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 投稿番号:101412 投稿日:2015年01月28日 08時28分16秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]X
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]]Wからの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に秘められた謎を解明する。

最終目標は、服部氏族についての謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月28日 10時14分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秦氏は九州から関東、東北まで広がっていると思います。しからば服部氏
あるいはそれに類する氏族、服部村あるいはそれに準ずる村の分布はどうで
あろうか。服部氏の分布はかなり広がっていると思いますが、服部村とそれ
に類する地名(秦に類するものは除く)は、摂津を中心にしてそんなにたくさ
んはないと思います。服部村の分布、とりあえずは古代の養蚕・織布・服飾
専門の管理された部落ということで、桑を植え、蚕を飼い、糸を紡ぎ、織り、
あるいは縫製するところまで一貫生産をした所・・・そしてそこへ自然発生
的に服部神社あるいはそれに類する神社ができた。
 今、手元には資料がございませんので、今晩まで猶予を下さい。

 忍者は跡を残さないのが鉄則ではありますが、墓も残さなかった?但し、
百姓や一般人として、忍者とはわからないように残した?。それとも、表の
顔と裏の顔があって、裏はバーチャル(忍者)、よって死んでも表の顔で埋葬
された。墓碑銘を見てもわからない。
 何か暗号を残してくれていないでしょうか・・・?

 磯田道史氏は甲賀忍者の末裔と会っている。忍者の末裔と自任する人も中
にはおられるということ・・・でも半蔵に関しては、忍者というよりも武将
(家康十六武将の一人)であったので、その子孫は表の世界で残っている。

 忍者の本当の世界を知りたい・・・。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月28日 14時01分28秒 ) パスワード

https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%9D%91%E3%80%80%E3%81%AF

じっくり読んでみたいと思います。



>墓碑銘を見てもわからない

はい、分からないと思います


墓だけとっても、身分によって制限されてました。
というより墓は権力の象徴でした


墓碑銘のあるのはそれなりの身分のある人だけですから

百姓や一般人は、ましてや忍者は、土饅頭に置かれた1個の石だったり土饅頭に刺された1本の板切れ、
あたりじゃないですか?


普通の人が寺に埋葬されても、せいぜい、卒塔婆あたりじゃないのかな?
そして卒塔婆は朽ち果てます。



京都のあだしのの石墓群は集めたのかもね。
だから観光名所になれたのかも。



明治維新後は庶民も競争で墓石を立てて、それが昭和まで至る、
でもだんだん
墓守をする家も人もいなくなって
今は集団墓地になっているんじゃないですか?
小さな骨壺に入れて。


江戸時代までは自分の家の裏山に埋めたとか、
町はずれに埋めたとか
そういう扱いだったんじゃないかな?


http://www1.ocn.ne.jp/~miyaishi/ishi/ishi1-1.html

続く
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月28日 14時02分43秒 ) パスワード

日本の「お墓」の歴史 1


 古来より、日本人は「お墓」をとても大切にしてきた民族だといわれています。少し長くなりますが、まずはその歴史を辿っていきましょう。



    < 縄文時代 〜 江戸時代(中世)>


 日本最古の「お墓」は縄文時代の遺跡から発掘されています。

 集落の中心にあったり、村を見下ろす小高い丘の上だったり、集落の主要な道路に沿って数kmも並んでいたりと、当時の人々の生活に密着した存在でした。と同時に当時から先祖や亡くなった親族へ、深い尊敬と畏敬の想いが込められていたと考えられます。



 その後、古墳時代からの貴族の時代、鎌倉時代の武士の時代において、「お墓」は上流階級の権力の象徴となりました。ゆえに庶民のお墓についての記録はほぼゼロといっても良いほど、残っていません。

 しかしその間、決して庶民が死者を粗末に扱っていたということは無いと思います。

 一説には、個々の村ごとに集落から離れた山や野原に死者を葬るための共同の埋葬場所があり、死者は手厚く土葬されていたといいます。

 そして村のお祭りのときなどには村中の人々が一同にそこへ集まり、村の発展のために生きてきた、村全体の共通のご先祖さまとして、皆で祈りをささげていたそうです。

 そういった村にとって神聖な埋葬場所が、お寺や神社などの元になったと言われています。



 やがて日本は徳川家により統一され、江戸時代という長く平和な時代がやってきました。ここで庶民の「お墓」が歴史の表へと現れてきます。

 江戸時代中期、元禄年間の頃から庶民の文化が花開きました。その中で「お墓」の文化も発展しました。

 前述の通りお墓は武士などの権力層の代名詞でしたが、このころから裕福な商人たちが武士のお墓のような立派なお墓を建て始めました。(そのころ考案されたのが現在のお墓の形の主流である「和型の三段墓」といわれています)

 その後「お墓を建てる(墓標を建てる)」という行為そのものが庶民にも広がっていきます。庶民にはさすがに立派なお墓を建てることはできなかったようで、死者を土葬した所に墓標として丸い石(頭石)を置いたり、故人の名前を書いた木柱や塔婆を立てるといったことから始まりました。

 そして時代が流れ少し豊かな中流階級の庶民たちが、自然石に名前を彫ったものや四角く加工した石を墓標として置くようになりました。これが現在ある一般的な「お墓」の基本となっていきました。


 また、これまで庶民の間ではそれぞれの村のしきたりにそって埋葬されていて、その村ごと地域ごとに埋葬方法が違っていました。

 しかし江戸幕府がとった「民は寺へ帰属する」という寺請制度が元となり、多くの村々に仏教式の埋葬方法が広まって、ある程度統一されていきました。

 そして現在で主流となる「人が亡くなったら仏式のお葬式をして埋葬し、お墓を建てる」という一連の流れが確立することとなります。
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月29日 10時07分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は昼間は人間ドック、夜は各種資料を精査しながら長上郡服部につい
ての歴史の縦糸、横糸がどうつながるのか、ずーっと考えておりました。
 具体的には、服織神社、蜂前神社(服部大明神)等、更に摂津の神服神社、
またそれ以外の神社についても縁起・祭神等を見比べ、調べ推理しておりま
した。従って、レスを書くまでには至りませんでした。

 本日は早朝から、賀茂真淵記念館にて購入した『内田旭氏著作集三』とい
う本の「ハタとハトリ」という論文を読みながら、昨夜来の思考との突き合
わせをしておりました。そして今一つのヒントを見つけました。
 即ち、羽鳥の服織神社についてですが―

 「京都の新熊野神社が後白河法王の祈願により創立された年代はわかって
 いる。即ち永暦元年(1160)に創設され、翌年応保元年現在の所に遷座
 するというから、新熊野神社は、これ以前にさかのぼれない。新熊野文書
 によると、羽鳥庄の寄進は養和元年(1181)であって20年の後となる。
 この時代より、羽鳥の服織神社は若一権現に占領された。然るに服織神社
 は式内社であるからその創立は927年より以後でない。そこで若一権現
 は服織神社よりも250年の後にできた勘定になる。これは争うことので
 きない史実である。
  〜一部略〜。この羽鳥には風土記伝編輯(へんしゅう)時代に天穂日命が
 出てきた。天穂日命は天照大神五男の一人で、天忍穂耳命の弟である。こ
 の兄弟の神は若一権現に占領される以前の祭神であるかどうか、恐らく以
 後に権現と結びつけた妥協手段であったろう。天穂日命は天孫本紀による
 と、遠江国造の祖、建比良鳥命の父とあることが、遠江とのつながりがあ
 る。この系統は土師氏で、後世改姓して菅原氏となる。土師氏の足跡は、
 遠江の東西にのこるも、遠祖が遠江の国造であることに確証がないので、
 今日疑問となっていても、土師氏の居住したことは実証されるから、古い
 昔に天穂日命がまつられていたのかも知れない。しかし、若一王子が後退
 すれば、服織神社本来の祭神が復活してよい筈である。これは理屈の上よ
 り言うことで、若一権現となった時より、羽鳥村服織神社の祭神は氏子脳
 裏に潜み、名義上の祭神はどうあろうとも、それはそれとしておくことに
 なった。」

 つまり、羽鳥と菅原道真=天満宮とは、土師氏の時代、古代より繋がりが
あった。つまり、善地の天満宮り創建はそれなりのいわくがあったのだ、と
と思われる。あとは丸に三つ柏の問題・・・これは摂津の神服神社はまさに
に丸に三つ柏で、『服部村の研究』の著者古道幸雄さんのブログを見ても、
祭りにも神輿に付けられた丸に三つ柏が踊っている。
 一度、「服部村の研究」でクリックして見て下さい。もちろんそこからど
うつながるかですが・・・。

  なお、「ハタとハトリ」等の論文、長いので斟酌するのも大変ですので、
 コピーを近日中に送ります。
  
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月29日 11時43分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


ドック入りでしたか。

メンテは大切なので健康診断は欠かさないでください。

結果が良いといいですね。
わたくしは夏を予定しています。



たくさん書いてくださってありがとうございます:

      新熊野文書によると、羽鳥庄の寄進は養和元年(1181)であって20年の後となる。
      この時代より、羽鳥の服織神社は若一権現に占領された。
      然るに服織神社は式内社であるからその創立は927年より以後でない。
      そこで若一権現は服織神社よりも250年の後にできた勘定になる。
      これは争うことのできない史実である。


    復習

   【延喜式神名帳】服織神社 遠江国 長上郡鎮座

   【現社名】服織神社
   【住所】静岡県浜松市豊町2501
       北緯34度46分19秒,東経137度48分15秒
   【祭神】穗日命 (合祀)建御名方命
       『神名帳考証』多奈波太姫命
       『神祇宝典』天棚機姫神
   【例祭】8月25日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創建は和銅元年(708)
       慶長6年(1601)社領寄進
   【祭祀】江戸時代は「権現社」「若一王子」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・社務所・神庫
   【境内社】招魂社・秋葉神社


豊西小学校北、豊田川西岸近くに鎮座する。

和銅元(708)出雲の国より勧請。当時天竜川沿いのこの地には多くの織物職人が住んでいたという。



服織神社由緒

当社は、今からおよそ1280年前、元明天皇の和銅元年(708)出雲国から、神様をお迎えして造られたといわれている。

祭神は「天穗日命」 (織物・文学の神)と「建御名方命」(織物の機械の神)で、その当時は、天竜川沿いのこの辺には、織物に関係した職人が集団で住んでいたらしい。

当社は、延喜式内神名帳にのせられており、明治8年(1876)郷社に列せられ、8月25日の例祭日には、幣帛使と呼ばれる人が見えて、紅白の絹布を献上し、豊西村長をはじめ、小学校の児童達も参列した。





     羽鳥には風土記伝編輯(へんしゅう)時代に天穂日命が出てきた。
     天穂日命は天照大神五男の一人で、天忍穂耳命の弟である。
     この兄弟の神は若一権現に占領される以前の祭神であるかどうか、
     恐らく以後に権現と結びつけた妥協手段であったろう。
     天穂日命は天孫本紀によると、遠江国造の祖、建比良鳥命の父とあることが、
     遠江とのつながりがある。


     この系統は土師氏で、後世改姓して菅原氏となる。       驚きでした!
  


     土師氏の足跡は、 遠江の東西にのこるも、遠祖が遠江の国造であることに確証がないので、
     今日疑問となっていても、土師氏の居住したことは実証されるから、
     古い昔に天穂日命がまつられていたのかも知れない。

     しかし、若一王子が後退すれば、服織神社本来の祭神が復活してよい筈である。
     これは理屈の上より言うことで、若一権現となった時より、
     羽鳥村服織神社の祭神は氏子脳裏に潜み、名義上の祭神はどうあろうとも、
     それはそれとしておくことになった。」



>つまり、羽鳥と菅原道真=天満宮とは、土師氏の時代、古代より繋がりがあった。
>つまり、善地の天満宮の創建はそれなりのいわくがあったのだ、と思われる。


ですね。


1.善地の天満宮はもともと土師氏の時代から御縁があった
2.道真公が出て
3.お子さまが流されて来て

当然、善地に天満宮が勧請されますね。



>あとは丸に三つ柏の問題・・・これは摂津の神服神社はまさにに丸に三つ柏で、
>『服部村の研究』の著者古道幸雄さんのブログを見ても、祭りにも神輿に付けられた丸に三つ柏が踊っている。

    このブログが見つかりません



>一度、「服部村の研究」でクリックして見て下さい。もちろんそこからどうつながるかですが・・・。

服部村の名が消えて   清水  になったというのは読みました。



名古屋の服部姓の件ですが
    東海道新幹線で楽しむ「一駅雑学」: 東京から新大阪まで、退屈しのぎの面白ネタ


     https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E3%80%8E%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%9D%91%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%8F&start=10


      日本博学倶楽部
      皿を割ってまで研究された尾張七宝しつぼう愛知県の代表的な伝統工芸品の一つに ...

             ここに書かれていました。

       尾張国海東郡服部村(現・名古屋市中川区富田町大字服部)で金属 ...


   この部分
   尾張国海東郡服部村(現・名古屋市中川区富田町大字服部)

   それで名古屋の中川区に服部姓が多いのかと分かりました。



>なお、「ハタとハトリ」等の論文、長いので斟酌するのも大変ですので、コピーを近日中に送ります。

ありがとうございます。   
楽しみにしております。
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月29日 23時49分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日airmail受け取りました。楽しい話ありがとうございます。

 それからレス]]Wの市野村の支配者の件ですが、元禄年間(1688〜)
の資料しかありませんが、旗本の北条新蔵でありました。その他の時代につ
いては今のところ資料がないので調査してありません。

 さて、本日は榛原郡の吉田町の小山城、牧之原市(旧榛原郡)の服織田神社、
そして、掛川市(旧大須賀町)の横須賀城址を見に行ってまいりました。

 その小山城ですが、意外や意外、素晴らしいお城でありました。浜松城も
ちょっと負けそうな感じです。吉田町インターを降り、南方向(駿河湾)へ向
かう。2キロ程であろうか。吉田町にあるので、城の名前は吉田城と言うの
かなあとばかり思っていましたが、「小山城」といいます。それは、鎌倉時
代に関東の武将「小山七郎朝三」がここに砦を築いたのが初めと言われてい
ます。先日行った高天神城址は正に城の痕跡のみでしたが、ここはコンクリ
ート造で再建され、城山も整備され、また城の中の資料も充実しておりまし
た。武田と徳川が、攻めたり引いたりのせめぎ合いをやった所で、小山城は
高天神城が落ちて後ようやく落城に至った。11年間にも及ぶ攻防でも徳川
は攻め落とすことができなかったと言われる。それは山本勘介に兵学を学ん
だ馬場美濃守が、城全体の造りを大きく変え、難攻不落にしたと言われてお
ります。山本勘介の指示したと言われる井戸跡も残されていました。その隣
に亡くなった兵士たちの慰霊碑があったので、大きな声で般若心経を一巻、
心をこめて唱えました。

 この11年間にわたる攻防の中で、驚いたのは忍者達の活躍の話でした。
 それは、甲賀流の忍者(乱波、透波)と雑兵で、小山城周辺に陣をとり、あ
る時は農民に身をやつして稲を刈り、一方では甲州勢になりすまして民家を
焼き払い、人心を甲州勢から引き離すなど、徳川方へ加勢をしたということ
です。
 伊賀忍者の方が活躍するようなイメージを我々はついつい抱きがちですが、
甲賀忍者も家康は大事にして取り込み、活用した。その辺の比較研究もおも
しろそうですね。

 さて、次に旧榛原町にある服織田神社に向う。吉田町の西が榛原町、榛原
町の西が相楽町である。市町村合併で、牧之原市となったため、歴史の重み
がなくなってしまった。というか、何で牧之原なのか整合性がとれなくなっ
てしまった。市町村合併の功罪である。本来持っているイメージが失われて
しまった。特によそから訪ねて来る人達にとっては・・・。
 服織田神社は、景行天王7年に勧請ということであるので、西暦78年位
か・・・。祭神は「麻立比古命(あさたつひこのみこと)」、「天八千千比売
命(あまのやちちひめのみこと)」である。この辺は往古は服織田村と言われ
ていたが、柏原町と改められたということです。神紋は三つ巴紋でした。ま
た御神木が誠にみごとでありました。

 次に旧大須賀町にある横須賀城址を訪ねました。榛原から約40キロ西。
 ここも意外や意外、城址ではありましたが、しっかり整備され、石垣は見
ごたえがありました。それはどうしてかというと、お城の石垣はだいたい四
角い方形の岩を積み上げますが、ここのは「丸い石」、即ち河原等から拾っ
てきた大きな丸石で積み上げているのです。もろくはないかと思って力を入
れて押してみるが、ビクともしない。石垣の縦の角度というか曲線を計算し
て積み上げてある。とにかく河原にある丸石である・・・どこかで見たこと
がある・・・丸石は、古墳を作る時に並べられていたのではないか・・・。
大須賀康高が徳川家康の命により作ったといわれている。やはり、信玄との
戦いの舞台となった城である。一番北の奥に「松尾山」があり、北の丸の一
段上になるが、なにかおどろおどろしい雰囲気があった。それはその一帯を
取り囲む木々の枝が血管のように空をさえぎり、不気味なイメージを与えた
からか・・・それともここで亡くなった兵士達の蠢きか・・・慰霊碑に向い
般若心経を念を込めて一巻唱え、その場を後にしました。
 
 私の古城を訪ねる旅は、亡くなった兵士達の霊を慰める「般若心経」の旅
として定着しました。

[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 02時26分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


レス<68>の回答ありがとうございました:思わぬおまけ話がありました
XXIVにアップしようとしましたが、うまくできないのでこちらに書きますね。

驚く話が満載でした。って、噂好きのオバサン丸出しですがご容赦を。



幕府領・旗本領
1村
      ●市野村                 
     

        Q ここを支配してた旗本はどなたでしょう?

        A 元禄年間(1688〜)の資料しかありませんが、

             旗本の北条新蔵でありました


             この人は軍学者の北条氏長の孫ですって!


この旗本の北条新蔵ですが  三千四百石   ですって。
すごい!



で、この北条新蔵の娘がとんでもないスキャンダルで名を残していました:
http://books.salterrae.net/amizako/html2/mitamuramaotoko.txt



前略

旗本の娘の出奔

元文二年の春になりますと、旗本の娘達が一時に三十人余も出奔しました。
こんなに旗本衆の娘や何かが大勢駈落したのは、これより前には全くなかったことで、

その重立った者の名を挙げてあるのを見ると、

北条新蔵の娘、堀田孫太郎の娘、内田頼母の娘、竹田法印の娘が二人、花房戌《まもる》の娘、
青木新五兵衛の娘、稲生下野守の娘、なんていうのがある。




北条新蔵の娘というのは、

軍学者の北条氏長の曽孫に当るのですが、
これは若党と家出をして、
雑司谷の法明寺で情死をしている。



稲生下野守は当時名高い町奉行で、この時分は勘定奉行になっていた筈です。


ただ旗本であるのみならず、当時としては顕官の娘までが、こういうような身持をしていたのであります。



それに対して例話とすべきものが、松崎観瀾の「窓のすさみ」に書いてありますから、それをここへ出して置きましょう。


或旗本中の息女、家中の|若士《ざむらい》と密通し、彼士、息女をつれて出奔しける、
主人御城に宿直の夜なりければ、そのむね書中にて達しけるに、帰りて後申付べし、随分穏便にして居よと返答ありけり、

翌朝退出後、立退たるものは知れければ、|愉《ひそか》に居所を聞付べしと穏便に云付、

さて気分勝れず候程に、保養のため、今日難子申付べしとて、客を招きて終夜まで遊び、

三日続てその如くせられしかば、世上によもや異変はあるまじとて、沙汰するものもなくて止みけり、

かくてつれ退きたるもの行方知れければ、金五十両遣はし、まづともかくも凌ぎ居よ、
追て安く暮しぬる様にして遣すべしとて云やられける、

か」りしゆえ世の風説なくてやみぬ、

近頃あしく取なして恥をひろげぬるも有りし、総て近年貴人の娘、又は妻女など不義の出奔時々ありて、珍しからぬ様になりぬ。


こういう処分をするのが、御|情御《なさけ》慈悲の御勘当というやつで、有難く御礼を云いながら、その屋敷から忍び出る。

その後主人の子が貧窮で困っているのを引取って大いに世話をする、

というようなことで、例の報恩美談ということまで出て来る。

また一般にこういう風に表向でなく、内内に隠して処置するのを、賞美するような気味合いにもなっている。


それですから中には取隠せないで、飛んでもないボロを出しているのもあります。


享保九年の冬の話で、甲州勤番を命ぜられた小普請三百俵、本間権三郎という人がありました。


年もまだ若い、当年十九歳、牛込の|相坂《おうさか》に住んで居りましたが、この人は御婿さんで、
奥様というのが家付の娘で十六、若い御夫婦なのです。

十一月一日に江戸を発足して、甲州へ行かれる筈になったので、
若い本間権三郎は、もうこれから先幾年たって江戸へ来られるかわからぬ、とい
うところから、
十月二十八日の晩に、吉原の馴染の女郎のところヘ暇乞に行った。

その頃の若い旗本衆などというものは、こういう工合式になっていたのです。


二十九日の朝になって、屋敷ヘ帰って来て見ると、その晩のうちに若党が奥様を誘い出して、どこかへ駈落してしまった。


江戸にはいないのですから、家作や何かはすっかり売払い、引越料も取纏めて奥様へ預けて置いた、

その金を持って駈落されてしまったから、本間権三郎はひどく困りました。

方々捜索しているけれども、なかなか行方がわからない。

そのうちには|頭《かしら》の耳にも入る、というわけになって来る。


然るに十二月二日の朝になりまして、品川の仕置場のところに、若い女が一人しょんぼり立っているのが見付かった。

土地の者が大勢寄って来まして、だんだん調べて見ると、それが牛込相坂の小普請、本間権三郎の妻である、ということがわかりました。


そこでその晩にたってから、品川から屋敷へ駕籠で送り届けましたが、これは誘い出した若党が持っている金を奪って逃げてしまい、奥様は置去りにたったのです。

併し本間家は遂にこれがために改易になってしまった。


-こういう事件もあったのであります。



それですから旗本衆なんていう立派な士でない、もっと身分の軽い武士、乃至は浪人老でありましても、
不義密通の処分はなかなかむずかしい。

荒立てていい結果になるか、悪い結果になるか、そこのところがわからないので、
先ず穏便に片付けるのが何よりの事になったのです。


本所に住んで謡の師匠をしていた浪人が、妻女が若い弟子と密通しているという噂を立てられた時、
狐を斬ってその噂を消した上でその妻を離縁したのを、如何にも手際のいいこととして、「窓のすさみ」は伝えて居ります。


      この話を使ったストーリーは最近ドラマで見ました。
      山本耕史が出てたかも。

      



一体浪人はさまでの事もないのですが、母親が不義した場合には、その子供は家を相続することが出来ない。

それが士としてはまことに困ったことになるのです。


この人などは浪人ですから、禄を受継ぐこともなし、そういう心配はないけれども、
二人あった娘が大きくなって縁組するような場合には、大変な邪魔になるに相違ない。

その辺の事を考えてこんな処置を執ったのでしょう。

以下略
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 02時47分33秒 ) パスワード

北条 氏長(ほうじょう うじなが)

江戸時代前期の幕臣、甲州流軍学者。北条流兵法の祖。
通称は新蔵。
後に氏永(うじなが)、正房)と改名する。


甲州流兵学者小幡景憲の高弟として名高く、
近藤正純・富永勝由・梶定良らとともに「小幡門四哲同学」の一人に数えられる。


      1990年代あたり「忍者タートル」というアメリカの子供に大人気の亀忍者のハリウッド映画があって
      これに小幡利城さんが出てました。悪役って話です。


      利城さんは甲州兵学の小幡家の子孫だというお話でした
      ロスでは各種武術の道場を開いてて
      確か滝田栄(NHK大河「徳川家康」で家康役)も抜刀をしに来てた記憶です。


生涯

慶長14年(1609年)、後北条氏の一族・北条繁広の子として江戸で生まれる。
曾祖父は北条綱成。曾外祖父は北条氏康。幼名は梅千代。

慶長17年(1612年)、4歳の時に父が急死する。父は本来であれば実兄で養父にあたる下総岩富藩主・北条氏勝の後を継ぐべき人物であったが、重臣達の妨害で家督を継げずに憤死したのである。

これを憐れんだ大御所・徳川家康は氏長養育のために禄高500俵を与えた。

慶長19年(1614年)に家康に謁見して、更に元和2年(1616年)に第2代将軍・秀忠に謁見した。


寛永2年(1625年)、小姓組として召し出され、正式に禄高500俵の旗本となる。

その後は徒頭、鉄砲頭、持筒頭、新番頭を歴任し、承応2年(1653年)、従五位下安房守に叙任。

明暦元年(1655年)から寛文10年(1670年)まで大目付を勤めるまでに累進した。
石高も最終的に2,000石を超え、堂々たる大身旗本となった。


寛文10年(1670年)、死去。享年62。

家督は長男の氏平が継ぎ、次男元氏(もとうじ)が分知を受けて別家を興した。



軍学者

小幡景憲から甲州流軍学を学び、それを改良し北条流兵法を開いた。

『兵法雄鑑』『雌鑑』『士鑑用法』など多くの軍学関係の書籍を残しており、
また幕府の軍制を整備して慶安の軍役令を起草している。


氏長の兵法の特徴はまず、それまでの“軍学”や“軍法”といった言葉ではなく兵法という言葉を用いたことである。

これまでの軍法は抽象的、概念的なものや武士の心得といったものが多分に含まれていたが、
氏長の兵法は「実践に役立つ軍事学のみ」であった点が大きい。


例えばこうである。


篭城してる時、敵が銃弾や弓矢を撃ってくる時、負けじと反撃するのは損である。

そういう時は敵はいきなりは襲ってこないものである。


攻め手兵がこちらの石垣や塀に取り付いている時こそ、矢玉を使うチャンスである。

身を乗り出してでも撃つべきである。

なぜなら攻め手側の射撃手は“味方兵に当たるのを恐れて”撃ってこないから。


慶安3年(1650年)には、後述するオランダ東インド会社に勤務していたス
ウェーデン人砲兵士官のユリアン・スハーデルによる攻城実演をまとめ上げた日本初の洋式攻城・築城術書「由利安牟(ユリアン)攻城傳」を将軍家光に献上している。


地図の革命者

また、氏長を語る上で欠かせないのは「地図」である。

慶安3年(1650年)8月6日、江戸郊外牟礼野の原野にて幕府主催のオランダ東インド会社指導による臼砲を用いた攻城戦の演習が行われた。

軍学者であり幕府中枢の官僚でもあった氏長はこの機会を参加観覧および学習している。


この時、正確な大砲射撃のための必要性から洋式測量術(規矩術)を習得したと言われている。

正保元年(1644年)、全国諸藩に対し幕府は、各藩の地図(絵図)を提出するよう命じた。

この提出された膨大な絵図面を元にして、幕府は日本全図(地図)の製作に取り掛かる。
その仕事に就いたのが氏長であったとされている。

数年後の慶安4年(1651年)に「正保日本図」と呼ばれる地図が完成し、幕府に献上された。


この際幕府は6寸1里(21,600分の1)縮尺を用いるよう諸国に命じたため、
以後諸国の地図はおよそ同縮尺に統一された

   (ただし、近年では「正保日本図」作成は大目付井上政重とその命を受けた宮城政甫によるもの
    とする説が有力視されており、この段階においては当時新番頭であった氏長は関与していない、

    あるいは下僚として限定的な役割に留まったとする見方が強くなっている)。




明暦3年(1657年)1月、江戸市中が明暦の大火に見舞われた際、当時大目付であった氏長は、
まさに打ってつけの人材として江戸市中の実測図の作成と区画整理の責任者を命じられる。
この際、長崎にて洋式測量術(規矩術)を習得した金沢清左衛門(肥前島原藩出身。

主家改易後浪人中であった、とされるが高力隆長の改易は寛文8年(1668年)まで下り、
微妙に年代が合わないかもしれない)
を抜擢登用し、実作業に当たらせている。



被災後の江戸に対し、半月ほどの集中測量を経て「明暦江戸実測図」が製作されたと言われている。


従来の絵図面という表現ではなく、正確な測量に基づいたこの市街地図は画期的であり、
これ以降の江戸市街地図の基本となり、その後刊行され、民間に地図が普及するきっかけになったと言われている。

ただし刊行版は精密すぎたため、大判5枚に分割されており、使い勝手は悪かったそうである。


死去前年である寛文9年(1669年)には、日本全図の校訂を行って、改めて幕府に提出している。



関連項目
甲州流軍学
小幡景憲
大道寺友山
松宮観山
山鹿素行
片山良庵

外部リンク[編集]
新版江戸地図(東京都立図書館)


北条鱗紋後北条氏(繁広流)第2代当主(1612年 - 1670年)

宗家
­盛時     (長氏/早雲) - ­氏綱 - ­氏康 - ­氏政 - ­氏直 | 断絶


分家・支流

河内北条家    ­氏規 - ­氏盛 - ­氏信 - ­氏宗 - ­氏治 - ­氏朝 - ­氏貞 - ­氏彦 -
­氏・ - ­氏喬 - ­氏久 - ­氏燕 - ­氏恭 - ­謙吉 - ­雋八 - ­尚


玉縄北条家    ­氏時 - ­為昌 - ­綱成 - ­康成(氏繁) - ­氏舜 - ­氏勝 - ­氏重| 断絶


            これですね
            ↓
繁広流     ­繁広 - ­氏長 - ­氏平 - ­氏英 - ­氏庸 - ­氏応 - ­氏興 - ­氏乾 - ­氏征


長綱流     ­長綱(幻庵) - ­綱重 - ­(三郎) - ­氏隆 | 断絶


[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 03時30分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


いろいろ、いらっしゃったのですね。
充実の1日でしたね。


>服織田神社は、景行天王7年に勧請ということであるので、西暦78年位
か・・・。


物部氏系織子の神社でしょうか?      またこんがらがる・・・

日本武尊が東国へ遠征に行く途中、遠江国に来た時以来あたり?
それぐらい古い?
つまり日本で1番古い服織神社でしょうか?


三つ巴紋ということで
高槻の神服神社や、ましてや、長上郡の服織神社とは系統が違うようですね。


    長上郡の服織神社の神紋の分からないことが残念です。


宇佐神宮等多くの八幡社で使われているのは「左三つ巴」紋
仁徳天皇ゆかりの放生津八幡宮の神紋は菊花と桐紋の抱き合わせ紋(2種類の紋を同時に使用ということ)



>祭神は「麻立比古命(あさたつひこのみこと)」、

XXIVで四国に朝立神社があることをレスしました。
でも関係無いようでした。



>横須賀城址
>とにかく河原にある丸石である・・・どこかで見たことがある・・・
>丸石は、古墳を作る時に並べられていたのではないか・・・。

川から運んだ?


いやいや
古墳の石を流用?

ということは、この地に有力古代豪族の古墳があった?


ロマンですね。




>一番北の奥に「松尾山」があり、北の丸の一段上になるが、なにかおどろおどろしい雰囲気があった

いよいよ「来てる」かも。




>私の古城を訪ねる旅は、亡くなった兵士達の霊を慰める「般若心経」の旅として定着しました。

ライフワークになりましたね。


時空を超えてさまよう魂を成仏できるように慰めることが出来るのは良いことです。

そして恩讐を超えて、これから先の日本の安寧を先達に守ってくれるよう、お願いもしてください。


三つ柏さんの定年後の方向性が決まってきましたね。

戦国時代から未來への橋渡しができることは、三つ柏さんの日々がうまく活用できることになります。

般若心経が詠めるのは本当に良い特技です。
まさか不特定多数の方たちにも読むことが出来るとは、ね。
お父さまもお喜びと思います。

[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 03時40分41秒 ) パスワード

http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/1106022/



刑部城
          復習

おさかべじょう
阿黄山紫城
浜松市北区細江町中川字新屋


その他               いはら氏=山本勘助のドラマ「風林火山」に出てましたっけ
今川義元 徳川家康 菅沼新八郎 庵原庄太郎忠良

.

今川義元の家臣・新田美作入道の居城


今川義元家臣新田美作入道の居城。

「永禄11年(1568)徳川家康軍は東三河野田の菅沼新八郎定盈・井伊谷三人衆を道案内として、
庵原庄太郎忠良・長谷川次郎右衛門秀匡・内山一党の守る当城を攻め落す。
定盈の叔父、菅沼又左衛門をおいて守らせた。」
と『武徳編年集成』等にある。


          内山一党って?
          内山真龍のご先祖さまでしょうね

 
          内山一党がこの時代に既に負けてたら
          武士は早々と諦めたのでしょうね           




細江町中川字新屋付近で、都田川北側に沿って、沖積平野へ西から東へ突出した小丘陵がある。
現在の姫街道はこの丘陵を堀割って通っている。

刑部城はこの東端、標高10mほどの頂部にある。
東西50m、南北30mほどの平坦な頂部は竹林でおおわれ、中央付近やや東寄りに井戸(直径約2m、深さ4m)がある。
北・南ともに急崖をなし、北縁には幅1mの溝状窪地が地形に平行し、武者走りではないかと言われる。
また、南縁には土塁状の高まりがある。



都田川を渡って気賀の街並に入る渡津点にあり、旧街道は新屋の山脇を通り、
城の西南から南足下・東へとまわって都田川岸へ達していた。

この渡津点を小字名で市場と呼ぶように、交通要害の地であったと言える。


新屋には落城の際の死者を祭った宗安寺が建てられたが、        ←へえ〜  宗安寺?
今は廃寺となって、石段のみが残っている。

また、城の東に隣接して金山神社がある。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 06時37分20秒 ) パスワード

復習


神服神社由緒略記

神服神社は延喜式内の古社で、19代允恭天皇(大和時代の西暦443年頃。仁徳天皇の第4皇子)の御世に、
この付近一帯に機織りが盛んであったところから地名を服部(はとり)と呼んでおりました。


服部はもともと「機織部=はとりべ」からきたもので、機織りを職とする部族の名前でした。

服部連は允恭天皇から機織部司に任命され、国々の織部を総領したことにより「連」姓を賜り服部連と称しておりました。


その服部連の勧請により建立されたもので「服部神」と称しておりましたが、
醍醐天皇(887年〜930年)の延喜年間に「神服神社」(カムハトリカミノヤシロ)と改めました。

いつの頃からか「しんぷくじんじゃ」と音読みされるようになりました。


御祭神はヒノ速日命、麻羅宿禰を祀っておりましたが、後に素戔嗚命を配し三神をお祀りしておりました。


その後明治41年11月宮之川原の春日神社(天児屋根命)稲荷神社(宇賀御魂大神)を、また塚脇の上ノ宮神社(服部連公)浦堂の若宮神社(天児屋根命)大蔵司の神明神社(天照大神、豊受大神)を合祀し、お祀りするようになりました。


当初氏地は広く、清水村、芥川村、如是村大字津之江、同 西五百住、阿武野村大字氷室、
同 岡本、同 苛川(いずれも旧称)に至りましたが、

現在は宮之川原を中心に周辺の集落であった、塚脇、西之川原、大蔵司、浦堂のほか
安岡寺、松が丘、真上、寺谷の一円になっています。



境内地は1280坪あり、周りが市街地化されて行く中で、木々も繁り季節によっては小鳥の囀る声も聞こえ、氏子崇敬者、参拝者の心癒される場になっています。


_________________________________


つまり、この神社は遠江国の服織田神社に比べてずっと新しいですよね。


そして神服神社の由来は服部半蔵家の由緒に合致します。



ということは   丸に三つ柏紋+服部姓  はまさにこの神服神社の氏子代表と言えますよね。


平氏を称したのは、やはり、平家がらみということでしょうね。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 06時58分05秒 ) パスワード

レス<9>についてですが遠江国榛原郡の古代豪族を知りたいと思いました。


復習


遠江国   律令時代[編集]

7世紀に、地方豪族であった遠淡海国造、久努国造、素賀国造の領域を合わせて設置された。


国府所在地は、中世に「見付」と呼ばれた所で、現在の磐田市にあった。国府は磐田郡にあり。


東隣の駿河国との境は大井川であった。
奈良時代には、大井川の流路が現在より北を流れていたため、今の栃山川以南が遠江国に含まれていた。

具体的には島田市の南部・藤枝市の南部、および焼津市の南部で合併前の大井川町である[1]。

大井川町の全域は、明治初期まで遠江国榛原郡であった。


     大井川町(現在の焼津)には友人がいます。



国府は、『和名抄』では豊田郡、『拾芥抄』では磐田郡である。

初期の国府は、木簡や墨書土器が出土したことから、御殿・二之宮遺跡と推定されるが、決定的証拠は出ていない。平安時代には見付に移転したと見られ、仁治3年(1242年)以後に成立した『東関紀行』には、「遠江の國府(こふ)今の浦に著きぬ」とある[2]。 また、鎌倉時代後期以降に成立した『源平盛衰記』、および建治3年(1277年)または弘安2年(1279年)の日記とされる『十六夜日記』には、「見附の国府」(みつけのこう)とある。

国分寺・国分尼寺[編集]

国分寺は磐田市中泉にあった。819年に焼失したが、磐田市見付の参慶山延命院薬師国分寺(本尊:薬師如来)がその法燈を伝承する。

国分尼寺は磐田市国府台本町にあった。


神社[編集]

延喜式内社『延喜式神名帳』には、大社2社2座・小社58社60座の計60社62座が記載されている。

大社2社は以下に示すもので、いずれも名神大社である。

蓁原郡 敬満神社 - 敬満神社(島田市)に比定
浜名郡 角避比古神社 - 明応7年(1498年)の大津波で流され、その後に各地で再建・遷座されたため、論社が3社あり結論が出ていない。明治4年(1871年)に「角避比古神社」として国幣中社に指定されたが、その後、「鎮座地不明」として社格が除かれた


総社・一宮以下総社:淡海国玉神社 (磐田市馬場町) - 1789年の『遠江国風土記伝』によると、磐田郡向坂郷の磐田明神が、国府のある見付に移されて惣社とされたという

一宮:以下の2説がある。

1127年の史料に「遠江国一宮」とあるが、これは笠原荘一宮の高松神社を指す。 小国神社 (周智郡森町一宮) - 1235年の史料に「当国鎮守小国一宮」とあるのが初見
事任八幡宮 (掛川市八坂) - 『大日本国一宮記』ではこちらになっている。吉田家の系統の書物ではこちらになっていて、神社が権威を付ける為に、神社界の権威の吉田家に一宮の認定を依頼したという説がある



二宮:以下の2説がある。
中世史料に二宮についての記述はない。 鹿苑神社 (磐田市二之宮) - 「高根明神」
二宮神社 (湖西市中之郷)


三宮以下はない。
国府八幡宮国府八幡宮:府八幡宮(磐田市中泉)


守護所[編集]

見付の国府の近隣に有り、中世後期には要塞化して見付城や府中城と呼ばれた。

安国寺利生塔[編集]
安国寺 -金剛山貞永寺(掛川市大坂、本尊:釈迦如来)が法燈を継承

利生塔は未詳である。

[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 07時10分29秒 ) パスワード

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淡海国玉神社



浜名湖を「トホツァハウミ」とし「遠江国=遠淡海」と称した。


そこで平安時代の延喜式内社であります「淡海国玉神社」をご紹介します。
主祭神は大国主命です。


「遠江国」は東海道に属し、西は三河国、東は駿河国に連なっています。


ここは大化改新前後から遠江国造(くにのみやっこ)が置かれていた国府です。



遠江国造の租は物部連の祖先、伊香色雄命の児、印岐美(いきみ)命のようです。


        ↑
       やはり「物部」が出ますか



この人物.印岐美(いきみ)命は浜松市西区雄踏町の息(おき)神社とも関連が深いと先輩より聞いています。


淡海国玉神社は国造奉仕の神社の位置づけにありました。

拝殿の前には狛犬ではなく兎が配されています。
祭神と因幡の素兎(白兎)との縁があるのです。


大国主には多くの兄弟(八十神)がいた。因幡のヤガミヒメを妻にしようと出かけた時、八十神は大国主に荷物を全部持たせた。気多の岬に着くと、裸の兎が伏せっていた。その兎を優しい心の大国主が助ける筋書きの神話です。


この結末は、兎が大国主に「ヤガミヒメは八十神ではなくあなたを選ぶでしょう」といったのです。この神話から白兎は、一般的な縁結びではなく、特定の人との縁結びの神様とされ、意中の人との縁結びにご利益があるようです。




       奈良.大和一の宮.大神神社にも「なで兎」があるようです。

       遠江国一の宮.小国神社の祭神も大国主命です。


近くに淡海国玉神社の境外摂社.天御子(あまみこ)神社があります。


祭神は「スサノオノミコト」「クシイナダヒメ」で祇園社です。


淡海国玉神社の祭神はニギハヤヒ命が本来の祭神であるのでは?



_______________________________

そうしますと遠江国の最初の実力者は  物部系   ということで?
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 07時20分51秒 ) パスワード

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磐田市見付.遠江国分寺跡



磐田市見付淡海国玉神社に参拝に行きましたので、近くにあります有名な遠江国分寺跡に寄りました。ご紹介します。

遠江国となるのは和銅六年(713)のことで、諸国郡郷の名には好字二字をもって地名をあらわそうとする統一的な施策の結果です。


古代では、地方の豪族は国造(くにのみやっこ)と呼ばれていました。
ここで古代における遠江国造(くにのみやっこ)を調べています。



古事記では

遠江国造として天孫系の天照大神の子.天穂日尊の子.武比良鳥尊(たけひらとりのみこと)という名を挙げ、そこに遠江国造の租なりとしているようです。いわゆる遠江国造の租は天孫系です。


      註:後述:   しかし(3)は物部系


国造本紀にみえている主なものを挙げてみます。

1. 遠淡海国造(敷智郡?=浜松あたり) 成務天皇の時

         物部連の祖先、伊香色雄命の孫、印岐美(いきみ)命

2. 久努国造(山名郡?=磐田あたり) 仲哀天皇の時 

         伊香色雄命の孫、印播足尼(いにはのすくね) 

           この人の古墳の石が流用されたのでしょうか?



3. 素賀国造(佐野郡?=掛川あたり?)  神武天皇の時

         美志印(みしいに)命

         こちらは、遠江国造は物部氏系です。


このあたりは、これから遠江国の延喜式内社を調べていくうちに少しは見えてくるのではと考えています。


大宝元年(701年)に大宝律令が制定され律令体制が確立していきます。
律令政治体制は天皇を至尊至高の地位に仰ぐ強力な中央集権的官僚政治の体制です。
地方行政組織は国−郡−郷に整えられていきます。

国には国司(中央から派遣された任期交替制)が郡には郡司(旧国造クラス)郷には郷司が配置されたのです。



遠江国は磐田市見付あたりを国府(現在の県庁?)と定めたようです。 
この国府に中央政権から国司が派遣され、各郡司を統括したのです。


奈良時代天平十三年(741)、聖武天皇の詔により、全国66ヶ国66ヶ所に国家安泰、人民安寧を願って国分寺を建立されました。

その総元締めは奈良.東大寺です。



遠江国分寺跡近くに万葉集の歌碑があります。

それによりますと遠江守(国司)桜井王が聖武天皇に奉った歌が見えています。


                   聖武天皇は藤原氏の権力の前に屈服した人 by 関裕二


    この桜井王は天武天皇の子孫で、天平十一年(739)に大原真人の性を賜っていますから、
    おそらく天平初年に遠江守(国司)であったと思われます。



国分寺の総元締め東大寺の鎮守として手向山八幡宮があります。

奈良時代、聖武天皇が大仏を造営した時に、宇佐八幡宮を東大寺大仏守護神として勧請しています。

ここ遠江国分寺にはその鎮守としては府八幡宮です。
勿論、大分の宇佐八幡を勧請したものです。

[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 07時25分38秒 ) パスワード

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浜松市北区・銅鐸の谷




銅鐸―その造形心意を探る−SBS学苑:辰巳和弘



毎月一回受講している辰巳和弘「古代学の世界」の5月のテーマは銅鐸であった。




奈良大学の卒論として都田川の銅鐸を選んでいる。

しかし、銅鐸も同じであるが考古学は地域に偏ったものを研究しても、その真意にはなかなか到達しえないことを改めて知ることになった。

都田川周辺には銅鐸としては末期にあたる「見る銅鐸」と呼ばれる大型のものばかりである。




しかし銅鐸は内部に音を出す「舌」を持っているのが基本である。




銅鐸の変遷を見ると比較的小型の「音を出す銅鐸」から次第に大型の「見る銅鐸」に変遷している。


              これは三つ柏さんから教えて頂きました


また銅鐸は地中に埋められている。

        
              これも三つ柏さんから教えて頂きました



地中に埋められていても銅鐸は音を出す舌を持っているものが多い。
地中でもその音が民衆には聞こえていたと解釈される。




これは何を意味するのか?



「埋められる呪具」

銅鐸が地中に埋納されたことは地霊・穀霊の依代であったからであり、
実は台地に埋めておくことが最も大切なことであった。
それを単なる保管所より取り出すのではなく、土中から掘り出すことは、地霊・穀霊を地上に迎え祭ることである。




時期は毎年の田植が始まる時期に土中から取り出し、地上での祭りをして、稲刈りが終わるころまた土中に埋める循環行為である。




島根の加茂岩倉には銅鐸が埋納され取り出された跡が残る遺跡がある。



しかしながら、都田川流域の銅鐸は再埋納の形跡は見当たらない。


すなわち、銅鐸は初期の小型の「聞く銅鐸」から大型の「見る銅鐸」に至るまで全て音が鳴る祭器と考えるのが妥当である。




だから都田川周辺に埋納されていた大型の「見る銅鐸」も弥生時代の人々にはその地霊・穀霊の音は聞こえていたと解釈すべきである。




これが、辰巳和弘「古代学の世界」から得た結論である。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 07時34分54秒 ) パスワード

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    焼津と日本武尊のお話です。
    これもビックリ



焼津神社に参拝しました。ご紹介します。


ここは第12代景行天皇の第一皇子.日本武尊(やまとたける)を祭神とする延喜式内社です。


第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇の二代は、神をまつることによって、天災飢饉に悩む人心の不安を取り除く政策でした。


しかし第12代景行天皇は、性格的に豪気だったらしく、前代の施策は生ぬるいと考えられ、命令に従わぬものは軍隊の力で抑える力の政治を実行に移したのです。


その第一皇子.日本武尊も東は関東地方から福島県、宮城県、岩手県まで軍隊を率いて歩いています。

これは大和朝としてもはじめての事のようです。



801年、平安時代に坂上田村麻呂が蝦夷征伐に派遣されていますが、
この時の日本武尊(やまとたける)の歩いた足跡や征伐の対策を参考にしたようです。



地方民の間に大和朝の権威を広めようとして、東征したのです。


焼津神社は、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)を伴い、家来の吉備武彦、大伴武日連の武将を従え、
東夷征伐のみぎり、この地で野火の難に遭われた際、剣を抜きて草を薙ぎ賊徒を討伐したとあります。


その剣を草薙剣、処を焼津というのです。



祭神
日本武尊
吉備武彦命
大伴武日連命

創建は西暦409年の古社です。




静岡市には関連由緒のある「草薙神社」もあります。


日本武尊は東夷を平定して御凱旋の途、近江伊吹山に入り病となり、遂に三重県亀山市「のぼの」にて亡くなっています。



日本武尊の亡くなられたあと、景行天皇自ら東国地方を征定され、所々に自分の子供を偲んでその霊を祀る神社を造られたのです。


日本武尊(やまとたける)に最も関係の深い神社は、名古屋市にあります「熱田神宮」です。

      ええっ?!
      そうだったの?

      うちの近くに日本武尊ゆかりの地があったり
      熱田さんの近くに「白鳥」という地名があるのは知ってたけど



日本武尊(やまとたける)には多くの伝説が残されています。



長野県駒ヶ根市の首長の娘が美人だったので、三夜籠愛したなどの面白い話もあります。


また妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海中に身を投じて難を救った話もあります。

この時、弟橘姫の着ていた着物の片袖が今の千葉県市原市の海岸に流れついたので、袖が浦という地名になったのです。



日本武尊の歩いた処はその由緒で地名となるケースが多いようで、
焼津、袖が浦もそうですが、浜松市の雄踏もそのようです。



焼津神社の信仰は、里人の永い歴史の中に育まれ倍かわれて来たのです。


一漁村の昔から、人口十万余の大漁業都市としての今日に至るまで、
えんえん1580有余年の間、
入江大明神と崇められ焼津神社を中心として栄えて来たことは、御祭神の偉大な御神徳であり、
里人の篤い信仰のたまものです。


    やっぱり全然分かってなかったのが分かった。
    きっぱり


    さすが、分かっている人の書いたものは理解がし易いです。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 07時41分55秒 ) パスワード

続き


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浜松市西区雄踏町宇布見.息神社&白山神社


歴史の大先輩の案内で浜松市西区雄踏町宇布見にあります「息神社」と「白山神社」を訪ねました。


過日、遠江国分寺跡のところで古代の国造について述べています。



国造本紀にみえている主なものは、

1. 遠淡海国造(敷智郡?=浜松あたり) 成務天皇の時

        物部連の祖先、伊香色雄命の孫、印岐美(いきみ)命

2. 久努国造(山名郡?=磐田.袋井あたり) 仲哀天皇の時 

        伊香色雄命の孫、印播足尼(いにはのすくね) 

3.    素賀国造(佐野郡?=掛川あたり?)  神武天皇の時

        美志印(みしいに)命

です。



このあたりの遠江国の資料は乏しく解明されていないのですが、
先輩の主張は、遠淡海国は浜名湖の近く宇布見あたりの見当です。


琵琶湖の「チカツァハウミ」に対して遠淡海国は浜名湖「トホツァハウミ」ですから
「ハウミ」は宇布見の語源ではないかとの判断です。


そのような前提で、雄踏町宇布見にあります「息神社」と「白山神社」を調べています。



息神社は「おき神社」と呼んでいます

祭神には出雲系の稲荷大明神「宇迦御魂」もありますが、
主祭神として風の神「志那都比古(シナツヒコ)神」としています。

「シナ」は息が長いという意味です。

すなわち風は神の息から起きる。そこで息神社です。


          伊吹山の息長に似ているような?



しかしながら先輩のK氏は遠淡海国の国造の租.印岐美(いきみ)命よりきていると考えているようです。



その足で近くにあります「白山神社」に詣でています。

        白山神社拝殿(前方後円墳の後円部の中心?)


ここが地形的に国造.印岐美(いきみ)命の前方後円墳であるとの推理です。



境内や外周を歩いてみましたが、確かに、前方部、くびれ部、後円部の型になっています。


また「くびれ部」には位の高い人と一緒に埋葬される倍塚(ばいちょう)らしき古墳もあります。


                  これは全く知らなかった


白山神社の祭神は「イザナギ」「イザナミ」です。

郷土歴史研究家の先輩は面白い仮説を立てるものだと感心しました。

白山神社の拝殿のあります高くなっている後円部の中心あたりを発掘すれば縦穴式石室が見つかるかも知れませんね。

そうなれば大発見です。


                      へえ〜

すっごく勉強になりました。
感謝
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 07時48分11秒 ) パスワード

http://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diary/201101220000/


     やっぱり長上郡の服織神社は出雲系なのだと思うようになりました


浜松市西区舞阪.岐佐神社(きさじんじゃ)



息神社、白山神社を見てから舞阪にあります岐佐神社に寄りましたのでご紹介します。敷智郡(ふちぐん)六座の一つで延喜式内社です。

明らかに出雲系神社です。

                       全然わたくしには分からないことです



祭神は

蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)...赤貝
蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)...蛤

です。


舞阪は漁師町なので、女神が祭神になったのでは?

この両女神を祀る神社は、出雲大社の摂社天前社(伊能知比売神社)とここ岐佐神社のようです。

ここには出雲神話と岐佐神社の関わりが伝えられています。



古事記に登場する「因幡の白兎」に続くお話です。

大国主命は、兄弟たちとの恋争いの末、ヤガミヒメと結婚の約束をします。

恋に破れた兄弟たちは、大国主命を手間山に呼び出して殺そうとはかり、「山のうえから猪を追い降ろすから、山の下で捕えろ」と言いつけて、真っ赤に焼いた大石(赤石)を転がり落しました。

この大石を抱きとめた大国主命は、大火傷を負い、命をおとしました。

これを知って悲しんだ母神は、天上の神皇産霊神(カミムスビノカミ)に命乞いをされます。



       神皇産霊神は娘神で岐佐神社の御祭神である


「蚶貝比売命、蛤貝比売命」に言いつけて大国主命の治療に当たらせます。

蚶貝比売命(赤貝の神)は、貝殻を削って白い粉を作り、蛤貝比売命(蛤の神)は粘液を出して練り合わせ、どろどろした母乳のようなものを作り、大国主命の全身に塗りました。

すると火傷はすっかり治り、大国主命は雄々しい姿によみがえったのです。

ここに赤石が祀られています。           赤石って浜松にあったの?
                         それも知らなかった



御祭神が海に関係するところから、水産.漁業の守り神であるとともに、
この神話に因んで、火傷.病気にも霊験あらたかと信仰されています。


17日に訪ねた珍しい神社や古墳を2-3ご紹介しますが、その後は奈良時代における遠江国?どうだったのかをご紹介する予定です。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 08時08分35秒 ) パスワード

http://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diaryall/?PageId=9

ここにブログ主さんの目次とURLがあります。



古事記とか日本書紀とか読みましたが
   それも何回も
結局何にも分かってなかった
というのが分かりました。
大恥



    大国主命の火傷の話ってみんな出雲で起きたと思ってた
        あ、今、気づいた
        日本武尊の焼津の話も大国主命の火傷の話とこんがらがってる


    だめです
    やっぱり神代の時代も古代の時代もぜんぜん分かってない

    だいたいヤマトもワケ分からなくなっています。


    だけど自分の先祖が日本の国のそもそもに関わっているということ
        我々日本人の皆さんの先祖が
        ということですが

    あったのか。
    とだんだん見えて来ました。



そうすると神服田神社が建てられて     西暦78年     銅鐸最盛期に関係する人々?
かなり後に神服神社が建てられて      西暦443年    我々服部関係
さらに後に服織神社が建てられた      西暦708年    出雲がらみ?



ちょっと古代が立体的に起き上ってきました・・・
   ような?

[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 08時23分11秒 ) パスワード

同じ人のブログ
邪馬台国畿内説に天竜川が出てくるの?
全く知らなかった。


     だったら遠江って決してこの世の果て=東国=への入り口じゃないじゃないですか。




http://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diary/201101230000/


奈良.桜井.纒向(まきむく)遺跡


奈良.纒向遺跡

卑弥呼"宮殿"か



邪馬台国畿内説の候補地

1.弥生時代末期から古墳時代前期にかけてであり「魏志倭人伝」に記された邪馬台国  の時期と重なる。

2.当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡であり、一種の都市遺跡である。

3.遺跡内に箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命の墓との伝承を持つが、これは墳丘長280メートルに及ぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90メートル前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀では列島最大の墳丘規模を持ちヤマト王権最初の大王墓であり各地にも「纒向型前方後円墳」が築造され、政治的関係で結ばれていたとも考えられている。

4.倭迹迹日百襲姫命はまた、邪馬台国の女王.卑弥呼とする説がある。

などなどが、邪馬台国畿内説です。




ヤマト王権最初の王朝は三輪山であることは明らかです。        そうなの?

しかしながら、そのヤマト初代大王が卑弥呼なのか?

ヤマト初代大王とする「ニギハヤヒ」との関係は?           そうなの?



西暦241年に即位したとされる初代.神武天皇との関係は?


ここが大いに疑問があるように思います。
纒向というところは第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇の宮が置かれた所でもあります。

                                  そうなの?


ところで纒向遺跡にある主な古墳は

.纒向石塚古墳
.纒向勝山古墳
.纒向矢塚古墳
.東田大塚古墳
.ホケノ山古墳
.箸墓古墳(大市墓)

があります。


「魏志倭人伝」で、狗奴(くな)国は邪馬台国.卑弥呼の管轄外であるとしています。

この狗奴国の比定が
現在の琉球あたりとすれば、邪馬台国は九州説となり、
天竜川の東あたり(アイヌ?)とすれば畿内説となるようです。


                                  そうなの?



いずれにしても、
現在は箸墓古墳が、宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女.倭迹迹日百襲姫命の大市墓として管理されています。


                                  全く知らなかった〜

ここがはっきりしない限りマスコミの騒ぎすぎとなります。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 08時32分50秒 ) パスワード

http://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diary/201101260000/

浜松市北区引佐町井伊谷.白岩水(しらいわみず)神社


これはおどろおどろしい!
まさにアニミズムの世界。


地図の下の画像が怖い。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 08時48分20秒 ) パスワード

http://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diary/201101280000/


この地図、いいですね。

天竜川沿いに羽鳥庄があって服織神社がある。
市野庄の位置関係も分かるし。
刑部も分かるし。




     服織田神社は海の近くで、場所がいいなと思いました。
     服織神社は天竜川があって、反物を運ぶのに都合が良かったのだなと思いました。

        場所が良いですよね。



遠江国.平安時代の荘園.御厨


浜松市北区細江町中川.蜂前神社(はちさきじんじゃ)



北区細江町中川にあります蜂前神社。

ここも延喜式内社です。



律令体制は公地公民主義に基づいて土地人民を把握し、これに対する賦課によって、国家活動を支えることを原則としました。しかし、既に奈良時代の初めから、公民の動揺がみられ、土地についても、人口の増加や田の荒廃などの理由から、土地の開墾を奨励するほかはなく、勢いのおもむくところ、ついに墾田の永代私有を認めるに至り、令の公地主義は崩れてしまったのです。こうして起こったのが荘園です。



伊勢皇大神宮領を御厨(みくりや)といいます。          そうなの?
                                お伊勢さん限定? 


細江町中川あたりは祝田(ほうだ)御厨、刑部(おさかべ)御厨となっています。


祭神は天照大神ではないようです。
大和の大王「ニギハヤヒ」のような漢字なのですが???。


西暦270年に八田毛止恵という人が勅命によって遠江国に下向して、八田(祝田村の古名)45町、広田(刑部村の古名)70町、岩瀬(瀬戸村の古名)8町3反、合計123町余りを開墾して本社を八ヶ前に勧請して蜂前神社としたとあります。


しかしながら、この由緒がきのように開墾したことが後世の御厨に繋がったのだと考えています。


山全体は広く棚田のようでもあり、水路の確保が要なのだと思います。

尚、伊勢皇大神宮を祀り神とする神社は、近くにあります延喜式内社の「乎豆神社(おつじんじゃ)」のようです。




ということは、服織神社と伊勢神宮はまさに繋がるじゃありませんか。
まさに服織神社は伊勢神宮のアマテラスのために御衣を織っていた。

かなり立体的になって来ました。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 09時04分24秒 ) パスワード

http://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diary/201102030000/


遠江国の国府(中央政府)はなぜ磐田なのか?



遠江国の国府がなぜ磐田の見付なのか?遠江国一宮がなぜ周智郡森町なのかを自分なりに学習しています。



やはり成務天皇時代に始まった国造に遡らなくては理解が進まないようです。


1. 遠淡海国造(磐田郡=磐田あたり) 成務天皇の時

        物部連の祖先、伊香色雄命の孫、印岐美(いきみ)命


2. 久努国造(山名郡=袋井あたり)  仲哀天皇の時 

        伊香色雄命の孫、印播足尼(いにはのすくね) 


遠淡海国造は成務朝、久努国造は仲哀朝となり、遠淡海国造が久努国造より前におかれていることは、久努国造より西に位置している。


遠淡海が浜名湖を指すのか、
磐田市の南部に大きく広がっていたといわれる大の浦をいうのか
これまでにも議論があったようです。


                     ええっ?!
                     そうなの?!


・遠淡海は、律令制下の国名.遠江に継承される名称であること。


・古墳時代前期(磐田市松林山古墳など).中期(磐田市堂山古墳)などが集中すること。


・特に古来遠江国の鎮守.総社とされる式内社.淡海国玉神社が磐田市見付に鎮座していること。


・加えて物部氏の本拠が袋井市久能、山梨から磐田市南部の鎌田.中泉にかけてと推定されること。



       などを総合的に考え合わせると、遠淡海はやはり大の浦を指すものと思われます。



                            へえ〜


遠淡海国とは袋井市と磐田市の地域を中心に、最初は律令制下の遠江国とほぼ重なりあうほどの規模で設定されたのではないかと思います。



久努国造は成務朝より遅れて仲哀朝に定められています。


久努国造は遠淡海国造より一歩遅れて、その領域の一部を割く形で成立したとみられます。


これによって

遠江国の国府が磐田市見付であること。
遠江国の一宮(小国神社)が周智郡森町であることが理解される。


勿論、一宮.小国神社の祭神は物部氏系の「大国主命(大物主命?)」です。
                 
[24]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月30日 14時15分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まずは誤字訂正:[レス6] 相楽→相良 (自分ではそう書いているつもり
ですが、文字変換後のチェック落ち)

 本日『ハタとハトリ』のコピー送りました。

 いずれにしましても、大阪府(昔の摂津の一部)の高槻の神服(しんぷく)神
社へ行ってきます。遠いので一泊になると思います。また、雪などの不安要
素もありますので、行くのは3月くらいになりますか・・・今のところはっ
きりはしていません。

 1.服部がなぜ善地にいるのか?
 2.服部の家紋がなぜ「丸に三つ柏」なのか?
 3.天満宮がなぜ善地にあるのか?
 これらの点について、10ケ月前にはほとんど分からなかったけれど、今
までの期間、いろいろお導きいただき、いくつかの仮説のストーリー説明が
できるようなところまでたどり着くことができました。

 でもまだ「つなぎ=リンク」のところの説明ができません。それは、
 1.永井と服部とのつながりは何か(なぜ善地に一緒にいるのか)?
 2.「丸に三つ柏」は誰からか(長田氏からか、神服神社関係者からか)?
ということで、
 1.高槻・神服神社と永井氏と遠江の関係
 2.更には永井と服部の関係
について、さらに深く探求したいと思っていますが、永井氏と遠江の関係に
ついて余り情報がありません。高槻の歴代城主、旗本もたくさん出ているの
ですが。 

 摂津(高槻)と遠江の関係に重点を置きたいと思います。高槻はどういうと
ころなのか? 永井氏は歴代の藩主を出し、高山右近や島左近も関係する。
服部城には松永弾正も。古代の古墳もあり、何か霊的にも特別なところのよ
うな気もします・・・。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 22時41分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


>まずは誤字訂正:[レス6] 相楽→相良

了解です。



> (自分ではそう書いているつもりですが、

そうなんです!同じです!


わたくしの場合は窓8にしてから(いい訳おばさんなんですが)誤字入力が極端に増えました。


特に  「い」 段がうまく入力出来ていないようです。
「に」と打っても「い」になってるし、「み」も「い」になってたりして
でも自分では画面を確認しながら打ってるんですが・・・



>文字変換後のチェック落ち)

文字変換はちゃんと確認している「つもり」なんですが
アップしてから  え?  と思うことがしょっちゅうです。

この窓8は油断大敵で、編隊が「変態」とか 姓が「性」とか思わぬ漢字になってたりして  
訂正しなくてはならないのが厄介です。



>本日『ハタとハトリ』のコピー送りました。

ありがとうございます。


>いずれにしましても、大阪府(昔の摂津の一部)の高槻の神服(しんぷく)神服神社へ行ってきます。

はい
そして神服神社から地方へ分社した神社の名前が分かると良いですね。


   特に  伊賀の呉服明神=小宮神社ですか?服部神社  とか
       遠江の服織神社のことが分かると良いですね。




>遠いので一泊になると思います。
>また、雪などの不安要素もありますので、行くのは3月くらいになりますか・・・
>今のところはっきりはしていません。

関ヶ原エリアは新幹線でもほぼ毎年立ち往生しますからね。

関ヶ原も見たい場所ですしね。



 1.服部がなぜ善地にいるのか?
 2.服部の家紋がなぜ「丸に三つ柏」なのか?
 3.天満宮がなぜ善地にあるのか?

 これらの点について、10ケ月前にはほとんど分からなかったけれど、
  今までの期間、いろいろお導きいただき、
  いくつかの仮説のストーリー説明ができるようなところまでたどり着くことができました。



1については  小池町と有玉下村の服部を調べないといけませんね。
        こちらから善地に来たのかも知れないし
        もともと服織神社=神服神社=がらみかも知れないし

        小池と有玉に丸に三つ柏紋の墓があると良いですね

2について   上記からまた考えてみましょう


3については  ほぼ解決ですね。



>でもまだ「つなぎ=リンク」のところの説明ができません。それは、

 1.永井と服部とのつながりは何か(なぜ善地に一緒にいるのか)?
 2.「丸に三つ柏」は誰からか(長田氏からか、神服神社関係者からか)?
ということで、
 1.高槻・神服神社と永井氏と遠江の関係
 2.更には永井と服部の関係
について、さらに深く探求したいと思っていますが、永井氏と遠江の関係に
ついて余り情報がありません。高槻の歴代城主、旗本もたくさん出ているの
ですが。 


    永井氏が高槻に行った、というのも謎ですね


>摂津(高槻)と遠江の関係に重点を置きたいと思います。
>高槻はどういうところなのか? 
>永井氏は歴代の藩主を出し、高山右近や島左近も関係する。
>服部城には松永弾正も。古代の古墳もあり、何か霊的にも特別なところのような気もします・・・。


では高槻について考えていきましょうね。

松永弾正の服部城というのはわたくしも何故?と不思議です。
松永弾正というおじいさんの正体もなにやら癖がありそうですしね。


まだまだ頑張りましょう。


    「い」段の誤字についてはホッとしました。
     ずっと恥ずかしかったのです。
     
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 08時26分32秒 ) パスワード

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/kofun/1327670909622.html


高槻って7つも古墳があって、更に、埴輪製作所まであったんですってよ。


またまた神代の時代から勉強し直さないといけないのか・・・
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 08時30分19秒 ) パスワード

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/kofun/1327658638518.html



安満宮山古墳


名称
安満宮山古墳(あま みや やま こふん)

所在地
高槻市安満御所の町 (高槻市公園墓地内) 地図

時代・概要
古墳時代初頭(3世紀後半)

備考
平成3年7月、史跡今城塚古墳に追加指定 史跡今城塚古墳附新池埴輪製作遺跡


アクセス:
【市営バス】【徒歩】JR高槻駅(南のりば)・阪急高槻市駅から市営バス〈上成合〉〈川久保〉行きで「磐手橋」下車、徒歩約25分(1.4キロメートル ※坂道)。


 市バス時刻表
 JR高槻駅(南のりば)

32上成合・33川久保行き


 阪急高槻市駅

32上成合・33川久保行き




発掘当時の全景


安満宮山古墳は、安満山の中腹、標高125メートルの狭い尾根上にある、一辺20メートルほどの長方形墳です。眼下には史跡安満遺跡、その南側には淀川と大阪平野を一望する雄大な景観が広がっています。



発掘当時の全景

3世紀後半、邪馬台国の時代に築造されたと考えられ、中国・魏の年号「青龍三年(235)」銘鏡や三角縁神獣鏡(さんかくぶち-しんじゅうきょう)を含む青銅鏡5面、スカイブルーのガラス小玉1,600個余り、鉄刀・鉄斧などの貴重な遺物が出土しました。鏡は白銅色に輝き、鏡を包んだ麻布も残っていました。


     スカイブルーのガラス玉って?
     ガラスって、こんな時代に既にあったの?
     驚




出土した銅鏡は景初3年(239)、邪馬台国の卑弥呼女王が魏から贈られた「銅鏡百枚」の一部ともみられており、ここに葬られた人物―おそらく安満遺跡のリーダーが、当時の政権にあって重要な役割を果たしたことを物語っているのかもしれません。

古墳は築造当時の姿に復元整備され、「青龍三年の丘」として公開されています。

[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 08時36分56秒 ) パスワード

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/kofun/1327658560112.html



岡本山古墳・弁天山古墳


名称
岡本山古墳(おかもとやま こふん)  弁天山古墳(べんてんやま こふん)

所在地
高槻市南平台三丁目



時代・概要
古墳時代前期



左側=南側・岡本山古墳、右側北=側・弁天山古墳


南平台の丘陵上に広がる住宅地の家並みの上に、緑の丘が二つ並んでいます。名神高速道路沿いの南の丘が岡本山古墳、北の丘が弁天山古墳です。


岡本山古墳の墳丘は、尾根地形を利用してつくられ、後円部径70m、全長120mをはかります。

一方弁天山古墳の墳丘は全長100m、後円部の直径は岡本山古墳と同じ70mという特徴をもっています。

                    ホントだ  河原石が使われているのか
                      ↓
これまでの踏査では、両古墳とも墳丘に河原石が葺かれ、
岡本山古墳では壷形埴輪らしい破片が、
また弁天山古墳では土器片があるものの、
埴輪は並べられていないことがわかっています。


この事実から、岡本山古墳は3世紀後半、弁天山古墳は岡本山古墳に続いて3世紀末ごろに築造されたものと推定され、南にひろがる平野部を本拠地とした三島の王の墓と考えられています。


            三島の王?
            どなた?

            三島古墳群(みしまこふんぐん、三島野古墳群)とは、
            淀川北岸、桧尾川流域から茨木川流域にあり、
            大阪府高槻市と茨木市(旧三島郡)にかけて広がる古墳と遺跡の総称。

            ということは旧三島郡にいらっしゃった古代豪族達ですか

[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 08時40分50秒 ) パスワード

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/kofun/1327658514900.html


史跡闘鶏山古墳


名称
史跡闘鶏山古墳(しせき つげやま こふん)     ツゲ山って読む?へえ〜

所在地
高槻市氷室町六丁目・上土室二丁目

時代・概要
古墳時代前期(4世紀前半)

備考
平成14年12月、国の史跡に指定



史跡闘鶏山古墳は、平野に突き出た丘陵先端部にある、全長86.4mの前方後円墳です。

平成14年の確認調査によって後円部から未盗掘の竪穴式石室2基が発見され、大きな話題になりました。

石室内部のファイバースコープ調査では三角縁神獣鏡(さんかくぶち しんじゅうきょう)や石製の腕飾り、木棺の一部などが確認され、4世紀前半の三島の王墓と考えられています。


墳丘の段築や葺石、さらに平野に向かって開けた周辺の丘陵地形もよくのこっており、古墳の祭祀や古墳時代の解明に向けて、極めて重要な古墳です。



2枚目の画像
気持ち悪かった
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 08時50分39秒 ) パスワード

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/kofun/1327658611293.html


史跡新池埴輪製作遺跡


名称
史跡新池埴輪製作遺跡(しせき しんいけ はにわせいさく いせき)

所在地
高槻市上土室一丁目

交通
JR摂津富田駅から市営バス<公団阿武山>行きで「上土室」下車、徒歩約5分。駐車場はありません。

時代・概要
古墳時代中期〜後期

備考
平成3年7月、史跡今城塚古墳に追加指定 史跡今城塚古墳附新池埴輪製作遺跡




発掘中の遺跡

史跡新池埴輪製作遺跡は、5世紀中頃から6世紀中頃までの約100年間操業していた、
日本最古最大級の埴輪生産遺跡です。


3棟の大形埴輪工房と18基の埴輪窯、工人集落などが丘陵上約27,000平方メートルの発掘調査で確認され、
大王陵級の古墳の埴輪生産システムを具体的に知ることができる貴重な遺跡です。


       すごいね
       大規模埴輪製作工場敷地跡ですね



ここで作られた大量の埴輪は
太田茶臼山古墳(5世紀中頃、茨木市・現継体陵)や史跡今城塚古墳(6世紀前半、郡家新町)
といった巨大古墳をはじめとして、

土保山古墳や昼神車塚古墳などの

三島の有力者の墓に立て並べられました。



また同時に確認された7世紀の集落跡からは、
新羅土器(しらぎ どき)も出土していて、

『書紀』欽明天皇二十三年条にある新羅人の子孫が住むという
「摂津国三島郡埴廬(はにいほ)」そのものにあたると考えられ、
『日本書紀』の記述を裏付ける遺跡でもあります。



      そうすると高槻って新羅系?




      奈良の方が百済系として
      その子孫の平安貴族は新羅を嫌ってた
      理由に一説として中臣鎌足が百済王豊璋だったなんて言われてる


      結構面白い勘繰りかも     
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 08時59分27秒 ) パスワード

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/kofun/1327658433402.html



史跡今城塚古墳


名称
史跡今城塚古墳(しせき いましろづか こふん)

所在地
高槻市郡家新町

時代・概要
古墳時代後期

備考
昭和33年2月、国の史跡に指定


史跡今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。

西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350m・総幅約340mをはかり、
日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。


今城塚古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、
古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。



今後の整備・公開に向けて平成9年から確認調査を行っており、古墳の規模をはじめ、
のちの城砦や地震による変形の様子など、
貴重な成果が得られています。


なかでも平成13・14年度の調査で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわ さいし く)は、
大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。



なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用された江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。




家形埴輪
神殿風に屋根を飾る高床式の家 高さ約170センチメートル


        すごい大きい!
       
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 09時05分06秒 ) パスワード

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/kofun/1327658680647.html


昼神車塚古墳


名称
昼神車塚古墳(ひるがみ くるまづか こふん)

所在地
高槻市天神町一丁目

時代・概要
JR高槻駅北口から北へ徒歩約8分

備考
古墳時代後期



昼神車塚古墳は上宮天満宮参道のすぐ東側に位置する前方後円墳です。
全長60メートル、後円部径30メートルで、
前方部の発掘調査では、犬や猪、角笛(つのぶえ)をもった狩人などの埴輪が出土しました。
現在、前方部は復元・整備され、その様子は復元埴輪でみることができます
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 09時08分36秒 ) パスワード

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/kofun/1327658589251.html



史跡阿武山古墳


名称
史跡阿武山古墳(しせき あぶやま こふん)

所在地
高槻市大字奈佐原

時代・概要
古墳時代終末期

備考
昭和58年8月、国の史跡に指定



アクセス: JR摂津富田駅(北のりば)から、高槻市営バス<公団阿武山><大阪薬科大学>行きで、「消防署前」下車。徒歩約30分(約2キロメートル、坂道)。
※駐車場はありません。公共交通機関をご利用ください



阿武山古墳は、阿武山の中腹・標高約210メートルの尾根上にあります。
昭和9年、京都大学の地震観測施設建設のさいに偶然発見されました。


この古墳は盛土がなく、尾根の小高いところを幅2.5メートルの浅い溝を円形にめぐらせ、
直径82メートルの墓域を区画しています。

中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルを組み上げ、内側をしっくいで仕上げた墓室があり、
漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていました。

棺内には、銀線で青と緑のガラス玉をつづった玉枕(たままくら)を用い、
きらびやかな錦をまとった60才ほどの男性の遺体がありました。


復元された冠帽と玉枕

これらは元どおり埋め戻されましたが、当時撮影されたX線写真などの分析から、
男性は亡くなる数ヵ月前に肋骨などを折る事故に遭っていたことや、
金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)をそえてあったことがわかっています。


葬られた人物は、『多武峰略記』が安威山に埋葬したと伝える大織冠・中臣(藤原)鎌足とする説が有力です。



ということは  高槻=新羅人の世界  というわけじゃないようですね。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月31日 13時27分13秒 ) パスワード

空の青海のあを

 さっそく調べていただき、感謝申し上げます。
 埴輪、三角縁神獣鏡、継体天皇、そして何で中臣鎌足が、・・・ストーリー
がちょっと組み立てられない・・・。この辺では銅鐸の鋳型も見つかっている
ともいわれるし、高槻藩には伊賀町もあり、柘植も服部もいたということ。ま
た永井氏の支配が特に長かった・・・。とりあえずは情報に継続性・一貫性が
ありませんので、もっともっと過去からの流れを調べないと、つまり掘り下げ
ないといけないようです。

 私も昨日は高槻について調べておりました。高槻と遠江を結ぶもの=リンク
は何かということで・・・、そしたら、意外と近いところのサイトにそのかけ
らをみつけました。「水石の美を求めて」の『東三河の秦氏 その44 養蚕
と機織り』の中にありました。即ち―
 「神服神社の神主が、三河国に遣わされ、神服を織る長(おさ)などを占いに
 て定めます。
  〜中略〜
  それにしても、神服宿祢や神服男、神服女など合計百数十人もの人数を揃
 えるとは、全国織部の総領である服部連の面目躍如ですね。」
ということで、これらのことが『延喜式』に記載されているという。つまり、
各地の服部村を指導・管理・統括していた。そのために人を送っていたという
ことになる。ということは、この長上郡の羽鳥にも当然管理者・指導者が来た
ということになる。神服神社の氏子としたら、丸に三つ柏が推測される。

 今後、さらに詰めて行きます。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 14時44分12秒 ) パスワード

>神服神社の神主が、三河国に遣わされ、神服を織る長(おさ)などを占いにて定めます。


       占いで、ですか

       先日骨占いの骨が見つかったという記事がありましたよね
       その後、亀の甲羅を使うよういなった、だったかしら?


       人選も占いで、でしたか

       役員をやるのはイヤって言えないですね
       神様がお決めになったのだから
       笑


>それにしても、神服宿祢や神服男、神服女など合計百数十人もの人数を揃えるとは、
>全国織部の総領である服部連の面目躍如ですね

    神様の御衣を制作するんですから
    名誉のことだったんでしょうね


確か、何とか天皇の時代に、技能集団を日本全国に?東国に?派遣させた
という話があったと思いますが

これが見つからないです

允恭天皇だったなら  簡単  ですね。
第19代天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)
           在位412年12月- 453年1月14日   ← 中国のサイトから  笑

飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇。


3年8月、新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療する
42年1月、崩御。新羅王はこれを悲しみ、弔使を送る。
    『古事記』『旧事紀』に78歳、『愚管抄』『神皇正統記』に80歳、北野本『日本書紀』に81歳(一本68歳)



>各地の服部村を指導・管理・統括していた

吉備の服部村のことも調べないといけませんね


    ということは允恭天皇は新羅方?



  
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 15時03分34秒 ) パスワード

岡山の服部について調べたいのに、全然、出なくて
逆に


八尾の   服部川八幡宮(高安八幡宮)  がヒットしました。
服部川というんですから名前がらみで、松永久秀の服部城との関係を知りたいと思っています。


服部川八幡宮(高安八幡宮)
祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)・菅原道真。
明治7年に玉祖神社に合祀されましたが、戦後、旧地に遷座しました。

境内には、弘化3年(1846)に楽人(ぎょうざん)上人が発願した地蔵石仏があります。

奥の社殿前の狛犬は天保11年に造られたものです。




誉田別命(ほんだわけのみこと)  応神天皇と同一とされる

八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、
清和源氏をはじめ全国の武家(平安時代〜鎌倉時代など)から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。

誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。

八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれる。所謂神宮寺であることが特徴である。



八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[3]。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される[3]。八幡神社の祭神は応神天皇だが、上述の八幡三神を構成する比売神、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇とともに祀っている神社も多い[3]。

「八幡」の文字が初めて出てくるのは『続日本紀』天平9年(737年)で、読み方を同書天平勝宝元年(749年)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』第22帖玉鬘の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。

「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる[3]。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り[3]、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる[3]。

八幡神は北九州の豪族国造宇佐氏の氏神として[6]宇佐神宮に祀られていたが、数々の奇端を現して大和朝廷の守護神とされた。歴史的には、託宣をよくする神としても知られる。

748年(天平20)9月1日、八幡神は出自に関して「古へ吾れは震旦国(中国)の霊神なりしが、今は日域(日本国)鎮守の大神なり」(『宇佐託宣集』巻二、巻六)と託宣している。


しかし、「逸文」『豊前国風土記』に、「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原〔香春〕に住むり」とある。


「辛嶋勝姓系図」によると素戔嗚尊(スサノオ)とその息子の五十猛神の子孫であり、天照大神とは親戚にあたる。


素戔嗚尊(スサノオ)は日本で生まれてその後に中国や朝鮮に追放されて日本に帰ってきた。さらに三韓征伐前から弁韓などは日本の領土だったことを考えると矛盾はしない。



素戔嗚尊(スサノオの子孫である大国主命などが一緒に信仰されている事があるのはそういうわけである。



また新羅は古くは辰韓もしくは秦韓と呼ばれ、辰韓人は中国大陸から朝鮮半島南東部に移住してきたとの史書の記述もあるため(「魏書辰韓伝」『三国志』(3世紀後半)、「辰韓伝」『後漢書』(432年)、「新羅伝」『北史』(659年))、中国から朝鮮半島を経由してきた。




その後に彼らは秦氏の祖先の弓月君らと共に日本に難民受け入れを申請し、数多くの秦氏が応神天皇の時期に日本の保護の元で日本に帰化している。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 15時39分47秒 ) パスワード

松永久秀の服部城についてどこにあったのか等を調べているのですが





甲賀にも服部氏がいた?!

   いても不思議ではないのですが
   やっぱり不思議です


足利将軍に仕えた甲賀の服部氏がちょっと書かれています。

http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/21_kido.pdf

ここの36ページ目に
   「服部氏は現甲賀市甲南町新治に拠点を持ち
    服部城を居城とする荘内3家の1つである」
と書かれています。

    ヲイヲイ

37ページに地図があって  野洲川の西、望月の隣に「服部」があります。

    そして甲賀から伊賀を通って予野(半蔵の本拠地)近くの月ヶ瀬を通って更に柳生と興福寺に繋がってます
    ビックリ


43ページに
信長が本能寺で殺されて、
別の場所にいた信忠も殺された時(二条城にいた?)
甲賀の?  服部小藤次と服部六兵衛 も討ち死にした
そうです。


数ページなのでプリントアウトしてお読みください。
わたくしの書いたのが間違ってましたら訂正を。

_________________________

平熱の記事(笑)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101275.html

1550年「服部城」を松永久秀は築城 遺跡なし・島上郡服部郷(三島郡)

                        これは高槻?
                        神服神社のある所に近い?

                          どうなんでしょう?
________________________________

以下は文字化けで読めないです



http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/hattori.html


ここに松永久秀の築いた服部城がちょっと書かれている?


こんな感じに文字化けしています
ŒÃ‘ãE‹Æ•”‚Ì‹@D‚è•”–å‚ð’S‚Á‚½‹@D•”‚Ì•ž•”(hatoribe)‚É—R—ˆ‚·‚鐩ŽBuƒnƒ^ƒIƒŠvuƒnƒgƒŠƒxv‚©‚çuƒnƒgƒŠv‚»‚µ‚āuƒnƒbƒgƒŠv‚ƌĂԂ悤‚É‚È‚Á‚½BˆßHZ‚́uˆß•žv‚ÉŠÖŒW‚·‚éE”\•”‘°‚ɂ́uˆ»•”vu‹ÑD•”v‚âuˆß–D•”vuÔõ•”


こういうことが書かれているようです:

又、服部城あり、松永久秀築く。当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。又、後世、大阪 神戸などに服部氏多し。 □山城の服部 当国にもこの部民多かりしならん。

          神戸にも服部氏が多い?
          神戸にも織子村や織物神社があったのでしょうか?
 


http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub09-2.html

これも文字化けしています。
—ðŽjã‚É‹L˜^‚³‚ê‚Ä‚¢‚鏼‰ii¼’·j‚Ì’n–¼‚ÆŽ–¼F
iŒÃ•¶‘‚É‹LÚ‚³‚ê‚Ä‚¢‚镶‘‚Ì“üŽè‚ÉŠî‚­j
E‡”ԁFŒÃ‚¢‹L˜^‡

[38]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月31日 21時15分15秒 ) パスワード

空のあお海のあを様

 甲賀の服部氏、いい資料となりました。大和〜伊賀〜甲賀の土地と道の関
係がよくわかりました。

 野洲の服部村にも服部陣屋(服部城)があった。ここは上田茂秀の陣屋。
 松永久秀は高槻市の島上郡服部村に服部城を築くも、遺跡は残っていないと
いう。
 ちょっとまぎらわしかったですね。

 さて、本日は懸案であった神ヶ谷の洞雲寺に、あを様ご教示のとおり菓子折
り持参で行き、伊賀宗家の家紋を墓に表示している服部氏(唯一の)について、
住職より直接話を伺いました。住職は比較的若く、気さくに話をしてくれまし
たが、残念ながら、この人は元々ここに住まわれていた方ではなく、富塚町よ
り引っ越してこられた方であるとのこと。家紋について、あるいは出身につい
ては聞いていないので、今度法事でお訪ねした時に訊いてみますとの答えであ
りました。運命の扉はそう簡単に開いてはくれません。
 それでも、源氏車に横二列の切竹は、伊賀出身には間違いないと私は確信し
てはおります・・・。

 明日は東三河の服部と遠江の服部のリンクについて、何か参考になるものは
ないか、大野を中心に探索してまいります。


 
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 22時46分56秒 ) パスワード

上田 重秀


(うえだ しげひで、天正20年(1592年) - 寛文元年(1661年))は、江戸時代の旗本。

主殿助。上田重安の長男。母は杉原家次の娘。

                 ↑
                秀吉の妻のおね様の叔父さんですね


弟に
上田重政(父の跡を継ぎ、浅野家の重臣として代々仕える)、
                   ↑
                  浅野家はおね様のご実家


上田可勝(細川家に仕える)。



妻は、村井晴泰の娘。男子はおらず娘に堀秀嵩室、室賀正俊(館林藩家老)室、森可久室、堀田一道室、鈴木治郎左衛門(尾張徳川家臣)室。




関ヶ原の戦いで父の重安は、西軍に属して除封。
その後、縁戚の浅野幸長に仕え、大坂の役において浅野長晟のもとで従軍、戦功を挙げた。
重安は、浅野家に家老として仕えていたため、重秀は江戸幕府に浅野家の人質として留め置かれた。


徳川将軍家より父上田重安に江戸へ直臣として出仕するよう命が下ったが、
代わりに嫡子である重秀が寛永9年に父の戦功により旗本として幕府に召し出された。

はじめは蔵米であったが、寛永12年、近江国野洲郡内8村、5000石を拝領。

                             お〜
                             すごい

           守山市ですか
            ↓
野洲郡服部村(現・守山市服部町)に平城造の服部陣屋(服部城)を築き、
家老を派遣し領内を治めた。
代々の子孫は幕府の上級旗本として続き徳川将軍家を守護した。

           この服部は甲賀の服部なんでしょうか?

           上記レスに書いた甲賀の服部とは場所がちょっと違うような?


           甲賀の服部は野洲川の西で、守山の服部は野洲川の東
           ま、江戸時代に「服部」の中の違う「場所」に陣屋を置いただけかも


               ということは  服部って  そこら中に存在?謎



地図です。矢印は関係ありません
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.10586206&lon=135.99727553&ac=25207&az=31.652&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E5%AE%88%E5%B1%B1%E5%B8%82%E6%9C%8D%E9%83%A8%E7%94%BA-652



寛永14年、島原の乱に従軍。寛文元年、70歳で病没。法名、重秀寺殿穐林宗清大居士。墓所は、重秀が建立した東京都港区白金の重秀寺。

堀秀嵩と重秀の娘との子、重則が家督を継いだ。



参考文献[編集]

旗本上田氏を語る
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 22時50分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


>源氏車に横二列の切竹は、伊賀出身には間違いないと私は確信してはおります・・・。

   はい
   半蔵の初期の家紋ですね

   もっと後に「縦」の並び矢に変化しますから。縦の方がデザイン的に洗練されてます。


   名古屋のホンヤさん宅も横と縦の2種類、お使いです。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 22時53分46秒 ) パスワード

>明日は東三河の服部と遠江の服部のリンクについて、何か参考になるものはないか、大野を中心に探索してまいります。


成果がありますように!



高槻にいらっしゃる時は途中もいろいろ面白いですね。
1.関ヶ原
2.野洲川沿いの服部2か所
     服部陣屋
     甲賀の服部

        お隣の望月さんは甲賀忍者で有名な家ですよね
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月31日 22時58分15秒 ) パスワード

昨日  関裕二さんの本の続きを読んでいたら  物部氏には2種類あると書かれていました。


 
    在来種と外来種(笑)



神代の時代と古代はこんがらがって未だに混乱しています。


藤原不比等が自分の家に都合の悪い過去の時代を抹殺するために日本の歴史を改竄した
ということで   古事記の方を読むべきなのかな  と。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 05時51分30秒 ) パスワード

http://www42.tok2.com/home/hakubutukan/awa/Awa_Tokushima.html

徳島の城一覧です。


           下記に阿波国服部氏その他服織田神社関係および平家に南朝方なども転載


           なんだかすっごく泣けた(先祖が泣いてたということですが)



松永城

阿波郡市場町犬墓

松永氏 

松永久秀の支城。天正5年、久秀自害後、息久常が拠る。別名犬墓城。


________________________________

飯尾氏
           飯尾氏がらみということで




飯尾城

吉野川市飯尾

飯尾氏

飯尾氏は、本姓三善氏。常房は足利義政に仕えた。中富川合戦で滅亡



    桶狭間で今川義元に従った後、家康に従って今川氏真に謀殺された一族の先祖かも?



_____________________________

        遠江国榛原郡服織田神社がらみということで



飯尾東城

吉野川市飯尾

麻植氏          名字からして服織田神社がらみかも

城主麻植志摩守は天正7年脇城外で戦死

             名乗りが志摩守というのもお伊勢さんがらみ?  
_______________________________



森遠城

吉野川市森藤

平康頼

鹿ヶ谷の変の首謀者、平康頼が赦免後居城した。


___________________________

平家一門の教盛どのの子孫?



加茂野宮城

三好郡三野町

平貞国 

平教盛の孫貞国の居城


_______________________________

脇屋義治は脇屋義助さまの御子さまで、新田義貞の甥。




野津後城

三好郡井川町御領田

新田義高 

新田義高は脇屋義治の七代子孫





八石城

三好郡井川町井内

脇屋義治 

南北朝期、山岳武士の拠点。義治は阿波南朝方の首領。

                   
                 山の中で頑張ってたのか

_________________________________

この田口氏は最後まで平家方だった武将ですね




桜間城

徳島市国府町観音寺

桜間氏 

平家四国総大将、田口成能の居城。平氏滅亡後衰える。桜間池残る


__________________________________

平家がらみ?



花園城

徳島市国府町花園 

元暦元年に平通盛入城と伝える   1184年
                   平家方:寿永3年
                   源氏方:治承8年、元暦元年4月16日


_____________________________



一宮城

徳島市一宮町

小笠原長宗 

南北朝期の南朝方拠点。貞治元年に北朝方に降伏。天正10年、城主小笠原成助、長宗我部氏により謀殺。後入国後の蜂須賀氏の居城。後廃城



_______________________________

徳島の服部さん
           全然知らなかった・・・・
           でも遠江国榛原郡服織田神社がらみで阿波国との関係に出てましたよね
           そっち関係の服部さん?



大井砦
阿南市大井町
服部氏 

別名服部城。細川真之に従い天正10年落城



_______________________________

愛知県出身の元首相の海部は  徳島県出身者で(だからカイフであってアマじゃない)と聞いてたけど
実は古代豪族の海部氏だった?



吉野城
阿南市海南町吉野
海部氏 

城主海部(藤原)氏は海部郡一の豪族で鷲住王子孫と言われる






海部城
阿南市海部町鞆奥
海部氏

海部郡の押えとして吉野城主海部氏が築城。天正3年長宗我部氏により落城。阿波9城の1つ。


[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 07時47分20秒 ) パスワード

ちょっと頭の休憩

名字の由来
http://folklore.office-maeta.jp/060828.htm


# 部と氏
※ 部: 職業集団を表す。田部・園部・犬養部・馬飼部・物部 など。
※ 氏: 血族集団を表す。部を統率する部族の長。
※ 氏の種類
     地名にちなんだ氏: 蘇我・平郡・出雲・紀。
    部名や職能による氏: 中臣(祭祀を司る)・物部(武具の管理)・大伴(軍事を職掌)氏

なお、これらの氏のトップが氏上(うじのかみ)で氏神や氏寺を祀る。

藤原氏の春日大社、源氏の石清水八幡宮、平氏の厳島神社などが氏神にあたる。



このようにして氏が増えて来ると何らかの方法で氏のランク別が必要となり、
その結果出来たのが「姓」と言われている。
そして、時代が下るに連れて氏と姓は混同され名字という概念が生まれて来た。




# 姓(せい)の種類
・ 天皇家から出た皇族(賜姓皇族)が天皇から与えられた姓。
・ 大和朝廷で活躍した豪族が天皇から与えられた姓。
・ 地方で権力を持っていた豪族が名乗っていた姓。
・ 神社の神官たちが名乗っていた姓。



# 臣籍降下で天皇から貰った主な姓
・ 安倍(あべ)
・ 多治比(たじひ)
・ 清原(きよはら)
・ 在原(ありわら)
・ 平(たいら)
・ 日下部(くさかべ)
・ 橘(たちばな)
・ 高階(たかしな)
・ 源(みなもと)
・ 藤原(ふじわら) 
※ 平安時代になってからは「源」と「平」だけ。



# 大和時代からあった姓
・ 大伴(おおとも): 武器などを扱った一族。
・ 渡部(わたべ): 船の船頭由来の一族。
・ 久米(くめ): 組をあらわし、軍事担当。
・ 物部(もののべ): 軍事担当。
・ 中臣(なかとみ): 神事担当者。
・ 忌部(いんべ): 神事担当者。
・ 服部(はっとり): 衣服担当者。
・ 弓削(ゆげ): 弓矢のせいぞう。
・ 膳(かしわで): 料理担当者。



# 古代豪族が名乗った姓
・ 出雲: 出雲国(島根県)
・ 和気(わけ): 備前国(岡山県)
・ 越智: 伊予国(愛媛県)
・ 丹波: 丹波国(兵庫県)
・ 中臣・秦(はた)氏: 山城国(京都府)
・ 多治比(たじひ)・物部(もののべ)・弓削(ゆげ)氏: 河内国(大阪府)
・ 小野: 近江国(滋賀県)
・ 紀: 紀伊国(和歌山県)
・ 大伴・葛城・賀茂・久米・巨勢(こせ)・佐伯・坂上(さかのうえ)・蘇我・中原・土師(はじ、大江・菅原に改姓)・平群(へぐり)・穂積氏: 大和国(奈良県)




# 神官が名乗っていた姓
・ 中臣(伊勢神宮)
・ 秦(松尾大社)                     ←  え?そうなの?               
・ 紀(石清水八幡宮)
・ 賀茂(賀茂神社)




# 姓の集約
以前述べたように、
姓は氏のランク分けで、
天武天皇の頃には「八色の姓(やくさのかばね)」といわれていたが、
後に残ったのが、藤原氏・橘氏・源氏・平氏の四姓である。




★ 名字に使われる漢字
・ 「鬼」「蛇」「蝮(まむし)」などを使った苗字はいまでこそ、
      あまり良いイメージを受けないが、昔は霊位を表し、良い意味で使われた。


「悪」も同様で、「強い」というイメージを表した。
# 参考: 「名字と地名と漢字」・「動物関連の名字」


以下略
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 08時03分10秒 ) パスワード

https://kotobank.jp/word/%E7%B9%94%E9%83%A8%E5%8F%B8-455368

おりべのつかさ【織部司】

朝廷用の錦・綾・紬・羅など高級絹織物の織成・染色をつかさどる大蔵省管轄の令制官司。

養老令の職員は,
正(かみ)・佑(じよう)・令史(さかん)各1人,
挑文師(あやのし)(才伎長上)4人,
挑文生(あやのしよう)8人,
使部6人,
直丁1人で,
染戸(品部)が付属する。


挑文生は挑文師より教習を受ける生ではなく番上官の技術者。
大宝令では挑文4人のみで,挑文師・挑文生は711年(和銅4)錦綾の織成教習に挑文師が諸国に派遣された前後に設けられた可能性もある。




【織手】より


…その源流は中国,朝鮮半島から渡来した技術者集団であり,
律令期以前には錦部(にしごり),漢織(あやはとり),呉織(くれはとり)などとよばれた。

大宝令制によると,
宮廷需要をまかなうために大蔵省所管の織部司(おりべのつかさ)に技術官人として
挑文(あやとり)(養老令制では挑文師(あやのし),
挑文生(あやのしよう))が置かれ,

配下の品部(しなべ)である染戸(そめへ)570戸のうちに錦綾織,呉服部(くれはとり),川(河)内国広絹織人が掌握されていた。


これらの織手は主として畿内に居住し,技術の世襲を義務づけられ,
3〜7戸で1台の織機を使用して,
1人年額1〜2疋の製品を貢納する代償に,雑徭(ぞうよう)もしくは調と雑徭を免除される規定であった。…



【織物】より


…農業主体の民衆の暮しの中では,
機織は農閑期の,
また女子の仕事とならざるをえなかったのである。


こうした民衆による織物生産の一方,


天皇をはじめとする皇族や貴族の料や,
神仏に奉献しあるいは群臣へ賜与される錦や綾,羅のごとき高級織物の生産は,

主として大蔵省に所属する織部司(おりべのつかさ)のもとでなされた。


織部司には行政官のほかに挑文師(あやのし),挑文生(あやのしよう)と呼ばれた技術者も含まれ,工房も付属していた。…


【染色】より


…しかしいずれにしても,染加工の方法として摺りがあったことは認められよう。 

律令制下の染色は
大蔵省の下にある織部司(おりべのつかさ)や宮内省に直属する内染司(うちのそめもののつかさ)の指揮,
統制のもとに行われてきた。

当時織部司の管轄にあった染色工人は
緋染70戸,藍染33戸その内訳は大和国に29戸,近江国に4戸であった。…



織部司
おりべのつかさ

令(りょう)制で大蔵省の被管となっている、広く紡織と染色のことをつかさどる役所。錦(にしき)、綾(あや)、紬(つむぎ)、羅(ら)などを織り、また諸色の糸を染める。職員に正(かみ)・佑(すけ)・令史(さかん)各1人、挑文師(あやとりし)4人、挑文生(あやとりしょう)8人ほかがいる。大宝(たいほう)令では「挑文」4人。新しい織布技術の導入・開発に伴って、711年(和銅4)挑文師を各地に派遣し、技術指導を行っている。『令集解(りょうのしゅうげ)』職員(しきいん)令の古記所引別記は、錦綾織戸、呉服部戸、緋染(ひぞめ)戸、藍染(あいぞめ)戸などの所属品部(しなべ)をあげている。[武田佐知子]
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 08時14分08秒 ) パスワード

http://kentei.cc/q/817394

こんなのもあるんですねえ。
姓の検定ですって。


服部*地名 - 古代の機織部に因む。

**服部 - 大阪府豊中市。
**服部村 - 岡山県吉備郡。現在の岡山県総社市服部地区。
**服部村 - 広島県芦品郡。現在の広島県福山市駅家町服部地区。


    豊中が出て来ましたよ   豊中の服部というのは全く知らなかった??ような??
    その上に広島の服部?   隈さんの「服部姓」はコレってこと?だから抱き茗荷紋?



[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 08時17分42秒 ) パスワード

豊中の服部


帰化人集団である秦氏が允恭天皇の御世に織部司に任じられ、当地を服部連の本拠とし集住したのに始まる。

彼等が祀っていた祠が、後に菅原道真伝説と結びつき、今日の服部天神宮に至ったという

  (菅原道真伝説については服部天神宮#由緒を参照)。


また平安時代末期の仁平2年(1152年)に、現在も服部にある服部住吉神社の社殿が再建された、との記録が残っている。



江戸時代に入ると、能勢街道に沿う宿場町となった。
加えて服部天神宮が菅原道真伝説から「足の神様」として崇敬を受けるようになり、門前町としても繁盛するようになった。

殊に江戸時代中期から幕末にかけては殷賑を極めたという。



1910年(明治43年)に箕面有馬電気軌道(のちの阪急電鉄)の開通と同時に服部天神駅(開業時の駅名)が設置された。


服部天神宮ではこの駅設置について「(同電軌が)三国から迂回して駅を設けた」としているが、
同軌道は宝塚駅までの本線と同時に箕面駅への支線も同時開業しており、
線形から考えると果たして天神宮だけのために「迂回」したかどうかは疑わしい。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 08時22分34秒 ) パスワード

服部天神宮(はっとりてんじんぐう)


大阪府豊中市の南部、服部に鎮座する神社。少彦名命と菅原道真を主祭神として祀る。
関西では「足の神様」として知られている。



由緒[編集]


御鎮座の時期については詳らかでないものの、帰化人集団「秦氏」が允恭天皇の御世(412年 - 453年)に織部司に任じられ、当地を服部連の本拠とした際、外来神の少彦名命(医薬の神)を祀ったのが始まりとされる。

この頃はまだ、小さな祠だったという。


783年(延暦2年)、藤原魚名は大宰府に左遷され筑紫国へ向かったものの、当地で病没。祠の近くに葬られた(「川辺左大臣藤原魚名公の墓」が今も境内に残る)。約100年後の延喜元年(901年)、菅原道真が魚名と同様、大宰権帥として左遷され任地へ赴く途中、当地で持病の脚気に襲われ動けなくなった。そこで里人の勧めるまま、路傍の祠と魚名を祀る五輪塔に平癒を祈念したところ、たちまち健康を取り戻して任地へ辿り着けた、との言い伝えがある。菅原道真の没後、天神信仰の高まりと共に当社にも菅原道真を合祀することとなり、新たに堂宇が建立された。この頃から「服部天神宮」と呼ばれるようになり、菅原道真の故事にちなみ「足の神様」として崇敬を受けた。

近世に入ると、当地が能勢街道の宿場町だったこともあって徐々に門前市を成すようになり、中でも江戸時代後期の文化年間(1804年 - 1817年)、文政年間(1818年 - 1829年)には殷賑を極めたという。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 08時25分02秒 ) パスワード

神紋は  梅です。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 08時29分21秒 ) パスワード

服部天神宮について        秦氏って書いてある・・・・
                 でも伊賀の服部は「帰化人じゃない」って書かれてますよね



1.
昔、朝鮮を経由して吾が国へ渡って来た秦の人々は、機織りの技術を吾が国に伝えましたので、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着きました。

 当地「服部」の地名も、このあたりに秦氏の人々が住んでいたことから成りたったものと思われます。

 秦氏は、医薬の祖神・少彦名命を尊崇していましたので、この地にも小祠を建てて、少彦名命をおまつりしていました。



2.
秦氏の人々がこの地に移り住んでから数百年が過ぎ、
時は延喜元年(西暦901年の春、右大臣、菅原道真公は、無実の罪をきせられて九州太宰府へ左遷される途中、
このあたりまで来られて持病の脚気に悩まれ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。


 その時、村人たちは、少彦名命をおまつりしてある天神祠に詣でて、足病の平癒を祈願されるようにおすすめしました。



3.
「少彦名命は、神代の昔、大国主神と協力して国土を治められ、さらに遠く海外の地をも巡られて、この世の生きものたちのために医薬の方法を定められ、また生きものにとりついて苦しめる邪霊を祓う方法も定められました。この時より今の世に至るまで、生きとし生けるもので、この二柱の大神のご恩をこうむっていないものはおりません。このように尊い少彦名大神にお祈り申しあげますならば、かならずやおみ足の具合も良くなられると思います。」


 このように申し上げる村人の言葉にうながされた菅公は、少彦名命をまつる天神祠へとむかわれました。



4.
菅公が天神祠へお参りされますと、境内近くの路ばたにある五輪塔が目にとまりました。

  そして、その五輪塔がこの時より百年程の昔に太宰府へ左遷される途中、病に臥され、遂にこの地にてなくなられた川辺左大臣、藤原魚名公の墓であることをお知りになった菅公は「昨日は他人の身、今日は吾が身にふりかかる定めか」と嘆ぜられ、天神祠にご自身の足病平癒を祈願されると共に、魚名公の霊をもねんごろにとむらわれました。



5.
すると、不思議にも間もなく菅公の足の痛みやむくみは治まりました。こうして少彦名命と魚名公の霊の御加護によって足の病がいえた菅公は、ふたたび九州へと旅立たれ、無事に太宰府へ到着されました。



6.
菅公が太宰府においてなくなられたあと、菅公を神として尊崇する天神信仰が全国にひろがりました。

 当社も菅公の霊を合祀し、「服部天神宮」として社殿を造営し、
「菅公脚気平癒の霊験」を伝え聞いた全国よりの参詣人と、また当地が能勢街道の要所であったこととで、
次第に門前市をなすようになり、
殊に江戸時代の中期から末期にかけては、その最盛期であり、境内外は非常な賑わいをみせたのでした。


[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 08時53分02秒 ) パスワード

広島県駅家町の服部八幡宮を検索

服部八幡神社

温泉大王Uさんより

祭神は応神天皇、神功皇后、仲哀天皇。

備後守護に任じられた土居實平と梶原景時が鎌倉の鶴岡八幡宮から神霊を蛇園山(蛇円山)に勧請し創祀、

古くは蛇園八幡宮と呼ばれていた。

その後泉山城主、宮下野守信光が永谷に遷座、
さらに室町時代この地の領主宮常陸介が現在地に移したとされる。

神社周辺からは奈良時代の土器や瓦などが出土している。(未調査)


この神社は神前で読経する特殊神事「風祈祷」で知られる。
神社の側から椋山城跡への登山道が続いている。


神社境内で一際目を引く大イチョウは高さ35m、幹周り6m。樹齢不明
ムクノキは高さ25m、幹周り6m、樹齢推定500年




近くの古墳

大迫古墳
投稿者:温泉大王Uさん


広島県の史跡。
金環などが出土したことから大迫金環塚とも呼ばれる。
巨大な花崗岩を使った両袖式横穴式石室。
6世紀末ごろに作られたと推定される。

「玄室」 長さ575cm 幅250cm 高さ270cm、「羨道」 長さ600cm 幅190cm 高さ210cm、奥行1170cm

[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 09時05分55秒 ) パスワード

高槻に戻ります:


地名の由来[編集]

高槻の地名の由来は、2つの説がある。

『古事記』や『日本書紀』にある神武東征の時に、大和で長髄彦一族に苦しめられた。

そこで道臣命と可美真手命を東征軍の長に任じ、征伐に成功したことから天皇は三島の土地を与えた。

その軍隊の旗印が月をかたどっていたので、褒美に貰った土地を高月と呼ぶようになったという説。



安満庄にあった天月弓杜(あめのつきゆみのやしろ)が高月読杜(たかのつきよみのやしろ)とも呼ばれ、
そこからその一帯は高月と呼ばれたという説。



高月が高槻に転じた理由は、槻(欅の古称)の大木があり、戦国時代に槻の近くに本陣が立てられたことから、
月を槻に変えたとされる。


    それで「三島」なのね。

    長髄彦の名が出ましたが
    伊予国の「三島氏」はこの「三島」と関係があるのかしら?

    ということで検索したらズバリでした。

      三島神社神職に多く
      現大阪府北部と兵庫県の一部である摂津三島が起源(ルーツ)である、越智氏(物部氏の子孫)。

      ほか桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
      中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)道兼流などにもみられる。

      「島」は一定の小区画を表す。           へえ〜
                               小さい場所のことだったの
 


高槻に人が住み始めたのは、
約2万年前の旧石器時代で、郡家今城遺跡で生活跡が発見されている。

その後弥生時代になり、安満遺跡では三島地方で最初の米作が開始された。

古墳古代は摂津国嶋上郡にあたる。
日本でも有数の古墳群地帯で、真の継体天皇陵とされる今城塚古墳など古墳時代初期から末期までの各時代の古墳が現存している。新池遺跡(今城塚古墳附(つけたり)新池埴輪製作遺跡として国の史跡に指定)は日本最古(5 - 6世紀)最大級の埴輪工場で新池遺跡ハニワ公園として保存・公開されている。


たかつきの地名が初めて史料に出てきたのは、
鎌倉時代にあたる14世紀ごろ、
奈良の春日神社の荘園であった「安満庄」の耕地目録の中に、
「麦下地 高月二町十歩」「野畠 高月七反半」とみえる[9]。

室町時代には、富田が一向宗(浄土真宗)北摂布教の拠点として栄える。この頃の史料には「高槻」の地名が見られる。

戦国時代には、三好長慶や高山右近が拠点とする。

安土桃山時代には、高槻領主高山右近がキリシタン大名だった影響でキリスト教が広がり、日本で最初の復活祭がいとなまれた。

江戸時代には山陽道の流れをくむ西国街道が参勤交代などに利用され、芥川宿は六宿駅の一つとして栄える。富田は8,000石余りを醸造する酒蔵として栄える(高槻藩を参照)。富田は酒所として栄えた。

江戸時代に日本を欧州に始めて体系的に紹介したオランダ商館長エンゲルベルト・ケンペルは、1691 年 2 月 28 日、長崎から江戸に行く途中、大阪から守口、枚方、橋本、淀、京都の順に旅をし、昼食をとった枚方から高槻を望み、そこに「左側のほうに、地元の君主の白い城が大変美しく際立って見えた」と記録している[10]。

[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 09時11分20秒 ) パスワード

https://books.google.com/books?id=p_URAQAAMAAJ&q=%E5%90%89%E5%82%99%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E9%83%B7%E3%80%80%E3%81%AF&dq=%E5%90%89%E5%82%99%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E9%83%B7%E3%80%80%E3%81%AF&hl=en&sa=X&ei=dG7NVPbIN9DtoASX1YGIDw&ved=0CC4Q6AEwAg


吉備の服部郷

谷川健一 青銅の神の足跡


^下道郡の呉妹郷(現在吉備郡真備町)はおなじく呉人のェ女を住まわせたところだが、
そこに服部郷??だが、
その足守郷の隣に賀夜郡の服部郷がある。

出賀夜郡足守(現在岡山市)から銅鐸が出土している。

以下略
た ...
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 09時34分25秒 ) パスワード

https://books.google.com/books?id=oSUEAAAAMAAJ&q=%E5%90%89%E5%82%99%E3%80%80%E6%9C%8D%E7%B9%94%E9%83%A8%E3%80%80%E3%81%AF&dq=%E5%90%89%E5%82%99%E3%80%80%E6%9C%8D%E7%B9%94%E9%83%A8%E3%80%80%E3%81%AF&hl=en&sa=X&ei=p2_NVPeNJYXzoATZsYD4Bg&ved=0CFAQ6AEwCA


志田諄一

田正昭氏は、高句麗好太王碑文の記す倭: 4 「連船」に注意され、
吉備氏の率いる軍事力の背景に海部集団などによる ...
そして吉備の織部の起源を兄嫒に閱倭名 類^抄によると、
備前国邑久邯、備中国賀夜郡に服部郷、備後国品治郡に服織郷の存在


以下略


上記の話が現代語の口語で紹介されてました。
http://blog.livedoor.jp/kikuzi/archives/1721041.html
地図も載っています。


天下最強馬鹿伝説



第八章:応神・仁徳編 第156幕:吉備分封


 西暦291年(応神天皇22年、皇紀951年)9月6日、応神天皇(おうじんてんのう)は、淡路島(あわじしま)にて狩りを行った。

 当時の淡路島は、大鹿や鴨(かも)、雁(かり、がん)が多く生息していたようで、応神天皇も、しばしば遊猟に来ていたようである。


 しかし今回ばかりは、少し事情が違った。


 天皇は淡路での遊猟をほどほどに楽しむと、すぐに小豆島(しょうどしま)に転じたのである。

 天皇は、前幕にて里帰りした吉備兄媛(きびの・えひめ)を追いかけて、吉備(きび:岡山県)に行幸(ぎょうこう:天子が外出する事)するつもりであったのだ。


 同年9月10日、応神天皇は吉備に上陸し、葉田葦守宮(はだのあしもりのみや:今の岡山県吉備郡足守町葦守八幡宮)という行宮(あんぐう:行幸時に設ける仮の宮)を建てた。


 天皇行幸の知らせは、吉備の豪族である吉備御友別(きびの・みともわけ)の耳にも届き、彼はすぐさま行宮に参上した。

 そして、兄弟や一族を膳夫(かしわで:食事を作る役職の事)として、天皇に食事を奉ったのであった。

 応神天皇は、御友別らが、慎み畏れて仕え奉る様を見て、たいそう快く思われたそうで、吉備を分割して、御友別の一族を封じる事にした。


 まず川島県(かわしま・のあがた:岡山県倉敷市真備町箭田周辺)に彼の長男である吉備稲速別(きびの・いなはやわけ)を封じた。

 稲速別は、下道臣(しもつみち・のおみ)の祖である。

                        

 ちなみに、奈良時代に活躍する吉備真備(きびの・まきび)は、下道臣圀勝(しもつみちの・おみ・くにかつ)の子で、稲速別の子孫である。


           (ときおさんから教えて頂きました)


 次に、上道県(かみつみち・のあがた:岡山市東区上道北方周辺)には、真ん中の子の吉備仲彦(きびの・なかつひこ)を封じた。

 仲彦は、上道臣(かみつみち・のおみ)、香屋臣(かや・のおみ)の祖である。


 次に、三野県(みの・のあがた:岡山市中心市街周辺)には、末っ子の吉備弟彦(きびの・おとひこ)を封じた。

 弟彦は、三野臣(みののおみ)の祖である。



また、波区芸県(はくぎ・のあがた:岡山県浅口市・笠岡市周辺)には、御友別の弟の吉備鴨別(きびの・かもわけ)を封じた。

 鴨別は、笠臣(かさのおみ)の祖である。


            笠智衆のご先祖さま?



 また、苑県(そののあがた:倉敷市水島周辺)には、御友別の兄の吉備浦凝別(きびの・うらこりわけ)を封じた。

 浦凝別は、苑臣(そののおみ)の祖である。


                  出ました!服部!

                   ↓

そして最後に、応神天皇は愛する兄媛に対して、織部(はとりべ:機織りを職能とする集団)を賜ったのであった。



 この織部は、『日本書紀』が書かれた奈良時代にも存在していたようで、
承平年間(931〜938年)に、勤子内親王(きんこ・ないしんのう)の求めに応じて、
源順(みなもとの・したごう)が編纂した『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、
この記事に関連すると思われる三つの地名が書かれている。

     下記に、その詳細な地名を列挙してみた。


       備前国邑久郡(びぜん・のくに。おく・のこおり)服部郷
       備中国賀夜郡(びっちゅう・のくに。かや・のこおり)服部郷
       備後国品治郡(びんご・のくに。ほんじ・のこおり)服織郷   
             これが広島県福山の駅家町の服部ですね
             隈さんのご先祖の土地でしょうか?



   ちなみに、服部は、現在は「はっとり」と読まれているが、語源は服織部「はたおりべ」である。

   それが訛って「はとりべ」となり、さらに「べ」が抜け落ちて、「はっとり」と読まれるようになったものである。

   文字については読みとは逆に「織」の字が抜け落ちてしまい、「服部」と書かれるようになった。



   還都(かんと)については何の記載もないので、
   兄媛が同行したのか、それとも吉備に留まったのかどうか分からないが、普通に考えれば、
   共に帰ったと思われる。

続く?検索して来ます
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 09時46分40秒 ) パスワード

途中省略   織物関係をアップしたいので


第八章:応神・仁徳編 第159幕:年長と年少



 西暦306年(応神天皇37年、皇紀966年)2月1日、応神天皇(おうじんてんのう)は、縫工女(きぬぬいめ)を得ようと考えた。

 そこで、阿知使主(あちのおみ)と彼の息子の都加使主(つかのおみ)を呉(くれ:揚子江下流域)に派遣し、これを求めさせた。

 この二人は渡来人で、詳細は第155幕の西暦289年条を参照してほしい。

 なお、呉は支那北部とは違う独自の文化を持っており、いち早く百済(くだら:朝鮮半島南西部にあった国)が交流している。



 また、この年の干支を二運(一運=60年)繰り下げると西暦426年となり、支那の南部を支配した宋王朝の歴史書『宋書夷蛮伝』の倭王讃(さん)が上表(じょうひょう:君主に意見などをする事、又は文書)し、宝物を献上したという記事の年になる。



 よって、『宋書夷蛮伝』を参考に書かれた記事であると考えられている。



 さて、日本を出航した阿知使主・都加使主親子であったが、彼らも呉への行き方は知らなかった。

 そこでまず、高句麗(こま:半島北部の国)に赴き、そこで王に謁見し、道を知る者を乞う事にした。


 話を聞いた高句麗王は、快く承諾し、導者(どうしゃ:ガイドの事)を二名添えてくれたのであった。



 この導者の名は久礼波(くれは)と久礼志(くれし)といった。

 二人の導者のおかげで、一行は何の障りも無く呉に行く事が出来たそうである。


 呉の王も、応神天皇の依頼を快く承諾し、四人の工女を与えてくれている。



       四人の名は、
      兄媛(えひめ)      前スレに出てる人?
      弟媛(おとひめ)
      呉織(くれはとり)
      穴織(あなはとり)といった。



 ちなみに、後の時代の雄略天皇14年正月条にも、四人の工女の名前がみえるので、
ここも同じく『宋書夷蛮伝』を参考に書かれた記事であると考えられている。


西暦308年(応神天皇39年、皇紀968年)2月には、
百済(くだら:朝鮮半島南西部の国)の直支王(ときおう)が妹の新斉都媛(しせつひめ)を遣わし、
天皇に仕えさせたという記事が載っているが、これはおかしな事である。

    というのも、直支王は西暦294年(応神天皇25年、皇紀954年)に亡くなっている(第157幕参照)からである。

    この時代の百済王は、久爾辛王(くにしんおう)が正しい事になる。

 よって、新斉都媛は王の妹ではなく、叔母という可能性もある。

 

     なお、新斉都媛は七人の婦女を連れて来日し、帰化したそうである。


西暦309年(応神天皇40年、皇紀969年)1月8日、
応神天皇は最愛の息子である菟道稚郎子皇子 (うじのわきいらつこ・のみこ)を皇太子にしたいと常々考えていたが、
彼は皇后が産んだ子でもなく、長子という訳でもなかったので、表立って宣言出来ずにいた。



思い悩んだ挙げ句、天皇は二人の皇子を呼び出した。

 一人の名は、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)で、
 もう一人の名は大山守皇子(おおやまもりのみこ)といった。

 天皇は二人に対して、こう問いかけた。



 応神天皇「おいは、おまえたちが可愛い。子が可愛いと思うのは、親として当然の事であると思うが、汝(いまし:あなたの意)らは、どうか?」

 大鷦鷯尊・大山守皇子「そりゃ可愛いでしょ。」

 応神天皇「そうか。ならば、年長の子と年少の子ではどっちが可愛い?」

 大山守皇子「おいらは、年長の子が堪らなく可愛いですな。」

 その言葉を聞き、天皇は少しだけ不快な表情を見せた。



 大鷦鷯尊はこれを見逃さず、父の意を酌んでこう答えた。

 大鷦鷯尊「私が思うに、年長の子は多くの寒暑(年月)を経て、はや成人に達しておりますから、もう心配する事もありませんが、年少の子はまだ幼く、その成否が分かりかねますので、たいそう気がかりでございます。」

 応神天皇「よか、よか。汝の言うところは、真においの心に合っておる。」



 こうして同年の1月24日、菟道稚郎子皇子が皇太子となった。

 同日、大山守皇子に任命し、山川林野を掌(つかさど)らせた。

 また、大鷦鷯尊は、皇太子の補佐として国事を執行させるようにした。


[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 10時02分01秒 ) パスワード

第八章:応神・仁徳編 第160幕:応神天皇崩御


 西暦310年(応神天皇41年、皇紀970年)2月15日、
応神天皇(おうじんてんのう)が、軽島豊明宮(かるしまのとよあきら・のみや:奈良県橿原市大軽町付近もしくは五条野町にある春日神社)にて崩御なされた。

 歳は百十歳であったという。


 別の書物には、大隅宮(おおすみ・のみや:大阪市東淀川区大桐)(第155幕参照)で亡くなったという記録も有るようである。


 さて、応神天皇が崩御なされた同じ月に、前幕で呉(くれ:揚子江下流域)に派遣されていた阿知使主(あちのおみ)と彼の息子の都加使主(つかのおみ)が筑紫(ちくし:九州の事)に帰り着いていた。

 呉の縫工女(きぬぬいめ)たちを連れての帰国であった。



 この時、胸肩大神(むなかたのおおかみ)より神託(しんたく:神のお告げの事)が下りている。


 その内容とは、縫工女の内の一人、兄媛(えひめ)を所望するというものであった。

 神の願いを断る訳にもいかず、彼らは望み通り彼女を奉(たてまつ)っている。


 兄媛は、御使君(みつかい・のきみ)の祖であるという。



 ちなみに、胸肩大神とは三女神の事で、
     田心姫神(たごりひめのかみ)
    湍津姫神(たぎつひめのかみ)
    市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
 を指す。


 沖ノ島(おきのしま:福岡県宗像市)の沖津宮(おきつみや)には田心姫神
 大島(おおしま:同市)の中津宮(なかつみや)には湍津姫神
 田島(たしま:同市)の辺津宮(へつみや)には市杵島姫神が、
 それぞれ祀られており、

  この三宮を総称して宗像大社(むなかたたいしゃ)と呼ばれている。



 この神様は、道の神として古代より篤い信仰を集めており、
  現在も宗像大社には、二千数百年前に交通安全のために供えられた、
  人や馬、船の形をした石製の形代(かたしろ:実物に代わるもの)が、国宝として保存されている。

 また、最高の道の神であると『日本書紀』がいうように、
  道主貴(みちぬしのむち)という別名も持っている。

    貴(むち)とは神に対する最も尊い呼び名の一つである。


   更に付けくわえると、
   三女神の一柱(いっちゅう:神様は柱で数えるのが普通)、
   市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が弁財天(べんざいてん)といわれている。



   弁財天とは、琵琶を奏でる姿から音楽や芸術の才能を伸ばす知恵の神といわれ、
   縁結びや財宝までもたらすとされている女神である。

        よって、宗像大社は弁財天の総本宮ともいえる神社なのである。


 話を戻そう。



 阿知使主(あちのおみ)一行は、残りの三人の縫工女、すなわち弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)を連れて、海路を東へと進んでいた。

 そして、無事に摂津国(せっつ・のくに:大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の務古(むこ:今の武庫川河口付近)の水門(みなと)に着いた時、訃報(ふほう:亡くなったという知らせ)が届いた。



           なんとなく高槻の神服神社の立ち位置が分かるように感じます



 間に合わなかったのである。



 結局、彼女たちは、大鷦鷯尊(おおさざき・のみこと)に献上された。

 彼女らの末裔(まつえい:子孫の事)が、呉衣縫(くれのきぬぬい)、蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)であると、『日本書紀』は記している。



 兎にも角にも、応神天皇は崩御なされた。
 であるからには、新たな天皇が即位しなければならない。



 当然、皇太子である菟道稚郎子皇子 (うじのわきいらつこ・のみこ)が即位する筈であったのだが、ここで問題が発生する。


 菟道稚郎子皇子が即位を辞退し、兄の大鷦鷯尊(おおさざき・のみこと)に譲ると言いだしたのである。



 菟道稚郎子「兄上。どうか、大王(おおきみ)になってくだされ。」

 大鷦鷯尊「それは出来ません。汝(いまし:あなたの意)は日嗣皇子(ひつぎのみこ:皇太子の事)ですぞ。汝が大王とならねばなりません。」


 菟道稚郎子「兄上。天下の君主となって、万民を治める者は、天のように覆い尽くし、地のように受け入れる事のできる者でなくてはなりませぬ。」

________________________________________



大鷦鷯尊が後の仁徳天皇ですか。
そして仁徳天皇の4番目のお子さまが  允恭天皇  ですか。


概説

応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。

人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し[1]、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。

また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとする見方もある。

日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、この記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。

すなわち、大雀の母中日売の父が、五百木入日子の子品它真若となっていることである(この場合、大雀は五百木入日子の曾孫となる)。


古事記と日本書紀の系図どちらが正しいかは不明である。

なお、『宋書』倭国伝に記される「倭の五王」中の讃(さん)または珍(ちん)に比定する説があるが、確定していない。

[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 10時06分42秒 ) パスワード

そうか・・・

允恭天皇が織部司を任命した元はお祖父さまの応神天皇の織物に対する政策があったということですか。



機織部を考えるには応神天皇から考えていかないといけなかったのですね。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 11時08分06秒 ) パスワード

関裕二を読んでいます。


ヤマトを作ったのは
神武天皇(と饒速日)で
饒速日は吉備出身者  (ナガスネヒコは岳父なのに裏切った)。



古事記

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。

舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、

吉備国の高島宮で8年過ごした。       ←  ここで饒速日と関係が成立?


浪速国の白肩津[1]に停泊すると、ナガスネヒコの軍勢が待ち構えていた。

その軍勢との戦いの中で、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。
イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。

カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。
するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失ってしまった。
この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持って来ると、
カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。

カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちも意識を回復した。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。
タカクラジによれば、タカクラジの夢にアマテラスと高木神が現れた。

二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定に使った太刀を降ろしましょう」と答えた。

そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言った。

目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして運んだという。


その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から大和の宇陀に至った。



宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。
まず八咫烏を遣わして、カムヤマトイワレビコに仕えるか尋ねさせたが、
兄のエウカシは鳴鏑を射て追い返してしまった。

エウカシはカムヤマトイワレビコを迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。
そこで、カムヤマトイワレビコに仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。

弟のオトウカシはカムヤマトイワレビコにこのことを報告した。
そこでカムヤマトイワレビコは、大伴連らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)をエウカシに遣わした。

二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」とエウカシに迫り、
エウカシは自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。


忍坂の地では、土雲の八十建[2]が待ち構えていた。
そこでカムヤマトイワレビコは八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。
そして合図とともに一斉に打ち殺した。


その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。
そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。

こうして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮[3]で即位した。

その後、大物主の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、
日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 11時14分20秒 ) パスワード

神武東征日本書紀編


『日本書紀』では 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、
天祖ニニギが天降って179万2470余年になるが、
遠くの地では争い事が多く、
塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、
そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。


ナガスネヒコとの戦いでは、戦いの最中、金色の鵄(とび)がカムヤマトイワレビコの弓の先にとまった。
金鵄は光り輝き、ナガスネヒコの軍は眩惑されて戦闘不能になった。


ナガスネヒコはカムヤマトイワレビコの元に使いを送り、
自らが祀る櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)は昔天磐船に乗って天降ったのであり、
天津神が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。

カムヤマトイワレビコとナガスネヒコは共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物とわかった。

しかし、ナガスネヒコはそれでも戦いを止めなかったので、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺してカムヤマトイワレビコに帰順した。




旧唐書・新唐書[編集]

『旧唐書』には、
日本は倭国の別種であると記載され、もともと小国であった日本が倭国を併合したとも記述されている。



『新唐書』でも、
日本は、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられており、
日本の王の姓は阿毎氏であり、

      阿毎の中国語の発音は  「あめい」
      つまり
      「天」=あめ
      ということか?


筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となり、
600年頃に初めて中国と通じたと記述されている。

しかしこれは、当時の中国側には、
壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、

その見解をそのまま表記したと言う意見もある。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 11時23分45秒 ) パスワード

神武東征伐解説


九州の勢力が大和に移ってヤマト王権を築いたことを示すとする説がある。

安本美典は、卑弥呼=天照大神として、卑弥呼死後の3世紀後半に神武天皇が邪馬台国の勢力を率いて近畿地方を征服して大和朝廷を開いたと考えている。

また神話学者の三品彰英により、高句麗の建国神話との類似が指摘されている。




伝承にある神武東征の出発地については、主に二つの説がある。



     南九州説


日向の高千穂を文字通り日向の国(宮崎県)の高千穂とする。根拠は以下の通り。
日向は日向の国である。
律令国家形成(成務天皇)以前から既に日向国は宮崎と鹿児島であった。
景行天皇は先祖を供養するために日向に滞在して日向高屋宮やさまざまな施設を建設しそこにに留まること6年であった。
景行天皇の時に建てられたとする神社や遺跡は今も多数存在している。
景行天皇の時の熊襲征伐は熊襲の領土と隣接する宮崎の日向から行われている。情報も日向から入手していた。
襲国の場所も特定されていた。
景行天皇の時の時代は記紀の通常の暦だと在位期間は71年8月24日から130年12月24日であり、戦後の学説によるとそれに百年ほど追加される。
その頃からすでに日向の地は宮崎と特定されていた。
つまり第一世代第二世代前の紀元前に生まれた人も神武天皇の出生の地と記憶していた人々は数多く、それは九州の人々も大和朝廷の人々も同じであり、神武天皇の出征の地は宮崎だったのはほぼ間違いないと思われる。
仲哀天皇の時の熊襲のいた地域は筑後の国辺りであり、彼らの地域は変転している。
建日向日豊久士比泥別は九州の中部(熊本+宮崎)と考えられ、その中の日向は宮崎周辺と考えられていた
舟軍で出発したのは現高千穂峰ではなく、美々津という場所であり、風を利用しながら北上している。
日本書紀によると「太歳甲寅(日本書紀#太歳(大歳)記事参照)年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。
11月に筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。」とあり、
神武天皇が宮崎県から大分県で歓迎を受けて北九州でまた一か月ほど滞在して、それから広島県に移動したことが書かれている。

戦前はこれで間違いないとされていた。

日本書紀によれば天孫降臨後、ニニギ降臨の場所は高千穂の峰であり、
それは宮崎か鹿児島に属しており、その遺跡や関連の足跡も南九州にしかない。

戦後混乱期にそれ以外の説を唱えるものが出てきた。
高千穂を高千穂峰とする説、高千穂峡とする説等に分かれる。
海幸彦山幸彦を祀る神社も古くから南九州に集中していた。

扶桑社の歴史教科書では旧国定教科書と同様の説を採るが、初版掲載の地図では、高千穂峰を宮崎市近くの海岸に設定し、神武一行は関門海峡手前で引き返し東に向かった形になっている。また、初版からの本文では(瀬戸内海に面していない)宮崎県を出発後瀬戸内海を東に進むと記述される。





          北九州説


本来の伝承を九州北部とする。
根拠は以下の通り。


日向国ではなく日向と記載され、日向国の地名の由来は景行天皇の言葉によるとあるので、
それは神武天皇即位以前には存在しない。
日向はヒュウガではなくヒムカと読み、東向き、南向きの意か美称である。
高千穂は高い山の意でその証拠に複数存在する。
『古事記』では天孫降臨で日向の高千穂を、「韓国(からくに・朝鮮半島南部の国家)に向かい笠沙の岬の反対側」としている。
舟軍で出発したので現高千穂峰ではない。
天孫降臨の地が北九州の日向であれば、神武東征における日向も、特段の事情がない限り北九州の同じ地である。
南九州を出発すると豊後海峡より流れの速い関門海峡を二度通ることになり、不自然である。
寄港地の岡の水門(港)は九州北部の遠賀とされる。
東征して大和に到るのは北九州しか有り得ない。南九州では四国の南に出る。
経路が瀬戸内海の北側である。
南九州は熊襲の本拠地であり、神武東征の時には制圧できていない。





     否定説


神武天皇が九州から近畿へと遷ったとすることに対し、主に邪馬台国畿内説支持者の研究者による考古学的観点からの否定説がある。
西谷正は、北部九州が近畿を征服したとは考えにくいとする。
主な理由として、近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い。
方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないなど[4]。
邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、
逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、
邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は考え難い[5]。
4世紀の九州の大和に見られるような大規模な古墳・集落遺跡が見られないので、
この段階での九州勢力の東征は考えにくい(山中鹿次)。
よって、応神期に東征があったとも捉え難い。
原島礼二は、大和朝廷の南九州支配は、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、
608年の隋の琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権を主張する為に説話が形成されたとする[6]。
本来は隼人の説話だったのを天皇家が取り入れたとも。





     イスラエルの失われた10支族の異説


『日本書紀』の神武東征によれば、イワレヒコ(神武天皇)(庚午年1月1日(西暦紀元前711年2月13日)誕生と推定)は、西国の日向から東征し、数多の苦闘の末に大和・橿原の地に到達して、辛酉年春正月庚辰朔(西暦紀元前660年2月11日と推定)に即位し、初代天皇の神武天皇となったとされる。

この神話は、日本人の始祖が日本列島よりも遥か西の地から出た民族であること、
事情により故郷を離れ、安住の地を目指して東方へ移動していって日本に到達したことを暗示すると、以下の通り主張する者もいる。


北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、祖国を追われた同国民がどこかに消えたのが西暦紀元前721年。
世界史屈指の謎とされるイスラエルの失われた10支族である。
神武天皇の誕生年は紀元前711年だが、イスラエル10支族が失踪したのは紀元前721年と、その差は僅か10年である。
これらにより、神武天皇=失われたイスラエル10支族を意味し、
東征神話=イスラエルから日本へ達した彼らの旅路を示すという説もある[7][8]。






       呼称への異説


日本書紀では、神武一行は軍隊ではなく、神武が大和へ婿入りする内容になっており、「神武婿入り」と呼ばれることがある。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 11時43分04秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/yaasanarchaeologue/c/b3fae36731425ca113b481d2225513a4

伊賀が国として位置づけられた理由



概要

 「日本の古代社会は、世界的にも珍しい律令と呼ばれる法律によって国を統治する中央集権的な法治国家でした。8世紀には大和国に、8世紀末以降には山城国に都が置かれ、全国に設置された国−郡−郷に官僚を派遣、任命して統治していました。国は66カ国ほど有り、現在の都道府県(北海道と沖縄を除く)とほぼ対応しています。特に海辺に所在する地域や島は天皇に海産物を貢納する特別な国とされ、志摩、伊豆、安房、佐渡、淡路、隠岐、壱岐、対馬等の人々が特産物を都へ納めていました。内陸部で同様の扱いを受けたのが飛騨と伊賀です。飛騨は飛騨匠と呼ばれる木工に優れた技術者集団の居住地として知られ、国家に建築技術を提供しました。では伊賀はなぜ国とされたのでしょうか。それを検討する材料が考古学にあります。特に4世紀終わりから5世紀中頃にかけて築造された石山古墳や御墓山古墳はその象徴的遺跡です。こうした様々な考古資料から伊賀の魅力を探ります。」でした。




 T 伊賀国の前史
 まずスライドで、伊賀の古墳時代を代表する石山古墳を紹介し、この古墳がなぜこの地に設けられたのか、誰が何のために築造したのかについてお話しをしました。伊賀のど真ん中に4世紀末にできたこの古墳は大和王権が伊賀に手を付けた最初の証拠です。

 120mの前方後円墳の築造、東方外区と呼ばれる造り出しの形成、その「外区」上での埴輪祭祀、囲い形埴輪や、多様な家形埴輪、武器形の諸埴輪、石製模造品の大量埋納、等々、当時の王権との強力な関係をもつ古墳の築造は、大和が並々ならぬ力をこの地に入れていたことを示します。その証拠にこの後伊賀の地には北部に御墓山古墳、南東部に美旗古墳群が連続的に築造され、その影響が強く維持されたことが判ります。

 石山古墳の直後に伊勢湾に進出した王権が、伊勢中央の松阪に宝塚古墳を造りながら、この一代限りで前方後円墳の築造を止めてしまうのと大きな違いがあります。

 伊賀はこれ以後の大和にとって不可欠の地域だったのです。




U 伊賀国の行政    
 ではどの様に不可欠だったのでしょうか。
 伊賀国は四郡(名張郡・伊賀郡・阿拝郡・山田郡)からなる下国でした。

 国府は講演をしたJR伊賀上野駅を東へ真っ直ぐ進んだ阿拝郡国町の一角にあります。この地を南へ真っ直ぐ南下した伊賀市西明寺に伊賀国分寺・国分尼寺も所在が確認されています。伊賀では阿拝郡が重要な地域として認識されていたのです。なぜでしょうか。

 その答えは次の『続日本紀』の記事から理解できます。
『続日本紀』和銅四年正月二日条
・四年春正月丁未。《丙午朔二》始置都亭驛。山背國相樂郡岡田驛。綴喜郡山本驛。河内國交野郡楠葉驛。攝津國嶋上郡大原驛。嶋下郡殖村驛。伊賀國阿閇郡新家驛。

 和銅四(711)年ですから平城遷都の直後のことです。おそらくそれまでの飛鳥に置かれていた都が北へ移動した事による新たな交通路の策定が行われたからではないでしょうか。平城京を北へ出てその最初が都亭驛、そして木津川を渡って木津川に沿って東へ真っ直ぐ進んだところ、伊賀に入って最初の駅家が新家駅だったのです。

     註
     駅家(えきか/うまや)とは、
     古代日本の五畿七道の駅路沿いに整備された施設。単に駅(えき)とも称する。

     律令制で、30里=16kmごとに、人馬を用意し、駅使に宿舎・食糧を提供した施設。
     駅館。駅舎。駅亭



 壬申の乱の進軍ルートが吉野→榛原→名張→伊賀→柘植→鈴鹿・・・であったことからすると、飛鳥時代の大和から伊賀へ至るルートはおそらく古墳時代に確立したこのルートが用いられたのです。ところが都が遷されて新たな道が模索され、それに伴って国として位置づけられた伊賀国に新たな交通路が用意されたのではないでしょうか。なお、伊賀国の郡衙としては伊賀郡のそれが下郡遺跡として知られ、木簡が出土しています(後述)が、これ以外は今のところ判っていません。


 V 伊賀国と「東海道」
[1] 変遷する「東海道」
 古墳時代に大和から伊勢湾へ抜けるルートは3本ありました。


第一のルートが壬申の乱で大海人皇子が通ったルートです。桜井→榛原→名張→伊賀→柘植→加太越え→鈴鹿です。

第二のルートが名張→美旗→阿保→川口→一志・安濃(津・松阪)です。

第3のルートは名張→名張川→峠→櫛田川→飯高→多気→渡会です。
 

 平城京以前の飛鳥・白鳳時代も基本的にこの3ルートが用いられたと思われます。

 ところが、遷都により都が北上すると、平城京の時代のメインルートは、岡田駅や新家駅の新設によって、新たに木津川ルートが開発され、これが官道・東海道とされ,国府もこのルート上の阿拝郡に置かれます。

 長岡京以後都が山背に置かれると、東海道は一新され、近江から伊賀・伊勢或いは平安京以後は、近江から伊賀を経ずに伊勢というルートが開発され、ここに前代以来王権の所在地に対するエアーバックの役割を担ってきた伊賀の存在感は一挙に薄れます。伊賀の役割が終演する瞬間でもありました。延喜式に伊賀国の駅家が記載されない理由がここにあります。


 伊賀国を東海道が通過していた奈良時代の駅家は、公式には新家駅のみです。それ以前に壬申の乱で『日本書紀』に記載される「隠驛」,「伊賀駅」が知られますが、これらは奈良時代には伝馬の置かれた郡衙の施設の一部となったものと思われます。



[2] 文献史料に見る東海道
 天平年間に作成された『伊勢国計会帳』(断簡28行分。『大日本古文書巻第二十四巻』)は、都からどの様に公文書が逓送されたかを知る貴重な資料です。

 (前略)
 令下齎太政官并民部・兵部省符、遣中尾張国上遊牒一紙以九月三日来返抄。
 右 付鈴鹿郡散事石寸部豊足
 齎太政官并民部・兵部省符、従伊賀国来使返抄一紙
 右 付還使石部赤麻呂 
 (後略)

 この計会帳によって、次のようなことが復原できます。

a) 太政官符・民部省符・兵部省符が都(平城宮)から大和国→伊賀国→伊勢国→尾張国・・・→というルートで伝達されていた。

b) 伊勢国→尾張国へは鈴鹿郡の役人(石寸部豊足)がこれらの文書を伝達した。その際、送り状としての「遊牒」を尾張国へ届けた。その受け取りとしての「返抄」を九月三日に伊勢国(石寸部豊足)が受け取った。

c) 一方、太政官符・民部省符・兵部省符を「遊牒」と共に齎(もたら)した伊賀国の来使(石部赤麻呂)には「返抄」を持たせて返した。


 この様に730年代に実際に行われていた東海道を通じた公文書の流れを復原することができるわけです。

(注) 計会帳 : 律令制下において、地方官は中央政府に政務を報告するために4種の帳簿(「四度公文(よどのくもん)」)を提出するが、その一つである朝集帳の付属帳簿(枝文(えだふみ))をいう。諸国の国衙(こくが)が1年間に中央政府や他国との間で授受中継した詔(しょう)・勅(ちょく)・符(ふ)などの公文書を、授受の月日と使人の姓名とともに記帳し、期日までに太政官に提出した帳簿である。太政官では中央諸司主典(さかん)と諸国朝集使の参集のもとで提出された計会帳を監査し、公文書の授受に遺漏がなかったかどうかを確認した。計会帳は正税(しょうぜい)帳とともに律令制地方行政の実態を明らかにするための貴重な資料の一つであり、「出雲国計会帳」「伊勢国計会帳」が現存する。(小学館『日本大百科全書』)


 もちろんこの場合の実際の公文書の流れは平城宮(太政官)→大和国→都亭駅→岡田駅→新家駅(伊賀国)→伊賀国《石部赤麻呂・遊牒》→(加太越)→鈴鹿関・鈴鹿駅(伊勢国)→《←返抄・石部赤麻呂》伊勢国府《石寸部豊足・遊牒》→河曲驛→朝明駅→榎撫駅→馬津駅(尾張国)→《←返抄・石寸部豊足》尾張国府→・・・・→参河国府・・・
のようであったと思われます。



[3] 伊賀の人々
 この様な史料を通して、伊賀国に「勤務」した石部赤麻呂や伊勢国に「勤務」した石寸部豊足の存在が明らかになります。特に石部氏については平城京で発見された木簡から伊賀郡にも展開していたことが知られます。

・ 伊賀国伊賀郡長田郷                   ← 長田郷
・ 新木里石部道□長

→石部氏は磯部氏、伊勢部氏ともされ、この他に伊賀国阿拝郡柘植郷長解に石部大万呂等が知られ、
         伊賀国の中心的氏族であったことが判ります。

 なお、伊賀郡衙と推定される下郡遺跡からは延暦の元号を記す木簡が発見されています。三重県下では先に紹介した柚井遺跡の木簡と並ぶ地方での貴重な文字資料となっています。

《伊賀市下郡遺跡》
・ 沓縫阿□□□□祖□□○□
・ 〈〉出可租稲七束四把四分延暦□



おわりに

・なぜ伊賀は国になったのか

→大和が中心であったときに東国との間のエアーバックのような役割を果たし、中央の情報は伊賀を経て東へ伝えられた。

・しかし、都が長岡京・平安京と遷されるに従って、次第にその役割を終えることになる。



         伊賀は意外でした
         笑
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 12時04分03秒 ) パスワード

http://tokyo.atso-net.jp/pukiwiki/index.php?%E5%90%89%E5%82%99%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3



吉備の古代


吉備の中山を根拠とする「吉備の海人」


大和の移住者
•雄略天皇の時代に新漢陶部高貴らの渡来人を上桃原・下桃原・眞神原の地へ、また呉人を檜隈野に住まわせた事が記されています。
◦居住地は『日本書紀』によると現在の大字飛鳥や島庄、桧前の地。
◦氏寺は、檜隈寺 ( 東漢氏 ) や呉原寺 ( 呉原氏 ) 、坂田寺 ( 鞍作氏 ) など
◦墓の特徴は石室に巨大な自然石を用いており、天井は高く、ドーム形。石室内からはミニチュア炊飯具 ( 竈・甑・瓶・鍋等 ) や釵子 ( かんざし ) 、などが出土。


•日本は456、雄略天皇のとき、中国の冊封体制から離脱国交断絶。456年から593年まで 約 150年近く冊封体制から離れて独立。魏が滅び、西晋が立ち、北から、また西域、あるいは蒙古のほうから、中国の黄河流域に蛮族がなだれ込む。

(五胡十六国の時代) 589年に南朝を潰し隋が統一。長い間中国の脅威は無かった。難民は多くいたかもしれない。小野妹子隋に行く(607)

•「古い金石文では、大和は山の東、生駒・金剛山脈の東。西の河内のほうの渡来人が先で、大和辺りを根拠にする渡来人集団が後と考えている」(上田正昭氏)


三蔵
•大和時代の斎蔵(イミクラ)・内蔵(ウチクラ)・大蔵(オオクラ)の総称。いづれも朝廷の財物を収納した倉庫。蘇我(ソガ)氏が三蔵を統括する。「さんぞう(三蔵)」とも呼ぶ。

◦〈斎蔵〉  祭祀に用いる神宝や神への貢租(コウソ)を納めた蔵。
 斎部(インベ)氏が世襲・管理した。

◦〈内蔵〉  官物(皇室の財物)を納めた蔵。
 東漢人(ヤマトノアヤウジ)・西文氏(カワチノフミウジ)が事務を掌(ツカサド)
る。

◦〈大蔵〉  政府の貢租を納めた蔵。内蔵から分離して設置。
 秦氏(ハタウジ)が事務を掌る。
                       秦氏!


•東漢(やまとのあや)氏の族長であった坂上刈田麿らの上奏文に、
『 先祖阿智使主、(応神天皇)の御世、十七県の人夫を率いて帰化す。」

…高市郡檜前村を賜(たま)いて居す。
およそ高市郡内は、檜前忌寸(いみき)および十七県の人夫、地に満ちて居る。他姓の者は十に一、二なり。]


造山古墳
•(応神天皇の頃)の吉備には、造山古墳を築く勢力があったはず。それは列島第一の特大の勢力である。

石作とかぐや姫
•竹取物語の石作皇子が多治比嶋であるなら、石作氏と多治比氏の関係も世間周知の事 であったろう。

河内国丹比郡の中心部、現大阪府南河内郡美原町一帯を本拠とし、
同地には五世紀前半と推定される全長百米以上の前方後円墳黒姫山古墳があり、六世紀末から八世紀中にかけての平尾遺跡には大規模な掘立柱建築があり、
丹比神社・丹比廃寺を有した。

そして一族からは歴代にわたって遣唐大使・押使・渤海使等の外交官を出している。

こうした多治比氏と関わる石作氏は、播磨国賀茂郡の既多寺で書写事業のスポンサーであり、
それまでは播磨平野に数多い石船と呼ばれる石棺を製作していた。


•「石の宝殿」直ぐ付近の竜山石の石切り場の石を切り離して、加工途中で放置 されたのだという。



地域と部民
•美作

英多    財部 巨勢
勝田    家部 鷹取 賀茂 
苫東    綾部 賀茂
久米    倭文 錦織 弓削 久米 家部 秦   
真嶋    健部



•備前
和気    矢田部 秦
磐梨    別部 忍海部 財部 母止理部 物部 佐伯部
邑久    別部 秦部 海部 靱負 土師 須恵 宗我部 服部 石上
赤坂    軽部 佐伯 鳥取 家部 別部 葛木
御野    伊福部 物部
津高    健部 漢部 按作部 蝮王部 賀茂
児島    山守部 賀茂
上道    財部 日下 宇部 山 秦 海部 壬生部 家人部



•備中   
都宇    健部 丸部 西漢人 秦人部 赤染部 服部 史戸
窪屋    軽部 白髪部 物部 氷人 家部 神人部 私部 刑部 出雲部
爾麻部   語直


•賀夜
服部    八部 刑部 忍海漢部 鳥取部 山守部 弓削部 物部 出雲部
健部    生部 東漢人部 西漢人部 史戸 川人部 和邇部 白髪部 犬甘部
下道    八田 二万部
浅口    犬養部
小田    草壁 出部 白髪部
後月    出部
哲多    額部
英賀    刑部 呰部 丹部

•備後
深津    海部
神石    物部
奴可    刑部 道部
沼隈    春部
品治    品治部 服織
葺田    品治部
恵蘇    刑部 春部 額田
三谿    刑部 松部



•阿智郷 (今の万寿・菅生・倉敷・帯江に当たるか)


   ◦(和名抄) 「窪屋郡阿智郷」。 帰化漢人☆阿智使主(アチノオミ)の土着せる地域、広大なり。
    邑久郡大宮村に「上阿智」・「下阿智」あり。
    吉備・都窪・朝口の三郡に「呉服部」・「西阿智」・「東阿智」あり。
    倉敷市に阿知神社・阿智町あり。


   ◦(日本書紀)応神天皇三十七年春二月条 三十七年の春二月.阿知使主・都加使主を呉に遣わして、
         縫工女を求めしむ。
         呉の王、是に、工女兄媛・弟媛、呉織、穴織、四の婦女を与ふ。


•備中の吉備津宮の四隅に祭る神の中に、「忍海(おしぬみ)部」がある。凡海(大海人)か。

•備前は秦、備中は百済。播磨の西部は秦。秦は親新羅か??。      ← かもね

                      NHKの番組で 秦川勝が親新羅だったみたい

•長い頸のある壷が大きな特徴。備前・備中・讃岐を中心に、備後・美作・播磨にまで分布。
          時期は、2 世紀から3 世紀にかけて


•吉備で須恵器が出現するのは、5 世紀の前半。
          高梁川と足守川にはさまれた吉備中枢部で出ている

•森浩一氏は「律令政府は、海上交通の要地を、『海部郡』 として掌握した」とする。

     一方「海部郡」とは、
     即ち、魚・海草・貝などを年貢(税)として治める人たちが多く住んでいた郡との説が一般的。
     祭事用の忌部が海部でもある。



•秦人の土着地… ・秦(ハタ)・土田(ハタ)・幡田(ハタ)・半田(ハタ)・畑谷(ハタヤ)・服部(ハットリ)・勝部(カチへ)・勝間田(カツマタ)・勝田(カツタ)可知(カチ)。


•漢人の土着地… 阿智(アチ)・阿知(アチ)・漢部・綾部・綾部田・英田・英多・呉服部・呉織・錦織・西郡。



鉄と塩
•欽明天皇16年(555)に白猪屯倉、同17年(556)に児島屯倉が設置されたのは、吉備の鉄と海(海路と製塩)を掌握するためであった????



吉備(カヤ)+大和の説        これは関裕二の本の内容に似ている

•キビは大和へ入った。
その時期は、特殊器台・特殊壷で言えば、立坂型の次の向木見型の次の宮山型の時。

大和へ入ったキビの連中は、箸墓古墳を造り、大和政権の基を樹立した。

               箸墓古墳の埋葬者は孝霊天皇の娘の墓と書いてあったような
               吉備といえば孝霊天皇のお子様がらみだし


その勢力の長は、記紀に言う崇神天皇。崇神は大和へ進出する前、
朝鮮半島南部(カヤ)からキビの備中(後の備中国カヤ郡・高梁川の流域)にやって来た人物。

何故ここに来たかというと、ここには、既に朝鮮半島南部(カヤ)から来たカヤ人が、多数住み着いていたから。

つまり、高梁川の流域は、朝鮮南部のカヤ人の最も重要な移住先きであったわけである。

「カヤ」という地名は日本各地に見られるので、カヤ人は列島の各所に移住した可能性があるが、
移住地が後に「郡」になった例は、ただ備中のみ。

ということは、備中国カヤ郡の地は、カヤからやって来た連中が、列島で最も多数、
集中的に住み着いた所と考えてよい。



     とにかく吉備は応神天皇と織物で関わるなと納得しました
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 22時12分16秒 ) パスワード

メールにて補足事項を頂きました?



いまの総社市の西の高梁川を渡ると「秦」氏の痕跡だらけです。
秦小学校・秦郵便局等々です。

                              今に至るも「秦」の名が残っているとは
                              さすが秦氏の豪族の地ですね

この秦氏族の土地の南接地が下道氏(吉備の朝臣)本拠地です。


                               吉備真備ゆかりの地ですね。



もちろん、服部の地が総社にはありますね。

                               はい
                               駅があって初めての時は驚きました




思い出しました、
法然上人の生誕の地=誕生寺の西に横たわる丘陵地帯は、法然上人の母親である、
秦氏君の基盤である秦氏の拠点です。

                               へえ〜



美作の国に「大庭ごうり」が抜けて居ますね。
ずばり、今で言う天領・・・屯倉であったからでしょうね。
白猪屯倉(555年)・・・・平安時代には皇室の大炊の領になったりしています。

和気清麻呂の先祖とも言われて居ます白猪氏の。



弥生墳丘墓で有名な楯付き遺跡の特殊器台に肩を並べる「中山特殊器台」が出土して居ます。
今の落合インターの側です。



もう一つおまけです。

日本各地に三輪・美和地名が存在しています。
今は消えてしまいましたが。
れっきとした国宝の古文書に美和一族の長を埋葬した古墳の記述存在するのです。

要するに白猪屯倉の想定地の直径1km内ですね。



出雲族の東進を想像しますね。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 22時19分59秒 ) パスワード

もう1つ頂いております:

石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)
http://www.genbu.net/data/bizen/hutumitama_title.htm


確か、神主さんが物部氏の末裔だったかな。



      ありがとうございます。


         神紋が丸に五三の桐
          そして
         三つ巴紋でもあります


             なんとなく「三つ巴紋」使用の神社というのが分かって来ました。



ということは遠江国榛原郡の服織田神社の家紋も三つ巴紋ということで
         「物部」系
ということでしょうか?

          これが「丸に三つ柏紋」の神服神社とは「違う」と?


ちょっと「見えた」?
それとも「見当違い」?                       

[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 22時37分50秒 ) パスワード

コピペ:

石上布都魂神社
いそのかみふつみたまじんじゃ

岡山県赤磐市石上字風呂谷1448  


神紋
丸に五三の桐
『神社名鑑』には  三つ巴


式内社 備前國赤坂郡 石上布都之魂神社
備前國一宮
旧郷社

御祭神
素盞嗚尊

『吉備温故秘録』江戸後期
布都御魂
『神社明細帳』明治初年
十握劒


岡山県赤磐市の西の端。
北3Kmに国道484号線、東3Kmに27号線、
南5Kmに53号線があり、その中央部の山中にある。

岡山市内からは、国道53号線を北上し御津方面へ。
津山線金山駅あたりで、金川大橋を越えて、東へ。
2Km行った伊田で北上し、平岡西を越えて、5Kmほどの位置。
なかなか、わかりにくい場所にある。

道路脇に社号標があり、少し登ると鳥居。
その先に駐車場があるが、そこから階段の参道を登ると境内。
境内左手の山道を500mほど上ると本宮があり、
結界された磐座が鎮座している。

祭神は、現在素盞嗚尊となっているが、
明治までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った「布都御魂」であった。
この剣は、古事記では、「十拳剣」、
日本書紀には、「十握剣」「蛇の麁正」「韓鋤の剣」「天蠅斫」。
「布都御魂」は、物を切断する「フツ」という音。            へえ〜
                                   ビックリ

                                   だから「ブッタた切る」と言うの?

「十拳剣」「十握剣」は、その長さ表わし、長剣であったことがわかる。
「麁正」「韓鋤」は、半島からもたらされた剣。
「天蠅斫」は、蛇を斬った剣の意味とされている。

その剣で八岐大蛇を斬った時、その尾から叢雲剣が現われ、三種の神器となった。



比喩的に解釈すれば、
渡来の製鉄技術による剣で、当地を平定し、技術供与を受け、国産の剣の量産化に成功した事績と見る事ができる。

その後、崇神天皇の御代に、その剣は、大和国石上神宮へ移されたことになっている。

拝殿には、桐紋がついていたが、『神社名鑑』では、三つ巴。
境内には、茅の輪が設置されていた。

道路脇の社号標から車を入れ、鳥居横を通って、駐車する。
階段上の境内は、あまり広くはないが、左手待合所で、しばらく休憩。


茅の輪をくぐり、参拝後、撮影を開始。
本殿右手には、稲荷神社が祀られていた。

                    これまた  何故?


境内左手に山へ続く道があり、500mほど上ると、本宮がある。
参道途中に鳥居があり、汗を滴らせながら上る。
一段高く祀られた小祠が、本宮本殿。
その背後に巨石(磐座)が幾つかあるが、
磐座周囲は、針金で結界されて禁足地となっている。
社殿後方に神泉があり、「いぼ水」として利用しているらしいが、よく分からなかった。



 当社は「延喜式」神名帳、備前国赤坂郡六座のうちの「石上布 都之魂神社」にあたり、
備前国総社神名帳百二十八社の中正二 位と記され御神徳の高い神社である。

現在御祭神は素盞嗚命であるが、江戸時代後期、寛政年 間に岡山藩土大沢惟貞が編纂の「吉備温故秘録」では
「布都 御魂」明治初年編の「神社明細帳」「延喜式内神社・国史見在之神社」では「十握劒」を祭神と 記している。

御祭神名の変更は、明治六年郷社列格の際と思われる。

 いずれにしても素盞嗚命の大蛇退治の神話に起因する。日本書紀一書に「其の蛇を断りし劒 をぱ、
號けて蛇之麁正(おろちのあらまさ)と曰ふ。

此は今石上に在す」また一書に「素盞嗚尊、蛇の韓鋤(からさひ)の劒を 以て、頭を斬り腹を斬る、
(中略)
其の素盞嗚尊の、蛇を断りたまへる劒は、今吉備の神部の 許に在り。」

さらに一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿断(あまのははぎり)の劒を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と 記す。


総合すると素盞嗚尊が大蛇を切った劒は「蛇の韓鋤の劒」「天蝿断の劒」あるいは「蛇の 麁正の劒」で、
吉備の神部のところ、石上にあることになる。

「韓鋤の劒」は韓から伝来した刀 の意・「天蝿断の劒」は蛇を切った劒、
すなわち韻霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を祀ったのが布都魂神社である。

「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀の神代巻・旧事記・神社啓蒙旧事紀・天孫本紀、古語拾遺・ 言金抄などから
「私に曰、此数書を以て参考ふるに、上古素盞嗚尊、蛇を断の剣は当社(注石 上布都魂神社)に在事明かなり、

其後、崇神天皇の御宇、大和国山辺郡石上村へ移し奉るとあ れ共、当社を廃されしとは見へず、

又延喜神名帳にも大和国と当国に布都魂神社載せられたる は、
当国石上神社を大和国に勧請して地名も石上といひしならん、
さすれぱ、当国の石上本社なることも分明なりし」と す。


寛文九年(一六六九年)時の備前藩主池田綱政が山頂にあった小祠を造営復興し、
延宝二年(一六七四年)には神道 衰之古事を知る人の少なきを歎き広沢元胤に命じ社記を作らせ(一巻)、
社領二十石を奉納した。


その後累代の藩主(綱政 →継政→宗政→治政→斉政→斉敏→慶政→茂政→章政)崇敬懈りなく廃藩の時に至る。

この間の藩主交替時には必ず折紙が 奉納された。



 神剣(蛇の麁正・別名蛇の韓鋤・蝿断劒)は大和(奈良県天理市)の石上神宮にお移ししたということは
石上神宮にもこ のことが記されている。

「布都斯魂大神 素盞嗚尊の以って八岐大蛇を斬り給ひし十握劒の威霊を称奉る御名なり。
日本書 紀神代巻一書に、其断蛇劒、号曰蛇之麁正在石上宮也と見之、古語拾遺に、
素盞嗚神、自天而降到於出雲国簸之川上、以天 十握劒(其名天羽々斬、今在石上神宮古来大蛇謂之羽々、
言斬蛇也)斬八岐大蛇とありて、も と備前国赤坂宮にありしが、

仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る。

(抜粋・大 正十五年発行官幣大社石上神宮御由緒記)


 かくして神剣奉遷の後石上神宮においても神剣所在は明らかでなかったが、
明治七年水戸の 人菅政友が古典に石上神宮(当時布留神宮)社内の禁足地に韻霊の神剣埋蔵されていることを 知り
教部省の許を得て発掘し神剣と勾玉を発見した。

明治天皇にお見せし再び布留神宮の御霊 (これを布都斯魂之大神と呼ぶ)を祀ることとなった。

その時この剣を模して造ることを月山 貞一に命ぜられ宮内省に納められた。

その影造の剣が本神社に寄進された。


明冶初年神社調に よって郷社となり、
明治三十九年神饌幣帛料供進神社に指定される。

明治四十三年火災によっ て貴重な棟礼等ことごとく消失、
大正四年現在の位置に社殿を改築した。

昭和二十年県社の資 格ありと認められた。
幻の県社である。

平成五年現拝殿を建立する。
この神社は近郷では「神 社様(じんじゃさま)」と敬称し、
疫病災(えやみ)を断つということ、安産、農耕、養蚕の守り神、子授かりの神として篤 く信仰されている。

近年一宮の朱印を求める参拝者多くなる。

−リーフレットより−


以上
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 22時44分25秒 ) パスワード

岡山に丸に並び矢紋の神社あり!
http://www.genbu.net/data/mimasaka/sawara_title.htm
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 22時45分23秒 ) パスワード

岡山に長田神社あり!
http://www.genbu.net/data/mimasaka/nagata_title.htm

ナガタですね
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 22時47分05秒 ) パスワード

美和神社
http://www.genbu.net/data/bizen/miwa_title.htm
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 22時49分01秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/mimasaka/amanoiwatowake_title.htm


ここも並び矢!
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 22時52分24秒 ) パスワード

揚羽蝶紋の神社発見!

http://www.genbu.net/data/mimasaka/takano2_title.htm
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月01日 22時54分03秒 ) パスワード

以上の神社は後ほどじっくり読みます。
ありがとうございました。



ということですので  XXVI をお立てになってください。
[72]丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月02日 01時39分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は東三河に行って来ました。
 気温五℃。朝8時50分に出発。井伊谷より国道257号線にて鳳来町長篠
へ向かう。9時40分に到着。50分、30キロの行程であった。考えてみる
と意外と近いところに「長篠」はあったのである。元亀3年であるので、徳川
家康は浜松城、岡崎信康は岡崎城か・・・どちらから来たのか、どちらからで
もそう時間は変わらない。徒歩で進軍ということであれば、無理すれば1日、
通常なら1日半であろう。

 到着と同時に長篠城址をぐるっと一回りする。まずは入口に石碑に「史跡 
長篠城址」、そして中ほどに「長篠城本丸跡」、その横に「長篠合戦陣没両軍
将士諸精霊位供養塔」があった。ここでなくなった一万以上(火縄銃で打たれ
た者がが多い。戦いのやり方が全く変わってしまった)の御魂に対し、恐れ多
くも般若心経を唱え捧げました。

 次に史跡保存館にて、鳥居強右衛門の磔刑の話、武田四将水杯の話、その他
諸々の知識を得る。

 次に、設楽原歴史資料館へ向かう。ここは規模が大きく、さすが長篠の戦い
だけのことはあると感心しました。火縄銃が幾種類も何十丁も展示されていま
した。外には信玄塚もありました。信玄はこの戦いの11年前にちょっと南に
ある野田城を攻め、落城の頃病気が悪化して、帰路で死去したということであ
るが、ここに誰が塚を造ったのだろうか・・・わからない。

 次に、また北へ戻って大通寺へ。ここに武田四将が酒ならぬ井戸の水で最後
の杯を交わしたということで、井戸があり、そのそばに記念碑が建てられていた。

 そして、本日の主目的の大野へ。151号線を北へ15分走る。大野神社に
到着する。目的は大野神社内にある境内社、服部神社である。あった。大野神
社の左側に鎮座している。比べれは゛造りは小さ目である。写真をパチパチ撮
り、そして拝礼をした後、社の周りを一周する。どうやら神紋は入母屋の部分
にあるようだ。裸眼でも何とか見えるが、望遠レンズで見ると「三つ巴」紋で
あった。ある意味がっかりであった。三つ柏ではなかった。
 その他に驚くべき発見はありませんでした。

 そして、最後に「阿寺の七滝」を見に行く。山崩れで、迂回道路は長かった
が、行って良かった。水量も豊富で、上から七つのつづらおりの滝が続いてい
て水が落ちて来るという七滝であった。美しい芸術写真が撮れました。でも一
度はアカカフォールに行ってみたいと思います・・・。
 これが本日の私へのご褒美でありました。7時間、100キロの旅でした。

 結論として、東三河と西遠江をリンクするものについて、意外と近いという
距離感を実感しました。同じ文化圏を形成できる距離に十分あるということ。
そして、それは、三遠式銅鐸文化圏という形で実現しておりました。物部氏族
の領域でありました。

 道路的には次の5つのルートがあり、意外と昔から利便性は図られておりま
した。
 1.鳳来〜井伊谷ルート
 2.新城〜三ヶ日ルート
 3.豊橋〜三ヶ日ルート
 4.豊橋〜鷲津ルート
 5.豊橋〜新居ルート
 中でも、3番目のルートは本坂道(姫街道)であります。

 熱田神宮の大宮司の千秋氏は新城市野田郷を領しており、ここには古代より
服部氏族が住んで養蚕をやっておりました。服部のネットワークは細江の祝田
の蜂前神社あたりを経由して、浜北の宮口そして天竜川西岸へとつながってい
たようです。

 また、引佐というところが特別な吸引力のある場所であったようです。今の
我々にはその実感はありませんが。古代より「いなさ」は歌によく出てきてお
ります・・・一説には邪馬台国であったという人もおります。

 今後更に探究してまいります。

 



[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月02日 02時21分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


>目的は大野神社内にある境内社、服部神社


やっと東三河にいらっしゃいましたか。
近くて遠い処でしたね。


そうですか、三つ巴紋でしたか。榛原郡の服織田神社と同じ?
残念でした。



いまだに分からないのですが
三つ巴紋系     物部系でしょうか?
丸に三つ柏紋系   高槻の神服神社系なのは確かで?更に伊勢・熱田系でしょうか?

http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/100/100_mon.html

神紋の起源は、主として祭神に関する伝承や神職または有力な氏子の由緒に基づいて生れた。

安斎随筆に「靹絵・輪鋒・万子を神の紋とす」とあって、神紋ではこの三つが代表的なものであり、
なかでも三つ巴の紋を神紋とする神社が圧倒的に多い。         ですね



神紋の多い順  旧社格が郷社以上の神社


巴 1044    桐 268    菊 215    梅 139    
葵 130   菱 112   木瓜102   桜 101   藤 99   亀甲 80

      「柏」が入ってないですね
          意外

古代の宝器である勾玉が巴形であることから、神霊のシンボルとして神社などが巴紋を用いるようになった。三つ巴を神紋とする神社としては、 石清水八幡宮・ 大神神社・ 二荒山神社・ 鹿島神宮・ 香取神宮・ 宇佐神宮などがある。



輪鋒というのは、輪宝とも書き転輪聖王の感得する七宝の一つ。剣をあつめ、柄を内に鋒を外へ向けて丸く並べたもので、聖王はこれを武器として敵を調伏し、四隣はみなこの威力に従った。のちに転じて仏具となり寺院に用いられる文様となった。これが邪気を払う武器として神社にも用いられるようになった。静岡県の神部神社の神紋が知られる。



 万字は「卍」のことで、これも寺院のシンボルであり、栃木県那須の温泉神社などに用いられた。



伊勢神宮には古来神紋がなかった。
それが明治になって皇室の紋章である十六菊を神紋とした。


尾張の 熱田神宮の神紋は桐竹で、古来神衣に用いた図柄から来たという。



上下賀茂神社は、葵の葉を飾って葵祭を行った由緒から葵を神紋とした。
三河の賀茂郡から発祥した松平氏は葵を家紋とし、
後裔にあたる徳川家康は三つ葉葵を家紋としたのは、賀茂神社との因縁によるものである。
そして、久能山・日光その他の東照宮は、いずれも三つ葉葵が神紋である。



尾張の織田氏は木瓜を家紋としていたが、越前の織田剣神社の神職の後裔ともいい、
同神社は木瓜紋である。
また木瓜紋は祇園社に用いられ、京都の 八坂神社、尾張の 津島神社、筑前の 櫛田神社などが用いている。



狐を神使とする稲荷神社は、 伏見稲荷をはじめとして稲を神紋としている。



藤原氏と縁故の深い神社は、いずれも藤丸を神紋としている。
奈良の 春日神社・談山神社、京都の大原野神社・ 吉田神社、河内の 枚岡神社などがそれである。



菅原道真を祀る各地の天神社は、 京都の北野神社をはじめ菅原氏の定紋である梅鉢を神紋としている。
これは、道真が梅を愛したことに因んだものである。



ということは三つ柏紋だから伊勢神宮や熱田神宮に関係があるという意味じゃないようですね。
神様の御加護を祈願してお供えに使う柏の葉を家紋にしただけ?
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月02日 02時51分28秒 ) パスワード

三河国大野神社
http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page006.html

東三河と徐福伝説


東三河と徐福伝説
     ----秦の徐福は東三河に定住していた!?----    
       
                                   前田 豊         宮下文書についてはURL参照のこと   
                             

要約
 「徐福」東渡で、到着した地と言われる場所は、日本の各地にあるが、「本当に定着した地」は、決着していない。
 
古史古伝・「富士古文献・宮下文書」に記載されるところでは、「徐福」が目指した地は「トヨアシハラミズホの国」であり、「ホウライ」と呼ばれていた。
 
愛知県の東三河は、古代「豊国」「ホの国」と呼ばれ、ホウライ(鳳来)という地名(町名)がある。 
鳳来寺山は、古代の火山で、数千メートルの高さをもつ巨大な「不二山」であったと言われる。 
東三河は、この不二山の南山麓に位置する。


そして、富士王宮と呼ばれたところが、豊橋市に3箇所(賀茂神社、浅間神社、
椙本神社)確認された。
つまり、東三河は、まぼろしの「富士王朝」と関係があるようだ。
 豊川市牛久保の伝承「牛久保密談記」によれば、鳳来寺山の少し南の「本宮山」の麓には、
紀州「古座」から移り住んだ徐福の子孫が繁栄し、秦氏を名乗っていた との伝承がある。
そして、その子孫は全て、三河に居住していた、とのことである。


秦氏の名前は、豊川市に幡多郷などとして、残っているが、中国名であることを
嫌って、日本名に変えたといわれる。 
そのため、現在の三河の居住者に「秦の氏名」は少ないが、羽田氏などの姓の有力者が住まわれている。


古代神都・東三河は、「徐福」の求めてきた、「平原広沢の地」であった可能性が高い。



徐福は、世界の大元祖の国・蓬莱を目指して渡来し、平原、広沢を見つけてそこに、王となって留まったという。
そして、その地は、不二高天原・豊葦原瑞穂の国と呼ばれたという。





三河大野には、不思議な地名、社寺、遺跡、地形が残っている。

1)琴森
 古代中国の地誌書「山海経」で東経大荒外の章に、夏の舜帝が大荒で楽器を忘れたことを記しており、その楽器は琴と思われることだ。その大荒が鳳来町を表しているようなのだ。 

また、仲哀天皇と神功皇后が筑紫に遠征していたとき、神功皇后が神がかって、新羅を攻めるよう神託があったのは、仲哀天皇が琴をひいていたときのことであった。つまり、琴という楽器が呪力をもつと考えられていた。そして、スサノオ命が大巳貴命に、伝授した三種の神宝の一つに、天詔琴(あめののりごと)がある。

 琴森は、神社の名前にも付けられていて、鳳来町立東陽小学校の南山中腹に
「琴森稲荷神社」がまつられている。琴森は、「このもり」と呼ばれており、「湖の守り」「こもり」「こむろ」に通ずるように思われる。なお、東陽小学校の「東陽」も宮下文書に出てくる原初の人類が分かれ住んだ「東陽」の地を暗示するようで、興味深い。


    大野神社
      ↓


2)大野神社
 大野神社の創立は、古昔となっていて、不詳である。御祭神は建速須佐之男命で、扶桑国三州八名郡大野村総社大明神ともいわれる。また、近隣五県の産土神とも、大野、井代、細川、貝津、下平の産土神・総社明神ともいわれる。


          服部神社
          ↓
 境内社には、服部神社があり、その御祭神はアメノタナバタ姫である。
これは、 少し下流にある赤引郷から移設合祀されたものといわれる。

赤引の絹織物は、その品質の良さが抜群で、太一御用の幟旗を立てて、伊勢の天照大神に献上され「皇室行事で用いられるニギタエ」となるものである。

 とすると、アメノタナバタ姫は、天照大神とともに機織りを行っていた織姫・若日女ではなかろうか。

スサノオ命は、ウケイで勝ちさびて乱暴狼藉を働き、機屋の屋根を壊し、逆はぎした斑駒の皮を投げ込み、驚いた若日女は織機のヒでホトを突いてみまかった。
そこで、天照大神は、天之岩戸に隠れられ、高天原も葦原中津国も暗闇になって
しまったという「古事記」に書かれた神話の舞台が、ここにあったという感触が得ら れるのである。

 
なお、スサノオ命がこのとき作っていた田の名前を、口樋田(くちとだ)と日本書記の一書に書かれているが、樋田とか樋野という地名が下流の新城市日吉等に残っている。



3)天橋
 大野から赤引温泉に下る県道が、阿寺川を越えるところに、橋がかかっている。
この橋の名前は、驚くべきことに「天橋(あまはし)」であった。まさに天竺(あまつくに)の橋を表している。阿の名をもつ地の高天原の一拠点であったのであろう。


 出口王仁三郎の著書「霊界物語」の高天原は天教山(つまり日本の中央にあっ たという古代巨大富士山)に架かる橋の名前を天橋と呼んでいることから、鳳来町大野の天橋はこのことを表しているのかも知れない。


  大橋家?   下の方にも出て来ます
    ↓
 
4)旧い家系
 大野の旧家は65代続いた大橋家である。大橋という名も天橋を表しているように思われる。

徐福の関連で考えると、中国の徐福直系で現在64代目という家系があることから、大橋家が長寿家系であれば、徐福時代から続く家系である可能性もなしとしない。



5)大野神社のご祭神は国狭槌神          八王子?
 大野神社で併祭の御祭神には、六所大明神と八王子大権現、天王がある。

六所大明神は猿田彦命、天王はスサノオ命と解釈されるが、八王子大権現とは、どのような神なのかわからなかった。


それが、八名郡誌をみると載っていた。能登瀬(大野の上流の地)の諏訪神社の
摂社に国狭槌命が祭られ、八王子権現は国狭槌尊のことと記されていた。

つまり、宮下文書で述べられた「天竺真郡国」から里帰りした国狭槌尊が八王子権現であるというのだ。


しかし、宮下文書をみる限り、国狭槌尊は一人であるから、当時その後を継いだ
八人の王子も国狭槌神と呼ばれたのかもしれない。


国狭槌神は、高天原から東国を治めたと記されているから、高天原の一部と考
えられる三河大野に痕跡があることは納得できることである。

更に、八王子の内の誰かは、関東まで来て、八王子市の祖神になったのかも知れない。


国狭槌尊の八王子の名前は、トホカミエヒタメ、と称され、祝詞で読み上げられている。そして、その内のカの神は、ホツマツタエの研究者などからは、古代中国の夏の皇帝に なったといわれている。また、トの神は、三河一宮の砥鹿神社の神という説(砥鹿神社誌)もある。


 また、安部晴明が保管したと言われる唐の玄宗から入手した「金烏玉兎集」の序に載る牛頭天王と蘇民将来伝説に現れる、南天竺の竜宮姫との間でうまれた子達も八王子と言われている。蘇民将来神社は小坂井の篠束神社の境内社として
あり、伊勢に竜宮があったという伝説もあることから、蘇民将来伝説は、三河高天原の伝承と重なるところがある。
 

すなわち、牛頭天王は、神農、国狭槌尊と重なるところがあり、それが八王子伝
説につながり、日本全国とアジアに広がっていったような感触が得られるのである。

 いずれにしても、国狭槌尊の痕跡は、鳳来寺山麓および周辺の地に、濃く広く残されていたのである。




6)貝津と甲斐の関係
 大野神社の御祭神が、近隣村(国)の産土神であることを述べたが、その中に貝津という国があることを心に留めおきたい。貝津は「かいづ」「甲斐津」に通じ、宮下文書で、甲斐国の由来が記されているが、甲斐国の古代史としっくりこない問題点となっているのである。これが、三河大野近辺の「かい国」のことであると考えれば、実にしっくりくるのである。宇連川を挟んで、大野の対岸が、大貝津があり、その周辺には、上海津、下海津、東海津、外海津、正木海津、紺屋海津などがある。

 海津村の神社は、大当峰神社であるが、そのご祭神は、天照大神とスサノオ神のウケイによって生まれた、三女神と五男神および金山比古と金山比売である。これらのご祭神もも高天原の関連を想像させるのである。



7)大野の遺跡と地形、人脈
 大野神社の近くには、縄文時代の「榎下遺跡」がある。土器や石剣などが出土しており、古代からの住居地であったことが分かる。
 
筆者は1998年11月15日に、この地を訪れたが、大野神社では七五三の祝いの祭りでごったがえしていた。近くにいた人にこの神社のご祭神や由来を尋ねようとしたところ、歴史的なことは、あの人に聞けば良いと紹介してくれた。


    大橋氏再登場

長老という程の人ではないが、話を聞くうちに確かに、この村の重要人物であると分かってきた。名は大橋さんという。本家は65代続いた旧家であるという。
 
「この辺りは、湿地だったんでしょうか」と尋ねると、確かに神社境内に池や泉があると、案内して見せてくれた。そして、泉の湧き出る沼地であったという。


 「史記」に、徐福は「平原、広沢を得て、そこに王となって留まった」と書かれているのと符合している。


また、富士古文献には、皇祖・神農比古と農佐比古(国狭槌尊)は、湧水、温泉のある小室、中室「カキツ」に留まった、という。そこを雅に称して、不二蓬莱高天原と称した。また徐福の留まったところは、豊葦原瑞穂の国であったという。


 つまり、三河大野には、「カキタ」という地があり、瑞穂稲荷神社があり、そこに不二庵があった。天橋と阿寺川が流れ、平原・広沢(広野)と湧水、湖沼、温泉(赤引温泉、油谷温泉)がある。まさに、史記、宮下文書でいう、小室、中室のあった居住地「カキツ」に比定できる。

以下略
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月02日 03時15分43秒 ) パスワード

>熱田神宮の大宮司の千秋氏は新城市野田郷を領しており、
>ここには古代より服部氏族が住んで養蚕をやっておりました。

ええっ
ということは武田信玄が病に(怪我に?)倒れた
という場所ですか?



ここに服部氏も住んでいたのですか。


千秋氏と服部氏がココで繋がってたというのアリですね。




>服部のネットワークは細江の祝田の蜂前神社あたりを経由して、
>浜北の宮口そして天竜川西岸へとつながっていたようです。

服織神社にも繋がっていた
そして
伊勢神宮にも繋がっていた。



古代人の行動力には驚かされます。




>引佐

>特別な吸引力のある場所であったようです。
>今の我々にはその実感はありませんが。
>古代より「いなさ」は歌によく出てきております・・・
>一説には邪馬台国であったという人もおります。

このあたりは
古墳がたくさんありますしね。
銅鐸文化もあったし。

徐福が来てたのなら邪馬台国の候補にもなりますよね。


東三河が穂の国と呼ばれていた
というのが説得力を持ちます。



わたくしは吉備国の秘密をちょっと知って
吉備国の古代における役割が意図的に隠されてて
    
    犯人は藤原不比等

遠江国の古代も意図的に隠されてきたのかなと思うようになりました。
始まりは榛原郡服織田神社の存在から。

    ものすごく古いのに
    そして物部系かな?と思うし

こんなあたりから遠江国って  ヤマト政権の東端と位置づけされるのは  何か意図があったの?と。



服織神社は服織田神社とは系統が違うのだろうな、と思う勘には
関係があるなら天竜川の東に服織神社が置かれたんじゃないかな
と思うのがあるからです。


でも分からないです。

古代史に対する謎はどんどん増えるばかりです。
知れば知るほど謎だらけです。


でも大橋さんについては(神社がらみで定住したか、南北朝の戦いの時に定住したのでは?)と思います。
[76]丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月02日 12時11分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 東三河にはもう一つ宝飯郡一宮町足山田に服織神社があります。こちらの
方が摂津の服部連、織部司に関係しそうですので、近い内にもう一度東三河
に行ってまいります。また、その近辺で服部氏の墓があれば調べたいと思っ
ています。
 蚕、桑、絹糸に対する当時の人の認識はどうだったのか・・・元々は朝廷
以外のみに納める門外不出の卵・種・ノウハウだったと思います。そのため
には中央から管理者・指導者を各地へそれぞれ何人か送りこまなくては管理
できない。また、絹糸、絹の布は金に等しい位の価値があったのではないか。

 全国にある古代からの服部あるいはそれに準ずる地名の地域は、中央より
管理者が送られたという事実がわかればいいのだが・・・。

 いずれにしても、古代の養蚕と絹織物の管理システムについての情報を集
めたいと思います。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月02日 14時45分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


>中央より管理者が送られたという事実がわかればいいのだが・・・。

これは確かにそういうのがありました。
捜しに行く気力が出ません
でもなんとか天皇の御世に職人を移動させたというのがありました。確か東国方向に(遠江国か?)

   気力が出たら捜しに行きます


このことは允恭天皇の時に機織部は服部連が司になったというアレかも。



とにかくまた東三河にいらっしゃって
宝飯郡の服織神社の神紋が分かると良いですね。

丸に三つ柏紋だと良いのですが。


[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月02日 14時52分25秒 ) パスワード

伊賀小宮神社   復習


由緒

 式内小社。付近の川は服部川または呉服川と呼ばれていたように当地には秦氏の統下にあった呉服部が居住していた。彼らの祖神が祀られていたのであろう。

 当神社の祭神として園韓神との推測が『惣国風土記』に記されていることは、園韓神とは秦氏の齋祀る神であったと思われ、この神が宮内省坐神三座の園神社・韓神社二座として祀られており、王権への秦氏の貢献の程を物語っているようだ。

園神・韓神については色んな説があり、中には園は國の間違いとの説もある。秦氏は特定の神を祀っていないような擬製氏族とされており、秦氏が祀るのにはあいまいでうってつけの神名とも言える。
 

 また『神社神名帳』の天御桙命は天日矛命を彷彿とさせる神名であり、「日」が「御」に転化したものと考えることができよう。



 天御桙命 を祭神とする神社抄
 御前神社 福島県耶麻郡西会津町新郷大字三河 陸奥(岩代)国 耶麻郡 
 初酉神社(はっとりじんじゃ) 茨城県つくば市漆所 常陸国 筑波郡
 織姫神社 栃木県足利市西宮町 下野国 足利郡
 刀那神社(となじんじゃ) 福井県今立郡今立町寺地 越前国 今立郡
 服織神社 愛知県宝飯郡一宮町大字足山田字滝場 三河国 宝飯郡      これですね
 御鉾神社 愛媛県越智郡玉川町鬼原 伊予国 越智郡
 鉾天神社 高知県香美郡物部村 土佐国 香美郡              もろに物部系神社


お祭り
 10月 8日 例祭

【由緒】 小宮神社は伊賀国阿山郡府中村大字服部字中之坊一一五八番(現、上野市 服部町)に鎮座する延喜式内社で、

服部氏の祖、呉服比売命を主神とする。               そうなの?



その境内 社の「狭伯社」に建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命の三柱を祀る。

明治三十九年五月二十八日、同村大字服部字夏ハセ四九七番鎮座の「狭伯社」に、そ の境内社「粟島社」を合祀して、小宮神社境内に移転し、その狭伯社にさらに、以前 から小宮神社境内社であった「津島社」と、大字服部字中之房一〇九六番鎮座の無格 社「春日社」を合祀したものである。

              ややこしい
              津島社?



今日、当社の拝殿正面に掛けられている三つの神額には、
中央に「小宮神社」、
向っ て右に「蛭子社」、            恵比寿さん?
左に「狭伯社、春日社、津島社」
と見える。


この狭伯社には明治 期に粟島社(少彦名命)を合祀しているし、一般に春日社は天児屋根命、津島社は建 速須佐男命を祭神とする。

従って狭伯社の三柱の神はいつの世か不詳ながら、この地 に勧請されたこれらの神々が、明治三十九年に合祀され、狭伯社として小宮神社の境 内社となったのである。



     確か津島神社は本来は牛頭さんの神社だったけど
     明治政権の宗教改革でスサノオがくっつけられたような

     それでわたくし的には祭神がスサノオというのは話半分に聞いているのですが
     謎
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月02日 15時06分02秒 ) パスワード

宝飯郡の服織神社


http://marukin777.com/ichinomiya/jinjya/hataori.html


 服 織 神 社(はたおり)



所在地 足山田町滝場31
祭礼日 3月第4日曜日        ←   近いですね
祭  神 天機姫命(天御鉾命)



一宮町の西部、足山田区の西方で人家より一段高い所の山沿いにあります。
県道豊川新城線から服織神社(はたおりじんじゃ)という社号標石が見えます。

標石を右に見て木の鳥居を通って拝殿前の広場にでます。


 入母屋造瓦葺の拝殿を中心として、後に明神造銅板葺の本殿があり、南側に新しく改装した社務所があります。
拝殿脇と社務所の間に新品の灯籠があり、その奥に末社が並んでいます。


広場の南東隅には一宮町指定の天然記念物の「ツガ」の木があり、北部には服織神社の由緒を書いた石碑があります。


 社叢は外側にマツが生え、中心部にはシイ、ヒノキが繁っています。


                              
                             あらあら
                               ↓
 現在地は慶長の頃に移転したもので、古くは南方の田の中のハトリという地名の所にあったと言われています。現在は少しの空き地と何代目かの杉の木が残っています。


社号標石
現存している棟札の最古のものは慶長10年(1605)のもので、以後何枚かの棟札も、
鳥羽大明神とか鳥羽明神と記されています。          鳥羽?トバ?

社名や地名伝承が「ハトリ」ということで、古くから「ハトリの神」の信仰があったものと思われています。


 三河国内神名帳には”服部天神 坐宝飯郡”とあります。


この服部天神は本社をおいて他には見当たらないもので、
間違いなく神名帳にある服部天神は足山田の服織神社のことであるということがいえます。



 条理水田としての大木田面の基部にあった服部天神は三河国の献上した「糸」に関係のあった神社と考えることができ、
水田の稲と養蚕の糸とにかかわりを持つ伝統ある神社ということができます。


               へえ〜



   社 宝 と 石 造 物


獅子頭

 「奉造立羽鳥大明神 獅子一頭」との墨書のある獅子頭は鼻も大きく、口も奥深く開き頭に一本の角を持ったものです。

製作年代は宝永辛卯歳と書かれているので、不明の年は干支から宝永8年(1711)ということになります。
作者は同国一ノ宮村、権田新右エ門となっています。



 一ノ宮に権田という姓は珍しく、ことによると近田かも知れないなどと思もわれます。

塗師は勢州桑名の堀田久太夫とあるので遠く三重県に塗りに出したことになります。


刀と狛犬

 2振の刀が保存されています。
一方は錆が少し目につく程度ですが、他方はひどい錆です。
言い伝えによれば、2本の内1本は山本勘介の寄進によるものとありますが、
残念ながら盗難にあい、現在のものは新しいものです。


また一対の狛犬が奉納されています。瓦質のもので小さいですが、保存状態は良いものです。




石碑                  ここ大事ですね

 拝殿の斜め北側に小さな塚があり、塚の上に大きな石碑があります。篆額に「恭敬」と大きく書かれ、下の碑文には服織神社の由緒が書かれています。内容は所在地、祭神にはじまり、国内神名帳の鳥羽大明神は本社であると説き、養蚕と伊勢神宮とのかかわりまで略述されています。昭和7年に建てられたものですが、内容はあまり極端に走らず、穏当な書き方をしているものと考えられます。


手水鉢

 1m弱のもので、正面に「浄水」とあり、側面に「天保二辛卯年五月吉日 施主、庄太夫、庄兵衛」とあります。天保2年(1831)のもので当社にある石造物では最古のものであります。


服織神社の末社の移り変わりを見ると、人々の信仰の変化を読み取ることができます。江戸時代に足山田村の様子を書いた差出帳(現在の町要覧)が2冊保存されています。享保11年(1726)のものには羽鳥大明神以外の社を次のように記しています。


末 社

末 社
若宮八幡宮 本社柿葺 森御座候  
村 荒 神 本社板葺 森御座候
白山大権現 本社板葺 森御座候
稲荷大明神 本社板葺 木少御座候 
弁 才 天 本社板葺 木少御座候
年永薬師 石   堂 木少御座候


 若宮八幡宮は祭礼のための水田が20歩ばかりついています。他の社は各地に散在していて森や木があり、小さな社屋であったことがわかります。その中で田の神としての稲荷と山に関係のある白山大権現が崇敬されていました。また荒神は火の神であろうし、福の神として弁才天が祀られていたようです。薬師や弁才などの仏が神と同様に信仰されているのも時代をよく表しているようです。


 現在、服織神社の末社として拝殿の南方に祭られているのは津鳥神社、

                            津島じゃなくて津鳥???

護穀大妙神、護鍬社、若宮八幡社、稲荷正一位、稲荷大明神で
約300年ほどの間に神仏の異動のあったことを知ることができます。


ツガ

 一宮町の天然記念物になっているツガは樹高15mぐらいです。この木はマツ科の常緑針葉樹で、樹皮は灰色です。途中には小枝がなく、根元から10m弱hのところから大きく四方に枝を広げています。枝張りは10mほどあります。

 樹齢は200〜300年ぐらいと思われますが樹勢は旺盛です。地元の人々は永くイチイの木であると信じられていたみたいです。イチイが一位に通じることから、服織神社の神木的な取り扱いをうけて大切にされています。

[80]丸三柏服部さんからのコメント(2015年02月04日 00時21分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は一日会合がありまして書く体制がとれませんでした。明日にまた東
三河に行ってまいります。足山田の服織神社を中心にして・・・。
 今、東三河と西遠江との関係を何とか調べたいと思っております。弓張山
系を挟んで西と東。西は豊川、東は天竜川、その2本の川の上流が合流しそ
うな所が、佐久間です。弓張山系をよく調べたことはありませんが、ダイダラボッチという怪物の伝説があります・・・今まで無関心であり過ぎました。

 地図を調べていたら浪合村がどこかわかりました。スキー等で2回程行った
ことがありました。治部坂スキー場という所です。車で2時間位の所でした。
 本当に、無知さらけだしです。

 奈良時代以前のの絹織物生産のシステムが、自発的に起ったのか、強制的に
作られたのかはっきりしません。その当時絹は金と同じ価値があり、朝廷の
専売特許みたいなものだったと思いますので、技術的指導員だけでなく、機密
漏洩防止の管理者を送ったはずだと思っています。朝廷での中心は大蔵省。係
は織部司。その部下たちになると思いますが・・・。そういえば、秦氏は大蔵
専門でしたね。

 ではまた明日にご報告いたします。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月04日 02時05分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


せっかくの火曜日にお仕事でしたか。
って、
若者は仕事しなくてはね。



やはり楽しいことは苦しいことの後の御褒美ということでちょっとするのが良いでしょう。


http://rocketnews24.com/2013/01/20/285877/

マジか!? 台湾でダイダラボッチみたいな怪物が激写される
GO羽鳥                           ←  羽鳥だって(笑)
2013年1月20日



ダイダラボッチとは、古くから日本に伝わる伝説的な巨人である。山や沼を作るといわれており、あの富士山を作ったのもダイダラボッチというウワサもある。映画『もののけ姫』の「ディダラボッチ」を思い出した人も多いだろう。

そんなダイダラボッチみたいな怪物が台湾で激写されていたのでご報告したい。撮影したのは警察官。なんとiPhone 4で撮影したのだという。場所は台湾の台東県にある標高3310メートルの嘉明湖近辺であるとのことだ。

問題の写真を確認すると……そこには水掻きの付いた半透明の巨人が写っている。距離のわりには大きく写っているところを見ると、実物サイズは巨人サイズだと思われる。まさにダイダラボッチのようではないか!

YouTubeには、色調整により謎の巨人をより分かりやすく映した動画「Huge Cloaked Alien Spotted In Taitung? 2012」もアップされているので、合わせて確認してみるとよいだろう。

ちなみにモバイル機器の専門家、CGの専門家、そしてプロカメラマンなどに写真の真偽を鑑定してもらったところ、「風景写真に画像を合成した可能性は低い」との結果だったそうな。はたしてこれはダイダラボッチなのか。それとも……!?

参照元:BERORE IT’S NEWS(英語)
執筆:GO


▼動画もある
いくつか出てます

[82]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月04日 02時21分50秒 ) パスワード

日本の巨人伝説(註:ON砲ではありません)

http://www.tiger-town.com/binaryland/kyojindotcom/taizen/p05.htm


まずは私たちにとって一番身近な国、日本の巨人の紹介です。日本にもたくさんの巨人民話が残っていますが、その中でもダイダラボッチは最も知名度の高い巨人といえるでしょう。皆さんのなかにも、子供の頃に童話や絵本、教科書などで読んだことがあるのを覚えている人もいるのではないでしょうか。

         無いです

ダイダラボッチ伝説は関東を中心に広域にわたって数多く分布していますが、どの伝説の内容も、おおまかにいくつかのパターンに分類することができます。


 まず、ダイダラボッチの歩いた足跡が窪んだところに雨水が溜ったり、水が湧いたりして池や沼になるパターン。もちろんダイダラボッチが意図的に湖を掘る場合もありますし、掘った土で海を埋め立てたり、山をつくることもあります。ダイダラボッチが小便をすれば、流れたあとがになり、大便をした場所は肥沃な土地になり農作物がよく収穫できるようになります。

 山をつくる場合には意図的な場合を偶然できてしまう場合があります。富士山ほどの高い山は意図的に土を盛ったと思われますが、他の低い山の場合、土をもっこ(棒の両端にかごをぶらさげた天秤のような道具)で運んでいる途中、棒が折れたために、その場所に山ができたとか、下駄や足の指の間にはさまった土がこぼれてできたというパターンもあります。

 頂上が平らな山の場合、最後の一盛りを盛る直前に朝がきて間に合わなかった(昼間は体が溶けてしまうという言い伝えもあります)とか、腰をかけたからだとか、またごうとしたとき睾丸がひっかかって削れたとか言われます。山に腰掛けて何をしていたかというと、何キロも離れた海や川などで足を洗ったり、お弁当の握り飯を食べたりといった具合です。

 ダイダラボッチにちなんで名付けられた土地名も、各地に残っています。例えば「洗足」や「ダイラ淵」といったような土地名のある場所はダイダラボッチ伝説が残っている可能性が高いでしょう。また、東京杉並区には「代田橋」という駅もありますが、この地名の由来は、昔そこにダイダラボッチが架けた橋があったからだということです。

           無いと思う

 さて、ダイダラボッチは、どうして山をつくったり、湖を掘ったり、海を埋め立てたりしたのでしょう? 一体彼は何者で、どこからやってきたのでしょう?


 千葉県の民話では、ダイダラボッチは東京湾を跨いでやってきたと言われています。そして、向こうに見える富士山を、どういうわけかとても気に入っていたようで、近くに引き寄せようとして藤つるで引っ張りますが、藤つるはダイダラボッチの髪の毛より細くて、ちぎれてしまい、失敗します。怒ったダイダラボッチは神奈川県相模原付近の藤つるをすべて引き抜いてしまいました。それ以来、相模原台地には藤つるが生えなくなったといいます。

 では、東京湾をはさんで千葉県の向かい側、神奈川県やその隣の静岡県には、どのような巨人伝説が残っているでしょう? ここでもデエラボッチやダイラボウなどと呼び名に変化があるものの、ダイダラボッチと同一と思われる巨人が活躍していました。ここでも様々な地形を残したダイダラボッチですが、何といっても一番の大きな事業は日本一の高さをほこる富士山をつくったことです。彼が、富士山をとても気に入っていたのは、そのためなのですね。

 ところで、富士山ほどの山をつくるには、相当な量の土を盛ることが必要だったと思いませんか? ダイダラボッチは一体、どこからそんなにも大量の土を調達したというのでしょう? その答えは滋賀県にあります。滋賀県といえば、琵琶湖。ダイダラボッチは、この日本一広い湖を掘って、その土を静岡県まで運び富士山をつくったというのです。また、滋賀県にはダイダラボッチが足をダァーン! とふんばったら、へこんだ場所が琵琶湖になり、そのぶん土が盛り上がった場所が富士山になったとの言い伝えもあります。

 このように各地の伝説をつなぎあわせていくと、ダイダラボッチがどこからやってきたのかがわかりそうです。ここまでの琵琶湖→富士山→房総(千葉県)という足取りから、西から東へ移動していったことが推測できます。調べてみると、呼び名に変化はあるもののダイダラボッチと思われる巨人の登場する伝説をもつ土地の西端は、滋賀県(ダダボシ)あるいは三重県(ダンダラボウシ)になるので、ダイダラボッチの故郷は、近畿地方の東寄りあたりなのかもしれません。

 滋賀県、三重県の東隣の岐阜県(ダダボウシ)、愛知県(ダイダラボチア)にも数は少ないですが、ダイダラボッチ伝説が残っています。ただし、岐阜県は滋賀県寄りの地域、愛知県は豊橋あたりに限られているようです。豊橋ではダイダラボチアは海から現れたことになっていますが、これは三重県でも共通しています。

         そうです
         名古屋では聞いたことがありません

さらに東へと目を移しましょう。海沿いコースですと、豊橋から浜松、静岡(ダイラボウ)ときて、神奈川県へ入っていきます。内陸コースですと長野県(デイロッパチ、ズーダラボッチ)、山梨県(デーラボウ、レイラボッチ)と来て、埼玉、東京へと続きます。長野県や山梨県では山つくり、盆地つくりの伝説が主です。

 では、ダイダラボッチの東端はというと、千葉県ということになるようです。千葉県にはダイダラボッチが海の水を飲み干そうとして死んだという民話が残っています。また、長野県方面、はたまた唐の国や天竺に歩き去ったとも言われています。千葉県北部から茨城県南部にかけては筑波山に腰掛けて利根川で足を洗ったという伝説もありますが、茨城県には、これ以外にダイダラボッチ伝説が無いことから、ダイダラボッチは東北方面には足を伸ばさなかったと思われます。

 こうしてみると、滋賀県から一度太平洋側へ出て、海沿いに千葉県まで行き、その後西へ戻ろうとして長野県方面へ、という足取りが推測できます。ただ、一晩で富士山をつくったり、ひとまたぎで東京湾を渡ったりというほどですし、ダイダラボッチの足跡といわれている池や沼も足先も、膨大な数が広範にわたって広がっていて、てんでばらばらの方向を向いていますので、正確にどこからどこへ行ったというような議論はあまり意味がないかもしれません。ダイダラボッチは、思うまま、あちらこちらを散歩したとしか言い様がないでしょう。

 それはさておき、ダイダラボッチが何者で何をしようとしていたかという疑問はまだ残ったままですので、さらに考察をすすめていくこととしましょう。

           ナガスネヒコかなと思った

 まずは名前に着目してみるのがよいかもしれません。地方によって呼び名に変化はありますが「ダイタラボッチ」という発音を基本として考えてよいでしょう。漢字表記の場合「大太良法師」や「大多羅坊」などとすることが多いようです。各呼び名で「ボッチ」にあたる部分は「法師」や「坊」になるわけです。ダイダラボッチは、お寺のお坊さんだったというのでしょうか? しかし昔から日本では男の子のことを「坊主」などと呼ぶこともありますから、それほど深い意味はないのかもしれません。

 では「ダイタラ」部分はどうでしょう? これには諸説があります。「タラ」や「タリ」といった音は、藤原鎌足(フジワラノカマタリ)などのように昔から身分の高い男性につける名前だったといわれています。これが変化して「太郎」という男性にたいしてつける代表的な名前になったと言われていますが、これはどうもダイダラボッチの名前の由来の説明とはなっていないように思われます。 
三重県では海坊主のことをタタラと呼び、ダイダラボッチの伝説と混同されている部分もありますので、ここに語源があるのかもしれませんが、依然として「タタラ」という音の出所は、はっきりしません。

 アイヌ語に語源を求める説もあります。これはアイヌ語で“小山”という意味の「ダイ」と“背負う”という意味の「タラ」から生じたという説です。また、台湾の伝説にある巨人・ダグラウの流入だという説、ギリシャ神話に出てくるタイタン族(巨人大全第一章を参照のこと)の流入だという説もあります。タイタンは「チタン」という種類の金属の語源となっていますが、日本では古来の製鉄所を「タタラ場」と呼びました(『もののけ姫』にもでてきますね!)。

 ここに何らかの関係があると考えてみるのもよさそうです。 ちなみに、日本語では悔しがることを「地団太を踏む」と表現することがありますが、これはダイダラボッチが悔しがったときに足をどたばたと踏みしめたことが語源になっているという説があります(もちろんその場所は窪んだり、池になったりするのでしょう)。

 どの説も、これだ! と確定するには決め手に欠きますが、どれも記憶に留めておくだけの価値はありそうな説ですね。


それでは彼は、どんな姿をしていたのでしょう? 身長こそ、スネ毛でトンビが巣を作り、膝は雲の上というぐらいですから、とてつもなく高かったのでしょうが、姿形に関しては、人間と同様で、決して怪物のようだったわけではないようです。絵本などに描かれた姿では、衣服もまとっているので、その点でも当時の人々と同じだったと推測されているのでしょう。

 では彼は何者なのでしょうか? もし人間ならば、父母がいてもよさそうなものです。これについては、山梨県中巨摩郡に「昔日本の仁王と唐の伽王との間に生まれた子は、デーラボッチといって非常に大男であった」(『甲斐伝説集』)という言い伝えが残っています。仁王とは、お寺の門の両わきに立っている守護神のことです。ということは、ダイダラボッチは仏教の神様をルーツに持っているのでしょうか?

 そういえば、千葉県を立ち去った後のダイダラボッチは唐、あるいは天竺に行ったという説もありましたね。

 さて、ここでいきなり話しは九州と四国にとびます。前に、ダイダラボッチ伝説分布の西端は滋賀県、あるいは三重県と書きました。しかし、実は、九州と四国にもわずかながらダイダラボッチの伝説が残っています。

 九州には弥五郎という巨人がいて、ダイダラボッチとは別の巨人伝説の一代中心地なのですが、不思議なことに大分県、宮崎県あたりに限って“豊後の嫗嶽の麓で神と人間の美女との間に大太という怪力の童子が生まれた”という伝説が残っています。

 神と人間の間に生まれた子が巨人であったという説は、中世ヨーロッパの巨人学(巨人大全第三章を参照のこと)とも関連がありそうですが、日本で神といえば、国産み神話のイザナギノミコトとイザナミノミコトを想起せずにはいられません。この神の夫婦が巨人であったことは、読者の皆さんはお忘れではないでしょう?

           え?
           そうなの?

 ダイダラボッチは、こういった神々の子供で、国づくりの仕事を受け継ぎ日本のあちこちを歩きまわっては、山をつくったり、湖をつくったりして地形を整えることを使命としていたのかもしれません。なるほど、滋賀県長浜市の伝承によると「むかし、神々が集まって国造りを相談され、まず日本一高い山と大きい湖を造ることに決められた」(『長浜の伝承』)とあります。

 なるほど! ダイダラボッチのこと大体わかったゾ! と、ここで手を打ちたいところですが、ちょっと待ってください。

 四国では高知県長岡郡にも大道法師の伝説が残っています。さきほどの九州の伝説もそうなのですが、これらの伝説が関東のダイダラボッチ伝説と大きく違う点は、ダイダラボッチが人々を困らせる悪者として登場し、退治されてしまうことです。高知の大道法師は顔を矢で撃たれ、大量の血を流し死んでしまいます。

 豊後にしても長岡郡にしても、太平洋に面しているので、ここから三重県に向けて、伝説が伝わる線がひけそうです。三重県のダンダラボウシは、美しい娘をさらっていってしまう悪者です。人々はダンダラボウシを追い払うために、巨大な草履をつくります。「これは誰の草履だ?」と尋ねるダンダラボウシに人々は「カチトカという巨人のものです」と嘘をつきます。そんなに大きな草履を履く巨人には、さすがに自分もかなわないと思い、ダンダラボウシは逃げてしまいます(三重県では、これを記念した「大草鞋祭」が毎年行われるそうです)。

 この他にも中部地方や関東地方では、ダイダラボッチに食べられてしまうから夜中は出歩かないほうがよいという言い伝えがあるにはありますが、千葉県や長野県では、むしろ人々を天災などから守ってくれるヒーローです。

 どうして同一の巨人が、こんなにも地方によって扱いが違うのでしょう? この謎を解く鍵は、九州の巨人、大人弥五郎(オオヒトノヤゴロウ)伝説の中にありそうです。

 さて、それはともかく大人弥五郎です。彼もダイダラボッチと同じように、あちこちに山をつくったり足跡を残したりしています。しかし、彼がダイダラボッチと違う点は死に様がはっきりと書かれている文献が残っているということです。

「大人弥五郎殿は上小川拍子橋に於て日本武尊御討ちなされたり」(『三国名勝図会』)……つまり、ヤマトタケルノミコトが弥五郎を退治したというのです。

 ヤマトタケルノミコトとは、日本の古代伝説に登場し、天皇の命令で熊襲(くまそ)や蝦夷(えみし)といった大和朝廷に対抗する勢力を討伐していった英雄です。彼の活躍は「日本書紀」や「古事記」に書かれています(ちなみにヤマトタケルノミコト自身も身長は3メートル以上あったといわれています)。

 これらのことから、大人弥五郎は大和朝廷によって滅ぼされた勢力のなかでの英雄だったことが推測できないでしょうか?

 ヤマトタケルノミコトは千葉県にも蝦夷を鎮定するために、やって来ています。このとき、ヤマトタケルノミコトの上陸を阻止しようと海神が海を荒らします。このときの海神はダイダラボッチのことなのではないか? と推測することもできそうです。

 数あるダイダラボッチの物語のなかでも、そのような仮説をもとに書いたと思われるお話が『千葉県ふるさとの昔話』に収録されています。決して大胆すぎる仮説とは言えないのではないでしょうか?

 この他にも「日本書紀」「古事記」には神武天皇に滅ぼされた先住民族のリーダーが長髓彦(ながすねひこ)という巨人だったというエピソードもあります。

           だと思う

 かつて神の一族だったものが、邪魔になったとたん追放されるというエピソードは世界各地の神話に見られるパターンですが、日本の巨人伝説からも同様のパターンが読み取れるのではないでしょうか。    

 それではダイダラボッチ、大人弥五郎以外の日本の巨人伝説を見ていきましょう。「五郎」とつくのは、九州の巨人の特徴のようで、佐賀県や長崎県では「ミソ五郎」と呼ばれる巨人の伝説があります。ミソ五郎は味噌を腹いっぱいなめると、どんなに大きな力でもだせるのでミソ五郎と名付けられたようです。 

宮崎県では弥五郎は三人兄弟だったともいわれています。その名も弥五郎、弥次郎、弥太郎です。不思議なことに、滋賀県には伊吹山をつくった伊吹弥三郎、秋田県にも弥三郎という巨人がいたそうです。もしかして、彼らも弥五郎の兄弟だったのでしょうか? 

 名前に数字がつく巨人は他にもいて、秋田県には三九郎、青森には八の太郎がいます。八の太郎は青森県で十和田様という神様と喧嘩して、秋田方面へ逃げてきて、八郎潟を掘り、そこの主となったそうです。

 この他、秋田県、福島県、長野県に手長足長、群馬県に百合若大臣、京都府に愛宕法師、岡山にさんぽ太郎、高知県に鉄巨人などの伝説があります。

 また、巨人には固有の名前がついていない場合もあり、ただ大人(おおひと)と呼ぶことも多かったようです。これは秋田県では「おおふと」九州で「うーしと」など、地方によって発音に変化があるようです。

 弁慶もまた、巨人のひとりとして数えられ、日本各地にその足跡とされる場所があります。他の巨人伝説は「日本書紀」「古事記」編纂以前の古代神話時代にルーツがあるわけですが、弁慶の足跡は鎌倉時代以降のものになるわけです。しかし、これは、特に誰の足跡とも言われていない窪地を、後の時代の人々が弁慶のものということにしたと思われます。

 日本にはまだまだ紹介しきれていない巨人たちがいるのですが、今回はここまでにしておきましょう。






[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月04日 02時32分17秒 ) パスワード

>地図を調べていたら浪合村がどこかわかりました。
>スキー等で2回程行ったことがありました。
>治部坂スキー場という所です。
>車で2時間位の所でした。
>本当に、無知さらけだしです。

浪合記は是非お読みください。


浪合村って浜松のほぼ真北ですね。
天竜川の西。
浜松の人がスキーに行くとしたら身近な場所ですね。


南朝方の一行はここから浜松に行ったり名古屋にも行ったり甲府にも行ったり長野にも行ったりしてたんでしょうか?

4方向から味方を集めるのに場所としては良かったんでしょうね。


地図を見るだけでもこみ上げるものがあります。




Access
住所
〒395-0501 長野県下伊那郡阿智村浪合1192

電話
0265-47-1111

FAX
0265-47-2032

車でお越しの方へ

●名古屋IC→R153→治部坂高原 2時間30分
●浜松→R257→R153→治部坂高原 2時間30分
●津IC→東名坂→名古屋IC→中央自動車道 園原IC→治部坂高原 3時間
●中央自動車道 飯田山本IC→R153→治部坂高原 25分
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月04日 02時55分34秒 ) パスワード

>奈良時代以前の絹織物生産のシステムが、自発的に起ったのか、強制的に
作られたのかはっきりしません。

    応神天皇が織子達を日本に招聘していますから
    天皇主導だったでしょうね。
    

>その当時絹は金と同じ価値があり、朝廷の専売特許みたいなものだったと思いますので、

    伊勢神宮のアマテラスへの御衣だったと思います。

    余剰品が天皇や皇后や有力豪族達に回ったのはあったでしょうけど
    衣類としての絹織物は大陸からの輸入品だったんじゃないかな?    
       平安貴族の衣類も舶来ものだったように思います。
       唐織物という言葉で読んだような


      から‐おり【唐織(り)】

   1 中国から渡来した織物の総称。また、それに似せて日本で織った金襴(きんらん)・緞子(どんす)・繻珍(シュチン)など。唐織物。
   2 公家の装束に用いる浮き織物の通称。唐織物。
   3 能装束の一。2で仕立てた小袖。多く女装の上衣に用いる。


唐織りで検索してたら   出ました!  服部織物!

http://www.obiraku.jp/products/list.php?category_id=16

これが好き!
服部織物 こはく錦袋帯 鳳凰唐花s 仕立込173000円!
仕立込173000円!服部織物 手織こはく錦袋帯 きものサロン表紙掲載
価格:173,000円


で、服部織物という会社を検索しました。

http://hattori-geneto.com/?page_id=34
服部源ト
服部織物株式会社 HATTORI ORIMONO

家紋が蔵の入り口上部にちらっと見えてますが  何でしょう?


忍者の里として知られる滋賀県・塩野村。服部織物初代、服部勘兵衛は近江の地より、京都・西陣に移り、織物業をはじめました。ときは天明年間(1781〜1789)。創業当初から、帯の意匠には大きな努力を傾けてきました。帯をつくる上で重要なポイントとなるのがデザインだからです。売れ行きの成否を決めるといっても言いすぎにならないでしょう。それだけにデザイン制作に当たっては情熱をもって取り組んできました。

当時の織屋は資本の力が弱く、その中にあって塩野屋の歩んだ道は、まさに茨の道でした。現在、西陣には、織屋が500余軒ありますが、その中で100年以上続いているものがわずか数件。熾烈な競争のなかで生き残るのがいかに困難なことであるかを物語っています。この厳しい業界において、服部織物は200有余年にわたり、帯ひとすじに営むことができました。

昭和52年京都府より「老舗」の号を拝受、また昭和57年京都商工会議所より顕彰されるなど数々の栄誉を受けました。それは何よりもすぐれた製品をつくり、お客様からの信頼を勝ち得たためであると自負しております。

服部 一正
Kazumasa Hattori

創業 天明8(1788)年、220余年の歴史を有す、京都・西陣の老舗帯屋「服部織物株式会社」の常務取締役。
金箔や銀箔を織り込む西陣本来の引箔(ひきばく)技法など、伝統の技を守りながらも、優れた意匠・品質を追求し、常に進化した作品を世に送り出している。
着物のデザインやプロデュースも数多く手掛けており、着物をはじめとした和の文化の素晴らしさを男性に感じてもらいたいという思いから、「男子着物を羽織る会(会長 小山 薫堂)」の顧問を務めている。





>技術的指導員だけでなく、機密漏洩防止の管理者を送ったはずだと思っています。

はい


>朝廷での中心は大蔵省。係は織部司。その部下たちになると思いますが・・・。
>そういえば、秦氏は大蔵専門でしたね。


この頃には秦氏の下にあったのかも。


またお書きください。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月04日 03時15分29秒 ) パスワード

服部系織物会社がもう1つ見つかりました。

http://www.shiono-ya.co.jp/intro/outline.html


織道楽塩野屋

野屋絹だより
絹と健康
ボクのカンでは
喜右衛門のひとりごと


塩野屋は300年ほど前から続く絹織物の織元です。

初代「服部喜右衛門」は現在の滋賀県の甲賀郡 塩野村に生まれた漢方医の次男で、京都の西陣に絹屋を開きました。
以来、屋号「 塩野屋」は2代目・八左衛門から使われて、現在の社長・服部芳和は14代目になります。
織道楽 塩野屋は江戸時代から織の伝統と技術を受け継ぎながら、これからの新しい織物の世界を提案し、織の道を楽しむことをコンセプトにもの創りをしていきます。



【屋号】
織道楽 塩野屋

【事業内容】
主に絹製品の製造、卸、販売を行っています。

【連絡先】
〒621-0022
京都府亀岡市曽我部町南条宮田筋16-89 1階> アクセスマップ(GoogleMap)
TEL:090-3167-2284
E-MAIL:ori@shiono-ya.co.jp

【営業時間】
10:00〜17:00/不定休
※お店にいない事もありますので、お越しの際は事前にお電話にてご連絡いただきますようお願い致します。



喜右衛門のひとりごと<1>より

喜右衛門である私は江戸時代の前期の1600年代の中頃に生まれました。
というのもまだ戸籍も確立していない社会情勢だったから生年月日は不明です。
今の滋賀県近江の国の現在は甲賀郡甲南町塩野という地に生まれた漢方医の次男坊でした。
元は、奈良に都が有った頃、薬師寺建立の時に鋳造技術者らと一緒に日本に渡ってきた帰化人(中国から帰化した)の織物技術者スペシャリスト集団。
ご存知、忍者・服部半蔵も同じ一族らしいのです。
今で言えば拉致されたとは思いませんが、家族を捨てて単身日本の奈良の都に来たことを思うとき心は悲しさで一杯になります。その後、京都の平安京に都が移されたときに、 奈良から東の地に領地を開拓する命により移り住んだとあります。
一方、一族は三重の伊賀にも移り住み、今も服部家が残っています。
後の世では甲賀・伊賀と主を異にして戦わねばならない運命も悲しいことでした。
今の時代のほうが平和で楽しいことも一杯ですが、それなりに江戸時代の日本も素晴らしい文化と日本人としての人間性を育んだ時代でも有りました。
もちろん戦いや不文律も一杯ありましたが、みんなが力をあわせて新しい社会を創り出した、 「戦いのない平和な社会」そんな魅力のある時代でした。

これから「喜右衛門のひとりごと」としてコーナーを持つにあたってひとこと
自己紹介など致しました。次回からまず江戸を背景にいろいろ独り言を言います。

よろしくお付き合い下さい。



     へえ〜


<2>
私、喜右衛門は塩野村から三日三晩かけて歩いて京の都に来ました。

伊勢街道を逆に沿って都を目指しましたが、暑い日差しは若い体にも辛かったのを覚えています。

なにせ重い荷物を背負っての一人旅。

服部家の代表として塩野村から選ばれた重責も多少ありましたが、
織物の街である京都のオオトネリ(大舎人)の地を踏むことを思い浮かべれば、 苦労も吹っ飛ぶひとり旅でした。

後に西陣と呼ばれるこの織物の街こそ塩野屋が14代も続く場所であり故郷となりましたが、 当時はまだ家もまばらな京都の北のはずれでした。

江戸時代は長男が家督を相続するのが慣わしで、次男以下は自分の道を探して新しい家族を作り又その次男が新しい家族を作るという風に、家父長制度を奨励して新しい社会を目指した時代でもありました。

それ以前の忠義が人の道という武士道社会が崩壊して、物資に限りある中で経済を振興して戦いのない平和な世の中を創ろうとする企てが江戸のコンセプトと私・喜右衛門は観ます。

服部家にとっては医も衣も同じ目的のための仕事でした。
つまり、長男が塩野村で医者をしていたのと私・喜右衛門が織物屋を興したのとは同じ想いを貫いたことであり、 服部家にとっては奈良時代に中国からハタオリベとして日本に来たことへの先祖帰りでもあったと思います。
何しろ電気も水道もガスもない時代に、縮緬織を日本で初めて創ろうと言うものですから大変なことでした。

次回からは、江戸時代は何が必要と社会が思ったのか?何が大切と人々は考えたのかなど私なりに喜右衛門のお話を致しますので独り言としてお付き合いくだされば嬉しいです。


<3>
江戸時代の染織の状況をまず話さないとこの独り言は喜右衛門が書いている意味が無いので、絹糸を創る所から最初の話を少し致します。

まず絹糸を繭から取るには熟練とコツが肝心です。

現在の様に糸は糸屋から買い付けるという時代ではありませんでした。

桑を育て、その葉っぱを幼虫に与えて約一ヶ月、数回脱皮を待つと蚕は綺麗な白い繭を作ってくれます。ここで喜んでいると中から十日も経てば蛾が飛び出てきますから、蚕が眠っている間にタイミングを見計らって糸を取り出す必要があります。

塩野屋では繭の保存のため中国秘伝の塩蔵(えんぞう)と呼ぶ塩漬け繭をつくるのですが、塩漬けの前、蚕が眠る微妙なタイミングを計るカンと経験に基づいて、この時ばかりは不眠不休で繭から糸を取り出したものです。

これを早くしないと、塩の中から蛾が這い出てきて惨憺たる状態になりますからね。

さて、生糸は白くて硬いものですが、藁を燃やした灰汁で生糸を炊くと更に白い綺麗な糸になります。これを糸精練と言います。この糸を白(しろ)と言い、この精練は、日本では当時貴重な新技術でした。

少しわかりづらいのですが、普通の織元では生糸のまま糸として使い、それも素(しろ)と同じく発音しました。つまり、精練もしていないただの素材そのものの生成り色を素(しろ)と言ったのであります。

それまで、日本には長らく素は有っても白は無かったのです。

練り貫(ねりぬき)と呼ばれた織物が桃山時代からありますが、これは素(しろ)の縦糸に中国から輸入した白(しろ)の糸を横糸に織り込むもので、辻が花などの染加工用の生地として多く用いられました。

塩野屋もこの練り貫を織ることを主に最初は仕事としていました。
こんな時代ですから、まず初めに桑の木を育てて蚕の卵を管理しなければ織物の材料は確保できなかったのです。

それに、火を炊くにも薪や藁が必要で家の中での織物仕事など出来る訳も無く、雨が続けばじっと我慢の繭とにらめっこの喜右衛門でした。

現代の塩野屋で使う撚糸技術など、江戸時代初期までは及びもつかない技術だったのです。


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前回はしろ(白・素)の話でありましたが、皆様御覚えておられますか?

日本は元来絹と麻しかない国でした。綿やウール素材は江戸も後半にしかお目見えしません。主に明治以後の織物素材として人々は手にするものです。

それに対して、意外にも絹は江戸時代から全国的に繭生産が行き渡り、出荷できない不良繭は糸として真綿から紬いでおり、庶民にも日常使いの出来る丈夫で貴重なリユース・リサイクルな素材でした。

ちなみに、絹のよさとは
 1.糸が均一であること。
 2.束ねるといくらでも太くなること。
 3.長繊維のため撚糸を掛けなくても織物にすることが出来ること。
 4.草木での染色が容易であること。
 5.繭からいくらでも綿になり、つむぐと糸になること。
 6.毛羽立ちが少なく夏涼しくて、冬暖かい重ね着が日常でも出来ること。などなど・・・・・

前回も話しましたが、糸を精練したり撚糸したりと言うのは喜右衛門の時代から研究され始めた新しい技術で、それ以前の絹糸は紡ぐ(紬ぐ)という技術で庶民にも大変親しまれた繊維と日本では位置づけられます。

物質的には鎖国の最中で地産地消を旨とする江戸時代にはもってこいの繊維だったのでしょう。庶民の間から上流階級へ広がって行ったものと喜右衛門は証言いたします。後の世の中において上流階級が取り上げ庶民にはもったいないと着る事を禁じた独り占め作戦に我々はまんまと陥れられたのです。

初代喜右衛門から塩野屋の精神には、絹は庶民の使いやすい製品を日常必需品として創れと家訓にしたためてられております。

江戸時代の文化レベルは一般庶民の位置において世界でトップクラスの開花をなした、日本の誇るべき時代だったと喜右衛門は思います。地球レベルで産業革命の波がその後訪れますが、日本も列強という外国の要望で鎖国を解除させられ、欧米並みの文明に追いつけ追い越せが明治以後のスローガンになりました。
その波を潜り抜け、江戸の文化を今も伝える日本の手仕事の中にこそ、日本人が世界に伝えるべきメッセージが潜んでいると喜右衛門は考えています。

環境保全が叫ばれて久しいこの頃ですが、江戸時代こそ「足るを知る」精神で、物質追求よりも人類の情緒や精神を高揚させた類まれな時間を3000万人が300年間共有した時代だったのです。

次回は文明と文化のお話です。ではまた・・・


以下略
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月04日 03時16分27秒 ) パスワード

XXVI に行きましょうね。
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月05日 08時52分29秒 ) パスワード

http://www.kaitori-kimono.biz/topics/20140313kimono-new.html

こんな記事がありました。



服部織物の帯の買取を行っております


服部織物といえば、着物をお召になる方でしたら知らない人はいない程、有名な西陣織の老舗ですよね。

服部織物の創始者である服部勘兵衛は現在の滋賀県塩野村出身で、1788年に京都西陣に移り織物業を始めた際に出身地にちなんで、始めは「塩野屋」を名乗っていました。

それ以来、京都西陣で帯を織り続け、京都府より「老舗」の号を拝受しています。


西陣織にも機械化の波が押し寄せる中、服部織物では一貫して手織りにこだわっており、伝承の技を職人たちが受け継ぎ、現在でも素晴らしい帯を作りあげています。

そんな服部織物ならでは帯は、フランス宮廷を彩ったロココ美術の文様を取り入れたロココ王朝文様の帯や、奈良時代に大陸より伝わった宝物を収めてある正倉院の宝物や楽器からヒントを得て作られた正倉院華文、正倉院楽器文など独自の文様を生み出し、その優れたデザイン力で西陣織の帯を芸術作品として世界に広めました。


着物をお召になる方なら、1本は持っておきたいと思う服部織物の帯は、人気が高く【着物買取いわの】でも高価買取で対応させて頂きます。



服部織物のこはく錦帯高価買取です


服部織物といえば、こはく錦帯がとても有名ですよね。

このこはく錦帯とは、琥珀色をしている帯とかそういった意味で付けられている名前ではありません。

琥珀はまったく関係が無く、箔を巧みに織り込む技法「引き箔」を用いて織られる帯なので、「箔」をもじって「こはく」と名付けられたそうです。


このこはく錦帯、伝統技術を身に着けた熟練の手織職人しか織る事ができない貴重な帯で、1本の帯を織り上げるのに数か月は掛かるというのですから、驚きですよね。

なぜ、そんなに時間が掛かるのかというと、引箔とは緯糸と共に箔を織り込む技法で、約3cmの箔を100本ほどの細さに裁断し、それを緻密に織り込んで柄を表します。

1本でも箔がズレるような事があると柄が崩れてしまい、制作には全神経を集中させ気の遠くなるような作業を永遠と繰り返します。

さらに手間の掛かる事に、通常の西陣織の帯を仕上げるには5000本の糸を使用するのですが、こはく錦帯は細微な柄行きを表現するため6000本以上の糸を使用しています。

この通常よりも多い糸を使う理由は細微な柄行きを表現するためだけではなく、帯を軽量化する目的もあるそうで、こはく錦帯は見た目に反して軽く締めやすい事で評判の高い帯として人気があります。


こはく錦帯は手間がかかる帯ですので、新品で購入しようと思っても、とても高価で手が出せないという方も多く、中古品のこはく錦帯には需要がございます。
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