔の間の原(あいのはら)で戦闘に至った。


                       ↑
                      里見氏降臨



その結果、間の原、笠懸野と合戦し膳勢の敗色が濃厚となった夕方に、
膳城近隣の曹洞宗龍源寺の和尚の仲裁により、和睦が成立、
膳因幡守は弟大学と家老の鶴見玄蕃を人質として桐生に差し出した。


その後桐生祐綱からの要請で、
祐綱からは異母妹にあたる松嶋左衛門未亡人との政略結婚を受け入れた膳氏は、人質を返還され、桐生の幕下についたのであった。


実に左衛門戦死から34年後であり、松嶋左衛門未亡人も年配になっており、名ばかりの結婚であることは言うまでもあるまい。



一方、左衛門を神奈川の合戦場に赴かせた桐生重綱は、
永正13年(1516)10月荒戸野での鷹狩の際に突然死した愛馬浄土黒から落馬してなくなった。


                        宗茂の奥様の戒名が「青光院柳条大姉」で柳があります
桐生重綱の子祐綱は、浄土黒を埋葬した場所に柳を植えて弔ったといい、
その柳は桐生大炊介手植ヤナギとして群馬県指定天然記念物となっている。



松嶋左衛門、友若の後、松嶋氏がどうなっていったかは、松嶋氏の子孫が保有する古文書類や江戸時代に書かれた軍記類、その他伝承からアウトラインは分かる。



すなわち、永禄4年(1561)の関東幕注文にある「松崎大和守」も「松嶋大和守」の誤記と思われ、当時は上杉謙信の支配を受けていた。


そのことは、沢入御用銅問屋松嶋十郎治所蔵の文書のなかに松嶋駿河守にあてた上杉輝虎の一種の感謝状があることでも証せられる。


また、「関八州古戦録」などの軍記物にたびたび登場する松嶋式部入道古伯は永禄から天正くらいの人で、沢入から高津戸まで勢力を伸ばした。


一方、同時代の小中の松嶋淡路守はいち早く桐生氏を見限り、
他の黒川郷士とも別行動をしていた模様で、
天正6年(1578)10月、黒川郷士と由良勢との合戦に先立ち由良方の武士として使者にたったところを
川で遭難した事件が軍記類の記事に見られる。



上田沢、湧丸あたりの松嶋氏も桐生氏を見限り、水論に始まる桐生・由良の合戦では由良に加担したと思われ、
前出のように桐生家が滅亡した元亀4年(1573)に松嶋右京助宛、由良成繁の安堵状が出されている。


天正5年(1577)松嶋左近之丞宛に上杉謙信の重臣河田重親から
「禁制になっている竹木をみだりに切るな」という趣旨の文書が出されており、

当時既に上杉氏の支配が揺らぎ、松嶋氏をはじめ黒川郷士たちは由良氏や後北条氏によしみを通じていくことになる。


すなわち、天正の初め頃までには松嶋氏らは桐生氏よりも上杉氏の直接支配をうけ、さらに一部は由良氏とも通じていた。


里見兄弟の高津戸合戦の後、その由良氏と黒川郷士は、天正6年(1578)10月に合戦を行ったが和睦し、
以降黒川郷士は一旦由良氏の配下に入ることになった。


この頃、上杉謙信の後継者をめぐる越後上杉氏の内紛、いわゆる御館の乱で上杉景虎が敗死し、越相同盟が破棄されている。


したがって、上州へ後北条氏が攻勢をかけていくことになり、
天正10年(1582)3月甲斐武田氏滅亡の後上州へ進出した織田信長家臣の滝川一益は、
その年6月本能寺の変後、神流川合戦で後北条氏に敗れ、上州は後北条氏の支配が一層強まることになった。


天正11年(1583)その後北条氏からの独立を目指す由良国繁は、小田原城に軟禁され、
太田金山城は包囲されるなどしたが、由良氏の支配下にあった五蘭田城を攻略するため、

後北条氏は阿久沢彦二郎に朱印状を与え五蘭田攻略の恩賞として仁田山五郷の所領を約束している。


すなわち、深沢城主であった阿久沢氏らは、また後北条氏配下として由良氏とは対立している。


天正12年(1584)7月、後北条氏に指示された阿久沢氏、目黒氏らは、五蘭田城を奪回し、普請を固めた。


これが五蘭田城址の現況になっている。


阿久沢氏らは天正18年(1590)の小田原籠城戦に参加し、後北条氏と運命を共にした。


一方、このころ松嶋氏はどうしていたか、今ひとつ分らないが、
沢入辺りの松嶋氏子孫は江戸期には名主や銅問屋、明治期には村長になっており、阿久沢氏のように武士身分には戻れなかったが、
地域の名望家として現代に至っている。

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 04時20分37秒 ) パスワード

M氏家譜の状況証拠からは渡良瀬川流域の豪族のようにも読めます。

上杉と北条に囲まれていた。のち、北条氏と共に滅びた?

今も桐生市沢入に松島氏が集まっている?
           この松島氏の家紋が分かると良いですね。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 04時28分40秒 ) パスワード

http://akagi-yama.jp/archives/29362


松嶋氏の五覧田城  

特集・赤城山南麓の城跡   特集, 赤城の史跡 城址
2015.02.18(水)

上杉・北条が欲しがった、交通の要衝



築城年代は定かではない。


五覧田城は、赤城山の東北を沼田方面から黒川谷(渡良瀬渓谷)に通じる根利道(ねりみち 現在でいえば群馬県道62号沼田大間々線)の要衝。


周辺では松嶋氏が砦を築き、拠点としていた。


現在の山頂に見られる大掛かりな城跡は、
戦国時代の後半に、由良氏(東群馬の大勢力)や阿久沢氏(黒川谷の筆頭勢力)が整備した姿だ。


由良氏、阿久沢氏の領有に加え、越後から侵攻した上杉謙信や、一時は真田勢のものとなることもあった。


諸勢力入り乱れての奪い合い

天正2年(1574) 3月、上杉謙信は、群馬の諸氏に影響力を強める後北条氏に対抗し、
新潟から三国峠を越えて関東出兵。


謙信は前橋を攻め落として進軍し、黒川谷方面へやってきた。


阿久沢氏の深沢城や、この五覧田城を支配下において、さらに軍を東に進めると、由良氏の太田金山城を攻撃し、新潟に戻っていった。


              筑摩の麻績の立場に似てますね


謙信から金山城を守りきった由良氏は、同年9月には反撃に出て、五覧田砦に駐留していた上杉方の沼田衆を攻めて奪い返しているが、

10月にはまたもや越山してきた謙信に奪われた。


このときの目的地は金山城のほか、埼玉の鉢形城・忍城あたり。


このころ謙信は、毎年冬になると三国峠を越えて群馬にやってきては、後北条氏に味方する東群馬の勢力と戦をして新年を迎え、やがて春になると引き上げる「越山」を繰り返した。

                  これ、有名な話ですよね。


最初のころは打倒後北条を目指し小田原まで進軍したが、後半ではある意味、自領の外で食糧を調達するための、
農閑期の大切な仕事のひとつといった意味合いもあったと推測される。


                     
                  松嶋氏

ここを拠点としていた松嶋氏はどちらかといえば、上杉氏寄りの立場であることが多かったようだが、
天正7年以降はほかの黒川谷の勢力とともに、北条氏寄りの立場の由良氏に従うようになった。


天正12年(1584)、由良・足利長尾・佐竹・佐野が後北条に対して挙兵した。


後北条に対して反旗を翻した由良氏に対し、阿久沢氏は後後北条氏の側にのこり、
由良氏の勢力が駐留する五覧田城を攻め落とす手柄をたてた。

これにより阿久沢氏は、後北条氏に一帯の領有を認められて、由良氏からの独立を果たした。


その後、一旦は沼田を確保した真田昌幸が五覧田城まで支配下においたが、天正14年(1586)に阿久沢氏が攻め落として城主に返り咲く。
         
               この時代は武田は滅びていますね。



このときのことについて「加沢記」には、
真田勢は城兵300人が阿久沢氏の大軍に囲まれてしまったため、城将の久屋氏はやむなく城を脱出したが、由良氏の検使に討たれたとある。


五覧田城は、たしかに重要拠点ではあるが、大勢の駐屯できない山城だけに、援軍が無ければ明け渡すか全滅するかだったのだろう。


独立後の阿久沢氏は、北条の沼田攻めにも毎回参加して存在感を示していたが、1590年の小田原征伐で北条氏とともに没落、五覧田城も廃城となった。

[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 04時35分46秒 ) パスワード

有力情報
      にっこり


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14102765094


知恵袋より:


室町時代に群馬県桐生市の渡良瀬川流域に黒川郷士という武士団がいたそうです。
黒川郷士に関する以下の資料を探しています。

・ 「黒川衆の戦い」(松嶋俊光氏著)
・ 「上野小中・沢入城主松嶋式部太夫古伯」 (松井雅雄氏著)

これらの本を是非読んでみたいと思っています。
どうしたら手に入れられるか、ご存知の方教えてください。





回答
hanako1523さん

2013/3/314:18:56


ご希望の情報ではないと思いますが(´Д` )


桐生市の図書館にあるみたいですよ。


              ちょっと遠いですね。


[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 04時37分49秒 ) パスワード

http://www.towninf.co.jp/p/10/10212/110.htm


陶器と良寛書の館

東村出身の実業家、松嶋健壽氏のお宝だった品々と氏の生家が東村に寄贈され一般に公開されている。

1階には鎌倉時代の古常滑の大壺や魯山人の水注、有田焼、久谷焼、東南アジアの陶器類などが並ぶ。

2階畳の間では、良寛の精神を模範としていた松嶋氏のコレクション、良寛直筆の屏風や掛軸を鑑賞できる。

群馬県 みどり市 大字沢入968-8
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 04時39分16秒 ) パスワード

この松嶋氏の家紋が分かると良いですね。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 04時44分01秒 ) パスワード

http://akagi-yama.jp/archives/29328


レス17の派生記事


深沢城  特集・赤城山南麓の城跡

特集, 赤城の史跡 城址2015.02.18(水)

深沢城3阿久沢氏が支配した、赤城山東麓を沼田へ抜ける根利道(ねりみち)の入り口
築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)頃に阿久沢氏によって築かれたとされる。根利道は沼田〜桐生をショートカットで結ぶ山道だ。
上杉謙信にとっては新潟から関東へ進撃する場合、前橋が敵の手に落ちる可能性を想定すると、この道の重要性は計り知れない。

天正2年(1574)、上杉謙信が越山(毎年恒例の謙信の関東出陣を越山と言う)し、膳城、山上城、女淵城を落とし、北条方の太田金山城・由良氏を攻めに向かう際に、深沢城に詰め寄った。この一帯を治める阿久沢氏は服属を申し入れてきたが、これを信用せず、上杉の手の者を深沢城に押さえとして置いたとされている。阿久沢氏は険しい根利道を熟知した黒川衆のまとめ役だった。謙信にしてみれば支配駐留も難しい土地であり、彼らを敵に回せば根利道の利用が困難になるため、気軽に攻め滅ぼすわけにも行かない。

阿久沢氏、大名への道

この前年にあたる元亀4年(1573 /天正へは4月に改元)の3月こと。阿久沢氏や松島氏ら黒川谷(渡良瀬川上流)を拠点とする武士たち(黒川衆/神梅衆)は桐生氏に従っていたが、その桐生氏が由良氏に滅ぼされた。
しかし阿久沢氏らは、素直に由良の傘下に納まったわけではない。もともと桐生氏からも半独立状態だった黒川衆の武将たちは、独自に北条や上杉とも通じ、したたかに戦国を生き抜いていた。謙信の軍が去って数年後のこと、黒川衆は由良氏と直接衝突し、深沢城一帯での合戦もあったほど。しかし天正7年(1579年)には和解してその配下となり、北条→由良→黒川衆の関係となった。

天正12年(1584年)、由良氏が北条と敵対した折には(※詳細は次項に)、阿久沢氏は北条氏側の武将として由良氏の五覧田城を攻略し、その功で北条氏から所領を安堵された。これにより、北条氏から見れば、戦国大名である由良氏と同格ということになる。
 「戦国大名」の定義はいささかあいまいで、より小規模な「国衆」との境目もはっきりしないところがあるが、現代でたとえれば、企業複合体の後北条グループがあり、由良氏は東群馬統括で太田支社長。その部下の阿久沢・黒川谷エリアマネージャーが、手柄を立てて、あらたに設立された黒川谷支社の社長になった。というような状況。

その後の阿久沢氏は、後北条氏が真田氏の沼田領を攻める争いに、毎回加わっている。沼田に向かう後北条勢の大軍、赤城山を越える道を先導したのは、阿久沢氏ら黒川衆だったことだろう。しかし、真田の老臣・矢沢頼綱の守る沼田城が、たびたび押し寄せた後北条の軍勢に屈することは、ついになかった。
そして天正18年、小田原の役で北条氏が滅びると、北条氏方として小田原に参戦していた阿久沢氏も没落し、深沢城も廃城となった。


戦国末期、北条氏と由良氏の対立

これまで良好な関係だった由良氏と後北条氏は、天正11年ころから対立する。軍記物の記述は実にさまざまだが、史実としてはおおむね次の流れであった模様。

天正10年は本能寺の変の後、滝川一益・群馬勢力と後北条氏・埼玉勢力がぶつかり合った。その結果、滝川一益は群馬を追われ、群馬の諸将は一旦はすべて後北条方に従うことになるが、沼田の真田氏や厩橋の北条(きたじょう)氏は、上杉景勝を後ろ盾にして北条と対立した。

天正11年(1583)、後北条氏は主力部隊を動員して、上杉方についた北条(きたじょう)氏の厩橋城を攻め取り、これを直轄にした。次第に群馬の支配を強める後北条氏は、味方勢力である由良氏と長尾氏に、金山城と館林城の借用を迫る。これまで半独立を保ってきた由良・長尾の兄弟はこの支配に反発。彼らと長年対立してきた佐野氏、そして佐竹氏・宇都宮氏の陣営と、後北条への対抗で一致団結し、後北条方の小泉城(富岡氏)を攻めた。

一方で、阿久沢氏は由良氏の動きに反発し、後北条方として行動する。由良氏とは五覧田城・深沢城でぶつかり合った。
天正12年に後北条氏の反撃の軍が金山城・館林城に押し寄せ、これにはたまらず降伏。両城は北条氏の直轄となった。由良・長尾の兄弟は、この間小田原に幽閉されていた。
この一件のあと、由良氏は桐生城に、長尾氏は足利城に退き、再び後北条氏に従うことに。阿久沢氏は後北条氏の後ろ盾で周辺の領地を安堵され、由良氏から独立した。



妙印尼 群馬の女性は、やはり昔から強かった

 天正12年の争いについて、新田老談記には、由良家当主の国繁と長尾顕長の兄弟の母である妙印尼(71歳)の武勇談がある。当主の国繁が幽閉されて、留守になった金山城。そこに攻め来る北条氏邦の軍勢。妙印尼は家中をまとめてこれに応戦し、ついには撃退したとのこと。史実としては金山城はこのとき開城したようなので、「当主不在のなか、篭城においては精神的支柱となり、また家中をとりまとめて講和を実現させた」というようなことになろうか。
 妙印尼についてはさらに武勇伝に続きがある。由良国繁と長尾顕長が、小田原攻めで後北条方で参戦する一方で、妙印尼は攻めてくる豊臣方の前田利家に加勢したというお話。詳しくは[前田利家 妙印尼 書状]で検索。

 群馬の強い女性といえば、妙印尼の孫娘であり忍城の成田家に生まれた甲斐姫も、美貌の女傑として名高い。小田原征伐の時は忍城を守って奮戦し、真田信繁(幸村)とも対峙している。映画「のぼうの城」ではヒロインとして大活躍だ。詳細は[甲斐姫]で検索。北条方で取り潰しになっても仕方の無い立場の由良家は、二人の活躍あってか、牛久に移封となり江戸時代も存続した。




現地情報

深沢城1正圓寺(桐生市黒保根町宿廻564)の南

正圓寺(深沢城を築城したとされる阿久沢氏代々の墓がある)というお寺を目指し、細い道をくねくね。お寺のものと思われる駐車場に車を止め、歩いてすぐの案内看板へ。看板によると、神梅城や阿久沢城と呼ばれることもあるようだ。

本丸の周囲は幅の広い堀によって囲まれている。この堀は南に向かって深くなり、南端では10mほどの崖となっている。
ちなみに、すぐそばに「城多目的研修集会施設」という建物があるが、この地の字が「城」というらしい。





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[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 04時52分05秒 ) パスワード

M氏家譜の宗茂さまですが戒名が   天中院青渕3代目  とあります。


青渕とは渋沢栄一の雅号でもあります。
これが何故?と。

場所的重なりますから
何か意味があるような気がします。



渋沢 栄一

天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)

江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。理化学研究所の創設者でもある。

正二位勲一等子爵。

雅号に青淵(せいえん)。




渋沢栄一:業績

http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/yukarinochi/10.html
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月13日 09時47分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は朝6時過ぎに東北で地震があり、この辺も震度1でありました。被害
は今のところあまりなさそうですが、インターネットが一時アクセスできなく
なり、今は復旧しましたので、書き込んでおります。

 あを様にはM家の家系の謎に果敢に挑んでいただいております。私も必死
にレスのメモをとりながらも、いろいろな資料・図書を調べております。
 が、対助まではなんとか理解できますが、それ以前の系図、とくに元祖に
ついては「遠祖」の間違いではないか。藤原智常の娘ということになれば、
二代目より更に500年近く遡ることになる。子の松島左近については説明
が少なすぎる。

 ここら辺も含めて本日図書館へ行き、家譜を調べてみます。信濃グループ
には間違いなく属していると思います。シンパシィで婚姻関係がつながって
いますから。

 おまけの話として、大久保長安の末子が「松島久信」ということです。な
ぜ松島を名乗ったのかというと、母が東北の松島大明神の大宮司の娘であり、
長安事件後に母方の姓を名乗ったということです(処罰されたかどうかにつ
いては、まだ調べてありません)。

 いずれにしましても、何百年も祖先をたどって調べるということは、並大
抵のことでないということが改めてわかります。でも、一かけらでも化石を
見つけだすことはできるはずと信じて、あきらめずに頑張って行きたいと思
っています。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 13時17分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


世界的に火山が嫌な動きをしていたり大きな地震があったり
その他の天災が続いていますね。


本日は我が家も15秒停電がありました。
おかげで家じゅうの時計が止まってしまって時間を合わせるのに大変でした。
時計の1つ1つがやり方が異なるんですから。

PCの時計のみが無事でした。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 13時29分58秒 ) パスワード

大久保長安がらみでこんな話がヒットしました。

以下コピペ

http://hagikuru.main.jp/%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6%E3%81%AE%E5%85%88%E7%A5%96%E3%81%8C%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E5%AE%88%E9%95%B7%E5%AE%89%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E4%BB%B6-%EF%BC%88%E6%9D%BE/


楫取素彦=小田村という吉田松陰の妹婿で後にもう1人別の妹と再婚する人=
の先祖が大久保石見守長安だった件 (実家、松島家について)



楫取素彦の先祖を調べたら大久保石見守でした。

このブログの別項目では、楫取素彦の養子先のご先祖様、すなわち小田村家のご先祖様については既に述べました。

一方、楫取素彦はもともと松島家の生まれだったのですが松島家側のご先祖様が大久保石見になります。

大久保石見といえば、徳川家康の金山奉行で、一時期は幕府を牛耳る年寄(老中)まで出世し、伊達政宗と供に幕府転覆計画を企て、死後家が取り潰され断絶した、あの大久保石見を普通は想像しますよね。

往々にして武士の家系図は眉唾なものですが、それはそれとして、面白いのでここでは楫取素彦の先祖は、あの大久保石見として話をすすめます。

出典は「萩藩譜録」(「男爵楫取素彦の生涯」中で小山良昌訳です)以下、適宜要約しながら説明します。


         
松島家の本姓は藤原氏、楠正成と激闘を演じた宇都宮公綱の末裔。

         摂関家藤原北家道兼流を称する大族。=藤原道長の兄。
         下毛野氏、中原氏の流れを汲むともいわれる。


一方で大久保石見守長安の末子が松島久信です。
なぜ名字が松島かというと母が東北の松島大明神の大宮司の娘で、
2歳のときに大久保家が不正蓄財の罪でお取りつぶしにあったため母方の姓を名乗ったのです。

幼少のため宇都宮兵庫という家来に養育され、
当初近江に住んでいましたが成人後、石見に移り住みます。



萩藩が3代毛利吉就のとき、松島久信の子松島利碩久次が萩藩へやってきます。そこで、かねて父久信より譲り受けていた大久保石見守が毛利公から拝領していた書状を披露して、仕官を頼んだそうです。
ここで何故か久次は囲碁の稽古をするように申しつけられます。
そこで本因坊道策に習って腕を磨きました。


なぜいきなり本因坊道策か? 検索してみると道策は石見出身でした。
本当につながりがあったかどうかは別として、同郷、同時代人のようです。

その後4代藩主毛利吉弘のとき、めでたく松島久次は二人扶持で萩藩に召し抱えられます。
久次の子松島瑞迪主信(きみのぶ)は鍼医を家業とするよう命じられて松島家を継ぎます。
この主信が萩藩に提出した松島家の歴史が以上のお話で、「萩藩譜録」におさめられました。


松島瑞迪主信の子、龍幡。その子瑞幡ともに藩で鍼灸医として働きます。
瑞幡の長男が幕末に活躍する松島剛蔵。次男が楫取素彦と続いたのでした。


まとめ

というわけで松島家のご先祖は宇都宮氏であり、大久保石見であり、
本因坊道策の弟子ということでした。

断片的なエピソードの詰め込まれて混沌とした系譜が大変素敵です。
このような混沌とした感じは一見眉唾ですが、実は大事にしないといけないと思っています。


こういう混沌の上に松島剛蔵や楫取素彦という人物を置いてみると、また、違った物語が見えてきたり、
雰囲気を味わったり、何かを読み解くことができることすらもある、と思うからです。



追記

上記を書き終えたあと「大久保石見」「末子」で検索したら「おげ丸」という忍者がでてきました。
山田風太郎の『忍法封印いま破る』 (講談社)の主人公だそうです。大久保石見守長安は荒唐無稽な怪人物として描かれ、その末子おげ丸が大久保石見守長安の子を孕んだ3人のくノ一を守って伊賀忍者と戦うという、あらすじ見ただけで大変です。ますます混沌としています。まあ、山田風太郎ですから仕方ないですか。


以上コピペ
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 13時43分04秒 ) パスワード

http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja/matusima.htm

箕輪の松嶋神社です。


松島神社 上伊那郡箕輪町中箕輪

以下コピペ


巨大な社号碑の謹書が、諏訪大社元宮司の三輪磐根さんであることに気がつきました。

松嶋神社は諏訪系神社ではないので、なぜだろうと頭から読むと、
当時は「長野県神社庁長」という肩書きでもあったことがわかりました。



               ということは箕輪がらみの松嶋氏は諏訪大社系ではない?


裏に廻ると、由緒と思われる文字がびっしりと刻まれています。
碑の背後には大木があるので、その時まで由緒書を兼ねているとは気がつきませんでした。

 高倍率にしたカメラのファインダーで読むと「臼・杵…」の文字が確認できました。
これですべてが繋がると、上下二段に分割したものと、念のために四分割して拡大した写真を撮り自宅に持ち帰りました。


御神体は石の臼杵

 二枚の碑文を交互に読むと、期待通り『箕輪町誌』にも載っていない内容がありました。以下は、その一部を書き出したものです。


石器時代の石臼杵が臼杵洞より出土し、
これを臼杵森へ御神体として安置し天津彦火瓊々杵命(あまつひこほににぎのみこと)・建御名方命を祭神とし臼杵大明神と崇め、

鎌倉時代寛喜元年(1229)北村・町方・坂井三ヶ村の氏子により創建し奉る。


降って慶安二年(1649)大猷院公(たいゆういんこう※徳川家光)より御朱印五斗を賜る。

長禄・明暦・元禄と修復がなされ、享保三年(1718)領主太田資良知行所陣屋役人の力を得て本社舞屋鳥居を修造。

                          代官は太田氏


天明元年(1782)澤底村有賀吉左衛門現在の本殿を建立。(中略) 嘉永五年(1852)五月神祇官より幣帛を奉納せられ、又、卜部良芳より松島神社臼杵大明神の神社号と社号額賜る。

明治五年村社に列せられ松島神社と称す。(後略)
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 13時53分07秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6


長安事件


長安と忠隣の失脚により、幕府は完全に本多親子に牛耳られることとなった。
一方でこれは同時に、本多親子に対する反感を惹起することとなり、後に正純が失脚する一因を作り上げたともいえる。


                         里見氏!

なお、忠隣失脚後、連座として佐野信吉、里見忠義(妻が忠隣の孫娘)、堀利重(妻の母親が忠隣正室の姉)らをはじめとする大久保派が全て改易され、
忠隣の居城であった小田原城も破却となった。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 14時06分48秒 ) パスワード

人間関係がゴチャゴチャしてて蟻地獄に落ちたみたいにもがいています。



松嶋氏は藤原姓で宇都宮の子孫?
大久保石見守長安の末子が松島久信?




藤原秀郷              ご先祖の魚名の墓の1つが  服部天神宮!1番下、参照

出自を藤原北家魚名流とするのが通説だが、「実際には下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」という説もある[2](あるいは古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓とする)。

俵藤太(田原藤太、読みは「たわらのとうだ」、「たわらのとうた」、藤太は藤原氏の長、太郎」の意味)という名乗りの初出は『今昔物語集』巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。由来には、相模国淘綾郡田原(秦野市)を名字の地としていたことによるとする説、幼時に山城国近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説など複数ある。

秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない[3]。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。

天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)[1]である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。平将門の乱にあっては、藤原秀郷が宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。平将門の乱において藤原秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている[4][5]

複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している[6]。この功により同年3月従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようになった。

将門を討つという大功を挙げながらも、それ以降は資料にほとんど名前が見られなくなり、没年さえも不詳である。

生没年は不詳だが、将門討伐のときにはかなりの高齢だったといわれている。





藤原魚名            お墓は  服部天神宮  ですって?

大阪府豊中市に鎮座する服部天神宮の前身の一つが魚名の墓と言われ、
境内には今も「川辺左大臣藤原魚名公の墓」が残る。

同社には、魚名の死から約100年後に同じく大宰府へ左遷された菅原道真の伝説が伝わっている。
[29]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月13日 20時46分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は図書館へ行き、松島氏について寛永重修諸家譜、その他いろいろ
調べてみましたが、さらなる情報は見当たらず、進展なし。
 箕輪博物館からの資料も待っていますが、未だ到着せず。

 箕輪図書館で松島信久について書かれた本の中に、「その祖先は佐久の
海野氏、さらにその分流の矢島信清が箕輪に来て、松島と名乗る。松島備
前守信晴が松島城を築く。豊後守信久はその長子」とありましたが、ます
ます複雑な内容になりますので、これ以上はどうも、八方ふさがりの感が
あります。

 博物館からの資料を待ってみます。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月13日 22時43分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


>その祖先は佐久の海野氏、さらにその分流の矢島信清が箕輪に来て、松島と名乗る。

なるほど
ではこれを調べましょうね。



もうすぐ出掛けるので数時間後に洗濯しながらやってみますね。



それにしても  錯綜  してますよね。


     源平藤橘などの姓は途中で化けますから
     我々外野がいくら探しても分からないのはしょうがないです。
     系図にもちゃんと書かないようですし。書けなかたりもするだろうし。


でもちゃんと書いておいてくれないと後世の子孫は困るのにねえ。
   まさかそういう不届き者が出る世が来るとはご先祖さまは思ってなかったのでしょうね。
   ふふふ


「そういう事情があった」
ということなのだと思います。

   命のやり取りをしてた時の困惑を後世の者は理解してあげなきゃいけないんだな、って。


   逆に晴れがましいことがあって姓が変わったというのだってあるんですから。



それにしても読めば読むほどワケが分からなくなっていますが
ここを突破せねば。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 04時30分09秒 ) パスワード

>佐久の海野氏、さらにその分流の矢島信清が箕輪に来て、松島と名乗る



海野氏(うんのうじ)

信濃国小県郡海野荘(現在の長野県東御市本海野)を本貫地とした武家の氏族。


根津氏               木曽義仲がらみですね。
望月氏
真田氏



出自[編集]

滋野氏の後裔とされる滋野則重(則広)の嫡子・重道、あるいは重道の嫡子・広道から始まるとされる。

海野の姓は摂関家の荘園であった海野荘にちなんでおり、清和天皇の第4皇子貞保親王(滋野氏の祖である善淵王の祖父)が住したと伝えられる場所である。

ただ、清和天皇の後胤を祖とする海野氏の系図は裏付けとなる史料に乏しく、滋野氏とはなんらかの繋がりがある一族とも、まったく関係の無い在地の開発領主をその祖とする向きもある。



平安時代 から鎌倉時代[編集]

平安時代から同族(海野広道の弟から始まる)根津氏、望月氏と並んで「滋野三家」と呼ばれ、三家の中でも滋野氏嫡流を名乗り、東信濃の有力豪族として栄えた。

資料の初見は『保元物語』で、源義朝揮下の武士に「宇野太郎(海野太郎)」の名が見える。平家物語には源義仲の侍大将として広道の子の海野幸親・海野幸広親子の名が出てくるが、共に戦死を遂げている。


義仲の嫡男・源義高の身代わりとなった忠勤を源頼朝に賞賛され、側近に取り立てられた幸親の三男・海野幸氏が家督を継いで、海野氏は滅亡を免れる。

幸氏は武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されたと伝えられるほどの弓の名手で、『吾妻鏡』に上野国の所領を巡って甲斐国守護の武田氏に勝訴した記述が残されており、この時期に信濃東部(小県郡・佐久郡など)から上野西部(『吾妻郡』)に勢力を拡大した事がわかる。


同じく『吾妻鏡』には和田合戦で海野左近なる者が幕府方として討死したとされる。



南北朝から室町時代[編集]

その後はしばらく記録に登場しなくなるが、鎌倉幕府が滅んだあとの建武2年(1335年)に起こった中先代の乱では、海野幸康が諏訪氏らと共に北条時行軍に参じ、鎌倉に攻め上る。

                         南朝方ですか


その後の南北朝時代は他の北条残党と同じように南朝に属し、信濃守護家小笠原氏や村上氏らと対立した。


『群書類従』によると、海野幸康は正平7年(1352年)に宗良親王に従って笛吹峠の戦いに参陣し戦死を遂げる。


応永7年(1400年)の大塔合戦では、当合戦の寄せ手大将であった同族の根津遠光300騎とともに滋野三家嫡流として海野幸義が300騎を率いて参陣しており、滋野一族の中でも嫡流家としての影響力を保持していたことをうかがわせる。

また永享10年(1438年)の結城合戦では海野幸数が根津遠光など他の滋野諸族とともに小笠原氏に従って参陣している。

                         結城合戦が出ました



戦国時代[編集]

応仁元年(1467年)、村上氏との戦いで海野持幸が戦死して小県郡塩田荘が村上氏に奪われ、応仁2年(1468年)にも村上氏と「海野大乱」と呼ばれる戦いを繰り広げ、海野氏の勢力は徐々に衰退していった。

戦国期では永正10年(1513年)越後で長尾氏が高梨氏の支援を得て守護の上杉氏と対立し、海野氏は井上氏や島津氏、栗田氏らと守護方を応援するため越後に侵入しようとするなど関東管領上杉氏の被官として地位を保うとする。

天文10年(1541年)5月、甲斐国の武田信虎、信濃の村上義清、諏訪頼重の連合軍に攻められ(海野平の戦い)、当主・海野棟綱の嫡男である海野幸義は村上軍との神川の戦いで討ち死にし、棟綱は上州の上杉憲政の元に逃れる。海野宗家はこれにより断絶したとされるが[1]、白鳥神社系「海野系図」では棟綱の子に幸義以外に貞幸、貞幸の子である幸直(小太郎・信濃守)を記載し、幸義の子にも幸光・小太郎・信雅(三河守)らを記載している[2]。

なお、近世に編纂された真田家系図に拠れば棟綱の女婿には「幸隆」(幸綱)がおり、海野氏を継承したとしている[3]。


嫡流はいったん途絶えるが、信濃を領国化した武田信玄は一族を信濃諸族の名跡を継がせることで懐柔させる方策を取る。

『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄4年(1561年)に信玄は信濃先方衆の仁科氏・海野氏・高坂氏を成敗し、信玄の次男で僧籍であった信親(竜芳)が海野民部丞の養子となり、名跡を継いだという[4]。

永禄10年(1567年)8月には武田家臣団が生島足島神社に起請文を提出しており、海野氏では幸貞(三河守)が単独で起請文を提出し、幸忠(伊勢守)、信盛(平八郎)は連名で提出している[5]。

ほか、海野被官として桑原氏・塔原氏、海野衆として真田綱吉、神尾房友、海野幸光ら12名の連名の起請文も存在してる[6]。


天正10年(1582年)3月、武田氏が織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡すると、信親は織田信忠により処刑された[7]。


この武田系海野氏の後裔は江戸時代、高家武田氏へと連なることになる。

戦国時代、小県郡に勢力を扶植した真田氏は海野氏流を称している。



なお、海野幸義には長男の海野業吉がいたとされ、後の海野左馬允とする説もある。

その場合、海野氏直系の血筋が残されたことになるが、確かな証拠は見つかっていない。

海野左馬允は、真田幸綱(幸隆)の従兄弟とされ、真田家臣として『加沢記』など真田家の記録に登場する。


他に上野国吾妻郡の海野一族である羽尾幸光(岩櫃城主・吾妻郡代)・輝幸(沼田城代)兄弟が、海野棟綱の死後に海野氏を継承したと称して海野姓を名乗っている。


[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 05時07分07秒 ) パスワード

海野氏

                        海野の舎弟として中村・大草・矢島などの名が出てます



信濃国小県郡海野を本拠とした東信濃の古代からの豪族で、『大日本氏族志』によれば清和天皇の皇子貞秀親王が信濃国白取荘に住して、その孫善淵王のときに滋野姓を賜ったのが始まりという。


また、紀国造の族という楢原氏の後裔とする説もなされている。


清和天皇後裔説はもとより信じることはできないし、裏付ける確実な根拠もない。一説にいわれる楢原氏の裔にあたる族が信濃国小県佐久平を開発して、一大氏族に成長したと考える方が真に近いのではないだろうか。


ちなみに、天平十年(738)頃と推定される正倉院御物に「信濃国小県郡海野郷戸主瓜工部君調」と墨書された麻布があるが、おそらくこのあたりが海野氏の祖ではないかと思われている。

いずれにしろ、同じ東信濃の古名族祢津氏・望月氏とともに滋野三氏と称し、小県郡・北佐久郡西部にかけて三氏の一族が繁衍していった。



歴史への登場

 海野氏の名が史書に登場するのは『保元物語』からで、源義朝の指揮下にある源氏武士に宇野(海野)氏の名が見える。源義仲の挙兵に際して東信濃で最も力となったのは佐久の根井行親であり、海野幸親・行広らであった。幸親は行親、または滋野行親とも記される。海野幸広は、備中水島の戦において矢田義清とともに先鋒の大将となり、平氏の大将平教経と戦って戦死したことが『源平盛衰記』にみえている。


 幸親の子海野幸氏は、少年時代、木曽義仲の子義高が頼朝の人質となった時これに随従し、義仲が敗れて没落、義高が鎌倉を脱出しようとしたとき、その寝床に入り身代わりになろうとした。幕府を樹立した頼朝は幸氏の忠節と武勇を称え、かえって幸氏を重用したと伝わる。幸氏はまた、とくに弓馬の道に長じていたことが知られ、建久四年(1193)五月、頼朝が富士の裾野で狩を催したとき、同じ信濃武士である藤沢二朗・望月三郎・祢津二郎らととともに弓の名手として参加したことが『吾妻鏡』にみえている。


 「承久の変」に際しては、北条泰時に従い東山道の大将武田信光の軍に属して西上した。その後、嘉禎三年(1237)八月、鶴岡八幡宮における流鏑馬で騎射の技を披露し、みるものたちは「弓馬の宗家」と讃えたと伝わっている。そして、当時の天下八名手の一に数えられ、さらに武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称された。以後、将軍家の御弓始、放生会の流鏑馬、三浦の小笠懸などの催しのあるごとに、幸氏の漏れるということはなかった。


 幸氏の活躍によって、海野氏は頼朝以降北条氏に至るまで幕府御家人のなかでも別格の待遇を受け、代々その誉れを伝えた。しかし、幸氏以後の世系については不明な点が多く、諸系譜の伝えるところも異同が多いのである。おそらくこれは、海野一族が繁衍し、宗支の区別が判然としなくなった結果と考えられる。

ちなみに、海野氏は鎌倉時代中ごろより、各地に支流を広げていった。それは小県郡の真田、筑摩郡の塔原・光・刈屋原など信濃ばかりではなく、上野にまで広がり吾妻郡の下尾・羽尾・鎌原などの諸氏が海野一族として知られる。



 鎌倉幕府滅亡後は東信濃の雄将として、信濃守護小笠原氏に対抗した。応永七年(1400)の大塔合戦には東信濃の武士団の棟梁の一人として海野幸義の名がみえ、守護小笠原氏と戦っている。

『大塔物語』の中に「海野宮内少輔幸義、舎弟中村弥平四郎、会田岩下、大草、飛賀野、田沢、塔原、深井、土肥、矢島以下」と記されている。

                           ↑
                       ココ    舎弟として中村・大草・矢島などの名が出てます




国人領主として戦乱に身を処す

 戦国時代の大永七年(1527)、高野山蓮華定院を海野地方の宿坊とする旨の契状を出した豪族として海野棟綱の名がみえることから、海野氏は小県郡の有力国人領主として一定の勢力をもっていたことがうかがえる。


 天文十年(1541)五月(天文七年ともいう)、甲斐の武田信虎、奥信濃の村上義清、諏訪の諏訪頼重の三氏が連合して海野氏を攻撃した。

武田軍は佐久郡から、村上軍は戸石城から、諏訪軍は和田峠を越えて小県郡に攻め込んできた。

海野氏は滋野一族である禰津・望月氏らとともに頑強に抵抗したが海野平を占領されるに及んで、禰津・望月氏らは降服し、海野棟綱は鳥居峠を越えて上野に逃れ去った。

ここに、海野・禰津・望月の滋野三家はいったん敗亡した。

このとき、棟綱の子(弟もいわれる)海野幸義は連合軍との合戦において奮戦したが討死、海野氏の正嫡は断絶した。


のちに、幸義の弟幸隆が家督を継ぎ真田に住して真田を称したというが、この間のことは混乱していてにわかに信じることは危険である。



 海野氏は、関東管領で上野守護を世襲した上杉氏の被官的立場をとって領地の保全につとめてきた。武田・村上・諏訪連合軍に対しても海野氏らは上杉氏を後楯として対抗しようとしていた。

滋野三家が連合軍に敗れたのは上杉氏からの救援が遅れたためでもあった。

上杉氏は中世の関東に君臨してきたが、戦国時代に至って次第に衰退の影を濃くしつつあり、代わって小田原北条氏、甲斐武田氏らの勢力が台頭してきていた。


 この情勢下、海野氏内部では上杉氏を頼って旧領を回復しようとする者と、上杉氏を見限って新興勢力に属して家名を上げようとする者とに分かれたようだ。

すなわち、惣領である海野棟綱は関東管領上杉氏を恃み、棟綱の子といわれる幸隆は甲斐武田氏氏の力を背景として旧領を回復しようとした。

武田氏は先に海野氏を追い払った信虎が嫡子晴信のクーデターによって駿河に追放されたこともあって、周囲の諸豪は武田氏はくみしやすくなったとみていた。

幸隆は晴信の大器であることを見抜いて、いちはやく武田晴信に臣従しようとしたという。


 しかし、棟綱は武田氏を仇敵視しており管領上杉氏を後楯に小県郡に復帰しようと画策していた。

棟綱と幸隆は相容れない存在となり、二人がどのように折り合ったのかは史料的には一切不明である。

しかし、その後間もなく幸隆は上州を去って甲斐に赴いて武田氏に仕え、一方の棟綱の消息は以後、史実にも伝説にも、さらには風聞にもまったく登場しなくなる。



海野氏と真田幸隆

 幸隆は『寛政重修諸家譜』で、真田氏の祖となった人物とされている。しかし、真田氏は鎌倉中頃に海野氏から分かれたとされ、室町時代中期の記録にもみえていることから、幸隆は真田氏の名跡を継いだか、あるいは真田氏に生まれて棟綱のあとを継いだかのいずれかであろう。残された系図などによれば、幸隆は棟綱の長男、あるいは二男、あるいは娘婿などと諸説あって一概には決めがたい存在なのである。年齢や経歴からいって、棟綱とは父子といった関係の世代であったことはまず間違いないようだ。


 幸隆は上州に割拠していた羽尾幸全入道の娘を室としていた。そして、幸全入道は上州に逃れてきた海野一族を庇護した人物であった。のちの永禄六年(1563)武田氏によって上州岩櫃城攻略戦が行われたとき、幸隆は武田氏の重臣として攻城軍に加わった。このとき、羽尾幸全入道が岩櫃城の城将の一人として武田軍を迎え撃ったが、幸隆は城攻めを敢行し、羽尾幸全入道は戦死し羽尾一族は没落した。このように、幸隆は一族興亡のためには恩人、肉身といえども容赦をしない非情な人物であった。


 棟綱もひょっとすれば、幸隆によって抹殺されたのかも知れない。平安以来の古名族の当主の最期が不明というのは不自然なことであり、そこにはなんらかの隠蔽工作があったのではないか。そして、それを行った人物こそ幸隆であったと考えられる。そういう意味では、幸綱は海野氏における下剋上をなした人物であったともいえよう。その後、海野氏の家系は一族であった真田氏一門が継ぎ、上田藩、松代藩の藩主真田氏に属し、江戸時代を通じて残り今日に家名を伝えている。


 ところで、『加澤記』に「吾妻三原の地頭、滋野の末羽尾治部少輔景幸と云う人あり。嫡子は、羽尾治部幸世道雲入道、二男 海野長門守幸光、三男 同 能登守輝幸と申しけり。道雲入道は、生害ありて、舎弟二人は越後の斎藤越前守に属しける。斎藤没落の節、甲府へ忠節ありて、三原郷御取り立てあって、天正三年夏の頃、岩櫃の城を預けられ、吾妻の守護代となり、輝幸の嫡子泰貞は、矢澤薩摩守頼綱の婿となって真田の姪婿なり云々」とみえ、また上野国志に「岩櫃城、海野長門守、沼田の真田安房守昌幸の時、城代なり」とみえるのは、上野に逃れた海野氏の一族であろう。


 海野氏の家系は一族であった真田氏一門が継ぎ、上田藩、松代藩の藩主真田氏に属し、江戸時代を通じて残り今日に家名を伝えている。



●海野氏の家紋─異説

 ところで、滋野氏の家紋は「月輪七九曜」であったといい、海野氏も「月輪七九曜」を家紋にしていたという。しかし、幸綱は武田氏の麾下に属してから家紋と旗印を「六連銭」に改めたという。室町時代の中期に書かれた『長倉追罰記』のなかに、海野一族は六連銭を家紋としていたことが記されているのである。おそらく、六連銭の紋は室町時代の初めには海野一族の共通の紋として用いられていたようだ。

[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 05時24分30秒 ) パスワード

http://musha.mobi/index.php?%E6%B5%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F

海野氏について古代から詳しく書かれていますが  略  します。


以下は  平将門誅罰事件。甲賀も出て来ます。忍者の親玉の望月氏です!オサダ氏も登場!



延喜11年(911)高望は、73才の生涯を閉じたが、中央政府は、翌年の延喜12年に、藤原利仁を上総介に任命15年に鎮守府将軍に任じた。これに対して面白くないのは、高望の長男国香であった。

 その後の延喜17年(918)に良将が亡くなり、いままで一門を中心とした上総・下総の勢力が崩れかけてきた。



                   これは国香が悪いんだよ。
                   将門の父の土地を奪ったんだから。
 平国香は平将門に攻め殺された。国香の子貞盛は、京都にいてこのことを聞き、東国に下り、伯父の良兼と力を合わせて平将門を攻めたが、力及ばず敗れてしまった。

 そこで平貞盛は、都に上がって官軍の力を借りて平将門を打つべく手勢を引き連れて都を目指して急いだ。さらにそのうえ、将門が大がかりな製鉄所をつくり、武器や甲冑を製造して、反乱を企てていると朝廷に訴えようとしたのであろう。地方に居って、醜い争いの巻き添えを食らうよりも、将門を中傷するために上京し、それをきっかけに、立身出世をしようというものであった。


 そのために貞盛は、承平8年(938)2月中旬、京都の高官たちに贈る「袖の下」を十分準備して、中山道へ向って出発した。

 これを聞いた平将門は、もし貞盛が上洛して官に自分の悪行を知らせたならば大変であると、百余騎の兵を率いて、まだ碓氷峠には残雪のある季節なので、これを蹴散らかして峠を越え追撃をした。


 当時の東山道は小諸・海野・上田を経て、そこで千曲川を渡り浦野・保福寺峠を過ぎて松本に入るのが順路であったので、貞盛もこの経路を取り、小諸の西、滋野の総本家の海野古城(現在の東御市本海野三分)に立ち寄った。


 この地は信濃豪族海野氏がおり、以前の縁故により善淵王(恒成)に協力と助けを求め再び、ここでの、その厚意により、一息をつこうとしたのであろう。

 というのは、善淵王と平貞盛との関係は、貞盛が、かつて京都で左馬允の職にあったとき、信濃の御牧の牧監滋野氏と懇意であった。また、以前に平将門が上京のとき、平貞盛の依頼によって宇治川に布陣し、将門を亡き者にしようとした縁故があった。


                              甲賀登場!
 この滋野氏に協力したのが近江国(滋賀県)甲賀郡にいた甲賀武士、これが甲賀者として、古くから忍術をもって知られていた一族が望月氏で、その功績によって甲賀郡司に任命されて、そこに定着して、忍者の一家をなしたという。



 貞盛が海野に助けを求め、海野古城に滞留していることを知った平将門は、先まわりして信濃国分寺付近に待機していた。そこは上田の東方で、北から流れる神川の橋の付近は貞盛が通らねばならない地点であった。

将門としては、貞盛が千曲川を渡らせぬために、天慶二年(939)に、ここで千曲川合戦(天慶の乱)が行われたのであります。この日は冬まだ寒い2月29日のことであったと言われる。


 この戦火で信濃国分寺が消失してしまったという。

                             オサダ氏?登場
 貞盛方の勇将他田真樹というものが、敵の矢にあたって戦死、この他田氏は信濃国造の子孫であるということから、郡司として国府に務めておったが、貞盛の危急を聞いて、一族郎党をひきいて応援に駆けつけたものであろう。
 従来、この上田には国分寺のみあり、国府は松本に移っていたものと思われる。


 この戦闘の結果、貞盛の方はまたも負戦となったが、運よく小牧山中にのがれ助かった。将門はいかにしても貞盛をうつべく手を尽くしたが、見つからずやむなく東国へ引き返した。

 『千たび くびを掻きて 空しく 堵邑に 還りぬ』 平将門


 平貞盛は難を逃れて、長途の旅の糧食を奪われ、飢えと寒さに悩まされ悲惨な思いをしながら、やっとのことで京都にたどり着いたが、持ってきた「袖の下」などは途中でなくしてしまったので、太政官に訴えても真剣に取り上げられず、本国で糺明せよという天判状をもらい、京都での仕官の道も達せず、僅か三ケ月の短い期間で東国へ下った。  
           (赤城宗徳著『新編将門地誌』より)



海野氏の祖善淵王

 滋野恒成(善淵王)は真言宗に深い信仰があり、延長年間(923〜30)ころに宮嶽山神社(四之宮権現)を創建している。

 その祭神は貞保親王で、清和天皇の第四皇子で、信濃国司の任にあたったとき、当地(海野郷)に移住されたが、延喜2年(902)4月13日に死去され奉葬した御陸墓であります。

 その後、松代藩主真田家より毎年米10石、祢津領主より米18石を御供料として進納されておりましたが、明治維新のころから廃された。
神社の頂上までの石段の数は、なんと一年の日数と同じ365段があり、現在では体力増進・維持のためにジョキングをしておられる人を多く見かけます。


 滋野恒成(善淵王)は天慶4年(941)1月20日になくなられ、法名『海善寺殿滋王白保大禅定門』をとって海善寺と称された。

 当寺は、第56代清和天皇の皇子貞保親王をもって開基とし、承平5年(935)5月に海野郷に一宇を建立して、親王の法号をとって海善寺と号した。


昭和21年(1946)に海善寺集落の西側の畑から「廃海善寺石塔基礎」が出土され、安山岩で、高さ28センチ・底面は46センチの直角で、「文保」(1317〜18)の年号が陰刻されており、海野氏の館の鬼門除けに祈願寺として、そのころに再建したのではなかろうか。


 六百有余年を経て、永禄5年(1562)11月7日武田信玄が本寺を祈願所として20貫の寺領のほかに、隠居免五貫文を寄付している。翌年7月28日十坊並びに、太鼓免36貫百文を寄付している。

 その後、天正15年(1587)ころ領主真田昌幸が上田へ築城したのにともない、当寺も鬼門除けの鎮護として、本寺を現今の地(現在の上田市新田 海禅寺)に移し、再建されました。 

鬼門とは、陰陽道でいう家や城の東北の方向のことで、百鬼が出入りする文であると考えられていたのです。ですから都や城を築くにあたって、東北の方向に鎮護のための寺や神社を建立したものです。たとえば、江戸の上のの寛永寺、京都の比叡山の延暦寺などです。

 慶長6年(1601)真田候より24貫の地を寄付される。 

 真田信之が元和8年(1622)海野郷にあった白鳥神社(祭神は日本武尊・貞元親王・善淵王など)を松代に移築の際に、神社の別当寺として移されたものです。海善寺住職阿闍梨法師尊海を伴い、松代西条(現在の長野市松代)に移し、開善寺と改めました。


以下略
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 05時40分21秒 ) パスワード

続き


              遠江国の神職中村氏も子孫で登場します
              箕輪城主長野信濃守業政も登場!



 
     その他の国々の滋野氏は、次の人々が文献に見える。

 先ず紀伊の人で名草豊成・名草安成の両人が滋野朝臣を賜っている。元来は九州の宗形氏族の者が、紀伊の名草直氏の女をめとり、その子孫は母子によって名草宿祢となり、滋野朝臣になった。


 
 また、鎌倉時代の人で、延慶3年(1310)に相模国(神奈川県)の人に滋野景善。元弘元年(南朝年号1331)に能登国(石川県)の人に滋野信直。元徳3年(北朝年号1331)に出羽国(山形県)の人に滋野行家などが見え、室町時代永享9年(1437)には日向国(宮崎県)に山伏滋野氏権津師定慶坊がいる。 
        (日本家系協会滋野一族より)



海野氏とその子孫について

                  各地の諏訪神社等の神官となった者もあり


 はじめの海野の地は、ウムナ・ウムノとなって、海野の文字を用いられ、海野郷といい、鎌倉時代に入って海野庄となったという。
 

 奈良時代の初期、天平10年(738)頃に、正倉院御物の麻布に「信濃国小県郡海野郷」と墨書があり、この頃貢物が海野郷から信州の牛か馬の背によって、はるばる奈良の都にもたらされたことを立証する資料である。
 
 さて、海野の祖と伝えられる幸俊から幸氏に至る系図は次のようである。


                 URLへ
              http://musha.mobi/index.php?%E6%B5%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F


 前記系図の2代海野小太郎幸恒信濃守の長男は海野氏を継ぎ、二男直家は祢津氏、三男重俊は望月氏と分立し、海野氏と並んで信州の雄族で、現地にあっては、相当な勢力になって支族も広く分出し、信州・甲州のみでなく、近江・甲賀にも進出して一勢力となったほか、

各地の諏訪神社等の神官となった者もあり、出家して寺を開基して、諸国に赴いた者もある。
                    ココ


 
 孫の幸真は海野4代を継ぎ、6代幸家の弟幸房は下屋将藍として三原(群馬県妻恋村)に住し、その子孫は代々修験者となって、西部吾妻の地を開拓して、その地の草分けとなった。また、その孫は鎌原氏・大厩氏・西窪(さいくぼ)氏と西上州方面に支族が分出している。
 
 8代幸親は、保元2年(1157)保元の乱に源義朝に属し、京都に上り300余騎の左馬頭で参加する。

 元暦元年(1184)に木曽義仲に味方して源範頼・義経と戦い粟津にて戦死した。その長男幸広は、治承5年(1181)6月14日父と木曽義仲に従い、白鳥河原に布陣し、横田河原の合戦に参加する。平家方城資永軍敗退、寿永2年(1183)越中倶利伽羅峠の戦いに源行家等と志雄山に向かい、同年10月水島の戦いの折、矢田義清と共に先鋒の将とし、平家の先鋒平教経と戦って討ち死にした。 (源平盛衰記より)




 二男幸長は、勧学院の文章博士・俗名蔵人通広、出家して南都興福寺で学祖の時は、最乗房信救といい、木曽義仲が挙兵した頃は大夫坊覚明と称した。
 その謀議に参じ、木曽没落の後は比叡山に上り、嘉禄元年(1225)71代慈円僧正の弟子となり円通院浄覚と改め、その後源空の弟子となって西仏と改名、のち親鸞に従い、親鸞の行状記を著し、その子の浄賀に授けさせ、康楽寺を開基した。
 仁治2年(1241)1月28日、85歳で死去した。
 


 三男幸氏は義仲の子清水冠者義高に従い、義仲死後、鎌倉に下向したが、義高に仕えて頗(すこぶる)る忠勤であったため、却って将軍源頼朝の御感を得て、海野の本領(太平寺一帯、現在の白鳥台団地)を賜り、兵衛尉に任ぜられた。
 当時日本で弓の上手といわれた8人の内の1人であるとされている。
(吾妻鑑より)



 鎌倉幕府の記録である『吾妻鑑』には、木曽義仲没落後、覚明のことをしばしば記している。

 これは覚明の才能を源頼朝が充分にしっていたため、覚明を高く評価していたことの現われではなかろうか。


 建久元年(1190)5月、頼朝が甲斐源氏の一条忠頼の追善供養を行ったときに信救得業(覚明)に導師を務めさせている。

 その4年後の建久5年10月には、平治の乱(1159)に義朝(頼朝の父)に殉じて死んだ鎌田正清の娘が旧主義朝と父の正清の菩提のために如法経10種供養を行ったとき、願文の原稿を書いたのが、この覚明であった。

 つまり信救はみごとに名僧として鎌倉の連中を手だまにとっていたようである。この子・孫が次図のごとく各地において浄土真宗の寺を開基して、その子孫が現在までも続いている。


 前記の諸系図にある会田・塔原・田沢・刈屋原・光などは信濃の中信にある地名で、その子孫が海野氏の支族である。



 そして鎌倉時代から南北朝時代にかけて、信州のみならず各地に支族が移住し分出している。


 覚明に継いで、末派約3,000ケ寺の大多数を持つ曹洞宗大洞院を開基した如仲天・(じょちゅうてんぎん)は海野氏で、貞治4年(1365)生れ、5歳のときに母を失い、9歳にして伊那谷上穂山(うわぶやま))(現在の駒ヶ根市天台宗光前寺)恵明(えみょう)法師に従って法華経を学び、感ずるところあって禅門を慕い、上野吉祥寺(現在の群馬県利根郡川湯村臨済宗鎌倉建長寺派)大拙祖能の門に入って剃髪した。

 のち越前(福井県)坂井郡金津町御簾尾平田山瀧沢寺開山梅山(ばいざん)聞本(もんぼん)の許に投じた。

 その後江州に南下し、琵琶湖の北辺呪山に入って洞春庵を構えて悟り、それから修行に専念すること3年に及んだ。




                          ココ   遠江国の神職中村氏登場!

 再三にわたり閑静安住の地を見つけ出されてしまったので、遠州周知郡天宮神社神主の中村大善とその宮座衆を中心とする天宮村及びその周辺の農民たちを本願の施主として資材の寄附を仰ぎ、門下数人の禅僧を率いて協心力栄、応永18年(1411)に橘谷山大洞院(静岡県周智郡森町橘)を開創し、その後正長元年(1428)に梵鐘を鋳造している。


 また更埴市桑原山龍洞院を如仲禅師が応永年間に桑原郷に泊まり、北山に登ったところ、西北に龍の臥するような峰があり、奇勝絶景の地であるとして寺を建て、龍燈院と名づけたのに始まるという。(『日本同上聯燈録』より)


 前述した如く、海野幸数・持幸父子はおのおの鎌倉で元服し、幸数は上杉憲基を烏帽子親とし、また持幸は足利持氏から一字を拝領しており、関東管領家に属し、船山郷(現在の埴科郡戸倉町・更埴市)の地頭御家人であった。


 その子氏幸は、応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死する。その子幸棟を経て棟綱に至る。

 天文10年(1541)5月13日隣国甲斐の猛将武田信虎は、村上義清をして海野氏を攻略せんとし、同月15日武田・村上・諏訪頼重の連合軍と海野合戦のとき、棟綱の弟左京大夫幸義は討死した。



                        ココ    箕輪城主長野信濃守業政登場!
 幸義の遺児らは武田氏に仕えたが、棟綱と真田幸隆らは上州に逃げ、箕輪城主長野信濃守業政に身を寄せ、天文15年(1548)に棟綱死す。
 幸隆は天文12年武田家臣として岩尾城代となる。

 
 幸義の子幸貞は武田信玄に仕えて三河守と称す。また幸義の娘は、信玄の二男信親(のちの龍宝、盲人)の妻となった。永禄11年(1568)三河守幸貞らは越後の上杉謙信に通じる事が露顕して、誅せられ、龍宝は海野氏を継ぎ80騎の将となる。
 

 天文10年に、信州を遂われた海野棟綱は、上野に移って箕輪の長野業政の許に来たが、既に以前より長野原には、同族の羽尾氏がいた。

 『東艦』によれば、鎌倉時代の仁治2年(1241)に海野幸氏と武田伊豆入道が、上野三原庄と信州長倉保の境堺を争っていることが見えるので、海野氏の領地が上州にあり、一族でここに分住する者のあったことが考えられる。 (『加沢記』『羽尾記』による)


 永禄のはじめごろ(1563)より幸世以下の兄弟は、上州岩櫃城主斉藤憲広に仕えていたが、永禄6年(1563)10月斉藤氏滅亡後は甲斐の武田に属した。


 長兄の道雲は、11月末大戸城に逃げている。そして永禄9年に幸光・輝幸兄弟は岩櫃の城代となり、武田氏に属し真田幸隆の配下についていた。長門守幸光は、修験道に帰依して福仙院と号し、金剛院の法弘法師に師事していたという。
 弟の輝幸は強弓をひき、荒馬をこなし、兵法に秀で海野能登守と称していた。


 天正9年(1581)には沼田の城代になっているが、些細なことから真田昌幸と不和になり、小田原北条氏に組しているとして、11月末真田氏の攻撃を受け、21日に幸光は討死、歳75才、輝幸も沼田城を脱して、迦葉山(かしょうざん)に入ろうとしたが、22日に息子の幸貞と共に刺し違えて死んだ。ときに輝幸は73才、幸貞は38才という。


 幸光の法名は、雲林院洞雲全龍といい、羽尾北小滝にその墓がある。
 幸貞の次女は祢津元直の妻となり、真田信幸の乳母として真田家に仕え、のち剃髪して貞繁尼と称した。


 その弟太郎は天正9年に僅か8才であったために助命され、長じて久三郎といい、姉婿に養育されて原郷左衛門と称した。

 元和元年(1615)大阪夏の陣で討死したが子孫は松代藩士となり、今も存続しておられます。


                  続く
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 05時46分44秒 ) パスワード

各地の海野氏について             収穫無し


長野県の海野氏


中野市の海野氏

 中野市に海野家が35軒あり、うち間山には22軒あります。
 現在海野幸治家が総本家を務め、庭内に天照皇大神宮を祀り、海野まけを全員で守っております。 この海野家の先祖は………………
 
 第26代海野小太郎氏幸(応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死する)―海野小太郎幸種(幸棟より分家したと思われる)―海野和泉保幸―海野偁後幸忠―海野主膳宗幸―海野和泉幸澄―海野與惣兵衛幸厚(世はまさに戦国時代である、天文10年(1541)武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、海野家は各地に逃げ延び、名字をそれぞれ変えている)―白鳥勘右衛門幸邦(間山の海野家先祖)―2代白鳥太郎兵衛幸英―3代黒鳥文右衛門幸通―4代黒鳥文左衛門幸信―5代海野茂右衛門幸佐(江戸時代の余となり安泰になり元の海野姓を名乗るようになったのでわないかと推測する)―6代海野文内幸康(間山中村組佐藤要助養子)―7代海野金蔵幸照(5代海野茂右衛門幸佐の五男文助)―8代海野勘右衛門幸久(間山郷原組土屋久八の次男義三郎養子)―9代海野文内幸貞―10代海野勘右衛門幸延(子供がなく9代海野文内幸貞の弟)―11代海野勘右衛門幸孝(10代海野勘右衛門幸延の次男辰太郎)―12代海野勘右衛門幸家(菅村山本奥右衛門次男仲一郎相続)―13代海野恵紋幸固―14代海野義一幸治―15代海野幸吉―海野佳広―海野高志




長野市・埴科・更埴市の海野氏

 更埴市小島の海野雅信家、長野市篠ノ井の海野幸雄家(海野薬局)、坂城町の海野義雄家、東御市の海野恒男家(山田薬局)の先祖は………………

 第23代海野小太郎持幸は、文安6年(1449)村上の領地、船山郷(戸倉町・五加村・埴生村・抗瀬下村等を合して船山郷と言う)へ地頭となり小県大平寺(現在の東御市白鳥団地)より来る。

 宝徳2年(1450)小県大平寺より白鳥大明神を分社し寂蒔の地へ移す。持幸地頭になるや、すぐその時代官平原城主海野平原直光を代官として、この地に来る。代官海野直光、船山郷船山へ地頭屋敷(現在の船山神社の横屋敷地)
を造る。持幸地頭となるや代官海野直光をして埴生寂蒔村士族宮坂義洛院・士族丑丸、鋳物師屋士族市河等と共に船山郷発展のために尽力する。


 @館の堀割改築工事を完成する。
  先住者市河氏館、南・東・北方面の堀割を更に大きく造り、現在その堀  割は屋代陽水となって農業用に使用されている。
 A産業発展のため、鋳物師を連れてくる。
  脳儀容の発展は農具、機械および鋳物の製造により産業の発展の草分け  と呼んでいる。
 B千曲川の洪水害を防ぐ。
  寂蒔の上より船山までの土手補強工事を完成させ、船山郷を水害から守  った。
 
 康正元年(1455)持幸は、足利義政将軍に呼ばれ京都に行く。持幸・丑丸家と共に、時の天皇に絹織物・錦織物・駒・農作物等を献上する。
康正3年(1457)海野直光は代官を辞する。村上の臣室賀貞信を代官とする。
寛正元年(1460)海野直光死去し、墓地を東山に造る。現在の海野家の墓地。
応仁2年(1467)村上政清は兵を小県に出す。海野小太郎持幸と戦い海野チバ城のつめ口を取る。政清小県を侵す。以後戦国時代となる。



 そのほか長野県には199戸の海野家がる。

群馬県の海野氏

 岩櫃落城後に僧となり、吾妻郡岩下村内野の天満宮別当となった海野氏がある。
 「天山見聞感録」に記載されている『当院中興記』「第11代順円 寛政6年(1794)」の記録にもあり。以来菅原神社の社掌祢宜として現在に至る、現当主海野信義氏は吾妻町岩下に居住している。

 群馬県の電話帳で海野家が64戸ある。



山梨県の海野氏

 
 甲斐に残った海野氏で、山梨郡勝沼村に海宝院を開いた流れがある。京都の醍醐三宝院の号を賜るよう運動したという伝えがある。現当主海野金作氏は今も勝沼町におり、遠祖は左京大夫幸義であるという。山梨県の海野家は136戸ある。



千葉県の海野氏

 
 「三つ蝶」「雁金」「州浜」の家紋を伝える流れもあり、現当主海野武幸氏は流山市に居住、千葉県に海野家が233戸ある。



茨城県の海野氏

 
 常陸の国(茨城県)に海野氏がいる。来歴は不明であるが、戦国時代の永禄の頃、山野尾城(または串形城ともいい、多賀郡十王町友部にあった)の城主小野崎義昌の家中に海野安太郎あり、義昌は佐竹義昭の子で、小野崎成通の養子となったが、その際佐竹家から附入として来たという。

 天文13年に信州から上州に移った海野棟綱の一族が、更に常陸に赴いたともいわれている。また、同じ日立市に、代々五郎兵衛を襲名する家もあり、当初は「六文銭」の紋を使用し中途から「七曜」に改めたという。

 現当主海野喜七氏。日立市に120戸、水戸市に126戸、勝田市に76戸、那珂町に155戸、茨城県には海野家が721戸もある。



青森県の海野氏

 
 陸奥(青森県)の三戸郡市野沢の下洗にも海野氏がおり、三戸南部氏と共に、この地に来て「笹りんどう」の紋を伝えて今におよび多くの海野氏(25戸)がおられます。



福島県の海野氏

 
 なお、福島市五月町の浄土真宗康善寺略縁起によると、13代宗覚のとき、上杉定勝の臣古河善平衛尉重吉が、郡代に任ぜられ福島に住し、水田開墾に財産をつかい果たしてなお不足で、罪を藩公に詫びる覚悟であったが、子孫を絶つことになれば、祖先に対して最大不孝であるとし、兼ねて帰依せる宗覚と計り秀安寺を今の福島に移し、信州塩崎康楽寺の2男重覚を迎え重吉の第3女おまんと結婚させ第14代を継ぎ、康善寺と改称し、これ以来海野姓を名乗り、現在第24代海野篤氏がいる。

 当地に30戸位の海野家がおり、山形県の明善寺、北海道の札幌に覚英寺の檀家に海野家がかなりおります。



北海道の海野氏

 昭和54年「老壮の友」3月号(日本老壮福祉協会発行)によると、北海道札幌市に在住の海野義治さんは110才で、北海道の男性第一位の長寿者です。
 翁は慶応4年4月27日に函館市中浜で父義智(85才没)と母つた(99才没)とに生れて間もなく両親に伴われて、小樽の奥沢に移住して、旅館を経営し屋号を「本陣」と称した。この海野氏の先祖は…………………………

 第29代海野小太郎左京太夫幸義(村上義清との合戦の時戦死)―海野四郎幸綱(真田弾正忠幸隆の弟で、武田信玄に属し天文6年(1537)8月3日甲斐府中にて病死)―海野六良衛義綱(穴山義宗の六男養子とし、真田幸村に仕え高野山に蟄居、大阪城で元和元年(1615)5月6日戦死)―海野左兵衛幸知(越前国敦賀郡敦賀川向村で寛永19年(1642)乙名役)―海野左七郎義昌(寛文8年(668))乙名役)―海野左兵衛幸宗(元禄10年(1697)乙名役)―海野左吉郎義氏(享保13年(1728)乙名役)―海野左七郎幸経―海野左兵衛義国―海野左兵衛幸安―海野左吉郎義信――海野左吉郎幸長―海野左七郎義知(明治2年公用和帯び北海道後志国小樽郡に転住する―海野義治―義昌―隆義



その他の県の海野氏

 ちなみに電話帳で調べると、北海道に121戸、岩手県に24戸、秋田県に6戸、福島県に101戸、山形県には150戸、栃木県に57戸、神奈川県に250戸。



静岡県の海野氏
 
 前にも記した海野氏の系図に、幸氏の子矢四郎助氏、その子弥兵衛泰信・泰勝・泰秀・泰頼を経て、その子弥兵衛本定(元定)は、諏訪氏の出である安倍大蔵元真の娘を妻とし、その子弥兵衛元重は寛文5年に病死したという。 この子孫は代々駿河の井川郷に住したと伝えられております。


 この静岡県静岡市西豊田小学校玄関脇に「せいくらべ」の童謡碑がある。この童謡の作者海野厚は、本名厚一といい、曲金の大地主海野伊三郎の長男として明治29年8月12日にうまれ、早稲田大学卒、大正14年5月20日28才で没した。

 長頸子と号し俳句も作つた。特に「おもちゃのマーチ」「ろじのほそみち」「からくり」などは、この人の作として有名である。
 この碑は、昭和36年11月3日建てられた。この歌は大正8年ころの作で、作曲は中山晋平である。奇縁というか、この作曲した中山晋平の生れ故郷が長野県中野市の間山にも多くの海野家が36戸もあり、毎年海野家の先祖祭りを執り行なっている。


 静岡市史編纂委員の宮本勉先生は「海野は駿河の名族である」と言う。また、井川には金・お茶・美林等があり、駿河の今川氏も甲斐の武田氏も狙っておった場所でもあった。

 海野氏を代表するのが、「井川の殿さま」として有名な井川の海野家です。その子孫に清水港を開港した海野孝三郎がいます。日本平の山頂には翁の銅像が港を見守っています。
 
 現在静岡市に1,660戸を中心にして、静岡県には2,415戸の海野家に及んでおります。


福井県の海野氏

 福井県鯖江市にある万法寺の開基は古く泰澄大師が石川県石川郡美川町手取に養老3年(719)が開基し、天台宗を伝えたが、関白後は無住にて482年間経て、建仁元年(1201)の頃、第10代海野小太郎氏幸の次男が出家して賢信房と称して当寺の住職となり、伽藍を創立した。
 折りしも見真大師・親鸞聖人が越後の国へ流罪のとき、手取川の洪水により当寺に滞留せられ、住僧深く聖人の教法に随喜して、その法弟となり、天台宗を改宗して浄土真宗に帰入した。
ときに承元元年(1207)3月20日本吉山万法寺を開基とする。
 初代賢信房―信敬房―賢真房―空順房―従信房―願信房―9世浄信房(弟浄貞が慶長7年(1602)本願寺が東西に分派した際、祖師親鸞聖人御影・顕如上人(分派前の最後上人)御影等の宝物を携えて分離し、真教寺(現在の石川県松任市)を建立し、大谷派(お東)に属した)―円誓―教淳―教宗―教栄―教寿―15世教了―教乗―教貞―乗性―雅亮(明治40年(1907)2月2日に現在地鯖江市鳥羽に移住する)―20世雅竜―21世晃昭師は現在教法に、ご活躍されておられます。

 その他に、富山県平村五箇山・石川県松任市長嶋の白山神社・鶴来街中郷の真隆寺・川北町中島の静泉寺・同じく川北町一ツ屋の浄秀寺・滋賀県五箇所町の青蓮寺等も海野氏に関係深いと思われますので今後の研究が俟たれます。



和歌山県の海野氏

 永禄初期(1560〜)ごろ諏訪刑部(永禄12年(1569)5月卆、法名儀鏡院殿節当祖忠大居士)が一男一女(元眞とその姉)を伴って南アルプスを越え駿州安倍郡井川に入り、元眞は武田氏に随身を拒み駿府城の今川義元に仕える。
 今川より地名の安倍の姓を賜り、安倍大蔵と名乗った。
その後永禄11年12月13日、武田信玄に駿府城が攻略され、義元の一子氏実は掛川城に入り、元眞は、その子信勝と共に岡部次郎左衛門と協力し、本丸は岡部氏が、二の丸は元眞父子が守っていたが、戦が不利になり大井川を南下して遠州の徳川家康の援助を求め、家康に仕え援軍を得て、武田勢の拠点筒野城・水見色城・川根城・土岐城・天野城・花沢の城等を攻略するなど徳川山岳戦に従い幾多の功績を掲げたので家康お墨付の感状をいただいた。

 その後元眞(天正15年(1587)10月10日卆、法名龍泉院殿心清浄安大居士)隠居し子の信勝(武州5250石、慶長5年(1600)1月2日卆、法名大正院殿捐館等山源勝大居士)に譲り、再び井川に戻り、海野泰頼(慶長20年(1615)10月1日卒、法名天生宗眼禅定門)の長男本定を養子に迎え、本定は海野姓を復活する。

 海野弥兵衛尉本定と名乗り徳川に仕えた。その二男海野兵左衛門良次(紀州初代海野氏、1150石、勘定奉行)が元和5年(1619)徳川頼宣に従って紀州に入国する。寛永19年(1642)5月14日死去、法名観翁道夢居士、和歌山市男之芝町天年山吹上寺に葬られている。

 2代海野兵左衛門清長(寄合組頭、400石、延宝5年(1677)病死)―3代海野平左衛門幸隆(徒頭、300石、元禄13年(1700)病死)―4代海野兵左衛門清詮(持筒頭、持弓頭、400石、明和6年(1769)病死、87才)―5代海野兵左衛門伴高(中の間番頭格、400石、安永9年(1780)病死、71才)―6代海野兵左衛門清雄(徒頭格、使役頭、400石、寛政8年(1796)病死、76才)―7代海野兵左衛門勤(寺社奉行、持弓頭、寄合組頭、400石、後に、御用人千石、大目付五百石、大寄合格千三百石、天保8年(1839)病死、74才)―8代海野兵左衛門希元(中奥小姓、勘定奉行格、天保15年天保15年(1844)美容師、47才)―希與とつづき、以来紀州で代々徳川家に重く用いられ活躍している。

 その子孫に、和歌山県議会事務局長の海野正幸氏がおられ、昭和62年に、初代海野良次「観翁道夢居士」の350回忌にお墓の修理をし、父の50回忌もあわせて追福の法事を行う。ただ残念なことに、平成3年7月に亡くなられ、妻の貞子さんが守っておられます。


その他にいる海野氏

 その他に東京都に554戸、埼玉県に267戸、大阪に157戸、兵庫県に64戸、愛知県に197戸、三重県に184戸、和歌山県に93戸、岡山県に100戸、宮崎県には255戸、の海野家があります。
 
 おわりに、海野氏を研究して、まだ日も浅く、これからも調査・研究を続けてまいりますので、いろいろと御教示いただければ幸であります。



海野氏と寺院

 海野系寺院は全国に117ケ寺もあり、海野正統は滅亡したが、名族海野家を滅ぼしてはならないと、名ある御家人についたり、出家して住職になったりして海野氏は脈々と現在まで続いております。



寺 名

住職名

所 在 地

宗  派

覚 英 寺 海 野 覚 爾 札幌市豊平 浄土真宗
永 昌 寺 海 野 義 清 岩手県北上市 曹 洞 宗
久 昌 寺 海 野 一 義 岩手県盛岡市 曹 洞 宗
康 善 寺 海 野 篤 之 福島県福島市 浄土真宗
安 養 寺 海 野 徹 成 福島県梁川(やながわ)市 浄土真宗
浄 厳 寺 海 野 知 現 新潟県出雲崎町 浄土真宗
真 成 寺 海 野 芳 雄 富山県大山町 浄土真宗
真 教 寺 海 野   進 石川県松任(まっとう)市 浄土真宗
万 法 寺 海 野 晃 昭 福井県鯖江(さばえ)市 浄土真宗


玉 泉 寺 海 野 泰 邦 静岡県静岡市 曹 洞 宗          静岡

勝 満 寺 海 野 貞 行 京都市上京区 浄土真宗
貞 麟 寺 海 野 仙 厳 長野県白馬村 曹 洞 宗
極 楽 寺 海 野 一 正 松本市深志 浄土真宗
西 生 寺 海 野 祐 完 松本市島立 浄土真宗
妙 福 寺 海 野 浄 英 三水村芋川(いもかわ) 浄土真宗
善 敬 寺 海 野 浄 英 長野市吉田 浄土真宗
浄 專 寺 海 野 正 雄 長野市吉田 浄土真宗
康 楽 寺 海 野 浄 雄 長野市東町 浄土真宗
康 楽 寺 海 野 協 親 長野市篠ノ井塩崎 浄土真宗
専 精 寺 海 野 教 恵 長野市篠ノ井東福寺 浄土真宗
上 宮 寺 海 野 昭 親 長野市篠ノ井塩崎 浄土真宗
本 覚 寺 海 野 玄 秀 更埴市倉科 浄土真宗
長 雲 寺 海 野 慶 雲 更埴市稲荷山 真 言 宗
證 蓮 寺 海 野 忠 英 長野市松代町寺町 浄土真宗
明 真 寺 海 野 栄 子 長野市松代町東条 浄土真宗
陽 雲 寺 海 野 秋 丸 佐久市中小田切 浄土真宗


[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 06時47分44秒 ) パスワード

レス43
この箕輪史をネット上ではどう読んで良いのか分かっていませんがコピペします。


http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0460.html


                        松島大出って
                        松島氏と大出氏の2人でした。汗


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420


第2編中世福与城攻め福与城攻めは天文十四年のことであるが、その前年塩尻峠合戦で、諏訪城代板垣信形が伊那の侍衆におくれを取ったということで、信玄は「小笠原の押えの為に弟の典厩を総大将にして下諏訪に置き、板垣信形には足軽大将原美濃をさし添えにして伊那衆に用心のため花岡・有賀の郷に置いた」と『甲陽軍鑑』に記しているが、福与城攻めに就いての記録はない。以下、『箕輪記』の記載によって福与城の攻防を述べることとする。「板垣信形小尻(湖尻?)に砦を構えて筑摩伊奈をこそ窺ひ小笠原長時、木曽氏康、福与の後詰すべしと惣軍壱万五千ける。伊那衆これを討んと樋口村の荒神山に砦をかまえ、北大出まで出馬せらる。小笠原信貞も下伊那勢三千余人を小笠原長時より草間肥前を置かる、宮所と古式山(尚一山一州内)引率し伊奈部までこそ出られける。と両所に狼畑台を立て、板垣勢に備えける折、天文十三年城内には防がたくやおもひけん、弟権次郎を人質に出し三月晴信諏訪衆に先障させ、有賀嶺より平出、赤羽迄打出て和を請ければ、晴信も敵地へ深入して前後の大敵を心遣らる。草間肥前戦まけて引取りぬ。信玄これより荒神山にひし、和睦を幸として諏訪まで引取る。ゆ峨時官路一一錦繍一一川移り、先陣すでに上棚にぞ発向しぬ。雑兵ともに三千五百川端峨比一弘場凡六十日余にて帰陣あり、十四年に信州勢塩攻)余人とぞ聞えし。尻嶺を越えて責かけけるに晴信も上諏訪まで出馬ありて諏T(福与城に松島・大出・長岡・小河内・福島・木下その外訪の後詰たり。小笠原これを開て四谷迄しりぞき合戦にお野口・手良・八手・平出・高木・辰野・宮木賊島・神戸・よびける小笠原は遂に敗軍せり。伊那勢進て戦ければ板垣赤羽・樋口・有賀M・漆戸川一側内・柴崎醐・都合百余騎・信形また敗走しぬ。斯くて伊那の勢、保科が叛逆のよし沙雑兵千五百寵城して防ぎける。中にも藤沢織部・大泉上総汰ありければ皆々引返しぬ。是より度々の戦に伊那常に利強弓の射手にて敵勢多く討取りぬ。あらずして藤沢頼親没落しぬ」これによると「十四年の塩尻合戦では小笠原は敗れたけれど、伊那勢は信形を破って勝った」と『甲陽軍鑑』四



レス42

http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0461.html


                         松島氏・大出氏がココにいました



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>> 421


第4章戦国時代の記事どおりであるが、
それ以後の戦いでは常に利あらずで、

藤沢頼親も没落するに至ったという筋である。     松島が行動を共にしていた人


これを友軍であった小笠原に属する二木寿斎の『二木寿斎記』によって見ると次のような記述である。

時公も後誌に上伊那の内竜ケ崎と申所を御本陣に被成、図2・13福与城跡一、
伊那衆の内箕輪と申所六千貫箕輪殿の領知也。

福与の城に在裁の処に、諏訪頼重晴信の先手を仕、三月上旬福与の城へとり懸六(攻)十日許取巻責申候。


                            ここに松島大出
一、福与の城に籍りし武士、箕輪頼親侍衆松島大出長岡小河内福与木下此衆箕輪殿家中にて大身の武士也。

其外野口寺や沢々の者百余騎雑兵千五百箆居、右之衆城際にて日夜取会申候。

其時箕輪殿内に藤沢織部大泉上総とて強弓の射手有、福与の城大手にて此者共矢あた先に中り晴信の者共多く死す。

弐人の武士箕輪殿供仕中東の城に籍り申候一、
伊那衆不残悉後詰仕、箕輪福与の近辺三日町と申所に陣を(出)取、
天竜川を隔足軽軍御座候。

長先手は北大手に陣をとり申候。其時某を万太郎と申生年Q421
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 06時50分08秒 ) パスワード

レス41


http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0462.html




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> 422


2第編世中リ。H庚寅年十五歳初て具足を着仕御供仕、天文十三年甲辰なおぼしあす可仕由申候。伊那衆に対し御憤思食事あるに依て御馬を不被寄事御一代の分別違也。郁山町供那衆引取申付、箕輪殿城一、下伊奈の内小笠原信貞より多科惣蔵を使者として竜無事に成、権次郎と申弟を晴信へ人質に出し箕輪殿牢人ケ崎へ参候趣は、御馬を福与の城根古屋へ被寄、是非一軍也。就夫長時公も林へ御引取被成侯也。」『二木寿斎記』では若干戦いの様子、藤沢織部・大泉上総の強弓で大手口に寄せて来た甲州勢を討取った趣は書かれているが、福与城敗戦の原因は、下伊那の小笠原信貞が多科惣蔵を名代として竜ケ崎の長時に福与まで兵を進めて戦われたいと申し出たのに対して、長時は伊那衆の出方に憤慨して、戦わずして深志に兵を引き挙げてしまった。頼親は万事窮して弟権次郎を人質にして和議を乞うことになった。これについて二木寿斉は「長時公御一代の分別違也」と記している。これらの史料から判断されることは、箕輪地方を中心として六千貫の領地を支配する頼親は伊那北部の豪族として武力を振い、特に小笠原氏と姻戚関係にあって盟約提携して軍事行動を共にし、武田勢に伊那衆として一目置かせる存在であったことは確かで、福与城落棋の原因である小笠原長時が救援の手を差伸べなかったにしろ、その後に小笠原の勢威が落ちて松本を離れざるを得なくなり、長時が頼親と共に相携えて京都の三好氏を頼って落ちていったことを考え合わせると、救援をこばんだのは、伊那衆に対する憤まんもあるかも知れないが、武田勢の威力を怖れての所為とみられないこともない。武田氏の伊那統治福与城落城鋭、武田氏は伊那の小豪族を漸次討ち平げて、天文十六年には秩山伯番守を伊那郡代に任命しているが、天文十八年には高速に域を築いて、ここを本拠に伊那谷南部から下伊那地方攻略の機を窺っていた。天文二十三年(一五五四)七月、信玄は下伊那へ出兵して知久郷を攻め、知久頼元父子を捕え甲斐へ流した五422



レス40


http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0463.html



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>> 423


第4章戦国時代が、下伊那侵略に先だって、当町三日町の箕輪郷の惣社であったと推測される御射山大明神へ願書を奉じ、成功後その御礼として七貫二百文の地を同社に寄進している。(信玄朱印)九月晦日此度下伊那働之翻、奉納干神前願書畢、成就之問、為御三斎山神領七貫仁百文所奉進献候。大明神社人等各社人等武運長久之祈念、可致精誠者也、初如件(小池喜美彦氏旧蔵)天文廿三年秋山伯番守は飯田に移り、その後の高遠城主となったのは、信玄の五男仁科五郎盛信で、永禄四年(一五六一)福与落滅後十六年を経ている。この年月の間藤沢氏の徒党であった諸小豪族たちは、大方は不本意ながら武田に恭順の意を表していたとみられる。上伊那地方が完全に武田氏の支配になったのは天文末期からで、天正十年(一五八二)織田軍の侵略による高遠誠落城までの約三十四年間が武田氏統治の時代であった。この間伊那豪族の一部が信玄の女婿である木曽義昌を討つベく、木曽へ攻め込み信玄のきびしい成敗をうけたという。それは弘治二年(一五五六)七月伊那の溝口・松島・黒河内・上穂・小田切・伊那部・宮田・殿島の諸氏で、怒った信玄はこれら諸氏を狐島(伊那市)において疎殺したという。信玄の支配は相当にきびしかったようで、永禄三年三五六O)信玄は小野郷の地侍小野七騎に対して、郷中において重科の罪人や国法を犯した輩を三日を経るまで隠しおけば、届出の者まで同罪に処する。また、甲州のために悪いことを聞いたなら、古向島城へ申し出れば褒美を与える旨の「定」を与えている。武田氏の軍用道路沿線の百姓は年貢や夫役のために困窮し、杖突街道に沿う藤沢郷片倉の百姓たちは、困窮に耐えかねていずれかへ逐電してしまった。永禄から天正にかけて、武田統治下の百姓の逐電の記事は古書に散見され、諸郷の百姓が
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 06時51分59秒 ) パスワード

レス39


http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0464.html

            

箕輪町誌(歴史編)

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>> 424


第2編中世当時相当難渋していたことがわかる。

武田氏の上伊那地方統治は四十年たらずであり、その統治は逃散する百姓さえ少なからやすいたほどきびしいものであったが、伊那地方において信玄ほど関心が深く、親しまれてきた武将はない。武田氏関係の感状を所持したり、いわゆる旧家と称する一族のなかには、甲斐から入信してこの地に土着した武田家臣を先祖と信じ誇りとするものも少なくない。こうした信玄びいきの気風は、織田侵略による高遠城主仁科五郎盛信の壮絶な最期や勝頼の悲惨な末路などに対する同情心が、大いに作用しているものとも考えられる。


                               ココからどうぞ


第二節藤沢氏従属の諸氏松島氏は藤沢氏の塵下の中でも大身で、
『神家系図』によれば、藤沢氏と同じく千野氏の分れであり、
松島本城に砦を構えて藤沢氏と軍事行動を共にしていた。


従って小笠原氏の友軍として、度々の甲州勢との戦いに加わって居り、
天文十五年福与落城より少し前の塩尻合戦に、
大手の小笠原軍は敗れたけれども、揚手の箕輪勢は奇襲で勝利を得たことは前述したが、

『二木寿斎記』には揚手の大将小笠原信貞の言として、
「信貞被仰候は大手敗軍に候へば対陣に不及とて伊那へ御引被成候事」と、
高遠の保科弾正と共に、武田勢へ心を通わせているというのである。


武田晴信が伊那を手中に収めるのに、彼一流の謀略を用いたが、
木曽・小笠原の連合軍に叛いて武田軍に寝返えれば倍の土地を加増、
更に高速攻めの先頭に立っか、裏切をすれば十倍の加増というような流言で伊那の小豪族を揺ったようであるが、
律義で盟約を重んずる伊那衆はこれに乗せられることが少なかったが、

「松島対馬守貞実コソ、武田ガ語ラヒニ応ジテ逆心ノ工アリト申ケレパ、
義康大ニ怒リテ是非ノ札明ニモ不及急ギ松島民424




レス38


http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0465.html

     順序が  427から若い番号になっています。ごめんなさい。

                        天文17年に松島貞実が高遠城で謀殺された話
                        松島館
                        松嶋の従弟  左内さん登場


                        天文15年(1546)に松島が武田に内通している噂があった?

                        弘治二年(1556)松島豊前守信久処刑さる





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>> 425


第4章

戦国時代首ヲ例テ諸士ノ見懲シト成ベシト千村ニ下知セラル。
内匠スルヲ白木道喜斎丸山久左衛門武者溜リニ待受左右ヨリ是由民テ
丸山久左衛門ヲ使トシ松島ガ館へ遺シ、                ココ
武田勢近々藤非ナク切殺ス。

                                  松島
松島ガ従者六是-一驚キ、抜連テ切入ヲ、兼沢筋へ働キ当城へ押詰ベキ内試アリト聞キ、
急ギ来テ防禦テ計リシコトナレバ討手ノ人々引包ミ一人モ残ラズ切倒ノ評定有ベシト申遺シケレバ、


松島何心ナグ翌朝暁天-一宿ス。

松島が従弟松島左内ト云モ比類ナク働キ城兵数輩ヲ切倒ス・終-一丸山所ヲ出、

従者十四五人ニテ高速へ下リ、
二ノ丸へ入ラシト久左衛門戸一突殺サルト一」


これは天文十七年のことで、当時木曽義康の勢力下にあった高遠域内で、
松島貞実が武田の謀略に乗ったとして討たれたことを記した『高遠記集成』に載った文章である。


この二年前、既に小笠原信貞からも、松島氏が武田へ心入れをしていると指摘されているので、
福与城落城前後から内通の事実があったかと思われる。


この内匠は千村内匠であって、木曽義康の高速城代である。


次に松島氏の名が古文書に登るのは弘治二年(一五五六)のことで、

信玄の伊那攻略に屈服した上伊那の小城主たちは心から服従せず、川中島合戦で甲越の戦いに主力を注いでいた信玄の隙に乗じて、信玄の娘婿である木曽義昌を攻撃して反抗したが、弘治二年に至って敗れ囚われて伊那市狐島の地で、松島豊前守信久は黒河内隼人政信・溝口民部少輔正慶・伊那部左衛門尉重親・殿島大和守重国・{呂田左近正親房・小田切大和守入道正則・上穂伊豆守重清らと共に斬首された。その首を黒河内の里人らが暮夜密かに盗んで、長谷村黒河内の艮城の近くに葬って八人塚と称えたと今に伝わっている。


この塩尻合戦に敗れて、三河の家康の許へ逃れた小笠原貞慶が、天正十年(一五八一一)信長が本能寺で討たれて戦乱の渦が一層濃くなった機会に乗じて、失地回復をねらって信州に帰り、下条の小笠原と共に上杉家の支配に帰していた深志械を取戻すベく北上して来るのであるが、その人数の中へ、E
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 06時53分46秒 ) パスワード

レス37


     松嶋善兵衛兄弟のこと
                     松島氏は2種類ある:1つは諏訪系もう1つはよく分からない
                     小笠原への助勢のこと
                     深志城攻め
                     箕輪内松島大出之者塩尻衆  意味は?松嶋氏は塩尻の人?謎
                     藤沢氏と行動を共にしていた?
                     天正11年に木曽義昌に敗れた人が最後の松嶋氏?




レス36

http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0467.html



箕輪町誌(歴史編)          松島氏の出自

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427



第4章戦国時代長福現住智門代この小丘も西天竜開田のため、周囲の地形が変っているので、どの位の高さと広さを持つ墳丘であったかは分からない。


松島氏の出自については、『神氏系図』によって述べて来たところであるが、
これには異説もあり、

『伊那武鑑』に
「天文二年海野氏の分流矢島肥後守信清の孫ここに来たり、松島氏と名乗、松島肥前守信晴築城知行五百貫文、その子矢島豊後守信久武田氏のため滅さる」とあるが、信晴の名は諸文献には見えず、信久は弘治二年に狐島で武田によって斬首された武士であることには符合するが、真偽のほどは明らかにし難い。


『上伊那郡史』(唐沢貞治郎編)ではこの説に準拠しているようで、「城主小笠原対馬守は往昔、小笠原信濃守長清より十一代目小笠原信濃守従五位下持長の末葉で小県郡を領有しそちらから来て在名を衆名にしたと伝わっている。


松島氏の出自は城主小笠原対馬守で(中略)次の城主貞実は、天文の頃千村氏に随いて高速械に属し云々」写真2・3松島氏の墓域ずる臼杵洞、南は中学校の続きの台地との聞の小谷で区切られた場所にあり、東西二百円南北三百位の規模であろうか。旧本棋の中心近いと考えられるところに小丘があって二基の墓碑が立っている。

                         臼杵洞
                         松嶋神社の御神体が臼とか杵とか上の方の<レス26>にありましたよね

          http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja/matusima.htm

           箕輪の松嶋神社。
                  松島神社 上伊那郡箕輪町中箕輪





角柱の墓碑自然石の墓碑前松島城主対馬守頼実公墓永緑入乙丑年六月二十七日金剛院殿庭厳雪宗大居士永光院殿伝相祖直大居士享様四卯七月十六日卒願主明音八世弟子要門M


                     松嶋氏の城の名は  木城?役場のの処?


箕輪町誌(歴史編)

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>> 426


第2編世中

   「塩尻へ参候に出川にて松島善兵衛兄弟の者・某と共に逐申、
    此者能者にて候問、貞慶公御越え由申関せ侯へば、兎付申候ば、
    下伊那の敵は何者にて候哉、

    物見の可致御供由も角も御前へ可然様に頼入と申故、
    某ともに塩尻へ参候」と

    松島善兵衛兄弟が、小笠原寧への助勢を申出ている。


    そして深志城攻めが始まるのであるが、

    「域内より打鉄勉にあたり、箕輪内松島大出之者塩尻衆討死也」とあって討死の仲間入りをしている。

    このように『箕輪記』(中村元恒著)『高遠記集成』(星野葛山著〉『二木寿斎記』『伊那旧事記』(関盛胤著)等に現われる松島氏は、

    『神氏系図』に出る松島民の祖は別として、

    戦国時代に藤沢氏と同一行動を取って、
    松島本城を本拠として天文年聞から弘治・天正年聞に至る五、六十年間の事蹟に限られて、
    その後どのような過程を辿ったか不明である。

     またこれら書物に現われる武士の人脈も判らないが、
     松島本城跡の西にある塚の明音寺開基の小笠原対馬守頼実朝臣の墓碑と、
     木曽義昌の謀計で高遠域内で討たれた対馬守貞実とは親子関係ではないかと推察されるところである。

     さらに松島氏の名が見えるのは『甲陽軍鑑』に、

     「天正十一年木曽義昌伊那へ打入与地原にて伊那諸氏と戦う。
      松島氏戦死」とあるのが史料では最後かと思う。


戦国時代諸将の隆替が劇しい中で、初めは藤沢氏と共に武田軍に抵抗し、
そののちには小笠原・木曽の連合軍に加担し、またその武田氏に誼を通じ、更に木曽と戦い、
というように変転極まりないのも、戦国の地方小豪族の哀れというべきであろうか。


松島氏の拠った木城は、現在の役場敷地であり、東方に天竜川に対する舌状台地で、北は下れば臼杵神社に通426
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 07時02分26秒 ) パスワード

http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0468.html



箕輪町誌(歴史編)

箕輪町誌のデジタルブック 歴史編

428



第..2編中世とあるが、これも真偽は定かでない。


また海野氏の流れという記述もない。


他に松島氏の名前が見えるのは守屋文書で(『上伊那誌人物篇』)、


      「松島氏は諏訪氏族で藤沢氏の流れをくみ、松島の豪族であった。


       守矢文書によれば、天文十六年(一五四七)松島満清(清満)は諏訪上社に対し役料減免を願い出たが、
       これに応じられず進済を約している。(下略)」

       とあるが、福与落棋の翌年のことであるから、
       戦乱で収穫もままならぬ状況下の役料減免顕であったかと推察される。

       また落城後武田に帰順した松島氏の当主が満清であったとも言えるのである。


       天正年聞に何れにか離散したと思われる松島氏であるが、
       その後約三百年を経た天保六年(一八三五)に、

       松島氏十三世の孫と称する諏訪藩医松島履郷が、松島へ来て
       この本城の墓碑に額づいて祖先を追憶し、詩を献じたという話がある。


       その詩は和文に直すと、

      「春風秋雨幾度めぐり来たるか足音をしのび乱れ髪をかきて苔はむし草は荒れたれど掃う人なくうたた土日情を偲びて立ち去りがてぬ古塁の崩れは剣戟をうずめ松柏何を諮らんとするか廃濠の中に残兵の姿を見る


       しかし、十三代履郷に至る系譜は審らかにされてはいない。

    
       その他の諸氏福与城に拠った藤沢軍団を形成する諸土は天文十五年の武田来攻の時は、
       『二木寿斎記』に

       「福与の城に寵りし武士箕輪頼親侍衆、松島・大出・長岡・小河内・福島・木下、此衆箕輪殿家中にて大身の武士也」とあり、
        木下氏も松島氏同様藤沢氏に従属する侍の一人であったことが窺われるが、

        この拠った城は、養泰寺のM西の舌状台地、東は数の崖で天竜川に対し、
        南は猿楽・北は北域との聞の小谷で区切られている台地であろうと推察され、
        今なお空濠、土塁のあとが歴然と残っている。L..428
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 07時05分46秒 ) パスワード

http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0469.html



箕輪町誌(歴史編)

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>> 429


第..4章戦国時代写真..2・4箕輪城跡(南堀跡)


ここで木下惣蔵という城主の名が出て来るが、
『二木寿斎記』によれば、「小笠原長時が下伊那を領有していた小笠原信貞へ、溝口刑部と共に渡されて、木下惣蔵は多科(駄科?)の域へ指置かれて多科惣蔵と名乗った一騎当千の者である」と書かれているが、

藤沢頼親が福与城で苦戦している際、深志の小笠原長時に援軍を出すようにと小笠原信貞の命を受けて使者に立ったのがこの多科惣蔵であることから考えると、少し辻棲が合わない感があるが、

木下惣蔵が在名を名乗って木下城主であった時期があると考えても良いのではなかろうか。


その後、再起した頼親が田中城に拠って武田軍に代わって伊那を領有した徳川家康の家臣酒井忠次の来攻に抵抗することになるが、この時木下に住して箕輪氏を家号とした箕輪左衛門重時を始め、向山主水・白島四郎などの重立った侍と城中の兵が多く討たれて、頼親が城に火をかけ切腹し、


松島・小平・漆戸・高木・柴・辰野・平出・有賀の侍衆が皆保科に降って共に酒井氏の下風に立つことになったと『箕輪記』は書いている。



この左衛門重時は、頼親の養子であると言われるが、木下に拠って箕輪を家号としたことから考えても、木下城より箕輪域と呼ぶのがよかろうと思われる。


その後文禄年間飯田京極高知領となって木下陣屋が置かれることとなって廃城となった。


大出の誠?城?は、天竜川と深沢川が削って断崖を作った突端にあって、現在の大出の東南端に当る。

                                  長田?
大出氏は遡って建武のころ、木曽又太郎家村の侵攻にあって討死し、
一族は長田にひそんで居て、
藤沢氏の勢力拡大に伴ってこの城に拠って藤沢氏に属するようになったと言われる。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 07時07分14秒 ) パスワード

http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0470.html



箕輪町誌(歴史編)

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>> 430


第2編中世写真2・5


大出城跡天文年聞の城主は、藤沢織部といい、強弓を以って知られたというが、『箕輪記』などにその名は出ていない。

長岡氏・小河内氏・漆戸氏・有賀氏等も藤沢氏に属した地侍衆であっても、事蹟は明らかでない。


これら箕輪城・本城・大出城などが何れも段丘崖の東端にあって天竜川に面していることを考えると、

諏訪から、また下伊那からの敵軍の進攻路は段丘下であって、
天竜川の流れの変化で途絶するという欠陥があり、
飯田城主小笠原秀政の臣春日河内守による段丘中段の春日街道開発というところへ繋って行くように思われる。430
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 07時23分52秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101450.html
長上郡の服部氏族XL(M氏家譜4)スレッド番号 40 を建てました。

切りの良い所で  M氏については  スレッド番号 40  XL  へどうぞ。  
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 07時36分55秒 ) パスワード

矢島氏の前に藤沢氏について



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E9%A0%BC%E8%A6%AA


藤沢 頼親(ふじさわ よりちか、? - 天正10年(1582年))

戦国時代の武将、信濃国福与城主。


諏訪大社大祝(おおほうり)家の諏訪氏の分流にあたる藤沢氏の生まれで父は藤沢隆親。

妻は小笠原長時の妹。


福与城は箕輪城とも呼ばれたため、箕輪次郎と呼ばれた。弟に権次郎がいる。



略歴[編集]


天文年間には甲斐の武田氏による信濃侵攻が本格化し、天文9年(1540年)に家督を継承した武田晴信(信玄)は諏訪郡侵攻を開始する。

『高白斎記』(『高白斎記』には信濃国衆に関する記述が詳しく、以下も同書に拠る)に拠れば、
天文11年(1542年)には晴信は高遠(長野県伊那市)の高遠頼継らと結び諏訪宗家の諏訪頼重を滅ぼすが、
諏訪統治を巡り武田と高遠頼継が対立し、
頼継は福与城(長野県上伊那郡箕輪町)の頼親や上伊那の春近衆らを糾合して武田方と敵対する。

武田方は頼重の遺児虎王を奉じて諏訪一族を糾合すると同年9月25日には高継らを撃破し、26日に武田方の駒井高白斎が上伊那に侵攻し福与城を囲む。

28日に頼親は武田方に降伏し、甲府へ出仕したという。


天文13年(1545年)には武田方から離反し、10月29日には再び福与城には攻められている。

信濃守護で義兄にあたる筑摩郡の小笠原長時と結んで抵抗するが、
翌天文14年4月には伊那高遠城を攻略した武田方が福与城を囲み、
同年6月10日には和睦が成立し、武田一門衆の穴山信友、小山田信有、勝沼信友らの勧告を受けると弟の権次郎を人質に降伏し、
起請文を提出し信友の傘下に配せられた。

以後、武田との関係は穴山氏を通じており、天文17年(1549年)には上田原の戦いにおける武田方の敗北を機に
小笠原氏と結び再び武田氏から離反するが、信友を通じて武田に降っている。


その後、年代は不明ながら上洛して三好長慶に仕えたという。

長慶の没後に旧領箕輪に帰り、田中城を築いて居城とした。

天正10年(1582年)武田氏、次いで織田信長が滅ぶと北条氏直に属することを企図するが、
徳川家康に属する保科正直に攻められ、田中城で息子の頼広とともに自害した。


______________________________________

諏訪氏は代々、諏訪大社の大祝を務めてきた一族である。


その血筋は「神氏」といい、                     オサダ氏
欽明朝や推古朝の頃から平安時代初期に信濃国地方政治で活動した金刺氏や他田氏の名が諏訪社の神官として続いて来た。


出雲神話の神・建御名方神(タケノミナカタヌシ)に始まるともいう。


後世には桓武天皇を祖とするとも清和源氏の源満快を祖とするとも称したが、
皇胤や摂関家をはじめとする公卿の末裔を称する武家が多い中で
祭神・建御名方命の血筋を称しながら極めて尊貴な血筋としてとらえられた特異な家系といえる。


諏訪氏は武士と神官双方の性格を合わせ持ち、
武士としては源氏、執権北条氏の御内人、南朝方の武将、足利将軍家の奉公衆を務めるなど、ごく一般的国人領主である。

しかし、神官としては信濃国及び諏訪神社を観請した地においては絶対的神秘性をもってとらえられた。


信濃国一宮として朝廷からも重んじられたこともあるが、祭神の諏訪明神が軍神であることから、
古くから武人の尊崇を受けていたことも大きく影響している。


故に諏訪神社の祭神の系譜を称し、
諏訪神社最高の神職たる大祝を継承し、
大祝をして自身の肉体を祭神に供する体裁をとることで、
諏訪氏は絶対的な神秘性を備えるようになったといえる。


代々の諏訪氏当主は安芸守などの受領名を称したが、
大祝の身体をもって諏訪の祭神の肉体とされることで正一位の神階を有し、高い権威を誇示した。



宗旨は曹洞宗。

菩提寺は温泉寺 (長野県諏訪市)、宗湖寺(長野県茅野市)、頼岳寺(長野県茅野市)、吉祥寺(東京都文京区)など。

[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 07時38分49秒 ) パスワード

武家家伝_藤沢氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/huzisa_k.html


文字化けして読めません。

武田軍の侵攻に対して藤沢頼親は箕輪の北方平出の荒神山に砦を構え、伊那衆とともにこれを守り武田勢を迎え撃った。
武田勢は武田信繁を大将として有賀峠を ...
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 07時41分23秒 ) パスワード

松嶋氏が藤沢氏と行動を共にしていたということは
同じく諏訪系   and/or   婚姻により   結びついていたのかも。



一族の可能性が大きいのかも。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 07時47分16秒 ) パスワード

http://koskan.nobody.jp/sanke_unno.html


矢島氏について

文字化けしてて読めません。


海野幸明には、長男海野幸真、次男矢島正忠がおり、矢島氏の祖とされている。

五代目海野氏当主海野幸盛には長男海野幸家、次男下屋幸房がおり、 海野幸家が六代目 ...
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 07時49分05秒 ) パスワード

http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/vassal/sanada.htm


文字化け




真田氏家臣総覧〜真田幸隆(幸綱)から真田昌幸まで〜

海野氏は大塔合戦・結城合戦にもその名が見られるように、古くから小県郡にあった豪族である。

... 上野国三原の庄(現在の嬬恋村・長野原町)の地頭であるから、滋野姓海野氏は上野国吾妻郡にまで広がっていたといえる。

..... 小県郡の矢島氏も同族である。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 07時54分52秒 ) パスワード

http://www5f.biglobe.ne.jp/~sinanodaimon/sinanodaimonmain.files/daimonheya.files/daimonsaki.files/azuminohukei.htm


安曇野


 海野氏は長野県の小県郡東部町(現東御市)を中心に平安期に栄えていた滋野氏の流れであるという。

大伴氏の末裔、渡来人御井氏の末裔とも言われどちらにしても古族である。  



六文銭の家紋というとすぐに真田家を連想する人が多いが、六文銭は元々海野氏の家紋である。


真田家は早い段階に滋野氏から別れ真田町菅平に勢力を張っていた豪族で、
下克上の戦国期に正統滋野氏を名乗るため正統海野氏を群馬でだまし討ちにし系図の乗っ取りを謀った。


 本来の海野氏の末裔(現東御市)の人々は、戦国期終了後郷里に帰農し六文銭の家紋を守り今日に至っている。



 滋野氏は古来から諏訪氏とも関係が深く、守屋文書の御山祭にその名を残し、
諏訪市の沖田地籍の矢島氏は、六文銭である。


          あらあら・・・
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 08時04分52秒 ) パスワード

http://www7b.biglobe.ne.jp/~yukiuzumi/kasin.htm


真田家臣団


矢島重勝 (矢島氏)


矢島氏は諏訪上社奉行職矢嶋氏の支流・矢嶋神左衛門重勝が武田氏に仕え、
永禄十年西牧八十貫を授けられ、天正四年武田勝頼より主殿助の名と武田菱の紋を授けられた家である。

天正十年武田氏の滅亡によって真田昌幸に臣従した。



ということは矢島氏は元は諏訪上社系だったのが武田に仕え
のちに真田に仕えて海野姓に化けた?
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 08時24分16秒 ) パスワード

http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0433.html


またもや順番が逆です。
ごめんなさい。



箕輪町誌(歴史編)

箕輪町誌のデジタルブック 歴史編

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>> 393


第1章鎌倉時代は埋もれてただ形を残すばかりである。

第三節氏当町深沢川付近に居住したといわれる深沢氏、また室町末期から戦国時代における箕輪の雄、

福与城の藤沢氏やそれに従属する松島氏などは、諏訪氏の分流であるという説がかなり有力である。


諸族の出自はともかく、諏訪氏をぬきにして箕輪の諸族は語れないので、
ここで諏訪氏についてその概略を見ておくことにする。


源氏の勢が盛んになった頃、諏訪の地に住んで諏訪社に仕え、武士となって諏訪氏を名乗った一族があった。

おおほうり諏訪社に仕える人々の上に立つ人を大祝というが、大祝は神に仕える身で、
実際には社領の管理ができなかったことから大祝を幼子に譲り、自分は隠居して武士となった。


武士の勃興発展する時代となるに及んで、神宮家といえども自衛のためには軍備を整える必要があった。

こうして諏訪民は専ら武力を蓄えて諏訪を中心にその付近に栄え、
その分流は北は小県・佐久・高井方面まで、南は上伊那までひろがっていった。


『前田家諏訪系図』には、伊那に栄えた諏訪氏関係の民族として
深沢・保科・笠原・中沢・平出・知久・宮所・藤沢・松島・矢島・栗原の諸氏があり、

その系譜を示すと次のとおりである。。OTILO-有員・・・・・・・・-←為仲大祝元祖大祝保科氏..諏訪O
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 08時25分31秒 ) パスワード



http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0434.html


                     これによると矢島氏は諏訪系?


箕輪町誌(歴史編)

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>> 394


第2編中世上伊那住|敦家栗原氏..O)「矢島氏(『前田家本神氏系図』)O


深沢氏は『神氏系図』によると大祝為仲の末流で、深沢川のほとりに土着して深沢氏を名乗ったのではないかといわれる。

系図以外には史料が皆無で分からないが、深沢川の付近には東山道深沢駅があったとされることから、深沢氏の居住したのは箕輪の深沢川近くと推定するわけである。


藤沢氏・松島氏の出現は後代になるので、それらはあとの戦国時代で述べることとする。



O)第四節伊那の平氏党源氏の勢力の強い伊那にも平氏党がいた。古くからこの地方では、伊那の平氏党笠原平吾頼直は現伊那市美すず笠原に住し、西箕輪の与地原において木曽義仲に敗れたといわれているが、これには異説が少なくない。治承四年(一一八..木曽義仲は頼朝に呼応して挙兵した。義仲は久寿二年(一一五五)、甥の悪源太義平に討たれた源義賢の二男であった。乳母の夫中原兼遠が三歳の義仲を助けて木曽にのがれ、その地で養育したという。『吾妻鏡』の治承四年(一一八..九月七日の条は、義仲の挙兵を次のように伝えている。九月七日丙辰、(中略)成人の今、武略菓性、平氏を征してO-OJL川中沢氏OLI--O一|宮所氏上伊那住人-OO家を興すべきの由存念あり。而して前の武衛石橋に於て、己


>> 395


第1章鎌倉時代すでせんふ〈に合戦を始められるの由、遠聞に達し、忽ち相加はりて素て、日己に暮る。然る義直、箭窮きて頗る雌伏し、飛脚をかたうど志を顕さんと欲す。愛に平家の方人笠原平吾頼直という者木曲目障に遣わして、事の由を告ぐ。のって木曲目大軍を率いぎいたあり、今日軍士を相具して、木曲目を襲わんと擬す。木曽田の来りて競い到るの処、頼直その威勢に怖れて逃亡し、城四なら方人村山七郎義直井びに栗田寺別当大法師範覚等此事を聞郎長茂に加わらんがために越後閣に赴くと云々(訓読)」き、当国市原に相逢いて、勝負を決す。両方合戦半にし義仲の挙兵については、右に引用した『吾妻鏡』以外には見当らないため、義仲軍と笠原頼直が戦った「当国市原」の地につき諸説が生じた。伊那説によれば、笠原平吾は『延喜式』にある伊那美すず笠原の官牧「笠原牧」にゆかりのある在地領主であって、合戦地の市原は西箕輪の与地、あるいは下伊那高森町の市田などであるとしているが、確証があってのことではない。『平家物語』や『源平盛衰記』ほかの記事によれば、笠原平吾頼直は平家の中ではかなり名の知れた武将であった。〔平家物語〕治承四年四月テ、(中略〉平家ノ先陣モ、始ハ橋ヲ隔テ射合ケルガ、矢面廿六日、平知盛等、源頼政ヲ攻メテ山城宇治川ニ一戦フ、信-一進テ、後一一ハ橋ノ上ニ進上テ射ル。其中ニ信濃国住人吉濃ノ人笠原頼直等、平氏ノ軍ノ先陣一一属ス。田安藤馬允・笠原平吾・常葉江三郎ラ始トシテ、二百余騎〔参考源平盛衰記〕宇治川合戦進出テ戦ケルニ、(後略〉平等院ニ敵アリト見ケレバ、平家ノ兵共雲霞ノ如クニ馳集Lこのように笠原平吾は京都の宇治川において、平氏の先陣となって戦ったが、同年の九月には信濃の市原で戦かげゆい越後に敗走したが、翌年には次のように勘解由使に任ぜられ院に仕えたようである。〔士日記〕(「吉御記」ともいう。藤沢経一房《一一四一一一{〉一一一四月十日(前略)内記を召して叙位の事を仰せらる0300》の日記)略)勘解由判官平頼直養和元年(一一八一)しかし笠原平吾頼直は、勘解判官に叙位されて二か月後には、信濃横田河原(更級郡〉において、再度木曽義AVL395



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>> 396


第2編世中仲軍との決戦に臨んでいる。この合戦においても頼直は、不甲斐ない平家軍の中にあってひときわ目立つ働きをしているが、戦況利あらず「頼むまじきは越後武者の方人なり」と出羽国へ落ちて行った(『参考源平盛衰記』)。その後の平吾頼直の消息は全くわからない。軍記物語にあっばれな武者振りで登場する笠原平吾頼直について、江戸時代の『伊那武鑑根元記』『伊那温知集』では伊那住人説をとり、その影響か一般にこの辺では伊那説を信じるものが多いが、異説もある。郡市史(誌)について見ても、笠原平吾頼直の根拠地には両説がある。『諏訪市史』では笠原氏は保科氏の後藷で、高井郡の笠原が本拠地であるとし、『上田・小県誌』も前記宇治川・横田河原合戦に見える笠原平吾頼直は、「北信濃笠原(現中野市笠原)に本拠をおく平家の大物である」といっている。これに対し『下伊那郡史』では、伊那美すずの笠原牧の方が官向井の笠原牧より古く、平安中期以前に成立している(『延喜式』)との考証から、笠原は神氏の分流として早い時期に伊那に移り、笠原の天神山城か蟻塚城かを根拠地として発展し、やがて笠原牧の支配者となり、頼直の時代には平氏に属していたであろうとしている(『上伊那誌歴史篇』〉。笠原平吾頼直の居住地にしても、市原の地にしても、決定的な史料を欠いていずれとも決めがたいが、『吾妻鏡』のいうように平吾頼直が逃れて越後に赴いたのであれば、「市原」の地は越後に近い北信地方にあったとみるのが穏当であろう396
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月14日 09時04分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 海野氏について非常によくわかりました。これからの歴史探究に非常に
役立ちます。ありがとうございました。
 松島氏についての情報はは、それ以上でもそれ以下でもないところの限界
かとも思えます。視点を変えて考えてみたいと思います。

 これから古文書を読むための崩し字(習字)のおけいこの真似事にでかけま
す。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 12時54分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


なかなか「勘」も冴えません。



矢島という地名について引っ張って来ました。いちだんとこんがらがりました。

http://www.city.yurihonjo.akita.jp/yashima/kinenkan/yashimaname01.htm



矢島の地名由来

 
 源頼朝の奥州征伐の後、由利郡の歴史には長い空白期間が訪れる。
大小多数の豪族武士が現れたり消えたりしたはずであるが、ほとんど知られていない。

ただ、奥州藤原氏の武将に由利仲八郎維平という勇士があり、その武勇を買われて頼朝の家臣となった。
その名からしても多分由利郡の主だったであろうし、後にも由利郡に由利氏がいたことを示す史料もある。
又、前九年の役でほろぼされた大豪族の安倍頼時の子に、安倍宗任があり、彼は鳥海弥三郎とも言った。
その子孫も由利郡にいたようで、鳥海山という名も、この鳥海氏に関係があるであろう。



 建保元年(1213)由利郡は由利氏から大弐局という女性の手に移った。
大弐局は信濃の小笠原氏の女で、
所領は更に彼女の甥の、信濃佐久郡の領主であった大井朝光に譲られたから、
大井氏の勢力が由利郡に入ってきたことは確実であろう。


 約80年後の永仁7年(正安元年、1299)に、由利孫五郎惟方の領地であった由利郡小友村が、
小早川定平に与えられたという文書がこれにつづく。

そして鎌倉幕府滅亡寸前の元徳3年(元弘元年、1331)の日付のある銅板に刻んだ銘文があり、
この銅板はもと鳥海山にあったというが、今は失われて銘文だけは伝えられている。


それには由利郡の津雲出郷(つくもいづごう)において十二神将の像を鋳造したことが見えており、
この出雲出郷こそ矢島の地に当たるものである。


 やがて南北朝の戦乱期になって、奥州の地に在って南朝方の有力な支えであった北畠顕信が、
正平13年(1358)に由利郡小石郷乙友村の地を大物忌神社に寄進したという文書がある。

室町時代から世は戦国に移り、百年を越える戦乱が続いた。
そしてその最末期に近い頃、由利十二頭が登場する。



 由利十二頭とは戦国時代の末に由利郡の地方に居て相争った豪族十二氏であって、
応仁元年(1467)に由利の地頭として入って来たと伝えるがその年代は断定できない。


 その十二氏は、仁賀保・矢島・子吉・岩谷・鮎川・玉米・滝沢など、
何れも今日の地名と比べられるものであるが、
仁賀保と矢島が最大最強であった。


 仁賀保・矢島の両氏は共に信濃佐久郡の領主の小笠原氏の一族で、矢島氏とは即ち井?氏 大井氏?のことである。


なお、佐久郡には矢島という地名も、長土呂・軽井沢・立石などという矢島の地名もあって、
矢島の称はこの佐久郡から大井氏によって移されてきたと考えることもできよう。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 13時00分59秒 ) パスワード

http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/yajima.htm


矢島氏発祥の処 諏訪市神宮寺 14.4.6



矢島神社? 駐車場と諏訪大社の往復で済ます人にはまず無縁のスポットです。

南鳥居から、上社本宮の境内を背にして歩き始めると三之鳥居が望めます。
その手前、道の左脇に新しい石造りの垣があります。
鳥居があるので神社のようですが、一畳相当という狭い境内のため、垣根が邪魔をして何の石碑か読み取れません。


矢島氏発祥の処の碑文 これが、「おっ、何だろう」と、石柱の隙間から斜めに見上げて碑文を読んだ人だけが知る「矢島氏発祥の処」です。
しかし、何故ここが「矢島氏」なのか分かりません。


 先日、諏訪大社関係の本を読んでいたら、諏訪神社上社の社家である「権祝(ごんのほうり)」は矢島氏と書いてありました。


 この先に「旧権祝邸」がありますが、権祝の矢島氏は「高部」が発祥の地ですから、
古くに別れた分家の子孫か勧進して、超小規模ながら建立したのがこの「矢島氏発祥の処」としました。


 右の「矢島巻一族」の「巻」は「マキ」で、同族や一族のことを意味するそうです。
例えば、○○一族を祀る祠を「○○マキ祝神」と呼びます。
これに倣うと「巻」と「一族」のどちらかを省略したほうがスッキリします。
しかし、これはあくまで本からの受け売りです。
祝神を持たない私が主張しても、「馬の骨が何を言うか」でしょう。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 13時11分26秒 ) パスワード

https://sites.google.com/site/nikahosi/17/yasimaayukawanenei     
                              参考にはならないですが


出羽国の仁賀保氏のこと              矢島満安の死


17.由利十二頭‎ ‎

W矢島氏・鮎川氏・根井氏






矢島氏・鮎川氏・根井氏は、由利衆の中で地縁・血縁が深い中であったようです。よって、矢島氏を語る時は、やはり、この3氏を纏めて説明した方が解りやすいと考えます。
1.矢島氏 ・鮎川氏・根々井氏
 矢島氏ですが、下記史料からして大井氏の流れをくむと考えて間違いないと思います。

〇封  敬白
  奉鋳於羽州由利郡    大旦那   源正光
  津雲出郷十二神将    併      滋野行家
  志趣金輸聖王天長    仏  師   七郎兵衛
  地久御願円満兼又    本  願   一阿上阿
  本願大旦那二世悉    本  願   仏子心海
  地結緑合力除災与楽   大旦那   沙弥長心明心
〇封  元徳三年太蔵辛末 六月 日


 これは一々語ることが憚られる様な有名な史料ですが、矢島氏の祖と思われる「源正光」、そして根井氏の祖と思われる「滋野行家」の両名が鳥海山に十二神将を奉納した折の銅器識文と呼ばれる銅碑文です。
 元徳3年は1331年で、「源正光」は恐らく大井氏の系図に出てくる大井政光でしょう。滋野行家は根井氏の祖と推察され、名前からすると根井行親と関係あるのかな…と推察されます。ここに出てくる「津雲出」郷は矢島郷の昔の名であると言われ、「矢島十二頭記」内でも矢島の古名が津雲出である事が諮詢されています。
 さて、「矢島十二頭記」の中では、矢島氏の先祖は信濃国の木曽義仲の配下であったといい、木曽義仲が没落した後、信濃国より応仁元年の3月中に矢島ヘ移住したとされています。
 また、別の言い伝えでは矢島氏の先祖である大井義久は、応安元(1368)年〜応仁元年の間に信濃より来たと伝えられます。その由来は「根井氏が信濃の所領を失い、矢島にて再興を期そうとしましたが、矢島が領主もいない状態で騒乱の渦中にあるのを見て、信州より小笠原大膳大夫義久を矢島に連れてきて、地頭とした」といいます。その際、根井氏も矢島の1/3を領して矢島氏に使えました。
 よって矢島氏歴代は根井氏を大切に扱っていましたが、満安の代になり、矢島の知行を奪い現在の百宅に所領替えをし、配下として戦場へも出るようになったと伝えられます。

 大井氏の流れをくむ矢島氏は何故、木曽義仲の家臣だったとされるのでしょうか?。

 これは木曽義仲の配下にいた矢島行忠という人物に由来すると考えます。実は、この矢島行忠という人物は根井氏と同じく滋野氏と同族でありました。これを清和源氏系である矢島氏と同一視した為、こういう伝承になったのでしょう。木曽義仲の郎党として「平家物語」に登場する矢島行忠の方が名の通りが良いですからねぇ。

 また矢島行忠の領土である信州矢島は、後に大井氏のものとなり大井系の矢島氏が領したそうです。ここあたりもゴッチャにされる原因ですね。少し時代が下った史料ですが「諏訪御符札之古書」なるものによれば、文安5(1448)年には「矢嶋沙弥栄春」、享徳3(1454)年「矢嶋大井山城守光政」など矢島郷は大井氏の傘下に入ったたことが分かります。

 すなわち、鎌倉時代に津雲出郷と呼ばれていた地が矢島郷と名が変わったのは、信州大井庄矢島を領していた一族の名に由来すると考えてもいいんではないでしょうか。「矢嶋氏の領する津雲出郷」が矢島郷に変化していったものでしょうね。

 上記の史料に出てくる「大井正光」と「滋野行家」が矢島氏・根井氏の初代だとは考えられませんが、何れ、彼らは鎌倉時代末期には津雲出郷の地頭として信州より住み着いたものでしょう。恐らく、大井氏の一派の内、信州大井庄の矢島を…もしかしたら滋野系矢嶋氏の家を継ぎ…領して、矢島氏として津雲出郷に乗り込んできたものでしょう。

 よって、「矢島十二頭記」は矢島氏を3代ないし4代としておりますが、もっと前から本拠地を矢島に置いていたものでしょう。但し、信州にも領地があり、完全移住は信州大井氏が滅亡したころではないか…と推察します。
 矢島氏歴代は「矢島十二頭記」によれば初代を義光、2代目が光久、3代目が光安としておりますが、義久―光久―義満―満安の4代であるというものもあります。まあ、歴代が不明であるというのはよくあることです。
 矢嶋氏歴代の内、文書上で確認されるのは、矢島満安の父である義満の事と推察される「矢嶋四郎」という人物からです。

今度矢嶋四郎方家風之者共就相招候、不図越山候条、種々雖相抱候、無信用候間、少人数をハ相添之候、然者矢嶋息西馬音内ニ差置候事も、拙子令意見候条、第一ニ可相立彼進退覚悟ニ候、然者洞ニ侫人一両輩有之間。可加退治所存迄ニ候、全彼家中を引倚見可申儀ニ無之候、兼而之御首尾候間、此■於御助成者、可為大悦候、万々令期後信之砌、不能詳候、恐々謹言、
                 杖林斎
                     禅棟
       六月五日

 これは庄内の土佐林禅棟が宛先不明ですが出した文章で、「矢嶋四郎は信用できない」「矢嶋四郎の子を西馬音内に置くのも反対だ」という内容が読み取れます。土佐林禅棟は元亀2年に戦死…もしくは没落したとみられるので、恐らくそれ以前の文書ですね。永禄12年と推察されている様です。
 また、次の文書により、仁賀保と矢嶋は戦っていたことが史料により確かめられました。

今度向仁賀保之地、従矢嶋致調儀、外廻輪悉打破、実城計ニ而被仕返、剰敵数輩被討捕之由候、先以仁和之本望より存候、併居館へ被押詰之条、可被存無念候、定而矢嶋へ可被致動候欤より存候、其刻来次方も為懸詞被罷下候、従爰元竹井父子之者共、同名九郎左衛門尉其外指下候間、於彼地以相談可被及行候之間、其元雖不可有御手透候、少々御加勢可然候、為其令啓候、恐々謹言
              杖林斎
                 禅棟
     七月二十九日
        岩屋殿
          御宿所

 これも永禄12年と考えられる文書ですが、矢島氏が謀をめぐらして仁賀保氏を攻めたことが読み取れますね。

態以小野久助申入候、仍今度其郡備之儀、某一事ニ相憑之処、自先代忠信之首尾之相届候事、奇特千万、不及是非次第候、特手崎之儀候条、一入心尽共令識察候、其城加勢之儀、矢嶋・根井両所へ堅申届候、可心安候、随而赤宇曾之儀、某三崎山之外へ下馬候時節ニ可遂奉公之由被申事候、意外之儀共、乍去如何共為可申分、松山大夫差下候、定而一途可有之候哉、今般其元へ左近可指越之由、相存候処、事之外相煩候間、無其儀候、弟之久助遺之候、猶於巨細者口上ニ申付候間、不具候、恐々謹言、
                      義氏(花押影)
  霜月五日
    鮎川山城守殿

 これも同じく永禄12年かと考えられる文書ですが、恐らく鮎川山城守が攻められて大宝寺義氏に助けを求め、それに対して義氏は矢嶋・根井両氏に鮎川氏救援を命じたという内容ですね。即ち、鮎川・矢島・根井はこの当時、庄内の大宝寺氏の傘下となっていたという事が判ります。…もっとも大宝寺義氏は越後上杉氏の被官でして、彼等は上杉謙信の姿を見ていた…という方が無難なのかもしれませんね。また、赤宇曾…小介川治部少輔が大宝寺義氏に奉公する言ってきたが意外なことだ…と言っています。
 さて、この中で鮎川山城を攻めたのは誰でしょうか。言わずと知れた事ですが、滝沢氏かそれを支援した仁賀保氏でしょうね。
 以上の文書から鑑みると由利衆を含めた諸氏は、
@鮎川氏、矢島氏、根井氏、大宝寺氏(庄内)、小野寺氏(仙北)
A仁賀保氏、滝沢氏、岩屋氏、玉米氏、来次氏(庄内)、土佐林氏(庄内)
という形で対立していた様です。
 矢島氏と仁賀保氏の対立は、周りの諸侯を引き入れて大きな騒乱となっていた事が判ります。これに大宝寺氏と土佐林氏の対立があり、由利・出羽庄内とも非常に混乱していた様です。

 この中、仙北小野寺氏の支援を受けて、矢島氏は仁賀保氏に攻勢をかけていました。 矢島満安の活躍は「矢島十二頭記」に詳しいのですが、文書等での確認は現在の所、確認できておりません。まあ、「矢島十二頭記」というものの性質上、嘘ではないと考えますが。
 さて、鮎川氏は一部の「矢島十二頭記」に矢島満安の縁者であると伝えられると言っております。鮎川氏は山城守の先代より大宝寺氏の…むしろ上杉氏の勢力範囲の…北辺の備えとして傘下に入っていた事が読み取れますね。矢島満安滅亡後は勢力が衰退し、滝沢氏に併呑されたものと考えられます。また、子孫と考えられる一族の系図(「鮎川氏系図」鮎川久米松)によれば、鮎川山城守の子である鮎川親定は小野寺氏に仕え、その末葉は角間川給人として佐竹氏に仕えました。…これから推察するに鮎川氏は矢島氏の敗北と共に小野寺義道の元に逃れたと考えるべきなのでしょう。


 先に述べたように根井氏は本姓は滋野氏でして、矢島氏を信州より連れてきた…もしくは共に領有していた「大旦那」の一人でありましたが、何時しか勢力が衰退し矢島氏の傘下に入りました。
 恐らく津雲出郷へ移住した最も早い一族は先に出た根井(滋野)行家でしょう。一部の「矢島十二頭記」では矢島満安より領地を召し上げられて現在の百宅に押し込められたとされていますが、どうですかね。
 何れ、矢島満安の被官として仁賀保氏と戦っているのは事実ですね。
 ただ、矢島満安が仁賀保氏との戦で旗色が悪くなると、矢島氏離れ仁賀保氏の被官となったようです。天正18年、当時の領主である根井五郎衛門尉は、豊臣秀吉より祢々井村169石余りの領地を得ました。

出羽国油利郡内祢々井村百六拾九石壹斗事令扶助訖全可領地候也
      天正十八年
          十二月廿四日 朱印
              祢々井五郎右エ門尉とのへ

 ですが、知行宛行状を仁賀保光誠が持っているという事は、打越宮内少輔と共に仁賀保氏の被官化したものと考えられます。恐らく被官化した時期は、矢島与兵衛の謀反時でしょう。
 後、根井五郎衛門尉…正重という人物でしょうかね…はどうなったか不明ですが、根井一族は遠藤氏と名を変え、生駒氏に仕えたとされます。



 さて、矢島氏でありますが、最後の当主の矢島満安は西馬音内城へ人質になっていたと推察されます。先に掲げた永禄12年頃と推定される土佐林禅棟の書状には「矢嶋息西馬音内ニ差置候事」と矢嶋四郎の子が西馬音内に居る事が判ります。思うに矢島満安の妻は西馬音内茂道の息女であり、ここで両者の縁が出来たのでしょう。
 矢島満安は何度か仁賀保氏を粉砕し退伝の危機に陥らせますが、単純に石高の比較からすると1/2の勢力しかない矢島氏がどうして仁賀保氏と対等以上に戦えたか、ここに理由があるのではないかと思います。
 私は「矢島十二頭記」とは矢島氏の遺臣が新たな領主である生駒氏に対して、アピールする為のモノでなかったのか…と考えております。何のアピールかは分かりませんが…仕官か何かですかね…。ですので「矢島氏大勝利!」という大本営発表的な覚書的記述が続くわけです。
 しかし現実には仁賀保光誠が仁賀保家の家督を相続した近辺には矢島満安の領内統治には暗雲が立ち込めていました。

今度矢嶋事、為致還住候間、五三人之身上可改之旨申断ニ付、此庄之内五貫文之地出之、 早々馳上可抽奉公者也、仍如件、
    天正十四
      正月九日        義興(花押)
     小番喜右兵衛との

 小番喜右兵衛は「矢島十二頭記」の小番嘉兵衛と同一人物か、その一族であると考えられます。嘉兵衛は矢島満安の重臣の一人で、天正16年に矢島満安の弟与兵衛と共に謀反を起こして満安に討たれています。 この文書によれば、矢島家中よりかなりの数の者達が矢島家を離反し、大宝寺義興の元に逃れていると見られます。

内館御音札畏悦被申事候、依之拙子迄御書拝見之候、如仰由利表相収候事、公私満足此 事候、仁賀保相支之由、然処ニ西母生内殿始申御人数被引退候、迚之御事ニ重而御与勢 候而彼地落居候者、弥可為御目出候、為指出申事其恐不少候、猶追而可申述候条、不能審候、恐々謹言、
 猶々申候、自旧冬愛季樓遅ニ付而、表書如此候、
 (天正十五年)       石郷岡主殿助
    三月廿七日           氏景(花押影)
      六郷殿
         参御報

 これは安東愛季の動向より天正15年と考えられている石郷岡氏景の書状です。 安東愛季の家臣である氏景が、由利の事について「公私満足」といっている事からすれば、由利郡の動向は、安東氏が満足する形…敵である小野寺氏・戸沢氏の勢力が排除された形…で纏まったものでしょう。…小野寺氏一族勢力…矢島氏ですね。
 で、「仁賀保相支之由、然処ニ西母生内殿始申御人数被引退候、迚之御事ニ重而御与勢 候而彼地落居候者」という箇所から考えるに、天正15年頃の矢島満安は岳父西馬音内茂道に頼らざるを得ないほど劣勢だったのかも知れません。
 ちなみにこの戦いですが、「矢島十二頭記」では15年3月中旬に、矢島氏が滝沢氏を攻めたことが知られております。矢島氏は滝沢氏の居城…恐らく根代館でしょうが…を攻め、「三の塀まて攻入」った時、仁賀保光誠が空になった矢島氏の居城を攻めようと進軍して来た為、矢島満安は滝沢氏居城の囲みを解き、仁賀保光誠軍を迎撃に出ます。
 矢島軍と仁賀保軍が激しく戦いあっている際、鮎川氏が矢島氏側として出陣し、仁賀保氏を挟み撃ちにした為、仁賀保光誠は大敗しました。この際、矢島満安は負傷したといわれます。
 もしかしたらこの時の戦の事かも知れません。この時の事を「矢島十二頭記」は大分簡略に書いていますが、地理から推察しますと、当初は仁賀保光誠が矢島満安を負傷させ、矢島軍を打ち負かして矢島領に押し入りましたが、矢島領に押し入ったところで不自然に矢島軍に負け、更に鮎川氏に挟み撃ちにされ、仁賀保領に逃げたという事になります。
 これはもしかすると矢島に攻め込んだところで、西馬音内茂道の援軍が到着したのかも知れませんね。 いずれ、矢島満安のバックには岳父西馬音内茂道が居ました。
 仁賀保と矢島はこの直後和睦しますが、天正16年の7月に至り、最上義光が矢島満安にコンタクトを取ってきたことから再び和睦は崩れます。即ち、矢島満安は豊臣秀吉の威を借り由利郡を領せんと欲したからです。
 この最上義光とのコンタクトというのが矢島満安にとって致命的でした。最上義光は小野寺氏とは仇敵ですし、それに好を通じる矢島満安は小野寺氏から見ると裏切り行為であったでしょう。岳父の西馬音内茂道とて当主である小野寺義道の手前、矢島満安の為に動けない状態だったでしょう。矢島満安が仁賀保氏らに滅ぼされたのは自明の理であったと思います。
 矢島満安が最上義光の元へ向かっている間の天正16年10月、仁賀保光誠の圧力に耐えかねた矢島郷の留守居である満安の弟の与兵衛(一名太郎)は満安に謀反を起こしました。
 驚いた矢島満安は取って返して与兵衛を討ち、更に仁賀保光誠に対して宣戦布告しました。
 この戦で仁賀保光誠は手痛い敗北を喫しますが、11月下旬に至り、小介川治部少輔、打越宮内少輔、潟保治部大輔、石澤次郎と語らい、矢島満安を攻めました。
 矢島満安は手傷を負い、妻の実家の西馬音内へ逃げました。しかし仁賀保光誠等は追撃の手を緩めず、戦備を整えた後、西馬音内城へ押し寄せました。仁賀保光誠等と矢島満安・西馬音内茂道らは戦いましたが12月28日、矢島満安は討ち取られました。…若しくは切腹したのかもしれません。矢島満安を攻め滅ぼした後も仁賀保光誠等は西馬音内茂道と戦いましたが、小野寺義道が和睦の使者をよこした為、仁賀保氏等は兵を引いたそうです。
 別の本には新荘館から要害である荒倉館に立て籠もりますが、由利衆の総攻撃の前に西馬音内城へ逃げたと伝えられます。その後、矢島満安は小野寺義道より切腹させられたそうです。なんか、これはこれでありそうな話ですね。
 矢島氏が滅んだのは、矢島満安が矢島郷を明け渡した天正16年12月28日であろうと思います。一部の本には文禄元年になっていますが豊臣政権下での私闘は有り得ません。
 その後、慶長5年の関ヶ原の戦いに矢島氏の残党は上杉景勝与同として一揆を起こし、矢島八森城を攻め落としますが、庄内攻めから取って返した仁賀保光誠・小介川孫次郎・打越氏に攻め滅ぼされました。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 13時15分52秒 ) パスワード

http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/yajima-jyo/


信濃・矢嶋城          長野県佐久市矢嶋字城平


築城年代は定かではないが矢島氏によって築かれたと云われる。
矢島氏は望月氏の一族で、                     甲賀の望月氏の一族?
養和元年(1181年)の横田河原の合戦には木曾義仲の軍中に八島(矢島)四郎行忠の名が見え、
承久3年(1221年)の承久の乱でも官軍の中に「やしまの次郎」の名が残る。



南北朝時代になると望月氏一族は衰退し、大井氏・伴野氏の勢力が伸び、この辺りも大井氏の勢力下となった。


矢島城は矢嶋集落の西にある北へ伸びた比高25m程の丘陵に築かれていた。 現在は山全体が開墾されて畑となっているが、段々となった曲輪の跡は比較的残っているのではないだろうか。しかし、主郭を含めて南側に道路が貫通してこの辺りは消滅している。

発掘調査によって空堀や柱穴五十七個、中世の陶磁器などが出土している。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 13時20分52秒 ) パスワード

全然関係の無い  新田系矢島氏


http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/kouzukeyajima.htm


上野国 矢島館


所在地: 群馬県伊勢崎市境上矢島
遺 構: なし。
形 式: 平城 築城者: 新田信氏 築城年代: 鎌倉時代


矢島館は、南に粕川の分流、北に早川が流れる、湿地帯中央に広がる島状の台地に築かれた城だ。 現在の上矢島地区の中心部にある徳蔵寺一帯が城域だ。 

 城の遺構は、残っていないが、寺の山門前から右手に進む里道は、資料によれば堀跡ラインであると云われている。



 矢島館は、築城年代の詳細は定かでないが、鎌倉時代に新田信氏によって築かれた。 信氏は、新田宗家4代政義の三男で矢島郷を分地され、以後矢島氏を称した。 南北朝時代、矢島信幸は、宗家新田義貞に従って各地を転戦し、宗家と運命を共にした。

 戦国時代、永禄5年に金山城主由良成繁の家臣南茂頼が領して矢島館に居城した。 茂頼の子頼広も由良氏に仕え、天正18年に小田原北条氏が滅亡すると、矢島郷にて帰農した。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 13時28分30秒 ) パスワード

土地勘が無いので  高崎って矢島氏の勢力範囲?  と驚いてます。


http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/004gunma/188yajima/yajima.html


矢島砦


別  名
所 在 地 群馬県高崎市浜川町
築城年代 鎌倉時代
築 城 者 矢島氏
遺  構 なし
現  状 農地
史跡指定  




矢島砦は鎌倉時代に築かれた方形居館から発展した平城で、矢島氏の居城であった。


                   箕輪まで通うのも大変だったように土地勘の無いわたくしは思ってしまいます。
戦国時代まで矢島氏はここに拠り箕輪城主の長野氏に仕えていた。
箕輪城の砦のひとつを形成していたわけだが、
鎌倉時代から矢島氏代々の居城であったわけだから矢島城と呼んでも差し支えないと思う。


 永禄9年(1566)に武田氏の攻撃によって箕輪城が落城したときに矢島砦も焼き払われたという。

矢島定勝は浪人した後に武田信玄に召し出されたとも、岩櫃城下に移り住んで濁酒を売って暮らしたとも伝わっている。


 浜川町と行力町の境目付近に城之内保育園があるが、矢島砦はここのすぐ北側に築かれていた。

背後を長野新幹線の高架が走っている。

矢島砦は発掘調査が行われており、方形居館を基にした平城であることがわかっている。発掘の結果、鎌倉時代の板碑が見つかっている。

比較的最近の圃場整備によって一面の農地となってしまい遺構は失われている。

[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 13時35分02秒 ) パスワード

http://yamajiro.sengoku-jidai.com/yajima-jou/


       いえいえ矢島氏はあちこちに一族を置いていてフットワークは軽かった?



矢島城                          


場所 上田市常磐城上平
城の種類 山城
築城年代 室町期
築城者 矢島氏
遺構 郭、土塁、堀切
標高・規模
交通手段 上田バイパス沿いすぐ。虚空蔵堂とは谷を挟んだ向かい側
特記事項 神氏の一族である矢島氏が居館を構えた所といわれている。
付近には諏訪神社が建ち、小路や建(館)といった地名が残る。


                       これからすると、この矢島氏は諏訪系?



上田バイパス沿いに旅館があるので、この交差点を山側に折れる。

虚空蔵堂を過ぎて、虚空蔵沢の川を渡り、尾根を登ると道はカーブして山側へ登って行くが、尾根の突端に向かって広場があり、傍らの窪地に道が延びる。ここまでは車で入れる。



実はこの広場の位置は矢島城の二重堀の外側に当たる。
広場の両側の窪地は尾根と城地を仕切る堀切りで幅は10mほどある。
さらに幅10mの堀切があり、この堀の城側には高さ5mの土塁が築かれている。
土塁上には矢島稲荷社が置かれている。
この向こうが矢島城の本郭に当たる郭で、40×20mの長方形の平地が広がる。

現在はすべて畑地となっている。


本郭の北側が土塁で固められ、東は虚空蔵沢の崖、西側も沢があり、背後の堀切
から竪堀状に堀が造られている。


南側は、1.5mほどの段差で2の郭が続く。この郭も広く先端まで約30mの三角形の形状をした平地である。

この郭には西側に土塁が残っている。

また、南側の尾根の先端側の中央には、下へ下りる虎口が造られている。


この2の郭の先の南〜東斜面には、段郭が2段造られていて防備されている。
東側は虚空蔵沢に向かって崖になっている。



感想・備考  上田に突き出た半島状の尾根の先端をうまく加工して、砦化している。
      ただ、周りに比べるとやや比高が少ないので見通しが利かない。
      となりの尾根の先端にある牛頸城は、矢島城の物見砦だったのではないだろうか。

[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 13時42分23秒 ) パスワード

http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-62.html



矢島城(上田市)

Category: 信濃の城 > 東信濃 上田小県編


◆謎の多い神氏とされる矢島氏の居館跡◆

太郎山麓の虚空蔵沢に臨む扇状台地に築かれている。

同城は矢島屋敷と通称されるが、北林城とも呼ばれた。

この城の防禦の特性は、太郎山三渓水の一つ虚空蔵沢水(滝沢)の懸崖を以って東に備え、
南部の断崖と北の大堀切から連続する西面の急斜面とを取り入れるなど、
その巧みな選地にあると思われる(上田小県誌より)


城と呼ばれているが、実は要害と居館を兼ね備えた場所だったと推測されます。
この居館の東尾根には牛伏城と詰め城のアラ城があります。

実は、以前この城館の場所が特定出来ずに山麓を彷徨ったのですが、
諦めて帰ろうとした際に矢島稲荷大明神を発見して場所を探り当てました。(燈台元暗しとは・・・笑)


北側大堀切の土塁脇に建つ矢島稲荷大明神。この南側がかつての屋敷跡。


建武二年(1335年)に諏訪家の神氏であった矢島氏が諏訪より此の地に引き移り、
北林城を居城とする北林氏を川中島方面に追放し永禄期まで当地を支配したようです。


永禄九年に海野幸義らとともに起請文に名があるので、存在は間違いないようです。


城跡には旅館などの建物が建築され、当時の面影はあまり見られませんが、
本郭の脇にある腰郭が段々畑になり流用された石積みは当時の面影を残しています。


≪矢島城≫ (北林城、矢島屋敷とも)
場所:上田市緑が丘 国道18号線上田バイパス緑が丘信号入口付近を北へ入る(標高520m 比高80m)
攻城日:2010年8月13日
お勧め度:★☆☆☆☆
時間:10分程度
見どころ;土塁、堀切、石積み
その他:牛伏城、アラ城とセットでの見学がお勧め。
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月14日 17時02分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は筆の手習いの日だと勘違いしておりました。出かけついでに、宗安
寺にもう一度調べに行って発見したことと、再確認したことが「3つ」ござ
います。
 それは、市野家の初代の墓に、
 @「元祖 市野惣太夫 藤原朝臣 真久 」と彫られていたことです。
 Aそれと、家紋が「丸に一文字」であるということ。
 B市野家の何代目かわかりませんが、「元禄12年 市野内匠吉兵衛 トモ
  藤原真郷 塔」と彫られていたことです。

 それからもう1つの再発見は、ウェブサイトからですが、
 C市野氏は「牧馬」に詳しかったということです。即ち馬を放牧して育て
  ること。

 以上のことにより、どんな推理が成り立つか・・・
 @家系譜は7掛けで考えた方がいいということ。間違い・脚色が3割位は
  含まれていると思った方がいいということ。
 A家紋からいうと、「丸に一文字」は市野氏だけの定紋。「M氏」は
 「市野氏」の影響を相当受けたのではないか。
 B「M氏」と「藤原(智常)氏」の関係は「市野氏」の祖先の関係を取り
  入れたのではないか。
 C「М氏」のもう一方の「源左衛門家」の方ですが、過去帳を見ますと、
  3代めより「吉兵衛」が5代に亘って使用されており、市野家との間に
  養子縁組があったのではないか。
 D「市野氏」と「山下氏」は「馬・牧、牧官あるいは馬係」という共通
  点で結ばれている。
 E「小笠原氏」と「山下氏」と「市野氏」も馬で結ばれる(小笠原氏は弓
  馬であったが)。
 F「市野氏」と「М氏」と「山下氏」と「小笠原氏」は親戚関係でつなが
  っていた。

 更に言えば、
 @浜松藩主「太田氏」と領地としての「箕輪」との関係
 A「太田氏」と「市野氏」の藩主・代官の関係
 B「大草氏」と「市野氏」の代官同士の関係
 C「М氏」と「大草氏」の信濃でのルーツの関係
 
 更に言えば、
 @「山下氏」(分家)と「松下之綱」との主従の関係
 A「松下氏」と「服部中」との警備・婚姻関係の関係
 B「山下家」(分家)と「大草家」との中泉代官所での関係

 ・・・といろいろおもしろい関係が見えてきます。

 たった今、箕輪博物館より資料が届きました。これから病院へ健康診断
の結果報告を聞きに行きますので、待ち時間に読んでみます。

 
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月14日 22時30分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごい発見の連続でしたね!
背筋がゾクゾクしております。


このご報告は  スレッドXL 40 にコピペしますね。
そちらで展開して行きましょう。


人間ドックの検査結果が良いといいですね。

わたくしは  LDLのみ基準から外れていました。

   とはいえオバマケアのせいで血液検査は2本のみでした。
   今年はCBCの検査(リンパ球数など)を受けさせてもらえませんでした。



癌などと戦うリンパ球はソバカスの出たバナナで増えます。
    好中球とリンパ球の割合は  65対35  が理想です。
    バナナをしっかり食べて1年後の昨年の検査ではリンパ球数が40でした。
        ちょっと増やし過ぎました。
   

LDLはサプリで下がります。
夫はスタチン系の薬でしっかり素晴らしい数値にしています。
中性脂肪値は炭水化物を極力減らせば簡単に下がります。
HDLは運動すれば=走ることで=上がります。

        でも、もう走れないですよね。


血糖値も炭水化物を極力減らしたら下がります。
    玄米は直後は上がるけれど最終的には下げてくれます。
   大麦や燕麦は玄米ほどは下げないけれど上げないです。

      わたくしは現在は燕麦の毎日です。
      レンジで1分で炊けますから。笑

   わたくしの血糖値は生まれ持った数値が空腹時で93です。
   数日前の検査では  90  でした。まあまあかなと思います。

         コーラが流行する前あたりに生まれた白人は食べた後でも90なんですよ。
         白人は本来II型糖尿病は殆ど無いんです。
         しかしコーラが人気になってからは白人のII型糖尿病もすごいことになっています。

   わたくしの場合は気合いを注入して炭水化物を食べずに野菜をしっかり1か月頑張って検査を受けると  83とか85 とかになります。
   これはA1Cで5.3あたりです。


          わたくしでも努力をすれば80台や5.3になれます。


肝臓の数値は大アザミのサプリ(ミルクシッスル)で良くなります。
大アザミは抗がん剤と一緒に服用すると吐き気を抑えられると胃癌手術をした友人から聞きました。
          大アザミは肝臓の救世主です。


三つ柏さんはお若いので人間ドックが役に立って健康回復に間に合うでしょうね。
結果が良いといいですね。  
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