[1] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月04日 07時56分42秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ダイダラボッチの解説の話、おもしろかったです。まだ結論には至っており
ませんね。ナガスネヒコというのは有力な説。三ヶ日の鵺もそうですが、とて
つもなく大げさにしてしまったのは、後世の人・・・たぶんシンパシィのある
民衆ではなかったのかと推測しますが、どうでしょう?
服部織物、何と何と西陣にあったとは無知でありました。私は西陣会館には
何回も見に行っておりますし、シンパシィを感じておりました。絹織物といえ
ば西陣であり、西陣を探究しようと思っていたやさきでありましたので、タイ
ミングがぴたりと一致しました。絹織物の歴史は西陣を研究すればいろいろわ
かってくるはず。「そうだ、京都に行こう!」・・・いずれにしても私にとっ
ても第二の故郷でありますので里帰りを近いうちにいたします。高槻の帰りに
ちょっと寄ってみたいと思います。ありがとうございました。また服部商店が
甲賀からというのが謎めいていいですね。探究したくなります。
それでは、これからとりあえず本坂峠(トンネル)を越えて豊橋→豊川へ向か
い、豊川市内で服織神社その他を見て、それから北上して新城あたりで野田城、
そして熱田宮司の領地「稲木」あたりをウロウロ探索いたします。では行って
まいります―
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月04日 22時42分55秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>とてつもなく大げさにしてしまったのは、後世の人・・・
>たぶんシンパシィのある民衆ではなかったのかと推測しますが、どうでしょう?
はい
三つ柏さんのおっしゃる通りと思います。
古代からの伝承が今に伝わっているんでしょうね。
理不尽にも征服者に虐殺された側の悲劇が民衆に語り継がれて来た
というのでしょうね。
それも「点」の(そこだけでの限定の)悲劇じゃなくて「線」に繋がってきた日本の歴史上の悲劇でしょうね。
自分の先祖の話が少しずつ見えて来ました。
饒速日とかナガスネヒコとか神武とか
そして日本武尊とか出雲とか熊襲とか
旧華族のおばさまが(徳川家16代将軍家グループじゃない方ね)
決して自分の家の話をしない、ヨソの家の噂話をしないというの本当に分かります。
先日も京都の友人が
「○○さまって、ご自分のお家のことを「歴史のお話は得意じゃないの」と避けていらっしゃって」
と言うので
(やんごとなきお家のお嬢様は、今の時代でもそういう表現で下品な庶民の好奇の目を避けるのね)
と感心していたところです。
徳川家16代目のお孫さんが困ってもじもじなさってたお姿を思い出します。
わたくしが先祖の話を聞かされて居心地が悪かったというのも同じだったのかなと。
先祖の悪口自慢をアッケラカンとやってのけられるオーストラリア人が微笑ましい。
ま、彼らも「うちの先祖は馬泥棒だった」というレベルで誤魔化しているのかも。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月04日 22時51分22秒 ) | パスワード |
三ヶ日の鵺のお話の復習:浜名氏の家紋は三つ巴だったんですねえ
下記で「八王子社」が出て来るのが(あら?)でした。
半蔵の采地が「八王子社」のあたりというのを思い出しました。
浜名氏「大福寺に田地等を寄進し、鵺代の八王子社に神田を寄進」
八王子社というのが気になって来ました
浜名氏
三ツ頭左巴
(清和源氏頼政流)
天野英夫氏から、『浜名史論』の中に掲載されている「大矢保家所蔵浜名氏系図」によると、「清和源氏浜名氏」の家紋は「三ツ頭左巴」であるとのご教示をいただきました。
浜名氏は、源平時代に以仁王を奉じて平家追討の兵を挙げ、敗れて討死した源三位頼政の子孫といわれる。頼政は「鵺退治」で有名な人物で、鵺を退治した恩賞として、遠江国堀之内六ヶ村を賜った。恩賞地は、鵺を退治して賜ったことから「鵺代」とも称された。その後、頼政の子孫の一人が現地に下向して、浜名氏を称するようになったとされる。一説に、平安時代鵺代を本拠として興起した猪鼻氏の系統を引くともいわれる。
頼政流の伝承によれば、浜名氏のはじめは頼政七代(四代とも)の孫頼氏といい、その子が鵺代二郎清政で、のちに左近大夫を称した。清政の代は南北朝の争乱期にあたり、清政は足利尊氏に加担したことで、一時、遠江を逃れるという事態となった。
その後、延元四年(1339)に遠江に帰還して千頭峯城の攻撃に参加し、千頭峯城が陥落し、さらに三嶽城、大平城などの南朝方の諸城が落ちたことで、従来の諸領を回復するとともに、勢力を大きく拡げた。そして、正平三年(1348)都筑の西方猪鼻湖岸の要害の地に佐久城を築き、鵺代より移り浜名氏の本拠とした。以後、現在の三ヶ日地方のほとんどを領し、一族を大谷・駒場・都筑・三ヶ日などに配して、湖北における大勢力となった。
浜名氏の登場
清政のあとは詮政が継ぎ、天授元年(1375)三月、将軍足利義満の石清水八幡宮参拝に供奉し、弘和元年(1381)正月の義満の白節会出仕にも供奉している。詮政が義満の近臣の一人として、厚い信頼を受けていたことがうかがわれる。詮政のあとは満政が継ぎ、そのあとは、持政が継いだ。いずれも将軍から一字を賜ったものと思われ、浜名氏が代々の足利将軍から信頼を寄せられていたことが知られる。
かくして、代々の浜名氏は足利幕府の奉公衆となり、京都にあって将軍の側近として活躍、また歴代歌人としても名声を得るなど栄華を誇った。
長享元年(1487)、将軍足利義尚が近江の六角高頼を親征したとき、政明が参陣し五番に着到している。その後、永正三年(1506)に今川氏親の客将伊勢長氏に属して、三河に入り松平長親の軍と戦っている。大永二年(1522)には、連歌師柴屋宗長の訪問を受け、佐久城において連歌の会を催している。
他方、大福寺に田地等を寄進し、鵺代の八王子社に神田を寄進、さらに金剛寺へな末代まで浜名氏一門の寺院たることを確約する書状を入れるなど、領内の社寺にもあつい保護を加えている。政明は浜名氏歴代のなかで、もっとも多くの事蹟が伝えられている人物である。
浜名氏は室町幕府の権勢が衰退していくとともに、遠江守護今川氏との関係を深めていった。そして、正国は今川義元に属して、永禄三年(1560)、義元の上洛軍に加わり、桶狭間において義元が織田信長の奇襲によって討死すると、軍を徹して帰国したと伝えられている。
以降浜名氏は今川氏とともに没落。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月04日 23時01分15秒 ) | パスワード |
>服部織物、何と何と西陣にあったとは無知でありました
はい
驚きでした。
今でも本職?の織物をなさっているというのが不思議です。
DNAなんでしょうか?
それにしても三つ柏さんはお近くにいらっしゃったのにサッパリ関心がいかなかった
というのも不思議ですね。
でも京都の大学というのが不思議ですね。
地理的に東京の大学の方が近かったんじゃありません?
と思います。
「向う」から誘われていたかも知れないのに
きっとキャッチできなかったんでしょうね。
甲賀の服部さん
それも2家見つけました。
ひょっとすると、もっと多くの家が織物を続けて来てたのかもですね。
いよいよ呉服明神の神職だった服部貞信がアヤシクなりました。
そして西陣の服部家は朝廷関係者の家に京都所司代の命を受けて情報収集もしてたのかしら?
と下品な庶民は思ってしまいました。
笑
[5] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月04日 23時26分26秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、豊川市・宝飯郡・新城市の主として神社を見て回りました。
奇跡的体験がありました! 点と点が結ばれました! 今感慨に浸ってお
ります・・・。
それはどういうことかと申しますと、あを様に以前ご報告いたしましたこ
と覚えておられますか? 豊橋市石巻にある権現山(私の勤務先が土地を所
有している。但し、全山ではない。)の古墳の話。
権現山一号墳と二号墳と呼ばれる。一号墳は古式前方後方墳。埋葬されて
いるのは、スサノオと推定。取り付け道路の改修で削った時(たぶん戦後か)
に、勾玉、めのう、剣、鏡、が出土。東京のブローカーに売られたという。
三笠の宮ご来臨の碑がある。
二号墳は古式方墳で、埋葬されているのは大国主命と推定される。出雲系
の古式方墳。
この二号墳については、私は5回くらい訪れている。大国主命は架空の話
であろうと思っていたので、口にはほとんど出さなかった。古墳の盛り上が
った頂上部に登って霊的なものを手の平や体で感じ取ろうとしたが、残念な
がら一度も感じられなかった。それでも来るたびにお祈りを捧げたものであ
った。古墳で拾った岩のかけらを大事にしまってある。
今回、豊川稲荷の北方5〜6キロ北方の「服織神社」をかわきりに、「犬
頭(けんとう)神社」、「砥鹿(とが)神社(里宮)」、「賀茂神社」、「本願寺」、
「籰繰(わくくり)神社、「野田城址」、そして最後に「本宮山砥鹿神社奥宮」
へ回った訳であります。現地でナビを見ながら、行きつ戻りつの感はありま
したが、最後に本宮山という標高789メートルの山にある砥鹿神社奥宮に
何故登ろうと決めたのかでありますが、それは賀茂神社の入り口付近からピ
ラミッドのようなというと正確ではありませんが、比叡山の頭みたいな山頂
を中心に、コウノトリが羽を広げて包み込むような稜線がシンメトリックに
なだらかに広がっているのを見た。何か感じるものがあった。あれは何とい
う山なのか、ということで、地図を調べると本宮山という山。そしてそこに
「砥鹿神社奥宮」があったのである。このあたりの平野部をやさしく守り抱
いているかのよう・・・。
今回訪れた砥鹿神社以外の話はまたにして、とにかく本宮山の話一本に絞
絞ります。頂上へと続くスカイラインを車で登り、駐車場に着く。ここの
門限は午後3時30分・・・早い。あと1時間しかないということで、赤い
鳥居の方向へ無意識的に動いて行く。「奥の院案内図」なるものがあったが、
とにかく前進・・・ということで坂を下りて行く。すると「岩戸神社」の看
板があった。ようするにこの坂の下にあるということだろうと、更に下る。
坂のどん突き付近は巨大な岩がむき出しになっている。そこに看板が・・・
「国見岩 昔、大己貴命がこの岩山に神霊を留め、この岩上から国見をして
”穂の国”を造ったといわれる。」と書いてある。大己貴命とは大国主命の
ことであることは学習して知っていた。信じられない驚きであった。何でこ
んな所に大国主が―といぶかしげに思いながらも、そこにあるコンクリート
製の柱で囲まれ「霊峰本宮山 天の磐座(国見岩)」と書かれた看板のある岩
のフェンスにつかまりながら前へ出る。すぐ下は崖であるので気を付けなが
らである。フェンスの切れ間より中に入る。そこから磐座に登ろうと思った
が滑って危ない。ではと、内側を戻りつつ道側から登る。今度はたやすく登
れた。磐座の上からは、素晴らしい景色が広がる―遠くは三河湾、そして島
が二三浮かび、左手から半島がせり出してきて突端に灯台が見える。眼下は
平野部の村落が広がっている。
まぶしい世界であった。私はそこで大きく深呼吸し大国主がここに立って
いるというイメージと自分が立っているというイメージをオーバーラップさ
せた。そしてあの権現山古墳の上に立った時のことを心に浮かべ、大国主を
想い、静かに祈りを捧げた。感動が湧いて来て肌が震えた。鳥になって空を
飛べそうな感じであった。この感動は人生の中でも一回切りのことであろう。
千八百年の時を越えてである。出雲、大国主・・・古代をもう一度よく勉強
し直し、また近いうちに来ますと心に誓った。今度来る時は、権現山の古墳
の石を持って来て国見岩の上に祀ります・・・。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月05日 02時13分32秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>権現山一号墳と二号墳
覚えています。
>一号墳
古式前方後方墳。
埋葬されているのは、スサノオと推定。
>二号墳
出雲系古式方墳
埋葬されているのは大国主命と推定される。
もはや神話とばかりは思えなくなって来ています。
神話に籠められた事実があった、ということですね。
>「霊峰本宮山 天の磐座(国見岩)」
>国見岩 昔、大己貴命がこの岩山に神霊を留め、この岩上から国見をして”穂の国”を造ったといわれる
>磐座の上からは、素晴らしい景色が広がる
― 遠くは三河湾、そして島が二三浮かび、左手から半島がせり出してきて突端に灯台が見える。
眼下は平野部の村落が広がっている。
>今度来る時は、権現山の古墳の石を持って来て国見岩の上に祀ります・・・。
やっぱり出雲系が来ていたんでしょうね。
神話の真相、知りたいですね。
服織神社が出雲系と初めて読んだ時は(あんな遠くから?)と思いましたが
古代の人々はしっかり動き回っていたんでしょうね。
>門限は午後3時30分
早いですね。
我が家は4時半でした。
笑
>古代をもう一度よく勉強し直し、また近いうちに来ますと心に誓った
はい
古事記や日本書紀を何度も何度も読み返して、いったいどういうことだったのか?自問自答して
何が隠されているのか?
スサノヲや大国主命や古代出雲人の心を考えてください。
心が重なると良いですね。
そしてまた登ってください。
いやあホント!
ロマンですね。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月05日 02時27分44秒 ) | パスワード |
三つ柏紋使用の神社の共通項が知りたいです。
やっぱり熱田神宮やお伊勢さんかな?
高槻に早く行けるようにと願っています。
京都も行って、甲賀にも行って、関ヶ原や養老にも行けると良いのですが
最低2泊しないと身体が大変ですね。
それにしても「三つ」というのがどういう意味なのかな?と。
三つ柏
三つ巴
3というのは「安定」かな?と思っていましたが
3の意味も知りたいところです。
出雲大社の現在の宮司は84代国造千家尊祐氏ということで
わたくしも84代目ですから
そんなもんかなと思います。
[8] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月05日 11時33分18秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日はまだ昨日の興奮が醒めない状態、高揚が続いております。古代の話
は諸説があって、どれが本当なのかわからないというところが誰も本音だと
思います。アカデミズムの方は、客観的実証主義に基づくと思いますので、
信頼できる古文書、あるいは考古学的遺物等の物証がないと結論付けができ
ませんから、大胆な推論も仮説も控えてしまうのではないかと思われます。
人間は骨だけはある程度残りますが、有機体でありますので、喜怒哀楽の
記憶や、どんな考え方をしたかという記憶は、その人が死ねば(脳が朽ちれ
ば)消えてしまうということであります。
とすれば、実証主義の歴史学では全体像は補えない、骨格だけはできても、
それを覆う筋肉・内臓・血管・神経・血液・脳・皮膚・顔・声といった肉付
けは推論の世界になり、実証の世界とはそうとうギャップができてしまうと
いうことになります。
といって、フィクションにしてしまうと、これまた信憑性がなくなってし
まう。
そうすると、歴史の真実のすべてを知りたいと思う人に対して、どう対処
すべきか、また逆にどうしてほしいのかを考えると、やはりまずは客観的な
事実、あるいは状況証拠を色々な角度・観点から収集する。それに基づいて
考えられる推論を述べる。この推論という部分ははっきり銘を打っておく。
これならば、これはこの人の推論かと読んだ人の判断により取捨選択できる
し、間違った事実の伝達は避けられる。
ということで、歴史への取り組みは―
第一は客観的な証左をたくさん集めること。
第二は、筋の通った推論をすること。
この二点に絞られるのかなと思います。その後で、あくまでも実証主義にウ
ェイトを置くのか、それとも推論は推論として明らかにしたうえで自由に発
表していくのか、歴史学者と歴史ロマン研究者の違いがそこで分岐される、
つまりジャンル分けがされるということになります。
何を言いたいのかというと、歴史の謎の部分の結論は早くほしいけれど、
そのために自論で事実をゆがめない。仮説は仮説であることを明白にする。
また、その根拠となる証左も充分に用意するということを心がける。他者に
ご迷惑をおかけしないためにもこの点は心がけたいと思います。
東三河と西遠江、そして日本書紀、持統天皇・・・最大の謎が秘められて
いるような気がします・・・。
昨日、実際にその地で動いてみて、一つわかったことがありました。それ
は、砥鹿神社本宮から一本の線・・・即ち、「道」がまっすぐ三ケ日まで続
いていることがわかりました。国道301号線です。帰りはその道で帰りま
した。古代出雲か倭国か大きな地域連合があり、フォッサマグナの切れ目、
即ち信濃〜天竜側左岸まで広がっていたようです。この本宮山が司令塔になり、西遠江とつながっていたのではないか。もちろん人間も物流も一直線に
つながっていたのではないかと推論いたします。今後、さらに証左を収集し
て行きます。
あを様、前田豊氏の本は全部で4冊ありますが、最初の本『古代神都 東
三河』はお持ちでしょうか? 一度参考に読んでみていただきたいのですが
・・・。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月05日 15時30分54秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
長々と書いてたら操作ミスで消してしまいました。
窓8ってホントに不安定。
301号線をたどってみました。
ずっと西の終わりは豊田の松平や拳母なのですか?
その先に猿投や長久手があるのを知りました。
また三ヶ日の方では新居や鵺代や初生衣神社があって
作手のもっと向うに 繭町があって繭神社があって
もう驚きました。
この道を服部平大夫は行ったり来たりしてたのかと。
道って本当に繋がっているのですね。
スサノヲも大国主命も神武天皇も日本武尊もこの道を来たのかなと感慨に耽りました。
>前田豊氏の本は全部で4冊ありますが、最初の本『古代神都 東三河』はお持ちでしょうか?
>一度参考に読んでみていただきたいのですが ・・・。
全く読んでおりません。
本の紹介で「邪馬台国は東三河にあった?」というのを知っているぐらいです。
古本で十分です。
ブックオフの安いので。
ハワイのブックオフであれば良いのですが
最近行った時には目に入らなかったように思います。
古本屋さんにあったらヨロシクです。
ぺこり
[10] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月06日 00時12分01秒 ) | パスワード |
突然横から、失礼致しますm(__)m…
あをさん、お久し振りの姫沙羅(=隈)です。
丸三柏服部さん、どうもはじめまして。
最近は日中仕事に出ていることもあって時々ロムしているだけでしたが、
高槻藩の事が話題に登っているようですので、少し書き込もうかと。
というのも、以前何度かこのサイトに書いたように、
うちの祖母(父方)の先祖が高槻藩士(江戸家老ですが)だったので。
…つまり永井家に仕えていて、服部さんや柘植さんの同僚でした。
2012年に私も先祖の足跡を探して、高槻を訪問しました。
その時の情報を少々、お知らせしようかと。
慣れないスマホから書き込むので、時間がかかると思いますが。
[11] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月06日 00時53分26秒 ) | パスワード |
私も当時は先祖の菩提寺も知らず、ただ闇雲に古いお寺を探そうとしていました。
たどり着いた伊勢寺というお寺でご住職の奥様とおぼしき女性に声を掛け、
高槻藩士の墓地はだいたい高槻市内の3ヶ所に分かれていると教えていただきました。
伊勢寺、霊松寺、慈願寺。
いずれもJR高槻駅の北側にあります。
結局うちの先祖の菩提寺は、私が訪ねた伊勢寺ではなく、
霊松寺だった事が、後日判明したのですが…
折角来たのだからと、伊勢寺の墓地をウロウロ歩いていたら「服部家墓地」が…
「あ〜これはもしかして、呉服明神の服部さん!?」
と近付いて、そっと家紋を確認させていただきました。
竪二つ矢羽に、五桁車??(正式名称は不明)だったと記憶しています。
「1、2、3、4、5」と何度も桁の数を数えました。
「5つって、珍しいかも?」と思ったので、印象に残っています。
[12] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月06日 01時39分58秒 ) | パスワード |
何か先祖の情報は無いかと、高槻市立図書館へ行きました。
図書館の職員さんは親身になって資料を探して下さいましたが、
長らく江戸暮らしだった祖先の情報はあまり多くありませんでした。
江戸時代に発行された、「武鑑」という
各藩のプロフィールを収載した出版物に、
永井家家臣として先祖の名前が出ていたのと、
江戸の高槻藩屋敷の見取図が乗った史料が見つかったのが、主な収穫でした。
もう少し時間があれば、教育委員会の方にお会いして、
色々相談することも出来たのですが。
もし興味があれば、「しろあと歴史館」に行って、高槻の歴史について質問してみるのも良いかも。
但し、詳しいことを知るスタッフが調査に出かけて留守な事も多いようなので、
前もって電話して、その日にいらっしゃるかどうかを
確認してから行かれると良いかも知れません。
[13] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月06日 01時50分25秒 ) | パスワード |
しろあと歴史館:
高槻市城内町1-7
TEL:072-673-3987 FAX:072-673-3984
です。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月06日 02時03分06秒 ) | パスワード |
姫沙羅さん
お久です。
ぺこり
情報をりがとうございます。
高槻藩の事情が三つ柏さんのヘルプになると良いですね。
特にお墓の情報は時間の節約になって三つ柏さんの役多いに立ったと思います。
伊勢寺、霊松寺、慈願寺。
いずれもJR高槻駅の北
これで家紋調べがはかどる(墓なりにハカどる 笑)こと確実ですね。
服部貞信の家紋は
寛政重修諸家譜に登録しているもので
車輪竪二本矢
七本矢
矢の字桔梗
分家
車輪竪二本矢
右角万字 卍だと思います
分家
車輪竪二本矢
左角万字
分家
車輪に竪二本矢
七本矢
分家
車輪竪二本矢
七本矢盾
矢の字桔梗
車に矢というのは「伊賀の服部氏」で統一の範囲内の家紋かなと思いますが
「桔梗」というのが不思議です。
明智がらみなのかなとか
呉服明神の家紋が桔梗だったのかなとか
想像は勝手に膨らませています。
茗荷とか桔梗とか柏とか
この植物系の家紋はどういう意味があるんでしょうね?
また思い出したことなど有りましたらお願いします。
[15] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月06日 02時24分45秒 ) | パスワード |
高槻藩主・永井家の墓所は高槻市内ではなく、京都にあります。
泉涌寺山内にある、悲田院(東山区)。
高槻で亡くなられた藩主は、ここに葬られました。
実は先程、丸三柏服部さんにとって京都は第二の故郷…
というあをさんのコメントを見て、
「それなら一度、永井のお殿様のお墓に行かれたら…」
と思わず独り言を呟いたら、
部屋に置かれたピアノの上のオルゴールが、
何故かいきなり「ポン!」と鳴りました。
誰も触ってないのに…びっくりした〜(@_@;)
もしかして、うちの先祖が
「是非おいで〜」
と言ってるのかも!?
という訳で、思い切ってコメントしてみました。
たくさん訪ねる場所があってお忙しいと思いますが、
もしお時間が取れましたら、是非どうぞ。
[16] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月06日 03時04分19秒 ) | パスワード |
ちょっと入れ違いになりましたが、f(^_^;
あをさん、こんにちは(^-^)/。
最近、父方祖母の先祖(山藤家)の情報が集まってきています。
その結果、私が学生時代に京都に惹かれつつ、
名古屋に流れていった理由が解ってきました。
何の事はない、山藤家が江戸時代に出会ったのが
東海地方所縁の人々だった訳です。
永井家は、確か「長田」姓だった時代に大橋家から養子を取っていますし。
そして、ついにはっきり確かめられたのが、
うちの先祖は藤原秀郷所縁の一族で、
平将門の乱鎮圧の為、京の都から関東に下向した事。
永井家に仕えて江戸に行くまで、下野国小俣村(現栃木県足利市小俣)に居た事。
祖母は、確かに伝え聞いていました。
だから「藤原の藤を頂いた」と誇りにしていたのです。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月06日 07時20分13秒 ) | パスワード |
姫沙羅さん
最近は 先祖のことはホットケさまにしているせいか あんまりパワーが来ないのですが
そうですか
姫沙羅さんとこにご先祖さまのパワーが来ましたか。
我が家も1998年あたりだったか来ました
やはりオルゴールが鳴りました
このオルゴールは1970年代に壊れた西ドイツ製で
壊れたまま20数年経つというゴミでしたが
鳴らなくなって久しいのに鳴りました。
その前の年に他界したオットの父が鳴らした
という感覚はあります。
あの家は実にオカルトがかった家でしたし
オットの一族がオカルトがかってたし
やはりオルゴールが鳴るってあるんですね。
姫沙羅さんのような本物の科学者 化学の方かな? も経験なさったというのが
やはり平家ってオカルトパワーが今でもすごいのですね、と驚きました。
>何の事はない、山藤家が江戸時代に出会ったのが
>東海地方所縁の人々だった訳です。
>永井家は、確か「長田」姓だった時代に
>大橋家から養子を取っていますし
「長田」と「大橋」の関係ですか。
へえ〜
昔のスレッドにコピペしたものですが
碧南の棚尾にこんなのがありますね
http://www.city.hekinan.aichi.jp/kyodoka/kyodo/tanao/katarukai21.pdf
>仁安2年尾張国野間内海ヨリ長田親致三男長田仙千代白正棚尾出生
乳母名ハ初音の縁故により潜居ス
>其後永正年中長田甚助の代に大濱内小山屋敷に転居す
本村長田居住は七代の間なり
親致の孫の俊致が北条氏に仕えて承久の乱で軍功があって棚尾百町をもらったと書いてありますね
>8世の孫廣常妻は大江宗秀の娘なり
その子政廣子なし
よって後醍醐天皇皇子宗良親王四世の孫津島奴野之城主大橋中務少輔定廣の四男廣正を養子となす。
孫直勝家康に任へしばしば軍功を顕す
ここで家康から大江氏の由あらば永井を名乗れと言われたわけですね
長田氏が源氏と人から言われるのは、
大浜の土地の人が源氏と言ってたからで
これは、昔、熊谷若狭守直氏の領地だったから源氏山とか源氏館とか呼ばれていた故事から。
だって。
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月06日 07時26分02秒 ) | パスワード |
なるほどね
それで長田と大橋が結びつくのですね。
大橋と服部も、もともとは同じ平家一門の兄弟の家ですし、
後醍醐天皇の時にも服部は三重県から参加してるし
服部が尾張に居を構えてからも服部は津島神社の神職ですしね。
そうか、服部・大橋・長田はそういう三角関係なのか。
笑
平家時代にも長田は平家に属していましたしね。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月06日 07時56分46秒 ) | パスワード |
【名字】山藤
【読み】さんとう,さんどう,やまふじ,やまとう
現栃木県である下野国足利郡小俣村の有名氏族、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流。
現島根県西半部である石見、現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵、現群馬県である上野などにみられる。
「藤」は藤や葛の木、また藤原の氏を表す。「山」は山の地形を表す。
姫沙羅さんは既にご紹介になってましたね
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101160.html
<3>
ちなみに藤原秀郷と言えば・・・
私の祖母(父方)の先祖も、繋がりがあるらしいです。
姓が「山藤(さんとう)」で、「藤原」の「藤」を貰った、との言い伝えがあるそうです。
姓氏家系大辞典を見ると、栃木県足利市小俣発祥の山藤家の始祖は藤原秀郷の6男で、
平将門の乱の時、秀郷に伴って京都から関東に下向した、とありました。
このスレッド、懐かしいです。
ワタクシはね、町でオトコに声かけられるタイプじゃないんですけど
1人だけ、1回だけ、面白い人に出会いましたよ。
あ、この人ならお話してもいいな、って。← この人だけは 町で声かけて来たオトコと認定します 笑
ネットで検索しましたが有名になってなかったみたい。
名前負けだったのかな?笑
名前を書きたいところですがマズイので書けませんが
モロ、わたくしの先祖にあこがれている人でした。
きっと平家つながりだったんでしょうね。
大学生の時にも他の大学の人から声をかけられたのですが
この人もわたくしの先祖に憧れてて
とうとう「父親に会ってくれ」とお父上が遥か彼方の出身地からわたくしに会いに来るというんで
ヤッバー!
ということでバックレました。
この人とは100%平家繋がりです。
平家って先祖が(この人!この人がいいよ!)って縁結びをするんでしょうかね?
思い起こせば殆ど全てわたくしの周りに寄って来た男の子達って平家つながりか南朝つながりです。
なかには物凄い超大金持ちの一人っ子の男の子も(複数ですが)いたりして
三つ柏さんとレスの交換をしている時にもなるほどなと御縁を改めて感じました。
でも長田って名字の男の子はいませんでした。
平家つながりで長田の親戚の男の子はいましたが。
でもね、そういう男の子の1人と結婚してたとしたら、先祖のことなど何も考えなかったと思います。
なんせわたくしが平家のオカルトパワーに捕まったのは
オットの「昔、海にいた。蟹だった。厳島神社に行きたい」と言った話からですから。
知らないだけ、気付いてないだけで、わたくし達って先祖の御加護を受けているんだなって思います。
[20] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月06日 09時07分15秒 ) | パスワード |
姫沙羅様
まずもって御礼申し上げます。はじめまして・・・というより、私は「平
熱」を過去よく見ておりまして、隅様には注目しておりました。ただ、その
頃は歴史に対する興味の度合い(テンション)がまだ低く、また知識レベルも
低かったので、平熱に参加する勇気がありませんでした。ただ、ほとんどの
頁はプリントアウトしてしまってあり、段ボール箱一杯程あります。隅様の
コメントは一段光っておりましたので、はっきりと記憶に残っております。
今後ともよろしくお願いいたします。
あを様につきましては、できそこないの私をずっと導いて下さり、すでに
十ヶ月程の間、ほとんど毎日レスのキャッチボールをさせていただいており
ます。あを様の知識の深さは虚空蔵菩薩のレベルですので、ここまで導いて
いただけるのかなあと思っております。
本当に感謝申し上げる次第であります。
ところで、オルゴールが鳴ったというのは何かの知らせかもしれませんね。
誰しも潜在意識(いわゆるゾーン)の中でつながっていると思います。それは
決して特異能力ではなく、誰もがそうであり、あとは感受性(センサー機能)
の問題だと思います。念に不可能はないのかも知れませんし、霊的世界にも
通じるのかなとも思います。
永井家については私の村で昔から一緒に住んでおり、親戚のような関係で
あります。その半分が「丸に三つ柏」でこの地の服部と同じであります。永
井氏が何故この(ほぼ)長上郡の善地にいるのかを是非知りたいというのが私
の切なる願いであり、またそれはこの地での服部の存在理由の解明につなが
ると思っております。
高槻に行かれたということで、いろいろ情報ありがとうございます。訪れ
た時にはこの情報を活用させていただきます。
高槻にはいろいろな謎・秘密が埋もれているような気配を感じます。また、
最近東三河にこだわっておりますが、ここにも謎・秘密が埋もれております。
何かでつながっているのではないか。高槻は高月からはじまっており、東三
河と西遠江の間には弓張山系、即ち三日月山系が横たわっており、どちらも
月に関係しています(ひょっとすると太陽になるかも知れませんが)。弓月の
君に関係してくるのか、秦氏に関係してくるのか・・・。長田氏と秦氏の関
係も調べたいと思っています(長田と服部は村でも各地共存しています)。
京都の泉涌寺は南禅寺の奥の方でしたか、中まで入ったかどうかは記憶
がございませんが、ありがとうございます。今度行ってみます。
姫沙羅様のおかげでこれからがおもしろくなりそうです。
[21] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月07日 02時36分15秒 ) | パスワード |
丸三柏服部さん
こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m。
随分前の私のコメント、誉められると何だか面映ゆいです。(^_^ゞ
私のコメントがもし光って見えるなら、
その時は私の後ろにいる「誰か」が知恵を貸してくれているのかも知れませんね。
そういえば以前、「オーラの泉」か何かで江原さんが言ってたと思いますが、
室内で聞こえる、いわゆる「ラップ音」というのには、
良い知らせと悪い知らせ(警告等)があるんだとか。
良い知らせは鈴の音のような「チリン」という音が多く、
そんな時は、霊が喜んでいる事を知らせているのだと。
という事はやはり「永井家墓参を歓迎する」という、「あちらの世界」からのメッセージ、
と解釈しても良いのかも知れませんね。
ちなみに、京都泉涌寺は東山区でもかなり南方にあります。
京都駅より南、東福寺の近くです。
そして、永井家墓地のある悲田院は、泉涌寺とは別棟になっています。
実は私もまだ行けていないので、一度行きたいと思っています。
[22] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月07日 03時15分50秒 ) | パスワード |
あをさん
オルゴールって、あの世の人が合図を出すのに便利な道具だったんですね…f(^_^;
私はいわゆる理系人間ではないし、リアリストでもないと思うので、
特に平熱に来るようになってから、オカルト現象が寄ってくる事が増えたみたいです。
時によりますが、それから増えたり減ったりを繰り返しつつ、現在に至ってます。
実は昨年実家の父が急逝しまして、先日1周忌を済ませたばかりなのです。
こういう時は特に、あちらの世界と繋がり易いですよね。
多分、私の先祖もいつもに増して、サポートしてくれているのだと思います。
励まされてる感じ。感謝(^人^)です。
現実世界でも法要で親戚と会う機会が増えて、色々先祖の話を聞く事が出来ました。
やっぱり親戚中が集まれば、先祖の歴史に興味を持っている人が何人かは居るものですね。
お陰様で先祖の事がかなり解ってきました。
皆で情報交換してます。(^-^)
[23] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月07日 03時43分02秒 ) | パスワード |
高槻(摂津三嶋)は実際、高い霊的エネルギーを持っていると思います。
何故なら、川の合流地点だから。
清らかな水のエネルギーです。
柏紋を使うのは、神官や、沿岸沿いの部族に多いとか。
やっぱり、水に関係深い家が使うそうですね。
恵比寿信仰と関係深いとも。
永井氏が高槻を治めたのは、まず水上交通の要所で、幕府も重要視していたから。
それだけ信頼されていたという事です。
永井尚政・直清兄弟が関西入りした当初、兄が淀藩、弟は長岡藩に封され、
淀川を兄弟で統治するよう託されたそうです。
関西入りする前は、古河藩。
こちらは関東の水上交通の要です。
利根川と渡瀬川の合流地点で、江戸から日光へ行く時の通り道にもなっています。
[24] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月07日 04時22分47秒 ) | パスワード |
もちろん、高槻が永井家、服部家双方に縁ある土地であるのも事実でしょう。
服部連の発祥地ですし。
そうそう私、神服神社にも寄りましたよ。
普通の住宅街の中にあって、観光地化もあまりされていなくて静かですが、
境内は手入れが行き届いて、氏子さんに大事にされていると感じました。
私は、三嶋、三輪等、三のつく場所は
同じ系統の人々が住んでたと思ってます。
三=御で、神聖な場所。
九州・久留米周辺にもありますよ。
(久留米は旧御井郡)
少し前、高槻の今城塚古墳の話が出ていましたが、被葬者(多分継体天皇)の石棺に、
現在の熊本県から運ばれた石が使われているのをご存じでしょうか?
わざわざこの石、九州から海に浮かべて船で引っ張って、
瀬戸内海経由で運ばれたらしいです。
高槻に津之江という地名の場所がありますが、
昔は筑紫津といって、九州からの船が着く港があったそうです。
石棺もここから陸揚げされたであろうと言われてます。
ピンクがかった色なので、現在では阿蘇ピンク石棺と呼ばれています。
これを一体誰が運んだのか?
まだ定説はないですが、継体天皇と繋がりの深い、
和邇氏や息長氏、久米氏辺りが候補に上がっているそうです。
この辺の話と、服部家、永井(長田)家の繋がりも気になります。
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月07日 05時26分37秒 ) | パスワード |
姫沙羅さん
さすがでした。
いろいろ謎がちょっと解けて来ました。
高槻=服部連の発祥地
柏紋は水に関係しますか。 聖なる水か
3=御 神聖なる場所 三島・三輪
今城塚古墳 多分継体天皇陵 阿蘇ピンク石棺 運んだのは和邇氏や息長氏、久米氏辺りの豪族?
わたくしには全く見当もついてなかったです。
>やっぱり親戚中が集まれば、先祖の歴史に興味を持っている人が何人かは居るものですね
はい
年に数回一族の者が集まって先祖語りするのは一番の供養になりますね。
先祖も子孫が仲良くしているのは嬉しいでしょうしね。
本家分家の上下関係は面倒ですが、やっぱり本家は立てないとね。
ここに先祖の位牌があるんだし。
本家が喜んで分家に系図を写させてくれるように、分家は分をわきまえないとね。
平熱ってホントにオカルトがかってますよね。
先日も服部 ⇔ 三輪の関係に驚いてたところですしね。
それもハワイで。
>服部家、永井(長田)家の繋がりも気になります
ここは三つ柏さんに頑張ってもらいましょう。
にっこり
[26] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月07日 11時14分03秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様、姫沙羅様
新たな情報、三人寄れば文殊の知恵といいますか、心強いです。おととい
の東三河本宮山での奇跡的体験(大国主と二地点でのオーバーラップ)により
何かいいことがありそうな予感がしています。オルゴールの音は何だったん
でしょうか、永井氏は天満宮を崇拝していましたから菅原道真、その祖先は
土師氏・・・
突然ですが、用事が出来てしまい中断します。帰って来てから再開いたし
ます。
[27] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月07日 21時43分13秒 ) | パスワード |
少し遅くなってしまいました。オルゴールの音にこだわってしまいました。
なぜ鳴ったのか・・・常識的には力は質量を持たないと働かないはずですが、
質量を持たない四次元からの力があるということ・・・ですね。
三日前に大国主命の1800年の時を超えた奇跡的「結び」に遭遇いたしま
した。それはどういうことかといいますと、豊橋にある権現山古墳と新城にあ
る本宮山の国見岩が結ばれたということ―即ち、権現山2号古墳に眠っていた
大国主の霊が、生前にその上に立って国を見渡したという本宮山山頂の磐座の
上に再び舞戻ることができたという想いであります。媒介者は私・・・何度か
古墳の上に立ち、祈り、そして今度はその磐座の上に偶然立つことができた・
・・。2か所の点と点が、一本の線でつながった瞬間でありました。
出雲神は縁結びの神という・・・いろいろなご縁がいただけそうです。もち
ろん姫沙羅様からのご縁もつながりました。
この出雲と永井を考えてみましたところ、祖先をたどって行くと次のように
なりました。
永井氏(大名家)→・・・→桓武天皇→高野新笠→土師氏(菅原氏も同族)→
出雲氏(→天穂日命→天照大神)
ということで、出雲氏に行きつく。出雲氏は大国主とは義兄弟的な関係であり
感化されています。出雲神を祀る氏族です。
つまり、今回のオルゴール事件は出雲神の鼓舞する霊力であると解きました
のですが、果たして・・・?。
高槻に継体天皇の古墳があるということ。継体天皇の妃は海部氏から出てい
る。そして海部氏は尾張氏と同族、そして両者とも物部氏グループで、ここ東
海地方・・・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆は物部氏の支配していた地域であ
ります。特に東三河と西遠江は三遠式銅鐸文化圏(物部)であるということ。
また、ダイダラボッチのナガスネヒコは物部の武将であること。
継体天皇の石棺を運んだのは久米、和邇の物部グループ、またその同族系の
息長氏(応神天皇五世孫)ではないかということでありますが、継体天皇自体も
応神天皇五世孫で息長氏系であります。
こう見て来ますと、高槻とこの東三河・西遠江とは物部関係でつながってい
るとみていいのかと推測いたしますが、さらに今後突っ込んだ探究をして行き
たいと思います。
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月07日 22時59分20秒 ) | パスワード |
なるほどね。
[29] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月08日 02時20分19秒 ) | パスワード |
丸三柏服部さん
なるほど、お見事です!
私が漠然と考えていたことを分かりやすくまとめて下さって、ありがとうございます。m(__)m
そうそう、海部さんを忘れてはいけませんね。
東海地方に勢力を持っていたのですから。
例のオルゴールは、本当に一瞬だけ鳴ったのです。
オルゴールらしい「ポロン」ではなく、「チリン」というか、ほとんど「チン!」という感じ。
…もしかして、銅鐸の音だったりして!?
出雲系の神様なら、ピッタリですね。
出雲は何度か旅行に行ったことがありますが、
私が特に印象に残ったのは、美保神社(松江市美保関町)です。
事代主命を祀る、総本宮。
海沿いの道を車で延々走って、随分遠かったけれど、空気の澄んだ良い神社でした。
事代主命は恵比寿さんと同じに扱われる事が多いですね。
出雲では釣りの神様。奈良では託宣神。
地名も美保関で、「ミ」が付くし。
[30] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月08日 02時34分28秒 ) | パスワード |
高槻市上天神町の上宮天満宮(上に書いた伊勢寺の近く)は、
元々野見宿禰の古墳の上に立てられた、と言い伝えられてるそうですね。
土師氏が集中して住んでいたのは間違いないです。
市内の土室という地名も、その名残りだとか。
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月08日 02時47分13秒 ) | パスワード |
丸に三つ柏紋の背景がちょっと分かって来ましたね。
わたくしの課題は
・桔梗が紋の寺と神社を捜す(呉服明神神職の服部貞信の正体が知りたいから)
・平家が来る前の伊賀の古代豪族の服部氏が物部氏であった話を見つける
です。
これについては服部半蔵の家が「うちは帰化人系じゃない」と記しています
つまり秦氏系ではないという意味だと思います(たぶん)
[32] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月08日 03時28分51秒 ) | パスワード |
あをさん
やはり親戚と交流するよう、先祖が取り持ってくれたのでしょうね。
法要後の食事会は、先祖の情報交換会と化していました。(^-^)
一昨年だったかな?
いつものようにネット検索していて偶然、
先祖直筆の手紙が存在する事を知りました。
受け取った先の家にあったのが、明治維新後に流失して
古書店に売られていたのを、古文書の資料館に買い取られたようです。
おそらく300年近くも前の手紙が
有名人でもないのに現存するなんて、結構奇跡的かも…
と感動しつつ、何とか都合をつけて一人上京。
資料館で職員さんに出してもらった書状を恐る恐る開けてみると
案の定、崩し字でさっぱり読めず…(^-^;
それでも後で少しでも解読出来るよう、
持って行ったカメラで撮影してきました。
それをコピーして、父の一周忌法要の後、先祖調査に興味のある親戚にプレゼント。
書状のうちのほとんどは知人か親戚への近況報告で、
古文書解読のプロでないと読むのは難しそうですが(汗)、
一部は親類書といって結婚の時に取り交わす釣書のようなものなので、
まだ楷書に近く、大まかな内容は分かりました。
一応親戚には喜んでもらえたようで、良かったです。(^-^)
[33] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月08日 03時46分07秒 ) | パスワード |
桔梗紋と言えば、明智光秀が服部家の女性と結婚してたけど、
どの系統の服部さんだったんでしょうね?
元々、縁ある一族同士だったのかな?
それと、柘植さんは矢紋じゃなくて、巴紋を使用してましたね。系統が違う?都祁?国造(確か多氏系)との関係は?
色々調べないといけないですね。
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月08日 04時50分52秒 ) | パスワード |
姫沙羅さん
>コピーして、父の一周忌法要の後、先祖調査に興味のある親戚にプレゼント
良いことをなさいました。
>崩し字でさっぱり読めず…(^-^;
古文書は 書き方の約束事があるし 草書体も約束事があるんですから
習いに行けばかなり読めるんでしょうけど
三つ柏さんが頑張って挑戦中のようですよ
我々には難しいですね。
>どの系統の服部さんだったんでしょうね?
>元々、縁ある一族同士だったのかな?
明智光秀の後妻になっていた女性の服部氏は
服部半蔵の叔父=正清=の次男の家です。
壊れると思いますが(書き直します)
服部氏
兄・保長ーーーーーー半蔵ーーーーー正就 失脚のちに桑名の松平家へ引き取られる
弟・正清ーーーーーー正信ーーーーー兄・服部正尚=西郷局の継父 弟・青山成重
。。。。。正清の次男保章−−−−−娘(明智光秀後妻)
つまり半蔵には叔父宅に従兄弟が2人いて、弟の方の娘です。
また壊れるかも。汗
柘植さんの方は全く調べていないです。
名古屋のツゲさんは 柘 1文字です。それで柘植という2文字が正式というのは20年ほど前に知りました。
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月08日 07時33分27秒 ) | パスワード |
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tuge_k.html
柘植氏
宗清って貞能や家継や家長と 従兄弟 になるんですか。
左三つ巴/丸に二つ引両
(桓武平氏高棟流/貞盛流?)
伊賀国阿拝郡柘植郷より起こった。『江戸系図』また『柘植系図』には、平高棟の後裔宗清が伊賀国に赴き、柘植の地名をもって名字となしたとある。
『尊卑分脈』をみれば、宗清は平信実の子で右京大夫に任じられ、その子に宗俊の名はみえない。
また、年代的にも少し無理があるようである。
コレですね
↓
また、『尊卑分脈』の貞盛流の裔に宗清の名がみえる。右兵衛尉に任じられ、平家の家人であった。
こちらの方が、柘植氏の祖として年代的、状況的にうなずけるところが多いのではないか。
ココ
↓
『古代氏族系譜集成』に収められた服部連系図のところに、柘植氏の系図がある。
これには、平貞盛の後裔で右兵衛季宗の子で、平頼盛の家人であった宗清が、祖にあたるとみえる。
そして、宗清には宗俊・清春・俊忠の三子があり、
宗俊が宗家となり、
清春は福地を、
俊忠は北村を名乗り、
それぞれその祖となったとある。
しかし、前記『尊卑分脈』にみえる宗清の子は、家清だけである。
これは、宗清が世を隠れてからもうけた子がさきの三人ということなのだろうか。
いずれにしても、平家落人の一人として伊賀の山中に潜んだものが、柘植氏の先祖になるものであろう。
宗清にからんで、以下のような言い伝えが『寛政重修諸家譜』に記されている。
伊賀に隠れ住む宗清のもとへ、源頼朝から誘いの手がのびて、養老の地としてそこも与えようという。
そこで「宗清戯れに柘植の一枝を新地にさし、もしこの枝葉繁茂せば草庵をこの地にかまうべしといえり。翌年、柘植の一枝大いに繁茂して花開けり。宗清奇なりとし、これより柘植をもって家号とす」と。
戦乱の時代を生きる
大永年間、将軍義稙は、仁木兵部少輔をして伊賀守護とした。
このとき、柘植一族は仁木氏に従わず、しばしば合戦におよび宗家は兵部少輔を射て、仁木軍を敗走させている。
その後、兵部少輔の子某が更めて柘植党と戦ったが、宗家と子の宗能はふたたび仁木軍を討ち破っている。
宗家と宗能を兄弟とするものもあるが、年代的にみて父子とする方が妥当と思われる。
その後、宗家は遠江国に至って死んだと伝えられる。
↑
へえ〜
柘植氏と遠江?
天正七年九月、織田信長による第一次伊賀征伐のとき、信長の三男信雄の軍勢が阿波口・鬼瘤口・伊勢地口の三道から伊賀に攻め込んだ。
この戦いは織田軍の敗北で終わるのだが、(織田方の)鬼瘤口の大将として柘植三郎左衛門の名がみえている。
三郎左衛門は伊賀出身ながら北畠氏に仕えていたもので、北畠没落後信雄に仕えて伊賀征伐には信雄に属して出陣したようだ。
しかし鬼瘤口も敗北し、三郎左衛門も討死した。
この敗戦に怒った信長は、天正九年九月四万四千の大軍をもって再び伊賀に攻め込んだ。
このとき、上柘植の福地伊予をはじめ、柘植近在の郷士が案内人となっている。
柘植氏は織田方でしたか
この征伐によって、伊賀国はまったく独立性を失い、また多くの郷士が討死した。
この合戦における柘植氏の動向はさきの案内人をつとめたこと以外に、どのように行動したのかは詳らかではない。
天正十年(1582)六月、織田信長が明智光秀の謀叛によって京都の本能寺で世を去った。
柘植氏の出世
↓
このとき、信長に招かれて上方にあった徳川家康は、身をもって三河へ逃れることになる。
その逃避行の道にあたったのが伊賀の山中であった。
その案内役を柘植清広がつとめた。
↑
だけど他の伊賀系は柘植清広を許せないよねえ
謎
これが機縁となって徳川氏に仕え、のち関ヶ原の戦いにも参加。
柘植氏は徳川氏旗本として世にでることになった。
庶流として数家の柘植氏があった。家紋はいずれも、「左三つ巴」「丸に二つ引両」を用いた。
[37] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月08日 12時58分04秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
前田豊氏の『古代神都東三河 日本の源流』近いうちに送ります。一度目を
通してみて下さい。
柘植という苗字の人は浜松にもおりまして話をしたことがあります。お互い
暗黙の内に通じているところがありました。柘植の木は堅いので櫛とかひょっ
として武具にも使ったかも知れませんね。探究すると何か出て来るかも知れま
せん・・・。
呉服部神社の神紋ということで思い出しました。4日前に東三河へ行ったの
は、そもそも足山田の服織神社を調べたいというのが第一の目的でした。服織
神社は豊川稲荷の北方約5キロ位の山すそにありました。すぐ近くにゴルフ場
があり、入口は通りに面していましたが、車が中に入れないようチェーンが張
ってありました。頻繁に人が訪れるような神社ではなく、地元の人が祭典の時
に集まるというごく一般のお宮に見えました。
由緒書きには―
「郷社服織神社は、三河国一宮大字足山田字瀧場に鎮りまし、天織姫命を祀
る。
参河國内神明帳及び集説を按ずるに、正五位下服織天神坐寶飯郡足山田村
産土神羽鳥大明神例祭三月八日とありて、三河國の名社たり。古来當国は、
養蚕機織の業盛にして、伊勢神宮神衣祭及び大嘗祭には和帛を奉りしこと、
古書に明なり。されば、この業の守護神として國内の崇敬頗る厚し。武将
山本勘助亦寶刀を献じ深く信仰せり。當社往古足山田の中央に鎮座せしを、
慶長年間今の地に遷祀すと傳う。旧地をハトリと云い、一本の老杉あり。
人呼びて、足山田の一本杉という。明治六年村社に列し、同四十年、神饌
幣帛料共進社に指定せらる。氏子相集り競いて赤誠を捧げ基本財産を造成
し、社頭の整備社殿の改築を行い、昭和五年二月二十八日郷社に昇格し、
神威愈々赫々たり。慈に謹みて大要を記し、神徳を仰ぎ奉る。
昭和七年三月八日
篆額 官幣大社熱田神宮宮司 従四位勲五等 桑原芳樹閣下
三河一宮 砥鹿神社宮司 従六位 矢田部盛枝 撰文併書」
とありました。神紋は「三つ巴」と「三五桐」の二つが屋根にしるされてお
りました。
特にこれといった発見はなく、ちょっと落胆いたしました。
次回は「犬頭神社」について記します。
姫沙羅様、高槻の上宮天満宮、野見宿祢の古墳の上に建てられたということ
ですが、正に祖先霊の上に社殿を建て祀ったということ、私の善地の天満宮も
古墳の上に建てられたような気配(昔の話あり)でありまして、勾玉や管等が出
たといわれております。祖霊地に祠を建て、いずれ神社にしたということだと
推測いたしますが、この推論の信憑性が補えました。
それともう一つ、継体天皇の石棺が熊本から運ばれたということで、これは
舟を利用したと思われますが、巨石を運ぶような海運を操れるのは海人族であ
りますので、その時代の海人族の様子を一度調べてみたいと思います。
服織神社の由緒を石碑の写真から解読するのに時間がかかってしまい、遅く
なってしまいました。
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月08日 15時06分19秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>前田豊氏の『古代神都東三河 日本の源流』
ありがとうございます。
楽しみにしております。
「ハタとハトリ」
思う所がありますが、まだ、整理できていません。
・「鶴の恩返し」の説話は、
織物中の現場は誰にも見られてはならないトップシークレット」ということだったのかなと。
・長上郡の服織神社は特別だったということ
・羽鳥氏は身分が低いということ(実働部隊?)
・服部の「服」は「は」だった
・秦氏が服部という名字になったのではなく、もともとは存在していた、つまり物部またはもっと前から
いろいろまだまだ整理しないといけません。
面白かったです。
服部平太夫の話も面白かったです。
能楽者ではなく鍛冶屋の方ですか。
そして
お国さんがお金に困って村人にバカにされて奉行に村人を叱って欲しいと願い出たこと
お金にまつわる問題は現代にも通じてて興味深かったです。
[39] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月09日 00時44分59秒 ) | パスワード |
丸三柏服部さん
阿蘇ピンク石の採石場は、現在の熊本県宇土市網津町にあったことが分かっています。
今もピンクの岩が剥き出しになっている筈。
何年か前、ここから実際に巨石を船で曳航し、高槻まで運ぶ実験をして、話題になっていました。
あちこちの港へ寄りつつ、何とか高槻までたどり着きました。
確かに古代これを実践できたのは、それなりのノウハウを持っていた
海人系部族だったと思われます。
誰が運んだのか、是非、丸三柏服部さんも謎解きしてみて下さい。
[40] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月09日 01時09分20秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は小雨でありましたので、遠出はせず、午後から近くの図書館へ行き
ました。特にお宝発見となるような本はございませんでしたが、「継体天皇」
についての本がありましたので借りて来ました。その本の題名は『NHKス
ペシャル 大王陵発掘 巨大はにわと継体天皇の謎』です。
ちょうど高槻の今城塚古墳の話を姫沙羅様よりいただいて、継体天皇とい
うものを少し探究しようと思っていたところでした。
継体天皇についての本は『謎の大王 継体天皇』(水谷千秋著)を持ってお
りましたが、難解で頭にはいらなかったのですが、今回この『NHKスペシ
ャル』ともう一つ『和珥氏』(宝賀寿男著)、そして『日本史年表』(三省堂
刊)の四冊を合わせもって読んでいくとかなりのことがわかって来ました。
それらを簡単に箇条書きでまとめますと―
@継体天皇は応神天皇の四人の子供の内の一人「若野毛二俣王」の流れで
応神天皇の五世孫(応神を入れると六代目)である。嫡男の仁徳系が履中
から九代続き途切れ、二俣王系の継体にバトンタッチとなった。
A出身は近江。后妃八人の内、四人が近江出身。うしろに控えていた氏族
は三尾氏と息長氏等。三尾氏からは二人の后妃が出ている。また、最初
の后妃を出したのは、断夫山古墳に葬られている尾張連草香で、同盟関
係にあり、最大の擁立勢力と目されている。
B和珥氏からも后妃が出ている。和珥氏系からは皇室にたくさんの后妃を
出しており、大三輪氏に次ぐ外戚となっている。安曇氏、物部氏も和珥
氏の系統である。
C継体朝において、百済との関係が強化され、武寧王(嶋王)から鏡を贈ら
れている。
D和珥氏の系統の安曇氏や同じ海人族の津守氏などが、摂津において海運
・漁労などの海事を担当した。和珥氏のルーツをずっと遡ると、大国主
(大己貴命)にたどり着く。
E高槻近辺には古墳がたくさんあり、継体天皇の古墳といわれる「今城塚
古墳」がある。たまたま宮内庁から指定を受けていなかった(他の古墳
が比定されていた)ので発掘がなされた。古墳としては最大級の規模。
また、出て来た埴輪も最大級の大きさであった。
F埴輪をつくったのは残念ながら誰という記載はなかったが、多分土師氏
であるに違いない。そして土師氏のルーツは出雲氏につながる。
G出雲族は海人族であった。
H埴輪は何を表していたか・・・大嘗祭の様子をビジュアル化していた。
結論として、継体天皇は出雲系ではないかと思いますが、いかがでしょう
か?
そうそう1月25日に大垣城〜真清田神社〜熱田神宮へいきましたが、熱田
神宮では「出雲の名宝展」をやっておりました。先日の東三河での大国主との
奇蹟的体験といい、どうも出雲が絡んでおります。よい御縁もちらほら・・・。
そして思い出しました。当家の庭には「姫沙羅」(なつつばきの一種。6〜
7月に白い小ぶりの花が咲く)が植えてあり、本日見ると、そろそろ芽吹き始
めておりました。
[41] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月09日 01時26分13秒 ) | パスワード |
あをさん
明智光秀の後妻さんは、服部半蔵の親戚でしたか。
桔梗紋の使用家は、土岐氏系以外にもいくつかあったようですね。
加藤清正とか、水野家とか。
水野家は本能寺の変後、明智光秀のせいで
イメージが悪くなったと、他の紋に代えてしまったとか。
神社や寺…は分からないけど、また探してみます。
新撰姓氏録には、摂津国の服部家と大和国の服部家がありますが、
摂津→物部、大和→多、秦という感じ。
柘植さんが実は別系?と思ったのは、闘鶏(つげ)国造(この漢字の方が一般的?)が多氏で、本拠地も大和国で、伊賀に近いから。
伊賀の服部家も、物部と秦が混在していた可能性が高いですね。
[42] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月09日 01時50分15秒 ) | パスワード |
丸三柏服部さん
私のイメージだと、継体天皇は出雲系、というかスサノオ系という感じですね。
まあどちらでも一緒なのですが、スサノオは北九州〜出雲がテリトリーなので。
実は私が姫沙羅を名乗っているのも、
我が家の庭に姫沙羅があるからです。(^-^)
まだまだ、うちのは芽吹くところまでいっていませんが。
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月09日 02時39分17秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>断夫山古墳
ダンプ山古墳。
懐かしいです。
とはいえ、どこにあるか知りませんが。
うちの近所なんですが。
笑
うちの近所に日本武尊がらみの何やらがあるというのも知っているんですが
実際には知らないです。
熱田神宮近くの「白鳥」はバスで通ってた記憶があります。
当時は興味が無かったので
今になっては惜しいです。
1980年代の初めに父から「尾張氏は今でも細々と続いている」という話を聞きました。
これも惜しい!
きっと長上郡の服織神社は伊勢や熱田系で
当然初生衣神社やここの神服部氏とは全く別で
さらに榛原郡の服織田神社とも系統が違うんだろうな
と思います。
長上郡の服部氏が羽鳥の服織神社の「神服部氏」だったのかなと
「ハタとハトリ」で思いました。
それで内山眞龍が「名家」と言ってるのでは?と。
でもこの箇所が「遠江国風土記伝」のどこに書いてあるのか分かりません。
>そうそう1月25日
>熱田神宮では「出雲の名宝展」をやっておりました。
>先日の東三河での大国主との奇蹟的体験といい、
>どうも出雲が絡んでおります。
>よい御縁もちらほら・・・。
いよいよ感覚が研ぎ澄まされて来たのかもですね。
とにかく、向こうから、雪崩のように情報が来ますよ。
もう始まっていますから
いかにキャッチするか
それが課題ですね。
とにかく膨大な量を読まないといけないし
画像で見るのも大事ですしね
先祖たちがアレもコレもとちぎっては投げちぎっては投げて来るのでしっかり受け止めてください。
とにかく日本の歴史3000年分です
取り敢えず「つんどく」用に収集しましょう。
笑
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月09日 03時18分03秒 ) | パスワード |
姫沙羅さん
>明智光秀の後妻さんは、服部半蔵の親戚でしたか。
はい、父方叔父の家の従兄弟の弟の方の娘です。
>桔梗紋使用の神社や寺…は分からないけど、また探してみます。
気にかけておいてください。
どこかで出くわすと良いのですが。
>新撰姓氏録には、摂津国の服部家と大和国の服部家がありますが、
>摂津→物部、大和→多、秦という感じ。
服部連系は物部みたいですね
半蔵の家も「うちは帰化人じゃない」と断ってますから。
>柘植さんが実は別系?と思ったのは、
>闘鶏(つげ)国造(この漢字の方が一般的?)が多氏で、本拠地も大和国で、伊賀に近いから
もともと柘植氏は2つの流れがあるようですね。
高見王系=武士平家系・半蔵の先祖の従兄弟系
高棟王系=堂上平氏系・公家の平時子さんの従兄弟系
そして伊賀にはツゲという古代からの一族とか土地とかがあったのでしょうね
もともとの闘鶏氏をもじって源氏政権後に漢字を柘植にしたのかもね
大和国は伊賀の隣ですから、交流があったのは当然。
伊賀の柘植氏の先祖が大和の闘鶏氏と閨閥関係だったのは充分に考えられますよね。
>伊賀の服部家も、物部と秦が混在していた可能性が高いですね
はい
半蔵がわざわざ「帰化人系じゃない」と念を押したのは
帰化人系という過去を抹殺したかったのかも知れないし
本当に昔っからの高槻以来の物部系服部氏なのかも知れないし
労働者階級の秦氏系じゃなくて神服神社に繋がる支配者層の神服部氏系と言いたかったのかも知れないし
ま、楽しい空想の余地のある遺言ですね。
>継体天皇は出雲系、というかスサノオ系という感じですね。
>まあどちらでも一緒なのですが、
>スサノオは北九州〜出雲がテリトリーなので
神代の時代と古代はさっぱり分かりません。
三つ柏さんには力強いお相手になってくださるので嬉しく思っています。
たぶんご先祖さまが姫沙羅さんを推薦してくれているのかも。
神さまなんて名前が訳分からないし分野もゴチャゴチャだし、そこへ豪族が絡んで
何が何やら、です。
でも三つ柏さんのお蔭で平熱のあの人この人との関係が神様がらみだったのか
と更なる深い関係が見えて来ました。
日本の黎明期からのご縁が分かって驚いています。
[45] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月09日 13時38分13秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
内山眞龍の『遠江風土記伝』は何回か改訂版が出ています。古本屋に行け
ば一万から二万円位の値段で売っています。もちろん図書館にはだいたいあ
りますので、購入する必要はありません。私も図書館で借りて、ザーッと目
を通しております。
あを様の記憶違いだと思いますが、その中には善地の五姓について、また
長上郡の服部氏に名族ありとは記載されておりません(たぶん間違いないと
思います)。あれば「お宝発見」とぬかよろこびしてしまいますが!
「名族あり」の発信元は、
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/hattori.html
です。「古代 服部氏」で検索していただいても出るはずです。
その中に、
「■遠江の服部
延喜式、当国長上郡に服織神社、榛原郡に服織田神社あり、共に古代
服部部の奉斎せし、神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あ り。」
となっております。この解説の根拠についてずっと調べているのですが、根
拠がわかりません。今回、あを様が指導者としての神服部のことではないか
という推測をしていただいたこと、それはかなり可能性が高いことだと思っ
ています。
長上郡の服織神社は、出雲から勧請となっていますが、それは具体的には
どういう手続きをしたのか調べたいと思います。神社あるいは祭神を勧請す
るという手続きはどうするのか・・・? 勧請元の神主を呼ぶ・・・あるい
は少なくとも同じ祭神を祀る神社の神職(宮司、神主)を呼び神事を取り行う
ことになるはずだと思うのですが・・・。あるいは神服部が神事を執り行った・・・?
初生衣神社の神服部以外の神服部についての情報を集めたいと思います。
秦氏系か物部氏系かというのも一度深く探求しなければなりません。先行
が物部氏系で後発が秦氏系。秦氏は物部氏と「お近づき」になったのか、そ
れとも「乗っ取った」のか・・・? 物部氏の神社などもひょっとして秦氏
系に書き換えられたという可能性もあり、一度調べてみます。しかしながら、
古代史には「どんでん返し」がありますので、二の足を踏んでしまいますね
(秦氏は原始キリスト教系、物部氏は古代ヘブライ系?)。
私が一度調べてみたいことは、全国の
「服部村あるいはそれに近似する村」
「服織神社あるいはそれに近似する神社」
「服部氏あるいはそれに近似する氏族」
の成り立ちや祭神をすべて調べ分析し、その中でどういう流れ・傾向があ
るのかということを知りたいと思っています。「ハタとハトリ」の論文にも、
意外と神社名・祭神共はばらばらであるような記述がありました。系統の違
いから来るのか、果たして・・・本当のところは?
姫沙羅様のおかげで、緊張感が出てまいりました。いい刺激になっていま
す。ありがとうございます。山藤家についても関連してあたってみます。永
井氏がらみでいろいろ調べたいと思っています。
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月09日 22時48分14秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
頑張っていろいろ調べてください。
「ハタとハトリ」に各地のいろいろな神社が出てて(感心しました)
ほんとにいろいろな流れがあって驚きました。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/hattori.html
ここは下記のように文字化けしてて読めないので
•ž•”(•žD)Ž
ŒÃ‘ãE‹Æ•”‚Ì‹@D‚è•”–å‚ð’S‚Á‚½‹@D•”‚Ì•ž•
ということで
「■遠江の服部
延喜式、当国長上郡に服織神社、榛原郡に服織田神社あり、
共に古代服部部の奉斎せし、神社なるべし。
而して、長上郡に服部氏の名族あり。」
コピペ、助かります。
ありがとうございます。
この情報の出所が内山真龍の「遠江国風土記伝」じゃないのかなと思っています。
去年どこかで読みましたので内山真龍の名と一緒に。
それが思い込みの勘違いなのかしら?
時々脳内作成をやらかすので。
恥
遠江国にいろいろ服部関係の神社があっても
長上郡の服織神社、榛原郡の服織田神社は別格
という意味だと思うのです。
服織神社:
今からおよそ1280年前、元明天皇の和銅元年(708)
出雲国から、神様をお迎えして造られたといわれている。
服織田神社:
景行天皇の七年に勧請。 西暦77年 ? ホント?
「服織田」の社号の由来は以下の三説。
1.鎮座地が、往古、服織田村と称した地名に由来。 ということは既に「服織」の村だった、ですよね?
2.四国の服織から移住してきた人々が奉祭した神。 そこへ四国から服織人
が移住
3.祭神が、服織の神。
ということで
A:榛原郡にはかなり昔っから服織人が住んでた
B:三ヶ日の初生衣神社とその神服部氏は 新しい ということで長上郡の名族とは言わない
ということだと思います。
だけど服織田神社の方はそもそもが景行天皇7年というの本当なんでしょうか
?
つまり日本武尊の征伐あたりに服織職人達も一緒に来てた? 来てたかというならこれはそうでしょうね
>指導者としての神服部のことではないか という推測をしていただいたこと
長上郡の場合は服織神社で祭祀をしてた神服部氏が
今や「神」の字が落ちて (ただの2文字の)服部氏なんだ
と言ってるということだと思います。
長上郡の服部氏はもともとは神服部と呼ばれていたんですよ、と。
2−3日前に、伊勢神宮でも「神服部」氏がいたように読んだ記憶です。
熱田神宮だったかも。
当然、伊勢神宮にも熱田神宮にも「神服部」氏がいたと思います。
浅間神社に服部氏がいらっしゃいますよね
コンタクトなさっては?
アマテラス自身が服織してますよね。
侍女も服織してましたよね
そこへスサノオを乱暴狼藉しに来て事件が起きたのですから
神社や神宮に服部・神服部氏がいて当たり前と思いますが。
ということで神社の服織関係の神職は「神」服部と本来は呼ばれていたとピンと来ました。
でも今は「神服部」と3文字で称している家は少ないですよね。
2つぐらいです。
1つは初生衣神社の神服部さん。
私が一度調べてみたいことは、全国の
「服部村あるいはそれに近似する村」
「服織神社あるいはそれに近似する神社」
「服部氏あるいはそれに近似する氏族」
の成り立ちや祭神をすべて調べ分析し、
その中でどういう流れ・傾向があるのかということを知りたいと思っています
はい
頑張って調べてください。
>長上郡の服織神社は、出雲から勧請となっていますが、それは具体的にはどういう手続きをしたのか
>調べたいと思います
はい。
和銅時代、というのが引っ掛かります。
日本武尊以前に出雲から勧請したというなら理解できるのですが。
>秦氏は物部氏と「お近づき」になったのか、それとも「乗っ取った」のか・・・?
お近づきの方は 物部氏が力を持っていたから新参者の秦氏が擦り寄った?
乗っ取ったとしたら 秦川勝の時代あたりでしょうね
楽しい推測ですね。
[47] | 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月10日 02時23分56秒 ) | パスワード |
少しでも私が書いた事が皆さんにとって参考になれば、嬉しいです。
丸三柏服部さん
山藤の事、調べるのはついでで良いので、
もし何か分かりましたらお知らせ下さいね。(^-^)
[48] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月10日 12時50分14秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨夜及び本日は朝から服織神社関係を古代史というバックグラウンドの中
で考えておりました。色々な本や資料と突き合わせて推考した結果、前田豊
の第2弾目の著書『古代神都東三河U 倭国の真相』の中に、いわば常識を
くつがえす(正史をくつがえす)推論があり、この推論とかみ合わせて解いて
行こうと考えております。
まだ約半日の推考でありますので、膨大な古代の歴史の闇・諸説を前にし
てとてもまとめきれませんが、私の「勘」による推論、それは「何が謎なの
か」から出発します。それを箇条書きにします。
@長上郡の服織神社の祭神は「天穂日命」と「建御名方命」の2神である。
前者はアマテラスの子、後者はオオクニヌシの子で、大和(日向)系と出
雲系である。また後者は、出雲大社国造家(千家)の始祖にあたる。
何故このような折衷案的な、あるいは両方を持ち上げるような祭神を
勧請したのか? 701年に大宝律令が完成。その後の和銅元年(708
年)の勧請である。
この年は、文武天皇から元明天皇に代わった年である。2年後の710
年に平城京に遷都。
持統上皇の動きを見ると、702年10月10日に、三河行幸に出発。 同年10月14日に大宝律令を、すべての国に頒布し終わる。11月25 日、持統上皇は三河より帰還。その約1ヶ月後の12月13日に崩御。
持統上皇の三河行幸は、重大な鍵を握っていると思える(今はあえてそ
のことには言及しません)。
712年『古事記』完成。21ヶ国に綾錦を織らせる。720年に
『日本書紀』が完成。
こんな時代背景でありました。
A服織神社の近くに蛭子森古墳というのがあり、服織神社の創建の約100
年前に造られている。蘇我氏の追及から逃れるため、秦貴平が聖徳太子
の3人の皇子をこの地に連れて来たという。その皇子の墓という。
何故秦氏がこの地に聖徳太子の皇子を・・・というそれぞれの関係の
由縁は? また、聖徳太子の一族はすべて粛清されてしまったはずだ、ま
た聖徳太子はいなかったのではないか?
そして何故、蛭子(エビス)なのか、蛭子(ヒルコ)でないのか?
B蛭子(エビス)が「ヒルコ」を暗示しているなら、ヒルコと聖徳太子系と
の関係は何なのか?
前田豊氏の前述の本には、聖徳太子の関係が驚くべき秘史として書かれて
います。
戸矢学氏の『ヒルコ 捨てられた謎の神』には、アマテラスに関係する大
秘密が書かれております。
中見利男氏の『出雲大社と千家氏の秘密』には、出雲の国譲り、藤原不比
等、持統天皇による大陰謀が書かれています。
いずれにしても、謎は謎を読ぶので解き明かして行くのは至難のわざです
が、これらの本を参考にして、一定の方向性は出して行きたいと思っており
ます。あを様の推理はだいたいにおいて当たりますのですごいと思います。
それにしても、神代よりの神様の名前、何とかなりませんかね? 学問と
して一定の名前に決めてほしい。
本日は、とりあえずここまでにして、論理を組み立て直します。
ここまで書いて、頭が相当疲れました・・・。先が思いやられます、古代
史は特に・・・。
[49] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月10日 14時04分53秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
本日の「まっしろ」 堀北真希主演 で
堀北真希が怪我をしたサッカー選手のために「えびす神社」でお守りを買って来て渡すシーンがあり
そのお守りお神紋が 丸に三つ柏紋 でした。
にっこり
名前が「えびす神社」ですしね。
何故、蛭子(エビス)なのか、蛭子(ヒルコ)でないのか?
ちょうどワタクシも同じことを心の中で叫んでいました。
笑
で、えびす神社で丸に三つ柏紋の神社を探そうとしたら、驚くべき情報がございました。
以下コピペ:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1216433877
古代では柏の葉にご馳走を盛って神に捧げていた。これに由来して柏が「神聖な木」と見られるようになった。柏手を打つとは神意を呼び覚ますことをいう。柏は神社や神家と切手も切れない縁があるようだ。
柏紋を最初に使ったのは、神社に仕えた神官だったようだ。
公家でも神道を司った卜部氏が用いた。
現在、柏を神紋としている神社は各県に一社はあるという。(丸に三つ柏)
代表的なのは、土佐山内氏と譜代の牧野氏である。牧野氏は槙野とも称するが、槙とは神聖な木を指し、柏のことである、という。
伊勢の久志本氏は皇大神宮に奉仕し、尾張の千秋氏は熱田大宮司として奉仕をした。
千秋氏が出てます!
筑前の宗像氏、吉田神社の卜部氏等神官に柏紋が多い。
また、備前吉備津神社宮司の大守氏は、庵に柏という珍しい紋を使用している。
清和源氏では今井氏・神尾氏・井上氏。
藤原氏では中御門氏・萩原氏・藤井氏・高橋氏・加納氏。
桓武平氏では長田氏など。ほかに大江氏流の境野氏が上り藤内に三つ柏紋。
http://www.genbu.net/
ここでアップ
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月10日 14時13分35秒 ) | パスワード |
つづき 玄松子さんのブログ
柏紋使用神社 神服神社が載ってない!
柏を図案化した紋である。
柏はブナ科の落葉喬木。
葉は広く、葉肉が厚いので、上古では食物を盛る食器とされていた。
『隋書倭国伝』に「倭人、皿や俎なく槲の葉を以てし、食うに手を用いて餔う」と記されてあるように、これは外国にまで知られていた。
食膳をつかさどる者を、古語で「かしわで」(膳夫)といったことにも関連がある。
食器として神事に使用されてから、柏木を尊重するようになり、「かしは木はもりの神」(『狭衣物語』『枕草子』)として神聖視された。
その後、製陶の技術が進んでも古儀にならい、祭事の神饌を盛るのに用いられたため、瑞祥・信仰的意義から、神職の家が柏葉を家紋とするようになった。
伊勢神宮の久志本氏、熱田神宮の千秋氏、宗像神社の宗像氏、吉田神道のト部氏、備前吉備津宮の大守氏などは、いずれも柏紋を用いた。
−参考文献 日本「家紋由来」総覧−
使用神社の例
(玄松子が参拝し確認したもの)
十日恵比須神社 福岡県福岡市博多区東公園
日御碕神社 島根県出雲市大社町日御碕455
飛鳥坐神社 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708
比賣久波神社 奈良県磯城郡川西町大字唐院字教塚743
橿原神宮 奈良県橿原市久米町934 すごい!特別出演!
天健金草神社 島根県隠岐郡隠岐の島町都万砂子谷4245−3
須佐神社 島根県出雲市佐田町須佐
眞氣命神社 島根県隠岐郡西ノ島町宇賀402
神代神社 島根県出雲市斐川町神庭字宇屋谷485
竃山神社 和歌山県和歌山市和田438
西宮えびす神社 兵庫県西宮市社家町1−17
佐久多神社 島根県松江市宍道町上来待551
伊豆田神社 高知県土佐清水市下ノ加江字西高知山
朝椋神社 和歌山県和歌山市鷺の森明神丁22
船路八幡宮 山口県山口市徳地船路2617
総社 高知県南国市国分国分寺境内
天忍穂別神社 高知県香南市香我美町山川字スミガサコ
爾自神社 長崎県壱岐市郷ノ浦町有安触997
殖田神社 高知県南国市植田字東野1267
劔神社 山口県防府市大字高井1154−1
楢本神社 石川県白山市宮丸町1
山内神社 高知県高知市鷹匠町2−4−65
八倉比賣神社 徳島県徳島市国府町矢野531
三谷神社 島根県出雲市大津町下来原3559
倭文神社 群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東380 群馬ですが倭文神社だから
唐松神社 秋田県大仙市境字下台94
栗原神社 岐阜県高山市上宝町宮原350
幡井神社 鳥取県鳥取市青谷町絹見802
鸕宮神社 三重県伊賀市島ケ原4689 伊賀市
宿那彦神像石神社 石川県七尾市黒崎町ヘ28−3
櫟原神社 富山県滑川市神明町1177
多賀大社 滋賀県犬上郡多賀町多賀604
櫟原神社 富山県滑川市柳原1706
事代主神社 徳島県阿波市市場町伊月字宮ノ本100−1
天津神社 島根県邑智郡美郷町吾郷
若宮神社 石川県羽咋郡志賀町小室2−61
和多理神社 鳥取県八頭郡八頭町郡家殿字地主500
那閉神社 静岡県焼津市浜当目3−14−13 焼津市
津門神社 島根県江津市波子町イ1018
建布都神社 徳島県阿波市土成町郡字建布都569
日吉神社 石川県七尾市中島町豊田町ヲ42
賀茂神社 島根県邑智郡邑南町阿須那3
神島神社 岡山県笠岡市神島外浦1706
伊達神社 宮城県加美郡色麻町四竈字町3
伊智神社 兵庫県豊岡市日高町府市場字楮根935
白濱神社 伊古奈比・命神社 静岡県下田市白浜2740 静岡下田市
庭田神社 兵庫県宍粟市一宮町能倉1286
岩根神社 島根県江津市嘉久志町字鑪山2454−1
蛭児神社 京都府京丹後市久美浜町湊宮1662
八幡神社 長野県佐久市蓬田101
鵄栖神社 岐阜県大垣市室本町3−2
阿毘地神社 京都府福知山市興567
足次山神社 岡山県井原市井原町25
山水元神社 長野県下高井郡木島平村大字上木島字向原3131
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月10日 14時17分44秒 ) | パスワード |
http://hakko-daiodo.com/kamon-c/cate2/kashiwa/kashiwa5.html
丸に三つ柏紋
丸に三つ柏紋は柏紋の一種で、ブナ目ブナ科に属するカシワの木の葉の部分をモチーフとして、図案化した植物紋です。
家紋のモチーフとなったこのカシワの葉ですが、このカシワの語源は、炊葉(かしぐは)で、かつては、食料を煮炊きしたり、それを盛ったりした葉であるから、このように呼ばれるようです。
かつてと言っても、それは相当昔の事で、聖徳太子の時代には、すでに立派な食器が利用されていたようですが、神饌(お供え物)を供する神道の儀式では、依然としてカシワの葉を器として用いていたそうです。
現代でも、天皇陛下ご自身で行われる宮中祭祀では、神饌のお供へに用いる、窪手や枚手といった器類は、カシワの葉が利用されています。
神道の祭祀施設(神宮や大社を始めとした神社の事)に参拝の際、儀式の一環として、かしわ手を打つという手順を踏みますが、このかしわ手の「かしわ」もカシワの木に由来しています。
このように、カシワの木は神道の儀式に深い関わりを持っている事から、柏紋を神紋として用いる神社も多かったですし、各々の社の神事を司る神官(神主)の家柄や、その社の氏子などは、家紋として用いるケースもあったようです。
ここね
↓
有名なところでは、伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の神職家の一つである久志本家や、
熱田神宮の大宮司の家柄の千秋家などが、自家の家紋として用いています。
↑
やっぱり伊勢神宮や熱田神宮との関係もアリかも
このような経緯で、柏紋の家紋としての使用が始まりましたが、その後一般的にも、翌年に新芽が出るまで古い葉が落ちない特性から「代が途切れない」意味合いで縁起物とされ、家紋に用いる動きが生まれました。
現代においても、十大紋とまでは行きませんが、全国的にそれなりのシェアを誇っています。
なお、餅をカシワで包むという、端午の節句に欠かせない柏餅の由来もこの縁起を担いでいるそうです。
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月10日 14時28分49秒 ) | パスワード |
http://www.ippongi.com/2011/12/23/kashiwa/
えびす神社があ〜〜〜
柏紋 −海の人々に奉られた神の紋− 島左近、森鴎外、青島幸男...
柏手を打つという言葉がある通り、柏は神道と関係が深い植物である。
宗像神社に奉仕する宗像氏、伊勢神宮に奉仕する久志本氏、熱田神宮に奉仕する千秋氏、吉田神社に奉仕する卜部氏など、神官関連に柏紋を使用する家が多い。
ここも!
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また、神社自体の紋としては、恵比寿神社の神紋が有名であるが、
どちらかと言えば、海人系の人々に好まれたのではないか。
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ここも!
全国分布では、比較的に東日本で多い。
北から、秋田県、宮城県、山形県、千葉県、三重県、大阪府などでベスト3に入っている。
三重>千葉>宮城という海の道がそれとなく見えてくる。
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三重?!
全国的には4位にランクされている。
逆に少ないところは、広島県と佐賀県で13位、山口県、高知県で12位。
柏紋を持つ有名人は以下。
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吉田兼好 。1283年 - 1352年、 遁世者・歌人・随筆家。
本名は卜部兼好。卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄。父兼顕も吉田神社の神職。出家したことから兼好法師とも呼ばれる。日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者。また私家集『兼好法師家集』がある。家紋は抱き柏紋。
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葛西晴信 。1534年 - 1597年、 大名。
陸奥国出身。第15代当主葛西晴胤の子で葛西氏の第17代当主。上洛して時の天下人・織田信長に謁見して所領を安堵されたが、後に、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣できず、改易される。家紋は三つ柏紋。画像は「信長の野望」の葛西晴信。
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島左近 。1540年6月9日 - 1600年10月21日、 武将。
大和国の国人の家系に出生。筒井順慶、豊臣秀長・豊臣秀保らに仕えた後、浪人となって近江に隠棲。石田三成の説得により仕官を受け入れ、当時の三成の禄高4万石のうち2万石の俸禄で召し抱えられた。関が原の戦いで壮絶死。家紋は三つ柏。
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中川清秀 。1542年 - 1583年6月10日、 武将。
はじめ摂津の豪族であった池田勝正に仕えた。清和源氏頼光流の多田源氏の後裔。本能寺の変で信長が横死した後は羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。賤ケ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、戦死。家紋は中川車と中川柏。
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宗像氏貞 。1545年 - 1586年4月22日、 武将。
宗像正氏の庶子として生まれる。兄の死後、家督相続争いに勝ち、宗像大宮司に補任され、宗像総領を継いだ。大友氏、毛利氏、秋月氏などの間で家の存続に腐心するが、豊臣秀吉の九州征伐前に急死した。家紋は丸に一枚柏紋
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山内一豊 。1545年 - 1605年11月1日、 武将。
尾張国葉栗郡出身。豊臣秀吉に仕え、出世し、家康に土佐20万石を与えられ土佐藩初代藩主となる。妻・見性院の内助の功は有名。2006年の大河ドラマ『功名が辻』の主役となる。定紋は土佐柏だが他にも桐、白黒一文字等多くの替紋を持つ。
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栗山利安 。1550年 - 1631年9月10日、 武将。
播磨国の黒田孝高の側近として仕える。通称は善助。黒田氏の筆頭家老。黒田二十四騎、黒田八虎の1人である。子に黒田騒動を起こした事で有名な利章がいる。黒田家臣の母里友信と義兄弟の契りを結んでいた。家紋は丸に三つ柏紋。
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本因坊算砂 。1559年 - 1623年6月13日、 囲碁の棋士。
舞楽宗家の加納与助の子として生まれる。本姓は加納。兄(叔父)の日蓮宗の僧・日淵に弟子入りして出家。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という三英傑に仕え寵愛された。家康から碁打ち・将棋指しへの連絡係に任ぜられて後の家元制度の基礎となった。
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八百屋お七 。1668年 - 1683年4月25日、 八百屋太郎兵衛の娘。
下総国千葉郡萱田で生まれる。幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。生年については1666年(丙午の年)とする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となる。家紋は丸に三つ柏紋。画像は文京区円乗寺の墓所にて撮影。
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喜多川歌麿 。1753年 - 1806年10月31日、 浮世絵師。
出生地は江戸市中、あるいは京、大坂、栃木、川越と諸説がある。版元の蔦屋重三郎の援助を得て「当時全盛美人揃」「娘日時計」「北国五色墨」など優れた大首半身物の美人画を刊行。家紋は丸に三つ柏紋。残存する肖像画より判断。
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高田屋嘉兵衛 。1769年2月7日 - 1827年4月30日、 廻船業者。
淡路島の農民の子として生まれる。家紋は丸に違い柏紋。18歳で廻船業者を志して出て、後に本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。ゴローニン事件でカムチャツカ半島へ連行されるが、翌年帰国。司馬遼太郎の歴史小説『菜の花の沖』で有名になる。
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牧野忠恭 。1824年10月22日 - 1878年9月1日、 藩主。
江戸出身。三河国西尾藩主・大給松平乗寛の三男。越後長岡藩の第10代藩主・牧野忠雅の養子となる。読みは、まきのただゆき。河井継之助を公用人として重用し、藩政改革を行う。寺社奉行、京都所司代などの要職を歴任。家紋は丸に三つ柏紋。
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[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月10日 14時31分32秒 ) | パスワード |
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高島嘉右衛門 。1832年12月24日 - 1914年10月16日、 易断家。
江戸三十堀間町に生まれる。父は遠州屋嘉衛門(本姓は薬師寺)。材木屋、磁器販売などを手がける。横浜発展に寄与し高島町にその名前を残す。その後も愛知セメント株式会社を興す。易断による占いでも特に有名で今でも「易聖」と呼ばれている。
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山崎烝 。1833年 - 1868年2月6日、 新選組隊士。
摂津国大坂出身。生家は医家または薬種問屋。読みは、やまざきすすむ。新選組隊士(諸士調役兼監察)。池田屋事件、禁門の変、第一次・第二次長州征討などでも戦況の推移や状況報告に能力を発揮した。家紋は丸に違い柏紋。顔画像は「薄桜鬼」より。
高橋泥舟 。1835年3月15日 - 1903年2月13日、 武士・幕臣。
江戸出身。旗本・山岡正業の次男。婿養子として山岡家に入った山岡鉄舟は義弟にあたる。幕府が鳥羽・伏見の戦い敗戦後、帰京した徳川慶喜に恭順を説いた。勝海舟、山岡鉄舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれている。家紋は丸に抱き細柏紋。
大野右仲 。1837年1月14日 - 1911年6月11日、 新選組隊士。
唐津藩出身。藩士大野勘助の長男。戊辰戦争が勃発すると藩主・小笠原長行に従って会津に入り仙台で新選組に入隊。榎本武揚艦隊と合流して蝦夷地へ渡った。二股口の戦から土方歳三の補佐役を務めた。家紋は三つ柏紋。天王寺墓地にて撮影。
桂文楽(4代) 。1838年12月26日 - 1894年1月28日、 落語家。
本名、新井文三。口癖で「デコデコ」とよく言っていたため「デコデコの文楽」と呼ばれた。人情噺が得意で『音羽丹七』は絶品であったという。得意ネタは『居残り佐平次』『たちきり』など。家紋は丸に三つ柏紋。画像は谷中・観音寺にて撮影。
相楽総三 。1839年 - 1868年3月26日、 赤報隊隊長。
下総相馬郡の郷士小島兵馬の四男として江戸・赤坂に出生。江戸薩摩藩邸の焼討事件の端緒を作り赤報隊を組織するが偽官軍とされ捕縛される。顔画像はアニメ「るろうに剣心」の相楽総三。家紋は三つ重ね柏紋。画像は青山霊園(立山墓地)にて撮影。
加納鷲雄 。1839年12月14日 - 1902年10月27日、 新選組隊士。
伊豆国賀茂郡加納村に農民・高野伴平の長男として出生。伊東甲子太郎らと新選組の隊士募集に応じて入隊したが御陵衛士の結成に伴い新選組を離脱。油小路事件では難を逃れて脱出し、後に近藤勇を襲撃。家紋は丸に抱き柏紋。画像は青山霊園にて撮影。
渋沢栄一 。1840年3月16日 - 1931年11月11日、 実業家。
武蔵国血洗島村に養蚕、米、麦、野菜の生産も手がける豪農の家に生れる。第一国立銀行や王子製紙・日本郵船・東京証券取引所といった多種多様の企業の設立・経営に関わり日本資本主義の父と呼ばれる。家紋は丸に違い柏。谷中霊園の渋沢家墓所にて。
境川浪右衛門 。1841年5月28日 - 1887年9月16日、 相撲力士。
下総国葛飾郡出身。本名は宇田川政吉、のちに市川政吉から市川浪右衛門。第14代横綱。28場所118勝23敗71分5預63休、勝率.837。優勝相当成績5回。歴代横綱の中で引分率が最も高い。家紋は丸に三つ柏紋。画像は江東区・聞明寺にて撮影。
沖守固 。1841年8月13日 - 1912年10月7日、 政治家。
鳥取藩士・江戸詰絵師、沖一峨の長男として江戸で生まれる。内務省に入り内務少書記官となる。神奈川県知事、長崎県知事、元老院議官、滋賀県知事、和歌山県知事、大阪府知事、愛知県知事を歴任。家紋は二つ蔓柏紋。青山霊園の墓所にて撮影。
安保清康 。1843年1月30日 - 1909年10月27日、 海軍軍人。
備後国御調郡の医師・林金十郎の四男として出生。坂本龍馬の遺体を鳥野辺に埋葬したとされる。戊辰戦争・佐賀の乱・西南戦争に出征。海軍中将に進級し、海軍大学校長、佐世保鎮守府長官を歴任。家紋は丸に実付き三つ柏紋。青山霊園の墓所にて撮影。
高島鞆之助 。1844年12月18日 - 1916年1月11日、 陸軍軍人。
薩摩国出身。藩士高島喜兵衛の四男。読みは、たかしまとものすけ。第1次松方内閣の陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。大阪偕行社附属小学校(現在の追手門学院小学校)を創設。陸軍大将野津道貫は義弟。家紋は抱き鬼柏に剣菊紋。画像は青山霊園にて撮影。
吉原重俊 。1845年5月15日 - 1887年12月19日、 官僚。
薩摩国出身。攘夷派の志士として薩英戦争の際、大山巌や西郷従道らとともに英艦に乗り込もうとするが失敗したという。維新後は、官僚として、活躍。外務省書記官、日本銀行初代総裁等を歴任した。家紋は丸に三つ柏紋。画像は青山霊園にて撮影。
園田実徳 。1849年1月14日 - 1917年2月18日、 政治家。
薩摩国出身。読みは、そのださねのり。明治維新後開拓使として北海道函館に渡り、同市をはじめとする道南地方の経済発展に貢献した。北海道銀行創業者。目黒競馬場の建設に携わり、日本競馬会の会長も務めた。家紋は柏巴紋。画像は青山霊園にて撮影。
寺内正毅 。1852年2月24日 - 1919年11月3日、 政治家。
周防国山口出身。長州藩士宇多田正輔の三男。読みは、てらうちまさたけ。母方の寺内勘右衛門の養嗣子となる。陸軍大臣、外務大臣、韓国統監、朝鮮総督、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は亀甲に三つ柏紋。
矢代操 。1852年8月5日 - 1891年4月2日、 民法学者。
越前国にて鯖江藩士松本伝互の三男として生まれる。読みは、やしろみさお。岸本辰雄、宮城浩蔵とともに、明治法律学校(後の明治大学)を創立した。元老院書記官、貴族院書記官を歴任。家紋は抱き柏紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
安東貞美 。1853年10月20日 - 1932年)8月29日、 陸軍軍人。
信濃 飯田藩出身。藩・槍術師範・安東辰武の三男として出生。父の辰武は信濃松本藩槍術師範・菅沼政治の子。台湾総督・朝鮮駐剳軍司令官や第10・第12師団長を歴任。階級は陸軍大将勲一等功三級男爵。家紋は丸に三つ柏紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
御木本幸吉 。1858年3月10日 - 1954年9月21日、 実業家。
志摩国鳥羽浦出身。うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成し、御木本真珠店(現・ミキモト)を創業。真珠王と言われた。家紋は丸に一の角字と三つ追い柏。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
嘉納治五郎 。1860年12月9日 - 1938年5月4日、 教育者。
摂津国御影村出身。家業は酒造・廻船を営む。柳宗悦は甥にあたる。講道館柔道の創始者であり柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力。柔道の父と呼ばれる。画像は雑司ヶ谷霊園の父・次郎作の墓で撮影。
落合豊三郎 。1861年4月7日 - 1934年3月31日、 陸軍軍人。
江戸出身。松江藩士・落合鍬蔵の三男。日露戦争では、第2軍参謀長として出征した。その際、部下と対立。以後、関東総督府陸軍参謀長、交通兵旅団長などを歴任。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に三つ柏紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
牧野伸顕 。1861年11月24日 - 1949年1月25日、 政治家。
薩摩国出身。大久保利通の二男。生後間もなく利通の義理の従兄弟・牧野吉之丞の養子となる。文部大臣、農商務大臣、外務大臣を歴任。第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。家紋画像は青山霊園の墓所にて撮影。
森鴎外 。1862年2月17日 - 1922年7月9日、 小説家。
石見国津和野出身。森家は代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる。文学においては理想や理念などを描くべきだとする理想主義を掲げた。代表作は、「舞姫」「青年」「阿部一族」「高瀬舟」など。家紋は乱れ追い重ね九枚柏という変り紋。
村井吉兵衛 。1864年2月29日 - 1926年1月2日、 実業家。
京都の煙草商の次男として誕生。先代叔父吉右衛門の養子となり家督を相続する。明治時代にヒーローという煙草を大ヒットさせ、「煙草王」と呼ばれた。事業を多角化し村井財閥を形成。家紋は丸に三つ柏紋。画像は旧村井邸(長楽館)の門にて。
山梨半造 。1865年8月8日 - 1937年1月24日、 陸軍軍人。
相模国大住郡出身。田村怡与造は義父。本間雅晴は義弟。原敬内閣の陸軍大臣となり、陸軍大将に進級。高橋内閣・加藤友三郎内閣にも留任。2度にわたり軍縮(「山梨軍縮」)を実行した。家紋は丸に三つ柏紋。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。
森永太一郎 。1865年8月8日 - 1937年1月24日、 実業家。
肥前伊万里出身。生家は焼き物や魚類を商う卸問屋。森永製菓の前身・森永西洋菓子製造所を設立。主にマシュマロを製造していたが後にキャラメルを主力製品とする。安倍晋三元首相夫人昭恵は曾孫にあたる。家紋は丸に抱き鬼柏。青山霊園の墓所にて撮影。
山下亀三郎 。1867年5月12日 - 1944年12月13日、 実業家。
伊予国宇和郡河内村出身。庄屋・山下家の7人兄弟の末子として生まれた。読みは、やましたかめざぶろう。山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者。勝田銀次郎、内田信也と並ぶ三大船成金の一人。家紋は丸に三つ柏紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
大森房吉 。1868年10月30日 - 1923年11月18日、 地震学者。
越前国足羽郡福井出身。下級武士・大森藤輔の五男。世界初の連続記録可能な大森式地震計を開発。また初期微動継続時間から震源までの距離を割り出す大森公式も発表。日本地震学の父と呼ばれている。家紋は丸に三つ柏紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
白川義則 。1869年1月24日 - 1932年5月26日、 陸軍軍人。
伊予国出身。松山藩士白川親応の三男。上海派遣軍司令官、関東軍司令官、陸軍大臣、軍事参議官等を歴任。上海での天長節祝賀会で爆弾に遭って重傷を負いそれが元で死去。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に軸付柏巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
三土忠造 。1871年8月11日 - 1948年4月1日、 政治家。
香川県大内郡出身。読みは、みつちちゅうぞう。宮脇姓であったが、三土家に養子入りしたために三土姓を名乗る。文部大臣・大蔵大臣・逓信大臣・鉄道大臣・内務大臣を歴任した戦前政界の重鎮。家紋は丸に土佐柏紋。青山霊園の墓所にて撮影。
菱田春草 。1874年9月21日 - 1911年9月16日、 日本画家。
長野県飯田に生まれた。本名は三男治。岡倉天心の門下で明治期の日本画の革新に貢献し日本美術院の創設に参加。伝統的な日本画の世界に様々な斬新な技法を導入。代表作は『寡婦と孤児』『紅葉山水』『黒き猫』。画像は中野・大信寺墓地にて撮影。
林銑十郎 。1876年2月23日 - 1943年2月4日、 政治家。
石川県金沢市出身。豪快なヒゲにもかかわらず素顔は謹厳、温厚だった。第33代内閣総理大臣時代に特に何もしなかったことから、名前を取って「何にもせんじゅうろう内閣」と揶揄された。最終階級は陸軍大将。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
窪田空穂 。1877年6月8日 - 1967年4月12日、 歌人。
長野県東筑摩郡和田村生まれ。本名は窪田通治。読みは、くぼたうつぼ。与謝野鉄幹選歌の「文庫」に投稿をする。鉄幹から勧誘され「明星」にも参加。代表歌集は『まひる野』『土を眺めて』等。家紋は抱き柏紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。
山内多門 。1878年4月29日 - 1932年5月30日、 日本画家。
宮崎県都城市倉之馬場通東に山内勝麿の子として生まれる。読みは、やまうちたもん。川合玉堂に入門、雅号都洲を授かる。翌年、橋本雅邦に師事する。代表作は「秋渓」「驟雨」「日光山の四季」など。家紋は丸に抱き柏紋。画像は多磨霊園にて撮影。
馬場・一 。1879年10月5日 - 1937年12月21日、 官僚。
東京府芝区出身。旧幕藩士・山本時光の長男。日本勧業銀行総裁を経て広田弘毅内閣に大蔵大臣として入閣。増税と公債増発を発表(内閣総辞職のため実現はせず)。また、近衛文麿内閣では内務大臣も務めた。家紋は丸に五徳柏紋。画像は多磨霊園にて撮影。
内田信也 。1880年12月6日 - 1971年1月7日、 政治家。
茨城県行方市出身。旧常陸麻生藩士の子。山下亀三郎、勝田銀次郎と並ぶ三大船成金の一人。船舶事業で財を成した後、政界にも進出し宮城県知事、鉄道大臣、農商務大臣、農林大臣等を歴任した。家紋は抱き柏紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
大谷米太郎 。1881年7月24日 - 1968年5月19日、 実業家。
富山県小矢部市出身。貧農の家庭に長男として出生。裸一貫から力士、酒屋、鉄鋼業などを経て、ホテルニューオータニを創業。浮世絵のコレクターとしても知られそのコレクションはニューオータニ美術館に所蔵。画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。
蓮沼門三 。1882年2月22日 - 1980年6月6日、 社会事業家。
福島県耶麻郡相川村(現・喜多方市山都町)出身。東京府師範学校に入学、在学中に同志とともに修養団を創立する。渋沢栄一などの援助を受け、修養団の主幹として日本の社会教育の発展に尽した。家紋は丸に三柏紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
小菅丹治 。1882年4月27日 - 1961年9月16日、 実業家。
神奈川県足柄上郡川村出身。旧姓:高橋。1908年に伊勢丹呉服店に入社。初代・小菅丹治(伊勢丹創業者)の養子となり、2代目小菅丹治を襲名。関東大震災後に百貨店形式にする。新宿に本店オープン。家紋は丸に三柏紋。画像は本行寺の墓所にて撮影。
北一輝 。1883年4月3日 - 1937年8月19日、 思想家・社会運動家。
新潟県佐渡島両津湊町の酒造屋に出生。上京し社会主義思想に接近。中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。二・二六事件の理論的首謀者とされ死刑。主著は『国家改造案原理大綱』『日本改造法案大綱』。画像は弟・北・吉の墓所で撮影。
岩村通世 。1883年8月21日 - 1965年3月13日、 政治家。
東京市神田区神保町出身。読みは、いわむらみちよ。岩村通俊の五男。海軍中将の岩村俊武は兄。林有造は叔父。太平洋戦争開戦時の日本の司法大臣。A級戦犯として逮捕されたが無罪で釈放された。家紋は抱き柏紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
安成貞雄 。1885年4月2日 - 1924年7月23日、 批評家。
秋田県出身。『火鞭』の同人で『近代思想』『新社会』などに関わり大正三奇人の一人と称された。旺盛な読書力と優れた英語力で「学東西に亘り、識古今を貫き」と称された。主著は『文壇与太話』。家紋は雪輪に違い柏紋。画像は池上本門寺にて撮影。
石川一郎 。1885年11月5日 - 1970年1月20日、 経営者。
東京都出身。石川卯一郎の長男。武蔵工業大学(現東京都市大学)学長の石川馨は長男。日本商工会議所会頭の石川六郎は六男。東京帝国大学助教授、日産化学工業社長を経て、経団連初代会長に就任。家紋は丸に三つ柏紋。画像は染井霊園の墓所にて。
葛西善蔵 。1887年1月16日 - 1928年7月23日、 小説家。
青森県弘前市に生まれ。生家は広く商売(米の仲買業等)をしていたが、善蔵が2歳のときに没落。ほとんどが自らの体験をつづった〈私小説〉プロレタリア作家。代表作は『哀しき父』『子をつれて』『椎の若葉』等。墓所は鎌倉市の建長寺塔頭の回春院。
重光葵 。1887年7月29日 - 1957年1月26日、 外交官、政治家。
大分県大野郡出身。士族・重光直愿の次男。読みは、しげみつまもる。母の実家の養子となり重光家26代目の当主となる。大東亜戦争中に外務大臣を務めポツダム宣言に調印。国際連合加盟に尽力。画像は多磨霊園の兄・簇(あつむ)の墓所の丸に三つ柏紋。
里見とん 。1888年7月14日 - 1983年1月21日、 小説家。
横浜出身。本名は山内英夫。母の弟の山内英郎の養子となり山内姓となる。『恋ごころ』で読売文学賞を受賞。代表作は『善心悪心』『多情仏心』。『彼岸花』は小津映画のために書き下ろした。家紋画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に土佐柏紋。
松旭斎天洋 。1888年9月21日 - 1980年9月30日、 奇術師。
福井県敦賀市出身。本名は山田松太郎。子供の頃は大阪で丁稚奉公をしていた。母親は奇術師の松旭斎天一の姉であった縁で松旭斎天一に弟子入り。「天洋奇術研究所」を創立し、実演販売を行う。初代の日本奇術協会会長。家紋は三つ柏紋。
牧野虎雄 。1890年12月15日 - 1946年10月18日、 洋画家。
新潟県出身。読みは、まきのとらお。木村荘八、中川紀元、福田平八郎たちと六潮会を、また、藤田嗣治、中川一政らと邦画一如会を結成した。代表作は「漁村」「凧揚(たこあげ)」「後向きの裸婦」「明るい部屋」 など。家紋は丸に三つ柏紋。
広津和郎 。1891年12月5日 - 1968年9月21日、 小説家。
東京都出身。父は小説家・広津柳浪。好景気時代に悩むインテリ青年の苦悩を描く。代表作は『神経病時代』『続年月のあしおと』等。また『父と娘』は小津安二郎の映画『晩春』の原作となる。家紋は丸に片手蔓柏紋。画像は谷中霊園にて撮影。
石井四郎 。1892年6月25日 - 1959年10月9日、 陸軍軍人。
千葉県山武郡芝山町出身。ノモンハン事件では、石井が初代部隊長を勤めた関東軍防疫給水部(731部隊)は給水活動に活躍。また、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関を主導したといわれている。家紋は丸に抱き柏紋。画像は月桂寺にて撮影。
尾竹紅吉 。1893年3月4日 - 1966年9月22日、 運動家。
富山出身。本名は、尾竹一枝。読みは、おたけこうきち。日本画家・尾竹越堂の長女。尾竹竹坡は叔父。青鞜社入社後、表紙などを担当。青鞜社退社後に富本一枝という筆名で評論を発表。家紋は丸に三つ立ち柏紋。画像は谷中霊園の尾竹家の墓所にて撮影。
蝋山政道 。1895年11月21日 - 1980年5月15日、 政治学者。
新潟県刈羽郡出身。群馬県高崎市で育つ。吉野作造の影響を受け政治学の研究を志す。二・二六事件に際して『帝国大学新聞』に軍部批判の論説を掲載。中央公論社副社長、『中央公論』編集主任、お茶の水女子大学学長。画像は小平霊園の墓所にて撮影。
横田喜三郎 。1896年8月6日 - 1993年2月17日、 最高裁判所長官。
愛知県の呉服商兼農業の家庭の三男として出生。親社会主義的な法学者として知られ、著書『天皇制』において天皇制廃止を主張したが、晩年は保守的な思考を強め、天皇から勲章を賜る。家紋は丸に三つ柏紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。
岸信介 。1896年11月13日 - 1987年8月7日、 官僚。
山口県吉敷郡山口町出身。県庁官吏・佐藤秀助の五男として誕生。婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。内閣総理大臣佐藤栄作は実弟、安倍晋三は外孫。内閣総理大臣(第56・57代)。家紋は丸に剣三つ柏紋。画像は冨士霊園の墓所にて撮影。
松井翠声 。1900年4月9日 - 1973年8月1日、 俳優。
東京出身。本名は五百井(いおい)清栄。読みは、まついすいせい。活動写真(無声映画)、とくに外国映画の弁士として活躍。徳川夢声のナヤマシ会に参加。NHKラジオ「陽気な喫茶店」に出演。家紋は三つ柏紋。画像は鎌倉寿福寺の墓所にて撮影。
島耕二 。1901年2月16日 - 1986年9月10日、 映画監督。
長崎県長崎市に、医者の息子として生まれる。二枚目俳優として内田吐夢、阿部豊、溝口健二などの作品に出演。監督に転向し、『風の又三郎』『次郎物語』などで好評を得る。家紋は丸に五徳柏紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
青山二郎 。1901年6月1日 - 1979年3月27日、 美術評論家。
東京市麻布区出身。中学時代から中国・朝鮮や日本の焼き物を探求。一時期、柳宗悦や浜田庄司たちの民芸運動に参加。小林秀雄、中原中也、永井龍男、白洲正子、宇野千代などと交わる。家紋は丸に三つ柏紋。画像は谷中・玉林寺にて撮影。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月10日 14時32分33秒 ) | パスワード |
多過ぎるのでだんだん手抜き
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嶋田叡 。1901年12月25日 - 1945年6月27日、 沖縄県知事。
神戸市須磨区の開業医・島田五十三郎の長男として出生。読みは、しまだあきら。高校野球で夏の県大会優勝校には「島田杯」が授与されるなど、現在でも沖縄県民に愛された知事として記憶されている。家紋は丸に三つ柏紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
山内恭彦 。1902年7月2日 - 1986年10月14日、 理論物理学者。
神奈川県出身。祖父は函館戦争で榎本武揚に随行した山内六三郎。読みは、やまのうちたかひこ。群論を使って原子構造を解明。「原子スペクトル理論への群論の応用」で日本学士院賞を受賞。家紋は丸に土佐柏紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。
菊谷栄 。1902年11月26日 - 1937年11月9日、 喜劇作家。
青森県東津軽郡油川村大浜(現在の青森市)出身。本名は菊谷栄蔵。青森市の油屋菊谷永太郎の次男。、エノケン劇団の旗揚げ公演にオペレッタ『リオ・リタ』を提供。“作劇十則”は井上ひさしに大きな影響を与えた。家紋は丸に抱き柏紋。
香山滋 。1904年7月1日 - 1975年2月7日、 小説家。
東京府出身。本名は山田・治(やまだ こうじ)。読みは、かやましげる。ゴジラの原作者として知られている。代表作は『霊魂は訴える』『海鰻荘奇談』『オラン・ペンデクの復讐』など。家紋は三追柏。画像は新宿区愛住町浄運寺の墓所にて撮影。
速水健司 。1905年12月 - 1990年8月30日、 実業家。
栃木県小山市出身。入谷に家具問屋速水商店を開業。家具卸商業組合・家具健康保険組合理事長など要職につく。かつては、テレビCMも放映するほど繁栄したが現在は閉店している。家紋は丸に抱き柏紋。画像は谷中・寛永寺霊園の墓所にて撮影。
樋口清之 。1909年1月1日 - 1997年2月21日、 歴史作家。
奈良県桜井市出身。考古学者としては静岡県の登呂遺跡の発掘を行う。代表作として『梅干と日本刀』『逆・日本史』『今日の風土記』。代表作の『梅干と日本刀』から「うめぼし博士」「梅干先生」と称される。家紋は九枚柏紋。画像は豪徳寺にて撮影。
山野愛子 。1909年1月20日 - 1995年7月31日、 美容家。
東京・向島出身。実家は洋食食堂を経営。中野に山野美容講習所(現在の山野美容専門学校)を開設。山野美容芸術短期大学を設立、初代学長に就任。生涯をヤマノグループ創始者として日本美容界発展に貢献した。画像は中野・高徳寺にて撮影。
斎藤邦吉 。1909年6月26日 - 1992年6月18日、 政治家。
福島県出身。衆議院議員(12期)。自民党内では宏池会に所属し、伊東正義、佐々木義武とともに「大平派三羽烏」と呼ばれた。自民党幹事長、厚生大臣、行政管理庁長官などを歴任。家紋は丸に三つ柏紋。画像は池上本門寺にて撮影。
土門拳 。1909年10月25日 - 1990年9月15日、 写真家。
山形県酒田市に父・熊造の長男として誕生。絶対非演出のリアリズム写真を主張したリアリズム系の写真家。日本の庶民、仏像等の撮影に特に才能を発揮。また、日本の写真界屈指の名文家としても知られた。家紋は丸に三つ柏。画像は八柱霊園にて撮影。
斎藤栄三郎 。1913年6月19日 - 2000年7月9日、 評論家。
東京府出身。読みは、さいとうえいざぶろう。日経新聞記者、NHK解説委員を経てフリーの経済評論家となりTBSの『時事放談』出演等で活躍後、参議院議員に転身。第1次海部内閣の科学技術庁長官を務めた。家紋の丸に抱き柏紋は池上本門寺にて撮影。
沢村栄治 。1917年2月1日 - 1944年12月2日、 プロ野球選手。
三重県宇治山田市出身。夏の高校野球(中学野球)全国大会で1試合23奪三振を記録。静岡県草薙球場で開催されたアメリカメジャーリーグ選抜軍との試合に登板し好投。巨人入団後も活躍。プロ野球史上初となるMVPに選出される。家紋は丸に三つ柏紋。
吉岡実 。1919年4月15日 - 1990年5月31日、 詩人、装幀家。
東京本所の生まれ。芸術至上主義詩人として戦後詩に多大な影響を与える。代表作は『昏睡季節』『液体』『僧侶』『サフラン摘み』『薬玉』。全284篇の詩作品と150点余りの装丁作品を遺した。家紋は、丸に三柏。画像は巣鴨の真性寺にて撮影。
野村芳太郎 。1919年4月23日 - 2005年4月8日、 映画監督。
京都府出身。父・野村芳亭は日本の映画監督の草分け的存在。1946年に復員後、黒澤明の助監督を務め、『鳩』で監督デビュー。代表作は『張込み』『砂の器』『鬼畜』『八つ墓村』等。家紋は丸に三つ柏紋。画像は和田堀廟所の野村家墓所にて撮影。
吉葉山潤之輔 。1920年4月3日 - 1977年11月26日、 大相撲力士。
北海道厚田郡厚田村出身。本名は池田潤之輔。第43代横綱。1954年1月場所、全勝で悲願の初優勝。引退後、年寄・宮城野を襲名。宮城野部屋を開設する。白鵬の不知火型での土俵入りは吉葉山から継承したもの。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。
コロムビア・トップ 。1922年5月6日 - 2004年6月7日、 漫才師。
東京都台東区浅草出身。本名は下村泰。鳥屋二郎と組みコロンビア・トップ・ライトのコンビで風刺漫才を得意とした。青空一門の総帥として漫才協団を率いる。また、参議院議員として障害者福祉に取り組んだ。画像は目黒・東光寺にて撮影。
西村晃 。1923年1月25日 - 1997年4月15日、 声優。
北海道札幌市出身。大東亜戦争中は特攻隊員であったが、出撃直前に終戦を迎えている。テレビドラマ『水戸黄門』の二代目・徳川光圀役として有名。代表出演作は「赤い殺意」「黒蜥蜴」など。家紋は三つ追い柏。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
岡本喜八 。1924年2月17日 - 2005年2月19日、 映画監督。
鳥取県米子市出身。本名は岡本喜八郎。代表作は『独立愚連隊西へ』『江分利満氏の優雅な生活』『肉弾』『大誘拐』等。すべてのカットをコンマ秒単位で決めた上で撮影に臨んだといわれる技巧派の監督。家紋は丸に三つ柏。画像は春秋苑にて撮影。
加納貢 。1926年 - 2004年9月28日、 愚連隊。
東京新宿出身。読みは、かとうみつぐ。父は八千代銀行創業者で東京の初台一帯から新宿にかけての地主・加納直。太平洋戦争終戦後の混乱期、戦後闇市の守護神と称され「愚連隊の帝王」と呼ばれた。家紋は丸に違い柏紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
山口瞳 。1926年11月3日 - 1995年8月30日、 エッセイスト。
東京市麻布区出身。母親は横須賀の柏木田遊郭の経営者。『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞を受賞。競馬、将棋、野球に造詣が深く『草競馬流浪記』など関連作も多い。代表作は『血族』『家族』など。家紋の丸に蔓柏紋は横須賀・顕正寺にて撮影。
牧野茂 。1928年7月26日 - 1984年12月2日、 プロ野球選手。
香川県高松市出身。読みは、まきのしげる。東京六大学リーグを経て、中日ドラゴンズに入団。華麗な守備でファンを魅了。引退後は、巨人軍V9時代の名コーチ、解説者として知られる。1991年に野球殿堂入りした。家紋の丸に三つ柏紋は墓所写真にて確認。
戸浦六宏 。1930年4月30日 - 1993年3月25日、 俳優。
大阪府大阪市出身。読みは、とうらろっこう。本名は東良睦宏。残忍さ溢れる個性的な名悪役で知られる。大島渚が設立した創造社に参加し、大島作品に数多く出演。代表出演作は『竹山ひとり旅』『沈黙』『とべない沈黙』など。家紋は丸に三つ柏紋。
鈴木淑夫 。1931年10月12日 -、 エコノミスト。
東京都千代田区出身。父は大修館書店の創業者・鈴木一平。日本銀行、野村総研を経て、エコノミストとなり、『金融政策の効果』で日経・経済図書文化賞を受賞。また政治家としても活躍。家紋は丸に陰抱き柏紋。画像は護国寺の鈴木家墓所にて撮影。
青島幸男 。1932年7月17日 - 2006年12月20日、 政治家。
東京市日本橋区の仕出し弁当店・弁菊の次男。「スーダラ節」「明日があるさ」等の作詞者、「意地悪ばあさん」の主役俳優。「人間万事塞翁が丙午」で直木賞受賞。政治家としても参議院議員、東京都知事を務める。画像は西日暮里・浄光寺にて撮影。
引田天功 。1934年7月3日 - 1979年12月31日、 催眠術師。
神奈川県横浜市出身。本名は疋田功。師匠は松旭斎天洋。声優の小桜有美、アイドルグループ少女隊のトモは娘。水中や爆発などの極限状態からの脱出マジックを得意とし脱出王の異名を取った。家紋は丸に三つ柏紋。画像は長津田の随流院にて撮影。
大鵬幸喜 。1940年5月29日 - 2013年1月19日、 大相撲力士。
樺太出身。父親はウクライナ人のマルキャン・ボリシコ、母親は日本人の納谷キヨ。納谷は母の姓。第48代横綱。優勝32回、6連覇2回などを記録。現役時の紋付には丸に隅立て四つ目結紋があるが、納谷家の先祖の墓には丸に三つ柏紋がある。
篠山紀信 。1940年12月3日 - 、 写真家。
東京市淀橋区出身。真言宗円照寺の住職家の次男。雑誌『GORO』で山口百恵、松田聖子ら芸能人や素人をモデルにした一連の激写シリーズで知られる。その他、ジョン・レノンや三島由紀夫の撮影をしたことでも有名。家紋は三つ柏紋は実家の墓所にて撮影。
尾上菊五郎(7代) 。1942年10月2日 - 、 歌舞伎役者。
東京都出身。本名は寺島秀幸。屋号は音羽屋。妻は富司純子。長女は女優の寺島しのぶ、長男は五代目尾上菊之助。現代歌舞伎スターにして三之助の一人。人間国宝。家紋は重ね扇に抱き柏紋。画像は雑司が谷墓地の五代目尾上菊五郎の墓所にて撮影。
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月10日 14時33分54秒 ) | パスワード |
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逸見政孝 。1945年2月16日 - 1993年12月25日、 司会者。
大阪府大阪市阿倍野区出身。長男は俳優の逸見太郎。『FNNニュースレポート6:00』『FNNスーパータイム』などのキャスター、『たけし・逸見の平成教育委員会』『夜も一生けんめい。』などの司会を務める。家紋は丸に違い柏紋。
中原誠 。1947年9月2日 - 、 将棋棋士。
鳥取県生まれだが生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。十六世名人・永世十段・永世棋聖・永世王位・名誉王座の5つの永世称号を保持。通算1308勝は大山康晴に次ぎ歴代2位。通算タイトル獲得数64期は歴代3位。画像は春秋苑の生前墓にて。
ガッツ石松 。1949年6月5日 - 、 俳優、タレント。
栃木県出身。本名は鈴木有二。元WBC世界ライト級チャンピオン。引退後は、テレビのバラエティ番組に出演するなどタレント活動を主とし、「OK牧場」などの流行語を生み出す。家紋は三つ蔓柏紋。さつき霊園の生前墓の写真にて確認。
笑福亭鶴瓶 。1951年12月23日 -、 落語家、タレント。
大阪府中河内郡出身。本名は、駿河学。「鶴瓶の家族に乾杯」「ザ!世界仰天ニュース」など多くのレギュラー番組を持つ。家紋の三つ柏紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。落語家としての家紋は笑福亭の定紋の五枚笹紋。
千代の富士貢 。1955年6月1日 - 、 大相撲力士。
北海道松前郡福島町出身。漁師の息子。本名は、秋元貢。第58代横綱。数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱。史上最多の通算勝星・1045勝、幕内最高優勝:31回。九重部屋を継承し、千代大海らを育てる。家紋は丸に三つ柏紋。
萩岡松韻(4代) 。1957年2月10日 -、 箏曲家。
東京都出身。三世萩岡松韻の長男として生まれ5歳で初舞台を踏む。四代目萩岡松韻を継承。伝統文化ポーラ賞優秀賞受賞。現在は山田流箏曲萩岡派宗家。萩岡會会長。東京芸術大学教授。家紋は抱き柏紋。画像は谷中霊園の萩岡家の墓所にて撮影。
桜田淳子 。1958年4月14日 -、 歌手、女優。
秋田県秋田市出身。3枚目のシングル「わたしの青い鳥」のヒットで数々の新人賞を受賞。女優としても映画『愛情の設計』『若い人』等、多数の主演を務めた。家紋の丸に三つ柏紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。
川島なお美 。1960年11月10日 - 、 タレント。
愛知県守山市出身。本名・鎧塚なお美。旧姓は川島。「お笑いマンガ道場」のレギュラーとして活躍。主な出演作は「イグアナの娘」「失楽園」等。広島国際学院大学客員教授、日本ソムリエ協会名誉ソムリエワインの騎士称号を持つ。家紋は丸に一枚柏紋。
池田貴族 。1963年5月8日 - 1999年12月25日、 ミュージシャン。
愛知県名古屋市出身。本名は池田貴。ロックバンド・remoteのボーカリストとしてシングル「NO!」でデビュー。音楽活動以外にも霊感タレントとしても、テレビ等に出演。『池田貴族 戦慄の心霊写真集』『霊的告白』等の著書がある。家紋は三つ柏紋。
北勝海信芳 。1963年6月22日 - 、 大相撲力士。
北海道広尾郡広尾町生まれ。本名は保志信芳。九重部屋所属。第61代横綱。通算成績:591勝286敗109休 勝率.674。幕内最高優勝: 8回。引退後は、年寄・八角信芳として八角部屋(高砂一門)を創設。北勝力、隠岐の海等を育てる。家紋は三つ柏紋。
長澤雅彦 。1965年2月28日 - 、 映画監督。
秋田県大館市出身。90年代には『ラブレター』『スワロウテイル』等の岩井俊二作品をプロデュース。代表映画は『はつ恋』『13階段』『夜のピクニック』等、代表テレビドラマは『なぞの転校生』。家紋の丸に三つ柏紋は、ご自身より直接うかがう。
黒田慶樹 。1965年4月17日 - 、 今上天皇の女婿。
黒田慶次郎の長男として出生。東京都庁職員。学習院時代は秋篠宮文仁親王の学友、清子内親王とご結婚される。天皇の皇女の結婚相手としては皇族・華族出身者でない史上初の人物。画像は黒田家の家紋である「柏」をあしらったボンボニエール。
坂井泉水 。1967年2月6日 - 2007年5月27日、 歌手。
神奈川県平塚市出身。本名は蒲池幸子。読みは、さかいいずみ。音楽グループZARDのボーカルとして歌手デビュー。代表作は『負けないで』『揺れる想い』『マイフレンド』等。メディア露出は一切しなかった。家紋は丸に三つ柏紋。墓所の写真より判断。
北山たけし 。1974年2月25日 - 、 演歌歌手。
福岡県柳川市出身。本名は渡辺毅。北島三郎の次女と入籍。芸名の北山は、北島三郎の北と山本譲二の山を取ったものという。代表作は「片道切符」「男の出船」など。家紋は丸に三つ柏紋。シングルCD「剣山」のジャケットの紋付姿より判断。
相澤仁美 。1982年8月22日 - 、 グラビアアイドル。
東京都出身。Vシネマ「実写版まいっちんぐマチコ先生無敵のおっぱい番長タイマン勝負で、まいっちんぐ♪」に主演。家紋は丸に三つ柏紋。「家紋エブリバディ!」にて自身の家紋について告白。画像はその際の氏神一番との記念写真。
片山陽加 。1990年5月10日 - 、 アイドル。
千葉県出身。読みは、かたやまはるか。女性アイドルグループAKB48チームBのメンバー。1980年代の「昭和アイドル」に詳しいためあだ名は「昭和」。自身のブログ「純情通り3丁目」にて自身の家紋は丸に熨斗剣柏紋であることを告白。
天野アキ (NHKの「あまちゃん」です) 。1991年11月23日 -、 海女、アイドル。
東京都世田谷区生まれ。高校2年生の時に母親の生まれ故郷の北三陸へ引越し海女となる。その後、アイドル活動を始めるため、単独で上京。家紋の丸に三つ柏紋は祖父・天野忠兵衛の紋付より判断。ただし、実家の門には抱き波に天の字紋が掲げられている。
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月10日 14時57分27秒 ) | パスワード |
えびす神社の丸に三つ柏紋
ここからいろいろ発展させてしまいました。
ごめんなさい。
>神社自体の紋としては、恵比寿神社の神紋が有名であるが、
全く知らなかったです
恵比寿ねえ・・・
>どちらかと言えば、海人系の人々に好まれたのではないか。
海人系?
これも意外でした・・・
>それにしても、神代よりの神様の名前、何とかなりませんかね? 学問として一定の名前に決めてほしい。
ホントに困ります。
こんがらがります
別人・・・いえ、別神かと思えば同一神だったりして。
でもお名前がたくさんあるということは、それだけ出現した場所が多くて、愛された?畏怖された?
ということでもあるんでしょうね。
>本日は、とりあえずここまでにして、論理を組み立て直します。
はい
脳を休ませないとね
休ませて=整理して
また組み立てて教えてうださいね。
>ここまで書いて、頭が相当疲れました・・・。先が思いやられます、古代史は特に・・・。
はい
現代のように名前は1つに限定されるのも分かりますね。
笑
養老の千秋氏またの名を服部氏の家紋が丸に三つ柏紋だと良いですね。
ここのお墓が分かると良いですね。
[57] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月11日 00時06分35秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日発送を終わりました。一週間位お待ち下さい。
養老といえば千秋氏と加藤氏が関係するので、一度行ってみますが、すぐ
近くに大垣があり、ここは昔、安八郡といわれ、その中に服部郷があったそ
うです。この辺は大海人皇子の湯沐邑であった、即ちここには大海人の私領
であったそうで、和珥部氏、多臣氏といった見方の豪族もおり、壬申の乱で
は皇子のために真っ先に兵を挙げたということです。関ヶ原の道である不破
の道を塞いだということです・・・有名な「不破の関」です。
また、千秋氏の領地が東三河にあり、その辺がハトリと呼ばれ、服部が住
んでいたと調べているうちにわかって来ました。もう少し精査します。
丸に三つ柏についていろいろ調べていただき、ありがとうございます。い
ずれにしましても、どうつながるかの「糸」を見つけ出すことだと思ってお
ります。でもなかなか決定打は出てこない・・・。
さて、本日は寒波のため、特に外出はせず、本や資料を見ながら推考をし
ておりました。神様が系統図のどこに位置するのやら、古事記、日本書紀の
整合性のないことを嘆きつつ、何とか一歩進みました。
それは、長上郡の服織神社が出雲より勧請したのがスサノオや大国主やニ
ギハヤヒノミコトでなく、何故天照大神の子「天穂日命」であったのかとい
う基本的疑問。もちろん建御名方神も祀っているのであるが、これは後から
合祀されたものだという。
出雲と大和との関係・・・出雲では何があったのか?
出雲大社では本来はスサノオ、大国主命、ニギハヤヒ等を祀るべきとこ
ろ、創建時(国譲り 紀元0年前後)より平安時代まで、大国主大神を祀った。
神仏習合でスサノオにとって代わられるが、17世紀の寛文年間の遷宮時に
神仏分離ということで、再び大国主大神に戻ったという。
つまり、第一順位ではスサノオであるはずが、大和政権により大国主を祀
ることでスサノオのカムフラージュをさせられたということ。何故なら大和
政権にとって、軍神のスサノオを祀る出雲、蘇我、物部は怖い存在であった
からという(『出雲大社と千家氏の秘密』)。
然るに、服織神社の祭神はというと天穂日命、即ち出雲大社の祭祀者(宮
司家)の元祖を祀っている。本来ならストレートにスサノオかその子のニギ
ハヤヒであってもいいと思う。高槻の神服神社はヒノハヤヒ、これを色々
調べると即ちニギハヤヒに比定できる。即ちオオモノヌシ、即ち大国主、
を祀っている。ヒノハヤヒもカムフラージュされた神である。天火明神に
も比定され、これは籠神社、真清田神社の祭神である。
つまり、出雲から神様を勧請したけれども、政権側におもねた神様で
あった。ここは物部の地であったからか、おとなしくしていた方が身のた
めであったのか・・・。それとも、宮司家から直接当地においでいただき、
協力関係を強化しようとしたのか・・・?
「蛭子」をヒルコとよばずにエビスと呼んだのも、表面上のカムフラー
ジュだったのか。何故、聖徳太子の皇子たちの埋葬された場所が「エビス」、
実は「ヒルコ」の森と呼ばれたのか。それはヒルコがアマテラスの双子の
一人で、出雲に来てそして育った。海人族の指示を受けた。物部も海人族
に属す。そして何故聖徳太子の皇子にであるが、聖徳太子も海人族(海部)
の血を引いている。そしてヒルコは海人族の神スサノオだったという(『ヒ
ルコ 捨てられた謎の神』)。太子の子の墓にスサノオを暗示する蛭子(エ
ビス)、実はヒルコの名前をつけて祀った。せめてもの魂鎮めだったのかも
知れない、この物部の地においての・・・。
細かな説明を省いていますのでビックリだと思います。なかなか思うよ
うに論旨がうまくまとまりませんことお許しを・・・。
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月11日 02時58分49秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ありがとうございます。
1週間後を楽しみにしております。
そして古代を整理した書き込みもありがとうございます。
>養老といえば千秋氏と加藤氏が関係するので、一度行ってみますが、
必ず!
でも今はダメですよ、寒過ぎ。
2月は1番寒い時ですから。
春分あたりなら良いでしょうね。
その時までに、訪問すべき場所をしっかりまとめておかないとね。
>すぐ近くに大垣があり、
>ここは昔、安八郡といわれ、その中に服部郷があったそうです。
はい。
岐阜の服部氏は、この安八郡の服部氏の子孫かも、ですね。
系統が違うかも。
もっと古代なら、同じかも。笑
>この辺は大海人皇子の湯沐邑であった、即ちここには大海人の私領であったそうで、
>和珥部氏、多臣氏といった味方の豪族もおり、
>壬申の乱では皇子のために真っ先に兵を挙げたということです。
愛知県海部郡の大豪族達ですね、天武天皇に味方した。
>千秋氏の領地が東三河にあり、その辺がハトリと呼ばれ、
>服部が住んでいたと調べているうちにわかって来ました。
熱田神宮が出張って来た時に、織子達も一緒について来たのかもですね。
その機織り工人達のまとめ役の神職が神服部と呼ばれていたんでしょうね。
東三河に繭神社が今でもあるのに驚きましたから、東三河もずっと絹織物をやって来たんでしょうね。
今でも赤ひき糸なんてありますから。
今でも神事をする神職さんが神服部姓なら良いのに。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/aikikai-nara/goodnews/church/kasiharakirisuto/2004/message2004.04.htm
「景教と関わりをもった古代人秦氏と一族(23)〜(26)」が載っています。
キリスト教のブログのようですが面白いです。
>古事記、日本書紀の整合性のないこと
日本書紀は藤原不比等が先祖を正当化して古事記の話を改竄してますからね。
不比等にしてみたら物部氏や蘇我氏を正しく美しく記すなんて許せなかったでしょうから。
>長上郡の服織神社が出雲より勧請したのがスサノオや大国主やニギハヤヒノミコトでなく、
>何故天照大神の子「天穂日命」であったのかという基本的疑問。
すごい!
「天穂日命」に目が行きましたか。
わたくしなんぞは「天穂日命」もアマタいるカミサマの1匹という存在でした。
アマテラスの子でしたか。
ということは 服織族 のための神社だったから
なのかしら?
>もちろん建御名方神も祀っているのであるが、これは後から合祀されたものだという。
合祀にはそれなりの理由があったのでしょうけど
時代の政治的な意図なんかが分かっている場合は良いのですが
例えば明治時代になっていろいろな神社にスサノヲが中心神となって祀られたりしているので
背景がハッキリ分からない場合は惑わされますね。
>出雲と大和との関係・・・出雲では何があったのか?
>出雲大社では本来はスサノオ、大国主命、ニギハヤヒ等を祀るべきところ
>創建時(国譲り 紀元0年前後)より平安時代まで、大国主大神を祀った。
大国主大神は縁結びの神様ですね。
http://www.izumo-murasakino.jp/izumo-enmusubinokami.html
大国主命 大国主大神
どうして1字変えるんでしょうね。
それは「役割」が違うから・・・
>神仏習合でスサノオにとって代わられるが、
>17世紀の寛文年間の遷宮時に神仏分離ということで、再び大国主大神に戻ったという。
へえ〜
>つまり、第一順位ではスサノオであるはずが、
>大和政権により大国主を祀ることでスサノオのカムフラージュをさせられたということ。
>何故なら大和政権にとって、軍神のスサノオを祀る出雲、蘇我、物部は怖い存在であったからという
>(『出雲大社と千家氏の秘密』)。
確かに!
スサノオも怖いし物部も怖いし蘇我も怖いし
そこへいけば 大国主命は穏やかで優しげ ですね。
>然るに、服織神社の祭神はというと天穂日命、
>即ち出雲大社の祭祀者(宮司家)の元祖を祀っている。
そうだったのですか
>本来ならストレートにスサノオかその子のニギハヤヒであってもいいと思う。
スサノオだったら、スサノオで統一してくれてたら分かり易いのにね。
>高槻の神服神社はヒノハヤヒ、これを色々調べると即ちニギハヤヒに比定できる。
ヒノハヤヒは饒速日でしたか。
>即ちオオモノヌシ、即ち大国主、を祀っている。
>ヒノハヤヒもカムフラージュされた神である。
>天火明神にも比定され、これは籠神社、真清田神社の祭神である。
結局、籠神社、真清田神社の祭神にも共通してましたか。
>つまり、出雲から神様を勧請したけれども、政権側におもねた神様であった。
政治力学上、でしたか。
当然ですね。
>ヒルコはアマテラスの双子の一人
驚きでした。
>ヒルコは海人族の神スサノオだったという(『ヒルコ 捨てられた謎の神』)
これもビックリ。
ヒルコが海神族というのは理解できますがスサノオには思い至りませんでした。
>太子の子の墓にスサノオを暗示する蛭子(エビス)、実はヒルコの名前をつけて祀った。
>せめてもの魂鎮めだったのかも知れない、この物部の地においての・・・。
ですね。
真相を隠しに隠して更に隠して、祀ったのですね。
>細かな説明を省いていますのでビックリだと思います。
驚きましたが納得です。
>なかなか思うように論旨がうまくまとまりませんことお許しを・・・。
いえいえ
ご親切な説明に納得いきます。
ありがとうございます。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月11日 08時57分29秒 ) | パスワード |
http://www007.upp.so-net.ne.jp/aikikai-nara/goodnews/church/kasiharakirisuto/2004/message2004.04.htm
■景教と関わりをもった古代人秦氏と一族(23)
彼ら近江の秦氏を、特に、「依智秦氏」(えちはた)と呼んでいる。
第40代・天武天皇の時代に活躍した人々である、「秦田来津」(はたたくつ)は、「朴市秦造田来津」(えちはたのみやつこたくつ)で、「依智秦氏」(えちはた)のひとりであった。
平安京を建設した際、山背(やましろ)石の秦氏のみならず、近江国の秦氏も協力している。
なかでも、「勝益麻呂」(すぐりのえきまろ)は半端ではなかった。
役夫(えきふ)3万人余りを独力で提供している。
しかも、全員、食料つきである。
いかに近江国の秦氏が莫大な財力を誇っていたかが分かる。
(現在の邦貨に換算すると、食事代だけでも、1日の食事代を一人千円としても、
30,000×1,000×30=900,000,000円、1年、108億円 5年で、540億円)
↓ 三つ柏さんもお書きでしたね
実際、古文書に見える秦氏のなかには、
大蔵秦公魚王、大蔵秦公広吉、秦大蔵忌寸広男(いみき)のように、「大蔵」を称する者もいる。
大蔵とは、大蔵省の大蔵である。
いはば、古代における金融財政の高級官僚といった身分である。
山背(やましろ)国の秦氏にも、
秦嶋麻呂(しままろ)や、秦朝元(ちょうげん)、秦足長(あしなが)のように、国家財務長官である主計頭もいるが、
近江国の秦氏も負けず、劣らず、かなり裕福な者が多かったようである。
それだけに、秦氏が建立した寺社は数知れず、
有名な所では、百済寺(ひゃくさいじ)、秦宇治が建立したとされている寺で、記紀で秦氏が、百済から渡来したと記されていることに因む名前であることが考えられる。
西明寺(さいめいじ)、金剛輪寺(こんごうりんじ)、別名松尾寺その名にある松尾とは、京都にある松尾大社と同じく、秦氏がつけた名である。
さらに、石塔寺(せきとうじ)があげられる。
石塔寺(せきとうじ)の由来は、その石塔にある。
明かに、古代朝鮮の様式で、渡来人である秦氏が関わったことがわかる。
まさに、このあたりに、ある寺社はみな秦氏が関わっているといっても決して過言ではない。
これほどの財力を保持していたのが、秦氏一族であった。
当時の秦氏の勢力を想像できるのではないか。(続く)
■景教と関わりをもった古代人秦氏と一族(24)
草津にある安羅神社(あらじんじゃ)、祭神は、天之日矛である。
この天之日矛は秦氏集団の象徴でもある。
調べて見ると、あるある、琵琶湖一帯に、天之日矛を祀る人事やが沢山ある。
この近江国は、秦氏の王国なのである。
元伊勢に秦氏が深く関わっているとすれば、
天照大神の御霊は、来るべくして来た、ということになる。
美濃国/尾張国 元伊勢、14番目は、伊久良河宮(いくらがわのみや)(美濃国)、
15番目は、中嶋宮(なかじまのみや)(尾張国)である。 ← 海部郡ですね
このあたりは渡来人とあまり関係がないかのように思われる方が多いかもしれない。
しかし、ここも、渡来人の多いところであった。
元伊勢伝承のある、安八郡(あんぱちぐん)には服部郷があり、
秦氏と係わりがあると見られる、八田若宮明神(はたのわかみや)が鎮座する。
けれども、さらに驚くべきことは、そのお隣の、加毛郡半布里(かもぐんはにゅうのさと)である。
ここには珍しい奈良時代の戸籍台帳が(702年)が残っていて、そこに記された家の半分以上が秦家であるという。
飛騨国には、合掌造りで有名な白川郷があり、そこから山を上って行くと、加賀の白山が見える。
この辺一帯は白山信仰が強く、白山神社があちこちにある。
白山を開いたのは、有名な「秦澄」(たいちょう)であり、
彼の俗姓は、ずばり、秦氏、秦秦澄(たいちょう)というのである。
白山とは、もともと、朝鮮の白山族、もしくは、白山、白頭山信仰(ペクトサン)がルーツであると言われているように、きわめて朝鮮色が強い。
白山の「白」は、「シラ〜シンラ=新羅」に通じるものと指摘されている。
白山神社の祭神は、「白山菊理姫」、
キクリとは、ククリ、コクリ、すなわち、高句麗(こうくり)であるという説や、
朝鮮語で、銅剣を意味する言葉であるという説まである。
けれども、これもまた、秦氏がもたらしたものである。
このように、加賀国と飛騨国が囲む美濃国、尾張国には、白山系秦氏の勢力が強い。
元伊勢15番目の中嶋宮(なかじまのみや)(尾張国)のある、中嶋郡にも八田郷がある。
八田が秦であることは言うまでもない。(続く)
■景教と関わりをもった古代人秦氏と一族(25)
伊勢国/常世信仰 尾張を過ぎると、いよいよ天照大神は伊勢国へとやってくる。
ここには、元伊勢の第17番目、奈其波志忍山宮なごわしのおしのやまみや・鈴鹿国、だけは、鈴鹿国であるが、
ちょっと山間に寄っただけで、大きく見れば、伊勢国の範疇である。
このように、元伊勢の第16番目、桑名野代宮(くわなののしろのみや・伊勢国)から、
第26番目の五十鈴宮=伊勢神宮内宮、
そして、最後の第27番目の伊雑宮に至るまで、
以後は伊勢の中を移動しているわけである。
これらの比定地の中には、神服織機殿神社(かんはとりはたどの)、神麻続機殿神社(かんおみはたどの)のように、秦氏と関係する神社が少なくない。
が、ここで重要なのは、どうして伊勢大神宮国なのか?という問題である。
結局、天照大神は現在の伊勢大神宮神宮の地に落ち着くわけであるが、
どうしてそこを永住の地と決めたのであろうか?
伊勢地方の地図があれば、目をとめて欲しい。
伊勢国は朝廷のあった大和国からは真東に位置するのである。
真東とは、いうまでもなく、太陽が昇る方角である。
天照大神は太陽神であり、天皇はその子孫である。
太陽の昇る地は、まさに天照大神の聖地にふさわしい。
それを強力にしたのが、「常世信仰」である。
「常世」とは、道教でいう、「神仙郷」(しんせんきょう)のような所、
神々が住む蓬莱山がある世界、
浄土宗でいう極楽浄土のような世界である。
伊勢国は、まさに常世にふさわしい地だったに違いない。
では、常世信仰を最も強く持っていたのは誰か?
名を体を表すというが、自らの姓に「常世」という言葉を選んだ者たちがいる。
常世国持、常世長浜、常世人足ら、常世連たちである。
「続日本紀」(しょくにほんぎ)にると、彼ら天平時代に改名しており、それ以前はみな「赤染氏」であったという。
この赤染氏は九州の香春神社(かわら)の神官を務める一族であり、
ルーツは秦氏につながっているのである。
日本で一番の常世信仰を持っていた者は秦氏である。
その裏付けは、日本歴史史上、たったひとりだけ、本当の常世国へ行ってきたという人物が存在する。(続く)
■景教と関わりをもった古代人秦氏と一族(26)
本当の常世国へ行ってきたという人物が存在する。
それは、「多遅摩毛理(田島間守)たじまもり」という人物である。
第11代・垂仁天皇(すいにん)のために常世にあるという「非時の香の木の実」(ときじくのかぐのこのみ)を持ち帰った人物である。
「記・紀」によると、多遅摩毛理(田島間守、たじまもり)は、三宅氏の祖であり、天之日矛の5世の孫に当るという。
天之日矛とは、秦氏集団の象徴であるから、多遅摩毛理(田島間守、たじまもり)もまた、秦氏であることは間違いない。
秦氏は、常世国に行ってきた、ということである。
けれども、この話は神話であり、どこまでが本当のことか不明である。
秦氏が強烈な常世信仰を持っていたということについては間違いがない。
同時に、秦河勝もまた、常世信仰にかなり興味を持っていたことは確かである。
第35代皇極天皇のこと、東国の富士川のほとりに「大生部多(おおうべのおお)」なる男がおり、彼はある虫を手の中に持っていた。
その虫は蚕に似ており、大きさは親指ほどで、色は緑で黒いまだらがあった。
曰く、これは常世の神である。
この神を祀れば富を得て、老人は若返る。
そのためには財産をささげなくてはならない、と。
このことを信じた者が沢山現れ、ある者は全財産を投げだし、熱狂的に虫を祀った。
結果は多大の損失を被る者が多かったのである。
民衆がだまされていることを知った山背の秦河勝は、さっそく東国に出かけ、騒ぎの中心人物である「大生部多(おおうべのおお)」を打ち倒した。
「大生部多(おおうべのおお)」に従っていた巫女たちは、これを恐れて虫を祀らせることをやめた。
そこで、民たちは、秦河勝を指して、こんな歌を歌ったという。
「太秦は、神とも神と、聞こえくる、常世神を、打ちきたますも」
この時、秦河勝は既に80才を越えていたという。
こんな老体を鞭打ってまで、なぜ、東国に行ったのか?
「大生部多(おおうべのおお)」という人物は、秦氏の配下の者であった。
秦氏一問の者が、偽の常世信仰を布教することに我慢ならず、秦氏の首長として、けじめをつけたのであった。(続く)
[60] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月11日 09時05分50秒 ) | パスワード |
本日やっと「おとぎ話に隠された古代史の謎」を読み終えました。
200ページに
伊勢の狭長田=さなだ
という場所があることが分かりました。
これを見て「長田だ!」と思いました。
猿田彦大神は伊勢の狭長田、五十鈴川の川上に鎮座坐す
ですって。
サルタヒコ、またはサルタヒコノカミは、日本神話に登場する神。『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神。『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記する。伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた。
神話での記述[編集]
邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来た。
邇邇芸尊らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸尊は天宇受売神に、その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。なお、『日本書紀』では、猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている。猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。
猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村、現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ。この際、海に沈んでいる時に「底どく御魂」、猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂」、泡が水面で弾ける時に「あわさく御魂」という三柱の神が生まれた。
『倭姫命世記』(神道五部書の一つ)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。
解説[編集]
天狗面を被った猿田彦役
面掛行列(御霊神社)
『日本書紀』には、天宇受売神は胸乳を露わにし裳帯(もひも)を臍の下に垂らしたとあるので、性的な所作をもって相対したことになる。神話では二神が結婚したと伝えられている。
「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とする説がある。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もある。
その異形な風貌から赤鼻の天狗とされるが、仏教、特に密教系の烏天狗と混同されやすい。
三重県鈴鹿市の椿大神社、三重県伊勢市宇治浦田の猿田彦神社がサルタヒコを祀る神社として名高い。天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている。この場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが通例である。また、祭礼の神輿渡御の際、天狗面を被った猿田彦役の者が先導をすることがある。
他にも滋賀県高島市の白鬚神社の祭神とされたことから白鬚明神の名でも全国各地に祀られている。また子孫である大田命、内宮の興玉神とも同一視される。さらに江戸時代に入って「サル」の音から庚申講と結び付けられたほか、垂加神道では「導きの神」として神道の「教祖」とされるなど複雑な神格を持つ。
こうしたことから近年は、謎の神として鎌田東二などの学者にクローズアップされている。鎌田は、サルタヒコとアメノウズメの協働を国津神であるサルタヒコの裏切りではなく、新しい日本の体制を開くための和睦と解釈し、サルタヒコを日本的霊性の現像ととらえている[1]。
常陸国の住人に猿田氏があり、猿田彦の末裔であるとされる。前述の椿大神社・猿田彦神社の宮司もともに古くから猿田彦の神孫と称する。
現代でも小説や漫画などの創作物の登場人物として用いられる。例えば手塚治虫の『火の鳥』シリーズには、「猿田」もしくは「サルタヒコ」という人物が多く登場する。それらの多くが、鼻が大きいという身体的特徴を持っている。
猿田彦大神を祭神とする神社[編集]
猿田彦神社(総本社:三重県伊勢市)
椿大神社(総本社:三重県鈴鹿市)
都波岐神社・奈加等神社(三重県鈴鹿市)
白鬚神社(総本社:滋賀県高島市)※地域によっては「白髭」「白髯」「白髪」
荒立神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)
庚申社(福岡県直方市)
猿田神社(千葉県銚子市)
塩屋神社(広島県広島市)
猿田彦大神を祀っているところ[編集]
笹原集落(場所:熊本県上益城郡山都町笹原の 円形分水 から、道を隔てた50m地点。笹原から麻山に向かう道と黒木尾に向かう山道との分岐点にあり、村を守る神・交通祈願のために作られたと思われる。)
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月11日 09時17分19秒 ) | パスワード |
狭長田? 長田? ながた?
ということで
http://www10.ocn.ne.jp/~nonno/nagata2.htm
長田神社 猿田彦命・・・高島町永田
七つの称号 三尾大明神・チマタ神・興玉神・長田の土君・幸前駆神・月隅の土君・
6つなんですが・・・
ホツマ伝 36−29
ナガタウマレノ ツチキミワ モトニカエラン モチカエリ
ツゲヨトテサル オオワカゴ カエリモフセバ ヤマトヒメ
ウジニイタリテ ミテイワク コレカンカゼノ イセノミヤ
ミクサワマツル ミナモトト イヤマイカエス アグライシ
ホツマ伝 24−26
イタルタカシマ サザナミノ サクラモヨシト オリカザシ
クマノヨロギノ タニセント オオタミシマガ イガワナス
オトタマガワノ シラスナニ ヒルネシテオル チマタガミ
・・・・・・・・・・・・ ウカワカリヤニ ミアエシテ
アイマツナガタ サルタヒコ ウズメマタトウ イツレカラ
ユクヤコタエテ ワレユカン マタトフナンジ シルヤキミ
イキマストコヲ コタエイフ キミハツクシノ タカチホゾ
ワレワイセノサ ナガタガワ ナンジワガナヲ アラワサバ
ワレモイタサン カエコトス ミマゴヨロコビ ウノハナモ
マタカザシユク サルタシテ ダケノイワクラ ヲシハナチ
イズノチワキノ ヨロイザキ ダケヤカガミノ ミヲノツチ
ツムミカミヤマ イセキツク サルタヲホメテ ミオノカミ
コノムウズメヲ タマワリテ ソノナアラワス サルベラト
カグラヲノコノ キミノモトナリ
______________________________
ホツマツタヱ - Wikipedia
https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E3%81%BB%E3%81%A4%E3%81%BE%E4%BC%9D
『ホツマツタヱ』は、ヲシテ(神代文字のひとつとされる)を使い五七調の長歌体で記され、
全40アヤ(章)で構成された日本の古文書。
その成立時期は不詳だが、少なくとも江戸時代中期まで遡ると考えられている。
『ホツマツタヱ』(ほつまつたゑ)は、ヲシテによって五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)で構成された古文書である。その成立時期は不詳であるが、少なくとも江戸時代中期にまで遡ることが可能である[1]。歴史学、日本語学等の学界においては、戦前から清原貞雄らにより後世の偽書であるとされ、近年も日本史学の分野では武光誠、日本語学の分野では飯間浩明らにより江戸時代に神道家によって作成された偽書であるとされている。また、ヲシテを神代文字のひとつとみなす研究者からは古史古伝のひとつと同一視されている。しかし、漢字が渡来する以前に日本で通用していた文字と文献であって、後世の偽造とされる神代文字・古史古伝とは全く異なるとの主張もある。文献全体の包括的な史料批判を試行する動きはあるが、まだなされていない。
『ホツマツタヱ』には、複数の写本が現存している。いくつかの写本では「ホツマツタへ」「ホツマツタエ」とも、また漢訳されて「秀真伝」「秀真政伝紀」とも表記されている。『ホツマ』と略されて呼称されることもある。『ホツマツタヱ』と同様の文字による古文書である『ミカサフミ』(「三笠紀」)『フトマニ』(「太占」)も発見されている。この3書に使われている文字は同一で、文書の中では「ヲシテ」と呼ばれている。「ヲシテ」は、過去の神代文字研究、または同文献の研究経緯により「ホツマ文字」「秀真文字」「伊予文字」と呼ばれたり、「オシテ」、「オシデ」と表記される場合もある。
12世紀初頭に成立した『類聚名義抄』などにヲシテに関する記述が認められると理解して、ホツマツタヱは少なくとも平安時代以前に遡るとし、真書であると考える熱心な信奉者も少なからずいる。江戸時代には、和仁估安聡、小笠原通当等が真書であると主張した。
近代的な文献学の手法に基づいた研究が始まったのは、ホツマツタヱが再発見された1966年以降である。諸写本の校正、『古事記』『日本書紀』と『ホツマツタヱ』の3書比較、『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『フトマニ』の総合的検証が進められつつある(参考図書を参照のこと)。
『ホツマツタヱ』を真書であるとする研究者は、記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書であると主張している。『ホツマツタヱ』が扱っている歴史は、記紀の神代や人皇12代景行天皇(オシロワケ)までである。
ホツマツタヱの文字と類似文献[編集]
『ホツマツタヱ』を表記している文字は、文中の記述によれば『ヲシテ』(ホツマ文字)と呼ばれていた。ヲシテ(ホツマ文字)は1音1字の文字である。母音要素と子音要素の組み合わせで成り立っている。48文字の基本文字があり、変体文字を含めると197文字が確認されている。文字について詳しくは、『ヲシテ』を参照のこと。
同時代のヲシテ(ホツマ文字)で書かれた文献には、伊勢神宮初代の神臣(クニナツ)オオカシマ命が記した『ミカサフミ』、アマテルカミ(記紀にいう、天照大神)が編纂して占いに用いたと伝えられている『フトマニ』などが発見されている。類似文献について詳しくは、『ヲシテ文献』を参照のこと。
神代文字捏造ブームと偽書疑惑[編集]
江戸時代に国学が隆盛し、日本には漢字伝来以前に独自の文字を有していたとの説が広がった。その為、「神代文字(しんだいもじ・かみよもじ)」とよばれる多くの文字が創作された。ホツマツタヱを記述している文字「ヲシテ」は、その神代文字のひとつであるとするのが学会における定説[要出典]である。また、花押の歴史的経緯から言って室町時代以降の著作である、神代文字のひとつによって記述されている文書ということ等から、ヲシテ文献も偽書の疑惑があることを指摘されている。和仁估安聡の当時の人評についても神社の由来書捏造の評価がなされており、数々の疑惑が存在する事を踏まえて研究にかかるべきである、と考えるヲシテ研究者も存在する。
ホツマツタヱの再発見[編集]
この古文書は、1966年(昭和41年)に自由国民社の編集長であった松本善之助が東京、神田の古書店で写本を偶然発見したことから世に知られることになった。松本はそれまで『現代用語の基礎知識』や『現代の経営(ピーター・ドラッガー)』など出版事業に深く携わっていた。『ホツマツタヱ』との出会い以来は、写本の発見とその校正、読解に心血を注ぎ込んで、『古事記』・『日本書紀』との三書対照を踏まえて、『ホツマツタヱ』こそが、記紀の原典であると確信するに至った。
ホツマツタヱの意味[編集]
『ホツマツタヱ』の記述によると、『ホツマ』は東国(おおよそ今の関東平野のエリア)を指した用語であったが、東国における優れた治世を讃称する用語へと変化した。『ホツマ』の意味は、『ホ』は秀でたこと、『ツ』は現代語の「の」、『マ』はマコトの意で、3つ繋ぐと「ひいでたまこと」「まことの中のまこと」という意味となる。『ツタヱ』は「伝え・言い伝え」であり、『ホツマツタヱ』は、「まことの中のまことの言い伝え」の意味である。「正式の伝記・正式の歴史書・正史」という意味であろう。江戸時代には漢訳されて「秀真伝」「秀真政伝紀」などと表記されたこともある。
ホツマツタヱの内容[編集]
あわうた
(小笠原長弘写本ハツアヤより)。全編がこのようなヲシテによる長歌で記述される。ヲシテの右にあるのは、伝承中に付加されたフリガナ。
『ホツマツタヱ』は、アメツチの始まり(天地開闢)から、カミヨ(記紀にいう神代)、そして人皇初代のカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)を経て人皇12代のヲシロワケ(景行天皇)57年までを記述している。構成は、ほぼ記紀と同様である。が、漢字文への翻訳に際しておおよそ半分程度の漏れが生じている。
1アヤから28アヤまでが前編でクシミカタマの編集、29アヤから40アヤは後編でオオタタネコの編著による。
記紀との大きな違いは、カミヨ(神代)の出来事は、天上の出来事ではなく、日本列島の上に実在の人物が、実在の場所で行った出来事として記述していることである。また、『ホツマツタヱ』で固有の哲学を述べている箇所は、記紀には該当箇所がほとんどないという特徴がある。
『ホツマツタヱ』では、上記の歴史の他、ワカウタ(和歌)の成立、アワ歌という48音の基本音を表すウタ、皇室の成立と歴史、結婚の法、イミナの意味、ミソギの方法、正しい食事の法、マクラ言葉(枕詞)の意味、刑罰の法、国の乱れの原因、国の意味、統治理念、ヲシテという文字のなりたち、ミクサタカラ(三種の神器)の成立と意味、トのヲシテと呼ばれる当時の憲法、国号の変遷、乗馬の法、各地の馬の品種、トリヰ(鳥居)の意味、自然神の祭祀、大宇宙とヒトの関係、暦の法、ヤマトウチ(神武東遷)の背景、天皇即位の儀式の変遷、ツヅウタの意味、葬儀の法などが述べられている。
また、歴代の天皇のイミナ(実名)と陵墓、伊勢神宮他主要な神社の創建のいわれ、ヤマトコトバ(大和言葉)の語源なども述べられている。
真書であれば、日本の国の創建と古代日本の文明を明らかにする書物ということになる。
完本として公開されている写本
以下略
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月11日 09時25分37秒 ) | パスワード |
「ほつまたえ」を入れたので長田の話が中断になりましたので
もう1回コピペ:
http://www10.ocn.ne.jp/~nonno/nagata2.htm
長田神社 猿田彦命・・・高島町永田
七つの称号 三尾大明神・チマタ神・興玉神・長田の土君
幸前駆神・月隅の土君・
6つなのに7つの称号って?
カタカナに部分を省略します。
三尾大明神本土記 赤井重彦謹記「大同三年」
淡海国比良岳の北の尾崎で、一つの環石を拾い、天照大神に献上した、
玉工に磨かされ、明玉になる、ところが、その玉に、羽のようなものが出来て
よく音を発した。大神はこれをご覧になって、その音駆がように、
四方の民衆によく徹して、農耕の道が益々興隆する玉であると、土君を褒めて
興玉神と言う称号を授けられた。それでこの玉を、羽明玉と称し、
その出土した所を音羽渓、その流れの川を音玉川となずけられた。
ここから猿田彦と長田の関係
↓
かくて猿田彦に永く田作りの業を導くべしと、長田の土君と封賞された。
音羽・永田・小田川の由来
ニニキネ尊たちは旅の日々を重ねて、北の高志国から、淡海の高島までこられたところ
音玉川の河口まで猿田彦が出迎え、アメノウズメ命を通じて、鵜川の仮宮に
宴を設けて、お待ちしております、と述べ、前駆して、巡幸の前路の障害を排除して
案内した。
因って尊より猿田彦に、幸前駆神と言う称号を賜った。さらに南行すると
比良山系の尾崎三箇所で、道が塞がっているので、猿田彦は鎧崎
吹卸、東の鏡崎などを切り開いて案内した。三つの尾崎を啓開した功により、
更に、三尾大明神の称号を賜った。
猿田彦には三尾郷の永田で三人の子供が生まれた。
長男を太田命・ 次男を岐大人 ・末子を山崎命 となずけた。
太田命―伊勢国狭長田の里で土君になられた。
岐大人―尾張国の山や尾崎を拓き水路をつけ、荒れた道を良くした
尾張津島に住み、源大人と称した。
あらら・・・
猿田彦の子供が尾張の津島に住んだ?
へえ〜
ナガタ氏と大橋氏はこの時代からの仲だった?
[63] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月11日 10時22分22秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
前回のレスで一つ訂正:見方 → 味方 (うっかりミス。度々あります)
さすがあを様、理解力がすごい。わかったようでわからない文章を書いて
しまいましたのに。
あをさまご指摘の中の「繭神社」、これは場所が作出町でしたっけ?
訪れてはみたいと思いますが・・・ちょっとどこかわからない。
本日、ちょうど多米峠を越えて、豊橋方面へ出かけようと考えております。
前田豊氏の説で、聖徳太子は三人いて、その内の一人が多米王であり、東三
河にいたということ、多米峠は昔から知ってましたが、まさか聖徳太子につな
がるとは。もう少し詳しく説明しますと、聖徳太子については諸説あってどれ
も納得するには不十分な説であった。前田豊氏の説によると、まずは東三河と
いう舞台を是認しなくてはなりませんが、そのフィールドワークのデータはそ
れを十分納得されるだけの説得力があります。ただ、大きな都のような遺跡が
今のところ出ていないところが残念ではありますが。三人の聖徳太子とは、例
の三人並んだ絵図があります・・・真ん中に聖徳太子らしき人、左右に少年の
ような二人・・・これは、本当のところは真ん中の大きい人が兄の多米王で、
左右のどちらかが弟の上宮太子、さらに三人目は伯父の敏達の嫡男・日子人
太子であるというのである。この説の元は、関口昌春氏の『ふたりの聖徳太子』
となっている。小林久三氏の『二人の聖徳太子』というミステリーがあるが、
これとはまた説としてはちがうもの、新説である。
この三人はそれぞれに仕事を分担して執り行っていたという。弟の上宮は奈
良・飛鳥にいて、兄の多米王と従兄弟の日子人太子は東三河にいて執務してい
たということです。問題はその執務していたという場所・宮殿がわかればいい
のですが、豊川の氾濫とか色々あったのかもしれません。ここを探究しなけれ
ばならないと思っております。
本日は、その辺の気配を多米郷に行って感じ取ってみたいと思っています。
それと、途中に宇津山城址がありますので寄り、宝飯郡の兎足神社にも行って
みたいと思っています。例によって行き当たりばったりになりますが・・・。
では、また。
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月11日 15時09分43秒 ) | パスワード |
ごめんなさい
もう1度301号線を辿ってみたら
繭神社じゃなくて 蘭神社のようでした。
切山町とか黒坂町の左上です。
繭町じゃなくて 蘭町 のようでした。あららぎ町って読むそうです。
豊田市蘭町でした・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
豊川の民俗資料館の繭作り
http://www.city.toyokawa.lg.jp/saijibunka/bunka/bunkazai/minzokushiryoshitsu/shogaigakushuka2013.html
______________________________
蘭神社を 繭神社 と誤読してしまいました。
蘭に神社があるとは全く想像もしていませんでした。
お騒がせをいたしました。
ぺこりぺこり
[65] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月11日 15時36分03秒 ) | パスワード |
http://mayukko.org/
いなぶまゆっこ
蚕の里としての顔を持つ、いなぶ(愛知県豊田市稲武地区)。
毎年伊勢神宮に献糸をすると共に、天皇家の大嘗祭(即位式)には・服(絹織物)を献上するほどの栄誉に浴しています。
桑を植え、蚕を育て、糸を引き、そして繭や生糸をつかった作品を生み出していく…。
その一つ一つの過程に、確かな技術と伝統の知恵が息づいています。
稲武の地で育まれた、かけがえのない養蚕技術を絶やすことなく受け継いでいくと共に、
自分達の個性を生かした作品作りに挑んでいきたい。
そんな想いを胸に「いなぶまゆっこ(まゆっこクラブ)」のメンバーは日々活動しています
「繭まゆ繭」と思ってたから「蘭」を「繭」と早合点しました。
_________________________________
http://www.geocities.jp/engishiki01/toutoumi/bun/to120802-01.html
小国神社
遠江国一宮。小国神社と称するのは出雲の大国に対する美称とされる。
欽明天皇18に本宮山に神霊が出現して鎮斎したのが創始とされる。
毎年不思議にも此の木の葉に「まゆ型」の穴のある「から」ができ風が吹くと「ひょう」という音を出すので「ひょうの木」という。
又、当社御祭神大己貴命が「ひょうの笛」にて女神を呼び、その心のこもった調子に女神が感銘して契りを交わしたと伝えら「縁結びの木」とも云われている。
御祭神 大己貴命
御神徳 須佐之男命の御子にして父神の命により豊葦原の国を開発し稲穂の稔る瑞穂の国に造り上げ天孫に国土を奉つた大功を称へて大国主命とも国作之大神とも大穴牟遅神と称へ又農業山林鉱業縁結び医薬禁圧の法を授け給ふ徳を称へて大物主神とも宇都志国玉神とも大国玉の神と称へ又銀難辛苦の修養を積まれ統治者となられ国中の悪神を平定せられた質実剛健と勇気を称へて葦原醜男命とも八千矛命と申し尊貴を称へて大己貴命と申す等国土開発福徳縁結び山林農業医薬知徳剛健等の守護神と敬はれ御神徳極めて高い(古事記日本書紀等)
本社を小国神社と申すのは出雲の大本宮に対する遠江国地方の美称であつて当社は古来より許当麻知神社(願い事を待つ意)とも事任神社(願事のまゝに叶う意)とも固有の別名がある
__________________________
日本の 繭神社 を調べてみました。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/miyazaki/kobayashisi/kirishimamine/kirishimamine.html
霧島岑(きりしまみね)神社(合祀・夷守神社)
小林市細野4937(平成21年1月6日)
東経130度57分46.59秒、北緯31度57分45.02秒に鎮座
御祭神:天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、木花之佐久夜毘売命、天津日高日子穂々手見命、豊玉毘売命、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、玉依毘売命
境内社:繭神社等
http://www.homemate-research-tour.com/dtl/00000000000000479418/kuchikomidetail/0000005326/
伊佐荷繭神社
周辺に神社、仏閣が多い道後地区内においてひときわ朱塗りの境内が輝いてみえる荘厳な作りの伊佐荷繭神社。全国に津々浦々ある伊佐荷繭神社の分社の一つとして松山市道後湯の町に拠点を置く。この神社からは秋の地方祭のとき、境内から喧嘩神輿が出社する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E5%BD%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
蚕影神社(こかげじんじゃ)は、茨城県つくば市神郡にある神社。正式表記(旧字体)は蠶影神社。通称は蚕影山(こかげさん)神社[1]。全国にある蚕影神社の総本社。古名は蚕影山桑林寺、蚕影明神など。近代社格制度に基づく旧社格は村社。
筑波国造が創祀に関わることから、古来筑波山神社とも縁が深い。筑波山神社の御座替祭を構成する祭祀に神衣祭と神幸祭とがあり、いずれも神衣を祭器としているが、蚕影神社は神衣を織るための養蚕、製糸、機織の技術伝来の地として、養蚕の神を祀っている[2]。
[66] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月11日 21時12分52秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
レスの59以後がすれ違い、気が付かず出かけてしまいました。すみません。
非常に勉強になりました。
@近江の秦氏
A安八郡の服部郷
B蒲生郡の秦氏
C太陽神・伊勢・常世信仰
D伊勢の狭長田・猿田彦・三尾大明神 (三尾氏は継体天皇の親族か?)
Eホツマツタエ (まだ読み込んでおりません)
E蘭町 (アララギスキー場がある?)
F稲武 (スキーに行く時よく通った)
G繭神社 (犬頭神社は犬が繭を噛み糸が出た)
すごく、今後のヒントとなります。ありがとうございます。
ここで、一旦切ります。
[67] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月11日 22時44分37秒 ) | パスワード |
そろそろ< XXVII >を立ててくださいね。
>本日は、その辺の気配を多米郷に行って感じ取ってみたいと思っています。
昨日301号線を辿ってた時に多米郷?多米峠?という文字を見かけました。
おお、ここにいらっしゃったのか、と。
>宇津山城
永正3年(1506年)頃、遠州進出を図った今川氏親が浜名湖西岸に築いた。
城主には長池親能、次に小原親高が入り享禄年間以降は朝比奈泰長が入った。
弘治元年(1555年)に氏泰が病没すると、その嫡男泰長が城主となる。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、自立を志す徳川家康が三河国統一に向けて邁進。
徳川方に誼を通じる土豪が多くなる中で、
掛川朝比奈氏の分流であった泰長は、惣領家と同様に今川氏への忠誠を貫こうとしていた。
永禄5年、今川氏から徳川氏へ転属・離反した三河国八名郡五本松城を襲うと、城主西郷正勝を討ち取り、
凶報により駆けつけた正勝の嫡男西郷元正をも討ち取っている。
泰長は永禄5年11月晦日に死去しその跡を嫡子の孫太郎泰充が継いだ。
しかし、泰充は永禄9年正月、城中における謡初め会にて、徳川に誼を通じていた弟の孫六郎真次に殺され[3]、
そのまま城主の座を奪われた。
しかし、永禄10年正月、真次も今川氏真の命を受けた小原鎮実に討ち取られてしまう。
そして、今川方は、境目城を築き、宇津山城とともに家康の来攻に備えた。
永禄11年(1568年)12月、
徳川方の酒井忠次は13日に土豪の佐原重吉、内藤三左衛門、松野三右衛門らと境目城を落としたのち、
15日遠江国に侵攻し、
永禄12年(1569年)宇津山城を守備していた小原鎮実の家老増田団右衛門は城より討って出るが討死し、
城主小原鎮実らは城に爆薬を仕掛け浜名湖から逃亡した。
しかし、爆薬の量が少なく、酒井勢は爆発音に驚いたが死傷者はでなかった。
その後、家康は松平家忠を在番として城郭を拡張させている。
元亀3年(1572年)には松平清善が1,000貫文を賜って城番に命じられた。
廃城になった時期は不明。
背筋がゾッとするほどの攻防戦が繰り広げられたんですねえ。
般若心経を唱えてあげて、亡くなった方達が成仏なさったのでは、と願っております。
>宝飯郡の兎足神社
7世紀後半頃に建てられたといわれる菟足神社は菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)が祀られています。
稲の豊作を願った「田まつり」、風に対する信仰を寄せた「風まつり」が行われます。
風まつりの際に販売される「風車」は郷土玩具として多くの人が買い求めに来ます。
また、弁慶の書と伝えられている「大般若経」585巻は国の重要文化財に,
梵鐘は県の有形文化財に指定されています。
http://www.genbu.net/data/mikawa/utari_title.htm
菟足神社
うたりじんじゃ
愛知県豊川市小坂井町宮脇2
神紋:丸に兎
式内社 参河國寶飫郡 菟足神社
旧県社
御祭神
菟上足尼命
愛知県豊川市(旧小坂井町)にある。
小坂井駅の東200mほど。一号線の側に鎮座。
鳥居をくぐると正面に社殿。後方に本殿。
神紋は「兎」。賽銭箱などに金の兎が付いていた。
拝殿の中には、奉納された大きな兎が鎮座。
リアルな形をしており、ちょっと怖い。
祭神は、雄略天皇の頃、穂国造であった菟上足尼命で、
葛城襲津彦の四世孫。
社伝によると、
当初、平井の柏木浜に祀られていたが、
天武天皇白鳳15年4月11日、現在地へ遷座した。
現在地には昔、八幡神を祀っており、
その相殿となったという説もある。
中世では、菟足八幡宮とも呼ばれ、
現在も、本殿横に境内社・八幡宮がある。
当社の祭事・「風まつり」は花火で有名らしい。
また、『今昔物語』19巻や『宇治拾遺物語』4巻に、
三河の国守である大江定基が出家して
寂照という名の僧侶になる話が載っており、
そこに、三河の「風まつり」という行事で、猪を生け捕りし、
生きたまま捌く様をみて、「早くこの国を去りたい」と思うとある。
昔は、当社の風まつりに猪を生贄として供えていたらしいが、
現在では雀12羽を供えるらしい。
『和漢三才図会』にも雀12羽を射取って供えるとあり、
江戸時代にはすでに雀だったようだ。
本殿の屋根に、桐紋が付いていたが、
やはり神紋は「兎」だろうと思う。
ただし、本来の神紋かどうかは確認していない。
あるいは、後に社号からわかりやすい社紋に変えたのかもしれない。
由緒
「昇格碑文」菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世穂の国の國造(東三河の国司に当る)に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木濱に宮造して斎ひまつりしを天武天皇の白鳳十五年四月十一日(昭和五十二年より千二百九十一年前)神の御おしえのまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり。はやく正六位上の神階を授け給ひ貞観六年二月十九日従五位下に進められしが國内神名帳には正三位と記されたり(中略)。
徳川幕府の世となりて家康親しく参拝して神領(九十五石、制礼寄進)を寄せしより累代の将軍も其の例に倣ひ領主藩主等の尊敬の尋常ならざりしこと社記に詳なる所なり。
明治維新の初天皇御東幸のみぎり勅使をして幣帛を捧げしめ給ひしはいとも尊く、かしこき極にこそ(中略)。
斯る由緒ある神社(中略)なりしかば大正七年十一月二十二日県社に列せらるる事となりぬ(中略)。此の事の由を永遠に伝へむと大神に仕へ奉る社司川出直吉ぬしの請へるままに其の大むねを識すになむ。
これですね!
菟足神社と徐福伝説
今から二千二百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬 莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、 始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者) を連れ、蓬莱の島に向かわせた。しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわか っていない。
ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、 わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような菟 足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。
一 熊野に渡来した徐福一行は、この地方に移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。
・ 豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えがある。
・ 牛窪記〔元禄十年(一六九七)頃成立〕には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之湊ヨリ徐氏古座侍郎泛舟、此国湊六本松ト云浜ニ来ル。…中略…徐福ガ孫古座郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏者多シ…」とある。
へえ〜
二 菟足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。
菟足神社県社昇格記念碑(大正十一年十二月二十二日昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は…中略…雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳十五年四月十一日神の御誨のままに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり…」と記されている。
三 菟足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。
古来菟足神社の祭事には、猪の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」(平安後期)に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀十二羽を供えている。
以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修 験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を 往来する人達のなかからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。
−社前案内板−
なるほど
ということで、この兎足神社にいらっしゃったのですか。
[68] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月11日 23時25分38秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は遠縁の通夜があったりなんだりで、時間が途切れてしまいまいた。
あを様よりのご報告のとおり、宇津山城址、多米郷、莬足神社、御津(みと)
山、その他として五社稲荷神社へ行って来ました。国道4号線で行き、帰りは
国道362号線で帰ってきました。走行距離約120キロ。通夜があるため、
時間が限られてしまいました。
本日はやや頭が疲れて思考力がにぶってまいりましたので、就眠することと
いたします。明日ご報告申し上げます。
[69] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 02時37分39秒 ) | パスワード |
御津(みと)山
意外な高い文化圏のエリアだったのですねえ。
銅鐸が出てるということで やっぱり古代に栄えた場所 ちうことですね。
榛原の服織田神社や日本武尊らしき人物は実在だったんだ、と思いますね。
歴史[編集]
縄文・弥生時代[編集]
御津町に隣接する豊橋市の瓜郷遺跡には多数の農耕具が出土しているが、御津町地域はこの瓜郷に居住していた人々の生活圏内にあったとみられる。町内では、長床遺跡をはじめ石堂野遺跡、河原田A遺跡などの遺跡群が確認されている。
長床(ながとこ)遺跡は1936年、御津南部尋常高等小学校(現・豊川市立御津南部小学校)の講堂建設工事の際に発見された。高坏を含む数々の土器が出土したが、それまで知られていた弥生式土器とはいくつかの点で様式が異なっていた。具体的には、壺の胴部が算盤の玉のように上下のすぼまった形状をしており、波線と直線が交互に引かれていた。また、脚台のある土器には丹塗りが施されていた。蒲郡市在住の考古学研究家・久永春男は、長床遺跡で発掘されたこれらの土器と特徴を同じくする土器を「長床式土器」と称することを提唱した。
発見から約半世紀後の1987年、講堂の取り壊しと校庭拡張が行われたのを機会に、再び調査が実施された。
石堂野遺跡では1985年、愛知県立御津高等学校の建設工事に際して愛知県埋蔵文化物センターが調査を実施した結果、弥生時代後期の土器が出土した。河原田A遺跡は、県道国府前芝線の建設工事中に土器片などが発見されたことによって存在が明らかとなった。1965年11月に行われた愛知大学文学部史学研究室の調査では、石器(石鏃、石槌、石包丁など)、長床式土器の存在が報告された。また、萩原神社遺跡及び二本松遺跡には、土器片が散乱している。
広石の新宮山では1878年、道路工事中に銅鐸が出土した。この銅鐸は高さ46cm、底部長径24cmの流水文銅鐸で、1974年に愛知県の有形文化財に指定された。町内には、このほかに2つの銅鐸が出土したと記録されているが、いずれも実在が確認されていない[6]。
古墳時代[編集]
町内の主な古墳は、穴観音古墳と船山古墳である。
穴観音古墳は御津高校の西方に位置する円墳で、横穴式石室に石造の観音像が安置されている[7]ことから「穴観音古墳」の名で呼ばれる[8]。直径は20m、高さは5mで、石室の全長は8m。
船山古墳は全長37mの前方後円墳で、北東に位置する後円部には盗掘の跡とみられる窪みがある。
この他、金野地区には横穴古墳群12基があったが、その姿を留めているのはわずかに7号墳のみである。
持統行幸[編集]
『続日本紀』や『類聚国史』には、702年に持統天皇(この時には退位して上皇となっていた)が 三河国を行幸したとの記述がある。
『万葉集』には、この行幸について詠んだ歌として、長忌寸奥磨(ながのいみきおきまろ)の歌「引馬野に にほふ榛原(はりはら) 入り乱り 衣にほはせ 旅のしるしに」や、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の歌「何処にか 船泊(ふねは)てすらむ 安礼の崎 漕ぎ廻(た)み行きし 棚無し小舟」がみえる。これらによると、持統天皇は船に乗って引馬野(ひくまの)、安礼の崎(あれのざき)に上陸したと読み取れる。
『十六夜日記』中にある「引馬の宿」について、賀茂真淵が浜松北方とする見解を示して以降、引馬野を遠江とする説が拡大した。対して、仙覚や荷田春満、斎藤茂吉らは三河説を唱えたが、現在では後者が有力視されており、音羽川の河口に近い御津町御馬の辺りであるとみられている[9][10]。また、昭和末期に造成された埋立地三河臨海緑地の一部には、「安礼の崎」の地名が付けられた。
中世[編集]
平氏を打倒して政権を掌握した源頼朝は、安達藤九郎党盛長を三河国の守護とした。盛長は、西御馬八幡社を創建したと伝えられている。
南北朝時代には佐脇一帯を治める佐脇氏が興った。『太平記』の中には佐脇姓の人物が何人か見出される。
足利尊氏の命で波多野氏が入り、現在の豊沢に大沢城が築かれる。
戦国時代には、御津山に大恩寺が建立された。同寺は1479年に了暁慶善が新宮山に開山した大運寺を起源とし、代々菩提寺としてきた牛久保城主・三河牧野氏の援助により、念仏堂が建立された。この念仏堂はのちに国の重要文化財に指定されたが、1994年に火災で焼失した。
佐脇は作手地方を本拠とする奥平氏が領有したが、東方から進出した今川氏の支配に服した。桶狭間の戦い以後は、没落した今川氏に代わって松平元康(徳川家康)が進出し、長沢松平家が町域の大半を領有した。家康が関東地方に移封されると、町域は池田輝政(照政)の所領となった。
下佐脇には佐脇城跡がある。『三河国二葉松』には、佐脇右京亮明秀の後裔・佐脇刀禰太夫や、奥平兵庫・三浦左馬助義就がここを居城としたとある。
大沢城(豊沢)の波多野時政(法名全慶)は長山一色城(豊川市牛久保町)の一色時家の被官であったが応仁の乱の西軍に加わった時家を倒した。しかし、後に時政は牧野成時(法名、古白)に討たれる。
町域には他に茂松城、御馬城、竹本城などがあり、地域の有力豪族が抗争を繰り広げたものとみられる。
近世[編集]
江戸時代に至ると灰野・金割・茂松などは天領、上佐脇・下佐脇は新城藩領、広石の一部は大恩寺領というように再編された。その後も各村の勢力関係は幾度も変遷した。
御馬湊は三河五箇湊の1つに数えられ、年貢米が江戸へ送られた。地域の廻船問屋渡辺家の第8代当主・渡辺富秋は郷土史研究に取り組み、また和算の分野にも関心を示した。18世紀末には俳句結社・御馬湊社中が興った。
明治・大正期[編集]
1868年になると、町域の大半が三河県に属した。さらに静岡藩や静岡県を経て、1871年に町域は全て額田県下に入った。翌1872年5月、額田県は愛知県に編入された。大区小区制に基づき、宝飯郡は県内9大区のうち第6大区に分類され、町域は第5小区とされた。
1889年10月1日、西方村、泙野村、広石村、豊沢村、金野村の5村が合併し、御津村が成立した。同日には、佐脇村及び御馬村が成立した。1906年、この3村が合併し、新たに御津村が成立した。
この頃、当地域では養蚕業が大いに伸長していた。1919年の繭生産額は477,675円と、米生産額(166,005円)の約3倍を記録し、主要農産物中の第1位を占めた。1920年の御津村事務報告は、「本村ノ農業ハ、十年前ニハ米麦作ニ最モ重キヲ置キ、養蚕業ヲ副業トセシモ、今ヤ養蚕ハ主タル業トナリ、畑ハ皆桑園トナル」[11]と記している。しかし繭は価格変動が激しく、1920年の生産額は255,040円と、前年実績を約4割下回った。以後数年間の生産額は概ね15万円〜25万円の間で推移し、なおも主要農産物としての地位を維持したが、昭和期に入ると衰退した。
明治末期に16を数えた製糸工場は激減し、第一次世界大戦後には不況の影響もあって4工場が残るのみとなった。対して海苔の生産は拡大した。
[70] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 07時04分38秒 ) | パスワード |
長田さん・永田さんが 古代から、いえいえ神代の時代から伊勢に存在した人々だったということで
元々日本の名家だった、ということですね。
そして日本の歴史の中で平氏とつるんだり源氏ともつるんだり
もちろん他の姓氏とも関係したり
そうやって2000年3000年続いて来たんでしょうね。
平安時代末期あたりからの1000年ぐらいの家かなと思ってました、失礼をば致しました。
その上に猿田彦のお子さんが尾張の津島に来てたとは。
当然津島神社と交流があったでしょうし。
後醍醐天皇の子孫を養子に迎えたというのは昔々から遠縁だったから有り得た
というのも言えるんでしょうね。
日本ってすごいなと改めて思いました。
こちらは2月11日です。
夫が ハッピーバースデイ ジャパン! なんて言ってます。
紀元2675歳?
笑
こんな感じで、思わぬ人が思わぬ古い古い歴史を持った家だったりするんですねえ
逆に「え?うちってそんなに古い家だったの?!」とご本人が驚いてたりね。
これが日本なんですよね。
[71] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 07時13分55秒 ) | パスワード |
ここから暫く猿田彦の噂なんぞを書いていきますので XXVII で新たなお話を展開なさってくださいね。
http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index5.html
秦氏と猿田彦
猿田彦は、新羅から渡来したインド人だ(姫沙羅さん流に言うとソグド人か?)
もくじ
1.秦氏とサルタヒコ
2.イスラエルの失われた10支族
3.神話での記述
4.猿田彦と天宇受売神
猿田彦とは
猿田彦(サルタヒコ)は、日本神話に登場する神 導きの神様の代表格。
鼻が異様に長く、サルのような面持ちであった。
古事記および日本書紀の天孫降臨の段に登場し(日本書紀は第一の一書)、
古事記では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、
日本書紀では猿田彦命と表記する。
ギリシア神話の「ヘルメス」がモデルだとよく指摘される。
天孫族(=天津神=大陸からの渡来民族≒弥生人)と、
国津神(=天孫族渡来前の原住民=縄文人)との 仲を取り持った、
有力豪族の長、と考えられている。
猿田彦は、天狗のような顔をしており、新羅から渡来したインド人ではないかと思う。
インドの神様は「〜天」と呼ばれるが、猿田彦は恵比寿天であったと思われる。
へえ〜
この人が恵比寿さん?
そうすると丸に三つ柏紋の関係も出て来る?
恵比寿さんは、釣りが好きだった。
釣りが好きと言えば、浦島太郎であり、 出雲の国譲りに出て来る事代主神(ことしろぬしかみ)だ。
従って猿田彦は、大国主命(大黒さん)の子である事代主神(恵比寿さん)なのだ。
事代主神は、各地の神社に祭られているが、道祖神としても有名だ。
道祖神は、夫婦姿であるが、連れ合いはもちろん、神功皇后だ。
神功皇后の愛人と言えば、住吉神社の祖である武内宿爾(蘇我氏の祖でもある)であるから、
事代主神は、武内宿爾でもある。
猿田彦に色々な名前を付けて、
実在の人物ではないように見せたのが、 大化の改新で蘇我入鹿をテロ手口で暗殺した藤原不比等が作った日本書記だ。
日本書記は、正統な蘇我氏の祖である武内宿爾が実在の人物だと、
藤原氏のテロ手口によるインチキ手法がバレてしまうので武内宿爾を神話化したのだ。
そして蘇我入鹿を極悪人のように見せた。
しかし、歴代の天皇家は、有事の時など出雲系の神社にお参りすることが多いそうだから、
天皇家は、出雲が拠点であった猿田彦(=武内宿爾)の流れである蘇我氏の系統だった可能性が強い。
聖徳太子が蘇我氏の系統だったことは有名だが、
それを藤原不比等がテロ手口で滅ぼした訳だ。
だから、藤原不比等は蘇我氏の祖先である猿田彦(=武内宿爾)の祟りを恐れて巨大な出雲大社を改築したのだ。
蘇我(入鹿)氏は、藤原氏の穢い手口で暗殺されたが、
猿田彦(=武内宿爾)を祭る神社は、 全国に普及し日本文化の土台になった。
藤原氏が伝える文化はテロだけである。
ここでアップ
[72] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 07時15分58秒 ) | パスワード |
続き
秦氏とサルタヒコ
応神天皇の283年に弓月国の「ヤマトゥ」から来た秦氏
秦氏の来日は、公式記録(日本書紀)によれば、
応神天皇の283年に弓月君が百済から127県の1万8670人を連れて、 日本に来たという。
弓月君の名前は、新撰姓氏録では融通王と呼んでいるそうで、
天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の「ヤマトゥ」から来たらしい。
この「ヤマトゥ」の近くに「ハン・テングリ(Khan Tengri)山」という山があって、
この山が「天狗」のルーツではないかと言われている。
ハン(Khan)は、族長の称号であり、テングリ(Tengri)は、天神を示すと言う。
続く
[73] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 07時17分54秒 ) | パスワード |
仲哀天皇の199年にも来日した弓月国王の功満王
応神天皇の283年の弓月君(融通王)の来日の前に応神天皇の父とされる仲哀天皇の199年に、
融通王の父である功満王(弓月の王)が日本を公式訪問したという(新撰姓氏録)。
佐伯好郎博士の研究によれば、弓月国(Kung-Yueh)は小国であるが、 キリスト教王国であったと言う。
当時の中国は、後漢(25〜220年)の時代だったと思われるが、
上図でもわかるように弓月国あたりまで勢力を伸ばしており、
後漢の弓月国への圧迫や万里の長城の苦役の強制があったと思われる。
そこで、弓月国の人々(秦氏)は、満州を経て朝鮮に逃げたらしいが、
朝鮮でも迫害を受けて、日本に来てやっと、日本の天皇に助けられたのだ。
続く
[74] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 07時19分39秒 ) | パスワード |
秦氏が政治的地位を望まなかった理由
秦氏が日本の天皇のために献身的に尽くした割には、それに対する政治的地位などの報酬はなかったようだが、
その理由は上記のせいかも知れない。
秦氏は、短期のメリットしかない政治的地位よりも、長期的な価値のあるビジネス的な特権(養蚕業やその流通の独占など)を望んだのではないか。
これは、弓月国の人々(秦氏)が信ずるキリスト教は、景教(ネストリウス派)であったろうから、
彼らは迫害を受け続ける歴史だった生活の知恵なのかも知れない。
そして、日本の天皇家だけには迫害を受けなかったことが、 彼らの意識を貫いていただろうし、
もしかしたら天皇家のルーツかも知れないし、
いずれにしても日本人の文化や考え方のルーツであることは確かだ。
続く
[75] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 07時21分24秒 ) | パスワード |
日本人のDNAは、イラクあたり(アッシリア)に近い
ユダヤのラビ(ユダヤ教指導者)であるサミュエル・グリンバーグは、
早くから古代イスラエルの失われた10支族の一つ、
ガド族がシルクロードを経てアジアに向かい、
天皇家の祖先として日本に渡来したと唱えている。
天皇のことをミカド(帝)と呼ぶが、これは「ミー・ガド(ガド族から出た者)」のことだと言う。
そして、ガド族の始祖ガドの長男の名前は「ニェポン(ニッポン/英語ではジェッポン)」であったという俗説まである。
秦氏が作ったと言う神社(特に八幡神社と稲荷神社)や雅楽(東儀氏の元祖は秦河勝であり、秦東儀氏と呼ばれていた)は、
日本人が日本古来の文化と信じられているが、
実は中東(アッシリア)から来たものであると言う。
日本人のDNA鑑定結果もイラクあたりに近いと言う。
[76] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 07時25分18秒 ) | パスワード |
イスラエルの失われた10支族
イスラエルの失われた10支族とは
ダビデ王(紀元前1004年‐紀元前965年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。
しかし、ソロモン王(紀元前965年‐紀元前930年)の死後、南北に分裂し、
サマリヤを首都に10部族による北王国イスラエルと、
エルサレムを首都にする2部族による南王国ユダに分かれた。
北王国のイスラエルは、現在のユダヤ人のような一神教的宗教を奉じていなかった可能性が高い。
エルサレムのヤハウェ信仰にも一定の尊重を払っていたが、 首都サマリアに金の子牛の像をおいて祭祀の中心としていた。
北王国は紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされて、10部族は地方を追放される。
この10部族の行方が文書に残されていないため、2部族によって失われた10部族と呼ばれた。
この10部族の一部が日本に来たとするのが、「日ユ同祖論」である。
「皇紀」とイスラエルの失われた10支族
天皇制には昭和とか平成とかいった「元号」があることは誰でも知っているが、
「皇紀」が存在していることを知る人は多くない。
今年(2008年)は皇紀2668年である。
皇紀は紀元前660年から始まっているのであるが、
これはちょうど北イスラエル王国が滅ぼされた直後の時期に当たっており、
まだアッシリア帝国の治世下でイスラエル10支族が捕囚されている時期に相当している。
ええっ???!!!
よってこの時期、アッシリアに捕囚されていた北朝の残党たちが、新しい王朝を再結成したのではないかと推測する者もいる。
この時に皇紀がスタートしたというわけだ。
続く
[77] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 07時29分02秒 ) | パスワード |
神話での記述
天狗のイメージ
邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。
その神の鼻長は八咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。
そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。
その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸命らの先導をしようと迎えに来たのであった。
天宇受売神との出会い
邇邇芸命らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸命は天宇受売神に、 その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、 その名前をつけて仕えるようにと言った(日本書紀では、 猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている)。
そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。
猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。
これが狭長田さなだですね。
猿田彦の死
猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村(現松阪市))の海で漁をしていた時、 比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ。
この際、海に沈んでいる時に「底どく御魂」、 猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂」、 泡が水面で弾ける時に「あわさく御魂」という三柱の神様が生まれた。
倭姫命と猿田彦
倭姫命世記(神道五部書の一)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、
猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。
大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。
猿田彦と天宇受売神
結婚した猿田彦と天宇受売神
日本書紀には、天宇受売神は胸乳を露わにし裳帯(もひも)を臍の下に垂らしたとあるので、 性的な所作をもって相対したことになる。
神話には書かれていないが、二神が結婚したと民間では伝えられているのは、 この記述によるものと考えられる。
天狗とお多福のモデルか
「鼻長八咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる。
「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神であったとする説もある。
[78] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 07時30分59秒 ) | パスワード |
道祖神と同一視
三重県鈴鹿市の椿大神社、三重県伊勢市宇治浦田の猿田彦神社がサルタヒコを祀る神社として名高い。
天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、
道祖神と同一視された。
なるほど、それで。
そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている。
この場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが通例である。
また、祭礼の神輿渡御の際、天狗面を被った猿田彦役の者が先導をすることがある。
他にも滋賀県高島市の白鬚神社の祭神とされたことから白鬚明神の名でも全国各地に祀られている。
また子孫である大田命、内宮の興玉神とも同一視される。
さらに江戸時代に入って「サル」の音から庚申講と結び付けられたほか、
垂加神道では「導きの神」として神道の「教祖」とされるなど複雑な神格を持つ。
[79] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月12日 07時32分42秒 ) | パスワード |
秦野に多い道祖神
こうしたことから、近年「謎の神」として鎌田東二などの学者にクローズアップされている。
常陸国の住人に猿田氏があるが、猿田彦の末裔であるとされる。
前述の椿大神社・猿田彦神社の宮司もともに古くから猿田彦の神孫として名高い。
へえ〜
手塚治虫の火の鳥シリーズには、「猿田」もしくは「サルタヒコ」という人物が多く登場する。
それらの多くが、鼻が大きいという身体的特徴を持っている。
秦野には、道祖神が非常に多いが、猿田彦が秦氏の氏神さまだったのだろう
以上
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