[1] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月12日 13時21分10秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
秦氏、狭長田、ホツマツタエ、御津山、猿田彦、弓月、アッシリア、天狗
と読解とメモに時間がかかりました。一時はわかったつもりでも、すぐ抜け
てしまうのでメモをしています。猿田彦の本も前に読んでいるのですが、今
回の方がわかりやすかったです。
猿田彦=事代主=恵比寿=武内宿祢(蘇我氏の祖)・・・奥さん=天宇津売
=神功皇后(父は息長氏、応神天皇の母)
今、手元に『猿田彦と秦氏の謎』、『武内宿祢の正体』、『消された日本
建国の謎』等がございますので、時間をかけて読んでみます。一辺には覚え
なくても、少しずつ理解が進んで行くものと思います。日ユの関係は頭の中
にしまっておきます・・・次元が違って来ますので。但し、ルーツを探って
行くとどこかでつながざるを得なくなると思います・・・その時まで。また、
秦氏達の目論見を掘り下げると、つながざるを得なくなると思います・・・
その時まで。
さて、あを様ズバリご指摘のように、「菟足神社」へは「徐福伝説」と
「因幡の白兎伝説」等が本当にあるのかどうかを調べに行きました。これは
前田豊氏の本の中に書かれていたことの確認でもありました。
最初に御津山に行った訳ですが、これは御津山が東三河の古代ピラミッド
群に属し、石巻山、本宮山、御津山を結ぶ正三角形を含み、田原の蔵王山を
加えた菱形を「ダイヤモンドゾーン」と呼んで、何か大変な内容を秘めた
ゾーンであると直感されると言っている。これは神代に遡る話かも知れませ
んが、今回はそこまでは考えず、そこに御津神社があり、大巳貴命を祀って
いると書かれていたので、何か出雲と関係するのかなと思って行った訳であ
ります。
まあ古代に関係する話を進めようとすると、すべてが漆黒の闇の中にあり、
一歩一歩手探りで確かめながら書いて行くので、普段の5倍〜10倍の時間
がかかってしまいます・・・すでに色々な本を見て確かめながら書いており
ます。
御津山はお椀を伏せたような山で、登る道がわからなかったので、細い道
をぐるっと回りながら、20メートル位上がった所の神社にまず行きました
・・・というかナビを信じて。そこは、多門閣という神社で毘沙門天を祀っ
ておりました。
今調べてわかったのですが、行きたかったのは御津神社で、それは御津山
の北東山麓にありました。残念。ということで、祀られている大巳貴(大国主)
を確かめることはできませんでしたが、山頂より見る眺めは、360度すべ
て見渡せ、大パノラマでありました。私はますますこの豊川市をはじめ、東
三河の持つある種の神秘さに引きつけられてしましました。もうすでに4回
続けて来ております。もっとも行き当たりばったりの癖は治りません・・・?
莬足(うたり)神社については、あを様ご紹介のとおりですが、ちょっと付
け加えますと、当日はいわゆる「建国記念日」でありました。現代人はあま
りそれを祝う風潮はありませんが、この兔足神社では当日の朝から祝いの神
事をっており、もっと早く来ればよかったのにと氏子さんに言われました。
神社の戸は外されており、中には3〜4メートル大の「兔」が祀られてお
り、正に仰天でした。今まで見たことがない異形さ・・・。因幡の白兎に関
係するのでしょうか。氏子さんに訊いてみると、御祭神と関係するという。
御祭神は「莬上足尼」(うなかみのすくね)といい、葛城円大臣(かつらぎのつ
ぶらのおおし)の兄弟で、眉輪王の変後、連座して穂の国の国造として配流さ
れたのだという(『古代の謎 抹殺された史実』)。
菟(うさぎ)と付く人は調べると他にもいて、何か暗示しているものがあり
そうです。菟皇子という人がいて、これは継体天皇の二人の皇子の内の一人
です。ちなみに、もう一人は宣下天皇で、その母親の兄弟「凡」氏が尾張氏
の祖であります。
いずれにしても、たどっていくと因幡の白兎=出雲に関係して来るのでし
ょうか?
そろそろ頭が疲れてまいりました。徐福についてのいわくが看板に書かれ
ておりましたが、あを様よりご紹介がありましたとおりです。秦氏は徐福と
一緒にやって来た人達と徐福の一族が改めた名前のようで、弓月の秦氏とは
ルーツは一緒かもしれませんが、第一波の秦氏ということらしいです。徐福
の問題はとてつもなく大きくなりますので、また別にしたいと思います。
犬頭神社、砥鹿神社、また天照大神で気になっていることについては、次
回にいたしたいと存じます。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 14時47分12秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>一時はわかったつもりでも、すぐ抜けてしまうのでメモをしています
はい。
「自分の言葉で」説明しようと思うと「出来ない」んですよね。
というのは結局は理解していないということですよね。
長田氏・永田氏の1番古い人々の存在が思わぬところから出て来たように
服部氏もそのうちに出て来るのでは と思っています。
ま、気長にアチコチふらふら寄り道しながら頑張りましょう。
わたくしは 服織田神社の土地関係がアヤシイのかな? 根拠は起源77年 なんですが
榛原郡にも調査にいらっしゃってね。
三つ巴紋の服織田神社が来る前にすでに三つ柏紋の服織人達がいて
それは
日本武尊より前にいた人々だろうな、
とか勝手に空想しています。
ま、思わぬところから思わぬ情報が出て来るのでは?と。
当たりをつけているのは伊勢神宮神官の久志本氏あたり つまり 和歌山の串本がアヤシイのかな?とか。
御津神社 御津山
まだまだいろいろ調べないといけませんね。
やはり現地にいかないとね。
因幡の白兎=出雲
そして ワニ=サメ ワニは和邇氏のことなのか?
因幡のウサギは莬足神社と関係があるのか?とか
少しずつ服部氏の正体に近づいていきましょう。
それにしても日本でもかなり古くから絹織物があったようで驚いています。
当時の衣類は麻か絹か。
でも当時の日本の絹は品質が良くなかったのでしょうね
<1>で三つ柏さんがお出しになった名称
またじっくり考えます。
頭を休ませないと。
[3] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月12日 23時42分05秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
『猿田彦と秦氏の謎』(清川理一郎著)を読むと、サルタヒコについてこう言
っています―
「サルタヒコ神について忘れてはならないことがある。それは、水尾神社に
伝わる縁起書にサルタヒコがこう言っているという。
―われが死ねば銅鐸が鳴り響くであろう。
という遺言が残されていることである。遺言はサルタヒコ王家が銅鐸文化の
中心であったことを示している。」
サルタヒコについては、どうやら出雲の根源の神であり、物部氏や秦氏が、
その勢力を拡大して行く中でとり入れて行ったのかと推察します。
話は変りますが、あを様のご指摘の中で、天照大神が服織の神にも通じる
のではないか、即ち「天照大神が忌服屋で神御衣を織っていた時、スサノオ
が服屋の頂を壊し、斑馬の逆剥ぎを落とし込み、服織女が驚いて死んだ。」
という話があるということ。従って、天照大神はもちろんのこと、その子の
天穂日命も機織りの神ではないのかと。
天穂日命は男神ではある。天照大神は巫女である。どうもすっきりしない
ところがある。絹織物の出来の良し悪しで占いでもしたのだろうか? また
何かの目的で祭祀に使ったのだろうか。ひょっとすると何か秘密が出て来そ
うな気配がします・・・。
神御衣は生と死の再生の儀式である大嘗祭に必要で、限られた人しか織る
ことができない・・・? 「禊」と「忌籠る」がキーワードであります。
ところで、「たなばた姫」とか「天の羽衣」というのはどういう人で、絹
とどう関係してくるのでしょうか?
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月13日 02時49分15秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
神代は全然分からないのですが
サルタヒコがこう言っているという。
―われが死ねば銅鐸が鳴り響くであろう。
すごい!
これはスゴイ!
銅鐸=猿田彦
かも知れないのですか。
そうすると銅鐸文化圏は猿田彦の支配域だった?
>絹織物の出来の良し悪しで占いでもしたのだろうか?
もちろん美しい織物が出来た年は、そりゃあ嬉しいですよね。
>何か秘密が出て来そうな気配がします・・・。
はい。
猿田彦の支配する世界には既に服を織る人々がいた ← 当たり前ですね
もはや裸の生活じゃないんですから
服織の人々は専業化してた?
その後ニニギが来た
更にその後に神武と饒速日と物部の人々が来た
さらに後に秦氏が来た
秦氏は高度な織物技術を大陸からもたらした
国産の美しい織物が出来るようになり伊勢神宮のアマテラスに捧げるようになった
美しい絹織物が安定供給できるようになり毎年神服部氏が管理奉納するようになった
秦氏が管理する服織専門工人集団が成立し、この人々は服の部とされた
これがヤマト朝廷で「服部」の人々と呼ばれた?
かな?
允恭天皇の御世に日本各地に機織りグループが派遣された
かな?
中でも
↓
>神御衣は生と死の再生の儀式である大嘗祭に必要で、限られた人しか織ることができない・・・?
でしょうね
献上先の1番格式が高いのが 伊勢神宮のアマテラスで 天皇はアマテラスよりお裾分けを拝領する形をとる?
管理する側は 高槻の神服神社の神服部氏であり 長上郡の服織神社の神服部氏であり
12世紀には三ヶ日に初生衣神社の神服部氏も参加?
また織る場所や糸を準備する場所も精度や技術の高さから限定されていった?
例えば 赤引きの糸
>「禊」と「忌籠る」がキーワードであります
神事、の内容ですね。
伊勢神宮。
>ところで、「たなばた姫」とか「天の羽衣」というのはどういう人で、絹とどう関係してくるのでしょうか?
これはまた考え直さないといけませんね。
「天の羽衣」については関裕二さんの本で読んだばかりです。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月13日 03時06分15秒 ) | パスワード |
天の羽衣(あまのはごろも)は、大嘗祭にのぞむ天皇が身につける湯帷子である。
大嘗祭が挙行される夜、大嘗宮に入る前に天皇は沐浴を行う。
湯に入るときに天皇が着用するのが天の羽衣である。
沐浴用の建物である廻立殿に入った天皇は、天の羽衣を身につけたまま湯槽に入り、湯の中に衣を脱ぎ捨てて出る。生の明衣を着用して水をぬぐい、斎服に着替えて大嘗宮に向かう。これを、小忌御湯という。悠紀殿と主基殿で二度儀式があるので、廻立殿での入浴も二回、天の羽衣、生の明衣も二着ずつ用意される。
大嘗祭の形式が整ったときから湯帷子の使用はあったが、天の羽衣という名が史料に現れる初めは10世紀成立の『西宮記』からで、12世紀の『江家次第』にも現れる。
衣の着用に特別な意味を読み込む説と、それを認めない説がある。
折口信夫は、天の羽衣は霊力を溜め身に留めるために着用するもので、天皇の力が充溢したときに脱ぎ捨てるという意味があると唱えた。
しかし、入浴時に湯帷子を着るのは当時の貴人の普通の習俗で、衣そのものに特別な意義はないと説く者もある。
高取正男は、羽衣伝説にちなんだ文学的とも言える美称は、むしろ平安時代に儀式が客観化された時点でつけられたと思われるという。
へえ〜
平安時代から、ですか。
そうすると 平安時代より前の時代は 「新調した衣類」あたりの「物」に過ぎなかったのかな?
それが10世紀あたりから天皇家の内紛が収まって?天皇の権威が高まって?
天皇=神になって
精神性とか神秘性とか
の付加価値が高められた?
挙句は 「羽」にも化けて 空を飛ぶ道具に昇華した?
西洋は鳥の羽で空を飛ぶと考えるけど
日本は羽衣で空を飛ぶ
と考えるのよね。
西洋の方が合理的!
日本の方は宗教なんだろうね。
鳥の羽 から「羽鳥」を連想しました。 ハトリ。
それで服部って ハトリ 空を飛ぶ道具を作る人々 という意味だったのかな?と。
神御衣とは アマテラスが天上に戻るために身に着ける羽=衣=衣類 だったのかなと。
それで また一(いち)から はっとりって何? と考え直そうと思ってたおです。
羽鳥氏とはアマテラスを天上にお戻しする道具を作る人々のことだったのかなと。
それで 羽鳥 はとり と言うのかなと。
なんで 羽鳥はハトリなんだ? これが はっとり と同類ってなんで同じなの?
とずっと謎だったんです。
今回は「羽鳥」はとり の意味が分かった ということで。
にっこり
[6] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月13日 10時54分16秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は拘束日で、朝から頭が冴えませんでした(睡眠のリズムのせい)。
しかしながら、青様の冴え渡ったレスにより、バッチリ頭にエンドルフィン
が湧いて来ました。さすがにあを様です。機織・服部・羽鳥に関して素晴ら
しい推論をなさって下さいました!
感激です! じっくりかみしめて読み、メモいたします。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月13日 11時58分56秒 ) | パスワード |
丸に三つ柏さん
褒めてくださって、ありがとうございます。
これまでずっと 羽鳥が服部と同じ と言われることに違和感がありました。
その違和感が何なのか分かりませんでした。
三つ柏さんの書き込みの 神御衣・大嘗祭 から いろいろ進展しました。
神御衣って一体何なのか?
アマテラスは女性だから、そりゃあ、美しい絹の衣を毎年欲しいわよね、というのは分かりました。
年が新たになる度に新しい服が欲しいわよね、と。
でも、ここで それだけ? と疑問でした。
羽鳥 服部 機織
この3つは同じように思えるけど実は違ってた
と思うようになったのが本日の収穫でした。
機織は原始的原則的な いわゆる布を織ること
羽鳥は天の羽衣を織る人々 鶴の恩返しも羽鳥氏関連のお伽話なのかも
服部は産業技能集団・専門職・高度な技術・QCのできる人々 日本全国に必要
だから細分化して「綾部」とか「錦織」とかが服飾関係で生まれたのかな、とか。
衣類工業は当時のトップ産業分野だったんでしょうね。
今朝中国人の知り合いと話してて
秦=ちゅん だって言ってましたね。 chun うっそー
秦の発音は しぃん 子音とか死因のような発音
英語では QIN キン と発音しますが。英語では 秦はキン・ダイナスティのことです。
秦が ちゅん というのはどこの訛りなのか?
服部は 中国語で ふーぷー。
この知り合いの中国人は 秦? すごいな すごい名だ と言ってました。
でも2000年前のハナシだからね、と言いましたが。
謎だらけです。
大昔、それこそ猿田彦の時代にホソボソと粗悪な糸で機織りしてた人々が
大陸の秦から来た人々に高度なハタオリ技術を教えられて
ハイカラな「秦」の名に自分たちの屋号の「はたおり屋」の名を当てて
そこから 秦しんを「はた」と言うようになったのかな?とか
今日はいろいろ考えました。
[8] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月13日 23時53分23秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
あを様の推論を裏付けする資料をさらに見つけました。
『伊勢の神宮 御装束神宝』(南里空海著)の中にこんな記述がございました。
「小石丸(蚕の種類の名)はさらに、強伸性、粘り腰、耐水性、水分吸収性に
優れ、染色性も良いなどの特性を持つ一方で、他品種に比べ、収穫できる
繭量が少ないため、養蚕する人がいなくなってしまった。
皇后陛下の思し召しによって、小石丸は紅葉山御養蚕所で飼育されてきた。
この小石丸は、蚕種が日本原種で、その品質が奈良時代の糸に近いことか
ら、皇后陛下御親蚕の絹糸が、正倉院宝物の復元に用いられたことで、注
目を集めることとなった。
〜中略〜
皇后陛下御親蚕の小石丸を用いた錦は、強い粘りと腰があり、また耐久性
に優れた光沢は、日の光にかざすと、あたかも黄金で織ったかのような輝
きを放ち、同じ色、文様を持つかつての神宝裂からは、見ることも感じる
こともできないほどだったという。この神宝裂こそ、まさに上代において
神々に奉献した「黄金の錦」にほかならない、と担当した神宝装束課の采
野さんは、そのときの感動とともに、皇后陛下御親蚕の小石丸について語
ってくれた。」
ということです。
次に大嘗祭で使われる絹の織物について、『倭人の絹 弥生時代の織物文化』
(布目順郎著)の中でこう解説しています。
「・服(そうふく 白生絹)としての和妙(にぎたえ)は、古は神服使(かんはと
りのつかい)として、三河国に遣わされた神主が、その国の服部(はとりべ)の
奉る絹糸10絇(く)を奉持して織部の長2人、織女6人、工人(てびと)2人の
合わせて10人を率いて京の斎(さい)に至り、悠紀・主基(すき)5人ずつにわ
かれて神服の和妙を織ったのだという。」
ということで、神服神社の服部連が神主を三河に送り、かつ京の斎(ここの部分はしかとはわからない)にこもって悠紀・主基(確か大嘗祭の時に悠紀殿、主基
殿てありましたよね)において織ったということです。
さらに、あを様引用の関裕二氏は『継体天皇の謎』の中で、
「つまり、「羽衣」は古代の重要な呪具である。豊受大神は羽衣を奪われ、
自由を失った。かぐや姫は月の都に帰るとき、羽衣を着ることで人間で
はなくなるといっている。人間でないものとは、ようするに、神のような
存在であり、事実、天皇は即位後の大嘗祭で羽衣を着込んだ瞬間に、人間
ではなくなる。
つまり、羽衣と人が神になるための呪具であり、王権のシンボルでもあっ
たのだ。」
ということで、絹の織物は神の布、畏れ多いものであり、それを指導し織らせ
ることのできる統括責任者服部氏は「神服織」となったのでしょうね。
以上、あを様の推論の裏付けを探してみました。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月14日 02時27分12秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ありがとうございます。
いろいろ正しい、詳しい、事情が分かりました。
美智子皇后陛下がいかに日本国民にとって尊敬に当たる・敬愛に値する国の母か
というのが良く分かります。
小石丸は日本原産でしたか。
ということは、もともと日本でも絹織物業はあったということですね。
わたくしは「麻」は昔っからあったのだろう
でも絹の方はもっと下がる時期に大陸から齎されたのだろう
と思っていました。
いえいえ、神代の時代から、ほそぼそと絹織物もやっていた、ということですね。
>白生絹としての和妙(にぎたえ)は、
>古は神服使(かんはとりのつかい)として、三河国に遣わされた神主が、
>その国の服部(はとりべ)の奉る絹糸10絇(く)を奉持して
>織部の長2人、織女6人、工人(てびと)2人の合わせて10人を率いて京の斎(さい)に至り、
>悠紀・主基(すき)5人ずつにわかれて神服の和妙を織ったのだという。
和妙製作は、まさに、国家行事としての「神事」だったんですねえ。
この小石丸の絹織物を纏えばオーラが凄かったんでしょうね。
光り輝くさまは、まさに、太陽の化身だったんでしょうね。
今でこそ織物業は廃れていますが
つい1970年あたりまで織物業は日本の基幹産業でしたよね。
絹織物は第二次大戦が始まるまで、戦後はナイロンにとって代わりましたが。
紡績は 糸で縄を買ったと言われた沖縄返還まで 日本の花形輸出産業でした
神服部とは、服部系服織系神社の神主のレベルではなく、国の重要行事を司る責任者ということだったのですねえ。
京の斎は、天皇が人から神になる魔法を作る、国家最大の重要秘密化学工場だったんですねえ。
なるほど織っているところは誰も見てはならなかったわけですね。
トップシークレットですものね。
もし同じような布が織られて纏って「我こそは本物の天皇なるぞ」と言い出す者が出たら
国家は転覆してしまいますものね。
そういう現実があったのですね。
なるほどね。
丸に三つ柏紋の服部氏の背後関係がかなり理論的に整って来ましたね。
三つ柏紋使用代表神社の えびす と 服部氏 の関係も分かると良いですね。
かなり理論武装が完備して来ましたね。
もう一息って感じ。
[10] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月14日 09時04分08秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
あを様の推論は確かなものがあります。感性・霊性・知性の三つが揃って
いると思います。
今、高槻市の地図を見ていたところです。三月には一泊で行ってきたいと
思います。注文してあった高槻市の地図も入荷したようです。取りに行って
きます。三月の後半には伊勢神宮にもツアーではありますが行ってまいりま
す。あを様の祈りも共に伝えてまいります。
ところで、この地の羽鳥村(現豊西町)の隣には「白鳥町」がございます。
東三河のハトリにも近くに白鳥町というのがあり、ハトリとシラトリは関連
性があるように思いますが、白鳥といえばヤマトタケルですよね。ヤマトタ
ケルといえば草薙の剣、草薙の剣といえば、熱田神宮、熱田神宮といえば、
尾張氏、千秋氏(藤原氏 服部氏もからむ)ですよね。この白鳥町の解明を是
非したいなあと思います。資料を少し集めてみます。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月14日 15時01分45秒 ) | パスワード |
うっかり消してしまいました。
白鳥:
大三島神社の場合は「白鷺」が神の使いだった
熱田神宮も海の近くだったから「白鳥=白鷺」だった?
>尾張氏、千秋氏(藤原氏 服部氏もからむ)
熱田神宮>千秋氏>神服部 後に養老で「神」の字が落ちた?
長上郡の服織神社の神服部氏は格上の熱田神宮の千秋氏が東三河に来たことによって「神」の字が落ちた?
神御衣=権威の象徴への変遷:
最初は光り輝くオーラを放つ絹織物を纏う者が人民を支配した
↓
大陸から「鏡」をもらうことによって「太陽」を支配する者として人民を支配
↓
三種の神器の1つ
草薙の剣 これも三種の神器の1つ
三種の神器のもう1つは勾玉(これは蘇我氏の没落で霊力を失う)
こんな話をエンエンと書いててウッカリ消してしみました。
高槻の地図は手に入りましたか?
わくわくしますね
知らない土地の地図を読むって。
[12] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月14日 22時53分47秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
私が思いますに、ハトリとシラトリは東三河と長上郡にセットであります。
そして、両地域(おおまかに)とも倭姫(倭建尊のおば)が巡行で来ている。そ
して、倭建命も、尾張氏のミヤズヒメと夫婦になることを誓った後、東征に
出かける。たぶんおばの倭姫のあとをたどるように、本坂を越えて三ヶ日、
長上郡、掛塚湊というルートだと私は想像しています。従って白鳥(白鳥と
なったという倭建命を祀る神社あり。市野の東、天竜川西岸。乗船したか)
という村ができたのではないか(名前はあとからつけられたか)。ルートは
もちろん諸説あると思いますが・・・こんな想像を勝手にしておみました。
でも、倭建命とは、景行天王の子供で、応神天皇の祖父となっております
が、もし武内宿祢と神功皇后の子供だとしたら、つじつまが合わなくなるし、
倭姫がおばさんというのもつじつまがあうのかどうか自信がありません。
ま、これ以上深く追求しないようにいたします。その内、何かの時に
しっかり探究いたします。
前田豊氏の『古代神都 東三河』は「仰天すること」が一杯なので、明日
も東三河に行く予定です。
高槻には、来週末行くことにしました・・・。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 03時01分51秒 ) | パスワード |
>ハトリとシラトリは東三河と長上郡にセットであります
白鳥は結構そこら中に白鳥という名の場所がありますがね。
羽トリと白トリの関係は何かありそうですよね。
>たぶんおばの倭姫のあとをたどるように、
>本坂を越えて三ヶ日、長上郡、掛塚湊というルートだと私は想像しています
榛原郡の服織田神社まで行ってたら、わたくし的には、座りが良いのですけどね。
>でも、倭建命とは、景行天王の子供で、応神天皇の祖父となっております
>が、もし武内宿祢と神功皇后の子供だとしたら、つじつまが合わなくなるし、
>倭姫がおばさんというのもつじつまがあうのかどうか自信がありません。
つじつまの合わないことを関裕二さんは不比等の作為というように書いてたような?
神代のことはスグにこんがらがるので 表 を作らないと、と思ってます。
ワタシはやっぱりワケ分からなくなっています。
不比等がわざとややこしくしている・・・
>前田豊氏の『古代神都 東三河』は「仰天すること」が一杯なので、明日も東三河に行く予定です。
東三河=穂の国
「穂の国」とは言わなくなった、という所にも政治的陰謀を感じますね。
消したかった
抹消したかった
歴史を改竄した
そういう意図を感じますね
消した首謀者は不比等で良いでしょうか?
わたくしは「猿田彦が死んだら銅鐸が鳴る」というのに驚きました。
伝わる縁起書にサルタヒコがこう言っているという。
―われが死ねば銅鐸が鳴り響くであろう。
伊勢の方は「五十鈴川」と穏やかな表現がありますが
―われが死ねば銅鐸が鳴り響くであろう
というのはかなり強烈な表現ですよね。
何が隠されているのか知りたいところですね。
>高槻には、来週末行くことにしました・・・。
「待てない!」
ですか。にっこり
気持ちは分かります。
行くまでにしっかり「まとめて」くださいね。
古い情報を売ってると良いですね。
高槻のお墓も姫沙羅さんが教えてくださった他にも目に入ったら家紋調査なさってね。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 06時02分37秒 ) | パスワード |
えびす神社(えびすじんじゃ)は、えびす或いはヒルコ或いは事代主を祭神とする神社。
たいした情報じゃないです。
概要[編集]
えびす神社は全国に点在し、夷神社、戎神社、胡神社、蛭子神社、恵比須神社、恵比寿神社、恵美須神社、恵毘須神社などと表記する。
また正式名では「えびす」の語を含まない神社であっても、祭神がえびすである場合「○○えびす神社」と通称されることもある。
またおもに関西地域では、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどとも呼称される。
蛭子神社の中には、読みが「えびすじんじゃ」ではなく「ひるこじんじゃ」のものがある。
これはヒルコ(蛭子神)を祭祀しているからであるが、祭神がヒルコであっても読みを「えびすじんじゃ」とする神社もあり、これはヒルコとえびすが習合・同一視されるようになったためである。
また逆に祭神がヒルコではなく事代主であっても蛭子神社とする神社もある。
主な神社[編集]
ヒルコ神系[編集]
西宮神社(兵庫県西宮市)
ヒルコ神系のえびす神社の総本社。西宮神社(栃木県足利市)
桐生西宮神社(群馬県桐生市)
蛭子(ひるこ)神社(神奈川県鎌倉市)
西宮神社(長野県長野市)
柳原蛭子神社(兵庫県神戸市兵庫区)
堀川戎神社(大阪府大阪市北区)
蛭児遷殿(大阪府大阪市北区大阪天満宮境内)
石津太神社(大阪府堺市西区)
ヒルコと事代主の両方の神を祀る。
名古曽蛭子神社(和歌山県橋本市)
胡子神社(広島県広島市中区)
蛭子(ひるこ)神社(徳島県那賀郡那賀町)
事代主神系[編集]
美保神社(島根県松江市)
事代主神系のえびす神社の総本社。大前神社・大前恵比寿神社(栃木県真岡市)
大国神社(群馬県高崎市高崎神社境内)
大国主を祀る社殿に事代主を併祀。
飯能恵比寿神社(埼玉県飯能市諏訪八幡神社境内)
恵比寿神社(東京都渋谷区恵比寿西)
JR東恵比寿駅の西約60メートル。恵比寿ガーデンプレイス内にも社殿がある。
宝田恵比寿神社(東京都中央区日本橋本町)
べったら漬発祥の地。日本橋七福神散歩の1つ。
恵比須神社(若狭ゑびす)(福井県三方上中郡若狭町)
蛭子神社(三重県名張市)
京都ゑびす神社(京都府京都市東山区)
蛭子神社(京都府与謝郡伊根町青島)
境内には3基の鯨墓がある。今宮戎神社(大阪府大阪市浪速区)
野田恵美須神社(大阪府大阪市福島区)
明治時代に祭神を事代主と解釈し神社明細帳に記載。
布施戎神社(大阪府東大阪市布施)
堺戎神社(大阪府堺市堺区菅原神社摂社)
石津太神社(大阪府堺市西区)
石津神社(大阪府堺市西区)
石津神社と石津太神社はともに論社として最古のえびす社とされる。
ねや川戎(住吉神社)(大阪府寝屋川市)
尼崎えびす神社(兵庫県尼崎市)
稲爪浜恵比須神社(兵庫県明石市稲爪神社摂社)
南市恵毘須神社(奈良県奈良市)
三輪坐恵比須神社(奈良県桜井市三輪)
蛭子神社(徳島県徳島市南沖洲)
恵比須神社(愛媛県伊予市伊豫稲荷神社境内)
若松恵比須神社(福岡県北九州市若松区)
十日恵比須神社(福岡県福岡市博多区)
今山恵比須神社(宮崎県延岡市)
恵比須神社(沖縄県那覇市)
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 06時07分12秒 ) | パスワード |
http://miwaebisu.jp/
三輪惠比須神社の由緒
神紋は三つ柏だがヒゲが生えている
これはちょっと関係無いでしょうね
三輪の惠比須神社は市場の守護神、言霊の神、託宣を司る神さまとして、多くの人々に親しまれ尊崇されてきています。日本で最初に開かれた市場は、海石榴市(つばいち)と呼ばれる市で、三輪山の南麓の金屋というところで、初瀬川の川べりに物々交換の市として開かれました。
時代はおよそ奈良時代以前と考えられていますが、平安時代の女流作家清少納言は『枕草子』に「いちはつばいち」と述べています。有名な市場としてにぎわったのでしょう。
御祭神は、八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)、八尋熊鰐命(やひろわにのみこと)、加夜奈流美命(かやなるみのみこと)であります。
八重事代主命大物主大神(別名大国主命)の御子神で、国譲りの談判交渉の際、父君大国主命に代わってその大役を果たされたことが、神話に語り伝えられています。八重事代主命の「コトシロ」とは「言知る」の意味で、託宣を司る神、言霊の神として崇敬されています。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 06時11分00秒 ) | パスワード |
http://www.decca-japan.com/nishinomiya_ebisu/history.html
西宮えびす神社
神紋は三つ柏ですが
ここも違うね
福の神「えびす様」の総本社として、全国から遍く崇敬を集めている西宮神社は、銘酒の産地として名高い灘五郷の一つである西宮市の中央に鎮座し、その地名の由来ともなっています。
御創建の年代は明らかではありませんが、平安時代の百科事典である伊呂波字類抄や承安二年(1172年)に行われた広田社歌合に「えびす」の名が見えるほか、高倉上皇の御奉幣をはじめ皇族・神祇伯の参拝が度々あったことが古文書に記されています。
鎌倉時代の正元年間(1250年代)には、既に十日えびすの祭典を厳粛に行うために「忌籠(いごもり)」が斎行されていました。延文六年(1361年)の市場祭文によると門前は「夷(えびす)三郎殿の浜の市」として賑わっていたようです。
室町時代になると七福神信仰によってえびす様が福の神の代表となり、また当社がその信仰の本拠地として人形操りや謡曲、狂言などの芸能をとおして、全国津々浦々にまで御神徳が広まっていきました。現在国の重要無形文化財に指定されている大阪文楽や淡路島の人形浄瑠璃は、当社の「えびす舞」が源流となっています。
戦国時代には、後奈良天皇から御寄進をうけたのをはじめ、桃山時代には豊臣秀頼、江戸時代には四代将軍徳川家綱により社殿の御造営がなされました。また徳川幕府からは御神像札の版権を得て独占的に全国に配布、ますます社勢が盛大になっていくと共に上方の商業経済の発達に伴って、福の神えびす様が商売繁盛の神として信仰されるようになっていきました。
国宝の三連春日造の本殿は、昭和二十年に戦火にあいましたが、昭和三十六年にもとのままに復元されました。室町時代建立の大練塀と桃山建築の表大門は国の重要文化財に、えびすの森は天然記念物に指定されています。
明治時代以降は、交通機関の発達に伴い、参拝者数も飛躍的に増加し、現今では一月十日を中心に九日からの三日間は「十日えびす」として名高く全国から三日間で百万人を超す参拝者で賑わいます。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 06時17分57秒 ) | パスワード |
http://blogs.yahoo.co.jp/nagaom0/33989900.html
服部恵比寿神社
天神さん(天満宮)と言うと、学問の神様なんですが、ここ服部天満宮は「足の神様」の売りなんです。
受け売りですが、菅原道真公が大宰府に下る時に、十三まで船で下ってきて歩き出したら、足が痛くなって、服部恵比寿でお休みになって、痛みが癒えて旅を続けたそうです。
ここも関係無いでしょう。
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 06時26分08秒 ) | パスワード |
http://aal.msis-net.com/kamon/kaisetsu/bunrui/shokubutsu/kasiwa.html
柏(かしわ)
柏はブナ科の落葉広葉樹で日本全土はもとより、朝鮮・中国に自生する。
柏は 春に若葉が出ると 香りが高く、餅を包んで「柏餅」にします。
柏は「堅(か)し葉(は)」から生まれた名で 古代から 堅くて広く 葉肉も厚いので 食物をのせるのに最適であった。
「炊ぐ(かしぐ)」=炊事をすること・食膳を司る者を 「膳夫(かしわで)」とよばれるのも 柏に由来するといわれています。
縄文時代から 狭い幅の葉は「炊ぐ」為の用具となり、葉の広いものは 炊いだものを盛 る容器または巻いて食物をいれる道具とされてきました。
柏紋は その変形のバリエーションの多さ(およそ100種程)において「梅・梅鉢」「葵」 「桐」「片喰」などと肩を並べています。
これは「柏」紋を用いている家が多いからで、 見方をかえれば 全国的に広まっている家紋であることを意味しています。
現在でも 宮中において大宴会の式典には 古式のままカシワを食器として葉椀(くばて) ・葉盤(ひらて)に用いている。
ここから
↓
それはひとり宮中ばかりでなく 柏を用いて祭事を司った 神社もかなりあります。
筑前の宗像神社・瀬戸内の吉備津彦神社・尾張の熱田神社・西宮の 恵比寿神社などです。
宗像神社は海上守護の神で海人族の崇拝者は多く、
神紋の三つ柏紋は海流のおもむくまま に神社の氏子たちが航海によって日本海沿岸へ分布しました。
↑
へえ〜
陸上での分布に大きく影響をもったと思われるものに西宮の恵比寿神社の「福神えびす舞 い」による普及がある。
元来「エビス」という語は辺境の地の異種族に対する蔑称であったといわれていますが、
転じて海浜に漂流・漂着したものにも呼称されました。
ことにどこの漁村でも漂流死体を「流れ仏」 とか「流れ人」といって、
これを拾うと必ず漁があると村をあげて喜び 鄭重に祀りました。
不漁が続くと「流れ仏がいたのに見過ごしたに違いない」と 祀られずに漂う予想の流れ仏 への功徳の意味と豊魚を願って祭礼を行ったようです。
海の幸という形での期待感が込められている祭礼です。
事実漂流死体を追いかけてくる 魚群が彼らの目当てなのです。
↑
へえ〜
ご神体は「鯛をかかえたエビスさま」です。
西宮の恵比寿神社は「宣伝」に二人一組(一人が口上とお囃子、もう一人が人形を操る。 この人形が「えびす神」で漁師の服装をして釣りの所作が基本形)の神人舞いがある。
百太夫が芸能群を率いて諸国をめぐり「エビス講」のシステムを広めていった。
恵比寿神社の神紋「三つ蔓柏」紋は恵比寿紋と呼ばれています。
ヒゲじゃなくて「蔓」でしたか。
恥
「柏紋」に付いては 「あやかる」意味で神紋そのものを用いるのは畏れ多く若干の手直 しをして家紋とした「護符」的な実感を伴っていたと思われます。
「安心立命」につながるからです。
古くは神服神社、そして、やはり熱田神宮・千秋氏に関わるかもですね。
千秋氏は「蔓柏紋」のようです。
続く
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 06時27分58秒 ) | パスワード |
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sensyu.html
借りて来ました:
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 06時34分59秒 ) | パスワード |
続き
千秋氏
蔓柏/帆掛船*
(藤原氏南家季範流)
*羽継原合戦記に記述あり。
千秋氏は藤原南家季範の子孫・熱田大宮司家の一流で、季範の娘は源義朝に嫁して頼朝を生んでいる。それ以後、大宮司家は源氏と強く結びつき、次第に武士化していった。
憲朝の代に至り、三河国設楽郡千秋の地名を以て、名字としたのに始まるとされる。
これはいつのハナシでしょうね?
室町幕府に仕え「永享以来御番帳」などに複数の千秋氏が確認され、室町将軍家の奉公衆を構成していた。将軍の御的始めの射手を度々務める等、射芸に秀でた家柄であった。そのためか、将軍足利義政やその妻日野富子の寺社参詣や猿楽見物等には、必ず御供衆に加えられている。
また、将軍家の息災祈願を司る祈祷奉行は、千秋家の世襲するところであった。
乱世に身を処す
驚き
↓
千秋氏は代々京都に在住し、
尾張・美濃・三河の広範囲にわたる所領の支配は下級の神官にまかせていたのだが、
戦国時代にいたって、尾張知多郡の羽豆崎城に移ってきた。
社領を直接支配する必要に迫られたのであろう。
しかし。この頃には、かつて三国にも及んでいた社領もわずかに残るのみであった。
尾張に乗り込んだ千秋氏は、守護代の一族として急速に勢力をつけてきた織田信秀と結び付く。
世は戦国時代、実力がものをいう世界、熱田宮の「大宮司」としての特殊性を認められていても、世俗的には尾張の国人の一人に過ぎなかった。かくして千秋氏は信秀の指揮のもとに各所での戦に駆り出される。
天文十三年、当時の大宮司千秋季光は、稲葉山城攻めの時に戦死。長男の季直も戦死か、なんらかの闘争に巻きこまれたかで自然死ではなさそうな若死。
その弟の季忠は、すでに神官という性格でじゃなく、まったく武士そのものであった。
彼は大宮司とは名ばかりで、信長の一部将として活躍している。そして。桶狭間の戦いのとき、今川軍の先鉾隊に戦いを挑んで戦死してしまった。
季忠の嫡子、のちの季信は、この時母胎内にいた。母は実家の浅井氏に戻って、季信を生み、育てたという。季信は十五歳で、初めて信長に謁した。そして、「これからは軍事にたずさわることを止め、大宮司に専念するようにせよ」と言われたという。その後も信長の統一戦は続くが、千秋季信がそれらの戦いに参加したという記録はない。信長のことばに従って大宮司職に専念したようだ。
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 06時37分27秒 ) | パスワード |
http://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/oda_054.htm
千秋 季忠
せんしゅう すえただ
生没年 1534〜1560 主君・所属 織田信長・熱田宮大宮司
主な活躍の場 桶狭間の戦・羽豆崎城主
四郎。加賀守。 千秋季光の子、或いは弟。
熱田の宮、つまり熱田神宮の大宮司。
神官でありながら武士として信長に仕えた、戦国期ならではの人。
熱田の宮は尾張の豪族尾張氏が神職を務めてきた。
尾張氏は地方豪族でありながらも歴史の随所で名が記される家系でもある。
古くは日本建命(ヤマトタケル)神話でも登場する。
ヤマトタケルが熱田氏の娘宮簀姫(美夜受姫)を娶ると記紀に記されている。
ヤマトタケルは後に三種の神器の一つとなる草薙の剣を宮簀姫に預け伊吹山の大蛇退治に赴く。
そしてその際に亡くなってしまうのだが、魂は白鳥に姿を変え宮簀姫の元へやってくる白鳥神話が残る。
織田信長が桶狭間出陣の際、熱田の宮から白鳥が舞ったという逸話がある。
↑
知らない!聞いたことない〜
実話か後世の創作かは不明だけれども、熱田と白鳥にはこの様な繋がりがあるのが、いかにも創作らしいところだろう。
この尾張氏の裔、員職の娘、松御前を藤原季範が娶り熱田の大宮司職を得ることになる。
藤原季範の孫憲朝・信綱が千秋を称すと『尾張國誌』にある。
千秋氏の由来は三河国の領地にあると聞くが出典不明。
↑
へえ〜
藤原季範は額田冠者とも呼ばれていた様で三河国額田郡に領地があった事は推察される。
千秋憲朝の子孫が本編の千秋季忠となる。
先に余談が続くが藤原季範と松御前の間には娘(由良御前?)も産まれている。
この由良御前は源義朝に正室として迎えられ誕生したのが源頼朝である。
(つまり尾張からは信長・秀吉の先に頼朝と、三人もの天下人を輩出した訳だ。)
さて。
千秋季忠の家系図で不明瞭な点がある。
『織田信長家臣人名辞典』によれば、父は季光。兄として季直が記されている。
陸軍参謀部『桶狭間の役』では季光は兄であり、天文十六年(1547)九月二十二日に織田信秀の稲葉山攻めに加わり討死と詳細が記されており、欄外に「熱田大宮司系図によれば季忠は季光の子とある」と注釈が付けられている。
兎も角、千秋季光の戦死により、季忠が跡を継いだ(或いは一旦兄季直の家督を経て)のだろう。
千秋季忠は知多半島南端の羽豆崎に城を構えていた。
羽豆崎城は羽豆城とも幡豆崎城とも呼ばれる。
地形的に海路の要所であり南北朝時代にも輸送路の要でもあったようだ。
それ故か海賊の多い地でもあり、千秋季忠の海賊懐柔の逸話が残る。
十万貫という大金を用意し、海賊の長に商談を持ちかける。
熱田の宮の復興の為、紀伊から木材を取り寄せたいと頼んだ。
日頃は荒くれた海賊ではあるが、熱田の宮は尾張の民の振興も篤く、その大宮司たっての依頼でもあり、商談としても悪い話ではない。
海賊は舟を全隻連ねて紀伊へ木材を求めに渡った。
手薄になったこの海賊の村に千秋季忠は密かに火を掛けたのである。
しかも、千秋季忠はそ知らぬ顔で消化にあたり、海賊の村に残った村人達を助け住まいを焼け出された民を労わった。
海賊達が紀伊から戻ってみると村は焼け、千秋季忠の計らいで民は生き延びたという。
災いの火種が千秋季忠自身だとは知らぬ海賊達は手厚い対応に感謝し、木材と運搬の代金十万貫も返してしまう。
さらに棲家を失い路頭に迷う海賊達に海から離れた場へ土地を与えてやった。
こうして羽豆崎の海から海賊は消え、熱田の宮復興用の木材もタダで手に入れたという。
これが実話であれば、千秋季忠。
神官としては、あるまじき行為ではあるが、領主としては途轍もない策士である。
桶狭間の戦では佐々政次と共に300の兵を率いて鳴海方面の今川方の先鋒隊を攻め討死。
この先鋒隊を攻める策は、佐々政次・千秋季忠の抜け駆けとみる説と、織田の奇襲本隊の動きを察知されない為の陽動作戦であるとみる説がある。
子は季信。
成人後、家督相続を認められ父同様、神官と信長の馬廻を掛け持ちする。
補足
<<参考>>
『信長公記』『織田信長家臣人名事典』『尾張國誌』『愛知の城』『陸軍参謀部 桶狭間の役』
(書籍詳細省略。参考文献の項をご覧ください。)
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 06時50分11秒 ) | パスワード |
田島ってあるけど
宮内庁長官だった田島氏のご先祖なのかしら?
服部家ホンヤさん宅に高松宮さまが遊びに来た時に田島宮内庁長官がご同行なさいました。
少し前まで碧南あたりの500年=今からなら600年か=続く家だと聞いてたけど。
で、名古屋のお屋敷はわたくしのアバラ家と同じ御町内でした。
笑
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 07時11分08秒 ) | パスワード |
千秋氏というのは藤原季範の5代目になりますね。
さらに「はとこ同士で」2流れ千秋氏が存在する。
藤原範信の長男と次男の子孫に(室町幕府の奉公衆を務めた)千秋氏などがいる。
千秋氏の当主は室町幕府の将軍から偏諱の授与を受けている
ということは千秋氏は鎌倉幕府の終り頃?
頼朝の母=由良御前は 藤原季範 の娘(養女とも)
藤原 季範(ふじわら の すえのり、寛治4年(1090年) - 久寿2年12月2日(1155年12月27日))
平安時代末期の公家・神官。藤原南家、藤原季兼の子。位階は従四位下。額田冠者を名乗る。
経歴[編集]
父が目代として赴任していた尾張国に生まれる。
季範の母の実家である尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、
員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る[1]。
これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原氏による世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。
保延3年(1137年)8月、夢想により五男・範雅に大宮司職を譲る[2]が、
季範が死去した久寿2年(1155年)に季範の長男・範忠が大宮司職に就任する[2]。
季範自身は主に都で生活することが多く[3]、従四位下の位階も受けている。
従姉妹に鳥羽院の乳母藤原悦子(藤原顕隆室)がおり、またその甥が信西(諸説あり)であるなど、
中央政界との繋がりも多かった。
また子女を経由した人脈も幅広く、
待賢門院や上西門院に女房として仕えた娘がいた他、
三女の由良御前は源義朝と結婚し、頼朝・希義・坊門姫(一条能保室)らを生んだことで有名である。
さらに、養女となった孫娘(実父は範忠)は足利義康と結婚して義兼を生み、
後世の足利将軍家にも季範の血統を伝えている[4]。
また由良御前が産んだ孫の坊門姫の血筋は鎌倉幕府将軍の藤原頼経・頼嗣の他、
後嵯峨・亀山両天皇にも伝わっている。
系譜[編集]
父:藤原季兼
母:尾張職子 - 尾張員職の娘
妻:源行遠の娘
長男:藤原範忠(?-?)
生母不詳の子女
男子:藤原範信 - 子孫に室町幕府の奉公衆を務めた千秋氏などがいる。
千秋氏の当主は室町幕府の将軍から偏諱の授与を受けている。
五男:藤原範雅
男子:藤原範綱
男子:大津市円満院坊官古守家初代法眼範智
男子:長暹
男子:祐範(?-?)
女子:上西門院女房千秋尼
女子:待賢門院女房大進局
三女:由良御前(源義朝室) - 頼朝の母
女子:源師経室
※以降の系図については下記の参考文献を参照のこと。
脚注[編集]
1.^ 『張州雑志』巻三十四所収「大宮司系譜」
2.^ a b 『熱田大宮司千秋家譜』
3.^ 角田文衛「頼朝の母」『王朝の明暗』所収
4.^ 男系子孫についても、範忠が八条院女房を妻に迎え、範信の子に八条院と上西門院に仕えた者がいた他、多くの男子が後白河上皇の北面になるなど、中央に人脈を持つ者が多かった。
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 07時47分23秒 ) | パスワード |
そうか・・・
初生衣神社の神服部氏は源頼政の関係で遠江国に来ましたね
東三河の千秋氏は鎌倉時代の終り頃にやって来た
この千秋氏は状況証拠から 北朝方 みたいですね。
織田信長の家来でもあった。
それで戦国時代の終りに熱田神宮系では残ったものの他は没落
美濃の養老の千秋氏は現場家督のような立場の身分の低い千秋氏だったということでしょうか?
当時は戦国時代ですから神御衣が・・・なんて余裕も無いですから
神服部家も「神」の字がとうに落ちていたのかもですね。
江戸時代よりは明治になってから明治政府の肝いりで伊勢神宮の神御衣の儀式も復活したのかもですね。
江戸時代はホソボソと続いていた、あたりでしょうか?
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 08時16分59秒 ) | パスワード |
ヤマトタケル
大御葬の物語(葬礼を司った土師氏の伝承)
吉井巌は、
聖徳太子の弟で、実在する初の皇族将軍である来目皇子が出征先の九州で病死したことがモデルになったとし、
この葬儀を主導した土師氏の葬送儀礼が物語に取り入れられたとする。
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 08時40分28秒 ) | パスワード |
http://bushoojapan.com/scandal/2013/11/23/10055
なぜ白鳥となったヤマトタケルは都を通過したのか?
三重県のヤマトタケルの墓の周りが初めて宮内庁によって発掘調査されたのだとか。
中日新聞が23日に報道しており、ネットではザワザワしています。
2013年11月23日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E8%A4%92%E9%87%8E%E7%8E%8B%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)は、三重県亀山市にある前方後円墳。
宮内庁により「能褒野墓(のぼののはか)」として第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されている。
日本神話の英雄ヤマトタケルは、西に熊襲、北に出雲、東に東国と全国を制圧しまくったあげく、
伊吹山の神様に呪い殺されるという悲劇の英雄です。
ヤマトタケルが死んだのは、伊勢(三重県)の能褒野(のぼの)となっているのですが、
ここに宮内庁が陵墓としている日本武尊能褒野墓(能褒野王塚古墳)があります。
この古墳自体は北勢地域で最大の前方後円墳(90メートル)で、
4世紀後半頃とされていますが、未調査です。
4世紀だと、ヤマトタケル(モデルが実在したことを前提に)にしては古すぎます。
ヤマトタケルの陵墓は、このほか、河内と大和にそれぞれあります。
今回は陵墓そのものではなく、その周辺で宅地開発が進んだため、境界線を確認するために宮内庁が発掘したとのことです。
なんとまわりには17基もの円墳があるそうで、そのうち9基を調べたところ、
6世紀ごろの横穴式石室(4・5世紀だと竪穴式石槨になる)が初めて見つかりました。
報道によると、縦3・7メートル、横1・5メートル。
埋葬施設の大きさから、地域の有力者の墓とみられるとのことですが、
もちろんヤマトタケル陵墓も王家というよりは地域の王の墓とみるのが自然です。
ヤマトタケルが白鳥になった地点
さて、ここでヤマトタケルの「死」について振り返ってみましょう。
伊吹山の神にやぶれたヤマトタケルは都を目指してふらふらになりながら、能褒野にまだたどり着くが、ここで息絶えてしまいます。
その魂は白鳥となって西の空へ飛んでいくのです。
伊勢の西隣には大和の都(奈良県)がありますから、西へ向かうのは当然でしょう。
ところが、都に戻ると思わせて、なぜかそのまま都の上空を通過して、河内(大阪)の志幾に降り立ちます。
その場所に墓が作られ、白鳥の御陵《みささぎ》となりました。
白鳥陵古墳は大阪府羽曳野市にあります。
全長190メートルの超巨大前方後円墳で、5世紀末から6世紀初頭の大王の墓とみられています。
時期的には、こちらはヤマトタケルと矛盾しません。
なぜ大和を通過したのかが、この白鳥伝説=ヤマトタケルの大きな謎の1つです。
筆者は、ヤマトタケルの物語は実は2つ以上の別の物語を合体したからと考えています。
古い時代の天皇の権威は絶対的ではありませんでした。
もともと建国からして、武力で統一したのではありません。
当初の国の形は、古墳という祭祀を共通の価値観に持つ一種の連合体だったのです。
かつての冷戦時代に、民主主義か共産主義かという政(まつりごと)の価値観で東西陣営に分かれて世界中の国が連合を作っていたのに似ているかもしれませんね。
悲しき若者たちの魂の集合体
祭祀を執り行うことができるシャーマンとしての地位を持っていたのが天皇(大王)でしたから、
この当時の天皇や皇族たちは、日本各地を実際に巡幸して、古墳で行われる祭祀に参加していた可能性が高いのです。
時が経つにつれて、天皇家は祭祀だけでなく世俗的な王としての地位を欲する動きをあらわしていくようになります。
そこで、天皇の息子や親族たちを派遣し、地方の豪族の娘と結婚することで臣従関係を結ぼうとしたと考えられるのです。
こうして全国各地を旅したあまたの若き皇族たちの物語が1人の英雄「ヤマトタケル」に集約されたのではないでしょうか。
特に西(熊襲や出雲征伐)に派遣された皇子(Aさん)が埋葬された河内と、
東に行った皇子(Bさん)が死亡した伊勢の能褒野の記憶は、はっきりと伝承していた。
そのため、この2つの逸話をつなげるために白鳥伝説が作り出されたということになります。
魂の集合体「ヤマトタケル」の物語が悲劇であるということは、
そのもととなった多くの皇子たちの旅も悲しい結末だったのかもしれません。
実際、考古学的に見ると、4世紀(300年代)に奈良盆地にあった王朝は
(皇子たちを全国各地に分散させたためか)衰退。
代わって5世紀(400年代)になると「河内王朝」と呼ばれる新勢力が台頭していきまする。
これはヤマトのトップの一族(つまり天皇)が変わったことを推測させます。
悲劇の英雄伝説の中から浮かび上がってくる史実の痕跡が、今回の発掘からも浮かんでくるか、楽しみです。
恵美嘉樹・記 (歴史作家)
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 08時45分20秒 ) | パスワード |
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/071.html
●「熊襲討伐」に因縁か
えびの市正原、白鳥山の中腹に、ヤマトタケルノミコトを祭る白鳥神社がある。江戸時代、この近くの山中から、現東大寺大仏殿に用いられている大梁(おおはり)の材2本が仏のお告げで見いだされ、空前の人々によって大和(奈良県)に運ばれた。ここはそうした霊験の地である。
その昔、霧島山中の霊くつを巡って修行していた性空上人が、山中の六観音池のほとりに座し、法華経を読んでいると、こつ然と翁(おきな)が現れ、上人に告げた。
「私はヤマトタケルである。白鳥となって、この山中に住むようになって、とき久しい。上人の読経、苦しい修行の徳に感応して、ここに身を現した」
上人は、この因縁で神社を創建し、白鳥権現を祭った。また聖観音を本尊として、白鳥山満足寺(廃寺)を造営、ヤマトタケルの霊魂を守る社殿としたという。
ヤマトタケルの霊魂が白鳥となったということは、日本書紀景行天皇條にみえる。
天皇に服従しない東国の者を征伐した後、ヤマトタケルは近江国(滋賀県)の膽吹(いぶき)山で、大蛇に化けた山の神の毒にあたった。やっとの思いで伊勢国能褒野(のぼの・三重県)に至ったが、ここで亡くなった。30歳であった。
景行天皇は、これを聞き、「今より以後、誰とともに鴻業(あまつひつぎ)を經綸(おさ)めむ」と昼夜しのび泣き、伊勢国能褒野陵に葬った。そのとき、ヤマトタケルは白鳥となって陵から大和国を指して飛び去った。群臣たちが、ひつぎを開いてみると、中には衣服だけが残っていて遺骨はなかった。
白鳥の行方を追うと、大和国の琴弾原(ことひきはる)に止まっていたので、そこに陵を造った。白鳥はさらに河内国・旧市邑(ふるいちむら)に飛んだ。ここにも陵を造った。当時の人はこの3つの陵を白鳥陵と呼んだ。しかし、その後白鳥は高く飛んで天に昇ったという。
へえ〜
そうすると「天の羽衣」の空を飛ぶ道具
それを作る 羽鳥氏
そして白鳥伝説
当然神社が出来る?
あり得ません?
ヤマトタケルの化身・白鳥が、えびのに飛んできたというのは、景行天皇とタケルが日向に下って熊襲(くまそ)を討ったということに因縁を持つものであろう。
白鳥神社の近郷では、白鳥を殺すことは厳しく禁じられている。また同神社は古くからヤマトタケルに因(ちな)んで軍神としてあがめられ、戦国時代に領主島津氏は軍を興すたびに、おみくじを引き、勝利を誓願した。数多くの献納品がそれを物語る。
永井哲雄
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 08時47分22秒 ) | パスワード |
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-12/2014_09_27.htm
『古事記』と『日本書紀』で異なるヤマトタケル伝説
■ 葛城市歴史博物館は、葛城市制十周年を記念して本日から11月24日まで、第15回特別展「葛城とマヤトタケル白鳥伝説」を開催する。葛城地方と古代の英雄ヤマトタケルとは無縁ではない。御所市冨田にはヤマトタケルの白鳥陵の一つとされている琴弾原ことひきがはら白鳥陵がある。
■ 特別展のサブタイトルとして「古代人がのこした鳥の造形」となっているように、鳥が死者の霊魂の運び手と捉えた古墳時代人の心象風景に迫る企画である。弥生時代から古墳時代にかけて、様々な鳥の形をした埴輪が見つかっている。この特別展では、当時の人々が鳥に対してどの様な思いを持っていたのかを開明してくれるという。興味深いテーマなので、特別展初日から訪れることにした。
■ 古代の英雄ヤマトタケルの物語は、現存する最古の歴史書とされる『古事記』にも『日本書紀』にも記述されている。『古事記』ではヤマトタケルを倭建命やまとたけるのみこと、『日本書紀』は日本武尊やまとたけるのみことと表記しているが、彼の武勇伝は日本人なら一度は耳にしたことがあるはずだ。
■ その概略は、第12代景行天皇の皇子としして生まれ、父の命を受けて九州へ遠征して熊襲くまそを平定し、さらに東国へ遠征して蝦夷えみしをはじめ天皇に従わない勢力を平定する。その帰路、病を得て故郷の大和に戻ることなく葬られた後、その身は白鳥に転じて空を飛び、最後は空高く飛び去ったとされている。
■ ところが、『古事記』と『日本書紀』ではその物語は微妙に食い違っている。研究者は『古事記』の物語が原型に近く、『日本書紀』はそれを下地にして一定の立場から書き直したと推定している。まずは、特別展の最初のブース「ヤマトタケルと白鳥伝説」で示された両者の違いを示しておこう。
続く
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 08時53分07秒 ) | パスワード |
『古事記』が伝えるヤマトタケル伝説
■ 景行天皇の三男として生まれたたヤマトタケルは、幼名を小碓命おうすのみことと言ったが、度を越す乱暴者だった。兄の大碓命おほうすのみことの肢体をもいでムシロに包み投げ捨てたという逸話が残っている。父の景行天皇はその性格を恐れて遠ざけるため、九州の熊襲建くまそたける兄弟の征討を命じたとされている。そこで、小碓命は叔母の倭比売やまとひめから衣服を授かり征討へと出発する。そして熊襲建兄弟が宴を開くと聞いて、叔母から授かった衣服を着て女装し熊襲建の館に侵入して兄弟を討ち果たす。その際、弟から「倭建命やまとたけるのみこと」と名乗るように言われ、以後ヤマトタケルと名乗るようになった。
■ 出雲の国では偽の刀を使って出雲建を騙して討ち果たして、大和に戻った。しかし、父はすぐさま東国遠征を申し渡す。伊勢神宮に参拝したヤマトタケルは叔母の倭比売命に再会し、矢継ぎ早に遠征を命じる父は、自分が死んでほしいと思っていると嘆く。倭比売命は草薙剣くさなぎのつるぎを与え、さらにもしもの時使用するようにと御嚢みふくろを渡す。
■ その後、ヤマトタケルは尾張を経て数々の神を平定し相模国に至るが、国造くにのみやつこに騙されて火攻めに会う。草薙剣で周辺の草をなぎ払い、御嚢の中にあった火打ち石で向かい火をつけて難を逃れる。さらに海路で走水海はしりみずのうみ(今の浦賀水道)を渡るとき神の妨害を受けるが、弟橘比売おとたちばなひめの入水で神を鎮め上陸を果たす。
■ その後、蝦夷などを平定して、甲斐、科野しなのを経て尾張国に帰還する。そして、美夜受比売みやずひめのもとに草薙剣を残して、近江の伊吹山の神の討伐に向かうが、途中で出会った白猪を山の神ではなくその使いと誤解したため、大雨を降らされ、病に倒れる。病身ながら三重を経て伊勢の能煩野のぼのにたどり着き、次の歌を詠んだ。
●倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし
(注:『日本書紀』では、この歌は父の景行天皇が九州の熊襲征伐にでかけ日向国で読んだとされている。)
■ やがて危篤に陥ったヤマトタケルは大和に帰ることなくその生涯を閉じる。皇子死亡の知らせを聞いて妃や皇子が駆けつけ墓を造るが、ヤマトタケルは白鳥となって飛び去る。白鳥を追いかけると、河内国の志幾しきに留まったので、再びそこに墓を築き白鳥陵と名付けた。その後、白鳥はその墓からも天空に向かって飛び去ったという。
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『日本書紀』が伝えるヤマトタケル伝説
■ 景行天皇の息子として生まれた小碓命おうすのみことは兄の大碓命おほうすのみことと双子とされている。若い頃から力強く勇敢で逞しい皇子だった。父の景行天皇は景行12年から九州に遠征し、熊襲を平定して6年後に帰還したが、景行27年に再び九州で反乱が起きたので小碓命を九州に派遣した。i
■ 九州では、小碓命は反乱の主である川上梟帥かわかみのたけるの宴に女装して潜り込み、これを討ち果たした。その際、川上梟帥が「日本武皇子やまとたけるのみこと」の名を送り、これがヤマトタケルと称するきっかけとなる。西征からの帰途、吉備や難波で荒ぶる神を討ち、翌年の2月大和に帰還した。
■ それから12年後の景行天皇40年6月、今度は東国で反乱が発生する。この乱を平定するために、ヤマトタケルは兄の大碓命を派遣することを進言するが、兄は恐れをなして逃亡してしまう。その結果、ヤマトタケルが再び東国へ出征することになる。
■ その年の10月、大和を発ったヤマトタケルは途中伊勢神宮に参拝し、叔母の倭姫やまとひめ命と会い、草薙剣を授けられる。駿河に入ったところでだまし討ちにあい火攻めを受けるが自らも野に火を放ち向かい火して難を逃れる。相模に入った後、海路で上総を目指すが暴風雨に遭い進めなくなったところ、弟橘姫の入水という犠牲を払って上総に上陸する。そこから陸奥に入って蝦夷の反乱を治めた後、常陸を経由して甲斐に至る。
■ さらに北に転進して武蔵、上野、碓井峠を経て信濃に進んだ後、美濃を経由して尾張に入り、尾張氏の娘である宮簀媛みやすひめを娶り、しばらく尾張に留まる。その滞在中に、近江の伊吹山に荒ぶる神がいることを知り、討伐に向かうが、大蛇の姿をした山の神を見抜けず、遭難し病を得る。苦しみながら尾張に戻ると伊勢に向かうが、伊勢の能煩野のぼのまで来たとき、病が悪化し、30歳で亡くなる。
■ 知らせを聞いた景行天皇は、群臣に命じて能煩野に墓を作りヤマトタケルを埋葬した。すると、ヤマトタケルは白鳥になり、墓 から出て大和を目指して飛び去る。群臣が棺を開いて中を確認すると衣服を残して亡骸は消えていたという。白鳥の行方を追わせたところ、大和の琴弾原ことひきがはらに留まっていたため、そこに墓を造った。白鳥はさらに飛翔して今度は河内の古市邑に留まったため、再び墓を造った。その後、白鳥は高く飛翔して天に上ったという。
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■ ヤマトタケルは実在の英雄だったのだろうか? そうではあるまい。古代においては、複数の人物の業績が一人の人間に仮託して英雄伝説として語り伝えられているケースが多い。ヤマトタケル伝説もその類いであろう。大和朝廷発展期に征討による王権支配の全国的拡大行動を 抽象・集約させた架空の人物像であろうと言われている。だが『古事記』の完成は712年、『日本書紀』の完成は720年、両書の編纂時期はせいぜい8年の違いがあるに過ぎない。それなのに物語の大筋はほぼ一致しながら、異なっている箇所も多いのは何故だろうか。
■ 先ず、ヤマトタケルの人柄を『古事記』では兄を殺してしまうほど度を越す乱暴な皇子としているのに対して、『日本書紀』では力強く勇敢で逞しい皇子としている。『古事記』では熊襲征討から大和に帰還すると、すぐに父の景行天皇に東征を命じられるが、『日本書紀』では12年後のことである。西征や東征の経路も両書の間では微妙に異なる。死後白鳥となって飛翔するルートも違う。
『古事記』では、伊勢の能煩野のぼのから河内国の志幾しきへ飛び立ったが、『日本書紀』では、途中でいったんの琴弾原ことひきがはらに留まっている。
■ 実在した複数の人物の業績を一つの物語として整えられたのが、おそらく『古事記』のヤマトタケル物語だったのだろう。しかし、『日本書紀』編纂の時点で、さまざまな集団から異なる伝承の追加資料が出てきたのだろう。そこで、『古事記』の内容を下地にしながらも、編者が加筆・修正したものが『日本書紀』のヤマトタケル伝説だろうと推察されている。
「白鳥」
■ いずれにせよ、ヤマトタケル伝説のキーワードは「白鳥」である。彼の肉体は墓に埋葬されたが、その霊魂は白鳥に姿を変えて空を飛翔し、やがて天空に上って行ったという。人の死後、鳥に姿を変え天高く飛び立つという考えは、東南アジアで広く見られる死生観である。我が国でも、古墳に立てられた水鳥形埴輪をその象徴としてとらえることができるという。
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 08時58分00秒 ) | パスワード |
3つの白鳥陵
『日本書紀』に記載されたヤマトタケル伝説に基づいて、
宮内庁は次の3つの陵墓をヤマトタケルの墓として管理している。
●三重県亀山市田村町にある日本武尊能煩野墓
●奈良県御所市冨田にある日本武尊白鳥陵(琴弾原白鳥陵)
●大阪府羽曳野市軽里にある日本武尊白鳥陵
■ 亀山市にある能煩野墓は、延長5年(927)年に完成した『延喜式』にも記載されている古墳である。その治定に関しては、江戸時代以降、地域内のいくつかの古墳が候補に挙げられてきた。本居宣長や平田篤胤ら国学者は鈴鹿市にある全長92mの帆立貝式白鳥塚古墳を有力視していた。明治9年(1876)、当時の教務省がこの白鳥塚古墳をヤマトタケルの墓に治定した。しかし、3年後の明治12年(1879)、当時の宮内省が能煩野王塚古墳に治定替えを行っている。
■ 日本武尊能煩野墓は全長90mの前方後円墳で、4世紀末の築造と考えられている。本居宣長が著した『古事記伝』から竪穴式石室の可能性が指摘されている。
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■ 宮内庁が日本武尊白鳥陵として管理する羽曳野市の軽里大塚古墳(前の山古墳)は、前方部を西に向けて横たわる墳丘長190mの前方後円墳である。5世紀後葉に築造された古墳で、墳丘は三段築成、くびれ部両側に造出しを備えている。この古墳の大きな特徴は、後円部の直径を1とすると、前方部の幅が1.5倍もあり、いわゆる前方部を大きく開いていることだ。さらに、高さも前方部が後円部を3mも凌駕していて、古墳時代後期の前方後円墳の特徴を備えている。
■ 『白鳥神社縁起』によると、白鳥と化したヤマトタケルはその後、西方の埴生の丘の上を羽を曳くがごとく飛びさり、和泉の大鳥にとどまり、その後天高く飛び去ったという。この伝承に因んで、市の名称を「羽曳野」としたという。
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■ 白鳥が飛び立った先として、『日本書紀』に新たに追加されたのが「倭の琴弾原」で、明治16年に御所市冨田の地に治定され、宮内庁は琴弾原白鳥陵をヤマトタケルの墓として管理している。
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■ しかし、現在の場所は古墳ではなく、自然丘陵である可能性もあり、近くにある掖上鑵子塚わきがみかんすづか古墳を候補とする考えもある。鑵子塚古墳は、室宮山古墳の南西約2キロのところに位置する全長約150mの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定されており、南葛城地域では、室宮山古墳に次いで大きい。墳丘の後円部は3段、前方部は2段で築成でされ、葺石が敷かれ埴輪列があったことが確認されている。現在は水田として利用されているが、鎌倉時代までは幅30mほどの周濠が巡らされていた。
■ すでに盗掘の被害にあっているが、後円部の竪穴式石室に長持形石棺を安置していたと思われる。水鳥形埴輪が見つかっている 。
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 09時01分56秒 ) | パスワード |
考古学が明らかにした鳥形遺物が象徴する古代人の宗教観
■ 我々の肉体には魂が宿っているとされている。肉体は言わば仮の宿で、魂が宿ることで生命を得、魂が去ることで死を迎えるという。したがって魂はどこから来て、何処へ行くのかという永遠の問いを、人類はその誕生以来問い続けている。仏教は「六道輪廻」を説く。六道輪廻によって人間の魂は永遠に不滅であるとされている。だが、仏教が我が国に伝来したのは、せいぜい1500年前の古墳時代後期のことだ。それ以前の古代人は、人が死ぬと霊魂は肉体を離れて鳥になるか、あるいは鳥に乗ってあの世へ行くと考えていたようだ。そうした宗教観を今に伝えているのがヤマトタケル伝説である。だが、鳥が霊魂の運び屋と認識されるようになったのはいつごろだろうか。
■ 特別展の展示は、1.ヤマトタケルと白鳥伝説、2.鳥のモチーフの出現、3.葬送の鳥、4.暮らしと鳥、の4部構成になっていた。最初のブースでは、上記のような記紀におけるヤマトタケルと白鳥伝説の差異を解説していた。考古学の発掘調査では、鳥を題材にしたさまざまな遺物が発見されている。しかし、古墳時代とそれ以前とでは、鳥の扱いは異なるという。
■ 鳥を題材にした造形の出現は縄文時代までさかのぼる。だが、約1万年続く縄文時代に鳥を特別視していたことを示す遺物は発見されていない。鳥獣は単なる食料として扱われていたようだ。ところが弥生時代になると、鳥を題材にした造形がその数を増す。稲作を育んだ大陸の思想が持ち込まれたためだとされている。
■ 例えば、銅鐸には、稲の害虫であるカマキリや、トンボ、カエルといった小動物を駆除するサギやツルの姿が描かれている。サギやツル、あるいはコウノトリなどの鳥類は、弥生時代の人々にとって稲の豊かな実りをもたらす存在としてとらえられていたのだろう。また、ある時期には鳥を穀物に宿る恵みの霊である穀霊の運搬者、またはその化身として理解されていたことが、各地の風土記の記述からも伺い知ることができる。
■ 弥生時代の遺跡から見つかった絵画土器には、翼やクチバシを持つ人物が描かれている例がある。その異形な姿から、人知を越えた存在と交信できるシャーマンを表現したものと思われる。鳥に扮したシャーマンは、東アジア各地で見られる基層文化で豊饒の一端を担っていた存在だったと推測されている。
■ 弥生時代の遺跡から、鳥をかたどった鳥形木製品が見つかることがある。木製品の胴体下部に穴が空けられているため、棒の先に取り付けて空中に高く掲げられていたものと思われる。大陸や朝鮮半島では「鳥竿とりざお」と呼ばれ、ムラの入口などに立てられ、良くないものの進入を防いだとされている。鳥形木製品も集落の周辺部分から見つかることが多く、「鳥竿」と同じ目的で立てられていたのかもしれない。
■ ただし、我が国ではムラの入口ではなく、弥生時代の方形周溝墓の溝の中から出土する場合もある。鳥形木製品は葬送に伴って使用されたことを伺わせている。古墳時代になって顕著になる死者と鳥を結びつける考え方が、この頃からすでに萌芽していたとする見方がある。
■ 古墳時代になると、鶏を表す鳥形木製品が増えてくる。しかも雄鶏の木製品である。記紀に語られている「天の岩屋戸」神話では、鶏が「常世とこよの長鳴鳥」として岩屋戸に隠れたアマテラスを呼び出す役割を果たしている。常世とは現世に対するあの世のことであり、夜の世界である。長鳴き声によって朝の到来を告げる鶏は、昼夜を分かつ鳥であり、転じて世界の新生を告げる霊鳥と見なされたのであろう太陽神アマテラスを岩屋戸から呼び出すには、夜明けを告げる鶏の存在が大きかったにちがいない。
■ 古墳の壁画や古墳を飾った埴輪の中に、鳥と船を組み合わせた鳥船が描かれているものがある。天理市の東殿塚古墳から出土した埴輪には三艘の船が描かれているが、そのうちの二艘の船の舳先に鳥が止まっている。その姿が死者の国へ導く水先案内のように見え、これらの鳥船は葬送の船であると解釈されている。福岡県うきは市の珍敷塚古墳や鳥船塚古墳は6世紀後半の絵画古墳だが、横穴式石室の壁に鳥船が描かれている。
■奈良県北葛城郡河合町の佐味田宝塚古墳は4世紀末に築かれた全長111.5mの前方後円墳だが、この古墳から出土した鏡には四棟の家屋が描かれている。当時の建物の様子を知る手がかりとなり、家屋文鏡として知られている鏡だ。興味深いのは、蓋きぬがさが掲げられた入母屋造りの高床建物(A棟)の屋根には鳥の姿がないが、竪穴住居と思える建物(B棟)、入母屋造りで平屋の建物(C棟)、および切妻造りで高床の建物(D棟)の屋根には、それぞれ鳥が止まっている。鳥は魂の運び手と思われ、鳥が止まっている家は、その家に祖霊などが宿っていると考えられている。鳥が止まっていない建物は、祖霊を引き継いだ現役の首長の居館を表しているのかもしれない。
■ 4世紀中頃になると、鳥の埴輪が登場してくる。初期の鳥形埴輪はほとんどが雄鶏だが、古墳時代前期末から中期になると鶏形埴輪に引き継いで水鳥形埴輪が作られるようになる。ヤマトタケル伝説に示されるように、水鳥は古墳に葬られた人物の魂の運び手を象徴していると解釈されている。藤井寺市の津堂山古墳の周濠に設けられた島状遺構からは、水鳥形埴輪の初現とされる三体の埴輪が見つかっている。三体のうち少なくとも二体は、白鳥をモデルに作られたのではないかと考えられている。
■ ちなみに津堂山古墳は4世紀末に築造された全長208mの前方後円墳である。しかも、専門家の中には、この古墳が日本武尊白鳥陵ではないかと考えている人もいる。そうであれば、白鳥伝説に彩られたヤマトタケル物語の成立も4世紀末ころと推測することはできないだろうか?
[32] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月15日 09時05分43秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
たくさんの情報ありがとうございます。ただ今読解完了しました。
倭建命軍は船で移動したみたいですので、豊橋か、掛塚か、相良かを出発、
あるいは相良に寄港したか、いずれにしても色々な可能性はあります。
どのような船で、どれだけの軍で、どれだけの物資・兵器類・馬を運んだ
か、行く先々で物資・兵を増やしていったと推察しますが・・・。
昨日本屋に寄ったら、『古代史の謎は海路で解ける』(長野正孝著)が新書
版の新刊で出ておりましたので、明日送ります。
これからこちらは統一地方選で市議・県議・市長の選挙を四月に迎えるた
め、忙しくなります。今からある県議の事務所開きに行きます。そのまま東
三河へ行きますので、夜に報告を記します。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 09時06分29秒 ) | パスワード |
知恵袋より
Q:いかにしてヤマトタケルは白鳥になったか?
回答1
ミコトは伊吹山でぐったりされ、
鈴鹿の能煩野で亡くなってしまいます。
ミコトのため白鳥塚という御墓を作りました。
誰もがミコトの死を悲しみ誄歌(ルイカ)を詠みました。
「なづきのたのおながらにいながらにはなひもとろふところづら」
みなが悲しみ能煩野へ行き塚の周囲の水田に廻(もとほ)いて葬儀をしたことが想像できます。
「あさじのはらこしなづむそらはゆかずあしよゆくな」
ミコトは白鳥になり舞い上がり浜へ飛翔しました。皆は竹を刈った場所を足の痛さも忘れて裸足で歩き白鳥を追ったのでした。
「うみがゆけばこしなづむおおがわらうえくっさうみがはいさよう」
白鳥は浜から海へと舞い、皆は必死で海の中へ入ってその後を必死で追いかけた苦悩が詠まれて
います。
「はまつちどりはまよはゆかずいそづたう」
ミコトの化身の白鳥はやがて磯伝いに黄泉の国へと旅たっていったようです。
以上の歌はヤマトタケルの葬儀で歌われて以来、天皇の御葬儀でも歌われていると古事記に書かれているそうです。
昭和天皇の御葬式においてもこの歌が悲しげに奏でられた様子はテレビでも放映されました。
ところで、弥生時代の墓から、木製の鳥が発見されています。
当時から、人は死後、鳥になるという思想があったのでしょう。
回答2
ヤマトタケルが白鳥に変身したのじゃありません。人が亡くなったら、その魂が鳥となって身体から抜け出て、その人が帰りたいと願っていた故郷へ飛んで帰ると考えられていたのです。鳥は魂を運ぶと考えられているので、神社には鳥居があるのです。
その鳥は白鳥である方が、雀よりも恰好が良いじゃないですか、白鳥とは昔はコウノトリだったそうです。
コウノトリ?
回答3
そもそも神話の話ですし。
ヤマトタケルの肉体が白鳥になったわけではなく、亡くなった後、ヤマトタケルの魂が白鳥となって飛んでいったのです。
死者の魂が鳥となって天翔るというのはよくある話です。
浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ
虚空(そら)は行かず 足よ行くな
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 09時11分42秒 ) | パスワード |
http://homepage1.nifty.com/tosyo/kojiki56.html
この「古事記」の現代語訳
分かり易いです。
<第55話 ヤマトタケルの死>
その後、信濃の国の坂の神を退治したヤマトタケルは、尾張の国に向かい、先
に結婚の約束をしていたミヤズヒメ(美夜受比売)のもとを訪れ、結婚した。
「さて、そろそろ伊吹山の神を退治して参ろうか」
「あら、あなた刀をお忘れになっておりますよ」
「いや、今回は山の神を素手で退治するつもりだ。だから、このクサナギノケ
ンは姫が預かっておいてくれ」
「かしこまりました。どうぞ、ご無事で」
こうしてクサナギノケンを持たず、素手で伊吹山に向かったヤマトタケル。
山に登ってすぐのほとりで白いイノシシに出会った。
「この白いイノシシの姿をしているのは、山の神の使者だろう。今殺さずとも、
山の神を殺してからでも遅くはあるまい」
こういってさらに山の登るヤマトタケル。
ポッ ポッ ポッ
「おや? 雨か?」
バッ バッ バッ
「いや、違う、これは雹だ」
バババババババババァァァァァァァァァ
「すごい勢いで降ってきたぞ」
バババババババババババババァァァァァァァァ
「ぐわぁ、ま、まずい、このままでは撃ち殺されてしまう。もしや、さっきの
白いイノシシこそがこの山の神だったのか?」
そう、さきほどヤマトタケルが見逃した白いイノシシこそこの伊吹山の神で、
雹を使ってヤマトタケルを打ち惑わしたのだった。
「ふぅ、何とか一息ついたな」
命からがら山から下りてきたヤマトタケルは、清水を見つけ一息つき、正気を
取り戻すことができた。
そこからヤマトタケルはタギノ(当芸野)のあたりにたどり着いた。
「私の心は、いつも空を駆け登るような気持ちだった。しかし、今、私の足は
歩くことができず、道がはかどらなくなってしまった」
こう弱音を吐いたヤマトタケルは、さらにほんの少しばかり歩いた。
しかし、ひどく疲れてしまい、杖をついてそろそろ歩いた。
さらに進むと、尾津崎の一本松のもとにたどりつき、食事をしていたときに、
そこに忘れてきた大太刀がなくならないでそのまま残っていた。
それから三重村にたどりついた。
「私の足は三重のまがり餅のようになって、ひどく疲れてしまった」
そこからさらに歩き続けたヤマトタケル。
能煩野(のぼの)に着いた際に、故郷の大和国をしのんで歌を歌った。
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし
(大和の国は国々の中で最もいい国だ 重なり合って青い垣をめぐらしたよう
な山々、その山に囲まれた大和の国は美しい国だ)
命の 全けむ人は たたみこむ 平群(へぐり)の山の
くまかしが葉を うずに挿せ その子
(命の完全な人は、平群の山のくま樫の葉を髪にさして、生命を謳歌するがい
い、みなの者よ)
愛(は)しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も
(あぁ、なつかしいわが家の方から、雲がわき起こってくることよ)
この歌を歌った後、ヤマトタケルの病気は急に悪化した。
そのときに歌った歌は、
嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや
(ミヤズヒメの床のそばに、私が置いて来たクサナギノケンよ、あぁ、あのク
サナギノケンよ)
こう歌い終わってすぐにヤマトタケルは死んでしまった。
そこで、早馬の急使が朝廷にヤマトタケルの死を告げに行った。
<参考文献>
講談社学術文庫:古事記(上)全訳注(次田真幸)
===================================
【コメント】
数々の武功をたててきたヤマトタケル。
東国を平定し、尾張の国で姫と結婚するまではよかったのですが、その後伊吹
山にいる神を退治にいくときにクサナギノケンを手放してしまったのが運のつ
き。
油断としか思えない失態。
さらに、今まで一発で神を見破っていた彼が、イノシシが神の正体だと気付か
なかった。
運勢が下降線をたどるときには、全てにおいて悪い方向に進んでしまうのでし
ょうか。
かくして、ひょうにうたれて気を失うヤマトタケル。
その後、病気になるのは、日本書紀も一緒ですが、古事記の方が悲劇の主人公、
ヤマトタケルの描写は克明です。
特に、杖をついてたどたどしく歩くシーンは、あまりにもあわれで、これがク
マソを滅ぼした勇敢な英雄、ヤマトタケルなのだろうか? と思ってしまいま
す。
ちなみに、日本書紀では伊吹山の神は蛇でした。
また、日本書紀には、
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし
嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや
という歌は書かれていません。
また、日本書紀のヤマトタケルは自らの死を部下に言付け、天皇に伝えていま
す。
最期の瞬間まで父である天皇とヤマトタケルは非常に強い愛情関係で結ばれて
いるのですが、あまりにも古事記と違う心情の描かれ方は、古事記と日本書紀
の比較において非常に興味深いものがあります。
<第56話 ヤマトタケルの白鳥伝説>
「ヤマトタケル様がお亡くなりになりました!」
「あぁ、あなた…、なんてこと」
「お父上…」
ヤマトタケルが亡くなったという知らせを聞いたその妻と子は、大和からタマ
トタケルの死んだ場所に向かい、御陵を作った。
そして、その周りの田を這い回り、泣き悲しんだ。
なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に
匍(ほ)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)
(お陵(はか)の近くの田に生えている稲の茎に、その稲の茎に這いまつわっ
ている野老(ところ)の蔓のような私たちよ)
「あっ! あれを見ろ!」
バササッ
見ると、御陵から大きな白い千鳥が空に飛び立ち、海に向かって飛び去った。
「あれはきっとヤマトタケル様の魂に違いない!」
白鳥が海に向かって悠然と飛び去っていくのを見た妻や子は、あたりに生えて
いる竹の切り株で足を傷つけられても、その痛さを忘れ、泣きながら追ってい
き、歌った歌は、
浅小竹原(あさしのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
(低い小竹(しの)の原を行こうとすれば、腰に小竹がまとわりついて歩きづ
らい。鳥のように空を飛ぶこともできず、足で歩いて行くもどかしさよ)
また、浜の海水に入って、難儀しながらも追っていったときに歌った歌は、
海が行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海がはいさよふ
(海を行こうとすれば、腰が水にはばまれて歩きづらい。大河の水中に生えた
水草が揺れるように、海は水にはばまれて進むことができない)
さらに、白千鳥が飛び立って、海岸の磯にとまっているとき歌った歌は、
浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ
(浜の千鳥は、歩きやすい浜伝いには飛ばないで、岩の多い磯伝いに飛んでい
った)
この4首は、みなヤマトタケルの葬儀の際に歌った。
さて、白鳥は伊勢国(三重県)から飛んでいって、河内国(大阪府)の志磯に
とどまった。
そこで、その地にも御陵をつくり、ヤマトタケルの魂を鎮座させた。
そして、その御陵を名づけて白鳥御陵といった。
しかし、白鳥はそこからさらに空高く天翔けて飛び去って行った。
「行ってしまわれた…」
こうして、ヤマトタケルの冒険は終わった。
<参考文献>
講談社学術文庫:古事記(上)全訳注(次田真幸)
+++++++++++++(編集後記)++++++++++++++++
皆さん、こんにちは。
キリです。
有名なヤマトタケルが死して、白鳥にかわるシーンです。
白鳥になったヤマトタケルを泣きながら追いかける人々。
古事記では非常に情緒的な描かれ方をしています。
ところが、日本書紀は非常に淡白に記載されているだけです。
但し、父である景行天皇は大いに嘆き悲しみ、ヤマトタケルのために武部(た
けるべ)という役職を定めたとあります。
それにしても、日本書紀ではグチなどひとつもこぼさないヤマトタケルも、古
事記では、グチはこぼすわ、兄を殺すわ、どっちが本当なのだろうかと思って
しまいます。
そもそもこのヤマトタケルは、いろいろな英雄たちの物語が一つにまとまった
といわれていますが、それにしても性格があまりにも違いますね。
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月15日 09時16分44秒 ) | パスワード |
羽鳥と白鳥がセットというのは
天に行く飛び道具だった鳥の羽を作る羽鳥氏
実際には鳥の羽ではなく天の羽衣を機織工=はとりべの皆さん=が作った?
[36] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月15日 23時29分40秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日はまた寒波到来でその上風も強く、外で演説を聞くには手も耳も凍りそ
うな寒さでございました。でも日ごとに日差しも強くなりつつあり、梅の花は
知らぬ間に花を開きつつありますし、菜の花畑は真っ黄色となっております。
まずは東名を駆け抜け豊川インターで下りました。下りたところて、ナビに
第一の行先をセットし、スタート。行先は宝飯郡一宮町の「白鳥神社」。ちょ
うど本宮山の南のふもとにあたる。足山田の服織神社の東1.5キロ程の所で
ある。従ってハトリ村と白鳥村は隣接していたと思われる。
その白鳥神社の「いわく」を知りたかった。何か古代につながるものがある
のかどうか・・・。
ナビも有名な所ならまず間違いはないが、山間地のさして有名でない場所
はそう簡単にはいかない。グルグルまわってもなかなか行きつけなかった。林
や小山で神社が見えない。よっぼと諦めようと思っていた時、前から犬の散
歩で歩いて来る人に出会った。訊くことにした。すぐわかった。やっぱり地元
の人に訊くのが一番早い。ということで、時間は予想以上にかかってしまいま
したが無事到着できました。人が集まっている。何かの祭礼だ。もう終わって
いるようである。神主さんがいた。歳は四十前後。勇気を出して訊いてみる。
「ここのお宮は由緒のあるお宮さんなんでしょうね?」
「この辺は昔白鳥村で、お宮は約四百年前に建てられたということです。そ
れより以前には小さな祠だったようです。」
「御祭神は誰を祀られているのですか?」
「ヤマトタケルです。」
ということで、ズバリ「ヤマトタケル」の答えが返って来た。
「ヤマトタケルですか・・・」とうなづきながら、やはりヤマトタケルの白鳥
伝説は信仰と結びついているのだと、しばらくの間感慨に浸った。でも何故に
この地に?と言おうと思った瞬間、神主の口の方が早かった。
「農作物の豊作と家内安全を願って、お祀りしています。」
「そうですか、お忙しいところいいお話をありがとうございました。」
と言って、ここを後にした。
前田豊氏は『古代神都 東三河』の中で、こう言っている。
「即ち、日本武尊の父祖の地は、一宮村大字上長山字火防にある白鳥神社付
近であることが判明した次第である(『神社を中心としたる宝飯郡史』)。
〜中略〜
日本武尊の父祖とは、崇神、垂神、景行の各天皇である。皇祖の出自も三河
一宮周辺ということになるのである。」
ちなみに一番由緒のある「三河一宮砥鹿神社」はここより南へ1.5キロ行
った所にある。
次に向かったのは、本宮山山頂にある「砥鹿神社奥の宮」である。前回駐車
場の閉門時間が午後3時ということで時間がなく、国見岩のみ見て奥の宮はあ
きらめたといういきさつがあり、今回はそれを完結させたいという想いからで
あった。バッキー白片のハワイアンをかけながら気分よく車を飛ばす。本宮山
は標高789メートルで結構曲がりくねった道を登る。中腹より道路脇に白い
物が目に入る。残雪だ。ハワイアンの気分が、急に凍りついた。どうだ上まで
行けるだろうか・・・白い色が更に増えてくる。まあ行けるところまで行こう。
対向車もちらほら下りて来るということは、行けるということだと言いきかせ
ながら。道路は何とか走れる状況であったが、頂上付近の斜面は雪が解けずに
銀世界であった。これは想定外のことであった。標高が高いということは、温
度も地上と違うということ。地上では8℃であったが、山頂では4℃、しかも
風がビュービューと唸りを上げていた。そんな中ではあったが、奥の宮とつい
でに山頂にも滑りそうになりながらも登り、こんな中よく登れたと満足して次
の場所へ向かった。
次の場所は「摩訶戸神社」・・・名前からして何かいわくのある神社である。
前田氏の先の本によると―
「安の河の誓い(うけい)で生まれた三女神は、胸形(むなかた)の奥津宮と中
津宮、辺津宮に坐すと『古事記』に書かれている。実は、新城市の八名一鍬
田(ひとくわだ)に摩訶戸神社という、摩訶不思議な神社がある。『八名郡史』
によるとこの神社はムナカタが訛って、マカトになったのではないかという。
祭神は保食神(うけもちのかみ)であるが、これは明治維新の時からで、本来
の御正体は木像三体であって、頗る古作であるという。
『日本総国風土記』の『三河国八名郡』の部に、八名神社の祭る所、胸漢
(むなかた)命也とある。渡辺政香の『三河志』第一巻には、神明帳のいわゆ
る筑前国宗像郡宗像神社三座是也、胸漢は宗像の誤記とある。即ち八名神社
は宗像三神を祭ることから、宗像神社となり、それが訛って摩訶戸神社にな
ったようである。」
ということであります。更に一層謎めいているのが、すぐ周りにある、14基
の古墳であります。これは探したけれど、雑木林のようなものが見えるだけで
古墳を見ることはできませんでしたが。
最後に向ったのが、権現山の南600メートル位の所にある「春興院」であ
ります。5年ほど前に行ったことがあったが、名前は覚えていなかった。まさ
しく権現山遺古墳を見ての帰り道に寄った寺である。駐車場は100台位入れ
そうな程広い。門をくぐると右手に観音様があった。お寺自体はまずまず大き
い方か、廊下でつながっている家屋も右手にある。住職の住む家か。本堂・屋
根の写真を撮る。社紋は後で調べたが「丸に三つ盛り蛇の目」のようであった。 奥の墓地を一通り回る。「服部」の墓が一つあった。珍しい。家紋は丸に違
い矢」であった。伊賀出身の服部氏であると思われる。一つだけというのが寂
しい気がした。墓地の一番奥に特別に塀で囲まれた霊廟のようなものがあった。
紋はお寺の屋根の紋と同じであるようだ。誰の墓かはわからない。周りは僧侶
や尼僧の墓ばかりなので、きっとえらい坊さんの墓に違いないと思った。
帰りがけに庭の草をとっている娘さんから声をかけられた。
「写真をお撮りですか?」
見ると娘さんではなく、推測するに40代かなと思われるハッとするような
美しい女性であった。ここは南朝に関係していると頭の中にあったので、ひょ
っとしたら、皇室に関係する血筋の人かと思った。話がはずんだ。内容を整理
すると―
@私は××年前にこの寺に嫁いで来ました。
A歴史はよくわかりませんので、勉強しなければと思っています。
Bこの辺は嵯峨と呼ばれています。
Cこの裏の方に嵯峨城があったと言われています。
Dまた、この近くに和田城があったそうです。
E和田城は渡辺氏が城主を勤めていたそうです。
F渡辺氏の子孫はこの寺の関係者で、子孫は東京の方へ行ったようです。
そして、渡辺氏の墓が奥にありますということで、是非見せて下さいとお願
いし、案内してもらった。そこは先ほど霊廟のような所と言った所であった。
おかみさんは門を開け、戸を開け、中を見せて下さった。写真を撮る。中には
真ん中が1メートル位、左右にやや小さめの卒塔婆というのか墓が並び、奥に
何やら書かれた文字が見えた。暗かったが感度を良くしてあるのでだいたいは
映る。有難うございましたとお礼をいい、何かわかりましたらお届けに上りま
すと言ってここを後にした。
実は前田豊氏の『古代神都 東三河』で読んでいて、おおよその情報は頭の
中に入ってはいたのだが、良く理解できていなかったため、説明するのができ
ない状態であったのだ。その本の中にはこう書かれている(ちょっと長くなり
ますが)―
「『青木文献』という当時のことを書いた古記録によると、千草忠顕卿とい
う南朝方の総大将が、比叡山で戦死して、その子が三州八名郡玉川村和田
に逃れて、青木和田尉盛勝と名乗ったとある。
この青木盛勝は、長慶天皇(1368〜1383)に仕えた武士であり、三門赤坂
落合の戦いに敗れて、家来の彦坂平内兵衛が、玉川に落ち延びたとも記し
てある。なお長楽の彦坂一族は彦坂兵内兵衛の末裔である。
長慶天皇をはじめ、南朝方の皇子や姫宮が、北朝方の軍勢に攻められて、
三河の各地を、転々と逃げられたことを伝え、三河各地に幾多の伝説があ
る。
南朝史学者藤原石山著の『南朝正統皇位継承論』に寛成親王(長慶天皇)
と正良親王(内伝の天皇で松良天皇)は、共に玉川宮と申されて、三河玉川
御所におられた事を示している。(そういえば、以前玉川御所を探したこ
とがありますが、道が狭くて駐車もできず、側までは行ったけれどあきら
めた覚えがありました。)
「青木文献」の玉川村は、現在石巻本町といい、字御所地内に、当時
御所があり、三河南朝の玉川宮がおられたことを伝え、その奥の字嵯峨
地内には、嵯峨城跡がある。そこに、「春興殿」があったと思われ、嵯峨
大覚寺殿の皇子という意味か、後醍醐天皇の猶子となられた守永親王(尊皇
親王の皇嫡子)が居られた事を伝え、後世そこへ建てたお寺が、春興殿の
ゆかりを伝えて「春興院」と号したと思われる。
〜中略〜
なお、石巻山の西の南山頂上に、妙本陵社があり、祭神は小松天皇と高
子媛である。また石巻山の東、嵩山町立岩にある保称城跡に錐(きりの)明
神があり、祭神は守永親王、興良親王である。麓に十輪寺がある。南朝天
皇家を祭る陵社寺と思われる。」
以上、本日の報告でした。
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月16日 06時23分41秒 ) | パスワード |
「古代神都 東三河」の本をありがとうございました。
湖西市の地図を見てて、平熱を見たら上記の書き込みがありました。
その後、また湖西市の地図の見たり
P32−33の画像を見たり。
78ページの岩戸神社前の大石もすごいけど
33ページの照山山頂の石柱と32ページの新宮山山頂の磐座の画像には背筋がゾクゾクしました。
頭の中を空っぽにして名称をメモしながらゆっくり読みます。
ちらちらと斜め読みをして充分に衝撃を受けています。
長慶天皇のことも空っぽにして読まなくては。
わたくし的には饒速日は東の方に行ったような感じがあって
あれは東三河や遠江だったのかなと あれ? と思うようになって
いつぞやの天皇の御代に技術集団が東に派遣された話とこんがらがっているのかなとか思うので
頭の中を空っぽにせねば!
と。
すっごく新鮮な状態にして読まなくてはとリセット中です。
[38] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月16日 16時44分17秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日で10カ月を経過し、本日より11ケ月目に突入しました。
本日新書版を発送しました。今後の参考にして下さい。
さて、東三河は謎がギッシリつまったパンドラの箱でありますが、本坂峠
を超えた湖西側に宇津山城址があり、先日登ってみたところ、浜名湖の景色
が一望され、浜名湖を見る場所として最高の場所であったということが実感
されました。城址といっても土塁の囲いがずっと巡らされているだけで、城
を想像するにはちょっと難しい程です。城址の入り口には弘法大師の像が建
てられ、また南側の遠く海を見はらす斜面には、地元の寺の管理する墓地が
あり、墓石がまるでモアイのように海の彼方を見降ろしているかのようでした。
一つ不思議に思ったのは、遥配場所があり、そこに「伊予」と書かれてい
たことです。何で「伊予」の方向に向かって遥配するのか・・・空海は讃岐
でありますし、伊予水軍か・・・?。謎が一つ浮かび上がりました。
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月16日 22時43分24秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ありがとうございます。
土曜日の本は余りにも高価だったので恐縮しておりました。
ブックオフで充分ですが
売られていないという方の可能性が高いですね。
本当に重ね重ねありがとうございます。
「伊予」というのは「三島神社」のことか?「饒速日」のことか?
謎ですね
阿波なら服織関係、または、朝立彦神社がやっぱり関係するのかな、と想像しますが。
「伊予」とは何で繋がるんでしょうね?
孝霊天皇か?彦狭島命か?小千皇子か?越智氏か?三島氏か?
それとも吉備の吉備津神社関係か?
>謎が一つ浮かび上がりました
はい。
11か月目になりましたか。
あっという間でしたね。過ぎてしまえば。
なかなか分からないですね。
・神服神社から?
・平家方の長田家から?後世、永井氏絡み?
・えびす神社から?
・熱田神社から?千秋家が絡む?
・浅間神社の神職の服部氏絡み?
・服部連から?
・伊賀から?
・半蔵・政信関係?
・服織神社から?
・物部系?
・秦系?
・南北朝絡み?
その他
伊予まで広がった?
謎が増えるばかりですね。
[40] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月17日 00時11分42秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
それでも少しずつ謎は解明されつつあります。これもあを様の全面的バック
アップがあったればこそと感謝申し上げます。
直近で分かったことは―
@善地の天満宮と密接な関係にあること。
Aそれは、曾祖父の時代まで住んでいた所が、天満宮の真後ろの土地、
天満宮を抱くような土地であった(それは謄本と公図からわかった)。
また、私が小学校の頃には天満宮の前に本家と当家の畑があった。
B天満宮のある一帯は昔、小規模な古墳群があったような気配であります。
姉の言うには、昔勾玉や管が畑から出たということを聞いているという
ことです。
C松島氏は服織神社の神主をいつの時代か代々続けてやっていたという
ことです。
善地天満宮については、現在の神主は女性ですが、松島氏です。
D松島氏の中には源氏を名乗る者がおります。
E別系の松島氏は鈴木氏に名を改め、熊野より熊野神社を勧請しています。
F昔、善地は天竜川の流れの向きに縦長に大きかった。その北部のやや
高い所に天満宮が建てられた。
善地は四分割され、下のほうに中善地(羽鳥)がある。羽鳥地域には松島
氏が多く住む。松島十湖もその氏族の一員である。
G羽鳥には「源長院」というお寺があり。松島氏の墓が多い。そして源長
院の末寺「芳永寺」が善地天満宮の東百メートルにある。
H服織神社は熊野権現系に一時させられた。その時鈴木氏の台頭があったと
思われる。
I服織神社は元々「天穂日命」を祀っていた(即ち出雲国造家系統である)。
穂日の息子の「建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」は遠江の国造にもな
っている。
J熊野系に不満を抱き、天満宮=菅原道真を祀ったか。即ち土師氏にシンパ
シィを感じていたか。
K土師氏のルーツは高槻の方にある。
L高槻には服部連がいて、諸国の服部村を管轄していた。
M高槻は永井氏が長く治世を行っていた。永井氏の祖は土師氏。従って高槻
に居住させた理由もわかる。そして天満宮を尊崇していた。
N永井氏は、善地にも服部と交るように天満宮の周りに居住している。
O高槻の服部の祖を祀る神服神社の家紋は「丸に三つ柏」である。
P善地の服部の全部、そして永井の半数は「丸に三つ柏」である。
ということで、まだ太い糸は見えませんが、どうやら伊賀系ではないような
気がしてきました。服部中の系統の可能性もありやと思ったのですか・・・。
いずれにしても、少しずつ少しずつ過去の姿が見えてきているような気が
します。高槻へ行ったら、またもう少し何かが見つかるかも知れません・・・。
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月18日 01時52分18秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100457_31.html
全く関係無いのですが ここの17の川口氏の書き込み
久し振りに読み返したらなかなか面白かったです。
1番下に本日のわたくしのレスもあります。
尾張群書系図部集(続群書類従完成会発刊)を購入読んでいるところです。
それは尾張国の旧家に所蔵されている系図を主として編纂し、私見を試みたものとあります。
服部家が四家ほど記載されております。
1:服部氏(旧姓織田・赤見)弐羽郡大赤見(一宮市大赤見町)
2:服部氏・愛知郡石仏村(名古屋市昭和区石仏)御器所村に居住し、佐久間右衛門信盛に仕え、後浪人し、愛知郡石仏村に隠居する。
3:服部氏・愛知郡御器所村(名古屋市昭和区御器所)東脇城主
服部将監・佐久間大学に仕え、その子某(源左衛門)福島左衛門大夫正則に仕える。
4:服部氏・津島(服部小藤太裔孫)
小平太と小藤太は兄弟として書かれており、<参考>のところに菩提寺は龍吟山雲居寺(永享十二年(1440)八月、服部伊賀守家継法名蔵叟道珍庵主創建)とあります。
服部三郎右衛門のところには伊賀平内左衛門尉家長末裔、服部伊賀守家継(宗純)六世とあり、子の小平太のところには弟と称して津島坂口に隠居。
などとあります。その子孫冶郎兵衛(知多郡半田、小栗伯圭三男恒助)は大橋家の女と婚して服部家を再興する。その子孫は中島郡祖父江に居住する。
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月18日 02時01分29秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>服織神社は元々「天穂日命」を祀っていた(即ち出雲国造家系統である)。
諏訪大社と出雲大社はどなただったか某神さまで繋がった記憶です。
出雲から諏訪に来た、だったような
すっごく有名な神様です。
でも神代の話は名前がゴチャゴチャで思い出せないです。
簡単に見つかるはずです。
あの遠江の謎の本の図でも諏訪大社方向に伸びているので
ああ、やっぱり、と思ってました。
だから 諏訪大社系の松島氏が服織神社の神主さんでも全く不思議じゃないです。
今日は1日 朝8時から午後5時までオットの受診で出掛けるので 明日にでも調べますね。
[43] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月18日 15時47分33秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
こちらへのレスもご負担が大きいようでしたら、どうぞ御無理のないよう
お願いします。こちらはこちらで、「独り言」をささやきますので。
いよいよ、明後日に神服神社へ行ってまいります。宮司さんにもアポを取
りました。今のところ、求めている証左についての期待は余りしないように
と自分に言い聞かせております。逆にこちら側の「服織神社」についての説
明資料を届け、理解していただき、今後何か関連するような情報が出て来た
時に教えていただけるよう、チャンネルを築いておきたいと思っております。
今回は、神服神社、服部氏、服部村、継体天皇、土師氏、永井氏、天満宮
がテーマであります。
いずれにしましても、高槻の服部の地にまします古墳に眠る服部連をはじめ、関係するあまたの祖霊に対しまして、深く深く祈りを捧げてきたいと思
っております。今回は、線香・経典も持参したいと思っております・・・た
ぶん、そうすれば証左となる収穫はなくとも、心はスッキリ晴れやかになる
と思いますので。
一泊二日の旅になりますが、さてどんな旅になりますか・・・?
[44] | 川口 しんさんからのコメント(2015年02月18日 16時35分21秒 ) | パスワード |
私の名がでてきましたので、横は入り二号。
姫羅紗様御無沙汰いたしております。お元気でなにより、安心いたしました。
三つ柏紋の服部様、青様何時も楽しみにスレを拝読いたして、精力的なご活躍感心いたしております、羨ましいです、私の存じていることは、ほんの上っ面なのでコメントするほどのことは出来ませんが断片的に書き並べてみますと、尾張藩士の分限帳(士林泝・)より丸に三つ柏紋を使用している家々は深沢・西川・青野・浅岡・村尾・辰巳・片山・牧野(本名・岩瀬)でありますので縁戚関係はありませんか?
神社紋を使うよりも流としてスムーズ納得できるのですが。大洲藩の加藤家の家老は大橋家が代々廃藩になるまで、勤めていました、
B秀吉公が使えていた松下家にいた川口姓は四目結の家紋を使用、当川口家を同時代の旗本です。
先般尾張徳川家支藩の姫様が嫁いだ元皇族北白川家のご葬儀【北白川祥子様(享年98歳)がありました。皇族の方々が参列されるので、宮内庁がしきっていました。私もg御冥福を祈り玉串をささげてまいりました。
[45] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月18日 20時56分13秒 ) | パスワード |
川口しん様
レスありがとうございます。三つ柏服部です。川口様が松下家と関係して
いたということ初めて知り、感慨深く思います。私も当地にいる姉の嫁ぎ先
が松下で、家紋が「並び矢」でしたので、伊賀と関係すると思い、調べてい
ったら、気賀と大久保(志都呂、新居)の点と点が警護という一本の糸でつな
がり、松下忍者系と服部忍者系とがどうやらつながっていたらいと踏んでお
ります。清景・常慶兄弟の常慶系と服部中保次系がつながり、また松下之綱
の娘と柳生宗矩が夫婦でつながり、従って、松下忍者系と柳生隠密系がつな
がったというように今まで知らなかったことがどんどんつながり、ワクワク
する思いがいたしました。
我が系統の服部が何故「丸に三つ柏」か・・・神職に関係しているものと
今は八割方思うようになっています。そして永井家が親戚のように隣近所に
おり、半分は丸に三つ柏でありますので、何故永井氏がここにいるのかとい
う謎も解ければ、より一層ルーツの解明に近づくのかなあと思っています。
牧野氏も山内氏も島氏も葛西氏もそうですが、丸に三つ柏紋は意外と多く
使用されています。問題はどうつながるのかということ、そこが発見できれ
ば勝負ありなのですが・・・。
今後ともよろしくお願いいたします。
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月18日 22時28分04秒 ) | パスワード |
お待たせ致しました!
なんと松島氏は 熱田神宮系と諏訪神社系とりました。
ここでアップ。
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月18日 22時31分38秒 ) | パスワード |
その該当ページはコピーしてお送りしますね。
さて諏訪神社の例の神様ですが
建御名明方神さまです。
ここでアップ
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月18日 22時34分10秒 ) | パスワード |
建御名方神(たけみなかたのかみ)
日本神話に登場する神。
概要
『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神の御子神として登場する。『延喜式神名帳』などには南方刀美神の表記も見られる。長野県諏訪市の諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。
神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る。妃神は八坂刀売神とされている。
建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある。
伝承と信仰
日本建国神話
建御雷神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。この建御雷神と建御名方神の力くらべは古代における神事相撲からイメージされたものだと考えられている[1]。なお、この神話は『古事記』にのみ残されており、『日本書紀』には見えない。
諏訪大社
『諏訪大明神絵詞』などに残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある[2]。
各地の祭神として[編集]
長野県諏訪市の諏訪大社を始め、全国の諏訪神社に祀られている。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように軍神として知られ、また農耕神、狩猟神として信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられる。ただし、宗像(むなかた)と関連があるとする説[3]や、冶金、製鉄の神であるとする説もある[4][5]。
異説[編集]
建御名方神は様々な形で多くの信仰を受けているので、『古事記』に記された敗残する神という姿は、中臣鎌足を家祖とする藤原氏が鹿島神宮の祭祀に関する家の出であり、同神宮の祭神である建御雷神を氏神として篤く信仰していたため、藤原氏が氏神の武威を高めるために、建御名方神を貶めたという説もある[6]。
脚注[編集]
1.^ 戸部民夫 『日本神話 神々の壮麗なるドラマ』 新紀元社
2.^ 鈴鹿千代乃・西沢形一 『お諏訪さま 祭りと信仰』 勉誠出版(2004年5月10日)ISBN 4-585-05130-9
3.^ 西沢正史・緒方惟章 『現代語で読む歴史文学 古事記』 勉誠出版
4.^ 三橋健 『決定版 知れば知るほど面白い!神道の本』 西東社
5.^ 島崎晋 『イラスト版 読み出したら止まらない古事記』 PHP研究所
6.^ 戸部民夫 『八百万の神々 日本の神霊たちのプロフィール』 新紀元社
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諏訪大社(すわたいしゃ)
長野県の諏訪湖周辺4ヶ所にある神社。
式内社(名神大社)、
信濃国一宮。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
神紋は「梶の葉」。
全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社である。
旧称は諏訪神社。
通称として「お諏訪さま」・「諏訪大明神」等とも呼ばれる。
概要[編集]
諏訪盆地
中心に諏訪湖。湖の左下(南東)に上社、右上(北)に下社が鎮座する。
長野県中央の諏訪湖を挟んで、以下の二社四宮の境内が鎮座する。
上社 (かみしゃ) 本宮 (ほんみや)(長野県諏訪市中洲宮山)
前宮 (まえみや)(長野県茅野市宮川)
下社 (しもしゃ) 秋宮 (あきみや)(長野県諏訪郡下諏訪町武居)
春宮 (はるみや)(長野県諏訪郡下諏訪町下ノ原)
上社は諏訪湖南岸、下社は北岸に位置し遠く離れているため、実質的には別の神社となっている。なお「上社・下社」とあるが社格に序列はない。
創建の年代は不明だが、日本最古の神社の1つといわれるほど古くから存在する。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られる[1]。
社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木柱が立っているほか、社殿の配置にも独特の形を備えている。社殿は多数が重要文化財に指定されているほか、6年に一度(7年目に一度)催される御柱祭で知られる。
祭神[編集]
当社全体で祀る主祭神は以下の2柱(各宮の祭神については各項参照)。
両神とも上社・下社で祀られている。
建御名方神 (たけみなかたのかみ)
上社本宮祭神。『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主命の御子神として登場する。母は沼河比売(奴奈川姫)とされる。『先代旧事本紀』には建御名方神が信濃国諏方郡の諏方神社に鎮座すると明示されている[2]。
八坂刀売神 (やさかとめのかみ)
上社前宮・下社主祭神。建御名方神の妃。
なお、本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるという説もある[要出典]。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である[要出典]。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる[要出典]。
八幡神や住吉三神など他の信仰にも見られるように個々の祭神が意識される事は少なく、まとめて「諏訪大明神」・「諏訪神」として扱われる事が多い。
特徴[編集]
当社の社殿の周りには、御柱(おんばしら)と呼ぶ以下4本のモミの柱が立てられている。柱の樹皮は本来は剥がさなかったが、1986年頃以降剥がすようになった。
一之御柱 - 拝殿に向かって右手前(前宮・秋宮・春宮の場合。本宮は左手前)
二之御柱 - 向かって左手前(本宮:左奥)
三之御柱 - 向かって左奥(本宮:右奥)
四之御柱 - 向かって右奥(本宮:右手前)
前宮・秋宮・春宮では一之御柱・二之御柱は正面を向いているが、本宮では南方の守屋山の方向を向いている。諏訪地方では、大きい神社から小さい祠にいたるまで、当社にならってこの御柱を設ける社が多い。御柱の由来は明らかでなく古来より説があるが、今日では神霊降臨の依り代説、聖地標示説、社殿建て替え代用説が検討の余地を残している[3]。
諏訪大社の御柱は寅と申の年に建て替えられ(御柱祭)、全国の諏訪神社や関連社でも同様の祭(小宮祭)が行われる。『諏方大明神画詞』には平安時代初期の桓武天皇年間(781年-806年)に御柱祭実施の記載があり[4]、その頃にはすでに御柱が設けられていたとされる。
神体・宝殿[編集]
旧宝殿
(本宮近くの大国主命社)
当社には本殿が設けられていない。本宮は拝殿後背林(通称 御山)、秋宮はイチイの神木、春宮はスギの神木を神体とし、拝殿からそれらを拝する[5]。なお、前宮は古くは上社摂社であった関係で本殿を有している。
本宮・秋宮・春宮には、本殿がない代わりに2つの宝殿がある。宝殿の一方には神輿が納められ、寅と申の年の御柱祭で御柱建て替えと同時にもう一方へ遷座し、古い宝殿は建て替えられる。すなわち1つの宝殿は12年ごとに建て替えられ、神明造に似た古い様式を現在に伝えている。寅年から申年の間、神輿は向かって右の宝殿に納められる(申年から翌寅年は逆)。神輿の納められる宝殿は「神殿」と呼ばれて祭祀が行われ、もう一方は「権殿」と呼ばれる[6]。このように宝殿は一般の本殿にあたると解され、神社に本殿が設けられる過渡期の状態と考えられている。
そのほか、宝殿を含め当社の社殿は華美な装飾・塗装はなされず、全て素木造である。
歴史[編集]
概史[編集]
創建[編集]
『古事記』・『先代旧事本紀』では、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ったとされる。これに対して、大国主命の次男である建御名方命が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる[7]。説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれている。なお、この説話は『日本書紀』には記載されていない。
以上はあくまでも神話の域を出ないが、これを基に土着の勢力の上に外から入った神氏によって成立したのが当社であると考えられている[8]。諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは全国でも群を抜いており[9]、当地が繁栄していた様子がうかがわれる。
古代[編集]
祭祀が始まった時期は不詳。文献上は『日本書紀』の持統天皇5年(691年)8月に「信濃須波」の神を祀るというのが初見である[10]。
平安時代の『日本三代実録』には「建御名方富命神社」[11]、『左経記』には「須波社」と記載されている[12]。また『延喜式神名帳』では「信濃国諏訪郡 南方刀美神社二座 名神大」と記載され名神大社に列しているが、この二座が上社・下社を指すとされる[13]。また、信濃国の一宮とされた。
古くから軍神として崇敬され、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたと伝えられる。
中世[編集]
鎌倉時代には「諏訪社」の表記が見られ、また「上宮」・「上社」の記載もあり[14]、この頃には上社・下社に分けられていた。なお、治承4年(1180年)が上下社の区別が明示されている初見である[15]。他の神社同様、当社も神仏習合により上社・下社に神宮寺が設けられて別当寺(神社を管理する寺)となり、上社は普賢菩薩・下社は千手観音が本地仏とされた。
上社南方の御射山で行われた御射山祭には鎌倉を始め甲斐・信濃など周辺の武士が参加した[16]。それに加えて、軍神としての武士からの崇敬や諏訪氏の鎌倉・京都への出仕により、今日に見る諏訪信仰の全国への広まりが形成された[10]。また、諏訪両社においても大祝を中心として武士団化が進み、両社間で争いも多かった[13]。
戦国時代に甲斐国の武田氏と諏訪氏は同盟関係にあったが、天文11年には手切れとなり、武田信玄による諏訪侵攻が行われ、諏訪地方は武田領国化される。信玄によって永禄8年(1565年)から翌年にかけて上社・下社の祭祀の再興が図られた[17]。信玄からの崇敬は強く、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられる。
近世[編集]
江戸時代に入り、江戸幕府第3代将軍徳川家光によって上社に朱印1,000石・下社に500石が安堵された。また高島藩から上社50石(のち100石)・下社30石(のち60石)、会津藩主・保科正之から上社100石・下社50石が寄進された[10][17]。
近代以降[編集]
明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に列し「諏訪神社」を正式名称とした。その後、明治29年(1896年)に官幣中社、大正5年(1916年)に官幣大社と昇格した。
戦後は神社本庁の別表神社の一社となり、昭和23年(1948年)から他の諏訪神社と区別する必要等により「諏訪大社」の号が用いられている。
神階[編集]
建御名方神承和9年(842年)5月14日、無位勲八等から従五位下勲八等 (『続日本後紀』) - 表記は「南方刀美神」[18]
嘉祥3年(850年)10月15日、従五位上 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「御名方富命神」
仁寿元年(851年)10月27日、従三位 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「建御名方富命大神」
貞観元年(859年)1月27日、正三位勲八等から従二位勲八等 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命神」
貞観元年(859年)2月11日、正二位勲八等 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命神」
貞観9年(867年)3月11日、従一位勲八等 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命神」
寛平5年(893年)11月3日、正一位 - (『日本紀略』)[19]
八坂刀売神承和9年(842年)10月2日、無位から従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「健御名方富命前八坂刀売神」[18]
嘉祥3年(850年)10月15日、従五位上 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「健御名方富命前八坂刀売命神」
仁寿元年(851年)10月27日、従三位 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「前八坂刀売命大神」
貞観元年(859年)1月27日、正三位 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命前八坂刀売命神」
貞観元年(859年)2月11日、従二位 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命前八坂刀売命神」
貞観9年(867年)3月11日、正二位 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命前八坂刀自命神」
寛平5年(893年)11月3日、従一位 - (『日本紀略』)[19]
天慶年間(938年-946年)、正一位 - (『諏方大明神画詞』)[19]
神職[編集]
当社には、神体と同視される「大祝(おおほうり)」(= 現人神)のもと、五官の祝(ほうり)(神職)が置かれた。
上社大祝(おおほうり):諏訪氏(神氏)
祭神・建御名方神の後裔。古代から代々、上社の大祝を務めた。中世には大祝を中心として武士団化した。上諏訪の祭政の権を握っていたが室町時代に兵馬の惣領家・祭祀の大祝家に分かれ、のち惣領家に統一された[20]。江戸時代には諏訪藩を治めたが、諏訪頼忠の四男・頼広が大祝家として分かれ、藩主家と異なる「諏方」の字を用いて書き分けた。居館は神殿(ごうどの)(現 前宮)のち諏訪市中洲(位置)[21]。神長官(じんちょうかん)(古くは神長(かんのおさ)):守矢氏
上社五官の1つで筆頭。建御名方神の諏訪入りに抵抗したとされる洩矢神の後裔。上社の神事全般を掌握した。居館は茅野市宮川(位置)。禰宜大夫(ねぎだゆう):小出氏
上社五官の1つ。祭神の御子・八杵命の後裔。権祝(ごんのほうり):矢島氏
上社五官の1つ。祭神の御子・池生神の後裔。居館は諏訪市中洲神宮寺(位置)。擬祝(ぎのほうり)(まがいの-とも):小出氏のち伊藤氏
上社五官の1つ。副祝(そいのほうり)(そえの-・ふく-とも):守矢氏
上社五官の1つ。祭神の御子・方倉辺命の後裔。 下社大祝:金刺(かなさし)氏のち武居氏
科野国造の後裔。中世には大祝を中心として武士団化した。室町時代に金刺氏は上社との争いに敗れ他国へ去り、以後は武居祝から大祝が立てられた[17]。居館は下諏訪町上馬場のち下諏訪町武居。武居祝(たけいほうり)(竹居祝)
下社五官の1つで筆頭。禰宜太夫
下社五官の1つ。権祝
下社五官の1つ。擬祝
下社五官の1つ。副祝
下社五官の1つ。
その他の神職として、若宮祝・宮津子祝・神楽役検校大夫・天王祝などの祝、八乙女。荷子などが文献に見られている[17]。
なお、明治以降は神社本庁から神職が派遣されるようになり、上記の氏族の世襲は廃止され現在祭祀に関わっていない。
各社概要[編集]
上社[編集]
諏訪大社 上社
本宮 拝殿(重要文化財、上)と前宮 拝所(下)
所在地
本宮:長野県諏訪市中洲宮山1
前宮:長野県茅野市宮川2030
位置
本宮
北緯35度59分53.37秒
東経138度07分10.09秒
前宮
北緯35度59分28.08秒
東経138度08分00.28秒
主祭神
本宮:建御名方神
前宮:八坂刀売神
神体
本宮:御山(神体山)
本殿の様式
本宮:なし
例祭
4月15日(御頭祭、酉の祭)
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上社(かみしゃ)は、諏訪湖南岸、諏訪盆地の西南端にある。下社に対しては上流の位置にあたる。
本宮・前宮からなり、下社と異なり二宮は古くは本社・摂社という関係であった。御頭祭・蛙狩神事に見られるように狩猟民族的な性格を有している。
かつては本宮を主として上諏訪の中心地であったが、近世以後は北方の高島城城下町に移り、そちらに甲州街道の上諏訪宿も設けられた。
祭神[編集]
本宮:建御名方神 (たけみなかたのかみ)
前宮:八坂刀売神 (やさかとめのかみ)
本宮[編集]
本宮(ほんみや)は、赤石山脈北端の守屋山北麓に鎮座する。
社殿6棟が国の重要文化財に指定され、社叢は落葉樹からなる自然林で長野県の天然記念物に指定されている。
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四脚門(重要文化財)
慶長13年(1608年)、徳川家康が大久保長安に命じて建立させたもの。かつては大祝だけが最上段にある硯石へと登るために使った。現在は重要な祭事においてのみ開かれる
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前宮[編集]
前宮(まえみや)は、本宮の南東約2kmの地に鎮座する。諏訪の祭祀の発祥地とされる。境内には水眼(すいが)川が流れる。
当地には上社大祝の始祖とされる諏訪有員が初めて大祝に就いて以来、大祝の居館が設けられていた。大祝は神体と同視(= 現人神)されていたことから、その居館は「神殿(ごうどの)」と尊称され、周辺は「神原(ごうばら)」と呼ばれた。当地では代々の大祝職位式のほか多くの祭事が行われ、摂末社も多く置かれた。大祝は祭政両権を有したことから、当地は諏訪地方の政治の中心地であった。
のち諏訪氏は兵馬の惣領家と祭祀の大祝家とに分かれ、政治の中心地は惣領家の居城である上原城に移った。そして大祝の屋敷もまた慶長6年(1601年)に移転したが、祭事は引き続いて当地にて行われていた。
江戸時代までは「前宮社」として上社境外摂社筆頭の社格[22]を有して鎮座していたが、明治以降上社の前宮と定められた。上社の祭政一致時代の姿を色濃く残していることから、現在境内は「諏訪大社上社前宮神殿跡」として長野県の史跡に指定されている。
摂末社[編集]
本宮摂社 出早社
本宮摂社 大國主社本宮境内社摂社 出早(いづはや)社 祭神:出早雄(いづはやお)命(御子神)。例祭:10月15日
大國主社 祭神:大国主命(父神)。例祭:5月14日
末社 高島神社 祭神:諏訪頼忠公、諏訪頼水公、諏訪忠恒公(高島藩中興の3代)。例祭:9月23日(近年は8月12日に執行)
三十九所
摂末社遙拝所(本宮)
上社には上・中・下十三所ずつの計三十九所の摂末社が設けられていた。現在摂末社は上社で42社・下社で27社あり、明治以後独立した関係社を含めると計95社に及ぶ[23]。
本宮にはこれらの神々を遥拝する遥拝所があり、朝夕に遥拝が行われる。遥拝所は文政11年(1828年)造営。
三十九所は以下の通り[24]。
上十三所
1. 所政(とこまつ)社 (前宮)2. 前宮社 (前宮)3. 磯並(いそなみ)社 (茅野市宮川高部)4. 大年(おおとし)社 (茅野市ちの茅野町)5. 荒玉(あらたま)社 (前宮)6. 千野川(ちのがわ)社 (亀石社) (茅野市宮川西茅野)7. 若神子(わかみこ)社(若御子社) (前宮)8. 柏手(かしわで)社 (前宮)9. 葛井(くずい)社 (茅野市ちの上原)10. 溝上(みぞがみ)社 (前宮)11. 瀬(せ)社 (茅野市宮川高部)12. 玉尾社 (茅野市宮川高部)13. 穂股(ほまた)社 (茅野市宮川高部) 中十三所
1. 藤島社 (諏訪市中洲神宮寺)2. 内御玉殿(うちみたまでん) (前宮)3. 鶏冠(けいかん)社 (前宮)4. 酢蔵(すくら)社 (茅野市ちの横内)5. 習焼(ならやき)社 (諏訪市湖南)6. 御座石(ございし)社 (茅野市塚原)7. 御飯殿 (本宮)8. 相本社 (茅野市宮川高部)9. 若宮社 (諏訪市中洲神宮寺)10. 大四御庵(おおよつみいお) (富士見町御射山)11. 山御庵(やまみいお) (富士見町御射山)12. 御作久田(みさくだ)社 (不明)13. 闢尾(あきほ)社 (原村室内) 下十三所
1. 八剱(やつるぎ)社(八剣神社) (諏訪市小和田)2. 小坂(おさか)社 (岡谷市湊)3. 鷺宮(さぎのみや)社(先宮神社) (諏訪市大和)4. 荻宮 (諏訪市四賀上桑原)5. 達屋(たつや)社 (茅野市ちの横内)6. 酒室(さかむろ)社 (茅野市宮川酒室)7. 下馬(げば)社 (茅野市宮川高部)8. 御室(みむろ)社 (前宮)9. 御賀摩(おかま)社 (本宮)10. 磯並山神(いそやまがみ) (茅野市宮川高部)11. 武居会美酒 (諏訪市中洲神宮寺武居平)12. 神殿中部屋(ごうどのなかべや) (前宮→神宮寺)13. 長廊神社 (本宮)
その他[編集]
『上社古図』
上社の境内に関しては天正年間(1573年-1592年)に描かれたと伝えられる[25]『上社古図』があり、当時の様子がわかっている。絵図は現在は諏訪市博物館で保管され、神長官守矢史料館に模写版が展示されている。
上社神宮寺跡
元別当寺。社伝では空海の創建といわれ、本宮の周りに大坊・上ノ坊・下ノ坊・法華寺の上社4寺ほか多くの坊があった[26]。普賢堂・五重塔・二王門といった伽藍があったことが絵図からわかっている。なお、絵図に描かれる法花寺は法燈を現在に伝えている(現 法華寺)。
上社神宮寺跡
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なんと驚きの 守屋 が登場!
守屋山
赤石山脈北端の山で、本宮南方に位置する。古来から上社の神体山とされた[27]。
山名から物部守屋に関する伝承があり守屋を祀る守屋神社が南山麓(里宮)と山頂(奥宮)にあるほか、神長官の守矢氏との関係が指摘されている。
御小屋
上社の御柱を伐り出す御柱山。
下社[編集]
諏訪大社 下社
Suwa taisha akimiya04n4592.jpg
Suwa taisha harumiya07bs3200.jpg
秋宮(上)と春宮(下)の幣拝殿(ともに重要文化財)
所在地
秋宮:長野県諏訪郡下諏訪町5828
春宮:長野県諏訪郡下諏訪町193
位置
秋宮
北緯36度04分31.45秒
東経138度05分28.68秒
春宮
北緯36度04分55.45秒
東経138度04分55.60秒
主祭神
建御名方神
八坂刀売神
八重事代主神
神体
秋宮:イチイ(神木)
春宮:スギ(神木)
本殿の様式
なし
例祭
8月1日(御舟祭)
テンプレートを表示
下社(しもしゃ)は、諏訪湖北岸、諏訪盆地の北縁にある。上社に対しては下流の位置にあたる。
秋宮・春宮からなり、上社と異なり二宮の地位は同格で、御霊代(依り代)が2月と8月に両社間を遷座する。南側が開けており古くから農耕が盛んな地であり[28]、農耕民族的な性格を有している。
一帯は下諏訪の中心地で、近世には中山道・甲州街道の宿場町として下諏訪宿も設けられた。
祭神[編集]
建御名方神 (たけみなかたのかみ)
八坂刀売神 (やさかとめのかみ) - 主祭神
八重事代主神 (やえことしろぬしのかみ) - 合祀。建御名方神の兄神。国譲りの際にはすぐ服従したとされる[7]
秋宮[編集]
秋宮(あきみや)は、下諏訪の春宮の町の東端に鎮座する。東方には承知川が流れている。
毎年8月-翌1月に祭神が祀られている。境内は社殿4棟が国の重要文化財に指定されている。周辺は温泉の湧出地で、境内にも御神湯がある。社殿の形式は春宮と同じで、古くは秋宮・春宮間で建築の技が競われた[29]。
略
青塚古墳
下社秋宮近くに残る古墳で、かつては秋宮の境内地であった。諏訪地方では唯一の前方後円墳で、全長57m[30]。埋葬者と当社との関係は不明であるが、現在下社末社の青塚社が祀られている。
祭事[編集]
式年祭事[編集]
御柱祭諏訪大社式年造営御柱大祭 →御柱祭(おんばしらさい・みはしらさい)を参照
寅年と申年の6年ごと(7年目ごと)に、樅を山中から切り出し、各社殿の四方に建てて神木とする祭。諏訪大社の最も重要な祭である。御柱と同時に、宝殿の建て替えのため宝殿内の神器の遷座も行われる。
年間祭事[編集]
上社・下社[編集]
御神渡 (おみわたり) →諏訪湖#御神渡を参照
冬、諏訪湖の湖面に氷が張り、日中に氷の膨張によって亀裂が走る現象で、特に上社から下社の方向へ走るものに対していう。これは男の神が上社から女の神のいる下社へ通った跡とされ、神事が諏訪市の八剱神社の宮司によって執り行われる。なお、同様の現象は摩周湖等でも起きる。
上社[編集]
一覧
諏訪大社上社 年間祭事一覧[表示]
蛙狩神事
元日の朝に上社本宮で行われる神事。まず御手洗川の川底を掘り返し、蛙を捕らえる。その後拝殿正面にて矢を以てこの蛙を射抜き、生贄として神前に捧げ、宮司が祝詞を捧げ国家平安と五穀豊饒を祈願する。蛙を供えるのは、諏訪大社の本来の祭神が、蛇神とされるソソウ神や、諏訪地方ではソソウ神と同一視されやはり蛇神とされたミシャグジ神であったとされ、蛇神に捧げる(蛇は蛙が好物)意味があるとされる。2011年の神事直後から、地元の環境NGO団体から抗議をうけ、2013年には地元の環境NGO団体が撮影した動画と写真がネット上に掲載され、複数の動物愛護団体から動物虐待であるとして抗議を受けるようになり2015年に数々のメディアで報道される[31]。御頭祭
4月15日に上社で行われる祭。別名「酉の祭り」「大御立座神事(おおみたてまししんじ)」「大立増之御頭」と言われている。現在では、鹿や猪の頭の剥製が使われているが、江戸時代に菅江真澄の残した資料に、白い兎が松の棒で串刺しにされたものや鹿や猪の焼き皮と海草が串に刺さって飾られていたり、鹿の脳和え・生鹿・生兎・切兎・兎煎る・鹿の五臓などが供され、中世になると鹿の体全体が供され、それを「禽獣の高盛」と呼んだという内容が残っている。また諏訪大社七不思議の1つとして「耳裂鹿」というものがある。これは生贄の鹿の中で、必ず耳が大きく裂けた鹿がいるというものであるという。御射山祭 (みさやまさい)
上社の狩猟神事。中世には年4回八ヶ岳の裾野で巻き狩り祭を行い、御射山祭はその中で最も長く5日間続いた。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行なうことから「穂屋祭り」の名称もある。鎌倉時代に幕府の命で御射山祭の費用を信濃の豪族に交代負担することが決められ、参加する成年期の武士(と馬)はこの祭で獲物を射止めることで一人前の武士、成馬として認められたという。またこの祭の起こりとして、南北朝時代の神道集『諏訪大明神秋山祭のこと』では、 「平安時代初期、坂上田村麻呂が蝦夷征討のため信濃まで来た際、諏訪明神が一人の騎馬武者に化身して軍を先導し、蝦夷の首領悪事の高丸を射落としたので田村将軍がとどめを刺すことが出来た。将軍がこの神恩に報いるため悪事の高丸を討ち取った日を狩猟神事の日と定め、御射山祭の始めとなった。この縁日(旧暦7月27日)になると討ち取られた高丸の怨霊が嵐を起こすといわれる」という伝説を伝えている。現在はこの祭はずっと小規模になっている。
下社[編集]
上社に比べて史料が残っておらず不明な神事も多い[17]。
一覧
諏訪大社下社 年間祭事一覧[表示]
筒粥神事
1月14日の夜から1月15日の明け方にかけて下社春宮境内の筒粥殿にて行われる神事。葦筒を釜で一晩かけて炊き上げ、筒の中の状態でその年の農作物の収穫などを占う神事である。この占いの結果は地元メディアによって報道される。かつては上社でも行われていたが、現在の上社においては上社筒粥殿の遺構が境内に遺るのみである。犬追物 (江戸時代中期まで)
旧暦7月1日、下社遷座祭で遷座の行列がお宮に到着すると、馬場で犬追物の神事が行われた。江戸時代中期以降廃れる。御舟祭 (おふねまつり)
下社の例大祭で、8月1日に催される。神体を舟(柴舟)に乗せて春宮から秋宮へ遷座する祭。舟は南北朝時代に書かれた『諏訪大明神絵詞』には「鉾山」と書いてあり、江戸時代から「御舟」と呼ばれるようになったとされる。舟の上には翁、媼とみられる人形が乗せられる。なお、2月1日に開催される遷座祭は、秋宮から春宮への遷座であるが、あまり大きく行われない。諏訪地域は海から遠く、なぜ舟が出てくるのか不明である。「海の近くにいた神様が諏訪へ逃れた」という説や「健御名方神が妃神とともに諏訪の湖に舟を浮かべ周辺の作物の出来不出来を判じた」という説などがある。
文化財[編集]
重要文化財(国指定)[編集]
諏訪大社上社 6棟 - いずれも昭和58年指定 本宮幣殿
本宮拝殿
本宮左右片拝殿
本宮脇片拝殿
本宮四脚門
諏訪大社下社 7棟 - いずれも昭和58年指定 秋宮幣拝殿
秋宮左右片拝殿
秋宮神楽殿
春宮幣拝殿
春宮左右片拝殿
太刀(無銘) - 1960年盗難
太刀(銘 忠吉) - 1960年盗難
銅印(印文「賣神祝印(めがみほうりのいん)」) - 昭和9年指定[32]
長野県指定文化財[編集]
諏訪大社上社神宮寺五重塔鉄製伏鉢残闕 (有形文化財) - 諏訪市博物館所蔵。平成16年指定
青塚古墳 (史跡) - 昭和40年指定[33]
諏訪大社上社前宮神殿(ごうどの)跡 (史跡) - 昭和39年指定
上社社叢 (天然記念物) - 昭和39年指定
諏訪大社の御柱祭り (無形民俗文化財) - 平成6年指定[34]
諏訪大社上社十五夜祭奉納相撲 (無形民俗文化財)
その他[編集]
諏訪大社 諏訪市・茅野市・下諏訪町指定文化財一覧[表示]
現地情報[編集]
上社[編集]
所在地本宮:長野県諏訪市中洲宮山1
前宮:長野県茅野市宮川2030
付属施設上社本宮宝物殿 - 開館時間:午前9時-午後4時
交通アクセス
本宮まで
最寄駅:JR東日本中央本線 茅野駅 (3.4km) 徒歩:約45分
バス:諏訪バス(茅野駅-上社-大熊線)で、「神社前」バス停下車 - 平日のみ運行1日5便
JR東日本中央本線 上諏訪駅 (6.3km) バス 諏訪バス(有賀・上社統合路線)で、「上社」バス停下車 - 上諏訪駅から平日のみ1日8便
諏訪市営「かりんちゃんバス」(市内循環外回り線・内回り線)で、「神社前」バス停下車 - 外回り線は上諏訪駅から1日6便、内回り線は1日8便
諏訪市かりんちゃんバス(すわっこランド・上社有賀線)で、「諏訪市博物館」バス停下車 - 上諏訪駅から1日4便
前宮まで
最寄駅:JR東日本中央本線 茅野駅 (2.4km) 徒歩:約30分
バス:諏訪バス(茅野駅-上社-大熊線)で、「前宮前」バス停下車 - 茅野駅から平日のみ運行1日5便
周辺神長官守矢史料館
諏訪市博物館
法華寺 - 本宮に隣接。織田信長が甲州征伐後の論功行賞を行なった地で、その際明智光秀が辱めを受けたとされる
下社[編集]
所在地春宮:長野県諏訪郡下諏訪町193
秋宮:長野県諏訪郡下諏訪町5828
付属施設下社秋宮宝物殿 - 開館時間:午前10時-午後3時
交通アクセス
秋宮まで
最寄駅:JR東日本中央本線 下諏訪駅 (0.8km) 徒歩:約10分
バス:下諏訪町循環バス「あざみ号」(循環線、星が丘線、萩倉・樋橋線、星が丘経由萩倉・樋橋線)で、「諏訪大社秋宮前」バス停下車 - 下諏訪駅から終日計13便
春宮まで
最寄駅:JR東日本中央本線 下諏訪駅 (1.4km) 徒歩:約15分
バス 下諏訪町循環バス「あざみ号」(循環線)で、「諏訪大社春宮」バス停下車 - 下諏訪駅から終日4便
諏訪バス(岡谷-上諏訪-茅野線)で、「春宮大門」バス停下車 (下車後徒歩0.9km)
秋宮・春宮間
旧中山道を通って徒歩約15分
周辺下諏訪宿 - 中山道六十九次のうち29番目、甲州街道の江戸から数えて39番目で終点の宿場
万治の石仏
当社関係地[編集]
神野
原山とも。八ヶ岳西山麓の広大な原野。御狩神事が行われた。
脚注[編集]
注釈[編集]
1.^ a b 建御名方彦神別(たけみなかたひこがみわけ)命、伊豆早雄(いずはやお)命、妻科比売(つましなひめ)命、池生(いけのお)神、須波若彦(すわわかひこ)神、片倉辺(かたくらべ)命、蓼科(たてしな)神、八杵(やきね)命、内県(うちあがた)神、外県(そとあがた)神、大県(おおあがた)神、意岐萩(おきはぎ)命、妻岐萩(つまぎはぎ)命の13柱。
出典[編集]
1.^ 「大法輪」第72巻1号、大法輪閣、90頁、2005年。
2.^ 巻四 地祇本紀 地祇の系譜
3.^ 『国史大辞典』御柱祭項。
4.^ 御柱について(御柱祭公式サイト)。
5.^ 『諏訪大社』。
6.^ 『諏訪大社』「下社秋宮参道に沿って」節。
7.^ a b 古事記 上-5 葦原中国の平定(古事記全文検索)、巻三 天神本紀 大国主神を封じ祀る(現代語訳 『先代旧事本紀』 )参照。
8.^ 『長野県の地名』信濃国 古代項。
9.^ 『国史大辞典』諏訪郡項。
10.^ a b c 『長野県の地名』諏訪大社上社本宮項。
11.^ 『日本三代実録』貞観七年条。
12.^ 『左経記』寛仁二年条。
13.^ a b 『長野県の地名』諏訪郡節。
14.^ 『吾妻鏡』、『諸国一宮神名帳』、寛元4年(1246年)の『守矢文書』(以上『長野県の地名』諏訪大社上社本宮項)。
15.^ 『吾妻鏡』治承四年条(『長野県の地名』諏訪大社下社)。
16.^ 『国史大辞典』諏訪項。
17.^ a b c d e 『長野県の地名』諏訪大社下社項。
18.^ a b 六国史終了までの神階は「神道・神社史料集成」を参考に記載。
19.^ a b c 『諏訪市史』p708。
20.^ 『国史大辞典』諏訪氏項。
21.^ 大祝・五官の屋敷は『守矢史料館周辺ガイドブック』と諏訪大社上社の散歩道(個人サイト)を参考に記載。
22.^ a b 『長野県の地名』諏訪大社上社前宮神殿跡項。
23.^ a b 『諏訪大社』「上社本宮参道に沿って」節。
24.^ 『守矢史料館周辺ガイドブック』と諏訪大社上社上十三・中十三・下十三カ所一覧(個人サイト)を参考に記載。
25.^ 通説では江戸時代初期に描かれたとされる(天正のボロボロ絵図(個人サイト))。
26.^ 神宮寺跡の案内板。
27.^ 『長野県の地名』守屋山項。
28.^ 『長野県の地名』下諏訪町節。
29.^ 『諏訪大社』「下社春宮参道に沿って」節。
30.^ 『長野県の地名』青塚古墳項。
31.^ J-CASTニュース 2015/1/5
32.^ 売神祝ノ印(下諏訪町ホームページ)。
33.^ 青塚古墳(下諏訪町ホームページ)。
34.^ 諏訪大社の御柱祭り(下諏訪町ホームページ)。
35.^ 専女の欅(下諏訪町ホームページ)。
参考文献[編集]
原典[編集]
『諏方大明神画詞』 - 正平11年(延文11年、1356年)成立の諏訪大社縁起。全12巻。元は絵巻物であったが、絵は失われ詞書部分の写本のみが伝わっている。
書籍[編集]
『諏訪大社』(諏訪大社)
谷川健一編『日本の神々 -神社と聖地- 9 美濃 飛騨 信濃』(白水社)諏訪大社項
『神長官守矢史料館のしおり』(茅野市神長官守矢史料館)
『守矢史料館周辺ガイドブック』(茅野市神長官守矢史料館)
『日本歴史地名大系 長野県の地名』(平凡社)信濃国節、諏訪郡 各項、諏訪市 各項、茅野市 各項
『国史大辞典』(吉川弘文館)諏訪氏項、諏訪信仰項、諏訪大社項
関連項目[編集]
諏訪神社 - 当社から勧請された全国の諏訪神社
諏訪神党
諏訪大社七不思議
諏訪大社陸上競技大会
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月18日 22時54分40秒 ) | パスワード |
建御名方神
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%FA%B8%E6%CC%BE%CA%FD%BF%C0#keywordbody
オサダさんが〜〜〜!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E7%94%B0%E6%B0%8F
日本神話に登場する神。「古事記」の葦原中国平定の段において、大国主の子として登場する。
建御名方神は神氏の祖先とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある。
_____________________________
他田氏(おさだし)とは、日本の氏族のひとつで、神武天皇の皇子神八井耳命を祖とする多氏に属する古代氏族とされる。
概要[編集]
他田氏の祖は部民制における他田部の出で、部民制は7世紀に血縁に基づく氏族制へと変わっていくが、部称は氏族名に転化されて残り、奈良時代の神護景雲2年(768年)に爵2級を与えられた伊那郡の他田舎人千世売(おさだのとねり-ちよめ)や万葉集に防人の歌を残した小県郡の他田舎人大嶋(おさだのとねり-おおしま)など、主に信濃国を中心に他田を名乗る人物が記録に残されている。ただし、同じ「他田舎人」であっても祖先が「他田の宮に奉仕する舎人」だったということ以外は示しておらず、必ずしも血統的な同族と特定されるわけではない。
また、承平8年(938年)に東山道を京に向かう平貞盛と追撃してきた平将門の軍勢100騎とが信濃国分寺付近で戦った記録に、戦死者として信濃国小県郡の郡司他田真樹(おさだのまき)の名前が残されている。
後述する他田目古系統など、主に各地の郡衙などに勤める地方役人であったとされるが詳細はわかっていない。9世紀中頃より郡司の権限が国司に集約されるに従って、他田氏の記録も見られなくなっていく。
他田目古[編集]
有力な他田氏としては、他田目古の系統がある。多氏出身とされる科野国造家の後胤とされる金刺舎人直金弓(金刺氏)の子で、他田舎人部の伴造家となったことから他田舎人直となり、子孫は他田を名乗ることになる。したがって、目古の兄である金刺麻背を祖とする諏訪氏とは同祖の関係となる。
他田目古の子孫は、孫の老が従六位下伊那郡擬少領(「擬」は臨時の意味)に補されたことで主に南信濃に勢力を持ち、文治5年(1189年)の奥州合戦で勲功をあげた他田太郎重常を輩出している。また伊那の豪族で、江戸時代に柳間詰交代寄合(三千石)として家門を保った知久氏の祖も目古系統の他田氏とされている。
その他[編集]
祖が長田御厨の庄官を勤めたと伝えられる信濃国高井郡発祥の保科氏には「長田は他田に通じるもの」として他田氏出身とする説があり、「信濃史源考」では諏訪氏の庶流としていることから前述の他田目古の系統である可能性もある。
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月18日 22時56分30秒 ) | パスワード |
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/tate.htm
建御名方命と諏訪大社
學生社刊「日本の神社」シリーズの一冊に、三輪磐根著『諏訪大社』があります。この本は昭和53年出版と古いのですが、著者が当時の諏訪大社宮司の三輪磐根さんなので、多くの方が目にしていると思います。その中の〔御鎮座と諏訪大社の成立〕には、以下のように書かれています。
当社の御祭神については、古来いろいろと論議されているが、神社明細帳によれば、上社本宮と前宮はそれぞれ建御名方神と八坂刀売神、下社春宮と秋宮は建御名方神・八坂刀売神・八重事代主神とされている。
宮司でさえ「(明治に作られた)神社明細帳では」という言い方ですから、地元諏訪では「建御名方命(他)」を口にする人はいません。ことにお年寄りの前で建御名方命を口にすると、必ず「明神様」と言い返されてしまいます。御頭祭や御射山祭において、神輿で御渡するのも「諏訪明神」です。
一方、諏訪大社境内にある案内板を始め、“全国的”に「諏訪大社の祭神は、建御名方命・他二柱」を挙げています。神社の戸籍である『神社明細帳』に書かれていますから、当然のことでしょうか。
出雲での「建御名方命」の地位
「建御名方命」でサイト検索をすると、神楽(かぐら)の演目として表示することがあります。「国譲(くにゆずり)」に登場するのですが、建御名方命は、社中によっては命乞いをした情けない神として演じています。
出雲大社本殿の御柱
博物館で展示中だった、発掘された「出雲大社の御柱」
平成19年5月に、二度目となる出雲大社へ行ってきました。境内では丁度GWに併せた「出雲大社春季例大祭」とある「奉納神楽」の舞台が設えてありました。今日の出演は出雲大社教「神代神楽波積支部」とあります。
実は、県立博物館が「島根県立古代出雲歴史博物館」としてリニューアルオープンしたので、こちらの方が目当てでした。出雲大社の隣なので、開館前の時間を利用して参拝したというわけです。そんな流れでしたが、演目紹介に「国譲」があったので、地元では建御名方命をどのように演じているのかと見学することにしました。幸いにも昼の休演時間が長いので、それを開館記念特別展「神々の至宝」に当てることにしました。
まず、挨拶で神楽の解説がありました。「八衢(やちまた・天孫降臨)」と「塩祓」がいわゆる奉納神楽で、残りはストーリー性がある狂言神楽と紹介がありました。聞き違いと思った「終了が4時」ですが、よくも覚えられると感嘆するほど延々と舞うのが神楽です。また、最終演目がこれも気になる「八岐の大蛇」なので、覚悟を決めて今日一日江津市の神楽を鑑賞することにしました。
建御名方命と建御雷命の戦い 子供が演じる神楽も多く、この「国譲」も子供二人でした。写真のように、派手な衣装の建御雷命と建御名方命が戦います。
プログラムの演目を見ると、「国譲」の横に「【唄】国中の荒ぶる者を平らげし 鹿島香取の神ぞ貴き」とあるではありませんか。『古事記』そのままの展開で、香取神宮や鹿島神宮を褒め称えています。これでは、諏訪大社は堪ったものではありません。『日本書紀』や地元の『出雲國風土記』はどこへ行ったのでしょうか。ストーリー性があるから、面白おかしく取り上げたのに違いありません。
降参する建御名方命 建御名方命が写真のような姿で演じられているのを見ると、出雲では、現在も過去の屈辱を引きずっているように思えてきます。しかし、諏訪大社の氏子であっても、“出雲に入りては”従うしかないでしょう。
そうは言っても、一連の神楽は見応えがあり楽しいものでした。特に八岐大蛇は歌舞伎の要素もあり、大蛇四頭の揃い大見得には拍手喝采でした。
話が神楽の内容にそれてしまいましたが、これが、現在一般的に語られている諏訪大社の祭神「建御名方命」の姿でしょう。
上社本宮の成立と建御名方命
伊藤麟太朗著『新年内神事次第旧記釈義』に収録してある〔『年内神事次第旧記』と『画詞』〕から抜粋しました。
この二つの記録の性質は、前者は神長官の祭祀の備忘録として、前宮を中心として書かれたもの。後者は諏訪円忠が諏訪神社の御神徳を宣揚せんがため、本宮を中心として書いたものである。もう少し具体的に言うなれば、前宮は天皇族が日本を統一する以前に、固有日本人がまつった稲の神社で、神長官は専らこの神事を司ったのである。『画詞』は本宮を中心として書かれており、本宮とは朝廷が全国の神祇を朝廷系の神に統一するため、先住民族におし附けた人格神「南方刀美命命」神社である。前宮はいわば諏訪神社のかげの神社、本宮は諏訪神社のおもて向きの神社である。
両書の違いを解説した文ですが、本宮の根本を簡潔に言い表しているので転載してみました。このように、「前宮と本宮・ミシャグジと建御名方命」の関係を頭に入れた上で「建御名方命論」を展開しないと、(ネットでよく見られる)虚論になるのは必定です。
くだけた言い方をすれば、朝廷が“推薦”する祭神を受け入れたのは、古来からの重要な神事は前宮で済ませばこと足りるので、「評判がよくなくても(誰でも)かまわない」と踏んだことにあるのでしょう。
当時の情勢では、朝廷に逆らえれば元も子もなくします。そのため、“諏訪の魂ミシャグジ”を守るために、「前宮から離れた地に(朝廷向けの)建御名方命を祀る本宮を造営した」ということでしょう。
再び「諏訪の建御名方命」
ネットで検索すると、“本神”も驚いているのでは、と思えるほど多くの方が「建御名方命論」を展開しています。しかし、諏訪大社の地元である諏訪では建御名方命の存在感は透明に近く、諏訪大社上社も、祭神が『古事記』でこき下ろされていても、「建御名方って誰? ウチはミシャグジだよ!」と古来からの神事遂行に励んでいます。実際、大祝や神長官などの社家に残る文書には、ミシャグジはあっても「建御名方命」の名前はまったく出てきません。
ある本に、孤高を貫く(言うことを聞かない)諏訪神社の地位を失墜させるために、神界のトップが、建御名方命の「捏造した履歴」を八百万の神に“公示”したのが『古事記』とありました。正に、言い得て妙です。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月18日 22時59分30秒 ) | パスワード |
今から出掛けるので
また書きます。
うちのマンションのゴタゴタで先週からヒトハダ脱ぐことになってしまって
頭の中を空っぽにしたいのに
野暮用でグチャグチャ状態です。
ではでは後ほど。
あの部分は今日にでも郵送しますね。
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月19日 03時43分24秒 ) | パスワード |
たった今、一部、修整の上、投函致しました。
来週の初めに届くのではないかと思います。
松島氏が諏訪大社系と熱田神宮系にあったというのは驚きでした。
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月19日 03時56分54秒 ) | パスワード |
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page987.html
建御名方神は、古事記には書かれていますが、日本書紀には書いてありません。
日本書紀には書きたく無かったことは書いていません。
同様のことは、随分、書紀のあちこちに見られますから、すべて考察しますと、いろんなことが判ると思います。
重要なことですが、この部分は飛ばして、古事記からどのような神であったかを書いて見ます。
アマテラスは孫のニニギ命を高天原(ヒルゼン高原)から、倉吉の高千穂に降臨させるにあたって、
当地を治めている大国主神をやっつける必要があります。
そこで、部下を交渉に派遣します。
最初は天菩比神(あめのほひのかみ)を派遣します。
天菩比神は大国主神を気に入ったのか、国譲りを説得しないで戻ってもきませんでした。
次々に部下を派遣します。
この時に、命令した人の名前が、アマテラスが一人であったり、高御産巣日神が先に書いてあったりします。
ご自分で確かめてください。
高御産巣日神が先に書いてあった時は、アマテラスがいなかったのではないかと推察しています。
アマテラスはツキヨミと一緒に、福知山へ行き、丹後に降臨したニニギ命の兄の天火明命(あめのほあかりのみこと)が率いる漢人が南下するのを防いでいたのではないかと思っています。
アマテラスは、福知山とヒルゼン高原を行き来していたために、国譲りのときの表現が異なるのではないかと思われます。
アマテラスは単に、高天原が住みにくいだけでは、大国主神の支配地をほしかった理由に乏しいと思われます。
このような事をかんがえに入れて国譲りを眺めてみようと思います。
今回は、国譲りのときの建御名方神に絞って書いてみます。
アマテラスは、次々、部下を大国主神の元へ派遣しますが、最後に、建御雷神(たてみかづちのかみ)と天鳥船神を遣わします。
二人の使者は出雲国の伊那佐の小浜に降り立って、
「十掬剣をぬいて逆に浪の穂に刺し立てて」、交渉に入ったと書かれています。
剣を抜いたのですが、剣(暴力)は使わないという表現でしょうか?
二人の使者は、大国主神を前にして、突き刺した剣を前に座って、
「自分達はアマテラスと高木神の使いでやって来た。貴方が治めている葦原中国は、アマテラスの御子が治められる国だか、貴方はどのように思いますか」
大国主神は、この国はアマテラスが治める国ですと返事をします。
美保に遊びに行っていた息子のところに、
天鳥船神(鳥のように船を操ることの出来る人でしょうか)を使いに出して、
事代主神に問いますと、「天つ神の御子にしたがいます」と、事代主神はいい、
即座に、「その船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して???」隠れてしまったことになっています。
もう子供はいないのかと使者が尋ねますと、建御名方神がいますと返事をしているところへ、建御名方神が現われます。
その時の様子を、古事記は、次のように記しています。
「其建御名方神。千引石{敬手}手末而來。言誰來我國而。忍忍如此物言。然欲爲力競。故我先欲取其御手。故令取其御手者。即取成立氷。亦取成劍刄。故爾懼而退居。
爾欲取其建御名方神之手。乞歸而取者。如取若葦。?批而投離者。即逃去。故追往而。迫到科野國之洲羽海。將殺時。
建御名方神白。恐。莫殺我。除此地者。不行他處。亦不違我父大國主神之命。不違八重事代主神之言。
此葦原中國者。隨天神御子之命獻」
「其の建御名方神は、千引(チビキ)の石を手末(タナスエ)にささげ來て、「言誰か來我國に來て忍び忍びに此の如く物言(モノイウ) それなら、力競らべ欲爲(シタイ) そして、我が先きに其の御手を取りたい」と言いました。そこで、其の御手を取りますと、即(ス)ぐに取成立氷に取り成し、亦、取成劍刄に取り成しました。そこで、懼(オソ)れて退(シリゾ)き居りました。
すると、(今度は)其の建御名方神の手を取りたくなって、乞うて歸って取りますと、若葦を取る如く、?(ツカ)み批(ヒシ)ぎて投げ離しますと、即に、(建御名方神は)逃げ去りました。そこで、追うて往(イ)って、科野國(シナノコク)の洲羽海(スハノウミ)に迫(セ)め到たって、將(マサ)に殺ろそうとした時、建御名方神は言いました。「恐(カシコ)し。莫殺我を殺さないでください。此の地を地を除いては、他處へは行きません。
亦、我父の大國主神の命に不違(タガイマセン)。八重事代主神の言うことに不違。此葦原中國は、天つ神の御子の命の隨(マニマ)に獻ります」と。」
漢字ばかりの部分は、原文です。
次の部分はどなたかが訳されておられる中で意味が判りやすいものをお借りしました。
それでも、チンプンカンプンです。
「千引(チビキ)の石を手末(タナスエ)にささげ來て」とは、千人がかりで引っ張らないと動かないような石を手末?に引っさげてやって来ましたとなるでしょうか?
引っ張るだけでも大変な石を手に持つことなどできるわけがありませんが、持ってやって来たというほど、建御名方神は力もちであったと言うことでしょう。
その後の様子がよく判りません。
建御名方神は力くらべをいどんだ相手は、天尾羽張神の子供で建御雷神といいますが、
天尾羽張神はかって天の安の河の水を塞き止め、道を塞いだことのある人です。
その人の子供ですから、力は強く、どうやら刀剣にも強かったらしいです。
「其の御手を取りますと、即(ス)ぐに取成立氷に取り成し、亦、取成劍刄に取り成しました」とは、
どういうことか判りませんが、
相手の腕を掴んだら、軟らかい腕が氷のように冷たく、劍刄のように硬くなったということでしょうか?
この後もチンプンカンプンですが、建御雷神が建御名方神の腕をとるときには、若葦を取るようなものであった。
その後は、どうにか意味が判ります。
建御名方神は科野國(シナノコク)の洲羽海(スハノウミ)まで逃げましたが、現在の諏訪湖のところで、追いつかれます。
そして、次のように言って、命乞いをします。
「恐(カシコ)し。莫殺我を殺さないでください。此の地を除いては、他處へは行きません。亦、我父の大國主神の命に不違(タガイマセン)。八重事代主神の言うことに不違。此葦原中國は、天つ神の御子の命の隨(マニマ)に獻ります」と」
全く、実力の違う建御雷神と鳥のように移動できる天鳥船神に追いかけられれば、すぐに捕まえられる筈の建御名方神まで逃げることができました。
どうしてかと言いますと、「此の地を除いては、他處へは行きません」の言葉に鍵があります。
建御名方神は、出雲と諏訪湖の間を、常に行き来していたことになります。
建御名方神は諏訪湖にある諏訪大社に祭られています。
伯耆国と信濃国の間には、建御名方神を祭った諏訪神社が無数にあります。
ということは、この神社を支えている人は、何の気なしに建御名方神を祭っているはずがありません。
建御名方神となにか関連があったはずです。
このように考えると、建御名方神は、伯耆と信濃の間を行き来していたことになります。
そして、逃げるときには、こうした人々の支援があって本拠地である諏訪大社まで辿りつきましたが、追いつかれました。
絹?
↓
建御名方神は絹を運んでいたのです。
祭られている諏訪神社を結びますと、建御名方神が逃げたルートになるのではないでしょうか?
この絹の道は、アマテラスの手に入ったと思われますが、そうは簡単にいかなかったのではないでしょうか?
その後、絹取り合戦は、あちこちで繰り広げられますが、
奈良を手中に収めたニギハヤヒが、瀬戸内海を手に入れ、葦原中國も怪しくなってきます。
そこで、神武天皇が奈良の征服に乗り出すというシナリオになります。
成功し柏原宮を定めたのが、西暦元年一月一日です。
追記 この辺りのことは、古事記を読んだときに書いたものがあります。
「建御名方神の服従」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page507.html
以上
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月19日 04時26分57秒 ) | パスワード |
またもや「絹」が出て来ました。
絹が争点になっているということは機織りが行われていたということで
服部の原始形がこのアマテラスとか大国主の時代には存在したということですよね。
信濃で服部というと藤原氏だけど伊賀忍者のヒバリさんを思い出します。
http://gree.jp/hibari_g/blog/month/2010-04
信濃に麻績城とかありましたね。信濃は服部とは言わないのか、と。
山水元神社は丸に三つ柏紋です。
http://www.genbu.net/data/sinano/sansuimoto_title.htm
八幡神社も丸に三つ柏紋です。
http://www.genbu.net/data/sinano/hatiman_title.htm
途中でうんざりしてリタイアです。
ものスゴイ数の神社です。
でも梶紋ばっかりというわけでもなく三つ巴も頑張ってるし。
[58] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月19日 11時49分16秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
諏訪神社には5〜6年前に行ったことはありますが、歴史的な好奇心がま
だ低かったため、ただ見たでけであります。守屋山というのは、正に物部氏
の象徴でありますし、またアブラハムとモリヤといけにえを想起させます。
御頭祭(ミサクチ祭)等も旧約の世界へ誘っているかのようです。
従って、物部氏は旧約族の一員であるということをここで鼓舞している感
じがします。ということは、諏訪は物部氏族の国、即ち旧約の国だったとも
言えるのではないでしょうか。今後並行しながら調べてみたいと思います。
アマテラスと絹織物がどうつながるのか、わかる資料がありましたので、
次回記します(本日はJOB拘束日でありますので)。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月19日 14時03分26秒 ) | パスワード |
アマテラスと絹織物がどうつながるのか
ということで調べて来ました:
http://suzukey.com/QandA//view.php?question_id=14137502134
「古事記・上巻」の天照大御神軍とスサノヲノ命軍との戦いの時に、アマテラス側に「神御衣を織る天の服織り女」が出てきますが、その天の服織り女が織る神御衣は、絹織物だと思われるのです。天照大御神は絹織物の衣装を着ていたのです。
アマテラス大御神とスサノヲノ命の時代は弥生時代の紀元前1世紀頃と推定されるので、古代中国の揚子江河口域の人々が弥生人として稲作・金属器・絹織物を持って日本列島に来て「倭国」を作って行ったと考えられます。
_____________________________−
http://www1.ocn.ne.jp/~mueki/zui528-silk.htm
弥生時代の「絹」
趣旨は邪馬台国北九州説
萱島氏は文献に出てくる「絹」について次のように示された。
日本書記 国生み神話 神の体に蚕・桑や五穀が生じた
日本書記 天岩戸神話 アマテラスが機(はた)を織る家で神の衣を織っていた
古語拾遺 養蚕・機織(はたおり)の起源は神代に起こっていた
古語拾遺 アマテラスが天岩戸に籠ったときのお供え物の一つに神の衣「和妙(にぎたえ=絹布)」がある
日本書記 天孫降臨神話 造綿者(わたつくり)あり。(「綿」=「絹綿」)
古事記 ウミサチヤマサチ神話 敷物を敷いて歓待される。その敷物が「絹畳=絹製の敷物」
もちろん「魏志倭人伝」にも下記のような記載があると話される。
『倭人が養蚕・機織りをしていること。倭の女王卑弥呼が魏の皇帝に絹織物を献上したこと。魏の皇帝から絹織物を下賜されたこと』
邪馬台国時代、これだけの「絹」に関する記述があり、北部九州からこれだけの「絹」が出土している。
しかも近畿から出土するのは古墳時代になってからである。
これもまた東遷説を裏付けるものである。
これでは近畿説も、論争ができないので、知らんふりするしかなかろう。
「絹」に加え「鉄器」「魏晋鏡」などの出土状況、多くの文献をみれば、近畿説がいかに事実をねじ曲げているかが分かる。
今後、近畿説を「呆畿説」と呼ぶことにする。
そして「呆畿説」のバカ者がいたら、大いに「絹」の話をしよう。しかし、あまり挑発すると「呆畿説」どもは、今度は「伝世絹」などという笑い話を「ねつ造」するかもしれない。
[60] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月19日 15時20分52秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さすがあを様、絹織物が神代よりいかに政治の中枢に関与する神具・存在
であったかという今までにない考え方の地平線を広げてくれました。
古代にあっても絹は天皇の象徴、今生天皇の皇后様だけでなく、古代から
皇后さま達は蚕を育て、絹織物を管理していたようですね。
明日は旅烏になりますので、レスができないかも知れません。悪しからずご了承ください。
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月19日 22時52分12秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
お気をつけて高槻にいらっしゃいますように。
無理はなさいませんように。
車でいらっしゃるんでしたら毛布を2枚ぐらいトランクに入れて、いらっしゃいますように。
お寺はちょっと余分に見ていらっしゃいますように。
何か分かると良いですね。
神服神社の神主さんと良いお話ができますように!
とにかく風邪を引かないように無事に戻って来てくださいね。
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月20日 03時14分38秒 ) | パスワード |
以下コピペ
http://musuhi310.blog.fc2.com/blog-entry-43.html?sp
Fri 06/22 2012
幸せいっぱいいただいてます(^^)
昨日は、絹織物一反をいただきました。
アマテラスさまの御衣になる絹糸を紡ぎ毎年伊勢神宮へ奉献している神社なのですが(明治神宮・砥鹿神社・橿原神宮へも奉献)お祭りの準備ということでお手伝いに。
神宮司庁からアマテラスさまの掛け軸をいただいたことから始まった御縁なのですが、その後もここの神々から多大なお力をいただくことになり、通うことに(^^)
お掃除終わり、お土産にどうぞ・・・と、渡された絹織物。
着物が大好きで、たくさんの織物がいっぱいあるけど、もう全部処分したいから・・・もらってくれない?座布団カバー作ってもいいし、何作ってもいいよ・・・と仰りながら渡されました。
絹の神様が祀られている地からいただいた素敵な生地の絹織物で座布団カバー作ったら素敵ですよね(^^)
ところで・・・大人の着物を1着作るのに必要な和服地の量を、1反と言いますよね。
その1反の和服地を作るのには、繭がどのくらい必要なのか知ってますか?
桑の葉 98kg→ → →蚕 約2700頭→ → →繭 4.9kg(約2600粒)
→ → →生糸 900g→ → →絹織物一反
だそうです。
蚕飼ったことあるのですが、桑の葉を食べる姿はそれはそれはかわいいんですよ。
2700頭分の繭です。
御蚕さんに感謝しながら座布団に座らなくっちゃネ。
素敵な座布団想像するだけで幸せな気分(^^)
以上
布一反に 桑の葉っぱ 100kg?必要? これだけでスゴイ〜
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月20日 03時42分09秒 ) | パスワード |
知らないことに接するって面白くて止まりません。
http://bewithgods.com/hope/doc/4-10.html
アマテラスの謎
コピペ防止がついています。
アマテラスの謎というのはつまり アマテラスは女じゃなかった という話です。
だから天の岩戸の外で行われたストリップショーに興味津々でついつい戸を開けてしまった
というお話。
ま、ちょっといろいろ面白いことが書かれていました。
だいたい 国のアタマが女 というのは中国でも許さないし中東でも許さないし
なのに何故日本ではアマテラスとか卑弥呼とか、オトコの上に女が来るのか?
答えは政治というより宗教だから
ということになるんでしょうけど
女という立場でアマテラスを考えると
自分が引き籠って意地張ってるのに
外でみんなが楽しそうに騒いでいたら
女は余計に意地を張って外で何が起きているかを覗くなんてしないと思う
でも騒ぎが収まって誰もいなくなって自分1人が取り残されていると分かったら
そっと戸を開けて、宴の後の残骸を見て
余計に怒りが吹き上がると思う。
だから外で何をやって騒いでいるのか覗くっていうのはヤッパリ男の方の習性かな?
アマテラスがもしも外を覗いたとして
外でストリップなんかやってて、みんなが喜んでいたら
女は「アンタ達、何、やってんのよ!」と余計に怒ると思う。
だいたいアマテラスって結婚してないんでしょ?
こういうオールドミスってオトコの馬鹿さ加減って許せないと思うのよね。
スサノオにも腹が立つけど、世のオトコ達にも八つ当たりが飛ぶと思うんだけどね。
ということでアマテラスは「実はオトコだった」というお話に(なるほどね)と思った。
でもスサノオの投げつけた斑馬から馬子に飛ぶ話はやっぱり分からない。
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月20日 03時51分47秒 ) | パスワード |
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/awa/awa_05.html
超マジメ
【天岩戸立岩神社の御神紋】
[65] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月20日 03時54分11秒 ) | パスワード |
第41回
母国 根の堅州国
須佐之男命は,父のイザナギの大神に命じられた国を治めず泣き叫んだ。イザナギの大神に「何故,国を治めずに泣くのか?」とたずねられると「母の国 根の堅州国に行きたいから泣く」と須佐之男命は答える。
母の国とは,須佐之男命の母 イザナミが暮らし葬られた地である。つまりオノコロ島である舞中島周辺であり,埋葬地の高越山である。
では,根の堅州国とはどこだろうか? 川の中に砂や砂利でできた島を中洲という。そのことから考えると堅州は,岩盤でできた島のことである。徳島県阿波市岩津より上流は,写真のように川の中に岩盤でできた島が点在する。まぎれもない「母国 根の堅州国」であり,岩津上流である。
古事記は,読めば読むほどにつじつまが合う物語として書かれている。「根の堅州国」は,大国主命が兄達に追われて「須佐之男命のいる根堅州国に向かう」場面にも書かれる。
[66] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月20日 03時59分07秒 ) | パスワード |
お多賀さんが・・・
古事記に「伊邪那岐大神は,淡海(あふみ)の多賀に坐(いま)すなり」
と書かれている
と言ってるのに いやこれは阿波だ、と?
第42回
式内社 伊佐奈伎神社 (淡路島)
古事記に「伊邪那岐大神は,淡海(あふみ)の多賀に坐(いま)すなり。」と書かれ,イザナギの神は淡路島の多賀に祀られたと書かれている。解説本の多くは「淡海(あふみ)の多賀」を「近江の多賀」と読み,滋賀県の多賀大社にあてているが,平安時代(927年)に完成した延喜式神名帳には,全国の3,132座(2,861カ所)の神社のうちイザナギの名の付く神社は,下記の8社である。
伊佐那伎神社(島根県)
伊佐奈伎神社(淡路島)
伊射奈岐神社(奈良県)
伊射奈岐神社(奈良県)
伊射奈岐神社(奈良県)
伊射奈岐神社(福井県)
伊射奈岐神社(大阪府)
伊射奈岐宮 (伊勢)
見ていただくとわかるように「近江(滋賀県)の多賀」にはイザナギの名前の付いた神社はない。
多賀大社は,式内社だが,多荷神社が多賀神社になったのである。
古事記に書かれる「淡海(あふみ)の多賀」を多賀大社にあてるのは無理がある。
その上,まだ神武天皇が奈良に入ってない時のことであるから,近江まで話を広げるには,なお無理がある。
古事記 上巻の話は,阿波周辺の話である。式内社伊射奈美神社(日本一社)が徳島県の美馬郡にあることからも,阿波の別れの淡路島からイザナギ命がイザナミ命に会いに来て国生みが始まったのである。
[67] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月20日 04時03分48秒 ) | パスワード |
あとは略しました。
面白いです。
非常にまじめに古事記の世界を阿波国に当てています。
先月あたりから何度も出てる阿波の朝立彦神社
やっぱり関係があるのかなあと引き摺られます。
ここ数日のうちにアタマの中を空っぽにして遠江国の謎の本をちゃんと読みます。
[68] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月20日 06時02分01秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
出雲、倭、阿波、スサノオ、天照、神宮、持統、不比等・・・探究しますが
時間がかかりますね。少しずつまとめます。
では出発します―
[69] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月20日 06時15分58秒 ) | パスワード |
行ってらっしゃい!
お気をつけて。
たくさんのご報告を期待しています。
[70] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月20日 22時30分34秒 ) | パスワード |
古代史い詳しい友人の話:
出雲大社を古代には,蘇我神社と言ったらしいです。
すがすがしいの語源は,蘇我神社に参拝後の気持ちを,蘇我蘇我しいと言ったのが,
なまって清々しいになったそうです。
出雲大社は,スサノウ社と江戸時代まで言ったそうですけど,
スサノウは初代出雲の王で,ここに祭られているのは,
出雲最後の王、大国主命です。
しかも,東照宮で言ったら,相殿に当たる神様にタカムスビがいます。
タカムスビは,出雲を滅ぼした人物のようです。
つまり,スサノウと大国主が暴れ出さないように
と言う看守役がタカムスビでないかと思います。
日本書紀で,蘇我馬子が推古天皇に葛城を欲しいと言ったとき,
推古天皇が
「葛城は,卿の先祖の土地であるが,私の先祖の土地でもある。だから,葛城はだめだ。」
と言ったと日本書紀に書いてあります。
推古天皇と蘇我馬子は,親戚だったと思われます。
推古天皇も,蘇我氏の系列と言うか,蘇我氏の血筋だったと思われます。
神功皇后の項には,魏志倭人伝の3単語,卑弥呼,女王国,邪馬台国を抜いて
魏志倭人伝が,一字一句変えずに記してあります。
卑弥呼は神功皇后だったと言う説もありますけど,
私は天照大神が卑弥呼だと思っています。
それで,魏志倭人伝に書いてある宗女トヨが卑弥呼を殺して,邪馬台国を乗っ取り,東遷したものと思われます。
日本の神社ですが,先祖を祭って祟りを中和しようと言う思想が,古代からあったものと思われます。
[71] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月21日 22時11分05秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日午後6時45分、帰着。
休憩・食事・風呂を済ませ、ただ今9時00分、パソコン画面と対面してお
ります。
あを様の古代史の紹介、そして出雲、葛城、蘇我、卑弥呼、邪馬台国、天照
等の話ありがとうございます。
本日は高槻の視察より帰って来たばかりですが、実際に継体天皇の古墳と言
われる「今城塚古墳」と「巨大埴輪群」を見て、古代の天皇やあるいはそれに
匹敵するような王族を中心としたパワーがいかに大きかったかを、現物大で実
感してまいりましたので、今までとは違ったとらえ方ができるのではと自分自
身に期待しております。
それは正に目の覚める、想像を絶する世界でありました。古墳の大きさも、
一周するのに千メートル近くありましたし、古墳に登ってみて高さも二十メー
トル近くありそうでした。また埴輪も巨大で、巫女達、兵士たちにも訴えかけ
て来るものがあり、数の方も円筒埴輪等何千でありましたし、それはもう人間
業をはるかに越える世界だと思いました。秦の始皇帝の兵馬俑はもっとすごい
ものだとは思いますが、いずれにしてもはるか古代は、人力中心の世界でもあ
りましたし、何万人もの人を毎日そして何年も何十年も動かせるという力、統
率力、そして技術・設計力・計算力・・・どれをとっても想像をはるかに超え
るものだと思います・・・。
本日は、高槻で買って来た日本酒の味見と称して、やや杯が進んでしまいま
した。また疲れもあり、頭の中も興奮冷めやらずでありますので、ここで就眠
することにいたします。目覚めた後にまた再開させていただきます―。
[72] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月22日 03時01分46秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>実際に継体天皇の古墳と言われる「今城塚古墳」と「巨大埴輪群」を見て、
>古代の天皇やあるいはそれに匹敵するような王族を中心としたパワーがいかに大きかったかを、
>現物大で実感してまいりましたので、
>今までとは違ったとらえ方ができるのではと自分自身に期待しております。
はい
まさに一見は百聞にしかず
ですね。
>現物大で実感してまいりました
体感・体験、ですね
これは強力なショックですよね
>また埴輪も巨大で、巫女達、兵士たちにも訴えかけて来るものがあり、
>数の方も円筒埴輪等何千でありましたし、
>それはもう人間業をはるかに越える世界だと思いました
ネットで埴輪の大きさを知って驚きましたが
実物大ではないけど本当に大きいですよね
実際に身近で見たら圧倒されるんでしょうね
>秦の始皇帝の兵馬俑はもっとすごいものだとは思います
おお
なるほど!
埴輪って、そうか、秦の始皇帝の兵馬俑の真似なのか!
気付かなかったです。
ということは秦の始皇帝の方がもっと凄かった、比べ物にならない力を持っていた
ということになりますね。
>いずれにしてもはるか古代は、人力中心の世界でもありましたし、
>何万人もの人を毎日そして何年も何十年も動かせるという力、
>統率力、そして技術・設計力・計算力・・・
>どれをとっても想像をはるかに超えるものだと思います・・・。
やっぱり大陸から来た人達の力だったんでしょうね
そうか
帰化人の力は想像を絶するものだったんでしょうね
こういうのはやっぱり自分で 実際に 行って+見ないことには → ピンと来ないでしょうね
>目覚めた後にまた再開させていただきます―。
よろしくお願い致します。
それにしても大変でしたね。
日曜日はしっかり体を休めてください。
[73] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月22日 08時21分01秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
それでは、おはようございます。今7時20分。気温10.5℃。天気予報
では曇り後雨となっておりますが、今のところ雨は降っておりません。本日は
8時半には地方選がらみの用事で出かけますので、とりあえず旅の概要だけ位
になると思いますが、お伝えしたいと思います。
一昨日の朝6時15分に家を出て、茨木インターを降りたのが9時25分、
少し回り道をしながら高槻の神服神社に着いたのが10時頃でしたので、直線
的に言えば、片道3時間半、約300キロの行程でありました。10年位前に
は随分と京都に通ったものでしたが、最近は名古屋までが多く、やはり大垣ま
では何ともない距離ですが、そこから京都までが結構長く感じました。京都
から茨木まではアッという間の距離に感じました。
ということは、京都の文化圏にも入りますし、昔の北摂津ということで、
もちろん大阪の文化圏でもある。奈良にも近いし、昔の丹波・丹後・若狭(越
前)等日本海側ともつながっている。
また天王山を隔てて京都の表玄関にもあたるし、淀川の水運の内陸基地とし
ても重要な場所・・・即ちひっくるめていえば、要所―文明・文化・交通のス
クランブル交差点と言ってもいいかも知れません。
朝出かけるまでの時間が残り少なくなってきましたので、一番印象に残った
ことの内一つだけ、半分笑い話として聞いて下さい。
それは、「高槻は美人系が多い」ということです。
何故美人が多いのか・・・韓国のソウルにも美人系が多いと言われます。そ
れはどうしてかといえば、王族系が多かった(いわゆる、うりざね顔をしてい
る)ということだと思います。
ということは、高槻には王族系のDNAが色濃く残っているということだと
私は直感しました。
―ま、これはボケ親父のたわごとと一笑して下さって結構です。
・・・というのは、やはり秦氏とのつながりや渡来系の氏族のDNAかなと
思っています。その点についてはまた後で触れてみたいと思います・
ここで一旦切ります。
[74] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月22日 10時24分05秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
なるほどね
高槻には渡来系の身分の高い人達が来てて
そして
日本でも美人が結婚相手に選ばれて
美しさが培養された
ということですね。
それにしても浜松から高槻まで3時間半というのは さては ぶっ飛ばしたな。
ま、無事に行けて戻れたのですから、良かった。
では楽しみにしております。
[75] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月22日 20時43分24秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ただ今復帰いたしました。午後五時前であります。
今回の目的は―
@「神服神社」の宮司さんに会い、お話を伺う事。
A「服部連塚」に行って祈りを捧げること。
B今城塚古墳と埴輪を見ること。
C野見神社に行くこと。
の四つでありました。あまり欲張らず、たとえ成果がなくても落胆しないよう
にしようと言いきかせておりました。
さて、第一番目の最大の目的、神服神社の宮司さんに会うことですが、ほぼ
予定通りに、清水小学校の道を隔ててすぐ北側にある神服神社に難なく到着す
ることができました。まずは、写真を十枚ほど撮る。境内は結構広く、車もか
なりの台数置くこともできる。おばさんたちが数人、神社にお祈りを済ませて
社務所のような所へ入って行く。その内の一人に訊いてみた。
「すみません。ちょっとお訊きしますが、宮司さんはどちらにおられますで しょうか?」
「ああ、宮司さんならこの裏の自宅にいますよ。」
西側を覗くと立派な邸宅がありました。それではとそちらに向かい、インター
ホンにて、
「浜松の服部ですが・・・」と話しかける。あらかじめ電話をしてあったので、すぐにドアを開けてくれ、中に通されました。
お座敷で待つこと五分、宮司さん自らお茶を入れてくれました。
さっそく、本日来たいきさつを、持参した資料(長上郡の服織神社の1300
年祭の時の記念誌、及び神服神社に関するインターネットで入手したいくつか
の資料)の説明を交えながら話をいたしました。特に「丸に三つ柏」紋につい
て、神服神社さんと当方とが一致すること。また永井氏とは近隣として同根の
ような付き合いをしていること。天満宮が氏神としてあるということ云々・・
・。
宮司さんが言うには、インターネットに載せている位しか当神社の由来はわ
かっていませんいうか、資料が残っていません。と言いながらも、「参拝のし
おり」を奥から持って来てくれました。
それによると(少し長くなりますが)―
「当社は延喜式内の古社で、19代允恭天皇(西暦443年頃・仁徳天皇の第4
皇子)の御世に、この付近一帯に機織りが盛んであったところから地名を服部と
呼んでおりました。服部はもともと「機織部=はとりべ」からきたもので、機
織りを職とする部族の名前でした。服部連は允恭天皇から織部司に任命され、
国々の織部を総領したことにより「連」姓を賜り服部連(はとりのむらじ)と称
しておりました。その服部連の勧請により建立されたもので「服部神」と称し
ておりましたが、醍醐天皇(887〜930年)の延喜年間に「部」の字を削り、
上に「神」の字を加え、「神服神社」(かむはとりかみのやしろ)と改めました。
今では「しんふくじんじゃ」と音読みされるようになりました。
天正の頃(1573〜1591年)摂津領主荒木村重や、彼の家臣でキリシタ
ン大名であった高槻城主高山右近の兵火、戦乱により古文書その他の記録が散
逸し中世の沿革を知ることはできません。
御祭神は主神熯速日命(ひのはやひのみこと)に併せて麻羅宿根を祀っており
ましたが、後に素戔嗚命を配し三神をお祀りしております。何故素戔嗚命を合
祀したのかは熯速日命の祖神として祀りたるものか、また織田信長らが天照大
神、素戔嗚命を祀らない神社を破壊したためとか言われております。
その他、明治41年11月26日宮之川原の無格社春日神社(天児屋根命)、
同稲荷神社(宇賀御魂大神)を、また塚脇の上宮神社(服部連公)、浦堂の若宮神
社(天児屋根命)、大蔵司の神明神社(天照大神・豊受大神)を合祀しました。
当初、氏地は広く、清水村、芥川村、如是村大字津之江、同西五百住、阿武
野村大字氷室、同岡本、同苛川(いずれも旧称)に至りましたが、現在は宮之川
原、大蔵司、浦堂のほか安岡寺、松が丘、真上、寺谷、聖ヶ丘の一円になって
います。
境内敷地は1280坪あり、本殿は嘉永2年(1849年)から164年ぶり
に平成25年大規模修復工事を行いました。また屋根は昭和57年茅葺きより
現在の銅板葺きに改築されています。
神社正面の石鳥居は延宝6年(1678年)日照りが続き干ばつにみまわれた
時、村人あげて雨乞い祈願したところ七日後大雨に恵まれ、池の水も溢れるが
如く田の苗も潤い、御神徳を賜ったことに感謝し造営されたことが刻まれてい
ます。」
ということであります。
宮司さんとはそれ以上特別な掘り下げ話もなく、インターネットで入手した
資料で「神服神社から三河へ管理者が遣わされた」という話を逆にこちらから
させていただいた次第です。宮司さんの名前も珍しい名前でありまして、元来
の服部一族による神主とはすでに変わっているという。但し、その詳しい変遷
の事情はわからないということでありました。
神服神社のお守りを一つ購入し、本日のお礼を述べ、宮司さん宅を後にいた
しました。その間、約1時間でございました。一応、宮司さんとのコネクショ
ンもできましたので、これからも情報のやり取りをさせていただこうと思って
おります。神社は幕、屋根、瓦に「丸に三つ柏紋」のオンパレードでありまし
た。
[76] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月23日 01時42分46秒 ) | パスワード |
そろそろ XXVIII を立ててくださいね。
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/shaji/1327659158743.html
名称
野見神社(のみ じんじゃ)
所在地
高槻市野見町
電話番号
072-675-1316
交通
阪急高槻市駅から南へ徒歩約10分
備考
永井神社社殿・永井神社唐門は、平成17年6月14日に市の有形文化財に指定
野見神社は、野見宿弥(のみのすくね)とスサノオノミコトを祭神とし、もとは上宮天満宮付近にあった式内社・濃身(のみ)神社が移ってきたものとみられます。
9世紀の末、祭神のお告げにより疫病がおさまり、人々の信仰を集めたと伝えられています。
また戦国時代、高山右近が高槻城主のころ、神社が一時この地を追われたとされ、右近の父飛騨守が「もと神の堂ありし処」(フロイス『日本史』)に建てた高槻天主教会堂の推定地となっています。
江戸時代には城内随一の神社として「高槻城絵図」に記されています。
境内には、高槻藩永井家初代・永井直清(ながいなおきよ)をまつる永井神社があり、かつての高槻城の姿をしのばせる、絵馬(えま)が奉納されています。
ということは野見宿祢と永井家は過去に繋がりがあったということから、
なのかしら?
[77] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月23日 02時08分30秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>織田信長らが天照大神、素戔嗚命を祀らない神社を破壊したためとか言われております。
こんなことがあったのですか?
これは100%知らなかったです。
織田家は越前の神主の家の出だと聞いているので
神社は大切にしたのかしら?
意外でした。
越前といったら平家がらみ南朝方がらみですから
もともと信長は仏教嫌いだったのかしら?
ということは 物部系 子孫?
>宮司さんの名前も珍しい名前でありまして、
>元来の服部一族による神主とはすでに変わっているという。
>但し、その詳しい変遷の事情はわからないということでありました。
その宮司さんの父方の名字からの関係は分からなくても
宮司さんの母上の系統とかに、
神服神社や服部連関係者がいらっしゃるのかも。
宮司さんが御所に系図をお納めなさった時に神道組織には分かっていて
神服神社に回されたのかも。
1500年を超える年月、血と名と職を繋げるというのは大変なことだと思います。
戦国時代に摂津はキリシタンの勢力が強くて
高山右近などによって摂津内の神社が壊されて
貴重な資料も焼かれたのでしょうね。
「丸に三つ柏紋」の謎は
以前、お電話で問い合わせた時に分からない、とのことでしたよね。
えびすと関係あるんでしょうかねえ?
ヒルコ=えびす、とも?
いつから神紋になったのでしょうね?
でも良い訪問になりましたね。
[78] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月23日 02時28分40秒 ) | パスワード |
蚕の木嶋神社の神紋は雙葉葵でした。
残念
[79] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月23日 02時37分16秒 ) | パスワード |
閑話休題
友人から:
神武は,日向から手研耳尊と言う息子を連れてきています。
どうも長男のようです。
それで,ヤマトに入ってイスズヨリヒメと言うニギハヤヒの娘と結婚してもうけたのが2代天皇の綏靖天皇ですけど,
日本書紀の記述によると,
2代天皇は手研耳尊です。
日本書紀では,手研耳尊のことを「すでに年は長大,朝政の経験も長くあり云々」と書いてあります。
これを現代語に訳すと「すでに成人していて,政治の経験も多くあった云々。」です。
ところが,綏靖天皇は手研耳尊を殺して皇位につきました。
これは古事記には書いてありません。
最も,日本書紀では,暴君だったと手研耳尊を書き,綏靖天皇の行為を正当化していますがね。
皇位をたどったら神武に行きつくと言いますけど,それはそうですが,
神武以上にニギハヤヒの血筋が古代では重視されたと思います。
つまり,神武から綏靖は,男系男子でなく,女系男子継承だったと思います。
継体ですけど,
継体も父親は神武の血筋でなく,
母親が神武の血筋だったようです。
つまり,古代天皇は女系男子継承だったと思います。
古事記は,継体の両親のことは詳しく書いてありませんがね。
男系男子継承だったら,神武から手研耳尊の継承で文句が出るはずがありません。これは,女系継承だったので,ニギハヤヒの血を引いていないから,お家騒動が起きたとしか思えません。
古代天皇は神武でなくニギハヤヒに行きつくと言うことが重要だったと思います。
ニギハヤヒは大国主命だと言われています。
明日香一ノ宮の神社は飛鳥座神社(あすかにいますじんじゃ)ですけど,
ここにスサノオノミコトが祭られています。
因みに,五十鈴川ですけど,
イスズヨリヒメが産湯をつかった川のようです。
天皇は諡号を持っています。
古代天皇は,神武天皇が漢風諡号,ハツクニシラシメスノミコトが和風諡号です。
漢風諡号は平安時代の淡海三船と言う学者がつけましたので,
現存する日本書紀も古事記も漢風諡号がついてますので,
平安時代以降に書かれたものだと言うことがわかりますけど,
古代天皇で一人だけ和風諡号のない天皇がいます。
それが武烈天皇です。
暴君として有名ですけど,和風諡号がないと言うことは,天皇でなかった可能性もあります。
それで,架空天皇の一人になるのですけどね。
因みに淡海三船は,長屋王の孫にあたります。
[80] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月23日 11時09分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
野見神社内に永井神社があったのは発見でした(但し、自分が知らなかっ
ただけの話)。永井氏の「一の下に三つの丸が正三角形に並んでいる」家紋
(正式名は家に行けばわかります)が、軒下と鬼瓦に見られたと思いました
(カメラデータは家に帰れば確認できます)。
それよりも驚いたのは、十六菊家紋が堂々と表示されていたことです。こ
の点については、永井氏が皇室につながるとしても、そこまでしていいのか
と、少し探究する必要があると感じました。
また、野見宿弥と永井氏は土師氏のルーツでつながっていると思います。
神服神社の宮司さんはNさんといいますが、ずっと遡ると本庁の吉田神祇
官の統括を受けていたようです。織田は忌部神道・・・中臣・度会・吉田系
との関係もいろいろあったと思います。一度探究してみたいと思っています。
キリシタンの関係は外国にとっても国内にとっても想像以上の問題を抱え
ておりました。高山右近は大名として初めて洗礼を受けた人だと思います。
秀吉の禁止令もあって国外追放されたり、信者の磔刑があったりしたようです。高槻城址へ行く途中に右近の像が建っている教会がありました。ゴシッ
ク様式とイスラムのドーム屋根様式(?)がミックスしておりましたので、ち
ょっと不思議な感はありました。
古代天皇の優劣は、その母の出自によって決まるということ。家康の時代
でもそうでしたよね。おおもと(ルーツ)はニギハヤヒ(大国主)に行きつかな
ければ本物でないという暗黙のルールがあったのかも知れませんね。これも
探究したいと思います。賀茂氏もたどれば出雲に行きつく。すなわち大国主
に行きつくと思います。
長屋王の孫の話が出ましたが、私の豊橋の知人に長屋という姓の人がいま
す。長屋というのは珍しい名前ですので、何かつながりがあるのではと思っ
ています。
それから、宮司さんに聞いた話ですが、神社に付ける神紋ですが、製作依
頼した所が間違えたり、予算がなくて神社に汎用される「三つ巴」紋の瓦等
を使うこともあるということを聞きました。私が今まで調べた大野の服部神
社や榛原の服織田神社も、神紋は地元の氏子さん達に訊かなければ、本当の
ところはわからないということだと思いますので、今後は単に瓦だけて判断
しないようにしたいと思っております。
神服神社を後にして、向かったのは「服部連塚」。ここでハプニングが
起こり、その後紆余曲折が―。
続きはまた後で―
[81] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月23日 15時25分29秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部連塚には何としても行きたかった。神服神社からはまず北へ向かい、
そして西へ。「塚脇一号古墳」の看板が目に入る。右折する。20メートル
位進むと、先細りとなって行けそうにない。バックで戻る。と突然ガクガク
ガクと車輪がどこかへはまった音。前進にしてみる。スリップ音だけで動か
ない。ドアを開けて外に出た。前輪が見事に溝へ脱輪して車の右半分がみご
とにお辞儀をしている。ガーンと頭を小突かれた思いがしてうろたえた。
気を取り直し、レッカーを呼ぼうと車内の保険関係の封筒の中を探す。あ
った、困った時の連絡先があった。半信半疑であったが、連絡する。女性が
出た。そしてレッカーの手配をしてくれ、1時間後にレッカー車が来てくれ
た。
その間、車の周りでウロウロしていた訳でありますが、まずは男性が話か
けて来た。
「この先のもんやけど、車出したいんやけど、どないしたん! 何や落ち
とるんか?」
「はい、今レッカーを呼んだところです。すみません。」
「しゃあないな、それじゃ待つしかないな・・・。」
ていうことで、待ってくれるという。ホットした。
その内に近くで花壇の手入れをしていたおばさんがやって来て、
「大変やな。私もよくやるで。レッカー呼ばはった?」
「はい。40〜50分かかると思います。」
そのおばさんとは結構話がはずんだ。
おばさんから聞いたことを整理すると―
@遺跡といえば、「埋蔵物調査センター」が近くにあるので行ってみたら
どう。
Aこの辺に「服部」という苗字の家は一軒しかない。それもよそから来た
人である。
Bこの辺の遺跡といっても崩れてしまったりして見ることができない。
とのことであった。
その時、服部連塚のことを聞くのをうっかり忘れてしまった。というより
も、一号古墳が服部連塚そのものだと思い込んでいた訳でありました。
レッカー到着後、無事溝から脱出でき、サインをしお礼を述べ、一号古墳
へ向かうが、駐車場がない。しょうがないからまた戻って「美人の湯」の駐
車場へ入れさせてもらって徒歩で出直す。
お寺の庭に確かに古墳の石室部分の石組がむき出しになっている。お寺の
人に訊いてみる。連塚ではないという。
車にひき返すと、今度は「埋蔵物調査センター」へ向かう。そこにもむき
出しの石室石組みが一つ展示してあったのと、もうひとつ移設されかつ土盛
りまで再現された横穴式石室、それと弥生時代の再現された住居が正面玄関
の前にあった。
センターの中に入ると、古墳からの出土品がガラスケースの中に展示され
ていた。大きな石棺のレプリカもあった。二階に上がると、写真がたくさん
展示されている。外人もいた。学芸員と話をしている。どうやらキリスト教
関係者らしい。高山右近の時代の発掘されたロザリオか何かの話をしている
ようだ。
本もある。遺跡の調査資料が多い。一冊の本を買う。『高槻の史跡』とい
う本である。ついでに、服部連塚はどこにあるか訊いてみる。親切に地図を
コピーしてくれた。さらに脇塚古墳の小冊子もコピーしてくれた。ずいぶん
親切である。高槻はいい人が多いと思った。
次に摂津峡に行ってみることにした。山道は一方通行でどんどん登って行
かざるを得ない。登り切った所の正面は関西大学の玄関で守衛さんが立って
いた。結局は摂津峡は見ずじまい、埋蔵物調査センターでいただいた地図に
基づき、服部連塚に向かう。塚脇より元の方向へ戻る。唯徳寺というお寺の
隣を目指す。やや坂道を登り、細い道をヒヤヒヤしながら進んで行くと、お
寺の裏側に出た。駐車スペースが3台位あった。そこに車を止めると、時計
回りにお寺の正面に向かう。回り込んだ所に土盛り、即ち「服部連塚」があ
った! ようやくたどり着いた。感無量であった。
早速写真を何枚も撮り、塚の前で般若心経を唱える。塚の周り、そとて塚
の上にも木が生え、塚を包み込むように覆っている。
塚の上に登る。そして手を合わせ、目をつぶり、静かに識域下に心を集中
する・・・掌が沸くように熱くなった。寒さのせいかも知れない。でもよう
やく服部連に会えたのだとの想いで、心は充分に満たされた。
次回に続きます。姫沙羅さんに教えてもらった服部氏関連の墓を見に行き
ました。
[82] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月23日 22時57分19秒 ) | パスワード |
背筋がゾクゾクして、手もフリーズしています。脚も鳥肌立ってます。
後で。
[83] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月23日 23時37分17秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
一つ訂正します。永井神社の「16菊花紋」→「6弁花に12菊花紋」
正式には何と言うのでしょうか。
[84] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月24日 07時37分55秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>神社に付ける神紋ですが、
>製作依頼した所が間違えたり、予算がなくて神社に汎用される「三つ巴」紋の瓦等を使うこともある
>ということを聞きました。
こんな事があるんですか。
これは100%想定外でした。
だいたい昔の紋なんて分からないでしょうしね。
16弁菊紋ばかりは勝手に使わないでしょうけど。
「服部連塚」
大変でしたね。
でも行けて良かった。
手が熱くなったのはどうしてでしょうね?
とにかく無事に帰れて良かったです。
あ、帰路のお話はもっと後なのかしら?
姫沙羅さんに教えて頂いた服部氏関連の墓のお話も早く知りたいです。
[85] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月24日 10時00分23秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部連塚を後にして、次に向かったのは「上宮天満宮」であった。そこは
もうJR高槻駅に近い所である。ナビをたよりにその周りをグルグル回る。す
ぐ側なのに一方通行やら駐車場がない。三周位してあきらめた。今度来た時に
歩いて来ようと思った。近くに姫沙羅さんより御教示いただいたお寺―伊勢寺、
慈願寺、霊松寺があるのでそちらに向かう。
まず、服部氏の墓があるという伊勢寺へ行く。ここは曹洞宗のお寺で、伊勢
姫隠棲跡、能因法師奉安所と由緒書きにある。結構たくさんのお墓があった。
加賀山家の墓が目につく。有名な姓の墓もある。「柿本家」、「蜂須賀家」、
「芥川家」、「中井家」・・・。そして一段上がった所にあった! 「服部家」
の墓が! さっそく階段を登りその一角に行く。そこには服部一族の墓がおそ
らく10基以上はあっただろう。昔の墓標は紋も文字も読めない。服部家初代
の墓と2代目の墓の案内版が墓の側に建っている。初代は「貞良」、2代目は
「良長」と書いてある。家紋を見る・・・「源氏車に並び矢」である。源氏車
は五切(この表現?)である。伊賀の出身に違いない・・・考える・・・伊賀出
身の服部氏は意外と多い・・・伊賀から各地へ出て行ったと考えれば納得はい
く。たぶん塚脇に居るよそから来た服部氏というのも、伊賀方面出身かなあと
思った。ここには忍者系の人達も当然来ている。三好氏も忍者を使っている。
そういえば芥川という忍者もいた・・・ここには芥川が流れている。
続いて霊松寺へ行く。ここには三好義興公の墓石があった。そして案内板が
あり、三好長慶についての解説が書かれていた。墓の中で目についたのは、「
川井家」、「神鳥家」の墓標。前者は親近感を感じたこと。後者は「神服部」
を想起させた・・・「トリ」「ハトリ」という言葉には何か根源的な意味、秘
密があるような気がしてならない(神に通ずるような感じがする)。
[86] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月24日 14時02分13秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>服部連塚を後にして、次に向かったのは「上宮天満宮」であった。
>そこはもうJR高槻駅に近い所である。
>ナビをたよりにその周りをグルグル回る。
>すぐ側なのに一方通行やら駐車場がない。
>三周位してあきらめた
拒否されてますね。
出直して来い、とでも?
菅原道真?
神武日照命(たけひなてるのみこと)?
その父である土師氏の祖神である天穂日命?
野見宿禰命? 土師氏祖。
野見神社に行った足で来るな、とでも?
どうしたんでしょうね?
加賀山氏
現岡山県西部である備中松山藩にみられる。
近年、大阪府や愛媛県北宇和郡吉田町に多数みられる。
加宜国造、賀蛾国造、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)
三善氏などにもみられる。
ディエゴ加賀山隼人
1566(永禄9)年、加賀山隼人正輿長(かがやま はやとおきなが)は、
摂州国、伊丹隼人正朝明の長男として誕生しました。家族全員が熱心なキリシタンでした。
加賀山氏は元は伊丹氏と称し、代々摂津国伊丹の城をあずかっていました。
しかし、隼人の祖父にあたる伊丹次郎親興が荒木摂津守村重との確執に破れ、
摂津国の島上郡古曽部村に退隠したとき、そこに加賀山という山があり、姓を加賀山と改めました。
その地は、摂州芥川高槻で高山右近の領地でした。
隼人は10歳のとき、ルイス・フロイス神父から洗礼を受け、
イエズス会の同宿として安土のセミナリオで学びました。
隼人は、17歳のときに右近に仕官、山崎の合戦で初陣を飾りましたが、
1587年に右近は信仰の故に領地を失いルソンに流されました。
隼人は22歳でした。
隼人は、キリシタン大名であった奥州の蒲生氏郷に仕えることになりましたが、
蒲生氏も病死し、隼人は再び流浪の身となりました。
隼人はその人物才能を見込まれ、右近の友でもあった細川忠興に仕えることになりました。
彼は、しばしば戦功をあげ、その名を高めました。
小倉城
細川忠興は関ヶ原の合戦の功績により、豊前小倉に移封され、隼人も従い小倉に入りました。
1602(慶長7)年、忠興が中津から改築した小倉城に移るにあたって、隼人は豊前国下毛郡の奉行となり、
禄高は6千石に増加されました。
また隼人は、豪勇の武将であっただけでばく詠歌なども極めていました。
隼人は、グレゴリオ・デ・セスペデス神父と共に、豊前国内の布教に務めました。
城下に教会や集会所をつくり、多くの領民を洗礼に導きました。
忠興は、妻ガラシャのこともあり、最初はキリスト教に同情的で、保護の姿勢をとっていました。
しかし、1611(慶長16)年にグレゴリオ・デ・セスペデス神父が亡くなると、忠興は迫害する側に変わっていきました。
迫害によって、小倉の教会は破壊され、中津の教会も閉じられ、司祭は豊前を去りました。
1614(慶長19)年の幕府は禁教令を発布しました。
忠興は、江戸から小倉の家臣に書簡を送りキリシタンの検挙を強めました。
これによって、十字架や教会は壊され、宣教師たちの墓は崩され、キリシタンたちはつぎつぎと捕らえられ、ある者は転宗し、またある者は殺されていきました。
カトリック小倉教会に建てられた殉教碑
このとき隼人は、江戸城の普請のために細川藩担当部門の指揮者として江戸にいたため、迫害を免れました。
また、小倉に残っていた妻や娘たちも捕らえられませんでした。
大坂冬の役、夏の役で隼人は、忠興に従って出陣しました。
しかし、その後忠興は、信仰問題については一歩も譲らない隼人とその家族の財産を没収し、
一軒の田舎家に幽閉しました。
1619(元和5)年、京都の正面河原での大殉教を目撃した忠興は、
隼人を棄教させることができないことを悟り死刑を宣告しました。
10月15日、忠興からの使者が隼人のもとに遣わされました。
家族は、共に殉教することを願いしましたが、その願いはゆるされませんでした。
隼人は家族を、
「今日はわたしにとって一生で最も歓喜を以て祝うべき日だから悲しまないでくれ」
と諭しました。
隼人は、小舟に乗せられ小倉儒家から西に下った干上り(日明 ひあがり)の丘と言われる墓地に連行されました。
隼人は、刑場の丘まで詩編と連祷を唱え、刑場に着くと跪いて祈り、
「イエス、マリア」と唱えて静かに太刀を受けました。
遺体はキリシタンによって丁重に葬られました。
ディエゴ加賀山隼人は、享年54歳でした。
へえ〜
[87] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月24日 14時20分46秒 ) | パスワード |
復習(既出)
http://sokemuku.lolipop.jp/furusato_qing_shui_de_quno_li_shi/shen_fu_shen_sheto_ji_li.html
摂津国島上郡服部村 氏神 神服神社 その他
確かに「芥川」ってありますね。
>服部家初代の墓と2代目の墓の案内版が墓の側に建っている。
>初代は「貞良」、2代目は「良長」と書いてある。
>家紋を見る・・・「源氏車に並び矢」である。
>源氏車は五切(この表現?)である。 ← 桁 と思いましたが
>伊賀の出身に違いない・・・
服部貞良ですか?
伊賀の呉服明神の服部貞信関連なら納得しますが
服部貞信の祖父が 大膳貞長 です。
父は佐兵衛時貞
家紋は車輪竪二本矢 七本矢 矢の字桔梗
服部貞良は貞信のおじか従兄弟か、そんなところでしょうか?
「貞」という字から思いました。
[88] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月24日 14時26分39秒 ) | パスワード |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1047202515
Q
神鳥っていう名字の由来を教えてください!
神鳥っていう人の名前の由来を教えてください!!!
A1
神鳥 広島県安芸郡熊野町。備後国世羅郡下津田邑の豪族。
http://blog.goo.ne.jp/jinmeiryoku/c/214dd4419488580e64a1efa473ae624...
↑
こちらにこのような説明が出ていました。
苗字というものは地名に通ずるものが多いのです。(昔は権力者しか苗字を持っていなかったですから。)
*おたずねの趣旨は、「神鳥」の意味だと思いますが、これは推測するしかないのでは?
「神取」という同じ発音の苗字があります。
これだとシャーマンや祭事に携わる家系かなと想像します。
学問的な方法論から言えば、地名の起こりを研究するところから始めるのが正統なやり方と思われます。
とりあえず、少しでも参考になればと思いお知らせしました。
A2
神鳥姓の由来は、資料があまりないので推測になります。
1.神鳥という地名に由来する。
神鳥氏が「備後国世羅郡下津田邑の豪族」というのは、
神鳥姓が広島県に多く、下津田邑に神鳥という地名があることからの推測によるものと思います。
しかし、現在、旧下津田邑地域や付近も含め神鳥姓は無い。
神鳥姓は安芸郡熊野町に集中していて、旧安芸国ですので、たまたま地名に神鳥があっただけのように思います。
2.「かんどり」を漢字に変換すると、「梶取」「神取」「香取」が出てくると思います。
これらは元々「楫(舵)取」であって、当て字です。
楫取は船長・航海長・操舵手のことを意味します。
神鳥も当て字の1つと思われます。
梶(楫)取は古代豪族の物部氏の一族で、梶取・阿刀造の祖、天津麻良などと見えています。
物部族が各地に移住する際に、一員として船長の役割を負った一族でしょう。
神鳥姓が最も集中する広島県の熊野町の地は、
熊野本宮社(紀伊の熊野本宮大社を勧請したもの)が名称の由来とされます。
「熊野」も物部氏系。
熊野町に隣接して「阿土(あと)町」もありますが、阿土は、阿刀や跡部と同じでやはり物部氏関連。
この地域は、中世「阿土熊野保」と呼ばれていました。
熊野町域の南には、古代・中世に「安満(あま)郷」という地があり、
これは、古代「海人(あま)」の居住した地域。海関連ですから、当然これら集団の中にも楫取は居たでしょう。
[89] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月24日 14時32分11秒 ) | パスワード |
http://www.shitodomaekawa.com/
神鳥前川神社
しとど、って読む?
ビックリ
1187年創建
_______________________________
http://imakumanojinja.or.jp/gosinboku.html
熊野神社
熊野神社では 御神鳥 とは <八咫烏>のこと!
文字通りですね(笑)
熊野に係る神社は、摂社・末社を含めると全国に3,000以上あります。その御神鳥が八咫烏ですが、その姿形は神社によって異なります。右に記すのが当社の八咫烏です。咫(た)とは長さの単位で、親指と人差指を広げた長さ(約18cm)一咫と言います。しかし、ここでは単に「大きい」という意味に使われています。
[90] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月24日 14時39分55秒 ) | パスワード |
楫取って
「花燃ゆ」?
NHK大河の 小田村伊之助の後の名字ですよね。
楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)は、日本の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。通称は久米次郎または内蔵次郎。小田村家の養嗣となって小田村伊之助と改め、後に文助・素太郎といい、慶応3年(1867年)9月に藩命により、楫取素彦と改名[1]した。諱は希哲(ひさよし)、字は士毅、号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂など。
吉田松陰とは深い仲であり、また松陰の次妹の寿と結婚し、寿に先立たれた後に久坂玄瑞の未亡人であった末妹の美和子(文)と再婚している。最初の妻・寿との間に希家(小田村家を継ぐ)、道明(久坂家、のち楫取家を継ぐ。芝山巌事件で殺害された)の二男がいる。曾孫(希家の養孫、道明の外孫)に小田村四郎がいる。
文政12年3月15日(1829年4月18日)、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。兄に松島剛蔵、弟に小倉健作(松田謙三)がいる。小田村家の養子となるのは天保11年(1840年)で、その家は代々儒官であった。弘化元年(1844年)明倫館に入り、同4年(1847年)19歳で司典助役兼助講となる。22歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎・佐藤一斎に教えを受ける。
安政2年(1855年)4月、明倫館舎長書記兼講師見習となる。翌3年(1856年)2月相模出衛を命ぜられ、同4年(1857年)4月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃から松陰の教育事業は盛んになり、翌5年(1858年)11月の松下村塾閉鎖まで、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え、塾生とも相知ることとなる。松陰の激論を受け止め、相敬愛するところは、2人の交わりの特色である。松陰の投獄後には塾生指導の任に当たるも、国事に忙しくなり塾の世話ができなくなったが、明治以後に杉民治と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。
万延元年(1860年)山口講習堂及び三田尻越氏塾で教え、文久元年(1861年)以後はもっぱら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。元治元年(1864年)12月、藩の恭順派のために野山獄に投ぜられ、翌慶応元年(1865年)出獄する。5月には藩命により、当時太宰府滞在中の五卿(七卿落ちの7人から錦小路頼徳と澤宣嘉を除いた5人)を訪ねる。四境戦争の時は、広島へ出張の幕軍総督への正使宍戸璣(山縣半蔵)の副使となる。慶応3年(1867年)冬、長州藩兵上京の命を受け、諸隊参謀として出征する。公卿諸藩の間を周旋し、鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制するに至った。
維新後、いったん帰国して藩に出仕、明治5年(1872年)に足柄県参事となり、明治7年(1874年)に熊谷県権令、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定し、楫取は高崎の住民から反感を買っている。また「明治の三老農」の一人船津伝次平に駒場農学校へ奉職するよう勧めている。
1884年、元老院議官に転任する。その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任し、また貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられたこともあった。明治20年(1887年)男爵を授けられる。明治23年(1890年)10月20日、錦鶏間祗候となる[2]。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳歿。没後に正二位に追叙され、勲一等瑞宝章を追贈された[3]。
群馬で高崎と前橋の対立のもとを作ってしまった人。
今でも続いているとか。
[91] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月24日 20時29分27秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日、松島氏の資料届きました。ありがとうございます。熱田、諏訪双方
にまたがっているということ。伊那には松島古墳があるといいますので、信
濃から尾張へ移動したか・・・いずれにしても物部・尾張両氏にからむ証左
となります。
神服神社は、永禄11年(1568)に織田氏による兵火を被り焼失。
八幡神社は、天正 6年(1578)に高山氏による兵火を被り焼失。
八幡神社は中心部に近い斜面にあり、道も狭く、一方通行もあり、また正
面の入り口は交通量の多い道路に面しているため、車で登っていくのは不安
である。決して拒まれた訳ではありません・・・と思います。
いずれにしても、また本年中に行きたいと思っています。さらに足を伸ば
して河内王朝の古墳、とくに仁徳天皇陵も見たい。今城古墳の約3倍はある
といいます。とても人間業ではないと思いますが・・・。
ピラミッドは見ておりませんが、万里の長城は見ました。また登って歩き
ました。人間業を越えた土木技術、労働力・材料の調達等であったと思いま
す。
仁徳天皇陵はピラミッドを超える規模だと聞きますが、実際目で見て、体
で感じてみないとわかない・・・ですよね。
高槻における1日目は、大阪名物「てっちり」で「バッチリ」締めました。
2日目は、野見神社、永井神社、高槻城址をまわり、一路「今城塚古墳」
へ行きました。そこでは埴輪の大きさと種類とその行列の意味と、そして
前方後円墳の大きさとそれを取り巻く堀、そして円筒埴輪の数の多さ(何千
本かわからない?)に圧倒されました。
古墳の上に登ってやはり心を澄ませてみる・・・何のためにこんな労力を
かけてしかも何年もの月日をかけて作ったのか・・・どんな意味・謎が隠さ
れているのか・・・。埴輪の行列の中心人物は巫女さん達である・・・大嘗
祭を表現しているようだ・・・。悲しみの気配は感じられない・・・。
これらの古墳の意味するところは、今後の研究テーマとしたいと思います。
最後に、この古墳の隣に「今城塚古代歴史館」という素晴らしい歴史博物
があります。入場無料(古墳公園も入場無料でした)。高槻市はスゴイ!
そして、あを様ご指摘の例の物がありました! それは、ピ・ン・ク・の・
石・・・ピンク色の(熊本・阿蘇のピンク石、馬門石(まかどいし))の大きな
石棺がありました! 全く予期していなかったので、ビックリ仰天の驚きで
す。
レプリカではありますが、本物と同じ場所・同じ材質で掘られ、2か月
かけて手漕ぎの古代船(復元)で、九州から曳航されて来たものだという。
今城塚古墳3つの驚きと感動(1古墳 2.埴輪 3.ピンク色の石棺)でし
た。
まだまだたくさんお伝えしたいことがありますが、次回以降にいたしたい
と思います。
[92] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月24日 22時29分54秒 ) | パスワード |
>ピ・ン・ク・の・石・・・ピンク色の(熊本・阿蘇のピンク石、馬門石の大きな石棺がありました!
これは姫沙羅さんからの情報ですね。
最近は仁徳陵とは呼ばないんですってね。
大仙陵古墳
だったかな?
これを知った時には椅子から落ちそうに驚きました。
宮内庁はちゃんと調査をしてくれると良いのですが。
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)
大阪府堺市堺区大仙町にある前方後円墳。墳丘長は日本最大で、墓域面積は世界最大であるとされる。周囲の古墳と共に百舌鳥古墳群を構成している。
宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。一般には「仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」とも呼ばれる。
古墳の概要[編集]
築造時期・被葬者[編集]
採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたものと考えられている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。
治定について[編集]
『記紀』『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天皇の3陵が築造されたことになっている。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大きく矛盾が生じている。このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。しかし、この場合は後述する『延喜式』の記述と大きく食い違うことになる。
規模[編集]
当古墳の規模について、堺市の公式サイトでは以下の数値を公表している[2]。
古墳最大長:840メートル
古墳最大幅:654メートル
墳丘長:486メートル
墳丘基底部の面積:103,410平方メートル
後円部直径:249メートル
後円部高さ:35.8メートル
前方部幅:307メートル
前方部長さ:237メートル
前方部高さ:33.9メートル
墳丘長は、第2位とされる大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の425メートルを上回り、日本最大である。墳丘本体の体積や表面積では誉田御廟山古墳と甲乙付けがたく、特に体積については誉田御廟山古墳が最大であるとの指摘がある。
墳形・周濠[編集]
墳丘は3段からなっている。測量図では、前方部の一部は綺麗な三段になっているが、墳丘の大半の等高線に大きな乱れが観察され、地震などによる大規模な崩壊もしくは人為的破壊、あるいは未完成であったことが推測されている。後円部の頂上部分は崩壊が酷いが、もとは直径60〜70メートルの円形であったようである。
被葬者が葬られた後円部と前方部とが繋がるくびれ部には両側に突出した造出し(つくりだし)がある。この造出しの役割は、まだ解明されていない。
江戸時代の絵図『舳松領絵図 上』に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれており、また残存部以外でも農地の地割に濠の痕跡が認められるため、濠はもとは三重であったと考えられる。現在の三重目の濠は埋没部分を1896年(明治29年)に掘り直し、復元されたものである(『堺市史続編』)。この三重目の濠は、大古墳の周りに配置された陪塚(ばいちょう・ばいづか)の円墳に3カ所で突き当たり、それらを迂回している。内濠(一重目)の幅は約70メートル、くびれ部では最も広く東側で115メートル、西側で120メートルある。この内濠を囲むのが内堤である。ここに約30センチメートルの円筒埴輪の埋没が各所で確認されている。外濠(二重目)を囲んで外堤が造られていた。三重目の濠があるがその外側に堤がないのが不自然である。また、内側の外堤部も元々は一部が切れていたが、これも1896年(明治29年)の工事で補修され、現在の形になった。現在でも航空写真で後円部を上、前方部を下と見立てた際に左側の外堤が細くなっている。
外表施設[編集]
墳丘には葺石(ふきいし)と埴輪が存在している。特に三重目濠から出土した巫女形埴輪の頭部が著名である。また造出し近辺で宮内庁職員が須恵器の大甕を採集しており、本来は造出し上に置かれていたものである可能性が高い。埴輪の中には武人や馬などが多いが、中には円筒形をしたものがあり、これは結界を張って内部に人を入らせないようにしていたと考えられる。
埋葬施設[編集]
後円部に存在する埋葬施設は江戸時代には露呈しており、既に盗掘されているようである。江戸時代の1757年(宝暦7年)には、後円部の埋葬施設には長持型石棺が認められている。
前方部正面の中段にも竪穴式石室が築造されている。1872年(明治5年)には、風雨によって前方部前面の斜面が崩壊し、埋葬施設が露出している。その際の発掘調査で石室と石棺が掘り出されているが、この時の記録は関東大震災で焼失してしまっている。残された絵図面によれば、その埋葬施設は長持形石棺を納めた竪穴式石槨で、東西に長さ3.6〜3.9メートル、南北に幅2.4メートル。周りの壁は丸石(河原石)を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っている。その中に組合せの長持形石棺が納められ、下半分は埋もれたままである。
副葬品[編集]
後円部埋葬施設の副葬品は知られていないが、前方部の石室は1872年(明治5年)の発掘調査の際に、石棺の東側に「甲冑并硝子坏太刀金具ノ破裂等」が、石棺の北東に「金具存セザル鉄刀二十口斗」が発見されている。
甲冑は、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)と短甲で、冑には鋲留めにされた金銅製の小札(こざね)と鉢の胴巻きに円形の垂れ飾りを下げ、眉庇に透かし彫りが施された豪華なもの。甲(よろい)は金銅製の横矧板(よこはぎいた)が鋲留めにされている。また、右の前胴が開閉するように脇に2個の蝶番を付けられており、これらの組合せは、当時の流行を表したものである。
鉄刀二十口は、把(つか)や鞘には金属製の装具のない簡略な外装の刀、ガラス杯は、緑系のガラス壺と白ガラスの皿がセットになった品であったという。
なお、この調査では石棺の開封調査は行われていない。
ボストンの仁徳陵出土品[編集]
アメリカのボストン美術館に仁徳天皇陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵されている。これらの品は、1908年(明治41年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されている。
鏡は細線式獣帯鏡で、青龍、白虎、玄武、朱雀などの霊獣を文様とする立派なもので、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済の武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。又、この鏡は、百済王より七支刀と同時に奉られた七子鏡であるとする説もある。
刀は、刀身が折れて無くなっていて、長さ23センチの把(にぎり、柄)と環頭(柄尻)が残っている。環頭は鋳銅で形を作り、その上に金鍍金がしてあり、環の中央には竜の首を彫刻し、竜首を取り巻く環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は朝鮮半島南部の新羅や任那の古墳から出土している。
宮内庁書陵部の研究によると、これらの出土品は、ボストン美術館中国・日本美術部勤務であった岡倉天心により、1906年(明治39年)に京都で購入された可能性が高いという。また、実年代は「6世紀の第1四半期を中心とした時期」であり、古墳の築造時期とずれがあるという[3]。
陪塚[編集]
陪塚は「ばいづか」と読み、陪冢(ばいちょう)ともいう。陪塚は中型や小型合わせて15基あり、前方後円墳1基、帆立貝式古墳はその可能性も含めて5基、大きな円墳2基、円墳または方墳など小さな古墳7基、合わせて15基が陪塚的な位置にある。
西側から狐山、竜佐山(帆立貝式古墳)、孫太夫(帆立貝式古墳)、収塚(帆立貝式古墳推定)で、これら4古墳は大山古墳と同時期に築造された。前方部の南西端を北上すると直ぐ銅亀山(方墳か)、さらに北上し後円部の北方に丸保(防)山古墳(帆立貝式古墳)とその北に永山古墳(前方後円墳)があり、ともに周濠がある。丸保山古墳の南西にもう1基の帆立貝式古墳と南東に墳形不明の古墳がもう1基ある。後円部の長軸線上で外堤上に茶山古墳(直径約55m、円墳)、その東方で外堤上に大安寺山古墳(直径約60m、円墳)があり、陪塚に指定されているが、円墳では大規模な部類に入り検討すべき点が多いという。大安寺古墳の南東直ぐ近くに源衛門山古墳(直径約40m、円墳、周堀)がある。さらに三重目の濠に沿って南下すると塚周り古墳があり、また、南に円墳と方墳らしき古墳があったが、戦後の混乱期に復興のための土取工事で1950年(昭和25年)頃に消滅した。
史料上の記述[編集]
大仙陵古墳の復元模型(大阪府立近つ飛鳥博物館)
『記紀』の記述[編集]
『古事記』では、オオサザキ(仁徳天皇)は83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。『日本書紀』には、仁徳天皇は仁徳天皇87年(399年)正月に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。
延喜式[編集]
平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記述されている。なお、「兆域東西八町。南北八町。」という敷地が他の陵墓と比較すると群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が当古墳を指していることは間違いないと考えられる。「中陵」というのは、この古墳の北と南にも大古墳があるからで、北側は反正陵、南側は履中陵であると記されている。
堺鏡[編集]
『堺鏡』(1684年(貞享元年))には豊臣秀吉が当古墳でしばしば猟を行っていたと記されている。また『堺鏡』には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として信じられていた。そのため、尊皇思想の高揚にあわせて整備や管理強化がたびたび行われている。1685年(貞享2年)に後円部の盗掘坑が埋め戻されたことを手始めに、元禄の修陵(1698年(元禄11年))で後円部墳頂に柵を設置、享保の修陵時(1722年(享保7年))には一重濠と二重濠の間の堤に番人小屋を設置、1853年(嘉永6年)には後円部に設置されていた勤番所を堤に移転するとともに後円部の柵を石製に変更、1864年(元治元年)には文久の修陵の一環として前方部正面に拝所を造成している。また、この時に墳丘西側で途切れていた一重濠と二重濠の間の堤を接続させる工事が行われ、一重濠と二重濠が切り離されている。翌、1865年(慶応元年)には朝廷より勅使が参向し、現在へとつながる管理体制となった。次第に管理が強化されていったが、幕末までは後円部墳頂などを除き、古墳に自由に出入りすることが可能であったという。また、当古墳所在地である大鳥郡舳松村と北隣の中筋村は大仙陵池から耕地へ灌漑用水を引いていた。
明治時代[編集]
1872年(明治5年)の前方部斜面の崩壊により埋葬施設が露出したことを受けて、堺県令税所(さいしょ)篤等による緊急発掘が行われた。この時の調査は、古川躬行(堺の菅原神社の神官・国語学者)の執筆、柏木政規(諸陵寮の役人)の作図による『壬申十月大仙陵より現れし石棺の考へ 同図録』とその添図『明治壬申五月七日和泉国大島郡仁徳天皇御陵南登り口地崩出現ノ石棺并石郭ノ図』および甲冑の図としてまとめられた。ただし、この記録は関東大震災により大半が焼失したため発掘の過程や程度などの細部をうかがい知ることはできない。
名称の変遷と混乱[編集]
形状を現す大山・大仙、被葬者を表す仁徳、これに続けるものに学術的な古墳、陵墓としての陵・天皇陵・御陵・帝陵と多数の組み合わせが生じ、混乱している。また、併記する場合も多いため、より多種に渡ってしまっている。江戸時代の絵図等では「仁徳天皇陵」「大山陵」の表記が見られる。
主因は仁徳天皇の墓かどうかの論争にあり、1971年(昭和46年)以降「仁徳陵」の名称で呼ぶことが提唱された。しかし、これでは仁徳天皇の墓であることを否定したことにはならないため、1976年(昭和51年)以降[4]、より学術的な遺跡の命名法に則り「大仙陵古墳」の使用が始まった。
宮内庁は仁徳天皇の墓に比定しており、地図上では「仁徳天皇陵」が採用されている(かつては「仁徳帝陵」を採用したものが多かった)。また、国民的にも(近畿地方、中でも地元大阪府では、大仙古墳よりも仁徳天皇陵のほうが広く認知されている)国際的にも定着した名称を重んずる意見も多数あり、学術用語としては流動的でいまだに確定しておらず、いずれもが正式名称として使用可能である。
現在では、堺市が町名に大仙を採用したことから(大仙町、1929年(昭和4年)より)、大山よりも大仙が定着している。また、仁徳御陵・仁徳帝陵よりも仁徳天皇陵が定着しているが、堺市民の間では単に御陵と呼ばれることが多く、駅(御陵前停留場)、道路(御陵通)、町名(御陵通、1933年(昭和8年)より)などの名称にもなっている。
現状[編集]
仁徳天皇像(堺市・大仙公園)
歴史の教科書に「世界最大級の墳墓」として掲載され、宮内庁管理のため陵域内への自由な出入りはできないが、堺市の主要な観光地となっている。最も墳丘に近づけるのは正面の拝所で、二重濠の外側堰堤まで立ち入ることができる。2000年(平成12年)には特別参拝として二重濠の内側堰堤まで立ち入りが許されたことがある。しかし、濠に棲むナマズや鯉を狙った釣り人のゴムボートによる無断立ち入りが昔から後を断たず、警備上の問題点とされている。三重濠に沿って周遊路があり(1周約2,750メートル)、陵域を一周することもできるが、余りにも巨大な墳丘のため、どこから見ても山にしか見えない。
考古学的には仁徳天皇の陵であることに否定的な見解が唱えられているが、築造時期が5世紀前半〜中頃との見方が確定することによって、文献史学上で想定される仁徳天皇の活動時期に近づくとする見解もある。ただし、宮内庁が調査のための発掘を認めていない現状において、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能であることにより、現在では教科書などを含めて「仁徳天皇陵」との呼び名は用いられなくなっている。
堺市民は親しみを込めて「仁徳さん」もしくは「御陵さん」などと呼んでいる。堺市内には、他にも2つの天皇陵(履中天皇陵・反正天皇陵)があるが、単に「御陵」と言った場合は仁徳天皇陵を指す。また、堺市の地区名や町名には、陵西・陵南・向陵(北東)など、この古墳からの方角にちなんで付けられたものがある。堺市役所高層館21階の展望ロビーからは、巨大な前方後円墳の全容を遠望することができる。
他の古墳にも言えることだが、立ち入り制限のおかげで、都会の中心にありながら貴重な自然が残されていることも特徴である。鬱蒼とした木々が茂り、多くの鳥や昆虫の楽園となっている。
「世界遺産登録計画」[編集]
政令指定都市となった堺市では、大仙陵古墳を含む「百舌鳥古墳群」を、ユネスコの世界遺産に登録する計画が持ち上がっている。しかし、大仙陵古墳は皇室財産であり、登録条件である「当該国又は地方の法令による確実な保護管理を担保すること(日本では文化財保護法に基づく『国宝』や『特別史跡』、自然公園法に基づく国立公園など)」を満たしていない。この点については、宮内庁・文化庁・大阪府・堺市等関係機関が協議継続中である。歴史学や考古学の一部学会からは、世界遺産登録やその登録条件となる文化財指定が、宮内庁管理下の天皇陵古墳の公開や発掘調査に道を開くものとして歓迎する声がある一方で、皇室財産を文化財同様に扱うことへの反対運動も多い。
2008年(平成20年)9月26日 仁徳天皇陵を含む百舌鳥古墳群・古市古墳群が世界遺産の国内暫定リストに追加された。
交通アクセス[編集]
JR阪和線百舌鳥駅 徒歩5分 (前方部拝所までの時間)
JR阪和線・南海高野線 三国ヶ丘駅から徒歩3分 (後円部の淵までの時間)
参照[編集]
1.^ 古墳大きさランキング(日本全国版)(堺市ホームページ 2012年12月19日更新版)。
2.^ 仁徳天皇陵古墳百科(堺市ホームページ)2012年12月19日更新版。
3.^ 徳田誠司「米国ボストン美術館所蔵 所謂「伝仁徳天皇陵出土品」の調査」(『書陵部紀要』第62号〔陵墓編〕、宮内庁書陵部、2011)
4.^ 森浩一『巨大古墳』講談社学術文庫、2000年8月、39ページ
参考文献[編集]
中井 正弘 「仁徳陵 この巨大な謎」 1992年 創元社
「仁徳陵古墳-築造の時代」 1996年 大阪府立近つ飛鳥博物館
関連項目[編集]
誉田御廟山古墳(誉田山古墳、応神陵)
百舌鳥古墳群
堺市博物館
大仙公園
大阪府立近つ飛鳥博物館(大仙陵古墳の復元模型がある)
へえ〜
[93] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月25日 15時01分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
高槻での2日目は、今城塚古代歴史館で大満足いたしました。館内のボラン
ティアガイドの東藤さんや佐伯さんにいろいろご解説をしていただき、また
こちらからの質問に対し、適切なご回答をいただき、本当に感謝申し上げる
次第です(ありがとうございました)。
郷土の歴史を自信をもって語ることができるということは、素晴らしいこ
とであると思います。ましてやそれが国の歴史そのものであるということで
すから。
さてその中で、一つだけ異色な感じを受けたのが、中臣鎌足の古墳、阿武
山古墳についてであります。乙巳の変の首謀者、そして日本の歴史を改竄・
隠蔽することになる不比等の父親である。何で高槻にその古墳(墓)あるのか
というのが率直な大きな疑問、謎であります。『中臣鎌足と阿武山古墳』と
いう高槻市が70周年、中核市移行10年記念時に開いたシンポジウムの話
をとりまとめた小冊子を購入してきておりますので、読んでみたいと思って
おります。鎌足よりもその子といわれる不比等については、日本史のボトル
ネックでありますので何としても探究したいと思っています。
2日目は今城塚古墳関係で大満足しましたので、早めの昼食をして、京都
へ向かいました。目的は「東寺の弘法の市(毎月21日開催)」と西陣織会館
であります。弘法市では本当にたくさんの露店が出て楽しませてくれる。骨
董品の中から感性に触れるもの、即ち「恋人探し」はいつ行ってもワクワク
させてくれます。
今回は私の希望にかなった、また感性に訴える「掘り出し物」はなし。上
賀茂の「すぐき」を購入。伊勢の「日野菜」のぬか漬も購入。
最後に、西陣の織物会館に向かう。絹織物の資料、出版物があれば購入し
たいと思ったからである。
売店の女性に訊くも、ここに展示してある解説書しかありませんとの事。
しかたないので、織物に関して展示してある解説をすべて写真に撮った。西
陣は絹織物にとってどういう働きをする所だったのか、また秦氏、服部氏と
の関係はどうだったのかということも究明したいと思っています。
蚕に関する解説書があったので、1枚ものでありますがいただいてまいり
ました。その中で新たに発見したこともありますので、合わせて次回書いて
みます。
[94] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月25日 22時57分30秒 ) | パスワード |
>蚕に関する解説書があったので、1枚ものでありますがいただいてまいり
ました。
>その中で新たに発見したこともあります
どんな発見だったのでしょう?
楽しみです。
出掛けます。
[95] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月26日 13時42分06秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
西陣織会館でのビッグな発見―それは「黄金の絹糸」であった。
但し、それは実物ではなく、「群馬オリジナル蚕品種」というパンフレッ
トの中に「ぐんま黄金(こがね)」という品種から紡いだ金色の絹糸の束が、
写真と説明付きで載せられていたからわかったことであります。
写真を撮っていたら、係りの女性に注意され、「それは撮ってはいけませ
ん。」ということである。おこられるのはいい気分ではない。まるで泥棒を
したみたいな気分にさせられた。特許に関係するのか、それとも「新小石丸」
という皇室がらみの品種が合わせて載っていたからか・・・。太古、繭が門
外不出であったということを垣間見た思いであった。
黄金の絹糸は実際に存在したのです。金色の絹糸です。信じられないよう
ですが間違いありません。
また、銅鐸も、銅鏡も金色でピカピカに輝いていたのです。
金色は太陽を連想させます・・・。
東三河の犬頭神社の由来の一つに、繭を食べた犬が鼻からシルクを吹き出
しというおどろおどろしい話がありました。繭の中にサナギが入っているの
で犬は食べた(韓国ではサナギを煮て食べます)のだと思いますか、シルクが
唾液か胃液でほじけ、息とともに鼻から吹き出したのでしょう。
即ち、シルクは繊維部分とそれを包むニカワ質で成り立っています。繭を
煮てシルクを採るというのは、この接着性のニカワ質を溶かし、さらさらと
した繊維質だけにするということだったのです。ひょっとしたら、犬が食べ
てシルクを吐き出したのがヒントになったかも知れませんね?!
[96] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月26日 22時38分12秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
随分ケチな目に遭いましたね。
「デジカメではきれいに写りませんよ」と言って印刷した写真でもくれたら良いのいね。
蚕と繭のお話のコピペ:
餌用・食用[編集]
絹を取った後の蛹は熱で死んでいるが、日本の養蚕農家の多くは、鯉、鶏、豚などの飼料として利用した。現在でもそのままの形、もしくはさなぎ粉と呼ばれる粉末にして、魚の餌や釣り餌にすることが多い。
また、貴重なタンパク源として人の食用にされる例は多い。90年余り前の調査によると、日本の長野県や群馬県の一部では「どきょ」などと呼び、佃煮にして食用にしていたと報告されている[4]。現在でも、長野県ではスーパー等で佃煮として売られている。伊那地方では産卵後のメス成虫を「まゆこ」と呼び、これも佃煮にする。朝鮮半島では蚕の蛹の佃煮を「ポンテギ」と呼び、露天商が売るほか、缶詰でも売られている。中国では山東省、広東省、東北地方などで「蚕蛹」(ツァンヨン、cānyǒng)と呼んで素揚げ、煮付け、炒め物などにして食べる。ベトナムでは「nhộng tằm」(ニョンタム)と呼んで、煮付けにすることが多い。タイ王国でも、北部や北東部では素揚げにして食べる。
タンパク質を多く含み、飼育しやすいことから、長期滞在する宇宙ステーションでの食料としての利用も研究されており、粉末状にした上でクッキーに混ぜて焼き上げる、一度冷凍したものを半解凍する、などの方法が提案されている。今では言われなければわからないほど自然な形に加工できるようになっている。
また、蛹の脂肪分を絞り出したものを蛹油と呼ぶ。かつては食用油や、石鹸の原料として利用された。現在では主に養殖魚の餌として利用される。
他に、生きた幼虫をは虫類や両生類など昆虫食動物を飼育する際の餌として用いる。その分野ではシルクワームの名で呼ばれる。ミールワームやコオロギなどより栄養価が高く、また水分の多い素材として重視される。
冬虫夏草の培養・生産[編集]
蚕蛹に菌を接種したり植菌したりして、冬虫夏草(茸)を培養する原料として利用される場合もある。カイコ由来の冬虫夏草としては、島根県津和野町で生産されている津和野式冬虫夏草などが知られている。
薬用[編集]
また、昆虫病原糸状菌(白殭菌)に感染した蚕(白殭蚕)は死んでしまい、絹を取る事は出来ないが、漢方医学では癲癇や中風、あるいは傷薬として用いた方法が『医心方』などにあり、1919年の農商務省調査でも普通の蚕を含めて民間療法の薬として様々な病状の治療に用いられているとされている。白殭蚕を東京都南多摩郡や山梨県西山梨郡では、「おしらさま(御白様)」と呼んだ[5]。
実験動物[編集]
学術目的では変態やホルモンの生理学などのモデル生物として用いられる。飼育の歴史が長く生態・生理学上の知見が蓄積されており系統も豊富に確立されているためにモデル生物としての価値は高い。エクジソンはカイコを用いて単離された代表的な昆虫ホルモンである。また、教育課題としてカイコの幼虫の飼育や解剖観察を行うことも多い。
カイコを巡る伝説[編集]
日本[編集]
日本にカイコから糸を紡ぐ技術は、稲作などと相前後して伝わってきたと言われているが、古来においては様々な言い伝えがあり、日本神話が収められている『古事記』や『日本書紀』の中にもいくつかが収められている。
『古事記』上巻にて高天原を追放されたスサノオ(須佐之男命)が、食物神であるオオゲツヒメ(大気都比売神)に食物を求めたところ、オオゲツヒメは、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して差し出した。しかし、スサノオがその様子を覗き見て汚した食物を差し出したと思って、オオゲツヒメを殺してしまった。すると、オオゲツヒメの屍体から様々な食物の種などが生じた。頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生まれたという。
『日本書紀』神産みの第十一の一書にてツクヨミ(月夜見尊)がアマテラス(天照大神)の命令で葦原中国にいるウケモチ(保食神)という神を訪問したところ、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。ツクヨミは口から吐き出したものを食べさせられたと怒り、ウケモチを斬ってしまった。これを知ったアマテラスがウケモチの所にアメノクマヒト(天熊人)を遣わすと、ウケモチは既に死んでいた。ウケモチの屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ってアマテラスに献上した。
また、日本書紀における神産みの第二の一書にて火の神カグツチ(軻遇突智)を生んだために体を焼かれたイザナミ(伊弉冉)が亡くなる直前に生んだ土の神ハニヤマヒメ(埴山媛)は後にカグツチと結ばれてワクムスビ(稚産霊)を生むが、出産の際にワクムスビの頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀が生まれたという説話がある。
これらの神話はいずれも食物起源神話と関連している事から戦前の民俗学者である高木敏雄は、これは後世においてシナ(中国)の俗説に倣って改竄したものであり、植物から作られた幣帛を用いる日本の神道には関わりの無い事であり、削除しても良い位だと激しく非難している。だが、仮にこの説を採るとしても、『古事記』・『日本書紀』が編纂された7世紀の段階で養蚕が既に当時の日本国家にとって重要な産業になっているという事実までを否定する事は出来ないと言えよう。
なお、蚕は『古事記』下巻の仁徳天皇記に再び登場し、韓人(百済からの帰化人)奴理能美(ぬりのみ)が飼育していた「一度は這(は)う虫になり、一度は鼓になり、一度は飛ぶ鳥になる奇しい虫」(蚕)を皇后磐之媛命に献上する逸話が語られる。
三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。忌宮神社では毎年3月28日に、蚕種祭が行われ、1981年(昭和56年)から毎年、生糸つむぎと機織りの実演が披露されている。
中国[編集]
東晋時代の中国(4世紀)に書かれたとされる『捜神記』巻14には次のような話がある。
その昔、ある男が娘と飼い馬を置いて遠くに旅に出る事になった。しばらく経っても父親が帰ってこない事を心配した娘は馬に向かって冗談半分で「もし、お前が父上を連れて帰ったら、私はあなたのお嫁さんになりましょう」と言った。すると、馬は家を飛び出して父親を探し当てて連れ帰ってきた。ところが馬の様子がおかしい事に気付いた父親が娘に問いただしたところ事情を知って激怒し、馬をその場で射殺してしまった。その後、父親は馬の皮を剥いで毛皮にするために庭に放置して置いた。そんなある日、娘は庭で馬の皮を蹴りながら「動物の分際で人間を妻にしようなどと考えるから、このような目にあうのよ」と嘲笑した。すると、娘の足が馬の皮に癒着してそのまま皮全体で娘の全身を覆いつくした。身動きが取れなくなった娘は転倒してそのまま転がりだして姿を消してしまった。これを見た父親が必死に探したものの、数日後に見つけたときには馬の皮は中にいた娘ごと一匹の巨大なカイコに変化していたという(馬頭娘)。
この話をモチーフとしたと思われる伝説は日本国内にも伝わっており、柳田國男の『遠野物語』にもおしら様信仰にからんで類似した話が載せられている。
[97] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月27日 16時58分09秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日より、長上郡における「物部氏」と「秦氏」と「養産・絹織物」と
「服織神社」と「天穂日命」と「羽鳥庄」の関係の「筋」(歴史的一本の流
れ・つながり)をずっと調べております。
少し分かったこともありますので、一部紹介します。
@ 「羽鳥」というのは、どうやら「物部氏」と同族の「穂積氏」をルーツ
とする「鈴木氏」、「宇井氏」・・・そこから更に派生して「熊野」「土井」
「木原」「梅本」「羽鳥」という姓が発生しております。
そこから想像できるのは、長上郡の羽鳥庄は新熊野神社に荘園として寄贈
されております。即ち「熊野」―「鈴木」―「羽鳥」というつながりで地名
がつけられた可能性があるのではないかと、一つの推理をしております。
A もうひとつの観点として、東三河以東が「服部」村・庄・郷でなく「羽鳥」であるということ。物部氏出身の国造が三河・遠江・駿府・伊豆に派遣
されているということ。羽鳥との因果関係がよくわかりませんが、@の要因
がすべてにかかわっているかどうか。
また、「服部」と「羽鳥」の違いが、製品の種類・品質の違いなのか、織
部や織部司の地位の違いなのか、民の構成が秦氏系か物部氏系のちがいなの
か・・・もう少し探究を続けてみます。
本日は、一日拘束日。なおかつ、夜はアルコールを体内に摂取いたします。
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