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 投稿番号:101410 投稿日:2015年01月19日 16時20分51秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]W
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]]Vからの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜んでいる謎を解明する。

最終目的は、「服部氏族」についての謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月19日 22時47分08秒 ) パスワード

スレッド XXIII のレス<75><76><77>と重複:

三つ柏さん:

「服部中保次の次男系の家は、四谷の勝興寺に葬っているのですが、大久
保忠重から嫁が来て以降〜」
とありましたね。


私が過去調べた中では、
忠重の子供には三人あって、

   長男は忠兼、
   次男は服部政治(正信系)の養子、
   娘は松下房利(井伊家に仕え、直政の継父となった松下清景の弟常慶の五男)の継室

となっております。


ということは、服部中の次男系=松下房利ということになりませんか。
それとも、もう、ワンクッションあって、松下房利は服部中系男子から後妻を拝領した? 


服部中系は旗本で中忍、松下常慶系は中忍の下の方か?




_____________________________

三つ柏さん


千秋(せんしゅう、と読む?)氏と、また物部氏とからめる・・・長上郡は主として物部氏及び関係氏族が開いたと思います。


というのは、この地方出身の防人の歌が、物部の名前でいくつか万葉集(と思いましたが)に収録されているからです。


また尾張氏は遠江に進出して来ていると思います。
たぶん草薙の剣か、銅鐸の関係か、その証左は探してみます・・・。



気になるのは、秋鹿氏というのが天領の代官だった。
府八幡宮の宮司でもあったということで、千秋と秋鹿・・・「秋」が共通にあるという所も何か気になります。
ひょっとして何かつながりがあるのでしょうか?




______________________________



わたくしから三つ柏さんへ



    神服部が尾張氏系ということ 

         ↕

    源頼政の鵺退治に協力した公家が失脚して頼政関係で神服部となって浜松に来たこと

         ↕

    この公家は   尾張氏  に化けた?

         ↕

    浜松の神服部さんは藤原貴族の子孫であり尾張氏子孫も名乗れる?



    物部系服部氏は平家や南朝方や家康と結んで武士化し
        江戸時代は本姓平氏で俗姓服部氏を名乗る武士となり
        家紋は丸に三つ柏紋を使用?


        丸に三つ柏紋を使用というところに古代は神職の家であったことを痕跡としている?

        この丸に三つ柏紋は高槻の神服神社及び尾張氏系熱田神宮の千秋氏及び長田氏系永井氏との関係?
          


またまた読み返さないといけません。現場100回!



銅鐸は神職の物部系服部氏も長田氏も携えて来たのかもですね。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月19日 22時57分39秒 ) パスワード

そうか!

遠江国は神代+古代から、中央で権力闘争に敗れた人達のサンクチュアリ
   (逃げ込めば法の及ばぬ亡命先)
だったのかもね。


その代表が聖徳太子のお子さまがた御3人であり
菅原道真の一族であり
神服部として神職になった貴族であり


目印になったのは富士山かもね。
海からも見えるし。


特に物部氏関係者を保護したのかもね。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 02時48分57秒 ) パスワード

服部神から神服神社に名称を変えたことについてツラツラ考えてみました:


復習
スレッド XXIII のレス<28> 高槻の神服神社について  

       http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daionokuni/1327734974981.html

    神服神社と服部


     服部村にあり。
    『延喜式』に出づ。此所の生土神(うぢがみ)とす。
    例祭四月八日。
    『姓氏録』に云ふ服部連は速日命十二世麻羅宿禰の後なり。

             つまり物部氏?


     允恭帝の御時織部司に任じ、諸国織部を惣領す。   ⇔  ココ
                            まさに服部半蔵の家の歴史に合致します
      

      允恭天皇御世  412年 〜 453年
      つまり5世紀前半


     服部連は祖先を勧請し、「服部神」と称していましたが、延喜年間に「神服神社」と改称しました。


            その前に587年用明天皇2年7月
            物部守屋敗死


    註:延喜年間とは901年から923年


            6世紀末の守屋死去後、10世紀まで「服部神」だったわけか。



延喜期におきた出来事


元年(901年)4月 - 東国群盗横行により推問追捕使を派遣する。
2年4月 - 延喜荘園整理令が発令されるが、不徹底に終わる。また、班田も行われたが、結果的にこの年が最後となり、

    律令政治の崩壊が始まる。

       ここらあたりに物部氏の個人的な氏神から、より包括的な、神服神社へと化粧直し?


       


3年2月25日 - 菅原道真死去。以後その怨霊に左遷関係者は苦しめられる事となる。


         ↑
       あった〜
       道真さん!

       当たらず遠からず

       遠江の長上郡の皆さんは道真公にいたく同情してた?





5年 - 紀貫之らが最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」を編集。
8年1月12日 - 藤原忠平、参議に戻る。
9年4月4日 - 藤原時平、満38歳で早世。道真の祟りだと噂される。

                    道真復讐!



13年 - 宇多法皇主催で亭子院歌合が開催される。
14年 - 藤原忠平、前年変死した源光の後任として右大臣となる。
    左大臣は兄・時平死後依然不在だった為、臣下最高位となる。


15年 - 十和田湖の大噴火が起こる。
19年 - 藤原仲平(時平の弟、忠平の兄)、
    大宰府へ醍醐天皇の命を受けてくだり、天満宮の社殿を造営する。

                         ↑
                        
                      あったあ〜!
                      日本全国で天満宮造営ラッシュ始まる?919年から?



21年 - 安倍晴明誕生。


                      陰陽師最盛期へ


22年 - 後百済が高麗と開戦し、この戦争に日本も参戦するよう求める使者が送られたが朝廷は拒絶した。
23年3月21日 - 皇太子、保明親王薨去。かねてからの自然災害や政情不安は収まらず、直後ついに延長に改元される。



延喜年間に服部神から神服神社と屋号を変えたい事件があったのでしょうね。
   自然災害や政情不安それに道真さんの失脚とリベンジ
  
   心機一転出直したいという神主の希望があったのかな?



長上郡に天神さんが勧請された背景は納得出来ましたよね。

神服神社に名称が変更になった理由が知りたいですね。 
もちろん  服部神ではマイナー過ぎる  ということで  大きく見せたい願望があったのでしょうけど。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 02時54分34秒 ) パスワード

http://kaiyu.omiki.com/


文字化けして読めないのですが
    神奈備へようこそ, 神の生き姿に分けられた神社を紹介。
    丹波の神社 .... 2008年6月9日 服部神社を追加 2008年6 .....
                       ↑
                    コレ読めますか?


   石寄大明神, 鞍馬本町, 陰陽師鬼一法眼の古跡を臨む朱塗りの小祠。
   .... 鵺大明神, 主税町, 源頼政が鵺を退治し、その射た矢を池にて洗う。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 03時01分09秒 ) パスワード

レス<3>延喜期におきた出来事の
     元年(901年)4月 - 東国群盗横行により推問追捕使を派遣する
の件ですが
     以下をお読みください。


http://jiyodan.exblog.jp/13288328/
平安群盗と原初の武士達(自衛武力)

平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に対抗する下級貴族の自衛武力から始まっている。


凡(おおよ)そ九世紀頃から、
平安期の坂東(関東)に於いて国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が反乱(レジスタンス)
を起こした「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、
同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の反乱「寛平・延喜年間東国の乱」が頻発する。

                       ↑
                     コレですね




古墳時代は勿論、平安時代に入っても坂東(関東)やその先奥州まではまだまだ開拓原野が残る未開の地だった。

まだ開拓原野が残るからこそ、平将門(たいらのまさかど)の新田開墾や源義国(みなもとのよしくに)と長男・源義重(みなもとのよししげ)が上野国に新たに田地を開拓し新田荘と為すなど時代だった。

つまり平安群盗の出現には、米国開拓史に於けるインデアンの襲撃と同じような意味と情況が在ったのかも知れない。

この現実は、被占領下での蝦夷族に拠る民族抵抗テロだった可能性が強いのだが、こうした弾圧の歴史はどの国に於いても隠蔽される傾向にあり、正史上は群盗に拠る騒乱である。

つまり平安期の坂東(関東)に於ける原初の武士達(自衛武力)は、文字通り鎮守府将軍と呼ぶ占領軍であり、抵抗テロ鎮圧部隊で在った。

また、この頃に僦馬の党(しゅうばのとう)と呼ばれる群盗が坂東で見られ、これは自ら武装して租税等の運輸を業とする赴任後そこに土着してしまった富豪層の一部、「僦馬の党」の集団に拠る運京途中の税の強奪と言う馬や荷を狙った群盗行為が横行し始めていた。

これらの事象についても、当時の坂東(関東)の「法秩序が乱れた」と言う見かたよりも、まだ坂東(関東)は大和朝廷支配が本格的に及び始めたばかりの「未整備の無法地帯だった」と解するべきかも知れない。

つまり平安の雅(みやび)は、その一部を先住縄文人(蝦夷/エミシ)からの搾取システムが支えていた。

この群盗の活動は九世紀を通じて活発化して行き、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。

これらの僦馬の党の横行を鎮圧し盗賊の取締りで名を上げたのは、平氏流・平高望(たいらのたかもち)、藤原北家魚名流・藤原利仁(ふじわらのとしひと)、藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らの下級貴族らで、この軍団制政策が結実したのが九世紀末〜十世紀初頭の寛平・延喜期であり、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。

彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行ったが、彼ら同士の対立や受領に対する不平が叛乱へ発展したのが、藤原忠平(ふじわらのただひら)執政期の九百四十年前後に発生した平将門(たいらのまさかど)と藤原純友(ふじわらのすみとも)の承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱である。

朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初の武士達を倒して同乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)勲功者、すなわち貴族とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識された。

当時、成立した国衙軍制に於いて、「武芸の家系」は国衙軍制を編成する軍事力として国衙に認識され、このように国衙に拠って公認された者が家業武士へと成長して行った。

詳しくは【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。

【源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語】に続く。
【豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実】に飛ぶ。
【俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)】に戻る。

【日本の伝説リスト】に転載文章です。

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[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 03時07分57秒 ) パスワード

スレッドIV のレス<26>の復習&コピペ



1.神服部氏について調べましたところ、三ヶ日の「初生衣神社」の宮司のみが持つ苗字で(全国でも10人のみ)希少なものであることがわかりました。



      神服部氏と源頼政との関係
      1155年の初生衣神社創建の謎解き 

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-date-20130906.html




「家祖天建羽槌命以来一子相伝の秘呪妖化體顯蟇目をもって祈祷し」とある部分が注目されます。


何と神服部氏は機織りだけでなく、家祖天建羽槌命以来一子相伝の秘呪・妖化體顯蟇目を伝える一族だったのです。

                  ↑
        神服部氏は秘呪・妖化體顯蟇目を伝える一族?!

        すごいのが出て来ましたね。



(注:蟇目とは鏑矢を用いる妖魔退散の術です。妖化體顯蟇目は、鏑矢を用いた妖魔を退散させる特別な術を体現したものとでも言いましょうか?なお、多くの神社で催行される奉射(ぶしゃ)神事は蟇目神事が元になっています)


851年に神服部氏が従五位下(貴族の末席に位置する)を朝廷より賜ったのは、神道や陰陽道の秘法である蟇目の術に精通していたことによると考えられます。

           そうしますと政治的には9世紀にデビュー?!



つまり神服部氏は従来の伊勢神宮に神御衣を奉じる立場から、
陰陽道を中心に据えた一族へと立場を大転換させたのです。

           陰陽道の一族?!


察するに、彼らはこの時点で朝廷における立身出世を目指したのでしょうね。

           政界デビューですね



(注:天武天皇期に神服部連は宿禰を賜ったのですから、実際には地位が低下していることになります。
地位の低下した部分のみ舊記に記載するのは妙ですし矛盾を孕んでいると思われ、追って検討します)



          三ヶ日の「初生衣神社」の宮司の始まりですね
                ↓

これらの点を理解した上で岡本村移住の経緯を探ります。

神服部氏が久壽二年(1155年)に官を辞して山城国乙訓郡から
遠州濱名郡岡本村に移り住む2年前、             ← へえ〜

仁平3年(1153年)のことです。宮中に鵺(ぬえ)が出没したので、
武勇の誉れ高い源頼政は鵺退治を命ぜられました。

彼は神服部氏より蟇目の術を伝授され、首尾よく鵺を退治します。

鵺の死体はばらばらに切り刻み、空舟(うつぼぶね)に乗せて鴨川に流したそうです。
鵺退治の詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%BA




神服部氏は自分の秘術で源頼政の鵺退治を助け、面目を施しました。

それが2年後になって、突然山城国乙訓郡から遠州濱名郡岡本村に移り住むことになったのです。
この間にどんな事件が起きたのでしょう?
そもそも乙訓郡では宮廷に出仕するのに遠すぎます。
多分宮廷近くの役宅から乙訓郡に移り、そこから岡本村に移住したとの経路を辿ったはずです。


この問題を解くには、久壽2年(1155年)に鵺よりも強大な妖魔が出現したと考えるしかありません。
もしかしたら神服部氏は、蟇目の術が通じない妖魔に敗れ去って、職を辞さざるを得なくなったのかも……。


と言うことで、どんな妖魔がこの年に出現したかを調べてみました。

すると、いましたよ。かの有名な玉藻前(たまものまえ)が変身した白面金毛九尾の狐です。

                  ↑
            神服部氏  九尾の狐事件で蚊帳の外に?
            これで遠江へ引き篭もることに?


久寿2年(1155年)、美貌の女官・玉藻前は鳥羽上皇に寵愛されていましたが、上皇は次第に病み衰えるようになりました。
原因は不明であったため、陰陽師・安倍泰成に真相究明の命が下ります。

彼は上皇の病が玉藻前の仕業だと見抜き、真言を唱えます。

泰成の真言により玉藻前は本性を現し、白面金毛九尾の狐の姿となって宮中から逃げ出しました。
狐は那須野に隠れたのですが、三浦介義明、上総介広常などを将軍とした夥しい数の軍勢が派遣され、あえなく最後を遂げることとなったのです。


これほどの妖魔が出現したのに、なぜか神服部氏は登場してきません。
ちょっと変だと思いませんか?
そう、神服部氏は狐退治のメンバーに加えられなかったのです。
彼らは一子相伝の秘呪・妖化體顯蟇目を操る一族でした。
ほんの少し前には鵺退治に貢献もしています。
なのに、狐退治から外された。
多分神服部氏は、その恥辱に耐えられず官を辞し乙訓郡に引き籠ったのです。


では、なぜ神服部氏は狐退治のメンバーから外されたのか?
全くの推測ですが、鵺退治の手柄を神服部氏にさらわれた陰陽道本家本元の安倍氏が、今回は巻き返しを図ったのです。
出世競争は今も平安の昔も同じだったのですね。

            ↑
       神服部氏  陰陽師の安倍氏に敗れる


朝廷に仕え立身出世を目指した神服部氏は、安倍氏の高い壁にぶち当たり、
平安時代後期に至って望みが潰えてしまいました。

いたく落ち込んだ彼らは、秦氏の拠点でもあった山城国乙訓郡に引きこもります。

                神服部氏、秦氏の本貫地乙訓郡に蟄居
                    ↓
 
                神服部氏遠江に移動
                    ↓

神服部氏の心中を察した源頼政は、都を離れ遠州濱名郡岡本村(現浜松市北区三ヶ日町岡本)に移住し、一族本来の職掌である神御衣の織作に戻るようアドバイスしたのでしょう。

頼政の言葉で目覚めた神服部氏一族は、勧めに従うこととしました。

こうして久寿2年(1155年)、神服部家は倭姫命の元伊勢の地であるに岡本の地に移住したのです。
                   ↑
                神服部氏岡本へ

                神服部氏、初生衣神社創建
                   ↓  
以上が1155年の初生衣神社創建に至る推定経緯です。
神服部氏の動きが様々な歴史と連動していることに驚かされますね。




ではここで話を横道にそらせます。世阿弥作の「鵺」によると、源頼政に退治された鵺は空舟(うつぼぶね)に乗せられ鴨川に流されます。(注:世阿弥は秦氏の末裔と自称しています)九尾の狐の死骸もまた空舟で流されました。いずれも空舟で符合しますが、これらにはもう一つ不思議な符合があります。


大和岩雄氏は「天照大神と前方後円墳の謎」(六興出版)において以下のように書いています。

鹿児島県の大隅正八幡の縁起に、震旦国王の娘、大比留女(オオヒルメ)は日光を受けて七歳で懐妊したので、子と共に空船に乗せられて、流れ着いたのが、日本の大隅の磯で、この日の御子が八幡の神である、と書かれている。


天照大神の太陽を祭祀する巫女段階における別名は大日孁貴(おおひるめのむち)でした。つまり、天照大神の前身も空舟に乗せられ、その子は八幡神(=秦氏)だったのです。
                              ↑                     
                         八幡神って秦氏だったの?

そしてこれらにはさらに不思議な符合がありました。高齢となった秦川勝は世阿弥作の「風姿花伝」にあるように、攝津国難波の浦からうつぼ舟に乗って海の彼方へ向かい播磨に漂着したのです。

摂津国難波の浦より、うつぼ船にのりて、風にまかせて西海に出づ。播磨国、坂越(さこし)の浦につく。

以上から、鵺も狐も秦氏を象徴する存在となってしまい、それに天照大神まで絡んでいることになります。何だか現在書いている「東三河の養蚕と機織り」と同様に、とても錯綜した話になっていますね。



源頼政の鵺退治はほとんど伝説的ストーリーのように見えますが、実は一定の根拠もあります。


三ヶ日町には鵺代、胴崎、羽平、尾奈の地名があり、
鵺代は鵺の頭部、胴崎は胴体、羽平は羽、尾奈は尾を意味しており、
それぞれがこの地に落ちたとの伝説が形成されました。


それは源頼政が持ち込んだか、或いは神服部氏の移住がもたらしたものだったと推定されますが、
武士が地名を持ち込むとは考えにくいので、
神服部氏の移住に関係する可能性が高そうです。


でもなぜこんな場所に源頼政は神服部氏を移住させたのでしょう?

調べてみると鵺代は、鵺を退治した褒賞として源頼政が帝より賜った土地でした。

                        なるほど、それで神服部氏が遠江に?


つまり、頼政は自分の領地の一部を神服部家に分け与えたのです。

     (或いは領地の近くを神服部氏が賜った)

しかもこの場所は、浜名神戸の地。


頼政と神服部氏の深い関係や移住先選定の妙が見て取れ、とても偶然とは思えません。神の配剤とでも言うべきでしょうか?ともあれ、以上のような経緯で神服部氏は岡本に移住したのです。



頼政はその後平家との戦いで自刃します。
かろうじて生き残った一族は、鵺代に逃げ落ちて猪鼻氏を名乗り、
その子孫は浜名氏となりました。


あれこれ書いているうちに横道に入ったので、話を元に戻します。


初生衣神社解説板では由緒が久寿2年(1155年)から始まっていますが、
前史は神代の時代から延々と続いていたと理解されます。

                   はい


しかもその流れをほぼ復元できるのですから驚きです。


東三河の秦氏 その35 養蚕と機織りに続く




へえ〜
驚きでした。

神服部氏が本職の他に陰陽道にも手を染めて、多角経営?
さらに手を広げ過ぎて破綻?

[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 03時19分57秒 ) パスワード

続き  レス<27>


http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/34408419.html

初生衣神社と神服部氏(復習)


*******************


http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/1106054/
神目代屋敷
じんもくだいやしき

別名  神服部、因幡様

神目代氏の先祖が平安中期から代々居住してきた屋敷


神目代屋敷は岡本区の東南、神戸川(現釣橋川)の神戸橋(ゴンドバシ)を南より渡った右手に位置し、現初生衣神社境内を併存している神服部氏の宅地一帯である。旧宅建物は徳川初期の建造であるが今尚古式を残している。
この屋敷の居住者は神目代(ジンモクダイ)氏の先祖が平安中期(俗称久寿元年より)以来代々居住した所である。その間證徴される主な事項を上げると、天慶3年(940)神宮神領浜名神戸がこの地域を中心として立券寄進され、以来明治18年まで永続した初生衣調進神事は久寿2年(1155)以来の神事と伝承あり(『神服部由緒書』)、慶長8年(1603)には朱印領29石8斗2升を附けられており、明治維新後、明治6年よりは無格社として存置されている。



*********************



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%AE%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE
機殿神社



   神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)
   神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)

は、いずれも三重県松阪市にある神社。

元々は同じ場所に鎮座していたが、大垣内町の神服織機殿神社と井口中町の神麻続機殿神社の2社に分かれたと考えられている。

いずれも皇大神宮(内宮)所管社で、両社を合わせて両機殿と呼ぶ。

両機殿の所在地は旧機殿村で、松阪市立機殿小学校に「機殿」の地名を残している。


両機殿で行なわれる御衣奉織行事は松阪市の無形民俗文化財に指定されている。




神服織機殿神社・神麻続機殿神社とも櫛田川下流右岸に位置し、
地元では神服織機殿神社を下機殿(しもはたでん)
   あるいは下館 (しもだち)、神麻続機殿神社を上機殿(かみはたでん)
   あるいは上館(かみだち)とも呼ぶ。

神御衣祭での位置関係から神服織を右門、神麻績を左門と呼ぶ。

両機殿の境内には本殿よりも大きい機殿(はたどの、機織をする作業場)があり、八尋殿(やひろどの)と呼ぶ。



所管社は摂末社とともに伊勢神宮に管理される神社で、古代の儀式帳に名前が記されていないが神事に重要な神社と、明治以降神事を行なうために神社とされたものに大別できる。

両機殿は神御衣祭(かんみそさい)に供える

     和妙(にぎたえ、絹布)
     荒妙(あらたえ、麻布)の御衣(おんぞ)を調進する御料地(ごりょうち)であるので前者である。


ただし、明治以前は奉織作業を行う八尋殿が主で、神社は従であった。

神社とされる御料地は他に御塩(みしお)を調進する御塩殿(みしおどの)のある御塩殿神社(みしおどのじんじゃ)が伊勢市二見町にある。
御塩殿神社は両機殿と同じく皇大神宮所管社であり、明治以降に神社が主とされた点でも両機殿と同様である。



御衣を織る作業を奉織(ほうしょく)、使用する糸を御糸(みいと)と呼ぶ。

かつては奉織工を「人面(にんめん)」と呼んだが、現在は「織子(おりこ)」と呼んでいる。


両機殿は斎宮以西、神堺西端にあたる櫛田川分流の祓川(はらいがわ)左岸に位置する点で特異的であるが、紡績業が盛んであった地域を選んで機殿を構えたと考えられている。

櫛田川流域はかつては紡績業が盛んで、古代には『古語拾遺』に麻績が地名として記され、江戸時代には上流部で生産された木綿糸が伊勢商人の主力商品とされた。

両機殿の東、多気郡明和町斎宮の北に現在も「御糸」という地名が残っている。



歴史[編集]

==和妙==絹織物     服部==はとりべ==奉職

『倭姫命世記』では垂仁天皇25年、倭姫命が天照大神を伊勢の百船(ももふね)度会国玉掇(たまひろう)伊蘇国に一時的に祀られたときに建てられた神服部社(はとりのやしろ)がのちの麻績機殿神服社で、

内宮が現在地に定まったときに内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に神の教えに従って和妙を織らせた。

倭姫命は翌垂仁天皇26年、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。

そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。



==荒妙==麻織物    麻績部==おみべ、麻績氏==奉職

神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた。



天智天皇7年(668年)8月3日に両機殿が火災で失われたため、
この年の9月の神御衣祭のための作業は仮屋で行ない、その後30丈離して両機殿を別々に建てたと記されている。

ただし、『倭姫命世記』は鎌倉時代に荒木田氏あるいは度会行忠が記した伝承・説話であり史実ではないとするのが一般的である。『伊勢二所太神宮神名祕書(神名祕書)』に同様の記述がみられるが、『倭姫命世記』と同様で鎌倉時代の弘安8年(1285年)に度会行忠が記したものである。

複数の資料に記されていても史実である可能性は極めて低いと考えるべきであるものの、天智天皇7年の火災の記述は国記などが記された以降の話であるなどの理由から、史実である可能性が高いと考えられる。



信憑性が高いと考えられている資料では、『神祇令』・『延喜式』・『皇太神宮儀式帳』に神御衣祭が記されており、遅くとも平安時代初頭には御衣の奉織が行なわれていたことは確実である。


和妙は服部(はとりべ)が、荒妙は麻績部(おみべ、麻績氏とも)が奉織し、それぞれ封戸22を与えられていた。


神宮に仕えたこれらの一族は神服部(かんはとりべ)、神麻績部(かんおみべ)とも呼ばれた。


服部は三河国より赤引の糸(あかびきのいと)と呼ばれる絹糸を入手していた。

麻績部には土師器を調進する一団がいたほか、信濃国などの東国に進出し、機織などの技術とともに天白信仰を伝えたと考えられている。



白河天皇の承暦3年(1079年)、神麻続機殿は現在地に移された。室町時代には北畠家が室町幕府の意向を無視し、神宮の神領を収奪し勢力を拡大した。北畠家の領地と隣接するこの地は特に早期に支配され、服部部・麻績部ともに姿を消してしまう。


両機殿は地元住民らが祠を祀るだけとなり、奉織の行事と祭祀は中絶となった。

この時期は定かではないが、神御衣祭は宝徳3年(1451年)を最後に中絶となった記録が残されている。


               神服部氏と初生衣神社
                ↓

静岡県浜松市北区の初生衣神社(うぶぎぬじんじゃ)で行なわれる「おんぞ祭」は東方へ移動した神服部が1155年から内宮へ和妙を納めたことに由来するとされる。
                   
                信長の伊勢侵略により神御衣祭衰退
                    ↓

織田信長と次男の織田信雄の計略により北畠家は北畠具教を最後に実質的に滅亡した。豊臣秀吉が日本を統一し治安が回復したころから伊勢神宮への参拝客が増え始めた。

両機殿へは山城国・紀伊国などの織物業者が講を作り参拝するようになった。

上機殿は参宮街道に近い立地条件から、下機殿よりも参拝客が多かった。

神宮に直接管理されなかったこともあり、このころから両機殿は分不相応な社殿などを造営するようになった。


                 神御衣祭復活
                    ↓

江戸時代に入り、天下泰平となった元禄12年(1699年)には神御衣祭が再興され、糸が奉納された。

                 明治時代の到来により神御衣祭完全復活
                    ↓

ただし神宮から神職が参行するまで復興されたのは明治7年(1874年)であり、奉織が再興されたのは大正3年(1914年)5月である。


享保3年(1718年)、この地の領主の津藩主藤堂高敏の寄進により両機殿が修理された。

文化・文政のころ、神服織機殿神社は服太神宮と、上機殿は麻績太神宮と称するようになった。

このころの両機殿の様子は天保年間発行の『太神宮両御機殿通俗畧記』(外部リンク参照)に詳述されている。

寛政9年の『伊勢参宮名所図解』には、左右に八幡宮と春日社の社殿を配置して三社信仰の形態であったことが記されている。明治初期の『神三郡神社参拝記』では、左右の社殿を東西宝殿と記している。江戸時代後期から明治初頭にかけて、分不相応な社殿は両機殿だけではなく、神宮が社殿などを管理しなかった瀧原宮・伊雑宮・御塩殿神社でも同様であった。

明治31年(1898年)、両機殿は明治維新後初の造替が行なわれたが、桁行1丈6尺(約4.85m)・梁行9尺8寸(約2.97m)とされた。これは明治6年に定められた一等摂社の桁行9尺・梁行7尺を大きく越え、格式に不相応な大きさであった。昭和9年(1934年)の造替でも貞享4年(1687年)の記録の規模に縮小されたが、それでもまだ所管社には不相応に大きい規模である。


御衣奉織行事[編集]

毎年5月と10月の初旬、両機殿の八尋殿で皇太神宮正宮と別宮の荒祭宮での神御衣祭に供える御衣を奉織する。地元で「おんぞさん」と呼ばれるこの行事は戦国時代に中絶となり、皇大神宮の神職による形式的な祭祀のみが行なわれ、愛知県で奉織された和妙や、奈良県奈良市月ヶ瀬で奉織された荒妙などが神御衣祭に供えられていた。

大正3年5月に愛知県木曽川町(現在の一宮市木曽川町)の職人により機殿での奉織が再興されたが、地元の住民はこれを無様と感じ機織りの技術を習得し、伝承することにした。1967年(昭和42年)以降、和妙は祖父らから継承された女性が奉織することになったが、荒妙は現在も男性が奉織している。松阪市は1975年(昭和50年)9月27日、和妙と荒妙の奉織を「御衣奉織行事」として無形民俗文化財に指定した。

ただし地元住民による両機殿での奉織は神御衣祭に必要な和妙36匹(正宮24匹、荒祭宮12匹)と荒妙120匹(正宮80匹、荒祭宮40匹)のうちの各1匹のみで、残りの和妙・荒妙は他に必要とされる頚玉(くびたま)・手玉(てだま)などと合わせて木曽川町と奈良市月ヶ瀬の専門の業者に奉織を委託している。

祭祀[編集]

両機殿では神御衣奉織始祭(かんみそほうしょくはじめさい)と神御衣奉織鎮謝祭(かんみそほうしょくちんしゃさい)が行なわれる。

神御衣奉織始祭[編集]

神御衣奉織始祭は奉織を始める前に清く美わしく奉織できるように祈る祭で、毎年5月と10月の1日、下機殿では午前8時、上機殿では午前9時から行なわれる。奉織作業に従事する地元住民は先だって境内の斎館で潔斎し、予め身を清める。白衣白袴を着てから御塩で清め、八尋殿の内部を清掃する。機織りの道具を準備し、御糸を納める。神職の拝礼ののちに奉織が開始される。織子は夕方に帰宅するが、神宮から参向する神職はこの祭の前日に斎館に入り潔斎し、神御衣奉織鎮謝祭まで斎館に滞在する。織子は翌2日以降の朝に出向き身を清め、白衣白袴を着て八尋殿に入り、完了するまで奉織を行なう。

神御衣奉織鎮謝祭[編集]

神御衣奉織鎮謝祭は奉織が無事に終わったことを感謝し幣帛を奉る祭りで、毎年5月と10月の13日の午前8時から両機殿神社で行なわれる。 この祭ののちに御衣を2つの辛櫃(からひつ)に納め、約20km離れた内宮まで運搬する。昭和30年代から自動車での運搬に変更されているが、それ以前は午後9時ころに出発、参宮街道を夜通し歩いて宮川を船で渡ったのちにまた歩き、外宮で仮眠し、14日の午前5時ころに内宮到着であった。警護のために衛士2名が前を歩き、権禰宜と宮掌が随行していた。




神服織機殿神社の祭神は近年は神服織機殿鎮守神とされることが多いが、
服部の祖先の天御桙命(あめのみほこのみこと)と天八千々姫(あめのやちぢひめ)とする伝承がある。



               ↑
           Q  高槻の神服神社の神様はどなたでしたか?
           A  祭神:樋之速日命・麻羅宿爾・素盞鳴尊
                 要するにスサノオとその子孫ですね


           自分で質疑応答をしてるワタシって?
           笑


             服部連
             「樋之速日命12世の孫麻羅宿禰の後なり」
             「允恭天皇の御世、織部司に任ぜられ、
              諸国の織部を惣領し、よって服部連と号す」




[28] 空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月15日 16時15分33秒 ) パスワード


http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-date-20130918.html
東三河の秦氏 その43 養蚕と機織り



初生衣神社神服部家の舊記をベースにした日本のシルクロードを辿る旅もほぼ終わりを迎えました。しかし、東三河はあまり出てきませんし、秦氏の姿もほとんど見られません。今までに書いてきた内容が正しいのかどうか、再度別の視点から検討を加える必要がありそうです。と言うことで、改めて古い時代から見ていきましょう。
以下略
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 03時32分28秒 ) パスワード

http://bittercup.web.fc2.com/05/hattorijinja.html
神服神社
古文書のイラスト付き



島上郡
霊山寺  服部社

神服神社(かんはとりのじんじゃ) 服部村にあり。『延喜式』に出づ。この所の生土神とす。例祭四月八日。
『姓氏録』に云ふ「服部連は速日命十二世麻羅宿禰の後なり。允恭帝の御時織部司に仕じ、諸国織部を惣領す」



神服神社(しんぷくじんじゃ)  高槻市宮之川原元町2-25
『延喜式』神名帳、摂津国島上郡三座の一つで小社。
このあたりは『和名抄』の摂津国島上郡服部(波止利)郷で、『新撰姓氏録』摂津神別の服部連一族が住み、祖神を祀って服部神と称したが、延喜年間(901−923)に神服神社と改めた。 『姓氏録』では服部連について、「樋之速日命12世の孫麻羅宿禰の後なり」「允恭天皇の御世、織部司に任ぜられ、諸国の織部を惣領し、よって服部連と号す」とある。 祖神とする樋之速日命は、記紀神話では、イザナミ命がその子カグッチを十握(つつか)の剣で斬ったときに生まれた神のひとりであり、フツヌシ神、タケミカヅチ神などと同グループになっている。 神服神社の北西800m、帯仕山の丘陵部に、服部遵連族を葬ったという塚脇古墳群がある。
もう一つの式内社阿久刀神社とは早くから神輿渡御を交わしていた。   鳥居 延宝6年(1678)雨乞いの祈願成就の折建立。



本殿 祭神:樋之速日命(ひのほやひ)・麻羅宿爾(まらのすくね)・素盞鳴尊

明治40年11月に宇宮之原河原の無格社春日神社、同稲荷神社を境内に移す。 明治41年には、 字塚脇の上宮神社(服部大連公)、 字浦堂の若宮神社(天児屋根命)、 字大蔵司の神明神社(天照大神・豊受大神)を合祀。 春日神社 祭神:児屋根命



稲荷神社 祭神:御魂神

[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 03時36分04秒 ) パスワード

レス75と76はアタマを休めてから読み直しますね。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 09時58分12秒 ) パスワード

http://plaza3.dws.ne.jp/~m.okubo/MikawaOkubo-SouKeihu.pdf

大久保家家系図を、また、見ました。
大久保忠重は全部で11人いました。

可能性としては
1.
大久保次郎八忠重
200俵
1593年−1655年
63歳で歿
丸山本妙寺代々
長男は忠倫ただとも
孫忠恒  500石

可能性2.
大久保次郎右衛門忠重
1604年ー1676年
73歳で歿
200俵
牛込幸国寺


結論<1>だと思います。
名乗りが寛政重修諸家譜では次郎八郎になっているから次郎八が近いかなと。



服部中保次の次男服部半右衛門保信の家は
慶長2年召されて東照宮様に仕え奉る。16歳
のち御腰物奉行。
米300俵を賜ふ
59歳で歿
四谷の勝興寺に葬る


その嫡男服部半右衛門保重は
葬地  四谷の勝興寺。
妻は大久保次郎八郎忠重が女


その次男服部半左衛門保儀
兄の養子となる
牛込の仏性寺に葬る
のち代々葬地とす



大久保忠重同名11人目は異色で

大久保忠重を名乗る人物ですが数代前の先祖が加藤景成です。
大久保忠世と一緒に一向一揆で戦った人だそうです。


   何者でしょうね?
   加藤光泰のおじでしょうか?


妻に大久保忠茂の娘を貰って
子の忠景から大久保姓を名乗ったそうです。

この家に5代目が養子に入って忠重を名乗っています。




この話は大久保家家系図のURLを頂いた時に  スレッド XV のレス<56>に書いてありました。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101388_89.html


そしてレス<62>では大久保と松下の関係が書かれています。




>「松下房利」という人物に突き当たりました。
>この人は1606〜1676まで生きた人ですが、旗本で「伊賀守」だったということです。

>伊賀守といえば、服部氏のブランド名のようなものですが、
>この松下氏は、服部権太夫正信や服部中保次とも関係があったのではなかろうか。
>松下之綱の関係一族で、服部家から松下家へ養子に入ったか、
>何らかの婚姻関係があったのではと推論しているところであります。



以下わたくしからのレス:

https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%88%BF%E5%88%A9+%E3%81%AF


松下房利(まつした ふさとし、慶長11年(1606年) - 延宝4年8月22日(1676年9月19日))

江戸時代の旗本。通称、彦兵衛。官位は、従五位下伊賀守、のちに豊前守。

松下安綱(常慶)の五男。
母は落合蔵人の娘。
兄弟に松下重綱、仙誉、昌俊、松下貞綱、松下氏秀。

室は松下長晴の娘、継室は大久保忠重の娘。   ←  後妻さんが大久保ですよ〜
                          興奮の余り「指が」動かない!

子に松下長房、松下貫長室、大久保忠因室。
                ↑
娘が大久保に嫁に行ってますね


寛永6年より徳川家光に仕える。


のちに小姓組番士を務め200俵を給され、寛永10年(1633年)2月7日、武蔵国足立郡上尾下村、門前村(一部)、須ヶ谷村(一部)(現・埼玉県上尾市)等加増分200石を加えて400石を賜る。

寛永16年4月15日に中奥番士に、承応2年10月22日二の丸留守居になる。
そして、万治3年4月13日には後水尾天皇御所附となり、
摂津国島上郡、島下郡において500石を加増される。


    ↑
島上郡には神服神社がありますね


同年10月16日、従五位下伊賀守に叙任される。
             ↑
            伊賀守です

延宝元年7月末日に職を辞し旗本寄合席となる。
延宝3年12月14日、家督を長房に譲り、養老料300俵を賜る。延宝4年に71歳で没する。
法名笑円。墓所は上尾下村放光院。


 




コピペ:

[56] 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月14日 13時02分22秒 ) パスワード



12ページ目に加藤景成が大久保忠世に仕えて
大久保忠茂の長女を妻として
大久保姓になったことが書かれていますね。


ここでも加藤家と大久保家が繋がりました。
だから当然服部家とも繋がりますよね。


三つ柏さんが加藤家について気になるのも当然なのかも。




[57] 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月14日 13時47分06秒 ) パスワード


レス<55>の

     大久保忠保(ただやす)(吉次郎)

     服部権之進某が養子、権之進罪ありて家録を没収により、
     甥忠方へ帰る
     
     この人は大久保忠昇(ただすみ)(矢九郎)(1746-1795)50の弟ですね。
     
     それで甥になる大久保忠方(ただかた)(矢九郎) 1,200石の家に引き取られたのですね。



この大久保忠保も今切の代官だった服部家ゆかりの家に養子に行ってたのかもですね。





[58] 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月14日 14時12分09秒 ) パスワード


服部権之進という人物は誰か分かりませんが


権太夫政信の関係者は
   政信の子孫あたりに  権右衛門信親という大番になっている人がいて

         自分の書いたメモが読めないというテイタラクなのですが
     
         (兄)新左衛門政久で  2790石
         (弟)与左衛門信成の次男? 1500石
            意味不明(恥)


         母は川口久助宗次の娘

              ↑

            川口家は徳川家康の生母方の祖母の華陽院さまを賭でゲットした家で
            尾張の津島神社の大橋家の分家の人です


             華陽院
             はじめ、三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重や於大の方ら3男1女を生む。
             ところが、隣の岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、
             松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれている。
             清康の死後、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、
             いずれも夫に先立たれている。



天和2年、父から夷隅郡の内、300石分け与えられた。
とにかく夷隅郡岩熊の支配は代々信成系がした。

大番になった。

子は昭政(てるまさ)で大番になった。

弟は信隆で  孫右衛門・権太夫
服部権太夫信解の養子

とメモにありますが
字が自分でも読めないという悪筆で
さっぱりワケが分からない文章です。


とにかく政信の子孫は「権」がつくようです。
大汗


寛政重修諸家譜の70ページに書いてあったようです。





三つ柏さんのレス:

松下家ですが、
大久保陣屋の近くにあり、江戸時代まで遡れ、
大久保陣屋の代官と同じ「丸に並び矢」がどうも気になって、少し調べてみましたところ、

「松下房利」という人物に突き当たりました。


この人は1606〜1676まで生きた人ですが、旗本で「伊賀守」だったということです。

 伊賀守といえば、服部氏のブランド名のようなものですが、
 この松下氏は、服部権太夫正信や服部中保次とも関係があったのではなかろうか。



当然あったでしょうね。



服部     大久保+加藤系大久保   松下
親戚でしょうね。




服部家へ養子に行った人物ですが分からなくなりました。

1200石の大久保忠良の孫  大久保忠保が服部権之進某の家に養子に行ったものの
服部家が罪を得て甥の家に引き取られることになりました。

   もう、わけ分からないです。


諦めます
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 10時50分02秒 ) パスワード

銅鐸は紀元前2世紀から紀元2世紀の400年間に作られて3世紀には作られなくなった
ということで
3世紀が始まる前の日本に一体何があったのでしょうね?


   3世紀の始まりと共に弥生時代が終わった。
   つまり1つの時代が終わった。


ということは   種類の違う民族がやって来て弥生人=銅鐸民族=を征服した?
こんなことしか考えられないです。


3世紀の日本を支配したのは誰?

             超有名人は  卑弥呼


239年 - 倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の明帝への奉献を願う。帯方郡の太守である劉夏は使者を魏の洛陽へ送る。明帝は詔して、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬・銅鏡100枚を授ける(魏の景初三年『三国志』魏書・東夷伝)。

243年 - 倭王が魏に使者を送り、生ロ・倭錦などを献じる(魏の正始4年、『三国志』魏書・小帝紀、同東夷伝)。

245年 - 魏の少帝、倭の大夫に黄幢を授け、帯方郡を通じて伝授させることとする(魏の正始六年、『三国志』魏書・東夷伝)。

247年 - 倭の女王卑弥呼、倭の使者を帯方郡に遣わし、狗奴国との交戦を告げる。
    魏は、使者を倭に派遣し、詔書・黄幢を倭の大夫に与え、檄をつくって告喩する(魏の正始八年、『三国志』魏書・東夷伝)。


   300年 - 晋で八王の乱が起こる(- 306年)。


   この頃、日本では銅鐸・武器系祭器による祭祀が終わる。
   4世紀の始まりですね。


   北部九州の甕棺墓も衰退する。


西日本各地に、特殊な壺形土器、器台形土器を供献した墳丘墓(首長墓)が現れる。

238年 - 呉の「赤烏元年(238)」の紀年銘を持つ画面帯神獣鏡出土する(山梨県西八木郡鳥居原きつね塚古墳)。

239年 - 「景初三年」の紀年銘を持つ神獣鏡が、大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳と島根県大原郡の神原古墳から出土している。

240年 - 「□始元年」の紀年銘を持つ三角縁神獣鏡が、出土する(群馬県高崎市の芝崎古墳と兵庫県豊岡市森尾古墳)。

244年 - 「□烏七年」の紀年銘を持つ画文帯神獣鏡が、兵庫県宝塚市の安倉古墳から出土している(呉の赤烏七年)。




中国の歴史書による。

建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。『後漢書』
永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。『後漢書』
倭国、男性を王とした七、八十年


               やはり日本の中は大混乱してましたか
                   ↕
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』


光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』

景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。
正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。

                  卑弥呼の死
                    ↕
正始九年(248年) - またはその前後 卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁


書』では正始年間(240年 - 249年)に卑弥呼死亡)
    男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
    卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
    女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

泰始元年(265年) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最後の入貢。




朝鮮半島の書物から


朝鮮半島の『三国史記』新羅本紀(1145年成立)による。

173年 - 倭の女王卑弥呼が、使わした使者が訪れた(二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使来聘)。なお中国の歴史書では356年に「新羅」となったと記述されている。


193年 - 倭人が飢えて職を求めて千人も新羅へ渡る。(新羅本紀第二 伐休尼師今 十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人)。


    ということは  2世紀の終りには日本は自然災害で  人々は銅鐸を作ってる余裕は無くなってた?
    3世紀には銅鐸は作られなくなる



そういう流れですか。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 11時10分08秒 ) パスワード

防人の歌をいくつか。

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid761.html
胸が締め付けられますね。




我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず(第20巻・4322)

    作者:若倭部身麻呂(わかやまとべのみまろ)

よみ:我が妻(つま)は、いたく恋(こ)ひらし、飲(の)む水に、影(かご)さへ見えて、よに忘(わす)られず

意味:私の妻は、とても私のことを恋しがっているようです。飲む水に妻の影さえ映って、忘れられないのです。

備考:

この歌の題詞には、「天平勝宝7年(755年)2月6日、交替で筑紫に遣わされる諸國の防人らの歌」とあります。若倭部身麻呂は、麁玉郡(あらたまのこほり=今の静岡県浜北市と浜松市の一部)の人。

 「恋ひらし」「かご」はそれぞれ「恋ふらし」「かげ」の訛りです。


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時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ(第20巻・4323)

作者:丈部真麻呂(はせべのままろ)

よみ:時々(ときどき)の、花は咲(さ)けども、何(なに)すれぞ、母とふ花の、咲(さ)き出(で)来(こ)ずけむ

意味:季節ごとに花は咲くのに、どうして「母」という花は咲かないのだろうか(咲くのだったら手折っていっしょに行くのに)。

備考:

天平勝宝7年(755年)2月6日に交替要員として筑紫に派遣された防人たちが詠んだ歌のひとつ。

丈部真麻呂は遠江国山名(やまな)郡の人。丈部(はせつかべ、はせべ)は「杖」に由来する軍事的部民だそうです。


        武器が「杖」だったんでしょうね。
        今の棒術とかに当たる兵士でしょうか?



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水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき(第20巻・4337)

作者:有度部牛麻呂(うとべのうしまろ)

よみ:水鳥(みづとり)の、立ちの急ぎに、父母(ちちはは)に、物言(もの)はず来(け)にて、今ぞ悔(くや)しき

意味:水鳥が飛びたつように慌(あわただ)しく支度をして、父母にちゃんと別れを言わずに来てしまって、今はそれが悔やまれます。

備考:

天平勝宝7年(755年)2月9日、駿河國(するがのくに)の防人部領使守(さきもりぶりょうしかみ)従五位下の布勢朝臣人主(ふせのあそんひとぬし)が提出した20首の防人の歌のひとつです。

有度部牛麻呂は上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子で、名の「牛」が干支に由るのであれば、神亀2年(725年)乙丑(きのとうし)の生まれと推測されます。



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真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず(第20巻・4342)

作者:坂田部首麻呂(さかたべのおびとまろ)

よみ:真木柱(まけばしら)、ほめて造れる、殿(との)のごと、いませ母刀自(ははとじ)、面(おめ)変(か)はりせず

意味:真木柱(まきばしら)をほめ称えて造った御殿のように、母様はいつまでもお変わりなくいらしてください。

備考:

駿河国の人。天平勝宝7年(755年)2月、防人として筑紫に派遣されました。

「首」は名の一部か姓(かばね)か不明。防人として出発する時の母への思いが詠まれています。

 真木柱は、柱を尊んで呼んだ言葉で、杉檜などで作った立派な柱の意味。達者でいてほしいとの願いを、立派な御殿に喩えています。「まけ」は「まき」の訛り。



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忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも(第20巻・4344)

作者:商長首麻呂(あきのをさのおびとまろ)

よみ:忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも

意味:忘れようとして、野を山を行き、私はやってきましたが、父母のことは忘れられません。

備考:

平勝宝7年(西暦755)2月に、筑紫に派遣された防人の歌のひとつ。万葉集の注に、「駿河国(するがのくに=現在の静岡県の大井川より東)の防人部領使守(さきもりぶりょうし)の布勢朝臣人(ふせのあそんひとぬし)が、2月7日(実際は2月9日)に20首を提出しましたが、(万葉集には)つたない歌は載せませんでした」とあります。

商長氏は交易に携わった氏族らしいです。

 「忘らむて」=「忘れてしまおうと」。「忘ら」は四段活用動詞「忘る」の未然形。「忘らむ」はそれに意志をあらわす助動詞「む」がついたもので、「意識的に忘れよう」の意(ちなみに「忘れむ」は「自然と忘れてしまうだろう」の意になる)。助詞「て」は「と」の訛り。「忘れせのかも」は「忘れせぬかも」の訛り。



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道の辺の茨のうれに延ほ豆のからまる君をはかれか行かむ(第20巻・4352)

作者:丈部鳥(はせつかべのとり)

よみ:道の辺(へ)の、茨(うまら)のうれに、延(は)ほ豆の、からまる君(きみ)を、はかれか行かむ

意味:道端のうまら(野茨(ノイバラ))の先に絡みつく豆のように、私に絡みつく君をおいて私は旅立っていくのだろうか。

備考:
天平勝宝7年(755年)2月9日に、上総國(かずさのくに)の防人を引率する役人である茨田連沙弥麻呂(まむたのむらじさみまろ)が進上したとされる歌のひとつです。

丈部鳥は上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子で、奥さんとの別れを惜しんで詠んだ歌です。
 「うまら」は「うばら」の訛りです。


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我が面の忘れもしだは筑波嶺を振り放け見つつ妹は偲はね(第20巻・4367)

作者:占部子龍(うらべのをたつ)

よみ:我(あ)が面(もて)の、忘(わす)れもしだは、筑波嶺(つくはね)を、振(ふ)り放(さ)け見つつ、妹(いも)は偲(しぬ)はね

意味:私の顔を忘れてしまったら、筑波(つくば)の山を仰ぎ見ながら偲んで下さい、(私の)君。

備考:
天平勝宝7年(755年)2月14日に、常陸國(ひたちのくに)の防人使(さつきもりのつかい)の上息長真人國嶋(おきながのまひとくにしま)という人が提出したとされる歌のひとつ。

 筑波嶺は茨城県の筑波山。占部は卜占を業とした部民。名の「子龍」は「小龍」とも。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 11時57分06秒 ) パスワード

秋鹿氏
折敷に三つ巴
(橘姓/藤原を称す)


 秋鹿氏の祖は橘諸兄といい、二十代の後裔出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に住し、その地名をもって秋鹿を称した。

ちなみに、秋鹿氏は「あいか」と読む。

 朝芳の四代の孫朝慶は、鎌倉将軍頼経に仕え、その一族に列して藤原に改めた。そして、朝慶から六代にあたる左京亮朝治のとき、南北朝の争乱に遭遇し、朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補された。以後、代々中泉に住し、ある時は武将として、ある時は代官として、また府八幡宮の神官として活躍した。

 室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。

 戦国時代、朝兼は今川氏親に仕え、その子の朝延は今川義元に仕えた。朝延が弘治三年に没すると、直朝が家督を継ぎ、天正十八年の「小田原の陣」に随従し、家康が関東に転封されると、常陸国に住した。慶長五年、関ヶ原の合戦ののち、遠江国の旧領を賜り、府八幡宮の神職となり、中泉に住して代官を務めた。以後、子孫は徳川旗本として続いたが、朝就の代より、府八幡宮神主に専従した。

 他方、朝兼の三男政朝は、永禄四年に家康に仕え別家を立てた。天正十一年、家康の女が北条氏直に嫁したとき、付属せられて小田原に至った。十八年に小田原城が落ちると、上総国武射郡に籠居して死去した。あとを継いだ朝矩は徳川家康に仕えて、天正十二年の長久手の役に出陣して討死した。

■府八幡宮(ふはちまんぐう)

 天武天皇の曽孫桜井王が遠江國の国司として赴任された時、庁舎内に祭られたのがこの神社のはじめである。従って、府八幡宮と称し、奈良平安時代の社宝が現存する。また、鎌倉時代には秋鹿氏がこの地に止まり神主となり、江戸時代は代官も兼ねて250石を給せられた。境内には、桜井王と時の天皇の問答歌が刻まれた万葉歌碑がある。


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秋鹿氏と熱田神宮の関係
http://blog.goo.ne.jp/sadalon/e/d41b35c3fdeddd6f7b0ff522abf9dd6d



151 草薙の剣とアヂスキタカヒコネ


 草薙の剣は、スサノオがヤマタノオロチを斬った時に、その尾の中
から出てきたと『古事記』に記されています。

 この草薙の剣はヤマトタケルから尾張氏の女性ミヤズヒメに預けら
れ、その後に熱田神宮に納められることになるのですが、一度この剣
が熱田神宮より盗み出されたことがあるのです。


 『日本書紀』の天智七年の記事にそのことが記されています。

 すなわち、新羅の僧であった道行が草薙の剣を盗み出し、新羅へ逃
げ帰ろうとしたものの、途中暴風に遭って失敗に終わった、とあるも
のです。



 大阪市にあります阿遅速雄神社(あちはやお神社)には、この事件
に関連した伝承が残されています。

 新羅に逃げ帰る途中で嵐に遭った道行は、これを草薙の剣の祟りだ
と考えて、剣を投げ捨ててしまいます。

 しかし剣は里人に拾われて、この阿遅速雄神社に納められた、とい
うのです。

 この阿遅速雄神社の祭神は、大国主の御子神とされるアヂスキタカ
ヒコネなのですが、このアヂスキタカヒコネが出雲と尾張を結ぶ役目
を担っていると言ってもいいのです、


 そもそもこの神は大和の高鴨神社の祭神ですが、『出雲国風土記』
にも登場しています。

 仁多郡の項に、この神が大人になっても泣いてばかりいて言葉を発
することがなかった、とありますが、神門臣フルネの本拠地である神
門郡の項にも、高岸の郷の神話として、やはりアヂスキタカヒコネが
泣いてばかりいた、と記されています。

同じく神門郡の塩冶の郷の記事には、アジスキタカヒコの子塩冶毗古
能命(ヤムヤヒコノミコト)がこの地に坐すのが塩冶の地名の由来と
あります。

塩治の古称は止屋で、出雲フルネがイイイリネを殺害した止屋の淵が
あったところなのです。

 それと、アヂスキタカヒコネの妻であるアメノミカツヒメを祀る神
社が尾張にあるのです。それが、愛知県一宮市に鎮座する阿豆良神社
(あづら神社))です。

 「尾張国風土記逸文」にも阿麻乃弥加都比女(アマノミカツヒメ)
が登場し、垂仁天皇の皇子ホムツワケが7歳になっても言葉を発する
ことがなかったが、この女神が皇后の夢に現れ、
 「吾の祭祀をおこなえば、皇子は話せるようになる」
と、言った、とあります。

 この説話は、『古事記』ではアメノミカツヒメではなく出雲大神と
なっていて、ホムチワケ(ホムツワケ)が出雲を訪問することで話せ
るようになる、という内容になっています。

 アメノミカツヒメは『出雲国風土記』にも登場し、楯縫郡の項では、
アヂスキタカヒコネの妻であると書かれているのですが、秋鹿郡の項
では赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(アカフスマイヌオホスミヒコ
サワケノミコト)の妻と記されています。


 この秋鹿郡の記事とは、伊農郷の地名の由来譚で、

 伊農の郷に坐すアカフスマイヌオホスミヒコサワケノミコト(赤衾
伊農意保須美比古佐和気能命)の后アメノミカツヒメ(天ミカ津日女
命)が国めぐりをされてこの地にやって来られた時、「伊農の神よ」
と、おっしゃられたので伊努の名がついた。

と、記されています。


記事にある伊努は伊農の古称なのですが、この記
事から推測すると、アカフスマイヌオホスミヒコサワケノミコトという
名は、イヌ意保須美比古佐和気能命という名に赤衾という冠名が付いた
ものになりますが、『古事記』には、大年神の妻に伊怒比売(イノヒメ)
の名が見えます。

 古代において、イノとイヌは非常に混同しやすい音です。

 アカフスマイヌオホスミヒコサワケとイヌヒメが関係するのかどうか
はわかりませんが、イノヒメを祀る神社も尾張に存在することには注意
が必要です。

名古屋市西区稲生町に鎮座する伊努神社です。


 『古事記』は大年神とイノヒメの御子神として白日神の名を記してい
ますが、京都府向日市の向日神社の祭神向日神は、この白日神だと言わ
れています。

 問題は、向日神社の祭祀氏族が六人部氏(むとべ氏)で、六人部氏は
ホアカリを祖としますから尾張氏とは同族になります。


 さて、話が膨らんでしまったので阿遅速雄神社の話を戻します。


           ここからが大事です


 回収された草薙の剣を預かったという伝承を持つこの神社は、実際にも
熱田神宮と深い関係にあります。


 現在でも、阿遅速雄神社の祭礼日(10月22日)には熱田神宮の宮司
あるいは神職の参例あり、熱田神宮の大祭(6月5日)には、阿遅速雄神
社の宮司、氏子総代らが参列するのです。


 熱田神宮の大祭の熱田祭は「菖蒲祭」とも呼ばれ、かつては陰暦の5月
5日に行われていましたが、阿遅速雄神社には神池として菖蒲池があり、
5月5日には菖蒲刈神事が行われているのです。

 ところが、最後の段になって今更なのですが、草薙の剣が天孫を経由し
た神宝であることには疑問符が付くのです。


続く
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 12時02分36秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/sadalon/e/86952fd7cf9f0d4756e9baab58c26fa1

大国主の誕生152 ―草薙剣・布都御魂・十拳剣―


 それでは今回は、草薙の剣が天孫を経由した神宝であることには
疑問符が付くという、このことについて考察してみましょう、


 草薙の剣は、スサノオがヤマタノオロチを斬った時に、その尾の
中から取り出されたものですが、スサノオはこの剣を天照大御神に
献上します。

 スサノオがヤマタノオロチの尾を斬った時に、尾の中から草薙の
剣を取り出しますが、それがヤマトタケルに渡った経緯は、次のよ
うになります。

 まず、スサノオがアマテラスに献上し、天孫降臨の時にアマテラ
スはホノニニギに草薙の剣を携帯させます。以来、皇室が草薙の剣
を所有することになるわけですが、それが伊勢神宮に遷った理由は、
皇女が伊勢神宮の斎宮を務めるようになった際に、一緒に遷された
と考えられます。

 しかし、草薙の剣が神宝だとした場合、宮中から伊勢神宮に遷さ
れたのはアマテラスに返納したと解釈できても、ヤマトタケルがミ
ヤズヒメに預ける、というのはずいぶん軽んじた印象を受けます。

 もう1つ、不思議なことは、神武東征の際には、草薙の剣は神武
天皇が所有していたことになるのですが、熊野で危機に陥った時、
アマテラスと高木の神は、霊剣布都御魂(ふつのみたま)を神武天
皇に与え、これによって危機を克服しているのです。

石上神社内に祀られている出雲建雄神社の祭神出雲建雄は草薙の剣
の荒魂である、と伝えられており、石上神社もまた草薙の剣を祀っ
ていることになるのですが、石上神社そのものは、布都御魂を祀っ
ています。

 布都御魂は、『古事記』では、タカミカヅチの分身という扱いで
描かれていますが、その『古事記』には、タケミカヅチは、イザナ
キがカグツチを斬った時に、刀身についた血から生まれた神とあり
ます。

 この時の、カグツチを斬った剣を『古事記』では、十拳剣(とつ
かのつるぎ)と記し、さらに、

「カグツチを斬った十拳剣の名前は、アメノオハバリ(天之尾羽張)
といい、またの名をイツノオハバリ(伊都之尾羽張)」

と、しています。


 この天之尾羽張が単なる剣の名称でありません。『古事記』の国
譲りのところで、アメノホヒ、アメノワカヒコに続く第三の使者を
誰にするべきかというアマテラスの問いかけに対して、オモイカネ
の神が、天之尾羽張か、その子タケミカヅチを派遣すべき、と答え
ていること、また、その依頼に対して天之尾羽張が、タケミカヅチ
を派遣いたしましょう、と答えていることから、人格(神格?)を
持った神だったのです。

 さて、天之尾羽張が、その名「天の尾羽張」から尾張氏に関係し
ているのではないか、とする説は江戸時代から存在しました。
 


もちろん、そのような説が生まれた背景は、単純に尾羽張と尾張
の名が似ているからなどといったものだけではなく、草薙の剣と天
之尾羽張、十拳剣が共通した伝承を有しているからです。

 ちなみに十拳剣は、「十束剣」、「十握剣」などとも書かれ、10
束(1束は拳ひとつ分)の長さの剣のことと言われています。つまり、
草薙の剣や布都御魂と違い、十拳剣はイザナキがカグツチを斬った剣
の固有名詞ではない、ということになります。『日本書紀』には、九
握剣や八握剣も登場するので、このことからも、やはり十拳剣は固有
名詞ではないと考えられます。

 尾張氏たちの祖ホアカリはアメノオシホミミの御子神ですが、アメ
ノオシホミミはスサノオがアマテラスの珠から生みだした神です。

 この時、反対にアマテラスはスサノオの剣を噛み砕いて宗像三女神
を生みだしていますが、このスサノオの剣もまた十拳剣でした。

 それと、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣もまた十拳剣なので
す。



 さて、タケミカヅチは布都御魂をまず熊野のタカクラジに渡し、神
武天皇に献上するようにと言いますが、このタカクラジは、『先代旧
辞本紀』では、ホアカリの御子神天香語山命(アメノカゴヤマノミコ
ト)のこととしています。

 また、尾張氏と同じくホアカリ系の海部氏の『海部氏勘注系図』は、
天香語山命の子がタカクラジとしていますが、タカクラジの兄神とし
て天村雲命(アメノムラクモノミコト)という神を載せています。

 『日本書紀』には、草薙の剣という名称について、これはヤマトタ
ケルが火攻めにあった際に周囲の草を薙いだから付けられたもので、
元の名前は天叢雲剣(アメノムラクモの剣)であった、と記します。

 これらのことを総合しますと、草薙の剣の伝承は、初めから大和政
権に伝えられていたものではなく、尾張氏らの運動によって組み込ま
れたものと考えられるのです。

 さらに言えば、ヤマトタケルの東国遠征という物語そのものが尾張
氏らによって記紀神話に組み込まれた可能性さえあるわけです。


 だから、『古事記』は東国遠征の場面では主語を明記していないの
かもしれません。


           へえ〜
           そうだったの?


 元は、大和政権側に伝わるヤマトタケルとは無関係の人物による物
語だったからです。


もしご興味がお有りでしたら 続きは   大国主の誕生153  で検索なさってください。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月20日 12時07分11秒 ) パスワード

安倍川だの焼津だのが出て来ますから、とりあえずアップします。


大国主の誕生153 ―関東における出雲系の神々―


 『古事記』や『日本書紀』に記されたヤマトタケルの東征が、
本来は別の人物の伝承であり、尾張氏らによって草薙の剣と絡
めてヤマトタケルの事績となった、と言っても、けして中央の
一握りの文官たちの手で改竄されたわけではないでしょう。


 常陸国(現在の茨城県)の『常陸国風土記』にもヤマトタケ
ルの伝承が残されていますし、東国が大和政権の版図に加えら
れた過程にはヤマトタケル伝承に関わる氏族がいたことも想像
されるからです。

 では、東征を行ったのがヤマトタケルではなかったとしたら、
それを行ったのは誰なのか、という問題に突き当たります。


 その候補者としてまず挙げることのできるのが阿部氏です。


            阿部氏?!


 『古事記』、『日本書紀』ともに、崇神天皇の時代に、阿部氏
の祖タケヌナカワワケが東海に遣わされたことを記していますし、
静岡県を流れる安倍川は、阿部氏との関わりをうかがわせます。

 『古事記』では、ヤマトタケルが、相武の焼遣(やいづ)で暗
殺されそうになったところを草薙の剣で危機を脱したエピソード
を載せていますが、相武は、相模、つまり現在の神奈川県です。
一方の『日本書紀』では、この伝承の舞台を駿河国の焼津として
います。言うまでもなく静岡県焼津市を指します。

 ちなみに『古事記』の記事では、この地の国造が、
 「この野の中に沼があるのですが、その沼に住む神がひどい暴
神なのです」


と、言ってヤマトタケルを騙し、沼に住むという神を調査するた
めにヤマトタケルが野に入ったところに火を放って、を焼き殺そ
うとした、とあることから、相武の焼遣とは、神奈川県相模原市
にかつてあった、大沼小沼と呼ばれた沼沢地のことだとする説も
あります。

 しかし、現在のところ、草薙の剣で危機を脱したエピソードの
舞台を焼津市とする説が有力で、静岡県に阿部氏(『日本書紀』
は安倍氏と表記)と同名の安倍川が流れていることからも、阿部
氏による東征が原型であった可能性があるわけです。

 それから、タケヌナカワワケの父はオオビコですが、埼玉県行
田市の稲荷山古墳から発見された鉄剣に記された銘文に、オオヒコ
と読める文字があるのです。

 稲荷山古墳から発見された鉄剣は、裏面に、「ワカタケル大王
(雄略天皇のこと)」と読むことのできる文字が記されていること
で有名ですが、表面には、

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已
加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

という文字が記されおり。この中の「上祖名意富比垝」は、「上祖、
名はオホヒコ」と読むことができるのです。


 もちろん、オホヒコというだけで、阿部氏の祖オオビコと同一人
物であると言い切ることはできないわけで、阿部氏が東征伝承の本
来の所持者だったのかもしれない、と思わせる材料のひとつと言う
ところに留めておきます。

 しかし、東征伝承の主人公がヤマトタケルになったのは、尾張氏
たちだけの力でもなさそうです。


 ヤマトタケル伝承に関わる人々の影響も当然考えなくてはなりま
せん。

 ヤマトタケルに関わる人々と言えば、出雲の健部(たけるべ)た
ちもそうです。


 『出雲国風土記』に、景行天皇が、
 「わが御子ヤマトタケルの名を忘れないように」
と、健部を定め、この時、神門臣古禰(かむどのおみふるね)を健部
にした、と記される集団で、この記事から神門臣もヤマトタケルの伝
承に関わっていたとみることができます。

 出雲の人々は、関東の各地にも移動し、これらの地に出雲の神々の
信仰を根づかせていっていたのです。


 事実、関東における出雲系の神を祀る神社は多く、水野祐はその著
『古代の出雲と大和』の中で、関八州における式内社の数と、そのう
ち出雲系の神を祀る神社の数とその比率を出しているのですが、それ
によると、

相模 ― 13社中2社(15.39パーセント)
武蔵 ― 44社中20社(45.46パーセント)
安房 ― 6社中1社(16.67パーセント)
上総 ― 5社中0社(0.00パーセント)
下総 ― 11社中2社(18.18パーセント)
常陸 ― 28社中8社(28.57パーセント)
上野 ― 12社中4社(33.33パーセント)
下野 ― 11社中7社(63.63パーセント)

と、なり、出雲系の神社が占める比率が意外に思えるほどに高いのが
お分かりでしょう。

 しかも、これらの中でも、上総、下総、安房といった房総半島は比率
が低く、反対に武蔵や下野がその他の国に比べて比率が高くなっていま
す。

 このことは、関東における出雲系の神々の信仰が自然に広がったもの
でなく、出雲から来た人々の移動していったルートに信仰が根づいたの
だろう、と思わせるのです。


・・・つづく

もういらないですよね。

[16]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月20日 14時40分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、いろいろ資料を整理しながらずっと思考にふけっています。
 なかなか取りまとめるのが難しい。論理で詰めるには証拠がないといけ
ない。信頼すべき文書にずばり書かれていればいいが、そういうことは余
りない。少しずつの状況証拠の積み重ね・・・。

 服部中と松下常慶は近い、また常慶と柳生宗矩も近い。何れも家康の親
衛隊的存在であった。

 その状況証拠を詳しく書くとなると長くなるのでちょっとひかえますが、
宗矩は単に剣術指南役ではなく、1594年より家康に石高200石で主
君の親衛隊として仕ており、関ヶ原の合戦においは西軍の後方工作を行い
功をなしている(裏には島左近もからんでくる)。

 服部中系と松下常慶系の間に婚姻関係があったかどうかはわからないが、
親近感のある間柄であったことは間違いない。そうとなれば明治までの長
い間には両氏の間で婿・嫁のやり取りは必ずやあったはずである。

 尾張氏の遠江への影響はあったと思いますが、今、古代の資料を見直し
ております。古代史はボリュームがありますので、簡単にはいきません。
時間がかります。

 菅原一党の遠江との関係も探していますが、駿府なら見いだせるのです
が、ちょっと探しあぐねております。

 神服部については、高橋祐吉編『重修 浜名史論』に詳しく載っており
ます。
 保元の乱の前年1155年、後白河天皇の御代になった時、神服部宿祢
安詮が山城国乙訓郡から浜名岡本に移住してきている。
 但し神服部家の系図は江戸初期以前は信憑性がないということで、神服
部の姓は江戸末期において初生衣調進の服部の業たる世襲神事にちなんで
つけられた姓氏と思われるといっています。

 ちょっと論証するには準備不足でありますので、もう少し整理してから
にいたします。

 それではまた―
 
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月20日 14時53分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスすれ違いました。沢山の情報ありがとうございます。
 これから用事で出かけますので、後でゆっくりと読解させていただきます。
[18]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月20日 22時31分22秒 ) パスワード

空のあお海のあを様

 本日はフグを食してまいりました。下関のフグも遠州灘でとったものを
主として扱っていることを知っている人は少ないと思います。福田(磐田市)
沖でとれるのです。理由はわかりませんが、黒潮とプランクトン、それを食
べる小魚の関係でしょうか。大きいフグがとれます。 
 お酒も入りましたので、明朝にいたします。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月21日 03時17分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


フグですか?
  いいですねえ
  贅沢ですねえ。
わたくしの場合はコップ酒で販売している「ひれ酒」あたりが相応です。




>信頼すべき文書にずばり書かれていればいいが、そういうことは余りない。
>少しずつの状況証拠の積み重ね・・・。

はい
ズバリ書かれているものを読みたいのに、出会えないですね。

状況証拠  らしき  段階のには行き当たりますが
なかなか。

     状況証拠でも「推定状況証拠」の段階ですね。

     元になった古文書にはありつけないし
     見せてもらっても  読めない!  です。


     現実として手に入るものは誰かの話の孫写しですから足許がグラグラですよね。

     



>菅原一党の遠江との関係も探していますが、駿府なら見いだせるのですが、ちょっと探しあぐねております。


久松氏ではいけませんか?久松氏が江戸時代最高家格の菅原氏子孫だと思いますが。
<1>
    菅原氏の子孫で,
    室町時代,尾張守護斯波 (しば) 氏に属し,道定のとき久松氏を称したという。
 
    戦国時代俊勝のとき,初め織田氏に属したが,
    俊勝が徳川家康の母伝通院を妻としたことから
    徳川氏に属し,松平姓を称した。

<2>
    近世大名。家伝によれば菅原道真を元祖とし,久松氏を称し尾張国知多郡阿古居郷の領主であったが,
    徳川家康の母於大の方(伝通院)が俊勝と再婚したことによって徳川氏の一族となり,
    家康の異父弟にあたる康元,勝俊,定勝は松平の称号を与えられた。

    松平康元は三河国西郡城,駿河国沼津城に住し,
    後北条氏滅亡後の小田原城を守衛,徳川氏の関東入部後,下総国関宿4万石を領した。

    1702年(元禄15)忠充のとき改易され,子孫は旗本となった。


ということで江戸期の菅原氏は最高の家が久松家で、次が、前田家となりますね。

遠江国でしたら知多の久松家の息のかかった家がありそうです。実際に血が繋がった家もあると思います。


現在も名古屋から三河、三河から遠江・駿河、江戸〜神奈川〜千葉に子孫がいそうです。




    神服部については、高橋祐吉編『重修 浜名史論』に詳しく載っており
ます。
    保元の乱の前年1155年、
     後白河天皇の御代になった時、
    神服部宿祢安詮が山城国乙訓郡から浜名岡本に移住してきている。

    但し神服部家の系図は江戸初期以前は信憑性がないということで、
     神服部の姓は江戸末期において初生衣調進の服部の業たる世襲神事にちなんで
      つけられた姓氏と思われるといっています。


へえ〜
神服部宿祢安詮という人物は源頼政に鵺退治の秘策「蟇目の術」を伝授したりして
なかなかの人物でしたが


   江戸時代に  神事上  貴族だった神服部氏  を名乗るようになった、ですか。
   でも名乗っちゃったもん勝ち・記録に残されちゃったもん勝ちです

   たぶん古代の神服部氏ゆかりの家だと思いますから
   わたくし的には  アリ  と思います。
   

   明治時代でも神職は  旧貴族・公家 ということで  華族ですから

   神服部家は  江戸時代に  復活  現在に至る  ということ、で。
   途中うやむやのようですが、戦国時代には服部氏と一緒に武士をやってたと思います。


     呉服明神の服部貞信とつるんでたのかも。



以下復習:


http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-date-20130906.html

東三河の秦氏 その34 養蚕と機織り

今回は神服部氏が浜名郡岡本村に移住した経緯を検討します。まずは「尾三文化史談」の画像を参照ください。


「家祖天建羽槌命以来一子相伝の秘呪妖化體顯蟇目をもって祈祷し」とある部分が注目されます。何と神服部氏は機織りだけでなく、家祖天建羽槌命以来一子相伝の秘呪・妖化體顯蟇目を伝える一族だったのです。(注:蟇目とは鏑矢を用いる妖魔退散の術です。妖化體顯蟇目は、鏑矢を用いた妖魔を退散させる特別な術を体現したものとでも言いましょうか?なお、多くの神社で催行される奉射(ぶしゃ)神事は蟇目神事が元になっています)

851年に神服部氏が従五位下(貴族の末席に位置する)を朝廷より賜ったのは、神道や陰陽道の秘法である蟇目の術に精通していたことによると考えられます。

つまり神服部氏は従来の伊勢神宮に神御衣を奉じる立場から、陰陽道を中心に据えた一族へと立場を大転換させたのです。察するに、彼らはこの時点で朝廷における立身出世を目指したのでしょうね。

(注:天武天皇期に神服部連は宿禰を賜ったのですから、実際には地位が低下していることになります。地位の低下した部分のみ舊記に記載するのは妙ですし矛盾を孕んでいると思われ、追って検討します)


これらの点を理解した上で岡本村移住の経緯を探ります。


神服部氏が久壽二年(1155年)に官を辞して山城国乙訓郡から遠州濱名郡岡本村に移り住む2年前、仁平3年(1153年)のことです。宮中に鵺(ぬえ)が出没したので、武勇の誉れ高い源頼政は鵺退治を命ぜられました。彼は神服部氏より蟇目の術を伝授され、首尾よく鵺を退治します。鵺の死体はばらばらに切り刻み、空舟(うつぼぶね)に乗せて鴨川に流したそうです。

鵺退治の詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%BA


神服部氏は自分の秘術で源頼政の鵺退治を助け、面目を施しました。それが2年後になって、突然山城国乙訓郡から遠州濱名郡岡本村に移り住むことになったのです。

この間にどんな事件が起きたのでしょう?そもそも乙訓郡では宮廷に出仕するのに遠すぎます。多分宮廷近くの役宅から乙訓郡に移り、そこから岡本村に移住したとの経路を辿ったはずです。


この問題を解くには、久壽2年(1155年)に鵺よりも強大な妖魔が出現したと考えるしかありません。
もしかしたら神服部氏は、蟇目の術が通じない妖魔に敗れ去って、職を辞さざるを得なくなったのかも……。

と言うことで、どんな妖魔がこの年に出現したかを調べてみました。


すると、いましたよ。かの有名な玉藻前(たまものまえ)が変身した白面金毛九尾の狐です。


久寿2年(1155年)、美貌の女官・玉藻前は鳥羽上皇に寵愛されていましたが、上皇は次第に病み衰えるようになりました。


原因は不明であったため、陰陽師・安倍泰成に真相究明の命が下ります。

彼は上皇の病が玉藻前の仕業だと見抜き、真言を唱えます。泰成の真言により玉藻前は本性を現し、白面金毛九尾の狐の姿となって宮中から逃げ出しました。狐は那須野に隠れたのですが、三浦介義明、上総介広常などを将軍とした夥しい数の軍勢が派遣され、あえなく最後を遂げることとなったのです。

これほどの妖魔が出現したのに、なぜか神服部氏は登場してきません。ちょっと変だと思いませんか?そう、神服部氏は狐退治のメンバーに加えられなかったのです。彼らは一子相伝の秘呪・妖化體顯蟇目を操る一族でした。ほんの少し前には鵺退治に貢献もしています。なのに、狐退治から外された。多分神服部氏は、その恥辱に耐えられず官を辞し乙訓郡に引き籠ったのです。

では、なぜ神服部氏は狐退治のメンバーから外されたのか?

全くの推測ですが、鵺退治の手柄を神服部氏にさらわれた陰陽道本家本元の安倍氏が、今回は巻き返しを図ったのです。出世競争は今も平安の昔も同じだったのですね。

朝廷に仕え立身出世を目指した神服部氏は、安倍氏の高い壁にぶち当たり、平安時代後期に至って望みが潰えてしまいました。いたく落ち込んだ彼らは、秦氏の拠点でもあった山城国乙訓郡に引きこもります。


神服部氏の心中を察した源頼政は、都を離れ遠州濱名郡岡本村(現浜松市北区三ヶ日町岡本)に移住し、一族本来の職掌である神御衣の織作に戻るようアドバイスしたのでしょう。頼政の言葉で目覚めた神服部氏一族は、勧めに従うこととしました。こうして久寿2年(1155年)、神服部家は倭姫命の元伊勢の地であるに岡本の地に移住したのです。

以上が1155年の初生衣神社創建に至る推定経緯です。神服部氏の動きが様々な歴史と連動していることに驚かされますね。


ではここで話を横道にそらせます。世阿弥作の「鵺」によると、源頼政に退治された鵺は空舟(うつぼぶね)に乗せられ鴨川に流されます。(注:世阿弥は秦氏の末裔と自称しています)九尾の狐の死骸もまた空舟で流されました。いずれも空舟で符合しますが、これらにはもう一つ不思議な符合があります。

大和岩雄氏は「天照大神と前方後円墳の謎」(六興出版)において以下のように書いています。

鹿児島県の大隅正八幡の縁起に、震旦国王の娘、大比留女(オオヒルメ)は日光を受けて七歳で懐妊したので、子と共に空船に乗せられて、流れ着いたのが、日本の大隅の磯で、この日の御子が八幡の神である、と書かれている。

天照大神の太陽を祭祀する巫女段階における別名は大日孁貴(おおひるめのむち)でした。つまり、天照大神の前身も空舟に乗せられ、その子は八幡神(=秦氏)だったのです。

そしてこれらにはさらに不思議な符合がありました。高齢となった秦川勝は世阿弥作の「風姿花伝」にあるように、攝津国難波の浦からうつぼ舟に乗って海の彼方へ向かい播磨に漂着したのです。

摂津国難波の浦より、うつぼ船にのりて、風にまかせて西海に出づ。播磨国、坂越(さこし)の浦につく。

以上から、鵺も狐も秦氏を象徴する存在となってしまい、それに天照大神まで絡んでいることになります。何だか現在書いている「東三河の養蚕と機織り」と同様に、とても錯綜した話になっていますね。

源頼政の鵺退治はほとんど伝説的ストーリーのように見えますが、実は一定の根拠もあります。三ヶ日町には鵺代、胴崎、羽平、尾奈の地名があり、鵺代は鵺の頭部、胴崎は胴体、羽平は羽、尾奈は尾を意味しており、それぞれがこの地に落ちたとの伝説が形成されました。それは源頼政が持ち込んだか、或いは神服部氏の移住がもたらしたものだったと推定されますが、武士が地名を持ち込むとは考えにくいので、神服部氏の移住に関係する可能性が高そうです。

でもなぜこんな場所に源頼政は神服部氏を移住させたのでしょう?調べてみると鵺代は、鵺を退治した褒賞として源頼政が帝より賜った土地でした。つまり、頼政は自分の領地の一部を神服部家に分け与えたのです。(或いは領地の近くを神服部氏が賜った)しかもこの場所は、浜名神戸の地。頼政と神服部氏の深い関係や移住先選定の妙が見て取れ、とても偶然とは思えません。神の配剤とでも言うべきでしょうか?ともあれ、以上のような経緯で神服部氏は岡本に移住したのです。

頼政はその後平家との戦いで自刃します。
かろうじて生き残った一族は、鵺代に逃げ落ちて猪鼻氏を名乗り、その子孫は浜名氏となりました。

                        ここ、すごいですよね
             

あれこれ書いているうちに横道に入ったので、話を元に戻します。

初生衣神社解説板では由緒が久寿2年(1155年)から始まっていますが、
前史は神代の時代から延々と続いていたと理解されます。
しかもその流れをほぼ復元できるのですから驚きです。

                        わたくしもスゴイと思います。

              東三河の秦氏 その35 養蚕と機織りに続く


[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月21日 03時24分56秒 ) パスワード

浜名氏
1.  文字化けしてて読めないです。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hamana_k.html

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(´˜aŒ¹Ž—Š­—¬) @
“V–ì‰p•vŽ‚©‚çAw•l–¼Žj˜_x‚Ì’†‚ÉŒfÚ‚³‚ê‚Ä‚¢‚éu‘å–î•Û‰ÆŠ‘ •l–¼ŽŒn}v‚É‚æ‚é‚ƁAu´˜aŒ¹Ž•l–¼Žv‚̉Ɩä‚́uŽOƒc“ª¶”bv‚Å‚ ‚é‚Æ‚Ì‚²‹³Ž¦‚ð‚¢‚½‚¾‚«‚Ü‚µ‚½B @



2.
http://andare1.exblog.jp/9353299


遠江国鵺代猪鼻浜名氏の武蔵国川越への展開進出

      下記の駿河今井家って?よく分かりませんが・・・コピペ



 伊勢新九郎盛時=北条早雲は、当初、京都室町幕府将軍官僚職だったが実妹が駿河今川家への嫁いだ事から駿河今井家に仕える事になった。三河国松平氏との抗争の際は、駿河今井家方の武将である猪鼻浜名家の客将として闘い戦功を立てた。その後、幼い甥を駿河今井家の当主に擁立する事に成功し、今井家の執事として活躍したが認め合っていた太田道灌が謀略に遭い、殺害されてしまった事もあり、自立を目指し、日本初の戦国下克上武将として相模に後北条家を建てたのだった。伊豆、相模、武蔵と北上進出する中で用いた日本の桃園の誓いと言われる仲間との誓いや遠江国出身の武将の人材登用、そして、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵の広いエリアに及ぶ移動は、辺境だった東日本の開発に直結するのものなので中世日本史の中でも興味深いものがある。

 遠江国鵺代は、源頼政が平安末期、夜な夜な御所に出没する妖怪「鵺」を退治した事により帝から褒美として賜った領地だった。平家打倒の叛旗を立てるが情報が計画半ばで漏れてしまい決起するも源頼政は、宇治平等院で多くの一族と共に戦ったが自刃してしまった。その為、生き残った一族は、領地である遠江国鵺代に落ち延び土豪化し、猪鼻浜名氏として16世紀半ばまで活躍した。

 猪鼻浜名家の一人が1546年の扇谷上杉家・古河公方との間で起きた川越夜戦で荒廃した川越の開発の為の中核寺院建立と都市開発者として派遣された事は、ごく自然の事だったのかもしれない。1549年川越連馨寺建立の為、大道寺駿河守政繁の従兄弟である感誉上人の随伴侍として川越にやって来た猪鼻民部(いのはな たべ)は、連馨寺の門前町である旧猪鼻町や広大な脇田町を拓いて土着化し、その子孫たちは、現在も多数在住し、生活している。

 1590年、豊臣軍による小田原侵攻によって後北条家が滅んだと同時に大道寺家も消滅した。城主の消えた川越を実質暫定統治した猪鼻氏は、後に芝・増上寺徳川家大僧侶になる川越喜多院管長時代の天海に後北条家の行った諸国に秀た治世について知己を与えた。その為、天海による猪鼻氏への配慮として徳川家康に進言したのである。松平徳川氏と猪鼻浜名家は、元は、共に駿河今井家配下の武将であり、又は、戦火を交わした旧知の関係でもある。更に遠江国鵺代は、源頼政ゆかりの猪鼻浜名家の子孫である事も充分考慮し、川越藩における役職を付与した。

 徳川家康の江戸幕府開府後、猪鼻氏の家系で川島角泉を拓いた猪鼻氏を代々川越藩総取締役名主代官と任命し、柳沢吉保を初めとする老中として名高い歴代の川越城主を支えて寵愛され幕末期においては、川越藩による江戸湾警護の軍資金捻出の為、重要な役割を果たしている。川越八幡神社には、今も川越の護り神として存在し、その境内には、中世川越の都市発展の礎を築いた猪鼻民部が今も民部稲荷として祀られている。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月21日 17時29分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日はレスをずっと分析しておりました。
 聖徳太子の母間人、祖母小姉君は海部氏であり、聖徳太子も海部氏の血を
引いているということがわかりました。
 海部氏は物部氏、尾張氏と同族で(この氏族間の関係は長くなるので説明
は省きます)、海部族のネットワークは広大であった。この地へ聖徳太子の
子供三人が秦氏に連れられて逃れて来たということは、この海部族のネット
ワークを利用したということにもなるのではないか。特に、海岸地方、川沿
い地方に広がっていた。

 古代史は前にも取り組みましたが、スケールが大きく論証に時間がかかり
ますので、突っ込むには勇気がいります。
 以前集めた古代史の資料をもう一度整理し、物部氏か尾張氏か、遠江の銅
鐸の分からみられる歴史の真相をもう一度探究してみます。
 いろいろな可能性にうろたえてしまいますが、どういう人間関係・つなが
りがあったかという状況証拠を集めなければなりません。
 熱田宮司の千秋氏は服部と名乗ったこともあるそうですが、熱田神宮が各
地へ支社殿を広め、宮司を派遣したという事実はあるのでしょうか?

 服部、永井、松島、鈴木、加藤、(それに川合)・・・それぞれに力をあわ
せて生きたきたように思えます。500年の歳月は、その記憶を忘れさせる
に十分であった。善地の天満宮の敷地には以前は小さな祠であったと聞いて
いる。また小さな山になっていて、古墳のようだったとも、翡翠や勾玉、管
が出たとも。その小山を守っていたのが服部家、永井家、そして松島家、鈴
木家、加藤家・・・。丸に三つ柏は服部家のほぼ全部と永井家の半数。
 この家紋の由来は?— ということで毎日探究をしている・・・。

堂々巡りのようですが、少しずつ前へ進んでいます!
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月21日 22時45分29秒 ) パスワード

>熱田宮司の千秋氏は服部と名乗ったこともあるそうです

そうなんですか

そうすると三つ柏紋の服部氏も有り得る訳ですね。
でもそうすると  藤原南家系 とかになるんでしょうね。

静岡の浅間神社の神職さんの服部氏の家紋が分かると良いですね。




海部氏 ーー>  尾張氏・物部氏
物部氏 ーー>  秦氏

聖徳太子のお子さま達が亡命して来たのは  当然  だったのですねえ。
蘇我氏の追手から逃れて地の果てに逃げて来た 


古代史は難しいですね。
でもだんだん納得がいくようになりましたね。

わたくしは聖徳太子のお子さま達が遠江に?と不思議でしたが
   秦氏がお連れしたのだから
今は納得出来ます。

   
家紋の使用の由来理由も今になればナゾナゾですが
当時はごく当たり前だったのでしょうね。


>堂々巡りのようですが、少しずつ前へ進んでいます!

はい


堂々巡りはしょうがないです
少しずつ解明出来ますように。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月22日 03時50分20秒 ) パスワード

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765205
遠江国風土記伝
内山真龍



長上郡の服部氏が名家とされるというのは何故か?
これが分かると良いのですが。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月22日 04時21分50秒 ) パスワード

30ページ    コマ番号22

神機織殿

神戸郷岡本村

神服部氏  代々アマテラスの御衣を造ってきた

岡本村  神氏  代々  服部

赤引きの糸   三河うんぬん




続日本紀  神護慶雲3年   奉神服部於天下諸社

天明9年4月14日  奉納機殿歌

   ここに服部  服部     

      服部之登母賀織機乃なんちゃらかんちゃら 
      麻績服部なんちゃらかんちゃら


32ページ  コマ23

熱田大明神社   在吉美村
諏訪大明神社   在橋本
天神社      在橋本



橘逸勢の墓
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月22日 06時28分27秒 ) パスワード

敷智郡   コマ33

引馬古城の欄に   永正年間、三河の大河内備中守欠綱が城を築いた1人として出てますね。


コマ?

諏訪社の名や賀茂社なども


コマ48−49にかけて?大日堂の修理で遠江国岡部の松下将監と右近の名が出てますね
年貢の訴訟の件はお構いなく、になって?
大日堂の修理は励めって?

天文23年12月17日


コマ 56のページ90に  八幡村の椿屋敷の御台?一?塚の話があって
永禄11年12月24日に
後藤太郎左衛門が松下与右衛門に命じて
義元に討たれた飯尾豊前守乗龍の後妻を助け出す話?だけど
兵も後妻も侍女達も全員討死した話

大河内兵庫助の合戦の事、という別名がある?


57でPCが止まりました。
  
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月22日 10時42分55秒 ) パスワード

引佐郡


    ほとんどが井伊家と宗良親王がらみ。


    なんとなく内山真龍のご先祖は南朝方だったんじゃないかという感触


コマ61−63  P101−103
宗良親王
井伊介道政
尾張国中島の堀田修理亮之盛       のち大老の堀田家
尾張国海部の大橋三河守定高       津島神社の神主
など


コマ63−64   P103-104
越中国名古浦  石黒越前守重之  =  今の御旗本  長谷川庄五郎どの先祖也

                    ということは服部家が結婚してた長谷川氏?
                    越中の長谷川氏は別系統とサイトには書いてあるけど
                    http://jiyodan.exblog.jp/17514830/

                    内山真龍によれば長谷川平蔵の先祖?
                    
                    そして南朝方仲間?
                    平蔵の妻は大橋氏なんですって


                    非常にアヤシイ


コマ65  P108
宗良親王が諏訪に落ち、さらに伊奈郡の山中の大河原に身を隠した話

      P109
宗良親王薨去    73歳


コマ66  P110
後醍醐天皇御子  由幾良親王   (ホントは宗良親王のお子さまなのにね)

      周智郡人曰く  後醍醐天皇御子由幾良親王之行宮
      在奥山の部内  大峯村にあり
      その跡を大裏と称す
      於信濃国


         浪合村で薨。
         御墓所  在浪合   P110


コマ67
井伊氏の話
桶狭間で井伊直盛の死
その子  直親  掛河で戦死
その子  万千代丸  長名  井伊直政  その子 井伊掃部頭直孝  天正以前住
慶長以来  近藤この地を知   (知行したという意味でしょうね)


コマ68   P114
堀川一揆  大将山村修理之墓所に松の樹を植えた

   
       P115
       首塚


コマ69
      龍たん寺



コマ73
興良親王
尹良親王   いずよし・ゆきよし   母は井伊之介道政の女なり



コマ74   P124−125

    服部伊賀守宗純の名が・・・・・・「脇」部に誤植されてた〜  怒

    吉野11党


   大久保の分家と思いますが宇津が出てました。
      駿河国富士谷の宇津   一本野田貫次郎

                 (別の本では、という意味だと思います) 


コマ74−75
良王君

   津島の大橋三河守が野奴にお連れして社中で78歳で薨去
   子孫は津島の大神主となる



コマ76   P28−129
宗良親王の御歌




コマ77から麁玉郡

[27]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月22日 10時50分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

サイト「水石の美を求めて」はよくまとまった論説集であると思います。
神服部の伝説も、伝説としてはなるほどと思います。しかしながら、伝説
の本当の根源的事実まで突っ込んでほしいと思います。「鵺」という怪物、
妖怪、妖鳥は科学的・生物学的に見れば存在するはずはない。「土蜘蛛族」
のような意味の「例え」で使った言葉であろうと思うのだが・・・。

 この年1153年頃はどんな情勢であったのだろうか。源氏の勃興、つい
で平氏の勃興、そしてこの年に平忠盛が亡くなっている。同時に源頼政が神
服部氏より秘呪を伝授されて「鵺」を弓で退治した年。これは源平の争いの
小競り合いの一端であったのではないだろうか。

 その後1156年に保元の乱、1159年に平治の乱、1160年に源義
朝が長田忠致(おさだただむね)に殺され、頼朝は伊豆に流されている。
 そして1167年には平清盛太政大臣になり、平氏の全盛時代を迎える。
 その後、源平の勢力は逆転するわけですが・・・。

 源平時代の話は一種の伝奇小説じみたところがあります。陰陽師がはやっ
ていたせいでしょうか。安倍晴明は1005年に亡くなっておりますので、
その後の時代ということになります。
 
 歴史とは部族・氏族・王族同士の関係・争いの事蹟といっても過言ではあ
りません。
 古代の主だった氏族の関係を簡単にまとめますと、関裕二氏の『神社が語
る古代12氏族の正体』にうまくまとめた記述がありますので、それを参考
にして記してみます。

 1.ヤマト建国の立役者となった氏族たち
  (1)出雲国造家・・・出雲大社
  (2)物部氏・・・石上(いそのかみ)神宮、磐船(いわふね)神社
  (3)蘇我氏・・・宗我坐宗我都比古(そがにますそがつひこ)神社

 2.ヤマト建国の秘密を知る氏族たち
  (1)三輪氏・・・大神(おおみわ)神社
  (2)尾張氏・・・熱田神宮
  (3)倭氏・・・大和(おおやまと)神社

 3.暗躍し、勝ち残った氏族たち
  (1)中臣氏・・・枚岡(ひらおか)神社
(2)藤原氏・・・春日大社
(3)天皇家・・・伊勢神宮

 4.切り捨てられた氏族たち
  (1)大伴氏・・・伴林氏(ともはやしのうじ)神社
(2)阿倍氏・・・敢国(あえくに)神社
(3)秦氏・・・伏見稲荷大社

 何をかいわんやで、おおよその氏族のたどった道筋が見えて来ます。
 尾張氏は秘密を知る、秘密にされている氏族なのだと思います。もっと
探究すればびっくりすることが出てくる可能性があると思います。

 前回のレスで千秋氏にふれましたが、家で史料『千秋家文書』て確認しま
したところ、熱田神宮の宮司そのものでなく、その傍系の一族のように思わ
れます。
 但し、「由跡記録書」によると、
  千秋惟範者鎌足公十七代孫三河守範宗次男也
 一熱田大宮司者鎌足公十八代千秋家範其子也、本紋丸ニ三ツ柏鶴付キ星野
  者此類族也
と書かれている。江戸中期頃になって服部姓を名乗っているのが散見できる
ということですが、服部を名乗ったり千秋を名乗ったりしてたいる。ちなみ
に、出身地は元大垣県、から岐阜県島田村となり、その後多芸郡高田町、そ
の後養老郡高田町、今は養老町となっている。熱田千秋とは何らかの関係は
ありそうですが・・・。

 今回はこれ位にして、次回は何故「遠江より天竜川に沿い信濃まで」のラ
インかというテーマについて述べてみたいと思います。
 
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月22日 14時55分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


古代豪族の整理
ありがとうございます。



伊賀のあべ氏がどうしてそうなったのか知りたいところです。



見て来ました。

熱田神宮の本姓藤原氏で俗姓は千秋氏で服部氏も混在する家って?

千秋氏の次男の家ということで
でも、どうして分家が養老町高田で千秋(服部)庄六を名乗っているんでしょうね?


   あの辺りは秀吉の土地だった?秀吉に関係するんでしょうか?


https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E9%A4%8A%E8%80%81%E9%83%A1%E9%AB%98%E7%94%B0%E7%94%BA%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8




[PDF]115〜奥付



www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/25-k.pdf



一多芸郡高田町及鳥江村ヲムロシ、 其ノ区域ト養老村の 一 部(大字押越順師離湖岬 ... のはこ の時で丶 以後は千秋姓を 〕 害(して名乗り、 服部姓は消滅した形とな っ てい.


史料情報共有化データベース



base1.nijl.ac.jp/.../SKYSearch.cgi?...



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Dec 28, 2007 - 履歴, 千秋家(服部家と称する時期もあるが以下、千秋家と表記する)は、17 ... 岐阜県多芸郡高田町‐岐阜県養老郡高田町‐岐阜県養老郡養老町[現在]





ja.wikipedia.org/.../高田町_(岐阜...






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高田町(たかだちょう)は、かつて岐阜県養老郡に存在した町である。 現在の養老郡養老町の一部であり、養老町の中心地(現在の地名では、高田、烏江、押越など)を形成 ...


養老郡 - Wikipedia



ja.wikipedia.org › ... › 岐阜県






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11月3日 - 高田町・養老村・広幡村・笠郷村・上多度村・多芸村・日吉村・小畑村、池辺村の一部、不破郡合原村の室原地区が合併し養老町成立。同時に池辺村の一部が ...


[PDF]第十二篇高田町と養老公図との関係 - 養老町の歴史文化資源



www.tagizou.com/main/elibrary/pdf/55takada_3.pdf



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是は靈亀三年に当国不破郡高田の奥山中に靈水湧き出で、老人之を汲みて服 ..... 古屋の材木商服部小十郎と請負契約をなし、小十郎は配下の大工中島宗七に命じて四月 ...


岐阜県人物文献索引(試行版)出典資料名一覧|岐阜県図書館



www.library.pref.gifu.lg.jp/.../bunken....






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美濃国稲葉郡志 · 各務原の歴史 · 那加町史 · 鵜沼の歴史 · 羽島市史3 · 笠松町史 下 · 柳津町史 柳津編 · 柳津町史 佐波編 · 平田町史 · 養老郡志 · たか田 · 高田町誌


岐阜県:谷家8私文書2の12



www.pref.gifu.lg.jp/.../tani8-sibunsyo2...



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明治33. 5.20, 養老郡小畑区祖父江水害破壊先荒地直し代金覚, 1通, 4180. 明治34. ... 明治41. 6.23, 借地受作証券, 高田町平井準, 谷金吾, 1通, 4172. 明治44. .... 大正 5), 大正五年度納税切符綴, 城山村収入役服部東, 谷金吾, 1綴, 1825. (大正 6), 大正 ...


中川郡幕別町 食料品の企業情報(電話番号・メールアドレス ...



companies-db.com/area/19/中川郡幕別町/.../18



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Fax: / Email: 米兼商店 岐阜県養老郡養老町高田371−2 / Tel: 0584-32-0356 ..... 服部商店 岐阜県恵那市明智町常盤町1153−9 / Tel: 0573-54-2217. Fax: / Email:.



Sep 17, 2014 - 北海道函館市: 青柳町紋別市: 上渚滑町中渚滑紋別郡遠軽町: 生田原安国 ... 続く地名あり) 大橋町 小見町 多田町 戸奈良町 富士見町 免鳥町鹿沼市: 口粟野 .... 小倉) 大飯郡高浜町: 西三松大飯郡おおい町: 岡田(小近谷) 本郷山梨県甲府市: .... 市: 南濃町駒野養老郡養老町: 三神町 室原不破郡垂井町: 表佐可児郡御嵩町: ...


一般社団法人岐阜県民間保育園連盟: 加盟保育園



mimpo.jp/?page_id=302






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羽島郡▽. No. 園名. 園長氏名. 電話. FAX. 所在地. 定員. 1. 笠松保育園, 朝倉 義紹. 058-387-2947 ... 清流みずほ保育園, 服部 幸子 ..... 養老郡養老町高田277-1. 120. 2.
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月23日 06時04分29秒 ) パスワード

いよいよ謎が深まりましたね。

神社関係がまたまた浮上ですね。
高槻の神服神社と千秋氏の関係が分かると良いですね。

 千秋氏が東三河の設楽に来て遠江の服織神社と関係が出来た

    というのは十分に考えられますね。
    そういう記事が見つかると良いのですが。
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月24日 00時07分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、尾張氏と千秋氏の追跡調査をずっとしておりまして、今やっと分
かりました。新発見が三つありました!

 1. 養老千秋氏は、あを様言われたように、季範の次男範信を祖とします。
  長男は範忠(季忠)。この範忠の次男清季の野田系が大宮司を継いで行き
  ますが、清季から数えて六代目の季氏の娘にあを様ご指摘の範信の玄孫
  が婿入りし、その長男系が代々大宮司を継いで行きますが、その次男惟
  範が養老千秋家の租となります。従って野田系の大宮司になる資格を備
  えているはずです。

   範信は星野氏を号し、星野大宮司と呼ばれ、従四位下、式部丞。神谷
  御厨(伊勢神宮の荘園)の給主、上野介(上野国の長官)、宝飯郡星野荘の
  領主。頼朝の伯父。この星野は三男が継ぐ。長男憲朝、次男信綱は千秋
  姓を名乗る。

   養老千秋家は二百二十石を産する土地を初め、膨大な土地を保持、油
  店と貸家も行っていたということです。しかしながら、明治の終わり頃、
  江州の土地の購入と養老公園の妙見堂建立で大損害(何かあった)を蒙り、
  その後衰退して行ったということです。熱田神宮との関係は今の所わか
  りませんが、妙見信仰に何か秘密があるのかも知れません。

 次に、2つ目と3つ目の発見について記述いたします。

 2. 源義朝の第六子は遠江池田宿の遊女を母として生まれますが、身分が
  貧しかったため、この熱田の藤原季範の妹由良(頼朝の妻)に預けられ、
  そしてその父季範の養子となり、源範頼と名乗った。その後、京都、ま
  た熱田と移り、義朝が長田忠致らに暗殺されると、平家の追手が厳しく
  なったため、遠江の蒲御厨(先日私が訪れた)に移った。ここの八幡宮の
  神主は、藤原季範の弟で勘解由丞季成(かげゆのじょう すえなり)とい
  った。
   「熱田神宮・千秋氏」vs「遠江・池田・蒲御厨」との関係が、源義朝
  ・頼朝親子を通して見えて来ました。

 3.この3つ目は尾張氏との関係ですが、あを様がよく言われた「猿投」
  の意味にも関係して来ます。このまとめは少し論旨が長くなりますし、
  また夜も更けてまいりましたので、明日の報告とさせていただきます。
 
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月24日 06時26分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。

わたくしには<1>の人間関係がさっぱり読めなかったです。
    関係があるのは分かるけれど理解に至りませんでした。


<2>の源範頼は由良御前に育てられたというのは初めの頃に読みましたが
    本当だったのですか。
    その上に由良御前と義姉弟にもなっていたのは本当だったのですか。

    これも読み流していました。


<3>の猿投は重要な場所です。
    ここに服部家の「なかなか」の家があったそうです。


ところで島田の服部家にいらっしゃいませんか?
ここもなかなかの家のようですよ。

呉服屋さんでしたっけ?
御商売をなさってたような。


_____________________________


ところで「猿投 服部氏 は」で検索したら  こんなのがヒットしました。笑


猿投駅から服部駅まで


出発駅
猿投

到着駅
服部(岡山)
服部川        岡山にも服部川がある?伊賀のは知ってましたけど  笑
服部天神      これは岡山の天神さんでしょうか?笑


確かに岡山の服部は知っていますが。



____________________________

http://jp.indeed.com/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E6%B1%82%E4%BA%BA%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C-%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%B8%82-%E7%8C%BF%E6%8A%95

学校法人 服部学園 YAMASA言語文化学院 - 岡崎市
月給 17.5万 〜 25万円 - 契約社員
23050-00825351 求人情報の種類 一般(フルタイム) 事業所名 学校法人 服部学園 YAMASA言語文化学院 所在地 〒444-8691 愛知県岡崎市羽根東...


服部学園?


____________________________


http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/050/2834/0501283400110314.html

猿投神社の昇格の話。同時に真清田神社も昇格したいんですって。

これに服部英明という議員?が?
もともとこの服部さんは猿投神社に関係するのかしら?


3段目に猿投は元は美濃国だったんですって。
へ〜

それで美濃=岐阜にも服部姓が多いのかしら?
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月24日 10時30分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


オットの歯科受診から戻りました。
待ってる間に「おとぎ話に隠された古代史の謎」
         関裕二  PHP文庫
読んでいました。


ビックリでしたよ。



ヒスイの話がありました。

28ページに
真名井=ヒスイ井  という意味なんですって。


   やったね!


ヒスイは「海神のもたらす  海や水を象徴する神宝  と考えられていた、


   古代ヒスイは貴重な石で
   その突然ヒスイが顧みられなくなった。

   どうしてか?



ページ30
7世紀の蘇我氏は縄文時代以来日本列島で珍重され続けてきたヒスイを大切に守り独占してきた。

しかし蘇我本宗家の滅亡、蘇我氏の衰弱とともにヒスイは見向きもされなくなる


つまり蘇我氏にとって代わった勢力が  蘇我氏を否定する=ヒスイも否定した
  ということ。



それで日本ではヒスイが見向きもされなくなったのですね。



仏教を守ろうとしたのに蘇我氏は天智天皇と鎌足と藤原氏によって「悪」に仕立て上げられたが
蘇我氏が祟った・蘇我氏に祟られたという話が長く語り継がれたのは
   つまり、正義は祟った方=蘇我氏=にあった
ということで


おとぎ話は蘇我氏の受難を語り伝えている
ということなんですって。


この本、いいですよ。
是非お読みになってください。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月24日 10時51分34秒 ) パスワード

もう1つ驚いたのは日本の現人神は4柱なんですって。


・天皇家の天皇
・出雲国造家
・ヤマトの葛城の一言主神   ⇔  蘇我氏
・住吉大社の祭神(住吉3神)      わたくしの母方との古代からの関係はそういう事でもあったのかと感慨深いです




一言主神についてウイキからコピペ

『古事記』(712年)の下つ巻に登場するのが初出である。

460年(雄略天皇4年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。

雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。

天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。

一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。




少し後の720年に書かれた『日本書紀』では、雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じだが、
その後、共に狩りをして楽しんだと書かれていて、
天皇と対等の立場になっている。

                 改竄ですね。笑



時代が下がって797年に書かれた『続日本紀』の巻25では、
高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。

                賀茂氏?
                 ↓

これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと言われている。


   (ただし、高鴨神は、現在高鴨神社に祀られている迦毛大御神こと味耜高彦根神であるとする説もある)




さらに、822年の『日本霊異記』では、
一言主は役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、

役行者が伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。


役行者は一言主を呪法で縛り、『日本霊異記』執筆の時点でもまだそれが解けないとある。



また、能の演目『葛城』では、女神とされている。

へえ〜





住吉大社

ウイキよりコピペ:

主祭神は以下の4柱で、住吉大神と総称され海の神として信仰される。
底筒男命、中筒男命、表筒男命は合わせて「住吉三神」と呼ばれる。

第一本宮:底筒男命 (そこつつのをのみこと)
第二本宮:中筒男命 (なかつつのをのみこと)
第三本宮:表筒男命 (うはつつのをのみこと)
第四本宮:息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと) - 神功皇后 (じんぐうこうごう)に同じ。


             神功皇后がここに出て来るのか。
             やっとピンと来た。

当社は古代大和王権の外交・航海に関連した神社で、遣隋使・遣唐使の守護神であり、津守氏は遣唐神主として遣唐使船に乗船した。

遣隋使・遣唐使は、大社南部の細江川(通称 細井川。古代の住吉の細江)にあった仁徳天皇(皇居は難波宮)が開いたとされる住吉津(「墨江ノ津」「住之江津」すみのえのつ)から出発する。

住吉津は、上代(奈良時代・平安時代初期)は、シルクロードにつながる主な国際港でもあり、同時に難波津など、大阪の町は当時の国際的港湾都市、物流の一大拠点、国内流通の中心だった。


        住之江のみこもち(水宰だったかな)という言葉は幼いころから脳裡に焼き付いています。


南北朝時代は、宮司の津守氏の館の住之江殿(正印殿)に南朝の後村上天皇の行宮が置かれ、
約十年間南朝方の御座所となり、南朝の主要拠点の一つになる。

次の長慶天皇は住吉で即位。


また瀬戸内海の水軍系武士には住吉神を奉じる者も多く、南朝方の瀬戸内連絡網の根拠となった。


     やっぱり南朝方だったんだ〜


     これで住吉っさんと自分の関係が今1つハッキリしました。


[34]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月24日 13時02分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 帝国議会での審議にはびっくりしました。国会で神社の昇格を決めるとい
うこと、それに真清田神社と猿投神社の二件というのが偶然だと思いました。
また、昨日の段階で、明日の日曜日には「真清田神社」を調べにに行こうと
思っていた矢先だったので、これも偶然でした。明日は、行けたら大垣城、
真清田神社、尾張大国霊神社、熱田神宮等を回ろうかと考えています。また
ご報告をいたします。

 さて、これは尾張氏と銅鐸の関係を調べていた時に、インターネットで見
つけた論文ですが、伊藤肇氏の『尾張猿投(さなげ)山と狭投(さなぎ)神社に
ついて』というタイトルで、一つの問題提起として述べられていました。A
4で18頁の論文ですので、要点だけにしますが、詳しくは、「尾張猿投山」
で是非検索して下さい。

 1.まずはサナゲ(猿投)とサナギ(小鐸)の関係―
サナゲ山を「形状小鐸(さなぎ)に似たり」と  あることから、サナゲ
  =サナギということが考えられる。おそらくサナゲはサナギの転音化し
  たものであろう。

 2.サナギとサルメ(猿女)
   大嘗祭や新嘗祭の前行事として鎮魂祭(タマフリノマツリ)が行われるこ
  とから、これは天皇霊の復活再生を促す祭式であり、鈴や小鐸(サナギ)
  は本来ウヅメの後裔である猿女が矛に付けて、天皇霊の再生発動を促す
  所作をなしたものであろう。
   ちなみに、「猿」のつく言葉・名前には、猿楽、猿田彦、猿丸、猿女
  等があり、神と結びつく。動物の猿は神の使いでもある。

 3.サナゲ・サナギの名のつく地名
  (1)越後西蒲原郡猿投(サナゲ)山
(2)伊豆真城(サナギ)山
(3)遠江浜名郡佐鳴(さなぎ)池・・・現在は佐鳴(さなる)湖と呼ばれて
                   いる。
  (4)伊賀上野市の左那具(さなぐ)
   これらの地域から三遠式銅鐸が出ている。特に遠江と浜名湖周辺に密
  で、、その中心地が浜名湖の支湖である佐鳴湖に絞られてくるという。
   これは何を表しているのかというと、弥生後期から古墳期前期ぐらい
  の間に、伊勢、伊賀あたりを西限として、尾張、三河、そして遠江で一
  大勢力文化圏が形成された。これは古代出雲の東の境界で、糸井川・静
  岡構造線(いわゆるフォッサマグナ)を境としている。近畿を取り巻くよ
  うに、西は出雲、伯耆、因幡、播磨、丹波、但馬、紀伊、高志国、近江、
  美濃、尾張、遠江、信濃を含んでいた。その内の東三河と西遠江を中心
  として三遠式銅鐸が出ている。出雲族であった尾張氏は、国譲り後に大
  和を去り尾張に移った。ここで新天地を切り開き、勢力を拡大した。
   尾張から東へ向かえば台地を二つに刻んでいる天竜川に行きつく。
   尾張氏も当然勢力を伸ばしたものと思われる。
 
 この論文だけではうまく整合性が取れない部分もありますので、論旨がぼ
けてしまいました。

 もう一度、今度は銅鐸を中心として、その最後に消えて行った謎までをま
とめてみます。
[35]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月24日 13時04分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスがスレ違いました。読ませていただきます。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月24日 14時01分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


猿投と(4)の伊賀上野市の左那具は「音」でのみ連想と言いますか繋がってましたが

深くつながっている・・・????

 
>もう一度、今度は銅鐸を中心として、その最後に消えて行った謎までをまとめてみます。   

よろしくお願い致します。


>出雲族であった尾張氏は、国譲り後に大和を去り尾張に移った。ここで新天地を切り開き、勢力を拡大した。
>尾張から東へ向かえば台地を二つに刻んでいる天竜川に行きつく。
>尾張氏も当然勢力を伸ばしたものと思われる。

なるほど。

尾張氏が東三河から遠江に来てたろうことは当たり前ですよね、
その先には富士山もありますし。



また最初っから組み立て直さねば。
とはいえ遠江風土記伝も読まないといけないです。



>明日は、行けたら大垣城、真清田神社、尾張大国霊神社、熱田神宮等を回ろうかと考えています。


すごい。
ちょっと遠出過ぎかも。

大垣は名古屋からJRでは近いんですが。



>またご報告をいたします。

よろしくです。
楽しみにしております。

でもくれぐれも無理をなさいませんように。
[37]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月24日 21時26分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日の午後受け取りました。早かったですね。きれいに整理されていて、
さすがだと思いました。ありがとうございます。区名が違っていましたが、
無事届いています。
 さて、実はちょうど私も同じことを直近で考え、資料を漁っていました。
 本当にありがとうございました。家紋よはやくCome on! 訳のわから
ないことを言ってしまいました。
 
 銅鐸についてをまとめようとしていますが、手元に『埋もれた銅鐸』(森
秀人著)があるのですが、45年前に出版された本ですので、考古学は日
進月歩で進んでおり、事実認識が変わってきているはずですので、引用する
のは控えます。ただヒント程度に利用しようかなとは思っています。細江に
銅鐸を展示している歴史博物館があり、一度行って来ましたが、考古学的と
いうか発掘調査の寸法だとか形状だとかの事実関係を述べた解説はあるん
ですが、大局的な歴史解説書がないというか、探せばあるんでしょうが、今
は手元にないように思います。
 三遠式の銅鐸が近畿式と比べて大きく装飾的になっている。隠されるよう
に埋められている。三角神獣鏡との関係はどうであるか・・・等々、いろい
ろ謎がたくさんあると思います。これだけで一冊の本が書けるはずでありま
す。

 話は少し変りますが、佐久間・伊那谷ルートは「フォッサマグナ」、伊勢
・新城・飯田ルートは「中央構造線」・・・即ち断層の切れ目にあります。
そこに道ができたり、鉱物資源が採取されたり、有効に活用されてきました。
文化・産業の伝播もそれに沿って伝わりましたので、山と海ではありますが、
この辺でいえば南信濃と遠江は言葉・アクセントが似ています。遠江と三河
は似ていますけど、尾張の影響の度合いの違いがあります。
 このフォッサマグナと中央構造線に主眼を置いた文明史を書いたものを探
しております。塩の道もひとつです。宗良親王の逃避ルートもそうです。木
材の筏ルートもそうですし、宗教・祭祀の伝播ルート・・・道はすべてにか
かわって来ます。
 ということで、話が大きくなりました。本日はこれまでとし、パワーを充
電いたします。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 05時54分06秒 ) パスワード

三つ柏さん


第2弾は多分ちゃんと書いたと思います。
大恥



>三遠式の銅鐸が近畿式と比べて大きく装飾的になっている。隠されるように埋められている。


装飾的、ということは時代が新しく、権力も強くなっていた、ということかしら?

その頃は豊かな時代だった?


隠されるように埋められていた、
というのは面白いですね。
興味が湧きます。

   人目を憚った?
   呪術?

空想が広がりますね。


何かあったのでしょうね。
    時代が大きく変わった?
    銅鐸はご禁制になっていた?



>佐久間・伊那谷ルートは「フォッサマグナ」、
>伊勢・新城・飯田ルートは「中央構造線」・・・
>即ち断層の切れ目にあります。

>そこに道ができたり、鉱物資源が採取されたり、有効に活用されてきました。
>文化・産業の伝播もそれに沿って伝わりました

「道」ですか。
「人」が動きやすかったのですねえ。

宗良親王が彼方此方移動していること
大変だったのだろうなと
思いましたが
「道」があるから意外とそんなに大変ではなかったのかもですね。


さすが土地勘の有る方のレスは説得力があります。
にっこり
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 06時35分56秒 ) パスワード

コマ 77   麁玉郡

コマ79

79の前に  おたか  という地名があって
コマ79  P133 に多賀神社がある


コマ80  P134に
百百原  ルビは ととはら
     読みは どどはら?

     有宮口北


コマ 80 P135から長上郡   
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 10時16分11秒 ) パスワード

長上郡を読んでいます。

服部関連2つ。コマ99のP171です。




1.
有玉下村八幡社

此社之服部之処也トイヘリ

如有玉村説    意味不明

2.
服部半蔵の領地が書かれていました:

小池村八王子社
天正後、服部半蔵領地



次読みに行きます。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 10時27分01秒 ) パスワード

コマ102から磐田郡


先の有玉下村八幡社の

「此社之服部之処也」の読みは

    「  この社、  コレ、  服部の処なり」

ではないでしょうか?
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 10時34分56秒 ) パスワード

浜松藩領ですね。

、●○有玉上瀬村、●○有玉松木島村、●有玉畑屋村、●○有玉下村、○有玉新村、○有玉欠下村、●有玉町田村


1875年(明治8年)
有玉七ヶ村(有玉上瀬村・有玉松木島村・有玉畑屋村・有玉下村・有玉新村・有玉欠下村・有玉町田村)が合併して有玉村となる。


有玉村

廃止日
1908年1月1日

廃止理由
新設合併
有玉村、中郡村、小野田村(一部) → 積志村


現在の自治体
浜松市


所在地
静岡県浜名郡有玉村


有玉村(ありたまむら)は静岡県の西部、長上郡・浜名郡に属していた村。現在の浜松市東区北西部にあたる。


河川 : 馬込川

歴史[編集]
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、近世以来の有玉村が単独で自治体を形成して長上郡有玉村が発足。
1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により所属郡が浜名郡に変更。
1908年(明治41年)1月1日 - 中郡村および小野田村の一部(半田)と合併して積志村が発足。同日有玉村廃止。
1957年(昭和32年)10月1日 - 積志村が浜松市に編入。
2007年(平成19年)4月1日 - 浜松市が政令指定都市に移行し、旧村域は東区の所属となる。

[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 15時20分13秒 ) パスワード

浜松の歴史http://www.hamamatsu-books.jp/chronology/hamamatsu/0.html



〜794年(飛鳥以前、飛鳥、奈良)

794年〜1335年(平安、鎌倉)



約80000年前 ナウマン象生存
約30000年前
約2〜3万年前に浜北人暮らしていたと考えられる

約13000年前 東平遺跡(神ケ谷町)や次郎太夫遺跡(吉野町)で、有舌尖頭器(槍)が使用されていた

約9000年前 縄文土器の使用
約5000年前 仮屋坂遺跡(伊左地町)に竪穴住宅
約4500年前 前平遺跡(都田町)に環状集落が営まれていた
約4500年前 半田山遺跡(半田町)で石囲いの炉が使われていた

約4000年前 縄文時代
蜆塚(しじみづか)遺跡に静岡県内唯一の環状貝塚の建設がはじまる



神武
素画国造を定める

約2000年前
水田稲作農業が定着したと考えられる

A.D.100年頃 弥生時代
伊場(いば)遺跡はじめ、各地で米作りの集落ができ、人口が増加する

約200
稲作開始



仲哀
久努国造を定める

約1750年前 銅鐸が祭事道具に使用される
約1725年前 村前遺跡(三和町)で船の絵や文様を施した土器使用

約400 古墳時代
赤門上(あかもんうえ)古墳(浜北)や馬場平(ばんばひら)古墳(引佐)などの大きな古墳が造られる


約400
千人塚古墳つくられる

約400
遠淡海・久努・素賀が遠江国になる

約1550年前 伊場に集落形成
約1500年前
入野に古墳が築かれる

約1400年前
豊町の蛭子森に円墳が築かれる

約1400年前
深萩町に火穴古墳構築

約1400年前 都田町見徳に横穴式石室をもつ円墳
約1350年前
都田恩塚山に横穴式石室をもつ円墳

642 皇極 東は遠江国、西は安芸国を限って飛鳥板葢宮造宮丁を徴発する

645 大化1 東国国司を任命派遣する
646 大化2 大化改新の詔下る。こののち遠淡海国・素賀国・久努国などを統合して遠江国(遠淡海国)が創置される
646 大化2 国府が見付(いま磐田市)に置かれる
646 大化2 東国国司の成績について指摘をする

672 天武1 壬申の乱
675 天武4 唐人30口を遠江国に置く(日本書紀)
692 持統6 遠江外4か国に詔して、伊勢行供奉の騎士の戸に今年の調役を免除する(日本書紀)

700 天武4 遠江守勤広壱漆部造道麻呂、善政によって20戸を授けられる[遠江国司初見]
701 大宝1 遠江国など17国に蝗害、秋大風がある
701 大宝1 南浅田町の光福寺が開創、太子渕の松がある
702 大宝2 持統上皇三河国御幸、供奉の官人長忌寸奥麿は引馬野を、高市連黒人は安礼の崎を詠ずる

702 大宝2 鴨江町の鴨江寺開創
703 大宝3 頭陀寺町の頭陀寺開創

708 和銅1 従五位下美努連浄麻呂、遠江守となる(続日本記)
709 和銅2 遠江国長田郡を長上・長下の二郡に分ける
709 和銅2 遠江国などの兵、蝦夷征討のため奥羽へ従軍する
710 和銅3 平城遷都
710 和銅3 遠江国の飢饉を救う
710 和銅3 従五位下大伴宿称牛養、遠江守となる(続日本記)
713 和銅6 遠淡海国を遠江国と改める
715 和銅8 遠江国地震、山が崩れて麁玉河をせきとめ、敷智・長下・石田3郡の民家が水没し、田も損害をうける

719 養老3 遠江守正五位大伴宿称山守、按察使に任ぜられる
720 養老4 遠江国に7剋の伝符が給せられる
720 養老4 蝦夷の討伐に遠江国の兵、派遣される
722 養老6 遠江国差益郡8郷を割いて山名郡を置く

726 神亀3 遠江国の5郡、水害をうけ、これを救う
726 神亀3 山背国愛宕郡出雲郷雲下里の丁女4人、遠江国長田上郡に住む

730年頃 奈良時代
伊場遺跡から出土した木簡に「浜津」の地名(浜松市の地名のおこり)

732 天平4 正三位藤原朝臣房前、東海・東山節度使となる(続日本記)
733 天平5 遠江国、飢饉におそわれ、これを救う
734 天平6 中沢町の常楽寺開創
736 天平8 蒲町の広禅寺開創、木造大日如来像安置
738 天平10 従五位下百済王孝忠、遠江守となる(続日本記)
738 天平10 東国の防人帰郷する
740 天平12 遠江国司、この年の田租の収納状況を報告
740 天平12 浜名湖南端に風害がある[遠江国浜名郡天平12年輸租帳]
743 天平15 遠江国敷智郡竹田郷戸主刑部真須弥、調布を進上する
745 天平17 遠江国山名郡より中男作物として堅魚を進上する
745 天平17 国分寺が国府(磐田市)に建立

752 天平勝宝4 従五位下多治比真人犢養、遠江守となる(続日本記)
755 天平勝宝7 遠江国の防人、筑紫へ派遣される。防人部領使遠江国史正坂本朝臣人上は防人の詠歌18首を進上、7首が万葉集に採用される

757 天平宝字1 正五位上賀茂朝臣角足、遠江守となる(続日本記)
757 天平宝字1 橘奈良麻呂の乱。このとき天平勝宝4年以後、遠江守であった多治比真人犢養・賀茂朝臣角足・多治比真人国人の3人処分される
760 天平宝字4 当麻真人広名、遠江員外介に任ぜられる[員外国司]
761 天平宝字5 麁玉河の堤防300余丈決潰、30万余に達する人員を徴発して、これを復旧する
761 天平宝字5 東海節度使、遠江国などの兵船を検定する
762 天平宝字6 遠江国、早害による飢饉におそわれ、これを救う
762 天平宝字6 従四位下栗田朝臣奈勢麻呂、遠江守となる(続日本記)
764 天平宝字8 従五位上下毛野朝臣多具比遠江守となる(続日本記)

767 神護景雲1 高丘連比良麻呂、遠江守に任ぜられる[遥任国司]
768 神護景雲2 大伴宿称伯麻呂、遠江守に任ぜられる[遥任国司]
768 神護景雲2 益田連縄手、遠江員外介に任ぜられる[員外国司]

771 宝亀2 遠江国磐田郡主帳無位若湯坐部竜麻呂など私物をもって窮民を救い褒賞をうける(続日本記)
774 宝亀5 従四位上中衛員外中将伊勢朝臣老人、兼ねて遠江守となる(続日本記)
774 宝亀3 従五位上石川朝臣真守、遠江守となる(続日本記)
775 宝亀6 遠江国司の定員、少目1人が増置される
779 宝亀10 従五位上当麻王、遠江守となる(続日本記)

781 天応1 富士山噴火する(続日本記)

783 延暦2 遠江国の浮浪人につき尾張・伊賀両国に連絡する
785 延暦4 遠江国の調庸が粗悪のため厳責をうける
785 延暦4 遠江国など大風のため飢饉におそわれ、これを救う
790 延暦9 遠江国など飢饉におそわれ、これを救う
794 延暦13 平安遷都
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 15時27分15秒 ) パスワード

794年〜1335年(平安、鎌倉)


797 延暦16 遠江・駿河などの諸国から雇夫を徴発し、平安京の造営に従事させる
802 延暦21 遠江・駿河・伊豆ほか28か国の損田の租税を免ずる(日本逸史)
803 延暦22



806 大同1 龍禅寺町の龍禅寺開創

810 弘仁1 遠江国の飢饉を救う
810 弘仁1 舘山寺が真言宗寺院として開創される
819 弘仁10 遠江国の国分寺、焼失する(日本逸史)
820 弘仁11 遠江・駿河両国在住の新羅人700人が暴動を起こしたので兵を出して鎮圧する
823 弘仁14 遠江国の早害疫病を救う

833 天長10 遠江国の飢饉を救う

834 承和1 遠江国敷智郡古荒田33町を阿保親王に賜う(続日本後紀)
838 承和5 遠江に米華が降る(続日本後紀)
842 承和9 橘逸勢、遠江国坂築駅で病死する
843 承和10 遠江国浜名郡猪鼻駅家を復興する

850 嘉祥3 浜名湖に一口があり、閉鎖常なく、湖の口がふさがると水害を受け、口が開くと豊作となる。湖口にまつる角避比古神を官社に列する

852 仁寿2 遠江国敷智郡息神に従五位下を授け官社に列する
853 仁寿3 広瀬河の郵船に2艘を加え4艘とする

854 斉衡1 遠江に詔して剰田7町を尼妙長に施す(文徳実録)

862 貞観4 遠江国敷智郡曾許乃御立神・賀久留神に従五位下を授ける
862 貞観4 遠江国浜名橋を修造する
863 貞観5 遠江国頭陀寺を定額寺とする
864 貞観6 内蔵寮領遠江国長上郡の田地164町(市野庄)を貞観寺に施入する
864 貞観6 富士山噴火する(三代実録)
865 貞観7 内蔵寮領遠江国長下郡の水田12町(高家庄)を貞観寺に施入する
865 貞観7 遠江国長上郡の空閑地を貞観寺に施入する
872 偵観14 遠江国の兵庫、鼓を打つような音を出して鳴る
873 貞観15 引佐・長上両郡の百姓に1年間調庸雑徭を全免する
874 貞観16 遠江国敷智郡蒲大神に従五位下を授ける

878 元慶2 藤原朝臣清保、遠江守に任ぜられる
878 元慶2 出羽国の俘因の乱に、東海・東山両道の諸国に勇者の待機が命ぜられて、遠江国には10人が割りあてられる
879 元慶3 遠江国など10か国の国司の言上した損田数が不正確の旨指摘される
881 元慶5 遠江国司よりの、前任の国司のとき官舎25宇倉104宇焼失したとの報告をみとめ、その修理を許す
881 元慶5 遠江の稲2,000束を興福寺へ施入する(三大実録)
881 元慶5 磐田郡を割いて山香郡を置く
883 元慶7 遠江国などの穀500斛で東寺塔を造る(三大実録)
883 元慶7 藤原清保、従五位上に進む
884 元慶8 遠江国浜名橋を改めて作る、長56丈・高1丈6尺
884 元慶8 前遠江守藤原清保、その任中に稲42万束を貯蔵し飢餓にそなえたことが認められる

885 仁和1 遠江国蓁原郡の百姓口分田が水害の為、代わりに不堪佃田を与える[口分田班給の最後]
886 仁和2 藤原朝臣恒泉を遠江国に遣し野鳥の害を払う
887 仁和3 藤原清保、遠江守に再任される

890 寛平2 遠江検損使の勘定公文を所司に下させる(西宮記)
894 寛平6 遠江・駿河などの諸国に、貴族の使いが往還の舟・車・人馬を強いて雇うことを禁ずる(太政官符)

901 延喜1 勝諸明、菅原道真事件に連坐、遠江権掾に左遷される(政治要略)
904 延喜4 平忠興、遠江守に任ぜられる(古今和歌集目録)
927 延長5 「延喜式」完成、遠江国の駅名として引摩が記載。賀久留神社、津毛利神社なども記されている。

927 承平年間 源順「倭名類聚抄」を作る。はじめて浜松の名が記載される[流布本]
931 承平1 「浜津(浜松)」の名称が文献に記載

940 天慶3 遠江国の飛駅使入京して、平将門が反乱を起し賊が駿河へ乱入し国分寺を襲った由を急報する

995 長徳1 正暦2(991)から長徳1(995)まで遠江守であった源為憲、遠江国の衰弊を奏上する
996 長徳2 四等官に各権官が置かれ、国司の定員が増える
998 長徳4 税部宿弥興国、東宮の年給により遠江掾に任ぜられる
998 長徳年間 このころ、浜名橋は焼失
1000 長保2 京都東寺、遠江国封戸150戸の租庸調を銭に換算して収納する

1017 寛仁1 浜名湖には黒木の橋がかかる[浜名橋]
1020 寛仁4 更級日記の著者東海道を上る。浜名湖を舟で渡る

1025 万寿2 笠井荘春日神社を再建する

1080 承暦4 遠江守源基清、尾奈御厨・浜名本神戸田を刈り取り、神宮司より不法を訴えられる。尾奈御厨は寛徳2年(1045)以後の成立である

1081 永保1 遠江国蒲御厨、荘園整理令(1069)により停止されている。このころ、都田御厨が成立している
1082 永保2 遠江守基清、本神戸田を刈り取った罪により停任される

1086 応徳3 院政開始

1102 康和4 遠江国東寺封戸、封物を絹に換算して納入する
1102 康和4 遠江国司、蒲田御厨内の新開田に徴税を増し紛争を生ずる

1104 長司1 遠江国東寺封戸、この年以降3か年封物の納入を怠る

1104 長承年間 頭陀寺領川匂荘の東の界を定める

1156 保元1 保元の乱。横地太郎長重・勝間田平三成長・井伊八郎は官軍(平清盛・源義朝)に参加する[遠江武士初見]
1158 保元3 平重盛、遠江守に任ぜられる

1159 平治1 平治の乱、遠江国の武士は源氏に協力していない
1159 平治1 平宗盛、遠江守になる

1160 永暦1 平基盛が、遠江権守である
1160 永暦年間 京都新熊野神社へ遠江国羽鳥庄を寄進する

1167 仁安2 大中臣公宣、先祖3代の領地都田御厨が、在庁官人の訴えにより停止されたのを歎き、その復活を言上する。都田御厨の成立は永保(1081)以前である

1171 嘉応3 京都松尾社領池田荘と京都仁和寺観音堂の末寺の頭陀寺の寺領川匂荘とに紛争がおき、池田荘の四至膀示を定める

1171 承安1 池田庄立券文が朝廷に提出
1172 承安2 遠江国司、都田御厨に乱妨する(玉葉)
1173 承安3 最勝光院が建つ。このころからのち、村櫛荘は同院領となる

1175 安元1 平頼盛、遠江権守となる

1179 治承3 遠江国、藤原俊盛の知行国である
1180 治承4 安田義定を遠江守護とする
1180 治承4 頼朝鎌倉に入る。遠江国の武士横地・浅羽・相良・内田・井伊・勝間田の諸氏は、この当時反頼朝軍に参加する
1180 治承4 鎌倉幕府成立(侍所を置く)
1180 治承4 蒲惣検校源清成の蒲上下田畠を免除する(蒲神明宮文書)

1181 養和1 遠江守護安田義定、平軍東上の急を頼朝に報告する
1181 養和1 遠江国の住人横地太郎長重・勝間田平三成長ら安田義定の命により遠江橋本に防禦陣地を築く。浅羽庄司宗信・相良三郎は協力しないので処罰をしたが4これを許す

1182 寿永1 安田義定、遠江国箇鎌田御厨を押領する
1183 寿永2 安田義定、遠江守となる
1183 寿永2 頼朝遠江にいたり、奥州秀衝の出軍を聞いて鎌倉へもどる(吾妻鏡)
1184 寿永3 遠江国の住人内田三郎家吉、義仲の妾巴と一騎討をして討ち取られる
1184 寿永3 頼朝、皇大神宮に都田御厨を保証する
1184 寿永3 平重衝、池田宿の長者熊野の娘侍従のもとに宿る

1185 文治1 頼朝、遠江の御家人が自由な行動をすることを禁止する
1185 文治1 安田義定、遠江小杉御厨に対して乱妨する
1185 文治1 幕府、東海道駅路の法を制定する
1186 文治2 安田義定、義経の行方について遠江の山寺までさがしたが不明の旨を報告する。また遠州二俣山に向い鹿9頭を浅羽三郎等が射殺したことを報告する
1186 文治2 頼朝、勝間田三郎成長が玄蕃助に任官したことを怒る
1186 文治2 幕府、諸国の社寺の修造を朝廷に願い、東海道の守護に命じて破壊している社寺を報告させる
1186 文治2 西行法師、東国方面に旅をする
1187 文治3 鎌倉八幡宮放生会に三河守範頼・遠江守護で遠江守安田義定も参列する。五番射手的立を横地太郎長重がつとめる
1187 文治3 安田義定、遠江守に重任される。その代償として伏見稲荷神社の修造を命ぜられる
1188 文治4 安田義定、紀伊熊野山領の住民と国衙領の用水について争い刃傷する
1188 文治4 六条殿造営のため遠江国に対して表の築垣と門の建造を割りあてる
1189 文治5 遠江守護安田義定、奥州藤原氏征伐軍に参加する。浅羽五郎行長も参加する

1190 建久1 安田義定、下総守に左遷される
1190 建久1 頼朝、知行国の遠江を源義兼に与える。義兼は平親長を国守とする
1190 建久1 遠江国に目代を派遣する
1190 建久1 頼朝、京都円勝寺領の遠江雙侶荘地頭板垣兼信を配流し地頭職を改めよ、との命令を拒否する
1190 建久1 頼朝上洛、橋本駅に泊る。遊女群参、連歌を詠む。帰路橋本・池田。縣川に泊る。遠江四郎・浅羽三郎・五郎・新野太郎・横地太郎、入洛の行列に参加する
1191 建久2 安田義定、遠江守に三任される
1191 建久2 池田御厨につき、松尾社と豊受大神宮との間に係争を生ずる
1192 建久3 頼朝征夷大将軍に任ぜられる
1193 建久4 源範頼、伊豆に送られ殺される
1193 建久4 頼朝、安田義定の遠江国浅羽荘の地頭職を没収する
1194 建久5 頼朝、安田義定を反逆の罪によって殺す
1194 建久5 幕府、東海道に新宿を増置、駅夫の員数を定める
1195 建久6 頼朝上洛、井伊介・横地太郎・勝間田玄蕃助・浅羽庄司三郎・新野太郎ら供奉する
1195 建久6 頼朝、遠江国橋本駅で遠江国在庁官人と守護の部下を招集して国務と検断について指示を与える
1195 建久6 遠江国の住人勝間田成長、国府光堂で騒動をおこし御家人の資格を失う
1197 建久8 北条時政、源清成を蒲上下両郷地頭代職に補任する(蒲神明宮文書)

1199 正治1 蒲御厨地頭職、将軍頼家の命によって停止される
1200 正治2 幕府、頼朝の一周忌にあたり遠江・駿河・伊豆の寺院を修造させる
1200 正治2 梶原景時、駿河狐崎で殺される
1200 正治2 北条時政、遠江守となる

1203 建仁3 高野山金剛寿院の年貢米を遠江頭陀寺荘から船で送る
1203 建仁3 紀伊国の国衙、頭陀寺荘をふくむ高野山金剛峯寺領の年貢に対し、船所の書生や梶取が乱妨するのを禁じる

1207 承元1 大中臣時定、大福寺を創建する(大福寺文書)
1209 承元3 浜名神戸司大中時定、大福寺に浜名神戸内の北原御園を寄進する(大福寺文書)
1210 承元4 幕府、駿河以西の駅家に夜警を命じ旅人の安全をはかる
1221 承久3 遠江橋本宿で、遠江住人内田四郎・同六郎・新野右馬充など、幕軍に混入して上京しようとした筑井高重を三河宮路山の麓に討を取る
1221 承久3 承久の乱。遠江国の御家人天野右衛門尉・相良三郎ら泰時の軍に従い5.28天竜河を徒渉する
1221 承久3 前中納言宗行捕えられて遠江国菊川駅に宿る
1221 承久3 藤原忠信、舞沢で許され、のち越後に流される(吾妻鏡)

1223 貞応2 海道記の著者、橋本・池田・縣川駅に泊る

1223 天福1 遠江但木神明社に源貞正・藤原真道・大家末時が掛仏を寄進する[浜名氏初見]

1225 元仁2 信生法師、池田宿熊野の侍従に一泊をもとめ謝絶される

1226 嘉禄2 遠江守佐原盛連、誅せられる
1227 嘉禄3 法然の門人遠江国蓮華寺の禅勝坊、遠江国で隆寛とあい浄土宗の布教に尽くす(法然上人行状画図)
1227 嘉禄3 北条時房、源吉祥子を蒲御厨上郷内の地頭代職に補任する(蒲神明宮文書)

1227 安貞年間 桜が池と皇円の伝説、このころ成立する(静岡県史)

1235 嘉禎1 東海道に群盗が出没する

1238 暦仁1 将軍頼経上京、遠江守護条時房の命により横地長直奉公人となり縣川宿に御所を新造する。天竜河に浮橋をかけ供奉人は馬でわたる。縣川・池田・橋本に泊る
1238 暦仁1 遠江国の御家人橘薩摩公業、肥前国長崎庄上村惣地頭職に補任される[新補地頭]
1238 暦仁1 このころ遠江守護は北条時房である

1242 仁治3 東関紀行の著者、浜名橋を渡り、舞沢の原の観音堂に参詣し、天竜河出水のため難儀して越す

1246 寛元4 前将軍頼経を京都に送りかえす。浜名左衛門三郎、供奉人をつとめる。縣川・池田・橋本に泊る(吾妻鏡)

1250 建長2 遠江国住人の遠江清時・遠江時連が射手をつとめる(吾妻鏡)
1251 建長3 将軍頼嗣に遠江の住人村櫛三郎兵衛尉そのほか遠江氏・浅羽氏などが供奉などをつとめる(吾妻鏡)[村櫛氏初見]
1251 建長3 浜名三郎、鶴岡八幡宮放生会に参列する(吾妻鏡)
1252 建長4 大仏朝直、遠江守護となる
1252 建長4 宗尊親王鎌倉下向、遠江守護北条朝直が遠江国内の宿泊などにあたる。橋本・池田・菊川に泊る
1252 建長4 蒲神明宮修造工事
1254 建長6 蒲御厨神明宮の造営につき、右衛門尉光康命により、蒲御厨政所出羽左衛門大夫・蒲検校に執達する

1264 文永1 沙弥某、源清常を蒲御厨惣検校職に補任する(蒲神明宮文書)
1264 文永1 弘長3年(1263)大風のため破損した蒲御厨神明社の造営をする
1265 文永2 飛鳥井雅有、このころから6年7月ころ橋本の宿に泊る
1268 文永5 敬意、頭陀寺に鍔口を寄進する
1270 文永7 遠江国渕郡黍庄笠子郷橋本宿長者妙相、遠江応賀寺へ毘沙門天像を造立し、胎内へ願文を納める
1272 文永9 源清常に蒲御厨検校免田畠を領知させる(蒲神明宮文書)
1274 文永11 京都加茂社の片岡社領地頭職代官筑前局、地頭職を加茂社神主に譲る契約を履行しないので紛争を生じ、後深草上皇より加茂神主が知行相伝の旨、裁決をうける

1275 建治1 飛鳥井雅有、引馬に泊る
1277 建治3 十六夜日記の作者阿仏尼、引馬に泊る
1277 建治〜弘安 このころ遠江守護は大仏宣時である

1280 弘安3 朝廷、諸寺に異国降伏の祈祷を命令する
1281 弘安4 浜名神戸司代官、大福寺内の検断を免除する(大福寺文書)
1281 弘安4 幕府、左衛門尉通茂を遠江国飯田荘菅島・西俣・加保村などの地頭職にする
1282 弘安5 幕府、遠江守北条為時を博多に遺す
1283 弘安6 浜松荘より安嘉門院法事費用として15貫文を亀山上皇御所に納める
1284 弘安7 浜名神戸の本所棚橋氏、預所の浜名香王に大福寺と真萱寺の本末の争いを停めるよう下知する(大福寺文書)
1284 弘安7 蒲御厨所役に蒲神明社を造営させる
1285 弘安8 源清行を蒲御厨検校職に補任する(蒲神明宮文書)
1286 弘安9 幕府、遠江・佐渡の両国に酒販売禁止令の徹底を命令する
1287 弘安10 源清行を蒲御厨広福寺別当職に補する(蒲神明宮文書)
1288 弘安11 比々沢平四郎左衛門尉真家、比々沢地内の田地を大福寺に寄進する(大福寺文書)
1288 弘安11 大福寺と真萱寺(摩訶耶寺)との本末の争いを、通海僧正が裁定する(大福寺文書)

1290 正応3 神助近、田地を大福寺喜忍坊に売る(大福寺文書)
1290 正応3 勧進僧永威、鴨江寺に洪鐘一口を寄進する
1290 正応3 遠江守北条時定、鎮西で没す
1291 正応4 幕府、全国の一宮と国分寺に異国降伏の祈祷をさせる

1294 永仁2 遠江の人勝間田長清の宅を冷泉為相がたずねる
1296 永仁4 西園寺公衝、浜松庄領家職を亀山上皇よりうける(亀山院御凶事記)
1296 永仁4 浜松荘内宇間郷の年貢米、奈良西大寺に寄進する

1303 嘉元1 蒲御厨神明社の造営をする
1303 嘉元1 後宇多上皇、浜松庄内岡部郷の地頭職を改めて京都加茂社の片岡社に寄進される
1303 嘉元1 このころ頭陀寺は京都仁和寺観音院の末寺である
1305 嘉元3 引佐郡気賀庄長楽寺の梵鐘を鋳る
1305 嘉元3 亀山法皇薨去。このとき遠江国飯田荘などを後伏見上皇にゆずる

1306 徳治1 後宇多上皇、遠江国宇多郷を昭慶門院にゆずる

1309 延慶2 遠江守江間政俊没す
1310 延慶3 市内滝沢町林慶寺蔵木造大日如来に胎内銘を墨書する

1313 正和2 大福寺の仁王門を建造する(大福寺文書)

1324 元亨4 幕府、武蔵金沢の称名寺にたいし天竜河などの架橋を命令する
1324 元亨4 村櫛荘の年貢米100石は、このころ60石となり、同荘は東寺領となっている

1326 嘉暦1 幕府、岡部郷地頭職を雑掌にわたすよう命令する

1330 元徳2 幕府、村櫛荘伊左地郷の未納年貢の納入を雑掌に命じる

1331 元弘1 日野俊基捕えられ鎌倉へ送られる途中、遠江菊川に泊る(太平記)
1331 元弘1 後醍醐天皇、遠江犬居の天野周防七郎佐衛門経顕に知行地を保証される(天野文書)
1331 元弘1 遠江守後北条陸奥守貞直、笠置山攻略。遠江の御家人も参加する
1331 元弘1 つづいて京都付近に転戦する
1332 元弘2 永憲、遠江国村櫛荘和地村御坊(大山寺)で写経を行う
1333 元弘3 鎌倉幕府滅亡、遠江犬居天野経顕およびその子経政、新田義貞に従い参戦する(天野文書)
1333 元弘3 遠江の御家人八木秀清上京、足利尊氏の軍に参加する
1333 元弘3 細川信氏、蒲総検校にたいし軍役を免除する(蒲神明宮文書)
1333 元弘3 足利尊氏、伊豆三島宿に対し街道や宿で乱妨するのを禁止する
1333 元弘3 遠江守護今川範国、鴨江寺の寺領を保証する
1333 元弘3 後醍醐天皇、天野景広にその知行地を保証される(加茂前田家天野文書)
1333 元弘年間 竜峯宏雲、遠江国相良郷に平田寺をひらく

1334 建武1 今川範国、八幡宮領中泉郷を守護不入の地とする(秋鹿文書)
1334 建武1 北条時行、足利高氏に攻められ橋本(新居町)で敗北
1335 建武2 天野経顕、範国に従い勢多に戦う(天野文書)
1335 建武2 中先代の乱。今川範国、名越太郎邦を小夜の中山に討ち取る
1335 建武2 尊氏、北条時行を橋本に敗る。遠江の兵も従う
1335 建武2 新田義貞、足利直義を遠江の国府・匂坂に敗ったが12尊氏に敗れ天竜河の浮橋をそのままにして西走する
1335 建武2 備後山内首藤通継、遠江国飯田荘加保村の地頭職を養子土用鶴丸にゆずる
1335 建武2 足利直義、遠江国安間弥六・弥七・余一および吉良の2氏の旧領地(遠江国富士不入斗)を駿河浅間神社に寄進する
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 15時33分57秒 ) パスワード

1336年〜1603年(南北朝、室町、安土桃山)



1336年頃 南北朝時代 南北朝の分裂により、この地域の武将も南朝方と北朝方に分かれて争う。以後数年間で、井伊城(引佐)・鴨江城・千頭峰(せんとうがみね)城(三ヶ日)・三岳(みたけ)城(引佐)・大平(おいだいら)城(浜北)などで攻防がある

1336 延元1 新田義氏、井伊氏と連絡して遠江国篠原・引馬・天竜川・袋井縄手で吉良直経・仁木義高と戦い義高天竜河原で戦死する。井伊城攻撃される
1336 延元1 足利直義、正月の勢田合戦での天野経顕の軍忠を今川範国が見知したことを認証する(天野文書)
1336 延元1 井伊城を美差太郎が攻撃、中条氏を討とる(瑠璃山年録残編裏書)
1336 延元1 吉良満義、今川氏兼に三河国須美保政所を給与する(高橋文書)
1336 延元1 蒲御厨惣検校源清保、上京して尊氏に従い今川範国これを認証する
1336 延元1 尊氏、府八幡宮に服織庄内貴平郷(浜松市貴平町)の地頭職を寄進する(秋鹿文書)
1337 延元2 今川範国、遠江国の御家人三和光継・松井助宗・横地治部丞・朝夷彦五郎をひきい、三方原で井伊氏と戦い、7.6井伊城へ攻撃をかける
1337 延元2 今川範国、八幡新宮に対し社領中泉郷に殺生禁断の禁令を与える(秋鹿文書)
1337 延元2 今川範国、遠江御家人三和光継に遠江国ニ宮庄於倶郷を与える
1337 延元2 宗良親王、井伊介道政・高顕父子に迎えられて井伊城に入る
1338 延元3 遠江守護今川心省、北畠顕家をむかえ討つ
1338 延元3 宗良親王、北畠顕家と橋本付近で合して西上する
1338 延元3 宗良親王、遠江白羽港に上陸し井伊城に入る
1339 延元4 後醍醐天皇、妙音堂領浜松荘を左衛門督に与える
1339 延元4 今川心省、井伊城を攻撃する
1339 延元4 高師泰・同師冬、大平城と鴨江城を攻め7.26鴨江城を攻略する
1339 延元4 蒲御厨惣検校源清保、北朝方に参加、高師泰これを認証する(蒲神明宮文書)
1339 延元4 千頭峯城を攻略する。この年、井伊の野臥が大福寺に乱妨する
1339 延元4 遠江守護仁木義長、遠江国初倉庄内八幡宮別当職の遵行を守護代に命令する
1339 延元4 大墓御厨より八丈絹二疋を納入する

1340 興国1 高師泰・仁木義長、三獄城を攻略する
1340 興国1 大平城を遠江守護仁木義長が攻略する
1340 義長、大平城の託磨之親の軍功に証判する
1341 興国2 高師泰、蒲御厨惣検校職を保証する
1341 興国2 浜松庄鴨江寺に検断使の乱入を停止する(鴨江寺文書)
1342 興国3 高師泰、遠江蒲御厨神明宮の造営を沙汰をする
1343 興国4 千葉貞胤が遠江守護か
1344 興国5 高師泰、遠江蒲御厨に検校職内多母木六郎入道円心の跡屋敷の田畠を寄進する(蒲神明宮文書)
1345 興国6 氷雨が降る(瑠璃山年録残編裏書)

1347 正平2 高師泰、蒲御厨検校職内の田畑を東大寺が押領するを停め、源清保に与える(蒲神明宮文書)
1349 正平4 高師泰、蒲御厨にたいし年貢の進済をうながす(蒲神明宮文書)
1349 正平4 遠江守護今川心省、尾奈郷を料所とし松井助宗を代官に任命する
1350 正平5 足利直冬、浜松荘などを詫磨宗直に与える
1350 正平5 蒲御厨惣検校源清保、北朝の勝利を祈祷する(蒲神明宮文書)
1351 正平6 斎藤杜利泰の妻尼性戒、所領村櫛荘地頭職の3分の2を京都天竜に寄進する。このころ村櫛荘の領家職は徳大寺家である。3分の1は斎藤氏の所領となる
1351 正平6 尊氏の将小笠原政長、直義の党吉良満貞の代官富永某と引間宿で戦う
1351 正平6 小笠原政長ら、直義の党上上杉憲顕と左与中山で戦う。11.26尊氏、縣川に駐軍する
1351 正平6 足利尊氏関東に発向、犬居の天野周防守を招く(天野文書)
1351 正平6 仁木義長が遠江守護に任ぜられている(野田文書)
1351 正平6 後村上天皇、光厳上皇に遠江飯田荘を保証する
1351 正平6 横地為長、遠江国大峯平山犬居村の地頭職を天野氏より横領する(天野文書)
1352 正平7 今川範氏、遠江守護職に補任される(今川家古文章写)
1352 正平7 三河と遠江の南朝軍、伊勢より近江に入る
1352 正平7 今川範国、駿河久能寺に遠江国の南朝軍退治を祈る(旧久能寺文書)
1352 正平7 浜名左近大夫清政、大福寺に遠江国の南朝軍の平定を祈る(大福寺文書)
1352 正平7 今川心省、遠江守護となる
1353 正平8文和2 足利尊氏、犬居天野景顕が南朝方の上総親王を捕えたとの今川範国の注進により感状を与える
1353 正平8 浜名清政、金剛寺(三ヶ日町)を建立し菩提所とする(金剛寺由緒覚書)
1354 正平9 仁木義良、浜松荘内鴨江寺領を保証する
1354 正平9 後光厳天皇、遠江国衙領の内、二俣・井伊谷などを熊野新宮の造営料所として寄進する

1354 文和3 龍雲寺(入野)開創

1355 正平10 今川了俊、細川清氏に従い東寺合戦に参加する清氏が浜松荘・笠原荘を領有したのを不満とし遠江国へひきあげる
1356 正平11 塩風吹く(瑠璃山年録残編裏書)
1357 正平12 洞院実夏に都田御厨の領家職を給与する
1358 正平13 浜名三河守、義詮将軍宣下参内に供奉する(室篋院殿将軍宣下記)
1358 正平13 秋、寂室元光、馬郡の如意寺に伯る
1359 正平14 今川貞世、駿遠の兵をひきいて出陣する
1360 正平15 2.26地震(瑠璃山年録残編裏書)
1361 正平16 今川貞世、三河・遠江の兵をひきいて山崎に出陣、南軍と戦う
1362 正平17 三河・遠江の兵、山名時氏討伐に参加する。このとき「遠江守護今川伊予守」が出陣する
1362 正平17 細川清氏没す。浜松荘の代官職を、吉良満貞に給与する
1363 正平18 将軍義詮、(閏)1.15の三河竹島合戦における天野直景の軍功を、吉良満貞の申立により賞する(天野文書)
1364 正平19 大炊寮浅羽荘内岡郷の年貢3貫文を割符で送る
1364 正平19 遠江国司前伊予守源朝臣直氏、府中蓮光寺に梵鐘を寄進する
1364 正平19 今川範国、東寺雑掌の訴により、柴田代人少輔房が同寺領村櫛荘の本家米を抑留するのをとどめ半済分を同時に交付する
1365 正平20 大江末光、只木神明社に掛仏をかかげる(三ヶ日町只木神明宮蔵)
1365 正平20 今川範氏没す
1365 正平20 南朝、源光遠を遠江国司にする
1366 正平21 吉良満貞、浜松荘鴨江寺の条規を定め、報恩寺以下の寺領を保証する(鴨江寺文書)

1367 貞治6 西伝寺中興

1368 正平23 京都東寺領村櫛荘で半済の新命が実施される

1370 建徳1 吉良満貞、浜松荘内嶋郷4分の1の地頭職を今川氏兼に給与する
1370 建徳1 北白河宮、京都加茂社の片岡社に対し浜松荘岡部郷を保証する
1371 建徳2 遠江国村櫛荘乙君長福禅寺において大般若波羅蜜多経を写す。応安5も行われる
1371 建徳2 今川了俊、九州探題として赴任する。遠江の横地・奥山氏ら、これに従う
1371 建徳2 無文元選、奥山六郎次郎朝藤に迎えられ奥山に入り、方広寺をひらく

1374 文中3 都田御厨の領家洞院公定、その収入銭の減少を歎く

1375 天授1 浜名左京亮、将軍義満の石清水八幡宮参詣に近習12人の1人として供奉する(花営三代記)
1375 天授1 天野景隆、近江守に任ぜられる(天野文書)
1377 天授3 都田御厨の名主と神宮とのあいだに紛争があり領家洞院公定これが解決をはかる
1378 天授4 遠江守護今川了俊、守護代長瀬尾張権守に命じ蒲御厨神明社を造営させる
1378 天授4 幕府、遠江守護に命じ、都田御厨を洞院公定の雑掌にわたさせる
1379 天授5 今川心省、遠江守護に再任する
1380 天授6 遠江守護今川心省、横地長連に犬居村の地頭職を認めたため横地氏と犬居の天野氏に紛争がおきる

1381 弘和1 浜名詮政、将軍義満に供奉する(花営三代記)
1382 弘和2 天野景隆、下野守に任ぜられる(天野文書)
1382 弘和2 宗良親王、井伊城に入るという
1383 弘和3 日乗、法華宗に改宗し鷲津本興時をひらく

1384 元中1 今川心省没す
1384 元中1 奥山朝藤、方広寺に寺領を寄進する(方広寺史)
1384 元中1 幕府、遠江国都田御厨の半分を洞院大納言家雑掌に渡付するよう、遠江守護今川了俊に指示する
1385 元中2 宗良親王、井伊城に薨去するという
1385 元中2 浜松庄鴨江寺の所務の条規を定め、報恩寺以下の寺領を保証する(鴨江寺文書)
1385 元中2 大風が吹く。この年、浜名庄に住む阿遠、遠江国笠原庄村岡郷興恩寺で大般若波羅蜜多経を書写する(蔵泉寺文書)
1386 元中3 日什、吉美郷に妙立寺をひらく。佐原氏の外護によるという
1386 元中3 幕府、天野景隆に遠江大峯・平山・犬居村の地頭職を保証し、横地長連との紛争を解決する(天野文書)
1388 元中5 遠江守護今川了俊、幕命により遠江国山香荘内大結・福沢両村の地頭職を天野寛誉息女代定職に渡付する
1388 元中5 遠江守護は今川仲秋である
1388 元中5 左兵衛佐、鴨江寺領について紛争が生じたが、もとのように鴨江寺に返付させる(鴨江寺文書)
1388 元中5 東寺領村櫛荘、年貢を割符で送る
1390 元中7 無文元選没す(方広寺史)
1390 元中7 山崎清懐、東寺領村櫛荘領家方本家米代官職を守護による半済が本復のさいは年貢代銭を10貫文納入を約し、毎年5貫文で請け負う
1391 元中8 将軍義満、蒲御厨を奈良東大寺に塔婆料所として寄進する
1391 元中8 今川仲秋、鎌田御厨の半済分を松井助宗に与える
1391 元中8 遠江守護今川仲秋、山名氏清討伐に出陣する
1392 元中9 南北朝合一

1395 応永2 義満薙髪のさい今川仲秋も出家する
1395 応永2 九州探題今川了俊、幕府から召還される
1395 応永2 今川仲秋、駿河半国の守護職を与えられ遠江に帰る
1395 応永2 瑞雲寺(佐藤町)開創
1397 応永4 大福寺御影堂を建立する(瑠璃山年録残編裏書)
1399 応永6 以後、今川泰範遠江守護職となる
1399 応永6 遠江守護今川仲秋、遠江大池郷北方の地頭職を道場の造営料として京都金蓮寺に寄進する
1400 応永7 今川仲秋、駿河半国の守護職を与えられ遠江に帰る泰範、駿河(了俊の半国もあわせて)・遠江の守護をかねる。両国とも国務(国守)と守護職をかねる
1401 応永8 恕仲天・、遠江飯田の城主山内道美氏のたのみで、崇信山を寄進する(崇信寺文書)
1401 応永8 遠江国目代に盛高がいる
1402 応永9 今川了俊『難太平記』を著す(難太平記)
1403 応永10 元応、応賀寺(新居町)に仏像を寄進する。この像は舘山寺(浜松市)旧蔵のものという(応賀寺仏像胎内銘)
1403 応永10 洞雲寺(神ケ谷町)開創
1405 応永12 尾張守護斯波義重、遠江守護となる
1406 応永13 東海道一帯に大風高潮があり、浜名利正の宇志堂崎の居館殿が流出する(利正院縁起)
1409 応永16 足利満兼、、天野景政に遠江兵粮所として笠原庄内つ土方下郷山香庄西手村内瀬尻大嶺を預ける(天野文書)
1410 応永17 将軍足利義持、東大寺大勧進惣深に同寺塔婆料所の蒲御厨地頭職を返付する
1411 応永18 恕中天・、大洞院をひらく
1412 応永19 今川了俊、仲秋のために『今川了俊同名秋仲へ制詞条々』22条を作り送るという(今川記)
1412 応永19 天野慶景の所領遠江山香荘の大結・福沢両村地頭職を、奥山某が押領した不法を排除するよう、斯波義重宛の室町将軍御教書が発給される
1412 応永19 今川了俊、この年87歳から応永25年93歳までのあいだに、遠江堀越において死亡したという
1419 応永26 斯波義重のあとをうけ、義淳遠江守護となる
1422 応永29 浜名持政、将軍義持御台御方執筆となる(花営三代記)
1422 応永29 蒲御厨内に新開(新貝町)が開拓されている
1423 応永30 東大寺の衆徒、蒲御厨において不法行為があった、と評定する
1424 応永31 浜名持政、連歌の書を書写する(梵灯庵返答書奥書)
1426 応永33 藤原朝臣直貞、大檀那として福満寺本尊薬師像を造立する(薬師像蓮台墨書)
1427 応永34 吉良義尚、授竜庵(寿量院)に畠一段を寄進する

1428 正長1 華蔵義曇が普済寺を建てる
1428 正長1 随縁寺開創(寺島町→広沢)
1428 正長1 西来院(広沢)

1432 永享4 室町将軍足利義教、鎌倉御所持氏を威圧するため、富士山見物にたくし駿河に下向、橋本・舞阪・引馬・府中を過ぎる
1433 永享5 斯波義郷、遠江守護となる
1434 永享6 幕府、尾張・遠江両国に段銭をかけ、越前の気比神社造営に寄進する
1436 永享8 斯波義健、遠江守護となる
1437 永享9 山名郡鎌田御厨阿弥陀堂の梵鐘を鋳る
1438 永享10 鎌倉御所持氏征伐に、遠江から横地・勝間田らが出征する
1438 永享10 浜名備中入道満政・浜名持政大番役に勤仕する(永享以来御番帳)
1439 永享11 聖学導之、豊田郡高薗新善光寺に梵鐘を寄進する(信濃国法全寺蔵梵鐘銘)
1440 永享12 京都東寺領の遠江国細谷郷の代官に行商人の道伊がなるが翌年年貢未納のため天野氏がかわる

1441 嘉吉1 斯波義健、駿河守護今川範忠が遠江の地を侵略したのを詰問する
1441 嘉吉1 華蔵義曇、普済寺において慶受に出家作法書を伝授する
1442 嘉吉2 金剛寺焼失、そののち持政の跡目浜名隼人正政義がこれを再建するという(浜名古城記・浜名氏系図・利正院縁起)

1444 文安1 応島久重、遠江国蒲御厨代官職請文を東大寺に呈出する
1445 文安2 万歳院を引間城近くに開かれる(後に下池川天林寺となる)
1447 文安4 未刻大風あり、摩訶耶寺堂宇大破する(摩訶耶寺文書・仁王門棟札)
1449 文安6 浜名備中入道持政、大番役に勤仕する(文安年中御番帳)

1451 宝徳3 浜名備中守政義大檀越となり、摩訶耶寺仁王門営繕、3.26棟上、4成就する(摩訶耶寺文書・仁王門棟札写)
1451 宝徳3 遠江守護代甲斐常治、天竜・橋本両渡の関所に対し、尊行状を発給する

1452 享徳1 遠江守護斯波義健没し、一族義敏がうけつぐ
1452 享徳1 蒲御厨の公文・百姓、蒲の代官応島氏が伊勢上分米の下地の知行権を横領したことを訴える
1453 享徳2 幕府、東大寺雑掌に対し、他出逃散した聖護院門跡領河匂荘百姓らの住所氏名を報告せよ、と蒲御厨の地下人に指令する
1454 享徳3 今川義忠、笠原庄一宮庄神領の諸公事を免除する(中山文書)
1454 享徳3 飯田竜泉寺建立されるという

1455 康正1 摩訶耶寺十王堂の鰐口をつくる。勧進正範。五郎左近これを奉納する(蒲郡町存寺所蔵鰐口銘)
1455 康正1 この年早魃、6鎌倉御所の足利成氏征伐のため幕府蒲御厨に対し、野状・兵粮・関東夫を徴発する
1455 康正1 新豊院(砂山)開創
1456 康正2 蒲西方の蒲検校をはじめ、蒜田・河井・西須賀などの名手を中心とし、引馬の農民と連合して引馬の土倉を襲撃し焼き払う
1456 康正2 蒲御厨の公文百姓ら徳政一揆、引馬土倉焼捨のことにつき領主の東大寺に注進する(東大寺文書)
1457 康正3 この年東大寺領の遠江蒲御厨では、早稲・中稲だけが栽培される
1457 康正3 このころ引間宿が栄えている
1457 康正3 蒲御厨の東西の公文(管理人)・百姓(名主)、年貢を請け負う

1458 長禄2 浜名神戸、御綿以下の伊勢神税を備進する(官司公文抄)

1461 寛正2 浜松荘領家吉良氏代官引馬領主大河内備中守、大河内兵庫助真家・磯島藤衛門俊家を蒲御厨代官職とする
1462 寛正3 堀江内山佐田城主堀江下野守、母のために慶受を開山として法憧院(三ヶ日町大崎)を開く(法憧院縁起)
1462 寛正3 このころ遠江守護斯波氏、伊勢大神宮領遠江浜名御厨を半済にし、臨時負担をかける
1465 寛正6 今川義忠、横地・勝間田らを従えて府中を攻め、11ついに狩野宮内少輔を殺す
1465 寛正6 別給(市内飯田町)の公文、東方代官宛に「別給村麦米大豆定役算用注進状」を呈出する
1465 寛正6 代官大河内備中入道道光から、5年分の蒲御厨西方の年貢175貫14文が東大寺油倉に送られる

1466 文正1 斯波義敏、越前・尾張・遠江3か国の守護となる
1466 文正1 命天慶受を開山とし、佐田城主堀江下野守宿芦寺を建立する
1467 応仁1 応仁の乱はじまる

1473 文明5 歌僧正広、駿河に下り2か月ほど滞在、帰途遠江の各所を訪れる(正広日記)
1475 文明7 日暹、本興寺の置文を定める
1476 文明8 遠江の横地四郎兵衛・勝間田修理亮、西軍の守護斯波義廉に味方して今川義田忠に反抗、義忠は横地・勝間田の城を囲み、両人の首級をえる
1476 文明8 横地・勝間田両氏を滅した今川義忠、帰途塩貝坂で敵の残党に夜襲されて戦死する
1476 文明8 幕府、河曲庄頭陀寺の土倉についての本郷の僧の訴えを裁決する
1479 文明11 慶受、出家作法書を大崎の法憧院において天受和尚に命じ、慶讃に授ける(宿芦寺文書)
1480 文明12 慶受、永平寺の請で登山し21世住持となり、入寺開堂する
1480 文明12 臨江寺開創
1481 文明13 永平寺21世慶受、出家作法書を自書して慶讃に付授する(宿芦寺文書)
1482 文明14 浜名神戸惣公文、浜名神戸検畑半済の旨を伊勢社家神戸司代官宛に注進する(浜名神戸検番日記)
1485 文明17 禅僧万里集九、関東下向の途次黍里(浜名郡湖西町吉美)から浜名湖をわたり、三方原を歩き、15日引馬に泊る(梅花無尽蔵)

1487 長享1 浜名三郎政明と日比沢の住人後藤九郎某、将軍義尚に従い近江の佐々木高頼征伐に五番衆として参加する(常徳院殿州御動座着到状)

1492 明応1 繁田宗治、相模鎌倉禅興寺明月院塔主玉隠英璵に住居の斎銘をつけてもらう
1494 明応3 伊勢宗瑞、縣川を奪取する目的で、数千の兵を率い遠江に侵入する
1494 明応3 このころ河匂荘に東漸寺がある
1498 明応7 遠江の海水あふれ、荒井崎を破壊し、浜名湖と通じ今切を生ずる
1498 明応7 この年災害多く、駿遠三の一帯にわたり大氷雹・大暴風雨・大津波がある(松堂禅師語録)
1499 明応8 今川氏親、遠江府八幡宮領羽鳥庄貴平郷地頭職を神主に還付する(秋鹿文書)
1499 明応8 首を詠ずる(富士歴覧記)
1499 明応8 飛鳥井雅康、富士山見物のため下向。鷲津から宇布見・引馬にでて、帰途引馬から宇布見で乗船、吉見の妙立寺で

1501 文亀1 社山の城主二俣昌長、斯波氏の武士や遠江の牢人と結び今川氏に反抗する
1501 文亀1 堀江内山佐田城堀江三郎左衛門尉、金剛寺領として土地を寄進する(大福寺文書古按写)

1504 永正1 今川氏の食客伊勢宗瑞、村櫛荘玉子郷に対し、年貢などを領家氏に納めよと指令する
1504 永正1 今川氏親・伊勢宗瑞、扇谷上杉朝良のため遠州勢を従え武蔵国に出陣、山内上杉の顕定を破る
1504 永正1 氏親駿河に帰る
1505 永正2 遠州府中蓮光寺の梵鐘(貞治3年1364鋳造)、浜松庄引間普済寺に到来する
1506 永正3 今川氏親、遠江山口12郷のうちで口入米を御師亀田太郎大夫に保証する
1506 永正3 今川氏親、本興寺に禁制をくだす(本興寺文書)
1506 永正3 浜名政明、今川氏親の将伊勢長氏に属し、松平長親の軍と三州岩津矢作川河畔に戦う(官本三河記・三河物語)
1508 永正5 今川氏親、遠江守護となり、将軍足利義尹に礼銭一万疋を進上する
1508 永正5 今川氏親、将軍足利義尹に馬を進上しようとしたが、遠江は戦乱のため信濃・三河をへて上洛させる
1510 永正7 遠江に海嘯おこり、浜名湖今切まったく崩壊する
1510 永正7 岡本新三郎信久、大福寺へ岡本郷内の畠を寄進する(大福寺文書)
1511 永正9 大河内備中守貞網、信濃・三河・尾張の兵を味方にし義達の援助で引馬城で拳兵し、堀江城を攻撃したが失敗、氏親の将朝比奈泰煕これを攻める
1513 永正10 大河内貞網、泰煕に降伏、生命を助けられる、このころ黒山(堀江)城の村櫛堀江下野守も泰煕に攻められ降伏する
1513 永正10 氏親の将朝比奈泰煕没す
1514 永正11 大河内貞網挙兵、井伊谷井伊次郎を攻めるため今川氏親飯尾賢連とともに笠井荘楞厳寺に進み、諸軍大菩薩山に陣する
1514 永正11 斯波義達、尾張の兵を率い、大河内貞網に応じ、井伊氏とともに引佐郡三獄城に篭城、朝比奈泰以これを攻略する
1516 永正13 今川氏親、鴨江寺に禁制を掲げる(鴨江寺文書)
1517 永正14 引馬城落城、大河内貞網・巨海新左衛門は自殺、斯波義達は今川氏親に降伏、普済寺において出家し、尾張に送還され、遠州はまったく今川氏の分国となる
1517 永正14 井伊千代寿、峯田郷1町6段の年貢3貫文を熊野那智神社に寄進する
1519 永正16 安方源左衛門尉信久、大福寺へ上田之内の田地を寄進する(大福寺文書)
1519 永正16 今川氏親大山寺の寺領を安堵する

1521 大永1 龍秀院(有玉北)開創
1522 大永2 浜名政明、連歌師宗長の訪問を受け、佐久城中に連歌の会を催す(宗長手配)
1522 大永2 今川氏親、本興寺に禁制をくだす(本興寺文書)
1525 大永5 今川氏親、頭陀寺千手院に対し遠江国中での加賀国の白山達職を保証し、ニ諦坊には浜松荘のうち川西の分の先達とする
1525 大永5 宇津山城主長池親能、本興寺に門前海上における殺生禁断の禁制をくだす(本興寺文書)
1525 大永5 瀬名氏貞、蒲東方之内稲荷山竜泉寺領を、大永4年の検地によって寄進する
1526 大永6 連歌師宗長、駿河から京都に帰る途中浜松荘の飯尾善四郎の亭で連歌を賦す(宗長手記)
1526 大永6 藤原朝臣直隆、伊那左郡井伊保八幡宮の梵鐘を鋳る(渭伊神社旧蔵銘写・静岡県史料)
1526 大永6 今川家、美薗万石の六郎左衛門の屋敷を砦としたため年貢や棟別を免除する(沢木文書)
1526 大永6 今川氏親「仮名目録」定める
1527 大永7 今川氏貞、清宗をして蒲惣検校職を安堵する(蒲神明宮文書)
1527 大永7 連歌師宗長、鵜津山城に泊る(宗長手記)
1528 大永8 広綱、河匂庄平間内の地を頭陀寺領として奇遇する(頭陀寺文書)
1528 大永8 藤原朝臣直隆、井伊郷八幡宮に鰐口を縣ける(正泉寺蔵鰐口銘)

1529 享禄2 二俣昌長、瀬尻善左衛門ならびに孫二郎の忠節を褒して知行を与える(遠江国風土記伝)
1530 享禄3 朝比奈泰能、頭陀寺をもとのように遠江白山先達職とする。河西別はニ諦坊を先達とする(頭陀寺文書)
1530 享禄3 井伊直久、祝田大明神に田1段を寄進する(蜂前神社文書)
1530 享禄3 寿桂尼(氏親後室)、二俣郷内阿蔵玖廷寺領を安堵する(玖廷寺文書)
1532 享禄5 宇津山城主朝比奈氏泰、本興寺領を安堵する(本興寺文書)

1533 天文2 今川氏輝、二俣郷内阿蔵玖廷寺領を安堵する(玖廷寺文書)
1533 天文2 仁和寺真光寺院尊海、駿河清見が関に下向の途次浜名の橋で1首を詠じ、引間に泊る(あずまの道の記)
1533 天文2 今川氏輝、村櫛荘大沢氏に「内海小船役」を安堵する
1533 天文2 今川氏輝、村櫛在城の大沢氏に浜名湖の運輸税を免除する
1535 天文4 今川氏輝、村櫛荘領家方と尾奈郷の棟別銭を免除し、警戒をきびしくする
1537 天文6 見付城の堀越氏、今川義元に攻められ陥落する
1539 天文8 今川義元、頭陀寺の条規を定める(頭陀寺文書)
1539 天文8 今川義元、摩訶耶寺に寺領を安堵し諸規を定める(摩訶耶寺文書)
1539 天文8 遠江に「悪風」があり、大福寺の仁王像が破壊する
1540 天文9 今川義元、妙光寺の恒武郷内の寺領等を安堵する(妙光寺文書)
1540 天文9 今川義元、蒲惣検校職を安堵する(蒲神明宮文書)
1541 天文10 引馬城主飯尾乗連、授竜庵(寿量院)領を検地した出目1町9段を新しく寄進する
1541 天文10 今川義元、見付府の町人百姓に対し年貢150貫文を請け負わせ、自治をゆるす
1541 天文10 今川義元、橋羽の妙恩寺に寺領を安堵する(妙恩寺文書)
1543 天文12 大福寺仁王尊像修理を終る(大福寺仁王像胎内銘)
1544 天文13 今川義元、大沢治部少輔に対し検地の増分を与え、佐田城の守備を命令する
1544 天文13 宗牧、井伊谷に井伊次郎、引間に飯尾豊前守をたずねる
1545 天文14 今川義元、頭陀寺に禁制を掲げる(頭陀寺文書)
1546 天文15 井伊直盛、祝田の百姓・脇者・下人たちが地主の意志にそむき、武士の被官となることを禁止する
1547 天文16 今川義元、万石の六郷左衛門屋敷の年貢を免除する(沢木文書)
1548 天文17 今川義元、本田縫殿助に「溱役」・「渡津の船役」を給与する
1548 天文17 今川義元、遠江国に対し検地をおこなう。以後20年・22年・弘治2年・3年と実施する
1551 天文20 木下藤吉郎(秀吉)松下加兵衛に仕える
1551 天文20 今川義元、駿河大宮浅間神社の慶学坊に、駿河・遠江の山伏を統制させる
1552 天文21 鵜殿長持、飯尾乗連らの外護を得て本興寺仏殿(重文)の修復をおこなう(本興寺仏殿修復棟札写)

1556 弘治2 中嶋村六本松の諏訪社を、浜松に移す(諏訪大明神)
1556 弘治2 山科言継、駿河府中に下向のとき、白須賀・今切渡・舞坂で1宿、引馬にでて引馬川・天竜川を渡り、帰途見付・池田・天竜川をすぎて引馬につく(言継卿記)
1556 弘治2 今川義元、在天和尚が曹源院(宗源院)を建立した労功に対し、来迎寺領を寄進する

1558 永禄1 奈良興福寺別実暁、京都から鎌倉へ下向の途次、橋本・池田・国府を通る(実暁記)
1559 永禄2 今川氏、駿河・遠江・三河の宿駅に対し、伝馬一疋の用意を命令する
1560 永禄3 今川氏、皇大神宮御師で今川氏の祈祷師足代玄蕃に対し分国の駿遠三国内の檀那を巡回するための伝馬手形を与える
1560 永禄3 今川氏真、遠江の本間五郎兵衛尉に「紺掻役」を安堵させる
1561 永禄4 今川氏真、川匂荘大柳村の与三郎が年貢の未進分を弁済したので明主職を給与する
1562 永禄5 今川氏、今切に繋ぐ船2艘に印判・過書を与え、運送の際は村櫛・新居に寄航する要はなく、湖上の運航を中止してもこの2艘は特別の旨、指令する
1562 永禄5 井伊直親、掛川城主朝比奈泰能に殺される
1562 永祿5 今川氏真、引間城に井伊尾豊前守、連龍を攻める
1563 永禄6 今川氏真、松下筑後入道に浜松荘因幡郷などを給与する
1563 永禄6 今川氏、遠江浜名郡の某郷の指導者に対し年貢納入以前に借米・借銭の催促・俵物の移動禁止など年貢収納について指示する
1563 永禄6 今川氏、中安兵部少輔安定の処分をきめた朱印状を宇布見郷の今川氏代官中村源佐衛門に下達する
1563 永禄6 今川氏真、遠江堀江で「下方枡」を採用する
1564 永禄7
家康の兵、鷲津本興寺に乱入する、氏真頭陀寺城を攻撃

1564 永禄7 今川氏真、尾奈郷を浜名三郎政明に扶助する
1564 永禄7 氏真と引馬城主飯尾連竜、和を結ぶ
1565 永禄9 家康、重ねて両名に記請文を送る、2家康、加賀守に所領安堵状をあたえる
1565 永禄8 氏真、江馬安芸守・加賀守に所領安堵状をあたえる、また三浦与次に引馬領内において所領をあたえる
1565 永禄8 引馬城主飯尾連竜、駿河府中で氏真に誘殺される、家康、江馬安芸守・加賀守に記請文を送る
1565 永禄8 遠江見付国府の米屋弥九郎、見付城の塀・柱などの修理をつとめ、今川氏から酒役を免除される
1565 永祿8 東漸寺(成子)に五輪塔
1566 永禄9 今川氏真、飯尾豊前守を成敗したときの、三浦正俊の戦功に対し、その子与次に、引馬領内に所領を与える(小栗文書)
1567 永禄10 氏真、浜名湖西岸に境目城を築く
1567 永禄10 今川氏真、井伊谷に徳政令を発するが、井伊直政は祝田郷中・都田上下の給人衆に命じその実施をさまたげる
1567 永禄10 氏真、鈴木重時・近藤康用に引馬領内において所領をあたえる
1567 永禄10 里村紹巴、頭陀寺に泊り、気賀の山村修理亮の邸で連歌の会、本坂峠路途絶のため浜名湖を舟でわたる
1567 永禄10 今川氏真、入野郷のうち、年貢105貫文の土地を熊野那智神社に寄進する
1568 永禄11 分器稲荷、創建されるという
1568 永禄11 引馬領入野郷の住民、「引間城内之堀25間」の修築を課せられる(米良文書)
1568 永禄11 今川氏真、再び井伊氏に徳政を命令する
1568 永禄11
徳川家康、浜松に入り町名主を留任させる

1568 永禄11
徳川家康、遠江に侵入、道案内井伊谷三人衆、18引馬城に入る

1568 永禄11 井伊氏、都田に給人をいれる
1569 永禄12
浜名三郎政明、徳川家康の進駐に抵抗し、浜名城を退城する

1569 永禄12
堀江城大沢基胤ら、宇布見のとりでを攻撃、2家康、宇津山城を奪回、3気賀堀川のとりでを攻略、堀江城大沢氏降服する、

1569 永禄12
徳川家康、遠江での作戦にあたり、舞坂に対し伝馬押立夫など一切の提供を禁止する

1569 永禄12
家康懸川城を攻略する

1569 永禄12
徳川家康、見付の問屋衆12人に枡座を結成させ、判をついた枡を遠江での法廷枡と定める

1569 永禄12
徳川家康、山野荘土橋郷8貫文を熊野那智神社に寄進する

1569 永禄12
今川氏管理の今切渡、この年から徳川家康の管理にうつる

1569 永禄12
この年末までに家康の遠江経営はほぼその全土におよぶ

1570 元亀1
徳川家康、引馬(浜松)に移る(当代記)

1570 元亀1
中安兵部少輔安定、姉川の合戦で勇戦し、家康の馬前で戦死する

1570 元亀1
家康、上杉輝虎に浜松城の図を贈る、9改めて浜松に入城する

1570 元亀1 家康、三河随念寺に対し井伊谷の地を寄進する
1571 元亀2 信玄、田中城に進出、大井川をわたり遠江に侵入、3高天神城を包囲する
1571 元亀2 延暦寺、徳川家康に対し蓮華寺領と一宮杜僧職をかえすことを申しいれる
1571 元亀2
家康、嫡子信康の元服を祝い、浜松城で能楽を催す

1572 元亀3 信玄、遠江・三河侵入を宣言する
1572 元亀3 信玄、甲斐府中を発し、遠江に侵入する
1572 元亀3 家康、三方原において信玄と戦い敗れる
1572 元亀3 この年、信玄、刑部において、越年する

1573 天正1 家康港湾の関所に津留めを命令する
1573 天正1 室町幕府滅亡
1573 天正1 船越村と池田村の天竜川渡船掟を定める
1574 天正2
家康、犬居城に天野景貫を攻める

1574 天正2 勝頼、高天神城を包囲、小笠原長忠は降服する
1574 天正2 西嶋村海岸に唐船が漂着する
1575 天正3 家康、諏訪原城を攻略し、牧野城と改める
1577 天正5 武田氏、遠江白羽郷に対し、逃亡中の農民の還住を命ずるとともに「渡海の奉公」を義務づける
1577 天正5 松尾社、旧塩市口より本魚町に移るという
1578 天正6 浜松城を修築する
1578 天正6 遠江に地震がおこる
1579 天正7 家康、三河良良に放鷹する
1579 天正7 松平家忠奉行、浜松城を修築する
1579 天正7 秀忠、浜松城に生まれる
1579 天正7 晦日家康正室築山殿、佐鳴湖湖畔小籔において殺される
1579 天正7 信康、父家康の命により二俣城に切腹する、21歳
1580 天正8 家康、五郎太郎を浜松荘の大工職とし、大工を統制させる
1580 天正8 家康、入野竜雲寺の「大宮」に対し、入野本所領と竜雲寺領を住持瑞椿にゆずることを要請する
1580 天正8 五社明神、浜松城内から常寒山へ遷座、このとき金山社・法雲寺もともに城内から移転するという
1581 天正9 高天神城陥落、城将岡部長教戦死する
1581 天正9 浜松城を修築する
1582 天正10 織田信長、武田勝頼父子を滅し、家康の歓待をうけ東海道を安土城に向かい、4.16池田宿から、家康が大天竜に架けた舟橋をわたり、小天竜をこし浜松城に泊る
1582 天正10 織田信長、浜松をでて、「御座船」で今切を渡り、家康の饗宴をうける
1582 天正10 家康、普済寺客殿を造営する
1582 天正10 徳川家康、三河の竜海院に対し遠江・三河両国の伝馬手形を与える
1583 天正11 家康、浜松城に前太政大臣近衛前久(竜山)を饗応し、今川宗・(氏真)も陪席する
1583 天正11 徳川家康、分国中で黄金は守随の秤で商売することを示指する
1583 天正11 徳川家康、可睡斎を三河・遠江・駿河3国の僧録司とする
1583 天正11 家康、浜松荘の樹福院観音領に棟別銭を免除する
1584 天正12 家康、三河・遠江に徳政令を出す
1584 天正12 高力忠房、浜松で生まれる
1586 天正14 家康、鴨江寺に対し諸役を免除する、また大通院の条規を定める
1586 天正14 徳川家康、浜松城を去り、駿河城に移る(家忠日記)
1587 天正15 家康、この年から同18年にかけて駿府・岡崎間の各宿駅に伝馬朱印状を発する
1588 天正16 徳川家康、天正15年分の宇布見の年貢を吉美御蔵と浜松御蔵に納めさせる
1589 天正17 家康、和地村に七か条定書を下付する
1589 天正17 家康、7か条法度で「下方枡」を公定枡とする
1589 天正17 家康が三河・遠江・駿河・甲斐・信濃に総検地
1590 天正18 秀吉、頭陀寺に禁制を下す
1590 天正18 豊臣秀吉、二諦坊に寺領45石を寄付し、三河・遠江・駿河3国の白山先達を安堵する(二諦坊文書)
1590 天正18 堀尾吉晴、近江佐和山より入府、浜松城主となる
1590 天正18 浜松魚商人、城内から本魚町に移るという
1591 天正19 秀吉朝鮮攻略、軍役令を遠江・駿河・伊豆・三河などに出す
1591 天正19 「清次男女」村櫛観音堂に鰐口を寄進する

1593 文禄2 堀尾吉晴、普済寺に制礼を下す

1599 慶長4 堀尾忠氏、吉晴を継ぎ浜松城主となる
1600 慶長5 関ヶ原の戦
1600 慶長5 市野惣太夫遠江の代官となり浜名十郷その他を支配する
1600 慶長5 堀尾忠氏、出雲松江へ転封となる
1600 慶長5 菩提寺(市内三組町)ができる
1600 慶長5 本魚町の魚商、肴町に移る
1600 慶長5 今切関所(新居関所)開設
1601 慶長6 伝馬制度定まる、十王町を伝馬町と改め、伝馬役町とし問屋会所をおく
1601 慶長6 松平忠頼、美濃金山より入府、浜松城主となる
1601 慶長6 気賀関所開設
1602 慶長7 彦坂光正、飯田新田町百姓中に新田開発を促す
1603 慶長8 徳川家康、征夷大将軍に捕せられ幕府を江戸にひらく
1603 慶長8 三州塩の気賀入荷を禁ずる
1603 慶長8 下垂町の真宗道場、芳蘚寺と称する
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 15時37分36秒 ) パスワード




     そうか!

     1600 慶長5 堀尾忠氏、出雲松江へ転封となる


     これを見て閃きました!


     服部兼三郎(旧姓堀尾でしたよね)が浜松出身の豊田の創業者にお金をポンと出したのは
       
          浜松つながり

     だったのかなと。 





[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 15時41分12秒 ) パスワード

1603年〜1716年(江戸(前期))


1604 慶長9 東海道に一里塚がおかれる
1607 慶長12 角倉了意、天竜川の川底を掘って舟道を開き、堤防を修理する
1609 慶長14 水野重仲、常陸より入府、浜松城主となる
1610 慶長15 龍禅寺観音堂の開帳がはじまるという
1611 慶長16
水野重仲、遠江国で隼を求め、家康に献上したが返却される

1614 慶長19 二代将軍秀忠、五社・諏訪両明神に参詣する

1615 元和1 二代将軍秀忠、五社・諏訪両明神に参詣する
1615 元和1 貴平村、綿作の検見引を歎願する
1616 元和2 杉浦助右衛門、浜松伝馬町に旅人の止宿をいとなむ(本陣)
1616 元和2 浜松宿の伝馬数75疋となる
1616 元和2 浜名代官市野惣太夫没する
1617 元和3 鹿島に十分一番所ができる
1618 元和4 杉浦助右衛門御本陣日記の記帳がはじまる
1619 元和5 水野重仲、紀伊新宮へ転封となる
1619 元和5 高力忠房、武蔵岩槻から入府、浜松城主となる
1619 元和5 幕府、高力忠房に、伝馬人足の朱印改め、荷物の貫目改めの励行を命ずる
1619 元和5 服部権太夫、今切関所奉行役屋敷を志都呂村に設ける
1620 元和6 中泉代官、三方原に野米27石を課し、地元の和地・祝田・都田の3ヵ村に分納させる
1623 元和9 幕府、三方原入会につき裁許を下す
1623 元和〜寛永 高力忠房、このころから寛永年間にかけて検地・新田改めに意を用いる
1623 元和〜寛永 高力忠房、浜松の「町割」を励行する

1631 寛永8 浜松宿問屋役、2人上下月番、当番制となる
1631 寛永8 高力忠房の次男長房死去、池川村天林寺に葬る
1631 寛永8 助郷制度ができる
1634 寛永11 下石田村の農民と、安間新田村七朗左衛門との間に、田地の所有権につき紛擾がおきる
1634 寛永11 三代将軍家光、五社・諏訪両明神に参詣する
1634 寛永11 高力忠房、遠江で5千石加増となる
1635 寛永12 幕府、外様大名に参勤交代を命じる
1637 寛永14 助郷制が定まり、浜松宿助郷村に5ヵ村を指定する
1638 寛永15 高力忠房、五社・諏訪両明神に手洗鉢を献納する
1638 寛永15 伝馬を100疋と定め、塩町を伝馬役町に加える
1638 寛永15 高力忠房、肥前島原へ転封となる
1638 寛永15 松平(大給)乗寿、美濃岩村より入府、浜松城主となる
1639 寛永16 このころ市野宿に伝馬があったという
1641 寛永18 五社・諏訪両明神、常寒山に竣工する
1641 寛永年間 高力忠房、領内から「人足」を徴発して用水を作り、新田開発に着手する
1641 寛永年間 金山社を清水谷にうつす

1644 正保1 松平乗寿、上野館林へ転封となる
1644 正保1 太田資宗、三河西尾より入府、浜松城主となる
1647 正保4 有玉村高林伊兵衛忠吉、藩主太田資宗から代官役に任命される
1647 正保4 旅籠町伊藤平左衛門・同町杉浦惣兵衛・伝馬町梅屋市左衛門家御本陣日記に初見
1647 正保4 このころ平田町を八軒町とよぶ
1647 正保年間 四本松村の五右衛門、松嶋新田を開墾する

1648 慶安1 服部中(保俊)、今切関所奉行となる
1649 慶安2 薬師堂、新堂から七軒町に移る
1650 慶安3 本陣連尺町佐藤与左衛門家、御本陣日記に所見
1651 慶安4 江之嶋村、検地をうける
1651 慶安4 三方原の地元都田村と入会村の宮口村との間に、山境について論争がおきる
1651 慶安4 本魚町松尾神社を再建する
1651 慶安年間 このころより以前に、笠井市が開かれていたという

1652 承応1 八軒町を平田町と改める
1653 承応2 大瀬村、本田・新田の検地をうける
1653 承応2 西鴨江村花学院馬頭観音堂を再建する
1653 承応2〜3 このころ馬込橋、土橋を板橋にする
1654 承応3 北島村、慶長16年ごろにくらべて分付百姓がふえる(北島村検地帳)
1654 承応年間 このころから寛文・延宝のころにかけて浜松藩検地を本格的に実施する

1655 明暦1
大風雨、浜松城被害をうける

1659 万治2 道中記、浜松宿の泊りおよび舞坂間の駄賃について記す

1662 寛文2 肴町大安寺を創建する
1662 寛文2 西山宗因、浜松の清長を訪れる
1662 寛文2 入野村彦尾の不動堂の開眼が行われる
1664 寛文4 独湛、初山宝林寺を建立する
1664 寛文4 太田資宗、知行地の朱印状(寛文印知)をうける
1665 寛文5 幕府、諸宗寺院法度を公布する
1665 寛文5 村櫛村、宇布見村と浜名湖採藻権について争い、裁許をうける
1665 寛文5 三方原地元祝田村と入会村の刑部村との間に論争、幕府裁定を下す
1665 寛文5 掛塚村庄屋、茅野新田の開発を中泉代官所へ願い出る
1666 寛文6 山梨町民、坪井村で肴と蓙を交換し咎められる
1667 寛文7 福嶋村、検地をうける
1668 寛文8 肴町役人、肴町の御由緒書を町奉行土肥与五右衛門に提出する
1668 寛文8 新町の徳兵衛、肴の隠売をし、肴町商人に詫状を入れる
1671 寛文11 琉球人使節、浜松宿に泊る
1671 寛文11 太田資宗、五社・諏訪両明神に石灯篭を献納する
1671 寛文11 太田資次、父資宗致仕のあとを継ぎ浜松城主となる
1671 寛文11 天林寺塔頭養仙寺を松島新田に移す
1671 寛文11 大通院塔頭安泉寺を米津村に移す
1672 寛文12 浜名湖採藻に関し、裁許証文を下す
1672 寛文12 三方原地元村の、都田村、三方原に新田開墾をこころみ、中郡諸村との間に紛争がおきる
1672 寛文年間 浜松宿総戸数1,111戸

1673 延宝1 都田地方早魃、雨乞をする
1674 延宝2 馬込川氾濫、田町付近まで浸水する
1675 延宝3 太田資次、五社・諏訪両明神に石灯篭を献納する
1675 延宝3 浜松宿の退転馬の吟味をする、当時有馬47疋
1675 延宝3 小天竜の締切り工事、彦助堤ができるという
1676 延宝4 横須賀村・中条村、綿作の検見引を歎願する
1676 延宝4 五社明神の社前、杉山において能楽が行われる
1676 延宝4 石窓、天神町村に大雄庵を開く
1677 延宝5 太田資次、五社・諏訪両明神の修復を奉行する
1677 延宝5 宗覚、白須村に慈雲寺を開く
1678 延宝6 杉浦国頭、後道に生まれる
1678 延宝6 太田資次大坂城代になり、「御送馬」を白須賀宿まで出し庄屋代表3人が「見送」をする
1678 延宝6 青山宗俊、大坂城代より、浜松城主となる
1679 延宝7 青山忠雄、宗俊を継ぎ浜松城主となる
1679 延宝7 青山忠雄、遠州松茸・浜名納豆・入野鮒・密柑を将軍家へ献上する
1680 延宝8 大風、浜松城破壊し、浜松の潰家358戸に及ぶ、7遠州灘に大潮襲来、寺嶋八幡地の木綿大豆不作
1680 延宝8 永井随庵「随庵見聞録」著す

1681 天和1 鴨江観音の開帳がはじまるという
1682 天和2 琉球人使節浜松宿に泊る
1682 天和2 朝鮮人賀使、浜松宿に泊る
1682 天和2 青山忠雄、浜松の町検地を実施し、惣町屋敷を改める
1682 天和2 村櫛村民、領主大沢氏に藻草運上につき、手形を進上する

1684 貞享1 浜松城主青山忠雄、佐鳴湖に遊ぶ
1685 貞享2 青山忠重、忠雄を継ぎ浜松城主となる
1685 貞享2 浜松秋葉社の祭典賑わう
1685 貞享2 村櫛村の鳥浦につき、由緒書ができる
1686 貞享3 大久保村と宇布見村の境界争いが解決する

1689 元禄2 西鶴、その著一目玉鉾に、浜松町の繁盛を記す
1690 元禄3 上島鬼貫、遠江を旅する
1690 元禄3 三方原地元祝田村と都田村との間に紛争がおこり、幕府裁定を下す
1690 元禄3 高林伊兵衛忠勝、藩主から代官に任命される
1690 元禄3 白羽村、柑子を献上する
1691 元禄4 浜松城内家中屋敷に火災がある
1691 元禄4 高塚村と小沢渡・新橋・増楽・若林の4ヵ村との間に、高塚川の漁猟について紛争がおきる
1693 元禄6 この年三郎五郎新田の石高46石
1694 元禄7 助郷制確立、定助郷・大助郷の制を定める
1694 元禄7 鶴嶋新田、検地をうける
1697 元禄10 賀茂真淵、敷智郡伊場村に生まれる
1697 元禄10 風雨、寺島八幡地の木綿・大豆不作
1698 元禄11 天竜川、川越嶋にて決潰、中野町屋ほか5ヵ村洪水
1698 東海道不通となり、佐藤一色村から下石田村まで渡船となる
1699 元禄12 平田町大工棟梁役桑原源右衛門、藩主の命をうけて惣町絵図を作成する
1699 元禄12 石窓、初山宝林寺四代を継ぐ
1699 元禄12 風雨、寺嶋八幡地の木綿・大豆不作
1700 元禄13 浜松城内家中屋敷、火災
1702 元禄15 青山忠重、丹波亀山へ転封となる、「引越」のため高100石につき馬半匹の役を領内に命じる
1702 元禄15 松平(本庄)資俊、常陸笠間より入府、浜松城主となる
1702 元禄15 西嶋村、鮗一束に376文を上納する
1703 元禄16 浜松町奉行、浜松宿勢を調査する、通筋町11町の戸数646戸、総戸数1,386戸、人口4,336人
1703 元禄16 杉浦国頭、荷田春満に入門する
1703 元禄16 松島村、村差出帳を提出する
1703 元禄16 市野村と小池・天王両村との間に水論を生ずる
1703 元禄16 松嶋村の五右衛門家、掛塚湊で廻船業をいとなむ
1703 元禄16 国領組のう18ヵ村、入草割千石夫を課す
1703 元禄年間 高薗村で紫染がはじまる
1703 元禄年間 寛文から元禄へかけて新田検地を励行する

1704 宝永1 笹瀬村蔵福寺へ隕石が落下する
1704 宝永1 石窓、初山宝林寺で示寂する
1704 宝永1 法源、初山宝林寺に入る
1704 宝永1 高畑村・油一色村、綿作の検見引を歎願する
1704 宝永1 五社神官森暉昌、荷田春満に入門する
1705 宝永2 杉浦国頭家にはじめて歌会をひらく
1705 宝永2 句集「はまづと」出版される
1705 宝永2 俳書「俄雨」出版される
1706 宝永3 浜松城内家中屋敷火災
1706 宝永3 福嶋村、船年貢に田作鰯を上納する
1707 宝永4 東海道に地震、今切渡橋が杜絶、本坂道混雑する、浜松城下潰家71軒、救米を放出、浜名湖岸山崎村津浪困窮する
1707 宝永4 杉浦真崎、この年から元文ころまでに、歌集「やどの梅」8巻著わす
1708 宝永5 杉浦国頭、春満とともに「両吟百首」をつくる
1709 宝永6 浜松・舞坂・新居・白須賀・二川・吉田の六宿、本坂道の人馬継立中止を歎願する
1710 宝永7 琉球人使節、浜松宿に泊る
1710 宝永7 琉球人使節随臣、浜松宿で病死する
1710 宝永年間 浜松宿総戸数1,495戸

1711 正徳1 法源、半田村に実性寺を開く
1711 正徳1 朝鮮使節通行、浜松宿に泊る、東海別・西海別の船舶、徴発される
1711 正徳1 天竜川に川高札が立つ
1711 正徳1 「頭陀寺薬師道」の道標建立、浜松最古
1712 正徳2 風雨、寺嶋八幡地の木綿・大豆不作
1712 正徳2 連尺町が役町に加わり、御役町6か町となる
1712 正徳2 中田嶋村・白羽村は舟役、法枝・田尻・新橋・堤・小沢渡の各村は小網役を勤める
1713 正徳3 法源、舟岡山大智寺に移る
1713 正徳3 浜松宿有馬34疋となる
1713 正徳3 塩町商人と宇布見・山崎両村の製塩業者との間に紛争がおきる
1713 正徳3 宇布見村で鳥浦を行う
1713 正徳3 恒武村小栗家の歳々有物帳の記帳はじまる
1714 正徳4 風雨、寺嶋八幡地の木綿・大豆不作
1714 正徳4 琉球人使節、浜松宿に泊る
1714 正徳4 この年より大工町若宮八幡社、八幡宮の旅所となる
1715 正徳5 浜松城下絵図を作製する

1716 享保1 倉松新田を開発する
1716 享保1 恒武村、綿作の検見引を歎願する
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           桓武村って?
           不思議な名前!
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 15時53分27秒 ) パスワード

1717年〜1836年(江戸(中期))


1717 享保2 風雨、寺嶋八幡地の大豆・木綿不作
1717 享保2 本坂道の通行を停止する
1717 享保2 浜松町民、鴨江観音堂の地築に奉仕する
1718 享保3 塩町と和田村との間に紛争がおきる
1718 享保3 (閏)10琉球人使節、浜松宿に泊る
1718 享保3 塩町の塩専売権につき裁定がくだる
1718 享保3 鴨江観音堂、再建落成する
1719 享保4 朝鮮人賀使、、浜松宿に泊る
1719 享保4 荒井湊の廻船、鳥島に漂着する
1719 享保4 国領組53ヵ村の人口1万4,562人のうち男女の出人合計3,843人に達する
1719 享保4 法源、上大瀬村に実相庵を開く
1720 享保5
杉浦国頭・柳瀬方塾など月並歌会をひらく(宝暦3年ごろまでつづけられる)11真淵はじめて出席する

1721 享保6 風雨、寺嶋八幡地の木綿・大豆不作
1721 享保6 浜松宿役人、本坂道・鳳来寺道の道筋について答申する
1722 享保7 柳瀬方塾、荷田春満を迎え、自宅に歌会をひらく、国頭ら10人が出席する、この年真淵はじめて春満にあう
1722 享保7 山城国宇治三宝院、馬込村の修験者に法事は山伏中間で執行するよう指令する
1722 享保7 松平資訓、資俊を継ぎ浜松城主となる
1723 享保8 七軒町と上新町の境に、巡礼供養碑ができる
1723 享保8 真淵、国頭とともに駿河沼津浅間宮奉納百首歌に出詠する
1724 享保9 国頭・方塾ら11人、万斛村甘露寺で梅見の歌会をひらく
1724 享保9 七軒町普大寺不動尊の開帳が行なわれる
1724 享保9 国頭・方塾ら9人、蒲神明宮において「社頭松」の題詠歌会をひらく
1724 享保9 浜松の宿吟味する
1724 享保9 西遠地方、木綿豊作
1725 享保10 茶壼道中、浜松宿に泊る
1725 享保10 定助郷・大助郷の区別を廃止する
1725 享保10 賀茂真淵、浜松宿本陣梅谷の婿養子となる
1726 享保11 五嶋新田開拓、水路の源太夫堀が竣工する
1726 享保11 浅田・伊場・若林村地域に新堀ができる
1726 享保11 西遠地方、木綿豊作
1727 享保12 国頭・方塾ら13人、竜禅寺で詩歌の会をひらく
1727 享保12 茶壼道中、浜松宿に泊る
1727 享保12 服部保庵没する
1728 享保13 馬込川氾濫、板屋町・田町一帯が冠水する
1728 享保13 浜松宿質屋業者、業者間の規約を定める
1728 享保13 この年、浜松宿質屋21軒
1728 享保13 杉浦国頭、百人一首の講義をおこなう
1729 享保14 大象が浜松を通過し、見物人で賑わう
1729 享保14 国頭・方塾・春隅栖(真淵)ら8人、佐鳴湖西岸の臨江寺で月見の歌会をひらく
1729 享保14 塩町商人と気賀町衆との間に紛争がおきる
1729 享保14 法源、遠州を去る
1729 享保14 松平資訓、三河吉田へ転封となる
1729 享保14 松平(大河内)信祝、三河吉田より入府、浜松城主となる
1729 享保14 杉浦国頭、百人一首の講義をおこなう
1730 享保15 松平信祝、老中職となる
1730 享保15 抜けまいり流行、気賀関所の命により都田村民沿道を警戒する
1730 享保15 旧浜松城主松平資訓、浜松秋葉社へ灯籠を寄進する
1732 享保17 (閏)5真淵の父岡部政信(宗閑居士)没する
1733 享保18 真渕、上京して春満に学ぶ
1733 享保18 都田川破堤、上都田・下都田の両村、修理を歎願する
1734 享保19 馬込川出水、板屋町・田町・早馬町一帯に濁流が及ぶ
1734 享保19 浜松において尽敬皇帝千年祭式を挙行する
1734 享保19 杉浦国頭、浜松を中心とした遠江の神官たちに日本書紀の講義をおこなう
1734 享保19 上都田・下都田の両村、年貢の小割に遅れ、咎めをうける
1735 享保20 浜松藩、目安箱を採用する
1735 享保年間 このころから鴨江観音堂の彼岸会が賑わうという

1736 元文1 志都呂松平領、上都田村・下都田村・笠井新田村・志都呂村の庄屋、志都呂陣屋に捕らえる
1737 元文2 賀茂真淵はじめて江戸に出る
1739 元文4 塩町と馬郡村との間に紛争がおきる
1739 元文4 柳瀬方塾、江戸に出て和歌を講ずる
1740 元文5 杉浦国頭「日本書紀神代巻講義」13巻を著わす
1740 元文5 柳瀬方塾没する
1740 元文5 杉浦国頭没する
1740 元文5 馬淵、浜松に帰省、このときの紀行を「岡部日記」という
1740 元文5 内山真竜、豊田郡大谷町で生まれる

1741 寛保1 浜松惣町町屋敷の検地をする
1741 寛保1 東金折村と老間村との間に水論が生ずる
1742 寛保2
賀茂真淵『万葉集遠江歌考』著す

1743 寛保3 奈川新田の検地をする

1744 延享1 米津浜に大漁があがり、人魚という評判がたつ
1744 延享1 松平信祝、没する(老中在職)、信復浜松城主となる
1744 延享1 弥助新田を開発する
1745 延享2 真淵、浜松に帰省、このときの紀行を「後の岡部日記」という
1745 延享2 三方原において無断集会を禁ずる
1745 延享2 浜松付近の寺院、鴨江寺において出開帳をする
1746 延享3 舞阪村、鰹一本288文の割で鰹釣船運上を上納する
1746 延享3 真淵、田安宗武に和学御用を仰せつけられる
1746 延享3 国満、尽敬会を開催し「日本書紀」の講義をする(翌4年も開かれる)
1747 延享4 村櫛村火事、102軒焼失する
1747 延享4 夏、庄内方面早魃、百姓困窮する
1747 延享4 浜名湖藻草を採取し、厳罰をうける
1747 延享4 船越渡船と馬籠渡船の相違について、幕府へ答申する
1747 延享4 肴町商人、由緒書を提出する

1748 寛延1 蒲神明神官蒲清兼没する
1748 寛延1 庄内方面、早魃、米・木綿豊作
1748 寛延1 琉球人使節、浜松宿に泊る
1749 寛延2 松平信復、三河吉田へ転封となる
1749 寛延2 松平(本庄)資訓、三河吉田より入府、浜松城主となる
1749 寛延2 庄内方面、大暑木綿半気
1749 寛延2 安間村と安間川下の井組21ヵ村との間に水論がおきる
1749 寛延2 真淵、「万葉解」を著わす
1750 寛延3 入野村に「青面金剛塔」建つ
1750 寛延3 喜多嶋村、柑子を献上する

1751 宝暦1 篠原村漁民、入野川で鳥浦を行ない、紛争がおきる
1752 宝暦2 森暉昌没する
1752 宝暦2 安間新田普伝院に千体堂ができる
1752 宝暦2 松平資昌、資訓を継ぎ浜松城主となる
1752 宝暦2 浜松藩、遠州大念仏を禁止する
1753 宝暦3 教興寺住職其上人没する
1754 宝暦4 杉浦真崎没する
1754 宝暦4 浜松宿の有馬が減少、助郷村から雇馬30疋補う
1756 宝暦6 俳人太田巴静の笠塚ができる
1757 宝暦7 早出村、村方諸人用割合帳を記帳する
1758 宝暦8 松平資昌、丹後宮津へ転封となる
1758 宝暦8 井上正経、京都所司代より浜松城主となる
1758 宝暦8 浜松藩、遠州大念仏を禁止する
1758 宝暦8 白隠、高塚村地蔵院に滞在する
1759 宝暦9 浜松町奉行川原甚左衛門、浜松宿各町役人に命じ、町別に調書を提出させる
1759 宝暦9 浜松宿総戸数1,698戸
1759 宝暦9 井上藩、遠州大念仏を禁止する
1759 宝暦9 白隠禅師の「八重葎(やえむぐら)」板行される
1760 宝暦10 真淵、隠居を許され、その後も田安家の和学御用を仰せつけられる
1760 宝暦10 浜松城主井上正経、老中となる
1760 宝暦10 浜松領内の木綿製品の幅尺を規制する
1760 宝暦10 井上藩、遠州大念仏を禁止する
1760 宝暦10 賀茂真淵が「万葉考」を著す
1762 宝暦12 大沢領堀江村漁民、禁猟の内浦で鯐を捕獲し、領主に詫状を入れる
1762 宝暦12 松嶋村の五右衛門家、浜松藩の年貢米の江戸廻送御用を命ぜられる
1763 宝暦13 真淵、大和に旅する、伊勢松坂において本居宣長に逢う
1763 宝暦13 浜松城主井上正経、老中職を退く

1764 明和1 本居宣長、真淵に入門の礼をとる
1764 明和1 朝鮮人賀使、浜松宿に泊る
1764 明和1 琉球人使節、浜松宿に泊る
1764 明和1 本坂道、道中奉行の支配となる
1764 明和1 石塚竜麿、敷智郡細田村に生まれる
1765 明和2 滝沢村と川名村の境界争いが解決する
1766 明和3 杉浦国満没する
1766 明和3 井上正定、正経を継ぎ浜松城主となる
1766 明和3 新居町方面にお鍬祭が流行する
1766 明和3 杉浦国満の長男管満、父の職を継いで諏訪社の大祝となる
1766 明和3 賀茂真淵「万葉集竹取翁歌解」を著す
1767 明和4 都田村方面において鍬祭が流行する
1768 明和5 俳人橋爪理交没する
1768 明和5 志都呂松平領、上都田村・下都田村の村民、江戸表へ越訴を企だて捕えられる
1769 明和6 賀茂真淵没する
1769 明和6 高林方朗、長上郡有玉村に生まれる
1771 明和8 薬師村庄屋は打首、永田村庄屋は永牢の刑をうける
1771 明和8 入野村・志都呂村方面にお鍬祭が流行する
1771 明和年間 浜松齢松寺の住持、本山東本願寺の命により、遠州の奥山に本山の棟木をさがす

1772 安永1 紺屋町から出火、連尺・神明・田町・板屋方面延焼する
1772 安永1 浜名湖大潮、宇布見村300戸被害うける
1773 安永2 普明、大雄庵に入る
1773 安永2 米津村に難破船漂着、抜荷の冤罪で村民罰せられる
1775 安永4 渡辺蒙庵没する
1775 安永4 浜松医官永井篤士祐、賀川玄迪の「産論翼」を出版する
1776 安永5 若宮八幡社に大工町氏子中、湯釜を寄進する
1777 安永6 上之郷ほか2ヵ村、船越一色村地先の馬込川から水を引く
1777 安永6 浜松付近の寺院、鴨江寺において出開帳をする
1780 安永9 俳人五升庵蝶夢、浜松・浜名湖を歴遊する

1781 天明1 高林方朗、内山真竜に入門
1783 天明3 春俳人松露庵鳥明、遠江に来遊する
1784 天明4 鍛冶町浄鏡院が焼ける
1784 天明4 浜松北部方面に騒動がおこり、小松村・芝本村・万斛村で襲撃事件がおきる
1786 天明6 内山真竜、門人らを従え出雲に旅行するこのときの紀行を「出雲日記」という
1786 天明6 笠井村に暴動がおき、二俣村方面へ波及する
1786 天明6 春の末、俳人五升庵蝶夢、佐鳴湖・浜名湖を歴遊する
1786 天明6 井上正甫、正定を継ぎ浜松城主となる
1786 天明6 浜松宿の問屋会所、一ヵ所となる
1786 天明6 志都呂松平領、都田村不作、減免を歎願し、首謀者処罰をうける
1786 天明6 石塚竜麿・内山真竜に入門する
1787 天明7 宇布見村方面、米価一升185文となる
1787 天明7 浜松凧揚げの記録
1788 天明8 俳人五升庵蝶夢、浜松蓮華寺に泊る
1788 天明8 齢松寺(れいしょうじ)檀徒一行が東本願寺再建の用材調査のため北遠へ

1789 寛政1 天竜川、中野町村で決潰する
1789 寛政1 石塚竜麿、本居宣長に入門する
1789 寛政1 高林方朗、本居宣長に入門する
1789 寛政1 和算書「神壁算法」出版される
1790 寛政2 琉球人使節、浜松宿に泊る
1790 寛政2 村櫛村漁民、他領の佐浜村へ藻を売り、咎めをうける
1790 寛政2 俳人竹村方壺、蝶夢の句碑を臨江寺に建てる
1790 寛政2 普大寺境内に芭蕉の句碑建てられる
1796 寛政8 森繁子没する
1796 寛政8 俳人竹村方壺没する
1797 寛政9 「浜の松風」出版される
1798 寛政10 浜松城二の丸で年頭祝儀の儀式、11人の諸職頭が出席する
1798 寛政10 内山真竜、「遠江国風土記伝」を著わす
1798 寛政10 服部管雄、駿河島田の服部家へ養子となる
1798 寛政10 夏目甕麿、本居宣長に入門する
1799 寛政11 松嶋村に小作争議、5人逮捕、江戸送りとなる
1799 寛政11 紀州船、松嶋村海岸に漂着、村民罰せられる
1799 寛政11 木舟村和泉屋の永代帳の記帳はじまる
1800 寛政12 小沢衆甫没する
1800 寛政12 藻草取場出入、裁許証文がでる

1801 享和1 竜麿・方朗・甕麿・尚規・元尚、近畿旅行に出る
1801 享和1 太田南畝、浜松旅籠町に泊る、その著「改元紀行」に、城下の賑わいを記す
1801 享和1 竹村尚規、本居宣長に入門する
1801 享和1 真淵33年祭・宣長追悼会を見付鈴木本陣宅でおこなう
1801 享和1 山本源吉、碁客服部因徹と対局する
1803 享和3 伊能忠敬、浜松に泊まり、遠州海岸を測量する
1803 享和3 本坂道普請見分をする
1803 享和3 船越一色村地先馬込川が渋滞し、川下各村の苦情生じ、芦などを刈り払う

1805 文化2 肴町商人と西嶋村漁民との間に訴訟が起きる
1805 文化2 伊能忠敬、入野村に泊まり、富士山・浜名湖・佐鳴湖などを測量する
1805 文化2 村尾元融生まれる
1805 文化2 本居大平、入野村竹村尚規家に数日滞在する
1805 文化2 下飯田用水組合が井組21ヵ村によって創設される
1806 文化3 俳人百洲(池田庄三郎)没する
1807 文化4 井上藩、領内の凧揚げを規制する
1807 文化4 楚州、大雄庵八代となる
1808 文化5 馬目玄鶴没する
1808 文化5 笠井村、火災
1809 文化6 小沢渡村民、難破した紀州船を救助する
1810 文化7 西大塚村と長十郎新田との間に境界争が起きる
1811 文化8 竹村尚規没する
1811 文化8 杉浦管満没する
1811 文化8 山本源吉「方円軌範」を著す
1812 文化9 市野村火災12件焼失する
1812 文化9 成子坂町、浜松秋葉社へ灯籠を寄進する
1813 文化10 宣長13年祭を方朗宅でおこなう
1814 文化11 竜禅寺観音堂の吊鐘鋳造、落成で賑わう
1814 文化11 浜松に疱瘡が流行する
1815 文化12 入野村方面に高機が使用される
1816 文化13 天竜川の洪水による凶作のため、29ヵ村の小作人が減租を要求する
1816 文化13 秋、俳書「遠津安布美句集」出版される
1816 文化13 下堀村の木綿作付面積84%に達する
1816 文化13 入野村方面、綿打に唐弓を用いる
1817 文化14 宣長17年祭を浜松梅谷本陣宅でおこなう
1817 文化14 浜松城主井上正甫の所替中止を領民が歎願する
1817 文化14 水野忠邦、肥前唐津より入府、浜松城主となる
1817 文化14 井上正甫、陸奥棚倉へ転封となる
1817 文化14 水野家家臣275件
1817 文化14 高林方朗、鈴屋大人17年霊祭記録「須受武之」を編集する
1817 文化年間 浜松宿総戸数1,710戸
1817 文化年間 天竜川を、川西の村々が横越をしたとして、池田村との間に紛争がおきる

1818 文政1 井上氏浜松城を水野氏に引き渡す
1818 文政1 俳人酔春亭左光(内藤彦端)没する
1818 文政1 真淵50年祭を浜松梅谷本陣宅でおこなう
1818 文政1 遠江天宮村中村乗高、「事実証談」を著す
1819 文政2 旅籠町・伝馬町の旅籠屋、維持困難のため救方を嘆願する
1819 文政2 舞坂の海苔の製造はじまる
1819 文政2 笠井村、火災
1819 文政2 この年、倹約取締令を公布する
1819 文政2 村尾元融、江戸へ出て朝川善庵に入門する
1820 文政3 水野藩、天竜川河口の駒場村・藤木村を浜松藩に編入しようとする
1820 文政3 秋葉山村々の常夜灯、このころから雨覆となる
1820 文政3 岩水寺村の石灰焼がはじまる
1821 文政4 夏目甕麿、郷里白須賀を去り、摂津国昆陽の里に住む
1821 文政4 内山真竜没する
1821 文政4 浜松藩、馬込川の浚渫を松嶋村ほか3ヵ村に命ずる
1821 文政4 忠邦、祖先忠元の廟を浜松城内に建立する
1821 文政4 松島茂岡、「有馬紀行」を草する
1821 文政4
遠州織物産業の母、小山みい現本郷町に誕生

1822 文政5 夏目甕麿(みかまろ)没する
1822 文政5 浜松城鉄門の東櫓を修理する
1822 文政5 小池村と早出村ほか10ヵ村井堰組合との間に水論がおきる
1822 文政5 俳人吉田徐生没する
1823 文政6 石塚竜麿(たつまろ)没する
1823 文政6 一神六霊祭を見付鈴木本陣宅でおこなう
1823 文政6 浜松宿新町の越川屋藤助、秤を改作し、中泉代官所に咎められる
1825 文政8 忠邦浜松に逗留する
1825 文政8 忠邦、藩財政の改革を勝手方に令達する
1825 文政8 忠邦、海防にそなえ天竜川河口を視察する
1825 文政8 山本源吉没する
1825 文政8 三方原半僧坊道に馬頭観音石仏建立
1825 文政8 囲碁界の鬼才、山本源吉没
1826 文政9 忠邦、遠州長上・豊田・山名郡内のうち1万5千石収公され、代知を摂津・河内・播麿の代官支配地および大名預所において与えられる
1826 文政9 異国船、遠江住吉沖に漂着する。忠邦大中瀬村に警固の人数を派遣する
1826 文政9 浜松宿、無役町の七軒町・新町を加え、6か町を御役助町に指定しようとする
1826 文政9 笠井村、155戸、653人
1826 文政9 忠邦、京都所司代となり、侍従に任ぜられる
1826 文政9 忠邦、家中に対し国益計画の上伸を指令する
1827 文政10 豊田郡山中村(天竜市)地内へ、秋葉山越接待茶屋および灯籠1対建立につき勧化寄進方を願い出る
1827 文政10 浜松領民、忠邦の老中昇任を祈願する
1827 文政10 このころ入野村に綿打屋ができる
1827 文政10 足立双松生まれる
1828 文政11 高林方朗、杉浦本陣で水野忠邦から「人麿神像」を下賜される
1828 文政11 忠邦、西丸老中に昇進する
1829 文政12 伝馬町熊野屋より出火、後道へ延焼して本陣他150軒余焼失する
1829 文政12 忠邦、浜松城・浜松本陣に逗留する
1829 文政12 志都呂村前通の新提建設のため水腐ができ、西鴨江村近隣12ヵ村これが取払を要求、紛争を生じる

1830 天保1 忠邦、大坂在勤中の替地1万5千石を収公され、代知を文政9年以前の旧領にもどされる
1830 天保1 三ヶ日方面に、浜名おかげさわぎおこる
1830 天保1 広重、浜松に泊り、町の繁昌を記す
1830 天保1 岡村義昌、井上藩士岡村義理の次男として生まれる
1830 天保1 市野村、市野宿の現状を道中奉行へ報告する
1831 天保2 忠邦、遠州領のうち6,690石余を同国にて替地を命ぜられる
1831 天保2 安間川築提につき、半場村と上流6ヵ村との間に紛争おきる
1831 天保2 都田村方面の村々、お蔭まいりの施行をする
1831 天保2 竜禅寺村糀屋衆と常光村との間に紛争がおきる
1831 天保2 気候不順
1832 天保3 霰をまじえた雷鳴おこる
1832 天保3 早魃がつづく
1832 天保3 金原明善出生
1833 天保4 忠邦、県居霊社の碑文を毫揮する
1833 天保4 三方原入会権につき、大沢領倉松村と入会村の新橋村組合6ヵ村との間に紛争がおきる
1833 天保4 高林方朗、森繁子の歌集「玉かしわ」を編集する
1833 天保4 蝗のため稲作に被害がある
1833 天保4 田尻村、廻漕業の権利復活運動をおこす
1833 天保4 有玉下村の木綿作付面積77%に達する
1834 天保5 水野藩家中、三方原の和地山で鹿狩をする
1834 天保5 鳥羽村・白鳥村で争議おこる
1834 天保5 穀物の他領への販売を禁止する
1834 天保5 忠邦、本丸老中に昇進し、御勝手御用を兼任する
1834 天保5 米価騰貴
1835 天保6 有玉下村洪水
1835 天保6 鍛冶町より出火、伝馬町ほか5か町延焼する
1835 天保6 高林村で争議おこる
1835 天保6 水野藩、掛塚湊の廻船業者に「番抜出帆」を拒絶される
1835 天保6 竜禅寺村糀屋衆と中野町村との間に紛争がおきる
1835 天保6〜7 入野村方面に織屋ができる
1836 天保7 大風雨のため天竜川、富田村付近で破堤する
1836 天保7 浜松宿の増助郷として、35ヵ村を指定する
1836 天保7 新源太夫堀竣成する
1836 天保7 馬込川の浚渫を行う
1836 天保7 この年、ことのほか冷年、3月ごろから雨天つづく
1836 天保7 前年の火災によりこの年から同12年までの5か年間、浜松宿の余荷勤村を指定する
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 15時57分55秒 ) パスワード

1837年〜1867年(江戸(後期))


1837 天保8 服部菅雄没する どなた?
1837 天保8 米津海岸で五穀豊饒の大祈祷禱会を行う
1837 天保8 水野藩、農業人口確保のため潰門の調査をする
1837 天保8 穀物の他領への販売を重ねて禁止する
1837 天保8 酒の密造を禁止および酒造石数を減じる
1837 天保8 この年、前年にまさる凶作で米価暴騰する
1838 天保9 忠邦、西丸炎上しその再建の功によって遠江国蒲生・坂田・浅井の3郡中において1万石加封される
1838 天保9 囲穀主法令を厳達する
1838 天保9 木村竜江生まれる
1839 天保10 忠邦、1万石加増され、表高7万石の領地半物を交付される
1839 天保10 県居霊社の上棟遷座式をおこなう
1839 天保10 領内各所に出張役所を設置する
1839 天保10 白砂糖の製造を禁止する
1839 天保10 水野藩楮役人、蜆塚の貝殻を名残新田へ肥料として運ぶ
1839 天保10 楮の栽培と製紙をはじめる、藩令により権現谷村で紙漉きをはじめる
1839 天保10 このころより洋式小銃が使用される
1839 天保10 浜松藩事業として権現谷村(富塚)で紙すき開始
1840 天保11 大念仏・小念仏・初凧の停止令を公布し、若者の他村符合を禁止する
1840 天保11 笠井村、火災
1840 天保11 有玉下村に義倉初見
1840 天保11 水野藩、貧民御救令を公布する
1841 天保12 各代官所勧農掛へ増石代を下令する
1841 天保12 天保改革はじまる
1841 天保12 風流九家会が催される
1841 天保12 忠邦、兵学者小野寺慵斎を浜松に招聘し、物頭以上の者に兵学を学ばせる
1841 天保12 水野藩、大沢氏に藻草買取方を交渉し、大沢領民の反対をうける
1842 天保13 県居霊社竟宴歌会を浜松梅谷本陣宅でおこなう
1842 天保13 幕府、外国船打払令を緩和し、江戸湾の防備を強化する
1842 天保13 西遠地方大雪
1842 天保13 種々の布達を出す、3絹布着用・初凧揚げの奢侈を禁止する、4野菜の初物売買を禁止する、5諸事節約令の公布、旅籠屋の飯売女を取り締まる、6出家・山伏等の町住居を禁止する、7出版取り締まり令を発布する、8石灯籠・石手水鉢・庭石等の奢侈を禁止する、江戸京大坂の歌舞伎役者の他国興行を禁止する
1842 天保13 水野藩、大蔵永常を招聘する
1842 天保13 この年水野藩、藩校経誼館が高町にある
1843 天保14 在方の者の都市生活を禁止する
1843 天保14 人別改の令を公布する
1843 天保14 町人の武術稽古を禁止する
1843 天保14 忠邦、老中職を罷免される
1843 天保14 不当相場防止の令を公布する
1843 天保14 浜松周辺寺院の新四国八十八か所まいりが行われる
1843 天保14 水野藩、領内笠井市の閉鎖を指令し、村民の反対にあい撤回する
1843 天保14 浜松宿戸数1,622軒、人口5,964人
1843 天保14 三郎五郎新田、戸数10戸・人口67人・田1反5畝・畑7町1反5畝23歩
1843 天保14 このころ女下駄江戸から伝わる

1844 弘化1 水野藩、軍事改革の実施に踏みきる
1844 弘化1 水野藩、農兵隊を徴募を始める
1844 弘化1 有玉村高林伊兵衛、農兵組頭に任ぜられる
1844 弘化1 神主隊の編成をする
1844 弘化1 忠邦、老中主座に再任する
1844 弘化1 水野藩、遠州灘海岸の領内漁船の調査をする
1844 弘化1 水野藩、「海防御備組書」を完成する
1844 弘化1 大蔵永常「広益国産考」を完成する
1845 弘化2 忠邦、老中を再辞職する
1845 弘化2 竜禅寺村糀屋衆に対し、金指町利吉が詫びる
1845 弘化2 水野藩「自国警衛組書」を完成する
1845 弘化2 忠邦、2万石減封、隠居のうえ蟄居を命ぜられる
1845 弘化2 塩町商人と二俣村他41ヵ村との間に紛争がおきる
1845 弘化2 蘭学者村上代三郎、硝石の製造を命ぜられる
1845 弘化2 岡村黙之助、硝石の製造始める
1845 弘化2 水野忠精、忠邦を継ぎ浜松城主となる、ついで出羽山形へ転封を命じられる
1845 弘化2 井上正春、上野館林より入府、浜松城主となる
1846 弘化3 有玉下村をはじめに領内に一揆おこる
1846 弘化3 井上藩、米津浜へ警固の人数を派遣する
1846 弘化3 一揆が再燃する
1846 弘化3 井上正春の得替祝儀があり、領内村々庄屋城中へ召し出される
1846 弘化3 高林方朗没する
1846 弘化3 藩校、克明館設立する
1846 弘化3 名倉予何人、浜松藩校克明館の教授となる
1846 弘化3 岡村新三郎・貞次郎、大坂緒方塾で蘭語を学ぶ
1846 弘化3 水野氏時代の経誼館(けいぎかん)を配して井上藩が新設
1847 弘化4 井上正直の家督相続御祝儀に、諸職人頭11人登城する
1847 弘化4 岡村黙之助「海防私考」を著わす
1847 弘化4 井上藩、大念仏を停止し、太神楽を規制する、9若者組節句・吉凶についての著侈を禁止する、11博奕・買物・遊興自粛を申し合わす
1847 弘化4 紺屋町から出火、肴町まで延焼する
1847 弘化4 井上正直、正春を継ぎ浜松城主となる
1847 弘化4 秋作不作
1847 弘化4 浜松宿と助郷村との間に紛争おきる
1847 弘化4 下石田の神谷与平治、報徳社を結成する
1847 弘化4 このころ入野村方面に糸引屋が出来る

1848 嘉永1 井上藩、若者組取潰し連判状提出を命令する
1848 嘉永1 旱魃、有玉方面木綿作皆無同然となる
1848 嘉永1 井上藩、重ねて凧揚げを規制する
1848 嘉永1 現安新町の本坂道に道標立つ
1849 嘉永2 村尾元融「続日本紀考証」12巻を脱稿する
1849 嘉永2 井上藩、華美の大凧を禁止する
1849 嘉永2 井上藩、富士講取締りのための触書を出す
1849 嘉永2 画家三宅鴨渓「遠江名勝図」を刊行する
1849 嘉永2 笠井町の下組衆、市日を規制するよう歎願する
1849 嘉永2 岡村義昌、西洋兵学砲術を修得するため長崎方面へ遊学する
1849 嘉永2 この年から文久3年までの15年間、浜松宿の余荷勤村を指定する
1850 嘉永3 天竜川、富田・常光・末鴨村等で破堤し、流家溺死等の被害が多い
1850 嘉永3 天竜川再び氾濫、食糧不足し、富田村から下石田村の間仮渡船で通行する
1850 嘉永3 琉球人使節、浜松宿で死去する
1850 嘉永3 浜名湖畔寺院の新四国八十八か所まいりが行われる
1850 嘉永3 井上藩、重ねて領内凧揚げを規制する
1851 嘉永4 井上藩、金井儀助・中山平助らの硝石の土を調査させる
1851 嘉永4 賀古公斎、江戸への途次浜松に足をとどめ、この地の人となる
1851 嘉永4 浜松宿の代助郷村を、嘉永4年から文久3年までの13年間指定する
1851 嘉永4 竜禅寺村糀屋衆と篠原村ほか3ヵ村との間に紛争がおきる
1851 嘉永4 ヤマハ創業者山葉寅楠が和歌山県に誕生
1852 嘉永5 井上藩、村八分・徒党を禁止する
1852 嘉永5 村尾元融江戸で没する
1852 嘉永5 竹村広蔭「変化抄」2冊を草する
1852 嘉永5 井上藩、領内凧揚げを規制する
1852 嘉永5 浜松田町に秋葉大権現の大鳥居が建てられる
1852 嘉永5 渡辺謙堂(けんどう)八色すり木版絵図「遠江小図」板行
1853 嘉永6 入野川より明神野村まで水はけ用水路が作られる
1853 嘉永6 井上藩、木綿以外の着用を禁止する
1853 嘉永6 幕府、諸藩に砲台築造を命じる
1853 嘉永6 井上藩、農民に鎌を下賜する
1853 嘉永6 井上藩、浜松周辺の村々に海岸警備のための備場築造を命じる
1853 嘉永年間 入野村・志都呂村・冨塚村、舞阪湊から藍を仕入れる
1853 嘉永年間
神中嶋村小山みい女、織屋をいとなみ、子女に教える

1853 嘉永6 スツポン養殖の服部倉治郎が東京に誕生

1854 安政1 外国船、浜松沖に出現する
1854 安政1 井上藩、村々に対し5か年倹約を議定する、三村八分・徒党を禁じ、凧は3尺4角とし、農民の奢侈を禁止する
1854 安政1 神楽・子唄・手躍・物真似を質素にし他村への見舞を禁止する
1854 安政1
東海地方大地震、浜松城被害をうける、入野村の倒壊家屋32戸に達する

1854 安政1 薩摩船の荷、庄内湖岸に漂着、村民罰せられる
1854 安政1 井上藩、藩政の改革を行う
1854 安政1 足立双松、この年浜松に帰り、医業のかたわら子弟を教育する
1854 安政1 「浜松城絵図」作成
1855 安政2 幕府役人、堤沿い地域の震災見分をする
1855 安政2 幕府、毀鐘鋳砲令を布告する
1855 安政2 大風雨のため倒潰家屋が出る、庄内地方高潮の害をうける
1855 安政2 地震、浜松城および浜松町内も被害、米津村の倒壊家屋27戸、白羽村・中田嶋方面では地面が亀裂、泥水が噴出する
1855 安政2 岡村黙之助、藩に植物仕法などの建白書を提出する
1855 安政2 農兵隊を募集する
1855 安政2 井上藩、安政元年の大地震の被害者に救済の米を配る
1855 安政2 気賀下村漁民、鳥浦を行い、村櫛村鳥浦衆に詫びる
1855 安政2 宇布見・篠原・坪井・馬郡・舞阪の緒村、藻草の売買は組合を通じて行う旨、誓約する
1855 安政2 岡村義理(よしさと)和地の原野を開発、四つ池構築
1855 安政2 染物革命、池谷七蔵、現大工町に誕生
1856 安政3 米津浜海岸に砲台の主要部分完成する
1856 安政3 井上藩、藩札を発行する
1857 安政4 井上藩、僧侶・神主らに植物仕法を命じ、櫨を植栽させる
1857 安政4 藩役人、櫨の根付を見分する
1857 安政4 神主弓隊、鉄砲訓練を開始する
1857 安政4 画家伊藤煙坰没する
1857 安政4 祝田村ほかの4ヵ村、下都田村と都田川の河水分配について争う
1857 安政4 竜禅寺村糀屋衆と中瀬村との間に紛争がおきる
1857 安政4 竜水、碧厳録の提唱をする
1858 安政5 猪・鹿狩りが催される
1858 安政5 遠州地方大雨
1859 安政6 有玉下村の農民、減免の一揆おこす、(翌月一揆の代表者処罰される)
1859 安政6 日本点字の創始者石川倉次、名残御組町に生まれる
1859 安政6 竜禅寺村糀屋衆が糀製造の由緒書を提出する
1859 安政6 竜禅寺村糀屋衆と白羽村ほか5ヵ村との間に紛争がおきる
1859 安政6 この年刊行の「築山庭造伝」に鴨江寺の庭園が記載される
1859 安政年間 木俣くら女により木舟村方面に十反引きが普及するという

1860 万延1 天竜川、八幡村ほか各地で破堤、浜松城下に濁流が及び池田村から植松村まで仮渡船となる
1860 万延1 分器稲荷へ氏子田町、石灯籠を献納する
1860 万延1 久保寿軒没する
1860 万延1 村櫛村、酒の専売を定める
1860 万延1 西嶋村三郎右衛門、村内御鷹山御宿部屋普請を願い出る

1861 文久1 浜松宿の助郷村のうち、困窮せる49ヵ村の代理として、代助郷村を指定する
1862 文久2 井上藩、領分村々へ藩資金の調達を依頼する
1862 文久2 天竜川、白鳥村で破堤する
1862 文久2 井上正直、老中に昇進する
1862 文久2 報徳社の万人講が行われる
1863 文久3 将軍家茂、浜松に泊まる、大沢領の船舶徴発をうける
1863 文久3 俳人遠藤蒼山、招きに応じて安間木潤宅に逗留する
1863 文久3 日本形染創業者宮本甚七が今の和地町に誕生

1864 元治1 正直、京都で家茂と会見する
1864 元治1 凧揚げについて、伝馬・大工両町間に紛争起り、町方役人宛に示談方の歎願いを出す
1864 元治1 安間村久平、笠井村・下石田村の有志とともに、横浜に貿易商をはじめる
1864 元治1 幕府、長州藩征討を諸侯に命令する
1864 元治1 仕法掛、藩財政の建直しに協力する
1864 元治1 天狗党にそなえ、浜松藩兵三ヶ日方面に出動する
1864 元治1 仕法掛小栗らによって、仕法金利子勘定帳が作成される
1864 元治1 木村竜江没する
1864 元治1 金原明善横浜に貿易店「遠江屋」開業

1865 慶応1 伊場岡部次郎左衛門家によって月並歌会開催される
1865 慶応1 新川運の開堀を開始する
1865 慶応1 井上藩、農兵隊の設置を命令する
1865 慶応1 井上藩、農民救助のため畑方御手当米を下賜する
1865 慶応1 蒼山、契史とともに俳書「越の雪」を著わす
1865 慶応1 私塾吾憂社、下堀村に開設される
1866 慶応2 俳人蒼山「ひくまののにき」を著わす
1866 慶応2 小池村はかの4ヵ村、市野村と用水について争う
1867 慶応3 浜松・浜松北方の村々にええじゃないか起る
1867 慶応3 朝廷、王政復古を宣言する
1867 慶応3 篠原村民、抜荷の疑をうけ、訴訟をおこす
1867 慶応3 自動織機発明者、豊田佐吉現湖西市に誕生            豊田佐吉さんが出た!

[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 16時15分20秒 ) パスワード

上に「どなた?」と書いた   服部菅雄  さん。
島田の豪商  服部家に養子に入った人でした!


     やっぱり島田の服部家って超大金持ちだったんですねえ。
     だろうな
     とは思ってたけど
     菅雄さんに潰されてしまったのですねえ


     きっとワタクシの先祖はこの島田の服部家を存じ上げてたんでしょうね。
     すっごく気になってて


     そう言えば昨年の4月から島田の服部家に突撃訪問してよと頼んでましたね。




誕生地
現:浜松市北区都田町

生年
1775(安政4)年

没年
1837(天保8)年



服部菅雄は江戸時代中期に活躍した国学者であり歌人。



生涯

1775(安政4)年に引佐郡下都田村向山(現:北区都田町)の旧家富田与右衛門の次男として生まれる。

若年の頃から学問の道を志し、伊勢松坂(現:三重県松阪市)に本居宣長をたずねていき、門人となった。

そして、1798(寛政10)年の頃に島田宿(現:島田市)の豪家服部家の養子となり、富田菅雄(文三郎)から服部菅雄へと名が変わった。


かなりの資産家であったと思われる服部家だったが菅雄の代には、瓦解してしまいった。


文才には長けていた菅雄であったが、商才には弱く、家屋を失ってしまったので、これを機に諸国遊歴を始めた。


             とんでもないオトコだったんですねえ。




関西や江戸、信濃道や陸奥国(みちのく)まで足を伸ばし、歌文を講じながら生活していた。

晩年は江戸から中仙道を通って北信濃へ、さらに越後をへて酒田(現:山形県)へと入り、
その酒田で1837(天保8)年、63歳でこの世を去った。



主な著作

『篠家文詞』
『源氏物語解』
『紫の根ざし』
『餌袋の反古』



参考

『浜松の史跡 続編』(浜松史跡調査顕彰会)
『はままつ歴史発見』(静岡新聞社)
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 16時26分40秒 ) パスワード

こんなのもありました


    1882 明治15 松島授三郎、西遠農学社を創立
    1908 明治41 鈴木道雄が足踏織機をつくりはじめる
    1913 大正2 松島保平が中村氷糖(資)をつくる
    1914 大正3 金原明善と松島十湖の両名、源長院にて歓談
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 16時42分45秒 ) パスワード

浜松の歴史をコピペしながら考えました。


内山真龍は服部家と何らかの関係があったんじゃないかなと。
南朝方だったのだろうとは思ってました。
今は服部家とも、もしかすると伊賀にも関係があったのかも
と思い検索してみました。


内山真竜

江戸中・後期の国学者。
遠江豊田生。
名は敬美・竜麿、通称弥兵衛・徳右衛門、号は竜洞・奉国史翁等。

渡辺蒙庵・賀茂真淵に師事。   ← 下記へ

名主として村政を司る傍ら研鑚に努め、その門から夏目甕麿・小国重年等を輩出した。

遠州国学育ての親。著書に『日本紀類聚解』『遠江風土記伝』等がある。文政4年(1821)歿、82才。




賀茂真淵

元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)[2]に岡部政信の三男[5]として生まれた。

岡部家は賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家で[2]、父政信は分家筋で農を業とした[* 1]。

        賀茂神社関係者でしたか
        じゃ、浜松と賀茂氏は関係がもともと深かったんですねえ




内山真龍と服部菅雄

http://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/c19d1720f12590343b4dec81c9f7cc9b



金谷宿大学「桑原黙斎と服部菅雄−街道筋の文人たちの群像」の続きである。取り上げるのは島田宿の江戸時代後期の国文学者、服部菅雄である。


服部菅雄は1775年、遠江国引佐郡都田村に富田与右衛門の次男として生まれ、
地元の国学者内山真龍に学び、
伊勢松坂の本居宣長に学んだ。

1798年、島田の服部家の養子となったが、
間もなく服部家は家運を逼迫させ、大津村鵜田沢、さらに北裏中溝へと移転する。

その後、服部菅雄は死ぬまで各地を点々とする。

1809年、江戸に居住。1818年、島田から飯田、諏訪、伊那に出かける。

1825年、江戸から白河、仙台、金華山へ出かける。
1826年、秋に島田に帰る。1834年、島田から江戸、東北、信濃。1836年、冬、酒田に至り、1837年、酒田にて死去。


菅雄は各地で古典を講じたり、歌文を教えたりして糧を得ていた。多くの国文学者のように国学思想を吹聴することもなく、文人として古典を解き聞かせ、教えることに主眼を置いた。当地出身の国文学者、松村博司氏は同郷の先人の「服部菅雄伝の研究」という本で、次のように書いている。


彼(服部菅雄)は国々を周游して古典の購読をして歩いても、国学思想についてこれを敷延し鼓吹したことはあまり記すことをしていない。むしろ古典の講義会読や歌文の指導に意を用いた文人と目すべき面が強いのである。‥‥(和歌は)かなりの多作であり、しかも連詠というべきようである。‥‥その詠みぶりはいかなる題材をも立ちどころにこなす自在さがうかがわれる。


服部菅雄の「源氏物語解」や「紫のねざし」という著作は、菅雄の源氏物語の講義録といったもので、菅雄の古典の講義の様子の一端が知れて面白い。「源氏物語解」を転記してみる。菅雄が原典を少しずつ紹介しながら解いていく。


桐つぼの巻
源氏ノ君うまれ給ひて、十二歳にて御元服し給ひて、葵ノ上との御婚礼の事まで書たり。
 〇此巻のまたの名をつぼせんざいともいふなん。
むかしむかし何の帝の御代にありし事かしらねども。
 〇此詞ハ一部にわたる序のやうに書て作者の大意をのべ、すべての物がたりぶみといふものゝ趣向をしらせたる詞也
女房がたが大勢宮づかへをなされた、其中にかくべつ高位な御身分の人ではないが、すぐれて時をえてはぶりのよい御方がひとり有たわい。其御方をば桐つぼの更衣と申てすなわち源氏ノ君の御母なり。‥‥‥


先に紹介した桑原黙斎と服部菅雄の共通点は、両者とも商家に養子に入っていることである。

さらにどちらの養家もその後家運が衰退している。         ちょっとお〜 怒


学問にかまける養子が衰退の原因と談じるわけではないが、その一因だったように思う。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月25日 23時50分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部半蔵の采地が初めてわかりましたね。大発見です! 小池町は通勤で
いつも通っています。意外でした。市野の西です。今も八王子社というのが
あるかどうか調べてみます。

 さて、本日は朝8時30分に家を出まして、東名・名神をとばして90分
で大垣インターに着きました。意外と速い。スピードもMAXでしたから、
20〜30分位は早くついた勘定です。途中ですぐ後ろにパトカーが赤いラ
ンプを点滅してついてきたので、これはしまったと思いきや、追い抜いてい
きました。ラッキーでした。

 大垣インターを降りるとあとは真っ直ぐ真北に一直線。北海道みたいだな
あと思いながら中心部へ、そこから真西に折れてじきにまた北へ少々。どう
やら大垣城に着きました。初めて来たのでお城の裏面に行ってしまいました。
駐車場がない。10台位のコインパーキングがあった。2〜3の空があった。
そこに止めことにする。

 大垣からは養老も近い。京都までだと110キロある。城内に入り、お城
の裏から右回りに正面へ。きれいなお城だ。岡崎城とほぼ互角か・・・。
 中に入る。3階まで刀や鎧、その他いろいろなものが展示されている。
 4階が天守閣、東に岐阜城が見えるというが、ガスっていて見えない。西
を見ると、雪をかぶった息吹山が見え、その南側の低くなった山あいが関ヶ
原への入り口であると書いてあった。養老の山並みも見える。そうか大垣は
西(都側)からの侵入を止める最前線基地であった。そういえば不破の関とい
うのがあったことを思い出した。大垣のすぐ西に位置する。ということは、
やはり大垣は東国の橋頭堡であった。

 大垣城の中で勉強になったのは、火縄銃のレプリカを実際手に持って狙
ってみることができたこと。ズッシリとした重み、ウィンチェスターのよう
に肩当てはない。きっと打てばかなり反動があり、手にした銃身が上に跳ね
上がったのではないかと想像した。そして肝心の弾・・・材質と形が今まで
はっきりとはわからなかったが、ここで知ることができた。それは丸いパチ
ンコ玉のような「鉛玉」であった。射程は200メートル位という。弓では
30メートル位というから、ずいぶんと戦いのやり方は変わってしまったの
だ。兵站についても説明書きがあった。何せ食料・水、武器、弾薬、その他
諸々の物資・・・。これなくしては兵力は1日と持たない。裏方ではあるが
大変重要な仕事である。

 城を見終わって帰りしな、受付にて本を2冊仕入れました。それは、『関
ヶ原合戦回顧 西美濃と大垣』及び『壬申の乱と古代の美濃』です。どちら
も小冊子ですので、読み終わり次第ご報告いたします。

 次に、城の西300メートル位の所にある「郷土館」へ向かう。料金は城
と合わせて150円だから、何と良心的であることか。それだけで私は大垣
が好きになりました。ここには「良心」がある。芭蕉も大垣が大好きになっ
て3回も来ているそうである。この郷土館は戸田氏鉄(うじかね)公や歴代の
藩主(最後は戸田氏が長く続いた)を顕彰するために建てられたということで、
鎧、火縄銃、刀、太刀等の武具、歴代の人物画、それと朝鮮通信使の残して
いった面やその他かずかずの品々も陳列されていた。

 その場所から歩いて15分位の所に芭蕉館(正式には「奥の細道むすびの
地記念館」という長たらしい名前である)があることを知った。車で行く
ことにした。5分あまりで到着。なんとまあすばらしく広い駐車場と建物
であることか。思わず「マーベラス!」と発してしまった。

 2階建てではあるが、一階が主。東側の3分の1が販売・休憩コーナー。
まずは一通り見る。そして西側にある芭蕉館と先賢館そして大醒榭(たいせ
いしゃ 茅葺の茶室風の別荘)に歩を向ける。
 入場料は300円。何があるのかな・・・とやや不安になる。まずはシア
ターへどうぞ、今始まったばかりですと受付の女性が言う。3Dメガネを
おかけくださいと黄色いメガネを渡され、シアターに入る。そこでは何と、
芭蕉の「奥の細道」で歩いたスポットの数々か立体映像で映し出され、そし
て説明とバックグラウンドミュージックがうまくかみ合う。約20分位であ
ったが、十分楽しめた。「奥の細道」を読むより理解は早くできると思った。

 シアターの裏にはかなり広い展示室があり、芭蕉直筆の「奥の細道」の本
があったり、弟子たちの書いた書や短冊、その他芭蕉にからむあらゆること
といってもいいほど、いろいろなものが展示されていた。今回は芭蕉につい
てはまだ準備不足で、これから徐々に迫ろうと思っていたので、サラッと見
ただけに終わりました。「また来ればいいや」と自分に言いきかせながら。

 この記念館のすぐ東側に川が流れており、両岸は桜並木。川の水は、澄
んでおり、緑鮮やかなの藻草が水の流れにゆらゆらと揺れ、富士の三島の
湧水の流れを思い出させました。係りの人が親切に教えてくれましたが、
桜のシーズンには船下りをするそうで、平底の川船、及び大きな「たらい
舟」の両方があるとのことでした。近江八幡も水の都でしたが、大垣も水
の都でした。そして基本的には道路、区画が京の都のような碁盤の目で
都市計画がなされていました。大垣をあらためて見直しました。

 以上で午後一時になり、午後の部は、尾張一宮の真清田神社・服織神社、
尾張国御魂神社、熱田神宮。まずは一宮に向けて発車しました。

 夜も更けてまいりましたので、この続きは明日とします。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月26日 02時25分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


ご無事のお帰りに安堵いたしました。

スピード違反で罰金の切符を貰っては大損です。
良かった、ご無事で。

罰金を払うほどアホらしいことはありませんから。



大垣城で感動なさったこと、大垣の友人に伝えておきますね。



>垣インターを降りるとあとは真っ直ぐ真北に一直線。北海道みたいだなあと思いながら中心部へ

濃尾平野ということかしら?


確かに古来からの要衝の地だったようですね。
また冊子の内容をお暇な時に教えてください。




>そして肝心の弾・・・材質と形が今まではっきりとはわからなかったが、ここで知ることができた。
>それは丸いパチンコ玉のような「鉛玉」であった。


丸い、って?
かなり「古い」ですね。

銃として初期ですね。


丸い玉から紡錘形に変化して更に螺旋状の筋がつけられて
紡錘形になってそれで距離が飛ぶようになった、
回転するから、威力も強くなった
のだったかな?




レプリカでも触れたということは良い経験になりましたね。
ほんとに銃って重いですものね。



レス<41>再び

1.
有玉下村八幡社
此社之服部之処也トイヘリ


    如有玉村説    意味不明 と書きましたが  意味が分かりました。


    有玉村の説と同じくこの神社のあったところが服部の地だ、ということでしょうね。

    有玉村で言われているように  この社が服部の地というところだ  



でも「服部」と言ったって、どの服部なんでしょう?

    


2.
服部半蔵の領地が書かれていました:
小池村八王子社
天正後、服部半蔵領地


今の
天王町?
大歳神社?





良かった〜
この2つの情報は数か月前に「遠江国風土記伝」を読んだ時に既に報告してたのかしら?
と不安でした。


   最近ほんとに記憶力がゼロに向かってるので
   
      とっくに書いたっけ?
 
      でも現在の東区に2つともあったなんて記憶に無いけど・・・
 
   と逡巡してました。


やっぱり現場100回
何度も読まないと読み落としているものですね。


それにしても  服部の地が  東区の有玉村とか小池町って?

半蔵が采地にしてたのが東区なのは  遠江の服部氏の本貫地がもともと東区に
あったから?
それとも半蔵の支配の及ぶところという意味で服部氏が天正以降ここら辺りに住んでた?



有玉村と小池村って南北に?隣り合っていません?
やっぱり両方とも服部氏の土地だったのかしら?



有玉町にも是非いらっしゃってください。
そこに服部さんがいたら良いですね。




これ ↓ 関係あるでしょうか?
http://www.janonet123.com/index/chousa/23/08_17aritama_jinja/08_17aritama_jinja.html

有玉神社


所在地
静岡県浜松市有玉南町 1916


御祭神 主神 天照意保比留売貴命
配祀 天手力男命 萬幡豊秋津姫命など、22柱

御神徳 国家安泰、子孫繁栄、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、学業成就等あらゆることにご加護有り。


由緒
旧郷社神明宮は創立年代不詳、元禄十六年再建の棟札あり、旧朱印高五石 旧長上郡式内五座の内朝日波多加神社と申伝あり、明治六年郷社に列せられる。

旧村社八幡宮は創立年代不詳、大正十年再建の棟札あり、旧朱印高十二石なり、

特殊神事流鏑馬は、徳川家康が大阪より帰陣の際、戦場での愛馬を寄進したことに始まる。例祭の神事として四百年の伝統を今に伝える。


當神社は明治四十年、当時の有玉村三百八十戸余りの地域内に、郷社神明宮を初め村社、無格社合せて十二社あり、境内、社殿共に狭く又、祭典の繁雑さから、明治四十年郷社神明宮を八幡宮境内(当地)に移転し八幡宮、俊光将軍社等、併せて十一社を合祀、郷社有玉神社と称した。新社殿は大正二年完成、同年九月十日御遷宮された。


昭和二十七年八月二十日「宗教法人有玉神社」の認証を受け、静岡県神社等級規定により六等級神社と承認される。  

[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月26日 04時34分52秒 ) パスワード

半蔵の采地
レス<41><55>について

     服部半蔵の采地:
    小池村八王子社
    天正後、服部半蔵領地

候補
1.
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/e-shinko/ward/higashiku/chiikiryoku/history/jinjya/06fuji.html

現在の  富士神社

浜松市東区上西町19番地の9



南北朝時代の創建ともいわれている。

駿河の浅間神社(せんげんじんじゃ)から勧請(かんじょう)したもので、
八王子社、稲荷社が合祀(ごうし)され、
もと上之郷の氏神は八王子社であったが、
明治20年合併により上西が誕生、冨士神社が上西村の氏神とされた。



祭神は子宝を授ける神として信仰を集めている。


地区名
蒲地区


浜松の古社:

http://www.kimura-product.co.jp/engisiki/toukaidou/toutumi/toutomi000.htm

   ここから選んでください:

長上郡 大歳神社
  静岡県浜松市東区天王町 484
長上郡 蒲神明宮
  静岡県浜松市東区神立町 471
最上郡 邑勢神社
  静岡県浜松市東区大島町 1244
最上郡 服織神社           ⇔  最上郡になってる(謎)
  静岡県浜松市東区豊町 322
最上郡 神明宮
  静岡県浜松市浜北区内野 713
最上郡 六所神社
  静岡県浜松市東区半田 3390
最上郡 有玉神社
  静岡県浜松市東区有玉南町 1916
最上郡 蒲神明宮
  静岡県浜松市東区神立街71
最上郡 稲荷神社
  静岡県浜松市南区白鳥町 929
最上郡 子安神社
  静岡県浜松市東区白鳥町 1350
最上郡 稲荷神社
  静岡県浜松市南区飯田町 929
最上郡 子倉神社
  静岡県磐田市笠梅町 1156





候補 
2.

天王宮大歳神社
https://plus.google.com/112013332999642029529/about?gl=us&hl=en
天王郵便局のところ。



神社名 : 大歳神社(おおとしじんじゃ)
代表者 : 宮司   石津 幸彦

各種御祈祷 : 金神方災除、疫病、厄病除、家内安全、初宮、七五三、安産

        交通安全も(笑)ですって。  特にチケット回避にご利益あらたか!  くっくっくっ


鎮座地 : 〒435-0052 浜松市東区天王町1484-1
問い合わせ先 : TEL.053-421-6447
FAX.053-422-1403


ここの神紋は何でしょうね。
知りたいですね。


行き方:
JR浜松駅バスターミナル9番ポールから、70・75・76系統「笠井南中瀬」行き遠州鉄道バスで「天王」にて下車すぐ


御祭神
1.素戔鳴尊(牛頭天王)、   ← 牛頭さんなら南朝時代に尾張の津島神社と関係が有る?
2.大歳神、
3.大己貴尊、
4.事代主尊
5.南朝五皇統天皇       ← でたあ〜
                 南朝がらみ!

ふう〜〜〜ん
なるほどねえ


御神徳
1.金神除・方災除・疫病除の守護神で、家内安全、無病息災を御護りくださる。
2.五穀豊穣の守護神。
3.物造り・国造り・縁結びの守護神
4.台所の守護神。


御由緒
当社は、景行天皇40年、事代主尊が須羽に天王社を建立し祖先を祀るにはじめ、この霊殿を日本武尊が東征の年、
この地の首長の御久和神人が、現在の場所に遷座したと伝えられる。

また、坂上田村麿が東征に出陣の際、武運長久を祈願したとも伝えられる。

       内山真龍の「遠江国風土記伝」に書かれていましたっけ。
       


大歳神社は延喜式内社で約1300年前に存在した神社であり、
文化3年の秋、天王宮、天皇宮と大歳神社が同一社に祀られるようになった。

なお、明治維新の神仏分離令により全ての寺院が廃され、氏子4町は大半が神道家で占められている。

そのため祖霊殿、霊舎が存在する。


どれでしょう?
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月26日 06時36分29秒 ) パスワード

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765205


長上郡   コマ80より


寛政4年時点で  高2万5721石6斗1升7合    結構すごいですよね。



コマ80  P135
元明天皇の和同2年に不便だったから長上郡と長下郡の2つに分けた。
地震や水害で大変だったことが記録されている。



コマ81   P136
長田の読みは  ナガタ   奈加多


       P137
(日蓮上人の先祖の出身地)  貫名は  長下郡



コマ83

神立  は  神館 から出た。
准伊勢国度会多気の神?  (?=まだれ+寺)  
延暦儀式帳に孝徳天皇の御世に初大宮司領     ⇔  出ました!
                           長上郡と伊勢神宮の関係




コマ83の2
称神?(?=まだれ+寺)司
中臣香積?連
連須気仕奉支

                     御厨になったということ?



コマ84  P141

永田という村があって
長田郷   高  538石7升5合

ここに長田庄司忠致が住んでた           長田忠致  ですよ!



鎌田兵部正清に娘を嫁がせた


長田寺   今の長伝寺  (今って寛政時代のことね)




植松
敷智郡堺(境のこと?)  高   277石7斗2斤


六本松
浜松諏訪神社旧跡
弘治2年松を植えた
                        松島氏は関係あり?



大蒲

源範頼が住んでいて蒲の冠者を称した
今  神主などの先祖となっている

 
     ということは源範頼の子孫が寛政時代に神主なんかになって存続してた?




コマ85  P142
源義朝との間に1女4男をなした由良御前のお話。


由良御前は  熱田神宮の大宮司  ?義門  季範が  兄の三浦五郎季頼の娘を養女にしたもの。

姉は一条中納言能保卿の妻
2番目の男子は宮内?義門
3番目の男子は土佐冠者希義
4番目の男子が蒲生冠者範頼なり


    ややこしい話が続いてます
    母・由良御前とあっち行ったりこっち行ったりの話。
    源義朝が殺されてますからね





コマ85  P143
西伝寺   長田が西南の隣だった

   (それで長田忠致が源氏に仕えていたという話があるのかと納得した)


コマ86  P144
長田の正南半里に上飯田村
倭名  幡多           ハタ?  秦のこと?謎
                 

稲荷明神社

範頼塚




コマ89  P151
美園郷で紫?藍
絹線?絹織?
産物となす            織物の話




コマ93   
赤池伝説    有玉伝説

赤?  (虫+世)  神の棲みし所   (赤マムシの話?)

伊勢大神がどーたら


日本武尊 + 熱田社

田村麻呂の東夷征伐の途中の話




コマ94 
川輪庄
頭陀寺
松下屋敷  永禄元亀年間松下嘉兵衛之綱が住んでて秀吉が仕えてたこと



コマ97  P167
服織神社

豊田郡羽鳥村         ええっ?!ひょっとするとトヨタの豊田さんの出身地?謎

神護慶雲3年  奉神服

天下諸社、註豊田郡





コマ99  P171

有玉下村八幡社

此社之服部之処也トイヘリ   この社、これ服部の地といへり
如有玉村説



小池村八王子社

天正後  服部半蔵領
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月26日 06時56分09秒 ) パスワード

服部兼三郎は旧姓が堀尾氏ということで調べて来ました:

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/horio_k.html

堀尾氏
抱き茗荷/六つ目結
(高階氏後裔)


 高階氏は天武天皇の皇子高市親王の子長屋王の後裔にあたる。高階業遠から十二代目の邦経が尾張国丹羽郡供御所村を 領していたと伝えられ、早くから尾張に根をおろしていたようだ。五代後の忠泰が斯波義重に仕えて勲功があり、 はじめて堀尾氏を称したという。そのため。守護斯波氏、守護代織田氏などの被官としてあったわけで、吉晴のとき 長浜時代の秀吉に仕えることになったのである。なお、高柳光寿・松平年一氏の『戦国人名辞典』では、吉晴の父を 泰時としている。


豊臣秀吉に仕えて出頭する

 吉晴は、天正元年(1573)の時点ですでに百五十石を与えられていることから、かなり子飼いに近い存在であったことがうかがわれる。以来秀吉に従って戦功をあげ、小田原征伐後遠江浜松十二万石の大名となった。

 秀吉の死後、家康に近づき、家康をして終生粗略に扱わぬという誓書まで出させるほどの活躍をし、家康の危機を救ったのである。慶長五年(1600)二月には、越前国府十八万石の領主に出世した。

 同年六月、浜松から越前への帰途、彼は大坂方の加賀井弥八郎なる武士と出会い、加賀井の甘言に乗せられて、 かれを刈屋城主・水野忠重に会わせた。その三河国での宴後、加賀井がいきなり忠重を殺害したのである。とっさに、 その加賀井を、こんどは吉晴が斬殺した。老いの腕も衰えていなかったのだ。しかし、その現場に駆けこんだ忠重の 家臣たちは吉晴主君の仇と思い違いをしてしまった。ために、吉晴は十七ケ所も刀傷を負い、 以後半身不随の身となってしまった。

 実情は家康の知るところとなり、嫡子忠氏が関ヶ原の合戦では終始東軍として働き、戦後隠岐・出雲両国を与えられ、 松江城に入り二十三万五千石を領した。

 尼子氏が築いた月山富田城に入ったが、時代遅れの山城でもあり、慶長八年、松江に城を築くこととなった。 このとき、吉晴は忠氏の後見役であった。しかし、翌年忠氏がマムシに噛まれて急死してしまった。さらに、 長女と家老の間に生まれた一子掃部をめぐって御家騒動が起きる。慶長十二年のことであった。



画像説明
● 左:磐倉寺境内の堀尾吉晴墓碑、香台を見ると「分銅」と「六つ目結」の紋が刻まれている。
● 上:堀尾忠氏の墓碑、なんとも無残な状態である。


 順風満帆に過ぎるかと思えた吉晴の人生であったが、嫡男忠氏の事故死などがあって晩年は不遇であった。 大坂の陣を間近に控えた慶長十六年(1611)六月、堀尾氏の行く末に不安を抱きながら死去、享年六十九歳であった。
 孫の忠晴は大坂の陣に出陣して鴫野表の戦いに活躍、元和五年(1619)には改易された福島正則の居城受取の 検使などをつとめた。しかし、寛永十年(1633)に三十五歳で死去、嗣子なく堀尾氏は呆気なく断絶となってしまった。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月26日 08時05分48秒 ) パスワード

浜松の歴史より

1727 享保12 旧浜松 服部保庵没する

        どなた?

________________________________


1776 安永5 旧浜松 若宮八幡社に大工町氏子中、湯釜を寄進する

大工町を検索したら東区役所がヒットしました。
なんで?
でも東区には若宮八幡社は無いようです。




ちょっと方向が違いますが、近いと言えば近いので善地の八幡社?
http://shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/search.php?mode=city&search=&city=35&p=1&orderby%5Bkana%5D=desc


神社名 : 若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)
代表者 : 宮司   山下和良
鎮座地 : 〒434-0028 浜松市浜北区上善地255-1

浜北区と東区は近いですよね。

服部の地だった、という有玉下村の八幡社、どこなんでしょう?


_____________________________


加藤光泰と八幡社の関係です:

ということで  平熱のスレッド  XV  をご覧ください

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101388_89.html
のレス<48>



以下コピペ

加藤光泰と岩村の関係:

ウイキより:途中で加藤氏関係の「橋爪」についてを挿入します。


復習:   加藤光泰家

蛇の目/上り藤
(藤原氏利仁流)


加藤氏は藤原氏の一族といい、加賀の藤原からきたものといわれる。

『尊卑分脈』によれば、源頼義の郎党藤原景道が加賀介であったことから「加藤」を称するようになったとみえている。

景道は藤原氏利仁流で、前九年の役で「東奥七騎」とうたわれた兵(ツワモノ)であった。

景道の曾孫にあたるという加藤次景廉は、源頼朝の旗揚げに参加、鎌倉幕府が成立すると鎌倉御家人となった。

ところが、景廉は梶原景時の謀叛事件に連座して失脚、一族離散して、一部が三河へ流れてきた。
それが、三河加藤氏の始めということになっている。


さて、加藤光泰の加藤氏は修諸修諸修諸、『寛政重家譜』によれば藤原利仁の曾孫重光二十代の後裔景秀の嫡男景泰は斎藤氏に仕えて、
美濃国多芸郡(養老郡)橋爪荘で七十貫の所領を持っていた。
 
            三重県の近くで岐阜県の大垣の近くですね

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

ここから加藤家についての情報を挿入します:

http://www.tagizou.com/main/elibrary/pdf/36hasidumenorekisi.pdf
これによると
加藤家は吉野より逃亡する義経捕縛のために頼朝から命ぜられて
伊勢から美濃国橋爪に駐屯するようになったのだそうです。
           

70ページ  21章  八幡神社のある加藤家             ココ!


橋爪の加藤家は代々私社として若宮八幡神社を守護されているが、
同家の由来はどのようであろうか。


藩翰譜という書物がある。        ←  コレ、読みたいですね


これは甲府中納言徳川綱豊(六代将軍家宣) の命により、新井白石が元禄十五年(一七O二)に編著したもので、慶長五年(一六OO) の関ヶ原の戦いより延宝八年(一六八O) 四代将軍家綱の時代の終りまでの、八0年間にわたる大名三三七家の経歴や系譜を収録してある。



この頭注に「加藤遠江守光泰は鎮守府将軍利仁二三代の後商加藤権兵衛景泰の子也。
景泰・美濃多芸郡橋爪庄七O貫を領して、初は守護斉藤氏に属す」とある。


藩翰譜には「左近大夫貞泰は遠江守光泰が男也。光泰・初め織田殿の家人(作内と申しき)。元亀元年(一五七O) の春、木村、生駒、前野等と同じく羽柴藤吉秀吉の手に属せらかしこしゅくやる。

これより秀吉世の事を知り給ふに至りて、是処彼処の戦功、夙夜奉公の労を積みてければ、天正二一年(一五八四)、近江田高島の城を賜ひ、叙爵して遠江守に任じ、同じき一八年(一五九O)、甲斐国を悉く賜ひ領しぬ(二四万石)。

きれば殿下(秀吉)年来の御家人にて、御覚え他に異なりし故、斯かる大名にもなし立て給ひ、時の栄世の華なりしかど、いつしか、ざん人の為に申しさまたげられて、御気色宜しからず。

文禄の初め、朝鮮討たるべき事起りて、光泰も軍勢引具して彼の国に打渡り、是処彼処の軍し、終に陣中にて空しくなりぬ」と載せている。

         三成に讒言されて
         朝鮮で没したというお話ですね


また、新撰美濃志に

「東黒野村黒野古城、加藤遠江守光泰の子左衛門尉貞泰、是に居れり。
父光泰甲斐国二十四万石を領し、谷村の城にありしが、
文禄二年(一五九三)征韓の役に彼地にて卒去し、
貞泰幼稚なるにより領地を滅ぜられ、僅か四万石にて美濃の黒野城に移り、
慶長一五年伯香米子城に移り、六万石を領す」と書かれている。



加藤氏がいつ頃から橋爪に居住したのか分からないが、藤原時長七代の後胤景道が始めて加藤氏を名乗っている。


光泰の子貞泰は後に四国の伊予大州六万石に移封した。貞泰の子は泰興だが、その弟直泰は伊予新谷一万石に封じられ、両家の子孫ともそのまま明治に至り華族に列せられて、子爵を与えられている。


光泰の弟に光定があり、この子孫が現在橋爪に在住している加藤氏の祖先らしいと言われる。

また光泰の娘は二人あり、姉は竹中重門、妹は石河光遠の室となった。


橋爪の伝承では、徳川時代の末ころに大名行列が橋爪を通り、殿様が村人を呼んで

「この地に加藤と云う者が居らぬか」

とたずねた。


その頃、加藤家は没落して一農家になっていたので、村人は叱責と難儀のかかるのを恐れて「さような者は当地には居りませぬ」と答えた。

大名行列はそのまま通り過ぎていったという。


同家で永年にわたって護持されている若宮八幡宮の勧請由来については分からないが、
このような農村の個人の家で、一社を経営することは、加藤家の昔の由緒と繁栄を、無言に物語るものであろう。
  

以下略

________________________________


浜松の若宮八幡社と(特に善地の若宮八幡社と)加藤家が関係があったらスゴイですね。


そして善地の若宮八幡社と服部の地だった有玉下村の八幡社が関係があったら
もうひっくり返りそうにスゴイ!
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月26日 13時05分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊吹山の「息吹」を「伊吹」に訂正いたします。
 それと火縄銃を「打つ」を「撃つ」に訂正いたします。

 服部半蔵の采地については今後追跡調査を行って行きます。半蔵直属の
忍者軍団がどこに住んでいたのか、昼間は百姓として、夜は忍び軍団として、
浜松城を中心に、すぐに駆けつけて来れる距離に。あるいは侵入者を真っ先
に防げる前哨基地に配されたのではないかと思う。半蔵の下に服部中や、松
下常慶がいたのか。服部中の一団は上石田、下石田と浜松の裏口の大久保あ
たりに配されたのであろうか。常慶は気賀・細江、頭陀寺方面であろうか? 

 ところで家康は主としてどこに居たのだろうのか。磐田の中泉御殿に出か
けることも多かったのではないか。その警護もある。敵の忍者も常に家康の
命を狙っていたと思われるので、こちらも忍者を配して、警備をしていたと
思う。半蔵の采地は、これらを解く重要な一つの手掛かりになるかも知れま
せん。

 昨日の大垣城訪問は、加藤光泰が城主をしたことがあるということで、そ
れを確かめる目的もあり、それは城にある歴代の城主一覧表に載っておりま
したので確認できました。
 また芭蕉がここを奥の細道をしめくくる場所にしたということの謎を探る
という目的もありました。単に俳諧だけの世界でなく、裏の情報を収集し
分析し伝達したのではないか・・・元々伊賀の下足人の家系出身で藤堂采女
家(服部忍者系)とも強い関係もあった。江戸深川に住んだということである
が、一度なぜ深川に住んだのかも、深川にある芭蕉記念館を訪ねてみたいと
思います。俳句にこめられた裏のメッセージの秘密もわかるかも知れません。
 
 大垣を午後1時過ぎに出て、一宮に向かう。名古屋は道路についていえば、
平面でなく、2階に高速道路網があるので、ナビによる検索・誘導はこんが
らがって難しいものであった。ナビを使わず、頭に地図をインプットした方
が最短で行けるかも知れない。余分な高速代と時間を取られ、すべて駆け足
でまわらざるを得なくなってしまいまいた。とにかく、真清田神社、境内社
の服織神社にはたどり着き、神紋を確認する。両方とも「竹の輪に9枚笹」
で統一されていた。服織神社の方は、たぶん昔は違っていたのではないかと
本心では疑う。丸く整った小さな玄武岩石質の石を見つけ、記念にとポケッ
トに収める。

 続いて尾張国御霊神社へ。ここも参拝客で混んでいる。調査も時間がない
ので駆け足・・・どういう外観の神社か脳裏に焼き付けた。

 そして熱田神宮へ、「熱田神社」とナビに打ちこんだので間違った所へ連
れて行かれそうになり、途中で軌道修正。稲沢町や七宝町やあま町を通り抜
け、また高速にのり、熱田へ。門前のコインパーキングがたまたま1台分空
いていたので滑り込ませる。
 熱田神社の境内・鎮守の森はさすがに大きい。15年以上来ていないので
三島大社とイメージがゴッチャになっていた。まだ参詣客は多い。小砂利の
上を歩く音がかまびすしい。
 本殿でお参りをする列に並び、一歩一歩神殿前に・・・作法どおりに祈り
を捧げた。もちろん遥かな地よりのあを様の祈りの分もも忘れずに神前に届
けてまいりましたのでご安心下さい。

 宝物殿では、今回は「出雲特別展」が開かれていた。早速中に入り、受付
を済ませると同時に、販売されている図書を購入。『出雲の宝物』と『尾張
国熱田太神官縁起』である。これも読んだ後でご報告申し上げます。
 宝物の中で一番魅了されたのは、4センチくらいもある濃緑色の勾玉で、
展示ケースのなかのスポットライトをあびて澄んだ輝きを発していた。隣に
いた美しい(暗くてよく見えなかったが、たぶん)女性が「パワーがありそう
だわ、どんな女性がつけていたのでしょうね」と驚きの声でにつぶやいてい
るのが聞こえました。とにかく出雲の宝物類はスケールが違います。やはり
一度出雲へ行って、いろいろな物を確認して来なくっちゃと自分に言い聞か
せておりました。

 そして帰路へ、帰着は午後6時。9時間半、330キロの旅でありました。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月26日 22時56分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


熱田神宮と熱田神社は  カーナビは  区別がつくんですか。
へえ〜
人間にはおんなじだと思いますけどね。
カーナビってカシコイ!



でも駐車場が1台分空いてたなんてラッキーでしたね。


それにしてもアッチもコッチも人がたくさん遊びに来ているんですねえ。
いや  参拝  に。
神社に行くのは楽しみで、参拝は日本人の自然な行為なんでしょうね。



出雲にも是非!
籠神社の真名井にも是非。ヒスイがらみだったとは。


半蔵の部下達はどこに住んでいたのでしょうね。
やっぱり有玉下村八幡社でしょうか?

   善地では遠過ぎますね。
   笑


そして半蔵の子孫。
西区湖東町の方ですか。
電話帳でどのあたりか調べられますね。


   細江町に八幡神社がありますね。
   更に北には龍たん寺
   もっと北には若宮神社。


戦国時代にタイムスリップしたい気分です。



そして加藤家!橋爪の加藤との関係。そして八幡社。そして千秋氏との関係!


>加藤光泰の弟の光定。
>この子孫が現在橋爪に在住している加藤氏の祖先らしいと言われる。

この加藤光定家が千秋氏の次男系と繋がりますか。


書いてくださいね。



コレもアレも楽しみにしております。


最近は記憶力も無くて  勘も良くなくて
でも千秋家と加藤家が繋がることは、ちょっとは勘がまだ働いているのかしら?
やっぱりご先祖さまのお仲間が教えてくれたのかもですね。


橋爪の加藤家のことは三つ柏さんがスレッドXVで琴線に触れることをお書きでしたから
そちらから来た勘でしょうね。

   あの時、村人が加藤家をかばって「そんな者はおりません」と大名行列に答えたこと。
   もし「いますよ」と答えていたら、どうなったのか?

   タラレバの話を論ずるのは意味が無いけど
   加藤家に繋がる一族として、あの時に「おります」と返事してたら?


   もっと簡単に善地の加藤家の秘密も明らかになったのかも。
   秀次事件に巻き込まれた事情やらその時の苦悩やら
   
   橋爪の加藤家と善地の加藤家の関係が分かると良いですね。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 14時35分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101411_5.html
「遠江風土記伝」の仮置き場に書きましたが(コピペですが)

榛原郡の服織田神社の神紋は三つ巴紋です。

それでハタと思いました。


この服織田神社の三つ巴紋に対抗して長上郡の服織神社の神紋は三つ柏紋だったのではないかと。


榛原郡の服織田神社は四国がらみのようです。
長上郡の服織神社は熱田神宮・伊勢神宮にも繋がるようなので
この違いがあるのかなと。


面白くなりました。




榛原郡の服織田神社について
    神護景雲3年神服部天下諸社を奉ず
と書かれています。


    神護景雲は奈良時代、称徳天皇の時の年号。
    神護景雲3年は西暦769年。


__________________________________



http://shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4408001


 
神社名 : 白羽神社(しろわじんじゃ)
通称 : お白羽様(おしろわさま)
代表者 : 宮司   ・山 佐吉
各種御祈祷 : 交通安全・自動車清祓い・家内安全・商売繁盛・大漁満足・海上安全・初宮・七五三・厄除け等

鎮座地 : 〒437-1622 御前崎市白羽3511番地
問い合わせ先 : TEL.0548-63-2907
FAX.0548-63-2907

URL : https://www.facebook.com/shirowajinja?ref=hl https://www.facebook.com/media/set/?set=a.1410019572552940.1


東名吉田ICから20km・30分/牧之原ICから18q・20分/掛川ICから25km・40分/御前崎灯台まで5km・10分

御祭神
1.天津日高日子穂々手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)
2.豊玉毘賣命(とよたまひめのみこと)
3.玉依毘賣命(たまよりひめのみこと)


御神徳
1.山幸彦として知られる神様
2.山幸彦の妻で、海神の娘
3.豊玉毘賣命の妹


御由緒
仁明天皇承和四年(838)二月元宮である岬の駒形神社より遷る。延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。

式内服織田(はとりだ)神社とも云われ、旧縣社として古くより信仰が厚い社である。

また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため。

旧社地は、御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年11月鎮座。
仁明天皇承和元年3月神様のお諭しにより宮処を廻り、承和四年2月現地に遷座した。

武門武将の崇敬篤く、源頼朝以来白羽地区全域が神領であり、市内佐倉地区に貫高二十九貫二百文の土地を有した。(之に要する用水池を今日も白羽池と称している。)

永禄年間、今川義元まで武将代々の朱黒印の寄進もあったが、元亀年間、武田信玄がこの地に出兵乱入の際、所伝の古文書類はもとより社殿等兵火に罹り、全て焼失したが、御神体のみ榛原郡川根本町白羽山に疎開、戦乱平定後、武田氏は神威を畏れ社殿を再建し、元亀三年10月14日御神体を還幸した。

また、神主 滝玄蕃幸嗣は前々より神領所有の事情を武田氏(武田勝頼)へ上申し、天正二年7月9日付を以って神領を寄進せられた。

武田氏滅亡後は徳川氏の崇敬を受けて、慶長八年9月19日付、朱印高一〇五石と改める寄進があり当地方最高位となった。

太古より白羽大明神と称せられ、延喜式榛原郡五座の内白羽村鎮座の白羽大明神を以って服織田神社なりと考証されている。(『神名帳考証、巡礼旧神祠記、遠江国式内社摘考、大日本神祇志、遠江風土記伝、神祇志料、特選神名牒』等に依る)

また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている。

遠江しるはの磯と贄の浦と
      あいてしあらば
           言もかよはむ
         万葉集遠江歌     丈部川相       ⇔  かわい、ですって

 当社前方が海辺で、万葉歌人の詠まれたものを見ても、古来より名高い所であった。

明治6年3月 郷 社
明治44年8月11日 神饌幣帛料供進社に指定
昭和5年2月11日 県社に昇格
昭和21年11月30日 宗教法人令による神社を設立
昭和29年4月26日 宗教法人法による神社を設立登記した

   
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 14時55分36秒 ) パスワード

http://www.mai-ca.net/enjoy/tales/talespost_146.php

服織神社(はたおりじんじゃ) 復習


     こちらの方が榛原郡の服織田神社より格式が高いということですね。
     そして出雲系なんですね。


場所は東区豊町。
豊西小学校の北約500m。住宅と畑に囲まれていました。
祭神は「天穗日命」 と「建御名方命」です。

天穗日命は農業、稲穂、養蚕、木綿、産業などの神といわれ、建御名方命は軍神また農耕、狩猟、冶金などの神といわれています


創建は和銅元年(708年)で出雲(今の島根県)からお迎えしたといわれています。
有名な古い貨幣「和同開珎」のできた頃の創建ということになります。

延喜式神名帳という平安時代にまとめられた神社の一覧に載っているそうですからたいへん由緒ある神社です。



神社の名前のとおり、この辺りには古くから服や布を作る職人が多く住んでいたのでしょうか?

室町時代以降、今の東区北部から浜北区にかけての地域は綿花の栽培がさかんでこの服織神社近くの笠井は綿花の集積地として賑わったところでした。
服織神社と笠井はなんらかの関係があったと思われます。浴衣などの遠州織物のルーツもこんなところにあるのかもしれません。


今年(2008年)8月の創建1300年祭が行われたということです。神事の後、豊西小学校の女子児童が「豊栄の舞」を奉納したということでした。

普段は静かな境内もその日ばかりはさぞかし華やかで多くの人々でいっぱいだったのでしょうね。



ちなみに我が家の服の字は最初の画像の服と同じです。
いわゆる俗字だと思いますが  戸籍に載ってるのはコッチ。
とはいえ今は戸籍も活字化されてて  普通の服の字ですが。
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月27日 20時56分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、郵便局へairmailをお願いした後、あを様の大発見を元に、さっそ
く服部半蔵のかつての采地である有玉・小池方面へ行ってまいりました。

 午後半日の行程―
  有玉神社・俊光将軍社(有玉)→大養禅院(小池)→小池神社→長福寺(小池)
  →熊野神社(市野)→市野宿→八幡宮(下石田)→法傳寺(下石田)→六所神社
  (白鳥)
 
  これらは正に本坂街道(姫街道)に沿って西から東への流れであります。
  そして下石田の北隣が上石田、上石田の北東隣が喜平、喜平の北東隣が
 豊西(羽鳥)とずっと続いております。
  この流れの前半部分を服部半蔵が、市野宿をはさんで後半部分を服部中
 が支配した。こうしてみると、想像以上に「市野宿」というのは重大視さ
 れていることがわかります。市野宿には本陣・脇本陣が置かれていたとい
 うことであります。昔の地図を見てみないとなぜ市野宿がということがわ
 からいですが、天龍の渡しは中野町からで、その手前の宿場町が市野であ
 ります。色々な人が集まったということでしょうか。天竜川が増水すれば、
 長期滞在も余儀なくされる。参勤交代があればこれまた大変である。つま
 り要所であったということになる。

  本日回った中で、コレハと思ったのは「有玉神社」と「小池神社」です。
 それはあを様の予想されたとおりであります。服部半蔵の気配こそ感じら
 れませんでしたが、有玉神社は元々八幡宮であったとのこと。また、家康
 が大阪から変陣後、乗馬を奉納し、以来流鏑馬が例祭の神事として執り行
 われているという由緒ある神社であった。
  そして、小池神社―ここは元八王子社であったとのこと。祭神は次のと
 おりであります―
  1.正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(まさやあがかちかつはやひあめのおしほ
   みみのみこと)
  2.天之穂日命
  3.天津彦根命
  4.活津彦根命
  5.熊野櫲章日命
  6.速日天忍穂耳命
  7.市杵嶋媛命
  8.多岐都媛命

 今後も深く忍者のあとを探ってみたいと思います・・・。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 22時19分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


さっそく行かれましたか。


市野宿。
土地勘が無いので、どんな処か検索してみますね。

なるほど昔っから栄えていたところなんですか。
そして市野宿を境に服部半蔵と服部中保次がそれぞれ治めていたのですか。


有玉神社と小池神社。
これが
八幡社であり八王子社でしたか。



取り敢えず「分かって」良かったです。


一体忍者はどうなっていたのでしょうね。
どこにいたんでしょうね。
市野宿でしょうか?



このPC窓8なのに遅い!遅い!
重くてなかなか開けられませんでした。

夜中の3時にですよ
うちのマンションの人達はほとんどの人がまだ寝てる時間帯と思います。

それなのに遅いって?

逆にこんな時間に何をやってるのだ?と検閲が入っているんでしょうか?

昼間の方が速い時もあります。
う〜む、謎。
ま、わたくしがコピペをたくさんやり過ぎなんでしょうね。


ということで  XXV をお立てになってくださいね。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 22時28分39秒 ) パスワード

向うの「遠江国風土記伝」の仮置き場に載せてたものをこちらに1つ移動させました。



阿波国服織神社


榛原郡の服織田神社が四国から来たということで
取り敢えず阿波国服織神社ということで検索したら


忌部神社 (吉野川市)がヒットしました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE_ (%E5%90%89%E9%87%8E%E5%B7%9D%E5%B8%82)


忌部神社(いんべじんじゃ)は、徳島県吉野川市山川町にある神社である。式内社(名神大社)の論社で、旧社格は村社(一時国幣中社)。

明治以前は「天日鷲神社」と称せられた。なお、後述するように王子権現の境内に祀られていたため、近世には「王子権現」とのみ記されてきた。


祭神[編集]

『延喜式神名帳』の「忌部神社」の注記に「或号麻殖神。或号天日鷲神。」とあり、麻殖神(おえのかみ)、別名天日鷲神であることがわかるが、現在の祭神は以下の通りである。


天日鷲翔矢尊(あまひわしかけるやのみこと)(天日鷲命)当神社主祭神で、阿波忌部氏の祖神である。

后神 言筥女命(いいらめのみこと)主祭神の后神であろうが、他に見えない。天太玉尊忌部氏の祖神である。

后神 比理能売命(ひりのめのみこと)天太玉尊の后神である(洲崎神社・洲宮神社参照)。

津咋見命(つくいみのみこと)『古語拾遺』天照大神の天岩窟幽居の段に、天日鷲命とともに穀(かじ)の木を植えて木綿 (ゆう)を作ったことが見えるが、天日鷲命の子神で大麻比古神社の祭神「大麻比古神」の別名とする伝えもある]。


         これでしょうね
            ↕
長白羽命(ながしらはのみこと)同じく『古語拾遺』天照大神の天岩窟幽居の段に見え、伊勢国の麻続氏の祖神であるとする。

          伊勢にも関係してますね。
          というより基本は伊勢神宮がらみなんでしょうね



由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)安房忌部氏の祖神で、天日鷲命の孫、大麻比古神の子とされる[2]

衣織比女命(いおりひめのみこと)他に見えず。


由緒[編集]

『古語拾遺』の造祭祀具斎部の段に、天太玉命の孫神である天富命が、穀の木や麻を植えるのに適した地を求め、日鷲命の孫を率いて阿波国に至り、定住した阿波の忌部氏が大嘗祭に木綿や麻布(あらたえ)などを貢納するようになったと記すが、以後も大嘗祭には同氏の織った荒妙御衣(あらたえのみそ)を献上するのが常であった[3]。また、当神社後方の「黒岩」と呼ぶ山腹に6世紀後半の築造と見られる5基の円墳からなる忌部山古墳群があり、これは6世紀前後に忽然と現れたもので、当地に移住してきた氏族集団があったのではないかと指摘されている[4]。

社伝によれば、神武天皇2年2月25日に、阿波の忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったのに始まり、もとは上述「黒岩」に鎮座していたと伝える。古来から氏神として阿波忌部氏から、また大同元年(806年)には封戸20戸が充てられていた(『新抄格勅符抄』)ので、朝廷からも尊崇されたたようであるが、詳しいことは不明である。


社記によると中世には、文治元年(1185年)に河野通信が長光の太刀を奉納し、屋島の戦いに際して源義経や那須与一が戦勝祈願に太刀や弓矢を奉納、翌々文治3年田口成良が源頼朝の命で板東・板西・阿波・三好の4郡から田畑1000町を割いて御供料として寄進したと、武士からの崇敬を伝える[5]。

また、『山崎斎部神社之記』なる社記によると、応永年間(1394-1428年)に地震によって現在地へ崩落し、現在地にあった王子権現の傍らに小祠として祀られるようになったという[6]。以後、永禄3年(1560年)管領細川讃岐守(真之か)が御供料田畑を安堵すると、三好長治もこれを襲ったが、長宗我部元親によって廃止され、兵乱による荒廃もあって衰退していき、藩政期になるとその所在すら不明となるに至った(一説に徳島藩主蜂須賀氏が、社領復旧を阻むためにあえて復興しなかったという)。


また、享保12年(1727年)には種穂神社(吉野川市山川町川田忌部山の種穂山山頂)の早雲民部という神職が、当社神職村雲勝太夫を放逐して横領し、元文年間(1736-41年)には同神社に忌部神を併祭するようになり、その子である式部が争論を怖れて当神社を焼き払ったが、旧山崎村(現 山川町北東部1帯)村民の請願により、寛政13年(1801年)に早雲式部を罷免し、村雲勝太夫の孫娘に養子をとり、神職を継がしめたという[7]。



明治3年(1870年)村社に列したが、上述のように近世以降所在不明とされたために、翌4年に「所在地不明」のまま国幣中社に列格した式内忌部神社が、国学者小杉榲邨の考証によって当神社に論定されたため、翌5年に国幣中社へ昇格した。しかし、式内忌部神社を主張していた美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社からの反論があり、同7年(1874年)に改めて当神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も激しい論争が続いたため、同14年(1881年)に五所神社を式内忌部神社に変更し、当神社は村社に戻ることとなった。ちなみに、五所神社比定に対し、今度は山崎側が反発したため、太政官による妥協策として徳島市内に新たに創祀されることとなったのが、徳島市二軒屋町の現忌部神社である。

近年は、上述忌部山古墳群の発見により、式内忌部神社であったことが再確認されている。


神階[編集]

嘉祥2年(849年)に従五位下が授けられ(『続日本後紀』)、貞観元年(859年)に大麻比古神とともに従五位上に昇り、元慶2年(878年)には正五位下に、同7年には従四位下に累進し(以上『日本三代実録』)[8]、延喜の制で官幣大社に列して月次・新嘗の両祭に預かるとともに、名神大社にも列している。



社殿[編集]

本殿は切妻造平入の板葺屋根で、棟に千木・鰹木を置く。棟札によれば、享保7年(1722年)の造替にかかるものである。



摂社[編集]

旧山崎村村域に鎮座する以下の7社を境外摂社としている。


岩戸神社 - 山川町岩戸に鎮座し、天石門別命と天太玉命を祀る
建美神社 - 岩戸神社と同所に鎮座し、天底立尊と建御名方命を祀る
天村雲神社 - 山川町岩戸に鎮座し、天村雲命と伊自波夜比売命を祀る。式内小社「天村雲神伊自波夜比売神社」に擬する説もある

淤騰山神社 - 山川町祇園に鎮座し、速須佐之男命と櫛稲田姫命を祀る
白山比売神社 - 山川町忌部山に鎮座し、伊佐奈美命を祀る
若宮神社 - 山川町東麓に鎮座し、思兼尊と長白羽命を祀る
玖奴師神社 - 山川町忌部山に鎮座し、大国主命を祀る



その他[編集]

境内に「麁服織殿跡」があり、大嘗祭に際して阿波忌部氏の後裔とされる三木(みつき)氏が荒妙を織った機殿の遺跡であるという。




____________________________


玄松子さんが怪しんでた四国の神社ですが、関係無いように思います。


朝立彦神社  あさだちひこじんじゃ
        徳島県徳島市飯谷町小竹101


以上「遠江国風土記伝 仮置き場」にコピペしてあります。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月28日 09時40分03秒 ) パスワード

XXV をありがとうございます。



遠江風土記伝   コマ102から   巻7の上

磐田郡

磐田に遠江国の国府があった?



平家物語や太平記そして戦国時代の戦いの話が多かったです。



コマ111
千手堂

千手前と重衡




コマ118
池田宿

平家の荘園

宗盛とゆや



コマ119
宗盛  重衡など平家物語のお話




コマ121

大久保   高63石6斗7升6合



コマ131から巻7の下   豊田郡が始まります
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月28日 10時21分42秒 ) パスワード

レス<64>

                                       地図で見て来ますね:                                                                        有玉神社・俊光将軍社(有玉)→大養禅院(小池)→小池神社→長福寺(小池)
   →熊野神社(市野)→市野宿→八幡宮(下石田)→法傳寺(下石田)→六所神社(白鳥)
 
  これらは正に本坂街道(姫街道)に沿って西から東への流れであります。

  そして下石田の北隣が上石田、上石田の北東隣が喜平、喜平の北東隣が豊西(羽鳥)とずっと続いております。

  この流れの前半部分を服部半蔵が、市野宿をはさんで後半部分を服部中
 が支配した。

   こうしてみると、想像以上に「市野宿」というのは重大視されていることがわかります。


   市野宿には本陣・脇本陣が置かれていたということであります。




姫街道(261)を辿りました。

ずっと西北に伊井谷があるのですね。
なかなか興味深かったです。




市野宿とは

東海道の脇往還である姫街道(本坂道などとも呼ぶ)沿いの宿で伝馬が置かれて、人馬の受け継ぎが行われた。


市野宿に伝馬が置かれたのは1639(寛永16)年以前とされる。


1717(享保2)年姫街道通行が停止されたため、本陣問屋や宿泊場のあった市野宿は大きな打撃を受けた。

また1812(文化9)年9月7日に火災があり、12軒ほどが焼けたという記録もある。



小池町と市野宿は隣同士ですね。



http://www.246.ne.jp/~you99/himekaido1.htm
 見付宿 → 市野宿


     ちょうど「遠江国風土記伝」の磐田郡を読み終えたところなので
     姫街道のこのブログが面白かったです。



西光寺:
見附宿の南本陣・神谷家、北本陣・鈴木家の墓所がある

             ということは鈴木家の本家は見附宿でしょうか?



一言坂の戦い:1572年(元亀3)に甲斐国の武田信玄に攻め込まれた遠江国領主の徳川家康が、
袋井の戦いで破れ浜松城を目指して敗走したとき、この一言坂で追いつかれ再度合戦となった。これを一言坂の戦いという。
このとき家康の家臣本多平八郎忠勝が、大槍を振り回して1人大奮戦し、枯草に火を放ちその煙の中、
見事徳川軍を退却させた、と伝えられている。




池田

熊野御前と平宗盛の逢瀬の場の物語が書かれている。

熊野御前は謡曲や平家物語に登場する親孝行で有名な美女で、行興寺(旧跡熊野寺)に墓がある。

藤と香りの道:
豊田町の駅をスタートし、香りの博物館、熊野伝統芸能館、新造形創造館などの施設を巡り、
熊野御前ゆかりの行興寺と池田宿の街並みを回る9kmのコースである。

    行興寺:熊野ゆや)御前の墓がある

熊野御前:
平安時代末期、池田庄の庄司の藤原重徳の美しい娘で、
遠江の守平宗盛(平清盛の息子)の寵愛を受けて都に上がる。

その後母が病気になるが郷里に帰ることを許してもらえず、宗盛が桜見物に清水寺へ熊野御前を連れて行った折
「いかにせむ都の春も惜しけれど なれし東の花や散るらん」
(京都の春の桜も惜しいけれど、こうしている間に住み慣れた遠州の藤の花(と、母の命)も散ってしまいそうです)
の一首を宗盛に奉げた。

この歌に心うたれた宗盛から郷里に帰ることを許された熊野午前は、必死になって母の看病をしたが、
その甲斐もなく母は亡くなってしまう。

また宗盛も壇ノ浦の戦いで源氏に捕らえられ、近江で処刑される。

1人残された熊野御前は尼となるが、33才の若さで死んでしまう。


なお、「ゆや」という名は、父重徳が紀州熊野権現へ祈願をかけ授かった娘であったので、
熊野(ゆや)という名が付けられたと言われている。


     あら、そうだったの




妙法寺
武田軍との戦いで敗走した家康を救って天竜川を無事渡らせた功で渡船権を与えられたという、
半場善右衛門の墓がある



橋を渡ると磐田市と別れ浜松市となる。


明治元年の天皇行幸の際、急遽村の浅野茂平が担当して78艘の舟を並べて船橋を架けたところ。

続いて「船橋跡」(右)と「天竜川木橋跡」(左)標柱が立っている。

浅野茂平はその後明治7年に本格的な船橋を完成させた。


その功績を讃えた碑(天竜川橋紀功碑)が中野町に建立されている。、
 明治9年に船橋から木橋に架けかえられた。



木立の外れで、右にUターンする下り坂(写真左、中)を進み、木立の中の六社神社前(写真中)へ出る。

神社前には旧東海道道標が立っている。

1276年(建治2)尾張国中野郷より勧請し私の安全を祈願した六所神社の正門前丁字路で左折し、
真夏の昼下がり、中野町集落の中を旧東海道(県道314号線)を西へ進む。


すぐ右側に、明治7年に船橋を完成させた浅野茂平の功績を讃える天竜川橋紀功碑(写真左)がある。

さらに7,8分先の右側駐車場のところに、「かやんば高札場跡」標柱があり、かやんばは萱場。

道の反対側は、徳川家光が浜松城主に命じて建立させた薬師堂が現存するという松林寺。



さらに150mほど先右側に、粋なツートンモノカラー塀の金原明善の生家(写真左)がある。


金原明善:天竜川のたび重なる氾濫で犠牲者が出るのを見て、
反対する時の明治政府を説得し私財をなげうって20数年の歳月をかけ、明治33年に天竜川堤防工事を完成させた人。

街道を歩いていると、よく全財産を投げ打って治水事業などを完成させたという話を聞くし、
また江戸の町では金持ちは貧しい人や公共のためにお金を使ったというように、「金持ち」であることが尊敬されていたという。

格差というのは今も昔もあるはずで、今の金持ちは単に「私利私欲」の塊りが多いことに問題があるのではないだろうか。


道の反対側に金原明善記念館があり、治水関連道具や明善ゆかりの品々が展示だれていて、入場無料。


建物の手前角に、「中ノ町村 和田村 村境」標識がある。


金原明善生家から約200m進み、黄色道路標識の丁字路(写真左、右)のところが、
本坂通姫街道安間起点となるところ。

またこの周辺にあった江戸より64里目の東海道安間一里塚は、姫街道の一里塚の起点となっている。

この丁字路で右折し、すぐ先の安新町信号交差点(写真右)を横断して北へ進む。



半僧坊大権現:浜松市引佐町奥山にある方広寺に祀られている半僧坊大権現のことで、半僧半俗の姿をしている。


半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子無文元選禅師が1350年(天平5)中国から帰国の途中海難にあったところをに助け、

また無文元選禅師が1371年(建徳2)に方広寺を開山したときは弟子になり修業して仕え、

無文元選禅師が亡き後は方広寺の鎮守として祀られている、と伝えられている。


方広寺から勧請した半僧坊の御堂のある寺は、建長寺(鎌倉)、金閣寺(京都)平林寺(埼玉県)など全国各地にある。


その先の左側の広場に、年代の新しい大正時代の常夜燈と奧にあるのは長泉庵。


市野宿:
1764年(明和元)、市野宿をバイパスする東海道浜松宿から気賀宿への街道が
幕府道中奉行管轄となったため、
市野宿は大きな浜松宿におされて衰退し、宿場機能を失ったという。

         そういう意味でしたか


現在は当時の宿の面影は殆ど残っていない。斉藤本陣があった。



橋を渡り道は3つに分れ(写真左)、真ん中の道を進み
突当を道なりに左に曲がると、この通りが市野宿の宿場通り(写真中)となる。
宿場通りを100mほど進んだ右角に、姫街道道標(写真右)が立ち、
何も案内標識がないが、その後のトラックのある敷地が斉藤本陣跡と思う。


江戸情緒溢れる、なかなか素敵な案内ブログです。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月29日 06時09分04秒 ) パスワード

姫街道を知って、そもそも長上郡について、もう1度復習です。


郡域

1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域にあたる。


浜松市 東区の大部分(国吉町・中野町・中里町・白鳥町・常光町・貴平町・恒武町・豊西町・豊町を除く)

南区の一部(江之島町、大柳町、都盛町、参野町以東)

浜北区の一部(平口、小林、西美薗以南かつ油一色、東美薗以西)

磐田市の一部(掛塚・十郎島・白羽・豊岡・川袋)        ←  これが不思議でした

        だから白羽神社が
        式内服織田(はとりだ)神社とも呼ばれて不思議じゃなかったのですね。

        古代、織子達が当然いたわけだ。




近代以降の沿革

「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。
●は村内に寺社領が、
○は寺社等の除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)が存在。

小池村は2ヶ所に所在し、ともに合併まで改称されなかった。        ← ココに意味があったのでしょうね


(137村)






幕府領

   幕府領
   26村

       ○新貝村[1]、○三郎五郎新田、庄屋村、○領家村、○鶴見村、●安間村、安富村、東金折村、
       小池村(現・浜松市東区小池町)、半場村、○北長十郎新田、○西大塚村、○東大塚村、
       ○三河島村、長十郎新田、権右衛門新田、中新田、○東村、●○白羽村[2]、
       ●○敷地村[2]、○十郎島村[2]、●金洗村[2]、●江口村[2]、●○川袋村[2]、
       ●西堀村[2]、●吹上村[2]



旗本領
17村
       ●○上石田村、●下石田村、安間新田村、○道本村、●寺島新田村、●○木船新田村、
      ●○小林村、木船村、●寺島村、打上村、●平口村、●○小島村、●○小松村、
      ●内野村、●半田村、新半田村、○笠井新田、●内名村



幕府領・旗本領
1村
      ●市野村                 ここを支配してた旗本はどなたでしょう?




藩領
遠江浜松藩
87村

       ○西塚村、○将監名村、篠ヶ瀬村、○下堀村、●植松村、●宮竹村、宮竹新屋村、
       ●○小池村(現・浜松市南区飯田地区)、○上新屋村、○中田村、○丸塚村、
       ●西在所村、●○天王村、原島村、●○永田村、●上之郷村、○天王新田村、
       ○下飯田村、●○小松方村、●○北島村、○青屋村、○渡瀬村、○別久村、次広村、
       ○名切村、下村、○塚越村、薬師新田村、●○薬師村、●○上飯田村、●龍光村、福増村、
       ○西ノ郷村、長鶴村、●○金折村、●橋羽村、●○恩地村、●○本郷村、●○弥十村、
       ●石原村、八反畑村、●○大柳村、○鼠野村、●○参野村、○松島村、鶴島村、○下中島村、
       ●頭陀寺村、○西島村、○下前島村、○清光庵村、○御給村、○古川村、○富屋敷村、向金折村、
       ○西村、○立野村、○江之島村、○福島村、●○安松村、○蒲島村、平左衛門新田、
       ○四本松村、○江川村、土呂新田、沼村、○東美薗村、●中条村、○油一色村、
       ○西美薗村、●高畑村、●横須賀村、●○有玉上瀬村、●○有玉松木島村、●有玉畑屋村、
       ●○有玉下村、○有玉新村、○有玉欠下村、●有玉町田村、●○笠井村、●上前島村、
      ●上大瀬村、●下大瀬村、漆島村、●○万斛村、●○橋爪村、●○西ヶ崎村




その他
寺社領
4村
      神立村、西伝寺村、西恩地、大蒲村



1868年(慶応4年) 5月24日 - 徳川宗家が駿河府中藩に転封。それにともない遠江・駿河・伊豆国内で領地替えが行われ、幕府領・旗本領が消滅。
9月5日 - 浜松藩が上総鶴舞藩に転封。
以上の変更により、全域が府中藩の管轄となる。

明治初年(135村) 土呂新田が龍禅寺村に合併。
新半田村が消滅(詳細不明)。

1869年(明治2年)8月7日 - 府中藩が静岡藩に改称。
1871年(明治4年) 7月14日 - 廃藩置県により静岡県の管轄となる。
11月15日 - 第1次府県統合により浜松県の管轄となる。

1875年(明治8年)(114村) 笠井新田より上村が分立。
敷地村・金洗村・江口村・西堀村・吹上村・内名村・東大塚村が合併して豊岡村となる。
恩地村・本郷村・弥十村・石原村・参野村・頭陀寺村・安松村・西恩地が合併して都盛村となる。
有玉七ヶ村(有玉上瀬村・有玉松木島村・有玉畑屋村・有玉下村・有玉新村・有玉欠下村・有玉町田村)が合併して有玉村となる。
寺島新田村・打上村が寺島村に、小島村が内野村に合併。

1876年(明治9年)(112村) 8月21日 - 第2次府県統合により静岡県の管轄となる。
木船新田村・木船村が合併して貴布禰村となる。
宮竹新屋村が宮竹村に合併。

1879年(明治12年)3月12日 - 郡区町村編制法に基づく静岡県令甲第36号により、行政区画としての長上郡が発足。「敷知浜名長上郡役所」が敷知郡高町(1882年浜松高町に改称)に設置され、敷知郡・浜名郡とともに管轄。
1887年(明治20年) - 西在所村・上之郷村が合併して上西村となる。(111村)





町村制以降の沿革[編集]



41.掛塚村 42.小野田村 43.平貴村 44.有玉村 45.万斛村 46.笠井村 47.美島村 48.市野村 49.天王村 50.蒲村 51.橋田村 52.飯田村 53.芳川村 54.河輪村 55.五島村(紫:浜松市 赤:磐田市 1は浜名郡 11 - 36は敷知郡 61 - 65は豊田郡)
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の村が発足。特記以外は現・浜松市。(15村) 掛塚村 ← 掛塚村、十郎島村、白羽村、豊岡村、川袋村(現・磐田市)
小野田村 ← 半田村、内野村、小松村
平貴村 ← 平口村、貴布禰村、沼村、道本村、小林村
有玉村(単独村制)
万斛村 ← 上前島村、万斛村、漆島村、橋爪村、西ヶ崎村、下大瀬村、上大瀬村
笠井村 ← 笠井村、笠井新田村、上村
美島村 ← 横須賀村、中条村、東美薗村、西美薗村、高畑村、寺島村、油一色村、豊田郡本沢合村
市野村 ← 上石田村、市野村、小池村[現・浜松市東区小池町]
天王村 ← 天王村、下堀村、原島村、天王新田村、下石田村、中田村
蒲村 ← 神立村、将監名村、西塚村、上西村、丸塚村、上新屋村、植松村、宮竹村、大蒲村、下村
橋田村 ← 篠ヶ瀬村、永田村、橋羽村、長鶴村、龍光村、半場村、安間村、安間新田村、北島村、薬師村、薬師新田村
飯田村 ← 別久村、次広村、西ノ郷村、福増村、小松方村、青屋村、渡瀬村、上飯田村、安富村、庄屋村、北長十郎新田、三郎五郎新田、領家村、鶴見村、新貝村、小池村[現・浜松市南区飯田地区]、下飯田村、西大塚村
芳川村 ← 西伝寺村、東金折村、三河島村、金折村、都盛村、江川村、御給村、大柳村、鼠野村、八反畑村、下前島村、四本松村、立野村、向金折村、古川村、下中島村、豊田郡老間村
河輪村 ← 富屋敷村、蒲島村、清光庵村、東村、西村、中新田、権右衛門新田、長十郎新田、豊田郡芋瀬村、弥助新田、古川寄合新田、三新村
五島村 ← 西島村、江之島村、福島村、平左衛門新田、松島村、鶴島村
名切村・塚越村が敷知郡天神町村の一部となる。

1891年(明治24年) 6月12日 - 万斛村が中郡村に、橋田村が和田村に改称。
9月17日 - 笠井村が町制施行して笠井町となる。

1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行のための静岡県下郡廃置法律により以下の変更が行われ、長上郡廃止。 浜名郡および長上郡・敷知郡の大部分、豊田郡の一部の区域をもって、改めて浜名郡を設置。
磐田郡・山名郡および豊田郡の大部分、長上郡の一部(掛塚村)の区域をもって、改めて磐田郡を設置。


参考文献[編集]
角川日本地名大辞典 22 静岡県
旧高旧領取調帳データベース




[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月29日 06時30分43秒 ) パスワード

このあたりのお寺さんの墓石を見せて頂いては?


大養院
住所静岡県浜松市東区小池町1833電話番号0534650234



有玉神社社務所
住所静岡県浜松市東区有玉南町1624-1電話番号0534334239

     神社にお墓は無いでしょうけど


龍翔寺
住所静岡県浜松市東区小池町1148電話番号0534337256



長泉寺
住所静岡県浜松市東区小池町728電話番号0534344488




多聞寺
住所静岡県浜松市東区有玉南町996電話番号0534342279



小池町・有玉町
服部さん関係の古いお墓があると良いのですが。

[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月29日 10時26分14秒 ) パスワード

引き続き「おとぎ話に隠された古代史の謎」を読んでいます。


平明は言葉で書かれているのは分かりますが
納得できるのは3分の1。
3分の1は(そうなの?)と眉唾に思う。
残り3分の1は荒唐無稽。


こんな感じなので相変わらず神代のお話は訳分かりません。



ただ蘇我氏は武内宿禰の子孫で正統なるヤマトの建国者の後継者
これが藤原氏によって渡来人だの先祖はだれかわからないだのという改竄を受けた
というのが分かりました。


蛭子については
「男性の太陽神で、発育が悪いために海に流され捨てられた」
つまり「小さ子神話」の原型で

   一寸法師などの話が生まれた



とにかく訳分からない。
でも面白いです。


住吉大社についても書いてあって
うちの先祖のトモダチ?
すごいジャン
という感じで


読み終わってスグに訳分からなくなる。



結論は神代の話はやっぱり分からない。



1つ面白かったのは
中臣鎌足=百済王豊璋
だから平安貴族は新羅が大嫌いだった
という話。



神代も古代も訳分からない。
でも面白い。
だけど訳分からない。
分かったつもりになってもスグに分からない。

この繰り返し。




で、検索してたら天智天皇の最期が「靴が落ちていた」ということで「暗殺されたのか?」というQ&Aがありました。

コピペします:



「日本書紀」による「天智」の崩御日ですが、
「日本書紀」の「天智紀」と「天武即位前紀」では、知ってか知らずか、堂々と二つの年月日を記述しています。


@「天智紀10年9月、天皇、寝疾不象豫したまひき。ある本曰く、8月に天皇疾病したまう」と言う記事があり、次に「天智紀10年12月3日、天皇、近江の宮に崩りたまひき」とあり、普通に解釈すれば病死です。

A「天武即位前紀に天智4年10月17日、天皇は臥病したまいて痛みたまふこと甚だし」と言う記事があり、次に「天智4年12月に天皇崩りたまひき」と記述されています。



@の「天智10年」は662年の「天智称制」から数えて10年目で671年の事です。

Aの「天智4年」は668年の「天智近江朝開設」から数えて4年目の671年の事です。



「日本書紀」は「天智の崩御年」を両方とも671年の事としながらなぜ「天智10年と天智4年」の相違があるのでしょうか。


その答えは、「日本書記」が参考にした資料に「九州倭国系」と「天智系」の二種類があるからです。



「九州倭国系」にとっては、「天智の662年称制開始」などは存在せず、
無理やりに滅亡した百済からの亡命王族や遺民を結集して近江に政権を樹立した668年から数えて4年目としているのです。


このように「日本書紀」は「天智ー藤原系」の史書で「九州倭国」の存在を隠蔽しています。



「天智」が近江朝を開設する前後から、「天智系」と「九州倭国系」での小競り合いが記述されています、

九州倭国系の拠点である法隆寺への放火も「天智系」の仕業です、

「壬申の乱」の前触れです。




ここから質問者の方への回答に成ります。

「日本書紀」では「扶桑略記(天智略伝)」のように「天智が行方不明で殺害されたかも知れない」と言うようなこと記述することが出来ずに「病死」だとしているのですが、


実際は九州倭国系の刺客により狩りの最中に攻撃を受け落馬し、その後死亡したものと考えられます。



昭和9年に発掘調査が行われた「摂津阿武山古墳」の被葬者のエックス線写真の鑑定によると

「高所からの転落による背骨、及び肋骨の骨折で、
ほとんど全身不随の状態で、
しばらく生存していたために肋骨に癒着がみられる」

と言う報告があります。



この古墳から「大織冠らしきものと、玉枕が出土」していて学会では「藤原鎌足」ではないかと考えられています。


でも「鎌足」には高所からの転落の記述はなく、「天智」には遺体がありません、

「阿武山古墳」の被葬者は「天智」ではないかと思うのですが如何でしょうか。



もう一つ、「天智と言うのは天智サイドの呼称」で「鎌足と言うのは九州倭国サイドの呼称」で
実際は同一人物の事を「日本書紀」では使い分けているのではないかと考えています。

           ええっ???!!
           こんな事ってアリ???!!!



質問者の方も「天智」の死因に興味を持たれていますので、この辺の所の御精査よろしくお願いします。



_____________________________

靴だけ見つかって遺体は行方不明、というのは
天武天皇側の仕業じゃないか
と思うけど

ワイドショーネタとして面白い!
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月29日 10時51分15秒 ) パスワード

小池村の「小池」の名の由来が分かりました
1番下に書かれています;



http://ameblo.jp/blogbears/entry-11233404460.html


2012-04-26 00:00:00
遠江国説話集94〜むじな川の甚兵衛さ(浜松市東区小池町)。
テーマ:ブログ

むじな川の甚兵衛さ

今は、むかし。
むじな川(今の小池町付近)のほとりには、むじながいて、人を騙したものでした。
その近くに甚兵衛さという人がありました。
ある時、浜松へ用足しに行きましたが、帰りはすっかり日が暮れてしまいました。
酒好きの甚兵衛さは、急に酒が呑みたくなりました。

「ああ、酒が呑みたい。けど、こんな所に酒屋があるわけがないし」と、口の中で、もぐもぐつぶやいたとき、妙なことに、向こうに灯がちらちら見えてきました。

近づいてみると、なんとそれは酒屋でした。
甚兵衛さは、うれしくなって、暖簾をくぐると、おじいさんが、あらわれて、「近頃はじめたばかりでございます。どうぞ、ご贔屓に」と言うので、ひょいと見ると、たいそうむじなによく似た顔をしています。
甚兵衛さは、たいへん愉快になって、「おい、じいさん、ひょっとしたら、じいさんはむじな川のむじなの生まれかわりじゃないのかい」
などと、からかいながら呑むうちに、すっかり酔っ払い、いい気持で寝込んでしまいました。

さて、甚兵衛さのうちでは、夜がふけても主人が帰らないので大騒ぎになりました。
みんなで、ほうぼう探しまわりました。
ひとりが、「こんなに探しても見つからないとすれば、こいつは、むじなに馬鹿にされたに違いないよ」と、むじな川の土手に行ってみますと、甚兵衛さは、土手の上に大の字になっておおいびきで寝ていたということです。

(浜松の伝説)


註:
小池町の由来は、村のはずれに小さな池があったことに由来しますが、
『はままつ町名の由来』(静岡新聞社)では、
明応年間(1492〜1501)、上総の国から洲貝総太夫という人がやってきて土着し、
村づくりにあたったと云われています。


室町時代の文書に、小池の地名がしるされていることから、総太夫が開発にあたって3、40年の間に小池の地名が固定したと考えられています。


むじなは千葉、茨城では、かぶきり小僧といって、夜道や山道に出没して「水を飲め、茶を飲め」と声をかけると云われたそうですから、この伝説は、洲貝総太夫が上総から土着したために創作されたかもしれません。



『はままつ町名の由来』(静岡新聞社)

この本、手に入ると良いですね。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月30日 02時28分37秒 ) パスワード

XXVに重複:


レス<68>の回答を頂きました:思わぬおまけ話がありました


幕府領・旗本領
1村
      ●市野村                 
     

        Q ここを支配してた旗本はどなたでしょう?

        A 元禄年間(1688〜)の資料しかありませんが、

             旗本の北条新蔵でありました

             さらに軍学者の北条氏長の孫ですって!


この旗本の北条新蔵ですが  三千四百石   ですって。
すごい!



で、この北条新蔵の娘がとんでもないスキャンダルで名を残していました:
http://books.salterrae.net/amizako/html2/mitamuramaotoko.txt



前略

旗本の娘の出奔

元文二年の春になりますと、旗本の娘達が一時に三十人余も出奔しました。
こんなに旗本衆の娘や何かが大勢駈落したのは、これより前には全くなかったことで、

その重立った者の名を挙げてあるのを見ると、

北条新蔵の娘、堀田孫太郎の娘、内田頼母の娘、竹田法印の娘が二人、花房戌《まもる》の娘、
青木新五兵衛の娘、稲生下野守の娘、なんていうのがある。




北条新蔵の娘というのは、

軍学者の北条氏長の曽孫に当るのですが、
これは若党と家出をして、
雑司谷の法明寺で情死をしている。
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