[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 14時48分14秒 ) | パスワード |
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チャレンジ『平家物語』
―超現代語訳―
横田河原の戦い
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 14時49分07秒 ) | パスワード |
城方本
<巻六 横田河原合戦>
そうしているうちに、越後国の住人、城四郎助茂は、兄助長が逝去したので長茂と改名し、兄の鬱憤を晴らすために、木曽を追討しようと、今度は越後だけを召集したところ、合わせてその軍勢は二万余騎。同九月一日に、越後の国府をたって信濃国へ越えて、横田川原に陣を取る。木曽もその軍勢は三千余騎。当国余田城を発って横田河原に押し寄せ、向こう岸に陣を取る。木曽がおっしゃったのは、「義仲の戦の吉例は七手に分けるもの」ということなので、まず今井四郎兼平に五百余騎を与えて横田河に打ち入れて渡らせた。残る六手もそれぞれいた場所からどんどん入って渡ったのを、平家は運が尽きたんでしょうかね。これを大軍勢と見てしまった。まず城四郎が先陣におられる。会津の乗丹坊が討たれてしまった。城四郎は木曽にこっぴどく攻められて、群がってひかえていた(よく分からん)。木曽は勝ちに乗じてますます攻めたので、城四郎の軍勢は二万余騎とは見えるけれども、落ちたり討たれたり、孤立して拠り所がなくなってしまった。城四郎はただ一騎になって、「叶わなんな」と思ったのだろうか。横田河に飛び込み水底をくぐって越後境へ落ちていった。城四郎は早馬を発てて、都へこの状況を申したが、平家はあまりのことだったからだろうか、それほど騒ぐ様子もおありにならない。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 14時49分56秒 ) | パスワード |
屋代本
<巻六 城四郎与木曽義仲於信濃国横田河原合戦事>
越後国住人の城太郎助長は、当国守に任じられて、朝恩の忝なさに、木曽追討のため、舎弟四郎助持を一緒に連れて、二万余騎で、六月十五日の卯の刻(AM6:00)に、館を出ようとする。その夜半計りに不思議な事があって、雲居に嗄れた声が大きくなって、「平家の味方の城太郎」と三度叫んで通った。城太郎は身の毛がよだったけれども、朝恩の忝なさといい、弓矢取る身でそれに影響されちゃいかん」と出立した。館を出て、十余町行っただろうか、黒雲が一群覆ったかと見えた。城太郎は俄に身がすくみ、気が朦朧として、前後不覚になってしまった。仕方がないのでここから館へ引き返し、伏せることが6時間あって、とうとう死んでしまった。この旨を都へ早馬を発てて申したので、平家はビックリ仰天した。
同七月十四日、改元があって養和と号する。
<省略>
同十八日、二十二社の官弊があった。同五月二十七日、改元があって寿永と号する。同八月十五日、越後国住人の城四郎助持は越後守に任じられ、兄助長逝去のことは不吉であると、助持を長持と改名した。越後・会津の兵達をかき集めて、合計その軍勢は二万余騎。九月十一日、信濃国へ発向する。
木曽はこれを聞いて三千余騎で与田城を発って、同国横田河へ向かう。同二十二日午の刻(正午)に、横田河で源平が矢合わせをする。木曽は無勢だったので、井上九郎光盛に言い合わせて、謀略で三千余騎を七手に分けた。ジモティなので、あっちの洞、こっちの谷に搦手を差し廻し、旗をさっと差し上げて、一度に鬨の声をドッと作る。城四郎は大勢だと思って慌てふためくところに、一陣に差し向けた会津の乗湛坊が討たれた。これを始めとして、兵達は散々に駆け散らされ、城四郎は何とか命を長らえて越後国へ退却する。この旨を早馬を発てて都へ申したが、平家はさほどには騒がない。
同十月三日、前右大将宗盛は大納言に返り咲いて、同七日、内大臣に任じられ、すぐに兵杖(護衛兵)を賜った。同十三日、参内して悦びを申し上げた。当家・他家・公卿十三人が付き従った。蔵人頭以下、殿上人十六人が先駆けをする。我劣らずと面々にきらめきなさった儀式の有様は華やかであることだ。東国・北国の源氏達は、蜂の如くに起こり合い、すでに都へ攻め入るというのに、波の立つやら風が吹くやらも素知らぬ様子で、華やかな様子なのは、言う甲斐もなく見受けられる。そうしているうちに寿永二年になった。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 14時56分02秒 ) | パスワード |
源平盛衰記
<巻第二十七 信濃横田川原軍の事>
越後国住人で城太郎平資職という者がいる。後に資永と改名する。これは与五将軍維茂の四代の後胤、奥山太郎永家の孫、城鬼九郎資国の子である。国中の者共を従えて大軍勢なので、木曽冠者義仲追討のために、同じく院庁下し文があった。
同(治承五年)六月二十五日、資永は御下文の趣旨のままに越後、出羽の両国の兵を召集すると触れたので、信濃国の住人であっても源氏に背く者は、越後へ越えて資永に付く。その軍勢は六万余騎である。同国住人の小沢左衛門尉景俊を先陣として信濃へ越えたが、六万余騎を三手に分けた。
筑摩越には、浜小平太、橋田太郎を大将軍として一万余騎を派遣する。上田越には、津波田庄司大夫宗親を大将軍として一万余騎を派遣する。資永は四万余騎を連れて、今日は越後の国府に着き、明日、当国と信濃の境にある関山を越そうとしている。先陣争いをしている者達は、勝湛房の子息で、藤新大夫、奥山権守、その子の横新大夫、伴藤別当、家子は、立川承賀将軍三郎、信濃武者は、笠原平五、その甥で平四郎、星名権八等を始めとして、五百余騎が参加した。
信濃国へ越えて筑摩河の端の横田川原に陣をとる。城太郎資永は前後の軍勢を見渡して、うぬぼれ心が出てきて、「とっとと軍勢を召集して、木曽に目に物見せてやりたいぜ」と、大声で騒いでいる。木曽は、落合五郎兼行、塩田八郎高光、望月太郎、同次郎、八島四郎行忠、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、楯六郎親忠、高梨、根井、大室、小室を先陣として、信濃、上野の両国の軍勢を呼び集め、二千余騎を連れて白鳥川原に陣を取る。
楯六郎親忠は馬から下りて、兜を脱ぎ、弓を脇に挟んで木曽の前で畏れながらと申し出たことは、「親忠がまず横田川原に向かって敵の軍勢を見て参りましょう」と申す。「んじゃよろしく」と許可が出た。
親忠は乗り替え馬だけを連れて、白鳥川原を出て塩尻方面に行って見渡すと、横田、篠野井、石川方面に火をかけて焼払ってて、戦場での戦いのために城四郎がやらかした事と思われた。親忠は大法堂の前で馬がら下り、兜を脱いで八幡社を伏し拝み、「南無八幡大菩薩は、我が君の先祖が崇めた霊神である。願わくば木曽殿の、今度の戦に勝利を与えたまえ。お礼として六十六箇国に六十六箇所の八幡社領を建てて、大宮に御神楽、若宮に仁王講、蜂児の御前に左右に八人ずつの神楽女、同じく神楽男を置いて、怠ることなく神事を勤めさせましょう」と祈念した。
乗り換え馬を使って木曽殿に「城太郎は所々に火を放って、横田、篠野井、石川周辺を焼払ってます。これじゃ八幡の御宝殿もいかがなもんかと危なく感じるので、急いでこっちに来てください」と申した。木曽はダッシュで夜通し走って大法堂に駆けつけて、兜を脱ぎ、腰をかがめて八幡社を伏し拝み、あれこれ願を立てられた。
夜が明けると朝日が満遍なくさして、鎧の袖を照らした。義仲は遙拝して「未来永劫、義仲が日本国を統治するための戦の結縁の日にしてください。今日は八幡大菩薩と結ばせてくれた吉兆の日だ」と奮い立った。
養和元年六月十四日のAM8時くらいのひと時である。源氏方から進む者は、上野国は、那和太郎、物井五郎、小角六郎、西七郎、信濃国は、根井小弥太、その子楯六郎親忠、八島四郎行忠、落合五郎兼行、根津泰平の子息、根津次郎貞行、同三郎信貞、海野弥平四郎行弘、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎石突次郎、平原次郎景能、諏訪上宮は、諏方次郎、千野太郎、下宮は、手塚別当、同太郎、木曾党は、中三権頭兼遠の子息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、与次、与三、木曾中太、弥中太、検非違所八郎、東十郎進士禅師、金剛禅師を始めとして、郎等や乗替馬の者は数知れず。
主だった兵百騎が轡を並べて、一騎も前に出ず、一騎も遅れず、筑摩河をさっと渡して、西の河原に北へ向けてかけたのだった。城太郎の四万余騎は、入れ替え入れ替え戦ったけれども、百騎の軍勢に攻め立てられて、二度、三度まで引き退いた。
百騎の者達は、馬も人も休めようと、河を渡って本陣に帰った。
城太郎はヤバイと思って、信濃国住人笠原平五頼直という者を招いて「僅かの軍勢に大軍勢が三度もかけ散らかされたなんて面目ない。当国ではあなたをすんごく頼みにしています。河を渡って、敵陣を蹴散らして、恥を雪いでください。平家の目にとまるでしょう」と申したので、笠原は鐙踏ん張り弓杖を突いて、
「越後・信濃ご近所なので、人づてにも聞いているでしょ。頼直は今年五十三歳、合戦する事は二十六度、未だ不覚の名を取ってないよ。但し、年齢的に盛りを過ぎちゃったから、力と精神とがどうもね−。今ここで仰せを受けるのは面目が立つよ。今日の先陣で平家に注目されちゃお」と、自分の軍勢三百余騎の中で役立つ兵を八十五騎選りすぐって、太く高く、機敏な名馬も選んで乗り、筑摩河をさっと渡て名乗りをあげた。
「当国の人々、或いは縁者、或いは親類で知らない人はよもやおられまい。上野国の殿原はめったに会わないけど、さすがに噂には聞いてますよね。昔は信濃国住人、今はプータローの笠原平五頼直という者である。信濃・上野で我こそはと思う人々は、押し並べて組もう組もう」と言いながら、敵陣を睨んだ。上野国住人の高山党は三百余騎で叫んでかかる。笠原は八十余騎で三百余騎を蹴散らそうと、中に分け入って脇目もふらず散々に戦う。
高山は大勢で小勢を取り囲み、一人も打ち漏らさないように、辺りを廻って隙を与えずに戦った。懸けては引き、引いては懸け、寄せては返し、返しては寄せ、入れては組み、入れては替えて戦う有様は、胡国人の虎狩り、波羅奈国の縛多王の鬼退治みたいだった。または、旋毛が木の葉を吹き廻すのににていた。そう時間が立ったと思われないうちに、高山党の三百余騎は、九十三騎までに討たれてしまった。
笠原の八十五騎は四十二騎となった。両方とも本陣に引き退く。源平は互いに感動しないものはなかった。中でも笠原は、城太郎の前に進み出て、「戦の先陣はいかが御覧になりましたか?」と言ったので、資永は、「前々からの自慢、今の振る舞い、本当に一人当千である」と感嘆した。
上野国住人西七郎広助は、緋縅の鎧に白星の兜を着して、白葦毛で太く逞しい馬に、白覆輪の鞍を置いて乗っていた。同国高山の者達が、笠原平五に多く討たれた事をよろしくないと思って、五十騎の軍勢で河を渡ってひかえていた。敵の陣から十三騎が進み出た。大将軍は赤地の錦の鎧直垂に、黒糸威の鎧に鍬形を打った兜を着けて、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗っていた。
馬の持ち主は誰だか分からないが、良い敵だと思ったので、西七郎は二段ばかり歩み寄り、「おぬしは誰だ」「信濃国住人富部三郎家俊。問うのは誰だ」「上野国住人七郎広助。噂にも聞いていよう、御覧あれ。昔、朱雀院の御宇、承平に将門を討って勧賞を賜った俵藤太秀郷の八代の末葉、高山党の西七郎広助とは私の事だ。家俊ならば、引き退け。
(私には)合わない敵である」と嫌がった。富部三郎が申したのは、「あんたは戦いがあるたんびに、先祖自慢の氏文を読もうと思ってんの?家俊の祖父下総左衛門大夫正弘は、鳥羽院の北面の武士だよ。子息の左衛門大夫家弘は、保元の乱で、讃岐院の召されて仙洞御所を守護いたした。但し、味方の軍が負けて父正弘は陸奥国へ流され、子息家弘は討たれちゃったけど、源平の勇士の数には洩れてない。
正弘の子に布施三郎惟俊、その子が富部三郎家俊である。合うか合わないか組んでみやがれ」と、十三騎は轡を並べて叫んで駆ける。十三騎と五十騎が散々に乱戦たので、富部の十三騎は四騎討たれて九騎になる。西七郎の五十騎は、退いたり討たれたりして十五騎になる。大将軍は互いに「組もう、組もう」と寄り合ったが、家の子・郎等が押し隔て押し隔てして妨害するので、共に隙がない。
そうしているうちに、仲間達が敵の首を取って下人に持たせ、手に提げてるのを見て、我も我も分捕ろうと寄せ合い寄せ合い戦った。戦に隙はない。両方の旗差しは射殺され、斬り殺されちゃった。主君の行方が分からない。その間に、西七郎と富部三郎が寄り合わせて、引っ組んでどっと落ちて、上になり下になり、左へ転がり右へ転がって、ぜんぜん勝負がつかない。富部三郎は笠原の八十五騎の軍勢と戦ってくたびれたので、とうとう西七郎に討たれてしまった。
ここに、富部の郎等で、杵淵小源太重光という者がいる。この間、主君に勘当されてついて来られなかったので、城太郎にお呼ばれされて、主君は越後へ行っちゃったけど、杵淵は信濃にいた。なので、十三騎にも連れてこられなかったが、主君の富部が城四郎の味方になって戦をなさっていると聞き、野次馬としてでも主君の有様を拝見し、また、良い敵を討ち取って勘当を許してもらおうと思って、辺りをうろついて見回したが、主君の旗が見えなかったので、とっても不安になって陣をぐるぐる廻り、知り合いに尋ねると、「西七郎と戦っておられたが、旗差は討ち殺されて、富部殿もお討たれになったと聞いた。鎧も馬も印しがあるだろう。戦場をご覧なさい」と言う。杵淵小源太は、「ああ、なんてこったい」と駆けまわって見ると、馬はほったらかしで主がいない。
首は取られて敵の鞍の取付にある。杵淵はこれを見て歩み寄り、「あれにおられるのは、上野の西七郎殿とお見受けするのは間違いか。これは富部殿の郎等で、杵淵小源太重光と申す者であります。戦の前に、大事なお使いに出ていたのだが、遅れて帰参いたして、御返事を申していないので、御首に最後の御返事を申したい」と進んだので、「新手のヤツには叶わん」と思って、鞭を打って逃げていっちゃった。
「みっともないぞ、七郎殿。目の当たりにした主君の敵を逃がすかいな。七郎殿」と追って行く。七郎は我が身も馬も弱っていた。杵淵は馬も我が身も疲れてないので、二段計り前を進んで逃げたけれども、六、七段の所で追いつめられて、引っ組んでどっと落ちる。重光は大力の剛の者である。西七郎を取り押さえて首を掻く。
杵淵は主君の首を敵の取付から切り落とし、七郎の首と並べて置いて泣く泣く言ったのは、「自分に誤りがないとはいっても、人の讒言によって御勘当、言い訳も聞いてくださらなかった。また、新たに他の主君に仕えて新参者と言われる事も口惜しくて、そうして過ごしておりましたが、この度戦と承ったので、良い敵を討ち取ってお目に入れ、御不審を晴らそうと思っておりましたのに、遅参いたして、先立たれましたこと、嘆かわしく思います。
そうじゃなけれは、この様子を御覧になって、どれほど御喜びなされたでしょうにと後悔しても、今はどうにもならない。そう言いながらも敵の首は取った。安心して冥途に旅立ってください。戦場で告知することがあります。すぐに御供します」と言って馬に乗り、二つの首を左手に差し上げ、右の手に太刀を抜き持って、大声で「敵も味方もこれを見よ。西七郎の手にかかって主君の富部殿がお討たれになった、郎等の杵淵小源太重光、主君の仇をこのように討ったぞ!」と叫んだ。
西七郎の郎等は轡を返して三十七騎が叫びながら駆けてきた。重光は「願ってもないぞ、お前等」と、只一騎で敵の中に突入して、誰でもかまわず斬り廻った。敵十余騎を斬り落とし、我が身もあちこち負傷したので、「今はもうムリ」と思って、「主君のお供に、剛の者が自害するのをご覧あれ」と、七郎の首を投げ捨てて、依然として富部三郎の首を抱き、太刀を口に含んで、馬から大地に飛び降りて、(太刀に)貫かれて死んじゃった。
敵も味方も惜しまない者はいなかった。両軍は戦いにくたびれて、暫くお互いに休憩した。
木曽は謀略を構えた。信濃源氏に井上九郎光基という者を招いて、「このような騎馬戦は軍勢に左右されることなんだけど、味方の軍勢は少ない。どうにも軍兵の数が尽きたと思われる。なので、敵をだまくらかして落としたいんだけど、あなたは赤旗・赤符を付けて、城太郎の陣に向かってほしい。そうすれば、敵は味方の軍勢が増えたと思って、新手の武者を差し向けて戦えと言って休憩するだろう。
その間に白旗・白符と取り替えて駆けてくだされば、義仲は河を渡って北南から挟み撃ちにして駆ければ、どうして追い落とせないことがあるかいな」と言ったので、「そりゃそうだ」ってことで、井上九郎光基は、星名党を連れて三百余騎で、赤旗を急いで作り出し、赤符を白符の上に隠し付けて、木曽の陣を引き下って、こそこそと筑摩河を渡って城太郎の陣に向かう。案の定、城太郎は「味方の軍勢が付いた。
余勢がきっと遅れてやってきたのだろう」と使者を立てて「只今参ったのは誰かいな。返す返すも神妙だ。味方の軍兵はくたびれてる。河を渡って敵の陣に向かってね」と言ったので、光基は馬の鼻を引き返すように赤符をかなぐり捨てて、白旗をさっと差し上げて、また馬の鼻を引き向けて「信濃国住人、井上九郎光基」と名乗って叫んで駆けるところに、木曽も討ち洩らされた軍勢一千五百余騎で、河をさっと渡して声を合わせて、北から南からおしくらまんじゅうのようにどんどん押し合って攻めたてた。
城太郎の兵は、戦に疲れていたので、今来た軍勢にバトンタッチして、物具をゆるめて休もうとしていたところに、突然上下から攻められたので、甲冑を捨てて逃げる者もおり、親子かまわす落ちる者もいる。山で袋小路になったり、水に攻め入られたり、こっちでは討ち殺され、あっちでは斬り殺され、落ちたり討たれたりしているうちに、城太郎資永は、僅かに三百余騎で、越後の国府に引き退いて一息いれた。
当国の住人も悉く木曽に付き従ったので、資永は国中でのんびりしていられなくて、出羽国へ越えて金沢という所にいると風聞があったので、木曽は関山を固めて、しはらく越後の国府に留まった。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 14時59分04秒 ) | パスワード |
延慶本
<巻三本 秀衡資長等に源氏追討すべき由の事>
十九日、越後城太郎資長という者がいた。これは余五将軍維茂の後胤で、奥山太郎永家の孫、城鬼九郎資国の子である。国中には争う者がいなかったので、国境の外の者も背かなかった。また、陸奥郡に藤原秀衡という者がいた。彼は武藏守秀郷の末裔で、修理権大夫経清の子である。出羽・陸奥両国を管領して肩を並べる者がなかったので、隣国の者までも靡いていた。この二人に仰せつけて、頼朝・義仲を追討せよとの宣旨を申し下される。
去年十二月二十五日の除目の聞書が、今年二月二十三日到来、資長は当国の守に任じられる。資長は朝恩の忝なさを喜んで、義仲追討のために、同二十四日の暁に、五千余騎で出立したところ、雲の上中に声がして、「日本第一の大伽藍、聖武天皇の御願である東大寺の盧遮那仏を焼いた太政入道の味方をする者は、只今召し捕ってやるぞ」とののしる声がした。これを聞いた時から城太郎は中風にあい、全身がすくみ、手もまったく動かないので、思う事を手紙に書けず、舌がふるわないので、思う事を言えず、男子三人、女子一人の子がいたが、遺言するにもおよばず、その日の酉の刻(PM6:00)に死んでしまった。恐ろしいとしか言いようがない。同弟次郎資盛(すけもちと間違えてますね〜)、後には城四郎長茂と改名する。春の内は兄の孝養をして、本懐を遂げようと思っていた。秀衡は、頼朝の弟の九郎義経が、去る承安元年の春の頃から頼って来たのを養育して、去る冬に頼朝の許へ送り遣わしたので、多年のよしみを無にして、今宣旨だからといって敵対することはないと、承諾しなかった。
<巻三本 城四郎と木曽と合戦の事>
そうしているうちに、城四郎長茂は、当国二十四郡出羽まで召集して、敵に軍勢が増えたことを聞かせようと雑人も混ぜて馳せ集めて六万余騎と数えた。信濃へ越えるとして出立したが、「先業限り有り、明日を期すべからず」と呼ぶ声がして、雲の中へ入ってしまった。人々の多くはこれを聞かなかったけれども、長茂は即座に間を置かず出発し、六万余騎を三手に分ける。千隈(筑摩)越えには浜の小平太を大将として一万余騎を差し遣わす。殖田(上田)越えには津帳(張)庄司大夫宗親を大将として一万余騎を差し遣わす。大手には城四郎長茂が大将として、四万余騎を引率して越後の国府に着いた。明日信濃へ越えようとしているところに、先陣争いは誰々だ、笠原平五、尾津平四郎、富部の三郎、閑妻の六郎、風間の橘五、家子には、立河次郎、渋川三郎、久志太郎、冠者将軍、郎等には会津の乗湛坊、其の子平新大夫、奥山権守、子息藤新大夫、坂東別当、黒別当等、我も我もと争ったので、城四郎は「味方を討たせまい」と、いずれもゼッタイ許さんてことで、四万余騎を連れて熊坂を過ぎて、信濃国千隈河横田川原に陣を取る。
木曽はこれを聞いて兵をお呼びになり、信濃・上野両国から参上するといっても、その軍勢は二千騎に過ぎなかった。当国白鳥河原に陣を取る。楯六郎が申したのは、「親忠が馳せ向かって、敵の軍勢を見てまいりましょう」と、乗替馬一騎を連れて、塩尻という所に駆けつけて見ると、敵は横田川原の石川方面へ火をかけて焼払う。是を見て大本堂に駆け寄って馬から下り、八幡宮を伏し拝んで、「南無帰命頂礼、八幡大菩薩、今度の合戦に木曽殿が勝利なさったら、十六人の八人女、八人の神子男と所領を寄進しましょう」とお祈りした。親忠は帰ってきて「こうこう」と申すと、敵に八幡を焼かせる前に討てや、者ども」と、引っ懸け引っ懸け夜明けに本堂に駆けつけて、願書を八幡に納めて出立すると、先陣争いする連中は誰々だ。上野には木角六郎、佐井七郎、瀬下四郎、桃井の五郎、信濃には根津次郎、同三郎、海野弥平四郎、小室太郎、注同次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、櫻井太郎、同次郎、野澤太郎、臼田太郎、平澤次郎、千野太郎、諏訪二郎、手塚別当、手塚太郎等が争った。木曽は人々の恨みを負わないようにと下知したのは、「郎等、乗替を連れてはいけない。宗徒の者達が駈けろ」と言うと、「その案はもっともだ」と、百騎の軍勢が轡を並べて一騎も下がらず、千隈河をさっと渡す。
敵の陣を南から北へはたっと駆け破って、後へつっと通った。また引き返して南へ駆け通った。城四郎は十文字に駆け破られて申したことには、「この程度の小勢に二度まで容易く破られたとあっては、今度の戦はどうなることか」と懸念して、笠原平五を招いて、「無勢に容易く駆けられちゃいました。ここを駆けてくださいな」と申したので、笠原平五が申したのは、「頼真は今年五十三(歳)になりました。大小の合戦に二十六度あったけど、一度も不覚はしていません。ここを駆けて御覧にいれましょう」と、百騎ばかりの軍勢を連れて、風の間をさっと渡って名乗ったのは、「当国の人々、あるいは知人・友人で知らない者は少ない。他国のみなさんは噂に聞いているでしょう。笠原頼真は良い敵だそ。討ち取って木曽殿にお目にかけたらどーお?み・な・さ・ま☆(なんて雰囲気ではないんだろうけど)」と叫んで駆け出る。
是を聞いて、高山の人々が三百騎で駆けて出て、笠原軍の中へ駆け行って散々に戦った。両方の兵はめを見張る。しばらくガンバって東西へさっと引き退いた。高山の三百余騎の軍勢は五十騎にまで攻められた。笠原の百騎の軍勢は五十七騎が討たれて、残り四十三騎になった。大将軍の前で兜を取って馬から下り、「合戦の様子はどのように御覧になりましたか?」と申すと、城四郎はこれに感じ入って、「あなたの高名は今に始まったことではないが、かえって他の人なら誉めるところがいくらでもあるのですがねえ」と言われて、誉める事以上の言葉なので、すがすがしい気分だった。
木曽の手勢は高山の者どもが残り少なく討たれて、ちょっとヤバイと思っているところに、佐井七郎が五十余騎で千隈河を駆け渡る。緋縅の鎧に白星の兜の緒を締めて、紅の母衣をかけて、白葦毛の馬に、白覆輪の鞍を置いて乗っていた。これを見て城四郎の方から、富部三郎が十三騎で歩き出した。富部は赤皮威の鎧に鍬形の兜の緒を締めて、母衣はかけなかった。連銭葦毛の馬に黄覆輪の鞍を置いて乗っていた。互いに左手をかわして、「信濃国の住人、富部三郎家俊」と名乗るのを、佐井七郎はキッと睨んで、「さては、おぬしは弘資には釣り合わない敵でござるな。聞いているだろうものを。承平の将門討って名をあげた俵藤太秀郷の八代の末裔、上野国佐井七郎弘資」と名乗ったので、富部三郎はすぐに、「おぬしはアホか。何で氏文を読もうと思ったのかな。家俊の家柄を何で嫌うの?ここで名乗らないのは、富部三郎はどんなレベルの者で、横田の合戦で佐井七郎に嫌われて名乗り返さないでいるんだ」と人に言われちゃう。おぬし、ちゃんんと聞いとけ。鳥羽院の御時、北面に伺候していた下野右衛門大夫正弘の嫡子、左衛門大夫家弘とうのが、保元合戦の時に、新院の味方に付いて合戦いたしたが故に、奥州へ流された。その子夫瀬三郎家光、その子に富部三郎家俊として源平の末席に連なるけど嫌われてない。おぬしの方こそ嫌っていたよ。とんでもないこと言いやがる男だな」と言い終わらないうちに、十三騎の轡を並べて五十騎の中を駆け割って、後ろへすっと通っていった。また戻ってきて、縦横に散々駆けた。佐井七郎は脇目もふらず戦った。佐井七郎の五十騎も十三騎は討たれた。富部の十三騎も四騎になってしまった。佐井は敵を嫌って引いたら人に笑われると思って退かない。富部は敵に嫌われて不愉快に思って、両方の郎等は討たれたけれども、互いに目を合わせて左手と左手とに差し向かって、組もう組もうをするけれど、両方押し合いへし合い戦っているうちに、あちこちの旗差に討たれてしまった。何も考えずに大将軍と組んで落ちたのも知らなかった。富部三郎は笠原平五の手勢で、戦い疲れていた上、軽傷で多く手傷を負ったので、佐井七郎に首を取られた。佐井七郎はこの首を高らかに差し上げて、「富部三郎の首を討ち取ったぞ」と言って引き退く。
富部三郎の郎等に杵淵小源太重光という生死不詳の兵がいる。杵淵小源太重光このところ主君に勘当されて、越後国へのお供もしなかったのであるが、「今度城四郎に付いていらっしゃるならば、良さげな敵を一騎討って、勘当を許してもらおう」と思い、待っていたのだが、合戦があると聞いて、急いでやって来て、「富部殿はどこですか」と問うと、「それなら、たった今佐井七郎と戦ってたよ」と教えたので、旗を上げて叫びながら馳せ行ってみると、敵も味方も死んて倒れている。旗差しも討たれている。我が主の馬と物具っぽいのを見つけて、そこへ馳せ寄って「上野の佐井七郎殿とお見受けいたす。富部殿の郎等、杵淵小源太重光と申す者です。合戦より前に、お使いに出ていて、戦いに外れておりました。その御返事を申したい。一方では、主君のお顔を今一度見せてください」と申したので、佐井七郎はこれを見て、新手の者に組まれてはかなわんぞと思ったのだろう、味方側へ鞭を当てて逃げていったのを、杵淵は一反計り先にいる敵を、五反の間に追い詰めて、押し並べてどっと落ちた。杵淵は有名な大力の持ち主なので、佐井七郎を取り押さえて首を掻いて主君の首と並べて、「重光が参りましたぞ。生死は隔ててしまいましたが、魂魄という魂があるのだろうから、たしかにお聞きください。人の讒言によって勘当されましたが、お聞き直しなさることもあるだろうとお待ちしておりましたが、このようにお見届けすることの悲しさよ。重光がお供に従っていたら、御前で討たれましたのに、遅れてしまったことは口惜しくございます。御仇は討ちました。死出の山、三途の川も安心してお渡りください」と、二つの髻を結び合わせて左手に掲げ、右手には太刀を持って伝馬に乗って叫んで、「敵も味方もこれを御覧あれ。佐井七郎に富部三郎がお討たれになった。富部三郎の郎等の杵淵小源太重光が、主君の敵を討って出ていくのを留めなよ、お前ら」と行ったので、佐井七郎の家子郎等が三十騎で追いかけて、中に取り囲んで戦ったが、ものともせずに蹴破って、後ろへつっと出た。敵は続けて攻めたので、返しあわわせて戦う。敵を多く討ち取り、人手にかかるよりはと思ったのだろうか、太刀を朽ちにさしくわえて、逆さまに落ちて(太刀に)貫かれて死んでしまった。これを見て惜しまぬ人はいなかった。
城四郎は大軍勢であったが、皆寄せ集めの武者達なので、手勢の者は少なかった。木曽は僅かに無勢であったが、あるいは源氏の末裔、普段から従っていた郎等達なので、一味同心になって入れ替え入れ替え戦った。信濃国の源氏に井上九郎光盛といって勇猛な者がいる。ナイショで木曽に申したのは、「大手の方はお任せいたします。搦手においてはお任せください」と合図をすると、大本堂の前で急いで赤旗を造り、里品党三百余騎を先に立てて駆けて出ていったのを、木曽はこれをみて「?」と思い、「あれは何か」と言うと、「光盛の日頃の約束を違えることはいたしません。御覧になっていてください」と、隈河(「千」の脱字?)の端っこを、北東の方角に向かい、城四郎の後ろの陣へ歩ませた。木曽が命令したのは、「井上はもう駆け出ていった。搦手が渡り終わったら、義仲も渡り合わせて駆けて行くぞ。一騎も遅れるな、若党ども」と、甲の緒を締めて待つところに、城四郎は井上の赤旗を見つけて、搦手に遣わした津破庄司大夫家親の軍勢と軍勢と思い込んで、「こっちに来んな、新手ども。敵に向かえ、新手ども」と使者を立てて命令するが、聞えないふりをして堀を越す。敵陣の前に大きな堀がある。広さは二丈ほどである。光盛はゆっくりと堀を越す。向かいの端に飛び渡る。続いて渡る者もいる。堀の底に落ちる者もいる。光盛は越え終わると、赤旗をかなぐり捨てて、白旗を差し上げた。「伊予入道頼義の舎弟、をとはの三郎頼遠の子息、隠岐守光明の孫、やてはの次郎長光の末裔、信濃国住人井上九郎光盛。敵をこうしてダマクラかした」と、三百余騎が馬の鼻を並べて、北から南へ駆け通る。大手は木曽が二千餘騎で南から北へ駆け通る。搦手・大手が取り返し取り返し次々と駆けたので、城四郎の大軍は四方を覆い駆けられて、立ち会う者は討たれた。逃げる者は概ね河にはまってしまった。馬も人も水に溺れて死んでしまった。
大将軍城四郎と笠原平五は返し合わせて戦ったが、長茂は堪えかねて越後へ引き退く。河に流れる馬や人は、陸から落ちて行く人よりも、湊へ先に流れ出て行った。笠原平五は山にさしかかって、生き延びて申したのは、「現世や来世に伝えても伝えたくないものは、越後武者の味方になることである。今回大勢で木曽を生虜にするはずだったものを、逃げてしまった事は運の極みである」と出羽へ落ちて行った。
木曽が横田の合戦で斬り落とした首は五百人である。すぐに城四郎が跡目に付いて越後の国府につくと、国も者達は皆源氏に従った。城四郎は安心出来なかったので、会津で落ちた。北陸道七ヶ国の兵どもは木曽に付いて、従う者どもは誰々だ。越後国には、稲津新介、斎藤太、平泉寺の長吏斎明威儀師、加賀国には、林、富樫、井上、津端、能登国には、土閑のものども、越中国には、野尻、河上、石黒、宮崎、佐美太郎。これらは牒状を遣わして、「木曽殿は城四郎を追い落として、越後の国府について攻め上っていらっしゃる。さあ、志しある様にして、召集される前に参上しようよ」と言ったので、「問題ない」と続けて参上すると、木曽は喜んで、信濃馬を一匹づつお与えになった。てなわけで五万騎にはなった。「必ず平家の追討軍が下ってくるだろう。京に近い越前国に火燧城を造って籠城してください」ち命令しておいて、自分は信濃へ帰って横田城に居住した。
七月十四日に改元があった。養和元年と申した。八月三日、肥後守貞能は鎮西へ下向。太宰少弐大蔵種直に謀叛の噂があるので追討のためである。九日、官庁で大仁王会が行われた。承平の将門の乱逆の時、法性寺の座主が承って行ったということだ。その時朝綱の宰相が願文を書いて、霊験があったとか聞いたけれども、今度はそういった噂も聞こえない。
<巻三本 城四郎越後国国司に任る事>
二十五日、除目によって城四郎長茂、その国の守になる。同じく城太郎資永、去る二月二十五日に他界したので、長茂が国主を国主に任じる。奥州の住人、藤原秀衡はその国の守に赴任される。領国とも頼朝・義仲追討のためであると除目の聞書に記録された。越後国は木曽が押領して長茂を追討したので国務に及ぶことはなかった。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時00分41秒 ) | パスワード |
長門本
<巻十三 >
去る二月二十五日、城の四郎長茂、当国二十七郡出羽まで召集して、敵勢にかさ増しした数を聞かそうと、雑人込みでかり集めて、六万余騎と(交名を)記した。信濃の国へ越えようと出発した。「前世の行いには限りがある。明日に持ち越すな」と叫んで出立する。六万余騎を三手に分けて、築摩越えには浜小平太、伴太郎を大将軍として一万余騎を派遣し、植田越えには津張庄司大夫宗親に一万余騎を派遣し、大手は城四郎長茂が大将軍として、四万余騎の勢を引率して、越後国府に着いた。明日信濃へ越えようとするところに、先陣を争う者達はこいつらだ。笠原平五、その甥平四郎、富部三郎、閑妻六郎、風間橘五、家の子には三河次郎、渋谷三郎、庇野太郎、将軍三郎、郎等には相津乗湛房、その子平新大夫、奥山石見守、子息藤新大夫、坂東別当、里別当。我も我もと争ったので、城四郎は味方を討たせまいとして、誰も彼も争わないで、四万余騎を引率して、信濃国へ越えて築摩川横田庄に陣を取る。城四郎は、「ああ、急いで寄せて、噂に聞く木曽を見よう」と申した。木曽はこれを聞いて兵を召集すると、信濃・上野両国から走り参上する者、その勢は千騎にも過ぎなかった。当国の白鳥河原に陣を取る。
楯六郎は、「親忠に暇をくださいませんか。横田河原に向かって、城四郎の勢を見て参りましょう」と申した。「そりゃいいね」ということで、親忠を派遣する。親忠は乗り換え(馬)だけを連れて、白鳥河原を出て、塩尻方面へ歩ませて見渡すと、城四郎の方から、横田・篠野井、石河方面に火を懸けて焼き払い、親忠はこれを見て大本堂に走り寄せて、馬から降りて兜を脱ぎ、八幡宮を拝して、「南無帰命頂礼八幡大菩薩、この度の合戦に木曽殿が勝利なさったら、十六人の八乙女、八人の神楽男、同じく神領を寄進いたしましょう」と祈り申した。親忠は帰参して、しかじかと申したので、「八幡宮を焼かせぬうちに討てや者共」と、走って走って歩かせて(という訳でいいのだろうか?)、夜の暁に本堂に馳せ付いて、願書を八幡に納めて、すぐに出立すると、瀬下四郎、桃井五郎、信濃では木角六郎、佐井七郎、根津次郎、海野大平四郎、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎、野沢太郎、本沢次郎、千野太郎、諏訪次郎、平塚別当、手塚太郎が争った。木曽はみんなの恨みを買うまいと命令なさったのは、「郎等や乗り換え(馬)を連れてはならない。宗徒の者達、駆けろ」とおっしゃった。「この計略はもっともだ」として、百騎の勢が轡を並べて、一騎も下がらず築摩川をざっと渡す。敵の陣を南から北へぱっと駆け渡して、後ろへつっと通り、また引き返して南へ駆け通った。城四郎は、「十文字に駆け破られたのは口惜しい。今度の戦いはどうなることだろう」と危うく思い、笠原平五を招いて、「無勢に容易く破られたことこそ口惜しい。ここを駆けてください」と言ったので、笠原平五が言うには、「頼直は今年五十になりました。大小の合戦に二十六度合いましたが、不覚をしたことはありません。ここを駆けて見参に入れましょう」と、百騎計りの勢を引率して川をざっと渡って名乗るには、「当国の人々はよく知っていて見参しないものは少ない。他国の殿原も噂には聞いてるでしょ。笠原頼直は良い敵だぞ。討ち取って木曽殿の見参に入れろ」と呼ばわって駆け回る。これを聞いて上野国の高山(党)の人々三百余騎計りが駆けだして、笠原勢の中へ駆け入って散々に戦った。両方の兵達は目をこらす。しばらく耐えて東西へさっと引いて退却した。高山の三百余騎の勢は五十余騎に攻められ、笠原の百騎の勢は五十七騎討たれて、残る四十三騎になった。大将軍の前にのけ兜(兜が後ろにずれちゃう)になって、馬から降りて、「合戦の様子はどのように御覧になりましたか」と申すと、城四郎はこれに感じ入って、「あなたの高名は今に始まらないことです。何とも他の人なら嘆く所はいくらもございますけどね」などと言われて、褒めるに勝る言葉なので、清々しく思った。
木曽方には名の知れた者達が残り少なく討たれて、穏やかでない事と思っている所に、佐井七郎が五十余騎で築摩川をかけ渡る。緋威の鎧に白星の兜を着し、紅の母衣をかけて白葦毛の馬に、白覆輪の鞍を置いて乗っていた。これを見て城四郎方より富部三郎が十三騎で歩ませ出た。富部は赤革威の鎧に鍬形を打った兜の尾を締め、母衣はかけなかった。連銭蘆毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗っていた。互いに弓手(左手)にかけ合わせて、「信濃国の住人富部三郎家俊」と名乗るのを、佐井七郎は、はっと睨んで、「さてはあなたは弘資には似合わない敵ですね。お聞きになっているでしょうに。承平の将門を討って名を上げた俵藤太秀郷の八代の末、上野国の住人佐井七郎弘資」と名乗ったので、富部三郎は相手にならず、「おぬしはアホか。氏文を読もうと思ったのは、家俊の家柄をなんだと知って嫌うんだよ。今ここで名乗らなければ、富部三郎はどのような者であって、横田の戦に佐井七郎に嫌われて名乗り返さないでいるのだと、人にいわれるから名乗るからね。そなた、たしかに聞け。鳥羽院の上北面であった下野兵衛大夫正弘の嫡子左衛門大夫家弘といって、保元の合戦の時、新院の味方として合戦を仕り、それ故に奥州に流され、その子に富部三郎家俊といって、源平の末座に附しているが嫌わない。お前こそ嫌いたいよ。どうしょうもない男の言葉だな」と言い終わらずに十三騎、轡を並べて、佐井の五十騎の中を駆け破って、後ろへさっと抜けては又取り返して、前後左右に散々に駆ける。佐井は脇目も振らず戦った。佐井の五十騎は十三騎に討たれてしまった。富部の十三騎は四騎になる。佐井は、「敵を嫌ってここを引くと、人に笑われるだろう」と思って退かない。富部は嫌いだと言われた言葉を重く受け止め、佐井も富部も互いに目を掛けて、弓手と弓手とに差し向かって組もう組もうとしたけれども、家の子・郎等が押し隔て押し隔てしたので、組まなかった。両方ひしめいて戦ううちに、あっちこっちの旗差しも討たれてしまった。無意識に大将軍と組んで落ちたのかも分からない。富部三郎も疲れている上少ない兵が数多く討たれたので、佐井七郎に首を取られた。佐井七郎はこの首を高らかに指し上げて、「富部を討ったぞ」と、退却する。
富部の郎等に杵淵小源太重光という死生知らずの兵がいた。この程勘当されていて越後国のお供もしなかったのだが、「今回城四郎に付いていらっしゃるならは、良さげな敵一騎討ち取って、勘当を許されよう」と思っていたのだが、戦があると聞いて急いで馳せ来て、「富部殿はどちらに」と問うと、「あそこに只今佐井七郎と戦っている者こそそうだ」と教えたので、鞭を上げて叫んで馳せ向かって見ると、敵も味方も死んで伏している。旗差しも討たれて見えない。我が主の馬と武具とを見てそこへ馳せ寄って、「上野の佐井七郎殿と承っている。富部殿の郎等杵淵重光と申します。戦より先にお使いに行っていて戦に参加してなかったのです。その御返事を申し上げ、また、主君の御顔をも今一度拝見したいと思って参った。お持ちになっている御首に向かい申して御返事申そう」と言ったので、「新手の奴には叶わん」と思って、鞭を上げて逃げる。重光は馬も疲れず、佐井七郎は我が身も弱っていた。二反計り先を走っていたが、五、六反以内に追い詰めて、馳せ並べて引き組んでどっと落ちた。重光は有名な大力の剛の者だったので、佐井七郎を取り押さえて首を掻く。サラリと切れた。重光は鞍の取り付けに、我が主君の首が取り付けてあったのを切り落として、敵の首と並べて置いて、泣く泣く、「重光が参りましたよ。人の讒言によって、過ちの無い重光を勘当なさいましたけれども、お聞き直しされるだろう、新たな人に仕えて、今参りと言われますのは口惜しいことでございますので、この度の戦で良い敵を討ち取って御勘当を許されようと思っていたのに、このようにお見届けいたしますこそ悲しいものでございます。重光がおりましたなら(私が)先に討たれて、後からお討たれなさるべきなのに、遅く参上してお討たれなさったことが口惜しい。しかしながら御敵の佐井七郎の首はすぐに取りましたよ。死出の山を安らかにお越えください」と申して、二つの首を左右の手に指し上げて、「敵も味方もこれを御覧あれ。佐井七郎殿の手にかかって富部三郎殿はお討たれなさった。富部殿の郎等の杵淵小源太重光、主君の敵をこのように討ったそ」と申した。その時、佐井七郎の家の子・郎等三十七騎が叫んで駆ける。重光は二つの首を結び合わせて、取り付けに付けて馬にぱっと乗って太刀を抜き、中に駆け入って散々に戦い切り落としたのは、胡人の虎狩り、縛多王の鬼狩りかと思われた。敵二十余騎討ち取って後ろへさっと出た。追いつく者はなかった。その時重光は「敵も味方も御覧あれ。最後まで逃れるはずの身ではないので、主君の供をするぞ」と、太刀の先を口に含んで、逆さまに貫かれて死んでしまった。これを見て、惜しまぬ者はなかった。木曽はこれを見て、健気な奴だな。あれ程の者が五十騎あれば、一万騎の敵なりとも正面きって立ち向かえまい」とおっしゃった。
城四郎は多勢だったが、皆駆武者なので、配下の者は少ない。木曽は僅かの勢だったが、或いは源氏の末葉、或いは長年に渡ってて従っている郎等達なので、一味同心に入れ替え入れ替え戦った。信濃源氏に井上九郎光盛といって、殊に勇ましい兵がいた。内々木曽に申したのは、「大手においてはお任せいたします。搦手については光盛にお任せください」と、合図をすると、本堂の前で急きょ赤旗を作って、赤鈴を付けて、保科党三百余騎を引率して駆け出す。木曽はこれを見て怪しんで、「あれは何事だ」と問うと。「光盛は日頃の約束を違えるような者と御覧になりますか。ただ今御覧ください」と、築摩川の端を艮(北東)に向かって、城四郎の後陣へ歩ませた。木曽が命令することには、「井上ははや駆け出した。搦手を渡し終わったら、義仲と渡し合わせて駆けるぞ。一騎も遅れるな若党共」と、兜の尾を締めて待つとろこに、城四郎は井上の赤旗を見つけて、搦手に派遣した津破庄司宗親の勢と思って、「こちらには渡るな、敵は向かい側だ」と使者を立てて命令するところに、聞こえないふりをして築摩川をざっと渡して、敵陣の前にうち上る。その陣の前には大きな堀がある。広さ二丈計りである。光盛はゆっくりと堀を越す。向かいの端に飛び渡り、続いて渡る者もあり、堀の底に落ちる者もある。光盛は越え終わると、赤旗をかなぐり捨て、白旗をさっと揚げて、「伊予入道頼義舎弟乙葉三郎頼遠の子息、隠岐守光明孫浅羽の郎長光が末葉、信濃国住人井上九郎光盛、敵をこのように騙したぞ」と、三百余騎の馬の鼻を並べて、北から南へ駆け通る。大手の木曽は二千余騎で南より北へ駆け通る。搦手も大手も取って返し取って返し、七より八より(次々とって意味かな?)駆けたので、城四郎の大軍勢は四方へ駆け散らされて、群雲のように駆けられて、立ち合う者は討たれた。逃げる者はおおよそ川に駆け込んだ。馬も人も水に溺れて死んでしまった。大将軍城四郎と笠原平五は返し合わせて戦ったが、長茂は耐えかねて、越後へ退却する。川に流れる馬や人は、陸から逃げ落ちる人よりも先に湊へ流れ出た。笠原平五は山に掛かって、甲斐の無い命を生きて申したのは、「世々生々子々孫々に伝えても、頼ってはならないのは越後武者の仲間だ。この度の大軍勢であれば、木曽を生け捕りに出来たはずなのに、逃げたのは運の極み」と、出羽国へ落ちていった。
木曽は横田の戦で切り掛けた首は五百人である。すぐに城四郎の後がまとして、越後の国府に着いたので、国の者達は皆源氏に従った。城四郎は安堵しがたかったので、会津へ落ちた。北陸道七ヶ国の兵は皆木曽に付いて、従う簾中は誰だろな。越後国では稲津新介、斎藤太、平泉寺長吏斉明威儀師、加賀国では林、富樫、井上、津能、能登国では土田の者共、越中国では野尻、石黒、宮崎、佐美太郎等、これらは互いに手紙を遣わして、「木曽殿は城四郎をうち落として、越後の国府に着いて攻め上っていらっしゃるので、さあ志が有るかの様にして、呼び出される前に先に参上しよう」と言ったので、「問題ない」とみんなで連れだって参上すると、木曽は喜んで信濃馬を一匹づつあてがった。こんなわけで五万騎になった。きっと平家の討っ手が下ってこよう。京に近い越前国に火打城を造って(改修していなのかな?)籠城してください」と命令を残して、我が身は信濃へ帰って、横田城に居住した。
七月十四日、改元があって養和元年と申した。八月三日、肥後守貞能は鎮西へ下向した。太宰少弐大蔵権亮謀叛の噂が聞こえたので、追討のためである。九日、官庁で大仁王会が行われた。承平の将門が乱逆の時、座主が行ってから、通例となったとか。その時、朝綱の宰相の願文を書いて、霊験があったと噂されたが、今度はそのような事も聞こえない。
二十五日の除目に、城四郎長茂は例の国の国守になった。同じく兄城太郎資長は去る十二月二十五日に他界したので、長茂が任国した。奥州の住人藤原秀衡はその国の国守に任じられた。両国共に、頼朝・義仲追討のためだそうだ。書類にはそう載せられたが、越後国は木曽が押領して長茂を追い落とした上は、国務には及ばなかった。二十六日、中宮亮通盛・能登守教経以下が北国へ下向する。木曽義仲を追討する事は、城四郎長茂に仰せ付けたが、なお派遣する官兵は、九月九日、越後国で源氏と合戦する。平家は終に追い落とされた。そんなわけで、二十八日、左馬頭行盛・薩摩守忠度は軍兵数千騎を引率して、越後国へ発向する。戦の為の御祈祷は一方ならない。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時01分41秒 ) | パスワード |
四部合戦状本
<巻六 横田河原合戦>
六月二十五日に、越後国から早馬を遣わして申したのは、「去る二月、当国の住人城太郎資長が木曽冠者を攻めようとして、六万余騎を引率して信濃国へ越えようとしたところ、前日の夜の乾の刻に、城太郎が中風になって死んでしまった。舎弟の城次郎資職、今は四郎長茂と改名して信濃国へ越え、六万余騎を二手に分けて、四万余騎を大手として、信濃国千曲河の岸に近い横田河原に陣を取る。木曽は二千余騎で、横田河原の向かいの川を渡した森に陣を取る。千曲河を隔てて源平は左右に(布陣して)支えた。
長茂は大軍勢なので、打ち囲んで攻め戦うと、源氏は駆け破られて身分上下を問わず傷を負う者が多い。『ここで命を捨てるな』と、義仲は敵の陣を遁れ、大宝堂に引き退く。井上九郎光盛は二千余騎で戸部の市を上って横田の森へ向かうところに、城四郎は「敵はすぐに落ちたから、もう安心」と、鎧を脱ぎ捨て、上下の者は皆、岸辺に下りてそれぞれ馬の足を冷やしてのんびりしていたところに、井上九郎は二町計りまでは赤旗で寄ってきたが、白旗をざっと靡かせ、鬨の声をばっとつくる。城四郎はメチャクチャ慌て騒いで、物具も着けず、馬に鞍も置かず、弓矢・太刀・小刀、取る物も取り敢えず、裸の物も多い。散々に蹴散らされて、転んで味方に踏み殺される。木曽は搦手へ既に寄っていて、鬨の声をつくると力が付いて、千曲河を渡って叫んで駆け入る。大手・搦手が一つになり、中に取り囲んで戦ったので、長茂の大軍勢も物の数ではない。あるいは討たれ、あるいは落ちた。
城四郎は、赤地の錦の直垂に、黒革威の鎧に紅の母衣を掛けて、葦毛の馬に乗っていた。郎等達には目もくれず、木曽と井上だけを討とうと思うが、近づけないのでしょうがない。馬も主も強かったので、組む者は一人もいない。てなわけで、その手にかかって百余人は討たれてしまった。木曽はこれを見て、「葦毛の馬に乗って、紅の母衣を掛けているのは長茂と見た。大将軍の戦いはもはやこれまでだ」と、『休ませるな』と命令すると、我劣らじと攻めて来たので千曲河の二流れに押し偕らされて(大手・搦手から攻められてってこと?意味不明)、散々に打ち落とされた。
こうして横田の上流・下流に棹を結び並べて、斬り落として掛けた首は千余人である。長茂は一人ぼっちで越後国へ逃げ帰った。義仲は後を追って攻めていると、北陸道の兵は皆義仲に従った。長茂は山野に隠れて安堵できない」と告げたので、平家はまた騒いだ。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時03分26秒 ) | パスワード |
http://kyaro.nikita.jp/senki/yokota2.htm
1181 横田河原合戦
●横田河原合戦前記 ●文献に見る合戦1(史料・軍記) ●文献に見る合戦2(自治体誌) ●付記
1・横田河原合戦前記〜それまでの北信濃〜→コチラへ
2・横田河原合戦詳細〜文献資料をさぐる〜
棟梁を失った城氏は弟の助職が相続し、義仲攻めの意志も引き継いだ。横田河原合戦の詳細は諸本・伝承に寄って異なるのでそれぞれ簡単に紹介する。
1・史料に残る記述
@玉葉 7月1日
藤原光隆によると越後の助職が6月13・14日に信濃追討に向った。ほとんど抵抗を受けずに侵入できたので、散在している敵を攻めようとした所、信濃源氏が三手(キソ党・サコ党・甲斐武田党)に分かれて急襲したので、城氏は敗れた。助職は矢で三ヵ所負傷し、わずか300人を率いて越後に逃れた。残りの9000人は討ち取られたり、谷から落ちたり、山林に逃亡したという。
A吉記 6月27日
助永の弟、信濃国に攻めたが負けたという
B吾妻鏡
10月9日
越後の住人城四郎永用が、兄・資元の跡をついで源家を討とうとするので、木曽義仲が北陸堂の軍士等を引率して信濃国筑摩河の辺りで合戦をした。晩に及んで永用は敗走したと言う。
2・軍記物による記述
@覚一本
9月2日
城長茂、木曽追討のため越後・出羽・会津の兵を引率して4万騎で向う
9月9日
・城氏横田河原に陣取る
・義仲依田城にいたが3000余騎で城を出て横田へ向う。その際井上光盛のアイデアを採用し、3000余騎を七手にわけた。
A延慶本
・城氏は越後〜出羽の兵六万を集め、「千曲越…一万騎」「上田越…一万騎」「大手…四万騎」の三手に分けて進軍させた。
・城氏は大手の軍勢を率いて越後国府から熊坂を超えて横田河原に陣取る。
・義仲はそれを聞き信濃と上野の兵2000騎を白鳥河原に陣を取った。
・楯六郎が塩尻から眺めると、石川方面が焼き払われていたので、八幡宮で祈願し義仲の元に戻って報告した。
・義仲は夜を徹して兵を進め、早朝八幡宮に到着。願書を収め、横田河原へ。
B「源平盛衰記」
6月25日
・城氏は越後・出羽・信濃の兵を「千曲越…1万騎」「上田越…1万騎」「関山越…4万騎」の三手にわけて進軍させた。
・城助職は関山越え軍勢を率いて越後国府に到着
6月26日
・関山を超えた軍勢は笠原平五・平四郎、星名権八などが先陣を争いつつ兵を進める。
・筑摩川の端・横田河原に陣をとる。
・横田・篠ノ井・石川辺りに火を放って軍場を作った
・義仲方は白鳥河原に信濃・上野の兵2000余騎を集めて陣をはる
・楯六郎が偵察に赴き、塩尻から見渡すと、火をかけて焼き払っている様子が見えたので、急いで義仲に使者を立て、自分は更に戦場がよく見える八幡神社に行って勝利を拝む。
・義仲はその知らせを受けて徹夜で軍勢を率いて神社へ向う
6月14日(ママ)・辰の刻より戦いが始まる。
合戦の内容は、「井上氏の奇策」は共通しているが、詳細が異なるので、大筋は「源平盛衰記」に借託し表としてまとめた。
●「井上氏の奇策」緒本対比表●
源平盛衰記 延慶本 覚一本
・義仲軍は兵100騎を一直線に並べて川をさっと渡り、西の河原へ北を向いて駆ける
・城軍は入れ替え入れ替え戦うが100騎がまとまって駆け立てるので2・3度引いた。
・その様子を見て義仲軍はいったん川を戻り本陣へ
・城氏は笠原氏に「わずかの勢に大勢が3度も駆け散らかされるとは。ここは信濃で恨みを買っているお前が行って敵を蹴散らして見せよ」と命じ、笠原氏は自分の手勢300騎から85騎を選び出し「太く高く曲進退の逸物(=前後左右に機敏に走りまわる馬)」に乗らせ筑摩川をさっと渡って、名乗をあげた.
・上野国高山党が300騎で襲いかかったが、笠原は85騎と共に散々に戦い、93騎が討ち取られ本陣にひいた。笠原は42騎になってしまったが、城氏はその働きを誉めた。 ・笠原は100騎ばかりをひきいて高山党と戦い、43騎に。高山党は300騎が50騎になった。
・次に上野国・西広助が50騎で川を渡ると、城氏方からは富部家俊が13騎と共に出てきて散々に戦った。西と富部が引き組んでもみ合いになったが、富部が討ち取られた。しかし富部の従者・杵淵が西を討ち取った。その様に両軍とも感嘆し一時休戦となった。
・しかしその頃、義仲の策を受けた井上光基が赤旗を掲げて城氏の背後に迫った。てっきり味方が来たと思った城氏が油断して引き入れようとすると、 突然赤旗をかなぐり捨てて白旗を揚げ「信濃国住人井上九郎光基」と名乗った。
・それを合図に義仲勢が1500余騎で川を渡り、声を合わせて北から南から攻め立てた。
・城氏はわずか300余騎を率いて越後に退いた。
・井上光基は「搦手はお任せ下さい」と申し出た。
・赤旗を作って星品党300騎を先にたてて駆け出させ、千曲川をうしとらの方向、城氏の後陣に歩ませた。
・義仲は「井上が搦手を渡りきったら、城氏を挟撃する。一騎も遅れるな!」 と檄を飛ばした。
・城氏は上田越えの味方が来たと勘違いし、「こちらに合流せず、義仲を攻めよ」と命じる。
・赤旗で偽装した井上氏は無視して城氏の陣前の堀すら超えて本陣にせまると、赤旗を捨てて白旗を揚げ、300騎で北から南へ駆け通った。
・それを合図に義仲の2000騎が南から北へ駆け通り、縦横無尽に城氏の軍勢は蹴散らされ、城氏は越後へ退いた
・七手は最初赤旗を掲げてそれぞれ違う峰からおりていく。
・城氏に味方が来たと喜ばせておいて、陣に近づき七手が一まとまりになったとき、赤旗を切り捨てさっと白旗を揚げて鬨を作る。
・それを見た越後勢が慌てて逃げ出した。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時10分41秒 ) | パスワード |
http://rarememory.justhpbs.jp/saku2/sa2.htm
平家に味方する信濃の笠原牧(中野市笠原)を根拠とする豪族・笠原平五頼直が、源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てた。それを察した源氏一族の村山義直が、笠原氏と築摩郡の栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らとの間で、信濃国市原(長野市若里)付近での戦いが行われた。これが市原合戦(いちはらかっせん)、または「善光寺裏合戦」とも呼ばれた戦いであった。勝敗は容易に決着せず、ついに日没になり、矢が尽きて劣勢となった村山方は、義仲に援軍を要請した。それに呼応して救援に駆けつけた義仲軍を見て、笠原勢は即座に退却した。そして、越後の豪族・城氏の元へ敗走した。この勝利で、東信の武士たちが駆けつけ、義仲軍は急速に膨張した。その中に諏訪上社の千野太郎光弘がいた。光弘は樋口兼光の甥であった。
治承4年10月、義仲は内山峠を越え父義賢の根拠地であった西上野に入り、義賢の所領であった多胡荘で父とかかわりのある武士たちを集めた。
それが瀬下・那和・桃井・木角・佐井・多胡などの諸氏で高山党と呼ばれた。しかし当時、上野は既に頼朝の勢力がおよび、それ以上の拡大はできず、12月には信濃に戻った。
佐久地方を根拠にする武士で義仲に従った氏族は、根井(佐久市)・楯(佐久町)・小室(小諸市)・志賀(佐久市の東部・志賀流域)・野沢(佐久市役所の南)・本沢(望月町)・矢島(浅科村)・平原(小諸市)・望月(望月町)・石突(佐久市石突川)・落合(佐久市伴野の北隣)などがいた。義仲は木曾党同様、佐久党も根井行親とその6男楯親忠親子が義仲軍四天王に数えられたように、その直属の中核軍として重用した。
『源平盛衰記』や『平家物語』では、『横田河原の戦い』での上野高山党の西七郎弘助、北信濃の保科党を率いた井上光盛などの奮戦ぶりが詳記されている。佐久武士に関しては、楯六郎親忠、望月太郎・次郎・三郎、矢島四郎行忠、根井大弥太行親、落合五郎兼行、志賀七郎・八郎、石突次郎、平原次郎景能、小室太郎忠兼、野沢太郎、本沢次郎などの名のみが記されている。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時32分47秒 ) | パスワード |
http://www1.ka6.koalanet.ne.jp/souma/titibu2.htm
平武綱
秩父別当平武基の長男。通称は秩父武者十郎。
応徳2(1085)年、奥州清原氏の内紛に陸奥守源義家が介入して起こった「後三年の役」に、真っ先に義家の陣に参上し、白旗を給わって先陣をつとめた人物。治承4(1180)年、武綱の子孫・畠山重忠が頼朝に降伏した際にこの旗を持参し、頼朝から所縁を問い質されたとき、重忠は、
「君が御先祖八幡殿、宣旨を蒙りたまひて武平、家平を追討せしむる之時、重忠が四代祖父秩父十郎武綱、初参して侍りければ、此の白旗を給ひて先陣を勤め、武平以下の凶徒を誅し候了」(『源平盛衰記』)
と述べたという。頼朝はこの故事にならって、
「頼朝日本国を鎮むほどは、汝が先陣を勤むべし」(『源平盛衰記』)
と、今後は重忠を以って先陣を勤めるように命じた。武綱のその後の行動は不明である。
トップページ > 平良文の子孫 > 秩父氏 > 平重綱
平重綱(????-????)
秩父武者十郎武綱の長男。妻は兒玉別当大夫行経娘。通称は秩父出羽権守。武蔵国留守所惣検校職。
父祖以来、地盤を固めてきた秩父平氏であったが、重綱の代になってはじめて武蔵国留守所惣検校職に就いたようである。重綱の子孫である「河越三郎重員」が、寛喜3(1231)年4月2日、留守所本職四ヶ条について近年廃れて執行されていないことを嘆き、先例の通り執行すべきことを北条泰時に申状を提出して訴えた。泰時はさっそく岩原源八経直を武蔵国留守所に派遣して、重員が訴えた四か条の職掌が重員の先祖伝来のものかを確認させたところ、
「留守所自秩父権守重綱之時、至于畠山二郎重忠、奉行来之條」
という返答が在庁の日奉實直、日奉弘持、物部宗光、留守代帰寂よりあった(『吾妻鏡』)。このことから秩父氏が留守所惣検校職をつとめたのは重綱の代からということになろう。
留守所惣検校職の職務は、武蔵国司の留守に諸政を見る留守所を預かる重要な職掌であるが、その具体的な「四箇条」の職務内容は不明である。一般に貞永元(1232)年12月23日、河越重員から三郎重資へ与えられた「武蔵国惣検校職並国検時事書等国中文書之加判及机催促加判等之事」という文中より、
(1) 武蔵国惣検校職の地位
(2) 国検時の事書
(3) 国中への文書へ加判する
(4) 机催促(?)に加判する
この四か条が留守所惣検校職の職掌であるとされている。「武蔵国惣検校職」と「武蔵国留守所惣検校職」が同一のものかは不明だが、(1)武蔵国惣検校職の「地位」は「職掌」ではなく、さらに(2)国検時の事書と(3)国中文書加判は同列に位置するものと解釈(国検時の事書等の国中文書の加判)されるため、重資へ譲られたものは、
(A)武蔵国惣検校職
(B)武蔵国内発給の文書への加判、
(C)机催促(軍勢の催促か?)への加判
以上の三種であったと推測され、(B)(C)は留守惣検校職という地位自体に付随する職掌ではないと思われる。
彼ら秩父平氏が本拠としていたところは、長男・平重弘は男衾郡畠山郷(埼玉県大里郡川本町畠山)に住んで畠山氏を称していたことから、国府から離れた男衾郡や大里郡であったと思われる。重綱はおそらく国衙留守所に出仕していたと思われ、国衙により近い武蔵国南部へ勢力を広げている。比企郡嵐山町の平沢寺より発掘された経筒には、「久安四年(1148)歳時戊辰二月廿九日」の年紀ならびに「當国大主散位平朝臣茲縄」の名が刻まれている。「平朝臣茲縄」は重綱のことであると推定され、武蔵国に隠然たる勢力を持つ「大主」であったことがうかがえる。「當国大主」はすなわち留守所惣検校職をあらわすか。
嘉禄2(1226)年4月10日、河越重員が武蔵国留守所惣検校職に補せられた際に、「秩父出羽権守以来、代々補来」の職であるとしているが、ここに見える通り重綱が「出羽権守」であったとすると、重綱は受領として出羽国に赴任していたということになる。重綱の父・武綱は「後三年の役」で源義家に従って奥州へ出陣し、白旗を給わって先駆けたという伝承も伝わり(『源平盛衰記』)、東北との関わりもないわけではない。久安4(1148)年当時、重綱は「散位」であり、すでに官職を退いてはいるが、五位相当の地位を保有していた。出羽守は従五位下相当であり、守の遥任としての権守であったとすると、出羽介(従六位下相当)との比較で見ても、可能性は否定できない。
秩父党の勢力は荒川・入間川の水系に沿って開拓されており、弟・基家は相模国境の地である荏原郡河崎郷(神奈川県川崎市)を開発し、河崎氏の祖となった。次男・重隆は入間川の水利を利用して河越郷(埼玉県川越市)を開発、四男・重継は荒川河口付近の江戸郷(東京都江戸川区)を開発した。
一方、三男・重遠は兄弟たちとは反対に北の上野国高山郷(藤岡市高山)を開発して高山を称している。秩父氏が上野方面にも勢力を拡大していたことがうかがえる。また、高山郷はのちに帯刀先生源義賢が京都から下って館を構えた上野国多胡館(群馬県多野郡吉井町多胡)に直線で約7キロと程近く、義賢は秩父党、とくに高山三郎重遠と交流があって、この地に下ってきたと推測される。義賢の遺児で信濃国木曾で兵を挙げた木曾冠者義仲は、治承5(1181)年、越後国から信濃国に攻め込んできた平家党の越後平氏・城越後守資職と千曲川の横田河原で合戦したが、このとき義仲方として「上野国住人高山党三百騎」あまりが参戦し、城資職に加担していた老将・笠原平五頼直一党八十五騎と交戦した。頼直は寡勢にもかかわらず奮戦し、高山党は九十三騎にまで討ち減らされたという。ただしこの高山党の中には「上野国住人西七郎広助」という「俵藤太秀郷が八代末葉、高山党に西七郎広助」がおり、上野国高山党とは高山氏のみで構成されたものではなかったようである(『源平盛衰記』)。
●兒玉党系譜(『小代宗妙置文』)
有道遠峯―+―兒玉弘行――兒玉家行
(有貫主) |(有大夫) (武蔵権守)
|
+―有道経行――女子 秩父権守号重綱(室)也 彼重綱者高望王五男村岡五郎義文五代後胤
(有三別当)(号乳母御前) 秩父十郎平武綱嫡男也、
秩父権守平重綱為養子令相継秩父郡間改有道姓移テ平姓、以来於行重子孫稟平姓者也、
母秩父十郎平武綱女也
下総権守 秩父平武者 武者太郎 蓬莱三郎 母江戸四郎平重継女也、
行重 行弘 行俊 経重 経重者畠山庄司次郎重忠一腹舎兄也、
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秩父重隆(????-1155)
秩父権守平重綱の次男。通称は次郎大夫。武蔵国留守所惣検校職。
大蔵館
武蔵大蔵館跡
兄に畠山庄司重弘があったが、重隆が留守所惣検校職を継承しており、重隆が秩父党の惣領であったと推測される。そして、重隆は上野国多胡郡(群馬県多野郡吉井町多胡)に住んでいた帯刀先生源義賢に娘を嫁がせて大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町大蔵)に迎え、義賢を「養君」として推戴し、周辺豪族たちをその支配下に組み込んでいったと考えられる。
しかし、この義賢の動きをみていた鎌倉の鎌倉悪源太義平(義賢の兄・義朝の嫡子)は、義賢の殺害を計画し、久寿2(1155)年8月16日、郎党を率いて鎌倉から比企郡大蔵に攻め下り、義賢と重隆を斬殺した。このとき、義平の陣中には重隆の甥・畠山重弘が祖・平武綱が義家より給わった源氏の白旗をたなびかせて参戦しており、秩父党惣領をめぐって敵対心理があったと思われる。
義平は重隆を討つとき「小代ノ岡(埼玉県東松山市正代)」に「御屋形」を造って移り住んだとされ(『小代宗妙置文』)、徐々に武蔵国に侵略の手を広げていたことがうかがえる。
****************************************
源義賢(????-1155)
源義賢は六條判官源為義の次男で、源義朝の異母弟にあたる。母は六条大夫重俊娘。武芸に優れ、とくに弓の上手のうわさが高く、保延5(1139)年、体仁親王(のち近衛天皇)立太子に際して、その親衛隊長ともいえる春宮坊帯刀舎人の長官(帯刀先生)に補された。しかし、その翌年に殺人事件に関与したとして解任され、その後は内大臣藤原頼長(のち左大臣)に伺候し、康治2(1143)年に能登国にあった頼長の荘園の預所として赴任した。しかし、久安3(1147)年には年貢が納められなかったために解任。ふたたび頼長のもとにもどった。
仁平3(1153)年、坂東で威勢を振るっていた上総御曹司源義朝(義賢の兄)が従五位下・下野守に任官して上洛したため、義賢が代わって関東へ下った。しかし、義朝の本拠地・相模国鎌倉郡には、三浦氏や上総平氏と結びついていた義朝の長男・鎌倉源太義平が居座っていたためか、武蔵国多胡郡に落ち着いて、武蔵国随一の威勢を誇る秩父重隆と交流を持った。そして重隆の聟となって比企郡大蔵に館を構えて勢力を広げたが、久寿2(1155)年8月16日、義賢の勢力拡大に反発した鎌倉の甥・源義平に大蔵を攻められて討死を遂げた。
この大蔵館の戦いでは、義賢の庶子・駒王丸が乳母に抱かれて脱出、信濃国木曾郡の中原三郎兼遠のもとで成長して「木曽冠者義仲」と名乗った。また、義賢の嫡男・仲家は摂津源氏の惣領である源頼政の養子となって、八条院蔵人として京都で活躍。治承4(1180)年5月に以仁王・源頼政が打倒平家を謳って挙兵した「以仁王の乱」では、頼政に従って出陣し、平等院の戦いで嫡子・蔵人太郎仲光とともに討死にした。この戦いでは千葉介常胤の子・園城寺の律静房日胤も戦死している。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時35分45秒 ) | パスワード |
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takayama_josyu.html
上野高山氏
鶴 丸
(桓武平氏秩父氏流)
高山氏は桓武平氏で、武蔵国秩父地方を領地としていた秩父氏の分かれである。すなわち、秩父重綱の三男重遠が武蔵国高山邑に住して高山を名乗ったことに始まる。
高山は多胡郡と秩父との中間地点に位置していることから、重遠の高山移住は秩父氏の多胡郡方面への勢力拡大の一つとみられる。ちなみに、重遠の長兄重弘は上野に近い畠山庄、次兄重隆は荒川と入間川の合流点にある河越邑、弟の重継は荒川が江戸湾に注ぐ豊島郡江戸郷に住し、それぞれ畠山・河越・江戸氏の祖となった。
一族の多くが荒川周辺に居住したのに比べて、重遠は神流川流域に移住したことから、多胡郡の源義賢との結びつきをもったようだ。そのため、義賢の遺児義仲が挙兵したとき、横田河原の合戦に参加するなど、他の秩父一族をは異なった行動をとっている。とはいえ、義仲に最後まで従ったというわけでもなく、寿永三年(1184)の近江国粟津の戦いには、源範頼軍のなかに高山党の名がみえている。
源平争乱期に高山氏として登場するのは高山三郎で、重遠の嫡子重昭(重久)である。鎌倉幕府が草創されると、高山氏も幕府御家人に連なった。しかし、幕府内では権力闘争が繰り返されるようになり、一族の畠山重忠や梶原景時らが没落していった。
建保二年(1213)には、侍所別当和田義盛と執権北条氏との対立が武力衝突に発展、「和田氏の乱」が起った。この合戦に、北条方として参戦した重昭の嫡男重治は、鎌倉において討死した。つづいて、宝治元年(1247)、三浦氏の乱などが起って、幕府創業に活躍した有力御家人が滅亡、あるいは没落していった。そのような情勢下で高山氏が鎌倉時代末までよく存続しえたのは、高山氏が畠山氏・三浦氏などと比べて目立たない武士団であったことが幸いしたようだ。
関東の争乱
鎌倉時代末期の当主時重は、元弘3年(1333年)、新田義貞軍が鎌倉幕府軍を撃破した武州多摩郡関戸合戦において戦死した。子の重栄は父の討死後、新田義貞に従って戦功を顕したが義貞が戦死してのちは、足利尊氏に属したことが「高山氏系図」に記されている。その後の南北朝の動乱において、高山氏は足利氏に属し、河内四条畷の合戦に参戦して活躍したことが知られる。
やがて、足利幕府を開いた尊氏は、関東に京都幕府の支社ともいえる鎌倉府をおいた。その主は関東公方と称され尊氏の二男基氏が任じられ、以後、基氏の子孫が公方を世襲し、それを援ける関東管領職には上杉氏が任ぜられた。そして、上杉氏は上野守護職にも任じられ、その関係から高山氏は山内上杉氏の麾下として関東の争乱に身を処した。
高山頼重は応永から永享年間における「上杉禅秀の乱(1416)」「永享の乱(1438)」に戦功があり、その子重秀は永享十二年(1440)の結城合戦に嫡男の重友とともに参陣して戦功をあげ褒賞にあづかっている。『結城戦場記』によれば、上野一揆衆として、高山宮内少輔(重秀)・同越後守(重友)の名がみえている。重友の子重次・盛重兄弟も山内上杉氏に従って戦功を重ね、盛重は文明十八年(1486)に古河公方政氏と管領上杉顕定が戦った武州菅谷腹の戦いで上杉方として出陣、戦死した。
このころになると、世の中は本格的な戦国時代となり、下剋上の風潮が社会を被いつつあった。ところで、高山氏が仕えた山内上杉氏の一族の上杉氏は越後の守護職を世襲し、宗家山内上杉氏を支える存在であった。享徳の乱(1454)、長享の乱(1467)など関東の戦乱に主導的に対応した関東管領上杉顕定は、越後守護上杉房定の子であり、弟の房能が越後守護にあった。ところが、越後守護代の長尾為景と房能が対立するようになり、房能は為景の下剋上で倒されてしまった。
顕定は弟の仇を討つとともに越後の所領を確保するため、関東の兵を率いて越後に進攻した。このとき、高山憲重と弟の重員も従軍した。顕定軍はたちまち為景と新守護定実を越後から逐ったが、頽勢を立て直した為景の反攻によって関東に逃れようとした。しかし、関東の国境に近い長森原で為景軍に捕捉され顕定は討死し、憲重と重員兄弟も戦死した。
憲重の子重純は顕定のあとを継いだ憲房に従い、大永六年(1526)、享禄三年(1530)の平井合戦に戦功を挙げたといわれる。しかし、平井合戦のことは高山氏系図にのみ記されているばかりで、傍証もなくその詳細は不明である。
●鎌倉公方(かまくらくぼう)
室町幕府体制下の関東十カ国の統治機関「鎌倉府」の長官を「鎌倉公方」という。鎌倉府は幕府とほぼ同じ組織をもち、公方を補佐する関東管領をはじめ評定衆や引付衆・政所・問注所・侍所などが置かれていた。
建武の新政の当初、後醍醐天皇は皇子の成良親王を鎌倉将軍として下し、足利直義が実質的な執政として関東の政治にあたった。しかし、「中先代の乱」で鎌倉は陥落して親王は京都に逃げ帰り、直義は三河まで逃れた。その後、南北朝の内乱となり、足利尊氏は子の義詮を鎌倉に置き、義詮を上杉・高・斯波氏らに補佐させた。
観応元年(1350) 観応の擾乱が起り直義が失脚すると義詮は京都に戻り、弟の基氏が改めて鎌倉に下された。そして、執事を畠山基国がつとめたが、その後謀叛を起こしたため、かわって上杉憲顕が執事に任ぜられ、のちに執事職は関東管領職となり、鎌倉公方と鎌倉管領が関東十ケ国の政治にあたるという鎌倉府体制が確立した。
後北条氏の台頭
天文年間(1532〜54)になると、小田原を本拠とする後北条氏が勢力を拡大し、上杉氏と衝突するようになってくる。天文七年(1538)、小弓御所足利義明と里見氏の連合軍と北条氏綱率いる後北条軍が戦った。「国府台の合戦」で、結果は北条氏綱の勝利に終わり、後北条氏の勢力は武蔵を越えて上総にまで及んだ。その後、後北条氏は上杉氏の拠点である河越城を攻略して武蔵侵攻の前線基地とした。
このような後北条氏の勢力拡大を阻止するため、管領山内憲政は扇谷上杉朝定と連合して、河越城を包囲攻撃した。これに、古河公方足利晴氏も加担したため、連合軍は八万とも称される大軍となった。この事態に北条氏康は八千の兵を率いて河越城救援に出向き、天文十四年、連合軍の油断を誘い乾坤一擲の夜襲をかけ数倍にあまる大軍を撃破したのである。その結果、扇谷上杉朝定は討死、山内上杉憲政・古河公方晴氏はそれぞれの居城に逃げ帰った。関東の中世的秩序はこの合戦の勝敗によって、まったく崩壊してしまったのである。
平井城に逃げ帰った山内上杉憲政は、その後も勢力を維持していたが頽勢は覆うべくもなく、ついに天文二十一年、越後の長尾景虎を頼って平井城から落ちていった。憲政が越後に去ってのち、高山氏は後北条氏に降ったようで、高山彦五郎は北条氏康から狼藉や喧嘩を行う者がいたら小田原へ申し上げよと命じられている。
一方、憲政を庇護した景虎は、永禄三年(1560)、三国峠を越えて上野国に入った。景虎の越山に際して、元上杉氏の配下にあった関東の諸将は景虎のもとに馳せ参じた。このときに参集した関東の諸将の幕紋を記録した『関東幕注文』は、戦国時代当時の家紋を知る上での貴重な史料となっている。そのなかの「白井衆」の一員として高山山城守行重が見え、幕紋は「にほひかたくろ」であっことが知られる。この高山山城守は、為景の下剋上で倒れた越後守護上杉房能の子で、永正の乱で房能が殺害されてのち上州に落ち延びて高山満重に養育されたという。そして、成長するにおよび重行と名乗り管領憲政の命により高山氏の家督となり、高山氏の本拠である緑野郡の高山城に居住したのだと系図にある。
●にほひかたくろを考証する。
「にほひかたくろ」を、藤岡市史では酢漿草(Katabami)紋であろうと推定されている。しかし、「にほひかたくろ」とは、紋ではなく幕の模様をいったものと思われる。すなわち、「にほひ」は「上が濃く下にいくに従い薄くなるぼかし方を」いい「匂い」とも書かれる模様をいう。「にほひかたくろ」とは、上から下へ黒のグラデーションで染めあげられた幕であろう。ちなみに、すそご(裾濃)は、「上が薄く下にいくに従い濃くなるぼかし方」を、むらご(村濃)は「上下に関係なく変化のあるぼかし方を」いうそうだ。
高山氏は景虎に属したとはいえ、その後も武田氏、後北条氏の双方から書状が届いており、永禄九年には高山から深谷まで上杉謙信によって放火されている。このことは高山氏が上杉氏に敵対していたことを示したものであろう。
さらに、永禄十年の『生島足島神社起請文』高山定重と一族の行重・泰重が起請文を提出したことが知られる。生島足島神社起請文とは、永禄九年に上州を制圧した武田信玄に対して、西上州および信州・甲州の全将領が起請文を差し出したものである。このなかには、周辺の小幡氏の起請文もあり、高山氏ら上州の諸将は武田氏に属していた。そして、泰重は永禄十二年の三増峠の合戦で戦死したことが系図から知られる。
高山氏の没落
天正十年、武田氏が滅亡してのちは織田氏に属し、同年六月信長が本能寺で横死したあとは、後北条氏に属した。そして、天正十八年、豊臣秀吉の小田原征伐の軍が起こされ、後北条氏が没落すると高山氏も没落を余儀なくされた。その後、高山氏の家系は藤岡市の高山・金井・平井に、東毛では尾島町と邑楽町、北毛では吾妻町に残ったという。・2007年05月29日
【参考資料:藤岡市史 ほか】
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時37分24秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%B0%8F
高山氏(たかやまし)は、日本の氏族のひとつ。
平姓高山氏[編集]
桓武平氏良文流の秩父氏の一族。秩父重綱の三男である秩父三郎が武蔵国高麗郡高山邑(埼玉県飯能市にある高山不動)に住して高山三郎を名乗り、初代高山三郎重遠となる。
後に重遠は上野国緑野郡高山(群馬県藤岡市美九里地区字高山)を本拠とし、重遠の嫡男重久(重昭)が高山を継ぎ、弟の重幸は緑野郡小林邑に移り小林氏の祖となる。 この頃から重遠の一族は高山党と呼ばれるようになる。
大治6年(1131年)緑野郡に伊勢神宮領高山御厨が置かれる。
上野国(群馬県)多胡郡の源義賢との結びつきをもったようで、高山重久の代に木曾義仲が挙兵したとき、横田河原の合戦に参加している。(高山党の西七郎、平家軍の富部三郎と戦う)その後源範頼軍に参加。
元暦元年12月、高山重遠、熊谷四郎ら佐々木盛綱に従い備前国児島で平行盛を破る。
鎌倉時代になり建保2年(1213年)の和田氏の乱では北条方として参戦し、重昭の嫡男高山重治が鎌倉で討死した。元弘3年(1333年)、新田義貞が挙兵すると高山時重はこれに加わり、分倍河原の戦いで戦死した。子の高山重栄はその後も新田軍として活躍したが、義貞が戦死すると足利尊氏に従った。その後も足利氏に従ったが、応安元年(1368年)、武蔵平一揆の際には河越直重に加わる。乱は関東管領上杉憲顕によって鎮圧され、以降は関東管領上杉氏の家臣として吾妻郡高山村を本拠に高山頼重は上杉禅秀の乱・永享の乱で、高山重秀・重友は結城合戦と戦功を重ねた。
高山盛重(因幡守)は文明18年(1486年)上杉顕定に従い、菅谷原の合戦(埼玉県嵐山町)で上杉定正に敗れ討ち死。その後の盛重の子孫は、新田の金山城主横瀬氏、由良氏に仕え、高山繁勝の代で秋元六万石の国家老として栄える。本家は大高山と呼ばれ、その分家の子孫に江戸期の寛政三奇人の一人として著名な高山彦九郎がいる。
主家の上杉氏は天文15年(1546年)、北条氏康に河越夜戦で敗れると次第に没落し、天文21年、上杉憲政が越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ちて行く。永禄3年(1560年)、上杉謙信の関東出兵の際には高山行重がこれに参加したが、武田氏、後北条氏の勢力が強くなると高山氏は上州の諸将と共に武田信玄に従った。武田氏滅亡後は織田信長配下の滝川一益、本能寺の変ののちは後北条氏に属し、小田原征伐で後北条氏と共に没落した。末裔は江戸時代には高山衆と呼ばれた。居館として中山城の遺構がある。
摂津高山氏[編集]
摂津高山家は宇多天皇の皇子敦実親王から出たと伝えられ、代々摂津国三島郡清渓村高山に城を構える地頭職であったといわれる(人物叢書『高山右近』参考)。
摂津国三島郡高山庄の国人領主にも高山氏(桓武平氏良文流の高山氏とは違う)がおこり、室町時代頃に高山重基が美濃国本巣郡に移住、そしてその子高山重利が摂津国茨木に移住した。
戦国時代に荒木村重に仕え、高山飛騨守(友照)・高山右近(重友)を輩出した。右近はキリシタン大名として知られ、織田信長、豊臣秀吉に仕え武功をあげるが、キリスト教が禁教とされても棄教することがなかったため改易処分となり、江戸時代にはルソン島に追放となった。なお、摂津の高山氏と江戸時代にも大名として存続した中川氏(中川清秀の子孫)は同族とされる。
旗本高山氏[編集]
桓武平氏平良文の流れを汲む土肥実平の後裔・小早川氏の庶流一族である裳懸氏の裳懸六郎盛聡を祖とする一族。
盛聡は主君・小早川隆景が没すると毛利氏を離れ京都に閑居し、裳懸氏を改め高山氏を称した。関ヶ原の戦いでは東軍に参陣。徳川家康本隊で鉄砲頭として鉄砲隊の一隊を指揮し、その功をもって備中国後月郡木子村で1000石を与えられた。嫡男・高山盛勝の時代に所領の一部を上野国新田郡に移されるが、寄合旗本1000石として明治維新までつづいた。分家に盛聡の次男・利永を祖とする旗本450石がある。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 16時05分34秒 ) | パスワード |
今井城
〒385-0015 長野県佐久市今井
兼平城、兼光館ともいう。
木曽義仲(源義仲)を擁して挙兵したという今井兼平の城。
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