[1] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月11日 00時32分25秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
物部氏、秦氏、徐福を中心とした言及、最後の「裏天皇の正体1・2」は
まさにこれに極まれりといったところですか。これを肉付けした歴史書がで
きるといいですね。
一方、「長田」もこれにからむというか、始原の地名・氏族のようです。
縄文時代でしょうか、シュメールにルーツがありそうです。川崎真治氏の
『日本最古の文字と女神画像』を読むと、わかりにくいですがそのように解
釈できます。それを解説するのは難しいので止めておきますが、キーワード
は「キ女神」(蛇女神)です。
思考の方にふけっていましたので、夜も遅くなってしまいました。岡崎等
の報告は明日にいたします。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月11日 02時24分30秒 ) | パスワード |
古代と神代はなかなか記憶に繋がらないです。
・長田氏は秦氏と物部氏にある。
これは、まあ、そうでしょうね、と納得
・秦氏は2種類ある
なるほど
・海部・物部・秦氏は近い関係どころは3者は古代イスラエルの末裔
そこまで行きますか
・長田と蛇女神の関係
長田は日本では宗教を司どる、ということで「おさ」なのかな、と
そしてその宗教とは「長いもの」つまり「蛇」なのかな?と
三つ柏さんのレス<1>からこんな形で整理してみました。
古代も神代も難し過ぎ・・・
悲鳴
では岡崎見聞録をよろしくね。
[3] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月11日 09時48分33秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は岡崎へ行ってまいりました。朝8時30分に車にて家を出発し、東名
高速道路を走って岡崎城のある岡崎公園の駐車場に着いたのが9時30分。意
外に早く着いたのにビックリ。岡崎インターを出てからモタモタしていたので、
本当はもっと早く着けた・・・。
岡崎の街中を通過したことは過去何回かありましたが、目的を持って岡崎を
訪れたのは、今回この歳になって初めてでありました。
それは取りも直さず、今まで歴史に余り興味がなかったからであります。
過去の事より現在・未来の事の方が大事だという現実論であります。
でも、今の私にとっては、過去から続く一本の糸(実際は過去へ向かって末
広がりの網)をたぐりルーツを知りたいというのが、最大の興味であります。
さて、岡崎は名古屋圏だけに、車の流れは速い。名古屋程道が広くないだけ
よけいせちがらく感じました。しかしながら、一歩岡崎公園に入ると、そこは
時間が止まり、別世界に来たような感じでありました。
「岡崎」という響きは美しく清らかに感じておりましたが、昨今は同じ名前
のサッカー選手のイメージがオーバーラップして、その詩的感覚を忘れてしま
っておりました。岡崎に来て、岡崎城に登り、天守閣より遠く街並みを見てみ
ますと、やはり、岡崎は美しく清らかな街でありました。
それは、解説書で知りましたが、矢作川・水運をうまく利用した街・城であ
り、歴代の城主―西郷、松平、田中、本多、水野氏等が街づくりに励んだ結果
かであり、「5万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」とうたわれたよう
に、湊町としても栄えたということです。
矢作川の水運の終着点―これは新たな発見でありました。矢作川がいかに重
要な川であったかを改めて知りました。
一旦ここで切ります。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月11日 12時09分50秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
岡崎に1時間で到着ですか。
驚きました。
そんなに近かったっけ?と。
岡崎城の桜祭り、夏の花火、なつかしうございます
でも今は菅生神社の前の川原に露店なんか出ないのかも。
昔はよく行ったものです。
岡崎はホントに城のすぐ前まで舟が着くんですよね。
物流に優れていたって分かりますね。人も集まるし。
[5] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月11日 15時05分32秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さて、今回の岡崎行き、目的は「岡崎城」と「三河武士のやかた家康館」を
まず見学し、次に「大樹寺」へ行って新発見がないかどうか探すことにありま
した。そこまでは午前中に終え、午後は伊賀町を訪ね、お寺を回り、服部また
は三つ柏のしるされた墓標、また永井・長田の墓標を少しでも探そうという計
画でした。
岡崎城は訪れる者を楽しませてくれるに十分な博物館も兼ね揃えておりまし
た。規模的には浜松よりかなり大きく充実しています。「三河武士のやかた家
康館」では平安時代から江戸時代までの日本刀の展示をやっており、60本位
の太刀を見ることができましたが、私にはその価値はわかりませんでした。
「なんでも鑑定団」のように値段を示してくれたらわかりやすかったでしょう
が・・・。
さらに驚いたのは、その「やかた」のまえで、「グレイト家康公葵武将隊」
という20代の男女の舞踏団(但し、女子は一人)が、家康、徳川四天王、服部
正成、水野勝成、小松姫の役を武将姿で演じ、音楽、歌に合わせて「嵐」のよ
うに踊るというもので、なかなか様になっている。思わず30分間、見とれて
しまいました。みんななかなか顔もいい。小松姫にはその武将姿の不思議な美
しさに魅了されてしまいました。
そんな楽しいひと時もあり、「やかた」の展示品を見終わって、公園内の茶
店で食事。かけうどんでしたが、なかなかのお味でありました。食事を終えて
午後1時をまわる。そこから大樹寺へ向かう。土地勘がまったくないので、ナ
ビにまかせる。お城の北、約3キロ。
第樹寺へ行ってみてわかったことは、まさに松平家、徳川家の菩提寺である
ということ。その証しとして、松平8代、徳川15代の位牌が安置されていた
ことである。そしてビックリ仰天したのは、特に徳川14代(15代慶喜は除
く)までの位牌がその人の実際の丈に合わせて作られていたということであり
ました。家康が159p、秀忠が160p、家光が157pと、歴代の将軍は150p代でありました(5代将軍家綱については、ちょっと異常でありまし
て124p・・・これは小人症であったと思われる)。それでも、江戸時代で
はこれが平均的であったということ、栄養、特にカルシゥムが不足していたと
いうことか? 鷹狩や鹿狩りで食べる肉はさぞかしうまかったんでしょうね。
たぶん動物性タンパク質も不足していたのではないか? 一度将軍や武将たち
の食生活を調べる必要があると感じました。藤堂高虎や服部半蔵や戦国武将
で名を遺した人は体格がよかったということです。鎧・冑を付け、刀・槍を振
り回すことができたということは、まさにその証明でもあります。
位牌の安置室には、家康の実母於大の像もありました。
大樹寺では、墓地も見ました。永田の墓標がチラホラありました。服部はな
し。松平8代の墓標は一番奥にありました。
また、このお寺は浄土宗でありました。
次に伊賀町へ向かい、二〜三のお寺に入り、墓標を見ましたが特に発見はご
ざいませんでした。次回はもっと探してみるつもりです。
最後に時間が詰まって来たので帰り支度をし、途中でナビでお寺を見つけた
ら入ろうと帰路につきました。一つありましたが墓がない。もう一つも観音様
はあるものの墓は少ししかない。近くに八柱神社があったので、名前は有名な
ので見に行く。行ってみてビックリした。なんと築山御前の首塚が神社の隣に
あったのです。浜松に墓所・霊廟があるのに何で? それは、首だけここへ持
ってきたようです。何で、首と胴体は一つにしてやればいいのにと嘆きながら、
般若心経を一巻あげた次第であります。築山御前とは何か縁がありそうな気が
しました。これが今回の結びです。
近いうちにまた来ることを誓って岡崎を後にしました。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月11日 21時00分32秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
歴代将軍の身長は綱吉がものすごいチビで驚きますよね。
家継が小学1年生ぐらいの年齢で亡くなってるのにすごく大きい。
不思議ですね。
そうなんですか
岡崎の主要なお寺には服部氏の墓は見つからなかったんですか。
これまた意外ですね。
服部広元でしたっけ?
この人のことも分かりませんでしたか?
八柱神社:
へえ〜
欠町にあるのか。
由緒には創建の時代は書かれていませんが
今の和歌山県出身で、清和源氏の流れを汲む豪族、
鈴木氏の一族が、三河に熊野神社の祭神を
この地に祀ったと言われているそうです。
鈴木氏が三河に移り住んだのは
鎌倉時代から南北朝時代にかけて
と言われているそうなので、この八柱神社も
その頃に建てられてのでしょうか。
足助城の城主でもある鈴木氏は、 ← 足助には力のある服部家もありました
今川氏に従っていましたが、その後は家康に従い、
江戸時代には旗本に取り立てられていました。
どこにでもある普通の神社に思える八柱神社には
徳川家康公の正室だった築山御前の塚があります。
徳川家康が今川家の人質だった頃に
今川氏の家臣だった関口義広の娘を正室に迎えました。
この方が築山御前です。
家康と築山御前との間には、
長男・岡崎信康が生まれています。
しかし桶狭間の戦いの後に、家康が今川方と袂を別れた為、
築山御前の両親は、今川氏真に自害させられてしまい、
築山御前も岡崎城には入れなかったそうです。
その後成人した信康は、織田信長の娘、
徳姫を正室に迎えるのですが、
徳姫が、信康と築山御前に謀反の疑いが
あるとの書状を父・信長に送った為、
信長の意に従い、家康は正室を殺害し、
長男・信康は遠江二俣城で自害させられた
という事になっています。
1579年(天正7年)の事です。
岡崎は意外と近いようですから機会がありましたら是非またいらっしゃってね。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月12日 15時06分03秒 ) | パスワード |
古代ポリネシア人の航海術で走っているカヌー=ホクレア号=に乗ってた人の話ですが
方位を定めるのに太陽が昇る瞬間に波と風がどこから来ているのかを覚える。
夜は星を見るのだけれど出ていない=見えない=ことも多いので波の揺れ方を感じて決めるのだすです。
だから感覚を研ぎ澄ましていないといけないのだそうです。
もっと簡単かと思ってました。
[8] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月12日 22時48分52秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、掛川から南西に約7キロ走ったところにある「高天神城祉」を見
に行ってきました。
ここは、「高天神城を制する者は遠州を制す」といわれた要衝で、家康が
1568年に奪取したり、1571年に信玄に奪取されそうになったり、ま
た1574年に勝頼に奪取されたり、再度1581年に家康が奪取し直した
りを繰り返した所です。
イメージとしては単なる田舎の山城位に思っておりましたが、行ってみま
すと色々な物―駐車場、案内看板、階段、道が整備されていて驚きました。
登り道は急峻な坂道で、ずっと階段が続いている。数は数えなかったが、
結構足と心臓に来た。後で調べると標高132メートル、ビルでいうと44
階建の高さ。これを休み休み登り頂上手前の踊り場に着いた。
そこから西に西の丸+二の丸、東に本丸+天守閣+三の丸の二峰がくっつ
いている感じである。
まずは西の丸へ行ってみることにする。また階段。登ったところに高天神
社があった。御祭神は、
高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
天菩昆命(あめのほひのみこと)
菅原道真公
の三神である。高い所にある天神社という意味の高天神社かと納得した。で
も、何故ここに天神社があるのか、アメノホヒノミコトや菅原道真が・・・
とは思った。(まあ、後で考えよう・・・。)
その社の裏手に二の丸の跡地が広がっていた。南はいい眺めである。遠く
南東より御前崎の岬が伸び、そして南西に向って遠州灘の水平線が広がる。
高天神社をおまいりして、本丸へ向かう。結構人も増えて来た。歴史に興
味をもつ歴女かまたは山ガールか・・・半分は女性。
まずは天守閣・・・といっても家康に廃城とされてしまったので、建物や
石垣は残っていない。天守閣の土台のようなものがあったが、意外と小さい
ような気がした。但し、西の丸よりも眺めはさらにパノラマであった。南の
海と東の大地・山並みが一望。
さらにその北側の本丸へ向かう。頂の周りには木が大きく伸びているので
視界はかなりさえぎられている。途中一か所だけ樹木の途絶えている場所に
出る。そこから北東方向を見ると、何と何と真白き富士の嶺がなだらかな稜
線を描いて見えるではないか。思わず写真をパチパチと撮りまくる。感動!
(ありがとう富士山!) たぶんここで籠城をした小笠原与八郎長忠も、この
富士の美しさに、一瞬戦いのさ中ということを忘れたであろう。雪を抱いた
南アルプスの山々も美しく見える。
これが本日のフィナーレ、お土産となりました。もちろん、ここで亡くな
った何千の兵士の御霊をまつる慰霊碑に向い、般若心経を唱えることも忘れ
なかった。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月13日 02時26分29秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
わたくしと三つ柏さんの琴線に触れる部分がやはり微妙に違うなと。
高天神城というと、わたくし的には小笠原氏よりは大河内さんかな。
これはわたくしが南北朝の戦いの南朝方に肩入れがあるからかなと思います。
前のレスの八柱神社の鈴木さん。
場所的にこの家も南朝方の鈴木さんの末裔だと思います。
大河内氏と言えば新田義貞がらみですから家康の先祖がらみの関係でしょう。
どうも家康とは従兄弟関係みたいですね。
もう20年も昔の話ですが
西尾の東部中学でいじめ事件があって大河内清輝君が自殺しました。
大河内君の家が裕福だったことから恐喝に遭ってたということで
西尾で大河内氏で裕福と言ったら 南朝方の大河内氏の子孫か とスグにピンと来ました。
西尾は足利方の今川氏発祥の地でもありますからもともと源氏の勢力の強い処でもあります。
大河内氏といえば南朝方の有力武将の家。
そういう家の子供が電装あたりの子供達にカツアゲされてた?
とビックリしました。
1970年代あたりに仕事を求めて移動して来た家の子なら大河内家に対する敬意なんかも有る訳が無いですものね。
そういう時代になっているんですね
世の中は平等ですから
労働者階級の子供にとっては裕福な家の子供からお金を引き出すことが当然の権利に思えたのでしょう。
総額2000万円あたりやられたって聞いてるかな?
家康の家臣だった大河内氏の件です:
http://rekidorama.seesaa.net/article/398468488.html
岩牢に八年以上も幽閉された男・大河内源三郎
本日(2014/6/1)放送の大河ドラマ「軍師官兵衛」は「有岡、最後の日」で、半年間有岡城の土牢に幽閉された黒田官兵衛が救出される回でした。
城の石牢に半年間幽閉された影響で、以後の官兵衛の足は不自由になってしまいます。
その辛酸は凄まじいものであったことは否定できません。
しかしながら、戦国時代の同時期において、官兵衛と同じように城の土牢に幽閉され、また官兵衛以上の8年の長きに渡って幽閉され、救出された武将がおりました。
その名を大河内源三郎。諱は政局(まさちか)
三河・遠江国主、徳川家康の家臣だった男です。
今日はその男のことを書いてみたいと思います。
1.徳川と武田の密約
西暦1568年(永禄十一年)、甲斐・信濃国主である武田信玄と、三河国主である徳川家康は、今川氏真の支配下にある遠江・駿河国(現在の静岡県)を共同で攻める密約を交わします。
信玄が甲州口から駿河国を攻め取り、家康が三河口から遠江国を攻め取るという分割支配です。
この結果、家康は三河・遠江の二国の国主となり、拠点を三河の岡崎城から遠江の浜松城に移します。
その際、遠江と駿河の境に位置する高天神城(静岡県掛川市下土方)の城主・小笠原氏興は今川を捨て、徳川に味方しました。
2.武田勝頼、高天神城を攻める。
西暦1574年(天正二年)五月、信玄の跡を継いだ武田勝頼は、二万五千兵を率いて高天神城に攻め寄せました。
この高天神城は遠江最大の要害で「高天神城を制する者が遠州を制す」とまで言われていました。
あの武田信玄も生前どうやっても攻め落とせなかった城がこの高天神城です。
高天神城の城主は小笠原氏興の子・小笠原与八郎が務めていました。
信興は、すぐさま浜松城の家康に援軍を求めました。
しかし家康の手勢は岡崎、浜松の両城を合わせても九千足らずで、とても武田と戦えるものではなかったため、高天神城に軍監を使わし、盟友である織田信長に援軍を求めました。この時遣わされた軍監が大河内源三郎でした。
源三郎は軍監として「援軍は必ず来る」と言い回って城内の兵の士気の鼓舞に当たりました。
しかし、援軍が来ない状況での篭城戦は与八郎に心の隙を与え、そこに武田の調略の手が伸びました。
与八郎は城に籠るだけでなく、時々討って出て武田軍を撃退しましたが、その引き上げ時に武田の手の者が雑兵に混じって城内に入り込んでいたのです。
この事実を知った源三郎は、家康に「小笠原与八郎、城内の主戦論者を宥め回っており、厭戦感ひとかたならぬ状況、このままでは些か案じられ候。されど御屋形様の命あるまで城は我が身に代えても守り抜く」という内容の書状を送っています。
同年六月十七日、織田信長の援軍が吉田城(愛知県豊橋市今橋町)に到着。
家康もこれに同行し、翌日高天神城に向けて進軍する予定でした。
しかし翌十八日、高天神城は武田の手に落ちてしまいました。
与八郎が武田に降伏し、城を開け渡してしまったのです。
源三郎は、体を張って最後まで武田への降伏と開城に反対しました。
しかし与八郎の意思は変わらず、とうとう源三郎を高天神城の地下の岩牢に幽閉してしまったのです。
勝頼は高天神城を落とした後、浜松まで抜くつもりでしたが、織田信長の援軍到着でそれもならず、やむ得ず、家臣横田伊松?(尹松でしょ)を城代として置いた後、甲府に引き上げざるを得ませんでした。
この時から源三郎は高天神城の岩牢で苦渋の毎日を送ることになるのですが、横田は源三郎の武士の意地に感嘆し、尊敬の念すら持っていたので、丁重に扱いました。
3.徳川家康、高天神城を攻める。
高天神城の戦いの翌年、長篠設楽原の戦いで、武田は織田・徳川連合軍に大敗しました。
徳川は二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)と諏訪原城(静岡県島田市金谷)を攻略して、武田の勢いを削ぎ、大井川流域を支配下においたため、遠江と駿河の境の固めを盤石なものにしました。
しかし、高天神城がいまだ武田の手にある状況では、完璧とは言えませんでした。
西暦1580年(天正八年)秋、徳川家康は五千の兵でついに高天神城を攻めました。しかし力攻めではなく、城の周囲を囲み、支城の連絡を絶つ「兵糧攻め」を仕掛けたのです。
この時の高天神城主は、今川の旧臣・岡部丹後守(元信)。
岡部は勝頼に援軍を求めますが、当時の武田は長篠の戦いからの痛手から回復しておらず、さらに上杉家の御家騒動である「御舘の乱」による失策で、それまで盟友だった北条氏までも敵に回していた為、全く身動きが取れませんでした。
年が明け、西暦1581年(天正九年)三月になると、城内の備蓄食糧も底をつき、勝頼からの援軍が来ない高天神城は、開城するか城を枕に決戦するか二つに一つの選択を迫られました。
そこで、岡部は、城の石牢に幽閉されたままになっている大河内源三郎に目を付けます。
岡部は「城を枕に決戦となれば双方共に死者も出る、それよりは城を開くので城兵の命は助けて欲しい」という内容の開城の使者を源三郎に頼みます。しかし源三郎は
「八年の牢暮らしで、足はすっかり萎えており役に立ち申さぬ」
と断ります。
岡部はこの不遜な態度に「従わねば斬る」と抜刀しますが
「斬りたければ斬れ」
と源三郎は取り付くしまもありません。
岡部も開城の使者の役割は、徳川家家臣だった源三郎しか務まらぬと思っていることから、この場で殺す事に利はありませんでした。
それからというもの、岡部は源三郎に苦渋の拷問をしかけます。
その内容というのが
着物をはぎ、直肌に蝋を垂らす。
ツメを炙る。
髪を槍に結び兵二人で担いで回す。
毒入り御前を食わせる。
というもので、まぁ、全体的にキッツイ感じです。
これらの拷問に源三郎は一切屈せず、ただひたすら家康が高天神城を攻め落とすことだけを願って耐えていました。
4.大河内源三郎、救出さる。
同年三月二十二日 源三郎を使者に開城することを諦めた岡部は、城内に残った城兵を率いて、徳川軍に討って出ました。討ち入った先は徳川家重臣・大久保七郎右衛門(忠世)の陣。
岡部の相手をしたのは忠世の実弟の大久保彦左衛門と大久保家の家臣・本多主水で、最終的に岡部は本多主水に討ち取られてしまいました。
三日後の三月二十五日、大将のいない高天神城の城兵はすべて討って出て、これを徳川方はほぼすべて討ち取りました。その首は六百以上に及んだといいます。
徳川方は高天神城を接収し、城内巡検の際、巡検使が岩牢の中に一人の穢れた囚われ人を発見しました。
巡検使が
「こなたは誰じゃ」
と尋ねると、囚人は
「大河内源三郎にござる」
と答え、尋ねた巡検使は驚愕して、即座に家康の耳に入れたと言います。
「源三郎が生きていたじゃと?」
今度は家康が驚く番でした。
巡検使に案内をさせると、ちょうど板敷に乗せられた源三郎が岩牢から兵たちに運び出されてきたところでした。
兵たちは家康の姿を認めると、板敷をその場に下し、そして家康がその板敷に近づきました。
板敷の上には、真っ黒にススけた一人の老武者が横たわっていました。
源三郎はゆっくり目を開け
「御屋形様か...」
とつぶやきました。
8年振りの外界の眩さに、源三郎の目は殆ど使い物にならなくなっていました。
「源三郎。儂じゃ。家康じゃ」
家康はそう言うのが精一杯で言葉が続きませんでした。
「その声はまさしく殿......殿、とうとう、この城、落とされましたな。」
源三郎はたどたどしく笑みを浮かべながら言いました。
「源三郎、ただ、殿が来ることだけを信じ、どのような甘言にも乗らず、某は某の戦をやっておりました。某も勝ちましてござる......」
大河内源三郎は、この戦いの恩賞として、家康より遠江国稗原(静岡県磐田市稗原)の地を宛てがわれ、故郷の津島(愛知県津島市)で静養後、「無為に牢の中にいたのは武士道の穢れだ」と悟り、出家。法名を皆空と名乗りました。しかし後年、家康に呼び出され、小牧・長久手の戦いで討死したと伝えられます。
官兵衛と同様に城の岩牢に幽閉された男、大河内源三郎のエピソードでした。
2つめ:
http://www.legend-ieyasu.info/detail.php?ID=S082
天正三年(一五七五年)甲斐の武田勝頼は、高天神城(たかてんじんじょう)を包囲した。
城将の、徳川家康方に属する小笠原与八郎長忠は、
『援軍を頼む』
と、幾度か家康のもとに使者を送ったが、家康としては戦線多忙の為、なかなかに援軍は送れなかった。それで小笠原与八郎は、
『姉川の戦いであれ程戦功をたてたのに、俺を見捨てるのか……』
と怒って、その年七月二日、城を出て武田方に降参してしまった。
ところが軍の目付役、大河内源三郎政局(まさふさ)は唯一人、
『俺は、降参などいやだ』
と頑として聞かなかった。そこで武田方では、
『困った奴だ』
と捕虜(ほりょ)として、城内の石牢に入れてしまった。
そして尚も、
『降参なされ。降参して我が軍に入れば、今までより二倍の領地をやるから』
と説得したが、
『俺は降参などするものか、気に入らなきゃ、殺せ』
と聞かなかった。
『仕様のない男だ。牢の口を閉めてやれ』
怒った勝頼は、大河内のいる石牢の入口を、強く閉じてしまった。それでも大河内は、平然としていた。
日本語が変ですね
家康の祖母なら大河内の出の華陽院。伝通院なら家康の生母のお大さま
2人の女性をごっちゃにしてますね
どっちにしろ家康の従兄弟ですね
↓
元来大河内政局は、勇将大河内元綱の孫で、家康の祖母、伝通院の甥に当たるという、家康の身寄りの者であると共に、家康が駿府に人質として居る時、
『保母介添え』
として、家康に仕えたこともあり、それだけに家康に対する、忠節心は強かったのである。
かくして大河内政局は、石牢にあること八年。だがこの間、落城後の高天神城主横田甚五郎尹松(たかまつ)が、彼の節儀の強さに感じて、
『武士としては、実に立派なものだ』
と、特に牢番をして、懇ろに労わらせたので、命を保っていることが出来たのであった。
天正九年、徳川家康は、高天神城を包囲した。
そして三月二十一日の朝、
『高天神城に総攻撃を加えよ』
の命令一下、徳川軍は、東・北・南の三方から、激しく攻めたてた。この攻撃には、城兵も疲れ果てて居た事とて、二十二日午後四時、
『今はこれまで……』
と、守将横田甚五郎尹松、岡部丹波守貞幸、相木市兵衛昌朝以下の城兵は、城を打って出て戦った。
その結果は、岡部丹波守は討死し、横田甚五郎、相木市兵衛などはやっと切り抜けて、甲府へと落ちて行った。これで緑りの小高い山、高天神城は、再び徳川軍の手に帰してしまった。
この時城中に乗り込んだ第一陣、石川伯耆守数正は、まず第一番に、
『大河内政局殿がいる筈だ。早く探せ』
と配下に命じた。部下はここかしこと探し、城の東側、少し下りた所の石牢の中に、人の動く気配を感じたので、大声に、
『居ります。ここです。ここに……』
と怒鳴った。
『居たか』
石川数正は牢の前に走って来て、
『無事か』
と言いながら牢を開けた。見れば大河内は、八年も牢内に居たこととて、足は萎(な)え、頬(ほほ)はこけて、見る影もなかった。がしかし元気に、
『面目ない』
と、涙を流すのである。
『何の、何の――』
石川数正は、大河内が歩くことが出来ないからと、莚(むしろ)に乗せて、大切にして家康の前に連れて行った。
『おお、大河内か、多年の石牢、大変だったのう』
家康は、涙を流して喜んだ。
『はい、面目次第もございません』
『いや、いや、この性根こそ……』
と家康は自ら、刀、脇差、黄金などを授けていたわってやった。
だが大河内政局は、
『まことに、申訳なく……』
と、尚も捕虜となっていた事を、どこまでも口惜しく、恥かしく思っている様子なので、家康は元気づけて、
『小笠原与八郎こそ、敵に降参したりして、不義の至りだ。それに対し貴殿は、志を曲げず、石牢の中に八年もあったとは、実に見上げた次第であるぞ』
と賞めるのであった。
その後大河内政局は、
『捕虜になったとは、武道のけがれだ』
として、剃髪して、
『皆空』
と称したが、尾張の津島の湯を浴びて治療する中、足の萎えも治ったので、遠州稗原の地を賜って、ここに暮らしていたと言う。
附記 石牢は今も尚、高天神城二の丸の、東側の山をけずった所に現存している。
3つめ
http://tenkafubu.fc2web.com/ieyasu/html/takaten02.htm
高天神城―静岡県小笠郡大東町下土方
標高132メートルの高天神山に築かれた高天神城は遠江における要衝の1つで「高天神城を制するものは遠州を制す」と言われた。築城は今川氏親の頃と言われている。
当時の城主は小笠原長忠。その祖は信濃守護小笠原氏である。長忠から四代前の深志城主貞朝の嫡男長高は父との折り合いが悪く織田氏を頼って尾張へ出奔した。しかし尾張での居住は許されたが家臣には加えてもらえなかった。やがて父の死を知った長高は後を継いだ異母弟長棟を討とうと深志城へ向ったがすでに防御を固めたあとだったので引き上げた。
その後三河幡豆の吉良氏のもとへ向い、さらに今川家に仕えるようになった。今川家では長高に馬伏塚城を与えた。長高はここで死に春茂が後を継いだ。ある時高天神城の福島氏が謀反を企てているとの噂を聞いた今川家では真偽の確認を春茂に命じた。三の丸に入って福島氏の動向を探っていた春茂はついに謀反の計画を発見、本丸に躍り込んで福島氏を成敗した。この武功で春茂に高天神城が与えられた。
その後春茂の跡を継いだ氏興は桶狭間で義元が死に氏真が当主になった今川家を見限り永禄11年徳川家康の掛川城攻めに協力し、氏真追放に一役買った。それ以降氏興は姉川の戦いやその他の合戦に参加して家康を盛り立てた。氏興が死ぬと長忠が城主になったがここから武田との戦いが始まった。元亀2年信玄の高天神城攻めが敢行された。しかし難攻不落の高天神城は容易に落ちず、却って武田軍に損害を与えた。戦果のあがらない戦いに信玄は引き上げていった。それから3年後再び武田軍が攻めて来た。
信玄の遺言で家督を継げなかった勝頼は武田家中での求心力を高めるために積極策にうってでた。明智城攻めで信長の機先を制しみごと東美濃の拠点を抑えることに成功。これに気をよくした勝頼は父信玄ですら落とせなかった高天神城に狙いを定めた。兵力は武田軍2万に対し小笠原軍は2千。前回のときと同じような兵力差であったが大きく違うのは三方ヶ原合戦で家康は大損害を被っていたことである。家康単独で救援に向えるほどの余力はなく、信長に援軍を請わなければならなかった。
高天神城は本丸のある東峰と二の丸がある西峰とで構成されている。東峰の周囲は断崖でここから攻め込むのは困難であった。自然武田軍は西峰を中心に攻めることになった。武田軍の包囲から2週間で本丸・三の丸・二の丸を残し武田軍に占領された。勝頼は力攻めをする一方、穴山信君を使者に立て長忠に降伏の条件として信濃を与えると伝えた。これに長忠は言を左右に時間稼ぎして家康の来援を待った。一月後には岡部治部によって井戸曲輪が落とされ堂の尾曲輪も落ち、本丸と西の丸とが分断された。ここに至って浜松の人質を守りたい籠城派と長忠・安西越前・福島十郎左衛門の開城派に分かれた。そこで長忠は浜松城へ城兵を送り届けることを降伏の条件に出した。勝頼はこれを受け入れ、戦いは終わった。しかし安西・福島の両名は開城の責任を取って自害した。
長忠は駿河に1万石を与えられたが間もなく病死したと言う説、興国寺城を与えられ勝頼のもとで各地を転戦、武田家滅亡前に北条氏のもとへ行ったが小田原征伐で家康に斬られた説などがありその動向は不明である。
武田の手に落ちた高天神城は山県昌景・横田尹松が城番となり、天正9年岡部長教が城番のとき家康によって落城させられる。
大河内君の事件を聞いた時、すぐに、あの大河内の家の子でもいじめに遭うのかと驚きましたが
他の南朝方の武将の家でもやっぱりいじめに戦々恐々としている話を聞きました。
ここには書けない。
アメリカでもイジメ=ブリーイングはすごいし
アメリカでもシゴキ=フェージングはありますしね
人間の負の部分ですね。
人間の先祖は苛め型チンパンジーと人の良いボノの両性を持っているんでしょう
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月13日 02時53分29秒 ) | パスワード |
レス9の2つ目の紹介の終わりの方、
>>>>尾張の津島の湯を浴びて治療
尾張の津島は、南北朝の戦い尾張国編の南朝方の本拠地ですから
ご先祖さまがらみで 霊験あらたか だったのかも。
にっこり
わたくし的には過去を読む時にやっぱり南朝方という枠が引っ掛かってきますね。
三つ柏さんには無いようですから。
三つ柏さんは違うところ(古代とか神代)で引っ掛かるんでしょう。
わたくしの場合はやはり先祖が後ろで「書け!書け!書いてやれ!」と導いているんでしょうね。
人間には5つだったか生きていく上の「命」があって
天命
宿命
運命
使命
寿命
これらです。
天命は
天によって定められた人の命の枠組
宿命は
生まれる前から先祖達によって託された命の宿題
この問題をクリアするために先祖達はいろいろな能力を与えてくれている
例えば三つ柏さんの能力の1つには「般若心経が詠める」ことがある。
こえはすごいことなのです。
運命は
自分の命を運ぶための命の仕組みを自分が作ること
つまり運命とは現在の自分自身の命と共に
先祖から託された宿命の課題をクリアする行為も含めて
自分の命を運ぶこと
使命は
それだけ備わった人間としての自分自身を自覚して
生涯かけて尽くし遂行し成就すること
寿命は
生命が肉体に宿して存在し活動するために天が定めた時間の長さ
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月13日 03時12分00秒 ) | パスワード |
全く話は変わりますが
最近友人から 鮪 って 今のマグロの感覚じゃなくて 昔は猫も食べない下種類の魚だったんだよ
鮪って しび と読んで 死人のこととかね つまり 愚弄する言葉なんだよ
と聞きました。
例えば 和気清麻呂を穢麻呂と名を変えさせたように
古代だったら 平群鮪 へぐりのしび ね、
と。
平群鮪 へぐりの-しび
記・紀にみえる豪族。
平群真鳥(まとり)の子。平群真鳥(まとり)の子。
「日本書紀」によると,物部影媛(もののべの-かげひめ)をめぐって小泊瀬(おはつせの)皇子(のちの武烈天皇)と争いの歌をかわした。
そのなかで小泊瀬に影媛との関係を知られ,乃楽山(ならやま)で大伴金村(おおともの-かなむら)に殺されたという。
「古事記」には名は志毗とあり,菟田首(うだの-おびと)の娘大魚を袁祁命(おけのみこと)(のちの顕宗(けんぞう)天皇)と争ったという。
武烈天皇は仁賢天皇7年正月3日に立太子する。同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。
皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。
なお、日本書紀は、武烈天皇の異常な行為を記している。
物部影媛
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/hime/kagehime.htm
「影媛あわれ」
(あらすじ)
日本書紀武烈天皇即位前紀に出てくる「影媛あわれ」の歌は、その流麗たる調べの美しさと、切々たる哀調とによって、読む人の心を引きつける。そして、髪を振り乱し素足のままで狂乱しながら、愛する人の葬列を追いかけて行く美しい女人の姿が目に浮かんでくる。
この作品は、この「影媛あわれ」の歌にまつわる物語を描いたものである。
物部の影媛には平群鮪という相愛の人がいた。しかし、影媛の美しさを聞いた稚鷦鷯の皇子(後の武烈天皇)は海石榴市の歌垣の夜、彼女を奪おうとするが果たせず、怒りにまかせて鮪を殺害する。
愛するわが子を殺された平群真鳥は直ちに反乱の戦を起こそうとするが、逆に大伴金村に攻められて滅ぼされる。
そして、この事件が、応神王朝滅亡への導火線となってゆく。
この作品は、応神王朝から継体王朝へと歴史が大きく移って行く時代についての歴史解釈でもある。それと共に、私は、かよわい佳人が激しい運命の波をくぐって、たくましい女人へと変貌してゆく姿をも描きあげようとしたものである。
全文はURLへ。
古代史の中の政権交代で、物部氏もこうして巻き込まれた
という1つとして。
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月13日 05時25分21秒 ) | パスワード |
影姫
以下コピペ
“石上(いそのかみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ 物多(ものさわ)に 大宅過ぎ 春日(はるひ)の 春日を過ぎ 嬬(つま)ごもる 小佐保(おさほ)を過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯(いい)さえ盛り 玉?(たまもい)に 水さえ盛り 泣きそぼち行くも 影媛あわれ”
日本書紀巻十六の武烈即位前紀に出てくるこの歌は、その流麗なる調べの美しさにおいて、記紀歌謡の中でも屈指のものであろう。それはまた、日本文学の中で独特の位置を占めている、切々たる哀調を帯びた美文体の道行文の最初のものでもある。
愛する恋人平群鮪(へぐりのしび)を、稚鷦鷯(わかささぎ)の王子(後の武烈天皇)に殺された物部(もののべ)の影媛が、侍女たちのとめるのも振り切り、髪を振り乱し、素足のままで、狂乱しながら、恋人の葬列を追いかけてゆく。葬列は大和盆地の東を南北に真っ直ぐに走る“上つ道”を、南から北へ、石上−布留−高橋−大宅−春日−小佐保と進んでゆく。遺体を収めた柩の後には、死者に捧げる食物や水を捧持した人たちが従う。ようやく葬列に追いついた影媛は、列の後尾に従いながら、人目もはばからず大声をあげて泣きじゃくり、手のひらで顔をおおい、肩を震わせながら、魂を失って夢の中を歩むように、とぼとぼと足を運ぶのであった。
道の脇で葬列を見送っていた人たちの中から、ひそひそと囁きが聞こえる。
「あの方が影媛さま。大連(おおむらじ)の物部(もののべ)の麁鹿火(あらかひ)さまが、目に入れても痛くない程に可愛がっていらっしゃる一粒種の姫君影媛さま。おかわいそうに、おいたわしやのう」
そうした情景が、私の脳裏に拡がってくる。そして、歌の末尾の“泣きそぼち行くも影媛あわれ”のフレーズが、私の胸を打ってくる。
私の幻想は、なおも、とめどもなく拡がってゆく。
影媛は清楚な美少女であった。稚鷦鷯の王子が影媛に送ったとして書紀が伝える歌の中に“・・・・・玉ならば、我が欲(ほ)る玉の、鰒白珠(あわびしらたま)”と云う句が見られ、彼女を鰒(あわび)の貝に宿る真珠の玉に例えている。私には、影媛は瞳の美しい目鼻立ちのくっきりした、細面で少し痩せ気味の、清らかで、すがすがしい、年の頃はまだ十五・六才の少女のように思われるのである。
父は物部(もののべ)の麁鹿火(あらかひ)。物部の家は、大伴の一族と共に、遠い昔から河内大王家の直属の部族で、自らその藩?(はんぺい)をもって任ずる家である。ひと頃は内紛に明け暮れて疲弊していた王権を中興した幼武(わかたける)の大王(雄略天皇)の時代には、平群真鳥(へぐりのまどり)が大臣(おおおみ)となり、大伴室屋(おおとものむろや)と物部目(もののべのめ)とが大連(おおむらじ)となり、この三人で大王を補佐し、その覇権を天下に確立していった。
覇王雄略の薨じた後、天下は重鎮を失って再び騒然としてくる。その中で物部目は永没し、それに代わって、甥の木蓮子(いたび)、その子麻佐良(まさら)らが大連を継ぐが、激動の政局に翻弄されて長く続かず、代わって大連となったのが、麻佐良の子麁鹿火(あらかひ)である。かねてより武勇の誉れ高く、しかも、沈着にして豪胆。いま四十才半ば。影媛はその麁鹿火の正妻の生んだ一粒種の娘である。他にも異腹の子が数人いるが、いずれも男子。それだけに、彼には、影媛が可愛くて可愛くてならない。彼にとって影媛は、まさに、何物にも代えることのできない掌中の珠であった。
彼女の美しさは、つとに世に聞こえていた。それだけに、彼女に思いを寄せ恋心を抱く男性の数は優に十指に余った。彼女は、そうした男たちの中の一人、平群鮪(へぐりのしび)をいとしく思っていた。彼は、麁鹿火らと共に大王家の政治をあずかっている大臣の平群真鳥の末の子である。聡明な美男子。年は二十一才ながら、六十の坂を越えて老いた真鳥が将来を最も嘱望している子である。麁鹿火としても、あの鮪ならば、最愛の娘の婿として、これ以上の者はあるまいと思い、二人の愛を微笑ましく見守っていた。
大伴金村、二十二才、彼もまた影媛に思いを寄せていた一人であった。彼が影媛を見初めて恋心を抱いたのは、平群鮪よりも、むしろ幾らか早かったかも知れない。彼は、影媛の心が、自分などよりも鮪の方に傾いてゆくのを、歯がみしながら、断腸の思いで何度も見詰めたものだった。彼は何度も鮪を殺したいと思った。しかし、そんなことをしては、自分自身も世間から葬られ、破滅してしまうと判断する知性は備えていた。
彼、金村もまた、大連大伴室屋の孫に当たる。彼は野心家であった。祖父室屋はすでに七十に近く、今は病勝ちで家に閉じこもっている日々である。いずれ祖父の没した後は、父を差し置き、兄弟をも差し置いて、自分こそ大連の地位を継がんものと、ひそかに心期してる人物であった。そして、その野望のためには、どんな策略をめぐらすこともいとわなかった。こうして、彼は稚鷦鷯の王子に接近し、王子に取り入ってゆく。
稚鷦鷯の王子、彼は億計(おけ)の大王(仁賢天皇)の子である。億計の大王は后の春日大娘(かすがのおおいらつめ)と間に七人の子を儲けたが、そのうち六人までが王女であり、第六子の稚鷦鷯だけが男子であった。従って、彼はすでに七歳の時に日継ぎの御子と定められた。そして、億計の大王がこの八月に薨ぜられたので、年が明けて喪が終わると、早速に大王位を継ぐことになっていた。
彼は、そのような環境の中で育った子の常として、我が儘で神経質で癇の強い子であった。少しでも気に入らぬことがあると、わめき散らし、怒り散らし、刃物を振り回す。いま十八才、いままでに何人の侍女が、そのために傷つけられ、命まで落としたことか。周囲には、へつらう者こそおれ、諫める者はなかった。やや長じて、史書を読むようになってきた頃からであろうか、彼は、かつての幼武(わかたける)の大王(雄略天皇)の絶対的独裁体制の栄光を復活させたいと思うようになる。それと云うのも、雄略なき後、王権の力は弱まり、それまでは、その覇権の下に服従していた諸部族も、思い思いの動きを示すようになり、まして、播磨から出て王統を継いだ父や叔父に対しては、ほとんどその命令に従わず、地方に至っては、すでに群雄割拠の様相さえ示していたからである。何一つ苦労を知らず我が儘勝手に育った彼には、それが我慢ならなかった。気儘に事を言いつけては、思うようにならぬと、近臣の者たちに当たり散らす。
かれはやがて、己の意のままにならぬ者を罰するための刑法に凝るようになる。日本書紀は彼を語って、“長じて刑理を好み、法令に分明なり”と述べ、“およそ諸(もろもろ)の酷刑、みずから覧(み)たまわずと云うことなく、国内の居人、ことごとく皆、震え怖れき”と続けている。思うに、耳そぎ、鼻そぎ、逆さはりつけ、は云うに及ばす、手足斬り、釜ゆで、車裂き、中国の刑法の書が記すあらゆる極刑を、さほどの罪もない者にまで行う。彼はそこに倒錯したサディスティックな喜びを感ずると共に、そうした過酷な刑罰を行うことが、己の威信を示して、雄略大王の栄光を再び築くものと考えていたのであろう。
その日、大伴金村は、高市郡の山田にある我が家を出て、馬飼の一人に口輪を取らせて、稚鷦鷯の王子の泊瀬の邸宅に出掛けた。あの王子の登極の日も近い。今日もひとつ、王子の所へ伺候して、へつらい言の一つ二つも云っておこう。そう思いながら、道の長手をのんびりと馬を進めていた。稲田には、稲穂が黄金色に稔り、その上に秋の陽が落ち、心地よい涼風が渡ってゆく。田の畦には薄(すすき)の白い穂が揺れていた。
道はようやく“上つ道”に入ってきた。急に道行く人の数が増えてくるのは、海石榴(つばき)の市(いち)が近いためであろう。 大きな椿の木があるのでその名がある海石榴市(つばいち)は、この大和で随一の市場である。上つ道と初瀬道との分岐点にもなり、何よりも、難波の津と結ばれた大和川、そして初瀬川の舟運の河港であり、自然にいつの頃からか、諸国の人たちが集まっては物々交換による交易を行って居る場所である。河内の馬、越の翡翠、海の彼方の伽耶や百済の黒金の鉄剣や黄金の耳飾りも、いつも売り買いされていた。金村も市のざわめきを眺めながら馬をうたせていた。
ふと、往き来する人たちの中、ひときわ目に付く美々しい三人連れの女人たちが、金村の目を引きとめた。一人が女主人、あとの二人はその侍女と思われる。
“なんだ、物部の影媛ではないか”
金村は馬上で微笑みかけながら軽く会釈した。影媛たちも、それと気づいたらしく、立ち止まって、金村の方を仰ぎ軽く頭を下げた。
“きっと、首飾りでも求めようとしているのかな。それにしても、ますます美しくなってきたよなぁ、鮪(しび)のやつ、あんな美人を物にしやがって、幸せな奴よ”
金村はそう思いつつ、そのまま馬を進めて行く。
やがて、市もはずれにかかり、人影もまばらになってきた時、向こうから一人の男が馬を急がせてやって来るのが見えた。金村は自分の馬を道の脇に寄せて道を明けようとしながら、向こうを見ると、どうやら平群の鮪のようだ。彼は声をかける。
「誰かと思うと、鮪ではないか」
向こうも、手綱を引いて馬を止める。
「おお、金村か」
「どうしたのだ。えらく急いでいるようだが・・・・・」
「いや・・・・・、何でもないんだが・・・・・」
云い淀む鮪に、金村は、“ああ、そうか”と思った。“きっと、石上(いそのかみ)にある物部の麁鹿火の邸に影媛を訪ねたが、海石榴市の方へ出掛けたと聞いて、追いかけて来たのだな”
「おおかたの察しはつくよ。影媛は市にいたぞ」
金村は、云わずもがなのことを云ってしまったかな、と思ったが、鮪は照れる様子もなく、にっこり微笑むと、
「ありがとう。ではまた・・・・・」
と答えて、また馬を駆けさせて去っていった。
それを見送ると、金村は軽く舌打ちをした。
“ちぇっ、毎夜毎夜通って枕を交わしながら、昼間まで逢引きとは、幸せな奴よ。
しかし、あの美しい影媛。おれだって、もし、あの影媛を手に入れてたら、そうするかも知れぬな。
でも、やっぱり、くやしいわ。ちぇっ、くそっ、鮪の奴め、うまくやりおって・・・・・”
秋の日差しが、まぶしいほどに明るいと云うのに、稚鷦鷯(わかささぎ)は薄暗い部屋の片隅で一人酒を飲んでいた。彼は極端な躁鬱質であった。躁状態の時は我が儘で怒り散らすけれど、欝状態になると、急に落ち込んでしまって口もきかなくなり、ふさぎ込んでしまうのだった。
傍の侍女の方へ黙って盃を突き出す。侍女もまた黙ったまま酒を注ぐ。朝からずっとそのような様子で、もう相当に酔っているようだが、盃を放そうともしない。
金村が部屋に入ってゆくと、気だるそうな目を、ちらっと向けて、
「おお、金村か」
とつぶやいたが、後は黙りこくったままである。
「御子、お元気がございませんな。この明るい昼間から、酒など召し上がって、・・・・・」
金村が声を掛ける。
「うん、何もかも面白くない」
「何かございましたか」
「うん、・・・・・」
稚鷦鷯は急に目を大きく見開くと、金村の方を向いて言葉を続けた。
「うん、どいつもこいつも、この俺を馬鹿にしおって・・・・・、俺を見くびりおって・・・・・、俺の云うことを聞こうともしない。
金村、お前だけだわ、俺の云う事を聞いてくれるのは。俺に本当に尽くしてくれるのは」
そう云いながらも、言葉の途中で急に力がなくなり、終わりの方の言葉は、口のなかで、ぼそぼそと呟くだけであった。
金村は、何か明るい話題に転じなければ、と思いつつ、
「御子、先ほど、門を入って馬屋の方を見ると、栗毛の馬が目に入りましたが、あれは新しい馬ですな。すばらしい馬ではありませんか」
稚鷦鷯はとたんに目を釣り上げた。
「何、あの馬・・・・・、あれは駄馬だ。・・・・・鮪の奴、あんな駄馬をよこしおって・・・・・、
金村、あの馬はな、大臣の平群真鳥の息子の鮪に、馬を献上せよと云ったのさ。そしたら、あんな駄馬をよこしおったのさ。・・・・・俺を馬鹿にしおって。
くそ面白くもない。あの無礼者め。今に殺してやるから覚えておけ・・・・・」
「御子、そんな駄馬ではありませんぞ。あれは日向の牧の馬でしょう。私の馬などより、よほど優れた逸物と、私は見ましたぞ」
そう云いながら金村は、
“ああ、それでふさぎ込んでいたのか。これはまずい。このまま云いつのり出したら、太刀も抜きかねない。何とか別の話題に変えなければ・・・・・”
そう思いながら、酒を注いでいる侍女の方を見た。それなりの美形である。
「ところで御子、お側の女性は、なかなか美しい方ですな」
「何、こいつか。さ程のこともない。俺はもう飽きた。金村、お前にやってもいいぞ。
もっと美しい女はいないか、金村。
・・・・・・金村、目が覚める程に美しい女は、世の中にはいないものかのう・・・・・」
「いや、御子、この広い世の中、美しい女がいないなどと云うことはありませんぞ。思わず身震いする程に美しい女もいますぞ」
稚鷦鷯の目は何時しか輝いていた。
「そうか、俺はまだ、身震いする程の女は知らぬ。金村、そんな女はどこにいる。そんな女がいたら、俺は是非とも俺のものにしたいぞ」
金村の脳裏を、ふと影媛の顔がよぎった。それは、今しがた王子が鮪の名を口にしたことにもよるが、先程ここへ来る道すがら、影媛と鮪の姿を見たからでもあった。金村は少し云い淀んだが、ここで話題を変える訳にもゆかなかった。
「そうですなぁ・・・・・、この金村の見るところ、今、天下一の美女と云うと、物部の麁鹿火どのの一人娘、影媛どのでしょうなぁ・・・・・。でも、あれはいけません。もう以前から、婿が決まっていますから・・・・・」
「なんと、物部の影媛、大連の娘はそんなに美人か。俺はまだ顔を見たことがない」
「はい、それはもう、身震いする程の美人。例えてみれば、真珠の玉のようとも申せましょうか。それに、口元にある小さな黒子(ほくろ)が、また何とも愛らしくて・・・・・」
「そうか。そんな美人とあれば、この俺が貰い受ける。ところで、その・・・・・以前から婿として決まっているとか云う男は誰なんだ・・・・・」
「はい、・・・・・・」
金村は慌てた。“これは、とんだ事になってしまった” しかし、もう引っ込みはつかない。それに、“鮪が“べそ”を掻く姿をみるのも悪くはない。あいつめ、うまいことをやりおって、と、俺だっていまいましくて仕方ないんだから・・・・・・”と云う思いも通り過ぎた。
稚鷦鷯はいら立っている。
「“はい”では分からぬ。誰だ。その男は・・・・・」
「はい・・・・・・、平群の鮪を婿と決めているのです」
「なに、鮪とな。あの無礼な鮪か。・・・・・・鮪のやつとて、何ほどのことがある。俺は日継ぎの皇子ぞ。俺がよこせと云えば逆らえるものではない。俺に逆らうは不忠義ぞ。反逆ぞ。逆らうなら、殺すだけのこと・・・・・・」
影媛は、使いの者が携えてきた稚鷦鷯からの文を開いて途方に暮れた。そこには一首の歌が記してある。
“琴頭(ことがみ)に 来居(きい)る影媛 玉ならば 我が欲(ほ)る玉の 鰒白珠(あわびしらたま)”
どうせ誰かに代作させたものに違いないが、それは歌としても、まずまずの出来映えである。琴を弾くと、その麗妙な音に惹かれて、琴の脇に神が影となって立つと云う。その影を影媛の“影”に掛けて、影媛を女神と称え、しかも、鰒の貝の腹に宿る真珠の玉に例えている。しかし、これは明らかに求婚の意味である。“我が欲る”と云う語が、それを露骨なまでに示している。単に、恋を告白したものではない。
当時、上流社会においては、男女の交際は、まず男が女のもとへ歌を送ることから始まる。しかし、自分には既にこれと決めた人がいることは衆人ことごとく知るところではないか。そのことに戸惑うだけではない。相手は日継ぎの皇子であり、しかも、風聞よろしからず、かねてから、世の中で一番嫌な奴と思っていた男である。しかし、相手が相手だけに、うかつなことはできない。影媛は頭の中が真っ白になってしまった。
彼女は、使いの者を待たせると、あたふたと父の住む棟へ駆けていった。都合良く麁鹿火はいた。
「お父さま、どうしましょう・・・・・」
そう云いながら、稚鷦鷯の文を父に手渡した。
「うむ・・・・・・」
麁鹿火は目を皿のようにしてその文に見入りながら、腕をこまねいて黙りこんでしまった。その時間は、とても長いように思われた。すべての物音がやんで、秋の虫の声だけが響いていた。
しばらくして、麁鹿火は口を開いた。
「“海石榴市の歌垣にまいります”とだけ答えたらどうかな・・・・・・、ただそれだけ答えては・・・・・・。“歌垣で会いましょう”ではないぞ。“歌垣にまいります”だぞ」
たしかに、それは一つのアイディアだった。いや、ただ一つの名案と云った方がよいかも知れない。
“歌垣”、それは、一年に二度、春と秋、春は豊作を祈って、秋は収穫を祝って、夜を徹して行われる若い男女の歌合わせの行事である。村々から多数の未婚の男女が群れ集い、焚火に照らされた広場で飲食し歌舞に熱狂する。その間に、即興の歌の掛け合いによって男女が結ばれてゆく。男が女に歌を詠みかけて求婚する。それに対して女が歌で答えると二人は結ばれることになる。「うたがき」が「歌掛き」を語源とするものだと云われるのも、このためである。東国では歌垣のことを「かがい」と云った。これもまた歌の「掛け合い」から来た言葉だと云う。もともとは野や山で行われていたが、やがて、人々の集う市(いち)でも行われるようになる。大和最大の市である海石榴市の歌垣は、歌垣としてもまた、大和で最も大きいものであった。
歌垣には、自ずからなるルールがある。歌を掛け合って既に約束が成立した男女には、外の者は、二人を祝福こそすれ、もはや手出しをしないのがルールである。それは誰かが決めたと云うものではないが、歌垣を一つの社会的行事として成り立たせるために自然に生まれた習慣である。だから歌垣の場で、平群の鮪が歌い掛け、影媛がそれに歌で答えたならば、もはや他の者は影媛に対しては歌い掛けることはない。従って、“歌垣にまいります”と云う言葉は、現代風に云えば、“入札に参加して下さってもよろしい”“受験して下さってもよろしい”と云う意味だとも云えよう。
「さすがに、お父さま。いい考えですわ。では、そのように返事します」
影媛は急いで自分の住んでいる棟の方へ帰っていった。
麁鹿火は、なおも黙ったまま、部屋の隅で燃えている灯火をじっと見詰めていた。
“あれで、うまくゆくだろうか。相手はあの王子。何が起こるかわからない。うまくゆくといいが・・・・・・”
彼は心配で、居たたまれない程の不安を感じるのだった。
“少なくとも、歌垣の場に、自分の兵を十数人は忍ばせておいて、万一のことに備えておかねばなるまい”
そう思いながら、なおも、一点の灯火をじっと見詰めていた。
影媛は稚鷦鷯の使いを帰すと、急いで鮪へ文を書き、使いを走らせた。彼女にも一抹の不安はあった。しかし、きっと鮪がうまくやって、自分を守ってくれるだろうと云う思いと、そして、そのことによって、自分に対する彼の愛を一層はっきりと確かめることができるのだと云う思いで、そわそわと落ち着かない気分になっていた。
海石榴市の歌垣の夜、いつもは商品が並べられる広場には、あちらこちらに焚火が赤々と焚かれて、あたりは昼間のように明るかった。すでに、歌に会わせて多数の男女が群れ踊っていた。鮪もまた、その踊りの人の群れの中にいた。影媛が侍女二人を連れてやって来たのを、目ざとく見つけると、彼は人波を分けるようにして、影媛の所へやって来て、彼女を踊りの中にさそい、早々と彼女に即興の歌を詠みかける。
影媛も歌で答えようとした時、稚鷦鷯が三人の近侍と共に、馬で広場にやって来た。彼は近習の馬飼に馬を預けると、踊りの群れに近づき、あわただしく目を動かして、影媛と思しき女を探す。
ふと、ひときわ目につく美しい女性が目に入った彼は、人々を掻き分けるようにして、ずかずかとその方に近づく。その女性の白い肌、長い黒髪、つぶらな瞳、近づきながら彼は、金村が云った“まるで真珠の玉のような”と云う言葉を思い出していた。彼は、それが影媛であることを確信した。
見ると、その女性の側に、平群の鮪が立ち、彼女の手を握っている。女の口元には、金村が云ったように可愛い小さな黒子(ほくろ)がある。影媛に間違いない。
「なんだ。そこに居るのは、無礼な鮪ではないか」
彼は最初から喧嘩腰であった。彼はそう云うと、鮪を無視したように、影媛の方を向き、あの夜の文に書いたのと同じ歌を歌い掛けた。
「琴頭に 来居る影媛 玉ならば 我が欲る玉の・・・・・・」
鮪が遮った。
「お待ち下さい。王子。これは私の妻です」
すると、稚鷦鷯は、身を開いて鮪の方を向き、今にも掴みかからんばかりの形相で、
「それがどうしたと云うのだ。そんなことは分かっている」
鮪は、あくまでも冷静であろうとしていた。
「王子。王子は臣下の持物を取り上げようとおっしゃるのでありましょうか」
「あたりまえだ。主君が欲しいと云えば、命であろうと、何で有ろうと、差し出すのが臣下だ」
「これはまた、ご無体なことを仰せられます。臣下の物を奪うようなお方を、誰が主君とあがめましょうや。そのようなお方の御代は忽ちに傾くと昔から申します」
平静であろうとしながらも、怒りが頭に上り、思わず激しい言葉が口をついていた。
「何だと、無礼な、それ程に自分の物と云うのなら、家の中に大切に隠して、七重八重(ななえやえ)に垣を回らし、こんな所へ連れてくるな」
「八重の柴垣を結ぶは容易なことです。しかし、私は、御子は心ご寛大で、慈しみ深いお方と存じておりますので、この歌垣に連れてまいったのです。そうしろとおっしゃるのなら、これからは十重二十重(とえはたえ)に垣を回らしましょう」
「何んの。お前が二十重の垣を回らそうとも、そんなものいつでも蹴破ってやる」
「蹴破れるものなら、どうぞ蹴破って下さい。御子の足は傷だらけになりましょうぞ」
「黙れ、黙れ、お前なんかには何の用もない」
彼は、そう云いながら、影媛の方を向き、
「俺は、歌の返事を影媛から聞けばいいのだ。媛、ご返事をいただきたい」
影媛は恐ろしさにぶるぶると震え、今にも倒れそうな身体を侍女に支えられるようにして立っていた。
声高に激しく云い争う二人の周囲には、いつのまにか人垣が出来ていた。そして、
「何だ、何だ、喧嘩か、喧嘩か・・・・・・」
と、云いながら、なおも人垣は増えてくる。
鮪は、影媛をかばって、後に隠すようにしながら、
「その返事は、私が代わって致しましょう」
そう云うと、彼は稚鷦鷯を睨みながら、大声で朗々と歌った。
「大君の 御帯の倭文・(しづはた) 結び垂れ 誰やし人も 相思わなくに」
第三句までは、云わば、“誰”と云う言葉を云い出すための序である。要は、“鮪以外の人は誰一人として思っておりませんのに”と云う意味である。
「無礼者、この場で叩き斬ってやるわ・・・・・・」
稚鷦鷯は、わめきながら、腰の太刀を引き抜いた。
一瞬、鮪は身を翻し、影媛を横抱きに抱きかかえ、人垣を割って脱兎のように駆けた。稚鷦鷯の太刀が虚空を斬った。鮪は物陰に繋いでいた自分の馬の所まで駆け寄ると、影媛を抱えたまま馬に飛び乗り、鞭を当てた。
「逃げるか、鮪、・・・・・・、逃がすものか、馬引け、馬を・・・・・・」
稚鷦鷯は、自分も馬で後を追おうとした。近侍の馬飼があわてて馬を引いて来た。彼は馬に乗ろうと、鐙(あぶみ)に足を掛ける。しかし、鐙から足がはずれ、彼はどうと転倒し、遠巻きにしている人垣の真ん中で、不様な格好で地面に転がってしまう。
ゲラゲラと人々が笑う。日継ぎの皇子が、女に逃げられた上に落馬する醜態。誇り高い彼は動転し完全に心を失っていた。彼は、八つ当たりを馬飼にぶつける。
「馬鹿者、しっかりと口輪を持たぬか」
そう云うと、やにわに、馬飼の若者を袈裟懸けに斬った。
「ギャッ」
馬飼は血しぶきを上げて倒れた。驚いて馬が激しくいななき、後足で棒立ちになる。他の近侍たちが必死で馬を取り抑えようとするが、馬の扱いに慣れた馬飼が殺されてしまっては、ただ騒ぎまわるだけであった。
ほうほうの体たらくで、とにかくも邸に戻った稚鷦鷯は、怒りを抑えるすべもなく、訳の分からぬ事をわめき叫びながら、酒をがぶ飲みするかと思うと、太刀を振り回す。
「金村を呼べ。金村を・・・・・・」
近侍の一人が金村の邸へ走る。
しかし、やがて、部屋の中に仁王立ちになると、らんらんと目を光らせながら、
「鮪を斬る。斬らずにおくものか。・・・・・・者ども、皆、俺に付いて来い。奴は影媛の所に居るはずだ。付いて来い、俺に。・・・・・・金村が来たら、俺を追って来いと云え」
そう云うと、抜き身の太刀を振り回しながら外へ飛び出し、夜の闇の中を駆け出した。近侍の者たちが、ばらばらと後を追う。
二人は一糸まとわぬ姿で、お互いを激しく求め合い激しく愛し合い燃えに燃えていた。 鮪は影媛を抱えて馬を走らせ、石上の影媛の邸まで帰り着くと、そのまま彼女の部屋に入り、激しく抱き合った。今しがた王子と凄まじいまでに争った興奮が、二人をそうさせずにはおかなかった。二人はどちらからともなく、衣を剥ぎ捨て、千切れるばかりに抱き合い、床の上をまろび合い、もみ合いながら、お互いに名を呼び合っては、いよいよ狂気のように燃え上がっていた。
影媛の透ける程に白い素肌が、激しい息づかいに赤く色づき、部屋の片隅の燭の火が、それを一層赤く染めていた。一度ならず二度、三度、登りつめては恍惚の境をさまよい、それでもなお、二人の炎は燃え上がるばかりであった。
突然、門の辺りで大きな物音がして、人々のいさかうような声。二人はハッとして動きを止める。続いて、人々の走る音、ののしるような声。
その時、部屋の戸を足蹴りして打ち破り、一人の男が抜き身の太刀をを引っ提げたまま、部屋へ飛び込んできた。
「やはり、ここに居たか、鮪・・・・・・思い知れ・・・・・・」
稚鷦鷯である。云うなり、太刀を振り下ろす。身に寸鉄も帯びない裸身の鮪。一瞬、立ち上がって、影媛を後ろにかばおうとするのが精一杯であった。肩先から胸へ切り裂かれる。ぱっと真っ赤な血が部屋中に飛び散る。稚鷦鷯はそれには目もくれず、更に、影媛に向かって太刀を振り下ろそうとする。影媛は転ぶようにして、部屋の隅に逃げようとする。
その時、まさに、その時、
「何物だ!!」
まるで、百の雷が一度に落ちたかと思う程の大声の一喝。駆けつけて来た麁鹿火である。破られた部屋の扉をまたぎ、剛刀を左手に握り、火を吹くばかりの眦と、阿修羅のような形相で、稚鷦鷯を睨みつけながら、仁王のように突っ立っていた。
その声に、稚鷦鷯は思わずたじろぎ、すくみあがった。一度怒れば鬼神の如しと人に云われている麁鹿火。彼は、その麁鹿火が背後に火焔を背負っているかのように錯覚した。「どこの何者かは知らねど、ここを麁鹿火の邸と知っての狼藉か。それとも知らずしての乱暴か。早々に退散されたい」
麁鹿火は、それが稚鷦鷯であることを知っていた。しかし、決してその名を云わず、どこの誰かも知らぬことにする賢明さを持っていた。稚鷦鷯はすごすごと出ていった。
金村が追いついて来たのは、稚鷦鷯が、それでも鮪を斬ったことに興奮しながら、引き上げてゆく道の途中であった。彼、金村もまた、物部を敵にすることが惹き起こす重大な危険性を知っており、わざと、ゆっくりやって来る賢明さを持っていたのである。
その夜の出来事は、ただちに、麁鹿火の所から、平群に住む平群真鳥の所へも報された。真鳥は激怒した。最も愛し最も将来を嘱望していた末の子を、事もあろうに、閨房の中において惨殺されたのである。
「あの気違い王子め。この仇は必ず取ってやる。この恨み晴らさでおくものか。必ず血祭りにしてくれるわ」
真鳥は夜の明けるのも待たず、勢力下の平群郡下の村々に人を走らせ、“ただちに武器を取って集まれ”と告げさせた。
「あのような気違いは君にあらず。あのような男を大王として担がねばならぬ道理はないわ。大王家にはまだ沢山の姫御子がいる。それに婿を取れば、それで充分だ。事と次第によっては、我らが大王になってもよいわ。もともとは、あの大王家も我らと同じ立場ではなかったか」
そう云いながら、真鳥は大和の他の諸部族らにも、一味同心を促す使いを次々と送っていった。
真鳥が云うことも、それなりに理が通っていた。誉田別(ほんだわけ)(応神天皇)に始まる現在の大王家も、もとはと云えば、南河内の石川の流域に住んでいた部族である。そもそもは、筑紫(九州)から移動して来た部族で、南九州の隼人の流れを引いているとも云われるが、その点は定かではない。
彼らは英傑と云われた誉田別、そしてその後を継いだ大鷦鷯(おおささぎ)(仁徳天皇)に率いられて、周辺の小部族を次々に制圧し、さらに、北河内を中心に大和北部から摂津に及ぶ範囲に蟠踞していた物部の部族に壮絶な戦いを挑んで打ち倒す。そして、この物部もまた筑紫出自の部族である縁故を利用して、彼らを配下に収めて自らの手兵にしてしまう。
その上で、奈良盆地の西縁生駒金剛山脈沿いに住んでいた諸部族、平群、葛城、巨勢、そして紀の諸部族に呼びかけ、これらを糾合して、奈良盆地に攻め入る。そして、かねてから大和にあった諸部族の連合政権、いわゆる崇神王朝を、圧倒的な武力をもって打倒し、代わって新しい王朝を開いたのである。
その王朝成立の経緯からも見られるように、その政権も、もともとは諸部族の王たちの推戴による連合政権である。それゆえ、自らの部族の民である大伴氏と、初期に配下に組み入れた物部氏とは“連(むらじ)”の名で呼ばれ、これに対して、平群氏など部族連合国家を形成した部族の首長は“臣(おみ)の名で呼ばれたのである。”
それが、覇王と云われた幼武の大王(雄略天皇)の頃に至ると、大王家は、内部的には諸部族に対して独裁的絶対権力を振るい、外部的には、勢力範囲を大飛躍させて日本列島の大半をその権力の下に平伏させるようになる。
このようにして、真鳥が云うように、大王家と云えども、その出自においては平群らと何ら変わるものでなく、このことは、すべての人の知っていることであった。
“平群の真鳥の大臣が兵を集めている。続々と男たちが平群に集まっている”と云う風聞は、日をおかず、稚鷦鷯の耳にも入った。彼は震えあがった。あれからも、何とか影媛を物にしよう、別に好きと云う訳ではないが、そうしなければ俺の威信が保てないと、そのことばかり考えていた。けれども、それどころではない。
すぐに大伴金村を呼んだ。大王家の直属の部隊と云うと、大伴・物部の二つではあるが、物部の麁鹿火を呼ぶ勇気はなかった。あの夜、麁鹿火は、“どこの誰かは知らぬが”と云ってはいたが、その言葉をよいことにして、しらばくれて、知らぬ顔で、呼び出すほどの勇気はなかった。
金村は、事が全く予想だにしなかった大事件にまで発展したことに、たじろいていた。もとはと云うと、あの日の自分の一言。それがこんな事態にまで大きくなるとは夢にも思っていなかった。
大伴としては、物部と戦うことは絶対に避けねばならない。そんな事をすると、大王家の二つの直属軍として相携えてきた関係を破り共倒れになり、自らも破滅に至る。しかし、相手が平群なら何もそんな配慮はいらない。躊躇も遠慮もいらぬ。平群のみならず、大和の豪族なら、どれだって叩き潰せば、その分だけ我が勢力の拡大につながる。それにまた、ここで平群を破って手柄を立てれば、俺も大連になることができよう。
彼は稚鷦鷯の所へ行くと、
「よろしい。今夜にも我が兵を率いて真鳥を攻め殺しましょう。聞くならく、かの幼武の大王(雄略天皇)は、その政治の初めに、権勢をほしいままにしていた葛城の円大臣(つぶらおおみ)を焼き殺し、その強き政事(まつりこと)の礎(いしずえ)とされたとのこと。これはまた、その故知にも習うこと」
「おお、頼もしきかな。金村、たのむぞ」
金村の動きは迅速を極めた。その夜のうちに手兵を集めると、払暁も待たず、大和盆地を真っ直ぐに北西に横切って平群の村々に侵入し、家々に火を放ちながら、不意を突かれて殆ど戦うこともできない平群の兵たちを蹴散らして、真鳥の家を囲んだ。真鳥は天を仰ぎ、稚鷦鷯を呪いながら自刃して果てた。
影媛は、あれから部屋に閉じ籠もったままである。影媛にとって、あの夜のことは物凄い衝撃であった。あれだけ私を愛してくれ、身を曝して私を守ってくれたあの人が、目の前で無惨にも斬り殺される。あの時、私も一緒に殺されればよかった。そうしたら今頃は向こうの国で、あの方と手を取り合っているであろうものを。私も後を追ってあの人の所へ行こう。私の体には、まだあの方の温もりが残っているとと云うのに、もう二度と、優しくて凛々しいお顔を見ることはできない。あの方は私のために死んでくれた。私もあの方の所へ行かねばならない。
ふと見ると、部屋の隅の柱に、拭き残った血痕が一つ。またもや、胸が込み上げて、わあっと泣けてくる。どこからこんなに涙が出るのだろうと思うほど、止めどもなく泣けて泣けて、その涙の中で、もう幾日も、ただぼんやりと、日が過ぎるだけであった。
父の麁鹿火も、いや、それ以上に母は心配でならなかった。あれから食事もせず、泣き暮らすばかりの媛。こんなことでは病になるのではあるまいか。いや、それより心配なことは、媛が後を追って自ら命を絶つのではあるまいかと云うことだった。侍女たちに厳重に見張るように何度も云いつけるばかりでなく、日に幾度となく影媛の部屋を訪れては、色々と話し掛けるのであった。
「これからは、亡くなった方のためにも、強く生きてゆくのですよ」
「鮪の君の分までも、あなたは生きてゆくのですよ」
「あの人は、お前を守ろうとして死んでゆかれたのですから、お前が死んでは、あの人は決してお喜びにはなりませんよ」
しかし、影媛は、ただ黙って頷くだけであった。
麁鹿火には、もう一つ、それ以上の心配があった。あの王子のことだから、影媛をこのまま放置しては置かないだろうと云うことである。もとより、愛しているからではない。逃げられたままでは、威信が傷つくからである。なんとしても媛を物にしようとするだろう。そして、凌辱の限りを尽くして、挙げ句には殺そうと考えているに違いない。媛を守らねばならぬ。
そのためには何はともあれ、媛を外へ出さぬようにしなければならないが、王子はどんな手立てで出てくるか分からず、出さないだけでは事足りぬ。いっそのこと、媛は鮪の後を追って自害したと云うことにして、媛を本貫の地である北河内にでも隠そうか。しかし、そんな事をすると、あの王子が死にでもしない限り、媛は二度と世に出ることができず、媛を一生、北河内の田舎で朽ちさせることになる。何か良い策はないものか。麁鹿火は思いあぐねるのであった。
他方で、麁鹿火は我が邸の中で非業の死を遂げた鮪の遺体を、その親御たちの所へ送り届けるべく準備を進めていた。それなりの葬列を組んで、平群まで送ろうとすると、何かと準備に日数を要した。そうした矢先、届ける先である平群真鳥の方も一族と共に殺されてしまう。送ることも出来なくなった。麁鹿火は、我が手で鮪の遺骸を小佐保の乃楽山(ならやま)に葬ることにした。
それは、時折、氷雨がぱらぱらと降っては止み、止んでは降る冬の初めの寒い日であった。鉛色の空の下を、柩は物部の兵たちに守られながら、石上の邸を出て、黙々と進んで行く。布留川に架かる小さな橋を渡り、高橋の村を過ぎ、大宅、春日の村を通って行く。村人たちが道の脇で黙ったまま頭を下げて見送っている。
突然、列の後の方で騒がしい人声。
あれ程に、邸から出ないように見張らしていたのに、侍女たちの目を一瞬くぐり抜けて、影媛が着のみ着のままの姿で、素足のまま、髪を振り乱して走ってくる。
「媛さま、媛さま、お待ち下さい。媛さま・・・・・・」
侍女たちが、追いすがろうと、ばらばらと後を追う。
馬に乗って列の中程にいた麁鹿火は、後を振り向き、その姿をそれと見とめると、大きくうなずきながら、後に向かって云った。
「いい、いい、いいから、ついて来なさい。ついて来なさい」
そう云いながら麁鹿火は、我が娘の不憫さと、その心のいじらしさに、思わず一筋の熱いものがこぼれて頬をつたうのを感じた。
そして、その時、彼は心の中で一つの決心を下したのだった。
やがて、葬列は乃楽山に至る。乃楽山には小さな塚が新しく急いで築かれていた。その塚に柩を納める。冷たい雨は、いつしか本降りになり、小止みもなく降り注いでいた。影媛は泥だらけになることも気にもせず、塚の上に身を投げて、両手で抱きかかえるようにしながら、いつまでもいつまでも号泣するのだった。泥まみれの顔は、涙と雨とで、ぐしゃぐしゃであった。
「媛、いつまでそうしていても、切りがない。もう、よしなさい」
父に云われても、止めようともしなかった。
「あなた一人をここに置いて行くのね。あなた、・・・・・・雨に濡れ、水に浸かっても、誰も拭いてあげることも出来ない。猪の子が塚をあさろうとしても、誰も防いであげることも出来ない。・・・・・いやだ、いやだ、いやだ・・・・・・」
彼女は、いつまでもいつまでも、塚を叩きながら、掻きくどくのであった。
日本書紀は、その時の彼女の歌として、こんな歌を載せている。
「あおによし 乃楽(なら)の狭間(はざま)に 鹿(しし)じもの 水浸(みづ)く辺隠(へごも)り 水灌(みなそそ)ぐ 鮪(しび)の若子(わくご)を 漁(あさ)り出(ず)な 猪(い)の子」
その姿をじっと見ながら、麁鹿火は、先程の決心をあらためて何度も心の中で確認するのであった。
数日後、麁鹿火は、大和に住んでいる物部の者の殆どを率いて、本貫の地である北河内へ移った。大和に残したのは、石上にある武器庫を守るための僅かな兵と、大和にある稲田を作るための部民とのみであった。稚鷦鷯から影媛を守るためであることは云うまでもない。女子供を合わせて一万人を越える人々が、幾日も幾日も車を押し荷物を担いで陸続として道を急ぐ。それは、大和の中のすべての人々を驚かせた。
大伴金村は馬を飛ばせて、既に茨田郡の伊加賀の邸に移っている麁鹿火を訪ねて真意をただした。麁鹿火は笑いながら答えた。
「金村どの、案じめさるな。大伴には何の恨みもない。大伴と戦うことなど、思ってもいない」
年が明け、稚鷦鷯が大王の位を継ぐ日が来た。
茨田にいる麁鹿火の所へも、大連として即位の儀式に列席するようにとの使いが来た。しかし、麁鹿火は病気と称して参列を拒んだ。
その儀式の直後、新しい大王によって、大伴の金村は、彼の念願である“大連”に任ぜられた。祖父室屋はなお在世して大連の任にあり、大伴一族が二人も大連となると云う異例中の異例であった。
茨田に移っても、影媛はやはりずっと部屋に閉じ籠もっているばかりであった。母は今までにも増して、日に幾度も幾度も影媛の部屋をのぞいた。
そうしたある日、母は媛をしげしげと見ながら、ぽつんと云った。
「媛、そなたは、もしや、身ごもっているのではありませんか」
その言葉は、突如、影媛の中を電撃のように走った。影媛は、ハッとした。そう云えば、いつの頃からか、何か身体に常ならぬものを感じていた。
“そうだったのか。私、あのお方の御子を、身ごもっていたのだ”
“私の中に、あの方の御子が・・・・・・。いや、そうではない。私の中にいるのは、あのお方の生まれ代わり・・・・・・。”
“私は、この御子を立派に育てあげねばならないのだ”
影媛の目は急に輝き、痩せ細って青白かった頬に、見る見る赤みが差してきた。
その夜、影媛は父の所へ行くと、両手を突きながら、きっぱりと云うのであった。
「お父さま、随分ご心配をお掛けしました。影媛は、もう自ら命を絶つようなことはいたしません。どうかご安心下さい。しかし、私は誰にも嫁ぎません。どうかそれだけはお許し下さい。そして、一生、お父さま、お母さまのお側に居させて下さい」
大和の威信の衰えはいよいよ深く、地方は群雄割拠の色をますます色濃くしていた。稚鷦鷯の即位の余韻もまだ残っている二月、突然、丹波一円を支配して、自ら王を称する倭彦が、大王稚鷦鷯に反旗を翻し、その数一万の大軍を率いて、老の坂峠を越えて山城へ進出してきた。
倭彦は高々と号していた。
「我らは、今は亡き大臣平群真鳥どのに一方ならぬ恩義を賜った者。去(さ)んぬる日、真鳥どのが兵を挙げんとて、我らにも援軍を求められしに当たっては、直ちに応じて積年の恩に報いんとしたが、事は余りにも速やかにして間に合わず、むざむざ自ら命を絶たれるを傍観するのみであった。今こそ、真鳥どのの恨みを晴らして、泉下に手向けせん」
稚鷦鷯は大伴金村を征討大将軍とし、畿内の兵をこぞって、これを討たせることにした。しかし、大和の諸部族は全くと云ってよい程、それに応じない。平群氏と同祖と称えている盆地西部の諸部族、葛城、巨勢、紀などは云うに及ばず、盆地東部の和珥、阿倍などの大豪族も全く動こうとしない。もとより、物部麁鹿火のもとへも出兵を促してきた。しかし、麁鹿火も、その本貫の北河内を守るのみで、兵を動かそうとはしなかった。
そのため、金村は大伴の兵約五千のみで、己に倍する敵に当たらねばならぬことになった。金村は、自ら麁鹿火の軍陣を訪ねた。その数六千の物部の軍がどうしても欲しかった。今度も、麁鹿火は笑いながら云った。
「金村どの、物部は稚鷦鷯のために戦う気はない。理由は申し上げるまでもなかろう。さりとて、倭彦に味方して大伴と戦うことも絶対にいたしはせぬ」
金村は窮地に陥った。彼は越前・近江に王と号して勢力を張る男大迹(おおと)(後の継体天皇)に援軍を求めんものと、僅かな部下のみを連れて、密かに自ら越前高向(たかむく)の男大迹のもとへ行く。男大迹は請いに応じ、二万の大軍を率いて残雪消えやらぬ栃の木峠を越える。
この時、男大迹の軍の道案内と諜報機関の役を担ったのが河内馬飼首荒籠(かわちうまかいのおびとあらこ)であることは記紀もまた記すところである。彼は山城と河内の境の淀川河畔の樟葉に住む馬飼の首長である。そして、忘れもしないあの海石榴市の歌垣の夜、稚鷦鷯が八つ当たりして斬り殺した近習の若い馬飼は、その荒籠の甥であった。可愛がっていた甥であった。
二万の大軍に背後から迫られては、倭彦も逃げる以外になかった。彼は戦わずして退き、丹波に逃げ帰っていった。倭彦は逃げ去ったが、しかし、男大迹は樟葉まで進出すると、そこに本営を置いたまま動こうとしない。
金村は再三再四にわたって、その労をねぎらい、その功をたたえ、そして、帰国を促したが、男大迹はただ笑うのみであった。
さりとて、男大迹は樟葉から更に南へ進もうともしなかった。樟葉のすぐ南は物部一族の地であり、麁鹿火は一族の者を女子供に至るまで総動員して、しっかりとその地を守備していた。
金村は三たび、麁鹿火をその本営に訪ねた。その本営には、夜も赤々と篝火が焚かれ、何時如何なることが起ころうと、臨機応変に動くことができるように備えられていた。
「麁鹿火どの。“毒を以て毒を制し、夷を以て夷を制する”の謀、見事に破れてしまいました。“前門の虎を防ぐために、後門より狼を招き入れる”の愚を冒してしまいました。金村は再び窮しました。麁鹿火どののお知恵をお貸しいただきたくて、参上した次第です」
金村はそう云いながら、ふと、麁鹿火の側に居並ぶ将たちの中に一人の女武者を見た。それはまごうかたなく影媛であった。流れるような黒髪を白い領布(ひれ)で束ね、小ぶりな挂甲を着け、これも小作りな太刀を帯びているが、その美しい面立ちは影媛であった。少し日焼けして淡い小麦色の肌は、以前よりも更に艶やかであった。
その時、侍女と思しき女が、大切そうに一人の赤子を抱えて影媛の所へ来た。影媛はそれを見ると、挂甲を脱ぎ、人前をはばかることもなく胸を開いて、その子に乳房を含ませた。そして、金村の方を見ながら云った。
「金村さま、お久しぶりでございます。この和子(わこ)は、亡き鮪の君の御子です」
その時、麁鹿火は云った。
「金村どの、稚鷦鷯の大王の姉君、亡き億計(おけ)の大王の第三の皇女、手白香(たしらか)の皇女(ひめみこ)は端麗にして聡明な方であらせられますな」
金村は、この物部の親子が何を云おうとしているのか、はっきりと分かった。
金村は、その足で大和まで帰ると、戦況報告のために稚鷦鷯の小泊瀬の列城(なみき)の宮へ伺候した。金村が退出した後、稚鷦鷯は突然、身をよじって苦しみだし、虚空を掴んで悶絶し息絶えた。あたりには、金村が手土産に持参した木の実が散乱していた。
男大迹の王は、手白香皇女の婿となり、大和の大王位を継いだ。継体天皇である。
それから以後、金村はもう一度、影媛を見た。それは男大迹の大王の御代となって二年目、地方に割拠していた群雄の一人で、北九州に勢力を張っていた筑紫の磐井が、どうしても男大迹に従わず、これを物部麁鹿火に討伐せしめた時である。続々と出発してゆく物部の軍を見送っていた金村は、その中に影媛の姿を見かけた。彼女は凛々しく甲冑をよろい、馬上にあって一軍を率い、鞭をあげて兵たちを叱咤していた。折しも、西日を浴びて、甲に付けた金色の金具がきらきらと光っていた。健康な小麦色の顔は、戦いの女神もかくやと思うばかりであった。“美しい、・・・・・・、心から愛する人を失った女は、こうも変わるものか”
金村は、思わずそう呟いていた。
(完)
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月13日 06時36分19秒 ) | パスワード |
影媛のお話に三つ柏さんがお気になさっていらっしゃった 和珥(わに) が出てますね。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/wani.htm
海神の神使いである「ワニ」を名にし負う和珥氏は、阿曇氏と並んで海人族の雄である。
闕史八代の5代孝昭天皇を祖とし、四道将軍、後には遣唐使、遣隋使を多く輩出している典型的な海人系の氏族と言えよう。
和邇臣は埴輪などの祭祀関係土器製作者集団の統率者で、山陵の管理と、古墳埋葬者(天皇・皇族)の事跡を語り伝える役目を有して朝廷に重きをなしたといわれる。
埴輪というと、土師氏・菅原氏・大江氏の祖、野見宿禰を思い出すが、
系譜的に重なるところはない。
土師器ではなく須恵器とみて、陶都耳命の系統ではないかと思う。
尚、宮主矢河枝比売に見られるように、和邇坂の赤土を神聖なものとしており、「丹土」で詳しくのべるが、
赤土を神聖視するのも海人の証拠であり、 ← へ〜
埴輪はこの土で制作されたのかもしれない。
土は「に」と発音し、「邇」とも書かれることから、和邇の「邇」は「土」ともいえるのではないか。
また、古墳埋葬者の事跡を語り伝える役目というのは、阿曇稲敷にみられるように、海人語部らしい役職である。
尚、和邇(和珥)部、丸部、丸子(和仁古)、丸子部の各氏については、「部」や「子(古)」を和邇氏に隷属していた氏族とみるか、同族から派生した支族とみるかによって意見は異なるだろうが、「子」を親愛の表現と見、「部」についても、「新撰姓氏録」に「和邇部朝臣同祖、彦姥津命の五世の孫、米餅舂大使命の後」とあることから、ここでは同族とした。
また、和邇氏の実質上の祖といえる彦坐王の子孫から、息長帯比売(神功皇后)が出ていることから見て、近江の息長氏と密接な関係で結ばれていたことが分かる。
神功皇后?
<奉祀する神社>
和爾下神社・上治道天王神社(奈良県天理市櫟本町宮山)
和爾下神社・下治道天王神社(奈良県大和郡山市横田町字治道)
祭神 素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命
旧祭神&祖神 天足彦国押人命、彦姥津命、彦国葺命、難波根子武振熊命
社家 櫟井氏
■延喜式神名帳に「和爾下神社二座」とある。両社は東西2.5kmほど離れている。
■櫟本町の上治道天皇神社は、前方後円墳の後円部上に建っている。石棺、埴輪円筒棺などから築造は4c末から5c初めと考えられる。大きさは全長120m、直径70m、高5m、東大寺山古墳群に属す。当古墳から東北800mに和爾の里があり、天理市の教育委員会によれば、この古墳群は和爾氏の奥津城と考えられるという。境内に、同族の柿本氏の氏寺、柿本寺(しほんじ)跡があり、柿本人麻呂の生地と伝えられるとともに、遺髪を埋めた墓だと伝わる「歌塚」が立っている。牛頭天王社の故か、拝殿前左右に天神社のような寝牛の石像がある。
神田神社(滋賀県大津市真野町)
祭神&祖神 彦国葺命、天足彦国押人命
社家 和珥氏
■社伝によると、嵯峨天皇の御代に和珥臣等がこの地に祠を建て祀ったのが始まりという。「延喜式神名帳」に列する古社である。
高橋神社(奈良県奈良市八条町菰川・旧高橋邑)
祭神 栲幡千千媛(天火明命の母)
社家 高橋氏
■この高橋氏から出て、弥彦神社(祭神:天香語山命、新潟県西蒲浦郡弥彦村弥彦)の越後彌彦大宮司家をはじめ、特に北関東・東北の八幡社や山王社の神職についている「高橋祝氏」がある。
「古代豪族系図総覧(近藤敏喬・東京堂出版)」は、「越後彌彦大宮司家・高橋氏は出自は不明で、大宅氏(和珥氏支族)の後から出た高橋氏を知って、ここに紛れ込ませたもののようだ」とするが、この高橋神社は、和珥氏の太祖ともいえる日子坐王の子、沙本毘売命&沙本毘古王の本拠地である佐保川の辺にあり、和珥氏の勢力圏内といえるので、和珥氏系としてよいと思う。
■何故、尾張(海部)氏系の神を祀るのかは不明であるが、日子坐王の長男である丹波道主命が本拠地とする丹波の舞鶴には、尾張氏系の天香語山命の伝説が残っており、両者に何らかの関係があったことが推測できる。
■この辺りは、武烈天皇の項で詳しく述べた、物部麁鹿火大連の娘・影媛が奈良山で詠んだ歌、「石の上 布留を過ぎて 薦(こも)枕 高橋過ぎ 物多(ものさわ)に 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ)の 春日を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保を過ぎ」に登場する「高橋」である。
浅間神社(山梨県東八代郡一宮町一宮) ※甲斐国一の宮
祭神 木花之開耶媛命
社家 和邇部氏、富士氏
■現在、神領山の山腹にある摂社山宮神社が元来の場所で、そこでは11代垂仁天皇の時代から祭祀が行われていたが、56代清和天皇朝に現在の場所に遷祀されたといわれる。古くからの富士山望拝信仰の本拠地。静岡県側の浅間(せんげん)神社に対し、「あさま」神社と読む。歴史は、こちらの方が一世紀ほど古い。
小野神社(滋賀県滋賀郡志賀町大字小野)
(島根県益田市戸田町字小野山)
祭神&祖神 天足彦国押人命、米餅搗大臣命
小野天大神之多初阿豆委居命
社家 小野氏
■「新撰姓氏録」に、小野妹子が滋賀の小野村に住んだので、氏としたとある。境内に小野篁神社、近くにはその孫、小野道風神社がある。
■祭神の一人、米餅搗大臣命は、米餅・餅菓子などの製造業者が信仰する御餅の神様である。滋賀の小野神社では、毎年11月2日に粢(しとぎ)祭りが古式床しく行われる。新米の餅米を木臼で搗き固めて生餅を作り、納豆の藁苞のような苞に入れて粢を作る。これに青竹の筒に入れた酒と蜂蜜・生栗(山の菓)・蕎麦の実(水の菓)を添えて神前に供える、というもの。
粢は餅だけでなく、菓子の始めともされており、小野神社は、古くは餅や菓子の商人の位である「匠」・「司」などの免許を授与していたという。今でも古い菓子屋さんの看板に、「○○菓子司」とあるのは、その名残である。
■「今昔物語」の中に、琵琶湖の鯉と大海から上がってきたワニが戦ったという話がある。戦場は近江の国、志賀郡の古市の郷(現在の滋賀県大津市膳所石山付近)の瀬田川の河口付近で、心見の瀬と呼ばれている急流である。最初はワニが優勢に攻めていたが、最後には鯉が勝ち、ワニは山城国まで逃げて石になってしまい、鯉はその後もずっと竹生島に棲んでいるという。近江の古代豪族であった和邇氏と山城の小野氏との勢力争いを示している説話だとされるが、小野氏は和邇氏と同族であり、勢力争いというのはシックリ来ない。瀬田川は忍熊王が入水自殺した場所で、忍熊王と後の応神天皇を奉じる神功皇后の争いを示す説話かもしれない。また、大昔、琵琶湖が海に続いていたことを示す民話でもあるのではないかとの説もある。サメが石になるという話は各地に残されていて、風土記の淀姫などがその例。
■東京都府中市本宿と東京都南多摩郡多摩村に、天下春(あめのしたばる)命(饒速日尊が河内国に降臨した際、供奉した神)と瀬織津比売命を祭神とする同名の神社があるが、関係ありか? また、長野県東筑摩郡筑摩地村北小野にも同名の神社があり、こちらは建御名方神を祭神としている。
柿本神社(奈良県北葛城郡新庄町柿本)
(島根県益田市高津町(鴨山)、戸田町、江津市都野津町)
(兵庫県明石市人丸町) 他全国
祭神 柿本人麻呂
社家 柿本氏
■柿本人麻呂は摂社も合わせると、北海道から九州までの広範囲で祀られている。柿本神社、人丸神社を始め、八幡神社、住吉神社、穂高神社、宗像神社、賀茂神社、春日神社、河内神社、物部神社の摂社や末社と、海人系の神社に祀られているのも特徴だ。
■全国の柿本神社の本社である島根県益田市高津町の社伝には、「祭神柿本人麻呂公は、孝昭天皇の皇子天足彦国押人の後胤小野氏族の分かれである柿本族が、石見国小野郷の地へ小野族の縁戚をたよって移住、小野の地に御生まれになりました。」とある。鴨島で逝去したので、後に国司が勅命を奉じて、終焉地たる鴨島の地に社殿を建立したのが起源だという。万寿3(1026)年の断層地震による大津波の為、社殿と島とが海中に陥没したが、この時、人麻呂の尊像が松崎に漂着したのでこの地に社殿を再建した。その後延宝九年、亀井藩主により、現在の鴨山に移転再建されたという。地震による津波によって一旦海中に没したものが帰って来た為か、龍神となったと信じられ、学問の神としてはもとより、漁業の守護神、商売繁昌、又、「ひとまる 人生まる」「ひとまる 火止る」の語言から安産の神、火難除けの神として庶民の信仰厚い。
猿丸神社(京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺宗谷 44)
祭神 小野猿丸大夫
■猿丸大夫が晩年を過ごしたと伝えられる。猿丸大夫の墓のほか、猿丸峠、猿丸池、猿丸の腰掛石などの旧跡がある。腰掛石からは、眼下に琵琶湖を一望できるという。
石上いそのかみ神宮・石上坐布都御魂神社(奈良県天理市布留町布留山)
祭神 布都御魂神(経津主命)、布留御魂神(十種神宝)、布都斯御魂神(天羽斬剣)
社家 春日(布留・物部・三島・市川)氏、物部(石上・堤・中山・豊井)氏
■社伝によれば、初代神武天皇以来、天皇の危機を救った神剣として、尾張氏の天香語山命(高倉下命)と同神または兄弟とされる宇摩志麻遅(うましまじ)命によって宮中に祀られていた布都御魂神を、10代崇神天皇7年、崇神の勅により、物部氏の祖で、宇摩志麻遅命の子孫である伊香色雄(いかがしこお)命大臣が、宇摩志麻遅命の父神・饒速日尊が天神から賜った十種神宝(とくさのかんだから)と共に、石上高庭の地に祀ったのを創祀とする。当初、この神社は「布都努斯(ふつぬし)神社」と称されていた。
「紀」の一書には、11代垂仁天皇朝に、和珥氏と同族の息長氏系の五十瓊敷入彦命が、剣1000口を作って神倉に納め、そのままここの管理者となり、春日臣市河(注:系図では16代仁徳天皇朝の人。)がサポートして神主になったとある。以来、春日臣市河の子孫が、物部氏と共に、代々祠宮家の一つを勤めている。私見では、物部氏と和珥氏は同族だろうと思うのであるが、尾張氏ともかなり深い関係にある。
この和珥氏と同族の息長氏の祖である天之日矛は、「八種玉津宝(やくさのたまつたから)」を持って来朝しているが、それが、饒速日命の「十種神宝」とラインナップが非常に似ているのだ。しかも「八種玉津宝」は、天之日矛を奉祀する出石神社ではなく、この石上神宮に「十種神宝」と共に蔵されているという。饒速日命に「十種神宝」を賜った天神というのは、天之日矛ではないのか? とすれば、天火明命=饒速日尊=経津主命という構図も成り立つのではないだろうか。素戔嗚尊=天之日矛の娘に婿入りしたのが大国主神という気がするので、経津主命は大国主神と義兄弟ということにある。「国譲り」の折衝に行くには、うってつけの神だったのだろう。
因みに「十種神宝」のラインナップは、「奥津鏡(おきつかがみ)」・「辺津鏡(へつかがみ)」・「八握剣(やつかのつるぎ)」・「生玉(いくたま)」・「足玉(たるたま)」・「死返玉(まかるがえしのたま)」・「道返玉(ちがえしのたま)」・「蛇比礼(おろちのひれ)」・「蜂比礼(はちのひれ)」・「品物比礼(くさぐさのもののひれ)」の十種で、「八種玉津宝」は、「奥津鏡(おきつかがみ)」・「辺津鏡(へつかがみ)」・「珠二種」・「浪振比礼(なみふるのひれ)」・「浪切比礼(なみきるのひれ)」・「風振比礼(かぜふるのひれ)」・「風切比礼(かぜきるのひれ)」の八種である。「珠二種」とあるのは、「生玉」・「足玉」か「潮乾珠」・「潮盈珠」であろう。「波」や「風」を操るなど、いかにも海人系の呪術アイテムである。
■「天羽斬剣(布都斯御魂神)」は素戔嗚尊が八俣大蛇を斬った剣で、石上神宮の神宝の一つであるとされる。因みに八俣大蛇の尻尾から出て来た「草薙剣」は尾張氏の奉斎する熱田神宮の御神体である。
話を「天羽斬剣」に戻すと、「日本書紀」の一書は、これは今、「石上にある」とか、「吉備の神部(かむとものお)の所にある」と伝えていて、「石上」というのは、延喜式神名帳が吉備国赤坂郡の条に記載する、現在の赤磐郡吉井町石上の「石上布都之魂神社」のことだとする説もある。因みに、吉備は剣の産地であり、吉備の石上神社の社家も現在まで「物部」姓である。
また、石上の摂社には剣神社もあるが、吉備氏系にも剣神社があり、息長氏系の五十瓊敷入彦命が作った剣(つまり当石上神宮にある剣と同じ)を、素戔嗚尊の御霊代として斎き祀っている。この和邇氏と同族である息長氏は、吉備氏と深い関係にあり、興味は尽きない。
■「いそのかみ」は「磯の神」ではないのか? 「伊勢の神」でもあるかもしれない。全国の「天照大神」を冠する神社は、天照大神でなく天火明命を祀っている。「天照国照彦天火明命」という謚号が本当であれば、「伊勢の神」=「磯の神」は天火明命である。
<本拠地>
和邇氏 奈良県天理市和爾町、滋賀県滋賀郡志賀町和邇春日、滋賀県大津市真野町、熊本県玉名郡三加和町和仁川流域、大阪府枚方市王仁公園付近、青森県南津軽郡大鰐町、茨城県鹿嶋市鰐川流域 等
春日氏 奈良市春日野町
粟田氏 愛宕郡粟田(京都市左京区)
小野氏 滋賀郡志賀町小野、愛宕郡小野の郷、島根県益田市戸田町(旧小野村)、
櫟井氏 天理市櫟本町
柿本氏 北葛城郡新庄町柿本
高橋氏 奈良県奈良市八条町菰川(旧高橋邑)
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月13日 07時14分45秒 ) | パスワード |
続き
< 和珥(わに)氏 有名人> わたくしも血を貰ってます(笑)
天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
5代孝昭天皇の第一皇子で、近江国造の祖。母は尾張氏の世襲足姫命。
↑
尾張氏が母
押媛命(おしひめのみこと)
天足彦国押人命の娘。6代孝安天皇の姪で皇后。7代孝霊天皇の母。
意祁都比売命・姥津媛(おけつひめのみこと・ははつひめ)
天足彦国押人命の孫。9代開化天皇の妃。彦坐王の母。
■意祁都比売命の「祁」の字は「け」というより「き」と読んで、
「おきつひめ」つまり「沖津比売命」という方が自然であろう。
宗像氏の多紀理毘売命の別名は奥津島姫(おきつしまひめ)であり、
海人の娘としては相応しい名前と言える。
また、「新撰姓氏録(右京神別下)」に「宗形君、大国主命六世孫、吾田片隅命之後也」とあり、
「同(大和国神別)」に「和仁古、大国主命六世孫、阿太賀田須命之後也」とある。
つまり、宗像氏と和邇氏は同族ということになる。
吾田(あた)とは大隅隼人の「吾田の笠沙」の吾田であり、久米氏との関連も想像できる。
吾田片隅ではなく「吾田大隅」の誤記ではないかと思ったりしている。
日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)
彦国姥津命(ひこくにははつのみこと)
意祁都比売命の兄。彦国葺命の父。一説、袁祁都比売命の父。
日子坐王(ひこいますのみこ)
9代開化天皇と意祁都比売命の子。
春日建国勝戸売(かすがのたけくにかつとめ)の娘、沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)を娶って、11代垂仁天皇皇后の沙本毘売命、沙本毘古王など、息長水依比売を娶って丹波道主命、水穂之真若王など、叔母にあたる袁祁都比売命を娶って、山代之大筒木真若王などの父となった。
■和邇氏を始め、日下部氏、息長氏の遠祖ということになる。また、「古事記」では詳しく語られる日子坐王の系譜は、「日本書紀」には語られていない。編纂者の都合によるものか?
■「古事記」では、10代崇神天皇朝に丹波に遣わされた四道将軍は、この日子坐王になっている。「日本書紀」では、日子坐王の子、丹波道主命。つまり日子坐王の代から、丹波に勢力を張る有力な豪族であったという証拠だろう。
■皇子を「命(みこと)」とせずに「王」としたのは、記紀ともに日子坐王の条が初めて。この条以降、「古事記」では、天皇の御子を「王」とし、「日本書紀」では、一世の御子を「皇子」とし、二世以下を「王」と書いて区別している。9代開化天皇は非常に丹波に係わりを持つ天皇であり、日子坐王とは開化の息子ではなく、この天皇の政権を樹立した時の一大協力者で、丹波一帯の首長ではなかったか。
袁祁都比売命(おけつひめのみこと)
意祁都比売命の妹。甥の日子坐王の妻となり、山代之大筒木真若王、比古意須王(ひこおすのみこ)、伊理泥王(いりねのみこ)を産んだ。
■「意(オ)」は「大」、「袁(ヲ)」は「小」を表すと言う。「祁(キ)」は「盛ん」「大きい」の意味であるから、「沖の姫」ではないのか? 親族の息長氏の「息(おき)」とも関係するように思うのだが。
山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)
日子坐王と袁祁都比売命の長男。同母弟の伊理泥王の娘、丹波之阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)を娶って、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)が生まれている。
■この方の時に、山城国綴喜郡に移住したと思われる。
迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)
山代之大筒木真若王の子。丹波の遠津臣の娘、高材比売(たかきひめ)を娶って息長帯比売(神功皇后)の父、息長宿禰王が生まれている。
■息長氏の奉斎する朱智神社の祖神である。息長水依比売系の子孫ではないのに、何故に息長氏の祖となったのか? やはり、山代之大筒木真若王と水穂之真若王は同一人物なのだろうか?
彦国葺命(ひこくにぶくのみこと)
日子国意祁都命の子。
11代垂仁朝の建波邇安王(たけはにやすのみこ・8代孝元天皇の皇子.。母は河内青玉の娘、波邇夜須毘売。阿倍氏の祖、大彦命の異母兄弟)の乱の際、大彦命の副官として遣わされた。その時、丸邇坂に斎み清めた酒瓶を据えて神を祭り、出立したという。そして、山城の和訶羅河(泉河すなわち木津川の古名)で待受けていた建波邇安王と交戦し、王を一矢のもとに倒して大彦命の軍を勝利に導いた。
■宮主矢河枝比売の項で、和邇族は丸邇坂の赤土を神聖なものとしていたと述べた。彦国葺命もその丸邇坂に忌瓮(いわいべ・斎み清めた酒瓶)を据えて神祭をしている。忌瓮は伊部(いんべ)であり、丸邇坂の土は赤土であるから、吉備氏との関係が窺える。また、誅殺した相手の名に「波邇(はに)」が入っているのも象徴的だ。建波邇安王の母は河内青玉の娘なので、陶都耳命系の土器製作集団との抗争があったのか?
難波根子建振熊命(なにはねこたけふるくまのみこと)
彦国葺命の孫。
神功皇后の命により、15代応神天皇の政敵である忍熊王を討った。
16代仁徳天皇紀六十五年、飛騨の国の両面宿儺(顔が二つで身体が一つ、左右に剣を佩いて、4本の手に弓矢を使う)という、皇命に背いて人民を略奪する怪物を退治した。
■忍熊王軍との戦いに際して、「古事記」ではこの難波根子建振熊命が策略をめぐらせたことになっているが、「日本書紀」ではその手柄はすっかり武内宿禰に移ってしまっている。
■両面宿儺の武器をたくさん持った姿が、天之日矛と比定される蚩尤を彷彿とさせる。
米餅搗大臣命(たがねつきおおおみのみこと)
米餅搗大使主命(しとぎつきおおかみぬしのみこと)
難波根子建振熊命の子。春日臣市河の父。小野神社の祭神の一人。
応神天皇の時、餅の元である粢(しとぎ)を初めて作ったので、米餅搗(しとぎつき)の姓を賜ったといわれる。
■正月の鏡餅、雑煮の餅をはじめとして、ひな祭りの菱餅、端午の節句の柏餅、春の彼岸の牡丹餅、秋の彼岸の萩の餅など、神祭りの時には必ず餅を供える。日本の祭りと餅の関係は深い。
伏見稲荷の縁起や「豊後国風土記〜速見郡野田の条〜」にある、餅を的にして矢を射るという話は、結末が少々違うにしろ、餅が霊的な存在であったことを示しているといえる。
伏見稲荷を創建した秦氏の勢力範囲と、神功皇后の母方の先祖である天之日矛の行動範囲が完全に一致するという研究者もいるが、日矛の子孫である多遅麻毛理が、米餅搗大使主命と同じく菓子の神であるのもなにか関係があるのだろうか?
春日臣市河(かすがのおみいちかわ)
米餅搗大使主命の子。布都努斯神社の神主で、物部首の遠祖。
息長氏系の五十瓊敷入彦命が作った剣を、石上神宮(当時は布都努斯神社)で管理した。
宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)
宮主宅媛(みやぬしやかひめ)
応神天皇の妃。難波根子建振熊命の孫。日触使主(ひふれのおみ)の娘。
菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)、矢田皇女、雌鳥皇女を産んだ。
■応神天皇が近江に行幸した時、宇治の野で宮主矢河枝比売に出会い、都への帰り道、姫の家へ立ち寄った。和邇の家では大御饗を献り、宮主矢河枝比売に盃を持たせて酒も献じた。天皇は姫に盃を持たせたまま、「この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去らふ 伊知遅島み島に着き 鳰鳥の 潜き息づき しなだゆふ 佐々那美道をすくすくと 我がいませばや 木幡の道に逢わしし嬢子 後方は小楯ろかも 歯並は椎菱なす 櫟井の和邇坂の土を 初土は膚赤らけみ 底土は丹黒きつゑ 三つ栗の その中つ土を かぶつく真火には当てず 眉画き こに画き垂れ 逢わしし美女 かくもがと 我が見し子ら かくもがと 我が見し子に うたたけだに向ひ居るかも い添ひ居るかも」と歌ったと「古事記」にある。
角鹿の蟹とは、敦賀(角鹿)をはじめとして北陸の海でとれるズワイ蟹のことである。敦賀の海人が、ズワイ蟹を朝廷に献上していたことがわかるし、和邇氏と敦賀の気比神宮を奉斎する息長氏が親戚関係にあった証拠であろう。「鳰鳥の 潜き息づき」というフレーズが海人の潜水作業を思わせる。「記」は「一時(ある時)」としているが、この道程からして、応神が気比神宮へ参拝した帰りではないか? 名替えの神事は皇太子時代だから、敦賀には何度も足を運んでいたのだろうか? 佐々那美は琵琶湖西南岸一帯の古称であり、木幡は宇治市の木幡で、大津から宇治へ通う道筋にある。敦賀から横ばいに移動したとすると、伊知遅島は音から言っても市杵島姫神を祀る竹生島ではないかと思う。
もう一つ特筆すべきは、櫟井の「和邇坂」の赤土を焼いて眉を画いていることだろう。彦国葺命も和邇坂に神酒を供えて戦勝祈願しているところを見ると、この和邇坂が和邇族にとっての聖地であったことが分かる。また、赤土=丹土を神聖なものとするのは、海人族独特の風習であり(「丹土」参照)、「初」「底」「中」と物事を三分断するのも、海人族の発想である(袁杼比売参照)。
■ところで、大国主神の孫、国忍富神の妻に「八河江比売神」という方がいらっしゃる。またの名を葦那陀迦神(あしなだかのかみ)というが、どうしても蛇神を思い浮かべるお名前だ。ここまで名前が似ていると、同一人物か同系統の方かと疑いたくなるが、この姫神は、琵琶湖の南岸のその名も安曇(あど)川のある、滋賀県高島郡の天川神社の祭神であるから、その可能性が無きにしも非ずである。宮主矢河枝比売も、「宮主」というからには、和邇氏の巫女的な女性であったのだろう。
袁那弁郎女・小甑媛(おなべのいらつめ・おなべひめ)
宮主矢河枝比売の妹。応神妃。菟道稚郎姫皇女(うじのわきいらつめのひめみこ・仁徳妃)を産んでいる。
和邇臣口子(わにのおみくちこ)
宮主矢河枝比売の弟。日触使主(ひふれのおみ)の子。
八田若郎女との仲が原因で、仁徳天皇が皇后の磐之姫命と別居状態にあった時、天皇が皇后に送った使者。雨の中ずぶ濡れになりながら平伏しているのに皇后は一向に面会してくれない。ちょうど皇后に仕えていた妹の口比売(くちひめ・国依媛)が見かねて助け舟を出し、やっと面会がかなった。しかし、皇后は実家に帰ったまま二度と皇居には戻らず、そのまま亡くなった。
■それにしても磐之姫命という方、カナリ嫉妬深く強情な女性である。相手の八田若郎女は、まがりなりにも皇女だ。こちらが皇后になってもおかしくはないわけなのだし、実際に磐之姫命の死後、八田若郎女が皇后になっている。同一人物説のある応神と仁徳が本当に同一人物とすれば、八田若郎女は宮主矢河枝比売ということになり、当時は和邇氏より葛城氏の勢力が勝っていたことになる。しかし天皇は、皇后の嫉妬の相手の叔父または弟を、仲裁の使者に立てたということになる。なかなかにエグイ話だ。
■丸邇臣口子が遣わされたのは、磐之姫命皇后が葛城の実家に帰る前に一時的に身を寄せていた、綴喜(つづき・旧京都府綴喜郡田辺・現京田辺市)の韓人(百済からの帰化人)、奴理能美(ぬりのみ)の屋敷だ。この人、「新撰姓氏録」によれば、河内国の水海連の祖となっている。
いかにも海人系の姓だが、記紀の記述によると、養蚕をしていた人らしいので秦氏系か?
↑
秦氏?
菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)
15代応神天皇と宮主矢河枝比売の皇子。
応神天皇は菟道稚郎子皇子を皇太子としたが、異母兄の大山守命が反乱を起こした。菟道稚郎子皇子は宇治川で見事に返り討ちにしたが、他の異母兄の大雀命(おおさざきのみこと)と帝位を譲り合っているうちに早死に(紀では自害)したので、大雀命が仁徳天皇として即位した。
■仁徳天皇の母は、12代景行天皇の孫で尾張氏系の品陀真若王の娘、仲姫命である。「書紀」には「仲姫を立てて皇后とする」とあるが、「記」に皇后の記述はない。父天皇の定めた皇太子で、政敵の異母兄を討ち破りながら、あっさり自害するのはどうもおかしい。しかし、応神天皇と仁徳天皇は同一人物であるとする説が主流なので、どう解釈していいか迷うところだ。仁徳天皇は、八田若郎女と菟道稚郎女の、二人の和邇氏系の姫を妃としているが、これも応神天皇と同じ数である。宇治川の戦いは、応神軍と異母兄の忍熊王の戦いを彷彿とさせる。宇治川で水死した大山守命が忍熊王なのか?
■仁徳天皇と菟道稚郎子皇子が皇位を譲り合っている時に、海人が大贄を貢ったが、やはり譲り合ったので海人は両者の間を何度も行ったり来たりさせられて、疲れ果てて泣き出してしまった。そこで、諺に「海人や、己が物によりて泣く(海人は、自分の獲った獲物の為に泣かされる)」というのである。と、記紀双方に載っている。ここでも、即位した天皇に、まず海人が御饗を献上する仕来たりのあったことが窺える。
八田若郎女・矢田皇女(やたのわきいらつめ)
15代応神天皇と宮主矢河枝比売の皇女。菟道稚郎子皇子の妹。仁徳天皇の妃。後、皇后。
仁徳天皇と皇后の磐之姫命(武内宿禰の孫。葛城襲津彦の娘。)の別居の原因となった程、仁徳天皇に愛されたことが記紀に書かれている。
■兄の菟道稚郎子皇子と妹の雌鳥皇女は悲運な道をだどったが、この八田若郎女は仁徳に愛され、磐之姫命の後の皇后になっている。17代履中、18代反正、19代允恭と、磐之姫命の産んだ皇子が即位するが、仁徳天皇の項で述べたが、葛城氏は私見では尾張氏系であり、19代允恭皇后の皇后で20代安康天皇・21代雄略天皇の母、忍坂之大中津比売命は息長氏系の姫であるので、海人系の血統は永遠と存続して行く。
女鳥王・雌鳥皇女(めどりのひめみこ)
15代応神天皇と宮主矢河枝比売の皇女。菟道稚郎子皇子と八田若郎女の妹。
16代仁徳天皇は、異母兄の隼総別皇子(はやぶさわけのみこ・応神天皇と桜井の田部氏の祖、糸井比売の皇子)を仲立ちにして、異母妹の雌鳥皇女をご所望になったが、雌鳥皇女は皇后(磐之姫命)の気性が激しいのを嫌がって、隼総別皇子と結婚してしまった。二人は手に手をとって倉梯山(奈良県宇陀郡大宇陀町)に駆け落ちしたが、天皇の討伐軍に宇陀の蘇邇(奈良県宇陀郡曽爾村)で追いつかれ、二人とも殺された。
■隼総別皇子の母方の家系は桜井の田部氏。
饒速日尊を祖とする物部氏の支族にあたり、後に宇佐八幡宮祠宮家となる。
物部氏と和邇氏は関係が深く、二人は母方に助けを求めようとしたのだろう。
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物部と和邇氏
倉梯山は阿倍氏の本拠地だし、宇陀郡曽爾村は、伊賀・伊勢へ通じる道筋にある。
都努郎女・津野媛(つののいらつめ)
丸邇の許碁登臣(木事臣・こごとおみ)の娘。難波根子建振熊命の曾孫。
18代反正天皇の妃。甲斐郎女、都夫良郎女を産んだ。
弟比売(おとひめ)
丸邇の許碁登臣(木事臣・こごとおみ)の娘。難波根子建振熊命の曾孫。
18代反正天皇の妃。財皇女、高部皇子を産んだ。
袁杼比売(おどひめ)
21代雄略天皇の妃。丸邇佐都紀(さつき)臣の娘。
■この姫は「記」にのみ登場し、「紀」には現れない。また、和邇氏の家系図にも載っていない。雄略天皇関係ということで、「紀」にのみ現れる下記の童女君か、天皇は違うが音から上記の弟比売と同一人物ではないかと思う。
■特筆すべきは、「記」の袁杼比売が登場する段で、「天語歌」が謡われることである。伊勢国の三重の采女が歌ったとされるのだが、「天語歌」は海人族の語部によって新嘗祭の宴席で謡われたものであり、下記の童女君が元采女であったことを考えると、袁杼比売が謡ったものかもしれない。しかし、三重の采女としても、猿田毘古神に述べたように海人族の地であるから、どちらにしてもよいのだが・・・。
■「天語歌」では、「上つ枝」「中つ枝」「下つ枝」の三分段の対句の繰り返しが目に付くが、これは、天の磐戸の前に行われた祭祀や、息長氏の五十迹手が行った仲哀天皇への従属儀礼にも登場する。海人族は、神木の上・中・下枝に呪物を掛ける招魂儀礼を持っていた。また、綿津見神や筒之男神、猿田毘古神のように、物事を三段階に分ける発想を持っており、「三」を神聖な数字としている。「天語歌」に、「三並対」と呼ばれる対句形式が使われているのもその為だ。
■「天語歌」には、「浮きし脂」とか「水をこをろこをろに」とか、伊弉諾尊&伊弉冉尊の国土創成神話と同じ表現が使われているのにも注目したい。これは淡路島の海人が、海水を煮詰めて塩を作る時の製塩作業が連想されているという。記紀の創世神話は、元々、海人族が持っていた「海人語」なのである。国史に登場する「天(海)語連」は、阿波国の忌部氏と同祖であるが、阿波の海人を統率していたのは阿曇氏であった。忌部氏は大嘗祭に木綿や麻を献上し、阿曇氏は多量の海産物を献納している。つまり、忌部氏と阿曇氏は職掌・本拠地ともに関係があるのである。「天語歌」は本来、阿波国の阿曇氏系の海人部によって伝承されたものだといえる。これは、阿曇稲敷が、天武10(681)年、川島皇子ら11人共に「帝記」及び「上古の諸事」を記す任に着いたのにも関係するだろう。
童女君(おみなぎみ)
21代雄略天皇の妃。春日和珥臣深目の娘。難波根子建振熊命の曾孫。
春日大郎女皇女を産んだ。
■もと采女であったが、雄略天皇から、一夜をともにしただけで孕んだので疑われ、妃に加えられなかった。生まれた少女が歩けるようになった頃、物部目大連の助言により妃に加えられ、娘は皇女と認められた。
春日小野臣大樹(かすがおののおみおおき)
難波根子建振熊命の七世孫。21代雄略朝の武人。
播磨国の御井隈の盗賊、文石小麻呂(あやしのおまろ)を討伐する為に、遣わされた。屈強な百人の部下と共に小麻呂の家を囲んで焼き払うと、炎の中から馬ほどの大きさの白い犬が飛び出してきて、大樹に飛び掛ったが、大樹は顔色も変えないで刀で斬り殺したところ、それは小麻呂に変わった、と書紀にある。
■文石小麻呂は、「商人の船を差し止めて品物を奪った」とあるので、海賊だろうと言われている。また、化身したのが「犬」であることから、小麻呂は隼人系の海人ではなかったか。9世紀になると、播磨や備前の沖には海賊が跋扈するようになるが、この頃からその土壌があったわけである。
春日大郎女皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)
21代雄略天皇と童女君の娘。
24代仁賢天皇の皇后となり、25代武烈天皇と、継体天皇に嫁いで欽明天皇の母となった手白髪皇女を産んでいる。
糠若子郎女(ぬかのわくごのいらつめ)
24代仁賢天皇妃。丸邇臣日爪(わにのおみひつま)の娘で童女君の姪にあたる。
27代安閑皇后となった、春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を産んだ。
手白髪皇女(たしらかのひめみこ)
24代仁賢天皇と、春日大郎女皇女の子。
武烈天皇の姉にあたり、26代継体天皇の皇后となって、欽明天皇を産んでいる。
小泊瀬稚鷦鷯尊(こはつせわかさざきのみこと・武烈天皇)
24代仁賢天皇と、春日大郎女皇女の子。第25代天皇である。
■武烈天皇には子供がなく、息長氏系の継体天皇が後を継いだ。
■「稚鷦鷯」という諱が、尾張氏系16代仁徳天皇の「大鷦鷯尊」に、「小泊瀬」が祖父である息長氏系21代雄略天皇の「大泊瀬」に関係あると思われる。
コレですね「影媛」のお話
↓
■和爾下神社の境内に、「石の上 布留を過ぎて 薦(こも)枕 高橋過ぎ 物多(ものさわ)に 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ)の 春日を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保を過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯さへ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣き沾(そぼ)ち行くも 影媛あわれ。」の説明掲示がある。
これは、「日本書紀」の25代武烈即位前紀にある、物部麁鹿火大連(26代継体朝、北九州の磐井の乱を平定。)の娘・影媛と、大臣平群真鳥(へぐりのまとり)の息子、鮪(しび)の悲恋の物語で、恋人の鮪が、影媛に横恋慕した武烈天皇(当時は皇太子)の命で、大伴金村(後に物部麁鹿火らと共に26代継体天皇を擁立する。松浦の小夜姫の恋人、狭手彦の父。)の軍に奈良山で殺されたのを、布留から奈良山まで追って行って目撃してしまい、悲涙に咽びながら詠んだ歌だという。
因みにこの時、鮪の親である平群真鳥(へぐりのまとり)大臣も、トバッチリを喰って大伴金村に滅ぼされているが、死の直前に、広い海の潮を指して呪いをかけた。
しかし、角鹿(敦賀)の潮だけを呪い忘れたので、それ以来「角鹿の塩は天皇の所食とし」、その他の潮は天皇の忌まれるところとなったという。
この記事は、宮主矢河枝比売に応神天皇が歌った歌の歌詞も合わせて、和邇&息長氏系の気比神宮のある、角鹿の海人が献上する塩や魚介類が、皇室御用達とでもいおうか、最上の献上品だったということを言わんとしていると思われる。
和爾下神社のある櫟本は、山辺の道と都祁(つげ)山道との分岐点にあたり、当時の政治経済・軍事・文化の要衝であった。北には和珥氏、南には物部氏の本拠地があり、この辺りが勢力の接点で、和珥氏系と物部氏の抗争があったと考えられている。しかしながら、武烈の祖母童女(おみな)君の叔父にあにあたる春日臣市河は、16代仁徳朝の石上神宮(布都努斯神社)の神主で、その子孫である布留氏は、代々、石上(物部)氏と共に物部氏の奉斎する石上神宮祠宮家を務めており、後には「物部」と名乗っていることを考えても、和珥氏と物部氏が敵対関係にあったとは考え難い。
また、横田町の下治道天王神社付近は、横田物部氏の本拠であり、物部氏と和邇氏は同族といってもいい間柄であったのではないか。
この謎は、こう考えれば解けるかもしれない。「古事記」はこの「影媛事件」を、葛城氏系の天皇で23代顕宗天皇の太子時代のことだとしているのだ。
「日本書紀」は、26代継体天皇の即位を正当性のあるものとする為に、武烈天皇を殊更に悪し様に書いている傾向がある。
これもその一例ではないか。
この事件は、後に継体天皇を擁立する大伴金村と物部麁鹿火が、葛城氏系の顕宗天皇と、やはり葛城氏系で権勢を誇っていた平群真鳥大臣を同士討ちさせて、政権を奪還する為の「陰謀」ではなかったか?
その陰謀の為に父に利用された影媛は、本当に哀れである。
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あらら。。。。
影媛悲劇の真相?
荑媛(はえひめ)
29代継体天皇の妃。和珥臣河内(わにのおみかわち)の娘で童女君の姪にあたる。
■「古事記」には、阿倍之波延比売とある。
■この「荑媛」という方、和邇氏・阿倍氏・葛城氏にもいる。映え(照り輝く)姫という意味だろうか?
小野妹子(おののいもこ) ⇔ 小野妹子がココに!
春日小野臣大樹の孫。
飛鳥時代の官人。遣隋使となり607年隋に渡り、翌年隋使の裴世清とともに帰国。同年隋使・留学僧らとともに再び隋に赴く。隋では蘇因高(そいんこう)と称した。609年帰国。墓誌の出土した毛人(えみし)の父。生没年未詳。
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
難波根子建振熊命の11世孫。
万葉歌人。三十六歌仙の一。天武(在位673〜686)・持統(在位690〜697)・文武朝(在位697〜707)に仕え、六位以下で舎人として出仕、石見国の役人にもなり讃岐国などへも往復、旅先(石見国か)で没。序詞・枕詞・押韻などを駆使、想・詞豊かに、長歌を中心とする沈痛・荘重、格調高い作風において集中第1の抒情歌人。後世、久米氏系の山部赤人とともに歌聖と称された。「人丸」と書いて「ひとまる」ともいう。生没年未詳。
■石見(島根県西部)で、辞世の「鴨山の岩根し枕ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ」の歌の通り、鴨島(鴨山)で死去したと伝えられ、「石見の海」を歌った長歌等は有名であるが、「万葉集」以外に人麻呂を記す文献はない。梅原 猛氏はその著書「水底の歌〜柿本人麿論〜」の中で、上記に述べたような一般的な人麻呂像を全面否定し、人麿は讃岐に流罪された後、石見の鴨島に流されてそこで水死刑にされた身分ある宮廷歌人で、正史に現れる柿本朝臣猨(=小野猿丸太夫)その人だとしている。生誕の地は、櫟本町の和爾下神社境内の柿本寺跡とする説と、石見(島根県益田市)の柿本神社付近にある小野郷とする二説がある。
■「釧着く 答志の崎に今日もかも 大宮人の玉藻刈るらむ(万葉集四一)」の歌や、「古今集」に「おほきみつのくらゐ」つまり正三位とあることから、麻績王の別名だという説もある。
■鴨島で没した縁だろうか、人麻呂は賀茂氏と妙に関係があるように思う。島根県江津市都野津町の柿本神社付近は、人麻呂の現地妻、依羅娘子(よさみのおとめ)の生誕地と伝えられ、当に人麻呂の長歌の舞台となった地なのだが、この隣町の二宮町に、鴨都波八重言代主命を祀る多鳩(たばと)神社がある。当社は大化(645〜650年)の頃、大和国(奈良県御所市)から多鳩山古瀬谷に勧請され、後に現在の社地に遷座されたという、石見国二の宮(一の宮は大田市川合町の物部神社)である。勧請元の鴨都波神社(奈良県御所市宮前町)付近は古代賀茂氏一族の本拠地で、葛城地方の一部であり、すぐ北には柿本神社(奈良県北葛城郡新庄町柿本)があるのは偶然ではあるまい。
梅原 猛氏も上記の「水底の歌」の中で、人麿が刑死したと思われる和銅元年または二年から、「古事記」の編纂が数年しかたっていないことを挙げ、柿本人麿・躬都良(みつら)親子と大国主神・事代主命親子の死があまりに類似しているのは、当時の政治的状況を反映している為だと述べている。
余談だが、小野妹子の6世孫に典侍正三位「賀茂人麻呂」という人の妻となった石子という女性が出ている。関係ないだろうが、何か暗示的である。
■賀茂大神が賀茂建「角」身命だからという訳ではないだろうが、「角(つの)」にも妙に縁がある。人麻呂の長歌の舞台は「都野津(つのづ)」だし、この付近は「角の里」と呼ばれ、「石見のや高角山の木のよりわが振る袖を妹見つらむか(万葉集132)」の「高角山」や、「石見の海角の浦廻を浦なしと人こそ見らめ潟なしと…(万葉集131)」の「角の浦」もある。そして、枕詞「つのさはふ」は、「石見」と「磐余(奈良県桜井市南西部、香具山東麓一帯の古地名。神武天皇征討軍の集結地で、継体天皇の磐余玉穂宮があった。)」にかかるのだ。葛城の「葛」は「つの」とも読み、「つのさはふ」は「葛が這う」という意味で、単に「岩」にかかるのだとしても、遠く離れた大和と石見を結ぶものは、一体何なのであろう?
鴨君役小角(おづぬ・役行者)、賀茂角足(つのたり・橘奈良麻呂の変に連座)など、賀茂氏の重要人物には必ず「角」が付く。これも関係があるのか? 因みに、賀茂建角身命神の兄弟である積羽八重事代主神を祀る多鳩神社のある二宮町には、古代国家統一の功労者、鴨建角身命、都怒我阿羅斯等、山守部角山君(11代垂仁天皇の皇子である五十日足彦命の子孫)の遺跡があるという。単に「角」の付く有名人を集めただけのようにも見えるが、石見が「角」と関係の深い土地だということだけは言えるのではないか。
柿本朝臣猨・佐留(かきのもとのあそみさる)
難波根子建振熊命の11世孫。和珥氏系図上は人麻呂の兄弟。
天武紀に、天武10年に小錦下を授けられたとある。また、「続日本紀」に「和銅元年四月二十日、従四位下柿本佐留卒す。」とある。
小野猿丸大夫(おのさるまるだゆう)
小倉百人一首の中の「奥山に紅葉ふみわけなくしかの声きくときぞ秋は悲しき」で知られる歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』真名序にその名が見える。「猿丸大夫集」もあるが、これは古歌を集めたもので、猿丸大夫その人の作と言い切れるものはない。歌人としてよりも、広く伝説化した人物として知られる。
■「猿丸大夫集」に弓削皇子(天武天皇と天智天皇の娘の大江皇女の子)の歌が三首入っていることから、弓削皇子であるという説もある。また、猿丸は猿の異称であることから柿本朝臣猨、「古今集」の真名序に「柿本の大夫」とあることから柿本人麿その人であるとも言われる。
■下野国二荒(ふたら)山信仰に基づいた猿丸大夫の伝説がある。林道春(はやしどうしゅん)の「二荒山神伝」によると、「昔、有宇中将(ありうちゅうじょう)という殿上人が勅勘をこうむり、奥州小野郷の朝日長者の客となり、長者の娘を妻とした。その孫が猿麻呂といい、奥州小野に住むによって小野猿麻呂といったという。そして、有宇中将とその妻は死して二荒山の神となり、それぞれ男体権現、女体権現となった。その後、山中にある湖をめぐって赤城の神と争いになり、二荒の神は大蛇の姿で、赤城の神は百足(むかで)の姿で戦ったという。二荒の神は敗色濃く、鹿島の神の言を入れて、弓の名手で力の強い猿麻呂の助けを仰いだ。猿麻呂は大百足を倒し、利根川の岸まで追って行ったがそこで引き返した。血が流れて水が赤くなったので赤沼、山を赤城山、麓の温泉を赤比曾湯と呼び、敵を討った場所であるため宇都宮という名ができた。」というもので、小野猿麻呂は宇都宮大明神と崇められた。猿丸大夫の祖父、有宇中将という名が、どうも在原業平の在五中将を連想させる。「有」は「在」ではないか。業平は惟喬親王を通じて小野小町と関係のある人であると共に、相手が猿につきものの朝日長者の娘、つまり太陽であり、大蛇が化身であることも合わせて興味は尽きない。同じ三十六歌仙の一人というのも、気になるところである。
■岩手県宮古市宮町の横山八幡宮を始め、猿丸太夫が勅勘をこうむり遠流され、晩年を過ごし例の「奥山に」の歌を作ったとされる「猿丸屋敷」と称される場所が各地にある。また猿丸大夫の末孫なりと称して、諸国に塩や土器を売り歩いたものなどもあって、どうも海人系の商人であり、「太夫」という名前から、神楽を奉納する神人集団の匂いがする。つまりは天宇受売命の子孫、猿女氏の子孫ではなかろうか。
柳田翁は「早稲田文学〜記紀文学号・稗田阿礼〜」の中で、「猿女氏の本拠地は琵琶湖の湖畔の小野和珥の地に近い日吉山麓にあり、両氏は深い親縁関係を生じ、「猿女小野氏」とも称すべき神人集団を形成して、遠く日本の各地に移動殖民し、猿神(小野神)の布教活動に従事していた。」と述べられている。つまりは、猿神を奉じて歌舞伝承に習熟した猿女小野氏の太夫が「猿丸太夫」で、一人ではなかったのではないだろうか。折口信夫やその弟子の高崎正秀は、柿本人麿を猿女氏を中心とする巡遊伶人の一人であるとした。しかし私見では、猿丸太夫の伝承地は琵琶湖畔から東北へ延びる、東山道を中心にあるように思うが、人麿の伝承地は石見や讃岐や近江であり、猿丸太夫の伝承地と重なるのは近江だけのような気がする。この猿丸太夫と同一人であるとする結論は、まだ出ないように思う。
■秋田県仙北郡では、正月に「猿丸太夫」という厩祭りの祈祷師が回って来て、厩祈祷をするという。つまりは馬の守護神を祀る太夫なのである。昔は猿引き(猿回し)が馬相や馬医を兼ねていて、厩神の蒼前(そうぜん・勝善)神を祀り、勝善経を誦んで行脚し、馬は河童を見ると倒れるが、河童は猿を見ると動けなくなるという伝承から、厩の馬を守る為、猿の駒(馬)引きの護符を売り歩いていたというのだ。蒼前神はオシラ神と同様、蚕神としての信仰もあり、高千穂に近い阿蘇郡蘇陽町のその名も「猿丸」という小集落に、猿丸太夫の墓があるという情報もあり、どうも猿田毘古神&塩土老翁神との関連をもっと調べた方が良さそうである。
粟田真人(あわたのまひと)
難波根子建振熊命の11世孫。
奈良時代の官人・学者。大宝律令の制定に加わり、701〜704年(大宝1〜慶雲1)遣唐使として渡唐。帰国後、正三位中納言。( 〜719)
■「道成寺宮子姫傳記」で、帝が宮子姫を探し出す為に差し向けた勅使となっている。
■粟田真人はかの有名な則天武后のお気に入りであった。唐代の正史「新唐書」には、長安城の宮殿で、則天武后の宴に招かれた粟田真人の立ち居振る舞いが立派だったと書き残されている。
則天武后は中国史上初の女帝で、当時76才。14才で美貌のゆえ後宮に引き抜かれた山西省の材木商の娘で、太宗の後宮に入り、仕来りに従って太宗の死後は尼僧となったが、その尼僧姿も妖艶さを隠しきれず、息子の高宗も父同様に自分の後宮に彼女を召し上げ、とうとう正皇后になった。その後、病がちの高宗のかわりに政務をとり、専制的で100人もの宗家の者や貴族を滅ぼしている、という、西太后も真っ青の超女傑である。
粟田真人の名の、「真人」というのは中国では神仙号であり、聖神皇帝と同格だということも功を奏したのかもわからないが、真人がもしも則天武后に気に入られてなかったら、日本国は独立を失していたかもしれないといわれる大功臣である。
山上憶良(やまのうえのおくら)
春日臣市河の子孫。
万葉歌人。山上臣。702年(大宝2)遣唐録事として入唐、707年(慶雲4)頃帰国。従五位下・伯耆守・東宮侍講、後に筑前守。豊かな学識を有し、「思子等歌」「貧窮問答歌」など現実的な人生社会を詠じた切実・真率な作が多い。「類聚歌林」を編む。(660 〜733頃)
■「万葉集・巻5−892・893」に「寒くしあれば 堅塩(かたしお)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ)」、「海松(みる)の如(ごと) わわけさがれる 襤褸(かかふ)のみ」、「世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」などの「貧窮問答歌」が載っている。
■万葉歌人で遣唐使。誠に海人族らしい人である。上記の粟田真人とは、同族でもあり、同時期に入唐しているので、交流があったものと思われる。
小野篁(おののたかむら)
小野妹子の8世孫。
平安前期の貴族・文人。参議岑守(みねもり)の子。遣唐副使に任ぜられたが、大使藤原常嗣の専横を怒って病と称して命を奉ぜず、隠岐に流され、のち召還されて参議。博学で詩文に長じた。「令義解(りようのぎげ)」を撰。野相公。野宰相。(802〜852)
■「今昔物語」等に、夜になると、京都の六道珍皇寺にある「六道の辻」からあの世へ入り、閻魔庁で官吏を勤め、朝、嵯峨野にある「生の六道」から帰って来る、という話が伝わっている。他にも、「篁物語」には、家庭教師をしていた異母妹と道ならぬ恋をしたとか、背丈が六尺(180cm)を越えていたとか、とかく伝説の絶えない人である。
小野小町(おののこまち)
小野妹子の8世孫。
平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一。諸説あるが、出羽郡司小野良真(篁の子)の娘ともいう。歌は柔軟艶麗。文屋康秀・僧正遍昭らとの贈答歌があり、仁明(在位833〜850)・文徳(在位850〜858)朝頃の人と知られる。絶世の美人として七小町などの伝説がある。
■小野宮惟喬親王(844〜897)の乳母であったという説がある。惟喬親王は文徳天皇の第1皇子で、母は紀名虎の女静子。第4皇子惟仁親王(後の清和天皇)の外戚である藤原良房の力が強く、皇位継承はならなかった。剃髪して小野の里(山城国愛宕郡)に隠棲したことから小野宮と呼ばれるが、この隠棲地は乳母の小野小町の縁によるという。
惟喬親王は、木地師の間の伝承ではその祖とされ、名虎の孫娘を妻とし(つまり義理の従兄弟同士)、名虎の二男の有常と親交があった縁からか、在原業平(阿保親王の第5子。世に在五中将・在中将という。「伊勢物語」の主人公と混同され、伝説化して、容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃の題材ともなった。825〜880年)が親身になって仕えたことでも有名。業平が清和天皇の後宮に入る予定の、藤原基経(良房の養子)の妹、高子にちょっかいを出したのも、この恨みからだと言われる。
大春日朝臣真野麻呂(おおかすがのあそみまのまろ)
春日臣市河の子孫。平安初期の暦博士。陰陽頭。
暦道の大家で、「日本文徳天皇実録、平安元(857)年正月17日の条」に「五紀暦」の採用を進言した旨、名前が見える。(詳しくは、Kenji様のページ「大春日氏の系譜」参照。)
■しかし、当時「五紀暦」は既に唐でも採用が終っており、859年、勃海の馬孝慎が日本に献じた「宣明暦」を、又も真野麻呂が採用を願い出で、862年から施行されている。「宣明暦」は、1684年に保井春海が作成し、1685年から施行された「貞享暦」まで、実に823年の長きにわたって採用され続けた。
■大春日氏は、安倍晴明の師匠、賀茂保憲(917~977年)が現われるまで、代々暦道の大家であり続け、多くの陰陽師を輩出している。
小野好古(おののよしふる)
小野篁の孫。
平安中期の貴族。道風の兄。武勇の誉れ高く、天慶の乱のとき山陽道追捕使に任じて藤原純友を追討、参議に至る。(884〜968)
小野道風(おののみちかぜ)
小野篁の孫。
平安中期の書家。醍醐・朱雀・村上の3朝に歴仕。若くして書に秀で、和様の基礎を築く。藤原佐理(すけまさ)・藤原行成(ゆきなり)とともに三蹟と称される。真蹟として「屏風土代」「玉泉帖」などがあるが、信ずべき仮名の作品は未発見。(894〜966)
■柳の枝に飛び付こうと努力する蛙を見て習字に精進し、やがて書道の大家となった話は有名。66歳の時、天徳歌合の清書を行い、村上天皇から王羲之の再来と絶賛されたことから、日本の書聖と仰がれる。それにしても和珥氏系は、歌聖・歌仙・書聖と芸達者が多い。梅原氏流にいえば、「聖」と仰がれるのは、政敵として排除され、恨みをいだいて死んだ人ということになるが、道風に関する限りそれはなさそうだ。
[15] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月13日 11時43分00秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
それにしても今回のレスも盛りだくさんの情報・・・恐れ入ります。
大変貴重で重要な話(読解するのに2時間)なので、ポイントはメモいたし
ました。
大河内政局(まさちか)の話、ずっしりと感じ入りました。実は、予備知識
は余りなく高天神城址へ行きました(いつもの癖)ので、人間関係はわかって
おりませんでした。高天神の戦いについての資料も余り持ち合わせていなか
ったので、写真をパチパチ撮った割には、内容を理解しておりませんでした。
確かにその岩窟はありました。本丸下5〜6メートル位の所に路があり、
本丸側の土壁(岩は見えなく、土の層であったが)に、確かに穴のようなもの
があり、土でふさがれ、竹を縦横に組んで縛ったもので蓋がされていました。その横に幽閉された人の名前のプレートがありましたが、うっかり後で分析
するのをおこたってしまいました。
本当にいい話を聞きました。宝話にしたいと思います。
「五つの命」―これも一生の宝といたします。
影媛の話、これも読みごたえのある話で、ずっしり来ました。宝話といた
します。影媛が恋しくなりました。何というロマン!
最後に、海神族の和邇氏、物部氏、息長氏、吉備氏、阿波忌部氏、賀茂氏、
柿下氏等の関係、大変重要な関係の解説だと思いました。氏族の関係は、チ
ャートがないとわからなくなりますが、どこかで探し当てたいと思います。
今回、とくに大河内氏と影媛の話、感じ入って候です。この2つの話は、
私の琴線に大いに響き渡り、悲しい話ではありますが、ロマン的カタルシス
もあり、今うっとりと放心状態であります。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月14日 01時57分52秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
きっと神代の時代・古代に三つ柏さんのご先祖は「そこ」にいらっしゃったのですよ。
平群鮪と物部影媛の悲劇を直接見たり聞いたりしてたのだと思います。
わたくしなんかは 二人の悲恋を気の毒とは思うけれど 別な生き方もあったんじゃないの
と思いますから。
日本史の中にはいろいろ優れた女性がいるけど
わたしには真似できないけど
橘三千代も大した女だと思います
物部麁鹿火(あらかひ)もなかなか大した男です。
娘の影媛を稚鷦鷯=武烈天皇=に渡す選択をせず
結局は物部麁鹿火は継体天皇の擁立に動いたということで
なかなかの政治家だなと。
父親としても良い男だったんでしょうね、目先に捉われないし。
わたくしの場合は影媛と平群鮪の話を読んでも金村の心の動きとかに行ってしまうので
わたくしの先祖はその時間帯の現場にはいなかったのだろうなと想像しています。
神代や古代の豪族達の表を自分で作らないといけないですね。
でも難しいです
1つ新しい豪族を脳に入力すると前に入れたものが押し出されて行方不明になってしまいます。
今回は和邇氏とわたくしの母方の先祖の関係が分かったので
二ニギや饒速日や脛長彦の時代と神功皇后の時代の間に存在した先祖がちらっと分かった気になりました。
なかなか点が結びつかなくて線には至りません。
たぶん奈良とかにわたくしの母方の先祖はその時いなかったようです。
住吉には親戚の者がいたのに。
こうして考えると訳の分からなさが納得出来ます。
三つ柏さんはやっぱり神代の時代とか古代とかに縁があるんだと思います。
神服神社とか呉服明神とか
物部とか秦とか海部とか
DNAの中に記憶が有るんですよ。
筑紫の磐井の反乱征伐軍の中に三つ柏さんの欲しい名前の武人がいるかもですね。
とにかくたくさん読まないとね。
頑張りましょう。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月14日 09時47分44秒 ) | パスワード |
日本の古代氏族を復習。
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7.html
古代豪族入門
このサイトの1番下の表は整理されているなと思います。
でも結局は覚えられないでスグにグチャグチャになります。
この表を参考に自分で整理すると良いのですが。無理
1) 皇別氏族 (335氏)
1 蘇我氏 馬子、蝦夷、入鹿など多数
2 多治比氏 桓武天皇妃「真宗」葛原親王母
3 息長氏 継体天皇以降朝廷を裏から支えた氏族
4 県犬養氏
5 橘氏 諸兄、奈良麻呂など多数
6 吉備氏 真備
7 紀氏 (紀国造、朝臣系)朝臣系から多くの大臣を輩出
8葛城氏 襲津彦
9 巨勢氏 継体天皇以降に台頭。大臣輩出
10 平群氏 雄略ー武烈朝に大臣輩出。没落?
真鳥、鮪
11 多(大、太)氏 最も古い皇別氏族。謎多し。
12 毛野氏 崇神天皇の裔。関東北部配。
13 阿部氏 比羅夫、軍事氏族。
14 和邇氏 后妃輩出
15 春日氏 后妃輩出
16 膳氏 朝廷内食事を司る氏族。阿部氏同族
17 和気氏 清麿、垂仁天皇、鐸石別命
18 越智氏 瀬戸内海の豪族、孝霊天皇
2)神別氏族
(404氏)
1 中臣氏 鎌足 大中臣氏、祭祀氏族。
2 大伴氏 家持、天皇家歴代の連姓
雄略天皇時大連、室屋
3 佐伯氏 大伴氏の分流 空海の出自
4 物部氏 守屋、最も古い豪族の一つ。連姓
雄略天皇時大連、
5 宇佐氏 宇佐八幡宮
6 阿刀氏 物部氏流。空海の母親出自
7 尾張氏 物部氏と同族?
8 倭氏、大倭氏 初代倭国国造、市磯長尾市宿禰
出自諸説:椎根津彦説
9 出雲氏 出雲大社社家
10 忌部氏 祭祀を司る。
11 土師氏 出雲系
12 穂積氏 物部氏と同族。
13 三輪氏 三輪神社社家
14 賀茂氏 複雑。賀茂神社社家
3)諸蕃
(443氏)
1 東漢氏 (坂上氏) 田村麻呂
2 秦氏 聖徳太子、桓武天皇などに貢献
3 百済氏 百済王家
4)不明
1 磯城氏 幻の豪族、欠史八代の后妃を輩出
2 十市氏 幻の豪族、同上。
[18] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月14日 10時48分05秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
いずれにしても、「けなげ」な姿には心打たれます。特に戦国の世で男ま
さりに戦った、あるいは翻弄される女性に対して、いたしかたない事情があ
ったにせよ、美しくもはかなき散り際に心がいたみます。
今、森本繁著『村上水軍全史』の本を読んでいますが、その中にも、伊予
の三島水軍での、鶴姫の話が出てきますが、兄の戦死後三島水軍を指揮、夜
陰に乗じて敵艦隊に夜襲を敢行し、敵の大将を討ち取り勇名を轟かせた。
だが第三次大三島合戦で18才になった鶴姫と恋仲にあった青年武将越智
安成が壮烈な最期を遂げ、敗戦濃厚となると、鶴姫は兵士たちを集め、最後
の決別の辞を述べ、独り静かに小舟を漕ぎ出し、宮浦沖で入水して果てたと
いう。島の人々は、今も彼女を海のジャンヌ・ダルクととなえ、鶴姫まつり
を行っている。また今治市大三島町の宮浦公園に、彼女の銅像が立っている。
大山祇神社の宝物館には、鶴姫の鎧と称する重要文化財の「紺絲裾素懸威
胴丸」が陳列されている。胸にふくらみがあり、胴尻が細く引き締まって、
鎧の腰にあてる草摺が11間にも分かれて、大きく広がるようにできている
という。
他にも、戦乱における色々な女性の悲恋や勇姿のエピソードは一杯あると
思います・・・。
とりあえずここで切ります。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月14日 13時44分37秒 ) | パスワード |
「沈みゆく」を手に取ってちょっと読んだところです。
恐ろしい・・・・
分かっているけれど予想以上に恐ろしい内容だなと。
ありがとうございます。
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月14日 13時49分42秒 ) | パスワード |
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=201170
日本人の起源(縄文・弥生・大和)
201170 古代日本史は氏族間の勢力争いの歴史
内藤琢 ( 31 京都 路上人 )
以下コピペ
ヤマト王権成立から朝廷成立(=律令国家体制の確立)に至る古代日本史では、朝鮮半島由来の各氏族間が生き馬の目を抜くような勢力争いを繰り広げていた。
葛城氏→物部氏→蘇我氏→中臣氏(藤原氏)は、それぞれ皇族を担ぎ上げて天皇とすることで主導権を自分のものとしてきたが、律令国家体制が確立されるにつれ、天皇としての素質は問われなくなり、血統の維持のみが天皇の役割となっていく。
これが桓武朝で確立された「万世一系概念」であり、これは天皇の権威を高めるためではなく、天皇の実権を限定的にするためのものだった。
<2世紀〜>邪馬台国→ヤマト王権
出雲地方に新羅系一族が渡来。従来、そこに住み着いていた古出雲族を滅ぼす。(記紀神話:スサノオが出雲に降臨)
出雲地方を中心に、四隅突出型古墳が出現。
漢帝国が衰退過程に入り、加羅で生産された鉄が、出雲の方面に供給される。鉄が国内で製造できるようになる5世紀以前は、伽耶との間に鉄のルートを構築した勢力が台頭していった。
↓
全国各地に古墳が築造される。(3世紀〜)
畿内〜北九州:前方後円墳/東海〜関東・出雲:前方後方墳。
(関東では武器・馬具などが副葬品)
↓
畿内〜吉備を中心に、前方後円墳の定型化。伽耶が連合国家であったように、日本でも渡来人による連合国家がつくられた。しかも半島の負け組み同士による連合であるため、あまり戦争にもならず、連合の証として古墳をつくることで縄張り緊張の圧力を緩和させていたものと考えられる。
<5世紀〜>応神天皇〜武烈天皇/葛城王朝(河内王朝)
加羅系海人族・葛城氏と騎馬系金官伽耶王族の裔、応神天皇により大和に王権樹立。
畿内(大阪平野)を中心に前方後円墳が大型化していく。同時に、騎馬的、戦闘的色彩が強くなり、古墳も連合の証というよりも、権力誇示が目的化したため、大型化したのではないか。
こうした天皇の中央集権的色彩が強まる一方で、出雲、東国には前方後方墳が残るなど、抵抗勢力とのにらみ合いがあったと思われる。
↓
天皇への中央集権を急ぐ雄略天皇により葛城氏が切り捨てられる。→葛城氏没落。
<6世紀〜>継体天皇〜推古天皇/物部氏支配→蘇我氏支配
百済系騎馬民族・物部氏と大伴氏が、東国から継体天皇を招く。
東国出身の継体天皇により、東国氏族勢力の象徴として伊勢神宮が設立される。
↓
前方後円墳の規模が縮小し、円墳の群集墓が増加。
物部氏が中心となり、大型古墳による統合から神社による統合に徐々に移行。
朝鮮半島の百済〜任那地域に前方後円墳が出現
↓
朝鮮半島との外交特権を握っていた蘇我氏が台頭。
蘇我氏が仏教での民衆統合を進めた為、対抗する物部氏が神社による統合を強化。(物部神道)
↓
外交特権を握っていた蘇我氏が実権を握り、律令国家作りを始める。
(特に、任那滅亡(562)に伴う大量の渡来人を受け入れ、力を付けたのが蘇我氏だと考えられる。蘇我氏は、半島移民の窓口役として、天皇家と利害を一致させつつも、百済とも唐・新羅とも仲良く付き合う全方位外交のスタンスで、任那復興、新羅征討を願う欽明ら天皇一家とはそりが合わない部分もあった。)
<7世紀〜>天智天皇〜桓武天皇/藤原氏支配
百済滅亡危機により朝鮮半島から渡来した中臣氏が、クーデターにより蘇我氏支配を崩す(645)。
同時に、百済復興の為、朝鮮半島に出兵(白村江の戦い663)。日本軍は、唐・新羅連合軍に大敗し、唐・新羅軍が畿内にまで迫る。
百済系氏族・中臣氏の支援を受けて、天智天皇即位。中央集権体制作りを進める。古墳築造が禁止される。(中臣神道)
↓
東国氏族勢力の潜在的な反発が高まる。
新羅系氏族・大海人皇子(天武天皇)が、東国氏族勢力をまとめ、王権を奪う(壬申の乱672)
天武天皇〜持統天皇により、伊勢神宮を頂点とする国家祭祀体制が確立される。
↓
奈良時代を通じて、外圧が低下。民衆の間で仏教が広がりを見せる。
律令国家体制が確立されるにつれ氏族(貴族)の勢力が強まり、天皇の実権が削がれていく。
↓
天皇に期待される役割が「血統の維持」のみに。
血統だけを正統性の根拠とした桓武天皇が即位。
王権の構成要素ごとに神社(氏族)を配置した律令国家に。
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月14日 13時58分29秒 ) | パスワード |
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51798432.html
古代氏族・大化の改新・天武賜氏姓
全文はURLへ
以下コピペ
天武13年(685)10月賜姓(連賜姓に関しては天武10〜朱鳥元年668の間)
種別は『新撰姓氏録』から
■氏姓制度
氏姓(うじ・かばね)制度は基本的に大化の改新前の賜姓によって定まった政治制度である。
天武賜姓以前となると豪族からの一方的出自主張がはばをきかせていたようだ。
このような仮冒の多い状況を天武が賜姓することによって正そうとしたのだが、結局仮冒はあまり正された気配がない。
氏というと今日の苗字に値するとの考えがあるが、語源については諸要素がからみあって定かではない。従って現代人が以下の氏姓に自分と同じものを見つけたからと言って、その人がみな以下の貴族階級から出たと判断するのは早計であることは言うまでもない。
氏族とは基本的には「同じ血統から出た家々のあつまり」=血縁集団ではあるが、あくまでそれを中心にした上位の階級の下に集う非血縁者を臣下として抱え込んだ集団である(参考、青木和夫1974)。
それは大化の改新後にまとめられた『新撰姓氏録』もまったく同じことである。
大半の同姓の諸氏はみなその臣下、あるいはそのまた配下、あるいは氏族が治めた土地にたまたま住んいただけ、さらには明治以降の苗字になるともう、そこに移住してきたからつけた苗字、さらには隣の家の苗字を真似しただけという場合もある。
サイトによっては渡来系苗字はこれだ!のような誤解を招く書き方も見られるが、いつも申し上げている通り、諸氏も私もそんなに立派な出自ではないから(冗談)心配せぬように。決して早合点なきように。
■真人 まひと
氏族名 出自 種別
山道公 応神 左京・右京
息長公 〃 左京皇別
羽田公 〃 左京皇別
三国公 継体 左京右京
坂田公 継体 右京皇別
酒人公 継体 大和皇別
猪名公 宣化 右京皇別
丹比公 宣化 右京皇別
路公 敏達 左京皇別
守山公 〃 左京皇別
当麻(たぎま)公 用明 右京皇別
高橋公 不明 不明
茨城公 不明 不明
■朝臣 あそみ
多臣 神武 左京皇別
大春日臣 孝昭 左京皇別
大宅(おおやけ)臣 〃 河内皇別
粟田臣 〃 右京・山城皇別
小野臣 〃 左京・山城皇別
櫟井(いちい)臣 〃 左京皇別
柿本臣 〃 大和皇別
下道臣、笠臣 孝霊 左京皇別
阿倍臣 孝元 左京皇別
巨勢(こせ)臣 〃 右京皇別
膳(かしわで)臣 〃 和泉皇別
伊賀臣 〃 右京皇別
阿閇(あへ)臣 〃 河内皇別
紀臣 〃 左京皇別
波多臣 〃 右京皇別
平群臣 〃 右京皇別
雀部(さざきべ)臣 〃 左京皇別
石川臣 〃 左京皇別
桜井臣 〃 左京皇別
田中臣 〃 右京皇別
小墾田(おわりだ)臣 〃 右京皇別
川辺臣 〃 〃
若桜部臣 〃 〃
岸田臣 〃 〃
高向(たかむこ)臣 〃 〃
宍人(ししうど)臣 〃 〃
来目(くめ)臣 〃 〃
角(つぬ)臣 〃 左京皇別
星川臣 〃 大和皇別
林臣 〃 左京皇別
波禰(はみ)臣 〃 不明
坂本臣 〃 左京皇別
玉手臣 〃 右京皇別
道守(ちもり)臣 開花 左京皇別
上毛野(かみつけの)君 崇神 左京皇別
池田君 〃 左京皇別
車持君 〃 左京皇別
下毛野君 〃 左京皇別
佐味君 〃 右京皇別
大野君 〃 右京皇別
軽部臣 〃 和泉皇別
犬上君 景行 左京皇別
綾君 〃 不明
大三輪君 三輪氏 大和神別
鴨君 〃 〃
胸(異字、匈の下に月)方君〃 右京神別
物部連 物部氏 大和神別
釆女臣 〃 右京神別
穂積臣 〃 左京神別
中臣連 中臣氏 左京神別
山背臣 〃 不明
■宿禰 すくね
出自 氏 種別省略
神武出自・・・・茨田(まんだ)連、小子部(ちいさこべ)連
安寧出自・・・・新田部(にいたべ)連、猪使連
孝昭出自・・・・布留(ふる)連
開化出自・・・・草壁連
物部氏・・・・・巫部(いじこべ)連、漆部(ぬりべ)連、若湯人(わかゆえ)連、氷(ひ)連、矢集(やづめ)連、狭井(さい)連、春米(ついしね。春の下は日ではなく臼)連、菟道(うじ)連、阿刀(あと)連、大湯人(おおゆえ)連、忍壁(おさかべ)連
大伴氏・・・・・大伴連、佐伯連
中臣氏・・・・・中臣酒人連
凡河内(おおしこうち)氏・・額田部連、土師連
尾張氏・・・・・尾張連、伊福部(いふきべ)連、手すき丹比(たすきのたじひ連。すきは糸偏に強)、靱丹比ゆきのたじひ連、津守連、境部連、神服部(かむはとり)連、稚犬養連
阿曇氏・・・・・阿曇連、海犬養(あまいぬかい)連、凡海(おおしあま)連、
その他・・・・・掃部(かにもり)連、児部(こべ)連、弓削連、懸犬養(あがたいぬかい)連、玉祖(たまおや)連、倭文(しどり・すどり)連、爪工(はたくみ)連、田目連、間人連、忌部(いんべ)連、美濃連
新羅系・・・・・三宅連、倉連、桜井田部連、
不明・・・・・・山部連、諸会連
■忌寸 いみき
孝元・・・・・・・難波連
中臣氏・・・・・山背連
凡河内氏・・・・凡川内連
大倭氏・・・・・・大倭連
隼人・・・・・・・大隈連
不明・・・・・・・・葛城連・紀酒人連
漢系渡来・・・・倭漢(やまとのあや)連 ・秦連・河内漢連・書(ふみ)連
■連 むらじ
神武 小泊瀬造
孝昭 羽束造・物部首
孝元 宍人造・来目舎人造
開化 忍海造・草壁吉士
崇神 藤原部造
物部氏 矢田部造・水取(もいとり)造・刑部造・田井直・殿服部造・采女造・磯城県主・舎人造
中臣氏 福草部(さきくさべ)造・川瀬舎人造・山背直・高市県主・蓆集(こもづめ)造
凡河内氏 凡川内直
尾割氏 次田倉人・檜隈舎人造
大倭氏 倭直
その他 忌部首・鳥取造・語(かたらい)造・伯耆造・鏡作(かがみつくり)造・三野県主
不明 門部直・葛城直・吉野首
諸蕃漢系 書直・倭漢直・文首・秦造・川内漢直・壱伎史(いきのふみ)・船史・桑原村主・内蔵衣縫造
百済系 錦織造・川内直・阿直史・縵(かつら)造
高句麗系 山背狛(やましろのこま)・大狛造・黄文(きふみ)造
新羅系 三宅吉士
出自も種別も不明
荒田・栗隈首・倭馬飼造・川内馬飼造・勾筥作(まがりのはこつくり)造・石上部造・財日奉(たからのひまつり)造・埿部(はせつかべ)造・穴穂部造・白髪部造・百済造・沙羅々馬飼(さららのうまかい)造・菟野馬飼(うののうまかい)造・紀酒人直・槻本村主(つきもとのすぐり)
続いて『新撰姓氏録』成立後の全氏姓を皇別・神別・諸蕃・雑姓に分けて書き出し、以後、分析に入らせていただく。諸蕃は漢・百済・高句麗・新羅、任那=加耶の系列別に分けるにため、数ページにわたることになるのでこの氏族分析シリーズは数日かけるのであしからず。
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月14日 14時33分09秒 ) | パスワード |
コピペのコピペ:
尾張氏・・・・・尾張連、伊福部(いふきべ)連、手すき丹比(たすきのたじひ連。すきは糸偏に強)、靱丹比ゆきのたじひ連、津守連、境部連、神服部(かむはとり)連、稚犬養連
物部氏 矢田部造・水取(もいとり)造・刑部造・田井直・殿服部造・采女造・磯城県主・舎人造
神服部さんは尾張氏に入ってますね。http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-8.html 尾張氏考
そして
殿服部さんは物部氏。
この神服部と殿服部 なにか進展がありそうな気もします。
でもアタマが爆発しそうなので寝ます。
殿服部は物部に近い秦氏系じゃないかなと。
いやいや秦氏系はシンプルな織子の服部じゃないかとも思うし。
秦氏の服部は物部の殿服部の下にいたんじゃないかなとか・・・
分かりません
一晩寝て脳味噌をリセットします。
殿服部は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%AE%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE
機殿神社につながるのでしょうか? (復習)
神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)・神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)はいずれも三重県松阪市にある神社。元々は同じ場所に鎮座していたが、大垣内町の神服織機殿神社と井口中町の神麻続機殿神社の2社に分かれたと考えられている。いずれも皇大神宮(内宮)所管社で、両社を合わせて両機殿と呼ぶ。両機殿の所在地は旧機殿村で、松阪市立機殿小学校に「機殿」の地名を残している。
『倭姫命世記』では垂仁天皇25年、倭姫命が天照大神を伊勢の百船(ももふね)度会国玉掇(たまひろう)伊蘇国に一時的に祀られたときに建てられた神服部社(はとりのやしろ)がのちの麻績機殿神服社で、内宮が現在地に定まったときに内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に神の教えに従って和妙を織らせた。倭姫命は翌垂仁天皇26年、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた。天智天皇7年(668年)8月3日に両機殿が火災で失われたため、この年の9月の神御衣祭のための作業は仮屋で行ない、その後30丈離して両機殿を別々に建てたと記されている。ただし、『倭姫命世記』は鎌倉時代に荒木田氏あるいは度会行忠が記した伝承・説話であり史実ではないとするのが一般的である。
信憑性が高いと考えられている資料では、『神祇令』・『延喜式』・『皇太神宮儀式帳』に神御衣祭が記されており、遅くとも平安時代初頭には御衣の奉織が行なわれていたことは確実である。和妙は服部(はとりべ)が、荒妙は麻績部(おみべ、麻績氏とも)が奉織し、それぞれ封戸22を与えられていた。神宮に仕えたこれらの一族は神服部(かんはとりべ)、神麻績部(かんおみべ)とも呼ばれた。
服部は三河国より赤引の糸(あかびきのいと)と呼ばれる絹糸を入手していた。
麻績部には土師器を調進する一団がいたほか、信濃国などの東国に進出し、機織
などの技術とともに天白信仰を伝えたと考えられている。
白河天皇の承暦3年(1079年)、神麻続機殿は現在地に移された。室町時代には北畠家が室町幕府の意向を無視し、神宮の神領を収奪し勢力を拡大した。北畠家の領地と隣接するこの地は特に早期に支配され、服部部・麻績部ともに姿を消してしまう。両機殿は地元住民らが祠を祀るだけとなり、奉織の行事と祭祀は中絶となった。この時期は定かではないが、神御衣祭は宝徳3年(1451年)を最後に中絶となった記録が残されている。
静岡県浜松市北区の初生衣神社(うぶぎぬじんじゃ)で行なわれる「おんぞ祭」は東方へ移動した神服部が1155年から内宮へ和妙を納めたことに由来するとされる。
[24] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月15日 00時24分11秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、蒲神明宮と天林寺、それに少林寺を回って来ました。近日中にまと
めます。
先日は賀茂真淵記念館に行ってまいりましたが、そちらの報告もまだとなっ
ております。ただ、そこで仕入れた本の中に「ハタとハットリ」というテーマ
の論文がありましたので、そちらも近日中にご紹介いたします。
また、長田についてしばらくこだわっておりましたが、古代・神代について
は断念いたします(ちょっと資料が少なすぎますので)。但し、別冊歴史読本で
『苗字 名前 家紋の基礎知識』という本の中にかなりまとまった長田・永田
関連についての記載がございましたので、まずはこれを4回くらいで記します。
本日は資料漁りと思考時間が長引き、夜も遅くなりましたので、明朝にとい
たします。
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月15日 07時05分38秒 ) | パスワード |
蒲神明宮御神事
本来は鎌足ゆかりの神社のようですね。
1月1日 元旦祭
1月15日 成人祭
1月28日 境内秋葉社祭
左義長(正月飾焚上)
2月17日 祈年祭
2月吉日 境内稲荷社祭 ⇔ 稲荷?秦氏?
6月15日 境内津島神社(天王様)祭 ⇔ 津島神社?南朝方?
6月17日 境内厳島神社(弁天様)祭 ⇔ 厳島?平家?
6月30日 夏越大祓
8月1日 夏まつり
例祭
10月15日 御夕祭
10月16日 御本祭
11月15日 七五三詣祭
I1月吉日 新嘗祭
12月31日 大祓
天林寺とは
真徳山天林寺は曹洞宗の古刹。室町初期の1445(文安2)年に傑堂義俊(けつどうぎしゅん)禅師が亀鶴山万歳院として、引馬城(現:中区元城町の東照宮あたり)近くに構えたのがはじまりとされる。
寺号改変にまつわる話
1585(天正13)年に現在の場所に移され、真徳山天林寺と改められた。
この寺号改変については、『曳馬拾遺』(杉浦国頭著)に怪奇事件として伝えられている。「黒装束の一団が境内を徘徊し、本堂の扉を破り、物を壊すなど狼藉をはたらく夜が続いた。法師たちは狐狸の仕業ではないかと追いつめると、傷を負った狐を見つけた。以後狐の霊を払うため寺号を改めた」とされる。
少林寺
華木山 少林寺
画像を見ました。
すっごく立派なお寺で驚きました。
「ハタとハットリ」
何が書かれているのでしょう?
楽しみです。
>長田・永田についてしばらくこだわっておりましたが、古代・神代について
は断念いたします
>(ちょっと資料が少なすぎますので)。
>但し、別冊歴史読本で
>『苗字 名前 家紋の基礎知識』という本の中にかなりまとまった長田・永田
関連についての記載がございましたので、
>まずはこれを4回くらいで記します。
はい
了解です。
楽しみにしております。
[26] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月15日 08時48分52秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
蒲神明宮で気になったのは、織物の神「萬幡豊秋津師比賣神(よろずはた
とよあきつしひめのかみ)」という神を祀っていたことです。この神って何
でしょうか。初めて聞きます。それから厳島神社があったこと。五社稲荷神
社といものがあって、宇賀御魂命・須佐之男命・大市姫命・伊邪那岐命・伊
邪那美命を祀っていました。天王社というものもあり、須佐之男命を祀って
おりましたので、これが津島神社に関係してくるのでしょうか。あとは伊勢
神宮と一緒で、内宮・外宮・伊雑宮となっていました。
天林寺は浜松一〜二の規模の神社でした。また、墓地はお寺としては一番
だと思います。沢山の墓標がありました。中に服部の墓を三つ程みつけまし
たが、その内の一つは氏類の墓とわかりましたが、家紋は抱き茗荷でありま
した。同じ一門でも違っているのは何か理由があるのでしょうね。永田の墓
は結構見つけました。永井もありました。川合も河合も松下も、結構このあ
たりでは見慣れた名前の墓標が多かった、もちろん地元ですから。それにし
ても、家紋も何々氏だからこれだとは必ずしも言えないことがよくわかりま
す。現実に色々な墓を見て来た結果そういう結論に至っています。本当の直
系だけはある程度の確実性はあるのでしょうが・・・。
少林寺では、例の飯尾一族の墓が多かったです。そして大草氏も結構あり
ました。
取り急ぎ、昨日の報告をさせていただきました。
これから、古文書を読むための草書体・万葉仮名・崩し字等の勉強に出か
けますので、長田・永田についての記述は帰ってからにいたします。
では―
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月15日 14時13分05秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>蒲神明宮で気になったのは、
>織物の神「萬幡豊秋津師比賣神(よろずはたとよあきつしひめのかみ)」
>という神を祀っていたことです
つまり 織物の女神さま でしょうね。1番下に書きますね。
萬幡豊秋津師比賣神(よろずはたとよあきつしひめのかみ)は日本神話に登場する女神。
『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)
『日本書紀』本文では栲幡千千姫命、
または一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、
天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、
栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)と表記される。
名前がコロコロ変わるというのが日本的ですね。
葦原中津国平定・天孫降臨の段に登場する。
『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘としている[1]。
『日本書紀』
第一の一書では思兼命の妹、
第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)、
第七の一書では「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子で玉依姫命というと記されている。
天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命(アメノホアカリ)と瓊瓊杵尊を産んだ。
天火明命(アメノホアカリ)について復習:
『日本書紀』によれば、天火明命はアメノオシホミミと高木神の娘ヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれている。
ニニギは弟だが、『日本書紀』の一書では子としている。
また『先代旧事本紀』では、穂積臣、物部連の祖である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と同一神としている。
物部氏の神様ですね
元伊勢の籠神社では、
主祭神を「天照国照彦火明命」とし、
相殿神に「天照大神」(アマテラス)としてそれぞれ別の神としている。
主な神社[編集]
真清田神社(愛知県一宮市) そうすると益田さんは尾張氏ですか?
住吉大社(大阪市住吉区) - 住吉三神を祀る。 住吉っさんは「尾張氏」ですか
住吉大社を創建した田蓑宿禰は尾張氏の一族であり、
その子孫が住吉大社の歴代宮司家としての津守氏である。
始祖とする氏族[編集]
『新撰姓氏録』では、天火明命の子孫を「天孫族」としている。
天孫族は大和国葛城の高尾張から尾張国に移り、
子の天香山命(あめのかぐやまのみこと)の時に定住し、
真清田神社(愛知県一宮市)に天火明命を祀ったとしている。
尾張氏(尾張連)・津守氏、海部氏など多くの氏族の祖神であり、
海部氏系図(あまべしけいず)にも始祖としてその名が記されている。
穂積氏、物部氏の祖であるニギハヤヒと同一ともいわれる。
一方、『播磨国風土記』ではオホナムチの子とする。
___________________________
尾張氏・物部氏・穂積氏・海部氏 は天火明命(アメノホアカリ)と瓊瓊杵尊を中心とした同じグループなんでしょうね。
結局こんがらがってます。大恥
栲とう漢字について:
たえ たへ [1] 【栲▼】
@カジノキ・藤・麻などからとった繊維。また,それで織った布。
「臣の子は−の袴を七重をし/日本書紀 雄略」
A布類の総称。
「御服(みぞ)は明る−・照る−・にぎ−・荒−に/祝詞 祈年祭」
あら‐たえ〔‐たへ〕【荒▽妙/粗×栲】.
1 上代、木の皮の繊維で織った、織り目の粗い布の総称。→和妙(にきたえ)
2 平安時代以降、麻織物のこと。
あらたえの【荒妙の】
[枕]藤を「あらたえ」の材料とするところから、「藤」にかかる。
ここでアップ
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月15日 14時27分29秒 ) | パスワード |
高槻の神服神社の復習
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9C%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE
神社の北西、塚脇にある古墳群の「服部連塚」と「御女塚」が服部連の夫婦墓とされ、この地の服部連が祖神を祀って服部神社と称していたが、延喜年間(901年〜923年)に神服神社と改めた。 維新まで安岡寺の僧侶が社務をとっていた。、
明治5年(1872年)郷社に列す。
明治40年(1907年)11月に宮之原河原の春日神社・稲荷神社を境内に移す。
明治41年(1908年)、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社を合祀。[1]。
平成25年(2013年)改修工事完了(施工:[1]成喜建設株式会社)
境内社[編集]
春日神社 天児屋根命
稲荷神社 宇賀御魂神
上宮神社 服部大連公 ⇔ 服部連?
若宮神社 天児屋根命
神明神社 天照大神・豊受大神
これで思い出したのですが 服部半蔵の家の歴史に 服部連 というのがありましたよね。
服部連夫婦がこの神社に祭ってあるということでしょうか?
__________________________________
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daionokuni/1327734974981.html
神服神社と服部
服部村にあり。
『延喜式』に出づ。此所の生土神(うぢがみ)とす。
例祭四月八日。『姓氏録』に云ふ服部連は速日命十二世麻羅宿禰の後なり。
允恭帝の御時織部司に任じ、諸国織部を惣領す。 ⇔ ココ
まさに服部半蔵の家の歴史に合致します
神服(しんぷく)神社は、摂津峡につらなる帯仕山(おびしやま)のすそ野にある服部盆地の最奥に鎮座しています。
この帯仕山の山すそから山頂にかけての塚脇地区一帯には、約50基もの古墳が群集する塚脇古墳群(古墳時代)が、
また、神社の南側には、大蔵司遺跡(弥生時代〜鎌倉時代)がひろがり、このあたり一帯は古くから人々が生活を営んできた地域でもありました。
また、江戸時代には、神社の近くを通る道は神峯山寺へと参るために利用されており、神服神社へ立ち寄る人も多かったのではないでしょうか。
神服神社は、927年に編纂された『延喜式』に記載されている律令時代の神社で、
ヒノハヤヒノミコト、マラノスクネ、スサノオノミコトが祀られています。
この地は、奈良時代、摂津国島上郡服部郷にあたり、服部連(はっとりのむらじ)の本拠地であったとされています。
第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代(5世紀前半)に、機織りの織部が各地に多数設置されることとなり、
朝廷は管理者をおきました。
管理者はやがて「服部(はとりべ)」と呼ばれ、諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜りました。
この神服神社のある地域一帯を服部というのは、織部がこの地に設置されたことによります。
さて神社の名前ですが、服部連は祖先を勧請し、「服部神」と称していましたが、延喜年間に「神服神社」と改称しました。
明治時代には、宮之川原の春日神社や稲荷神社、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社を合祀し、現在に至っています。
塚脇の上宮神社は、かつて連塚(むらじづか)とよばれる古墳の上にあって、
祭神が服部連となっていることから、
この塚は同連の墳墓であろうという伝承として息づいています。
神服神社の例祭の神輿渡御式は、「服部棒振祭」とも「チョーハ祭」とも呼ばれ、
昭和初期まで盛大に執り行われてきました。
神輿は、笠森神社、阿久刀神社を巡り、総勢100名をこえる行列は周囲を圧倒するものがあったといいます。
今は、神輿渡御は行われていませんが、伝えられている神事のみが、5月5日に行われているといいます。
お問い合わせ先高槻市 教育委員会 教育管理部 文化財課
電話番号:072-674-7652 またはメールで
やっぱり神服神社は服部半蔵の家の先祖でしょうね。
で、呉服明神の服部家は宇治田原に住んでいましたよね。
これも調べなくては。
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月15日 15時05分44秒 ) | パスワード |
宇治田原 と 服部 について
復習
http://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=442
伊賀越え
いがごえ
明智光秀の反逆のあと、徳川家康による命がけの脱出
徳川家康はその生涯で四度の大難に遭ったと心の中の思いをのべていますが、中でも「伊賀越えの難」は「御生涯艱難の第一」と徳川実紀に記しています。
戦国の風雲児・織田信長が明智光秀の反逆によって生害という知らせを家康が受けたとき、境見物の帰路、河内の飯盛山の麓(大阪府大東市)でした。この時の共は酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、服部半蔵など重臣ばかりであったが、三十数名に過ぎず、その上、平服だったのです。
家康は「本来なら明智を討伐すべきだが、この少人数ではどうしょうもない。むしろ知恩院にて切腹を」と言ったが「本国に帰りの軍勢をととのえて、明智を誅伐することこそ信長公への報恩」という本多忠勝の進言により、脱出の方途の相談となりました。
信長より案内役として同行していた長谷川秀一の先導により、おそらくは河内尊延(円)寺(大阪府枚方市)から宇津木越えから、山城に入り草内から木津川を渡って宇治田原を経て近江信楽。その後小川から多羅尾、御斎峠、伊賀丸柱にいたり鹿伏兎を越えて伊勢にぬけ、船で三河へ帰国したいと考えられます。
伊賀に入るまでの難関を命がけで護衛したのが、大和の十市玄蕃允、呉服部明神の神官服部貞信、信楽の豪族多羅尾光俊、宇治田原の山口光広、近江瀬田の城主山岡景隆と弟の景友(後の道阿弥)らです。反乱には付き物の野伏や一揆などにさいなまれはしましたが、無事伊賀に入り、その後は柘植三之丞など甲賀・伊賀の地侍が伊勢白子浜(鈴鹿市)まで案内したと言うことです。この事跡を後世、神君伊賀越えなどと呼んでいます。
家康は、この時の甲賀・伊賀者二百名を召し抱え、服部半蔵正成をその組頭としました。これが伊賀組同心の起こりです。
参考文献「徳川実紀」「伊賀者由緒」「三河後風土記」
___________________________________
伊賀の服部氏
当国阿拝郡に服部郷あり。延喜式、阿拝郡に小宮神社あり。伊賀考に「小宮は、服部氏の惣社にして、伊賀国二之宮」と云い、三国地誌に「昔は服部の輩、阿拝郡を領地せる故に、服部の社もありと、永閑記に見ゆ。土俗なべて服部氏を秦人の裔となすは、非なり」と。この氏族滋蔓して、伊賀一洲に散在す。平内左衛門尉家長が源平盛衰記に現われ、その名最も高ければ、この族を桓武平氏となすもの多し。
伊賀の服部氏は秦氏系ではない、と。
又、東鑑 文治二年六月二十八日條に「左馬頭能保の飛脚参着す。去る十六日、平・仗 時定(平家物語には、服部六郎時定)、大和国宇陀郡に於いて、伊豆右衛門尉源有綱(義経の婿)と合戦す。而して有綱、敗北し、右金吾相具し、深山に入りて自殺し、郎従三人傷死し了んぬ。残党五人を搦めとり、右金吾の首を相具し、同二十日、京都に伝う云々。これ伊豆守仲綱の男なり」と。
又、円覚律師、これは服部広元の子にして、京都 法金剛院、及び清涼寺の僧侶たりしが、慶長元年卒すと。
つまり服部広元は伊賀の人ですね。
遠江の服部
延喜式、当国 長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり、共に古代服部の奉齋せし、神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。
遠江の服部氏は元はやっぱり古代神社系ですかねえ
■駿河の服部
当国安倍郡に服職庄あり。而して、後世 服部氏多く、又、府中浅間社家に服部氏見ゆ。
http://www.myouji.org/hattori.htm
大和の服部苗字 − − 和名抄 当国山辺郡に服部郷を収め、波止利と註し、東大寺
要録に服部の荘を載せたり。又、延喜式 城上郡に服部神社あり、皆
この部の在りし地なり。
又、後世 高市郡の医師に服部時寿(子篤)あり、宗賢と号す。
高取藩に仕う。名医なり。
山城の服部 − − 当国にもこの部民多かりしならん。又、後世 伊賀服部氏の後の
服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、伊賀国呉服
明神の神職、後に山城国宇治田原に住す、後 家康に属す)−貞富、
家紋 車輪竪二本矢、七本矢、矢の字桔梗」と。
又、京都の人に服部元喬あり、もと伊賀の服部より出づと云う。荻生
徂徠門の俊才にして、南郭と号し、服 南郭と称す。宝暦卒。その長男
惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名ありしも、また早世す。よりて門人
西村元雄を季女に配して家を継がしむ。
又、国学者服部中庸は、元居門にして、水月と号す。
又、服部敏夏あり、これも本居門にして、通称を中川屋五郎右衛門と称せり。
又、剣客に服部藤次兵衛あり、神後伊豆守の門(新陰流)、皆 京都の人なり。
http://map.goo.ne.jp/search/genre/lo02tr050hi015/address/26344/
伊賀の呉服神社の服部氏がいた宇治田原の神社と寺らしきものは?ということで検索:
宇治川の支流あたりということでアヤシイ
京都府綴喜郡宇治田原町の寺院/神社(10件)
猿丸神社
猿丸神社
京都府綴喜郡宇治田原町大字禅定寺小字粽谷44
.
大宮神社
大宮神社
京都府綴喜郡宇治田原町大字荒木小字中出24
.
正寿院
正寿院
京都府綴喜郡宇治田原町大字奥山田小字川上149
.
.
奥稲荷社
奥稲荷社
京都府綴喜郡宇治田原町大字湯屋谷小字森ケ谷65
.
元性院
元性院
京都府綴喜郡宇治田原町大字奥山田小字栢垣内5
.
龍雲寺
龍雲寺
京都府綴喜郡宇治田原町大字禅定寺小字庄地100
.
.
浄土寺
浄土寺
京都府綴喜郡宇治田原町大字立川小字南垣内13
.
大昭寺
大昭寺
京都府綴喜郡宇治田原町大字禅定寺小字西海道8
.
極楽寺
極楽寺
京都府綴喜郡宇治田原町大字郷之口小字田中44-1
.
.
宗教法人禅定寺
宗教法人禅定寺
寺院/神社
京都府綴喜郡宇治田原町大字禅定寺小字庄地100
もう寝ます。
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月15日 15時13分18秒 ) | パスワード |
復習
伊賀忍者 服部氏と 六所神社http://www.taisei.co.jp/about_us/library/column/tower/2005/1168584050767.html
東京の西郊・世田谷の住宅街の真ん中を二両連結でのんびり走る東急世田谷線は、懐かしい路面電車情緒をたっぷり味わわせてくれる。
東急世田谷線の松原駅を降りて、閑静な町並みを東南へ三分も歩くと 六所神社ろくしょじんじゃ (世田谷く 赤堤あかづつみ 二−二五−二)の杜もりに着く。
朱塗りの社殿が緑に包まれて古社の風格がある。参道わきに「御由緒」の碑があり、
天正年間(一六世紀後期)徳川の旗本、服部貞信が府中の 六所宮ろくしょぐう
(現 大国魂神社 おおくにたまじんじゃ )を勧請し、
赤堤の総鎮守として奉斎したと説明している。
ココのところは前回は気づきませんでした
六所宮とか六所神社というのは、六つの神社を合祀したお宮のことである。武蔵国の総社として知られる府中市の大国魂神社は武蔵の主要な六神社を合祀している。武家の棟梁となった源頼朝が尊崇したため、その後も武士の信仰を集め、江戸時代に入っても領内の豊作と安全を願って各地に六所神社が勧請された。
因みに、神奈川県大磯町の六所神社も相模の総社で有名だが、こちらは相模の主要な六神社を合祀しており、祭神は大国魂神社とは異なる。
世田谷区赤堤の六所神社を奉斎した服部氏は、伊賀(三重県西部)の出身で、忍者のリーダー服部半蔵に連なる一族らしい。
天正十年(一五八二)本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたとき、徳川家康は旅先の堺にいて窮地に陥った。供にいた服部半蔵がこのピンチを救った。
家康を護衛して伊賀の峠を越え、ぶじに本拠地の三河へ帰還している。
世田谷の服部氏はそのころ宇治田原(京都府南部)にいたが、
この伊賀越えの際に直ちに手勢を率いて家康の案内を務めたという。
旗本に登用され、天正十八年(一五九〇)家康の関東入りに従って赤堤村などを所領とした。
近くの西福寺(同区赤堤三−二八−二九)は服部氏の菩提寺である。
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月15日 21時47分42秒 ) | パスワード |
宇治田原で何をしていたのだろう?
ということで調べました。
結論:わかりません
猿丸神社
レス<13><14>の和邇氏のところに猿丸や柿本がありますね。
和邇氏:
主な枝氏[編集]
春日氏
大宅氏
小野氏
粟田氏
柿本氏(柿本人麻呂を輩出。)
和仁氏
記紀の伝承[編集]
和珥臣の始祖は観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)の長男の天足彦国押人命。
天足彦国押人命の母は孝昭天皇の皇后の世襲足媛[2](尾張連の遠祖瀛津世襲の妹)。
孝昭天皇の崩御の後、同母弟の日本足彦國押人尊が即位した(孝安天皇)。
崇神天皇の時代、彦国葺(ひこくにぶく)が武埴安彦の反乱軍を討伐して有功。
仲哀天皇の崩御後、武振熊(たけふるくま)が将軍として忍熊皇子の反乱軍を討伐。
応神天皇の皇太子菟道稚郎子の母宮主宅媛は、日触使主の娘[3]。
雄略天皇・仁賢天皇・継体天皇に皇妃を輩出。
猿丸神社
所在地
京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺粽谷44
位置
北緯34度52分48.5秒
東経135度53分03.0秒
主祭神
猿丸大夫
社格等
旧無格社
創建
不詳
例祭
4月13日・9月13日
主な神事
火焚き祭(6月13日・12月13日)
猿丸神社(さるまるじんじゃ)は、京都府綴喜郡宇治田原町にある神社である。
社格は旧無格社。瘤取り(がん封じ)の効験あらたかと喧伝されており、近畿一円から参詣者が訪れる。
祭神[編集]
猿丸大夫
歴史[編集]
創建年代等については不詳であるが、正保2年(1645年)に社殿が再建されたと伝えられる。
祭祀[編集]
例祭は4月と9月の13日で、6月と12月の13日に火焚き祭が斎行されるほか、毎月13日には縁日が開かれる。
石川県金沢市の猿丸神社
井沢元彦が江戸川乱歩賞を受賞した小説、『猿丸幻視行』の舞台であり、この小説を読んで来る人もいる。
関連項目[編集]
小野神社
柿本神社
猿丸神社 - 同じく猿丸大夫を祭神とする(石川県金沢市笠舞3-23-5)
外部リンク[編集]
宇治田原町の観光情報(宇治田原町役場) ← 繋がりません
金沢市観光協会
[32] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月15日 21時55分00秒 ) | パスワード |
大宮神社
結論:分かりません
大宮神社(おおみやじんじゃ)という名前の神社は日本全国に存在する。「大宮」という語は神社を敬っていう言い方の一つで、氏子などから「大宮」と呼ばれていた神社が、それに「神社」をつけて社名としたものなどで、祭神は一定ではない。
大三輪神社
石上神社
と関係があるのかな?とも思いましたが分かりません。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月15日 22時01分03秒 ) | パスワード |
http://ameblo.jp/littlekanako/entry-11117305900.html
奥稲荷社
かなこさんのブログ(この奥稲荷社に呉服明神の服部さんは行ってたのかなと思いました)
以下コピペ:
2011-12-25 23:19:30
テーマ:神社仏閣
宇治田原にある奥稲荷社に行って来ました。
ここは307号線沿いにあり、何度か呼ばれていたお稲荷さんです。
伏見稲荷のお稲荷さんと違い、山の神様に近いようです。
私の近くにいる九尾の白狐さんを見てちょっとビビッていました。
ビビッて自分を大きく見せようとしていました。
言葉も最初は少し上から目線で怖がらせるような口調でした。
帰る時には「よく来てくれました」ととってもフレンドリーになっていましたが・・・
正一位稲荷大明神と書かれた祠が3つありました。
精霊さんを祀っているようです。
まだ神様になっていない精霊の狐さんにはちょっと荷が重いようです。
奥稲荷社の狐さんが一番紳士的でしたが、やはり神様ではないようです。
九尾の白狐さんを見た時にとても嬉しそうでした。
村の人からはとても愛されているようで、村人の人がしめ縄の張替えを行っていました。
村の人に応えたいという思いが強いようですが、やっぱり荷が重いようです。
こんなふうに神様じゃないのに神様と祀られた精霊さんたちも多いのかもしれません。
森で太陽はキラキラと輝いていました。
光の粒も宇宙の光も降り注いでいました。
この神社には7匹の狐の精霊さんが居たようですが、そのうち3匹がまだ近くにいるようです。
もう帰ったと思って書いていると、その3匹がしょんぼりとうな垂れる気持ちが流れてきて、まだ居る事に気が付きました。
ずっと居たいらしいので、そのままにする事にしました。
神社と言ってもこの狐さんたちは神様ではなく精霊のようです。
と書くとまたしょんぼりした気持ちが流れてきました。
「神様になるには学びが必要だよね」と伝えるとまた元気になりました。
精霊さんも人間のようにかなり感情の揺れがあるようです。
修行の為に来たらしいですが・・・
九尾の白狐さんが側に居るので、狐の精霊としての学びが出来るようです。
狐の精霊さんももっと村人の役に立ちたいんですね♪〜
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月15日 22時03分40秒 ) | パスワード |
もう1つ:http://www.jinja.in/single/119516.html
奥稲荷社は場所的には完璧ですね。
奥稲荷社のある綴喜郡宇治田原町が位置する近畿地方は、本州中西部に位置する地方で、滋賀県、京都府、奈良県、和歌山県、大阪府、兵庫県に日本神社では三重県を加えた二府五県で構成されます。
関東地方に対して、関西とも呼ばれ、飛鳥から平安京までずっと都が存在した、日本の伝統的な歴史や文化の拠点でもあります。
※三重県の取り扱いについて・・・一般的には東海地方(当サイトでは中部地方)になるのですが、神社分類の便宜上、近畿地方に分類しています。
方言も完全に関西=近畿=ですよ。
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月15日 22時44分54秒 ) | パスワード |
友人の話:
物部,蘇我,平群,葛城,大伴は同族と考えた方がいいです。
平群は,神武に徹底抗戦したナガスネヒコの子孫でしょう。
葛城もそうです。
これらは,出雲系の豪族で,先祖は大国主と考えた方がつじつまが合います。
これに対して,雄略は全く別の家系です。
平群鮪と影媛の物語は,物部と平群が結んで,天皇家を追い落としたら困るという,政治的意図でしょう。
葛城円大臣も同じでしょう。
[36] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月16日 01時50分26秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
時間的余裕ができたら、調べたり考えたりしている時間が増えて、思惑とは
逆に、書ける時間が少なくなったり、また時間的に遅い時間帯になったりして
います。すみません。
今回もまた重要な話を豊富にいただき、ありがとうございます。神服神社と
大国魂神社が一つの鍵。神紋は神服神社が「丸に三つ柏」、大国魂神社が「十
六八重菊」・・・「倭大國魂神社」ならば「丸に三つ柏」なのですが・・・。
本当に服部貞信が勧請したのでしょうか、またどこから? また、貞信は平
貞盛の数世の孫でしょうか? 貞盛から数えて六世代目が清盛ですので、少し
おかしいと思いますが・・・? いずれにしても世田谷の赤堤に行けば何かわ
かるかも知れませんね。
それでは長田氏について『別冊歴史読本 苗字・名前・家紋の基礎知識』よ
り―
「永田氏は、長田氏と、互いに通じ用いられて、同系異系相交った形跡があ
る。
近江高島郡長田に起こる永田氏は、佐々木信綱―高島隠岐守高信の子七郎
胤信を始祖とする。この永田氏も、佐々木系図の一本には永田とあるが、尊
卑分脈には長田の文字を用いている。
尾張の永田氏には、平氏と称するものがあり、遠江・三河および旧幕臣の
永田氏には、藤原氏と称するものがある。備前の永田氏は、長崎氏の一族と
いう。
長崎氏は、平重盛三世の孫で、北条泰時の執事であった平左衛門尉盛綱が
伊豆田方郡長崎に居て長崎氏を称したのに始まり、その末勘解由左衛門為基
が、元弘の変に西海へ逃れて、肥前瓊浦(たまうら 長崎)に止住し、そのと
ころをも長崎と称したのが肥前長崎氏の起りという。
羽前の永田氏は、酒田三十六党の一家で、平泉押領使藤原秀衡の妹徳尼公
に随従して来た奥州侍の末という。そのほか各地に名家永田氏が少なくな
い。」
ちなみに、天林寺で調べた永田氏の墓標の家紋は、六基共違う家紋でした。
但し、その内の二基は「丸」があるかないかでしたが。
次回に続きます―
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月16日 04時53分52秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>大国魂神社が「十六八重菊」
寛政重修諸家譜の服部7家の中で
この「十六八重菊」? 「16葉八重菊紋」を使用なのは なんと!!!
ちょっと家紋の名称の言葉が違うようですが服部3家は「16葉」八重菊になっています。
服部政信の家 宗純(南朝方)の子孫だったから?
服部中保次の家 宗純(南朝方)の子孫だったから?
服部保長の家 3男が半蔵 この家は宗純の伯父の子孫
の3つです。
当然宗純の兄達3人も南朝方についたでしょうし。
この3つは同族ということなんでしょうね。
やっぱりこの3つは近い関係ですね。
>貞信は平貞盛の数世の孫でしょうか?
貞信は 平貞盛9代 伊賀平内左衛門家長の末孫なり ですから
清盛の代が三つ柏さんの数え方では6代目で
家長は9代目ということになります。
貞信はその家長の11代目あたりの子孫です。
だから貞信は平貞盛の20代目あたりです。半蔵と正信と同じ世代と考えます。
正信の子が正尚で西郷局の継父。
なお、数える時は 親が1代目で 子は2代目 孫は3代目 ですから
貞盛 維衡 正度 正衡 正盛 忠盛 清盛 ですから清盛は7代目になります。
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月16日 05時02分28秒 ) | パスワード |
>天林寺で調べた永田氏の墓標の家紋は、六基共違う家紋
同族なんでしょうけど
ちょっと 違う ということでしょうね。
嫡男の墓は定紋で
次男以下はそれぞれ替えたかも知れないですね。
それに生んだ母の身分で定紋だったり
生母の実家の紋だったりとかがあったかも。
家紋は微妙な力関係を表しますから難しいですね。
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月16日 11時10分50秒 ) | パスワード |
16八重菊紋
籠神社が三つ巴紋と菊の紋を使用しているそうです。
http://www.genbu.net/data/tango/kono_title.htm
服織田神社(牧之原市)
神紋は三つ巴ですねえ。
社伝によると、景行天皇の七年に勧請。
「服織田」の社号の由来は以下の三説。
1.鎮座地が、往古、服織田村と称した地名に由来。
2.四国の服織から移住してきた人々が奉祭した神。
3.祭神が、服織の神。
で、四国の服織ってどこだろう。
阿波国勝浦郡に、阿佐多知比古神社(朝立彦神社)というのがあるが、
当社祭神・麻立比古命と関係があるのだろうか。
いずれにしろ、式内社・服織田神社に比定されている古社。
井伊谷宮
いいのやぐう
静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991−1
なげかじな 忍ぶばかりの 思い出は 身の昔にも 有りしものなり
十六八重菊
李花
御祭神
一品中務卿宗良親王(後醍醐天皇第四皇子)
静岡県浜松市引佐町にある。
旧引佐町役場の南500mほどの井伊谷に鎮座。
小掘遠州の庭で有名な名勝・龍潭寺のすぐ北に境内がある。
社殿の後方に神明造の本殿があり、
その後方には、石垣に囲まれた宗良親王の御墓がある。
石垣の中は一般の立入りが禁止されており、
中には西向きの鳥居と垣の中に宝筐院塔があるらしい。
御墓の石垣の高さは2m近くあるようで、
周囲の道を歩いても石垣の中は確認できなかった。
[40] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月16日 11時19分22秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
十六葉八重菊紋、及び代の数え方教えていただきありがとうございます。
インターネットで調べる資料には、中に間違いがあるものが混在していま
すので、出典を明らかにしながら引用したいと改めて思いました。ただ、家
紋だけは、本によって呼び名も少々違っていたり、使用者が違っていたりで、
色々見比べるのですが、今ひとつ信憑性がない。最近は、お墓の家紋の収集
(特に興味ある氏族のもの)が趣味になりました。本家本元の家紋はやはり威
厳があるように感じられます。それにしても服部のお墓は本当に少ないです。
名古屋には多いはずなので、今度名古屋のお寺回りを一度してみます。
さて、長田・永田についての『別冊歴史読本 苗字・名前・家紋の基礎
知識』の続きです―
「きわめて古い長田氏
長田(ながた)という地名も、長田神社の鎮座する摂津八部郡長田(神戸)
をはじめ、全国的にあり、長田(おさだ)の地名も諸所に存在する。それ
らの地名を負うて各流のナガタ氏、オサダ氏が起こり、その中には、後
にオサダをナガタとよみかえたものもあったと考えられる。
長田(オサダ)氏は、きわめて古い姓氏で、すでに姓氏録に、百済から
の帰化族とみられる長田(使主 おみ)、阿智使主に従って渡来した漢人
の帰化族とみられる長田(村主 すぐり)がみえている。」
長田関係はあと二回続けます。
本日より十か月目に入りました。あと三ケ月で一年となります。がんばり
ます。頭の方はといいますと、毎日思考でグルグル回転していますので、切
れはよくなったように感じます。ただ、昔のようなビビットな記憶は二割方
減でありますので、必ずメモをしておかないと、どこに書いてあったかと悩
むはめに陥ります・・・。
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月16日 11時20分22秒 ) | パスワード |
小宮神社
おみやじんじゃ
三重県伊賀市服部町1158
丸に並び矢
式内社 伊賀國阿拝郡 小宮神社
旧村社
御祭神
呉服比賣命
配祀
健御名方命 大山祇命 健速須佐之男命
三重県伊賀市にある。
伊賀上野駅から南東に、直線2Kmの服部町にある。
服部川の北、服部バス停の前に鎮座。
境内入口は西側の道路に面している。
境内に入り、参道を東へ歩くと南向きの社殿。
拝殿後方、垣の中に、中央に本殿。
左に、狹伯社。右に、蛭子社。
本殿の幕には、並び矢の紋がついていた。
『惣國風土記』によると、天武天皇三年三月の奉祭。
社名、小宮は「おみや」「をみや」と読む。
祭神・呉服比賣命に因んで、麻績(おみ)から来たものだとか。
伊賀一宮・敢国神社の大宮に対する、伊賀二宮としての小宮であるとか。
祭神に関しても諸説ある。
『惣國風土記』では、園韓神。
『伊水温故』『伊乱記』では、服部氏の祖神として酒君。
『三国地誌』では、諏訪明神。
『神社覈録』では、天鉾御命。
現在の祭神は、服部の地名から、機織の神・呉服比賣命となっている。
境内に入って左手に、ひとつの境内社がある。
大事に祀られている様子だが、社名は不明。
『平成祭データ』には、摂末社として、3社記されており、
狹伯社、蛭子社の他に、小宮神社(こみやじんじゃ、祭神少彦名命)とあった。
本社が、小宮(おみや)で、境内社が小宮(こみや)というのは面白いが、
この境内社が、そうであるかどうかは知らない。
木根神社
きねじんじゃ
三重県伊賀市長田木根 ← 長田
式内社 伊賀國伊賀郡 木根神社
旧村社
御祭神
事代主命 素盞嗚尊
昔は、酒地明神(建角見命)
あるいは、枳禰命(枳禰都彦命) 『三重縣神社誌』
三重県伊賀市にある。
伊賀上野駅の南西3Kmほど。
伊賀街道(163号線)市場交差点から北上する農道の西そばに鎮座。
木根公民館の横、一本の木の根元に祠があり、
中に、稲荷神社(左)と並んで本殿がある。
創祀年代は不詳。
式内社・木根神社と考えられている神社で、
明治7年3月に村社に列したが、
由緒不明として、明治41年3月に無格社となり、
射手神社境内に移転されてしまった。
つまり、ここは古社地なのだ。
現在は、事代主命・素盞嗚尊を祀っている。
江戸時代までは、牛頭天王を祀る小祠で、
酒地明神(須地明神)として存在していた。
本来の祭神に関しては、諸説あり定かではないが、
江戸時代初期より、建角見命であるというのが主流。
『三重縣神社誌』では、枳禰命を祭神としている。
『式内社調査報告』では、正月に恵比須祭、七月に祇園祭が行われるとあるが、
現在も行われているのだろうか。未確認。
都美恵神社
三重県伊賀市柘植町2280
十六裏菊
式内社 伊賀國阿拝郡 穴石神社
御祭神
栲幡千々比賣命 ← 織物の神様ですよね
配祀
経津主命 布都御魂命
合祀
倭姫命 應神天皇 健速須佐之男命 稲田比賣命 仁徳天皇 天穗日命
火産靈命 大山祇命 三筒男命 安閑天皇 大山咋神
建御名方命 八坂刀賣命 大日孁貴命 埴山比賣命 彌都波能賣命
市杵嶋比賣命 伊弉册命 菊理比・命 天太玉命 宇氣母智命 伊勢津彦命
天手力男命 武甕槌命 宇迦能御魂命 天津彦彦火瓊瓊杵命 木花佐久夜比賣命
玉依比賣命 建角見命 猿田彦大神 天御柱命 國御柱命 火之迦具土命
三重県伊賀市にある。
柘植駅の西1Kmほどの柘植小学校の隣り。
道路から北へ参道が延び、山裾に南面して鎮座している。
階段の上いっぱいに拝殿があり、その後方に三棟並んだ社殿。
中央が本殿だが、左右の境内社の詳細はわからなかった。
元は、霊山の中腹穴師谷に鎮座しており、
穴師社、石上明神と呼ばれていた神社。
式内・穴石神社の論社とされているが、
奈良の穴師社や、石上社との関連が指摘されており、
柘植が出雲民族の居住地と思われている。 ← 出雲民族
『伊勢風土記 逸文』に、伊勢の国名の由来として、
「伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、
出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。
此の神、石もて城を造りて此に坐しき。
ここに阿倍志彦の神、来奪ひけれど、勝たずして還り却りき。」
とある。
当社の神は、伊勢津彦命であり穴師の神、つまり風神ということ、
出雲系の神であることなどから、諏訪神に近い存在かもしれない。
また、ここで争い追い返した、阿倍志彦の神は、敢国の神のことか。
『平成祭データ』には、境内社として、
耶須久迩社、事比羅社、愛宕社、秋葉社、山神社とある。
山神社は、境内右手の石の垣の中にある石碑だろう。
「山神」の石碑の横には、三面六臂の青面金剛の石碑。
伊賀の神社の特徴の一つは、
祭神が、やたらに多いということ。
明治の合祀が、徹底された結果だと思うが、
合祀された後も、忘れられずに祀り続けられているということでもある。
境内の小さな祠に押し込められ、忘れ去られるよりは良い。
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月16日 11時27分05秒 ) | パスワード |
比々岐神社
ひびきじんじゃ
三重県伊賀市北山1426
丸に並び矢紋 ← 珍しい
式内社 伊賀國伊賀郡 比々岐神社
旧村社
御祭神
比々岐神
武甕槌神 経津主神 天兒屋根命 建速須佐之男命 大日孁貴命
速玉男命 事解男命 伊邪那美命 誉田別命 大物主神 大山祇神
火産靈神 市杵嶋比女神 綾門日女神 事代主神 宇迦之御魂神
三重県伊賀市にある。
伊賀上津駅の北東1Km。上津小学校のそばに鎮座。
木津川に沿って、旧青山町から旧大山田村へ向う道の側。
その道にも鳥居があり、そこから境内へ入った。
道を少し登ると、境内の左手に出る。
綺麗に整備されて明るい境内だったが、巨木もあっていい感じ。
表参道から入ると鳥居があるが、鳥居扁額には「八幡宮」とある。
参道を北東方向へ歩くと境内。正面に社殿がある。
創祀年代は不明。
一説には大宝年代(701〜703)の創祀という。
式内社・比々岐神社に比定されている古社。
明治三十九年、村社六社、無格社六十社を合祀したらしい。
明治の合祀のため三重県の神社の祭神は異様に多いのだ。
当社の現在の祭神も、覚えられないほど多い。
式内・比々岐神社としてのオリジナルの主祭神は、やはり比々岐神だが、
比々岐神に続く鹿嶋・春日の神々が勧請される以前は、
八幡宮と称していたらしく、鳥居扁額にも残っている通り。
『伊水温故』には、当地の地主の根源・由気忌寸を祀るとあるらしい。
伊賀国式内社に比自岐神社という社があり、
山を越えて、当社の北西3Kmの場所に鎮座している。
『式内社調査報告』では、社名の類似と距離の近さから、
比々岐は、比自岐の変化したものであるとする説も紹介している。
本殿には、並び矢の紋が付いていた。
参道には提灯が飾られ、社殿前に神輿が出され、
なにやら祭の気配。
参拝した日が例祭日なのか、あるいは、その前後なのかな。
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月16日 11時34分35秒 ) | パスワード |
神麻續機殿神社
かんおみはたどのじんじゃ
三重県松阪市井口中町
式内社 伊勢國多氣郡 麻續神社
皇大神宮所管社
御祭神
神麻續機殿鎮守神(天八坂彦命)
境内社
皇大神宮所管社 神麻續機殿神社末社八所
伊勢から県道37号線を松阪に向かう。
松阪市に入ってすぐに、右折して北上。
近鉄の踏切を超えて2〜3Km進むと、
畑の中に大きく鬱そうとした森が見えてくる。
倭姫命が御巡幸の時、飯野の高宮に皇太神を奉祭したおり、
長田郷に機殿を立て、麻績社または河崎社と号し、 ← 長田郷
後に、岸村に遷して岸社と称したという。
その後、衰退していたが
天武天皇の御代に、流田郷服村に神服織機殿神社と合わせて一殿として再建。
天智天皇八年に焼失し、その後、両殿を離して再建。
さらに白河天皇承暦三年、飯野郡井手郷に遷されたという。
その後も荒廃が続いたが、
最終的に享保三年に津藩主藤堂氏によって再興された。
皇大神宮に奉る神御衣を織る御機殿の鎮守の神を祀る神社で、
皇大神宮所管社。
神服織機殿神社
かんはとりはたどのじんじゃ
三重県松阪市大垣内町字西山
式内社 伊勢國多氣郡 服部麻刀方神社二座
皇大神宮所管社
御祭神
神服織機殿鎮守神
境内社
皇大神宮所管社 神服織機殿神社末社八所
神麻續機殿神社の森から、さらに北上すると、同じような森がある。
通称、「下機殿(しもはたどの)」と呼ばれる。
式内社・服部麻刀方まとかた神社の論社。
「麻刀方」はマトカタと読み、松阪市東黒部付近を
古代「圓方(マトカタ)」と呼んでいたことに由来する。
皇大神宮に奉る神御衣を織る御機殿の鎮守の神を祀る神社で、
皇大神宮所管社。
神麻續機殿神社と同様に、正殿の右には八尋殿(正殿より大きい)がある。
境内には他に小祠が6つ。正殿玉垣内に2つ。
これらが、末社八所だと思う。
神麻續機殿神社
櫛田川東側堤の上を北に進み、堤から東 へ道を下がると松阪市井口中町に出る。北方にこんもりと した森と、入口の鳥居が見える。(近鉄線「漕代」駅下車、 徒歩で北方へ二・五キロメートル)
この森中に、皇大神宮所管社神麻續機殿神社と同神社末社八所がご鎮座になっている。 同域内に萱葺で、千木、鰹木のある八尋殿があり、この殿内で荒妙(あらたえ、麻布)が奉織される。 五月と十月の十四日、皇大神宮及び荒祭宮で行われる神御衣祭(かんみそさい)に、こ の八尋殿で奉織された荒妙と、神服織機殿神社の八尋殿で奉織された和妙(にぎたえ、絹布)がたて まつられる。神宮神職が五月と十月の一日から十三日 まで両神社に各一人参向し、地元の青年が古い伝統の ままに奉織を奉仕している。神麻續機殿神社は、御機 殿(八尋殿)の鎮守の神をおまつりしているが、古く 麻続(おみ)氏がおまつりしていた社である。
神服織機殿神社
神麻續機殿神社の森から、さらに北 方へ二キロメートル進むと、松阪市大垣内町の田の中 に、同じような森が見える。森の中に皇大神宮所管社 神服織機殿神社及び同神社末社八所がご鎮座になって いる。御機殿の鎮守の神をおまつりしているが、古く は服部氏がおまつりしていたものである。ここの八尋 殿で、和妙(絹布)が同様に奉織される。
服部氏?
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月16日 11時42分30秒 ) | パスワード |
服部伊刀麻神社旧地
はとりのいとまじんじゃきゅうち
三重県松阪市出間町
式内社 伊勢國多氣郡 服部伊刀麻神社
御祭神
大命津姫命 あるいは 速佐須良比賣神
三重県松阪市にある。
松阪駅の北東8Kmほどの出間町に鎮座(していた)。
松阪駅から北上し、23号線に入って東へ。
櫛田川を渡ってから2Kmほどで北へ入った場所。
出間町集落の東端に生垣に囲まれた四角形の区画がある。
その区画の中に「式内服部伊刀麻神社舊地」と刻まれた石碑が立っており、
その傍らに山神が祀られている。
ここは、式内社・服部伊刀麻神社に比定されていた神社の古社地。
鎮座地名の出間(いづま)は伊刀麻(いとま)から変化したものと考えられており、
服部伊刀麻とは「服部地区の伊刀麻集落に鎮座する」という意味らしい。
服部伊刀麻神社の創祀年代や由緒に関しては不詳。
宝徳三年(1451)正月の「はたとのの御神事之日記」に「いつま社」とある古社。
布カケ社とも俗称された出間町の産神で、
元は出間町の北東(現在地の北側)に、田カナド明神として祀られていたという。
明治四十一年四月七日、許可を得て柿木原の宇氣比神社(二十五柱神社)に合祀された。
祭神は、明治十一年の神社明細帳に大命津姫命とあり
『式内社調査報告』では大食津姫命のことではないかとしている。
また、多氣郡合祀済神社明細帳には速佐須良比賣神とあるらしい。
さらに、飯豊比売とする説や、「伊刀麻」を糸女=織子と解して天八千々姫命とする説もある。
三重県なら 服部氏に関係した神社があるかと思いましたが そうでもないし
丸に並び矢紋も神社も期待したほどは無いようですね。
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 07時35分06秒 ) | パスワード |
http://lady-amo.jugem.jp/?eid=265
高天神城跡に行ったというブログです。
写真のいくつかが久し振りに怖かった。
わたくしが思うには高天神山って古代は灯台とか見張り台だったのかなと。
西から舟が来るのをここで見張ってたのかなとか。
舟にとっても高天神の山の頂上に灯る明かりで方向を確認してたのかなとか。
以下コピペ:
ナビが良くなくて。
ワタクシは追手門から登城したかったの。
ナビの史跡ジャンルで高天神城があったので
言われるままに走って到着→張り切って車を降りたら、なんとまさかの搦手側・・Σ(゜ロ゜;)
今から南口探してうろつくのも面倒だし、よく考えたら勝頼が攻めこんだのは確か北側から・・
と怪しく勝手に納得して、搦手門跡を通り、勝頼気分で気合いを入れて登って行きます。
高天神城の全貌はこんな感じ・・ここに搦手口書いてないから現在地がおかしなとこにあるけど、
まずは井戸曲輪の右側あたりにある切れ込みみたいになってるところを目指すのね。
そっから本丸側へ行くのと、井戸曲輪から西の丸は二の丸やらに行くのと二手に分かれるという・・
高天神城は普通に山城・・山城好きのくせに登りの苦手なワタクシは身軽なくせにもう苦しい。
勝頼は・・大将自ら攻めこんじゃいないだろうけど、武田軍はえらい難儀な思いをして戦ったのね。
搦手口から上がってくると途中に三日月井戸がありました。武田勢が高天神城に籠城した時、
水乞いの祈祷をこめて作られたものなんだって。今も岩から染み出す水で枯れないそうです。
小さいし井戸には見えないんだけど形がちゃんと三日月なの。武田って三日月好きだよね。
何か意味あるの? 誰の趣味・・てか誰が三日月好きなの? ちょっぴり気になります。
三日月井戸の先に進むと、とりあえず本丸方面と西の丸方面に分かれる部分に到着!!
写真左に行くと本丸、右に行くと西の丸、まっすぐ行くと追手門の方に行くんだけど、
ワタクシが登城した2013年12月は遊歩道が崩落していて通行止めになっていました。
ワタクシはとりあえず本丸を目指しますが、その前に大河内石窟を見ていくことにします。
それにしても高天神城はゴツゴツしている上、カッサカサ。激しい戦いの舞台らしい感じです。
上がって的場曲輪から下を見下ろしたところ・・・尾根に雛段城に曲輪がある高天神城。
堅城過ぎて信玄が落とせなかったほどだから、勝頼にしろ家康にしろ攻める側は難儀すぎですね。
高天神城は戦国期、「高天神城を制するものは遠州を制す」と言われた重要拠点にあったため、
駿河・遠江をめぐる武田氏、徳川氏の激しい攻防の舞台となりました。
高天神城は元は今川氏の城でしたが、今川氏滅亡によって城代小笠原長忠が家康方につくと、
元亀2年(1571)、武田信玄が2万の兵を率いて侵攻、しかし守りが固く信玄は撤退しました。
信玄の死後、今度は天正2年(1574)に勝頼が2万の大軍で攻めこみます。小笠原長忠は籠城して
援軍を待つものの家康は来ず、城兵の命を救うため勝頼から出された和議に応じ開城しました。
大河内政局石牢道入り口。大河内さんは・と徳川方の軍監で、小笠原長忠が開城した時に
ひとり城に残って武田の服従命令に従わなかったため、石牢に幽閉されてしまった人です。
これが大河内さんが幽閉されていたという石牢・・狭っ!! 家康が高天神城を奪還する
天正9年(1582)まで、なんと7年もこんなところに閉じ込められていたんだそうです。
助け出された時には歩行困難・・・大河内さんの義に感じた武田の軍監、横田甚五郎が
こっそりもてなしていたらしいけど、それにしたってねぇ・・いったいどんな精神力が?
従ってしまえば苦しい思いをしなくて済んだのに・・生粋の徳川家臣って感じだね。
同じような思いをしながら黒田官兵衛ほどメジャーじゃないのが気の毒なくらいだわ。
ちなみに武田軍監の横田さんは鬼美濃こと原虎胤の孫。武田滅亡後は徳川方について
旗本になります。すんなり徳川についたのは大河内さんのことがあったからなのかもね。
大河内石窟から戻って今度は本丸に向かいます。本丸虎口もカッサカサです。
岩盤の上に乾いた固い土があるような感じだから建物作るの大変だったかもしれないね。
高天神城を手に入れた勝頼は改修を行って守りを固め、遠江の防御拠点とします。
しかし天正3年(1757)長篠の戦いをきっかけに武田家が衰退すると家康は高天神奪回を開始。
天正8年には横須賀城他、6つの砦を築いて高天神城を包囲し、補給路を断って兵糧攻めの態勢を固めます。
城将岡部元信は何度も援軍要請をしますが、当時、北条にも攻められていた勝頼に余力はなく、
孤立無援のまま10か月が経過。降伏を申し出るも家康に拒否されると、岡部元信以下800人は
城外へ総攻撃を行い、ことごとく討死しました。高天神城はこれを最後に廃城となりました。
すっごい広いってわけじゃないけど城内では一番大きい本丸。周囲には土塁も残ってるんだけど、
削られちゃったのか何なのか分からないけど、盛が小さくて「何とか残ってます」くらいです。
本丸にある城址碑がこちら・・汚れがひどくて全く読めないけど「高天神城址」って書いてあるの。
皇太子殿下成婚記念で建立したらしいんだけど・・それは城址碑じゃなくてもよくないかってw
案内板には「・徳川方で小笠原さんが守って落城>武田方の城になるけど兵糧攻めで全滅」の流れが
ざっくり書かれています・・武田全滅の時、城兵は最初1000いたのが最後に800だったそうです。
援軍の見込みも食料もない上、降伏すら許されない。そして横須賀城から出張っているのは本多忠勝だ。
そりゃ逃げたくもなる。惜しまにゃいかん名がありゃ別としてw 逃亡兵200は少ないのか、多いのか・・
余談だけど高天神への援軍を出すか出さないかって時、真田昌幸は重臣みんなが反対する中、
一人出すべきだって主張したんだよね。智謀の人はやっぱ人の心の動きも把握してるのよ★
助けてくれない前提なら誰も籠城なんてしない。すぐ降伏開城されたら城はどんどん取られてしまう。
だから助けようとする行動見せるのが大事なんだよね、結果、間に合わないとか行けなかったとしても。
御前曲輪に来ました。本丸と続いているけど本丸より一段高い東側の最高所にある曲輪です。
この下にこれから行く三の丸があります、追手から登ると三の丸、御前曲輪、本丸になってるので、
御前曲輪はなかなか大事な曲輪かと。たいして広くもないけど高所ってのがきっとポイントね。
小笠原与八郎長忠と奥方のパネルがあります。小笠原チョイスも顔出しパネルってのも微妙なw
御前曲輪から三の丸に行く途中は細い道で片側はこんな断崖。帯曲輪みたいのがあるけど絶壁です。
三の丸に到着! 狭いところにトイレとか休憩所の建物が建ってて雰囲気がイマイチです。
周囲には本丸同様に土塁が残っています。でも奥とか見えるかな?土塁感は割とあるかと。
三の丸から城東側に広がる風景。高天神城は標高132メートル。高さとしては高くないけど、
西以外は断崖になってるし、尾根も入り組んでるし、やっぱり険しいという印象が合いますね。
三の丸から最初に来た二手に分かれるところに戻り、今度は城の西側の方を見に行きます。
まず井戸曲輪。真ん中が井戸、左奥の階段上がると西の丸跡で今は高天神社があるようですが・・パス。
そして階段の左奥を進むと甚五郎抜け道というのもあるのですが、それもパスしておくことに。
甚五郎抜け道というのは、大河内石窟のところで紹介した武田の軍監横田甚五郎さんが、
高天神落城を勝頼に知らせるために通った道なんだそうです。犬戻り猿戻りと言われる難所で
ワタクシは写真を見て超悪路だと知っていたので、抜け道はどうでもいいわ〜と思ったの。
高天神城合戦将士英魂之碑と書かれた石碑がありました。激戦が繰り広げられた高天神城では
名のあるなしに関わらず、たくさんの兵が散っていったんだよね・・いや、戦いはみんな同じか。
特にこの写真が怖かった
それでは井戸曲輪の右手に進んで二の丸方面に行ってみましょう。「ガケ地危険」の看板あるけど、
この道がまた細くて、右側は搦手口方向で断崖絶壁・・マジしゃれにならない感じなんです。
攻めこむ方も大変だけど、城兵だってアワアワなってたら足踏み外しかねないデンジャラスさ。
奥に縦長で斜面になってる二の丸は狭い感じが。高天神攻めは西側が激戦だったと言います。
三方が断崖絶壁で西だけ尾根続きになっているので、攻めるとしたら西が一番マシだったのね。
縄張を見ると尾根伝いに曲輪を次々配置して弱点はちゃんとカバーされてはいるみたいだけど。
二の丸の北側に超小さい袖曲輪があって、その北にさらに堂の尾曲輪が続くんだけど、
堀切があって直接行けないので、袖曲輪から下に降りてそれをちょいと見てみましょう。
右が二の丸、左が袖曲輪。尾根伝いに上ってきてもそうそう簡単に通しませんよって感じで。
降りたすぐ下にあるのが本間八郎・丸尾修理兄弟の供養塔。二人は天正2年の勝頼による高天神攻めの時、
堂の尾曲輪で指揮をしていた兄の本間八郎が朝日にあたって輝いた兜を目印に狙撃され、後を引き継いだ
弟の丸尾修理も指揮の最中、鉄砲で撃たれて亡くなったという・・・武田も鉄砲バンバン使ってたんだね!
でこれが袖曲輪と堂の尾曲輪を遮断する堀切・・すごい!! 尾根を切り開いて作ったって。
普段はここに橋が架かっていて、今は無理だけど当時は曲輪間の行き来ができたんですね。
その手前には土橋があって両サイドは空堀になっています。堂の尾曲輪は横長の曲輪で、
曲輪にそってずっと空堀が続いていて。二の丸から先は縦に曲輪が配置されているので、
西側の斜面から登ってきた敵に備えて、そちらに面する部分に空堀や横堀があるんですね。
最後にやっぱり追手門も見たいな〜と思って、観光マップを片手に南口駐車場を探しましたw
方向音痴まで行かない(と思ってる)けど、かなり怪しいワタクシにしては上出来だったわ。
三の丸はさっき見たから、この図で追手門のところまで行けば完了ということでw
高天神城は国史跡ってことで案内板やら何やらが充実してるのはありがたいです。
細い山道を少々進むと、ほどなく追手門跡に到着! スペースは案外狭いです。
天正9年、武田方が討死を決めた最後の出撃の時に徳川方が追手櫓門を焼き落としたそうな。
登ってくると追手門のところで急にギューンとカーブしてますね。追手口はこの門があって、
その先はもう三の丸、御前曲輪、本丸になるのが心もとない感じがするのは素人だからかな。
カーブを登ったところに着倒櫓跡という狭いスペースがありました。着いたら倒すってことかw
追手門を抜けてカーブを進んで侵入してくる敵をここで待ち構えるという感じなんですね。
左手の土塁はなかなか盛られてます。曲輪ってほどの場所じゃないにしろ、この頭上にも
また狙いポジは用意されてたんだろうね。そんなに簡単に突破できる作りなはずないもん。
二俣城、横須賀城、高天神城、そしてこれから行く諏訪原城と武田VS徳川攻防の舞台の中で
特に実際に体感したいと思ってた城が見れました。見知っていたことがさらにリアルに思えました。
武田VS徳川って戦いの中に色んなドラマがあって、どちらも命がけで必死に戦っていながら、
結局、最後に笑ったのは徳川だから、勝頼残念みたいになりがちなのが少々悲しい感じ。
ワタクシあんま家康自体は好きじゃないし、勝頼もダメと思わないので思うところもありますねw
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 07時56分06秒 ) | パスワード |
<レス40>へのレスは後ほど。
でないと自分のアタマの中にある妄念をスグに失念してしまうので
笑
とりあえず自己主張をしないと忘れてしまったことをなかなか思い出せないので・・・
レス<26>への追加レス(笑)
>天林寺は浜松一〜二の規模の神社でした。
>中に服部の墓を三つ程みつけましたが、
>その内の一つは氏類の墓とわかりましたが、家紋は抱き茗荷でありました。
これは、隈さんの家の家紋と同じですね。
西の方の服部さんが使用している紋だなという感触です。
尾張藩でも
武家の服部氏だと「矢筈」というか矢じゃなくて 上部がMというか「く」というか
いろいろ有るようですよ。
>少林寺では、例の飯尾一族の墓が多かったです。
お墓が残っているのはいいですね。
時代とはいえ、最期が気の毒なので、三つ柏さんが心に留めてあげたのは良い供養になったと思います。
>そして大草氏も結構ありました。
三河・遠江に広がってたのですね。
こういうところに 家康の存在を再認識しますね。
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 08時16分25秒 ) | パスワード |
やっとレス40へのレスです。
笑
>十六葉八重菊紋
家紋の名前はいろいろ有りますね。
服部家は「十六葉八重菊紋」と書いてるのに神紋では「十六八重菊紋」になってます。
どんな違いがあるんでしょうね。
何か意味がちゃんと有るんでしょうね。
>インターネットで調べる資料には、中に間違いがあるものが混在していますので、出典を明らかにしながら引用したいと改めて思いました。
単純なミスもあるでしょうし
明らかに間違っているというのもあるし
実はこちらが知らなかったというのも有るでしょうし
難しいですね。
でもインターネットにもスゴイ人が書いてたりして参考になりますよね。
URLを書いてくださると助かります。
>最近は、お墓の家紋の収集(特に興味ある氏族のもの)が趣味になりました。
お墓の拓本をとることを専門用語で何と言うか忘れました。
そういう趣味が昔っから有るそうですよ。
だいたい30種類ぐらいで80%の家に当て嵌まるそうです。
あとの20%は凝りに凝ってたり(笑)
>本家本元の家紋はやはり威厳があるように感じられます。
ですね
江戸時代に平和になって家紋のデザインに凝ったりしたんでしょうね。
だんだん洗練されていって。
日本の家紋って美術というか芸術というかスゴイと思います。
>それにしても服部のお墓は本当に少ないです。
不思議ですね。
どこに消えてしまったんでしょうね。
駿府というか静岡市の方なら多いのでしょうか?
みんな家康が駿府に落ち着いて静岡に移ったのかしら?
>名古屋には多いはずなので、今度名古屋のお寺回りを一度してみます。
名古屋の中川区ですか。
ここに服部さんが多いというのは知らなかったです。
武士系だったら東区とかね。白壁町の方とか。
こっちのお寺が良いのでは?と思います。
それから津島市とかの尾張南西部。
三重県も見逃せないですね。
特に桑名ですね!服部半蔵の出来の悪い息子の一族とか。
それから久居とか。
うちは現在の鈴鹿あたりの出身らしいけど、今はいないんでしょうね。大昔過ぎて。
ここでアップ
[48] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月17日 08時27分27秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「あも」さんの「Love城! Go名所旧跡!」の高天神城址の紹介、ありがと
うございます。私もありありと思い浮かべました。「高天神城合戦将士英魂
之碑」、「本間八郎 丸尾修里の墓」の前では、自然と般若心経を唱えてお
り、何か悲壮感めいたものを感じたことを思い出しました。そういえば、
「本間・丸尾の墓」の前でこけたこと、何か呼びかけられたのかも知れませ
ん。死んだ人はよくお経をほしがっていると聞きます。お経をあげてやると
喜ぶ、成仏するということです。心とこころが通じるんですね。
大河内政局の岩窟の話はメジャーじゃないということですが、高天神城に
その跡が残されたいるということはすごいことだと思います。訪れた人も何だ
ろうとは思ってはくれる。それ以上突っ込んで考えてくれるかはわかりません
が。事実、私もあを様に教えられて初めて理解したわけですから。
さて、「永井」についての情報は極めて少ないと嘆いております。「永井」
に関する情報、何でもいいので教えていただきとう存じます。直勝に関する
本もほとんど見当たりません。尚政もしかり。メジャーではあるが、メジャー
ではない。情報が少ないから誰も書かないのかと思ってしまいます。
それでも「長田・永田」は「永井」のベースですので、もう少し続けます。
『別冊歴史読本 苗字・名前・家紋の基礎知識』より―
と思いましたら、出かける用事ができました。ここで一度切ります。
[49] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 08時41分04秒 ) | パスワード |
レス40続き
>長田・永田についての『別冊歴史読本 苗字・名前・家紋の基礎知識』の続き
「きわめて古い長田氏
長田(ながた)という地名も、長田神社の鎮座する摂津八部郡長田(神戸)をはじめ、全国的にあり、
長田(おさだ)の地名も諸所に存在する。
それらの地名を負うて各流のナガタ氏、オサダ氏が起こり、
その中には、後にオサダをナガタとよみかえたものもあったと考えられる。
ここまでは(だろうな)と簡単に分かりますね。
長田(オサダ)氏は、きわめて古い姓氏で、
百済からの帰化族とみられる長田(使主 おみ)、
阿智使主に従って渡来した漢人の帰化族とみられる長田(村主 すぐり)がみえている。
へえ〜
半島出身と大陸出身の長田氏ですか。
これに物部系と秦系が増えますか?
続きを楽しみにしております。
>本日より十か月目に入りました。あと三ケ月で一年となります。がんばります。
もうそんなになりますか。
頑張りましょう。
>頭の方はといいますと、毎日思考でグルグル回転していますので、切れはよくなったように感じます。
>ただ、昔のようなビビットな記憶は二割方減でありますので、
睡眠はしっかり取ってくださいね。
もう10代の学生さんじゃないので、睡眠に、整理整頓させて記憶に残るようにしましょう。
>必ずメモをしておかないと、どこに書いてあったかと悩むはめに陥ります・・・
はい「どこに行ったのだろう」とわたくしもしっかり悩みます。
最近は服部7氏については結構情報がスグに取り出せるようにしてあります。
それにしても不思議です。
服部半蔵の子孫は桑名の松平家に吸収されて、ま、いいとして
政信の家がどうなったのか・・・浜松で細々と続かなかったのか?
中保次の家はまあまあ
呉服明神の貞信の家が結構栄えたというのが、どうしてなのか?
わたくしがぶれないようにとしているのは長上郡の服部氏捜し。
神職系か織物系か 物部か秦か
たぶん
平家か南朝方か家康で 伊賀がらみで 平氏で旗本で丸に三つ柏紋になったのではないか
これが分かれば良いのですが。
頑張りましょう。
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 08時53分33秒 ) | パスワード |
http://ameblo.jp/toushiun/entry-11246318677.html
丸尾修理亮義清(戦国武将)
本間八郎三郎氏清の弟で山名郡赤尾村(高部村と同所)に住して赤尾長者と云った。
天正二年六月二十八日討死。 26歳だったそうですね。
子孫浜岡町池新田にある。
http://www.daitakuji.jp/2013/07/04/%E6%9C%AC%E9%96%93-%E4%B8%B8%E5%B0%BE%E3%81%AE%E6%9C%AB%E8%A3%94%E3%81%AF%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BE%8C-%E6%B5%9C%E5%B2%A1%E3%81%AE%E8%B1%AA%E8%BE%B2%E3%81%AB/
本間・丸尾の末裔はその後、浜岡の豪農に
本間・丸尾兄弟の続きです。
天正二年の夏、高天神城西峰、二の丸櫓に立って武田、穴山方の狙撃に当たってともに絶命しましたが、両家後裔は池新田地区(現御前崎市)に帰農して繁栄し、その名は地元では結構著名で、今ここ相良の人でその名を知っている方、両家と何らかの関係がある家は案外多いです。
土方の藤田鶴南著「高天神の跡を尋ねて」に二人についての詳細な記述がありますので転記します。
「本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清の兄弟」
本間家は清和源氏の裔、源頼義の五男義政、信州常盤(飯田)に住し、その孫信高は源頼朝に従って富士川の合戦に出陣後、相州本間郡(本間依智郷―厚木市金田)を領して本間を姓とした。
後五代景氏は元弘三年鎌倉極楽寺坂にて戦死、その子氏季は足利尊氏に属して遠州山名郡を領して久野城に拠った。
延元二年大塔宮護良親王鎌倉幽閉の時、好法院宮栄仁親王は遠州奥山に隠れて、文中元年足利義満の頃、山名郡高部村(磐田郡袋井市笠西の内)に入座された。本間氏は丸尾氏一木氏と共に守衛にあたった。
丸尾氏は山名郡赤尾村を領していたが、応永二年、今川伊予入道(今川貞世―了俊)の下知に拠って京に上り、八郎三郎和泉守に任じられ、葉菊に九曜を配した家紋を附与された。
本間氏は氏季の子、良清が永享十二年足利持氏に従い殉死し領地を没収された。長子辰若十一歳、逃れて駿河の今川氏に頼り、長じて遠州久野城番となった。
その後三代五郎兵衛長季は十右衛門とも言い、徳川家康に仕え、先祖の旧領高部郡諸井郷等を賜り河内守を称し、高部郡崖の上に住した。
世人久野本間と言う。
永禄十二年、家康が今川氏真を掛川城に包囲攻撃した時、五郎兵衛は掛川天王山にて討死した。
丸尾和泉守は本間河内守と内縁の故を以て嫡子の八郎三郎氏清を本間家の養子とした。
丸尾修理亮義清は氏清の弟である。
元亀二年三月十三日、兄弟は家康より証書を受けて高天神城付を命ぜられて城主小笠原長忠の旗下に属し、西の丸の大将となって部下三百騎を率いて守った。
尚、五郎兵衛の養子の権三郎正季も高天神に籠城して西退組(当時は西が徳川、東が武田)に加わり、後年家康に仕えて長久手の戦に功があった。
天正二年開城の役六月二十八日、西の丸堂の尾曲輪の櫓にて、兄氏清は朝六時、行年二十八歳、弟義清は正午、行年二十六歳を以て、武田方穴山梅雪の臣、火砲の妙手、西島七郎右衛門の鉄砲の狙いとなって討死した。
弟源右衛門氏重、家を継いで後、甲州にて頓死、兄丸尾義氏も家を継いで後、甲州にて戦死。その子清光二歳、母は馬伏塚岡山村知行の松下助左衛門範久の女である。十三の時、大坂(遠州)報地村知行の大石新次郎久末の養子となった。
高天神開城後、家康は小笠原長忠の関係に付き、詮議を厳しくしたため、本間丸尾一類、吟味を恐れて本間八郎五郎は池新田村に隠れて百姓になり、丸尾三郎九郎は高部村で先祖の跡を継いで百姓となった。
尚、その後清光の長子清延三男清定等、丸尾氏の一族と共に池新田の開発に努め、後年横須賀藩の大庄屋として苗字帯刀を許された。現在の本間、丸尾はその末裔にあたる。
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 14時31分35秒 ) | パスワード |
飯尾氏
いいのお うじ
鎌倉幕府の初代問注所執事三善康信の子孫が阿波国麻殖 (おえ) 郡飯尾村に住し,飯尾氏を称した。元徳2 (1330) 年に飯尾彦六左衛門入道が六波羅探題より感状を与えられている。室町時代は幕府の奉行人となり,室町幕府末期まで続く。
2−3日前に書いた服部のレスに「四国から来た」とあったけど
この飯尾氏は 阿波国麻殖郡飯尾村 って?
阿波の国にも物部氏か秦氏の服織関係の人々が入植してた?
ということで検索:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sul_ino.html
駿河飯尾氏
カコ(金偏に交に具と書く)に雁金
(漢族系錦宿禰改め三善朝臣後裔)
雁金って
雁金屋だったら尾形光琳ですよね
呉服屋の。
やっぱり先祖は服織関係?飯尾氏も尾形氏も?
ビックリ
尾形家と呉服商雁金屋
光琳は万治元年 (1658)、京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれた
飯尾氏は鎌倉幕府の初代問註所執事を務めた、三善康信の後裔である。
三善氏は、いわゆる帰化系氏族で、錦宿禰から三善朝臣への改姓が認められたものの後裔という。
錦ですって!
茂明は長保二年(1000)こと、主税頭兼算博士としてみえ、
その子孫も相次いで算博士となり、
養子の為康や行康も算学を継いだ。
康信は鎌倉に下って鎌倉幕府の問注所の初代執事となっている。
官僚系武士
康信は康延六年に三善家に生まれる。父の名は不明。早くから朝廷内で能吏として認められたが、母方の叔母が源頼朝の乳母であったためか、平家全盛の時代には不遇な立場にあった。
一方、頼朝と親交を深め、伊豆に配流されていた頼朝に月に三回の割合で京都の動静を知らせ続けた。治承四年には源氏追討の危機を逸早く知らせ頼朝の挙兵の契機をつくった。
元暦元年(1184)、頼朝の請いにより鎌倉に下向し、大江広元らと頼朝の政務の補佐を行った。建久二年、政所・侍所・問注所の幕府三機関が正式に整備されると、問注所の初代執事に任じられた。弟康清も公事奉行に列した。
頼朝の死後も頼家・実朝の下でも問注所の執事として重きをなすが、北条氏の執権体制が教化されるなかで、中枢での活躍の場面は少なくなった。康信が最後に重要な役割を演じたのは承久三年(1221)の承久の欄である。病気をおして出仕したかれは即時出撃を主張し、幕府体制を固めることに貢献した。
町野氏は近江国蒲生郡町野を苗字の地にしたとの伝説がある。嘉禄元年(1225)に評定衆が設置されて以来、寛元四年まで康俊・康持は、同族の矢野氏・太田氏とともにその一員として活躍し、また問注所執事を兼ねた。一方、六波羅評定衆として政康・康世の名がみえる。
建武政権下の雑訴決断所職員中に信宗の名がみえている。室町幕府の成立後は、評定衆として奉行人より一段高い身分に列した。『見聞諸家紋』に左近将監敏康の名で紋が記されている。
今川氏に仕える
戦国時代、駿河引馬城主であった飯尾氏は、室町中期に長連が、遠江に入部する今川義忠に従って京都から駿河に移ったことに始まる。
賢連は今川氏親に仕えて、はじめて引馬城主となった。以後飯尾氏の居城となる。飯尾氏が支配した浜松庄は、引馬城の支配地として引馬領とも呼ばれた。その子乗連は、義忠に仕えてその上洛軍に従い、桶狭間の合戦で討死した。あとを継いだ連龍は、永禄11年、今川氏真に疑われて殺害され、駿河飯尾氏は滅亡した。
戦国期、氏真に仕えて、永禄九年(1566)庵原洞を知行した飯尾若桜。天正二年(1574)の武田氏の遠江侵入に際して、武田軍に降伏した飯尾四郎佐衛門尉。などの名が史書にみえるが、さきの飯尾氏との系譜的関係は不詳である。
[52] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月17日 16時33分11秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本間・丸尾の話、ありがとうございます。いろいろ勉強になり、視野が広
がります。実は本間という苗字は私の住んでいる所より東500メートルあ
たりの新堀というところに点在しています。(長谷川はそこから南、高薗にた
くさん分布しております。)丸尾は掛川方面で、お得意さんにおられます。
小笠原は浜松の南部の方にみられます。いずれにしても、今生きている人
の祖先をたどれば、戦国時代等にはなんらかの戦いで戦っていたのではない
かと最近つくづく思うようになりました。
本日は佐久間町の「歴史と民話の郷会館」のイベント広場で行われる県内
外の手打ちそばの食べ比べに行き、そばを3杯食べて来ました。地元のそば
と、会津と戸隠のそばをそれぞれ食べ比べてみたところ、戸隠のそばが一番
うまかかった感じがいたしました。やはりそばは信州。佐久間の人々は南信
州に近いので、文化圏としては南信州文化圏といってもいいかも知れません。
そばも信州の影響を受けていると思いました。「佐久間新そば」と銘打ち、
地域の活性化をはかっているようです。本日は寒気団がやってきており、
佐久間ではみぞれ寸前の寒さでしたが、逆に熱いそばが余計においしくまた
温まりました。家からは天竜川沿いに40分でした。
では、前レスの続きで『別冊歴史読本』より―
「駿河有度郡長田(おさだ)から起こる長田氏は、橘氏の一族、平治の乱に
敗走した源義朝をだまし討って平家の恩賞をとりそこねた尾張知多郡野間
の長田(おさだ)荘司忠致の家系は、伊勢飯野軍長田に起こる桓武平氏良茂
の孫致頼を始祖とする。
大隅の長田(おさだ)氏には、忠致が千葉常重の子を迎えて養子とした長
田次郎致将(むねまさ)を始祖とするというものがある。致将は性勇猛で、
壹岐守となった養父に従って西下した際、大隅前司宗乗が領した種ケ島を
討ってここに住んだと伝えられる。
三河の長田(おさだ)氏には、大江広元七世の孫長田平衛門重光を始祖と
するというものがあり、備前高来部長田から起こるものは、有馬澄世が、
この地に止住したのに始まるという。
新田氏の末、徳川氏同租の長田氏もある。
新田義重―徳川義季・・・十六世の孫家康
∣
― 額田(合土)義経―長田二郎(または長岡次郎)氏経
なお長田(おさだ)は、古くは他田(おさだ)と通じて用い、また訳語田
(おさだ)とも書いた。大和城上郡他田に起こるものは、阿部氏の一族で、
和泉・駿河の他田氏にも、その同族と見られるものがある。また別に、
京・尾張・美濃・信濃・肥後などの他田氏には、敏連天皇の御名代部と見
られるものがある。
伊賀伊賀郡長田に起こる長田(ながた)氏は、もと藤原氏と称したが、池
大納言平頼盛の領地となったころは平氏と称し、平家滅亡後は、再び藤原
氏と称するようになったという。伯耆国汗入郡長田に起こる長田(ながた)
氏は、同郡名和より起こる名和氏の一族という。名和氏は後醍醐帝の隠岐
脱出を助けた南朝の忠臣伯耆守長田又太郎(または奈和又太郎)長年を出し
た名家で、村上天皇六世の孫忠房を始祖とすると伝えるが、太田氏のごと
きは、その出自を疑い、むしろ但馬の日下部・朝倉氏らと同族で、開化天
皇の後なる丹波道主の末ではないかという。」
これで長田・長田についての記述は終わりにいたします。永井がわが地で
何故服部と一緒に住んでいるのか、あと松島・鈴木・加藤となぜ一緒に住ん
でいたのか。松島・鈴木 vs 服部・永井 vs 加藤のような図式が見えてきま
した。即ち、松島・鈴木は神職系、服部・永井は武士系・または神主系(伊
賀系、または摂津系)、加藤は光泰系・・・。ここ善地は、以前より天領で
羽鳥荘のすぐ北、天竜川および支流で囲まれた中州のやや北部に位置する。
従って、隠れ家のような所。川で囲まれており、江戸時代には橋を政策的に
架けなかったので天然の離れ小島でもあった(長島と同じようなもの)。
南朝系、徳川系なら落武者の帰農にもってこい。土地は肥沃だし、水もあ
り、ナイル川の農業と同じ。作物はすぐたくさん取れただろう。
三つ柏は善地に天満宮を勧請した時に関係して来るように思われる。どこ
から勧請したのか・・・摂津では永井氏も天満宮を崇拝していた。その関係
か。ここの永井氏は三つ柏と梨の切り口。摂津の神服神社の三つ柏の謎、そ
れは服部連が祀った神社。服部連は各地の服織郷の織部を統括していたとい
う由縁。羽鳥の服織神社は、本来の宗旨より途中で熊野権現社に宗旨替えさ
せられたようである(江戸時代に戻されてはいるが)。それを嫌った者たちが、
ここ善地で小社を建て細々と守り、やがて天満宮を水防の神様、雷の神様と
して勧請したのか。その時の神主が三つ柏の神服系の服部、または永井氏で
あったのではないか・・・と推理してみました。あを様いかがでしょうか。
今後さらに推理を詰めて行きたいと思います。
明日は細江にて、小和田哲男先生の「徳川四天王 井伊直政の生涯」とい
う講演会に行ってまいります。またご報告をいたします。
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 21時24分55秒 ) | パスワード |
レス50
土地勘が無いので、どこの話かさっぱりです。
でも 母方が松下 ということなので関係があるのかも。
弟源右衛門氏重、家を継いで後、甲州にて頓死、
兄丸尾義氏も家を継いで後、甲州にて戦死。
その子清光二歳、 母は馬伏塚岡山村知行の松下助左衛門範久の女 である。
十三の時、大坂(遠州)報地村知行の大石新次郎久末の養子となった。
馬伏塚城:http://www.geocities.jp/enshucastle/enshyushiro/mamushi.html
読み方:まむしづかじょう
築城年:室町時代中期
築城主:小笠原長高
様 式:平山城
遺 構:曲輪・土塁・空堀
所在地:袋井市浅名
アクセス
県道41号(袋井大須賀線)浅名交差点東へ約700m先の城案内標識を右折
駐車場 浅羽町役場(約40台)または浅羽町郷土資料館(30台)
歴史:
この城の初代城主は、小笠原信濃守長高といわれます。長高は信濃から尾張に行き、さらに三河の幡豆郡に赴いて吉良左兵衛佐義堯のもとに寓居し、のち今川氏親に属して遠江国山名郡浅羽庄を領し、馬伏塚城に住して天文13年(1544年)10月、57歳で没した。その子春義は福島上総介正成が今川氏に背いて北条方へ属すと、代わって高天神城主となり、馬伏塚城主も兼ねた。その子美作守氏興(氏清)も今川に属して遠江のうち四郡を領し、馬伏塚・高天神城を守ったが、永禄11年(1568年)徳川家康に転任、翌12年に没して馬伏塚の天岳寺に葬られ、のち同郡岡山村了教寺に改葬されている。(『寛政重修諸家譜』)
天正2年(1574年)7月9日、高天神城(城主・小笠原長忠)が武田勝頼軍の攻撃により降城すると、家康は馬伏塚城を高天神城攻略の作戦本部と位置付け、8月1日から大改修を行い現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造りあげ、家康の重臣である大須賀康高城主に守らせました。
天正6年(1578年)3月には、遠江横須賀城を築き康高城主とした。同8年9月に高力与左衛門清長を馬伏塚城に入れました。
高力清長!
天正9年(1581年)3月に高天神城が落城し、徳川家康による遠江支配が安定した天正10年にはその役割を終えて廃城となり、跡地に岡山村が形成されていきました。
今も小字名として残る破城(羽城)は、城打ち壊しの儀式が地名として残ったものと考えられます。城名の馬伏塚城の読み方は「まむしづか」、「まぶせづか」と両方ありますが、一般的に「まむしづか」と読んでいます。
大坂(遠州)報地村
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%9B%E5%B7%9D%E5%B8%82
掛川市の「大坂」は、大坂(明治以後の大阪)から移住した住民が多かったために付けられた地名だといわれている。
鎌倉時代には「懸川」として歴史書に描かれた。また室町時代には、信州塩尻に至る塩の道の始点であった。
戦国時代には戦国大名今川氏の配下の朝比奈氏の城下町として発展した。
山内一豊が整備した掛川城の城門と天守1567年(永禄10年) - 徳川家康が、掛川城に籠城した今川氏真・朝比奈泰朝を攻撃した。
1568年(永禄11年) - 石谷政清が遠州飛鳥郷一色を拝領。
1580年(天正8年) - 横須賀城が完成。
1581年(天正9年) - 徳川家康が高天神城を攻め落とした。
1590年(天正18年) - 山内一豊が掛川城に入る。天守の完成は1596年(慶長元年)。
1601年(慶長6年) - 山内一豊が高知城に移り、松平定勝が掛川藩の、大須賀忠政が横須賀藩の藩主となった。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 21時33分59秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>今生きている人の祖先をたどれば、
>戦国時代等にはなんらかの戦いで戦っていたのではないか
>と最近つくづく思うようになりました。
はい。
浜松は工業が盛んになってからの最近は流入者が多いでしょうけど
1960年代あたりまでは過去の歴史の人々の子孫が住んでいるでしょうね
江戸時代に静岡市に移ったり江戸に移ったり日本全国に散ったりしても
幕末〜明治維新に浜松に戻ったり
戦国時代の人達の子孫は戦国時代の先祖の地に戻ったのでしょうね。
蕎麦はやっぱり信州ですよね。
わたくしも蕎麦は好きです
ハワイではスーパーで冷やし蕎麦を売っているので、よく、買ったものです。
ここでアップ
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 22時18分01秒 ) | パスワード |
超ややこしい長田氏の ややこしさ 複雑怪奇な出自 を教えてくださってありがとうございます。
>訳語田
これだけは知らなかったし想像もつかなかったです。
http://ejje.weblio.jp/content/Osada
検索したら
大定おおさだ;尾定;他田;治田;長田;納多;小佐田;大佐田おおさだ;真田;大貞;訳語田
の中にありました。
真田も おさだ って読むんですか。
日本の名字ってホント訳が分からないです。
さらに検索しました:http://www.bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/miyadokoro/osada_sakitamanomiya.htm
訳語田幸玉宮おさださきたまのみや跡
桜井市戒重の春日神社付近に比定
春日神社
訳語田幸玉宮跡に比定されている春日神社
【所在】奈良県桜井市戒重
【アクセス】JR・近鉄桜井駅北口から八木駅行き奈良交通バスで約6分。「戒重」バス停下車、すぐ。
575年、敏達天皇が百済大井から新たに訳語田に遷された宮
聖徳太子が誕生されたとされる西暦574年は、敏達天皇3年にあたる。
その3年前、第29代欽明天皇が磯城島金刺宮(しきしまのかねさしのみや)で崩御された。
翌572年4月3日、後を嗣いで皇太子の淳中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)皇子が
第30代敏達天皇として即位すると、すぐに百済大井(くだらのおおい)に宮を設けられた。
したがって、太子が誕生した頃、天皇の宮は百済の大井にあった。
百済がらみ・・・
吉備池
吉備池廃寺跡が沈んでいる吉備池
その宮地であるが、現在の大阪府河内長野市太井と奈良県北葛城郡広陵町百済の二カ所が比定されている。
だが、いずれの土地も過去数代の天皇が宮居とされた磯城(しき)や磐余(いわれ)とは遠くかけ離れていて、
従来から疑問視されてきた。
ところが、桜井市吉備にある「吉備池」周辺を発掘調査していた奈良国立文化財研究所が、
最近池の底で古代寺院跡を発見し、これを吉備池廃寺と名付け、
百済大寺(くだらおおでら)の跡に違いないと発表した。
百済大寺とは、第34代舒明天皇が西暦639年に百済川のほとりに、
百済宮とともに建立することを決めた寺である。
吉備池付近を流れている川は米川であって百済川ではないが、
あるいは当時は百済川と呼ばれていたのかもしれない。
吉備池廃寺が百済大寺であるなら、舒明天皇の百済大宮もこのあたりにあったことになる。
さらにさかのぼれば、敏達天皇の百済大井宮もこの付近を想定するのも不可能ではない。
敏達天皇4年(575)、天皇は卜部(うらべ)に命じて、
訳語田(おさだ)にある海部王(あまのおおきみ)の家地と糸井王(いといのおおきみ)の家地を占わせた。
吉と出たので、そこに新たな宮をに営んだという。
これが幸玉宮(さきたまのみや)である。
『古事記』には他田宮(おさだのみや)とある。
桜井市の「阿倍」交差点から国道169号線を北に向かうと、近鉄大阪線のガードをくぐっってすぐの所に
「春日神社」がある。
この神社のあるあたりが幸玉宮の跡地と推定され、境内に桜井市教育委員会が建てた案内板が立っている。
その案内板には、以下のように記述されている。
”敏達天皇訳語田・幸玉宮推定地 敏達天皇の訳語田幸玉宮について、『扶桑略記』『帝王編年記はともに磐余訳語田宮とし、磐余の範囲内にあったことが確認できる。訳語田幸玉宮の所在地については、従来、桜井市太田とする説と桜井市戒重とする二説があった。しかし、戒重村はかって他田庄と呼ばれ、また、戒重村の小字「和佐田」(わさだ)は明治以前「他田」(おさだ)であった。そしてこの春日神社は古くは他田宮(長田宮)と称したことなどからこの地域が考えれる。”
敏達朝の主なトピックス:
•敏達元年(572)4月、敏達天皇が即位し、宮を百済の大井に造る。物部守屋を大連に、蘇我馬子を大臣とする。5月、王辰爾、高句麗の国書を解読する。
物部守屋!
•敏達3年(574)、蘇我馬子を吉備に遣わして、白猪(しらい)の屯倉と田部の農民を殖やす。
•敏達4年(575)、4月、広姫を皇后に立てる。宮を訳語田に造る(幸玉宮という)。
•敏達5年(576)、3月、広姫薨去により、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)を皇后に立てる。
後妻さんだったの!
へえ〜
•敏達6年(577)、11月、帰国する大別王らにつけて、百済王が経論と律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工の6人を献上する。
•敏達8年(579)、10月、新羅が調(みつぎ)と仏像を贈ってくる。
•敏達9年(580)、11月、新羅が調を送ってくるが、朝廷はこれを受けずに返す。
•敏達11年(582)、10月、新羅が調を送ってくるが、朝廷はまたこれを受けずに返す。
•敏達12年(583)、7月、任那復興のため、在百済の達率日羅(火葦北国造阿利斯登の子)を召還する。
•敏達13年(584)、9月、鹿深臣が百済から弥勒菩薩石像一体をもたらす。
佐伯連も仏像一体を持ち帰る。
佐伯真魚 = 空海
宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。
父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、
母は阿刀大足の娘(あるいは妹)。
真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日とするが、
これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、
空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明である。
蘇我馬子、仏像二体を請い受け、家の東に仏殿を造って安置する。
播磨から還俗僧・恵便(えべん)を探しだし、師とする。
司馬達等の娘ら三人を得度させる。
•敏達14年(585)、3月、蘇我馬子、塔を大野丘の北に建てて、法会の設斎を行なう。
物部守屋、塔を倒し、仏像と仏殿を焼き、焼け残った仏像を集めて難波の堀江に捨てる。
8月、天皇は病が重くなり大殿で崩御される。
長田氏は、物部氏・敏達天皇・百済、などの歴史にからむのですねえ。
ここでアップ
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 22時23分51秒 ) | パスワード |
>伊賀伊賀郡長田に起こる長田(ながた)氏は、
>もと藤原氏と称したが、
>池大納言平頼盛の領地となったころは平氏と称し
これはね、伊勢の名家・本姓藤原氏俗姓伊藤氏でも、平家の侍大将をしてたことから平家一門ということで
平忠清
と書かれるから
長田氏も平家の一門として平氏・平家を名乗ってても当たり前と思います。
わたくしの母方も頼朝と相婿ということで「源氏」と称していますしね。
笑
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 22時47分00秒 ) | パスワード |
>新田氏の末、徳川氏同租の長田氏もある
全く知らなかったです。
これは、南朝方だった、ということから遡ったのかもですね。
実際に新田氏の子孫だったかも知れないし。
三河の長田氏だったら当然あの山奥の松平郷にも親戚がいたかも知れないし
家康の親戚の酒井氏と長田氏が親戚というのも有り得るし
箱柳さんのように三河だったら碧南にも岡崎にも当然親戚がいるだろうし
箱柳さんも「親戚の親戚が」という話になったら家康と親戚というのは有り得るし
ただ、まともな日本人なら、自分からは、外の人間にそういう話はしないわね。
確かに箱柳さんの家の地理的な条件から有り得るし
箱柳さんチが南朝方だったなら、ますます有り得る、って外野は=ワタクシは=勝手に思う。
名字と出身を聞けば(アソコのアイツか)てピンと来るもの。
本人は世を憚って黙ってても世間が知ってる。
日本人はホントに何重にも結び付いてるから、みんな、親戚。
そうかワタシと箱柳さんは物部どころかニギハヤヒとかよりもっと前の時代から親戚だったのか。
海の魚の段階以前から(爆笑)
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月17日 22時53分19秒 ) | パスワード |
今から出掛けますので、後ほど、「開化天皇の後なる丹波道主の末ではないか」以降のレスをつけます。
>開化天皇の後なる丹波道主の末ではないか
これまたスゴイ!
長田氏は日本の天皇家と繋がりがあったようですね。
やっぱり古代からの名家なんですねえ。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月18日 04時19分14秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
戻りました。
>永井がわが地で何故服部と一緒に住んでいるのか、あと松島・鈴木・加藤となぜ一緒に住んでいたのか。
加藤氏を除いて
永井氏・服部氏・松島氏・鈴木氏は古代=神代=からの関係が有るかも知れないですね
加藤氏を名字発生の藤原氏以降としたら、飛鳥時代以降の家ということで、特に武士の時代以降の関係?
でもやっぱり5家ともに古代あたりには知り合いだったかもね。
光泰の父上やその先代さん、もっと前が、遠江に縁のある人だった可能性だってあるし。
ココをご覧ください
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B0%8F
加藤氏の初代と思われるのは源頼義に仕えた武士藤原景道で、
加賀介となったことから加賀の藤原を略して「加藤」を称するようになったとされる。
景道の孫といわれる加藤景廉は源頼朝の挙兵に参加し、
平家が滅亡して鎌倉幕府が成立すると鎌倉御家人となった。
頼朝から安田義定を討つように梶原景時とともに加藤景廉も命ぜられた。
↓
後に遠江国浅羽荘の地頭職を得たが、
梶原景時が討たれた際、景廉は景時と親しかったためか所領を没収された。
その末裔として、美濃の遠山氏やその係累である加藤光泰系の加藤氏が挙げられる
↑
この ⇅ の中を考えると、光泰の家は鎌倉時代には遠江い縁がありました
遠江国浅羽荘の地頭職を得たのは、もともとこの地に縁があったのではないか?
>松島・鈴木 vs 服部・永井 vs 加藤のような図式が見えてきました。
はい
>即ち、松島・鈴木は神職系、
ですよね
>服部・永井は武士系・または神主系(伊賀系、または摂津系)、
神さまと神さま または 神様とハタオリ部の関係 または 武士関係
ひょっとすると全部可能性が有りますしね
>加藤は光泰系・・・。
ハッキリしてるのは戦国時代
でも鎌倉時代には地頭だった
だからもっと前から一族がいたのかも
>ここ善地は、以前より天領で羽鳥荘のすぐ北、天竜川および支流で囲まれた中州のやや北部に位置する。
天領だったということに特別な意味がありますよね。
昔っからの要衝の地。
高天神が「高い場所」として要衝の地であったように
善地は「水に囲まれた安全地帯」として要衝の地だったのかも
⇅
>善地に天満宮を勧請した時に関係して来るように思われる。
でしょうね。
でも、もっと前から縁はあったのかも。
たぶん善地は
天満宮以前から、特別な地で、
菅原道真(承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日)の子が遠江に流されて来て
その縁で天満宮を勧進したのでしょうね。
その前に遠江には冤罪で伊豆に流される途中の橘逸勢 延暦元年(782年)? - 承和9年8月13日(842年9月24日)が
三ヶ日で亡くなって、 無実の罪を背負って死亡した事で逸勢は怨霊となったと考えられ、
貞観5年(863年)に行われた御霊会において文屋宮田麻呂・早良親王・伊予親王などとともに祀られた
と言われているので 天満宮は勧請されたのかも。
橘逸勢は姓を「非人」にされたそうですよ
>摂津では永井氏も天満宮を崇拝していた。
>その関係か。
>ここの永井氏は三つ柏と梨の切り口。
永井氏の先祖の長田忠致が頼朝から厳罰を受けて処刑されたことで
魂を鎮めたいというのもあったのかもですね。
徳川氏譜代家臣の永井氏や長田氏は忠致の兄・親致の後裔を称している。
義朝暗殺事件を知って乳母の実家のある大浜郷棚尾(碧南)に移った人
実際の永井氏は忠致の子孫かも知れないし。
先祖の霊を鎮魂したかったでしょうね。
>摂津の神服神社の三つ柏の謎、それは服部連が祀った神社。
>服部連は各地の服織郷の織部を統括していたという由縁。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9C%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE
神服神社の北西、塚脇にある古墳群の「服部連塚」と「御女塚」が服部連の夫婦墓とされ、
この地の服部連が祖神を祀って服部神社と称していたが、延喜年間(901年〜923年)に神服神社と改めた。
維新まで安岡寺の僧侶が社務をとっていた。
で、この安岡寺というのが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B2%A1%E5%AF%BA_ (%E9%AB%98%E6%A7%BB%E5%B8%82)
桓武天皇の兄で、光仁天皇の庶子の開成皇子がこの地に霊験を感じ、
自ら観音像を彫り堂宇を建て、宝亀6年(775年)2月18日に創建したと伝えられている。
ですって。
桓武天皇=平氏のご先祖さまです。
その腹違いの兄上のお寺が神服神社の面倒を見ててくださった。
桓武天皇の母上は百済出身者の子孫。
開成皇子の母上も先祖は半島出身だったのかしら?
そういう関係もあってのことから神服神社の面倒を見てくださってたのかしら?
持ちつ持たれつの関係があったのかも。
>羽鳥の服織神社は、本来の宗旨より途中で熊野権現社に宗旨替えさせられたようである
(江戸時代に戻されてはいるが)。
これは鈴木さんがらみでしょうか?
笑
>それを嫌った者たちが、ここ善地で小社を建て細々と守り、やがて天満宮を水防の神様、雷の神様として勧請したのか。
熊野の鈴木さんに対抗して、もしかすると「もっと身近な神様がいい」という運動があったのかもですね。
>その時の神主が三つ柏の神服系の服部、または永井氏であったのではないか・・・と推理してみました。
もともと「自分たちの身近に感じる神様が欲しい」ということで
熊野に飲み込まれるのは嫌だというのがあったのかもですね。
笑
それか「道真公の怨霊のすさまじさ」は平安時代に人の噂になってたから
「熊野よりも強力ということで勧進されたのかも。
笑
>今後さらに推理を詰めて行きたいと思います。
とにかくご近所さんなどに聞きまくることでしょうね。
「どんな話を聞いてる?」って。
そして郷土の歴史家とお知り合いになれると良いですね。
>明日は細江にて、小和田哲男先生の「徳川四天王 井伊直政の生涯」という講演会に行ってまいります。
いいですね
井伊直政は地元の英傑の上に小和田先生は大御所ですし
ホントいいですね。
羨
>またご報告をいたします。
楽しみにしております。
小和田先生といい、磯田先生といい、静岡はラッキーですね。
[60] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月18日 10時53分24秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
みごとな推理、感服いたしました。さすがあを様、私の推理はつたないもの
でしたが、あを様の広範で深淵な知識にあえば、一気に難攻不落の城も落城か
と思われる位、冴えわたってます。ここの説明部分はノートに刻んでおきます。
いろいろな角度(360度)から、ものごとにフォーカスする・・・歴史の解
釈はやはりそうでなくてはと思います・・・ということは博識(広く知ること)
が必要ということ・・・まさにあを様にぴったりであります。
今回は私の脳の中にかなりエンドルフィンが出ております。
敏達天皇、聖徳太子、訳語田、海部部王、糸井王、他田、王辰爾(辰をとる
と王邇=わに)、、そして舒明天皇、春日氏・・・何か一つのものが見えます。それは海人族・・・和邇氏、あるいは百済です。私が韓国の百済・扶余で手に
入れた百済についての歴史の本の中で、百済は大海洋国であったというのです。ということは海人族の国であったかも知れません。この本を今度はしっかり読
み砕いて説明に結びつけてみます。
ここ長上郡、元長田郡はシンプルにいうと、物部氏や長田氏が先住し、秦氏
や服織系がそれに続いた。敏達天皇の後、聖徳太子もまた亡くなるが、蘇我氏
による襲撃から逃れるために、太子の3人のご子息が秦氏に連れられて、ここ
長上郡羽鳥に隠棲した。その墓が服織神社の近くにある蛭子(えびす)森古墳で
あります。ここ長上郡が何故当時の中央と直結していたのか? 海人族のネッ
トワークがかなり強力にあったような感じがいたします。
物部・和邇(安曇)・長田・秦・服部は明らかに関係しています。そして大枠
としては、安曇はここらから北上して信濃へ。尾張や遠江に来た物部宗家も北
上し諏訪へ・・・ではないでしょうか。古代の知識の裏付けがそうとう必要と
されますが。
長田の偉大な点は、各地に長田郷を残している点です。ただ氏族としての顔
が見えない(服部の服部・羽鳥・服織村もそうですが、服部連という顔が少し
見える)。その点が謎であります。私の村にも長田(おさだ)氏がいます。まだ
掘り下げて調べていませんので、何ともいえませんが。今後調べて行きたいと
思います。
いずれにしましても、あを様にいろいろご指導いただいたおかげで、歴史の
推理がこのへんまではできるようになりました事、心より厚く感謝申し上げま
す。
昨晩は、古本屋で手に入れた江戸時代の江戸のいわゆる「ゼンリン住宅地
図」をしらべました。それには旗本屋敷・大名屋敷が名前入りで記されてい
る。姓氏といっても旗本は姓だけのようでした。服部貞信の邸宅を探したの
ですが、赤坂にはないというか、赤坂の境目がはっきりわからない。約2時
間位、目を皿のようにして探しましたら、服部が住んでいる場所が4か所見
つかりました。単独でというよりも、グループで記されているものが多かっ
た。とりあえず発見しただけでも一応の成功! 今後さらに裏付けをとって
行きます。ちょっと時間がかかりそうです。
もう一つは、伊賀上田の藤堂藩の構成を調べました。高虎から服部采女に
実権が移った後の藤堂藩分限帳です。天正伊賀の乱後、高虎は采女に伊賀者
の調査・登録をさせたということで、先日伊賀上野城へ行った時に、『上田
城絵図集成』という本を高虎研究のため購入して来た訳でありますが、その
中に藤堂藩分限帳が年代別に載っておりました。今回初めてそれに目を通し
た訳であります。
驚きがありました―
いわゆる忍者と思われる人々が「伊賀者」として分類されておりました。
そこには、服部と永井は世代を超えてずっと記録されています。つまり、
忍者の服部と永井です。大発見でありました。
この件は、もう少し整理・分析して記述したいと思いますので、期待して
待っていて下さい。
それでは、そろそろ講演会に行く準備をいたします。
ではまた―
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月18日 15時08分16秒 ) | パスワード |
窓七之助を引き取って来ましたが、快気祝いは出来ず今に至るも満身創痍で役に立ちません。
ただいま自宅にて療養中という感じ。
窓八太郎は入力が勝手に違う文字に変換されるし体調不安定の生まれのようです。
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月18日 15時36分35秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
え?赤坂?
服部貞信の子孫の屋敷は 世田谷区赤堤です。
赤坂と赤堤がごっちゃになったのでしょうか?
勘違いですか?
http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_akatutumijinya_tokyo.html
赤堤陣屋:服部氏陣屋
赤堤陣屋/服部氏陣屋:東京都世田谷区赤堤2丁目 旗本服部氏1400石
☆天正18年(1590)、貞信が160石拝領、貞富で400石、貞治で1300石、常方が1400石。
貞信-貞富-貞常-貞治-常方-貞殷-貞則-貞徳-貞勝-貞陽 。
赤堤陣屋は六所神社辺り。
赤堤陣屋領主、服部氏の墓は西福寺。
西福寺は赤堤3丁目だそうですよ
赤堤陣屋/服部氏陣屋は中世の世田谷城の支城の跡に築かれた。
現在の六所神社と赤堤幼稚園。
(服部半蔵家とは別系統)
同じ家長の子孫を称しててもやはり半蔵の家とは別系統のようですね
ということは、
平家以前から伊賀に存在した本来は物部氏系の服部氏か秦氏系の服部氏だった?
平家が伊賀に来て、土地の豪族の服部氏と婚姻で結ばれて、
貞信の家の服部家は平氏と一体化した?
半蔵の家は帰化人系じゃないと断りがありましたから
貞信の家は帰化人系服部氏、という意味だったのかも。
貞信の家の家紋には 万字紋 卍 もあるそうなので
卍紋からも探るのが良いかも。
貞信の家はその他にも 矢の字桔梗紋 も使っているそうなので
それに貞信は「美濃」「別当」も称しているから
ひょっとすると 美濃=明智=桔梗紋 と関係するのかしら?
名張の服部家=光秀の後妻の家=と関係?
それで家康を宇治田原から駆け付けて伊賀越えさせることが出来た?
やっぱり謎の多い家です。
ちなみに三重県の秦氏系服部氏の家紋は 笹系の紋 と記憶しています。
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月18日 15時50分52秒 ) | パスワード |
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/manzi.html
源氏系では、蜂須賀小六の蜂須賀氏をはじめ伊丹、小田切、多田、朝日の諸氏。
平家系では上坂、小野氏。
藤原氏系では、津軽、鳥居、朝比奈、万年の諸氏が使用している。
他にも、小野氏系の岡部氏、服部氏系の服部氏などが用いている。
↑
貞信の家と関係するでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8D
卍紋、万字紋(まんじもん)は、仏教の吉祥を表す紋として用いられる。
形状から日本のキリシタンが十字架の代わりともした。
卍紋を家紋として用いた氏族としては、
平安後期から鎌倉初期の武蔵七党筆頭(小野)横山氏が「丸に左万字」、
戦国時代から江戸時代以降では、加賀八家横山家が「丸に左万字」、
大名では大給松平家、高木氏は「左万字」、津軽氏は「五つ割左万字」、蜂須賀氏は「丸に左万字」、
江戸幕府家臣では、60 氏ほどが『寛政重修諸家譜』に掲載されている[5]。
幕末に活躍した吉田松陰の家紋は「五瓜に左万字」である。
津軽氏の本拠であった青森県弘前市は卍紋を市章にしている。
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月18日 16時03分49秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>藤堂藩分限帳
>いわゆる忍者と思われる人々が「伊賀者」として分類されておりました。
>そこには、服部と永井は世代を超えてずっと記録されています。つまり、
>忍者の服部と永井です。大発見でありました。
驚きですね。
永井氏・長田氏系の忍者というのは聞いたことがないです。
本物の忍者の家だったのでしょうか?
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/nagaisi.htm
伊賀永井氏城
伊賀 永井氏城
お城のデータ
所在地: 三重県伊賀市出後字中出山
遺 構: 曲輪、土塁、堀切
形 式: 丘城 築城者: 永井内膳 築城年代: 天正年間
見 ど こ ろ
永井氏城は、前山山頂部から北に延びた尾根筋頂上部東側に築かれ、尾根先端部には中出山城がある。
城の主郭は、丘陵東側斜面を南・西・北の三方を切り込み土塁を築き、その高さは約5〜6m程もあろうか。 東側は盛土の土塁となっていて、ここに虎口が設けられている。 城の北側と西側には堀切が掘られ、堀の外側北東部と西側に数段の曲輪が設けられた縄張りとなっていた。
歴 史
永井氏城は、天正年間に永井内膳によって築かれた。 永井氏は、天正伊賀の乱にも参陣して織田勢と戦った郷士。
お城へのアクセス
鉄 道: 伊賀鉄道上野市駅〜バス/出後橋
車 : 名阪国道中瀬IC〜国道163号線
駐車場: なし。(地蔵堂前に駐車スペースあり)
ひとくち MEMO
分厚く高い土塁に囲まれた主郭を持つお城。
______________________
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html
永井氏
黒餅に鉄線
(桓武平氏長田氏流/大江氏流)
先祖は長田左衛門尉親政というが、長田が源義朝を討ちとった家号であるため、家康の命で大江氏となり永井を称した。
永井氏は重元のとき家康の父広忠に仕えた。広忠は三河国大浜郷に砦を築き、重元に守備させた。天正十年(1582)、織田信長の横死のあと、家康が伊賀越えで伊勢の白子に上陸したとき、重元は船を用意して三河の大浜郷の自身の館に迎えたえという。永井氏は大浜郷の領主であったようでもある。
碧南の長田氏と重なりますね=長田忠致の兄の移った処=乳母の実家
重元の子が直勝で、かれは家康に仕え、見込まれて嫡男信康の近習を務めた。不幸にして信康が亡くなってからは、もっぱら旗本として戦場に立ち、天正十二年(1584)の長久手の戦いでは、秀吉方の将、池田恒興を討ちとり、味方を勝利に導くとともに、一躍勇名を轟かせた。
直勝に討たれた恒興は信長の乳母の子で、本能寺の変後、清洲会議で柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀らと並んで宿老の四人のひとりに数えられたほどの人物。後年、恒興の次男で、家康の娘婿にあたる輝政は、直勝と雑談におよんだおり、ふと「その方の禄はいかほどか?」と尋ねたことがあった。直勝が七千石だと答えると、輝政は「我が父ともあろう人の首にしては、安いものよのう」と冗談まじりにこぼしたという話が伝わっている。
武将としての直勝の名は、朝鮮の役のおりにも秀吉から「比いなき勇士よ」と賞賛され、面目を施している。慶長元年には、従五位下・近衛大夫に任官。
しかし、直勝は単に武功を重ねたのみならず、関ヶ原の役が終わってのちは、天下を平定した家康の片腕となって、その論功行賞をめぐる直参と大名家の反目を調停する任にあたった。なかでも井伊直政や本多忠勝に意見した話は有名である。
直勝のこうした活躍は、元和三年(1617)の常陸国笠間三万二千石、同八年の下総国古河へ七万二千石の加増移封というかたちで報われ、幕府の評定衆に列する栄誉をも担うこととなる。晩年、細川藤孝について、有職故実を学び、徳川家の礼儀、幕府の式典を定める重責を担った。
そして、永井氏は一文字に三つ星紋の他に、唐梨(からなし=木の下に示とも表記する)と、鉄線紋も用いていた。唐梨は四弁の花のように見えるが、梨の実の切り口で、丁寧には「永井梨切口」という。鉄線は朝顔に類似した植物で、その蔓が鉄のように丈夫なことから鉄線と呼ばれるようになった。そして、宗支によって、家紋の意匠を違えている。三つ星の場合、一文字の書体に変化をつけ、唐梨は加納永井家の場合、「石持地抜き唐梨」であった。さらにいえば、鉄線は高槻永井氏が用いていた。
いずれにしろ、唐梨紋は永井氏の独占紋ともいえる、珍しい紋であろう。
[65] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月18日 23時05分05秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
赤坂は全くの思い込みでした。参勤交代の旗本屋敷とばかり思っていたの
で江戸城の近くというイメージがありましたが、世田谷というとちょっと離
れている。陣屋なので旗本屋敷というより代官屋敷ということでしたね。
旗本江戸屋敷は江戸城を取り囲んでいる。この地図には江戸城を取り囲む
半径約三キロ位の範囲の大名・旗本屋敷が載っておりました。
旗本服部中は牛込の加賀屋敷に住んでいたというので、探してみましたが、
どうも見つかりません。時間ばかり浪費するので、この作戦は一旦休止いた
しました。全旗本のデータ一覧表があれば見たいものです。
藤堂藩の伊賀者については、「忍衆」という表示ではなく「伊賀者」でく
くられておりました。この本の名称は『上野城絵図集成』(福井健二著)とい
うもので、目的は上野城の図面・間取り・武家屋敷図等にありますので、目
的からいうと、ついでに分限帳等を載せているといった感じなので、理路整
然とはしておりません。ただ、
1.伊賀附俸禄帳(享保2年 1717)
2.伊賀分限帳
3.伊賀御家中分限帳
が載せられていて、その中を見ますと「伊賀者」ということでひとくくりに
されている集団が見られるということです。忍衆だとは思いますが違います
でしょうか。たしか永井忍者は甲賀に属したと思いますが、伊賀にいたとし
ても、それはありえることだとは思いますが。
例えば1の『伊賀附俸禄帳』では―
5500石 藤堂采女
に始まり、
〜中略〜
伊賀者
米43俵5人扶持 貝野九左衛門
米36俵4人扶持 服部勘八
米36俵4人扶持 滝加兵衛
米34俵3人扶持 曽我長左衛門
米30俵3人扶持 山岡権瓶平
〃 沢村権六
〃 相楽四郎平衛
〃 永井又平衛
〃 重福彦左衛門
〃 久保田又八
〃 小屋勘右衛門
米40俵4人扶持 和田八蔵
米30俵3人扶持 竹嶋伊助
〃 木津伊之助
〃 服部甚助
米29俵4人扶持 田中佐五兵衛 以上16人
〜後略〜
『伊賀分限帳』では―
伊賀者
36俵3人扶持 小屋粂左衛門
36俵4人扶持 服部五三郎
29俵4人扶持 滝五郎助
26俵3人扶持 重福専左衛門
23俵3人扶持 永井又兵衛
26俵3人扶持 竹嶋三太夫
23俵3人扶持 久保田伝右衛門
〃 山岡才三郎
27俵3人扶持 相楽金二郎
26俵3人扶持 和田右内
31俵3人扶持 沢村甚三郎
30俵3人扶持 稲増二郎右衛門
23俵3人扶持 山岡安三郎
18俵3人扶持 貝野元之助 以上14名
『伊賀御家中分限帳』では、名前だけにしますが―
伊賀者
重福真治郎
山岡新五郎
久保田伝右衛門
滝猪之助
竹嶋三太夫
小屋粂左衛門
永井又兵衛
相楽潦三郎
稲垣甚七
和田右内
服部鉄五郎
沢村甚三郎
山岡一二
貝野幾太郎
澤村甚蔵
永井又蔵 以上17人
となっています。忍者は本当は鉄砲隊なのか、御庭番なのか、無足人なのか
ちょっと確証がありません・・・。
采女の残した忍者のリストがあれば一番いいのですが・・・。
さて、本日の小和田先生の講演についてですが、ここのところ井伊氏・松下
氏・築山御前について勉強しておりましたので、特段目新しい内容は私にとっ
てはありませんでした。
ただ、井伊直政が高天神城攻めで手柄をたてた。つまり間諜を使って高天神
城の水源を断ったということです。それは水脈を切ったのか、井戸に毒を入れ
たのか・・・(たぶん毒ではないかと私は思いました)。それによってやがて降
伏に至ったということです。もろに高天神城の話が出たのが驚き(偶然)でした。
そのほか、小和田先生が時代考証を担当したという『黒田官兵衛』でのエピ
ソードがいくつか語られました。例えば官兵衛が薬草を採りに行った竜神池と
いう池には架空の名前をつけてしまった。そしたら、視聴者から問い合わせや
苦情めいたものが続出したとか、秀吉から与えられた刀は刀ではなく、正しく
は太刀(長い)であるといった職業的専門家よりの指摘だとか、時代考証はいろ
いろたいへんであるということが述べられました。
帰りに、小和田さんの書いた『日本を変えたしずおかの合戦』という新書版
の本を購入して帰りました。
本日はこれにて―
[67] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月19日 07時09分28秒 ) | パスワード |
知恵袋よりコピペ:
日本の十大家紋の一つでもある「柏紋」の使用家は、
神宮では三重県の伊勢神宮の久志本氏、愛知県の熱海新宮(え?)の千秋氏、
岡山県吉備津宮の大森氏、福岡県宗像神社の宗像氏などがある。
公家では神道で朝廷に仕えたト部氏とその後裔の吉田、藤井、萩原、錦織の四家が使用。
柏紋は普通は葉を文様化してるが、中には実や枝をつけたものもある。
葉の数は一葉から九葉まであり、形は「対い柏」「抱き柏」「違い柏」などがある。
しかし、最も多いのは「三つ柏」と「抱き柏」だ。
これに蔓が生えているのを「蔓柏」という。
「三つ柏」は七福神の恵比須さまが、この紋を用いている。
http://www1.ocn.ne.jp/~argus/bunrui-1/10-06kasiwa.html よりコピペ
_____________________________
愛知県の熱海新宮の千秋氏
これは「熱田神宮」の誤りと思います。
_____________________________
千秋氏は東三河に来てましたから当然遠江にも来てますよね。
ということで可能性が1つ増えました。
「尾張氏」がらみということならいよいよ「納得」ですよね。
_______________________________
丸に三つ柏紋
可能性がいよいよ増えました。
高槻の神服神社がらみ?
長田氏・永井氏がらみ?
熱田神宮の千秋氏がらみ?
でも「神社」がらみというのが一層濃くなりましたね。
[68] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月19日 08時28分38秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ご報告をありがとうございました。
>この地図には江戸城を取り囲む半径約三キロ位の範囲の大名・旗本屋敷が載っておりました。
面白そうですね。
>旗本服部中は牛込の加賀屋敷に住んでいたというので、探してみましたが、
どうも見つかりません。
これは、新宿区市ヶ谷加賀町にあったという意味で「加賀屋敷」ということじゃ?
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.68870218&lon=139.71621002&ac=13104&az=92.4&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8C%BA%E5%9B%9B%E8%B0%B74%E4%B8%81%E7%9B%AE
つまり 四谷も牛込も半蔵門も すぐ 近くですよ。
服部中保次の子供達の家はお城の西側すぐ近くだったということです。
>時間ばかり浪費するので、この作戦は一旦休止いたしました。
>全旗本のデータ一覧表があれば見たいものです。
これは無理ですね。
旗本の数は膨大ですから。
笑
服部中の家が牛込にあったというお話ですが
貞信の陣屋屋敷と菩提寺がすぐ近くだったということで
服部中の住んでたところと菩提寺を書き出してみます:
服部中保次 遠江国刑部村
服部保正 四谷別荘のうちに湖雲寺を開基 のち麻布に移す 代々の葬地とした
妻は紀州家家臣川井刑部重長の娘で男子を3人生んだ
川井氏ですよ!
服部保俊 遠江国敷知長上郡に引っ越して新井の関所番に。
この保俊の弟 保久の母も 紀伊家の臣・川井重長の娘です
つい最近 三つ柏さんは浜松でカワイの墓も見たとお書きでしたよね!
そうすると浜松のカワイさんも親戚まわりかもね。
以上、服部中保次の長男系他の子孫達は江戸にいたようですね。
ということで湖雲寺を調べました。http://azabusaiken.ttcbn.net/machi/kounjimonzen.html
お寺の引っ越し先は現在の港区六本木4丁目ですね。 向こうの方に赤坂がありますね。笑 惜しい!
http://www.mapion.co.jp/address/13103/30:4/
■ 湖雲寺について
現在の六本木四丁目、住居表示前の旧麻布今井町にある曹洞宗寺院、祥永山湖雲寺。
湖雲寺は旧麻布今井町にあるが、江戸期は当地が麻布谷町に含まれており、
江戸期の資料を読むと、湖雲寺の所在は麻布谷町と書かれている。
明治初期に麻布谷町と今井町で町域が大きく変化し、
明治以降は麻布今井町に含まれるようになった。
昭和16(1941)年の麻布区史では誤解が生じており、湖雲寺が谷町から今井町に移転したと書かれているが、これは間違い。
■ いわれと歴史
湖雲寺は、慶長5(1600)年に四谷仲殿町に創立した寺院で、四谷にあった頃から門前町屋を持っていた。
元禄8(1695)年の大火で焼き払われ、用地が幕府に召し上げられ、現在地に代地を賜り、以前と同様に門前町屋を持つことを許され、幕末まで続いた。
明治2年に湖雲寺門前という地名は麻布谷町に吸収され、町名が消えた。
______________________
服部中保次の次男系の家は四谷の勝?興寺に葬っているのですが
大久保忠重から嫁が来て以降
牛込の仏性寺に葬って代々葬地とした、とあります。
四谷の勝興寺
http://4travel.jp/domestic/area/kanto/tokyo/shinjuku/yotsuya/temple/11348226/
住所: 東京都新宿区須賀町8-7
この近所に住んでたんでしょうね。
東京メトロ四ツ谷駅からちょっと街外れにこの寺院がございます。
また、この寺院も建造されてから、約400年くらいの年月が
経過しようとしております。
都内の寺院の一つです。
また、この付近にも歴史上の人物のお墓がございます。
その人物というのが・・・・
七代目、首切り浅の墓所
須賀公園・須賀神社の上手にある曹洞宗の寺院。
山号は法輪山。
1582年に、麹町に創建、江戸前期に当地へ移転。
ここは境内が広く、奥まったところに本堂がある。
斬首刑の際、介錯役を代々勤めた山田浅右衛門の7代目の墓がある。
四谷三丁目駅、四谷駅、信濃町駅に囲まれた須賀町にあるお寺は、どこも小ぶりだが、このお寺は境内が広い。
奥まったところに本堂があり、造りは鉄筋コンクリートよようだ。斬首刑の際、介錯役を代々勤めた山田浅右衛門の7代目の墓がある。
_____________________________
で、牛込の仏性寺の件ですが、びっくりです!
どうやら大久保家の菩提寺のようですね。
大久保 忠寛(おおくぼ ただひろ、元禄7年(1694年) - 享保2年10月2日(1717年10月24日))は、江戸時代の旗本。紀州藩士大久保忠直の長男で、徳川吉宗の側室お須磨(深徳院、徳川家重生母)の弟。母は紀州藩士内藤幸右衛門守政の娘。通称、八郎五郎。娘に笹本喜福の妻。喜福の子の大久保忠省(ただみ)を養子とした(のちに実家の笹本に復する)。
紀州藩に仕え、享保元年(1716年)徳川吉宗が将軍に就任するとその小姓となり、旗本として下野国都賀、河内両郡において700石を給う。しかし、翌年24歳で没する。法名は日性。墓所は牛込・仏性寺。その後は、弟の往忠が継ぎ、姉・お須磨の縁により5000石の大身旗本となった。
その前に1つスキャンダルも(笑)
http://blogs.yahoo.co.jp/howmuchdidyoushow/62026013.html
阿部伊勢守正弘。
備後福山藩主である。
22歳のとき、寺社奉行としてある不祥事の始末を老中・水野忠邦に命ぜられた。
まだ22歳のときだ。26歳で首席老中(総理大臣)になるだけのことはある。
ある不祥事というのは、日啓という僧侶と大奥の間に発生した。
日啓は江戸牛込の仏性寺という日蓮宗のお寺の僧侶だった。
この日啓の娘にお美代というのがいた。
坊さんに娘がいた。
本来ならこれでこの話は「はい、おしまい」だ。
ところがこの寺の檀家に中野清茂という男がいたことが不祥事の芽だった。
中野清茂は一般的には中野碩翁の名前で知られる男で、旗本だった。
清茂が檀家ということで日啓は江戸神田駿河台の中野屋敷に出入りがあった。その関係で、日啓はお美代を中野屋敷に奉公に出していた。
清茂は日啓に
「お美代はワシの眼から見ても美人。どうじゃ、ワシの養女として大奥に御奉公させてみぬか?」
と話を持ちかけた。
日啓に異存は無く、お美代は清茂の養女として大奥に入り「お手付き」となった。
お美代と家斉将軍の間には3女が生まれ、このうち溶姫は金沢の前田斉泰に嫁いだ。
文政年間に家斉将軍が病気から頭痛持ちになったことがあった。
この頭痛持ちが日啓の祈祷で治ったということで日啓は家斉将軍から信用を得た。
日啓の祈祷を家斉将軍に勧めたのは、言うまでも無くお美代だ。
日啓は信用を得たことを利用して感応寺というお寺を再興しようとした。
「再興」というのは感応寺というお寺そのものは江戸谷中にあったのだが、綱吉将軍の頃に弾圧を受けて日蓮宗から天台宗に改宗させられてしまったため、日啓はこれとは別に日蓮宗の感応寺を再興しようとしたのだ。
家斉将軍は江戸雑司ヶ谷に約93,000平方メートルの敷地を日啓のために用意した。やがて感応寺が竣工し、このお寺を舞台に不祥事が発生する。
大奥の女中たちが感応寺にお参りに行くようになった。
「お参り」とは口実で、実際は感応寺の僧侶とのチョメチョメを楽しむためだった。
やがてこれが江戸っ子の噂となり、首席老中・水野忠邦の知れるところになった。
「噂が事実かどうか、確かめろ」
忠邦は阿部正弘に命じた。
正弘が調査した結果「噂は事実」とわかると忠邦は「寺社奉行のおまえが始末しろ」と言った。
正弘は家斉将軍の名前に傷が付かないように日啓とその身内だけを処分した。
見事な後始末だった。.
_____________________________
ちなみに服部半蔵の墓
http://4travel.jp/domestic/area/kanto/tokyo/shinjuku/yotsuya/hotplace/11302416/?lid=dm_sh_each_bottom_clm_sh_kankdmpot_each
本堂の隣に堂々と 服部半蔵の墓、案外、こぢんまり 四ツ谷の西念寺にある
住所: 東京都新宿区若葉2-9西念寺内 服部半蔵の墓
アクセス: 四ツ谷駅から徒歩で8分
そうしますと服部家の皆さんは四谷あたりに住んでた?
[69] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月19日 08時38分49秒 ) | パスワード |
仏性寺についてhttp://www.tesshow.jp/suginami/temple_matsunoki_daiho.html
(七軒寺町)正榮山佛性寺 下総中山法華経寺末
往古平河に在り、慶長十年徳川頼宣の祈禱所として取立られたもので、寛永四年舊地を上地し、市谷田町(或は龍慶橋邊とも傳へる)に替地を拝領したが、
後外濠普請で又上地し、寛永十二年七軒寺町に移つた。
開山佛性院日純、明暦四年五月五日遷化。中興五世日言、享保十年十月十七日遷化。舊時境内拝領地二百九十九坪、借地百八坪。(「牛込區史」より)
______________________________________________
以下、対話形式:
http://nsn-hatsudai.com/sp/his2.html
第1回 江戸四宿・内藤新宿(2)
語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。
聞き手:内藤なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。
ここから:
お堀が出来て町が変わった
前回、江戸時代以前の初台にはな〜んにもなかったことはわかりましたけど、いつまでも何もなかったわけじゃないでしょ。
そりゃそうさ。江戸時代になって江戸を中心として全国を結ぶ大動脈が整備されていった。いわゆる五街道だ。五街道って全部言えるか?
う〜ん。何だろ。東海道はわかるけど、あとは何? 北海道?
恐ろしいボケをかますなぁ、キミも。いつから北海道が道になったんだよ。出来た順に言えば東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道の5つだ。
あはは。そういえば甲州街道と日光街道は今でも名前が残ってるわよね。
(甲州街道のところに半蔵門があって配下が住んでたような?)
旧国道4号の宇都宮以北を奥州街道と呼ぶこともある。東海道は新幹線の代名詞になって残っているから、名前が消えてしまったのは中山道ぐらいかな。
その五街道は、いつ頃できたの?
慶長9年(1604)に日本橋が基点と定められてから、3代将軍家光の時代、寛永元年(1636)から正保3年(1646)の22年間で東海道、日光街道、奥州街道が完成。5代綱吉の元禄7年(1694)に中山道、甲州街道は時代がずっと下って10代家治の明和9年(1772)に完成する。
四谷に関係あるのは当然、甲州街道よね。
五街道にはそれぞれ一里(約4キロ)ごとに一里塚、一定距離ごとに宿場を置いた。甲州街道の場合、最初の一里塚は新宿4丁目の天竜寺の先、今探すなら「一里塚」というバス停が目印だな。但し、見に行っても何も残ってないけど。
じゃあ、甲州街道最初の宿場はどこだったの?
高井戸だね。でも、これが日本橋から16キロも離れていたから不便だと評判が悪かった。そこで誕生したのが内藤新宿というわけだ。
その宿場ができてから、新宿が発展していくのね。
今の新宿中心部についてはそうだけど、それ以前に、四谷近辺が先に都市化している。契機になったのは寛永11年(1634)の江戸城外堀工事だ。
外堀って、今の外堀通りと関係あるの?
ほぼ外堀に沿って作られた環状の道路が外堀通りだ。同様に、内堀に沿った道路が内堀通り。で、外堀工事で麹町にあったたくさんの寺社が移転を余儀なくされた。ざっと紹介すれば宝蔵院、安楽寺、勝興寺、宗福寺、妙行寺、永心寺、安禅寺、正応寺といったところだ。
そういえば、須賀町とか若葉二丁目の辺りってお寺がやたら多いわよね。
かつては寺町とか南寺町なんて呼ばれていたからね。翌年には牛込御門外堀、つまり今の飯田橋近辺にあった仏性寺、宝竜寺、鳳林寺、久成寺、千手院、浄輪寺、多聞院の七つの寺も移転したから、移転先が牛込七軒寺町という地名になった。これが今の弁天町だな。
お寺って広いから、引っ越しするのも大変だったでしょうね。
まぁ、逆の見方をすれば、広いから邪魔だったわけだよ。幕府としては城内にお寺を置くより、幕臣や大名の屋敷用地を確保する方が先だからね。堀ができると城門もできる。城門には警備の者が置かれて見張り所となる。これが見附だ。見附は全部で36カ所あったらしい。
赤坂見附とか四谷見附ってそういう意味かぁ。
今でも四谷駅に石垣が残っているだろ。そこがかつての四谷見附門だ。枡形の堅牢な門で、しかも、門の前には橋がなくて、離れた場所に土橋があったから、どうしても迂回しなくてはならず、守りやすく、攻めにくい構造でもあった。
そりゃあ、お城を守るにはいいでしょうけど、毎日通う人にとってはいい迷惑よね。
確かにその通りで、明治5年には不便だということで門は取り壊され、新たに四谷見附橋が架けられたというわけ。
[70] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月19日 09時03分55秒 ) | パスワード |
レス<65>の続き:
>藤堂藩の伊賀者については、「忍衆」という表示ではなく「伊賀者」でくくられておりました。
「伊賀者」の定義が分からないのが残念ですね。
采女に従った伊賀出身者という意味なのか「特殊技能集団」という意味なのか。
>忍衆だとは思いますが違いますでしょうか。
>たしか永井忍者は甲賀に属したと思いますが、伊賀にいたとしても、それはありえることだとは思いますが。
伊賀と甲賀は同じでしょうね。
山のこっちが伊賀で、山の向こうが甲賀、
それぐらいの違いでしょうね。
ただ伊賀の方は歴史の表舞台に名前が残ったけど。
> 5500石 藤堂采女
すごい!
「貝野」という名字が新鮮でした。
検索してみました;
播磨では珍しい畝状竪堀の多用が特徴的─貝野城
貝野城はかつて松井荘と呼ばれた北播磨の多可郡中町にあり、東山古墳群を見下ろす妙見山から南に伸びた尾根先に 遺構が残っている。松井荘は古代より拓けたところで、東方に丹波国へ通じる小野尻峠、 北方は杉原荘を経て但馬に通じる道が走る要衝の地であった。南北朝時代、播磨守護に任じられた赤松氏は、 一族の宇野氏を松井荘に配して但馬・丹波に備えた。
戦国時代、赤松一族の在田氏は赤松宗家の斜陽を後目に北播磨の一大勢力に成長した。在田氏本家は河内城を居城とし、 松井荘一帯は在田氏の分家在田八郎太郎が段垣内構居を築き、段ノ城を詰の城として実質的支配を行なっていた。
貝野城は在田氏と深い関係にあった但馬山名氏の築いた城で、在田氏の拠る段ノ城と呼応するかたちで北播磨と 但馬をつなぐ多可の地を押さえていた。 そして、段ノ城、貝野城を総称して、『荒田構居』または『荒田城』ともよばれていた。
やがて、東播磨の三木を本拠とした同じ赤松一族衆の別所氏の勢力が北播磨に及ぶようになると、在田氏本家は居城を野間に移し、段ノ城を改修、さらに貝野城も同じころに改修されて、荒田衆と称される山名氏被官が在城していた。 当時の文書などから城主は遠く備後国を本拠とした山内氏であったといい、その意外さに驚かされる。 応仁の乱ののち、但馬山名氏と播磨赤松氏は宿命的抗争を繰り返し、播磨は山名氏の支配するところとなった。そして、山名氏の麾下の一員として 備後山内氏が播磨と但馬をつなぐ要地である松井荘に配されたものであろう。
以下略
伊賀の貝野について
http://www.isekiwalker.com/iseki/56971/
貝野氏館跡
時代 室町
所在地三重県伊賀市才良東浦469〜471
緯度経度
遺構概要城跡、溝+井戸。
<現況>市街地・集落/耕作地 遺物概要 発掘概要 その他概要LCc3/ON7032/PN7032/。<全国遺跡地図番号>7-882。旧、上野市。
>忍者は本当は鉄砲隊なのか、御庭番なのか、無足人なのか
>ちょっと確証がありません・・・。
>采女の残した忍者のリストがあれば一番いいのですが・・・。
秘密の役目の人ですから、記録がなくて当たり前なんでしょうね。
>小和田先生の講演についてですが、
>井伊直政が高天神城攻めで手柄をたてた。
>つまり間諜を使って高天神城の水源を断ったということです。
>それは水脈を切ったのか、井戸に毒を入れたのか・・・
(たぶん毒ではないかと私は思いました)。
>それによってやがて降伏に至ったということです。
へえ〜
水を抑えましたか。
水が無いと生きていられないですからね。
>もろに高天神城の話が出たのが驚き(偶然)でした。
行っておいて良かったですね。
そして登場人物の名前に心当たりが出来てましたから
小和田先生のお話が良く分かって良かったですね。
>小和田先生が時代考証を担当したという『黒田官兵衛』でのエピソードがいくつか語られました。
>例えば官兵衛が薬草を採りに行った竜神池という池には架空の名前をつけてしまった。
>そしたら、視聴者から問い合わせや苦情めいたものが続出したとか、
龍野ですから、竜神池とつけたのでしょうね。
笑
安易過ぎましたね。
土地の人は「そんなもん無い」ってご存知ですものね。
>秀吉から与えられた刀は刀ではなく、正しくは太刀(長い)であるといった職業的専門家よりの指摘だとか、
そうですね
日本ですからちゃんとした名称を使わないとね。
刀は実用だし
太刀は装飾とか権威だし
目的が違うものね。
天皇から頂くのは 節刀 でしたよね。
これは「任命」のしるし。
持つことでも言葉が違いますよね。
刀は帯びる かな? だから帯刀
太刀は佩く かな? だから佩刀
それぞれ言葉がちゃんと存在しているから テキトー に誤魔化すな! と苦情が出ますよね。
>時代考証はいろいろたいへんであるということが述べられました。
そう思います。
その為に時代考証者がいるんですから。
「ちゃんと仕事しろ!」
と苦情が出ますよ。
>帰りに、小和田さんの書いた『日本を変えたしずおかの合戦』という新書版
の本を購入して帰りました。
また知識が増えますね。
神代や古代の静岡の本が欲しいですね。
楽しい講演会になって良かったですね。
[71] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月19日 12時38分50秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
素晴らしい推理をまたありがとうございます。ゾグゾグすると脳内にエン
ドルフィンが湧いて気持がイキイキとしてまいります。目の輝きも変わって
来ます。
確かに江戸は一番の情報の集約地に違いありませんね。あらゆる話、過去
の歴史の話題、秘密情報、大名・旗本の人間関係、その他諸々の情報が一つ
の脳内ネットワークのように飛び回っていた。そんな推測をいたします。
しかし、この地図を見て、今のゼンリンさんもビックリだと思います。旗
本の姓が一人一人全部書いてある。江戸の住宅地図の中にギッシリとですよ。
虫眼鏡でないとわからない小さな字。江戸城を中心として360度、向きも
変えて書いてある。地図って鳥瞰しないと、また測量しないとゴチャゴチャ
した道など、方向も距離もまた縮尺もわからなければが描けないですよね。
それが描けているということは、基本的な実測図があったということになり
ます。その上に、調査したデータを落とし込んだということになります。
測量技術が発達していた証拠であります。土木・建築に測量学、地質学、
縮尺は必要。そんな技術・知識が想像以上に進んでいたと思います。
江戸のお寺は何らかで大名・旗本の菩提寺となっている所が多いので、江
戸時代の情報の宝庫ですよね。これからは少し考えを改め、東京に言ったら
まずお寺を訪ねるようにします。
また、江戸は岡崎・浜松・静岡と家康の関係で特に密接に関係している。
地名が特にそうで、私などは東京の浜松町に行くと浜松に来たような錯覚を
覚えますし、その他にも一杯あると思いますが・・・。
過去というブラックボックスの謎を解いて行く・・・少しずつですが進ん
でいると思います・・・あを様に感謝申し上げます。
[72] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月19日 14時03分07秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
服部家捜し、またゼンリンの地図を改めてご覧になってください。
ちょっと時間を置いて新しい目で。
地図の中の家の名は
お取り潰しがあったりして新しい家が入ったりしてて
それでも「江戸時代の旗本の家のゼンリン地図」が間に合ってたら良いのですが。
服部中の家が見つかると良いですね。
>測量技術が発達していた証拠であります。
>土木・建築に測量学、地質学、縮尺は必要。
>そんな技術・知識が想像以上に進んでいたと思います。
はい
日本人は古代から豪族の墓を作って来ましたから
土木工事は得意でしょうね。
たいしたもんです。
今の人達お驚く技術を持ってたんでしょうね。
>東京に行ったらまずお寺を訪ねるようにします。
はい
お寺のお墓を見たら、その近所に住んでた、ってことかも知れないですね。
>私などは東京の浜松町に行くと浜松に来たような錯覚を覚えます
浜松町(はままつちょう)http://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/kuse/gaiyo/chimerekishi/09.html
慶長8年(1603)頃は、増上寺の代官“奥佐久方衛門”が名主を兼ねていたため、
「久右衛門町」と呼ばれていました。
この頃から海岸が埋め立てられ、おもに増上寺の関係者が移り住むようになり、次第に町を形成していきました。
元禄9年(1696)に遠州(静岡西部)・浜松出身の「権兵衛」なる人物が名主となってから、浜松町と名のるようになりました。
へえ〜
本当に「浜松」からの名付けだったのですねえ
明治期に入り、新見藩関家上屋敷、小田原藩大久保家上屋敷などを併合し、明治11年(1878)、芝区に編入しました。
昭和7年(1932)に神明町、芝新網町、湊町、新銭座町、宇田川町の一部を併合。
昭和22年(1947)、港区に所属して芝浜松町となり、昭和47年(1972)に「芝」の冠称が削除され、名実ともにほぼ現在の町となりました。
>過去というブラックボックスの謎を解いて行く・・・少しずつですが進んでいると思います・・・
なかなか解読が難しいですね。
ここでアップ
[73] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月19日 14時25分19秒 ) | パスワード |
丸に三つ柏紋の使用者に熱田神宮の千秋氏があったことには驚きました。
高槻の神服神社の紋がどこから来たのか?
熱田神宮が絡んでいるのかな、とも思い始めました。
レス<23>に
神服部は尾張氏系 また 尾張氏は物部とも関係があるらしいという話がありましたね
殿服部は物部氏系でしたっけ?
レス<28>に高槻の神服神社について書かれてますね
復習 http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daionokuni/1327734974981.html
神服神社と服部
服部村にあり。
『延喜式』に出づ。此所の生土神(うぢがみ)とす。
例祭四月八日。
『姓氏録』に云ふ服部連は速日命十二世麻羅宿禰の後なり。
つまり物部氏?
允恭帝の御時織部司に任じ、諸国織部を惣領す。 ⇔ ココ
まさに服部半蔵の家の歴史に合致します
服部連は祖先を勧請し、「服部神」と称していましたが、延喜年間に「神服神社」と改称しました。
半蔵の家は「帰化人ではない」と書かれていますから「秦氏ではない」で良いのでしょうか。
ということは 丸に三つ柏紋さんは 物部氏の可能性が高い。
ダメ押しで 熱田神宮とも 関係がある?
仮説
物部系の服部氏は神服神社と実働部隊の秦氏系の織子を連れて遠江国に来た。
また同じく物部系の服部氏が秦氏の織子を連れて伊賀に定着。
11世紀前後に関東より平氏が移って来て伊賀伊勢を本貫地とし一部は地元の服部氏と結んで服部を名乗る。
この伊賀の服部氏は平姓を名乗る。
こんな流れでしょうか?
で、貞信の家は矢紋の他にも桔梗を紋としているから=5弁
桔梗といえば 安倍晴明 そして五芒星
関ヶ原の屏風で見た六芒星 ダビデの星の紋 をつけた人々は矢張り貞信の一族?
すっごいコジツケ???
ま、頑張ります。
[74] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月19日 14時26分24秒 ) | パスワード |
そろそろ XXIV 24をお立てになってください。
重くなりました。
[75] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月19日 15時55分00秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「服部中保次の次男系の家は、四谷の勝興寺に葬っているのですが、大久
保忠重から嫁が来て以降〜」とありましたね。私が過去調べた中では、忠重
の子供には三人あって、長男は忠兼、次男は服部政治(正信系)の養子、娘は
松下房利(井伊家に仕え、直政の継父となった松下清景の弟常慶の五男)の
継室となっております。ということは、服部中の次男系=松下房利という
ことになりませんか。それとももうワンクッションあって、松下房利は服部
中系男子から後妻を拝領した? 服部中系は旗本で中忍、松下常慶系は中忍
の下の方か?
あを様、ひとつ謎が湧き上がりました!
[76] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月19日 16時17分15秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
レスすれ違いました。あを様の推理、ガツンと来るものがございます。
今までの仮説になかったもの、千秋(せんしゅう、と読む?)氏と、また
物部氏とからめる・・・長上郡は主として物部氏及び関係氏族が開いたと
思います。というのは、この地方出身の防人の歌が、物部の名前でいくつ
か万葉集(と思いましたが)に収録されているからです。また尾張氏は遠江
に進出して来ていると思います。たぶん草薙の剣か、銅鐸の関係か、その
証左は探してみます・・・。
気になるのは、秋鹿氏というのが天領の代官だった。府八幡宮の宮司で
もあったということで、千秋と秋鹿・・・「秋」が共通にあるという所も
何か気になります。ひょっとして何かつながりがあるのでしょうか?
レス]]Wを立てます。
[77] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月19日 22時19分12秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
頂いたレス<75>と<76>についてはアタマを休めて
また検索します。
神服部が尾張氏系ということ
↕
源頼政の鵺退治に協力した公家が失脚して頼政関係で神服部となって浜松に来たこと
↕
この公家は 尾張氏 に化けた?
↕
浜松の神服部さんは今や尾張氏であり藤原貴族の子孫である?
物部系服部氏が平家や南朝方や家康と結んで武士化して平氏で定着?
ま、いろいろゴチャゴチャ考えてみます。
確かに 銅鐸 を思い出さないといけませんでしたね。
すっかり忘れていました。
物部系服部氏も銅鐸を携えて来たのかもですね。
その他、いろいろ考えてみます。
スレッド XXIV の方に書きます。
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