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 投稿番号:101420 投稿日:2015年02月23日 08時52分26秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]][
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]]Zからの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎の解明に挑む。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月27日 22時50分13秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101415_97.html  より、こちらに転載:



長上郡における「物部氏」と「秦氏」と
「養産・絹織物」と「服織神社」と「天穂日命」と「羽鳥庄」の関係の「筋」

    (歴史的一本の流れ・つながり)

をずっと調べております。



少し分かったこともありますので、一部紹介します。

 @ 「羽鳥」というのは、どうやら「物部氏」と同族の「穂積氏」をルーツ
とする「鈴木氏」、「宇井氏」・・・そこから更に派生して「熊野」「土井」
「木原」「梅本」「羽鳥」という姓が発生しております。

 そこから想像できるのは、長上郡の羽鳥庄は新熊野神社に荘園として寄贈
されております。即ち「熊野」―「鈴木」―「羽鳥」というつながりで地名
がつけられた可能性があるのではないかと、一つの推理をしております。

 A もうひとつの観点として、東三河以東が「服部」村・庄・郷でなく「羽鳥」であるということ。物部氏出身の国造が三河・遠江・駿府・伊豆に派遣
されているということ。羽鳥との因果関係がよくわかりませんが、@の要因
がすべてにかかわっているかどうか。


 また、「服部」と「羽鳥」の違いが、製品の種類・品質の違いなのか、織
部や織部司の地位の違いなのか、民の構成が秦氏系か物部氏系のちがいなの
か・・・もう少し探究を続けてみます。



 本日は、一日拘束日。なおかつ、夜はアルコールを体内に摂取いたします。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月28日 08時08分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


アルコール消毒は揮発しましたでしょうか?



羽鳥氏を調べてみましたが、載ってない!、でした。


このあたりの情報ということでコピペします:

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%BE%BD%E9%B3%A5

【名字】羽鳥
【読み】はとり,はっとり,はどり,はねとり,はねどり,うとり,しねとり


【解説】

現千葉県北部である下総国埴生郡羽鳥郷が起源(ルーツ)である、穂積氏族。


                やはり御指摘のように「穂積系」ですね。


ほか、現愛知県である尾張藩、津山藩、現福島県東半と宮城県南部である磐城にみられる。


語源は「はたおりべ(機織部)」に従事する工人ともいわれる。


                どこかで「身分が低い」となってましたから
                やはり現場労働者層だったのかも。


現在、群馬県、埼玉県、東京都、千葉県、茨城県、神奈川県、新潟県など関東に多くみられる。



全国順位    1,291位
全国人数     およそ14,200人




都道府県別ランキング


都道府県         埼玉・群馬あたりに多いですね


山形県 1,648位      およそ40人
茨城県 538位       およそ1,000人
栃木県 761位       およそ400人

群馬県 131位       およそ3,200人
埼玉県 362位       およそ3,300人
千葉県 1,186位      およそ700人

東京都 838位       およそ2,300人
神奈川県 1,139位     およそ1,100人
新潟県 380位       およそ1,100人

山梨県 2,198位      およそ20人
長野県 2,730位      およそ50人
静岡県 2,224位      およそ100人

山口県 1,760位      およそ100人

[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月28日 08時13分37秒 ) パスワード

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/hattori.html

ŒÃ‘ãE‹Æ•”‚Ì‹@D‚è•”–å‚ð’S‚Á‚½‹@D•”‚Ì•ž•”(hatoribe)‚É—R—

文字化けして読めません。



こういうことが書かれているようです。

両総の服部 和名抄、下総国埴生郡に酢取郷を収む。    ←    ここがポイントみたいですね

           
後世、羽鳥村の残るを見れば、 ... 常陸の服部 真壁郡に羽鳥郷あり、この地より起りしもあらん。 □近江の服部 和名抄、 ...
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月28日 08時15分40秒 ) パスワード

http://folklore.office-maeta.jp/653.htm

羽鳥の名字の由来:


■ 羽鳥(はとり)

【2013/03/19:改編】

# 1291位

# 穂積氏族などにみられる。

# 下総国埴生郡羽鳥郷(千葉県成田市)をルーツとする。

# 羽鳥の語源は「機織部(はたおりべ)」

# 群馬県から埼玉県北部にかけて多くみられる。

# 現在は、群馬県、埼玉県、東京都、千葉県、茨城県、神奈川県、新潟県などに多く見られる。

# 群馬県:131位、埼玉県:362位、新潟県:380位、茨城県:538位、栃木県:761位、東京都:838位など。

# フリーキャスターの羽鳥慎一は埼玉県上尾市の出身。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月28日 08時33分46秒 ) パスワード

下総国埴生郡酢取郷とあるのを見ますと

モロ!

酢取 < しどり  =  しず しづ 【〈倭文〉】


               〔上代は「しつ」〕


梶(かじ)の木や麻などで青・赤などの縞を織り出した古代の布。
しずぬの。しずはた。しず織り。しどり。しずり。あやぬの。
「神の社に照る鏡−に取り添へ/万葉集 4011」



確か諏訪大社の神紋が「梶」でしたよね。
諏訪大社と麻の織物は関係があるのかも知れないですね。


_____________________________





その文様について常陸万葉風土記(宇野 悦郎著)の中に

新編常陸国誌     しつりという義は・・・・今世にいう島織のことなり。

大日本国語辞典    梶、麻等にて縞を織り出せるもの。
槻文彦説       楮、麻、苧等の横糸を青、赤等に染めて乱れたるように文に織りなすもの

佐々木信綱説      楮、麻、苧等の緯を青、赤等に染めて交織せるもの

日本古典文学大系   シヅ・・・・模様入りの織物の一種

日本歴史大辞典    一種の古い織物の名称。しどりが一種の文のある布。だが縞織物か綾織か その点は確かには分かっていない。(上村六郎)

万葉集体成       倭文布は苧麻、たく等の繊維を集めて絣を織り出したるもの
               縞織の説は受け取りがたい。
       
しずはたに 乱れて思う悲しさを 経緯にして織れる吾が恋 (貫之集)                
賎機に思い乱れて秋の夜の明くるも知らず嘆きつるかな (後撰集)

日本古俗誌        シドリは後世「しどろにみだれる」のしどろと同義語。シズ族の彩色の布を大和民族が採用。                                              (松岡静雄説)




ということは「絹織物ではない」ということですね。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月28日 08時35分17秒 ) パスワード

つまり  羽鳥は服部より歴史が古い  ということかも。


なにせ穂積系なら古いですよね。
[7]丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月28日 23時33分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがあを様です。羽鳥のことよく調べていただきました。
 私も本日は一日浜松中央図書館で調べものと本の読解。『出雲大社と千家
氏の秘密』(中見利男著)を何とか通読。藤原不比等による大陰謀がよくわか
りました(この本、あを様に送りたいと思います)。幸い皇室と出雲国造千家
氏の御成婚という慶事によって千三百年間横たわっていた不比等の呪縛は完
全に崩壊し、新しい出雲の歴史が刻まれることになったと筆者は言いますが、
私欲のための陰謀であったのかどうか、角度を変えて考えてみる必要もある
と思っています。
 その本の中で、「穂積氏」が出て来ましたのでご紹介します。
 「では、『日本書紀』完成後に粗末に扱われた豪族はどうしたのか?
  代表的なケースをご紹介しておこう。
  実は物部氏の一族に穂積氏がいる。
  出自はニギハヤヒの十世孫の穂積真津(まつ)が熊野神に稲束を積んで奉
 納したことから、穂積姓を賜ったという。
  この穂積氏が『日本書紀』を読んでブチギレたのだ
  というのも『日本書紀』完成からおよそ二年半後の養老六年(722)
 正月二十日、正五位上という一国の国造に匹敵する立場にあった穂積朝臣
 老(ほづみのあそみおゆ)は、天皇を名指しで非難したため斬刑に処せられ
 ることが決定した。だが、このとき皇太子の首皇子(聖武天皇)の助言で佐
 渡島に流されたと『続日本紀』は伝えている。
  しかし後で述べる八虐のなかで天皇を侮辱することが不敬罪に当たると
 知っていたにもかかわらず、なぜ穂積朝臣老はあえて天皇を非難したのか。
  その原因は、やはり『日本書紀』にあったと「『日本書紀』の編纂と古
 代氏族」の著者・黛弘道氏は、指摘している。
  というのも、『古事記』では穂積氏は、日本武尊の后の弟橘媛と成務天
 皇妃の弟財郎女(おとたからのいらつめ)の二人の妃を出している、と紹介
 されていたにもかかわらず、『日本書紀』では弟財郎女の名が消され、一
 方の弟橘媛は日本武尊の、なんと妾にされていたのである。しかも穂積氏
 の記事に関して不名誉極まりない話を三件も載せられていたのだ。おそら
 く穂積朝臣老の怒りはそれだけではなかっただろう。なにしろ同族の物部
 氏の誇り高き業績が完全に葬り去られていたのだ。
  よりによって国史のなかで生き恥どころか先祖まで恥をかかされたわけ
 だ。だからこそ彼は一族の威信と名誉に賭けて天皇に抗議した、というの
 である。
  死を賭してでも国史の編纂内容に抗議した穂積朝臣老。
  つまり、それだけ当時の『古事記』『日本書紀』が持つパワーは凄まじ
 いものがあったのだ。」
と書いておられます。

  701年に「大宝律令」
  712年に『古事記』
  720年に『日本書紀』

  長上郡の服織神社の創建は708年、まさに不比等の一連のクーデター
 の真っ最中であった。祭神は天穂日命。長上郡の服織神社だけがこの天穂
 日命を祀っているということに何か意味を感じます。つまりこの神は出雲
 国造家の祖神なのである(主神の大国主命ではなく、国譲り後、出雲大社の
 祭祀を担った神であった)。つまり負けた側の神を敢て祀ったということに
 反骨精神・意地が見られるのではないか。
  とすると、「服部村」と「羽鳥村」との違いとは、大和政権側と旧物部
 政権側の違いとシンクロしないか・・・。

  羽鳥の意味の推測はこれ以上論理的に進まない・・・イメージ的には
 いくらでもふくらますことはできるんですが・・・。
 
 
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月01日 02時49分16秒 ) パスワード

三つ柏さん



すごい!
かなり迫りましたね。


日本書紀が古事記の話を捻じ曲げていることから我々は藤原氏に都合の良いように洗脳されて来ましたね。



>長上郡の服織神社だけが天穂日命を祀っている
>出雲国造家の祖神
>(主神の大国主命ではなく、国譲り後、出雲大社の祭祀を担った神であった)。>つまり負けた側の神を敢て祀ったということに反骨精神・意地が見られるのではないか。

    ここスゴイ発見ですね。


>とすると、「服部村」と「羽鳥村」との違いとは、
>大和政権側と旧物部政権側の違いとシンクロしないか・・・。

>羽鳥の意味の推測はこれ以上論理的に進まない・・・
>イメージ的にはいくらでもふくらますことはできるんですが・・・。



確か鎌足って鹿島神社かあのあたりの出身だったような?
ということは  羽鳥  とは距離的に近いのかも。


また考えてみます。


とにかくスゴイ発見をなさいましたね。
 

[9]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月02日 06時51分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、名古屋に行き、遅く帰りました。パソコンに向うも睡魔が襲い、
就眠してしまいました。本日朝早くから「ハトリ」についてまとめています。
 資料としては、『七夕と相撲の古代史』(平林章仁著)、『服部村の研究』
(古籐幸雄著)、『内田旭著作集三』の中から『ハタとハトリ』及び『浜名湖
周辺の上代住民』『地名愚考』『三河赤引糸と犬頭白糸』、そして『帰化人
の安置』(丸山二郎著)、その他です。

 論旨を理路整然にまとめるのにもう少し時間がかかりそうです。ただ、最
後の詰めには今のところ至りそうにありません。それはなぜ「はとり」とい
う音に「羽鳥」というイメージと意味を持つ当て字をしたかという問題であ
ります。穂積氏の別れの羽鳥氏をもっても、ではなぜ「羽鳥」氏と表現した
のか、どういう内容を表現したかったのかという根源的問題であります。
 ここの詰めは「想像」の域を越えないと思いますが、想像の羽をはばたか
せてみたいと思っております。

 それではまた後で―
 
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月02日 07時05分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


>なぜ「はとり」という音に「羽鳥」というイメージと意味を持つ当て字をしたか


まったく同じ疑問を持っています。

「はとり」が「羽鳥利」のような3文字なら妥協がつきますが
なぜ2文字なのか?

「とり」が「鳥」になったのは何故なのか?



「はとり」と「はっとり」とがゴチャゴチャになっていきます。




http://folklore.office-maeta.jp/615.htm

■ 穂積(ほづみ)

【2013/03/21:改編】

# 1734位

# 物部氏

# 収穫した稲穂を積み上げたのに由来する。

# 福島県に多く、特に白河市周辺に多くみられる。

# 福島県:177位、山形県:696位など。

# 日本神話に登場する神の饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔の大木別垂根命の子の真津が穂積を賜ったと伝えられる古代氏族。

# 古代豪族の穂積氏は大和国山辺郡穂積村(奈良県天理市)をルーツとする。

# 摂津国島下郡穂積郷をルーツとする。

# 物部氏と同族で、「宇井」「鈴木」に分かれた。

# 穂積から派生した名字には、「熊野」「土居」「木原」「梅本」「羽鳥」「八月朔日(ほづみ)」などがある。

# 俳優の穂積隆信は静岡県伊豆の国市の出身。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月02日 07時13分51秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%82%E7%A9%8D%E6%B0%8F

穂積氏(ほづみうじ/ほつみうじ)

「穂積」を氏(ウジ)の名とする氏族。

古事記・日本書紀にも記される古代氏族で、



大和国山辺郡穂積が発祥とされる有力な豪族。


姓(かばね)は始め穂積臣、後に穂積朝臣。

天津神・饒速日命が祖先と伝えられる神別氏族で、
物部氏や采女氏とは同祖。
熊野国造家も同祖とされる。


後裔は「鈴木」を称し藤白鈴木氏として続いた。代表家紋は稲紋。

極官は、従四位下(穂積山守)。




出自[編集]

穂積氏は、饒速日命の後裔・大水口宿禰を遠祖とする。


大水口宿禰の子・建忍山垂根は、穂積忍山垂禰とも呼ばれ、
娘の弟橘姫は日本武尊の妃となった。

また、同じく建忍山垂根の娘とされる弟財郎女(おとたからのいらつめ)は成務天皇の妃となり、
和謌奴気王(わかぬけのみこ)を生んだとされる。



建忍山垂根の子・大木別垂根の子で、
古墳時代の人物である穂積真津の代に穂積姓を賜ったという伝承を持ち、
姓は臣であった。


飛鳥時代の天武13年(684年)、八色の姓制定に伴い穂積朝臣姓を賜った。


発祥は大倭国山辺郡穂積邑とし、
後に紀伊国牟婁郡熊野地方の流れから藤白鈴木氏が出た。


穂積の「穂/ほ」は「火」を指すという説もあり、鍛冶製鉄に関係する氏ともいう。



新撰姓氏録では、大水口宿禰を伊香色雄命の子とするが、
先代旧事本紀では同じ饒速日命後裔の出石心大臣命の子としている。


また、鬱色雄命(内色許男命)の子とする別の伝承もある




概要[編集]

穂積氏は、古墳時代の継体天皇の頃から日本書紀に活動が記されるようになる。

穂積押山は、蘇我韓子の娘・弟名子媛[2]を妻とし、
継体6年に百済への使者に任命されて任那に駐在して任那加羅の哆唎の国守となり、
任那のうち4県の百済への割譲に尽力したとされる。



穂積押山の子とされる穂積磐弓は、欽明16年7月4日に蘇我稲目とともに吉備国の五郡に赴き、
白猪屯倉を設置した。



穂積磐弓の子とされる穂積祖足は、推古8年(600年)2月、新羅に滅ぼされた任
那日本府を救援するため、
征新羅副将軍として新羅に出兵(新羅征討計画)し、五つの城を攻略して新羅を降伏させた。



飛鳥時代の穂積咋は、大化元年(645年)に東国の国司に任命されたほか、
大化5年(649年)には謀反の嫌疑がかかった右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の逃亡先の山田寺を軍兵をひきいて包囲し、
すでに自害していた石川麻呂の首を斬りおとさせた。


穂積咋の子には、天武元年(672年)の壬申の乱で近江方の武将であった穂積百足、穂積五百枝の兄弟がおり、
はじめ大友皇子(弘文天皇)のために兵力の動員を行う使者になったが、
兄の百足が殺され軍の指揮権を奪われると大海人皇子(天武天皇)に従った。



天武13年(684年)、八色の姓制定の際、穂積虫麻呂、穂積稲足、穂積濃美麻呂が朝臣姓を賜った。


持統5年(691年)に先祖の墓記を上進するよう命じられた18氏の中に穂積氏も含まれており、
後に日本書紀の元となった。


文武4年(700年)、穂積濃美麻呂は師の役行者と共に、相模国足柄下郡(現・神奈川県湯河原町)を訪れ
陰陽の秘法を以て子之神社を創祀したとされ、

このとき、当地で見出した「霊妙なる薬湯」が現在の湯河原温泉であると伝わる。



穂積濃美麻呂の子・忍麻呂は「須須木」を称し、初めて速玉社の禰宜となり、この職は子孫が世襲した。


奈良時代の官人・穂積老は、穂積咋の曾孫で、
大宝3年(703年)に山陽道巡察使を命じられ、
和銅3年(710年)1月1日には左将軍大伴旅人のもと、副将軍として騎兵、隼人・蝦夷らを率いて行進した。

養老2年(718年)、藤原武智麻呂が式部卿に就任した際、式部大輔となる。
養老6年(722年)に不敬の罪で佐渡島に配流されるが、天平12年(740年)に恩赦で入京を許された。

その後、天平16年(744年)の難波京へ遷都の際、恭仁京の留守官を任され、
天平勝宝1年(749年)8月に死去。
この時大蔵大輔正五位上。



その後、紀伊熊野の穂積氏の嫡流は藤白鈴木氏を称したほか、
一族は宇井氏、榎本氏に分かれ、熊野三党を形成した。



穂積氏の子孫として、
藤白鈴木氏やその分家筋の三河鈴木氏(後裔に寺部、酒呑、足助、則定鈴木家)、
江梨鈴木氏(後裔に小屋瀬鈴木家)、雑賀党鈴木氏などがある。


また、日本民法典の起草者である穂積陳重もこの穂積氏の血統であるといわれている[3]。


穂積を姓とする氏族は穂積朝臣以外にも、桓武平氏北条氏流、桓武平氏千葉氏流、藤原北家秀郷流などがある。
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月02日 10時20分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 穂積氏についての資料ありがとうございます。いつも勉強になります。古
代がそんなに遠い世界ではない、身近な世界に感じられるようになってきま
したこと、あを様のおかげと感謝申し上げます。但し、継体天皇まで。それ
以前はごたごたしてまだまだ一筋縄では行きません。

 穂積氏が役行者を師としてということは初めて知りました。即ち賀茂氏と
関係していたということ。また日本武尊の妃を出しているということ、なか
なかの血筋であったことがわかります。後裔の鈴木という姓が非常に多いと
いうこと、改めて見直さなければならないと思いました。

 調べれば調べるだけ歴史のホログラフィーが鮮明になるという結果は出ま
すね。過去には色々な氏族がたくさんいたということ。知らないのは私達だ
け。
 現代の感覚は捨てて、古代の感覚になりきらないと事実認識がずれてしま
うような気がします。現代の衣・食・住・・・文明・言語をすべて捨て去り、裸になって大和言葉だけの世界に行く・・・。
 基本的には飢餓との戦い。家族・氏族・集団で力を合わせないと生きてい
けなかった。食うこと、守ること、尽くすこと・・・これが生きるための三
原則ではなかったか。
 歴史とは氏族と氏族の関係の記録。部族と部族の関係の記録。民族と民族
の関係の記録。
 とりあえずは、どんな氏族が、いつ、どこで、何をしていたのかというこ
とが歴史探究のペースであると思っています。 
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月02日 10時33分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一時訂正:歴史探究のペース→歴史探究のべース(ぺと打っているつもり
なんですが)
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月02日 10時37分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一時訂正→一字訂正。ぺ(pe)とべ(be)が時におかしいです。パソコン不信。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月02日 14時36分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


パソコン不信はわたくしも同じで
読み返しますと赤面です。



穂積氏と羽鳥氏の関係が納得いかないし

穂積氏は物部系の中でかなりの力をもっていたろうことは分かりますが


穂積の「ほ」は  「穂の国」の「ほ」なんじゃないかと  想像しています。
ここの部分を捜しています。


そうすれば東三河=邪馬台国=の謎がちょっと解けるような。


まだまだです。
頑張ります。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月02日 22時48分03秒 ) パスワード

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=101&from=shared_ranking&id=3298281



鈴木姓の由来


最有力説といわれているのが、お祭りの際に使われる稲穂が原点というもの。

なんでも、稲穂を積み上げたものを紀州弁で「すすき」というそうで、
その言葉が「鈴木」の語源となっているといわれています。


        これは知らなかったです。
        紀州弁?!



他の説では、神社の拝殿に使用される本坪鈴(ほんつぼすず)が由来であるとしているものもあります。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月03日 09時35分33秒 ) パスワード

場外乱闘編

以下コピペ
http://ameblo.jp/oyasumipon/entry-11556418220.html


多利思北孤(タリシヒコ)の正体



隋書倭国伝にのっている、あの「アマタラシヒコ」って皆さん、誰だと思いますか?


一般的には聖徳太子、とか、また九州王朝の王、とかいう説も有ります。


        該当部分は下記です。


「開皇20年、俀王あり、姓は阿毎(アメ、またはアマ)、字は多利思北孤(タリシヒコ、又はタリシホコ)、阿輩雞弥(オオキミ)と号す。(略)王の妻は雞弥(キミ)と号す。後宮に女六七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタフリ)となす。(略)大業三年,其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩 天子重ねて仏法 を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ』と。」


当時(600年頃)、推古天皇時代だったのに王が男はおかしいから、
摂政の聖徳太子か、
謎の九州王朝の王なのではないか、というものです。



ここで私はまたもや新説(珍説?)を発表したいと思います。




私は、当時の天皇は尾張(尾治)王だったと考えています。
この人は推古と敏達の第二皇子です。
歴史上、名が出てきませんが、
彼は大化の改新の少し前、上宮王家暗殺の時に山城大兄王とともに殺されたと考えます。




尾張王、誰それって感じなマイナーな人物ですが根拠は以下です。




○推古天皇が女性で有りながら政権についていようと思ったのは、
蘇我馬子に推されたのではなく
自分の皇子を天皇につける為だったと考える方が自然。

後の世に、持統や元明天皇が女帝になったのは自分の子供や孫を皇位につける為なのを見れば明らか。


推古天皇は長子竹田皇子をかわいがったと言うが、
二番目の皇子は全然かわいくなかったという事にはならない。

むしろ、末の子の方が母性としては目がいきがちなはずだ。



推古時代は長いが、その間、聖徳太子以外に次の手を考えていなかったとは思えない。
また、太子や馬子が亡くなってから、老いぼれた推古はどうやって政治をしていたか疑問が残る。


○尾張王には娘がいる。
聖徳太子の后で、橘大郎女です。

系図上、子供は一人しかわかっていないが、子をなせる年まで尾張王が生きていた事は確か。


ここで重要になるのが「天寿国繍帳」だ。
これは、太子がなくなった時、妻の橘大郎女が天皇に申し出て太子の往生を願って作らせたものだ。

この中で、「天皇」とされる人物は、
「我子一人有り。啓(もう)す所は誠に然なりと以爲(おも)う」 
と言っています。


一般的には推古天皇と解釈、とされているようですが、これはおかしくないですか?
推古には子供は沢山います。
わざわざ一人有り、とことわる必要があるでしょうか?

それに橘大郎女は孫であり子供ではありません。

また、大郎女は自分の旦那さんが死んでおばあちゃん(推古)に泣きつくでしょうか?
自分の父親に泣きつく方が自然です。  



参)時にたちばなの大女郎、悲哀(かなしび)嘆息(なげき)して白(もう)さく
「畏(かしこ)き天皇が前に曰(い)いて敬(もう)すはこれ恐れありといえども、懐(おも)う〜」

天皇これを聞こしめして悽然として告げて曰く「わが子ひとり有り。〜」
                 


          註:ぜんぜんついていけてな〜い・・・


尾張王はこの中で他に「尾張大王」とも呼ばれていて、
隋書の中での、王は「オオキミ」と呼ばれている、という記述に合致します。

聖徳太子も「大皇」とか「我が大王」(妻からみて)と記されていますが、
聖徳太子ほどの人であればこの尊称は自然でしょう。


尾張王が「大王」と記述されているのは大郎女の父だから、と解釈されているようですが、
私は本当に天皇だったのではないかと考えます。



だから次のように解釈できます。                     

推古天皇は第一皇子竹田が死んだ後も、第二皇子尾張王を皇位につける為、女帝となった。
しかし尾張王には子供が一人、しかも女の子しかいなかった。
尾張王は、推古が新しく作った宮で太子とともに政治を執り行った。
それが、遣隋使の会った「タリシホコ」であった、と。
そして、皇太子には、一人息子の娘(孫にあたる)を嫁がせた聖徳太子をつける事にした。

(決めたのは推古かもしれない)                     


しかし、上宮王家暗殺事件によって、(尾張王と)その孫白髪部王は一緒に暗殺されます。
天皇家殺しを隠す為、この辺りの事実は隠されたのではないか、と思います。



へえ〜
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月03日 09時59分37秒 ) パスワード

つづき    訳語田=おさた=他田  → おさだ?長田?   場外乱闘中!

        敏達天皇と推古皇后の愛の巣がらみ?!

           オサダって一体どういう立ち位置???
           敏達天皇の別名はオサダ天皇???




以下コピペ
http://ameblo.jp/oyasumipon/entry-11556439339.html

多利思北孤(タリシヒコ)の正体A




そうです、タリシヒコ(タリシホコ)とは、推古天皇の第二皇子、尾張王です、と思います。


敏達天皇は即位したとき、
百済大井宮から訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや、現在の奈良県 桜井市 戒重。他田宮)へ移り、
                    ↑
                   ココ


皇后も広姫→推古へ変更となっています。

広姫が亡くなった為、
と記されていますが、広姫が本当に皇后だったかも疑問が残ります。


推古は欽明の皇女だった為、皇后にふさわしいですが、
広姫の出自は息長氏、
名門とはいえ落ちぶれた豪族では、先代の皇女のライバルではありません。


しかしこの広姫の子、押坂大兄が後の天皇家の皇祖となります。



宮を見てみましょう。


敏達が百済大井にいたのは、敏達天皇572即位ー広姫没575まで、
この宮が政治の中心でした、
そこには広姫とその子押坂人彦の家族が住んでいたでしょう。


                  ココから注意を
                   ↓

敏達は575年、新たな皇后推古との宮(他田宮)をつくります。

敏達天皇が他田天皇と呼ばれたようにここで約10年間政務をおこないます。


そこには、亡くなった竹田皇子と、タリシホコ(尾張王)が、当然いたはずです。


先の「天寿国繍帳」では尾張の皇子はここで生まれた、とされていますから。




「日本書紀 によると
603年 (推古 11年)、
豊浦宮 (とゆらのみや)で即位 した推古女帝 は新宮として小墾田宮を造営しここに居を移したという。

国家権力の中心地として築造し、遷宮したと考えられる。」wiki



豊浦での即位は、592年とされています。
次の宮に移るまでに実に10年近くたっています。
豊浦宮(その宮の跡地は、現在明日香村豊浦にある向原寺およびその近隣の地下に眠っている)は
おそらく蘇我本宗家の邸宅の一画を仮宮とした程度のものだったと思われる、
と記載される。


推古が女帝だった時は、馬子や聖徳太子が中心だったのが良く分かります。


そして問題の、小墾田宮。

『日本書紀』には、
隋使・裴世清(はいせいせい)や新羅・任那の使人が来朝し、
小墾田宮で来朝の挨拶をしたときの儀式の様子が記録されている。


裴世清は、ここで誰に謁見したのか?
推古に謁見したのか、それとも聖徳太子なのか、
という問題だが、

倭王、と記述されている事から、太子でも女帝でもなかったと思われる。


    そう、尾張王(タリシホコ)なのではないか、と。


そもそも、わざわざ遣使して招いた裴世清に、当時の長が謁見しないなんて有りえないし、
その長が皇太子や女性というなら、必ず裴世清はそう記載したはずだ。



         そうすると尾張皇子は他田皇子=長田皇子と呼ばれてもおかしくないということになる???
            ↓

他田宮で尾張皇子を産んだとすれば、575-585が尾張皇子の生年、
592年では17歳〜7歳でまだ即位には早い、
しかし603年なら28歳〜18歳になっており十分考えられる。


よって裴世清が謁見したのは、小墾田宮で即位した尾張皇子であった、
そして太子は兄の息子聖徳太子(?)。



推古天皇は25年政治に携わっていた事になるが、彼女がそんなに長く政権の座にいる必要性を女性の私は感じない。
皇子を皇位につける為なら十分考えられるが、それとて、時期がくれば早々と譲位するだろう。



先のブログでも書いたが、女性が女帝になった例は、息子及び孫を天皇につける為のつなぎ、
または本人が生涯独身で男兄弟がいなかった場合のみ、だ。


また、推古は有能だったと記されるが、
有能であれば、
自分の後の後継者もしっかり指名していたはずで
書紀のように「舒明か山城か明言を避けた」なんて事あるだろうか?

推古がいつ尾張王に譲位したかはわからないが、
どちらにせよ、小墾田宮が推古没年の628年まで政治の中心だった事は確かだ。


そして、「天寿国繍帳」の天皇が大郎女の父尾張王なら、622年の太子死亡時期には尾張王は生きていた事になる。



47歳〜37歳だ。
太子は49歳で死亡しているので、尾張皇子は聖徳太子より5歳位は年が下だった事になる。




以下のようなブログ記事も見つけました。


「仮にアメタラシヒコという大王の存在を仮定すると、いくつか重要な事実が浮かび上がります。


まず、日本書紀は、この時代の事実を改竄(かいざん)していることになります。


実は、日本書紀は、
1.「中国風でかつ漢音を含んだ漢文 」と
2.「倭習と呼ばれる倭人色がつよくかつ倭音・呉音を含んだ文」の
2つに大別できます(『日本書紀の謎を解く』より)。

          へえ〜


これは、書き手が二人いたと解釈されていますが、
上から考えると漢文で書かれた文を倭人色の強い文で改竄(かいざん)したことになります。


          へえ〜

この倭人色の強いところは、
崇峻天皇 の後半部、推古天皇、舒明天皇 記だそうです。


したがって、日本書紀が歴史時代(歴史書にあったことが、ほぼ間違いなくおこっている時代)に入るのはその後、
つまり皇極天皇以下ということになります。」

http://d.hatena.ne.jp/nyankosensee/20110104/1294616871





推古は実子尾張皇子を天皇につけ、その補佐役を聖徳太子にした。
尾張皇子に男の子ができなかった為、聖徳太子を皇太子とし、孫娘(皇女、大郎女)を太子の后とし、
その子白髪部王をその後の天皇候補と考えていた。。。




しかしこのもくろみは推古死後、上宮王家暗殺事件で一掃されてしまう。

                        コレはアヤシイ!



この事件は何を血迷ったか入鹿の誤判と後の孝徳天皇によって引き起こされます。

入鹿も殺害されている事から、勿論この首謀者は孝徳天皇ですが。




聖徳太子伝補闕記[編集 ]

『聖徳太子伝補闕記[6] 』には、



癸卯年十一月十一日丙戌亥時 宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輕王 巨勢・太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人 發惡逆至計太子子孫 男女廿三王無罪被害 (今見計名有廿五王)山代大兄王蘇、殖栗王、茨田王、乎末呂王、菅手古女王 舂米女王膳 近代王 桑田女王 礒部女王 三枝末呂古王膳 財王蘇 日置王蘇 片岳女王蘇 白髪部王橘 手嶋女王橘 難波王 末呂古王膳 弓削王 佐保女王 佐々王 三嶋女王 甲可王 尾張王 于時王等皆入山中 經六箇日 辛卯辰時 弓削王在斑鳩寺 大狛法師手殺此王




上記にみえるように、蘇我・巨勢・大伴・中臣そしてチヌノ王の皇子の軽皇子(後の孝徳天皇)がこの謀の主です。



殺された皇子の名前を見てみましょう。

白髪部王の名前は当然ありますが、尾張王、というのもあります。
これは山代大兄王の息子とされていますが、
この暗殺事件時、聖徳太子の3人いる后の子供たちは全員殺されています。

太子は后と子供たちを全員一か所にまとめて住まわせていたのでしょうか?
催しか何かで集まっていた時に襲撃されたとみる方が普通にも思えます。

その時、大郎女は、我が子が殺されるのを見ていたのでしょうか、
またこの事件後、父の尾張王が生きていたら、
悲しむ娘(殺されたかも)や白髪部王の殺害を黙って許したのでしょうか。



山代大兄は確かに太子の後継者として有力ですが、推古の子尾張王が少しでも皇位についたのなら、
白壁王も出自的にはかなり有力です。むしろ筆頭だったでしょう。



こういった状況の上宮一家を一番面白く思っていなかったのは、広姫の息子達です。

一時は、皇太子として、押坂彦人皇子はもてはやされたでしょう。




「入鹿が上宮王家一族に差し向けた軍の中心人物とされる巨勢徳太(こせ・とこだ,593〜658)が、
その後、どのような処遇を受けたと思いますか?


これだけの大事件、それも反逆罪といっても良いほどの事件の共犯者なのですから、極めて重い罪に問われて当然です。

ところが、この人物は何の罪にも問われなかったばかりか
孝徳天皇(軽皇子,596〜654)の大化五年(650)四月、
なんと左大臣に任命されているのです。



一方、悲劇の王子・山背の忠臣だった三輪文屋君という人物は
「日本書紀」襲撃事件の記事以外には、どの文献にも記録が残されていないのです。


そして、更に驚くべきことに「聖徳太子の孫・弓削王」を殺害した殺人犯の狛大法師は、
孝徳天皇の、


  更に又、正教(みのり)を崇(かた)ち、大きなる猷(のり)を光(てら)し啓かんことを


願う思いから大化元年八月、
「十師」(とたりののりのし、仏教界の最高指導層)の筆頭に任じられています。

この人事こそ、全てを物語っているようにおもえるのです」

http://www.ten-f.com/yamashiro-ooe.htm



上宮一家暗殺事件は、蘇我入鹿にすべての罪を着せ、
当時の天皇(尾張王)とその後継者たちを次々と殺害した事件だったのではないか、
と私は思っています。



そして、舒明天皇が本当に皇位についていたかも実は疑問です。

その事績は遣隋使しかないし、
与えた勲位の記録などもかなり低く、
本当に即位してた?
という状況なようです。


タリシホコは宮廷に女性を沢山住まわせていた、等、
太子の聡明さと比べるとどうかなあ、という印象を受けます。


尾張皇子は太子と比べて有能ではなく、
跡継ぎも女子しかいなかった為、このような暗殺にあってしまった、
という事にはならないでしょうか。



また、wikiの系図によると、入鹿には姉(妹)がいて、舒明天皇に嫁いでいます。(一代要記などの引用)


馬子の娘(法堤郎女=古人大兄皇子の母)とともに、
舒明には二人、蘇我の娘を入れていたのがわかります。


孝徳一派にそそのかされて、入鹿はうかつにも上宮王家暗殺に加わり、はめられたのではないでしょうか。


皆さんはどう思われますか?
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月03日 10時10分07秒 ) パスワード

さらに続く

以下コピペ:

タリシヒコの正体B

http://ameblo.jp/oyasumipon/entry-11565900567.html


また別な説をご紹介します。


多利思北孤(タリシヒコ)は、押坂人彦大兄であり、天皇として即位していた、というものです。


「 さて、タリシヒコが聖徳太子ではなくて押坂彦人大兄皇子だと私が考える積極的な理由の一つは、

太 子 彦人 皇子ひつぎのみこひこひとの み こ (用明紀2年4月条)という名前にある。
この名前のうち太子彦人のヒトが聞こえずに、タイシヒコがタリシヒコに聞こえた可能性もある。


第二には、阿輩{奚隹}弥あえ  き  みという号は、「大兄君おお え きみ」だったかもしれない。
阿はアーと長音で発音される場合もあるので、アーエならばオオエと非常に似ている。
もう少し細かく見るならば、「大」の歴史的仮名遣いはオホであり、h音が入ってくるし、輩にもh音が入ってくる。

したがって、アとオが類似してきてイとエが類似してくれば、
アハイとオホエは全体としてかなり似てくるのである。※{ }内で一字と見なします。


皇族以外の女性でも君と呼ばれることはあるとは思うのだが、押坂彦人大兄皇子の妻もまた皇族である。
糠手姫 皇女ぬかでひめの み こ (または宝王・田村皇女)といって、敏達天皇の皇女である。

したがって「キミ」と呼ばれるにふさわしい。 


そして、太子の和歌弥多弗利わかみたふりが、
タフリの部分から田村王子(日本書紀では村をフリやフルと読んでいる)と推定できるとするならば、
田村王子は押坂彦人大兄皇子の子なのだから、
これまた倭王の子という意味でぴったりのポジションになるのである。


和歌は若を、弥は美か御を意味するだろう。
そして、田村王子の母親がやはり田村皇女というのだから、王子のほうを若をつけて呼んでいたと考えられる。


後宮の六、七百人は多すぎる気もするが、父の敏達天皇の後宮をそのまま受け継いだと仮定すればよいのだろう。

ただし、それだと多すぎるのかどうかは私にはわからない。



 ちょっと出典がはっきりしないのだが、
ウィキペディアに押坂彦人大兄皇子の別名として挙げられている「皇祖大兄」というのが少々気になるところだ。

これは初代天皇の言っているのに等しい。


一つの考え方としては、
押坂彦人大兄皇子のときに「天皇」という言葉が成立したので皇祖と呼ばれるようになったという解釈が可能である。

私としては607年に隋から国書がとどいて「倭皇」となっていたものを
翌年に「天皇」と書き換えたのが天皇の始まりと見ているが、
それが推古天皇ではなくて押坂彦人大兄皇子がやったことと仮定すれば、かなり整合性が出てくるだろう。」

http://plaza.rakuten.co.jp/oo00wa00oo/diary/20071213/



なるほど、一理有りますね。名前の根拠も。太子が田村(タフリ)なら、かなり近い感じもします。


おお、こちらにも、人彦大兄が多利思北孤(タリシヒコ)だったのではないか、というブログを発見。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/abenomaro.1.html


人彦大兄=聖徳太子の事績の一部であり、隋の使者は、斑鳩宮に行ったのではないか、というものです。


水戸黄門の伝承は実際には門下の佐々木が諸国を廻った事績が、黄門様として伝わったように、
人彦王が指示し、廐戸皇子が手足となって寺院を沢山作っていたのではないか、、、と。

《「郊労」とあり、場所の移動は認められます。
しかし、あまり離れているという感じではありませんね。
本当に小墾田宮が都だったのでしょうか?
私は斑鳩宮が出迎えた場所と思っています。
難波津から日下津まで船で行き、そこから生駒の暗峠を越えて竜田川を下れば、斑鳩へ通ずる街道へ出ます。

このルートなら一日はかからないでしょう。

中国人からみれば郊外という感覚の距離です。 》



この方の説は面白く、人彦大兄の子に山代王というのがいるのですが、
これが山城大兄王であり、舒明との権力争奪があったというものです。


私も、人彦大兄は聖徳太子と何か関係があるのではないかと思っていました。

@舎人が同じ 迹見赤檮
A寺の建立など、人彦大兄と太子との接点がある伝承有り。


裴世清を出迎えた時のメンバーは、蘇我とは言い難く、むしろ、物部・中臣です。

「難波吉士雄成、中臣宮地連鳥摩呂、大河内直糠手、船史王平、額田部連比羅夫、阿倍鳥臣、物部依網連抱」
         (日本書紀)




中臣・物部ともに、最初は人彦王に敵対していたが、
寝返ろうとした所、馬子または人彦王(廐戸皇子)の舎人に殺される。
(殺されたのは中臣勝海)


馬子・聖徳太子勢力が遣隋使を派遣したのなら、
587年に物部氏は蘇我氏に敗れているはずなのに、
607年にはもう関係は修繕している事になります。

20年後なので、まあ有りえなくもないですが。


しかし、中臣・物部にとってはあのにっくき馬子に変わりないと思うのです。
迎えたメンバーに額田連があり、推古天皇養育氏族でしょうが、
これは人彦大兄が天皇であれば継母となり皇太后筋にはかわりないのでメンバーにいてもおかしくないでしょう。


簡単に言うと、裴世清を出迎えた時のメンバーに、中臣と物部がいるのは可笑しくないですか、という事です。


また、その後隋に派遣される小野妹子は、敏達天皇の裔と言われています。




人彦大兄が、初代天皇を名乗った人物だから、皇祖大兄と呼ばれた、という所はとてもよく説明がつき、
有りかな、とも思います。


まあ、もしこの方が多利思北孤(タリシヒコ)であったのなら、
宮は水派宮であり、あの広大な広陵町あたりに女官を沢山囲い込んでいた可能性も有りでしょう。


しかし、私には、推古ー人彦大兄ー舒明と何故すんなり記紀は記述できなかったのかという説明が今一つ納得いきません。




皇祖大兄が人彦大兄でさらに多利思北孤(タリシヒコ)であれば、
彼こそは歴史の全面に出てこなければならないと感じます。
が、実際には隠しているようにしか見えません。。
何故でしょうね。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月03日 10時15分30秒 ) パスワード

まだまだ続く

タリシヒコの正体C    実は蘇我馬子????

http://ameblo.jp/oyasumipon/entry-11770635224.html


蘇我氏の巷にあふれる本によると、この蘇我の名前は、蘇我=「すがすがしい」という意味のスガから来ているという。


また、

純陀太子という人が、百済王の骨族(骨品:コッピン・ソンゴル?の事)として武烈天皇の時代に来ている。


別名、「斯我君」と思われる。
この人の読み方は書いていないが、「スガギミ」「スガキミ」であろう。




『日本書紀 』継体天皇7年(西暦513年?)8月項に、
「百済太子淳陀薨」とあり、
純陁と淳陀が同一人物ではないかと考える学者も存在する。


ただし、朝鮮側の資料には武寧王の子として純陁、もしくは淳陀に比定できる人物が存在していない。


また、『日本書紀』武烈天皇7年(西暦505年?)4月項に、
百済から遣わされた「百済国主の骨族」斯我君があり、
その子・法師君は倭君の祖とあるが、
純陁との関係は不明である。



苗字7000撰では、
純陀太子-法師君-雄蘇利紀君-【和】宇奈羅-栗勝・・・・
と続く。


この後裔の和氏については、「百済人なのに和の姓が贈られるなんておかしい」という声がある。


しかもこの和(正確には当初は和史)の名前の由来は、奈良の天理という古代日本の中心地だという。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou78/kai07801.html

(上の記事の内容では、斯我君は女性ではないかとしていて、九州王朝の論展開をしています)



私は、この斯我君=純陀太子(武寧王の息子)が、蘇我稲目の父なのではないかと予想してみました。


よって稲目が法師君となり、その息子の雄蘇利紀君が馬子です。


タイトルからも分かるように、雄蘇利紀君=タリシホコ=人彦大兄と推論は続きます。


稲目を法師君としたのは、仏教を伝えたのは、ほぼ稲目だという事実からです。



へえ〜
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月03日 13時22分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 聖徳太子の謎、色々な説があってどれを信じていいかとまどってしまいま
すが、小林・子氏の『聖徳太子の正体』の中にも義兄弟として尾張皇子が出
て来ます。この本もまともには読んでおりませんので、一度また目を通して
みます。

 本日『出雲大社と千家氏の秘密』を送ります。

 「羽鳥」についていろいろ考察していますが、一日ではまとめるのは難し
いです。もうしばらく時間をご容赦下さい。

 これから、磐田市の埋蔵文化センターに行ってみます。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月03日 13時28分13秒 ) パスワード

友人から:


タリシヒコは,日本の文献にはありません。

聖徳太子と言われるのは,タリシヒコが倭国王と書いてあるのと
隋に使者を送ったからです。

ところが,隋書は小野妹子の記述がないのです。



タリシヒコで諸説が出てくるのは,
日本書紀にも古事記にも,タリシヒコと言う天皇や皇族がいないからです。


日本書紀も古事記も,現存するものは鎌倉時代中期位です。

ですので,元のものはないわけです。
日本書紀は,元は日本書紀でなく日本紀(にほんぎ)と言ったと言う説も有力です。


だったら,何の理由で日本紀に書を入れて,日本書紀って表題替えたか?と言う疑問も残る。


日本書紀は正史ですから,平安貴族は必修科目です。
ですので,日本書紀の参考書釈日本紀(しゃくにほんぎ)なんてものも現存しています。
それで,釈日本書紀でなく,釈日本紀としたかです。
これも謎です。


日本書紀が,最初から日本書紀と言う書名なら,釈日本紀って風に参考書の書名替えたらややこしくなります。



日本書紀と古事記は同時期に編纂されましたが,
古事記は推古天皇まで,
日本書紀は持統天皇の真ん中までです。

それで,古事記と日本書紀の関連性が分からない。


古事記は,日本書紀のダイジェスト版だと言う説もありますが,
だったら,なぜ古事記も持統の中期まで書かなかったのだ?
と言う疑問がありますし,
古事記は完全に万世一系が編集方針ですけど,日本書紀はそうでありません。


皇統の断絶あったことも書いてあります。


なぜ統一できなかったのかと言う疑問もあります。


日本書紀と古事記自体が,数多くの疑問を抱えています。
でも,推理小説みたいでおもろいです〜。
だって,解釈によったら,どうとでも解釈できる。
状況証拠だけで議論してますからね。

だから,古代史は大好きです。
ちゃんちゃん。
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月03日 23時39分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、by-airにて『出雲大社と千家氏の秘密』を送りました。
 今年の6月頃、出雲へ行こうかなと計画しています。
 
 ここ二三日、集中力を欠いております。どうも頭の中というのは拡散と集
中を繰り返しているような気がします。外に向かう時と、中に向う時といった
リズム―バイオリズムがあるのでしょうか。
 
 「ハトリ」について時間をそんなにかけてはおられませんので、とりあえず
私なりのまとめ(箇条書きにて)、そして推論をいたします。

 @「ハトリ」という音(訓)がまず先行して使われていた。
 Aその言葉のシチュエーションに合わせ、適切な漢字を当てはめて使用した。
 B Aは即ち、秦人、秦部、織、織部、服、服織、服部、羽鳥、八止利等。
 C最初は機織りは絹以外の繊維にて。後に少しずつ絹織物が増える。
 D織機も高等化する。また織物の民・技術者も大陸・半島からやって来る。
 E部民制度ができ、専業・世襲化。門外不出の秘密システムの強化。
 F管理者・指導者の管理体制強化。
 G朝廷での職「織部司」に服部連の姓が与えられる。
H各服部(郷)に服部・服織・羽鳥神社等を勧請する。
 H服部連の子孫が服部を名乗る。
 I「服部郷・庄・村の誰々さん」が「服部誰々さん」になる。
 
 結局のところ、「ハトリ」とは「門外不出の秘密の結界」という意味では
ないだろうか。そして「服部」は「ノウハウとしての絹織物」に、「羽鳥」
は「羽と鳥にシンボライズされた神域」という意味に重きをおいた表現では
ないだろうか。

 この推論を元にして、検証・肉付けして行きたいと思います。

 本日は、磐田にある古墳の資料を入手するために磐田の埋蔵文化財センタ
ーに行って来ました。磐田には大小600基位の古墳があり、100mを超
すものも3基あります。大きな埴輪も出ております。浜松・浜北の古墳の次
の代と言われておりますので、その歴史的流れを探究したいと思っておりま
す。
 でも、日本中には何万という古墳が眠っているようです。そんなによく造
ったものだとつくづく感心してしまいます。昔の文化・技術水準は想像以上
に高かった・・・。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月04日 02時39分19秒 ) パスワード

消してしまった・・・・



楽しみに待っていますね。
ありがとうございます。


>「ハトリ」とは「門外不出の秘密の結界」という意味ではないだろうか。
>そして「服部」は「ノウハウとしての絹織物」に、
>「羽鳥」は「羽と鳥にシンボライズされた神域」という意味に重きをおいた表現ではないだろうか。


それで羽鳥村に服織神社がある?



>磐田には大小600基位の古墳があり

すごい数ですね。

600あたり
ということは豪族も600人あたりは「いた」ということですよね。

   古墳の無い豪族もいたのですから
   600人の3倍あたりの数の豪族がいたのかもですね。



そして磐田も邪馬台国に関係する「国」だったかも、ですね。


「古代神都 東三河」の本は邪馬台国論争に名乗りをあげる論文ですから
東三河〜遠江は  邪馬台国 または  邪馬台国  のような場所だったのかも
ですね。


>日本中には何万という古墳が眠っているようです。そんなによく造ったものだとつくづく感心してしまいます

石器時代から縄文時代そして神々の時代があって、その後、古墳時代があった
という重み。

日本各地に何万という古代豪族達が生きていたんですねえ。


そういう時代に稲作の穂積氏や織物のハットリ氏が家業に専念してたんでしょうね。

      穂積氏は「穂積」という名乗りを許されるだけの立ち位置にあったのでしょうね。


      ハットリ氏がどう関わったのか
      熊野とも関わってたのか
      やはり神武天皇+八咫烏とも関わるのか

      とまたまた堂々巡りに。汗
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月04日 07時54分26秒 ) パスワード

やっぱりコレしか見つからないですね。
鈴木氏の支流というのがハッキリしたぐらいです。

上総国埴生郡羽鳥邑の鈴木氏を調べないといけないです。




羽鳥

穂積氏と同族。鈴木氏の支流。上総国埴生郡羽鳥邑を発祥の地とする。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月04日 22時57分15秒 ) パスワード

友人より:



穂積氏ですけど,ニギハヤヒが先祖ですので,出雲の豪族だと思われます。

ニギハヤヒは,大国主命の別名です。
神武が国譲りを受けたのがニギハヤヒです。


物部もニギハヤヒの子孫だと言っていますし,
それ以上に,明日香行くと,あのあたりニギハヤヒの神社ばかりです。


大神神社も大和神社も石上神宮も全部ニギハヤヒです。



明治天皇が,東京に最初にきて,真っ先に参拝した氷川神社もニギハヤヒだったと思います。


穂積氏ですけど,継体あたりから現れる豪族です。
私は,推古,蘇我,物部,穂積,大伴,紀は同族だったと思います。
因みに,蘇我は大化の改新で,族滅したように思われていますが,平安時代までは蘇我の名前があるそうです。
[27]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月05日 01時36分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ここのところ、花粉が多く舞い、目鼻、頭がスッキリしません。カゼの
症状によく似ております。ボーッとして眠くなり、集中力に欠けます。

 絹織物とハトリ関係についていろいろ調べておりますが、インパクトの
あるものに出合っておりません。明日は磐田の図書館へいって資料を漁って
まいります。

 大久保の代官屋敷(服部中)についての資料が見つかりましたので、明日記
します。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月05日 02時56分12秒 ) パスワード

>大久保の代官屋敷(服部中)についての資料が見つかりました


楽しみにしております。



花粉症は大変ですね。
こちらは VOG といって  火山灰がらみです。

わたくしはラスベガスに行って砂漠の砂にやられて
   やられたのは片目だけ(笑)
片目だけ涙がとどまるを得ず

ハワイは火山灰ですからガラス質で「痛い」です。



>絹織物とハトリ関係

絹織物と服部は「そういうことかな」と納得できるのですが
絹織物と羽鳥となると、なかなか、納得の行く情報が無いです。
   羽鳥と麻だったら、なんとなく納得出来ますが。


まだまだですね。  
[29]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月05日 10時12分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 春は不安定な天気、寒暖の落差、春の嵐=風、花粉、黄砂、PM2.5等、やや
もすると調子を崩してしまいます(カゼを引いたりします)。
 私はいつも3月から5月までは調子が悪いというか、カゼを引いたような
症状になります。花粉症・過敏症といいますか、とにかくスッキリしません。

 さて、浜松中央図書館にて『大久保村史』を見つけて中をみたところ、大
久保代官所のことについて記述がありましたので、記します。読み取れない字
も少しありましたが、ご容赦下さい。
 「大久保代官所(御陣屋)
  服部大和守保秋氏、寛文の頃より石高三千五十石を所領する陣屋跡にて、
 明治の前まで大久保、山崎、古人見、伊佐地の一部、神ヶ谷の一部、遠隔
 れて市野村上石田、下石田を領地とせられ、今の大窪神社の位置にあり。
  参道を昇り行けば今の鳥居の附近に大きな「ギボシ」の付いた観音開き
 の立派な門あり。其の両側に四畳か六畳位の仲間部屋有り(昭和二十六迄あ
 り)。其の奥は平坦の地あり、広く玉砂利を敷きし「オシラス」と役人の
 居る建物ありて罪人を裁きし所なりと古老の話なり。入口の門の右石垣の
 上に七間に五間位の二階建の白壁の大土蔵あり、宝物や貴重な道具、刀、
 槍、陣笠、お籠等を蔵し有り。東の角に一戸分位の住宅の跡あり。当時御
 東の藤田氏(宇布見現住)の住宅の有りし所ならん。其の北に西向きに平屋
 建の七間に二間半位の長屋。其の北、今の社務所の位置に二階建の六間に
 二間半位の建物あり(明治四十年頃小学校に使用せし事もあり)。又、奥北
 に二間四方位の穀物倉庫あり。其の附近より山に添いて低い瓦葺の土塀あ
 りたり。又、門の西には大広間も有る数室の居宅あり。お西の馬渕氏の住
 宅なり。大窪神社東の田及び県道、その南の地域が同一高さの平坦地にて
 正面に格子戸のある牢屋敷あり。罪人を入れし所なりと僕の祖母が其の
 現状を見たと云ふて聞かせたり。
  向こう側の宿屋はお陣屋へ用事をたしに来た人等が、其の日に終わらな
 い時泊まりたる家なりし為、宿廊と云いしと。
  馬渕家は石田より御陣屋に務むる為に移り来られし家との事。」

 「服部伊賀守の陣屋即ち大久保代官は石高三千五十石、旗本服部仲様の陣
 屋で、大久保、山崎、古人見、伊佐地、神ヶ谷の一部、上石田、下石田の
 一部を所領し居り。服部家はその昔、楠氏の一族にて、足利尊氏征討の折、
 後醍醐天皇より給いし□□(しかと読めず)錦旗、□□(しかと読めず)、
 尚菊水の旗印其の他徳川氏に至る迄歴戦の功績により得たる高貴の家宝あ
 り。湊川に正成公の戦死以来、足利氏の探索に依り一時姓氏を変え、転々
 時期の到来を待ち織田氏興るに及び、客□(しかと読めず)として二十万石
 を領し、眞十郎氏に至り徳川氏に仕え、伝来の長槍を馬上に奮戦せりと。
  服部家の□(しかと読めず)世に大和守従五位下に叙せられ、武士達の
 振央に盡され、江戸城西丸御留推(しかと読めず)役として江戸の消防を
 主宰され、尚同家には伊賀守と成られしも□(しかと読めず)代ありきと
 江戸上屋敷炎災の為、宝物は烏有に帰し詳細を知る物無し。大正三年八月
 未亡人逝去後、家は断絶せりと。同家に残る由緒無く、同家の紋所が大久
 保尋常高等小学校の鬼瓦として残り居り、これを後世に傳えんと同小学校
 の校章として有りし。服部家を忍ぶ一事有るのみ。」

 家紋は「源氏車に(縦)並び切り竹(矢筈)」・・・八桁の源氏車に縦の竹
 を二本、竹の真ん中に節一本、切り口は上下ともV字型です。
 
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月05日 11時45分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


春は免疫力が下がるのでしょうか?

免疫力をアップするには野菜や果物が良いのですが
バナナは素晴らしいですよ。
  茶色いそばかすの出たのが良いです。
わたくしのリンパ球はすごく低かったのですが、バナナのお蔭で?もの凄く上がりました。


大久保の陣屋の情報を有難うございました。
 
知らないことばかりでした。


>門の両側に四畳か六畳位の仲間部屋

はい。

現在は皆さん物置にしてますが。
ま、門番を兼ねた詰所でしょうか?


   三河の服部家も今は物置にしてましたっけ。


お東、お西、というのは浄土真宗のことなのかな?と思いましたが
違ってましたね。

陣屋の仕事をする家、ということで
東と西で交代で仕事をしていたのかもですね。




>お陣屋へ用事をたしに来た人等が、其の日に終わらない時泊まりたる家なりし為、宿廊と云いしと。

NHKの時代物ドラマでは「公事宿」と呼んでいたと思います。

面白いですね、公事宿の他にも呼び名があったのを知るって。




>服部伊賀守の陣屋即ち大久保代官は石高三千五十石、
>旗本服部仲様の陣屋で、
>大久保、山崎、古人見、伊佐地、神ヶ谷の一部、上石田、下石田の一部を所領し居り。

詳しいですね。


>服部家はその昔、楠氏の一族にて、

1.
南朝方だった、という意味なのかーーーーでしたら、服部宗純のことかな?と。
後醍醐天皇のお召しで吉野方忠臣になっていますから。


2.
服部季宗の子孫、という意味なのかーーー服部季宗は観世や世阿弥の先祖になりますから。
                   観世の父の妻が楠入道正遠の娘=正成の姉妹ですから
            ということで楠一族と書いてあるのか?



    でも真十郎の代に家康に伝えた、って?
           この人、どなた?


           服部中の家は「三十郎」は結構いるんですが。


>足利尊氏征討の折、後醍醐天皇より給いし<<<日月>>>錦旗、
                             錦の御旗は「日」と「月」が刺繍してあるので

          後醍醐天皇より給いし<<<日月>>>錦旗かな?と思いました



>□□(しかと読めず)、

これは   「節刀」   かなと。
天皇から逆徒を討つようにとお声のかかった将軍に与えられるシンボルですから。



>湊川に正成公の戦死以来、足利氏の探索に依り一時姓氏を変え、

この話は知らないです。


>転々、

尾張の服部氏も最終的に尾張南西部に定着しましたっけ


>織田氏興るに及び、客□(しかと読めず)として二十万石を領し、

 織田氏興るに及び、客将、でしょうか?

       でも20万石って?



>眞十郎氏に至り徳川氏に仕え、伝来の長槍を馬上に奮戦せりと。


  誰?




ここでアップ

  
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月05日 12時33分46秒 ) パスワード

服部中保次は確かに信長に仕えています。


    そして今川義元に斬り付けた、と。



>眞十郎氏に至り徳川氏に仕え、

   はい、永禄8年から家康に仕えてます。



>伝来の長槍を馬上に奮戦せりと。

   永禄9年足軽同心50人(のちに55人に訂正)を預けられ
   天正4年足軽同心22人を加えられて合戦のたびに活躍した
   と書かれています。



>服部家の□(しかと読めず)世に大和守従五位下に叙せられ、

服部家の<<<後世>>>に、
でしょう


   長谷川久太夫徳栄の子が養子になって服部保貞と名乗って
   大和守・従五位下に叙任してます。



>武士達の振央に盡され、
>江戸城西丸御留推(しかと読めず)役として
>江戸の消防を主宰され、

   服部中保宜が将軍家治の代に火事見回りを勤めた


   この人の後継者は徳山五兵衛頼意の子が養子になりました。=服部中保ひさ

      ひさは旧漢字で「旧」かも。草冠。


>尚同家には伊賀守と成られしも□(しかと読めず)代ありきと


      分からないです。


>江戸上屋敷炎災の為、宝物は烏有に帰し詳細を知る物無し。
>大正三年八月未亡人逝去後、家は断絶せりと。

      結構続いていたのですね


>同家に残る由緒無く、
>同家の紋所が大久保尋常高等小学校の鬼瓦として残り居り、
>これを後世に傳えんと同小学校の校章として有りし。
>服部家を忍ぶ一事有るのみ。」

>家紋は「源氏車に(縦)並び切り竹(矢筈)」・・・
>八桁の源氏車に縦の竹を二本、
>竹の真ん中に節一本、       ←  節がついてるのは知らなかったです
>切り口は上下ともV字型です。   ←  矢筈ですから
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月05日 13時16分15秒 ) パスワード

場外乱闘

友人のハナシ: 以下コピペ


体制側の歴史書を正史,そうでない歴史書を排史と言います。

日本書紀は正史,古事記は排史になります。
古事記は誰が編纂したかもわかりません。

大安麻呂なんて,2010年代まで存在しなかったと言われていましたし,
稗田阿礼なんて今でも誰か分かっていません。
あれ?ってもんです。


大安麻呂の墓見つかりましたけど,実在はしたが,稗田阿礼が勝手に名前を使ったと言う説も有力です。


ところが,体制側の正史の日本書紀は,天皇家の断絶をよく書いています。
日本書紀は,万世一系でないのです。

ところが,排史の古事記が万世一系になっています。


理由はわかりません。


日本書紀に,蘇我馬子が「葛城は先祖の地なのでほしい」と言いますが,
推古の答えが,「葛城は,卿の先祖の地であるが,朕の先祖の地であるので渡せない。」と言ったと書いてあります。


蘇我と推古は先祖が同じと言うことです。
古事記には書いてありません。



蘇我入鹿を日本書紀は,蘇我物部大臣と書いてありますが,古事記には書いてありません。



継体は,日本書紀には天皇と皇太子が一遍に死んだと書いてありますが,古事記には書いてありません。

継体と欽明の親子対立も,日本書紀にはありますが,古事記にはありません。


2代天皇の綏靖ですけど,
日本書紀では,すでに皇位にあった手研耳尊という,神武が日向から連れてきた兄を殺して皇位についたと書いてありますが,
古事記には書いてありません。



このほか,日本書紀に書いてあって,古事記に書いていない体制側に不利になる記述が数多くあります。

なんで,正史の方が,天皇の正当性を排史より否定しているのかが不思議です。


普通,古事記と日本書紀の記述は反対になると思いますけど。


私は,日本書紀を大学生になって,初めて読んで驚きました。
これだけ,天皇の正当性を否定してある正史は,中国にもありません。
だから,古事記以上に日本書紀を信用しています。



大安麻呂の墓が見つかったおかげで,なお古事記の謎が深まりました。
古事記を口述した稗田阿礼ですけど,藤原不比等のペンネーム説まで飛び出しました。
ただ,大安麻呂は架空と言われていましたが,実在はしたようです。
ただ,古事記の編纂に参画していたかわからないと言うのが結論のようです。


でも,古代の可笑しいところは
正史が天皇の正当性を否定して,
排史が正当性を強調しているところです。



私も日本書紀を頭から信じられないと思いますけど,古事記より正当だと思います。
古事記は嘘八百書いてある本と言うのが結論ですので,
最近古事記なんて全く読んでいません。
ばかばかしくて読めません。
古事記は,鎌倉中期に朝廷の陰陽師卜部家の屋根裏から転がり出てきた史書です。


だから,本居宣長が出てくるまで,誰からも信用されませんでした。
この時代,日本書紀と並び称されたのが,先代旧事本記(せんだいくじほんぎ)と言う,
物部の由来を書いた史書の方です。


古事記は,多分,卜部家の誰かが書いたのでしょう。
卜部家は出雲系でなく九州系の家のようですから,
九州王朝を正当としたものと思われます。


    神皇正統記のような書物が古事記だと思います。



古事記=神皇正統記は持論です。
このように考えると,一番わかりやすいと思いますし,
卜部家の屋根裏に置いてあった理由の説明もつくと思います。



遣隋使ご存じでしょうけど,1回目の600年の遣隋使は,なぜか日本書紀にも古事記にも記載がありません。

隋書倭国伝だけに書いてあります。
これも不思議です。
しかも,この時ですけど,隋王朝の創始者文帝の赤ペンチェックが入りました。


この時
「天皇の弟が太陽で,天皇は弟が出てきたら,あとは弟の太陽に任せようと言って政務をやめる。」
と書いてあったようです。


それで文帝が
「国書に嘘を書いたら,外国から軽く見られるので嘘を書かないように。」
と言ったと言うことが,隋書倭国伝にあります。


この時に,倭王の姓はアメ,名はタリシヒコと言う記述があります。


日本書紀に書いていないので,遣隋使は大和朝廷の使者でないと言う議論がありますが,
多分,文帝に注意されたから書かなかったのだと思います。
かっこ悪いし。



煬帝が激怒するのは次の608年の遣隋使です。



日本書紀では,遣隋使は1回だけです。
これも不思議です。
唐時代の歴史を書いた正史は,旧唐書と新唐書がありますが,
新唐書は遣隋使を派遣したのは,厩戸皇子の父親の用明天皇だったと書かれています。
新唐書は,旧唐書より編纂されたのが後ですから,
用明天皇説は否定されていますがね。



遣隋使の時代,用明天皇は死んで推古の時代ですけど,
用明なら男ですから,皇后がいるのも理解できますが,
推古は女帝ですから,皇后はいません。


どっちにせよ,遣隋使は謎だらけです。


播磨の人は、播磨国風土記に聖徳天皇と言う記述があるので,
遣隋使は播磨の王朝の使節だったと言いたいようです。

しかも,継体から推古の時代の日本書紀の特徴は,
皇女や皇后が強姦されたとか,強姦されそうになったと言う記述が目白押しです。
この時代以外は,強姦事件の記述がありません。
なんで,強姦や強姦未遂事件を日本書紀が入れたのかよくわかりませんが,
皇位継承の混乱はあったのだと思います。
[33]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月05日 18時40分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「節刀」、「客将」は当たってました。さすがです。原文を書いた人も
いいかげんなところがありますので、完全にするには無理がありますね。
眞十郎という名前もちょっと解せませんね。

 本によって歴史の記述・解釈が違うということ、疲れ果てますね。どれ
を、誰を信じていいのやらということになってしまいますので、自分はこ
の人を信じると、できるだけ「教科書」を決めるようにしています。

 本日、蚕その他の関係について調べました。新たに知り得たことは―
 @蚕は病気になりやすいので飼育が大変。
 A蚕の蛾は体が重くて飛べない。
 B蚕の神様の下地となっているのが「オシラ様」である。
 C蛭子森古墳から出土した陶器には「水鳥の飾り」があった。
 Dこの古墳に葬られている人は織物の新技術をもたらした集団のリーダー
  的存在ではなかったか。
 Eこの古墳は六世紀の後半の半ば前後に造られた。その後追葬が行われた。
 F羽鳥庄は12世紀に新熊野社に寄進された。その後足利尊氏に領せられ、
  南北朝の時代に源朝臣□□より府八幡宮に寄進されている。

―こんなことを調べました。まだ一連の推理にはなっておりません。



 

 
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月05日 22時07分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


     F羽鳥庄は12世紀に新熊野社に寄進された

そんなに新しいんですか?
新熊野社に寄進されたから  鈴木系の羽鳥さんが派遣された   のかしら?


これは意外でした。


     A蚕の蛾は体が重くて飛べない。

ふふふ
人間に飼育されて桑の葉いっぱい食べ過ぎて、メタボになった、ということかしら?
栄養優良児過ぎて、飛べない?
まるでフランスのフォアグラ鴨みたいに、人間の利益の為に病的に太らされた、という感じですね。




     C蛭子森古墳から出土した陶器には「水鳥の飾り」があった。

これは興味深かったです。
蛭子と水鳥の関係。
蛭子は水鳥にでも助けられた?蛭子が水鳥になった?
どういう意味なんでしょうね。


     Dこの古墳に葬られている人は織物の新技術をもたらした集団のリーダー的存在ではなかったか。

これは  かなりの確実で当たっているでしょうね。
織物の技術か、   織物の技術は歴史が長いでしょうね、つい最近までが考えられるような?

織物でないとしたら、鉄の技術か?

     銅鐸は?
     もう、とっくに終わってた時代、で良いでしょうか?


CとDが非常に謎です。
Fは意外過ぎました。時代が全く予想外でした。


ありがとうございました。


[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月05日 22時33分39秒 ) パスワード

場外乱闘


友人より続き


継体から推古の時代は,強姦や強姦未遂の話が良くあります。


日本書紀に,推古の長女で,ウジカイダコノヒメミコと言う女性がいますが,
この人物,厩戸の正妃ですが,舅の用明天皇に犯されたようです。


日本書紀は,用明と書いていなくって
「用明は,皇太子時代,池辺皇子と言った。ウジカイダコノヒメミコは,池辺天皇に犯された。」
と言う記述があります。


もろ用明だと思いますが,長男の嫁を犯したわけです。


これは,私の推論ですけど,推古も強姦されかけていますが,
当時,推古はニギハヤヒの血を引く唯一の人物でなかったかと思います。


ですので,皇位を取るために,推古やその娘を狙ったのではないでしょうか?
強姦や強姦未遂の被害者,どうも推古の一族が多いように思いますから。

額田王ですけど,王は天皇の直系の孫です。
この人物も,日本書紀には登場しません。
万葉最大の女流歌人でありながらです。


それで,これも推測ですが,額田王や鏡王は,推古の孫娘でなかったかと思います。


中大兄は鏡王と結婚した途端,彼女を捨てていますので,
これは推古の血統が欲しかったとしか考えられません。


私は,推古が天皇で祭祀担当,蘇我馬子は大君で行政担当でなかったかと思っています。


これも古事記に書いてありませんけど,
日本書紀では10代の天皇崇神天皇が天照大神に祟られて,
宮中に祭られた天照大神を笠縫村と言うところに放り出したと言う記述があります。


崇神天皇は,古代史の世界では,日本最初の天皇で3世紀くらいの人物と言われていますが,
皇祖の天照大神に祟られた唯一の天皇です。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月06日 03時30分58秒 ) パスワード

http://katumasa1225.hamazo.tv/d2012-04.html

羽鳥荘



2012-04-23(Mon) 03:52

羽鳥(はとり)庄とは?


 浜松の東部の旧国道1号宮竹の交差点から二俣鹿島橋まで通称「笠井街道」があります。

 長田郡衙が置かれていた推定されている宮竹付近を通る笠井街道は、天龍川平野を南北に縦貫し、
かなり古い時代から重要な道と考えられます。

「笠井の市」は遠州織物の集積地として全国的にも有名でした。


 笠井に入る手前に、「貴平」というところがあります。
ここは、橘諸兄の子孫とされる「秋鹿(あいか)氏」が最初に居住したところです。


秋鹿氏は鎌倉幕府4代将軍藤原頼経(九条道家と西園寺公経の娘・倫子の子)に仕え、
南北朝期に足利尊氏により遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補任されました。


のちに中泉郷に移られ見附の「府八幡社」の神主を兼任、
徳川幕府の初代中泉代官となられ、明治以降は旧中泉公園(屋敷と庭園 一角に劇場や遊郭があったとされる)の主(あるじ)でした。
 


 天竜川沿のこの付近の郷は、古くから磐田国府とかかわりのある土地です。


 集落の一角にある「八幡神社」にある由来書には、驚くべきことが記されていました。


 この神社に合祀されている「玉宮」「中宮」「沖宮」とは、
聖徳太子の三王子のことで、
蘇我入鹿の乱をさけて、この貴平の郷に匿われ、薨去されたのちにお供のものが三柱を建てたものだと書かれています。

にわかには信じ難いのですが、
聖徳太子の有力なブレーンのひとりに常世(とこよ)の虫事件で活躍した「秦 河勝」がいますので、
まったく根拠のない話しともいえません。


遠江の麁玉郡や長田郡には秦氏に引きいれられた人々も入植していたと考えられているからです。


 新春恒例の「だるま市」で賑わう「笠井観音」は浄土宗 観光山 福來寺(ふくらいじ)といい、檀家のないお寺といわれます。
                         所在地: 浜松市東区笠井町252
                         本尊: 聖観世音菩薩



 大同元年(806)、ある村人が大雨で氾濫する川瀬に光るものを発見し、付近を捜したところ泥の中から観音様の木像を見つけました。その像を水で清め、雨に濡れないように傘をかぶせ木陰に安置したところ 雨がやみ 見る見るうちに水がひいていきました。その後、当地にお堂が建てられ、観音様は「笠冠り観音」の愛称で呼ばれようになったといいます。



 笠井、鴨江、龍禅寺の3か所を浜松の三観音とも云うそうです。

 

 この地方で生産された絹や綿織物の取引の中心地が「笠井観音」の界隈で、旅籠や商店が立ち並び、各地から買い付けの多くの商人が集まったといいます。天龍川水系を利用して笠井に集められた織物は、全国に出荷されました。




 浜北の植木屋さんのルーツも かつては桑の苗木を扱う農家であり、現在よく目にする柿やミカンの果樹園の多くも、元は桑畑または綿畑だったようです。
 このように 繊維製品の生産から販売までの様々な周辺技術やノウハウの蓄積が、綿布を中心とした遠州織物のルーツとなり、やがて今日の楽器や自動車にいたるまでの様々な産業を育んでいきました。


 

 笠井観音の東へ700~800m行ったところに長上郡の式内社「服織(はたおり)神社」があります。

                        所在地: 浜松市東区豊町322
                        祭神: 天穂日尊、建御名方尊



 由緒書きには、元明天皇の和同元年(708) 出雲国から神さまお迎えして造営されたとなっていますが、一帯には当時すでに織物に関係する人々が集団で暮らしていたと思われ、彼らは、5世紀以降に入植した秦氏の品部の子孫と考えられています。鹿玉(あらたま)郡には覇多(ハタ)郷があり、長上郡の「朝日波多加神社」も秦氏に関わる神社とされます。



 平治の乱の後、後白河上皇のもと荘園の再編されているころの記事に、
遠江に関して次のようなものがあります。

平家全盛のころのことで、遠江守は、重盛、宗盛、基盛、頼盛と相次いで任官しています。

・) 永暦年間(1160ごろ) 京都新熊野神社へ遠江国羽鳥(はとり)庄を寄進する。
・) 嘉応3年(1171)    京都松尾社領池田荘と京都仁和寺観音堂の末寺の頭陀寺の寺領川匂荘とに紛争がおき、池田荘の四至膀示を定める。
・) 承安3年(1173)    最勝光院が建つ。このころからのち、村櫛荘は同院領となる。


         註:そうすると羽鳥荘は平家がらみ???!!!


 「服」の訓読みのひとつに(はとり)というのがあり、
意味はハタオリ(機織り)のことで、
漢字2字で服部、服織などと表記されることもありますが、
羽鳥(はとり)もそのひとつです。

この付近に、中世期に存在したとされる羽鳥庄があったと推定されています。


 市野庄も元は内蔵寮の領地であったといいますし、
延喜式には、遠江の「調」として絹があったことが記されているそうです。




あらあらあら
とんでもない情報が・・・
平安時代末期に羽鳥荘が出現したとは。


だったら  江戸幕府の旗本で平氏で三つ柏紋の服部  も有り得るではありませんか。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月06日 03時37分59秒 ) パスワード

復習(何度目?)


http://katumasa1225.hamazo.tv/e2609675.html



2011-05-10(Tue) 11:15

忘れられた池田庄


かつての天竜川本流は 今よりも東側の磐田寄りに流れ、そこには「池田庄」という永く栄えた大きな荘園がありました。


浜松市東区中野町の国道一号の北側に、式内社に比定される「大甕神社」があります。この付近から磐田市西南部にかけて中世期の「池田庄」があったところです。ふるくは 天竜川の本流は磐田台地寄りに流れ、東海道の名所「池田の渡し」が置かれていました。




「池田庄」は京の葛野「松尾大社」の社領で 磐田の国衙や京の都とも深い関係があったようです。松尾社は、渡来系の秦氏の氏神で、秦氏は 機織り、養蚕、酒作り、灌漑、建築などの生産技能にすぐれていたばかりか、明法道(惟宗氏)、雅楽(東儀家)、神官〈松尾社・伏見稲荷〉、僧侶、在庁官人などを多く輩出した氏族です。


大甕神社は江戸時代までは松尾大明神または中野大明神と呼ばれていたようです。
【祭神】大山咋神 大国御魂神 (配祀)大鷦鷯命 倉稲魂命 金山彦命
大甕(おおみか)とは 穀物や酒や水を入れるために作られた大きくて立派な瓶(かめ)のという意味だそうです。



時宗行興寺には、熊野御前のお墓と守り本尊の厄除十二面観音が奉られています。


熊野御前は、池田荘の庄司の藤原重徳の娘として生まれ育ち、重盛亡き後の平家の総帥となる平宗盛に仕え、平家滅亡後に出家し、この地で33歳でなくなられた方です。


和歌の名手であり、平家物語や能狂言にも取り上げられ 後世まで名を残されました。母親を弔うために植えられた藤の木が今日まで残り、ゴールデンウィーク前後に見ごろを迎えます。熊野(くまの)を音読みして、ゆや と読むのだそうです。



      ということは、このあたりは平家ゆかりの土地、になりますね。


遠江は、平清盛の知行国であり、重盛、宗盛が国司に任官された国でした。
「池田宿」は当時としては、かなり賑やかな処だったようです。

________________________________

次は平家の公達・重衡にかかわる女性の千手御前です。
ということは、千手の家も平家ゆかりかもね。



そのむかし、駿河国手越長者の妻が、千手寺(磐田市千手堂)の千手観音にお参りして、女児を授かったので、名前を「千手」とつけられました。長じてのち、鎌倉御所に仕える12人の官女の中で、1番の美女に名前を挙げられました。


一の谷で捕えられ伊豆に送られた平重衡(平清盛の五男・正三位中将・横笛の名手)の世話をされていたのですが、重衡が京の木津川で処刑されると 3年後に24歳という若さで亡くなられました。この時のエピソードが平家物語でとりあげられ、のちに、能の「千手」が創作されました。


土地の人が この悲恋を偲んで建てた墓が残されていて「傾城塚」というのだそうです。(重衡が、千寿の美しさを虞美人にたとえたため。)


この話が、どこまで史実にもとづくのかよく解らないのですが、
かつて、遠江の「橋本」や「池田」の渡し付近には遊女・白拍子などの里があったようで、
かの蒲の冠者「源範頼」の母親も 池田宿の遊女だとされています。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月06日 03時47分55秒 ) パスワード

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カメの集まるスポット
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Apr 23, 2012 - この付近に、中世期に存在したとされる羽鳥庄があったと推定されています。 ... 母は 武烈天皇の御代(6世紀初期)大伴金村に攻め滅ぼされた大臣物部真鳥の娘で ...
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月06日 06時05分10秒 ) パスワード

場外乱闘


友人から:


日本書紀に,聖徳太子と言う言葉ありません。
厩戸皇子がそうだと言われていますが,
母親は不倫の果てに,佐保皇女と言う女の子生みます。


聖徳太子伝説ができたのは,平安時代です。
だから,6世紀ころにタイムスリップして,聖徳太子と言っても誰もわからない。
いないからそんな人物。(笑)


播磨国風土記に聖徳天皇と言う記述はあります。
だから,聖徳太子は播磨の王だったと言う説もあります。


面白いのは,タリシヒコを書いている,隋書倭国伝です。
隋書倭国伝でなく,現存する書名は,隋書俀国伝(ずいしょすいこくでん)です。


だから,
日本の話でないと言う説があり,
俀国と言う国が日本列島にあり,
それが阿蘇の麓だったり,
出雲だったり,
播磨だったり
と言う説があります。

当時の本は手書きですから,私は倭国伝を間違えて,俀国伝と書いたものと思われます。


理由は,継体の磐井戦争です。
あれで,日本は九州も確実に大和勢力圏にはいいたと思われ,
その後,九州や日本全国で大きな独立戦争が起きていないからです。


この時代の天皇は崇峻,推古ですけど,私は,崇峻,タリシヒコ,推古だったと思います。

タリシヒコは外交的に失敗ばかりしている。
一番の失敗は煬帝を激怒させたことです。
あの日出国の天子で。

小野妹子が,隋の国書を新羅に奪われたとき,推古が仕方ないと言って免罪したと言う話が載っていますが,
これ,煬帝が激怒したので,日本国内が混乱する。
それで,新羅に奪われたことにしたのだと思います。


裴世清は答礼使でなく,この前後の文脈から詰問使と考えた方がよろしい。
もし,日本がが,オバマ怒らせるような国書書いて,
オバマが「東京に核弾頭ぶち込むぞ」と言う返書書いたとします。

日本は無事で済むとは思えません。


当時の朝鮮半島の状況は,高句麗が一番強く,新羅も百済も対策に腐心をしていました。
この両国とも隋との同盟を望んでいた。

だったら新羅が煬帝の国書を強奪したら,重大な外交問題です。
新羅と隋の同盟がぶっ飛ぶ。
だから日本側が奪われたことにしたのだと思います。

この時の返書は,「私は田舎者で」に始まり,煬帝の靴をなめるような文面です。
少なくとも,日出国の勢いはありません。
多分,蘇我馬子が書いたのだと思います。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月06日 06時29分57秒 ) パスワード

大臣物部真鳥:

      この人は平群真鳥でしたか。


            復習

http://hero1945.livedoor.biz/tag/%E5%B9%B3%E7%BE%A4%E7%9C%9F%E9%B3%A5%EF%BC%88%E3%81%B8%E3%81%90%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%8A%EF%BC%89%E3%81%A8%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%A4%E5%B1%8B%E5%A4%A7%E9%80%A3


雄略に次ぐ清寧天皇の二代の間、政権中枢に据わっていたのは大伴室屋大連や平群真鳥大臣である。


紀に清寧天皇即位に両者が各々、大連・大臣に叙された際に、「並びに故(もと)の如し」とある。

その前からこの体制であったと記されており、
先代の雄略天皇の即位と同時に平群真鳥は大臣、大伴室屋、物部目(め)は大連に叙任せられたと紀にある。




そして、この三重臣のうち武烈天皇の時代まで残ったのが平群真鳥大臣である。



物部目は清寧天皇の即位の立役者としては登場せず、
その後の皇位継承の過程のなかにも名を出すことなく歴史の世界から姿を消し去っている。


また、清寧擁立の立役者である大伴室屋も雄略23年10月4日の条(清寧紀即位前記)、
「大伴室屋大連、使主・連等を率ゐて、璽(みしるし)を皇太子(清寧)に奉る」とあり、
清寧紀2年2月の条に、「天皇、子無きことを恨み、乃ち大伴室屋大連を諸国に遣して、
白髪部(しらかべの)舎人・白髪部膳夫(かしはで)・白髪部靫負(ゆけひ)を置きたまふ」とある後は、
一切、紀の世界から姿を掻き消している。



その結果、武烈紀には大伴氏が室屋の孫である金村が連として一族の長として登場し、
平群氏滅亡の大功により大連に昇進することとなる。


     麁鹿火   登場!
                                                 久し振り!

また、物部氏はまさに平群氏と武烈との間で娘を取り合いされる麁鹿火(あらかい)が大連として登場しているが、
物部目の直系の血筋ではなく、雄略紀に重用された目の本流の方は凋落したものと推測される。


即ち、雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の五朝に亙って常に政権中枢に据わっていたのが平群真鳥ということになる。


そして、清寧天皇擁立に際し、平群真鳥は大臣でありながら、一切名を出していないことも奇妙である。
その後も、朝廷内で大臣として権力を維持しているのにである。


さらに不思議なのが、清寧天皇と武烈天皇の間の二代の天皇、即ち、顕宗・仁賢紀において、
大伴、物部はおろか平群の一文字すら出てこぬことである。



清寧天皇が皇統の血筋を引く二人(億計・弘計)が発見され、
都へ迎えるときに、「『朕、子無し。以ちて嗣(ひつぎ)となすべし』とのたまひ、
大臣・大連と策(はかりこと)を禁中に定めたまふ。」など、
一般名詞の大連・大臣や百官(ももつかさ)、公卿・百寮(ももつかさ)といった表現で臣下との遣り取りの様子が描かれる。



具体的な重臣の姓は一切、登場しないのである。
その為、この二代の記述は雄略天皇の追捕からの二王子の逃亡、
発見の様子は極めて具体的であるものの、
即位からその治世、朝廷内の描写は平板でおそろしく抽象的な記述にとどまっている。



そして、武烈紀に入り、「(仁賢紀)11年8月に、億計天皇崩(かむあが)りましぬ。大臣平群真鳥臣、専ら国政を擅(ほしきまま)にして、日本(やまと)に王たらむと欲(おも)ひ、陽(いつは)りて太子(武烈)の為に宮を営(つく)り、了(つくりをは)りて即ち自ら居(す)む」と、

具体的な重臣名でその専横ぶりが描写される。


この記述の極端な落差、顕宗・仁賢二代の沈黙は一体、何を意味するのか。


その治世・朝廷人事の具体性の欠如は、やはり、この二代の天皇の即位はなかった、
履中天皇の孫であるこの両王子の逃亡、
それから皇統を引き継ぐ者としての入京の事実はあったとしても、
仁徳天皇の皇統が清寧で一旦、途絶え、
武烈天皇で復活するまでは、皇統を引き継いだ天皇という存在はなかったと考えるのが、
紀を精読しての私なりの結論である。


つまり、顕宗・仁賢の二代の14年間は天皇の椅子は空位であり、
平群真鳥が政敵である大伴、物部氏を排斥し、
実質的な王として君臨していたとするのが妥当な推論であると思う。


その冷や飯を喰らっていた大伴・物部氏が平群王朝を転覆させるには、
皇位の正統性である仁徳天皇からの血筋が必要であったと見るべきであろう。


              
然るに、雄略天皇が一族を根こそぎ暗殺するといったなか、
子が無い清寧帝の後に続く王家の血筋は本当に絶えたかのように見えたのであろう。


だから、かつて雄略が謀殺した政敵(市辺押磐皇子)の子孫であろうが、
必死で仁徳の血筋の者を探し出し、
億計王子(仁賢)の子(武烈)を傀儡として擁立し、
平群真鳥と一発勝負に出たというのが、
この武烈=暴君の存在意義であったのだろう考える。



空位の14年間に皇統の連続性を接ぎ穂し、
その裏に実在した平群王朝の滅亡、皇統復活劇、そのオペラのような舞台に海柘榴市(つばいち)という当時、
誰もが知る歌垣の場がセットされたのである。


そして、王朝転覆ストーリーの舞台廻し役、実は主役なのだが、
その後の大和王朝を支える重臣、大伴金村・物部麁鹿火(あらかい)、その美しき媛を登場させたというのが、
正史たる日本書紀の編者・舎人親王が脚色を巧みにし、
老練な脚本家としての冴えわたった腕の見せ所だったのだろうと考える。


     おお、この話だったのか、と
     やっと繋がりました。


やっぱり古代史は難しい。
名前は1つで通して欲しい。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月06日 06時34分57秒 ) パスワード

大臣 (古代日本)

大臣の1人に  服部弥蘇  ですって。

               1番下。


大臣(おおおみ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の1つ。王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として執政を行った。姓(かばね)の一つである臣(おみ)の有力者が就任した。



概要[編集]

正史で最初の大臣と見なされているのは成務天皇の時代の武内宿禰である。その後は、武内宿禰の後裔(葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏など)が大臣の地位を継いだ。

『日本書紀』では、武内宿禰一人が成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の四代に大臣として仕えたとされている。あまりに長寿とされたため、架空の人物と見なされる原因となっている。


大臣は、各大王の治世ごとに親任され、反正天皇から安康天皇までの治世に当たる5世紀中期には葛城円が、雄略天皇から仁賢天皇までの治世に当たる5世紀後期には平群真鳥が、継体天皇の治世に当たる6世紀前期には巨勢男人が、敏達天皇から推古天皇までの治世に当たる6世紀後期から7世紀初期には蘇我馬子が、それぞれ大臣に任命された。蘇我馬子が大連である物部守屋を討った丁未の乱後は大連制が事実上廃されたために馬子が単独の執政官となり、以降は蘇我氏が政権の中枢を担うようになった。また、聖徳太子による冠位十二階の制定時、馬子は太子とともに推古天皇の王権を代行する授与者の立場に回ったことで蘇我氏の大臣は被授与者である群臣とは別格の政治的地位を築いた反面、群臣合議から乖離した結果、他の豪族たちからは孤立して後に蘇我氏宗家が滅亡する遠因となったとする指摘もある[1]。



推古天皇の晩年、大臣は蘇我蝦夷(馬子の子)が跡を継いだ。皇極天皇の治世に当たる643年、蝦夷は息子の蘇我入鹿に大臣の冠である紫冠を授けて独断で大臣の地位を譲った。大臣の地位のみが冠位制に拘束されず、旧来通り認められることは内外の反発を招いた。645年、いわゆる乙巳の変により、蘇我入鹿は暗殺され、父の蝦夷は自死し蘇我氏の隆盛は終わった。


この事変の直後に即位した孝徳天皇は、大臣に代って左大臣と右大臣を置き、権力集中の防止を図った。ただし、新しく左右大臣に任じられた阿倍倉梯麻呂(内麻呂)・蘇我倉山田石川麻呂に授けられていた冠は従来の大臣が着用していた紫冠であったと考えられ、648年に大臣にも冠位十二階(前年に制定)に基づく冠を与えようとしたところ、左右大臣がこれを拒んで旧冠(紫冠)を着用し続けた(『日本書紀』大化4年4月辛亥朔条)とあることから、初期の左右大臣は群臣合議体の一員に戻りながらもなお旧来の大臣の影響を残していたとみられている。左右大臣を冠位制に基づく官人秩序に組み込むことが実現するのは、阿倍・蘇我が死去した649年以後のことである[1]。



大臣の一覧[編集]
武内宿禰・・・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇の大臣。
和邇日触・・・応神天皇の大臣。丸邇之比布禮能意富美[2]。
物部小前(大前小前宿禰大臣)・・・允恭天皇の大臣。
葛城円・・・・・武内宿禰の曾孫。履中天皇・安康天皇の大臣。
平群真鳥・・・雄略天皇・清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇の大臣。
巨勢男人・・・継体天皇の大臣。(→巨勢氏)
蘇我稲目・・・宣化天皇、欽明天皇の大臣。
蘇我馬子(嶋大臣)・・・蘇我稲目の子。敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の大臣。
蘇我蝦夷(豊浦大臣)・・・蘇我馬子の子。舒明天皇・皇極天皇の大臣。
蘇我入鹿・・・蘇我蝦夷の子。皇極天皇の頃に、蝦夷が独断で入鹿に大臣を継がせたとされる。



記紀以外の大臣[編集]

『先代旧事本紀』によれば、最初の大臣は懿徳天皇の申食国政大夫であった出雲醜とされ、その後も一族が大臣の地位を継いだとされている(ただし『先代旧事本紀』にしか見えない記事に関しては、史実として扱われず、人物に関しても実在が疑問視されている)。『先代旧事本紀』にある懿徳天皇から成務天皇までの大臣の名は、『日本書紀』では皇后の父兄として登場するが、大臣とは見なされていない。諸氏系図や『新撰姓氏録』や諸神社の伝承では、成務天皇から仁徳天皇までの四代の時代には、武内宿禰以外にも、物部胆咋、仲臣雷大臣、日本大臣、米餅搗大使主、尻綱根、意乎已など複数の人物が大臣として名を連ねている。
出雲醜・・・・・懿徳天皇2年3月に大臣(もとは申食国政大夫(安寧天皇4年4月))[3]
出石心・・・・・出雲醜の弟。孝昭天皇元年7月に大臣[3]
大矢口・・・・・出石心の子。大矢口宿禰。大矢口根大臣[4]。
瀛津世襲・・・孝昭天皇31年1月に大臣[3](または孝昭の頃に大連[5])
建諸隈・・・・・孝昭天皇の大臣[5](ただし天皇本紀には無い)
鬱色雄・・・・・出石心の孫。孝元天皇8年1月に大臣[3]
大綜杵・・・・・鬱色雄の弟。開化天皇8年1月に大臣[3]
伊香色雄・・・大綜杵の子。開化天皇8年2月に大臣[3]
大新河・・・・・伊香色雄の子。垂仁天皇元年に大臣[5]、または、垂仁天皇23年8月に大臣、同月に大連[3]
物部胆咋・・・伊香色雄の甥。(景行天皇36年8月条に「大臣物部胆咋宿禰」の記述)、成務天皇元年1月に大臣(3年1月には武内宿禰が大臣)[3]成務天皇の大臣で、後に宿禰とされる[5]
仲臣雷大臣・・・中臣栗原連、津嶋直、三間名公の祖[6]
日本大臣・・・・・仲臣雷大臣の子。
倭国大臣・・・新羅の王族の昔于老の失言が発端となり、倭国が新羅に侵攻する。新羅は敗北し、于老は処刑された。味鄒王の代になり、残された于老の妻が倭国大臣を饗応すると見せかけて殺害し、復讐を果たす。[7]
米餅搗大使主(鏨着大使主)[6]・・・建振熊(和邇の祖)の子。応神天皇に、しとぎ餅を奉ったとされる[8]。子の人華(仲臣)は春日氏らの祖。
物部印葉・・・・・建諸隈の孫。応神天皇40年に大臣[9]
尻綱根(尾綱根)・・・応神天皇の大臣、尾治連(→尾張氏)を賜り大江大連となる[5]
意乎已(意乎己)・・・尻綱根の子。仁徳天皇の大臣[5]
服部弥蘇・・・・・『播磨国風土記』に、仁徳天皇の御代に“執政大臣”の服部弥蘇の娘が誤って捕縛された話が記述されている。[10]
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月06日 06時36分43秒 ) パスワード

平群氏



氏姓
平群臣
のち平群朝臣

氏祖
称・武内宿禰

種別
その他(記載なし)

本貫
大和国平群郡平群郷

著名な人物
平群木菟宿禰
平群真鳥
平群神手


平群氏(へぐりうじ)は、「平群」を氏の名とする氏族。

武内宿禰の後裔と伝えられ、大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ。姓は臣(おみ)、後に朝臣。



概要[編集]

『日本書紀』の所伝によると、応神朝から軍事氏族としての活躍が見え、履中朝に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになった。葛城氏没落後の雄略朝以降、木菟の子の真鳥(まとり)が「大臣」を歴任して一族の興隆を極めた。しかし、仁賢天皇の崩後、真鳥大臣は日本国王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにしたため、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられ、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺されたという(498年)。

これ以後、平群氏の氏人はしばらく『書紀』から姿を消すが、用明天皇2年(587年)の物部討伐将軍として神手(かみて)の名が見え、この頃までに大夫選任氏族としての地位を得ていた。同13年(684年)10月の八色の姓施行に伴い、改めて朝臣姓を賜る。奈良時代には広成などの官人を輩出したが、その後は没落した。




考古学的な見地からは、平群氏の奥津城とされる平群谷古墳群(平群町に所在)の変遷を考えると、同氏の台頭は6世紀中期以前には遡れないという。このことから、平群氏を6世紀後半の神手以降の新興在地豪族と見る説が有力である。従って、真鳥が大臣に就任して専権を振るったという『書紀』の叙述は史実として認められず、平群氏が自氏と同じく武内宿禰の後裔氏族である蘇我氏への対抗意識から故意に作り上げたのだと説明されている。天武天皇10年(681年)の帝紀・上古諸事の記定事業に平群子首(こびと)が参画していること、持統天皇5年(691年)に「墓記(纂記)」上進を命じられた諸氏族に平群氏が含まれることは、同氏伝承の成立とも関わって留意されよう。
[43]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月06日 09時28分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、今回は久しぶりにエンドルフィンが湧いております・・・まだ
ページを開いたばかりですが。これからじっくり読解させていただきます!

 こちらも実は「羽鳥」をずっと探究していたら、あを様が前に言っておら
れたことと関係して来ると思いますが、「中臣羽鳥連」というのにぶつかり
ました(サイト:「古代探訪 多胡の碑」)。
 この人は、崇仏論争で敗れた物部守屋の近親でありますが、死罪のはずが、
死罪を減ぜられ、上毛野国(現在の群馬県元総社)に流罪になっています。
 その死罪を減ぜられたわけは、妻の玉照姫が聖徳太子の乳母だったからだ
ということです。

 この崇仏戦争の背景には、激しい皇族争いがあって、敗れた中臣氏はほと
んど死罪になっているということです。この羽鳥連や中臣鎌足の親は運が良
かったということでありますが、これをきっかけとして後に鎌足が蘇我氏を
滅ぼそうとした原因になったのではないかということです。

 そして中臣羽鳥連の子孫に「羊太夫」がいるということで、私が以前購入
した『羊太夫伝承と多胡碑のなぞ』(関口昌春著)につながりました。10年
位前に購入して何回も読もうとしたけれど、当時の私にはレベルが高すぎて
読めなかった本です。もちろんテンションも低かったわけですが。
 今回はこの本をひも解いて、鎌足、不比等の背景を探ってみようかと考え
ております。
 不比等関係は日本史のボトルネックだと思いますので、一度は乗り越えな
くてはならない障碍?です。この際、ちょうどいいかなと思っております。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月06日 12時56分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


>不比等関係は日本史のボトルネックだと思いますので、
>一度は乗り越えなくてはならない障碍?です。
>この際、ちょうどいいかなと思っております。

本当にグッドタイミングですよね。


なかなか読めなかった本がすんなり読めるかも。
そういう機会でしょうね。



中臣羽鳥連
http://plaza.rakuten.co.jp/popomi2575/diary/200902020000/

1986年、中曽根首相と梅原さんのトークで、
首相が多胡の碑の「羊にたまう」とは何を意味してるんでしょうとたずねられた。


 羊太夫の後ろには、1300年前の権力者、藤原不比等、その父鎌足、その長男定恵の影がちらつくのである。


更に1400年前まで遡って、宗仏論争で敗れた物部守屋の近親、中臣羽鳥連まで繋がる。



 中臣羽鳥連とは、崇仏論争で敗れた時、死罪を減ぜられ、上毛野国(現在の群馬県元総社)に流罪になっている。

死罪を減ぜられたのは、妻玉照姫が聖徳太子の乳母だったからである。


崇仏論争のうらには、激しい皇族争いがあり、敗れた中臣氏は、ほとんどが死罪になっている。
羽鳥連や、鎌足の親は運がよかったのだろう。
ここら辺が、後に鎌足が蘇我氏を滅ぼそうとする原因があるのだと思う。



 中臣羽鳥連の子孫に、羊太夫がいる。
天武の大赦の時、羊太夫は、祖父母の名代として都に上り、
鎌足の長男定恵を招いて、群馬に釈迦尊寺を建てている。


その寺の本尊が羊太夫の祖母玉照姫が、聖徳太子から賜った、閻浮檀金、釈迦牟尼仏だという。


天武の大赦は、687年に行われているが、鎌足の長男定恵は生きていたのだろうか。
遣唐使より帰って665年に新羅人に毒殺されたといわれているが、
生きていた軌跡がある。

678年には、父、鎌足の遺骨を多武峰にうつしている。
元享釈書には、714年亡くなったことが書かれている。

 遣唐使帰りの定恵は、鎌足の長男、母は群馬の車持与志古娘である。

与志古娘、一説には、軽皇子(孝徳天皇)の子を身籠ったまま、鎌足が貰い受けたともいわれ、
後に殺されるのを恐れ、生まれた定恵を鎌足が遣唐使に送ったともいわれる。



 われはやも 安見児えたり 皆人の えがてにすという 安見児えたり


采女、与志古娘を得た鎌足のうれしさがでている。
車持君は、たどれば豊城入彦命の子孫であり、
不比等の育った田辺氏も、群馬の祖豊入彦命の子孫である。
それに輪をかけて、羊太夫の先祖は、中臣である。


中臣というからには羽鳥連と鎌足の父もなにかの繋がりがあるとおもう。
崇仏論争をへて中臣鎌足が生きているのは、鎌足は羽鳥連の子だったのではとさえおもわせてしまう。



実際、羊太夫はある時期、藤原羊太夫宗勝と名のり、鎌足の血が入っているといっている。

鎌足が天智天皇からもらった、藤原姓を名のることが、どんなに恐ろしい事かは羊太夫も知っているはずである。


 698年、不比等は、不比等の一族以外の藤原姓を禁じている。
羊太夫は藤原を名のれなくなるのである。
そこに、氏や、姓のない羊がでてきて、現代の我々を悩ますのではないだろうか。
羊太夫は後に小幡の姓をもらっている。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月06日 13時07分23秒 ) パスワード

http://d.hatena.ne.jp/Hyperion64+singularity/20140517

2014-05-17 群馬の古代人 「羊」


 群馬県の石碑に「多胡碑」がある。
場所は高崎市吉井町池字御門です。
三大古碑の一つで、国の特別史跡でもある。


弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡井三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宜左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊


 その前半の書き下し文を抜き出して、訳する。

弁官の符に、上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から
三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡とせよ。


 この「羊」なる人物が論争の的になった。


不自然な響きなのだ。
ところが正倉院の古文書や万葉集にも「羊」なる姓名は散見される。
今では渡来人系の名前の人物ということで、一致しているようだ。



                   以下に注目!


埼玉苗字辞典の「羊太夫」伝説を引用する。


 多胡羊太夫 

 天児屋根命の後裔忠臣羽鳥連は物部連にくみして上野国へ遠流となると伝説あり。
中臣(なかとみ)を忠臣と記す。

呉国出身の毛野氏に率いられた呉服(くれはとり)の百済族であり、
中臣姓は仮冒なり。

           ええっ???!!!
           中臣姓が仮冒???!!!
           ビックリ


クレ条参照。

          以下羽鳥氏について、です


羽鳥氏は前橋市に百八十戸存し、
笂井村・亀里村等に多く存す。

前橋市元総社町釈迦尊寺文安二年刻碑に

    「此寺開基忠臣羽鳥連、
     人皇三十二代丁亥二年来居、
     同妻玉照姫・聖徳太子乳母也。

     同忠臣菊野連・羽鳥嫡子。
     同忠臣羊太夫・菊野嫡子、
     和銅中移多胡郡池村改姓」
     とあり。


多胡羊太夫は阿部族と称す。

緑野郡上落合村宗永寺縁起に
  
     「羊太夫、諱小水麻呂、姓阿部。
      其先天児屋根命遠裔中臣羽鳥孫、菊野連子也。
      人皇三十二代用明帝崩御時
      物部大連叛、羽鳥党之、
      羽鳥謫上野国府蒼海・今之本惣社也」
      と見ゆ。


比企郡平村慈光寺所蔵の大般若経は緑野郡浄法寺(鬼石町)のものだったと云う。
慈光寺実録に「和銅元年、上毛国多胡郡羊太夫に勅命有て、大般若経を令書写、当山観世音へ備へ給ふと矣。又小水麻呂と云は羊の孫也。高祖父の志を紹継して、貞観十三年三月三日六百卷書写して今現存せり。依て世に羊の般若称すれ共、今多分は小水麻呂なり」と。大般若経奥書に「貞観十三年三月三日、檀主前上野国権大目従六位下安倍朝臣小水麻呂」とあり。慈光寺新実録に「羊太郎―多胡古丸―小水麻呂」とあり。古代氏族系譜集成に「阿部比羅夫(斉明帝、征蝦夷将軍)―広目―象主―益成―小水麻呂」と見ゆ。小水麻呂は上野国の古代阿部族であり、中央貴族の阿部氏後裔説は仮冒なり。甘楽郡高尾村(富岡市)仁治四年二月二十六日銘の板碑に「物部、小野、壬生、六人部、日奉、藤原、安部国宗」あり。宗を通字としており、羊太夫の後裔であろう。


古代には関東の渡来人はしばしば国司に任命されることが多かった。

『古代の日本7 関東』より

 百済系の渡来人が多いのに気がつく。
 つまりは、関東モンは渡来人の血筋を多かれ少なかれ引いているのであり、とりわけても北関東の神社にはその名残がある。それも相当に色濃い。

 多胡神社もその系統だ。羊太夫を祀る。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月06日 13時26分35秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E7%BE%8A%E5%A4%AA%E5%A4%AB


多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)


奈良時代天武天皇の時代(672年〜686年)に活躍したとされる上野国(群馬県)の伝説上の人物(豪族)。
伝承では多胡郡の郡司だったとされる。

多胡碑によれば、「和銅4年に近隣3郡から300戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」と記載される「羊」なる者であるとされる。

なお、多胡碑の原文は漢文であり「給羊」の句があることから発想された。
人名説以外に方角説時刻説などがあるが、現在学説では人名説が有力である。



名前については、多胡(藤原)羊太夫宗勝、小幡羊太夫とも表記されることがある。

『羊太夫伝説』では、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市または本庄市)で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊を発見し朝廷に献上した功績で、多胡郡の郡司とともに藤原氏の姓も下賜されたと伝承される。


この和銅発見により、年号が慶雲から和銅に改められたとされる(続日本紀卷四。
ただし、実際の発見者と羊太夫が同一であることは証明しきれない。)


上州小幡氏が多胡羊太夫の子孫と称する。
現代でも群馬県高崎市及び安中市の多胡氏を羊太夫の流れを汲むとする説もある。
(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)



伝説によれば、羊太夫は、武蔵国秩父郡(埼玉県本庄市児玉町河内(神子沢)羊山(ツジ山)には、羊太夫に関連すると伝わる採鉄鉱跡と和銅遺跡がある)で和銅を発見し、その功により藤原不比等から上野国多胡郡の郡司と藤原姓を賜り、渡来人の焼き物、養蚕など新しい技術を導入、また蝦夷ら山岳民と交易するなど、地域を大いに発展させたが、)(武蔵国高麗郡の)高麗若光の讒言により朝廷から疑いをかけられ、討伐されたとある(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)。


斎藤忠『日本古代遺跡の研究 文献編』によれば、多胡羊太夫は、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋滅亡(587年)に連座し、上野国に流された中臣羽鳥連の末裔であるとしている。

中臣羽鳥連は、その子、中臣菊連の娘が、貴種を求める上野国の地方豪族車持国子(男性)に嫁ぎ、
その娘・与志古が天智天皇の采女に上がり、
藤原鎌足に下賜され、
藤原不比等が生まれたとしているため、
多胡羊太夫の郡司就任には藤原氏の影響があったとする説もある。
(吉田昌克説)



考古学者尾崎喜左雄(元群馬大学教授)は、「(伝承によれば、多胡碑のある多胡郡には)帰化人が多かったはずなのに(多胡羊太夫がいたとされる群馬県高崎市)吉井町付近にはそれを思わせる大きな古墳がないのは不思議だ」と同時代の他の地区との間に文化的差異があったことを指摘している。


      ええっ????!!!
      帰化人と古墳は連動する?




ただし遺物については多胡碑のほか、須恵器や上野国分寺の瓦などの焼き物と若干の銅製品、石碑、石仏が出土しているだけであり、また各地に伝わる古文書・伝承にも、時系列や情報の混乱(おそらく江戸時代に多胡碑が全国に紹介された後、羊太夫伝承が偽造された、もしくは他の民間伝承と混交したのであろう)が認められるため、モデルとなる人物がいたとしても、伝説通りに実在したかについては疑問視されている。


なお、この伝説では、羊太夫は広域にわたる大規模な反乱を起こしているが、『続日本紀』にはそれに類する記録は見当たらない。


吉田昌克によれば、中央集権の律令政治に勢力を持ちすぎた邪魔な地方豪族の国司や郡司を解体したことが歴史上の事実であり、羊太夫伝説で高麗若光の讒言により攻められたなどは、江戸時代に羊太夫伝説として再構成された時の単なる口実ではないかと推測している。



多胡碑の「羊」なる者[編集]

多胡碑によると「和銅4年に近隣3郡から300を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」とある。ただし、多胡碑は金石文であり、「羊」の解釈については、方角説、人名説など長い間論争がなされてきた。現在では、前述した尾崎が主張する人名説が有力とされている。


「羊」が人名であるとした場合、
その正体は、
藤原不比等本人であるとする説(関口昌春提唱)


「羊」は物部氏の祖神の名である経津主の転であり、物部氏の後裔であるとする説(吉田説)


            「羊」と物部氏の祖神が関係する?
             羊といったら中東の世界の家畜なんですが・・・


秦氏に連なる渡来人とする説。(久保有政説)



「火」を神聖視した伝承が羊神社にあることから、ゾロアスター教に関係がある、中央アジア系渡来人であるとする説。


キリスト教関係の遺物が多胡碑から発見されたことから景教(ネストリウス派キリスト教)教徒説



ユダヤ人系キリスト教徒説。(日ユ同祖論説)


など、さまざまな説が百出しているため、はっきりしない。
上野国風土記などの古風土記は、これについての記載がなされていると考えられるが、現存しておらず、
その逸文も発見されていない。

流石に渡来人、キリスト教徒であるという説は、確たる証拠等が出土しない限り、納得できない。

ただし久保有政は、仏教伝来の歴史においてシルクロード経由で大乗系の仏教が日本に伝わってくる間に、
ユダヤ教やゾロアスター教やネストリウス派キリスト教の影響をかなり受けていることを指摘しており、
キリスト教とは言えないまでも、奈良時代には仏教と混交した形で入っていると主張している。



『日本書紀』によれば当時数十戸を賜う対象は皇族の皇子くらいの者であり、
臣下に当たる「羊」が300戸も賜わったのには相当な理由や功があったと推測できる。

和銅の発見のみが、この功績ではなく、藤原氏との血縁とその興隆の手助けをしたことこと
「羊」の郡司就任の理由であるとする説もある。(吉田説)


また、この碑文中の「羊」なる者と、羊太夫伝説の多胡(藤原)羊太夫宗勝は同一人物ではないとする説が有力である。

羊太夫伝説では、羊太夫は721年(養老5年)頃滅亡する。
しかし、多胡碑の「羊」は、上野国分寺に「羊」の文字瓦を寄進している。
上野国分寺は、741年(天平13年)、聖武天皇が国分寺・国分尼寺の造営を発願した後、
749年(天平勝宝元年)に碓氷郡の石上部君諸弟、勢多郡の上毛野朝臣足人の両人が上野国分寺に智識物を献じ、
共に外従五位下を賜わっているので、
その前後に完成し、その後は補修がなされていると思われる。


このため、養老5年頃には「羊」は滅亡しておらず、上野国分寺に「羊」の文字瓦を寄進するほど、繁栄していたことになる。



以上のように、伝説の羊太夫と多胡碑の「羊」は、同一人物ではなく、
存在した時代等に差異があり、
多胡碑の「羊」が太夫伝説の羊太夫のモデルとなった、
とするのが妥当であろうという趣旨の説を古田史学会を中心とする郷土史家が主張している
(増田修「多湖碑の「羊」と羊太夫伝承」、古田史学会『市民の古代』第10集、1988年)。



『羊太夫伝説』[編集]

伊藤東涯による『盍簪録』(1720年(享保5年))や青木昆陽による『夜話小録』(1745年(延享2年))をはじめとする数多くの古文書や古老の伝承などに、次のような『羊太夫伝説』がみられる。この『羊太夫伝説』で、筆録された写本や地方史誌等に集録されているものは、二十数種あるとされる。この話の舞台は、群馬県西南部を西から東に流れる鏑川流域に沿った地域と秩父地方である。それぞれの『羊太夫伝説』にほぼ共通するあらすじは、次のようなものである。


昔、この地に羊太夫という者がいて、神通力を使う八束小脛(ヤツカコハギ。八束脛ともいう)という従者に名馬権田栗毛を引かせて、空を飛んで、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜いてしまったが、以後小脛は空を飛べなくなってしまい、羊太夫は参内できなくなった。朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると考え、軍勢を派遣し、朝敵として羊太夫を討伐した。落城間近となった羊太夫は、金の蝶に化して飛び去ったが、池村で自殺した。八束小脛も金の蝶に化身し飛び去ったとされる。


しかし、『羊太夫伝説』のなかには、著しい差異がみられる古文書もある。
『神道集』(文和・延文年間・1352年〜1361年)においては、羊太夫は、履中天皇の時代(400年〜405年)の人として登場する。

この話では、羊太夫自身が神通力を持ち、都と上野国を日帰りしたという話が残されている。



また、687年に創基した釈迦尊寺(群馬県前橋市元総社町)には、羊太夫のものとされる墓がある。
寺の由来では、中臣羽鳥連・妻玉照姫・子菊野連は、守屋大連の一味同心として、蒼海(元総社)に流罪となるが、
後に大赦を受け、菊野連の子青海(中臣)羊太夫が、玉照姫が聖徳太子から譲り受けた釈迦牟尼仏の安置所として、釈迦尊寺を建立したとされる。



八束小脛について[編集]

伝承では、羊太夫の従者である八束小脛は神通力を持ち、大いに太夫を助けたとされる。
また一部の伝承によっては、山の知識に優れていたとも、馬術にすぐれていたともされる。

このことから小脛は、羊太夫に協力した渡来人や蝦夷等の人格化ではないかとする説がある。



他にもその正体については、山岳信仰の現れとして山神・天狗の類であった説、

名前通り土蜘蛛、つまり蝦夷であったという説、

役小角に縁のある修験者であったり、鉱山を探す山師であったり、高い呪力を持つシャーマンであったりと諸説あり、

伝承によっては、男であったり男装の乙女、物の怪ともされる。


ある時期に、渡来人や蝦夷等の協力が得られなくなったことが、羊太夫伝説が指し示す事実であるとする説もある。



里見郷の上里見神山における伝承では、八束小脛は、榛名山の女天狗であり、
銅鉱山を羊太夫に教えたのも小脛の仕業との話も伝わる。



そのバリエーションには、全てを与える代わりに自分を裏切ったら全てを失うと請願を立てさせた話、

銅鉱石から金を作り出した伝説
(利根川流域上流(草津、沼田付近)には銅鉱床があるため、洪水で流された黄銅鉱、黄鉄鉱がしばしば河原で見つかり、砂金と間違われるという)、

羊太夫が討伐された後、彼の財産であった金銀財宝がたちまち錆び腐った等の話もある
(おそらく黄鉄鉱などを金や銀と間違えたことをさす話であろう)。



類似するものとして、『日本書紀』神功皇后九年(209年)の条に
「荷持田村に、羽白熊鷲という者有り。
其の為人、強く健し、亦身に翼有して、能く飛びて高く翔る。・・・
層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。」
という説話がある。


古田武彦によれば、これは羽白熊鷲を撃滅した女王に、卑弥呼以前の筑紫統合の始源の女王の姿を見、
『日本書紀』の編者が『日本旧記』から切り取り、神功との接合を企図したものであるという。

羽白熊鷲撃滅譚は、筑紫における神話の時代の説話であろう。


羊太夫伝説も、関東における神話の時代の説話との関係を指摘している。

また、古田は、羊とは日辻ではないかという説も唱えている。



雑記[編集]

里見郷上里見東間野の風戸集落が太夫の落ち延びた先とする伝承もある。
上里見の間野・谷ケ沢・上神地区には、多胡姓が多い。
この多胡氏の氏神・多胡羊太夫を祀る多胡神社や多胡宮羊宗勝神儀位の石碑(寛延元年・1748年)も残されている。
間野には羊太夫一族が逃げてきたときの逸話が残されており、
落城間近、羊太夫は嫡子宗顕、孫宗量の2人を派遣して仮屋2軒を作り、
一族の到着を待ち受けさせたとされる(「二ツ屋」と呼ばれる)所がある。

鳶に化けた羊太夫主従3人が飛んできて落ちついた「一ノ鳶」「二ノ鳶」「三ノ鳶」という地名も近くにある。


ただし同地については、行者(修験者)修行場であったという伝承や、
件の風戸集落が江戸前期までの相当期間、無人であったという記録も残されているため、
上記の逸話は後年作られたものである可能性が高い。



また、群馬県利根郡みなかみ町後閑には、金の蝶に化身して飛んできた八束小脛が住んだという洞窟に八束脛神社が建てられている。

その洞窟は、八束脛洞窟遺跡(やつがはぎどうくついせき)と呼ばれ、弥生時代中期前半の火葬・風葬の共同墓地とみられている。



八束小脛は、当時の先進技術が超自然の力(超能力、魔術、法力など)と誤解されたもの、
山岳信仰などが、人物化した姿であろうと結論付ける論者も多い。




羊太夫景教徒説[編集]

久保有政は、松浦静山がその著書の中で、
多胡碑のかたわらの石槨に「JNRI」という文字が見られ、
また碑の下からは十字架も発見されたと書き記していることを挙げ、
羊太夫とネストリウス派キリスト教との関連性を指摘する。


「JNRI」は、ラテン語のJesus Nazarenus, Rex Iudaeorumの頭文字をとった略語であって、
"ユダヤ人の王ナザレのイエス"を意味し、
十字架刑に処せられたイエス・キリストの頭上にかかげられた言葉であるとされ、
「INRI」(この場合、Iesusの頭文字である。)とも記されることがある。

久保は、これについて東方キリスト教の残滓が日本まで到達したことを示すものであろうとしている。


また「INRI」について、ヘブライ語は筆記においては母音が省略され子音のみ表記されるため、
「INaRI」と母音を補い、稲荷信仰との関連も指摘されている。

しかし、この説の根拠となる遺物に関しては、江戸時代にキリスト教信者によって捏造された可能性が否定できない他、
語呂合わせ的な主張でもあり、
説を補強する確かな遺物でも発見されない限り、この説を取ることは困難である。

[47]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月06日 18時19分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は用事で出かけましたが、ついでに雄踏で2〜3のお寺に行き墓を見て
まいりました。中村の墓が多いということはわかっていましたが、びっくりし
たのは、「賀茂」が非常に多かったということです。合わせて「吉田」も多か
ったのにも驚きました。服部は一つも見かけませんでした。賀茂、吉田といえ
ば神主系です。賀茂の中に一つ古いお墓があり、漢文調の由緒書きがありまし
たので、解読してまたお知らせいたします。賀茂氏が何故雄踏に? それが不
思議です。雄踏は志都呂・大久保の西にあたり、その向こうは浜名湖です。

 先ほど帰りましてレスを見てまたびっくり。あを様しっかり羊太夫等につい
て調べていただいており脱帽です。私の方は例の本を読もうと四苦八苦、一体
著者は何をいいたいのかといぶかしがる論旨・書き方で、収穫はあまりなかっ
たので困っていたところでした。助かりました! 今から読解いたします。


[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月06日 22時32分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


また消してしまいました。
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月07日 00時06分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 最後に久保有政氏の「INRI」に行きつかせたというのは、さすがあを
様ですね。

 実は、私も13年前に久保有政氏の『日本の中のユダヤ文化』という本を
購入して読み、その中で「羊太夫」と「INRI」の話が出ていたので、後
に関口昌春氏の『羊太夫伝承と多胡碑のなぞ』を買ったわけですが、残念な
がらその本には「INRI」の話は出ておりませんでした。その本の中で、
多胡碑の中に「穂積親王」が刻まれている事は発見しました。これは穂積と
羽鳥の関係を想像させます。

 久保有政さんは真摯な取り組みをしておられますので、ユダヤ関係につい
てはかなり信憑性があると信じています。
 久保氏の本の中から、羊太夫と「INRI」に関する部分を今後2〜3回
に渡って記します(明日より)。
 羊は日本にはいませんでした。羊之助という名前の人はいますが、干支か
らつけられたと思います。羊にも色々種類があります。また馬にも色々種類
があります。シルクロード起源の羊や馬が日本に入って来ていたということ
がわかっています。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月07日 05時40分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


中臣羽鳥と聖徳太子の3人のお子さまの件は繋がるのかも、ですね。
   羽鳥と聖徳太子が繋がってますから。
   
   ここに秦川勝も絡みますね。


   不比等の謎が解けると良いのですが。
   この人物は一体どういう陰謀を持っていたのか。 


>多胡碑の中に「穂積親王」が刻まれている事は発見しました。
>これは穂積と羽鳥の関係を想像させます。


    穂積親王ということは母上が穂積の娘だったということかもですね。

       穂積と羽鳥は一族関係ですから、盤石ですね。

    もう1押し欲しいところですね。


「古代史は海路で解ける」の著者はアタマの中が整理されてますね。
そして読む者に対してとても親切です。
   路頭に迷わせませんから。

面白いです。
ありがとうございました。


[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月07日 06時10分26秒 ) パスワード

またもや場外乱闘


友人より:


蘇我氏の屋敷のあった甘樫丘ですけど,
あそこ独立峰で、敵に囲まれたら,補給が不可能になります。

つまり,蘇我氏は反乱を起こすことなんか考えていなかったと思います。
明日香に行って,一番驚いたのが甘樫丘です。
敵軍に包囲されたら,簡単に干上がる地形です。
戦争するなら,談山神社あたりにいないと負けます。


蝦夷が自殺したのは当たり前です。
甘樫丘では絶対勝てません。
つまり,皇位を乗っ取ったのは中大兄皇子と藤原鎌足側だと思います。
そうなると,斉明天皇が,(入鹿が殺されたとき)オロオロになった意味も分かります。

入鹿が,皇位を狙う準備全くしていなかったのに、殺された。


蘇我氏は,謀叛人でなく,謀叛人は中大兄皇子と藤原鎌足だったと思います。
私は,古事記を作ったのは藤原不比等だと思います。

だれも中大兄皇子と藤原鎌足を正当と認めなかったのだと思います。


壬申の乱前夜,明日香には反乱が頻発し,
どうも蘇我王朝復興が旗印としか思えないのです。

しかも,法隆寺は若草伽藍と言いました。
近江朝廷の兵が,生駒山にあった高安城に入るといつも若草伽藍が燃えています。
つまり,反政府活動の拠点が若草伽藍で,若草伽藍には蘇我入鹿を祭ってあったと思います。


私は,推古天皇は蘇我王朝の天皇だったと思います。



ヤマトタケルの房総までの道は,あれね、奈良時代の東海道です。
東海道は,鎌倉を通り,逗子から田浦,横須賀に出ていて,船で房総にわたりました。
頼朝が,鎌倉幕府開いたのは,古代の東海道が鎌倉を通っていたからだと最近思っています。

横須賀から木更津は,浦賀水道で一番近くて7kmしかありません。
横須賀に,夏島貝塚と言う貝塚がありますので,縄文時代から人が住んでいたと思います。

横須賀に逸見と言うところがあります。
旧海軍の基地施設が一番集まっていて,
いまは在日米海軍の主要基地で,第7艦隊の空母とか巡洋艦が停泊している場所ですけど,
この逸見と木更津間が一番狭いのです。



武烈天皇ですが,和風諡号がない唯一の天皇です。
平安時代まで,神武とかいう漢風諡号は天皇になかったわけで,和風諡号だけでした。
ですので,和風諡号がないと言うことは,武烈は天皇でなかった可能性が高いと思われます。
武烈が架空天皇だとしたら,多分,次の継体の反乱を正当化するものだと思われます。
だから,武烈を暴君にしたわけです。
ただ,武烈が名君であったと言う古代の史料も存在するそうです。

となれば,日本書紀に最初から武烈が入っていたのかと言う疑問も生まれます。



     全然分からない・・・
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月07日 09時36分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代史の真実は、本当のところはたぶんはっきりしていると思いますが、
発表するわけにはいかないのではと思っています。
 百人の歴史学者・考古学者が知恵を出し合い、コンピュータ分析すれば、
かなりの確率で絞られて来ると思います。
 そうしないのは暗黙の内?に「タブー」に触れるなという民族的潜在意識
がはたらいているからだと思います。
 科学者なら絶対真実を求めるでしょう。歴史(特に古代以前)は完全な科学
ではなく、ある種の神格化のヴェールがかけられたロマンにしておきたいの
かも知れませんね。

 何をとってもどんでん返しがあるので困ります。アマテラス、スサノオ、
大国主、ヤマトタケル、聖徳太子・・・、実在モデルはいたがバーチャル
人間。バーチャルをあばけば、つまらないものになってしまいますか!?

 「羽鳥」の秘密・・・「羽衣」と「鳥=神」のキーワードで解けるかも
知れません!
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月07日 13時52分35秒 ) パスワード

>「羽鳥」の秘密・・・「羽衣」と「鳥=神」のキーワードで解けるかも知れません!

    まさに「羽」「鳥」ですね。
    にっこり


幕末の政治に関心のあった人は  日本政記  を読んでたようですね。


日本政記   にほんせいき

江戸時代後期の歴史書。 16巻。頼山陽著。山陽の死後,弘化2 (1845) 年に刊行された。
神武天皇から後陽成天皇にいたる編年体の歴史書。漢文で書かれており,史実より史論に重点がおかれている。

こういう本も場外知識としてどこかで役立つかも、です。


以下の本は朝日新聞に紹介されたものです。
原武夫が書評を書いてました。
難しそうでワタクシ的には催眠剤代わりになりそうですが:

http://www.amazon.co.jp/%E6%8A%98%E5%8F%A3%E4%BF%A1%E5%A4%AB-%E5%AE%89%E8%97%A4-%E7%A4%BC%E4%BA%8C/dp/4062192047

4000円もするバカ高い本です。


折口信夫 単行本
安藤 礼二 (著)


Kindle版
¥ 3,240

単行本
¥ 3,996

内容紹介

日本の知の結晶ともいうべき折口信夫。
文学、民俗学のみならず、その広大なる表現領域は他の者を圧巻し、全貌を掴むことが不可能とされてきた。

そこに、切り込んだ安藤礼二の『折口信夫』。
この本を読めば折口の全体像がわかり、この本を読まずして折口を語るなかれと、
後世の評価を受けることは確実である。


起源・言語・古代・祝祭・乞食・天皇・神・宇宙と題された章の数々──これを追うだけで心が打ち震えるではないか。

さらには、折口とアイヌや台湾を論じた列島論、
西脇順三郎、井筒俊彦、平田篤胤と折口を研究した詩語論をも付記した世界に冠たる大著である。

単行本: 538ページ
出版社: 講談社 (2014/11/26)
言語: 日本語
ISBN-10: 4062192047
ISBN-13: 978-4062192040
発売日: 2014/11/26
商品パッケージの寸法: 21.2 x 15.2 x 4.8 cm



この商品を見た後に買っているのは?

神々の闘争 折口信夫論 安藤 礼二 単行本    ←  こっちの方が読み易くて面白そうですが   
5つ星のうち 5.0 (1)

¥ 1,944
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月07日 14時11分39秒 ) パスワード

http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body330.html

「天智」と「新羅」の関係
以下コピペ



 「書紀」などで「天智」が「百済」系であるように書かれているように見えますが、
これは「百済を救う役」に「親征」した「倭国王」である「薩夜麻」についてものを
「天智」のものとして記述しているためであり、
「天智」自身は「親新羅系」の人物であったと推察されるものです。
そう考えるいくつかの「徴証」があります。



 以下の「続日本紀」の記録で分かるように「新羅使」は「八世紀新日本国王朝」の「元旦儀礼」に参加しているようです。


その際に持参した朝貢の品を「伊勢神宮」など「諸社」や「持統」の「陵(墓)」と思われる「大内山陵」に「奉納」するなどしています。


「(文武)二年(六九八年)春正月壬戌朔。天皇御大極殿受朝。文武百寮及新羅朝貢使拜賀。其儀如常。
戊寅。供新羅貢物于諸社。
庚辰。獻新羅貢物于大内山陵。」

「(文武)三年(六九九年)春正月壬午。京職言 林坊新羅子牟久賣 一?二男二女。賜 ?五疋 綿五屯 布十端 稻五百束 乳母一人。」

「(慶雲)三年(七〇六年)春正月丙子朔。天皇御大極殿受朝。新羅使金儒吉等在列。朝廷儀衛有異於常。
戊午。奉新羅調於伊勢太神宮及七道諸社。」

「靈龜元年(七一五年)春正月(中略)己亥。宴百寮主典以上並新羅使金元靜等于中門。奏諸方樂。宴訖。賜祿有差。」




 これらのことは「八世紀」の「新日本国」王朝にとって、
いかに「新羅」との関係が重要であるかを如実に示すものです。
その彼らが「権威」の根拠としている「天智」という人物が「百済」系であるはずがないとも言えます。
 

 また「天智」は「東国」に支援勢力があったと考えられるわけですが、
「東国」は「利歌彌多仏利」の時代に行なわれた「改革」の際に「惣領」として
「高向臣」と「中臣幡織部連」が派遣され、
「倭国王権」の統治の第一線で活躍したものです。


 彼等はこの時点以降「東国」に対する「指導力」が強くなったものと考えられますが、
また彼等は「新羅系」の氏族であったものとも考えられます。



 「高向臣」は上で見たように「遣唐使」として「新羅経由」で派遣されていることなど、
「新羅」に縁の深い氏族であったと考えられますし、


   ここ注意   ナカトミのハトリべのムラジ???
     ↓

「中臣幡織部連」は
「関東」に伝わる「羊大夫」伝説によれば
「物部守屋」が滅ぼされた際に、彼に加担した罪により「関東」に流されたとされる人物として
「中臣羽鳥連」がいるとされ、
これと同一人物(或いはその子孫)ではないかと考えられるものです。


 そもそも「物部」自体が「親新羅勢力」であったと考えられ、
彼と行動を共にした「中臣氏」も「新羅」と関係の深い氏族であったものと考えられるものであり、
彼等が「関東」に派遣された(流された)理由の一つは、
もちろん「ペナルティー」の意味もあると思われますが、
より重要な意味としては「新羅系」の渡来人などが多かった「関東地域」に対する
影響力を強化することを目的としていたものと思料します。



 関東にはそれ以前から「新羅系」を始めとする渡来人のコミュニティが各地にあったように見受けられ、
彼等を「倭国王権」に組み入れていくことが必要であったものです。

そのために同じ「新羅系氏族」を起用するという政策が行われたものと考えられます。
また、そのような中に「秦氏族」もいたものと思われ、
「書紀」などで「聖徳太子」のブレーンであったとされる「秦河勝」がその代表的人物ですが、
「聖徳太子」が「利歌彌多仏利」の投影とでも云うべき存在である事を考えると、
この「秦氏」もまた「利歌彌多仏利」に深く関わる「氏族」(人物)であると思われます。


 また、この「古事記」とその「序文」を書いたとされる「太安万侶」の「太氏」についても
「秦氏」と深い関係があることが種々の研究により指摘されており、
「太氏」自体が「新羅」に深く関係していたものと考えられるものであり、
彼がこれを執筆、編纂している理由もそこにあるものと考えられるものです。



 彼ら「秦氏」とその関係氏族は「九州」では「豊」(「宇佐」)に本拠がある氏族と考えられ、
この「宇佐」地域は「新羅系」氏族の痕跡が深く、
また彼等の信仰についても「新羅系」の傾向が色濃い地域とされています。



 「宗像三女神」信仰も「宇佐八幡信仰」の一部として信仰されていたものであり、
これもまた「新羅系」の信仰が土台にあるものと思料されます。



 これらの「利歌彌多仏利」に関する人物や環境などに「新羅」の関連や影響が考えられるものであり、
「天智」はこのような、以前から「東国」に存在し、影響力があった「新羅系」氏族などからの支持を取り付け、
「革命」を起こすために立ち上がったものと考えます。


 またそのためには「古代官道」の整備が重要な役割をしていたと考えられます。

 「難波京」整備と並行して、
難波から「東国」へ伸びる「官道」(特に「東海道」)の整備(拡幅と延伸)が相前後してほぼ完成し、
これは「倭国中央」の支配力強化のために整備された「軍用道路」であったと思われますが、
これを利用して「逆」に「東国」から「副都難波」へ侵攻することが可能となったものと考えられます。



 この「革命」時点では「西国」の主要な勢力は「隋」の脅威に対抗するため「筑紫」周辺に展開していたものと思われ、
「東国」勢力の侵攻を止めるものは何もなかったと思われます。


このため、この「革命」は短期間の内に「成功」を治めることとなったものです。
(それは「古事記」序文では「十二日以内」と書かれています)



 「天智」はその様な不安定さを利用して、「軍事クーデター」を起こしたものであり、それは見事に成功したのです。


 後の「平安時代」の初期「嵯峨天皇」の頃に、
宮中で「日本書紀」の講義を行った「多朝臣人長」が書いた「弘仁私紀序」には

「今然聖主嵯峨帝弘仁四年在祚之日 天智天皇之後 柏原天王之王子也」と書かれています。


つまり、嵯峨天皇は「柏原天王」の「王子」であり、
「天智天皇」の「後」つまり「子孫」であると言っているのです。


ここで「天智天皇」が出てくるのはもちろん「実際に」彼の子孫であるからであることはもちろんですが、
「天智天皇」が「親新羅系」の人物であり、
それはその時点の「嵯峨天皇」の「北朝」への「傾倒」
という思想的傾向に重なる人物であることが大きな理由の一つであると考えられるものです。


(この項の作成日 2012/4/19、最終更新 2014/12/01)
以上
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月07日 14時49分26秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%96%E6%94%B9%E6%96%B0_ (%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)

大化改新 (NHKドラマ)

『大化改新』(たいかのかいしん)は、2005年1月に放送された、NHK制作の「古代史ドラマスペシャル」第2作である。


概要[編集]

大化の改新前後の時代を舞台とする。
岡田准一演じる中臣鎌足(のちの藤原鎌足)を主人公にし、
大化の改新で敵対する蘇我入鹿とは、学僧・旻の元で共に学んだ親友であったという設定で描く。



出演[編集]

中臣鎌足(岡田准一、少年時代・中村陽介):主人公。両親を早くになくし叔父に育てられた。


蘇我入鹿(渡部篤郎):鎌足の親友。独裁権力を握り鎌足と敵対するようになる。

車持与志古(くるまもちのよしこ。木村佳乃):鎌足の幼馴染。後に妻となる。

        上の方のレスに車持氏は出てますね

              「かぐや姫」の求婚者の1人にも車持という人がいたような



山背大兄王(山口祐一郎):政治傾向として外国と手を結ぼうとする宝皇女・入鹿一派の政策に反対し、日本独自の路線でいくべきだと主張している。入鹿により滅ぼされる。


中大兄皇子(小栗旬):宝皇女の息子。後の天智天皇。

蘇我石川麻呂(伊武雅刀):入鹿の叔父で蘇我分家の当主。野心家。鎌足と手を組む。

蘇我日向(山口馬木也):石川麻呂の弟。

中臣国子(なかとみのくにこ。大杉漣):鎌足の叔父である神官。育ての親。

軽皇子(吹越満):宝皇女の弟。野心家の風見鶏。

宝皇女(高島礼子):文字通りの女帝。入鹿をはじめとする臣下を巧みに利用し実権を握る。中大兄皇子の母。

舒明帝(螢雪次朗):宝皇女の夫。

蘇我毛人(原田芳雄):入鹿の父。入鹿と手を組んだ宝皇女に実権を奪われる。

南淵請安(仲代達矢):鎌足・中大兄皇子の師。入鹿により処刑される。

旻(国田栄弥):鎌足・入鹿の師。

中臣真人(森島響己→青木卓人→清水大河):鎌足の息子。

弥気(平澤洋爾):鎌足の父。

土師娑婆連(稲森誠)

海犬養勝麻呂(長田融季)

佐伯子麻呂(小谷幸弘)

葛城稚犬養網田(安田善紀)

強頚(六平直政)

漢直(大八木淳史)

船恵尺(呉汝俊)

巨勢徳太(伊藤敏八)

田目連(芝本正)

高表仁(張春祥):唐の使者。

新羅の使者(東康平)

高句麗の使者(池波三太郎)

百済の使者(藤本幸弘)



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大化改新
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累計評価件数:159

ユーザーレビュー:13件

大化改新
製作年:2004年
製作国:日本
.DVD
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2005年の新春にNHKで放映された、V6・岡田准一と渡部篤郎が共演したスペシャルドラマの後編。入鹿は敵対勢力である聖徳太子の息子・山背大兄王を討ったことで独裁者の道をひた走る。鎌足は思い悩んだ末、中大兄皇子と共に親友の入鹿討伐の意を決する。

ジャンル:邦画 > アクション 脚本:池端俊策 音楽:大島ミチル 出演:岡田准一、渡部篤郎、木村佳乃、山口祐一郎、小栗旬、伊武雅刀、大杉漣、高島礼子、原田芳雄、仲代達矢、山口祐一郎 ツイート


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NHK古代史ドラマスペシャル 大化改新 前編  旧作
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[56]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月08日 01時01分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は一日JOB拘束日でレス遅くなりました。昨日訪れた雄踏町の寺で見つ
けた「賀茂家」のたくさんの墓について、由緒書きを解読していましたが、し
かとはわからなかったので、インターネットを探りましたら出て来ました。
 
「賀茂真淵についてー賀茂真淵先生ーはまぞう」
 mabuchisensei.hamazo.tv/c582184.html

「ところで、実は遠州と山口県には、意外と深い縁がある。

この賀茂百樹が靖国神社の三代目の宮司であるとは最初に書いたが、その先代
の宮司は遠州の人、しか同じ賀茂姓の賀茂水穂(かも みずほ)という人であ
った。(注3)

靖国神社の巨大な青銅の鳥居をくぐると、境内に大村益次郎の大きな銅像が
あるが、これを建立したのは誰あろう賀茂水穂である。今でも台座にその名が
しっかりと刻まれている。

大村益次郎銅像

賀茂水穂は遠江国浜名郡(雄踏町宇布見)出身で、金山大明神の神主であった。時は幕末、明治維新の前夜である。徳川にゆかりの深い浜松にありなが
ら、勤皇の意志堅固な神主達が集まり、東征大総督 有栖川宮熾仁親王(あ
りすがわのみやたるひとしんのう)の率いる官軍に合流して、戊辰戦争など
を共に戦った史実がある。

この人々を遠州報国隊という。
賀茂水穂はこの遠州報国隊の一員であった。そして、水穂の兄 山本金木
(やまもと かなぎ)が報国隊の隊長であった。

遠州は、これより遡る南北朝時代、後醍醐天皇の皇子宗良親王(むねなが
しんのう)が遠州灘に上陸され、土地の豪族がこの皇子をお守りし、よく戦
った経緯がある。

この宗良親王をお守りした豪族が井伊家であり、親王をお祀りしているのが、
今の井伊谷宮(いいのやぐう)である。(注4)

そして、伊勢国から陸奥国へ舟で渡ろうとされた宗良親王が漂着された遠州
白羽の浜には、今では石碑が建っている。(注5)

親王は、遠州、駿河、三河、信濃で活躍され、生涯を閉じられたが、伝説は
今も語り継がれ、遠州国学の流れとして受け継がれている。

こうした歴史的背景を背負って遠州報国隊となった神主たちは、明治維新の
成った後、徳川家の所領となった遠州には帰参がかなわず、靖国神社の神主
となったり、官吏になるなどして多数が江戸にとどまった。

賀茂水穂は、明治政府の初期の海軍で大主計を勤めた後、靖国神社の宮司と
なった。そして、賀茂真淵翁に造詣が深く、また靖国神社宮司である自らの
跡継ぎとして、俊英賀茂百樹を見いだしたのではなかろうか。

 賀茂水穂の歌が残っている。

縣居大人墓前繼嗣報告祭の直會席(明治二十九年五月九日)に於て、水穗翁
の哥一首あり。曰く、「眞木柱 動かぬ心 押立て 家のまなびを 引おこせ
君」(注6)

 この「君」とは、賀茂百樹のことであろう。明治29年、賀茂百樹が賀茂
家の養子になった(注4)2年後のことである。
賀茂真淵翁の歌「飛騨たくみ ほめてつくれる 真木柱(まきばしら) た
てし心は 動かざらまし」を踏まえているのは言うまでもない。

賀茂百樹は後に「賀茂真淵全集」「日本語源」などをものし、靖国神社の
宮司も30年勤め上げ、水穂の期待によくこたえたのである。


「楠木探訪録 その35」

http://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-10716313197.html

「賀茂氏

遠江国敷智郡宇布見村(雄踏町)に、

楠木正成の四代という治部兵衛直吉を祖とする賀茂氏がある。

美濃国加茂郡の人という。直吉の子賀茂一郎左衛門尉が宇布見村に移住した

という。」


 楠木氏と賀茂氏、賀茂氏と宇布見(雄踏町)がなぜ結びついたかは、しかと
はわかりません。
 「吉田氏」の墓もたくさんありました。神祇官としては吉田の方が上であ
ったとは思いますが。
 また、賀茂真淵の地でもありますので、賀茂家がこちらにあったことは間
違いないです。




[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月08日 03時16分42秒 ) パスワード

幕末はどこでもグチャグチャに入り乱れていたんでしょうね。
尾張も2つに分かれて争っていたし。



>楠木正成の四代という治部兵衛直吉を祖とする賀茂氏がある

これは100%知らなかったです。
でも南北朝時代に転戦しているうちに美濃加茂に腰を据えたのでしょうね。


http://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-10716313197.html
以下コピペ:


楠木探訪録 その35 楠木正平系 そのB
2010-11-23 23:15:36

賀茂氏

遠江国敷智郡宇布見村(雄踏町)に、
楠木正成の四代という治部兵衛直吉を祖とする賀茂氏がある。

美濃国加茂郡の人いいう。直吉の子賀茂一郎左衛門尉が宇布見村に移住したという。

正成─正儀  の子孫ですか。


『金山天神社及賀茂家・資料』に収録されている賀茂家の系図によると
水穂(直章)がいますね。


山本金木は戊辰戦争における遠州報国隊の隊長の山本金木のこと。
賀茂家を継いだ水穂は靖国神社二代目宮司の賀茂水穂と同人。





また、金山天神社に伝えられる賀茂市正直高は正成九代の人と伝えられ、
竜雲寺の城に御座ありし竜雲寺殿一品親王木寺宮と奉謀したと伝える。
家康の臣の本多作左衛門に其城を攻落されて宮に随従亡落したとする。



何故、楠木正眞が賀茂を称するようになったかはよくわからない。


橘姓を称し、正成の子孫と称するが、一方で賀茂県主の子孫でもあるらしい。
どうも楠木小四郎正眞が賀茂氏に養子に入ったようである。



偶然、別件で依頼したいた『各家系譜・楠氏系譜』の中にある
幾つかの系譜の中に賀茂家の系譜が見つかった。
しかし、あまりに判別し難い系譜の為、読み誤りがある点は了承して頂きたい。




賀茂家系図

正成─正儀─正平┬朝成

        ├正知

┌───────┘

└正眞───────眞澄──────┬眞道──────┐

++楠木小四郎++++又は眞隆+++│++++++++│

++後眞吉に改める++賀茂小太郎++└正晴++++++│

┌────────────────────────────┘

├眞秀──────┬義眞──────┬某

│++++++++│++++++++│

└正晴++++++└政高++++++├直高──────┐

++++++++++++++++++│++++++++│

++++++++++++++++++└某+++++++│

┌────────────────────────────┘

└眞治───────眞成──────┬某

++++++++++++++++++│

++++++++++++++++++└眞吉──────┐

┌────────────────────────────┘

├眞高──────┬眞政───────眞輝──────┐

│++++++++│+++++++++++++++++│

│++++++++└直○+++++++++++++++│

│++++++++++++++++++++++++++│

└眞胤───────眞町+++++++++++++++│

┌────────────────────────────┘

└眞晴───────眞博──────┬直○

++++++++++++++++++│+山本金木

++++++++++++++++++│

++++++++++++++++++├某

++++++++++++++++++│

++++++++++++++++++├直章──────┐

++++++++++++++++++│++++++++│

++++++++++++++++++├正長++++++│

++++++++++++++++++│++++++++│

++++++++++++++++++└正作++++++│

┌────────────────────────────┘

├厳雄──────┬正房

│++++++++│

└正義++++++└正光




これにより眞澄から眞吉までの間に六代追加されることになる。




正儀─正平─正眞─眞澄─眞道─眞秀─義眞─直高─眞治─眞成┐

┌──────────────────────────────┘

└眞吉─眞高─眞政─眞輝─直晴─直博─直章─厳雄─正房




しかし、これでも眞澄が嘉吉元年(1441)の頃、

眞吉が元禄元年(1688)頃に没したとすることを考えるとまだ世数が少ない感がある。


楠氏系譜はマイクロフィルなのであるが、
この賀茂氏の系譜部分には、直高と眞治の間の部分に異なる記載があり、
この部分の系譜の連続性が曖昧となっている。仮にこの間に数代あるという可能性がある。




正儀─正平─正眞─眞澄─眞道─眞秀─義眞─直高─・・・─眞治┐

┌──────────────────────────────┘

└眞成─眞吉─眞高─眞政─眞輝─直晴─直博─直章─厳雄─正房


[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月08日 09時29分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 賀茂氏が何故浜名湖東岸の宇布見にいたのか、賀茂真淵は雄踏街道を真っ
直ぐ東へ行ったところの岡部郷(伊場村)で生まれた(賀茂神社あり)とあるが、
両賀茂家は関係があったのか。その辺のところを今後調べて行きたいと思い
ます。もっとも、賀茂氏はいろいろなところに点在しています。秦氏とも
近い関係にあります。
 楠木氏が賀茂氏に養子に入ったということも興味あるところです。その辺
も探りたいと思っています。「島氏」の墓も雄踏町でいくつか見つけました
し、何か匂います。

 今一番興味を抱いているのは、「鳥と神」です。もちろん「羽鳥」から来
ています。ここを最優先で考えたいと思います。その前に、例の「羊太夫」
についての久保有政氏の見解を記述します。ちょっと出かけますので後で―
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月08日 12時13分53秒 ) パスワード

羽鳥が気になってます。


日本人の名字っていい加減に名乗っているのかと思うと
いえいえ
実は実は古代からだったりして。



[60]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月08日 16時58分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それでは、久保有政氏の『日本の中のユダヤ文化』から―
 
 「8世紀の墓から出た十字架
  1549年に、ローマ・カトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが
 来日し、キリスト教を伝えた。彼の伝記などを読むと、たいてい、「日本
 に最初にキリスト教を伝えた人」というような肩書きがついている。しか
 し、じつは彼は、日本にキリスト教を伝えた最初の人ではなかった。彼の
 時代よりもはるかに前に、たくさんのキリスト教徒が日本に入っていた。
 そして日本の文化・伝統に決定的ともいえる影響を与えていたのである。
  たとえば、7〜8世紀にかけて生きた「羊太夫」と呼ばれた人物の墓か
 ら、昔「多胡郡」と呼ばれたが、羊太夫は、その多胡郡の統治をまかされ
 た人である。多胡郡には「多胡碑」と呼ばれる古碑がある。711年に建
 てられ、「日本の三古碑」のひとつに数えられる石碑だ。この碑が、羊太
 夫について記している。
  「羊とは変わった人名だな」と思う方もいるかもしれないが、そうでは
 ない。彼は群馬の地に昔実在した人物で、渡来人であった。
  この羊太夫の墓の中から、キリスト教徒の十字架が発見されていたので
 ある。また「INRI」というローマ字の記された銅版もともに発見され
 た。それらは羊太夫のものと思われ、8世紀にすでに日本にキリスト教徒
 がいたことを示している。
  そしてこのキリスト教徒・羊太夫は、その地域のリーダーであっただけ
 でなく、日本全体の文化の発展にも多大な功績を残していた。
  羊太夫の墓から出たという「十字架」は、残念ながら現存していない。
 が、江戸時代後期の大名であり、また学者でもあった松浦(まつら)静山が、
 その十字架に言及している。彼の著『甲子夜話(かっしやわ)』のその部分
 を現代語ら訳すと、こう書かれている。
  「上州多胡郡の碑にある羊(人名)は、遣唐の人であろう。のちに、その
 墓の中から十字架が発見された。そこで上州の代官が長崎屋の旅舎でオラ
 ンダ商人イサク・ティツィングに見せたところ、ティツィングは『こんな
 ものを鑑定しろと命令されるとは、いったいどういうことでしょう?』と
 不思議がった」
  このオランダ人が不思議がったのは、当時はキリシタン禁制の時代であ
 り、十字架は禁制の品だったからである。
  羊太夫は、高度の技術力を持ち、日本最初ともいわれたあの有名な銅銭
 「和銅開珎」(わどうかいちん)を作った技術長官でもある。また羊太夫は、
 土地の人に尊敬され、慕われていた。筆者はその地域を調査したことがあ
 ねが、今も彼のことは人々に語り継がれている。彼らは今も羊太夫を偲び、
 毎年お盆の時に送り火として山で文字焼きをしている。
  十字架が発見されたという羊太夫の墓がどこにあったのか、現在では特
 定できていない。後述するように、その墓は多胡碑のかたわらにあった「
 石槨」(せきかく)であると思われるが、多胡碑自体が戦時中などに何度か
 動かされたため、もとの多胡碑の正確な位置は現在ではわからなくなって
 いるという。
  じつは「多胡」の名も、そこに渡来人が多かったことから付けられた名
 である。「胡」は外国、西域の民族という意味である。羊太夫の家系も、
 渡来人であった。しかも、彼らはキリスト教徒だったようなのだ。
  しかし「十字架が出たちいっても、十字架に似ていただけではないのか」
 と疑問視するかたもいるかもしれない。けれども、高名な学者であった松
 浦静山が「十字架」とはっきりいっているのだ。またティツィングも、そ
 れをキリスト教の品だと思ったからこそ、『こんなものを鑑定しろとはど
 ういうことか』と言ったのである。」

  とりあえず今回はここまで。後5〜6回引用させてもらいたいと思いま
 す。

  仮に中臣羽鳥連の玄孫が藤原不比等だとしたら、不比等と羊太夫は親戚
 になりますので、いわゆる原始キリスト教との関係が何かしら見出される
 はずですが、たぶん知っていたけれど表には出さなかった、隠蔽したので
 はないかと推理します。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月08日 21時54分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごいお話の数々ですね。

送り火の件はゾロアスター教の影響でしょうし。
   奈良のお水取り、とか
   京都の大文字焼き、とか
   に現在もゾロアスターの名残りが見られます



>羊太夫は、高度の技術力を持ち、
>日本最初ともいわれたあの有名な銅銭「和銅開珎」(わどうかいちん)を作った技術長官でもある

こういう技術は渡来人ゆえだったでしょうね。

羊は中国でも食べられていましたが
日本では定着しなかったのでしょうね、仏教の影響で
聖武天皇でしたっけ?四足食を禁じているから。

わたくしも羊肉は好きじゃないです、お腹が張るから。


続きを期待しています。ぺこり
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月08日 22時21分48秒 ) パスワード

和同開珎      ←  和同開宝で習ったクチです。


和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)は、708年(和銅元年)に、日本で鋳造・発行された銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の第1番目にあたる。



概要[編集]

直径24mm前後の円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は、621年に発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。


       なるほど、場所的にも
        
        ↓   

現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。


唐に倣い、貨幣制度を整えるため、また、ちょうど平城京遷都の直前だったため、遷都の経費を、銅地金と貨幣価値との差額で補う目的もあった。



708年5月には銀銭が発行され、7月には銅銭の鋳造が始まり、8月に発行されたことが続日本紀に記されている。しかし、銀銭は翌年8月に廃止された。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。古和同と新和同は成分が違い、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い。ただし、現在、古銭収集目的で取引されている和銅銭には贋作が多いので注意を要する。


当時の日本はまだ米や布を基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いてあまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている。


発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間でなかなか流通しなかったため、政府は流通を促進するために税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど様々な手を打ち、711年(和銅4年)には蓄銭叙位令が発布された。これは、従六位以下のものが十貫(1万枚)以上蓄銭した場合には位を1階、二十貫以上の場合には2階進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため、800年(延暦19年)に廃止された。


政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。これに対し律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった。760年(天平宝字4年)には万年通宝が発行され、和同開珎10枚と万年通宝1枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。神功開宝発行の後、779年(宝亀10年)に和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭は、同一価を持つものとされ、以後通貨として混用された。



読み方[編集]      開宝とも何故読まれるのか?の答えです

和同開珎の「珎」の字は、開元通寶などの銭貨の語尾が「寶」であることを理由に、「寶」の異体字である「寳」の略字であると考え、「わどうかいほう」と読むとする説が主流となった[1]。それに対し、「珎」は「珍」の異体字であり、和同開珎は「わどうかいちん」と読むという説もあり[1]、江戸時代から150年以上論争が続いてきた。こうした中で、栄原永遠男は史料調査によって、「寳」や「寶」が「珎」と略記された例が存在しないこと、「珎」を「ほう」と発音した例が存在しないことを示した[2]。


これらにより、和同開珎を「わどうかいほう」と読むとする説は棄却されることとなった[2]。


また以前には、『日本書紀』の683年(天武天皇12年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述があることなどから、和同開珎の「和同」を元号の「和銅」とは無関係でその発行を天武天皇の時代まで遡るとする学説もあったが、後述の富本銭の大量発見によってこの説はほぼ否定されている。そもそも、この通貨のモデルである唐の開元通宝は文字を上下右左の順に読むため、上右下左の順に読む「和同開珎」という読み方が正しいかどうかについても疑問が投げかけられている[3]。



和同開珎以前に存在した貨幣[編集]

和同開珎以前に存在した貨幣として、無文銀銭と富本銭が知られている。1999年1月19日には、奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。現在の所、和同開珎は、確実に広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣であるとされている。


関連項目[編集]
秩父市
秩父地方
和銅黒谷駅
聖神社 (秩父市)

参考文献[編集]
「和同開珎の発行」、『日本の美術』第512号 出土銭貨、至文堂、2009年1月10日、 ISBN 9784784335121。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月08日 22時32分23秒 ) パスワード


http://blogs.yahoo.co.jp/citizen8823/folder/482526.html?m=lc&p=2


 羊太夫についてイメージ 9

 
 「多胡碑」に『和銅四年(711年、今から1302年前)三月九日甲寅。

上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の中から300戸を分けて新たに多胡郡をつくり羊に支配を任せる。』と

記載されている羊とは、東山道上野国多胡郡八束山(高崎市吉井町多胡地区)城主の八束羊太夫宗勝のことをいいます。


宗勝は天児屋根命の子孫、大職冠藤原鎌足の五代の孫、
藤原将監勝定の嫡男で羊の日の刻に生まれたので、羊太夫と命名されました。


      えっ?
      そうなの?


 羊太夫は生まれつき通常人と異なる相を備え、
成長するに従い才知にすぐれ、七歳の時から弓馬の道を習い、文武両道に達する若者で、身長七尺五寸(2.3m)、
眼光は鋭く人を射るようで、上野の国で二十万戸を領し多くの一族を養い、仁義の道を教えて領民もよくなついていたそうです。


しかし、第四十四代元正天皇(715年〜724年)の頃、羊太夫に謀反の計画があるとの報があり、

養老五年(722年、今から1291年前)正月二十一日に十万余騎の羊太夫討伐軍が東山道を下ってきた。

養老五年十一月二十二日に羊太夫の八束城は包囲され、
羊太夫は中尾源太宗永に奥方、若君、お供の女数名を脱出させ羊太夫は自害しました。


脱出した中尾源太宗永と奥方達も、追手に追いつかれ落合村で寺の老僧に若君を預けて、
奥方と6人の女房達はその場所で自害をしました。


 やがて老僧は,七つの輿に自害した奥方たちの亡骸を収め葬ったので、この山を七輿山と名付けたのだそうです。

また、老僧は寺を造営して、宗永を開基、七輿を山号として、七輿山宗永寺と名付けられました。


【参考図書】 南八幡公民館図書室所蔵文庫  「上落合ふるさと史 あゆみ」
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月09日 04時07分01秒 ) パスワード

>藤原将監勝定の嫡男


江戸時代でも通じるひどく近代的な名前だと思いましたが

   将監には
   近衛(このえ)府の判官(じよう)。
   左右がある。


ということで当時には存在してたのかもですね。


[65]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月09日 13時35分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 先日、高槻へ行って、中臣鎌足の阿武山古墳のことを知り、またキリスト
教がかなり早くからこの地域に浸透しており、キリシタン大名も生まれたと
いうことと、埼玉県における中臣氏の祖先の「INRI=キリスト教でイエ
ス」の文字板との関係とは何か相関関係があるような感じがして来ました。
 藤原鎌足となって権力の絶頂にあった人が、なぜひっそりと「高槻」にと
いう場所に埋葬されたのかが不思議です。高槻には、何か謎めいた祖霊がま
しますような気がします。

 では前回からの『日本の中のユダヤ文化』の続きです。

 「JNRI(INRI)の文字も発見された―
  また、発見されたのは十字架だけではなかった。「JNRI」というロ
 ーマ字の記された「古銅券」(板)も発見されたのである。
  甲子夜話では、「先年、上野国の多胡羊太夫の碑のかたわらから石槨を
 掘り出したが、その中から古銅券が出た。その表題の字が「JNRI」と
 なっている。この蛮文について、ある人がそののち蛮書『コルキーネ』を
 調べた。すると、イエス処刑の図の十字架の上部に、この4字が書かれて
 いるのがわかった。しかし、その意味について蛮学に通じた人に尋ねてみ
 たのだが、よくわからなかった」という。

  松浦静山は「JNRI」とは何の意味かと興味を持ち、調べると、西洋
 のキリスト処刑の絵画によく見られるものであることはわかったが、その
 意味はわからなかったというのだ。だが、現在ならその意味は明白だ。そ
 れはラテン語の「Jesus Nazarenus, Rex  Iud
 aerum 」の頭文字を並べたものである。つまり「ユダヤ人の王ナザ
 レのイエス」を意味する略語なのだ。『聖書』によればイエス磔刑の際、
 この言葉がヘブル語、ギリシア語、またラテン語の3か国語で、イエスの
 頭上に掲げられたという。
  それゆえ、ラテン系キリスト教美術においては、十字架のキリストを描
 く際に、その頭上に「JNRI」の文字がよく描かれる。または「INR
 I」の文字も使われる。この場合の最初のIは「Iesus」の頭文字で、
 同じくイエスを意味する。つまりJもIも使われる。

  16世紀に、宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、日本にローマ・
 カトリックのキリスト教を伝えて以来、キリシタンと呼ばれるキリスト教
 徒が日本に増えていった。しかし彼らキリシタンは一般にIHS(人類の
 救い主イエスの略)とか、IHCなどは使ったが、JNRIやINRIは
 ほとんど用いなかった。
  そもそも「JNRI」は、711年の多胡碑建立ごろのものだから、キ
 リシタンのものではない。古代の日本にやってきていたキリスト教徒のも
 のである。
  古代の東方キリスト教徒の間でも、十字架のイエスの頭上の言葉を描く
 ときには、ラテン語の「JNRI」や「INRI」が用いられることがあ
 った。
  なぜなら、それは実際にイエスの頭上に掲げられた言葉であったし、また
 東方キリスト教は、5世紀に分かれるまでは、ローマ・カトリック教会と
 一緒だったからだ。
  また、松浦静山は、多胡碑のかたわらの石槨内で発見された文字を「J
 NRI」と呼んだが、これは実際には「INRI」だった可能性もある。
 ローマ字のIは、装飾文字ではJに近い形だからである。従って、「IN
 RI」は、キリスト教世界においては「インリ」と発音されたきた。」

ということです。

 今年の3月号の月刊『ムー』の中に、干支の羊にちなみ、羊太夫の羊神社
についての記事が掲載されておりました。購入後、本に目を通した時には、
うっかり見落としておりました。次回以降に記載いたします。

 
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月09日 20時31分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それでは月刊『ムー』の3月号から―
 
 「今年の干支は未だが、その名がついた羊神社が群馬県安中市と愛知県名古
 屋市にあり、どちらも参拝客が後を絶たないという。
  ふたつの神社に共通するのは、その由来に、奈良時代初期に埼玉県秩父地
 方の銅鉱脈を発見したという伝説の人物「羊太夫」が登場すること。

  羊太夫は、朝廷から群馬県南西部の統治を任されていた郡司で、神通力を
 使う八束小脛(やつかこはぎ)という従者に馬を引かせ、空を飛んで奈良の都
 に日参していた。
  あるとき、昼寝をしている小脛を見ると、脇の下に羽が見える。羊太夫は
 いたずらにその羽を抜いてしまった。
  すると小脛の神通力は失われ、都に行けなくなり、羊太夫は謀反の疑いを
 かけられて滅ぼされた。だが、その後無実とわかり、丁重に弔われた。

  名古屋市内にも羊神社があるのは、羊太夫が都を行き来する際、立ち寄っ
 た屋敷があったから。羊太夫が、周囲の人々のために火の神を祀ったのが
 「羊神社」だという。

  さて、安中市中野谷の羊神社が創建されたのは1600年代の後半。小さ
 な神社で職員は常駐しておらず、駐車場もない。JR信越本線の磯辺駅から
 徒歩で30分ほどかかり、未年以外の年は初詣に訪れるのは近所の人ばかり
 だという。
  一方、名古屋市北区辻町にある羊神社は、地下鉄上飯田駅から徒歩5分で、
 12年前も参拝客の長い行列ができた。
  平安時代中期の927年にまとめられた「延喜式神名帳」に「尾張国山田
 郡羊神社」の名があり、その歴史は古い。

  なお、動物の「羊」は外来種。最古の記録では、599年、推古天皇に百
 済から駱駝、驢馬各1頭、白雉1羽、そして羊2頭が送られたとある。
  そのため、羊太夫については渡来人説からキリスト教徒説まで、さまざま
 な説がある。」

ということです。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月09日 22時14分55秒 ) パスワード

ありがとうございました。


名古屋に羊神社があったのは知らなかったです。



>あるとき、昼寝をしている小脛を見ると、脇の下に羽が見える。羊太夫は
>いたずらにその羽を抜いてしまった。
>すると小脛の神通力は失われた


こういう説話は似たような話が世界中にあるようい思います。
  ゴリアテでしたっけ?髪の毛を切られて動けなくなったユダヤの話
  アキレス腱を切られて走れなくなった話
日本では  羽 ですか。



    これって  羽衣の話  に共通するじゃないですか!!!


ちょっと考えますね。休憩。



[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月09日 22時21分24秒 ) パスワード

思いついたのは   鶴の恩返し  の話。


羽を抜いて美しい反物を織る。

彼女は飛び去ったのでしょうけど
いえいえ飛べなくなって死んだのかも知れないですね。



羊太夫の話と何か共通する感触があります。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月09日 22時32分37秒 ) パスワード

ちょっと気力が無くて読みに行けませんが


「古代史の謎は海路で解ける」に

魏志倭人伝の中に  日本からは麻布を朝貢したのですか?
中国からもらったのは  錦とか絹織物とか?



ウイキより:倭人について抜粋

其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜頭。其衣・幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。

その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿の布を頭に巻いている。その衣服は幅広い布を結び合わせているだけであり、ほとんど縫われていない。婦人は髪に被り物をし後ろで束ねており、衣服は単衣(一重)のように作られ、中央に孔をあけ、貫頭衣である。


    木綿って江戸時代に伝わったように思ってましたが。



種禾稻・紵麻、蠶桑緝績、出細紵・縑・緜。

稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。


     麻はやっぱり存在していたんですね。
     そして
     絹織物も存在していたんですね



其地無牛馬虎豹羊鵲。

牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。


    馬がいないということで日本人の騎馬民族説は否定されますね。


    鵲は半島の鳥ですね。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月09日 22時37分38秒 ) パスワード

其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。


倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。



持衰(じさい)のことは「古代史の謎は海路で解ける」にも書かれていました。
魏志倭人伝にちゃんと書かれていたのですね。


   学校時代に魏志倭人伝は何度も読まなくてはならなかったのですが
   結局はちゃんと読んでなかったです。

    文身のことは記憶にありましたが。


   いけませんね
   学校に行ってても  ポ〜  ッとしてました。
   でも今頃反省しているので、良かった、ということにします。
[71]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月10日 14時07分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『日本の中のユダヤ文化』(久保有政著)の続きです―
 
 「秦氏だった羊太夫
  インリの文字は、「石槨」から出た。石槨とは古墳時代に造られた、棺
 を入れるための石室である。石槨を伴うような古墳が造られたのは、だい
 たい4〜5世紀ごろである。この時代に造られた古墳だとすれば、十字架
 とインリの文字も、その時代のものということになる。

  さらに、インリの文字は「銅」の板に記されていた。じつは707年、
 埼玉県の秩父で銅が発見された。そこで翌708年、朝廷は秩父に銅銭
 「和銅開珎」を鋳造するための工場を作らせた。このとき、それに従事し
 たのが羊氏一族であり、その技術長官が羊太夫だったのである。

  羊太夫は、銅の技術を日本に広めた人物だった。その彼が、銅の板に自
 分の信仰告白「インリ」を書き記したとしても、納得できるわけである。
 つまりその銅版は、羊太夫自身が製作したものである可能性が高い。イン
 リの古銅券が発見された「多胡碑のかたわらの石槨」とは、羊太夫のもの
 であろう。

  ところで、イエスが磔になった十字架に掲げられた本物の「インリ」も、
 銅板に書かれていたのだろうか。そこまでは『聖書』に記録がないので、
 わからない。だが、その可能性は否定できない。

  さらに、興味深いことに、羊太夫はじつは「秦氏」と呼ばれる氏族の家
 系だった。渡来人一族であった秦氏は、日本の文化文明を作ったといわれ
 るほど、大きな影響を日本に与えた人々である。羊太夫もそのひとりだっ
 た。というのは、中世の時代に多胡郡を支配した豪族は「小幡氏」であっ
 たが、彼らは「自分たちは羊太夫の子孫だ」と述べていた。小幡氏は秦氏
 系の名である。

  彼らは八幡神を信仰していたが、小幡の地にある八幡神社は小波多神社
 という。「波多」とは「秦」のことである。銅の技術に優れていたのも、
 秦氏の特長だ。
  また羊太夫は、きわめて優れた蚕産技術を持っていた。それで今も多胡
 の地は蚕産が盛んであるるもともと秦氏は蚕産技術を日本に持ち込んだ人
 々として知られているから、ここにも彼と秦氏との関係が見える。

  秦氏は絹織物を日本に持ち込み、「機織り」の技術を発展させた人々で
 あるる。なぜ「ハタオリ」というかというと、それは「ハタ」氏が始めた
 からなのである。「ハタ」に「機」の字を当てたのは、後世の当て字であ
 る。
  じつは昔、「十字架」のことを日本では「ハタモノ」といった。平安
 時代の書物などにも出てくる。昔は「十字架」という言葉はなく、「ハタ
 モノ」と呼ばれていたのである。「ハタモノ」には「機物」とか「磔」な
 どの漢字が当てられたが、元来は「秦物」だったに違いない。
  秦氏の人々は、十字架をシンボルとして使っていた。それで人々は、あ
 れは秦氏の物だから「秦物だ」といったのだろう。羊太夫の持っていた十
 字架は、「ハタモノ」だったのである。

  羊太夫はまた、冶金術、すなわち金属工学に通じ、製鉄技術を駆使して
 優良な農機具を作ったともいわれる。彼は平城京建設にも功績を残した。
 そうした功績を認められ、彼は多胡郡の支配をまかされた。これだけの技
 術力もまた、秦氏の特技だった。

  そして秦氏には、もうひとつ不思議な特徴があつた。それは彼らは、も
 ともと古代東方キリスト教徒だった、という点である。それについては後
 述するが、秦氏はもともと中央アジアのキリスト教国「弓月(クンユエ)」
 から、中国、朝鮮半島を通って日本にやってきた人々である。彼らは日本
 全国に神社を作っているが、それらの神社には、古代東方キリスト教の特
 徴が随所に見られる。

  羊太夫のいた多胡郡には、ほかにも秦氏が多く住んでいた。それは、た
 とえば奈良の正倉院に残る掛布屏風袋の銘文に「上野国(こうずけのくに)
 多胡郡山部郷戸主秦人」とあることからもわかる。「上野国」とは今の群
 馬県であり、そこで秦氏の人々が住んでいたことょ示している。
  今も多胡郡内に「矢田」という地名があるが、それは昔「八田」と表記
 して「ハタ」と読んだことが記録にある。いうまでもなくハタは「秦」氏
 から来たものである。羊太夫の先祖は、6世紀に多胡郡に来た渡来人であ
 ると考えられているが、彼らが秦氏であったことはほぼ間違いない。」

ということです。

 秦氏については河勝以外に著名な顔が見えないので、氏族を理解しよう
としても全体的にぼやけてしまう。私もたくさんの資料を集めましたが、最
後はにっちもさっちもいかなくなる。進歩しない。停滞してしまう。
中臣氏との関係をこの際改めて追及したいと思っています。  
 
 
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月10日 22時03分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

羊太夫はおそらく秦氏ですか。
そして中臣氏との関係がどうだったのか。

で、蘇我氏と敵対してた。
だから聖徳太子のお子さまが東へ逃れて来た。


だいたいこんな流れでしょうか?
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月11日 13時41分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 日本史年表(三省堂)を見ると、711年(和銅4年)の項に「上野多胡郡碑」
と載っていました。結構話題性のある事項であったと思われます。
 また708年(和銅元年)の項には、1月、武蔵国銅を献じ改元、5月、銀銭
鋳造、8月、銅銭鋳造(和銅開珎)となっておりました。天皇は、文武より元明
(女帝)に代わりました。

 720年(養老4年)5月、舎人親王ら「日本書紀」を選上。8月、藤原不比
等死す。

となっております。従って、日本書記に、藤原不比等はその思惑を存分に反映
させることができたものと思われます。

 但し、山科誠氏が『日本書紀は独立宣言書だった』で言うように、日本書紀
の真の目的は―
「古代日本が大陸、つまり朝鮮半島の三韓の国々からの独立を明確なものとす
るための歴史書であったのだ。
 いわば日本という国の「独立宣言書」。それが日本書紀に託された役割だっ
たのである。つまり、日本書紀における天武天皇の編集方針とは、過去の植民
地の歴史を新しい独立国としての「日本」の歴史に書き換えることだったのだ。
したがって、そこでは神代の始まりから、日本はあくまでも独立国として誕生
したという由緒正しい歴史を新たに創り出さねばならなかった。また、倭国の
最高権力者は、そりまで「大王(おおきみ)」と呼ばれていたが、それもこの時
から「天皇(すめらみこと)」という称号に変更することにしたのである。」
 また―
「それまでの日本は、百済を宗主国としていたので国名を「倭国」と卑語に
して表現していた。しかし百済国が663年に滅亡した後、百済人は日本に
亡命政権を作らざるを得なかった。したがっていつまでも「倭国」という卑下
した表現を続けることはできなくなっていったのだ。その頃筑紫史益(ちくし
のふひとまさる 日本書紀の編集者)は「日の本」という言葉を日本書紀の神代
から取って、新しく「日本」という国名を創ったのである。したがって日本と
いう国号は百済、高句麗が滅亡した後の670年ころから使われたということ
になる。」

そういう意味では、大いに意味のある「宣言書」であった訳であります。但し、
藤原不比等の評価はどうなのか、まだまだその秘密をいろいろ調べて行く必要
があります。
 でも、「慶雲」、「和銅」、「養老」という年号、なぜか好きな年号であり
ます・・・。

 今、「鳥」と人名・地名に関する事をいろいろ調べております。どういう
訳か「鳥」の謎に魅せられています。ハットリがトリだけに。平群真鳥という
名前はすごく感性に響きます。  
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月11日 15時05分00秒 ) パスワード

三つ柏さん



>それまでの日本は、百済を宗主国としていた


驚きです。
そういうことになりますか。
日本人としては認めたくない部分ですね。

それで
>過去の植民地の歴史を新しい独立国としての「日本」の歴史に書き換えることだったのだ。


なるほどね。



先日ムー8月号の「古事記は聖書だった?」という漫画を親切な友人より頂いて
読みました。

それで日本と半島との関係
古事記は聖書の影響を受けていること

納得です。



>でも、「慶雲」、「和銅」、「養老」という年号、
>>>>なぜか<<<<
>好きな年号であります・・・。


多分三つ柏さんの過去生に関係するのか
ご先祖さまがこの時代にイキイキと活躍なさっていたのでしょう。

その記憶がお好きにさせているのですよ。


    この、「慶雲」、「和銅」、「養老」の時代に何があったのでしょう?


大垣の養老は千秋氏=服部氏にも関わりますしね。



>どういう訳か「鳥」の謎に魅せられています

何か意味があるのだと思います。
どんな「鳥」のことだったんでしょうね。


>平群真鳥

きっとご先祖さまが知ってた人物なのかも。


中臣羽鳥    平群真鳥
これらの人物に行き着いた意味があるのかも。


すごいロマンですね。


母方の「神鳥」は白鷲ですが、
古代の日本の「鳥」って一体どの鳥だったんでしょうね。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月11日 15時06分34秒 ) パスワード

そろそろ  XXIX を立ててくださいね。
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