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 投稿番号:101432 投稿日:2015年04月12日 09時22分15秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]]U
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「長上郡の服部氏族]]]T」よりの続きです。

 自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜んでいる「謎」を発掘し解明する。

 最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[2]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月12日 12時11分01秒 ) パスワード

スレッド XXXI より転載

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101430_84.html



[82] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月12日 09時17分04秒 )


空の青海のあを様

 静岡県歴史研究会の会報第9号(1985年2月1日発行)に沢村藤生氏の
『遠江国敷智郡大久保の領主 服部中家及大久保周辺のこと』という論文が
掲載されていますので、これを6回に分けて記載いたします。

 「永禄3庚申年(1560)5月、織田信長雷雨をついて桶狭間の陣を奇襲
する。このとき今川義元の本陣に最初に斬り込んだのは桑原甚内であった。
 甚内はかつて義元が二度三度と立ち寄った時の小僧をしていた者で、義元
 の顔を見知っていた。それだけに本陣に入っていち早く義元を発見したが、
 今川方の近習に接近をさえぎられた。この時、甚内について義元を追って
 いた服部小平太は近習のすきを見て義元に近寄り、槍をもって脇腹を突き
 刺したのである。深手に屈せず義元は刀を横に払ったが、すると横から毛
 利新助が飛び出して義元に組みつき、首級をあげた。服部小平太保次この
 時35歳、毛利新助秀高もその当時共に信長に仕えていた家臣である。
  保次は永禄8乙丑年(1565)召されて家康公に仕える。9年、足軽同
 心50人を預けられる。
  服部氏は『寛政重修諸家譜』第1172服部氏によれば、平氏高棟流に
 して弥平兵ヱ宗清より出、宗清頼朝将軍より伊賀国阿拝郡・山田郡の2郡
 のうちに於いて32村の地を賜い、阿拝郡服部村に住せしにより子孫服部
 を以って家号とす。保次は其の後裔伊賀守宗純が末孫なりという。初め宗
 次、要介、通称小平太中と云う。家康公に仕え奉りてより、合戦のあるご
 とにおうせをうけ賜りて、敵地の境を警衛し、天正4丙子年(1576)ま
 た同心22人を加えあずけられる。
  5年4月22日遠江国引佐郡及三河国岡村のうちにて120貫文の采地
 を賜る。
  天正10壬牛(1582)6月、本能寺の変の時には、和泉国堺より伊賀
 路を渡御のとき従い奉り、12年長久手の役に供奉し、息子の保正、御馬
 前で首級を獲て賞せられて保次に兼元の御刀を賜る。
  天正15年(1587)6月18日、新領地視察のため、単騎引佐郡中川
 方面に出掛けた際、今川の残党と思われる者に刑部に於いて襲われ、62
 歳にて死す。法名祥栄院殿湖雲淨鑑大居士と云い、当地に葬られ先般東京
 四ッ谷の湖雲寺に改葬されるまで同地に墓碑があった(その後、松下氏に
 より暗殺現場の近くに墓が建てられている。松下氏は松下常慶の子孫と思
 われる。服部中保次と松下常慶は通じていた)。
  今はなくなっている浜松市大久保町香集庵の過去帳に法名が記されてい
 る。」
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 13時34分16秒 ) パスワード

http://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/oda_040.htm



桑原甚内   くわはら じんない 

 生没年   ?〜1560   主君・所属   織田信長 

主な活躍の場  桶狭間の戦 


 
 
 武田信玄の重臣の一人原虎胤の三男。

       ええっ?!


 兄の原盛胤の命によって駿河に入り、臨済寺の雪斎和尚の弟子となる。

 雪斎和尚は太原雪斎と呼ばれ、今川義元の養育係であり今川義元の家督継承後も  懐刀として力を発揮していた人物である。


 桑原甚内は小僧として菩提寺に入り今川義元とも顔を会わせている。

 ところが今川家の近習七人と口論となることがあり、口論では収まらず下僕の弥蔵と共に 相手五人を殺してしまい逃げる身となった。


 尾張の落合村に隠れ住んだという。


 落合村は桶狭間の近く。現名古屋市緑区か豊明市あたり。

           たぶん愛知県豊明市新栄町あたりでしょう。

 

 さて桑原甚内には二つの説話がある。

 どちらも良質の文献の資料ではないので判断には困るが両方掲げてみる。
 
 

永禄三年(1560)桶狭間の戦。
ここまでは同じ。
 



 織田信長が出陣すると熱田神宮で信長を待ちかまえている者がいた。
 信長が訪ねると桑原甚内だと名乗る。
 そして甚内は自分の素性を語り、自分なら今川義元の顔を知っている。
 だから義元の首級を確実に捉えることが出来ると。
 
 信長は大いに喜び直ぐに甚内を召し抱え戦列に加えた。
 また、別に喜んだ者がいた。
 服部小平太と毛利新介である。


 桑原甚内と行動を共にすれば自分にも今川義元を狙う機会がまわってくるのだと。
 
 そして信長の一軍は桶狭間で休息中の今川義元の陣を奇襲する。
 混乱に陥る今川義元の陣中で桑原甚内は義元を見つけることができた。
 すぐさま襲いかかるが今川義元の近習に阻まれ斬られてしまう。
 その隙に服部小平太が今川義元に斬りかかり一番槍をつけ、服部小平太が義元に斬られた直後、 毛利新介が今川義元を組み伏せ見事、首級を打取ったのである。


 服部小平太と新介は功名を得たが桑原甚内は戦死してしまっていた。

                             あら〜
                             そういうことがあるんですか・・・


 
2.
 また、『塩尻』という書には真偽の程は定かではないと注釈をつけながら次のように記している。
 

  あらかじめ尾張方に内通していた桑原甚内は今川義元の隊の近習達に近づいた。
 もとより近習達の中には菩提寺時代からの顔見知りも多く、それを利用したのである。
 
  些細な出来事で罪を犯し出奔したのであるが、自分の非と不義を詫び、改めて家臣として 仕えたい。
 宜しく取り繕ってはくれぬだろうか。
 等という様な話でもしたのだろうか。
 


  次第に今川義元に近づき、今川義元の側まで来ることができると突然襲いかかり刺した。

 近習達は慌てて甚内を斬り殺したが、既に今川義元の息は絶えていた。


 下僕の弥蔵は傷を負いながらもうまく逃げ延び甲州へ帰ることができ、この話を伝えたという。
 



さて後者の話は俄には信じがたい。
それ故、殆どの文献にも取り上げられてはいない。

甚内は桶狭間で戦死したのが事実で
主を死なせてしまった弥蔵が話を作り上げて語った
と見た方が真実に近いと思うのだけれども。
 



  補足 
 信長の家臣に桑原姓の武将が何人かいる。

 その内、尾張の出身であろう人物は家次、吉蔵・九蔵兄弟など。
 共に甚内との関係は不明。ただの同姓であろう。
 
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 14時28分10秒 ) パスワード

>服部氏は『寛政重修諸家譜』第1172服部氏によれば、
>平氏高棟流にして弥平兵ヱ宗清より出、
>宗清頼朝将軍より伊賀国阿拝郡・山田郡の2郡のうちに於いて32村の地を賜い、
>阿拝郡服部村に住せしにより子孫服部を以って家号とす。
>保次は其の後裔伊賀守宗純が末孫なりという。



>>>弥平兵ヱ宗清
>>>伊賀国阿拝郡・山田郡の2郡のうちに於いて32村の地を賜い、
>>>阿拝郡服部村に住せしにより子孫服部を以って家号とす


ややこしいのですが
宗清の父は季宗で、この人の子孫が観阿弥・世阿弥のご先祖さまになります。

        ということは宗清も観阿弥・世阿弥のご先祖さまになりますか。


宗清と家長は従兄弟です。

宗清の父=季宗=と    家長や貞能や家継の父=家貞=が兄弟です。

    つまり
    家貞・貞能の家は清盛の家の家老
    季宗・宗清の家は頼盛の家の家老
    
    
宗清は平家が滅びてから家貞の子供達が持っていた領地を2つ=阿拝郡と山田郡=頼朝から任されたということでしょう。


 住んだのは阿拝郡の服部    
 それで屋号が「服部」になった。
 更に平田家継の領地だった大山田も手に入れた
 そういうことじゃないのかな?


 だから服部中の家と政信の家は服部家長の子孫とは称していないのか。

        へえ〜


宗清の思いというのが伝わって来て泣けて来ます。
自分が頼朝の命乞いをして、平家が滅亡して、自分は伊賀平氏の纏め役になってしまった。
       宗清は辛かったでしょうね。




【敢国神社 略史】


1.
 当社は今から1300年以上前に創建されました。くわしくは7世紀の中期、658年という年に創建されました。

 創建当時は大彦命・少彦名命の二柱で敢国神社が創建されました。

 創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命(おおひこのみこと)は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和国に生まれた方だとありますが、
  大和朝廷創建期の武人として、その子建沼河別命(たけぬまかわわけのみこと)と共に北陸東海を征討する役目を負われ、
  四道将軍の一人として、第10代崇神天皇の命を承け日本の東国の政略を果たされた方です。

                           孝霊天皇がココにも
                              ↓

  この大彦命が大和朝廷に帰服(第7代孝霊天皇時)して以来、
  伊賀の国を本貫の地として駐屯され、事実上の伊賀の領主であり、子孫は伊賀の国中に広がっていきました。

  伊賀の国の阿拝(あえ)郡を中心に住居したため阿拝氏と名乗るようになり、
  後に敢・阿閉・阿部・安倍(あべ)と呼ばれるようになりました。
  あべ氏の総祖神でもあると共に伊賀人の祖神でもあります。



2.
 古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が多数住んでおり、
 彼等が信仰する神が当社の配神である少彦名命(すくなひこなのみこと)でありました。

 当時は現在の南宮山頂上付近にお祀りしていましたが、
 創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りして現在に至っています。
 私達伊賀人はこの二神の混血の民族でもあります。


 創建後、南宮山の少彦名命の社殿が山の下に遷された跡地は、
 新しい神社創建に当たっては混血の一族の有力者の人達の頭を悩ましたことであろうと思われます。

 結局、美濃国の南宮社の社神である金山媛命(かなやまひめのみこと)を、旧少彦名命のお社に勧請致しました。

 この頃「南宮山」という名がついたのではないかと推測されます。


 その南宮山の金山媛命が、敢国神社の本殿に合祀されたのは、創建時より319年後の977年のことです。

 ある日突然金山媛の社殿が、激しい音をたててゆれ、
 止むと同時に社前の御神木の幹に、虫食い痕が文字となって現れ「興阿倍久爾神同殿」という八文字でした。
 
 神官の報告を受けた当時の伊香守高則は、早速主家の藤原兼家に報告、
 直ちに神慮に従って金山媛命の遷座合祀が行われました。

 こうして当社は三神をもって敢国神社・敢国津大神(あえくにつおおかみ)となって現在に至っております。


           〜この項 伊賀一の宮 敢国神社 パンフより抜粋〜

[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 14時46分10秒 ) パスワード

なるほどね〜

それで伊賀の服部氏でも寛政重修諸家譜の自分の家の紹介文がそれぞれ異なるのですか。

勿論、服部家同士の間でも婚姻で結ばれていたでしょうし、
だから血では、かなり、何重にも結ばれていたんでしょうね。

   でもアイデンティティは全く違うんだ
   へえ〜


半蔵の家   =X=  政信と中保次の家   =X=  貞信の家
服部連系で家長系?          宗清系?          呉服明神神職系



ということは  半蔵の家と貞信の家  は 織部系で  近い?

そして     半蔵の家と政信・中保次の家は  平家がらみで   近い?



なんとなく  半蔵の家が潰れていく過程で正就の無能さがあったとはいえ  貞信の家の画策または讒言があったのかな、と。
                  
  
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 15時03分50秒 ) パスワード

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/abe1g.htm


あべ氏のお話      長田さんも出て来ます
            平家の話もちょっと書かれてます




阿倍氏族概観


○ 孝元天皇皇子と称する大彦命の後裔氏族……「阿部氏族」として一括するが、大彦命の父を孝元天皇とするのは世代的に疑問である。

○ 阿倍氏族は、記紀に孝元天皇の皇子で開化天皇の兄弟とされる大彦命から出ている。ただし、大彦命の系譜上の位置づけとしては、孝元天皇の子とするのは疑問が大きく、世代的にはその兄弟とするほうが妥当か(案ずるに、孝昭天皇の子で、孝元天皇の弟か)。

  阿倍氏族の本拠地・分布や職掌などを考えると、海神族の色彩も多少見られるものの、主要居住地の伊賀国阿拝郡の式内社・穴石神社の存在などから、御食津神(素盞嗚神、五十猛神)の後裔である天孫族で皇族出自と考えておく。

  この氏族は、大和国十市郡阿倍村(現、桜井市阿部)の地名に因み、安倍文殊院の東にある松本山の高屋阿倍神社(今は桜井市大字谷の若桜神社本殿西の境内に鎮座)を氏神としている。また、皇別の多氏族とも密接な関連があったようで、若桜神社本殿には多神社が合祀されており、大和の都祁は伊賀の柘植に地域的につながる事情がある。

○ 阿倍氏族(同族として系譜の仮冒付会する氏も含めて)の分布は、四道將軍の伝承のある大彦命・武渟川別命父子の遠征経路とかなり良く一致している。大彦命の遠征経路とされる伊賀、近江、若狭、越前、加賀、越後を経て会津に至る路と、武渟川別命の経路とされる東海道の尾張、駿河から安房、上総、下総を経て那須から会津に至る路のそれぞれ要所に、阿倍氏族(ないし、と称する氏)の分布がみられる。特に、本拠地阿倍の後背地たる伊賀・宇陀における分布が稠密であって主要居住地ともみられることや、その北国経営には注目すべきものがある。

  その反面、近畿より西には分布は少ないものの、山陰の出雲には武渟川別命の出雲平定関与の伝承を反映して、若干の一族が居住したとみられる。さらに西国には、豊前の膳臣以外は殆ど分布は見られず、九州の筑紫の筑紫君一族が阿倍氏族の流れと称した唯一の大族の例といっていいくらいであった(これは実際には疑問が大きい)。

○ 阿倍一族は布勢臣ないし引田臣を最有力として多くの支族をもつが、布勢臣、引田臣、狛臣、久努臣、長田臣、阿倍小殿臣など、のちに単に阿倍朝臣姓に変更している例の多さにも留意すべきである。

  地方国造では、若狭国造、北陸の越(高志)国造・加賀(加宜)国造・深江国造、陸奥の那須国造(下野国那須郡)、筑紫国造があげられるが、実際には同族は若狭くらいか。越・加賀の諸国造も、深江国造以下の国造も、いずれも系譜仮冒の疑いが強い。北陸の二国造は、その領域について諸説あるが、越国造は越前の中・北部から加賀にかけての地域にあったもので、のちに分裂解体し、加賀(加宜)国造・道君はその遺流・余流ではないかとみられる。加宜国造は能登国造及び高志深江国造と同祖の関係も伝え、通婚等で密接な関係にあり、これらは本来、阿倍臣とは別族であったとみられる。

○ 阿倍氏は大族で大化前代でも歴代大夫を輩出し、大化の左大臣倉梯麻呂、大宝の右大臣御主人を出したほか、平安前期の大納言安仁に至るまで上級官人を輩出したが、平安中期以降は衰えた。それでも、十世紀後半の陰陽道・天文道の大家安倍晴明の後裔が宮廷人として永く続き、この一族から土御門、倉橋の二家が堂上家に列するとともに、陰陽道・暦道を支配した。

○ 阿倍氏族には、前掲の陰陽道・暦道のほか、ある職掌をもって朝廷に長く仕えた二系統もあり、これにも注目される。その一は氏族名の「アヘ(饗)」に通じる食膳関係であり、膳臣・宍人臣など景行天皇の東国巡狩に随行した磐鹿六雁命の後裔から出た。膳臣の流れの高橋朝臣氏は、宮廷の奉膳を職掌として同職掌の安曇氏と争い『高橋氏文』の残したが、この争いに勝って平安期以降は志摩守を世襲し、後裔の浜島氏が江戸末期まで宮中に仕えた。

  もう一つが外交関係であり、得彦宿祢の後裔とみられる草香部吉士、難波吉士などが古代の朝鮮関係に活躍した。この一族や陰陽道の安倍氏は、吉士舞を奉仕した。また、右大史の職を室町中期ごろまで世襲した高橋朝臣氏もあった。江戸期に見える右少史の村田家は、壬生官務家の猶子となって高橋氏を復活させたものという。

○ 武家としては陸奥の安倍氏や、その流れをひく秋田、同族とも伝える三河の阿部、安藤、という幕藩大名家が阿倍朝臣姓を称したが、その系譜を仔細に検討すると、いずれも系譜仮冒の疑いが濃いものと考えられる。

  その一方、宇多源氏と称した近江の大族佐々木氏は、実際には古代佐々貴山君の後裔とみられ、鎌倉創業に大功があって全国に拡がり、多くの中世武家を輩出し、幕藩大名も多い。



○ 阿倍氏族の姓氏及びそれから発生した苗字をあげると次の通り。

(1) 畿内……阿倍臣、阿倍朝臣(安倍朝臣。録・左京。土御門、倉橋−京の堂上公家。若杉−京官人で陰陽師、土御門支流も称藤原姓。大黒−京官人で陰陽生。小泉−京官人で陰陽師、称源姓。山口−京官人で史。山名−京人で史、山口一族も称三善姓。大和の桜井谷村の領主桜井氏は族裔か。なお、武家で阿倍朝臣姓を称するものはかなり多いが、それぞれに系譜に疑問があり、後掲する)、

                   長田もあり
                      ↓


  阿倍志斐連(録・左京)、許曽倍臣(社部臣)、許曽倍朝臣(録・左京)、狛臣、狛朝臣、布勢臣、布勢朝臣(録・左京)、布勢宿祢、阿倍引田臣、引田朝臣、長田臣(他田臣。なお、伊賀国伊賀郡の長田、大辺は族裔か、称藤原姓)、長田朝臣、広瀬臣、広瀬朝臣(録・右京)、阿倍小殿朝臣、他田(録・和泉)、竹田臣(録・左京)、清岑宿祢、清岑朝臣、坂合部(録・摂津)、坂合部首(境部首。録・大和。実は蘇我臣同族か)、坂合部連(同上族。大和国宇智郡の酒辺〔坂部〕は族裔か)。

  膳臣(録・和泉。豊前国上毛郡の闇無浜神社祠官の重松は族裔か、称源・藤姓)、高橋朝臣(録・左京、摂津。浜島−京官人、世々内膳たり。村田−京官人。大原、大江−甲州人)、膳大伴部(録・左京)、錦部、宍人臣、宍人朝臣(録・左京)、宍人首、春苑宿祢、私、私宿祢、私朝臣、会加臣(会賀臣。録・右京。私の賜姓)、日下連(録・河内。日下−河内、下総等にあり。石井−下総人)、大戸首(録・河内。大戸−河内より出づ、上野国吾妻郡に分る。音川、河澄−河内人)、良枝宿祢(吉江宿祢と同じか)、久々智(鞠智。録・摂津。ただし、肥後国菊池郡出自で筑紫君一族か)。

  草香部吉士(草壁吉士、日下部吉士)、日下部忌寸、難波吉士(岸−河内、信濃に住。白藤、北風〔喜多風〕−摂州兵庫に住で、孝元天皇の孫彦也須命の後と伝う)、難波忌寸(録・河内)、難波(録・河内)、難波連、難波宿祢、吉志(吉士、吉師。録・摂津)、三宅吉士、三宅忌寸、三宅人(三家人。録・摂津)、三家人首(三家首。若狭国遠敷郡人)、三宅連(星野−越後国古志郡三宅神社祠官。三宅、三明、平岡−同上族、越後人。なお、若狭から出たという河内国交野郡の安見〔保見〕氏も同族か)、吉志宿祢、壬生吉志(三田、谷保−武蔵国多摩郡人。原島、小泉−同州大里郡人。勝田−同州比企郡人)、飛鳥部吉士(久米川−同州橘樹郡人)、調吉士、岐弥吉士、大国忌寸(摂津国西成郡)、大国宿祢。

  系統不詳の阿倍宿祢・阿倍連はこの吉士の流れか。



(2) 伊賀、東海道方面……伊賀を第二の本拠地として、東海道方面に分布。
  阿閉臣(敢臣。録・左京、右京、山城、河内)、阿閉朝臣(敢朝臣。録・河内。阿閉−近江人)、阿閉宿祢、阿閉間人臣(録。右京)、岸臣、伊賀臣(伊我臣。録・右京。毛利−筑前遠賀郡人。伊賀郡の猪田神社祠官森田、猪田氏は族裔か)、伊賀朝臣、伊我水取(録・摂津)、名張臣(録・左京。名張−伊賀国名張郡人。なお、紋が丸の内に橘と同じの伊賀郡予野一族〔予野、治田、白樫、大瀧、桂〕は同族か)、名張朝臣、桃尾臣、税臣、裳咋臣、久努臣、久努朝臣、宇太臣(宇陀臣)、安倍嶋臣。無姓の安拝も見えるが、阿閉と同じか。

  敢礒部(敢石部。伊勢美濃近江遠江等に住)、敢臣(伊勢国多気郡人で、同上改姓)。

                    平家の話
                          ↓
 
● 阿拝郡柘植郷に起り平姓を称した柘植党は桓武平氏の出とするのは疑問であり、
同郡郡領阿閉朝臣か伊賀臣の後か。

柘植一族は、池大納言平頼盛家人の弥平兵衛宗清の後で、
柘植、南、福地、北村、山川、藤島、坂戸、西川、梅戸、松尾、甲田〔幸田〕、北川、木下、日置、竹島などの諸氏。

尾張国海部郡の川口氏も同族の流れ。


  阿拝郡西端部(もと伊賀郡)の島ヶ原村に拠った島ヶ原党も、
源頼政の遺子ないし郎党の渡辺競一族の子孫と称したが、疑問であり、
伊賀臣の族裔か、同地の鵜宮神社を奉斎。

同党には増地、小沢、田槙、河内、奥、松村、富岡、菊岡、松尾、水口、池田、松田、徳永、勝矢、満岡、吉川、上田、高浜、高柳、杉山、米野、西川、平地、田島、馬船など多くの氏があげられる。



  また、山田郡に起り桓武平氏(平貞季の子の正季の流れ)とされている平田・山田は、伊賀臣の族裔であったかとみられる。

清盛第一の家人といわれた筑前守貞能(前掲弥平兵衛宗清の従兄弟ともされる)の一族である。

貞能の後裔は下野宇都宮氏に仕え、山田党と呼ばれた。

   (桓武平氏の項を参照のこと)。

貞能の甥とも伝える貞政の子孫は丹波国酒井荘で繁衍して酒井党と呼ばれたが、元来は尾張の出で別族か。


                     半蔵の家?
                        ↓         
  伊賀では狭い地域のなかで、
伊賀臣など阿倍氏族、伊賀国造一族と服部連一族が複雑に通婚関係を重ねてきたようで、
明確に分離し難いものがある。



(3) 近江方面……甲可臣(鹿深臣。甲賀郡平松村に起り松尾神主を世襲した称伴姓の甲賀、平松氏は族裔とみられる。一族に宮島。同郡多羅尾に起り、近衛家庶流と称した多羅尾も、平松同族か。同郡の望月・堀内も末流か。志摩国英虞郡の甲賀氏も族裔か。甲賀郡青木に起った称利仁流の青木・岩根・池田等の諸氏もこの族裔か。甲賀の青木一族には石部・岩崎・上田・南がいる。甲可臣一族は同郡式内の石部鹿塩上神社を奉斎。甲賀武士の伴一族もあるいは冒姓か)、甲可公、甲可宿祢、音太部(録・右京、大和。乙部−伊勢人)、出庭臣(録・山城)、春岑朝臣。

  山君、佐々貴山君(狭狭城山君。録・左京、摂津。桐原−近江国坂田郡桐原村人。佐々木−近江のほか出雲など各地に繁衍、甲州にも住し、後に遷奥州磐井郡。萩原−甲州山梨郡萩原住人。津金、穂阪、池田、岩崎、萩原、川辺−甲州人。川上−信州佐久郡住。小松、加賀野、有吉−奥州人)。佐々貴山君が実際に阿倍氏族の出であったかについては、その氏神沙々貴神社が少彦名命を本来主神としていたことからみて、天孫族系としてよさそうである。

● 蒲生郡佐々木庄より起る近江の大族佐々木氏は、宇多源氏敦実親王後裔として源姓を称するが、実際にはやはり佐々貴山君の流れであろう。佐々木一族は平安後期にはすでに源姓を称したことが文書に見えるが、この一族諸氏のなかには宇多源氏流も含むという見方はとらない。佐々木一族すべてが古族末流とみるわけである(久米邦武、太田亮の説に賛意)。

  佐々木一族は近江・出雲などに大いに繁衍し、江南の六角を宗家とし、江北の京極(苗字はともに京の居館の地名に因る)がこれに準じて、多くの苗字を輩出したが、ここでは詳細は省略。


                       馬淵氏も出てます。長田と永田も
  主な支庶の苗字では、
  山内、川島、藤島、島村、鳥羽、愛知川、栗本、高井、黒田、大鹿、池田、高谷、岩山、松下、鞍智〔倉知〕、浜川、甲良、万木、葛岡、鏡、長岡、沢田、大原、小原、朝妻、本郷、夫馬、野一色、下坂、池下、白井、竹谷、春照、高山、烏脇、高島、平井、太田、横山、田中、朽木、永田〔長田〕、市原、木下、鳥山、馬淵、野口、堀部、堀、北堀、森川、青地、種村、佐保、山中、駒井、葛巻、宇津木、浅堀、延福寺、井尻、宇賀野、柳谷、松本、永谷、高田、高屋〔高谷〕、餅田、和田、河内、今村、田根−以上は、近江の佐々木一族で秀義後裔の諸氏。

  木村、矢守、雨箭、上田、奥野、井上、浅小井、奥島、馬場、北脇、丸山、井、虫生、新屋、伊庭、安部井、西川、山田、猪子、乾、佐野、新村、津田、愛智、原、高野瀬、平井、長江、一井、真野〔間野〕、古川、古橋、武佐、西尾、舟木〔船木〕、沢、河袋、山崎、牛玉、室川、楢崎、坂東、淵上、山本、大蔵、志賀、日野、桜原など−近江の佐々木一族で、秀義の兄弟の後及びそれ以前の分岐。入江−出雲人、伊庭支流。相賀島−常陸国行方郡人、井上支流。これらの他、近江に居住の苗字、極めて多し。

  塩冶〔塩谷〕−出雲佐々木氏の宗族、神門郡塩屋に起る。野木〔乃木〕、乃白〔野白〕、出雲、美談、馬田、富田、高屋、新宮、山佐、上山佐、田原、福依〔福頼〕、末次、高木〔高来〕、高岡、広瀬、南浦、萩原、重栖、湯、広田、亀井、安田、佐世〔佐瀬〕、中村、檀、古志、葦渡、三木、坪井、坪内、保知石、駒崎、富士名〔布志名〕、宍道、西陣、牧、米原、立原、坂田、乙立、大熊、行結、延福寺、波根、上郷、別府など−出雲に広く分布。福間、福庭、高屋、西条、高島も塩冶一族の出という。

  吉田−近江人、出雲国能義郡にも起る。山根−出雲人、備後に分る。尼子−近江国犬上郡に起り出雲国能義郡で発展し、江戸期には佐々木と号、その一族に新宮、江沼、宍道、宇賀野、多田、久佐。隠岐、村、荘野、重栖、都万−隠岐人。小淵−武蔵国葛飾郡人。羽田井−伯耆国八橋郡に起り出雲にも居、一族に一野。品川−武蔵国荏原郡人、安芸に分る。

  竹腰、深尾−美濃住、明治にともに列華族、深尾については藩主山内一族の出という異伝あり。村瀬−飛騨尾張人。加地、吉尾、竹俣〔竹股〕、倉田〔蔵田〕、楠川、桜井、尼子、新津、新発田、五十公野、嶋−越後国蒲原郡人。福王寺−同国魚沼郡人。磯部−上野人。東郷、中村、飽浦、高浜、小島−備前人。松崎、有吉−備前国上道郡人。伊佐、川野、佐治、佐多−長門国美祢郡人。阿川−同国豊浦郡人。西条−阿波国板野郡人。

  合志−肥後人、実は肥国造族裔か。大山、溝口、鬼塚−日向国白糸庄に住。野村−近江人、日向国諸県郡に分る。丸田−信濃国安曇郡人。間宮−伊豆国田方郡人。杉田−武蔵国久良岐郡人。小淵〔小渕〕−武蔵国葛飾郡に起る。大熊、相賀嶋−常陸人。金田−武蔵国埼玉郡人、菖蒲佐々木氏ともいう。京に富商の角倉、医家の今大路、曲直瀬など。

  佐々木一族から出たと称する武家華族では、京極、亀井、朽木、黒田、竹腰、建部、谷、森川、山崎があげられるが、建部・谷は本来は別流。亀井は物部氏族熊野国造後裔の苗字に養子が入ったもの。

  福岡藩主黒田氏もおそらく疑問で、近江の黒田とは別流かとみられる。その場合、播磨国多可郡の黒田に起る比延山城主の黒田氏(その一族から、出雲尼子家臣の山中や豪商鴻池が出た)の族裔であり、本来は赤松支流ではないかと推される。飛騨の多賀氏も別族。

・ 清和源氏満季流を称する江州神崎・愛知両郡の高屋、平井、小椋などの一族は、高屋三郎為経の後裔とされるが※〔下記参照〕、居住地や命名、分岐時期などからみて、実際には佐々木同族とみられる。一族には、岸本、小原、栗田、山田、和南、梅林、山上、大町、高岸、御園、村田、岸下、林田、石塔、森、米井、和田や伊勢の奥、柳、河曲、久田など。牛田−下総人で、平井末流。高安、梶田も同族という。満季流という武家は、殆どこの一族だけであることに留意。ほかに、美濃国武儀郡の山田、倉地もあげるが、おそらく高屋同族か。

・ 陸奥国閉伊郡に繁衍した閉伊一族は、鎮西八郎源為朝後裔と伝えるが、高屋支流の佐々木為朝・為頼父子後裔の訛伝とみられる。一族は閉伊川流域を中心に多く分布して、田鎖〔田久佐里、田鍍〕を宗族に、佐々木、夏屋、川内、箱石、根市、長村、川井、腹帯、茂市、刈屋、和井内、大川、蟇目、浅内、飛沢、千徳〔仙徳〕、江繋、八木沢、近内、田代、花輪、大沢、重茂、長沢、中村、赤前、船越、矢沢、根城など。同じ陸奥九戸郡の夏井・小田・佐々木も閉伊一族。また、南部氏の四天侍の一、桜庭は近江の佐々木庶流と伝う。
 日向国都於郡の大脇も、為朝後裔と称しつつ、佐々木も号するから、閉伊一族の近親の出か。大隅国肝属郡等に分る。

(4)北陸道等……膳臣系の若狭の一族は問題ないが、道君など加賀越前方面の諸氏については系譜等不明な点が多く、ほとんどが仮冒とみられる。道君一族は、猿田彦命奉斎も見られて海神族系とみられるが、系譜所伝から一応、ここに掲げる。

  若桜部臣、若桜部朝臣(録・右京。有力在庁の稲庭〔稲葉、印庭〕氏は族裔か。その一族ではないかとみられるものに、鳥羽、長江、脇袋、瓜生など)、若狭遠敷朝臣(私朝臣の賜姓か。その場合、若狭国遠敷郡の木崎氏は族裔か。木崎の一族とみられるものに、同郡で近隣住の和久利、沢方、正行、多田など)、若狭宿祢、若宮臣、相臣。遠敷郡の三次君・得津君も阿倍氏族か。

  高志臣(古志臣)、足羽臣(阿須波臣。馬来田、足羽−越前国足羽郡足羽神社祠官)、足羽朝臣、大宅臣、大伴臣。これら高志臣以下も、分布地域などからみて道君や能登臣の同族か。

  越道君(道君)、道公(録・右京。榊−越後国頸城郡沼川郷にあり、越後国沼名川社家、実際には越君一族か、三輪氏族を参照。宮川−越中国射水郡人、道神社祠官)、道宿祢、道朝臣、当道朝臣。頸城郡の祢知〔祢智〕は道君後裔かという。なお、加賀国造領域であった加賀(河北)・石川両郡に居住の大浦・高桑(越中礪波郡にも居住)・高木の一族や、安江氏、津幡氏、井家(井上)氏などは、道君の族裔かとみられる。加賀郡の大野湊神社祠官の河崎・河端も同様か。南北朝期の越中守護普門(井上)氏は出自不明とされるが、河北郡の井上氏と同じか。

  中世石川郡の大族で藤原利仁流という林・富樫の一族は、利仁流藤原氏はおそらく仮冒で、実際には道君の嫡統か(藤原朝臣を参照。利仁流藤原氏の諸氏には古代氏族末裔がかなり混入か)。白山社祠官の上道氏も、実際には道君末流かといわれる(吉備氏族を参照)。また、大伴君も道君同族か。

  なお、出雲国出雲・神門両郡に分布が見える阿部旦臣、阿閉臣、阿保臣、若桜部臣、間人臣、丈部臣については、一部、出雲氏族も混じるかとも考えたが、若狭の阿倍氏族が遷住した可能性が高いように考えられる。これら諸氏の族裔が秋鹿郡の佐太神社祠官の磯崎、猿田、出雲郡の日御碕社祠官の赤坂、真野などではなかろうか。

● 陸奥に広く繁衍した丈部の流れは、本来別族(安芸国造遠祖の天湯津彦命の族裔で、武蔵国造などの同族)と推されるが、のちに阿倍を冠する姓氏を賜る例がかなり見える。その一族には、丈部臣、大田部、陸奥臣、陸奥標葉臣、杖部造(録・右京)、阿倍陸奥臣、阿倍柴田臣、阿倍会津臣、阿倍磐城臣、阿倍安積臣、阿倍信夫臣など。平安後期から現れる陸奥の俘囚長安倍氏については、後掲。

  また、那須国造についても、阿倍氏族とするのは疑問が大で、おそらく石城国造・丈部と同族とみられるが、那須直(奈須直)のほか、一族に猿田直。那須直から出た苗字としては、那須−下野国那須郡人、備中に分る。須藤、芦野−同じく那須郡人。このほか那須郡には一族多く、主なものでは森田、佐久山、芋渕、福原、滝田、沢村、堅田、興野、稗田、戸福寺、千本、伊王野、矢田、味岡、稲沢、大塚、川田、小瀧、田野辺、南条、金丸、上川井、木須、山田など。荏原、大山−備中国後月郡人。道祖土−武蔵人。那須郡温泉神社神主の室井氏も、古代丈部の後か、会津の神職にも見。

 相模の山内首藤一族や下野の小野寺、駿河国安倍郡の鎌田も、那須一族と同じく一文字紋を用いており、みな那須同族とみられる。山内首藤一族については藤原氏・守部宿祢参照のこと。小野寺−下野国都賀郡に起り、出羽国雄勝郡に分る、熊野信仰を保持。出羽仙北の小野寺一族の主なものは、稲庭、西馬音内、湯沢、神宮寺、馬倉、樋口、鍋倉、大森、川連、三梨、渋谷、山内、大泉、吉田。小野寺は伊豆に分れて新田、そこから陸奥登米郡に遷住して中世の大族登米となる。小中−下野国安蘇郡人。なお、阿波祖谷山の小野寺は別系か。鎌田−駿河人、薩摩に分れ島津の重臣、その一族に篠原。

(5)九州地方……筑紫国造・崗県主など、九州で阿倍氏族と称するのは皆、五十猛命後裔の宇佐国造支流で火国造同族ではないかとみられるが、一応、ここに記しておく。景行天皇の九州巡狩に随行した大屋田子命(大彦命の孫と称するが、実際には火国造の祖・建緒組命の子)の子の田道命兄弟の流れである。五十猛命は別名の白日別神とともに式内名神大社筑紫神社に祀られる。

  筑紫君(筑紫−筑前人)、筑紫宿祢、筑志朝臣(筑紫−筑前国御笠郡の筑紫神社神主で戦国大名、藤原姓少弐氏の庶流と称、箱崎宮祠官家にもあり。その一族に島)、日下部君(草部君。草壁、稲敷、稲員−同州御井郡高良大社祠官家。なお、藤原姓を称する肥前の高木一族、肥後の菊池一族の実際の出自であろう。宿祢姓となったか)、

  物部公(鏡山−御井郡高良大社大祝家、あるいは草壁同族か。丹波〔丹羽〕−高良大社座主。宗崎〔初め武内〕、神代、厨−高良祠官家で同上族。隈−三瀦郡大善寺の玉垂宮大祝部)、岡公(岡−筑前国遠賀郡の熊手権現社神主)、香月公(香月〔勝木〕−同遠賀郡人、一族に千々和、古川、小峯、馬場山)、前田臣(前田−高良社下宮祠官家、称物部姓。なお、肥前国杵島郡の前田も同族か)、壬生君(生君で、志摩郡川辺里に住。青柳−筑前国早良郡飯盛妙見社祠官)、壬生宿祢(筑前国那珂郡の住吉社祠官にあり)、膳伴公(大膳−豊前宇佐に在)、膳伴宿祢(武内、木下、中上、御田−筑前国糟屋郡の香椎宮祠官。延枝−豊後国国東郡延枝名に起る、称清原姓)、大伴部、難波部、財部宿祢。

  なお、筑前国志摩郡の與止比売明神祠官で江戸期に筑前社家の惣司も務めた桜井氏は、浦氏の後といい、姓氏不明も筑紫国造族裔か〔壬生君か〕。宇良、秀村、青柳三氏は、筑前国穂波郡穂波村に居した秋(安芸)氏の後というから、皆同族か。また、筑前の箱崎宮祠官の仲村、同志摩郡谷権現祠官の中村は同族で、筑紫国造族裔か。

●肥前の高木、竜造寺の一族を次にあげるが、いずれも称藤原姓(隆家流とも秀郷流とも称)。また、竜造寺については、肥宿祢の後とも火君・忠世宿祢の後ともいうので、古代から同族間で養子継承もあったのだろう。

  高木−肥前国佐賀郡高木村に起る大族で、河上神社大宮司。鍵尼〔鍵山〕−国分支族であるが、室町期以降は河上大宮司。益田、於保、尻河、平野、八戸、戸八、河上、笠寺、成導寺、富田、田中、内田、津留、蛎久、諸隈〔諸熊〕、光岡〔満岡〕−以上は高木一族。少弐支流と称する幕藩大名の鍋島氏も、実際の出自は高木一族と同祖か、按ずるに鎌倉前期に佐賀郡恒松名小地頭であった長瀬氏(竜造寺一族長瀬とは別流か)の後か。中関白、少弐末流という筑後国三瀦郡の江島もある。

  竜造寺−肥前国佐賀郡の大族、村中・水ヶ江にあり。国分、吉岡、朽井、平尾、長瀬、法成寺、富崎、諌早、鷹屋、多久、須古、村田、三村、小山、村上、藤井−竜造寺一族で、うち諌早・多久は江戸期には鍋島を称して明治に男爵。草野−筑後国山本郡草野の起源で筑後在国司、肥前国松浦郡鏡社大宮司、安倍宗任後裔とも称。北野、飯田、赤司〔赤自〕、三明、大城、井上、上津荒木−筑後国御井・山本郡等に住。青木−肥前長崎の諏訪社宮司家。藤姓という西見、上村も草野同族か。上妻、吉田、中島、宮野、山崎、西牟田、甘木、寺田、弥吉−筑後国上妻郡人。

● 平治元年頃に平家に追討された日向太郎通良や、綾部の一族も肥前に繁衍した大族で、藤原姓を称するが高木同族の可能性もある。(筑紫火君の項で記述)

● 肥後の菊池氏は、十一世紀前葉の対馬守従五位上藤原朝臣蔵規(政則。高田牧司、大宰府大監、大宰少弐を経て補任)の子孫であるが、筑前国嘉麻郡草壁郷の地にあった日下部氏の後ではないかとみられる。その一族には、故地筑前に居住の粥田(鞍手郡)・山鹿(遠賀郡)の諸氏があり、肥後北部の菊池川本支流の流域(菊池・山鹿郡)を中心に大いに繁衍した。一族は多数あり、肥後等には、
  兵藤、西郷、山崎、紀伊、二宮、小島、中村、高橋、内田、迫田、合志、永里、岡本、石坂、福本、迫間、天草、志岐、千原、栖本、藤田、出田、長坂、詫磨、村田、井芹、立田、薗田、東、佐野、原、高倉、赤星、永野、砥川、八代、大河平、黒木、片倉、小山、江良、大浦、伊倉、益城、九条、小野崎、林原、方保田、蛇塚、林、加恵、城、本郷、中山、小野、平山、林、津江、新開、村山、若宮、須屋、堀川、甲斐、七山、長瀬、島崎、重富、西、高瀬、千田、新宮、宇土、木野など。

  合志郡の合志の族に牧〔真木〕、小足、平川、弘生、穴保田、瀬田、古荘。米良、肥田木−日向国児湯郡人。甲斐の族には隈荘(益城郡人)、家城(日向国高千穂住)、下城。小河−筑後国山門郡人。姉川−肥前国神崎郡人。

  菊池一族には薩隅に行って島津氏に仕えたものもかなりある。奥羽に多い菊地・菊池は肥後菊池の流れと称するものが多いが、本来は全くの別流か。また、肥前国松浦郡に起り薩摩にも分れた日高は、源姓を称するも、鷹羽紋等からみて菊池同祖か。


○ 安倍朝臣姓と称する武家については、次にあげるように地域別にみていく必要があるが、いずれも中央の阿倍朝臣とは本来、別族か。

● 陸奥の俘囚長安倍氏(頼時・貞任の一族)は、京師の安倍朝臣姓に出るという系譜をもつが、長髄彦の兄・安日に出るという俗伝はともかく、実際には京師とは異系の陸奥土着系としたほうが妥当と思われる。その場合は、陸奥の丈部の流れ(阿倍陸奥臣の後か)とみるのが最も自然である。この系統は古代中世を通じて、武家として陸奥にかなりの勢力をもち、秋田氏という幕藩大名家を出した。

  この一族としては、
  安東−陸奥津軽守護人。秋田−安東嫡流で出羽住、武家華族。下国、上国、西関、横木、潮潟、矢沢、湊、竹鼻、中津川、山館、比内、豊島−秋田支族で陸奥出羽に住、下国は蝦夷地にもあり。伊駒、茂別、相原−蝦夷地に住。久慈−陸奥九戸郡下久慈住人。藤崎−陸奥津軽郡人。白鳥、行方−常陸人。安倍、黒沢、小松、大河、鳥海、長井、秀田、蠣崎、磐手、高杉−陸奥人。脇本、女川、馬場目、石塚−出羽国秋田郡人。大町−陸奥国磐井郡人。松浦、牟田部、日高−肥前国松浦住人、宗任後裔。川崎−筑後国上妻郡人。筑前国志摩郡の是松氏も安倍姓と伝える。

  安倍一族の後裔と称するものは奥羽に多く、安倍のほか、陸奥岩手郡の一方井・米内、閉伊郡の豊間根・石峠・里館など。また、名取郡秋保に起った名族秋保・境野・馬場・竹内の一族は、清盛一門の平基盛の後裔を称したが、実際には安倍姓小松氏の後裔とみられる。陸奥の塩竃神社の筆頭祠官に阿部氏があり、藤原姓と称するも疑問で、阿倍陸奥臣か阿倍柴田臣かの出とみられる。陸奥の安藤氏や名取郡の名取熊野三社の祠官阿部氏なども、同族か。

● 美濃国の安藤氏は、陸奥の安倍氏の末流が藤原姓の人の養子となって生じたといい、その一派が三河に移って大名家安藤氏を出したと伝えるが、ともに疑問が大きい。美濃の安藤氏は、おそらく当地の国造古族(三野前国造か)の末流であり、三河の安藤氏が実際にこの同族であるかどうかも確認し難い。同族でないとしたら、三河国古来の流れで、同国額田郡の額田・阿倍氏(これも阿倍朝臣姓と称する系図をもつが、古代の額田部か阿倍同族の裔であろう)と同族であろう。

  安藤−三河人、武家華族。額田、阿部−三河国額田郡人、阿部は武家華族。また、信濃国佐久郡の桜井氏は出自不明であるが、阿倍朝臣姓を称し、滋野姓とも藤原姓ともいったが、おそらく称滋野姓で海野族とするのが妥当か。

● 尾張国東南部の愛知・知多郡には、阿倍朝臣姓と称する次の諸氏があったが、これにも疑問が大きく、実際には古代の和邇部・知多臣の後裔ではないかとみられる。 

  愛知、知多、長雄、井上−尾張国人。武家華族の井上氏も、信濃出自の清和源氏を称するが、実際にはこの一族であり、また三河の阿部氏と通婚・入嗣関係が見られる。

  (06.7.11追補、07.2.21、同年9.12、10.5.22に補訂)



 〔補記〕 高屋三郎為経の位置づけ

  『尊卑分脈』は中世系譜として重要な史料であるが、これを部分的に見ずに全巻を通観すると、興味深い事情も出てくる。そこで、その例として清和源氏満季流に登場する高屋三郎為経を取り上げて説明しておく。

  この為経の周辺には、系譜の混乱が次のように様々な形で見られるが、これも後になって混入された事情を示すものとみられる。

@ 清和源氏の個所では、為経の父とされる大膳大夫定俊は、藤原氏の高藤流の惟孝・説孝後裔にも登場し、そこでは権中納言泰憲の子となったことが知られるが、この個所に出てくる定俊には武蔵守成実・遠江守祐長・心俊・女子の4名の子女しか記載されず、清和源氏の個所に見える成貞・為経・季信・忠政・忠尊・兼源の名が見えない。

A 上記の季信・忠政は、清和源氏の他の箇所に見える。すなわち、満仲の子の頼平の後裔にあげられ、頼平の子の忠季の諸子に忠信・季信・忠政・忠尋(忠尊に相当か)・兼源の名が見えており、為経の弟にかかげられる季信の子孫は、実は忠信・季信兄弟の子孫と知られる。

B @及びAからみて、為経はまったく関係ない個所からの竄入と考えられるが、一方、平安後期の佐々貴山君一族には「為」の通字が見られ、為経後裔の高屋・平井一族は近江に住んで、佐々木氏の有力な郎党であった事情にある。

 こうした事情から、上記本文に見解を記したものである。

 
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月13日 10時29分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、深夜の「万歳」で、選挙戦が終わりました。この10日間で体調
が崩れまして、今立て直しつつあります。毎日のリズム、食、酒には気を付
けないといけないということが、改めてわかりました。

 さて、昨日は「萬松山五葉院」他2〜3の寺を回ってきましたが、特に収
穫はありませんでした。特にこの五葉院は、服部中6代目保房の長男万五郎「保根」(やすもと)が仏像等を寄付したということで、何か手掛かりがある
かと期待して行ったのですが、服部中に関する情報のカケラも落ちていませ
んでした。
 墓は和久田一族の墓標がほとんどで、やく40位ありました。江戸時代に
は、徳川家御朱印高3石を領し、檀家は約45戸であったという。薬師堂が
あり、眼病に霊験あらたかということで、特に御開帳時には門前市ができた
と書かれておりました。
 ただ、この実質7代目万五郎保根は家督を継がない内に、たぶん30才位
で亡くなっており、家督は長谷川平蔵を世に出した長谷川一門の祖先の長谷
川久大夫徳栄家の長男で養子に入った「保貞」が継いだ。あを様の言われる
ように長男が別家の養子に入るということはどういうことか? 長谷川家は
どうなったのか? 保根に何があったのか、その子孫はどこにいったのかと
いう謎が残ります。母は永井直勝家の後裔、家督を継いだのは長谷川家から
の長男の養子、次の代も長谷川家からの養子ということで2代続く。大久保
長安事件のような事件が何かあったのか? 当地で服部と永井は一体に暮ら
しておりますし、東の隣村には長谷川氏がたくさんいます。何かの事情があってこの地に住むようになったということだと思います。その辺を今後調べてみます。
 そのほか川井氏(2代目保正の妻)、水野氏(3代目保俊の妻)との関係も、かすかな状況証拠を匂わせています。
 気になっているのが、3代目保俊の弟「保久」です。彼は別家を立て、服部
弥五兵衛保春の祖で、母は紀伊家家臣川井刑部重長の娘であったということで
す。ここら辺も調べる必要がありそうです。いずれにしても7代目あたりから
養子が多くなって行くという現象・・・これについても分析する必要がありそ
うです。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月13日 11時52分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


お付き合いは大事ですが体調にはくれぐれもお気を付けください。


でも「万歳三唱で終わって良かった」です。
頑張り甲斐がありましたね。
おめでとうございます。

これで義理が果たせましたね。




>五葉院

たいしたことなかったんですか。残念でした。


                           ココ!


    ワクダ 和久田 

    静岡県浜松市、熊本県、京都府。
    静岡県浜松市西区大久保町が本拠。
    同地に江戸時代にあった。

                           ビックリ!


            きっと特別な家だったんでしょうね。
             
           



http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%92%8C%E4%B9%85%E7%94%B0

【名字】和久田

【読み】わくた,わくだ

【全国順位】 3,444位  

【全国人数】 およそ3,800人


都道府県別ランキング


都道府県

順位

人数


福井県 1,874位 およそ50人
静岡県 359位 およそ1,700人     ほんと
愛知県 3,131位 およそ100人
京都府 1,161位 およそ300人
大阪府 2,857位 およそ300人
長崎県 3,001位 およそ40人
熊本県 980位 およそ300人



関連姓は湧田。大阪府や静岡県に多数みられる。語源はおだやかな景色の田園。



http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2864034.html

ワクタ 涌田 奈良県、大阪府、静岡県。奈良県大和高田市出が本拠。奈良県大和高田市秋吉では農業に従事していたと伝える。静岡県富士市江尾が本拠。

ワクタ 湧田 沖縄県、広島県三次市。

ワクタ 篗田

ワクダ 和久田 静岡県浜松市、熊本県、京都府。静岡県浜松市西区大久保町が本拠。同地に江戸時代にあった。 

ワクダ 和工田

ワグタ 和具田
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月13日 11時54分18秒 ) パスワード

>いずれにしても7代目あたりから養子が多くなって行くという現象・・・
>これについても分析する必要がありそうです。


はい
まるで乗っ取られたように。


また何度も読み返してみます。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月13日 12時00分34秒 ) パスワード

http://24senzo.net/blog-entry-49.html


■尾張藩士の分限帳

【現存する分限帳・記録】
『寛永年中分限帳』
『分限帳 元禄之末、宝永正徳、享保頃迄』
『尾藩分限帳 明治2年訂正』



■尾張藩士に見られる名字(苗字)
〜『寛永年中分限帳』 より〜

相田 相原 青木 青山 赤林 秋元 秋山 明知 浅井 朝岡 朝倉 浅田

朝比奈 畔田 足立 阿知波 跡部 阿部 天川 天野 雨宮 鮎川 新井 荒川 

荒木 荒瀬 安藤 飯島 飯嶋 飯田 飯沼 生駒 石川 石黒 石原 磯貝 

市川 市村 市邊 一色 井出 伊藤 伊奈 稲生 稲垣 稲富 稲葉 稲本 

稲吉 伊部 今井 今泉 伊名 岩下 岩瀬 岩田 岩付 上田 植田 植松 

上村 魚住 牛込 宇津木 宇野 海野 海福 浦野 江上 江坂 江原 大石

大草 大久保 大熊 大河内 大澤 大塩 大島 太田 大田 大竹 大津 大

西 大橋 大原 大村 大森 大屋 岡 岡崎 小笠原 岡田 岡野 岡部 岡村 

小川 荻野 荻原 奥津 奥山 尾崎 長田 小澤 尾関 小田切 小津 小野沢 

小野寺 帯金 御宿 海保 柿沼 垣見 角田 各務 筧 梶 梶田 柏野 粕谷 

片山 勝 勝野 加藤 加取 金子 兼松 神尾 神谷 川口 河崎 川住 川瀬 

川田 川手 川野 河村 完倉 喜多村 木村 日下部 熊沢 久米 倉林 刑部 

小池 高麗 小尾 小柴 腰山 小菅 小玉 小畑 小林 小藤 権田 近藤 

西郷 佐伯 三枝 佐枝 坂井 酒井 榊原 坂崎 酒巻 桜木 桜山 佐々 

佐藤 佐分利 鮫嶋 左右田 澤 三尾 三和 塩川 柴山 渋谷 嶋沢 島田

志水 清水 志村 下 下方 白井 白石 須加 須賀屋 杉浦 杉崎 杉山 

鈴木 須長 須野崎 瀬尾 関 瀬戸 千田 千村 外山 園田 大沢 大道寺

大門 高木 高田 高梨 高橋 高見 高力 滝 滝川 瀧見 竹居 竹尾 竹腰 

竹中 田島 立入 橘田 伊達 田中 谷口 玉置 千賀 津金 塚本 柘植 

辻 津田 土屋 都築 手島 手嶋 寺尾 寺西 東条 遠山 土岐 徳光 徳山 

取田 戸田 舎人 都丸 富永 留永 豊田 鳥居 長井 長岡 中川 長坂 

中島 中嶋 中根 中野 長野 中村 長屋 夏目 名取 並山 行方 奈良橋

成田 成瀬 南条 南部 新野 新見 西尾 西澤 仁科 西村 蜷川 丹羽 

野中 野村 野本 野呂 橋田 長谷川 幡野 八田


            服部 羽鳥  へえ〜  名古屋で羽鳥は知りませんでした




馬場 濱嶋 林 原 原田 坂 比木 彦部 久野 平井 平岩 平尾 平岡 

平沢 平野 平山 深津 福嶋 藤澤 藤田 雪吹 古高 古屋 星野 細野 

堀田 堀 本郷 本庄 本多 本田 本間 前島 前田 牧 増嶋 増田 松井

松田 松平 松野 松本 間中 曲淵 間宮 丸山 三浦 三木 三澤 水野 

溝口 三村 三宅 宮崎 武藤 村井 村尾 村上 村越 室賀 毛利 守屋 

門野 矢島 安田 矢部 山内 山岡 山口 山崎 山下 山田 山宮 山村 

山本 湯沢 横井 横内 横田 吉田 吉原 米倉 依田 竜崎 若尾 若林 

和田 渡邊 久々宇 蔦木 
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月13日 12時17分38秒 ) パスワード

http://www.kinoshita-y.com/topics.html


明智のハナシと和久田のハナシです。

和久田さんは楠正成と関係がある?結論:イエス   和田氏の出身なんですって

 

「交野探訪」拾い話

木下勇作

<星と緑と歴史の里、交野を歩く>

@:明智光秀のことに触れる。あの天才、織田信長を京都は本能寺で殺(あやめ)た人物として名を馳せ今に伝わる。彼のことは『交野探訪』の中でも 取り上げたが、郷土史家、和久田薫さんからお聞きした印象に残っている話があるのだ。

 巻末に年表がある。上に日本・世界を下に交野の歴史を掲載している。

 この交野年表は和久田さんの全面的なご協力の下で出来上がったものだが、和久田さんがおっしゃった光秀にまつわる言葉が、こころを過ぎる・・・。


 「木下さん、信長を自裁におい込み、討ち果たした後、光秀は交野にある機物神社に詣で 祈願していますね」


                      光秀と機物神社????



何を祈願したのだろう、明智光秀・・・。

光秀が機物神社に初穂料を奉納したのが1582年6月9日・・・。


 彼はこれからの戦いに勝利し、その後、天下を統べることがでるきるかどうかについては確たる自信を持ちえていなかったとみる。

 光秀は天才、信長を夜襲に近い形で倒したことについて内心では少なからず動揺していた筈である。

 光秀は、いうならば、道徳律の高さ、教養の深さにおいては他の武将の追随を許さない存在ではあった。が、戦国の世を終結させ、天下統一に向けて疾走しなければならない武将としては、それゆえに甘さを並存していたのではないかと愚考する。

 そうした光秀なら同神社では、戦勝祈願もさることながら、むしろ信長の鎮魂を願ったのではないかと思えてならないのだ・・・。

 

また光秀は、この4日後(1582年6月13日)の山城・山崎の戦いで秀吉軍(4万余)に自軍(1万4000)で勝利し得るという確たる戦略をもたないまま戦いに臨んだのではなかろうか・・・。

 つまり血縁になった細川幽斎親子などから戦いの協力を得れなかった光秀なのだから・・・。

 大いに落胆したに違いない・・・光秀の無念の表情が浮かぶ・・・。もはや光秀は、山崎での勝利を半ばあきらめていたのではないかとさえ思えるのだ。

 光秀という武士は、残念なことではあるが、優秀なる参謀たりえても所詮、「天下人」になれる器量の持ち主ではなかった。

 しかし、このような謀反を起こすことなく天下泰平の世にもし光秀が生き得たとすれば、明晰なる頭脳を駆使して大いなる働きをしたであろうことは間違いなかった。

「実に残念なことではあった・・・」

 光秀は信長を討ち果たした後、とめどなく、とめどなく後悔の念が胸いっぱいにひろがったのではなかろうか・・・天下人としての己が力量のなさをいやというほど味わったのであろう・・・。

 私見としては、光秀は日本史上、「実に惜しい漢」であった、と指摘しておきたい。

 「交野探訪」の158Pの年表にあるほか、光秀のことも本文に書いている。また、この「本能寺の変」に気を揉む交野の長(おさ)、平井氏の思いにも触れており、想像を巡らせれば面白く読んでいただけると思う。

 さて「交野探訪」をお読みいただければお分かりいただけるかと思うが、交野市は妙見宮のからみで「光明真言」「虚空蔵菩薩真言」「薬師如来真言」「不動明王真言」などかなり多くの真言を書き込んでおります。

 私のこれまでのささやかな真言密教の勉学を生かせたという意味では内心ほっとしている。

でもそこは独学の悲しさでもある・・・。

 「この真言は、はたしてこれで正確なのだろうか」とふと思案したとき、よく相談にのってもらったのが、種芸種智院大学教授であられた山崎泰広さんだった。

 氏とは新聞記者のときから幾たびも会食をともにしていただき、打ち解けた雰囲気のなかで真言密教について教わったのであった。

学問とともに「行」に真剣に取り組まれている方である。

(2004年2月3日)

 

A:地元で「交野探訪」を120冊、取次店=(卸)から仕 入れ、120冊を引き受けていただいた柿木さん経営のネヲ書房に2月6日お礼の電 話を入れた。

「はい、ネオ書房です」。電話の声は柿木さんのご令室。

 「木下といいますが、有り難うございます。沢山、私の本を引き受けていただ きまして・・・」

「主人が言っていましたが後、3冊残すのみで全部、売れ切れました」

私のこころはは感謝の気持ちと嬉しさでいっぱいになった。

「主人は改めて発注しなければと言っていました・・・」

 「あの、残りの3冊は私が買います。私の持分は25冊でしたが、ぜひ、お贈りしなければならない人がまだ、まだ、ありますので・・・」と喜びとともに慌てて注文した。

 そのほか交野、枚方市市域の数店の書店でも予想以上の売れ行きを和久田さんに伝え、共に喜びを分かち合った。

 和久田さんが、郷土史家とし蓄えられた知識を惜しみなく提供してくださったことは、この欄でも紹介したが、とっておきの秘話を紹介しよう。

 拙宅に一部屋 だけある畳敷きの部屋で2回、ゲラ直しの共同作業を執り行った。

1回目は約2時間。2回目は約3時間だった。

いずれも休みなしのぶっ通しである。

 初回のときは家内が気を利かして小用を足しに出られるだろうと便所をきれいに掃除していた。

が、無用だった。ずーと正座で通された・・・。

 2回目ともなれば、ある事例の表現についてさらに根を詰めて検証する。ある箇所で2人とも考えあぐねた・・・。



                           和久田さんのハナシ



 それも2時間を少し超えたころだった。沈黙すること10分近く・・・。私の頭脳もフル回転、恐らく和久田さんもそうだったと思う。

 「どうだ!木下さん!これでいったらどうだ!木下さん! どうだ!どう だ!・・・」

思わず迫力のある和久田さんの声が部屋中に響きわたった。

 「ええ、それでいきましょう」と私も自然といつもより大きな声を発したが、とてもとても、和久田さんの気迫には、ほど遠かった。



                    和久田さんは平安時代から?



 私は思ったものだった。やはり、平安時代からしっかりとした系図をお持ちの武辺者であり、妙見宮の宮司を務めた家柄である。このときの和久田さんの表情は正に武将の顔だった。



 和久田さんは販売する書店まで気を使ってくださった。ネオ書房もその一つである。私は交野の人々の気概と紐帯(ちゅうたい)の凄さに感動したのだ。(2004年2月6日)

 

B:取材というよりもこの題名のごとく交野地域のあちこちを探訪した。その昔、京や奈良の宮人らが、この地を訪れ、残した歌が至るところに掲げてあるのを発見した。

 「またやみん交野の御野のさくら狩り、花の雪散る春 の曙」―。この本の中で紹介した藤原俊成の歌だ。

機物神社には、紀貫之の歌碑がある。

「一年に 一夜と思えど たなばたの 逢い見む 秋の限りなき哉」

 貫之は稲穂の黄色に染まる交野の里を遊猟に訪れた時、いつも、愛の契りを結んでいる機織娘との恋を歌い上げた。

 貫之を待つ女ごころは、切なく焦がれ、時には貫之に訴えたであろう・・・その哀しさを・・・。でも機織娘の情愛を歌人である貫之の感性が見逃す筈がない。

二人の愛は逢うたびに深まっていくのだった・・・。

 織姫と牽牛が天の川に架かる逢合橋で年に1度の逢瀬を愉しむ七夕伝説ーー。

恋歌・・・恋歌・・・。

「狩くらし棚機つ女に宿からん 天の川原にわれはきにけり」(在原業平=伊勢物語)

「天の川とほきわたりになりにけり 交野の御野の五月雨の頃」(続後撰集)

「これやこの七夕つめの 恋わたる天の川原の鵲(かささぎ)のはし」(中務 内侍日記)

このほかにも交野の機娘との逢瀬を詠んだ句はまだまだあるだろう。

 さて「交野探訪」に書いたように江戸末期、交野の愛染律院に数年間仮寓 し、平井家と交流を深めた大田垣蓮月尼も交野の美を歌い残した。

 「万世の春の始めと歌うなり こはしきしまのやまとひとかも」と・・・。私はこの歌が大好きだ。すっかり気に入ったのだ。 

私は渾身の力を奮ってこの歌の解釈をした。

「我ながらよくできた・・・・」

 書き終ってから大きく深呼吸をした。のびやかな気持ちのよい安堵に満ちた欠伸が自然と噴出してきた・・・。

 (自然は移ろう。一年という単位(刻)でとらえるのではなく、かぎりなく、かぎりなく、とうとうと続き、繰り返す自然の営み、摂理・・・。そのひこまとしてまた春が巡ってきた・・・。私は歌うのだ。その営みの始まりを祝して・・・。以下略)「交野探訪」の118−119頁。 

 この歌の解釈で苦心したのが、「かぎりなく、かぎりなく、とうとうと続き、繰り返す自然の営み、摂理・・・その営みの始まりを祝して・・・」である。

 華厳経の説く、一瞬の中に永遠が含まれているという「一即一切、一切即一」(「一切」とは宇宙のことである。今春は「一即」とみてよかろう)の世界を表現したかったのである。

 交野の里が醸し出す自然の美は、古代から近世までも、そう今も息吹続けているのだ。(2004年2月8日)

 

C  略

 

D   略
 

                      和久田さん再び

 
E:この本の巻末に交野の歴史を載せ、日本・世界歴史と並行して 読めるようにしたのは、著者が言うのもなんだが、よかったと思っている。郷土史家、和久田薫さんの全面的なご協力を仰いだ。ここでは14世紀に的を絞る。

 1333年、徒然草成る。同年、頼朝から始まった鎌倉幕府が滅亡(瓦解)した。1336年、室町幕府始まる。1392年、南北朝合一。1397年金閣寺建立。

さて交野では・・・。

 1309年、星田新宮山八幡宮に地、水、火、風、空を表す石塔建立。

 1336年、星 田の和田助忠、助光兄弟、楠木方に味方するとある。

 1352年、交野の郷士は楠木 正儀に従い、尊氏兄弟らと戦う。



                   ココ


この和田助忠、助光は、和久田さんの先祖である。

 この年表には表記していないが、1339年、南朝の後醍醐天皇が52歳で薨去している。

 この時期は日本史の中で大きな転換期の一つである。これに和田兄弟ら交野の郷士が大きく関 わっていることは注目に値する。

 私は数回以上の和久田さんとの対談や電話での話しから、和久田さんの中に武辺者の凄さを感じ取ったものだった。

 交野の文化は「優雅」の内に「剛」を包摂しているとも言える。 (2004年2月12日)(2009年11月28日)

 

F:和田文子・・・。私が小学2、3年の担任の先生である。

 今は、粟井文山と号し、水墨画の世界では岡山県下はもとより、全国的にも知 られる女流画家である。

 私は小学1年のころより、絵では自分でいうのもなんだが、学級の中では一番上手かった。

 で、文子先生が岡山大学教育学部(美術専攻)を卒業と同時に私が通っていた福田小学校(邑久郡邑久町内の小学校の一つ=廃校)に赴任された。

「交野探訪」でもそのころの思い出を書いている。

 文子先生はどの教科にも情熱を込められていた。が、美術専攻であられたから、よく学校傍(そば)の土手や吉井川の川原まで写生に連れて行いっていただいた。

私は、腕白そのものであったし、いつも遊びにほうけていた。

 写生に出掛けても、 まぁ、遊び半分であった。でもいつの間にか他の生徒より、立派な絵をものにして文子先生によく褒められたものだ。

 55歳になった時、小学校の同窓会を地元有志の方々が隣の町の牛窓で開いてくれたので参加した。

 文子先生と五年生時の担当佐藤先生(男性)が出席され、皆、お2人の先生と思い出話しに花を咲かせた。

 とりわけ、私は文子先生とは絵の話しを中心に話しが尽きなかった。それ以来、年賀状のやり取りが続いている。

 2004年2月12日、新聞社勤務を終えて帰宅 したら先生からの封書あり。封を開いてみると、待っていた本(交野探訪)がまだ着かないという内容だった。

で、すぐ電話・・・。

「今日いただきました・・・」と先生。

 私はホッとし た・・・・。2人の会話は30分以上続いた。会話が進むうち先の同窓会では言えないよう なことも浮かび、話し込んだ。

 私は間もなく、世にいう定年を迎えるが、さてさて如何なる日々を過ごさんかと期待が膨れあがってくるのだ。

 交野探訪でも触れた富岡鉄斎の世界を学習してもよし、 大田垣蓮月尼の歌に親しむのもこれまた意義深かろうなどと思っているのだ。

そう富岡鉄斎の絵に倣っていっちょう墨絵でもやっちゃうかな・・・。

 自慢 話しになるかもしれないが、中学2年の時、私を育ててくれた伯父の満に言った。

「わしゃー、画家になるでぇー」と一度だけ訊いたのだ。

「それは、ええけど、中々、飯を食えんぞ!」と言われた。

私は、その一言で即座に断念。

 む、そうだなぁーと少年なりに思ったからだ。当時、柔道部と美術部、書道部に入っており、とりわけ、柔道と絵画に力を入れた というか愉しんだ。

 模擬テスト用の授業は大嫌いであった。私の感性が強烈に拒絶したのだ。

 2年次、3年次と級長(ホームルーム長、生徒会の書記、副会長)を仰せつかっていたがどうも授業は嫌で仕方がなかった。

 「おもしろーねー」 であった。だから 小学校時代が懐かしいのだ。その次に大学時代か・・・。

もう一度、文子先生の話に・・・。



                  ココ

 和田は交野の和久田さんと同じ系統に属す る。和久田姓になったのは、分家して東と西に分けたため、間に久をお入れになったのだ。

 昨夜のお話では、文子先生も神職の家系であったといわれ納得した。 正に不思議なご縁ではある。                                                  (2004年2月12日)

 

 

天理の里 つれづれ草

木下勇作

<運転手さんと会話弾む>

 平成15年(2003年)9月4日のお昼過ぎ、奈良市内のホテルに着いた私は、カウンターに鞄を預けて、すぐさまタクシーで天理大学に向かった。

 「ええ、20分ぐらいで着きますよ」と運転手さん。私は開放感覚えてきたのか、少し饒舌(じょうぜつ)になっていた。運転手さんは昭和18年(1943年)生まれ。私より一つ年上。この運転手さんと結構、気が合ってか話が弾んだ。

 「ええ、還暦ですよ。でもね、私、 たばこを1日3箱は吸っております」

 「ほう、お元気なのですなー。奥様からよく文句が出ませんね」と感心というか半ばびっくりして私は言った。

 と、即座 に「家内は私なしには生きていけないくちですから・・・」(ほう、なんという自信だろう)と半ば呆れたが、性格が明るくて特段に陽気なのだ。

 お住まいはどこですかとは聞かなかったが、天理市民なら陽気暮らしを旨とする天理教の教えを学んでおられるのかと思ったものだ。

 しかし3箱というのは、多過ぎると思い、おっせっかいとは思ったが、「私は、30本近く吸っていますが、定年後は一箱にすることを家内に宣言し、了解を得ているのですわ。あなたもまず2箱にし、慣れたところで1箱にされたら奥様、きっと喜ばれますよ」

 「はい、はい、先生、言われるとおりに努力します。ええしますとも・・・」。(運転手さんが私のことを先生というのは、行き先を天理大学で開催されている日本宗教学会学術大会に参加すると言ったからだ)。

 「ところで先生、この天理市の人口は約10万人ですが、そのうち90%以上が天理教の信者なのですよ」。(先生、御存知でありましょうか)という語感と親切心が交ざったような口ぶりで言われた。(お、そうか。それも道理だな。ここは天理教の街、天理市なのだからと改めて思った)。

 「そうでしょうね。私は大阪府下に住みながら、奈良市にはよく出掛けるのですが、不思議なことに天理市は初めてなのですよ。今日は学会参加のついでに真剣に天理教を学びに来ました」などと会話を愉しんでいたら、間もなく広い空間にいかにも天理大学、天理教団という特色のある建物が甍を並べるように立ち並んでいるのが車窓から突然見えてきた。

研究発表のある研究棟の前で運転手さんに礼を言い、車を降りた。

 「いらっしゃいませ。ご苦労さまです。ご苦労さまですーー」という学会のお手伝い(ひのきしん)をする学生さんの爽やかで明るい声が一斉に木霊した。

 私は、気持ちよく受付を済ませ、あらかじめ聴講を決
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月13日 12時20分54秒 ) パスワード

http://www.siromegu.com/castle/osaka/jouganji/jouganji.htm

城岸寺城跡
登城日:(2004.1.11)
所在地: 南河内郡美原町大饗、城岸寺

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】


歴史

城岸寺城跡である城岸寺  別名大饗城(おあい)ともいう。

大饗の地名は称徳天皇の頃、(約千二百四十年前)丹比行宮の饗宴場であったことに起因すると伝えられる。


城岸寺城は南北朝の頃、
楠公の一族である和田和泉守が城ヶ峯と称する周囲濠をめぐらした要害の地に城塞を築いたとされており、
現在この濠は昭和五十六年に埋め立てられ、城岸寺公園、児童館が設置された。


城岸寺城跡である城岸寺  

和田氏は楠左衛門尉成康の次男、太郎親遠から始まり河内から泉州和田村に居城を構え和田氏を名乗った。

(現在の岸和田城)その子、四郎高遠、その孫、正遠(正成の甥)その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を構えた。

正平七年和田助氏の軍忠状(自分の手柄を記した書状)に大饗城の名が見えることは大阪府史、狭山町史に記載されている。

その後、元享年間に融通念仏宗、中興の祖、法明上人が河内の国、念仏勧進の際、
病気平癒のため、当城岸寺を建立し、現在当寺に伝わる通称「たくまはん」と呼ばれる阿弥陀如来来迎図があり信仰を集めている。

「たくまはん」はその昔、一世を風靡した狩野派、巨勢派(巨勢の金岡は金岡神社の祭神)と並び称せられた宅磨派、宅磨法眼良賀の作といわれている。


昭和五十六年に現在の本堂が建立された時、発掘調査が行われ南北朝の頃と推測される建物跡が発見された。

尚、境内植込の石臼は前の本堂建立の際に基礎石として、使用されていたものである。

『城岸寺城跡案内板』より


[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月13日 12時37分03秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/kitamejirou/new_page_3.htm


大饗城       所在地 → 大阪府堺市美原区大饗


           内容は上記レスに殆ど似てます。



大饗 城岸寺城跡 (城岸寺門前の説明板より)

  別名大饗城ともいう。 

大饗の地名は称徳天皇の頃、(約千二百四十年前)丹比行宮の饗宴場であったことに起因すると伝えられる。

城岸寺城は南北朝の頃、楠公の一族である和田和泉守が城ヶ峯と称する周囲濠をめぐらした要害の地に城塞を築いたとされており、

現在この濠は昭和五十六年に埋立てられ、城岸寺公園、児童館が設置された。


 和田氏は楠左衛門尉成康の二男、
太郎親遠から始まり河内から泉州和田村に居城を構え和田氏を名乗った。

(現在の岸和田城)

その子、四郎高遠、その孫、正遠(正成の甥)その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を構えた。

正平七年(約六百六十年前)和田助氏の軍忠状(自分の手柄を記した書状)に大饗城の名が見えることは大阪府史、狭山町史に記載されている。

その後、元享年間(約六百九十年前)に融通念仏宗、中興の祖、法明上人が河内の国、
念仏勧進の際、病気平癒のため、当城岸寺を建立し、

現在当寺に伝わる通称「たくまはん」と呼ばれる阿弥陀如来来迎図があり信仰を集めている。

「たくまはん」はその昔、一世を風靡した狩野派、巨勢派(巨勢の金岡は金岡神社の祭神)と並び称された宅磨派、
宅磨判眼良賀の作といわれている。昭和五十六年に現在の本堂が建立された時、

発掘調査が行われ南北朝の頃(約六百七十年前)と推測される建物跡が発見された。 

尚、境内植込の石臼は前の本堂建立の際(約百九十年前)に基礎石として、使用されていたものである。


    無量山  城岸寺

正平六年二月、淡輪助重(北朝形から南朝方になる)が大饗城を攻めている。

当時、大饗城が和田氏の城で南朝方ではなかったのであろう。

 

城岸寺城址 (本堂回廊下に転がしてある古い説明板より)

 古名は城が峰と稱し 周囲濠をめぐらして 城岸寺と号した 楠氏の一族和田和泉守 の領となってから城塞を に属する名刹である。

  美原町教育委員会    美原町郷土研究会

大饗(おわい)城(狭山町立郷土資料館だよりNO.6より)

 南北朝期、楠木氏と行動を共にした和田氏の本拠地と伝えられている。

南北三七m、東西四八mの方形の城跡が残っている。ただし、今は城岸寺の境内となっている。

城跡の北方には城ヶ池(溜池)があり、他の三方にも堀が巡っていたという。 

近年、美原町教育委員会の発掘調査によって、城跡内より小規模な礎石建物跡や焼土層が検出された。

所在地 → 大阪府堺市美原区大饗

 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月13日 13時01分26秒 ) パスワード

楠氏の驚くべき謎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%B0%8F

本姓は橘氏。

一般に伊予橘氏(越智氏の分家)の橘遠保の末裔という(『系図纂要』など)。

しかし、楠木正成以前の系図は諸家で一致せず、確実なのは、河内の悪党の棟梁格だったことである。

『尊卑分脈』(橘氏系図)や『太平記』は正成の出自を橘氏嫡流系統の為政の後裔とする。


また諸家には、同じく橘姓の熊野国造和田氏の出身とする系図も多く(『古代氏族系譜集成』参照)、最も有力視されている。

正成の一族以外の子孫が多く和田氏を称しているのは、和田氏に復したものと考えられる。


戦後、名和氏と同じく辰砂の採掘権と技術を有した商人的武装集団の頭目説、散所の長者説などが出されたが、いまだ定説は存在しない。

また、河内国の金剛山観心寺領の在地豪族ともされるが、河内国や近隣には「楠木」という苗字の元となる地名はない。


東国武家集団が北条得宗家の被官として、赤松氏と共に播磨や摂津・南河内・和泉など北条氏の守護国などの得宗領に移住し、そのまま土着したとする説もある。

                     ココ

『吾妻鏡』によると、楠木氏は元は関東にいた御家人で、玉井氏・忍氏・岡部氏・滝瀬氏ら武蔵七党の横山党や猪俣党と並ぶ家柄であり、もともとは利根川流域に基盤をもつ東国武士の有力集団の一派だったという。


                     ココも

また、駿河国入江荘楠木村(現静岡市清水区)を出自とする武士とも言う。


鎌倉幕府が1293年に楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したという記録があるうえ、
当時幕府の有力御家人だった長崎氏の出自は楠木村の隣の長崎郷で河内に領地を保有していた。
その関係で楠木氏が河内に移ったと言う。

1333年の公家の日記に「楠木の根は鎌倉に成るものを……」と言う落首が記録されていることも楠木氏が元々東国の出身だったことを意味していると言われている。

なお、現在も清水区には「楠」「長崎」の地名が残っている。(古文書には「楠木」、「楠」両方出てくる)。


            ココも

他に、秦氏の系統とする説、熊野新宮神職楠氏の系統とするとする説(『熊野年代記』)もある。


史料上はっきり記されているのは、鎌倉時代後期に楠木正成が後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵した元弘の乱において宮方に従い、幕府滅亡後に成立した建武政権に加わり、南北朝時代に南朝(吉野朝廷)方として活躍した以降である。


その後正成の子の正行、正時や、正成の弟の正季などは北朝の足利尊氏との戦いで戦死し、生き残った正成の子の正儀は南朝零落後にも有力武将として活躍し、北朝との和睦を仲介する。その後、正儀の子孫は播磨国で平木氏を名乗ったとも言われている。


なお、昭和37年(1962年)、三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、

伊賀、服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)の大成者である観阿弥で、
その母は楠木正成の姉妹であるという。

上嶋家文書の真偽をめぐって学界では意見がわかれ、概ね否定的見解が主流であったが、
後にその記載内容を裏書きする古文書が兵庫県揖保郡揖保川町新在家の豪農であった永富家

    (元楠木同族会顧問 鹿島建設株式会社会長鹿島守之助の生家)

から発見され、

この系図は江戸後期の写しであっても、古本を書写したものであることが証明された。[1]



南北朝合一以降[編集]

楠木氏の一族は殆どが南朝方についた。そのため、南朝の凋落と共に一族も没落した。南北朝合一後に後南朝の武将としても楠木正秀や楠木光正ら楠木氏一族が確認できる。北朝を擁立した足利幕府の時代に朝廷(北朝)に仇をなしたとして逆賊として扱われていた。寛正元年(1460年)3月28日に楠木氏の一族が処刑された際に東福寺の大極正易はその日記(『碧山日録』)に楠木氏は無辜の民を戮殺した積悪の報によって滅びたと記している。

ところが、『太平記』の流布によって正成に対する同情的な見方が広がった戦国時代には楠木正成の末裔と自称する楠木正虎なる人物が現れ、逆賊扱いであった楠木氏の名誉回復のために、朝廷や松永久秀に援助を求めて名誉回復に尽力した。

その結果、永禄2年(1559年)11月20日に楠木氏は正親町天皇より朝敵の赦免を受けることになった。

後に正虎は能書家として織田信長や豊臣秀吉からも重用された。

もっとも、正虎の家系は北畠氏に仕えた伊勢の国人・楠(くす)氏の末裔が河内に移住して正成の末裔を名乗ったもので、正成との血縁関係はないとも言われている[2]。

江戸時代には、慶安の変を起こした由井正雪が正虎の子という楠木正辰(楠木不伝)に軍学を学び、正辰の娘婿となった。

南朝が正統な朝廷とする史観が定着するや、楠木正成や楠木氏は忠臣の代表として賞賛され、顕彰されるようになる。

しかし、明治政府の国家権力を以てしても、楠木氏末裔を称する氏族は数多いものの、楠木氏の直系の子孫を確認する事はできなかった。

そのため、同じ南朝の忠臣でも、菊池氏や名和氏などは子孫が華族に列したが、楠木氏からは華族は生まれていない。

明治末から昭和初期の作詞家野口雨情の先祖は、正成の弟にあたる楠木正季であるという。また、地理学者・地球物理学者で南極観測隊長を3次にわたって務めた楠宏は楠木正成の子孫にあたるという。

その後、1935年(昭和10年)の大楠公600年祭時に、ついに確認された楠木氏子孫によって、湊川神社内に楠木同族会が結成されて現在に至っている。

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月13日 13時06分57秒 ) パスワード

楠氏を調べていたら熊野国造に繋がってしまいました。鈴木さんとは当然繋がります。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%9B%BD%E9%80%A0

熊野国造


熊野国造家


本姓
熊野直

家祖
大阿刀足尼

種別
神別(天孫)

出身地
熊野国

主な根拠地
熊野国
紀伊国
河内国

著名な人物
熊野広浜
橘広方
楠木正遠

支流、分家
和田氏
真砂氏


熊野国造(くまののくにのみやつこ、くまのこくそう)とは、熊野国(現在の和歌山県南部と三重県南部)を古代に支配した国造。

饒速日命の後裔で、物部氏や穂積氏とは同祖とされる。
姓(かばね)は、熊野直。


「和田氏系図」によると、子孫の一部は和田氏を称したという。



歴史[編集]

饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔、大阿刀足尼(おおあとのすくね)が成務天皇の代に熊野国造となり、その子・稲比が熊野直(くまののあたえ)の姓(かばね)を賜ったという。

『新撰姓氏録』山城(神別・天神)には熊野連〔饒速日命孫味饒田命之後也〕と見える。

「和田氏系図」によると、熊野国が紀伊国に編入されてからは牟婁郡大領、また熊野本宮禰宜の職に就き、代々本宮を奉斎したという。

さらに「和田氏系図」によると、醍醐天皇の代に牟婁郡大領(従五位下右衛門尉)熊野広方(橘広方)が橘姓に改姓(橘良殖の猶子となったか)、広方の娘は鈴木良氏に嫁いで鈴木重氏の生母となった。広方の 3代後の橘良冬(和田良冬)が和田庄司を称した。

それ以来、国造家は和田庄司(和田国造)を称して和田氏となり、神仏習合の時代に中央の後盾をえた熊野三山社僧勢力の筆頭であった熊野別当の勢力に圧されたが、子孫は土豪として紀伊国全域、河内国などに勢力を持った。



主要人物[編集]

『続日本紀』に、牟漏の采女・熊野直広浜(ひろはま)が聖武天皇の代から称徳天皇の代まで(計4代)仕えたことが見える(神護景雲3年没・従四位下)。
平安時代には、分家の真砂庄司も「真砂の長者」と呼ばれて栄えた。清姫伝説では、主人公の女は真砂の庄司清次の娘(古い伝えでは清次の妻あるいは未亡人)とされる。真砂氏(滝尻王子社領)を『太平記』などに登場する「熊野八庄司」の一つとする説もある。


南北朝時代には、河内国の和田正遠が楠木氏(伊予橘氏)の家系を継承したが、正成一族を除き、他の子息(正季、正家ら)の一族は和田氏に復している。

正季の子息・和田高家は岸和田古城を築いたことで名高く、
同じく正季の子息・和田賢秀は「歯噛様(はがみさま)」として現在もその武勇を讃えられる。


南朝方の家臣・和田正興や正武は系譜不詳。
『太平記』などは正興らを楠木氏と同族とするが、
実際は和泉国の御家人・和田(みきた・にぎた)氏(大中臣姓)の出であったとも考えられる

(婚姻関係などにより同族化した可能性はある)。


ただし、国造和田氏の流れを汲む多くの氏族(橋本氏、神宮寺氏など)が南朝方に付いて、同族の楠木氏と共に戦った。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月13日 13時12分50秒 ) パスワード

三つ柏さんのレス<8>


>五葉院は、服部中6代目保房の長男万五郎「保根」(やすもと)が仏像等を寄付したということで、何か手掛かりがあるかと期待して行ったのですが、服部中に関する情報のカケラも落ちていませんでした。


>墓は和久田一族の墓標がほとんどで、やく40位ありました。
>江戸時代には、徳川家御朱印高3石を領し、檀家は約45戸であったという。
>薬師堂があり、眼病に霊験あらたかということで、特に御開帳時には門前市ができたと書かれておりました。



和久田氏
つまりご先祖さまは和田氏で楠一族で当然南朝で

もっと前のご先祖さまは饒速日命の後裔で、物部氏や穂積氏と同祖。



結局は大昔から血と涙と地を共有してきた親戚なんでしょうね。

和久田さんも服部中の家とは古くからのお付き合いだったんでしょうね。
今はすっかり忘れているけれど。


なるほどね〜
[18]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月13日 16時03分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 驚きました。和久田氏をここまで調べていただくとは! 私も調べようと
したけれど、深く掘ることができず、表面での空回りばかりでした。

 >和久田氏の祖先は和田氏で、楠木氏の家臣であった。

 それでわかりました。大久保・神ケ谷・雄踏・・・この辺は一体的に考え
てもいい所です。雄踏の賀茂氏は楠木氏と縁戚関係になっております。
 即ち、和久田氏も含めて、雄踏近辺は南朝系の「たまり場」(言葉は悪いが)
であったと推察いたします。水運よし、防御よし、北へ向かえば井伊谷へ行
けます。舟で行けば自由自在に好きな所へ向かえます。熊野・伊勢との関係
も水運です。大久保と刑部間も水運です。うまくいけば、1/5の時間で着く
でしょう。山道ばかり考えていましたが、想像以上に舟が使われてと推察い
たします。この辺を探究いたします。

 jobのため、とりあえずこれにて―
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月13日 22時28分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

>大久保・神ケ谷・雄踏・・・この辺は一体的に考えてもいい所です。
>雄踏の賀茂氏は楠木氏と縁戚関係になっております。
>即ち、和久田氏も含めて、雄踏近辺は南朝系の「たまり場」

>想像以上に舟が使われていたと推察いたします。



背筋がゾクゾクしました。


刎頸の間柄だったのでしょうね。
「死ぬ時は一緒」
血と涙を共有した仲。


きっと  40基のお墓の和久田氏達は  喜んでいると思います。



>和久田 静岡県浜松市西区大久保町が本拠。
>同地に江戸時代にあった。

「大久保」がモロに出てて驚きました。 
何か理由があったのでしょうね。


こういう「発掘作業」は楽しいですね。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月14日 07時13分59秒 ) パスワード

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1200/WJJS24U/2213005100/?Word=%e5%a4%a7%e4%b9%85%e4%bf%9d)%e6%9d%91&Relation=AND&TypPttrn=BODY&SelectPage=1&BfrDispId=WJJS06U


『浜松市文化遺産デジタルアーカイブ』

これに大久保と和久田と服部と松平が書かれているかも知れません。


浜松市史
第4章

新田宝永6大久保村(大窪村)
【北嶋村安間新田大久保村】また、浜松地方の検地帳としては慶長十六年
要職にたずさわり、服部氏は知行地の大窪(大久保)村(当市大久保町)に、松平氏
は志都呂村にそ


第5章
尾野村・宮口村・白羽村・半田村・木船村・大久保村などとの紛争が起こっている。ことに安政六年


服部主殿領 大久保村山崎村伊左地村     ←   服部主澱領?


【滝沢川名村山論】たとえば大久保村(当市大久保町)と宇布見村(浜名郡雄踏町)


第7章
鵠中寛政6年9月 大久保村和久田吉宏 28女・二人文化11


五千五百石余の松平氏(五井弘之助忠庸)、
大久保村(当市大久保町)に陣屋をもつ三千五十石の服       服部?


近代編  第2章
竹村太郎(入野村、現浜松市)・馬渕金吾(大久保村、現浜松市)・高須平六郎(新居宿、現浜名郡

                     馬淵さん




こんな感じ
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月14日 07時18分04秒 ) パスワード

http://www7a.biglobe.ne.jp/~noji/sawaki.html

  第二次大戦における日本の電探兵器による防空作戦の実態
       
       〜澤木修一氏の聞き取りから〜



澤木修一氏(1921〜)は私(野島恭一)の大叔父に当たります。第二次世界大戦末期、陸軍将校として電探兵器(レーダー)の部隊に所属していました。2004(平成16)年に聞き取りをした際、自分の軍歴をまとめてくれましたのでここに掲載します。



 澤木氏の聞き取りのきっかけは「浜松 大久保空襲」聞き取りの過程で、なぜこんな田舎が艦載機でねらい打ちに様な空襲を受けたのかという疑問を持ったことがあります。今回の聞き取りでその疑問が解けました。


警戒機乙から発信される電波を米軍は傍受し、その方向に進めば日本本土の目的地に難なく到着できます。日本軍のレーダーはアメリカ軍にとっても利用価値があったのでした。大久保がねらわれたのは、アメリカ軍の気まぐれではなく、大久保町西の平・雄踏町田端にあった日本のレーダー基地を攻撃するためだと思われます。この事情は殆ど知られていないのではないかと思います。

電探部隊は編成が新しく戦友会も存在しないとのことです。本土決戦期の貴重な証言ではないかと考えています。



私の経験した電波探知機(電探)澤木修一

 太平洋戦争(第2次大戦)の中頃(18年頃)から雄踏町宇布見(現在田端町営住宅)付近に陸軍の電波探知機の基地がありました。電探は大戦勃発時に日本軍はフィリッピンのマニラに侵攻、米軍の使用していたレーダーを参考にして日本で製作したと言われています。


  日本陸軍が実戦配備したのは18年頃からと思います。電探には当時次のような種類がありました。


 ○警戒機 甲 A点(たとえば水窪)からB点(例えば雄踏)に向かって常時電波を発信する。もし、A・B線上を  航空機が横断通過すれば受信所Bで発生する唸音で通過を探知する。内陸地では縦横にこの警戒線を設置  してあった。 (以下説明及び図は澤木氏本人による警戒機甲の説明)



 ○警戒機 乙 基地送信機から要警戒方向に60°〜90°位電波を発信する。航空機がその中に入れば電波  が反射して返ってくる。それを受信機で受信して方向距離を探知する。(方位は直北0°直南 180°)
  内陸地では山などの固定反射が妨害して実用にならず、海岸付近に設置して海上300kmまでの警戒に当た  った。 警戒機乙の説明


 ○標定機  対空射撃用として高射砲部隊で使用、移動可。20km程度以内、目標物の方位、仰角距離を測定  して砲手に伝達する。

□警戒機基地の配置 18年夏頃から20年2月まで
 中部軍(大阪)防空情報連隊(中部7437部隊・本部大阪)警戒隊
 浜隊(雄踏・中隊本部)
               ┬─浜松小隊(基地 雄踏)
               ├─御前崎小隊(基地 地頭方)
               └─水窪 甲受信分隊
 波隊(波切・ 〃  )
               ┬─多度小隊(基地 多度山)
               ├─波切小隊(基地 波切)
               └─小牧小隊(基地 小牧山)
 潮隊(潮岬・ 〃  )
               ┬─潮岬小隊(基地 潮岬)
               ├─田辺小隊(基地 白浜) 
               └─木の本小隊
 岬隊(観音寺・ 〃 )
               ┬─室戸岬
               └─足摺岬


 各基地・小隊の編成は
 指揮官1 各分隊の情報
 送信分隊1
 受信分隊3・4
 監視分隊1 可視範囲内 双眼鏡で監視する
 通信分隊1 指揮室勤務で刻々の情報を有線無線により軍司令部作戦室に報告する


 (澤木氏本人による警戒機乙配置図・索敵範囲:東海・関西地区太平洋側:1944年)


□軍司令部作戦室での我々情報隊員の業務

各基地からの有線無線の情報を受信(女子通信隊員・軍属・20歳前後で高専・高女卒 50人ほど) 時刻(○時○分)目標について 2〜3分ごとに位置(基地からの方位距離)等、隣接基地からの 情報を確認して大地図番(数メートル四方)に表示する。目標は刻々移動するので現時点での位置 ・速度・推定高度・推定機数・進行方向・各地到着予定時刻等を参謀に報告する。


これにより司令部は警報(警戒・空襲)の発令・解除のラジオ放送、応戦体勢、味方機の発信、対空砲の発射準備その他防空体制を指示命令する。


□20年2月
全軍の編成が変わり(陸軍)
中部地方以東 東部総軍 東京 司令官 杉山元 元帥
近畿以西   西部総軍 広島  〃  畑俊六  〃
名古屋には第13方面軍(東海軍)がおかれる。(管下東海北陸)
  情報連隊は航空総軍の隷下におかれ、航空情報連隊となったが名古屋は連隊編成できず当分大阪からの派  遣隊


□20年6月
  名古屋(東海軍)に航空情報連隊編成、部隊長以下要員の多くは宮崎県都城から移動してくる。大阪から派   遣隊は新連隊に編入。連隊本部は三重県多度村小学校、宿舎は村内の寺院等に分散。
  配下部隊は浜隊 波隊 小牧(隊名未定 蒲郡幡豆町に基地新設予定) 大聖寺(福井県 隊名未定、海岸   近く及び能登半島富木に基地新設予定)
  しかし新基地の新設も計画段階、要員の配置もできぬまま8月15日を迎える


澤木修一氏軍歴

1941.12.8太平洋戦争勃発

1942 昭和17
 4月浜松高等工業在学中徴兵検査 甲種合格 4.18 B17数機による本土初空襲
 6月右肋膜炎発病
 9月20日 高等工業通信科卒業 日本無線(株)就職 研究部配属
10月 1日 現役兵として名古屋中部第2部隊(歩兵連隊)へ入隊
    6日 通信教育隊へ
   11日 肋膜炎重症で陸軍病院に入院(担当軍医浜松市中島町出身)

1943 昭和18
 1月 入院中幹部候補生試験合格
 3月31日退院原隊復帰 モールス信号の送受信暗号の解読等全然できず大変苦労する
 6月頃 名古屋師団に動員下令
  第43師団編成される(師団長中将賀陽宮殿下)
  通信教育隊は師団通信隊(中部第12部隊)となる

1944 昭和19
 1月10頃中部軍(静岡県〜兵庫県)管内で兵科階級を問わず大学あるいは高専の電気科または通信科を卒業   したもの30名、指名されて特殊兵器教育のため東部軍へ派遣される。南武線溝の口にある歩兵連隊(東部   62部隊)を宿舎として小生を含む15人は日本電気(NEC)で警戒機を、他の15名は東芝で標定機をいずれ   も工場の技師から理論・構造・組み立て実習・操作等教育を受けた。

 3月31日教育終了それぞれ原隊復帰
 4月1日 命令 現役満期除隊 任陸軍軍曹 将校適任証授与 即日招集  
   6日大阪防空情報連隊(中部7347部隊)へ配属
   (その後まもなく名古屋43師団はサイパン島へ出発 7月殆ど全滅)
   10日潮岬中隊へ転属
   14日田辺小隊(白浜)へ転属 送信分隊長
 6月頃以後約三ヶ月 1期検閲の済んだ初年兵50人に電探教育に当たる

 9月頃               〃 下士官候補10人  〃
 12月頃              〃二ヶ月 下士官50人(18.12.1入営の学徒が殆ど)いずれも電波探知機専門の教   育に当たる


1945 昭和20
  2月硫黄島全滅 本土空襲ますます激しく
  2月8日 名古屋派遣隊へ転じ東部情報班編入 東海軍司令部作戦室で航空情報任務に就く
  5月14日 名古屋大空襲により宿舎にしていた野砲連隊の兵舎が焼失、三重県多度村の小学校宿舎となる。       本部情報班勤務から指揮班勤務となる

  6月 情報連隊編成
  7月米艦隊 太平洋岸に接近 航空母艦から発進する小型機による低空空襲 艦艇からの艦砲射撃(浜松7・     29など)
  7月下士官兵約60名の小隊長を命ぜられ村内の寺院を仮宿舎として新設予定基地(幡豆町)への進駐待機
  8月10日幡豆町現地調査 8/17進駐と打ち合わせて帰隊
    15日終戦

    16日部隊長から警備隊長を命ぜられ部下隊員に小銃実弾を持たせ昼夜村内の警備に当たる。脱走・略        奪・暴行・盗難等の防止のため 。 17日予定の幡豆町進駐は取りやめ

  9月2日復員・帰郷     
                    浜松小隊配置図(澤木氏本人よる)

 この配置図の送信基地(大久保西の平南端)を西方向からかすめるようにグラマンが飛来し、基地の小屋の屋根を銃撃で吹き飛ばして東方向に去っている。ただし送信アンテナには攻撃を加えていない。(野島による大久保町和久田氏の聞き取りから・・・別掲の予定)

[22]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月14日 08時11分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 すごい情報ありがとうございます。浜松市史に載っていましたか。こういう
情報をいつも探しているのですが、なかなか出合わない宝物です。

 本日はoffなので古本屋に久しぶりに資料探しに行こうかと思っています。
 昨日は、久しぶりに『服部半蔵と影の一族』(橋場日月)を改めて読み直し
ました。1年前と違って色々な関係がわかるようになりました。理解度が
全然違ってきました。これが1年の成果であろうと改めて認識した次第です。
明後日か2才の誕生日になります。
 その本の中で、服部中保次に関する情報がかなり含まれており、やはり普通
の武将でなく、何十人もの同心(伊賀者=忍者部隊)の隊長(上忍)であったこと
がわかります。いわば「忍者部隊月光」の隊長・・・名前は忘れましたが、
昔テレビ番組がありまして大好きでした。古本マンガでもありますが、高いの
で買えません。

 本日、これからちょっと出かけますので、帰ってから合わせてゆっくり記し
ます。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月14日 09時15分07秒 ) パスワード

「忍者部隊月光」

ちょうど、その頃は、父がわたくしに「勉強もせずにテレビばっかり見てる」ということで
テレビの真空管を抜いていたので  音声はなんとか聞こえても  画面が映らなかったのです。


それでも不肖のわたくしは画面に顔を近づけてなんとか見ようとしていました。
そこまで、どーしよーもないアホ娘でした。



今日は「穴山梅雪が死んだ場所は宇治田原越えで」というのを読みました。P229

    ヲイヲイ
    貞信が絡んでいるのでは?
    とゾクゾクしましたが

    さてさて。


その後、家康の謀殺だったろう、と話が展開してて
鹿伏兎山越えで切腹?




    宇治田原では貞信が疑われるからでしょうか?

    この人物はなかなか食えない人だと思って来たので
    ヲ〜
    当たったか!
    と小躍りしましたが   真相はいかに?



『浜松市文化遺産デジタルアーカイブ』 
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1500/WJJS19U/2213005100
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2213005100

徳川家康と三方原の合戦 絵図 災害の記録 賀茂真淵と遠江国学 地誌・古記録 浜松の明治以降の資料 浮世絵




浜松市史 一

本文閲覧 ・キーワード検索 ・年表検索



浜松市史 ニ

本文閲覧 ・キーワード検索 ・年表検索



浜松市史 三

本文閲覧 ・キーワード検索 ・年表検索



浜松市史 四



浜松市史 五



史資料

キーワード検索



こんな感じです。    『浜松市文化遺産デジタルアーカイブ』 で検索なさってください。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月14日 12時53分13秒 ) パスワード

服部貞信について

http://www.m-network.com/sengoku/ieyasu/sonenji.html

ここ読めますか?



こういう事が書かれているようですが

河内津田〜尊延寺 - M-NETWORK

この服部貞信という人物は『寛政重修諸家譜』によると、伊賀平左衛門家長の末孫すなわち遠縁ではあるが服部半蔵と同族で通称左兵衛、もと伊賀国阿拜(あへ)郡服部村に ...



文字化けして読めません:
š‰Í“à’Óc`‘¸‰„Ž›š
(‘åã•{–‡•ûŽs’Óc`‘¸‰„Ž›)
こんな感じ・・・
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月14日 12時59分32秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/the_traveler_of_wind/setagaya/maturi/a3_kitasawa/21_akatu.htm


抜粋

  赤堤が歴史的に登場するようになるのは吉良氏が世田谷城を築いてからです。

世田谷城の北に位置するこの土地には赤堤砦が築かれたといわれています。
砦の場所は六所神社だったとか、赤堤山善性寺だったとか言われていますが、はっきりと分かっていません。

平城だった世田谷城の北側は北沢川付近まで竹林などを設置して防御を固めていたと言われているので、
北沢川の向こう側にあたるこの砦は防御的にはあまり機能しなく、
見張り台的な小さな砦だったと思われます。



                              ココから

吉良氏が世田谷から去った後、関東は徳川家康の支配下となり、
天正十九年(1591年)頃に赤堤は家康配下の服部貞信所領の旗本領となります。

この服部氏は服部半蔵に連なる一族になるようです。
天正10年(1582)の本能寺の変の際に、堺で窮地に陥っていた徳川家康を服部半蔵が護衛して伊賀越えを行って
無事に本拠地の三河へたどり着いていますが、
服部貞信もこの伊賀越えに手勢を率いて家康の案内を務めました。

その功により旗本に登用され、家康の関東入りに従って赤堤村などを所領する事となりました。


その後元禄10年(1697年)に服部氏は領地替えになり、以後赤堤は幕府の天領となります。


                         へえ〜


  赤堤村の村社は六所神社でした。

由緒書きによると「天正12年(1584年)12月、平貞盛の数世の孫、
服部貞殷が府中の六所宮(現大国魂神社)を勧請して赤堤の総鎮守と定め、
服部家の祈願所として奉斎したのが創祀です。」とあります。


ただこれには幾つか疑問があります。
まず服部貞殷というのは何者であるのか。
平貞盛の数世の孫とあるけど、平貞盛が他界したのが989年と言われているので、
死後600年も経っていてはあまり説得力がありません。


服部貞信の家系で見ると5代目領主に貞殷の名がありますが、
天正12年では影も形もありません。

それに天正12年という年号にしても、その頃はまだ世田谷城の吉良氏も勢力として存在していて、
世田谷城の目と鼻の先に神社を建てる余裕などないし、
第一服部氏は家康と共に関東にやってきています。


といった事から少しこの由緒には疑問があります。
ちなみに天正12年12月といえば、後に六所神社を別当に持ち、
服部氏の菩提寺となる西福寺が開基した年でもあります。

どこかで混同してしまったのかもしれません。



勝手な推測ですが、恐らく天正19年(1591年)以降に旗本である服部貞信が勧請、
或いは別の場所から移動してきて服部家の祈願所とし、
それが地元の人々の信仰対象となっていき、村の鎮守となっていったのではないでしょうか。


  現在の六所神社は約1,000uの社叢林があり、うっそうとした鎮守の森の雰囲気が感じられる神社となっています。敷地の東側、かつては神社の入り口が東側にあったそうですが、今では赤堤幼稚園があり、平日は元気な子供達の遊び場になっているはずです。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月14日 13時08分01秒 ) パスワード

http://www.berrys-cafe.jp/pc/reader/page.htm?pageId=4018158
馬上の姫君



 五郎八らが指定されたお出迎えの場所に行って家康の一行を待ち受けていると、宇治田原城主山口光弘配下の侍新末景と市野辺出雲の二人が馬を跳ばしてやって来た。
 後には市野辺村よりかり出された郷民六、七十人が続いている。二人は浅瀬を探して馬を乗り入れ対岸の飯岡に上がろうとしたが、折からの増水で渡ることができない。
「二郎様、われらは対岸に渡って待つことにいたしましよう」
 周辺の通行を仕切る掃部丞らは渡し場の持ち舟を自由に使い渡っていく。対岸の渡しでは、連絡を受けた飯岡の郷士小山政清が渡河用の柴舟二艘を準備していた。
 飯岡の岸に上がると、服部左兵衛貞信が数人の縁者を引き連れて、徳川の一行を待ち受けていた。この男はもと伊賀阿拝郡の呉服明神の神官で最近、宇治田原山田に移り住んだ者である。
しばらくすると大和の十市玄蕃允も手勢をつれて馳せ参じた。待つこと半刻、普賢寺川に沿って四十騎ほどの一団が姿を表した。
「三河殿がおいでになった。粗相があってはならぬぞ」
 遅れて渡河した山口配下の侍たちが集まった人々を制して、警護の態勢を取った。
 到着した一行の中から長谷川秀一と本多忠勝がやって来た。
「郷の口の山口城まで郷導頼み入る。よしなに願いたい」
掃部丞に丁重に依頼した二人が本隊に戻っていくと、服部正成が柘植三之丞清広と又市のところにやって来て、
「今から荒療治を行う。そなたも御主君のために力を貸してくれ」
と言ってきた。




又市は今でこそ宇治郷に移り住んでいるが、彼は二十二歳になった元亀二年(一五七一)から徳川家康に仕え、三河土呂郷(現岡崎市)で百石の采地を与えられて製茶技術を指導していた。
葉茶の栽培は米作よりも手の掛からぬものである。従って、一年の大半が農閑期に等しく、この間は服部正成らと各地の情報を収集して家康のもとに運んでいた。そのような関係で正成とは知己の間柄であるが、もう一人の方を知らない。
それを察して正成が事情を説いた。
「柘植三之丞じゃ。昨年の伊賀攻めの時、国を脱して三河に参った。…実はな、又市、後を、穴山梅雪の一行がやって来る。十四人じゃ。ここで始末したい。十人程腕の立つものを出してくれぬか」 それを聞いていた高定が言う。
「殺(や)ろう、又市」
「殺ってもいいが…十人では、分が悪い…」
 高定の意を受けた又市が正成に言った。
「あそこに控える服部貞信の手勢も加わる。勿論、わしらもやる」
「ならば殺ろう…」
 又市が父五郎八の姿を目で追うと、徳川の行列について掃部丞と渡し場の方へ行っている。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月14日 13時11分40秒 ) パスワード

山口 宗永(やまぐち そうえい、天文14年(1545年) - 慶長5年8月3日(1600年9月10日))



戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。

山口光広の子。加賀大聖寺城主、山城宇治田原城主、近江大石淀城主。

通称は玄蕃允、玄蕃頭。「宗永」は入道号。実名は正弘。子に修弘、弘定、女子(池田重利室)。



生涯

天文14年(1545年)、山口光広(甚介)の子として誕生。

豊臣秀吉に仕え、文禄2年(1593年)、大友義統の改易に伴い豊後国に入り太閤検地を実施する。慶長2年(1597年)、小早川氏を継いだ秀吉の甥・小早川秀秋の補佐するため豊臣政権から付家老として送り込まれ、小早川領にて検地を行ったり、慶長の役では朝鮮に渡って秀秋を補佐した。特に蔚山城の戦いでは小早川勢を率いて加藤清正らの籠城する蔚山倭城を救援したという。しかし、秀秋とは折り合いが悪く、秀秋が慶長3年(1598年)に筑前名島城から越前北ノ庄城へ転封されると、加賀大聖寺城の独立大名に取り立てられた。その後、秀秋の転封は取り消され旧領に戻ったが、宗永は加賀に留まった。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、宗永は石田三成の西軍に与した。7月26日に東軍の加賀金沢の前田利長は約2万の大軍を率いて金沢城を出撃し、西軍の丹羽長重の拠る小松城を攻撃するかに見えたが、急遽これを避けて8月1日に加賀松山城に入城した。宗永はその危急を聞いて大聖寺城の防備を堅め、北ノ庄城の青木一矩や小松城の丹羽長重に救援依頼の使者を出したが間に合わなかった。翌2日、利長は九里九郎兵衛・村井久左衛門を使者として宗永に降伏を勧告したが、宗永は憤激しこれを拒否した。

前田勢は数を嵩にきて城攻めを行った。守る山口軍も宗永の嫡男・修弘が城近くに兵を潜ませて迎撃の指揮をとったが、前田勢の先鋒山崎長徳に発見され敗北、山口勢は敗残兵を収容しただちに篭城戦の構えをとった。前田勢も先鋒の山崎隊に加えて長連龍隊などの後続の軍勢も参戦して城の外周で激戦が展開された。修弘は果敢に出撃してしたたかに前田勢に被害を与えたが、前田勢の鉄砲隊の一斉射撃を受けて、やむなく城内に退却する。大軍の前田勢はひた押しに押し進むが、宗永父子が率いる山口勢もひるまず果敢に反撃した。しかし、2万の大軍の前に僅か500余の兵しかいない山口勢では敵うはずもなく、ついに宗永は塀の上から降伏の意思を伝えた。ところが、多くの兵を失った前田勢は復讐心に燃えてこれを許さず、城内に突入した。


8月3日の夕方、大聖寺城は陥落、宗永・修弘父子は自害した。宗永と修弘の墓は石川県加賀市大聖寺神明町にある全昌寺にある。次男の弘定は、大坂の陣において豊臣方に与して戦死した。



系譜・子孫

子孫は松江藩に仕えた。明治維新後には、日銀の理事となる山口宗義、明治を代表する建築家である山口半六、物理学者で京都帝国大学教授、学習院院長を務めた山口鋭之助、太平洋戦争においてミッドウェー海戦で第二航空戦隊を指揮して戦死した海軍中将山口多聞(宗義の子)、レーシングドライバーの山口礼(宗義の玄孫)などを輩出している。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月14日 13時14分46秒 ) パスワード

https://books.google.com/books?id=FQzkAAAAQBAJ&pg=PT108&lpg=PT108&dq=%E5%AE%87%E6%B2%BB%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E4%B8%BB+%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%85%89%E5%BC%98+%E3%81%AF&source=bl&ots=4WmsqYIVo3&sig=8OBaGLrC0VIbvXLAp252RefeIOo&hl=en&sa=X&ei=25IsVbxhx4mhBNC5gbAO&ved=0CCcQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E5%AE%87%E6%B2%BB%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E4%B8%BB%20%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%85%89%E5%BC%98%20%E3%81%AF&f=false


ここには服部半蔵の父  美濃平蔵  が出てます。
美濃平蔵?
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月14日 13時18分33秒 ) パスワード

http://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=442


伊賀越え


伊賀越え

いがごえ



明智光秀の反逆のあと、徳川家康による命がけの脱出

徳川家康はその生涯で四度の大難に遭ったと心の中の思いをのべていますが、中でも「伊賀越えの難」は「御生涯艱難の第一」と徳川実紀に記しています。

戦国の風雲児・織田信長が明智光秀の反逆によって生害という知らせを家康が受けたとき、境見物の帰路、河内の飯盛山の麓(大阪府大東市)でした。この時の共は酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、服部半蔵など重臣ばかりであったが、三十数名に過ぎず、その上、平服だったのです。

家康は「本来なら明智を討伐すべきだが、この少人数ではどうしょうもない。むしろ知恩院にて切腹を」と言ったが「本国に帰りの軍勢をととのえて、明智を誅伐することこそ信長公への報恩」という本多忠勝の進言により、脱出の方途の相談となりました。


                 この土地感覚が無かったです。

信長より案内役として同行していた長谷川秀一の先導により、おそらくは河内尊延(円)寺(大阪府枚方市)から宇津木越えから、山城に入り草内から木津川を渡って宇治田原を経て近江信楽。その後小川から多羅尾、御斎峠、伊賀丸柱にいたり鹿伏兎を越えて伊勢にぬけ、船で三河へ帰国したいと考えられます。

伊賀に入るまでの難関を命がけで護衛したのが、大和の十市玄蕃允、呉服部明神の神官服部貞信、信楽の豪族多羅尾光俊、宇治田原の山口光広、近江瀬田の城主山岡景隆と弟の景友(後の道阿弥)らです。

反乱には付き物の野伏や一揆などにさいなまれはしましたが、無事伊賀に入り、その後は柘植三之丞など甲賀・伊賀の地侍が伊勢白子浜(鈴鹿市)まで案内したと言うことです。この事跡を後世、神君伊賀越えなどと呼んでいます。

家康は、この時の甲賀・伊賀者二百名を召し抱え、服部半蔵正成をその組頭としました。これが伊賀組同心の起こりです。

参考文献「徳川実紀」「伊賀者由緒」「三河後風土記」

[30]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月15日 00時03分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日の収穫は、古本屋・古物商で見つけた松島十個の手紙。これを購入して
きました。いわゆる古文書。6割がたわからない。古文書の解読の第一歩と
したいと思っています。解読できましたらお知らせいたします。

 それから平家落人伝説として、京丸牡丹で有名な京丸の里と呼ばれている里
について本屋の御主人と話をしました。森町の友田家、水窪にも落人が隠れ住
んだようです。落人狩りは熾烈だったようで、証拠を残さないようにすべてを
消し去って暮らしていたようです。南朝の落人もあるということでまぎらわし
い限りであります。その他の落人も集まった・・・即ち一応東国・・・東のは
ずれであったからか。

 午後からは高薗(御厨)の覚園寺へ行ってまいりました。目的は長谷川氏の
ルーツ探しです。墓地には長谷川氏と小杉氏の墓がたくさん並んでおりまし
た。
 長谷川氏はここの大庄屋であったようですが、それ以前のルーツが知りたい
と思っております。長谷川平蔵の長谷川家と通じているのかどうかが・・・。

 
 
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 02時50分10秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%B0%8F

長谷川(はせがわ、はせかわ)氏


日本の氏族。いくつかの流れがある。

1.大和国(奈良県)十市郡耳成村大字十市の十市御縣坐神社一帯を本拠地にした十市県主の裔で中原氏。中臣姓。

2.大和国式上郡初瀬を発祥地とする在原氏系の家系。法貴寺荘(大和国十市郡田原本町法貴寺)を根拠地としたとみられ、大和国人である十市氏を盟主とする武士団・長谷川党を形成していた。


                大和の長谷川氏は  秦氏系  ですって。

 世阿弥の女婿である能楽の金春流・金春禅竹が『明宿集』の中で「秦河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。」と記している。

 また、長谷川党は薩摩国の島津氏の系譜と密接な関係がある。



                    長谷川平蔵系はこちら 藤原秀郷系   
                              ↓
3.下野国(栃木県)の藤原秀郷系の家系。
 美濃長谷川藩、後の江戸時代の旗本である長谷川宣以(平蔵)の家系が祖とする。



          藤原秀郷系 長谷川氏

中臣鎌足の流れを汲む藤原秀郷を祖とした一族で、尾藤氏流と下河辺氏流の2つがある。

『系図研究の基礎知識』(近藤安太郎著)によると、藤原秀郷流の主要五氏(他は青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏)の一つとある。


尾藤氏流 佐藤氏の分家・尾藤氏のさらに庶流にあたる。

佐藤公清の庶子・公澄の4世孫・知宗(兄・知広が尾藤氏を名乗る)の末裔で、22代後の宗茂が長谷川氏を名乗ったという。

宗茂の曾孫が長谷川宗仁で、宗仁の子・守知は一時美濃長谷川藩を立てている。

この系統は守知の息子のとき分割相続により旗本となったが、本家は無嗣断絶し分家が存続した。


下河辺氏流 小山氏の一族たる下河辺氏を出自とする地方豪族。下河辺氏の祖たる下河辺政義の子・小川政平の末裔である。

政平の子孫・政宣が大和国長谷川に住んだため、長谷川氏を名乗ったという。



長谷川政宣の系統は駿河国小川郷(現・静岡県焼津市)に拠り、小川法永長者と称されたとされる。

この長者の子孫が今川氏に仕えた。
その後正長の時、君主今川義元が桶狭間の戦いで討死したため没落、
再度徳川家康に召抱えられるも三方ヶ原の戦いで討死した。



長谷川正長には正成・宣次・正吉の3子があり、

A)
正成系は1750石(のち分割相続により減り1450石)で江戸時代を存続した。

B)
宣次系は400石で続いた。                    長谷川平蔵の家
この家系から長谷川宣以(平蔵)が出ている。

長谷川平蔵の父   長谷川 宣雄(はせがわ のぶお)
   
従兄・長谷川宣尹の末期養子となり、延享5年(1748年)1月10日に宣尹が死去したため、同年4月3日に遺跡を継いだ。改元後の寛延元年(1748年)閏10月9日に西城御書院番、宝暦8年(1758年)9月15日に小十人頭となった。同年12月18日、布衣の着用を許された。明和2年(1765年)4月11日に御先手弓頭、明和8年(1771年)10月17日に火付盗賊改加役に就任。

明和9年(1772年)2月29日に発生した明和の大火では、犯人の真秀を捕らえ、火刑に処した。この功績が評価され、安永元年(1772年)10月15日に京都西町奉行に転任[1]、同年11月15日に従五位下備中守に叙任される。安永2年(1773年)6月22日、奉行在任中に京都で死去。享年55。

    それで父のお墓は京都。


ということは長谷川平蔵の家はもともとは駿河国の焼津の小川郷の人ですか。
今川に仕えていたものの今川が没落して家康に仕えて三方が原で戦死。


    主君の馬前で討ち死にをするということは子孫が安泰になるということなので
    そういう経緯だったのですか。

    服部家との関係もちょっと見えましたね。


       きっと長谷川家と服部家は家康の今川方時代に御縁があったのですよ。




C)
正吉系は4070石(一時500石を加増されたが分割相続により減った)で幕末に至った。




その他の長谷川氏


4.摂津国(大阪府)の清和源氏系の家系。今川義元に仕えた長谷川長久、その子長谷川長綱の家系が祖とする。

5.越中国(富山県)の藤原利仁系の家系。

6.美濃国(岐阜県)の橘氏系の家系。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 02時58分32秒 ) パスワード

http://blogs.yahoo.co.jp/yosihei8jp/63451401.html


小杉氏のハナシ               松下家ともお知り合い?



小杉翁頌徳碑

君名は慶次郎( けいじろう)、小杉氏。
慶応2年遠江国長上 ( ながかみ )郡橋爪 ( はしづめ )村に生る。
幼にして慧 ( けい )敏 ( びん )群を抜く。

明治12年僅 ( わず )か14歳、擢 ( ぬき )んでられて村校の授業生(補助教員)となり、
勤務の余、山本弩 ( ゆみ )雄 ( お )に師事して研学益々力 ( つと )む。
夙 ( つと )に敬神の心篤く、17歳の時単身徒歩して皇大神宮(伊勢神宮)を始め諸国の霊場を順拝す。


 20年家業を継ぎて藍染に従事し、且つ藍( あい)玉 ( だま )の製造を営み駿遠各地に行商し、又、横浜の外国商館と取引して印度藍、人造藍の販売をなせり。

37年業を織物製造に改め、吸入ガス機関豊田式小幅 ( こはば )力織機60台を備え、
日夜研究を怠らず、意匠組織共に異彩を放ち、盛名遠く東西の市場に喧伝 ( けんでん )せらる。


39年指定染色工場の必要を同業組合に建議し、率先( そっせん)西遠染色株式会社を設立して、硫化紺染を開始し、広く化学応用の範を示せり。40年斯界の趨向(趨勢)を洞察して大幅力織機50台を増設し、輸出織物発展の先駆をなせり。



君家業の傍( かたわ)ら又よく同業者の誘掖 ( ゆうえき )(支援)に尽力し、遠江織物同業組合副組長、遠州輸出織物工業組合永久社常務理事等の要職に選任せられ、西遠織物界の枢機 ( すうき )(中枢)に参与すること実に30有余年の久しきに及べり。此の間、昭和2年には朝鮮・満洲・支那を視察して輸出織物斡旋 ( あっせん )所を神戸市に設置するの急務を説き、自ら所長となり刻苦10年万難を排して事業の基礎を確立し、8年には遠く蘭領東印度(インドネシア)、馬来半島(マレーシア)に旅行して具 ( つぶさ )に外国市場の実状を調査し、帰朝後サロン部長に推されてその躍進に寄与する等、西遠織物業の興隆発展に貢献する所、実に枚挙 ( まいきょ )に遑 ( いとま )あらず。


君又多年地方公共の事業に尽力し、或は村会議員として力を村治につくし、或は資を献じて郵便局を設立し、且つ特設電話の開通を請願して通信事業の完備に力( つと)むる等、その功績甚だ多し。積志村長、静岡県知事、賞勲局総裁等、記念品を贈りてその功労を表彰せられしこと、洵 ( まこと )に故 ( ゆえ )ありと謂うべし。


君今や齢( よわい)古稀に達し尚矍鑠 ( かくしゃく )として壮者を凌 ( しの )ぐの概 ( がい )あり。現に中郡報徳社長その他多数会社組合の重役又は顧問を兼ね、孜々 ( しし )として曽 ( かつ )て倦 ( う )む所を知らず。洵に当世の偉人にして、実業界の先駆者と謂うべし、頃者嘗 ( かつ )て君の知遇 ( ちぐう )を受けたる者等相謀 ( あいはか )り資を醵 ( きょ )して碑を建て、稀 ( き )壽 ( じゅ )の記念となし、永く君の功業を不朽に伝うと云う。


昭和12年5月
経済学博士・大蔵政務次官 太田正孝題額

静岡県立浜松工業学校校長・同浜松工業試験場長

 従五位 勲五等 山本又六撰文

中島勇 書  松下忠吉 刻                   松下氏のお名前が



(解読監修)

 高木桂蔵静岡県立大学名誉教授・国際ことば学院外国語専門学校校長 

丸九小杉家提供の高木桂蔵氏解読監修の碑文を元に、年の漢数字をアラビア数字に変え、読みやすくするために適宜改行し、ふり仮名をつけた。

原文は縦書き。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 03時07分14秒 ) パスワード

武田方の信玄の近習だった小杉氏の活躍


     二俣城の戦い(あるいは三方ヶ原の戦い)の前哨戦。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%A8%80%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


一言坂の戦い(ひとことざかのたたかい)は、元亀3年(1572年)10月13日に遠江国二俣城をめぐり、武田信玄と徳川家康の間で行われた戦い。家康の退却戦である。

信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、二俣城の戦い(あるいはそれを含めて三方ヶ原の戦い)の前哨戦である。



一言坂戦跡
(静岡県磐田市一言)

戦争:戦国時代 (日本)
年月日:元亀3年10月(1572年10月)
場所:一言坂
結果:武田軍の圧勝




山県昌景
馬場信春
小杉左近

   vs

本多忠勝
内藤信成
大久保忠



元亀3年(1572年)、武田信玄は信長包囲網に応える形で西上作戦を発動する。信玄は軍を3つに分け、山県昌景率いる5,000の兵を三河へ、秋山虎繁(信友)率いる伊那衆を美濃へと先行させる。そして10月10日には、自ら率いる本隊3万(北条氏政からの援軍も含む)を信濃の青崩峠から徳川領の遠江へと侵攻させた。

本隊の侵攻が始まると、北遠江の有力国人だった天野景貫は即座に信玄に寝返り、居城・犬居城を明け渡して侵攻の先導役を務める。犬居城で信玄は馬場信春に5,000の兵を預けて西の只来城に向かわせ、そのまま南進して要所・二俣城へ向かった。一方、山県隊は、すでに降伏していた奥三河の山家三方衆を加えて、遠江へ転進し信玄本隊との合流を図っていた。

二俣城は、徳川氏の本城・浜松城と支城・掛川城、高天神城を結ぶ要所で、徳川氏にとって遠江支配の要であった。しかし、家康は三河国への対処などもあって、防衛には8,000人余しか動員できず、さらに盟友の織田氏からの援軍も望めない状況にあった。それでも天竜川を渡らせたくない家康は、本多忠勝・内藤信成を偵察に先行させ、自身も3,000の軍勢を率いて出陣し、天竜川を渡河した。

しかし、この時、武田軍は家康の予想よりも遥かに早く進軍していた。

一言坂の戦い[編集]

先行していた本多・内藤率いる偵察隊は武田の先発隊と遭遇する。偵察隊は刃を交えずすぐに退却するも、武田軍は素早い動きで徳川軍を追撃し始め、太田川の支流・三箇野川や一言坂で戦いが始まる。

徳川軍の望まぬ形で開戦し、また兵の多寡もあり、家康は撤退を決める。本多忠勝と大久保忠佐は徳川本隊と内藤隊を逃すために殿(しんがり)を務め、一言坂の下という不利な地形に陣取った。急戦で陣形もままならぬ本多隊を、武田軍先鋒の馬場信春隊は容赦なく突撃し、3段構えの陣形のうちの第2段まで打ち破る。また、信玄の近習である小杉左近は、本多隊の退路を阻むために、本多隊の後方(一言坂のさらに下)に先回りし、鉄砲を撃ちかけた。

これに対し、忠勝は、大滝流れの陣をとり、坂の下で待ち受ける小杉隊に敵中突破し逃走を図る。これは無謀な突撃で本多隊は死兵であったが、左近はこれを迎え撃たず、道を空けるように指示して本多隊を見逃す。このとき、忠勝は左近に名を聞き感謝の言葉を述べたと言われる。

こうして本多忠勝の働きによって家康率いる本隊は無事に天竜川を渡り切ることに成功し、撤退戦を無事に完了させた。

合戦後[編集]

徳川軍は無事に浜松城まで撤退できたものの、武田軍はそのまま二俣城を包囲してしまう(10月16日)。家康はこれといった対処を取ることができず、12月19日に二俣城は陥落した(二俣城の戦い)。これによって家康の遠江支配は大きく揺らいだ。

二俣城陥落と前後して、家康は織田氏の増援を受けており、陥落後、武田の次の狙いは浜松城とみて篭城戦を決め込むも誘い出され、三方ヶ原で大敗した(三方ヶ原の戦い)。

唐の頭に本多平八[編集]

一言坂の戦いの後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書が登場した。これは小杉左近が書いたと言われる。

「本多平八」は本多忠勝のことである。「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品であった。一説に寄れば家康は難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたという。

また、後年これを真似た狂歌として「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」というものがある。

[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 03時12分37秒 ) パスワード

小杉左近

    なかなかのオトコだったかも。


小杉 左近(こすぎ さこん、生没年不詳)

日本の戦国時代の武将。武田家の近習を務めた。



元亀3年(1572年)10月12日、武田信玄は織田信長、徳川家康を討って上洛を果たす為に躑躅ヶ崎館を出陣する。

この出陣の前に信玄は山県昌景率いる別働隊5000を三河に、秋山信友率いる伊那衆を美濃国へと派遣した。


北条氏政からの援軍も合わせた総勢3万の軍勢で武田軍は徳川領に侵入。
山県昌景の手によって山家三方衆は降伏、また井平城、只来城、飯田城、秋山信友の手によって岩付城が陥落、そして天野景貫の犬居城も降伏し、状況は武田方が優勢に、反対に徳川方が大きく劣勢となる。


これに対し家康は内藤信成、本多忠勝を偵察として行かせ、家康自身も3,000の軍勢を率いて浜松城を出陣した。が、内藤・本多隊と武田軍との軍勢が偶然にも遭遇する。


偶然の遭遇戦で陣形もまだ整えきっておらず、坂の下で不利な地形にいる徳川軍に武田方の馬場信春が突撃すると同時に逃げ道を塞ごうとした。

対する内藤・本多勢は逃走したが、追いつかれてしまう。

本多忠勝は、本隊と内藤隊を逃がす為、自ら殿(しんがり)を引き受ける。

前から突撃してくる馬場隊に本多隊は3陣の内第2陣まで突き崩される。

本多隊は坂の下で退路を塞いでいる隊に敵中突破し、戦場離脱をはかった。


                           ココかも

本多忠勝自身、討ち死を覚悟してでの敵中突破であったが、

この隊の隊長は本多隊の狂気と死兵と戦うのを恐れて自ら部下に本多隊に道を空けるよう指示した。

本多忠勝はその隊の隊長に対し、「武士の情けを心得ている者とみた、お名前を」これに対し、隊の隊長「小杉左近と申す乱心者、はようわしの気が変わらぬうちにいきなされ!」っと答える。



後日一言坂に狂歌でつづられた落書が落ちていた。

「家康ニ過ギタルモノガ二ツアリ、唐ノ頭ニ本多平八」

書いたのはほからなぬ小杉左近であった。


この落書で本多忠勝の武名は近隣に轟いたのである。尚、この坂の上での戦いを一言坂の戦いといい、三方ヶ原の戦いの前哨戦である。



この件で武田方が滅亡後、小杉左近の子孫が家康軍に拾われたのかも、ですね。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 03時18分29秒 ) パスワード

ちょっとちょっとちょっと!


https://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA1-PA7&lpg=RA1-PA7&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%B0%8F%E6%9D%89%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=LXe0MqL6Rc&sig=NeAXHRfh5ldsjt4CrkjrkIE5FHg&hl=en&sa=X&ei=N1QtVfPaGJXeoATcw4CgDA&ved=0CFMQ6AEwBg#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%B0%8F%E6%9D%89%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


わたくしのマシンではパワー不足で出ないのですが
ひょっとして   小杉氏の家紋は  丸に三つ柏紋?

続家紋でたどるあなたの家系 - Page 7 - Google Books Result
https://books.google.com/books?isbn=4797107324
千鹿野茂 - 1998 - ‎Heraldry

菅沼三河国設楽郡菅沼より起こる。 ... 小杉.諷訪.名和.宮城.渡山中甲斐国の藤原氏支流〔宽政譜^〕。他に丸に三つ柏。 ... 石野遠江国山名郡石野に住み称号とする。十市 ...


      この案内文
      どういう意味でしょう?
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 03時24分49秒 ) パスワード

「小杉」というのは   遠江小杉御厨  にも名前があるんですねえ。



http://www.hamamatsu-books.jp/chronology/hamamatsu/1.html


1185 文治1 安田義定、遠江小杉御厨に対して乱妨する
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 06時21分00秒 ) パスワード

柴田錬三郎の「赤い影法師」によると

<28>の服部美濃平蔵は伊賀越え事件から半年後に甲賀の者によって殺されたと書かれています。



半蔵の父・服部美濃平蔵は
多羅尾の領主、多羅尾光俊の4男で(宇治田原の領主山口長政の養子になっていた)山口藤左衛門光広に頼まれて
部下87人を率いて甲賀の忍者と戦う。


     宇治田原にいたのは貞信だと思ってたのですが
     半蔵の父も田原にいたようですね。


それか柴田錬三郎の創作なのか?
[38]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月15日 09時51分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 またまたビックリです。新たなる地平線が開けた感じです。エンドルフィン
が久しぶりに沸いてきました。特に小杉氏のエピソードには、思わず感情移入してしまいまして、まぶたの裏が熱くなりました。こんな人が身近にいたとは
つゆぞ知りませんでした。

 そういえば、小さい頃、高薗には大きな織物工場、染色工場がありました。
北西隣の上善地にも大きな織物工場がありました。
 大庄屋だった長谷川氏の家系は、現代に至るまで4代共東京大学を卒業し
ており、3代目は元大蔵官僚で浜北市長を務めております。

 400年という歳月は、ほとんどすべての記憶を洗い流してしまうに充分な時間ですね、特に一般社会のレベルでは。代官所が記録する民政・法政の記録や幕府の記録以外では、なかなか文献に残らないことが多いということであり
ます。

 あを様に地平線を開いていただきましたので、またパワーが湧いてきました。ありがとうございます。フィールドワークの方を強化してみます。
 
 そうか、歴史という幾重もの地層の上に生きている私たちは、現代という
地層しか知らないで日々平和に暮らしている。その地層をめくり、うがち、
深堀りすれば、全く知らなかった事実に出くわすことになるということを、
この1年間、あを様より幾度となく教えていただいた。その発見の度ごとに
泉が湧くようにエンドルフィンも湧き出したという記憶が鮮明に残っており
ます。

 昨日は加藤家に残る系図について改めて考えてみました。伝説は伝説とし
て深堀しないで生きて行くことも一つの幸せかとも思いました。科学的論理
によって実証して行くことも一つのあり方。私は伝説だけでは満足できない
タイプであることを再認識し、これからも探究して行きたいと思っています。

 1年間の総括をしたいと思っています。私には歴史の中で翻弄された女性
ばかりが鮮明に記憶に残っています。最近では「桜姫」、その前が「女城
主」、その前が「お多賀さん」、その前が水軍の「○○姫」(今手元に資料
がない)、その前が天正伊賀の乱の長田の「○○さん」(今手元に資料な
し)・・・。

 本日はj-dayですので、取り急ぎお礼まで。よく読ませていただきます。
ではこれにて―

 そういえば、前レスで松島十湖が松島十個になっていました。お詫びと
訂正をさせていただきます。

 今週末には、「遠山」へツアーで行ってきます。そこにはまた歴史に翻弄
された女性が待っています。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 13時56分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

>小杉氏のエピソード


        「家康ニ過ギタルモノガ二ツアリ、唐ノ頭ニ本多平八」
            書いたのはほからなぬ小杉左近であった。

         小杉翁頌徳碑
             名は慶次郎( けいじろう)

             松下家とも親しかったかも。
   

         家紋は?


小杉氏というのは今で言う「地頭力」が良い家系なのかもですね。
本多平八郎を助けて主家が滅びて後に名を遺した。

たいしたもんです。




そして長谷川平蔵の家も意外でした。
地理的に今川方の家臣であったけれど家康の家来になった。

     こんな所から服部家との関係が始まっていたのかも。




宇治田原の服部貞信。
意外なことに半蔵の父   美濃平蔵  も宇治田原にいた?
ということは  親しい関係だった?


     でも半蔵に同心が与えられて有名な家になっていったのは
     貞信には面白くなかったのかも。



謎が謎を生みますね。



本日やっと明智の謎を読みました。

     レス35の1番下に名前の出ている菅沼氏。
     この家が明智=土岐氏の後継者になっていった話が書かれていましたね。

        天海僧正が明智光秀だというハナシを信じたくなりました。


すごい情報量で、読むのが大変でしたが、面白かったです。
ありがとうございました。

[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 14時01分50秒 ) パスワード

>昨日は加藤家に残る系図について改めて考えてみました。
>伝説は伝説として深堀しないで生きて行くことも一つの幸せかとも思いました。
>科学的論理によって実証して行くことも一つのあり方。
>私は伝説だけでは満足できないタイプであることを再認識し、これからも探究して行きたいと思っています。


頑張っていろいろ読んでください。
膨大な量を読まないと真相には近づけません。
まだまだです。


でも明智の謎で
秀吉のクーデター恐怖症から秀次が粛清された
と読んで

なるほど加藤家もそういう経緯で逃げて来たのだろうなと思いました。


秀次関連の情報もたくさん手にいれて読みまくったら「加藤氏」について読めるかもです。

[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 14時10分24秒 ) パスワード

遠山氏



美濃遠山氏[編集]


遠山氏の祖は藤原利仁の子孫加藤景廉である。

景廉は源頼朝の重臣として功績を残し、文治から建久(1185-1198年)の頃に遠山荘(現在の岐阜県恵那市・中津川市・瑞浪市の一部)を与えられた。

ただし景廉本人は頼朝と伴に鎌倉に居り、実際に遠山荘に赴任はしなかった。

承久の乱が始まって程なく景廉が死去。
遠山荘の地頭職は長男の景朝が受け継いだ。
この後、景朝は遠山荘に土着し遠山景朝と称し初代遠山氏となった。


遠山氏の名が最初に認められるのは景朝が乱の首謀者の一人である一条信能を遠山荘で処刑した時である
   (ただし伊勢加藤氏に対して遠山加藤氏としただけともとれる)。

この頃の美濃は土岐氏が大きく勢力を伸ばしており、遠山氏もこの勢力下に入っていた。
しかし室町時代末期から戦国時代初頭にかけて土岐氏が衰退すると、
岩村城に拠った惣領・岩村遠山氏以外にも遠山荘各地で立ち(遠山七家)、居城ごとに分かれて統治を行うようになった。



戦国時代にも土岐氏・美濃斎藤氏の勢力下にあったが、斎藤龍興滅亡後は東美濃で勢力を拡大した。

しかし尾張・西美濃の織田信長と甲斐・信濃の武田氏の対立に巻き込まれ[1]、上村合戦やその後の武田侵攻で惣領・岩村遠山は滅亡し、
諸城も落ちて一族は離散した。

のち徳川家康に仕えた苗木遠山氏の遠山友政が旧領に復帰し苗木藩を立て、
また明知遠山氏一族が旗本として続いた。




遠山七家[編集]

岩村、明知、苗木、飯羽間、串原、明照、安木の7家で七遠山という(「遠山譜」)。
安木(阿木)の代わりに大井が入る場合や、明照に代わって馬籠を入れる説もある(松田之利「遠山氏」『国史大辞典』)


岩村遠山氏 - 惣領家。岩村城主。戦国時代に遠山景任の死で断絶し、天正3年に岩村城が落城して滅亡。


明知遠山氏 - 明知城主。遠山景朝の子・遠山景重が祖[2]。江戸時代は旗本として存続。末裔に遠山景元がいる。なお途中で土岐明智氏が名跡を継いだとする異説が存在する[3]。

    武蔵遠山氏 - 後北条氏家臣で江戸城代。
    明知遠山景保の子・直景が北条早雲に仕え武蔵へ移ったのにはじまる。

    相模遠山氏 - 武蔵遠山氏の遠山直景の次子・康光の一族。江戸時代に旗本となった。


苗木遠山氏 - 苗木城主。祖は不詳[4]。戦国期に飯羽間遠山氏から養子を迎える。
江戸時代には苗木藩主となった。

    館林遠山氏 - 苗木遠山氏の弥右衛門景利を祖とする。榊原康政に仕えて500石を得る。


飯羽間遠山氏 - 飯羽間(飯場)城主。苗木遠山氏の名跡を継承。遠山友信のとき苗木から分かれるが、武田の攻撃で落城・降伏。武田滅亡後に友信が信長に処刑され滅亡した。


明照遠山氏 - 明照(阿寺、阿照、阿照羅)城主。飯羽間遠山友忠が長子・友信に飯羽間城を譲ったのち城主となる。
のち友忠の次子・遠山友重が継ぐが天正2年武田の攻撃で落城。


串原遠山氏 - 串原城主。上村合戦時は遠山右馬助とその子・遠山五郎経景がいた。武田氏による串原落城後、旗本明知遠山氏に仕えたという。


安木遠山氏 - 安木(阿木)城主。遠山景員の次男・遠山景賢が祖だという[3]。




信州遠山氏[編集]
信州遠山氏(江儀遠山氏) - 信濃国伊那郡南部に拠った一族。美濃遠山氏と同祖とみられる。「伊那旧事記」は明知遠山氏の分家としている



福岡遠山氏[編集]
福岡遠山氏 - 美濃国恵那郡福岡町に拠った一族。景朝の子・遠山景村が祖。広恵寺城を守り遠山一雲入道が後醍醐天皇の皇子・宗良親王に仕えていた。



四国の遠山氏[編集]

小牧・長久手の戦いで家康から感状を得た「遠山佐渡守」の一族。佐渡守の子孫は高松藩の生駒家や今治藩の久松松平家に仕えた。また神箆城(鶴ヶ城)主・土岐三郎兵衛がこの佐渡守だとする説もある。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 14時17分55秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%A4%E3%82%84%E3%81%AE%E6%96%B9


おつやの方(おつやのかた、生年不詳 - 天正3年11月21日(1575年12月23日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。織田信定の娘で、織田信長の叔母にあたる。通称は岩村殿、修理夫人、お直の方、岩村御前とも言われる[1]。



生涯[編集]

遠山景任の妻。

元亀3年(1572年)5月、景任は子供が無いまま病死したため、おつやの方は信長の五男坊丸(後の織田勝長)を養嗣子とした。

但し坊丸はまだ幼かったので、おつやの方が当主の座を引き継ぎ岩村城の女城主となった。また信長は軍勢を岩村城に送り込んだ。



その後、元亀3(1572年)10月、武田信玄が西上作戦を開始する。

信玄はそれまで各地に上洛する旨を喧伝していたが、実際の行動は山県昌景と秋山虎繁(俗に信友とも)の別働隊3,000を三河に向かわせ、自身も遠江に出陣するという、徳川家康の領土を奪取することを主目的とした作戦であったが、おつやの方は信玄の動きに呼応し、武田軍に寝返ってしまう。


同年11月14日、岩村城は武田方のものとなり、信玄は配下の下条信氏を送り込んだ。(『当代記』)


このおつやの方の行為に他の東美濃諸豪族は反発し、おつやの方と上村合戦と呼ばれる合戦が起こったとみられる。


11月14日に信玄は遠山氏に岐阜の信長を牽制せよと命じており、また12月12日には遠藤加賀守に岩村城へ兵を増援すると伝えている。


一方信長も11月15日に延友佐渡守へ遠山氏が裏切ったにも関わらず忠節を尽くしたことを賞し日吉郷・釜戸本郷を与えている。

信玄はこのおつやの方の裏切りによって作戦を変更し、三河から東美濃へ入って信長を攻めることにした。

(『三河物語』)その途中12月22日、三方ヶ原の戦いが起こり、信玄は家康を破る。


元亀4(1573年)3月6日、信玄は美濃に秋山虎繁を送り、岩村城城主とした。

この時におつやの方と秋山との婚姻が行われたとみられる。
坊丸もまた甲斐に送られた。
しかし同年4月12日に信玄は病死し、武田軍は撤退する。


織田軍は天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍を敗ると、織田信忠らが岩村城を包囲。
武田勝頼は岩村城を救援するべく出陣したが、勝頼が着くより前の11月21日、岩村城は落とされた(天正3年の岩村城の戦い)。

信長は虎繁らを赦免すると見せかけ、礼に来たところを捕らえ、長良川近くで磔刑にした。

その理由は、長篠城の奥平信昌が徳川家康に寝返った際、武田勝頼が奥平の妻を磔にしたので、その報復だということだった(『甲陽軍鑑』)。

おつやの方もまた信長に捕らえられて磔で処刑された。


あるいは信長が裏切られた鬱憤を晴らすために自ら斬ったとも言われる(『当代記』)。




余談[編集]

岐阜県恵那市岩村町では、おつやの方にちなみ、1992年から本通り沿いの家々で家族の女性の名前を記した暖簾を掛けたり、地元の醸造会社岩村醸造が「女城主」と名付けた日本酒を売り出したりして、地域おこしに活用している[2]。


また、愛知淑徳大学現代社会学部の石丸緑常勤講師のゼミと同地区住民らでつくる「城下町ホットいわむら」が共同制作する創作ドラマ「みつけもの」を撮影した[3]。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 14時20分46秒 ) パスワード

http://washimo-web.jp/Report/Mag-Onnajyosyu.htm




− 岩村城 〜 女城主の悲話物語 −

本丸が海抜717mの高所にあったため日本三大山城の一つに数えられる岐阜県恵那市岩村町の岩村城は『女城主の悲話』で知られる城でもあります。美濃(現在の岐阜県南部)と信濃(現在の長野県)の国境にあった岩村城は、美濃を支配下に置いていた織田信長と信濃を領国にしていた武田信玄の抗争が本格化すると、激しい争奪戦にあうことになります。
 
要衝にある岩村城の重要性を考えていた織田信長は、岩村城主・遠山景任(とおやまかげとう)に、美貌で知られた自身の叔母・おつやの方(信長の父・織田信秀の妹)を妻として娶(めと)らせ、一門衆として遇していました。
 
一方、上洛を目指す武田信玄は、家臣の秋山信友に東美濃を攻めさせます。岩村城の景任は懸命に防戦するものの、不幸にもその最中に病死してしまいます。景任が病没すると信長は、自身の五男で当時6歳(2歳あるいは3歳説もある)の坊丸(のちの織田勝長)を遠山氏の養子とした。
 
但し、坊丸はまだ幼かったので、おつやの方が当主の座を引き継ぎ、岩村城の女城主となりました。その女城主の岩村城を秋山信友は攻め立てるのですが、岩村城はなかなか陥落しそうにありません。そこで、秋山はひそかに計を巡らします。
 
岩村城中に密使を送り、『結婚して無事に城を明渡し、坊丸を養子として家督を譲ることにしてはどうか』とおつやの方を説得したのです。おつやの方も、到底最後まで城を守ることが出来ないと悟り、元亀4年(1573年)、秋山の提案を承諾します。家臣や領民を守ることの引き換えに政略結婚の道を選んだのでした。
 
しかし、秋山は信長の叔母と結婚したことを武田信玄に嫌われるのを恐れ、坊丸を甲府に送って信玄の人質にしてしまいました。これを聞いた信長は激怒しますが、この頃は近畿攻略に追われていたのでそのまま放任せざるを得ませんでした。
 
東美濃では武田優位の情勢が続きますが、天正3年(1575年)の長篠(ながしの)の戦いで潮目が変わります。武田の力が衰えると、信長は、嫡男の信忠を総大将にして岩村城に大軍を差し向けました。
 
信忠の大軍は激しく攻め立てますが、岩村城兵も捨て身で防戦し、城は容易に落ちません。そこで、戦法を変えて持久戦をとり、約半年間にわたって城を包囲します。援軍は無く、兵糧も乏しく城兵は飢えに苦しんでいる。『叔母の城に火をかけるのは忍びない』と、今度は信長が謀り事を企てます。
 
秋山は城兵の助命を条件に城を明け渡しました。しかし、信長は約束を果たしませんでした。秋山信友をはじめ、おつやの方らを岩村城外の大将陣において、逆磔(さかさはりつけ)にして殺しました。この時、おつやの方は、声をあげて泣き悲しみ、
 
『我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすはからずや因果の報いを受けん』
 
と絶叫しつつ果てたといわれます。織田信長が本能寺で殺されるのはその7年後のことです。
 

                この先の話は初めてでした。


一方、甲府に送られて人質となった坊丸はどうなったかといいますと、8年後の天正9年(1581年)に送還され、安土城で信長と対面します。同年、元服して織田勝長と名乗り、尾張国犬山城主となります。

 
兄・信忠の与力として甲州征伐(信長が甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦)に参陣し活躍を見せますが、本能寺の変において信忠と共に、明智光秀の軍勢に攻められて二条御所で奮戦ののちに討ち死にしました。
 

下記のページが参考になります。
  旅行記 ・岩村を訪ねて − 岐阜県恵那市
 
【参考サイト】
(1)岩村藩 − Wikipedia
(2)女城主の物語(岩村町観光協会ホームページ)
(3)武将列伝番外 女性列伝・おつやの方
(4)岩村城 結婚受け入れた女城主(朝日新聞、東海の古戦場をゆく)
(5)織田勝長 − Wikipedia

[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 14時42分35秒 ) パスワード

小杉氏について情報を頂きました:


京極流松下氏の子孫について、
佐々木六角氏領の武蔵川崎荘代官として、
武蔵小杉に居住して小杉氏を名乗っています。



四つ目結紋の歴史 佐々木哲学校/ウェブリブログ

http://blog.sasakitoru.com/200504/article_2.html  



「四つ目結紋」を使用したのは長男の「定綱」流

・定綱の子孫が佐々木氏の主流になったことが、四つ目結紋が佐々木氏の代表紋になった


・九条家の「有紋冠」の文様が四目結紋

     (定綱が九条家奉仕の殿上人(家礼)として活躍

      四つ目結紋は隅立てが正しいこと)


*現在の沙々貴神社の神紋が平四つ目結紋であるのは丸亀京極家が平四つ目結紋に替えた



「三つ星紋」を使用したのは  「盛綱」流


「輪違い紋」を使用したのは  「義清」流


[45]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月15日 15時58分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 早速の調査ありがとうございます。遠山氏、岩村城、女城主・・・すべて
が飲み込めました。みんな加藤景廉から出発して関係しているということで、改めて親近感が湧いて来ました。

 また、明智光秀の娘婿の明智秀満は旧姓「遠山景玄」であったということ、
明智光秀にも親近感を感じます。

 秀次事件の連座を恐れて、移り隠れ住んだということ・・・光泰はすでに
朝鮮半島で死んでいたので、その子孫・関係者達に連座が及んだのかどうか、その状況についての事実関係のカケラを発掘したいと強く思っています。
 今一度、秀次事件を洗ってみます。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月15日 22時45分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


>明智光秀の娘婿の明智秀満は旧姓「遠山景玄」であったということ、
>明智光秀にも親近感を感じます。



同時代史料に出る実名(諱)が秀満で、当初は三宅弥平次と称し、後には明智弥平次とも名乗っている[1]。俗伝として光春の名でも知られ、明智光春や満春の名でも登場する[2]。左馬助(左馬之助)の通称も有名[3]。俗伝では幼名は岩千代、改名して光俊とも[4]言うが、その他にも複数の別名が流布している。



出自[編集]


三宅氏説[編集]

秀満は当初、三宅氏(三宅弥平次)と名乗っていた。三宅氏は明智光秀の家臣として複数の名前が確認できる。また俗伝では、明智光秀の叔父とされる明智光廉が三宅氏を名乗ったとも言われる。一説には父の名を三宅出雲、あるいは美濃の塗師の子、備前児島郡常山の国人・三宅徳置の子という説もある。



明智氏説[編集]

『明智軍記』などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると次男)であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。


遠山氏説[編集]

明治期に阿部直輔によって謄写校正された『恵那叢書』(鷹見弥之右衛門著)によると、明智光春(秀満)の父・光安が美濃国明知城主である遠山景行と同一人物とされており、それを参考にして遠山景行の子である遠山景玄が明智光春と同一人物、そして明智光春が秀満ではないかとの説が出されている。遠山景玄は元亀3年(1572年)上村合戦で戦死しているが、この説によると史料の不整合もあり誤伝であるという。

また遠山景行の妻が三河国広瀬城主三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだという補説もある。




秀満の前半生は『明智軍記』を始めとする俗書でのみ伝わっているが、それは秀満の出自を明智氏と断じていることに留意する必要がある。


明智氏説では、明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが、弘治2年(1556年)斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城。その際に父は自害したが、秀満は光秀らとともに城を脱出し浪人となったとする。



後半生[編集]

天正6年(1578年)以降に光秀の娘を妻に迎えている[5]。彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた[5]。その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは、天正10年(1582年)4月である。

天正9年(1581年)、丹波福知山城代となる。

天正10年(1582年)、光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との山崎の戦いでは光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った[5]。

秀吉方の堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考え、それら名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろした。そして「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と叫んだ(『川角太閤記』)。しばらくの後、直政と秀政が現れ「目録の通り、確かに相違ござらぬ。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」と返すと「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」と秀満は返事し、秀政・直政らも納得した[6]。

6月15日の夜、秀満は光秀秘蔵の脇差を差したまま、光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺しあるいは介錯し、自ら城に火を放って自害したとされる[6][7]。享年は俗書に従えば47。『兼見卿記』では、同年に処刑された秀満の父(名は不明)は享年63とされる。


逸話[編集]

光秀が本能寺の変を計画した際に秀満に実行すべきか否かを質問した逸話が『備前老人物語』に伝わる。同書によると光秀は信長を討つ事を迷い、秀満を呼び寄せて相談した[8]。秀満は「殿の上(信長)様へのお恨みはさもありなんと思います。しかし気持ちを穏やかにお持ち頂ければ、遺恨も無くなりましょう。都に近い丹波と、近江の坂本を拝領なされ、上様からは過分の取り立てを受け、冥加にかなうところでございます。少しの恨みを思い捨てないで逆心を抱けば、天命の尽きる事明白です。どうか思いとどまり下さい」と諌めた。光秀はその諫言を受け入れてひとまずその日は過ぎた。ところが翌日に光秀は家老の斎藤利三、溝尾茂朝、明智次郎左衛門、藤田行政らに信長討伐の是非を尋ねていた。だが4人とも秀満と同じ意見を述べて反対する。そして秀満を呼び「昨日申した事、年寄どもに密かに相談したが、その意見、皆そなたと同じであった。それゆえ思いとどまる事にした。左様心得よ」と答えた。だが秀満は顔をしかめて声を荒げながら「それがし1人の口なら如何様にもなりましょう。ですが年寄4人に打ち明けたとなれば、その口を止めるのは難しくございます。殿が上様を恨まれるように、かの年寄らがもしも殿をお恨みに申す事ができた時、天罰は逃れられません。それが是であれ非であれ、思い通りに事をなしましょう。明日に移せば一大事になりましょう」と告げた。秀満はこれほどの秘密を年寄にまで漏らした光秀の軽率がいずれ信長にも知られて禍になるから立ち上がるしかないと述べたのである。なお、同書ではこの話は事変の前日に行なわれ、秀満が決起の手立てを定め、光秀は秀満に背中を押される形で本能寺襲撃を決意したと伝わっている[9]。

安土城退去の際、秀満軍が天主や本丸に放火したとされてきた。しかし、秀満は坂本城を包囲された際、多くの文化財を堀秀政に明け渡した後、光秀の妻子を殺害し、城に火を放って自害しているため、安土城に放火したとは考えにくいと反論があるが定かではない。なお、後世に天下の名物を残した見識は賞賛されている[6]。

琵琶湖の湖上を馬で越えたという「明智左馬助の湖水渡り」伝説が残されている。この逸話に関して詳しく述べると、光秀の敗死を知った秀満は坂本に引き揚げようとしたが、大津の打出の浜で敵に遭遇した。窮地に陥った秀満は突然、琵琶湖に馬を引き入れると浮いたり沈んだりして泳がせ、自分は馬の尻の所に下がって手縄を鞍の後輪に取り付けて、湖水を渡った。敵が唖然とする中、こうして秀満は坂本に帰り着いたという[10]。

坂本城を敵に囲まれて滅亡が迫る中でも逸話がある。坂本城に一番乗りしようとした武士に入江長兵衛という者がいた[10]。秀満は長兵衛と知己があり「入江殿とお見受けする。この城も我が命も今日限り。末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい」と声をかけた。長兵衛は「何事であろう」と尋ねると「今、貴殿を鉄砲で撃つのは容易いが、勇士の志に免じてそれはやめよう。我は若年の時より、戦場に臨むごとに攻めれば一番乗り、退却の時は殿を心とし、武名を揚げることを励みとしてきた。つまるところ、我が身を犠牲にして、子孫の後々の栄を思っての事だった。その結果はどうであろう。天命窮まったのが今日の我である。生涯、数知れぬ危機を潜り抜け、困難に耐えて、結局はかくの如くである」と述べた。そして「入江殿も我が身を見るがよい。貴殿もまた我の如くになるであろう。武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」と述べた(『武家事紀』)。秀満は今日の我が身は明日の貴殿の身だと、一番乗りの功名を挙げても武士とは空しいものと言いたかったのである[7]。そして秀満は話を聞いてくれた選別として黄金300両の入った革袋を投げ与えた[7]。秀満の死後、長兵衛は武士を辞めてもらった黄金で商人となって財を成したと伝わる[7]。

光秀が津田宗及を招いて茶会を2度ほど催しているが、その際に饗応役を務めており、文化人としての知識もあったようである(『宗及記』)。
佩用していたとされる刀が、「明智拵」として現在に伝わっている。刀身は無銘であり簡素な拵ながらこの時代の実用の打刀様式を伝える数少ない品として、貴重な歴史資料とされている(東京国立博物館蔵)。



異説[編集]

明智光秀を江戸初期の政僧・天海の前身とする説は有名だが、秀満こそ天海大僧正とする説がある。もしくは光秀と2代で天海であったともされる。天海の出自は奥州蘆名氏であるとされるが、使用した家紋が遠山氏と三宅氏の家紋(丸に二引両と三宅輪宝)と同じであるため、上記の遠山景玄が天海にまでなったという説もある。「丸に二引き両紋」と「三宅輪宝紋」は今日においても喜多院あるいは上野の輪王殿両大師堂、日光山輪王寺三仏堂で見ることができる。


坂本城の近くの盛安寺(天台真盛宗)には、秀満が僧衣に着替えたという伝承があり、天台真盛宗本山の西教寺には、その鞍が置かれている。当初は、鎧兜(現在、東京国立博物館所蔵[1])や陣羽織も西教寺に保管されていたという。


秀満の遺児が後に細川家に仕え、三宅重利を称したとも言われている。秀満の庶子、太郎五郎が、幕末に活躍した坂本龍馬の先祖であるという説がある。秀満(光春)の嫡系として宮城氏があるとする史料が存在し、それには彼の事績の他、近親の詳細なプロフィールが掲載されている。



なるほど
光秀の遠縁の者だったのですね
それで荒木から出戻った娘を嫁として与えたのですね。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月16日 03時12分45秒 ) パスワード

源平時代もそうですが、戦国時代っていろいろな人物が名を残して
後世のわれわれの生き方の手本になりますが


松永久秀の「誰が信長なんかに大事な宝物を渡すものか」と道連れにした人もいて
明智秀満のように天下の宝物を私物してはならないと敵に渡す人がいて


    わたくしは松永久秀の気持ちがすっごく分かります


大切なものだからこそ自分の命と共にこの世から消してはならない
と思い切れるその見事さ。


涙が出ます。


もし明智主従が秀吉に勝っていたなら、ましな世の中になっていたのかも、ですね。

いやホント
涙が止められないです。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月16日 03時25分53秒 ) パスワード

中国の動乱の時のお話を1つ書いて置きます。


立派な陶器の宝物を持っていた某氏。
国が滅びて明朝は亡命するという前の晩
すべての宝物を持って行けるわけじゃないので
一口酒を飲んでは投げて壊したのだそうです。
もうすぐ押し寄せて来る蛮族に自分の大切な陶器の価値など分かるはずもなく
どうせ大切に扱われずすぐに欠けたり割れたりするであろう運命が分かっている。
かと言って連れて行けるわけでもなく。



こういう話にも涙が禁じ得ません。


ロシア革命の時
貴族は勿論宝物を全部持って行けるわけもなく
宝石を下着に縫い付けて
困った時に食べ物に替えたり換金したり。



これがユダヤ人となると逃げ慣れているから
脳の中に財産を持っている訳です。
だからユダヤ人は学問に熱心なんだと聞いたことがあります。


うちのマンションの中国人は文化大革命で香港に逃げた人々で
香港で財を成して
子供達をいろいろな国に留学させて永住させ
危機の分散をしているようですよ。



人間困った時にこそ、その人の人間性が出ますね。
やはり教養のある人は死ぬ間際も美しいですね。
そしてその美しさは永遠に語られるのですから
わたくしも間に合わせなくては。汗
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月16日 09時58分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 すごい話を聞かせてもらいました。クライマックスは、命を投げ捨て宝物
を敵に渡して損壊から守り、そして脇差だけは主君のいわくの品とて死出の
旅にて主君に渡す・・・。
 な、なんと度胆をぬかれる程の「侍魂」ではありませんか。わたしもまぶ
たの裏が満杯になり、じっとこらえています。

 明智秀満・・・初めて知った武将ですが、一生忘れません。戦いのさ中
にありながら、人間としてのアイデンティティーたる美の輝きを放つ・・・
うまく表現ができませんが、人間であること=愛と美vs,憎と醜のどちらを
選択しますかといわれたら、愛と美を選択するでしょう。これがいわゆる
ロマンだと思います。

 本日はこれに極まり。昂揚状態は一日続くものと思われます。中華料理の
昼食会がありますので、いろいろ心で味わいながら食べてみたいと思ってお
ります。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月16日 23時50分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日より2年目に突入いたします。今までのように毎日続いて行けますこと
願っております。どうぞよろしくご指導の程お願い申し上げます。

 秀次事件についてはかつて取り上げておりますが、改めて加藤光泰との関係
を中心に深堀りしてみたいと思います。

 秀次事件に連座して、一柳左近将監、服部采女正一忠ほか10名位の武将
が切腹となっています。
 光泰の妻、即ち貞泰の母は一柳藤兵衛可遊の娘でありましたので、加藤一族
に連座が及ぶ可能性はありました。もともと三成(文治派)と光泰(武断派)は性
が合わなかった。文禄の役では引くか残るかで壮絶な言い争いをしていますし、その地にて毒殺されてしまったといわれています。犯人は三成であると疑われ
ております。
 貞泰が減封されたのも三成のせいかと思われますし、また秀次事件も三成と
淀殿の陰謀が疑われます(もっとも家康の情報戦・謀略という解釈もあります
が、それはそれで考えられることではあります)。
 どうも一柳可遊には前々からシンパシィを感じるのですが・・・
 服部采女一忠にも何か謎があるような気がしています。
 あを様の天性の探偵感でもって少し掘り下げてもらえないでしょうか。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月17日 02時47分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


2年目になりますか。


当たらず遠からず。

まだまだ核心には至ってはいませんが
かなり迫ってはいますよね。

   断片は順調に掘り出されているものの
   というところですね。


頑張っていきましょう。



レス<32><44>の復習ですが
   

<32>の小杉慶次郎翁の件
http://blogs.yahoo.co.jp/yosihei8jp/63451401.html
小杉氏のハナシ        松下家ともお知り合い?  と書きましたが

<44>に
京極流松下氏の子孫について、佐々木六角氏領の武蔵川崎荘代官として、
武蔵小杉に居住して小杉氏を名乗っています。

これも意外でした。


    小杉氏と松下氏はもともとは源氏方の佐々木の出身で
    小杉氏は松下氏から出た家だったのかも。

    その関係から長上郡の小杉慶次郎翁の碑に松下氏も名を連ねたのかなと。




秀次事件はさっぱり分からないのですが
頭の中を空っぽにして
三つ柏さんの書き込みの人名をまた洗って・・・・いえいえ・・・検索して
何か引っかかれば
と期待しています。


気になる人名などはドンドンお書きになってください。
どこかで何かで絡んでいるのかも。



是非明智氏と遠山氏のゆかりの地にも新たな心情でお出掛けになってください。
般若心経を唱えてあげてください。

   みごとな御最期でしたと伝えてあげてください。



頭の良い小杉左近も心の美しい明智秀満もホントにみごとな武士でした。
≪人は名を残す≫
って本当ですね。


[52]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月17日 23時07分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明朝、高遠へ向けてツアーバスで出発です。さてどんな歴史的事実との
出会いが待っているか、心ときめきます。帰って来ましたら、ご報告をい
たします。

 加藤光泰・一柳可遊・服部一忠について調べています。一柳氏は、物部
氏の流れを引く伊予河野氏を祖とするということです。加藤光安の妻は一
柳可遊の娘、しかも可遊の息子を養子にもらっているという関係。そして
やがて貞泰が生れている。
 
 本日は明朝に供えて、go to bedといたします。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月18日 06時31分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


高遠は今頃が桜の満開時かも、ですね。
江島生島の江島が幽閉されてた処に行ったような記憶です。
高遠は仁科五郎の領地だったような。


良い旅になるといいですね。



>加藤光安の妻は一柳可遊の娘

美濃つながりなのでしょうかねえ?
何か良い情報があればいいのですが。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月18日 13時21分28秒 ) パスワード

http://jirokayo.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-e731.html



2014年11月25日 (火)

本・石田三成・小和田哲男


     石田三成    「知の参謀」の実像 (PHP新書) 新書 – 1996/12

              小和田 哲男 (著)

http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90%E2%80%95%E3%80%8C%E7%9F%A5%E3%81%AE%E5%8F%82%E8%AC%80%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0-%E5%93%B2%E7%94%B7/dp/4569554423




豊臣政権の官房長官というべき地位にあって、秀吉の右腕として辣腕をふるった三成。本来、名官房長官として歴史に書き記されるべき三成が、いつ、なぜ、どのようにして「姦臣」に仕立て上げられてしまったのか。


千利休切腹事件、豊臣秀次失脚事件、蒲生氏郷毒殺説など、三成の策謀といわれる事件の真相を、丹念な史料の再検証から究明するとともに、戦下手の三成を重用した背景から、平和の時代の参謀像にもせまる力作評伝。





三成がかかわったとされる事件。

@ 千利休の切腹。
A 加藤光泰の死。    ここですね
B 蒲生氏郷の死。
C 豊臣秀次事件。
D 加藤清正蟄居。
E 小早川秀秋左遷。

A〜Eまでは関係ないと言う。
三成は、蒲生氏郷と豊臣秀次の死後二人の家臣を抱えている。
実際に三成がかかわっていたら家臣が仕えるのか?
まして関ヶ原では蒲生系の家臣は奮戦している。
何事も秀吉に事実を伝えるのが三成の仕事と言う。
判断は秀吉がやる。
千利休に関しては権力争いがあるようだ。
秀長が死に、バランスが崩れたようだ。
しかしこの程度の事なら、かの高名な本多正信ならいくらでもやっていそうと思うが・・・

職務に忠実であり、潔癖な性格なのか?
秀吉の死後、三成を追いかけまわした七将に一人、浅野幸長が言ったと言う。
「三成が死んでから、世の不平を不平と思わなくなった!」

五大老、五奉行と、当時そう呼ばれていたのかどうかは分からない様だ。
分析があるが、読みずらい・・・・・・・
毛利輝元が季節外れであるが、珍しいと言って「桃」を献上したようだ。
が三成は、季節外れの物であたってはは困る、と言う事で受け取らなかった。
恨みは残りそう・・・・・
が輝元も、家臣には三成を大切にせよと言っていたようだ。

戦場での働きは今一か?
むしろ兵站、ロジェステックに才能を発揮した。
近江人なので頭の回転は速い。計数に明るい。
官房長官であり、総務・人事・経理のトップである。
どこの世界でも前線と後方は対立する。
清正24万石、三成19万石でバランスをとっている。
秀吉も考えている。
こうなると本多正信は人間通と思う!!!!
謀臣と割り切っている。録も求めなかった。

関ヶ原の合戦時、ともあれ関ヶ原に8万の大軍を集めた。
まだ田辺に1万5千、伊勢にも1万5千と集めている。
15歳で秀吉に仕え、近くで秀吉を見ている。
ゆえに世間は家康に対抗できると考えているので、あれだけ集まった。

東軍勝利のあかつきには、毛利輝元は改易される。
しなければ恩賞として与える土地が無い。
と三成は言う。
しかし三成も空手形を発し過ぎではないか????
真田昌幸に3ヶ国与えると言う。
徳川250万石の土地が手に入るとはいえどうなのか?
もし毛利が奮戦して勝てば恩賞はどうなのか?
四国・九州で与えるのか。上杉、宇喜多にしてもそうだが、大大名が残ってしまう。
大谷吉継が可哀想・・・・・・・
関ヶ原は、小早川秀秋が陣を構えた松尾山に、本来毛利輝元を入れる予定だったと言う。
松尾山籠城戦!
著者言う、「三成の壮大な家康迎撃作戦」
強い者になびく戦国の論理が生きていたと言う。

三成の政権構想。
石田執権政治と言う。
世襲によるものとする。
北条は一門が多い。が三成はどうなのか?
無理ではないか?余計に天下は乱れると思うが・・・・・

最後に人望について。
大谷吉継、直江兼読、佐竹義宣、三成の遺児をかくまった津軽為信、島津義弘も
三成と親しい。
三成に殉じた家臣も多い!
嫌われ役だったんだろう!
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月18日 13時26分40秒 ) パスワード

http://senjp.com/hidekatsu/

羽柴秀勝の話。
コピペ・ガードがかかってます。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月18日 13時36分10秒 ) パスワード

http://ch.nicovideo.jp/himatubusikks/blomaga/ar458671




豊臣家による家康包囲網


さて、秀次事件の影響についてですが話を1590年に戻します。
小田原征伐の後、関東の統治者が北条氏から徳川氏に変わりました。
元々の家康の領地は三河国・駿河国・遠江国・信濃国・甲斐国の5ヶ国でしたが、これら全てを召し上げられ、北条氏の旧領を与えられることになったのです。
そしてその周囲は親豊臣派の大名に囲まれることになります。
越後・上杉氏、常陸・佐竹氏に加え会津には蒲生氏郷が配置されました。
家康旧領に配置された主な大名は以下の通りです。


三河国吉田   :池田輝政(秀次正室の兄)
三河国岡崎   :田中吉政(秀次の家老)

遠江国浜松   :堀尾吉晴(秀次の家老)
遠江国掛川   :山内一豊(秀次の家老)
遠江国横須賀  :有馬豊氏(秀次の家老・渡瀬繁詮の家老)
遠江国久野   :松下之綱(秀次の家臣)

駿河国駿府   :中村一氏(秀次の家老)
甲斐国信濃国統括:豊臣秀勝(秀次の弟) 



見事に秀次の関係者ばかりです。

甲斐国・信濃国に関しては秀勝がすぐに美濃国に配置転換されますが、甲斐国甲府に古くから秀吉に仕えていた加藤光泰が入り、朝鮮出兵の際光泰が病死した後は秀次に近い浅野長政・幸長親子が入りました。




信濃国は統括者はいませんでしたが毛利秀頼・日根野高吉・仙石秀久ら親豊臣の武将がそれぞれ領地を持ち、真田昌幸らも豊臣派に属していました。

毛利秀頼の死後も京極高知が配置されています。


加えて葛西大崎一揆や九戸政実の乱の際出兵していた秀次は東北の諸大名に顔が利き、特に最上家とは婚姻の約束があり秀次の影響力は強かったと思われます。

豊臣家による家康包囲はこの時点では完璧でした。




対徳川から親徳川へ

しかし秀次事件が起こり秀次関係者はほとんどが弾圧されました。
東海道に配置された秀次の家老だった諸大名は無関係を訴え難を逃れましたが、

東国諸大名との取り次ぎ役でもあった浅野幸長は流罪となりました。
浅野長政は隠居していたため難を逃れましたが、幸長は家康や前田利家の取り成しでなんとか復帰する状態でした。


       浅野長政はねね様の妹のやや様の夫だったと思います。



京極高知に直接の影響はありませんでしたが、高知の兄・高次は居城の八幡山城がかつて秀次の居城だったという理由で破却され大津城に移されることになりました。


東北では処刑された駒姫の父である最上義光が疑いの目を向けられます。

伊達政宗は駒姫の従兄にあたることに加え、かつて罪を犯し伊達家を出奔した粟野秀用が秀次家臣として処刑されたため嫌疑がかけられました。


細川忠興も秀次に借金をしていたという理由で嫌疑をかけられることになります。

最上・細川は家康の取り成しで、伊達は直接疑いを晴らすことになります。
ただ駒姫の母・大崎夫人は悲しみのあまり自殺、義光も数日間食事を摂ることがままならない状況に追い込まれました。



こうして秀次事件で秀吉から不興を買った諸大名は家康に接近していきます。

1598年、会津では蒲生氏郷の死後御家騒動が起きてしまい宇都宮に減封され、代わりに上杉景勝が転封されます。
越後には堀秀政の子・秀治が転封されたのですが、この時直江兼続が越後の年貢米を全て会津に運んでしまったため、堀氏の財政は困窮してしまいます。
加えて越後では直江兼続による一揆が発生していたため、仮に親徳川でなくとも抑止力として機能することはできなかったでしょう。


実際には秀吉の死後秀治は家康に接近しています。

結果、本来徳川を包囲し警戒する配置が成された東国はそのほとんどが親徳川となってしまったのです。



蛇足

秀次事件は豊臣氏に致命的な打撃を与えただけでなく、死に体状態にあった徳川家の息を吹き返させるという影響もありました。

秀次事件以前にも秀保の死で大和豊臣家を断絶させたことで藤堂高虎が出家し、秀吉が生駒親正に説得させ還俗させるもすぐに家康に接近するといったことがありましたが、豊臣家に大きな打撃を与えるものではありませんでした。

後に石田三成襲撃事件では秀次事件で秀吉の不興を買った細川忠興・浅野幸長・池田輝政が参加しています。

石田三成は秀次事件で中心的な役割を担っていたわけではないのですが、近江国における秀次の遺領の大部分を加増され、豊臣政権下において家康と敵対する人物でした。

関ヶ原の戦いや慶長出羽合戦では秀次事件で被害のあった大名は全て東軍につくことになります。

関ヶ原の戦いで西軍に属した上杉・佐竹・真田ら東国の大名は小田原征伐の忍城攻めに参加しているのですが、秀次事件の影響はそれ以上のように思えます。

秀次事件は天下人・豊臣秀吉の人生最大の汚点であり、個人的にですが秀吉に好意を持てない原因です。



ところで、秀次事件に加担し、秀次の遺領の内重要拠点尾張国清州を領有し、家康に接近し、家康の抑えのための物資や拠点を家康に提供していた福島正則はいったい何を考えてたんでしょう?

[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月18日 13時39分13秒 ) パスワード

上記レス<54>に既出の件
ここで読めます。



http://books.google.com/books?id=fwl2BgAAQBAJ&pg=PT11&lpg=PT11&dq=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1+%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%85%89%E6%B3%B0%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=NLOGZE1aTu&sig=PKVFb_CGaNQ_Q5EbcdjHp12AIvg&hl=en&sa=X&ei=Bt0xVbveCciYoQT5q4G4Cg&ved=0CDYQ6AEwAw#v=onepage&q=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1%20%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%85%89%E6%B3%B0%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


石田三成: 「知の参謀」の実像
By 小和田哲男
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月18日 13時43分27秒 ) パスワード

http://hannkotu.blog.shinobi.jp/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E3%80%80%E5%85%B6%E3%81%AE%E4%B8%80/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%80%81%E6%90%8D%E5%A4%B1%E3%81%AE%EF%BC%91%EF%BC%90%E5%B9%B4


叛骨の焔

2009.01.02 - 戦国史 其の一


豊臣政権 失われた10年



1590年から1599年までの10年間に豊臣政権は、政権を支え得る人材を多数、失っています。 そして、彼らが慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いまで生きていたらと仮定してみました。


この10年の間で、私が知っている限りの主な人物を挙げてみると。


●堀 秀政(1553年〜1590年)

美濃郡茜部の小豪族の家柄に生まれたが、能力重視の織田信長によって取り立てられ、やがて、菅谷長頼と並んで、信長の側近筆頭の位置にまで立つ。秀政は政務だけでなく戦場でもその力を如何なく発揮し、名人久太郎と称された。秀吉にもその才を愛され、天正10年(1582年)の段階で羽柴性を賜っている。


以後、秀吉の最有力部将として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、九州攻め、小田原攻め、等に参陣し、それぞれで重要な働きを示している。このように秀政は秀吉の天下取りに大いに貢献して、一門格の待遇を受けていた。小田原参陣中に38歳の若さで惜しくも病没するが、長生きしていれば100万石級の大大名になっていた可能性が高い。関ヶ原まで存命だったなら、西軍の総大将となっていたかもしれない。


●豊臣 秀長(1540年〜1591年)

秀長は政務、軍務ともに優れているだけでなく、人望厚い人格者でもあった。常に兄、秀吉を立てて、その天下統一事業を影から支えた。秀吉の代理として政務や交渉を司ったり、軍を率いて遠征に赴く事も度々で、特に四国攻めでは病気で動けない秀吉に代わって、総指揮官として活躍している。豊臣政権の大黒柱的な存在であったが、天正19年(1591年)1月22日、多くの人々に惜しまれながら、52歳で病没した。そして、翌文禄元年(1592年)、豊臣政権に深刻な打撃を与える事になる、朝鮮出兵が行われる事になる。秀長が長生きしていたとしても朝鮮出兵は行われていただろうが、その結果、生じるであろう政権内の対立は、彼が存命だったなら抑えられていただろう。慶長5年(1600年)以降も存命だったなら、政権分裂は起こらず、豊臣家が今後も日本を主導していったであろう。豊臣政権にとって、彼の死は最も大きな痛手であった。





                              ココ
●加藤 光泰(1537年〜1593年)

一般的には知名度は低いが、秀吉からは、関東の徳川家に隣接する重要な国、甲斐一国を任されるほどの信頼を受けていた。秀吉の数少ない譜代家臣の1人で、職務に忠実かつ、一徹な性格の持ち主であった。 ここに挙げている人物の中で加藤光泰は最も地味な存在だが、一浪人から国持ち大名にまで上り詰めた器量人である。文禄2年(1592年)、朝鮮出兵中に光泰は重病に罹り、秀吉に一通の遺言状を残して57歳で病没した。その遺言には、息子はまだ年少であり、甲斐の国を任せるには心許ないため、その領地は召し上げて秀吉の近習として使ってもらいたいとあり、それは実行されている。


大半の大名は、手に入れた領土と財産をそのまま可愛い息子に残そうとしていたが、光泰は公を重んじて、領土の返還を申し出たのだった。私利私欲無く、秀吉への忠義を貫き通した生涯だった。関ヶ原の戦いまで存命で甲斐の国を任されていたならば、西軍側に立って、東軍の足止めをしていただろう。そうなれば、家康の西上は困難に見舞われ、その間に西軍は足場を固めることが出来ていたかもしれない。




●豊臣 秀次(1568年〜1595年)

秀次は、秀吉の姉、智子の子である。秀吉がなかなか実子に恵まれなかった事もあって、後継候補として引き立てられると、箔をつけるため重要な戦役の数々に参戦している。天正19年(1591年)11月には正式に秀吉の養子となり、同年12月には24歳にして関白となる。若くしてこれほどの地位に就けたのは勿論、秀吉の親族であったからだが、そこそこの能力は持っていたと思われる。しかし、秀吉に実子である秀頼が誕生すると、精神的に不安定となり、問題行動を起こしたとある。そして、文禄4年(1595年)、謀反の嫌疑をかけられて、28歳で切腹となった。殺生関白と罵しられるほどの悪行を本当にしていたかどうかは疑問であり、これは秀次粛清を正当化するための後付けであろう。秀頼の誕生で、彼が天下を秀頼に譲ると宣言し、その後見役として収まる事が出来ていれば、豊臣政権は長続きしたかもしれない。


●蒲生 氏郷(1556年〜1595年)

織田信長に近習として仕えていた頃、早くもその器量の片鱗を見せ、信長は娘の冬姫を宛てがって、一門に迎え入れている。その期待に応えて、氏郷は信長の主要な戦いのほとんどに参戦して、武功を上げた。その次の天下人、秀吉にも秀吉にも重く用いられて、ついには会津92万石の大大名にまでなった。秀吉は氏郷に、東北の驍勇、伊達政宗と関東の大実力者、徳川家康を押さえ込む役割を期待していた。しかし、逆に言えば、会津は一癖も二癖もある両実力者に挟まれる形ともなる。


このような難しい地勢の会津を任された事こそ、氏郷が政戦両略に優れていた何よりの証である。また、氏郷は茶の湯にも深い造詣があって、千利休の七哲(高弟)の筆頭でもあった。この氏郷が関ヶ原まで存命だったなら、豊臣政権の大老に名を連ねていただろう。そして、越後の上杉景勝や常陸の佐竹義宣と協力して、徳川家康、伊達政宗を牽制していたのではないか。この3人が組めば家康、政宗は動こうにも動けなかっただろう。



●小早川 隆景(1533年〜1597年)

小早川隆景は毛利元就の三男であり、政戦両略で才能を発揮して、毛利家の発展に尽力した名将である。元就死後には、家中の指導者的存在となるが、豊臣秀吉にもその才を愛され、政権中枢に迎え入れられて、五大老の1人となっている。1595年には養子、小早川秀秋に家督を譲って三原に隠遁するが、関ヶ原まで存命だったなら、毛利家を影から指導し、小早川秀秋もその意向に従って動いたかもしれない。

毛利一門を合わせると、毛利輝元120万石・吉川広家14万石・小早川秀秋34万石・小早川秀包13万石・安国寺恵瓊6万石の合計187万石という戦力となる。この戦力が隆景の指導の下、結集して睨みをきかせれば、家康もおいそれとは動けない。もっとも、隆景は老年であり、隠退の身でもあったので関ヶ原まで存命であったとしても、どれだけの指導力を発揮できたかは分からない。


●前田 利家(1538年〜1599年)

信長の一部将から始まって武功を重ね、能登国の大名となった。信長死後は柴田勝家に組したが、賤ヶ岳の戦いで勝家を裏切って、秀吉の勝利に大きく貢献する。その後は秀吉に付き従って昇進を重ね、やがては徳川家康に次ぐ人望と声望を得る程になった。 慶長5年(1600年)以降も存命だったなら、家康と協調しつつ政権内の対立を抑える事に尽力したのではなかろうか。もし、戦いに発展したならば、西軍の総大将となっていただろう。そうなれば、史実よりも多くの武将が彼の元に参集し、その結束も固くなっていただろう。


豊臣秀吉はなかなか実子に恵まれず、しかも親族も少なかったため、力量があって自らに忠誠を誓う武将は、一族の様に貴重な存在であっただろう。これらの人物を失ったのは豊臣政権にとって大きな損失であり、その寿命を縮める結果となった。これらの人物の内、一人でも長生きしていれば、家康の天下取りは困難に見舞われていただろう。しかし、家康を止められるほどの力量がある人物でも慶長5年(1600年)から数年ほどで亡くなってしまえば、やはり家康は天下取りに動き出すだろう。それに加えて、豊臣政権内では武断派と文治派の対立が頂点に達しており、これを抑えられる実力者がいなければ、遅かれ早かれ内乱状態に陥ったと思われる。


上記に挙げた人物に関わりなく、関ヶ原で西軍が勝利を収め、家康を倒していたと仮定しても、豊臣政権は安定しなかっただろう。豊臣家は血の通った親族を全国の要所に配置したいが、その親族がいない。そうなると要所にも外様大名を配置せざるを得なくなり、全国に親藩や譜代藩を配置した徳川政権よりも不安定な政権になる。それに豊臣秀頼もまだまだ幼い事から、指導力など発揮しようもない。豊臣家は勝利によって石高こそ増えるだろうが、当面は象徴的な存在として祭り上げられるだけだろう。


それに、西軍が勝利したとすると石田三成はもちろんだが、毛利家、上杉家も大きな役割を果たした事になり、両者は150〜200万石級の大大名に成長する事になる。この東西の大実力者は石高の増大に比例して、発言力も大きくなるだろう。そして、西軍勝利後の新生豊臣政権は、これら雄藩の実力者を集めた連合政権にならざるを得ない。その中で石田三成が豊臣家の権威を背景に、政権を主導していくのだろうが、雄藩の実力者とどれだけ協力し合えるだろうか?政権運営に行き詰まれば、実力者の力を削ぐ必要が出て来て、天下にもう一波乱か二波乱、起きそうである。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月18日 13時45分36秒 ) パスワード

続き


秀吉恩顧の叩き上げで駿府と鳥取の太守になった中村一氏と宮部継潤も惜しくも関ヶ原の前年に没していますよね。

また、蜂須賀小六と一緒に活躍した前野長康が秀次事件で切腹して戦国生き残りの世代が払底したのが痛い。

宇喜多秀家・毛利秀元・小早川秀秋・長宗我部盛親など、実は西軍の主力は二十代でしたからね!!

若すぎる。そりゃ百戦錬磨の家康に巧いことしてやられる訳だ。





Re:コメントありがとうございます - 管理者からの返答

2013.05.19 Tue 13:59

中村一氏は関ヶ原の戦いでは東軍側であったようで、本戦の直前に病死してますね。

一方、宮部継潤が生きていれば西軍側に立っていたと思います。宮部継潤は知名度こそ低いですが、政戦両略に優れ、秀吉の腹心とも言える存在でありましたね。ただ、老齢であったので関ヶ原本戦まで存命であったとしても、軍を率いるのは難しかったかもしれません。しかし、この百戦錬磨の老将が政略や作戦に参加していれば、また違った展開になったかもしれません。


前野長康は秀吉の数少ない譜代家臣であったので、その死は惜しまれますね。関ヶ原本戦まで存命だったなら、この人は西軍側に立っていた事でしょう。石高と兵力はそれほどでもないでしょうが、西軍側にとって信頼の置ける貴重な戦力と成り得たでしょうね。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月18日 13時49分43秒 ) パスワード

http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00381.htm

壊れるでしょうね。




《関係略図》

             黒田職隆┳孝高━━━長政
                 ┣利高
                 ┣利則
                 ┣直之
                 ┗女子
                   │
                   ┝━━━松寿丸
                   │
 稲葉通則┳良通(一鉄)       │
     ┗女子━━━━━女子    │
              │    │
              ┝━━┳直末
              │  ┗直盛
              │
 河野通直━一柳宣高━━┳直高━━┳直道
            ┃    ┗女子
            ┃      │
            ┃     小川祐忠
            ┃
            ┗(未詳)━可遊━━━女子
                        │
                       加藤光泰
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月18日 13時56分12秒 ) パスワード

元記事


http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00381.htm



一柳直末      ひとつやなぎなおすえ (1553〜1590)

戦国〜安土桃山時代。

羽柴氏家臣。
豊臣氏家臣。

伊豆守。

「熊」、「市助(市介)」、「末安」。
一柳直高の子。
黒田孝高の義弟。
小川祐忠の義兄。
一柳氏。

一柳直末は、天文23(1553)年に誕生する。

元亀元(1570)年頃に、木下藤吉郎(羽柴秀吉)の家臣となり、近江国の浅井氏討伐に功績を挙げたことを以って、天正元(1575)年、250石を与えられ、黄母衣衆となる。

その後も、秀吉に従い各地を転戦し、播磨での平定戦での活躍が認められ、同国姫路に2500石を加増される。

天正10(1582)年6月、『本能寺の変』が勃発。「中国大返し」を経て行われた『山崎合戦』において活躍し、山城国と丹波国の二ヶ国の内に6150石を与えられる。

天正11(1583)年、秀吉が柴田勝家を破った『賤ヶ岳合戦』でも活躍し、山城国槙島城城主に取り立てられ、6200石に加増される。



天正12(1584)年、徳川家康と対決した『小牧長久手合戦』では、羽柴秀勝の補佐に当たりつつ 美濃国竹ヶ鼻城を陥落させる。戦後、近江国瀬田城城主となり、1万5000石に加増される。

天正13(1585)年には、数々の武功から、羽柴秀次の宿老の一員に抜擢された上で、なおかつ、交通の要衝である美濃国大垣城城主に就き、2万5000石に加増される。

その後、美濃国軽海西城城主となり、6万石に加増。

天正18(1590)年、羽柴秀次軍の一部隊として参加。

しかし、3月29日、「山中城攻略戦」において、北条軍の圧倒的な火力の前に戦死する。

直末が戦死したことを知った秀吉は、言葉を失い滂沱の涙を流して、その死を悔やんだと言う。



一柳氏は、物部氏の流れを引く伊予河野氏を祖とする。

一柳直末は、一柳氏の祖である一柳宣高の孫として、天文23(1553)年、美濃国厚見郡西野に生まれたと伝えられる(一柳氏の祖については別説もある)。直末の誕生年は、他にも天文15(1546)年説がある。

母は、稲葉良通(一鉄)の姉の娘とも言われている。

直末は、元亀元(1570)年頃に、木下藤吉郎秀吉(羽柴秀吉)の家臣となる。正確な仕官時期は未詳であって、どのような経緯で、秀吉の家臣となったのかは不明である。

後年、直末が建立した大通院に関わる話の中に、直末を美濃土岐氏の家臣とする話もあるので、あるいは、土岐氏と主従関係があったのかも知れない。また、直末が秀吉に仕官したのと同時期に、直末の従兄弟とされる一柳可遊も秀吉に仕官しているが、可遊は、斉藤氏の家臣であったとされるので、直末もそうであった可能性が考えられる。

さて、秀吉に仕えた直末は、秀吉から25貫文を与えられている。因みに、当時の秀吉の全俸禄が2500貫であったとされる。また、直末が与えられたのは、15貫文で、当時の秀吉の全俸禄を1500貫文とする説もある。どちらにしても、秀吉の俸禄の中から1パーセント程度が与えられたものと見られる。

直末が仕官した年、秀吉は、4月に『越前朝倉氏征伐』、6月には『姉川合戦』の大きな軍事作戦に参加しているが、その中で、『姉川合戦』には、直末が確実に従軍したと考えられている。

天正元(1575)年、浅井氏が討伐されると、信長から浅井氏の旧領が秀吉に与えられる。

こうして、秀吉が長浜城城主となると、直末は、浅井氏討伐戦における軍功が高く評価されて、250石を与えられた上で、秀吉の馬廻衆である黄母衣衆に取り立てられる。因みに、同じ馬廻衆(黄母衣衆)仲間の神子田正治に与えられたのは250貫である。

秀吉の長浜時代には、直末の弟の一柳直盛が秀吉の小姓の列に加えられている。この時期、他に秀吉の小姓となった者は、石田三成、大谷吉継、加藤清正、福島正則等、後に豊臣軍団を構成する錚々たる顔ぶれが揃っている。

天正3(1575)年5月に『長篠合戦』、8月に『越前一向一揆殲滅戦』等、軍事作戦が展開されるが、直末も秀吉に近侍し最前線に立ったものと見られる。

天正5(1577)年8月、柴田勝家の援軍に北陸へ向かった秀吉は陣中で勝家と対立し、前線から無断で離脱。そして、9月に行われた『手取川合戦』で、柴田部隊が上杉謙信軍の前に壊滅。絶対的な危機を迎えるものの、秀吉は、信長から播磨の平定を命じられる。秀吉の名誉挽回のために、直末は、遮二無二戦場で駆け巡る。

こうして、10月に開始された『播磨平定戦』は、順調に進む。

その後も、『三木城攻略戦』等でも活躍し、天正8(1580)年7月、家督を相続。そして、播磨国姫路に2500石を与えられる。従来の250石から10倍の知行となった直末は、直盛を自身の下に加えて右腕とする。

また、時期は不明であるが、直末は、播磨国姫路の土豪である黒田孝高の妹を妻に迎え、孝高の義弟となる。

孝高は、秀吉の播磨進出と同時に、その帷幕下に入り、軍事参謀として大いに活躍した人物であり、その孝高の妹を妻とすることを秀吉から認められたことから見ても、直末が秀吉のお気に入りであったことが判る。また、孝高にとっても秀吉の近い直末と縁続きになったことは、秀吉軍団での地位を安泰にするものであったに違いない。

天正8(1580)年7月、家督を相続。翌天正9(1581)年6月の『鳥取城攻囲戦』、11月、『淡路島制圧戦』等にも参加。

天正10(1582)年6月。織田信長が明智光秀で本能寺で討たれる(『本能寺の変』)。直末は、秀吉に従い備中国高松城から「中国大返し」を経て、京の山崎へ取って返し『山崎合戦』において明智軍と戦い、これを破る。

これらの軍功をして10月には、直末は、山城国と丹波国の二ヶ国の内に6150石を与えられる。

天正11(1583)年、信長の跡目を巡り秀吉と柴田勝家との武力衝突が不可避となると、3月、前野長康、加藤光泰、浅野長政(当時、長吉)と共に羽柴軍の四番隊を構成し北近江へ出陣。そのまま柴田軍と対峙する。

その後、美濃国へ進軍するが、柴田軍が南下との一報を受けると、「大垣大返し」を以って北近江に戻り、 直末は、自らの部隊を率いて佐久間盛政の陣に攻撃を仕掛けて戦況を有利に導く等 『賤ヶ岳合戦』でも活躍を見せる。

8月、軍功が評され、山城国槙島城城主に封じられ、6200石となる。石高こそ僅か50石の加増であるが、直末が京近郊に配されたことは注目される。

やがて、秀吉と徳川家康との間に緊張が高まり、天正12(1584)年、遂に軍事衝突に至る。所謂、『小牧長久手合戦』である。

この合戦において、直末は、羽柴秀勝の補佐に当たっている。秀勝は、織田信長の四男の於次丸のことで、天正4(1576)年頃、秀吉の養嗣に迎えられ羽柴秀勝となった人物である。

『小牧長久手合戦』において、家康は、織田信長の次男の織田信雄と同盟することで自らの正当性を主張していたが、一方の秀吉も信長の四男の秀勝を擁することで対抗したのである。言わば、秀勝は秀吉にとっての錦の御旗であり、その秀勝の補佐を任されたのが直末だったのである。直末が、いかに、秀吉から信頼されていたかが伺える人事である。

また、この『小牧長久手合戦』で、直末は、美濃国竹ヶ鼻(竹鼻)城を陥落させたとされるが、詳細は不明である。

結局、『小牧長久手合戦』は、秀吉の政治的手腕で決着が付くが、戦後、直末は、東海道方面から京への入り口として重要な位置にある近江国瀬田城城主に封じられ、1万5000石に加増されて、一躍大名となる。

なお、12月には、秀勝と毛利輝元の娘(養女)との婚姻が決まっている。この婚礼話に、直末が関与したかは不明であるが、自らが戦場で、補佐した秀勝の婚礼を直末も喜んだものと思われる。

天正13(1585)年3月、紀伊国雑賀衆を平定した『雑賀衆征伐戦』では西部方面において活躍。次いで行われた長宗我部氏の征伐、即ち、6月の『四国征伐』にも出陣。さらに、8月になって、謀反を起こした佐々成政に対する討伐戦にも出陣する等、この年は、戦いに次ぐ戦いを過ごす。

それらの軍功と、これまでの秀吉への忠誠が認められ、閏8月、羽柴秀次の宿老に任じられる。この時、直末と同時に秀次の宿老に任命されたのは、田中吉政、中村一氏、山内一豊、堀尾吉晴、渡瀬繁詮等がいる。

吉政、一氏、一豊、吉晴、繁詮等は、かつて、長浜時代に共に秀吉の馬廻衆として戦場を駆け巡った同志でもある。

9月になると、改易された加藤光泰に代わり美濃国大垣城城主に封じられ、2万5000石に加増される。一説には加増は3万石とも言われる。この直末の大垣城城主任命は、秀吉の肝いりであったと伝えられる。

しかし、11月、『天正大地震』が発生。大垣城も大きな揺れに見舞われ、城中から出火し、瞬く間に火の手が広がり、大垣城中の建物は全て焼失してしまい、これまで、直末が信長や秀吉からの受けた感状も全て灰となる。

悲劇は続くもので、12月には、秀勝が死去する。

このような不幸事が続いた影響からか、天正14(1586)年になると、直末は、京の妙心寺に大通院を創建している。

同年、秀吉は、島津氏征伐のため、九州に出陣する。所謂『九州征伐』である。この戦役において、直末は、秀次の宿老として大坂城に入り留守を固めている。一方で、大垣城の再建事業と言う難題にも取り掛かる等、戦場での働きから奉行的な職務が増えて行く。

天正16(1588)年4月、後陽成天皇の聚楽第への行幸が行われ、直末は、秀次の諸大夫として供奉する。翌天正17(1589)年には、美濃国軽海西城の城主となり、6万石に加増される(時期等については異説もある)。

秀吉が北条氏の征伐を決めると、天正18(1590)年2月、秀次部隊の四番隊として出陣。この時、直末の部隊の陣容は、騎馬が253人、足軽2700余人であったと伝えられる(別説では、総員2000人とも)。この出陣では、直末と共に、中村一氏、堀尾吉晴、田中吉政、山内一豊、渡瀬繁詮等の秀次の老職たちも総動員されている。

3月1日、『小田原征伐』のために秀吉が出陣。3日には、駿河国沼津で秀吉を待つ。そして、山中城の攻撃を秀次部隊が受け持つことに決定すると、28日、秀次部隊と共に作戦に当たる徳川家康等と山中城の偵察を行い、直末は、山中城西ノ丸への攻撃担当となる。

かくして、29日、「山中城攻略戦」が開始される。

この日の夜明け、直末は、自部隊を指揮して海老ノ木坂を西ノ丸へ向かうが、城中から予想外の熾烈な鉄砲の斉射を浴び、横殴りの雨のような銃弾の前に次々と体を射抜かれ壮絶な戦死を遂げる。

朝食中の秀吉に「直末、戦死」の一報を届けたのは義兄の黒田孝高であった。孝高から直末の最期を知らされた秀吉は言葉を失い涙し、しばし茫然自失の有様となったと言われる。

直末の没後、一柳氏の家督は弟の一柳直盛が相続している。


一柳直末は、豊臣秀吉に長浜時代以前から仕え、その後、馬廻衆、城持ち大名となり、さらに、豊臣秀次の老職に任じられ、次代の豊臣政権の補佐をも託されるほどの人物であった。

だが、その直末は、戦場に命を散らす。

直末には、孝高の妹との間に男子の松寿丸をもうけている。ところが、いかなるいきさつがあったのかは不明ながら、松寿丸は、孝高の養子に迎えられているのである。因みに、「松寿丸」と言う名は、孝高の嫡男の黒田長政の幼名と同じであり、そこからも直末と孝高が親しい間柄であったことが推察される。その松寿丸は、養子となって間もなく夭逝した、と伝えられる。

直末の没後、弟の一柳直盛が直末の後継者となるが、それは、松寿丸が幼かったからか、あるいは、既に松寿丸が没していたからなのかは未詳である。



この後、秀次粛清の前後、秀吉に仕えた生え抜きの武将たちには過酷な運命が待ち受けるのであるが、秀次の老職であった田中吉政、中村一氏、山内一豊、堀尾吉晴等は難を逃れている。しかし、その一方で、直末の従兄弟で同じく秀次に仕えた一柳可遊は粛清の対象となり、秀次に連座して命を断たれている。



もしも直末が存命であったならば、どのような運命が待ち受けていたのか?それは今となっては判らない。

そういう意味では、「豊臣秀吉の忠実な家臣」として戦場で最期を迎えることの出来た一柳直末は幸せであった、と言えるのかも知れない。

[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月18日 13時59分46秒 ) パスワード

http://rekigun.net/published/details/series-08.html


歴史群像シリーズ特別編集 『石田三成 復刻版』
戦国を差配した才知と矜持


石田三成 復刻版
■ISBN/4-05-605903-9
■B5判・180ページ
■定価(税込))1,620円

動乱の世に生まれその類まれなる才知で政権中枢部を牛耳るまでになる石田三成。が、その非凡さゆえに多くの武将から敵愾心をもたれる。秀吉という太陽の下でしか花咲けなかった男の生涯に迫る。ご要望にお応えして復刻!!

■主な内容

【カラー特別企画 三成と戦国の春秋】
誕生・秀吉との出会い/中国戦線/賤ヶ岳の戦い/太閤検地/博多町奉行/忍城攻め/佐和山城築城/文禄の役/秀次事件/慶長の役/関ヶ原の戦い

【ドキュメント人間三成】

【三成を解く六つの鍵】
一族と出生の謎/奉行の能力/領国経営/教養と美学/武将としての資質/武と文の側近

【太閤事件簿】
千利休切腹事件/加藤光泰怪死事件/蒲生氏郷毒殺事件/豊臣秀次追放事件/加藤清正蟄居事件/小早川秀秋左遷事件


         ココですね
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月18日 19時35分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今帰ってきました。行程時には余りにも順調過ぎて、予定より1時間半
程早く帰ってこれました。高遠の桜は満開を過ぎて、風に吹かれて桜吹雪とな
っておりました。それもまた風情があっていいものでした。
 もう1ヶ所、光前寺というお寺に寄り、見事なしだれ桜や三重の塔を見てま
いりました。またここにはヒカリゴケが石垣の奥にはえており、暗闇の中で緑
色に光っている光景は幻想的でした。

 ただ私の目的は桜でなく、歴史的事実の探索ですので、その辺についての
話をいたしますと、行程的には花見が中心に組まれていましたので、他に費
やす時間はほとんどなく、高遠の歴史博物館に入るのがやっとでした。資料
となる本を4冊程仕入れ、館内を駆け足で回っただけで、歴代の藩主の名前
位でしょうか、一応記憶の片隅に残しました。大奥「絵島」の幽閉された
「囲み屋敷」は歴史博物館のすぐ北側にありましたので、一回りして部屋の
中も覗いてまいりました。ちょうど関所のような感じがいたしました。大奥
についてはあまり知識がなかったので、ちょうどいい勉強になりました。

 本日の旅で仕入れた歴史的な史料等のまとめは、近日中にいたします。と
いうのも、帰って来てからレスを見させていただきましたら、これまた深い
情報が一杯詰まっておりますので、そちらをまず先に読解させていただくこ
とにいたします。いつもながらありがとうございます。「さすがあを様!」
の連発です。

 
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月18日 22時45分15秒 ) パスワード

三つ柏さん


お帰りなさい。
早めに帰宅出来て、良うございました。


さようでございますね。
時期的に今は「さくら見物」になりますね。


散り際の桜も美しいので、桜吹雪の高遠も良い観光になりましたね。



>ヒカリゴケが石垣の奥にはえており、暗闇の中で緑色に光っている光景は幻想的でした。

思わぬ拾い物になりましたね。
めったに見られるものではないのでしょ?
話のタネになりますね。


    石垣の奥にひっそりと隠れるように光っていて可愛いかったとか
    酒の肴になりますね。




さてレスの<56>をまたまた眺めていまして


        家康旧領に配置された主な大名は以下の通りです。


        三河国吉田   :池田輝政(秀次正室の兄)
        三河国岡崎   :田中吉政(秀次の家老)

        遠江国浜松   :堀尾吉晴(秀次の家老)
        遠江国掛川   :山内一豊(秀次の家老)
        遠江国横須賀  :有馬豊氏(秀次の家老・渡瀬繁詮の家老)
        遠江国久野   :松下之綱(秀次の家臣)

        駿河国駿府   :中村一氏(秀次の家老)
        甲斐国信濃国統括:豊臣秀勝(秀次の弟) 


秀次事件で遠江に戻って来た加藤氏とは、どなたの関係者なのだろう?と見てて
    遠江国久野の松下之綱(秀次の家臣)
が1番アヤシイかな?と思いました。


まだまだ全く分かりませんが
堀尾吉晴が次にアヤシイかなとも思いますが
やっぱり松下之綱関係で戻って来たのでは?と想像します。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 07時08分27秒 ) パスワード

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1358.html

子の重綱の話は知らなかったです。



松下家二話


2011年06月12日 00:01

松下之綱

14 名前:松下家1[] 投稿日:2011/06/11(土) 03:42:32.31 ID:JGJ7Fe4l
いい話

やり術に優れ兵法にも通じていた松下之綱は豊臣秀吉の一番最初の主君として有名であるが、
従来の最初の秀吉の主君だけであるイメージと違いずっと秀吉とのかかわりを持ち続けた人間である。
秀吉に字や学問を教えたのは之綱だと言われる。また秀吉が仕えたのは長則とも言われる。

秀吉は彼から具足購入のために預かった5両を持ち逃げし尾張に出奔したとの逸話もあり、
このことを深く後悔していたのかはたまた最初の主君として恩義を感じていたのか
1574年に長浜城主となっていた秀吉は松下之綱を召抱え長篠の戦にも秀吉の
先陣として100騎を預けられた。

1582年、本能寺の変後も秀吉に従い続け1583年、
賤ヶ岳の戦いの後に秀吉から3000石の領地を与えられている。
その後も出世を続け、1587年、従五位下・石見守に叙位・任官し同年、
秀吉から丹波3000石を加増され6000石を与えられる
1590年、小田原合戦の後、遠江久野1万6000万石を与えられ大名となった。
秀吉はずっと松下家から受けた恩を忘れなかったのである。

1598年、秀吉に先立つこと7ヶ月前、2月16日に死去した。秀吉と同い年である62歳であった。




16 名前:松下家2[] 投稿日:2011/06/11(土) 04:05:52.11 ID:JGJ7Fe4l
いい話

松下重綱は之綱の次男として生まれ豊臣秀次に仕えた。
秀次事件で松下家が連座させられなかったのも松下家と秀吉の絆がわかるものだ。
1598年には父が死んだため重綱が松下家の家督を継いだ。

豊臣恩顧と言ってもいい彼であるが
関ヶ原の戦いでは東軍に属し岐阜城攻撃、
水野勝成属下で大垣城攻撃、石田三成隊50の首級を挙げるなど活躍。
1603年石垣の無断改築による常陸小張に移封となるが同じだけ領地は与えられているので東海道筋に
豊臣系の大名がいるのを嫌がったためであろう。

1614年からの大坂の陣で自ら槍をとり戦うなど奮戦。
毛利勝永隊に撃破されるもののその功績により2万8000石に加増された。


なお余談であるが
1627年、加藤嘉明が会津40万石に加増移封されると、娘婿だった重綱も陸奥二本松藩5万石に加増移封され、
嘉明の与力大名となり
転封直後に死亡した。父と同じ出世街道を歩み続けた。


[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 07時18分42秒 ) パスワード

http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi22.htm

真ん中あたり


服部正栄 (*)土佐守。尾張中村出身。「小田原攻め」に従軍。「大坂の陣」のち前田家客将。




西軍に味方した服部さん。
中村出身ということは秀吉の実家の近くだった?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3%E6%A0%84

服部 正栄(はっとり まさひで、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将・大名。土佐守。

豊臣秀吉と同郷の尾張中村の出で秀吉の馬廻衆となる。
仕えた時期は不明。

小田原征伐、文禄の役に従軍。
小田原征伐には、130の兵を率いて馬廻として出陣、近江国蒲生郡266石加増された。

その後、検地奉行となり、慶長3年(1598年)5800石を加増され旧領と併せて越前国および近江国内1万石の大名となった。

同じ奉行の溝江長氏、伊東長実も1万石に加増され大名となっている。

関ヶ原の戦いでは西軍に属し、大坂高麗橋を藤掛永勝と協力して守備した。
その後、大坂城留守居・守備隊として大坂城周辺を守備した。戦後、改易となり、豊臣秀頼に仕える。
大坂の陣で籠城したが敗れ、前田利常に預けられた。元和年間に同地で没した。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 07時31分47秒 ) パスワード

レス<65>のスピンオフのお話

    余談であるが
    1627年、加藤嘉明が会津40万石に加増移封されると、
    娘婿だった重綱も陸奥二本松藩5万石に加増移封され、
    嘉明の与力大名となり転封直後に死亡した。
    父と同じ出世街道を歩み続けた。


          ↓


http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/09/post-916b.html

2011年9月10日 (土)



何となく腑に落ちない松下長綱の改易


 

万治元年(1658年)9月10日、陸奥二本松藩の第2代藩主で、後に陸奥三春藩主となり、その後改易処分となった松下長綱が、49歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

松下長綱(まつしたながつな)の生まれた松下氏は、近江源氏・六角氏の流れを汲む家柄・・・鎌倉時代の末期に三河国碧海郡(あおみのこおり・へきかいぐん)松下郷(愛知県豊田市)に住みついた事から松下姓を名乗るようになりました。

長綱のお祖父さんに当たる松下之綱(ゆきつな)という人は、遠江(とおとうみ・静岡県西部)頭陀寺城(ずだじじょう・静岡県浜松市)主として、今川義元に仕えていた人なのですが・・・

この之綱さんは、浜松の曳馬川(ひくまがわ)で、ホコリまみれでたむろするサルのような同世代の少年に声をかけた・・・その人。。。そうです!その少年が、後の豊臣秀吉・・・お互いが15歳の時でした。


その後しばらく之綱に仕えた(之綱の父・長則に仕えた説もあり)秀吉は、まもなく、ここを去りますが、おそらくは、百姓だったか商人だったか職人の卵だったかわからないけれど、少なくとも武士ではなかった秀吉に、兵法や武芸のたしなみを伝授したのは、この之綱さんだったのかも知れませんね。


なぜなら・・・義元亡き後に徳川家康に仕えていた之綱を、長浜城主となった秀吉が、家臣として召し出すわけで・・・ひょっとしたら、恩返しだったのかも




その後、秀吉とともに生きた之綱は、小田原征伐の後に遠江久野(浜松市)・1万6,000石の久野城主となり、まもなく死去・・・之綱の息子の松下重綱(しげつな)が後を継ぎ、その重綱が、あの賤ヶ岳の七本槍(4月21日参照>>)の一人として有名な加藤嘉明(かとう よしあき)の娘を娶って、二人の間に生まれたのが、本日主役の長綱・・・というワケです。





その後、常陸小張(こばり・茨城県つくばみらい市)を経て、徳川の時代となった寛永四年(1627年)3月には、嫁さんの実家の加藤家が会津40万石に加増移封となった事にともなって、父・重綱も陸奥二本松藩(福島県)5万石に加増移封されました。

しかし、そのわずか7ヶ月後の10月に父・重綱が死去・・・で、長男の長綱が後を継いで、3ヶ月後の寛永五年(1628年)の1月に第2代藩主となったのですが・・・



その直後・・・「藩主が、まだ幼い」という理由で、陸奥三春藩(福島県三春町)3万石に移封されてしまったのです。


「幼い」って・・・( ̄○ ̄;)!


長綱は、慶長十五年(1610年)の生まれですから、この時、すでに19歳・・・「幼いか??」
という疑問は、当然の事ながら、長綱さん自身の疑問でもあります。


なにやら、策略の臭いプンプンしますね〜


祖父の死後、父が、関ヶ原&大坂の陣で家康について頑張ったとは言え、所詮は、今川&豊臣恩顧の外様・・・「ヤラれたかもね」と思いつつも、転封命令には従わねばなりません。


ここは、男・長綱・・・こらえて黙して、すなおにお引っ越しをしますが、三春に移ってからは、以前の元気もなく、何かと、一人で考え込むような人になってしまいます。


やがて、転封から9年後の寛永十三年(1636年)頃から、その挙動におかしなところが見え始め・・・


目がうつろになり、家臣と話していても落ち着きが無く、いつも何かにイライラしている・・・やがて、天井を見て急に笑い出したり、空に向かって怒ってみたり・・・


さらに、最終的に刀を抜いて、家臣や女中に斬りかかるようになり、「これはイカン!」とばかりに、寛永十九年(1642年)に幕府が監視役を派遣して調査。


その結果報告が「正気にあらず」だった事から、「藩主の能力なし」として寛永二十一年(1644年)4月10日に改易・・・奥さんの実家だった土佐高知藩主・山内忠義(ただよし)に預けられる事になります。


その後は、土佐の久万村という所で静かに余生を過ごし、万治元年(1658年)9月10日、49歳でこの世を去ったのでした。

お気の毒に・・・やっぱり、理不尽な減封への不満をガマンし続けた事で、心が病んでしまったのでしょうね〜〜〜


と、思いきや、実は、これも怪しいのです。


死人・・・いや、負け組に口無し、負けた側には弁解の余地も与えられない時代ですから、徳川の記録では「ご乱心の改易」って事になってますが・・・


実は、その前年、長綱さんのお母さんの実家である加藤家が改易になっているのです。


                   ええっ???


確かに、この加藤家には、家臣同志の争いが、藩主VS家老の対立に発展し、藩主の加藤明成(あきなり・嘉明の長男)が、その家老の堀主水(ほりもんど)と一族を処刑するという『会津騒動』という事件があっての改易なのですが・・・(1月21日参照>>)


なんとなく、ついでに潰された感のぬぐえない長綱さんの改易・・・


本当にご乱心の改易だったとしてもお気の毒なのに、もし、それも幕府の創作だとしたら、さらにお気の毒・・・いつか、汚名を晴らせる日が来る事を願って・・・
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 07時43分43秒 ) パスワード

このブログを読んで思ったことがございます。



服部正栄が加賀に預けられたということは・・・

   これはきっとこの服部家と前田家が親戚だったからか?と。



もともとこの服部家は中村の出身。
前田はちょっと南の荒子の出身。

その上に前田と秀吉は信長を通して親友関係になった。
ということは服部正栄は秀吉の家来だから前田家とも親しくて当たり前。


何故預けられたのが前田なのか?
   ということで姉妹か娘が前田関係者に嫁いでいた
   と考えられますよね。



更にこの服部正栄は津島の服部一忠とも知り合いだったでしょうし。
一忠は秀次事件で詰め腹を切らされた。


   きっと大老・前田利家の家来になっていたのかも。 
   それで預けられたのかも。




服部 一忠(はっとり かずただ、生年不詳 - 文禄4年(1595年)7月)


戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は小平太、采女正。名は春安、忠次とも。



生涯[編集]

尾張国の出身。
はじめ織田信長に馬廻として仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて今川義元に一番槍をつける戦功をあげた。

しかし、義元の反撃を受けて膝を斬られたので、首級を挙げたのは助太刀に入った毛利良勝であった。

桶狭間の戦い以降は織田氏の配下として目立った活躍は知られていない。


天正10年(1582年)の本能寺の変ののち、再び馬廻として豊臣秀吉に仕えて黄母衣衆の一員となる。

天正13年(1585年)、従五位下采女正の官位に叙せられた。
また、小田原征伐の戦功により、天正19年(1591年)に松阪城主に抜擢されて伊勢国一志郡に3万5000石を与えられ、
同時に当時、尾張・北伊勢の支配した羽柴秀次に付けられた。
文禄元年(1592年)、文禄の役において漢城に従軍。


文禄4年(1595年)の豊臣秀次失脚に連座して所領を没収され、上杉景勝に預けられた後、切腹を命じられた。


次男の勝長は大崎長行の養子となり紀伊徳川家に仕えた。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 07時49分05秒 ) パスワード

http://kazusanosukesengokusyoten.web.fc2.com/busyou/toujyoujinbutu-ma.htm





松下 清景 まつしたきよかげ (松下源太郎)
今川家の家臣、松下嘉兵衛之綱の一族、井伊直政の母と再婚し直政を養子とした


                     井伊直政の母の後夫
                     忘れてました




松下 弦八郎 まつしたげんぱちろう
松下之綱の庶子、柳生宗矩の妻の異母弟、
幼い頃より剣を学び、はじめ新当流を習得したが、姉が嫁ぐと義兄・宗矩から新陰流を学んだ






松下 之綱 まつしたゆきつな (松下嘉兵衛)
今川家の家臣、松下長則の子、松下嘉兵衛之綱、頭陀寺城主、木下藤吉郎が一時身を寄せていたといわれる、

桶狭間ののちに宮口方面に逃げて身を隠した、のちに秀吉が出世したときには取り立てられ、久野城主一万六千石の大名となった

[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 07時57分06秒 ) パスワード

http://kazusanosukesengokusyoten.web.fc2.com/busyou/toujyoujinbutu-ha.htm




服部 小藤太 はっとりことうた

服部小平太の弟、兄に代わり津島服部家の家督を相続、織田信長に仕えた、信長が安土城に移ったときに織田信忠づきを命じられ文書発給に携わった、

本能寺の変では二条御所で討死、ただし、討死したのは小平太で、本能寺の変ののちの小平太の経歴が小藤太のものであるとの説もある





服部 藤次兵衛 はっとりとうじべえ
新陰流の剣客、神後伊豆守の弟子、山城の出身




服部 友貞 はっとりともさだ (服部左京亮)

尾張・弥富の土豪、織田信秀の家臣服部政家の子、友定ともいう、通称・左京亮、

父の死後に伊勢・北畠家に仕え、桶狭間の戦いでは今川方に属す、義元の討死によって尾張に引き上げる、

その後長島一向一揆に与して織田信長に対抗した、のちに信長の謀略にかかり自害





服部 半八 はっとりはんぱち

松平忠頼の寵臣、水野忠胤邸へ主君・忠頼に伴って行ったとき、大番士・久米左平次と口論となり刃傷に及んだ、
この責任をとって自刃する






服部 平左衛門 はっとりへいざえもん

伊賀の住人、藤堂高虎の家臣、荒木又右衛門の父、
淡路で浪人した後に備前・岡山藩の池田忠雄に召し抱えられた




服部 平兵衛 はっとりへいべえ

伊勢・桑名城主本多忠勝の家臣、子がなかったため服部平左衛門の次男・丑之助(のちの荒木又右衛門)を養子とした






服部 正重 はっとりまさしげ


服部半蔵正成の次男、関ヶ原で抜け駆けの功名をたくらんだため徳川家康の勘気にふれ蟄居を命じられる、

その後許されて大久保長安預かりとなった、              そういうことだったの?!

長安の娘を娶り佐渡金山などの目付として派遣された、

大久保一族の事件の連座は免れたが、許可無く任地を離れたことを咎められて村上義明預かりとなる、
のちに松平定綱のもとに身を寄せて二千石を与えられた






服部 正尚 はっとりまさなお (服部平大夫)


伊賀の国人、一説には丹波出身で猿楽師であったともいう、通称・平大夫、

戸塚忠春が戦死したのちに妻を娶り、その子・お愛(のちの徳川家康の側室・西郷局)を育てた、

本能寺の変が起こった情報をいち早く家康に知らせ、家康の伊賀越えに同行した






服部 正就 はっとりまさなり


服部半蔵正成の嫡男、伊賀同心からは慕われておらず、同心が正就の罷免を求めて四谷の長善寺に籠城した、

幕府の調停で首謀者が処罰されたが、正就が首謀者の一部と勘違いした伊奈忠次の家臣を斬殺したため閉門、

大坂の陣に御家再興を願って参陣したが討死した






服部 政秀 はっとりまさひで (服部権大夫)            政信の家ですね

服部左京亮の子、はじめ右京進、のちに権大夫と称す、
父とともに桶狭間の戦いで今川方に属し、大高城に兵糧を運んだ、
のちに父と袂を分かち徳川家康に仕えた、






服部 康高 はっとりやすたか (服部源左衛門)

今川義元の家臣、通称・源左衛門、法号・浄圓、若いときに伊賀で人を殺めて駿河に逃れて義元に仕えた




服部 保次 はっとりやすつぐ

伊賀・阿拝の国人、服部中保次、宗次、服部小平太と同一人物とも言われる、

織田信長に仕えたが、徳川家康の三河統一後に徳川家に仕えた、

武田領との国境守備を担当しながら、謀報活動に従事する、

本能寺の変後、鉄砲同心百二十二人の長となった、その後甲斐で岩殿城番となる、

大久保長安事件に連座した                        ええ?そうなの???






服部 保俊 はっとりやすとし

服部保長の長男、徳川家康に仕えた、
桶狭間の戦いののち、三宅右衛門大夫の高橋城攻めに参加して討死した






服部 保長 はっとりやすなが (服部半蔵・半三)

伊賀の上忍、服部半蔵正成の父、初代・服部半蔵、半三ともいわれる、
官名は石見守、室町幕府十二代将軍足利義晴に仕えたが、のちに三河に移住して松平清康に仕えた






服部 康成 はっとりやすなり

服部正成の子といわれる、長門守、

津軽為信に仕え、関ヶ原の戦いでは美濃・大垣城攻略戦で一番乗りを果たし、徳川家康から一字をもらって康成と称した






服部 保正 はっとりやすまさ

服部保長の次男、源兵衛、長男・保俊より年上だったが、母の出自の関係で次男とされたと言われる、

三方ヶ原の戦いで討死した


[71]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月19日 08時01分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様よりいただいた光泰関係の情報、いろいろ奥深いものにつながって
いる予感がいたします。
 松下之綱の動きを重点に追ってみたいと思います。松下一族は井伊家とも
つながっています。
 また、家康関東転封後の三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の大名の配置は、
秀次の家臣ばかりというのが、何か大きな意味と謎がありそうです。秀次
は勇猛な武将だっただけでなく、他の要素も何かありそうです。
 光泰も秀次とは気が合ったと思います。ちょうど半蔵と信康のような関係
か・・・。

 これからタケノコ堀の第二弾に出掛けてきますので、帰りましたら復帰い
たします。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 09時17分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


たけのこですか。
いいですね。
懐かしい。

タケノコの皮で大葉=紫蘇=を巻いてチューチュー吸った記憶がありますが
なんであんな物を吸ってたのかいまだに分かりません。



さて服部正栄ですが
通字の正でハタと思いました。


    「正」が通字というと半蔵の家の一族?半蔵や正尚の一党?


ということは服部正栄はひょっとすると加賀前田家に送り込まれたのかしら?と。



服部 保長 はっとりやすなが (服部半蔵・半三)
室町幕府十二代将軍足利義晴に仕えたが、のちに三河に移住して松平清康に仕えた


     秀次の守り役の服部一忠も足利義晴がらみという話ですから
     このあたりは親戚だったんでしょうか?


謎が謎を呼びます。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 09時18分23秒 ) パスワード

そろそろ  XXXIII  33  を立ててくださいね。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 09時23分47秒 ) パスワード

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-03-01-09.htm

文字化けで読めませんが


    堀秀治の越後転封 - 『福井県史』通史編3 近世一


    この年の太閤検地を機に、検地奉行を勤めた溝江長氏・服部正栄・伊東長次の三人は、ともに一万石に加増された。

    服部正栄の越前での領知は足羽郡・今立郡の二郡八か



こんな事が書かれているようです。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 09時27分09秒 ) パスワード

同じサイト


http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-03-02-07.htm


太閤検地と越前の領主 - 『福井県史』通史編3 近世一

第一章 織豊期の越前・若狭 第三節

豊臣政権と若越
二 太閤検地と新しい支配 太閤

... 長氏は検地後七五〇〇石を加増され、服部正栄は五八四八石を加増され、伊東長次 ...





服部正栄は福井なんかにいたのでしょうか?
それで加賀前田に預けられた?
福井は検地で歩いているから土地勘はあったでしょうね。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 09時34分54秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9D%9F%E7%9B%B4%E5%90%89



長束 直吉(なつか なおよし、永禄10年(1567年) - 慶長5年10月3日(1600年11月8日))

安土桃山時代の武将、大名。
父は水口盛里といわれる。
兄に長束正家。
正隆とも。通称藤三、次郎兵衛。官位は伊賀守(文禄3年2月叙任)。



大名時代[編集]

同年この功により近江国内に1万石を拝領、大名に列する。広瀬加兵衛が与力として附属した。



翌2年12月には平野新八と共同で、豊臣秀次の領地の尾張国愛知郡を検地する。

                            ココ驚き


文禄3年(1594年)従五位下・伊賀守に叙任され、豊臣姓を下賜された。
また、名を直吉と改める。同10月、日野輝資の領地の検地を行う。


慶長3年(1598年)には正家の下で越前国検地の奉行の一人として働いた。[2]



関ヶ原[編集]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、兄の正家の近江国水口岡山城を守備した。本戦で戦わうことができずに帰還した正家が水口に入り城を固めたが、池田長吉に欺かれて城を出て、桜井谷で正家とともに自刃した。また、9月30日に開城して兄弟で自刃したとも伝わる。




脚注[編集]


2.^ 同役の奉行には伊東長次・井上新介・吉田益庵・小堀正次

・木村由信・朽木元綱・駒井重勝・杉若藤次郎・建部寿徳・新庄直忠・長谷川以真・服部正栄・

                                         ココ



林伝右衛門・速水守久・溝江長氏・御牧景則(明智旧臣、秀吉馬廻)・山口正弘の18人が確認されている。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 09時39分14秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/kawabemasatake/oda.html


これは加藤嘉明の家のようです。


加藤泰景行景裔景長流景廉流

景恒

景俊

広兼景俊孫

朝明広兼子?左馬仕松平清康

  教明朝明子孫次郎岸三之丞広明景喜仕松平広忠

  嘉明15631631教明子孫六茂勝左馬従四位下侍従三明院道誉宣興志智松前松山会津城主

  明成15921661嘉明子孫次郎式部侍従円通院休意会津城主

  明友16211683明成子孫三郎内蔵皆足院了智水口城主

  明英16521712明友子義之助孫太郎寺社奉行奏者番若年寄



  明信嘉明子監物

  明利15991641嘉明子民部三春二本松城主

  明勝16321645明利子弥三郎

  明正明利子

  嘉遐16311697明利子三左衛門

  明重====1684明利子源左衛門



  忠明教明子内記

  嘉政教明子左衛門

  景光朝明子景重壱岐
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 09時45分37秒 ) パスワード

服部正栄土佐

  太郎八正栄子

  出雲正栄子村瀬平右衛門


    

ありました!
子供が2人?
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 09時49分08秒 ) パスワード

違う加藤さん?



加藤光景宗景子景佐孫景清曾孫景経玄孫景廉耳孫景業裔景正流重景流次郎

景政光景子図書

  景順景政子図書

  宗繁景順子図書

  信久宗繁子図書

  景繁====1505信久子図書

  順光====1547景繁子図書

  順盛15141588順光子図書

  順政順盛子吉郷図書

武公順政子又八郎図書

順正武公子図書

慶順順正子図書



  弥三郎順盛子赤母衣衆三方原



  延隆====1571景繁子隼人全朔

  景隆延隆子資景

  景延景隆子

  家勝景隆嗣奥村正清子与三郎

  元隆延隆子

  信祥====1474勘三郎文明頃

  勘三郎

  助丞

  市左衛門

  彦左衛門

  与十郎

  兵庫

次郎左衛門林秀貞寄騎
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 09時57分21秒 ) パスワード

http://ameblo.jp/toushiun/entry-11017957224.html


関ヶ原の戦い
戦争:関ヶ原の戦い
年月日:慶長5年9月15日(1600年10月21日)


大坂城留守居・守備隊


毛利輝元
前田玄以(中立説もあり)
増田長盛
青木一重
石川貞通
山名堯熙
山名堯政
木下秀規
木下一元
小出秀政
服部正栄                   ココ
真野頼包
宮城豊盛
山中長俊
[81]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月19日 21時07分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秀次事件で切腹させられた者の血縁者または関係の濃い者で、遠江の池田庄
に逃れて来て逸民となり、帰農し、やがて善地を開墾した者は誰か・・・?

 一番可能性のあるのは、切腹させられた「一柳可遊」の「長男」で加藤光泰
の養子となった「加藤光吉」関係者。

 次に可能性の有る者は、切腹させられた「服部一忠」の直系子孫・・・これ
については資料がないので、今のところ全くわからない。

 服部一忠は小平太とも呼ばれ織田信長に仕え、桶狭間の戦いにて今川義元へ
一番槍をつきつけたといわれている。それと同じ伝承を持った人が服部中保次
で、やはり織田信長に仕え、義元への一番槍をつけている。
 服部一忠と服部中保次の関係は、今のところしかとはわからない。しかしな
がら、信長に仕え桶狭間の戦い(1560年)で今川義元に迫った間柄である。
知らない仲であるはずがない。中保次は1587年に遠江引佐刑部にて今川の
残党に暗殺され、一忠は秀次事件(1595年)で連座責任を問われ切腹となる。
 一忠は秀吉の黄母衣衆で、加藤光泰は美濃衆。双方とも勇猛果敢な同士であ
るので気心知れた仲である。
 服部一忠も服部中もその親・祖父・曾祖父・・・については情報がない。
服部中については、保次以降の系譜はほぼわかっている。
 服部一忠と松下之綱は秀吉配下でつながる。服部中と松下常慶(安綱)は家康
配下でつながる。
 之綱と常慶は高祖父が国長で同族である。
 従って、松下氏が二者にからむ(ツナギ役)。そういう意味ではあを様の推論
は正しいと言えます。

 本日はここまでとします。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月19日 22時56分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

>善地を開墾した者は誰か・・・?

これは浜松史・遠江史で簡単に答えが出る範囲と思いますが
残念ながら
その資料にまだ辿り着いてない
という段階ですね。


    図書館でそのうちにバッタリ出会いますよ。
    でもそれまでに膨大な時間がかかるんですよね
    捜すと隠れる、そういう鬼ごっこが暫く続くということです。

       気長に、気長に
       男女間と同じで追えば追うほど逃げていく、というのです。
            She plays hard to get.と英語で言います。

       追い掛けるのを止めた途端に「なんなのよ!もう諦めたってこと?」と向うからやって来る

    資料捜しはそんなもんです
    意外な身近にあったりします。 





>一番可能性のあるのは、
>切腹させられた「一柳可遊」の「長男」で加藤光泰の養子となった「加藤光吉」関係者。

まだまだ全く一柳系には手が付けられないでいます。


  
>服部一忠と服部中保次の関係は、今のところしかとはわからない

服部政信あたりが仲介している感じはします。
もともと津島神社で繋がっているんだろうなと。


   服部一忠の方はそのまま尾張にとどまって信長の家に仕えることになったんでしょうね。

   服部中や政信の家は斯波家の凋落でいろいろ翻弄されたと思います。
         服部中の方は三河の松平へ、
         政信の方は信長を仕留めるつもりで失敗して桶狭間以後に三河の松平へ。

 
 
きっと3者は知り合いだったと思います。


そして秀吉と松下さまの関係で服部正栄とも繋がるのでは?と思います。
松下さま関係から忍者の関係も浮かんで来ますね。


ゆっくり行きましょう。

[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月20日 05時02分40秒 ) パスワード

復習

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E9%83%A1_ (%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C)


幕府領・旗本領     1村    善地村のみ
    善地村、善地村新田に分かれて記載。
        善地村が旗本領、
        善地村新田が幕府領。



上善地村と中善地村は旗本領
中善地村新田、上善地新田は幕府領


    わたくしには善地村と善地村新田の区別がつかないです。

これだけ分かっているのですから、浜松市に記録があるはずです。
善地村を持っていた旗本は誰だったのか?
これが分かると良いですね。


    名古屋の場合は結構町の名に出資者の名前がついているので
    熱田神宮が開発のダンナさんだったのかとか
    丸栄百貨店の前身の十一屋さんが出資者だったのか
    など分かります。
    小口で出していた庄屋さんは分かりませんが、通りや区画に名前があったりうるので
    ココはXXさんか、などちょっと分かったりします。
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月20日 12時14分09秒 ) パスワード

服部政信の父と服部家ホンヤさんの先祖が兄弟ですね。



服部小藤太は服部小平太の弟になってますね。
服部小藤太は信長の親衛隊の1人で、明智に信長が襲われた時、違う場所に宿泊してて
信長の難を知って駆け付けて亡くなってて

京都の阿弥陀寺にその時の親衛隊112名の名簿
それから信長の墓を取り囲むように親衛隊の墓があって
その中の2人(服部小藤太と毛利新助)が歴史ヒストリアで紹介されてましたね。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月20日 12時56分10秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/kawabemasatake/oda.html



加藤景利 どなた?



平野甚右衛門 津島小法師ちょっぽり甚右衛門鮫尾城代仕佐久間盛政上杉輝虎景虎景勝御館


             平野甚右衛門は歴史ヒストリアで出てた小柄で信長に売り込んで親衛隊になった人ですね
             一番の武勇だったって



長田三十郎                      長田さんも結構仕えてますね

  助右衛門三十郎子

  平兵衛助右衛門子

  新右衛門平兵衛子

  八右衛門平兵衛子

  次郎兵衛平兵衛子

  丹羽権平長田三十郎子        ←  丹羽家に養子に行った?

  孝延権平子

  織部孝延子

  佐左衛門権兵衛子

  吉左衛門



平野幸右衛門


加藤右衛門
大蔵 加納姓?           加納ということは美濃系加藤氏?



毛利彦十郎

  助右衛門彦十郎子

  正基助右衛門子




入江九左衛門仕溝口定勝            萩の入江九一と関係あり?

  九左衛門九左衛門嗣柏木惣右衛門子

  九左衛門九左衛門子

伝兵衛====1675九左衛門子



覚大夫

覚右衛門覚大夫子




兼松与三郎 仕村上義明討河野氏房          兼松正吉さんも歴史ヒストリアに出てましたね
                          信長の足半あしなかを拝領した人
                          肖像画にも足半をちゃんと描いていましたね




中村一宗二宮実一子実忠孫時忠曾孫忠員玄孫友忠耳孫友平流橘公長裔?

  一継

  一統

  一康

  一秀

   一政孫平次

   一成一政子

  一氏====1600一成子一政子?瀧吉一子?孫平次従五位下式部岸和田水口駿府城主羽柴秀次傅中老

               秀次の守り役ですね
  忠一15901609一氏子一角一学松平伯耆 駿府米子城主

  一矩忠一子

  一親忠一子

  一清忠一子

  清義一清子

   正吉一氏子庄右衛門

   正長正吉子勒負

  正辰正長子伊織左馬

  一栄一政子忠一傅彦右衛門氏次沼津城主

  一益一康子



   重友右近仕蜂須賀

   重勝====1614右近仕蜂須賀

     可近

  勘兵衛

  勘次郎勘兵衛子

  勘三郎15981658勘兵衛子

  勘治郎



  奥右衛門====1600仕山口正弘






黒田九兵衛

              黒田半平の親戚か本人でしょうか?



林 定次九郎明応頃

  勝次九郎大永頃

  長次九郎左衛門

信隆越智右馬信高楽田城主?天文頃

  勝隆====1555信隆子九郎弥助宏綱?田幡城主

信勝勝隆子宗兵衛

  宗信信勝子

  信親信勝子

信家信勝子

                        信長嫌いの1人ですね
                        ⇅

  秀貞====1580?勝隆嗣通安子通村孫稲葉通兼曾孫通則玄孫拝志通弘耳孫新五郎信勝?通豊光豊佐渡秀成南部但馬勝利仕織田信長「一長」

  通政====1573秀貞嗣新次郎光時?通豊?仕織田信長「一長」

通時秀貞子?新三郎光時?「槍林」?

通豊通時子内蔵

通高通豊子清蔵右馬

通包通高子平左衛門

通久通高子六郎左衛門

  光之15561582秀貞子佐介

勝吉秀貞子傳助左衛門傳左衛門山内伊賀一吉

  勝久15811652勝吉子彦市山内右近



通具15161556通安子?新九郎美作通春光春?         信長嫌いで黒田半平と数時間に亘って斬り合いした人

通定15311578通具子新三郎光次?

通国通定子新之丞

光孝通具子新助



 直重長兵衛常照仕森可成

為忠直重子小次郎長兵衛常吉道休仕森長可飯山城主

直親為忠子土佐

  左兵衛為忠子

  直次



  弥七郎

喜兵衛弥七郎弟



正武神戸友盛嗣与五郎仕織田信雄

十蔵正武子



丹羽玄政伝次

  小四郎

  二介

              京都で信長暗殺の情報を得た丹羽兵蔵と関係があるでしょうか?



                             「官兵衛」に出てた仙千代ですね
万見重元15491578神子田長門子仙千代仕織田信長小姓

  仙千代重元子




黒田次右衛門                この人が黒田半平でしょうか?




                      梶原景時の子孫
                      春日井に領地を持ってましたからね
梶原景祐景之弟基景子景氏孫景俊曾孫景茂玄孫景時耳孫河内景茂?貞和頃

景秋景祐子仕高師直

  景英景秋子河内

  景寛景英子

  景豊

  景康

  景弼

  景遠

  景忠

  景行

  景治景行子平次郎孫左衛門

  景総景治子又左衛門右兵衛

  景冬景総子将監木工

  景久景冬子?平次郎

平右衛門 仕織田信忠             本能寺で討ち死にしたのでしょうか?

松千代



  景義====1582景総子茂助

  景明景義子太郎左衛門

  景舎景義子茂平太

  宗三景義子

  景興景治子左近

  景長景興子治右衛門

  景輝景忠子一色

  豊氏景輝子

  景良景康子石原

景師景良子

景充景師子



                           熱田神宮の千秋氏

千秋季国持季子満季孫経季曾孫高季玄孫政範耳孫範宗昆孫範頼仍孫範時雲孫政範子?加賀熱田大宮司

  季通季国子紀伊

  季平季通子加賀

  季光====1547季平子紀伊熱田大宮司

  季直季光子左近

  季重季直嗣

  季広季光子

  季忠====1560季光子加賀羽豆城主

  季信季忠子喜七郎紀伊

  季盛季信子紀伊

  武季季盛子

   季勝武季子

   季近季信子

   季俊季信子

    季長季信子

    俊応季信子

   季政季信子




平野宗長清原業忠嗣?横井行宗子次郎太郎主水

宗房宗長子主水

  賢長宗房子右京入道万久

  長治賢長嗣清原業賢子枝賢弟大炊右京静安

  長時長治子五郎左衛門

  長景====1615長治子九郎右衛門甚左衛門

    長之長景子九郎右衛門

   長常16281707長之子九郎右衛門如元

   長直長之子庄大夫松岡久右衛門



  長泰15591628長治子権平長勝遠江了無田原本城主

  長勝16031668長泰子権平玄晴

  長政長勝嗣七沢清宗子丹波



  長重15601650長治子九左衛門長元

  長利====1667長重子清左衛門



  長知長治子弥次右衛門

  長秀長知子茂左衛門

  元弥長知子元右衛門

  武右衛門長治子

  宣長====1582宗房子宣政

[86]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月21日 00時40分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は松島氏について考察をいたしておりました。あを様も以前よりご
指摘されていますが、どこから来たのかという謎であります。伊那に松島
という所があり、松島城がある。4代目の松島信久以下八人が武田軍によ
り処刑されている。たぶんこの松島の系統が天竜川を下って長上郡豊西あ
たりにやってきたのではないかとの推測でありました。
 松島十湖についてもいろいろ調べましたが、祖先に遡る資料がありませ
ん。先日、浜松中央図書館の郷土資料室でしらみつぶしに資料を当たって
おりましたら、『羽鳥村松島家系譜』という家系図にぶつかりました。さ
っそく全部をコピーし、解読を始めたのですが、なかなか松島十湖とは結
びつかない。曾孫さんに一部コピーを差し上げ中を見てもらいましたとこ
ろ、「源左衛門」という名前が一か所出ており、これを基に分家筋ではな
いかとの推測が聞けました。
 そしておとといの高遠行きにて仕入れた資料を読み、武田、織田の勢力
争いの歴史をだいたい理解し、その中に松島氏以下8氏の磔刑もありまし
たので、もう一度『松島家系譜』に戻り、一字ずつ調べてみたところ、家
紋の「丸に一文字」について小笠原一文字という記述があったので、ほぼ
間違いなく伊那の小笠原氏の後裔の松島氏であると今確信に至りました。
 5月の連休には曾孫さんと松島城址・松島家墓・博物館へ行く予定です。
 小笠原氏の家紋は三階菱でありますが、小笠原氏は馬弓の達人で、那須氏
(首藤氏)と弓の名手という点で通じるものがあります。松島氏はその那須氏
の弓と家紋の意「かたきなし(無敵)の意」にあやかって「丸に一文字」をつ
けたのではないかと推測しています。『家譜』には家紋について里見八犬伝
だの新田義貞だの源経基だのと書かれていますが、解釈ができません。その
内にわかる時がくるかもしれませんが、とりあえずは自分なりの推測でおさ
めておきます。

 松島家について、鈴木家について、永井家についてだいたい見えてきまし
た。あとは加藤・服部の核心部分についてであります。
 平家つながり、南朝つながり、秀次つながり、服部つながり、その他キー
ワードはいくつかあります・・・。

[87]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 02時15分47秒 ) パスワード

続きは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101433_1.html
へ。

[88]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 04時19分55秒 ) パスワード

一向宗の時の服部氏


服部保宗保清裔保長流     ⇔   これは半蔵の家ですね。

宗純伊賀
宗家左京
宗信伊賀
宗政左京
政家14911536左京

友定左京友貞              この人がホンヤさんの当時の纏め役ですね

正友弥右衛門              この人が友貞の弟で、友貞が信長方に謀殺されてからの纏め役だったような?


源兵衛友定子

政光15121585政家子右京

政季15611615政光子与十郎

政信15781653政季子与十郎        新居の代官の権太夫さんですね
                    ということは一向一揆の時は信長と戦ってた?
                    へえ〜

                    家康にも一向一揆信者は反旗を翻してましたよね


政長政信子

政久====1638政信子玄蕃

信利====1647政信子与一郎

信成16201692政信子与左衛門

政重15791624政季子杢助

政次16051646政重子

政勝政次嗣大久保忠重子杢助         大久保の子だったという人ですね




別の系統の服部さん
服部兵庫15671642池田甚左衛門顕誓
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 05時42分18秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E7%88%AA%E6%94%BF%E5%B0%9A

服部保次の親戚というより妻の実家加賀爪氏



加賀爪 政尚(かがつめ まさなお、永禄5年(1562年) - 文禄5年閏7月13日(1596年9月5日))

安土桃山時代の武将。扇谷上杉氏の末裔で、武蔵国高坂館主。

姓は加々爪とも表記する。

父は加賀爪政豊。

兄弟
加賀爪政増(甚平、新三郎)、
服部保次室、
小笠原吉次妻、
本間政季室、

加賀爪保定(養子。服部保次の子、母は政豊の娘)。通称は甚十郎、民部、隼人正。官位は従五位下、備後守(『断家譜』では備前守)。子に加賀爪忠澄など。




経歴[編集]

若くして徳川家康に仕え、天正12年(1584年)の長久手の戦いで敵を討ち取る武功を挙げた。

その後豊臣政権における九州征伐、小田原征伐、奥州仕置に従軍した。
近習として仕え、武蔵国比企郡・相模国高座郡で3,000石を領した。


文禄5年(1596年)、慶長伏見地震で伏見城の城門の下敷きとなり没した。


                            へえ〜

墓所は埼玉県東松山市の高済寺(高坂館跡)にある。
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