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 投稿番号:101441 投稿日:2015年04月30日 18時42分53秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について23

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様の温かいご教示のお陰で、順調に調査は進んでいます(^・^)
本当にありがとうございます。
今後とも、どうかよろしくお願いいたします。

こちらは「平川家について22」コメント80より続きます。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101413_79.html

[1]白石さんからのコメント(2015年04月30日 23時02分04秒 ) パスワード

22の83より
常盤
世界帝王辞典より
中山家(羽林家)
中山忠親にはじまり 明治天皇ご生母をうむ・松浦氏女子の夫になる忠能につながっている。もちろん 途中 養子関係などがあったかもしれないが・・・

その先は花山院家で
家忠の父は師実で祖父は頼通。
祖先の頼通は父・道長 妻:藤原祇子(父:藤原種成)

師実の同母兄弟・俊綱は橘氏へ

子孫様
私は 出てきた言葉から 過去に見た話を書きましたが
子孫様の調査力で 球磨の家に出る 苗字が ここらに つながっていったら いいですね。

前から 藤原が 出ていたので きっと つながると 思います。
特に 花山院家は 飛鳥井家と かかわっていたようでしたね。
しょう
この頃 日本の苗字7000傑の 多氏から多稲目の4世孫・草かんむりに大将の将と座敷の敷を書く人の妹が 百済豊しょう(しょうは王へんに章)と結婚していることを知りました。
過去には 本で稲目を見たことがあり これは 蘇我稲目だろうか?とか 思いましたが、まだ 私は わかりません。

太田亮氏は 蘇我氏(曽我氏か?)が葛城に住んでいたと主張していると書いていました。

蒋敷(しょうふ)とよむのでしょうか?の子孫が 太安万侶ですね。

豊璋が中臣鎌足になったと 書いているブログなど 見たりすることがありますし、
中臣鎌足=中臣鎌子=黒田鎌子=藤原鎌足

鎌足は天智天皇(中大兄皇子)の頃の人で この天皇は 百済の救援に向かい その頃 百済の任那府が滅んだのですよね。

日本の苗字7000傑中山氏のページに 何の家紋でしょうか? 三階菱に三の字みたいに思えるのですが、小笠原氏の紋にも三の字が抜けているのがあって 後醍醐天皇から王の字をいただき はばかった?
三 って?



 





[2]子孫よりさんからのコメント(2015年05月01日 12時09分09秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

まず・・
白石様がご存じの「高田家」「岩崎家」のお話がありましたが、以前からお話しているように実家近くの庚申塔(1655年建立)にも同じ姓の方がありました。
実家近く「宮麓」(侍村近く)の庚申塔には28名の名前があり、姓は
「宮原」「椎葉」「平川」「桑原」「蓑毛」「淵田」「石川」「上田」「原」「奈良木」「高田」「有馬」「吉牟田」「溝口」
14の姓ですが、それぞれの姓に複数の方の「名」があります。

少し離れた所にある庚申塔(1655年建立)には27名姓は
「淵田」「蓑毛」「新堀」「奈良木」「宮原」「蓑田」「恒松」「西」「岩崎」「須江」「桑原」「梓原」
12の姓ですが、こちらも、それぞれの姓に複数の方の「名」があります。
「宮原」「椎葉」「平川」「桑原」「蓑毛」「淵田」「石川」「新堀」「恒松」は、私が知っている親戚にあたるので、父に聞くと
「おそらく、当時、其々の家は親戚関係にあった可能性は地域的に言うとあるかもね。」
私が「じゃあ、他の地域の庚申塔に書かれている「姓」と同じ家は??(?_?)」と聞くと
「お前よ〜く考えなさい!当時の球磨は住民の3分の一は『郷氏』なんやろ!極めて珍しい藩だと教えていただいてるじゃナカカ!同じ姓(同族)が他の地域にあるのは当たり前タイ。当時からの「名字」だったら、可能性はあっタイ。バッテン『同姓』でも別の系もあるけどね」と・・(そうか〜(p_-)となりました・・)

白石様のお知り合いの「島津家」のお話がありましたが・・
家の「堅い絆で結ばれた同族?」の系と関係のある島津家とは・・
高祖母に関係していまして、何でも島津の家老家?に関係するとの事で、良くは解らないのですが、漢字で言うと「吉家」とか「四家」とか??(親戚にある古文書にあるのですが文字がかすれて読み辛くて何と読むのか?と・・)
でも「吉家」?「四家」?という姓?なのか・・?(西郷隆盛にもご縁がある方です)
ある程度は解っているのですが(いきさつ)、コメントして良いかは家の「一族?」の方に聞いてみます。

所で「蘇我氏」のお話もありましたが・・
実は、先日「蘇我氏」について父と話をしていました・・
学校で教わった内容から、私は子供の頃「中臣鎌足」と「蘇我氏」をイメージ的に(子供なので仕方ないですが)何だか「善」と「悪」のように感じていたと父に話した所、すごく父が怒りまして・・
「当時の学校の教育がイカン!もっと、勉強すべきダッ!」と・・
「お前の考えは藤原不比等の思うつぼだっ!そんな事をお前が言っていたらご先祖様が泣きなるゾッ!」
思い起こせば、子供の頃同じ事を言って父は怒っていたような・・・?

でっ・・蘇我氏が当時、政治的にどのような事を行っていたのか色々話しを聞きまして、「イメージの改善」が行われ?ました・・(..)(?_?)
何でご先祖様が悲しくなられるのか?はよく解らなかったのですが・・「蘇我氏」と「物部氏」は対立していたような事を学校で勉強したような・・(?_?)

そこで、自分なりにそもそも「蘇我氏」とは?と勉強したのですが・・
(ええええええええええええええっ!!そこから〜!!との声が・・(..))

そして、「蘇我 馬子」の記述をウィキで見て一つ解ったのですが(本を読みなさい!!と父から叱られそうですが・・とりあえず(..))

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E9%A6%AC%E5%AD%90
蘇我 馬子(そが の うまこ)[注釈 1]は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。
敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に亘り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築く。

系譜[編集]
生年は不詳であるが、名前の「馬子」は午年生まれであることに因む可能性もあり、『公卿補任』に「在官五十五年」とあることから、550年の庚午年前後であろうと推定する人もいる。
父は蘇我稲目。 姉に蘇我堅塩媛(欽明天皇妃)、『日本書紀』では妹に蘇我小姉君(欽明天皇妃。なお『古事記』では「小兄比売」は堅塩媛のおばとされる)。
妻は『日本書紀』では物部弓削大連(物部守屋)の妹、『紀氏家牒』・『石上振神宮略抄』神主布留宿禰系譜料では物部守屋妹の「太媛」、『先代旧事本紀』天孫本紀では物部鎌足姫大刀自(父は物部守屋の異母弟石上贄古大連、母は物部守屋同母妹の布都姫)とある。
子に蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷。蘇我入鹿、蘇我倉山田石川麻呂は孫。 また、娘に河上娘(崇峻天皇妃)、法提郎女(田村皇子妃)、刀自古郎女(聖徳太子妃)など、外戚となって権力をふるった。

(?_?)あんにゃっ??
妻は・・
『日本書紀』では物部弓削大連(物部守屋)の妹
『紀氏家牒』・『石上振神宮略抄』神主布留宿禰系譜料では物部守屋妹の「太媛」
『先代旧事本紀』天孫本紀では物部鎌足姫大刀自(父は物部守屋の異母弟石上贄古大連、母は物部守屋同母妹の布都姫)

(?_?)あんにゃっ??????
知らなかった・・蘇我氏と物部氏は姻戚関係にあったのですね・・

父からイメージ改善をしてもらったお陰であぶなく藤原不比等のおもうつぼにハマる所を救出?されました・・(..)

所で・・「平川家について22」コメント80からの続きを調べていたのですが、「足利家」にも関係しているような・・

整理して、コメントしたいと思います。
では(..)(^・^)
[3]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月01日 13時49分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

白石さんへ
 
>多氏から多稲目
 
稲目は誤植、稲見が正しい。
 
>蒋敷
 
「こもしき」と読む。
 
>豊璋が中臣鎌足になったと 書いているブログなど 見たりすることがありますし、
 
同様なヨタ話は多いが天孫降臨そのものがお伽話で、中臣・忌部・猿女・作鏡・玉祖・大伴・久米の七氏族の祖は、いずれも天御中主尊を遠祖とする三韓連合王国の馬韓(高天原)系の天神族なのである。
天照大神の天の岩屋隠れも西暦247(10月02日)か、西暦248(09月05日)の日食しか科学的に信用できないのだから?
瓊瓊杵尊の曾孫神日本磐余彦尊の代になり、ようやく準備が整い東征の民族大移動で統一新国家を建国する。
日本書記、古事記も神話部分を看破して熟読すれば、事実が垣間見えるでしょう。
解れば、迷彩工作した太安万侶も墓場で苦笑いと思いますよ。
 
>中山氏のページに 何の家紋でしょうか? 三階菱に三の字
 
徳川旗本の中山氏の家紋は、松皮菱に三文字が正しい呼称。
[4]白石さんからのコメント(2015年05月02日 18時46分01秒 ) パスワード

こんばんは
7000傑様ありがとうございます。
こもしき 稲見ですね。

幕府旗本の中山氏の松皮菱に三文字ですね。


[5]白石さんからのコメント(2015年05月02日 20時33分50秒 ) パスワード

図書館に行って 馬のあたりを見てきました。
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過去に 馬氏のミイラ?を 本で見たことがありますが、印象は 阿修羅みたい と 思ったことを 覚えています。ほほ骨が出ていて全体に 五角形の顔でした。
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沖縄の馬氏
琉球王室と姻戚関係があり 五か大姓のひとつ。
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馬韓
馬韓→百済
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カタカナだけど バガンからは ビルマ・タラインなどの言葉があり 過去に鹿島氏の本で見たとき タライン(一大製鉄基地)は出ていました。
ーーーーーーーーーーーーーー
ネットから
ビルマ族
祖は ヒマラヤ山脈以北に住んでいた「氐族」。
これは 前に 出雲の人で 祖先ははるか昔インドから来たドラビダ族の子孫という人(向氏)と祖先が同じ。この家にはパピルスに書かれた文書もあるという。
そして シュメールにも関係していく。
ーーーーーーーーーーー
バガンには ナガ族もいるが
インドのナーガ族ですが、ナーガ族の研究の権威、C・F・オールドハムは、

古代インドの聖典【リグ・ヴェーダ】に出てくる蛇やアスラ、【マハーバーラタ】のナーガ族は

同じもので、アーリア人の侵入に抵抗した先住民族であるとしています。

ナーガ族は、インダス文明を築き、ナーガ(蛇神)を祀って、カンボジアのアンコール・ワットの

遺跡に見られる七頭の蛇も彼ら【ナガ】のことであるといいます。

ナーガ族は、宇宙創造の七つの原理を七頭の蛇に置き換えて信仰し、この宇宙創造の七つの・・・

原理は後に【聖書】の七日間で天地が創造されたという記述になっていきます。

インド文明を支えていた人々はドラヴィダ民族と想定されていますが、【アスラ族】は、その貴族階級

にあたるもので、【アスラ】は、その紋章としてナーガ(蛇)を選び、それ故にナーガ族とも呼ばれて

いました。アスラ族とナーガ族は蛇を信仰し・・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[6]白石さんからのコメント(2015年05月02日 21時08分48秒 ) パスワード

昴とキジャ朝鮮
キジャの星は昴だと 鹿島氏は書いていた。
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五代十国の楚
王家は 馬氏。
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春秋時代の楚
黄帝の筋の 高陽氏の系

高陽氏の方の女子・蒙女と阿育王の子孫が 東アジアのいろいろな国の王になったと
鹿島氏は書く。
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羋(び)姓熊氏
これは 春秋時代の楚の王家の姓
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宣太后(?〜前265)
  羋氏。秦の恵文王(駟)の妃。楚の人。恵文王の宮に入り、八子となった。昭襄王(稷)・・陽君(悝)・高陵君(顕)を産んだ。昭襄王が立つと、太后の異父弟の魏冉を相とし、同父弟の羋戎を華陽君に封じた。太后が若年の昭襄王に代わって秦の朝政を決裁した。前266年、范雎が昭襄王に進言して、太后は廃され、魏冉は相国の任を解かれ、華陽君・・陽君・高陵君も領地に帰された。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
恵文王は 高岡(高丘)の 祖先で
昭襄王は 始皇帝(政)の曾祖父。
ーーーーーーーーーーーーー
島津は 始皇帝子孫を 言っているんですよね。
 
[7]子孫よりさんからのコメント(2015年05月02日 23時00分34秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

〉日本書記、古事記も神話部分を看破して熟読すれば、事実が垣間見えるでしょう。

と伺い、早速、父の書棚を見たのですが、私にはマダマダ難しそうな本ばかりで・・その中で「これなら読めそう(^・^)」という本からトライしたのですが・・

ページを開いてすぐに「あんれっ??」という事が・・
「古事記の神々に由来する神社」という地図が載っていたのですが、その中に「地主神社」という記述が・・
「地主神社」は私の住む宮麓にも以前ありました。今は岡原霧島神社に合祀されています。
球磨郡誌 コマ番号299に書かれています
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

私、以前、こちらのページを見た時に、単純に「地主」さんの神社?かな?くらいにしか考えていませんでした。

地主神社(じしゅじんじゃ) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%BB%E7%A5%9E%E7%A4%BE
地主神社(じしゅじんじゃ)
神社や寺院が建立される際に、その土地の地主神を祀るために建立された神社。神社の境内に末社として建てられている場合や、寺院に隣接して立地している場合がある。寺院に隣接している地主神社は、本来は隣接する寺院の一部(鎮守社)であったのが、明治の神仏分離で独立した経緯のあるものがほとんどである。なお、この場合は「じぬしじんじゃ」と読む所もある。
京都府京都市東山区にある神社。清水寺に隣接する。全国に数ある地主神社の中でも特に著名。本項ではこの地主神社について述べる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%BB%E7%A5%9E
地主神(じぬしのかみ、ぢぬしのかみ)は、日本の宗教(特に神道)における神の一類型である。「とこぬしのかみ」「じぬしがみ(ぢぬしがみ)」「じしゅのかみ(ぢしゅのかみ)」とも読まれる。
日本の神道などでは、土地ごとにそれぞれの地主神がいる、とされている。その土地を守護する神であるとされているのである。土地は神の姿の現れであり、どんな土地にも地主神がいる、とする説もある[1]。神社や寺院に祀られることが多く、その地主神は、その神社、寺院が建っている地域の地主神である。
古くは『古語拾遺』にあり、大地主神(おおとこぬしのかみ)が田を営むとある[2][3][4]。『延喜式』では、神祗五(神祗編第五巻)二十二条にて斎宮祈年祭に関して地主神の記述がある[3]ほか、同巻六十条にて記述がある[5]。
地主神への信仰の在り方は多様であり、荒神、田の神、客人神、屋敷神の性質がある地主神もいる。一族の祖先が地主神として信仰の対象になることもある。地主神を祀る(まつる)旧家からの分家に分祀されたり、屋敷の新設に伴い分祀されることもある。[3] 御神体も多様で、自然石、石塔、祠(ほこら)、新しい藁束、御幣(ごへい)などがある[3]。祀る場所もまた多様で、神社、寺院のほか、丘や林の祠(ほこら)、屋敷、屋敷の裏山で祀り、一族の墓が神格化する地域もある[3]。
地主神として祀られた例[編集]
新しい土地の開発に際し、その土地古来の神に許可を得るためや、封じ込めるために、地主神は祀られた[3]。中世には、神社、寺院の建立の際、その土地古来の神を地主神としたり、鎮守社を新設して地主神とすることもあった[4]。

(^・^)故郷についてマダマダ勉強する事が沢山ありそうです・・
・・今気がついたのですが、菅原神社が外園に鎮座されていたと・・
旧小字「外園」は、私の家付近なのですが・・????

白石様
「ナーガ族は、インダス文明を築き、ナーガ(蛇神)を祀って、カンボジアのアンコール・ワットの遺跡に見られる七頭の蛇も彼ら【ナガ】のことであるといいます。」

カンボジア・・クメール・・ナーガ(蛇神)・・・・

「蛇」・・「蝮」・・「大蛇」・・調査していると良く目にします・・・

所で、昨日のコメントを続けたいと思います(..)

遠江国 城東郡 平川村 に関してですが、比較的「新しい」?時代の記述なのですが、こちらをご覧ください(..)
黒田家代官屋敷 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AE%B6%E4%BB%A3%E5%AE%98%E5%B1%8B%E6%95%B7
黒田家代官屋敷(くろだけだいかんやしき)は、遠江国城東郡嶺田(現・静岡県菊川市下平川)にあった代官屋敷である。1973年(昭和48年)に、主屋と長屋門が「黒田家住宅」として重要文化財に指定された。1993年(平成5年)には米蔵、東蔵及び宅地(濠を含む)が重要文化財に追加指定され、屋敷構え全体が保存されることとなった。
歴史[編集]
徳川家旗本で、当地を治めた本多助久の代官となった黒田家が築いた屋敷である。
黒田家が当地に住したのは永禄年間(1558 - 1569年)とされ、黒田義則が現在地に縄張りを行い居住したのが始まりと伝える。
黒田家歴代[編集]
初代 - 黒田下野守義次: 足利氏の流れを汲んでいたが、越前国黒田の荘を領し黒田姓を名乗ったといわれる。
2代 - 黒田日向守(氏名不詳): 鎌倉時代に紀伊国牟婁郡に居住。
3代 - 黒田式部少輔義理: 城飼郡を領する。
4代 - 黒田監物亮義重: 平川村(現在の菊川市下平川)を領する。
5代 - 7代: 名前・業績ともに不明
8代 - 黒田九郎太夫義則: 永禄年間に現在地に居住。今川氏家臣だったが、今川氏滅亡後に徳川家康の家臣、小笠原信興に仕える。高天神城の落城で帰農。
9代 - 黒田玄忠義得
10代 - 17代 - 名前不明: この頃本多家の代官となり、2千石程度を治める。

(-.-)初代 - 黒田下野守義次: 足利氏の流れを汲んでいたが、越前国黒田の荘を領し黒田姓を名乗ったといわれる。
「黒田下野守義次」

他にもこちらのサイトを(..)
http://ameblo.jp/toushiun/entry-11269141632.html
少し転記させて頂きます(..)
黒田家について
黒田家の歴史
黒田家は源氏の血筋を引き、足利下野守義次のとき、越前黒田荘に居住したことから、黒田姓を用いた。永禄年間(1558〜70)に黒田義重が遠江国に移り下平川に住したといわれる

(-.-)黒田家は源氏の血筋を引く・・
(-.-)足利下野守義次・・

あの・・全くの別人なのですが・・偶然、同名で調べた、こちらの方がとても気になります
平島 義次 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E6%AC%A1
平島 義次(ひらしま よしつぐ)は、第4代平島公方。足利義種の嫡男。苗字は初め足利であったが、後に平島と改める。母方の伯父ディオゴ結城がキリシタンであったためか、義次もキリシタンの疑いを受け、蜂須賀氏に尋問されている。

改名 足利義次→平島義次
別名 又八郎(通称)
戒名 慈源院殿性山道安大居士
墓所 現存せず[1]
主君 蜂須賀忠英→光隆→綱通→綱矩
藩 阿波徳島藩士
氏族 平島足利氏

逸話[編集]
義次の代に床下にマムシなどの毒蛇がたくさん死んでいるのが見つかり、これは公方の威光を恐れて毒蛇が死んだという噂が広まった。その噂を聞いてマムシ除けの札を求める人々が相次ぎ、公方家は「阿州足利家」と紙に書いて「清和源氏之印」という朱印を押した守札を発行した。これをマムシ除けとして懐に入れて外出したり、蛇に見せると追い払えるとされていた。守札は平島公方家の重要な資金源の一つとなり、義根の代に阿波を出る時まで続いた。今日でも徳島県内各地を主に守札が伝わっている。

(?_?)何でしょうか・・この方も「マムシ除け」・・ですね(?_?)
阿波藩・・「阿波」????あれっ「阿波」です・・

別人とは解っていても、どうも「モヤモヤ」が・・

明日は「本多氏」についても調べてみます。

では(^・^)
[8]白石さんからのコメント(2015年05月03日 12時59分01秒 ) パスワード

こんにちは
橘と平川はなんだかからまりあっているようだった。
ーーーーーーーーーーーー
両神山
両神神社
ヤマトタケルが神犬(狼という)に導かれ登山し、伊弉諾・いざなみをまつった。
麓に日向大谷という地名がある。

伊弉諾・いざなみは我が国原初の頃に登場する神。国生み神話の神で 日向は天皇家が出て行かれたところ、宮崎日向と同じ地名。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
場所
埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄
コメント
秩父鉄道・三峰口駅から県道37号線を北に7kmほど上ると,国民宿舎両神荘の400mほど西に,法養寺と並んで両神神社がある。その社殿の前に

「備前国須々木氏発祥之地」

と刻まれた細長い石碑が建っている。
平安時代から鎌倉・室町時代にかけて“武蔵七党”と呼ばれた武士団があった。横山党・児玉党・猪俣党・村山党・・・などである。その一つに

“丹党”

があった。
丹党は,秩父地方を本拠地とし,

丹基房

を頂点として,その子孫が

中村氏

となり,更に勅使河原氏・新里氏・安保氏・榛沢氏・小島氏などを興した。丹長房は 秩父郡小鹿野町両神大字薄(すすき)に館を構え,

薄四郎

と称した。
薄氏は 本家である丹党中村氏が 播磨に国替となったのに伴い 備前の国へ移ったとされ,移住後は 船山城を中心に「須々木」氏となって活動。南北朝期には 須々木備中守高行が足利尊氏に従い,四條畷の合戦で楠木正行の率いる南朝軍と戦っている。
戦国時代になると宇喜多家の配下に属したが, 関ヶ原の役の後は宇喜多氏が滅亡し,須々木氏も船山城下で帰農したと言す。
ーーーーーーーーーーーーーー
・薄氏は公卿辞典に橘氏として載っている。
・すすき氏は鈴木のとき 宇井さんとともに穂積氏の分流で、物部氏。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 



[9]白石さんからのコメント(2015年05月03日 20時39分35秒 ) パスワード

平川の検索結果 - 国語辞書 - goo辞書
dictionary.goo.ne.jp > 辞書 > 国語辞書
平川を説明文に含む言葉の国語辞典の検索結果。

あかびらかわ【赤平川】,いかりが せき ... 荒川の支流の一。
・両神(りょうかみ)山北方に源を発し、
・薄(すすき)川を合わせて 赤平川となり、秩父盆地北東部の秩父郡皆野(みなの)町で
・荒川に合流する。長さ31キロ

江戸城に関して
荒川に 平川の言葉があった。
江戸城は 太田道灌の築城。道灌の系図は 清和源氏だが 池田をはさんで高岡にも 関わっていた。

摂津池田氏系図
摂州多田院御家人高岡系図

道灌は 清和源氏多田満仲ー源頼政の子孫。

大阪譜茨木市にある安威川の上野にいくあたりに 立札があり
中臣藍連の子孫が 太田道灌としている。

ちなみに、『播磨国風土記』には、揖保郡に大田里という地名を載せる。そこには、昔、呉勝(くれのすぐり)が韓国より渡来して、紀伊国名草郡大田村に住み、次いで摂津国三嶋賀美郡(島上郡)大田村に移り、さらに播磨国揖保郡に移って大田村をつくったとある。島上郡には大田の地名はないから、これを島下郡の太田とみれば、太田は渡来系の住民により開発されたことになる。

阿為神社(あいじんじゃ)は延喜 5 年(905年) に醍醐天皇の命で編纂された延喜式の神名帳に記載されている式内社の一つです。

この神社は中臣藍連がこの地で、祖先である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を氏神として祀ったのが創始とされています。

このことは、阿為神社は中臣鎌足即ち藤原鎌足の先祖を祀った神社ということになり、ここにも鎌足の足跡を見ることができます。

この近くに継体天皇の陵がある。
又は 今白塚古墳(これもすぐ近く)が継体天皇の陵とする。

継体天皇は越前の人
豊芦原中津国の範囲



[10]白石さんからのコメント(2015年05月03日 21時16分07秒 ) パスワード

京都の梅宮大社の橋本氏も 橘といい 
梅宮神主の橋本氏が橘諸兄公の後裔と称したことは知られますが、
その系譜はやはり不明です。江戸時代に橋本氏の肥後守経亮があり、学深く有職歌学に優れ、橘窓、梅窓等と号したとされ、『桂女由緒』に梅宮神主橋本肥後守と見えると太田亮博士が『姓氏家系大辞典』に記します。
祭神の酒解神は 大山祇神

木花開耶媛が彦火火出見尊を産み奉ったので、父神の大山祇神は大変よろこばれ、 狭名田の茂穂で天甜酒(あめのたむざけ)を造り、天地の神々に捧供した。 これを穀物から酒を造ったはじまりであるとして、大山祇神を酒解神(さかとけのかみ)、 木花開耶媛を酒解子神と呼んで、造酒の祖神としている。

賀茂神社の系に大山祇神はおり(賀茂氏の女子が平清盛を生む)
三島神社の神も 大山祇神。 
[11]白石さんからのコメント(2015年05月03日 22時21分16秒 ) パスワード

先に出た 魏ぜんは 秦の恵文王の宣大后の異父兄弟。姓は魏。
戦国時代の魏は 姫姓魏氏。
魏の始祖は周の武王の弟である畢公高(ひっこうこう)である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
三国時代の魏
曹操の魏
曹氏は姫姓である周の武王の弟・振鐸が曹(河南省)に封じられ、以後子孫たちが曹を氏とした。

また曹氏は邾国初代の国君・俠(または挾)の氏でもあった。これは曹俠の祖先・姫晏安が帝舜により曹(古曹)に封ぜられて曹晏安=姫姓曹氏の祖となったことに始まり、曹俠が武王により邾に封ぜられて邾俠=曹姓邾氏の祖となるまで続いた。共に本姓が姫で曹に封ぜられた姫姓曹氏ではあったが、姓氏の重複が僅差もしくは短期間で避けられた曹振鐸の系統とは黄帝にまで溯らない限り全くかかわりが無い。
 邾(ちゅう/ちゅ[1]/しゅ[1])は、中国の諸侯・地名。地名としての邾は現在の中国山東省東南部を指す。なお、曹氏の国であるが、曹とは異なる。
邾は孟子の生国であり、儒学国家としての面も持っている

郡に朱がある。
前に 伊弉諾に関して 朱が出た。
水戸 朱子学。儒教。

『三国志』に引用されている王沈の『魏書』では、前漢の曹参は邾の後裔であり、更にその子孫に曹操がいると書き記している。ただし、信憑性は低い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
229年、クシャーナ朝(貴霜)のヴァースデーヴァ1世(波調)、初めて使節らを中国の魏に派遣。魏から親魏大月氏王の仮の金印を与っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
クシャーナ朝
黄色いかんむり 黄色い衣 腰には剣を帯びていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
238年、邪馬台国の卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる。

ウィキの魏に 陳留王の言葉あり 曹氏。
宇佐神宮には 陳王の女子がアマテラスとある。
また
藤原鎌足の弟・稽文恵は春日であり アマテラスを名のった。



[12]子孫よりさんからのコメント(2015年05月04日 11時00分50秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

〉薄氏は 本家である丹党中村氏が 播磨に国替となったのに伴い 備前の国へ移ったとされ,移住後は 船山城を中心に「須々木」氏となって活動。南北朝期には 須々木備中守高行が足利尊氏に従い,四條畷の合戦で楠木正行の率いる南朝軍と戦っている。

(-.-)楠木正行は宮原の先祖と同じく「伊予橘氏」であり「物部氏」
確かに、先祖も記述では「北朝」と「南朝」に分かれて戦ったとの事ですから、系を残すために「保険」をかけていたのかな?とも思います。
(?_?)ご教示頂いた「須々木氏」と物部氏「鈴木氏」の関係は???

所で・・

何だか、私、古代?に繋がるかもしれない不思議な事を見つけてしまいました。
(自分だけそう思っているのかもしれませんが(ー_ー)!!)

次のコメントで(^・^)
[13]子孫よりさんからのコメント(2015年05月04日 15時26分46秒 ) パスワード

では、早速(^・^)

題して
ちょうちょ(蝶)さんは何を伝えているのか〜皇居新宮殿の銘木と絶滅危惧種・日本国の天然記念物の「蝶」について
でございます(^・^)

日本の神話を読んでいてふと「真実は今に何らかの形で残されているのでは?」と思いまして・・
そこで、何故か頭をよぎったのが皇居新宮殿に使用されている「市房杉」だったのです・・

以前、簡単に調べたのですが、もう一度詳しく調べなおしてみました。

宮殿の写真 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/shisetsu/kokyo/kyuden-ph.html
市房杉を見ると・・
波の間(なみのま)
波の間は,広さ248平方メートル(約75坪)で,熊本県産市房杉や静岡県産松などが使われています。
この壁画は,山口県の青海島の岩をモデルにしたといわれる東山魁夷作の「朝明けの潮」で,縦約3.8メートル,横約14.3メートルの大壁画です。

北溜(きただまり)
北溜は,広さ375平方メートル(約113坪)で,山口県産松葉石(黒御影石)・熊本県産市房杉・宮崎県産日向松・沖縄県産勝連(大理石)などが使用されています。
ここには,天皇皇后両陛下に対して,内外の要人がご挨拶等をされるための記帳所が設けられています。
記帳卓の正面の壁には,正倉院宝物「七宝十二稜鏡」(直径約18センチメートル)を模した直径60センチメートルの七宝焼きの壁飾が掲げられています。

石橋の間(しゃっきょうのま)
石橋の間は,広さ245平方メートル(約74坪)で,熊本県産市房杉や宮崎県産日向松などが使われています。部屋の中央壁面には,前田青邨作の「石橋」・「白牡丹」・「紅牡丹」が掛けられています。

(^・^)もっと調べると・・
皇居新宮殿にはどんな銘木が使われているのか
http://www.geocities.jp/kinomemocho/zatu_shinkyuden.html
大日本帝国憲法が発布された前年に完成を見た皇居の宮殿(明治宮殿)は木造建築の粋を結集したものであったと聞くが、残念なことに米軍による無差別爆撃の犠牲となって昭和20年に焼失している。その後、新宮殿の再建までにはしばらくの年数が経過し、やがて昭和39年に建設が着工の運びとなり、工期4年4月を要して昭和43年に昭和宮殿の完成している。

(^・^)サイトの表「新宮殿における銘木の使用例」を見てください・・
長和殿 南溜(みなみだまり)
壁面、天井には熊本県の一房杉(いちぶさすぎ)

長和殿 北溜(きたどまり)
壁面の羽目板は熊本営林局小林営林署産日向(霧島)松(アカマツ)
天井は熊本県市房杉

長和殿 春秋の間
付柱、長押は熊本営林局小林営林署産日向(霧島)松(アカマツ)
船底折板天井は奈良県吉野杉中杢

長和殿 波の間
付柱、長押は静岡県沼津御用邸内の沼津松(クロマツ)

長和殿 石橋の間、松風の間
付柱、長押は大阪営林局山口営林署産滑松(アカマツ)
天井は熊本県産市房杉

正殿 松の間
天井は木曽ヒノキ、床はケヤキ(床面がそのまま出ているのは宮殿中ここだけ)
※ケヤキには市房ケヤキも使用されています。

正殿 千鳥の間・千種の間
付柱、長押は神奈川県大雄山最乗寺境内の道了松(クロマツ)の積層合板張
局面天井は奈良県春日神社の春日スギ

正殿 階段
天井板は熊本県産市房杉
中略・・

注: 表中の「日向マツ」は造営記録の名称で、一般呼称では「霧島マツ」に該当する。

(^・^)先日、霧島神宮にお参りさせて頂いた際に、霧島の山々山頂付近には沢山の巨大な松がものすごいパワーを放ってそびえていました・・

吉野杉(奈良)日向(霧島)松(宮崎)市房杉(球磨)・・

そして・・
市房杉を調べていて、次にご紹介する「蝶」について勉強する事が出来ました。

サイト神城文化の森 市房山
http://shinjyou.jp/?page_id=1116
熊本県下で初めて平成22年4月に森林セラピー基地として認定され、昭和43年には皇居の資材として使用された市房杉樹齢1000年が自生している熊本県水上村の市房山に行って参りました!
市房山には日本全国で2ヵ所しかないというゴイシツバメシジミチョウの生息するほどの自然あふれる神秘的な場所で、人間には欠かせない空気に水と土が新鮮にあふれるこのような素晴らしい環境があるからこそ人間は自然に生かされているというのを感じます。

(?_?)市房山には日本全国で2ヵ所しかないというゴイシツバメシジミチョウの生息する・・
ゴイシツバメシジミチョウ・・???

(-.-)調べました ウィキより
ゴイシツバメシジミ 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%84%E3%83%90%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%83%9F
ゴイシツバメシジミ(碁石燕小灰蝶・Shijimia moorei)は、チョウ目シジミチョウ科のチョウの一種。
1973年に熊本県の市房山で発見され、1975年には、日本国の天然記念物(種指定、地域定めず)に指定された。また、1996年には、国内希少野生動植物種(種の保存法)にも指定されている。
羽の表面は黒褐色、裏面はツバメシジミの翅にゴイシシジミの斑紋を乗せたような模様のチョウである。ただ、ゴイシシジミはカニアシシジミ亜科に属するので近縁種ではない。本種にもっとも近縁な種はツバメシジミやタイワンツバメシジミである。
生態[編集]
幼虫の食草はシシンラン(イワタバコ科)。ただし、葉ではなく花を食べる。成虫はアカメガシ、ノリウツギ、キツネノボタンなどの花の蜜を吸う。初夏から夏にかけて発生。越冬態は幼虫。
主に森林に生息するが、これは食草の制約であって本種の生態はゼフィルスではない。
日本国内では熊本県、宮崎県と奈良県にのみ生息する。天然記念物なのでもちろん採集はできない。国外では中国や台湾、インドのアッサム地方などにも生息している。

(?_?)・・日本国内では熊本県、宮崎県と奈良県にのみ生息
(?_?)・・国外では中国や台湾、インドのアッサム地方などにも生息

「熊本」「宮崎」「奈良」・・あれっ???

チョウ目 シジミチョウ科 絶滅危惧I類(CR+EN)
http://www.biodic.go.jp/cgi-db/gen/RDB_G2000_DO.RDB_DETAIL?wamei=%A5%B4%A5%A4%A5%B7%A5%C4%A5%D0%A5%E1%A5%B7%A5%B8%A5%DF%A1%CA%A5%BF%A5%A4%A5%EF%A5%F3%A5%B4%A5%A4%A5%B7%A5%B7%A5%B8%A5%DF%A1%CB&bunrui_c=05&rank=&search_str=%&gaku_n=&start_row=1
ピックアップして、転記します。
摘要
※本州(奈良)、九州(熊本、宮崎)にのみ分布する。

形態
※小型のシジミチョウ。雌雄とも翅表は黒色。裏面は白色で、黒い斑紋が碁石状に並んでいる。日本国内には同定を誤るような種は分布しない。

分布の概要
※国内では、本州(奈良県)および九州(熊本県、宮崎県)に分布する。国外では、中国大陸東部、台湾に分布する。

分布域とその動向
※1973年に日本未記録種として発見された。九州では、熊本県(水上村市房山、山都町内大臣峡、五木村、あさぎり町白髭岳周辺)と宮崎県(小林市北方)で記録があるのみで、最近、生息を確認できていない産地もある。本州では1980年に奈良県川上村で発見されたが、最近の記録がない。

(-.-)宮崎県(小林市北方)とは・・小林市須木・・以前は須木村と呼ばれていた場所で、ここは黒原山の反対側、先日、コメントした「道路」・・久米を通り、槻木に抜け、小林に抜ける・・その場所です・・ここを抜けたら「霧島」へ・・

(-.-)奈良県川上村・・??
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%9D%91_%28%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%29
川上村(かわかみむら)は、奈良県東南部に位置する村。
大峰山脈と台高山脈の間にあり大台ヶ原山の北西側に位置する。吉野川(紀の川)の水源があり、大迫ダム、大滝ダムが造られた。
天神窟(てんじんくつ)、水晶の窟、不動窟などの鍾乳洞がある[1]。

歴史[編集]
縄文時代のものとされる宮の平遺跡(大滝ダムに水没)などが発見されたことからも、川上村はかなり古い時代から知られていたことがわかる。奈良時代には惟喬親王がこの地の人々に木地師の技術を伝えたという。室町時代、後南朝の自天王(北山宮)・忠義王(河野宮)が本拠地としていた場所のひとつ三之公(神之谷)があり、ここで長禄の変が起きた。これをしのび、自天王が用いたと伝えられる兜などを拝する「朝拝式」が年に一度行われている[3]。
\(◎o◎)/!あああああっ!!ここは!!

産業[編集]
林業
吉野林業の中心地。長い歴史を有す。

\(◎o◎)/!この場所こそが「吉野杉」の産地なのですね!!

(?_?)(?_?)(?_?)・・・・(?_?)
※昭和43年に昭和宮殿完成。
●使用されている銘木の中にある球磨「市房杉」奈良「吉野杉」宮崎「霧島松」

※ゴイシツバメシジミ
●日本国の天然記念物・国内希少野生動植物種
●本州(奈良)、九州(熊本、宮崎)にのみ分布・・熊本県(水上村市房山、山都町内大臣峡、五木村、あさぎり町白髭岳周辺)宮崎県(小林市北方・・須木)奈良県(川上村)
●国外では、中国大陸東部、台湾、インドアッサム地方に分布
●日本国内には同定を誤るような種は分布しない。

(?_?)・・何だか・・
ちょうちょ(蝶)さんは、いずれかの御一行と共に、日本国内を移動されたみないな・・
(^・^)ヒラヒラと人々の間を飛び回り、疲れたら荷物の上で一休み、其々の滞在地では「種」を残し〜〜〜ヒ〜ラヒ〜ラ(^・^)
な〜〜んて事を考えてしまう・・私でありました(..)・・

うんがっ??今気がつきましたが・・「長禄の変」って何だろう??
後で調べます。

という事で、「市房杉」と「ゴイシツバメシジミチョウ」を調べたら、私的推測ですが、古代に思いをはせました・・というお話でした・・

さらに、もう一つだけ・・
実は、とても気になっていたのは上記の内容だけではありませんでした。
大正天皇がお名前を付けられた「巡洋艦球磨」。
今朝、急に思い出して、父にウィキの内容を見てもらっていたのですが、しばらくして、家に椎葉のおじが来まして・・
実は我が一族はこの「巡洋艦球磨」とは深い繋がりがありました・・

「巡洋艦球磨」と共に、祖母の従兄の方は亡くなっていました。
皆様、ぜひ、ウィキの情報をご覧ください。
球磨 (軽巡洋艦) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8_%28%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6%29
球磨(くま)は、日本海軍の軽巡洋艦。球磨型軽巡洋艦の1番艦。艦名は熊本県を流れる球磨川にちなんで命名された。日本海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照の事。
※海軍創生の時期は、海軍省から提出された案を天皇が決定するというものであったが、1921年からは戦艦、巡洋戦艦および巡洋艦以外の艦船は海軍大臣が決定[6]し、その名称を天皇に報告することとなった。
(-.-)軽巡洋艦球磨は1918年8月29日、球磨型1番艦として佐世保海軍工廠で起工。1919年7月14日、進水。1920年8月31日、竣工。
すなわち命名は大正天皇が決定されたという事です。

蘭印・ニューギニアでの活動
中略・・
1944年1月11日、対潜戦演習のため駆逐艦浦波とともにペナンを出港した後、英海軍のツタンカーメン級潜水艦(英語版)タリホー(英語版)(HMS Tally-ho, P-317)に発見された。ペナンの北西約16km、球磨から距離1900ヤードの地点で、タリー・ホーは7発の魚雷を一斉発射した。球磨の見張りが魚雷の航跡を見つけ、球磨は舵を大きく切ったが、右舷艦尾に2発の魚雷を受け、船は炎上した。午後11時57分、マラッカ海峡付近(北緯05度26分 東経99度52分)で、搭載していた魚雷の爆発により艦尾から沈没した。杉野修一艦長を含む生存者は浦波により救助されたが、乗組員138人が戦死した[6]。球磨は1944年3月10日に除籍された。

上記にある亡くなられた138人の中のお一人が祖母の従兄(久米平川家長男の方)でした。
※久米の平川家は、私の祖母の父、すなわち平川の曾祖父の弟が跡を継いでいました。その方の長男の方が巡洋艦球磨と共に戦死されたのです。

戦後、巡洋艦球磨の艦長であった方が平川家を訪れ、この方の最後を語っていかれたそうです。
沈没寸前、上空には複数の爆撃機が飛んでいました。おじは、銃撃を浴びながらも、最後まで爆撃機に対して、射撃していたそうです。
避難するように呼び掛けた艦長に対して
「大正天皇からお名前を頂いたこの船と、自分は最後まで共にします」
そう言いながら、おじは射撃を止めることなく船と共に海に沈んでいったそうです。

おじは二人兄妹で、妹が以前お話した私の祖母そして多良木平川家に嫁いだ「多良木のばあちゃん」とそっくりな「おばさん」でした。
私は、久米の平川のおじの話を何も知りませんでした。父も知らなかったそうです。
今朝、偶然、椎葉のおじに「軽巡洋艦球磨」の記述を見せた所すぐに
「何で!お前はこの船を知っとるとか!!?」と・・そして、久米の平川家のおじと軽巡洋艦球磨の話してくれました。

皆様も御存じの通り、私は1年程前に「軽巡洋艦球磨」が何故か気になってこちらのスレッドでコメントしていました・・

今朝、椎葉のおじから話を聞いて、涙が止まりませんでした・・
椎葉のおじは「お前が、今朝、『球磨』の話をせんかったら、おじさんは、お前達に何も教えんままやったろうね・・。何かわからんばってん・・もしかしたら、おい達(私達)の御先祖様はお前ば通じて色々伝えようとしとんなっとかもしれんな〜」
と言っていました・・

椎葉のおじは
「こげんして、パソコンば使えば、おじさんの聞いていた事がすぐに調べられる!今度から、おじさんが色々話しば聞いとった事ば言うケン、お前が調べればよか(^・^)」と。
私も、おじと組んで、調査の幅を広げていける事がとても嬉しいです(^・^)

では(^・^)
[14]子孫よりさんからのコメント(2015年05月04日 16時31分00秒 ) パスワード

追記

椎葉のおじに、家(宮原)の先祖「橘氏」の事を「ちらっ」と聞いたところ・・
「あ〜長崎とか佐賀とかあっちの方と繋がっとんなっちゃろ」
(-.-)訳します
「あ〜長崎とか佐賀とかあちらの方と繋がっているらしいね〜」
と言っていました。

やっぱり、すごい!おじさん!
(p_-)おじは色々知っているようです・・

おじとの調査が本当に楽しみです(^・^)
[15]子孫よりさんからのコメント(2015年05月04日 18時59分42秒 ) パスワード

再追記です・・

コメント13で調べた内容ですが・・
何にも考えずに
「ちょうちょ(蝶)さんは、いずれかの御一行と共に、日本国内を移動されたみないな・・
(^・^)ヒラヒラと人々の間を飛び回り、疲れたら荷物の上で一休み、其々の滞在地では「種」を残し〜〜〜ヒ〜ラヒ〜ラ(^・^)
な〜〜んて事を考えてしまう・・私でありました(..)・・」
「「市房杉」と「ゴイシツバメシジミチョウ」を調べたら、私的推測ですが、古代に思いをはせました・・というお話でした・・」

などと書きましたが・・吉野川上村という場所は・・
\(◎o◎)/!『古事記』『日本書紀』に記述されているではありませんか\(◎o◎)/!

吉野 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E

\(◎o◎)/!こちらの「古代」の記述を転記します
古代[編集]
吉野という地名が、最初に史書に現れるのは、『古事記』『日本書紀』の神武東征の記事で、熊野国から大和国に入る通過地として記載されている。元より半神話の世界なので、正確な比定は困難であるが、少なくとも吉野川流域が想定される。 古事記では「吉野河の河尻」「吉野の首等(おびとら)の祖(おや)」「吉野の国巣(くづ)の祖(おや)」が登場する。
吉野河の河尻 - 河尻とは下流域や河口付近を指すが、そうなると和歌山県の紀ノ川(吉野川)河口となる。そのため江戸時代の国学者・本居宣長が『古事記伝』で「河尻」は「川上(現在の川上村)」の書き間違えだとしている。また吉野河の河尻で「阿陀の鵜養の祖」に会ったとあり、この阿陀が現在の五條市南阿田ではないかとも考えられている(南阿田には阿陀比売神社がある)。

\(◎o◎)/!本居宣長が『古事記伝』で「河尻」は「川上(現在の川上村)」の書き間違えだとしている。
\(◎o◎)/!なっなんですと〜〜〜〜!!

私は、マダマダ記紀には疎いので(父から叱られる〜)解りやすく解説されているサイトを見つけましたので(..)転記させて頂きます(..)
吉野の古代氏族
http://www.yasaka.org/yoshinoron/kodaibuzoku.html

では、『古事記』「中巻」より神武天皇の大和入り、吉野に到る部分を見てみよう。

【原文(注四)読み下し】
 その八咫烏の後より幸行(い)でませば、吉野河の河尻に到りましき。時に筌(うへ)を作りて魚(な)を取る人あり。ここに天つ神の御子、「汝(いまし)は誰(たれ)ぞ」と問ひ給へば、「僕(あ)は国つ神、名は贄持之子(にへもつのこ)といふ」と答へ申しき。 これは阿陀の鵜飼の祖(おや)。 そこより幸行でませば、尾ある人井戸より出で来たりき。その井に光あり。ここに「汝は誰ぞ」と問ひ給へば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(いひか)といふ」と答へ申しき。 これは吉野首(よしのおびと)らの祖なり。すなはちその山に入り給へば、また尾ある人に遇ひ給ひき。この人巖(いは)を押し分けて出でき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひ給へば、「僕は国つ神、名は石押分之子(いはおしわくのこ)といふ。天つ神の御子幸行でますと聞きしゆゑ参向(まゐむか)へつるにこそ」と答へ申しき。これは吉野の国栖の祖。 その地より踏み穿ち越へて、宇陀に幸行でましき。

 以上は『古事記』の記述である。この吉野の段に於ける『書紀』との内容に大きな相違点はないが、部族名の表記が少し違うことに気付く。それを遭遇順に記すと次のとおりである。(左が『古事記』の表記、右○印が『書紀』の表記である)・・・・

\(◎o◎)/!
あれれっ!!「その八咫烏の後より幸行(い)でませば、吉野河の河尻に到りましき。」
※本居宣長が『古事記伝』で「河尻」は「川上(現在の川上村)」の書き間違えだとしている。

\(◎o◎)/!(?_?)(?_?)(?_?)・・・・(?_?)
という事はなんですと・・・(?_?)

本州(奈良)、九州(熊本、宮崎)にのみ分布・・熊本県(水上村市房山、山都町内大臣峡、五木村、あさぎり町白髭岳周辺)宮崎県(小林市北方・・須木※黒原山の反対側)奈良県(川上村)
上記にのみ分布する「ゴイシツバメシジミチョウ」

何だか古代の球磨に飛んでいた「ゴイシツバメシジミチョウ」が奈良県吉野「川上村」(吉野河の河尻※本居宣長が主張?する)に移動?したような・・

でも・・「ゴイシツバメシジミチョウ」と記紀を結び付けるなどとは・・私だけかな??
(素人はこれだから(ー_ー)!!との声が飛んでいそうな・・)

でも・・何だか不思議な感じが・・???
だって・・昭和宮殿に使用されている銘木と言われる杉や松って・・???

この部分に着目された歴史学者の方々はいらっしゃらないのかな?
やっぱり、私が素人だから・・素人がマタ馬鹿な事を言っている・・となるのでしょう・・(..)

でもな〜??
熊野・・吉野・・大和
そう言えば、今日のコメントとは関係はないのですが球磨の「臼麻」野荘という表記を「熊野」と勘違いした昔の方がいらっしゃったという記述を読んだ事がありました・・(関係ありませんでした(ー_ー)!!(..))

という事で、素人の私見でございました・・
では(..)・・

[16]白石さんからのコメント(2015年05月04日 20時11分07秒 ) パスワード

こんばんは
暑すぎる連休か?と思っていましたら すこしばかりおしめりがあってほっとひといきです。

子孫さま おじさまとお話が弾んでいるようですね。先日こめんとにあった家庭菜園をつくってくださった方でしょうか?

家庭菜園で思ったことですが
ジャガイモコロッケならぬ サトイモコロッケが私大好きなのです。
つるんとのどをとおって 病気の時でも 食べられるのです。

土により くさいサトイモもありますが 土壌を改良すれば美味しいものができると思います。

じゃがいもコロッケは 普及していて 食い込む余地はなさそうに思えますが 
結構 コロッケは 食卓の定番ですものね。

サンドイッチにはさんでもいいし ・・・
冷凍にしても長持ちするし サトイモ自体も結構長持ちするし
商品にも出来ると思います。

今日 四浦の八十八夜の初摘み茶とシイタケが届きました。
美味しいんです。
あちらの村の温泉の売店には出ていると思いますが 多分 広く普及はしていないかも・・・
私は 平野さんとこのお茶を 溝口製茶で仕立てたものを 送ってもらうのですが 
これ これ !! この 香り。と 至福のひと時を 楽しんでおります。

平野
京都 平野神社がありますね。
過日 入院しているとき 聞いた話でしたが 滋賀のやす というところに 平野姓の墓ばかりある ということでした。平家の子孫と伝えているそうです。

四浦の平野さんに 祖先伝承は尋ねたことはありませんが・・・

溝口
うちの白石の祖母によくしてくれた 溝口がいて 後 五木に移り住んで洪水で一家全滅した という話。

四浦溝口には 熊本城の柱を持ってきている という話がある。
その溝口の親戚筋の人が お茶のお店を手広く出して ネットにも公開されています。

溝口という苗字には
 
新発田 藩主で 溝口 直侯(みぞぐち なおとき / なおよし、安永7年[1]5月17日(1778年6月11日) - 享和2年8月29日(1802年9月25日))は、越後新発田藩の第9代藩主。第8代藩主溝口直養の養嗣子・直信の長男。血縁上は直養の甥にあたる。幼名は亀次郎。官位は従五位下出雲守。なお、将軍世子が徳川家慶(いえよし)と改名した際、直侯はこれを憚って諱の読みを「なおよし」から「なおとき」に改めている。

母は上野館林藩主・越智松平武元の娘侶姫(観如院)。
正室は肥後人吉藩主・相良長寛の娘・慶姫(m・姫)。
死別後、公家・久世通根の娘・布喜姫を継室とした。。
 
越智松平
松平氏は越智なのですね。・・・なのでしょうか? ・・・別の意味の越智なのでしょうか?
松平って 徳川家康に関与するのですよね。

高岡は物部。物部あらかび公の子孫。というのが姓系辞典の第一項にある。(つちの高岡は白石・坂本・尾方と共に橘紋紋)

公開されている 高岡系図の中の人が 池田氏や楠氏とつながっていて
池田氏と相良氏とつながっていて
徳川とつながっていてkあい
源頼政の付近から 江戸城築城の 太田道灌につながっていて
古くからの 縁でつながっているようです。

溝口氏は甲斐源氏のようですね。ネットでは。

物部は大事なのですねー。
お茶は早速 ステンドグラスの作品をおくってくれたいとこや 姉や 要介護4にまで進んでさわぎまくっている兄に送ります。

白石については 前に7000傑様や子孫様にご教示いただいた肥前あたりもしらべてみたいと思います。

シイタケも 水にひたしてジュースのようにして飲むとおいしいんですよね。余り濃くすると胃にきますが・・・

 
[17]子孫よりさんからのコメント(2015年05月05日 20時30分48秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

「おじ」は家庭菜園を造ってくれた椎葉のおじです(^・^)
ナント!昨日は、ミニビニールハウスまで造ってもらいました。
トマト・茄子・ピーマン・きゅうり・オクラ・かぼちゃ・サツマイモが植えられています(^・^)
何から何まで、おじがしてくれて、でっ私の仕事はと言うと「水」やりです(^・^)
でも、それでも枯らさないように緊張して「大きくな〜れ」と言いながら水をかけています(^・^)

所で、昨日の御教示にあった
「越智松平氏」に関して、以前、平川家について20コメント48でご紹介いていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101403_77.html
越智松平家 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%99%BA%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6
越智松平家(おちまつだいらけ)は、松平氏の一支系で、親藩・御家門のひとつ。
江戸幕府6代将軍徳川家宣の弟である松平清武を家祖とし、上野国館林藩、のち石見国浜田藩の藩主家として続いた。通字は「武」(たけ)。
概要[編集]
清武は甲府藩主徳川綱重(甲府徳川家)の次男であるが、はじめ甲府藩士越智喜清(おち よしきよ/のぶきよ)の養子として育てられた。のちに松平の名乗りを許されて越智松平家が成立する。5代将軍徳川綱吉の晩年の1707年に館林藩主として取り立てられ、兄家宣が6代将軍となると5万4千石まで加増された。清武の子清方は父に先立って没したため、尾張徳川家連枝の美濃高須松平家から養子武雅を入れた。武雅も水戸徳川家連枝府中松平家から武元を養子に入れ、越智松平家は以後は実質的に水戸家の血統(徳川頼房の男系子孫)によって占められることになった(その後に養子入りした武揚、武成、武聰の3代の当主も該当する)。
(^・^)同じくコメント50にて日本の苗字七千傑様より物部氏・池田家・相良家そして「物部氏族の大きな流れ」についてご教示頂いていました。

白石家と肥前の関係・・
肥前には、宮原と道祖の「伊予橘氏」の系が・・

偶然と奇縁。
白石様とお知り合いになれたのも、「偶然と奇縁」だと思います。
私達、きっと繋がっていますよ(^・^)

所で・・
次のコメントの表題を先に
「黒原山」の知られざる姿〜わぁ〜知らなかった!〜
でございます(^・^)

では(^・^)

[18]白石さんからのコメント(2015年05月06日 00時09分58秒 ) パスワード

こんばんは
黒原山 なんなんでしょうね?

ところで 平江 が 腹違いの姉の母の家です。下益城郡にありました。
平江と平河と何か つながるものはないか?と思って 打ち込んでみると
蘇州がでました。
江苏省苏州市平江区平河路

葦原様が越のほうだとすると 平川は呉?

水の都蘇州 呉の国があった蘇州 呉越同舟の蘇州 古くから絹織物で栄えていた

ウィキには
簡称:蘇 / 呉
別称:姑蘇 / 呉都 / 呉門 / 呉中 / ★★平江★★とある。
ーーーーーーーーーーーーーーーー

埼玉苗字辞典には
平井 平江など 平

平 ヒラ 百済・伽耶地方の古名を阿耶(あや)、阿羅(あら)と称す。阿はクマとも称し、阿(くま)ノ国、熊(くま)ノ国、肥(くま)ノ国と云う。

肥ノ国は別名を肥(ひ)ノ国、火ノ国、日ノ国と云う。ヒは火神にて鉱山鍛冶神なり。金、即ち鉄(くろがね)の産出する国を火ノ国と云い、王族を始め住民の多くは金(きむ)氏である。国は羅と称し、火羅、日羅、肥羅の渡来人は佳字の平(ひら)を用いる。二字の制度により★★平井、平江★★とも称す。ヒ、ヒノクマ、アヤ、クマ条参照。浦和、与野、戸田、草加、朝霞、新座、入間、熊谷等に存す。タイラ参照。
ーーーーーーーーーーー

平姓平井氏 上野国緑野郡平井村(藤岡市)より起る。秩父秘話(大西シゲ著)に「我家の先祖は、桓武天皇の子神野親王・別名恵多羅親王(嵯峨帝、即ち初代平井大衛門)であり、上州緑野郡平井村に来り住み、平井大衛門は秩父妙見大菩薩として秩父神社に祭られ、関八州より崇められた、即ち関東平氏の祖である。一門秩父重忠は平井大衛門代々の家で育った」と。嵯峨天皇の家司平井大衛門屋敷は秩父神社の北西にあり、東方に小名神野台あり。秩父氏の本名か。秩父条七項、畠山条六項参照。
ーーーーーーーーーーーーー

嵯峨の妃が檀淋皇后の橘嘉智子 この方の母は田口氏の女子

田口 タグチ 梁書・百済伝に「邑を檐魯と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し。其の国、二十二檐魯あり」と。クダラのクは大きなの意味、ダラは邑・郡県の意味で、クダラとは大ノ邑・大ノ国と云う。大、太、多はタと読まれ田の佳字を用いる。口は人の数で、大族の集落を田口と称す。オオ条参照。大和国高市郡田口村(橿原市田中町・和田町附近)は百済族蘇我氏一族の居住地なり。古代氏族系譜に「武内宿祢―蘇我石川(蘇我臣)―満智―韓子―高麗―鳥―田口川堀(田口臣蝙蝠)―島古(高市郡少領)―田口麻呂(田口朝臣)」と。姓氏録・左京皇別に「田口朝臣。石川朝臣と同祖、武内宿祢大臣の後也。蝙蝠臣・推古天皇の御世、大和国高市郡田口村に家す、仍りて田口臣と号すと。日本紀に漏れる」と見ゆ。
ーーーーーーーーーーーーーー
先日 神武天皇子孫 多氏系図で 太安万侶に至る人の祖先の妹が百済のほうしょうと結婚していたが もともと百済からでていれば 結婚しても不思議はない。
ーーーーーーーーーーーーーーー
百済族平岡氏 条に 施基皇子のあたりに関与する烏賊津臣の近親者と思える
鯛身臣が出てくる。
姓氏録河内神別に「平岡連。津速魂十四世孫鯛身臣の後也」。津速魂命―市千魂命―居々登魂命―天児屋根命(中臣、藤原の祖)の後裔なり。




[19]子孫よりさんからのコメント(2015年05月06日 07時35分59秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

「平 ヒラ 百済・伽耶地方の古名を阿耶(あや)、阿羅(あら)と称す。阿はクマとも称し、阿(くま)ノ国、熊(くま)ノ国、肥(くま)ノ国と云う。」

「阿」はクマとも称し・・
そうか・・関係性は全く解りませんが「阿」の字は、調査でよく目にしますね・・

ご教示頂いた、内容をじっくり読ませていただきます(^・^)

所で・・
白石様の御親戚の「平川家」には高岡家から婿養子に入った方がいらっしゃるのですよね・・という事で、家の「一族?」には相良一族(深水・犬童・新堀・他)との姻戚関係は今に続いている事もあり、「相良氏」の記録に何か「高岡氏」の記録が残っているのでは?と考え調べてみたのですが・・
ありました(^・^)

ご紹介致します
中世の荘園と社会 googleブックより (文字化けしていてすみません)
その中にこれら諸豪のほとんどが入ることとなるので相良一族の凡てを含み
、かりに霧島頂に中心を置いて大きく円孤 ... 牛屎河内守元息,大溝左近将監高岡,大村代平前,野辺代丹波守助国,宮原橘公冬,永里大和権守武綱,高木忠,救仁郷沙弥宗世, ...

上記の中に「大溝左近将監高岡」と・・?
ちなみに、宮原の一族の「宮原橘公冬」は
荘園景観の遡及的復原法 524ページに名があります。
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/21647/5_%E7%AC%AC%E2%85%A2%E9%83%A8-2.pdf

祢寝文書中に永和3年(1377年)橘公冬

すなわち、「大溝左近将監高岡」という方は同時期の方という事ですね。

「高岡家」が気になり調べてみました。
御参考になれば嬉しいのですが・・

所で、先の「中世の荘園と社会」にあった「霧島頂に中心を置いて大きく円孤 」って何でしょうか??
こちらの書籍を読みたいと思います(^・^)

では、続ぎのコメントで昨日ご紹介した
「黒原山」の知られざる姿〜わぁ〜知らなかった!〜
を(^・^)
[20]子孫よりさんからのコメント(2015年05月06日 09時13分01秒 ) パスワード

では、早速

「黒原山」の知られざる姿〜わぁ〜知らなかった!〜 
でございます(^・^)

実家にあった「おかはる」(89'熊本県球磨郡岡原村村勢要覧)の表紙を飾る「文化10年(1813年)作成の「宮原村下地」という地図。
この地図を見て気がついたのですが「黒原山」は黒原山と書かれていません(ー_ー)!!
○○嶽(字が読めません(..))と大きく書かれていてその横に小さく補足のように「黒原」とあります。
ルーペを使って○○嶽の文字を読もうとするのですが「ほにゃららぁ〜」みたいな続き字で・・読めないので調べました(..)

球磨郡誌にありました。(以前、コメントしていたかな?トホホ)
「熊本40山」というサイトにも紹介されていました。「85」ページです。
http://jac.or.jp/info/shibudayori/kumamotosibu/kmm-sibuho-08-2.pdf

少し転記させて頂きます(..)
球磨郡誌は黒原山について、 市房の南、久米と岡原の境に位し海抜1017米、眺望絶佳、小市房の観ありとさえ言われる。頂上付近の珍木奇草の多いことは、世間に広く知られていないだけに、夫等の原始的な群生状態を見ることができる と説明している。また、古くは雨引山とも呼ばれていたらしく、郡誌に「古老のに日う、此の山上を雨引嶽と言ふ。南面第一の高山なり。昔は必ず歳上に登りて宇するに…」とある。雨引嶽(黒原山)は、干ばつの被害が多かった人吉盆地の農民にとって、まさしく雨を引く、雨乞いの山であったに違いない・・・

「雨引嶽」でした。
でも「宮原村下地」の文字は「引」は何となく解るのですが「雨」の字かな〜??
「雨」もしくは「天」もしくは「尼」に見えます(?_?)
しかし、古地図の通り黒原山は「あまひき嶽」(雨引嶽?)が正式な名称?だったようです。

でも、今の「黒原山」と「水」のイメージが中々湧かずに・・
何せ、「宮原川」も「井口川」も大雨以外はそんなに水量が多いようには感じられなくて・・

そこで、もっと調べたのですが・・
ナント黒原山(あまひき嶽)には知られざる顔?がありました\(◎o◎)/!
それは、黒原山(あまひき嶽)を家から見た「反対側」にあったのです。

黒原山(あまひき嶽)は日向(宮崎県民)の重要な水源でありました\(◎o◎)/!

こちらをご覧ください
「ダムの書誌あれこれ」
http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=308&p=3
転記させて頂きます

10.田代八重ダム(大淀川水系綾北川)の建設

 綾北川は、宮崎県中央部に位置し、その源を熊本県多良木町の黒原山(標高1017m)に発し、山間部を東流し、尾股川、相見谷川などを合流し、綾北町地先で合流して本庄川となり、さらに宮崎県柳瀬において、大淀川に合流し、日向灘に注ぐ流路延長45.4km、流域面積 216.3km2、平均河床勾配 1/86と比較的急流の一級河川である。

 田代八重ダムは、この綾北川の上流宮崎県西諸県郡須木村(現・小林市)田代八重地先に多目的ダムとして、宮崎県によって平成12年に完成した。なお、この田代八重ダムの下流に、同様に宮崎県施行による綾北ダム(昭和35年完成)、古賀根橋ダム(昭和33年完成)、一方、本庄川に綾南ダム(昭和33年)に竣工しており、これらのすべてのダムは、水力発電の目的を持っている。

(ー_ー)!!ここで・・黒原山は「多良木町」ではありません。旧岡原村、現あさぎり町でございます。

\(◎o◎)/!しかし、黒原山を発する綾北川は「本庄川」と合流し大淀川に合流。ちなみに「本庄川」は「綾南川」であり、「綾南川」はコレマタ「黒原山」が水源となっています。

転記を続けます(..)
綾北川総合開発建設事務所・アイドルエンジニヤリング(株)編『田代八重ダム工事誌』(宮崎県・平成12年)によれば、田代八重ダムは4つの目的を持って建設された。

・ダム地先の計画高水流量1240m3/sのうち、 350m3/sの洪水調節を行い、綾北川沿川地域の水害を防除する。
・ダム地先下流の綾北川、本庄川沿川の既得用水の補給や川の動植物の生息環境、水質、河川の景観を守るなど河川環境を図る。用水補給対象区域は総面積 850.45ha である。
・宮崎市に対し、水道用水として新たに 0.694m3/s(60,000m3/日)の取水を可能ならしめる。宮崎市の人口は36.7万人(平成18年9月現在)、この水道水の供給量は約14万人分であって38.8%にあたる。
・新たに、田代八重発電所を建設して、最大出力 5,800KWの発電を可能ならしめる。

\(◎o◎)/!わ〜〜〜〜っ黒原山すごいです
「宮崎市の人口は36.7万人(平成18年9月現在)、この水道水の供給量は約14万人分であって38.8%にあたる。」

黒原山(あまひき嶽)は、日向(宮崎県)を潤す「山」だったのです・・
知らなかった〜。父に話したのですが、父も知らなかったそうです。

ちなみにサイト内にある「宮崎県にある主なダム位置図」をご覧ください。
綾北川そして綾南川(本庄川)の源流(水源)は「黒原山(あまひき嶽)」。
川内川と岩瀬川(大淀川水系一級河川)の源流(水源)は「白髪岳」です。

本庄川 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E5%B7%9D
本庄川(ほんじょうがわ)は宮崎県の小林市、東諸県郡綾町・国富町、宮崎市を流れ大淀川に注ぐ一級河川である。綾北川と合流する国富町からの上流域では綾南川とも呼ばれ、上流及び綾北川合流点周辺は九州中央山地国定公園の区域であり、名水百選、水源の森百選 - 綾の照葉樹林、「21世紀に残したい日本の自然百選」- 綾渓谷の照葉樹林[1]、森林浴の森百選 - 九州中央山地国定公園綾地区[2]にも選定されている。また、照葉樹林都市・綾として水の郷百選[3]に選定されている綾町を形成する川である。
地理[編集]
小林市と熊本県球磨郡多良木町県境の山麓の河ノ口谷上流を源にし、数々の谷川が流入し途中九瀬川が流入し氾濫原を形成した後、綾南ダムで小野湖に流入したあと多古羅川が流入しV字谷を形成し、綾町と国富町との境で綾北川と合流し複合扇状地を形成する。その後並行して互いに河岸段丘を形成する深年川と合流して大淀川に流入する大淀川最大の支川である。

\(◎o◎)/!黒原山は日向(宮崎)の人々の恵みの「山」だったのです。

ちなみに白髪岳は川内川と岩瀬川の源流(水源)でした。
岩瀬川 ウィキより
宮崎県小林市・西諸県郡高原町・熊本県球磨郡あさぎり町を流れる大淀川水系の一級河川。
岩瀬ダム
http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2833
という事は「黒原山」と「白髪岳」は日向(宮崎)の方々のすご〜い恵みの「山」という事ですね・・

本当に知りませんでした・・
黒原山(あまひき嶽)と水のイメージが中々湧かないナンテ言いまして
「黒原山」様、ごめんなさい(..)すみませんでした(..)

という事で、歴史とは無関係ですが、この事実を知って、「黒原山(あまひき嶽)」と「白髪岳」を格別の思いで見ています(^・^)

そう言えば・・椎葉のおじから、「久米から槻木、黒原山の反対側を通り、「綾」に抜ける道がある」とも聞いていました・・なるほど・・

という事で
「黒原山」の知られざる姿〜わぁ〜知らなかった!〜 
でございました(^・^)
[21]子孫よりさんからのコメント(2015年05月06日 10時48分19秒 ) パスワード

追記

歴史と無関係と書きましたが・・それではいけない(ー_ー)!!と思いまして・・
「大淀川」が気になって記紀との繋がりを見たのですが

大淀川流域地名いわれ事典本文「お」
52 小戸町(おどちょう) 宮崎市
昭和26年頃に誕生した町名で、元来の「小戸の橘(たちばな)」に由来すると思われる地名である。現在、同じ「小戸」という名の「小戸神社」は鶴島3丁目にあるが、元は大淀川下流左岸にあり下別府村に鎮座(ちんざ)していた。つまり神話伝説の「小戸」の地は、元来大淀川下流左岸とされており、小戸町がその地に復活したのかも知れない。

053 小戸の橘(おどのたちばな) 神話地名
イザナキノミコトが「みそぎはらい」を行ったという神話から出た地名で、『古事記』には「日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきがはら)」、『日本書紀』には「日向の小戸の橘の檍原」と記されている。かつて宮崎の人々はこの地が大淀川河口付近左岸にあったと信じて止(や)まなかった。門も戸も「と」であり「小さな門・水門」を意味し、橘は「断鼻(たちばな)」の当て字で「台地・自然堤防の崖」などの意味もある。神話の「橘」は地名をかざる言葉でもある。

(-.-)『古事記』には「日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきがはら)」
(-.-)『日本書紀』には「日向の小戸の橘の檍原」
(-.-)かつて宮崎の人々はこの地が大淀川河口付近左岸にあったと信じて止(や)まなかった。
(-.-)橘は「断鼻(たちばな)」の当て字で「台地・自然堤防の崖」などの意味もある。神話の「橘」は地名をかざる言葉でもある。

そうなのですね・・
大淀川河口付近左岸の「橘」の地・・か・・

うん??という事は家や黒原山(あまひき嶽)は上記の記述とは逆ですね(^・^)

我が故郷は「大淀川」の河口ではなくて「大淀川」の上流・・
大淀川の支流「綾北川」「本庄川」の源となる「黒原山(あまひき嶽)」は・・
球磨弁で言うと
おどの(「おど」は球磨弁で「私」)土地は大淀川の源となる黒原山(あまひき嶽)を持つ橘の土地やったとバイ。
と・・記紀とは全く逆の位置関係でありました(^・^)

うんがっ?!ふざけるな!と皆様に叱られそうなので・・この辺りで・・(..)
では(^・^)
[22]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月06日 10時53分32秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫よりさん へ
 
>という事は「黒原山」と「白髪岳」は日向(宮崎)の方々のすご〜い恵みの「山」という事ですね・・
 
山岳名で部族が解ることは「古代日本領土の起源」で明らかですね!
アイヌ族の権利を示すのが黒原山。
辰韓系種族の権利を示すのが白髪岳。
 
肥後は九州アイヌの本拠地、熊本、球磨の地名も同様。
また白木の地名多く、辰韓(後の新羅)からの移住者が多いことを暗示。
この辺りは、記紀と拾遺のみに頼っていると解らない。
[23]子孫よりさんからのコメント(2015年05月06日 12時11分50秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

・アイヌ族の権利を示すのが黒原山。
・辰韓系種族の権利を示すのが白髪岳。
・白木の地名多く、辰韓(後の新羅)からの移住者が多いことを暗示

そして、以前、「森園」球磨弁モイノソンに関してコメントした際には
・宮原の「はら」を「はる」と呼ぶのは、馬韓(百済)系地名の証拠。
・豊筑肥地域が、馬韓(百済)語からの影響が大きい為。
・森も百済語の「ムイ」が訛って「モイ」になったものと。

とご教示を頂いていました。
さらに「久米郷」に関して書籍「山部の系譜」には
・太田亮は南九州の山岳地帯に住んでいた久米部は、山部の総領的な管理者だったとするのである。

とありました。

という事は・・・
古代の球磨には、沢山の「種族」が集まっていた・・集結していた・・という事でしょうか・・?

「古代日本領土の起源」・・お小遣い・・いえ(ー_ー)!!「ヘソクリ」を貯めて必ず買います(^・^)(ヘソクリとか書くと父に叱られそうです(-.-))
(^・^)

では(^・^)
[24]子孫よりさんからのコメント(2015年05月06日 22時10分27秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

実は、今日、コメントを書いた後に出かけて来まして・・
青島神社にお伺いしてお参りをさせて頂きました。(^・^)

急展開?だったのですが・・
昨日、主人が帰宅後に家で洗車して、車をピカピカに磨き上げた事もあり、父が
「せっかくだから何処か二人で出掛けておいで(^・^)」
と言ってくれまして・・

父も一緒にと誘ったのですが、「二人でゆっくりとしておいで」と言ってくれて、甘えて出かけたのですが・・
何処に行くとも主人は私には言わずに、しばらくしてナビに設定しているので
「何処に行くの?」と聞いたところ
「この前、仕事帰りにテレビで見た青島に行ってみたい(^・^)」と・・
そして・・主人は「行きは高速道路は使わない」と言って・・
ナビ通りに進むと、何と今朝、コメントした小林市野尻の「岩瀬ダム」の横を通り、「高岡」に入り、大淀川の横にある道の駅で一休み。

もちろん、主人は、私が今朝、コメントした内容など全く知りません(ー_ー)!!
私は、ただただ、心の中で「びっくり!!」していました。

宮崎市内に入ると、大淀川沿いに車は進み「河口」が見えてきまして・・
私は今朝、ふざけたコメントをした事を心から反省致しまして・・
「すみませんでした」と土地の神様へお詫びを致しました・・(..)

青島神社には子供の頃伺って以来、本当に何十年ぶりにお参り致しました。
青島神社ホームページ
http://www.aoshimajinja.sakura.ne.jp/

主人は、太平洋を見たのは初めてで、水平線を見つめながら、
「日本海の水平線の先には中国大陸。でも、この海の水平線の先は、まだまだ、海が続いているんだね〜」と・・
確かにそうですね・・私は、8歳まで、太平洋はいつも見ていたので、そういう事をあまり考えた事がありませんでした・・

青島神社にお参りしたらそのままとんぼ返りでした(遅く家をでましたので・・)
帰る前に父に電話をしました。
きっと「青島」まで来ていると聞いたら父は驚くだろうな〜と思った所・・
父は「やっぱり、そうだったのか(^・^)そんな気がしていた」と・・
(?_?)(?_?)(?_?)「何故?解っていたのか???」

主人といい父といい・・
何故か不思議な能力?を持った男性陣でございます・・(?_?)(?_?)

という事で、今朝のコメントは・・
何故か?この目で確かめる事となった?一日でございました・・
では(?_?)(^・^)
[25]子孫よりさんからのコメント(2015年05月07日 07時02分23秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、日本の苗字七千傑様よりご教示頂いた

・アイヌ族の権利を示すのが黒原山。
・辰韓系種族の権利を示すのが白髪岳。
・白木の地名多く、辰韓(後の新羅)からの移住者が多いことを暗示

こちらの「アイヌ族の権利を示すのが黒原山」
そして「肥後は九州アイヌの本拠地、熊本、球磨の地名も同様。」

このお言葉を頂き、今まで、九州アイヌについて全く勉強していなかった事を反省して、故郷「球磨」そして「アイヌ族の権利を示す黒原山」の麓に住む私は、きっと何かを理解すべきなのかな?と考えました。

そこで、今朝は、早速「九州アイヌ」について調べようと思ったのですが・・・

\(◎o◎)/!日本の苗字七千傑様のサイト内に「九州アイヌ」そして「熊国」について重要な記述があるではありませんか!
\(◎o◎)/!・・というかヒントを頂いても昨日「ピン!」とこなかった私が情けないです(..)・・

日本の苗字七千傑様のQ&A「邪馬台国とは」をじっくり読ませて頂きました(..)
リンクが貼れないので、すみません(..)転記させていただきます。

中国、朝鮮においては、倭人は呉の太伯の子孫と考えられている。
 松野連(新撰姓氏録右京諸蕃漢条に記載)は呉王夫差(在位;紀元前495−紀元前473)より出づとあり、系譜によれば子慶父忌とともに筑紫に来たり、肥後国菊池郡山門里に住するとある。
 呉滅亡(前473)を契機として山東半島の倭族が朝鮮半島の中・南部に亡命して辰国を建国した時期である。
 呉の地域は長江下流にいた倭族居住地であり、呉王一族が日本列島の筑紫へ脱出したことも符合する。
 雲貴高原で稲作を始め長江下流に居住していた倭族が呉王一族とともに九州北部へ移住したことは、菜畑遺跡(佐賀県)、板付遺跡(福岡県)などから同一年代であることが確認できる。
 来朝後、評督となるとあるから熊国王(現在の熊本・佐賀・長崎の領域のリーダー)となったのであろう。

漢土に対しては倭国王を名乗り、後漢時代は朝貢を行ったことが後漢書から確認出来る。
 松野連の祖の系譜を見ると、卑弥呼、卑弥鹿文(卑弥弓呼か?)、難升米、倭の五王(讃、珍、済、興、武)があり邪馬台国の家系なのかと思われる。

\(◎o◎)/!そして・・
邪馬台国の風習として男子の入れ墨があるが、熊国(特に肥後)は九州アイヌの本拠地だったので符合する。

\(◎o◎)/!・・・(..)・・そうか・・
日本の苗字七千傑様より、かなり以前から熊国(球磨国)と邪馬台国の関係についてご教示頂いていました。

黒原山を調べて「恵みの山」という事が十分理解できまして、あらためてご教示頂いていた事が「どのような意味」を持つのか・・解りました(^・^)

日本の苗字七千傑様ありがとうございます。

自分の先祖に関する調査を続けていますが、この土地(旧岡原村宮原)に祖父母の其々の先祖が住しておそらく700年〜800年?・・

其々の先祖が移り住んだ土地が古代においてどのような「場所」であったのかを知る事は、やはり重要な事なのだと思います。

故郷に戻り、様々な事に興味が湧いています。
本当に「次々」とです(^・^)

帰って来てよかったな〜と実感しています。
では(^・^)
[26]子孫よりさんからのコメント(2015年05月08日 07時45分21秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

早速ですが、昨日、古い書類等を見ていたら・・
見つけました(^・^)

家の家督相続 高祖父からの相続関係説明図 というのがありました(^・^)(昭和61年作成)

戸籍(除籍)が添付されていて前戸主「高祖父」からです。
まず、驚いたのは、私の曾祖父は「慶応3年(1867年)」の生まれでした。江戸時代です。
ですから、私の祖父が生まれたのは計算すると「曾祖父」40代後半という事になります。

さらに「高祖父」の母は「文政6年(1823年)」生まれ。蓑毛家から宮原家に嫁いで来られていました。蓑毛○○長女となっています。
「高祖父」の妻、すなわち高祖母は「嘉永6年(1853年)生まれ。久保○○左エ門もしくは久保元?○左エ門三女となっています。「久保」の横の字が読めません・・(..)
曾祖父の妻、すなわち宮原の曾祖母は先日コメントしましたように新堀家から嫁いで来られています。明治2年生まれです。

「文政」とか「嘉永」とか「慶応」とかに生まれた方々の戸籍がよく残っていたな〜とびっくりしました。

ちなみに・・先日見つけた別の戸籍には、曾祖母は「士族新堀○○」と記載されていたのですが、今回見つけた戸籍には、「士族」という所が消されています。
前回、ご紹介した戸籍(除籍)と今回見つけた戸籍(除籍)の全員の記載欄をよ〜く見ると「身分」が解る部分が全て消されていました。
調べたら、本来、書いたらいけないそうで・・という事は曾祖母の欄を書いた時に担当の方が「うっかり」消し忘れていたようです。(ありゃりゃ〜〜でも、そのお陰で新堀の高祖父について「岡原村史」に名前があるのに気が付きました。
そのお話はまた、後日(..)・・ちなみに西南戦争に関係するお話です・・「官軍」だったようです・・この続きは「後日」(..)

そして、最大の「発見」は!
曾祖父は「多良木」の久保田家から宮原家に子供の頃、養子に入られていました。
入籍して数年後「遺跡」相続となっています。「遺跡」って何だろう?

やっと解りました(^・^)
「久保田家」は多良木の「久保田家」です。「古多良木」じゃないかな?という事です。

慶応3年に生まれた曾祖父は「久保田家」から「宮原家」に養子に入ったという事です。
やっと、解って、遠い存在に感じていた曾祖父がすごく身近な御先祖様となった気がします。

ちなみに多良木「久保田家」なのですが・・
気になる記述がありまして・・
相良氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F

こちらの下の部分に
「相良宗家には35、上相良家には8の小苗字を有する家が存在した[9]。以下に列記する。」とあり
上相良家[編集]
井口 岩崎 乙益 久保田 黒肥地 新堀 鍋倉 肥地岡

(-.-)!上相良家よりの「小苗字」。知っているだけでも「3家」は親戚となります。(実は「うちの一族?」に黒肥地家から嫁いで来られている方がいらっしゃいます)

さらに、家の宮原家には高祖母が「蓑毛家」から嫁いでこられているし・・深水家・犬童家・桑原家・愛甲家・・知っているだけでも「相良宗家35小苗字」(ウィキに記載)には複数の親戚の姓がありますね・・

なんだろう?藩内での繋がりでしょうね・・

しかし、曾祖父が生まれた「久保田家」が上記の「久保田家」とは限らないし・・
しかし、調べたのですが、多良木に現在「久保田家」は14軒で、半数以上は古多良木地区なのですよね・・???さらに・・この古多良木という地区は以前は久米郷東方だったのですよね・・????何だろう気になります。

しかし!!「曾じいちゃん」の事がかなり解ってとても嬉しいです(^・^)
では(^・^)
[27]子孫よりさんからのコメント(2015年05月09日 09時37分56秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

早速ですが、昨日、コメントした「岡原村史」第一巻(平成5年発行)岡原村教育委員会 からの記述を御紹介致します。

その前に・・先日書かせて頂いたように、家の「強い絆の一族(親戚)」の中には「島津家」に関係する姻戚関係がありました。嫁いで来られたのではなく・・すなわち「男性」です。(すみません(..)詳しく書けません)
色々な理由があり、こちらの「一族」の元に来られていたのですが、数年後結局は、迎えに来た家臣達の説得により、薩摩に戻り、時代は西南戦争へと突入・・という事です。(男子が産まれたのですが、父であった方は、西南戦争で亡くなり、その子(男子)は球磨に戻り、家の親戚「某家」を継ぎました)

では、岡原村史から、抜粋して転記します。
「岡原村史」より
十六日に鹿児島を立った西郷は二十日には人吉に到着。永国寺に一泊すると、翌日は川舟で八代へ向かった。
人吉隊の出兵については有志間に相当ひどい議論もあったが、出兵論者の急先鋒田代醇は自ら檄文を草して同志を募り、大十四大区長神瀬鹿蔵を総長に推し、百三十六名の兵団を組織して人吉一番隊と称し三月四日、全員川舟で出発した。
そして、人吉隊は初めて植木の戦いに加わり、木留、吉次越の戦闘に従ったが、この第一日目の戦闘で総長神瀬鹿蔵は戦死し、二十六日には自ら出師の檄文を草して出兵の急先鋒であった田代醇が自刀した。
「政府に尋問の筋あり」として立ってみると、錦旗に対して鉾を向ける結果となってしまった事に対し自責の念に耐えなかったのであろうという。

ここで・・中略しますが
激戦を繰り返す中、四月に入り人吉隊は戦況不利となり、六月四日には遂に全員官軍に降伏した・・という事です。

では、続けて転記します(..)

その後全員共にいろいろと取り調べをうけねばならなかった事は勿論だが七月四日になって、その殆ど全員が別働第二旅団第十二聯隊付属第二中隊に編入され、薩軍追撃に参加した。

(p_-)ではここから「岡原村」に関する記述に入ります(..)
転記続けます。
中略・・
それに、人吉一番隊・二番隊・三番隊にも、宮原村からも岡本村からも一人も参加した者は無かったのに、どうした事かこの付属第二中隊には、第二分隊に宮原村の新堀清七が、第四分隊には岡本村の那須貞次郎と犬童菊次郎とが加わっていたのであった。・・・略章

(p_-)・・・・
上記に書かれている「新堀清七」という方は、宮原の曾祖母の「父」です。
戸籍には曾祖母は「士族新堀清七」長女と書かれています。
岡本村の「那須貞次郎」という方と「犬童菊次郎」という方・・
岡原村史に書かれているように
※宮原村からも岡本村からも薩軍となった人吉隊には一人も参加したものは無かった
※「どうした事か」付属第二中隊(官軍)には宮原村・岡本村から三名が加わっていた・・

とあり、「岡原村史」を書いた方も「???」のような表記になっています。
この事を父に話したのですが・・
「宮原の曾ばあちゃま(曾祖母)のお父さんが官軍に参加・・う〜んやはり、そうなるだろうね」
と言っていました・・
(?_?)私には、よく意味が理解できませんが、父は納得しているような表情でした・・(?_?)

という事で、今朝は「岡原村史」に記載されていた、宮原の曾祖母の「父」である方と西南戦争に関するお話でした。
では(^・^)
[28]子孫よりさんからのコメント(2015年05月09日 14時02分37秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

朝のコメントは西南戦争と宮原の曾祖母の父「新堀氏」についてコメント致しましたが・・

実は、昨日から「相良氏」と「宮原(伊予橘)」と「平川氏」という言葉が頭をグルグル駆け巡っていまして・・どうしてもこの関係が気になって仕方ありませんでした。

そこで、色々調べていたのですが・・・
球磨以外の場所でも、「相良」「宮原(橘公業後裔)」「平川」という「言葉」(あえて言葉と書きます)は繋がっています\(◎o◎)/!
キーマンは「本多氏」です。

本多氏は先日からコメントしていたように「本多助久」この方が「遠江国 城東郡 平川村」の領主です。
(黒田家に拘りすぎて大事な事を見失っていました・・)

さらに遠江相良藩藩主も「本多氏」・・では早速・・

まずは「遠江相良藩」 ウィキの記述をご覧ください
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E8%97%A9

藩史[編集]
宝永7年(1710年)、本多忠晴が三河国伊保藩より1万5000石で入部したことから立藩した。延享3年(1746年)、第3代藩主・本多忠如のときに陸奥国泉藩へ移封となったため、入れ替わりで板倉勝清が1万5000石で入る。寛延元年(1748年)11月、勝清は2万石に加増されて城主格となる。しかしその翌年、勝清は上野国安中藩へ移された。代わって三河挙母藩より本多忠央が1万石で入る。ところが宝暦8年(1758年)、美濃国八幡藩の金森氏が騒動や苛酷な統治を理由に改易となると、その縁戚関係にあった忠央も連座として改易されてしまった。
代わって第9代将軍・徳川家重のもとで頭角を現わし始めていた田沼意次が1万石で入った。意次は第10代将軍・徳川家治のもとで宝暦12年(1762年)2月15日に5000石、明和4年(1767年)7月1日には側用人に栄進して5000石を加増されて2万石の大名となり、さらに城主格に任じられて相良城の築城を許された。相良城は安永7年(1778年)に完成した。ちなみに田沼は安永元年(1772年)1月に老中に出世し、「田沼時代」を現出し、権勢並ぶ者なしの栄華を極め、所領は最終的に5万7000石にまで加増された。順次加増されたため、5万7000石の内訳は遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7ヶ国14郡に跨った分散知行となった[1]。
藩政において、築城とともに城下町の改造を行なって手腕を見せた。意次は郡上一揆の調査と裁定を行った経歴から、年貢増徴政策だけでは家を滅ぼすことを知っていたので、家訓で年貢増徴を戒めており、領内の年貢が軽いことから百姓が喜んだ逸話が残されている。江戸定府であった意次は国元の町方と村方の統治を明確化し、城代・国家老などの藩政担当家臣を国元に配置した。殖産興業政策にも取り組み、農業では養蚕や櫨の栽培を奨励、製塩業の助成、相良港の整備、瓦焼きにも助成金を出して防火対策を進め、食糧の備蓄制度も整備した。また、東海道藤枝宿から相良に至る分岐路を整備し、これは後に田沼街道(相良街道)と呼ばれることとなった[2]。
しかし天明6年(1786年)、家治が死去すると松平定信の粛清にあって意次は失脚して強制的に隠居させられ、意次の孫・田沼意明が家督を継いだが、陸奥下村藩に1万石で移封された。定信はさらに、和泉国岸和田藩主の岡部長備をして相良城を破却せしめ、相良藩は廃藩となる。
その後、文政6年(1823年)7月8日、徳川家斉の尽力もあって意次の四男・田沼意正は旧領相良に1万石で復帰を許された。第3代藩主・田沼意尊の代である明治元年(1868年)、上総国小久保藩へ移されたため、再度廃藩となった。

歴代藩主[編集]
本多家[編集]
1万5000石 譜代
本多忠晴(ただはる) 従五位下 弾正少弼
本多忠通(ただみち) 従五位下 弾正少弼
本多忠如(ただゆき) 従五位下 越中守
板倉家[編集]
譜代 1万5000石→2万石
板倉勝清(かつきよ) 従四位下 佐渡守 侍従
本多家[編集]
1万石 譜代
本多忠央(ただなか) 従五位下 長門守

(-.-)宝永7年(1710年)、本多忠晴が三河国伊保藩より1万5000石で入部したことから立藩した相良藩。

本多忠晴 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E6%99%B4

本多 忠晴(ほんだ ただはる)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本、大名。陸奥浅川藩の第2代藩主、三河伊保藩主、遠江相良藩の初代藩主。忠以系本多家2代。文武両道の名君だったと言われている。
生涯[編集]
寛永18年(1641年)、江戸で本多忠義の四男として生まれる。

(p_-)系譜・・
父母 父:本多忠義、母:法光院(森忠政の娘)
養父:本多忠以

\(◎o◎)/!母:法光院(森忠政の娘)

森忠政 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%BF%A0%E6%94%BF
森 忠政(もり ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃国川中島藩主、後に美作国津山藩の初代藩主。
家系[編集]
本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れ。八幡太郎義家の四世孫・森伊豆守頼定を祖とする。
元亀元年(1570年)、美濃金山城で織田信長の家臣、森可成の6男として生まれる。母は美濃の豪族林通安の娘えい(後の妙向禅尼)。幼名は仙千代。誕生と同年中に父が戦死(長兄の可隆は父に先立って戦死)したために次兄の長可が家督を継いでいる。

\(◎o◎)/!何という事でしょうか(?_?)・・\(◎o◎)/!

※遠江相良藩の初代藩主「本多忠晴」の母は森忠政の娘。
※森忠政は八幡太郎義家の四世孫・森伊豆守頼定を祖とする。
※森伊豆守頼定の妻は、宮原家の先祖「橘公業」の娘「薬上助局」

あんにゃ〜〜〜〜〜〜〜〜!!(変な声が出てきました)
どうしよう・・

子 重政、虎松、忠広 於松(池田長幸正室)、黒(森正信室)
  菊(池田忠継室→鳥居忠恒正室)
  宮(四条殿、池田長幸継室)
  郷(関成次正室)、法光院(本多忠義正室)
  養子:長継

うんがっ!(マタマタ変な声が・・)
池田氏・・それに関氏・・うん?「関氏」??
関 成次 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%88%90%E6%AC%A1
関 成次(せき なりつぐ)は、美作津山藩家老。津山藩第2代藩主森長継、宮川藩初代藩主関長政の実父。
織田氏家臣関小十郎右衛門成政の五男。天正12年(1584年)、父成政が小牧・長久手の戦いで戦死したため、母と共に母方の叔父森忠政を頼る。成長して忠政の家臣となり、その娘於郷を娶り家継、長政、衆之の三子を儲けた。舅忠政の男子がすべて早世したため、寛永10年(1633年)嫡男の家継(長継)がその養嫡子となる。同年忠政が死去したため、長継がその跡を継いで第2代藩主となった。寛永11年(1634年)、長継の家督相続の御礼言上の際に、森家家老の大塚主膳三俊、森采女可春、各務主水正利、森左近正信とともに二条城で将軍徳川家光に拝謁した。

氏族 関氏
父母 父:関成政、母:碧松院(森可成の娘)
兄弟 武兵衛、宇兵衛、了向、成次
妻 正室:郷(森忠政の三女)
子 森長継、長政、衆之、長(森三信正室)、
伊勢松(森正方正室)

あの・・・関氏といえば・・ぎゃあ〜〜〜〜!!
宮原家の先祖「橘公綱」の母は「平頼綱」と同母兄弟で・・「平頼綱」は「平姓関氏の流れとする」とあり・・
うん??でも、こちらは「美濃関氏」ですね・・?あっ「関氏」違いか・・
うん??何かモヤモヤしますが・・

(p_-)じゃあさらに・・遠江国城東郡嶺田(現・静岡県菊川市下平川)代官は「黒田家」そして領主は「本多助久」。

本多助久
生没年:1709-1730
父:三河岡崎藩三代藩主 本多忠利
妻:
1663-1725 助芳

父の本多忠利とは三河国岡崎藩主の「本多忠利」です。(同名の陸奥国石川藩主、三河国挙母藩主という方とは別人です)
本多忠利 (岡崎藩主) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E5%88%A9_ (%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E8%97%A9%E4%B8%BB)
本多 忠利(ほんだ ただとし、慶長5年(1600年) - 正保2年2月10日(1645年3月7日))は、三河国岡崎藩主。広孝系本多家3代。
本多康紀の長男。母は松平家清の娘。正室は井上正就の娘。子に本多助久(長男)、本多利長(六男)、本多利朗(七男)、本多利政(九男)、本多利義(十男)、娘(太田資次正室)、娘(本多重時室)。官位は従五位下、伊勢守。

(p_-)・・遠江相良藩初代藩主であり「源頼定」の後裔「森忠政の娘」を母とする・・「本多忠晴」
(p_-)・・「遠江国 城東郡 平川村」の領主は「本多助久」・・

「本多氏」・・「森氏」・・「橘公業流・・」・・「平川」・・・
偶然??でしょうか・・・?

ちなみに・・人吉藩相良家とも本多家は姻戚関係にありました・・
相良長在の娘「於鷹(播磨山崎藩四代藩主 本多忠堯室)」

という事で、マダマダ調査は続行します。
では(^・^)


[29]白石さんからのコメント(2015年05月10日 00時03分32秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 高岡の情報ありがとうございます。

>19大溝左近将監高岡
この方の個人的情報が検索できませんでしたので
大溝という言葉から神社を探してみました。

大溝神社 (あわら市) - 玄松子の記憶 神紋 八つ藤
祭神・武甕雷命 經津主命 姫御神 天津兒屋根命 天押雲命
   天押雲命は、当社に合祀された新用鎮座の村社・春日神社の祭神。祭神から、当社が春日系の神社であることは明らか。
福井県あわら市(旧金津町)にある。 あわら温泉駅の西1Kmほどの馬場に鎮座。 地図 で確認すると、大溝一丁目なのかもしれないが、 資料の住所では馬場。 竹田川の南に あり、 道に面して南向きに、垣に囲まれた境内。 鳥居の脇には、「村社 式内 大溝神社」

あわら・・・?葦原 

祭神・神紋から 太田亮氏が古い辞典に書いている 皇別物部氏がおり 春日の族なり と書くのに あてはまっていくようです。

又 
異本物部系図に 
ふつのみたま・・・たけみかづち・・・高倉下命とついており この方は尾張氏へ。

ひのはやひ・・・ニギハヤヒ・・・うましまじ・・・物部氏へ

ふつのみたまの横のぽっちりを押すと 国常立命 この方は 盤古氏になぞらえられ 亦曰「伊奘諾尊」是唐土之称「伏羲氏」、伊奘冉尊」是称「女禍氏」。
按元初者無人而無文字越人之智。

又 7000傑様サイトでは 異説として
わだつみとよたまびこ・・ふりたまみこと・・あまのまえたまみこと・・たかくらじのみこと・・あまのおしひとみこと 
をあげており
過去のコメントに登場した人たちです。




[30]子孫よりさんからのコメント(2015年05月10日 08時44分05秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございました(^・^)

ご紹介した情報をお調べになられたのですね。
少しはお役にたてたかな?嬉しいです(^・^)

福井県あわら市(旧金津町)には「芦原温泉」がありますね・・
うむむ(p_-)・・(^・^)

所で・・
昨日「本多氏」について「相良」「本多」「平川」「伊予橘氏・橘公業」・・と何だかモヤモヤする情報ばかりが登場しました・・

でも・・実はですね・・きっと偶然なのだと思うのですが・・
主人の叔母は「本田家」に嫁いでいらっしゃいまして・・

つまり「望月家」→養子に入る「中村家」→ 嫁ぐ「本田家」となります。

球磨に帰郷する前に、主人の親戚の方々との食事会があり、今まで皆「口に出していなかった」其々の御先祖様の話で盛り上がりまして・・
(きっかけは、主人の母方の中村家の伯父が「氷川町の方に出張した事があるけれど、あちらの宮原という地名と「宮原家」とは何か関係あるのかな?」の一言からでした・・すると皆さん其々が「実は家はね・・」となった訳です・・)

この時に本田の叔父様が
「僕の実家は大分県。集落は本田一族と呼ばれて、本田家ばかり。家の本田家は、先祖が”村上水軍”や”伊予の水軍”とも繋がりがあったと、子供の頃から聞いていますよ。すごい田舎だけど、でもね神社やお寺はそれは立派なもので・・帰省すると改めて誇りに思いますよ(^・^)」
と言われていました。
その時に「おんやっ??(?_?)」何だかご縁がありそうな・・と思ってはいたのですが・・

でも「本多」と「本田」は違うしな・・?とこの頃の調査で「ホンダ」という文字があまりにも「目」に入るので気にはなっていたのです・・

今朝・・そもそも「本多氏」とは?と(そこからかい!!の声が・・(..))
本多氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%B0%8F

本多氏(ほんだし・ほんだうじ)は、日本の氏族の一つ。もともとは本田氏と共用された姓氏であったが、いつの間にか分別されたという。
江戸時代の譜代大名・旗本家となった本多氏が著名である。他に、織田伊勢守家の家臣から外様大名となった本多利久・本多利朝の一族(大和高取藩家)も存在する。

(?_?)・・本多氏・・もともとは「本田氏」と共用された姓氏であったが・・
あんにゃ・・??

転記を続けます(..)
藤原氏北家兼通流の二条家綱(家満)の後裔と自称した右馬允秀豊が豊後本多郷を領したことから本多氏と称したことから始まるという。南北朝時代に助定の代に足利尊氏に従い、戦功で尾張横根郡と粟飯原郡の地頭となり、室町幕府の奉行衆も兼ねた後に三河に移住したのが定説とする。

(?_?)あんれっ・・「右馬允秀豊が豊後本多郷を領した」
豊後本多郷・・豊後・・豊後・・大分県・・あれっ?大分県です(?_?)

主人の叔父さんは「大分県」出身で・・集落は「本田一族」と呼ばれる方々が住んで・・(?_?)・・何だろうこれは・・偶然??

主人は学校を卒業して本田の叔父のもとで数年間仕事をしていました・・
それから・・一念発起して専門学校に入り・・資格を取って・・今の会社に入り・・私と出会った・・

叔父の「本田家」と「本多家」は関係ないのかも知れませんが・・
でも・・マタマタもしかしたら「奇縁」なのかも??などと考えてしまうのは・・何故?かな??

何せ、主人は私と出会い、旧「豊前国副田庄」で仕事をしていて、現在は旧「肥後国球磨郡久米郷」に住み、旧「日向国飯野郷原田村」で仕事をしていますので・・

何だか、「土地」と縁があるのは「私」だけではなくて「主人自身」もそうなのかな??ナンテ考えてしまいました・・??

朝から、(?_?)となったところで・・もう一つ「あれっ?」という事を「宮原村下地」で見つけたのですが・・
このお話は、また、今晩でも・・

では(^・^)
[31]子孫よりさんからのコメント(2015年05月10日 09時21分31秒 ) パスワード

追記・・

さきほど、本多家と本田家で???となった所で、やっぱり気になるのでコメントしますが・・

「宮原村下地」は「岡原村史」の裏面にも2ページに渡り記載されていまして・・
先日ご紹介した「おかはる」の表紙では載っていなかった部分まで解ります。
でも、縮小してあるので、例のごとくルーペで見たのですが・・

馬場田と書かれている大きな円(四角に近いような縦に長いだ円?)のような空白域を取り囲むように「森」があります。かなり広大な領域です。
この「森」には至る所に「鳥居」が描かれています。
馬場田を取り囲む「森」の左中央付近が私の祖父の生家であり「宮原城主居館跡」である家です(かなり大きく描かれています)。
馬場田を取り囲む「森」の右側(南西?側)にはこれまた「大きな」家々の集落?がその「森」の中に点在しています。
おそらく、ここが、現在の「侍村」。旧小字の「外園」だと思われます。

問題は・・
祖父の実家下の領域から「侍村」にかけて横に広いだ円で囲まれていまして・・
要は馬場園とそれを取り囲む「森」の地域の「下方三分の一」程を横広いだ円で囲み、なお且つ色分けされていて、そこに「久米氏」と書かれているのです・・
「久米氏」です・・そのだ円で囲まれた領域一番右側(方角でいうと南西側?)がどう見ても祖母の実家「平川家」です・・(?_?)

何故?色分けしてわざわざ囲んで「久米氏」・・???

「宮原村下地」が作られたのは「文化10年(1813年)」。なのに何故?「久米氏」???????????

何だか不思議なものを見つけたような・・
さらにとても気になるのが馬場田と呼ばれる空白域とそれを取り囲む大きな森。
馬場田は「森」で守られているような・・
ぱっと見たらまるで巨大な「古墳」域のようです・・

何だろうこれは?今日、本に載っている「宮原村下図」を拡大コピーしてこようと思っています。

でも「久米氏」の「文字」には驚きました・・
では(?_?)・・(^・^)
[32]子孫よりさんからのコメント(2015年05月10日 09時23分54秒 ) パスワード

再追記・・
すみません、先程のコメントで「馬場園」と書いている所がありますが「馬場田」の間違いです(..)
[33]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月10日 21時09分03秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>現在は旧「肥後国球磨郡久米郷」に住み、旧「日向国飯野郷原田村」で仕事をしていますので・
 
現代の行政区画で考えているからですよ! 
宮崎県の西米良と椎葉は人吉藩支配地で有り、
平成の現代でも県都宮崎より人吉の方に属している感覚が大きい為です。
[34]白石さんからのコメント(2015年05月10日 23時43分49秒 ) パスワード

こんばんは
本田 ・・ 千寿の局のお父さんも 本田でしたね。ふっと 思い出しました。
ーーーーーーーーーーーーー
橘氏の母方は 神魂神へあがっていく。
先日 阿蘇から草部 日下部 山部 など 書きましたが
7000傑様サイトの山部氏でみましたら

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 久米氏/浪多門部氏/山部氏【1】
・度会氏と同じ神皇産霊尊を祖とする大久米命の後裔
・日本武尊東征時、七掬脛命が膳夫となり従軍する。子の八甕命は尾張国氷上祝

山部氏については 前に7000傑様からご教示をいただいていたと記憶していますが 改めて いろいろ勉強したあとで 見ると はっきり 見えてきたようです。何かコメントでみても すぐ つながってくる  というような・・・

系図を見ていると 山部赤人に至る系の祖先・伊加利子の妹が中臣可多能古と結婚・・・孫が鎌足。

遠祖・つはやむすびについては かもす の 妹か娘が 結婚していると本で読んだことがあり 又 かもすとつはやむすびは兄弟とも ・・両家の関係は 古代から 続いていたのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
平河 宮原をおいかけていたら 微妙に 近世 の 北白川家 武田家がでたけど 
左京神別に「竹田連、神魂命十三世の孫・ 八束脛命の後也」と見ゆ。
とあり
はるか昔から 縁があったのでは?と 思います。

四浦 川辺あたりを流れるかわは 川辺川といい 
川辺は 伊勢神宮にも社家があり
中村という家から 地域一帯にぐるぐる親戚がおり 
中村の地は 伊勢では 渡会の地であり
武田川辺 大伴武田の神 菌田と太田亮氏は書いており

神魂神がき姓であることは 知られている。

[35]白石さんからのコメント(2015年05月11日 06時22分32秒 ) パスワード

34 平河 宮原をおいかけていたら 微妙に 近世 の 北白川家 武田家がでたけど

竹田です。すみません。

川辺は 伊勢神宮にも社家があり
中村という家から 地域一帯にぐるぐる親戚がおり 
中村の地は 伊勢では 渡会の地であり

中村という家から 地域一帯にぐるぐる・・
四浦の話です。
アップする前に 見るのですが どうしても おかしくなっています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
きのう 隣のご主人が私の自転車をみて
「いやっ 新しいのを買って」というのです。
もうずいぶん前のもので何回もそれをみているのに いうのです。過去にも  私の赤いバイクを見て 黒いのだったではないか?どうしたんや? と言っていました。

すこしおかしいのではないのか?と 思うけど 外面がいいというのか 他の人にはおとなしく人当たりがよく 常識人の人です。

ところで
我が家は 二月に私が入院してからこっち 多額のお金が出て行って
先月も 私の病院関係だけでも 六万円近く かかり

パートの収入もふっとんでしまいました。
二月からずっとこの調子なので さすがに やりくりがきついところです。

おまけに
主人は 前立腺がんだと騒いでいて それも はっきりそうだと言われて 手術か何か対応が必要なのか?と聞くと そうでもない。  様子をみているところで 次の検診は二〜三か月先だというのです。

そうなったら大変だから 私も いろいろ 考えられることを 調べ 
この頃はいたくなく治療できる「免疫療法」というのがあるようだ
ということを知りました。ただ 保険がきかないそうで ワンクール110万位かかるそうです。

でも 言っていられない。放射線治療は本人もつらいみたいなので 
今 家には 大きなお金を出すゆとりがないから あなたの預金は私より二百万多くしてあるから それを使ってしのぎましょう

と 言ったら もう 逆上して 
自分のお金(本当はそうでなく 二人の共有財産ですよね。)をとりくずしたくないものだから 手が付けられないくらい起こるんですよ。

なおさら 血圧があがって 体に悪いばかりで
過去にも 同じようなことをやっているから またか というようなものです。

過去にも 同じようなことをやっているとは
私の親のことで 走らなければならなくなったとき 

電話がかかってきたら つい 十秒前まで ぴんぴんと 話していた人が いきなり 布団を引っ張り出して 風邪引いた と 寝てしまったのですよ。

お金が天から降ってくるわけでなし 自分は定年後働きもせず 妻は苦しい家計をやりくりしているのに 大きなお金がでたら 家は苦しいんだ という考えにはならず 妻の方で金を使うなら 自分も使わなければ 人生損をしている という考えなんだから。

おまけに 二月なんか 自分一人でやりくりして 天引き分以外の生活費を15万円でやってのけた  ・・・ と 大いばりですが
それでは 年金は 一人で吹っ飛んでしまうではないか?私が働くのをやめたらどうするんですか? ですよ。

夫は 結局 定年後働かず早く年金をもらっているので 本来の七割くらい。20万円をきっているので やはり きついです。

それも がんだというのに タバコは部屋がくさくなるほど アルコールもやめようとせず ・・・小遣いの3万円は 何があろうと 絶対とる というありようだから。

妻が 恐怖を覚えるほど 威嚇するので(この間なんか服でバシッと たたいたんですよ。私は眼の治療に通っているというのに 危ない・・) 

病気への対応は 本人のことだから 
いやがるのに お金だって いざ となって
夫名義の 通帳からおろしたりした としても 夫が 騒いだら 法律は 夫の味方です。

家のことは 関係ありませんよね。
ただ
戦に負け 落ち延びた平家の人たち 女性は 毎日どうやって生き延びたのでしょうね。何を考えて生きたのでしょうね。

山野草も豊富で 魚も取れ 自分で自分の食い扶持を養ったら生きていける。今のように 何をするにもお金ではない。病院代だって地獄の沙汰も金次第のありさまというより 

倒れたらそれは 死につながることだから 毎日が必死だったのか・・
それにしては 戦後の混乱期 平川のおばのたくましかったこと。
ここば 都にすればよかとーっと言って 先頭きって働いていました。
  

[36]子孫よりさんからのコメント(2015年05月11日 07時22分20秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様、
実は昨日、四浦を通りました(^・^)
五木に「やまうに豆腐」を買いに出かけまして・・(今月2回目です・・母の日のプレゼントにしました(^・^))
深田から四浦に抜ける道を通り、五木まで行くのに家から40〜50分で行けます。
四浦の素晴らしい景色に毎回主人はとても感動しています。絶景ですね。私も大好きです(^・^)

それと・・五木に行って「五木の子守唄」の由来をやっと理解できました・・
以前、コメントしたかな?と思いますが、私が子供の頃、祖母がよく五木の子守唄を歌ってくれていました。
でも、よく聞く歌とは別に「何か違うメロディー」の五木の子守唄を歌う時があり、「違うよ(ー_ー)!!」と祖母に言うと
「じゃなか(いいや)(ー_ー)!!こっちが本当。ばあちゃんが子供の頃に側にいてくれてばあちゃんを「もぞがって(可愛がって)」くれた、家におんなった(居た)○○しゃんが、歌ってくれよんなった」と言っていたのですが・・

五木に着いて、お蕎麦を食べたお店に「五木の子守唄」の由来が書かれていまして・・
五木から、兄弟が多い大変な家庭の女性が(すみません、言い回しがうまく出来ませんが書いてある通りだとあまり良くないかな〜と)「上球磨」や「人吉」に奉公に行かれて、その人達が「故郷」を恋しく思い歌った「歌」だと書いてありました・・
「上球磨」!??? あれっ??!と思い・・

家に帰って父にこの事を話すと・・
「そうよ・・家やこの辺りに来とんなった(来られてた)とタイ・・」と・・
えええっ!!うっそ〜〜〜(..)
「何だか悪役みたい・・悲しくなった・・」と言うと父は
「じゃなか!(違う)その人達をこっちでは家族のごと思って接しよんなったって聞いとる!」(家族のように思って接していた)
と父は言いました。
それを聞いて安心しまして・・悪役みたいなんて言ってご先祖様に申し訳なかったな・・と反省致しました・・
家族のように接していた○○しゃんは、祖母をとても可愛がって下さって、その方の歌った「歌」を祖母は私に歌って聞かせてくれていた・・という事です。

でも・・本当に何も知らない事ばかりです・・
父から昭和30年代前半まで、平川家や深水家にはよその地域から、沢山の方が「仕事」に来られていたと聞きました。
「家族のように接していた」というのは本当だと思います。

私が子供の頃、当時あった家庭菜園を作ってくれる大好きな「おばちゃん」が来られていまして、祖母が子供の頃、側にいて下さった方でした。
祖母は、当時「人吉球磨農協婦人部」の会長をしていたので、東京に「米価交渉」とか行っていて、私は親戚に泊る事が多かったのですが、時折、家にその「おばちゃん」が来て下さって一緒にテレビを見たり、ご飯を作って下さったりと、すごく可愛がって頂きました(^・^)

五木の子守唄はとても悲しく切ない歌ですが、全ての方が「そうであった」という事ではないのでは?・・とやさしい「おばちゃん」の顔を思い出していました・・

所で・・
日本の苗字七千傑様。
昨日頂いたご教示「現代の行政区画で考えているから!」
このお言葉を痛感する事実を「宮原村下地」で見つけました!!
次のコメントでご紹介いたします。
では(^・^)
[37]子孫よりさんからのコメント(2015年05月11日 08時08分46秒 ) パスワード

では早速・・
「宮原村下地」での発見!?についてご紹介いたします(^・^)
拡大コピーをしてきました(^O^)/

まず、「宮原村下地」とは  「おかはる」(岡原村総務課発行)より
この図面は文化8年江戸幕府の命により各藩の領内の石高、牛馬等を調査する為に御用絵師に命令し、各村内の庄屋と共に村内を視察させ作成させたものである。

「宮原村下地(文化10年(1813年)作成)での発見
祖母が「うちの川(球磨弁でおぎゃん川)」と呼んでいた井口川ですが・・
宮原村下地には「井口川」という名称は一切ありません(ー_ー)!!
現在「井口川」と呼ばれている、平川家や家の前を流れる川の当時の名称は
「久米川」です!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
「久米川」でございま〜〜〜す!!!びっくり!!しました。

という事は「井口川」いえ(ー_ー)!!「久米川」を、地元の人は「鶴の川(球磨弁で鶴ん川(つるんかわ)」と呼んでいたという事です。
この「久米川」を祖母は「おぎゃん川(家の川)」と呼んでいたという事になります。(ちなみにこの川は国土交通省管轄の国の川です(..))

さらに昨日コメントした馬場田を取り囲む「外園」地域の下方3分の一を占める色分けされた領域には、あきらかに「久米氏」と書かれています。
父に見てもらったのですが、久米氏の領域の端にある大きな家は、おそらく「平川家」だと思うとの事です。
そして・・「久米氏」と書かれている文字の辺りにあったのが・・
「宮原家を見守り続けたいと言って特別に造った平川の曾祖父のお墓」です!!
つまり、この土地は「平川家」の土地です。

父も「久米氏」ってか・・!!?と言っています。
父の命令?により「もう少し、しっかり調査しろ!」と言われました。

マダマダ、「宮原村下地」をしっかり見てみます。
という事で、今朝の緊急報告「久米川」についてでした。
では(^・^)
[39]子孫よりさんからのコメント(2015年05月11日 15時10分40秒 ) パスワード

皆様、先のコメントの追記です(^・^)

自分で読み返して笑ってしまいました(^・^)
福岡ドーム5〜6個分ってどんだけ(ー_ー)!!・・です。
違います、2〜3個分でしょう(-.-)・・(..)

所で、五木の子守唄について父と話した時の父の言葉です
「戦後、何もかも変わってしまったけれど、身分制度等が無くなって、人間が生きていく上で本来の姿に戻ったのだと思うよ。人は皆、「平等」だ(^・^)」
と言っていました。

納得です(^・^)
何も教えてもらっていないのではなくて、教える必要がない世の中になったとい言う事だと思います。
そういう教育方針だった事はありがたいと思います(^・^)
では(^・^)
[40]子孫よりさんからのコメント(2015年05月12日 11時15分29秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日「宮原村下地」に現在の「井口川」が「久米川」と書かれていた・・とご紹介したのですが・・

私は、この事が「大発見だっ!!」と喜んでいたのですが・・父の言葉で一気に頭が????となりまして・・

父は「久米川・・何で井口川じゃないんだ!?じゃあ何時から”井口川”になったんだっ!?文化10年(1813年)って最近じゃないか!それから、何故?急に井口川になったとか!?お父さんが小さいときには”鶴の川(鶴ん川)”とは皆呼んでたケド”久米川”とは呼んでないぞ!?」

(?_?)(?_?)(?_?)・・・???本当だ・・??何故??

もしかしたら・・古代?では「久米川」と呼んでいたのかな??(なんちゃって・・(?_?))
でも、どうして「井口川」と書かなかったのだろう??
確かに、上球磨には相良一族の「井口氏」はあるけれど・・でも、この辺り(旧宮原村)を所領した・・とは聞いた事がないし・・??
しかし川の名前になるからにはおそらく「権力?」がないと・・??

黒原山から流れている川・・「宮原川」「井口川」・・他多数・・??

(?_?)何故?何だか「井口川」と書く事を避けたような・・(?_?)・・まさかですよね(ー_ー)!!

「井口」・・「井口」・・イグチ・・???何だろう??

そういえば・・以前から気になっていたのですが・・
井口川の上流付近にある「城跡」・・「左近城」
「宮原城」と「岡本城」のちょうど中間にあります・・
でも、このお城については、誰が築城したとか誰の城だったとか、全く残っていないのですよね・・??

ここに井口氏が居城していたのかな??でも、そのような記録は無いようだし・・

先祖調査とは関係ないのかもしれませんが・・何で「井口川」は「久米川」と書かれていたのか?・・「井口川」とはいつから呼ばれていたのか??

(?_?)・・「井口川」・・「井口」・・「井口氏」・・一体どなた?だっ???
宮原と同じく「伊予橘氏」の系だったりして・・??
左近城跡ちかくには金毘羅様がありますし・・?場所は「旧宮原村」になります。

気になったら止まりませんが・・とりあえず・・
では(?_?)(?_?)(^・^)
[41]子孫よりさんからのコメント(2015年05月12日 13時30分08秒 ) パスワード

(..)・・コメント38は削除しました(..)
父の前職を書いたので、父に見つかると大目玉をくらいそうなので(..)
編集?し直しました(..)
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先程のコメントで緊急報告「井口川」は本当は(というか文化10年当時は)「久米川」だった!とお伝えした所で・・

まだまだ、気になる所が沢山あるので一気にご紹介を(..)

まず・・
家の少し上辺りには「宮原村下地」では「妙見社」が描かれています。
「妙見社」・・妙見信仰・・北斗七星・・
なるほどな・・と。何故かと言いますと・・
コメントしようかと迷いながら歴史とは無関係(ー_ー)!!だと思い書いていなかった事があります。
「北斗七星」についてです。
今年の1月に帰省した時のコメントに実家の後方に北斗七星がものすごく大きく見えたと書いた事を皆様ご記憶でしょうか?
平川家について21コメント62です。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101407_80.html
あの時私は・・平川家について21コメント62より
「昨晩、星空をM田さんと見たのですが、「数えきれない星が輝いている!!」とM田さんはすごく感動していました。
さらに驚いたのが「北斗七星」です。
市房山の方向なのですが、北斗七星が夜空全体にものすごく大きく見えました。
イメージしていただくとすれば・・
標高が高いから?なのか、今の時期がそうなのか?星空が低い位置に感じて、実家の後ろ、市房山の方向に夜空の暗い壁?が広がり、その壁?の上から下まで北斗七星が大きく描かれているような感じです。
星座の一番下の星は山に届いているのでは?と見間違うような・・
星座(北斗七星)全体が、心臓がドキドキするほど、大きく見えました。(この表現・・解りますかね・・・)
子供の頃には、解らなかった・・「感動」です。」
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と書いたのですが・・
実は、実家に戻り星空を見上げると「北斗七星」はいつでも家の頭上を動いて?います。それも、すごく「大きく」見えるのです!。
一月に帰った時は後方。先月は家の真上。そして先週は「屋根の上」にまるで北斗七星が横たわって休憩?しているかのように見えました。
見る時間帯によって位置は違うのですが、でもあきらかにいつでも「北斗七星」は私の?頭の上にあります。
それこそ先週、主人と父に「うちは北斗七星様にお守り頂いているみたい(^・^)」と言って、二人に「ポカ〜ン(?_?)」とされたばかりです。
(何だか皆様もポカ〜ン(?_?)とされているような・・(..))

でも、宮原村下地にはあきらかに家の上の辺りの土地に「妙見社」が描かれています。・・なるほど!と思ったのは私だけかな??(..)

球磨の久米氏と言えば・・以前、日本の苗字七千傑様からご教示頂いた「藤原南家巨勢麿流」藤原真宗(久米真宗)。

でも・・気になるのは「変貌する須恵村」に
平河伝授巻に「伝に日く、義高その前は河辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して、以上両人これある由、又、下もは平家御代官所にて侯処、・・

(-.-)と書かれていて・・「南は久米殿と称して・・」とあります・・(?_?)

やはり「現代の行政区画で考えているから!」今まで、迷っていたのかもしれません。
新たな局面?を迎えたのかな・・???(なんちゃってデス(..))

やはり、地元に帰ってきて本当に良かった!と思います。
では(^・^)
[42]白石s白石さんからのコメント(2015年05月13日 07時39分42秒 ) パスワード

おはようございます。
四浦 五木へ行かれたのですね。目にしみるような新緑がうれしいものですね

私も あのあと 福岡の娘から やまうに豆腐・五木のお茶を母の日プレゼントでおくってきました。

五木の子守唄 のことを 大きな石に書いてあるのは 私 どこで(五木だったか?電車の駅でだったか?)みたのか思い出せませんが 犬童きゅうけいが五木でうたわれていた子守唄をもとにつくった と 書いてありました。

又 それよりずっと前 若いころみた平凡社の辞典にも 五木の子守唄について書いてあり 100種類くらいある歌をもとに つくられたと 書いてありました。

今 ウィキを見たら 田辺という人が つくったと 書いてありますね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
四浦については 奉公人が一人もいない 珍しい村という紹介で 川辺はよその村が収穫を終えるころかえって豊穣の時を迎え と 書いてありました。
ーーーーー
五木に住みついた 東国武士団の梶原氏・土肥氏
と ウィキで見ましたが

これらは もとは 桓武平氏で 土肥は 地域にもこの苗字でおります。又お日野もとになる 中村も 地域では この家からぐるぐるまわってつながっています。

梶原は 山口梶原は香川氏になり 四国では 香川県などあって屋島は源平がっせんの舞台。近くの屏風岩で生まれた空海(佐伯真魚)の佐伯氏は大伴氏の銅像と過去に見た本に書いてありましたが 久米氏 久米部 佐伯氏のことなどど??? でこれも しらべてみたいことです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
白石について 
肥前の方を見てみたいと書きましたが あちらに 嬉野氏がおり竜造寺とからんでのうごきなど 又 そこからどうやって球磨へきているのか?

母方に無断で席を入れたという平野という家のつながりに福岡の白石がおり・・・うーん と 思います。
もうひとつ 平江に嫁入った姉の母方関係のなりまつは 伊達氏関係で この伊達関係の白石だったと思うのですが 伊予に来ている。
この間 ネットで見て もう一度見ようと思っていたら 何で見たのか忘れました。姓系辞典では 肥後の白石は清和源氏。菊池に仕え菊池が滅んだあと相良に仕えたと あったので そちらと 思っていましたが・・・
[43]子孫よりさんからのコメント(2015年05月13日 08時03分22秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日のコメント「40」で書いた「井口川」について気になり、キーワード「井口」「橘」「左近」で調べたところ・・
何だろうこれは・・??という記述を見つけました。

がっ!しかし、今からご紹介する記述を、父に見せたところ
「こらっ!!全く、お前は!!”井口”とか”左近”とか”橘”とか書いてあるから言葉にすぐ飛びつく!そんなんじゃダメ!!本を読むときでもそうだ、沢山の書籍には作者の私見も色々書かれている。それを読んで、作者の私見を”楽しみながら”、自分自身の考えで「真実は?」と、さらに自分の「私見」を持つ。そういう事に面白さがあり、なお且つ「真実」を見極める「目」を持つ事ができるようになる。世の中には色々な「伝承とか噂」はあるものだ!。お前は、何でもすぐに「思い込み」「こうだ!!」と決めつける。そんなんじゃ、いつまでたっても「真実」にはたどり着けん!」
と・・叱られました(..)・・シュン(..)
さらに「お父さんがこう言っても、お前は何かを調べるんだろうタイ。全く、人の言う事は聞かんし、”意固地”で”偏屈者”。・・・ハハハ〜ッ(^・^)」
と笑っていました・・(きっと、先祖様からの遺伝でしょう)

では、早速、ご紹介を。但し、私が興味を持ったのは書かれている内容ではなく、「伝承」された「土地」にです。では(^・^)

http://www.kishu-bunka.org/ochiai/eedenaika1.html

内容が内容だけに転記はしません・・
私が興味を持ったのは「紀伊国那賀郡調月荘」という場所です。
調べました(p_-)・・(やっぱり・・との声が・・)

紀伊国那賀郡調月荘 コトバンク より
名手荘【なてのしょう】

紀伊国那賀(なか)郡の紀ノ川北岸,和歌山県那賀(なが)町・粉河(こかわ)町(2町とも現・紀の川市)にあった荘園。もと藤原頼貞の相伝所領であったが,経営に失敗した頼貞が山城石清水(いわしみず)八幡宮に寄進,1064年立荘された。

なてのしょう【名手荘】

紀伊国那賀郡(現,和歌山県那賀郡那賀町,粉河町)の荘園。もと藤原頼貞の私領であったが,所領経営に失敗し,1064年(康平7)石清水(いわしみず)八幡宮寺に寄進された。しかし石清水八幡宮寺領としても長続きせず,72年(延久4)の荘園整理によって停止された。その後1107年(嘉承2)高野山の大塔仏聖料にあてる荘園として立券され,以後中世末にいたるまで高野山領として存続した。紀ノ川の北岸に位置し,東は桛田(かせだ)荘と静川荘に,西は粉河(こかわ)荘に接する。

(p_-)上記に書かれている「藤原頼貞の私領」という言葉から「藤原頼貞」という方を調べました。
錦江町(きんこうちょう)サイトより
http://www.town.kinko.lg.jp/o-t_gappei/gappei%EF%BD%84%EF%BD%81%EF%BD%94%EF%BD%81/NEWS/news06/news1702_08.pdf

表の中に
治歴5年(1069年)大根占町 藤原頼経領 禰寝院・大禰寝
         田代町  藤原頼貞領 禰寝院・田代
藤原頼光より譲与

とあります。

さらに・・
大隅国における建久図田帳体制の成立過程 −禰寝院の事例を中心に−
鹿児島大学リポジトリ より
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/8679/1/1_3_hinokuma.pdf

52ページ〜
第二節 禰寝院北俣と同院南俣との分離について。
史料@には,寝院が三村ずつ分割相続されている。故に寝院は,一一世紀中頃までには成立していたと考えられる。また史料@においては,藤原頼経が寝院内の大寝・濱田・大姶良三村を譲与され,権大掾藤原頼貞も寝院内の田代・志天利・佐多三村を相伝している事が分かる。
鎌倉初期に作成された大隅国建久図田帳に拠れば,寝(院)北俣(寝院北部)は島津荘寄郡,寝(院)南俣は大隅国正八幡宮領になっている。大隅国建久図田帳の中の寝(院)北俣・南俣項の記載を史料Aとして掲げる

(p_-)藤原頼経が寝院内の大寝・濱田・大姶良三村を譲与され,権大掾藤原頼貞も寝院内の田代・志天利・佐多三村を相伝している事が分かる。

さらに・・55ページより〜
第一節 禰寝院南俣の大宰府領化の経緯。
本節では,寝院南俣が大宰府領化した経緯について考察していく。
前掲史料@では,藤原頼光が寝院北部に位置していた大寝・濱田・大姶良三村は頼経に譲与され,寝院南部に位置していた田代・志天利・佐多三村は権大掾頼貞に譲与された。前述のように頼貞は大隅国衙の権大掾であるので,頼光も大隅国権大掾であった可能性がある。即ち藤原頼光は,大隅国衙の在庁官人であった可能性がある。
寝院北部は,藤原頼光から頼経に譲与された。しかしその後寝院北俣の領有者は,他系統の藤原氏に変わったと考えられている(25)。
これに対して,一二世紀初頭における寝院南俣の領有者は,前掲史料Cの傍線部(1)・(2)を見ると,建部頼親と記載されている。史料@で寝院南俣を藤原頼光から譲与されたのは,大隅国権大掾頼貞である。頼貞から寝院南俣を継承した建部頼親は,頼貞の「頼」の字を名乗っている。また史料Cの傍線部(1)・(2)から建部頼親の子親助が大隅国権大掾である事が確認されるので,親助の父頼親も大隅国権大掾である可能性がある。頼親が大隅国権大掾であるとすれば,頼親の権大掾職は頼貞から継承した可能性が考えられる。藤原頼貞から建部頼親が寝院南俣の領有権と大隅国衙の権大掾職を受け継いでいる事を踏まえると,藤原頼貞と建部頼親との間にはどのような関係を想定すれば良いのであろうか。
建部頼親は,権大掾職である藤原頼貞の婿養子の可能性はないであろうか。建部頼親は,男子のいない藤原頼貞の婿養子として頼貞の所職を継承したと考えられる(26)。当該期九州においては,所職が女系に相伝される事が多かった(27)。寝院南俣の場合も,在庁系藤原氏から建部氏に相伝されたと考えられる。

(p_-)56ページより〜
史料Dの傍線部(2)に,建部氏が滞納した年貢として「府御領物」がある。この「府」は,大宰府を指すと考えられる。故に当該期寝院南俣は大宰府の府領である事が確認される。寝院南俣が大宰府の府領になった理由として,建部氏が大宰府官の出であると考えれば理解しやすい。
建部氏が大隅国衙の在庁官人である藤原氏と姻戚関係を結び,大隅半島先端部の寝院南俣を領有した理由を考察しなければならない。建部氏が藤原頼貞の婿になり寝院南俣を領有した時期は,一一世紀末期頃であると考えられる。一一世紀末期には,大宰府と大隅国正八幡宮の対立事件も起きている(30)。
建部氏の寝院南俣領有は,九州管内を統制し,次第に対立を強めつつあった大隅国正八幡宮側に対する大宰府側の楔の意味があったのではないかと考えられる。大宰府は九州南部を掌握し,大隅国正八幡宮に対してにらみを利かせる目的で,建部氏を大隅国衙の在庁官人である藤原氏に入り婿させたと考えられる。従って寝院南俣が大宰府の府領となった時期は,建部頼親が藤原頼貞に入り婿した一一世紀末期頃であると考えられる。
本節では,寝院南俣が大宰府の府領化する経緯について考察した。その結果府官系建部氏が大宰府の支援を得て,大隅国衙の在庁官人藤原氏に入り婿した事,寝院南俣は,建部氏が入り婿した一一世紀末頃大宰府の府領となったと想定される事を解明した。
(-.-)
56ページ 第二節 禰寝院南俣の大隅国正八幡宮の社領化の経緯。の中に・・
建部頼清が寝院南俣を大隅国正八幡宮に寄進した理由は,頼清が買得した寝院南俣をめぐる領有権争いを有利に展開するためである。前掲史料C・Dに記載されているように,建部親助の妹の夫である薩摩国住人平行道が寝院南俣に対する領有権を主張し,相論が展開したのである。
平行道の出自は詳かではないが,薩摩平氏の一族であると考えられる。薩摩平氏は,大宰府との関係が深い。平行道が寝院南俣の領有権を主張した背景として,中世成立期の九州では,姻族に所職が相伝されていく傾向が強い事が指摘されている(35)。
しかし平行道を支援した勢力として,大宰府が考えられないであろうか。九州南部を掌握する目的で,大宰府は府官の1人であった建部氏を寝院南俣に派遣した。しかし建部氏は,大隅国衙の在庁官人である藤原氏と姻戚関係を結んだ結果国衙在庁職を相伝し,その上大隅国一宮である大隅国正八幡宮の御馬所検校職を兼任するというように,大隅国衙や大隅国一宮と結びつき,大宰府の思うように動かなくなりつつあったのではないかと考えられる。故に大宰府としては,大宰府の府官の系譜を引く平行道を支援して,九州南部の再掌握を意図していたと思われる。しかし一二世紀前期の寝院南俣の領有権をめぐる相論は,大隅国衙や大隅国一宮と結びついた建部氏が寝院南俣の領有権を保持する事に成功した(36)。
本節では,建部頼清が寝院南俣を大隅国正八幡宮に寄進した理由について考察した。その結果本来大宰府の府官系である建部氏は,姻族藤原氏から大隅国衙の在庁職を受継ぎ,大隅国一宮大隅国正八幡宮の持つ宗教的権威を借り受け寝院南俣を安定的に支配する目的で,大隅国正八幡宮に寄進したと考えられる。

(p_-)長くなるので取りあえず転記はここまでとしますが、この後に記述されている内容も、とても興味深いものがありまして・・
ぜひ、皆様も「お時間のある時に」じっくりお読み下さい(..)


(-.-)という事で「藤原頼貞」という方を調べたら、鹿児島の「禰寝院」に繋がっていたのですが・・
「禰寝院」・・「禰寝院」・・??「禰寝院」・・あれっ!???

そう言えば何処かで見たゾッ?!と思いだすと・・
こちらのスレッドで書いていました。コメント19です。
=====================================
ちなみに、宮原の一族の「宮原橘公冬」は
荘園景観の遡及的復原法 524ページに名があります。
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/21647/5_%E7%AC%AC%E2%85%A2%E9%83%A8-2.pdf

祢寝文書中に永和3年(1377年)橘公冬
==================================
(?_?)上記の「祢寝文書中」という言葉が気になってこの時少し調べていたのです。
禰寝氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B0%E5%AF%9D%E6%B0%8F

禰寝氏(ねじめし[1])は、大隅国の有力国人、戦国大名、のち薩摩藩士の氏族。
禰寝氏は中世には豪族として角、西本、池端、山本氏など、また近世初期では入鹿山、武などの別の名字を名乗る20家門ほどの庶流を輩出した。同氏直系は江戸時代中期に先祖に当たると目された平重盛の号にちなみ「小松氏」と改姓した。江戸期には、「歴代当主」の項に明らかなように古代・中世から続く連綿とした宗家の血の流れは途絶えたが、宗家を支える御三家、禰寝・松沢(庶流の最も古い一門)、禰寝・西本(時に西元とも)、禰寝・角などは他の庶家とともに一族の歴史的記憶に重要な役割を果たし続け、現在に至っている。

出自[編集]
大隅国禰寝院(現在の鹿児島県肝属郡錦江町(旧大根占町はその一)及び南大隅町(旧[小]根占町はその一))を領したことが、名字の由来である。
江戸時代に直系は「平重盛の孫・平高清の末裔」であることを主張したが、鎌倉時代、室町時代の公式文書にはすべて「平姓」(平氏)ではなく「建部姓」(建部氏)で署名していること、平高清の没年と禰寝氏初代・清重の地頭職就任年が同年であることから見て疑わしい。平氏末裔を主張した背景には島津光久後室・陽和院殿の養家である平松家とのつながりが深くなったことが背景にあるのではという説がある[2]。またこの江戸時代には源氏を名乗る島津氏が禰寝氏本流を受け継いでいたため、血縁的には中世の禰寝氏とつながらず、より大きな、しかも周知の姓、平姓にしたかったことも一因であろう。
建部姓禰寝氏の先祖は遠く大宰府の在庁官人であり、禰寝氏(小松氏)が同じ鹿児島の島津氏よりも出自が古いことは歴然としている。このように史料をもって古代に遡りうる氏族は稀である。[3]。

奈良・平安時代[編集]
古代にあっては建部姓を取り、大宰府在庁官人であった。後に一族は郡司職についている。11世紀半ば過ぎに、禰寝氏初代清重に遡ること4代前の藤原頼光に関わる史料が『禰寝文書』では最初の文書として上げられている[4]。治暦5年(1069)年のことである。京で藤原氏全盛期のころ、建部姓の一族は、奥州にあって清原氏が藤原姓を名乗るように大隅国にあって藤原姓を取っていた。頼光が子女に配分した所領は広大で、荘園としての禰寝院(行政所領単位[5]。名字はこれに由来する)の規模をはるかに超え、絶大な権勢を保持した。

(-.-)・・宮原橘公冬の「名」が残る「祢寝文書」から、ウィキの「禰寝氏」を先日読んでいたのですが・・この時は頭の中は「????」と全く真っ白け〜だったのですが、今朝、「藤原頼貞」という人物の「名」から
紀伊国那賀郡調月荘・・→ 禰寝院 を調べて・・結局「祢寝文書」(橘宮原公冬の記録あり)が不思議と繋がってしまいました?????

以前も書きましたが・・
日本全国に「土地(地名)」や「姓」は数え切れないほどあるのに・・どうして、家のご先祖様を調べると必ず「何らかの土地」や「姓」に繋がってしまうのか・・ピンポイントのようにです・・?????

という事で
めっちゃくちゃ長くなりましたが・・
もちろん関係ない方とは思いますが、妙に関心が出てしまって「藤原頼貞」という方を調べました・・というお話でした。

では(^・^)
[44]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月13日 22時47分27秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>日本全国に「土地(地名)」や「姓」は数え切れないほどあるのに・・どうして、家のご先祖様を調べると必ず「何らかの土地」や「姓」に繋がってしまうのか・・ピンポイントのようにです・・?????
 
当たり前の事象です。
下記URLをご参照下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#022
 
また久米については、故喜田貞吉博士が「久米は、玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と論じている。
 
一理はあるが、伊予の久味国造裔の久米が正しい。
越智姓久米氏や旧越智姓伊予橘氏も存在することから、伊予の久米の地名が肥後に遷移したことが真実と思われる。
伊予の久味国造族も平折敷、折敷に三文字の家紋を使用していることから、越智氏に次第に合流したのではないかと考えられる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206#001
 
肥後の藤原姓久米氏は、たまたま肥後国球麻郡久米郷を所領としたので名乗ったに過ぎない。
早トチリはせぬように。
[45]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月13日 22時59分12秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

上記のURLの誤り。

誤 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206#001
正 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206.htm#001
[46]子孫よりさんからのコメント(2015年05月14日 12時28分53秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございます(^・^)

私は何故?「伊予橘氏」である先祖が、「この地(宮原)」を替地されたのか・・
何の縁も無い土地ではないと信じていました(^・^)

ですが「久米氏」「久米族」の象徴でもある黒原山の麓を中心とする一帯を、何故?物部氏族である先祖が所領する事になったのか・・ずっと疑問だったのです。
もちろん、西園寺公経との替地については理解していますが、そのずっと以前のこの土地に関係した「久米氏」と宮原一族の先祖の系の関係が理解出来ずに「何故久米の地を・・??」と・・
でも、関係のない「球磨の久米郷」の土地を無理やり替地させられた・・とは考えたくなかった・・そうじゃ無い!何かある!と信じていました。

昨晩のご教示で胸の閊えが「ス〜ッ」と取れました(^・^)本当にありがとうございます(^・^)。

何故、御用絵師の方が「宮」と書こうとして?止めて、「久米氏」と書かれたのかも、自分なりの推測ですが、納得できました(^・^)

所で、全く意味のない話ですが聞いてください(..)
「折敷」とはそもそも何なのだろうと調べたのですが・・

折敷 おしき コトバンクより
食器を載せる食台の一種で,四角でその周囲に低い縁をつけたもの,すなわち方盆のこと。その名は,上古に木の葉を折敷いて杯盤にしていたことが残ったものであるといわれる。高坏 (たかつき) や衝重 (ついがさね) よりは一段低い略式の食台として平人の食事に供されたもので,8寸 (約 24cm) 四方のものを「大角」または「八寸」,5寸 (約 15cm) 四方のものを「中角」,3寸 (約 9cm) 四方のものを「小角 (こかく) 」といい,角 (かど) を切らないものを「平折敷」,四隅の角を切ったものを「角 (かく) の折敷」あるいは「角」と呼び,ほかに足がつけられた「高折敷」「足付折敷」などの種類もみられた。

折敷【おしき】

細い板を縁に折り回した盆の一種で,古くは神事,儀式に,また平常にも使用されたが,近時は懐石料理の敷膳(しきぜん)に多く用いられる。四隅を切った角切(すみきり),脚のついた脚打,また円形,半円形などがある。

(?_?)あんりゃりゃ???折敷の意味が理解出来ましたが・・あの・・「折敷」は今、私の目の前のテーブルにあります。
家は、代々?の性格か?テーブルや食台(一緒か(..))に直接食器を乗せる事はしません(ー_ー)!!
私なりの解釈(私の性格・・いえ父もです)ですが、私も父もそして祖母も、テーブルに水滴が付いたり、直接温かい物がのった食器を乗せたりするのが嫌なのです。
食器の跡が付いたりすると・・「もってのほか」でして・・

だから、何の違和感もなく今までず〜っと「折敷」(名称は知りませんでした(..))を使ってきました。
今、家のテーブルには籐製のランチョンマットの上に「折敷」を乗せて、食事をしています。
祖母がコレクション?していた「折敷」は何だか高級?そうなので、私は百円ショップで購入した「折敷」を普段は使っています(^・^)

という事で、歴史とは全く無関係ですが、我が家には「折敷」は生活必需品でした。
(?_?)・・そうか・・どのご家庭でもおそらく同じですね(^・^)・・コメントするようなお話ではありませんでした(..)

※土地と姓の由来について、勉強させて頂きました。
私は「当たり前」の事を疑問に感じていたのですね・・

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました。
では(^・^)

[47]子孫よりさんからのコメント(2015年05月14日 17時45分32秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

実は、昨日、父の勧めで「筑紫イバラ」の国内唯一の群生地である木上の球磨川河川敷に行って参りました(^・^)

チクシイバラ ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%A9
四国・九州、朝鮮半島南部、中国中西部などに分布する。 野原や草原、道端などに生え、森林に出ることはあまり見ない。河川敷など、攪乱の多い場所によく生え、刈り込まれてもよく萌芽する、雑草的な性格が強い。
希少種としての価値[編集]
バラ栽培の土台として適していたため、盗掘や河川環境の変化に伴い減少傾向にあった。 そのため県では2004年に熊本県レッドデータブックに絶滅危惧種II類として登録し保全を図っている。
現在自生している場所は少なく熊本県球磨郡錦町の球磨川河川敷で唯一、群生したツクシイバラを見ることができる。
1917年 - 前原勘次郎氏が現あさぎり町上にて「ツクシサクラバラ」として標本を採取
1918年 - 小泉源一氏がRosa adenochaeta Koidz.と命名する

(^・^)まだ三分咲きだったのですが、甘い香りが野原一面に広がって、遠くに白髪岳と黒原山を望み、すごく心豊かな時間を過ごしました。

ちなみにこの場所は、木上荒田地区の球磨川をはさんだ対岸になります。
荒田大王神社の対岸という事です。

故郷に帰り、買い物に出かけたり、地元の観光地に行ったりと色々うろうろしているのですが、昨日は、「あれっ??」という発見ばかりしていました。

筑紫イバラを見に行く前、先に湯前の城泉寺に伺いました。
http://www.geocities.jp/kawai5510/kumamoto-myodouji-9sou.html

父から、道順を聞いていたのですが、何せ方向音痴ですので・・(地元だからナビも設定せず(..))
幸野溝沿いに、宮麓から真っすぐ湯前を目指したのですが・・行き過ぎまして・・2キロ近く、宮麓の方に逆戻りしまして・・
「湯前」という地名が私を「混乱」させていました(..)
何と城泉寺は先日からお話していた久米を通り小林に抜ける道路と並走している道の山側にありました。
間違えなかったら家より車で10分もかからない(5〜6分かな?)場所でした・・トホホ
県内最古の建築物である城泉寺を拝見できてとても嬉しかったです。
ご由緒には「浄心」という方は、いまだ何方なのか解らないと書かれていました。
石塔には
銘文:「奉造立九重石塔一基、右志者為浄心往生極楽也、寛喜二年(1230)、庚刁(寅)、九月廿三日」
「大檀那沙弥浄心、大工兼仏師幸西、小工栄幸、院主念西」
と書かれているという事でした。
伺った時にはちょうど新聞社の方が取材に来られていました。
主人いわく「自転車でもこれるね(^・^)」という距離でした。
主人は「名所に近いって球磨は本当に良いね(^・^)」と・・うがっ?思ったよりも本当に近かったです・・

続けての発見?ですが・・
筑紫イバラを見た帰りに人吉まで足を伸ばし「フルーティーロード」と呼ばれる広大な「茶畑」の間を抜ける道を通り、深田に出たのですが・・
深田の道は頻繁に通っていまして、内山観音堂の横を通るのですが、家に帰って
「そう言えば内山観音堂はどのような場所だったかな〜」とネットで見ると・・あぎゃ〜〜〜〜〜!!
こっここは!!この場所は!!
http://www.jalan.net/kankou/spt_43509ag2130154006/
内山観音堂について
人吉球磨地方に点在する観音霊場をお参りしてまわる「相良三十三観音霊場二十九番札所」。観音堂は、久寿元年(1154)平川師高が有智山寺(萬福寺)の本堂があったところ。安産こだからに御利益があると言われる千手観音様。

なっ何という事でしょう(..)・・
あれだけ今まで有智山寺(萬福寺)に関してこちらのスレッドで書いていたのに・・(@_@;)
私は、故郷に戻り何度いえ何十回この道を通ったことやら・・(バカタン!!との叫び声が聞こえたような・・(..))
ネットで見たり調べていた場所と普段使う道の横にあるこちらの場所が頭の中で「イコール」で繋がっていませんでした・・全くトホホです(..)
ちなみに内山観音堂は深田小学校のすぐ近くにあります・・

さらなる発見を・・
私の家から深田方面を見ると真正面に見える小高い山が「高山運動公園」です。
ここ高山は「平河氏」の出城跡です。
行ってびっくり!ここは黒原山の真正面でございました・・
だから、家から見ても「真正面」だったのでございます・・向かい合っているという感じでした。右手には白髪岳も見えまして、中球磨・上球磨は一望という場所です。
ちなみに「勝福寺跡荒茂毘沙門堂」は高山から須恵方向に向かって山の麓にあります。
ここも・・本で読んだりネットで見たりしていたイメージとは全く異なり「高山」と「勝福寺跡荒茂毘沙門堂」との距離はめちゃくちゃ近かったです!

さらにさらに・・
永厳上人が創建された「平等寺」跡にある須恵の「釈迦堂」は・・
家から一本道で行けました・・トホホ
私の家から須恵まではコレマタ車で10分もかからずに行けます・・

子供の頃は地元の名所旧跡を巡る事など全くしていませんし・・(歴史に興味が無かったというか・・苦手でしたし・・)
何だか、知識だけ入れて頭でっかち?になっていたようです・・
だから、故郷に戻り、球磨での日常生活に慣れて、頭の中にあった知識と「その場所」が繋がっていなかった・・反省しています。

ともかく!今まで勉強してきた様々な場所は家からすごく近くにありますので、今後は本腰を入れて調査します!

では(^・^)



[48]白石さんからのコメント(2015年05月15日 01時25分36秒 ) パスワード

こんばんは
内山観音堂の千手の局から島津へ話がいきますが 今日 トラ踊りでつながる話というスレッドで書いていたことを思い出し拾い出してきました。

★『日本書紀』は、朝鮮半島の百済を「百済」、遼西の百済を「呉」と区別している。というものです。

これから発展して 今度 わかってきたことを書きますと
五胡十六国とは
304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。

★遼西は中国東北地方の遼河以西地域を指す歴史的地名
★古くから東胡系遊牧民族の住居地で、五胡十六国時代には鮮卑慕容部の本拠地となり、前燕、北燕などの国家が形成された。系遊牧民族の住居地で、五胡十六国時代には鮮卑慕容部の本拠地となり、前燕、北燕などの国家が形成された。
★・・・慕容氏・・・隋の煬帝も同じ。超ハンサムの系。
そして
吐谷渾 - 世界史の窓
吐谷渾の話は前に書いていましたが

鮮卑の慕容氏出身の吐谷渾という人物が、4世紀ごろに羌と言われていたチベット系 民族を従えて、黄河上流の青海地方を支配して成立した国家。始祖の名前が ... さらに シルクロードの交易ルート確保をねらう隋の煬帝の攻撃を受けて大敗した。隋の滅亡で ...

東胡
ウィキより
方壮猷は「鮮卑語言考」(『燕京学報第八巻』)において、鮮卑語はもっぱら★モンゴル語と★トルコ語をもって解釈でき、鮮卑はモンゴル・テュルクの混種であると推定した。《内田 1975,p3》
白鳥庫吉は「東胡」という名称は「胡の東にある者」(『史記索隠』より)という意訳であり、「ツングース」の音訳ではなく、「ツングース」という名称自体、近世になって生まれた単語であるから、東胡=ツングース系ではないとした。

★「穆」姓は、衛聚賢『楊家将及其考証』 によると、「慕容」姓の音転。

拓跋は
鮮卑族の一部族で、華北に北魏などの王朝を建てた。

気になるものを書けば
外部氏族に
★勿忸于氏(後に于氏と改める)・・・紅楼夢で少年・賈宝玉を演じる子役の                   名。賈氏は良峯氏と(桓武の子の良峯と                  姓の由来が同じか?)
★叱羅氏(後に羅氏と改める)・・・日羅や多羅婆など羅はよく書かれている。
★素和氏(後に和氏と改める)・・・秦王室高陵氏女子と百済王と結婚した
                 子孫が若狭彦神主になり また 子孫・和                 氏を名乗る。藤原冬嗣や良峯氏も百済の王
                 族の子孫。桓武天皇の母も和氏。      
★丘林氏(後に林氏と改める)…南匈奴  紅楼夢で林 黛玉がいる。これを演                 じているのが 蒋(字がすこーし違うのだ                 けど変換するとこれがでる) 

★蓋楼氏(後に蓋氏と改める)・・・蓋馬韓の言葉が。

以下は登国の初め、道武帝(拓跋珪)によって行われた「諸部解散」後に編民となった諸氏族である

★侯莫陳氏(後に陳氏と改める)・・・アマテラスは陳王の子という。
★太洛稽氏(後に稽氏と改める)・・・白洲正子は藤原鎌足の弟を太洛稽氏で                  稽文恵と書き、アマテラスを名のり、春                  日の族と書く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2012年のネットに書かれていたものより

百済人の顔を復元してみると、女性は型的な北方系、男性は…

復元された百済人はともに顔と鼻が長く、歯が大きく、目の間が狭いという特徴を持っていた。 百済の支配層が北方系内陸人の遺伝形質を持っていたことを表す。 男性の使臣の場合は、上下に狭く左右に広い一方、前後に飛び出した南方系の額を持ち、北方系と南方系が混ざった顔をしている。 チョ・ヨンジン博士は「女性の場合の百済上流層の典型的な顔を見せているのに対し、男性の使臣の場合は混血型の百済人と見られる。 百済の王族・貴族が土着勢力と婚姻を通じて融和を図っていたことが分かる」と説明した。

女性貴族の場合、頭蓋骨に穴をあける★穿頭術を受けた痕跡が残っているのも特徴だ。 穿頭術はメキシコ・マヤ族をはじめ、古代エジプト、欧州などでも行われた手術で、当時の百済でもこの手術が行なわれていたことを確認できる。 男性の使臣の場合は、耳介がくぼんだ特異な形の耳をしているが、これは中国・日本に比べて韓国で40倍以上多く見られる典型的な「韓国型の耳」だ。

尚 紅楼夢は別名・石頭記といい 宝玉は田黄石といって 田でとれる石。貴重で印をつくるのにつかう。生まれたときから宝玉を咥えていたからこの名がつけられた。

石頭からだったと思うけど 台湾の建物が画面に出たのですが
竜宮城のようでしたが、こんな時はすぐコピーしとかな
いとだめですね。
どうやってだしたのか?

蒋介石のひ孫という人の顔が趙イケメンというので 写真を見ました。お鼻高いですね。

清朝がほろんだ時 財宝を台湾にかくして草原へ去って行ったという。
琉球は古の新羅という。琉球と台湾はイメージが似ている。
台湾に始皇帝の四女が逃れてきたという。
台湾は大椀(木がない)であり 大椀はフェルガーナあたりをいうという。
フェルガーナあたりは 百済の故地だと。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・羯けつ
中国、匈奴の一種族で、五胡の一。名は山西省の羯に居住したことによるという。4世紀初め、族長の石勒(せき△ろく)が五胡十六国の一つ、後趙(こうちょう)を建国。
・石氏につき、http://www.hudong.com/wiki/%E7%9F%B3%E6%B0%8F
の中で出自は「姫姓」としている。
・下の方までスクロールすると、五代时期,有★沙陀部人石敬瑭,于936年勾结契丹贵族灭后唐,被契丹册封为帝,国号晋,史称后晋,历时10年而亡。とある。時代が違うけど、沙陀部人石敬瑭・契丹贵族灭后唐など読み取れる。
中国語が読めないのがくやしいけど、感触として
唐や漢王室と姻戚関係を持ち、後世清王室を立てた沙陀突厥。彼らははるか古代にまで遡る血を持つ。唐王室に真珠を売りに行っていたと言う沙陀突厥。彼らは海神族でもある。秦とも関わりを持ち、始皇帝子孫ともいう島津は「佐多」。
こういう話が出てくる。


 
[49]子孫よりさんからのコメント(2015年05月15日 09時47分40秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

先日、ご教示頂いたコメント42。私のコメントとの直前にアップされていて、私、昨日、スレッドを読み返して気がつきました。すみません(..)
「姓系辞典では 肥後の白石は清和源氏。菊池に仕え菊池が滅んだあと相良に仕えた」
(p_-)・・むむっ!かなりリアルですね・・

沙陀突厥 沙陀族(さだぞく、さたぞく)
「さだ」と読むのですね・・(^・^)
読めないのでウィキで調べました。・・・なるほど(p_-)・・・(^・^)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%99%80%E6%97%8F

白石様のお母様は「佐田家」のご出身・・なるほど(p_-)・・・(^・^)


所で・・・
この頃の私は、故郷であるこの土地が気になって仕方ないのが本音でして・・(先祖調査ももちろん重要視していますが、古代を調べると何か見えてくるのでは?という気がしています・・(..))

日本の苗字七千傑様より頂いたご教示
※アイヌ族の権利を示すのが黒原山。
※辰韓系種族の権利を示すのが白髪岳。
※肥後は九州アイヌの本拠地、熊本、球磨の地名も同様。
※また白木の地名多く、辰韓(後の新羅)からの移住者が多いことを暗示。
※宮原の「はら」を「はる」と呼ぶのは、馬韓(百済)系地名の証拠です。
 豊筑肥地域が、馬韓(百済)語からの影響が大きい為です。
※「森園」(モイノソン)森も百済語の「ムイ」が訛って「モイ」になったものと思われます。
※久米については、故喜田貞吉博士が「久米は、玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と論じている。
 一理はあるが、伊予の久味国造裔の久米が正しい。
※越智姓久米氏や旧越智姓伊予橘氏も存在することから、伊予の久米の地名が肥後に遷移したことが真実と思われる。
※伊予の久味国造族も平折敷、折敷に三文字の家紋を使用していることから、越智氏に次第に合流したのではないかと考えられる。
※同一地名が多い理由は地形が似ていることにも因るが、上古に氏族集団が日本の西南地域である九州から次第に東方に移動して新しい土地に元の出身地名や氏族名、部民名を付けたことによる。

頭の中でご教示頂いた内容を整理しています。
古代の球磨国であった我が故郷「球磨」。玖磨と久米は同意・・
時代は下り、日本の「国家」が統一形成されて、伊予の久味国造裔の「久米」の地名が遷移した・・
和名類聚抄(承平年間(931年 - 938年)編集)に肥後国久米郷の記録があり、球磨の藤原氏が久米氏を名乗り市房神社を創建したのは大同2年、西暦807年。

つまり・・伊予の久味国造裔の「久米」の地名が遷移したのはそれ以前という事ですね。
久味国造(伊予)
http://www.nihonjiten.com/data/263371.html
くみのくにのみやつこ【国造】


[久味国造(伊予)]
久味国造は久味国(現・愛媛県松山市、東温市周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(10代)の時代、神魂命(かみむすびのみこと、神祝命)の13世孫である伊與主命(いよぬしのみこと、伊与主命)を国造に定めたことに始まるとされる。国造氏族は久米直(くめのあたい)を本姓とし、度会氏と同じく神皇産霊尊を祖とする大久米命の後裔と伝えられており、三十六歌仙として有名な山部赤人は久味国造の後裔であるという。
愛媛県松山市居相町にある伊豫豆比古神社は伊豫豆比古命・伊豫豆比売命・伊與主命を祭神とする。伊豫豆比古命と伊与主命が同一説、伊豫豆比古命が祖神、伊与主命が後継者との説、伊与主の意は最古の道後温泉が勢力範囲に入るので湯の主との説など、所以は諸説ある。

国造 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%80%A0
国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう・くにつくりのみやつこ)は、古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。
訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。

(p_-)・・伊予の久味国造(伊与主命は応神天皇期)
神皇産霊尊を祖とする大久米命の後裔である伊予の久味国造。

大久米命についてなのですが・・
http://matome.naver.jp/odai/2140090273923377601/2140090349523906603
さらに『古事記』の神武天皇段にも、神武天皇から三輪の大物主神の娘・伊須気余理比売への求婚の使者としてやって来た大久米命の「黥ける利目」(さけるとめ:目の周辺に入墨を施した鋭い目)を見て、伊須気余理比売が奇妙に感じた、と記されています。

※大久米命の「黥ける利目」(さけるとめ:目の周辺に入墨を施した鋭い目)
沢山の記述に取り上げられていました。

すごく気になります・・大久米命の「黥ける利目」・・顔の刺青と言えば・・
日本の苗字七千傑様のQ&A「邪馬台国とは」の中に
「邪馬台国の風習として男子の入れ墨があるが、熊国(特に肥後)は九州アイヌの本拠地だったので符合する」
とあり・・「※アイヌ族の権利を示すのが黒原山」
その「黒原山」の麓にある「久米郷」・・・あれれっ?!!

さらに「三輪の大物主神の娘・伊須気余理比売」

大物主神は物部氏と大きく繋がっていました・・(弓の弦を鳴らす所作・・という記述を本でちゃんと読みました・・ハイ)

そう言えば・・
以前、父に「お父さん、ご先祖様を調べると、何故か「マムシ」がよく登場するのだけれど・・?」と言うと
父は「当たり前タイ!大物主神と蛇についての話が沢山残っているやろ!」と言われて(?_?)・・(?_?)

でも、そこから勉強いたしまして、少しは父の言葉の意味が解りました(^・^)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E4%B8%BB
大物主(おおものぬし、大物主大神)は、日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神。
大物主は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。なお、大国主の分霊であるため大黒天として祀られることも多い。
明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。明治の諸改革は王政復古をポリシーに掲げていたので、中世、近世のご本尊は古代の神社登録資料にも沿う形で行われたので必ずしも出雲神への変更が的外れでなかった場合が多い。

(-.-)そうか・・香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。
私の故郷にも井口川の上流に金刀比羅様がお祀りされています。
ず〜っと山の中なのに何故かな?と思っていたのですが・・やっと本当の意味が理解できたようです。

さらに大同元年(806年)に創建された旧岡許村の大炊霧島神社と旧宮原村の中島霧島神社。
建立した人物は「大神惟基」豊後大神氏の祖。

そして球磨郡誌に
享保二年御造営棟札及び相良家古文書によるに「住吉より白髪嶽絶頂に御鎮座し給ふも星霜遥にして其権興詳ならず。」とあり。
又、社家家系図に「緒方大夫惟元九代の後胤緒方三郎惟義と言うふ者源氏平氏合戦の最中禰宜なり。」とあり。之に依りて考ふるに當時以前より己に神社として郷民の崇敬したものである。

ともありました。

そして・・強い絆で結ばれた我が一族の「椎葉」のおじは・・
妻(おば)は歴代に渡り青井阿蘇神社の宮司を務めた「尾方家」(「方」でしたごめんなさい(..))実は・・今もおじ・おばの甥は・・・(これ以上書けません(..))
さらに「椎葉」のおじのお父さんは・・同じ尾方家から来られています。
おじさんとおばさんは・・いとこ同士です。

岡原霧島神社の由緒書きには尾方三郎惟基(緒方)とあり、青井家のウィキの記述には
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E4%BA%95%E5%AE%B6
青井阿蘇神社は大同元年(806年)に肥後国阿蘇郡の阿蘇神社の神主尾方惟基(大神惟基)が阿蘇神社の分霊を球磨郡青井郷へ分祀したものと伝えるが、その惟基を家祖とする。代々青井阿蘇神社の大宮司職を襲い、その起源は同神社創祀の翌大同2年9月13日に惟基が同神社の大宮司に補任された事に因るという[1]。
延文年中(14世紀中半)に第27代前清が球磨郡の領主藤原定頼の5男頼範を女婿に迎えて家を継がせ[2]、永禄10年(1567年)に第46代惟元が神祇管領長上吉田家へ入門、慶長2年(1597年)に青井阿蘇神社が球磨郡内全神社の総社と定められてからは近世を通じて人吉藩内の神職の元締めともされた。

(-.-)とあるわけです・・

古代を調べたら「強い絆の一族」の意味が「ドンドン!!」解ってきたような気がします(p_-)

「久米郷」を調べたら・・上記を理解する事が出来ました。
では(^・^)
[50]子孫よりさんからのコメント(2015年05月16日 09時53分17秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

あの・・初めて知りました・・我が故郷「球磨」は古事記では「建日別」と呼ばれていたのですね・・(えええええええええっ!今さらぁ〜!の叫び声が聞こえたような(..))

古事記 国生み  ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%94%A3%E3%81%BF
古事記』によれば、大八島は次のように生まれた。
伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は、別天津神(ことあまつがみ)たちに漂っていた大地を完成させるよう命じられる。別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えた。伊邪那岐・伊邪那美は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった[1]。
二神は淤能碁呂島に降り、結婚する[2]。まず淤能碁呂島に「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿(やひろどの、広大な殿舎)」を建てた。

ここからこの二神は、大八島を構成する島々を生み出していった。産んだ島を順に記すと下のとおり[4]。
1.淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島

2.伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
@愛比売(えひめ):伊予国
A飯依比古(いひよりひこ):讃岐国
B大宜都比売(おほげつひめ):阿波国(後に食物神としても登場する)
C建依別(たけよりわけ):土佐国

3.隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
別名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)

4.筑紫島(つくしのしま):九州
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
@白日別(しらひわけ):筑紫国
A豊日別(とよひわけ):豊国
B建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
C建日別(たけひわけ):熊曽国

5.伊伎島(いきのしま):壱岐島
別名は天比登都柱(あめひとつばしら)

6.津島(つしま):対馬
別名は天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)

7.佐度島(さどのしま):佐渡島

8.大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州
別名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
以上の八島が最初に生成されたため、日本を大八島国(おおやしまのくに)という。

(-.-) 筑紫島(つくしのしま):九州 胴体が1つで、顔が4つある。・・
@白日別(しらひわけ):筑紫国
A豊日別(とよひわけ):豊国
B建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
C建日別(たけひわけ):熊曽国

\(◎o◎)/!建日別(たけひわけ):熊曽国
うんがっ??でも良く見ると九州に「日向」がない??(?_?)(?_?)(?_?)
あれだけ!? 古事記・日本書紀で有名?な「日向」が、九州(筑紫島)の中にないです・・???
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
(?_?)・・たけ「ひむか」ひとよじひねわけ・・?・・「ひむか」??
「ひとよじ」?・・「ひとよじ・・」 「じ」が「し」に変わったら・・「ひとよし」なんちゃって!(^・^)・・すみません(..)

でも・・(?_?)建日別(たけひわけ):熊曽国
つ〜ことは?何ですかぁ〜(言葉使いが悪い)「熊」と「曽」は一緒の国?ひとつの国って書いてあるような???
熊襲 (熊曽国から転送)ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%A5%B2
熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話に登場する、九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々で、また地域名を意味するとされる語である。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。
(p_-)・・あんれっ?「また地域名を意味するとされる語」??

転記を続けます(p_-)
諸説[編集]
肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国贈於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされる。また5世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある(津田左右吉ら)。なお、隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。
また、魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説が、内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らにより唱えられている。ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない。
文献資料ではなく、土器の分布の面からは、免田式土器(弥生期から古墳初期にかけて)が熊襲の文化圏によって生み出されたものではないかと森浩一は考察している。

(p_-)・・
肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国贈於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)

あああああああああああああっ!!解った!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
私の頭の中にあった「現在の行政区」がやっぱり邪魔をしていたのですね!!
先日から「黒原山」「白髪岳」は日向の人々の「恵みの山」でした(^・^)な〜んて書いていたのに何で私は解っていなかったのだろう!
「球磨」と山を隔てた「小林」や「霧島」や「えびの」は、「黒原山」や「白髪岳」などの山々で別けられているのではなくて、「山を共有する」一つの地域なんだっ!!
(・・・あくまでも私見ですが・・(..))

ここで脱線しますが・・
先日からお話していた黒原山の反対側を通り、小林や霧島へ向かうあの「道路」ですが・・今、実際に「トンネル」構想が出ています。
地元「多良木の久米地区」交差点などに看板が掲げてあり「球磨と霧島をトンネルで結ぼう!」のような文字がありました。(今度、何て書いてあったのか写メで取ってきます(^・^))

ウィキの転記を続けます(^・^)
国産み神話[編集]
古事記・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に生まれた筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「建日別(タケヒワケ)」といったとされる。
次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。

(^・^)「熊曾国、言、建日別」・・( ^^) _旦~~ふぅ〜・・(ー_ー)!!じゃない!! 調べなきゃ!

・・・・・・・という訳で色々調べたのですが・・沢山の方々の「私見」を目にしました・・

「熊曽の国」と「熊襲」
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/sono402.htm
こちらに
@「熊曽国(くまそのくに)は建日別と謂う」の熊曽国は、旧国名に無いので不明であるが、日本書紀などで熊襲(くまそ)というと、九州南部(熊本県、鹿児島県、宮崎県南部)をいう場合がある。
 熊本県(肥後)は既に記述されているので、鹿児島県から宮崎県南部に比定する説もある。しかし、九州(筑紫島)は4つの国(面四つ)であり、筑紫国・豊国・肥国3国が既に記述されているので、残りの「日向(ひゅうが)・大隈(おおすみ)・薩摩(さつま)=(宮崎県・鹿児島県)」が熊曽国という考え方もある。

A「日本古典文学大系新装版 日本書紀」も、この考え方に沿った解釈をしている様である。同書「補注7-11」で次の様に説明している。
古事記では、クマソは熊曽と書き、一貫して地名として用いられている。
神代記、大八島国の生成の箇所に、…筑紫国・豊国・肥国・熊曽国の名をあげており、これによってクマソは九州南半、日向・大隈・薩摩地方(宮崎県・鹿児島県)にあたることが推測される。
         滑笏g書店発行「日本古典文学大系新装版 日本書紀」より
※しかし、付け加えて、次の説明もある。
律令時代の行政区画には、クマに当たるものとして肥後国球磨郡(くまぐん、今、熊本県球磨郡・人吉市)の名があり、ソについても、大隈国贈於郡(そおぐん、和銅6年〈713〉日向国から分れる。今、鹿児島県囎唹〈そお〉郡西部・姶良〈あいら〉郡東部・国分市)の名がある。
 甲類の西海道風土記に、クマソのことを『球磨贈於(くまそお)』などと4字に記していることは、奈良時代の人々がクマソを肥後の球磨・大隈の贈於と理解していたことを示すものである。
         滑笏g書店発行「日本古典文学大系新装版 日本書紀」より

B後の説明部分は、「熊曽国の範囲に、日向・大隈・薩摩だけでなく肥後の南半分球磨郡も含めるべきである」との内容である。
熊曽国は、「くま」がつくのであるから、熊本県球磨郡が含まれるのが自然であると思う。

(p_-)・・そう言えば・・関係無いのかとは思うのですが、父がかなり以前から、「何故か、球磨川を隔てて北側?には『阿蘇神社』系?の神社。川を挟んで南側は『霧島神社』系?の神社がある・・?」と言っていました・・??

調査を進めます(^・^)
次の「私見」を拝見しました。
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/sono406.htm
3. 順番を変えて「熊曽国は建日別(たけひわけ)と謂う」から説明しよう。
「建(た甲け)」は「猛(た甲けし)」、つまり、「武勇に優れている、勇猛である」の意味である。この「猛し(た甲けし)」が「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の「た甲ける」となった。「たける」が邪馬台国の将軍の称号に使われていることは既に述べた(『第1章第2節 魏志倭人伝の「一大率」と日本書紀における「魁帥・梟帥」』をお読みください)。
「熊曽国は建日別と謂う」は、「熊曽国は勇猛な国である」の意味である。
 筑紫国(邪馬台国)の宿敵・熊曽国(狗奴国)にふさわしい呼び方である。

(p_-)・・(?_?)・・
※「たける」が邪馬台国の将軍の称号に使われていることは既に述べた・・
なのに・・筑紫国(邪馬台国)の宿敵・熊曽国(狗奴国)にふさわしい呼び方・・
(?_?)何でだろう??もし、私だったらこう推理します・・(素人だからですが(..))
熊曽国は建日別(たけひわけ)と謂う。「建」は邪馬台国の将軍の称号。だから建日別と呼ばれた「熊曽国」(狗奴国)は本当は「邪馬台国」だった・・・なんちゃってですが・・(..)すみません・・

さて・・次に見つけた方の私見です(..)
http://kojiki.ys-ray.com/1_3_1_kuniumi_2.html

こちらの方が書かれている記述の中に
◯ 肥国、建日向日豊久士比泥別 後世、肥国といえば、肥前(佐賀県と長崎県)と肥後(熊本県)を合わせたものを指しますが、この二国は陸続きになっておらず、地理的に海を隔てて離れており、九州の四つの顔のうちの一つ、というには違和感があります。肥前・肥後国風土記の両方に肥国の国名由来が記されています。かつては火国(ひのくに)と呼ばれていたそうです。以下は肥前国風土記によります
中略・・
葦北の火流の浦は今の熊本県八代市日奈久(ひなぐ)で、火の邑は今の熊本県八代郡氷川町宮原です。火流(ひながれ)が日奈久(ひなぐ)に転じたとする説があります。また、火の邑は平安時代に書かれた和名抄に八代郡肥伊(ひい)郷として記載されており、今は氷川(ひかわ)町になっています。この地域は一貫して「ヒ」と呼ばれており、これが肥国一国を代表する呼び名になったものと考えられます。
\(◎o◎)/!ワ〜オピンポイントです!
「火の邑は今の熊本県八代郡氷川町宮原です。」・・・って・・あんにゃ(?_?)
こっこの場所は!後世の「宮原一族」の先祖「宮原公忠」が居城した場所です。
(私の家がある球磨郡の旧宮原村から八代郡氷川町宮原に行かれて数年後、旧宮原村に帰って来られました・・)

転記を続けます(^・^)
中略・・
肥国に付けられた、建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)という名前の意味は未詳ですが、これは天孫降臨の段に出てくる「竺紫日向之高千穂之久士布流多氣」(つくしのひむかのたかちほのクジフルタケ)と関係があると考えられます。クジフルタケとは、アマテラスの孫であるホノニニギが高天原から葦原の中つ国に降臨した際に降り立った場所で、鹿児島の霧島や宮崎の高千穂などとする説があります。

◯ 熊曾国、建日別 熊曾(くまそ)の国は、日向(宮崎県)と薩摩・大隅(ともに鹿児島県)を含む南九州一帯を指します。熊曾の国は豊後国風土記や肥前国風土記では「球磨贈於」、筑前国風土記や肥後国風土記では「球磨贈唹」と書かれます。これは球磨郡(くま、肥後国南部、現在の熊本県球磨郡)と贈於郡(そ、大隅国、現在の鹿児島県霧島市)のことで、クマソ(南九州の先住勢力)がかつてこのあたりを本拠地としていたことから付けられた名前だと考えられています。建日別の「建」は、猛々しい、の意味です。

(-.-)様々に皆様「研究」されているのですね・・

最後にこちらをご紹介いたします(^・^)
「古代物部氏と『先代旧事本紀』謎」(安本美典)
http://nebula3.asks.jp/27085.html

中略・・
旧事紀の話に戻るが、旧事紀ではこの部分は、

肥(ひ)の国は、建日別(たけひわけ)と謂う。
日向(ひむか)の国は、豊久士比泥別(とよくじひねわけ)と謂う。
次に、熊襲(くまそ)の国は、建日別(たけひわけ)と謂う。

となっている。古事記の通行本よりも正しいように見える。ただ九州には4つの国といいながら、これでは熊襲の国を含めると5つになってしまう。しかし「肥の国」も「建日別」で、「熊襲」の国も同名の「建日別」であり、上述のように熊襲の国は「肥の国」の一部と「日向の国」に重なり合うから、この部分は俗に熊襲の国と呼ばれているのは前述の建日別である、という説明とも解釈できる。

(-.-)・・・なるほど・・

様々な解釈を参考にさせて頂きました(..)

日本書紀・・
皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂の峯に天降ります。

という事で今朝は、私の住む「球磨」は「建日別(たけひわけ)」と呼ばれていた事を初めて知りました(..)・・
というお話でした・・
では(^・^)
[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月16日 11時09分38秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「熊曾国、言、建日別」・
 
記紀と拾遺のみに依存する限り、混迷から脱出は不可能!
真実を隠蔽しているからです。
やはり「古代日本領土の起源」熟読で疑問は氷解。
 
熊曽の国は、はじめ熊国と曽の国との二国からなる連合。
豊国に蚕食されて熊国を奪われ、火(肥)の国に改称され熊国滅亡。
政府は曽の国へ逃亡して同居。
以降の熊曽国とは、曽(いわゆす大隅地方と沖縄)を領土とする麻人(南方和人)と九州アイヌとの連合国家。
旧熊国奪還の為に出撃したのが俗に熊曽の反乱と呼ばれる。
[52]子孫よりさんからのコメント(2015年05月16日 14時24分27秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

熊曽の国は、はじめ熊国と曽の国との二国からなる連合。
豊国に蚕食されて熊国を奪われ、火(肥)の国に改称され熊国滅亡。
政府は曽の国へ逃亡して同居。
以降の熊曽国とは、曽(いわゆす大隅地方と沖縄)を領土とする麻人(南方和人)と九州アイヌとの連合国家。
旧熊国奪還の為に出撃したのが俗に熊曽の反乱と呼ばれる。

「古代日本領土の起源」を購入出来るように努力します。

豊国に蚕食されて熊国を奪われ・・
旧熊国奪還の為に出撃したのが俗に熊曽の反乱・・

昨日から降り続いた雨がやみ、日がさしてきました。
山々が綺麗に見えます。
大好きなこの景色ですが・・

あの・・
日本の苗字七千傑様、愚問だとお叱りを受ける覚悟でお伺いいたします。
とても単純な事なのかもしれませんが・・
私の先祖はご教示頂いた国を奪われた熊国、そして奪った?豊国のどちらにあたるのでしょうか・・
すみません。ご教示下さい。よろしくお願い致します。

[53]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月16日 19時56分53秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>私の先祖はご教示頂いた国を奪われた熊国、そして奪った?豊国のどちらにあたるのでしょうか・・
 
論外!
実は数世代後に熊曽族は旧領奪還に成功した様ですが、中央政府は記事を削除した疑い濃厚。
日本書紀景行天皇条に記載の厚鹿文、迮鹿文、市乾鹿文、市鹿文が、松野連系譜に有り。
恐らく、讃の時代と推測されます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03026.htm
 
また曽国へ逃亡した系は、種子島氏の祖となったものと推測。
曽が付く種子島(大隅国曽於郡)でしょう。
種子島氏が平氏というのは、熊曽族を隠す為の仮冒と見るのが正解。
やはり傍証を得るには記紀でなく、「古代日本領土の起源」ということ。
[54]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月16日 20時06分31秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>曽が付く種子島(大隅国曽於郡)でしょう。 →誤り。
 
正→ 熊が付く種子島(大隅国熊毛郡)でしょう。


[55]子孫よりさんからのコメント(2015年05月16日 22時08分57秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございます。

先祖が球磨郡久米郷宮原の地に下向して約700年。
宮原一族の中で家の系はずっと九州アイヌ族の権利を示す黒原山の麓に居住してきましたので、熊国と豊国のご教示を伺った後、私の心の拠り所でもある黒原山を眺めながら、少し複雑な気持ちでもありました。
(そんな事を現代の人が言ってどうするの?という感じでしょうが・・)

しかし・・
〉実は数世代後に熊曽族は旧領奪還に成功した様ですが、中央政府は記事を削除した疑い濃厚。

驚きました!恐るべき・・いえ「すごい!」です熊曽族。

さらに・・
〉また曽国へ逃亡した系は、種子島氏の祖となったものと推測。
〉熊が付く種子島(大隅国熊毛郡)

種子島へ向かったのですね・・

あれっ??種子島?・・種子島!ですか!!

何でしょうか?物凄い偶然なのでしょうか??
宮原家の先祖、橘公業と西園寺公経が替地した場所は・・
肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷

上記の中に「大隅国種ケ島」があります・・????

※熊国(球磨国)であった「肥後国球磨郡久米郷」
※熊国より曽国へ逃亡した系は、種子島氏の祖となったものと推測「種子島(大隅国熊毛郡)」
先祖が替地となった2か所は「熊国」(球磨国)に由縁の土地・・

頭を整理します。ご教示頂いた
※久米については、故喜田貞吉博士が「久米は、玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と論じている。
 一理はあるが、伊予の久味国造裔の久米が正しい。
※越智姓久米氏や旧越智姓伊予橘氏も存在することから、伊予の久米の地名が肥後に遷移したことが真実と思われる。
※伊予の久味国造族も平折敷、折敷に三文字の家紋を使用していることから、越智氏に次第に合流したのではないかと考えられる。
※大久米命の「黥ける利目」(さけるとめ:目の周辺に入墨を施した鋭い目)
※邪馬台国の風習として男子の入れ墨があるが、熊国(特に肥後)は九州アイヌの本拠地だったので符合する
※アイヌ族の権利を示すのが黒原山。

何か、全て関係しているような気がしてなりません・・(偶然???)

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました。
[56]子孫よりさんからのコメント(2015年05月17日 09時32分17秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

地元の古代が気になって中々、他地域の調査が進んでいないのですが・・

全く、関係ないのですが、故郷に戻り、父から色々な話を聞く事が出来ています。

祖父の実家である「宮原家」。
今は祖父の従姉が嫁いだ「星原家」が家跡を引き継いでいますが、先代の星原のおじについて父から話を聞けました。
先代のおじは戦後、戦地から戻り、その後大陸から帰って来た私の祖父がすぐに亡くなった事により、旧宮原家の土地を守る為にとても苦労されたそうです。
戦後の農地改革で、宮原家のかなりの土地は他の方に渡りました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9

おじは、「先祖代々守り続けた宮原家の土地を守る」意のもとに、建設業を営みながら必死に働き、何年もかけて、かなりの土地を高額なお金を払い買い戻したそうです。
おじは、昼夜を問わず働き続けたそうです。
当時、幼かった父はおじの事をとても尊敬していたそうです。
父は「おじさんは本当にすごい人だった。宮原家の旧地の為に必死だった。本当に尊敬する。」と言っています。
私は、何も知りませんでした・・・

戦後の農地改革の「意図」とはかけ離れた行為であるかとは思いますが・・
でも・・宮原の一族が必死に守ろうとした「土地」・・
そう考えると、700年以上も守ってきた、この「土地」には大きな意味があるのでは?とも思えます・・

さらに・・故郷に戻り一つ気が付いた事があります。
実家のある小字「外園」地区。ここは通称「侍村(まちむら)」ですが・・
ご近所にお邪魔して、子供の頃には気が付かなかった事・・
其々の家の敷地内に「祠」がお祀りされています。
「祠」のもとには大きな木が立っています。かなり古い厳粛な空気を持った木です。
今でも、各家々は「祠」を大事にお守りされています。

球磨郡誌や岡原村史には「外園」地区に、岡原霧島神社に合祀された、沢山の神社が鎮座されていたと記されていました。
何か関係あるのでは?とこの頃感じていました・・

さらに・・
宮麓地区全体に住んでいる皆さんの中には先日から昨日までに伺った古代の「熊国(球磨国)に遠く繋がっているのではないのだろうか?と考える事が出来る「お顔立ち」の方が結構多くいらっしゃるのですよね・・?
何だろう・・例えるとしたら映画「テルマエ・ロマエ」の「平たくない顔」の方で(お解りいただけるかな?)出演されている俳優さん方のような・・
不思議なのですが・・・「平たい顔」の人は殆どいません・・(?_?)

そう言えば・・主人が球磨に来て、親戚や地元の人と初めて会ったときに
「こっちに帰ってこられたような顔立ちタイ。いいや(ー_ー)!!こりゃ何百年もかけて帰ってきなったとバイ」
と訳の解らない事を言われていました・・(?_?)(?_?)(?_?)
私の祖父に主人は似ている・・と以前書いたと思うのですが・・
椎葉のおじは、初対面の時にナント
「あれっ?俺は初めて会うかね??むか〜しおうとらん(会っていない)かね??」と。
その時は「もしや?おじさんもついに・・」と思ったのですが(おじさんごめんなさい(..))
その後、しばらくして祖母の法事があったのですが、その時におじが
「初めておうた(会った)時にびっくりした。○○ちゃん(主人)はここの(宮原)の亡くなったじいちゃん(私の祖父)にそっくりバイ。おじさんはここのじいちゃん(私の祖父)に子供の頃一番可愛がってもらった。あんた達のお父さん(私の父)は小さかったケン憶えとらんと思うバッテン、おじさんは、ここのじいちゃん(私の祖父)の顔はよ〜く憶えとる。本当に生き写しとはこの事バイ。生まれ変わりじゃなかろうか!とおじさんは初めて○○ちゃん(主人)に会った時に本当は腰を抜かしそうになった!!」
と言っていました・・本当にビックリです\(◎o◎)/!

その話を聞いていた、「ほろ酔いかげん(かなり酔っていたカモ)」の父と叔父(父の弟)は
「パパ!!お帰り!!」と、私の主人に言っていました・・トホホ(..)

脱線しましたが・・

古代に繋がる故郷「球磨」。
子供の頃にもっと歴史に興味を持っていたらよかったな〜(..)とこの頃思います。
故郷の歴史を調べる事はとても「楽しい」し「面白い」です(^・^)

では(^・^)
[57]白石さんからのコメント(2015年05月18日 05時07分59秒 ) パスワード

おはよございます。
3>大伴・久米の七氏族の祖は、いずれも天御中主尊を遠祖とする三韓連合王国の馬韓(高天原)系の天神族なのである。

48>★『日本書紀』は、朝鮮半島の百済を「百済」、遼西の百済を「呉」と区別している。

中国の本に百済の故地はフェルガーナあたり とあるそうで、
ウィキより
フェルガナに居住する住民は、サルト人とも呼ばれるが、人種的にはウズベク系とタジク系に分かれる。
サルトがイラン系、テュルク系のムスリム定住民の総称として使われていた。

ウィキより遼西
古くから東胡系遊牧民族の住居地で、五胡十六国時代には鮮卑慕容部の本拠地となり、前燕、北燕などの国家が形成された。

桓武天皇は朕の祖先は三韓ではない と 言った。
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紅楼夢 | 公式サイト - Cinem@rt

キャスト&スタッフ

画面を下へスクロールすると 宝玉・たいぎょく・せつほうさ三人が写っています。前に 杉原さんという人が この三人によく似ている と 書きました。
俳優さんの顔ということになります。俳優さんも芸名だからそれ以上 本名とか出身地はわからないだろうと思いますが・・・

賈宝玉:ユー・シャオトン(少年時代)/ヤン・ヤン 林黛玉 :ジャン・モンジェ 薛宝釵:

紅楼夢は別名 石頭記せきとうき・いしき というそうです。
宝玉がうまれたとき 宝玉をくわえてうまれてきたということで。

宝玉って 石頭って と思って 検索していましたら
田黄という印につかう 貴重な石だそうです。田の中でとれるそうです。

田寮というのが みつかりました。
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台湾です。
【高雄田寮景點】石頭廟。無極慈玄聖天宮@ Y Hua 就愛旅遊攝影:: 痞客 ... - この    で 検索。建物の雰囲気が 紅楼夢の建物とそっくりです。
紅楼夢の場所の設定は長安だそうです。

このブログで
聖天宮 主祀 觀世音菩薩のことばがありました。

聖天宮
ってなんだろう。水天宮ならば真木の先祖に関係しているが ・・・と思いましたが 

道教に関与していくようにも思えました。

道教的日々生活の心得
なるべく物には頼りすぎず、人との関係には思いやりを持ち、衝動は一回立ち止まってから判断すると気持ちに余裕が持てるようになると思います。
この言葉 いいな !!
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聖天宮 - Wikipedia

天門. 聖天宮(せいてんきゅう)は、★埼玉県★坂戸市★塚越にある★道観(道教寺院)である。 この項目では特に注記の無い限り、聖天宮の運営法人である「宗教法人 聖天宮」が 作成し、拝観者に配布される一般公開用のパンフレット『聖天宮 ご案内』をもとに記...

で検索

その前に台湾の聖天宮をみたら
正確的宮名...無極慈玄聖天宮
最上層有供奉觀音菩薩

埼玉の聖天宮では
三清道祖(元始天尊、道徳天尊、霊寶天尊)、南斗星君、北斗星君、四聖大元帥 他多数。

北斗があります。








[58]白石さんからのコメント(2015年05月18日 06時40分53秒 ) パスワード

霊寶天尊=太上道君

元始天尊
は太元、即ち全ての物事よりも先に誕生した常住不滅の存在であり、天地再生の際に人々に道を説いて救済を与えるという(開劫度人)。また『雲笈七籤』の巻二では、万物の始めであり「道」の本質であるとされ、同巻三によると大羅天の玄都にある玉京に住むという。
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馬王たい墳墓
以前近くにこの墳墓があると書きましたが、長沙でした。
湖南省長沙にある紀元前2世紀の墳墓。利蒼(- 紀元前186年)とその妻子を葬る

各墓の被葬者は、前漢初期の長沙国で丞相をつとめ初代軑侯となった利蒼(2号墓)、その妻(1号墓)、息子(3号墓)である[14][25]。
1号墓の被葬者は
湖南省博物館で展示されている辛追の遺体
被葬者は利蒼の妻、辛追。
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辛氏
得姓始祖:启。父大禹,母涂山氏。夏朝开国君主。相传禹晚年曾根据以前的先例,做禅让的姿态,并推举东夷族的伯益做继承人,但暗中却为传子做准备,竭力为子培养羽翼势力。大禹薨后,启不负父望,兴兵夺权,一举攻杀伯益。不久,又兴兵灭掉了不服自己,妄图蠢蠢欲动的同姓有扈氏。剪除异己后,启建立了中国历史上的第一个奴隶制国家――夏。禅让制一去不返,世袭制度从此确立。启建国后,封庶子于莘,其后以封地为氏,因莘辛在古时同音,后去掉草头,称辛姓,尊启为辛姓得姓始祖。

大禹 伯益 有扈氏 夏 于莘 辛姓などがみられ

紅楼夢のか宝玉役・于小形も于です。
日本の場合 俳優さんの名づけには きちんと祖先を知っている人?が占いのようなことをして つけられる と 何かで 見たことがありますが 

もし 小形もそうであったら 似姓で 美形の家系ということになる。
上の文を拾ってきたときは 蒙古も読み取れたのですが
パソコンがおかしくなって 矢印が出なくなり ぐるぐる 検索中の表示ばかり出て

再起動をかけたら ついに 似姓や 蒙古は 消えてしまっていました。 





[59]子孫よりさんからのコメント(2015年05月18日 12時39分42秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

〉中国の本に百済の故地はフェルガーナあたり とあるそうで・・

フェルガーナとは?何処だろうと私もウィキの記述を読んでみました(^・^)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%8A
ウズベキスタン共和国東部の都市。フェルガナ州の州都。人口は214,000人。アラル海に注ぐシルダリア川の上流とカラテギン(フェルガナ)山地に挟まれたフェルガナ盆地の南端に位置する。

大宛国、ゾロアスター教の故地の1つとされる。フェルガナ盆地は名馬の産地であり、汗血馬と呼ばれる良馬を求め、前漢の武帝が征服した。漢字では漢代には「大宛」と呼ばれたが、西晋より後はフェルガナの音訳である「破洛那」が用いられるようになり、豊饒の地として知られるようになった。

(-.-)「ゾロアスター教」・・興味があるので後ほど勉強します・・

「なるべく物には頼りすぎず、人との関係には思いやりを持ち、衝動は一回立ち止まってから判断すると気持ちに余裕が持てるようになると思います。 」
そうですね・・(^・^)こうありたいと思いますが中々私はマダマダ修行が足らないようですぐに突っ走ります・・(..)

所で・・昨日は「清願寺ダム」と「谷水薬師」様に伺いました(^・^)
大好きな県道43号線(通称聖域ライン)をドライブしながら、小学校・中学校の遠足でよく伺っていた「谷水薬師」様にお参りしよう(^O^)/となり、先に清願寺ダムまで行ってきました。
清願寺ダムは白髪岳の麓、かなり標高の高い場所にあります。皆越です。
http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2674

ダムには誰もいなくて、私達二人だけでした。
車を降りてダム上の橋の中間あたりまで歩いて下を覗いていた所、突然、頭上から「ぴ〜ひょろ〜!!」という大きな声が・・
えっ?!と思い上を見上げたところ、物凄く大きな「ワシ」か「鷹」が・・
大きな翼を広げて、私達の真上を旋回しています。
それはそれは、今まで見た事も無い大きな「ワシ」か「鷹」でして(何せ、どちらか解らないもので・・(..))
私は上を見上げて「こんにちは〜(^O^)/」と言うと、「ワシOr鷹?」さんは答えるかのように凄く大きな声で「ぴ〜ひょろ〜!!」と・・
返事した!!と喜ぶ私に主人が(ー_ー)!!という表情を見せたので、もう一度「こんにちは〜(^O^)/」と言うとやはり「ぴ〜ひょろ〜!!」と・・
主人も「あっ!本当返事している!」と・・(何処からか不思議な夫婦との声が・・でも本当です!)
しばらく「ワシOr鷹?」さんは私達の真上を旋回していましたが、最後にビックリする程、近くに降りて頭の上をぐるっと回った後に、山の方へ飛んで行き姿が見えなくなりました(^・^)
(一瞬、咥えられて何処かに連れて行かれるか?と思うほど近くまで来たのですが・・私の体重だと・・無理です(ー_ー)!!)

「清願寺ダム」(皆越)から、山を降り「谷水薬師」様に伺いました。
子供の頃は気が付かなかったのですが(というか興味が無かったと言うのが正解ですが(..))「谷水薬師」様の駐車場までの道なりに数体の「像」がありまして
順に「巻物を持つ武将」「剣を持つ武将」「先端が大きな球になっている棒のような武器?を持つ武将」「大きな槌?を持つ武将」の像です。
「武将」と書きましたが、その姿は「戦国時代」とかの武将の姿ではなく・・何だろう古代?もしくは中国とかそれこそ百済?新羅?とかいう衣装?を身にまとった「武将」のお姿でして・・
主人も「日本ぽく?ないね・・中国?何処だろう??」と言っていました・・
駐車場に付いて、主人が「案内板にあの先端が球体になっている棒のような武器?は”鉄を砕く”武器だって書いてあるよ!!」と言っていました・・他にはあまり詳しい記述は無かったようです。

駐車場から売店前を歩いていると男性が話しかけて来られました。
「遠くから来なったとですか?」と聞かれたので「いいえ、家は岡原の宮麓です。宮原と言います」と言うとその方は「ええ〜っじゃあ宮原城タイ。隣は岡本城タイね〜ここは上村城跡が薬師様の上にあるよ。」と言われました・・
「お城に詳しい」その男性にすぐ上にあるかなり古い整然と並んでいるお墓の事を伺うと「上村城主一族のお墓ですよ、元々谷水薬師は上村城主の菩提寺だから」と教えて下さいました。

そうか・・・と。その男性はお城跡の道まで教えて下さって、その後自前の椅子に腰かけて、「行ってらっしゃい(^O^)/」と私達を見送って下さいました(^・^)

駐車場から谷水薬師までの参道に入ったとたん、厳粛な空気に包まれました。あたりはとても高い杉が立ち並び、小川はとても綺麗で・・
主人は「すごい!すごいよ!!こんなに素晴らしい場所に家から10分もかからずに来れるなんて!球磨に来て良かった!!」と感動していました。
(私も小学校・中学校の遠足で何度も伺っていたのにこんなに素晴らしい場所だったとは・・と感動しました・・)

谷水薬師様にお参りして由緒書きを読んだのですが・・
奈良時代に「行基」という方が夢を見られてこの場所に創建された・・証拠となる黄金の仏像が、一度焼けてしまったお寺の焼け跡土中から見つかった・・というような事が書かれていました。
由緒書きの写メを撮ろうと思ったのですが、父が「あまり、神社仏閣で写真を撮るのはよくないよ(ー_ー)!!」と言ったのを思い出し、止めました(..)
そう言えば・・うちの一族の親戚である犬童家(上村犬童家本家)は上村城跡の山のすぐ下(麓)にあって、谷水薬師様にはそちらの犬童家の庭から登れると父が言っていました。(子供の頃にそこから登ったけれど、かなりきつかったと父が言っていました)

早速「谷水薬師」様についてネットで勉強しました(^・^)
あさぎり町 公式ページより
http://www.asagiri-town.net/q/aview/53/452.html
日本七薬師の一つ。御開帳は春秋彼岸の中日と土用丑の日に限られ参拝者は多い。もと谷水山東圓寺の金堂で、応永32年(1425)上村氏没落の時兵火にかかり、また、明治30年には失火により全焼。その後(明治33年)に再建。伝えでは、聖武天皇の御代、行基菩薩の創建。また桓武天皇勅願の造営という。谷水川と杉の大木に囲まれた堂域は独特な幽玄の世界を醸し出している。

熊本県公式ページ
http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_8427.html
あさぎり町上(旧上村)の麓地区の東南部に、日本七薬師(注1)の一つに数えられる谷水薬師堂があります。その創建年代については明らかではありませんが、聖武天皇の時代に行基がこの地を訪れてお堂を建てたという話が伝わっています。江戸時代後期に編纂されたといわれる(注2)「歴代嗣誠独集覧」(れきだいしせいどくしゅうらん)には、応永32(1425)年に相良千葉介藤原頼国(=相良頼国)(注3)が、弘尊上人を開基として医王院東円寺を創建したと記されていて、東円寺の金堂が谷水薬師ともいいますます。
 弘治3年(1557)に上村氏が滅亡したときに、東円寺は兵火にかかって消失しましたが、永禄6(1563)年、日誉上人が「三郡泰平」を祈願して再興しました。その後、倒壊と再興を繰り返し、文久年間(1861〜1864年)からは、永里の宝持院によって維持されました。明治13(1880)年にお堂の修復がなされたものの、明治30年の失火で再び焼けてしまいました。しかし村人らの厚い信仰心によって明治32年に再建されました。谷水薬師は、今なお地域の人々に大切にされています。         
■仁王像と紙つぶて 
参道にある仁王門には左右に二体の仁王像があり、古くからのならわしとして、「紙つぶて」があります。それは、自分の体で悪いところがあれば、仁王像の体の同じ部分に「噛んだ紙」をめがけて投げ、紙がうまくくっつくと、自分のその部位の悪いところが治り、ご利益もあるというものです。本堂の裏には池があり、その脇に「月光水」と呼ばれている湧水があります。郡内はもとより、遠く県外からも参詣者があとをたちません。

(^・^)
聖武天皇の御代、行基菩薩の創建。また桓武天皇勅願の造営という。

「行基」・・私は、何だか今までの調査の中で何度もこの方のお名前を目にしてきたような・・??

行基 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA
行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)は、奈良時代の日本の僧。生年については、677年4月する説もある。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

出自[編集]
父高志才智、母蜂田古爾比売の長子として、河内国(後に和泉国)大鳥郡に生まれる[1]。生家は後に行基によって家原寺に改められた場所で現在の大阪府堺市西区家原寺町にあった[2]。
生涯[編集]
河内国大鳥郡(757年に和泉国へ分立、現在の大阪府堺市西区家原寺町)に生まれる。682年(天武天皇11年)に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相宗などの教学を学び、集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。704年(大宝4年)に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、入唐して玄奘の教えを受けたことで有名である。

(゜-゜)
父高志才智、母蜂田古爾比売の長子として、河内国(後に和泉国)大鳥郡に生まれる。
父 高志才智 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BF%97%E6%89%8D%E6%99%BA
高志 才智(こし の さいち、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物。名は羊(ひつじ)または佐陀智・貞知(さだち)とも書かれる。姓は史[1]。子に行基がいる。
出自[編集]
高志氏(高志史)は王仁を祖とし河内国・和泉国に分布する百済系渡来氏族[2]。高志の名称は大和国高市郡阪合村越の地名に由来すると想定される[3]。諸書においても、行基を百済人の後裔で[4]和泉国大鳥郡出身[5][4]としている。
一方、別の系統で越後国頸城郡の郡司(大領)を世襲した高志氏(高志公)があり、『日本現報善悪霊異記』のみ行基を越後国頸城郡出身としている[6]。
霊異記を退けて河内・和泉国の渡来系高志氏を出自とし[7]、その本拠をさらに絞れば今の大阪府高石市高石とする説が有力である[8]。

※高志氏(高志史)は王仁を祖とし河内国・和泉国に分布する百済系渡来氏族

王仁 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81
王仁(わに、生没年不詳)は、百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物である[1]。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。
実在は疑問視されており[2]、儒教を伝えた実在の王辰爾(王智仁)の功績に基づいて渡来人らが作成した伝承とする説[1]や、その姓から見て高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人系の学者とする説もある[3]。

中略・・
王仁に関しての記述が存在する史書は『古事記』『日本書紀』『続日本紀』などである。それぞれの記述は以下のようになっている。

(-.-)・・・様々な説があるのですね・・読んでいても・・むっ難しい(..)・・
漢字が多いので・・苦手な分野・・(父に叱れますが・・(..))

しかし・・
「行基」。この方に由来した土地やお寺は全国に数多くあるのですね・・
谷水薬師は「白髪岳」の麓・・
聖武天皇の御代、行基菩薩の創建。また桓武天皇勅願の造営という・・

http://johkasou.jp/modules/page/index.php?lid=88
日本七大薬師のひとつである谷水薬師は、奈良時代、聖武天皇の御代に行基菩薩が開山したや、桓武天皇の御領によって造営された六坊伽藍の名残である、との言い伝えがあります。

・・・・・という伝承が残る「谷水薬師」様のお話でした・・

最後に上村城跡をご紹介いたします。
あさぎり町公式ページより
http://www.asagiri-town.net/q/aview/36/423.html
上麓地区にある山城で別称麓城、亀城と呼ばれた。人吉城の支城で高城、中城、下城に別れている。上村氏第11代三河守直頼から上村頼孝までの居城であった。永禄10年(1567)上村氏没落後は犬童美作の居城。麓地区全体が城内で麓馬場は侍屋敷の地割りが残り、古い城下形式を今に保ち郡内では珍しい。

父から、紅葉がとても素晴らしいと聞いています。

昨日伺った、郷土の史跡についての勉強でした(^・^)
では(^・^)
 







[60]あきさんからのコメント(2015年05月18日 21時16分58秒 ) パスワード

こんばんは、Aです♪
その鳴き声は鳶(とび)です。球磨郡では「とんび」と呼ぶ人が多いです。
[61]白石さんからのコメント(2015年05月19日 01時48分09秒 ) パスワード

こんばんは
高志内親王
という方がいたと思いウィキをみました。
母は皇后藤原乙牟漏。淳和天皇親王時の妃。同母兄に平城天皇、嵯峨天皇。贈皇后。贈一品。 父・桓武天皇

母は異母兄大伴親王(のちの淳和天皇)の妃となる。(昔はあったのですね。近親婚が)

所生の恒世親王は、両親とも桓武天皇の皇子であり、血筋の上では有力な皇太子候補であった。しかし、父淳和天皇は自身の皇太子として嵯峨天皇皇子の正良親王(仁明天皇)をたてた。

嵯峨天皇は我が国の本主は スサノオぞ と津島神社(尾張)にまつった。
[62]子孫よりさんからのコメント(2015年05月19日 06時20分40秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

今朝は、主人が5時に家を出発しましたので、早起きです。(ちなみに明日は3時に出発します・・)

Aちゃん、白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

まず・・Aちゃん(^・^)
とっとんびぃ〜!!?えええええええええええっ!!?(@_@;)
だって、鳶(トビ)は、小倉にいる時もよく見ていましたよ〜〜〜!!
リバーウォーク北九州の横を流れる紫川の上をカラスさんを威嚇しながら沢山飛んでいました。
リバーウォーク北九州
http://allxa.web.fc2.com/a-map/jp_fukuoka/rwk/rwk01.html
時折、川の横で遊んでいるカップルとかが「ぎゃ〜!!」って悲鳴をあげて「ポテチをトンビに盗られた〜!!」とか言われていたあの「鳶(トビ)」さんですよ!!
鳶(トビ)は海や海の近くの川に住んでいるのでは・・(?_?)

(ー_ー)!!これはイカン!!球磨の人達は、きっと「鷹ORワシ」を「鳶(トビ)」と間違ちがっとるバイ。私が見たあの「大きな鳥」は雄大な山々の景色に溶け込んで「威厳」があった!!
これは球磨の人々に教えてあげなければ(ー_ー)!!・・と調べたのですが・・

鳶(トビ)ウィキより (ここでも調べてる!との声が聞こえたような・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%93
トビ(鳶、学名: Milvus migrans)は、タカ目タカ科に属する鳥類の一種。トンビとも言う。
ほとんど羽ばたかずに尾羽で巧みに舵をとり、上昇気流に乗って輪を描きながら上空へ舞い上がる様や、「ピーヒョロロロロ…」という鳴き声はよく知られており、日本ではもっとも身近な猛禽類である。
\(◎o◎)/!・・(゜-゜)・・?「ピーヒョロロロロ…」という鳴き声・・あんにゃ??

主に上昇気流を利用して輪を描くように滑空し、羽ばたくことは少ない。視力が非常に優れていると言われ、上空を飛翔しながら餌を探し、餌を見つけるとその場所に急降下して捕らえる。

\(◎o◎)/!「輪を描くように滑空し」・・あんにゃ??!!

たっ確かに「滑空中のトビ」の写真は・・・
(ー_ー)!!ダメです。もしかしたら「鷹ORワシ」も「ぴーひょろ〜〜」と無くかもしれません(ー_ー)!!
球磨の人々に真実を伝えなければ(ー_ー)!!・・と思い「鷹」「ワシ」「鳶(トビ)」の鳴き声を聞いてみる事にしました・・

Aちゃんも皆様もご一緒にお聞きください(p_-)・・
まずは・・鷹(タカ)の鳴き声
https://www.youtube.com/watch?v=dIJNb3joVQU
(゜-゜)うむっ??あんれっ??「ぴ〜」って可愛い(^・^)

続けてワシの鳴き声
https://www.youtube.com/watch?v=8YkW0Qk-IoQ
(゜-゜)あんれっ??「ぐぅわっわっわっ」ってアヒルみたいです・・??

では最後に「鳶(トビ)」の鳴き声
https://www.youtube.com/watch?v=OmoOzUf7ODQ
\(◎o◎)/!ああああっ!!コレダ!!「ぴ〜ひょろろ〜!!」ってカッコイイ!!

うんがっ\(◎o◎)/!・・やっぱり「鳶(トビ)」です!!
球磨の人々は「真実」をすでに知っていたのです!!(知らなかったのは私と主人だけ・・)
トホホ・・(..)

でも・・「鳶(トビ)」さんは飛ぶ場所によってこんなにも違って見えるのですね・・
だって、街中を飛んでいるときは鳴いてもきっと雑音でかき消されているだろうし・・白髪岳の麓の谷を飛んでいる時は「優雅」で「威厳」があって声もしっかり谷に響き渡っていました。かっこよかったです。
海や海沿いの川に住んでいるだけじゃないのですね・・
本当に勉強になりました(^・^) (だから知らなかったのはあなたダケという声が・・)
私達は「鳶(トビ)」と会話したのですね(^・^)(イヤ(ー_ー)!!餌を狙ってたと誰かの声が・・)

Aちゃんありがとう(^O^)/ また一つ勉強しました(^・^)

白石様ご教示ありがとうございます。
高志内親王のお母様「藤原乙牟漏」この方についてウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B9%99%E7%89%9F%E6%BC%8F
父は藤原式家の藤原良継、母は阿倍粳蟲の娘で尚侍兼尚蔵(就任時期不明)・阿倍古美奈。山部親王の許に入内し、宝亀5年(774年)8月に小殿親王(後に改名して安殿)を産んだ。[3]
天応元年(781年)4月15日には山部親王が即位して桓武天皇となり、延暦2年(783年)2月5日には無位から正三位に叙される。2月7日には夫人(ぶにん)となり、4月には皇后に立てられる。同4年(785年)には安殿親王(後の平城天皇)が立太子される。

※父は藤原式家の藤原良継、母は阿倍粳蟲の娘・・(阿部氏)ですね

藤原良継 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E7%B6%99
系譜[編集]
父:藤原宇合
母:石川国咸大刀自[3] - 石上麻呂の娘?
妻:阿倍古美奈(阿倍粳蟲の娘) - 尚侍兼尚蔵
女子:藤原乙牟漏(760-790) - 桓武天皇皇后。平城天皇・嵯峨天皇母

なるほど・・(゜-゜)
母:石川国咸大刀自[3] - 石上麻呂の娘?

次々と見ていますが・・(-.-)続けて
石上麻呂 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E9%BA%BB%E5%91%82
石上 麻呂(いそのかみ の まろ、舒明天皇12年(640年) - 霊亀3年3月3日(717年4月22日))は、日本の飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。麻呂は麿とも書く。氏姓は物部連、のち物部朝臣、石上朝臣。大華上・物部宇麻乃の子。官位は正二位・左大臣、贈従一位。
壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)の側につき、皇子の自殺まで従った。のちに赦されて遣新羅大使となり、その後法官の仕事につき、筑紫総領になった。701年に大納言となって以後、政治の中枢に携わり、右大臣、左大臣に任じられた。717年で死去するまでの数年は太政官の最高位者であった。
なお、『竹取物語』においてかぐや姫に求婚する5人の貴族の一人である「石上まろたり」のモデルであるとされる。

あの・・私、この方がすごく気になります・・(何だろうこの感じは・・?)

と言う事で「白石様」のご教示から、「石上麻呂」。この方までを勉強しました。
では(^・^)
[63]子孫よりさんからのコメント(2015年05月19日 07時24分24秒 ) パスワード

追記です・・(^O^)/

鳶(トビ)の生態が気になって(マダ言っているとの声が・・)ウィキの記述を読み続けていると・・

あああああああああっ!!鳶(トビ)さんは活躍!?しています!!
鳶(トビ)ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%93
日本文化より
トビに関する日本の伝説としては、『日本書紀』の金鵄がある。金色のトビが神武天皇の前に降り立ち、その身から発する光で長髄彦率いる敵軍の目を眩ませ、神武天皇の軍勢に勝利にもたらしたという伝説である。

\(◎o◎)/!鳶(トビ)さんのお陰で「長髄彦率いる敵軍の目を眩ませ、神武天皇の軍勢に勝利にもたらした」

うんがっ??(?_?)・・「鳶(トビ)」・・『日本書紀』の金鵄・・??
金鵄 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%B5%84
金鵄(きんし)は、『日本書紀』に登場する金色の鵄。
『日本書紀』の記述では、初代天皇となる神武天皇が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、天皇軍が勝利することができたとされる。この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。神武東征の際、熊野から大和へ天皇の軍を道案内した八咫烏と混同、あるいは同視されることが多い。
なお、大錦旛のうち霊鵄形大錦旛には金鵄が刺繍されている。

\(◎o◎)/!「鳶(トビ)」さんカッコイイ!!
じゃない(ー_ー)!!・・神武東征の際、熊野から大和へ天皇の軍を道案内した八咫烏と混同、あるいは同視されることが多い。

\(◎o◎)/!そうなんだっ!!

うんがっ??(?_?)・・「長髄彦」・・この方は!!
「長髄彦」 コトバンクより
https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E9%AB%84%E5%BD%A6-107709
ながすね‐ひこ【長髄彦】

日本神話上の人物。神武天皇の東征のとき、反抗した大和国鳥見(とみ)の土豪。金色の鵄(とび)が神武天皇の弓にとまり、その光で目がくらみ、饒速日命(にぎはやひのみこと)に討たれたという。登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)。

\(◎o◎)/!\(゜ロ\)(/ロ゜)/ああああああああああっ!!
※金色の鵄(とび)が神武天皇の弓にとまり、その光で目がくらみ、饒速日命(にぎはやひのみこと)に討たれたという。

「鳶(トビ)」さんすごい!!・・じゃなくて・・
饒速日命(にぎはやひのみこと)の手助けを「鳶(トビ)」さんが・・

そうか・・・
「鳶(トビ)」さんと「清願寺ダム」で会話?した話から、色々調べたら、『日本書紀』の記述「金鵄」を勉強する事ができました(^・^)

やっぱり私達夫婦は「清願寺ダム」で「鳶(トビ)」と会話したのです!!
(マダ言っているよ(ー_ー)!!との合唱が・・)
では(^・^)
[64]白石さんからのコメント(2015年05月19日 07時26分12秒 ) パスワード

58の有扈氏(ゆうことよむのか ゆうぐとよむのか?)
有虞氏帝舜)の子孫の男子と周武の女子との間にできた子の系から田斉
田斉になると記憶しています。

伊勢神宮におられた(今は厚子さまや清子さまがやっておられる)人が祖先は周として 姓の王と王子の数と同じ剣があった と 書いておられた。

このあたりはもう一度前の自分のファイルを見直さなければなりませんが・・・

代々有〇氏と婚姻関係を結んでいた周は 有〇氏が滅んだあと 周武にいたり 日枝姓に変えたと・・
[65]白石さんからのコメント(2015年05月20日 01時56分09秒 ) パスワード

こんばんは
上の文は
周武にいたり 姫姓に変えた と・・・
です。
どうして変わってしまうのでしょうね。
[66]白石さんからのコメント(2015年05月20日 02時42分19秒 ) パスワード

百済貴族のミイラの辛氏の女性の血液型はA型。

世界の血液型の分布を見てみました。
A型の分布図
0-5% 10-15% 20-25% 30-35%
5-10% 15-20% 25-30% 35-40%
A型は北欧から西ヨーロッパにかけての多く、 A型の最も多い地域は北スカンジナビア、特にモンタナのブラツクフットインディアン(30-35%)、オーストラリア原住民(多くのグループが40-53%です)、ラップ人か、サミィの人々(50-90%)です。

B血液が最も多いのは中央のアジアで、比較的多いのがアフリカです。少ないのがアメリカ大陸とオーストラリアです。

ちなみに私はB型です。
余り血液型のことは言わない方がいいと聞いていますが、わたくしは庶民ですから。

もろ アフリカから陸続きにアジアへやってきた と 母系の遺伝子をそのまま伝えているではないか  笑

馬氏
紅楼夢で おきまりのお家騒動のもとになる 母違いの子を呪い殺そうと 呪術師に頼む場面があるのですが、
この呪術師が馬氏で
ドラマを作成した人は 詳しく考証して宮中の言葉などもしっかり再現しているということなので 
馬氏の顔は
白鳳関の顔とそっくりで それに 顎に何本かひげを(女性なのに)はやしているのです。

私のひげは 白いのが一本ですが。

馬は漢王室の子孫にもおり 漢王室の将軍にもおります。

[67]子孫よりさんからのコメント(2015年05月20日 06時49分23秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。
馬氏。 「紅楼夢」は未だ見た事がないのですが、中国や韓国の歴史を題材にしたドラマを見れば、「漢字が苦手なお前でも、大体の所が理解しやすくなるかもね(^・^)」と言われています。
何せ先日父から「諸葛孔明」は知ってるよね?と聞かれて、何か聞いた事はあるぞ〜ゲームの三国志で戦ったかな〜と「ぽか〜ん(゜-゜)」としたら、「情けない!それぐらい勉強しろ!」と叱られました。(..)トホホ

所で・・先日から毎晩続けて見た夢が気になって調べたら、不思議な記述を見つけました。
続けてのコメントで・・
では(^・^)

[68]子孫よりさんからのコメント(2015年05月20日 07時42分23秒 ) パスワード

では早速(..)

先日、須恵から築地を通って家に真っすぐ帰ろうとした所、球磨川を渡る橋を一本間違えて、免田の鬼の窯古墳の横を通る道に出てしまいました・・(何せ方向音痴なもので・・(..))
久しぶりに鬼の窯古墳を車窓から見まして・・でも、その日から毎日「古墳」の夢ばかり見るようになりました・・
そして、昨晩見た夢は大きな岩の前に、上村で見た「武将」のような方々がいらして・・
毎晩、古墳の夢ばかり見るのでとても気になりまして・・朝から、家にあった「あさぎり」を読んだのですが、もっと視野を広げてみようと球磨の古墳を調べてみました。

すると・・とても気になったのが「京ヶ峰横穴墓群」(錦町です)
紹介されているサイトを(..)
http://obito1.web.fc2.com/nisiki.html
球磨川に架かる鉄橋の手前にあります。3基からなりますが、1、2号墓が並んでいて、3号墓はどこかわかりません。石室構造から1号墓が六世紀前半、2号墓が六世紀後半と時期差があります。1号墓は羨道長0.4m、玄室長2.5m、幅2.35m、高さ1.75m、平面は方形でコの字形の屍床があります。天井はドーム状ですが、軒先を表現しています。装飾は二ヶ所にあり、1号墓入口の向かって右側の外壁に大小二つの靱の浮彫、左側の外壁に盾、剣、車輪状紋の浮彫が残っています。靱の一部は線刻彩色(赤)で表現されています。2号墓はドーム形で玄室長1.83m、幅1.92m、高さ1.16m。状態は良くなく、外壁に盾の浮彫がありますが、後世のものとされているようです。

(゜-゜)とあります。
「右側の外壁に大小二つの靱の浮彫、左側の外壁に盾、剣、車輪状紋の浮彫」

さらにこちらでも紹介されています。
http://homepage3.nifty.com/obito/nisiki.html

こちらの古墳が凄く気になって・・そこでYouTubeで専門家の方がこの古墳を説明されているムービーを見つけました。

ぜひ皆様もご覧いただきたいのですが、おそらくリンク出来ないので、アドレスバーに以下をコピーしてご覧ください(゜-゜)
https://www.youtube.com/watch?v=JI8CKYXDf7I

専門家の方は
「靱の浮彫」について矢を入れる道具であり矢も彫刻されていると言われています。なお且つ、赤い色が塗られていて(酸化鉄)であるとのお話でした。
さらに実際の所いつの時代の古墳なのかはっきりとは解らないとの話がありました。
「盾、剣」は埋葬された方を「守る」ものだという事です。
でも、私が非常に気になったのは「車輪状紋の浮彫」についての説明でした。
「車輪状紋の装飾は全国の古墳の中で唯一、この場所にだけある。その意味は解らない」との事でした。

(p_-)・・ナヌヌ!!日本で唯一ここだけ!!!!「車輪状紋」
何故、そのような事が、あまり取りざたされていないのかな????

そう言えば、去年の1月に見た夢の中で「横穴古墳は公開されているからそれを見なさい」と言われていたのでした・・忘れていました・・(..)
(マタマタ(ー_ー)!!の声が・・・でも本当です(..))

でも「車輪状紋」って何だろう??そう思い調べました。
車輪状紋についてはあまり詳しい記述が無かったのですが・・しかし・・
京ヶ峰横穴墓群の「車輪状紋」の写真を大きくアップにして紹介しているサイトを見つけたので読んでいると・・(?_?)(?_?)(?_?)となりまして・・

早速「私見」を述べていらっしゃるサイトをご紹介いたします。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53137336.html

(-.-)画面をスクロールすると京ヶ峰横穴墓群の「車輪状紋」の写真が出てきます・・転記しますと・・
「いずれも熊本県南部の古墳の5世紀!の菊花紋である。つまり日本最古の菊花紋だ。」
って・・えええええっ\(◎o◎)/!

転記を続けます(-.-)
ひとつは宇土地方の石棺。あとのふたつは人吉地方の横穴墓の「まよけ」として。
どれもあとから彫られたものでないことは明白である。
これらは5世紀に使われていた!

この謎を解くためにはなんともはるかな話だが、さらに数十世紀遡った中国雲南省まで行ってくる必要がある。
つまり黄河文明以前の世界で、これとまったく同じ「車輪状紋」が存在した。

\(◎o◎)/!「黄河文明以前の世界!!」ですと・・

この謎は考古学的発見を民族学がつないでしまう、つまり海を移動した人々が大陸と列島をデザインでつなぐという壮大な謎なのである。
中国4000年前以前、今の四川省から長江河口部にかけて存在した長江文明(巴蜀文化)は実に7000年前というから黄河文明よりも3000年も前に稲作を発明し、巴蜀文字と呼ばれる象形文字を使って繁栄していた。その象形文字の中に菊花紋?がすであった。もちろんそれは菊花ではなく車輪のような模様だが、この車輪紋は長い間使用され、黄河文明が気候変動で南下してくると、これをもった人々は長江河口域から脱出、流懺されてゆく・・・。彼らは東西南北に離散し、ある特定のDNAハプロタイプとともに華北、朝鮮半島、チベット、そして日本列島南部へ逃げてゆくのである。
(-.-)以下は皆様でサイトの記述をお読みください・・(..)

(-.-)何だかすごく難しい「私見」なのでよく解りませんが、
「巴蜀文字と呼ばれる象形文字を使って繁栄していた。その象形文字の中に菊花紋?がすであった。もちろんそれは菊花ではなく車輪のような模様だが、この車輪紋は長い間使用され、・・」

(゜-゜)私には以降のこちらの方々の「私見」はトンと解りませんが、でも、京ヶ峰横穴墓群の「車輪状紋」はあきらかに「取り挙げられて」います。

だけど・・・
全国の古墳の中で唯一「装飾」された「車輪状紋の浮彫」がある「京ヶ峰横穴墓群」

以前、日本の苗字七千傑様にお伺いしたように
古代歴史学の研究において球磨は完全に無視されているのですね・・
何故か夢が気になって調べた事により・・
故郷「球磨」に日本で唯一「車輪状紋の浮彫」が施された古墳があったという事を知る事が出来ました(^・^)

では(^・^)
[69]子孫よりさんからのコメント(2015年05月20日 12時26分32秒 ) パスワード

追記

先のコメントでご紹介した「京ヶ峰横穴墓群」以外に人吉の大村横穴14号古墳にも「円文の内側に菊花文状の模様を入れた車輪状文が陰刻されていました」

http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/50287365.html

横穴入口の上の壁面に鼓型の盾と、円文の内側に菊花文状の模様を入れた車輪状文が陰刻されています。更に、斜め前に張り出した左側の壁面には二個の靫を陰刻しています。陰刻ではありますが、彫りが深いのでほとんど浮彫に近いものです。
(-.-)とあります。

写真のアップです
http://livedoor.blogimg.jp/warabite/imgs/b/3/b37e1ff8.JPG

京ヶ峰横穴墓群は、以前からコメントしている平河の訴訟対象となった「西村」になります。現在は熊本県球磨郡錦町西簑毛田 です。

「蓑毛」・・あんれっ???

そう言えば・・黒肥地の王宮神社のご由緒にも・・
http://yumeko2.otemo-yan.net/e364065.html
県重要文化財
王宮神社(おうぐうじんじゃ)
古来より王宮と称し、明治元年(1868)に黒肥地神宮(くろひじじんぐう)と改称された。
創建は大同2年(807) 日向国(宮崎県)の住人・土持太郎、田部忠網が久米蓑毛(現・多良木町久米)に墨、多良木源島に帝廟(天子のみたまや)を勧請した。その後現在地に遷座したもので、祭神は神武天皇である。

とありました・・
久米蓑毛(現・多良木町久米)

「蓑毛」か・・家の親戚も「蓑毛家」があります・・(関係ないか)
でも、山江村誌にあった黒肥地平川家の系図にも「蓑毛家」との姻戚関係がありました。宮原家と蓑毛家と黒肥地平川家は幾重にも姻戚関係があるようです。
さらに・・江戸時代後期には鹿児島の「池田家」との姻戚関係が系図にありました。(いつかコメントしようと思っていたのですが、後日、詳しく書きます)

脱線しましたが
大村横穴14号古墳にも「円文の内側に菊花文状の模様を入れた車輪状文が陰刻されていました」
とのお話でした(^・^)
[70]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月20日 21時41分07秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>先のコメントでご紹介した「京ヶ峰横穴墓群」以外に人吉の大村横穴14号古墳にも「円文の内側に菊花文状の模様を入れた車輪状文が陰刻されていました」
 

紋章の発祥はバビロニアであり、基本は円形(旭日、日足、菊花、車輪、輪宝)。
だから当然でしょう・
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#024
 
Y染色体D型頻度が高い日本は、バビロニアが起源と推察。
日本へは海路で到達したものが多く、山岳地帯移動組を遙かに凌駕。
山岳ルートは、パミール高原、チベット、雲貴高原、長江下流経由で朝鮮半島中南部、日本列島へ、こちらは稲の伝搬ルートでもある。
通過地域は残滓としてD型が、やや残存する。
 
DNAに興味があれば、下記書籍お勧め。
日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス) 単行本
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A5%96%E5%85%88%E3%81%9F%E3%81%A1%E2%80%95DNA%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%A4%9A%E5%85%83%E7%9A%84%E6%A7%8B%E9%80%A0-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%AF%A0%E7%94%B0-%E8%AC%99%E4%B8%80/dp/414091078X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1432125463&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A5%96%E5%85%88%E3%81%9F%E3%81%A1

[71]子孫よりさんからのコメント(2015年05月20日 23時10分54秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「京ヶ峰横穴墓群」「大村横穴14号古墳」に施された「円文の内側に菊花文状の模様を入れた車輪状文」。
起源は「バビロニア」。

.定説によれば平安時代末期の輿車や衣服の文様が転じて家紋が発祥したことになっているが・・
と言う事は「京ヶ峰横穴墓群」「大村横穴14号古墳」には古代バビロニアで使用されていた紋章がこの時代にすでに使用されていたと言う事ですね。

故郷の古代を調べて、全体が私なりに見え始めています。
ご教示本当にありがとうございました。
[72]子孫よりさんからのコメント(2015年05月21日 08時44分49秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

夢に現れた古墳は毎日「違う場所?」だったので、もう少し勉強を続けています(^・^)

昨日、偶然に地元の新聞(人吉・球磨対象の)に免田の本目遺跡の紹介が載っていました。(今、新聞が手元にありません(-.-)父の部屋です・・)
本目遺跡の本格的な大学の調査から20周年を記念してのイベントが開かれるとの記事だったのですが、そこに「中国から贈られた鏡を割ってペンダントが造られていた」と書かれていて「ウォ〜!!」っとなりまして、早速、今朝「本目遺跡」を勉強?しました(^・^)

あさぎり町 公式ページより
http://www.asagiri-town.net/q/aview/53/426.html
弥生時代後期から古墳時代前期(1世紀〜4世紀)にかけての遺跡。出土土器は「免田式土器」と呼ばれ有名。1994年の発掘調査では、弥生後期の土壙墓、木棺墓、球磨地方初の墳丘墓(盛り土をした豪族の墓)や破鏡(中国鏡の一部をペンダントにしたもの)、古墳時代前期(4世紀)の地下式板石積石室墓2基などを発見。

\(◎o◎)/!あんにゃ!!こっここは!!「免田式土器」の出土場所!!知らなかった〜〜〜〜!!
※古墳時代前期(1世紀〜4世紀)
※球磨地方初の墳丘墓(盛り土をした豪族の墓)
※破鏡(中国鏡の一部をペンダントにしたもの)

(-.-)新聞にはもう少し詳しく出土品が書かれていたのですが・・後で確認します。

場所は免田西 下乙。地図で見たのですが・・・
\(◎o◎)/!あっ!!この辺りは!!先日のコメントで書いた「江代山・市房山・黒原山が並んで見える」絶景ポイントの地域です!!
古代の人もあの絶景ポイントがお好き?だったようですね(^・^)( ^^) _旦~~フゥ〜
(p_-)調査を続けます

発掘調査に参加されていた方のサイトがありました(^・^)
http://onnagumi.jp/annakonna/dai86kai.html

ピックアップして転記します(^・^)
記紀では悪者みたいに書かれたクマソですが、クマの中心である免田町には、注目すべき遺跡があります。ひとつは、私が発掘した本目遺跡。大正・昭和初期に、ここの畑を開墾したら、カッコいい弥生土器がたくさん出たので、それらは「免田式土器」と呼ばれています。免田式土器は、弥生後期、ちょうど狗奴国の時代に南九州に流行します。
免田式土器は、弥生土器のなかでもっとも気品があるとも言われます。そういう洗練された土器を使ってお祭りをしていたのです。

もう一つは、6世紀末の才園古墳で出土した金メッキの中国鏡です。日本の遺跡で金メッキされた鏡は、たった3枚しか出土しておらず、本場中国でも貴重品です。才園古墳の鏡は、3世紀頃に中国の江南地方で作られたものであり、地元勢力が中国と直接交流するなかで入手したものと考えられています。
3世紀頃に入手して、ずっと地元で伝えられていたとしたら狗奴国、古墳ができた頃に入手したとしたらクマソの人達の時代です。いずれにしても、そうとうの力をもっていたことを、この鏡が示しています。

\(◎o◎)/!ちゃんと書かれています!!
リュウ金獣帯鏡 ( 鍍金神獣鏡 )は「3世紀頃に中国の江南地方で作られたものであり、地元勢力が中国と直接交流するなかで入手」
※3世紀頃に入手して、ずっと地元で伝えられていたとしたら狗奴国、古墳ができた頃に入手したとしたらクマソの人達の時代・・
そうか・・・(^・^)

うん??と言う事は(?_?)・・
本目古墳は古墳時代前期(1世紀〜4世紀)。破鏡(中国鏡の一部をペンダントにしたもの)が出土・・
\(◎o◎)/!この時代に中国と交流して、貰った「鏡」をバギン!と割ってペンダントにしていた・・という事ですね!!ワ〜オ!!
あっ・・(..)もったいないな!その鏡が割れていなかったら、今頃・・
(ー_ー)!!いえ!そうやって、球磨の古代の人は、鏡を縁者で大事に共有していたのでしょう・・(なんちゃってですが・・)

車で5〜6分くらいで行ける場所なので、今度行ってみます(^・^)

所で・・
昨日、日本の苗字七千傑様にご教示を頂き
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#024
こちらを、じっくりと読ませて頂いていたのですが、
Q23.家紋と苗字の関係について の中に記述されていた「伊勢外宮奉納の絹錦に車紋あり。これに由来する。」とのお話が気になって調べたのですが・・

さらに気になる「内容」を見つけました・・
次のコメントにて・・
では(^・^)
[73]子孫よりさんからのコメント(2015年05月21日 10時27分50秒 ) パスワード

早速(^・^)
先程は本目遺跡を勉強しましたが・・
気になる記述の前に・・

家の強い絆の一族の男性は、頭頂部は年齢を重ねるごとに「ぽわぽわ〜ん」となる人が多いのですが(ごめんなさい(..))でも、皆「眉毛」はキリッと凛々しいです。デモ叔父(父の弟)の頭頂部はフサフサです・・
父や父の従弟(いとこ)は若い頃はすね毛などの体毛がフサフサしていて、昼寝をしていた二人に対して、親戚のおじが「お前たちは人間にまだ進化していない(ー_ー)!!」と笑っていたそうです。
しかし・・何故か父の体毛は年を重ねるごとにすごく薄〜くなってしまいました。(ツルツル素肌になって綺麗?です)
うんがっ(?_?)これはむか〜し昔のご先祖様が「毛が濃い」種族?と「体毛が薄い」種族、両方の「血」がミックスされている「証拠」?かな???
ちなみに、祖父は25歳で陸軍中尉になってからは髪は「坊主頭」で「髭」をはやしているのがトレードマーク?のようですがそれ以前20歳前頃は写真を見ると「髪」がフサフサでした(じいちゃんカッコイイ(*^_^*))
日本人は皆、同じように様々な種族がミックスされて現在に至っている訳ですから「当たり前」ですね(^・^)

さて・・早速コメント72の続きを(p_-)

日本の苗字七千傑様の
Q23.家紋と苗字の関係について の中に記述されていた「伊勢外宮奉納の絹錦に車紋あり。
少し気になって調べました(..)

伊勢神宮・内宮の秘紋「屋形文錦」と外宮の秘紋「刺車文錦」
http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/13648407.html

ピックアップして転記させて頂きます(..)

伊勢神宮は日本の皇室の祖先神、天照大神を祀る宮として、その神聖性かつ神秘性が今日まで、守られてきました。

 たくさん存在する謎の中で、特に理解しにくいのが、内宮の秘紋「屋形文錦」と外宮の秘紋「刺車文錦」であるといわれています。

 謎解きには常に鍵が必要であると、『隠された神々』の著者吉野裕子先生が言っています。

中略・・
『史記』の記述によれば、「太一神」は常に天上で一番明るい星にいます。

 その一番明るい星といえば、「矢」というモチーフで表されたシリウス星ほかなりません。「屋」を同音の「矢」に換えれば、「矢形」になります。これが「屋形文錦」の正体であると考えられます。

 また、「刺車文錦」ですが、「車」を「来目(クルマ)」、つまり、淡路島の伊勢久留麻(来馬)神社のように、「マ」を「目」と理解すれば、話はまとまります。すなわち「目の星」の概念は伊勢神宮の伝承の中に存在することになります。

 「伊勢」「五十鈴宮」「磯宮」「神風」などのキーワードが「矢」と「目」との組み合わせは著しくドゴン族の伝承と一致しています。こう考えると、強引な結びつきではないと思われます。

 ある時点で、ある理由で、信仰の真相を隠すためにシンボルは置き換えられ、時代の流れと共に、真相も忘れ去れたと思われます。

(..)・・・・
※「刺車文錦」・・「車」を「来目(クルマ)」「マ」を「目」と理解すれば、話はまとまります。・・
※「目の星」の概念は伊勢神宮の伝承の中に存在する・・

(..)「車」を「来目(クルマ)」「マ」を「目」と理解・・と言う事は「来目」は「クメ」とも呼べるわけですね・・
(..)「目の星」の概念・・先のコメントでご紹介したのは「本目遺跡」・・「本目」・・(?_?)(?_?)・・(父からこじつけるな!と叱られるかな?)

何故かドンドン気になってきまして・・
こちらの方のサイトの中に「久米歌」の謎という記述がありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/20653118.html
ピックアップして転記します(..)
日本書紀より、神武東征のなかで歌われている久米歌(来目歌)・・・
中略・・
 いろいろな解釈が存在しているので、ここで注目したいのが、「来目歌」という言葉です。

 原文は万葉仮名で書かれ、によって、音を第一に考えるべきだと思われます。「来目」を「来るべき目の星」と解釈すると、あらためて「久米歌」を考え直す必要があるのではないかと思います。

 「八咫烏」や「伊勢」との密接的な関係から考えても、その可能性が否定できません。

(゜-゜)※「来目」を「来るべき目の星」と解釈すると、「久米歌」・・
全然関係ないのかも知れませんが・・
こちらのサイトにあった「神武東征のなかで歌われている久米歌(来米歌)・・現代語訳
こちらの歌を読んでいて気が付いたのですが・・
斎賢木(いちさかき)・粟・韮(にら)・来目部の軍勢の その家の垣の元に植えた山椒(さんしょ) 
(゜-゜)「さかき」「山椒」の木は家の敷地内の至る所に生えていますし、粟・韮(にら)もあります。
でも、何処のお家でも一緒でしょうね(^・^)・・気にする必要はありませんでした(ー_ー)!!
脱線しますが・・家の門の左右には門から見て右側が「槇の木」で左側が「大王松」です・・関係ないか・・脱線しました(..)

(゜-゜)調査に戻りますが・・
神武東征のなかで歌われている久米歌(来目歌)・・・
「京ヶ峰横穴墓群」「大村横穴14号古墳」に施された「円文の内側に菊花文状の模様を入れた車輪状文」・・「車」を「来目(クルマ)」「マ」を「目」と理解すると・・「クメ文(紋)」
「球磨」「久米」・・「肥後国球磨郡久米郷」・・

日本の苗字七千傑様に頂いたご教示
※久米については、故喜田貞吉博士が「久米は、玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と論じている。
 一理はあるが、伊予の久味国造裔の久米が正しい。
※越智姓久米氏や旧越智姓伊予橘氏も存在することから、伊予の久米の地名が肥後に遷移したことが真実と思われる。
※伊予の久味国造族も平折敷、折敷に三文字の家紋を使用していることから、越智氏に次第に合流したのではないかと考えられる。
※邪馬台国の風習として男子の入れ墨があるが、熊国(特に肥後)は九州アイヌの本拠地だったので符合する
※アイヌ族の権利を示すのが黒原山。

さらに・・勉強して解った(遅い!との声が・・)
※大久米命の「黥ける利目」(さけるとめ:目の周辺に入墨を施した鋭い目)

・・・・・・・・
※饒速日命の後裔「物部氏」である伊予橘氏の宮原一族の先祖・・肥後国球磨郡久米郷東方下文を所領
※伊予の久味国造族(大久米命後裔)・・越智氏に次第に合流・・伊予橘氏の宮原一族の先祖・・肥後国球磨郡久米郷東方下文を所領
※古代の「熊(球磨)国」・・クマ・・クメ・・
※熊曽の国は、はじめ熊国と曽の国との二国からなる連合。
※豊国に蚕食されて熊国を奪われ、火(肥)の国に改称され熊国滅亡。
※政府は曽の国へ逃亡して同居。
※以降の熊曽国とは、曽(いわゆす大隅地方と沖縄)を領土とする麻人(南方和人)と九州アイヌとの連合国家。
※旧熊国奪還の為に出撃したのが俗に熊曽の反乱と呼ばれる。
※実は数世代後に熊曽族は旧領奪還に成功した様ですが、中央政府は記事を削除した疑い濃厚。
※日本書紀景行天皇条に記載の厚鹿文、迮鹿文、市乾鹿文、市鹿文が、松野連系譜に有り。
※また曽国へ逃亡した系は、種子島氏の祖となったものと推測。
※種子島・・饒速日命の後裔「物部氏」であり伊予の久味国造族(大久米命後裔)と合流している伊予橘氏である先祖「橘公業」は種子島も所領・・
※神武東征のなかで歌われている久米歌(来目歌)

・・・・・・・\(◎o◎)/!まさかっ!!

くまぐんくめごう・・
では(..)
[74]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月21日 13時16分53秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>また曽国へ逃亡した系は、種子島氏の祖となったものと推測。
 
種子島氏の出自については諸説あるが、
大隅なのに始祖時信が肥後守を称している。
三鱗紋と折敷に三文字紋も何やら関係有りそう?
 
また歴史学者は邪馬台国の倭の五王を、何とか歴代の天皇に当て嵌めようとしたが、
代数が多過ぎますね! お粗末さんでした。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/yamataikoku.htm
 
記紀が紀年操作をしたので、益々混乱に拍車をかけているのが史学界の現状。
見向きもされない文献も含めて再検討の余地が多すぎますね。
[75]子孫よりさんからのコメント(2015年05月21日 23時43分14秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

松野連系譜に有る「厚鹿文、迮鹿文、市乾鹿文、市鹿文」

日本の苗字七千傑様の※日本書紀と松野連系図の照合こちらの表を拝見しました。
鳥肌がたちました・・

厚鹿文 あつかや コトバンクより
「日本書紀」にみえる豪族。
熊襲(くまそ)の首長のひとり。景行天皇12年天皇の和解策に応じ,ふたりの娘を天皇と結婚させたが,姉娘の市乾鹿文(いちふかや)にうらぎられ,殺された。熊襲梟帥(くまそ-たける)とよばれた。

迮鹿文さかや 
http://www.sen2.net/contents/history/rekichi/54964981/%E8%BF%AE%E9%B9%BF%E6%96%87

没年月日景行天皇12年12月(5日 ~ 30日)出来事
景行天皇12年12月(5日 ~ 30日)

厚鹿文と共に 熊襲八十梟帥くまそのやそたけるといわれていたが、景行天皇の謀略で、熊襲梟帥(誰のことか判断できない)の娘の市乾鹿文に殺される。

【日本書紀 景行天皇十二年十二月丁酉条】

(゜-゜)迮鹿文さかや・・迮鹿文 「サクカヤ」とも読まれている記述を複数拝見しました・・

市鹿文 いちかや コトバンクより

「日本書紀」にみえる女性。
熊襲梟帥(くまそ-たける)(熊曾建)の娘。市乾鹿文(いちふかや)の妹。熊襲征討のため日向(ひゅうが)にきた景行天皇のもとに,姉とともにめされる。天皇の寵愛(ちょうあい)をうけて父をだまし討ちにした姉が天皇に殺されたのち,火国造(ひのくにのみやっこ)にあたえられたという。

市乾鹿文 いちふかや コトバンクより

「日本書紀」にみえる女性。
熊襲梟帥(くまそ-たける)(熊曾建)の娘。市鹿文の姉。熊襲(くまそ)征討のため日向(ひゅうが)にきた景行天皇の偽りの寵愛(ちょうあい)をうけ,父を酒によわせて殺すのを手助けする。のち不孝の罪で天皇に殺されたという。

(゜-゜)景行天皇熊襲親征(球磨の各地では「親征」という言葉が使われています)由来の球磨に数多く残る「天子」の地名。

こちらのサイトをご覧ください
http://reyline.web.fc2.com/tensya/tennsi.htm
人吉の天子宮及び天子という地名に関しては
荒木精之 外3名著 熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店P16〜17に詳しい。
「九州の屋根」 
合戦の峰から南に2キロほどで人吉に入るが、芦原に天子という石の小祠がある。
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E130.46.0.413N32.13.34.294&l=10
熊襲征伐にちなむもので、
肥薩の国境に高くそびゆる白髪岳(1416メートル)や狗留孫一帯に住んでいたという
熊襲を討つために景行天皇が軍を進められ、ここで休息されたところであるという。
掃討戦は一か月に及び、天皇は「五月の壬辰の朔に、芦北より発船したまひて」火国に来ておられる。
ところで、球磨郡内には芦原の天子のほかにも十二か所の天子がある。
上村字麓の天子、
上村字石坂の天子、
上村字塚脇の天子、
免田町久鹿の天子、→20061022確認済み
多良木町牛島の天子、
深田村草津山の天子神社、→20061022確認済み
錦町一武字本別府の天子および御手洗(みたらし)
錦町木上字平良の天子神社、
相良村柳瀬字三石の天子、
山江村字山田合戦峰の天子、→20061022調査するも不明
山江村城内の天子、
人吉市中神町古屋敷の天子
いずれも景行天皇の足跡を意味するものであろうが、天子でなく、天下という地名がさらに二か所あるからおもしろい。
一つは、装飾吉墳で有名な錦町京ケ峰の天下神社で、あと一つは人吉市原田の天下山である。
そして天下を土地の人は「アモイ」とよんでいる。
これは万葉集に「久方の天の門開き、高千穂の、嶽に阿毛理(天降り)し、
すめろぎの、神の御代よ(以下略)」とあるように、
神が天から降りたったところという天降りがいつのまにか「アモイ」に転訛したのではないかと思われる。

(゜-゜)実はすごく気になる「滝」の名前があります。
人吉の「鹿目の滝」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E7%9B%AE%E3%81%AE%E6%BB%9D
鹿目の滝も平滝(雄滝も)は鹿目川の本流にあります。
「鹿目川」です・・

かなり、以前に免田の「鹿久」という地名についてコメントした事がありました。
「鹿久」は鹿が出るような場所ではないと書いたと思います・・

〉見向きもされない文献も含めて再検討の余地が多すぎますね。

何故だか?不思議に体中のDNA?が喜び騒いでいるような気がします・・

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました。

では(^・^)
[76]子孫よりさんからのコメント(2015年05月22日 09時22分43秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨晩のコメントにもご紹介致しました、人吉にある鹿目川上流の鹿目の滝。
そして・・
「京ヶ峰横穴墓群」「大村横穴14号古墳」に施された「円文の内側に菊花文状の模様を入れた車輪状文」・・「車」を「来目(クルマ)」「マ」を「目」と理解すると・・「クメ文(紋)」
(゜-゜)私、もう一つ気が付いたのですが・・
※「車」を「来目(クルマ)」「マ」を「目」と理解すると・・「クメ文(紋)」
と言う事は「マ」を「目」と理解すると「クマ文(紋)」とも読める訳ですね・・

さらに・・
本目古墳は古墳時代前期(1世紀〜4世紀)。破鏡(中国鏡の一部をペンダントにしたもの)が出土・・
才園古墳からは「リュウ金獣帯鏡 ( 鍍金神獣鏡 )」。3世紀頃に中国の江南地方で作られたものであり、地元勢力が中国と直接交流するなかで入手。

本目古墳も才園古墳も免田ですが、この場所は「肥後国球磨郡久米郷東方」でありました。
以前もお話したかと思いますが、「肥後国球磨郡久米郷東方」とは白髪岳から流れ出る免田川までの領域を指します。

この「肥後国球磨郡久米郷東方」を西園寺公経と替地となり所領したのは宮原一族の先祖である「伊予橘氏」の橘薩摩と呼ばれた橘公業。
さらに「種子島」も所領。
後世においては、先日コメントしたように
「葦北の火流の浦は今の熊本県八代市日奈久(ひなぐ)で、火の邑は今の熊本県八代郡氷川町宮原です。火流(ひながれ)が日奈久(ひなぐ)に転じたとする説があります。また、火の邑は平安時代に書かれた和名抄に八代郡肥伊(ひい)郷として記載されており、今は氷川(ひかわ)町になっています。この地域は一貫して「ヒ」と呼ばれており、これが肥国一国を代表する呼び名になったものと考えられます。」
(゜-゜)上記の「熊本県八代郡氷川町宮原」を所領し居城したのは、同じく宮原一族の先祖「宮原公忠」
そして・・同じく先祖「橘公業」が替地により所領した「副田庄」。
英彦山神宮が鎮座している場所です。
以前、英彦山神宮に伺った際に宮司様が「神武天皇がお立ち寄りになられたという記録が残る、創建2600年以上と言われる神社です」とおっしゃっていました・・
私は・・偶然ではないと思うのですが・・きっと宮原一族の先祖「伊予橘氏」である橘薩摩と呼ばれた橘公業はいえ「この系」は大きな謎に関係していると思います・・

さらに頭を駆け巡っている文字が「園」です。
岡原の「森園」は「モイノソン」と地元で呼ばれていますが「園」の字は、私の家の小字にも付いていて「外園」・・ホカゾノと父は呼んでいます。
才園古墳・・「サイゾン」古墳です。一般向けの資料などでは「サイゾノ」と書かれているものもありますが、こちらは地元では「サイゾン古墳」と呼ばれています。

宮原一族の先祖が大きな謎に関係しているのであれば・・
昨日、日本の苗字七千傑様に頂いたご教示にあった
〉見向きもされない文献も含めて再検討の余地が多すぎますね。
このお言葉がとても気になりました。

実は、祖父の実家近くにあった「稲積神社」についてです。
球磨郡誌には稲積神社は宮原の馬場田に鎮座。岡原霧島神社に「合祀」とあるのですが、実は・・宮原村下地の中には描かれていません。
先日もコメントしたように、宮原村下地の中で馬場田は空白域となっていて周囲を大きな森で囲まれています。
その森の至る所に鳥居が描かれています。
だから、「古墳」みたいだ・・とコメントしたのです。その空白域に描かれているはずの「稲積神社」が描かれていないのです・・

岡原村史にも同様の指摘が書かれていました。
「球磨郡誌に書かれている”稲積神社”が宮原村下地には描かれていない・・?」と・・

しかし、椎葉のおじをはじめ、地元の人は稲積神社は「あった」と言っています。
「神官職」を継承する尾方家から来られた方を父とする椎葉のおじの言葉です。間違いないと思います。めったに見かける事のないようなそれはそれは大きな御鏡が稲積神社にはお祀りされていたという事です。

そのような鏡をお祀りする稲積神社が宮原村下地には描かれていない・・・・

再度、球磨郡誌に書かれている記述をご紹介します。
球磨郡誌 コマ番号 299 岡原霧島神社についてをぜひもう一度ご覧ください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

同村馬場田鎮座稲積神社 祭神天御中主神右五神を前と同時に本社に合併した。
と書かれています。

「天御中主神右五神」
「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)右五神。すなわち別天津神(ことあまつかみ)

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) - 至高の神
高御産巣日神(たかみむすひのかみ) - 征服や統治の神
神産巣日神(かみむすひのかみ) - 生産の神
その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神として身を隠した。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
天之常立神(あめのとこたちのかみ)

別天津神(ことあまつかみ) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%A5%9E

ウィキの記述にある「出現表」を見ていて気が付いたのですが・・
古事記 四代 宇摩志訶備比古遲神 ウマシアシカビヒコヂとお読みするのですね・・

以前、コメントしていたのですが、父が・・
宮原村にあった稲積神社、神社様の名称も大事だけれど、旧宮原村の稲積神社の場合は、御祭神を重要視しなければいけない!
大変おそれ多い事なのだ!と言っていました・・・

私・・調べたのですが
 
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)右五神。すなわち別天津神。
一か所で「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)右五神。」「別天津神」全ての神々をお祀りされている神社は日本全国でどれくらいあるのだろうと・・
三柱の神々をお祀りされる神社はありましたが・・五神の神々をお祀りされている神社は中々探せませんでした・・
こちらの記述はありました。
天之御中主神 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E
神社[編集]
出雲大社では別天津神の祭祀が古い時代から行われていた。現在も御客座五神として本殿に祀られている。出雲大社が古くは高層建築であったことは別天神の祭儀と関係があると考えられる[3]。

出雲大社です・・・・・

どうしよう・・(..)(..)・・
他の神社様で別天津神 五神の神々を一か所でお祀りされている神社はどれくらいあるのでしょうか・・???

江戸幕府の命により作成された「宮原村下地」には描かれなかった「稲積神社」。

私、大事な事を見過ごす所でした・・
では(..)

[77]子孫よりさんからのコメント(2015年05月22日 09時34分23秒 ) パスワード

追記

書き方がよくなかったですね・・
御祭神を「天御中主神右五神」とされる神社は全国でどれだけあるのでしょうか・・?

です。
皆様、ご教示のほどよろしくお願い致します(..)
[78]白石さんからのコメント(2015年05月23日 01時40分02秒 ) パスワード

こんばんは
>御祭神を「天御中主神右五神」とされる神社
私も知りたいです。

このお話から 私 忘れかけていたことを思い出しました。
過去に他のスレッドで 
あなたは 自分のご先祖を誰だと思っているのですか?
と質問され
母方の系で神魂神と書きました。

実は 他に 熱田神宮で 「父方ですから」
という答えをいただいており
自分では ああなって こうなって とは 書く知識がありませんので
ネットで 見ました。

ハコクニ【葉木国】
葉木国。 トコヨ神 (おそらくクニサツチ) の子。 東北の地にミナカヌシを写し、橘を植えて ヒタカミ国を建国。 これによりヒタカミもクニトコタチの皇統を受け継ぐ国となる。 子の キノトコタチが初代タカミムスビとなる。 ┏クラキネ ┃ クニトコタチ━クニサツチ┳

ひたかみ国の言葉は 過去に 私 まるこちゃん で 紹介したと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
みなかぬし と うつして と みなかぬしにも 関与しており
タカミムスビはつはやむすび・かもすび と ともに三むすびのかみ といわれ
つはやむすび から 藤原へ。に 関与している。

くにとこたち から 皇統へ。
伊勢神宮の荒木田家(現在は 神宮を出ておられ 祖先を周としておられる)人は 現在 天皇家は 祖先をたかみむすび に しておられると 書いておられました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



.
[79]子孫よりさんからのコメント(2015年05月23日 07時26分48秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

〉ヒタカミ国

勉強させて頂きました(..)
日高見国 ウィキより
日高見国(ひたかみのくに)は、日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。
『釈日本紀』は、日高見国が大祓の祝詞のいう神武東征以前の大和であり、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』での日本武尊東征時の常陸国であることについて、平安時代の日本紀講筵の「公望私記」を引用し、「四望高遠之地、可謂日高見国歟、指似不可言一処之謂耳(四方を望める高台の地で、汎用性のある語)」としているが、この解釈については古来より様々に論じられている[1][2][3]。
例えば、津田左右吉のように、「実際の地名とは関係ない空想の地で、日の出る方向によった連想からきたもの」とする見方もある[4]。神話学者の松村武雄は、「日高見」は「日の上」のことであり、大祓の祝詞では天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを「日の上の国(日の昇る国)」と呼び、神武東征の後王権が大和に移ったことによって「日高見国」が大和国よりも東の地方を指す語となったものだとしている[5]。また、「日高」を「見る」ということでは異論はなく、「日高」は「日立」(日の出)の意味を持つので、『常陸国風土記』にある信太郡については、日の出(鹿島神宮の方向)を見る(拝む)地、ということではないかともされ[6]、旧国名の「常陸」(ヒタチ)は、「日高見道」(ヒタカミミチ)の転訛ともいわれる[7]。
その他様々にいわれているが、いずれにしろ特定の場所を指すものではないということでも異論はなく、ある時の王権の支配する地域の東方、つまり日の出の方向にある国で、律令制国家の東漸とともにその対象が北方に移動したものと考えられている[8]。北上川という名前は「日高見」(ヒタカミ)に由来するという説もあり、平安時代には北上川流域を指すようになったともされている[9]

(゜-゜)すごく勉強になりました。
ただ・・一つ気になるのが「「日高見道」(ヒタカミミチ)」という言葉なのですが・・
実は、以前から気になっていたのですが、稲積神社が鎮座していた場所から少し先の地名というか・・小字ではないと思いますが地元の人が「タカミ」と呼ぶ場所があります。
「タカミ」の字は?と聞くと誰も知らないのです????
さらに何故「タカミ」?なのかも誰も由来を知りません。
ずっと、気になる土地の呼称だったのです・・??

所で・・
今の私は、先祖調査というより、「球磨」や地元「旧球磨郡久米郷」の古代への関心でいっぱいです・・
御祭神を「天御中主神右五神」とされる神社を調べたい!と考えるのも、古代の何かにこの土地が繋がるのでは?とそう考えてしまうからです・・

昨日も、新たにすごく「気になる」記述を目にしました。
後ほどのコメントで御紹介致します。

白石様、ありがとうございました(^・^)

[80]子孫よりさんからのコメント(2015年05月23日 08時54分03秒 ) パスワード

今回のスレッド平川家について23は、球磨の古代に思いを繋げるまでに進める事が出来ました。

皆様のご教示のお陰です。
ありがとうございます。

今後ともよろしくお願い致します(^・^)

新しいスレッドを立ち上げました。
平川家について24に続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101455.html
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