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 投稿番号:101437 投稿日:2015年04月23日 06時59分31秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]]W
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]]]Vからの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏に関しての謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 06時35分50秒 ) パスワード

XXXIIIの続きです。


 大久保長安の八王子1000人同心というのも忍者だったのでしょうか。知
りたいです。長安も忍家にからんでいると思いますが・・・。


          有り得ますね
          だいたいがこの人はアヤシイ人物ですから。


 松島氏については、だんだんわかってまいりましたが、インターネットサイ
トで、こんな情報がありました。
 「新田義貞の家臣に松島式部の名前があり、越前で新田義貞が敗死したこと
  により、全国に離散した。」
ということであります。


        有り得ますよね。
        南朝方に付いたのなら大将の陣にいても不思議じゃないです。
        わたくしの先祖も楠正成に従い菊水紋を掲げてましたから。



 昨日、『武鑑』を読んでいたら、加藤光泰に養子に入った一柳光吉は、光泰
に長男が生まれたので、加藤家より出たと書かれていました。こういう場合は
加藤という姓をそのまま継ぐのでしょうか、あるいは復姓するのでしょうか。

       普通は元に戻るでしょうけど
       別家を立てたのかも知れないですね。


頑張って考えていきましょうね。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 06時49分55秒 ) パスワード

http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/1239561.html

ここですね。
                            更に松下さんについてもコピペしますね。


マツシマ 松島 


群馬県、
静岡県、
東京都。

@宮城県宮城郡松島町発祥。平安時代から記録のある地名。

                        これは遠すぎますが
                        南朝方の北畠氏がらみで有り得るかも。


群馬県みどり市東町小夜戸の小字の松島は経由地。
1063年(康平6年)に来住したと伝える。
新田義貞の家臣に松島式部の名前があり、

                          上野国の松島氏でしょうか?
                          調べねば。



福井県東部(旧:越前国)で1338年(建武5年・延元3年)に新田義貞が敗死したことにより全国に離散した。

                          有り得ますね。


A静岡県浜松市南区松島町発祥。
江戸時代から記録のある地名。
                          穂積姓鈴木氏から出たのでは
                          でしたね。


B長野県上伊那郡箕輪町松島発祥。

                         これは今まで頑張って来ました。


C和歌山県和歌山市松島発祥。
南北朝時代から記録のある地名。

                          南朝がらみで、松島氏
                          というのもアヤシイですね。
        


D長崎県西海市大瀬戸町松島内郷・松島外郷発祥。E創賜。鹿児島県いちき串木野市大


___________________________________



マツシタ 松下 

静岡県、
大阪府、
兵庫県。


@静岡県袋井市浅名(旧:松下)発祥。
同地で佐々木氏が称したと伝える。
地名は松下氏の居住によるとの伝承もある。
                     一応この松下氏ですよね。


                     だけど何故佐々木源氏系が並び矢紋に?


愛知県碧南市付近(旧:碧海郡)の松下は後に移った土地とする伝あり。
位置不詳。

                      碧南も関係しますか。


A地形。松の下の土地から。

和歌山県和歌山市禰宜では松の下の土地からと伝える。



B長野県下伊那郡大鹿村では江戸時代に松平姓から改姓したと伝える。

                     信濃がらみですね。
                     オヤオヤ。



C鹿児島県いちき串木野市冠嶽の小字の松下から発祥。
同地に江戸時代に門割制度の松下屋敷があった。

D鹿児島県いちき串木野市大里の小字の松下から発祥。

E鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名(旧:松下)発祥。
戦国時代に記録のある地名。
同地に江戸時代に門割制度の松下門があった。

F創賜。江戸時代にあった門割制度の松下門から。位置の例。

鹿児島県薩摩郡さつま町中津川、鹿児島県鹿児島市春山町、鹿児島県指宿市山川成川、鹿児島県姶良市東餅田、宮崎県えびの市原田。


F新潟県新発田市では新潟県長岡市大手通が藩庁の越後長岡藩士だった松井姓の住民が明治新姓時に改姓したと伝える。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 06時53分12秒 ) パスワード

中国のサイトなので恐ろしいです。


日本战国幕末历史及各类相关 - 超级大本营军事论坛

lt.cjdby.net › 论坛



Feb 12, 2005 - 16 posts - ‎2 authors


1471 文明3 本願寺莲如在越前国设立吉崎道场. ...... 七騎</B>芥川


能登荒蒔式部小曽根筑後高草木筑前東宮民部

         松島淡路松島式部               ココ


<B>黒田二 ..... 三河的大軍進入信長的領內尾張,準備駐軍桶狹間時,被信長奇襲而敗死。 ..... 關東方面則由新田義貞(1303~1333)攻下幕府的根據地鎌倉,將北高時以下的北氏一族滅亡。


          松島淡路松島式部              このお二人、どなたでしょう? 
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 06時57分41秒 ) パスワード



《太閣立志傳5》女姬傳- 電腦遊戲攻略版- 鐵之狂傲



www.gamez.com.tw › 論壇



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Aug 30, 2004 - 1 post - ‎1 author
... 市母女迎來的轉機。1582年阿市帶著三姐妹,改嫁到越前北莊城城主柴田勝家。 .... 建武朝的中興名將新田義貞戰死後,其子貞氏年幼,為了免受足利的追殺, ..... 勘解由、彥部加賀守、石原石見守、・川的阿久澤道伴、


松島古柏等150騎、                       誰?


鄉 ..... 福原城主福原式部大輔廣俊的么女,毛利弘元的正室,祥方與弘元間育有二男 ...


국립중앙도서관: 전자도서관



ultra.dlibrary.go.kr/.../full.cgi?...



Translate this page丹後の使(源俊・俊秘抄) 和泉式部..... 227 ..... 산山(小島法師太平記) 新田義貞..... 633 .... 傳(松島坦山本勘助傳) 北條氏康..... 789 .... 我に過ぎたり(安積艮齋名賢言行錄) 越前を賜ふの功(同) 鋒刃精瑩(同) 舞を觀て流涕す(同) 체악の愛(同) 眞田昌幸.
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 12時36分30秒 ) パスワード

http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1_0.htm



阿久沢・松島両氏と黒川八城

黒川郷士の旗頭である阿久沢・松島両氏と、黒川郷士が拠った黒川八城についてご紹介します。




阿久沢氏と松嶋氏 松島氏については次のレスで



かつて、黒川谷の郷士の旗頭は阿久沢、松嶋両氏であり、
永正7年(1510)以前に松嶋左衛門が、桐生氏に属したことから、黒川郷士は桐生氏に従属する一方で、戦国期を生き抜くために、上杉、後北条氏と、大きな勢力を背景に、独自の勢力圏を確保、後に太田金山の由良家に仕えることを余儀なくされ、後北条氏の小田原合戦に加担したことで、多くは帰農したが、その戦国期を生き抜いた戦略からは現代の我々も学ぶところがある。


黒川郷士は前九年の役で捕虜となった安倍宗任の家臣の末裔という伝承があるが、今回、本当のところはどうなのか、

阿久沢氏の出自を探ってその答えを模索したいのと、

松嶋氏で歴史上初めての登場人物となった松嶋左衛門とその子孫について述べ、また黒川郷士が拠った黒川八城についても紹介したい。



阿久沢氏の出自について

阿久沢氏は、黒川郷士の旗頭的な存在であったが、俗に言う奥州安倍宗任の家来(族臣)が源義家の安堵状をもって土着したという話は、戦国時代に周囲の諸将からの侵略に対し、独立を維持するための方便であって、実は加賀の国に名前の由来をもつ桃井氏末流である。安倍氏の子孫という伝承は、同じ群馬県の水上にもあり、やはり源義家の降人云々といった話である。

これは阿久沢氏が徳川家直参の旗本に取り立てられた所以でもあるが、後に幕府に提出された由緒書にも、阿久沢氏は桃井氏の系統であることが明記されている。

寛政重修諸家譜には「先祖は桃井の庶流にして加賀国津々井里愛久沢の邑に住せしより、地名をもって家号とし、のち文字を阿久沢にあらたむ」という阿久沢長右衛門行次〜弥左衛門広高の系統と「家伝に九条左大臣師輔が三男師高大隈国愛久沢に居住し、愛久沢判官と号す(略)其末孫対馬守直定入道道範上野国深沢城に住し阿久沢にあらたむといふ、此家伝證すべきものなく疑ふべし」という阿久沢専左衛門直富〜丑助直内の系統の二家をのせているが、後者の家伝は後世に作られたものと思われ、「疑ふべし」の言葉通り信憑性がない。両系統とも家紋は洲山(須山:州浜)紋が共通しており、前者はさらに二引両の紋も使用している。二引両は言うまでもなく、源姓足利氏とその分流の用いた紋であり、桃井氏もこれを使用している。両家とも、深沢城主であった阿久沢氏の末裔で、いつの頃か分家したものであろうが、室町・戦国の世ならともかく、旗本として徳川幕府の内部にあってなぜ先祖を別々に名乗るのか理由がよく分らない。何か直富〜直内の系統は、桃井の流れであることを隠す事情でもあったのであろうか。一方、深沢城址に建つ正円寺に残る阿久沢氏代々の墓の銘には丑助直内などの名前が見られ、阿久沢専左衛門直富〜丑助直内の系統の方が深沢城主であった阿久沢氏直系と思われる。通字である「直」も、桃井直常の「直」など桃井氏の通字を思わせるのだが。また、阿久沢氏の旗下にあって戦国期に後北条氏から感状を受けるなどした目黒氏の先祖書でも、阿久沢氏の出自を「本国播州桃井の庶流」とし、武者修行のために上州へきて深沢城主となったとしている(黒保根村目黒八重治家文書)。これは本国を播州としている以外は、前記の阿久沢長右衛門行次〜弥左衛門広高の家譜に近い。



桃井氏は北朝・南朝と一族のなかが割れていたようであるし、桃井直常のような桃井氏主流も、足利直義に従った観応擾乱の後は、足利幕府に対して南朝に降伏して敵対し、数度にわたって京都を占領している。いわば足利幕府からみれば、お尋ね者であった。赤城山南麓の宮城村から神梅、深沢にかけて、山中に潜むように室町から戦国期に活動してきたことや、同じ赤城山南麓で新田氏ゆかりの新川には、「桃井の腹切石」(新里村新川字桃井大屋)という南朝についた桃井氏(桃井尚義か)の古跡もあり、

阿久沢氏はこの南朝方の桃井氏の出自ではないかと推察する。



新川の鏑木氏所蔵古記録に「三寶院配下、桃井山南善寺照明院 在所新屋敷 當アラ宮 桃井大明神 大屋小社地 祭主照明院 新田旗下 桃井を祀ると云 本村異名村主格式帳中、安養院殿 新田義重公 桃井神社祭主桃井末孫照明院 桃井山照明院 御先祖新田末」とあり、この桃井神社は桃井次郎尚義を祀るという。

明治4年に、前述の阿久沢直富〜直内の子孫である、静岡県少属阿久沢直道が前橋藩庁に提出した由緒書では、九条家云々ではなく奥州前九年の役で降った安倍宗任の家来が土着したとの伝承に続き、愛久沢対馬守直定入道道伴の代に至って上杉管領(関東管領上杉謙信)に属す、道伴より愛久沢の愛を阿に改めたとあり、対馬守直定より二代目が阿久沢対馬守貴綱、三代目阿久沢左馬允綱次は北条家に属し、四代目阿久沢能登守直崇は深沢城主にして北条家に属するため、北条家よりの感状数通あり、天正18年(1590)小田原北条没落の後、深沢城の麓なる神梅に退去、城地に天台宗正円寺を建立したという。今も正円寺には阿久沢氏の代々の墓があり、寛永14年(1637)6月20日に亡くなったという能登守直崇の墓も大きな自然石に「宗無居士」という戒名が刻されて墓地の中ほどにある。
筆者の母方の本家は、この阿久沢の四天王の一つといわれる家で、阿久沢氏から拝領したという越前下坂の脇差が残っていたが、その脇差は江戸初期のもので神梅に退去した能登守直崇か後代の当主の誰かから貰ったと想像する。
阿久沢氏に限らず、黒川郷士につきまとう安倍宗任の家来が土着したというルーツ話は、後世の「話」であって、これは確たる証拠もなく、あくまで筆者の推論であるが、高草木氏(元は真野氏)が京都周辺の出身であるといわれるなど、黒川郷士には上方から来た人々も多かったと思われ、南朝の影が感じられるのである。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 12時49分36秒 ) パスワード

では上野国の松島氏についてコピペ:



五蘭田城に拠った松嶋左衛門の悲話とその後の松嶋氏



黒川郷士は室町中期くらいまでは独立した武士団として、諸大名の支配をうけていなかったと思われる。ところが、桐生の領主であった桐生靱負亟重綱は、前原美濃に命じて突如黒川谷に出兵し、五蘭田(五覧田、五乱田とも書く)城の松崎左衛門を降した(「桐生地方史」岡部赤峰、「桐生市史」桐生市)。


そして、桐生重綱は家臣岩崎大六の姉を側室にしていたが、その側室が生んだ女子を左衛門に嫁がせ、友若という男子が生れている。


永正7年(1510)に北条早雲に呼応して主君である管領上杉憲房に反乱をおこした上田蔵人が立て籠る武州神奈川権現山城を攻めるという、山内上杉氏の号令に対して、桐生重綱はこの左衛門を名代にして派遣した。永正7年(1510)7月28日、左衛門は戦死し、残された妻子は一時同族によって夜討をかけられて避難したが、後に和談がなって、友若が左衛門を名乗り、本家家督を継いだという。この松崎氏は上杉謙信の作成させた永禄4年(1561)の関東幕注文には「松崎大和守 根篠」と記されている者の先祖であろう。



ところが、「松崎」という苗字は五蘭田城のあった勢多郡東村になく、周辺地区にも殆ど存在しない。


「桐生地方史」の著者岡部赤峰も「渡良瀬沿岸地方史蹟」のなかで「松崎」は「松嶋」の間違いであろうとしている。実際、電話帳掲載の名前を調べても、勢多郡東村で松から始まる苗字は「松島」(「松嶋」等を含む)が63件、その他3件の登録であり、隣の黒保根村では「松島」(「松嶋」等を含む)が30件(うち上田沢居住が20件)、その他、黒川郷士で天正16年(1588)紀銘の石幢を建立した松井備後守の子孫と思われる「松井」4件ほか7件(「松崎」姓の登録はない)である。他地区からの流入者が多いと思われる大間々町や桐生市では「松崎」姓の登録もあるが、数の上では圧倒的に「松島」が多い。


やはり、松崎左衛門は、「松嶋左衛門」であって、かつて関所があったといわれ、小黒川と渡良瀬川が合流する現在の勢多郡東村荻原字関守に、関所防備のために砦程度の単郭の城(通常五蘭田城という山頂にある城は戦国期に黒川郷士が築き、真田や由良の手に落ちた後、後北条氏に後援された阿久沢氏らが奪回、整備したもの)を構え、小中や沢入に同族がいたと思われる。元亀4年(1573)由良成繁から安堵状をうけた松嶋右京助は、安堵状が見つかったのが黒保根村上田沢の松嶋家であり、上田沢辺りの住人と見られ、また上田沢には皿窪の砦や寄居など、五蘭田城の周辺城砦が存在することから、

五蘭田城に拠った松嶋氏は、上田沢に平常時住んでいたのではないだろうか。



権現山合戦の後、前述のような経緯があって左衛門の跡を継いだ友若と寡婦となった母とは、かなり後にはなるが再び桐生氏の政略結婚で引き離されることになる。

つまり桐生氏は、左衛門未亡人を赤城南麓に勢力を張った膳城の城主膳因幡守に再嫁させ、膳氏の取込のための政略に利用したのである。

膳氏と桐生氏の対立はいつに始まるかしれないが(一説に桐生氏の家老格であった、摂津細川氏の末裔である細川内膳が天文13年(1544)3月2日に突如桐生大炊介祐綱に討たれ、膳氏はこの妹婿の仇をうつ機会を狙っていたという)、膳氏はついに天文13年(1544)7月15日に21騎500人の兵を組織し、桐生を攻撃すべく進軍、桐生勢は家老の谷丹後守浄綱(一説に里見上総介勝広)を大将に迎え撃って、桐生近くの渡良瀬川畔の間の原(あいのはら)で戦闘に至った。

                 ココで「里見八犬伝」が関係するのですね
                 なるほどね




その結果、間の原、笠懸野と合戦し膳勢の敗色が濃厚となった夕方に、膳城近隣の曹洞宗龍源寺の和尚の仲裁により、和睦が成立、膳因幡守は弟大学と家老の鶴見玄蕃を人質として桐生に差し出した。

その後桐生祐綱からの要請で、祐綱からは異母妹にあたる松嶋左衛門未亡人との政略結婚を受け入れた膳氏は、人質を返還され、桐生の幕下についたのであった。

実に左衛門戦死から34年後であり、松嶋左衛門未亡人も年配になっており、名ばかりの結婚であることは言うまでもあるまい。


一方、左衛門を神奈川の合戦場に赴かせた桐生重綱は、永正13年(1516)10月荒戸野での鷹狩の際に突然死した愛馬浄土黒から落馬してなくなった。

桐生重綱の子祐綱は、浄土黒を埋葬した場所に柳を植えて弔ったといい、その柳は桐生大炊介手植ヤナギとして群馬県指定天然記念物となっている。


                               ココから大事かも


松嶋左衛門、友若の後、松嶋氏がどうなっていったかは、
松嶋氏の子孫が保有する古文書類や江戸時代に書かれた軍記類、
その他伝承からアウトラインは分かる。

すなわち、永禄4年(1561)の関東幕注文にある「松崎大和守」も「松嶋大和守」の誤記と思われ、当時は上杉謙信の支配を受けていた。

                                上杉謙信?!



そのことは、沢入御用銅問屋松嶋十郎治所蔵の文書のなかに松嶋駿河守にあてた上杉輝虎の一種の感謝状があることでも証せられる。


                                松島式部入道古伯

また、「関八州古戦録」などの軍記物にたびたび登場する松嶋式部入道古伯は永禄から天正くらいの人で、沢入から高津戸まで勢力を伸ばした。


                                松島淡路守  

一方、同時代の小中の松嶋淡路守はいち早く桐生氏を見限り、他の黒川郷士とも別行動をしていた模様で、天正6年(1578)10月、黒川郷士と由良勢との合戦に先立ち由良方の武士として使者にたったところを川で遭難した事件が軍記類の記事に見られる。

                                上田沢・湧丸あたりの松島氏 松島右京

上田沢、湧丸あたりの松嶋氏も桐生氏を見限り、水論に始まる桐生・由良の合戦では由良に加担したと思われ、前出のように桐生家が滅亡した元亀4年(1573)に松嶋右京助宛、由良成繁の安堵状が出されている。


                                松島左近丞

天正5年(1577)松嶋左近之丞宛に上杉謙信の重臣河田重親から「禁制になっている竹木をみだりに切るな」という趣旨の文書が出されており、当時既に上杉氏の支配が揺らぎ、松嶋氏をはじめ黒川郷士たちは由良氏や後北条氏によしみを通じていくことになる。

                                混沌に

すなわち、天正の初め頃までには松嶋氏らは桐生氏よりも上杉氏の直接支配をうけ、さらに一部は由良氏とも通じていた。里見兄弟の高津戸合戦の後、その由良氏と黒川郷士は、天正6年(1578)10月に合戦を行ったが和睦し、以降黒川郷士は一旦由良氏の配下に入ることになった。



この頃、上杉謙信の後継者をめぐる越後上杉氏の内紛、いわゆる御館の乱で上杉景虎が敗死し、越相同盟が破棄されている。したがって、上州へ後北条氏が攻勢をかけていくことになり、天正10年(1582)3月甲斐武田氏滅亡の後上州へ進出した織田信長家臣の滝川一益は、その年6月本能寺の変後、神流川合戦で後北条氏に敗れ、上州は後北条氏の支配が一層強まることになった。


天正11年(1583)その後北条氏からの独立を目指す由良国繁は、小田原城に軟禁され、太田金山城は包囲されるなどしたが、由良氏の支配下にあった五蘭田城を攻略するため、後北条氏は阿久沢彦二郎に朱印状を与え五蘭田攻略の恩賞として仁田山五郷の所領を約束している。

すなわち、深沢城主であった阿久沢氏らは、また後北条氏配下として由良氏とは対立している。


天正12年(1584)7月、後北条氏に指示された阿久沢氏、目黒氏らは、五蘭田城を奪回し、普請を固めた。

これが五蘭田城址の現況になっている。

阿久沢氏らは天正18年(1590)の小田原籠城戦に参加し、後北条氏と運命を共にした。


                                小田原合戦時の松島氏

一方、このころ松嶋氏はどうしていたか、今ひとつ分らないが、
沢入辺りの松嶋氏子孫は江戸期には名主や銅問屋、明治期には村長になっており、
阿久沢氏のように武士身分には戻れなかったが、
地域の名望家として 黒川郷士の八つの城



      黒川郷士のいわゆる黒川八城とは、以下の城である。

        座間城(群馬県勢多郡東村座間:橋爪修理亮の城)
      **  沢入城(同東村沢入:松嶋氏の城)
        草木城(同東村草木:高草木筑前守の城)
        神戸城(同東村神戸:小曾根筑前の城)
      **  小中城(同東村小中:松嶋淡路守の城、松嶋氏の本家は小中であり、沢入、小夜戸に広がったという説がある)
        三ヶ郷城(同東村三ヶ郷(花輪の近く):東宮修理の城、永禄年間に東宮丹波守が築く)
      **  五蘭田城(同黒保根村関守:もともとは別に松嶋氏が築いた崖端城があったが、
          戦国期に黒川郷士が山頂に築城、整備、のちに上杉氏、真田氏に占拠され、
          由良氏に属した後、由良氏が後北条氏から離反するや後北条氏の命により阿久沢氏らが奪回)
          深沢城(同黒保根村城:深沢氏ら神梅地衆が永禄年間に築城、
          天正2年(1573)上杉氏に占拠され、後に阿久沢氏が再び入る)

          ほかに、皿窪の砦(同黒保根村上田沢)、
          手振山の砦(群馬県山田郡大間々町神梅〜大間々)があり、
          小さな寄居などもあったらしい。

                                松島関連の城

          高津戸の要害山にある高津戸城は、上杉謙信に後援された里見兄弟が立て籠もったことで有名であるが、
          南北朝の頃山田氏によって築城され、戦国の天正期にいたり、
          一時松嶋式部入道古伯が出城として使用していたことが分っている。

          高津戸から程近い大間々町塩原の松源寺は松嶋式部入道古伯の子である松嶋図書助創建といわれ、
          近辺には松嶋姓の家も割合多い。

[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 12時52分37秒 ) パスワード

高津戸城の歴史            続き



高津戸城は、現在の大間々町高津戸の渡良瀬川右岸の要害山の山頂から中腹にかけて、階梯式に郭展開する山城であり、要害山の名の通り、切り立った断崖を見ると、攻めるのは容易でない印象を受ける。


天保2年(1831)に渡辺崋山が書いた毛武遊記によれば、「堀河院の御宇、山田七郎平吉之、寛治2年(1088)築城し、筑後守則之が代に至り観応2年(1351)桐生国綱に滅ぼされる」とある。


しかしながら、山田氏が当城に拠ったという確たる文献などが残っていない。


また寛治2年の築城という根拠もないが、要害山麓の阿弥陀堂に南北朝期の墓があることから、その頃には城もあったのではないか。

この高津戸城は、仁田山地域城といわれる仁田山城や皿窪砦などの城の一つであり、桐生表に対する防備のための拠点であった。


元は山田氏が当地を含めた仁田山地域を治め、二階堂氏も後に統治したという。高津戸城址のある、要害山麓の阿弥陀堂にある南北朝期の墓が、山田氏のものと伝承される山田氏はともかく、二階堂氏については話だけで信じ難い。

                                 里見氏


しかし、里見兄弟の逸話の発端となった事件であるが、元亀元年(1570)3月に里見上総介勝広が家臣である石原石見の裏切りもあって、仕えていた桐生親綱の軍勢に襲撃されたとき、赤萩砦という仁田山城地域城の一つにいたらしく、里見氏が桐生氏の城代として仁田山城におり、仁田山地域城付近の仁田山八郷を治めていたことは事実であろう。


伝承ではあるが、里見家の七代、義連の三男氏連が仁田山八郷に入ったのは建徳2年(1371)で桐生国綱の娘が氏連の正室となり、その縁で仁田山八郷を国綱からまかされた。また、氏連より四代後の宗連は、天正2年(1574)9月越後の上杉謙信に攻められ自刃したという。里見上総介勝広はその宗連と何らかの血縁関係があったと思われるが、軍記物に書かれていたように安房の里見実尭が里見家の内紛を生延びて、名前を変えて桐生家に仕えたということではなく、元々上州にいた里見氏の一族が仁田山に移住したのが、里見上総介勝広の先祖であり、戦国期の人である勝広は家中がみだれていた桐生親綱の代に何らかの事情で誅されたということであろう。


その後、高津戸に松嶋氏が進出し、一時高津戸城を桐生方面への出城として使ったようであるが、里見勝広の子息である随見勝政、平四郎が上杉謙信の後援のもとで、松嶋氏にかわって高津戸城に入り、天正5年(1577)から翌6年桐生氏にかわって桐生を治めていた由良氏に滅ぼされるまで使用したとされる。



なお、里見兄弟の逸話は有名で、土地の銘菓「里見まんじゅう」の名前にもなっている位であるが、親の仇である石原石見(直接の仇は桐生親綱だが)を討つべく、上杉謙信や黒川郷士の支援を受けた里見兄弟が高津戸城に拠ったが、桐生氏は既に桐生領主ではなく由良氏が取ってかわっていた。それでも、用命の砦など桐生勢の拠点を襲撃するなど、里見兄弟は奮戦するが、石原石見が仕える由良氏によって、結局里見兄弟と従う越後浪人たちは討たれてしまったという話である。これは上杉謙信の東上野への進出と土地の小領主たちの動向が背景としてあり、ちょうど上杉氏の支配力が弱まり始め、同時に黒川郷士たちも上杉氏の配下から離脱する直前の状況で起きた事件であり、上杉謙信というビッグネームとあわせて長く人々の記憶に残ったのであろう。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 12時54分56秒 ) パスワード

高津戸城を戦国期に大規模改修したのは松嶋氏か    続き



電話帳の調査では、

勢多郡東村で「松島」姓(「松嶋」等を含む)が63件、
隣の黒保根村では「松島」(「松嶋」等を含む)が30件であるが、
高津戸にほど近い大間々町塩原あたりでも「松島」、「松嶋」姓が多い。



松嶋氏が高津戸に進出したのは、天正に入って桐生家中に乱れが起き、統治基盤も弱体化してからであろうが、
桐生氏が軽視し、
南北朝期以降放置されてきた高津戸城を整備した模様である。


里見兄弟の逸話では、里見兄弟の頼みにより松嶋氏ら黒川郷士が田井氏を奉行として、
堀を掘り、逆茂木を植えるなどして整備したとあるが、

もっと前に松嶋氏の手によって改修は行われていたと思われる。



大間々町塩原にある曹洞宗の松源寺は松嶋式部入道古伯の子である松嶋図書助創建といわれるが、
あるいは松嶋式部入道古伯はその子図書助に当城を守らせていたのかもしれない。

             <松源寺(大間々町塩原)>    
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 12時58分50秒 ) パスワード

http://ecotourism.or.jp/akagi/matsushima_eiji/053-106/062.html


松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(六十二)

大前という地名





▲大前の家町並み(昭和24年撮影)
〔「写真でみるふるさと嬬恋のあゆみ」より〕


 大前の地名については『上野国郡村誌』では、「建久4年(1193)鎌倉右大将(頼朝)時、幕下(家来)本村ニ厩ヲ置キシヨリ御厩村ト云(ハ)レシヲ、改称シテ大前トスト云(ウ)」とあり、大前の地名の由来を記している。『嬬恋村誌』もこの説を採用している。 ところで、源頼朝は『上野国郡村誌』に記されているように、建久4年、三原庄(浅間山麓)で、軍事訓練を兼ねた集団的な狩猟である“巻狩”を行なったのであろうか。実は、その歴史学的事実は存在しないのである。したがって、前に記したような学説は成立しないことになる。



 三原の下屋家文書によると、貞治元年(1362)の、所領を譲り渡すことを記した文書の中に「おうまいのいやとう五郎」応永20年(1413)のものには「大まやの五郎太郎」そして応永35年のものには「大まやのひやうゑ入道」などの人名がみられる。当時の名字は地名に基づくとされる事からすれば、記すまでも無く“おうまい”“大まや”が地名であることに違いない筈である。



 それでは、おうまいとか大まやとかの語源は何だろうか。

“おう”は、古語の“オオキ”を形容詞化したもので、物事の大きい事をさすと観てよいだろう。
それでは、“まや”“まい”とかは何だろう。
前橋の地名は、古く“まやばし”が音韻の変化で“まえばし”となったと言う。

 それと同じ事で、“まや”が“まえ”に変化したもので、語源的には“まや”にこそ意味があると考えられる。



 『国語大辞典』などによると“まや”は馬屋も指すが、一般的には両下または真屋を言う。

特に、両下は、屋根を棟の両側へ葺き下ろした切妻造りの家のことで、古くは立派な家の事を真屋と言ったともある。



 大前の歴史は、少なくとも南北朝の時代にまで遡り、その頃の譲状に名を残す武家が居た事は確かである。
そして、その館は、おそらく両下(真屋)であったことも確かであろう。


 大前と言う地名は、大きな両下があったことに由来するものであろう。


※この記事は広報つまごいNo.585〔平成13年(2001年)8月号〕に記載されたものです。

(六十一)『丁石』百番観音像 へ   (六十三)天仁元年の大噴火 へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(一)へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二)へ

[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時10分23秒 ) パスワード

http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/22315715.html


五覧田城は、みどり市東町萩原にある比高約300m(麓より)の山城です。

城址へは、国122号を日光方面に向い、水沼駅前から約3km進み「五覧田城入口」の案内に沿って左折して、さらに進みますと三叉路があります。登城口が三か所あり、ここで別れます。


小生は関守口から登城しましたが、あとから分かったのですが、戸屋沢橋口が城址にも近く駐車場も完備しているようです。登城口への道もほぼ舗装で安心していけます。関守口での駐車は、路肩に寄せての路駐になりますが、あまり車も通らないようなので安心して止められました。



                               ココ

 当城の築城についての詳細は不明ですが、15世紀末から16世紀初め頃に桐生重綱が五覧田城の松崎左衛門を降し配下にしたということがあったようで、

15世紀後半には築城されていたと考えられます。


その時の守将の松崎氏は、永禄4年(1561)に上杉謙信が厩橋城より小田原へ出撃する直前に書かれたと思われる『関東幕注文』に桐生衆として出てくる松崎大和守の数代前の一族と思われます。


ただ、松崎と記載されていますが、後の古文書に出てくる黒川谷の有力地衆松嶋氏と思われます。


ただ、自然・歴史的環境からすると五覧田城が松崎氏の持ち城とは考えにくく、黒川郷地衆によって築かれ管理されていたのではないかと推察されます。


桐生氏に攻められた際に松崎左衛門を旗頭にして黒川谷地衆が籠城したのではないかと考えます。



 五覧田城が歴史の舞台に現れるのは、永禄から天正年間にかけての謙信の度々の越山による騒乱の時です。

五覧田城のある黒川谷は、渡良瀬川を北に進む日光街道と上野根利方面を越えて沼田に到る根利往還の分岐点に位置した交通の要衝でありました。


上杉氏が永禄末年から天正年間に北条、武田氏両氏によって東上野まで後退させられ、従来使っていた赤城山西麓を通る白井口、厩橋口の通行が危うくなり(「路次不自由」と文書では出てきます)、東毛・下野国(佐野)の維持が困難な情勢なっていました。そのため沼田から赤城山東麓を経て佐野を結ぶ東方口である根利道の重要度がましていったようです。



 黒川谷地衆は、16世紀末頃に桐生市の配下になっていましたが、根利道(東方口)の街道権益を保持していたようで、五覧田城南麓の関守に関所を設け、この関所を防備する城として五覧田城が築かれたと推察されます。



永禄9年(1566)  長野業盛の箕輪城が武田勢によって落城。利根川以西の上野が武田領になる。

            金山城の由良氏が北条氏と同盟。


永禄10年(1567) 4月上杉氏が根利道の街道普請と関所の設置。黒川谷地衆旗頭の阿久沢左馬亮が権利の侵害として「非分なる儀」を申し入れた。
        
    10月謙信の7回目の越山。


永禄11年(1568) 12月信玄、甲・相・駿三国同盟を破棄し、駿河侵攻。

永禄12年(1569) 相・越同盟の外交交渉に根利道が使われる。6月相・越同盟成立。

元亀2年(1571)  12月頃北条と武田の同盟(相甲一和)

元亀4年(1573)  2月由良氏が桐生氏を攻め、桐生城より追放。黒川谷も由良方になる。

            4月信玄病死。8月謙信は越中出兵。

天正2年(1574)  正月謙信は越山し、3月由良方の膳・山上・女渕の諸城を攻略、黒川谷の深沢城も攻められ阿久沢氏が従属。そして、五覧田城も攻略された。
          
  9月由良氏が黒川谷に攻め入り、五覧田城の根小屋で沼田衆三百余人を討取る。

 10月謙信の再越山で由良方の黒川谷は上杉氏の支配下になる。


天正6年(1578)  3月謙信病死。御館の乱。

天正7年(1579)  相甲同盟は破棄され、北条氏政と武田勝頼の越甲同盟。黒川谷の深沢・五覧田両城を含めて由良氏の支配下とした。

天正10年(1582) 3月武田氏滅亡。

天正12年(1584) 由良氏の離反を察して北条氏が由良兄弟を小田原に幽閉す。

その後由良氏は金山城を退去し、金山城は北条氏の番城となる。

7月由良方の深沢・五覧田城は、北条勢により落城し、普請をおこなっている。


    その際に阿久沢氏を筆頭に下黒沢谷地衆の面々が北条方として攻めいっている。


天正18年(1590)  正月秀吉の小田原攻めに備えての動員命令に従い阿久沢能登守は小田原に出陣した。その際の軍役は、大小旗1本、鑓15本、鉄砲10挺、馬上5騎、手明10人の計41名であった。

参考文献
「黒保根村史」  「関東の名城を歩く北関東編」
 
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時15分05秒 ) パスワード

伊那に戻ります。



http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/inagun.html

上伊那地域の歴史


伊那春近領の巻1(平安時代)

 

 上伊那地域の歴史書を見ると、頻繁に目にする言葉が「春近領」(はるちかりょう)です。「春近領」とは、信濃国内に3箇所分布している土地の総称になります。3箇所とは、近府春近領(松本市)、伊那春近領(伊那市)、奥春近領(長野市)で、その内の伊那春近領が上伊那地域にありました。


 伊那春近領は、小黒川より南に広がる天竜川の西段丘上(現在でも一部が春近と大字名で呼ばれている)から片桐(松川町)付近まで広がっていたとされ、幾つかの郷に分けられていました。


 

 伊那春近領は、もともと公領(国の土地)で、平安時代末期の院政の頃は、宮中の御服など上布類を調進する禁裏御服料所であったとされています。鎌倉時代になると源頼朝によって関東御料とされ、政所が所管するところとなり、地頭が派遣されました。


 

 また、上伊那地域には荘園が1つありました。蕗原荘(ふきはらしょう、箕輪町北小河内)という荘園で、天暦8年(954)から、


後院→堀川天皇の中宮 篤子内親王→関白藤原忠通→近衛家

と、所有者が遷り変わり、有力者の間を転々としていたようです。


さらに、上伊那地域では、有力な官営牧場が4箇所ありました。佐久地域の規模程ではありませんが、ここで産出された馬は、信濃国司の分として府中(松本市)にあった信濃国府へ送られたり、遠く朝廷へ献上されたりしていました。平出牧と宮所牧を支配していたのが、平出氏と宮所氏で、ここで生産された馬が平安時代末期から軍事力として利用されていきました。木曽義仲の四天王として活躍した樋口次郎兼光の墓が平出牧推定地にあります。





笠原牧
かさはら
伊那市美篶

 


平出牧
ひらいで
辰野町平出

諏訪社領


宮所牧
みやどころ
辰野町上島

諏訪社領


小野牧
おの
辰野町小野

[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時17分58秒 ) パスワード


北条得宗家と伊那の巻2(鎌倉時代)             伊那の松島氏登場

 

 鎌倉幕府の執権職をほとんど独占し、北条時政、北条義時、北条泰時と続く、北条家の嫡流を北条得宗家と呼びます。鎌倉幕府の関東御料とされていた肥沃な伊那春近領は、しだいに北条得宗家の領地とされ、政所、地頭代と呼ばれる得宗家の家臣が、伊那春近領に派遣されてきました。北条得宗家は、諏訪大社を中心として諏訪地域から上伊那地域の支配を強めて、経済、軍事力、或いは思想面の基盤としていたようです。

 上伊那地域には、諏訪氏の系流と唱える藤沢氏、中沢氏、平出氏、宮所氏、松島氏、深沢氏などが、北条得宗家の地頭をしたり、在郷を支配していたようです。

 片切郷、飯島郷には物品を交換する市場があり、京都へ通じる東山道沿いとして、物流の拠点となっていたとされます。


上伊那地域の郷



小井弖二吉郷
こいでふたよし
伊那市西春近
北条得宗家

赤須郷
あかす
駒ケ根市
北条得宗家


飯島郷
いいじま
飯島町
北条得宗家


田島郷
たじま
中川村
北条得宗家



片切郷 かたぎり 中川村 北条得宗家
藤沢郷 ふじさわ 高遠町 諏訪大社
黒河内郷 くろおごうち 長谷村 諏訪大社
上古田郷 かみふるた 箕輪町  
松島郷 まつしま 箕輪町                     松島郷
大萱郷 おおがや 伊那市  
御園郷 みその 伊那市  
岩間郷 いわま 飯島町  
上穂郷 うわぶ 駒ヶ根市  
横厩郷 よこくるわ 中川村横問屋  
宮田郷 みやだ 宮田村  

[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時19分18秒 ) パスワード

南北朝の動乱と上伊那の巻3(室町時代)

 

 鎌倉幕府が滅亡すると、北条得宗家に深く関わってきた諏訪地域と上伊那地域は、北条家残党として、足利尊氏の勢力と対立していきました。足利尊氏は、信濃守護に小笠原貞宗を任命して、残存勢力の排除を命じ、小笠原貞宗は伊那に侵攻しました。北条家残党は、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の勢力と結びついて、各地で小笠原貞宗に徹底抗戦しました。

 

                  ココですね

 小笠原貞宗は、諏訪大社を懐柔して、諏訪地域の勢力を取り込むとともに、伊那地域の勢力を破っていきました。観応2年(1351)その功により貞宗の息子である小笠原政長は、伊那春近領を領有することになりました。これ以後、上伊那地域は小笠原氏の勢力下として支配されていきました。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時21分31秒 ) パスワード


大塔合戦からの分裂の巻4(室町時代)

 

 応永7年(1400)善光寺平で、信濃守護の小笠原長秀と東北信濃の国人が、大塔合戦と呼ばれる戦いをしました。この戦いには、下表のように小笠原氏の軍勢として上伊那地域の豪族が多く加わっています。姓名と地名が一致していることから、ご当地に勢力を張る豪族であったのでしょう。

 

山田新左衛門尉 高遠町
神村次郎 伊那市
小井出薩摩守 伊那市
中越備中守 宮田村
宮田大和守 宮田村
上穂伊豆守 駒ヶ根市
赤須孫三郎 駒ヶ根市
田切五郎七 飯島町
飯島若狭守 飯島町
片桐中務丞 中川村
片桐但馬 中川村


                   小笠原氏の内訌・諏訪大社の内訌のお話

 

 この戦いに敗れた小笠原氏は次第に弱体化し、府中小笠原氏(松本市)、伊豆木小笠原氏(飯田市)、松尾小笠原氏(飯田市)に分裂して、3者の対立がおこりました。

  さらにそこに諏訪大社上社(諏訪氏)と諏訪大社下社(金刺氏)の争いが加わり、争いは泥沼化していきました。


  大塔合戦に加わっていた豪族も、戦国時代の到来とともに、姿を見せなくなる者達もいました。

 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時27分43秒 ) パスワード

武田信玄の侵攻の巻5(戦国時代)
 

 高遠には、藤沢郷、黒河内郷がありました。

 この2郷は代々諏訪大社の領地で、戦国時代の頃には、諏訪氏一族の高遠氏が統治していました。

 

  高遠頼継は、諏訪大社の総領家を自分の物にしたいと考え、
甲斐国の武田晴信(信玄)と諏訪大社下社の金刺氏に働きかけて、
共同で総領の諏訪頼重を攻撃しました。

                      ああ、そういう事だったの



  諏訪頼重が倒された後、諏訪地域は武田晴信と高遠頼継に分割統治されました。
ようやく諏訪大社総領の地位を手に入れた高遠頼継でしたが、諏訪のほとんどが武田氏の領地となったことに反発して、今度は武田晴信と争いました。

 

 天文11年(1542)武田軍は天竜川沿いに攻め下り、9月28日福与城(箕輪町)の藤沢頼親を攻め、降伏させました。

 翌29日には、板垣信方が上伊那と諏訪境になる有賀峠付近を制圧しています。

 天文13年(1544)藤沢頼親は再び武田氏に反旗を翻し、荒神山城(辰野町)に立て籠もりました。
 武田軍は荒神山城を攻撃しましたが、高遠頼継との連合軍に破れます。
 高遠軍はこの勝ちに乗じて、諏訪地域まで出て、あちこちに火を放ちました。




 天文14年(1545)4月11日遂に武田晴信が甲府を出陣し、15日に杖突峠を越えて、高遠へ攻め込みました。

              17日高遠頼継は逃亡し、高遠城が落城しました。


              20日武田軍は、そのまま福与城を攻撃しますが、府中の小笠原長時の援軍などがあって落ちませんでした。

             
              6月10日ようやく藤沢頼親は、人質を出して武田晴信に降伏しました。
この落城の際に、高遠頼継に属していた保科正俊(江戸時代における高遠藩の祖、及び会津藩の祖)が武田へ降っています。


 数年後、降伏していた高遠頼継は甲府にて切腹させられてました。
このようにして上伊那地域はことごとく武田氏の手に落ちました。

 



【伊那衆磔事件】


 武田氏の上伊那地域の統治は、当初木曽義昌が行っていました。
天文16年(1547)理由は定かではありませんが、木曽義昌が、伊那の松島貞実を呼び出して殺害しました。

                               松島貞実謀殺事件


   
 武田氏の統治は相当厳しいものだったようで、木曽氏と伊那地侍との遺恨は大きくなっていきました。

そして、武田信玄が川中島の戦で主力を善光寺平に向けている最中に、伊那衆は団結して木曽義昌を攻撃しました。

この攻撃は失敗に終わり、娘婿の木曽義昌に反抗した伊那衆に対して武田信玄は、全員を捕らえて伊那の狐島にて磔にしました。

磔にされた伊那衆の8名を下に挙げます。


溝口民部少輔正慶   長谷村
黒河内隼人政信    長谷村
殿島大和守重国    伊那市
小田切大和守入道正則  宮田村
伊那部左衛門尉重親   伊那市
宮田左近正親房     宮田村
上穂伊豆守重清    駒ヶ根市
松島豊前守信久    箕輪町



 磔にされた武将達の領地は、上伊那地域の中でも特に重要な地域になります。

上伊那地域は、下伊那地域や三河方面へ進出する重要な拠点で、
武田晴信は、統治を完全にする為にも、降伏した武将達の抹殺を木曽義昌に命じていたと云われます。

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時28分42秒 ) パスワード

武田家の滅亡の巻6(戦国時代)

 

 武田信玄の死と共に、武田家も次第に没落していきました。

 織田信長は、長篠の戦いで武田勝頼を破って後は、武田氏配下の豪族を次々と調略し、武田晴信が上伊那地域を占領して37年の月日が経った天正10年(1582)信濃国に侵攻を始めました。下伊那地域より侵攻した織田軍は、次々と山城を落とし、武田氏に従っていたほとんどの豪族が降伏しました。武田氏に虐げられてきた上伊那の豪族達は、戦わずに降伏し、織田軍は無人の野を行くが如く高遠まで到達しました。


 武田信玄の息子である仁科五郎盛信だけが、高遠城に立て籠もり、織田軍と激戦を繰り広げました。高遠城の激戦は語り継がれるものですが、甲斐の武田勝頼の救援も得られず落城しました。


 伊那地域は、織田信長に命じられた毛利秀頼が治めるようになりましたが、数ヶ月後に織田信長が本能寺で死亡すると信濃国は、東から北条氏、北から上杉氏、南から徳川氏が侵攻し、領地の奪い合いの場となりました。


 三河国と接する伊那地域には、早くから徳川家康が酒井忠次を信濃国の統括者として派遣され、上伊那地域も勢力下に納めました。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時30分52秒 ) パスワード


徳川家康の関東移封の巻7(戦国時代)

 

 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の後に、徳川家康は江戸に国替えとなりました。当時、徳川家康勢力下であった信濃国の伊那地域、諏訪地域などの武将達も一緒に関東移封となります。徳川家康により高遠の統治を命じられていた保科正直も下総国の多胡(千葉県多胡町)に移りました。


諏訪   諏訪頼忠   上野国惣社
小諸   依田康真   上野国藤岡
松本   小笠原貞慶  下総国古河
木曽   木曽義昌   下総国網戸
高遠   保科正直   下総国多胡
下伊那  小笠原信嶺  武蔵国本庄

[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時34分26秒 ) パスワード

江戸時代と上伊那の巻8(江戸時代) 

 豊臣秀吉が死亡して徳川家康が天下をにぎると、上伊那地域には保科正直が返り咲きました。


 これ以後、保科氏が高遠城を拠点とする高遠藩して、統治するようになりました。保科正直の跡を継いだ保科正光は、自分に息子が居るにも関わらず、2代将軍秀忠の次男(保科正之)を養子に迎え入れ、跡を継がせました。

保科正俊まさとし→正直まさなお→正光まさみつ→正之まさゆき(最上藩へ) 

 

 徳川秀忠は、正室の嫉妬をはばかって、気付かれないように見正院(武田信玄の娘)の養子とし、これを保科正光に養育を託したのです。3代将軍徳川家光は、保科正之を弟と公認して、最上20万石に大加増しました。

 保科氏と入れ替わりに高遠藩に入ったのが、関が原の戦で伏見城で奮戦討死した、鳥居元忠の孫の鳥居忠春が3万石で入封しました。しかし、鳥居忠春は医者に切りつけられ、さらに次の鳥居忠則は家臣の不始末から切腹し、鳥居氏は2代で没収となりました。

 鳥居忠恒ただつね→忠春ただはる→忠則ただのり(切腹改易)

 

 この後、約1年間の幕府直轄領が続いた後、内藤清枚が3万3千石で高遠へ入封となり維新まで続きました。

   内藤重頼しげより→清枚きよかず→頼卿よりのり→頼由よりゆき→頼尚よりたか→長好ながよし→頼以よりもち→頼寧よりやす→頼直よりなお(明治維新)

 
 高遠藩の領地は、上伊那地域の6割程度を占め、一部は下表の筑摩地域にも及んでいます。おおまかには現在の高遠町と長谷村全域、伊那市の西箕輪、野口村、中坪村を除いた地域、辰野町の一部(小野村、飯沼村)を除いた地域になります。


本洗馬村      塩尻市洗馬 幕末まで高遠藩
岩垂村       塩尻市洗馬 幕末まで高遠藩
小曾部村      塩尻市洗馬 幕末まで高遠藩
古見村       塩尻市朝日 幕末まで高遠藩
針尾村       塩尻市朝日 幕末まで高遠藩
小野沢村      塩尻市朝日 幕末まで高遠藩
西洗馬村      塩尻市朝日 幕末まで高遠藩
今井        松本市      元禄3年天領へ
和田        塩尻市 元禄3年天領へ
山形        塩尻市 元禄3年天領へ
 
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時36分53秒 ) パスワード

上伊那地域の統治の巻9(江戸時代)


 江戸時代初期の上伊那地域には、高遠藩の他に幕府天領、旗本知行所、飯田藩の領地がありました。高遠藩の領地は、筑摩地域の領地を除いて幕末までほとんど変わることがありませんでしたが、飯田藩領、旗本知行所は、しだいに幕府天領や別の旗本の知行所へと変わっていきました。

 

 飯田藩脇坂氏の領地は、下伊那地域から続いて大田切川(天竜川西岸)まで達し、飛んで一部(箕輪町)にもありました。脇坂氏の転封に伴って、大田切川までの上伊那の領地は幕府天領となり、箕輪の地は坂木藩板倉氏の領地(箕輪町、南箕輪村、伊那市西箕輪)となりました。後に板倉氏の転封にともなって幕府天領と、太田氏知行所5千石となり幕末まで続きます。


太田氏は松島村に陣屋を置きました。                松島村

 

太田氏知行所

南小河内村      箕輪町
松島村        箕輪町
福与村        箕輪町
下寺村        伊那市

 

 さらに上伊那地域の南部の旗本領として、江戸時代初期に井上知行所、立石氏知行所(井上相給)がありました。後に、この知行所は、近藤氏の知行所となって幕末まで続きました。

近藤氏知行所

四徳村      中川村 近藤氏直轄
上穂村      駒ヶ根市 千村預かり
大草村      中川村 飯島陣屋預かり
飯沼村      中川村 飯島陣屋預かり
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時42分43秒 ) パスワード

松島追分の道標

上伊那郡箕輪町中箕輪松島


伊那街道と岡谷街道の分岐点に立つ道標。寛延2年(1749)に、当時松島に陣屋を置き、箕輪領一万石のうち五千石を領していた、旗本太田氏によって建てられたもの。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時46分34秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/sisin9monryu/nagano.kamiinagunn.html

                            下の方

復習(去年アップしていると思いますが)



松島城は箕輪町役場や郷土博物館が建つ段丘上にありましたが現在遺溝はありません。

広大な敷地を有する城であったようですが面影はありません。

役場や公共施設を建てる際にかなり土採りをしたとのことです。
役場と博物館の間に道路が通りますが昔はもっと狭い道だったそうです。
 堀を利用し広げた道だったのではないでしょうか。


役場のすぐ西には城主であった松島氏の墓所があります。
城址の雰囲気は段丘先端の切岸状の崖でしょうか。


城跡に建つ郷土博物館は箕輪町の城館を見学する上で
欠かせない施設であります。

城関係の展示を見学して文化財Mapを貰ってから
散策に出かけましょう。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時48分12秒 ) パスワード

    松島城  続き


松島城は福与城主・藤沢氏の麾下に属する松島氏の城でありました。

築かれた年代はわかりませんが戦国期初期頃ではないでしょうか。


天文年間(1532〜1554)には松島豊前守信久が城に居城していましたが藤沢氏の福与城落城前後に甲斐武田氏に降ったようです。


その後、上伊那を統治した武田氏の娘婿・木曽氏でした。


武田氏の主力が川中島に向かっている最中に上伊那の土豪が集まり木曽氏を攻撃しましたが失敗に終わりました。

その後、信玄は反抗した松島氏を含む土豪8人を捕らえて伊那・狐島にて磔にしたといいます。
(参考サイト 長野県の歴史 国宝・重要文化財(建物) )
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 13時57分59秒 ) パスワード

http://www.mapion.co.jp/m2/35.83831539611722,137.9702088888889,16/v=m1:%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E4%BC%8A%E9%82%A3%E5%B8%82%E4%B8%AD%E5%A4%AE4680


伊那警察署の南の中央通りの南で
天竜川の東と小学校の西の間が狐島。



やはり天竜川が絡みますか。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 14時22分46秒 ) パスワード

武田がらみの信濃松島氏
新田がらみの・上杉謙信がらみの上野国松島氏

この接点は   武田と上杉の激突で  人間ですからあったようにも思いますが
無かったのでは?と。


でも新田系南朝方武士は浪合村まで行ってますから
上野国に戻らず信濃国に定着した人もいたと思うし
松島氏を名乗った人もいるかも。


結論:分かりません
   有り得るとは思います。
   でも松島氏は千野一族でしたよね。
   だから「無理・無し」と思います。

[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 14時25分35秒 ) パスワード

日本の場合は断片でも語り継がれると思うから
新田系の松島氏だったら、そういうハナシが伝わると思います。
無いようなので  新田系じゃない


だけど里見の名が出てたなら上野国系でアリですよね。


とにかく現物を頂いてから考えます。
[27]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月24日 17時30分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家譜は月曜日に送りましたので、もう届く頃だと思います。

 本日は、かつての五島の一字である松島町へ行き、こちらの松島氏の家紋を
調べてまいりました。『浜松の史跡(続編)』にこう書かれています。
 「この地は四本松の鈴木門五左衛門家が開墾に着手し、四本松を本拠とする
  の意から、松島新田と命名をみたというのが地名の起りである。
  門五左衛門の次男が父の志をついで松島開拓に成功、松島五右衛門を称し
  た。」
 この五右衛門が開基となり、松島山祐泉寺という寺を建立したという。
 そこの墓標を見に行ってきました。

 イメージとしては、松島姓の墓が一杯であると思って行ったわけであります
が、ところが「鈴木」姓の墓標だらけで、しかもその家紋もいろいろでした。
熊野より着た鈴木氏ということであります。鈴木家の家紋で一番多かったのは、
「丸に違い鷹の羽」でした。
 松島氏の墓はというと、一番奥に10基位、しかもその半分は江戸時代位の
昔からのもので、開拓時代の松島氏の祖の墓であると思いました。

 という訳で、松島町(羽鳥村からは13キロ程南)の松島氏は、羽鳥村の松島
氏とは別系統であることが確認できました。
 
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 22時27分27秒 ) パスワード

三つ柏さん

>鈴木家の家紋で一番多かったのは、 「丸に違い鷹の羽」でした。

意外でした。


>熊野より着た鈴木氏ということ

それでも「丸に違い鷹の羽」とは意外です。



家紋の世界はややこしいですね。



苗字はまだ武士の時代の「一所懸命」精神で、
その「一所」を守って頑張って屋号で呼ばれて苗字になって
と結構分かり易かったりしますが

家紋はかなり自由になっているから見当がつかない。


でもこれでスッキリしましたね。



上野国の松島という地名を探そうと思っています。

[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 22時42分15秒 ) パスワード

新田関係では無いように思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E8%8D%98%E9%81%BA%E8%B7%A1

1157年の「空閑の郷々」19郷[10]
女塚[3][11]
上江田
下江田[12]
田中[3]
大館
粕川
小角
押切[11]
出塚
世良田[11]
三木[11]
上今井[2]
下今井[3]
上平塚[11]
下平塚[11]
木崎
長福寺
多古宇
八木沼



1170年の荘域[13]北限:勢多郡新里(桐生市/鹿田山)須永御厨との境界南限:武蔵国榛沢郡横瀬(埼玉県深谷市/利根川・広瀬川の流路・小山川左岸:近世以前の利根川旧河道)東限:飯塚(太田市/金山丘陵、蛇川・八瀬川(旧・岩瀬川)の流路)薗田御厨・梁田御厨・藤姓足利荘・源姓足利荘との境界西限:佐位郡木島(旧佐波郡境町、現伊勢崎市/早川の流路)淵名荘との境界


太田[14]
田嶋[2]
東牛澤[14]
岩松[2]
成塚[2]
一井
薮塚[2]
額戸
青根
西牛澤[14]
濱田
二児塚[2]
鶴生田
石塩(中岡)
大嶋
由良
今井[2][11]
村田[2]
高林[14]
長手
新川[15]
鹿田
北鹿田[15]
阿佐見
小泉
足垂[15]
藤心[15]
高嶋[2]
飯塚
岩瀬川
綿打[16]
田部井
はなか塚[15]
女塚[3][11][15]
木嶋[15]
菱嶋
千歳[2]
横瀬
小倉



新田氏遺構群のうち下記の11箇所が新田荘遺跡として国の史跡に指定されている。
円福寺境内(太田市別所町)
十二所神社境内(太田市別所町)
総持寺境内(太田市世良田町)
長楽寺境内(太田市世良田町)
東照宮境内(太田市世良田町)
明王院境内(太田市安養寺町)
生品神社境内(太田市新田市野井町)
反町館跡(太田市新田反町)
江田館跡(太田市新田上江田町)
重殿水源(太田市新田市野井町)
矢太神水源(太田市新田大根町)








べつの新田系も見ましたが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%93%E6%B0%B7%E9%83%A1


    大島
    松井
    里見

かなり迫った地名は有りますが。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 04時32分05秒 ) パスワード

再び上野国の松島氏について頑張ります。


     群馬の桐生と前橋の戦いって
     明治維新にもズレ込んで
     吉田松陰の妹の  杉=草加=ふみさんの  後夫の伊之助さんが県知事になってから火に油を注ぎ
     ゴタゴタは今に至るも感情的な対立があるようですね。




http://www.geocities.jp/sisin9monryu/gunnma.kiryu.html

神梅城

http://www.geocities.jp/sisin9monryu/gunnma.kiryu.html


前9年の役で(1051〜1062)源義家に捕らえられた安倍宗任の家臣が
京都に送られる宗任を見送り黒川谷まできたが
あまりの人の多さにここに留め置かれて大方の人間は奥州に返され


    阿久沢、松島氏の90人のみが京都〜奥州の連絡という名目で黒川谷に留ったのが黒川衆の始まりであります。


          へえ〜

          というとこの松島氏は東北系の松島氏?

          仙台の松島と関係があるんでしょうか?
              



城は黒川郷士の阿久沢氏によって築かれました。


初期の城は主郭の南下の細長い尾根に築かれたといいます。
桐生氏、由良氏、上杉氏、後北条氏などの勢力に攻め込まれその度に改修がなされたのではないでしょうか。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 04時37分47秒 ) パスワード

http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/gunma2HP/goranda.htm

五覧田城(群馬県桐生市(旧東村)荻原)


この城は黒川郷と呼ばれた渡良瀬川渓谷一帯の中心的城郭であり、戦国時代は上杉、北条等の戦国大名の争奪の場となった。



この黒川郷には、戦国時代初頭に「黒川八城」と呼ばれて深沢城、五覧田城、三カ郷城、小中城、座間城、神戸城、草木城、沢入城があったという。


この一帯の武士は「黒川衆」と呼ばれ、源義家が奥州から連れ帰った安倍一族に従っていた蝦夷を奥州との連絡のために土着させた子孫ともいう。



阿久沢氏、松島氏、高草木氏等であるが、               ココ
その筆頭が深沢城を本拠にする阿久沢氏であり、
深沢城は彼ら黒川衆の寄居であったという。



彼らは始めは桐生氏に従い、桐生氏が滅亡すると由良氏に従う。

しかし、由良氏自体が北条、上杉の間で揺れるため、必然的に黒川衆もその動きに巻き込まれる。



なお、この黒川の地名は鉱山に由来し、金山がある場所に多い地名であり、
甲斐、越後、常陸に「黒川金山」が存在するように鉱物資源に恵まれていたようである。


その証拠に上流には足尾銅山がある。このため農業生産性は低いが、戦国武将にとっては経済的に魅力的な地であった。



さらにこの渓谷沿いは沼田方面から桐生方面に通じるルートであり、
戦国末期、前橋を抑えた北条氏はこのルートで沼田方面と連絡し反北条の真田氏と結んで反抗する佐野氏等に苦慮し、
真田氏の配下であった黒川衆を寝返らせることで、佐野氏等の反北条勢力の息の根を止めている。



しかし、北条氏についたことで黒川衆の武士としての生命は絶たれ、城は廃城となり彼らはこの地で帰農することになる。



この城で本当に攻防戦があったとは思えない。

包囲、篭城はあったであろうが、戦闘は起こらなかったのではないかと思う。


包囲という恐喝で開城させたり、
一族の篭絡による分断、
去ったあとの裏切り
というのがこの城を巡る戦いの姿であったのであろう。



五覧田城は戦国時代でも整備されたのは比較的新しい時期であったようである。


「五乱田の砦」とよく混同されるが、五乱田の砦はこの城の南の麓、関守地区にあった川の断崖に面した城であったという。



ここの城主、深沢氏は真田氏の諜略で由良氏を裏切り、黒川谷から桐生方面進出の拠点とした。

これを北条氏の命を受けた由良氏が阿久沢氏を派遣して奪回し、真田氏の勢力を駆逐する。

五覧田城はもともと五乱田の砦の詰めの城として存在していたようであるが、真田氏の奪回行動を阻止するために今の姿に整備されたようである。


時に天正13年(1585)というから戦国時代ももうすぐ終わりの頃である。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 04時49分26秒 ) パスワード

桐生城と桐生地域                    オヤオヤ
                              平家系つながりですか


      1番下の画像をご覧ください。

       なんと!   鳳仙寺にある由良成繁の墓  ですが
       由良氏の家紋は   丸に一文字紋?????  ビックリ
   


桐生氏初代の桐生六郎は、源平合戦の頃、関東の武士たちのなかで有力な平家方であった、藤姓足利氏の足利俊綱を主人としていた。


               足利尊氏=源氏=とは関係無いですよ〜


桐生六郎は、その足利俊綱を謀殺、源氏に返り忠を果たした。
しかし、その桐生六郎の主人への裏切りを源頼朝は許さず、これを処刑し、その子孫は四代目にいたるまで桐生梅原館に蟄居した。


               すごい!
               頼朝ってそういう人だったの?!

               父上の事がありますからね。



その後に登場する桐生国綱は、従来四代目の宣綱といわれる当主の子で、桐生五代目とされてきた。

この国綱は足利尊氏に応じて戦功をあげ、桐生川一帯の地を与えられたというが、
最近の研究によれば桐生国綱は佐野氏の出身で、
その子孫もまた佐野の血をひく者たちであり、桐生佐野氏というべき氏族であることが分かってきた。


この国綱までの桐生氏を前桐生氏、国綱以降の桐生氏は後桐生氏といわれる。

つまり、桐生六郎らの桐生氏は桐生を根拠とした武士であることは間違いないが、
それは主人である藤姓足利氏と同族かもしれないにせよ、出自は不詳である。

かたや桐生国綱は佐野氏の出身であることがわかっている。


つまり、その前桐生氏と桐生国綱から始まる後桐生氏、あるいは桐生佐野氏は別氏族であったらしい。



桐生国綱は、観応元年(1350)、谷直綱に命じて城山(じょうやま)に桐生城を築き、平時は城山の南麓に居館を建てて住んだ。また、翌観応2年(1351)には高津戸城などの城主であった山田筑後守則之が、密かに桐生を侵略しようと企てていたのを、桐生国綱は先手をとってこれを攻め滅ぼし、領地を西側渡良瀬川沿岸に広げた。国綱は、桐生南部の開墾や桐生氏菩提寺の西方寺の創建など行っている。



その桐生城は桐生川によって形成された桐生谷の内奥の城山にあって、檜杓山城とも呼ばれる。檜杓山城といわれる所以は、本丸を斗口とし、二の丸、三の、丸を柄とする檜杓に形が似ていることであり、それで檜杓山城と名付けられ、階梯式の連郭配置となっている。桐生地域では、梅原館を中心に新川堀を遠構、丸山の砦、今井宿、浅間山、物見山を前線基地とし、桐生城を詰めの城とした地域城が形成されていた。さらに、桐生氏最盛期には、小倉の砦、用命の砦などの周辺城砦と仁田山地域城の仁田山城、高津戸城などの要害や黒川谷の深沢城、五蘭田城などを含めた広域にわたる防衛線が築かれていた。



桐生城は、前述したように城山頂上を削平した場所が本丸、その西下に二の丸、三の丸と階梯式に郭が続き、二の丸、三の丸の北側には北曲輪がある。本丸の南側、城山山麓の渭雲寺(居館:「いだて」の地名が残る)、日枝神社あたりには城主の日常居館があって、館と背後の桐生城との間には通路があり、途中坂中曲輪、追手がある。一般的には、その道が追手道とされているが、傾斜が急で馬が上れないため、傾斜の比較的なだらかな岡平から三の丸下に出る西搦手が通路としてよく使用されたようで、桐生城攻めでもその場所から由良勢に集中的に攻めかかられている。また、岡平にも、別郭があったと見られている。水の手は、居館北西の小流を使用していた模様で、居館西側にも井戸があった。



桐生国綱以降、戦国期の途中まで桐生氏がこの城を支配したが、元亀4年(1573)に由良氏に攻められ、桐生城は落城、当主親綱は佐野へと落ち、以降由良氏の城となる。その由良氏も小田原北条氏について小田原籠城戦を戦ったために、牛久へ移封となり、桐生城は廃城になった。


下図は、桐生城と周辺を示し、図上の写真もしくは小さな花をクリックすると、該当する場所の画像を表示する。




桐生城の攻防と黒川郷士

桐生国綱が築き、以降歴代の桐生氏当主が居城とした桐生城であったが、最盛期の当主である桐生祐綱が永禄13年(1570)五月に59歳で没すると、佐野家から迎えた養子の親綱が桐生氏の当主となった。しかし、佐野から後見人として附いてきた、荒井主税之助、茂木右馬之丞、山越出羽、津府久刑部の四家老のうち、山越、津府久が専横を行い、当主親綱も政治に興味を失ったため、家中は大いに乱れることになる。桐生氏家中の乱れをついて、由良成繁は、ついに元亀四年(1573)3月、由良の軍勢は桐生城を攻め、寄せ手の大将、藤生紀伊守は人数を三手に分け、東西の搦め手を通って桐生城へ押し寄せたが、対する桐生勢の多くは戦意なく、かねてからの申し合せもあって、その場で寝返る者も相次いだ。迎え撃つ桐生勢のなかでは、白装束で戦った山越某の働きが目立っただけで、あっけなく桐生城は落城し、当主重綱は佐野へと落ち延びた。その後、桐生は由良氏が治めるところとなる。



では、桐生城の攻防について、黒川郷士のとった行動は、どのようなものであったのか。

                   松島氏登場!
                   小中城主?!


江戸時代に槇島昭武が書いた軍記物、「関八州古戦録」では、
阿久沢、松嶋ら黒川郷士は「善悪の沙汰に及ばず」と中立の立場をとったように書かれている。

しかし、実際は既に由良方についていた者もいたようで、
小中城主であったという松嶋淡路守はいち早く桐生氏を見限り、
他の黒川郷士とも別行動をしていた模様で、
天正6年(1578)10月、黒川郷士と由良勢との合戦に先立ち由良方の武士として使者にたったところを
増水した渡良瀬川で遭難した事件が軍記類の記事に見られる。


上田沢、湧丸あたりの松嶋氏も桐生氏を見限り、
水論に始まる桐生・由良の合戦では由良に加担したと思われ、
桐生家が滅亡した元亀4年(1573)に松嶋右京助宛、由良成繁の安堵状が出されている。



そのほかの黒川郷士については、史料がなく明確でない。

例えば、阿久沢氏については、桐生氏滅亡時点では明確ではないが、後に後北条氏と接近し、
阿久沢左馬助宛の知行をしるした文書が残されていることや、
真田氏に奪われた五蘭田城を奪回するにあたって、
複数の人に発行された感状が残るなど、
密接な関係があったことが証されているように、その他国衆として活躍していくことになる。





由良氏の桐生支配と桐生城廃城
     


桐生氏を滅ぼした由良氏は、太田金山領に桐生領を併合した。

由良成繁は、横瀬勘九郎を桐生城代とし、藤生紀伊守を添えて守らせた。さらに、横瀬長繁(成繁の弟)を城代とし、二の丸に藤生紀伊守、三の丸に金谷因幡守を置いて、桐生城の守りを堅くした。また、成繁自身が天正2年(1574)に隠居して、桐生の居館に住んだ。天正6年(1578)に成繁がなくなると、桐生城に近い場所に建立した桐生山鳳仙寺に成繁の墓を建てた。

由良成繁の死去に乗じて、桐生氏最後の当主であった親綱が密かに桐生に潜伏し、旧臣を語らって挙兵しようとしたが、応じる者が殆どなく失望して旗指物や財物を焼き払い桐生を去った。


天正6年(1578)10月には、桐生氏にかわって桐生の支配者となった由良氏が、黒川谷に兵を進め、黒川郷士はよく戦ったが、結局由良氏の旗下となった。


その後、由良成繁の跡を継いだ国繁は、天正6年(1578)6月の上杉謙信の死去に伴い、上杉氏にかわって関東に覇をとなえた後北条氏によって、次第に圧力を受けることになった。

天正12年(1584)には、後北条氏は策略をもって由良国繁とその弟長尾顕長を小田原に抑留し、その間に金山、館林両城を攻めたが、落せなかった。しかし、その後も後北条氏の策動は続き、ついに由良国繁は金山を捨てて桐生に退き、長尾顕長も館林を後北条氏に渡して足利に移った。

さらに、天正18年(1590)由良国繁は後北条氏の催促によって、小田原籠城戦に従軍した。


一方、由良成繁未亡人で国繁の母である妙印尼(赤井家堅の娘輝子)は、七十七歳の高齢ながら自ら甲冑を着て10才の孫貞繁を伴って、中山道を東下してきた豊臣方の前田利家に会い、利家と上杉景勝の幕下となって松井田城を攻略した。


妙印尼は、その後豊臣秀吉とも面会したが、由良氏が大名として存続することは許されず、
由良嫡流の貞繁は豊臣秀吉によって牛久五千石に移封となった。



                 ココ!
                 遠江国横須賀! 
                 秀次事件連座!



また国繁の弟渡瀬繁詮は、遠江横須賀城三万五千石に任じられたが、
後に豊臣秀次の家老となって秀次事件に連座することになる。

こうして、桐生国綱以降、桐生氏が居城とし、桐生氏滅亡後も由良氏が入った桐生城は廃城となったのである

[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 04時54分14秒 ) パスワード

http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1_3.htm

ここです。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 05時01分03秒 ) パスワード

松島氏については全く書かれていませんが。



http://www.geocities.jp/tsukayan0112/joukan-totigi/konaka-jou-sano/konaka-jou-sano.html



小中城            

 栃木県佐野市小中町字堀の内977

歴史、人物、伝承



凸壮大な堀跡と土塁が残存

 この小中城に関しては、築城年代、築城者、城主ともに不明で伝承・記録の類は確認されておりませんが、残存する遺構の状態から館跡と推定したとのことです。なお、現在は空堀のように見える堀跡について、少し以前には水堀の体をなしていた模様です。城館としての領域は一辺が約120メートルほどの方形をなし、現在は北辺と西辺に明確な土塁と堀跡が残されています。(「佐野市史資料編1」を参照)


 現状の遺構そのものからは、その築造された時代背景の推定および技巧的な特徴を見出すことは難しいものと考えられます。しかし土塁・堀跡の規模、郭内の広さなどの諸要素からは、戦国時代における佐野氏の有力家臣層の館城という時期が一定期間存在したものと想定するのが妥当であるように思われます。

 (追記)



 なお、「近代足利市史」(小野寺別系図)によれば、小野寺氏の一族として4代通氏が「小中氏と号した」ことが記され、また各種の譲状から南北朝期から15世紀中葉にかけて佐野荘内小中郷の家督を相伝していたことが記述されていることから、小中城との一定の関わりを示唆するものとして注視されます。



確認可能な遺構
 土塁、空堀(ともに北辺および西辺部分)

文化財指定
 なし

訪城年月日
 2008年11月23日 9時45分から10時10分、2009年2月21日再訪



訪城の記録 記念撮影



凸 奇跡の平城 (2008/11/23)
 周囲に住宅地などが所在することから残存する遺構については半ば諦観の構。しかしそうした事前の予想は大きく覆る結果となりました。思いもよらぬ状態で北側と西側に良好な土塁と空堀遺構が現存。加えて堀幅8mを遥かに超える規模の空堀と堀側で高さ最大で6m近い土塁も現存。余り期待していなかったこともあり、思いもよらぬ遺構との遭遇にただひたすら感動。

 ただしどうも近々地形の改変が予定されているような印象があり、既に樹木の伐採に際して一部重機の手が入ったような形跡も見受けられます。無論、個人の方の私有地ではありますが、今後の推移が大変気にかかりました。因みに城跡の所在地は、かの有名な田中正造翁屋敷の北隣という由緒のある土地柄でもありました。

凸 遺構は健在 (2009/02/21)
 3か月前の2008年の11月に訪れた際には、竹林が伐採されて殆ど土塁遺構が剥きだし状態となっていたため、その後の形質変更等の状況が気にかかっておりました。この日は足利市内の城館跡探訪がひと段落して日没までは多少の時間的余裕が。

 それならば善は急げとばかりに、早速黄昏迫るなかを数キロメートル東に所在する佐野市内まで移動。現地に到着したのは既に山入端に太陽が隠れ始めた日没間近という時間帯。夕日を浴びたL字型の土塁、深さ約5mを測る空堀からなる城館遺構は、概ね3ヶ月前と変わらずにその健在ぶりを顕示しておりました。


[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 05時05分16秒 ) パスワード

つまり  あちらの松下家にスポットライトが当たりましたね。


早く届かないかな〜


新田?
里見?
南朝方?
平家?


もう麻のようにもつれにもつれてますね。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 05時57分07秒 ) パスワード

レス<35>の松島氏は 桐生→由良へということで武田と喧嘩してた松島氏とは連絡し合ってる余裕は無かったんじゃないでしょうか?


http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1_3.htm

    上田沢、湧丸あたりの松嶋氏も桐生氏を見限り、
   水論に始まる桐生・由良の合戦では由良に加担したと思われ、
   桐生家が滅亡した元亀4年(1573)に松嶋右京助宛、由良成繁の安堵状が出されている。



    国繁の弟渡瀬繁詮は、遠江横須賀城三万五千石に任じられた
     後に豊臣秀次の家老となって秀次事件に連座することになる


このあたりで両松島氏は連絡し合ったかもですね。  
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月25日 07時12分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろ興味深いことが書かれていますが、名古屋へ行ってきますので、
帰宅後読解いたします。
 そうそう、忘れていましたことがあります。松島町の松島氏の家紋は、
「隅立て一つ目」でございました。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 07時48分28秒 ) パスワード

>松島町の松島氏の家紋は、 「隅立て一つ目」でございました。

これまた思わぬ家紋ですね。
意外でした。


[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 08時20分23秒 ) パスワード

新田義貞の家来の松島式部を捜しています。2名のみ見つかりました。



http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/yura.html

由良家 家臣団


 松島古柏 (?〜?)

 沢入城主。
 桐生親綱、後北条家に仕える。
 天正七年、由良国繁の重臣藤生善久に攻められ降伏。     1579年
 人質を出して由良家家臣となった。
 天正十一年、金山籠城に参戦。





 松嶋式部太夫 (?〜?)
 桐生親綱の家臣。
 桐生家衰退後、由良成繁に仕えた。

 


___________________由良家の秘密_________________




 【由良家中の家格】

由良家は由良家城主、新田殿御一家、雅楽介親類、同傍衆、家風、同心衆、郷御一家衆で構成された。


ランク:

新田殿御一家は岩松一門。
雅楽介親類は由良一門。
同傍衆は岩松家中で由良家と同輩だった家。
家風は由良家の家臣。
同心衆は由良領の周囲に所領を持つ有力地主。
郷御一家衆は由良領内の有力百姓である。

 

 

 【由良成繁の系図詐称】              あらら・・

岩松氏と主従が逆転すると、由良家には新田系の系図が手に入った。
ここから由良家は新田義貞の子孫を称するようになったと云う。

                          ということは、松島氏が新田義貞の家臣だったというのは
                          由良家の系図詐称以降
                          ともに詐称?

                           


新田義宗の三男が横瀬貞氏を称したのが由良家の始まりとされている。



徳川家康も新田系を称したため、岩松家は徳川家の遠縁として微禄を与えられた。

 


 【横瀬氏から由良氏への改姓】

永禄三年、長尾景虎は関東管領就任祝賀のため鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に参拝。   1560年   桶狭間の年ですね
山内上杉氏を称した。

由良成繁はこれに供奉しており、横瀬姓から由良姓に改めた。       
将軍義輝からの勧めもあったと云う。
 

 【由良成繁の外交政策】

天文二十二年六月、由良成繁は将軍義輝に鷹を献上。        1553年
返礼として太刀一腰と、次毛氈鞍覆白傘袋免の使用を許された。

朝廷に禁裏修理費用を献上し、関東に下向した近衛前嗣に供奉した功から刑部大輔に任ぜられた。
また、足利義輝の御供衆となった。

永禄九年、伊達輝宗は由良国繁に鷹を贈った。           1566年
これは家人の上洛に際し、安全を保証するためであった。

成繁没後、嫡子由良国繁は一門横瀬掃部を洛させ、
織田信長に綿百斤を献上した。
喜んだ織田信長の斡旋により、国繁は従四位信濃守に叙任された。

 

 
 【由良成繁の統治政策】

由良成繁は桐生親綱を破り、上州桐生を所領に加えた。
足利長尾家に次男顕長を入嗣させ、顕長に上州館林まで勢力を拡大させた。
これにより由良家は上州東部から野州南部に大きな勢力を有するようになった。

天文五年正月、由良成繁は「御家中御法度書之事」、「百姓御仕置御法度の度」を制定。
林弾正忠、林伊賀守、大沢豊前守、矢内修理亮らはその奉行となった。

 

 

 【由良家の軍事物資】         世良田=徳川家の出身地だから 
                    徳川時代は優遇されたということになりますね。
                    世間的には「新田義貞の子孫」とか「新田義貞の家来」で通ります。

                    上野国の松島家が新田義貞の家来というハナシはここで作られたのでしょうね。ラッキー!

                     徳川家からして新田の子孫と言ってるのだから出来レースということですね。

                     
          
上野国世良田の長楽寺住職であった義哲は、「長楽寺永禄日記」を書き残している。
その中に立野に関する記述がある。
立野とは大名や寺社などが物資を得るため、独占的な採取権を持った区域である。

永禄八年一月、立野で柴刈りをした下人が捕らえられ、馬や鎌が没収された。
六月十七日の項には、鷹岡の立野で草刈りをした下人が捕縛された。
九月十五日の項によると、鷹野にある立野で柴葉二十四駄二束が刈られ、九駄は長楽寺に納められた。
残り十五駄二束は野守に届けられた。
野守は預けられた柴葉を保管したのだろう。

「長楽寺永禄日記」には当時の植林の様子も書かれている。
杉の枝を土に立て、根を生やさせて苗木にした。
これらの行為は取木や挿し木と呼ばれた。苗木を植えた後、周囲の雑草を刈り取り、覆いを被せて苗木を保護した。
苗木が根付いてしばらくすると植え替えを行った。
そして、苗木が大きくなると植林する土地への植え替えが行われた。

由良家では金山城の麓で苗木を作っていた。
杉などの樹木は合戦や生活に必要不可欠であり、大名は植林によって樹木の枯渇を防いでいた。

 

   

 【名城 金山城】

金山城の城下町には長楽寺の蔵屋があり、米麦九十四俵が備蓄されていた。
町では市も開かれ、近隣の商業の中心となった。百姓は訴訟の際に金山城で由良成繁の裁定を仰いだ。
金山城から法螺貝、鐘の音がすると近隣に居住する家臣は金山城に集合した。
天正五年頃、由良成繁は嫡子国繁や家臣に宛てて遺言を残す。
その中で金山城を次のように評価した。
「山上の池のおかげで飲水に困らず、薪も豊富に取れる。東北に渡良瀬川、南に利根川があり、
楠正成の籠もった河内千破剣城にも劣らぬ名城である。
関八州の軍勢が攻めようともこの堅城は、将の武略と組み合わされば十年、二十年は簡単に落ちることはないだろう」。


今日も金山状は関東有数の名城として評価されている。
 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 08時24分59秒 ) パスワード

沢入城主  松島古柏について



http://www.city.midori.gunma.jp/www/contents/1000000000044/index.html

戦国の乱世には関東制覇をねらう越後上杉、甲州武田、小田原北条が互いにしのぎを削っていた。

その勢力下にあった上野国東毛各地の武士団は、波間にただよう小舟のようなものであった。

そういった武士のひとりであった太田金山城主由良成繁は、天正2年(1574)桐生親綱を滅ぼし所領を手中に治めたものの、
黒川谷深沢城主阿久沢能登守や、沢入城松島式部小輔古柏らは由良氏に属さず、北条氏に通じていた。



これを甚だ不満としていた由良国繁は、天正7年(1579)遂に軍を動かし合戦となった。
この合戦で亡くなった戦死者をこの辺りに葬った塚が、千人塚(桐生塚)と呼ばれている。


      その後宝暦2年(1752)に正円寺28世盈仙和尚が、
      地蔵堂建立のため各村に行脚し浄財を集め、石工を招き仏像を彫らせていた。

      たまたま不思議なことばかり起こるので、頭部が完成されず石工が逃げ出したという。

      このことについて天明の頃、高山彦九郎が深沢宿を通った時の日記に、
      「石工に申付けたるに石工価にあたらて半途にして逃げたりといふ。」と書いてある。

      土地の人は寸法ちがいで出来ず「間違い地蔵」と呼んでいる。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 08時34分05秒 ) パスワード

http://tigerdream-no.blog.jp/archives/cat_369857.html?p=2



松島家の菩提寺 −松源寺−
みどり市大間々町塩原の光輝山松源寺。

          みどり市は桐生市のすぐ隣。前橋にもスグ近く。
          足利は桐生市の東南東・・・かな?


松源寺の創建は寛永8年(1631年)、松島信次の開基、的傳文當大和尚が
開山したのが始まりという。

松島家の菩提寺である。

開基の松島信次は、松島武部少輔の一族で鳥海弥三郎の子孫。

寺宝は円空作の薬師如来坐像。円空は延宝9年(1681年)に貫前神社に
貫前神社に滞在していた記録が残っている。


松島信次という人は、調べたけどよく分からず。


鳥海弥三郎は、奥州・安倍氏の直系らしく、
東北きっての秀麗な山・鳥海山の名は、鳥海弥三郎からきている、という説もあるらしい。



     ということは上野国の松島氏は江戸時代には桐生あたりに固まっているんでしょうね。

     その中の一部は徳川政権下で「新田の家臣」=「徳川家と古いお付き合い」という名目を大いに使ったかもですね。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 08時46分45秒 ) パスワード

ということで「松島氏の系図の中の新田義貞の家臣だった説」はかなりウソかもね。


新田の子孫の徳川氏とは「まわりまわった関係」というのは江戸時代は自分の家を嵩上げするのに都合が良かったと思います。
「箔」付けできた、というのですね。

徳川幕府も上野国出身者にはお咎め出来なかったでしょうし。
特に新田の敵の足利近くの出身者には。



ただ本当に新田の家臣だった可能性もありますね。


由良氏もこればっかりは自分の家が系図の詐称をしているから松島氏を叱れないし。
由良氏の家臣はこぞって皆さん新田義貞の家来だったと徳川幕府に報告したかも知れないし。

    「そこは流れで」笑


徳川幕府も否定できない弱みがあるし。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 08時48分57秒 ) パスワード

紀伊の松島氏は紀伊国名草郡松島(和歌山県和歌山市松島)をルーツとする。


ということで紀伊国の松島氏をちょっと見てきますね。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 09時27分04秒 ) パスワード

<47><48>と紀伊国松島について調べてみましたが全く参考にはなりませんでした。

削除しました。


わたくし的には紀伊国松島は熊野系かと思いましたが違うようですし
南朝系かとも思いましたが記事は有りませんでした。


ということで紀伊国松島は何でもありませんでした。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 09時29分18秒 ) パスワード

続家紋でたどるあなたの家系 - Page 18

千鹿野茂 - 1998 - ‎Preview - ‎More editions


清和源氏満快流伊那氏松島紀伊国名草郡松島村より起こる。紀臣族。
              ↑
            これが気になりました。


こんなのがありました。
          なんとなく伊那の松島氏は源氏で紀伊国出身者?

http://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA14-PA18&dq=%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E3%80%80%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&hl=en&sa=X&ei=DNg6VcyOPMvWoAThhoDIBA&ved=0CB4Q6AEwAA#v=onepage&q=%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E3%80%80%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


          残念ながら開けられないです。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 09時37分39秒 ) パスワード

復習

http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/matsushima-jyo/
信濃・松島城



築城年代は定かではないが松島氏によって築かれたと云われる。 松島氏は信濃国伊那郡松島発祥で小笠原長清の末葉が松島に住んで松島氏を名乗ったことに始まるといわれるが、出自に関しては諸説あるようである。

松島氏は天文年間(1532年〜1555年)頃には福与城の藤沢頼親に属して武田信玄と戦ったが敗れたという。
説明
現在の箕輪町役場周辺が城址で、天竜川の西岸の河岸段丘に築かれている。

箕輪町役場とその南側にある市川神社との間を通る道が空堀跡だと思われるが、明確な遺構はない。役場の西側に松島氏の墓所がある。

松島氏 所在地 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪字松島(箕輪町役場)





小笠原 長清(おがさわら ながきよ)


平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。文治元年(1185年)、源頼朝の推挙で、信濃守に補任された。ここより、信濃に勢力を浸透させていくこととなる。信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。



高倉天皇に滝口武者として仕えた父・遠光の所領のうち、甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続して、元服の折に高倉天皇より小笠原の姓を賜ったとされる。

源頼朝挙兵の際、19歳の長清は兄・秋山光朝とともに京で平知盛の被官であったとされ、母の病気を理由に帰国を願い出て許され、主家である平家を裏切り頼朝の下に参じたと伝えられる。治承・寿永の乱において戦功を重ね、父と同じ信濃守に任じられる。また海野幸氏・望月重隆・武田信光と並んで「弓馬四天王」と称されて、26歳のときに頼朝に出仕し、鎌倉幕府の御家人としての小笠原氏の基礎を築いた。

頼朝没後、子の長経が二代将軍源頼家の近習であった事から、建仁3年(1203年)9月の比企能員の変に連座して処罰されたため、一時小笠原氏は没落するが、姉妹である大弐局は三代将軍源実朝の養育係を務めて小笠原氏の鎌倉での地位を維持しており、嫡男の時長は次期将軍三寅の鎌倉下向の随兵を務めて鎌倉での活動が見られる。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時16分49秒 ) パスワード

木曽義仲が横田河原の戦いをした時の話。

諏訪上社の千野太郎光弘は木曽義仲の侍大将樋口兼光の甥であった。

    これはビックリ。
    松島氏は千野氏の出ですものね。

    
    諏訪上社は源平時代に源氏方になっていたのね。へえ〜



http://rarememory.justhpbs.jp/saku2/sa2.htm

義仲が丸子の依田城を根拠にし、軍馬・軍兵・食糧・武器を調達しながら、反平氏の佐久軍勢を掌握した。東信に散在する私牧からも北陸進出のための機動力ある馬が得られた。

 義仲の動きに呼応するように高井郡村山(須坂氏村山)を根拠とする村山七郎義直が、治承4年9月7日、善光寺平(長野市栗田)に所領を有する栗田氏と図り反平氏として決起した。村山氏は、清和源氏の一族が高井郡井上を拠点として、信濃源氏の名門となった井上氏の支族であった。

 平家に味方する信濃の笠原牧(中野市笠原)を根拠とする豪族・笠原平五頼直が、源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てた。それを察した源氏一族の村山義直が、笠原氏と築摩郡の栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らとの間で、信濃国市原(長野市若里)付近での戦いが行われた。これが市原合戦(いちはらかっせん)、または「善光寺裏合戦」とも呼ばれた戦いであった。勝敗は容易に決着せず、ついに日没になり、矢が尽きて劣勢となった村山方は、義仲に援軍を要請した。それに呼応して救援に駆けつけた義仲軍を見て、笠原勢は即座に退却した。そして、越後の豪族・城氏の元へ敗走した。この勝利で、東信の武士たちが駆けつけ、義仲軍は急速に膨張した。



その中に諏訪上社の千野太郎光弘がいた。光弘は樋口兼光の甥であった。   ココ
                   



 治承4年10月、義仲は内山峠を越え父義賢の根拠地であった西上野に入り、義賢の所領であった多胡荘で父とかかわりのある武士たちを集めた。それが瀬下・那和・桃井・木角・佐井・多胡などの諸氏で高山党と呼ばれた。しかし当時、上野は既に頼朝の勢力がおよび、それ以上の拡大はできず、12月には信濃に戻った。
 佐久地方を根拠にする武士で義仲に従った氏族は、根井(佐久市)・楯(佐久町)・小室(小諸市)・志賀(佐久市の東部・志賀流域)・野沢(佐久市役所の南)・本沢(望月町)・矢島(浅科村)・平原(小諸市)・望月(望月町)・石突(佐久市石突川)・落合(佐久市伴野の北隣)などがいた。義仲は木曾党同様、佐久党も根井行親とその6男楯親忠親子が義仲軍四天王に数えられたように、その直属の中核軍として重用した。

[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時20分37秒 ) パスワード

鎌倉時代の信濃の公領は約113か所、荘園は98か所数えられた。但し、左馬寮領の牧は荘園として数えられている。



 信濃の国
   伊賀良庄(尊勝寺領)       伴野庄(上西門院御領)
   郡戸庄(殿下)          江儀遠山庄
   大河原鹿塩            諏訪南宮上下社(八條院領)
   同上下社領(白川郷)       小俣郷・熊井郷
   落原庄(殿下)          大吉祖庄(宗像少輔領)
   黒河内藤澤(庄号の字無きの由、今度尋ね捜すの処、新たに諏訪上下社領と為す。
         仍って国衙の進止に随わず)


   棒中村庄             棒北條庄
   洗馬庄(蓮華王院御領)      相原庄(相)
   麻績御厨(大神宮御領)      住吉庄(院御領)

      ↑
      麻績服部さん


   野原庄(同前)          前見庄(雅楽頭濟盆領)


   大穴庄(元左大弁師能領、近年忠清法師領)   藤原(平)忠清?


   仁科御厨(太神宮御領)      小谷庄(八幡宮御領)
   石河庄(御室御領)        四宮庄南北(同前)
   布施本庄             布施御厨
   富都御厨             善光寺(三井寺領)
   顕光寺(天台山末寺)       若月庄(證菩提院領)
   太田庄(殿下御領)        小河庄(上西門院御領)
   丸栗庄(御室御領)        弘瀬庄(院御領)
   小曽禰庄(八條院御領)      市村庄(院御領)
   芋河庄(殿下御領)        青瀧寺
   安永勅旨             月林寺(天台末寺)
   今溝庄(松尾社領)        善光寺領(阿居・馬島・村山・吉野)


   天台山領小市           東條庄(八條院御領)
   保科御厨             橡原御庄(九條城興寺領)
   同加納屋代四箇村         浦野庄(日吉社領)
   莢多庄(殿下御領)        倉科庄(九條城興寺領)
   塩田庄(最勝光院領)       小泉庄(一條大納言家領)
   常田庄(八條院御領)       海野庄(殿下御領)
   依田庄(前の齋院御領)      穀倉院領
   佐久伴野庄(院御領)       千国庄(六條院)
   桑原余田(前の堀河源大納言家領) 大井庄(八條院御領)
   平野社領(今八幡宮領。浅間社・岡田郷)
  左馬寮領
   笠原御牧  宮所   平井弖  岡屋   平野   小野牧  大塩牧
   塩原    南内   北内   大野牧  大室牧  常磐牧  萩金井
   高井野牧  吉田牧  笠原牧(南條)   同北條  望月牧  新張牧
   塩河牧   菱野   長倉庄  塩野   桂井庄  緒鹿牧  多々利牧
   金倉井
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時24分47秒 ) パスワード

続き

     会田(東筑摩郡四賀村)と麻績(東筑摩郡麻績村)に平家領があった


                  ビックリ!

                  ヒバリさんがお書きの服部伊賀守って
                  要するに  平家  の服部ってこと?!

                  だから  伊賀忍者とか  伊賀服部みたいだけど
                  ヒバリさんは「うちは麻績服部」とおっしゃったワケですか。




二)治承・寿永の内乱
 治承4(1180)年8月の頼朝の挙兵をきっかけに平氏打倒の勢力が全国各地で蜂起した。これが治承・寿永の内乱である。信濃で蜂起した武士団の代表が、木曾義仲・岡田親義・平賀義信であった。いずれも信濃に土着した清和源氏の流れである。


 義仲の当初の攻撃目標は、筑摩郡の信濃国府であった。その養父は中原兼遠(かねとお)で、中原氏は木曽の北部一帯の木曽福島町・日義村・木祖村あたりにあった大宮司宗像(福岡県宗像市にある宗像大社の宮司)氏の大吉祖荘(おおぎそのしょう)の荘官であった。平氏の時代には、国衙の権頭(ごんのかみ)という役職にあり、兼遠の子に樋口兼光、今井兼平、巴御前、山吹御前がおり、兼光と兼平はともに義仲左右の重臣、娘の巴御前は義仲の妾となっている。またもう一人の娘山吹御前は義仲の長男義高を生んでいる。


 治承4(1180)年、似仁王の令旨によって平家追討の挙兵をした。当初の目的は、筑摩郡の信濃国府であった。国衙の権頭であった養父中原兼遠一族の後援と筑摩郡岡田を本拠とする岡田親義一族の力添えもあって、容易に制圧できたようだ。その後、木曾党という小武士団であったため苦戦する。


                            ココ

善光寺平へ進軍する途上、会田(東筑摩郡四賀村)と麻績(東筑摩郡麻績村)に平家領があった。




その平家勢におされ国府を放棄し、一度、東信地方へ後退した。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時28分11秒 ) パスワード

http://rarememory.justhpbs.jp/saku2/sa2.htm

上記はここからです。


佐久武士誕生史。


ちょっとクラクラしてる・・・
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 15時57分59秒 ) パスワード

一柳右近、秀次事件に遭遇

http://tenkafubu.fc2web.com/isezeme/html/eiroku10.htm

@桑名
伊勢には桑名は各地にある伊勢神宮の領地―御厨・御園からの神饌米や御贄の集配地や尾張や駿河などの物資輸送基地として発展し、財を成した商人が集まり武家からの干渉を受けない自治都市を作り上げた。また八風峠や千草峠を越えてきた近江商人の中継地点でもあった。

自治都市として独立した桑名に1510年中伊勢の長野氏が攻め込んできた。桑名の住人は逃散し長野氏も関を設け桑名への立ち入りを制限した。すると船での輸送がストップ、伊勢神宮へ送られる物資が桑名で足止めとなった。困った伊勢神宮は長野氏に占拠を止めるよう再三要請、その結果長野氏は桑名から引き上げることになった。武力を用いず武家を退却させた桑名衆の実力が垣間見れる話である。



ココ

北伊勢を領有した一益は矢田城・長島城を本拠地にし、桑名には代官を置いただけだった。


1591年桑名に配された豊臣秀次の家臣一柳右近は神戸城の天守閣を揖斐川沿いに移した縄張りで築城を開始した。
しかし1595年の秀次事件で右近はこの地を去る。


1601年桑名を与えられた徳川四天王のひとり本多忠勝は1513年に伊藤武左衛門実房が建てた城館、東城を中心にした縄張りで本格的に築城を開始した。

[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月25日 16時01分58秒 ) パスワード

1番下の盛聡は盛郷にゆかり?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%B0%8F



高山氏(たかやまし)は、日本の氏族のひとつ。


     木曽義仲の横田河原の戦いに協力した上野国高山党。
     もともとは坂東平氏。

 

平姓高山氏[編集]

桓武平氏良文流の秩父氏の一族。秩父重綱の三男である秩父三郎が武蔵国高麗郡高山邑(埼玉県飯能市にある高山不動)に住して高山三郎を名乗り、初代高山三郎重遠となる。

後に重遠は上野国緑野郡高山(群馬県藤岡市美九里地区字高山)を本拠とし、重遠の嫡男重久(重昭)が高山を継ぎ、弟の重幸は緑野郡小林邑に移り小林氏の祖となる。 この頃から重遠の一族は高山党と呼ばれるようになる。

大治6年(1131年)緑野郡に伊勢神宮領高山御厨が置かれる。

上野国(群馬県)多胡郡の源義賢との結びつきをもったようで、高山重久の代に木曾義仲が挙兵したとき、横田河原の合戦に参加している。(高山党の西七郎、平家軍の富部三郎と戦う)その後源範頼軍に参加。

元暦元年12月、高山重遠、熊谷四郎ら佐々木盛綱に従い備前国児島で平行盛を破る。


                              
鎌倉時代になり建保2年(1213年)の和田氏の乱では北条方として参戦し、重昭の嫡男高山重治が鎌倉で討死した。元弘3年(1333年)、新田義貞が挙兵すると高山時重はこれに加わり、分倍河原の戦いで戦死した。子の高山重栄はその後も新田軍として活躍したが、義貞が戦死すると足利尊氏に従った。その後も足利氏に従ったが、応安元年(1368年)、武蔵平一揆の際には河越直重に加わる。乱は関東管領上杉憲顕によって鎮圧され、以降は関東管領上杉氏の家臣として吾妻郡高山村を本拠に高山頼重は上杉禅秀の乱・永享の乱で、高山重秀・重友は結城合戦と戦功を重ねた。

高山盛重(因幡守)は文明18年(1486年)上杉顕定に従い、菅谷原の合戦(埼玉県嵐山町)で上杉定正に敗れ討ち死。その後の盛重の子孫は、新田の金山城主横瀬氏、由良氏に仕え、高山繁勝の代で秋元六万石の国家老として栄える。


本家は大高山と呼ばれ、その分家の子孫に江戸期の寛政三奇人の一人として著名な高山彦九郎がいる。



主家の上杉氏は天文15年(1546年)、北条氏康に河越夜戦で敗れると次第に没落し、天文21年、上杉憲政が越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ちて行く。永禄3年(1560年)、上杉謙信の関東出兵の際には高山行重がこれに参加したが、武田氏、後北条氏の勢力が強くなると高山氏は上州の諸将と共に武田信玄に従った。武田氏滅亡後は織田信長配下の滝川一益、本能寺の変ののちは後北条氏に属し、小田原征伐で後北条氏と共に没落した。末裔は江戸時代には高山衆と呼ばれた。居館として中山城の遺構がある。



摂津高山氏[編集]

摂津高山家は宇多天皇の皇子敦実親王から出たと伝えられ、代々摂津国三島郡清渓村高山に城を構える地頭職であったといわれる(人物叢書『高山右近』参考)。

摂津国三島郡高山庄の国人領主にも高山氏(桓武平氏良文流の高山氏とは違う)がおこり、室町時代頃に高山重基が美濃国本巣郡に移住、そしてその子高山重利が摂津国茨木に移住した。

戦国時代に荒木村重に仕え、高山飛騨守(友照)・高山右近(重友)を輩出した。右近はキリシタン大名として知られ、織田信長、豊臣秀吉に仕え武功をあげるが、キリスト教が禁教とされても棄教することがなかったため改易処分となり、江戸時代にはルソン島に追放となった。なお、摂津の高山氏と江戸時代にも大名として存続した中川氏(中川清秀の子孫)は同族とされる。





旗本高山氏[編集]

桓武平氏平良文の流れを汲む土肥実平の後裔・小早川氏の庶流一族である裳懸氏の裳懸六郎盛聡を祖とする一族。

盛聡は主君・小早川隆景が没すると毛利氏を離れ京都に閑居し、裳懸氏を改め高山氏を称した。関ヶ原の戦いでは東軍に参陣。徳川家康本隊で鉄砲頭として鉄砲隊の一隊を指揮し、その功をもって備中国後月郡木子村で1000石を与えられた。嫡男・高山盛勝の時代に所領の一部を上野国新田郡に移されるが、寄合旗本1000石として明治維新までつづいた。分家に盛聡の次男・利永を祖とする旗本450石がある。



              この盛聡は花押がなんたらと松島家譜に出てた盛郷と関係ありでしょうか?
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月25日 22時55分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明日は一日芝刈りで、あさってはjob-day、通夜、その翌日は葬式とゆっ
くりパソコンに向かう暇がありませんので、あらかじめお伝えしおきます。

 松島家の家系譜が着きましたら見て下さい、5頁目に「源左衛門」が一回
だけ出て来ます。それ以外は源右衛門ばかりとなっています。十湖の祖先は
源左衛門です。源右衛門とどういう関係にあったのか、たぶんどちらかが本
家筋で、どちらかが分家筋だと思います。昨日、松島村の帰りに羽鳥(豊西、
中善地)の源帳院へ寄って墓を良く見て歩きましたら、奥の方に「松島源右衛門」と書かれた墓がありました。源帳院は十湖の菩提寺で有名ですが、十湖
以前では、ひょっとして源右衛門筋の方が有名、あるいは庄屋だったのかも
知れません。
 
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 03時32分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


お忙しそうですね。

いろいろすることがあるということは、まだまだ若い!若造のうちですよ〜
我が家なんて外に出掛けるといったら受診と薬局ですから。




早く松島家譜が届かないかしら?
今日が土曜なので、今日届かないと月曜になってしまいます
早く読みたいのに。

待ってるのはじれったいです、
年寄りには時間は矢のように飛び過ぎていくのに
年寄りは待てないのです。



左と右って
左の方が格上だったような?
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 03時36分28秒 ) パスワード

源長院


http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1200/WJJS24U/2213005100/?Word=%e6%ba%90%e9%95%b7%e9%99%a2&Relation=AND&TypPttrn=BODY&SelectPage=1&BfrDispId=WJJS06U


『浜松市文化遺産デジタルアーカイブ』 

検索キーワード: 源長院
検索対象史資料: 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 浜松市史 一、 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 浜松市史 ニ、 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 浜松市史 三、 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 史資料




1

嶋村重立五人農兵六拾壱人二、稽古所羽鳥村源長院松島忠兵衛小栗武右衛門山下佐次兵衛田中新




2

よると、笠井村定明寺・同村法永寺・羽鳥村源長院の三寺が同村の檀那百二十二人(内男七十人




3

おく)は浜松の人で俗姓不詳。安芸国広島の源長院の開山となっている。慶安元年(一六四八)




4

松木嶋西美薗東美薗可睡斎爪内高薗有玉上瀬源長院羽鳥雲岩寺恒武日蓮宗



5

太夫開基)安養寺(宗安寺末)東漸寺大宝寺源長院学薗寺花学院竜秀院大応寺竜泉寺(雲岩寺)




6

町間宮邦一氏蔵)九二金原明善(浜松市豊町源長院提供)九五金原明善屋敷一〇〇天竜製材株式




7

十湖(大正十五年七月十日没、七十八歳、墓源長院)も天竜川の氾濫が生んだ報徳家であった。

[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 03時42分05秒 ) パスワード

上記
    3
    おく)は浜松の人で俗姓不詳。安芸国広島の源長院の開山となっている。慶安元年(一六四八)

                   ⇅

大屋(だいおく)は浜松の人で俗姓不詳。
安芸国広島の源長院の開山となっている。

慶安元年(一六四八)八月没(『日本仏家人名辞典』)。


【貞寛】また享保年間貞寛があった(『浜名郡史』)。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 03時43分38秒 ) パスワード

あら?


確か   盛郷って   広島  がらみじゃなかったですか?

     
     陶氏のなんたら、だったような



浜松の松島さんが  広島  と関係があった?
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 03時54分49秒 ) パスワード

陶 弘護(すえ ひろもり)

康正元年9月3日(1455年10月13日) 〜  文明14年5月27日(1482年6月13日)


父:陶弘房、母:仁保盛郷の娘


室町時代の武将で大内氏重臣



陶氏は大内氏の一族であり、代々周防守護代職を務めた。
父が応仁の乱で応仁2年(1468年)に戦死し、13歳で陶氏当主を継いだ。
翌年元服して、当主大内政弘から一字を受けて「弘護」と名乗る。




まったく浜松の松島氏との関係が分かりません。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 03時57分12秒 ) パスワード

羽鳥村
源長院

松島忠兵衛
小栗武右衛門
山下佐次兵衛


どういうご関係でしょうね?
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 03時59分44秒 ) パスワード

http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%B0%8F%E6%A0%97


小栗(おぐり、こぐりなど)とは、日本の苗字、地名である。

苗字としては岐阜県から愛知県にかけて非常に集中して分布している。岐阜県では瑞浪市で2番目に多い苗字となっており、可児郡御嵩町・加茂郡坂祝町では苗字軒数ベスト10入りしている。愛知県では尾張・三河両地方で広く見られるが、特に半田市に集中している。また、静岡県浜松市でも多めに見られる。

平安時代より常陸国に武家の小栗氏があった。常陸国新治郡小栗御厨(現・茨城県筑西市小栗付近)発祥。桓武平氏大掾氏の一族。戦国時代に三河国で勢力を持ち、江戸時代には旗本となった小栗氏は子孫という。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 04時09分11秒 ) パスワード

山下佐次兵衛ってどなた?と思い検索してみました。



浜松の山下さんという家は昔っからの遠江国の豪族で超名家なんですねえ。
内山真竜の家とも親戚だったとは。



http://lib.city.iwata.shizuoka.jp/iwata/chomei/yamasitamasahiko.html





山下 政彦(やました まさひこ)

1768(明和5)年〜1839(天保10)年
庄屋 国学者


豊田郡大当所(おおとうしょ)村(現磐田市大当所)に生まれる。
幼名を武助(たけすけ)、政定、正彦という。


家は代々大当所村の庄屋を務める。
初代政豊は1570(元亀1)年〜1592(天正20)年頃浜松に住み、
今川氏支配下の松下氏に仕えたが、
松下氏国替え後1603(慶長8)年には大当所に移り、この地を開墾し住んだ。


                  松下氏とは行動を共にしなかったのですか。
                  する必要が無かった、ということなんですね。
                  理由は遠江国の  名門  の家だから。




政彦は8代目庄屋として村政に努めた。

大当所地内の水田の耕地整理をし、農道や用水路を新しく作ったり、
山間の土地に田畑を作るために灌漑用のため池をつくる作業を始めるなど私財を投入して公共事業を行った。

また、大当所の領主である松平氏の命により、
祖父政明の代から行った志都呂(しとろ)村(現浜松市西区志都呂町)での浜名湖岸の埋立工事や新田開発を完成させた。


                           志都呂村が出て来ました


                           ということは浜松の昔っからの豪族の家なんでしょうね


                            内山真竜が従兄ですって!


また、政彦は幼い頃から和歌や俳諧に親しみ、
1781(天明1)年に従兄である大谷(おおや)村(現浜松市天竜区大谷)の国学者内山真竜(うちやままたつ)に入門し国学の研究にかかわった。


1789(寛政1)年には伊勢松阪の本居宣長(もとおりのりなが)に入門し、和歌や古学を学んだ。


1803(享保3)年に出版された『東海道人物誌』(東海道品川宿から大津駅に至る53駅とその周辺の村々の文化人643人を紹介したもの)に「国学 和歌 名正彦 大当所山下武助」と紹介されている。


1819(文政2)年から領主松平厚信の侍講(古学の先生)となり、代官職も勤め、苗字帯刀を許された。



参考文献
•豊岡村史編さん委員会 『豊岡村史 通史編』 豊岡村 1991年
•豊岡村史編さん委員会 『豊岡村百話』 豊岡村 1996年
•豊岡村社会科資料づくり委員会 『私たちの豊岡村』 豊岡村教育委員会 1994年
•山下康一郎 『清和源氏小笠原流遠江山下家系図』 山下康一郎 1989年
•静岡県教育委員会 『郷土の発展に尽くした人々 上巻』 静岡県教育委員会 1981年
•大須賀陶山 『東海道人物誌』 羽衣出版 2008年
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 04時12分56秒 ) パスワード


[PDF]『吉備(黄蕨)国・高嶋宮伝承の解析』



www.geocities.jp/ki_warabi/takashima.pdf



Translate this pageOct 28, 2008 - 八杉 田邊 原 澤山 高辻 奥村 右之氏陶山家ヨリノ別家武功軍記ニ有テ世ニ .... 乙訓郡、大和国高市郡(二座)、和泉国大島郡、遠江国長上郡、但馬国二.


続家紋でたどるあなたの家系 - Page 18 - Google Books Result



https://books.google.com/books?isbn=4797107324 - Translate this page

千鹿野茂 - 1998 - ‎Heraldry
洲浜紋浅羽遠江国磐田郡浅羽より起こる。清和源氏小笠原氏族折り入り角に洲浜起こる。大江姓を称する。室町幕府奉公衆。陶山五番、陶山〔見聞諸家紋〕。備中国小田
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 04時17分57秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/ki_warabi/takashima.pdf



陶山氏について調べていたら
物部氏?


長上郡の大歳神社にも回り回って関係?
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 04時36分55秒 ) パスワード

広島の源長院に関係する「大屋」ということで調べてみました。


http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/SEIWAG.HTM


浜松の大屋氏
載ってました。

真ん中より下の方です。



清和源氏・・・の真贋の話のようです。
視力検査みたい・・・


コピペ:

武家華族となった三河の大河内、武蔵の太田、出羽仙北の本堂が、各々多田支流と称するは仮冒。

また、摂津国能勢郡の能瀬〔能勢。阿波に分る〕、田尻、倉垣、野間、余野の一族は古代能勢郡領家の後かとみる太田博士の見解が妥当か

    (私案では、摂津の服部支族か)。   ⇔  何?摂津の服部?笑


摂津の生田も、太田博士は生田首の後とする。




                       ココ!

頼政後裔と称する遠江国浜名郡の浜名、大屋〔大矢〕、猿田、朝日奈、飯尾の一族も、当地の古族の末か(浜名県主や和邇氏族に関係か)。

                        和邇氏が出て来ました・・・

以下略
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 04時38分16秒 ) パスワード

こうやって名前が出ているということは松島氏が?盛郷の花押のついた書類を持っていた?話

納得していきます。
[72]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月26日 06時55分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は早朝より起きてパソコンに向かっております。 
 あを様、スゴイ調査力。もうほとんど核心に迫っています。

 昨夜来、十湖の年譜を読み、頭の中を整理しておりました。
 源帳院の帳が間違っているのに気付きました。「長」が正しかったです。
まずは訂正。源長院の源は源氏の源かと十湖の曾孫さんに以前訊いたら、わ
からなくて、本寺は磐田の匂坂にあるということで調べましたら、増参寺と
いうお寺でした。一昨日、松島町の帰りに天竜川の川向うになりますが行っ
てまいりました。今はカササギ大橋という橋ができて、車で簡単に渡れます。
源長院とはちょうど川をはさんで東と西に正対しています。寺勢が盛んだっ
た頃は、末寺十ヶ寺をもっていたといいます。そこの寺には松島という墓標
はありませんでした。ただ興味を引いたのは「力石」というのが置いてあり、
昔の渡し船の船頭同士がが力比べをしたといいます。もちろん川の両側に船
の渡し場があった訳です。下に下れば池田の渡しとなります。
 松島さん(十湖の曾孫。今後そう呼ぶ)が源長院についての本があるという
ので、今度貸してもらう予定です。
 それから、源左衛門ですが、十湖の父親が松島藤吉といい、後に源左衛門
と名乗ったといいます。十湖の生まれたのは嘉永2年、1849年、明治元
年(1868年)に20才を迎えておりますので、正に幕末の激動の時代でし
た。十湖の父はそれよりも25年位前、文政7年前後の生まれかと推察しま
す。
 一方、松島源右衛門忠吉は「宗忠子左近流也 天文10年生」と書いてあ
りますので、十湖の父の源左衛門とは時代のギャップがあります。但し、何
代目かの源左衛門なら話は合って来ます。 
 この「左近流也」が気になります。
 ちょっと待てよ、今「家系譜」をもう一度見てみます―
 な、なんと・・・松島左近の名前が書いてあります!
 2ページ目の一番初め、松島右衛門尉源宗忠の子に「松島左近」の名が記
されている。しかしながら、松島左近丞は[7]に「天正5年上杉謙信の重臣
河田重親から云々」という話が書かれています。そうすると、1500年代
中ごろに生きた人ということになります。ところが家系譜においては、左近
は1400年第の前半に生まれていることと解釈できますので、1500年
代にはほぼいないことになります・・・。左近丞と左近は別人であるのか?

 近いところまで来ているのに近づけない!

 いずれにしましても、本日のあを様のレスを良く読ませていただき、過去
のレスも合わせもう一度よく理解してみます。
 家系譜が到着しましたらあを様の分析をお願いします。
 伊那の松島氏と黒川の松島氏は「全く」の別系なのでしょうか・・・伊那
に行くのは筋違い?・・・
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 08時39分19秒 ) パスワード

レス<67>より

>山下康一郎 『清和源氏小笠原流遠江山下家系図』 山下康一郎 1989年


浜松の名家の山下氏は  小笠原氏系   だったんですね。




松島氏は   小笠原系か黒川系か?

http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1_0.htm

黒川郷士の旗頭である松島氏
   松嶋左衛門
この名乗りが浜松の松島氏は黒川系じゃないかと思わせますよね。



でもお仲間を見てると山下氏は小笠原系ですから
こちらからいくと諏訪系千野系松島氏でしょうし。


場所的に南朝方の影響があるから新田系とも言えるし。





>源左衛門ですが、十湖の父親が松島藤吉といい、後に源左衛門


十湖さんの父上は藤吉さんですか。
それでは  藤原姓  みたいですね。
でも後に  源左衛門です  ということは源姓?



で、内山氏についてもう1度調べて来ました。

現長野県である信濃国佐久郡が起源(ルーツ)である、
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)


あらら・・・
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 08時42分22秒 ) パスワード

内山氏について

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%86%85%E5%B1%B1

【名字】内山

【読み】うちやま

【全国順位】 201位


【全国人数】 およそ110,000人



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都道府県

順位

人数


北海道 245位 およそ3,500人
青森県 194位 およそ1,200人
岩手県 1,150位 およそ100人
宮城県 831位 およそ300人
秋田県 1,072位 およそ100人
山形県 548位 およそ300人

福島県 260位 およそ1,300人
茨城県 285位 およそ2,100人
栃木県 451位 およそ800人
群馬県 175位 およそ2,300人
埼玉県 211位 およそ6,100人

千葉県 82位 およそ10,000人
東京都 152位 およそ13,000人
神奈川県 183位 およそ8,200人

新潟県 38位 およそ8,100人
富山県 182位 およそ1,100人
石川県 881位 およそ200人
福井県 287位 およそ500人

山梨県 632位 およそ200人
長野県 78位 およそ4,900人
岐阜県 678位 およそ500人


静岡県 42位 およそ11,000人             すごい!
愛知県 319位 およそ4,200人
三重県 147位 およそ2,400人

滋賀県 750位 およそ300人
京都府 594位 およそ700人
大阪府 413位 およそ3,400人
兵庫県 457位 およそ2,000人
奈良県 460位 およそ500人
和歌山県 1,465位 およそ100人

鳥取県 1,017位 およそ80人
島根県 1,996位 およそ30人
岡山県 394位 およそ900人
広島県 548位 およそ800人
山口県 90位 およそ2,600人

徳島県 1,032位 およそ100人
香川県 673位 およそ200人
愛媛県 686位 およそ300人
高知県 1,689位 およそ40人

福岡県 241位 およそ3,700人
佐賀県 173位 およそ1,100人
長崎県 192位 およそ1,300人
熊本県 309位 およそ1,100人

大分県 868位 およそ200人
宮崎県 247位 およそ800人
鹿児島県 175位 およそ1,700人
沖縄県 1,092位 およそ70人




現長野県である信濃国佐久郡が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)。


陸軍大将内山男爵は旧鳥取藩の士族。様々な流派がみられる。


「山」は山の地形を表す。「内」は屋敷内の内側や自分のものという意味。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 08時45分18秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10122402110


内山姓について



【遠江内山氏】
遠江の内山氏は浜名郡内山(静岡県浜名郡新居町)発祥。
戦国時代に内山党を率いて大沢氏に属したが、徳川家康に敗れた。


                  へえ〜



【信濃内山氏】
信濃の内山氏は佐久郡内山(長野県佐久市)発祥。
清和源氏大井氏の一族という。


                  どちらかでしょうね。



【越前大野藩内山氏】
江戸時代は大野藩の重臣に内山氏がある。幕末の内山良休は藩の財政立て直しに成功した。

【男爵内山氏】
男爵の内山氏は鳥取藩士の出。明治維新後内山小二郎は陸軍に入って大将となり、大正10年男爵を授けられた。

【越中内山氏】
越中国宮尾村(富山市)に豪農内山家がある。もとは京都に住んでいたが、垂仁天皇の命を受けて諸国を廻り、越中国に八幡宮を建立したという。以後代々布目村に住んでいたが、のち神通川の中州を開発して宮尾村に移った。代々治右衛門と称し、その最盛期には3000石を所有したといわれる。明治期の当主内山松世は政治家のかたわら茶人・詩人でもあり、3000坪に及ぶ邸宅跡は現在は富山県に寄贈されて一般公開されている。



【分布】
現在は埼玉県北部と新潟県の中越地方に多い。
(以上、「日本名字家系大事典」)



この他、「姓氏家系大辞典」によれば以下の内山氏があります。



〇武蔵の内山氏
〇播磨の内山氏
〇伊勢の内山氏
〇豊後の内山氏
〇太宰少弐流
〇惟宗姓
〇下総の内山氏
〇藤原姓
〇その他
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 08時54分13秒 ) パスワード

http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/saku/utiyama.html

内山城について



コピペできません。


佐久平の南東端。
内山川右岸。
富岡街道の谷口。



http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/uchiyama-jyo/


信濃・内山城


                             小笠原氏系ですね
                                  ⇅

築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)に大井美作入道玄岑によって築かれたと云われる。

平賀氏が滅亡した後、大井氏の所領となり内山城が築かれたと云われる。天文15年(1546年)武田信玄によって佐久の諸城は陥落し、内山城も武田氏によって攻略されると、武田氏の家臣上原昌辰(後の小山田備中守昌辰)が城将となった。

天文17年(1548年)四月村上義清が佐久へ侵攻し、内山城でも攻防が繰り広げられたが、九月に武田信玄が佐久へ出馬してこれを退けた。

天文20年(1551年)には前内山城主の大井貞清が武田氏に降ったため、内山城主に復帰したが、天文22年(1553年)常田合戦で貞清は討死し、その後は昌辰の子昌行が城主となった。


天正10年(1582年)小山田昌行は高遠城に籠城して織田信忠の軍勢と戦い討死、その後は子の小山田昌博が城主となったが北条氏の手に落ちた。



天正11年(1583年)佐久の諸城は徳川家康方の依田信蕃によって次々と攻略され、この内山城もその手に落ちた。この時の城主は小山田六左衛門あるいは猪俣能登守であったという。



説明

内山城は滑津川の北岸に聳える標高860m程の山に築かれている。 現在は園城寺から遊歩道が設置され公園として整備されている。

主郭は山頂にあり、山頂から南に二段、北に二段の曲輪がある。その周囲は切り立った岩肌で容易に登ることはできない。主郭一帯には所々に石積が残されている。

西からつづら折りで登る遊歩道沿いに石積された曲輪があり、その少し下から南尾根側へと歩くと「馬場の平」と呼ばれる南北に長い曲輪があり、東側に土塁が付く。

主郭から北東側へ降りると鞍部に堀切があり、その西側に竪堀が一条北側へと落ちている。この竪堀を降りた所に水之手とされる石組み井戸が残る。

主郭から北西側の尾根を降ると園城寺の北側の尾根に至り、堀切が付いた曲輪が残る。


城主 大井氏,上原昌辰,大井貞清,小山田氏 案内

国道254号線から内山集落内に入って行くと園城寺と内山城の道標が出ている。登山道は園城寺の隣の絹笠神社脇にあり、園城寺の所に駐車場がある。


所在地 長野県佐久市内山字城下
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 08時57分27秒 ) パスワード

結局  山下氏も内山氏も信濃の小笠原氏系  ということになるんじゃないですか?

        江戸末期でも従兄弟関係をやってますし。


ということは   松島氏も信濃関係  なんじゃないでしょうか?
元は諏訪上社でも小笠原系と関係が出来て親戚だったと思います。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 08時58分05秒 ) パスワード

そろそろ  XXXV を立ててくださいね。
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 11時23分13秒 ) パスワード


南奥州の須賀川城を居城とした戦国大名二階堂氏(のちの会津若松蘆名)家系家臣の内山氏

    家紋は 丸の内に竪三引き、揚羽蝶。



http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/ji-3.html



内山氏 為氏の下向に従った侍に内山宮内少輔(藤)、内山右馬丞(白)、須賀川城に籠城した武将に内山右馬丞(藤)がいる。河東郷小山田村に所領があったかと考えられる。当地方の内山氏は桓武平氏三浦氏族を称する系図が多い。参考までに「白河風土記」所収の内山系譜の内容を略記すると内山氏は三浦平三郎為道の後裔にして、文治年間(1185〜1190)元成の代に佐原十郎義連に従って会津に来たという。至徳元年(1384)芦名直盛が小田山に新城を築いて移った時に郭内を山ノ内と郭外を黒川といったが、元成より九代の後裔為義も山ノ内に居住したので内山氏と称したという。家紋は丸の内に竪三引き、揚羽蝶である。
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 22時18分56秒 ) パスワード

長上郡の服部氏はだんだんヒバリさん系かしら?と傾いて来ました。
ヒバリさんの家紋と同じなら確実ですね。



ヒバリさんにメールなさってはいかがでしょう?
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/690865773

でもメールなさるにはブログのサイトに登録しないといけないようです。


[81]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 22時51分36秒 ) パスワード

ヒバリさんのブログに行って全部(コメントへのレスも)読み直してみます。
もしかすると家紋について、書いてあるかも、ですから。
[82]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月26日 23時50分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 引き続き「松島家家系譜」を考察していますが、それなりに立派な家系で
あることが読めてきました。
 6ページ目の松島忠兵衛源宗吉は、1568年生まれで、のちに羽鳥村の
庄屋になりました。だからこのような家系譜が残されたのだと思います。こ
の人の妻は、市野惣太夫の妹であります。市野惣太夫は1600年に浜名10
郷の代官となっております。
 1651年に宗吉は85才で亡くなっております。その戒名が意味深であ
ります。即ち「古宝盛郷居士」・・・「盛郷」が入っております。
 翌年の1652年には、笠井村大庄屋山下佐次兵衛が自害しております。

 
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 02時26分52秒 ) パスワード

三つ柏さん



全身に鳥肌が立ちました。
金縛り状態寸前というか。

松島忠兵衛源宗吉さんが盛郷だった?
だったら  盛郷の花押のついた書類を持っているわけ  ですよねえ。
戒名でしたか。


でも1568年生まれなら江戸時代草創期には活躍なさってましたよね。
関ヶ原の時にはご自分が参加しても良い年代です。


>1652年には、笠井村大庄屋山下佐次兵衛が自害

何があったんでしょうね。
我慢できない悔しい思いをなさったのでしょうか?




遠江新居の内山氏は家康に抵抗して武士または旗本になれなかった。
戦国時代当時まではかなりの家だったんでしょうね。



そして小笠原系の大井氏系内山氏もある。
こちらは諏訪氏から出て小笠原と盟友。
当然源氏に。



                   大井氏って信玄の母の実家でしょ。
                   武田と大井とが喧嘩してた話はHNK大河で見たような。

                   大井氏も内山氏も武田に負けた。


そして山下家。
この山下家と新居の内山眞竜の家が親戚。


この3家はきっと江戸時代には親しい関係だったでしょうね。
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 02時40分26秒 ) パスワード

市野惣太夫

新潟大学です。

http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/12973/1/04_06_T0001.pdf


7ページから見たら面白いです。

by 矢田俊文 - ‎2009
市野惣太夫は実名真防で、 延宝五年 (一 六七七) 三月十九日父に代って代官となり、
元禄十年 (一 六九七) 七月職を辞し、 小普請となっている。


9ページだったかに
長上郡は  2万2670石で・・・
豊田郡は
など書かれています。

なかなか面白いです。

   でも縦書きなのでノートで読むのは厄介です。



http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/e-shinko/ward/higashiku/chiikiryoku/history/jinjya/02soanji.html


宗安寺

室町時代末期に開創された曹洞宗(そうとうしゅう)の古刹(こさつ)である。

また、江戸時代初期、この地域の代官を務めた市野氏歴代の菩提寺として知られ
墓苑には初代惣太夫実久(しょだいそうだいゆうさねひさ)から以後4代までの歴代の墓が並んでいる。

境内にある三重の塔は、檀家である鈴木六郎氏が寄贈したものであり、
聖観世音菩薩(せいかんぜおんぼさつ)が祀られている。



                    この鈴木さんは市野惣太夫ゆかりなんじゃないかと思います。
                    親戚じゃなきゃ三重の塔は建てないでしょう。


                    一族でなかったら自分の家だけの鈴木家用の寺を建てると思いますね。
                    この鈴木六郎さんの家もかなりの家なんでしょうね。




内山  ⇔  山下 ⇔  松島  ⇔  市野  ⇔  鈴木
繋がった〜
この皆さん、みんな親戚ですよ、きっと。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 02時53分51秒 ) パスワード

1652年に笠井村大庄屋山下佐次兵衛自害


      一体何があったのでしょうね。



1651年(慶安4年) 由井正雪の乱(慶安の変)


慶安の変(けいあんのへん)は、慶安4年(1651年)4月から7月にかけて起こった事件。由比正雪の乱、由井正雪の乱、慶安事件とも呼ばれることがある。主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義であった。


一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまう。慶安4年(1651年)7月23日にまず丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その前日である7月22日に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、7月25日駿府に到着した。駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。その後、7月30日には正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害、8月10日に丸橋忠弥が磔刑となり、計画は頓挫した。

備考[編集]

駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主・徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった。幕府は事件の背後関係を徹底的に詮索した。大目付・中根正盛は与力20余騎を派遣し、配下の廻国者で組織している隠密機関を活用し、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。密告者の多くは、老中・松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。慶安の変を機会に、信綱と正盛は、武功派で幕閣に批判的であったとされる徳川頼宣を、幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃の功績をあげる [1]。
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 03時03分29秒 ) パスワード

続きは<スレッド35>
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101439_1.html
へどうぞ。
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 04時20分13秒 ) パスワード

宗安寺(そうあんじ)と市野惣太夫(いちのそうだゆう)

宗安寺を建立した中心人物である市野惣太夫は、永禄11(1568)年から家康公に仕えていました。
慶長5(1600)年には馬役(うまやく)を命じられ、そのかたわら代官として、市野村をはじめ近隣の村をいくつも治めていたと伝えられています。

また、宗安寺の境内にある三重の塔は、檀家から寄贈されたもので、聖観世音菩薩(せいかんぜおんぼさつ)がまつられています。
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 04時23分54秒 ) パスワード

http://multi.tosyokan.pref.shizuoka.jp/kenshi/dfp.view_data.form?data=%2F%E8%B3%87%E6%96%99%E6%83%85%E5%A0%B1%2F0000000004-SZA0014302&sortKey=%E6%95%B4%E7%90%86%E7%95%AA%E5%8F%B7&sortOrder=true&sortItemType=id&searchterm=&permissionTerm=&detailterm=&searchCategory=%2F%E8%B3%87%E6%96%99%E6%83%85%E5%A0%B1&selectCategory=¤tPage=1&pageSize=20&template=&isSynonymsSearch=false


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資料名         覚(御蔵入見分御用に付き触)

作成者・差出      間瀬吉太夫 小池源兵衛 桜井藤兵衛

受信者・宛所      松平市右衛門 雨宮勘兵衛 長谷川藤兵衛 秋鹿内匠 大草太郎左衛門 万年七郎左衛門 市野惣太夫 平野信右衛門
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 04時26分22秒 ) パスワード

山下佐次兵衛家についてスゴイのが見つかったので  向うに書きます・・・
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