[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 05時17分43秒 ) | パスワード |
コマ99 P171
有玉下村八幡社
此社之服部之処也
如有玉村説
小池村八王子社
天正後服部半蔵領
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 05時19分44秒 ) | パスワード |
コマ313
白紙
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 05時48分36秒 ) | パスワード |
コマ307〜 P549
自治区一覧 浜名郡(長上・敷知・浜名)
抜粋
神久呂村 大久保・志都呂・神ケ谷
天王村 天王・下堀・原島・天王新田・下石田・中田
市野村 上石田・市野・小池
中郡村 上前島・万斛・漆島・橋爪・西ケ崎・下大瀬・上大瀬
コマ308
龍池村 善地・上善地新田・上善地・新野・八幡・永島・高?・新堀
豊西村 中善地・羽鳥・倉中瀬・末島・中瀬・桓武・常光・貴平・石原
中ノ町村 大見・萱場・大明神・川越島・国吉・松小池・中野町・長命・一色・白鳥・富田
飯田村にも 小池あり
これらの名前に心当たりは?
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 05時51分34秒 ) | パスワード |
上記は明治33年当時の自治区の旧村名です。
補足
新玉村 新玉
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 14時16分16秒 ) | パスワード |
最後の郡 榛原郡 コマ280から P500
榛原の公は息長真人と同祖 大山守命の子孫
大山守皇子(おおやまもり の みこ、生年不明 - 応神天皇41年(310年?))は、
記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。応神天皇の皇子で、母は高城入姫命(品陀真若王の女)。
仁徳天皇・菟道稚郎子の異母兄に当たる。大山守命とも。
応神天皇40年1月、菟道稚郎子の立太子の際、山川林野の管掌を任されたが、
兄である自らが皇太子になれなかったことを恨んでいた。
応神天皇の崩御後、密かに皇位を奪おうと謀り、皇太子を殺害するために数百の兵を挙げた。
しかし、この謀は前もって大鷦鷯尊(おおさざきのみこと。後の仁徳天皇)と皇太子の察知するところとなり、
菟道川(うじがわ)の渡河中に渡し守に扮する皇太子の計略によって船を転覆させられ、
救援を請うも空しく水死した。
遺骸は考羅済(かわらのわたり。現在の京都府京田辺市河原)で見つかり、那羅山に葬られたという(那羅山墓)。
現在、この墓は奈良市法蓮町所在の円墳に比定され、宮内庁の管理下にある。
なお、子孫は遠江国に下ったらしく、後裔氏族として土形君(ひじかたのきみ。城飼郡)・
榛原君(はいばらのきみ。榛原郡)などが知られる。
↑
これですね
コマ297
白羽大明神社
高105石
称 式内 服織田神社
続日本紀巻12に 文武天皇4年に遠江国の牧場になった。
馬を飼っていた。
筑紫の大伴が白羽の官所に任ぜられた。
南北朝以来廃れた?
文和風土記に服織田神は景行7年 祭るのは猿田彦と天鈿女命といへり
コマ301
智満寺 朱符之寺田29石 末寺17宇
曹洞宗
駿河国阿部郡服織村
洞慶院末
回天派
コマ305 P544
服織田神社
白羽村白羽大明神
式内 服織田神社と称す
斎神の号は彦火火出見命 豊玉姫命 玉依姫命
神田105石
白羽の牧の官所に同所を与える
而異説也。
服織者機殿也。
続日本紀
神護景雲3年神服部天下諸社を奉ず。
http://www.geocities.jp/engisiki/toutoumi/bun/to121202-01.html
【延喜式神名帳】服織田神社 遠江国 榛原郡鎮座
【現社名】服織田神社
【住所】静岡県牧之原市静波 1292
北緯34度44分21秒,東経138度13分39秒
【祭神】麻立比古命 天八千千比売命
(合祀)蛭子命 天之忍穗耳命 市杵島姫命 木花咲夜比売命 速玉男命
猿田彦命 石長比売命 大山祇命 少名比古命
【例祭】11月2日 例祭
【社格】旧郷社
【由緒】景行天皇7年勧請
明治6年3月郷社
同40年3月神饌幣帛料供進神社指定
【関係氏族】
【鎮座地】移転の記録はない
【祭祀対象】
【祭祀】
【社殿】本殿流造銅板葺
拝殿・社務所・倉庫・手水舎
【境内社】西宮神社・天満宮・八王子社・津島神社・招魂社
榛原高校東に鎮座する。
この地域は往古は服織田村と称したが、その後、柏原町と改められ、更に川崎町と改称し、現在は(旧)榛原町になつている。駿河湾に面した静波の街の住宅街の中に鎮座している。
服織田神社
神社名 服織田神社
鎮座地 榛原郡榛原町静波12920番地
祭神名 麻立比古命 天八千千比売命
配祀神 天之忍穗耳命 市杵島姫命 木花咲夜比売命
速玉男命 猿田彦命 蛭児命 石長比売命
大山祇命 少彦名命
境内社 稲荷神社 津島神社
例祭日 11月2日
神職 (宮司)川村五郎 (禰宜)川村忠司
由緒 服織田神社は延喜式神明帳に記載されており、景行天皇の7年に勧請され上古は圭田を賜った。往古は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八年の検地帳に記載されている。安政元年の大地震直後建立、明治6年3月郷社に列せられた。
八王寺社・弁天神社・勝間田神社・猪鼻社・熊野社・西宮神社・白岩浅間神社・山神社・十二所社・蔵王社十社何れも明治7年5月当社に合祀された。明治40年3月15日神饌幣帛料供進社に指定される。
昭和44年10月23日明治百年記念事業として、拝殿幣殿が竣工した。
http://www.genbu.net/data/toutoumi/hatorida_title.htm
服織田神社
はとりだじんじゃ
[静岡旅行] 静岡県牧之原市静波1292 Zenrin Data Com Maps display !!
三つ巴紋 ということは!?!
長上郡のは三つ柏だった?
式内社 遠江國蓁原郡 服織田神社
旧郷社
御祭神
麻立比古命 天八千千比賣命
合祀
蛭子命 天之忍穗耳命 市杵嶋姫命 木花咲夜比賣命
速玉男命 猿田彦命 石長比賣命 大山祇命 少名比古命
静岡県牧之原市にある。
東名高速吉田I.C.の南8Kmほどの静波に鎮座。
旧榛原町役場の東200mの場所。
参道入口に鳥居が立ち、50mほどの参道を歩くと境内。
境内は南東向き。
境内に入ると右手に御神木らしき、大きな木が茂り、
正面にコンクリート造りの拝殿。
拝殿の後方に、流造の本殿が繋がっている。
参拝が、天気の良い日の午後だったからか、
とにかく明るい境内だった。
青い空と緑の木々が美しい。
社伝によると、景行天皇の七年に勧請。
「服織田」の社号の由来は以下の三説。 ココ!
1.鎮座地が、往古、服織田村と称した地名に由来。
2.四国の服織から移住してきた人々が奉祭した神。
3.祭神が、服織の神。
で、四国の服織ってどこだろう。 ココも!
阿波国勝浦郡に、阿佐多知比古神社(朝立彦神社)というのがあるが、
当社祭神・麻立比古命と関係があるのだろうか。
いずれにしろ、式内社・服織田神社に比定されている古社。
拝殿のガラス戸に、巴紋が付けられていた。
ということで、神紋は三つ巴だと思う。
赤い境内社が社殿の右手に一つあったことは記憶しているが、
境内の案内では、境内社は稲荷と津島の二つらしい。
『平成祭データ』には、末社として、
西宮神社(蛭子命)、天満宮(菅原道眞)、
八王子社(天之忍穗耳命)、津島神社(建速須佐之男命)
の4社が記載されているが、西宮・八王子は、
案内板では、合祀されていると書かれている。
服織田神社由緒
神社名 服織田神社
鎮座地 榛原郡榛原町静波一二九二番地
祭神名 麻立比古命 天八千千比売命
配祀神 天之忍穗耳命 市杵島姫命 木花咲夜比売命
速玉男命 猿田彦命 蛭児命 石長比売命
大山祇命 少彦名命
境内社 稲荷神社 津島神社
例祭日 十一月二日
神職 (宮司)川村五郎 (禰宜)川村忠司
由緒 服織田神社は延喜式神明帳に記載されており、 景行天皇の七年に勧請され上古は圭田を賜った。往古 は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八 年の検地帳に記載されている。安政元年の大地震直後 建立、明治六年三月郷社に列せられた。
八王寺社・弁天神社・勝間田神社・猪鼻社・熊野社・ 西宮神社・白岩浅間神社・山神社・十二所社・蔵王社 十社何れも明治七年五月当社に合祀された。明治四十 年三月十五日神饌幣帛料供進社に指定される。
昭和四十四年十月二十三日明治百年記念事業として、 拝殿幣殿が竣工した。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 15時11分14秒 ) | パスワード |
向う XXIVが重いのでこちらに置いときます。
榛原郡の服織田神社が四国から来たということで
取り敢えず阿波国服織神社ということで検索したら
忌部神社 (吉野川市)がヒットしました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE_ (%E5%90%89%E9%87%8E%E5%B7%9D%E5%B8%82)
忌部神社(いんべじんじゃ)は、徳島県吉野川市山川町にある神社である。式内社(名神大社)の論社で、旧社格は村社(一時国幣中社)。
明治以前は「天日鷲神社」と称せられた。なお、後述するように王子権現の境内に祀られていたため、近世には「王子権現」とのみ記されてきた。
祭神[編集]
『延喜式神名帳』の「忌部神社」の注記に「或号麻殖神。或号天日鷲神。」とあり、麻殖神(おえのかみ)、別名天日鷲神であることがわかるが、現在の祭神は以下の通りである。
天日鷲翔矢尊(あまひわしかけるやのみこと)(天日鷲命)当神社主祭神で、阿波忌部氏の祖神である。
后神 言筥女命(いいらめのみこと)主祭神の后神であろうが、他に見えない。天太玉尊忌部氏の祖神である。
后神 比理能売命(ひりのめのみこと)天太玉尊の后神である(洲崎神社・洲宮神社参照)。
津咋見命(つくいみのみこと)『古語拾遺』天照大神の天岩窟幽居の段に、天日鷲命とともに穀(かじ)の木を植えて木綿 (ゆう)を作ったことが見えるが、天日鷲命の子神で大麻比古神社の祭神「大麻比古神」の別名とする伝えもある[1]。
これでしょうね
↕
長白羽命(ながしらはのみこと)同じく『古語拾遺』天照大神の天岩窟幽居の段に見え、伊勢国の麻続氏の祖神であるとする。
由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)安房忌部氏の祖神で、天日鷲命の孫、大麻比古神の子とされる[2]
衣織比女命(いおりひめのみこと)他に見えず。
由緒[編集]
『古語拾遺』の造祭祀具斎部の段に、天太玉命の孫神である天富命が、穀の木や麻を植えるのに適した地を求め、日鷲命の孫を率いて阿波国に至り、定住した阿波の忌部氏が大嘗祭に木綿や麻布(あらたえ)などを貢納するようになったと記すが、以後も大嘗祭には同氏の織った荒妙御衣(あらたえのみそ)を献上するのが常であった[3]。また、当神社後方の「黒岩」と呼ぶ山腹に6世紀後半の築造と見られる5基の円墳からなる忌部山古墳群があり、これは6世紀前後に忽然と現れたもので、当地に移住してきた氏族集団があったのではないかと指摘されている[4]。
社伝によれば、神武天皇2年2月25日に、阿波の忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったのに始まり、もとは上述「黒岩」に鎮座していたと伝える。古来から氏神として阿波忌部氏から、また大同元年(806年)には封戸20戸が充てられていた(『新抄格勅符抄』)ので、朝廷からも尊崇されたたようであるが、詳しいことは不明である。社記によると中世には、文治元年(1185年)に河野通信が長光の太刀を奉納し、屋島の戦いに際して源義経や那須与一が戦勝祈願に太刀や弓矢を奉納、翌々文治3年田口成良が源頼朝の命で板東・板西・阿波・三好の4郡から田畑1000町を割いて御供料として寄進したと、武士からの崇敬を伝える[5]。また、『山崎斎部神社之記』なる社記によると、応永年間(1394-1428年)に地震によって現在地へ崩落し、現在地にあった王子権現の傍らに小祠として祀られるようになったという[6]。以後、永禄3年(1560年)管領細川讃岐守(真之か)が御供料田畑を安堵すると、三好長治もこれを襲ったが、長宗我部元親によって廃止され、兵乱による荒廃もあって衰退していき、藩政期になるとその所在すら不明となるに至った(一説に徳島藩主蜂須賀氏が、社領復旧を阻むためにあえて復興しなかったという)。また、享保12年(1727年)には種穂神社(吉野川市山川町川田忌部山の種穂山山頂)の早雲民部という神職が、当社神職村雲勝太夫を放逐して横領し、元文年間(1736-41年)には同神社に忌部神を併祭するようになり、その子である式部が争論を怖れて当神社を焼き払ったが、旧山崎村(現 山川町北東部1帯)村民の請願により、寛政13年(1801年)に早雲式部を罷免し、村雲勝太夫の孫娘に養子をとり、神職を継がしめたという[7]。
明治3年(1870年)村社に列したが、上述のように近世以降所在不明とされたために、翌4年に「所在地不明」のまま国幣中社に列格した式内忌部神社が、国学者小杉榲邨の考証によって当神社に論定されたため、翌5年に国幣中社へ昇格した。しかし、式内忌部神社を主張していた美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社からの反論があり、同7年(1874年)に改めて当神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も激しい論争が続いたため、同14年(1881年)に五所神社を式内忌部神社に変更し、当神社は村社に戻ることとなった。ちなみに、五所神社比定に対し、今度は山崎側が反発したため、太政官による妥協策として徳島市内に新たに創祀されることとなったのが、徳島市二軒屋町の現忌部神社である。
近年は、上述忌部山古墳群の発見により、式内忌部神社であったことが再確認されている。
神階[編集]
嘉祥2年(849年)に従五位下が授けられ(『続日本後紀』)、貞観元年(859年)に大麻比古神とともに従五位上に昇り、元慶2年(878年)には正五位下に、同7年には従四位下に累進し(以上『日本三代実録』)[8]、延喜の制で官幣大社に列して月次・新嘗の両祭に預かるとともに、名神大社にも列している。
社殿[編集]
本殿は切妻造平入の板葺屋根で、棟に千木・鰹木を置く。棟札によれば、享保7年(1722年)の造替にかかるものである。
摂社[編集]
旧山崎村村域に鎮座する以下の7社を境外摂社としている。
岩戸神社 - 山川町岩戸に鎮座し、天石門別命と天太玉命を祀る
建美神社 - 岩戸神社と同所に鎮座し、天底立尊と建御名方命を祀る
天村雲神社 - 山川町岩戸に鎮座し、天村雲命と伊自波夜比売命を祀る。式内小社「天村雲神伊自波夜比売神社」に擬する説もある
淤騰山神社 - 山川町祇園に鎮座し、速須佐之男命と櫛稲田姫命を祀る
白山比売神社 - 山川町忌部山に鎮座し、伊佐奈美命を祀る
若宮神社 - 山川町東麓に鎮座し、思兼尊と長白羽命を祀る
玖奴師神社 - 山川町忌部山に鎮座し、大国主命を祀る
その他[編集]
境内に「麁服織殿跡」があり、大嘗祭に際して阿波忌部氏の後裔とされる三木(みつき)氏が荒妙を織った機殿の遺跡であるという。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 15時15分38秒 ) | パスワード |
上記の 朝立彦神社 あさだちひこじんじゃ
徳島県徳島市飯谷町小竹101
一つ巴紋?
感触としては 榛原郡の服織田神社とは関係無いような?
http://www.genbu.net/data/awa2/asadati_title.htm
式内社 阿波國勝浦郡 阿佐多知比古神社
旧村社
御祭神
豊玉毘古命 豊玉姫命
徳島市にある。
JR徳島駅から55号線を南下し、勝浦川を渡って右折。
勝浦川に沿って、さらに6Kmほど南下。
飯谷の郵便局あたりで、西の小道に入り、勝浦川を渡る。
そこから、ウネウネとした小道を、1Kmほど上ると道路は行止り。
そこから徒歩で10分程度、山道を歩くと、
尾根の上にある境内に到着する。
境内入口正面に社殿。
境内左手(東側)には展望場があり、
右手から社殿の裏へ出ると、石灰岩の崖に出る。
その岩に、小さな水溜りがある。
「お亀の池」と呼ばれる小さなものだが、
年中水が涸れることがなく、祈雨の祭祀が行われていたという。
当社の創建は不詳。
祭神は現在、豊玉毘古命となっているが、
式内・阿佐多知比古神社であるなら、阿佐多知比古であるはず。
『徴古雑抄』では、大国主命六世孫の阿田賀多須命。
伴信友の『神名帳考證』では、和多津見豊玉彦命。
これは、水の涸れない「お亀の池」が、
満潮時には水が外に溢れるという伝承から、
海神の宿る岩と考えられたものらしい。
また、「お亀」は、靇(オカミ)であり、龍神とする説も。
この森に人が立ち入ると、黒雲が起こり、雷が鳴り、山河を轟かす風雨になるという。
夕立は、夕方のにわか雨だが、朝立は、早朝の雨。
よって、阿佐多知比古神社という、などという説もある。
境内案内では、『阿波志』に記述があると書かれていたが、
『式内社調査報告』では、『阿波志』ではなく『阿府志』とある。
神紋は不明だが、拝殿には一つ巴が付いていた。
珍しい紋なので、とりあえず掲載してみた。
早朝の参拝で、境内は暗かった。
かなりの手ぶれで、撮影は思ったように出来なかった。
「お亀の池」のある石灰岩の崖の展望は素晴らしい。
ただ、強風が吹くと、かなり慌てる。
朝立彦神社 旧村社
由緒 延喜式内小社。もと護王権現と称したが、明 治四年朝立彦神社と改称す。境内に「お亀の池」と称 する二尺余の岩穴があり、年中水が涸れない。この地 方の祈雨の神として霊験あらたかな社である。「阿波志」 には、「和多津見豊玉彦命を祭る。飯谷村に在り、俗に 権現と云う」とのべ、「寛保改神社帳」には「飯谷村護 王大権現 別当飯谷村醍醐寺」と記している。
−境内案内−
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 15時18分04秒 ) | パスワード |
服織神社
三重県にもあるんですって
それも鈴鹿。
もろうちの先祖がいたあたり?
住所
三重県鈴鹿市御薗町 2019
電話番号
―
分類
神社
URL
―
最寄駅
徳田駅(1.7km)
降車バス停
御薗(170m)
天名小学校(260m)
スポーツガーデンぐち(路線図ドットコム)(0.7km)
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 15時20分26秒 ) | パスワード |
http://www.net-plaza.org/KANKO/toyokawa/taiboku/hattori-tuga/index.html
豊川市にも服部神社がありました。
木が話題になっています。
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