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 投稿番号:101439 投稿日:2015年04月26日 23時55分31秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]]X
キーワード:服部氏族 長上郡
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]]]Wの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 03時01分36秒 ) パスワード

<スレッド34>の続きです。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101437_82.html


最終目的は長上郡の名家服部氏の解明。


江戸時代に「名家」と書かれた背景がいつの時代を指しているのか?
神代か?古代か?中世か?戦国時代か?近世か?
何故家紋が丸に三つ柏なのか?
さらに
平氏系旗本の服部氏との関係は?


アチコチぶらぶらウロウロしつつ紆余曲折の後になんとか辿り着ければ幸いです。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 03時31分40秒 ) パスワード

驚きましたね〜
武田勝頼の母方祖母が麻績=小見=服部家の女性だったとは。
そして麻績が伊勢神宮系とは分かっていたものの平家と関係があったとは。


さらに麻績に来た服部伊賀守とは
ひょっとして  服部伊賀守宗純のこと?
つまり南朝方だったということ?


   南朝方の服部伊賀守宗純だったら
   諏訪大社と当然関係があります。


諏訪大社と関係があるということは信濃の小笠原氏とも関係があるということ。
そして信玄とゴタゴタがあって家康との関係も出来た。

だから遠江国に定着することになった?
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 04時46分33秒 ) パスワード

       格が違う・・・・
       何時代?って感じ。

       江戸時代以前。
       ひょっとすると戦国時代以来の伝統?

       さすが浜松。



山下家関連の書き込みです。山下さまとお書きしないと・・・



http://www.shokoji.net/onkidayori4all.pdf


[PDF]C平成26年10月1日発行 - 正光寺


     小栗信夫. 豊町. *****. 小栗末素隆. 豊町 ....
    も相当な貸金の担保とかで
    近在の有力な大庄屋に払い下げられたのではないかと思う。
    .... 戦死)であり、


           ココ

     先にあげた山下佐次兵衛家には武田勝頼の書状が伝わってい


           勝頼ですって!



ということで  http://www.shokoji.net/onkidayori4all.pdf   のPDfを見て来ました。


画像を下がっていくと

      馬淵さんが・・・
      小栗さんが・・・・

      とお歴々のお名前が出て来ます。

      さらに寄付者のお名前も。



更に下の方には   正光寺の略歴・・・が出ています。


今川氏真や旗本の北条氏や藩主の太田氏や伊奈さんのお名前や


その後に  羽鳥神社の神主の松島家や
山下家には勝頼の書状があったり
など書かれていて


      やっぱり勝頼とは縁が深いんですよ。

今川以前から、なんて書かれているし。



ちょっと。。。興奮で・・・・膝がガクガクしています。




やっぱり  松島家は信濃系では?   そして皆さん信濃系のお仲間?

是非正光寺さんにいらっしゃってください。
松島茂次さんのお名前も出てます。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 04時57分38秒 ) パスワード

正光寺の歴史


所在地 静岡県浜松市東区豊町749番地
山号寺号 金光山 正光寺

所属宗派 臨済宗(禅宗)大本山奥山方広寺


本尊 聖観世音菩薩
合祀仏 薬師如来 弥陀三尊仏 他
鎮守 北星妙見菩薩


由緒

当寺は、往古より妙見菩薩の霊場として知られ、創立年代は不明であるが、

17世紀の初め慶長年間までは、真言宗に所属し、
美薗並びに羽鳥郷の内八ヶ寺の本寺にして、
当時の境内面積は52万坪(約171万u)あり、境内中央より何れへも八丁四方を所有していたと云う。


室町時代は今川家累代の祈祷所であり、今川氏真公直筆の花押入り古文書も寺宝として蔵されている。


慶長17年8月、雪斉惠宗禅師開山となり、臨済宗方広寺派に属し爾来法燈世系連綿として今日に及ぶ。

明治初年県下寺社合併の令達後、村内自光院(薬師堂)及び下石原(豊町下)海福寺の2ヶ寺が当寺に合併され、各本尊仏も合祀された。


朱印 慶長元年8月、大獣院殿(徳川家光公)御朱印、北条安房守殿(新蔵家)知行所内より正光寺領を六石壱斗、薬師堂領を弐石下賜される。その他伊那備前守除地四石一斗、施餓鬼料を弐石、了仙庵領を弐石賜る。徳川家光公より家茂公に至るまで九通りの旨令書を存していたが、慶応三年九月、西京弁事御役所へ返納される。


  駿河の国にすぎたるものが二つあり、富士のお山に、原の白隠


といわれたこの名僧は、十四歳でふる里駿河の原の松隠寺で得度、諸方歴参ののち、信濃飯山の正受老人の法をつぎ、やがて京都妙心寺第一座となり晩年は三島の竜沢寺を開いている。

正光寺の山号額を白隠が書いたのは、同寺八世環渓和尚が白隠の弟子であったつながりによるもののようである。

環渓和尚は人々を寺に集め、碧厳録を講じたというから学才のほどがしのばれる。

同和尚が示寂したのが寛政六年六月十三日、七十五歳であった。

正光寺の現在は十八世松尾正澄である。


今川氏朱印状

今川氏累代の祈願所で、永禄四年九月今川氏真より遠江国美薗ならびに羽鳥郷の内寺院十ヵ所の内へ八ヵ寺云々と書いた直筆を寄せられていた

今川氏滅亡以来寺運は甚だしく衰頽したが慶長十七年八月になって本派臨済寺から雪斎和尚を懇請して臨済宗方広寺直末金光山正光寺と改称中興の開山とした。


雪斎和尚は本村羽鳥、小栗九郎左衛門の子で、足利氏に仕えていたが、
その衰亡帰すや駿河に至り今川義元に仕えて、その軍師となった。

今川氏滅びてから大岩臨済寺に入り禅学を修めた。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 06時08分51秒 ) パスワード

ちょっと頭を空っぽにしてきました。


そしたらすっごく泣けて来て涙で一杯になりました。


    これは悩んで脳味噌使って出て来た涙じゃないな、と
    心にズシンと来て出て来た涙でもないな、と

    ああ、血と肉から出て来た涙か、と。DNAだね。



たぶん次に三つ柏さんが調べるのは服部中保次との関係でしょうね。
やっぱり大久保陣屋関係かも。
この家と丸に三つ柏紋の旗本・服部家がどう関係してたか。


なるべく早く東筑摩の麻績明神にいらっしゃいますように。
ヒバリさんの叔父さまにお会いできると良いですね。
宮下さんで良いのかしら。

麻績の麻の服部家、矢倉の服部家
このあたりの方にもお会い出来ると良いですね。


取り敢えず今回は信濃の松島城行きですね。


陶の盛郷関係は削除ですね。
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月27日 07時09分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今朝7時、拝見いたしまして鳥肌が立っております。これは朝の寒さ
でなくあを様の神がかりの探索・発見によるものです。

 job-dayですので、後ほどゆっくり読解いたします。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 08時23分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。

お仕事中にちょっと色々調べておきますね。
服部中がらみを、です。




   家老だった馬淵家の家にいろいろ服部中の家のことが伝わっているかもですよ。
   お顔の広いところで正光寺さん関係で馬淵さんにお会いできると良いですね。
   さらに正光寺さんに服部氏のお墓もあると良いですね。


       人間はいろいろな人と知り合っておくといいです。
       どこでどう繋がっているやら。
       自分の知らない自分の家の話が聞けたりするかも。
       笑   
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 08時31分41秒 ) パスワード

長谷川 宣以(はせがわ のぶため、延享2年(1745年) - 寛政7年5月19日(1795年6月26日))

江戸時代の旗本。火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた。
幼名は銕三郎(てつさぶろう)、あるいは銕次郎(てつじろう)



     服部家の中にも  「銕」 の字を使っている人達がいました。
     どの家だったかは記憶にありませんが。


で、長谷川平蔵の妻は  大橋与惣兵衛親英の娘  なんですって。


で、長谷川平蔵の家は、下野国(栃木県)の藤原秀郷系の家系。(本家は美濃長谷川藩)。


本日山下家や正光寺さんなどを調べていた時にここでピンと来たのです。
あら?
服部中の家に繋がるのかも、と。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 08時37分17秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101437_89.html のレス<88>から



http://multi.tosyokan.pref.shizuoka.jp/kenshi/dfp.view_data.form?data=%2F%E8%B3%87%E6%96%99%E6%83%85%E5%A0%B1%2F0000000004-SZA0014302&sortKey=%E6%95%B4%E7%90%86%E7%95%AA%E5%8F%B7&sortOrder=true&sortItemType=id&searchterm=&permissionTerm=&detailterm=&searchCategory=%2F%E8%B3%87%E6%96%99%E6%83%85%E5%A0%B1&selectCategory=¤tPage=1&pageSize=20&template=&isSynonymsSearch=false


〒420-0853 静岡市葵区追手町9-18 静岡中央ビル7階
静岡県立中央図書館歴史文化情報センター
電話:054-221-8228
FAX:054-255-3988


資料名         覚(御蔵入見分御用に付き触)
作成者・差出      間瀬吉太夫 小池源兵衛 桜井藤兵衛

受信者・宛所      松平市右衛門 雨宮勘兵衛 
            長谷川藤兵衛        この人物!

            秋鹿内匠 大草太郎左衛門 万年七郎左衛門 市野惣太夫 平野信右衛門




長谷川藤兵衛    この人物について  下に書きますね。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 08時45分41秒 ) パスワード

以下コピペ:

http://ameblo.jp/kobagumi/entry-11147620468.html


長谷川藤兵衛は5代にわたり島田をおさめました。


初代  長谷川藤兵衛長盛
1590年(天正18年)頃、徳川家康が豊臣秀吉から在京賄料の一部として与えられた島田周辺の管理を命じられました。



2代目 長谷川藤兵衛長親
1616年(元和2年)に、島田宿内に陣屋を新築して移っています。
川根筋の幕領も、支配しました。




3代目 長谷川藤兵衛長勝      この人が名奉行ですね。
1644年(正保元年)に、私財を投じて大井川から用水を引き、新田を開きました。

      1604年の慶長の大洪水から30年後、3代目が大きな堤防をつくりました。
      また彼は、田畑の水不足を解消するため水神山の大岩に穴をあけ
      1kmの水路をつけ、その先に「中溝川」「宮川」「問屋川(といやかわ)」の3つの用水路をつくりました。
      費用は自分の財産をつかいました。 
      お米の取れ高も  1635年は 109石だったのが  1666年は 2181石になりました。  

      用水路ができたおかげで後に「島田三千石」といわれるほど豊かな町になっていったのです。




4代目 長谷川藤兵衛長春


5代目 長谷川藤兵衛勝峯
1692年(元禄5年)に、遠江国川井(袋井市)代官へ転任を命ぜられる

             この人が遠江の袋井に来たということで
             服部中の家と近づきになったとは思えませんか?
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 08時56分56秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101391_100.html
レス<58>からが服部中保次の家です。


長男の家の1654年に家督を相続した保秋の妻は長谷川久三郎正相の娘。



保秋の子  保房の妻は  永井伝八郎茂虎の娘。


     落ちるのがイヤなのでここでアップ
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 09時07分38秒 ) パスワード

保房の子・保貞は  実は  長谷川久大夫徳栄の長男。
                       母は佐々木半左衛門長定の娘。


      この保貞は従5位下大和守に叙任。
               日光奉行にもなっています。
                     田安家の家老にもなっています。


      この保貞の娘は徳山五兵衛頼屋の妻になっています。
                この徳山五兵衛も有名な家ですね。


で保貞の跡継ぎはなんと 長谷川久大夫徳栄の6男!




ここでアップ
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 09時18分43秒 ) パスワード

長谷川家の話


長谷川久大夫徳栄 の家についてコピペ
   
http://blogs.yahoo.co.jp/jiunzan_ryugenji/60529068.html


2009/9/14(月)
本日に、仁叟寺に葬られている江戸時代初期・当地を統治・・・しておりました地頭の長谷川家の先祖供養法要をご裔孫の方より依頼され、お勤めいたしました

長谷川氏といってもわからない方が大半かと思われますが、鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵といえばわかる方も少なくないかと思われます。

その大先祖(初代にあたる方)が当寺に葬られている長谷川讃岐守です。

それゆえ、明治になるまで長谷川家は江戸詰の長谷川宗家より毎年盆暮には当寺に献茶料などを納めておりました。

幕末には250回忌を修行し、墓前に燈籠が供えられたことも文書などで明らかになっております。

開山堂には開基である奥平家はじめ奈良奉行でも有名であった溝口氏(鹿の角取りを始めた方だとか)や初代吉井藩主の菅沼氏、他の外護者と共に位牌も安置されております。




寺誌より長谷川氏の項を以下、転載。

長谷川讃岐守・淡路守
 仁叟寺本堂西墓所内に、江戸時代初期の宝篋印塔形の大きな墓碑が、南向きに二基建てられている。左側が長谷川讃岐守、右側が長谷川淡路守。初代と二代である。墓碑には、それぞれ「祖庭院殿趙英宗伯大居士 慶長十三年(一六〇八)二月七日寂」、「長松院殿惠林了智大居士 寛永十六年(一六三九)三月九日寂」、とある。

                          それで大和守に叙任した?

 『寛政重修諸家譜』によれば、長谷川家の本貫地は大和国(奈良県)初瀬で、

そこより駿河国(静岡県)小川村に移り住んで数代が過ぎるとある。

               それで駿河で奉行をしてたのね。


讃岐守の父は正長といい、今川氏に仕えたのち、徳川家康に仕える。元亀三年(一五七二)の三方原合戦のとき、討死する。享年、三七歳。

 正長には、正成・宣次・正吉がおり、それぞれ別家を起す。正成の長男が正信で、讃岐守の養子となる。宣次家の八代目が、長谷川平蔵宣以で「鬼平犯科帳」の人物である。平蔵の次男に正まさ以ためがおり、正以は讃岐守家に養子に入り九代目となる。


○初代・讃岐守(正吉・久三郎家)。
 天正七年(一五七九)徳川秀忠の小姓をつとめる(一一歳)。のちしばしば加恩があって、上野国甘楽・碓氷両郡にて四〇七〇石余の采地を与えられる。その後、渋谷において別荘の地八万五〇〇〇余坪を賜う。慶長一三年(一六〇八)二月七日没す。享年、四〇歳。戒名、祖庭院殿●英宗伯大居士。上野国神保村の仁叟寺に葬るとある。

 讃岐守が、仁叟寺に葬られた事由として、近郷に自分の采地を領有し、その地に居住していたためと思われる。
 ところで、『自治体史』などにより、各村の大名・旗本の変遷をみてみよう。

 @「吉井町」の項、天正一八年(一五九〇)菅沼定利―慶長五年(一六〇〇)代官林虎之助―伊奈備前守。その後、四給となり、安藤対馬守・渡辺山城守・倉橋内匠頭・長谷川讃岐守となり、その後、転換数次で延宝二年(一六七四)松平信平(吉井領)となる。

 A「矢田村」の項、天正一八年、菅沼領―慶長三年、代官伊奈備前守・同長谷川久三郎(讃岐守)支配。以後、延宝まで交々支配し、同二年、松平信平(吉井領)となる。

 B「中島村」の項、天正一八年、菅沼領―慶長六年(一六〇一)より代官支配―同七年より寛文五年(一六六五)までの六三年間、長谷川讃岐守の知行地となる。

 C「小串村」の項、天正一八年、菅沼領―慶長六年代官地―同七年より四給地・倉橋内匠頭(寛文八年没収)・安藤対馬守・渡辺山城守・長谷川久三郎(讃岐守)・三氏は、寛文九年(一六六九)まで知行地とした。

 D「小暮村」の項、天正一八年(一五九〇)、菅沼領―慶長六年長谷川久三郎が知行し、寛文四(一六六四)、代官支配となる。

 E「馬庭村」の項、天正一八年、菅沼領―慶長六年、長谷川久三郎知行、寛文四年、代官支配となる。


 長谷川氏は、吉井地区六町村、高約三千石余の知行地の支配をしていた。
この間、長谷川久三郎家も初代正吉、二代正信、三代正相と、四代目正明の代になり、
 
                             いやいや3代目さん


元禄一一年(一六九八)上野国の采地が遠江国(静岡県)城東・山名郡内に領地替が実施される(高四千七一石余を約一二〇年間支配する)。



○讃岐守・淡路守の、約六〇年間の主な出来事について記す。
 永禄一二年(一五六九)、正吉生まれる。元亀三年(一五七二)、父正長が三方原で戦死。天正三年(一五七五)・長篠の戦い、奥平信昌・菅沼定利活躍。同七年、正吉小性組になる。この年、上野国碓氷・甘楽両郡の内に、四〇七〇石余の采地を賜う。同一〇年、武田氏滅ぶ。同一八年、小田原の北条滅ぶ。秀吉、家康に関東国替を命ずる。吉井に菅沼、宮崎に奥平が入る。慶長五年(一六〇


〇)、関ヶ原の戦い。改易大名多発。徳川自領増加。翌六年、菅沼忠政美濃加納城へ。小暮村・馬庭村が正吉の知行となる。同七年菅沼定利没す。小串村の一部・中島村・吉井町の一部を知行する。矢田村の代官(正吉)。同八年、正吉(長谷川讃岐守)没す。同一九年(一六一四)、大阪冬の陣。翌元和元年、大坂夏の陣。豊臣家滅びる。豊臣方改易多数。徳川の天下となる。元和二年(一六一六)、家康没す。長谷川正相(三代目)生まれる。寛永一〇年(一六三三)、三代正相書院番。同一六年、三代正信没す。三代目正相遺跡を継ぐ。



○二代・淡路守は正信という。通称・久三郎。長谷川筑後守正成(正吉の兄)の
長男で正吉の養子となり、久三郎家二代目を継ぐ。
 文禄四年(一五九五)生まれ。寛永二年(一六二五)采地の御朱印を賜う。のち御徒の頭となり、同三年上洛のとき供奉し、同九年(一六三二年)御書院番の組頭となる。同年従五位下淡路守に叙任す。同一〇年采地七〇〇石を加増され、後この地を収公される。同一六年(一六三九)没す、年四四歳。法名・了智。小石川の吉祥寺に葬る。のちに吉祥寺は、駒込に移される。
 仁叟寺にある正信の墓碑は、後日分骨による供養墓碑である。
 墓碑に、「長松院殿惠林了智大居士 寛永十六年(一六三九)三月九日寂」とある。すでに江戸幕府は大名、旗本に対して、各地の所領地から江戸詰めを命じ、江戸に屋敷を構え居住させていた。




○三代・正相すけ。初め正綱・久三郎。     服部中保秋の妻の父ですよ〜

 寛永一〇年(一六三三)初めて家光にまみえる。同一三年御書院番に列す。同一六年遺跡を継ぐ。慶安三年(一六五〇)家綱に仕えて西城に。のち本城に勤仕。寛文三年(一六六三)御先弓の頭に移る。九月に桜田門修復の奉行をつとめる。一二月布衣を着する事を許される。同四年の洪水のとき、采地荒廃せるにより廩米に改められる。四〇七〇俵余を賜る。天和二年(一六八二)、上野国新田邑楽両郡のうちにおいて五〇〇石の加増あり。貞享四年(一六八七)つとめを辞し、寄合となる。元禄二年(一六八九)没す。年七四歳。法名・遂永。墓地は正信と同じ。



○四代・正明。善右衛門・貞右衛門・五兵衛。正相の二男。       遠江国へ

 寛文四年(一六六四)初めて家綱にまみえる。同七年御小姓組に列す。元禄二年(一六八九)遺跡を継ぐ。同一〇年、上野国から遠江国城東・山名両郡へ移る。享保元年(一七一六)没す。年七一歳。法名・日音。谷中の大行寺に葬る。この墓碑は当寺にあり。



○五代・正武。万之助・久三郎。正継くみの長男で正明(四代)の養子となる。
 正徳元年(一七一一)遺跡を継ぎ、小普請となる。同二年、初めて家宣にまみえる。同三年没す。年三二歳。法名・道性。墓地は正信と同じ、代々墓地とする(駒込の吉祥寺)。




                           実は長谷川久徳栄の次男!                          ええ〜
○六代・正誠ざね。内蔵助・久三郎・讃岐守・従五位下。号眺山。長谷川久大夫徳たか栄よしの二男で正武の養子となる。                  

 正徳三年(一七一三)遺跡を継ぎ、小普請となる。享保四年(一七一九)寄合となる。同九年(一七二四)御小性組に列す。同年吉宗に仕え、二の丸勤仕す。同一〇年、西城御書院番となる。同一五年西城御書院番の組頭に進み、布衣を着することを許される。元文五年(一七四〇)小普請の支配に移る。延享四年(一七四七)甲府勤番支配。従五位下・讃岐守に叙任す。宝暦元年(一七五一)西城御持弓の頭となる。同三年任務を辞す。明和元(一七六四)没す。年六九歳。法名・元水。


                           長谷川徳栄の5男ですって
○七代・正脩むろ。久三郎・三郎助。長谷川徳栄の五男で正誠の養子となる。
 宝暦七年(一七五七)遺跡を継ぐ。明和四年(一七六七)御持筒の頭となり、布衣を着することを許される。同八年(一七七一)小普請組の支配に移る。安永六年(一七七七)没す。年六七歳。法名・普舌。



○八代・正満みつ。栄三郎。正脩の長男。
 安永六年(一七七七)遺跡を継ぐ(三三歳)。采地、四〇七〇石余。後妻は大岡越前守忠宣の女子。



                         長谷川平蔵の2男ですって!
○九代・正以。鉄五郎・久三郎。長谷川平蔵宣以(鬼平犯科帳の主人公)の二男。正満に男子がいたが、死去により養子となる。要職は百人組の頭。日光奉行。



○一〇代・正直。久三郎・能登守。
 要職・寄合。火事場見廻り。寄合肝煎。講武所頭取。日光奉行。万延元年(一八六〇)没す。



○一一代・久三郎。
 要職・寄合。便番。
 長谷川久三郎家と仁叟寺は、江戸時代を通して関係を有していた。代々の当主が先祖供養のためなどで、年三〜四回茶湯料・回向料などをお供えしていた。勝手目録・盆付届・年始状などの、書状・書簡など二〇数通が現存している。
 初代祖庭院の、没後二五四年の墓碑修理の件についての覚状がある。文久二年(一八六二)、家臣中野弥惣左衛門より送られている。墓碑の修理を行うとともに、その時に建立した一対の燈籠が今も残っている。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 09時19分30秒 ) パスワード

やっぱり服部中の家と長谷川家とは繋がりますね。
ビックリ
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 09時38分41秒 ) パスワード

<レス4>正光寺のURLに出て来た小栗家との関係かも。


   雪斎和尚は本村羽鳥、小栗九郎左衛門の子で、足利氏に仕えていたが、
   その衰亡帰すや駿河に至り今川義元に仕えて、その軍師となった。




実は  3050石の服部中保次の長男系の服部(忠右衛門・七兵衛)保高
        200石もらって分家した家
        つまり700石もらって分家した家のさらに分家した家かな?


    この服部保高の妻は   小栗仁右衛門信政の娘  ですって。



       この保高の家は朝比奈家や間宮家や和田家などとも関係する。


正光寺の寄付者に小栗家もありましたよね。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 09時41分51秒 ) パスワード

こうして見ていくと服部中の家も有名な家と縁続きになっていますね。
まさか小栗家とも繋がっているとは思いませんでした。


やはりお寺さんを見たらお墓チェックですね。
どこかで
思わぬ所で
丸に三つ柏紋の服部家が見つかりそうです。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 09時48分55秒 ) パスワード

そこで小栗氏について調べました:


小栗氏(おぐりうじ)は、日本の苗字。二系統ある。


1.桓武平氏大掾氏流。

平良望(国香)の孫・平維幹(常陸平氏祖・平繁盛の子で、伯父・平貞盛の養子)の系統。


発祥地は常陸国真壁郡小栗邑。維幹の孫・繁幹の末子・重義が小栗氏と称したという(常陸小栗氏を参照)。



2.三河国の松平氏(徳川氏)流。

松平郷松平家の系統[要出典]で、松平信広[要出典](信光の兄)の末裔の吉忠が、外祖父(伯父の説あり)・小栗正重の養子となり、小栗氏と称したという(『寛政譜』)。

吉忠の子・忠政は本宗家の徳川家康に従い功績を残したという。
子孫に幕末期の小栗忠順などが出た(三河小栗氏を参照)。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 11時05分39秒 ) パスワード

<2>はちょっと間違ってましたね。

服部伊賀守は  宗純ではなかった  ですね。
残念。



こちらにもコピペ:


http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/428791695

画像は岩殿寺文書???


麻績服部


妃羽理 公式ブログ/麻績服部 画像1

前回は、服部氏の成り立ちについて説明しました。
今日は、私の忍術の流派、麻績服部流忍術のネーミングのもとになった、麻績服部(おみはっとり)氏の説明をします。
麻績服部流の祖は、鎌倉時代の藤原朝臣服部伊賀守という人。
藤原は中臣の子孫なので、位としては連だが、蘇我氏などが滅んだことで一番最初の氏姓制度が崩れて来たので、飛鳥時代天武天皇の頃、新たな姓が生まれた。
そのうちの一つが朝臣(あそん)。
朝臣とは、皇族だけど、天皇とは血縁関係が遠い臣姓。
ここまでを聞くと、凄く高貴な家柄?と思うかもしれませんが、そうではありません。
その高貴な人の配下にあった服部(はとりべ)の家柄ということ。
〜守というのは、一国の民政、裁判を司るために、中央政府から派遣される地方官に与えられる役職。
つまり、伊賀守とは、伊賀の国の地方官ということ。
服部半蔵は代々石見守だったが、これは、徳川家が、服部家に、石見銀山の管理を任せようとして与えた役職。
しかし、服部伊賀守と服部石見守の決定的な違いは、
伊賀守は、朝廷から与えられたきちんとした役職であるのに対して、
石見守は、一つの家であるにすぎない松平家(徳川家)が、朝廷の制度を真似て勝手に付けた役職。
どういうことかというと、幕府というのは、初めは単なる朝廷の組織する軍隊のことだったので、鎌倉時代の承久の変までは、全国に及ぶ政治権力は、朝廷の方が強かった。
しかし、承久の変で、幕府が、朝廷に勝つと、幕府が完全に全国を支配するようになったにすぎないので、〜守に本当に役職的に意味があるのは、鎌倉時代の承久の変以前であって、それ以降の〜守というのは、安易に付けられる役職になってしまい、実際に石見に勤めなくても石見守という名前がついてしまうようになった。
何が言いたいかというと、この服部伊賀守は、承久の変以前の役職なので、きちんと伊賀で勤めた人だということ。
つまり、伊賀地方の服部氏の祖であるということ。
もっというと服部半蔵の祖先ということ。
その服部半蔵の祖先の服部伊賀守が、伊賀守の任期を終え、承久の変以後力を持った鎌倉幕府から、今度は地頭として派遣された地が、信濃(長野県)の麻績(おみ)の地だった。
この麻績の地は、承久の変以前は、朝廷の直轄地だったので、地頭はいなかったのだが、承久の変以後は、幕府領になったので、地頭が置かれた。
では、なぜ、服部伊賀守を起用したのか?
それは、伊賀も朝廷の直轄地だったので、武士の勢力の及ばない土地の民の扱いに慣れていたことが、この抜てきの理由だろう。
ともかく、この服部伊賀守が、伊賀から連れて来た民衆と、もともと縄文民族の末裔の多い信濃の民衆との技術が錬磨されたのが、麻績服部流忍術の源流なのである。
その服部伊賀守の子孫である麻績服部左衛門清信の頃に、完成したのが、麻績服部流忍術なのである。
私の本名は、宮下というのですが、宮下家は、服部清信の弟、服部加信斉が神主を務めた麻績神明宮を代々守っている家で、私はその一族の流れを組むものです。
そういった縁で、私が麻績服部流忍術の正当継承者になった訳です。


2010/4/21 08:18


伊賀流忍術の継承者は、全国に12、3人ほどいるのですが、伊賀麻績服部流忍術の継承者は、私一人です!
これは大問題で、私がニューハーフであることが、更に問題を深刻にしています

私の子孫が出てこないことは、麻績服部流忍術の断絶を意味するからです

かといって、弟子もいないので、大変な問題なのです。
父親との溝が埋まらない原因はそこにあると言っても過言ではありません

4/21 11:09
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 11時21分49秒 ) パスワード

ヒバリさんの家系図は岩殿寺文書みたいですね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%AE%BF%E5%AF%BA_ (%E7%AD%91%E5%8C%97%E6%9D%91)


岩殿寺(がんでんじ)は長野県東筑摩郡筑北村(旧坂北村)にある天台宗の寺院。山号は富蔵山(とくらさん)。本尊は馬頭観音。信濃三十三観音霊場15番札所。

境内に大小75社、12坊、4支院を有する大寺であったとされるが、度重なる火災により衰退した。往時を偲ばせるものとしては重要文化財の懸仏(かけぼとけ)と大日如来像、長野県宝の三所権現神像(3躯)などがわずかに残されている。




所在地
長野県東筑摩郡筑北村別所13505

位置
北緯36度26分6.3秒 東経137度59分37.1秒座標: 北緯36度26分6.3秒 東経137度59分37.1秒

山号
富蔵山

宗旨
天台宗

本尊
馬頭観音

文化財
木造大日如来坐像ほか(国の重要文化財)


歴史[編集]

伝承によれば、嘉祥元年(848年) 円仁が仁明天皇の命で一向大乗寺として創建。岩殿山を修験道の霊場として三所権現を祀り、十一面観音、深沙大王を本尊としたという。室町時代末期 武田信玄の帰依を受け、寺紋を武田菱とした。




江戸時代には服部・石川両氏の入部にあたり、寺領を悉く横領されるが、水野忠直よりの黒印30石により維持される。


       服部誰?

       石川は石川康政みたい?




寛永7年(1630年) 三宝院を焼失するが、直ちに復興される
明治10年(1877年) 岩殿山上の施設を焼失
明治16年(1883年) 富蔵山より本尊什器を三宝院に移し、山上の祭祠を廃止
明治17年(1884年) 岩殿山上の施設を再び焼失
昭和21年(1946年) 農地改革により寺領を失う。
昭和57年(1982年) 本堂と庫裏を焼失

文化財[編集]

重要文化財[編集]
金銅十一面観音釈迦聖観音像御正体(三所権現懸仏) - 円形の銅板上に銅製薄肉彫りの十一面観音、釈迦如来、聖観音の像を表す。建長元年(1249年)の銘がある。東京国立博物館に寄託。
木造大日如来坐像 - 鎌倉時代。岩殿寺本堂から北西に1kmほど離れた所にある仁熊大日堂に安置する。

長野県宝[編集]
木造男神立像 3躯 - 鎌倉時代の作。もとは岩殿山の山頂付近にある三所権現の祠に安置されていたが、保存に万全を期すため、岩殿寺内に移された。

札所[編集]
信濃三十三番観音札所の第15番

行事[編集]
3月 - 火渡り行

交通アクセス[編集]
JR篠ノ井線坂北駅から車で25分







http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/folder/643142.html?p=1


山崎砦は、東筑摩郡筑北村坂井字山崎にある比高120mほどの山城です。幅広の尾根が安坂川に落ち込む先端部にある単郭で堀切一条という小規模な砦です。わたしがこの砦に興味を持ったのは、ある研究者から知らされた大野田城という山城関連です。
 この大野田城は、上杉景勝の芋川親正宛の書状(「上越市史別編2上杉氏文書集2」2688号)にでてきます。「其表仕置ニ付而、使者到来、絵図・条目如健聞者、大野田之地再興ニ相極候条、為其警固衆申付、嶋津左京亮差遣候、(中略) 
   三月七日         景勝 
        [芋川越前守殿] 
       右同人へ」
 この書状の年代比定は天正11年とされています。内容は、上杉景勝が牧之島城将の芋川親正にある方面での築城を命じ、それに沿って親正が適地を選定して絵図などを添えて報告したようで、その結果大野田砦の再興を認め島津左京亮を援軍(検使か)として送ったことが分かります。ここにでてくる「大野田之地再興」された城がどこなのか特定されていませんが、旧美麻村にある大野田城でわないかと推定しました。ですが、昨年出版された平山優氏の『秀吉の野望』の中で大野田城が麻績地域の山崎砦であるという記述を目にして、さてどうなのかということで一度訪れてみたいと思った次第です。このことについては拙ブログの「大野田城(砦)はどこ?」で多少詳しく書いていますのでご覧ください。



麻績地域は、鎌倉期から小笠原氏分流の服部氏(麻績氏)が治めていたようで、伝承にある安坂氏もその別れのようで、当砦の向かいに安坂城があります。したがって、何らかの形で服部・安坂氏系のものが砦を構えていたとして不思議ではないですね。平井氏の大野田城=山崎砦説に従うと、「大野田之地再興」とあることから服部・安坂氏系の城(砦)を再利用したものとなります。ただ、気になるのは、この地区の大野田が砦の東側谷奥にあることです。2kmほど離れていますからこの地を大野田というかどうかですね


 麻績地域は、松本方面・川中島・善光寺方面・塩田平上田方面に抜ける街道が集まる交通の要衝です。天正壬午の乱でも、上杉氏対小笠原氏の抗争の中で、この地の争奪戦が激しくおこなわれています。
 上杉としては、青柳城・麻績城を押さえるとともに川中島方面の連絡路確保が必要だったのかもしれません。そのための大野田城再興とも考えられます。それにしても、小規模な砦で天正末の築城されたものとはちっと考えにくいこともありますね。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 11時31分43秒 ) パスワード

石川康政は石川数正の父のようです。

もしかすると子の康長かも。

     「康」の字は家康の祖父の清康から貰ったようです。



­石川数正1590-1592
­石川康長1592-1613   ­大久保長安事件に連座し、改易       コレ、びっくり!



石川 康長(いしかわ やすなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。信濃松本藩の第2代藩主。別名を三長(みつなが)とも言う。



生涯[編集]

天文23年(1554年)、石川数正の長男として生まれる。天正13年(1585年)、父と共に徳川家康のもとを出奔し豊臣秀吉に仕えた。

文禄元年(1592年)、父の死去により家督を継いで第2代藩主となり[1]、父の遺領10万石のうち8万石を相続し、残りの2万石は2人の弟に分与した。


康長は父の代より続く居城の松本城の普請をさらに進めるが、その規模は8万石の分限を超えていたため、百姓人夫は苦労した。山林の木や竹を伐採し、民家を取り壊しても償いもなく、強引な施策の連続であった[1][注釈 1]。太鼓門に据える巨石を運ぶ人足が苦情を訴えたことを知ると、自らその首を刎ね、槍で差し上げて「者どもさあ引け」と叫んで運搬させたと伝わっている[2]。

慶長2年(1597年)、豊臣姓を下賜された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の中山道軍に従い、日根野吉明と共に西軍の真田氏の小県郡冠者ヶ嶽城を攻め大敗したが、東軍に与したため所領を安堵された。


しかし慶長18年(1613年)、大久保長安と縁戚関係にあったことから大久保長安事件に連座し[3]、領地隠匿の咎を受けて弟の康勝、康次とともに改易され、豊後佐伯に流罪に処され毛利高政に預けられた。


改易の理由は分量を超えた城普請が原因であったとする説や[3][注釈 2]、幕府の外様大名外しであったとする説などもある[3]。

寛永19年(1642年)12月11日、配所で死去した。享年89。

慶長19年(1614年)から始まった大坂の陣において弟の康勝と共に豊臣方として参加し、慶長20年(1615年)に戦死したとの説もある(しかし墓所は康長の配流先である大分県にある)。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月27日 13時09分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松島家の家系譜に関する解説稿が『東海展望』1974年の2・3月号に
載っておりました。
 近日中にコピーを送ります。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 21時44分48秒 ) パスワード

ありがとうございます。
どんな内容でしょう?



[23]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月27日 23時47分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明日は伯父の葬式がありますが、伯父は太田家の三男のの家に婿養子に入っ
ております。太田家の長男の所には、松下之綱の長男暁綱(頭陀寺松下屋敷を
継ぐ)の直系末裔の源四郎の四女きよみが嫁に入っています。
 太田家と松下家の関係の話をできれば訊いてみたいと思っています。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月28日 01時46分07秒 ) パスワード

レス3の正光寺さん関係で


http://www.shokoji.net/onkidayori4all.pdf


下の方に 正光寺の略歴が出ています。
>今川氏真や旗本の北条氏や藩主の太田氏や伊奈さんのお名前や
>その後に  羽鳥神社の神主の松島家や
>山下家には勝頼の書状があったり
>など書かれていて


伯父さまが太田家に養子にいらっしゃった・・・

すごいですね。


みんな親戚なんですよね
だって昔は同じ  PEERS で関係を持っていたから
みんな親戚になる

本当に親戚になってますね。


山下佐次兵衛さんが松下家の転府にくっついて行かなかったのは
「もし一緒に行動したら山下家の子孫は松下家の下に置かれたままになる」
と考えたからかも、ですね。

たぶん山下家は松下家よりずっと格が高かったのかも。



もう本当にどんどん鬼籍に入って行かれますね。
今の内にちゃんと調べておかないと未来永劫分からなくなりますね。



ヒバリさんは賢い人なのか
教えた人が賢かったのか

頭の中が整理された人だなと思います。


ワタシなんて   太田氏?  どこかで太田道灌の子孫が遠江で殿様になってたよね?
昨日の書き込みがどこにあったのか覚えていない体たらく。


太田氏について後で調べてみますね。
今から夫の受診にくっついて行きます。

[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月28日 04時54分32秒 ) パスワード

http://www.shokoji.net/onkidayori4all.pdf
7ページ目・8ページ目に正光寺がらみの人々のお名前が出てますね。

    太田式部
    太田資次 
    太田資良
    太田資宗


徳川幕府は天竜川沿いに家臣団またはその子弟を置いた

例  松島茂五郎(羽鳥神社神主松島忠相丹後  または 松島伊兵衛) 

という感じですね。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月28日 05時10分20秒 ) パスワード

太田家と松島家は親戚かも、ですね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%87%8D%E6%AD%A3

太田 重正

(おおた しげまさ、1561年(永禄4年) - 1610年9月18日(慶長15年8月2日))戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。

太田氏の一族という説もある。   ハッキリ太田道灌の子かは確定していない。
                  父は太田道灌の玄孫だろうと。


一族[編集]

父は江戸太田氏の太田康資とされるが、確固たる証拠があるわけではない。
また、妹に英勝院がいるとされるが、こちらも怪しいとせざるを得ない。
子に正重、資宗がいるとされる。    
          この資宗が優秀な人物であったということで
          太田道灌の子孫という触れ込みになっている。


経歴[編集]

重正の父とされる太田康資は、はじめ後北条氏に仕えたが、恩賞の不満から離反(諸説ある)し、
第二次国府台合戦で大敗すると安房国の里見氏の下に逃亡。
のちに里見氏の内紛に巻き込まれて自害したとされている。


                      それで「里見氏」の名が松島氏の先祖に入っている?


重正は父の死後、佐竹義重のもとへ赴き、
同地に亡命していた同族の太田資正(岩槻太田氏)のもとを頼って落ち延びたという
(おそらく「重正」の名も義重と資正から1字ずつ与えられたものであろう)。

のちに京都に移住したともいわれる。



1590年(天正18年)の北条氏滅亡後、関東に移封されてきた徳川氏の家臣となった。
死後に子(とされる)の資宗が大名(下野山川藩)に列した。



重正の出自の疑義[編集]

重正の父親とされる太田康資は、江戸城築城で知られる太田道灌の曾孫である。

これはほぼ間違いない。

しかし、重正が康資の子であるかは不明である
(康資の子の太田駒千代は後北条氏の人質となり、康資が後北条氏から離反した際に自害し、墓所も現存する)。

また、妹の英勝院は一般的には康資の娘とされているが謎が多い。

更に家系図は資宗の代に何らかの改竄が行われたとする説がむしろ有力で定説を見ない。


つまり、現時点の歴史研究で「太田道灌の一族」と確定されているのは、康資までである。





まずは徳川幕府に仕えた初代太田氏から


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E8%B3%87%E5%AE%97

太田資宗(出自と先祖については1番上に)太田道灌の玄孫のそのまた子供?
慶長5年11月22日(1600年12月27日) - 延宝8年1月22日(1680年2月22日))

江戸時代前期の譜代大名、六人衆。
下野山川藩主、三河西尾藩主、遠江浜松藩初代藩主。
官位官職は従五位下・備中守。
掛川藩太田家初代。


太田重正の次男として生まれる。
母は都築秀綱の娘。


妻子[編集]
正室は板倉重宗の娘。

子に資政(長男)、資次(次男)、資良(三男)、
娘(加藤泰義正室)、娘(稲葉正吉正室)、娘(永井尚庸継室)、娘(一柳末礼正室)、娘(土井利益正室)、娘(角倉玄恒室)ら。



経歴[編集]
慶長11年(1606年)7歳にして徳川家康に拝謁。
慶長15年(1610年)関東地方などに5600石を領する太田家の家督を継ぐ。
また、家康の側近となってその偏諱を与えられ、当初は康資(祖父と同名)と名乗った。


元和元年(1615年)従五位下・摂津守に叙任。のち采女正。
寛永8年(1631年)御小姓組組頭となる。

寛永10年(1633年)3月23日、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・阿部重次と共に六人衆となる(後年の若年寄に相当する)。

寛永12年(1635年)下野国足利郡山川に1万石を加増され、1万5600石の大名に列せられる。備中守に叙任。

寛永15年(1638年)約2万石の加増を受け、3万5000石にて三河国幡豆郡西尾に移封。

寛永18年(1641年)資宗が奉行となり、林羅山を実務担当として本格的な武家系譜の編纂を開始。


                              あらあらあら
寛永20年(1643年)9月に武家系譜編纂書『寛永諸家系図伝』完成。3代将軍・徳川家光に2部(真名本、仮名本)それぞれ186巻(計372巻)を献上。


正保元年(1644年)遠江国浜松に3万5000石をもって移封。
寛文11年(1671年)隠居。
延宝8年(1680年)1月22日、81歳(数え年)にて没。

関連項目[編集]
英勝院


太田氏山川藩藩主(1635年 - 1638年)
太田氏西尾藩藩主 (1638年 - 1644年) 太田氏浜松藩初代藩主(1644年 - 1671年)
太田氏浜松藩初代藩主(1644年 - 1671年)
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月28日 05時15分54秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E8%B3%87%E6%AC%A1


兄が廃嫡になったので次男が太田家を継いだ。

太田 資次(おおた すけつぐ)

江浜松藩の第2代藩主。のちに大坂城代となる。掛川藩太田家2代。



時代
江戸時代前期

生誕
寛永6年12月1日(1630年1月14日)

死没
貞享元年4月6日(1684年5月20日)

戒名
見性院殿道雄日健大居士

官位
従五位下、従四位下、摂津守

幕府
江戸幕府 奏者番→寺社奉行(兼任)→
大坂城代


遠江浜松藩主→河内・摂津国内

氏族
太田氏

父母
父:太田資宗

兄弟
資政(嫡男。しかし廃嫡された)
資良



正室:本多忠利の娘
継室:長(宗義成の娘)
継々室:能勢頼次の養女(松平昌重の娘)



長男、資直、資明、資方(四男)、
娘(内藤弌信正室


生涯[編集]

寛永6年(1629年)12月1日、浜松藩の初代藩主・太田資宗の次男として生まれる。

早くから第3代将軍・徳川家光に近侍。
兄・資政の廃嫡によって嫡子となり、
慶安4年(1651年)12月28日に従五位下に叙位される。

寛文11年(1671年)12月19日、父の隠居で家督を継ぐ。
このとき、弟の資良に俵米3,000石並びに新田2,000石を分知したため、
所領は3万5,000石から3万2,000石となった。



延宝元年(1673年)に奏者番に任じられる。
延宝4年(1676年)7月26日に寺社奉行を兼任する。
延宝6年(1678年)6月19日、大坂城代に任じられ、
2万石を加増された上で所領を摂津・河内・下総などに移されたため、
浜松藩から去って畿内周辺に移封となった。


貞享元年(1684年)4月6日に死去。享年56。跡を次男の資直が継いだ。


[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月28日 05時18分20秒 ) パスワード

太田 資直(おおた すけなお)


駿河田中藩の初代藩主。
掛川藩太田家3代。


生涯[編集]

万治元年(1658年)、大坂城代や寺社奉行を務めた太田資次の次男として生まれる。

寛永12年(1672年)12月28日に従五位下・備後守に叙位・任官する。
天和3年(1683年)8月11日に備中守に遷任する。

貞享元年(1684年)4月に父が死去したため、家督を継いで摂津・河内・下総などの所領、およそ5万2000石を相続した。

このとき、弟の資方に常陸2000石を分与したため、5万石となる。
7月19日に駿河田中に移封された。


貞享2年(1685年)6月10日に奏者番に任じられ、8月9日に若年寄に任じられる。9月4日に摂津守に遷任する。
貞享3年(1686年)1月11日、将軍・徳川綱吉の近習に任じられたが、6月29日に病を理由に辞任する。

しかしこれが綱吉の怒りを買い、元禄元年(1688年)12月18日まで出仕を停止された。


宝永2年(1705年)1月2日、田中で死去。享年48。
長男から四男は全て早世していたため、末子で五男の資晴が跡を継いだ。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月28日 05時19分59秒 ) パスワード

太田 資晴(おおた すけはる)

駿河田中藩第2代藩主、陸奥棚倉藩主、上野館林藩主。
江戸幕府の寺社奉行、若年寄、大坂城代。掛川藩太田家4代。



生涯[編集]

田中藩初代藩主・太田資直の五男として生まれる。4人の兄が早世したため世子となり、宝永2年(1705年)に父の死により家督を相続。同年、陸奥棚倉に移封された。享保8年(1723年)に奏者番、同10年(1725年)寺社奉行、同13年(1728年)に若年寄と累進し、上野館林に転封。享保19年(1734年)には大坂城代に任じられ、摂津周辺で5万石を与えられた。元文5年(1740年)に45歳で死去。跡を長男の資俊が継いだ。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月28日 05時22分55秒 ) パスワード

太田資胤       水戸徳川家の家老・太田家に養子


江戸中期の水戸藩家老。
第5代藩主徳川宗翰に仕え、藩政改革を実施した。


生涯[編集]

陸奥棚倉藩主太田資晴の次男として生まれる。
縁戚である水戸藩家老太田家の養子となる。
家禄を継いで2000石。
通称は下野守。


寛延2年(1749年)9月、水戸藩老中として省略掛(財政緊縮掛)に任じられ、
宝暦6年(1756年)4月、致仕となるまで8年間、財政立て直しと民政の改革を推進した。

宝暦5年(1755年)12月、改革の成果で江戸・水戸の藩士の給分を遅滞なく与えることができたので、功を賞して700石を加増された。

一方で、同じく12月、太田資胤が負傷したと伝えられ、『水戸紀年』には「悪説紛々タリ」とある。

翌宝暦6年4月、致仕。




家系[編集]

水戸藩家老太田家の祖の太田正重は、掛川藩太田家の初代太田資宗の兄である。
太田正重は、水戸藩初代藩主徳川頼房の准母・英勝院の縁で頼房に仕えたが病弱で早世。

その子太田資正が水戸藩家老となり、以後累代の家老となった。



参考文献[編集]
『水戸市史 中巻(二)』
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月28日 09時08分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろありがとうございます。今から郵便局に行ってair-mailします。

 葬儀がおわりましたら、またゆっくり読み直し、レスいたします。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月28日 23時02分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様ご指摘のとおり、太田家はレス[26]に書かれた太田重正を祖としてい
る一族と推測されます。叔母に訊いたところ、頭陀寺松下家暁綱(之綱の長男)
の直系の子孫の娘(四女)が太田家に嫁いだということは紛れもない事実である
と言いました。その四女と叔父の母(私にとっては母方の祖母)とが同級生だっ
たという御縁、また祖母の祖先(芳川村都盛 平野)が松下家に仕えていたとい
う御縁もあり、叔父は太田家に養子となったようです。
 太田家は遡るとたぶん太田道灌につながるかも知れないと言っていました。
何代か前の祖先が庄屋か名主かやっており、広範な土地を支配していて、原島
町にお寺を寄進(菩提寺 松厳寺)したと言っていました。その資料は浜松市博
物館にマイクロフィルムとして残されているので、見に行ってみたらと叔母に
勧められました。

 今、太田氏と松下氏についていろいろ調べ直しておりましたら、太田家と頭
陀寺松下家が二重につながっていることがわかりました。
 即ち、太田家の初代は太田重正、次代は資宗(すけむね 初代浜松藩主)。そ
の重正の正妻、つまり資宗の母は、松下之綱の妻の父松下為雲の子秀綱の娘で
ある。従って松下之綱の奥さんの兄か弟の娘(義理の姪)が重正の正妻で、浜松
藩主資宗の母となっているということ。また、之綱の長男暁綱(あきつな)と
秀綱は甥・叔父の関係である。
 その暁綱の直系子孫の源四郎の四女が、また時代を経て再び太田家に嫁いだ
というわけであります。
 太田家の詳しい家系図はまだ見ていませんが、いずれ検証資料として探して
みたいと思っています。

 さて、ここで立ち止まって考えると、あを様の「膝の振るえ」がわかる気が
いたします。
 つまり、正光寺というプラットフォームに、状況証拠となる登場人物がす
べてといっていいほど登場して来た。あを様でなければわからなかった人間
模様を、あを様は神がかり的に開示なされた。

 私も今思います。歴史と大地の縦糸と横糸の中に、色々な人間関係の綾が
、また意外と遠くに思われた人が実はすぐ近くに織り込まれているという、
マーベラスな感慨に浸っています。

振り返りますとこんな綾が見えて来ます。
 @大久保代官服部中家と神ヶ谷松下家との関係(諜報・防御。たぶん婚姻)。
 A服部中家と中泉代官大草(永田・永井)家との関係(代官。警備)。
 B服部中家と永井家との関係(婚姻)。
 C服部中家と長谷川家との関係(婚姻)
 D頭陀寺松下家と浜松藩主太田家との関係(婚姻)。
E松下之綱と柳生宗則関係(婚姻)
 F服部家と柳生家の関係(伊賀。諜報)
 G太田家と加藤家の関係(婚姻。太田資宗の長女は加藤光泰の曾孫の大洲
  城主泰義の正妻)。
 H加藤光泰と一柳可遊家との関係(秀吉の猛将。婚姻。秀次事件)。
 I服部家と松島家(庄屋)の関係(源長院。神主)。
 J遠江の南朝関係。
 K遠江のは秀次(事件)関係。
 L歴代遠江守の関係。
 M徳川家康浜松時代での、暗躍した服部一族の関係。
 その他・・・ect.

そして今、状況証拠的には、服部中と関係している気配が濃厚になって来て
いるような感じを改めて抱き始めております(これもあを様直近にてご指摘)。
 
 
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 04時28分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


お葬式ではお疲れでしたでしょうね。


伯父様は召されて天にお戻りになって
でも言い残しておけば良かった事がたくさんお有りだったでしょうね。

これから初七日・四十九日と続きます。
こういう時は故人のお話や先祖のお話を一族でするものです。
故人が言い忘れたことなどの復習の機会です。 

それが亡くなった方への供養や先祖への供養になると思います。


   もし情報が間違ってたら訂正の機会も有りますよ。


実は数日前
三つ柏さんが名古屋にいらっしゃった時かしら?
この日、夫がガソリンを入れてた時にすっごく悲しくなって涙が出て来ました。

   あれ?
   この涙は何だろう?


どなたから来たのかな?
まだハッキリ分かりませんが。


とにかく驚きました。


服部中の家と長谷川家の関係が分かったのには本当に驚きました。
     去年寛政重修諸家譜で分かっていても理解してませんでした。
長谷川家の長男と六男が兄弟で服部家に入っているんですよ。

       服部中の家は長谷川家に乗っ取られましたね
           笑
       とはいえ、どうせ親戚関係になるんですよ
       でなかったら、服部中の分家のどこかから引っ張って来るはずですから。

みんな親戚ですよ。@〜Mにお書きになった以上の関係が存在しているんですよ。


太田道灌の子孫だ子孫じゃないというハナシでも妬みやヤッカミがあって
否定する人もいるでしょう。

でももし本当に絶対のでっち上げだったら家系書には書けないんですから
     日本は周りが許すわけ無いですから
     絶対にウソだったら「アイツは本当は○○の▽△だ」というハナシが記録されてますよ
     日本はそういう世界だと思います。


太田道灌「「「ゆかり」」」というのは本当だと思います。

     太田道灌なんて雨が降って来たから庶民の家に雨宿りしたんでしょ
     そこの娘に教養があったから驚いた
        なんて話がありますから、そこらじゅうに子供がいて不思議じゃないですよ
     そして名もない家であっても教養深い家に生まれた「「「ゆかり」」」の者が賢くて家康と関係が出来た

     そういうことだと思います


名字ってものすごく大事じゃないですか。
勿論明治時代の初めに庄屋さんの名字を名乗っちゃったというのもあるし
土地の名前を名乗って「松平」なんて人も知ってます

   こういう人でもやっぱり何らかの関係が大昔にはあったのでしょうね
   子孫が有名人になったら、この人物が直系のように言われるでしょう

   本物の直系でも尾羽打ち枯らしてただの凡人になってたら、この直系の人の周りが、
   上記のヤツは本物じゃない、と言い出すかも。

   直系で今はただの人間になってても、やっぱり本物だったら、
   「うちの関係者が今の世に立派になってくれて、先祖が喜んでいます」
   ぐらい言うだろうな。


こういう人間の器の大きさというのをわたくしは服部家ホンヤさんから学びました。

近所の人も「ホンヤさん、ホンヤさん」って慕ってたし。


太田道灌が草葉の蔭で喜んでいるのがいい。
記録に載ってない子孫というのは充分いますから。

   太田道灌自身が自分に何人子供がいたのか分かってないかも知れないし。


   名は無い母から生まれても優秀に育って太田道灌の子孫の名を継ぐのを徳川家から認められた
   という人物もいるでしょうしね。

      そういう場合は陰で必死に否定しようと動き回るヤツもいるし。
      たいていこういうヤツは無能なのよねえ。       


      そりゃあ悔しいでしょうね
      水戸徳川藩の家老の太田家まで継いでしまうんですから。


[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 05時38分09秒 ) パスワード

松厳寺


http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/archives/4063369.html

森町大鳥居540−1
がヒットしました。

    でもコピーガードがかかっているのでコピペ出来ないです。


天方城
天方氏3代の墓がある?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%B9%E5%9F%8E
ということでまず天方城について:


天方城(あまがたじょう)


遠江国(現在の静岡県周智郡森町向天方)にあった日本の城。
山城。

天方城は、太田川に沿って静岡県道58号袋井春野線を北上すると、
森町市街地(城下から向天方)辺から北東に聳える城山(比高250m)にあった。

武田信玄と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。

続く
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 05時51分48秒 ) パスワード

天方本城[編集]       

応永年間 (1394年 - 1427年)、山内対馬守道美が築城した。
これを天方本城 (静岡県森町大鳥居にあったとされる城) と言う。


天方氏が飯田荘の地頭であった首藤山内氏から分かれたものであり、
14世紀後半 (南北朝後期 - 室町初期) に山内豊後守通秀が天方城に住し、天方氏を称したとする。
天方氏は、天方九カ村を支配し南周南一帯に勢力を伸ばしていた。



数代を経た明応三年 (1494年) 、当主通季のとき、今川氏親は中遠の原氏討伐のために後の北条早雲 (伊勢新九郎盛時) を大将とする大軍を進攻させてきた。

今川軍は中遠三郡である佐野郡、山名郡、周智郡(現在の掛川市、袋井市、森町周辺)を席捲し城主の通季は、今川氏に降った。


文亀元年 (1501年) 、遠江守護の斯波氏は信濃の小笠原氏と連合して今川氏に対する反撃の行動に出た。


この時の戦場となったのが座王 (久野) 城と天方本城であった。


通季は斯波の大軍襲来の前に城を捨てて今川方に身を寄せた。


その後、今川方の武将、本間宗季らとともに城を奪還している。


戦後、堅固な城の必要性を痛感した通季は城の南側に新たな城 (白山城) を築いた。


その後、遠江は今川氏の支配するところとなり、平穏な時期が続いた。
通季は道芬と号し、上京して和歌、連歌に興味を寄せたことでも知られている。



天方新城 [編集]

天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の代になり世は戦国乱世を迎えた。
その通興がより堅固な城塞を求めて築いたのが、現在の静岡県周智郡森町向天方に残る天方城である。


それまで遠江、駿河を支配していた今川氏が今川義元の死後斜陽化、
これを見た三河の徳川家康の遠州進攻の口火が切られたのは永禄11年 (1568年) 、
家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。


通興は今川方の勇将と知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、
家康に敵対していたため、永禄12年 (1569年) 6月19日、家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、
榊原康政、天野康景、大久保忠隣を先陣にして、まず飯田城へ殺到してたちまちの内に攻め落してしまった。


飯田城主山内対馬守通泰とその一党が悉くが討死したが、
通泰の庶子伊織が、家臣の梅村彦兵衛に伴われて三河 (今の愛知県) へ落ちのびた。

それから天方城攻略のため進撃。
郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられた。
通興もよく防戦したがついに力尽きて降伏。


翌、元亀元年 (1570年) 10月位には武田による北、中遠方面に対する誘降工作が活発となり、天方城にもその手が伸びた。

「天方山城守、兵備を整え不穏なり」と命令に従わずに軍兵を集めてたてこもったとして再び大須賀康高、榊原康政ら徳川の軍勢に攻められた。

通興は徳川勢が外曲輪に迫ると、二心のないことを誓って、開城し、再び徳川家康に降った。



武田・徳川の攻防戦[編集]

元亀3年 (1572年) 9月下旬、武田信玄は4万余の大軍を率いて犬居城主天野氏の案内で天方城にせまった。

天方山城守通興は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に通興は一戦も交えることなく城を出て徳川方に身をよせた。

そこで信玄は久野弾正忠宗を城将として守らせた。
翌元亀4年 (1573年) 3月家康は、武田の手に落ちた諸城の奪回戦を開始した。
久野弾正は城兵を指揮して大手の門を切って出て戦い、寄せ手の大久保忠隣、渡辺半蔵らは烈しく攻め、
ついに外堀を攻め破り本丸を攻め囲むこと3日、
兵糧を断たれた久野弾正は夜陰に紛れて逃走、城は徳川の手に帰した。


遠江国風土記には、のちにまた甲州の城となったが、
天正2年 (1574年) 3月に家康は遠州の軍兵を率いて天方城を攻め3日のうちに攻略、この城に軍兵を置くとある。
天正2年4月には、犬居城主天野景貫を討つために出陣し、このとき通興は、大久保忠世に属して道案内をしている。


しかし途中、大雨で大水が出て兵糧もなくなったため、退却することになった。

すると犬居城主天野景貫は追撃を開始し、さらに光明城、樽山城の城兵、郷民らの待ち伏せにあったため、家康は天方城へ逃げ込んだ。



その後[編集]      信康事件勃発   天方氏はこの時の人ですね

天正7年 (1579年) 7月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山殿と長男・松平信康が武田方に内通したとの報がもたらされた。

この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。

家康は悩んだ末まず築山殿を殺害、さらに9月15日、かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。

このとき服部半蔵が介錯人を務め、天方通興の子、通綱が検分役であった。


信康が切腹した際、服部正成が涙のあまり刀が振り下せず介錯できなかった為、通綱が代わりに介錯人をつとめた。
このため主君である家康の長男の首を落としたという自責の念にかりたてられ高野山に登り仏門に入った。
そしてその後に、越前松平秀康 (結城秀康・家康二男) に仕え、越前天方氏の宗家となり、
その子孫は明治まで松平氏に仕えた。


                          ここで青山氏が出て来る!
                          ただし服部正尚の弟の青山成重ではない
 

通興は、通綱が高野山に登った為、天方家の存続をはかるため、外孫の青山忠成の五男、通直を養子にした。

その後通興没後まもなく城は、廃城となった。また、通興の養子となった通直は幼稚のときより家康に奉仕して慶長19年 (1614年) の大坂の陣に供奉している。

慶長20年 (1615年) の大阪の陣の際には、徳川秀忠に従い天王寺・岡山の戦いに戦功をあげている。

後に御書院番に列し、元和6年 (1620年) 正月には御小姓組頭となり、さらに元和9年正月に、御書院の組頭に栄転し同年9月より江戸城西城に勤仕した。

寛永2年 (1625年) 11月23日には、上総国武射、下総国葛飾、香取相模国高座四郡のうちにおいて2,250石の朱印状を給わる。

そして、寛永3年従五位下備前守に就任さる。通直より4代後の通展のとき (享保17年 (1732年) 閏5月15日) に請て家号を青山に改めている。




   回り回って  青山がらみ → 服部(半蔵 →  正尚がらみ)  という感じで
   天方氏と服部氏も親戚になるんでしょうね。 

   途中大久保長安事件もあったりして、親戚を止めてたかも、ですね。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 05時58分54秒 ) パスワード

青山家の家紋の1つは  葉菊  だそうです。
服部家の家紋は   車に矢  と  葉菊  その他  蝶とかね。

服部家の  葉菊紋  って  青山家との関係で?






[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 06時03分11秒 ) パスワード

み〜んな繋がってしまいますね。


確かに信康の介錯で半蔵が出来なくて天方氏が実行した話はあちこちで読んでいますが
     服部  ⇔  青山  ⇔  天方氏

の関係は、当たり前だけど、改めてビックリ。


松源寺の情報からハッキリしました。
やはりお年寄りの話はどんな小さな情報でもちゃんと聞いておかないといけませんね。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 06時07分07秒 ) パスワード

http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/archives/4063369.html

で、天方一族の墓で最近建立した墓の   家紋が!  なんと  

        ○に一文字

ですよ〜


これまたビックリ!


どうして松島家の家紋が?
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 06時11分48秒 ) パスワード

天方氏と松島家の関係は?   


ということで
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/amakata.html

[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 06時13分05秒 ) パスワード

天方氏の家紋は   一文字と葉菊なんですって。

                青山姓に替えたからね。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 06時14分56秒 ) パスワード

ということは信康の介錯に  服部と天方でやれと、お前達親戚でやってくれと、家康が頼んだ?


   家康の信康への思いがここに入っているのかもですね。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 06時17分11秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/amakata.html

天方氏


一の字/細輪に葉菊
(藤原氏秀郷流首藤氏族)


 遠江国周智郡天方郷から起こった。もとは藤原秀郷の後裔首藤氏の一族である。藤原助清は三河国に住し、首馬頭に任じたことから首藤氏を称した。後裔にあたる俊通は滝口刑部丞を名乗り、その子が滝口四郎俊綱である。山内首藤氏とは同族の関係になる。


 代々鎌倉御家人であったようで、通隆の代に鎌倉幕府が滅亡。通隆は北条高時に殉じて鎌倉で自刃した。以後、世に隠れていたようで、通隆以後荷代の実名は伝わっていない。通秀の代に至って、遠江国天方城に住した。これより天方の地名をもって家号にしたという。


 通興の代に今川氏に属した。今川義元が桶狭間で信長に討たれ、氏真の代に今川氏は衰退することになる。通興は、今川氏没落後、石川伯耆守数正について家康に謁え、以後徳川氏に仕えた。天正二年、家康が遠江国乾城を攻めた時、大久保忠世に属して、案内役を勤めた。これより、通興は大久保忠世に属して、家康の戦に参加し、数々の戦功を挙げている。


 嫡子の通之は早世し、次男の通綱が家督を継いだ。通綱は織田信長の嫌疑を受けて、切腹の命を受けた家康の嫡子信康の検視役を命じられ、同役の服部半蔵とともに遠江二俣城に赴くことになった。信康自刃に際し介錯を頼まれた半蔵がその任に堪えきれず、代わって通綱が信康の介錯をした。通綱はのちに信康介錯のことをはばかって出奔し、家康の次男で信康の弟にあたる越前藩主結城秀康に召し出されて仕えた。


 通綱は、鞍・鎧づくりに優れ、その作品は彦根井伊家に伝わっている。通綱の子孫は福井藩士として続いた。


 通興のあとは、娘婿青山忠成の子通直が継いだ。通直は幼少の時より家康に奉仕し、慶長八年の家康上洛にも随行し、慶長十八年には、すべて二千二百五十石を知行した。慶長十九年の大坂の陣にも参陣し、秀忠に従って、天王寺の戦いにおいて戦功をはげまし、玉造口の戦いでも大坂方を槍を合わせて甲首一級を挙げている。


 寛永二年、上総国武射、下総国葛飾・香取、相模国高座四郡のうちで二千二百五十石の朱印状を賜った。同三年には従五位下備前守に叙任、同七年十一月に死去した。旗本家天方氏はのちに青山氏に改姓している。


 家紋は、首藤氏ゆかりの「一文字」紋が本来の定紋であったが、
  青山氏との関係から「細輪に葉菊」紋の方が後世では定紋となっていった。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 06時19分32秒 ) パスワード

北条氏が滅亡する前に里見氏から養子が入ってますね。


[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 06時21分42秒 ) パスワード

そうすると松島家の  ○に一文字紋  は里見繋がりと天方繋がり?
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 06時25分19秒 ) パスワード

やはり松島城にいらっしゃって家紋を調べて来ないことには、ですね。



家紋はいろいろ変遷しますから
本当に1つの家に1つだけではないですよ。


松島家が里見つながりで天方氏から貰ったかも知れないし
青山がらみかも知れないし。


本来はどういう家紋だったか
字名が松島という地区の松島さん達を調べないと分からないかも。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 06時34分47秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E6%B0%8F

里見氏の家紋は2つ引両になってますね。
足利系ですね。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 06時37分10秒 ) パスワード

首藤系大内氏の家紋は


山内氏

   黒い方を貰った?       石田三成と同じ
●白黒一文字        大一大万大吉            折れ烏帽子
●藤原氏秀郷流首藤氏族  


[48]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月29日 07時37分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ガソリンスタンドでの涙、時空をこえた想いがよみがえって来たのかも知れ
ませんね。ほんとうに感受性がセンシティブだから。

 青山氏と服部氏の件、天方氏と服部氏の件、さすがあを様センスが鋭い。
 実は、青山忠成と松下之綱は親戚関係になります。
 信康をめぐっては、服部一族の陰謀があったのかと思います。

 この辺はまた深く探究したいと思います。
 野暮用が迫っていますので一旦切ります。
 
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 08時12分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


>青山忠成と松下之綱は親戚関係になります

そうなんですか。



>信康をめぐっては、服部一族の陰謀があったのかと思います

そういうことがありましたか?
あったとしたら、
服部正尚は西郷局の生んだ秀忠を跡継ぎにしたかったでしょうね。


これは服部正尚だけじゃなくて三河の衆にしても、
今川系の築山殿の生んだ子より、三河の西郷局の生んだ子に家康の後継者になって欲しかったでしょうね。


信長は根絶やししたいタイプだから今川系の信康は実は許したくない1人だったかもですね。
その上に自分の娘が信康に不信感を持ってたし。

    武田勝頼の子の信勝の母が信長の養女でしたっけ?
    16歳で亡くなってますね。


信長は内心もともと信康の存在を許したくなかったかも、ですね。
信康が優秀な人物だったら猶更。


    それにしても恐ろしい時代ですね。


    このあたりしか想像が出来ません。


またいろいろ教えてください。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 10時39分00秒 ) パスワード

もうそろそろ届くのではないかと思いますが
まだです。

    早く来い来い!
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月29日 10時46分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史探究はスパイラルで堂々巡りだけど、少しずつ高見に昇って行く。
 
 小栗氏について知識を得まして、雪斎が小栗氏の出身ということで、またし
ても堂々巡りではありますが、「世木」忍者についての本『世木一族』(宮城
顕秀)を読み直しています。雪斎は情報収集のために忍者を使っていました。
そしていろいろな方面に偵察隊を送っています。
 そしてそれは軍師雪斎だけでなく、ほとんどの戦国武将は忍者・諜報部隊を
使っています。
 忍者がいっぱいであった。忍者であふれかえっていた。極端に言えばどの人
も忍者もどきであった。
 情報を制すること。相手を知ること。これが最大の武器であった。
 またいわゆる保険を掛けるということ。両方の陣営にコネクションを持つ
ということ。風を読むということ。そしていち早く行動をということ。

 雪斎をもう少し探究してみたいと思っています。

 これから「松厳寺」(原島町)に行ってみます。ついでに甘露寺にも、できれ
ば浜松市博物館に行って、マイクロフィルムについて訊いてみます。
 
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 12時54分03秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1447429069
太原雪斎


今川氏全盛期9代義元の時代に、徳川家康(幼名 松平竹千代)は人質として19歳までの12年間、駿府で生活しています。

後に戦国大名、そして天下人へと成長していく過程で臨済寺の住職太原雪斉などから種々の教えを受けており、家康の人間形成の上で非常に重要な時期を駿府で過ごしています。


雪斉は、今川義元の執権職として、帷幕に縦横の機智を振るった人である。

義元が、駿、遠、三の太守として東海に勇を振るったのも、雪斉の力によるところが大で、この時代がまた、今川家の最盛期でもあった。


北条氏、武田氏、今川氏による三国同盟締結も雪斉の提案したものです。
                     へえ〜
                     そうだったの〜



戦場に於いても法衣の上に甲冑を身につけ戦い抜いた人でもあり
今なお静岡臨済寺では今川義元の軍師として雪斉の功績が知られており
本堂は国の重要文化財、庭園は国の名勝に指定されています。


雪斉は1555年に亡くなっており、もし1560年桶狭間の戦い時に存命であれば結果はどのようになっていただろうか?


戦国時代のヒーロー織田信長は誕生していただろうか?
徳川家康も幼少時代、雪斉の教えを受けていなければ、はたして天下を取りえたであろうか?


家康が天下を治め徳川三百年の基礎をつくった基礎は、この幼年時代に培われた経験も大きいものだと思います。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 13時00分37秒 ) パスワード

忍者って、
なるほどね

特に僧形の忍者は動き易かったでしょうね。
その親玉が静岡の場合は  雪斎  だった?
ビックリです。


松厳寺で収穫があると良いですね。
書き込み、期待しています。

マイクロフィルムも見せてもらえると良いですね。

GOOD LUCK!
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 22時46分21秒 ) パスワード

目が覚めてからツラツラ思うことがございました。


・半蔵の家は祖父の代に家康の祖父に仕えた。三河にいた。


・政信は信長の一向一揆に参加しているので?、その後に、家康に仕えた?
 家康も一向一揆には手を焼いていたので、やはり一向一揆が収まってからでしょう。


・服部中の家は足利将軍家に仕えた後、服部中は信長に仕え、桶狭間の5年後に家康に仕えた。
 6年後、足軽同心55人、家康から預かった。
       この人も忍者の元締めですね。


・太原雪斎は3国鼎立策をやった。1555年に他界(桶狭間は1560年)
      羽鳥の小栗の子?
      庵原氏の子?
      小栗と庵原の関係がいまいち分かりません。


       <レス4>
       雪斎和尚は本村羽鳥、小栗九郎左衛門の子で、足利氏に仕えていたが、
       その衰亡帰すや駿河に至り今川義元に仕えて、その軍師となった。
       

        今川氏滅びてから大岩臨済寺に入り禅学を修めた。
               ここが不思議。
               1555年に亡くなっているらしいのに
               1560年に今川氏が滅びてから後に?大岩臨済寺に入った?


        この太原雪斎という人物についても混乱がある?
        または同じような名前の和尚が2人いた?


・蘆田信蕃に仕えた服部氏は誰?
       服部正吉改め服部重好
           これはたぶん本多に仕えたから「正」の通字の使用を遠慮したのだと思う。 


       寛政時代の家紋は伊賀服部系の「車と矢」「向ひ蝶」
       寛永時代は「酢漿草」


       子孫は江戸の今川系と同じ菩提寺。


・いつ松島氏は羽鳥に来た?
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月29日 22時54分39秒 ) パスワード

太原雪斎の謎を解く?笑
庵原氏と小栗氏の関係がまだ分からないです。


     庵原氏と山本勘助=内野聖陽=の関係はNHK大河の「風林火山」で知りました。
[56]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月29日 23時08分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、原島町の松岩(厳)寺を見に行って来ましたが、特にこれといった
ものはありませんでした。厳の字が岩になっておりました。
 この松岩寺について、浜松博物館に行き、寄贈に関する古文書のマイクロ
フィルムがあれば見せてほしいとお願いしましたら、本日はイベントで忙し
いので、後日調査して連絡いたしますという回答をいただきました。

 浜松博物館の中も久しぶりに見てまいりました。家康の実物大の「しかみ像」
がガラスのケースの中で苦虫をかみ殺したような顔で腰かけていました。没後
400年記念企画の一つであります。
 江戸時代の展示物の中に、太田資宗の桑山主水への書状が展示されておりま
した。

 その後、中央図書館へ行き、郷土の歴史資料を調べておりましたところ、
大久保の旗本服部家の5ページ程の研究資料がありましたので、コピーをして
まいりましたが、特に目新しい内容はありませんでした。

 やはり、ターゲットは正光寺にしぼった方が何か出てくるのではないかとい
う予感があります。
 今までの、あを様から頂いたレスの内容を再度熟読してみます。
 いずれにしましても、伊那行きが迫ってまいりましたので、資料もまとめな
けれはなりません。

 明日はドック入りですので、復帰できるのは夕方からとなります。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月30日 02時19分41秒 ) パスワード

松岩寺は黄檗宗なんですねえ。
ちょっと特殊ですね。

近くに寿量寺があるので調べてみたら、こちらは日蓮宗。


笠井や市野の近くだから
これらの寺にも何か出るかと思いましたが
別に出なかったです。

正光寺に是非いらっしゃってください。
馬淵氏や小栗氏が今でも檀家さんですから江戸時代から続くんでしょうね。
他にもお名前が出てました。


浜松博物館行きはゴールデンウイークも重なって
残念でした。



>家康の実物大の「しかみ像」がガラスのケースの中で苦虫をかみ殺したような顔で腰かけていました。
>没後400年記念企画の一つであります。


良いタイミングでした。
本物はなかなかお目にかかれません。



>江戸時代の展示物の中に、太田資宗の桑山主水への書状が展示されておりました。

これも良いタイミングでした。
なにか御縁があるかも。




>伊那行き

良いものとなるといいですね。




人間ドック
いいですね。

健康にはくれぐれもお気を付けて。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月30日 09時30分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


届きました!
ありがとうございます。


今から読ませて頂きます。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月30日 13時14分47秒 ) パスワード

2回目読んでいます。


すごいですね。
里見八犬伝の話は時間がかかりますが

裏門=女性の紋には  笹竜胆  を使用
と書いてありますね。


そして江戸時代の初めに 市野惣兵衛太夫の妹  その  薗  という人物が嫁に来てた?

     この人物は代官ですね。

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1200/WJJS24U/2213005100/?Word=%e5%b8%82%e9%87%8e%e6%83%a3%e5%a4%aa%e5%a4%ab&Relation=AND&TypPttrn=BODY&SelectPage=1&BfrDispId=WJJS06U

『浜松市文化遺産デジタルアーカイブ』

浜松史誌  2−2
(磐田市)の秋鹿家と市野村(市野町)の市野惣太夫家が注目されるが、
ここでは後者について述


浜松史誌  2−4
市野惣太夫領 木船村小林村寺

浜松史誌  2−5
宗源院宿芦寺竜泉寺新豊院普伝院宗安寺(市野惣太夫開基)安養寺(宗安寺末)東漸寺大宝寺源長

         解読が必要です


また千葉の流山市の市野谷にも代官になって行ってるようですね。

http://entoujide.gozaru.jp/annai.htm
市野谷という地名は円東寺の門前に市がたったからとか、その昔馬の飼育をしていた代官の市野惣太夫という人が住んでいたからとか昔の話だけに諸説あります。


     千葉ということで
     里見家と松島家がからんで更に市野氏がからむ?


     里見家は源(新田)義重の3男の家?
     徳川家も新田系ということで?



と、いろいろ出て来そうですから  XXXVI を立てて  36は松島家譜専用スレッドにしようかと思います。

   http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101440_1.html
[61]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月30日 21時49分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 10日かかりましたね。早ければ5日、遅ければ10日かかるということが
わかりました。コネクションの関係ですね。

 本日は、1日間の内、待ち時間はリクライニングシートの上で、持参の本
を読んでいました。病院ではどういうわけかよく本が集中して読めめます。
本格的に入院すれば読書三昧になるでしょうね。
 安倍総理の訪中に合わせ『沈みゆく大国アメリカ』と、忍術の歴史書『忍術
 その歴史と忍者』(奥瀬平七郎)を読みました。
 前者については、医療を市場原理、即ち利益追求の営利主義にさらさない方
がいい、さらに言うと投資対象にさせない方がいいと強く思いました。
 『忍術』の方は新しい発見が多々ありましたので、次回以降に記します。

 本日浜松市博物館より電話があり、原島の太田家文書のマイクロフィルムが
ありましたので、見に来て下さいとのことでした。この3日間は忙しいので、
4日以降に見に行こうと思っています。

 松島氏専用のスレッド専用に立てていただき、ありがとうございます。読ま
せていただきます。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月30日 22時44分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしは夫の受診の時は何か読むものを持って行きます。
確かに野暮用・・・いえいえ・・・仕事関係の電話とかは無視できますから集中出来ますね。


アメリカはオバマケアが始まってから医者もとんでもないことになっています。
   70歳を過ぎたような高齢の医者はどんどん辞めています。
   諸般の雑用=保険のコード調べとか、処方箋の手書きはダメとか=がすごいことになってますから。

   ある50代の医者は開業医を辞めてERでHOURで働くことにしたし。ヲイヲイ
   普通は医者は勤務医を辞めて開業したいものでしょうけど彼は楽な勤務医を選びました。


あの本の終わりに出ている日本の医療改革の「メタボには7割負担かも」の仕掛け人
実はまったく知らない人というわけじゃないんですよ。
この人は小泉の構造改革にも関わった人物です。

この子、最近、何をしてるのかな?と思ってたら日本の医療制度をいじりたがってる?
とビックリでした。
だからココ10年ほど日本ではメタボメタボと言ってるのかと分かりました。

    10年も騒いでるんだから十分体重を落とす時間はあっただろう

そう言いたいのかも、彼は。


    天才はそう考えるのかな、とあの本を読んで思いました。
    なんせ日本に来て新聞を読んで2週間で日本語をマスターしたとかって話です。


オバマケアが始まる前は
    夫は主治医の指定で3か月毎に血液検査を受けていたし
    受診も主治医のは2週ごとだったのに
オバマケアが始まって
    今は血液検査なんて<受けさせて貰えない>し主治医の受診も3か月ごとになってて
数値がどうなっているのかサッパリ分からなくなっています。
去年5月に受けさせてもらった数値は(検査技師がドジったのか?)全てが危篤状態の患者の数値のようで
    クレアチニンなんてスグに人工透析を受けるべきのような数値が出てて
    夫の医者たち3人が検査結果を見て含み笑いをしてたから検査技師のドジだろうなと思いました

    もうそろそろ夫は検査を受けさせてもらえるのかな?と思います。
    あれから1年ですから


    医療現場が混乱してたんでしょうね


    夫は副作用で糖尿病になる薬を服用して来て
    去年の7月、3年後に、副作用が出て来ました
    でも検査をやってくれないし
    頼んでも検査をやってくれないのです


確実にアメリカの医療制度はジョークへの道を走っています。
    ま、逆に、大病持ちの人には良いのでしょうけど。


あの本はアメリカの話のように読んでたら、いやいや、日本の話だったのか
という警告書ですよ。


    日本人はね、お風呂に入っていいご機嫌の蛙、って言われてます。
    つまり  青蛙湯=蛙のスープ= ってことです。

       本人はいい御機嫌で風呂に入ってるつもりだけど煮られてる、ってね。
       確かにハゲタカファンドが・・・の時代が始まってました
       新生銀行とかね


          この話は最近亡くなった某政治家の国の人から聞きました。

          この政治家、怖かったですよ
          斧でバッサリ叩き斬られるようなオーラを持っていました。
          日本が大嫌いで
          お隣のマハティールさんは日本が大好きなだけに
          その分も含めて、この2人は仲が悪かったのかな、なんて個人的に思います。


この話は15年ぐらい前に聞いたのかな?
その頃?クエール元副大統領だった人が日本へ1か月半ごとぐらいに通ってました。
その頃に聞いた記憶。

   業務上知り得た情報はバラせないのが残念。笑


だからメタボはダメです。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月30日 22時53分38秒 ) パスワード

マイクロフィルムのお話も楽しみにしております。

忍者の話も興味あります。
半蔵の父?祖父?おじ?が宇治田原にいたのか
それも書いてあると良いのですが。
[65]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月01日 06時23分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 医療の現実の話、混合医療という言葉の綾、言葉にだまされますが、保険
適用の範囲がどんどん減らされて行って、そちらの分野は今度は民間の保険
が受け持つことになる。そこは競争原理で外資系の巨大資本の独断場になる。
そこはもう基本的には金次第の世界になります。弱者というとこれも言葉の
綾になりますが、人間としての最低下の生存権、最低限といいますとこれも
言葉の綾になりますが、まじめで勤労意欲のある人、そして働きたくても働
けない本当の弱者、為政者とは何をすべきかは、最後は人間愛に行きつくと
思います。この辺は哲学、倫理、宗教、風土、歴史等いろいろなものがから
んできますので一筋縄には行きませんが・・・。
 国のかじ取りは難しいといってしまえばそれまでですが、本当にわかった
上で、外圧に負けないように、また拝金主義に陥らないように施政を行って
もらいたいものです。あの本を読んで、自由・平等・自由主義・資本主義の
言葉の綾・・・表と裏がわかる気がしました。

 さて、太田氏の血筋が親戚にいたということで、太田氏にスポットをあて
てみたいと思っています。
 高力、太田、青山は特に浜松に影響を与え、治績が残るといいます。どん
な治績が残っているのか、興味あるところです。太田家が創建した寺で、米
津町に安泉寺という寺があるということなので、とりあえず今度行ってみた
いと思います。
 本日、伊那行きの打ち合わせを行います。

 
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 08時14分04秒 ) パスワード

太田氏


太田氏(おおたし、おおたうじ/おおだし、おおたうじ)
日本の氏族。主なものとして下記の流れがある。

1.清和源氏頼光流太田氏。
2.清和源氏頼親流太田氏。
3.清和源氏里見氏流太田氏             ⇔    里見氏系?
4.三善氏の一族。鎌倉幕府問注所執事三善康信の子康連に始まる。
5.藤原氏秀郷流太田氏。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 08時16分18秒 ) パスワード

http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-797-7.htm


岩付太田氏
 論集 戦国大名と国衆K

黒田 基樹 編
(駿河台大学教授/1965年生まれ)

2013年4月刊
A5判・252頁・並製本・カバー装
ISBN978-4-87294-797-7 C3321
4000円 (税別)



岩付城(さいたま市岩槻区)を本拠とした岩付太田氏は、扇谷上杉氏の家宰太田氏の流れをくむ一族であり、
戦国前期に扇谷上杉氏を主導した太田道灌の子孫の一流にあたる。

                           この感じですね。


本書には、前島康彦『太田氏関係文書集』の解説をはじめ、岩付太田氏研究に不可欠の基本論文17編を再録し、巻頭に編者の総論を付し、今後の研究の進展を図る。

[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 08時25分38秒 ) パスワード

太田 道灌(おおた どうかん)


室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。

摂津源氏の流れを汲む太田氏。
諱は資長(すけなが)。

太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。
江戸城を築城したことで有名である。


     ややこしいから略


道灌暗殺事件

文明18年7月26日(1486年8月25日)、扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、道灌はここで暗殺された。

享年55。法名は、大慈寺殿心円道灌大居士、また香月院殿春苑静勝道灌大居士。



『太田資武状』によると、道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、斬り倒された。

死に際に「当方滅亡」と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である。



道灌暗殺の遂行にあたっては、力が強くなりすぎた道灌が下克上で自身にとって代わりかねないと恐れた扇谷定正が自発的に暗殺したとも、扇谷家の力を弱めるための山内顕定の画策に扇谷定正が乗ってしまったとも言われる。『上杉定正消息』の中で扇谷定正は、道灌が家政を独占したために家中に不満が起こっており、また道灌が山内顕定に謀反を企てたために討ち果たしたと述べている。また、雑説だが江戸時代の『岩槻巷談』に道灌暗殺は北条早雲の陰謀であるとの話が残っている。
  
        ということは容疑者が多過ぎる
        関係者全員に容疑の可能性がある?


道灌暗殺により、道灌の子・資康は勿論、扇谷上杉家に付いていた国人や地侍の多くが山内家へ走った。


扇谷定正はたちまち苦境に陥ることになり、翌長享元年(1487年)山内顕定と扇谷定正は決裂し、
両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げることになった。

やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して、後北条氏が台頭。


早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになり、上杉の家系は駆逐される。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 08時28分09秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=zmLkAAAAQBAJ&pg=PT92&lpg=PT92&dq=%E5%B1%B1%E5%86%85%E9%A1%95%E5%AE%9A%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=GMqmLdwNPc&sig=SlzTfNKdVJcAZanDZKZgCKezqFI&hl=en&sa=X&ei=wblCVcC4J8nHogTY6oG4DQ&ved=0CD0Q6AEwAw#v=onepage&q=%E5%B1%B1%E5%86%85%E9%A1%95%E5%AE%9A%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


山内顕定が里見八犬伝に出ています。



      里見八犬伝とM家の関係は回り回ってあるのかも、ですね。
[70]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月01日 09時27分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史は人間関係なしではとらえられないということが、あを様のおかげで
ようやくわかってきました。一人の人間の行動の裏には、複数のあるいはた
くさんの人間がかかわっているということ。また過去の人間関係の因果関係
がからんでいるということ。

 徳川家康を考えるとき、その政策決定は単独で行われたのでなく、指南役
あるいは相談役としてのプレーンがいたということ。どこの殿さまもそうで
あったとは思います。
 家康の場合は、天海、本多正信、藤堂高虎、服部半蔵であるという説があ
りますが、この中で、本多正信がなぜそんなに力を持ったのかがよくわかり
ません。この点の情報を得たいと思っています。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 10時36分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


>本多正信がなぜそんなに力を持ったのかがよくわかりません。


息子はちょっと問題アリでしたが
父の正信はものすごく頭の切れる人物だったそうですよ。

    この人の前の頭の切れる人物は榊原康政ですが
    次のレスにコピペします。


本多正信・正純父子は江戸初期の陰謀の中心人物と言われていますね。
大久保家の天敵。


本多正純(子)
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%83%90%E3%82%AB%E6%AE%BF%E4%BC%9D%E8%AA%AC

1.家康・秀忠の謀臣として活躍したので、当然頭は良かったが、やりすぎて改易されるはめに。
   「秀才バカ」とはまさに彼のことであろう。

2.親父の正信が口を酸っぱくして、
   「謀臣はただでさえ人に嫌われるんだから、大きな封地なんか絶対貰うんじゃないぞ」
    と教え諭していたのに、宇都宮藩で15万石も貰ってしまって、案の定ヒンシュクを買った。
    「宇都宮釣り天井事件」は捏造だったようだが、
    その程度の罠を仕掛けられても仕方のない立場だということを理解していなかった。
    やはりバカである。

3.話の枝葉末節にこだわって、要点に目が行っていない逸話が複数残っている。
    やっぱり秀才バカ。




本多正信(父)  天文7年(1538年)〜 元和2年6月7日(1616年7月20日)

大久保忠世(1532年〜1594年) の世話になりながら大久保家を陥れた?
大久保長安事件:慶長18年(1613年)4月に起こった江戸時代初期の疑獄事件。


正信は(1563年)三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟と共に家康に敵対した。

そして一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕えた。
久秀には重用されたようであるが、やがて久秀のもとを去って諸国を流浪する。

流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではない。
有力説では加賀国に赴いて石山本願寺と連携し、織田信長と戦っていたともされている(『藩翰譜』)。

こうして諸国を流浪した末、旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願した。
やがて忠世の懸命のとりなしによって無事に徳川氏に帰参することとなった。


正信が実際に歴史の表舞台に立つのは、慶長3年(1598年)の秀吉死去の頃からである。
この頃から家康の参謀として大いに活躍するようになり、
家康が覇権奪取を行なう過程で行なわれた慶長4年(1599年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、
家康が行なった謀略の大半は、この正信の献策によるものであったと言われている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に従い、
信濃の上田城で真田昌幸の善戦及び川の増水に遭い、遅参している。

この時、正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、容れられなかったと言われている。


『大久保家留書』によると、関ヶ原の戦い以降の徳川家の軍議で、家康の後継者を巡って、
井伊直政は娘婿の松平忠吉を、
大久保忠隣は秀忠を支持することを表明した。

それに対して正信は長男の正純とともに結城秀康を支持することを表明したと伝わる。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 10時47分50秒 ) パスワード

榊原 康政

13歳の時、松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。

三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、
家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。

                     これが出世のきっかけとなったようですよ。



康政は兄・榊原清政を差し置き、榊原家の家督を相続しているが、
理由として、清政が謀反の疑いで切腹した家康の長男・松平信康の傅役であったことから、

                                   そうだったの

後悔の念で自ら隠居したためとも、清政が病弱であったため、度々康政が名代を務めることが多く、
それ故に康政が家督を継いだともいわれるが、未だ定かではない。


ちなみに家康が関東に移封された後、康政は度々清政を見舞っている。


永禄9年(1566年)、19歳で元服。

同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。

               この本多忠勝は武勇の人ですね。   
               武田軍の小杉左近から
               「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛された人。



以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍。


元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。

元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは家康撤退時に康政は浜松城に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった味方兵を呼び集めて夜を待ち、
一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させてから浜松城に入ったという。


天正3年(1575年)の長篠の戦いでは決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。


天正9年(1581年)の高天神城の戦いでは先陣を務めた。
翌天正10年(1582年)の本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行している。



本能寺の変後[編集]

天正12年(1584年)、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立し、
小牧・長久手の戦いに至る。

                    ここでも大活躍です


この合戦で秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、
森長可、池田恒興を討ち死にさせた。


また江戸時代に成立した『藩翰譜』によれば、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書き、
これに憤怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したという。

                     文章力も素晴らしかったそうです
                         


この後、二人は和解している。詳しくは人物・逸話を参照。


激怒した秀吉は康政の首に10万石の賞金をかけたと言われるが、
康政は羽黒の戦いでも戦功を挙げた。


もっともこれによって秀吉の注意を引き、家康と秀吉が和睦すると京都への使者に立てられる。
天正14年(1586年)11月、家康の上洛に随身し、家康は同月5日、正三位に昇叙し、
康政は同月9日、従五位下・式部大輔に叙任され、豊臣姓を下賜された[1]。


天正18年(1590年)、小田原征伐では徳川軍の先手を努めた。
同年、家康が関東に移封されると関東総奉行として本多正信らを監督し、江戸城の修築に務める傍ら、
上野国館林城(群馬県館林市)に入り、忠勝と並んで家臣中第2位の10万石を与えられる。

館林では堤防工事(利根川東遷工事の一環)や、街道整備などに力を注いだ。



江戸時代期[編集]

慶長4年(1599年)頃、石田三成が伏見館の家康を襲って誅殺しようとしているという動きがあったといわれ、
康政は情報を得てすぐに家康の元に馳せ参じ、守ったという。


この時、すぐには伏見館に入らず、東国から押し寄せた家康を守る兵の数を少しでも多く見せようと考え、関所を設けて人々の往来を制限。

それと共に兵を京、伏見、淀に送って、「今家康の兵十万が東国より来て陣を取っており、兵糧を買いつけたい」と言って、
兵糧として赤飯、饅頭、餅、酒を一つ残らず買い取ると触れ回ったという[2]。


慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、中山道を辿り美濃国を目指すが、
荒天で家康からの進発命令を携えた使者が遅れ、信濃国上田城(長野県上田市)の真田昌幸攻めを中止し、
美濃に向かったもののやはり荒天で、秀忠とともに合戦に遅参する(上田合戦)。


『藩翰譜』によれば、家康は秀忠の失態に激怒したが、
康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許され、
秀忠は康政に大変感謝したと言われる。

                     感謝したのは家康も同じ。

                     許し時を榊原康政に作ってもらったのだから。




また、康政は秀忠に対して上田城攻撃を止めるように進言したとも言われている。


関ヶ原の合戦の後に老中となるが、所領の加増は無かった。
家康が冷徹であったとする根拠の1つとして、
武功派家臣で、大きな失態のなかった康政を躊躇なく遠ざけたことを挙げることもあり、
康政らはこれに憤慨していたという説もある[3]。

別に、康政が本多正信が既に老中首座となっていたため、
「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言い、
自ら離れていったとする説もある[4]。


                         本多正信を嫌いだったのかも、ですね。



一説には家康から水戸に加増転封を打診されたが、
関ヶ原での戦功がないこと、館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に断ったのだとも言われる。


家康は康政の態度に感銘して、康政に借りがあることを神に誓い証文として与えた。


慶長11年(1606年)5月14日に館林にて死去。

康政に恩ある秀忠は病床にある康政を見舞うため、医師や家臣を派したが、その甲斐なく59歳で没した。

長男の忠政は母方の大須賀家を継ぎ、次男の忠長は夭折していたことから家督は3男の康勝が継いだ。

大正4年(1915年)11月9日、贈正四位。



功績[編集]


『武備神木抄』では、
康政は武勇では忠勝に劣るが、
部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り井伊直政に匹敵するとされている。

同書では「衆(部隊)をよく使い、軍慮見切り等は忠勝、両将(康政・直政)におよばず」と記されている。


姉川の戦いの時、第二陣に属し、この時、隊を真一文字に進ませ、登り難い岸を声を掛け合って押しあがれと指示。

酒井忠次隊を追い抜かんばかりで、先鋒だった忠次隊も慌てて功を競ったという。

この戦いで康政は家康に、「この手の戦い方は、この度の康政が手本なり」といわしめたとされる[2]。


秀吉の死後、家康の命令で徳川軍を率いて近江国の瀬田まで進軍した。
これは示威行動であるが、実際の兵力は3,000人ほどだった。
ところが康政は瀬田に関所を設けて人留めを行なうことで、諸大名に大軍を率いているように見せつけさせたとされている[5]。


三河大樹寺で学んだ能筆家としても知られ、行政能力に長けており、家康の書状もよく代筆したとされる。


小牧・長久手の戦いの際に前年に信長の3男・信孝を殺害したという秀吉非難の文言も、達筆な文字であちこちに記された[6]。
以下略
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 10時52分55秒 ) パスワード

やっぱり良い友というのは持っていないと大成しないですね。
いろいろな人材を持っていないとね。
人付き合いが良いというのは大切な徳だと思います。


    ボス2人の権力争いに日和ってたら
    両方から敵と見做されて大変な目に遭ったことがあります。

    情報収集は大切です。

    孤高の人を気取ってたり高見の見物をやってるとうっちゃられます。



そろそろ  XXXVII  37を御用意くださいね。
[74]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月01日 14時24分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 榊原康政に強く引かれるものがあります。私の近所にも榊原さんがおりま
すが、偶然でしょうか・・・ひょっとして・・・。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 15時02分56秒 ) パスワード

榊原さんって多いですよね。
名古屋も多いです。

源氏系で家紋は源氏車ですね。


榊原氏の前は足利系の仁田氏だそうで
仁田氏の家紋は足利の2つ引両
つまり「お釜の蓋」  J  こっち。
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