[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 22時40分17秒 ) | パスワード |
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/424115167
忍者の先祖
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 22時40分59秒 ) | パスワード |
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/427486605
服部
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 22時41分37秒 ) | パスワード |
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/428791695
麻績服部
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時20分17秒 ) | パスワード |
ヒバリさんの本家さんのお城
すごい話です!
勝頼の母から祖母の家だったの?!
麻績城 〒399-7701 長野県東筑摩郡麻績村麻
服部氏の居城。
麻績服部氏の娘が諏訪頼重に嫁いでおり、
後にその諏訪頼重の娘は武田晴信の側室として武田勝頼を産んでいる。
天文22年(1553年)に武田晴信は青柳城を降伏させ、
青柳頼長を従え
麻績城の服部清延を追い払い青柳氏を移した。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時25分04秒 ) | パスワード |
矢倉城
〒399-7701 長野県東筑摩郡麻績村麻矢倉
服部氏の居城。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時16分14秒 ) | パスワード |
忍者の祖先
妃羽理 公式ブログ/忍者の祖先 画像1
どういう人達が忍者になっていったか?
今日は、そのお話をします
そもそも、私達日本人は、大きく分けて2つの民族の混血です!
1つは、縄文民族。いわゆる顔の濃いソース顔の民族。
もう1つは、弥生民族。いわゆる顔の薄い醤油顔の民族。
つまり、狩猟漁労を中心にしていた原住民、縄文民族の暮らしていた土地に、稲作文化を持って大陸から渡ってきた弥生民族に征服されたことによって産まれた国、それが、日本なのです
稲作をするには、田んぼを作る土地の確保が必要。
土地を確保して、農作業を進めるには、組織的社会秩序が必要。
それが、大きくなっていったのが、大和朝廷。
縄文民族の中には、もちろん、その農耕民族の傘下に入っていったものも多い。
しかし、その文化をよしとせず、農耕勢力から逃れていったものもいた。
北の果てまで逃げて行ったのが、アイヌ民族。南の果てまで逃げて行ったのが、琉球民族。
お互いあんなに離れていて、気候も全く違うのに、どちらも顔が濃く、文化も似ているところが多いのは、もともとが一緒だから。
では、そこまで逃げ切れなかった人達は何処へ?
答えは、当時の農耕技術では、開拓不可能な山岳地帯。
当時の山岳地帯で、山を走り、岩を登り、狩猟漁労の文化を守り続けた人達が、身につけたのは、尋常ではない身体能力。
その能力を、田んぼの文化の人達の歴史が進むにつれ、戦争の道具として利用する権力者が出てきた。
それによって、完成して行ったのが、忍びの技なのだ。
その血を受け継ぐ、私、妃羽理が、ニューハーフという枠を超えて、かたくなに忍者スタイルにこだわる理由は、そのようにして、日本の歴史の中で、絶えず虐げられられてきた民族文化のの集大成である忍術を絶やしてはいけない!
そんな思いからであることは、お分かりいただけますでしょうか?
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時17分00秒 ) | パスワード |
服部
妃羽理 公式ブログ/服部 画像1
私の忍術の流派は、麻績服部流といいます。伊賀流忍術の一派ですが、伊賀といえば、皆さん真っ先に思い出す人物は、服部半蔵ですよね
でも、この服部半蔵、大半の人が、忍者だと思い込んでいるようですが、それは全くの誤解です!
服部半蔵は、武士です!
ただ、代々服部家は伊賀地方の豪族だったので、伊賀の忍者をとりまとめていたという事実が、どういう訳か、半蔵自体が代表的な忍者というイメージになってしまったようです
今日は、ちょっと難しいんですが、その服部氏の成り立ちをお話します。
時は、大和政権の成り立ちの頃。
朝廷の組織は、氏姓制度によって創られていました。
氏とは、名字のこと、姓とは位のこと。
位には、臣、連、君、直などがあった。
もちろん、一番頂点は、天皇の祖先、大王。
葛城、平群、蘇我氏などの大和の有力豪族には臣。
大伴、物部、中臣氏などの特定の職能を持って朝廷に仕える有力豪族には連。
筑紫、毛野などの地方の有力豪族、つまり、もと縄文民族には君。
大和政権の支配に服した一般の地方豪族、つまりもと縄文民族には直。
という具合に位づけをした。
それぞれの姓には、伴と呼ばれる、朝廷の警備や神の祭りを担当する人民、後の武士の原形。品部と呼ばれる職人。名代、子代と呼ばれる農民などが支配されていた。
そのうちの品部には、陶部、錦織部、鞍作部などのそれぞれの専門職人がいた。
そのうちの機織部(はたおりべ)と呼ばれる服を作る専門職人がいた。
それはやがて、服をつくることから、服部(はとりべ)と呼ばれるようになっていった。
これが、服部氏の始まりである。
これらの部民は、大陸から渡ってきた帰化人がなっていったのだが、そのうちの秦氏の一派、呉服(くれは)一族がもたらした機織り技術が、服部(はとりべ)の技術に発展していったことから、服部氏の祖先は、秦氏という見解が有力である。
ともあれ、もともと、服部氏は、大和政権の組織下に生まれた氏族であり、もともと縄文民族であった山の民を束ねるに至ったわけであり、忍者そのものになりえない家柄なのである。
服部半蔵自身が忍者ではないことを説明するには、ちょっと難しすぎたかな?
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時18分11秒 ) | パスワード |
麻績服部
妃羽理 公式ブログ/麻績服部 画像1
前回は、服部氏の成り立ちについて説明しました。
今日は、私の忍術の流派、麻績服部流忍術のネーミングのもとになった、麻績服部(おみはっとり)氏の説明をします。
麻績服部流の祖は、鎌倉時代の藤原朝臣服部伊賀守という人。
藤原は中臣の子孫なので、位としては連だが、蘇我氏などが滅んだことで一番最初の氏姓制度が崩れて来たので、飛鳥時代天武天皇の頃、新たな姓が生まれた。
そのうちの一つが朝臣(あそん)。
朝臣とは、皇族だけど、天皇とは血縁関係が遠い臣姓。
ここまでを聞くと、凄く高貴な家柄?と思うかもしれませんが、そうではありません。
その高貴な人の配下にあった服部(はとりべ)の家柄ということ。
〜守というのは、一国の民政、裁判を司るために、中央政府から派遣される地方官に与えられる役職。
つまり、伊賀守とは、伊賀の国の地方官ということ。
服部半蔵は代々石見守だったが、これは、徳川家が、服部家に、石見銀山の管理を任せようとして与えた役職。
しかし、服部伊賀守と服部石見守の決定的な違いは、
伊賀守は、朝廷から与えられたきちんとした役職であるのに対して、
石見守は、一つの家であるにすぎない松平家(徳川家)が、朝廷の制度を真似て勝手に付けた役職。
どういうことかというと、幕府というのは、初めは単なる朝廷の組織する軍隊のことだったので、鎌倉時代の承久の変までは、全国に及ぶ政治権力は、朝廷の方が強かった。
しかし、承久の変で、幕府が、朝廷に勝つと、幕府が完全に全国を支配するようになったにすぎないので、〜守に本当に役職的に意味があるのは、鎌倉時代の承久の変以前であって、それ以降の〜守というのは、安易に付けられる役職になってしまい、実際に石見に勤めなくても石見守という名前がついてしまうようになった。
何が言いたいかというと、この服部伊賀守は、承久の変以前の役職なので、きちんと伊賀で勤めた人だということ。
つまり、伊賀地方の服部氏の祖であるということ。
もっというと服部半蔵の祖先ということ。
その服部半蔵の祖先の服部伊賀守が、伊賀守の任期を終え、承久の変以後力を持った鎌倉幕府から、今度は地頭として派遣された地が、信濃(長野県)の麻績(おみ)の地だった。
この麻績の地は、承久の変以前は、朝廷の直轄地だったので、地頭はいなかったのだが、承久の変以後は、幕府領になったので、地頭が置かれた。
では、なぜ、服部伊賀守を起用したのか?
それは、伊賀も朝廷の直轄地だったので、武士の勢力の及ばない土地の民の扱いに慣れていたことが、この抜てきの理由だろう。
ともかく、この服部伊賀守が、伊賀から連れて来た民衆と、もともと縄文民族の末裔の多い信濃の民衆との技術が錬磨されたのが、麻績服部流忍術の源流なのである。
その服部伊賀守の子孫である麻績服部左衛門清信の頃に、完成したのが、麻績服部流忍術なのである。
私の本名は、宮下というのですが、宮下家は、服部清信の弟、服部加信斉が神主を務めた麻績神明宮を代々守っている家で、私はその一族の流れを組むものです。
そういった縁で、私が麻績服部流忍術の正当継承者になった訳です。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時20分42秒 ) | パスワード |
先祖参り
妃羽理 公式ブログ/先祖参り 画像1
妃羽理 公式ブログ/先祖参り 画像2
妃羽理 公式ブログ/先祖参り 画像3
3日ほど夏休みをいただいたので、長野県の麻績村に先祖参りに行って来ました。
何度も説明していますが、私は伊賀流忍者の末裔ですが、私が継承している麻績服部流忍術は、鎌倉時代に服部伊賀守という人が三重県の伊賀から長野県の麻績(おみ)に移り住んでから、麻績の地に根付いた流派なので、私の先祖は、伊賀ではなく麻績に眠っておられます
だから、私は毎年夏休みが取れると麻績に先祖参り行くのですが、今年は偶然、私の兄も同じ日に休みが取れたので、兄夫婦と1歳の甥っ子、父と母が一緒に麻績に先祖参りに行くことが出来、実に30年ぶりぐらいに一家揃って、先祖参りに行けました
これもきっとご先祖様の思し召しでしょう
兄は、自分の家族と父母を乗せて車で行ったのですが、私は電車で行ったので、麻績に着いて一番最初に、服部清信さまと服部加信斎さまのお墓参りをしました
(写真)
次に、服部加信斎さまが宮司をしていた麻績神明宮をお参りして
(写真)、
最後に私のご先祖様のお墓参りをしました
ちなみに、写真の立て札は、我が宮下家(私の本名)が、服部加信斎さまが宮司を務めている任期以外の麻績神明宮の宮司をやっていたことを説明する立て札で、服部清信さまと服部加信斎さまのお墓の横に設置されているものです。
今年は、こうして家族揃って先祖参りが出来たし、服部家のお墓参りも、麻績神明宮参りも出来たので、これからきっといいことがあると思います
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時29分31秒 ) | パスワード |
http://omigoto.vill.omi.nagano.jp/tour/detail.asp?id=269
麻績神明宮
麻績御厨を鎮護するために勧請された由緒ある神社
平安末期伊勢神宮(内宮)領の麻績御厨(みくりや=神社の領地)を鎮護する神社として勧請されたと伝えられています。
伊勢神宮同様に麻績神明宮も式年遷宮をおこなっておりましたが、戦国時代に伊勢との交信が途絶え、その後は松本藩の所領となり、遷宮も途絶えていきます。現在の本殿は1684年に建てられたもので、神明造の社殿としては国内で2番目に古い建物です。
地域で大切に保管してきた社殿は現在、本殿、拝殿、仮殿、神楽殿、舞台の5棟の建物が国の重要文化財に指定されています。
また石畳の参道右に大杉があり村の天然記念物に指定されています。
高さは30m余樹齢は約800年といわれています。
なお、現在神明宮は平成の大改修を行っております。
現在は本殿を拝観することはできません。本殿左にあります仮殿に勧請しておりますので、ご参拝の際には仮殿をご利用ください。
JR篠ノ井線聖高原駅より徒歩20分
長野自動車道麻績ICより約5分(神社手前の温泉施設の駐車場をご利用いただけます)
〒399-7701 長野県東筑摩郡麻績村麻5583
Phone:+81 263-67-3241
神紋は何でしょう?
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時31分43秒 ) | パスワード |
神紋は日の丸?
http://www.omiyasan.com/center/omi/post-41.php
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時36分28秒 ) | パスワード |
http://blog.goo.ne.jp/takano_omi/e/7d71c4516a64c29bd0e9c647b31d265a
西暦700年代当初に成立した麻績郷が伊勢領(伊勢神宮の荘園、麻績御厨)となり、西暦1038年その守護神として内宮の分社・麻績神明宮が鎮座したと伝えられています。
麻績御厨の面積は広大で信濃国御厨における筆頭格とされ、平安・鎌倉・室町にかけて内宮へ鮭・鮭の子・かち栗・干しなつめなどを貢いだと記録されています。
明治維新により郷社となり、旧麻績村・坂井村・日向村の総鎮守社として祀られ、戦後は新たな宗教法人となり今日に至っています。
この神明宮の建物群が江戸時代の神社建築様式がそのまま保全されていることから、平成5年に本殿(1684年建立)・拝殿(1840年建立)・仮殿(1760年建立)・神楽殿(1698年頃建立)・舞殿(1783年建立)の5棟が国の重要文化財に指定されました。
しかし、これらの建物は長年修復がなされなかったため痛みがひどく、早期の改修が望まれていました。
こうした中、去る8月19日文化庁熊本達哉主任調査官による現地調査が行われ、早期の大規模な改修が必要とされ、近年中に国の補助金が受けられる見込みとなりました。
当日立ち合った神明宮重文改修特別委員会(山田一栄会長)や村教育委員会は、総事業費は3億5千万〜4億円、工期は4年程度と予測される大きな事業が、いよいよ動き始めることになり喜んでおられました。
先人達が大切に護って来られた貴重な文化財を、後世へ引継いで行くことは今に生きる私たちの責務です。しかし、地方の農山村では過疎化が急速に進み、護る人が減り貴重な文化財を護れないというのが実態です。
古き日本文化の宝庫、地方の農山村に数多く残る貴重な文化財を、今後誰がどのように護って行くか、県や国をあげて考えて頂く必要があるのではないでしょうか。
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時48分20秒 ) | パスワード |
武田勝頼の母 と 祖母 とヒバリさんの本家さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%BE%A1%E6%96%99%E4%BA%BA
諏訪御料人
諏訪御料人(すわごりょうにん、享禄3年(1530年)?[1] - 弘治元年11月6日(1555年12月18日))は、武田晴信(信玄)の側室で武田勝頼の母。
諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏の娘。諏訪御「寮」人とも表記される。
異母弟には、頼重の後室の禰々の産んだ寅王がいる。
つまりヒバリさんのホンケさんは麻績服部または小見または服部とも書かれるのですか。
へえ〜
早くに死去した諏訪御料人に比べ、その母の小見氏は長生きしたようである。
天文11年(1542年)に、夫の頼重が切腹し、諏訪惣領家が滅亡した後は、同じ諏訪氏の一族の禰津元直の元に、娘と共に身柄を預けられていたという説がある。
禰津元直の息子の禰津神平は、武田信虎の娘婿でもあり、武田氏と諏訪氏双方と関わりが深かったため、禰津元直の元に小見氏と諏訪御料人は預けられたと考えられている。その後、何年かは不明だが、娘が信玄に嫁いだ後、小見氏は引き続き、禰津元直の元に身を寄せていたと思われる。
永禄8年(1565年)の3月21日に、小見氏が自身の死後の冥福を弔う逆修の仏事を行なった記録があり、当時、高遠城主になっていた孫の武田勝頼に引き取られ、御大方様(祖母)と呼ばれ、共に高遠城で暮らしていたらしい。また、小見氏が天正6年(1578年)に、大工の池上清左衛門がよく奉公してくれたため、勝頼の側近小原継忠・跡部勝忠に依頼し、彼に五貫文の所領を与えてくれるように頼み、それを実現させたという、彼女直筆の手紙も残っている。
その後は、葬儀の記録もなく、天正10年(1582年)の3月3日、勝頼達と新府城から脱出した後、3月11日に切腹した勝頼一行の中に名前が見られないため、逃げている途中に彼らとはぐれてしまったのではないかと考えられている。
その後、古川寺に逃げたが、無人であったために森元家に匿われた。同地にて死去した。
長野県長野市大岡地区天宗寺や同県朝日村古川寺に墓所がある。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時50分56秒 ) | パスワード |
そうすると武田の家臣だった母衣衆の服部さん=川越の服部さん=の家はヒバリさんの本家の服部家と一族?
川越の服部さんの家の家紋は
源氏車に並び矢でした。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時54分18秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A6%8B%E6%B0%8F#.E6.BA.90.E5.A7.93.E9.BA.BB.E7.B8.BE.E6.B0.8F
小見氏
移動: 案内、 検索
小見、麻績(おみ)氏は、日本の氏族の一つ。
平姓小見氏[編集]
下総国香取郡小見郷(現・千葉県香取市小見)発祥の小見(小海)氏は房総平氏の氏族で、以下の流れがある。
匝瑳党小見氏と呼ばれる上総氏の流れ
千葉常胤の弟胤隆の流れ
椎名胤光の子胤澄の流れ
東胤頼の子木内胤朝の孫胤直の流れ
鎌倉時代以降、千葉氏のもとで歴史に名を残した。
源姓麻績氏[編集]
麻績(小見)氏は、信濃国筑摩郡麻績郷(現・長野県東筑摩郡麻績村)の豪族。その始まりは鎌倉時代に遡り、小笠原長親が麻績の地頭となり麻績氏を称した。即ち小笠原氏の庶流であり、阿波小笠原氏や石見小笠原氏と同祖である。
このことは「中興武家系図」に、
麻績、清和、本國信濃、小笠原阿波守長房の男、四郎長親これを称す。
とあることからも伺える。
一族の詳しい動向や系図は不明だが、諏訪頼重の側室で武田勝頼の祖母にあたる女性は小笠原の家臣 小見(麻績)氏の娘とされており、麻績氏の一族と伝わる青柳氏の青柳清長(麻績城に入り麻績清長と改名)が武田信玄の下(軍役は10騎と伝えられている)で活動している。
生島足島神社に残された武田信玄配下多数の起請文の中に麻績清永の物は2通あって異彩を放っている。前日付の決まりきった内容と異なる翌日の再提出文は国侍同士で仲良くしないこと。特に互いに元村上氏の配下であって領地を接している屋代氏や室賀氏、大日方氏とは殊更仲良くしないことを誓わされている。
これらのことから、少なくとも戦国時代までは武家として存続していたようである。
藤原姓小見氏[編集]
小見(麻績)氏は、藤原秀郷を祖とする足利氏の庶流佐野氏の流れをくむ氏族である。戦国時代の末に、佐野秀綱の弟是綱が下野国安蘇郡麻績郷(現・栃木県佐野市小見)を領し小見是綱と名乗ったことが始まり。
また、武蔵国埼玉郡小見邑(現・埼玉県行田市小見)発祥の小見氏とは同族である。
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 22時53分03秒 ) | パスワード |
<13>書き直し
http://www.nagano-tabi.net/modules/enjoy/enjoy_83023002.html
オミシンメイグウ
麻績神明宮
平安朝のころ、伊勢神宮の御領地、麻績御厨の守護神として直接内宮に勧請し分社されたものです。
本殿、拝殿を始め5棟の建物が国重要文化財に指定されています。
境内には樹齢800年と言われる御神木があり、村の天然記念物に指定されています。
エリア
日本アルプスエリア
市町村名
長野県東筑摩郡麻績村
所在地
〒 399-7701 麻績村 宮本
問合わせ先
麻績村教育委員会
Tel:0263-67-3001
Fax:0263-67-1023
Email:omi-kyoi@vill.omi.nagano.jp
ホームページ
(市町村) :http://www.vill.omi.nagano.jp/
(その他) :http://omigoto.vill.omi.nagano.jp/
アクセス・パーキング
アクセス
自動車利用:麻績ICから 2km 5分
鉄道利用:JR篠ノ井線聖高原駅下車 →徒歩 20分
パーキング
有(普通車5台 )
見学(所要)時間
20分
設立・建築年月日
1100年(平安時代)
国・県指定文化財
種別(重要文化財)文化財名(本殿/拝殿/仮殿/神楽殿/舞台)
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 22時55分58秒 ) | パスワード |
服部半蔵と風魔小太郎の違い
伊賀流忍術の継承者は、全国に12、3人ほどいるのですが、
伊賀麻績服部流忍術の継承者は、現在、妃羽理さん一人だそうです!
服部半蔵は全部で12人います。
服部石見守半蔵 という名前は世襲制で、代々受け継がれて来た名前なんですよ。
服部氏は秦氏の末裔なので、弥生民族の中に溶け込んでいった帰化人。
風魔小太郎は、足柄から丹沢にかけて生息していた山賊、
風魔党の頭領なので、縄文民族の流れでしょう。
服部氏にまとめられていた伊賀者たちとは、出所が一緒の可能性はありますが、
服部半蔵と風魔小太郎はまったく家柄が違うんですよ。
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月26日 22時52分31秒 ) | パスワード |
ヒバリさんの家紋について知りたいので
ということで全部読み直してみます。
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時31分30秒 ) | パスワード |
ここで会えるかも。
BAR COLORS
新宿区役所通りのミニストップの隣、アドビル2Fです。
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時33分34秒 ) | パスワード |
具体的情報
BAR COLORS
03‐5285‐6011
営業時間:23:00〜6:00
妃羽理のいない日:毎週火曜日、日曜日及びTV、ステージ等入った日
2010/3/12 00:41
まだココでしょうか?
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時35分00秒 ) | パスワード |
お席のチャージ料 お一人¥3000、
TAX 合計の10%、
お飲み物¥1000からです。
だそうです。
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時38分55秒 ) | パスワード |
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/409840115
今日は、忍者が任務遂行の前に必ず行う「九字護身法」を紹介します。(^_^)v
残念ながら、写真では3つしか紹介出来ませんが、写真のように両手の指を組み換えながら、呪文のようなものを唱える動きが、その「九字護身法」である。
何故、忍者は任務遂行前にこんなことをやるのか?
理由は2つ。
1つ精神統一のため。伊賀流では「ア、キ、サ、タ、カ、ハ、ワ、ヤ、エ」の九字を唱える。
これらの九文字は、言霊の観点からいうと、人間の発する言葉の中で、最もプラスの霊エネルギーをもった九文字と考えられていて、それを発することで、自分の体内にプラスのエネルギーが入って来るという思想からくる精神統一。
もう1つは、脳の活性化。
難しい指使いをこなすことによって、脳の活性化をはかって、任務遂行をやり易くするということ。
私は毎日、出勤前のストレッチの前にこの「九字護身法」を行う。因みに、ストレッチ中も、秒数を数える代わりにこの九字を唱えている。しかも、頭の中で、この九字の正式な忍者文字をイメージしながら。
これは、実は、私が今考案しているエクササイズ、「戦cise忍術(いくさサイズにんじゅつ)」でーす
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時41分55秒 ) | パスワード |
はとバス等のツアーが入っているショーパブでずっと働いていた私は、連休というものをあまり味わったことがなかったんですが、カラーズは、日曜祝日が休みなので、個人的に火曜日を休ませていただいている私は、今回3連休という夢のような休みになった
そのうち、1日は写真撮影になってしまったので、実質的には2連休だったが、この機会に、先日脳梗塞で倒れた父の様子を見に実家に帰った。
私の家は、伊賀流の家系だが、私が産まれ育った土地は、風魔の里です。
里に帰って、まずは私の産スナ様である足柄神社に、父の回復の祈願をした。
その際に、実に20年ぶり位につくしを目にしたので、うれしくなって思わず写真撮っちゃいました
つくし見て嬉しくなるなんて、都会暮らしが、もうこんなに長くなっちゃったんだな〜。
家に帰ると、父が「リハビリに付き合え!」というので、足柄神社まで30分ほど軽い登山をして来た後でちょっと疲れていたけど、父がどれだけ回復したのか確かめたかったので、リハビリのための散歩に付き合った。
2月に入院していた父を見舞いに行った時には、私が肩を貸してあげなければ、1人でトイレにも行けなかったのに、今では、毎日二時間位散歩してるらしい。
実際に、一緒に歩いてみても、杖なんて持ってるだけで、ほとんど使わず、普通に歩いていた
流石は、私の父!
私と同じく、異常な回復力
因みに私も、いつもお医者さんが言った期間の半分以下の日数で、ケガを直しています
途中、もう満開は過ぎてしまったが、富士フィルム工場前のカワズザクラ並木の前で、父に写真を撮ってもらいました。
この写真に誓います
ニューハーフになってしまって、普通の父親としての幸せを絶ってしまった分、私はこの桜のように、日本を代表する花になります
2010/3/25 00:06
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時45分51秒 ) | パスワード |
ヒバリさんの産土神社は 足柄神社だそうです。
お家から30分?
2kmぐらい?
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時47分58秒 ) | パスワード |
忍者食だそうです:
今日は、忍者が実際に食べていた「兵糧丸」を紹介しま〜す
材料は、梅干し、アワビ、鯉の生き血、大麦、甘草、高麗人参、生姜、ナツメ、トウキ、杜仲などの薬草、きな粉。
本来は、一粒で半日は空腹感を感じないのだが、現代社会では食材を揃えるのが難しいものばかりなので、私は栄養素の分析からの代用品で作っている。
例えば、アワビは高価過ぎるので、タウリンと動物性たんぱく質の摂取の観点から、カキやホタテの貝柱などで代用する。
鯉の生き血は、鯉自体なかなかスーパーには並んでないし、生きていることが条件なので、手に入れにくい。
鉄分摂取の観点から、私はプルーンとほうれん草を使っている。
ところが、鯉の生き血には、もう1つ重要な役割がある。
鯉の生き血に含まれるグルテンが、大麦粉を団子状にするのに必要なのだ。
大麦粉を団子状にするには、小麦粉と混ぜることが必要なので、私は手間を省くために、元々、大麦が入ったパンを買って来て、養命酒に浸して丸める。
何故、養命酒かというと、甘草や高麗人参等の手に入れにくい薬草のほとんどが含まれているからである。
どうでしょう?皆さん。
全く食欲をそそられないでしょ?
そうなんです!
忍者食は、皆さん興味を持ってくれるものの、決して美味しいものではないんです
ん〜。なんていうか〜。甘酸っぱいのに、生臭い感じで、私が発表したところで、全く流行らないこと間違いなし
ということで、私は口直しのデザートに、豆腐に、粒あんとバナナのスライスをトッピングしたものを食べている。
まあ、これも周りからは引かれるけど、美味しいと言ってくれる人も中にはいるんじゃないかな?
ともかく、こんな感じの食事をしていると、せめて休日ぐらいは、美味いラーメンでも食べたいなぁ
となる訳ですよ
2010/3/29 08:2
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時51分15秒 ) | パスワード |
九字護身法2
妃羽理 公式ブログ/九字護身法2 画像1
以前、九字護身法の説明をした時、
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
なら知ってるという声があった。
確かに、これもある。これは、「兵に臨んで闘う者、皆、陣列、前に在り」という漢詩がもとになった九字。
つまり、中国の概念が強いもの。
もっといえば、密教の観点の九字、つまり、仏教の中に神が混在するという神仏習合の考え方に基づくもので、比較的新しい九字。
ところが、実は、忍術のルーツの修験の概念はもっと古い。
伊賀流の九字の
「ア、キ、サ、タ、カ、ハ、ワ、ヤ、エ」
は、文字にすると写真のとおり。
これは、神字(かんな)と呼ばれる、日本古来の文字。
つまり、漢字が日本に入ってくる前に、日本に存在した文字。
この文字は、大和政権後の日本人には読めないので、忍者は忍者文字として使っていた。では、なぜ忍者はこの文字を知っているのか?
答えは、簡単。
忍者の祖先は、大和政権が確立する前の日本原住民。つまり、縄文人なのだ。
これに関する説明は、また次回として、忍術自体がものすごい古いもので、仏教伝来以前からの日本思想が入っているものなので、漢詩ではない九字が存在することは、お分かりいただけたかしら?
2010/4/9 01:05・
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時52分42秒 ) | パスワード |
忍者の祖先
どういう人達が忍者になっていったか?
今日は、そのお話をします
そもそも、私達日本人は、大きく分けて2つの民族の混血です!
1つは、縄文民族。いわゆる顔の濃いソース顔の民族。
もう1つは、弥生民族。いわゆる顔の薄い醤油顔の民族。
つまり、狩猟漁労を中心にしていた原住民、縄文民族の暮らしていた土地に、稲作文化を持って大陸から渡ってきた弥生民族に征服されたことによって産まれた国、それが、日本なのです
稲作をするには、田んぼを作る土地の確保が必要。
土地を確保して、農作業を進めるには、組織的社会秩序が必要。
それが、大きくなっていったのが、大和朝廷。
縄文民族の中には、もちろん、その農耕民族の傘下に入っていったものも多い。
しかし、その文化をよしとせず、農耕勢力から逃れていったものもいた。
北の果てまで逃げて行ったのが、アイヌ民族。南の果てまで逃げて行ったのが、琉球民族。
お互いあんなに離れていて、気候も全く違うのに、どちらも顔が濃く、文化も似ているところが多いのは、もともとが一緒だから。
では、そこまで逃げ切れなかった人達は何処へ?
答えは、当時の農耕技術では、開拓不可能な山岳地帯。
当時の山岳地帯で、山を走り、岩を登り、狩猟漁労の文化を守り続けた人達が、身につけたのは、尋常ではない身体能力。
その能力を、田んぼの文化の人達の歴史が進むにつれ、戦争の道具として利用する権力者が出てきた。
それによって、完成して行ったのが、忍びの技なのだ。
その血を受け継ぐ、私、妃羽理が、ニューハーフという枠を超えて、かたくなに忍者スタイルにこだわる理由は、そのようにして、日本の歴史の中で、絶えず虐げられられてきた民族文化のの集大成である忍術を絶やしてはいけない!
そんな思いからであることは、お分かりいただけますでしょうか?
2010/4/12 19:00
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時53分26秒 ) | パスワード |
日本での漢字の使用は、5世紀頃といわれているが、江田船山古墳出土の太刀や、稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれている漢字は、弥生期のものである可能性があるとされていることからも、漢民族が弥生民族である可能性は充分にありますが、残念ながら私にもそこまでは断定できません
もうひとつの考え方としては、漢民族によって楽浪郡を設置されてしまった朝鮮民族が、安住の地を求めて日本に渡って来たのが、弥生民族なのではないか?というものもある。
その根拠は、日本語の文法が、韓国語の文法と同じで、中国語と異なるということ。
でも、そうなると、漢民族からせっかく逃れてきたのに、わざわざ漢の文字を使うだろうか?という疑問も出てくる。
残念ながら、私も伝えられていることは、農耕民族が渡って来たということだけなので、民族の正体の断定までは、できないのです。
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時56分45秒 ) | パスワード |
服部
私の忍術の流派は、麻績服部流といいます。伊賀流忍術の一派ですが、伊賀といえば、皆さん真っ先に思い出す人物は、服部半蔵ですよね
でも、この服部半蔵、大半の人が、忍者だと思い込んでいるようですが、それは全くの誤解です!
服部半蔵は、武士です!
ただ、代々服部家は伊賀地方の豪族だったので、伊賀の忍者をとりまとめていたという事実が、どういう訳か、半蔵自体が代表的な忍者というイメージになってしまったようです
今日は、ちょっと難しいんですが、その服部氏の成り立ちをお話します。
時は、大和政権の成り立ちの頃。
朝廷の組織は、氏姓制度によって創られていました。
氏とは、名字のこと、姓とは位のこと。
位には、臣、連、君、直などがあった。
もちろん、一番頂点は、天皇の祖先、大王。
葛城、平群、蘇我氏などの大和の有力豪族には臣。
大伴、物部、中臣氏などの特定の職能を持って朝廷に仕える有力豪族には連。
筑紫、毛野などの地方の有力豪族、つまり、もと縄文民族には君。
大和政権の支配に服した一般の地方豪族、つまりもと縄文民族には直。
という具合に位づけをした。
へえ〜
これは完璧に知らなかった〜
それぞれの姓には、伴と呼ばれる、朝廷の警備や神の祭りを担当する人民、後の武士の原形。品部と呼ばれる職人。名代、子代と呼ばれる農民などが支配されていた。
そのうちの品部には、陶部、錦織部、鞍作部などのそれぞれの専門職人がいた。
そのうちの機織部(はたおりべ)と呼ばれる服を作る専門職人がいた。
それはやがて、服をつくることから、服部(はとりべ)と呼ばれるようになっていった。
これが、服部氏の始まりである。
これらの部民は、大陸から渡ってきた帰化人がなっていったのだが、そのうちの秦氏の一派、呉服(くれは)一族がもたらした機織り技術が、服部(はとりべ)の技術に発展していったことから、服部氏の祖先は、秦氏という見解が有力である。
ともあれ、もともと、服部氏は、大和政権の組織下に生まれた氏族であり、もともと縄文民族であった山の民を束ねるに至ったわけであり、忍者そのものになりえない家柄なのである。
服部半蔵自身が忍者ではないことを説明するには、ちょっと難しすぎたかな?
2010/4/19 09:57
[32] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 10時57分52秒 ) | パスワード |
服部半蔵は全部で12人います。
服部石見守半蔵 という名前は世襲制で、代々受け継がれて来た名前なんですよ
皆さんが、よく耳にする服部半蔵は、服部石見守半蔵正成のことで、伊賀生まれではなく、三河の生まれで、半蔵としては、二代目です。
初代は服部石見守半三保長といって、彼は伊賀生まれです。
ブログで説明したとおり、服部氏は秦氏の末裔なので、弥生民族の中に溶け込んでいった帰化人。
風魔小太郎は、足柄から丹沢にかけて生息していた山賊、風魔党の頭領なので、縄文民族の流れでしょう。
服部氏にまとめられていた伊賀者たちとは、出所が一緒の可能性はありますが、服部半蔵と風魔小太郎はまったく家柄が違うんですよ
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 11時00分41秒 ) | パスワード |
麻績服部
前回は、服部氏の成り立ちについて説明しました。
今日は、私の忍術の流派、麻績服部流忍術のネーミングのもとになった、麻績服部(おみはっとり)氏の説明をします。
麻績服部流の祖は、鎌倉時代の藤原朝臣服部伊賀守という人。
藤原は中臣の子孫なので、位としては連だが、蘇我氏などが滅んだことで一番最初の氏姓制度が崩れて来たので、飛鳥時代天武天皇の頃、新たな姓が生まれた。
そのうちの一つが朝臣(あそん)。
朝臣とは、皇族だけど、天皇とは血縁関係が遠い臣姓。
ここまでを聞くと、凄く高貴な家柄?と思うかもしれませんが、そうではありません。
その高貴な人の配下にあった服部(はとりべ)の家柄ということ。
〜守というのは、一国の民政、裁判を司るために、中央政府から派遣される地方官に与えられる役職。
つまり、伊賀守とは、伊賀の国の地方官ということ。
服部半蔵は代々石見守だったが、これは、徳川家が、服部家に、石見銀山の管理を任せようとして与えた役職。
しかし、服部伊賀守と服部石見守の決定的な違いは、
伊賀守は、朝廷から与えられたきちんとした役職であるのに対して、
石見守は、一つの家であるにすぎない松平家(徳川家)が、朝廷の制度を真似て勝手に付けた役職。
どういうことかというと、幕府というのは、初めは単なる朝廷の組織する軍隊のことだったので、鎌倉時代の承久の変までは、全国に及ぶ政治権力は、朝廷の方が強かった。
しかし、承久の変で、幕府が、朝廷に勝つと、幕府が完全に全国を支配するようになったにすぎないので、〜守に本当に役職的に意味があるのは、鎌倉時代の承久の変以前であって、それ以降の〜守というのは、安易に付けられる役職になってしまい、実際に石見に勤めなくても石見守という名前がついてしまうようになった。
何が言いたいかというと、この服部伊賀守は、承久の変以前の役職なので、きちんと伊賀で勤めた人だということ。
つまり、伊賀地方の服部氏の祖であるということ。
もっというと服部半蔵の祖先ということ。
その服部半蔵の祖先の服部伊賀守が、伊賀守の任期を終え、承久の変以後力を持った鎌倉幕府から、今度は地頭として派遣された地が、信濃(長野県)の麻績(おみ)の地だった。
ココですね
この麻績の地は、承久の変以前は、朝廷の直轄地だったので、地頭はいなかったのだが、承久の変以後は、幕府領になったので、地頭が置かれた。
では、なぜ、服部伊賀守を起用したのか?
それは、伊賀も朝廷の直轄地だったので、武士の勢力の及ばない土地の民の扱いに慣れていたことが、この抜てきの理由だろう。
ともかく、この服部伊賀守が、伊賀から連れて来た民衆と、もともと縄文民族の末裔の多い信濃の民衆との技術が錬磨されたのが、麻績服部流忍術の源流なのである。
その服部伊賀守の子孫である麻績服部左衛門清信の頃に、完成したのが、麻績服部流忍術なのである。
私の本名は、宮下というのですが、宮下家は、服部清信の弟、服部加信斉が神主を務めた麻績神明宮を代々守っている家で、私はその一族の流れを組むものです。
そういった縁で、私が麻績服部流忍術の正当継承者になった訳です。
2010/4/21 08:18
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 11時01分27秒 ) | パスワード |
そうすると ヒバリさんと 服部伊賀守宗純は関係無い ということになりますか。
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 11時05分54秒 ) | パスワード |
伊賀流忍術の継承者は、全国に12、3人ほどいるのですが、伊賀麻績服部流忍術の継承者は、私一人です!
これは大問題で、私がニューハーフであることが、更に問題を深刻にしています
私の子孫が出てこないことは、麻績服部流忍術の断絶を意味するからです
かといって、弟子もいないので、大変な問題なのです。
父親との溝が埋まらない原因はそこにあると言っても過言ではありません
4/21 11:09
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 11時09分25秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%AE%BF%E5%AF%BA_ (%E7%AD%91%E5%8C%97%E6%9D%91)
岩殿寺(がんでんじ)は長野県東筑摩郡筑北村(旧坂北村)にある天台宗の寺院。山号は富蔵山(とくらさん)。本尊は馬頭観音。信濃三十三観音霊場15番札所。
境内に大小75社、12坊、4支院を有する大寺であったとされるが、度重なる火災により衰退した。往時を偲ばせるものとしては重要文化財の懸仏(かけぼとけ)と大日如来像、長野県宝の三所権現神像(3躯)などがわずかに残されている。
所在地
長野県東筑摩郡筑北村別所13505
位置
北緯36度26分6.3秒 東経137度59分37.1秒座標: 北緯36度26分6.3秒 東経137度59分37.1秒
山号
富蔵山
宗旨
天台宗
本尊
馬頭観音
文化財
木造大日如来坐像ほか(国の重要文化財)
歴史[編集]
伝承によれば、嘉祥元年(848年) 円仁が仁明天皇の命で一向大乗寺として創建。岩殿山を修験道の霊場として三所権現を祀り、十一面観音、深沙大王を本尊としたという。室町時代末期 武田信玄の帰依を受け、寺紋を武田菱とした。
どの服部氏?ひどい
江戸時代には服部・石川両氏の入部にあたり、寺領を悉く横領されるが、水野忠直よりの黒印30石により維持される。
寛永7年(1630年) 三宝院を焼失するが、直ちに復興される
明治10年(1877年) 岩殿山上の施設を焼失
明治16年(1883年) 富蔵山より本尊什器を三宝院に移し、山上の祭祠を廃止
明治17年(1884年) 岩殿山上の施設を再び焼失
昭和21年(1946年) 農地改革により寺領を失う。
昭和57年(1982年) 本堂と庫裏を焼失
文化財[編集]
重要文化財[編集]
金銅十一面観音釈迦聖観音像御正体(三所権現懸仏) - 円形の銅板上に銅製薄肉彫りの十一面観音、釈迦如来、聖観音の像を表す。建長元年(1249年)の銘がある。東京国立博物館に寄託。
木造大日如来坐像 - 鎌倉時代。岩殿寺本堂から北西に1kmほど離れた所にある仁熊大日堂に安置する。
長野県宝[編集]
木造男神立像 3躯 - 鎌倉時代の作。もとは岩殿山の山頂付近にある三所権現の祠に安置されていたが、保存に万全を期すため、岩殿寺内に移された。
札所[編集]
信濃三十三番観音札所の第15番
行事[編集]
3月 - 火渡り行
交通アクセス[編集]
JR篠ノ井線坂北駅から車で25分
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 11時18分00秒 ) | パスワード |
http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/folder/643142.html?p=1
山崎砦は、東筑摩郡筑北村坂井字山崎にある比高120mほどの山城です。幅広の尾根が安坂川に落ち込む先端部にある単郭で堀切一条という小規模な砦です。わたしがこの砦に興味を持ったのは、ある研究者から知らされた大野田城という山城関連です。
この大野田城は、上杉景勝の芋川親正宛の書状(「上越市史別編2上杉氏文書集2」2688号)にでてきます。「其表仕置ニ付而、使者到来、絵図・条目如健聞者、大野田之地再興ニ相極候条、為其警固衆申付、嶋津左京亮差遣候、(中略)
三月七日 景勝
[芋川越前守殿]
右同人へ」
この書状の年代比定は天正11年とされています。内容は、上杉景勝が牧之島城将の芋川親正にある方面での築城を命じ、それに沿って親正が適地を選定して絵図などを添えて報告したようで、その結果大野田砦の再興を認め島津左京亮を援軍(検使か)として送ったことが分かります。ここにでてくる「大野田之地再興」された城がどこなのか特定されていませんが、旧美麻村にある大野田城でわないかと推定しました。ですが、昨年出版された平山優氏の『秀吉の野望』の中で大野田城が麻績地域の山崎砦であるという記述を目にして、さてどうなのかということで一度訪れてみたいと思った次第です。このことについては拙ブログの「大野田城(砦)はどこ?」で多少詳しく書いていますのでご覧ください。
麻績地域は、鎌倉期から小笠原氏分流の服部氏(麻績氏)が治めていたようで、伝承にある安坂氏もその別れのようで、当砦の向かいに安坂城があります。したがって、何らかの形で服部・安坂氏系のものが砦を構えていたとして不思議ではないですね。平井氏の大野田城=山崎砦説に従うと、「大野田之地再興」とあることから服部・安坂氏系の城(砦)を再利用したものとなります。ただ、気になるのは、この地区の大野田が砦の東側谷奥にあることです。2kmほど離れていますからこの地を大野田というかどうかですね
麻績地域は、松本方面・川中島・善光寺方面・塩田平上田方面に抜ける街道が集まる交通の要衝です。天正壬午の乱でも、上杉氏対小笠原氏の抗争の中で、この地の争奪戦が激しくおこなわれています。
上杉としては、青柳城・麻績城を押さえるとともに川中島方面の連絡路確保が必要だったのかもしれません。そのための大野田城再興とも考えられます。それにしても、小規模な砦で天正末の築城されたものとはちっと考えにくいこともありますね。
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 11時35分23秒 ) | パスワード |
石川は石川数正の家のようですが
服部の方は分かりません。
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 11時36分04秒 ) | パスワード |
5月からはまた頑張ります。
ヒバリさんはすっぴんも美しいです。
ビックリ
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月27日 21時42分29秒 ) | パスワード |
麻績に来たという「服部伊賀守」を捜していますが見つかりません。
伊賀守
•礪波志留志
•伊賀朝光
•島田清田
•平経盛 麻績が平家の土地だった、というのはこのあたりから?
•平知忠 平知盛さまの次男ですね。 としたら、平六伊賀服部家長あたり?
•橘成季 知忠の乳母の夫でしょ?
•二条定高
•藤原公則
•源光清従五位上
§守護
§鎌倉幕府
•1184年〜1186年 - 大内惟義
• ?〜1204年 - 山内首藤経俊
•1204年〜1205年 - 平賀朝雅
•1205年〜1221年 - 大内惟信
•1247年〜1275年 - 千葉頼胤
•1275年〜1312年 - 千葉胤宗
•1312年〜1333年 - 千葉貞胤
§室町幕府
•1337年〜1339年 - 仁木義直
•1339年〜? - 千葉貞胤
•1340年 - 桃井直常
•1342年〜1343年 - 千葉貞胤
•1346年〜1347年 - 仁木義長
•1347年〜1350年 - 高師冬
•1351年 - 千葉氏胤
•1351年〜? - 仁木義長
•1352年〜1353年 - 細川清氏
•1353年〜1360年 - 仁木義長
•1365年〜1380年 - 中条元威
• ?〜1433年 - 仁木国行
•1433年〜? - 山名時熙
•1470年〜1477年 - 仁木氏
• ?〜1487年 - 仁木貞長
•1491年 - 仁木氏
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 02時09分06秒 ) | パスワード |
源満仲を祖とする小笠原氏の系図にからんで、
いろいろな発見がありましたことお伝えいたします。
長清より数えて7代目の小笠原長親が服部(麻績)氏の祖のようです。
長清より数えて16代目の長時が武田信玄に敗れております。
驚き!
ヒバリさんのお家の家紋が何か知りたいところです。
いわゆる伊賀の服部氏の代表紋 車に矢の紋なのか
○に三つ柏紋なのか
小笠原家の紋なのか?
信玄 vs 謙信 の戦いの影で活躍した家なのだろうと思います。
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 09時45分03秒 ) | パスワード |
2014年9月
午前中に長野駅に程近いホテルを出発して、麻績村へ
11:00頃着いて、我が伊賀麻績服部流忍術の祖
服部伊賀守公
麻績城主 服部清信公
麻績神明宮 神主 服部加信濟公
のお墓掃除とお参りを1時間半かけて終えて
その後、服部清信公の弟、服部加信濟が神主を務めて依頼、我が宮下一族が守ってきた麻績神明宮をお参りして
14:00ちょっと前に叔父の家に着き、それから17:00まで3時間かけて、我が宮下家のご先祖様のお墓掃除とお参りをした
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 11時16分57秒 ) | パスワード |
昨日9/11は、東日本大震災から半年、
また、アメリカ貿易センタービルテロから、10年と、ショッキングな出来事からの節目の日でした。
それは、私の住んでる町の神社、鎧神社のお祭の日。
写真は鎧神社の神楽の様子です。
実は、その鎧神社は私にとって何かを訴えかけている存在のような気がしてしょうがないのです。
鎧神社は、平将門の鎧をその地に納めてあるのがその名の由来です。
平将門は、私の麻績服部流忍術の服部氏と関係の深い伊賀氏の祖先、藤原秀郷が討ち取ったのです。
藤原秀郷は、しばらく平将門の怨念に悩まされ、将門の鎧をその神社に納めて鎮魂したことによって、病が治ったという言い伝えがあるのです。
去年は、その祭から帰ったら急に疲れが出て、玄関を開けっ放しで眠ってしまい、その隙に愛する影千代が、家出してしまいました
実は、今、私、引っ越しを考えてまして、休みの日は、『戦cise 忍術』の振り付け以外は、不動産屋さんを巡っています。
私は風水にこだわっているので、なかなかいい物件が見つからないのですが、今日、やっといい方位の物件があったので、お祭りに行く前にその物件を見て来ました。
すると、そのマンションの名前になんと『鎧』という字が入っているのです。
今から鎧神社のお祭りに行こうとしてる時にですよ
なんか意味を感じずにはいられないけど…、いい意味なのか、悪い意味なのかは、わかりません
2011/9/12 10:00・コメントする
じゃ、今は引っ越しされているのかもですね。
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 11時21分15秒 ) | パスワード |
ヒバリさん 6月1日生まれなんですって。
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 11時25分02秒 ) | パスワード |
BAR COLORS
ACCESS
新宿区歌舞伎町2-22-13
ADビル 2F
(ニュー愛2F)
03-5285-6011
区役所通り
バッティングセンター近く
SYSTEM
チャージ \3000
カクテル \1000
ビール \1000
ジュース \800
ボトル \5000〜
おつまみ \500〜
サービス料10%
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 11時35分22秒 ) | パスワード |
『奥の細道』でお馴染みの江戸時代の俳人、松尾芭蕉は、忍者だったという説があります。
その根拠は、芭蕉が伊賀出身であること、無足人、つまり、農民でありながら、刀を持ち武士としての仕事も許され、名字も与えられていた家の出であることがあげられる。
しかも、41歳から51歳で他界するまでに何度も旅を繰り返した。
手段が徒歩の時代、しかも今より遥かに寿命の短い時代の晩年に、そんなことができるのは、忍者だからに違いない
という考えが起こっても不思議ではない。
一体どこから旅の費用が出て、どういう方法で関所を通ったのか?
バックに幕府からの各地の調査依頼があっての旅であろうと考えるのは、実に理にかなった解釈である。
ちなみに、TBSの『水戸黄門』の旅は、全くのフィクションで、光國自体は、人生の中で近場の旅を一度しただけだという。
しかし、芭蕉の旅は本物だ。
写真は私の流派、伊賀麻績服部流忍術(いがおみはっとりりゅうにんじゅつ)の発祥の地、長野県東筑摩郡麻績村の隣にある、あの有名な『姨捨山(おばすてやま)』で芭蕉が詠んだ一句である。
おもかげや 姥ひとりなく 月の友
芭蕉が、伊賀流忍者が住んでいる地を訪れているのも、決して偶然ではなく、幕府からの監視業務の依頼があってのことだと、私は思っている。
だだ、芭蕉本人が忍の術を使えたかどうかは、私にも、わからない。
芭蕉の弟子、蕉門十哲の1人、河合曾良は忍術者だと、私は師匠から聞いている。
ちなみに、服部半蔵=松尾芭蕉というのは、ロマンのある話ではあるが、ない!!
服部は文字通り服部家。
伊賀に住んでいたころの服部家は、千賀地家を名乗っていたのに対して、
芭蕉の名は、伊賀藤堂藩の百地家の家系図にあるからだ。
2010/10/25 18:35
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 11時41分14秒 ) | パスワード |
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/493607908
ヒバリさんのビキニ
筋肉の塊
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 11時45分14秒 ) | パスワード |
ヒバリさんのご実家は小田原なんですって。
では麻績にいらっしゃるのは叔父さまのご家族だけなんでしょうね。
[49] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 11時51分33秒 ) | パスワード |
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/487265366
3日ほど夏休みをいただいたので、長野県の麻績村に先祖参りに行って来ました。
何度も説明していますが、私は伊賀流忍者の末裔ですが、
私が継承している麻績服部流忍術は、
鎌倉時代に服部伊賀守という人が三重県の伊賀から長野県の麻績(おみ)に移り住んでから、
麻績の地に根付いた流派なので、私の先祖は、伊賀ではなく麻績に眠っておられます
だから、私は毎年夏休みが取れると麻績に先祖参り行くのですが、
今年は偶然、私の兄も同じ日に休みが取れたので、
兄夫婦と1歳の甥っ子、父と母が一緒に麻績に先祖参りに行くことが出来、
実に30年ぶりぐらいに一家揃って、先祖参りに行けました
これもきっとご先祖様の思し召しでしょう
兄は、自分の家族と父母を乗せて車で行ったのですが、
私は電車で行ったので、
麻績に着いて一番最初に、服部清信さまと服部加信斎さまのお墓参りをしました
(写真)
次に、服部加信斎さまが宮司をしていた麻績神明宮をお参りして
(写真)、
最後に私のご先祖様のお墓参りをしました
ちなみに、
写真の立て札は、我が宮下家(私の本名)が、
服部加信斎さまが宮司を務めている任期以外の麻績神明宮の宮司をやっていたことを説明する立て札で、
服部清信さまと服部加信斎さまのお墓の横に設置されているものです。
今年は、こうして家族揃って先祖参りが出来たし、服部家のお墓参りも、麻績神明宮参りも出来たので、
これからきっといいことがあると思います
2010/8/23 04:00
お墓に家紋が写ってないのが惜しい。
麻績神明宮って言うんですね。
2010/8/23 04:00
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 11時54分53秒 ) | パスワード |
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/486647221
こんぱるとは、金春と書くんですが、日本の伝統芸能の能の流派で、
江戸時代に幕府に厚く保護され、
銀座に金春家が屋敷を与えられたことが、この銀座笑座こんぱるのネーミングの由来になっている訳です
ちなみに、幕府から保護を受けていた能の流派は、金春の他に、
観世、宝生、金剛というのがあるんですが、
その中の観世は、有名な観阿弥、世阿弥親子が祖となっていることはご存知の方も多いでしょう。
実はこの観阿弥、世阿弥は元々、伊賀の服部家の出なんです
更に、観世流の能のステップには、忍者が体得していた武術、骨法体術の足さばきがたくさん隠れているのです
金春も忍者と関係があるかどうかはわかりませんが、笑座こんぱるに行って何か親戚にでも逢ったような不思議な気持ちになりました
2010/8/21 10:53
>観世流の能のステップには、忍者が体得していた武術、骨法体術の足さばきがたくさん隠れているのです
さすが
本物!
知る人ぞ知る、ですね。
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 12時00分10秒 ) | パスワード |
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/479237530
都内某所の花火大会に行って来ました
けっこう地元民のための花火大会のようで、人出はそんなに多くなく、穴場でした
芝生に寝転がって観れるほど空いていてチョーラッキー
ところで、皆さん
江戸時代の多くの忍者が、花火師になったのをご存じですか?
忍びの者は、昔から狼煙を焚いたり、鬼火と呼ばれる火の粉を吹き出す威嚇道具を使ったりしていた関係上、
火薬の扱いに非常に長けていたので、
戦国時代の後期には、多くの伊賀者が鉄砲隊に召し抱えられていました
ちなみに、今私の住んでいる新宿の百人町という場所は、江戸時代、
伊賀鉄砲隊百人組が屋敷を与えられていた土地だから、百人町といいます
しかし、江戸時代になって、戦いもなくなってくると、忍びの技も鉄砲隊としての火薬技術も次第に用がなくなってしまいました。
その挙げ句、忍者達はその忍びの技を生かして、曲芸師になったり、薬草の知識を生かして薬師になったりしました。
そして鉄砲隊の知識を生かした者達が、江戸の代名詞、花火を扱う花火師になったのです
海外にも花火は有りますが、どの角度から見ても丸く飛び散る花火は、日本だけの技術、つまり、伊賀者の技術なのです
それが、今では、写真のようにハート型になったり、ニコちゃんマークになったり
実に可愛らしく見事ではありませんか
あんな風に、計算どおりに火薬を爆発させてその模様になるように飛び散らせる。
相当綿密な火薬詰め作業を要するはずです。本当にすばらしい技術です
花火師の皆さんに拍手
でも、皮肉なことです
こんなにも美しい花火が、基をたどれば火薬を使った殺人技法だったなんて
湾岸戦争のアメリカ軍の攻撃が、不謹慎ながら美しいと感じてしまった人は、決して少なくないはず
私のパフォーマンスも、基は殺人技法なのです
しかし、こうとも言えます
たくさんの悲劇を越えてきたものこそ、美しいのだと
2010/8/4 08:12
妃羽理 8/5 04:50
ご〜くんさん、お久しぶりです
百人町の由来のことは、実は私自身も住むまで知りませんでした
住んでみたら、由来のことが、大久保駅前の陸橋高架下の壁画に書いてあって、読んで見てびっくりしたんです
きっと、ご先祖様が私をこの地に引き合わせてくれたんでしょうね
皆さん、お盆にはご先祖様のお墓参りしましょうね
妃羽理
でも今は引っ越していらっしゃるのよね。
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 12時06分59秒 ) | パスワード |
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/468167741
ニューハーフ運動会
7/12(月)19:00〜一時間、日テレの「不可思議探偵団」という番組に出ま〜す
内容は、「ニューハーフ運動会」です
関西チーム(写真左)と関東チーム(写真真ん中)の対抗戦で、私は関東のカラーズというクラブメモリーの姉妹店代表として出場しました。
ちなみに、写真右は、私達の集合写真を取ってくれたひげガールの丹波倫ちゃんです
両チームの勝敗は、O.A.まで言えませんが、もちろん、私個人はM.V.P.取ってきましたよ
ところが、事件は起こりました
一番最初の競技、50m走において、私、両太もも裏を肉離れしちゃったんです
というのも、今回のニューハーフ運動会のコンセプトは、なんだか凄い身体能力のニューハーフがいるらしい!!本当かどうか検証してみよう!
というものなので、当然私は凄い記録が求められるわけです
ところが、私はもう今年41歳!
ダウンタウンの浜田さんの番組で50m走を6秒16で走ってからもう9年も経っています。
ところが、番組に求められているのは、度肝を抜くような私の走りなわけです
当然、私も今回は5秒台を出すつもりで臨みました。
今回、衣装とシューズは自前でお願いしますとのことなので、当然私はスパイクを用意しました!
ところが、それが一番まずかった
ショーパブを離れて約半年。
もう毎日1時間のショーを1日3回もやっていた頃の体ではなかったのです
もう41だし、毎日お酒を飲むお仕事だし…
そこへきてスパイクだから、滑らない分地面からの力の返りがべらぼうに強いとくりゃ、もう、私のハムストリングスは、びっくりするよりしょうがない
それでも、私が一番速かったんですが、タイム的には、残念ながら度肝を抜くようなものは出せませんでした
50m走が一番最初の競技だったので、後の競技は痛くて本当にしんどかった
バラエティーなので、私が肉離れしちゃったことには当然触れないでしょうが、私の姿が見えない競技に関しては、裏で私がトレーナーさんのケアを受けてもがき苦しんでいる真っ最中だと思ってください
このブログを見てくださっている皆さんは、50m走で、30mを過ぎた辺りから私が急に失速したことに注目して見てください!
それが私の肉離れポイントです
このブログの読者さんだけの番組の楽しみ方があるって、素敵なことじゃありません?
2010/7/7 09:40
妃羽理 7/14 03:11
みなさん、「不可思議探偵団」見てくださいまして、どうもありがとうございます
肉離れの具合はだいぶ改善に向かっていますが、
筋肉の切れている部分がくっ付いたとしても、
それがもとどおり柔軟性のある筋肉に戻すためには、時間をかけてストレッチをしていかなければなりません。
今までと同じように技をこなすにはもう少し時間が必要なようです。
一刻も早くベストパフォーマンスができるようリハビリがんばります
暖かい励ましのお言葉誠にありがとうざいます
なお、ショーはできなくても、トークは出来ますので、是非1度、新宿歌舞伎町にありますBAR COLORSまで、私に会いに来て下さいね
妃羽理
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 12時08分53秒 ) | パスワード |
ヒバリさん お誕生日は 1969年6月1日 なんだ。
今年46歳。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 12時14分34秒 ) | パスワード |
こんなイメージの人らしい
背高く細身。色白。眉濃く瞳は二重。ロン毛。5歳は若く見える。指長く指先がキレイ。流行に敏感で海外ブランドのダークスーツを着こなす。アクセサリーも好き。
性格
人付き合いは狭く深くどことなく陰があり怪しい雰囲気を持ってる。
誰とでも仲良くできるタイプではなく、気の合う特定の人と深く付き合っていくタイプ。
企画力や発想力に優れ誰も思いつかないようなアイデアを出すことができる。
底力があり簡単には物事を諦めない粘り強さを持っている。
海外に縁が深いので海外に関係した人生を過ごすことになる。
シチュエーション
昼間のデートは避けよう。
「やっと予約取れたよ」みたいな話題性の店。
食べ物の好き嫌いが激しいので好みは事前に調べておくこと。
酒好き。
あんまり話好きではないので女のコが会話を引っ張ること。
トレンドの話。
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 12時19分45秒 ) | パスワード |
男性としては 独特のセンスで勝負するセクシー系
女性に生まれてたら 自意識過剰を武器にする恋愛達人
ルックスイメージ
キレイでスレンダー。
目は切れ長で涼しげ。
色白で肌はツルツル。
髪は細く、オデコがキレイな卵顔。
オッパイの形がイイ。
どんな性格
飽きっぽく自意識過剰で干渉を嫌う
表面上は穏やかで優しく見えるが内面はかなり自意識が強く他人から干渉されたくないと思ってる。
実は超〜負けず嫌い。
女性らしい魅力と雰囲気の良さから皆に慕われる。
欠点は飽きっぽいところで、相手に知性を感じないとその人に興味をなくしてしまうことも。
こんなアプローチ
会員制の店や誰も知らない隠れ家風の店、超人気で予約困難な店。
シャンパン好きだゾ。
映画や演劇、美味しいものに興味を持っているのでそういう話題。
五分おきに褒めること。
服のセンスは絶対に褒めること。
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 12時22分59秒 ) | パスワード |
東京タワー
最近、私、かなり気分が落ちてました
というのは、只今、私怪我をしておりまして、両太ももの裏、つまり、ハムストリングスを肉離れしており、まともに動けないのです
なんでそんなことになったのか?は、また次回話すとして、
とにかく、私の売りであるアクロバットパフォーマンスも出来ず、
痛み止めの薬を飲んでいる関係上、お酒を飲むことも出来ず、
今、カラーズでの「お荷物感」を感じてしまっているわけです
2010/7/5 10:14
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 12時28分13秒 ) | パスワード |
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/452439274
忍者刀
背中に背負った忍者刀。
忍者が持つ刀には、そんなイメージが一般的なようです。
しかし、この忍者刀の携帯方法は、はっきり言って嘘です。
実際に、背中に背負ってみればわかります。
はっきり言って、邪魔だし、抜きづらいです
実際は、普通の刀と同じように腰にさしていました。
ただ、角ツバで、反りのない直刀だったのは本当で、日本と違って斬るのではなく、突くという闘い方だったようです。
しかし、忍者刀が直刀だった最も重要な訳は、もっと別のところにあります。
それは、高い塀を乗り越える時に、塀に立て掛けて、角ツバに足をかけて高さをかせぎ、
塀を登り、口にくわえていた下げ緒で、刀を塀の上から手繰り寄せて、
再び刀を携帯するという忍び込みの方法が行われていたためである。
つまり直刀でなければ、塀に立て掛けてツバを踏み越えようとした時、バランスが取りにくいからである。
角ツバなのは、塀に立て掛けた時に、ツバが塀を転がらないため。
しかしながら、忍者刀の存在自体は事実であるものの、実際には、あまり実用頻度は少なかった。
なぜなら、武士以外が刀を携帯しているのは、非常に目立つし、
よほど、助走がつけられないようなスペースがない場所以外は、
ツバを踏んでかせげる高さ程度の塀は、ジャンプすれば乗り越えられるからだ。
それでも、助走をつけてジャンプで登るには、音がしてしまうので、忍者刀を使うこともあったが、
携帯するには、怪しまれない農機具のほうが、ずっと使い勝手がよかったのである。
例えば、鎌を3つほど束ねてカギ状にして、
ロープとつないで上方に投げ、カギ状になった鎌をどこかに引っ掛けて、ロープを手繰り登るなどの方法をとった。
説明が長くなったが、今回言いたいのは、実は忍び込みの方法ではなく、直刀である忍者刀を使った私の新ショーの宣伝がしたかったのです
バースデーショーを機に、新しくなったカラーズでの新しいポールアクロバットショーは、
なんと、写真の忍者刀を私が呑み込み、
その状態のまま、写真のように、鯉のぼりをやるという、なんとも恐ろしい離れ技を披露しているのです
是非とも一度、見に来てくださいね
2010/6/5 01:14
さすが。
忍者の刀が直刀というのは知らなかった
言われてみれば、そんな気もする。
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 12時33分51秒 ) | パスワード |
やっぱりそうなんだ
海外にも活躍したいと願っていらっしゃるんだ。
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/447133780
ショービジネス
6月1日が、私の誕生日なんですが、今年その日は火曜日で、私の定休日なので、
カラーズでは、6/2(水)にバースデーパーティーをすることにしました。
その日に披露する特別バースデーショーで使う小道具を買いに、浅草にやって来ました
将来的に、私は海外に拠点をおいて活動したいと考えているのですが、
言語能力の点でビジネスとしての不安があるため、
今の段階では、なかなか踏み切れないでいます。
その点で、もう1つ副案として考えているのは、浅草で、ショービジネスをやることなんです
ただし、それは、東京に本当にカジノ産業が認められて、
外国人向けの観光事業の必要性がもっと高まってからでないとダメだと思っています。
去年のお正月にマカオに行って、シルクドゥソレイユの常設公演「ザイア」を見て来たんですが、
あのシルクドゥソレイユの公演なのに、ガラガラでした
それは、ターゲットである中国の経済特区の人達の国民性が、
ラスベガスの経済を回している人達の国民性とは明らかに違うためと私は分析しました。
それは日本人においても、同じことが言えると思います。
何故、シルクドゥソレイユは、日本では、期間限定のツアーショーが成功して、常設公演のゼッドが伸び悩んでいるのか?
何故、レストランとサーカスを融合させたルナレガーロなんて始まったのか?
答えは、日本人のエンターテイメントに関する意識の低さにあります!
日本人にとって、エンターテイメントはただで見られるものなんです
だから、何かの付録としてでなくては、ショービジネスが成り立たない。
それが、ルナレガーロを試験的に期間限定でやることになったキッカケだと、私はにらんでいます
つまり、日本で、常設のアクロバットショービジネスを成功させるには、
現在の家電目当てで日本に来る中国人観光客をターゲットにしてもダメだし、
レストラン事業とコラボしたやり方で、
日本人をターゲットにしてても、外貨は入って来ない。
つまり、ショービジネスが観光事業として成り立って、
日本経済の中に外貨を回すようになるには、欧米からのニーズに答えるショービジネスでなければ、ダメだと思っています!
だから、浅草での「忍者サーカス」なのです
そのためには、日本人の雇用を増やす意味でも、東京のカジノ建設は急務なのです
2010/5/26 11:36
頭いいよね、ヒバリさん。
リーダーシップもあるし。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 12時40分47秒 ) | パスワード |
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/443132070
これも面白い!
運転免許
顔写真、すっごくきれい。
運転免許証の更新をしてきました。
今は、写真のとおり、本籍のところが、空欄になってて、
お巡りさんに職務質問されて免許証を提示しなきゃいけないとき、
免許証更新時に登録しておいた暗証番号をお巡りさんの持っている機械に入力することで、
本籍もわかる仕組みになってるらしい
その暗証番号を忘れないように、暗証番号の書いてある紙を渡されたが、それを免許証と一緒に持っておけと言われた
他にその暗証番号を使っている人は、その紙を破って捨ててくださいって言われた
もちろん、私はそうしたが、そもそもそんな紙が存在してしまうことが問題なのでは
と思う。
こんな時、忍者はどうしたか?
いくつか方法はあるが、
1つは髪の毛や下の毛の剃って、秘密事項を地肌に刺青して、毛が伸びたことで隠すという方法。
1つは、棒に細い布や紙を螺旋上に巻き付け、そこに秘密事項を書き、棒からほどく。
それにより、書いた文字がシュレッターにかけたかのように、バラバラになって読めなくなる。
その秘密事項をまた再び見たい時は、同じ棒に、また同じように螺旋上に巻き付けて読むという方法がある。
刺青の方法は、痛いし、髪の毛が伸びるのを待たなきゃならないので、現代では現実的ではないが、後者の方法は使えるのではないでしょうか?
是非、お試しを
2010/5/19 10:37
妃羽理 5/20 17:29
ゴールドなのは、乗らないからであって、決して優秀なドライバーなわけではありませーーーん
妃羽理 5/24 12:09
ぴあんさん、
いつもいいことばかり言ってくれて、本当にありがとうございます
宣材写真は、くノ一の戦闘モードをイメージした表情を意識したものなので、確かに女らしさはありませんよね
実は私の宣材写真はもう1つあって、
それはニューハーフをもっと意識したフェミニンな感じのものなんですが、
最近の私の売りは、史上最強のニューハーフから、おネエ忍者に移行していることから、
制作会社が選ぶ写真が、くノ一タイプの方が多いことから、事務所もこの写真を多用するようになったんだと思います
ブログは等身大の私を見ていただくものだと思ってやっているので、
その写真と宣材写真とのギャップがあるのもまた粋なんじゃないかな?
と私自身は思っています
でも、確かに、宣材写真の頃と、メイク方法も変わってるので、新しくした方がいいかもしれませんね
検討してみます
免許証の私、綺麗ですか?やっぱり犯罪者に見えると私自身は思っています
妃羽理
[60] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 05時51分36秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101481_97.html よりの重複転載
[67] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月24日 06時10分23秒 )
松本から麻績村までは、思っていた以上に近く、高速も入れて30分、アッ
というまに着いてしまいました。但し、詳細地図を持っていなかったため、
現地では苦労させられることになりました。結果として何人かの人に訊いた
ことが、かえってよかったことにはなりました。
インターを降りて、麻績村役場へ向かう。麻績インターからすぐの所であ
る。聖高原の山裾の正に「裾」の部分に麻績村はあった。昔でいえば、松本
の方から善光寺に向う「善光寺街道」の最後の山越えの手前に位置するのが
麻績村ということになります。
[68] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月24日 06時50分01秒 )
麻績村の人口・世帯数(平成24年6月1日現在)
男 1,410人
女 1,630人
合計 3,040人
世帯数 1,175世帯
こじんまりした集落ですね。
昔は宿場町として栄えたのでしょうね。
[71] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月24日 14時51分09秒 )
麻績村では、まず「法善寺」に向かいました。しかしながらどうも地図と
のイメージが合わない。
地図・ナビと実際の道が違って見えるのは、実際は高低差(つまり坂道)が
かなりあるのに、地図では平坦にしか見えないということが一つ。
また、地図で表現されている縮尺と実際の距離感がなかなかマッチしない
ということが一つ。太陽が出ていない場合は、方向感覚がわからないといっ
たような状態に陥ることが一つあります。
麻績村も主要道路「善光寺街道」を一歩北へ入ると、すぐ坂になっていて、
しかもその道が狭い。やはり「村」であった。
法善寺へはすぐに着いた。門前に至る坂道の途中に看板がでていた。
「法善寺
法善寺は、元法相宗岩襲山西谷寺と称し、奈良典福寺の末寺と推定される。、
明應元年(1492)等、二十四世権律師西平の時代に、西谷寺は廃寺になった。
しかし、永正9年(1512)麻績城主「服部左衛門清信」が開基となり、賢
甫宗俊禅師を迎えて、曹洞宗佛眼山法善寺として再興、今日に至っている。」
[74] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 07時01分54秒 )
法善寺というお寺は、想像していたよりはるかに立派なお寺で、屋根の
棟木あたりに、次の紋が飾られていました。
それは三つ―
@四つ花菱
A五七桐
B久我竜胆
開創は奈良興福寺系の岩龍山西谷寺(法相宗)で、法善寺の前身となる。
麻績城主「服部左衛門清信」が賢甫宗俊禅師を招き中興開基、曹洞宗
佛眼山法善寺となる。
なお、「遠州奥山村善住寺」の末寺となったのは、どういうことであろ
うか? 禅師の出身ということか? ちなみに、奥山村というのは今の
浜松市天竜区水窪町にあたる。
その後、享保と文政の年間に、二度の火災に遭っている。
信濃三十三番札所第一番寺である。
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 05時54分47秒 ) | パスワード |
[75] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 07時43分13秒 )
法善寺の墓地は、正面からは見えないが、裏の斜面にあった。立派な墓が
多い。墓や仏壇の大きさ・立派さは、信仰心の表れであろうか、また祖先へ
の尊崇の念からであろうか・・・。
「宮下」という墓碑銘が見える。そう、妃羽理さんの家系の苗字だと思い
ながら見て行く。臼井がチラホラと目につく、風間、武田、網野・・・。
墓地を一巡してみた。「宮下」の墓標は結果六基あり、一番多かった。どれ
が妃羽理さんに一番関係するのかと思いながらも、とりあえず一番立派な宮下
家の墓の前で、般若心経を二巻唱えた(もちろんその内の一巻は、あを様の分
として)。
「服部」「麻績」の墓は、期待に反してなかった。でも「宮下」は意外に
多いということを感じ、何か予感めいたものを感じた。
[76] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 08時17分22秒 )
そうそう、大事なことを忘れていました。宮下家の家紋―
それ「竹と雀」でした。
竹と雀にはいろいろな種類があるそうで、宮下家のものは、宮下家だけの
ものなのかも知れません。写真や絵で表示すれば一番分かり易いのですが、
口頭で説明しますと―
「丸の中に二本の竹が並んでいて、その二本の竹の上部は切り竹、即ち
V字型の切り口になっており、それらの竹を覆うように、笹が約三段くらい
はえている。
左九時の笹の葉の間に鳥が止まっており、右三時の方向に首をひねって
いる。鳥は一見鳩のようにも見えるが、右二時の方向にもう一羽の鳥が見え、
これははっきり雀と分かる。羽ばたいて下りて来るという構図であるので、
二羽の雀に違いない。」
[77] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 09時31分07秒 )
取り敢えず法相宗から ← すごいですね、格調高いんですねえ。さすが藤原氏がらみ? → その後、曹洞宗へ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97
[78] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 09時37分24秒 )
わたくしの分も般若心経を唱えてくださって感謝でございます。
宮下家はかなりの力を長く持っていたということですね。
竹と雀紋
http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E3%80%80%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E3%80%80%E7%AB%B9%E3%81%A8%E9%9B%80%E3%80%80%E3%81%AF
右から3つ目でしょうか?
[79] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 09時44分28秒 )
竹と雀紋について
公家家の紋は 舞雀で
武家系の紋は 対雀つがいすずめで 口を開けているのと閉じている「阿吽」だそうです。
有名どころの武家ですと伊達と上杉ですね。
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 05時55分48秒 ) | パスワード |
[80] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 09時53分15秒 )
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AE%AE%E4%B8%8B
【名字】宮下
【読み】みやした,みやのした,みやもと,みやしも
【全国順位】 228位
【全国人数】 およそ100,000人
平経盛の子孫、昌辰に始まる。
ほか諏訪氏、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)など様々な流派がある。
現長野県である信濃地方に多くみられる。 そのものズバリ!
「下」は上や中に対し、低いところやふもとを表す。
「宮」は神社を表す。
まさにズバリ
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鹿児島県 123位 およそ2,300人
沖縄県 2,479位 およそ10人
[81] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 10時04分21秒 ) パスワード
http://www.geocities.jp/rockfish384/zakki4.htm
信濃国源姓宮下氏族 これは違うでしょう
信濃国上伊奈郡伊賀良村に清和源氏の末裔で、その祖を新羅三郎義光とし、
宗基佐太郎川中島合戦に功があり、其子源助に至り武田氏没落後民間に下り宮下氏と号しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E6%B0%8F
諏訪氏の中にも宮下氏あり
これは近いでしょうね
諏訪の娘で信玄の側室となった女性の母上は麻績=小見氏ですから
諏訪家と関係があった家でしょう。
神家一党33氏[編集]
以下の氏族は諏訪氏の一族であるという。南北朝時代は宗家の諏訪氏ともども南朝方となる。
関屋氏、深澤氏、皆野氏、三塚氏、四宮氏、若尾氏、不覚氏、保科氏、神野氏、笠原氏、千野氏、松島氏、座光寺氏、栗原氏、上原氏、栗林氏、矢崎氏、風間氏、平島氏、平方氏、栗澤氏、遠山氏、向山氏、中村氏、西保氏、真志野氏、真野氏、脇間氏、繭屋氏、大妻氏、小島氏、中野氏、禰津氏、浦野氏、大垣氏、有賀氏、平井氏、神田氏、神内氏、知久氏、桓原氏、宮所氏、小坂氏、安倍氏、元澤氏、高遠氏、原氏、安部氏
その他の諏訪氏一族[編集]
岡屋氏、栗田氏、三輪氏、箕輪氏、埴原田氏、一瀬氏、武井氏、安宿氏、足羽氏、桑原氏、山井氏、花岡氏、関氏、大平氏、大島氏、小野氏、小林氏、平林氏、周防氏、片倉氏、藤森氏、原氏、矢澤氏、
宮下氏、
宮崎氏、金山氏、津波木氏、岩波氏、高木氏、横田氏、海口氏、西條氏、櫻井氏、栗澤氏、福島氏、春日氏、大藍氏、宮坂氏、吉田氏、小井弖氏、平栗氏、早出氏、濱氏、中尾氏、波間氏、吉田氏、木村氏、大木氏、米澤氏、沖氏、杵淵氏、寺尾氏、保坂氏
「澤」のつく庶族[編集]
栗澤氏、藍澤氏、宮澤氏、中澤氏、元澤氏、唐澤氏、福澤氏、藤澤氏、松澤氏、大澤氏、増澤氏、谷澤氏、吉澤氏、金澤氏、柴澤氏、平澤氏、米澤氏、蕗澤氏、胡桃澤氏、神澤氏、大澤氏、能澤氏、粟澤氏、駒澤氏、西澤氏、北澤氏、奥澤氏、前澤氏、横澤氏、赤澤氏、蘆澤氏、白澤氏、樋澤氏、戸澤氏、立澤氏、三澤氏、石澤氏、廣澤氏、岡澤氏、柿澤氏、長澤氏、尾澤氏、鳴澤氏、柳澤氏、瀬澤氏、古澤氏、金澤氏、澤氏、鮎澤氏、入澤氏、木澤氏、笹澤氏、田澤氏、野澤氏、小澤氏、菅澤氏、増澤氏、二澤氏、桜澤氏、有澤氏、黒澤氏、味澤氏、矢澤氏
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 05時58分47秒 ) | パスワード |
[82] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 12時48分00秒 )
そう、宮下家の家紋は、竹が二本で雀が二羽。一羽は口を閉じ、一羽は口
を閉じて舞っている。ということは、公家と武家の混合型ということになる
のかも知れませんね・・・。
私の知る宮下氏といえば、京都で出会った宮下氏―この方は、山梨出身で、
宴会ではよく「武田節」を歌ってました。
もう一人は、女子バレーの大型セッター宮下です。昨夜もキューバ戦でみ
ごとな働きをいたしました。
話を先に進めます―
次に行った所は、法善寺の墓地の手前に二叉路があり、その坂を距離にし
て200m位回りくねりながら登った所にある「信濃観月苑」という所であ
ります。特段の目的はありませんでした。ただ、どんな所か参考に見ておこ
うと思っただけでした。
ここは、はしょって記します。
観月苑の玄関から左手方向に「村宝 十一面観音立像」があるということ
で、細い山道を五十m位行くと、六角堂があり、その中に観音像があった。
お参りをして、左手奥の道の先を見ると何やら建物があるようであったので、
駆け足で向かった。そしたら何と「待月亭」という屋根付の観月台があった。
そこからは、正面に冠着山(かむりき山 千曲側からは姨捨山と言う)が見え、
中秋の名月を見るさぞかし絶好のスポットであろうと想像しました。
[83] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 13時47分08秒 )
次に向かったのは、「麻績氏居館跡」であった。インターネットで調べて
麻績宿の街道脇にあるはずであったが、いくら探してもない。交番で訊こう
と交番の駐車場へ車を止める。しかし交番は留守。近くに観光案内の看板が
あったので、調べる。そこから西へ二筋目の道を登った所である。道といっ
ても車で行けそうな道はここでは少ない。人馬、リアカー類用の道が多いの
である。
道の概念が違うので、間違って一本道を早く曲がってしまったが、坂の上
を見ると囲われた墓がある。麻績氏の墓かなと思いつつ、登って行くとおじ
いさんが畑仕事をしていた。ちょっと訊いてみた―
「この辺に、麻績氏の居館跡はございますか」
おじいさんは、
「うーん」とうなり、
「ここにはないよ。確かこの西に記念碑が建っている」と言った。
「では、ここにあるお墓は?」
「それは、私設のお墓だよ。麻績氏の墓なら、カイゼンジにあるよ」
と言って道を説明してくれた。カイゼンジとは開前寺と書くのかなあと
思いながら、
「ありがとうございました」と礼を述べて坂を下った。
「麻績氏居館跡」の碑は道の突き当りの民家の入り口の右手に建っていた。
「麻績氏居館跡」と正に書かれている。
そこからぐるっと左に回り、更に坂道は続いていた。あちこちにお墓がある。
これは、お寺とお墓は別々のものであった時代の名残であろうか。
途中でまた石碑が見え、そこにはこう書いてあった。
「右 麻績城入口 左 虚空蔵山入口」
つまり右手の坂を登って行けば、麻績城跡に行けるということである。
登るには十五分位かかるらしい。すでに汗だくだくである。
城跡ということで、得られる情報もそうないだろうと思い、登るのは止める
ことにした。
[85] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 17時21分36秒 )
さて、「カイゼンジ」の話になります。
ナビや地図には載っていない寺でありました。おじいさんの説明してくれた
場所を目指して行ったのですが、寺が見えない。山の方へ向かってみると寺の
屋根が見えた。たぶんこれかなと思って再度近くへ行くが、道がない。という
ことで、ぐるっと大回りして田んぼの畔道を走る。へたをすると田んぼにはま
ってしまうおそれがあるので慎重に行く(かつて高槻に行った時、バックした
ら溝にはまり、JAFを読んだことがあった)。
まずは墓地に着いた。そしてその隣に寺があった。寺の名前は「海善寺」で
あった。「海」の字が入っているのは何か新鮮な感じであった。。そしてそこ
で、わたしはビックリするものに出会ったのであります。
[87] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 21時54分03秒 )
http://www.kakeisi.com/survey/survey_nagano.html
長野県のご先祖調べ
令制国の信濃国にほぼ相当します。
(旧神坂村・旧山口村が岐阜県中津川市に編入)
古代は「科野(しなの)」の文字を用いています。
■戦国期以前の長野県
南北朝時代の信濃国は、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられ、 応永7年(1400)「大塔合戦」では守護小笠原氏と村上氏を中心とする反守護勢力の在地豪族との間に争いがありました。
そこに、足利幕府と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立が加わり複雑な対立関係がつくられていました。
そのため信濃国では強力な支配権を持つ戦国大名が成長できず、信濃国守護の小笠原氏も一族内での対立もあり一つの地域勢力に留まりました。
主な勢力としては、
越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高井郡の高梨氏(中野城)、
埴科郡の村上氏(葛尾城)、
関東管領上杉氏の被官である小県郡の海野氏・真田氏(戸石城)、
佐久郡の大井氏(岩村田城)・伴野氏(大井城)、
安曇郡の仁科氏、
諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏(高島城)、
信濃国守護職の小笠原氏(林城)、
木曽谷を領す木曽氏(福島城)、
伊那郡の保科氏(高遠城)・伊那小笠原氏(松尾城)・知久氏(神之峰城)があります。
戦国時代も後半期になると、
甲斐武田氏が侵攻し武田信玄の代には信濃国の大半を制圧、信濃北部の諸豪を援助する越後上杉謙信との攻防が繰り広げられます。
信玄、謙信の死後、織田信長が信濃国を制圧し、「本能寺の変」で信長が死ぬと徳川氏・北条氏・上杉氏の勢力が進出します。 その後、豊臣秀吉が天下を取り、徳川家康は関東に移封され信濃は豊臣方の武将の支配下になりました。
現地調査では、武田信玄・上杉謙信時代の古記録や伝承を見聞きできます。
信玄は甲斐(山梨県)ではヒーローですが、信濃では征服者ですから特に佐久地方では悪役で通っているようです。
佐久で、だけ?
■長野県の名字
戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。
長野県を概観すると、
清和源氏がほぼ全域にわたり広がり、
諏訪地方に諏訪神家党、
安曇郡地方に仁科氏を中心とする桓武平氏、
小県郡佐久郡に滋野一族があります。
以下は長野県発祥の名字です。
この苗字であれば比較的ルーツを探しやすいと思われます。
埴科郡の村上氏流・・・入山・山田・今里・屋代・上条・下条・栗田・千田・小野・寄合・小野沢・飯田
高井郡の井上氏流・・・高梨・米持(よなもち)・時田・桑洞(くわぼら)・芳美(はみ)・須田・村山・保科(諏訪神家の分れともいう)
木曽谷の木曽氏流・・・上松・三富・野路里・馬場・熱川・高遠・上総・千村・市岡・沼田・山下・原・寺尾・安食野(あじきの)・黒川・立石
信濃国守護職の小笠原氏流・・・赤沢・大井・八代・小田・藤崎・鳴海・大倉・下条・上野・米田・麻積(おみ)・勅市(てし)・益田・内村・長坂・高畠・矢田・山中・ 勅使河原(てしがわら)・丸茂・常盤・島立・西条・坂牧・下枝・岩尾・長窪・小諸・耳取・平原・安原・志賀・板鼻
諏訪氏流(神家党)・・・知久・片倉・笠原・中沢・藤沢・座光寺・中尾・沢・平林・宮処・平出・小田切・手塚・武井・山田・宮下・金山・桑原・宮川・中尾・下平・沖・ 関屋・深沢・皆野・三塚・若尾・四宮・岩波・高木・浜・横田・保科・宮崎・海口・中島・茅野・松島・上原・矢・・栗沢・向山・中野・桜山・西保・真野・肥間・ 福島・平島・遠山・大妻・風間・小島・有賀・花岡・安部・保坂・元沢・小坂・春日・浦野・大塩
小県郡の滋野氏流・・・海野・根津・望月・鎌原・西窪・羽尾・小田切・会田・塔原・田沢・清野・大塚・光野・真田・中村・湯本・春原・岩下・横尾・浦野・野々口・ 諸星・樋口・吉川・吉宗・城・清原・西山・福満・福島・豊田・浜岡・池長
長野県の苗字トップ20位をあげると、以下の通りです。
1小林 2田中 3中村 4丸山 5伊藤 6佐藤 7清水 8高橋 9山崎 10宮沢
11林 12柳沢 13宮下 14山田 15原 16竹内 17渡辺 18滝沢 19中島 20小松
長野県の名字の特徴の一つに、「〜沢」の名字が多いことがあげられます。
トップ20にも、宮沢・柳沢・滝沢が入っています。
長野県には谷が多く、「〜沢」の地名がたくさんあります。これらの地名を名字にしていることと関係しています。
また長野県は南北に長いため、北信・東信・中信・南信で名字の特徴が異なっています。
第1位の小林は北信地方に多く、第4位の丸山は中信に多くあります。
■江戸時代の長野県
江戸時代の信濃国は多くの藩領・天領・旗本領・寺社領にわかれていました。
廃藩置県時に長野県に存在した藩は以下の通りです。
藩名 城下町 主な藩主の変遷
松本藩 松本市 水野氏→戸田氏
上田藩 上田市 仙石氏→藤井氏
飯山藩 飯山市 本多氏
小諸藩 小諸市 牧野氏
岩村田藩 佐久市 内藤氏
高島藩 諏訪市 諏訪氏
高遠藩 伊那市 保科氏→内藤氏
飯田藩 飯田市 脇坂氏→堀氏
須坂藩 須坂市 堀氏
松代藩 長野市 真田氏
この他に木曽地方は尾張国名古屋藩領があり、伊那郡内には美濃国高須藩・陸奥国白河藩、 高井郡内には越後国椎谷藩、佐久郡内には三河国奥殿藩の飛び地がありました。
その他に善光寺、諏訪大社などの寺社領、天領、旗本領もありました。
藩庁が置かれた城下町には、大名家の移動にともない家臣や町人、寺院も移動します。よって前の領地との関係も考える必要があります。
「江戸時代は武士」との伝承があれば、まずは藩士名簿である「分限帳」を確認することをお勧めします。詳しくは各藩の項を参照してください。
■長野県の家紋
長野県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、長野県の家紋トップ10は次の通りです。
1位 片喰 2位 鷹の羽 3位 木瓜 4位 沢瀉 5位 蔦 6位 柏 7位 藤 8位 橘 9位 竹笹 10位 菱・花菱
日本の十大家紋と比べると、茗荷紋と桐紋がランク外となり、かわりに竹笹紋と菱紋がランク入りしています。
さらに地域別にみてみると、
長野県北部はトップ10に日本の十大家紋がそろいます。
県中部・南部になると梶紋や文字紋、竹笹紋がベスト10入りします。
このなかで長野県の代表する家紋は梶紋と菱紋です。
梶紋は、諏訪大社の神紋として知られています。
梶の木は神聖な木とされ、その葉は供え物の敷物に使われました。 神官や神社に奉仕する家々は梶紋を家紋として使用するようになり、 さらに諏訪氏の一族や諏訪大社を信仰する者の間で広がりました。
長野県の中・南部に梶紋が多いのは諏訪一族と諏訪信仰の広がりによるためです。
長野県出身で梶紋を使っているとすれば、諏訪氏一族といわないまでも、 先祖が諏訪信仰と関係していたかもしれません。
一方の菱紋(三階菱、松皮菱紋)は小笠原氏族の代表紋です。
小笠原氏の同族武田氏は四つ割菱紋を使っています。 甲斐源氏の流れを組むもの中に菱紋を使っているものが多いようです。
小笠原氏の家臣には菱紋と別の紋を組み合わせている者もいます。
■長野県の寺院
長野県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、長野県の宗派別の割合は以下の通りです。
県北部
(長野・飯山など) 県中部
(松本・上田・諏訪) 県南部
(伊那・飯田)
天台宗 5% 5% 6%
真言宗 9% 29% 11%
曹洞宗 40% 39% 38%
臨済宗 1% 4% 23%
浄土宗 19% 13% 9%
浄土真宗 25% 5% 9%
日蓮宗 1% 5% 9%
長野県全体を通して曹洞宗寺院が最も多くありますが、2位以下には特徴があります。
県北部は曹洞宗以外に浄土真宗・浄土宗の寺院が多くあります。真宗は新潟県の真宗勢力と関係があるようです。
県中部は曹洞宗・真言宗の勢力が強く、
県南部は曹洞宗・臨済宗の禅宗勢力圏です。
他地域に少ない臨済宗は木曽・上伊那地方に多いようです。
真言宗や曹洞宗・臨済宗は墓石を建てる宗派ですので、比較的に古い墓石が残されています。
調査においては大きな味方になってくれます。
■長野県の神社
信濃国一之宮は諏訪信仰の総本社諏訪大社です。その関係から県中部・南部を中心に諏訪神社が数多く創建されています。
主祭神は大国主命の御子神建御名方神 (たけみなかたのかみ)と妃神の八坂刀売神 (やさかとめのかみ)。
『古事記』では次の説話が記されています。武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りを迫った時、建御名方命は反対し、武甕槌命に相撲を挑みましたが負けてしまい、 諏訪まで逃れました。そして以後は諏訪から出ないで、天津神の命に従うことを条件に許されたとされています。
諏訪大社には、大祝(おおほうり)を筆頭に五官の神職が置かれました。
上社 大祝:諏訪氏(神氏。祭神・建御名方神の後裔)
神長官(じんちょうかん):守矢氏
禰宜大夫(ねぎだゆう):小出氏
権祝(ごんのほうり):矢島氏
下社 大祝:金刺氏(科野国造の後裔)のち武居氏
武居祝(たけいほうり):武居氏
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 06時00分11秒 ) | パスワード |
[88] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 22時14分05秒 )
そこにあったのは、家形の告知板であった。告知板には次の通り書かれて
いた―
「伝 麻績城主服部左衛門清信の供養塔(村宝)
海善寺は真言宗で、古くは光明院戒全寺といわれたが、文亀元年(1501年)
に裏山が崩落し、堂宇も倒壊したため、現在地に移転再建し、寺名も上野山
海善寺と改められた。創建は出土した石塔群の時代判定から、鎌倉時代と考
えられている。またこの寺は、東に所在する麻績神明宮の神宮寺であろうと
いわれ、朝夕の祭祀に通ったと伝えられる。寺から筑北中学校の校庭を通り
神明宮へと通じていた一直線の道の名残が今も見られる。
この多宝塔・五輪塔の二基は、室町時代末期(16世紀初)、麻績城主とし
て入部した服部左衛門清信・加信斎兄弟(あるいは清信・清正父子)の供養塔
であると伝えられてきている。しかし、昭和62年に専門家に鑑定を依頼し
た結果、二基とも鎌倉時代と室町時代の組み合わせであろうと推定された。
一方、先祖(伯耆守を襲名)が麻績神明宮の神官職を世襲していた宮下家は、
宮下家文書の記述にもある通り、清信の弟加信斎を養子として迎えているの
で、この二基の先祖の供養塔を代々丁重に供養し、管理してこられた。
多宝塔・五輪塔には欠落した部分もあり統一された構造とは言いかねるが、
優れた中世の古様を示す石塔群としての価値は高く、また、宮下家や本町民
を始め、心ある里人たちが城主の供養塔として永年にわたり奉仕し守護し
続けてきた歴史は重い。
この度、県文化財保護協会長による専門的視野からの調査報告を基に、今
後とも保護活用に値する貴重な文化財として、この石塔群を村宝に指定した。
もともと、この石塔群はこの西側の松の根本に安置されていた。
年々参詣者が増えてより、広い場所への移転の要望が高まる中、
宮下家と本町区民の皆様の理解と協力を得て、現在地への移転が
実現した。
平成19年3月
麻績村教育委員会 」
この案内板の奥に、小屋(全面開放型)があり、真ん中に角柱の墓石、その
左右に多宝塔、五輪塔が並び、さらにその左右に燈籠がシンメトリックに
建てられていた。
青味がかった墓石には、文字が刻まれ、白い顔料で上書きされていた―
「麻績城主 服部左衛門尉清信
神明宮神主 服部左衛門尉加信斎
平成18年3月吉日
加信濟ヨリ拾貳代
宮下利政 正博 父子」
ここで宮下家の系譜が鮮明になった。服部家の血が神職宮下家に確かに受
け継がれたのである。
[89] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 22時28分50秒 )
前レスの文尾に追加:「服部左衛門清信と服部左衛門加信斎」の墓の前で、
般若心経を二巻上げました。もちろん一巻はあを様分
であります。
[65] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 06時02分20秒 ) | パスワード |
[92] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月26日 11時49分36秒 )
海善寺は本堂だけの寺で、住職はいませんでした。本堂に向かって右側の
奥に、屋根に覆われた「服部家」の墓・多宝塔・五輪塔があり、その前に一団
の墓石群がある。その中に、宮下家を代表した新しい墓石と多宝塔が建てられ
ていた。宮下家の墓は古いものは判別できないが、いくつかあるように思え
た。
本堂左手には、右手墓石群の3倍位の面積、及び墓石群があった。前面に
五輪塔と宮下家の墓が並んで建っていた。左手の墓石群の中に、宮下家の墓は
全部で12基程あり、右手の墓石とあわせて、全体では判別できないものも
含めて20基はあるだろうと推察された。この墓地の中ではダントツに多い。
そういえば、麻績村の床屋さんも電気屋さんも宮下姓であったので、世帯的に
はかなりの数あるのかなとも思いました。
最後に、もう一度宮下家の代表墓石と多宝塔に向けて、般若心経を二巻唱え、
次の目的地、麻績神明宮に向かいました。
[95] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月26日 14時13分20秒 )
仏教伝来前はほとんどが神道だったと思われますが、その後の仏教政策、
またそのずっと後の神仏分離政策により神道と仏教は分離されたはずで、
本当は両者は相いれないものなのでしょうが、お寺に行くと神道の人たちの
墓標も確かにあるのです。
一般的には神主さん等神職関係者が亡くなられた場合は、お墓はどこに
建つのでしょうか。
お寺の墓地の中に神道の墓を建てるということ、本当のところできるのか
できないのかその辺を知りたいと思ってます。
その件が先ほどの海善寺=「神宮寺」という概念につながってきます。
松島氏の系譜の中にも「八幡寺」というのがありましたので、神社で
寺というのは一体どういう形であったのか・・・。
神道と仏教の融合・・・仏教の中に神道を組み入れたのか、神道の中に
仏教を取り込んだのか・・・探究しなければならないテーマであります。
では、進めます―
麻績神明宮は、海善寺のすぐ近く、距離にして1qはない位の所にあり
ました。車で2〜3分といったところでしょうか。「宮本」という地名の
所にありました。正に字のとおりの場所です。一の鳥居は門前より遥かに
離れて建っていました。門前右側にどういう訳か、福祉関係の大きな建物
が建っていました。その向かい側に現場事務所がありました。
よく見ると、鳥居(二の鳥居)の隣の建物に工事用の足場が掛けられ、全体
を覆うようにシートが張られておりました。即ち、工事中ということ。
それでも、ここまで来た以上は何が何でも見て行こうと思い前進。右側に
社務所を見て、次に左側に神楽殿、そして正面に拝殿と奥まで入って行った。
その裏に本殿があるはずである。工事中なのは、入り口近くの「舞台」と呼
ばれる建物だけなのであるが、拝殿の左奥に「仮殿」が設けられていて、
そこで参拝をしなさいということらしい。
二礼二拍手一拝の動作の中で、服部氏・宮下氏・祖霊を想い、あを様の分
も一緒に心からのお祈りをいたしました。
何かしら晴れやかな気分になりました。ちょうど以前、高槻の「服部連塚」
でお祈りを済ませた後と同じような高揚感であった。
[96] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月26日 15時13分12秒 )
神主が亡くなったらどう祀る―その答えがここにありました。
神明宮の正面右手、例の福祉関係の建物の裏になりますが、そこにビックリ
するものを見たのでした。
低い石柱の塀で囲まれ、杉の木立の下の苔むした一画にそれはありました。
総数約20・・・石でできた祠でありました。
本当は神聖な場所なので立ち入り禁止かも知れなかったのですが、特に
注意書きはありませんでしたので、中に入って一つ一つをよく観察いたしま
した。
わかったこと―それは、それらのほとんどが「宮下」氏の代々を祀った
祠だったのです。どれが誰のという識別はちょっと難しくてできませんでした
が、書かれていたことをいくつかランダムにに記しますと―
「宮下出雲守 藤原重吉」
「宮下日向之墓」(墓標)
「宮下日向守 藤原種安」
「宮下民部祐 藤原種長」
「宮下権頭 藤原○定 神霊」
「神主 宮下権頭○光」
「宮川豊後正 藤原○○万」
等であります。
このことより、神主は神社の敷地内、あるいは近くの一画に、祠として祀
られる、即ち神として祀られるということになるのでしょうか。
神主の場合は、初めて見ましたので、驚きを隠せませんでした。
帰り際に、祠の神々に向かって、あを様の分も含めて静かにお祈りを捧げ
ました。
[66] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 10時29分42秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101485_3.html
麻績神明宮の由緒書きはありませんでしたが、『善光寺道名所図会』によ
ると、外宮の豊受皇大神が主神となっています。麻績御厨(伊勢神宮の荘園)
からは、伊勢神宮へ鮭、鮭の子、かち栗、干しナツメ等を送っていたという
ことであります。
1107年に、麻績郷と近辺に7つの神明宮が勧請されたということで、
その時に神官一族も集団移動して来たということです。
そもそも麻績郷の成立も「麻績部」移住によるものと考えられています。
麻績部は麻織物の職業集団で、その発祥の地は伊勢国多気郡麻績郷(松阪市)
であります。
妃羽理さんによれば、麻績城主の服部清信の麻績での祖は、麻績の地頭と
して派遣されて来た「服部伊賀守」(具体的には誰か?)、即ち伊賀服部半蔵
系の祖という。また、さらにさかのぼれば祖は「服部連」となると思われま
す。
麻績城主服部清正は、上杉氏に反旗を翻して松本の小笠原氏についてため
に、上杉氏によって滅亡させられたということですが、その一族がすべて全
滅したということではないはずです。
清正の父は清信。叔父に、海順坊という海善寺住職がおり、その下の叔父
に加信斎(清信の叔父とも父とも言われる)がいる。
清正にも何人か兄弟がいる。
これらの家族の後裔は絶対にいるはずである。服部氏の直系も生き残って
いる確率は高いと思います。
服部清信の娘(即ち清正の姉か妹)が諏訪頼重に嫁ぎ、湖衣姫が生れ、後に
信玄の側室となり武田勝頼を生んでいるということである。
その他の清正の兄弟は? 清正の子供たちは?
麻績の服部氏の系図がほしいです―
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