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 投稿番号:101429 投稿日:2015年03月26日 14時25分43秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]]
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「長上郡の服部氏族]]\」よりの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に眠る謎を発掘し解明する。

最終目的は、服部氏族についての謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月26日 21時17分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、古典かなの勉強に行きました。文字を書くことよりも、崩し字や
かなを読むことを目的としています。いわゆる古文書を読むための基礎知識
を得ようとするものです。

 本日学んだこと(テキストは『古典かなの知識と読みかた(駒井鵞静著)』)―

 @古代日本には一般的には文字がなく、全ては口頭で伝承されていた。
 A古事記によると、応神天皇16年に王仁により、論語10巻、千字文1巻
  がもたらされたとしている。
 B王仁の子孫たちは河内に住み、西文首(かわちのふみおびと)として大きな
  勢力を持った。漢字で日本語を書き記す方法を指導し、日本人の文字文化
  を育てた。
  万葉仮名は約1100種あるといわれている。
 C記紀作成者たちは、史(ふひと)たちの功績を永久のものとする意味で、彼
  らの祖、王仁を文字文化の救世主として扱った。
 D奈良時代に「采女(うねめ)制度」というものがあり、天皇家は地方豪族の
  娘たちを都に召集した。この采女とは、俗にいう「語部(かたりべ)」のこ
  とで、あらゆる伝承を暗記して、代々伝えていた女性たちであった。天皇
  の食事の世話が、表向きの仕事でしたが、地方伝承を暗記している娘を集
  めることは、地方行政の資料を蒐集するのと同じであった。采女たちは、
  いわば生きた資料であった。3年間の都勤めで、その間は入念に保護をし、
  任期が来ると相当の恩賞を与えて、国帰りをさせた。
   采女たちは、要請あるたびに、暗記をしていることを披露したという。
  それは多くの場合、舞踊的動作を伴う朗誦で、叙事詩あり、叙情詩あり、
  民話もあり、地方為政の記録もあり、戸籍名簿もあった。すべては体で
  覚えていたようである。
 Eこの「采女制度」が廃されて後、女性文化は平安時代の「女房」につな
  がっていく。采女とは別に氏女(うじめ)という氏族出身の女官もいた。
  平安時代の女房族は、この氏女の系統が主である。
 F平安時代初期は、世を挙げて中国文化を受け止め、心酔した時代であっ
  た(なぜなのかは別途考察必要。大化の改新あたりから変わって行ったの
  だろうか)。万葉集の時代には、男女ともあれほど日本古来の詩精神を謳
  歌し、万葉仮名で歌を書き記ししていたのに、平安時代に入ると手の裏を
  返したように、男性は、漢詩、漢文のみにはしっている。日本の和歌な
  どは、男性はかえりみなくなった。そればかりでなく、女性が男性の教養
  を覗きこむことを拒むようになった。
 Gこのような背景の中で、宮廷では采女や氏女達いわゆる識学層の女性たち
  の間では、和歌が保たれ、独自の書写が行われ、万葉仮名の変革が行われ
  た。それは女手(かな)と呼ばれ、女性によってつくられた新しい「かな」
  であったといっても過言ではない。
 H「かな」は、9世紀の中ごろに作成され、9世紀末は、整理期であった。
   そして女性としての美しい書体が確立されたのは、10世紀初めである。
   紀貫之は、かな整理期・書体成立期に生き、かなを直視して大成させた
   功労者であった。
 I昔は「声」を出して文字を読むのが正当であったという。

本日はこの辺で終わりにいたします。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月26日 21時52分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。


>平安時代に入ると手の裏を返したように、男性は、漢詩、漢文のみにはしっている。
>日本の和歌などは、男性はかえりみなくなった。
>そればかりでなく、女性が男性の教養を覗きこむことを拒むようになった。


この部分を知っていると  清少納言 vs 紫式部  の存在意義と女の戦いが分かりますね。

紫式部は
「わたくしは  イチ  という漢字さえどう書くのか知りませんのよ。そういうおバカさんですの」
というカマトトぶり。

清少納言は
「うちの御主人さま=中宮定子さま=は白居易の香爐峰雪撥簾看を御存じでしたのよ」
と実は自分が中国の古典に通じていたことを自己主張。
「アンタ達男は白居易なんて読んでないでしょ」
と返す刀でバッサリ。


>I昔は「声」を出して文字を読むのが正当であったという。

日本人はコレ好きですよね



そどく【素読】

古典の原文を幾度となく繰り返して読み,それを書物を用いないで誤りなく言うことができるようになる学習法の一つ。

日本でこの方法がひろく行われて学習の初歩として普及したのは江戸時代においてである。

とくに武家の子弟が漢学の初歩としてこの方法をとったのであって,武家の学校や漢学塾での学習の初めは漢籍の素読であった。

それでこれらの教育機関では初歩の生徒のために素読席が設けられ,素読の個人教授を担当する教師がいた。



    ワタクシも「子曰く・・・」と素読をやったものです。
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月27日 23時52分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、社用にて修善寺へ行ってまいりました。浜松から沼津まで2時間、
沼津から修善寺まで30分。
 修善寺は春を迎え、まだ肌寒さはあるけれど桜の花が3分咲きになってお
りました。街中は素通りでしたので、名所旧跡には寄りませんでしたが、い
ずれゆっくり来るつもりでおります。弘法大師の「独鈷の湯」、弘法大師開
基の修禅寺位は知っておりますが、その他平氏や源氏にからむ知識がないの
で、よく調べたいと思っています。

 遠江磐田には、平重盛が建立したお寺が3つ程あるというので、そちらの
方から行ってみたいと思っています。重盛の法名が「浄蓮」ということであ
りますので、伊豆の「浄蓮の滝」とひょっとするとつながるかな?とかすか
な期待を抱いております。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月28日 05時07分39秒 ) パスワード

修禅寺は行ったことがありますが
何か気の良い所ではない
という印象を受けました。


その後、木津(平重衡の墓)に行った時に知り合った
奈良教育大学の某名誉教授から
(安倍晴明と)修善寺の話を聞きました。
でも内容は覚えていないです。

    修善寺は陰陽道で?「閉じ込める」所?
    そんな話だったような記憶です。


それで修善寺に行った時に感じた違和感に納得がいったような記憶です。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA


修禅寺(しゅぜんじ)は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院。
山号は福地山。
正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」[1]で、
略して福地山修禅寺と呼んでいる(宗教法人としての名称は「修禅寺」[2])。

夏目漱石の「修善寺の大患」、岡本綺堂の「修禅寺物語」でも名高い。



歴史[編集]

807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられ、その後の約470年間は真言宗に属していた。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われ、『延喜式』には「伊豆国禅院一千束」と書かれる程の寺院であった。


              源氏の悲劇の場所
                ↓
その後、鎌倉時代初期に修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになった。また、源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後この地で殺害されたとしても知られている。



建長年間(1249年 - 1255年)に元の密偵と疑われていた蘭渓道隆が避難のために来住し、それに伴って臨済宗に改宗された。

蘭渓道隆は、南宋の理宗から「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」という額を賜り、大陸にまで修禅寺の名を広めた。

しかし、この寺額は1863年(文久3年)の火災で焼失した。



その後、1361年康安(元年)の畠山国清と足利基氏の戦乱の被害を受け、
更に1409年(応永9年)の大火災で伽藍が全焼し、荒廃した。



その後、伊豆一国を収めた伊勢新九郎長氏(北条早雲)が、彼の叔父の隆渓繁紹に曹洞宗の寺院として再興させた。

現在の本堂は1883年(明治16年)に再建したものである。
2007年(平成19年)には開創1200年祭が行われた。



文化財[編集]
重要文化財(国指定) 木造大日如来坐像 - 像内から承元4年(1210年)に実慶が作った旨の墨書が発見されている。1993年(平成5年)1月20日、国の重要文化財(彫刻)に指定された。

静岡県指定有形文化財 宋版放光般若経 巻ニ十三 - 巻末欄外に「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提 尼置之」の書き入れ(墨書)があり、これは北条政子の筆といわれている[3]。1958年(昭和33年)4月15日、静岡県の有形文化財(典籍)に指定された[4]。

木造釈迦如来坐像 - 1979年(昭和54年)2月15日、静岡県の有形文化財(彫刻)に指定された[4]。

静岡県指定天然記念物 修禅寺の桂 - 1956年(昭和31年)5月24日に、静岡県の天然記念物に指定された[4]。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月28日 05時17分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


「三連寺」:重盛ゆかりの寺について
      ・連覚寺(磐田市竜洋中島)
      ・連福寺(磐田市二之宮)
      ・連城寺(磐田市新貝)


その中の連城寺について 
   静岡県磐田市新貝1556
   TEL:0538−32−5548



http://kiratemari.blog134.fc2.com/?mode=m&no=89
画像はこちれでどうぞ。


磐田市には千手の墓地以外にも平重盛が建立したという寺院があります。

遠江国と平家とは意外に関わりが深く、保元3年(1158年)に平清盛が知行国主となり、
国司に長男の重盛を任じて以来、その後も宗盛、基盛、頼盛と平家一門内で持ち回りのように国司を歴任しています。


平重盛の在任期間は記録上では保元3年(1158)8月10日〜平治元年(1159)12月27日(同日付けで宗盛が就任)で、
国司に任じられても在京のまま目代を派遣するという例も多かったその当時、
重盛が実際に赴任したかどうかは定かではないものの、
この地には重盛が建立したと伝えられる三つのお寺、通称「三連寺」と呼ばれているものがあります。


 ・連覚寺(磐田市竜洋中島)
 ・連福寺(磐田市二之宮)
 ・連城寺(磐田市新貝)


「連」は「蓮」に通じ、この他にもかつて「蓮光寺」と名乗っていた現「西光寺」も重盛開創の寺とされているようです。


その中で今回訪ねたのは「連城寺」。

どうしてこちらだけ訪ねたのかと言えば、愛用している平家史跡本に載っていたのがこれだけで、
後から記事作成のためにあれこれ調べていたら、ぞろぞろと他の三つのお寺が出て来ましたとさ (^_^;)


この「連城寺」だけが取り上げられていた理由はたぶんその寺号の故でしょう。

先ほど「連」が「蓮」に通じると書きましたが、「城」も「浄」に通じそれぞれ置き換えて逆に読めば「浄蓮」となり重盛の法名と一致するという次第です。


境内にある頌徳碑の碑文によれば、1179年(治承3年)に建立とあり、これは正に重盛の没年に当たります。
遠江守在任中ではなく、死期を悟ってから(重盛の出家が5月25日)、
あるいは死後(7月29日死去)の遺命により建てられたということでしょうか。


境内にはこの碑以外に平家との関わりを思わせるものは見当たりませんでしたが、
ガイド本によれば「松林の中に清盛、重盛の供養塔」とありましたので、
とりあえずお寺の裏手の墓地に上ってみることに。


東海道線の線路がすぐ脇を走る墓地への上り口。
急坂を上って行くと紛うことなき墓地に出ましたが、重盛の供養塔を示す標などは何も見当たりません。
疑わしきものはとりあえず片っ端からカメラに収めていると、さらに一段高いところに何やら塔のようなものが…。
二つあるのでたぶんこれだろうと当たりをつけたらビンゴ!
しかし、説明書きも何もないので、帰ってネットで突き合わせてみるまで不安でした。
せめて「伝 清盛・重盛供養塔」ぐらいは書いておいて欲しいものですね (-_-;)


再び坂道を下っていると今度は新幹線が!
ビュン!と風を切って猛スピードで走り抜けて行きました w(*゜o゜*)w


坂道の途中に咲いていた椿の花。
本堂の裏手には色鮮やかな紅梅も。
そして、本堂前にあった「鷹山うこぎ」。

直江兼続が米沢に持ち込み、
米沢藩九代藩主 上杉鷹山が奨励して食用を兼ねた垣根として栽培させた植物だそうですが、
これって一昨年の大河ドラマにちなんでわざわざ説明書きまで添えたのでしょうね。

来年の大河に備えて裏の供養塔の方の説明もしっかりお願いしますよ (^_^;)


ということで、実際は手越の少将井神社から池田の千手の墓へ向かう途中に立ち寄ったのですが、
記事の繋がりを考慮してこちらを後回しにしました。

あとは熊野の行興寺と共に他の3つのお寺もいずれ訪問できればと思っています。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月28日 05時35分48秒 ) パスワード

連福寺

http://d.hatena.ne.jp/tokaidorekisi/touch/searchdiary?word= *%5B%C5%EC%B3%A4%C6%BB%C4%C1%BE%F0%CA%F3%5D&of=105

    ほかにも、いろいろ興味深いことが書かれています。
    大国主命を祭る淡海國玉神社では狛犬ならぬ因幡のウサギの門番?
    丸山古墳やその他の古墳も。
    磐田駅南側の泉蔵寺には、代官職を務めた秋鹿氏の墓がある。
    秋鹿氏はこの地の豪族で、府八幡宮の神職も務めていた。



平重盛の墓

平重盛の墓が、なぜか磐田駅近くにある連福寺にある。

墓は、歴代住職の墓域の一番奥にある。
平氏が政権を握る契機となった平治の乱(1159)の1年ほど前に、平重盛は遠江守になっている。

その重盛が、遠江に3軒の寺を建立したのだが、その1つが連福寺である。
昔の人は、遺体や遺骨が埋葬されていなくても墓を建てているから、開基の縁で連福寺に重盛の墓があるのだろう。


遠江は、重盛以降平氏一門が国司を務めている。
そのため、遠江の国府のあった磐田駅周辺は平氏と縁が深く、
駅の北側にある大乗院は、壇ノ浦合戦後も生き残った一門の平行次が出家して建てた寺だという。


                 ↑
              これは知らなかった!

              平行次ってどなたなんでしょうね。

                http://www.mihirobo.or.jp/
                 MAIL:daijyoin@mihirobo.or.jp

                真言宗醍醐派 遠州の七坊 大乗院 三仭坊
                〒438-0078 静岡県磐田市中泉516
                TEL:0538-32-3454 FAX:0538-37-7832

                 平家で下の字に「行」のつく人の部下だったのかしら?

                  行盛さまの部下だったら伊勢に落ち延びたのだろうなと思うし。



平重盛の実像:

「平家物語」には、権力を得て暴虐の限りを尽くした平清盛を、長子の重盛が諫める場面が何度も出てくる。ただし、平家物語は小説であり、栄華の限りを尽くした平氏一族が後に滅びていく様子を際だたせるために、清盛の暴君ぶりを強調して描いているところがある。それに対して清盛よりも先に死んだ重盛は、平家物語の中では武芸・人格ともに優れた理想の武人であり臣下として描かれている。


しかし、現実は違っていたようだ。たとえば、清盛の孫で重盛の子である資盛がまだ子供のとき、その行列が関白藤原基房の行列と行き会ったことがあった。当時の公家はお互いに勢力を張り合っていて、上位の者の行列の前を、下位の者の行列が通るときには、下位の者は牛車を降りて通らないと、上位の者の従者たち(実は、地方から上京してきて公家に使えていた武士)から暴行を受けることがよくあった。それに対して、下位の者も、強い従者を揃えて、わざと上位の者の前を牛車に乗ったまま通り過ぎてみたりしたという。

平資盛の行列もこの洗礼を受け、資盛の従者たちは関白の従者たちから暴行を受け、資盛は恥をかかされるのだが、「平家物語」では、この報復に清盛が関白の行列を襲った話が出てくる。ところが、実際はどうだったかというと、関白の行列を襲撃するという無礼を働いたのは、実は資盛の父の重盛だったのである。当時は特に摂関家と後白河院が勢力争いをしており、院側の近臣であった平氏一門もこの抗争に加わっていたという事情もあった。


             重盛の「人徳」から
             重盛の無礼は隠されたのでしょうね。

             それは日本人が皇室や朝廷に敬意を持っているから
             重盛が後白河院と父清盛の間で悩んだということから 
             と思います。


             トクな人ですね。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月28日 05時40分53秒 ) パスワード

磐田市http://www.city.iwata.shizuoka.jp/shimin/kouhou/pdf/120715/all.pdf

30ページに及びます。
気力無し。

内容:こんな感じのようです

平重盛は3つの寺を 開いたといわれています。
△平氏関係図. 清盛. 1158年遠江国司となる ...
平重盛が開いたといわれる連福寺にある閻魔大王像は、高さ 180 pで現存す. る中で ... 重盛がこ. こに七. 堂. 伽. 藍. を建立して連福. 寺と改称しました 。本堂には. 重盛の位.
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月28日 05時48分36秒 ) パスワード

蓮光寺

http://www16.ocn.ne.jp/~toukaido/49-2.html


第48番・西光寺     明治時代に平重盛ゆかりの蓮光寺と合併した。


磐田市加茂川通り
(時宗)      あらあらあら・・・これまたすごい!

 
開創 文永2年(1621)
本尊 阿弥陀如来

山門手前の表門は家康の別荘として建てられた中泉御殿の門(のちの中泉代官所表門)で、山門は寛政元年(1789)建立の楼門である。
楼門脇には樹齢500年の大クスとナギの木、そしてハートビル法適合建築物の新装なった堂々たる本堂等々、西光寺には見るべきものが実に多い。



本堂左には薬師如来像と、秘仏の日限地蔵尊が祀られていた。
薬師如来像は同地区蓮光寺に祀られていたが、明治期に西光寺と合併し、その時に移されたものという。


              蓮光寺ですよ
               ↓
蓮光寺は遠江国守、平重盛が安元2年(1176)開基したお寺であり、
これも大変に由緒ある薬師像である。




元和6年(1620)徳川秀忠の娘和子の方が後水尾天皇の皇后となり東福門院と称された。この和子の方が嫁入りの為に京へ上る途中、西光寺に立寄り七堂伽藍の建立と自身のお守り阿弥陀三尊仏と地蔵尊を寄付した。この時より寺の山号を皇后の名前から東福山西光寺と称するようになった。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月28日 05時53分05秒 ) パスワード

西光寺略縁起

https://ja-jp.facebook.com/iwatacity.matchmaking.power.spot/notes



東福山西光寺

このお寺は鴨川道場東福山西光寺といい、阿弥陀如来をご本尊とする時宗の古刹です。

今から約730年前、文永2年(1265)4月8日に、真言宗の傾木和尚が、この地にお堂を建立されました。

その後、12年の年月を経てようやく寺院の形が整い、ご本尊の開眼を迎えるだけになりました。

傾木和尚は、ご本尊の開眼を当時一切衆生の済度を志し、全国を遊行されている一遍上人にお願いしたいとお考えになりました。

傾木和尚の心が仏さまに通じたのでしょうか、建治・弘安年間(1280前後)一遍上人が化益のため見付にお入りになりました。

傾木和尚は一遍上人をお堂にお迎えして開眼法要を勤修し、宗旨を真言宗から時宗に改めました。

以来、傾木和尚を開創に、一遍上人を開山として時宗の念仏道場として現在に至っております。



西光寺と東福門院

元和6年(1620)二代将軍徳川秀忠公の娘和子さまが後水尾天皇(108代)の皇后となり東福門院と称せられました。

和子さまは、お嫁入りのため江戸から京へ上られる途中、西光寺にお立ちよりされ、
七堂伽藍の建立と、ご自分の守り本尊として大切にされていた阿弥陀三尊仏と地蔵尊をご寄付されました。

この時より西光寺の山号は、皇后のお名前を頂き東福山となりました。

元和7年(1621)の類焼により西光寺は全焼しました。
しかし、ここで不思議な出来事がありました。
建造物等すべて焼失したのですが、皇后より頂いた阿弥陀三尊仏と地蔵尊は、焼失することなく残っていたのです。

道場を失い深い悲しみの中、焼け跡より仏さまを発見したご住職の思いを想像すると胸がいっぱいになります。
元和9年(1623)本堂が再建され、仏さまは本堂内に安置されました。
特にお地蔵さまは、日限のお地蔵さんと呼ばれ霊験あらたかな尊像として毎日お参りが絶えません。




蓮光寺と薬師如来

見付西坂の地に光堂山蓮光寺がありました。
このお寺は約800年前、安元2年(1176)遠江国守平重盛公(清盛の長子)により建立された名刹でしたが、
明治44年(1911)西光寺と合併し、
薬師如来坐像等が移されました。
この薬師如来は遠江四十九薬師霊場第48番札所として病気平癒を願う人々の篤い信仰を受けております。



西光寺と文化財

大クスとナギの木     クスは樹高18m、根回り13.7m、胴回り7.5m、推定樹齢500年。北側の

ナギの大樹と共に樹姿・樹勢は盛ん。磐田市指定文化財(天然記念物)

表門           徳川家康公が中泉村に築かせた中泉御殿の表門。江戸時代。 磐田市指定文化財

薬師如来坐像       藤原時代(平安時代)作。応永16年(1409)補修の銘文。磐田市指定文化財

持蓮華       蓮のつぼみの彫刻をいい、時宗の法具。鎌倉時代作。3本所蔵の内、2本は

奈良国立博物館にある。磐田市指定文化財

新勅撰和歌集       鎌倉時代の写本。磐田市指定文化財

伝一遍上人六字名号  鎌倉時代。宗祖一遍上人のご真筆。草書・行書の掛軸二幅。磐田市指定文化財

見付宿本陣墓所    江戸時代。南本陣(神谷家)、北本陣(鈴木家)の墓所。磐田市指定文化財

マキの木       目通り周囲2.3m、樹高18m、推定樹齢250年。磐田市指定文化財

石宝塔        鎌倉時代。裏庭。

遊行上人六字名号     鎌倉時代。遊行二祖真教上人、七代託何上人の掛軸。

涅槃図          室町時代。文化14年(1817)補修。

その他          本堂一部は元和9年(1623)、庫裏は寛政8年(1796)に建立。

その他、古文書等所蔵。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月28日 06時01分04秒 ) パスワード

遠江守[編集]

定員:1名。官位相当:従五位下 ※日付=旧暦


下毛野多具比(従五位上):天平宝字8年(764年)任官
橘入居(従五位下):延暦5年(788年)任官
大枝管麻呂(従五位下):延暦25年(806年)任官
和建男(従五位上):弘仁4年(813年)任官
清原長谷(従五位下):弘仁10年(819年)任官
藤原衡(従五位下):弘仁14年(823年)任官
文室助雄(従五位下):承和7年(840年)任官
正躬王(従四位下):承和11年(844年)任官
安倍氏主(従五位下):承和12年(845年)任官
石川越智人(従五位下):承和13年(846年)任官 藤原氏範(従五位上):承和15年(848年)任官(権守)

文室助雄(従五位上):嘉祥3年(850年)任官
橘数雄(従五位下):嘉祥4年(851年)任官 藤原冬・(従五位下):仁寿元年(851年)任官(権守)

紀弘岑(従五位下):斉衡2年(855年)任官
藤原真冬(従五位下):天安3年(859年)任官
高階菅根(従五位下):貞観2年(860年)任官
笠弘興(従五位下):貞観6年(864年)任官
長岡秀雄(従五位下):貞観6年(864年)任官
田口統範(従五位下):貞観7年(865年)任官
清原惟岳(従五位下):貞観12年(870年)任官
藤原清保(従五位下):元慶2年(878年)任官
橘良殖(従五位下):延暦7年(895年)任官
島田房年(従五位下):昌泰2年(899年)任官
藤原忠行(従五位下):昌泰3年(890年)任官
平中興(従五位下):延喜4年(904年)任官
藤原治方(従五位下):延喜20年(920年)任官
平随時(従五位下):延長2年(924年)任官
平統理(従五位下):天慶9年(946年)任官 源扶義(従五位上):天元3年(980年)任官(権守)

藤原惟貞:長保5年(1003年)任官
源忠重(従四位下):寛仁2年(1018年)任官
藤原兼成:寛仁3年(1019年)任官
藤原永信:長元2年(1029年)任官
菅原明任:長暦4年(1040年)任官
橘資成:康平3年(1060年)任官
藤原家範:治暦3年(1067年)任官 源頼仲:治暦4年(1068年)任官(権守)

源為憲
藤原為房
藤原俊成(保延3年〈1137年〉12月16日〜久安元年〈1145年〉12月30日)従五位下→従五位上


平重盛(保元3年〈1158年〉8月10日〜平治元年〈1159年〉12月27日)正五位下
平宗盛<1159年(平治元年)12月27日〜1160年(永暦元年)1月21日>従五位下


安田義定(寿永2年〈1183年〉8月10日〜文治6年〈1190年〉1月26日) 従五位下(建久2年〈1191年〉3月6日〜建久4年〈1193年〉11月28日)従五位上
北条時政(正治2年〈1200年〉4月1日〜元久2年〈1205年〉閏7月19日)従五位下
北条時房(元久2年〈1205年〉8月9日〜元久2年〈1205年〉9月21日)従五位下
大江親広
北条(江馬)光時
北条朝時(嘉禎2年〈1236年〉7月20日〜仁治3年〈1242年〉5月10日)従五位上→従四位下
北条朝直(寛元元年〈1243年〉7月8日〜寛元4年〈1246年〉4月15日)正五位下
北条時直
北条教時(文永7年〈1270年〉閏9月23日〜文永9年〈1272年〉2月11日)従五位上
北条時基(弘安3年〈1280年〉11月〜弘安7年〈1284年〉4月)
北条時定< 〜正応3年〈1290年〉>
北条時範(嘉元2年〈1304年〉6月6日〜徳治2年〈1307年〉8月14日)従五位上→正五位下
北条随時( 〜元亨元年〈1321年〉6月23日)従五位下



守護[編集]

鎌倉幕府[編集]
1180年〜1193年 - 安田義定
1238年〜? - 北条時房
1252年〜? - 北条朝直
1277年〜1286年 - 北条宣時
?〜1331年 - 北条貞直

室町幕府[編集]
1336年〜1338年 - 今川範国
1339年〜1343年 - 仁木義長
1346年 - 千葉貞胤
1351年〜? - 仁木義長
1352年 - 今川範氏
1352年〜1365年 - 今川範国
1379年〜1384年 - 今川範国
1384年〜1388年 - 今川貞世
1388年〜1399年 - 今川仲秋
1395年〜1399年 - 今川貞世
1400年〜1401年 - 今川泰範
1405年〜1407年 - 斯波義重
1407年〜1413年 - 今川泰範
1419年〜1433年 - 斯波義淳
1433年〜1436年 - 斯波義郷
1436年〜1452年 - 斯波義健
1452年〜1460年 - 斯波義敏
1460年〜1461年 - 斯波氏
1461年〜1466年 - 斯波義廉
1466年 - 斯波義敏
1466年〜1470年 - 斯波義廉
1491年〜1501年 - 斯波義良
1508年〜1526年 - 今川氏親
1526年〜1536年 - 今川氏輝
1536年〜1560年 - 今川義元
1560年〜1569年 - 今川氏真

戦国時代[編集]

戦国大名[編集]
今川氏:駿河・遠江守護、戦国大名。1568年、今川氏真が小田原北条氏に亡命
徳川家康(浜松城):1568年遠江を自領とする。小田原征伐後の1590年、北条氏旧領である関東8カ国250万石に移封

豊臣政権の大名[編集]
堀尾吉晴・忠氏:浜松城12万石。1590年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、出雲松江藩24万石に移封)
山内一豊:掛川城5万1千石→5万9千石。1590年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、土佐藩9万8千石(後に22万2千石)に移封)
有馬豊氏:横須賀城3万石。1590年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、丹波福知山藩6万石に移封)



       へえ〜
       ↓
松下之綱・重綱:久野1万6千石。1590年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵され久野藩となる)




武家官位としての遠江守[編集]

江戸時代以前[編集]
会津蘆名氏 蘆名盛員:第6代当主。鎌倉時代末期の武将
蘆名直盛:第7代当主。南北朝時代・室町時代前期の武将
蘆名詮盛:第8代当主。室町時代前・中期の武将
蘆名盛詮:第12代当主。室町時代中期の武将
蘆名盛滋:第14代当主。戦国時代の武将・戦国大名
蘆名盛舜:第15代当主。戦国時代の武将・戦国大名



その他 伊達朝宗:平安時代末期・鎌倉時代初期の武将。伊達宗家初代当主
安田義定:平安時代末期・鎌倉時代初期の武将
足利義純:鎌倉時代初期の武将。源姓畠山氏・岩松氏の祖
荒川詮頼:鎌倉時代末期・南北朝時代の武将・丹後守護職
佐竹貞義:鎌倉時代末期・南北朝時代の武将・常陸守護。佐竹氏第8代当主
南部政行:鎌倉時代末期・南北朝時代の武将。南部氏第12代当主
南部政長:南北朝時代の武将。南部政行の四男
朝倉高景:南北朝時代・室町時代の武将。越前朝倉氏第2代当主
朝倉景冬:室町時代末期・戦国時代前期にかけての武将。6代当主家景の子
小笠原光康:室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。
宇都宮宗泰:南北朝時代・室町時代の武将。伊予宇都宮氏2代当主
宇都宮豊綱:戦国時代・安土桃山時代の武将。伊予の戦国大名伊予宇都宮氏8代(最後の)当主
織田広近:戦国時代の武将
津田武永(織田寛近):戦国時代の武将。織田広近の子
二階堂晴行:戦国時代の武将。須賀川二階堂氏の当主
浦上宗景:戦国時代・安土桃山時代の武将。備前の戦国大名
堀秀村:戦国時代・安土桃山時代の武将。織田政権の大名




江戸時代[編集]

常陸下妻藩井上家 井上正長:初代藩主
井上正敦:第2代藩主
井上正辰:第3代藩主
井上正意:第4代藩主
井上正棠:第5代藩主
井上正広:第6代藩主
井上正民:第9代藩主
井上正健:第10代藩主
井上正誠:第11代藩主
井上正信:第12代藩主


 
            おやおや
             ↓
伊予大洲藩加藤家 加藤光泰:戦国時代・安土桃山時代の武将、豊臣政権の大名。初代藩主加藤貞泰の父
加藤泰恒:第3代藩主
加藤泰温:第5代藩主
加藤泰武:第7代藩主
加藤泰済:第10代藩主
加藤泰幹:第11代藩主
加藤泰秋:第13代藩主


以下略
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月28日 06時08分25秒 ) パスワード

http://www.asa1.net/siseki-meguri/t17-tairanosigemori.html


平 重盛(1138〜79)

平安時代末期の武将。
清盛の子。
12歳で蔵人となって以来、保元・平治の乱(1556・59)で父清盛に従って活躍。


長寛元年(1163)従三位に叙せられる。


平氏政権確立とともに、官位が累進し、仁安2年(1167)従二位権大納言、翌年病により官を辞したが、
承安元年(1171)権大納言に復し、治承元年(1177)正二位内大臣左近衛大将。


小松第にいたので「小松内府」と呼ばれた。


鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀事件(1177)で後白河法皇(1127〜92・天皇在位1155〜58・69年以降法皇)を
幽閉しようとする父をいさめて、法皇の罪を不問とした。


同3年(1179)病のため職を辞し入道(出家)した。


「平家物語」には、道理をわきまえた人物として描かれている。



             ココですね〜
               ↓

(注)磐田市内に見る、重盛創建といわれる三ヶ寺(「遠州の三連寺」)  

平重盛が父清盛(1138〜79)の専制に不満をもつ人々の報復を恐れて諸国に三ヶ寺を建てて冥福を祈ったといわれる。


 @三白山連城寺
   ◎清盛(1118〜81)・重盛(1138〜79)の位牌と供養塔

    ☆位牌名
      祖父太政大臣 平朝臣清盛公   城海大居士
                            両台霊
      小松内大臣     重盛公   城連大居士


          祖父は平忠盛さまと思うのですが・・・
          お祖父さまも一緒に菩提を弔われているのかもですね。

    ☆供養塔
      秋葉山古墳の中腹

   ◎寺宝
     「三角縁四神四獣鏡」(県指定文化財)
    直径22cm、青銅製、「経塚古墳」より発見。

   ◎連城寺古墳群…連城寺の裏山(国指定)
    「秋葉山古墳」(円墳)・稲荷山古墳(前方後円墳)・経塚古墳(前方後円墳)

   ◎大草太郎左衛門の墓…裏山墓地
    家康の小姓であった大草太郎左衛門が新貝村の豪族・水田三郎二郎の婿養子(家康の命)になり、代々大草太郎左衛門を襲名した。新貝村在陣中の大草氏は、代々中泉代官を勤めたが、土地の開墾・農業用水・灌漑施設・橋梁の架設等に尽力し、特に農業開発に功績があったという。 また、神社仏閣の再興、特に私財を投じて貧民救済に当たった。新貝村の邸は明和年間(1764〜71)に廃し、中泉陣屋に移った。太田川沿いの新貝小字駒洗に大草代官屋敷跡がある。
 



 A龍池山連福寺
   ◎平重盛の供養塔
   ◎連福寺古墳
    径50m以上の円墳か全長50m以上の前方後円墳?
    「三角縁三神五獣鏡」出土。
   ◎閻魔堂
    「木造閻魔大王坐像」(指定文化財)鎌倉末期〜室町初期の作。高さ180cm。閻魔堂の扁額は山岡鉄舟(1836〜88)の書。B瑞嶽山蓮覚寺




 B瑞嶽山蓮覚寺

    安元元年(1175)平の重盛(1138〜79)が遠江国守として見付国府在任中に開いた遠州三連寺の一つとして創建したと伝えられる。

    創建時は、真言宗で現在地より東500mにあったが、南北朝時代(1332〜91)臨済宗に、
    天正十三年(1585)曹洞宗に改宗し、天龍村の郷士門奈美作守左衛門が経営する聖寿寺の末寺となった。

    元禄十三年(1700)雷のため焼失し、現在地に移転した。
   

    現在の本堂は、文化十三年(1816)、表門は掛塚住人大工小栗博吉により、
    天保十三年(1842)に建立され、安政の大地震(1854)で倒壊したため、そのまま引き起こし、
    参道が変わったため、明治十年(1878)現在地に移転した。
   
    山門の様式は「薬医門」で町内最大最古の山門である。

[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月28日 08時55分16秒 ) パスワード

>平重盛<が>父清盛(1138〜79)の専制に不満をもつ人々の報復を恐れて諸国に三ヶ寺を建てて<冥福を祈った>といわれる。



    こういう日本語って  ?  です。


父・清盛
生誕 元永元年(1118年)  死没 治承5年閏2月4日(1181年3月20日)


子・重盛
生誕 保延4年(1138年)   死没 治承3年閏7月29日(1179年9月2日) 享年42




子の方が親より先に死んでるのに、子が親の冥福を祈って寺を建てた?


清盛の為に寺を建てたとしたら、宗盛か知盛でしょう。



日本語が壊れてますよね。
時代関係も壊れてるし。あ、時系列、ですか。



で調べてみたら
http://www.asa1.net/siseki-meguri/
元高校教諭だそうで
専門は歴史じゃないのでしょうね。

   ご冥福をお祈り致します。 
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月28日 10時47分59秒 ) パスワード

「出雲の謎」読み終えました。


凄かった。


素晴らしかった。


不比等はやっぱり政治家として天才だったんだね。

   天智天皇の落胤というのはでっち上げじゃないかな?
   自分を正当化するための嘘を自分で演出したんじゃないかな?

   この男ならやりそう。



だから息子達4人がバタバタ死んで
当時の人達は(ざまあ〜)って思ったんじゃないかな?


でもしぶとく日本で一番の家を永く続けたのだから
やっぱり鎌足ー不比等ー藤原氏はすごい。

   そういう意味でも不比等は鎌足の子だと思う。



天智天皇の御落胤は   定恵  の方だと思う。
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月28日 23時12分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの情報、ありがとうございます。修禅寺、重盛、不比等・・・いろ
いろテーマがございますので、徐々にと思っています。

 本日の早朝、5ヶ月ぶりにゴルフの打ちっ放し練習に1時間程行きました。
朝食後、今度は裏の菜園を耕運機で耕しました。その後、釣り道具の整備、こ
れで半日を過ごしました。

 午後からは、磐田の平重盛が建立したという4つの寺(連覚寺、連福寺、西
光寺、連城寺)を調べに行きました。
 話せば長くなりますので、結論を先に言いますと、磐田は浜松に負けず劣ら
ず、というよりもそれ以上の歴史の宝庫だということを実感いたしました。
 もともと国府があった所ですから当然といえば当然。また、古墳にしても100メートを超える巨大古墳がいくつもあり、いったい誰の古墳・・・単な
る地方の豪族では済まされないような感じがいたします。

 本日はおまけとして、「厳島神社」「千寿の寺」「千手観音(千寿とは関係
ないかも知れない)」も見てまいりました。さらに鎌田にある「鎌田神明宮」
も見てまいりました。
 いろいろ収穫のある半日でございました。

 では、何から行きましょうか。そう、一番感激したことを本日の締めくく
りとして述べさせていただきます(その他については明日以降にいたします)。
 それは、連城寺を訪ねての発見と感動であります―

 ・・・が、早朝からの疲れのため、眠気が急に襲って来ましたので、明朝
に書きます。申し訳ございません。
 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月29日 06時27分06秒 ) パスワード

http://www4.tokai.or.jp/nekohimeusa/iwata/iwatatop/rekisi.htm


磐田の歴史


旧石器時代
   2万年前  磐田に人が住み始めました。寺谷遺跡、広野北遺跡、匂坂中遺跡などが発見されています。
    「ららぽーと磐田」も2万年前の貴重な遺跡の上に建てられたそうです。(高見丘遺跡)


縄文時代
   9千年前  磐田市内最古の縄文時代の遺跡が匂坂中遺跡で、約9千年前の土器が出土しているそうです。
    その後磐田北部地域の低丘陵や磐田原台地縁端部にもムラができたようで、遺跡が見つかっています。
    今の浦は入り江になっていて、この近くの遺跡には貝塚が作られたそうです。



弥生時代
   2千年前  磐田市内に米作りの技術が伝えられ、JR磐田駅南や鎌田地区に水田がつくられたそうです。
    また、台地の上からもムラの遺跡などが見つかっています。



古墳時代  磐田市には、600基以上の古墳があります。

               へえ〜
               これはスゴイ
               


      静岡県内の古墳の大きさベスト5の中の3つが磐田市内にあります。
      また、”卑弥呼の鏡”三角縁神獣鏡が5枚も見つかっており、これは県内bPです。


                 これはスゴイ!


奈良時代  奈良時代、見付には国府(今の県庁)や守護所が置かれ、この地方の中心都市でした。
      そして741年国分寺建立の詔を受けて、遠江国分寺・国分尼寺が建立されました。


               国分寺があった、というのは「中心」ということですものね。


鎌倉時代  この時代も見付には守護所が置かれ、遠江国の中心都市でした。
      見付天神に伝わるしっぺい太郎伝説はこの時代の出来事で、
      史実かどうかはわかりませんが、裸祭りが始まったのはこの時代のようです。



中世
     見付の北側の丘陵(現在の水堀町)一帯は、鎌倉時代から江戸時代初め(13〜17世紀 約400年間)までの集団墓地でした。
      いろいろな形態の墓888基や火葬した後が見つかっています。
      この時代を通じて、見付が遠江の国の中心だったことがわかるようです。
     その中心は、現在磐田北小学校や公民館などがある一角にあった見付端城でした。
 


戦国時代  中世後期には、戦国大名今川氏が遠江を征服しますが、
      見付は今川義元に認められた自由都市であったという説が有力なのだそうです。
      今川氏に代わって徳川家康がこの地を治めるようになったとき、
      徳川家康は見付に城を作ろうとしたのだそうです(現在の城山中学校がある場所)。
      ところが、そこには水が出ないことがわかり、浜松に変更したのだそうです。
      浜松の城を構えた後も、中泉(現在の磐田駅南口付近)に中泉御殿を造り、
      そこで数々の合戦の戦略を立てたとのことです。
      関ヶ原の合戦の際も、そこで合議を開き、出陣していったとか。


江戸時代  東海道の重要な宿場として、見付が発展しました。
      ちなみに、東海道が、見付宿から不自然に南下して中泉に向かい、
      そこから西に向かっているのは、上記の中泉御殿があって便宜を図ったからだという説もあるようです。



明治以降  旧見付学校、赤松屋敷など、明治以降の歴史がわかる史跡も、磐田にはたくさんあります。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月29日 06時33分47秒 ) パスワード

さらに勉強:


地理[編集]

静岡県の西部に位置し、天竜川の東岸の磐田原台地の上にある。台地を分断するように南北に今之浦川が流れ、JR東海道本線が東西に横断している。


川:天竜川水系 天竜川
太田川水系 太田川・今之浦川・仿僧川・安久路川沼:桶ヶ谷沼


海浜:遠州灘


隣接している自治体・行政区[編集]
浜松市(南区(境界の一部が未定)、東区、浜北区、天竜区)
袋井市
周智郡森町



歴史[編集]

古代[編集]

特徴:古墳の時代

黒曜石の石器や貝塚が発掘されており、石器時代、縄文時代より人々が生活していた。

銚子塚古墳附小銚子塚古墳、御厨古墳群など古墳が多く存在。その規模から、現在の磐田市がこの地方の中心地であったことが示されている。畿内古墳と類似した石室・埴輪が見られる。出土した三角縁神獣鏡は、現在、東京都の国立博物館にある。


律令時代から室町時代まで[編集]

特徴:「遠江府中」の時代、遠江国の中心地
律令制度下では遠江国の国府が置かれ、国分寺が建立された。以後室町時代まで、磐田市は「遠江府中」とも呼ばれ、遠江国の中心都市であった。

700年:漆部造道麻呂が遠江国の国司になる。
1158年:平重盛が遠江国の国司として赴任する。       へえ〜1158年ですか。
1200年:北条時政が遠江守になる。


戦国時代から江戸時代まで[編集]

特徴:「見付」の時代、東海道の宿場町
戦国時代には、徳川家康が城之崎に築城を試みるが、井戸が掘れず途中で中止し、濱松に築城した。

これ以後、磐田市は「見附」と呼ばれるようになり、見付は家康の所領であった。

家康が江戸に移封された後も、家康との繋がりは深く、現在の磐田駅の南方には、陣屋である中泉御殿が設けられた。

御殿東側に中泉陣屋を設けた。

江戸時代には、東海道五十三次の一つ・見付宿の宿場町であった。



明治時代以後[編集]

特徴:市町村合併により、「磐田郡(見付)、豊田郡(中泉、池田)、長上郡(掛塚)、山名郡(福田)」といった多彩な顔ぶれが集合

1875年:見付学校が完成した。現存する小学校校舎では、日本最古の木造擬洋風の校舎である。

1889年4月1日:町村制の施行により、磐田郡見附宿が単独で町制施行して磐田郡見付町が発足。

1889年10月1日:豊田郡中泉町、二之宮村が合併し、改めて豊田郡中泉町が発足。

1896年4月1日:磐田郡・山名郡および長上郡・豊田郡の一部をもって、改めて磐田郡を設置。中泉町の所属郡が磐田郡に変更。

1940年11月1日:磐田郡見付町・中泉町・西貝村・天竜村が合併し、磐田郡磐田町が発足。

1948年4月1日:市制施行。

2005年4月1日:(旧)磐田市、磐田郡豊田町・竜洋町・福田町・豊岡村と合併し、改めて磐田市が発足。

2009年8月11日:午前5時7分ごろに発生した、駿河湾地震で市内では福田地区で震度5弱、下野部、森岡、岡、国府台、見付地区で震度4を観測した。近隣の袋井市で震度5強、また浜松市と森町でも震度4を観測した。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月29日 07時41分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 朝もたもたしておりましたら時間がなくなりました。午前9時に市長の出
陣式等もあり、出かけなくてはなりません。
 帰って来てから書きますのでよろしくお願いします。その間、どう書くか
(構成)頭の中で整理します。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月29日 10時52分57秒 ) パスワード

三つ柏さんって
お子さん時代はお友達がいっぱいいて、
いつもみんなと遊んでた
そんな感じでしょ?


今も変わらずお友達がたくさん
という感じですね。
にっこり


    で、子供時代はお友達で忙しくて勉強する暇が無かった、とか?
     あはは
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月29日 23時21分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 遅くなりました。

 さて、昨日訪れた平重盛創建のお寺4寺は、平安時代より見付に移動した
国府の南にあり、西光寺を別にして他の3寺は今の新幹線沿い、しかも天竜
川の東岸よりほぼ一直線に約3キロ、約2キロの間隔で点在している。東の
端は太田川となる。
 西光寺は国府の南西約12キロで、掛塚の白羽にある。
 以上のとおり、3寺(正式には4寺)は、天竜川と太田川にはさまれた平野
部の左端、中央、右端にバランスよく配されているといってよい。

 蓮覚寺については、「表門」が市の指定有形文化財に指定されている。
 ここの墓は、鷹野姓が多かった。

 次に西光寺。天竜川の湊であった掛塚の白羽にある。特に記すことはない
が、国道150線を隔てた向かい側に貴船神社があり、その中に「厳島神社」
が祀られていたことが、平家との関係を彷彿とさせた。

 次に、平野部の真ん中にある連福寺へ行く途中に、千寿姫の寺という千手
禅寺があった。詳しいことは調べてないが、ここでは密岡姓の墓が多かった。
たった一つ、服部姓の墓を見つけた。家紋は丸に違い矢羽であった(伊賀系
か)。丸に三つ柏の今川姓もあった。

 そこから少し行った所に、「千手(せんず)観音堂」があり、墓も10基位
はあった。鎌田姓が多かった。

 そして昨日のメインエベントとなる―
 連城寺・・・新幹線の線路のすぐ北に位置する。従って、南からの交通の
流れと視界が分断されて、その点においてはすごく惜しい感じがする。
 なぜメインエベントかというと、以前のレスで「中泉代官所の大草太郎左
衛門」のことを書いたことがある。そしてまた、「長田忠致(ただむね)」の
こともあを様より、また箱柳永田様より教えていただいたことがある。
 この連城寺で、平家、源氏、鎌田、長田、永田、大草、鈴木がすべて一本
につながったのである!

どういうことかというと―
 @遠江は、平清盛が1158年(保元3年)に知行国主となり、国司として
  長男の重盛が1年強、続いて三男の宗盛、二男の基盛、清盛5人兄弟の
四男である頼盛が国司を勤めている。国府は平安時代後、磐田郡の見付
  にあった。
 A鎌田政清は藤原秀郷流首藤氏の一族。相模国の住人鎌田権守通清の子で、
  政清の母が源義朝の乳母であったため、乳兄弟として義朝から最も信頼さ
  れていた。
 B磐田郡の国府から南東に1キロ程行ったところに鎌田郷=「鎌田御厨」
  があった。たぶんそこは鎌田政清の一族が住んでいたのかと推測する。
 C鎌田政清の室は、長田忠致の娘であった。
 D長田忠致は桓武平氏兼流。平致頼の5世孫。本貫地は尾張国野間(美浜
  町)。平治年間には源氏に従っていた。平治の乱以後、源氏と平家は敵対
  関係となる。平治の乱に敗れた義朝は、東国への逃避途中に鎌田政清の
  しゅうとの長田忠致の所に泊まる。ところが、ここで忠致・景致親 子の
  謀略に合い、首を取られてしまう。鎌田政清も討死。その妻(忠致の娘)
  も悲嘆にくれて入水自殺してしまう。
 E長田忠致の身内たる長田氏族は三河より東や北へ移って行く。たぶん、
  肩身の狭い思いと不穏な空気があったのだと推察する。
 F長田喜八郎広正(忠致との関係はまだ調べてない)は、初め三河国大浜に
  住んでいたが、のち遠江国山名郡(磐田郡)新貝村に移り、長田を永田と
改めた。太田川河畔に豪壮な邸宅を築く。
 G広正の子の政吉は、同村八幡宮の神主を勤めていた。 
 Hもともと長田氏は三河で大浜熊野神社や八柱神社の神主をやっていた。
 I政吉は、家康の遠江入国にあたり、召されて仕え、1000石の知行を
  与えられ、御厨庄の代官にとりたてられた。
J政吉には男子がなかったので、2代目は三河以来家康に仕えていた大草
  次郎右衛門義正の長男を養子にもらう。家康の命により「大草」と姓を
  改める。
 K3代目の正信は、荒廃していた御厨庄の連城寺(平重盛建立)を再興させ
  た。それは、根底では祖先からの因縁を何とかおさめたい一心ではなかっ
  ただろうか。つまり「長田忠致の不名誉の払拭・鎌田政清への鎮魂陳謝・
  平重盛への忠義」
 L連城寺の高台にある墓地には、小さいけれど平清盛と重盛の慰霊碑が建
  てられていた。
 M7代目の政美は養子で、一宮小国神社の神主「鈴木重正」の次男であっ
  た。
 
 結論的風景・・・この墓地には、大草家の一団の墓が上段中央部にあり、
清盛と重盛の慰霊碑はさらに上部の奥にひっそりとかくまわれるように設置
されていた(その内のひとつは上半分がころがり落ちていたので元の形に直し
ておいた)。
 そしてである・・・「永田」「永井」の墓がいっぱいあった! さらに「鈴
木」の墓もたくさんあった。私にとって見慣れた風景・・・何か故郷へ来た
ような感じがしていつまでも離れられないでいた。何回も何回も墓地の中を
歩きまわった。
 日も傾いて来たので、ようやく帰る決断ができ、最後に墓全体に向って、
大きな声で般若心経を一巻唱え、後ろ髪を引かれるようにしてその場を後に
した。
 
 あを様、これが、昨日の体験でございました。自分としては、1パーセン
ト以上の進捗でありました。

 今度は、一宮の小国神社に行って、神主鈴木氏の追跡ができたらなあと思
っています。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 02時32分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごい発見でしたね。


>丸に三つ柏の今川姓

これまた不思議ですね。
今川なら源氏ですから源氏らしい紋だったら分かり易いのに。



>連城寺で、
>平家、源氏、鎌田、長田、永田、大草、鈴木がすべて一本につながった

     不思議なご縁ですね。


>重盛、宗盛、基盛、頼盛が国司を勤めている

基盛と頼盛のことは100%知らなかったです。

     長上郡の服部氏が、もし頼盛系の家来筋なら  宗清がいますし  
     源氏方の服部氏を称してもおかしくないですね。

     充分に有り得ますね。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 02時50分03秒 ) パスワード

長田喜八郎広正について



永井直勝の家系

(問い)

小牧長久手の戦いで活躍し、その子孫からは大名三家、さらに名奉行として有名な遠山金四郎景元などを輩出した永井直勝ですが、華族類別、家伝によると永井氏は源義朝を討ち取った長田忠致と同族の尾張平氏流長田一族を称しています。

 ところが、江戸期には大江姓を称しており、理由として清和源氏末裔を意識し始めた家康の命令で大江姓に改姓させられ、替え紋として大江氏の代表紋として知られる一文字三つ星を用いるようになったとのことでした。さらに貴HPの桓武平氏概観にも「尾張平氏ではなく別の一族の出身」とあります。

 気になって太田亮博士の『姓氏家系大辞典』で調査したのですが、平姓とも大江姓ともとれる記述であり、双方の系図が示してありました。大江姓説に着目して読んでみると、大江広元の子である那波宗光を祖とし、宗光から六代目の宗元、その五代目の重光が長田平衛門を称し、その子の直時が永井姓を称したとありました。

  しかし、直勝の祖父広正と、この直時のつながりが分かりません。さらに尾張には春日井郡、愛知郡、知多郡に古来からの豪族と思われる永井氏がおり、このうち愛知郡の者が大江姓、知多郡の者が平姓長田氏流を称しているとのことでした。本姓の共通性からして武家華族永井氏は何らかの形でこの古来豪族と繋がりがあると思われますが、お気づきの点があればご教授願います。


              (bacit様より、10.1.16受け)




 (樹童からのお答え)


1 永井直勝は、幼名が長田伝八郎で、長田平右衛門直吉(重元)の子であり、生没が1563〜1625で家康の家臣として活躍し、右近大夫従五位下、下総古河七万石の大名まで出世した。その立身の糸口が長久手の戦いで池田勝入(恒興。輝政の父)を討ち取ったことにあり、家康に従い関ヶ原や大坂両度の陣にも参加し、夏の陣の後に加増されて大名となっている。

 その家系は平良兼流の尾張国知多郡野間庄(愛知県知多郡の美浜町に野間、その南の南知多町に内海がある)の長田忠致の族裔とされることが多く、主君の源義朝をだまし討ちにした長田忠致の族裔ということを憚って、家康の命により大江姓永井氏を称したともいわれるが、家系が平氏の長田忠致一族から実際につながっているか疑問もあり、かつ、大江姓那波氏や三河大橋氏からの養嗣も入ったと伝えて、きわめて複雑である。

 

 まず、一般に伝えられる家系の概要を見てみると、鈴木真年が『華族諸家伝』の永井直諒条で記したものが比較的分かり易いので、これを示すことにする。

 その家系は平五大夫致頼(平高望の子の良兼の孫)の子孫の尾張平氏とされる。致頼の四世孫長田荘司忠致の弟の長田右衛門尉親致の男の長田宮内丞政俊が承久の乱のときに関東の命に応じて軍功があり、その賞で三河国碧海郡志貴庄大浜郷のうちの地を賜り、その八世孫の長田平太夫広常は那波刑部少輔大江宗秀の女を妻としてその間に生まれた子に平太夫政広があり、平太夫政広は子がなかったので大橋中務少輔定広の四男伝八郎広正を養嗣として大浜の荘官を譲ったが、その孫が伝八郎直勝であって、家康に仕えて屡々軍功をたて、家康から、長田氏は源氏の仇であり、汝の祖は大江氏に由縁があるので永井と称すべきといわれて改名したとある。

 

2  尾張の長田荘司忠致が平致頼の子孫であることは疑いがないようなので、ここまでの系譜の検討は省略する。次ぎに、長田忠致の兄弟として長田右衛門尉親致がいたことも、まず問題がない。というのは、『兵範記』久寿二年(1155)九月廿三日条に「主馬署首右衛門尉平親致」が見えるからで、年代的にも命名的にも妥当であろう。




 問題は、

平親致の子として長田宮内丞政俊がいたかどうかであり、ここで居地が尾張国知多郡から三河国碧海郡大浜郷(現碧南市大浜上町から南方にかけての一帯)に遷るからであるが、系図では、長田政俊の長子の平太定俊が知多郡野間庄を領して当地の長田・置沢両氏の祖とされ、その弟の平二郎重俊が三河の大浜に住み、以降は歴代が大浜に住んだとされるから、問題がなさそうにも見える。


ところが、平親致の子として長忠・長致という二子を伝えるものがあり、名前のつながりからすると、この所伝のほうが妥当に見える。そうすると、永井直勝の祖としては、三河国碧海郡大浜郷にあった長田政俊があげられるものの、この政俊が尾張国知多郡の長田忠致の甥という関係は疑わしいということになる。



 平二郎重俊の後の系譜は、子の「俊致−俊広−俊政(仕北条高時、自害)−政道−政継−政俊、弟道俊−広常」と続くが、広常が長田平太夫と名乗るまでは、この一統の苗字は大浜であった模様である。大浜の東北五、六キロの地がいま碧南市長田町と呼ばれ、この地名が何時からあったかは不明であるが、この地に大浜から分かれて来たことで長田と名乗ったものか。この地に近接して東端村(現安城市東端町)があり、『二葉松』には「東端村屋敷は永井右近直勝」と見える。


 広常以降は鈴木真年の記すところとほぼ同じであるが、子の平太夫政広は実は大江宗秀の子ともいう。

 その跡を尾張津島の大橋氏から入った広正が継ぎ、その子が長田平右衛門直吉、さらにその子が永井直勝となる。

 大橋氏は平姓で清盛の家臣平貞能の後裔を称した鎌倉期からの尾張国海部郡津島の土豪であったが、
鈴木真年は、後醍醐天皇の皇子の宗良親王の四世孫が大橋中務少輔定広だと記す。
 系図では、宗良親王の孫の尹重王が大橋定元の娘を娶り、
その間に生まれたのが大橋和泉守信重であって、その子が中務少輔定広だとされる。


 広常の弟・平内左衛門信広は甲州に行って武田信綱に仕え永正五年(1508)に七一歳で死去したというから、
広常の活動時期が十五世紀の後葉ごろであったことが分かる。

信広の孫の永田徳本(号は知足斎。「長田」とも書く)は、「甲斐の徳本」「十六文先生」とも呼ばれ、
「医聖」とも称された戦国後期の有名な医者であり、安価で医療活動を行ったといわれる放浪の医者であった。
武田信虎の侍医となったといわれ、信虎の領国追放後は信濃国諏訪に住み、
武田家滅亡後は東海・関東諸国を巡ったが、将軍徳川秀忠の病も治癒したともいう。
一伝に長田重元の弟、すなわち永井直勝の叔父とも伝えるが、一族(再従兄弟ということ)の訛伝であろう。
徳本の著作には『梅花無尽蔵』(同名の書が三種類ある)が知られ、
その生没年は一般に永正十年(1513)〜寛永七年(1630)とされるが、
「長田系図」(後記)では生年が十年遅い大永三年(1523)となっていて、こちらのほうが妥当か。
 

       長田喜八郎平広正

          ↓         ココ

3 こうした永井氏の先祖について、どこまでが確かなのかが不明とみたのであろうか、東大史料編纂所所蔵の『永井家譜(大和櫛羅)』は、明治六年に調査のうえで提譜された系図であるが、

直勝・白元(永井監物)の兄弟から系譜を始めて、

      その祖父を長田喜八郎平広正、
      父を長田平右衛門重元(後に直吉)と記すのみである。


この辺の系譜記載は『藩翰譜』でも同様である。


 父の長田重元は松平広忠・家康に属し、本能寺の変の直後の家康の三河への逃避行にあたっては、伊賀越えの後は伊勢湾を渡海して常滑→成岩→大浜というコースのなかで、重元も関与した模様である。



 三河国碧海郡大浜郷の長田氏の一族とする大浜氏は、江戸幕臣にもあり、『寛政譜』にも見えて、
その祖を長田宮内丞政俊という名ではなく、
大浜太郎政俊とし、
「長田忠致の兄、長田親致の子」で源頼朝に仕えたといい、
家紋は長田氏と同じく「柏葉」とする。

大浜政俊が承久の乱のときの功で大浜を領したというのは『東鑑』の裏付けもなく、疑問である。

この者は、中田憲信『諸系譜』第二冊の所収の「長田系図」では、政信という名で見えており、
文治元年賜三州大浜地頭と記すが、このほうが妥当のようである。


 この辺の事情からみて、鎌倉前期の大浜太郎政俊(政信)が大浜・長田一族の祖としてよさそうである。

この一族が平姓を称したからといって、しかも長田という苗字をもったからといって、尾張国知多郡の長田氏の族裔とは限らない。

上に見たように、長田親致の子として大浜太郎政俊をみることは無理ではないかとみられる事情にある。



              長田氏が神主だった話
                  ↓

 しかも、直勝の父・長田平右衛門重元の兄の甚助白重及び弟の喜八郎重吉は、大浜下宮の神主をつとめ、

  喜八郎重吉の子孫は代々、下宮こと熊野権現神主をつとめたというから、
こうした神職の家柄は古族末裔と考えたほうがよさそうである。


上記の「長田系図」では、室町前期頃の宮内少輔政継が大浜下宮神主になったといい、
その長子の和泉守政俊も同神主であって、文明五年(1473)八月に死去している。



 大浜下宮はいま大浜熊野大神社といい、碧南市宮町に鎮座するが、長田白正なる者が紀州熊野権現より勧請したと伝える。

碧南市にあるもう一つの熊野社、すなわち「上の宮」と呼ばれる大浜上町の熊野神社が北側にあって、
南側の「下の宮」は上の宮から西南に三キロ余の地点に位置する。


              長田氏は物部氏系
                
                  ↓      ココ


 大浜の地は、平安中期の『和名抄』では幡豆郡大浜郷と見え、
後に碧海郡に属したが、こうした地域で天孫系の熊野権現の神主として続いたということから考えると、

物部氏族から出た三河国造の族裔とみるのが穏当なところか。


熊野神社は安城市では藤井町・尾崎町にあり、
岡崎市では羽栗町などに十社を超える数の同名社がある。
延喜式内社の糟目犬頭神社(岡崎市宮地町)でも熊野三所権現を合祭する。


 やはり三河国造末裔が奉斎したとみられる知立神社の両神主の一に永井氏があり、宝飯郡の名族にも永井氏があった、

と『姓氏家系大辞典』ナガヰ第13項に見える。



             長田と永井はもともと同族では?
                ↓

これを考えると、長田・永井はもともと同族の苗字としてあったのではなかろうか。

つまり、源氏の仇だとして長田を忌んだという伝承は疑問となってくる。


大江広元の後裔の名族として「長井」氏があったことで、これに因んで大江姓とも名乗ったものであろう。


これら三河の永井氏と尾張の永井氏との関係は不明であるが、
知多郡緒川村(知多半島の付け根に位置する愛知県知多郡東浦町大字緒川)の永井氏がもと長田氏というから、
これは水野氏と同族で長田忠致の族裔であった可能性がある。



                 もともと長田と水野が同族だから
                 家康の信頼が厚かった?


 なお、『姓氏家系大辞典』オサタ条に見える第12項の大江氏流には、
「宗元の五代目の重光が長田平衛門を称して三州大浜庄宮にあり、その子が永井直時」と記載があるが、

これは重光が重元の誤記で、
永井直時が永井直勝の誤記であることは、その譜註からも分かる。
こうした誤記は往々にして系図に見られることにも留意しておきたい。

 

 (10.1.27掲上)

[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 03時23分13秒 ) パスワード

>結論的風景・・・この墓地には、大草家の一団の墓が上段中央部にあり、
   清盛と重盛の慰霊碑はさらに上部の奥にひっそりとかくまわれるように設置されていた
  (その内のひとつは上半分がころがり落ちていたので元の形に直しておいた)。


>そしてである・・・「永田」「永井」の墓がいっぱいあった!
  さらに「鈴木」の墓もたくさんあった。
  私にとって見慣れた風景・・・何か故郷へ来たような感じがしていつまでも離れられないでいた。
  何回も何回も墓地の中を歩きまわった。


鈴木家と永井家が繋がりましたね。


そして永井と服部は長田の家紋で繋がって
鈴木とも繋がりますね。
鈴木家とは平家時代にも熊野で繋がりますしね。


そうしますと長上郡の服部家は平家と繋がるのかもですね。
  当然重盛さまの家老だった貞家の6男の服部家長と繋がって
  頼盛の家老だった宗清とも繋がり、ここから源氏とも繋がるし。


この関係を示す、もう少し詳しい情報が見つかると、良いですね。


清盛が薨去して後に?寺が建てられたという話は
恐らく平家一門の菩提を弔うための寺だったんじゃないのかな?
   特に頼盛・宗清が鎌倉時代にこれらの寺を保護したのでしょう。

      北条時政1200年に遠江守になっているということで
      うまく時代を乗り越えた?

それは頼盛・宗清の力だったんじゃないかしら?
源頼朝の命を救った人達だから。


     重盛が建てた!
     という理由は

     重盛が白河法王に対して臣下の礼をとったことで
     重盛が忠臣という位置付けだからじゃないかな?

     平家一門を裏切ったことになった頼盛が建てた、
     というよりは重盛が建てたという方が受け入れ易い
     ということじゃないのかな?

     特に明治府下では忠臣重盛は偉人とされたのではないでしょうか?



これら3つのお寺の縁起を書いた記録が見つかると良いですね。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 05時20分08秒 ) パスワード

やっぱりワタクシとしましては


・連覚寺(磐田市竜洋中島)
・連福寺(磐田市二之宮)
・連城寺(磐田市新貝)

重盛ゆかりの寺、というのは何故か、とグチグチ考えてしまいます。


   「重盛の命令で建てられた」

   「重盛公が生きていらっしゃったら」というのも分かります。
       それで重盛ゆかりの人物が建てた?
          ここで出てくるのが  平行次  という人物ですね。
             「行」という字から重盛の弟の基盛の長男の行盛に近い人物?
                                 または行盛の関係者?弟とか?

                         ずっと後の世だったら行盛の子というのも考えられるし。
                         うちの先祖は17歳で長男をもうけてます。



          基盛も遠江守になっているんですよね。



平家が壇の浦で滅亡してから建てた?

清盛  死没   治承5年閏2月4日(1181年3月20日)
平家滅亡     元暦2年3月24日 (1185年4月25日)


寿永2年 1183年  木曾義仲入京、平家都落ち。
    この年には平家はもう力が無くなっているから
    遠江国で平家ゆかりの寺を3つも?建てた
    ということは  遠江で平家ゆかりで力を持っていた代官のような人物?


とゴチャゴチャ考えてしまいます。


重盛が建てたなら、遠江守時代でしょうね。
平家全盛期に建てられた、というのも有り得ますよね。
都から離れて遠江で実効支配してた代官やってた親族が建てた、というのも有り得ますね。


平行次という人物のことを知りたいえすね。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 11時52分22秒 ) パスワード

安田義定

時代    平安時代末期 - 鎌倉時代初期

生誕    長承3年3月10日(1134年4月6日)

死没    建久5年8月19日(1194年9月5日)

墓所    山梨市上井尻の雲光寺

官位    遠江・下総守

氏族    甲斐源氏(安田氏)

父母    父:源義清又は源清光

子     義資


         ひとことで言うと
         源氏再興のために頑張ったのに頼朝には邪魔者でしかなかった気の毒な人


安田 義定(やすだ よしさだ)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の子(清光の父義清の子とする説もある)。



経歴[編集]

安田氏は甲斐国山梨郡八幡荘内の安田郷を本貫地とする一族。
平安後期に甲斐源氏は甲府盆地の各地に進出して土着するが、
峡東地域に勢力を持っていた古代在庁官人の三枝氏は応保2年(1162年)の八代荘停廃事件を契機に没落し、
義定は盆地東部に進出し旧族安田氏を継承したと考えられている。

義定は同郡八幡荘や牧荘、安多荘などを根拠地として笛吹川流域の峡東一帯に勢力を持ち、
山梨市小原西の保田山妙音寺に館を構えたという[1]。


治承(1180年)4年4月、後白河法皇皇子・以仁王は平家追討の令旨を発し諸国の源氏に挙兵を促すが、
『吾妻鏡』に拠れば以仁王令旨は伊豆国の源頼朝から甲斐・信濃方面へ伝えられ、
同年4月末から5月初めまでに、甲斐源氏の元へも伝えられたと考えられている。


平家方に対して挙兵した伊豆国の頼朝は8月23日の石橋山の戦いで敗退し、
8月25日には平家方の俣野景久、駿河目代の橘遠茂が甲斐へ攻め込み、
甲斐源氏方では義定と工藤景光・工藤行光、市川行房らが出兵し、
富士北麓の波志田山において景久らを撃退しており(波志田山合戦)、
その経緯を記した『吾妻鑑』同条が義定の初見資料となっている。



このときは甲斐源氏の棟梁である武田信義や一条忠頼らは参加していないが、
信義らは9月初頭には信濃国への侵略を開始している[2]。

同年10月には駿河国に侵攻する信義らと共に橘遠茂らと戦い勝利する[3]。

鉢田の戦い。
武田信義・北条時政 vs 駿河国目代橘遠茂・長田入道父子との間に起こった戦い。


1. やっぱり長田は平家方?

            2.楠正成の先祖は駿河出身とのハナシもあるそうで
            3.楠正成は元亨2年(1322)年、得宗北条高時の命で紀伊国保田荘司湯浅氏を討ち、阿弖河荘を与えられた。
        
               紀伊国保田といったらと藤堂采女関連ですし
               湯浅氏といったら南朝方で、その前は平家方でしょ。
               平治の乱で清盛に味方しているし
               熊野神社とも関係があるし。
 





その後黄瀬川で頼朝の軍と合流し、
10月20日に頼朝・甲斐源氏の軍勢が平家方の平維盛の追討勢を撃破した富士川の戦いでは信義とともに敵の背後を襲撃したという[4]。

甲斐源氏の一族は富士川合戦での戦功により頼朝から信義を駿河国守護に任じられ、
義定も遠江国守護になったという[5]。『吾妻鏡』に見られる「守護」補任記事について、『吾妻鏡』以外の記録史料を総合すると甲斐源氏の一族は頼朝の傘下ではなく独自の勢力であったと考えられており、
富士川合戦においては敗走する平家方を追討した信義・義定らが駿遠地方を占拠し、
『吾妻鏡』の守護補任記事は甲斐源氏の戦功を頼朝が後日容認したものであると考えられている[6]。


義定は遠江国府・鎌田御厨を占拠し、
同年12月には蒲御厨を拠点に在地支配を行っている。

義定は遠江において平家方と対峙しており、
養和元年(1181年)には平家方の平通盛の尾張国侵攻に際して頼朝に軍勢の派遣を要請し、頼朝は和田義盛を遠江へ派遣している。



また、遠江において義定は橋本辺の陣地構築に非協力であったという浅羽・相良両氏や、
在地支配を廻る伊勢神宮・熊野神社との訴訟を起こしている。

               このあたりは平家に近かったのかもですね
               平家に近かったからこそ源氏方の安田氏と喧嘩になったのでは?  



寿永2年(1183年)には木曾義仲が信濃・越後の軍勢を率いて北陸道から上洛しているが、
義定も平家追討使として東海道から上洛している(『愚管抄』)。

義定ら源氏の諸将は洛中の警備を命じられ、義定は大内裏守護として京中の守護をしている。

後白河法皇は平家一門の官職・所領を没収して源氏諸将に分配し、義定も同年8月10日には従五位下遠江守に叙任する[7]。


都では後白河法皇と木曾義仲の反目が顕在化し、
法皇は頼朝に上洛を促すと頼朝は法皇に要請して寿永二年十月宣旨の勅令が発布される。

頼朝はこの勅令により義仲や甲斐源氏に対して優位の態勢を整え、
翌寿永3年に源範頼・義経の義仲追討軍が上洛すると義定は義経の軍勢に加わり、
元暦元年(1184年)には宇治川の戦いで義仲を滅亡させた。



同年、一ノ谷の戦いでは、義経の搦め手軍に属し(範頼、義経、義定の三軍制だったと見る説もある)、
平経正、平師盛、平教経を討ち取る(教経については壇ノ浦で入水の異説あり)。
文治5年(1189年)の奥州合戦にも武田信光らと従軍している。
文治6年(1190年)1月26日には後白河法皇から京都伏見稲荷社、祇園八坂神社の修理の遅れや、
六条殿造営公事の怠慢を責められ下総守に転任されるが翌建久2年(1191年)3月6日には従五位上に昇叙し、
遠江守に遷任(還任)し、義定は皇室守護と遠江国浅羽荘(静岡県袋井市)の地頭も兼ねている
(また、息子・義資も越後守となっている)。


鎌倉で義定の屋敷は頼朝館に隣接する鎌倉大倉に存在したと伝わり、
同年3月に行われた鶴岡八幡宮の法会では、参拝する頼朝の御供の筆頭に義定の名が見られる。


甲斐源氏の有力武将は頼朝によって次々と排斥されているが、
建久4年(1193年)に義定も子の安田義資が院の女房に艶書を送った罪で斬られ、
義定も所領を没収されている[8]。
同時に遠江国守護職も解職。
翌建久5年(1194年)、義定は謀反の疑いで梟首された[9](永福寺事件)。
享年61。


             要するに源頼朝支配を確立するために余計な源氏とうことで粛清されたのでしょうね。




『鎌倉大草紙』に拠れば、追討使は梶原景時と加藤景廉で、
義定は法光寺(放光寺、山梨県甲州市、旧塩山市)において自害したという。

また、『尊卑分脈』に拠れば義定が誅された場所を「馬木庄(牧庄)大井窪大御堂」と記しており、
これを放光寺阿弥陀堂、あるいは窪八幡神社(山梨市)と解釈する説がある。

安田氏の滅亡後、牧庄などの遺領は景廉に与えられたといわれる、加藤氏と牧庄を関係付ける史料は見られない。



山梨市上井尻の雲光寺には安田一族の墓所とされる大五輪塔群がある。

脚注[編集]
1.^ 『甲斐国志』巻39、また、甲州市塩山竹森の玉緒神社旧蔵の応安2年(1369年)大般若波羅密多経奥書には八幡荘内の安田郷の存在を記しており、安田氏の本貫地が明らかになっている。『大般若経』奥書は『山梨県史』資料編、『山梨市史』資料編古代・中世に所載。
2.^ 『吾妻鏡』治承4年9月10日条
3.^ 『吾妻鏡』治承4年10月14日条
4.^ 『吾妻鏡』、『玉葉』、『源平盛衰記』
5.^ 『吾妻鏡』治承4年10月21日条
6.^ 甲斐源氏の位置づけについては安田元久『鎌倉幕府と源頼朝』などを参照。
7.^ 義貞の遠江支配を示す資料として滋賀県東近江市伊庭地区の柳瀬在地に伝わる大般若波羅蜜多経巻二百二十巻があり、奥書部分に願主として義定の名が記されており、奥書によれば文治4年に義定が願主、僧賢栄の筆で巖室寺地極谷で書写されたという。
8.^ 『吾妻鏡』建久4年11月28日条と同年12月5日条
9.^ 『吾妻鏡』同年8月19日条
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 12時03分19秒 ) パスワード

http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike48.html


史実の長田父子の最期

 長田(平)忠致は、尾張国内海荘、駿河国長田荘を所領とし、その地方に勢力をはった在地武士です。
                       ⇅
                     長田氏の領地って尾張の内海と駿河の長田だったの?
                     駿河の方は知らなかったです 


東国を目指して落ち延びる途中に頼ってきた源義朝を討ちました。
その後、反平氏の行動をおこした甲斐源氏の武田信義らの駿河侵入の記事に「長田入道」の名前が出てきます。


「長田入道」は、目代橘遠茂とともに防戦しますが破れ、
長田の子息2人は梟首されました(『吾妻鏡』治承4年10月13日14日条)。

しかし、「長田入道」が忠致なのかどうかは研究者によって意見がわかれるところです。


わたしは婿の鎌田正清が父の代から駿河国に住し鎌田を名のっていることことから推測して、
「長田入道」が忠致であってもおかしくないのではと思います。


また同日条からは、「長田入道」がどうなったかはうかがえません。
『保暦間記』によると、忠致は鎌倉に捕えられており、
建久元年(1190)10月頼朝の上洛に際し、青墓宿で斬首されたことがみえます。




伝説の長田父子の最期

 平治の乱に敗れた源義朝は、東国を目指して落ち延びる途中、尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)で、相伝の家人長田忠致・景致父子の奸計によって湯殿で命を落とします。長田忠致は、義朝の乳母子・鎌田正清(政家、政清とも)の舅でもありました。

 『平治物語』によって大筋を追ってみます。長田父子は、義朝に入浴をすすめて油断させたところを、だまし討ちします。平家の恩賞を受けるために義朝の首を都に持参し、忠致は壱岐守に、景致は左衛門尉に任じられます。しかし、それを不服として尾張国も賜りたいと繰り返し願ったため、

平家からは相伝の主人と自分の婿を討った大罪人として、
罪科に処すると脅されました。

      脅したヒトは平家貞と聞いています。
      6男が服部家長。


長田父子は恐れをなし、尾張国に逃げ帰ります。
古活字本『平治物語』には、その時に長田が残した狂歌として、
「落ち行けば命ばかりは壱岐守身のを終りこそきかまほしけれ」で結び、
その狂歌の落ちとして次の話につなげます。


長田父子は鎌倉に参上し、自らの罪過を訴えると、頼朝は勲功をあげれば罪を許し恩賞として美濃・尾張を宛がうと約束します。

長田父子はこの約束に歓喜し、平氏追討に軍功をあげました。



しかし平氏滅亡後、頼朝は約束通りに「美濃・尾張(身の終わり)」を賜うとして、長田父子を義朝の墓前において磔にします。

長田の辞世の歌が、「ながらへて命ばかりはいきのかみ身のをはりをば今ぞ賜る」で、「身の終わり」は「美濃・尾張」にかけられ、「壱岐」は「呼吸(いき)」あるいは「生き」がかけられています。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 12時08分56秒 ) パスワード

http://ameblo.jp/blogbears/entry-11404844753.html

2012-11-16

遠江国説話集273〜丸塚と平家の落人(浜松市東区丸塚町)。


丸塚と平家の落人

文治年間の頃のことであるという。

西海、檀の浦での海戦で、九郎判官義経に敗れた平家一門は、あるいは海に入って死を選び、あるいは山に逃げて余命を長らえた。中にはまた、数名の部下と共に、身を下賤の姿にやつし、安住の地を求めて、遠い国までもさすらっている者もあった。


ある日、丸塚の村はずれを、乞食のような二人の旅人が通った。
村人がふと見ると、中の一人はつづれは着ているが、その顔は美しく、匂うような眉と口もと、自らもつ貴人の相であった。


「はて、あれは・・・」
と、不審を感じた。先頃来、鎌倉の政府からは

「平家の落人と見れば、直ちに訴え出よ。訴えた者には分に応じて賞を取らせる。もし万一、知って訴えざる者、匿まう者は死罪とする」
と、通達があったばかりである。


「きっと、それに違いない」
賞も欲しいが、それよりも死罪が恐ろしかった。村人の代表は直ぐ、この地を統治する地頭の元に走った。


「申し上げます。平家の落人と思われます両名、私の村を通っておりまする」
「左様か」

地頭の率いる役人の一行は、時を移さず飛んで来て、旅人を捕らえた。
「その方達は、何れの者ぞ、名を名乗れ」

「名もなき、山の国のもの」
「いや、その顔立ちを見れば分る。平家に見方したものであろう、名を名乗れ、名を」

「はしたなき、旅の者で・・・」
「これ、つまらぬ意地は張らぬがよいぞ。おぬしの顔を始め、供の一人を見れば、疑う節は数々ある。それならばこのまま縄をつけて、鎌倉表へ送るのみじゃが、よいか」

すると二人は、互いに顔を見合わせていたが、ふとうなずき合うと、主人らしい一人は

「・・・それ程までに言うなれば、今は致方もない。私を首にして鎌倉に送られよ。しかし、これなる供人は、私にはかかわりのない者、命だけは救けて、国に返してはくれぬか」

と少しも騒がず、そこの草の上に端坐した。

そして袋に入れた黄金作りの太刀を出して、すらりと抜いて腹にあてると
「おう、さらばじゃ」と供の男に微笑して礼を述べ
「さ、首をはねよ」
と地頭に指図し、更に

「南無、大慈大悲の観世音菩薩」
と仏名を唱えて腹を切った。


地頭の一行は直ちに彼の首をはねたが、その死路の潔さに感心し
「きっと、平家でも名のある公達であったろう」
と噂した。

そして彼の懐中を調べると、一巻の歌書が現れてきたので

「矢張り」
と、地頭はその首と歌書を、鎌倉に送ってやった。



その後、村の人達は、彼の遺骸をこの地に葬って、塚を築いてやった。
それ以来ここを、丸塚ということであるという。



(遠州伝説集)




註:丸塚の意味は、『角川日本地名辞典 22 静岡県』(角川書店)、『町名の由来 静岡 清水 浜松 沼津』(静岡新聞社)でも書かれておりません。


この伝説が所収されている『遠州伝説集』(御手洗 清 遠州タイムス社)によれば、
「おそらく円墳があったことであろう。太古は天皇皇后を始め、諸高官、地方豪族などの墳墓は、大きく土を盛り上げて、小山のような丸塚を作ったものである」と推測していますが、不明です。

同区内の西塚、名塚と関係があるかもしれません。

[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 12時23分26秒 ) パスワード

http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh25_bushi/sh25_bushi.htm

駿河国の橘と長田の領地が地図に出ています。
伊豆の鎌田も出ています。


    このサイト
    非常に興味深いですよ!



以下コピペ




平氏政権下の在地武士団

 平治の乱により源氏主力が壊滅した結果、武力の項点に立つ清盛の地位が固まった。 清盛は乱の翌年に、武士としてはじめて公卿となり、以来わずか7年後の仁安二(1167)年には、従一位太政大臣にのぼって位人臣をきわめた。


 やがて治承二(1178)年十一月、娘の徳子(建礼門院)が高倉天皇の皇子言仁(ときひと)(安徳天皇)を生むと、嬉しさあまった清盛が、富士の綿(駿河国富士郡所産の真綿(まわた))2000両・砂金1000両という途方もない贈り物を後白河法皇に進上し、人びとのひんしゅくを買ったとする所伝がある(『平家物語』)。

    

 富士の綿にせよ砂金にせよ、駿河国や奥州など、平氏政権と東国諸国との深い関わりを抜きにしては考えられぬ話である。 以下、平氏全盛時代の駿・遠・一旦二国支配の状況を一瞥しておく。



 駿河国は治承三年正月以前に平宗盛の知行国になり、
国守平維時(これとき)・日代(もくだい)(代官)橘遠茂(たちばなとおしげ)があった。

                   ⇅  ビックリ!
                  

 また大岡荘(牧)や、蘇弥奈牧の故地と推定される服織(はとり)荘は、
ともに平頼盛が領知する荘園であり、


                服織荘が頼盛の荘園!!!!!
                    ウッソー


大岡牧は母方の叔父牧宗親(まきむねちか)があずかり知行していた。




 宗親の娘が前述の牧の方である。 
そのほか、益頭(ましず)荘(藤枝市・焼津市)・富士神領(旧富士郡一帯カ)に平氏の領有権がおよんだのは、ほぼ確実とみられる。


 こうした、知行国・荘園制という原理を媒介にする支配の拡大方式のほかに、
武家権門としての平氏は、国家の軍事警察権を専掌することによって、諸国の武士を支配下におく方策もあわせとった。


 遠江・伊豆や他の近隣諸国の場合と違って、
駿河武士について平時における平氏との関係を直接に語る史料はみいだせないが、
のち、頼朝の挙兵準備の報を、いちはやく平氏中枢に注進したのは、国府(静岡市)近くの武士長田入道某だった。 


                                 あの長田さん?



また、岡部五郎・荻野五郎・阿佐摩(あさま)二郎(浅間三郎とも)は、頼朝に敵対した(駿河)武士として、物語文学に名をとどめている。


 彼らにかぎらず、多くの駿河武士が源平内乱(治承・寿永(じしょうじゆえい)の乱)の初期段階では、
目代橘遠茂に率いられ、平氏方として参戦したこと自体は間違いない。




 遠江国は保元三(1158)年以来、重盛・宗盛・基盛(もともり)・頼盛ら平氏一門が国司の任を重ねたところであり、
平氏領となった荘園なども少なくなかったと思われる。 


とくに重盛に関しては、笠原荘を起源とする広大な荘園の初代「地頭」とする、かなり信頼性の高い所伝がある。


            ここに重盛ゆかりの3つの寺が関係しますか?



 鎌倉幕府の地頭職に先行する平安時代の「地頭」の存在は、すでにいくつか知られているが、
東国にその例は珍しく、
しかも平氏「地頭」が直接鎌倉幕府の地頭職に転換したと主張する点で貴重である。


以下略
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 12時36分27秒 ) パスワード

牧宗親


牧 宗親(まき むねちか、生没年未詳)
平安時代末期の駿河国大岡牧(沼津市)の豪族。
大舎人允。
北条時政の後妻である牧の方の父もしくは兄。
通称は三郎。
子に大岡時親。



平家一門である平頼盛に長年仕えており、
頼盛の所領で北条氏の本拠に近い駿河国大岡牧を領有していた。


『愚管抄』によると、牧氏は「武者にもあらず」と記されており、下級ながらも貴族の出身であった。


頼盛の叔父とする説がある[1]。      ⇔   あらあらあら・・・・


       ということは
       重盛ゆかりの3つの寺が鎌倉時代に保護された可能性が高いですね
   
       案外清盛・重盛の菩提を弔ったとされる話も
       頼盛がらみだったかもですね。

            頼盛にすれば清盛の呪いは恐ろしかったでしょうし
            頼盛が清盛の為に寺を建てた  または  保護したとも考えられますね
       


北条政子の命で源頼朝の愛妾・亀の前が匿われていた伏見広綱邸を破壊したことから頼朝の怒りを買い、髻を切られる恥辱を受けた。


この事件で頼朝の岳父であり、宗親の婿でもある時政が頼朝への抗議として一族を率いて伊豆国へ引き上げる騒動になっている。


子の時親は牧氏事件で出家している。


脚注[編集]
1.^ 『尊卑分脈』に見える頼盛の母宗子の弟・藤原宗親と同一人物とする。杉橋隆夫1994

出典[編集]
杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」『古代・中世の政治と文化』上横手雅敬監修、思文閣出版、1994年、ISBN 4784208186

関連項目[編集]
駿河牧氏



やはり日本は親戚だらけ。
一筋縄では理解が難しいですね。



平家滅亡後、平家の菩提を弔うということで
頼盛の家老だった宗清が関係してたことも充分考えられますね。



また浜松や駿府の家康に仕えた服部家が   宗清の子孫  を称したことも
地理的にも
考えられますね。


服部中保次の家は宗清子孫を称しています。

     中保次   アヤシイ

     
三つ柏さんのご先祖さまに関わる人物として   納 得  です。

[29]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月30日 13時25分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス24から一気にあを様「炸裂」ですね。ただ今より読解いたします!
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 13時59分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


もうビックリの連続でした。


北条時政の後妻の牧の方の実家が平清盛の弟の頼盛の母上の家と関係があったとは。

更に頼盛の母上の池禅尼と家老の宗清は源頼朝の命を助けた。


そして平家が滅亡。


北条時政が遠江国を貰っても全くおかしくないし
時政が平家の菩提寺(ということにします)を保護してもおかしくなかった。


その上に服織荘まで頼盛領だった?


もうクラクラしてます。


でも土地勘が全く無いので距離感とか分からないし
あのヒトとあのヒトが親戚だった?と人間関係も分かってないし


でも「日本」ですからね。
みんな親戚なんですよ
知らないだけで。


三つ柏さんのご先祖さま、平家にも源氏にも、
物部にも秦にも
出雲にも卑弥呼にも
熊野神社にも


日本の歴史と共にエンエンと続いて来たのかもですよ。


中保次だって、遠江国は自分の先祖のゆかりの地
という意識があったのかもね。


ではもう少し調べてみます。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 14時10分15秒 ) パスワード

http://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/article/faith/data/data/3_SyouenBunpuZu.htm

熊野関係の荘園

上皇・貴族らが熊野三山に寄進した神領荘園は全国に分布し、三山の経済基盤の中核となった。全国で延べ100カ所以上が知られる。


<熊野三山> <東山新熊野>
1田村荘(陸奥) 42切目荘(〃) 101群房荘(安房)
2豊島荘(武蔵) 43富安荘(〃) 102羽島荘(遠江)
3東条荘(常陸) 44檪原荘(〃) 103小瀬荘(美濃)
4畔蒜荘(上総) 45印南荘(〃) 104池田荘(〃)
5匝瑳南条荘(下総) 46高家荘(〃) 105立山外宮(越中)
6安房国 47富田荘(〃) 106吉富荘(近江)
7愛甲荘(相模) 48安宅荘(〃) 107三尾社(〃)
8八代荘(甲斐) 49周参見荘(〃) 108石田郷(〃)
9脇本荘(越前) 50比呂荘(〃) 109御廏荘(摂津)
10越前国 51宮前荘(〃) 110奈佐原荘(〃)
11江馬荘(伊豆) 52糸我荘(〃) 111小屋小林荘(〃)
12長田荘(駿河) 53相野荘(〃) 112円提寺(山城)
13安東荘(〃) 54財荘(〃) 113法性寺(〃)
14服織荘(〃) 55多々良岐荘(但馬) 114観音寺周辺(〃)
15足洗荘(〃) 56福田荘(〃) 115正覚寺(〃)
16峰田荘(遠江) 57鉢山寺(〃) 116積川社(和泉)
17入野郷(〃) 58浦上荘(播磨) 117吾雀荘(丹波)
18土名荘土橋郷(〃) 59栗栖荘(〃) 118志万荘(〃)
19遠江国三十三郷 60児島荘(備前) 119八太二方荘(但馬)
20遠江国某所(袋井か) 61児林荘(〃) 120志筑荘(淡路) <若王子領> <聖護院領>
21遠江国衙 62吉岡荘(〃) 121賀屋荘(播磨) 201小菅荘(信濃) 301安賀荘(若狭)
22山香荘(遠江) 63和気荘(〃) 122田中荘(〃) 202若槻荘(〃) 302爪生荘(〃)
23檜山荘(〃) 64備前国本宮斗餅田 123下端荘(〃) 203由谷郷(駿河) 303小松荘(近江)
24竹谷荘(三河) 65穂田荘(備中) 124蒲上荘(〃) 204下門真荘(尾張) 304檜物荘(〃)
25蒲形荘(〃) 66稲岡南荘(美作) 125多気荘(備中) 205窪田荘(伊勢) 305蔵田荘(〃)
26碧海荘(〃) 67稲岡北荘(〃) 126佐方荘(〃) 206西院荘(山城) 306薬王寺(但馬)
27牛野荘(尾張) 68田邑荘(〃) 127万寿本荘(〃) 207岩倉長谷(〃) 307河回荘(遠江)
28美濃国 69勝田荘(〃) 127万寿東荘(〃) 208兵庫下荘(摂津)
29草生荘(伊勢) 70周防国十貫文 127万寿西荘(〃) 209由良荘(淡路)
30御山戸(〃) 71阿波国十烟 128三入荘(安芸) 210筑佐荘(〃)
31八対野荘(〃) 72日置荘(阿波) 129彦山(豊前) 211万寿本荘(備中)
32栗真荘(〃) 73富田荘(〃) 211万寿東荘(〃)
33紀伊国二ヵ郡 74讃岐国十烟 211万寿西荘(〃)
34紀伊国十烟 75伊予国十烟 212怡土荘(筑前)
35田辺荘(紀伊) 76西条荘(伊予)
36佐野荘(〃) 77土佐国十烟
37上秋荘(〃) 78大忍荘(土佐)
38大野荘(〃) 79広川荘(筑後)
39芳養荘(〃) 80八代荘(肥後)
40南部荘(〃) 81津守荘(豊後)
41薗財荘(〃) 82高知尾荘(日向)

           宮家準『熊野修験』より(吉川弘文館、1992年)



以上こぴぺ。



以下に整理します:


<熊野三山>

11江馬荘(伊豆)
12長田荘(駿河)
13安東荘(〃)
14服織荘(〃)          駿河国の服織荘ですか・・・
15足洗荘(〃)
16峰田荘(遠江)
17入野郷(〃)
18土名荘土橋郷(〃)
19遠江国三十三郷
20遠江国某所(袋井か)
21遠江国衙
22山香荘(遠江)
23檜山荘(〃)




<東山新熊野>

102羽島荘(遠江)     羽鳥の入力間違い?  羽島で合ってるんでしょうか?




<若王子領>
203由谷郷(駿河)




<聖護院領>
307河回荘(遠江)

[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 14時22分51秒 ) パスワード

https://kotobank.jp/word/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%9B%BD-85259


1番下の「駿河国」の記事が大事です。
コピペします:


       平安後期から鎌倉期にかけて、
       大沼鮎沢御厨(おおぬまあいざわのみくりや)、大津御厨など広大な伊勢(いせ)神宮領の御厨が生まれた。

                   ココね
                    ↓

       また、八条院領服織荘(はとりしょう)、円勝寺領益頭荘、熊野那智山領北安東荘などの荘園ができ、
       それら荘園の荘官および京都から下向した在庁官人などが土着し、有力な在地勢力ができた。


       この部分の「八条院領服織荘」ですが
       八条院は平家と親しかった八条院?
       とビックリです。














駿河国   するがのくに

現在の静岡県中部。東海道の一国。上国。もと珠流河国造(するがのくにのみやつこ),廬原国造(いほはらのくにのみやつこ)の二つの国造があった。珠流河国造は『旧事本紀』にみえ,のちの駿河郡を中心にした地方であったと思われる。



旧国名。駿州とも。東海道の一国。現在の静岡県中央部。《延喜式》に上国,7郡。中世の守護は北条氏の得宗(とくそう),次いで今川氏。同氏滅亡後,徳川氏の領。近世,駿府(すんぷ)城代がおかれ,同時に沼津・小島(おじま)・田中の3藩が新設された。




現在の静岡県中東部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の静岡市におかれていた。平安時代には皇室領、摂関(せっかん)家の荘園(しょうえん)のほか、伊勢神宮の御厨(みくりや)が各地にあった。鎌倉時代には北条(ほうじょう)氏が守護職を世襲、南北朝時代以降は、今川氏が領国支配を続けた。1560年(永禄(えいろく)3)の桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)が織田信長(おだのぶなが)に敗れたのちは一時期武田信玄(たけだしんげん)の支配下にあった。1582年(天正(てんしょう)10)に徳川家康(とくがわいえやす)が領有、江戸幕府成立後、ここに隠退した。江戸幕府は駿府(すんぷ)城代をおき、同時に数藩を併置、幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により静岡県となった。◇駿州(すんしゅう)ともいう




旧国名。駿州。現在の静岡県の中東部,大井川以東,伊豆半島を除く地域に位置する。
【古代】
 東海道に属する上国(《延喜式》)。国名スルガは,富士川以東の地域にあった〈珠流河国〉の名を継承したものと思われる。珠流河国造と廬原(いおはら)国造の支配領域をあわせて駿河国が形成されるのは7世紀中葉と思われ,680年(天武9)には2郡を割いて伊豆国を分置した。志太(しだ),益頭(津)(ましつ),有度(うと),安倍,廬原,富士,駿河の7郡を有し,当初は中国であったが,奈良時代末の768年(神護景雲2)ころまでには上国に転じた。



              ココ大事!
               ↓

現在の静岡県東部および中部に位置した旧国名。駿州(すんしゅう)。大井川より東の部分で伊豆国を除いた地域である。

大化改新前にあった珠流河(するが)国(富士川以東)と廬原(いほはら)国(富士川以西)、それに伊豆国の3国が大化改新による国郡制の施行によって統合されて駿河国になり、

さらに680年(天武天皇9)伊豆国が分かれて、後の駿河国の範囲となった。「スルガ」の語源については、富士山・愛鷹(あしたか)山麓(さんろく)に自生するヤマトリカブトのアイヌ語「スルグラ」に由来するという説もあるが、

流れが速く鋭い富士川にちなんだものともいう。


737、738年(天平9、10)の「駿河国正税帳(しょうぜいちょう)」によると、当時の耕地面積は9676町余、田租(でんそ)は1万4514石余で、人口は6万7500人と推定されている。


郡は東から駿河(のち駿東(すんとう))、富士、盧原(庵原(いはら))、安倍(あべ)、有度(有渡)(うど)、益頭(ましず)、志太(しだ)の7郡があり、

『和名抄(わみょうしょう)』には59郷が記されている。国府は初め旧珠流河のあった駿河郡駿河郷に置かれたと推定されるが、のち安倍郡に移された。


現在の静岡市葵(あおい)区長谷(はせ)町付近と考えられている。伊豆国が独立するまでの間は上国(じょうこく)であったが、田方(たがた)・賀茂(かも)の2郡が分置して中国(ちゅうこく)となり、のちふたたび上国に復した。


平安後期から鎌倉期にかけて、大沼鮎沢御厨(おおぬまあいざわのみくりや)、大津御厨など広大な伊勢(いせ)神宮領の御厨が生まれた。また、八条院領服織荘(はとりしょう)、円勝寺領益頭荘、熊野那智山(なちさん)領北安東(きたあんどう)荘などの荘園ができ、それら荘園の荘官および京都から下向した在庁官人などが土着し、有力な在地勢力ができた。鎌倉期の守護は、甲斐(かい)の武田信義(のぶよし)が1180年(治承4)富士川合戦の直前に駿河国守護に任じられたが、1184年(元暦1)以降は鎌倉期を通して北条得宗(とくそう)家が世襲していった。


ついで南北朝期、今川範国(のりくに)が1338年(延元3・暦応1)、元弘(げんこう)・建武(けんむ)の争乱の軍功の賞として守護となり、今川氏が戦国期まで世襲した。


室町期、駿河国は鎌倉府管轄の甲斐、伊豆両国に接する幕府の最前衛の国であったため、幕府と鎌倉府の対立が激しくなるにつれ、守護今川氏は上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱(1416)、永享(えいきょう)の乱(1439)などの反乱を鎮定する重要な役割を果たした。


今川氏が1560年(永禄3)桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長に敗れ滅亡したのちは、一時期武田氏が領したが、1582年(天正10)には徳川家康が支配することになった。家康の関東転封後は駿府(すんぷ)城の中村一氏(かずうじ)ら小大名の分割領有となった。1607年(慶長12)大御所(おおごしょ)としてふたたび家康が入り、さらに徳川頼宣(よりのぶ)領、徳川忠長(ただなが)領となったが、忠長除封後は駿府城には城代(じょうだい)が置かれ、天領が広範に分布していた。江戸時代の石高(こくだか)はおおよそ25万石で、860か村を数える。


特産は茶で、また東海道の宿場が12か所もあり、交通上の要衝であった。1868年(明治1)徳川家達(いえさと)が駿河のほか遠江(とおとうみ)、三河の70万石で入り駿河藩領となり、廃藩置県によって71年静岡県となった。[小和田哲男]

[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 14時41分25秒 ) パスワード

復習


服部(服織)氏



■遠江の服部
延喜式、当国 長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり、共に古代服部の奉齋せし、神社なるべし。
而して、長上郡に服部氏の名族あり。

       これって「服織」から来ている服部なんでしょうか?



            
        伊賀の呉服明神の服部貞信系ですね
             ↓
■山城の服部
当国にもこの部民多かりしならん。又、後世 伊賀服部氏の後の服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、伊賀国呉服明神の神職、後に山城国宇治田原に住す、後 家康に属す)−貞富、家紋 車輪竪二本矢、七本矢、矢の字桔梗」と。

又、京都の人に服部元喬あり、もと伊賀の服部より出づと云う。荻生徂徠門の俊才にして、南郭と号し、服 南郭と称す。宝暦卒。その長男 惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名ありしも、また早世す。よりて門人 西村元雄を季女に配して家を継がしむ。又、国学者服部中庸は、元居門にして、水月と号す。

又、服部敏夏あり、これも本居門にして、通称を中川屋五郎右衛門と称せり。又、剣客に服部藤次兵衛あり、神後伊豆守の門(新陰流)、皆 京都の人なり。



■駿河の服部
当国安倍郡に服職庄あり。而して、後世 服部氏多く、又、府中浅間社家に服部氏見ゆ。

     ここも「服織」からの服部でしょうか?





以下は  今回はどうでも良いこととしますが  少々感想を書き入れました。



古代職業部の機織り部門を担った機織部の服部(hatoribe)に由来する姓氏。「ハタオリ」「ハトリベ」から「ハトリ」そして「ハットリ」と呼ぶようになった。衣食住の「衣服」に関係する職能部族には「綾部」「錦織部」や「衣縫部」「赤染部」などがあり、それぞれ姓氏として名残をとどめているが、その中でも服部氏が一番多い。その居住地が服部の地名になった。
 服部は、文明が高く人口の多い畿内から、全国の主要地に配置されていった。それらを中央で統轄する伴造が服部連であった。この系統の有力な服部氏は、山城・大和・摂津・河内・伊賀・伊勢・三河・武蔵など、当時の文化地域に進出していった。

 代表家紋は「矢車」と「矢筈」。



■大和の服部
和名抄 当国山辺郡に服部郷を収め、波止利と註し、東大寺要録に服部の荘を載せたり。又、延喜式 城上郡に服部神社あり、皆 この部の在りし地なり。又、後世 高市郡の医師に服部時寿(子篤)あり、宗賢と号す。高取藩に仕う。名医なり。


■摂津の服部
和名抄 当国 島上郡に服部郷を収む。又、延喜式に服部神社、荘園目録に服部御領を載せたり。又、服部城あり、松永久秀築く。当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。又、後世、大阪 神戸などに服部氏多し。




■武蔵の服部
和名抄 当国都筑郡に高幡郷、幡屋郷、また、男衾郡に幡々郷、また、久良郡に服田郷を収む。服部の部民の多かりしを知る。後世、久良岐郡の名族にこの氏あり。

新編風土記に「服部氏(弘明寺村)。先祖を玄庵道甫と云う。村内 寶林寺の開基なり。相伝う、元は伊賀国名張の城主なりしと云えど、正しき伝えはなし。後、故ありて跡をくらまし、当所に来て隠棲し遂に農民となれり。されど系図は無し、先祖より持ち伝えし物とて、甲冑二領、刀、短刀五振、文書四通を蔵せり」と。


又、足立郡服部氏は、二本矢を家紋とす。


          つまり  伊賀系  でしょうね。
          とくに  名張系  でしょうか? 



■両総の服部
和名抄、下総国埴生郡に酢取郷を収む。後世、羽鳥村の残るを見れば、羽鳥の誤りにて、この部のありし地ならん。後世、豊田郡下石毛村の人 服部謙蔵・波山は、書家として名あり。


           中臣羽鳥関係かも?


■常陸の服部
真壁郡に羽鳥郷あり、この地より起りしもあらん。


      これは特に  中臣羽鳥  関係じゃないでしょうか?


■近江の服部
和名抄、野洲郡に服部郷を収め、八土利と註し、高山寺本には、波止利と訓ず。後に服部村あり。この地名を名乗りしもあらん。


■美濃の服部
和名抄、当国安八郡に服織郷あり。


■奥州の服部
磐城国標葉郡、岩代国会津郡などに羽鳥の地名あり。この部民のありし地か。この地名を名乗りしもあらん。田村家臣に服部氏あり。又、新編会津風土記に「耶麻郡猪苗代 進功霊社。社司服部安休尚由の社なり。安休は初め春庵とて、林道春の弟子にて、後、保科正之に仕え、侍臣となる。天和五年没す」と。


■越前加賀の服部
天平神護二年の越前国司解に「余戸郷戸主 服部子虫、鹿蒜郷戸主 服部否持」など見え、又、和名抄、今立郡に服部郷を収め、波止利と註す。又、神名式に「江沼郡服部神社」見ゆ。


■因幡の服部
和名抄、法美郡に服部郷を収め波止利と註す。又、神名式、法美郡に服部神社を載せたり。後世、服部庄起こる。この地より起りしもあらん。


■伊賀の服部氏
当国阿拝郡に服部郷あり。延喜式、阿拝郡に小宮神社あり。伊賀考に「小宮は、服部氏の惣社にして、伊賀国二之宮」と云い、三国地誌に「昔は服部の輩、阿拝郡を領地せる故に、服部の社もありと、永閑記に見ゆ。土俗なべて服部氏を秦人の裔となすは、非なり」と。この氏族滋蔓して、伊賀一洲に散在す。平内左衛門尉家長が源平盛衰記に現われ、その名最も高ければ、この族を桓武平氏となすもの多し。

又、東鑑 文治二年六月二十八日條に「左馬頭能保の飛脚参着す。去る十六日、平・仗 時定(平家物語には、服部六郎時定)、大和国宇陀郡に於いて、伊豆右衛門尉源有綱(義経の婿)と合戦す。而して有綱、敗北し、右金吾相具し、深山に入りて自殺し、郎従三人傷死し了んぬ。残党五人を搦めとり、右金吾の首を相具し、同二十日、京都に伝う云々。これ伊豆守仲綱の男なり」と。


又、円覚律師、これは服部広元の子にして、京都 法金剛院、及び清涼寺の僧侶たりしが、慶長元年卒すと。

            ↑

        これは岡崎の大樹寺の関係で服部広元の名前が出たんじゃなかったでしょうか?
        こんがらがってますでしょうか?




■三河の服部氏
服部系譜に「将軍義晴 臣 服部半三保長(石見守・三河に来たり松平清康に仕う)−石見守正成(半三・遠江国八千石)−石見守正就、弟 伊豆守政重(半蔵・三千石・後 松平定綱家臣)」と。

編年集成に「服部半蔵正成、伊賀組 二百人にて、谷村城を守る」と。寛政系譜に「家紋、八桁車の内竪矢筈二、十六桁矢筈車、十六葉菊、むかい蝶矢車」と。

■伊勢の服部氏
和名抄 奄芸郡に服部郷あり、八止利と註す。この地より起りしもあらん。永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、北畠氏に属す。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 14時51分43秒 ) パスワード

記憶が曖昧なのですが


平家が都落ちする時に?
平家の公達のどなたかが  八条院  にお執り成しをお願いするシーンがありました。

    資盛だったような?


駿河の服織荘はこの八条院なのか
調べてみましたが分かりませんでした。

平家物語をまた読んでみます。
[35]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月30日 17時43分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日はたくさんの情報をいただき、じっくり分析しメモをいたします。堂
々巡りでも、少しずつ上昇するスパイラルだと思っておりますので、探究す
ればするだけ情報量も増えますし、横糸・タテ糸・織りなす綾が見えて来ま
す。

 平家・源氏については全くの素人のわたくしも、今は一番興味あるテーマ
となって来ました。 
 しばらくはこのテーマで探究列車を走らせたいと思います。

 箱柳永田様のスレッドが浮上しています。こちらにもたまにはレスしてい
ただけたらと期待しています。

 4月には高遠へ、5月には伊那へ行く予定です。お墓を見れば過去の歴史
が少し見えるようになってまいりました。お墓の写真は1000枚以上は撮
ったと思います。家紋も想像以上に混沌としています。一昨日の連城寺の永
田さんも10種類位の家紋がありましたし、永井も見たことのない家紋があ
りました。

 いずれにしましても、終着点の見えない旅ですが、将来のサプライズを信
じて探究列車は進みます。

 本日もこれから脳にアルコール注入しなければなりません。できるだけ後
遺症のないように努めますが・・・。


 
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 22時24分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


>しばらくはこのテーマで探究列車を走らせたいと思います。

はい。
アチコチ寄り道して視点を変えたりして
   核心に迫って行ければ
と願っております。


>一昨日の連城寺の永田さんも10種類位の家紋がありました

はい
家紋はその家の繁栄の印。
裾広がりなほど、いろいろな家紋になって行きます。

その家にとって、家紋で、区別がつくのですから。
ま、逆に、差別にもなりますが。

ただ、そういう「差」「違い」を知る人はどんどん鬼籍に入って、いつの間にか他人の関係に。
残念です。


お墓の画像をお撮りになります時には、是非、お墓の住人にはご挨拶を。
そしてお礼の般若心経を。

    般若心経を覚えておいて良かったですね。
    こういう形で、まさか、役に立つ日が来るとは。
          にっこり



わたくしは駿河国の服織神社について情報を集めなくては。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月31日 02時30分09秒 ) パスワード

八条の女院:


鳥羽天皇第3皇女
二条天皇の准母
高倉の宮の叔母



     この人だったような気がするのですが
     違っていたかも。


     また調べてみます。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月31日 03時28分53秒 ) パスワード

駿河国服織荘 関連  とりあえず



http://sky.geocities.jp/cdpkw137/rekishi_14.html

狩野介貞長の「内牧」そして小瀬戸より藁科川を5KM程下流の「牧ケ谷」の「牧」(まき)の字は牧場の「牧」である。この地域一帯が牛や馬を飼っていたようである。この時代「延喜式」(えんぎしき)(905年延喜5年醍醐天皇の命により中国の唐王朝に倣った律令制度の施行細目)という古代法典で駿河の国には二つの「官牧」(かんまき・官牧は朝廷や幕府の管理下に置かれた馬(牛)の生産・飼育をした牧場)があり一つは、岡野馬牧で愛鷹南山麓(現在の沼津市)一帯にひらけ、後一つは蘇弥奈馬牧(そびな・うままき)があった。蘇弥奈馬牧は現在の富士市大渕とも前述の内牧から牧ケ谷にかけての一帯(安倍川と藁科川とに囲まれた南藁科や美和地域一帯)とも言われている。


                ココ
                 ↓

この「牧」は私牧や荘園に変わっていった。内牧付近の「牧」は「服織荘」(はとりのしょう)と転化していった。

平安時代の末期1176年の「八条院領目録」という史料によれば鳥羽天皇の皇女八条院(・子内親王・しょうしないしんのう)が父親から服織荘を譲られたそうだ。

その後鎌倉時代に後鳥羽上皇の皇女春花門院(昇子内親王・しょうしないしんのう)に鎌倉時代後期には亀山上皇の皇女昭慶門院(熹子内親王・きしないしんのう)にと代々女院領として伝領された。


                           南朝が引っ掛かりました
                            ↓           
これ等の方は、歴史的背景ーーその1で触れた「大覚寺統」であり南朝の荘園であった。


そしてこの地にある安倍城の狩野介貞長も当然の成り行きで南朝方であった。


「牧・荘園」の発達に伴いこれを守る為の武装化が領主と荘民に生じたり、世の中の治安悪化の要因で武装化が進んだ。京都(吉野)より派遣された国司・郡司が土着して武士団を形成したり私牧のお頭が親類・縁者で武士団となったりしたようだ。

この武士団と馬は密接不可分の存在であり馬を駆使して戦闘を行ったので馬を持てない部族は衰退した。


服織荘の他に北安東荘、安東荘、長田荘(安東荘は那智熊野大社の領有で北朝側らしい)が推定されており、
岡部、長田、手越、吉川、船越、三沢、飯田、渋河、矢部、入江、興津等の武将が平安末期から鎌倉時代にこれ等の荘に或いは在地の荘に関連して発生したものと思われる。

(これ等この時代に発生した武将・武士団を鎌倉武士・鎌倉武士団といっているが、上記諸氏は在住する地名を名乗ったと思われ、総称して駿河武士団という。)


服織荘についていえば前述のごとく南朝の荘園であるが、実質的権利をもつ在地の地頭は南北朝時代(鎌倉時代は文献に無し)は二階堂氏であった事が1337年の足利直義下文(くだしぶみ・上位の者が下位の者に出す公文書)写しで判明している。

二階堂氏は鎌倉武士の工藤氏の分かれで藤原維清(ふじわらこれきよ)の弟駿河守維遠(するがかみこれとう)に続く系図をもつ、藤原行政が二階堂を名乗ったようだ。

工藤氏と言うと曽我兄弟の仇討ちで有名な被害者、工藤祐経の伊豆の流れでは無く藤原維仲の流れであるらしい。

また駿河武士団の先祖は藤原維清、別名入江維清である。維清が清水の入江に居住したので入江維清ともいわれた。さて狩野介貞長の系譜だが二階堂氏と同じく維遠に続く系統とするものと、維景へと続く工藤茂光或いは狩野茂光の系統とするものが文献に見られるがどちらも確証が無いようだ。別ページの藤原鎌足以下南家の系図を参照願いたいが、「尊卑文脈」「工藤二階堂系図」その他 同じ系図になっておらずどれがほんとうかは分からない部分があります。



____________________________
この円爾というヒトの名がヒットして  サイトに行って読んだら  なんか泣けて来て
もうちょっと詳しく調べたら  泣けた  はずでした。


円爾   えんに

http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/712/1/chousahoukoku3.pdf

   コピペできません。
  

なんと、この方は平家の部門を担当した藤原=伊藤=平=忠清の曾孫になります。
ビックリ!
だからか〜
でした。



藤原=伊藤=平=忠清はもともとは平家の先祖の平貞盛と共に平将門を討った藤原秀郷の子孫です。

忠清の先祖も11世紀の初め頃に伊勢に来ました。


平家と忠清の家は刎頸の友ですから     戦国時代までね。
当然忠清の父親=俗姓は古市氏=も清盛の保元の乱や平治の乱では多いに寄与しています。

そして確か忠清一族は清盛の次男の基盛さまの乳母の家になるはず。
基盛さまは早くに亡くなってしまいましたが。

基盛さまのお子さまの行盛のお守りもしていますし。

    そうするとわたくしが捜していた 平行次 という人物はやはり行盛さま関係者かも。
    そして忠清にも繋がるヒトかも。



         ここで「重盛の3つの寺」が関わって来る話に繋がるのかも。
            ・連覚寺(磐田市竜洋中島)
            ・連福寺(磐田市二之宮)
            ・連城寺(磐田市新貝)



忠清の名が出るということは、当然駿河国の服織荘にも関係するし、円爾が駿河生まれなのも納得。



わたくしが泣けたのも、やっぱり藤原忠清に関わり行盛に関わるからか、と納得。

わたくしの12世紀の記憶にパズルのピースが1つ嵌りました。
なんせ忠清の息子の1人は恋人でしたから。

       
               ・・・来てる・・・
               彼は伊賀の予野の花垣神社で待ってるんだ
               桜が咲いてるんでしょうね 
               16年前は若木が植えてありましたが今では結構立派になってるんでしょうね


忠清は重盛の長男の維盛さまを補佐し富士川の戦いで負けてしまいました。

忠清の子孫は伊勢にいて、そりゃあ美しくて頭の良い人達ですよ、男女ともに。
    アメリカの美しいオトコに「アンタと同じ日本人とは思えない」と
言われたほどです。
    勿論アメリカの美しくないオトコ達でもうっとりするような美しさですよ。
    気性の激しさ、気の強さはさすが忠清の子孫だと納得しました。

        これ以上は誰のことかバレてしまうので書けないのが残念。
 



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%88%BE

円爾(えんに、建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。


生涯[編集]

建仁2年(1202年)、駿河国安倍郡栃沢(現・静岡市葵区)に生まれる。幼時より久能山久能寺の堯弁に師事し、倶舎論・天台を学んだ。18歳で得度し、上野長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学ぶ。嘉禎元年(1235年)、宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした(道号はなし)。なお、「円爾弁円」と4字で表記される場合もあるが、前述のとおり円爾には道号はなく、新旧の法諱を併記した「円爾弁円」という表記は適切ではない。

仁治2年(1241年)、宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た。

晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される。墓所ともなった「医王山回春院」の名は茶の持つ不老長寿の効能をうたったものと伝えられる。 なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である11月1日を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めている。

没後の応長元年(1311年)、花園天皇から「聖一」の国師号が贈られた。

博多祇園山笠の生みの親[編集]

博多の勇壮な夏祭りである博多祇園山笠は、円爾が起源とされる。

疫病が流行していた博多で、円爾が博多町人に担がれた施餓鬼棚の上に乗り、水を撒きながら疫病退散を祈祷したのが山笠の始まりとされ、今日ではこの時を山笠の歴史の始まりとしている。櫛田神社のお祭りである山笠が承天寺前をコースとし、各舁き山が櫛田神社のみならず承天寺にも奉納するのはこうした歴史的経緯があるため。


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安西氏

旗本として千三百石を領していた安西氏は、駿河国阿倍郡服織荘安西郷発祥といい、桓武平氏三浦氏の一流という。

戦国時代は今川氏に仕えていたが、安勝のときに徳川家康に仕え、江戸時代は旗本として続いた。

■安西氏の家紋
「螺貝」とするものもあるが、その意匠は不詳。また、寛政重修譜に三浦氏流を称する安西氏がみえ、その家紋は「釘抜」「丸に三つ引両」とある。螺貝紋の形のヒントとして、『寛政重修諸家譜』に掲載された塙氏の家紋が「緒付螺」とあり、その図柄は「法螺貝」となっている。「螺貝」とは「法螺貝」のことと思われるが、いかがであろう。ちなみに掲載した「三つ板屋貝」は、「家紋でわかるあなたの先祖」に記された「安西氏(下総)」に拠りました。 
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月31日 11時33分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 円爾の話、勉強になりました。

 先日の修善寺行きでわかったことを記します。
 修善寺は弘法大師との関係が有名ですが、源平の関係も残っています。
 @源範頼の墓・・・兄頼朝の誤解により修善寺に幽閉され、信功院で自刃
          した。
 A源頼家の墓・・・父頼朝の死により、源氏二代将軍となったが、四年後
          に、北条氏の策略により幽閉され、翌年入浴中に暗殺
          された。23才であった。
          源平の頃の謀殺は風呂場が多いですね。でもせめて堂々
          と戦ってほしかったですね。
 
 B十三士の墓・・・頼家の家臣で、頼家が殺された5日後、再起を期して
          謀反を企てたが殺された。

 C指 月 殿・・・暗殺された頼家の母、政子が我子の冥福を祈って建立
          した経堂。

  その他として、「花小道」という旅館がありますが、「江戸川乱歩」等
文人・画人に愛された老舗旅館があります。でも、何で江戸川乱歩なんでし
ょうか。

 今年中に、もう一度修善寺をゆっくり見て歩きたいと思っています。
 修善寺の山の上から富士山がよく見えます。伊豆から富士川までは、富士
山が毎日毎日拝む対象に自然となります―特に白い美しい富士は。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月31日 13時25分52秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E4%B9%B1%E6%AD%A9

江戸川乱歩という人は本名は平井太郎という名張の出身で
平井家は武士の家柄で、
祖先は伊豆伊東(静岡県)の郷士だった。


        下の方にコピペしましたが面白い話がありましたよ!


のちに津藩(三重県)の藤堂家に仕え、乱歩の祖父の代まで藤堂家の藩士として勤めつづけた。

2歳の頃父の転勤に伴い鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)、翌年名古屋市に移る。
名古屋の県立瑞陵高校を出てるんだそうです。



更に調べました:
http://folklore.office-maeta.jp/699.htm

伊豆の平井氏は伊豆国田方郡平井(静岡県田方郡函南町)をルーツとする。




この「平井」という地名も調べてみました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%AE%97%E6%99%82

北条時政の嫡男・宗時は伊豆国の平井郷(静岡県田方郡函南町平井)を経て、
早河の辺りで平氏方の伊東祐親軍に包囲され、
小平井久重に射られて討たれた。


   北条宗時を討った小平井久重は、
   1181年(治承5年)正月6日、工藤景光に捕らえられ、処刑されている。



    この小平井久重について更に調べました:
        http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub10-21.html
 


    田方郡 函南町
    @
    1180 紀六久重 鎌倉政権で活躍した武士
     ・1188-8 小平井の名主:紀(平井)六久重 

                 つまり本姓紀氏・俗姓小平井の平井氏の6男の久重ということですね。

                 平家方で大庭氏や伊東氏に近かった家になりますね。


      北条宗時(三郎)を
      射取つた後行方をくらましたが、
      1181-1-6 相模国蓑毛(神奈川県秦野市)で
      工藤景光に生け捕られ、4-19日に腰越の浜辺で処刑された
                      ※吾妻鏡
     
    ・平井郷は桑原郷ともに東光川河岸の郷村で平井久重はこの地の
        小武士(名主)であっただろう



     A田方郡は藤原南家の流れをくむ伊豆工藤一族の活躍が知られる





北条宗時の父・時政は建仁2年(1202年)6月、
夢のお告げがあったとして宗時の菩提を弔うため伊豆国北条に下向している。

函南町の函南駅周辺に宗時の墓がある。




つまり江戸川乱歩は本来は伊豆国の紀氏になりますね。
そして先祖は平家方だった。

だから平家時代、伊賀の名張に引っ越した?名張にも屋敷があった?

戦国時代からは藤堂家に仕えていた。




江戸川乱歩の作品が猟奇的な部分があるのは先祖が処刑されていることも影響しているのかもですね。

江戸川乱歩はお稚児さんとかのちょっと変わった性向があったようですよ。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月31日 13時40分42秒 ) パスワード

>何で江戸川乱歩なんでしょうか。


つまり江戸川乱歩にとって伊豆は先祖の地であり


    あれですよ

      「滅びし平家の怨み
       忘れたわけではあるまいな」
           これは藤原=伊藤=平=景清の怨念の言葉です。




    が分かってたのかも。
    


江戸川乱歩という人は変わった作品を書いていますから
何か「来てた」のかも。



    今日はまさかココに話が行くとは思ってなかったです。


わたくしは大庭景親って結構好きな人物で、父とか夫とかには歓迎です。

もっと興味のある人は伊東祐親で、こういう人が父とか兄とか夫では困りますが、
従兄弟とか、周りとかにいたら、結構好きなオトコだったと思います。


    今日は不思議な日です。
    やっぱり何かあった日なのか?
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月31日 13時53分41秒 ) パスワード

http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub10-21.html

これも面白かったのでコピペ:  紀氏のルーツ


紀氏の荘園・姓(国別)(9)



伊豆国

  @古代:伊豆国 国造:若建命(物部連祖天ぬ桙命8世孫)饒速日尊・物部系
          神武天皇時代 伊豆半島・諸島

・・・・・・・・・・・・・・

    ※蔭山氏 称:武内宿禰、紀氏族

    ※蔭山氏 足利持氏の七男、廣氏は蔭山を冒す、その子
       廣親ー廣忠ー家廣ー忠廣ー氏廣ー貞廣
       ・家紋:丸に抱澤瀉・九曜

 賀茂郡
    @「伊那下神社」旧:郷社
       ・祭神:彦火火出見尊・住吉三柱大神
       ・創建:不詳 造船技術を持つ森羅の帰化人の猪名部一族が
              当地に流れ着き、この地に産土神を祀る
       ・鎮座地:静岡県賀茂郡松崎町松崎28

    A「済廣禅寺」臨済宗建長寺派
       ・山号:大慈山
       ・本尊:釈迦如来
       ・住所:賀茂郡東伊豆町稲とり63−1



 下田市

  
伊豆市


 伊東市  


 熱海市



 伊豆の国市
@「守山八幡神社」=「石徳高神社」
       ・祭神:応神天皇:大山祇神・木花開耶姫命
       ・配祀:神功皇后・武内宿禰命・猿田彦命・以下略
       ・合祀:松川神・塩土老翁神・以下略
       ・創建:699年
       ・雄徳山(現:大男山)の山頂に鎮座、平安末期に寺家の神域遷座
       ・鎮座地:伊豆の国市寺家1204−1

   A「実相寺」浄土宗
       ・山号:韮山
       ・創建:1167 俊乗坊重源が東大寺再建費用で、この地に
           来た時「小松院」という真言宗の寺院を建立
       ・改宗:1392年 真言宗→浄土宗
       ・住所:伊豆の国市原木154


熱海市


 田方郡 函南町
    @1180 紀六久重 鎌倉政権で活躍した武士
     ・1188-8 小平井の名主:紀(平井)六久重 北条宗時(三郎)を
        射取つた後行方をくらましたが、
        1181-1-6 相模国蓑毛(神奈川県秦野市)で
        工藤景光に生け捕られ、4-19日に腰越の浜辺で処刑された
                      ※吾妻鏡
       ・平井郷は桑原郷ともに東光川河岸の郷村で平井久重はこの地の
        小武士(名主)であっただろう

     A田方郡は藤原南家の流れをくむ伊豆工藤一族の活躍が知られる



三島市
@国府:866-9-22 紀豊城 応天門の変で配流

      ・・・・・・・・・・・

     @「三嶋大社」伊豆国一宮・旧・官幣大社・別表神社・総社
       ・祭神:・大山祇命・積羽八重事代主神
       ・配祀:阿波神(三嶋明神の后)・伊古奈比・命(三嶋明神の后)
       ・創建:不明・伊予の三島社から迎えたという伝承がある
       ・1180 源頼朝は奉幣して戦勝を祈願し付近の園を報寶した
       ・社家:伊豆国造家の矢田部宿禰(東太夫・西太夫)で
           大三島社家の越智宿禰と同じ物部氏族 
       ・1334-8-15 神領「北中村」安富氏を正神主盛に付せしむ
                      ※伊豆 三島神社文書
       ・鎮座地:三島市大宮町2−1−5

              

A「浅間神社」
       ・祭神:木花開耶姫命・波布比売姫
       ・相殿:瓊々杵命・火明命・火蘭降命・彦火火出見命
       ・創建:不詳 三嶋大社の別宮として
       ・鎮座地:三島市芝本町6−3        
    



  ー荘園ー
    @1335「安富御厨」
       ・郡名:田方郡 三島市
           狩野川支流大場川流域
・領家:三島社領
          ・田所職:曾我氏
       ・史料村郷名:不詳
       ・明治村字:不詳
        ※鎌倉期:安富郷=関東御領=三島社領
        ※三島神社文書  
 
 
             
駿河国
 
 @古代:珠流河国 国造:片堅石命(物部連祖 大新川命児)饒速日命・物部系
          成務天皇時代 

 A古代:廬原国 国造:思加部彦命(池田坂井君祖吉備武彦命児)吉備出身
         成務天皇時代

     ・・・・・・・・・・・・・

 沼津市
    @「東口本宮富士浅間神社」旧:県社
        ・祭神:木花開耶姫命・大己貴命・彦火火出見尊
        ・創建:807年
        ・鎮座地:静岡県駿東郡小山町須走126


    A「本光寺」本門法華宗
        ・山号:薬王山
        ・開山:1274年 日蓮大聖人
        ・開基:轉阿闍梨日性(三枚橋城主景山右近の三男)
        ・住所:沼津市千本1910−185
 

    B松長(松永とも書く)愛鷹山南部=駿河湾に面した位置
        ・松永古墳群がある
        ・江戸期〜明治22年まで 松長村、現在大字松長




    −荘園ー

     @1325「金持庄」
        ・郡名:駿河 沼津市
        ・領家:新日吉社領:醍醐寺領・三千院門跡領・日吉社領
        ・史料村郷名:澤田郷・沢田山大中禅寺
        ・明治村字:松長・上香貫・三十郎新田・下香貫
            徳倉・東椎路・西椎路・東間門・西間門・我入道
            沢田・志下・獅子浜・馬込・多比・西沢田
            東沢田・沢田新田・大諏訪・口野・日守
            善大夫新田・江浦・小諏訪



 裾野市
 

 駿東郡
    @「普済寺」臨済宗妙心寺派
        ・住所:駿東郡清水町柿田46


 御殿場市

   
 富士市 
  @「実相寺」日蓮宗
       ・山号:岩本山
       ・本尊:釈迦如来・日蓮聖人・三宝尊
       ・開基:鳥羽法皇
       ・創建:1145年
       ・住所:富士市岩本1847     


 富士宮市
    @「本光寺」日蓮宗
       ・山号:鷲目山
       ・本尊:十界像
       ・創建:不詳
       ・開基・開山:1274年 日静上人
           ・遠藤左衛門が日蓮の弟子となり
            本光院日静と僧名に
       ・本寺:身延「久遠寺」
       ・住所:富士宮市黒田字五反田36


 富士郡


 庵原郡


 静岡市 旧:清水市・庵原郡を含む

@国府
       ・749年 伊蘇志朝臣東人 駿河守 紀国造族
           ・父:伊蘇志朝臣家譯 従5位上 尾張守
       ・1198年 紀朝臣光延 参河掾 藤原家実の雑色


   A駿府町奉行
       @1801−1806年 牧野靭負成傑
       A1820−1828年 牧野采女成文
       B1837−1838年 牧野左衛門
       C1847−1853年 三好大善長済(源長済)
   
          ・・・・・・・・・・

    ※根本氏 称:紀氏 家康の臣に、正成よりの系あり、
         ・家紋:丸に蔦・稲穂の丸 

・・・・・・・・・・・           

   葵区
      @「浅間神社」式内社・国幣小社・別表神社
         ・祭神:大己貴命・木之花咲耶姫命・大蔵御祖命
         ・創建:901年
         ・社殿:1804年より60年の歳月をかけて建造された
         ・1849 の絵馬「驪」
         ・駿府町奉行 1847-1853 三好大膳長済(源長済)が絵馬を
         ・鎮座地:静岡市葵区宮ヶ崎町102−1

                
                     浅間神社

      A「臨済寺」臨済宗妙心寺派
         ・山号:大龍山
         ・本尊:釈迦牟尼仏
         ・開基:今川氏親
         ・「善徳院」が1528「臨済寺」に改名 
         ・中興:1536年
         ・徳川家康が今川氏の人質になって学問を学んだ寺
         ・中村氏の墓あり
         ・静岡市葵区大岩町7−1


B「駿河城」府中城・静岡城
         ・築城年:1585年
         ・築城主:徳川家康
         ・住所:静岡市葵区城内
  
       ※1607-12 徳川家康の側室、石清水八幡宮家の志水氏の娘お亀(相応院)は
             徳川義直(尾張藩主)を産む

 

   駿河区     
      @「池田神社」旧:村社
         ・祭神:事代主神
         ・配祀:大己貴命・木花開耶姫命・武内宿禰・大山祇命
         ・合祀:須佐之男命
         ・創建:武烈天皇の時代
         ・関係氏族:池田坂井君 氏祖を祭祀
         ・鎮座地:静岡市駿河区池田1207


      A「善済寺」曹洞宗
         ・山号:応緑山
         ・開祖:「永平寺」の道元禅師
         ・静岡市駿河区中吉田33−30




ー荘園ー

     @1441「長田庄」                  長田庄ですって
   ・郡名:有度郡 静岡市
        ・領家:熊野那智山領・美福門院領
        ・史料村郷名:小坂・下島・熊野方・長田方・小坂方
               広野方・安養寺
        ・明治村字:南安東・八幡・高松・宮竹・敷地・手越河原・手越
              川辺・青木・安倍川・有東・弥勒町・中野新田・寺田
              中原・稲川・見瀬・下島・西島・東新田・上河原新田
              下河原新田・石田・丸子宿・宇津谷・広野・用宗・中島
              石部・古領鎌田・新領鎌田・大和田新田・小坂・上足洗
         ※出典:安養寺文書・熊野夫須美神社文書
※1249-7-23 ┌栄耀尼(宇都谷郷=宇津の谷の長者) 
               │
               └妹
                ‖
               紀藤次
    
   
    清水区
 ー姓ー
     ・大宅氏 武内宿禰裔 紀氏族
         ・和泉大家臣の後裔
         ・家紋:竹笠
         ・光房(後三年奥州合戦高名)光斉─清光─光延(頼朝公之時、
             駿河高橋油比西山領主也)─光盛と見える

・西山氏 紀臣族 大宅氏族
         ・光延(駿河にて高橋油比西山領主也)―季光(西山大八)とある

     ・油比ユイ氏 武内宿禰裔 大宅氏族
         ・盧原郡油比より起こる
         ・大宅系図に光延(駿河にて高橋油比西山領主也)
          ―光高(油比大五郎)―為光と見える

     ・高橋氏 紀臣族 大宅氏流
        ・光延(駿河高橋 油比 西山領主也)
             ─(高橋)光盛─盛貞と見える
          ・この子孫は石見に栄えた
          ・家紋:劔菱

        ・・・・・・・・・・・・・

    @「久佐奈岐神社」旧:郷社・式内小社
       ・祭神:日本武尊
       ・創建:不詳
          ・日本武尊が東征の際に当地に本宮を設けた
           吉備武彦が当地を治めた時に社殿を築いた
       ・鎮座地:静岡市清水区山切101


    A「実相寺」浄土宗
       ・本尊:阿弥陀三尊
       ・住所:静岡市清水区清水町12−19


    B「本光寺」日蓮宗
       ・山号:霊端山
       ・開基:六老僧白蓮阿闍梨日興の母の為に
       ・創建:1331年「慶徳寺」として、焼失
       ・復興:1570年 改称「本光寺」に
       ・住所:静岡市清水区由比617



  ー荘園ー

@1188「蒲原庄」
       ・郡名:廬原郡 庵原郡蒲原町
       ・領家:石清水八幡宮領(宮寺門跡領・別当法印幸清領)
           源雅清領・久我家領
          ・領家職:源雅清が先祖相伝してきた
       ・史料村郷名:内房郷・関島
       ・明治村字:中之郷・鍵穴・蒲原宿・小金・中・関沢・木島
             善福寺・北松野・南松野・岩淵・内房・町屋
             原・宍原・辻・江尻宿  
        ※:1126 石清水八幡宮寺三昧塔建立供養料所として設置された
        ※1156 蒲原氏は「保元の乱」で源義朝について活躍
           ・蒲原氏:藤原為憲の後裔と称し、入江權守清定の三男
                權守清実が居住して蒲原氏を称した
        ※出典:本光寺銘札・石清水八幡宮文書。大石寺文書 


  A1192「高部御厨」
       ・郡名:蘆原郡 清水市
       ・領家:内宮領・伊勢神宮領
       ・史料村郷名:高橋・興津郷
       ・明治村字:布沢・土・長尾・濁沢・高山・清地・嶺・嶺新田
            横砂・茂畑・茂島・下野・葛沢・洞・鳥坂・吉原
            谷津・和田島・小島・押切原・押切原新田・山原
            八木間・平山・広瀬・薩かせ・井上薩かせ・杉山
            下小河内・上小河内・中河内・興津宿・清見寺町
            中宿町・西方・原・伊佐布・草ヶ谷・山切・尾羽
            瀬名・瀬名川・高橋・高橋新田・西久保
            西久保新田・蜂ヶ谷・梅ヶ谷・柏尾・石川
        ※出典:神鳳鈔・静岡浅間神社文書 


    A1204「入江保」・1293「入江庄」
       ・郡名:有度郡 清水市 
           巴川右岸を中心とした地域
       ・領家:主殿寮領・官衙領・鶴岡八幡宮領・得宗領
       ・史料村郷名:楠木・長崎郷・志太良方・吉河郷・小田・三沢郷
              若宮方・倭文檪田方・別府郷・石河
       ・明治村字:大谷・池田・吉川・下吉川・村松・北矢部・有東坂
             栗原・中吉田・馬走・船越・国吉田・小黒・古荘
             宮川・片山・渋川・上清水・聖一色・小鹿・清水町
             下清水・三町河原・南長沼・南長沼新田・上原
             上原野・今泉・北脇・北脇新田・入江町・堀込
             七新屋・七新屋新田・柚木・元追分・追分・曲金
             別府・折戸・三保・沓谷・南安東・長崎・長崎新田
             西脇・楠木・楠新田・小田・中郷・一里山・谷田
             草薙・平沢・妙音寺・松井新田
        ※藤原南家の入江氏の本拠地
        ※入江氏:藤原為憲を祖とする武士団で藤原維清が
             駿河守解任後も入江に住んだので入江氏を名乗った
        ※出典:鶴岡八幡宮文書・能勢氏文書 

 
 志太郡 
   

 藤枝市


 焼津市              
      

 島田市



        


遠江国


 @古代:遠淡海国 国造:印岐美命(物部連祖伊香色雄命児)饒速日命・物部系
          成務天皇時代

     ・・・・・・・・・・・・・

 牧之原市


 御前崎市
  

 菊川市
  


 掛川市 旧:一部佐野郡を含む
    ※中村氏 紀臣族 (現:駿河区中村町)
       ・紀長谷雄→淑信→在昌→伊輔→為基→頼任→頼季→守隆→
        遠定=遠江国中村領主也)→忠遠=中村紀三郎より出る
         
     ※1563 松永太夫 
       ・今川氏より海道7ケ国陰陽博士惣別當を受ける。  
       ・子孫:博士子太夫 掛川に続く

        ・・・・・・・・・・・・

ー荘園ー

    @1106「笠原庄」
       ・郡名:城飼郡 小笠郡大東町
       ・領家:左大臣源俊房領・花山院太政大臣藤原忠雅領
           斉院領・高松神社領
       ・史料村郷名:村岡郷・土方下郷・曽我郷・閤戸・中勝
           鶴谷・得元郷・秋貞郷・中村郷・大根郷・中林郷
           岩滑郷・高松・峯田郷・来福・佐東郷・比木郷
       ・明治村字:入山瀬・今滝・旦付新田・落合・向・岸
           上土方・下土方・川久保・西之谷
        ※出典:遠江中山文書・宗有寺文書
 

    A1265「曽賀庄」
       ・郡名:佐野郡
       ・領家:長講堂領・皇室領
       ・史料村郷名:領家方・若一王子権現
       ・明治村字:高御所・篠場・平野・領家・黒田・梅林・徳泉
        ※出典:東寺百合文書・臨済寺文書・祇園執行日記



 袋井市

  @古代:努国 国造:印幡足尼(物部連祖伊香色男命孫)
         仲哀天皇時代      饒速日尊・物部系

 

 磐田市

  @古代:努国 国造:印幡足尼(物部連祖伊香色男命孫)饒速日尊・物部系
         仲哀天皇時代
  


 周智郡
    @「大光寺」曹洞宗
       ・山号:春埜山  
       ・本尊:太梵尊天・帝釈尊天・閻魔大王・守護神
           太白坊大権現
       ・創建:718年 行基菩薩
       ・住所:周智郡春野町花島22−1
     

 榛原郡



 浜松市 旧:引佐郡を含む  

@1210-12-25 定永財涸沽渡進畠新立券文案
永奉相伝「光明寺」領屋敷畠地事 
           ・「光明寺」「阿弥陀寺」
           ・領主:紀武末/貴母 大原氏子
「光明寺」
         ・本尊:三満虚空蔵菩薩
         ・創建:717年 行基
         ・住所:浜松市天竜区山東2873

      「阿弥陀寺」
         ・住所:浜松市南区三島町976


   A「細江神社」旧:郷社
      ・祭神:素戔嗚尊・奇稲田姫尊
      ・創建:850年以前
      ・古くは牛頭天王社
      ・境内社:八柱神社:祭神:武内宿禰・他
      ・鎮座地:浜松市北区細江町気賀996


   B「実相寺」臨済宗方広寺派
      ・本尊:釈迦三尊
      ・住所:浜松市引佐町金指1371


   C「普済寺」曹洞宗
      ・山号:広沢山
      ・本尊:釈迦牟尼仏
      ・開山:寒巌義尹
      ・創建:1217-1300
      ・開基:1375-1445 吉良氏の「髄縁寺」に始まる
      ・移転:1432 現地に移された
      ・住所:浜松市広沢1−2−1
    


   ー荘園ー                    長上郡が出てますね

  @1081「蒲御厨」
        ・郡名:長上郡 浜松市
        ・領家:伊勢神宮領・内宮領・東大寺領・得宗領・室町院領・

皇室領
        ・地頭職:得宗・室町院
        ・史料村郷名:安富・上郷・下郷・安間郷・安間西郷・東方・西方
               飯田郷・鶴見郷・長田郷・大塚・完栗郷・新開・端和
               多母木・竹瀬・長伊・上西須賀・下西須賀・丸塚・下
               竹間・綿瀬・別給名・次弘名・小池方・小松方・吉見方
               赤佐方・禰宜名・宮竹・西須賀・羽取方・長田
        ・明治村字:安富・安間・安間新田・北島・薬師・薬師新田・神立
              将監名・下・宮竹・宮竹新田・上之郷・西在所・西塚
              上新屋・原島・笹箇瀬・橋羽・永田・植松・大蒲・名切
              塚越・西伝寺・渡瀬・次広・別久・青屋・小松方・西之郷
              長鶴・竜光・上飯田・下飯田・福増・西大塚・東大塚
              新員・半場・鶴見・荘屋・丸塚
         ※出典:東大寺文書・松尾神社文書・神宮雑書・神鳳鈔   
   

     A1526「井伊保」
        ・郡名:引佐郡 引佐町
        ・領家:不詳
        ・史料村郷名:八幡宮・奥山方広禅寺・奥山郷
        ・明治村字:上都田・下都田・上刑部・下刑部・前山・祝田・石岡
              瀬戸・鷲沢・三獄・花平・兎荷・滝沢・川名・久留米木
              渋河・別所・四方浄・田沢・梅箇平・狩宿・谷沢・黒田
              伊平・田畑・奥山・杼窪・黒淵・白岩・東牧・横尾
              神宮寺・井伊谷・金指・五日市場・広岡・井小野
         ※出典:井伊保八幡宮鐘銘
         ※室町時代にも見える、南北朝期には「井伊郷」も見える


 浜名郡 

  
 湖西市
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月31日 22時13分04秒 ) パスワード

富士川の戦いで維盛さまを補佐した藤原忠清の名が出て動揺が続いています。


    なるほど
    元がアッチの出身だったわけですから
    土地勘は無かったというわけではなかった、ということになりますね。

    その上に重盛や頼盛の代官として遠江や駿府に部下を送っていたのでしょうから。


伊勢の平家方武門担当の伊藤氏:

藤原秀郷流の武士で伊勢国に領地を得て、
「伊勢の藤原」を意味する伊藤を名乗った伊藤基景の名字に由来する伊藤氏。

伊藤氏の代表家紋は「藤(上り、下り)」。


伊藤氏についてもっと情報:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1237679877


藤和秀郷の子孫にあたる藤原公清が、【佐藤家】を起こした。
伊藤家もこの公清の流れをくむ。

公清の子孫で【尾藤】の名字を名乗っていた尾藤基景(びとうもとかげ)が【伊勢守】という地方官に任命された。


このとき基景は、【伊藤】の名字を用いた。


この家は、桓武平氏に使えて、平治の乱や源平争乱の中で勢力を拡大して言った。

    保元の乱で伊藤兄弟は伊藤5=忠清とか伊藤6=保元の乱で討ち死にと書かれていますね。



伊東の話:

藤原秀郷の系統とは別の藤原氏の武士で、【工藤】という名字を用いた家があった。

かれらは藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の流れをくむ藤原惟千幾(ふじわらのこれちか)の子孫だった。

この一族のなかには、伊豆国の伊東に拠って、名字を【伊東】に変えた一派がある。

この家は、伊豆と関東南部でかなり発展していった。



再び伊藤氏:

秀郷の流れをくむ【伊藤家】は、東日本の各地で繁栄し、多くの家来に伊藤の名字を与えた。

そのような伊藤の名字をもつ集団が力をもった地域にいる伊東家のなかには、
名字を伊東から伊藤に変えたものも多くいた。

逆に伊藤家のなかには伊東とかえたものもいる。


ただ2系統の藤原系の武士が、【伊藤】の名字を広めていった。

ちなみに伊勢国の伊藤家の家紋が【上り藤】の家紋で、伊豆の伊東家の家紋は【庵木瓜】。


名字は変えても、中々家紋までは変えないので、区別するとすれば家紋を見て判断することもできる。



伊勢の伊藤氏の有名どころには、祖父【藤原景綱】父【上総介忠清】、子【悪七兵衛景清】などの人物がいる。


忠清の兄弟には景家、忠直、有房、能忍
忠清の息子には忠綱、忠光、光景、景清
など、中々の武士が活躍した。


【保元物語】や【平家物語】を見ると、その一族が沢山でてくる。


【悪七兵衛景清:あくしちびょうかげきよ】は、鎌倉初期の武士で藤原秀郷の後裔で、名は伊藤景清。

悪七兵衛といわれるのは、摂津国川辺郡の三室寺の住職で伯父の大日坊を殺害したことからきていて、七は七男のこと。
能や歌舞伎になってる。
http://www3.ocn.ne.jp/~mh23/heike237.htm


【上総介忠清】も同じく鎌倉初期の武士で、名は伊藤忠清。
その子供には先程の忠光、景清となる。
源平合戦の際には平氏につき、武勇を誇った。
通称五男で、伊藤五(いとうご)忠清ともいう。
また上総介とは、上総国(千葉県)の次官の意味。
http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/kazusa.htm


全国的からみても、三重県の伊藤家の多さは断トツに1位。

滋賀、京都、大阪、兵庫の各府県は【田中】の姓がトップなのにたいして、三重県だけは【伊藤】。


三重県の上位順の名字トップ10でいえば
伊藤・中村・山本・加藤・鈴木・小林・水谷・森・山口の順。

[44]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月31日 23時25分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 江戸川乱歩の話、興味深く読ませていただきました。謎が解明されまして
拍手です。

 荘園については、私もその支配の実態について調べてみたいと思っていま
す。どこまで治外法権であったのか。住民のコントロールはどうだったのか
とか、開拓はどうやったのかとか・・・。

 さて、本日は森町にある遠江国一宮、小國神社(おくにじんじゃ)を中心に
行ってまいりました。目的は、神主の鈴木氏の存在したという証拠探しであ
ります。
 まずは、小國神社は遠江の一宮でありますが、何でこんな交通の不便な山
奥に造ったのかというのが第一の「謎」でありますが、その謎はどうやら裏
山の「本宮山」にありと見当をつけております。今回、実際に神社の奥一キ
ロ位のところまで歩いて行ってみましたが、まだ5キロ位あり、引き返すこ
とにいたしました。この謎については、もう少し時間をかけたいと思ってい
ます。
 神主についての情報は得られませんでしたが、神主は亡くなられた場合は
その遺骨はやはり寺に納められるのだろうと思って、近くにある寺をまわっ
てみることにいたしました。
 小國神社の近くにはいわゆる納骨を伴う墓のある寺はないようでしたので、
2〜3キロ離れた森町市街に行ってみました。
 結果としては、2軒の寺をまわりましたが、「鈴木」の墓は両方とも結構
存在していました。それが小國神社の神主かどうかはわかりませんが、少な
くとも鈴木の墓があったという事実は確認できました。

 それとは別に、この2軒の寺で新しい歴史の事実を発見しましたので記し
ます。 

 「隋松寺」・・・山田七郎左衛門と茶阿局
   遠州森村の鋳物師山田七郎左衛門は、徳川家康の御用を勤めていたが、
  小牧・長久手の役に軍用奉仕した功により、天正15年(1587)正月
  15日、駿遠両国鋳物師惣大工職に任ぜられた。その後も大阪の陣にお
  供し、大筒の玉などを鋳立て、大いに活躍した。
   容姿端麗な七郎左衛門の妹八(はち)は、家康公に召し連れられ、金谷
  宿河村家(始祖 弥七郎)を在所とし、側室となった。八は、文禄元年
  (1592)、辰千代(家康六男松平上総守忠輝)を浜松城で出産し、於茶
  阿様、茶阿局と呼ばれたということです。

    隋松寺の裏山一帯が墓になっていますが、その最も高い所から遠く
  を見下ろすように山田七郎左衛門の大きな墓と仏塔が建っていました。

 「蓮華寺」・・・桜御前を偲ぶ陽光桜(別名 愛子桜)
   今から850年ほどの昔、平安の都に鳥羽上皇の后に仕えたという
  藤原頼長の娘がおりました。その姫は、宮中一の才色兼備で、藤原成範
  (桜町中納言)との間に小督(こごう)の局(高倉天皇側室)をもうけました
  が、政変の難により、諸国遍歴の末、遠江一宮の蓮華寺を頼って、森
  小学校のあたりに庵を結び、桜御前(さくらのごぜん)と称されたと言わ
  れます。
   桜御前は楽舞に秀でた摂関家の家柄であり、祖父の忠実(ただのり)・
  異母兄の師長は特に優れた音楽家で、貴重な雅楽譜を残しています。
   そのような環境で生まれ育った桜御前もまた楽舞に堪能であったこと
  は想像に難くありません。小國・天宮両神社に伝承する舞楽も、ことに
  よればこれに関係する人の引き合いによって伝承されたとも考えられま
  すとのことです。

   蓮華寺は、また全国遊行僧の木喰上人(もくじき)が訪れ、83才で
  一夜にして子安地蔵尊像を彫ってしまい、それが傑作として有名であ
  ります。また、この寺は別名「萩の寺」と呼ばれています。

   先ほどの「舞楽」について、本家本元の小國神社における話。
   小國神社十二段舞楽は、延宝8年の社記によれば、第42代文武天皇
  の大宝元年2月18日の例祭に勅使が参向し、十二段舞楽を奉納したと
  伝えられ、起源は古く、奈良時代から伝えられたといわれている。
   この舞楽は、和世にも絶えることなく続けられ、禰宜の鈴木左近家が
  代々舞楽師範となり、明治以降は氏子一同により、毎年4月17日及び
  18日の例祭に舞殿において連舞・色香・蝶舞・魚舞・大平舞・新まく・
  安摩・二の舞・抜頭・陵王・納蘇利・獅子舞十二段が奉納されるという
  ことであります。

   小國神社は大国主命を祀るのに、大国神社でなく小國神社にしたのは
  なぜか・・・小國神社についての謎はこれから探究したいと思っており
  ます。
   
   
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月01日 07時51分01秒 ) パスワード

小國について

           横ですが


NHKの大河で直江兼続をやってた時に
弟が小國姓を賜って
    でも気位の高い嫁がその姓を嫌って
結局大国
という姓に替えてもらった
というシーンを記憶しています。



小国氏(おぐにし)は、日本の氏族の一つ。


家名の由来

摂津源氏の流れを汲む源頼行(源頼政の弟)を祖とする一族であり、頼行の孫である源頼連が鎌倉時代に越後国刈羽郡小国保(新潟県長岡市小国町)の地頭となり小国氏を称した。以来、越後国の国人として承久の乱では頼連が北条朝時軍に参加するなどした。

小国氏は、質の高い資料において断続的に見られており、戦国期に至っても信用できる系図を持った氏族である。


南北朝時代には小国政光が、天神山城を拠点に越後での南朝方として活躍した。

建武2年(1335年)には蒲原津城を築城し、翌建武3年(1336年)には、池氏、河内氏、風間氏、於木氏、千屋氏、高梨氏らと島崎城に篭もり足利尊氏方の色部高長・加地影綱らと戦うが落城した。


戦国時代になると小国頼久は上杉謙信に仕え、第一次川中島の戦いでの後詰、越中攻めでの遊軍、佐渡征伐や関東遠征へも参加など、戦功をあげた。

謙信死後の御館の乱では一族間で上杉景勝派と上杉景虎派と分裂。戦後景勝は、腹心の直江兼続の弟、樋口与七を養子に入れて強引に小国氏を継がせ、大国(大國)と改姓。これが大国実頼となった。


実頼は後に上杉家から追放されるが、その後継者として兼続は弟・樋口秀兼の息子である光頼を指名し、家督を継承させる。光頼の後の大国家は米沢藩の重臣として存続した。



大国 実頼(おおくに さねより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家臣。直江兼続の弟に当たる。


永禄5年(1562年)、樋口兼豊の次男として生まれる。幼名は与七。上杉謙信死後の御館の乱では上杉景勝方として戦う。戦後の天正10年(1582年)、景勝の命により天神山城主小国重頼の養子となって小国氏の家督を相続した。

高野山の『越後国供養帳』によると、実頼は天正13年(1585年)8月18日に亡くなった義母(重頼室)の供養を依頼している。


天正14年(1586年)、新発田重家討伐戦に参加し、新潟城を焼打ちする。豊臣秀吉の聚楽第新築のときには祝賀の使者を務めた。このとき、従五位下但馬守に任じられる(「御家中諸士略系譜」(『上杉御年譜』23所収)に記載されているのみであり、景勝の清華成以前に、その家臣が諸大夫成するのは原則的としてないことなど諸説有り)とともに、景勝の命により苗字を大国と改めた。

以後、頻繁に上洛し、木戸元斎と共に連歌会に多く参加した。天正19年(1591年)には連歌師里村紹巴の催す連歌会に度々参加し、実頼は『米府侍組由緒』には「能書、連歌の上手」と評されている。


文禄3年(1594年)、景勝が上洛して聚楽第を訪れた際には、太刀一振・小袖10・銀子50枚を献上した。同年の『文禄三年定納員数目録』によると、村上城主として9,041石を知行し、542人の軍役を課せられている。なお実頼自身はこの時期に伏見の上杉屋敷に滞在し、村上城に春日元忠を城代として置いていた。



大国実頼関連系図

慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封に付き従い、南山城代として2万1,000石を与えられた。また同年に高野山を参詣し、清浄心院に逆修や父兼豊の供養を依頼している。そして慶長5年(1600年)に景勝が徳川家康との戦に備えて会津に神指城を築城しようとしたとき、兄の兼続と共に普請奉行を務めて功を挙げている。同年の関ヶ原の戦い後、出羽高畠城7,000石の城代となったが、城には移らず上洛して伏見に滞留した。


慶長9年(1604年)、実兄直江兼続と本多政重との養子縁組に反対し、政重を迎えるために上洛した使者(西山庄左エ門宗秀、飯田実相坊元貞)を伏見宿の旅宿に招き、長刀を振るって殺害し、高野山に逃れた。以後、高野山に隠遁していたが兼続の死後、密かに米沢北郊の中小松村に戻り元和8年(1622年)に死去。享年61。また一説には慶長10年(1605年)、実頼の家臣・樋浦与兵衛が実頼の供養を依頼していることから、この頃に死去したともいわれる。


死後の大国家と義理の子孫[編集]

実頼の死後、大国家は一時断絶するが、米沢藩2代藩主・上杉定勝の代に、弟樋口秀兼の子・光頼を養子に迎える形で再興された。なお王子製紙会長であった大國昌彦は大国家(光頼子孫)直系にあたる。


実子・阿虎とその子孫[編集]

娘の阿虎は実頼出奔後、兄の兼続が預かり、慶長14年(1609年)に兼続の養女として本多政重に嫁いだ。後に政重が上杉家を離れ前田家に帰参すると、夫の居る加賀へ行き、同地で没した。この時、本庄長房(政重以前に兼続の養子であった)ら多くの者が、阿虎に従って政重に仕えた。阿虎の子、政次は母に先立って早世した。政次の子、樋口朝政は甥の本多政長に仕え、その子の定政は加賀藩馬廻役、青地家(1000石)に養子入りした。子孫には、『可観小説』の作者で室鳩巣の高弟である儒学者の青地礼幹が知られている。


大国実頼を演じた俳優[編集]
「天地人」(2009年 演:小泉孝太郎)

[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月01日 07時58分06秒 ) パスワード

三つ柏さんの疑問にお答えします:


>小國神社は遠江の一宮でありますが、何でこんな交通の不便な山奥に造ったのかというのが第一の「謎」でありますが、
>その謎はどうやら裏山の「本宮山」にありと見当をつけております。
>今回、実際に神社の奥一キロ位のところまで歩いて行ってみましたが、まだ5キロ位あり、
>引き返すことにいたしました。


この謎について:


     社伝によれば、欽明天皇16年(555年?)2月18日、
     現在地より6kmほど離れた本宮山に神霊が示現したので、          勅命によりそこに社殿が造営されたのに始まる。

               これで良かったでしょうか?



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE

小國神社(おくにじんじゃ、おぐにじんじゃ)

静岡県周智郡森町にある神社。神紋は「右三つ巴」である。
式内社、遠江国一宮。
旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。


本宮山の南側の山麓に鎮座する。「小国」という社名は、出雲の「大国」に対する遠江の美称であるとしている。


正式には「おくにじんじゃ」(國が濁らない)とされる。しかし、地元住民など「おぐにじんじゃ」と、國の発音が濁る人が大半であることも事実。公式ホームページには、全てのページの上部にふりがなと、ローマ字表記が併記されたバナーが付けられている。


祭神[編集]
大己貴命 (おおなむちのみこと)


歴史[編集]

創建時期は不明だが、社伝によれば、欽明天皇16年(555年?)2月18日、


現在地より6kmほど離れた本宮山に神霊が示現したので、         ← ココ
勅命によりそこに社殿が造営されたのに始まる。


なお、このときに正一位の神階が授けられたと社伝にはあるが、国史での当社の初見である『続日本後紀』承和7年(840年)6月14日条では「遠江国周智郡の無位の小国天神(中略)に従五位下を授け奉る」と記されている。六国史終了時の神階は従四位上である。


『延喜式神名帳』では小社に列している。皇族や武将の信仰が篤く、遠江国一宮として崇敬を受けた。当社を一宮として記載する史料の最初は、1235年の「当国鎮守小国一宮」という記述である。江戸時代には「一宮神社」と称していた。

中世以降、朝廷の衰退により勅使が廃れたが、室町時代、戦国時代を通じて祭祀が途断えることはなかった。元亀3年(1572年)、甲斐の武田信玄が遠江に侵攻した際、当社神職は徳川家康に味方した。天正3年(1575年)、徳川家康が社殿を再建し、江戸時代に入ってからも歴代の将軍が社殿の造営や営繕、社領の寄進を行っている。

明治5年(1873年)に県社に列格し、翌明治6年(1874年)には国幣小社に昇格した。

[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月01日 08時03分09秒 ) パスワード

神職の墓について:



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1035313845

Q:神社の神主が死んだらどこに埋葬するのですか?

A:神社にお墓はありません


神職とその家族は先祖代々の墓地に埋葬されています
墓石には奥津城(=おくつき)と彫られています
少し広い場所をお借りしまして代々の神職、僧を祀っています


明治以前は神仏習合と言い、神社と寺の区別がありませんので、僧と神職が混在していることとなります


■祭祀は代々二拝の後、『大祓祝詞』奏上、二拝二拍手一拝にて拝礼します
(地域等により違いがあると思います)
http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%93%E8%A9%9E

墓地で『かしわで』うちますので少し目立ちます



■ちなみに、宅内においては霊舎(=れいしゃ、祖先の霊を祀るための神棚)にて祀っています
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月01日 08時05分55秒 ) パスワード

2.http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11120829891


神主は基本的にお寺の墓には入りません。

宗教として神道を信奉するという立場なので、仏教徒やキリスト教徒では神主はしてはいけないことになっています。ただし、例外もあります。代々の神主家ではなくその人だけが神主をした場合、先祖も子孫もお寺の檀家だった場合です。その人がたとえ神道の葬儀を望んだとしても、喪主である息子さんが将来の先祖祭祀を考えたとき、やはり仏教式のお墓に納める方が合理的です。神道側としては不本意ではありますがその決定権は喪主にありますので、やむを得ないことと黙認されています。


普通は神主の家の一族は神道の信者と扱われます。分家をして神社を継がない、あるいは一般企業に勤めて神職をしない子供たちも神道式の葬儀を行い、神道の墓に入るというのが一般的です。嫁や婿に行った場合はその家の宗教に従います。


かく言う私も神社の子ではなく、一般家庭で浄土真宗の門徒の家の長男でした。神職になるに当たって宗教の問題は避けることができず、先祖の墓をどうするかという話になりましたが、墓や先祖の祭祀権を含むすべてを二男に譲り、私が分家することで、何も変わらず家を守ることができるという結論になりました。

(私の中ではこれが最善の策と思っていますが、同じような立場のほかの神主さんは、家自体の宗教替えを行ったりもしています)

私が初代となって神式の墓を作り、子供や孫は神社の子として神道信者として育っていくことになると思います。


神道は仏教と敵対しているわけではありませんが、一応のけじめとして死後仏教の墓には入りませんし、仏式の葬儀に参列するときも数珠は持たないようにしています。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月01日 08時09分58秒 ) パスワード

3.http://blog.goo.ne.jp/yuki_mike_usagonta/e/2429f6da651a3ad3b9145c19db960ab9


私の質問。

「お寺にも教会にもお墓がありますよね?
神社にもお墓ってあるのですか?
近所の神社の敷地内で、お墓を見た事がないような気がするのですが。
神社は、骨をまつるのではなく、何か帳面に名前を書いたもの(ごめんなさい、名前を忘れました。〜帳とかいう名前だったような気がします)をまつると聞いたことがあります。
じゃあ、亡くなった人の骨って、どうするのかな?と思ったのです。物理的に。」



神職さんのお答え。

『神道は不浄を避けます 「死」も汚れとして避けます
昔は職掌があって葬式は仏教の担当だったようですね

一般的に墓地は仏教、つまりお寺の職掌(担当)だったのでしょう
でも太宰府天満宮や日光東照宮はお墓(に葬られている人)を神として祀っていますね


岡田精司先生(元国学院大学教授)は
「もともと死んだ人を神として祀る習慣は無かった」とおっしゃっています
後世の習慣となったのかもしれませんね


私は「日本人の宗教観はキャベツの皮と同じ(信仰キャベツ論)」と言っています(笑)

もの心ついて、新年には神社へ初詣に行きますねぇ
恋人ができると、キリスト教の結婚式を教会で挙げたりしますねぇ
そのうち、子供ができると初宮詣とか言って神社へ行く、七五三も同じ
やがてご両親が亡くなったりするとお寺のお坊さんがやって来て葬儀を行う
お墓もお寺にあるでしょう?


ほらっ!これって(宗教的に見て)いいかげん?(笑)
これが平均的(と言えるかどうか判りませんが)な日本人の有様です
宗教がキャベツの皮のように一枚一枚重なるんですよ
一神教の国のように「絶対神」が存在しないのが特徴です


お盆も(私はテレビを見ませんでしたが)仏教とは違った習慣というような事を聞いたことが有ります
そういう風習とか習慣が日本では重なるんです


そして時々新しい皮が破けて古い皮が顔をのぞかせる事があります
そうすると昔はやった信仰が復活するんですよ

みたけ山にはお墓が二カ所あります
いずれも谷を挟んでみたけ山本山とは離れた場所にあります
不浄を避けていると考えられます


私どもの墓石は25〜26あります
その中の江戸時代の墓石には「○○院○○」と仏教の戒名が刻んであります
江戸時代の末頃まではみたけ山にもお寺もあったと言います
昔は葬儀はお寺にお願いしていたのでしょう


みたけ山では、、、神葬祭(神道式の葬式)はあまり古くない感じです

担当の神職をすることがありますが、ご奉仕していて古さを感じません
そういうお祀りは古いものでない事が多いです』



ほほー。
そういう理由で、神社の敷地内にお墓があるのを、見た事がなかったんですね。
でも、お墓が無いわけじゃないんですね。
へええー。また一つ賢くなった(気がしているのは自分だけ?)。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月01日 08時14分05秒 ) パスワード

http://www12.plala.or.jp/HOUJI/jinja-1/newpage218.htm

大国主神社               参考にならなかったですね。すみません。


所在地:大阪市浪速区敷津西1丁目
最寄駅:地下鉄御堂筋線「大国町」下車、A号出口上がるすぐ



当神社の縁起は、社伝によれば、神功皇后が三韓出兵の帰りに立ち寄り、この地に松を三本植えて、そこに素戔嗚尊を祀り、渡航安全を祈願したのが始まりとし、この松の木にちなみ「松本宮」と称したという。


 中世以降は牛頭、天王社、祇園社などの名が残り、明治初年の神仏分離令により「八坂神社」と改称されている。
現在の社名となったのは明治20年代(1887〜96年)である。


 この「敷津松之宮」は素盞鳴尊、大国主命、奇稲田姫命、事代主命、少彦名命とポピュラーな名前の神々が祀られている。

 「大阪七福神」の1つ『木津の大国さん』で知られる「大国主神社」は「敷津松之宮」の摂社である。


この大国主神社は江戸時代の1744年(延享元年)に出雲大社から勧請されたと伝えられ、
毎年1月9日から11日には大国まつりが行なわれ賑わう。


境内には木津勘助の銅像と折口信夫の歌碑がある。

[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月01日 08時16分53秒 ) パスワード

大國魂神社                  これも期待に添えなかったですね。


https://www.ookunitamajinja.or.jp/

京王線府中駅より徒歩5分/JR武蔵野線・南武線府中本町駅より徒歩5分 
〒183-0023 東京都府中市宮町3-1 
TEL:042-362-2130 FAX:042-335-2621


大國魂神社

大國魂大神[おおくにたまのおおかみ]を
武蔵の国の守り神としてお祀りした神社です。


この大神は、出雲の大国主神と御同神で、
大昔、武蔵の国を開かれて、人々に衣食住の道を教えられ、
又、医療法やまじないの術も授けられた神様で、
俗に福神、又は縁結び、
厄除け・厄払いの神として著名な神様です。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月01日 08時21分38秒 ) パスワード

この説明も期待に添えないですね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9C%8B%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE

大國魂神社(おおくにたまじんじゃ、新字体:大国魂神社)


東京都府中市にある神社。武蔵国総社。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。


東京五社の一社[注 1]。また、武蔵国の一之宮(一宮)から六之宮までを祀るため、「六所宮」とも呼ばれる。



概要[編集]

古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの武蔵国の総社にあたる。


当社は府中市中心部に鎮座するが、「府中」の市名はかつて武蔵国の国府があったことに由来する。当社の境内地がかつての武蔵国の国府跡にあたり、境内地と市道を挟んで東側の市有地は「武蔵国府跡(武蔵国衙跡地区)」として国の史跡に指定されている。東側市有地は「武蔵国衙跡地区」として整備されており、柱跡が表示されて展示室が設けられている(「武蔵国府跡」も参照)。また、当社は府中宿の中心部近くにあり、大鳥居から武蔵国分寺や武蔵国分尼寺までの道が整備されていた。


当社の創建は景行天皇41年と伝えられ、源頼朝が妻の安産祈願をし、また源頼義と義家が奥州戦に向かう際に戦勝祈願をするなどの伝承がある。


境内は多くの社殿からなるほか、重要文化財の木造狛犬を初めとした文化財を多数伝えている。駅近くの市街地中心部に位置するにも関わらず緑の森に囲まれており、参道の馬場大門のケヤキ並木は国の天然記念物に指定されている。


例大祭は「くらやみ祭」として有名で、関東三大奇祭の一つに数えられている。


祭神[編集]

本殿の祭神は以下の通り。武蔵国の総社として、当社創建当時の武蔵国一之宮から六之宮まで(通称:武州六社明神)を祀っている。

中殿大國魂大神 (おおくにたまのおおかみ) - 主祭神。大国主命と同神とされる。

御霊大神 (ごりょうおおかみ)

国内諸神
東殿一之宮:小野大神 - 小野神社(東京都多摩市)を指す[注 2][注 3]。
二之宮:小河大神 - 二宮神社(東京都あきる野市)を指す[注 4]。
三之宮:氷川大神 - 氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区)を指す[注 2]。
西殿四之宮:秩父大神 - 秩父神社(埼玉県秩父市番場町)を指す。
五之宮:金佐奈大神 - 金鑚神社(埼玉県児玉郡神川町)を指す[注 4]。
六之宮:杉山大神 - 杉山神社(神奈川県横浜市緑区)を指す[注 5]。



創立の初期には、創建日の5月5日に武蔵国中の神官が集まり祈祷を行っていたと伝えられる。


創建[編集]

社伝『府中六所社伝』などに記された伝承によれば、景行天皇41年5月5日に大國魂大神がこの地に降臨し、それを郷民が祀った社が起源という。その後出雲臣の祖神天穂日命の後裔が武蔵国造に任ぜられ社の奉仕を行ってから、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝承されている[1]。このときの社号は「大國魂神社」。



概史[編集]

大化元年(645年)の 大化の改新時、武蔵の国府が社有地内に置かれて社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務を総轄する社となった。国司が国内社の奉幣巡拝・神事執行等の便により国内諸神を配祀し、武蔵総社の起源になった。このときに社号は「武蔵総社」となったという。


その後、武蔵国内の著名の神、六所(6社の神)を奉祀して、社号が「武蔵総社六所宮」と変わった。


康平5年(1062年)、前九年合戦平定の際に源頼義・義家父子が、欅の苗千本を寄進した。これは現在、国の天然記念物に指定されている「馬場大門のケヤキ並木」の起源である。また、神前にすももを供物として供したことから、後年この日とされる7月20日に毎年「すもも祭り」が行われるようになった。


寿永元年(1182年)、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、政子の安産の祈願が行われた。文治2年(1186年)源頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営した。貞永元年2月(1232年)、執権北条泰時の代で社殿の修造が行われた。


天正18年(1590年)8月に徳川家康が江戸へ入城してからは、 武蔵国の総社として、社領500石が寄進されて社殿及びその他の造営が行われた。


正保3年(1646年)10月、類焼により社殿が焼失。寛文7年(1667年)、徳川家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。慶応年間(19世紀中半)には、檜皮葺が銅板葺に改められた。


明治元年(1868年)、勅祭社に準ぜられた。明治4年(1872年)、社号を「大國魂神社」に改称。明治7年(1875年)、近代社格制度において県社に列せられた。明治18年(1886年)、官幣小社とされた。


平成23年(2011年)、齋館の新築、随神門の改築、手水舎の移設が行われた。



境内[編集]

祭神の「松は憂いもの杉ばかり」との謂れから、境内に松の木が植えられることはなく、地元の府中市では正月の門松に松を使わず「門竹」を使う事が多い。

本殿は一棟三殿、総朱漆塗で銅板葺。江戸時代の寛文7年(1667年)造営で、それ以前の三棟三殿から現在の形式となった。東京都の文化財に指定。

御旅所は「府中市役所前」交差点に所在する(位置)。例祭時に神輿が渡御する。隣接して府中宿の高札場(写真内、門の右手。東京都指定文化財)が残る。


[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月01日 08時24分44秒 ) パスワード

大国魂神社/大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は神社。

大國魂神社(武蔵国) - 東京都府中市鎮座。武蔵国の総社。(くらやみ祭、酉の市)

大國魂神社 (いわき市)(磐城国) - 福島県いわき市鎮座。

大国魂神社(大黒さん)- 堺市堺区 開口神社の境内外社。



読みが同じ神社

大国玉神社 (桜川市) - 茨城県桜川市
大国玉神社 - 三重県多気郡。⇒伊勢国の式内社一覧
大国玉神社 - 長崎県壱岐郡。⇒壱岐国の式内社一覧



同じ読みの前に地名が付く神社 大和大国魂神社 - 兵庫県南あわじ市
尾張大国霊神社 - 愛知県稲沢市
島大国魂神社 - 長崎県対馬市。⇒対馬国の式内社一覧
会津大国魂神社 - 福島県会津美里町。伊佐須美神社の境内外社。




ということは大国主命を対象としたいわゆる  大国神社  というのは無いようですね?

へえ〜

不思議ですね。

人気は有るのに。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月01日 08時41分55秒 ) パスワード

小督は信西の孫でしたよね。
清盛の娘の徳子の子づくり競争のライバルでした。


    
    日本で働いてた時の同僚に琴をする人がいて
      目標は小督に近付くこと
    なんて言ってました。

      名前を書きたいところですがヤバイので書かないです。
      我々に関係する名字です。




以下、小督の父上について調べました:

藤原 成範(ふじわら の しげのり)

安時代末期の公卿。初名は成憲。
藤原南家、少納言・藤原通憲(信西)の三男。
官位は正二位・中納言。
桜町中納言と号す。


鳥羽法皇の院判官代・右近衛将監を経て、久寿元年(1154年)従五位下に叙爵される。

久寿3年(1156年)、左衛門佐。同年7月に発生した保元の乱を経て、父・信西が権勢を握るとともに、保元2年(1157年)に正五位下・左近衛少将、同3年(1158年)に従四位上・左近衛中将、同4年(1159年)に正四位下と急速に昇進を果たす。

またこの間、遠江守・播磨守と地方官も兼ねた。              へえ〜


さらに、平清盛の娘と婚約し、その前途は磐石であるかに見えたが、
平治元年(1159年)の平治の乱において信西が殺害されると状況は暗転。

乱の終結後、戦乱を招いた一方の当事者として信西の罪状が問われることになり、
それに連座する形でその子息達は悉く流罪となり、
成憲も解官され下野国に配流となった。


しかし、永暦元年(1160年)2月には早くも赦免されて平安京に召し返され、
同年12月本位に復して大宰大弐に任ぜられる。またこの頃、諱を成範と改めた。

仁安元年、(1166年)六条天皇の即位に伴い従三位に叙せられ、公卿に列す。


こののち、仁安2年(1167年)に正三位、承安4年(1174年)に参議、安元2年(1176年)に権中納言、
治承4年(1180年)に従二位と昇進する。
寿永2年(1183年)、正二位・中納言に至り、同年12月に中納言を辞任。
この間、後白河法皇に執事別当として身近に仕え、治承3年(1179年)に発生した治承三年の政変において、
法皇が鳥羽殿に幽閉された際にも、兄弟の脩範・静賢らとともにその傍に出入りすることを許されている。

また、文治元年(1185年)に源義経が兄・頼朝から離反した際には、義経と同心している嫌疑をかけられた。

文治3年(1187年)2月18日、病により出家し、同年3月16日死去[1]。享年53。



人物[編集]
概して政治的な足跡には乏しく、専ら和歌などの文化面での活動が目立った。勅撰歌人として『千載和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に12首の和歌作品が採録されており、また『唐物語』の作者である可能性も高いとされる。

桜を愛し、自邸に多く植えたことにより、桜町中納言の名で呼ばれたともいう。



系譜[編集]
父:藤原通憲(信西)
母:藤原朝子 - 藤原兼永の娘、後白河天皇の乳母、従二位、典侍
妻:藤原重成の娘    男子:藤原基範
妻:藤原為通の娘    男子:藤原通成


生母不詳の子女     
男子:藤原成房
男子:藤原範行
男子:藤原兼範
男子:範賢
男子:成賢(1162-1231)
男子:定範(1165-1225)
男子:真範
男子:縁成
女子:小督(1157-?)        ⇔   へえ〜  有名人なのに母上は不詳?
女子:長新大夫信連室








http://www.chuen.net/mukashi/mukashi_049.html


桜御前


昔、都に桜姫という方がおられました。

姫は、藤原中納言の奥方になられましたが、子供が生まれて間もなく保元の乱が始まり、
中納言は敗れて島流しになってしまいました。

桜姫は、都に子供を残して尼となって旅に出ました。



雪の北陸の道から関東へ出て、都へ戻る旅は何年も続き、
10年目のころ、東海道を西へ進んでいました。

そのころ森のまちには文武天皇の勅願の寺で有名な蓮花寺というお寺がありました。
このお寺に立ち寄れば、都の様子も聞かれるに違いないと思い、
袋井より大田川をさかのぼって蓮花寺へやってきた姫は、森の町がたいへん気に入ってしまいました。


上品な顔立ちをしていて、頭も良かったので子供たちにも好かれ、
手習いも教えるようになった桜姫は、土地の人々に「御前さま」と呼ばれるようになり、
庵を結び森のまちに住みつくようになりました。


いっぽう、中納言は罪がはれて都に帰り、戦いで焼けた屋敷跡に、大きな家を建て、屋敷の中にたくさんの桜を植えました。

そして毎年、桜の花を眺めながら桜姫の帰りを待っていたために、「桜待中納言」と呼ばれるようになりました。


そんなこととはつゆしらず桜姫は、森のまちでずっと暮らしていました。



ある日のこと、桜姫は、病のとこにつき、まちの人々の看病もむなしくこの世を去りました。
気の毒な桜姫のためにまちの人々は、塚をつくって厚く葬りました。
塚に通じる道を「小御門小路」と読んだそうです。
その桜姫の石碑が今も森小学校校庭の片隅にあります。

(森町教育委員会発行「森町ふるさとの民話」より)
[55]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月01日 09時12分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんお調べしていただき感謝申し上げます。
 本日はjobで拘束されますので、後でゆっくり読ませていただきます。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月01日 22時20分08秒 ) パスワード

小督の母上の名が知られていないということで
ひょっとすると  芸人  だったのかな?
または  遊女  だったのかな?と。

     あ、当時は  遊女=芸人=白拍子  のようなものかな?


当時の藤原氏にしてみれば
天皇に妻を提供して男子が生まれればその子が天皇になるかも知れないから
そしたら自分は外祖父になれるかも。


ということで当時の藤原氏の究極の願いは  女子  を持つこと。
その  女子  は美しくなければならない。


となれば 美しい娘を得るには  美しい女に 産ませなければ。
 
美しい女はいくらでも買える。美しい女は芸人から選べば良い、となります。



ということで小督の母上の名が分からないことから、小督の母上はかなり身分が低かったのでは?と。
少なくとも藤原氏関係ではないだろう。



小督にすれば母親が誰か分からないし
高倉帝にすがったのは当然だったのだろうなと。


ま、平家物語に美しく描かれて、ラッキーな女性でありました。  
[57]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月02日 01時45分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 情報を整理しています。

 行きつ戻りついたしますが、あを様ご指摘の「服部中」ですが、状況証拠
としては随分整ってきました。それはなぜかといいますと
 @服部仲保次(初代)と大草政吉(初代)は同時代人で、しかもその後何代も
  大久保と中泉で継続して行く。
 Aどちらも平家方。
 Bどちらの家系も代官として肩を並べる。
 C領地が一方は長上郡の石田村、もう一方は長上郡善地(旧善地 天領の一
  部)でほぼ隣接している。
 D日本左衛門の捕り物にみられるように、一方は今切関所、もう一方は今泉
  代官所にて警備も行っている。
 E両家とも家康からは目をかけられている。
 F大草家はもともと長田・永田・永井である。また神職鈴木家と姻族。
 H服部も長田も神主であったことがある。
 I松島も神主であったことがある。
 J従って服部・永井・鈴木・松島は近い関係にある。
 K残るは加藤であるが、反石田三成ということで家康はシンパシィを感じ
  ていたと思われる。その末裔であるので、前4氏とは求心力は働くもの
  と思われる。
 問題は、服部仲の血筋・子孫が系図意外にいたかどうかということである。
 これは、記録には残っていないかも知れないので最大のネック。ただ、神
久呂の松下家の家紋を見ても伊賀系を感じさせるものの、その証左は見つけ
ることは難しいという事例もある。「たぶん関係しているかも知れない」と
いった表現しかできないということではある。
 
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 03時40分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


>行きつ戻りつ

そうなんですよね
結局  服部中  に戻ってしまう。


寛政重修諸家譜には   その家の秘密  が隠されているわけですから
その秘密が   宗清  なんだろうな
と思います。


同じ服部伊賀守宗純の子孫と言っても  政信  の家とはちょっと違う。
半蔵の家は服部宗純の子孫ではないから  全く  違う。

でも一族の中で婚姻を繰り返しているから  違ってても同じ  同じでもちょっと違う  この繰り返し。


もっと情報が欲しいですね。


中泉

天正15年(1587年)頃に徳川家康によって建設された中泉御殿があった[1]。
敷地1万坪とも言われる御殿は、徳川家が東海道を往復する際の休息地として利用されたが、
寛文10年(1670年)に廃止された[1]。

また、中泉陣屋(中泉代官所)が設置され、遠江国や三河国などの幕府領(天領)を管轄する中泉代官の拠点となった。
中泉代官を務めた人物には、安政大地震への対応や貧民救済で業績を残した林鶴梁がいる。


_______________________________


http://castle.slowstandard.com/25tokai/28shizuoka/post_1514.html

所在地

静岡県磐田市中泉字御殿
【アクセス】
中泉寺に陣屋裏門
中泉寺:磐田市中泉743−1、電話0538−32−5018

形状

陣屋

現状・遺構等

【現状】 市街地
【遺構等】 移築裏門(中泉寺)


             すっごく立派!

江戸幕府は遠江の天領(直轄地)支配のため、遠州地方の重要な拠点として中泉御殿の敷地内東側に中泉代官所・陣屋を構え、執務を取った。

中泉代官所は、遠江国内及び駿河の一部を支配・管理し、後代、宝暦7年(1757)における支配高は、遠江8郡(141ヶ村)、駿河2郡(58ヶ村)で5万5百余石、天保9年(1838)には6万3900石を数えた。


中泉代官は伊奈忠次や大草左衛門、羽倉簡堂、林鶴梁など有能な官僚が務めた。


明治政府が成立すると徳川家は静岡に移され、静岡藩となり、中泉代官は廃止され、かわって静岡藩の奉行が置かれた。

初代の奉行には前嶋来助が任命され、かつての中泉陣屋で執務をとりました。
前嶋はのちの近代郵便制度を創設した前嶋密である。

                     ええっ!

その後、陣屋は中泉学校の校舎として建造物が使われたが、現在は宅地化が進み昔日の面影をとどめない。

『「日本城郭大系9」、「サイト・記念誌玉匣記」ほかより』



現況・登城記・感想等

JR東海道本線「磐田駅」のすぐ南側が陣屋跡ですが、市街地となり跡形もありません。
中泉寺に陣屋裏門が移築現存していますが、特に説明板などはありません。
また、陣屋表門が、民家I氏宅(磐田市新島312)に移築現存しているそうですが、訪れませんでした。
(2014/05/15訪れて)




______________________________

よく纏めてありますね。


 @服部仲保次(初代)と大草政吉(初代)は同時代人で、しかもその後何代も大久保と中泉で継続して行く。

 Aどちらも平家方。

 Bどちらの家系も代官として肩を並べる。

 C領地が一方は長上郡の石田村、もう一方は長上郡善地(旧善地 天領の一
  部)でほぼ隣接している。

 D日本左衛門の捕り物にみられるように、一方は今切関所、もう一方は中泉
  代官所にて警備も行っている。

 E両家とも家康からは目をかけられている。

 F大草家はもともと長田・永田・永井である。また神職鈴木家と姻族。

 H服部も長田も神主であったことがある。

 I松島も神主であったことがある。

 J従って服部・永井・鈴木・松島は近い関係にある。

 K残るは加藤であるが、反石田三成ということで家康はシンパシィを感じ
  ていたと思われる。その末裔であるので、前4氏とは求心力は働くもの
  と思われる。


>  問題は、服部仲の血筋・子孫が系図以外にいたかどうかということである。



いますよ、勿論。
養子にも出ているでしょうし。


>こういうところが分かると良いですね。
>これは、記録には残っていないかも知れないので最大のネック。

はい
どこかの家の蔵に
眠っていたりするんでしょうね。



>ただ、神久呂の松下家の家紋を見ても伊賀系を感じさせるものの、
>その証左は見つけることは難しいという事例もある。
>「たぶん関係しているかも知れない」といった表現しかできないということではある。

養子に行ったのか
半蔵あたりからもらったのか

何か  あった  んですよね、それだけ重大なことが。
 



名字とか家紋とか勝手には名乗ったり使ったり出来ないですからね。



伊達みきおというお笑いの人の「伊達」姓でも
先祖は伊達氏でも、伊達政宗の時代より8代だか6代前に分かれてて
土地の名前を名乗ることになって

幕末に伊達家は官軍に負けて
この時にうまく新政府軍と交渉して伊達家を守ったということで
伊達姓に戻すことを許された
って「ファミリーヒストリー」で紹介してました。


こんなもんです
勝手に名字や家紋を使えませんでした

だから松下家が伊賀系の家紋を使うというのはそれだけの理由があって
また、殿様から許されたからです。


状況証拠の材料はかなり浮かび上がってますよね。
まだまだ頑張りましょう。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 05時09分51秒 ) パスワード

大草政吉

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1255322872

Q:
永田(大草)太郎右馬政吉

甲斐国御縄入の節伊奈備前守一同検地奉行被 仰付
彼地へ罷越候處御用中相煩帰国の節駿河国
富士の根方にて年号相知不申 子八月十九日
病死仕候
(慶長五年一六〇〇年庚子)と思われる



>甲斐国御縄入の年や場所のわかる文書とか
>富士の根方にて年号相知不申 子八月十九日病死仕候
>なにか裏付けになるような伝え在りましたら
>お聞かせ下さい、
>出典あれば尚、良いですが


A:
天正17年(1589)の徳川氏による三・遠・駿・甲・信五ヶ国総検地の事です。

伊奈熊蔵(伊奈備前守忠次)が検地奉行を務め、「熊蔵縄」「伊熊縄」と称されています。

国中地方(山梨郡、八代郡 、巨摩郡)の検地だったようです。

文禄・天正期の検地に関する史料はほとんど残って無く、
天正17年に関する史料は、『新編甲州古文書』第2巻に僅かに採録されているだけのようです。


あと大草正吉(政吉)については、「寛永諸家系図伝」にも甲州検地からの帰途に病死したと書かれています。(年次は記載していない)
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 05時12分59秒 ) パスワード

http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/1101005/

鎌田御殿


かまたごてん
長江御殿
磐田市鎌田字中屋敷
その他
徳川家康



鎌田丘陵南端部に位置していたとされる御殿


築造年代は不明。

元亀・天正年間徳川家康に仕えた大草氏に関し、
『大草家先祖書』初代政吉の項に、「鎌田御殿之御番被仰付候」、
『寛政重修諸家譜』同項に、「甲斐国平均のゝち…御厨庄の御代官となり、かの庄鎌田郷の御殿番をつとむ」とあり、

家康の五カ国支配が成立する天正期後半には存在したものと考えられるが詳細は未詳である。


磐田原東部台地南の鎌田丘陵南先端部、宇長江崎と医王寺に挟まれた標高2〜8mの小丘陵に位置したと推定される。


遺構は大部分宅地となり確認できないが、
南端の弥生後期~鎌倉時代の複合遺跡・長江崎遺跡(現在調査中)から中世遺物が出土している。


長江崎遺跡の存在により、
中世において伊勢神宮領鎌田御厨の経営・管理に機能した関連施設、あるいは集落の存在が考えられ、
のち戦国末期に鎌田御殿の地として踏襲されたことも推測できるが詳細は未詳である。


関連地名に城之越、城之腰、中屋敷、小門口等がある。


付近に家康に関する伝承が多く残る。

[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 05時17分44秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/kamokamo312/e/b28fe65ebac956a6b1eae15fcb836a4a


大草家にこんなゴシップがありました。


どのような生い立ちが「名代官:大草太郎右馬 政郷」を育んだのでしょうか?


【生い立ち】

1778年生

大草太郎右馬政郷の父・太郎左衛門は、わずか15歳で累代の官職と共に多額の借財を受け継ぎました。
それが遠因で48歳のときに八丈島送りとなります。


元禄12年に赴任した第12代倉敷支配にも「大草太郎左衛門 正清」の名が見えますから、代々の代官職を受け継ぐ中で、大草家は借財を重ねたのでしょうか……



息子である政郷も、父の罪に連座して追放の身となりました。

彼は健気にも直ちに役所に願い出て父のいる八丈島へ赴き、九年間父と辛苦を共にしました。

その孝養が賞せられ、寛政10年、父子ともに罪を赦されます。


     良かった良かった……


文化11年、念願の官職復職を果たした大草太郎右馬政郷ですが、
代官として最初に赴任したのは恐らく稲荷にその名が残る長野県中野市でしょう。


      大草代官は、前任地「中野」でも、困窮する人々を救うために奔走していたのですね!
      これは嬉しい驚きに満ちた発見です。


      昔なら到底探る術もないところですが、
     検索によってこのようなワクワクする事実を知ることが出来るネットって、
     ホントにありがたいと思います。


しかし、中野陣屋での懸案が解決した文政元年7月の直後、
同8月には既に倉敷代官として赴任していますから、
中野の人々とゆっくり祝杯を上げ、別れを惜しむ時間も無かったことでしょう。





「傑出せる手腕家」「孝子の聞へあり」「豪傑」……
倉敷人のみならず、備中一円の民も絶賛した倉敷代官・大草太郎右馬政郷。


長野県中野市では顕彰碑が建てられ、「大草稲荷」の祭神として祀られている大草太郎右馬政郷。


にもかかわらず
「最も薄倖多難の人」

とは、一体どういうことだろう?

つづく
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 05時24分47秒 ) パスワード

つづきではありませんが  1818年のところに奉行の服部伊賀守なんてのが出てますからアップ



大草太郎左衛門政薫實子惣領
一 十代目 大草太郎右馬政郷

寛政二戌年(一七九〇)二月二十三日於評定所依父の御咎
中追放被 仰付幼年に付十五歳迄親類へ御預
被 仰付候旨大目付山田肥後守申渡根来平左衛門
手前に罷在候然處父太郎左衛門被遣候嶋へつ附添
罷越先途見届申度蒙御咎候身分にて参々

奉恐入候得共奉願度段根来平左衛門大井巳之助
伴定五郎右三人へ相頼右のもの共より同月二十五日
奉願候處三月十四日願の通被 仰付候旨
青山大膳亮殿御附札を以被仰渡候段右の者
頭支配より申渡候同年(寛政一七九〇)四月十五日町奉行初鹿野
河内守於御役宅願の通被 仰付候に付出船迄
籠屋敷へ被遣候段同人申渡候同十六日父一同出船

仕翌亥年(寛政三年一七九一)四月晦日八丈嶋着船仕父一同八丈嶋
中之郷に罷在候處同十一未年(寛政一七九九)六月出嶋仕
同十八日大目付池田筑後守宅において父一同御咎
御免被 仰付候旨同人申渡夫より御勘定奉行
於柳生主膳正宅伴熊吉大井半之助へ御引渡に
相成厄介に罷成半之助手前に罷在候処享和
元酉年(一八〇一)十二月四日於躑躅間先達て父太郎左衛門に
附添配所へ罷越孝養行届候に付御咎 御免

被成候處其後の所行も弥奇特の趣に相聞
旧家の事にも候に付被 召出御切米百俵被下置
小普請入被 仰付の旨御老中御列座若年寄衆
侍座牧野備前守殿被仰渡小普請組堀田主膳

支配に入同二戌年(享和一八〇二)三月十七日彦坂九兵衛支配被成
同年(享和二年一八〇二)四月九日於同人宅寛永以来の系図調
御用相勤可申御用中為御手当年に銀十五枚
づつ被下之旨牧野備前守殿被仰渡候段同人申渡
於堀田摂津守殿御宅誓詞被 仰付け夫より御同人
御宅系図御調所へ出勤仕候同月十五日於九兵衛宅

寛永以来の系図調御用中小普請御役金
御免被成候旨牧野備前守殿被仰渡候段同人申渡
同年(享和二年一八〇二)十二月六日為冥加年始御礼登
城仕度段奉願候處同月二十五日願の通被 仰付
候旨戸田采女正殿被仰渡候段九兵衛申渡同三

亥年(享和一八〇三)正月三日年始御礼登
城仕夫より年々正月三日登
城仕候文化三寅年(一八〇六)五月二十四日岩本岩見守支配に
罷成同四卯年(文化一八〇七)七月八日松平孫太夫支配に罷成同七
午年(一八一〇)八月十一日土岐信濃守支配に被成同年十月
十四日於摂津守殿御宅諸家系図調御用数年

無懈怠出精骨折候に付別段為御手当被下之旨
御同人被仰渡銀七枚拝領仕同九申年(文化一八一二)十二月
二十三日御用済に付於躑躅間諸家系図御用
骨折相勤候に付被下之旨御老中松平伊豆守殿
被仰渡時服二金二枚拝領仕候同十酉年(文化一八一三)閏十一月
二十五日諸家系図副本書継御用被 仰付右

御用中小普請明支配の節同十一戌年(文化一八一四)十二月十四日
十四日於御右筆部屋縁類御代官被 仰付候旨
御老中土井大炊頭殿被仰渡信濃国支配仕同
十二亥年(文化一八一五)二月二日日光 御法會御用被 仰付候旨

御老中牧野備前守殿被仰渡相勤同年(文化十二年)六月二十四日
右御用無滞相勤候に付拝領物被 仰付候旨御老中
青山下野守殿被仰渡時服二金一枚拝領仕候

同年(文化十二年)八月二十日於躑躅間支配所への御暇被下置時服
二拝領仕同十三子年(一八一六)閏八月十九日於躑躅間支配所への
御暇被下置時服二拝領仕候同十四丑年(一八一七)九月二日於

躑躅間支配所への御暇被下置時服二拝領仕同年(一八一七)
十二月二十八日来す参向の公家衆御賄御用被
仰付旨御老中青山下野守殿被仰渡候段御勘定


奉行服部伊賀守申渡相勤文政元寅年(一八一八)五月          ←
                               奉行服部伊賀守ですって
                               どなた?


二日於御右筆部屋縁類支配高壱万石増地場所替
被 仰付候旨御老中水野出羽守殿被仰渡若年寄
上村駿河守殿侍座備中讃岐美作国御代官所に相成
同年(文政元年一八一八)五月十日傳奏御用所引拂申候同年

兼て申上置候元御代官所信濃国高井郡栗林村にて空地
場所見立新田検地仕御高入に相成候処右御取箇の
十分一一生の内被下候旨御下知にて同年より年々十分一
頂戴仕候同年(文政元年一八一八)六月十九日於御右筆部屋縁類当地

参向の公家衆御賄御用相勤候に付拝領物被
仰付候旨御老中水野出羽守殿御出座若年寄
植村駿河守殿侍座出羽守殿被仰渡銀十枚拝領
仕候同年(文政元年)七月八日於躑躅間支配所へ引越候に付御暇

被下置候旨御老中酒井若狭守殿被仰渡時服
二拝領仕八月十一日家内一同召連江戸出立九月
十三日備中国窪屋郡倉敷陣屋へ着仕在陣罷在候
然處備中国地先備前国児嶋海附洲の儀陣屋最寄
に付寄々見聞仕候處新開御取立にも相成候はば
莫大に候

御國益と奉存候間追々相糺候處形寛政九年(一七九七)
御代官三河口太忠御勘定西村佐太郎被差遣見分
吟味仕其後御沙汰止に相成候場所にて猶又相糺候処
太忠申上候内代知差上方の儀如何にも存候間御用序

申多々松平上総介家来へ及内談候処一同得心に付
同二卯年(文政一八一九)七月中仕法存殊の趣印状を以申上候処
同三辰年(一八二〇)四月七日名代御代官田口五郎左衛門へ備中国

地先備前国児嶋海附洲新開場見分目論見御用
として被差遣候旨御老中水野出羽守殿へ伺の上
申渡候段御勘定奉行村垣淡路守申渡同年(文政三年一八二〇)五月
相士御勘定佐藤五郎左衛門着に付同月二十九日倉敷陣屋

出立備前児嶋郡御用先へ充分澗水盛用水路等
夫々見分御普請御入用積立罷在候処阿久沢修理
病気に付同人御代官所当分御預所備中備後石見
代検見被 仰付候旨水野出羽守殿へ伺の上申渡候段

七月二十日御勘定奉行吟味役連名の印状至来尤
新開御用中には候え共検見旬に相成候はば佐藤五郎左衛門へ
申入て代検見並自分支配所の検見にも罷越候様別段
御勘定組頭より印状差越候に付九月三日備前児嶋郡
藤戸村出立備中備後石見国代検見仕夫より支配所村々

検見仕同月晦日備前国岡山新開御用先へ着御用
取調候處十月七日御用済に付五郎左衛門一同同所出立
帰陣仕候且同年(文政三年)出府の儀相願候処大久保加賀守殿へ
伺の上願の通出府被 仰付候旨御勘定奉行

連名の印状至来に付同十二月十一日備中国倉敷陣屋
出立同二十九日江戸着翌晦日登
城仕着御届申上同四巳年(文政四年一八二一)正月七日於羽目間箱
肴献上参上候 御目見仕候同三月二十七日於躑

躅間支配所への御暇被下置候旨水野出羽守殿
被仰渡時服二拝領仕候同年春出府中申上置候
支配所讃岐国小豆嶋直嶋の内空地の場所新開
の儀見立新田の儀に付検地御高入の上は御取箇
の十分の一一生の内被下候数例も御座候に付此度の

見立新田の儀も同様被 仰付候儀にも御座候はば
右十分一被下候儀は 御免相願度外同役共と
違い莫太の
御仁恵を以廃家御取立被成下加の追々結構当
御役迄被 仰付候身分に付心力の及び候丈は粉骨
砕身仕聊たりとも 御道筋第一に御奉公仕度

心願に御座候間別儀を以内願の通御取調方も
御座候様仕度旨御勘定奉行へ申立置候處

同年(文政四年一八二一)六月四日右新開御高入の上御取箇の十分一
被下候儀 御免相願候え共十分一の儀は仕来
の儀に付御高入の上は十分一可被下候尤右申立
の趣は水野出羽守殿へ申上置候段御勘定奉行

申渡候旨名代御代官川崎平右衛門へ御勘定組頭
守屋権之烝申達同五午歳より十分一頂戴仕候同年(文政四年一八二一)
阿久沢修理病死に付同人元御代官所当分御預所

石見備後備中国私当分御預所に被 仰付候旨水野
出羽守殿被仰渡候段名代御代官田口五郎左衛門へ
勘定奉行村垣淡路守申渡同九月朔日右当分

御預所石見備後国は大岡源右衛門御代官所当分
御預所備中国は私御代官所に被 仰付候旨水野
出羽守申渡同十月二十八日阿久沢修理より郷村受取
同十二月二十七日大岡源右衛門へ郷村引渡申候同年(一八二一)

九月備中国地先備前国児嶋海附洲新開場用水
路掘割立會として御普請役元メ並私手附被
差遣候処両人共場所引拂候に付残普請其外
用水路に拘り候取扱被 仰付候旨御勘定奉行

村垣淡路守遠山左衛門尉より印状至来に付取扱
申候同年(文政四年一八二一)十一月二十五日先祖拝領の品々願の通
御返被下旨水野出羽守殿被仰渡候段名代

御代官蓑笠之助へ御勘定奉行遠山左衛門尉
申渡同月(文政四年十一月)二十八日従
東照宮先祖永田太郎右馬拝領仕候品々左の通
東照宮

一 御親筆 一幅
東照宮より拝領物
一 御鞍 一口 木地
一 御鐙 一足 銀桜花象眼
一 御刀 一腰 志津三郎
一 御膳具 一通 御紋ちらし

内 本文御膳具内訳書並御盃其外の御品々も
有之由附都而御模様等迄も悉く明細に語候にて可然
哉に付座取いたし置候間覚え書入可被下候

一 御茶碗 一 外細内海老一疋染付
一 御水指 一 白焼物但倶蓋
一 御重箱 一 一組 梨子地御紋ちらし内皆朱但五重

右の品々名代御代官田口五郎左衛門親類御代官
蓑笠之助へ御渡被下置候に付奉請取永々
宝蔵に可仕冥加至極難有所持仕候

同六未年(文政一八二三)六月四日山田仁右衛門御役替に付
同人元御代官所当分御預所但馬播磨美作
備中国私並蓑笠之助両人立會当分御預所に
被 仰付候旨水野出羽守殿被仰渡候段
御勘定奉行遠山左衛門尉私名代御代官

田口五郎左衛門へ申渡同年(文政六年一八二三)九月右場所川崎
平右衛門御代官所当分御預所松平右近将監
御預所に被 仰付候に付同年(文政六年)十二月十五日夫々
郷村引渡申候同年(文政六年)十月八日本所吉岡町

小野寺熊太郎上地百八拾六坪外御預地
七坪願の通屋敷場所被下候旨御老中
松平和泉守殿被仰渡候旨名代御代官大貫
次右衛門へ御勘定奉行遠山左衛門尉申渡候               ←
                            御勘定奉行遠山左衛門尉だって 笑

同七申年(文政一八二四)十一月十日於御右筆部屋縁類備前国
児嶋海附洲新開場為見分目論見罷越御用向
骨折相勤候に付被下候旨名代御代官古山
善吉へ水野出羽守殿若年寄植村駿河守殿
侍座出羽守殿被仰渡金一枚拝領仕候

元祖 本国三河 養父 永田太郎右馬政吉
生国遠江 実父 大草次郎右衛門義正 長男
永田太郎右馬政吉―大草太郎右馬政次―
大草太郎左衛門政信―太郎左衛門政清―
大草太郎左衛門政英―大草太郎左衛門政永―
大草太郎左衛門政美―大草太郎左衛門政明―
大草太郎左衛門政薫―大草太郎右馬政郷―

一八二六文政九丙戌年五月十日亡
法名 孝徳院殿天澤良榮居士
大草太郎左衛門政修?-大草太郎左衛門政徳?-

草代官の墓碑には、逝去が発表された文政11年7月29日が歿日として記されています。

しかし、寺の過去帳には「幸徳院殿上沢良栄居士 文政九丙戌五月十日 大草太郎右馬様」とあるそうです

[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 05時30分38秒 ) パスワード

お待たせしました。
続きです。




歴史 2007年11月06日 13時46分42秒


大草代官を苦しめた【新六古六の争】

「新六」は新勢力、「古六」は旧勢力の意味です。
倉敷は全村が真っ二つに割れ、その争いは宝暦明和の頃から天保まで続きました


以下は「新六古六の争」の概略です。

大草太郎右馬政郷が倉敷にやって来る60年以上前から、倉敷では新旧の勢力が対立していました。

旧勢力とは水夫屋敷十三組の組頭・いわゆる十三軒衆の旧家です。
これらの旧家がおよそ200年もの間、倉敷の村役全ての職を独占してきました。
長い年月の間には旧家とは名ばかりに没落したもの、あるいは村役には力量の足りない者もおり、それを快く思わない人々が出てくるのも、まぁ自然の成り行きというものです。

力をつけてきた百姓たちは、十三軒衆による村役独占を不服として、機会ある毎に会合を持ち書状をしたため反抗を試みていました。

大草太郎右馬政郷の支配となった後紛争は激しさを増し、文政7年とうとう江戸公事となりました。

文政8年3月、村役に江戸奉行所に出頭するよう命令が下った時、嘆願書を持った数百人が役所に押し掛け、門訴してこれを阻止しようとしました。

全村両派に分かれての深刻な対立となり、双方道で遭っても全く口も聞かず、数年間氏子の祭りも出来なくなったそうです。


文政9年5月26日、この江戸公事は新派の勝利で決着します。

十三軒衆の村役独占を認めない。
現在の村役人の総辞職。
村役人は高得総百姓の公選による。

以上のように、200年ぶりの村政大改革となりました。
しかし、この後も村役公選を巡って両派の対立は続きます。



そんな中
文政11年7月29日、「かねてより病気療養中のところ……」と大草代官の死が発表されます。

大草代官の墓碑には、逝去が発表された文政11年7月29日が歿日として記されています。
しかし、寺の過去帳には「幸徳院殿上沢良栄居士 文政九丙戌五月十日 大草太郎右馬様」とあるそうです。
代官所の記録にも「実は……」という記述があるそうです。
本当の歿日は文政9年5月10日、2年間もその死が伏せられていたんですね

伝えられるところでは、新六古六の一件の責任を取って切腹したということです。

文政9年5月10日………それは江戸での訴訟が決着するわずか16日前のことでした。





つづく

注)
「新禄古禄」かとも思いましたが、倉敷市史に「新六古六」とありましたので、そのまま掲載しています。




つづき

歴史 2007年11月07日 19時43分09秒





以下、ふたたび倉敷市史からの抜粋です。
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児島海開拓の大事業完成に先立つこと一年、文政5年には倉敷村未曾有の大事件たる新六古六の訴訟起り、同7年遂に江戸公事となり、9年に至って内済、事件は一応落着したるも、紛糾容易に解けず、11年正月やうやう村役人全部更迭の善後処置を行ないしが、村人帰依、不帰依を唱へ新旧組分けの論起り、恒例の宗門人別改すら行ふ能はず、6月23日遂に武装足軽の派遣を備前藩に求め、代官所役人出張、村役人同行、足軽を従へて、これを遂行するの事態を惹起せり
備藩足軽借用書には代官父子の連名を以てせり。

この事件の後幾ばくも無く、7月23日、大草代官の喪は発せられ、当分子息太郎左衛門のつづいて事務を見る事となれるは前に記せるが如し。

代官在任中は東奔西走、殆ど安寧な日は無く、手代等の出入往復頻繁にして多額の失費に苦しみ、再び父の履轍を踏まんとするの危機に陥り、その上「新六古六一件」があり、遂に責を引いて自刃するに至る。

而して、子息、門左衛門なほ若く、事後まことに容易ならず、乃ち伯父の後援により備藩に銀95貫目を借り、一時の急を凌がんとす。

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過労死とも思われる名代官の自害と、残された家族の窮状には、胸が潰れる思いです。

文政11年8月3日、大草代官は代官所の南東にある長連寺に葬られました。
しかし代官の死後も、相変わらず倉敷は騒然としていました。
天保6年には、次の古橋代官が古六の年寄をゴリ押しして再び混乱します。
しかし程なく古橋代官が亡くなり、事件は円満解決。
天保12年、高山代官のとき庄屋水沢氏と植田氏が同時に引退し、ようやく倉敷村は平静になりました



それに先立つ天保元年、長野県中野市西江部に大草稲荷が祭られます。
代官所を通じて、倉敷に於ける大草代官の無念の死を、村人が知ったのでしょうか。

「大草稲荷は、西江部神社の境内にあり、五穀の神稲荷社と、幕府領中野陣屋代官大草政郷の神霊を合わせて祀っています。高さ2mの角柱型石碑で、全身石造りです。石碑の上部は笠と稲荷を祀る室、下部は大きな屋根と軸部からなっており、軸部四面の碑文は隣村東江部村の豪農山田松斎の手によるもので、大草稲荷の由来を見事な漢文で表現しています。時代劇の影響などにより、代官の一般的な理解としては「悪代官」のイメージが強くなっていますが、大草政郷のように地元の人々に顕彰される代官がいたという事実は、正しい歴史認識のためにも重要です。また西江部では天保4年(1833)以降今日まで年々祭祀を執り行ってきていることや、名文である碑文など、中野市の有形文化財としての価値も高いものです」(中野市教育委員会HPより)

倉敷では大草太郎右馬政郷を知る者は僅かですが、長野県中野市西江部では今に至るまで手厚く祭られているのですね……

大草代官のお墓は倉敷にありますが、その魂は西江部の人々と共にあるのでしょう。
見事な漢文で表されているという稲荷の碑文を、一度見てみたいものです


(「倉敷代官・大草太郎右馬政郷のおはなし」はこれで・お・し・ま・い・)




お代官さまも大変だったんですねえ。
ストレスで一杯だったんですねえ。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 05時33分28秒 ) パスワード

1818年に代官だった服部伊賀守って?
と思って検索したら・・・・




長上郡の服部氏族]Y(服部氏7+2家) - 日子の島TOP



www.hikoshima.com/bbs/heike.../101391_100.html



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Oct 18, 2014 - 93 posts - ‎3 authors
享和(1801年 - 1804年)・文化(1804年 - 1818年)期にかけては専ら肉筆の .... 国服部に住せしより家号とす保清9代の孫を修理亮保宗としその子を伊賀守宗純とし ..... B「中島村」の項、天正一八年、菅沼領―慶長六年(一六〇一)より代官 ...


長上郡の服部氏族]]W - 日子の島TOP



hikoshima.com/bbs/heike_slink/101410_61.html



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Jan 19, 2015 - 気になるのは、秋鹿氏というのが天領の代官だった。 府八幡宮の宮司でもあっ ... 服部連は祖先を勧請し、「服部神」と称していましたが、延喜年間に「神服神社」と改称しました。 ...... 伊賀守といえば、服部氏のブランド名のようなものですが、 >この松下 ...... 1809年、江戸に居住。1818年、島田から
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 05時49分13秒 ) パスワード

http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi40.html



歴代勘定奉行にお名前がありました。


         結論
         服部貞信の直系の子孫です。服部伊賀守貞勝
         世田谷赤堤の。
         伊賀の呉服明神の神職だった家。



         もう1人は幕末の長崎奉行 と外国奉行並  服部筑前守常純  
         この人は幕末の人だから全く知らなかったです。



(格)は勘定奉行格、(並)は勘定奉行並


奉行       就任     辞任         年齢    前職   後職


大久保石見守長安 1603年12月 1613年4月25日 59歳   死去
松平右衛門大夫正綱 1609年 1648年6月22日 34歳 寄合頭 死去
伊丹播磨守康勝 1611年 1650年7月11日 37歳 納戸頭 佐渡国支配
曾根源左衛門吉次 1630年 1661年11月19日 40歳   辞任
伊奈半十郎忠治 1633年 1642年8月16日 42歳   関東郡代


大河内金兵衛久綱 1633年 1638年12月5日 64歳    
杉浦内蔵允正友 1642年3月3日 1651年7月22日 66歳 留守居 留守居
酒井紀伊守忠吉 1642年8月16日 1651年7月22日 54歳 留守居 留守居

伊丹播磨守勝長 1650年7月11日 1662年3月27日 48歳 詰並 死去
村越次左衛門吉勝 1651年6月18日 1659年2月9日 51歳 二の丸留守居 江戸町奉行
岡田豊前守義政 1660年5月30日 1670年2月13日 56歳 美濃郡代 辞任

妻木彦右衛門重直 1662年4月12日 1670年12月3日 59歳 長崎奉行 寄合
松浦猪右衛門信貞 1666年6月13日 1673年7月30日 58歳 小姓組 寄合
杉浦内蔵允正綱 1668年6月10日 1680年閏8月21日 55歳 中川番 留守居

徳山五兵衛重政 1670年5月16日 1681年3月29日 56歳 本所奉行 罷免
甲斐庄喜右衛門正親 1672年9月7日 1680年8月30日 不 明 使番 江戸町奉行
岡部覚左衛門勝重 1675年9月7日 1678年8月16日 39歳 目付 寄合

大岡備前守清重 1680年3月25日 1687年9月10日 50歳 目付 罷免
高木善左衛門守勝 1680年10月7日 1682年10月16日 41歳 目付 大目付
彦坂伯耆守重治 1680年10月7日 1687年9月10日 60歳 目付 罷免
中山遠江守吉勝 1682年11月6日 1685年9月30日 65歳 先手鉄砲頭 寄合
松平隼人正忠冬 1685年10月3日 1685年12月7日 62歳 寄合 側衆

仙石和泉守政勝 1685年12月29日 1687年9月10日 66歳 新番頭 小普請
小菅遠江守正武 1687年9月10日 1688年11月2日 72歳 小普請奉行組頭 死去
佐野長門守正周 1687年9月10日 1688年8月23日 70歳 勘定吟味役 罷免
松平美濃守重良 1688年7月27日 1698年12月26日 40歳 普請奉行 死去

戸田美作守直武 1688年11月14日 1689年4月26日 不 明 小普請 罷免
稲生下野守正照 1689年5月3日 1699年4月4日 49歳 作事奉行 寄合
井戸対馬守良弘 1694年2月19日 1702年11月28日 60歳 先手弓頭 留守居
荻原近江守重秀 1696年4月11日 1712年9月11日 39歳 勘定吟味役 寄合

久貝因幡守正方 1699年1月11日 1705年12月1日 52歳 持筒頭 留守居
戸川日向守安広 1699年4月14日 1708年2月29日 46歳 西丸留守居 寄合
中山出雲守時春 1702年11月28日 1714年1月28日 51歳 大坂町奉行 江戸町奉行

石尾阿波守氏信 1705年12月1日 1708年11月29日 37歳 長崎奉行 死去
平岩若狭守親庸 1708年4月1日 1713年3月12日 65歳 持筒頭  
大久保大隅守忠香 1708年12月15日 1716年2月3日 49歳 大坂町奉行 小普請
水野讃岐守忠順 1712年10月3日 1719年4月1日 63歳 普請奉行 寄合

水野伯耆守守美 1713年3月28日 1723年3月21日 50歳 駿府町奉行 旗奉行
伊勢伊勢守貞勅 1714年1月28日 1721年3月16日 66歳 普請奉行 寄合
大久保下野守忠位 1716年2月12日 1723年11月15日 56歳 普請奉行 留守居

駒木根肥後守政方 1719年4月13日 1732年5月7日 48歳 作事奉行 大目付
筧播磨守正鋪 1720年8月28日 1734年11月28日 63歳 目付 寄合

久松大和守定持 1723年3月21日 1729年12月21日 65歳 作事奉行 寄合
稲生下野守正武 1723年11月19日 1731年9月19日 41歳 目付 江戸町奉行
松波筑後守正春 1729年12月25日 1736年8月12日 55歳 小普請奉行 江戸町奉行

杉岡佐渡守能運 1731年10月1日 1738年7月2日 63歳 勘定吟味役 死去
細田丹波守時以 1731年10月1日 1737年9月1日 50歳 勘定吟味役 死去
松平隼人正政毅 1732年閏5月1日 1734年12月5日 66歳 佐渡奉行  
神谷志摩守久敬 1734年12月1日 1749年6月15日 63歳 勘定吟味役 死去

石野筑前守範種 1734年12月11日 1737年6月1日 65歳 小普請奉行 大目付
河野豊前守通喬 1736年8月12日 1742年8月28日 44歳 小普請奉行 大目付
神尾若狭守春央 1737年6月1日 1753年5月5日 51歳 勘定吟味役 死去

水野対馬守忠伸 1738年7月23日 1744年12月15日 49歳 普請奉行 大目付
桜井河内守政英 1738年7月23日 1739年10月15日 62歳 一橋家用人 寄合
木下伊賀守信名 1739年10月27日 1746年3月1日 60歳 作事奉行 西丸留守居

萩原伯耆守美雅 1743年1月11日 1745年4月4日 75歳 長崎奉行 死去
逸見出羽守忠栄 1744年12月15日 1748年12月27日 49歳 佐渡奉行 罷免・小普請入り
松浦河内守信正 1746年4月28日 1753年2月23日 51歳 大坂町奉行 罷免・小普請入り
曲淵豊後守英元 1748年7月21日 1757年6月1日 50歳 作事奉行 大目付

遠藤伊勢守易続 1749年1月11日 1751年8月11日 59歳 佐渡奉行 一橋家家老
三井下総守良竜 1749年7月6日 1751年11月25日 52歳 京都町奉行 死去
永井丹波守尚方 1752年1月11日 1753年9月15日 50歳 京都町奉行 死去
一色安芸守政・ 1752年12月16日 1765年2月15日 63歳 作事奉行 留守居

松平玄蕃頭忠陸 1753年3月1日 1754年4月21日 52歳 佐渡奉行 西丸留守居
大井伊勢守満英 1753年6月12日 1756年3月1日 62歳 小普請奉行 大目付
大橋近江守親義 1754年4月9日 1758年10月29日   長崎奉行 罷免

中山遠江守時庸 1755年7月22日 1757年8月5日 48歳 大坂町奉行 罷免・小普請入り
細田丹波守時敏 1756年3月1日 1759年5月22日 44歳 小普請奉行 寄合
菅沼下野守定秀 1757年6月1日 1758年12月23日 59歳 長崎奉行 死去
稲生下野守正英 1758年11月15日 1760年7月11日 44歳 目付 死去
小幡山城守景利 1758年12月27日 1761年9月7日 48歳 小普請奉行 鑓奉行

石谷淡路守清昌 1759年10月4日 1779年4月15日 45歳 佐渡奉行 留守居
坪内駿河守定央 1760年6月23日 1761年11月26日 50歳 長崎奉行 死去
安藤弾正少弼惟要 1761年9月7日 1782年11月1日 47歳 作事奉行 大目付
牧野大隅守成賢 1761年12月9日 1768年5月26日 48歳 作事奉行 江戸町奉行
小野日向守一吉 1762年6月6日 1771年7月12日 63歳 勘定吟味役 大目付

伊奈備前守忠宥 1765年2月15日 1769年12月7日 37歳 関東郡代・勘定吟味役 致仕
松平対馬守忠郷 1768年5月26日 1773年12月5日 54歳 目付・船手 大目付
川井越前守久敬 1771年2月28日 1775年10月26日 47歳 勘定吟味役 死去
大田播磨守正房 1773年12月5日 1778年7月16日 60歳 小普請奉行 死去

新見加賀守正栄 1775年11月4日 1776年9月27日 58歳 作事奉行 死去
桑原伊予守盛員 1776年7月8日 1788年11月15日 56歳 作事奉行 大目付
青山但馬守成存 1777年12月1日 1778年11月12日 64歳 普請奉行 田安家家老
山村信濃守良旺 1778年閏7月20日 1784年3月12日 50歳 京都町奉行 江戸町奉行
松本伊豆守秀持 1779年4月15日 1786年閏10月5日 50歳 勘定吟味役 罷免・小普請入り
赤井豊前守忠・ 1782年11月25日 1786年11月15日 56歳 京都町奉行 西丸留守居

久世丹後守広民 1784年3月12日 1797年6月5日 53歳 長崎奉行 西丸小姓組番頭
柘植長門守正寔 1786年閏10月21日 1788年7月25日 52歳 作事奉行 清水家家老
根岸肥前守鎮衛 1787年7月1日 1798年11月11日 51歳 佐渡奉行 江戸町奉行
久保田佐渡守政邦 1788年5月10日 1792年閏2月8日 70歳 佐渡奉行 西丸留守居

柳生主膳正久通 1788年9月10日 1817年2月26日 44歳 江戸町奉行 留守居
曲淵甲斐守景漸 1788年11月24日 1797年2月12日 64歳 小普請組支配 留守居
佐橋長門守佳如 1792年閏2月8日 1794年9月16日 53歳 日光奉行 寄合
間宮筑前守信好 1794年9月22日 1797年9月10日 49歳 目付 死去

中川飛騨守忠英 1797年2月12日 1806年1月30日 45歳 長崎奉行 大目付
石川左近将監忠房 1797年8月27日 1806年12月14日 50歳 作事奉行 西丸留守居
菅沼下野守定喜 1797年10月12日 1802年5月27日 48歳 京都町奉行 罷免
松平石見守貴強 1798年12月3日 1799年11月26日 57歳 長崎奉行 死去

小笠原伊勢守長幸 1800年9月15日 1812年9月29日 55歳 勘定吟味役 死去
松平兵庫頭信行 1802年6月21日 1812年11月24日 57歳 小普請奉行 西丸旗奉行
水野若狭守忠通 1806年12月14日 1810年12月14日 60歳 小普請奉行 大目付
肥田豊後守頼常 1810年12月14日 1815年6月17日 71歳 作事奉行 西丸留守居

永田備後守正道 1810年12月14日 1811年4月26日 59歳 広敷用人 江戸町奉行
有田播磨守貞勝 1811年4月26日 1812年2月17日 75歳 作事奉行 大目付
曲淵甲斐守景露 1812年2月17日 1816年7月24日 55歳 長崎奉行 大目付
小長谷和泉守政長 1812年12月19日 1814年10月16日 48歳 京都町奉行 死去
岩瀬加賀守氏紀 1814年10月28日 1815年11月24日 60歳 作事奉行 江戸町奉行
榊原主計頭忠之 1815年6月17日 1819年閏4月1日 48歳 小普請奉行 江戸町奉行


                      ココ!



服部伊賀守貞勝 1816年5月4日 1819年9月12日 48歳 松前奉行 小普請組支配


土屋紀伊守廉直 1816年7月24日 1819年8月24日 58歳 作事奉行 西丸留守居
古川山城守氏清 1816年8月4日 1820年6月22日 64歳 広敷用人 死去

村垣淡路守定行 1818年9月30日 1832年3月10日 57歳 作事奉行 死去
石川主水正忠房 1819年9月5日 1828年8月28日 72歳 小普請組支配 留守居


                       遠山さま!


遠山左衛門尉景晋 1819年9月24日 1829年2月7日 68歳 作事奉行  


松浦伊勢守忠 1820年7月28日 1823年9月28日 53歳 京都町奉行 大目付
曽我豊後守助弼 1823年11月8日 1835年12月9日 58歳 京都町奉行 罷免
土方出雲守勝政 1828年9月10日 1836年8月10日 56歳 西丸留守居 死去
内藤隼人正矩佳 1829年3月28日 1841年6月7日 64歳 大坂町奉行 死去

明楽飛騨守茂村 1832年3月15日 1841年1月 73歳 勘定吟味役 死去


                          大草どの


大草能登守高好 1835年12月22日 1836年9月20日   作事奉行 江戸町奉行

矢部駿河守定謙 1836年9月20日 1838年2月2日 48歳 大坂町奉行 西丸留守居
神尾山城守元孝 1836年9月20日 1837年7月8日 62歳 作事奉行 大目付
深谷遠江守盛房 1837年7月20日 1841年4月28日   作事奉行 小普請組支配


                            遠山さま


遠山左衛門尉景元 1838年2月12日 1840年3月2日 46歳 作事奉行 江戸町奉行
佐橋長門守佳富 1840年4月8日 1842年2月7日   京都町奉行 作事奉行
梶野土佐守良材 1840年9月24日 1843年10月9日   作事奉行 罷免
田口加賀守喜行 1841年4月15日 1841年5月14日   長崎奉行 罷免・小普請入り

土岐丹波守頼旨 1841年5月13日 1842年4月15日   作事奉行 書院番頭
松平豊前守政周 1841年6月10日 1841年12月12日   普請奉行 大目付
跡部能登守良弼 1841年12月12日 1844年9月15日   大目付 江戸町奉行
戸川播磨守安清 1842年2月17日 1844年8月28日   長崎奉行 西丸留守居
岡本近江守成 1842年5月24日 1843年5月10日   勘定吟味役 鑓奉行

井上備前守秀栄 (並) 1842年5月24日 1843年5月18日   西丸留守居 勘定奉行
井上備前守秀栄 1843年5月18日 1843年閏9月6日   勘定奉行並 罷免
佐々木近江守一陽 (並) 1843年7月28日 1843年10月10日   目付 小普請奉行
鳥居甲斐守忠耀 1843年8月13日 1843年10月17日 48歳 江戸町奉行 江戸町奉行

石河土佐守政平 1843年閏9月20日 1855年8月9日   作事奉行 田安家家老
榊原主計頭忠義 1843年10月10日 1844年8月22日   目付 罷免
中坊駿河守広風 1844年8月28日 1845年3月20日   日光奉行 甲府勤番支配
松平河内守近直 1844年8月28日 1857年7月24日   目付 田安家家老

久須美佐渡守祐明 1844年10月24日 1850年7月8日   大坂町奉行 西丸旗奉行
牧野駿河守成綱 1845年3月20日 1848年11月8日   堺奉行 江戸町奉行
池田播磨守頼方 1848年11月8日 1852年3月30日   普請奉行 江戸町奉行
伊奈遠江守忠告 1850年7月8日 1850年11月26日   小普請奉行 死去

一色丹後守直休 1850年11月29日 1852年7月10日   長崎奉行 田安家家老
本多加賀守安英 1852年4月28日 1858年11月26日   大坂町奉行 死去
川路左衛門尉聖謨 1852年9月10日 1858年5月6日 52歳 大坂町奉行 西丸留守居
田村伊予守顕彰 1853年10月8日 1855年8月9日   作事奉行 田安家家老

水野筑後守忠徳 1854年12月24日 1857年12月3日 45歳 長崎奉行 田安家家老
石谷因幡守穆清 1855年8月9日 1858年5月24日   普請奉行 江戸町奉行
土岐下野守朝昌 1857年7月24日 1859年3月9日   書院番頭 駿府城代

永井玄蕃頭尚志 1857年12月3日 1858年7月8日 42歳 目付 外国奉行
佐々木信濃守顕発 1858年5月24日 1859年2月2日   小普請奉行 罷免・小普請入り
立田主水正正明 (格) 1858年7月11日 1859年4月17日   勘定吟味役 死去

大沢豊後守秉哲 1858年11月30日 1859年9月10日   作事奉行 一橋家家老
山口丹波守直信 1859年2月13日 1860年12月15日   西丸留守居 大目付
松平式部少輔近韶 1859年3月9日 1860年9月7日   小姓組番頭 一橋家家老

水野筑後守忠徳 1859年4月8日 1859年10月28日 50歳 外国奉行 西丸留守居
村垣淡路守範正 1859年4月8日 1859年11月1日 47歳 箱館奉行・外国奉行 箱館,外国,神奈川奉行
塚越大蔵少輔元邦 1859年4月22日 1861年1月27日   勘定吟味役 死去

松平出雲守康正 1859年9月10日 1862年8月24日   目付 留守居
竹田豊前守斯綏 1859年11月28日 1860年9月15日   一橋家家老 清水家付支配
酒井但馬守忠行 1860年9月15日 1862年10月24日   外国奉行・神奈川奉行 大目付

小笠原長門守長常 1860年12月15日 1862年6月5日   大目付 江戸町奉行
一色山城守直温 1861年1月20日 1861年10月15日   大坂町奉行 外国奉行
竹内下野守保徳 1861年1月20日 1864年8月5日 55歳 箱館奉行 大坂町奉行

根岸肥前守衛奮 1861年10月15日 1862年12月18日   外国奉行 小普請組支配
小栗豊後守忠順 1862年6月5日 1862年閏8月25日 36歳 小姓組番頭 江戸町奉行
川勝丹波守広運 1862年7月5日 1863年8月14日   目付 陸軍奉行並

津田近江守正路 1862年閏8月25日 1863年7月15日   外国奉行 大目付
都筑駿河守峰暉 1862年10月24日 1864年3月14日   先手火付盗賊改加役 江戸町奉行
小栗豊後守忠順 1862年12月1日 1863年4月23日 36歳 江戸町奉行 陸軍奉行並

一色山城守直温 1862年12月18日 1863年12月29日   外国奉行 一橋家家老
松平石見守康英 1863年8月14日 1864年6月24日 34歳 外国奉行 大目付
立田主水正正直 (並) 1863年11月7日 1864年8月10日   勘定吟味役 死去
木村甲斐守勝教 (並) 1863年12月29日 1864年7月13日   勘定
吟味役 関東郡代

斎藤美作守三理 1864年4月8日 1864年5月6日   大番頭  
有馬出雲守則篤 1864年5月14日 1864年11月22日   大坂町奉行 江戸町奉行
鈴木大之進重嶺 (並) 1864年7月2日 1864年7月23日   勘定吟味役 鑓奉行
根岸肥前守衛奮 1864年7月21日 1864年12月21日   大目付 江戸町奉行

大久保越中守忠寛 1864年7月21日 1864年7月25日 48歳 寄合 会計総裁
松平対馬守正之 1864年8月3日 1865年10月16日   大目付 罷免
駒井甲斐守朝温 1864年8月11日 1864年12月18日   大目付 大目付
小栗上野介忠順 1864年8月13日 1864年12月18日 38歳 勤仕並寄合 軍艦奉行
井上信濃守清直 1864年11月22日 1866年9月2日   外国奉行 江戸町奉行

松平備中守康正 1864年12月18日 1865年10月15日   大目付
土屋豊前守正直 1864年12月21日 1865年6月27日   大目付 書院番頭
小栗上野介忠順 1865年5月4日 1868年1月15日 39歳 寄合 勤仕並寄合
小笠原志摩守政民 1865年6月27日 1866年6月15日   大番頭 大番頭

小栗下総守政寧 1865年10月16日 1868年1月28日   京都町奉行 勤仕並寄合
井上備後守義斐 1865年10月16日 1866年12月23日   大坂町奉行 外国奉行
駒井甲斐守朝温 1865年11月2日 1866年7月2日   講武所奉行並 大目付
小笠原摂津守広業 1866年5月10日 1866年10月24日   目付 勤仕並寄合
都筑但馬守峰暉 1866年6月15日 1868年2月27日   勤仕並寄合 一橋家家老


                                  ここにも服部さん



服部筑前守常純 1866年8月12日 1867年5月   長崎奉行 海軍奉行並


朝比奈甲斐守昌広 1866年8月26日 1867年3月1日   外国奉行 外国奉行
浅野美作守氏祐 1866年10月15日 1867年4月7日   外国奉行 若年寄並陸軍奉行
塚原但馬守昌義 1866年10月 1867年6月29日   外国奉行 外国惣奉行並

小笠原摂津守広業 1866年12月3日 1867年1月22日   勤仕並寄合 一橋家家老
星野豊後守成美 (並) 1866年12月25日 1867年10月1日   勘定吟味役 禁裏付
溝口伊勢守勝如 1867年1月16日 1867年12月28日   陸軍奉行並 田安家家老

木村飛騨守勝教 (並) 1867年1月26日 1867年12月27日   関東郡代 勘定奉行
河津伊豆守祐邦 (並) 1867年1月26日 1867年8月15日   関東郡代 長崎奉行
織田市蔵信重 (並) 1867年6月24日 1867年9月8日   目付 勘定奉行・箱館奉行

小出大和守実 1867年7月27日 1867年10月23日   外国奉行・箱館奉行 留守居
羽田十左衛門正見 (並) 1867年8月17日 1867年11月5日   勘定吟味役 作事奉行並
織田和泉守信重 1867年9月8日 1868年2月12日   勘定奉行並 大目付

小野内膳正広幹 (並) 1867年10月23日 1868年1月28日   勘定頭取 罷免
岡田安房守忠養 (並) 1867年11月5日 1868年2月16日   作事奉行 清水家小普請支配
佐藤石見守 (並) 1867年11月6日 1868年1月28日   奥右筆組頭 勤仕並寄合
星野豊後守成美 (並) 1867年12月9日 1868年2月9日   禁裏付 勤仕並寄合

木村飛騨守勝教 1867年12月27日 1868年2月22日   勘定奉行並 寄合
加藤丹後守 (並) 1868年1月12日     評定所留役勘定組頭  
朝比奈甲斐守昌広 1868年1月15日 1868年1月28日   外国惣奉行並 勤仕並寄合

菊池伊予守隆吉 1868年1月15日 1868年1月28日   外国奉行 勤仕並寄合
松平河内守信敏 1868年1月16日 1868年2月9日   大坂町奉行  
松本寿大夫 (並) 1868年2月4日 1868年3月   大坂町奉行並  
平岡越中守準 1868年2月11日     外国奉行  
原 弥十郎 (並) 1868年2月26日 1868年4月25日   砲兵頭 作事奉行
木村兵庫頭喜毅 1868年3月22日 1868年6月20日 39歳 海軍所頭取 中老支配寄合
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 05時57分46秒 ) パスワード

幕末の奉行だった服部常純は   おそらく  服部貞信の次男=備後守貞常=の系統と思います。


次男の家は「常」が通字になっていますから。


家紋に  卍  も使っている家です。


この家は分家でも
大岡とか成瀬とか大久保とか酒井とか
お歴々の家と関係があるから出世したんでしょうね。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 06時11分54秒 ) パスワード

http://www7b.biglobe.ne.jp/~hitosugi/hachiemon5.htm


下の方のピンクの枠内:   の更に下の方

嘉永6年7月是月

書院番頭花房志摩守正理、書院番久貝伝太、書院番頭組与力安藤三左衛門、小姓組番頭大岡豊後守清謙、同津田日向守信義、同一柳播磨守直方、同溝口讃岐守直清、同牧野筑後守忠直、同松平伊予守信武、中奥小性小笠原長門守長常、町奉行井戸対馬守覚広、同池田播磨守頼方、浦賀奉行戸田伊豆守氏栄、同井戸石見守弘道、町奉行支配与力仁杉八右衛門、同東条八太夫、同中村次郎八、同東条八太郎、同原善左衛門、勘定奉行本多加賀守安英、普請奉行中川飛騨守忠潔、小普請勝義邦(麟太郎・後安房守)、同向山源太夫、同井上三郎右衛門、百人組之頭三枝宗四郎、持筒頭小栗又一(忠高)、使番阿部正外(兵庫・後越前守・後白河藩主・後豊後守)、同揖斐與右衛門、小納戸大久保右近将監忠寛(後伊勢守・後越中守)、


     ココ

同服部藤左衛門、同吉川一学、同津田半三郎正路(後近江守)、同天野鉋之丞、目付戸川中務大輔安鎮、同鵜殿長鋭、同大久保市郎兵衛信弘、同堀利忠(後利煕・織部・後織部正)、小十人頭宮崎次郎太夫
 

               等、米国通商許可の諮問に、上陳す。



服部藤左衛門って?
「藤」ということは?


  恐らく  貞信の子孫だと思います。
  貞信の嫡男の3男の系統かな?と。

     坪内藤右衛門の家と親戚だから。

想像です。 



それにしても貞信の子孫は栄えてます。


幕末物で、幕臣が並ぶ時に並び矢紋の人が映る時に、誰だろう
と思ってましたが貞信系の服部氏だったんですね。

やっと謎が解けました。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 08時54分41秒 ) パスワード

もう1度読み返してて思いました。


>奉行服部伊賀守申渡相勤文政元寅年(一八一八)五月


貞信の子孫が「伊賀守」になった。
えらい出世です。
元は神職の家なのに。


でも「認められたのですから」文句など言えません。


そして「伊賀守」になっているのですから名実ともに服部家の棟領です。
伊賀の服部一族のボスです。

ここまで来るのに  1818年ですから  250年かかって。
これで堂々「うちは伊賀の服部」と称することが出来た。

平貞盛の末孫である平姓服部家長の正統なる子孫である
と高らかに宣言できる訳です。


きっとこの家は今でも続いているんでしょうね。
赤堤あたりにお住まいでしょうか?


不思議です。
実に不思議です。
 
[69]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月02日 11時15分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 毎回毎回お調べ下さり、すごい情報の数々で感謝いたします。頭の方には
その内の何割しか残りませんが、大事な事は帳面に書き出してメモしており
ます。

 大草政郷(まささと)については、父の八丈流しに連座して追放であったが、
父の八丈島への同行を許されるとともに、8年後その孝養を賞賛され罪を許
された。そしてその16年後には再び代官職に復帰ということでハッピーエ
ンドと思っていました。あを様の調べにより、信州を経て、倉敷での苦悩と
引責自害ということを知り、涙を禁じえません。民百姓のために一所懸命、
それも代々尽くして来たのですから。武士の鑑ではないでしょうか。

 ところで話は変りますが、「羽」と書いて古語では「はは」と読み、「大
蛇」のことであると『古語拾遺』に書かれていますが、そうすると「羽鳥」
は羽の生えた鳥(あたりまえでかえっておかしい)ではなくて、鳥のような大
蛇=龍=竜蛇神を暗に表し、出雲神を謳っているのではないか。鳥のイメー
ジではなく龍のイメージということで、全く変わってしまいますが、どうで
しょうか? 
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 13時09分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「羽」と書いて古語では「はは」と読み、「大蛇」のことであると『古語拾遺』に書かれています


羽は大蛇のことですか。



>そうすると「羽鳥」は羽の生えた鳥ではなくて、
>鳥のような大蛇=龍=竜蛇神を暗に表し、
>出雲神を謳っているのではないか。


   ですよね


中臣羽鳥  の名前のイメージも全く変わって来ますね。


調べれば調べるほど興味深い発見があって
我々が知ってたことなど表面でしかなかった
と驚きますね。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 22時40分29秒 ) パスワード

伊賀守

官位の話:復習


もとは朝廷における国司の長官職の名称で、今で言う県知事にあたります。

しかし時代が下って武家政権の世の中になると、実質的には武士が各地を支配しており、朝廷から派遣される国司には何の支配力もなくなります。
逆に武士にしてみれば、元は「一軍人」であったものが次第に権力を持ち、領地の支配者となってくると、今度は「政治家」としての地位や名誉が必要になります。

そこで、願い出て「○○守」などの称号を貰うのですが、室町末期には形式だけの称号になり、江戸期には完全に名称だけで、国名や職務とは何ら関係ありません。

いわば「○○県名誉知事」みたいなものです。

これを受領名と言い、国司の○○守(長官)や○○介(次官)の他、内匠頭(たくみのかみ)や雅楽頭(うたのかみ)などの中央官庁の官職、衛門佐(えもんのすけ)・衛門尉(えもんのじょう)などの朝廷の軍事部門の官位名が名乗られました。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月02日 22時54分19秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%9B%BD


伊賀守[編集]


礪波志留志
伊賀朝光
島田清田
平経盛       へえ〜。   平忠盛の3男。清盛の異母弟。敦盛の父
平知忠       平知盛さまの次男で平家の都落ちの時、乳兄弟の伊賀の橘為教に預けられた
橘成季
二条定高
藤原公則
源光清従五位上


守護[編集]


鎌倉幕府[編集]
1184年〜1186年 - 大内惟義
?〜1204年 - 山内首藤経俊
1204年〜1205年 - 平賀朝雅
1205年〜1221年 - 大内惟信
1247年〜1275年 - 千葉頼胤
1275年〜1312年 - 千葉胤宗
1312年〜1333年 - 千葉貞胤



室町幕府[編集]
1337年〜1339年 - 仁木義直
1339年〜? - 千葉貞胤
1340年 - 桃井直常
1342年〜1343年 - 千葉貞胤
1346年〜1347年 - 仁木義長
1347年〜1350年 - 高師冬
1351年 - 千葉氏胤
1351年〜? - 仁木義長
1352年〜1353年 - 細川清氏
1353年〜1360年 - 仁木義長
1365年〜1380年 - 中条元威
?〜1433年 - 仁木国行
1433年〜? - 山名時熙
1470年〜1477年 - 仁木氏
?〜1487年 - 仁木貞長
1491年 - 仁木氏



戦国大名[編集]

伊賀国には有力な戦国大名は誕生しなかった。
当時伊賀は群雄割拠の状態で、守護として入国した仁木兵部少輔も柘植氏に討たれた。
のち仁木氏が国人達によって追放された後、阿加、山田、阿拝の3郡は六角氏、名張郡は北畠氏によって間接的な支配が行われた。



天正9年(1581年)、直接的な支配を目指した北畠信意(織田信雄)により平定されている(天正伊賀の乱)。

織豊政権の大名 織田信雄(居城は伊勢国松ヶ島城→尾張国清洲城):阿加、名張、阿拝の3郡。実際の支配は家老の滝川雄利(伊賀守護)が行った(丸山城)。

天正12年(1584年)、伊賀の領地を豊臣秀吉に割譲。
織田信包(居城は伊勢国津城):山田郡。
筒井定次(伊賀上野城):伊賀一国。天正13年(1585年)大和郡山より移封


武家官位としての伊賀守[編集]

江戸時代以前 仁木頼章:鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。足利尊氏の執事

畠山義隆:能登の戦国大名。畠山氏第11代当主
鳥居忠吉:戦国時代の武将。松平氏の家臣・鳥居元忠の父
和田惟政;戦国時代の武将
筒井定次(従五位下、後に従四位下・侍従):安土桃山時代の武将・大名。後に伊賀上野藩初代藩主
長束直吉(従五位下):安土桃山時代の武将、大名。長束正家の弟。



江戸時代下野壬生藩鳥居家 鳥居忠恒(従四位下):壬生藩鳥居家2代。出羽山形藩第2代藩主
鳥居忠英(従五位下):壬生藩鳥居家5代。能登下村藩主、近江水口藩主、下野壬生藩初代藩主。
鳥居忠意(従五位下、後に従四位下・侍従):壬生藩鳥居家7代。壬生藩第3代藩主


江戸時代信濃高遠藩内藤家 内藤重頼(従四位下):高遠藩内藤家5代。河内富田林藩主
内藤頼卿(従五位下):高遠藩内藤家7代。信濃高遠藩の第2代藩主
内藤頼尚(従五位下):高遠藩内藤家9代。高遠藩の第4代藩主




              へえ〜  永井家が〜??


江戸時代尚庸系永井家 永井尚庸(従四位下): 尚庸系永井家初代。
永井直敬(従五位下): 尚庸系2代。下野烏山藩主、播磨赤穂藩主、信濃飯山藩主、武蔵岩槻藩初代藩主
永井尚平(従五位下): 尚庸系3代。岩槻藩第2代藩主。
永井直陳(従五位下): 尚庸系4代。岩槻藩第3代藩主、美濃加納藩初代藩主。
永井尚備(従五位下): 尚庸系5代。加納藩第2代藩主
永井直旧(従五位下): 尚庸系6代。加納藩第3代藩主


江戸時代伊賀守流藤井松平家 松平忠晴(従五位下):伊賀守流初代。駿河田中藩主、遠江掛川藩主、丹波亀山藩初代藩主。
松平忠昭(従五位下):伊賀守流2代。亀山藩第2代藩主
松平忠周(従四位下):伊賀守流3代。亀山藩第3代藩主、武蔵岩槻藩主、但馬出石藩主、信濃上田藩初代藩主・老中
松平忠愛(従五位下):伊賀守流4代。上田藩第2代藩主
松平忠順(従五位下):伊賀守流5代。上田藩第3代藩主
松平忠済(従五位下):伊賀守流6代。上田藩第4代藩主
松平忠学(従五位下):伊賀守流7代。上田藩第5代藩主
松平忠固(従四位下):伊賀守流8代。上田藩第6代藩主・老中
松平忠礼(従五位下):伊賀守流9代。上田藩第7代藩主


江戸時代越後黒川藩柳沢家 柳沢保卓(従五位下):第4代藩主
柳沢信有(従五位下):第5代藩主
柳沢光被(従五位下):第6代藩主
柳沢光昭(従五位下):第7代藩主


江戸時代出羽本荘藩六郷家 六郷政勝(従五位下):第2代藩主
六郷政晴(従五位下):第4代藩主
六郷政長(従五位下):第5代藩主


江戸時代その他 秋元喬房(従五位下):武蔵川越藩第2代藩主
井伊直存(従五位下):越後与板藩第4代藩主
板倉勝重(従五位下):板倉家宗家初代。江戸町奉行、京都所司代
板倉勝静(従五位下):板倉家宗家13代。備中松山藩第7代藩主。老中首座
木下俊治(従五位下):豊後日出藩第2代藩主
木下俊在(従五位下):豊後日出藩第5代藩主
桑山元晴(従五位下):大和御所藩初代藩主
真田信利(従五位下):上野沼田藩初代藩主
土井利寛(従五位下):越前大野藩第3代藩主
戸田氏長(従四位下):美濃大垣藩第5代藩主
戸田忠盈(従五位下):下野宇都宮藩第3代藩主、肥前島原藩初代藩主
内藤忠重(従五位下):志摩鳥羽藩初代藩主
土方雄隆(従五位下):陸奥窪田藩第3代藩主
森川重政(従五位下):下総生実藩第2代藩主
分部嘉治(従五位下):近江大溝藩第2代藩主


伊賀国の合戦[編集]
1184年:三日平氏の乱 (平安時代)、源氏(大内惟義) x 平家(平家継)
1204年:三日平氏の乱 (鎌倉時代)、鎌倉幕府軍(平賀朝雅) x 平家(若菜五郎)
1579年:第一次天正伊賀の乱、伊賀衆(藤林長門守、百地丹波、滝野吉政等) x 織田信雄
1581年:第二次天正伊賀の乱、織田信長軍(織田信雄、丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷、筒井順慶、浅野長政、堀秀政等) x 伊賀衆
1600年:上野城の戦い、西軍(毛利秀元、新庄直頼他) x 東軍(筒井定次)
1876年:伊勢暴動、一揆軍 x 官軍


地理[編集]
川:柘植川、服部川、木津川、名張川
盆地:上野盆地




藩主じゃないから旗本の服氏の名前は伊賀守には載ってないですね。
でも嬉しかったでしょうね。
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月02日 23時16分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は浜松中央図書館へ行って来ました。「服部中」の地元の資料がある
かどうか、また松島十湖関係の祖先に関する資料探しです。

郷土関係の資料室にてしらみつぶしに探しました。ありました! 前回よ
りも少し詳しい資料がありました。
 松島氏についても関連しそうな系図が見つかりました。

 以上の資料について、これから記したいと思いますが、夜も更けてしまい
ました。明日は一日統一地方選の応援ですので、帰って来た後、夜には何と
か書けるかと思います。

 再度調べて見ますと、またあを様の徹底して調べられた服部中の系譜を再
度読んでみますと、服部中の血筋との関係が状況的に更に近づいて来る感じ
がします・・・但し、決定打はまだありませんが。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 01時57分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


お忙しいのに資料集めとは!
でも大変な時に好きなことでストレスを発散できてラッキーです。

人間関係は大切です。
昔の人も今の人も。


面白い発見がありますように!
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 06時17分17秒 ) パスワード

伊勢守
平維衡:寛弘3年(1006年)任官。伊勢平氏の基礎を築く
平盛国   清盛の親友ですね。盛康の養子になったとかNHKでは。


遠江守
平重盛(保元3年〈1158年〉8月10日〜平治元年〈1159年〉12月27日)正五位下
平宗盛<1159年(平治元年)12月27日〜1160年(永暦元年)1月21日>従五位下


三河守
平頼盛:保元3年(1158年)10月任 - 平治元年(1159年)12月、尾張守に転任。
平知度:治承3年(1179年)11月任。
源範頼:元暦元年(1184年)8月6日任、『平家物語』[2]。


伊賀守
平経盛
平知忠


駿府は
平時盛になってます。

[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 06時32分30秒 ) パスワード

平知忠の乳母子の橘為教。


実は宗盛を処刑した橘公長のゆかりの人?
でも名字は同じですが通字が違うから直接の親戚ではないようです。



橘 公長(たちばな の きみなが、生没年未詳
平安時代末期の武士。官職は右馬允。


     当時の日本人はこの人を嫌ってたようです。


公長の出自は明らかでないが、大きく分けて二つの説が存在する。一つは天慶の乱で藤原純友を討伐した橘遠保(越智氏の一族とも)の子孫とする説で[1]、遠保から公長へとつなげる系図もある[2][3]。もう一つは中央貴族橘氏の子孫とするもので、参議・橘好古の孫である橘則光の子・季通の玄孫とされる[4]。


弓馬と知謀に優れ、元々平知盛の家人であったが、治承4年(1180年)12月に平家を見限り、同僚であった加々美長清の仲介で源頼朝の麾下に入る。粟田口で当時源為義の家人であった斎藤実盛と片切景重と喧嘩になった際、頼朝の祖父・源為義が朝廷に訴えず斎藤・片切を諫めた事から、公長は源家への恩を忘れず、縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向かったという[5]。


なお、実際には片切景重(原文「片桐」)は平治の乱(平治元年(1159年))で討ち死に、為義はそれ以前の保元の乱(保元元年(1156年))の直後に刑死していることから原因となった喧嘩は治承4年(1180年)より相当前に発生したものと考えられる。


「京に馴るるの輩」という事で頼朝に重用され、元暦元年(1184年)、平頼盛の帰洛にあたって餞別の宴に同席した。その後源義経の下で戦い、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦い後、捕虜となった平家の総帥・平宗盛の処刑を担当し、その事と平重衡の最期について鎌倉の頼朝に報告した。


     ココ
      ↕

『平家物語』「大臣殿被斬」によると、世の人々は公長がかつて平家の家人であったことを忘れておらず、その変わり身に多くの批判を浴びせたという。



子孫は肥前国に広がり、次男の公業が一時所領とした小鹿島(現秋田県男鹿市)の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。



系譜[編集]
父:橘公満[2]または公範[3]、公光[4]、公重
母:不詳
妻:不詳 長男:橘公忠(橘太)
次男:橘公業(橘次) - 子孫は小鹿島氏
男子:橘公経
男子:橘公仲

[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 07時37分49秒 ) パスワード

そろそろ XXXI  31  を立ててください。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 07時42分23秒 ) パスワード

服織庄について調べてみます。



駿府国の服織庄


http://www2.tokai.or.jp/marco/4-imagawa/4-10-sannjyou%20.html

今川時代のお話

正親町三条家の荘園は駿河国に2カ所あった。

一つは駿府の西郊外藁科川流域の服織庄、
いま一つは山を越えた西側の藤枝市の瀬戸川上流の稲葉庄(郷)であった。



服織庄は屋形町から3キロ足らずの地点であり稲葉庄はやや遠い。
いま瀬戸川支流の谷稲葉川の奥に御所ケ谷と称するところがある。
実望はそこに別荘を建ている。 


実望が実生活において意外なほど貪欲であったといわれている。
これは、荘園領主としての権威が低下してゆくのを苦悩した結果かも知れない。

そうした彼が仏道と歌道に救いを求めたのもきわめて自然な成りゆきであった。 
とくに歌については柴屋軒宗長という当代一流の宗匠が近くにいたし、
国守の今川氏親をはじめ歴々がみな斯道の達人であったから、
駿河という国は、彼にとって離れがたい土地であったに相違ない。

そしていつかここに骨を埋める覚悟をするようになったのであろう。
以下略
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 07時58分02秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/rai_trout/tokaido/tokaido27.htm

羽鳥   安倍川西岸              下の方に丸に三つ柏紋のお寺があります。


images/6220sengen-1.JPG
[羽鳥・浅間神社]
 建穂寺観音堂から西へ500m程の久住川を越えた所に浅間神社がある。
 静岡には浅間神社が多くある。


<羽鳥>
 「はとり」は静岡市へ合併編入されるまでの「服織村」の中心地。
   江戸時代以前から藁科郷服織庄と呼ばれていた。

   機織りを業とした「機織部(はたおりべ・はとりべ)」と呼ばれる人達がこの地に住んでいたことに因む。
 

   藁科川の少し上流に「富厚里(ふこおり)」という町名があるが、服を織ることに由来しているといわれている。


images/6220sengen-2.JPG [羽鳥・浅間神社]
 児童遊園を兼ねた明るい雰囲気の神社だ。


images/6240tokeiin10.JPG [羽鳥・洞慶院]
 浅間神社から久住川を上る。
 藁科街道から1km入った所に「久住山 洞慶院」がある。
 曹洞宗の主要なお寺で落ち着いた雰囲気を持っている。


[羽鳥・洞慶院]
 参道には年代物の杉林が並んでいる。
 説明看板を読む。

洞慶院の大スギ
樹高     40・00メートル
目通り周囲   4.20メートル
枝張      5・00メートル


 橋のたもとにあるこれらの大スギは、洞慶院の山門のかわりに植培されたものといわれ樹齢約310年にもなる巨樹として知られている。

 スギは日本の特産で全国各地に野生する常緑の高木である。材は柔らかで、ぬれても腐りにくいので建築材・器具材・船材などに使われている。

   昭和59年3月   静岡市



images/6240tokeiin20.JPG [羽鳥・洞慶院]
 大木を多く抱えた境内。
 時代を感じることができる。


[羽鳥・洞慶院]
 さすが名刹といった本堂。


洞慶院(久住山洞慶院)
 洞慶院は、はじめ馬喰大明神の社僧寺として真言宗に属し、喜慶院と称せられていたが、享徳元年(1452)守護福島伊賀守の懇願により、石叟円柱和尚が再建し、洞慶院と改め、曹洞宗とした。
 石叟は、恕仲天・禅師を開山と仰ぎ、自らは2世に居り、石叟の法弟大巌宗梅を3世とした。大巌は大いに宗風を昂揚し、賢窓・行之・回夫の三高足を生んだ。この三哲は輪住制を以て当山に住み、以後末派寺院が一年交代で輪番住職を勤めたが、明治の新政で輪番制から独住制に改まった。
 毎年7月19・20日に行われる開山忌には、無病息災、家内安全、夏病みなどの御祈祷が行われ、参詣者で賑う。この時、境内で売られる「おかんじゃけ」は、この地の代表的な郷土玩具で、行楽客に人気がある。
 また、この洞慶院は、梅園でも有名で、毎年3月上旬の開花期には市内はもちろん、市外から多くの花見客が訪れる。
   昭和60年1月  静岡市


images/6240tokeiin34.JPG [羽鳥・洞慶院]
 「梅花流発祥の地」の碑がある。
 洞慶院の先々代住職を務め、後に永平寺の貫主となった丹羽禅師が、親しみある御詠歌を広め、それが梅花流というらしい。


[羽鳥・洞慶院]
 「三界萬霊」の塔が立っている。
 三界とは欲界・色界・無色界
 萬霊とは、あらゆる世界、全ての生きもののやむことのない世界のこと。
 すべての霊に手を合せる場所である。


images/6240tokeiin38.JPG [羽鳥・洞慶院]
 洞慶院は梅の名所だ。
 梅園は一面に広がっている

[羽鳥龍津寺]
 羽鳥の浅間神社まで戻り、200mほどの所に「万年山 龍津寺」はある。
 看板があったので読んでみます。

栄保大姉の辞世の歌は宮内庁書陵部所蔵の「今川為和集」に次のように載っています。
 「10月18日三条宰相中将母(仁齢栄保大姉)追善22日遠行彼辞世正形をは皆ことごとく返し捨てくもるかたなき有明の月如以侍しは彼位牌の前に一紙瓦礫」
 「夢にのみあるかとみれはなきかけの心の月や空にすむらん」
解説
 天文5年(1536)10月18日、当時最高の歌人冷泉(今川)為和は親友三条公兄の母、仁齢栄保大姉(竜津寺開基)の追善供養に参じました。
 すると、仏前に彼女の辞世の歌がありました。歌の意味は、この世の中で味わった喜怒哀楽のすべての感情を捨て去って、有明の月のように澄み切った心であの世に旅立ちます、というのです。この歌を詠んだ為和は、こんなにすばらしい歌に比べれば自分の歌など石ころみたいなものだと、感心したのです。
 そして、あなたとは夢の中でしか会えないと思っていましたが、あなたはあの澄みきった月の中にいらっしゃるのですね、と供養の歌を献じたのです。
                              撰文  宮本 勉
平成11年7月21日 
    発起人
龍津寺住職  浅井義賢 護持会役員一同
宮本 勉 武田久夫 兼高健吉 吉澤三義 武田脩一 吉澤弘治 前田正巳 仲原泰治


images/6250ryusinji-12.JPG [羽鳥龍津寺]
 本堂前にあるしだれ桜が見事だ。
 写真はまだ3分咲きでした。



[羽鳥龍津寺]
 龍津寺の看板の前にある石碑。

辞世仁齢栄保大姉
人形をは 皆ことごとく返し捨て くもるかたなき有明の月
  平成11年7月吉日
 

images/6260naka-14.JPG [新間・中勘介]
 藁科街道へ出て清沢方面へ向かう。
 1kmほど進むと新間へと入り、右に中勘介記念館という市の施設がある。


中勘助と杓子庵
 昭和18年(1943)10月、樟ケ谷に天地療養にきた中勘助夫妻は羽鳥に移るまでの1年半この庵に住んでいました。
 はじめは、庵の下に見える粟畑にちなんで「粟穂庵」と名づけましたが、季節が移り杓子菜(おたま菜)の盛りになると「杓子庵」と変えました。
 中勘助はこの庵から藁科川を眺め月を仰ぎ野草を愛で鳥の声に耳を傾けながら静かに文筆生活を送っていました。俳句をはじめたのもこの庵であった。
 折からの厳しい戦局の中にあっても恵まれた村の自然に感謝し、新間の人々との素朴な触れ合いを喜びながら、その生活は随筆「樟ケ谷」の中に描かれています。
    平成7年6月1日  静岡市教育委員会


images/6260naka-12.JPG [新間・中勘介]
 記念館の裏にある茅葺屋根の小屋が杓子庵。ノスタルジーの雰囲気を醸しだしている。



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images/6270kensyoji-03.JPG [新間・見性寺]
 中勘介記念館のすぐ奥に曹洞宗「楠谷山 見性寺」がある。
 看板が立っているので読む。


曹洞宗 見性寺(案内)
創立 大永年間(1521〜26)
本尊 如意輪観世菩薩
開山 勅特賜厚覚禅師
開基 朝比奈弥一郎
(由緒)
 当山の草創は、寛仁元年(1017)真言密教に属し真光坊見昌寺と寺伝は伝えている。
 今の見性寺は、中世の最も安定した戦国大名、今川氏親の時代に大雄崇厚覚和尚を開山として、この地、藁科川の清流に洗われ四季を通じて恵まれた景勝の地に法燈が樹立されたことに始まる。
 開基、朝比奈弥一郎は、このころ深く禅に心を寄せ開山厚覚和尚に帰依し檀越(施主)となって見性寺を建立し曹洞禅の道場として開創した。
 以来、当山は、今川氏親・義元・氏真の保護の下に寺運に恵まれた。開山禅師以下、歴代住職の活躍はめざましく、藁科川一帯に広がる村落に末寺を建立し、この地方の曹洞宗の禅風の振作に貢献していることは重要である。
 徳川幕府の樹立と共に、当山は幕府より寺の由緒を重んじられ寺領(御朱印地)9石を拝領した。
 今日、当山に保存される今川氏、武田氏の御朱印、御判物および其の他の寺宝は、郷土研究の基礎資料として重視されている。
          昭和53年12月吉日    今川氏研究会


[新間・見性寺]
 山の麓に静かにたたずむ本堂。
 本堂の前に梵鐘堂が建っていて説明書きが書かれている。 


大梵鐘
大梵鐘は「ぽっくりさん」にお詣りする方が打って下さい
打ち方の心得として1回100円
浄銭を賽銭箱に入れて、先づ大梵鐘に向って合掌礼拝して「南無ぽっくり往生佛」とおとなえし、念じて力いっぱい打って下さい。
大梵鐘の一打のご利益
礼佛一声延命天壽 合掌し礼拝した鐘の響は、あなたの健康を守り諸難を消除し厄除となります。
念佛一声安楽往生 「ぽっくりさん」を念じた鐘の響は安らかな清い心を得て明るい日々が送れます。


images/6270kensyoji-14.JPG [新間・見性寺]
 庫裡の横に池があり大きな鯉が所せましと泳いでいる。

天然黒鯉と緋鯉
 この池の大きな鯉は100年以上の年齢です。大きな湖水でとれたもので鯉の体調120cm体重25kgあります。なかなか泉水に慣れないものです 観賞されます お客様におねがいします。勝手に身近なエサを与えたり、小石などなげ入れないで下さい。
<鯉の年齢>
 日本で一番長生きした鯉として記録されている鯉は、岐阜県飛騨白川の越原郷の旧家で、越原家(現在名古屋女子大学々長)越原公明氏宅の庭池の鯉で、名前(花子)メス鯉で200年以上の年齢で、先年死んでしまいました。この鯉(花子)に関する古文書他多くの記録はいま残されています。
 淡水魚関係の学会では、長生きの鯉として大変有名になっています。


[牧ケ谷]
 羽鳥まで戻り牧ケ谷橋で藁科川を渡るとそこは牧ケ谷。
 変則交差点で南藁科街道を見る。


<牧ケ谷>
 馬の牧場が置かれていたことに由来するといわれている。



images/6332kosin.JPG [牧ケ谷・庚申堂]
 変則交差点を山側に入ると200mで分岐点があり、お堂が建っている。
 丸子からここ牧ヶ谷へ峠を越える道が存在したとのことだが今は整備されていない。建武2年(1335)手越河原の合戦で、新田義貞が奇襲の際にこの道を使ったとされている。


[牧ケ谷・耕雲寺]
 境内の片隅に「戒名のない卵頭墓石」の看板がある。

この寺は増善二世虚廓僧の開闢洞家禅院なりしが
 何なる由かありけん済家に転じて宝泰寺に属せり(駿河志料)
 慶長十七年(一六一二)三月 徳川家康は切支丹禁教令を発し足下の駿府で 厳しい詮索と過酷な迫害を開始した 近侍の銃隊長原主水胤信は 信徒の故に捕らえられ 安陪川原に於て十指を切断 額に十字の火印を当てられ放遂された この惨劇を目撃した一人の仏僧は彼を救出、自寺に匿い庇護したことが露見し曲事として処罰された(徳川実記 駿府政事録)
 それは強大な権力にたちはだかり 自らの生命をかけひたすら 仏陀の教 慈悲の神髄を全うした義挙であった 以来幾星霜 一字の戒名一語の伝承もなく 今ここに眠る義僧の冥福を祈り深甚なる尊敬の念をもって この埋もれた事蹟を顕彰するものである
                 郷土史研究会



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images/6334kofun.JPG [牧ケ谷古墳]
 古墳の看板もある。

牧ケ谷古墳群
 耕雲寺の裏山には、6世紀末から7世紀中ごろにかけて造られた墓地があり、「牧ケ谷古墳群」と呼ばれています。
 牧ケ谷古墳群は昭和44年のみかん畑開墾の際に発見され、5基の古墳が確認され、そのうち4基については発掘調査が行われました。
 いずれも石を組み上げて造られた横穴式石室を持っています。石室は、幅約1.2〜1.5m、長さ約5〜7m、高さ2m程度の小規模なもので、石室内には遺体を埋葬するために石板を並べて造られた石棺が備え付けられていました。
 石棺の中やその周りには、土器、耳飾り、大刀、馬具などが副葬品として納められていました。
 各古墳とも、崩壊や破壊が進んでいましたが、最も残りの良かった2号墳については、消失した天井石のかわりにコンクリート製の蓋が載せられ、見学可能な横穴式石室として大切に保存されています。
         平成10年3月  静岡市教育委員会


images/6334kofun1.JPG [牧ケ谷古墳]
 1号墳があった場所はこの石垣の上あたりだったらしいが今は姿が見えない。

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                       丸に三つ柏紋?


images/6300ubume-05.JPG [産女観音]
 正信院の本堂。
永禄年間(1558〜70)武田氏の駿河侵攻で敗れた今川氏真の家臣牧野喜兵衛がこの地に落ちのびて、世を忍んでいたとき、その時懐妊中の妻が難産の末ついに死んだので、それを嘆き悲しみ、妻の墓所に堂宇を建てて、 子安観音を祀ったという。それ以来、「産女観音」(うぶめかんのん)といって安産祈願の参詣人が絶えることがない。


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images/6310kogarasi-09.JPG [木枯神社]
 下流側に階段があり、鳥居が見える。
 階段の脇に由緒が書かれている。


木枯森
静岡県指定名勝 木枯森
指定年月日 昭和29年1月30日
所在地   静岡市羽鳥大字森下
 藁科川の川中島であるこの森は、丸子から牧ケ谷に抜ける歓昌院坂を経て駿府に通じる古道のかたわらにあり、古くから歌枕としてその名を知られていた。
 平安時代の文人清少納言が枕草子の中で「森は・・・・こがらしの森」としるすなど、東国の美しい風景として数多くの歌によまれたのである。
 丘の頂上には八幡神社が祭られ、神社の横には江戸時代の国学者本居宣長(もとおりのぶなが)の撰文による「木枯森碑」や駿府の儒医であった花野井有年(はなのいありとし)の歌碑が建てられている。
      昭和63年3月31日  静岡市教育委員会 静岡県教育委員会


images/6310kogarasi-04.JPG [木枯神社]
 こじんまりとした神社が建っている。
 平安時代から度重なる洪水にもこの木枯の森は無事だったようだ。


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images/6310kogarasi-04.JPG [木枯神社]
 こじんまりとした神社が建っている。
 平安時代から度重なる洪水にもこの木枯の森は無事だったようだ。

images/0406-5tokuganji-22.JPG [徳願寺]
 藁科川沿いの道を下ると牧ケ谷から駿河区へと入り向敷地へと町名が変わる。
 向敷地の山の中腹にある徳願寺から始まる「最古の東海道」巡りを別の日に行っている。

 「最古の東海道」へのページはこちらをクリック。


images/0428tegosi1.JPG [手越・東海道]
 徳願寺から1km南下すると旧東海道へ出る。
 
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 08時08分29秒 ) パスワード


はごろも出版さんのサイトのようです。http://hagoromo-syuppan.sakura.ne.jp/


面白い本がいろいろありましたよ。


駿河国中(するがくになか)の中世史 大塚 勲/著
分かりやすい現静岡市域の中世の歴史。
駿河国三郡(安倍・有度・庵原)の平安から戦国時代の武将・大名・所領・神社・寺院などを詳解。

 ■A5判・274頁
 ■2,667円(税別)
 ■ISBN978-4-907118-01-3
 ■2013.5.29発行

_______________________________

静岡戦国武将墓巡り──家康ゆかりの武将たち── 岩堀元樹/著
戦国時代の武将約200人の墓を写真と共に紹介。直臣・陪臣はじめ、著名な妻たちの墓も網羅。関連の県外の墓や補足系図なども資料編に収録。

 ■A5判・ソフトカバー・236頁
 ■2,857円(税別)
 ■ISBN978-4-938138-93-6
 ■2011.11.20発行



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戦国大名今川氏四代 大塚 勲/著
氏親・氏輝・義元・氏真の今川四代の事跡を豊富な古文書を駆使して考証・解明。付録に「連歌師宗長伝」「冷泉為和と今川歌壇」「今川氏の城」等も。
 戦国大名今川氏は、氏親、氏輝、義元、氏真の四代を云う。竜王丸と云った氏親は、長享元年(一四八八)、家督争いに勝利して今川家当主となり、明応六年(一四九七)から遠江へ進攻、戦国大名としての歩みを始め、永正十四年(一五一七)、遠江平定を成し遂げ、駿河・遠江二国に君臨する戦国大名となった。
 氏親没後その偉業は嫡子氏輝に引き継がれたが、氏輝は早世してしまい、弟の義元がこれを引き継ぎ、天文十五年(一五四六)から三河に進出、三河を領国化し、更に尾張にも手を伸ばした。ところが永禄三年(一五六〇)、尾張国桶狭間において織田信長の奇襲に遭い不慮の死を遂げてしまう。
 義元の跡は嫡子氏真に引き継がれるが、三河で自立した松平元康(後の徳川家康)のために、今川氏は三河からの撤退を余儀なくされ、永禄十一年暮れに至り、武田信玄と徳川家康に東西からほぼ同時に攻め込まれ、戦国大名今川氏は消滅した。
 本書は、この戦国大名今川氏四代の事跡について述べると共に、関連する二、三の記述を付録としたものである。(「はじめに」より)

  目次

 ■A5判・ソフトカバー・198頁
 ■2,667円(税別)
 ■ISBN978-4-938138-84-4
 ■2010.9.26発行


     ↓
    この本の目次?

________________________________

はごろも出版さんの別の本?今川氏の歴史の紹介のようです。
http://hagoromo-syuppan.sakura.ne.jp/imagawa-mokuzi.html




目 次

  はじめに 3

  今川氏系図 8


初代 修理大夫氏親

父義忠の死と家中の内訌 12

今川家当主となる 14

早雲の伊豆討入と遠江乱入 16

遠江進出 17

関東出陣 19

結婚と文事 20

三河への進攻 22

遠江守護就任と羽鳥庄 24             羽鳥庄

遠江平定 27

『太平記』抜書を求める 29

大永元年の甲斐出兵とその敗北 30

鬱病発症と「仮名目録」の制定 31

その死と葬儀 33



二代 五郎氏輝

文士としての氏輝 38

家督相続と母寿桂尼の後見 39

自立と馬廻衆の創設 40

天文五年三月十七日没す 42


三代 治部大輔義元

出家時代 46

上洛と文事 47

花蔵の乱 51

河東一乱の始まり 54

武田信虎を駿府に隠居させる 55

第二次河東一乱 57

三河への進攻 59

臨済寺開山に大休宗休を迎える 61

織田氏との抗争 63

尾張への出馬 65

駿甲相三国同盟 68

「仮名目録追加」二十一ケ条の制定 69

三河国人の反乱 71

雪斎の示寂 73

在国公家たちとの交際 75

桶狭間の戦い 76


四代 上総介氏真

誕生から元服・結婚へ 82

和歌への執着 83

家督相続 84

「桶狭間の戦」直後 85

関東への派兵 86

三河への出馬 87

遠江?劇と三河からの撤退 89

寵臣三浦右衛門大夫 90

祖母寿桂尼の死 91

駿府放棄と掛川篭城・開城 92

その後の氏真 94

その後の今川氏 96


<本文頁より>

付 録

連歌師柴屋宗長伝

二十年振りの帰国 100

出自と出家 101

青年時代 102

宗祇入門 104

一休宗純への私淑 106

『新撰菟玖波集』に三十九句入集 107

三条西実隆との交遊 109

『三河下り』 111

駿府の住居「臨川庵」 111

『宗祇終焉記』 113

関東出陣に従軍 114

柴屋結庵 115

『東路のつと』 116

鎌倉建長寺天源庵 118

永正二年・五年・八年の上洛 119

信濃・越前への旅 121

講和の使者として甲府に赴く 123

その後の上洛 124

駿河における晩年の宗長 126


冷泉為和と今川歌壇

はじめに 128

一 冷泉為和の駿府下向と歌会 128

二 駿府における為和 133

三 今川歌壇の人々 138

むすびにかえて 143


戦国大名今川氏の城

はじめに 145

一 駿河の城 146

二 遠江の城 148

三 三河の城 155

四 尾張の城 160

まとめにかえて 162


今川義元の三河・尾張進攻

一 今川氏の今橋城攻めと牧野氏 164

二 今橋城攻略と織田信秀の安城城接収 167

三 松平広忠の今川臣従と安城城の奪還 171

四 今川義元の尾張出陣と桶狭間の戦い 175


今川氏の東三河撤退過程 184


  あとがき

[81]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 08時17分12秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E9%83%A1


安倍郡


1.千代田村 2.安東村 3.麻機村 4.南賤機村 5.北賤機村 6.大河内村 7.梅ヶ島村 8.玉川村 9.井川村 10.美和村

11.服織村                      服織村

12.中藁科村 13.南藁科村 14.清沢村 15.大川村 21.有度村 22.清水町
23.入江町 24.不二見村 25.三保村 26.大谷村 27.久能村 28.豊田村 29.大里村


30.長田村                      長田村




羽鳥村は幕府領と旗本領。


明治22年
服織村 ← 慈悲尾村、羽鳥村、建穂村、新間村、千代村、山崎新田、飯間村[一部]


服織村(はとりむら)は静岡県の中部、安倍郡に属していた村。現在の静岡市葵区南西部、藁科川右岸下流域にあたる


服織村役場
所在地
静岡県安倍郡服織村大字羽鳥

       へえ〜


村名の由来[編集]

渡来人秦氏率いる服部が移住して養蚕業や機織りをしたこと、
あるいは中世にあった服部荘から。
            これが知りたい。


            ということは役場に問い合わせれば史料を貰えるかも。
            教育委員会の歴史編纂課です。



沿革[編集]
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、慈悲尾村、羽鳥村、建穂村、新間村、千代村、山崎新田および飯間村[一部]が合併して発足。


1911年(明治44年)9月9日 - 南藁科村の飛地(大字小瀬戸字谷津)を編入。大字谷津となる。


1955年(昭和30年)6月1日 - 静岡市に編入。同日服織村廃止。


2005年(平成17年)4月1日 - 静岡市が政令指定都市に移行し、旧村域は葵区となる。



[82]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 08時37分21秒 ) パスワード

http://www.hamamatsu-books.jp/chronology/hamamatsu/1.html


復習

797 延暦16 遠江・駿河などの諸国から雇夫を徴発し、平安京の造営に従事させる
802 延暦21 遠江・駿河・伊豆ほか28か国の損田の租税を免ずる(日本逸史)


806 大同1 龍禅寺町の龍禅寺開創
810 弘仁1 遠江国の飢饉を救う

810 弘仁1 舘山寺が真言宗寺院として開創される
819 弘仁10 遠江国の国分寺、焼失する(日本逸史)
820 弘仁11 遠江・駿河両国在住の新羅人700人が暴動を起こしたので兵を出して鎮圧する


823 弘仁14 遠江国の早害疫病を救う
833 天長10 遠江国の飢饉を救う
834 承和1 遠江国敷智郡古荒田33町を阿保親王に賜う(続日本後紀)
838 承和5 遠江に米華が降る(続日本後紀)


842 承和9 橘逸勢、遠江国坂築駅で病死する
843 承和10 遠江国浜名郡猪鼻駅家を復興する
850 嘉祥3 浜名湖に一口があり、閉鎖常なく、湖の口がふさがると水害を受け、口が開くと豊作となる。湖口にまつる角避比古神を官社に列する

852 仁寿2 遠江国敷智郡息神に従五位下を授け官社に列する
853 仁寿3 広瀬河の郵船に2艘を加え4艘とする
854 斉衡1 遠江に詔して剰田7町を尼妙長に施す(文徳実録)
862 貞観4 遠江国敷智郡曾許乃御立神・賀久留神に従五位下を授ける

862 貞観4 遠江国浜名橋を修造する
863 貞観5 遠江国頭陀寺を定額寺とする
864 貞観6 内蔵寮領遠江国長上郡の田地164町(市野庄)を貞観寺に施入する

864 貞観6 富士山噴火する(三代実録)
865 貞観7 内蔵寮領遠江国長下郡の水田12町(高家庄)を貞観寺に施入する
865 貞観7 遠江国長上郡の空閑地を貞観寺に施入する             ココ

872 偵観14 遠江国の兵庫、鼓を打つような音を出して鳴る
873 貞観15 引佐・長上両郡の百姓に1年間調庸雑徭を全免する
874 貞観16 遠江国敷智郡蒲大神に従五位下を授ける

878 元慶2 藤原朝臣清保、遠江守に任ぜられる
878 元慶2 出羽国の俘因の乱に、東海・東山両道の諸国に勇者の待機が命ぜられて、遠江国には10人が割りあてられる

879 元慶3 遠江国など10か国の国司の言上した損田数が不正確の旨指摘される
881 元慶5 遠江国司よりの、前任の国司のとき官舎25宇倉104宇焼失したとの報告をみとめ、その修理を許す
881 元慶5 遠江の稲2,000束を興福寺へ施入する(三大実録)

881 元慶5 磐田郡を割いて山香郡を置く
883 元慶7 遠江国などの穀500斛で東寺塔を造る(三大実録)
883 元慶7 藤原清保、従五位上に進む

884 元慶8 遠江国浜名橋を改めて作る、長56丈・高1丈6尺
884 元慶8 前遠江守藤原清保、その任中に稲42万束を貯蔵し飢餓にそなえたことが認められる
885 仁和1 遠江国蓁原郡の百姓口分田が水害の為、代わりに不堪佃田を与える[口分田班給の最後]

886 仁和2 藤原朝臣恒泉を遠江国に遣し野鳥の害を払う
887 仁和3 藤原清保、遠江守に再任される
890 寛平2 遠江検損使の勘定公文を所司に下させる(西宮記)
894 寛平6 遠江・駿河などの諸国に、貴族の使いが往還の舟・車・人馬を強いて雇うことを禁ずる(太政官符)

901 延喜1 勝諸明、菅原道真事件に連坐、遠江権掾に左遷される(政治要略)
904 延喜4 平忠興、遠江守に任ぜられる(古今和歌集目録)
927 延長5 「延喜式」完成、遠江国の駅名として引摩が記載。賀久留神社、津毛利神社なども記されている。

927 承平年間 源順「倭名類聚抄」を作る。はじめて浜松の名が記載される[流布本]
931 承平1 「浜津(浜松)」の名称が文献に記載
940 天慶3 遠江国の飛駅使入京して、平将門が反乱を起し賊が駿河へ乱入し国分寺を襲った由を急報する
995 長徳1 正暦2(991)から長徳1(995)まで遠江守であった源為憲、遠江国の衰弊を奏上する

996 長徳2 四等官に各権官が置かれ、国司の定員が増える
998 長徳4 税部宿弥興国、東宮の年給により遠江掾に任ぜられる
998 長徳年間 このころ、浜名橋は焼失
1000 長保2 京都東寺、遠江国封戸150戸の租庸調を銭に換算して収納する
1017 寛仁1 浜名湖には黒木の橋がかかる[浜名橋]

1020 寛仁4 更級日記の著者東海道を上る。浜名湖を舟で渡る
1025 万寿2 笠井荘春日神社を再建する
1080 承暦4 遠江守源基清、尾奈御厨・浜名本神戸田を刈り取り、神宮司より不法を訴えられる。尾奈御厨は寛徳2年(1045)以後の成立である
1081 永保1 遠江国蒲御厨、荘園整理令(1069)により停止されている。このころ、都田御厨が成立している

1082 永保2 遠江守基清、本神戸田を刈り取った罪により停任される
1086 応徳3 院政開始
1102 康和4 遠江国東寺封戸、封物を絹に換算して納入する
1102 康和4 遠江国司、蒲田御厨内の新開田に徴税を増し紛争を生ずる

1104 長司1 遠江国東寺封戸、この年以降3か年封物の納入を怠る
1104 長承年間 頭陀寺領川匂荘の東の界を定める

               
                 平家の活躍
                    ↓

1156 保元1 保元の乱。横地太郎長重・勝間田平三成長・井伊八郎は官軍(平清盛・源義朝)に参加する[遠江武士初見]

                                重盛  遠江守に

1158 保元3 平重盛、遠江守に任ぜられる
1159 平治1 平治の乱、遠江国の武士は源氏に協力していない
1159 平治1 平宗盛、遠江守になる                 宗盛 遠江守に
1160 永暦1 平基盛が、遠江権守である                基盛 遠江権守に

1160 永暦年間 京都新熊野神社へ遠江国羽鳥庄を寄進する       羽鳥庄の寄進

1167 仁安2 大中臣公宣、先祖3代の領地都田御厨が、在庁官人の訴えにより停止されたのを歎き、その復活を言上する。都田御厨の成立は永保(1081)以前である
1171 嘉応3 京都松尾社領池田荘と京都仁和寺観音堂の末寺の頭陀寺の寺領川匂荘とに紛争がおき、池田荘の四至膀示を定める

1171 承安1 池田庄立券文が朝廷に提出
1172 承安2 遠江国司、都田御厨に乱妨する(玉葉)
1173 承安3 最勝光院が建つ。このころからのち、村櫛荘は同院領となる


1175 安元1 平頼盛、遠江権守となる                  頼盛   遠江権守に

1179 治承3 遠江国、藤原俊盛の知行国である               この人の息子の妻が基盛の娘ですって


1180 治承4 安田義定を遠江守護とする
1180 治承4 頼朝鎌倉に入る。遠江国の武士横地・浅羽・相良・内田・井伊・勝間田の諸氏は、この当時反頼朝軍に参加する



1180 治承4 鎌倉幕府成立(侍所を置く)
1180 治承4 蒲惣検校源清成の蒲上下田畠を免除する(蒲神明宮文書)

1181 養和1 遠江守護安田義定、平軍東上の急を頼朝に報告する
1181 養和1 遠江国の住人横地太郎長重・勝間田平三成長ら安田義定の命により遠江橋本に防禦陣地を築く。浅羽庄司宗信・相良三郎は協力しないので処罰をしたが4これを許す


1182 寿永1 安田義定、遠江国箇鎌田御厨を押領する
1183 寿永2 安田義定、遠江守となる
1183 寿永2 頼朝遠江にいたり、奥州秀衝の出軍を聞いて鎌倉へもどる(吾妻鏡)


1184 寿永3 遠江国の住人内田三郎家吉、義仲の妾巴と一騎討をして討ち取られる

            遠江国人だったのですか
            女に負けたって21世紀まで名が残ってしまった



1184 寿永3 頼朝、皇大神宮に都田御厨を保証する
1184 寿永3 平重衝、池田宿の長者熊野の娘侍従のもとに宿る

                                 平重衡

1185 文治1 頼朝、遠江の御家人が自由な行動をすることを禁止する
1185 文治1 安田義定、遠江小杉御厨に対して乱妨する
1185 文治1 幕府、東海道駅路の法を制定する

1186 文治2 安田義定、義経の行方について遠江の山寺までさがしたが不明の旨を報告する。また遠州二俣山に向い鹿9頭を浅羽三郎等が射殺したことを報告する
1186 文治2 頼朝、勝間田三郎成長が玄蕃助に任官したことを怒る


以下略
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 08時50分52秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/syuji_1944/c/371e2332ab8f007c516eda919cce6243/1

なかなか面白いブログです。
真ん中あたりに羽鳥が出てます。

安倍七観音1−4


         建穂神社の南に羽鳥という地名や服織中学があります。
以下コピペ

                   
 電柱の地名が「建穂」になってきた。
一体何と読むと思いますか? きっと読める人は少ないと思うが、これで「タキョウ」と読むそうです。
この地名も帰化人が付けたと思えば、そんな風にも感じる名前ですよね。
 

 建穂神社と建穂寺は切っても切れない縁があったようです。
この建穂神社の地は建穂寺の跡で、建穂寺は「神仏混淆」の寺として中近世大寺であった云われています。


当時建穂神社の里宮は羽鳥部落にあり、ここは奥宮の場所だったのに、建穂寺が割り込んで建てたようです。


その後、建穗神社の別当寺となった建穂寺は大いに発展して、建穂神社の奥宮もそれに伴って存続していました。

たが、里宮の方は次第に衰退し廃社となってしまいました。


里宮の跡地は羽鳥に「古社地」として残っているらしいが場所は分からなかった。若しかして木枯しの森の神社が里宮だと面白いが、と思ったが、木枯しの森の神社は八幡神社だった。残念。

処が処がですよ! こんな記事を見付けました。

京都太秦にある「大酒神社」には「木枯神社」が合祀されていて、この「大酒神社」こそが渡来人の秦氏の総鎮守で あったという。


そうなると木枯しの森も建穂神社も建穂寺も、帰来人秦氏と濃厚な関係だったと思われます。


さらに奥宮に祀られていたのは「馬鳴大明神」で、その馬鳴とは蚕虫に化生した馬鳴菩薩によるものという。


つまり、養蚕を営んでいた人々によって祀られた神社が「建穂神社」と云う事になる。

                 面白いですね
                 これは初耳




建穂神社は山の上にあると思って歩いて行くと、何と坂道の登り口にあった。その由緒ある筈の神社は何処にでも ある普通の神社で、縁起書も無ければ馬の狛犬(?)も無かった。これで式内社なのだからガッカリだ。


神社の横の道で草取りをしている人がいたので「この上には何かありますか?」と聞くと「何もないよ」だった。


                   あはは


 建穂寺の場所


 建穂神社を後にして「建穂寺(たきょうじ)」に行く。寺前にある静岡市の案内板には

「建穂寺は、白鳳13年(662)法相宗の道昭が草創し、養老7年(723)に行基が再興したと伝えられる。

創立年代には疑問が残るが、県内屈指の古寺として天平7年(735)の寺領寄進の記録が寺の古さを特徴づけている。

平安中期の『延喜式神名帳』に、建穂神社の名がみえ「神仏混淆」の寺であった。


安倍七観音の霊場でもあり、観音堂には珍しい稚児舞が伝わっていた。(現在は浅間神社廿日会祭に受け継がれ静岡県無形民俗文化財に指定)


 学問を目的とした建穂寺は、弘法大師の意志を継ぎ、今川・徳川両家に保護されたが、明治初期に経営が困難となり廃寺となった。  

文化財の一部は、観音堂内に保存されている。」 これにもう少し付加えるなら
「江戸時代までは21の塔頭をもつ駿河有数の大寺院だったが、明治初年(1688)の神仏分離令につづく廃仏毀釈と、 明治3年の火事により全山が消失した。 現在の建穂寺は昭和に入り、地元の有志により建てられた観音堂である。」


というわけで現在の建穂寺は寺と言うより「建穂寺観音堂」と呼ぶ方が相応し感じがします。

 観音堂の正面には千手観音が安置されていたので、これが行基作の仏像かと思ったが、銘は「前立千手観音」と なっていた。ここに書かれた 「お前立(まえだち)」 とは 「平常公開されない仏像(秘仏)の厨子の前に身代りとして
安置され、礼拝者にその尊容を偲ばせる仏像である。」 と云う事なので、後ろの黒い厨子の中に行基の千手観音が収められているのだろうか。しかし建穂寺の本尊の千手観音についてこんな記述もあった。



「本尊は1576年に焼失した建穂寺の観音堂の再興本尊として造られ、像高は約130cmの立像で、楠の寄木造、玉眼。 像内の銘には1577年の年や仏師長勤の名前があり、この像が建穂寺の本尊として造立されたことが記されている」



更に建穂寺で貰った「幻の寺 建穂寺」の栞には、本尊は桃山時代作とあるので行基の千手観音ではない事が分かる。


 かって函南町桑原長源寺の観音堂にも、ここ建穂寺の観音堂と同じように何体もの仏像が所狭しと安置されていた。

だが「かんなみ仏の里美術館」の完成に伴い、仏像たちは美術館に移されると、観音堂では親しく感じていた仏達が薄暗いガラスの中で取り澄ました美術品に様変わりしてしまった。


ここの仏像たちも、もう少し広い場所でお詣りできれば良いのだが、函南のような美術品としてではなく、あくまでも仏さんとしてお詣りできる場所が良い。
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 09時20分32秒 ) パスワード

つづき    白鳥姓の謎


http://blog.goo.ne.jp/syuji_1944/m/201410

安倍七観音1−3


    建穂寺(服織・羽鳥)



 藁科川渡ると電信柱の地名が「羽鳥」になっている。地図の地名を見ても羽鳥だが中学校は「服織中学」とある。


この服織はハトリと読むのだが、何故か地名は羽鳥なのだ。


今まで私は服織では読みにくいため、誰でも読み書きできる羽鳥に変えたと思っていた。そう「埼玉市」が「さいたま市」に なったように住民を馬鹿にした改名だと思っていた。


それが今回ウィキペディアの「服織村」の項目を見ると 「1889年(明治22年)- 町村制の施行により、慈悲尾村、羽鳥村、 建穂村等が合併して発足」となっている。


また服織小学校のHPには「羽鳥竜津寺を仮校舎として明治7年創立」とある。
となると江戸時代は、この辺りは羽鳥村だったのだろうか。

そうかなー? 未練たらしくネットを彷徨っていたら


「羽鳥の地名の由来には、いくつかの説があり、大昔に住んでいた「はた織」をする一族ハトリベからきたもの、

また鶴が飛来していたことから名づけられたものがある。」 そうこの説を待っていたのです。


                鶴ですか・・・・



 私のブログを読んでいる人は、私がまた麻機や賎機、服織の帰来人の話をすると思うでしょうが、今回は違います。


                  白鳥の話ですって


文中にある「鶴が飛来した」事に注目してみました。
実はこの辺りには 「白鳥(しらとり)」 さんと言う名字が多いので、

「鶴≒白鳥≒羽鳥」 とならないか想定し、
さらに調べると 「静岡県名字の話」 にこんな事が書いてありました。


「白鳥」 姓は静岡県内の90%が静岡市に住み、その多くはここ安倍川や藁科川の流域に住んでいるとあります。


更に 「白鳥姓は日本武尊が死後、白鳥と化した白鳥伝説があり、各地に白鳥の地名がある。
駿河の国の白鳥姓は日本武尊と所縁がある。」 と書いてある。


これを根拠にして、羽鳥と日本武尊を強引に結びつけてみるなら、日本平麓の草薙で日本武尊が賊に襲われている。


その時逃げ出した家来がここに住みついて名字を白鳥に地名を羽鳥にした。
とならないだろうか。
ウーン! 何とかこじつけられたが大分無理がある。

それなら素直に羽鳥は服織だった方がが正解のような気がする。



この辺りに来た渡来人は麻機、賎機、服織などに根を下ろし、蚕の養殖や機織を生業として、建穂寺も建立して先祖を祀って暮していたのだろう。
ウン それが正解だ。



蛇足だが「静岡県名字の話」には次のような記述ある。


「古くは服部はハトリベと読み、古代職業部の一つで機織を職とし、これらの人々の居住地を服織庄と名付けたので各地にこの名がある。

安倍郡服織庄もその一つで、古くは服部氏が住んでいた。」


しかしこれでも明治の初めに羽鳥村だった疑問は解けないが、こんな解釈もできるのではないか。



漢字辞書や国語辞書の無い時代、正しい漢字を思い出せない時は、同音で簡単に書ける漢字等で代用することが しばしば行われていたと云う。

そのため筆画が多くて読みにくい服織を、羽鳥と表記したとは十分考えられる。



ここ羽鳥も明治の町村合併により正しい服織村としたが、静岡市に吸収合併されると静岡市羽鳥になってしまった。
と考えられないだろうか。

この辺りの経緯がどうだったのか、もっと知りたいが調べる術が無い。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 09時32分48秒 ) パスワード

上記のレスに
「私のブログを読んでいる人は、私がまた麻機や賎機、服織の帰来人の話をすると思うでしょう」
とあるので、その該当部分をコピペしました。


全文は
http://blog.goo.ne.jp/syuji_1944/m/201404
へ。


神社の名前は「倭文(しどり)神社」。


アレーこれでは賎機の古名だと私が断じた名前と一緒だが、倭文は
織物のはずだ。では倭文神社の由緒書を見てみよう。


「健羽雷神は星山に永住し、織物製紙の業を興したので、諸神の崇敬を集め当神社に祀られた。
元来当地方には、藤、三椏、楮等が山野に自生して居り、加えて清冽なる湧水も豊富であったので、かかる産業が必然的に発達する素地があったと解される。

今日富士地方は世界的に有名な紙の産地として知られているが、その起源は茲に在るとされている。」フーン、紙も織物も同じ神様だったのか。


日本の神様は多い上に名前が難しくてとても覚える気にはならないが、浅間神社の神様の中に織物や製紙に関する神様がいれば面白いと思い調べ出したが。
止めた。私には難しすぎる。



 右の下の方に麻機沼が見える。沼といってもこうして見ると四角く区分されていて、沼と言うより溜池だろうか。

この麻機や賎機の地名については駿河百地蔵3-11で紹介したが、そのとき賎機について

「麻機では麻の織物、服織では絹の織物、そして賎機はいやしい人の着る織物、すなわち木綿の織物を織って いたとされています。」

と受売りをしてしまった。だが最近面白いいやこちらが正解だと思われる解釈を見つけた。

「倭文(しず)=古代の織物の一つ。麻などの横糸を青や赤に染め、乱れた模様に織ったもの。」

「倭文機(しずはた)=倭文を織る機。」

こうなると賎機は元々は倭文機と書いていたのが、いつしか賎機になったと考える方が自然だろう。


そこで訂正します。「賎機は元は倭文機と書き、乱れ模様の織物を織っていた」 と。


 福成神社に9時到着。神社の案内板の最後に「武田の裏街道の宿泊所となる」の一文が書かれている。

これは一体何を言いたいのか?
武田の駿府侵攻後は、当然駿府と甲府とは行き来が盛んになり、街道も整備されただろう。私の知識でその街道の場所を考えると

一・駿府から東海道の興津に出て、身延道である現在の国道52号で甲府に出る。


二・駿府から瀬名を通り、竜爪の穂積神社から興津川の小島へ抜け、興津からの身延道に合流する。

三・駿府から安倍川を遡り、梅ヶ島温泉に泊まってかから、安倍峠を越して身延道に出る道。

このうち福成神社を通るのは、三の安倍峠を越える道になるのだが、駿府からわざわざこの賎機山稜の尾根道を歩くだろうか。

当時は安倍川が現在より東の山稜の麓を流れていたとも考えられるが、それなら賎機山稜の東側を歩けば良い。
それに足の遅い私でも駿府の赤鳥居から福成神社までは2時間半で来ている。
こんな近距離で宿泊場所??? ?マークが幾つも付いてしまった。



 9時35分桜峠に到着。赤鳥居から約3時間掛かってしまった。誰かのブログに「赤鳥から鯨ヶ池までは、大体2時間」 と書いてあったが随分遅くなってしまったものだ。

 桜峠には石仏と共に「東の麻機、西の賎機、南の浅間神社、北へ竜爪、へと至る重要な峠でした。」の案内板があった。



 古代にはこの峠の東側には麻を織る麻機(あさばた)。西には倭文(しず)を織る賎機(しずはた)と絹を織る服織(はとり)部落があったのだから確かに重要な峠だったのだろう。



 大陸や半島から渡ってきた渡来人が、安倍川周辺に住みつき織物をしながら暮らしていた。

倭文に必要な麻を麻機の若者が背負って賎機に運ぶ事もあっただろう。

そして倭文織の乙女との間に恋が芽生え・・・・・・・


古稀になっても馬鹿は治らない。峠の石仏の製造年は分からなかったが古い物ではなさそうだ。
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 09時38分46秒 ) パスワード

前レスにあった「駿河百地蔵3-11」


「麻機や賎機の地名については駿河百地蔵3-11で紹介した」
というのを捜して来ました。



http://blog.goo.ne.jp/syuji_1944/e/4a873ba05064486c70f19b67eb5eef22



        36番目(51番) 臨済寺(地名)

 円光院からは賎機山の東の山裾を通る麻機街道で南に向かうと、臨済寺、富春院、松源院、安西寺と続き、 山裾から少し離れた場所に国分寺と旧御器屋町地蔵堂がある。


このうち山裾のにある4寺は道順にあるので、何としても今日中に回りたいと思っている。今日回らないと次回も同じ道を歩かなければならなくなる。



 麻機街道を歩いていると「麻機」と付いた小学校、郵便局、幼稚園などが目に付いたが、麻機の地名は地図上には載っていない。代わりに北、南、東と一文字の地名が散らばっていた。


古い私の知識では、麻機沼のあるこの辺りの地名は、麻機と思っていたが、どうやらそうではなかったようで、ウィキペディアによれば「明治22年に南村、浅畑新田、北村、東村等が合併して麻機村が発足」とある処を見ると当時は麻機沼を中心に東、南、北の集落があったようだ。


それが昭和9年に麻機村が静岡市に編入されたとき東南北の地区名はどうなったのか、そこが分からなかった。


地名は名付けた当初は自分たちを中心にして、東、南、北でも良かったろうが、地域が広がると何処に対しての東なのか北なのか分からなくなる。
この地区も主たる地名の麻機を頭に付けて、麻機東、麻機北、麻機南にすれば
一目瞭然で分かりやすいと思うのだが。


 今日歩いてきた中に、安西の地蔵堂があった。これに対し、これから向かう所には安東という地名もある。


この場合の「安」とは安倍川の事だと誰でも気づくと思うが、地図で見ると安西も安東も安倍川の西を流れている。


では「安」は何を指しているのか。


右側の古い時代の安倍川の見取り図を見てください。かって安倍川は今の静岡の街中を流れていて、安西は安倍川の西にあったのは間違いないようです。矢張り「安」は安倍川指していたようです。


 麻機の地名ではもう一つ興味を引くものがある。アッそうだ!その前に麻機の読みは「アサバタ」と読みます。



静岡市の人なら大概の人は読めるでしょうが、初めて見る人は戸惑うかもしれませんので紹介しておきます。


この麻機以外にも静岡には「賎機(しずはた)」という地名もありましたが、今は山の名前や学校、郵便局に名前を残すだけのようです。今日はその賎機山の裾を東西に歩いて来ました。



さらに「服織(はとり)」という地名もありましたが、これも学校や郵便局に名前が付いているだけです。

 この麻機・賎機・服織の地名を並べると何か気づきませんか? 


そう麻や機、服、織など繊維に関係ある言葉ばかりです。
実は静岡の北部のこの辺りには、渡来人の一団が住み賎機山を中心に麻、木綿、絹の栽培や機織をしていたそうです。


その証拠というか、服織には「建穂(たきょう)神社」という、かっては「馬鳴(まなり)大明神」と称した神社があります。


この馬鳴明神の馬鳴とは、養蚕を営んでいた人たちが祀った「馬鳴菩薩」と同義語らしいのです。


馬鳴菩薩は右手に桑の枝、 左手に蚕の繭玉(絹糸)を持って白馬に跨っていたらしいですが、そのお札をネットで見付けたのでコピーしておきます。


 さらにこの服織を流れている藁科川の対岸には牧ヶ谷古墳群がある。その古墳は養蚕や機織などの技術を持った渡来人の秦一族の物ではないかとの説もあります。


くどいついでにもう一つ。静岡の名前は明治以前は府中とか駿府と呼んでいました。それが明治維新に改名する際賤機山から「賤ヶ丘」が候補に挙がったが「賤」は「いやしい」に通じる事から「静岡」になったそうです。



こうなると気になるのが何故「賎」なのかと言うことで、これは麻機では麻の織物、服織では絹の織物、そして賎機はいやしい人の着る織物、すなわち木綿の織物を織っていたとされています。



 色々受け売りを書いてきたが、地名は安易に捨てるべきではないと思う。麻機、賎機、服織は最早地名には無く学校や郵便局等にその名を残すだけになってしまった。いつのその名が無くなってもおかしくない状態だ。



「はとり」は確かに今もその地区は「はとり」だ。だが字は「服織」から「羽鳥」と変わってしまい、文字からは過去を想像することは出来なくなってしまった。


難しい漢字だから平がなに、難読だから安易な読める字に変更することが本当に思いやりなのだろうか。
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 09時46分29秒 ) パスワード

http://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diary/201009130000/

浜松の服織神社


       これ、良かったですよ。


浜松.豊町.服織神社(はたおりじんじゃ)


          「服」の字が我が家の戸籍謄本の字と同じですが
           今は印刷になってるので
          「服」の字なんですが。




遠江国にも平安時代には、京都寺社などの荘園や伊勢神宮の御厨があります。

平安時代の遠江国、荘園と御厨(みくりや)   地図はURLへどうぞ



その一つの荘園.羽鳥庄(浜松市東区豊町)をご紹介します。

羽鳥庄(豊町)には服織神社(はたおりじんじゃ)があります。
延喜式神名帳に載っている式内社です。

祭神
「天穂日尊(アメノホヒノミコト)」



ここ羽鳥庄(豊町)は京都.新熊野(いまくまの)神社の荘園です。


京都.新熊野神社は1160年ころ後白河院が紀州の熊野権現本宮の祭神を勧請して、
法住寺殿の鎮守としたところで、平清盛の造営です。


京都.新熊野神社の祭神
「イザナミノミコト」



祭神の関係を見てみます。

系図              URLへ


「天穂日尊」は大日霊女貴尊(天照大神)の二番目のお子さんで、「スサノオ」が九州を平定して出雲に帰るとき出雲に連れて行ってもらった子供です。出雲では能義あたりに住み、生活に必要なゴザを織る芯にする麻(荒麻)の産地でしたから、出雲.隠岐186ヶ村の中でも裕福なほうだったようです。


その子供に武比良鳥尊(タケヒラトリ)がいて、その子孫に遠江国造(くにのみやっこ)がいます。

           へえ〜
           だから「とり」?


その関係でこの神社は創建されたのだと思います。



また神社の名前が服織神社とありますのは、「天穂日尊」が出雲時代にゴザの織物に秀でていたからなのでしょう。
この豊町あたりは織物が盛んだったようです。



一方、京都の新熊野神社を見てみますと1181年の「新熊野神社文書」がありまして、
そこに新熊野神社を創建するにあたり、関係する諸庄に対する雑役の賦課を一切永久に免除して貰いたいと申し出て、
院庁がこれを認めています。


そのために、遠江国.羽鳥庄であります現在の浜松市豊町は名前の通り豊な町だったのではと推察しています。


現在でも羽鳥公民館として名前が残されています。


また京都.新熊野神社は室町時代、足利義満が初めて観阿弥.世阿弥親子の能を見たところでもあります。
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 09時52分19秒 ) パスワード

[PDF]ふるさと人物研究『鎌倉新仏教・臨済宗の栄西と円爾』

http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/712/1/chousahoukoku3.pdf


円爾さんのお話をもう1度アップ:


平安時代の遣唐使廃止にともなう国風化の時代から、平氏政権による日宋貿易にみられ ... 条院の所領(八条院領)のうちに駿河国服織荘が含まれる。

1180 年源頼政は ..... あるいは、この時に駿府の茶商が円爾と地元の茶を結びつけたことも考えられる。 ....


安倍郡服織庄は鳥羽天皇の皇女八条院から以仁王(高倉宮)へ伝領された八条院であり、.


ということで再度アップしておきました。
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月03日 09時53分08秒 ) パスワード

XXXI  31のアップをお願いしますね。
[90]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月03日 22時40分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は一日中車に乗っていたので疲れました。そのせいか頭の中が夕暮れ
になってきました。
 長くは書けませんが、今回見つけた「服部中」についての資料は、今まで
と比べていろいろクリアに書かれています。系図もそうですが、これはあを
さまがすでにくわしく分析されていますのでそれ以上もものではないと思い
ます。今までになかったものは、菩提寺と過去帳の記述です。
 いずれにしてもニュアンスが伝えにくいので、この資料をそのままコピー
して送ることにいたします。

 あを様が過去調べていただいた家系譜をもう一度読み直すと、やはり子孫
はたくさんおり、その中からでもつながりがある可能性の匂いがしたり、ま
たその系図に載せられていない子孫も十分いる可能性もあり、そこからつな
がることもあり得るような気がいたしております。

 水野家とのつながりで、こんな話も当方にはありました。当方服部家の祖
母は、水野家の殿様の末裔の乳母をしていたという話です。何で当方の祖母
が水野家の乳母、即ち乳を与えていたのか、そんな関係は一百姓家に普通で
はあり得ないことだと思います。
 また永井家と隣近所で同族のような関係と家紋の一致、これも普通ではあ
り得ないことであります。
 長谷川家も隣村の高薗にたくさんおられます。
 そして、秋鹿―大草ラインによる天領の支配とそれに隣接する服部中の領
地の支配、それに加えて服部半蔵の領地・・・家康の息のかかった者達の何
らかの警備上の連携のようなものを感じます。そして善地は天領であったと
いうことは、大草=永井と服部は親近感のある間柄であったものと推察いた
します。
 ま、これくらいにしておきます。
 今後、善地というところがどんなところであったのか、こんどはポイント
をそこにもっていってみます。
[91]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月04日 02時57分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


貴重な資料ですね
楽しみにしております。


服部中の家、政信の家、貞信の家、その他
「伊賀出身」「平家の流れ」
を標榜してても微妙に違う。


   でもやっぱり(伊賀で繋がっているんだろうな)という匂いは感じます。


でも家紋が「矢」ではないと、 
   あれ?
と思います。敢えて「矢」ではないところにアイデンティティがあるのですから
どんな事態があったのか?


元々は「矢」紋だったのか?


興味を掻き立てられます。ドラマがあったのでしょうね。



みんなその時代に一生懸命生きてたのを感じます。
名も無き終わり方をした人の足跡を1つ1つ拾ってあげる
というのも先祖に対する供養になるかも。
般若心経が詠めないのが残念です。


人とはたくさん知り合っておくのが良いですよ。
ぜんぜん知らない人でも   実は・・・   ということがあるかもです。

    若い時だったらもっと良かったのですけどね。
    

貴重な時間はやっぱり貴重な時間になるかも、です。
車の窓から思わぬ地名や標識を見掛けるかも。
将来に繋がるかもです。

私的な貴重な時間にもなりますように。



>善地というところがどんなところであったのか、こんどはポイントをそこにもっていってみます

はい
時間を置いて、また、考えてみたら
違うことが浮かんで来るかもです。

現場100回。
思わぬ発見があるかも。
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