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 投稿番号:101427 投稿日:2015年03月11日 18時59分14秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]\
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]][からの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎の解明に挑む。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明です。

[1]ときおさんからのコメント(2015年03月11日 22時36分30秒 ) パスワード

丸三さん、あをさん  

突然の横入りですみません。学研「ムー」、大昔からの読者のひとりです。
女王卑弥呼を中心とする連合体や出雲を中心とする国家体制や宇佐八幡や日向
を基盤とする連合体などが入り乱れて居た倭族の居住地域というのが近いので
はないでしょうか。



「書紀は正確」
韓国初の論文 日韓交流の原点に光
http://www.yoyokaku.com/sub7-21.htm
百済の第二十五代王、武寧王(ムリョンワン)の出生地は佐賀県鎮西町加唐島(かか
らしま)とする論文が、今月(2000年9月)発売の韓国の史学雑誌「史学
研究」に発表された。 http://www.yoyokaku.com/sub7-21.htm
今の韓国ドラマ「帝王の娘スベクヒャン」の帝王が「武寧王」ですね。
 無料のドラマのサーバーでも見られますよ。英字・華字が多いです。
この武寧王の曽孫が「武王」ですね。ドラマ「ソドンヨ」主人公です。

『日本書紀』では欽明天皇16年(555年)2月条に威徳王は弟の恵(後の恵王・「武王」の祖父)を送ってきて聖王の死を伝えた。事実が存在します。聖王
と大和朝廷は深い関係にあったことが知られていますね。南方の伽耶諸国の
領有を争って新羅への対抗のために殊更に倭(ヤマト王権)との連携を図っ
た。

百済が宗主国というのは現代のK国の妄想・迷走の類いですね。
倭族の頃は、倭国と言うものは無く、倭族の連合体で有って国家の体はなし
ては居なかったのではないでしょうか。
遼東や遼西から以南は倭族の連合体で在って今の朝鮮族は高麗王朝設立以前
までは北方の片隅にしか存在していないようです。新羅が先祖でもないのです。

慶州平野。http://lunabura.exblog.jp/17931953/
日本の弥生時代、現在の慶州市に斯蘆国(サロ・シロ)があり、6つの村が
あった。
そこに赫居世(ヒョッコセ・)たちが北の方から動乱を逃れて鉄器を持って
やって来た。
紀元前57年のことだ。
[吉林省の辺りから南下したようです。吉林=慶林どちらもチーリンと同音]



紀元前37年。赫居世(ヒョッコセ)(かくきょせい)は慶州平野に京城を築き、金城と名付けた。
彼の重臣に瓢公(ひょうこう)がいた。彼は倭人だった。

紀元前19年。四代目・脱解(タレ)が東海岸からやって来て支配層に加わる。
脱解は倭国の多婆那国の王の子といわれている。

名字の「朴」氏=瓢箪 卵生神話から倭人に王が生まれた神話から、「金」氏 」が誕生しています。
金さんも朴さんも倭族の出身ですね。
[2]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月12日 00時17分49秒 ) パスワード

ときお様

 「倭国の真実」(内山靖敏著)という本が手元にありますが、なかなかの大書
なので、未だ読めておりません。いずれにしても、「日本書紀」が日本の歴史
を巧妙に書き換えてしまっているところに元凶があると思います。また、真実
といっても見方・立場で変わりますので、総合的に見る必要がありますね。
 書かれた本によっても見解が違いますので、できるだけたくさんの見解・情
報をインプットすることを心掛けたいとは思っています。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 05時59分28秒 ) パスワード

ときおさん


こちらではお久し振りですね。
にっこり



半島と日本の関係は

   半島から人々が日本に来たのは確か。
         ⇅  
   そして日本も半島に植民地を持っていた。
            ☇
            いえいえ、日本に来る前は、そこにいた、ということか?



>百済の第二十五代王、武寧王(ムリョンワン)の出生地は佐賀県鎮西町加唐島(かからしま)

すごい話ですね。


     加唐というのが  唐は韓かも知れないし。
                  で、加は何かを意味する接頭語かも知れないし

                   加唐島は百済の植民地だったかも知れないし
    

あり得ますね
最近の日本には外国生まれの日本人が多くなってますから
2000年前には日本で生まれた半島の王がいても不思議じゃないです。


>倭族の頃は、倭国と言うものは無く、倭族の連合体で有って国家の体はなしては居なかったのではないでしょうか

これはそうですね。
最近読んだ「日本の古代史の謎は海路で解ける」も同じようなことを言ってます。


>吉林省の辺りから南下したようです。吉林=慶林どちらもチーリンと同音

吉林省のあたりは今でも朝鮮族がいるとか読んだ記憶があります。



>金さんも朴さんも倭族の出身ですね

そうなりますか。


金さんについては分かりませんが

朴さんについては  日本では  キド  なんて  木戸・城戸あたりの漢字を使ってた
というのを見たことがあって
腰が抜けんばかりに驚いたものです。

   あ、そうなの!
   って。

逆に日本人が  キド  という苗字だから半島では  朴  という漢字を使った
というのも有り得るのかな?と。



日本じゃ当たり前の前方後円墳が最近半島でも1つ見つかったというニュースを見ました。



とにかく日本と半島=百済は思ってた以上に密接な関係があったということなんでしょうね。



百済と日本は近くて
新羅と対立し
さらに高句麗も絡んで
結局百済から日本に大挙亡命して来た



結局また振り出しに戻ってしまいました。

[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 06時06分15秒 ) パスワード

http://blog.livedoor.jp/ussyassya/archives/51940612.html

卵生神話の解釈についてアレコレ


神話世界に見られるタマゴについて。先ず、インドの黄金卵とギリシャの宇宙卵、オマケをしてインドネシア、スマトラ南部の宇宙卵、フィンランドの宇宙卵に関する神話というのは、基本的には混沌しかなかったところに卵が割れて、宇宙が始まる、世界が始まるという意味合いの天地創造で、まさしく、黄金卵、宇宙卵の名前に相応しい神話であろうと思う。また、これは現代人からすると、この広大な世界、広大な宇宙はたった一つのタマゴから始まったというイマジネーションについて、現代人の我々が考えるビッグバン仮説とも微妙にダブるところに驚きがあり、「なに! まさか知っていたのか!?」という新鮮な驚きがある。


黄金卵、宇宙卵とは、つまり、宇宙の始まりという原初以前にカオスを設定しており、まさしく、宇宙起源の話なんですね。


なので、多分、単純に【卵生神話】や【卵生説話】とするのは少し違う気がしました。いやいや、これを下手したら日本列島や朝鮮半島の卵生神話と直結させるのは、どうも腑に落ちないんです。元々、宇宙には何も無かったという原初状態を設定している場合と、そうではない場合は、意味合いとして全く違いますよね。仮に、インドの黄金卵と日本の神話を繋げるのは、乱暴であろうと思う。更に、朝鮮半島のそれをも繋げてしまった場合、全く、意味を為さないこじつけだと思う。


天地創造、宇宙創造は別次元。何故なら、既に世界があって、その世界に於いて「タマゴから神様が生まれました」、「タマゴから王が生まれました」という神話とでは次元が異なりますよね。ですが、何となく、これが混乱しているような気がする。


というのも【卵生神話】について調べると、インド、中国、日本、インドネシア、ポリネシア、アフリカに分類しているとブリタニカ国際大百科事典に記されていますが、日本の神話に黄金卵、宇宙卵は見当たらないんですよね。うーん。

天御中主尊が登場する記紀で、【タマゴ】や、それに類するものって見つからないんですけど。なのに、ある書籍には要約として「遥か昔の世界はタマゴのように混沌と…」と記紀に記されているなんていう解説文がある。もう、この辺りからして、ちょっといい加減っぽい。そもそも『日本書紀』とて8世紀の編纂だし、その時点で、『淮南子』の表現を使用していると思われるし、更に更に後の神道や国学者が色々な解釈をつけてしまっているし。


まぁ、仮にタマゴか、タマゴと現代訳するのに耐えられる単語があるならあるで構いませんが、ちょっと変なんですよね。このジャンルって、結構、アバウトに語られてきた領域な気がしないでもない…。


で、おそらくは、神功皇后が応神天皇を生んだときの石がタマゴのようであったという箇所を日本の卵生神話だとされていたり、或いは、四国にある幾つかの民話であったり、まぁ、その程度っぽいんですよね。ですが、率直な感想からすると、神功皇后の出産したときの石がタマゴに似ていて、そのタマゴが祀られているという話は、卵生神話そのものというか、まぁ、卵生神話の影があるという感じにしか思えないんですよねぇ…。何故、これまで、こんな曖昧な一部分について、これは朝鮮半島に見られる卵生神話と共通しているなんて具合に、リードされてきたのか、かなり疑問に感じちゃう。


結構、著名な学者さんの書籍を読んでも、『旧唐書』にはこう書いてあった、『新唐書』にはこうあり、更には朝鮮半島の『三国遺事』にはこう書いてあるのだから…などと、もの凄く、素直に、質料を読んで語られている。ですが、それらというのは、更に過去の文献を調べて綴られたものであり、そこに記されている内容をストレートに積み上げて、そこに推理を重ねたところで、ただただ混乱してしまうのではないか。魏志倭人伝にしても魏略が敲き台としてあり、更に、その敲き台になった文献がある事を考慮すると、もっともっと質料を絞るべき。


共通項を探るにしても、社会心理学者らの論考にありがちな《投影》とか《原型》を巡る拡大解釈が頻発してしまっていて、かなり著名な学者でも「タマゴとは、太陽信仰を意味していると推察できる」なんて具合に論じて、どんどん推察をしてしまっている。これじゃ、ムチャクチャですよ。藤子不二雄の絵がエロ漫画だというのに等しい飛躍を平気でやらかしてしまっている。率直な感想からすると、オカルト主義どころの騒ぎじゃなくて、正々堂々、拡大解釈をしているように見える。(権威、権威、学術的権威っていう感じの世界なのかも。目を通すとわかってしまうんですけど、案外、拡大解釈アリで、人為的な解釈もアリになっているような匂いがあるかなぁ…。というのも朝鮮半島と日本列島の関係、或いは邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説とを巡る解釈に於いて、恣意性が混在している…。どこの世界も同じかも知れませんけど。)


思えば、河合隼雄によるユングを通しての民話の論考、更には古い文献を書くに当たっては確実に敲き台となる参考書が用いられているであろう現実というのを考慮すると、さすがに恣意性が目についてしまう。推測や推理も許容しますけど、それを幾重にも重ねてしまっては恣意性が紛れてしまうのは必然であろうと思うんですよね。特に「タマゴ=太陽」や「口裂け女=教育ママゴン」のような解釈は、いただけませんかねぇ。



で、それでも残ったのが、次に挙げている鳥越憲三郎著『古代朝鮮と倭族』で解説されている鳥越博士による卵生神話になります。



先ず、殷王朝について記されている『史記』殷本紀から、その卵生神話の概要。


◆殷契(いんせつ)の母は簡狄(かんてき)という。有娀(ゆうじゅう)氏の娘でテイコク(漢字不可ながら中国に於ける漢民族の始祖とされる黄帝を尊ぶ風習があり、黄帝の曾孫にあたる人物)の次妃になる。三人が湯浴みに行き、玄鳥がその卵を堕とすを見て、簡狄は取りて之を呑んだ。それに因って契(せつ)を生んだ。◆

「玄鳥」とは「燕」の事で、つまり、落下してきた燕の卵を呑んで妊娠した母が生んだのが殷契であるという。で、この殷契は、殷の王系の始祖にあたる。つまり、殷の始祖は処女受胎というか、空から落ちてきた燕の卵を呑んで懐妊、そのまま生まれたのだとしており、しかも、黄帝の曾孫の妃が生んだのが殷の始祖なのであるとしている。


次に、中国で呉によって滅ぼされた徐という国、現在の安徽省にあった徐国に関してで、こちらは『博物誌』徐偃王史の卵生神話の概要。

◆徐君の宮人が孕んで卵を産む。不詳であるとして卵を水浜に棄てる。独孤(どくこ)の母に犬あり、鵠蒼(こくそう)と名づく。鵠蒼は水浜で狩りをし、棄てられた卵を銜えて母に帰す。独孤の母が不思議だと思いながらも之を暖めると、遂に小児となる。生まれた子は体が小さいので、その意味合いから偃と名前が付けられた。偃は成長すると人智があったので王になった。後に鵠蒼が死ぬと、角が生えて尾が九本に分かれた。実は鵠蒼は黄竜であった。◆




次に、『後漢書』東夷列伝からの、扶余族の神話。



◆北夷の索離国(さくりこく)の王が出掛けている間に待女が身ごもった。戻った王は身に覚えのない事から侍女を殺害しようとしたが、侍女は「天上に気があり、大きな鶏卵のようなものが来降してきて、それが元となり身ごもったのだ」と弁明した。王は侍女を囚えたが、やがて侍女が男児を産む。王は男児を豚小屋に放り込んで豚の餌にしてしまおうと思ったが豚を息を吹きかけるのみであった。次に王は馬小屋に放り込んでみたが馬も同様であった。それでも男児は無事であった為、男児は神のように扱われ、東明と命名された。東明が成長すると、その勇猛さに再び王は東明の殺害を企てた。東明は南へと逃れた。途中で渡れない河に直面したが東明が矢を放つと、魚やすっぽんがやって来て橋をつくったので、それを渡った。この東明が後に扶余の王になった。◆


次に、『北史』列伝の百済の項目に百済国の神話があるそうなのですが、実は、これは扶余族の神話と見事に一致してしまうそうな。

◆索離国の王、その王の留守中に侍女が妊娠。王が怒ると、侍女は空から大鶏子が来降してきて、それで妊娠したと弁明。男児が産まれると王は、豚小屋と馬小屋へ入れて男児殺害を画策するが何故か男児は生きながらえたので、王になることが認められる。東明と命名される。成長後に王から畏れられ、殺害計画を立てられたので南へ逃亡すると河が立ちはだかったが、東明が矢を居ると魚とスッポンが橋をつくって透明を渡らせた。東明は扶余の地に到りて王になった。◆


疑いようもなく、これは同一の話で、東明神話ですよね。


では、次に朱蒙が主人公として語られる高句麗神話、『魏書』列伝の高句麗編の要約を。

◆朱蒙の母は河伯の娘であった。扶余王の為に室内に閉じ込められ、陽が照らせばそれを避けるも、日はまた遂(お)う。河伯の娘は妊娠し、大きな卵を一つ産んだ。扶余王は卵を犬に与えたが犬は食べず、豚に与えてみたが豚も卵を食べなかった。道に捨ててみると牛馬も卵を避けた。野に捨ててみると衆鳥が卵を温めた。扶余王はとうとう卵を割ろうとしたが、割ることができず、ついに卵は母の元へ戻った。母が卵を包み、暖かいところへ置いて温めると、殻を破って一男が出てきた。その子は朱蒙と名付けられた。朱蒙とは弓の名手を意味する。朱蒙は逞しく成長すると、人々は朱蒙が特異なので警戒したが、扶余王は朱蒙に馬の育成を命じた。朱蒙がますます逞しく成長したので、扶余の人々は朱蒙の殺害を計画した。朱蒙の母は朱蒙にそれを告げた。朱蒙は扶余を捨てて東南へと逃れた。逃れる途中で大きな水があったが、朱蒙が水に語りかけると、魚やスッポンが浮かび上がって橋をつくったので、朱蒙は、その橋を渡って逃げ、その先で高句麗を立てた。◆


この朱蒙の神話も、東明王の神話と、重なっているのが分かりますよね…。どちらがオリジナルかというと、東明王の方がオリジナルで、朱蒙の方が詳しい分、様々な粉飾を施されていることさえ読み取れる。そこから鳥越博士は、高句麗そのものは濊族の国なのに、何故か神話は扶余族のそれであると指摘する。おそらくは、扶余族が濊族を支配した事を暗示している。また、濊はツングース系だが、扶余のモンゴル系でジンギスカンの神話が「蒼き狼と白い牝鹿」で始まりますが、その【牝鹿】を意味しているのが【扶余】であるから扶余とは即ち、モンゴル系であると導く。つまり、ツングース系の濊族に北方ルートでモンゴル系の索離族(匈奴の時代から胡は騎乗したまま弓を射るのが巧みであった)が南下をして扶余族を形成し、その扶余族から出た朱蒙が高句麗に入って、それを支配したのではないかと展開する。(機会があれば、別の方法で検証しますが、一先ず、鳥越説を…。)




続いて新羅の神話になりますが、新羅の場合は朴(ぱく)、昔(そく)、金(きむ)の三氏に関わる神話がそれぞれ設定されており、それでいながら、三氏とも神話が似ているという。


先ずは昔氏のものを『三国史記』の要約。


◆その国王は女国の王女を娶り、妻とした。それから七年後に卵が産まれた。王にしてみると卵が生まれるというのをことを怪しみ、卵を捨てるように命じた。しかし、その女は絹で卵と宝物とを包み、それを箱に入れて海へと流した。流れるままに任せたのだ。その箱は最初、金官国(金官韓国)の海岸に到達したが金官人は箱を開けなかった。再び箱は流れ、辰韓の阿珍浦に流れ着いた。ここでは老母が箱を見つけ、縄で海岸へと引き寄せ、それを繋ぎ、箱を開けてみると、そこに一人の男児が入っていたので、老母は養った。その子は立派に育った。箱が流れ着いたとき、一匹の鵲(かささぎ)が鳴き飛んでいたので、その子は鵲という漢字から旁にある【鳥】を除いて【昔】を氏とした。これが脱解(だへ)王である。◆



続いて、朴氏の神話(新羅本紀)の概要。

◆高墟(こふぉ)村長の蘇伐公が楊山の麓に居ると、そこで跪(ひざまづ)き、いななく馬に遭遇した。駆けつけてみると馬はどこかへ消え、そこには大きな卵が一つ在った。その卵を割ってみると、そこには赤ん坊が出てきたので養うことにした。その子は立派に成長し、その子の神異なることからして六つの村々の人は、その子を君として立てた。卵がヒサゴ(ひょうたん)のような形であったからヒサゴを意味する【朴】を姓とした。(この卵から産まれた子が、後の赫居世(ぱるこせ)である。)◆



続いて、金氏の神話(新羅本紀)の概要。

◆王は王城から西の方、始林にて鶏の声を耳にした。夜の明け切らぬ内に瓠公(「ほごん」と読むが、ヒョウタンの意味がある名前)を向かわせると、金色の箱が枝にかかっており、その下で鶏が鳴いていた。瓠公が城に箱を持ち帰り、事情を説明すると、王は箱を開けさせた。箱の中には男児があった。その男児を王は大変に気に入って、跡継ぎにすることにした。金色の箱であったから【金】という姓とした。その子は【閼智】(あるじ)と名付けらた。(金氏の場合、どうした理由なのか箱の中から出てきた閼智が始祖になっておらず、王にもなっていないという。)◆


卵生神話の有無として語ってしまうと、日本も含まれて語られてしまうのですが、イマイチ、どの箇所を差しているのかが分かりにくい。

てっきり、私は三貴子が生まれる前に生まれたヒルコを流したという一節であろうと思っていたら、

神功皇后が後の応神天皇を生んだ際の石がタマゴのようであったとか、なんだか、宇宙卵とは懸け離れているんですよね。



既に字数を費やしてしまったので、考察は別の機会に譲りますが、

神功皇后の三韓征伐のクダリで魚たちが神功皇后の軍勢の味方をするシーン、

或いは大国主命でしたか因幡のウサギのシーン、

或いは桃太郎のどんぶらこどんぶらこと川を流れてくるシーンなど、

影響を受けたのか、或いは与えたのかと思われる共通シーンがありますよね。



卵生神話と一言で片付けていますが、内容的に朝鮮半島は、かなり神話の原形が明確ですよね。
神話の型というのが、これほどハッキリとしている。



一応、簡単に解説しておくと、鳥越説では水稲農耕民の倭族が朝鮮半島で辰国を先に建てており、それが分裂して三韓となっているとしている。そこへ、朝鮮半島の北方、或いは明確に北から扶余族の系統や濊貊族の系統が南下してきて征服したとしている。朝鮮半島を南下してくると、日本とも共通する倭族の南方系の文化が強くなってきている。結界や、鳥居らしきもの、それはトーテムポールにも通じる聖と邪との境界線を思わせる文化であり、それらは倭族として、揚子江流域に広がった文化であるという。



うーん、卵生神話の他にも日光感性神話などという区分もありますが、

これは怪しくて、ずーっと年代を経て豊臣秀吉も日輪を飲み込んで産まれたことになっているし、
更には坂本竜馬までもが太陽を飲み込んだことになっている。


人間というのは、そういう逸話をつくってしまうものなんですよね。


単純な分類をしたら、混乱必死で、それこそ騎馬民族由来の日光感性神話という具合に展開されている場合もありますが、

これだと倭乱の首謀者たる豊臣秀吉が朝鮮半島の起源だと怪しまれてしまうぐらいおかしな事になりかねない。


そういえば豊臣秀吉は瓢箪を旗印にしていたんですよね。


それは瓢箪が繁殖力を意味して豊穣に繋がるものだから、即ち、本当は農耕文化として「瓢箪」なんですよね。



ですが、これを「ヒサゴ=朴氏の神話」と言い出してしまえば、愈々、秀吉は朝鮮半島の人間であるかのような錯覚が起こる。

ですが、そういうのは言葉遊びでしょう。ちゃんと、中身とか内容を構造主義として精査していない。



もう、中世とか、その年代のものはアテにならないという事もありますが、そもそも、太陽信仰そのものや神秘的な受胎ストーリーそのものが神話世界では普遍的過ぎて、共通しているとすることそのものに問題がある気がしました。


鳥越説への批判も目にしていますが、少なくとも鳥越説は、その愚に陥らずに仮説を立てている。


余りにも意識するが余りに朝鮮半島と日本列島とを結び付けてしまっている気がしますかねぇ。


もっとも日光感性神話は、なんといっても新羅からやって来たアメノヒボコあたりになると、その子孫には田道間守(たじまもり)なんてのも在り、倭に於ける新羅との関係を色々と想起させてくれます。



参考:鳥越憲三郎著『古代朝鮮と日本』(中央公論新社刊)、『世界神話事典』(角川ソフィア文庫)、井上秀雄著『古代朝鮮』(講談社学術文庫)、『古事記物語』(教養文庫)、『あらすじとイラストでわかる古事記・日本書記』、関裕二著『物部氏の正体』(新潮文庫)、関裕二著『藤原氏の正体』(PHP文庫)、谷川健一著『古代学への招待』(日経ビジネス人文庫)、『一個人〜神道入門』(KKベストセラーズ)、河合敦著『世界一受けたい日本史の授業』(二見書房)ほか。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 06時09分09秒 ) パスワード

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-5-11.htm



11 神々の国籍



前記の熊野と高野山の争いにあった「他国降臨の神体」という高野山の批難は、異国の宗教である仏教にとって「天に唾する」行為だと思える。

そもそも神に自国や他国といった人間的な概念があってはならない。瀬織律姫にしても倭国の女神と限定することはない。後述するが瀬織律姫の実像は『西王母』である可能性が高い。いや、確実に道教の最高女神神の『西王母』が渡来し、倭国で変化したものだと思う。



@ 盤古神話と三皇五帝

  それを確認する前に、記紀神話の国際性を述べておこう。

  新興国家以外のどの国にも「天地開闢神話・国生み神話・始祖神話」がある。

北方系の日光感精型、南方の卵生型という神話類型に大別できるが、当然、記紀にも記載されており、朝鮮王朝の神話と似ている部分が多いが、両国とも中華王朝(おそらく前漢)の神話を原典としていることに起因する。その中華王朝も揚子江下流域にいた太古の苗族(ミャオ族=現在は雲南省周辺)の神話を導入したものである。

そして、この太古の苗族は、日本人のルーツの一つとされる。



『三五暦記』盤古神話

天地は鶏子(とりこ=卵殻の中身)のように渾沌(こんとん)としていたが、そんななかで盤古(ばんこ)が誕生した。一万八千年を経て、天地が開けると、鶏子のなかの陽(あきら)かで清らかな部分は天となり、暗く濁れた部分は地となり、盤古は、その中間に在って、一日に九回変化し、天では神、地では聖となる。



『日本書紀』天地開闢

  昔、いまだ天地が分離せず、陰陽も分割していないとき、渾沌たることは鶏子のごとくだったが、その清く陽かなるものは天となり、重く濁れるものは地となった。天が先ず生成し、後に地が定まると、その後、神聖がそこに誕生する。



『朝鮮の開闢神話』

 遠い昔、天と地は互いに混じり合っていたが、やがて天と地が離れると、天からは青い露が降り、地からは黒い霧が湧き出し、その露と霧が合水して万物が生じた。巨大な天皇鶏が頭をもたげ、地皇鶏が翼を広げ、人皇鶏が尾を振って、朝を告げるような鳴き声をあげると、闇は払われ、天地開闢となった。



  日本・朝鮮両国の天地開闢神話が盤古神話を下敷きにしていることが一目瞭然であろう。朝鮮には三皇(天皇・地皇・人皇)名を冠した鶏が登場するが、これは三皇五帝神話のコピーである。おそらく南北朝時代に、南朝と通交していた高句麗の朝貢使が宋から『史記』を持ち帰って参考にしたものと推察する。



『五運歴年記』盤古神話

盤古の死が近づくと、吐いた息は風雲、声は雷鳴、左目は太陽、右目は月、手足と胴体は四方の極地や五岳、血は河川、筋と血管は道、皮膚は農地、髮髭は星辰、産毛は草木、歯と骨は金属、精髓は珠玉、汗と涙は雨や露に化身した。身中の寄生虫は風によって各地に広まり、多くの人民と化した。



『日本書紀』黄泉の国

 伊邪那岐命(イザナギ)が禊をして、左目を洗ったときに生まれた神を『天照大御神(アマテラス)』。次に右目を洗ったときに生まれた神を『月読命』。その次に鼻を洗ったときに生まれた神を『建速須佐之男命(スサノオ)』と名付けた。



 盤古神話から「左目から太陽、右目から月」が生まれるので、左目から生まれたアマテラスは太陽、右目からの月読命は月を表すが、一般に太陽神は男神、月神は女神とされるが、アマテラスはスサノオの姉「女神」である。

一説には、遣唐使が『魏志倭人伝』を持ち帰ったことで邪馬台国の女王・卑弥呼の故事を知った朝廷は、急遽卑弥呼のモデルとしてアマテラスを創作したことが、日月の逆転の原因ではないかとする説がある。



『三皇五帝』女媧神話

二人の兄妹は幼い頃、雷神を助けた御礼にもらった御守を二人で土に埋めた。

やがて、それは大木となり、大きな葫蘆(瓢箪=ひょうたん)が実った。

あるとき世界に大洪水が起き、地上の人類は滅亡したが、二人だけは葫蘆の中に逃れて危難を免れた。そこで、兄は瓢箪を意味する伏羲(ふつぎ)と名乗った。

二人が成人し、兄の伏羲は妹の女媧(じょか)に結婚を申し込んだ。

妹は、私を追いかけ、捕まえることができたら結婚しますと応えた。

二人で大木の周りを走り回ったが、妹に追いつけない。そこで伏羲は立ち止まり、逆に回って妹を捕まえた。こうして二人は結婚し、妹が出産したが、生み落とした のは肉塊だった。それを千切って風に撒くと、各地に飛散して、人となった。



『日本書紀』国生み神話

 兄イザナギと妹イザナミはオノゴロジマに天降ると、島に「天の御柱」を立て、イザナギの余分な凸の部分と、イザナミの不足している凹の部分を交合して、自分たちの国をつくることにした。

イザナギは御柱の左から島をまわり、イザナミは右からまわり、出会った場所で夫婦の契りを交わしたところ、足腰の立たない蛭児(ひるこ)が生まれたので、葦の船に乗せ海に流した。



福の神である戎様(えびす)を祀る総本社『西宮神社』の祭神は、えびす大神(蛭児尊)とされるが、海に流された蛭児が西宮海岸に漂着し、土地の者に育てられて、後に開運の「エビス様」として信奉されたことが起源だとしている。



『朝鮮の洪水神話』

  昔、大洪水が起り、世界は水底に沈んでしまった。

ただ一組の兄妹が高い山に流れ着いて生き延びたが、洪水が治まって山を降りると、二人の他に誰一人として生き残っていない。このままでは人間は絶えてしまう。だが、実の兄妹で結婚するわけにはいかない。

 二人は悩んだ末に、もし奇跡が起ったら、それは神様が兄妹の結婚を許す意志を示すものと考え、二人は向かい合った二つの山に登り、兄は石臼の凹凸の凸の半分を、妹は石臼の凹の半分を転がした。すると、石臼は人が手で合わせたかのように見事に合体した。さらに二人は青い松葉で作った毬に火を灯した。二つの山から煙が立ち昇ったが、その二条の煙が不思議にも空中で交わって一筋の煙になった。

これを見て兄妹は結婚することを決め、子供を産んだ。今この世にある人間は、この兄妹の子孫である。



  日本・朝鮮両国とも中国の先進文化を導入したが、ついでも天地開闢神話や人類誕生神話まで拝借したことが、上記からよく分かっていただけたでしょう。

  次はさらに驚くような神話を紹介しよう。



A 新羅の始祖神話

 新羅の王統は「朴・昔・金」の三氏で、各々に始祖神話がある。

なぜ瀬織律姫の話に、わざわざ新羅の始祖神話をするかといえば、女媧神話にも重要な役割をする葫蘆(瓢箪=ひょうたん)が共通して登場し、さらに倭人や倭国も登場するのだが、後に、この瓢箪が瀬織律姫の話に重なってくる。



朴氏の『蘿井伝説』

  辰韓の時代、村長が集まって統領に相応しい人を探そうと、高い山に登って有徳の気を探した。すると不思議な霊気を発する場所を見つけ、行ってみると、そこに紫色の卵があった。割ってみると、そこから端麗な男児が出てきた。

  人々は驚いて東泉寺に連れて行き、体を洗うと、男児の体から光が輝き、鳥や獣たちが集まってきて舞い踊り、天地は鳴動、太陽や月は清らかに照らした。そこで男児に、世の中を明々と照らし治めるという意味の赫居世(カクキヨセイ)と名づけた。赫居世の入っていた卵は瓠(カク=瓢箪)のように大きかったので、新羅語で瓢箪を意味する朴(パク)という姓にした。

これが新羅の初代国王『赫居世』である。



昔氏の『阿珍浦伝説』

昔、倭国の東北千里に多婆那国(たばな=丹波国)があり、一名を龍城国といった。そこの国王は含達婆といい、女王国の女を王妃としていたが、王妃は妊娠7年目に大きな卵を産んだ。国王は怪しいと思って、それを棄てさせた。王妃は絹布で卵を包むと、櫃(ひつ)の中に入れて船で海に流し「有縁の地に到り、国を建て、家を成しなさい」と祝福して別れを告げた。

その船は阿珍浦(慶州郡陽南羅児里)に流れ着いた。鵲(かささぎ)が鳴き騒ぐので、地元の老婆が海岸に行ってみると、船の中に子供を見つけ、大切に育てると、人々が尊敬するような人物になった。鵲が縁で発見したので、鵲の字の鳥を除いた字である「昔」を姓とし、櫃を解くと現われたので名を「脱解」とした。

これが新羅国の第四代国王『脱解』である。 まさしく日本人である。



金氏の『雉林伝説』

  脱解王の治世九年、国王が金城(慶州府)の東南にある原生林で雉が鳴き騒ぐので、倭国から瓢箪を腰に下げて渡来した大輔(大臣)の瓠公(かくこう)に見に行かせた。瓠公が行ってみると、木の枝に小さな金の櫃が懸っていたので、櫃を持ち帰った。

 国王が開けてみると、なかに小さな男児がいた。国王は「この子は天が授けてくれたものに違いない」と言い大切に育てた。

  金の櫃から生まれたので、「金」という姓にし、名前は閼智とし、その原生林を雉林(けいりん)と称したことから、新羅を雉林と呼ぶようになった。

これが新羅国の第十三世国王『金味鄒』の始祖・金閼智である



  倭国の多婆那国(丹波とする説が有力)から渡来した『脱解』、瓢箪を腰に下げてやって来た『瓠公』、実は同一人物ではないかとする説がある。筆者もそう思う。

  ここには掲載しなかったが、金氏の伝説は長い物語になっており、そのなかでは、

金閼智が倭人の宰相『瓠公』の屋敷を騙し取る話が語られている。おそらく倭人系の王統が、この金閼智との政変に負けたことを象徴しているものと解されている。

  女媧神話にも葫蘆(瓢箪)が登場するが、瓢も瓠も「ふくべ=瓢箪」のこと。

  倭国と新羅は何度も敵対し、韓国では現在も反日感情が強く残っているが、古代の韓国人には、そんな心の狭い民族主義はなかったようだ。

また『伊予国風土記』には、荒雄川神社でも祭神とする「大山祗神」について、百済国からやって来られた神様だと明記している。

どうやら神様も鬼と同様に「国際交流」が好きだったようだ。(^O^)/
                             
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 06時11分49秒 ) パスワード

http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/~agoto/dokusho_rensai/rensai_index.files/seven_seas.htm


雑誌『Seven Seas』 特集アゴラ(地球を考える)連載原稿

南太平洋の神話に探る日本人の根っこ



第1話 南太平洋の神話から見た古代日本人の思想

 この連載では、日本の神話や沖縄の民話の中で、南太平洋に連なる事例を取りあげながら、古代日本や南島に見られる海人的な思考の伝統を探ってみたい。私はここで“南太平洋"という言葉を、沖縄に連なる、台湾からフィリピン・インドネシア方面、さらにニューギニアからメラネシアやポリネシア、ミクロネシアの島々を指す意味で使いたい。台湾の先住民の言語はオーストロネシア(南島)語の系統であり、それは南太平洋に連綿と広がる一大語族の北端にあたるのだ。

 日本語の文法は韓国語に近く、単語や文字は中国語の影響を受けている。しかし日本語の基本語彙には謎が多く、まったく系統の異なる、南島語の伝統を基層にもっていた可能性がある。国立民族学博物館の崎山理の行った縄文語の復元推定には、南島語がモデルとして使われた。さらに京都大学の片山一道は人骨の分析により、縄文人とポリネシア人が近いことを明らかにしている。そして日本列島から中国南部、台湾、東南アジア島嶼部にかけて“海のモンゴロイド"の故郷があったと推測している。このように、縄文時代に遡る日本の基層文化が、南太平洋と密接な関係にあったことが明らかにされつつある。

 その後の日本文化は色々な地域からの影響を受けた。つまり日本文化は雑種文化として発達したと言える。古代神話にもそれはあてはまる。古事記や日本書紀の神話は、南方、中国、あるいは朝鮮・北アジア系など、色々な系統の要素の複合である。しかしその基層には南太平洋系統の神話が存在しているようだ。だから本連載は、われわれ日本人の深層文化を探る旅と言うことができる。

 日本の古代神話の中で、南太平洋系統の一例とされるのは海幸・山幸の神話である。



 兄の海幸彦(ホデリノミコト)は海を支配し、弟の山幸彦(ホヲリノミコト)は山を支配していた。ある日、弟は互いに道具を交換しようと頼み、兄の釣針を借りて漁に出た。しかし山幸彦は魚に針を取られてしまう。兄は釣針をなくした弟を許さない。山幸彦は海岸で海神・塩土の翁(シオツチノオジ)から得た船に乗って、海の彼方の国へゆく。その国の入り口で様子を伺っていると人の気配がしたので、山幸彦は木の上に登って隠れる。やって来た娘が水を汲もうとして泉を覗くと、木の上にいる男の顔が水面に映っていた。こうして山幸彦は海神(ワタツミノカミ)の娘、豊玉姫に出会った。

 山幸彦は海神の宮で歓迎をうけ、海神の配下の鯛の喉に引っかかっていた釣針も返してもらい、帰途につく。海神は兄を凝らしめる呪術を教え、水を呼ぶ珠を与える。一尋鰐(『古事記』原文では和邇とつづられるが、古代日本語の“わに"は鮫を意味していたものと思われる。)の背中に乗った山幸彦は一日にして地上にたどり着く。山幸彦は帰ってから兄を呪術と珠の力で起こした洪水で屈服させる。このとき海幸彦が示した屈服のポーズが後世、隼人族が朝廷に忠義を示す踊りの中に受け継がれる。

 さて妊娠した豊玉姫は夫を追って地上に来た。彼女は出産するとき、夫にけっしてその姿を見てはいけないと言った。しかし山幸彦はこらえきれず見てしまう。豊玉姫は鰐の格好に変わって出産しようとしていた。恥じた豊玉姫は息子を残して海神の宮に帰ってしまう。代わって妹の玉依姫を養育のため地上に送った。残された息子はやがて成長し、叔母の玉依姫と結婚し、生まれた子供の一人が最初の支配者・神武天皇となる。



 神話はいくつかのモチーフの複合体である。モチーフとは神話の筋を左右する、ひとまとまりの話を意味する。海幸・山幸神話には釣針喪失譚、異境探訪譚、大魚(鰐)に乗る話、メリュジーヌ・モチーフ、異類婚などのモチーフ連鎖が見られる。メリュジーヌとは入浴のとき禁止を破って妻の半人半魚の姿を見てしまう話である。異類婚とは人間と動物との結婚であり、海幸・山幸で重要なのは、日本の天皇家には女性を通して海神の血が入っている点である。

 次回以降、海幸・山幸神話を構成するこれらのモチーフの系統を南に探りながら、神話に隠された意味を探っていこう。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 06時12分45秒 ) パスワード

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第2話 亡くした釣針の行方

 前号で紹介した海幸・山幸神話の発端は弟の山幸彦が兄の海幸彦から借りた釣針を亡くしてしまうことである。同じような発端を持つ神話はインドネシア付近に多い。たとえば次はスラウェシ(旧セレベス)島の北端、ミナハッサ地方に伝わる話である。

 カヴァルサンという男がいた。彼は海で漁をしようと思い、友人から釣鈎を借りる。舟で漁に出ると魚が食いついたが、糸が切れて鈎をなくしてしまった。友人は「他の鈎を十くれても受け取らない」言って許してくれない。カヴァルサンは海に引き返し、鍵をなくしたところで海に潜った。すると海底に道があり、それを辿って行くと村に到着した。村の家の一軒で騒ぎになっているので覗くと、乙女の喉に魚骨が引っかかって苦しんでいた。カヴァルサンが両親に自分が医者なってなおしたやると言って喉に掛かった釣鈎をはずしてやった。彼は鈎を抱えて帰る途中大魚に出会ったのでお願いすると、一瞬にして岸に戻してくれた。彼は地上に戻ってから神に懇願して大雨を降らせ、意地悪い友人を懲らしめた。

 このように借りた釣針(鈎)をなくして探しに行く話は“釣針喪失譚”と呼ばれ、インドネシアのチモール島、ケイ島、メラネシアのソロモン諸島、あるいはミクロネシアのパラウ諸島など南太平洋に連綿として見いだせる。兄弟間、あるいは父・息子間で、立場の下の人間が立場の上の人間から借りた鈎をなくしてしまうことが多い。

 さらに山に住む猟師が猪や象を捕ろうとして弓矢や銛がなくなり、それを探しに行くという海幸・山幸の山間バージョンも数多く知られている。

 かつて日本軍がラバウル基地をおいたメラネシアのニューブリテン島では逃げた鳩を追って見知らぬ島にたどり着いた男の話がある。上陸した男は人が来たのであわてて木に登って隠れると、彼の顔が下の泉に映っていたので、水くみに来た娘に知られてしまう。これは山幸彦と豊玉姫(あるいは侍女)との出会いを彷彿とさせる。

 これらの話には釣針や弓矢といった道具が登場する。このような道具は、大型動物の捕獲に用いるいることが多い。そして人々は大型魚や熊、象などの動物を神の使いとして捉えていたことが明らかである。つまり釣針や弓矢のような遠隔操作具あるいは飛び道具は、人間の領域と神の住む異境を橋渡しをする手段となっているものと思われる。

 このような広義の“釣針喪失譚”は日本列島を挟むようにして南は東南アジア大陸、インドネシアや南太平洋、北はシベリア東端から北アメリカや南米アマゾン地方と環太平洋的な分布をしている。これはちょうど“モンゴロイド”の分布と重なる。モンゴロイドとはアジア大陸に起源を持つ人々で日本人のように黒い目と髪、蒙古斑などに特徴づけられる。彼らは氷河期、海面低下によって陸続きになったベーリング海を渡り、アメリカ・インディアンや中南米のインディオの祖先となった。あのマヤ文明やインカ帝国を築いたのもモンゴロイドである。われわれがフォルクローレを奏でるアンデスのインディオの姿に何か郷愁を感じるのは当然なのである。同じように相撲の小錦や曙などのポリネシア人も同じくモンゴロイド、つまりわれわれ日本人の同胞なのである。

 つまり、われわれの祖先のモンゴロイドたちは、釣針喪失譚を語り継ぎながら前人未踏の土地、すなわち南太平洋へと船出し、また極寒のベーリングの陸橋を歩み、新大陸に渡ったのである。

 基本的にはモンゴロイドの移動方向は西から東、すなわち陽の昇る方向への歩みであった。それは希望の土地を求める冒険、あるいは逆に祖先の国への回帰であったとも言われる。釣針喪失譚が漁労具や狩猟具を媒介とする異境への旅を意味するなら、魚や獣を追って南の海や北の大陸に進出した古代モンゴロイドの思想が結晶したものこそ釣針喪失譚であったといえないだろうか。

[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 06時13分43秒 ) パスワード

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第3話 鰐に乗る話

 海幸・山幸神話において次に取りあげるのは、鰐鮫に乗ってこの世と海底世界を行き来するモチーフである。これ以外にも日本の古代神話では因幡の白兎の説話や『出雲風土記』『肥前風土記』などに鰐(和邇)が登場する。中国の揚子江流域には淡水性の鰐がおり、また東南アジアのマレー鰐もかつては中国南部海岸にまで棲息していた可能性がある。鰐の分布が日本にまで及んでいたかどうかは疑問だが、中国から鰐の知識が日本に持ち込まれ、鮫のイメージと融合して定着した可能性が強い。

 鰐のような大きな水棲動物の背に乗って海上を移動する話は連綿として見つかる。たとえば『宇治拾遺物語』の中には、遣唐使で中国に行った男が現地妻を作り息子をもうける話がある。男は日本に帰った。夫の帰りを待ちわびた妻は自分を捨てた男への腹いせに、夫の名前を書いた札を息子の首につけ、息子を海に投げ入れてしまう。だが息子は大魚の背中に乗って海を越えて難波の浜にたどり着き、父と巡り会う。魚に助けられたのでその子は魚養(うおかひ)と名づけられるのである。

 海上で遭難したところを鰐鮫に助けられる話は滝沢馬琴の小説『椿説弓張月』にも見られるが、日本の南島には巨魚の背中に乗って助かったという話が多い。たとえば宮古島や八重山の黒島、竹富島などには遭難して漂流しているとき、あるいは無人島に漂着したとき鮫に助けられ、その背に乗って故郷に戻ったとする話が多い。そのような人々は以後、鮫を神として祭り、その肉を食べるのをタブーとするのである。

 このように鰐や鮫のような“巨魚”の役割は、人間を救助し運ぶだけでなく、人間界と海底あるいは海彼世界をつなぐ存在にもなるのである。それは多かれ少なかれ、浦島説話に登場する亀とも役割を重ねるものだ。しかし鰐・鮫類と亀の違う点は、前者が人間を襲うという性格と人間を救うという相反する性格をもつ点である。

 鰐は凶暴なイメージとは裏腹に、四つ足で歩き、集団で生活する高等な社会的動物である。子鰐は母鰐ないし両親から保護されていることが多い。このような特徴が人間に近いイメージを鰐に与えるのである。だからマレー・インドネシア世界では鰐は祖先が変身したものであると信じられ、鰐を見たら「お爺さん」と呼びかける習慣がある。鰐のいないポリネシアに行くと、鰐の役割を鮫が果たすようになる。日本の南島の事例もこれに近いであろう。

 マレー半島沿岸には次のような、神聖な白い鰐の伝承が点々と見られる。 

 老人と若者が漁に出た。経験の深い老人は空模様を見て嵐の到来を察知したが、若者は老人の警告を無視して漁を続けた。やがて嵐がおこり、若者が海に落ちて網に絡まれた。老人は助けようとしたが船が転覆してしまった。すると荒海の中を白い鰐が泳いで来て、二人を背に乗せて島に送り届けた。そこはシンガポールの南に浮かぶリアウ諸島の島だった。老人はその島で作物の作り方を人々に教えた。白い鰐の話をする彼の回りにはいつも人だかりができた。

 やがて島の土地を買いによそ者が来たが、老人はそれを拒んだ。よそ者たちは夜に老人を捉えて縛り、湿地に体をすてた。しかし湿地には鰐が住んでおり、老人を助け、よその者たちを食い殺した。これ以後、鰐は肉食になった。老人は息を吹き返したが、再び鰐のいる水に潜り、次に地上に戻ると老人はすっかり鰐の姿になっていた。その後、王が橋を掛けようとしたが、工事は何度も失敗した。それで湿地にダムを作り、水をかい出したところ、水の底に巨大な白い鰐がいた。王は鰐に橋を掛けるので協力してくれるようにお願いした。鰐は王の申し出を受け、海に去った。そして鰐は南海の神になった。

 日本神話で山幸彦に覇者となる力を授けるのが海神であり、その娘豊玉姫は鰐鮫の姿で出産した。山幸彦と豊玉姫の孫が神武天皇であるから、日本の天皇家には鰐の血が流れている。それは海の覇者たる海人族の血ともいえるだろう。

[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 06時14分42秒 ) パスワード

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第4話 海神の血脈

 前号では、日本の天皇家には豊玉姫を通して海神の血が受け継がれていることを指摘した。おそらくそれは、大陸や南方から様々な文化を取り入れながら作られた日本の古代王権の中で、水運や漁業に携わる海人族が重要な役割を果たしていたことの反映であろう。

 日本や中国の神話における海神は、古事記の豊玉姫のように鰐、あるいは蛇や龍のような姿をしているのが普通である。そしてそのような動物と人間との結婚は異類婚と呼ばれる。東南アジアの王権起源の神話には、この異類婚が多く、面白いことにその場合、たいてい人間の男が動物の女と結婚して息子をつくり、その子が新たな王国を作るというストーリーが一般的である点だ。

 東南アジアにはインド文明の影響を受けてナーガという龍神が知られている。東南アジア大陸部の王権始祖神話は大部分このナーガと関係する。たとえばベトナムの『大越史記全書』によると、中国の皇帝と、洞庭湖の龍女の子供として貉龍君が生まれた。そして彼と結婚したのが嫗姫である。二人の間には百個の卵が生まれた。しかしやがて二人は仲が悪くなり、嫗姫は、貉龍君は水の性格で自分は火の性格だから別れることにしようと言った。そのとき子供のうち五〇人が父、残り五〇人が母について行った。水を代表する父についていった子供の長男の雄王がベトナムの始祖となった。

 ラオスの建国神話では帝釈天(インドラ天)の孫クンボロムが天からメコン川に降りてきた。しかし川にはあちこちにナーガ龍がいて暴れていたが、隠者が龍を説得して龍たちはクンボルムを迎えたのである。もっと古い扶南の話だとインドから征服してきた王が土着の女王を娶って国を開いた。この女王はナーギ、つまり雌の龍なのである。カンボジアでは王が毎夜、王国の繁栄のためにナーギと交わるとされている。

 様々な動物がうごめく異界としての水底こには水の百獣の王がいる。どのような動物が王者として考えられるかは土地によって違う。北海道アイヌや東北地方ではサケが水界の王で、サケのオオスケ伝承が伝わる。第二話では、釣針や弓矢などが動物に刺さってなくなり、それを探しに行って動物界に至り、そこの長老や娘などに刺さって苦しんでいるのをとってやって感謝される、という釣針喪失譚の広い分布について述べた。インドのチモール島では、釣針のささった水界の王者が鰐とされ、そこでは鰐が人間の皮をかぶって人間のような生活をしているのだ。

 マレー人の間に伝わる歴史書『スジャラ・マラユ』にはすでに擬人化された海神が登場する。アレキサンダー大王の息子のスラン王は、インドから中国討伐のために海を東に進んでいた。王は、ある時、夢で海中に潜って美女と会う夢を見た。そこで彼は職人に大きなガラスの球を作らせ、その球に入って海底に降りると、美しい女性のいる町があった。王は海底の町で楽しい時を過ごした。瞬く間に一二年が過ぎ、三人の息子ができていた。しかし王はしだいに地上が懐かしくなった。王は妻に息子を連れて地上に戻りたいと言った。妻は息子たちを失うのに忍びなく、義父の海神は、子供たちはここで育て、十分成長したら地上に送り届けよう、と言った。王は海神に王権のシンボル、銀の槍、金の刀そして王冠を預け、息子が海神宮を離れるときこれを持たせて欲しいと頼んだ。スラン王が再び水面に戻ると、船の上では部下たちが待っていた。王はこの間一二分しか経っていないと聞いて驚いた。やがて成長した三人兄弟は父を求めて地上にやってきた。そして色々な冒険の末、末っ子が後を継ぎ、さらにその子供が王位をついだ。かれはやがてマラッカ海峡周辺を支配するミナンカバウ王国を造るのだ。

 上の話とはまったく逆に、日本の浦島物語では、異界での時間の進みがが現世よりも遅かった。いずれにせよ異界では現世とは時間の流れかたが違うのだ。これを民話学の方では「民話における異常な時間の経過」モチーフと呼ぶ。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 06時15分31秒 ) パスワード

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第5話 水と陸との戦い

 海幸・山幸神話の結末は、海神から得た珠の威力で、山幸が洪水を起こし、兄の海幸を屈服させて自らが支配者になるというものであった。この神話は海と山を代表する神が役割を交代させて争うという複雑な形になっているが、水と陸との戦いを象徴するものだ。

 日本のみならず世界の古代文明において、もっとも重要な問題は水の制御であった。四大文明圏においては川を征する者が国を制した。乾燥地では水を引き、湿地では水を排水する治水技術が文明と農耕を支える根幹であった。

 東アジアから南太平洋の洪水神話を分析したヴァルクという学者によると、ひとつの形態として宇宙闘争型というものが見いだせる。それは、神々や動物が争った結果洪水が起こるというものだ。争うのは天界の神や動物と、地界・水界の神や動物である。

 ベトナムでは山の神と水の神が美しい王女を娶るために争う話がある。その際、結納を届けるのに遅れた水神は、山神が獲得した王女を我がものにするため洪水を起こし、攻撃をする。しかし結局、水神は敗れ、その恨みを晴らすために毎年洪水を起こすというのだ。洪水に悩まされる東南アジアならでわの話である。

 またアンコール・ワット文明を生み出したカンボジアには鳥と鰐や蟹が喧嘩をして洪水が起こるとする話がある。ある時、鳶が蟹を馬鹿にして嘴で甲羅に穴を開けた。それが今でも見られる蟹の模様の起源である。怒った蟹は雲の中に隠れている鳶を殺すために、天まで届くほど海を上昇させた。

 これは宇宙闘争型洪水説話の典型であるが、同様の事例は東南アジア内陸部に広く見られる。これらの神話では、鳥は乾いた世界と天上界を象徴し、鰐、蟹、蛇などは湿った世界、地下界、あるいは水界を象徴する。そして毎年起こる洪水は天上界と地下界・水界との闘争なのである。

 一方、中国南部の内陸に住む少数民族の間では天に属する雷神と地神、あるいは人間の争いという形が多い。ここでは、洪水が起こったとき、近親者がカボチャの船に乗って助かるというのが特徴として上げられる。たとえば中国南西部のヤオ族の間では次のようである。天から降りて来た雷神を男が鎌で傷つけてしまう。男は雷神を三日三晩、火の上で料理していたが、雷神は男の母に洪水の到来を予告する。母は雷神を逃がし、神は救ってくれたお礼にカボチャの種を母に残した。洪水が起こったらそれに乗って逃げるようにと。雷神は天に戻り、男を罰するために雨を降らせた。しかし種からは巨大なカボチャができ、それに乗って男と妹は逃げた。水かさが増して天まで届いたので、男は雷神のいる天に昇ろうとしたが、神は天の帳を閉じて拒絶した。二人の乗ったカボチャは山の頂に流れ着き、兄妹は人類の始祖になる。このような神話には治水に基礎を置いた古代文明の性格がよく現れていると言えよう。洪水から助かった兄妹が人類の始祖となるモチーフは、次号のテーマである。

 また東南アジア島嶼部やポリネシアには、太古の昔、天と地が接近しすぎていたため地上は闇に覆われ、人間の住む空間がなかったとする神話がある。あるきっかけで天と地が引き離なされると、光が射して今のような世の中になったというのである。

 このような話では天が男神、地が女神であり、天地が接近しているというのは男女の交合状態を表していると言われる。その結果として人間や動植物が生まれたのだが、今でも天と地は年に一度交合を行い、生命を復活させると信じられている。この種の神話は特に、雨季と乾季がはっきりしているインドネシア東部に多い。雨季のはじめ、乾いた大地に降り注ぐ恵みの雨は、かつて抱擁していた女神の上に注ぐ、男神の涙あるいは精液である。

 日本の八又の大蛇退治は、荒れ狂う川の反乱を制御したことを象徴すると言われる。このようにアジア各地に見られる陸と水、あるいは天と地の争いや抱擁は、大自然の営みに対する人々の恐れや畏敬の念を表すのである。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 06時16分32秒 ) パスワード

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第6話 孤島に降り立つ兄妹始祖

 前話でのべた宇宙闘争型の洪水神話とは別に、洪水に関連する兄妹始祖神話というものが中国南部から東南アジアにかけて見られる。それは原初の海あるいは大洪水の後で唯一存在していた島に兄妹が到来して交わり、人間の始祖となったという話である。このモチーフはわが南島から古代日本にも及んでいたことがわかっている。

 日本神話の冒頭、すなわち天地(あめつち)の初めの時、国土がまだ若くて固まらず、水に浮いている油のような状態であった。このとき最初の神々、天つ神が出現し、しんがりに兄妹神、イザナキとイザナミが現れた。二人に対し神は「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」と命じた。

 そこで兄妹は、この原初の海を矛の先でかき混ぜた。そのとき、したたり落ちた滴が固まってオノゴロ島ができたので、二神はその島に降り立った。二人は天地を支える柱と立派な御殿を建てた。そして二人はそれぞれ、男神の体には有り余る部分、女神の体には足りない部分があることに気がついた。二人は柱の回りを逆方向に回って出会い、互いに惚れあったので、まぐあい(性交)を行った。そうして女神は出産するのだが、最初の子供は不具の子供、蛭子(ひるこ)であったので水に流した。それは禁を犯して女神の方から男神に声をかけたからだった。しかし改めて柱を回った後、男神から女神に声をかけたので次の出産は成功し、女神は日本列島の島々、そして神々を生んでいった。

 さて奄美から沖縄にかけて島々の創世神話、「島建て」にはこのイザナキ・イザナミの神話を想起させるものがたくさんある。

 たとえば与論島では昔、人間と猿がいたが喧嘩ばかりしているので神が怒って洪水を起こす話がある。世界中が水浸しになったが、やがて遠くから兄妹二人だけの神が船に乗って島にやってきた。二人は海岸で千鳥が戯れているのを見て男女の営みを知り、自ら交合して子孫を作って行くのである。

 石垣島では島の最初、裸体で現れた男女がジュゴンの交尾を見て夫婦になる話がある。その後二人は恥を知り、クバの葉で陰部を隠すようになる。彼らの子孫が沖縄の島民である。同じく石垣島には最初の男女が現れた後、大雨で大洪水になった。水が引くと木の穴に隠れていた二人は現れ、神のお告げに従って井戸の回りを逆に回り、再び出会って結婚する、という話もある。

 竹富島では最初に現れた裸体の男女が成長したとき、天神が女神の足りない所と男神の余る所をあわせてみるように命じる。二人は神の仰せのとおり腰をあわせて池の回りを回り、愛し合うことを覚えるのである。

 このように洪水の後で現れた神や兄妹、あるいは天や海の彼方から到来した神ないし先祖によって新しい世界が始まるとするモチーフは、南島世界の島建てには一般的である。

 何らかの理由で起こった洪水のために人間が死滅し、生き残った兄妹あるいは母子が近親相姦を行って子孫を作り、新たな人類の始祖となる。そしてこの近親婚はしばしば最初は生み損ないの子供をもたらすのである。兄妹は原初の海に突き出た岩に降臨するパタン場合と、洪水から船などに乗って避難し、ある島に到来する話の二つに大別される。すでに前話ではカボチャに乗って洪水から逃れる話のことを述べたが、それ以外に椰子の実、ヒョウタン、臼、太鼓など様々な「ノアの箱船」が見いだせる。

 これら兄妹始祖神話は原初の海に浮かぶ島に降り立つわけで、それは海からの創世を示している。さらに、禁を犯して近親者が交わったために最初の人間が生まれる、という「最初で最後」であるべきタブー破りを表現したものである。

 南島以南には兄妹が船に乗って到来した形が多いのは、実際に海を渡ってきた人々の歴史意識が残っているためではないか。何も見えない大海原に点のような島影を発見したときの感動、それは原初の海に浮かぶ島に降臨する神々の姿と重ね合わさっても不思議はない。それは次回述べる島釣りの思想にもつながる。




第7話 島釣り神話

 私の調査地のひとつは、ソロモン群島のガダルカナル島北東に浮かぶマライタ島である。この島の西岸に広がるラグーンにはランガランガの民が住んでいる。今でも結納や交換活動に必要な貝貨を作って暮す彼らは、誇りをこめて自らを海の民と呼び、同じ島内陸に住む山の民と区別をする。

 かつてランガランガの民の多くは、浅い珊瑚礁に石を積み上げて作った人工島に住んでいた。そして飲み水をとったり、畑を耕したり、物々交換の市場に出たりすために、わざわざ本島までカヌーを漕いでいった。彼らはなぜ不便な、小さな人工の島に住んでいたのだろうか?ひとつの説はこの地に蔓延するマラリア蚊からの予防である。マラリアは過去の病気と思っている人もいるだろうが、マラリア蚊は、今では薬に耐性をもち、現代も世界でもっとも死者の多い風土病とされる。私自身、予防薬を飲んでいたにもかかわらず現地でこの病にかかり、日本で再発して苦しんだ経験がある。その蚊が飛べる距離には限りがあるので、沖合いの人工島で生活すればこの病を予防できるというわけだ。

 人工島をつくるもうひとつの理由は敵からの防御である。約百年ほど前に白人がくるまで、海の民ランガランガ部族は、周辺の山の民と争っていた。人工島に住んでいれば、カヌーに乗って攻めてくる敵の到来を察知しやすく、不意打ちを防げるというわけである。

 さらにもうひとつの説明はもっと興味深い。それは、人工島とは彼らの創世神話の再現であるという説だ。南太平洋には、釣りをしたとき釣針が珊瑚にひっかかり、それを引き上げたところ海底が浮上して島になった、という話が広がる。たとえばソロモン南東部にあるアトゥア島には次のような話がある。二人の兄弟がいた。彼らは精霊が踊ることのできる場所を探しすため、船出した。色々な所で聞き耳をたて、とうとう精霊が海底で歌い踊っているの場所を見つけた。兄は弟に海に潜って海底の何でもいいからロープをしっかりと結びつけてこいと言った。弟は海底で巨大な木を見つけて、大きな根に結びつけた。彼はロープを引いて兄に合図した。兄がロープを引くと海が波を荒立て沸騰した。そして波間から島が出現した。木が生えていた所は島でもっとも高い所で、今も精霊の踊る神聖な場所となっている。

 もっとも有名な島釣り神話はハワイにある。かつてマウイ神が兄たちと釣りに出たときのことだ。兄は末っ子のマウイを馬鹿にしていたが、彼の釣針には大魚がかかった。マウイは兄たちにまっすぐ岸まで獲物を曳航するように言ったが、兄たちは振り返ってしまう。すると魚の体は分断されて、ハワイの島々になった。そしてこの創世神話にちなんで、後世、ハワイの王が儀礼で使う釣針をマウイの釣針と呼ぶ。第二話で釣針の象徴的な意味を考えたが、南太平洋では釣針は島の創世を行う道具としても描かれているのだ。

 島釣りでなくても、南太平洋のメラネシアには原初の海で泳ぐ蛇神が、海底を浮上させて島になった。あるいは創世神の亀がせっせと砂を珊瑚礁に積んで島になったという話がある。私の行っている村では、働き者だった村長の祖父が毎日珊瑚石をカヌーで運んで築いたと語りつぐ。彼らにとって人工島を造り、そこに住むということ自体が、創世神話を再現する行為、あるいは祖先に感謝し、海の民としての誇りを確認する意味があったのだ。

 これら南太平洋の島々は火山活動と珊瑚礁の活動でできた。海底が盛り上がって島ができるという思想はこの自然の摂理を素朴に表現したものであろう。南太平洋の島々を生み出した火山脈の彼方には、日本列島がある。前回紹介した、イザナキ・イザナミの神話では、矛を海に下ろしてかき混ぜ、そのとき滴ったしずくから日本列島が生れた。矛で海水をかき混ぜるしぐさは古代の製塩法を表しているか、あるいは、矛は魚叉のような漁具であった可能性もあり、釣針そのものは登場しないが、このモチーフは南太平洋の島釣り神話につながるのである。


第8話 海霊(よなたま)の系譜

 日本列島の最南端、八重山を尋ねると、方々に津波石がみつかる。それは明和年間にこの付近で起こった大津波に由来する。当時は琉球王朝の尚穆王(ほうぼくおう)の頃で、津波の被害の惨憺たるありさまが文献に記録されている。それに伴って津波の説話が語られている。

 石垣島では若者たちが海岸で、美しい女の声が聞こえてくるのを聞いた。不思議に思い、三人の若者が翌朝船を出して声の主を確かめることになった。網を掛けると、大きな人魚(ザン)がかかった。思わぬ獲物に喜んだが、人魚が泣き始めたのでかわいそうに思い逃がしてやった。人魚は嬉しそうに泳ぎながら言った「助けてくれたお礼に教えてあげます。今海が大変怒っています。程なく大津波があります。だから早く帰って山に逃げなさい」と。三人は村の人にこれを話し山に逃げた。しかし白保の人は誰も信じず、やがて起こった津波に呑まれてしまった。話を信じて逃げていた野底村の人々は村の復興を行った。三人は以後、親切を教訓にして暮らした。

 このような説話は民俗学者・や柳田國男が論考「物言う魚」の中で海霊型と呼んだ説話に含まれる。それは次のような話から由来する。昔、宮古群島の伊良部島の漁師が漁に出て、ヨナタマという魚を釣る。この魚は人面魚体であり物を言う魚だった。漁師はこのような珍しい魚ならば明日賞味しようと思い、炭をおこしてあぶりこにのせて乾かしはじめた。その夜寝静まると隣の家の子供が泣き叫び伊良部村へ行こうと言う。母は心配しそれを抱いて行くと海の方から「ヨナタマ、ヨナタマ、どうして遅く帰る」と聞こえてきた。すると隣家で網の上であぶられていた魚が「今われはまさに炭の上で焼かれること半夜に及ぶ。早く(=潮)をやって迎えてくれ」と答えた。これを聞いて母子は恐ろしくなって逃げ帰ると、果たして津波で村は流された後だった。 

 この中でヨナタマとは海を表す古語ヨナと関係し、ヨナタマとは海霊であろうと柳田は推測している。宮古地方では海に漁に行くことを「よなうり(ヨナ下り)」と言い、それに関連して「よな下り道」や「よな下り川」といった言葉があるそうだ。すなわち海霊は海神思想の原型で、一方で食おうとした侵犯者を懲罰すると同時に、他方敬虔であり、従順である者には多大なる福徳を与えるという意味があると指摘している。

 第五話と第六話では東南アジア・南太平洋方面の洪水説話について紹介した。実はこの海霊型も沖縄から南方に色濃く見られる洪水説話の一形態なのだ(後藤 明『物言う魚たち』、小学館、近刊)。たとえばインドネシアのセラム島には次のような話がある。

 二人の姉妹が蟹を捕らえに川に行ったとき、岩の所で鰻を見つけた。「鰻がいる。あれを捕まえよう」と一人が言った。すると鰻は彼らの言った言葉を繰り返した。彼らは鰻を自らひきずり出し、捕まえ殺した。しかし鰻は重すぎて、家に持って帰ることができなかった。人々は村に戻って、助っ人を頼んだ。彼らは木を切り、それにつけてようやく鰻を担いで村まで運んだ。そし帰ると鰻を切り刻んだ。しかし鰻の肉は十分なかったので人々は文句を言った。鰻は彼らの言った言葉を皆繰り返した。夜になると川の水かさが増して、村は呑み込まれてしまった。鰻を食べた家族は流されて溺れ、食べなかった家族だけが助かった。

 一連の類話の特徴は、(一)人魚ないし物を言う魚を捕らえるが、それが人間の言葉を話し、助けてくれるように言ったので不憫に思って助ける、あるいは災害が起こることを警告したので恐ろしくなって逃がす。その結果、(二)津波や洪水のような災難から逃れることができる。さらに(三)助かった者は村の草分けになったり、その体験を以後教訓とする、この三点である。南方では「物言う魚」は鰻、蛇あるいは鰐である場合がほとんどである。鰐について第三話で述べたように、これらは共通に水の主あるいは水霊として信仰を集める。このような原初的な思考から海神・水神の思想が生れるのである。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 06時17分34秒 ) パスワード

続き


第9話 地軸を支える鰻

 先日、台湾で大地震が起こったのは記憶に新しい。日本列島から南太平洋へ連なる火山脈の上では

、鰻や大蛇が大地を支え、その動きによって地震が起こると信じる民族が多い。この南に伸びる火山脈に沿って、大地を支える鰻や蛇の観念が存在するのだ。

いうまでもなく、日本では、鯰と地震との関係が有名である。日本の民間信仰では、鹿島大明神が要石で鯰を押さえつけている間は地震が起こらないが、何かのきっかけでタガがゆるむと鯰が暴れて地震になると言われている。しかし日本の鯰絵を研究したC.アウエハントは、もともと原初の海に泳ぐ龍蛇が大地を取り巻き押さえているという信仰が原型にあると言う。

 薩南諸島の種子島では次のように伝えられる。とても長い「なえ」という魚がいて、世界を取りまいている。なえは自分の口でくわえるくらい長い体を持ち、それで地球を締めつけている。しかしときどきなえは自分の尾を離す。するとタガが緩まって、地面の弱いところが割れたり、山が崩れたりして地震が起こる。

 伝承ではなえの頭は京都の下にあり、その中心に京塚がある。普段はこの京塚の重みでなえが押さえられており、尾を離すとその重みですぐまた尾をくわえる。だから人々は地震が起こったら「きょうづか、きょうづか」と唱えるのだ。地震が起こったとき「きょうづか、きょうづか」あるいは「つかつか、つかつか」と唱えるのは沖縄本島や八重山にも見られる風習だ。

 八重山の石垣島でも、ナイ(地震)の原因は、地底に住む大蟹が悪さをして鰻を挟むと、鰻が苦しんであばれるためであると語り継がれていた。

 民俗学者・谷川健一によると、宮古群島では、をヨナイタマとも呼ぶが、その言葉に含まれる“ナイ"が地震のようにものが揺れることを指すという。そして津波はヨナナイと言われるが、前章で述べたヨナタマには地震によって津波が起こるという意味が含まれているようだ。洪水を起こす鰻と地震を起こす鰻が元はひとつであることが理解できよう。

 仏教思想の影響をうけているが、東南アジア・大陸部のラオ族は、この世の中心にある山、須弥山はプラ・アヌンと呼ばれる魚によって支えられていると信じていた。この魚は山を取り巻いていると表現されるので鰻のような魚であったろう。魚が眠っている間は静かだが魚が動くと地震が起こる。 

フィリピンのミンダナオ島に住むバゴボ族には大地を支える鰻の伝承がある。この伝承では、天地や海が創造された後、最初の人間は、大鰻と蟹を創った。蟹がときどき鰻を噛むと、鰻が大暴れをして、大地が揺らいで地震が起こる。

 ヒンズー文化の影響を受けているが、インドネシアのジャワやスマトラ島でも大地を支える蛇の思想が一般的である。蛇は口で尻尾をくわえるほど巨大である。しかし時々蛇が身動きすると地震が起こる。ボルネオ南部のオロ・ンガジュ族も蛇神ナーガが大地を支えていると信じている。蛇がだらけて寝返りを打つと地震が起こる。

北部ソロモン諸島のブーゲンビル島では大地の底に蛇が住み、それらが交尾するときの動きで地震が起こると信じられていた。大地を支える蛇の観念は、フィジーにも見られる。

さらに大地を支える、あるいはそれと関連すると思われる、天をもちあげた蛇や鰻の説話はポリネシアやミクロネシア各地にも見出せる。またポリネシアのマルケサス諸島では島が大鮫の背に乗っているという神話がある。創世の神タンガロアの息子が逃がしてしまった小魚のカワハギが島の守り神である鮫の頭を囓ってしまった。鮫はそれで目覚め、尾鰭を一振りした。すると島を支えていた細い岩が壊れ、島はひっくり返り、海底に沈んでしまった。人々は皆溺れ死んだ。この話を一九世紀末に紹介したF.クリスチャンは、日本列島が鯰の背に乗っているという伝承と類似していると述べ、鹿島の要石信仰との類似を指摘している。




第10話 大蛇の腹には宝が宿る

 大蛇のいない所にも人食い蛇の話が見つかる。そのひとつ沖縄の津堅島にある七頭鰻の話を見よう。

 海に住む大鰻が毎年、陸に上がり人を一人食うまで暴れるの困っていた。そこでクジで当たった者を犠牲にしようと言うことになったが、若い娘が当たってしまう。家族が困っていると武人が通りかかり、作戦を授ける。鰻が好きな酒を瓶に入れて道に置き、その上に櫓を建てておとりの娘を立たせたのだ。鰻が瓶に頭をつっこんで酒を飲んでいるときに、太刀で斬りつけて鰻を殺したのである。

 島ではこの説話に関連して旧暦一一月一四日にマータンコーと呼ばれる儀礼を行う。女の絵を掲げて酒樽に映し、酒を飲ませて蛇を殺す儀礼である。普通二人の男性が長者として選ばれる。長者は名誉をうけ、祭りでは上座に座る。マータンコーの祭りは大蛇を退治する祭りであると共に、蛇を退治する長者が新たに誕生することを祝う儀礼なのだ。そしてこの儀礼は蛇の姿をした神海の彼方の豊穣の国、ニライカナイからを迎える意味を持つ。

 ところで、遠く離れたニューギニア北岸にも類似した話がある。  大蛇が村に来たとき、畑仕事をしていて逃げ遅れた女がいた。彼女は身ごもっていた。蟹が彼女を見つけて同情し、自分の巣で暮らすようにと言った。やがて彼女は二人の息子を生んだ。息子たちは成長して、蛇を殺しに出る決心をした。彼らは小屋と大きな炉を作り、竹の筒を用意した。炉から上がる煙を見て、大蛇が寄ってきた。息子たちが椰子酒を勧めると、卑しい大蛇は、大口を開けて酒を飲もうとした。息子たちは、竹筒の酒を口に注いだが、蛇が口を締める前に、焼けた石を入れた。大蛇は焼けた石を呑み込んで、のたうち回り、死んでしまった。彼らの勝利を聞いて、避難していた人々は戻ってきた。今の「勇者の儀式」の時には、子孫たちはこの出来事を思い出すのである。

 異伝では、洪水から逃れるため蟹の穴に隠れる話があるので、大蛇に襲われることは洪水に襲われることと同じ意味があったといえる。蛇や鰻の動きは川の蛇行を想起させ、また水霊であるが故に水そのものと同化している。日本の八俣の大蛇退治にも川の流れを制御するという治水の意味があったと言われているのも同様だ。

 さて、この話は沖縄の説話を思い出させる。大鰻をおびき寄せるために櫓や小屋を建て、酒を飲ませる部分がである。説話が儀礼の起源となっている点も両地域に共通だ。また沖縄で鰻・蛇を退治するために櫓を組むのと同様、三階建ての家を造る次のような事例もある。この場合息子たちは三階建ての家を作り、それぞれの階に炉を作り、炉のわきには餌の魚、そして焼けた石と熱湯を置く。やがて龍が魚の臭いを嗅いでやってきて、一階に登り、魚を食べようとしたとき焼け石と熱湯を呑み込んでしまう。龍はさらに登り、同じ事を繰り返すが、そのすきに息子は槍で龍にとどめを刺す。龍は死ぬ間際に「俺は死ぬが四日後に俺の死体を見ろ」と言い残す。母と息子が死体を見に行くと、死体から煙が上がっていたが、そこからは戸棚、皿、貝輪、布、など色々な財宝が生まれていた。 

 この話では、死んだ龍の体から財宝が出てくる。人々に財宝をもたらしたという意味ではこの龍は一方的に悪者ではない。むしろ沖縄におけるニライカナイから富を運んで来る蛇形の来訪神と同じである。人食い大蛇は恐ろしいと同時に、腹に宝の山を宿す両義的存在なのである。 

 流れる川の象徴である蛇の襲撃は川の氾濫や洪水を意味する。また鰻や蛇あるいは鰐が多く棲息するのは湿地帯、マングローブである。マングローブの植物は利用価値が高く、人々にとってマングローブは恵みを与えてくれる“宝の山”なのだ。そしてマングローブで育まれた生命は成長して外海に出て、やがて潮に乗って人間に多大な幸をもたらす。腹に宝を宿す龍蛇は、大地を覆う水が人間に豊穣もたらすという思想を表すのでえある。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 06時17分55秒 ) パスワード

第11話 異常な誕生

 山形県と秋田県の県境にある鳥海山の始祖伝承は次のような卵生神話である。昔、巨大な鳥が卵を抱いてこの山に飛来した。卵から菩薩や親王が生まれて始祖になった。また南島・宮古諸島にも卵生神話がある。多良間島では次のようである。津波がやってきて人々が全滅してしまった。天の神が卵を七個持ってきて鳥のようにそれを抱いて孵化しようとした。しかしなかなか孵らず卵は腐ってしまった。再び七個の卵を持ってきて別の所で抱いていると、男女七名が孵化した。そこでその七名の伴侶を天からさらに降ろして夫婦にさせた。

 鳥海山のようにその卵が鳥の卵である事例は、フィリピン、インドネシア、さらにメラネシアに顕著である。しかしそのような卵生神話には、鳥だけでなく、水界の生物、つまり蛇や鰐をモデルにした話も多い。台湾・高山族の間にある卵生神話は次のようだ。

 昔、一本の竹があった。中に水がたまっていたが、その竹を割ってみると、中から四個の卵が転げ落ちてきた。五、六日たつとその中から蛇の形をした男女が現れた。二人は交合を知らなかった。ところが男の男根が何となく勃起してきたので、彼が放尿しようとすると、女がここに出せと言って股間を示した。その通りしてみると、二人は快楽を覚え、毎日同じ行為をした。やがて二人には子供ができた。 

 またビルマの建国神話で女のナーガ蛇がやってきて太陽神の王子と関係を持った。やがてナーガは妊娠し、金と黒と白の卵を生んだ。やがてその卵は嵐で流され、孵化した卵から王子が生まれた。

 さらにインドネシア・モルッカ諸島北部のテルナテ王国の起源神話には次のような物語がある。

 昔、王はいなかった。ある時、長老がカヌーで船出した。彼は海の岩の近くに綺麗な籐が生えているのを見つけた。彼が近くに行き、手下に籐を切らせた。すると切り口から血が噴き出したので、びっくりして飛び退いた。彼らは近くの岩にナーガ蛇の卵が四つあるのに気がついた。彼が卵に近づくと、声がした。卵は偉大な者たちが生まれるのでもって帰るようにと言うのだ。彼は感銘をうけ篭にいれて卵を持って帰った。やがて卵が孵化して三人の男と一人の女が生まれた。彼らがテルナテなど王国の始祖になった。

 この物語では籐の間に置かれていた卵から王の祖先が誕生する。籐は椰子科の植物だが形態としては竹を想起させる。したがってこの話は、台湾の話や竹取物語に見る日本の竹中誕生の説話とも一脈通ずるのである。  

 民族学者・松本信広は竹取物語の源流は中国の類話ではなく、東南アジアやオセアニアにたどれると論じた。同時にそこにはヴェジタリズム、あるいは植物トーテムの思想が基盤にあると考える。植物から誕生するという点では、日本の桃太郎のような民話も関係するだろう。また竹の象徴的重要性のひとつは、幹が中空であるために、地上と地下世界をつなぐパイプになるという点である。竹を通って地下世界あるいは冥界の霊が地上にやってくる話は多い。 

 竹中誕生が多いのは、マレーの王権神話である。マレーの起源神話では子供のない王夫妻が森の竹や筍の中から跡取りを発見する話が多い。さらに竹ではなく、ココ椰子の実の中から子供が誕生する説話も見られる。また類話を辿ると、川から流れてきた泡や卵の中から誕生する話もあり、日本の桃太郎型民話との関連も注意すべきである。つまり植物中誕生説話、卵生神話、水辺の誕生が密接に関連している。海辺や川辺では流れ来る卵ないし泡から生まれるような形が多く、山間部では狩りや伐採にでかけたとき竹の中に赤子を見いだす話になる。ちなみに中国では洗濯をしているときに流れ着いた竹の中から誕生する話もある。

 その背景には南方の多雨林や湿地の生活がある。卵生説話あるいは竹などの植物から人間が生まれる思想は、自然と人間の絆を強調することで、人間が自然支配のような思い上がった考えを持つことを戒めているのではないだろうか。  


第12話 日本古代の原風景

 本連載も最後となる今回は,

日本古代の原風景を考えてみたい。そのためには記紀神話の冒頭に注目しよう。

 『日本書紀』の最初には、天地が開けた始めには国土が浮き漂っていたと記される。その中に葦の芽のようなものが最初に生じて神になったと語られている。

 日本で本格的に水稲耕作が始まったのは弥生時代であるが、最初の稲作水田は低湿地に営まれた。稲作をもたらした人々には、年貢で苦しめられる農民のような姿を想像してはいけない。彼らは揚子江流域で活躍した海人・水人の系譜を引く人々だ。中国南部から東南アジアにかけて、低湿地や海岸部をねぐらとする人々は多い。彼らはマングローブなどの湿地近くで漁業を行いながら、各地に農耕を伝えていったのである。これが弥生人のイメージなのである。

 彼らの生活空間こそ、記紀神話冒頭で述べられている日本古代の原風景なのだ。ズブズブ・ドロドロの湿地はきわめて生産性の高い生態系である。多くの海洋生物はそこで育まれ、やがて人間に多大な富をもたらす。しばしば洪水に襲われる低湿地は、その季節のサイクルを把握すれば、豊かな農地ともなる。腹に宝を宿す大蛇の思想はそれを象徴する。

 日本や南島にもその系譜が及んでいる海霊や洪水の説話と、そこに登場する鰻、蛇、鰐などの動物。それらが活躍するのは、だいたい湿地帯、すなわち陸と水の中間地帯であった。前回で述べた「異常な誕生」も水辺に関わっていた。そしてこれらにまつわる説話は自然の恵みと、人間の不遜な行いに対する戒めが同時に描かれていた。

 このような古代の原風景は、日本人の思想の中にかなり強固に受け継がれている。谷川健一の『日本の神々』(岩波新書)によると、九州の隠れ真宗、カヤカベ教の教義では、この世の始まりは洪水に覆われた泥海のようなものだったと描かれるのである。そしてその泥海に生じた最初の光明こそ阿弥陀仏なのである。また天理教の教義でも、この世の大本は”どろうみ”であったと説くのである。

 本シリーズで見てきたように、神話に登場する多くの海神はこのように湿地帯に棲息する鰻や蛇、あるいは鰐などを原型としていた。やがて神々は波濤や珊瑚礁を越えた、遠い海の彼方からやってくるものとなった。海を越えてやってきた人々の遠い始祖の地、また常世の国から到来する神々となったのである。

 南島で広く見られる海から到来する神は、スク(塩辛状にし豆腐の上に載せて食べる魚)である。スクはアイゴの稚魚のことだが、人々はスクをネィラ(ニライ)の神の贈り物と考える。この海の神は日本人にとってもっとも大事なもの、すなわち稲をもたらす神なのだ。

 スクの到来は旧暦の五月から八月の間で、朔日の前後である。鹿児島県の徳之島では最初の到来は五月にワクサ(若草)忌み、つまり、稲が穂を孕んだ後の忌みの期間である。この時期、稲に宿った稲霊に失礼のないように水田に入って騒いだり、光り物を持ち込んだりするのを禁止する。そして六月の半ばに稲刈りの解禁の直後、珊瑚礁を真っ赤に染めてシュク(方言名)が再び到来する。これをアキヌックワ(水稲収穫の子)と呼ぶ。神女ノロがシュクを潮だまりでとり、ニライからの神を迎える。また刈り取りが終わるのが七月の半ばであるが、その直後、旧七月二八日頃、三度目のシュクの寄りがある。 

 同じように海の神が作物をもたらすという思想は南島だけでななく、日本各地の漂着神信仰やミロク船の信仰にも見られる。さらに拙著『「物言う魚」たち』(小学館)でも書いたように、南太平洋にも共通に見られる思想だ。

 徳之島郷土研究会会長の松山光秀氏によると、昨年はそのスクの到来に異変が起こったと言う。定期的なシュクの寄りがなかったのである。そして三回目、稲の収穫期になってやっと現れたのだ。島の人々はニライの神にいよいよ見放されたかと矢先だった。稲霊をもたらす時期ではなく収穫期にだけ到来した神の魚。これが海国日本を取り巻く自然への警告でないことを祈りつつ筆を置きたい。

[14]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月12日 08時52分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの情報、ありがとうございます。またひとつ賢くなれますこと感謝
申し上げます。
 本日は古文書の解読に必要な「古典かな」の勉強に行ってまいります。また、
3日後の日曜日には、海幸彦になります。

 百済も意外に大きかった、つまり大海洋国であったという本を以前扶余で見
つけました。中国にも一時領地があったみたいです。鎌足、中大兄皇太子、持
統天皇、藤原不比等・・・いずれにしても文献等でしか我々知ることができま
せんので、誰の説を信じるかですが、また、新しい考古学的発見もあり、それ
につれて説が変わって行ったりしますので、できるだけ新しい説に目を通すこ
とも必要かなと思います。
 『日本書紀は独立宣言書だった』(山科誠著)という本はある意味当たってい
るわけですが、不比等について、また中国大陸についての視点・記述が足りな
いとは思いました。

 不比等については、中臣羽鳥連との関係もありますので、引き続きのテーマ
としたいと思っておりますので、よろしくお願いします。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 09時55分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


早く自身で古文書が読めるといいですね。
そして発見があるといいですね。


以前三つ柏さんがおっしゃってた「蛇」の話は上記のコピペで(なるほど)とちょっと接近出来ました。



百済は中国大陸にも植民地があったのですか。
面白いですね。
海洋民族なら当然ですよね。
またもや新たなロマンが広がりました。


中臣羽鳥と平群真鳥の関係は何だったんでしょうね。
時代がかなり離れているけど「鳥」仲間ということで何かあるかも。



https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E4%B8%AD%E8%87%A3%E7%BE%BD%E9%B3%A5+%E5%B9%B3%E7%BE%A4%E7%9C%9F%E9%B3%A5+%E3%81%AF


大日本史卷之一百九列傳第三十六 - MIKO.ORG

從帝西征,及帝崩,奉皇后命,與中臣烏賊津等,領百僚守宮。室屋, ...
大臣平群真鳥陰圖不軌,其子鮪適得罪於太子,金村奉命誅鮪。
既而請 ..... 再遣羽鳥召之。羽島既 ...
           ↑
        何でしょうね



[PDF]『日本書紀』編纂誤認修正年表

May 25, 2013 - 倭人木出島を侵す、新羅が角干羽鳥派遣新羅本記.
                      ↑
                     新羅でも「羽鳥」っていたのかしら?

73 ...... 連とし、平群真鳥大臣を大臣とする F天皇 ...... 敗) 推古15年(欽明15年の誤)、中臣鎌子勅.


《日本書紀》 卷十六----卷二十_DieSeidenstrasse_新浪博客

Nov 9, 2008 - 大臣-平群真鳥臣專擅國政,欲王日本,陽為太子造宮,了即自居 .
觸事驕慢,都 ......
物部大連尾輿、中臣連鎌子,同奏曰:「
我國家之王天下者,恆以天地社稷百八十神,春夏秋冬,祭拜為事.方今改拜蕃神, ......
羽鳥乃依其計,而召日羅. 於是,百濟國 ...
  ↑
 これも何なんでしょうね?
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 10時13分34秒 ) パスワード

ということで検索開始。



http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dns109.htm

大日本史 卷之一百九 列傳第三十六



權中納言 從三位 源 光圀  修
男  權中納言 從三位   綱條  校
玄孫 權中納言 從三位   治保 重校



大伴室屋      子:御物宿禰、談  孫:金村  曾孫:狹手彥、磐  金村孫:咋
物部目   ← 「目」というのは忍者のスパイの「目」の意味もあるようですね。この場合はただの「目」?   
                                孫:尾輿
物部麤鹿火    あらかいですね
紀小弓       子:大磐
近江毛野
紀男麻呂
日羅
阿部比羅夫     子:宿奈麻呂
朴市秦田來津       ここに  パクさんがいるのかしら?で、秦田?
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 10時31分39秒 ) パスワード

https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%8C%E3%83%90%E3%83%8D%E3%83%89%E3%83%AA(%E7%B5%B9%E7%BE%BD%E9%B3%A5)-1158459


キヌバネドリ【キヌバネドリ(絹羽鳥) trogon】



キヌバネドリ目キヌバネドリ科Trogonidaeに属する鳥の総称。

この科は約8属34種の非常に美麗な鳥を含み,
アフリカ(3種),熱帯アジア(11種),中央・南アメリカおよび西インド諸島(20種)に分布する。
全長23〜37cm。
ただし,ケツァール(イラスト)の雄は飾羽も含めると全長1mを超えるものがある。
大部分の種は背面が金属緑色や金属青色で,胸以下の下面は赤やピンクや黄などである。

このはでな羽色は,実際にはすぐれた隠ぺい色の効果をもっていて,この科の鳥はきわめて見つけにくい。


    コスタリカだったか中南米に ケツァール っていましたね。


世界で一番美しい鳥とされていますが
そういうハナシは古代にも伝わっていたのでしょうか?
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月12日 10時39分57秒 ) パスワード

http://kemono666.seesaa.net/article/270836904.html


去年の夏あたりにこのブログをたびたびコピペしました。
どこまでマトモで、どこからフザケか分かりませんが
時々感心するような情報もあります。


[19]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月13日 13時25分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、浜北区中条の高林寺(曹洞宗)に行ってきました。高林という苗字
が浜松・浜北には結構おられるので、「たかばやしでら」なのか「こうりん
じ」なのか・・・「こうりんじ」が正確でした。ご由緒はまた調べたいとは
思いますが(過去い読んだけれどメモするのを忘れた)、立派に寺だと思いま
す。
 その墓地の中に、善地の服部の氏類と思われる「丸に三つ柏の服部」の墓
を発見いたしました。「服部」の墓に出会うのは久しぶりで、また氏類らし
い服部の墓に巡り合えたことは、喜びひとしおでありました。ただ、私の把
する氏類の情報の範囲にはありませんので、今後どの筋か調べたいと思って
おります。
 昔は強かったであろう血族、氏類の絆が、さらに少子化もあり、今は崩壊
しつつあります。もう四半世紀も経てば、せいぜい三代くらいまでの情報で、
祖先・親戚関係等薄れてしまうのではないかと危惧いたしております。
 そういった意味では、当方の服部も風前の灯かも知れません。

 さて、「ハトリ」及び「鳥(とり)」に関係するテーマで探究を続けていま
すが、昨日、書道(古典かな)の講座に参加しまして、初めて「換鵞」(かん
が)という言葉を知りました。この言葉は書道をやっている人はよくご存知
であります。

 どういう意味かと申しますと―

 「書聖として有名な王義之(おう ぎし)が、鵞鳥をたくさん飼っている道
士に出会い、老子の道徳経一巻を書く代わりに鵞鳥を一羽もらい、喜んで家
へ持って帰ったという故事です。これより、書を求めること、書道のことを
「換鵞」という。」

 中国では、鵞鳥やアヒルを古来より飼っております。特に北京料理の「北
京ダック」は特に知れ渡っています。
 それはそうとして、日本に来た渡来人の中で、「鳥飼部」という氏族がお
りました。私の住んでいる近くにも「鳥飼」さんという苗字の人が20〜30
年前までおられました。
 つまり、私は「羽鳥」には「鳥飼部」の鳥、特に彼らが飼育した水鳥=鵞鳥、アヒル等が関係していないかと勘ぐった訳であります。
 日本では一般的にはニワトリを飼うことはよく行われておりましたが、古代
ではどうだったんでしょうか。ニワトリはアマテラスに関係する聖鳥だった
ので、食べたりはしなかったのではないかと勝手ながら推測します。卵を取
ったり、食用とするにはアヒルが一番。
 そういえば、アヒルクサ文字というのがありましたね(アヒル族というのが
いた?)
 また、「鳥飼」は中臣氏の一族と言います。ここで苦しいですが、中臣羽鳥
連につなげたいのですが?!

 現在の我々の常識では想像もできないことが、古代には存在していた・・・
と思います。過去の世界へ行くには、現在の常識は振り落としてしまう必要
があるのでは・・・?!

  
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月13日 14時50分47秒 ) パスワード

三つ柏さん



高林寺の丸に三つ柏紋の服部さんのことが分かると良いですね。
実は御親戚かも、です。

その前に中条と善地の関係が分かると良いですね。
    土地鑑が分からないので中条と善地がどのぐらい近いのか遠いのか分かりません。


もう1度高林寺にいらっしゃってはいかがでしょう?
そしてご紹介頂いては?


王羲之の換鵞のお話は面白いですね。
書1巻と鵞鳥1羽が交換レートとは。
   中国人の食に対する感覚が分かりませんが
   雌鵞だったら  増やしてもいいし卵も取れるし?  王羲之は鵞鳥を手に入れてラッキー!と思ったのかも。


羽鳥は鳥飼系かも知れないのですか。
羽鳥はダウン(水鳥の胸毛の羽毛=超高価   これはフェザーのような安物ではない)かも知れないですしね。

いやあ、鳥飼は考えたことも無かったです。



>アヒル族

阿比留氏、というのが対馬国にありますね。
そして平知盛さまのお子さまが阿比留氏の後継者となり宗氏になってますね。


阿比留文字は昔っから言われてますね。
日本にも古代文字があって、その1つ、だとかとか。
朝鮮に近いから、実際に対馬には朝鮮人も入っているし、だから朝鮮文字と日本文字の折衷なんでしょうか?




本当に今は少子化ですから早くいろいろな人達と連絡を取り合っていろいろ聞いておかないと
と思います。

   それか、既に純粋日本人は絶滅方向に向かっているんでしょうかねえ?
   政策で外国人をたくさん入れることになったら
   いずれ丸に三つ柏紋の服部氏を名乗るインドシナ人とか南アジア人とかに取って替わるのかも。

   2000年後の日本人はゾロアスター教徒やヒンズー教徒になっているかも。

   過去2000年に起きたようなことが、これからの2000年に起きて
   日本人は少数民族として北方領土あたりに追い込まれているのかも。


   丸に三つ柏紋の服部氏が古文書という形で2015年に記録されている
   なんて形で伝わっているかも。


とにかく早く丸に三つ柏紋の服部氏の謎が解明できると良いですね。
せっかく高林寺で別系統の丸に三つ柏紋の服部氏が見つかったのですから。
わくわく
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月13日 15時00分55秒 ) パスワード

地図で調べたら  中条と善地  すぐ近くじゃないですか。
ということはやっぱり一族というか、かなり近い親戚みたいですね。


どっちかが宗本家ですよ。


やはり高林寺にご挨拶に行かないと!
思わぬ成果が得られそうです。
[22]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月14日 10時02分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 善地には、私の高祖父(5代前)の善太郎を祖とした氏類は、現在大本家を入
れて4軒、別に6代前以前よりの氏類は筋的には2系統3軒増えます。さらに
近隣地区へ分家し、把握している家が5軒あり、トータルで12軒までは確認
できております。大本家の位牌には32人の戒名が記されているということで
ありますので、半分と見積もって16代、即ち少なくとも400年前よりこの
地に居たということは推測できます。もう一つの要素が「天満宮」であり、天
満宮を1番地としてその周辺が出身地ということです。
 中条の服部家の墓標に書かれた名前より、ゼンリンの地図、電話帳で調べて
みましたが、今のところ所在地はわかっておりません。いくつかの服部家は見
つけましたが、単独に散在している、つまりそれらは分家筋であろうと推測し
ております。
 それ以上の要素については、た振り出しに戻ってしまいますので止めておき
ます。後は家紋の由来の謎ということです。

 さて、「ハトリ」について、またその当て字「羽鳥」について調べており
ますが、ここ長上郡の羽鳥庄に服織神社がある訳ですが、その御祭神が「天穂
日命」であります。何故「天穂日命」なのかということは、その息子の「建比
良鳥命」が遠江の国造(武蔵、上総、下総、対馬も兼ねる)だったからだと思い
ます。出雲神の天穂日命を勧請したのも、その親を祀るということで考えれば
納得できます。

 建比良鳥命の名前の中には「鳥」が含まれています。ただ単なる当て字では
なく、何らかの表意があったのかと推測します。なぜならば、その別称を上げ
ますと―
 @建夷鳥命(たけヒナドリのみこと)
 A天夷鳥命(あめのヒナドリのみこと)
 B武日照命(たけひなてりのみこと)
と、ある意味「鳥」を表現したかったのではないかと推測いたします。

 「鳥」のイメージとしては、地上と天上界をつなぐもの、浄化された穢れな
き魂、愛する者たち・愛する故郷との別れ・郷愁、を想起いたします(鳥と神
との関係は別途考察いたします)。
 羽鳥という地名は三河より東に存在、また白鳥という地名とも共存している
ことが多いということは、物部氏のグランドがあって、そこに尾張氏がプロデューサーとして(大和武尊と白鳥との関係を)作演出、もちろん秦氏も実在
の民として、また賀茂氏もからん来る。土師氏、和珥氏もいた。渡来系の氏族
・民がオピニオンリーダーとして君臨した。

 但し、忘れてならないのは縄文系(アイヌ)系の古来からの土着勢力・文化で
ある。日本語のペースにはいわゆるアイヌ語の存在がある。また、神代文字と
いうのもある。いずれもあまり日の目を見ていない。
 その中で、「ハトリ」とは、アイヌ語で「ハト・リ」、「ハト」は「御法
度の」ハト、「リ」は「場所・所」という意味に解釈できるという。では、
ヘブライ語では、シュメール語ではということもあるわけでありますが、い
ずれにしても一つの参考にはなります。絹を織る場所は禁制の場所であった
ので、羽鳥神社では絹が織られた場所であった故、その点では当たっている
わけであります。

 でも、この地方のハトリに「羽」と「鳥」を当て字にしたのは、秦氏の
「羽=服」と「鳥=神」を表したかったのであろうか。秦氏はもともと鳥を
トーテムとする氏族であったとも言われ、この地方にも沢山の秦氏(第1、
第2の秦氏を合わせて)が住んでいた。

「鳥」という点で考えますと、氏族の枠を飛び越えて、人種の枠で何か共通項
としてひとくくりできるのではないかとも推察いたします。霊的にはエジプト
まで・・・。

 今のところ、このような雑多な知識しかありませんが、今後さらに探究度
を深めてまいりたいと思っています。
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月14日 20時54分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明日は久しぶりの海幸彦、空の青海のあをの水平線のかなたで日がな竿を
上下します。桜鯛の乗っ込みが始まっていますので、大きな鯛の顔を見られ
るかも知れません。
 魚も宗教的意味がありましたよね。鳥にもありました。魚と鳥は神秘性が
あります。人間にできないことができる。水に潜り、空を飛ぶ。ある意味人間
を超越した存在。だから彼らはいわば神の世界からの使者なのかもしれません。
 「羽鳥」のなぞ、もう少しでとけるカモ(ここにヒントがある・・・)。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月14日 22時01分44秒 ) パスワード

羽鳥の「鳥」は  建比良鳥命  の「鳥」に共通するのかもですね。



建比良鳥命(たけひらとりのみこと)

日本神話に登場する神である。『古事記』では建比良鳥命、『日本書紀』では武日照命(たけひなてるのみこと)・武夷鳥命 ・天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)と記され、天日照命(あめのひなでりのみこと)とも称される。これらの異名・異称の同定は出雲国造家として出雲神社の祭祀を受け継いだ千家家が伝える系譜書『出雲国造伝統略』に拠っている。

『古事記』ではアマテラスとスサノオの誓約の段で、天之菩卑能命の子が建比良鳥命であり、出雲国造・无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直[1]・遠江国造等の祖神であると記されている。



天菩比命之子、建比良鳥命 【此出雲國造无耶志國造上菟上國造下菟上國造伊自牟國造津嶋縣直遠江國造等之祖也】

『日本書紀』では、崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(武夷鳥命とも天夷鳥命ともいう)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上させ、その結果出雲氏に内紛が起き、当時の当主の出雲振根が誅殺されたと記されている。




《崇神天皇六〇年(癸未前三八)七月己酉(十四)》六十年秋七月丙申朔己酉。詔群臣曰。武日照命。〈 一云。武夷鳥。又云。天夷鳥。 〉従天将来神宝。蔵于出雲大神宮。是欲見焉。則遣矢田部造遠祖武諸隅、〈 一書云。一名大母隅也。 〉而使献。当是時。出雲臣之遠祖出雲振根主于神宝。是徃筑紫国而不遇矣。其弟飯入根則被皇命。以神宝、付弟甘美韓日狭与子〓濡渟而貢上。既而出雲振根従筑紫還来之。聞神宝献于朝廷。責其弟飯入根曰。数日当待。何恐之乎。輙許神宝。是以既経年月。猶懐恨忿、有殺弟之志。仍欺弟曰。頃者於止屋淵多生〓。願共行欲見。則随兄而往之。先是。兄窃作木刀。形似真刀。当時自佩之。弟佩真刀。共到淵頭。兄謂弟曰。淵水清冷。願欲共游沐。弟従兄言。各解佩刀、置淵辺。沐於水中。乃兄先上陸。取弟真刀自佩。後弟驚而取兄木刀。共相撃矣。弟不得抜木刀。兄撃弟飯入根而殺之。故時人歌之曰。 椰句毛多菟 伊頭毛多鶏流餓 波鶏流多知 菟頭邏佐波磨枳 佐微那辞珥 阿波礼[2]
於是甘美韓日狭。〓濡渟。参向朝廷、曲奏其状。則遣吉備津彦与武渟河別。以誅出雲振根。故出雲臣等畏是事。不祭大神而有間。時丹波氷上人。名氷香戸辺。啓于皇太子活目尊曰。己子有小児。而自然言之。 玉〓鎮石。出雲人祭。真種之甘美鏡。押羽振。甘美御神、底宝御宝主。山河之水泳御魂。静挂甘美御神、底宝御宝主也。〈 〓。此云毛。 〉 是非似小児之言。若有託言乎。於是。皇太子奏于天皇。則勅之使祭。

— 巻第十四「崇神紀」



— 巻第十四「崇神紀」

『出雲国造神賀詞』には、「天夷鳥命に布都怒志命を副へて天降し」という一節がある。

神名の「ヒラトリ」「ヒナドリ」「ヒナテル」は「鄙照(ひなてる)」の意で、天降って辺鄙な地を平定した神の意という説がある。

鷲宮神社(埼玉県北葛飾郡)などで祀られている。

[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月14日 22時13分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


分家さんでも、先祖調査をして詳しくご存じの方がいたりします。
是非コンタクトを。



>「鳥」という点で考えますと、
>氏族の枠を飛び越えて、人種の枠で何か共通項としてひとくくりできるのではないか

はい
オットのカナダの親戚のカナダの原住民のトーテムは「カラス」です。
黒い鳥です。


何か意味があるんでしょうね。


まだまだハトリの意味で コレ! というのが見つからないですね。
もっと苦しみましょう。



本日の釣り、
風が強くないといいですね。
 お気を付けて!
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月15日 08時28分03秒 ) パスワード

とり
について語源から調べてみました。
しかしコピペを拒否されました。

http://gogen-allguide.com/to/tori.html

「飛ぶ」ことから。

古代では特に狩猟の対象となる鳥を指すこともあったため、「とる(獲る)」の名詞形とする説や、朝鮮語で「鶏」を意味する「talk(talki・tark)」からといった説もある。

「と」は「飛ぶ」のことだろう、と。


ニワトリ  にはつとり  にはとり   (庭にいる鳥)

    野生の鳥は「のつとり」  野つ鳥
    にわとりのもう1つの言い方の  いえつとり  家にいる鳥  の表現は消えた

紀元前300年の弥生時代に伝来して家畜に。




原始日本語はこうして出来た: 擬音語仮説とホツマ文字の字源
https://books.google.com/books?id=ZAk1tUfqUOcC&pg=PA473&lpg=PA473&dq=%E9%B3%A5+%E8%AA%9E%E6%BA%90%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=O08LQsoTys&sig=RHJue4MNTPneVzPKYOeq6LT0cXc&hl=en&sa=X&ei=yb8EVeOTGs3soASU6ICoBA&ved=0CFwQ6AEwBw#v=onepage&q=%E9%B3%A5%20%E8%AA%9E%E6%BA%90%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

とり  鳥 
・止り
・飛ぶ
・疾し(はやし)


とり、の「と」は
鳥が翼を折って止まっている状態   = たおる  翼を折る


     感想:分かりません






古代「鳥」信仰と日本人
http://tetsuyuki-fukumoto.art.coocan.jp/newpage8.html

古代に存在した鳥信仰ー日本の弥生時代に遺物が多いー世界では中国殷代以降、古代ゲルマン社会等 ー 鳥信仰は旧石器時代に端を発しているー世界規模でー。

原始古代の鳥は広いエリアを飛び、人間が簡単に行けない場所から知らない地の情報をもたらし、又稀にウィルス等を運ぶ、人間にとって有難い、又恐ろしい存在だったため、敬われ、祭られた。、

旧石器時代、縄文時代は多くの大型の鳥類が棲息していた。人間が増えるに従い、人間と食物が共通するため,餌場を失い、又人間の直接の狩りの対象となったため、種類、数ともに激減して行った。一方で大事な食糧であったため、原始古代の頃の信仰に加え、信仰は深まって行った。ー縄文時代草創期に多くの種の不明の鳥類の骨が出土している。

日本の鳥信仰は旧石器時代からあったと考えられるが、現代の私達が目にする鳥信仰の遺物<例えば神社の鳥居等>は弥生時代から始まった。大陸から小規模の集団<例えば古代中国文化の影響を受けた少数民族等>が日本へ渡って来た時に、共に入ってきて日本社会に広まった。

その後、古代社会に入り、大陸との往来が多くなるに従い、更に進化した、当時の大陸の鳥信仰が渡来した。

鳥信仰の風習は世界中、何処でも多く残っている。日本の神楽、舞楽<朝鮮半島から渡来のもの、他>中国の渡来鳥の落ち穂伝承等、、


ここでアップ
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月15日 08時34分47秒 ) パスワード

http://www5c.biglobe.ne.jp/~odah/meshy/meshy009.htm


歴史の中の鳥と日本人のかかわり〜弥生時代、古事記、日本書紀


 古代から日本人は自然を崇拝した生活をしてきており、それらが遺伝子的に日本人の精神性に受け継がれていった。鳥霊信仰もその自然崇拝からきた文化のひとつである。これは鳥を神の使いとみなしたり、死者の霊魂が鳥にのって冥界に自由に移動できると考え、また鳥そのものを神、霊魂そのものとして神聖視することをいう。これは同じ動物、自然現象を神とみなした古代エジプトでも似たような考え方が見出される。


 古代エジプト文明では人間はバァ(魂)とカァ(精霊)とアク(身体)の三つから成っていると考えられていた。肉体は死んでも、霊魂のバァは来世に行くことができるが、カァとアクは現世に残ると信じられていた。バァは人の頭をもった鳥の姿でよく絵に描かれている。鳥のように飛んで肉体を離れ、墓の外へ出て行ったりしてカァのために供物を運ぶ役目であった(カァはミイラがなくては存在できないと考えられていた)。これはやはり日本のアニミズムと似ている部分を含んでおり、死者の魂が鳥の姿をして来世に旅立つと考えていたことを意味する。


 日本人にとっていつから鳥霊信仰が生れたのかは定かではない。しかし、縄文時代、弥生時代の出土品、あるいは古事記、日本書紀などの書物から鳥霊信仰についておぼろげながら想像することはできる。そしてその鳥霊信仰が形を変えて江戸時代、明治時代にまで続いていたことが当時の書物から読み取れることができるが、これについては後で書こう。



 「鹿と鳥の文化史」(平林章仁、白水社)にも、縄文時代の鳥霊信仰の存在については定かでない旨書かれているが、狩猟・採集時代である縄文時代の鳥霊信仰はあったのかどうかよくわからない。もっぱら弥生時代以降になって顕在化してくるのである。弥生時代の出土品の銅鐸に水鳥の絵が描かれていることや、鳥形木製品の出土(鳥竿:ちょうかん)、鳥形埴輪の出土、鳥装シャーマンが描かれた弥生土器の出土などから伺うことができる。


 次に書物に移ろう。古事記では次のような記述がある。天照大御神(あまてらすおおみかみ)と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)は豊葦中国(とよあしはらなかつくに=人間が住む地上界のこと)に天若日子(あめのわかひこ)を派遣した。これは荒ぶる神を説得して帰依させるためである。しかし彼は8年たっても帰ってこなかった。そこで天照大御神と高御産巣日神は鳴女(なきめ)という雉(キジ)を派遣している。これから、鳥は天上の使いとして考えられていたことが伺えられる。


 やがて天若日子は自業自得で死んでしまうが、その葬儀を殯屋(もがりや:豪族の遺体をしばらく通夜のため仮安置した施設のこと)で執り行う様子を次のように書いている。


 河の雁(かり)を死者に食事をささげる役とし、鷺(さぎ)を殯屋の掃除をするものとし、翡翠(かわせみ)を食事をつくるものとし、雀を米をつく女とし、雉(きじ)を泣き女として、八日八晩の間、連日にぎやかに遊んで死者の霊を迎えようとした。


 こうした鳥の扮装をして葬儀をしたことも、おそらく鳥が天の使者としての役目をもっていたことをうかがわせる。また敏達天皇が崩御したときの葬儀で蘇我馬子は誄(しのびごと:死者の生前の功徳をたたえて、その死を悲しむこと)を奉った。このとき、後に蘇我馬子に滅ぼされることになる物部守屋はその姿を「猟箭がつきたった雀鳥のようだ」といって雀のようなしぐさをあざ笑っている。次に物部守屋が身を震わせて誄を奉ると、馬子は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑ったと日本書紀に書かれている。


 天皇の葬儀で蘇我馬子がしたような雀のしぐさが、さきの古事記にある天若日子の葬儀のそれと類似している。これは鳥の姿、しぐさが当時では死者を弔うときの神聖な行為であると考えてよさそうである。


 さらに古事記では、神武天皇が大和入りをする、いわゆる神武東征のときにも高御産巣日神のお告げをきいている。それによると「天から八咫烏(やたがらす)を遣わし、道案内をする。それに従っていけばよい」と。これも先の雉を使わしたことと同じで天の使者の役目を担っている(この八咫烏はなぜか三本足の絵で描かれることが多い)。


 さらに古事記から引用する。次のことがかかれている。

 允恭(いんぎょう)天皇がなくなった後、木梨之軽王(きなしのかるのみこ)は天皇を継ぐことが決まっていたが、同母の妹である軽大郎女と関係(近親相姦)をもってしまう。このため宮中で人心を失って、次期天皇を狙っていた穴穂御子(あなほのみこ)と争いになった。捕らえられた木梨之軽王は伊予湯に流罪されてしまう。このとき、木梨之軽王は次の歌を詠んだ。

 あまとぶ 鳥も使いそ 鶴(たず)が音(ね)の 聞こえむ時は わが名間はさね
(空を飛んでいる鳥もわたしたちの使いなのだ。鶴の泣く声が聞こえたならば、わたしのことを鶴にきいてくれ)

 離れ離れになる二人の間に、鶴が天の使者として非常に美しく描かれている。「空を飛んでいる鳥もわたしたちの使いなのだ」という部分にこの時代に浸透していた鳥信仰が垣間みえる。話には続きがあり、軽大郎女は木梨之軽王を追って伊予湯にいった。木梨之軽王は想い焦がれていた軽大郎女へ二つの歌を歌うのだが、ここでは割愛する。そして二人は一緒に死ぬのである。この部分は古事記のなかでもヤマトタケルノミコトの白鳥神話とともに美しい部分である。


 ヤマトタケルノミコトの白鳥神話とは、古事記や日本書紀に書かれている。

ヤマトタケルノミコト(日本武尊)は、「日本書紀」では景行天皇の第二皇子であり、「古事記」では第三皇子の位置づけになる。ヤマトタケルノミコトは景行天皇の命を受けて、九州征伐に出かける。いわゆる西征である。九州征伐を果たし、帰ってくると今度は東方の蛮族の討伐の命を受け、東征に向かう。東征の帰路、伊吹山の神を退治しに出かけるが、途中で白い大猪に出会う。神の使いだと思って帰り道に殺してやろうと進むが、実は神の化身そのものであり、途中で大きな雹(ひょう)を降らされ命からがら降りるはめになる。

 帰路、現在の岐阜県養老町あたりで足がくの字に曲がってしまって満足に歩けなくなってしまう。三重村(岐阜南部〜三重北部のあたり)でとうとう足が三重に曲がってしまう(このためこのあたりを三重というのだと書かれている)。

そして能煩野(のぼの、三重県鈴鹿市や三重県亀岡市など諸説あり)において故郷を思う歌を歌って死んでいく。昔の人たちの喩えのすばらしさだろうが、一種不可解に思える足が二重三重に曲がる話も、鳥に転化するときの予兆だとみなせる。


 大和からきた后や御子たちは能煩野に墓をつくる。そしてヤマトタケルノミコトは白鳥になって天高く翔け上がり海に向かって飛んでいく。后や御子は竹の切り株がある河原を足を怪我しても、その痛みを忘れて泣きながら白鳥を追いかけた。このときの后や御子が歌った一連の歌(4種類ある)が大御葬歌として天皇の葬儀で歌われている。実際、昭和天皇の大葬の礼のときも歌われた。


 当時、白鳥は白い鳥を指していた。従って、ハクチョウではなく海に飛んでいることや最後の歌で

     浜つ千鳥  浜よは行かず  磯づたふ
(浜千鳥のように、あなたの魂は陸を通って行かず、磯伝いに行かれることだなあ)

と歌っていることからもあるように、海岸沿いに飛ぶことから白いサギのことであると思われる。まあ、サギかどうかは別にして典型的な鳥霊信仰であることにはかわらない。そして昭和天皇の葬儀の内部については我々はみることができないし具体的に一般の人に教えられることもないだろうが、伝統的にこのときの一連の歌が昭和天皇の大葬の礼でも歌われていることなどから、殯屋で鳥のまねをして霊を送り出すようなこともされたのかなぁ、と勝手に想像している。


 脈絡なく古事記などをメインにして日本の鳥霊信仰について書いてきた。鳥霊信仰が一般の人々にも長らく日本人の文化として根付いていたことを示す下記の文章を引用して終わろうと思う。これはこのサイトの最初のほうで、「鳥霊信仰が形を変えて江戸時代、明治時代にまで続いていたことが当時の書物から読み取れることができるが、これについては後で書こう」と書いたが、これの一例を次の書物にみることができる。これは明治34年(1901年)から明治41年(1908年)まで日本で島津家の家庭教師を勤めたイギリス人女性エセル・ハワードが「明治日本見聞録」のなかにこう書いている。


 私の記憶に残っている日本の葬式のときのある習慣は、ちょっと面白いと思われるのでここに書いておこう。墓のほうへ進んでいく葬式の行列の中に鳥籠が加わっていることがある。この鳥籠は埋葬の済むまでは手を触れずにおかれるが、それが終わると蓋をあけて鳥を飛び立たせてやるのである。これは、もはや肉体の束縛を離れて自由になった魂を意味する面白い比喩である。それでいて日本人は、少年たちが鳥の巣探しにいくのを、見たことも聞いたこともなかったことに思い当たったが、私の考えでは、おそらくこの習慣が彼らにその遊びをさせないでいる理由の一つであろう。
(エセル・ハワード「明治日本見聞録」)


 この文化がいつごろ絶えたのか、あるいはまだひっそりと残されているのかを調べることは、民俗学的にも面白い研究課題なのかもしれない。おそらくハトでも充分代用は勤まるはずだ。それが白いハトであれば、ヤマトタケルノミコトのような白鳥伝説の文化が生き残っている名残になるのかもしれない。



ということは平群真鳥とか中臣羽鳥の「鳥」はフィジカルな「鳥」ではなく精神的な意味の「鳥」だったのかも。


そうすると「羽鳥」の「鳥」も単なる鳥という名付けではなかったのかも。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月15日 08時38分18秒 ) パスワード

http://www.amazon.co.jp/%E9%B9%BF%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E5%8F%B2-%E2%80%94-%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%81%A8%E5%91%AA%E8%A1%93%EF%BC%88%E6%96%B0%E8%A3%85%E7%89%88%EF%BC%89-%E5%B9%B3%E6%9E%97-%E7%AB%A0%E4%BB%81/dp/4560081204


鹿と鳥の文化史 — 古代日本の儀礼と呪術(新装版) 単行本 – 2011/1/29
平林 章仁 (著)
2592円
登録情報

単行本: 216ページ
出版社: 白水社; 新装版 (2011/1/29)
ISBN-10: 4560081204
ISBN-13: 978-4560081204
発売日: 2011/1/29
商品パッケージの寸法: 19.2 x 14 x 2 cm



商品の説明


出版社からのコメント

古代日本において、鹿と鳥は霊的な動物として特別な信仰の対象であり、それゆえに祭祀・呪術・喪葬などさまざまな儀礼に登場した。

本書は、弥生時代から古墳時代にかけての鹿と鳥にまつわる儀礼や伝承を、広く文献・考古・民俗資料を駆使して考察し、従来とは異なった新しい古代日本文化論を展開する。

かつて海人たちは、鹿が海や川を泳ぎ渡る習性を利用し、鹿の追い込み猟をさかんに行っていた。

このように、鹿は水と関係の深い動物であり、鹿の霊獣視は海人の信仰抜きには語れない。


また、弥生土器や銅鐸に描かれた鹿や鹿形埴輪などは、穀霊の復活と再生の農耕儀礼または喪葬儀礼に用いられた。



一方、鳥が霊魂を運ぶ、あるいは霊魂が鳥と化して他界に飛翔するとみる信仰はすでに弥生時代に伝来し、以来、鳥に基づく喪葬儀礼が広く行われるようになった。


こうした鹿崇拝、鳥霊信仰の姿を、王権の喪葬を司った土師(はじ)氏による儀礼を例に分析し、神々が時代の流れとともに追放・忘却されていく姿を通して、呪術的な信仰や儀礼の変遷について論じる。


古代史学と考古学に民俗学の成果を採り入れ、ユニークな視点で古代信仰文化を論じた秀作。


内容(「BOOK」データベースより)

古代日本において、祭祀・呪術・喪葬などさまざまな儀礼に登場した鹿と鳥―。弥生時代から古墳時代にかけての鹿崇拝、鳥霊信仰の姿を、文献のほか広く考古・民族資料に求め、ユーラシア大陸の信仰文化も視野に入れつつ、ユニークな古代日本文化論を展開する。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月15日 08時41分21秒 ) パスワード

http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-120.htm



鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自


   02年05月09日

  萬 遜樹



▼「飛ぶ鳥の・明日香」から「鳥居」というトポス(場)へ

 日本古代史にとって重要な地名の一つに「飛鳥」がある。これは不思議な名である。まず、なぜ「飛ぶ鳥」を「アスカ」と読むのか。それに、なぜ「飛ぶ鳥」なのか。前者については諸説ある。筆者は「飛ぶ鳥の・明日香」と呼び習わされ続けることで、いわゆる枕詞に当たる「飛(ぶ)鳥」の文字をもって、「アスカ」と読むおしゃれが成立し、これが定着したとの見方を採る。では「枕詞」とは何か。それは各々の神を呼び出す呪文に違いない。


 「飛ぶ鳥の」の場合、「明日香」という地の神を呼び出すための呪文である。これが二番目の問いに関係する。アスカとは「鳥」が密接に関わる地なのである。特別な鳥が飛ぶ特別な地、それが「飛鳥」である。それから、日本古代史にとって忘れられない地名に、もう一つ「鳥」の関わるものがある。聖徳太子ゆかりの「斑鳩」である。「イカルガ」とは何か。これはイカルという鳥(スズメ目アトリ科)の別名である。古代日本には鳥がつきまとっている。


 本稿では「鳥居」というものを考えてみたい。鳥居とはいったい何だろうか。用字を信ずれば、鳥の宿り木のようなものということになるのか。鳥居に止まる鳥。確かに似つかわしいようにも思える。結論を先取りすれば、今から述べることはほぼそれを肯定する作業である。ただし、これに留まるものではない。さらには、翼を休めるその鳥たちはどこからわがニッポンに飛んできたのかも重要な問題であろう。


▼鳥居は村を悪霊から守る結界門だった

 日本の鳥居は、今では神社境内の境界に結界門として立つ。コンクリート製のものも珍しくないが、もとは木製であったことは言うまでもない。さらに遡れば、自然樹であったとも想像できるだろう。その鳥居にはたいてい締め縄(〆縄)が左右に渡されている。そしてそこには幣(ぬさ)が垂れている。こういう鳥居の形式はどうやら中国・江南が発祥地のように思われる。今では、日本を含めて、その周縁地域に伝承されるばかりだが。

 鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである(「締め縄」とはそういう意味だ)。


 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。



▼朝鮮南部の様々な「門」と鳥

 視線を朝鮮半島南部に移そう。ここにも聖なる「門」がある。一対の石積みの塔(タプ)である(多くは現代になってから壊され、わずかしか残っていない)。その上には石や木で出来た鳥が止まる。これは『三国志』(魏志)など(注)が馬韓の民俗として記した「蘇塗」(そと)の末である。蘇塗とは聖域(つまり「聖林」=「社」)も指した。この石積みの塔という形自体は北方ツングース系に由来する。しかし、鳥が止まる結界門という習俗は南方の「倭族」のものである。

(注) 「…蘇塗を立て、大木を建て以て鈴鼓(鈴や鼓)を懸け、鬼神に事(つか)う。…」
『後漢書』(東夷伝・馬韓)
「…諸国には各別邑(べつゆう:特別の区域)あり、之を名づけて蘇塗と為す。大木を立て、鈴鼓を懸け、鬼神に事(つか)う。…」
『三国志』(魏志東夷伝・馬韓)
「…別邑を置き、名づけて蘇塗といい、大木を立て鈴鼓を懸く。その蘇塗の義は西域の浮屠(ふと:円錐状の仏塔)に似るあり。…」
『晋書』(四夷伝・馬韓)


 この蘇塗のそばに二本の木が立てられている。一本は竜がくねくねと天に昇るようなもので、もう一本は先端に木製の鳥が止まる「ソッテ」(鳥杆・とりざお)である。『後漢書』の記述では、これが「蘇塗」であるとも読める。今でも四年ごとに「ソッテ祭り」というものがある。そこでは幣つきの「禁縄」(クムチュル:締め縄)も登場する。「門」近くには、ソッテの他に、「チャンスン」(長い杙・くいの意)という一対の「人面」柱もある。


 人面の頭部を持つチャンスンの胴体には「天下大将軍」「地下大将軍」と墨書されている。これは村の境界の守り神である。いわゆる道祖神の原形である。実は先述のタイ族の「門」のそばにもヤダ・ミダという男女二体が置かれていた。道祖神(サイの神)は性神となっていったが、そういう非対称の対が結界を作るという人間の神話思考は、はるか寺院の門を守る阿吽(ア・ウン)像や、ア・ウンを交わす神社の狛犬などにつながっているのだろう。


▼世界樹としての芦笙柱とソッテ

 再び中国大陸に戻ろう。南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。

(注)神籬(ひもろぎ)こそ、そういう宇宙である。榊などの神木もそうである。そしてそこにぶら下げられた鏡とは、銅鼓と同じ意味を持つものである。


 幟(のぼり)や幡(はた:旗)とはそういうものである。聖林は神が降りる林である。沖縄の御嶽(うたき)も聖林である。「鎮守の杜(森)」とは逆で、森(「盛り」であり山のこと)があってこその社なのである。ちなみに、コイノボリは「鯉幟」であり、私たちはやはり神が依る柱を天にかざしているのである。筆者の想像だが、銅鐸(どうたく)はソッテの鈴や鼓、芦笙柱の銅鼓のように神木に吊されていたのではないだろうか。なお、哀れな音を響かす「鈴」とはその成れの果てのように思える。


▼「柱」から「門」へ。そして「倭族」へ

 筆者の考えを整理しておけば、まず世界樹として「柱」(自然木・山)があったように思う。柱とは述べてきたように、神が降り立つ目印であり、依り代である。そこから、神威が及ぶ結界という観念が生じる。諏訪神社・御柱祭りの四本柱もそういう段階である。これが神域=聖林=社となる。当初は村全体がそうして神に守られていたのだ。ついにと言うか、神は人間の都合により、境界の守り神として立たされる。これが単なる「門」の神の段階である。



 最後に、ここでは示唆するに留めるが、「倭族」の習俗とは稲作の文化である。中国江南、北緯三十八度以南の朝鮮と日本とは同一の生態系ラインにある。いわゆる「照葉樹林文化」圏に属するのだ。そこに鳥信仰の、さらには太陽への信仰の秘密がある。広大な中国は「南船・北馬」の国である。この言葉には分裂と統合がある。稲作と麦作、左と右、奇数と偶数、鳳凰(および蛇=竜)と龍など、いろいろ面白く興味が尽きないが、別の機会に述べたい。

[主なネタ本]

鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』中公新書
鳥越憲三郎『古代中国と倭族』中公新書
萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』大修館書店
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月15日 12時24分17秒 ) パスワード

やっと「古代史の謎は海路で解ける」を読了しました。

著者のペンがすいすい泳いでいるのは分かりました。
   ただ私の記憶力がついて行けなかったのが残念です。


応神天皇雄略天皇その他
時代が・・・・


でも面白かったです。
秦氏が歴史から転がり落ちたこともちょっとだけ書かれてましたね。


本当に面白かったです。
蘇我氏 vs 物部氏+中臣氏も書かれてましたね。


神功皇后の秘密
応神天皇の秘密
その他

本当に面白かったです。
ありがとうございます。


整理しないと。
せっかくの情報がバラバラです。
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月15日 22時31分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 鳥についての各種資料ありがとうございます。

 本日、「カモメ」という鳥の生態について、新たな発見をしました。それは、
釣り餌の小鯵(こあじ)を捨てた時に起こりました。すなわち、カモメがどこか
らともなくやって来て、波の上に来ると羽を大きく広げ、風の抵抗をブレーキ
にして止まり、その勢いでをタッタッタッと水面を4〜5歩、2本足で走りま
した。そして着水すると、今度は首をホースのようにクイッと曲げ、頭を海に
突っ込んで水中へ一気に潜り始めました。水面下1メートル位をスイスイとダ
イビングして、水中に漂う小鯵を口にくわえると、一気に水面に浮上し、パタ
パタと羽をはばたかせ、飛んで行きました。
 水面での姿は、まるでペンギンでありました。ペンギンとカモメ、体形と羽
の退化という点では違いますが、ひょっとするとルーツは同じなのかなと思い
ました。
 本日はまずまずの天候でしたが、桜鯛にはまだ早く、イサキやレンコ鯛、カ
イワレ、メジナその他カサゴ等のいわゆる五目釣りとなりました。

 鳥についてはまとめてみたいと思っていますが、まだ論証に耐える程のデー
タは集めてありません。ただ、方向性としては「鴨」族、即ち「賀茂」族を見
直そうと思っています。極論でいうと、賀茂族で始まり賀茂族で終わるのか、
いわゆる「八咫烏」ですから・・・。

 明智氏についてのお礼がAKECHIさんから来ています。明智光秀についても
いずれまた再度論考したいと思っています。
 
 本日で丸11ヶ月となりました。明日より、12ヶ月目に突入です。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月16日 03時08分41秒 ) パスワード

長々と書いてたら消してしまいました。



重要ポイントのみ書きます。
大泣き


http://葛城山麓から京都盆地に進出してきた鴨族


     
           下の方に鴨氏と秦氏の関係についても書かれています。


奈良県の金剛山の東側山麓は開けた段丘上の斜面をなしている。弥生時代に、この斜面に住み着いて陸稲や稗、粟などの畑作農耕に従事した集団がいた。鴨族と呼ばれた一族である。御所市鴨神に高鴨神社という神社がある。鴨一族がその発祥の地に建てた氏神社である。

弥生時代の中頃、鴨族の一部が金剛山の東斜面から大和平野の西南端にある今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波(かもつは)神社をまつって水稲栽培をはじめた。また御所市東持田の地に移った一派も葛木御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作に入った。それで、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになった。ともに鴨一族の神社である。

その鴨族の出自を求めると、神武天皇東遷の時烏(カラス)に化けて天皇を熊野から大和へ道案内した賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)に行き着く。大和を平定した後の論功行賞で、神武天皇はその功に対して厚く報償したという。そのときから賀茂建角身命を八咫烏(やたがらす)と称するようになった。



山背の豪族分布

平安遷都以前の山背の豪族分布


『山城国風土記』逸文によると、大和の葛城山にいた賀茂建角身命が山代の国の岡田の賀茂に至り、木津川を下り、葛野川(桂川)と賀茂川の合流点までやってきた。そして北方の賀茂川を見渡し、「狭く小さいけれど石川の清川なり」と述べ、「石川の瀬見の小川」と名付けた。その後、賀茂建角身命は賀茂川の上流の久我の山麓に住むようになった、と伝えている。神が一人で移ることはない。その神を祀る集団の移動するのである。すなわち、何時のころか、葛城山麓を離れた鴨氏の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して、この地に定着した史実を伝えている。

やがて、鴨族はヤマト王権の支配下に組み入れられて賀茂氏を名乗るようになり、その族長は賀茂県主(かものあがたぬし)と呼ばれた。鴨族が京都盆地に定着した時期はよく分かっていない。一般には、渡来系氏族の秦氏より早くから住み着いていたように考えられている。しかし、鴨族は秦氏と同時に大和からやってきたとする説もある。『新撰姓氏録』には、応神14年に渡来した秦氏が「大和朝津間腋上地(わきがみのち)」に住んだという記述がある。この腋上は、鴨族が盤踞していた葛城山の東山麓に位置している。このため、秦氏の移住と時を同じくして、鴨族の京都盆地に入り込んできた、というわけである。

鴨族は賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を氏神として祀り、一族の紐帯を強めていた。上賀茂神社の社伝によれば、この神は賀茂建角身命の娘・玉依比売命(たまよりひめのみこと)と山代の乙訓(おとくに)社の火雷神(ほのいかづちのかみ)との間に生まれた若き雷神である。だが、『古事記』は賀茂別雷大神の父親を火雷神ではなく、大山咋神(おおやまくいのかみ)としている。大山咋神は秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大宝元年(701)に建立した松尾大社の祭神である。

このため、秦氏と賀茂氏とは婚姻関係で結ばれていたこと、上下賀茂神社の神と松尾大社の神とは共通の姻族神であったことがうかがえる。さらに、稲荷神社を創建した秦伊侶具(いろぐ)は、賀茂県主久治良(くじら)の子で、松尾大社の鴨禰宜板持と兄弟という伝承も、稲荷神社に伝わっているとのことだ。
www.bell.jp/pancho/travel/hata/preface.htm
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月16日 03時11分23秒 ) パスワード

続き



 『日本書紀』に記された秦氏のプロフィール

京都の古代を語るとき、伝承や文献資料に常に登場する氏族がいる。葛野大堰(かどのおおい)を築いたとされる秦(はた)氏である。ヤマト・飛鳥を拠点とした東漢(やまとのあや)氏や河内地方を本拠とした西文(かわちのふみ)氏と同じく、秦氏も朝鮮半島から渡来した氏族である。蚕養や機織り、金工、土木などに優れた技術を有し、どちらかというと中央政権と関わるよりも、地方に根を張っていった殖産的豪族だったとされている。そのためか、著名な氏族である割には、氏族の系譜や一族の足跡が史書にあまり記されていない。秦氏について、史書から知ることのできる内容は、せいぜい下記のことぐらいである。

平安時代の初め、弘仁6年(815)に作られた『新撰姓氏録』という書物がある。平安京の左右両京や畿内諸国に居住していた当時の氏族について、その系統、氏名の由来、賜氏姓の時期などを記したものだ。その中で、秦氏の出自は、「秦の始皇帝の末裔」となっている。

だが、『新撰姓氏録』の記事はあまり信用できない。秦氏は、平安初期の中国文化礼賛に便乗して、伝承の改変を行ない、中国の皇帝との系譜的な結合をはかろうとしたものと思われる。同じ例が東漢氏についても言える。東漢氏は、後漢霊帝の曾孫阿智王(阿知使主)を先祖としている。

一方、『日本書紀』は、応神14年のこととして、秦造(はたのみやつこ)の祖・弓月君(ゆづきのきみ)の次のような来朝説話を載せている。すなわち、この年弓月君が百済からやってきたが、彼が奏上して言うには、「私は、私の国の120県の民を率いてやってきた。だが、新羅人に邪魔されてため、彼らを加羅国(からのくに)残したまま来朝した」。そこで、天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を派遣して、弓月君の民を連れてこさせたという。

しかし、この伝承も信用できない。応神天皇は4世紀末ごろの大王とされている。その頃の朝鮮半島南部では、新羅は加羅諸国に侵入する国力はまだなかった。新羅が加羅諸国を脅かすようになるのは6世紀になってからである。「秦」は、波陀とも書いて”ハタ”と読む。韓国語では海のことを”パタ”と言う。そのため、もともとは海からやってきた人々という意味で秦氏と呼ぶようになったとする説が有力である。

応神14年の弓月君来朝記事にある程度史実性があるとすれば、4世紀末から5世紀の初めころには、弓月君を長とする一族が、朝鮮半島南部からやってきたということだろう。だが、応神紀には、渡来関係の記事が多く掲載されている。どうも『日本書紀』編纂の時点で、渡来系氏族の伝承の編修が行われたようだ。したがって、弓月君の来朝時期が史実であるという保証はない。

弓月君は120県の民を引き連れて来朝したというが、これは実数ではなく誇張であろう。だが、後で述べるように、一族の者たちが多くの臣(おみ)や連(むらじ)に四散して配属されたようだから、相当数の人間が渡来してきたことは事実のようだ。ただ、一度に大挙してやってきたとは考えにくい。一定の期間に波状的に何回も渡来が繰り返されたと見るべきである。

ただし、葛野大堰が設けられたのは5世紀後半とされていることから、一族が葛野に定住するようになった時期は、5世紀前半ごろと見なして大差はないであろう。




 『日本書紀』に登場する秦氏の人々

『日本書紀』でその伝承や記録が記されている秦氏の人物は、秦酒公(はたのさかのきみ)、秦大津父(はたのおおつち)、および秦河勝(はたのかわかつ)の3名である。。

秦酒公の名は、雄略天皇(在位456 - 479?)の時代の記述に登場する。天皇は寵愛する秦酒公のために、それぞれの臣(おみ)や連(むらじ)に四散して使われていた秦氏の民を集めてやった。その礼として、酒公は絹やカトリ(上質の絹)を献上して、朝庭にうず高く積み上げたという。しかし、これは後に秦氏の本拠地となった禹豆麻佐(うずまさ、太秦)という地名の起源説話であり、史実とは思えない。

秦大津父は山背国の深草の住人である。欽明天皇(在位539 - 571)はこの大津父を寵愛し、即位するとすぐに、国家の財政をあずかる要職である大蔵の官に任じたという。大津父については、次のような逸話が残されている。欽明天皇が即位する以前に、「大津父というものを寵愛すれば、壮年になって必ず天下を治められるであろう」との夢のお告げがあった。そこで、深草の里から大津父を探しだし、近くに侍らして手厚く遇した。そのため、大津父は富を重ねることになったという。

秦河勝については、『日本書紀』の3カ所に記載がある。推古11年(603)11月、聖徳太子は大夫(たいふ)たちに「私は尊い仏像を持っている、だれかこの仏像を祀るものはいないか」と言われた。そのとき、秦河勝が進んで申し出て仏像を貰い受け、蜂岡寺(今の広隆寺)を建立したという。それから7年後、推古18年(610)10月、新羅と任那の使節が推古天皇の小墾田(おわりだ)の宮に入京したとき、河勝は新羅使節の先導役も務めている。

こうした記述から判断すると、『日本書紀』は推古朝における大夫の一人として河勝を見ているようだが、一般には聖徳太子の側近か、あるいは聖徳太子の政治を陰で支えたスポンサーとして河勝を見ている。



秦氏の系譜

その後にもう一度、河勝の名が『日本書紀』に登場する。皇極3年(644)7月、東国の富士川のほとりに住む大生部多(おおふべのおお)が、蚕に似た虫を常世(とこよ)の神として、この神を祀れば富と長寿が得られるといって信仰を勧めた。この新興宗教に似た騒動は瞬く間に広がり、都でも田舎でも常世の神を捕まえて安置し、歌い踊って福を求め財宝を投げ出した。民衆を惑わすこうした信仰を憎んで大生部多を懲らしめた人物がいる。それが秦河勝である。 常世の神といいふらした者を懲らしめた河勝は、神の中の神であるとのざれ歌がはやったという。

上に述べた3人について、その具体的な系譜は知られていない。3人の関係を図のようにとらえる説もあるが、この系図が正しいかどうかは不明である。




 秦氏による桂川流域一帯の掌握

現在の桂川は、古くは葛野川と呼ばれていた。上に述べたように、葛野川は梅雨時期や台風シーズンには、きまって洪水を引き起こし、流路もそのたびに変わった。だが、この暴れ川のおかげで、その流域は京都盆地でももっとも肥沃な土地であった。だから、古墳時代前期(4世紀)には、葛野川右岸を支配していた豪族がいた。彼らは京都盆地で最も古い首長墓を現在の向日町付近に築造している。したがって、洪水の不安を解消できれば、葛野川流域が有数の穀倉地帯になることは分かっていた。残念ながら、当時の治水技術では、この暴れ川を制することはできなかった。

それを可能にしたのが、高い水準の土木技術をもって京都盆地に入植してきた秦氏である。秦氏は5世紀中葉以前にすでに盆地の深草に居を構えていたが、5世紀後半に深草の地から葛野にその本拠を移したと思われる。彼らは葛野大堰を築造し、水路を造成し、田畑を開拓した。水を制するものは土地も人も制する。葛野川流域で農業を営んでいた住民たちは、大堰築造の恩恵を受け、秦一族の支配下に組み入れられていった。

このことを裏付けるように、5世紀後半になると、それまで古墳が全く築造されなかった嵯峨野丘陵に突然首長墓が出現する。現存する最古の首長墓は清水山古墳だが、それに続いて、天塚、仲野親王陵古墳、馬塚、蛇塚古墳が継続的に築造され、最後に双ケ丘の一ノ丘に円墳が築かれた。この双ケ丘1号古墳の築造時期は7世紀前半とされている。このように5世紀後半以降、嵯峨野に大型首長墓を築き続けたのは、葛野大堰の建設によって葛野川の治水に成功し、盆地の最も肥沃な一帯を支配下においた秦一族である。



「古代史の謎は海路で解ける」を読んでたので分かり易かったです。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月16日 03時14分36秒 ) パスワード

続き



秦氏にちなむ神社と仏閣

京都市右京区太秦(うずまさ)は、御室(おむろ)川の西、双ケ岡(ならびがおか)の南の地域である。この地には、秦氏が氏寺として創建したと伝えられる京都最古の名刹・広隆寺がある。また、秦氏にちなむ神社として大酒神社、蚕の社、松尾大社がある。一方、秦氏のもう一つの根拠地とされる深草(ふかくさ)には、伏見稲荷神社がある。



広隆寺の創建に関しては、二つの説がある。『日本書紀』は、推古天皇11年(603)に秦河勝が聖徳太子から仏像を賜り創建したと伝えている。また、聖徳太子が推古天皇30年(622)に没したとき、その供養のために秦河勝が建立し、翌年に新羅から献じられた仏像を納めたとも言われる。当初は北区の平野神社付近にあったが、平安遷都の際に現在の地に移転したと考えられている。


大酒神社は『延喜式』(*)の神名帳にも記載されている古社で、一名を太秦名神といい、秦酒公(はたのさけのきみ)を祭神として祀っている。以前は、秦氏の氏寺・広隆寺の中にある桂宮院の守護神として境内に祀られていたが、明治初年の廃仏毀釈によって現在の場所に移された。
(*)『延喜式』は、平安時代の延喜5年(905)に編修を開始、延長5年(927)に完成、康保4年(967)から施行された。


蚕の社は、木島(このしま)神社の摂社で、蚕養の守り神として萬機姫(よろずはたひめ)を祀っている。


松尾大社は、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大宝元年(701)に創祀したと伝えられる延喜式の古社で、大山咋(おおやまくい)神と市杵島姫(いちきねのしまひめ)命を祭神として祀っている。


伏見稲荷神社は、和銅4年(711)に秦伊呂具(はたのいろぐ)が三つ峰に社殿を建て倉稲魂命(くらいなたまのみこと)を祭神として祀ったのが始まりとされている。そのいきさつについて、面白い伝承が伝わっている。伊呂具は稲束を積み上げて金持ちになり、その米で餅を作り弓矢の的にしたところ、的にされた餅が白鳥になって飛んで行き、三つ峰の頂上に飛び降りた。その場所から”稲が成った”ので、伊呂具は不思議に思い、社殿を建てたというのである。その後、1438年に社殿は現在地に移され、秦氏の子孫によって累代にわたって奉祭されているという。




 秦氏の首長の墓だと言われている古墳

葛野には、秦氏の族長を埋葬したされる古墳が数ケ所ある。その中でも、太秦面影町にある蛇塚古墳と、嵯峨野の東端にある双ケ丘(ならびがおか)の頂上にある双ケ丘1号古墳は巨大である。



蛇塚古墳
太秦面影町の蛇塚古墳

蛇塚古墳は、京福電鉄嵐山線「帷子ケ辻(からびらのつじ)」駅の南の住宅街に位置している。曲がりくねった狭い路地を進むと、石室部分の巨大な積み石を露出した異様な景観が突然姿を現す。その積み石が構築した石室の内部空間は、明日香村の石舞台に次いで広い。


双ケ丘は南北に一直線に三つの丘が並ぶ丘で、北から一の丘、二の丘、三の丘と呼ばれ、全体が国の名勝に指定されている。丘と丘の間には多数の小円墳が群集して築かれているが、一の丘の頂上には双ケ丘1号古墳と呼ばれている大型の円墳がある。




 古代豪族・賀茂氏の氏神として知られる神社


京都市街の東部を流れる賀茂(かも)川は、高野(たかの)川と合流する三角州あたりで鴨(かも)川と名前を変える。この賀茂(鴨)川は古代に禊(みそぎ)が行われた聖なる川である。その川沿いに、京都きっての古社がある。賀茂川にかかる御園橋の東にある上賀茂神社と、鴨川の葵橋の東にある下鴨神社だ。いずれも、古代豪族・鴨族が奉祀してきた神々を祭神とする山城国の一ノ宮である。


鴨族は、葛城山に住んでいた賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を氏神としていた。神武天皇東遷の時、天皇を熊野から大和へ道案内した人物である。山野を行く姿が勇猛で、烏が空を飛ぶようであったことから、後に八咫烏(やたがらす)の名で尊称された。『山城国風土記』逸文によると、この賀茂建角身命が、葛城山の峰から山代国に移ったと記している。


賀茂建角身命は丹波から伊賀古夜比売(いかこやひめ)を娶り、玉依日子命(たまよりひこのみこと)と玉依比売命(たまよりひめのみこと)という二人の子をもうけた。玉依日子命は、後に父の跡をついで賀茂県主(かものあがたぬし)になったとされている。妹の玉依比売が瀬見の小川(現在の賀茂川)で川遊びをしていると、川上から一本の丹(に)塗りの矢が流れてきた。それを持ち帰ったところ、たちまちに懐妊して、賀茂別雷神(かものわけいかづちのかみ)を生んだという。 


上賀茂神社はこの賀茂別雷神を祭神として祀っている。したがって正式な呼称は賀茂別雷社(かもわけいかづちのかみのやしろ)である。一方、下鴨神社は母の玉依比売命と外祖父の賀茂建角身命を祀っている。このため正式には賀茂御祖社(かもみおやのやしろ)と呼ばれる。



秦氏が、この上賀茂神社・下鴨神社の創建に関係がある。というのは、別雷神の父、すなわち玉依比売の夫は火雷神(ほのいかづちのかみ)とされているが、『古事記』はこの神が京都の松尾大社に祀られている大山咋神(おおやまくいのかみ)であるとしている。


さらに、伏見稲荷の祠官家大西家の家系図は、伏見稲荷の創始者・秦伊侶具(はたのいろぐ)が鴨県主久治良の子であり、松尾大社の創始者・秦都理(はたのとり)が鴨禰宜板持と兄弟であったとしている。また、鴨県主家伝では、賀茂社の禰宜黒彦の弟の伊侶具と都理が秦の姓を賜り、それぞれ伏見稲荷と松尾大社を作ったことになる。これでは、伊侶具も都理も鴨氏の出身ということになってしまう。一方、秦氏本系帳では「鴨氏人を秦氏の聟(むこ)とし、秦氏、愛聟に鴨祭を譲り与う。故に今鴨氏禰宜として祭り奉るのはこの縁なり」と記されているという。



両氏族がお互いに自家に都合の良いように系図を作り上げていることが見え見えで、どこまでが史実か今になっては分からない。おそらく後から京都盆地に進出してきた秦氏が、先住の鴨族と平和的に共存するために、それぞれの祭神を婚姻関係で結ぶ伝承を作り上げ、鴨族の祭祀する神も秦氏の氏神の一つとして後に上賀茂神社に祀ったものと思われる。こうしたことから、上下賀茂神社と松尾大社の3社は、まとめて「秦氏三所明神」とも称されている。そこで、今回の史跡探訪では、両賀茂神社を秦氏ゆかりの史跡に組み入れている。


へえ〜


    とにかく窓8は使い悪い!怒
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月16日 03時32分01秒 ) パスワード

http://www.bell.jp/pancho/travel/hata/preface.htm

上記3つの出どころです。
[36]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月16日 10時51分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 お疲れ様でした。せっかくの労が一瞬にして消えてしまうという悲劇、耐
えられませんね。どうぞ、気分をリセットして下さい。私も時々あります。
ストレスがたまらないように発散して下さい。体や声を使って発散するのが、
精神とのバランスが取れ、いいです。船釣りも実は体力を使います。波がひ
どい時には、波にあわせてサーフィンをやるようなもので、足・腰を使うの
と、魚がかかった時の両腕での竿を抱え込むようなファイトは力が要ります。本日は、体中筋肉痛がしております。また日焼けによる消耗感もあります。

 鴨氏・賀茂氏についての情報ありがとうございました。以前にも探究しま
して堂々巡りの感はありますが、その時とは「視点」が違っておりますので、
新たなる気持で臨みます。
 まずは、なぜ鳥の名前「鴨」を名乗ったのかという初歩的疑問。次に、な
ぜ「賀茂」という名前を付け加えたのかという点です。
 秦氏も秦忌寸都理に見られるように「とり」の名前をもっている。その他
止利仏師とか、秦氏系とトリの関係は濃厚のような気はする。
 秦氏と賀茂氏との関係は実際どのような動きであったのか、そこが一番の
ポイントであります。秦氏や賀茂氏の中にも色々な派があったでしょうし、
名前の変わった氏族もいるでしょうし、なかなか一筋縄では行かないとは思
います。
 とりあえず、長上郡の元物部氏の土地に秦氏が浸透して来たという歴史的
背景。賀茂氏も役の小角に代表されるように京都から伊豆まで広がっている。
 東三河のハトリの近くに賀茂郡あり。長上郡の羽鳥の隣に賀茂あり。ハトリ
とカモは共存している可能性があります。この点をもう少し調べたいと思って
います。「羽鳥」とは、秦氏と鴨氏を表わしているのではないか、これが私
の推測・仮説であります。
 
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月16日 22時12分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

この時期でも紫外線にはやられますか。
日射病になっては大変。

ワタクシは午前7時半に熱中症になって歩けなくなったことがあるので
その恐怖を思い出します。

気を付けてくださいね。



>「羽鳥」とは、秦氏と鴨氏を表わしているのではないか

おお、なるほど。

   秦+鴨  → はた+かも →  はた・とり → はとり → 羽鳥
   秦氏で鴨族ですか。
   面白い発見ですね。



出雲大社の謎を読んでいるところですが  蘇我と物部と吉備  は同じだ、と。

   吉備が負けた、というところがなかなか興味深かったです。
   そういえば前のスレッドで雄略天皇(????もうこんがらがってる)と吉備の関係を勉強したばかり。

      でもすっかりこんがらがってる・・・・


          仁徳以前の天皇がゴチャゴチャになります。
          用明からは分かるんですが。


やっぱり何度も読んで整理して理解しないといけません。
整理することをさぼってますから。
[38]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月16日 23時57分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 カモメとカモ(鴨)の名前が似ているものですから、少し調べてみると、おも
しろいことがわかりました。
 万葉の時代には、カモメとカモは同族と見なされ、あまり区別されていなか
ったという説があるということです。従って、「カモメ」の「かも」は「鴨」
の意とするものが多いということです。
 さらに、「カモメ」の語源は、カモメの若鳥の体(羽・胴)の模様が籠の目に
にていることから、「籠目」に由来するということです。
 つまり「カモメ」=「鴨」となり、「鴨」=「籠目」となります。
 そこでこの歌―
 「賀茂女、賀茂女、籠の中のトリは、いついつ出やる、夜明けの晩に鶴と
亀がすべった。後ろの正面誰(だあれ)」
 ここでは「カモメ」は「賀茂女」になり、籠の中のトリは「封印された鴨」
となり、「八咫烏」(賀茂氏は八咫烏)となる。賀茂女は賀茂系の女子を指す
ことになります。賀茂系の女子とは誰であるか?
 私の手元に『八咫烏の超日本史』(大賀茂真也著)という本があります。その
中に、「封印された八咫烏の系譜とその後の八咫烏」という章がございます。
その本の中から解答を探ってみようと思います。それでは次回に―
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月17日 01時25分18秒 ) パスワード

カモメとカモは昔は区別が無かったのですか。

>鶴と亀

  亀って何なんでしょうね。



>賀茂系の女子とは誰であるか?

  どなたですか?
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月17日 01時49分48秒 ) パスワード

アマテラス=神功皇后=持統天皇?
卑弥呼=アマテラス=神功皇后=持統天皇?

   でも卑弥呼と持統天皇はまったく時代が違うから
   アマテラス=神功皇后=持統天皇
   かなと。

   これが日本の歴史=古事記と日本書紀ということなのかなと。



でも「賀茂の女子」とは全く想像がつかないです。
清盛の母上は下賀茂神社の女性というのはその筋の人が仕入れた蔵出しで教えて頂きました。

   だから賀茂家は天皇家と密接である
   その上に桓武天皇が賀茂家には「京都の古くからの家」ということで
   敬意を持ってたというのはかなり前い知りました。


家康の家紋の葵の紋とか
賀茂家との繋がり

   南朝方だった
ということで賀茂家尊重があるのかなとか。


やっぱり分からない。
[41]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月17日 08時15分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日はとりあえず、池田の東隣の加茂にある加茂神社を訪ねてこようと思っ
ております。また、この辺のお寺に行き、加茂氏の墓標があるか確認してまい
ります。この辺は豊田(とよだ)町といい、豊田図書館がありますので、地元の
昔の歴史資料がないか調べて来ます。最後に熊野(ゆや)に寄ってみます。
 ちなみに池田は浜松側から言いますと、市野、下石田、そして天竜川、熊野、池田、加茂、加茂神社となり、ほほ直線的に並びます。

 八咫烏が何故隠蔽されたかは裏の世界、つまり裏で歴史を動かす側からすれ
ば極秘でなければならないからだと思います。最近では、「八咫烏陰陽道」と
いう公式サイトが登場しています。何か大きな変化があったようでありますの
で、一度ご覧になって下さい。

 賀茂女等につきましては、帰って来てからまとめたいと思います。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月17日 09時17分27秒 ) パスワード

八咫烏陰陽道


吉備真備が賀茂氏の祖?
これは100%知らなかったです。


でも吉備真備が空を飛んだ話は知ってます。絵巻で見たような。
そして
八咫烏開祖?



飛鳥という人のブログは去年しっかり参考にっせて頂きました、
[43]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月18日 01時40分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日の成果は特に新発見という程のものはありませんでしたが、改めて
磐田市豊田町に「加茂」という所があり、賀茂神社を祀っているということ
がわかりました。そして賀茂神社は明治6年前までは、「鴨大明神」と称し
ており、祭神は「鴨若雷命(かもわかいかづちのみこと)で、京都の賀茂神社
より勧請しております。いわゆる式内社で、貞観9年(867)には遠江国正
六位上鴨神授従五位下」と記載されているという。磐田原台地のふもとにあ
る。台地の上にも加茂神社というのがあり、行ってみると小山の上に小さな
祠が祀られていた。下の賀茂神社もよく見れば、裏に小さな祠があり、それ
を拝殿の奥の本殿が抱いているといった感じであった。有名なのは、「賀茂
神社特殊神饌」という京都の上賀茂、下鴨神社に伝わる古い様式の神饌物で
あります。供物は8品目で真ん中に「おこわ」、周りに小皿で7品目、それ
ぞれの皿の上にX(エックス)字形に野菜や魚の切り身を並べます。Xに何か
意味があるのか気になるところです。神社自体は無人の神社でとくに特出し
たものはありませんでした。ひとつ気になったのは、祠が2つあったこと、
これは上の祠が本殿で、下の神社遥拝所といったところか。上の祠は、古墳
の上に造られているような気がいたしました。

 次に加茂東の「大円寺」に行きました。ここは平野家と鈴木家の墓がずい
ぶんありました。

 次には池田の抄法寺に行きました。ここには芥川家の墓が沢山ありました。
そして念願の「加茂家」の墓が1つだけありました。ようやく見つけました。
それにしても1つとは・・・!?

 次に豊田町の図書館へ行きましたが、特に新しい発見はありませんでした。

 最後に「見付天神」へ行きました。何年ぶりか、意外と境内は大きく感じ
ました。ここも特に発見はありませんでした。

 『八咫烏の超日本史』(大加茂真也著)(400頁位の本)はすごく重要な
情報が一杯詰まっていて、それぞれ関連していますので、一部だけ取り出す
のが難しい、というか、全体をよく理解しないと部分だけでは誤解を招きそ
うであるということであります。文章も必ずしもA=B、B=C、ゆえにA
=Cのように単純明快でない部分もあるので、そこは斟酌するのに苦労いた
します・・・もちろんこちらの知識不足・読解能力にもよりますが。そこら
辺を加味しながら、あえて誤解、曲解、解釈不可の怖れを無視して結論部分
だけ載せてみます。わかっているところをまとめますと―
 ・まずは、三輪氏と賀茂氏は系図から同族である。
 ・そのルーツは素戔嗚である。即ち出雲族。
 ・三輪氏は天皇の外戚になる。よって賀茂氏も同様。
 ・葛城、蘇我氏も三輪・賀茂の支族・同族である。
 ・物部氏・尾張氏とも同族である。
 ・秦氏も姻族である。
 ・賀茂・三輪氏も銅鐸使用氏族であった(銅鐸分布と重なる)。
 ・銅鐸の消えるのは、銅鏡や前方後円墳の現れ出す時期と一致する。
 ・卑弥呼は賀茂・三輪族の系譜である大物主の妻だった。
 ・箸墓古墳は卑弥呼の墓である。  
 ・賀茂氏には葛城系と山城系があるが、ルーツは一緒である。
 ・役小角は賀茂氏である。
 ・役小角は平群真鳥の子孫であるとも、大国主の後裔ともいう説もある。
  また、父は舒明天皇であるという説もある。
 ・吉備真備は下鴨神社の神職だった。
 ・安倍晴明は賀茂氏(母が賀茂葛子 その父は賀茂保憲)だった。
 ここからの最後の詰めが難しい。
 つまり、賀茂女は賀茂氏の女、役小角の母も賀茂女、安倍晴明の母も賀茂
女、そして藤原不比等の妻も実は賀茂女であったという。それは藤原の血を
高貴にするためであった。そして、最大の謎解きは、卑弥呼は賀茂族・三輪
族の系譜である大物主の妻であった。それはつまり孝霊天皇の皇女・倭迹迹
日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)であった。
 天照大神=卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命≒神功皇后≒持統天皇(上皇)
 カモメ歌は空海が作ったという説がある。
 「籠の中のトリ」とは、八咫烏系の誰かということ。
 「後ろの正面」にいる者とは、安倍氏の本貫地三輪山を望む地桜井市安倍。
そしてその北側に晴明の母を祀る葛葉稲荷社がある。そしてこの社の裏側、
即ち「後ろの正面」に箸墓古墳があった。そこに卑弥呼=天照大神が眠って
いるということになる。
 最後の詰めの何故安倍氏かというところの説得力に欠けていますが、斟酌
が難しい書き方の部分でもあります。また、著者は卑弥呼までは言っているが、
天照大神までは言っていない。そこは私の推論であります。
 もう一度、この本を完全理解したいと思っています。

 
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月18日 04時09分58秒 ) パスワード

たくさんの書き込みをありがとうございます。



箸墓古墳は孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命の墓というのは結構最近
どこかで読みました。

卑弥呼は孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命ですか。
へえ〜

   ↘

   天照大神=卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命≒神功皇后≒持統天皇


卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命
この関係が入ると納得し易いです。


>そして、最大の謎解きは、卑弥呼は賀茂族・三輪族の系譜である大物主の妻であった。

これはビックリですが
卑弥呼が大物主の妻であったなら
卑弥呼の特別性が納得いきますね。


いやあ
ビックリ。


    吉備津彦神社の立ち位置がなんとなく納得です。


安倍晴明の父上が賀茂保憲だったなら何故安倍晴明が活躍出来たのかも納得いきます。
普通だったら潰されますものね。



>賀茂女は賀茂氏の女、
>役小角の母も賀茂女、安倍晴明の母も賀茂女、そして藤原不比等の妻も実は賀茂女であったという。

>「籠の中のトリ」とは、八咫烏系の誰かということ。
>「後ろの正面」にいる者とは、安倍氏の本貫地三輪山を望む地桜井市安倍。
>そしてその北側に晴明の母を祀る葛葉稲荷社がある。
>そしてこの社の裏側、 即ち「後ろの正面」に箸墓古墳があった。

>そこに卑弥呼=天照大神が眠っているということになる。
>著者は卑弥呼までは言っているが、天照大神までは言っていない。


もう驚きです。
こんなすごい秘密を知って良かったのでしょうか?

ありがとうございます。
暫し茫然。


でも アマテラス⇔卑弥呼  はだいたい見当がつきます。
    アマテラス⇔持統  これも想像がつきます
     卑弥呼⇔神功皇后 もそうだろうな、と。


卑弥呼は大物主の妻
これは全く考えてもいなかったです。

その上に孝霊天皇の娘!
嬉しい書き込みでした。


    これで吉備津彦神社と大山積神というか大三島神社というか越智氏というか小千命に繋がるなと。

        まさか卑弥呼で繋がっていたとは。


ミッシング・リンクが  大物主の妻=卑弥呼=孝霊天皇の娘  だったとは。


それで神功皇后の三韓征伐と斉明天皇の白村江出兵話になるのか、と。
そこに住之江の水宰の話  住吉神と大山祇神の話が来るのか、と。


大物主の妻=卑弥呼=孝霊天皇の娘
これはワタクシには永遠に繋がらなかった情報です。


饒速日が神武に従うことになる話がそういうことか、と。


本当に貴重なお話をありがとうございました。
[45]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月18日 12時46分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様
 
 さすがあを様、スラスラと理解が早いです。私にはそこまでの知識体系が
ありませんので、半信半疑のところです。賀茂氏を中心とした各氏族の相関
関係等の検証には自分自身1年位かかるのではないかと思っています。
 この本、もう一冊手に入りましたら「1年記念」ということで送らせてい
ただきたいと思っています。それと、『明智光秀427年目の真実』(明智健
三郎著)が文庫本で出ましたのでお送りいたします。
 なお、カモメ歌については諸説ありますので、深追いはしないつもりです。
 それよりも、ハトリの謎を引き続き探究いたします。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月18日 13時06分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それはそうと、藤原不比等は真実の隠蔽に携わったと思われますが、その
当時の日本は渡来系の人達、そしてその言語文化(主としてヘブライ、百済
、羅色、高句麗・・・)が広まっていた。
 その中で、隠蔽しなければならなかったものは何かといえば、ヘブライ色
であったろうと推察いたします。
 とすると、不比等がやったと思われる隠蔽は必ずしも私利私欲・悪意では
なかったとも言えるかもしれませんね。秦氏とのパイプも賀茂氏とのパイプ
もしっかりある訳で、単独で歴史の脚本を書き・演出をしたとはどうも思え
なくなりました。隠蔽することで、守られてきたものがあるのではないでし
ょうか・・・?
 不比等善人論もあっていいかなと思うのですが、いかがでしょうか?
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月18日 22時42分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


本当にありがとうございました。
昨日はあれから  知恵熱でも出たのか  早々と寝ました。


孝霊天皇で  吉備とも繋がり
     卑弥呼と繋がりアマテラスと繋がり神功皇后と繋がり
              住吉神とも繋がり
 
                        そしてワタクシが存在する。


やっぱり日本だなと思います。現在のわれわれの日々も神代の時代からの繋がりの延長線上か、と。



出雲の謎を読み終えたら「聖書の国 日本」を読みます。
   日本人とは何か
   それは秦氏に代表されるユダヤ人を含んだアッシリアの人々 
   「パンドラの箱」を開く!!
と帯に書いてあります。


    アッシリアの人々=大秦の人々  ということです。



        読む機会を与えてくださった方に感謝です。
              ぺこり


でもワタクシには中東の血ってDNA上にはホンの僅かも無いのが生物学上の事実でして
    現在のいわゆる中東のDNAはゼロですしね。ヨーロッパのDNAもゼロですし。


判定不能なのが 0.1% で
ここにアフリカ〜アッシリア〜タイに入る直前の南アジアの遺伝子が該当です。
               遺伝子の 99.9% がタイ以降です 笑



文化としてのアッシリアとか大秦国の文明は
日本の背景として吸収して来たというのは分かります。

非常に分かります。
憧れていただろう自分の先祖のことも分かります。



>不比等がやったと思われる隠蔽は必ずしも私利私欲・悪意ではなかったとも言えるかもしれませんね


私利私欲・悪意というのは「立ち位置」で決まりますね。
   不比等側に正義ということは反不比等側には私利私欲私物化悪意の塊。




不比等は  まず第一に、自分の一族のために=藤原氏のためだけに=やった、
   これはすなわち天皇家のためにもなるんだと不比等は思ってやった、と思います。


   そのためには中臣羽鳥の子孫にも藤原姓を名乗らせなかった
                  ↠ 小幡姓だそうです
   たぶん自分の直系で天皇家をがんじがらめにしていく構想を持っていたんでしょうね。    



今でも日本人は平安文化を尊重し愛し誇りにしているんですから
不比等いてからこその日本文化です。

それに日本の歴史に燦然と輝く武士の先祖の多くが藤原氏という基礎も作りました。
だから今の日本の名字の多くが先祖は藤原氏。日本人の多くが藤原不比等関係者。

    平安文化の否定は日本の文化を否定すること。


   日本で1番繁栄してきた人口の先祖ですね。
   これは否定できないから  藤原不比等さま  と書かなくては。


日本の文化も人口も藤原不比等構想の結果。

   不比等にしてみれば「してやったり」ですね。



不比等悪人説は藤原氏以外の人々の妬みですね。

   母からは「おばあさまの家の悪口を言わないで」とよく言われました。
   藤原歌子おばあさま、ごめんなさい。
   藤原不比等さまの悪口を言うことは自分の顔に唾してるってこと。。。



不比等の成功のもとは
面倒だから大陸とも半島とも手を切りたかった
かな?

天皇を戴いて、自分の家で日本を維持したかった
かな?



>不比等善人論もあっていいかなと思うのですが、いかがでしょうか?

結果としては  良かった  ですね。

藤原文化が日本文化の始まりですから。
そして
日本人の多くが藤原系の名字ですから。


不比等を否定しようとする段階で「反不比等陣営の負け」を認めることです。

    この際、鈴木さんには頑張ってもらいましょう。
            まだ言ってる・・・
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月19日 10時18分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様
 
 「いろんな立ち位置で、ものの判断基準また評価が変わる」ということです
ね。確かにその通りで、どこに立つかで「不比等」の評価も変わります。不比
等だけでなく、歴史の解釈そのものも「立つ位置」で変わりますね。歴史の難
しさはそこにあります。ある意味困ったことではあります。自分としては諸説
有るけれど、この立場・この説を信じたいということでよろしいでしょうか。
ま、それしかないですね。

 不比等についていえば、インターネットの情報も併せていろいろ考えてみま
したが、最終的には、彼は「ある国体」を守る立場であり、隠すべきものを隠
したというのが一番納得のいくものであります。『聖書の国 日本』の立場と
同じになります。
 秦氏の解釈もいろいろありますが、結局は賀茂氏と同じ立場に立ち、表は
藤原氏で、裏の黒幕(聞こえは悪いが)となって「ある国体」を守ってきたの
かと思います。それがいいのか悪いのかについては、とうてい判断が及ぶとこ
ろではありませんが。引き続き探究の旅は続けたいと思っています。

 明後日にはいわゆる「ツアー」ですが、伊勢に行ってまいります。ここには
いっぱい謎が秘められています。「ハトリ」に関するものも多々あると思いま
すので、考察してみたいと思っております。

 話は変りますが、ムー最新号に「秦氏の故郷―弓月城」の取材記事がありま
したのでコピーを送ります。

 知恵熱の件については、申し訳なく思っております。私も考え過ぎでぶつか
りそうになる時がございます。時々は頭も体もリセットが必要ですね。
 
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月19日 10時54分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


重ね重ね、ご厚意をありがとうございます。



いよいよ聖域のお伊勢さんに切り込みますか。


伊勢神宮には、
太陽を神格化した天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と、
衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、

一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる[7]。

内宮と外宮は離れているため観光で内宮のみ参拝の人が多いが、まず外宮を参拝してから内宮に参拝するのが正しいとされている[7]。

             だそうです。


伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、
雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、
「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、

丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている[1]。
即ち、元々は丹波の神ということになる[2]。


『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている[1]。
丹波郡比治里の比治真奈井で天女8人が水浴をしていたが、
うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、
しばらくその老夫婦の家に住んでいたが、十数年後に家を追い出され、
あちこち漂泊した末に竹野郡船木郷奈具の村に至ってそこに鎮まった[4]。
この天女が豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという[1]。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月19日 11時11分46秒 ) パスワード

>羽衣を隠されて天に帰れなくなり


ここでふと思ったのですが

伊勢神宮に織物を奉納するのはアマテラスが女性だから美しい反物を捧げるのかと思ってましたが

豊宇賀能売神に羽衣を捧げる、というのも有るのかな?
と思いました。



>自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井にいる御饌の神、等由気大神を近くに呼び寄せなさい

確かに孤食は味気ないですものね。

で、女性同士、素敵な素材でドレスを作り合い、楽しんでいたのかもですね。


これで衣食住ーーー日本人の生活の基本の話が成立するのかも。

   ヨーロッパですと更にFUEL(燃料・暖房)が加わりますが。
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月20日 07時03分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明日、伊勢神宮へ行きますので、話題を伊勢神宮に向けたいと思います。

 所功氏の『伊勢神宮』によれば、あの松尾芭蕉も、元禄2年(1689)秋
に「奥の細道」の旅を終え、大垣にて旅のワラジを脱いだ後、その足で伊勢
に向い遷宮祭に参拝しているといいます。
 その時詠んだ歌は―  
 「たふとさに 皆押しあひぬ 御遷宮」

 遷宮後の伊勢参りはひとしお輝かしく新鮮なものであったのだと思います。
 いわゆる「おかげまいり」は式年遷宮と深い関係があって、そういう時期
に参拝すれば、普段よりまして「おかげ」をいただけると信じられていたと
いうことで、ものすごい参拝客が訪れたということです。

 一旦ここで切ります。

 
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月20日 07時27分14秒 ) パスワード

>たふとさに 皆押しあひぬ 御遷宮

尊さ、って
江戸時代の人も伊勢神宮の存在に敬意を払っていたのですか。


これが「伊勢参り」や幕末の「ええじゃないか」になっていくんでしょうけど

伊勢神宮ってやっぱり日本人の精神の柱なのかと「たふとさに 皆押しあひぬ 御遷宮」の句で思いました。



是非わたくしの分もアマテラス様と豊受大御神に日本人に生まれた感謝をお伝えくださいね。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月20日 11時34分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 了解しました。しっかりと感謝を伝えてまいります。

 本当は、伊勢神宮は末社を含めて125社で成り立っているということで
すので、2泊3日くらいで自転車で回りたいくらいです。そうすれば何か新
たなる謎と発見があるかも知れません。

 江戸時代までは尾張、三河、遠江の人達は船で行ったそうです。その方が
早かったし疲れななかった(昔の交通手段の常識は、今とは違っております)。
 
 伊勢と言うと、伊勢エビ等海産物と赤福餅のイメージが強いですが、本当
のところどうなんでしょうか。もっと知られざるものがあると思いますが、
今回はそんな所にも興味を持って行きたいと思っています。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月20日 21時46分43秒 ) パスワード

お伊勢さんというと旅籠の「ひさご屋」が古いと聞いています。
これ以上の情報はココでは書けないですが。



伊勢のお土産というと

1.
「神棚」でしょうか?
ミニサイズのお社。

高価仕様までいろいろありますが、持って運べる小さなのがいいです。
机に置けるぐらいのものが。



2.
真珠の首飾り。

御木本の高価なものでなくて
マガイ物でも安くて良いのがありますよ。

200円ぐらいで20万円のとあんまり差が無いようなものも。

    勿論止め金部分が安っぽいですけど
    見えないようにすれば大丈夫。
    笑
   
    若い女の子へのお土産にはピッタリです。


3.
蛸せんべい

    蛸をぺちゃんこに押しつぶした感じのせんべいです。


[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月20日 22時03分20秒 ) パスワード

実は友人とアマテラスの話をしてて

>自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井にいる御饌の神、等由気大神を近くに呼び寄せなさい


やっぱりアマテラスも女なのよね
豊受大御神とガールズトークで盛り上がってたみたいね、と。


どこの男神が女神とどーしたこーしたと噂話を楽しんだのかしらねえ、と。


古代の人も女性気質が分かってたのかしらね、と。
アマテラスを1人にしておいては淋しいだろうから、おしゃべり相手を連れて来たのかしらね、と。





>江戸時代までは尾張、三河、遠江の人達は船で行ったそうです。
>その方が早かったし疲れななかった。


名古屋から伊勢神宮は遠いです。
ものすごく遠いです。

鳥羽まで舟で行けたら、そりゃあ、ラクです。

で、鳥羽に降り立ったら「兄弟船」を歌うカラオケが待ってるとか。



鳥羽の北には久居もあるし
きっと平家の子孫も鳥羽あたりには
大勢お住まいかも。
[57]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月21日 05時41分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日朝6時出発。情報をいただきました。合わせ持って見てまいります。
 感謝の意伝えてまいります。
 では―
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月21日 23時17分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 とりあえず、伊勢のツアーから無事戻ってまいりました。夜の8時半。
お約束どおり、外宮、内宮にて感謝の意を伝えてまいりました。

 今回を含めて伊勢神宮には4回行っていますが、今回の遷宮後の訪問は、
社殿の美しさという点において格別でした。 
 鰹木という屋根のてっぺんに重しのように載せられた丸太のようなものが
金箔で覆われており、ヒノキの無垢の色とあいまって、それこそ金閣寺より
も荘厳な美しさでありました。

 それと今回感じましたのは、日本人は美しい、特にこの神宮の境内におい
ては美しく見えました。心から清められるという美しさなのでしょうか。そ
れとも民族的なDNAなのでしょうか。そして、また伊勢の女性にはきれい
な人が多いということもわかりました。高槻で感じた女性の美しさは王族的
でしたが、伊勢の女性は弥生的な優しさを感じさせるような美しさでありま
した。

 本日は簡単ではありますが、とりあえずのご報告とさせていただきます。
 
 
 

[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月22日 04時19分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。
朝6時から夜8時半ですか。
しっかり1日の遠足でしたね。
にっこり

お疲れでしたでしょうね。


>鰹木という屋根のてっぺんに重しのように載せられた丸太のようなものが金箔で覆われており、
>ヒノキの無垢の色とあいまって、それこそ金閣寺よりも荘厳な美しさでありました。


美の原点、という感じですね。
金閣寺の美しさには「さあ、どうだ!」という力を感じますが
お伊勢さんの方は、心から平伏してしまう、ような。

良かったですね。


>高槻で感じた女性の美しさは王族的でしたが
>伊勢の女性は弥生的な優しさを感じさせるような美しさでありました。

いいですね
異なる女性の美しさを見られて。

伊勢にはいろいろな土地から人が来ましたから  混血して平均化されて  これが美しさになるんだそうです。

顔が平均化するということは  バランスが良くなる  ということで美男美女になるんだそうです。




[60]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月22日 09時24分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 何と表現しようかとこまねいていたところです。人の顔の表現て難しいも
のですね。でも、そう、「バランスがいい」というのはピッタリの表現です。
コンパクト(小顔)で、整っていて、ゴツゴツしていない、骨太でない、草食
系でやさしい純真な顔、といいますか、日本以外にも見かけます・・・。

 さて、伊勢の話をと思いますが、出かける用事がございますので、帰って
来てからといたします。

 なお、明日、例のコピーと文庫本を送ります。また4月の1年記念用の図
書の準備も整いました。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月22日 11時07分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。


それにしましてもお忙しそうですね。
伊勢から戻ったばかりですのにね。


もう3月も終わりに近づきましたね。  
早いですね。


この1年間で結局はわたくしの先祖が思っていたよりずっと凄かったというのが分かりました。
(どうしてそうなるの?)
というのが繋がって(あら、そうだったの?)と伯母や母のプライドが分かってしまいました。
謙虚な日本人としては  自分の家がどうだった  だなんて口に出来ませんものね。


日本人は本当にアチコチの家と繋がってしまいますが
自分の家と同じような誇りと深い苦しみを多くの家も共有してたのかと。


長田さんの家の古さと申しますか名称の古さには驚きました。
そして我々が現在使っている言葉が縄文時代や弥生時代から存在してたのかと
それにも驚きました。



古代の豪族が兄弟でも繋がるというのも分かりましたし
楽しく面白かったです。


物部氏の存在がとてつもなく大きくなりました。
これも意外でした。


まだまだ勉強しなくては。
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月23日 10時52分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊勢神宮にお参りしたら頭がリセットされてしまい、白紙状態になって
しまいました。プラスにするパワーがあるということですか。境内に「三
つ石」、内宮に「一つ石」があってパワーストーンだといいます。人が皆
手をかざして感じ取ろうとしていました。私も同様にやってみましたが、し
かとは確認できませんが、三石の方はピリピリ、ほんわか遠赤外線のような
ものを感じたような気がしました。石と言っても廃棄された石柱の根元のよ
うな感じでありました。

 頭の中が「プラス状態」になってしまいましたので、これから謎の追及と
いう「マイナス状態」(ハングリー状態)に戻さなくてはいけません。

 まずは、いくつかの謎。
 @外宮か内宮か、入口に続く道路の灯篭に6亡星のマークが今も残ってい
 たこと。
 A外宮の中に「多賀宮」があったこと。
 B伊勢神宮とは125社の総体をいうということ。どう理解したらいいの
 か。
 C出雲大社と伊勢神宮と籠神社(元伊勢)とあるが、どこが一番格上なのか。
 D外宮(豊受大神宮)の「トヨ」とは何か。「豊川」「豊橋」「豊田」等と
 どう関係するのか、あるいは否か。
 Eなぜ伊勢の地を選んで鎮座したのか。
 F宇治山田は伊勢市内にあるが、京都府の宇治山田とどんな関係があるの
 のか。
等々・・・。

 頭の中の組み直しをいたします。

[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月23日 12時28分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


プラス状態になりましたか。
アマテラスの伊勢神宮の巨大なパワーの前にご自分の心が満たされてしまったのかしら?



>「マイナス状態」(ハングリー状態)に戻さなくてはいけません。

また切り替えないといけませんね。



> @外宮か内宮か、入口に続く道路の灯篭に六芒星のマークが今も残ってい
 たこと。

    籠神社や関ヶ原の合戦屏風にも共通する何かがあるんでしょうか?


>  A外宮の中に「多賀宮」があったこと。

    これは知ってましたが、何故?不思議です。


> B伊勢神宮とは125社の総体をいうということ。どう理解したらいいの
 か。

    ですね。
    125の神様のリーダーなんでしょうか?


>  C出雲大社と伊勢神宮と籠神社(元伊勢)とあるが、どこが一番格上なのか。

    一応伊勢神宮ですね。
    氏子が天皇家なんですから。

    でも、元は籠神社だった。東京と京都のような関係かしら?

    出雲大社は伊勢神宮に条件降伏した?

        実権は譲るから住まいの社は作ってね、と?


>  D外宮(豊受大神宮)の「トヨ」とは何か。「豊川」「豊橋」「豊田」等と
 どう関係するのか、あるいは否か。


    トヨとは卑弥呼の後継者になった女性。
    そして推古天皇でもある。


>  Eなぜ伊勢の地を選んで鎮座したのか。

    これはネットで検索すれば出ますよね。



「日本書紀」の神話によると、アマテラスは当初、鏡として天皇と共に大和(奈良県)の宮殿にいた。

 しかし、第10代崇神天皇のときに、日本中で疫病が大流行し、なんと人口の半分が死ぬという大惨事が発生。こうした災害は何らかの事実を元に描かれた可能性が高く、もしかしたら疫病だけでなく干魃などの気候変動も同時に発生したのかもしれない。



 災厄は翌年になっても治まらず、時の崇神天皇はあることを思いつく。



「私と一緒の宮殿に、アマテラスと大和の地主神(ヤマトノオホクニタマ)の2神が祀られているのが原因ではなかろうか」



 当初、一緒に祀られていたこの2人の神様は、王朝が調べたところ「実は相性が悪かった」と判断され、このままではチカラの強いアマテラスの祟りが続くのではないかと懸念された。

 そこで新たな神宮を作るため皇族の巫女に「清浄な土地」を探させ、伊勢にたどり着いたのが、崇神天皇の次の代、垂仁天皇25年のことだった。



 このときアマテラスは、次のように語ったとされる。



【この神風の吹く伊勢の国は、すなわち常世(現世以外の世界)からの波が打ち寄せる国である。辺境の<うまし国>。ここにわたしはいたい】



 以上は神話の話であるが、歴史学的に言うと、崇神天皇や垂仁天皇は実在し、その治世は西暦300年前後と考えられている。
 当時の伊勢は、中央ヤマトの影響が到達してない辺境の地であり、時間にして約200年ほど文化の遅れた地域だったからこそ「清浄の地」として認められた可能性もある。



 かくしてアマテラスは伊勢で祀られることになったが、無事に国は治まったのか? というと、これが簡単ではない。


 朝廷はその後も、アマテラスの祟りを恐れて伊勢神宮に巫女を派遣し続けた。

 が、天皇が病気になった原因が、占いの結果、アマテラスの祟りとされたりするなど、何かと恐れられ続けた。



 そして奈良時代の772年8月、伊勢に凄まじいハザードが到来する。



 台風である。



 史書「続日本紀」によると、異常に激しい風と雨で樹木は根元からひっくり返され、建物の多くが倒壊。
 まさに、1959年9月に東海地方を襲い、死者・行方不明者5101名を出した「伊勢湾台風」を彷彿させる暴風雨であったのだろう。



 朝廷はこの台風の原因を、アマテラスの両親である「イザナギ・イザナミ」、弟の「月読」による祟りと判断し、すぐに官社(朝廷直轄の神社)を建てて、彼らを祀った。それが内宮から1.8キロ、外宮から3.8キロの位置にある月読宮である。



 崇神・垂仁天皇の代にアマテラスの神宮を建てたまではよかったが、朝廷は、台風をキッカケにその家族が放置されていたのを思い出し、急遽、同じ伊勢の地に祀ったのである。





 なんとも人間臭い発想であるが、万物に対し畏敬の念を抱き、他者を敬う日本人の美徳は、こうした歴史に裏付けられているのかもしれない。




>  F宇治山田は伊勢市内にあるが、京都府の宇治山田とどんな関係があるの
 のか。

    京都の宇治山田とどういう関係があるのでしょうね?
    こちらは平等院の近く?
    そして近くに「伊勢田」という地名がありますが
    どうしてなんでしょうね。



また頑張って考えて行きましょうね。
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月23日 14時01分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今文庫本by-airにて送って来ました。

 さすがあを様、私の知的好奇心が刺激されました。

 「常世の国」「うまし国」・・・ちなみに、若狭は「みけつ国」と言われ
ていました。
 昨日は、おはらい町(おかげ横丁が中にあり)でどういうわけか若狭ガレイ
の干物を買って来てしまいました。他には、尾鷲のサンマ干し、秋田のハタ
ハタの干物、虎屋のういろ、知多のエビせんべい・・・な、なんと伊勢のも
のがないではありませんか。でもありました―日本酒の「白鷹」・・・伊勢
神宮奉納酒(一社のみ許可されている)を買って来て、さっそく飲んでおります。あとは鳥羽産のヒジキ、のり等を購入して来ました。

 月読宮、猿田彦神社、斎宮址、伊雑宮・・・その他、斎宮も何十人も務め
ておられるので、神社に祀られているのかも知れません。

 宇治山田については掘り下げてみたいと思っています。伊勢と伊賀はどの
ような関係にあったのかということ、伊勢神宮にかこつけてお札の販売と称
し、情報収集もあったのではないか。全国から参拝客が訪れる・・・伊賀者
も当然情報ネットワークを築いていたはずであります・・・。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月23日 16時11分26秒 ) パスワード

さきほど香港の友人のパーティから戻りました。


広東のチャイニーズと北京(台湾)のチャイニーズの違いがやっと判りました。
再会のツァイチェンは北京(台湾)式で広東はそうは言わない。。。。



秦は北京(台湾)では  しぃん(死因とか子音と同じような発音)
しかし広東語になると  ちゅん


提筆忘字  てぃい・ぴぃ・わん・つうぅ  の発音が広東の人には全く通じなかった
唖然



わたくし
広東の人に「アンタは中国人の顔だ」と言われました。
体型も顔も彼ら系かも。


それで
2000年前に半島経由で日本に来た
と言っておきました。


そうかワタシって中国南部なのか・・・・
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月23日 22時38分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


ここ暫く  羽鳥  についてぼんやりと考えているのですが
    持統天皇がらみもあって
遠江国の羽鳥は中臣羽鳥が絡んでいるのではないか
と改めて思っています。


   彼が坂東から意気揚々出世を目指して大和に行く途中だったのか
   罪を得て坂東に行く途中だったのか


そういう場所に後に出雲の神様をお迎えして服織神社が建てられたのかなと。
持統天皇が亡くなる前に頑張って三河に御幸したのは何故か、と。



   最近考えていることです。
   ハトリの黒い影を感じるけれど姿は全く見えないので
   堂々めぐり中です。 
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月24日 03時32分05秒 ) パスワード

<65>の書き直し


三つ柏さん


ありがとうございます。
楽しみに待っていますね。


伊勢に行ったのに、ヨソの地の名産のお土産物を買って帰ったとは、おかしいですね
でもやっぱり伊勢は日本全国から参拝者が来るから
土産物が伊勢の物だけよりは
別の処のもあったら、観光客には売れるでしょうね。



伊賀者は伊勢でも暗躍してたでしょうね
いろいろな土地から参拝者のふりして来てるでしょうから
情報交換に最適だったでしょうね。

[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月24日 03時45分52秒 ) パスワード

書き直しの続き


書き足し:


>  D外宮(豊受大神宮)の「トヨ」とは何か。「豊川」「豊橋」「豊田」等と
 どう関係するのか、あるいは否か。


    トヨとは卑弥呼の後継者になった女性。
     さらに神功皇后の妹にも「豊姫」がいる。
    そして推古天皇の名前でもある。
        『日本書紀』による和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)
        『古事記』では豊御食炊屋比売命


  
     「トヨ」はお目出度い言葉でもあるので 
     いろいろな地名にも使われている。



つまり      アマテラスとは神功皇后であり卑弥呼であり持統天皇のこと。
そして      トヨとは神功皇后の妹であり推古天皇であり不比等の娘の(聖武天皇の妻の)光明皇后のことで
         さらにその娘・孝謙天皇のことなのかなと。



こんな感じで藤原不比等と繋がっているのでは?と。
いえいえ、繋げたのでは?
   日本書紀で不比等の一族の女性の格上げをしたのでは?と。



光明皇后という名前からして  アマテラスやトヨを  意識しているのではないか?と。


それで伊勢で、アマテラスと豊受大神を近くに一緒に祭ったのでは?と。
アマテラスと豊受大神という女性神2人を近くで祭ることにより
藤原氏の女性にはそれだけの天皇の妻になる理由がある
と政治色をつけたのではないでしょうか?

   「既成事実」を捏造したのですよ。
   天皇の妻には藤原氏以外から入れてはならない、と。


やっぱり不比等、すごい!
[70]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月24日 23時21分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊勢神宮にパワースポットがあるということは、しごく当然のことであり
ました。即ち伊勢神宮は中央構造線(諏訪湖から紀伊半島、四国を通って九州
まで)の上に建てられているからであります。マイナスイオンやら磁力線やら
がオーラのように強く出ていると思います。見える人には見えるのかも知れま
せん。
 伊勢神宮でもうひとつの不思議な事は、冬至の時に宇治橋の鳥居の真ん中
から太陽が昇るということと、春分・秋分の時に太陽は伊勢神宮の上を通る
ということであります。これはどういうことかというと、即ち太陽信仰が根
底にあるということであります。

 京都の宇治山田については、北に京都・近江、東に伊賀・伊勢、西に摂津・
丹波、南に奈良・河内・吉野・高野山と情報のスクランブル交差点になって
おり、戦略的には最前線に匹敵することがわかりました。また琵琶湖から宇
治川、木津川、淀川の水系も重要な水運・移動・情報の流れを担っておりま
した。
 逆に、伊勢は伊賀の南東、熊野の北東といった西側の世界から隔離された
場所であり、それはまた東側の世界への発着点でもあった。

 昨日から寒波がやってきており、寒暖の差が激しいので調子が狂ってしま
います。そんな中、野暮用も済ませながら、浜松の入野、即ち雄踏の東側、
かつ佐鳴湖の南端にある龍雲寺というお寺に行って来ました。以前、伯父の
葬式で行ったことがありましたが、なかなかの寺であった記憶がございまし
たし、雄踏で賀茂氏の墓がたくさんあったので、その雄踏街道の東への延長
線上でありますので、何か発見するものがあるのではと考えたわけでありま
す。ついてみますと、由緒書きがあり、南朝と関係していることがわかりま
した。それを記します。
 「木寺宮家御屋敷跡・御墓所
   木寺宮家とは、鎌倉時代から室町時代にかけて存在した世襲親王家と
  しての体制を備えた宮家である。始祖は後二条天皇(後醍醐天皇と兄弟)
の皇子・邦良親王で、山城国葛野郡木寺(仁和寺附近)に住居されていた
  ので、木寺宮と言われた。二代は、その嫡男の康仁親王。康仁親王は、
  持明院統・光厳天皇の皇太子となったが、建武の新政により、後醍醐
  天皇が京都に還幸になり、光厳天皇の即位は取り消され、それに伴い
  康仁親王の立太子も無かったこととなり、親王は中務卿に補任されたが、
  以後大覚寺統の皇位は傍流である後醍醐天皇に移り、皇位に就くことは
  無かった。
   康仁親王は乱戦の折り、東国に御下向、当入野が南朝方荘園だったの
  で、現在の龍雲寺東墓地上段に移り住み、四百石御所領された。その後、
  龍雲寺を建立し開基となる。現在も墓地最上段の階段を上がり山道を進
  むと康仁親王の御墓所が残っている。龍雲寺古文書によると、康仁親王
  以来八代ここに続き、本所一帯を治めていたとされる。その八代目赤津
  中務少輔が、三方ヶ原の合戦時に武田家の菩提寺である甲斐の慧林寺の
  開山夢窓国師と龍雲寺の開山普明国師が師弟法縁関係であった因縁によ
  り、武田方の味方をした為、木寺宮家と龍雲寺は家康公に攻められるこ
  とになる。宮家は境内に火を放ち、信州を通り越後へと落ち延びたとさ
  れる。この全山焼失で焼け残ったのは、御本尊阿弥陀如来像と山門だけ
  であった。
   館のあった場所より南を見ると、東西北の三方を山で囲まれ、高台に
  あり、住むにも守るにも素晴らしい立地だったことがよくわかる。」
ということです。
 「遠くに所有する荘園へ落ち延びる」というのが逃避の第1のパターン。
 「遠江・東三河から信濃へ落ち延びる」というのが第2のパターン。

 この龍雲寺のすぐ南東に、円墳がございました。
 「入野古墳
   入野古墳は、直径44m、高さ5.9mの円墳です。1993年に墳丘
  裾部分の発掘調査が行われ、葺石をもつことが確認されています。
   墳丘には埴輪がみられないこと、大型の円墳であることから、5世紀前
  半(約1600年前)に築造されたと推定できます。
   円墳としては市内最大級であることに加え、海岸部を広く望むことが
  できる三方原台地の南端に築かれていることをふまえると、この古墳には
  浜松南部地域を治めた豪族が葬られていると考えられます。」
ということでした。
 これらの古墳について、その内一度総括しなければなりません・・・。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月25日 02時26分27秒 ) パスワード

三つ柏さん

>伊勢神宮でもうひとつの不思議な事は、
>冬至の時に宇治橋の鳥居の真ん中から太陽が昇るということと、
>春分・秋分の時に太陽は伊勢神宮の上を通るということであります。
>これはどういうことかというと、即ち太陽信仰が根底にあるということであります。


さすがアマテラスに関わる重大な太陽との関係ですね。


こういうのを日本人はいつから知ってたんでしょうね。
メソポタミアやエジプトなんかの天文学を人類は移動する時から各地に携えて来たんでしょうか?
人間ってスゴイですね。



入野古墳
どなたの古墳か分かると良いですね。
そしたら  羽鳥の謎が解けるかも。


木寺宮家御屋敷跡・御墓所
邦良親王が始祖。
南朝方。

やっぱり南朝方が釣り上がって来ますね。
当然近くには北朝方の本拠地があって当然で、小競り合いをしてたんですから
でもやっぱり南朝方の方が浮かび上がって来るのは三つ柏さんが南朝方系ということなのかしら?
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月25日 02時33分46秒 ) パスワード

地名の「宇治」などについて情報を頂きました:


以下少々編集の上コピペ:

「宇治」の付く地名は伊勢や京都の他にもあって、その1つ、岡山県にも存在します。

「妹尾一族」という名の一族本を自費出版されたひとの出身地が宇治遠原(うじ・とおはら)の出自です。
国内随一のベンガラの吹屋鉱山への街道筋です。 


ということで宇治の地名の代表が以下の三カ所と京都の宇治です。

岡山県
http://www.mapion.co.jp/phonebook/M12001/33209/BS3302223/


和歌山県
http://www.mapion.co.jp/phonebook/M12001/30201/BS3002216/


島根県で加茂町の宇治
http://www.mapion.co.jp/phonebook/M12001/32209/BS3204627/



「うじ」は、宇遅・菟道・宇治・兎道・兎遅と色々と表記されて居ます。

名字ではなく、土地名の字典に依ると、
茨(ウバラ)いばら、の多い道、または、茨の多い土地となっていました。



伊勢は、「イ(沃)セ(瀬)」であろう。
下流で水の溢れ易い川瀬。
っとなっていました。



「豊」地名は豊前・豊後に代表される豊国のトヨ国で、
豊かな国、雄大な国を言う
と成って居ます。

大日本の「大」の使い方と同じですね。

[73]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月25日 09時32分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 羽鳥について引き続き探究していきたいと思っておりますが、後白河上皇
の時、平清盛が熊野の霊地を再現するために造営したのが「新熊野神社」で
あるということです。ずっと気になっていたのが、「羽鳥庄」は新熊野神社
に寄進されたとあります。それは領主である誰誰から(たぶん平氏かな)だと
思いますが、新熊野神社のホームページを見ますと、「世阿弥」との関係も
浮上して来ました。羽鳥は平家にも、源氏にも、またひょっとしたら能楽師
(服部)にも関係しているのかと新たな想いを抱いております。
 あを様得意の分野「平家」でありますので、是非ご教示下されは幸甚です。
 本日はJOB拘束日。夜は定例のアルコール麻酔会ですので手が出ません。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月25日 13時09分02秒 ) パスワード

>「羽鳥庄」と 「新熊野神社」の関係

http://katumasa1225.hamazo.tv/e3163047.html

復習ですね。



羽鳥(はとり)庄とは?



おでかけ


 浜松の東部の旧国道1号宮竹の交差点から二俣鹿島橋まで通称「笠井街道」があります。
 長田郡衙が置かれていた推定されている宮竹付近を通る笠井街道は、天龍川平野を南北に縦貫し、かなり古い時代から重要な道と考えられます。「笠井の市」は遠州織物の集積地として全国的にも有名でした。



 笠井に入る手前に、「貴平」というところがあります。ここは、橘諸兄の子孫とされる「秋鹿(あいか)氏」が最初に居住したところです。

秋鹿氏は鎌倉幕府4代将軍藤原頼経(九条道家と西園寺公経の娘・倫子の子)に仕え、南北朝期に足利尊氏により遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補任されました。のちに中泉郷に移られ見附の「府八幡社」の神主を兼任、徳川幕府の初代中泉代官となられ、明治以降は旧中泉公園(屋敷と庭園 一角に劇場や遊郭があったとされる)の主(あるじ)でした。
 天竜川沿のこの付近の郷は、古くから磐田国府とかかわりのある土地です。



 集落の一角にある「八幡神社」にある由来書には、驚くべきことが記されていました。
この神社に合祀されている「玉宮」「中宮」「沖宮」とは、聖徳太子の三王子のことで、蘇我入鹿の乱をさけて、この貴平の郷に匿われ、薨去されたのちにお供のものが三柱を建てたものだと書かれています。にわかには信じ難いのですが、聖徳太子の有力なブレーンのひとりに常世(とこよ)の虫事件で活躍した「秦 河勝」がいますので、まったく根拠のない話しともいえません。遠江の麁玉郡や長田郡には秦氏に引きいれられた人々も入植していたと考えられているからです。



 

 笠井観音の東へ700~800m行ったところに長上郡の式内社「服織(はたおり)神社」があります。

                        所在地: 浜松市東区豊町322
                        祭神: 天穂日尊、建御名方尊

 由緒書きには、元明天皇の和同元年(708) 出雲国から神さまお迎えして造営されたとなっていますが、一帯には当時すでに織物に関係する人々が集団で暮らしていたと思われ、彼らは、5世紀以降に入植した秦氏の品部の子孫と考えられています。鹿玉(あらたま)郡には覇多(ハタ)郷があり、長上郡の「朝日波多加神社」も秦氏に関わる神社とされます。


平治の乱の後、後白河上皇のもと荘園の再編されているころの記事に、遠江に関して次のようなものがあります。平家全盛のころのことで、遠江守は、重盛、宗盛、基盛、頼盛と相次いで任官しています。

・) 永暦年間(1160ごろ) 京都新熊野神社へ遠江国羽鳥(はとり)庄を寄進する。
・) 嘉応3年(1171)    京都松尾社領池田荘と京都仁和寺観音堂の末寺の頭陀寺の寺領川匂荘とに紛争がおき、池田荘の四至膀示を定める。
・) 承安3年(1173)    最勝光院が建つ。このころからのち、村櫛荘は同院領となる。

 「服」の訓読みのひとつに(はとり)というのがあり、意味はハタオリ(機織り)のことで、漢字2字で服部、服織などと表記されることもありますが、羽鳥(はとり)もそのひとつです。この付近に、中世期に存在したとされる羽鳥庄があったと推定されています。


 市野庄も元は内蔵寮の領地であったといいますし、延喜式には、遠江の「調」として絹があったことが記されているそうです。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月25日 13時31分38秒 ) パスワード

      平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、
      院近臣らの対立により発生した政変である。



      平家全盛のころのことで、遠江守は、重盛、宗盛、基盛、頼盛と相次いで任官しています。


      永暦年間(1160ごろ) 京都新熊野神社へ遠江国羽鳥(はとり)庄を寄進する。


つまり
羽鳥庄は平家が(=平重盛が?)寄進した可能性が高いですね。



平治の乱って、平家の皆さんが熊野へ遊びに行くという留守を狙って、源義朝が挙兵して

    しかし平家側の罠だったのかも

失敗して、平家が全盛を極めるきっかけになりました。




やっぱり平治の乱は平家側の出来レースだったんだなと改めて思いました。
寄進先が「京都新<<熊野>>神社」ですもの。


また、その前からの  熊野と羽鳥庄  の関係もアヤシイですね。
となると  物部  との絡みでしょうか?



また曽祖父正盛・祖父忠盛・父清盛・子重盛の家の家令=家老=は平家貞・貞能父子ですしね。

    家貞の6男が本姓平、俗姓服部、伊賀の家長  ですから
    やっぱりアヤシイ。


後の時代の伊賀の呉服明神の神職服部貞信はやっぱりアヤシイ。
服部半蔵の家とは系統が違うらしいけど。
貞信は宇治田原も絡むし。



やっぱりグルグル堂々巡りに落ち着きますね。



羽鳥が平家の前にどういう所と関係があったのか、そこがアヤシイ。


    出雲と関係があったということから  大元は物部氏  ですか。
    さらにやっぱり  秦氏  も出て来ますか。
    ここから聖徳太子のお子様の亡命話も絡むし。
    そうすると中臣羽鳥も関係する?


羽鳥の歴史の流れが知りたいところですね。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月25日 13時36分16秒 ) パスワード

http://imakumanojinja.or.jp/

    京都市東山区今熊野椥ノ森町42

        TEL:075−561−4892
        メール:info@imakumanojinja.or.jp



当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された神社です。後白河天皇は1155年に即位され、1158年に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺です。当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建されました。その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。


 法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっています。


 その後350年間、当社は繁栄を極めましたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまいました。それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、現在の本殿は寛文13年(1663年)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたものです。



東山って、元は、平家の家が5000棟も並んでた、という平家の皆さんが住んでたところじゃないですか?
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月25日 13時39分37秒 ) パスワード

http://kyoto-design.jp/spot/4941


京都三熊野社 / 新熊野神社

平安時代、紀伊半島南部にある熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の熊野三山を参拝する「熊野詣」が流行していました。しかし、当時の都の人が熊野に参拝することはとても容易ではありませんでした。


そこで、熊野の神を京に勧請するよう、後白河上皇が平清盛に命じ、土や木材などを熊野から調達し、造営したのが始まりです。


この新熊野神社のほかに、熊野神社・熊野若王子神社を併せて「京都三熊野社」と呼ばれています。


「新熊野」を「いまくまの」と呼ぶのは、紀州の熊野を古い(昔)とし、京の熊野を新しい(今)と呼んだことが由来です。



能楽発祥の地

能楽の祖の観阿弥・世阿弥父子は、この新熊野神社で「新熊野神事能楽」を披露しました。

これを観ていた足利三代将軍義満はとても感動し、2人を観阿弥・世阿弥と名乗らせることになった機縁の地です。

境内には『能』と刻まれた記念碑が置かれています。この文字は、世阿弥直筆の著書から採ったものです。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月25日 15時19分37秒 ) パスワード

やっぱり遠江国羽鳥と平家は絡んでますね。
ということは遠江の服部家は平家がらみかも。


推定
遠江国長上郡の服部家は  平氏で丸に三つ柏紋の旗本の服部氏  の可能性が大きい。


平家がらみだったということは南朝方だったという可能性は北朝方だった可能性より圧倒的に大きいです。


当然諏訪大社とも絡みますしね。


状況証拠ならゴロゴロありますよ。


でも本物の証拠を得るにはどなたか一族の中でこの事情を知っている人に出会うことです。


思わぬ人が知っていたりするものですよ。
まさか、こんな人が、と侮っているような人が。


わたくし疑問は「何故丸に三つ柏紋なのか?」です。
平家がらみだったら伊賀系じゃないのか?
伊賀系だったら当然並び矢系じゃないのか?

ここの処が解決できないでいます。



妥協するとしたら
長田家との関係かな?
です。


ひょっとすると重盛・宗盛の時代あたりに遠江国に地盤を持っていて
そこへ遠江国の古くからの長田氏との関係もあって
それで丸に三つ柏紋を使用したのかなと。

それか熱田神宮の千秋家と関係があったのか?


こういう話を知っている人って必ず1人2人はいるはずなんですよ。
ただしどんどん鬼籍に入っている世代ですけど。


興味の無い人もいて
自分の家の家系図を戦後燃やしてしまった某名家もありますしね
親が話しておかなかったから伝わっていない本家というのもありますしね

   でも分家のさらに分家が知ってた
   ということもありますしね


本当に思わぬ分家が知っているかもですよ。
宗家が知らないような話を分家が知ってたり・・・
そんなもんですよ。

   わたくしだって母方の一子相伝の話を伯母から聞かされて
   それも伯母がわたくしを選んで話したことで
   母は知らない話です。

       聞かされて困っていますけどね
       誰か1人を選んで伝えなきゃいけないのか
       という義務に悩んでいます。


   伯母がわたくしを一子相伝に選んだ理由はわたくしがある重大な秘密を知っているからで

   でもこの秘密というのは何百年も前に分かれた母の同族の某氏も知ってて
   この重大な秘密お伯母に伝えたから
   ちょうど一子相伝を誰に伝えるか悩んでいた伯母にワタクシが該当した
   ということです。


そういう「タイミング」というのがあると思いますよ。
わたくしと母の同族の某氏もひょんなことから知り合いました。


だから必ず「伝えたい人」「知りたい人」って存在しているのです。
急がないとね。伝えたいと思っている人がその内に死んじゃいますよ。


わたくしも三つ柏さんのお蔭で  「古代史は海路で解ける」と「出雲の謎」で吉備との関係が分かりました。

要するに  吉備が日本を支配してたのか  と。(まだこの段階を読んでいます)


お陰様で  吉備  との関係が分かってスッキリです。 
ボンヤリ知ってたことがスッキリです。 


目からウロコを取ってくれる人がホントに身近にいるもんですよ。
わたくしも吉備の人と10年以上のお付き合いですが   なるほどな  そういうことか  って今朝も納得でした。

吉備の人もきっと驚いていると思います。なんかね、言葉では書けないのですが
   何か
で繋がってるんですよ。その何かが分かっちゃったんですよ。
この3月に。


ま、日本人はみんな親戚ですからね。
この日曜日には香港の人と秦の始皇帝の話で繋がってしまったし。
まさかと思ってましたけど   徐福  が中国から若い人々を連れて来た話が夢物語で無くなりました。

わたくしの先祖って福建あたりから船出して日本に流れ着いたの?と。
顔だけでなく体型もね。あの香港の人達にそっくりでした。
     香港に来たのは文化大革命で亡命したからですが。
2時間半おしゃべりしてて実に不思議な感覚でしたよ。
これが広東チャイニーズか、と
ロス時代に知ってたマンダリンチャイニーズには感じないものを耳にしてました。


「千里の道を行き、万巻の書を読み、多くの人と交わる」

千里の道は既に踏み入れていらっしゃる
万巻の書も既に読み始めていらっしゃる

今の三つ柏さんには「もっともっと多くの人と知り合うのが良いですよ」と思います。
まずは身近の人々から。灯台もと暗し、のように思います。
[79]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月25日 16時00分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さっそくの推論、ありがとうございます。今回の推論に対し、私としては
かなり可能性があるかなと感覚的にではありますがとらえております・・・。
 氏類・関係氏族等いろいろな人から情報を収集するようにいたします。

 平重盛等の遠江での行動も追跡してみたいと思います。そしてその後の源氏。いったいこの両者はこの地においてどんな軌跡を描いたのか。平家から
源氏へ・・・。ここの松島氏の一部は源氏を名乗っていました。池田庄とい
えば、平家とのつながりが強かった・・・。

 また、伊勢神宮の御厨も遠江には多かった。これは平家寄りでとらえた方
がいいのでしょうか。
 
 いずれにしても、まだまだ知らないことが多いです。
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月25日 22時45分04秒 ) パスワード

>ここの松島氏の一部は源氏を名乗っていました

甲斐=源氏
ということだと思います。


だから松島氏が源氏を名乗っていても全く不思議ではないです。


松島氏が諏訪大社系でも勝頼系ということで源氏を名乗る可能性はありますし。


それに後醍醐天皇のお子様の宗良親王がらみで  服部家のホンヤさんも源氏になってますし。

    思わず  なんでえ〜〜〜?  と叫ばせて頂きました。


    数年前に  服部家ホンヤさんが源姓になった経緯  を読みました。


日本人は源平藤橘の交錯があります。
わたくしの母方も源氏になっちゃってますから。

    本当に   なんでえ〜〜〜? と思いますが

主君が源氏の棟領とか氏の長者だったりして
その縁で源氏に鞍替えしたとか
いろいろありますよ。

こういうことは深く追及しない方が良いと思います。
突き詰めれば  天皇家だって万世一系でしたっけ?  これが嘘800だった  となります。


だから「うちは源氏」とおっしゃるなら
(ああ、あの時に変えたのか)
    と武士は相身互い
理解してあげましょう。


ということで松島氏の一部が源氏でも、なるほどね、と思います。



徳川家康でも最初は藤原姓を名乗っていたのですよ。  これですと「関白」にしかなれないですから。例  秀吉

征夷大将軍になるには源氏でないとね。


それで家康は源氏の氏の長者になりました。


    藤原姓の前は賀茂でしょ
    家紋は葵なんだから

       葵の紋も家臣の家のを貰っちゃったんですよね。


ということで、深く追及しない、ことです。
にやっ
[81]三柏服部さんからのコメント(2015年03月26日 01時07分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 とりあえずのところありがとうございます。
 今はアルコールのせいでどうしようもありません。
 
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月26日 04時11分02秒 ) パスワード

甲斐だけでなく信濃も源氏系ですね。


ま、東の方は源氏を名乗り易いでしょうね。
   祖父源頼信、父源頼義、子義家3代との関係で。
   11世紀ですか。


12世紀には木曽義仲の父あたりからの関係もあるし。頼朝の父の関係もあるし。


       わたくしの母方も11世紀には源氏方に化けてるし。
       その後も何度も化けてるし。

       他にも楠正成との関係もあって菊水紋を使ってたし。
       
       佐々木との関係もありますしね。

       池坊との関係で
       おかげさまで住吉大社に匿われた落人なのに江戸時代には大坂城に戻れましたし。
   
       その後は紀州徳川家に出入りも出来たし。


武士は命が掛かっているから保険として源平藤橘と関係を持って
その時々で使える姓を駆使してたなと思います。
先祖の出自の拡大解釈です。どこかで誰かと繋がりますから。


   
ほんとうに東のほうは源氏ですね。美濃も源氏だし。




朝廷に認められた武士というと  最初の人が  藤原秀郷系になりますね。
この人は武士なのに貴族ですから  源平なんかよりずっと格が高いわけです。

NHK大河の「清盛」の中で   
清盛が薄汚い乱暴者から美しい武士に変身していく様が描かれてましたっけ。

そのお手本となったのが友人である佐藤義清のりきよ=西行法師。
この人は藤原秀郷の子孫ですから当然盟友の平貞盛の子孫の清盛とは仲が良いわけです。


そして西行は平家の没落後に源頼朝に「美しい武士の姿」を伝授しますね。

      頼朝も藤原秀郷流の伝統と格式を学びたかったし。
      それで西行は貴族にバカにされない武士のあるべき姿を乱暴者の東武士に教えました。

      美しい騎馬の仕方、美しい弓の射方、美しい作法、美しい化粧の仕方、美しいいでたちを教えたわけです。



こうして書いていると武士の棟領の失敗者は   木曽義仲  ですね
彼の部下達は都の人々に嫌われました。   残念っ


      
信長は美濃源氏の明智にお願いしてました。

家康は足利源氏の今川家の分家の吉良さんですね。他にも高家はいくつもあります。一色家とかね。他にもありますね。
一色家は足利尊氏の守り役だった記憶です。西三河で吉良と一色は隣同士ですね。
今川氏の発祥地は西尾市になります。西尾市役所のある所。


     
こんな感じで 源平藤橘 で繋がってたというのは  使えましたね。
特に江戸時代は「源氏」ですね。  

どの家でも「うちは源氏」と言いたかったと思いますよ。


でも言えない家もあったわけです。
鈴木とか佐藤とか平なんて   家康に認められたとしても、世間が嗤いますから。
こういう家は穂積氏とか藤原氏とか平氏とか称するより他は無かったでしょうね。


「うちは源氏」と言えてしまった家はラッキーだったと思います。

大昔に源氏の棟領と接点があったような過去があれば  
従ったと言えたり  
娘を貰ったとか
妹を差し出したとか
いくらでも話を大きく捏造出来ました。


だけど日本では周りが知ってますから  嘘というわけではないのです。


武士は命に替えても系図を守りました。困窮して売った人もいますけど。
買った人はやっぱりある程度昔は武士だったんだと思います。

   B29で燃えたと言えた家はある意味ラッキーだったかも。
   証拠は消えたのですから、話を膨らませることが出来たと思います。

   でも寛政重修諸家譜とかで今でも一応読めるんですから嘘800は無理。


記録に  丸に三つ柏紋の旗本の服部氏は平氏  とあるんですから
やっぱり三つ柏さんの家は平氏なんだと思います。

   三つ柏さんとしては源氏の方が良かったですか?
     そうなると足利源氏一門の石橋系服部氏になるでしょうか?
         地理的にあり得ますよね。
       
あっけらかんと「うちは源氏」と言える人はラッキーですよね。
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月26日 06時10分36秒 ) パスワード

そろそろ  XXX  30  を立ててくださいね。
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