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 投稿番号:101446 投稿日:2015年05月05日 02時20分42秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族]]][
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「長上郡の服部氏族]]]Z」からの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 02時30分37秒 ) パスワード

遠江国長上郡の名家の秘密にかなり迫りました。
信濃国にも大きく関係があったようです。


そしてその鍵を握る人物として服部正尚が再浮上しました。
   この人物は徳川二代将軍の生母の継父でした。
   父親が服部半蔵とは従兄弟の服部平蔵です。

      それで、この一族は通字が「正」なのですね。


面白くなって来ました。

[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 02時38分22秒 ) パスワード

丸に三つ柏紋の出所は   熱田神宮関係か伊勢神宮あたりか   と思うようになりました。



    天方氏と松島氏の家紋が  一文字  ということで
    柏紋は  神宮関係からか  と思いました。


伊勢神宮がらみなら「伊勢神宮の麻績」がらみで、何らかの関係があるのだろうなと。


麻績の、小見の、そちらの服部氏の、紋を知りたいところです。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 07時03分54秒 ) パスワード

丸に三つ柏紋の可能性を考えると千秋氏からの可能性も外せないので
もう1度服部諸家の家譜を読んで来ました。



服部家と千秋氏との関係!

なんと   服部政信の祖父の妻の実家でした。

          政信のお祖母ちゃんの実家が千秋氏だった!
          ということは丸に三つ柏さんのご先祖さまは政信関係???



この政信の家は父と祖父が同じ名前の政光を称していたということでヤヤコシイです。



服部権大夫政光 1世(=政秀)の妻が千秋式部少輔某の娘。
  
        このヒトは桶狭間の時に家康を助けた
        その後、家康に仕えた

        三河国岡崎から後に遠江国河の内の庄に於いて3000貫を賜ふ。



服部権大夫政光 2世(=政季)の妻は高力河内守清長の娘

        このヒトは
             武蔵太田庄に3000石
             近江国長浜に1000石


                  計4000石


服部権大夫政信           妻は加藤喜左衛門正次の娘

        このヒトは
             4290石余で  今切の奉行



ということで、服部政信の一族で丸に三つ柏紋を使用した者がいる可能性がある。

[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 07時15分59秒 ) パスワード

服部権大夫1世と2世は共に  天正10年9月  伊豆国の佐野小屋の砦を攻略しています。


   これってどんな戦い?



1世は天正10年9月  伊豆国の佐野小屋の砦を攻略し、  その後  亡くなっています。


2世は天正18年の小田原の役で本多忠勝の陣に加わり御使番になっています。
その後江戸にいて  関ヶ原の戦いの時は上杉戦で宇都宮に行って病を得る。
元和元年両陣に加わり  4月26日京都にて亡くなっています。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 07時25分46秒 ) パスワード

http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/14498/1/10C17393.pdf


[PDF]ファイルを開く - MIUSE - 三重大学
miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/.../1/10C17393.pdf


一、同年伊豆国韮山押として天神ケ尾と申砦ニ服部半蔵罷在、伊賀之. 者共半蔵手ニ属韮山表江昼夜之働仕、

同国佐野小屋と申砦に敵兵数多楯. 龍罷在候を、松平周防守 ...


これなんですが
   わたくしのPCでは開けないです。

   半蔵の名前は出てるようですね。
   こちらは政信とその父の話が詠みたいのに。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 07時37分53秒 ) パスワード

このハナシ?謎

 http://www5f.biglobe.ne.jp/~sayo63sait/tititoani.htm  

小笠原安勝の父(安元)、長兄(安次)、次兄(左大夫)




                ◆ 「父・小笠原摂津守安元」

 徳川幕府によって作成された「寛政重修諸家譜」によると安元は清和源氏の流れで 義光流・小笠原支流・小笠原に分類される。小笠原氏の祖は信濃守長清から始まり、長清の六男伴野時長から5代目の孫にあたる蔵人大夫泰房が三河国に移住した。  泰房7代の孫が安元に当たるという。

 安元は、はじめ今川家に仕えて三河国礒城の城主だった。しかし主君今川氏が織田信長に敗れたため、後に徳川家康の配下となる。

 永禄6年一向一揆が家康に叛いたとき、磯城を守ったので幡豆郡の旧領地を認められた。その後も数々の戦功を挙げて、三河国赤羽根・赤澤・葦の3村と家康の「康」の字を賜る。

 元亀3年(1572)、安元63歳の時、三方原の戦いがあって織田・徳川連合軍は武田信玄と戦い惨憺たる負け戦となった。安元も一族を連れ徳川方に従って参戦し、弟と孫、郎党7名が討死、深傷を負ったものを多数出すなど大きな犠牲を払うことになった。

 天正10年(1582)安元73歳の時、後継ぎの長男・安次が50歳で討死して、直系の孫が後を継いだが31才で没、養子の5代目の廣信も26歳で没し本家は断絶してしまった。

 安元は、天正17年(1589)80歳で没した。戦いに明け、戦いに暮れた一生であったが80歳まで長生きできた。最初は安元が開いた三河国幡豆郡の安泰寺に葬られたが、文祿3年(1594)三男の安勝により武蔵国入間郡沢村の天岑寺に改葬された。今は天岑寺に眠っている。

 何故、三男の安勝が父の墓を武蔵国沢村の天岑寺へ改葬したのか疑問だったが、寛政諸家譜を詳しく調べてみると「長男は討死し、直系の子孫も討死や若死にしたうえに、上総国へ国換えになってしまった。その上に次男の家系は事情あってお家断絶になっている」事実がわかった。
一族の事情を考えて、三男の安勝が入間郡沢村に天岑寺を建て、遺骨を引き取ったのだと理解できた。


 ◆   「次兄・左太夫」

 安勝の次兄・左太夫も徳川家康に仕え、父の安元にも信頼された優れた武将であった。
息子の義正も家康と秀忠に仕えたが、養子にした吉政が寛文2年3月3日に失神し息子を殺害して自害したため断絶となった。殺害理由はわからない。







 ◆ 「長兄・小笠原安次」       


 安勝の長兄・安次は、安勝より17歳年長であった。家康に仕えて、永禄12年(1569)遠江国掛川城を攻める時、安元と共に戦い功ありて家を継ぎ、家康の信頼も厚く「康」の字を賜る。
妻は三河の松平14流れの一つである深溝松平から嫁に来て、長男と三男を生んだ。しかし、次男の七郎右衛門安勝は側室待遇の女性に生ませている。

 元亀元年(1570)、姉川の戦いに参加した後に勤めを退いたが、元亀3年12月22日に起きた三方原の戦いに長男の康廣(19歳)、次男安勝(18歳)と共に参戦した。しかし、長男の安廣は討死し、次男の安勝は深傷を負って歩行困難となってしまった。
 一度は勤めを辞していた安次だったが、又召し出されて、天正2年(1574)高天神の戦い、翌年は長篠の戦いに参加した。

 天正10年9月25日安次50歳の時、伊豆国三島にて北条勢と接戦し、ついに討死してしまった。安次の一生も父・安元と同様に戦いに明け、戦いに暮れた戦国武将だった。その上、息子の討死、怪我に続いて自分も討死してしまった悲運の武将だったといえる。

 安次の三男廣勝(12歳)も父と共に三島で戦って傷を負ったが、認められて安次の後継ぎとなり、天正18年の国替えで上総国周准郡へ移っていった。
安元直系の本家は次々と討死や若死にしたので、元和6年(1620)に絶えてしまった。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 22時46分38秒 ) パスワード

M氏家譜に書かれていた永井氏の家紋の件をこちらにもアップ:




永井氏の家紋

   http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html

 『長倉追罰記』に「永井と那波は三つ星と一文字(本当は一文字に三つ星)」ともみえるように、
   室町中期には、永井氏がすでに一文字に三つ星紋を用いていたことが知られる。



一文字に三つ星紋/永井梨切口紋/石持地抜き唐梨紋


 そして、永井氏は一文字に三つ星紋の他に、
  唐梨(からなし=木の下に示とも表記する)と、鉄線紋も用いていた。

  唐梨は四弁の花のように見えるが、梨の実の切り口で、丁寧には「永井梨切口 」という。
  鉄線は朝顔に類似した植物で、その蔓が鉄のように丈夫なことから鉄線と呼ばれるようになった。


     分家のことですね
       ↓

  そして、宗支によって、家紋の意匠を違えている。

  三つ星の場合、一文字の書体に変化をつけ、
  唐梨は加納永井家の場合、「石持地抜き唐梨」であった。
  さらにいえば、鉄線は高槻永井氏が用いていた。


 いずれにしろ、唐梨紋は永井氏の独占紋ともいえる、珍しい紋であろう。


ここでアップ
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 22時50分49秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/buke_km/bk_hatug.html


羽継原合戦記を読む


 『羽継原合戦記』は、別名『長倉追罰記』ともよばれ、永亨七年足利幕府が長倉遠江守を追罰した戦記物だが、そこに全国諸豪が勢ぞろいした、そのときの陣幕の紋が列挙されている。これが当時の紋を知るうえで重要な手がかりとなる。


 というのは、ここに記されている諸豪の紋は中世の、すくなくとも江戸時代以前の家紋あからである。歴史的にみてもかなり古い。但し、はたして室町時代、それも永亨の頃のものかどうかとなると相当の検討を要する。


       学者によっては、江戸時代初期のものではないかという説さえある。


      しかし、この合戦記は、戦が終わってからほど遠からぬころに書かれたものではないか、と考える方が自然なようだ。





羽継原合戦記(長倉追罰記)


同年十月廿八日。結城宇都宮相続。籌をいはくの中に廻し。長倉遠江守開陣畢。

彼の遠江守。名を日本に上。誉を八州に振。此時某打ちめくり。次第不同にうちなかすまくのもんをそかそへける。

御所の陣かとおほしくて。梢の冬のなか空に桐のまんまく二引。御一家もみなこれ同し。

竹に雀は上杉殿御両家。九ともえは長尾か紋。水色に桔梗は土岐の紋。斎藤かなてしこ。鹿は富樫之助。伊勢国司北畠殿のわりひし。大内介からひし。甲斐武田をわかさの守護は武田ひし。半月に丸ひしは興津左衛門。越前の織田と山佐の河内守か瓜の紋。秋元も是を打。朝倉かみつもつかう。飛騨国司姉小路殿は日光月光。月に九えうは千葉之介。八えうは上総介。三引両は三浦之介。小山は左巴也。朝比奈も是同し。但遠江の朝比奈はけんひし也。宇都宮は右巴なり。行方岡部も是を打。永井と那波は。三つ星に一文字にて。昔の因幡守広元か末葉毛利の一家にて。一品と云字の表体也。


三文字松皮は赤松と小笠原。四つ目結は佐々木判官。十六目結は本間の四郎。海老名は庵に瓜のもん也。松に鶴は高井左衛門。さんきにさるは(注1)洲西かもん。牛の尾かへふねつる。楠浦加月にほし。極楽寺か水車。三本杉は狩野介。但たかの羽を打事も有。山中かさかりふし。めひきかこは松田かもん。葛西はかしは。大石の源左衛門はいてうの木。五ほん筋は結城七郎。但ともへを打事も有。永楽の銭は三河国水野か紋。中条はさゝの丸あしなし。すはま(注2)小田の大輔。しゝにほたんは多田の三郎。萩の矢も是をうつかふら矢は。武蔵国の住人太田源次郎也。十六葉の菊の紋は野田福王かもん也。團に菊(注3)は児玉たう。簗田はおほひ。わちかいは高家のもん。たてつな(注4)は二階堂。同六郷も是を打。しゅろの丸は富士の大宮司。きほたんは杉かもん。内藤備前かりうこにてまり。楠薬師寺か菊水。小山の薬師寺かともえの紋。久下は一番と云文字。あけはのてうは伊勢守ひろなりも是を打。まひさきは御櫛のもん。



北条殿三うろこ。同横井も是を打。大極入道は巴のもん。緒方佐伯も是同し。神保か藤の丸。椎名かおもたか。大戸羽尾か飛つはめ。十文字は島津左馬頭。一文字伊東六郎。鷹の羽は菊池もん。熊野鈴木は稲の丸に榊也。とひなり鱸(注5)はまな板にまなはし(注6)。三河鈴木は藤の丸。大すなかしは泉安田。三本からかさ名越の紋。小もんの皮は秩父殿。かりかねは安部との。八つほしは飯塚。すみをしきに三文字は伊予の国の河野の一党。備前こしまは品の字。駿河小島は八の字。下総の境はともへ。是は千葉のそうとかや(注7)。ささりんとうは石川。もつかうは熊谷。車は伊勢の外宮榊原か紋也。鳥居のもんは。八幡の神職。宮崎の法印か紋也。七星は望月。梶の葉は諏訪のほうり。三たうし(注8)は皆岐の八郎。宮原も是を打。矢はつくるまは服部。松に月は天野藤内。帆かけ舟は熱田大宮司。山城かすかなし。水にかりは小串五郎。粟生原かかやくのもん。
ひすつるは南部かもん。庵のうちの二頭のまひ鶴は。天智天皇の後胤葛山備中守。御所も是を打。扇に月の書たるは。常陸の佐竹かもん也。地黒菱は板垣。松皮に釘貫は阿波の三好かもん也。一宮は日雲也。左巴は下枝の紋。まひ違い雁は櫛置のもん。根引松は常葉のもん。下条は梶の葉。折野は木瓜。板西は丸のうちにまつかはのもん也。山中は日扇。溝口は井桁。但三葉かしを打事も有。高畠は違かふら矢。松の尾は丸の中にまん字。二木はちきりを打。松岡は瓜のもん也。赤沢は松皮に十文字。遠州の小笠原松皮菱に水落。九曜星は標葉也。山辺。西牧は梶の葉を打。犬甘平瀬島は一党石畳後聴(注9)其外。
幕の数々当世はやる国々の作り名字の幕つくしうてほうたひに立ならふ。能々見れは長月の秋の末葉のをき。すゝき。尾はな。かるかや。おみなめし。野分の風に打なひき。時雨や露にくちはてゝ。ふゆの野陣のまくそろへ、中々難尽筆。


注1 さんきにさる

「算木に猿」の意か猿紋は’後世、ぬいぐるみの猿のかつらのような形があるが、中世ではみあたらない/「さる」は「つる」の間違い。筆書体の「佐」は「津」に似ている。『関東幕注文』にも「周西彦九郎。つこうの内に舞鶴 さん木」とある。「二つ引両に立ち鶴」と考えられようか。

注2 あしなし。すはま
これは二句に分かれず一句で「足無洲浜」のこと。かつて足のある洲浜もあった。但し、いまは足付洲浜はほとんど消失している。

注3 團に菊
「團子菊」または「團に菊」と解する例もあるが、やはり児玉という名字からも團はウチワで「団扇に菊」と解したい。

注4 たてつな
これは古来、謎の紋であったが、最近発見された。たて綱ではなくタテズナ(立砂)と呼ぶ。貴人の家の車寄せの前の左右に編笠形に丸く盛り上げた砂。車のクビキやナガエをもたせかけるためにつくったもの。掲載した紋は「三つ立砂」。

注5 とひなり鱸
「とひなる鱸」と読むのが正しい。とひとは土肥のこと。鈴木一族を区別して鱸をあてたと思われる。

注6 まな板にまなはし
まな板に真魚箸で、ともに料理をするまな板と箸。実形不明。但し、長方形の板に二本の箸が並んで置いてあるものと想像される。「合子に箸」の合子の代わりにまな板を置けばよいのではないか。

注7 千葉のそうとかや
千葉の「そう」ではなく「そし」が正しい。つまり庶子のこと。

注8 三たうし
三たうしは、御手洗と読むのが正しいと思われる。神社の境内に置かれた清めのための手洗い。紋はその形をかいたもの。但し、その実形は伝わっていない。

注9 後聴
名字でゴチョウと読む。珍しい名字だが現在もある。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 03時49分04秒 ) パスワード

ちょっと調べて来ました。


http://www2.harimaya.com/sengoku/buke_km/bk_hatug.html

 『羽継原合戦記』は、別名『長倉追罰記』ともよばれ、

永亨七年(1435年)足利幕府が長倉遠江守を追罰した戦記物だが、
そこに全国諸豪が勢ぞろいした





甲斐武田をわかさの守護は武田ひし       を若狭って?  

越前の織田と山佐の河内守か瓜の紋       織田家って?へえ〜

小山は左巴也。朝比奈も是同し。但、遠江の朝比奈はけんひし也。


       ココですね、永井氏  3つ★は  「品」という字から来てましたか

永井と那波は。三つ星に一文字にて。昔の因幡守広元か末葉毛利の一家にて。一品と云字の表体也。

三文字松皮は赤松と小笠原。

四つ目結は佐々木判官


葛西はかしは                 遠江がらみで服部家も柏紋?


永楽の銭は三河国水野か紋。


萩の矢も是をうつかふら矢は。武蔵国の住人太田源次郎也    この太田氏って?
                       御親戚の太田家が「鏑矢」だったら、この流れ?
      

十六葉の菊の紋は野田福王かもん也       旗本の服部家は「福王家」と婚姻しています。


車は伊勢の外宮榊原か紋也

梶の葉は諏訪のほうり             諏訪氏は梶ですね〜


            服部氏ですよ〜
            これって宗清系ということ?

矢はつくるまは服部              「矢筈車は服部」
 
帆かけ舟は熱田大宮司             あらあら千秋さんのとは違う?



遠州の小笠原松皮菱に水落。          この当時遠江国に小笠原氏がいた?

                       山下家との関係は?


以上興味深いもののみピックアップ。
わたくしの母方先祖の紋も出てました。
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月09日 12時10分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 とりあえず本日の全部のレスを読ませていただき、パワーが充電されまし
た。

 松島家については、信濃からいつ、誰と下って来たのかがよくわかりませ
んが、松島信久が処刑され、また松尾城の光康が遠江守でもありましたので、
その頃に遠江へ逃避してきた可能性があると思いました。

 市野氏も信濃で戦っていたことがあり、また丸に一文字であります。
 山下氏も信濃の出身で丸に一文字(?)。
 両家にはさまれる形で、家紋も一族化・一元化したのでありましょうか。
 小笠原氏は三階菱か五三桐(いろいろな派に分裂しているので疑問。また、
小笠原一文字という表現についてはよくわからないのですが)。

対助が庄屋になるのは1600年頃ですので、惣太夫およそ50才頃かと
思われます。代官より庄屋に指名されたということが、義弟となれば
ますます信憑性を増します。

 松島十湖の系統は、この対助の実家であり、財産を2分した時に源右衛門
を源左衛門(本家)と変えたのではないでしょうか。またその時には源左衛門
に実子ができていた。本家を源左衛門、対助の分家の祖を源右衛門(本来的
には本家筋の名)にしたのではないか。
どうでしょうかこの推理は?

 これからいろいろ調査にでかけます。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 12時30分12秒 ) パスワード

<レス11>はM氏家譜2にもアップしたいので転載させて頂きますね。



市野氏の家紋は丸一ですか。
「いちの」ですから  丸一  で合ってますね(笑)

市野氏について調べました。

http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100020/?hid=ht002510&word=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C


。【市野氏 惣太夫 浜名代官】近世初期の浜松地方の代官としては、中泉(なかいずみ)村(磐田市)の秋鹿家と市野村(当市市野町)の市野惣太夫家が注目されるが、ここでは後者について述べる。


『新訂寛政重修諸家譜』によると、

市野氏の先祖は近江の浅井氏の一族で、真久(さねひさ)(惣太夫)の時(永禄年間)から家康に仕え、

とくに馬のことにくわしく(『駿府記』に「慶長十六年十月一日、遠江国住人市野、生姜を献ず、

すなわち御前に召し……牧馬の談あり、市野馬を知ればなり」と)馬掛りとして活躍し、

慶長五年(一六〇〇)遠江の代官となり浜名十郷その他を支配し


(『随庵見聞録』に浜名代官「浜名十郷辺ハ慶長五年ハ堀尾殿領浜松分、同六年ノ暮ヨリ市野五郎右衛門殿御代官九年之勤」)、


慶長九年には長上郡市野村のうちで十七石余の屋敷地を賜わり、
その後家号を市野と改めた。

                              菩提寺は宗安寺ですか

元和二年死去(市野村の宗安寺に葬る)するや、
代官職と惣太夫の称号は実次(さねつぐ)・実利(さねとし)・真防(さねあき)とうけつがれた。

寛文のころの市野・秋鹿両代官支配地の一端を上表に示そう。



村名   石高   家数      天領(公料)   浜松領    旗本領 備考
市野   894    118     代官市野惣太夫   488
笠井新田 528     62        〃
石原   228     35        〃
寺嶋   381     57        〃
新寺嶋  184     29        〃
上石田  615     94     126  代官市野惣太夫          相給


[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 12時32分56秒 ) パスワード

市野氏 家紋  N ㉑  になってますね。



http://books.google.com/books?id=9_D6dNY4AlMC&pg=RA7-PA42&lpg=RA7-PA42&dq=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C%E3%80%80%E5%B8%82%E9%87%8E%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=6kotyRm4fH&sig=68oQNxICS-rqTamoiEeck18FkoM&hl=en&sa=X&ei=lX1NVd_OJ5TpoATMpYCgDw&ved=0CDgQ6AEwBA#v=onepage&q=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C%E3%80%80%E5%B8%82%E9%87%8E%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 12時40分57秒 ) パスワード

この本、なんと13万円みたいですよ。
笑っちゃう。

きっと図書館にあると思いますが。


ちなみに服部氏は  Q R S ㉒

山下氏は       E P ㉑ ㉒  です。


番号は何をさすのか、見てみようとしたらアップが落ちてて読めなかったです。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 12時51分56秒 ) パスワード

復習


http://ameblo.jp/blogbears/entry-11784558724.html


2014-03-02 11:00:00
遠江国説話集番外編〜市野氏と万松山宗安寺(浜松東区市野町)。


浜松市東区市野町は江戸時代、「姫街道」の宿場町であった所で、地名の由来ははっきりしませんが、人の往来が多かったことから、「市」が開かれていたところから名付けられたと考えられます。


江戸時代初期、この市野には代官がおり、地名から「市野氏」を名乗ります。
『寛政重修諸家譜』によると、元は近江の「浅井氏」の出となっており、
浅井一族の一人がこの地に土着し、
鷹狩りに来た徳川家康から「地名をもっと姓とせよ」と声をかけられたことが始まりだとされます。


万松山 宗安寺

曹洞宗寺院で、永禄元年(1558)に創建され、創建には市野氏も関わっていたようです。

この市野氏代々のお墓があるお寺が  万松山 宗安寺


こちらのお寺はなんといっても旧浜松市内唯一の 三重塔ですね
平成十一年、檀家である鈴木六郎氏が寄贈したもので、塔内には聖観世音菩薩が祀られています。


               鈴木六郎さん!
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 13時03分11秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/nkks437758/yuishogaki1.html

御書物同心
   海賀雅五郎由緒書      御書物奉行



由緒書

              御書物同心(1) [小普請組](2)
                實子惣領 [仙石右近組](3)
 高三拾俵三人扶持本國伊賀    海賀雅五郎
          生國武藏      巳歳四十





先祖       海賀彌兵衛(初代)


權現様(13)天正十午年六月伊賀路山越被爲
  遊候節御案内申上伊勢白子迄御供仕
  □□同月十五日於尾張鳴海被
  召出服部仲(14)手ニ附同十八寅年関東             ココ M   下記へ
  御入國之節御供仕仲(15)支配ニ而罷在同十九          ココも
N
  卯年右御忠節之御供申上候ニ付武州仙川(16)与
  申所ニ而地方五貫地被下置(18)大坂兩          Pの間違い?
  御陣迄拾弐ヶ度之 御陣 御上京(18)之
  御供仕大坂 御歸陣後元和四午年
  御持頭(19)内藤外記(20)組江割入被 仰付相勤
  其節右被下置候仙川与申所年々不作之
  場ニ而難儀仕候ニ付奉願御藏米ニ被
  仰付大久保甚右衛門(21)組之節寛永十一戌年
  十月廿日病死仕候
  





14.服部中保次 『寛政重修諸家譜』に「銕炮同心五十余人あづけらる」とある。

天正十五年(一五八七)四月二十八日死。享年六十二。


ちなみに『寛政重修諸家譜』で、家康の伊賀路渡御に嚮導し、この服部中保次に属した人の子孫がいるか調べると、

第二十一巻百五十頁の齋藤氏(三十俵二人扶持)、
第二十一巻二百三十一頁の寒河氏(五十俵三人扶持)、
第二十二巻二百二十一頁の眞井氏(三十俵二人扶持)が確認できる。

しかし、海賀家もそうだが、この三家も『伊賀者大由緒記』にある「天正十年伊賀国鹿伏兎山越御案内仕候者姓名」(伊賀者弐百人)にはない。


どうも服部中に属した伊賀者は、この”伊賀者弐百人”には入ってないようである。

それは以下の記述からも窺える。


「一、服部半蔵支配弐百人之者鳴海伊賀と称し地方拝領仕候 一、右同人支配にて後被召出候者皆弐百人の親族にて追々御奉公仕候ものにては是は地方無之御蔵米斗拝領仕候 一、服部仲支配伊賀者は御入国翌年罷下半蔵手同様相勤申候」(『伊賀者大由緒記』より)。



15.服部中保正 保次の嫡男。

『寛政重修諸家譜』に「父がつとめとなり、その同心七十七人をあづけらる」とある。

元和二年(一六一六)十一月二十日死。享年五十二。



16.現東京都三鷹、調布市内。仙川はこの当時から上仙川村と下仙川村に分かれていたようだが、このうち下仙川村は、家康関東御入国の天正十八年(一五九〇)から旧今川家家臣・飯高家(百七十石三十俵)の所領となって、幕末に至っているので、おそらくは上仙川村のことであろう。上仙川村はのちに、元和元年(一六一五)の大坂夏の陣で戦功のあった柴田勝家の孫・三左衛門勝重(二千五百二十石余)に与えられている。



17.服部半蔵配下には天正十九年(一五九一)十一月、二百人に対して千貫文、
つまり一人当たり五貫文の地方(じかた)が与えられているが、
服部中配下にも同様に与えられたかは確認できない。



18.『伊賀者大由緒記』によれば、天正十年(一五八二)九月の韮山合戦、同年十二月の甲州ゑくさ合戦、同十一年八月〜十二月の甲州屋村合戦(伊賀者多く討死)、同年六月の尾州蟹江御陣、同十三年閏八月の真田御陣、同十八年七月の小田原御陣、同十九年九月の奥州御陣、文禄元年(一五九二)朝鮮出兵の際に肥前名護屋へ(隠密御用)、慶長五年(一六〇〇)六月の関ヶ原合戦、同十九年大坂冬の陣、元和元年(一六一五)大坂夏の陣(隠密御用)。
19.御持弓頭。三人(三組)いる。
20.内藤正重 高五千石。慶長五年(一六〇〇)御使番、同六年(一六〇一)御徒頭、同十九年(一六一四)十月御持弓頭、寛永十九年(一六四二)三月十二日病免、承応三年(一六五四)四月二十日致仕、寛文三年(一六六三)四月二十日卒。享年八十六。
21.大久保長重 高千八百六十石余。慶長八年(一六〇三)御書院番、寛永八年(一六三一)二月十二日御使番、同十一年(一六三四)三月二十八日目付の事、十七年(一六四〇)十月十六日御先鉄砲頭、同十九年(一六四二)三月九日御持弓頭、万治四年(一六六一)二月二十六日辞、寛文二年(一六六二)九月二十五日致仕、延宝五年(一六七七)三月十九日死。享年八十九。
以上の履歴をみる限り、初代彌兵衛の亡くなった寛永十一年に、大久保長重の就いていた役職は御持弓頭ではない。


   続く
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 13時06分37秒 ) パスワード

       続き


明治三年版海賀雅五郎(九代)由緒書に戻る


76.当時四谷北伊賀町には御持弓頭・柴田肥前守組の与力一人分、同心四十三人分の組屋敷(総面積六二六〇坪余。位置は現在の東京都新宿区三栄町内)があり、ここで借地をしていた人は、小普請の旗本一人、御家人五十一人などその数七十一人に及ぶ。雅五郎はその一人であった。

ちなみに御持弓同心であった海賀家歴代も、初代からとは言わないが遅くても三代目・彌兵衛ぐらいから雅五郎の父・善四郎(八代目)まで、四谷北伊賀町の御持弓組組屋敷に住んでいた可能性が高い。


まず八代目・善四郎が御持弓組を辞めた当時、どこに住んでいたかを見るために、組屋敷がわかる文政二年版の『文政武鑑』を見ると、善四郎が最後に属していた坪内玄蕃組(註(52)参照)の組屋敷が”下谷山ざき丁、四ツ谷伊賀丁”にあることがわかる。でもこれだけでは、”下谷山ざき丁”か”四ツ谷伊賀丁”のどちらかが判別できない。そこで以下を見てください。


柴田肥前守組・・・下谷広徳寺西横町(二四六〇坪余。与力九人分)・四谷伊賀町(二六〇坪。与力一人分)・四谷伊賀町(六〇〇〇坪余。同心四十三人分)・四谷伝馬町三丁目横丁(一六八〇坪。同心十二人分)



                          服部仲組     へえ〜驚き

服部仲組・・・牛込赤城明神裏門下(二八三〇坪余。与力十人分)・牛込赤城明神裏門外(七九九八坪余。同心五十五人分)




河尻式部少輔組・・・牛込早稲田町(一一〇〇八坪余。与力十人、同心五十人分)

これは『諸向地面取調書』による安政三年当時の御持弓組組屋敷の場所なのですが、”下谷山ざき丁”に当たる柴田肥前守組の”下谷広徳寺西横町”が与力九人分の屋敷であることから、同心である海賀家には関係ないことがわかります。従って四谷伊賀町(=四谷北伊賀町)が、少なくとも善四郎が住んでいた組屋敷ということになります。


次に八代目・善四郎までの海賀家歴代が、三組ある御持弓組の内藤外記正重(註(20)参照)を初代の頭とする組(以降、便宜上”内藤組”と呼ぶことにする)に、例外なく属していたことに注目。なおかつ柴田肥前守もこの内藤組の四十代目の頭(在任期間:嘉永七年(一八五四)五月九日〜安政六年(一八五九)十一月四日)であることから、この四谷北伊賀町の組屋敷が、いつごろから内藤組の組屋敷であったのかを、幕府普請奉行編纂の「御府内沿革図書」を収めた『江戸城下変遷絵図集』(原書房)で調べると、遅くても延宝年間(一六七三〜一六八一)から変わることなく”御持組”の大縄地(組屋敷)であったことが確認できる。ただこの段階では御持弓組か御持筒組かの判別はできないが、同じ延宝年間頃の江戸の地図である『延寶八年江戸大繪圖』で四谷北伊賀町辺りを見ると、”内藤新五クミ”、即ち内藤組四代目の頭・内藤新五郎正方(註(23)参照)の名前が確認できることから、この”御持組”は御持弓組で、しかも内藤組であることは明らかだろう。 遅くても延宝年間、即ちその当時御持弓同心であった三代目・彌兵衛から、海賀家は四谷北伊賀町に住んでいたようなのである。
ついでに『諸向地面取調書』に書かれた他の二組、服部仲・河尻式部少輔組の組屋敷のある牛込赤城明神、牛込早稲田町辺りも『延寶八年江戸大繪圖』で確認してみますと、それぞれ”渡部半三郎組”、”秋山十右組”の記載が見えます。服部仲(中)保右は安藤傳十郎定智を初代の頭とする組の四十三代目の頭(在任期間:嘉永二年(一八四五)十二月二十四日〜安政四年(一八五七)七月二十四日)で、渡邊半三郎清綱はその五代目の頭(在任期間:寛文十一年(一六七一)四月九日〜延宝三年(一六七五)三月十日)、河尻式部少輔鎭長は松平小大夫正吉を初代の頭とする組の三十七代目の頭(在任期間:嘉永七年(一八五四)三月二十四日〜安政五年(一八五八)二月九日)で、秋山十右衛門正房はその四代目の頭(在任期間:寛文十三年(一六七三)一月二十三日〜天和元年(一六八一)十月十九日)というところから、この二組も内藤組同様、遅くても延宝年間以降、組屋敷の位置は変わっていないようである。四谷北伊賀町の組屋敷が、内藤組以外の御持弓組になる可能性は低いみたいである。

この四谷北伊賀町の海賀家歴代が住んでいたであろう組屋敷は、善四郎が御書物同心なってからおよそ二ヶ月後の文政二年(一八一九)六月五日、新たな拝領屋敷をもらってないにもかかわらず、普請方へ引き渡しとなりました。(『御書物方日記 文政二年乾』六月六日条など)

〜追記〜(平成二十四年八月)
推測の域を出なかった善四郎の御持弓同心の頃に住んでいた屋敷の場所が判りました。『屋敷渡預絵図証文 第239冊』(国立国会図書館所蔵)によると、やはり推測通り、四谷北伊賀町の持弓組の組屋敷でした。間口七間、奥行き二十間の広さ一四〇坪の屋敷だったようです。



安政三年(一八五六)当時の海賀雅五郎拝領屋敷に戻る





主要参考文献

『伊賀者大由緒記』(伊賀市上野図書館所蔵)
『江戸城下変遷絵図集』(幕府普請奉行編、原書房)
『江戸幕臣人名事典』(熊井保・大賀妙子編集、新人物往来社)
『江戸幕府役職集成』(笹間良彦著、雄山閣)
『江戸幕府役職武鑑編年集成』(深井雅海・藤實久美子編、東洋書林・原書房)
『延寶八年江戸大繪圖』(林吉永板、David Rumsey Historical Map Collection)
『御書物方日記』(国立公文書館所蔵)
『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)
『寛政譜以降旗本家百科事典』(小川恭一編著、東洋書林)
『國史大系 徳川實紀』『國史大系 續徳川實紀』(黒板勝美・國史大系編修會編、吉川弘文館)
『古事類苑』(神宮司廰編、吉川弘文館)
『小普請藪益次郎組海賀雅五郎 明細短冊』(国立公文書館所蔵)
『三百藩家臣人名事典7』(家臣人名事典編纂委員会編、新人物往来社)
『駿遠へ移住した徳川家臣団第四編』(前田匡一郎著)
『大日本近世史料 柳營補任』(東京大学史料編纂所編、東京大学出版会)
『内閣文庫所藏史籍叢刊 諸向地面取調書』(史籍研究會編、汲古書院)
『日本歴史地名大系第13巻 東京都の地名』(平凡社地方資料センター編集、平凡社)
『別冊歴史読本江戸切絵図』(新人物往来社)
『屋敷書抜』(国立国会図書館所蔵)
『屋敷渡預絵図証文』(国立国会図書館所蔵)





日本ってすごい記録の国ですね。
中国の貴重な古文書が日本にあるのは知ってたけど
海賀さんという方の記録もちゃんと残っているのに驚きました。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 20時57分16秒 ) パスワード

『羽継原合戦記』は、別名『長倉追罰記』ともよばれ、
永亨七年足利幕府が長倉遠江守を追罰した戦記物だが、
そこに全国諸豪が勢ぞろいした。



永享7年 1435年


     永井氏の3つ★は  「品」という字から
永井と那波は。三つ星に一文字にて。昔の因幡守広元か末葉毛利の一家にて。
一品と云字の表体也。



つまり永井氏は1435年には大江広元の子孫として足利幕府に仕えてた。

となると戦国時代に長田氏が永井氏を家康によって名乗ることになったという話は????
え?
でした。


     もうワケ分からなくなって来た・・・・
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 21時04分19秒 ) パスワード

家康の論理も破綻しない?


だって家康が新田=南朝方=の子孫ということは北朝に=足利に=やられた


長田氏に永井氏を名乗れ、と言ったということは

やはり長田氏は家康にとって先祖の仇ではありませんか。



長田では先祖の仇
永井でも先祖の仇



永井氏は本当に長田氏と大江氏で繋がってた?
いろいろワケ分からなくなった。
[20]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月10日 07時34分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そう、永井氏に関してはそのへんのことがよくわかりません。探究不足の
ところもあり、いずれ現地調査も含め探りたいと思っています。

 当地において何故服部と一緒に暮らして来たのか、ここは天領で大草氏、元
は永田氏の支配地であったからだと解釈していますが、落人的要素はあまりな
いはずですが・・・。
 信濃系の落人としては、松島氏を探究中ですが、あを様がずっと言われてき
た、服部氏(麻績氏、小笠原出自)も最後に上杉氏によって麻績城が落城させら
れていますので、落人の可能性があると今気づきました。だからあを様が麻績
へ行ってみたらと言われていた。

 ただ、私の住むこの地においては、服部と永井はほとんど同族的関係にあり
ますので、その点の経緯を考えますと、信濃とはどう関連するのかの疑問が残
りますが、今泉の代官大草氏は信州も天領として管轄していたということもあ
ります。また浜松藩主太田氏も天領として箕輪3村を管轄していたということ
もあり、過去の世界は今の常識的考えも及ばないワンダーランドのところもあ
りますので、いろいろ調べ上げた上で結論を出さなければなりません。即断は
失敗の元・・・。
 ということで、さらに探究を続けます。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 08時32分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


いつか麻績に行けると良いですね。
でも遠いですね。
日帰りでは無理でしょうね。



人間のことは複雑怪奇ですね。
迫ったようでスルリと逃げられてしまう。



>過去の世界は今の常識的考えも及ばないワンダーランドのところもあります

はい
おっしゃる通りです。


地道にコツコツ読んでいきましょう。


>即断は失敗の元・・・。

史実として伝わっている事が、その場の座興だった、ということもあるでしょうしね。

    永井。三つ星に一文字にて。昔の因幡守広元か末葉毛利の一家にて。
    1435年に永井氏は因幡守広元の末裔として名があった。


     桓武平氏良兼流の致頼を祖とする長田氏の系統で、
     平安時代末期に主君源義朝を弑した長田忠致の兄である親致が永井氏の祖である。

     右近太夫直勝の代に、主君徳川家康の命により、
     主君を弑した忠致に繋がるとして、大江姓永井氏に改姓された。



大江氏は源義家や源頼朝がらみの源氏ゆかりの有名な家だから
「直勝よ、お前は大江姓永井氏でも名乗っておけ」
あたりだったんでしょうかねえ?


そうすると毛利家の本物の大江姓永井氏は腹立ったでしょうね。
そして周りの人々は(ふ〜、ウチの名字でなくて良かった!あんな風に簡単に名字が盗まれてしまうのか)とゾッとしたでしょうね。


ま、直勝の永井家は神君家康公からの拝領の名字なんだから、名誉ある名字です。



こんな風に、(なんであんなヤツがうちと同じ名字なんだ?)と思うことがあっても
その背景はいろいろなんでしょうね。


          永井と那波は。三つ星に一文字にて。昔の因幡守広元か末葉毛利の一家にて


永井と那波氏は両方とも大江広元の子孫。
本物の永井氏の方は遠慮して  長井  と統一して使うことになったのかしら?


いろいろあったのですねえ。
ウッカリ長州系長井氏に  え?永井さんじゃなかったの?  と言ったら無神経でしょうね。


昔は漢字をテキトーに使ってたけど
いやいや実はものスゴイ思いが入っている
ということもあったのですねえ。


勉強になりました。
ヨソのお家のアイデンティティを無邪気にも土足で踏みにじってはいけませんね。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月15日 05時43分33秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101450_9.html   スレッドXL 40
(M氏家譜 4)

レス[4] 空の青海のあをからのコメント(2015年05月15日 02時27分26秒 )

http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100020?hid=ht002530&word=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C



    元禄期遠江の旗本三十六人の知行高の内訳をみると三千石以上のいわゆる大身が二十二人におよび、
    大身層の多かったことが注目される。


    一般に旗本領の基礎は寛永(かんえい)二年(一六二五)台徳院殿朱印状に負うところが大きいといわれている。



遠江には旗本が36人いた。
つまりこの36人の旗本の中に  丸に三つ柏紋の服部氏がいたのかどうか?

この情報が得られれば良いのですが。


でも旗本も神主になっていたりで
不思議な進路があったのですねえ。



さらにM氏家譜によれば「朱印状」があると書かれていますが
これも  謎  ですよね。

これも調べねばなりません。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月27日 14時54分01秒 ) パスワード

http://plaza3.dws.ne.jp/~m.okubo/sunpu100.pdf
駿府に居を構えた100人の武将


この中に服部権太夫政信がいました。P08

加藤喜助正重P32   懐かしいですね。お久です。



服部権太夫政信   1579 − 1642  64歳で歿

画面の↓で  (4)に行って右側です。


外堀北側

今切に於いて死す


他にも知らなかった情報が出てます。

[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 13時54分33秒 ) パスワード

復習

芥川賞受賞作家で東京都知事をつとめた石原慎太郎は自身の家系について佐野眞一との対談の中で

「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです[6]。
そんな大家でもないけれど、元は、落魄 (らくはく) した士族です[6]。

先祖は武田の残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った[6]。
弓の名人だったらしく、戦 (いくさ) で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが (笑) 、
それで七つ矢車の家紋を許された[6]。

歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている
親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った[6]。」
と述べている。

慎太郎の祖父石原信直(警察官)は服部信義の二男である[7]。




武田の残党の服部氏?
   麻績服部氏が真っ先に浮かびます。
   さらに川越の服部さん。家紋は車に横矢筈だったかな?

武田の残党だったら甲斐か信濃あたりですよね。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 14時16分19秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA4-PA22&lpg=RA4-PA22&dq=%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=LXfWQvI8Pi&sig=IVBDb0IUAWuaZnUGvyvQL50hP5U&hl=en&sa=X&ei=CjBxVbWRCYfeoASmlIKYCQ&ved=0CF0Q6AEwCTgK#v=onepage&q=%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


ここに  柏紋で服部氏が出ているのですが。

寛政譜20
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 14時19分41秒 ) パスワード

三つ柏・丸に三つ柏紋の項です。66ページと書いてあります。

続家紋でたどるあなたの家系
edited by 千鹿野茂
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 01時51分55秒 ) パスワード

最近つくづく思うのは

丸に三つ柏紋の平姓服部氏で旗本の家は権太夫の系統じゃないかなと。

理由は
権太夫政光(政信の祖父の方)の妻は千秋式部少輔の娘だから
千秋氏が丸に三つ柏紋ということで。

    何らかの理由で母方の家紋を使った子がいたのかなと。
    でも見つからない。

[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 23時00分06秒 ) パスワード

遠江国の久野氏に服部家の娘が嫁に行ってました。

http://books.google.com/books?id=lxJnABzPtAwC&pg=PA60-IA4&dq=%E6%96%B0%E8%A8%82%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C%E3%80%80%E7%AC%AC%EF%BC%92%EF%BC%90%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%99%82%E4%BA%AE%E3%80%80%E3%81%AF&hl=en&sa=X&ved=0CB0Q6AEwAGoVChMIwYPT1KeKxgIV0HuSCh38ZwNA#v=onepage&q=%E6%96%B0%E8%A8%82%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C%E3%80%80%E7%AC%AC%EF%BC%92%EF%BC%90%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%99%82%E4%BA%AE%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

巻1430
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月13日 06時03分26秒 ) パスワード

索引には
服部清定 服部清信 服部時亮 服部保祐 服部行篤 服部某
が載っているのですが

服部八郎五郎保房の娘が久野宗房の妻になったという上のレスの情報しかヒットしませんでした。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月13日 06時54分59秒 ) パスワード

<29>
服部清定 服部清信 服部時亮 服部保祐 服部行篤 服部某


「了仙」の項目にあるので
服部清定 服部清信 服部時亮 服部保祐 服部行篤 服部某

医者の服部さんかな?
家紋が柏紋の。

[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月13日 07時01分22秒 ) パスワード

常陸平氏  太田家  家臣


茨城県立歴史館所蔵 『水府系纂(複写版)』目録より転記
http://www.ja1pop.com/suifu-keisan/index-ha.htm


『水府系纂』

名字  名前     巻   ページ  註
        
服部 久大夫某     31 28  
服部 久大夫正名    〃 〃  
服部 次郎四郎正致   〃 〃  
服部 勘衞門景次    50 80   絶家
服部 新介某      57下 87 絶家
服部 市之衞忠意    75 33  
服部 源七郎行典    〃 〃  




松下 源兵衞・重     9 46 絶家
松下 意伯武光      57上 69  
松下 安之允武久     〃 〃  



市野と袴田はいませんでした。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月13日 07時10分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 よく見つけましたね。寛政重修諸家譜をあたってみます。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月13日 07時11分18秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/yasumasa.html


榊原家臣団に服部氏、松下氏、数名ずついました。


[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月13日 08時38分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


通字が「保」の場合は  服部中系かな?
通字が「正」の場合は  服部半蔵系かな?

などと空想が行きます。



寛政重修諸家譜はなかなか検索がうまく行きません。
しかしアチコチふらふら見ていると面白くてついつい時間の経つのを忘れてしまいます。


きっとどこかに丸に三つ柏紋の服部氏がいらっしゃるんだろうなと思っています。
捜すとなると、なかなか現れないもんです。

気長に気長に。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月02日 03時33分54秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101468_21.html
レス<19>



天正12年(1584年)の蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。
このとき服部保英(服部半蔵正成の甥)は家康の従兄弟・水野勝成に属して武功をあげた。 


つまり服部半蔵の家は

服部保長の
  長男:保俊   孫:保英=家康の従兄弟の水野勝成に仕え軍功を挙げる
  次男:保正   孫:保成=天正12年7月1日蟹江城合戦で討ち死に  35歳   今日は7月1日です!!!
  三男:正成(半蔵)   実は6男あたり。しかし父の跡を継ぐ


ということは半蔵の兄達は水野家に仕えてた????
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月02日 03時51分23秒 ) パスワード

詳しく知ると、感慨深いものが込み上げて来ます。

英雄達の興亡。
トーナメント方式で勝ち上がって行くのを見るようです。


今の時代も乱世なのかもですね。
良い学校を出て良い会社に勤めて正社員になっても突然会社が消えるかも知れない。
そして思わぬ所から伏兵が現れて大出世。


そういう時代を生きた人々の思いたるや、とても想像がつきません。
ただただ感謝。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月04日 22時18分25秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101468_33.html
レス<29>よりコピペ:

服部氏と加賀爪氏の関係



加賀爪氏は服部保長の次男=保正=の家に嫁にきています。 *保長の6男が半蔵


保長  →  保正  →  保成(蟹江城の戦いで戦死)  →  保次(源兵衛)幼年より家康に仕え大番に列し、
                                   のちに小普請となり明暦元年84歳にて亡くなりました。

                                   この人=保次=の妻が加賀爪備前守政豊の娘です。



なお保次の子保好は家光に仕え、寛文9年に御書物奉行。
また保次の子の服部半之丞保忠は加賀爪備前守政豊が養子と書かれています。


保好の曾孫=保親は吉宗に仕え、妻は加賀爪右近保快の娘。



ずっと後の子孫にも
加賀爪半之丞保正が養子
加賀爪弥太夫保長が養子
などと書かれています。



遠江加賀爪氏復習
http://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/kagatsumeshi-yakata/


加賀爪氏は藤原北家勧修寺流で、上杉修理亮政定が今川範政に猶子となって加賀爪氏を称した事に始まる。

天文16年(1547年)加賀爪泰貞は長久保の戦いで討死、その子政豊は永禄12年(1569年)徳川家康に従った。政豊の子政尚は天正12年(1584年)長久手合戦で敵兵を討ち取る戦功を挙げ、徳川家康が関東へ転封となると、これに従い、武蔵国高坂で三千石を領した。

加賀爪氏は直澄のとき、一万三千石を領して大名に列し、掛塚に陣屋を構えて掛塚となっているが後に改易となった。静岡県袋井市上新池字高木には江戸時代加賀爪氏の代官屋敷があったとされる。


加賀爪氏館は栄泉寺の南側一帯に築かれていたという。 かつては茶畑となった方形に一段小高い区画があり、堀の一部が残存していたというが、現在は宅地化されている。

北に隣接する栄泉寺には「加賀爪氏の墓」と伝えられる宝篋印塔があるとされるが、見つけることができなかった。


付近の城址
2.0km 遠江・丸尾氏館
2.9km 遠江・馬伏塚城
3.0km 遠江・堀越城
4.0km 遠江・貫名氏館
4.0km 遠江・久野城
4.2km 遠江・岡崎城
4.7km 遠江・城之崎城
5.1km 遠江・見付端城
5.5km 遠江・原川城
5.6km 遠江・向笠城
6.2km 遠江・掛塚陣屋
6.3km 遠江・中泉御殿
6.3km 遠江・中泉陣屋
6.5km 遠江・秋鹿屋敷
6.9km 遠江・本城山砦
7.1km 遠江・門奈屋敷
7.3km 遠江・横須賀城
8.1km 遠江・飯田城
8.3km 遠江・匂坂城
8.4km 遠江・匂坂館
8.5km 遠江・長者屋敷
8.6km 遠江・小笠山砦
8.6km 遠江・高木陣屋

※距離はおおよその直線距離です。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月15日 09時36分32秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101468_71.html
レス<65> 丸三柏服部さんからのコメントからの転載・重複



服織神社は天穂日命を祀り、即ち出雲系神道であった。
その後、羽鳥荘が新熊野神社に寄進されたため、当然熊野系の宗旨になってしまったと考えられる。

そこで今までの氏子にはそれに従えない者がいた。
そこで新たな出雲系・物部系の宗旨を求めた。
土師氏は物部氏とともにこの地方に一体化していたので、系列の菅原氏を祀る天満宮を勧請することになったと考えられないか。

善地に建てられた天満宮の創設の由縁として考えられないか。


もう一つの由縁として考えられそうなのが、
今までは神道系であったのが、今川氏の遠江支配になり、仏教重視の政策となり、神道系は圧迫されたので、
新たなる地に祖先と関係する神社を建てた。

それが善地天満宮だったのではないだろうか。



いずれにしても、氏子が揃って移動したのではないだろうか。


そんな観点から服織神社・天満宮の謎を更に探究してみたいと思っています。


宗教・信心の関係を突っ込んで考えたことはかったので、
今後の歴史探究にも、そういった観点から見てみるということも必要と思っています。
例えば一向一揆・・・浄土真宗。そしてキリスト教。いわゆる戦国の戦いと並行
して起っていた宗教弾圧・宗教一揆・・・。
実際、民衆も宗教と一体であったと思いますので、やはり宗教的世界観からのアプローチも必要かなと思います。


更には、もう一つの観点として、戦乱の世の中での臣下、そして民百姓の過酷さというものを理解する必要があるということと、
戦乱がいかに残酷であったということを認識する必要があると思います。

この平和で豊かで民主主義の自由な現在の状況とはまったく違った世界であったということ・・・。


例えば、首級を上げる・・・即ち、戦国時代には首狩り族と同じことをしていたのです。語るのに躊躇してしまいます・・・。
 




[66] 丸三柏服部さんからのコメント


 徳川家康と白山勢力との関係、即ち修験・山伏との関係、これはどこから
もたらされたものであるか・・・起源は南朝と伊賀・甲賀、修験勢力、いわゆ
る「まつろわぬ者達」との接近、この流れが服部保長・正成親子に引き継がれ
ていた。家康がこれらのまつろわぬ者達と接近できたのは、半蔵正成に負うと
ころが大きかったのではないか・・・。

 この点について、本日は充電したいと思っております。南朝・伊賀・甲賀・
柳生・・・これらは一連の流れの中でつながっていると思われます。



    レス<67>

    服部政信系の家で母方の千秋氏の出身の名残りを家紋に残している家が見つかると良いですね。
    必ず浜松にいたと思うのですが。



    レス<68>


柳生氏の出自[編集]

新井白石が作成した系譜の『藩翰譜』(または後世の『寛政重修諸家譜』)によると、
柳生氏の姓は菅原姓とされ、菅原道真が祖先とも言われている。

使用の家紋は、「地楡に雀」、替紋に「柳生笠」。


実際の柳生氏の事項が明らかになるのは、南北期の播磨守永珍(別名:宗珍、大膳亮永家の子とされる)の頃からで、
柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によると、元弘3年(1331年)に、南朝方として、
六波羅探題の北条仲時・時益の軍勢と戦った永珍は戦功によって、
後醍醐帝から賜った大和国小楊生(大楊生とも)庄の領主となり、
柳生氏と名乗ったことから始まるとされる
(ただし、『玉栄拾遺』の記述自体も伝承の域を出ないという)。


柳生家の発祥地は大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)で、大和国北部にある。

また「楊生」・「夜岐布」・「夜支布」・「養父」とも記され、いずれも「やぎう」と発音するという。


戦国期に、上泉信綱から新陰流を相伝された柳生宗厳(石舟斎)は、永珍(宗珍)から8代目の子孫に当たる人物である。





[69] 丸三柏服部さんからのコメント


 『松下加兵衛と豊臣秀吉』を書いた冨永公文氏の祖先は、新城市の野田
城の城主であったことを知り、調べていましたら野田城より前の時代に、
また場所としては野田城の南に、野田館という館があり、そこの城主は千秋
氏であったということで、遠江の意外に近くに千秋氏はいたことになります。


http://blogs.yahoo.co.jp/kurajiro63/58779657.html

野 田 館 跡 (所在地:愛知県新城市野田字貴船)

〔城 主〕
 千秋氏〜富永氏〜菅沼氏(野田菅沼)

〔歴 史〕
 11世紀終わりころ、熱田神宮大宮司千秋季兼が新城市稲木の長者と諏訪部
曲を滅ぼして勢力を拡大。 3代清季が千歳野に野田館を築いて居住。千秋氏
が領主として代々治めたが、建武の中興で戦功のあった富永直郷が野田館に
入り、広大な富永荘を支配。富永氏も戦国の世となり、領主(千若丸)の乱心
自刃により没落。地元に残った家臣今泉四郎兵衛が田峯菅沼定忠の三男竹千代
(新八郎定則)をいただき、野田館に迎え入れた。水害をたびたび被ったため、
永正13年(1516)上ノ山に城(現在の野田城)を築いて移った。

 この千秋氏の家紋、その一族のその後を知りたいものです。

 養老の千秋氏は時として服部を名乗ったといいますが、なぜなのか?

 新城に服部村があったことに関係しているのでしょうか、御器所の服部氏
に関係するのでしょうか・・・。いずれにしても、千秋氏の家紋を実際に見
てみたいと思います。

 さて、柳生についてですが、柳生と島左近はもっと知らなくてはなりませ
ん。松下之綱の娘おりんと柳生宗矩、島左近との関係、どんな裏での行動が
あったのか・・・特に島左近はくせもの・・・何で一族は遠江に逃げて来た
のか・・・敵陣ではないか?

 柳生氏の祖は菅原氏で、菅原道真が祖先であると新居白石が言っている?
 ということは、柳生氏と永井氏は同根かも知れません。あるいは大江氏
が松下氏と永井氏をつなぎ、松下氏により永井氏と柳生氏はつながる?

[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月15日 21時39分02秒 ) パスワード

レス<76>の重複転載


 私の知人の中井氏は祖先が京都から御器所へやって来て、地元の服部氏の
娘を娶ったという。
どうも大工頭の中井氏に関係する一族ではないかと推測 

御器所の服部氏ということで調べてみますと、
御器所荘に服部一族がやってきたのは、1429年から1441年の間で、
すでにこの地に城を築いています。


いた佐久間氏と姻戚関係になり、属し、そして信長に仕えたということであります。

 また、服部満喜の子である善昌は、佐久間信盛の失脚とともに、この一角
に隠棲したということです。

 服部は服部でも服部党とどうつながるのか調べてみたいと思います。


 柳生については、剣術指南役である以前に、忍者集団を引き連れていたようです。
関ヶ原の合戦を機会に秀忠に仕え出した。
秀忠は、伊賀・甲賀とは違った新しい自分固有の戦力として取り込んだようであります。

 まだまだ情報が足りませんので、引き続き収集します。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月15日 21時50分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


まったく分かりません。以下は想像です。


ただ尾張の服部氏は2つの違う紋を使っています。
1つは車に並び矢紋で   こちらは尾張南西部
もう1つは矢筈紋で    こちらは尾張徳川に仕えた「かみ」の服部氏

でもこの2つしか知らないです。


想像しますと、
信長と尾張徳川に仕えた「矢筈紋」の服部氏が御器所服部なのかな、
と。

    信長の育った那古野城に近いし



そうすると津島の服部氏と近いのかなとも想像しますが
これが今川義元を刺したという服部小平太系です。


服部党の服部氏は、信長の時代には、津島の服部とは「敵」になります。


でも小平太系も服部党も  車+並び矢紋だから  この2つは紋も場所も近いだろうし


でも分かりません。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 02時38分48秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101478_77.html
長上郡の服部氏族XLZ(M氏家譜11+市野氏解明済?)
レス<28><29><32>までの重複転載


<28>
 さて、本日は浜松中央図書館へ行き、地元の資料を漁っておりましたところ、
たまたま『河匂の庄・芳川の生い立ち』という本の中に、「安松」のことが
書かれていて、私の叔母の嫁ぎ先がそこの元庄屋だったので興味深く読んだ
ところ、次の記述があり、少しビックリしています―
 「津島市の牛頭天皇(スサノウノミコト)を祭神とする津島神社より分霊を
 仰ぐ際、津島市の郊外、安松町より出張された神主が、此の土地に土着され、
 安松の名を此の地に銘名した。」
 実は、親戚の苗字は三輪といい、何となく古代よりの、また神社系の感じ
がしておりましたので、偶然の一致だとしても、この話すんなり納得してしま
いました。

 それとは別に、知久氏を論述するために、少しネットサイトを閲覧している
内に、知久氏と浪合、宗良親王との関係、そして世良田氏との関係等、並々な
らぬものに遭遇し、さらに最終的にはあを様の関係する津島神社、そして永井
伝八郎直勝にまで至りそうということで、いい加減なことは書けないなと思い、少し思案に暮れております。




<29>

三つ柏さんのレスを拝見することになり

河匂の庄 の名が出て来ました。


    服部政信の父・政光は遠江国  河の内の庄にをいて3000貫の地をたまふ

とあったな、と思い出しました。
河の内の庄が今1つどこか分からない、という話を去年していました。

    ひょっとすると  河匂の庄かも  と?


以下<32>まで

安松という地名も名字も珍しくて、なるほど、浜松特有だったのかと
でも元は尾張?


    「津島市の牛頭天皇(スサノウノミコト)を祭神とする津島神社より分霊を仰ぐ際、
     津島市の郊外、安松町より出張された神主が、此の土地に土着され、安松の名を此の地に銘名した。」


     実は、親戚の苗字は三輪といい、何となく古代よりの、また神社系の感じがしておりましたので、偶然の一致だとしても、この話すんなり納得してしまいました。



津島の牛頭さんは大橋家か祖父江さんか、  でも  三輪さんも有り得るな  と思いました。


津島の大橋さんは平家の服部の兄ですし  つまり平貞能の後の名字
が大橋で
大橋氏は尾張南朝方の頭領ですし
家康とも親戚になりますし


で、津島の神職さんが遠江に定着したというのは何重にも当たり前だな、と納得です。




[31]


現在の愛知県あま市七宝町安松ですか。
どんな所か土地勘が無いので検索してみました。

安松あたりのバスの地図です。
http://www.rosenzu.com/brai/bra23.html

七宝病院の西の東神守あたりかな?と思います。


七宝町
ここは昔は服部村の中にあって七宝産業は明治時代から始まったと思います。
産業の七宝から町の名前が付きました。


七宝町の1番の有名人は   前田利家夫人のお松さんです。
父上の名字は篠原さんだったかな?
戦死して母上が再婚することになって、
川向うの名古屋市中川区荒子の、母方の伯母の嫁ぎ先の前田家に引き取られて
従兄の利家と結婚。


大治には服部家ホンヤさんの菩提寺があったような記憶。不確か。



七宝町の右?東?の 甚目寺じもくじ  も 服部が多いところだったような。


南の中村公園は秀吉が生まれたところ。


七宝の西の  勝幡しょばた は蜂須賀の出身地であり信長が生まれた処でもあるのかな?
蜂須賀小六の祖父の正妻が大橋家から嫁に来てたと読みました。


蟹江とか佐屋なんてモロに服部家の庭みたいなもんです。

   親戚の加藤家に養子に行って首相になった高明は佐屋の人だったかな?
   このあたりは服部家ホンヤさんの目の前という感じ。


方向音痴なので  アテには出来ないですよ〜




[32]


>知久氏を論述するために、少しネットサイトを閲覧している内に、
>知久氏と浪合、宗良親王との関係、そして世良田氏との関係等、
>並々ならぬものに遭遇し、さらに最終的にはあを様の関係する津島神社、そして永井伝八郎直勝にまで至りそう


時代が下がっていよいよややこしくなりますね。


http://homepage1.nifty.com/sira/namiai/Iinoya/iinoya01.html
井伊谷の史跡1


 井伊谷(いいのや)は浜名湖の北、現在の静岡県引佐(いなさ)町にあたり、古代から井伊氏が治めていた場所でした。

 延元元年(建武三、1336)、井伊道政が宗良親王(後醍醐天皇第四皇子)をこの地に迎え入れ、井伊谷は東国における南朝の拠点のひとつになりました。宗良親王の第二皇子が、『浪合記』の前半に登場する尹良親王です。

 宗良親王は、後醍醐天皇と藤原為子(藤原定家の曾孫二条為世の子)の子として応長元年(1311)に産まれました。元徳二年(1330)、二十歳の時に天台座主となり、元弘元年(1331)に元弘の乱で讃岐国に流されますが、元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡すると、再び天台座主となります。

 その後、南北朝の動乱の中で延元二年(1336)に還俗すると、井伊谷、越後寺泊、信濃大河原など、東国各地で南朝勢力を挽回するための活動を続けました。そして、弘和元年(1381)に完成した新葉和歌集の編者として名前が見えるのを最後に、確実な史料からは名前が見られなくなります。

 没年は不詳ですが、『南朝紹運録』には元中二年(1385)八月十日に井伊城にて死去とあります。また、井伊谷の西には宗良親王の弟の無文禅師が開山となった方広寺がありますが、宗良親王がこの地に埋葬された際には無文禅師が導師として奉仕されたと伝えられています。

 井伊谷宮は明治の初めに宗良親王を祭神として建てられた神社で、本殿の背後に宗良親王の墓と伝えられる塚があります。



宗良親王の墓。

松の木が生えているところが宗良親王の墓。

墓所には寛保二年(1742)に信濃国伊那郡阿島の知久監物源頼人が奉納した宝筐院塔があるそうですが、立入禁止になっていて見ることはできませんでした。

知久氏は、南北朝時代に宗良親王に従って南朝方として活動した一族です。


          知久監物源頼人
          ということは源姓ですか。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 02時41分55秒 ) パスワード

<57>より転載


伊  古  奈  比  口羊  命  神社  (白濱神社)
について更に調べました!

ビックリです。
大久保長安に辿り着きました!   → 大久保長安奉納の鰐口(静岡県指定文化財)


     静岡県指定文化財
        有形文化財

          鰐口(工芸品)

             径42.3センチメートル、厚10.8センチメートル。両肩には釣手を有する。
             慶長12年(1607年)3月、伊豆代官大久保長安の奉納によるものである。
             当時長安は縄地金山奉行であり、金山の隆盛を祈願して奉納したものといわれる。

             地金は青銅であるが、金の成分が相当含まれていると伝える。
             昭和31年10月17日指定。[78]






三島大社の神様の妻です。これにもビックリ   つまり大三島神社に関係?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8F%A4%E5%A5%88%E6%AF%94%E3%82%81%E5%91%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE

伊古奈比・命神社(いこなひめのみことじんじゃ)は、静岡県下田市白浜にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。通称は「白濱神社(白浜神社)」。


静岡県東部の伊豆半島先端部、白浜海岸にある丘陵「火達山(ひたちやま/ひたつやま)」に鎮座する。この火達山は伊豆諸島を祀る古代遺跡でもあるが、その祭祀は現在まで伊古奈比・命神社の祭祀として続いている。伝承では、主祭神の伊古奈比・命は、伊豆諸島開拓神の三嶋神の后神であるという。また、三嶋神は三宅島から白浜(当地)、そして伊豆国一宮の三嶋大社(静岡県三島市)へと遷座したとも伝える。

境内の火達山は、祭祀遺跡として下田市指定史跡に指定されている。また、火達山に自生するアオギリ樹林は国の天然記念物に、ビャクシン樹林は静岡県指定天然記念物に指定されている。そのほか、大久保長安奉納の鰐口(静岡県指定文化財)に代表される文化財数点が伝わっている。


現在の社名は、主祭神の伊古奈比・命の名を掲げた「伊古奈比・命神社」である。この社名は、平安時代の『延喜式』神名帳に記載されるものである[1]。当社がこの『延喜式』所載社であることを伝える史料としては唯一、江戸時代の慶長12年(1607年)の鰐口にある「伊古奈比・命大明神」の銘が知られる[2]。

通称の「白濱神社(白浜神社)」は、鎮座地の地名に由来するものである。「白浜」とは海岸の白砂を表した名称であるが、その起こりは明らかではない[3]。この呼称は江戸時代に広く見られ、当社は「白濱大明神」「白濱神社」「白濱大社」「白濱五社大明神」等と称されていた[4]。うち「五社大明神」は、祭神数に由来するものである[5]。そのほか、三嶋神の旧鎮座地(古宮)であるという伝承から、「古宮山大明神」「古宮山五社大明神」という呼称も使用された[6]。明治期に正式社名は現在の「伊古奈比・命神社」に定められたが、現在も「白濱神社」と通称されている[7]


祭神[編集]

祭神は次の5柱[8]。神体は5柱とも神鏡である[9]。

主祭神
伊古奈比・命 (いこなひめのみこと) 三嶋大明神の后神。後妻さん?

相殿神
三嶋大明神 (みしまだいみょうじん) 伊豆国一宮の三嶋大社(静岡県三島市)祭神。別名を事代主命(ことしろぬしのみこと)とする。
見目 (みめ、見目大神) 女神。三嶋大明神の随神。
若宮 (わかみや、若宮大神) 男神。三嶋大明神の随神。
剣の御子 (つるぎのみこ、劔御子大神) 男神。三嶋大明神の随神。



祭神について[編集]

『続日本後紀』所載の三嶋神系譜

正后:阿波神
(阿波命神社)
<神津島村>

三嶋神
(三嶋大社)
<三島市>

後后
(伊古奈比・命神社)                       コレ
<下田市>


物忌奈乃命
(物忌奈命神社)
<神津島村>


上記のように伊古奈比・命神社祭神は5柱と定められているが、この制は江戸時代には遡りうるものである[10]。主祭神の伊古奈比・命(いこなひめのみこと)は、三嶋神の后神とされる[11]。『続日本後紀』[原 1]の記述を基にすると、三嶋神の正后が阿波・命(神津島の阿波命神社祭神)、後后が伊古奈比・命神社にあたるとされる[12]。また、『伊豆国神階帳』に見える「一品当きさの宮」や『三宅記』に三嶋神の后として見える「天地今宮后」もまた、伊古奈比・命に比定される[13][注 1]。後述のように、夫神の三嶋神には歴史的に事代主命説・大山祇命説があるため、伊古奈比・命にも三嶋溝樴姫(事代主命妃)説・大山祇命妃説があった[14]。これらに対して伊古奈比・命神社社誌では、記紀神話との比較はせず「伊古奈比・命」という独立の神格を見ている[15]。神名の由来は明らかでないが、『日本三代実録』[原 2]に見える遠江国の伊古奈神(所在不明)との関連が指摘される[16]。






三嶋大社(静岡県三島市)
伊古奈比・命の夫神である三嶋神を祀る。
相殿神のうち、筆頭の三嶋神(みしまのかみ)は、現在の三嶋大社の祭神を指す。上記のように現在伊古奈比・命神社では、この三嶋神を記紀神話に見える事代主命にあてる。しかし三嶋大社祭神については、古くは『東関紀行』(仁治3年(1242年)成立)を初見として、伊予国一宮の大山祇神社(愛媛県今治市の大三島)由来の大山祇命説が唱えられていた[17]。事代主命説は、文化年間(1804年-1818年)頃の平田篤胤の提唱に始まるものである[17]。平田篤胤の主張は多くの賛意を得たため、現在まで伊古奈比・命神社含め伊豆各地では事代主命説が定着している。ただし、当の三嶋大社では大正頃から大山祇命説が再浮上したため[18]、祭神は事代主命・大山祇命の2柱に改められている。近年ではこれらとは別の説として、「ミシマ = 御嶋」すなわち伊豆諸島の神格化が三嶋神の発祥であるとして、事代主命・大山祇命のいずれも「ミシマ」の音から来た後世の付会とする説が有力視される[19](三嶋神の詳細は「三嶋大社#祭神」参照)。

見目・若宮・剣の御子の相殿神3柱は、『三宅記』に三嶋神の随身として見える神である[20]。3柱の詳細は明らかではない。境内から出土した御正躰には嘉禄元年(1225年)銘とともに「若宮」の銘があるため、これら3柱の祭祀は鎌倉時代初期に遡りうるとされる[20]。


歴史[編集]

三嶋神・伊古奈比・命の変遷    [表示]

創建[編集]

三宅島(東京都三宅村)

社伝(由緒書)によると、まず三嶋神は南方から海を渡って伊豆に至った。そして富士山の神・高天原の神から伊豆の地を授けられ、白浜に宮を築き、伊古奈比・命を后に迎えた。さらに、見目・若宮・剣の御子の3柱や竜神・海神・雷神などとともに伊豆諸島の島焼き(造島)を行なった。島焼きによって、初島に始まり神津島・大島・三宅島・八丈島など合計10の島々を造り、自身は三宅島に宮を営んだ。その後しばらくして、白浜に還ったという[22]。以上の伝承は、伊豆地方に伝わる縁起『三宅記』(鎌倉時代末期と推定[23])に記載されるものである。同書では島焼き以前に白浜を宮としたかについては記載はないが、孝安天皇(第6代)元年に三嶋神は天竺から至り、孝安天皇21年から島焼きを行なったとする。

伊古奈比・命神社の鎮座する火達山からは多くの祭器具が見つかっており、当地では古代から祭祀が行われていたものと推測される[24]。また、上記『三宅記』に見えるように、三嶋神は伊豆府中の現在地以前には白浜にあったとされており[25]、後述の天長9年(832年)記事の「神宮二院」の表現や、『延喜式』神名帳の賀茂郡における三嶋神・伊古奈比・命の登載はそれを示唆するものとされる[26]。加えて『宴曲抄』「三島詣」や『矢田部氏系図』では、天平年間(729年-749年)頃の三嶋神の国府遷祀を伝える[27]。伊古奈比・命神社社誌では、これらを総合して、三嶋神は奈良時代頃に国府近くに新宮として勧請、その後元宮は衰退して治承4年(1180年)[原 3]までには地位が逆転したとする[28][注 2]。また、元宮の地については、伊古奈比・命神社北西の神明(かみあけ)の地と推測されている[29](ただし、以上については異説もある)。


概史[編集]

平安時代[編集]

阿波命神社(東京都神津島村)
祭神の阿波・命は三嶋神の本后。対して伊古奈比・命は後后とされる。
国史での初見は天長9年(832年)の記事[原 4]で、三嶋神・伊古奈比・命神の2神が地2,000町(約2,000ヘクタール[注 3])に神宮二院・池三処を作るなど多くの神異を示したことにより、名神に預かっている[11][注 4]。同記事の3日前の記事[原 5]では、日照りの原因が「伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比・命神と同一神とする説もある[30]。

『続日本後紀』の記事[原 1]によると、承和5年(838年)7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋大社の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波・命:阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた[31]。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比・命神社を指すものとされる[32][注 4]。この記事を受けて、約一ヶ月後[原 6]には、阿波・命と物忌奈命(阿波神の御子神:物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇った[12]。

その後、伊古奈比・命は阿波・命と物忌奈命とともに、嘉祥3年(850年)[原 7]に従五位上の神階が授けられたのち、同年[原 8]には官社に列し、仁寿2年(852年)[原 9]には正五位下に昇った[11]。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、伊豆国賀茂郡に「伊古奈比・命神社 名神大」と記載され、名神大社に列している[11]。伊豆国賀茂郡には全国でも突出する密度(1郡で46座、1郷平均9.2座)の式内社が記されているが、名神大社に列したのは伊古奈比・命神社のほか、伊豆三島神社(三嶋大社)、阿波神社(阿波命神社)、物忌奈命神社の4社のみであった。

承平年間(931年-938年)頃の『和名抄』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比・命神社に基づく郷名とされる[11][33][注 5]。

以下略
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 02時43分33秒 ) パスワード

<61>から<65>を転載


東京都のお城


 東京都は武蔵と呼ばれ、古くから武蔵七党と呼ばれた武士らが主に活躍して戦乱が絶えない土地であった。南北朝時代末期、観応の擾乱の結果、高師直が死去、以後関東管領職と武蔵守護職をめぐって、両上杉氏の攻防が武蔵の地を安穏たらしめることはなかった。

 室町の時代のキーマンとなるのが太田道灌である。後の徳川家康の江戸城の土台となる旧江戸城の城主である。道灌の活躍によりほぼ均衡が保たれてきつつあったが、やがて彼も主家扇谷定正の館で謀殺されてしまう。

 その後は後北条氏が台頭し、関東制覇の偉業を達成することとなる。が、その北条の世も長くは続かず、天正十八年(1590)徳川家康の江戸入城とともに、以降は徳川の治世として江戸城の改修とともに磐石の時代を歩んでいくのであった。


 なお島嶼部は伊豆に属していた。


いよいよ本題の服部氏について:


http://www.siromegu.com/castle/tokyo/hattoriyasiki/hattoriyasiki.htm

服部屋敷跡

所在地: 八丈町樫立


歴史

画像
服部屋敷前の石垣 服部屋敷虎口


 服部家の初代は下田の出身であるが、二代目から代々八丈島の官船の内、小舟方(こぶねがた)のお舟預かりを勤めて莫大な資産を築いた。


しかし、船方さんの一生を図で示すが如く、その歴史は波乱に富み、悲劇的な色彩を帯びて、豪勢を誇った家屋敷も、今では此処が毎日観光客に郷土芸能を披露する名所となっている。


 屋敷入口の石垣は、流人近藤富蔵が築城形式に依って築いたものである。

             『服部屋敷跡案内板』より


ブログ主:

ここは城なのか?という話は今更なのでさておき(笑)、幕府御用船を管理していた服部氏の屋敷跡です。

比高10メートルほどの高地にあり、石垣がまさに城跡らしい雰囲気を出していますね。

正面の入口は喰い違い虎口状となっており、期待感をあおります。


 しかし、敷地内に入ると完全に拍子抜けでした。商売をしていたのであろう建物の状態を見ますと、すでに廃墟となってしまったのでしょうか?案内板にあるように「樫立踊り」や「八丈太鼓」などの郷土芸能を見せる名所であった面影はなさそうですね。

屋敷跡には大ソテツが所狭しと茂っているだけでした。
以上




[62] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 13時07分01秒 ) パスワード


http://www.siromegu.com/castle/tokyo/ookubojinya/ookubojinya.htm


大久保長安陣屋跡
所在地: 八王子市小門町、産千代稲荷神社


画像
住宅街の中に建つ神社には大きな陣屋の碑が  

歴史

天正十八年(1590)豊臣秀吉から関東移封を命じられた徳川家康は江戸城に入城した。

領国経営が急務となった家康は、武田家に仕えていた大久保長安に八王子一円を統治させ、甲斐との国境固めをさせた。

長安はその期待に答え、民政の手腕を大いに発揮した。

しかし慶長十八年(1613)に長安が没した後、大久保忠隣と本多正信との争いから罪を問われることとなってしまい、長安の遺子は死罪となった。


大久保氏の後に陣屋には近山氏が入ったがやがて江戸へとその中心を移すようになると次第に八王子の陣屋はその姿を消すようになっていった。


            『日本城郭体系5』新人物往来社刊参照


ブログ主

大久保長安陣屋は、八王子駅から西八王子駅へと線路脇を進んでいく途中にある神社が建っているところでした。

大きな石碑が建てられており「大久保石見守長安陣屋」とあるので非常に分かりやすいです(笑)。

それにしても八王子駅からの繁華街の風景が一気に閑静な住宅街へと移り変わっていくあまりにも大きいギャップには驚きでした。

当時の八王子はどんな様子だったのか長安に聞いてみたい、そんな朝駆けの1シーンでした。
以上






[63] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 13時36分39秒 ) パスワード


続家紋でたどるあなたの家系
edited by 千鹿野茂

http://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA3-PA33&lpg=RA3-PA33&dq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E4%B8%8B%E7%94%B0%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=LXf0SoHfNf&sig=6TqZLRO74qXFWymOWktK9TdiqWE&hl=en&sa=X&ved=0CDEQ6AEwA2oVChMInLjww5iqxwIVwaSICh3K7gsE#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E4%B8%8B%E7%94%B0%E3%80%80%E3%81%AF&f=false




柏紋が今日は読めるのが不思議です。
やはりお盆でご先祖さまが読めるようにしてくださったのかしら?


P72からが柏紋です。  
P75に服部氏   これは桓武平氏系で寛政譜 20   これは既出の医者の服部氏でしょうか?



P82下の段の3行目に柏紋の服部の名が「蜂須賀家の吉田氏の項にまとめて」出てますよ。
多分 丸に抱き柏紋の項 and/or  定紋が丸に三つ柏紋か  ハッキリしませんが。


P84には丸に鬼三つ柏紋で馬宮氏のところに「市野」の名があります。





[64] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 14時00分52秒 ) パスワード


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%94%B0%E5%B8%82


下田市
伊豆半島南部に位置する都市。明治以前は旧伊豆国賀茂郡。     賀茂郡?!


1683年:6代目下田奉行、服部久右衛門、井戸水に切り替え、水道木管を辻の木戸とする。


服部久右衛門
どうやら  伊賀の呉服明神の神主だった貞信の子孫のようですね。


後世の人物
服部 貞勝(はっとり さだかつ、宝暦11年(1761年[1]) - 文政7年5月22日(1824年6月18日))は、江戸時代後期の旗本。松前奉行、勘定奉行などを務めた。服部貞徳の長男。母は酒井忠香の養女。通称は久太郎、頼母、久右衛門。官位は従五位下備後守、のちに伊賀守。室は戸田氏朋の娘。子女に服部貞陽ら。

ゴローニン事件を解決した人。



http://www.shimonoseki-library.jp/nenpyou/_SWF_Window.html?pagecode=56
下関市年表
1681年7月24日に服部久右衛門の名がある





http://familysearch.org/eng/library/fhlcatalog/supermainframeset.asp?display=titledetails&titleno=1198058&disp=%5B+%26%23x8429%3B%26%23x85e9%3B+%26%23x


[ 萩藩 遠近付 服部久右衛門家譜録 ]    藤原氏ですって。笑



Format:

Manuscript/Manuscript on Film



Language:

Japanese



Publication:

ユタ州ソルトレーク市:ユタ系図協会撮影, 1975



Physical:

マイクロフィルム 1 リール ; 35 mm.
Add to Print List

Notes

原図書: 写本、明和 3 [ 1766 ]。1 冊。

所蔵者: 山口県文書館。

毛利家記録課: 譜録、は - 33。

要約: 藤原姓。服部傳右衛門智次男忠智 - 忠誠 - 久右衛門(1700 年代後半の人)三代の服部家略系幷傳書を収録。





http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002686_20040929054827652.pdf

これは見られないです。
[PDF]駿河記 - 静岡県立中央図書館

化政文化とよびますが、このころ地誌編さんが全. 国各地で盛んになります。駿河にあっても時の. 駿府奉行服部久右衛門貞勝が ...






[65] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 14時06分23秒 ) パスワード


文字化けで読めません:

マイナー武将列伝・佐久間 盛次 - Biglobe



www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/.../oda_051.htm



Translate this page久六郎。久右衛門尉。大学助。 『旧参謀本部日本の歴史 桶狭間・姉川の役』に佐久間盛重の子 ...
共に佐久間氏の城とも、それぞれが佐久間氏、服部氏の城とも伝わる。   

                              どこでしょう?


           感触としては御器所城か?

           御器所は平清盛が父から相続した場所の1つで
           秀吉の母の出身地


           御器所に服部氏、いましたよね。その人の城か?
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 02時45分43秒 ) パスワード

<71>から<75>の転載


自分なりに大草太郎左衛門を調べていたら  中之条代官 蓑笠之助 に至りました。   ビックリ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B9%8B%E6%9D%A1%E9%99%A3%E5%B1%8B


中之条代官
15 蓑笠之助 天保3年(1832年) 〜 天保5年(1834年)   ←  蓑笠之助 = 服部正尚 とインプットされてましたからビックリ

            結論は服部正尚の子孫で
            大久保長安事件に連座して・・・
            というのを下の方にコピペしました。

            「源姓」にしてます。これまたビックリ
                後醍醐源氏ということなのか?謎


中之条陣屋(なかのじょうじんや)は長野県坂城町にあった天領代官所(代官陣屋)のひとつ。建物は現存しない。前身は坂木陣屋(さかきじんや)。

元和8年(1622年):松代藩主酒井忠勝の転封により天領となり、坂木に陣屋を置く。
寛永元年(1624年):越後高田藩領となる。
天和元年(1681年):松平光長改易に伴い、松代藩預かりとなる。
天和2年(1682年):坂木藩立藩。
元禄15年(1702年):坂木藩廃藩により、再び天領となる。
宝暦9年(1759年):坂木陣屋廃止。中野陣屋他の出張陣屋となる。
明和4年(1767年):坂木陣屋が火災で焼失。
安永7年(1778年):中之条に陣屋を置く。


http://shinshu.fm/MHz/90.97/archives/0000311682.html

画像の灯篭には「蓑笠之助 源正路」と陰刻されています。

「みのかさのすけ」、「♪天気も良いのに みのかさ つけて・・・」
山田の案山子の名前ではありません。
この灯篭は天保2年から4年間、ここ御影陣屋の代官だった蓑笠之助が、この地を去る際に寄進したものです。


さらに調べました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E6%AD%A3%E9%AB%98

蓑 正高(みの まさたか、貞享4年(1687年) - 明和8年8月7日(1771年9月15日))

江戸時代の猿楽師。
後に抜擢され江戸幕府の幕臣となり、関東の農政に携わる。
通称は庄次郎。
妻は田中休愚(田中喜古)の娘。

天正の頃より蓑家の者は「蓑笠之助」を名乗っていた[1]。


蓑笠之助[編集]

蓑家の祖先は、元は徳川家康の天正の伊賀越えを助けた服部氏で、
その時の働きを賞されて「蓑 笠之助」の名を授かったと家伝にある[1]。

伊賀者であった服部正尚が家康を自分の蓑や笠で変装させ無事帰国させたという[2]。

しかし、慶長18年(1613年)、4代目・笠之助正長の時、大久保長安の罪に連座させられ、一時士籍から離れる[18]。

赦免後は大和猿楽四座の宝生座に入れられて無役となり、
名は「蓑」を「巳野」と改め、「笠之助」は使わず謹慎の意を表した[2]。

以後は猿楽師となり、3代目[19]の正高の代までそれが続く[1]。

正高が幕臣となった際に「巳野」を「蓑」に戻す[1]。


脚注]
1. 『新訂 寛政重修諸家譜』第十八 379頁   ネットでは出なかったです。残念!




また 「大草家のおしゃべり掲示板」 によりますと小日向服部坂(服部貞信の子孫の住んでた)近くに大草氏が住んでたようです。

http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=okusa3&dd=17&p=7

    May 9, 2013 - 10 posts - ‎2 authors
    例の大草兼利は兼時の3代後に位置づけられており、大草氏・益田氏(藤原 ....
    特に小日向服部坂に江戸時代に旗本大草氏が在住していたことをご存じで ...

    しかしこの記事は削除されたのか見つかりませんでした。



お盆ですね。
皆さんが出て来てくださったのでしょうか?






[74] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月16日 13時33分54秒 ) パスワード


蓑笠之助のコピペ   続き


脚注[編集]
1.^ a b c d e f g h i 『新訂 寛政重修諸家譜』第十八 379頁           ココ
2.^ a b c d e f g 富士山噴火災害文献調査報告書東京大学社会情報研究所廣井研究室、2003/11/14
3.^ 関東の新田開発や治水などの農政を掌る役職。

4.^ a b c 『撰要類集』。
5.^ 大岡越前守と武蔵野新田の開発真下祥幸、江戸東京博物館友の会会報『えど友』第84号 平成27年3月

6.^ 田中休愚は享保15年(1730年)に病没。
7.^ 翌年の暮から5年間で返済するという条件での拝借となっている。
8.^ 普請工事の終了後、東岸は小田原藩領となったが、治水が不十分なため流域の住民たちが支配替えを願い、享保17年4月に東岸地域も幕府領となった。

9.^ 困窮民に扶持米を支給するための普請事業。
10.^ 小松郁夫「酒匂川治水の地方巧者蓑笠之助と大岡越前守」、中根賢「町奉行大岡忠相の小田原領支配―享保十〜十七年の酒匂川治水を中心に―」、同「町奉行大岡忠相の地方御用とその特質―享保十七〜延享五年の酒匂川治水を中心に―」、『開成町史・通史編』、『神奈川県史・通史編3・近世2』。
                                   ココも



11.^ 追加された支配地は小宮領・三田領・府中三町・玉川通・新座郡・入間郡の土地の中から割り当てられた。
12.^ 『徳川実紀』。

13.^ 正高とともに酒匂川普請を行った伊沢為永の子。

                         佐屋ってことは服部家ホンヤさんの家も絡むのかも
14.^ 『蓑笠之助家系由緒之事』(佐屋町史編集委員会編集『佐屋町史』史料編二、愛知県佐屋町史編纂委員会発行、1980年)


15.^ a b c 『大岡越前守忠相日記』(大岡家文書刊行会編)。
16.^ 正高とこの時ともに御目見えをした田中善乗は、まだ御家人身分だったため、対面形式の謁見ではなく、将軍が奥へ入御する際に白書院勝手に平伏したままの通御(つうぎょ)の御目見えであった。

17.^ 『新編相模国風土記稿』第5巻。
                                ココからも
18.^ 『蓑笠之助家系由緒之事』311頁。
19.^ 猿楽師・蓑笠之助の3代目。

参考文献[編集]
『大岡越前守忠相』 大石慎三郎著 岩波新書
『大岡忠相』 大石学著 吉川弘文館 ISBN 4-642-05238-0
『吉宗と享保の改革』 大石学著 東京堂出版 ISBN 4-490-20427-2
『享保改革の地域政策』 大石学著 吉川弘文館 ISBN 4-642-03329-7
『代官の日常生活 江戸の中間管理職』 西沢淳男著 講談社選書メチエ ISBN 4-06-258314-3
『綱吉と吉宗』 深井雅海著 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-06431-6
『神奈川県の歴史』 山川出版社 ISBN 4-634-32140-8
『新訂 寛政重修諸家譜』第十八 株式会社続群書類従完成会





[75] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月16日 13時34分33秒 ) パスワード


書き直し


Title 寛政重修諸家譜
Author 堀田正敦      
Publisher 榮進舍出版部, 1917
Original from Keio University
Digitized Aug 4, 2009
Length 1062 pages


この著者は佐倉家がらみの方かしら?

千葉の佐倉家から  ホンヤさんのお話では、  ごく最近は尾張徳川家に養子に入ってます


ホンヤさん宅に挨拶に来た時に  尾張徳川家は1代おきに養子を迎える  とお話しになって行ったそうです。
例え3代目に男子が生まれても。



寛政重修諸家譜 18 蓑笠之助


Page 60
天和二年十二月十八日家を糠・三年闇五月二十一日御小性組の番士となり、元祓九年
十二月二十二日としごろcc精勤を賞せられて黄金二枚を賜ふ。十四年八月六日常番の
日 ... 年三・几八日西城に復す。妻は蓑笠三助正寅が女、後妻は杉 m 藤藏武明が女。






三つ巴

堀田氏(ほったし)は、日本の氏族。      下の方で「秦氏」も絡んでます。笑



出自[編集]   堀田さんは南朝方です。ワタクシ的には尾張中島郡堀田村出身に決まってるでしょ、です。笑

堀田氏は、尾張中島郡堀田村に興った土豪としている本も多いが、近畿地方にも室町時代以前に遡れる堀田氏が多いことから、疑問視されている。

家紋学や地理的見地からすれば、堀田氏は祇園八坂神社社家(紀姓堀田氏)の流れ、つまり八坂氏と見るべきである。京に残った系統と同社家分流の尾張国津島神社社家の二つの流れがあり、後者の系譜が尾張系である。この尾張系は、八坂氏直系の子孫たる祇園執行・八坂(堀田)俊全の子である、尾張津島天王祠官・堀田俊重の系統である。その津島神社に残る神官の堀田氏系図こそが、本来の彼らの出自を示していると思われる。

前述の土豪の一族も津島神社系堀田氏の分家である可能性が高い。

                 ですよ!
                 どっちにしろ津島神社がらみですよ、南朝方なんだから。


八坂神社と津島神社は同じ牛頭天王社であることから八坂神社社家から津島神社社家が生まれたのは自然である。そのため、堀田家の家紋は、八坂神社の紋である三つ巴か木瓜[1](津島神社の紋は八坂神社由来の木瓜 [2][3])のいずれかである場合が殆どである。木瓜紋は、堀田木瓜や織田木瓜などに派生しており、織田氏はその氏神を祀る津島神社の木瓜をそのまま使い、尾張系の堀田氏は堀田木瓜を使う場合が多い。京の系統は三つ巴の方が多いが、堀田氏の大半は尾張系であり、堀田木瓜を使う場合が多い。

この津島神社社家に由来する堀田氏のうち、南北朝期に活動した堀田正泰の子孫の一部が武士化して津島を基盤に発展。仕えた織田氏、豊臣氏の全国制覇とともに歴史の表舞台に登場していった。これが近世大名の堀田氏である。家紋は堀田木瓜である。また、津島神社社家を代々務めた堀田氏は「右馬太夫家」といわれ、武士化した一族とは別に津島で発展した。また、この系統から派生した「番頭太夫家」は近世に商家として発展した。

堀田正泰系の堀田氏は「寛政重修諸家譜」において自らの出自を紀長谷雄の子孫とし、浦上氏・安富氏の本家筋にあたるとしている。但し、これは室町時代に武家の名門として中央で活躍し、同じ紀姓を名乗っていた両家の威光を利用し自らの出自を粉飾したものであるという説もある。この系譜は確かに疑わしいものの、前述のように堀田氏の祖を八坂神社の社家に求めるならば、紀長谷雄の血が入っている可能性は高い。紀長谷雄の曾孫忠方の娘の血が八坂神社・津島神社の社家に入っているからである。[4][5]


                      以下に「秦氏」がらみのお話

なお、八坂氏の流れが堀田氏を名乗った理由であるが、八坂神社は秦氏の祇園信仰を推進するために建立されたとする説もあり、音の類似からも、秦氏と何らかの深い関係があったと考えられている。八坂神社と秦氏の関連性には荒唐無稽な説も存在するが、客観的見地からしても強い関連性がある。平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)は、都が平安京に移って早々広峰神社から勧請されたものであり、祭神の牛頭天王(素戔嗚尊)が分祠されたとされている(つまり、広峰神社は祇園社の元宮)。[6]広峰の地である播州平野はもともと秦氏が開いた野であり、すなわち本貫地であり、広峰の祭神は秦氏が祀っていた韓神(からかみ)である。その韓神の日本における神名が素戔嗚尊(及び同一視される牛頭天王)になっている。当然、広峰神社の紋は八坂神社や津島神社と同じ木瓜紋である。また、八坂神社のもう一つの紋である三つ巴は、同じく秦氏と関連性の強い八幡神社と同じ紋である。そもそも八坂神社の方でも、八坂氏は同族の他の系統と区別するために八坂と名乗っていたが、それは氏でなく家の名前であって、実際は一族としては秦と名乗っていた可能性がある(藤原氏の中で家名が多くあったのと同じ)。


戦国時代[編集]

江戸時代以前においては、斎藤氏、ついで織田氏、豊臣氏に仕えた堀田盛重が著名である。もともと豊臣恩顧の一族であったが、堀田氏のうち堀田正吉が関ヶ原の戦い以後に徳川氏に仕えたといわれる。



江戸時代[編集]      春日局との関係

正吉の子の堀田正盛は母が稲葉正成の先妻との間の子であった縁で、正成の後妻・春日局の支援をうけ、3代将軍徳川家光に近侍し重用された。若年寄・老中も歴任し、寛永19年(1642年)、下総佐倉藩11万石の大名になった。跡を嗣いだ正盛の長男・堀田正信は不祥事から佐倉藩を改易されてしまう(松平信綱と対立したためとも、佐倉惣五郎事件の責任を問われたとも言われるが詳細不明)。しかし正盛の功績により正信の長男・正休はお家再興を許され、この系統は上野吉井藩、後に近江宮川藩主となった。

正盛の3男の堀田正俊は春日局の養子となり、5代将軍徳川綱吉の時代に大老まで上り詰め、その子孫も譜代大名として幕府の要職を占めて佐倉藩に戻ったため、こちらの系統が本家と見なされるようになった。幕末の老中堀田正睦は諸外国の交渉に奔走、息子で最後の佐倉藩主堀田正倫は譜代大名大藩であったこともあり、江戸幕府を擁護して改易の危機にたたされたが、家臣の奔走により免れることができた。そして明治維新を迎えた。


明治時代以降[編集]

明治17年(1884年)、最後の宮川藩主であった堀田正養は子爵に、佐倉藩主であった正倫は伯爵となり華族に列した。しかし正倫は後継者となる男子に恵まれなかったため鍋島直柔の息子・正恒を婿養子として迎えた。その後の昭和2年(1927年)の大恐慌は堀田家をも襲い、財産を失って貧窮の極みであったという。

このことが後に政商・小佐野賢治が正恒の娘・英子を妻とするきっかけにもなったといわれる。

                 ロッキード事件のね。             


戦後、正恒の長男・堀田正久は昭和34年(1959年)に佐倉市長に当選、昭和50年(1975年)まで4期に亘って務め、佐倉市の開発に貢献、彦根市長となった井伊直愛とともに「殿様市長」といわれた。

また、福島正則に仕え尾張に残った一族は、後に津島に帰郷し、更に酒造業を営んで財をなした。その邸宅は「堀田家住宅」として国の重要文化財に指定されている。その他、正則に仕えて安芸に赴き、正則の改易時も同地に残った堀田家もある。同家は、福島の重臣小河安良(若狭守)の遺骨を同地の本照寺[7]に埋葬し、長年同寺総代を務めていた。明治期に武道具商に転身し、原爆投下時まで同業を営んでいた。

京都系では、元検察官の堀田力等が有名。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月27日 10時06分11秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101487_46.html  レス<46>からの重複コピペ


戦国時代の望月氏(静岡に結構逃れて来ているそうです)


天目山の戦いで武田軍が織田軍に敗れ、多くの武将は織田信長によって誅殺されたが、
印月斎(信雅)や望月権兵衛など難を免れた者達は、富士川流域の山間(現在の山梨県南部(南部町や身延町、早川町)から、静岡県富士市や静岡市北西部からあたり)に身を隠し移り住んだ。

現在でも子孫の多くがこの地域に住んでおり、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身である。


印月斎引退後、跡目は望月昌頼が継ぐことになったが、一族の出身かは不明(同名の盛時の兄とは年代的に別の人物と思われる)。

昌頼は後北条氏の傘下に入るが、

                    この依田信蕃は蘆田信蕃ですよ。後述します
                       ↓

天正10年(1582年)9月、徳川軍の依田信蕃一か月に及ぶ攻城戦の末に望月城は落城し、

望月昌頼は十八歳の若さで自刃し、望月氏嫡流は絶えたと言われている。




依田信蕃 = 蘆田信蕃

旗本の服部左衛門の家が仕えていました。

   服部正吉  和泉守   蘆田に仕えた
   
   その子正長 七左衛門  蘆田に仕え、家康に仕え、本田正信・正純父子に仕え、のち駿河大納言忠長に仕える


       菩提寺は吉良家と同じ市ヶ谷の万昌院で、また、服部康信の家と同じ
           おそらく今川時代のよしみ?





   正長の長男系の孫が出世頭の正久で御蔵奉行になったり天草の代官になっていたようです。
       この人の弟がバカで喧嘩して切腹になった人


      この家の家紋は源氏車の内両矢筈2本、向ひ蝶、かたばみ(鳩酸草)紋
   


   正長の次男・長次も駿河大納言忠長卿に仕え不運に。

   さらに長次の子(三男)が綱吉に仕え徳松殿に仕えたものの夭逝。

   でもずっと後に子孫が田安家の近習になっています。

      この家の家紋は源氏車の内両矢筈2本、九曜。

      菩提寺は万昌院。



この服部家は「塞翁が馬」ですね。
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