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 投稿番号:101405 投稿日:2014年12月11日 22時57分52秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]T
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「長上郡の服部氏族]]」の続きです。
歴史の奥底に潜む謎を発掘し解明する。
最終目的は服部氏族の謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月12日 01時52分11秒 ) パスワード

以下スレッドXXからの転載です:

https://books.google.com/books?id=WiPIrDPZ1wIC&pg=PT12&lpg=PT12&dq=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E8%AD%9C%E3%80%80%E5%B7%BB%EF%BC%92%EF%BC%90%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=tMh89VYWdX&sig=xDZSUXTMaEkhY7GzrwPsqoZJf9A&hl=en&sa=X&ei=1iaJVN_cKsq5ogSIo4DIBA&ved=0CDYQ6AEwAw#v=onepage&q=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E8%AD%9C%E3%80%80%E5%B7%BB%EF%BC%92%EF%BC%90%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

ここに田口氏系牧野家が出てます。

その牧野正路というのが実は服部又三郎義英の二男で
           母は田沼主殿頭家の家臣  星野兵右衛門之政が女  

と書かれています。


牧野家に婿養子に入ったのです。
この牧野家の家紋は「丸に三柏」。


牧野家は柏紋でよく知られて家ですよね。


ということは「牧野家」も絡んで来ました。



この牧野家と関係がある服部家なら丸に三つ柏紋でも不思議ではないですよね。
当時は親戚で子供をやったり貰ったりしてますから有り得ますし。


前に三つ柏さんが「牧野家が」とおっしゃってましたが
その牧野家がやっとご出現?

牧野家も調べる必要が出てきました。




服部又三郎義英
この人物が検索出来ません。

医家の人物ではないですよね?
もし覚えていらっしゃいましたら、また、巻20の服部家の人々の名前をお書きください。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月12日 05時48分53秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101391_60.html
レス<84>にありました!

『寛政重修諸家譜』全21巻の目次に目を通し、服部関係を当たったところ、
     主要筋はすでにコピーしてありましたが、新たに20巻目の中に、
     2系統の服部氏の記載がありました。それは、
           1.服部順定(もとさだ)
           2.服部保好(やすよし)
      の2系統でありました。


この内、1の順定の方が、「三つ追い柏」を使っていることがわかりました。
但し、この家系は医家の家系でございました。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月12日 05時57分01秒 ) パスワード

<2>は思い違いもございましたので削除しました。


内容は:

南原幹雄の「大谷刑部」という小説を読んだ時
いつもはしないのに
登場人物の名前や続柄をメモしました。


その時に最初にメモしたのが  服部良円(侍医)  です。

当然秀吉のまだ壮年期なので(長浜あたりですから)徳川家の旗本の医者の服部氏には関係無いです。




松本良順先生に師事していたのでしょうか?
[5]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月12日 10時30分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤堂高虎と多賀氏との関係がわかりました。
 藤堂高虎の父虎高は三井家の出身で藤堂家に養子に入り、その後多賀氏の
娘をめとり高虎を生む。高虎には三井家と多賀家の血が半分ずつ混じってい
るということになります。
 従って多賀大社系の情報網は利用できた立場であった。
 忍者系の情報網についてはいつからか、少なくとも伊賀藩主になってから
は藤堂采女を長として忍者の情報網を活用できた。
 もうひとつ、水軍の掌握・・・九鬼水軍とはどういう関係にあったか、臣
として統率できたのか、対等だったのか、そこを知りたいと思っています。
また熊野水軍との関係・熊野神社との関係も知りたいと思っています。
 最強の情報網を持つことにより家康の側近として君臨できたのだと思って
います。
 水軍や海運・水運については、想像以上に「戦い・富」に対するウェイト
が高かったと思われますので、これはこれで一考したいと思っています。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月12日 14時12分12秒 ) パスワード

三つ柏さん


高虎の母上は多賀氏の娘でしたか。


高虎は甲賀だとか忍者だとかいろいろ言われてましたが
多賀氏が半分ならやはり忍者と密接だったのですねえ。


ありがとうございました。



>最強の情報網を持つことにより家康の側近として君臨できたのだと思っています。

そうですね
情報もスゴイし物流もスゴイし、神社を背景にして日本全国に支店を持っているのと同じですものね。

なるほどね

人と物とお金
三位一体ですね
その上に技術集団でもあったし。

そりゃあ家康も高虎を利用したでしょうね。


こうして考えていくと井伊直弼も同じように多賀神社を使ったでしょうね。


次に生まれ変わったら参考にさせて頂きます。

[7]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月13日 08時10分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 この週末は用事が詰まっており、自由になりません。
 昨日、『静岡安倍郡誌』という本を古本屋で手に入れました。以前から静岡
の服織村が気になってましたので少し調べてみようかと思った次第です。ペラ
ペラと全体を見た感じでは、新たなる発見に結びつきそうなものはなさそうで
すが、付録としてついてきた6枚程の地図の方が価値がありそうです。
 それを見て改めて謎が浮上しました。それは、長田村と服織村という村はだ
いたいセットであるということです。伊賀もしかり、当方長上郡もしかり、静
岡しかりです。その他服織・羽鳥と名のつくところを調べてみますが、何か謎
が隠されていそうです。服部と永井の関係もそこにヒントがあるかも知れませ
ん。
 とりあえずこれで一旦終了します。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月13日 10時46分53秒 ) パスワード

年末は忙しいですよね
車の運転にはお気をつけて。

   ハワイでも師走はぶっ飛ばして走っています。


服部と長田=永井はセットのようですか。
長田氏の謎を解かないといけませんね。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月13日 14時41分57秒 ) パスワード

長田氏と信仰で検索しました:

全文は下記URLへ:
http://www.hunterslog.net/dragonology/sakubu/jinja_izu/takane_inazusa.html

高根神社
                        伊豆賀茂氏?
祭 神:白山姫命
    (安閑天皇)
創 建:応永九年(棟札)
例祭日:不明
社 殿:不明/南西向
住 所:下田市落合

「高根神社」という神社はこの辺りでは下田よりむしろ南伊豆町の範囲にたくさん祀られており、そちらでは揃って「味耜高彦根命」を祀っている。伊豆賀茂氏の本拠だった土地であり、関係が考えられるが、ここ下田落合はその様な話はない。2キロ程南に「高根山」があるのだが、当社との関係も不明。高根山の登り口、という位置関係でもない。

一方で、先の『静岡縣神社志』の記述に見るように、安閑天皇を祀っていた、という記録がある。落合の隣りの箕作(みつくり)の鎮守の日枝神社にも安閑天皇が配祀されている。安閑天皇と言えば蔵王信仰だが(安閑天皇は蔵王権現と同一視され、元蔵王宮だった神社の祭神となることが多い)、この地に蔵王信仰があったのかどうかに関する記述は見ない。


                  尾張の長田氏  1519年?
                    ↓

御祭神に関して付け加えると、永正十六年に尾張から長田某が当地に逃れ来て、この土地を開墾したという記録があり、近世はその長田氏を配祀していたともある。『増訂 豆州志稿』に落合の村長はその長田氏の末であるとある。あまり人の流入のある所ではなく見えたので、今もこの高根神社を奉斎しているのはその長田一族なのかもしれない。


また、社地に弓道場が併設されていた。弓道場と言うか安土があるだけだが。落合から箕作・宇土金(うどかね)と遡った所の宇土金日枝神社に併設して武田流弓術の弓道場があり、その関連なのかと思っていたのだけれど、「古祠也毎歳二月大的ノ神事ヲ行フ」と『増訂 豆州志稿』にあるので、ここはここで昔から弓の神事があったようだ。これを「鬼射(おびしゃ)」といい、下田市指定文化財ともなっているようだ。


鬼射(おびしゃ):
落合の高根白山神社に古くから伝えられている神事。行事は弓太郎(ユンダロウ)1名、役者2名、シャクトリ2名が中心となって行われる。複雑な儀式を経て射手である役者が、裏側に大きく「鬼」と書いた的を射る。見事に的を射通せばその年の災厄は退散し、五穀豊穣は疑いないといわれている。

「下田市ホームページ」より引用

[10]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月13日 14時52分34秒 ) パスワード

http://www.i-sagami.com/walking/vol.113/vol113.html
「八王子道から東海道へ」

長田氏系のお寺さん


C乗福寺
長田家累代の墓、五輪塔、宝篋印塔等
万年山昌寿院と号し、万寿4年(1027)長田武蔵守忠望の開基で長田家の菩提寺。

長田氏は桓武天皇の第三皇子葛原親王の子孫と伝えられる。




E滝不動
滝不動尊縁起(案内板より)
弘法大師巡歴の地と伝うこの辺りは森林深く水も豊富で滝のお山と称された。寛永元年(1624)明滝山長盛寺を創建開基は長田椿三郎勝重。



F垂木御所跡
平安時代、葛原親王の子孫垂木主膳長田武蔵守平忠望が居を構え、垂木御所と呼ばれていた。
この御所は、御所見という地名の由来となった御所見塚から眺めることができた御所であるという説がある。



これらの人は初見えでした。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月13日 14時59分02秒 ) パスワード

https://books.google.com/books?id=9_D6dNY4AlMC&pg=PA54&lpg=PA54&dq=%E9%95%B7%E7%94%B0%E6%B0%8F%E3%80%80%E4%BF%A1%E4%BB%B0&source=bl&ots=6kmABRu09J&sig=x7c5UgkM6mFyeNJyl1a4DymbC84&hl=en&sa=X&ei=rNGLVPu2FoXcoASw_oHABg&ved=0CFQQ6AEwBw#v=onepage&q=%E9%95%B7%E7%94%B0%E6%B0%8F%E3%80%80%E4%BF%A1%E4%BB%B0&f=false

家紋でたどるあなたの家系
edited by 千鹿野茂


三ツ柏紋  丸に三ツ柏紋
尾張の桓武平氏良兼流の替紋。寛政譜 9
他に丸に抱き柏  並び柏


    ということは長田氏には本紋がある?
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月13日 22時10分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 桓武平氏良兼流の義則系の長田(おさだ)氏の定紋は「丸に並び柏」と『家紋
でたどるあなたの家系』では言っています。長田氏、永田氏、長井氏、永井氏
といろいろな関連系がありますので、どの系列か見きわめるのが難しいですね。
 伊賀にも長田一族がいて、『伊賀旧考』の中で、
 「長田一族 陶紋の事
  平氏の一門池大納頼盛の領知、当国長田郷六か村、小田の郷五か村の内に
 此領下の士族に州浜の紋を免し給ふ、池は陶に為るに依りて也、幕の紋は松
 に霞、或は三枝松丸の内、或は丸なし、家々に依る也。」
と書かれています。
 家紋は難しいですね。氏族にもよりますが、およその傾向がわかるというく
らいでしょうか。

 明日は、神ヶ谷の松下家の法事ですので、祖先のことが少しわかると思いま
す。またご報告いたします。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月14日 03時28分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

法事で松下家のことから服部家が分かると良いですね。
   何か引き出すことが出来ると良いのですが。


長田家について、もう1度、最初っから考えてみました。


そこでビックリ!
長田家よりも  高力家の方が  服部家いえいえ平家に近かったのです。
        高力家はなんと平家の先祖である平貞盛の子孫でした。
           つまり貞盛の息子
                ・維将の子孫が北条・高力・熊谷
                ・維衡の子孫が伊勢平氏=平家です



で、長田氏ですが

                               北条・高力・熊谷
                   高望王ーーー貞盛ーーI
                               平家
桓武天皇ーー葛原親王ーー高見王ーー I          

                   良将

                   良文

                   良兼ー公雅ー致  頼ー致経
                          ⇅?
                   良茂ー良正ー長田致頼ー致経



長田氏(おさだし)は、平安時代にかけてあった武家。 本姓は平氏。 桓武天皇を祖とする桓武平氏の一流である良兼流を汲み、平致頼より長田を名乗り尾張平氏とも言われる。尾張国に勢力を張り、平治の乱において源義朝を暗殺した長田忠致がある。

庶家は平姓水野氏と長田親致(忠致の兄)の後裔を称する徳川氏譜代家臣の永井氏などがある。


家紋は丸に三つ柏紋になってました。



平 致頼(たいら の むねより、生年不詳 - 寛弘8年10月2日(1011年10月30日))

平安時代中期の武将。

坂東平氏の流れを汲む平公雅の三男(平良正の子とも)。


致経、公親、公致らの父。

平五大夫と号した。従五位下、備中掾。長田氏などの祖。



長徳4年(998年)、同族の平維衡と伊勢国神郡において合戦を繰り広げたため、

のちに両者とも朝廷に出頭を命じられ尋問を受けたが、
この際維衡は直ちに非を認めて過状(詫び状)を提出し、
位階は剥奪されずに淡路国へ移郷とされたのに対し、
致頼はなかなか非を認めず過状も提出しなかったため、
位階を剥奪の上隠岐国へ配流となった。


3年後の長保3年(1001年)、致頼は赦免され五位に復されたという。


しかし寛弘4年8月に藤原伊周、隆家兄弟が藤原道長暗殺を計画し致頼に命じていたという噂が流れていたとある。

[1]長徳の変の際に致頼の弟の右兵衛尉平致光とその兄弟が伊周の郎党として検非違使に家宅に踏み込まれ逃亡していた[2][3]経緯があった。

また致頼の姉妹が既に薨去していた伊周・隆家の父藤原道隆の家司の有道維広の室であり、
その息子で致頼の甥に当たる有道惟能が伊周の家司だった事から伊周らはその繋がりで致頼と通じ接触した可能性もある(この時道長は金峰山に向けて8月2日に出立しており、13日には連絡をとる為の勅使として源頼定が派遣されたが、その翌日の14日に道長は無事戻ってきており結局暗殺計画は実行されていない)。


その4年後の寛弘8年(1011年)に卒去(『尊卑分脈』)。

なお、致頼は平安時代後期の伝記本『続本朝往生伝』に源満仲・満政・頼光・平維衡らと並び「天下之一物」として挙げられるなど、当時の勇猛な武将として高く評価されている。


脚注[編集]

1.^ 『小右記』寛弘4年(1007年)8月9日条
2.^ 『小右記』長徳2年(996年)2月5日条
3.^ 『百錬抄』長徳2年(996年)2月5日条



へえ〜
先祖は喧嘩してたんだ〜


この後が知りたいものですね。
紆余曲折があったのは分かります。
そこのところの歴史的事実を知りたいです。

   後に尾張の長田は源氏に仕えていて平治の乱で源義朝を殺していますから
   この前あたりが知りたいですね。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月14日 03時34分07秒 ) パスワード

そうすると

   長徳4年(998年)長田致頼は同族の平維衡と伊勢国神郡において合戦を繰り広げた

ということで10世紀には長田氏も平家の先祖も伊勢に来てたということですね。

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月14日 21時13分42秒 ) パスワード

またもや、今回は、窓8ですが
マッチポンプに遭って
書き込み出来ないです。

英語は大丈夫なんですが日本語がストップさせられてます。


入院させないといけないかも。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月15日 01時40分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 寒波到来でまた寒くなりました。やや風邪気味。松下家の法事に参加。酒
を飲む。午後八時頃より、総選挙速報。選挙前の予想通り自民圧勝。

 松下家の位牌の裏に書かれた戒名の一覧表をもらって来るも、謎解明のヒン
トには今の所なりそうもない。また、松下家より、浜松市神社名鑑を借りて来
て読んでいます。大窪神社、神久留神社、服織神社・・・大窪神社には服部仲
の名前が出ている。神久留、服織は延喜式式内社六座のうちの二座。神久留神
社は格式が高い。宗良親王も祈願している・・・。

 永井氏に関して考えましたが、伊賀について言えば、服部氏族はもちろん、
長田氏族もおりました。永井氏も百地系忍者としていました。永井城もありま
した。服部と永井は伊賀において近い関係にありました。伊賀の永井氏と服部
氏が遠江のある所に住みついたと仮定できないか。そこは天領で、中泉代官所、
遠江の守の支配する領地。すなわち家康直轄ということになる。
 伊賀の長田、永井氏をもう少し探究したいと思います。
 
 
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月15日 04時22分39秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/engishiki01/toutoumi/bun/to120206-01.html

【延喜式神名帳】賀久留神社   神久留神社  遠江国 敷智郡鎮座

   【現社名】賀久留神社
   【住所】静岡県浜松市神ヶ谷 4279
       北緯34度43分17秒,東経137度40分20秒
   【祭神】闇御津羽神 闇淤加美神 気長帶比売命 誉田別命 玉依比売命
   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創始年代不詳

       貞観4年(862)5月従五位下『三代実録』
       延元3年(1338)年正月、宗良親王の御祈願所   あ、ホント!
       応永26年(1419)足利義尚が幡宮御宝殿を造営
       天文10年3月今川義元再建
       慶長6年(1601)伊奈忠次神ケ谷明神に十五石の神領寄進
       明治6年郷社
       同16年八幡社を現社号に改称
       同40年神饌幣帛供進社指定
       昭和4年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡社」と称していた
   【社殿】本殿
       随身門、拝殿、社務所、宝庫
   【境内社】若宮神社・米神社・稲荷神社・五本楠神社・武王神社
        天宇受売神社・東渡神社・天神宮・西宮神社・富神社


三方原台地の南端の森の中にある。
社名の由来は神が隠れ籠もる意味と考えられる。     スゴイ!
中世から神ケ谷村八幡社と呼ばれるようになつた。
古くから雨乞いの神とされる。




由緒

当社は延喜式神名帳(927年)所載「遠江国敷知郡賀久留神社」である。祭神は「闇御津羽神」「闇淤加美神」の二神で五穀豊穣、水分、生寿、福賀、厄除の神である。のち「気長帯比売神」「誉田別命」「玉依比売命」を合祀し、武運長久、交通安全、護身の神である。

清和天皇、貞観4年5月朔、位階を授けられた。延元3年正月、宗良親王の御祈願。応永26年、将軍足利義尚公御造営。天文10年3月、国司今川義元公再建御神領壱千石寄進。慶長6年伊奈備前守忠次公御黒印15石御寄付。慶安元年、徳川家光公先規に依り御朱印15石御寄付。領主吉田城主、松平伊豆守信祝殿以来累代名祭祀料山林164町8反歩御寄付。浜松藩主代々奉幣。以上の様に武門武将、領主の崇敬が深かった。


もと、八幡宮と称していたが改称の儀、明治16年1月許可され、昭和4年7月4日、県社に列格せられる。昭和5年5月、昭和天皇行幸の御時に当社所有宝物の天覧の光栄を賜う。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



賀久留神社 神久留神社

古くから雨ごいの神として知られ、雨ごいの竜の面の伝説が残るこの神社は、平安時代に創建された。境内は、昼でも薄暗いほどに古木が茂り、中でも神殿西側の道路ぞいの夫婦木楠は、樹齢800年ともいわれる大木で、県から御神木の指定を受けているし、神殿東側のモミの木は、市の保存樹に指定されている。
神殿正面のこま犬は、このあたりでは珍しく獣の顔をしている。
また、10月には昔さながらの祭礼が行われている。
神久呂ふるさと創生事業推進委員会 平成4年度

[19]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月15日 04時28分17秒 ) パスワード

10世紀半ばからの坂東平氏が伊勢平氏となっていく過程が読めると良いですね。


この時に長田氏と平家がどういう関係だったか

長田氏は源氏に仕えてたという話があるのは何のことか?


長田氏と服部氏が関係を持つのはいつか。


まだまだたくさん読まないといけませんね。

長田と服部が結ぶのに当然伊藤とか田中とかいう伊勢あたりの名家も絡んで来るでしょうし。


人間関係はアッチコッチから探っていかないといけませんね。
[20]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月15日 17時06分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長田・永井氏の件について、あを様のスレッド『その後の長田氏・永井氏
へ』と箱柳永田様の『永田姓で抱き茗荷紋の平家の末裔』を読み直しており
ります。じっくり調べて行きたいと思っています。

 本日は十湖翁の曾孫さんと一杯傾けます。どんな話が出てきますか楽しみ
ではあります。伊那の松島から流れてきたというのが仮説です。
 伊那から天竜川を下ればあっという間に遠江に着きます。昔は実際どれ程
の船の利用があったのか調べたいと思っています。遠江と信濃の交流の実態
をつかみたいと思っています。

 もう一回飲み会がありますが、本年はそれにて打ち止めとなりますので、
もう少しの辛抱です。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月15日 23時00分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


>もう一回飲み会がありますが、本年はそれにて打ち止めとなります

なかなか健康に配慮した飲み会ではありませんか。


次は新年会が待ってますものね
休ませないと

途中に私的な飲み会が挟まりますものね



ま、日本人はお酒で神様と繋がって来たのですから
一族や仲間とお酒で繋がるのは当たり前で
いつからなんでしょうね?

   アマテラスが岩山に篭って
   みんなで賑やかに宴会を張った頃からでしょうか?
   ふふふ


>永田姓で抱き茗荷紋の平家の末裔

永田姓だけでなく岡山や広島に流れた服部氏も抱き茗荷紋を使っている家があるそうで
何か関係があるのかもですね。


家紋のことは本当に流動的ですね
それこそ替紋に各家の個別のアイデンティティがあるんだということなのかなと思います。




>十湖翁の曾孫さんと

曾孫さんからいろいろ聞くことができると良いですね。

そして、どこかでちゃんと聞いて残しておかないと。


でないと  将来数十年後に  松島姓を名乗る東南アジアの人が
  「うちの先祖は伊那の松島」
なんてこともアリかも。

   あ、なんか来年から外国籍の人は通称が禁止になるとか聞きました。
   日本人として表面上同化して埋もれてきてたから
   ここで帰化してない人にはアイデンティティをハッキリさせるようになるそうな?


でも本物の松島家がその東南アジアの人の話を「うちの先祖は」なんて読むのかも。


こういう逆転現象って多いのかもね。

   有り得ますよね
   日本の神代の話なんてそんなもんかも。
   

ま、いいよね
人間の始まりはどうせアフリカのチンパンジー(凶暴系)かボノ(心優しい)か
そんなあたりの仲間だったんでしょうから。



一昨日・昨日とまた服部7家の系譜を読み直してて
服部家で牧野家と親戚の家というのを捜してたのですが

   望んでいることが現実にあったような錯覚に陥ってしまい
   暫く席を外して他のことをして
   もう1度読み直したらその箇所が見つからなくて
   何度も読み直したのですが見つからなくなりました。


こういう「思い込み」の危険性
ありますね。


「1000回同じ嘘を主張してたら本当のハナシに化ける」って。
あはは

なのでどの家の系譜を読んでた時にこの心理状態が起きたのかは書かないでおきます。
オソロシイ。



ではでは松島氏のお話を楽しみにしております。
[22]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月16日 11時25分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は久しぶりに頭ぐらぐらです。日本酒のせい、ホルムアルデヒトのせ
いです。量はそれほどでもなかったのですが、日本酒オンリイでしたので。

 さて、松島氏との話ですが、目新しい話は特にありませんでしたが、昨今
俳句がブームになりつつあり、松島十湖の評価・検証というものをやろうと
いうことで、「十湖研究会」なるものを立ち上げましょうということにあい
なりました。
 その前に説明しなくてはなりませんが、この松島氏が実行委員長として、
毎年全国より俳句を募集し、各賞、そして最優秀賞の「十湖賞」を決定する
という企画を今年で七回目になりますがやっておられます。市・区とタイア
ップしており、浜松市東区を「俳句の里」としてPRしようと全国発信して
おります。小中学生から、女性、そのほか年代に関係なく応募者、そして里
を訪れる人が年々増えつつあります。
 私は俳句は全くの素人でありますが、「芭蕉」についてはその俳句と生き
ざまを研究しつつあります。また、十湖が芭蕉を目標にしていたということ
で、十湖についても芭蕉的世界との比較検証もしたいと思っております。
 また、金原明善との比較、そして明善・十湖が心酔した二宮尊徳の報徳思
想の魅力とは何か、小田原藩の大久保、家老の服部氏との関連も合わせて探
究したいと思っております。
 十湖はなぜ芭蕉にあこがれ、今様芭蕉を目指したのか・・・それを追及し
てみたいと思います。きっと何かあるはず・・・。それには祖先を知ること
が、ルーツを知ることが必要だと思っています・・・。天才は突然現れるの
ではなく、祖先からの肉体的・霊的DNAの積み重ねの結果と思っています。
 豊田郡中善地村(長上郡羽鳥)に松島家は根を下ろしています。私の所はそ
の北の善地という所、いずれも天領でありました。善地の五姓の中に松島氏
が入っておりますが、羽鳥の源長院の開祖の松島氏は寺に広大な土地を寄付
したと現住職から聞いていますので、庄屋だった可能性があります。
 果たして、信濃より天竜川を下ってこの地で芽生えたのか・・・時間は
かかりそうですが、調べて行きたいと思っています。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月16日 14時54分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

アタマぐらぐらですか。
大変ですね
お仕事は大丈夫なんですか?

ま、日本は「夕べは飲み過ぎちゃって」と言ったら許して貰えますから
その上に年末ですしね、もっと許して貰えますよ。

だから最初っから二日酔いだと正直申告の上に(じゃましないで、そっとしといて)とバリヤーを張りましょう。



ほんとに不思議ですね
逃げて来たのに広大な土地を持ってたり
立派なお寺を建てたり
日本の力のあった家というのは一体どれほどの財力を持っていたのだろうと不思議に思う時があります。


   現在の狭小住宅とか三反百姓とかの不動産感覚から想像するからダメなんですよね


先祖がらみで元々力があったのかなとか物部氏時代からの力かなとか
いろいろ思ってはみてます。



天領で芭蕉を尊敬しててアチコチ移動してたり

きっと何かあるんですよね
ま、俳句の師匠として移動はラクに出来たのでしょうね

   実は隠密だったかも知れないし


正統に考えると、松島氏は武田に滅ぼされたから、逆に今川や北条に庇護されたかも知れないですし
ひょっとすると松平家が絡むかも知れないし

   天竜川沿いの豪族や大名達と繋がりがあったかも知れないし
   それで松平家とは繋がりがあったかも知れない


諏訪大社か何か大きな神社系のバックがあったかも知れないし


謎は尽きないですね。


でも「十湖会」でご先祖さまを慕って研究していたら何か思わぬことが発見出来るかも。



また「内山真竜の遠江国風土記伝」を読み返さなくては。
現場100回。
長上郡の服部氏について現場に戻らなくては。


それにはアタマの中を空っぽにしませんと。
[24]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月16日 16時31分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろ方向がダッチロールしますが、テーマとして何を追及して行くかは
頭の中のコンパスが自動修正しておりますので、行きつ戻りつの所があります
がよろしくお願いいたします。

 今、私の興味はどちらかと言えば、永井氏より井伊氏のほうにあります。
それは井伊氏の方が地元でしかも松下家がらみ、服部中がらみであり、また
宗良親王のバックグラウンドがあるからであります。この南朝のバックグラ
ウンドは、この遠江にしっかりと残されていると感じるようになりました。
これもあを様のご教示があったからこそであります。宗良親王の位牌と十一
面観音像に対面した時の体の震えは、何か悔しくも歴史の奥底から浮き上が
った宗良親王の魂の叫び「I've come back! I'm here!」を胸に感じたせい
のようにも思われ、今も考えると目が熱くなります。
 井伊氏とそのバックグランドについてはメインテーマでもうしばらく続けたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 井伊家の謎が一つ浮上しました。それは、井伊谷と三ケ日は隣町と言って
も過言ではありませんが、あの大福寺の喜多流能役者服部親子と線でつなが
りそうな状況証拠を『湖の雄 井伊氏』(静岡県文化財団発行)の中に見つけ
ました。
それによると―
「彦根藩では、四代藩主井伊直興が五十五人もの能役者を抱えるほどの熱中
ぶりだった。
 十代藩主井伊直幸は幕府お抱えの喜多家に入門している。家臣にも愛好す
る者が増えた。
 十一代藩主井伊直中は、喜多家の分家である喜多織衛をはじめ六人の能役
者を召し抱えたという。多い時には二十一家もの役者を抱えたという。
 十五代の直弼は能を創作し、また狂言も創作している。能面作りも行った
というからすごい没頭ぶりである。
 井伊家の能楽への傾倒ぶりは、遠江の時代に能楽を取り入れた伝統的な嗜
好というか、井伊一族の中に能楽傾倒症のDNAがあるかも知れない。」
 彦根にいても心は井伊谷にあったのだと思います。それも謎といえるかも
知れません。井伊氏の血脈がそうさせたか・・・。
 さらに、喜多流は藤堂家ともつながる・・・。
 藤堂家の足跡は気賀の関所の記録に頻繁に出ます・・・。何か見えて来ま
せんか・・・?
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月16日 21時44分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


ダッチロールはしょうがないです。

いろいろな角度から見ないといけないですから
アッチコッチ視点を変えませんとね。

人間は動きますし。
そして人間関係が複雑にアヤ成しますし。



>彦根藩では、四代藩主井伊直興が五十五人もの能役者を抱えるほどの熱中
ぶりだった。

ここの書き込みに背筋がゾクゾクしました。


喜多流能学者父子は「能」だけじゃなかったのでしょうね。
藤堂家・菰野藩・天領・井伊家・その他

あっちこっち出入りしてたのでしょうね。



とにかく「情報」ですよね。
  情報収集
  情報拡散

まるでネット社会のように  WWW = 能や俳句や茶や庭造りや = そういうので結ばれていたのでしょう。

  電波の替わりに忍者がつないでいたのでしょうね。


面白くなりましたね

井伊家
能役者の服部家


それにしましても  宗良親王に  波長が合いましたか。
  吉野・天竜川沿い・信濃・上野
この辺りを結ぶキイ・パーソンだと思います。


現実には今川の家臣になっていますけどね。
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月17日 16時48分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 井伊直政の継父松下清景の義兄弟の松下之綱の娘おりんは、島左近を通じて
柳生宗矩の室になっている。
 島左近の娘の珠は、宗矩の子の柳生利巌の継室となっており、この関係から
いけば、井伊直政ともつながっていたはず。
 また、藤堂高虎とは豊臣秀長、秀保に同時に仕えていた同志であったので、
気は通じていたはず。
 三成が口説き落とさなかったら、徳川側についていたろうにと思うと残念
であります。
 但し、関ヶ原の戦いで討ち死にしたというが、遺体は見つかっていないと
いうので、生き延びた。というか、何かそこに謎がある。遠江の旧天竜市の
奥で隠棲していたという噂と、その子孫がいるということ。なぜ敵方の徳川
の領地にいたのか・・・島左近の人間関係を逆にたどると、松下之綱-清景
-井伊氏とつながり、水窪近くに隠棲。即ち過去の南朝の領域。
 島左近をもう少し調べたいと思います。家紋も文句なしに丸に三つ柏です
ので。
 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月17日 22時23分57秒 ) パスワード

島左近には謎がありますよね。


島左近はひょっとすると関ヶ原の戦いの作戦を徳川方に漏らしたというより堂々と教えたのかも知れないですね。


   堂々と戦って、これで西軍が敗れるなら、しょうがないし

   その上に豊臣政権では勝ってもダメだし
   中心が人望の無い三成じゃもっとダメだ

と思ってたのかも。



三つ柏紋の件も謎ですね。
長田系?
牧野系?
島系?


徳川幕府がらみの土地の服部家だったら  嘘でも  みんな  矢紋を使いたいと思うのです。

それが「平氏」がらみの服部家なら当然「矢」のバリエーションに決まっているじゃないか。


それが何故「柏紋」なのか?

何らかの理由があったのは確か。
ならばその理由とは?

   心情的に矢じゃなくて柏を使いたかった理由は?


岡山以西の服部家が茗荷というのも何故なのか?
何か理由があるんですよね。


わたくしの母方も大坂の役で敗れて名を隠し紋を替えと書かれていても
何故その紋になったのかの理由が書かれていないです。

   新しい名字と家紋の由来はなんとなく分かりますが
   ハッキリ書かれていないから  先祖の本心  は分からないです。

   先祖には  書かなかった・書けなかった  理由があったのだろうと思います。


「武士は相身互い」  「惻隠の情」  というのですね。
だから深く追求はしないでいます。
わたくしも士族の娘ですから。


だけど  何でぇ〜〜〜 (叫)
[28]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月18日 14時49分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 関ヶ原の戦いの直前まで、家康、高虎は三成に組する大名達の切り崩しを
図っていた。脇坂安治、赤座直保、小川佑忠、朽木元綱、小早川秀秋・・・。
島左近にも説得工作をしたのではないか・・・。
 最前線にいて黒田勢の鉄砲隊が狙い撃ちにしたということであるが、真相
はわからない。左近が消えるやいなや、三成の後退がはじまったという。
 敵の大将の首を切り取るのが戦国時代の手柄であるので、遺体が見つから
ないというのは、生きていた可能性は大である。
 島左近のような立派なやつは殺すのはおしいと高虎も思ったのではなかろうか・・・?
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月18日 15時32分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


島左近は結局は奈良〜伊賀〜滋賀あたりでウロウロしてたのかもですね。
柳生家にも元々近かったでしょうね。

伊賀との関係は下の方にあります。


復習
秀長に仕える前までをコピペ:


島氏[3]は今の奈良県生駒郡平群町周辺の在地領主で、椿井城を本拠にしていたという[4]。

      奈良県というのが引っ掛かります。
      もしかすると楠と近かったかも。
      そうすると南朝方だったかも。


島氏の出自は明らかでないが、本姓は藤原姓であるという。
また、清興の出身を対馬国とする説もあったが、現在では大和国出身であることが明らかとなっている。

なお、近年では「島左近」は筒井氏家臣である島氏代々の名乗りとする説もある[5]。


生涯[編集]

畠山氏・筒井氏・豊臣氏時代[編集]

大和平群郡の国人の家系に生まれ、
当初は隣国河内の守護で、
         この辺りは南朝方だったんじゃないかなと想像します。
大和国にも勢力を扶植していた畠山氏に仕えた。


畠山高政が三好長慶と戦った教興寺の戦いに参加したが、高政は敗北し、清興も敗走している。

その際、筒井順昭の指揮下で戦ったことが縁で畠山氏の没落後、筒井氏に従属する領主の一人となったようであるが、史料からは確認出来ない。

筒井氏縁戚の山田順延(添下郡山田城主、筒井順延ともいう)の口碑には「永禄2年に平群郡の島と紀が松永弾正より逃れてきたのを匿ったために山田城は松永に攻められて落城し順延以下城兵は殆ど討死した」とある。

この「島」が左近である可能性がなくはないが、確かなのは永禄年間に嶋左近が平群谷で活動した形跡が史料にみえない。


筒井順昭の後をわずか2歳で継いだ筒井順慶を侍大将として盛り立てたといわれるが、当時の筒井家の家臣団の中には名が見えない。『尋憲記』や『多聞院日記』等の記載によれば、当時の筒井家の有力家臣には八條相模守長祐、松蔵権助秀政、飯田出羽入道、中坊飛騨守秀祐などの名が知られるが、嶋氏関係の氏名は見当たらない。


筒井家の家臣関係の伝承や文献類に島左近の名が初めてみえるのは元亀2年(1571年)の辰市合戦直前で、「嶋左近尉殿」とある。

それ以前までに順慶が大和国の覇権を争って松永久秀と戦った筒井城の戦い、東大寺大仏殿の戦いなどでは動向が不明であるが、古老の話に伝わる宇陀郡秋山氏の伝承では嶋左近を「宇陀ノ城主」とする(どこの城かは不明)。

辰市合戦に際して宇陀より出撃したとの伝承もあるが、これが「宇陀ノ城主」とする伝承と関係するかもしれない。いずれも確証を欠くが、なぜ宇陀郡に嶋左近の名が伝わるのかはよく分からない。


確証はないが、何らかの形で筒井順慶を支え続けたといい、その功績によって筒井家の重臣に加わったという。

一般には松倉重信(右近)と並んで筒井家の両翼「右近左近」と並び称されたというが史実ではなく、『尋憲記』や『多聞院日記』等の記載によれば、実際に筒井家の両翼と呼ばれたのは松蔵権助秀政と松田善七郎盛勝だったようだ。


順慶はやがて松永久秀を倒し(信貴山城の戦い)、本能寺の変といった存亡の危機も乗り越え、筒井家による大和国の統一を成し遂げたが、その後の嶋左近は吐田城を接収するなど内政面で順慶を支えていたらしい。椿井城主となったのもその頃というが、その後まもなく主君である順慶が病に倒れてしまった。

跡を継いだ順慶の甥・筒井定次とは意見が合わず、筒井家を辞することになった[6]。筒井家を辞したのは定次の将来を見限り、また水利をめぐる争いがあったとされるが定かではない[6]。


      伊賀と関係してますね
        ⇅
また定次の伊賀国転封には従っているとされ、
筒井家を辞したのは天正13年(1585年)以降である[6]。



ただこのように、島左近は筒井家までの事跡は不確かなものが多く、確証はないのが実態である[6]。
以下略
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月18日 17時21分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たぶん、この頃、つまり関ヶ原の合戦あたりが、忍者・隠密の一番大々
的に活躍できたピークだったのではないかと思います。即ち、忍者・隠密
(陰忍、陽忍)であふれかえっていた。極端に言えば右も左も忍者・工作員・
スパイ・・・。
 家康も甲賀、伊賀、世木忍者を使っていた。伊賀の忍者は天正伊賀の乱後、
ばらばらになるけれども、家康の輩下としてまとまっている。関ヶ原の戦い
の時には、服部半蔵正成もすでに死去していない。服部中保次もすでにいな
い。次世代にバトンタッチされていた・・・。この当時の服部忍者の動きを
調べたく思います。但し、陰忍の活躍は記録に余り残らないのでやっかいで
すが。

 あと1日で会社の大きな行事も終わりますので、もう少し集中できるよう
になりますこと、お伝えいたします。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月18日 22時54分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


>あと1日で会社の大きな行事も終わります

次は新年会で忙しくなりますね。
にっこり


今年のお正月はご親戚にお酒を持参で先祖を肴に一杯ですね。




やはり島左近の偉人伝を読まないといけませんね。
きっと先祖の時代から伊賀や甲賀や根来やその他の忍者と関係があったと思います。


服部中の家を再び読みながら
この家は水野家と仲が良かったのだなと思いました、

その他にも錚々たる家と関係を持っていたので、一体、本当は何者だったんだろうと思います。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月19日 09時46分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日より又寒波襲来。本日は持ち直すものの、しばらくは零下の朝が続き
そうです。カゼをひかないよう自ら気をつけております。
 これから"general meeting of stockholders"が始まります。これが終われ
ば、気分的にも実務的にも、こた今後時間的にも余裕が出ますのでがんばり
ます。
 昨日は、別冊歴史読本『伊賀・甲賀 忍びのすべて 闇に生きた戦闘軍団』
(新人物往来社刊)に目を通していました。今まで素通りしていたものが、今
回はいろいろ目に留まるようになりました(成長の証)。
 今は時間がありませんので、後で記したい思います。
 
[33]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月19日 12時29分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 少しずつ情報は出てきます。昨日の『伊賀・甲賀 しのびのすべて』によ
りますと、藤堂家と水軍の関係ですが、こんな一つの事実がわかりました。
それは―
 「慶長十三年、高虎が伊勢・伊賀に転封となると、采女元則(藤堂采女)は
本拠地の津城下の久留島町に伊予衆の一人として住み、すでに豊後国の大友
水軍から藤堂家に参陣していた五千石の侍大将佐伯惟定の娘と結婚、間もな
く伊賀上野城の次席家老に任命されている。」
 ということで、高虎と水軍の関係を解く鍵が一つ見つかりました。

 また、保田(本姓服部)元則が采女家の伊賀上野城代に任じられた理由につ
いて―
「元則が地侍の名族、服部家の出身で、かつ紀州の名族、保田家の血を引く
という出自が最大の理由であろう。地侍衆の多い伊賀に対し、懐柔の面では
服部家、弾圧の面では他国(紀州)の名族、保田氏の血を重んじた。
 徳川幕府で伊賀忍者の頭目と仰がれた服部半蔵正成と、旗本である兄の
保田則宗の後ろ盾が強みでもあった。」
 藤堂高虎の家康も、ちゃんと計算して人事を行っているということであり
ます。

 また、これはスゴイことであります(一度見てみたいです)が―
 「元則・元住は伊賀全国の郷士―大半は忍者の子孫―をすべて調査・登録
し、藤堂家に提出して一朝有事に備えた。『伊賀付差出帳』は藩士の母衣(ほ
ろ)組のほか、鉄砲組・忍之衆という項目まであるのが凄い。」
ということであります。これがあれば、忍者について飛躍的に理解が進みま
す・・・。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月19日 14時10分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


これまたスゴイ情報ですね。
ありがとうございます。

>采女元則(藤堂采女)は
>本拠地の津城下の久留島町に伊予衆の一人として住み、

    クルシマ=伊予国
    
       クルシマは最近では「来島ドック」が有名ですけど

    この久留島氏というのはなかなかコスからい動きをして秀吉に可愛がられた家で
    藤堂と親しくなったのは秀吉がらみで良いのかしら。


    昔「武吉と秀吉」という本を読んだことがあります。
    伊予の名門村上武吉と伊予の新興勢力久留島通総が対立する話だったか?

    伊予の太守河野家は小早川氏と親戚で
    河野家が秀吉に負けてから伊予の水軍は久留島の支配下に置かれた
    そういう海軍力を藤堂⇔采女が支配下に置いた
    という興亡も出て来たのですねえ。
    あ〜、ややこしい。

      藤堂家は要領良く動き回ったのですねえ。


>すでに豊後国の大友水軍から藤堂家に参陣していた五千石の侍大将佐伯惟定の娘と結婚

へえ〜

佐伯家といったら安芸や豊後の名家で
安芸の佐伯氏は厳島神社ゆかりのヒトですね。その元は平家に通じるし。
豊後と言ったら宇佐神宮ですね。ここも平家方でした。


伊予の河野氏の大三島神社もからむし
大坂の住吉さんも当然からむし。
そうなると熊野神社とか熊野水軍も絡んで来るんでしょうね
雑賀衆も絡むし根来もからむし。


ありとあらゆるツテを使って名家を取り込んで藤堂家がのし上がって行く様子が分かります。


藤堂家を保田(本姓服部)元則がしっかり支えているし。

   服部家で平家
   保田家で紀州南朝方

武家の時代のありとあらゆる関係を総動員してなんとかかんとか実利に結びつけているのですねえ。


やっぱり日本史は過去から繋がってますね。

そうなると古代史どころか神代の時代からの関係を紐解いていかないといけないですねえ。

   ニギハヤヒがどーたらとかナガスネヒコがどーたらとか
   物部氏とか大伴氏とか。


やっぱり藤堂高虎という男は立ち回りのうまい男だったのでしょうね。
なんか高虎が「バレた?」と言って舌を出した感じがしました。

   こうでなくっちゃね
   大成する男は情報に通じてたんでしょうね。


采女もしっかり支えたんだなあ
と今更ながら感心します。

伊賀なんて山の中の貧しい国なのにアタマを使っていろいろやってたんですね。


   そうなると結論として家康はホントすごい人だったんだなあと。
[35]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月19日 16時29分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがあを様、補足分析を素早くしていただき、いつも感服いたします。
 高虎と水軍の関係、特に朝鮮出兵の時の活躍も含めて、明らかにしたいと
思っています。九鬼水軍との関係が一番主となりますが、瀬戸内海地方、
熊野地方とも合わせ、調べて行きたいと思います。
 やはり、ある意味で高虎には、人にはないインテリジェンスがあったとい
うか、またはアドバイザーがいたのか・・・興味が尽きません。

 無事、stockholders-meetingも終わりました。これから夜会に行きます。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月19日 22時55分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


>無事、stockholders-meetingも終わりました。これから夜会に行きます。

株主さまは神様です。
大変でしたね。

で、息抜きの一杯二杯三杯四杯・・・・
そろそろ終盤に入って三本締めでしょうか?



そうですね
知多半島の水軍とか伊勢熊野あたりの水軍とか
これらが大坂や瀬戸内の水軍を中継して      ← もろに明治維新後の母方の家業です
更に
中国九州の水軍と結んで

   久留島通総は朝鮮にも行ってますしね
   で、亡くなっていますが

  
高虎という人物には優れたアドバイザーがいたんでしょうね。
それが誰か?

やはり偉人伝を読まないといけませんね。


全体を掴まないと。
[37]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月20日 11時46分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 水軍関係、水運・海運関係というのは、車・鉄道のできる近代までは、
一番重要な運搬手段であったということ。馬もあったけれど、コストパー
フォーマンスは比べものにならない。歴史の理解のためには、近世までの
海運史を理解しなくては全くの片手落ちとなります。
 この関係、意外と知られていない分野でありますので、今後時間はかか
りますが、調べて行きたいと思っています。
 特に慶長・文禄の役における諸大名の総合的実力、苦労がここで如実に
わかります。また、海運技術―造船技術、操舵技術もよくわかります。
朝鮮と日本の船の違いもわかります。戦闘に向いた船かどうかの違いとか、
水・食糧をどう維持したかとか、海戦の戦略とか・・・すべてがここに凝縮
されて出てきます。
 結果だけを言いますと、ここでも藤堂高虎は抜きんでた活躍をしています。
 陸の戦闘でも、城造りでも、海戦でも万能ぶりを見せます。
 本当に、どういう人なのか・・・会社に例えれば、家康を社長とすれば、
高虎は頼りになる専務、いや社長代行といってもいい位では。では本多との
関係は、大久保との関係は、井伊氏との関係は、永井氏との関係は、柳生と
の関係はどうだったのか・・・無限に興味は湧いて来ます。

 さて、昨日の続きになりますが、服部と永井氏の関係の状況証拠的な記述
を見つけました。元則・元住が調査したという忍者の調書により分かった事
として―
 「江戸の隠密だけでなく、親藩にも忍者を提供する資料になったのではな
かろうか。一例だが、摂津高槻藩永井家三万六千石の城下には、伊賀町があ
り、家臣に柘植氏や服部氏もいた。」
 摂津はいろいろな状況証拠が揃います。永井、服部、天満宮、丸に三つ柏
(神服神社)。この4点セットはまさに善地に当てはまるのですが・・・。
善地の天満宮の勧請の由来がわかれば、かなりの謎が解けるとは思います。

 今年中、あるいは新年に「岡崎」に行っていろいろ調べたいと思っていま
す。
 
専務
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月20日 15時00分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


>摂津高槻藩永井家三万六千石の城下には、伊賀町があり、家臣に柘植氏や服部氏もいた

驚きました。



本日は朝比奈の子孫の人と話してて
うちの近くに朝比奈の「殿様」の直系がいるとか。

この人とは父方・母方ともに関係がありました。


知らないだけで、話してみると、先祖の縁があったのかと驚きです。


高槻にも是非いらっしゃってください。
神服神社
ここで何か分かると良いのですが。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月21日 09時14分58秒 ) パスワード

暮れの大掃除中です。

いろいろため込んだ物を捨てているのですが
中に「御昆布司 大黒屋」の包み紙があって

これが  楠正成+楠木正季+新田義貞  vs  足利直義 の合戦シーンです。

背景が  高取山  長田村 池田村  下山  です。


大楠公湊川の合戦  第弐図  と書かれています。
延元元年五月弐拾五日。



そこでハタと考えたのです。
神戸の「長田」区って?と。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月21日 09時22分07秒 ) パスワード

神戸市長田区:


同市の中南部に位置する。神戸三大神社の一つ長田神社がある。正月の三ヶ日だけではなく追儺神事・夏越祭など年中賑わいがある。


区南西部は、古くから「駒ヶ林」と称され、沿岸部を中心に渡来人の集落が形成された歴史がある。

同じ長田区内でも長田神社周辺とは異なる庶民文化を形成し、近代、駒ヶ林から山側への街地拡大に際して「新長田」と呼ばれるエリアが確立した。


全国でも有数のコリアタウンがあり、大阪市生野区と並ぶ在日コリアンの多い街としても有名である。

以下略



地理[編集]
山:六甲山、高取山(鷹取山)
       ↑
       328m


歴史[編集]
                池田村ですね
                 ↓
1896年 - 八部郡林田村、須磨村大字池田を編入し、両地域を以って林田区を設置。

1945年 - 行政区の再編成を実施し、従来の林田区を基礎として長田区が誕生。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月21日 09時30分06秒 ) パスワード

http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/nagata/jyouhou/rekishi.html

長田の歴史


長田地方の歴史を振り返ってみると、弥生時代にまでさかのぼることができる。

日本に初めて稲作がわたってきたのは弥生時代のことで、その当時使われていた弥生式土器が、長田神社境内を中心に苅藻川流域で多数出土しており、人々はこの恵み多い川の流域に居を定めて稲作に従事し、集落を守る神を中心に、四季の生活を送っていた。

この苅藻川に沿って長く拓けた田地の美称として、長田の名が起こったといわれている。



    「長田」って言葉は弥生時代まで遡りますか。
     ということは「神代の時代から」長田って言葉があったのかもですね。



その後、大化の改新前後には、条理制の地割が行われ、古代の山陽道が整備された。


源平合戦の際には長田の谷から長田一帯にかけて主戦場になり、民家などが焼かれてしまったと思われる。

    鵯越も近くですからね。
    焼いたのは当然義経軍でしょうね?



南北朝時代にも、合戦の場となり、長田神社は湊川合戦で足利方についた。

                  ↑
                それで「長田神社」を検索したいと思わなかったのかも 



そして、明治に至るまで、農村地域としてそれぞれの地域は発展してきたのである。



そうか・・・
長田氏って「美しい田」「良い田」「豊作の田」「命の田」
そんな感じの意味があったのですか。

知らなかった〜

    どっちかいうと「長田」 → 「長老」・「長命」・「古い」という意味かと思ってた。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月21日 09時48分02秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1056971110


甲斐の長田氏について


長田(ながた・おさだ)は、甲斐(現在の甲府市・甲斐市付近)、信濃(長野市・茅野市付近)、駿河(現在の御殿場市付近)、三河(現在の碧南市付近)、相模(現在の相模原市付近)、武蔵(現在の八王子市付近)に集中して分布します。


先ず、甲斐の長田氏の関係として見えるのは、桓武平氏良兼流で、尾張国知多郡野間庄の長田庄司忠致(尾張国知多郡長田庄を領したためという)の後裔という長田氏です。


     これは誤りよね。源義朝でしょ?
        ↓
忠致は主君の源義仲を討ったことで有名ですが、その弟右衛門尉親致の子政俊を祖とし、その8世孫広常の弟平内左衛門信広が甲斐国に移り、武田信綱に仕えたとする系図が残ります。

その孫に、「医聖」と称され、武田信虎の侍医となったという永田(長田)徳本が出ました。

   (但し、政俊という者が本当に親致に繋がるかが不明)

また、猪狩村の長田氏は致忠の後裔といい、忠致の子忠久(但し、他の系図には見えない)を祖としています。


その他にも亀沢村の兼武神職に長田監物、長田将監が史料に見えます。


基本的には、この長田氏の子孫と称する長田氏が甲斐・三河・相模・武蔵に分布しています。



その他の可能性として、信濃の長田氏は他田(おさだ)であり、科野国造一族の金刺舎人から出た他田舎人の子孫の長田(他田)氏。金刺舎人の後裔は、その後甲斐にも広まっています。


          ここは箱柳さんのご先祖関係?
                 ↓
また、最初の平姓長田氏の系図では、南北朝期から代々三河国碧海郡大浜郷の熊野権現社神主を務めたと系図では記しており、また、広常が長田平大夫を称するまでは、大浜という苗字だったようで、長田致忠の長田氏との繋がりに疑問が出てきます。

     駿河の長田氏
        ↓
駿河国有度郡に長田(中田)庄があり、ここは熊野那智大社の荘園であって、ここに駿河の長田一族が居ました。出自は不明ですが、藤原氏を称していたようです。

因みに熊野国造からも、熊野別当からも長田氏が出ています。
この長田氏は、一説に、大和国城下郡の安倍姓長田(他田)氏の一族とも言われます。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月21日 10時01分32秒 ) パスワード

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%95%B7%E7%94%B0


【名字】長田

【読み】おさだ,おざだ,ちょうだ,ちょうた,ながた,ながだ

【全国順位】 264位  
【全国人数】 およそ86,800人




長田臣、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)、
村上天皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)、

桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、

中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、

古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏、大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫。平城天皇の子孫ともいわれる)、

丹党などにもみられる。


「おさ」は「他」や「長」の文字をあてた。
「長」は長くのびている地形、器物、生物などの意味。



長田さん都道府県別ランキング!!


北海道 300位    およそ2,900人   暑がりで北海道に移住? あ、屯田兵か?

青森県 2,175位   およそ50人
岩手県 704位    およそ200人
宮城県 170位    およそ2,000人
秋田県 524位    およそ300人
山形県 1,379位   およそ60人


福島県 491位    およそ600人
茨城県 778位    およそ600人
栃木県 960位    およそ300人
群馬県 707位    およそ400人
埼玉県 412位    およそ2,800人
千葉県 327位    およそ3,200人    結構多いね


東京都 238位    およそ9,100人
神奈川県 201位   およそ7,600人
新潟県 544位    およそ700人
富山県 139位    およそ1,300人
石川県 114位    およそ1,700人
福井県 301位    およそ500人


山梨県 13位     およそ7,900人    多いね
長野県 177位    およそ2,400人
岐阜県 501位    およそ700人
静岡県 112位    およそ6,100人     多いね。ここが長上郡に関わるのかも
愛知県 335位    およそ3,900人     意外でした  もっと多いと思った


三重県 419位    およそ800人
滋賀県 464位    およそ500人
京都府 315位    およそ1,400人
大阪府 289位    およそ5,000人     多いね
兵庫県 211位    およそ4,600人     多いね
奈良県 299位    およそ800人
和歌山県 350位   およそ500人


鳥取県 184位    およそ600人
島根県 315位    およそ400人
岡山県 328位    およそ1,100人
広島県 475位    およそ1,000人
山口県 261位    およそ1,000人


徳島県 360位    およそ400人
香川県 461位    およそ400人
愛媛県 483位    およそ500人
高知県 423位    およそ300人


福岡県 503位    およそ1,800人
佐賀県 1,074位   およそ90人
長崎県 361位    およそ700人
熊本県 339位    およそ1,000人
大分県 275位    およそ800人
宮崎県 257位    およそ800人
鹿児島県 380位   およそ800人

沖縄県 191位    およそ1,400人   寒がりで沖縄に引っ越した?

[44]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月21日 10時06分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 天正7年と9年の伊賀の乱、天正10年の本能寺の変、神君伊賀越え、その
後の江戸での伊賀衆200人の与力・同心での召し抱え、慶長元年の半蔵正成
の死、そして2代目を正就が継ぎ、慶長5年関ヶ原の合戦。
 服部忍者の活躍の話は表だってないように思われる。この点について『伊賀
・甲賀 しのびのすべて』では次のように述べている。
 「伊賀者たちは上杉討伐や各地の諜報活動に走り回って活躍したが、組頭の
半三正就は江戸に残って戦場に立つことがなかった。そのため論功行賞に与る
こともなく終わったのだった。」
 ここから転げ落ちるように没落して行くことになる。
 甲賀衆は関ヶ原の合戦の前哨戦となる伏見城籠城戦において活躍したが、落
城。その後関ヶ原の合戦でも活躍し、その後与力・同心として100人が召し
抱えられている。
 だがいずれも幕府の官僚的世界にあって、その存在価値が低下して消えて行
く運命にあった。
 関ヶ原の合戦を境に、忍者のあり方が変わって行く。隠忍から隠密へ。

 
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月21日 10時08分52秒 ) パスワード

http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%95%B7%E7%94%B0



長田(おさだ、ながた)とは、日本の苗字、地名である。

苗字としては山梨県を中心にして分布しており、山梨県では13番目に多い苗字である。山梨県周辺に分布する長田姓は殆んど「おさだ」と読ませる。

平安時代の武家、長田(おさだ)氏が甲斐国へ逃亡したという説がある。


地名


兵庫県 神戸市    長田区    解決済み
静岡県 静岡市駿河区 長田地区   解決済み
大阪府 東大阪市   長田

兵庫県 加古川市   尾上町長田
愛媛県 四国中央市  豊岡町長田
福岡県 みやま市   瀬高町長田

何も分からない・・・
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月21日 10時19分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


>伊賀者たちは上杉討伐や各地の諜報活動に走り回って活躍したが、
>組頭の半三正就は江戸に残って戦場に立つことがなかった。
>そのため論功行賞に与ることもなく終わったのだった。


なるほど
伊賀者が正就にストライキをした原因ですね。


上に立つ2代目が自分は楽な場所にいて昔の仲間を顎で働かせてたから怒ったのでしょうね。

正就は性格も良くなくて関係無いヒトを殺しているそうですし。

   親の名で良い役職を得ただけで
   能力も人格も伴っていなかったということですね。

   そこへ大久保長安の事件が起きたから家康に纏めて処分されてしまった?


高虎や政宗のような画策の出来る人物だったら、と惜しいですね。
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月21日 14時48分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長田についてはなかなかつかみ切れません。土地の名前が先か、氏族の名前
が先か・・・? おさだ・ながた―読み方の違い、元々の音はどうだったので
しょう?
 静岡にも服織村と長田村が隣接してあります。ここ遠江では長田郡の中に
羽鳥村があった。
 羽鳥の養蚕・絹生産を織る筬(おさ)に関係しないか。あるいは、長(おさ)、
すなわち氏族長が住んだ所ではなかったか。田んぼが長かったというのでは
余りにも単純過ぎます・・・。
 調べがいがありますね。
 
[48]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月21日 22時20分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、引佐細江町にある初山(しょざん)宝林寺に行ってきました。今まで
一度も行ったことがなかった寺ですが、近藤家の菩提寺で黄檗宗ということを
古本屋の御主人から何回か聞き、それでは一度行ってみるかということになっ
た訳であります。
 行ってみると何とまあ素晴らしい寺ではありませんか。もっと早く来ておく
べきだったと今更言っても遅いですが、佛殿と方丈の二つの建物が、国の指定
重要文化財となっています。お寺には珍しく、両方とも檜皮葺きでありまして、またかなり大きく、その屋根の曲線が見事でありました。龍潭寺に勝るとも劣
らない寺院でありました。
 近藤家の墓所にも行ってまいりましたが、急いで写真をとりまくって来ただ
けなので、内容もまだ深く掘り下げておりません。詳しいことは日を改めて書
きますので、どうぞご容赦下さい。

[49]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月21日 22時54分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


長田氏の謎に全く迫れませんでした。
きっと家が古過ぎて掴めないのでしょうね。

どこから来たのでしょうね。



>羽鳥の養蚕・絹生産を織る筬(おさ)に関係しないか。

さすが!
こちらは地元ならではの閃きですね。

   筬(おさ) が 長(おさ)になったのかも。
   画数多いの、メンド臭いですものね。



>あるいは、長(おさ)、すなわち氏族長が住んだ所ではなかったか

   これは当たらず遠からず
   わたくしにも簡単に納得です。



>田んぼが長かったというのでは余りにも単純過ぎます・・・。

   はい
   


>黄檗宗

  京都に行った時に南下して黄檗宗の寺を見て来ました。
  中国風というか
  日本の寺とは違うのを楽しみました。
  
  そちらにもあるのを意外に思いました。


近藤家の墓所というのがこれまた意外でした。
どういう関係だったのでしょうね。


楽しみにしております。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月22日 13時22分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 金指近藤家2代目の当主となった貞用(さだもち)がなぜ黄檗宗の厚い信奉
者となったのかは、まだ調査はしていません。この寺は日本の様式と違い、
中国風(台湾も同じ)の様式―明式でありました。4代将軍家綱も信仰が厚か
ったということですが、何が魅力であったのでしょうか。
 このテーマについては、ひとまず置きます。

 長田のルーツ探しは、海人にからんでくるのではと予想しています。従っ
て水軍を調べて行く内に何かヒントが出て来るのではないかと期待していま
す。
 その水軍、まずは熊野水軍のルーツでありますが、中島洋著『神武移住
団と結んだポリネシアンの秘史 大和王朝の水軍』という本の中で―
「熊野三山は朝野の信仰を受け、皇室からも所領を献じられ、かつては奥
熊野一帯すべてが三山の所有地であったばかりでなく、各地にも土地の寄進
を受けて庄園を持つに至ったので、それらの庄園を守るために強力な僧兵を
擁し、彼らは熊野水軍として海上に威力を持っていた。この僧兵を統率して
いたのが熊野別当で、一種の大きな権力を持っていた。」
 水軍のルーツは古代の海人、ポリネシア人まで遡ると作者は言っています
けれど、これをテーマにするとなるとまた膨大な時間がかかりますので、今
は止めておきます・・・。

 今回はここまでといたします。
 明日は天皇誕生日でお休みですので、じっくりまとめます。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月22日 22時15分06秒 ) パスワード

三つ柏さん


熊野というと八咫烏でしたよね。
神武の愛鳥。


   昨日の「官兵衛」最終回の羽織の前立て?部分に
   八咫烏らしき鳥が刺繍?されていました。

   まさかココで熊野=八咫烏=と書くことになるとは思いませんでした。



確かに古代は北から南から西から  そして  東からも  日本に人々が来てたんでしょうね。

でもポリネシアは失念してました。
日本から黒潮に乗ってポリネシアに行ったというのは分かっていましたが
向こうから来たというのは考えてなかったです。




日本と日本人を考えるのに、あらゆる可能性を考えないといけないですね。
「まさか」と思うことも、考慮に入れないと。



古代人の航海を再現するハワイから出航したホクレア号は今はニュージーランドにいるそうです。


海面が今より100mも低かった時期にはもっと簡単に航海出来たのでしょうね。
いけませんね
過去も今の条件で考えてしまいますから。


本日、日本時間、23日は天皇誕生日でしたか。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月23日 05時43分06秒 ) パスワード

昨日の「官兵衛」ですが

官兵衛は神武天皇に自分をなぞらえて
九州を征定して後に本土に進出する気だった
という意味をあの羽織に込めていたのかしら

と、演出家の心にくい小道具に驚きました。


やっぱり九州から考えないといけないのかなあ
長田氏も九州に何かあるのかなあ
元々は神武東征からの豪族なのかなあ

などと考えています。


でも全く分からないです。
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月23日 07時54分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、「長田」について、ついにわかりました!!!

 昨夜、水軍関係や、海人の安曇氏を調べながら、「長田」の文字を探して
いましたが、全然出てこない。ひょっとすると、日本語でなく外国語の方に
よりルーツが関係しているのかと、日本の古代の地名関係はアイヌ語、ヘブ
ライ語、シュメール語等に由来するということで、海人に関係するシュメール
語に関する本を開いて読んでみましたところ、後半の部分に「長田」の謎が
書かれていました。正に一発でしとめたというか、ヒットしました。うれしい
やら何やら・・・その時深夜12時をまわっていましたので、ま明朝にという
ことで今書いております。内容的には考古学から言語学までいろいろな要素
がからんでいますので、私の能力では完全理解することが難しいので、あを様
のお力をお借りしたいです。あを様なりに解釈・解説を加えていただきたいと
思います。
 八咫烏の話もルーツ的には関連して来ると思いますが、これはこれですごい
テーマですので、別途考察したいと思います。

 では、「長田」のルーツについて、川崎真治氏の『地名の起源を探る 方舟
に乗った日本人』の中から、ちょっと長くなりますが―
 「天竜川の青銅鏡
  1988年12月11日。『東アジアの古代文化を考える会』(会長江上
 波夫)の会員研究発表会で、『天竜川下流の石積古墳』というテーマの研究
 を大石政男氏が発表した。その折、配られた資料の中に、1枚の青銅鏡拓本
 印影があった。見ると、乳頭と乳頭の間に、何とも言えぬ不思議な画像があ
 る。乳頭は4個あるのだが、その間を埋めている4個の画像が、それぞれに
 違う形状で、私がこれまでに見た古鏡のものとは全く異質であった。つまり
 東王父・西王母とか、伯牙弾琴とか、東駕とか、そういった種類ではないの
 だ。
  私は、この鏡を、この目で見る必要があると思った。
  鏡を保管している浜北文化センターへ電話すると、うれしいことに原寸
 大の写真を送ってくれるという。その写真が『内野二本谷積石塚第一号墳
 発見の変形神獣鏡』(直径99ミリ)である。

 ここで一度区切ります。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月23日 08時54分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続きです。ちなみに、この鏡のことを現在では、「赤門上(うえ)古墳 三角
縁神獣鏡=華紋明天王四神四獣鏡」と呼んでいます。 

 「変形神獣鏡といわれているが、もちろん、仿製鏡、日本製である。ご存じ
 の方も多いと思うが、弥生後期の銅鐸が浜名湖周辺から数多く出土している。従って、内野二本谷から出た変形神獣鏡も、多分、銅鐸を鋳造した鋳物師の子
孫の作であろう。ということになれば、その製作地は浜名湖北岸の伊福(遠江
国引佐郡伊福郷)をおいて他にない。理由は、伊福(イフク)という日本古語が
「鋳物師」だったからである。
 注:伊福、イフクの語源はシュメール語の鋳物師シムグ。shimug→sibug→
  'ipuk→'ihuku 伊福部氏は青銅鋳造部族。」

 ここから神獣鏡の画像・模様・文字について解説しているが、甲骨文字の
ような文字が再現できないので省きます。

 「以上、簡単ではあったが、内野二本谷塚第一号墳発見の変形神獣鏡の全
 画像を4区に分けて解説した。改めて統括していうと、「七枝樹2神の牡
牛神ハルと蛇女神キに祈る」。これが鏡に鋳込まれた絵と字による「銘文」
である。そして、この銘文をもつ変形神獣鏡が出土した地点は既に紹介した
ように、天竜川河口流域の長上(奈加乃加美)郡内の内野(うちの)であった。」

 ちなみに、うちの父方のおばあさんは内野の澤木家の出身で、その父は宮
大工をしており、家は古墳のすぐ下にありました。

 一度ここで切ります。

  
 
[55]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月23日 09時27分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いよいよここからが佳境となります。

 「平安時代では、長上郡と長下郡に分かれていたが、より古代では阿波国
那賀郡のように一つの長郡、那賀郡、あるいは那訶郡であったと考えられる。
ナガでなく、ナカ(那訶)とした理由は、平安時代、長上郡長田郷がナカタ郷
(奈加多)であり、長下郡長野郷がナカノ郷(奈加乃)だったからである。つま
り古代の日本語では、那賀、那訶、奈加、ナガ、ナカは通音であり、長(ナ
ガ)、永(ナガ)、中(ナカ)、仲(ナカ)は通音通字であったのだ。そしてその
ナカ、ナガの7世紀のあて字は「那干」「那奇」(日本書紀)であり、3世紀
の『魏志倭人伝』では「奴佳」だった。ということは、ナカのカ、ナガのガ
が、kh子音のkha「クㇵ」だったということである。詳しくは前著『日本最古
の文字と女神』で述べてあるが、以上のナクㇵ、ナカ、ナガの言語はシュメ
ール語の「腕を〇〇の方へ近づける」、ダフ・アー・ダであり、そのダフ・
アー・ダが音転で、ナクㇵンダ(那干陀)、ナカダ(那奇陀)になり、ナカダ
(那訶田、仲田、中田)になり、ナガタ(那賀多、長田、永田)にもなったので
ある。なお、郡名の那賀、長、那訶は、語尾のダが省略されたものである。」

 最後にもう少し、大事な所が続くのですが、用事ができてしまったので、
申し訳ございませんが、ここでひとまず区切りといたします。

[56]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月23日 12時20分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ラストです。

「そういう言語史をもつナカ、ナガが、倭人の社会で「七枝樹二神」をあら
わす代名詞になった。従って、ナカもしくはナガの入った地名の国や郡や郷
は、牡牛神ハルと蛇女神キを祈るウルク系日本人の住む国・郡・郷で、その
証拠の一つに、長上郡内の内野から上述の神獣鏡が出た。ちなみに内野(ウチ
ノ)という地名をいえば「向かい合う・キ女神・牡牛神」、ウブ・キ・グ、
ub-Ki-Guから@フ・チ・ノ、Aウ・チ・ノへと変化した内野であった。いう
なれば鏡の第2区画、第3区画、第4区画の言語的表現がウ・チ・ノ(内野)
であり、また@の後略のフ・チが浜松市の属した旧郡名のフ・チ(敷智)郡で
あった。
 このように天竜川河口流域は、牡牛神ハルと蛇女神キが結ばれた、いわゆ
る七枝樹二神族が住んでいた地域であった。だからこそ川の名に竜蛇女神の
「竜」が入ったのである。
 なお、天竜川中流の水窪(みさくぼ)町に多くの古代文字を線刻した石が
ある。私は10年程前、故・池本教諭宅で、その石を撮影したが、今、石の
写真をあらためて見直したところ、文尾にあたる個所に、蛇女神キの甲骨文
字「ヒ」がひときわ大きく、かつ鮮明にほられてあった。すなわち、内野の
変形神獣鏡にある「ヒ」と同じ文字が、天竜川中流の水窪線刻石にもあった
ということなのだ。」

 つまり、縄文時代か、シュメール系の人々が海を渡って来て河口近くに
住みついたということになる。島とか入り江もそうだったかも知れない。
志賀島もそうだったと思います。シュメールのペトログラフがたくさんあり
ます。水窪石も写真で見たことがありますが、古代の字でありました。
 
 私の住む地域の話に正になりましたので、これから内野の古墳に行って
まいります。また、ご報告いたします。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月23日 15時18分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごい情報を懇切丁寧にお書きくださって感謝いたします。


>「七枝樹2神の牡牛神ハルと蛇女神キに祈る」

これって  エデンの園の木 と  モーゼの時代の牛の神様 と  地を這う蛇

に通じるように思いました。



そうしますと、元々は中東の話?
メソポタミアのイラクとかイスラエルとかレバノンとか?


また古代に行き着きましたね。
日本の神代の時代を更に遡りました。




>天竜川河口流域は、牡牛神ハルと蛇女神キが結ばれた、いわゆる七枝樹二神族が住んでいた地域であった
>だからこそ川の名に竜蛇女神の「竜」が入ったのである。


天竜川については三つ柏さんから何度も特別な感覚を示唆されてましたが
   蛇女神キ
に行き着きましたね。



長上郡とか敷知郡とか、驚きました。

地名ってものすごいものを秘めていたのですねえ。


長田氏の名称の始まりがものすごく古いということ。
驚きました。


雷に撃たれたようにちょっと動けないです・・・・


本当にありがとうございました。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月23日 15時38分37秒 ) パスワード

本日「ごめんね青春」が終わりました。


錦戸亮が放火魔で自首するというところにパトカーは来て・・・
というシーンで原先生が逮捕されない理由を語るのが


    松下刑事


笑っちゃいました。



「ごめんね」のマークは「鰻」だったんですねえ。
あの絵は「鯰」だと思ってました。

   浜松のウナギに対抗して三島のナマズなのかなと。

   宮藤官はパロディが好きだから、と。


三島はこれで全国に名が売れてラッキーでしたね。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月23日 22時52分43秒 ) パスワード

三島の歴史をちょっと調べました:

三島市長に
3代目  原国太郎(1947年4月6日 - 1948年12月10日)


ということは  お寺の原一家の名字は三島的に有り得た  んですねえ。



三島には2万7000年の歴史がある?




三島市章は 大三島神社の紋の 「折敷三文字紋」のバリエーションで
                 折敷 + 三 + 富士山
なんですねえ。

これまた驚きました。


やっぱり古代から考えないといけませんね。
点ばっかり捜しててはいけません。

線に繋げて、やがて、面にしないと。


宮藤官の作品は奥が深いけど、知れば知るほど、奥の深さに驚きます。
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月24日 11時57分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長田の地名等についてはかなりわかったのですが、長田・永田・長井・永
井の氏族については、特集した本が余りないのでなかなか進捗しません。
 昨夜も「永井」を調べていたのですが、淀藩の2代目藩主であった永井尚
政は、ことのほか「菅原道真・天満宮」を崇拝していたようで、領地の神社
の多くに菅原道真を合祀していることが分かりました。
 その関係から行くと、わが善地になぜ天満宮があるのかという謎を解く一
つのヒントになります。即ち、こちらでは服部とほぼ同族の永井氏が菅原
道真・天満宮を合祀、ないしは勧請したのではないか。また、尚政の子の
尚庸は、伊賀守であり、継室の父は遠江浜松初代藩主太田資宗であった。
これは永井と浜松の関係を示す証左の一つでもあります。
 服部氏自体も、伊賀には上野に立派な天満宮があり、関係していたと思わ
れますし、岡崎の服部長七と岩津天満宮の関係というのもあるように、天満
宮とは何かと関係が深いような気がいたします。摂津に服部天満宮というの
もありますし、永井・服部・天満宮は共通する同類項のような気がします。
こちらの地方の永井氏の出自がわかればいいのですが、遠江の永井氏の子孫
の系統はどうで、どこに住んだのかというようなことがわかればいいなあと
思っています。ここ善地には永井姓が結構多いのです。
 
 昨日は、内野に行き「赤門上古墳」(前方後円墳)を見てまいりました。昔
だったら天竜川を見渡せる西岸のやや小高い所に古墳を作ったということに
なります。三角縁神獣鏡が副葬品としてあった・・・即ち謎の四・五世紀の
地方の豪族がヤマト政権(?)から鏡を受け入れた。即ち、従属したというこ
とでありましょうか?
 帰りに近くのお寺に寄ってみましたところ、新たなる発見をいたしました。
それは、大久保姓の墓がたくさんあったということです。日蓮宗のお寺でし
たが、大久保氏の家紋が間違いなく刻まれておりました。それが忠世系なの
か長安系なのかの識別はまだ行っておりません。内野に隣接する平口、三方
原台地のすそであります。
 今後、さらにいろいろなお寺に行って、服部、永井、大久保、松下等の子
孫の流れと広がりの足跡を探りたいと思っています。

 内野には近藤陣屋があったということです。気賀の近藤氏は五近藤といわ
れて繁栄しておりますが、石高は3,000を上回る程度でした。近藤屋敷
とか宗林寺とか、たくさん世に残しております。しかしながら、服部中家は
明治まで領主を勤めるも、その残したものはほとんど何一つありません。噂
さえなく、子孫さえ見えてきません。この違いは何なのでしょうか。忍者系
ということで、疎まれたのでしょうか・・・この謎に迫りたいと思います。

 
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月24日 23時01分43秒 ) パスワード

今から出かけるところなので簡単に書きます。


道真さんと岡山の関係
そして
服部氏との関係

   簡単に言えば
   平家と南朝方
   これに尽きる

      とこれまで思っていました。



ここに  永井氏  も絡むのかしら?

   そうすると伊賀の長田氏との関係なのかな?と
   混乱中です。


出掛けます。
あとでユックリ考えます。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月25日 06時32分18秒 ) パスワード

またもや  服部氏で丸に三つ柏紋使用の家  を見ているのですが

https://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA3-PA33&lpg=RA3-PA33&dq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%AE%B6%E3%80%80%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E3%80%80%E3%80%80%E4%B8%89%E3%81%A4%E6%9F%8F%E7%B4%8B%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=LXd0QsMdRe&sig=nnc1I95zNlftujXbIppgZHKJquI&hl=en&sa=X&ei=_iybVNLtMYGwogSM-oLQCg&ved=0CC4Q6AEwAg#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%AE%B6%E3%80%80%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E3%80%80%E3%80%80%E4%B8%89%E3%81%A4%E6%9F%8F%E7%B4%8B%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

このサイトの舵紋の次で上の表示では25ページになっている所に柏紋が始まっていて
                  ↑
                 この表示が変です

下に行くと   服部  桓武平氏流(寛政譜  20) が出てて
           上の表示では22ページです
           下に移動したのに


更に下に行って、でも上の表示では33ページですが  右のページでは八二です
ここに  吉田という名字があって<蜂須賀藩家臣成立書>の下の段
  
     ページ八二の3行目に服部という名字があります。


でも蜂須賀家の家臣では  旗本  じゃないですしねえ。


[65]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月25日 07時46分44秒 ) パスワード

復習

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/hattori.html


各地の服部氏の由来


■大和の服部

和名抄 当国山辺郡に服部郷を収め、波止利と註し、東大寺要録に服部の荘を載せたり。

又、延喜式 城上郡に服部神社あり、皆 この部の在りし地なり。
           ↑
          神紋が知りたいです


又、後世 高市郡の医師に服部時寿(子篤)あり、宗賢と号す。高取藩に仕う。名医なり。



■摂津の服部   ← 丸に三つ柏紋の神社の服部ですよね

和名抄 当国 島上郡に服部郷を収む。

又、延喜式に服部神社、荘園目録に服部御領を載せたり。

又、服部城あり、松永久秀築く。← 1550年あたりのようですよ

       


当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。
又、後世、大阪 神戸などに服部氏多し。



■山城の服部

当国にもこの部民多かりしならん。

    伊賀の呉服明神の服部氏ですね
      ↓
又、後世 伊賀服部氏の後の服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、伊賀国呉服明神の神職、後に山城国宇治田原に住す、後 家康に属す)−貞富、家紋 車輪竪二本矢、七本矢、矢の字桔梗」と。



又、京都の人に服部元喬あり、もと伊賀の服部より出づと云う。
荻生徂徠門の俊才にして、南郭と号し、服 南郭と称す。
宝暦卒。その長男 惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名ありしも、また早世す。

よりて門人 西村元雄を季女に配して家を継がしむ。

又、国学者服部中庸は、元居門にして、水月と号す。

又、服部敏夏あり、これも本居門にして、通称を中川屋五郎右衛門と称せり。

又、剣客に服部藤次兵衛あり、神後伊豆守の門(新陰流)、皆 京都の人なり。



■遠江の服部     この文脈ですと古代の服部氏ですよね
           高槻の服織神社と関係があれば解決になりますが
              そうしますと
              平氏で旗本の服部氏には矛盾しますよね

                 もちろん古代服部氏が家康に仕えるようになって
                 平氏の服部氏に化けたなら解決ですが


延喜式、当国 長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり、共に古代服部の奉齋せし、神社なるべし。

而して、長上郡に服部氏の名族あり。

     この文脈なら  古代の服部氏で神社関係者  になりますよね

        でも時代が下っていろいろゴチャゴチャ化学変化を起こしますから



■駿河の服部
当国安倍郡に服職庄あり。而して、後世 服部氏多く、又、府中浅間社家に服部氏見ゆ。

                             ↑
                            紋は何でしょうね?
                        駿河ですから1度いらっしゃって確認なさっては?



■武蔵の服部

和名抄 当国都筑郡に高幡郷、幡屋郷、また、男衾郡に幡々郷、また、久良郡に服田郷を収む。服部の部民の多かりしを知る。後世、久良岐郡の名族にこの氏あり。

新編風土記に「服部氏(弘明寺村)。先祖を玄庵道甫と云う。村内 寶林寺の開基なり。

     新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)
     文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌。


       娘が明智光秀の後妻だったという人?
         ↓
相伝う、元は伊賀国名張の城主なりしと云えど、正しき伝えはなし。
後、故ありて跡をくらまし、当所に来て隠棲し遂に農民となれり。


   系図は武士の魂ですものねえ。系図が無いというのは武士として失格
    ↓
されど系図は無し、先祖より持ち伝えし物とて、甲冑二領、刀、短刀五振、文書四通を蔵せり」と。

又、足立郡服部氏は、二本矢を家紋とす。
           ↑
          やっぱり伊賀ですよね



■両総の服部
和名抄、下総国埴生郡に酢取郷を収む。後世、羽鳥村の残るを見れば、羽鳥の誤りにて、この部のありし地ならん。後世、豊田郡下石毛村の人 服部謙蔵・波山は、書家として名あり。



■常陸の服部
真壁郡に羽鳥郷あり、この地より起りしもあらん。



■近江の服部

和名抄、野洲郡に服部郷を収め、八土利と註し、高山寺本には、波止利と訓ず。後に服部村あり。この地名を名乗りしもあらん。




■美濃の服部
和名抄、当国安八郡に服織郷あり。



■奥州の服部
磐城国標葉郡、岩代国会津郡などに羽鳥の地名あり。この部民のありし地か。この地名を名乗りしもあらん。田村家臣に服部氏あり。又、新編会津風土記に「耶麻郡猪苗代 進功霊社。社司服部安休尚由の社なり。安休は初め春庵とて、林道春の弟子にて、後、保科正之に仕え、侍臣となる。天和五年没す」と。





                     子虫ですって。可愛い(はあと)
■越前加賀の服部              ↓
天平神護二年の越前国司解に「余戸郷戸主 服部子虫、鹿蒜郷戸主 服部否持」など見え、又、和名抄、今立郡に服部郷を収め、波止利と註す。又、神名式に「江沼郡服部神社」見ゆ。




■因幡の服部
和名抄、法美郡に服部郷を収め波止利と註す。又、神名式、法美郡に服部神社を載せたり。後世、服部庄起こる。この地より起りしもあらん。



■伊賀の服部氏

当国阿拝郡に服部郷あり。延喜式、阿拝郡に小宮神社あり。伊賀考に「小宮は、服部氏の惣社にして、伊賀国二之宮」と云い、三国地誌に「昔は服部の輩、阿拝郡を領地せる故に、服部の社もありと、永閑記に見ゆ。土俗なべて服部氏を秦人の裔となすは、非なり」と。この氏族滋蔓して、伊賀一洲に散在す。平内左衛門尉家長が源平盛衰記に現われ、その名最も高ければ、この族を桓武平氏となすもの多し。


又、東鑑 文治二年六月二十八日條に「左馬頭能保の飛脚参着す。去る十六日、平・仗 時定(平家物語には、服部六郎時定)、大和国宇陀郡に於いて、伊豆右衛門尉源有綱(義経の婿)と合戦す。而して有綱、敗北し、右金吾相具し、深山に入りて自殺し、郎従三人傷死し了んぬ。残党五人を搦めとり、右金吾の首を相具し、同二十日、京都に伝う云々。これ伊豆守仲綱の男なり」と。


            
又、円覚律師、これは服部広元の子にして、京都 法金剛院、及び清涼寺の僧侶たりしが、慶長元年卒すと。
                               ↑
                      村山たかの清凉寺は彦根ですね
                           佐和山城の麓


■三河の服部氏

         こちらは忍者の元締系服部氏ですね

服部系譜に「将軍義晴 臣 服部半三保長(石見守・三河に来たり松平清康に仕う)−石見守正成(半三・遠江国八千石)−石見守正就、弟 伊豆守政重(半蔵・三千石・後 松平定綱家臣)」と。

編年集成に「服部半蔵正成、伊賀組 二百人にて、谷村城を守る」と。
寛政系譜に「家紋、八桁車の内竪矢筈二、十六桁矢筈車、十六葉菊、むかい蝶矢車」と。



■伊勢の服部氏

      尾張のホンヤさんの元々の住所ですね。ここから南朝方として吉野に行って尾張に定住
       ↓
和名抄 奄芸郡に服部郷あり、八止利と註す。この地より起りしもあらん。
永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、北畠氏に属す。


________________

波止利
八止利
羽鳥

この区別はあるのかしら?
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月25日 14時16分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日はクリスマスイブでケーキを食しました。こんな程度の日本人は多い
と思いますが、キリスト教自体の歴史は、江戸時代でも戦国時代でも、深く
潜行して広がっていたのですね。これをテーマにすると際限なく時間を費や
すことになりますので、今は止めておきますが、いずれはと思っています。

 さて、わが「服部」と「永井」の関係を探るべく、昨夜は静岡の『安部郡
史』(服織と長田を調べるため購入)という本を読んでいました。すると、
安部郡でも天満宮の勧請があった。そしてそれを指示したのは実は家康であ
ったということである。これを知り、永井氏によるわが善地への天満宮勧請
という線は、もろくもぐらついてしまいました。家康も天満宮を崇拝してい
たということ・・・何で? 新たな謎が浮上して来ました。

 この謎については家にて記します。
 
 明日で仕事納めとなります。
 正月休み期間中に岡崎へ行って、岡崎城、寺社、伊賀町等調べたいと思い
ます。箱柳という地名にも興味をひかれますので、時間があれば立ち寄って
みたいと思っています。


 
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月25日 14時50分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


>阿部郡でも天満宮の勧請があった。
>そしてそれを指示したのは実は家康であったということである。
>これを知り、永井氏によるわが善地への天満宮勧請という線は、もろくもぐらついてしまいました


ですね。

それで家康と天満宮の関係をわたくしなりに調べてみました:以下は岡崎と服部長七と京都の話です



___________________


岡崎の場合

http://okazaki-city.forluck.info/400/110_1/


岩津天満宮の起源

岩津天満宮の起こりは、この天満宮の下にある信光明寺が大きな関係があります。


   1759年のお話

信光明寺の一誉上人が、将軍拝謁する為に江戸へ向かう途中に病にかかり、現地の人のの勧めで天満宮に祈願したところ、病が回復をしました。
この帰りの時に鎌倉の荏柄山天満宮に参拝し分霊をもらって帰り信光明寺の観音堂に祀りました。
天神様のご神託があり、現在の岩津天満宮に祠を建て、祀ったのが始まりとされています。


初天神は1月の25日に近い土曜日 日曜日に行われます。
岩津天満宮がもっとも賑わいを見せる神事です。



牛が御神体として置かれています。     ← 牛?




住所:愛知県岡崎市岩津町字東山53
電話:0564-45-2525 
アクセス:名鉄バス「岩津天神口」下車徒歩10分
駐車場:あり



明治時代の服部長七との関係:

http://ogino.digi2.jp/chuubu/aichi/okazaki_shi/iwadu_tenman_guu/index.html


岩津天満宮は岩津天神、芭蕉天満宮とも呼ばれ、祭神は菅原道真です。
岩津山の山頂に芭蕉の葉に乗った菅公が雷鳴の中、稲光とともに降臨したとされています。

宝暦9年(1759)に信光明寺の第22代住持・一誉上人が、岩津天満宮を創建したそうです。


一誉上人は将軍拝賀の旅の途中に病気にかかってしまいました。
土地の勧めで天満宮に心中祈願したところ、病はたちどころに回復しました。
霊験に感激した上人は帰途、鎌倉の荏柄山(えがらさん)天満宮に参拝し御分霊をいただき信光明寺の観音堂に祀ったそうです。


上人は「我を四辺眺望の地に祀るべし」との夢枕に立たれた天神様の御神託を聞き、東山(岩津山)の現在地に社殿を建てたそうです。


明治6年(1873)の神仏分離により管理が信光明寺から、岩津村へ移りました。

明治12年(1879)、岩津天満宮の堂宇は火災によってことごとく焼失しました。



三河へ布教に訪れていた富山県の芦峅寺の大阿闍梨鑁禪(佐伯鑁禪)は、
屋敷をねぐらとして借りていた碧南の実業家、服部長七に窮状を訴えました。


長七は明治44年(1911)から大正8年(1919)にかけ社殿の再建を成し遂げました。


______________________


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%89%E6%AE%BF%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE

霊光殿天満宮


所在地
京都府京都市上京区新町通今出川下ル徳大寺殿町

位置
北緯35度01分41秒
東経135度45分20.5秒座標: 北緯35度01分41秒 東経135度45分20.5秒

主祭神
菅原道真
徳川家康       ← 家康



創建
寛仁2年(1018年)


霊光殿天満宮(れいこうでんてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社である。天満天神(菅原道真)と徳川家康を祀る。


歴史[編集]

寛仁2年(1018年)、菅原道真の6代後の菅原義郷が勅命により河内国若江郡に神殿を建てたのが始まりである。社名は、道真の左遷の際、天から一条の光とともに天一神・帝釈天が降臨したとの伝説によるものである。

蒙古襲来の時には後宇多天皇が当社にて夷賊退治の祈祷を行わせたところ元の船がことごとく沈んでしまったので『天下無敵必勝利運』の額を天皇より賜った。応仁の乱の際に社領を失い、東寺境内に遷された。江戸時代に社家の若江家が再興され、塔之段に社殿を再建、宝暦11年(1761年)に現在地に鎮座した。



   家康
   ↓
徳川家康は当社を深く崇敬し、元亀元年(1570年)に天下太平の祈願をし、また、若江家の再興に尽力した。家康の死後の寛永13年(1636年)、徳川家光が仙洞御所にあった家康の像を当社に移し、祭神とした。



現在の社殿は、明治5年に近衛家の旧鎮守社を移築したものである。

[68]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月25日 14時57分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


岡崎にいらっしゃるなら   大樹寺  をお忘れなく!


大樹寺(だいじゅじ/だいじゅうじ)は、愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗の寺院。山号は成道山。正式には成道山松安院大樹寺(じょうどうさん しょうあんいん だいじゅじ)と称する。

徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。 大樹寺から岡崎城が眺望でき、直線上にマンション等の高層建築物を建てることはできない。



所在地
愛知県岡崎市鴨田町広元5-1

                広元って?!


レス<65>の伊賀の服部氏のところに

    又、円覚律師、これは服部広元の子にして、
    京都 法金剛院、及び清涼寺の僧侶たりしが、慶長元年卒すと。
              ↑
          村山たかの清凉寺は彦根ですね
            佐和山城の麓



      伊賀の服部広元と大樹寺の広元という地名は関係有り?


大樹寺の歴史

文明7年(1475年)、松平氏宗家当主の松平親忠が戦死者供養のため、勢誉愚底を開山として創建した。

永禄3年(1560年) 桶狭間の戦いで今川軍は敗走し、松平元康(徳川家康)はここに逃げ帰り、
先祖の墓前で自害しようとしたが、住職の登誉に諭されて思い留まった。慶長7年(1602年) 勅願寺となる。



歴代将軍位牌[編集]

大樹寺に安置されている江戸幕府歴代将軍の位牌は、それぞれ将軍の臨終時の身長と同じという説がある。なお、15代将軍慶喜の位牌は大樹寺に置かれていない。これは将軍職を引いた後も存命であったことと、臨終に際し自らを赦免し爵位まで与えた明治天皇に対する恩義から神式で葬られることを遺言したためである。 以下に、各位牌の高さを示す。
1.家康159・0センチ
2.秀忠160・0センチ
3.家光157・0センチ
4.家綱158・0センチ
5.綱吉124・0センチ
6.家宣156・0センチ ※増上寺の遺骨改葬時調査による推定身長は160センチ前後
7.家継135・0センチ ※満6歳薨去
8.吉宗155・5センチ ※身長は六尺(約180センチ)あったとも伝えられる。
9.家重151・4センチ ※増上寺の遺骨改葬時調査による推定身長は156センチ前後
10.家治153・5センチ
11.家斉156・6センチ
12.家慶153・5センチ ※増上寺の遺骨改葬時調査による推定身長は154センチ前後
13.家定149・9センチ
14.家茂151・6センチ ※増上寺の遺骨改葬時調査による推定身長は157センチ前後

当時の平均身長から大きく外れているのは綱吉と家継の位牌であるが、これを根拠に綱吉が低身長症であった、家継が巨人症であった、などの説が存在する。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月25日 15時20分02秒 ) パスワード

http://home1.catvmics.ne.jp/~daijuji/


大樹寺の北東に  百々町  があります。


   昔むかしの記憶なので
   え?
   そうだったっけ?
   と驚いております。


また岡崎城と大樹寺の間あたり(笑)に伊賀町があります。かなり方向音痴。

   そうすると大樹寺の場所が広元というのは  伊賀服部氏の服部広元  と関係がある?謎


でも服部広元という人物が誰か分からないです。
[70]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月25日 15時42分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 早速のレスありがとうございます。家康と天満宮、そして服部と岡崎、
おもしろくなりそうですね。
 以降は自宅にて―
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月25日 22時27分58秒 ) パスワード

伊賀の服部広元とは何者か?
いろいろ考えました。



    旗本服部氏7家の中から3人ほど(この人の「系統」かな?)と思うのもいますが


多分   松平○広とか  松平家の主人の名前から下の文字を頂いて
服部広元 と名乗った人物ではないか?と  当たりをつけました。


    松平家広でしたら若すぎるのでちょっと違うな、と。
    この人の胤違いの妹が  黒田長政の後妻になった  栄姫  です。
        つまり家康の姪。

    ということで松平家広では時代が合わないと思います。


だけど家康の父の代か祖父の代あたりの親戚に「○広」という人物がいたように記憶していました。

    コピペする度に、何?この松平さん、と思ってました。
    数回コピペの時に出て来て

       (伊賀の服部氏が仕えたのはこの人じゃないでしょ)
     
    と不思議に思った記憶です。


        ということは、その記事は正しかったのかも。


家康の父の松平広忠や祖父や曽祖父の代にいた人物?


結論は全く分かりません。    
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月26日 02時40分18秒 ) パスワード

http://www.shizuoka-tenmangu.jp/origin/


静岡天満宮      *2の下のほうが重要です


1.天神信仰の原点

 静岡天満宮は昔、川中天神と呼ばれていた。まだ安倍川の経路が定まらなかった頃、流れの中にひときわ目立つ石があった。それが天の神の降臨する所として祀られるあいだに、いつしか川中天神と呼ばれるようになった。静岡天満宮が鎮座する呉服町の地下には、大きな天神様の形をした石が埋まっているという伝説もある。これが天満宮の境内に大切に伝えられてきたことは、神社の出発点が石と深い関係を持っていたことを物語っている。

 古代の人は、人間の生活を守り、豊かな稔りをもたらすものはすべて神の力であると信じていた。目に見えない神は巨石・巨木・山・岬などに宿ると考え、そこで祭りを行った。こうした神が天の神すなわち天神様だった。天神信仰は、本来漠然とした自然崇拝そのものに発している。

 ところが、平安時代、学者としても名高かった菅原道真公が藤原氏の陰謀によって九州にながされ、そこで寂しく亡くなるという事件が起こった。まもなく京都の御所に落雷があると、これこそ怨みをのんで死んだ菅公の霊の仕業に違いないと当時の人々は考え、雷すなわち 天の神=天神として菅公を祀り、その霊を慰めようとした。やがて全国にある無数の天神社もこの影響を受け、菅公を御祭神として祀り始めた。静岡天満宮もそうして平安時代末には、今日のように菅原道真公を御祭神として崇めたと伝えられる。

 日本の神社信仰の流れは、素朴な自然崇拝が具体的な祭神と結びつき、やがて立派な社殿へと発展していく。静岡天満宮の出発点とされる石伝説は、日本の天神信仰の原点を示すものといってよいであろう。


 静岡の老舗「竹茗堂」の初代竹茗氏(西村忠実)は、歌人でもあり、また国学も良くし、本居宣長(1730〜1801)と親交があり、木枯らしの森にともに遊んだことが碑に刻まれている、元明元年(1781)で茶舗を始めたころよりすでにあった掛け軸が、七代目(故西村泰輔氏)の夫人の扶希子氏により静岡天満宮に奉納された。この掛軸には安倍川と大岩を背にした菅公の像の絵である。これは静岡天満宮の原点を物語っている。



2.特異な静岡天満宮

 農耕民族である日本人は、自然の恩恵と脅威とを感じつつ生活を営んできたのでこの自然の力を充分に知って、五穀豊穣と無病息災を祈願して、身近にある山の嶺や麓川の中州や岸辺、森の奥、海の磯辺の傍らに、この自然神を祀った。この自然神は「天神地祇」であり、この「天神」(てんしん 清音)と、無実の罪で九州太宰に流されて謫所で逝った菅原道公の神号が「天満自在天神」の「天神」(てんじん濁音)とが重なって、天神社といわれていた神社の大半が、菅原道真公を祀るようになった。


              ココ(知らなかった〜)
               ↓

 菅原道真公は、鈴鹿の関より東方へは出向していないにもかかわらず、現在天満宮が全国各地に存在しているのは、その土地の有力者や豪士、城主等が、学問の神「菅原道真公」を尊敬して、歓請して祭り、神人(じにん)御師(ごし)という天満宮の布教者によるのである。



 こうした中で、「静岡天満宮」が菅原家と直接結びつきのある神社であるのは、次の理由による。菅原道真公が無実の罪により、九州太宰府に流された昌泰四年(901年)一月二十五日の翌々日に

長男の高視公は土佐に、
三男の兼茂公は飛騨に、
四男の敦茂公は播磨に流され、


           へえ〜(これも知らなかった)
                ↓
次男の景行公は駿河権介(するがごんのすけ)に降格されて、この駿河の国府に流されたのである。


この駿河の国府は現在の「静岡天満宮」を中心とする中町、追手町一帯であった。 次男の景行公は此処に居住した。 このような理由で菅原道真公と次男の景行公父子を祀る「静岡天満宮」は駿河国で菅原家と直接つながりをもつ特異な天満宮なのである。


ここでアップ
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月26日 02時43分52秒 ) パスワード

続き    たいした話は出ていません。


3.<江戸時代の静岡天満宮>四足天神

慶長12年 家康在城当時駿府絵図
【 慶長12年 家康在城当時駿府絵図 】

 図面は昭和63年に静岡天満宮が復刻した絵図の一部である。 四足御門は諸大名が家康謁見のとき城内に入る門であり、この周辺は当時の東海道のメインストリートである。四足御門の町名(四ツ足町)も記され、静岡天満宮も当時は「四足天神」と称されてもいたのである。 絵図の中で赤色の部分は社・寺を示している。

 図面の○印は『四足天神』と判読できる。すでにこの時代には静岡天満宮は諸大名や庶民の崇敬されていたのである。




4.<静岡天満宮摂社>景行社 (かげつらしゃ)

 道真公が無実の罪で九州太宰府に流された昌泰4年(901)1月25日の翌々日の1月27日、道真公の子供達は位を下げてそれぞれ別々の地に流された。長男の高視公は土佐の国(高知県)へ、三男の兼茂公は飛騨の国(岐阜県)へ、四男の淳茂公は播磨の国(兵庫県)へ、そして次男の景行公は駿河権介と格下げされて、駿河の国に流された。


 身体の弱い景行公はやっとの思いで駿府の地に着いたときには、もう生きる気力もないほどだった。

そして、その後景行公は勅許を得て常陸介として赴任された。


 景行公の霊を慰めようと平成元年、篤志家によって景行公の神祠が寄進され、景行公の霊を祀ったのが「景行社」なのである。父君道真公も安堵されたことと思う。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月26日 02時47分53秒 ) パスワード

静岡天満宮の臥牛   道真公が牛年生まれだったから?

静岡天満宮の臥牛
歴史上まれにみる偉大な学者であった菅原道真公が藤原氏の陰謀により九州太宰府に流されて亡くなったころ、京都の御所に大きな落雷があり、多くの貴公子も災害を蒙った。

都の人々は道真公が雷となって「怒り」を示したと考えた。

 一方、雷は雨の前触れとして農耕に大切なものであり、牛は農耕になくてはならぬものであった。こうしたことで道真公と牛とのつながりがはじまったといわれ、多くの天満宮には牛が祀られている。



 牛はその歩みが着実で、前に進むが決して後には退かない、それゆえ「前進」「隆盛」 「幸福」の象徴とされている。 この臥牛は「天神様のお使いの牛」、なでると夢をかなえてくれるともいわれている。

■ 臥牛について
殆んどの天満宮には臥牛の像がある。御祭神天神様の「つかわしめ」である。
牛と天神様とのつながりには諸説があるが、天神様(道真公)が干支(えと)の丑(うし)年生まれであること、九州太宰府に流された道真公が強い望郷の念があるにも拘らず死後敢えて、京都に帰らずに配所に祀られる折、牛に遺体を運ばせたが中途でその牛が臥せて動かなくなった。そこでその地に道真公を祀ることとなった。これが現在の太宰府天満宮である。





いえいえ
牛は古代中東で神様として崇められてた名残りじゃないのかしら?
[75]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月26日 05時52分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの情報をいただき、ありがとうございます。私も今天満宮の話を
記そうと思っていたところですが、まずは、いただいた情報を読解させてい
ただきます。
 
一つ訂正:レス[66] 静岡の阿部郡→安倍郡
[76]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月26日 10時22分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 広元の件、調べてみます。

 静岡と菅原道真の三男景行との関係は、地元に根を下ろした関係としてあ
ります。
 駿府には天満宮はいくつかあります。長田にもありますし、家康の指示
したという川原の天満宮もあります。社格については調べていませんが、
家康がからめば、ただの村社というわけにはいかないと思いますので、その
点は調べてみます。こちら善地の天満宮にしても同様で、地元の人々のみで
勧請したのか、上からの指示があったのか・・・。
 景行は将門とも親しい関係にあったようです。怨霊としての将門との違い
は、怨霊をはるかに超えて天神(雷神)となった道真、全国に4000社以上
の神社があり、稲荷神社の次に多いそうですが、秦氏系とはまた違った広が
り方です。
 怨霊でも道真は恨みつらみをはかなかった。即ち忠誠心の鏡として武家社
会からは尊敬された。その点が他の怨霊と違う所。また、御所に雷が落ち、
道真はその結果天神とみなされ、雨を降らすいわゆる水の神様となって百姓
衆にも崇拝され、全国に広まったということだと思います。
 さて、家康も出自的には実母が久松家に再婚という形で嫁ぎ、胤違いの弟
3人とは家康19才の時面会し、その後松平家に取り込んでいる。
 久松家はルーツは菅原家、菅原家のルーツは土師氏、土師氏は桓武天皇の
祖母を出していて天皇家と繋がっている。
 同じく永井氏のルーツは長田で、さらに言えば大江(大枝)氏の血も加わり、
かつ長田は桓武天皇につながる。大枝氏は菅原氏、秋篠氏と同族、そのルー
ツは土師氏、そして桓武天皇の祖母となる。
 従って、永井氏が摂津において、天満宮を広めたのは即ち祖先を敬う心の
表れであったと言えると確信いたします。
 善地においても、地元の永井氏が中心となってルーツに関係する天満宮を
勧請したという線は、社格から行っても極めてローカルな感じが今のところ
しますので、その線の信憑性は高く思えて来ました。
 秋篠家と服部家というと過去のご指摘を思い出します。服部は秦系のよう
に思われますが、ルーツとしては桓武天皇にやはりつながるのでしょうか(こ
の辺の論理はとりとめのないものではありますが)。
 家康のルーツについては、昨晩『秘鑑』というのを読みましたが、神君の
ために体裁を整えられた感じもしますので、本当のところのルーツをもう少
し探究したいと思います。ヤタガラス系賀茂氏の線は濃い感じがします。

 では、はたして善地の服部はどこから来たのか・・・武士か、神職か、庄屋
か・・・今のところ庄屋の線は見つかりません。神職か武士かは永井氏との
関係に秘められていると思っております。そのためには永井氏を更に探究する
必要があると感じております。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月26日 14時36分17秒 ) パスワード

三つ柏さん



丁寧なご説明をありがとうございます。


>久松家はルーツは菅原家、菅原家のルーツは土師氏、土師氏は桓武天皇の
祖母を出していて天皇家と繋がっている。

久松家が菅原家と繋がっているというのは全く気づかなかったです。

家康が道真を尊敬してて当たり前だったのですね。


>永井氏のルーツは長田で、さらに言えば大江(大枝)氏の血も加わり、かつ長田は桓武天皇につながる。
>大枝氏は菅原氏、秋篠氏と同族、そのルーツは土師氏、そして桓武天皇の祖母となる。

へえ〜
そうだったんですか。



>服部は秦系のように思われますが、
>ルーツとしては桓武天皇にやはりつながるのでしょうか
>(この辺の論理はとりとめのないものではありますが)。


   結局は元に戻ってしまいますね。
   長上郡の服部氏は  神社系?秦氏系?伊賀系?


まだまだ地元の歴史を読まなくてはいけませんね。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月26日 14時38分16秒 ) パスワード

そろそろXXIIをご用意ください。
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月26日 22時44分16秒 ) パスワード

久松氏


家紋
梅鉢     ホント!


本姓
菅原氏流高辻家庶流

家祖
久松道定


出身地
尾張国知多郡阿久居

主な根拠地
尾張国知多郡阿久居

著名な人物
久松俊勝
松平定信
松平定敬
久松定武
久松定成
松平定知      ← NHKの「殿」ですね



久松氏(ひさまつし)は、知多半島阿古屋発祥の氏族。



概要[編集]

戦国時代以前[編集]

近世大名の久松松平家は源義家の末裔を称したが、これは松平姓を称することにより、松平・徳川氏の公称する清和源氏新田氏流を冒したことによるものと考えられる。


系譜類では、久松氏は本姓菅原氏とされ、遠祖は菅原道真と伝える。

それによれば、道真が大宰府に左遷されたとき、
長孫の久松麿(後の雅規)は、尾張国知多郡阿久居(現在の愛知県知多郡阿久比町)へ配流され、この地の人は彼を久松殿と呼んだ。


            道真公の孫が流されて来たのですか
            知らなかった〜


のちの南北朝時代に京都から雅規の後裔が阿久居に下向し、この地の領主となった。

            これは南朝方として?
            下向と書いてあるから派遣されたのかな?

            南朝方としてなら岡山との関係がスッキリするのですが
            南朝方なら家康は父方母方共に南朝方で収まるので


そして、室町期に雅規14世孫の道定が足利将軍家に仕えて阿古居の地7000貫を所領として認められ、
先祖久松麿にちなみ久松氏を称したという。



久松氏は尾張守護斯波家に配されたとされ、室町期の同氏は代々斯波氏に属する知多郡の国人領主であった。



戦国時代[編集]

斯波氏の没落とともに久松氏は織田氏に従い、織田信秀に属したとされる。
佐渡守俊勝のとき、刈谷城の水野氏から、
松平広忠の元室で、広忠の嫡子竹千代(後の徳川家康)を生んだ於大の方(水野忠政の娘)を妻に迎え、


水野氏と敵対する同じ知多郡の国人領主佐治氏と争ったが、
最終的に水野氏・佐治氏とともに信秀の子の信長に属した。

    久松と水野が親戚になって佐治と争ったのですか

    

桶狭間の戦いの際、松平元康(後の徳川家康)は今川方として出陣したが、
密かに織田方の阿久居に赴いて、母於大の方と、俊勝と於大の間に生まれた異父弟にあたる3男子と対面を果たした。

この時、元康は自らの異父弟である3人の男子に松平氏と葵紋を授け、松平家一門に准じたと伝える。

これを久松松平家(ひさまつまつだいらけ)と呼ぶ。



桶狭間の戦いの後、俊勝は家康に組してその三河統一に参加し、
三河国宝飯郡西郡の上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町)を与えられた。

俊勝は妻と3人の息子を連れて三河に移り、阿久居は庶長子信俊に譲られた。

      三河に来てたのは知らなかった



信俊は信長の重臣佐久間信盛の指揮下に入ったが、1577年に信盛の讒言を受けて非業の死を遂げ、
遺領阿久居も信盛に攻め取られたため、阿久居久松氏は断絶した。

          こんな事があったのですか
          知らなかった〜


          戦国時代ってホントに過酷だったんですねえ


なお、信俊の後裔はのちに久松松平家に仕え、伊予松山藩士となっている。

           




江戸時代[編集]

家康異父弟の松平康元、勝俊、定勝の3人は、松平姓を与えられるとともに、家康の異父弟であるという縁からそれぞれに累進し、江戸時代にはいずれの家系も大名に列した。

もっとも嫡統である康元の家系は当初城主であったものの断絶を重ねて旗本に家格を落とし、
勝俊の家系は無城大名止まりであったのに対し、
末弟定勝の家系のみ3家が城主大名として幕末まで続いた。




久松松平家の各家は家康の男系ではないため、大名の区分としては譜代大名に属する。
ただし、江戸時代後期に御三卿の田安宗武の子を養嗣子としたことから、
伊予国松山藩主と伊勢国桑名藩主の両家は親藩となっている。


              もともと親藩だと勘違いしてました


大名および旗本として数多くの家に分かれたが、
明治以降、明治天皇の勅命により大名家の家系は桑名藩主家以外は姓を「久松」に戻している。




久松松平家[編集]
各種系統がある。



康元系[編集]

久松松平家の嫡流ともいうべき俊勝の嫡長子・康元は、三河上ノ郷城主を継ぎ、1590年の徳川氏の関東移封にあたって下総国関宿城に2万石を与えられた(関宿藩。のち4万石に加増)。



康元の子孫は美濃国大垣藩5万石を経て、信濃国小諸藩5万石となったが、無嗣廃絶。その後、下野国那須藩1万石を与えられて無城大名として家名再興した。この家は後に伊勢国長島藩1万石へ移され、城主格に栄進したが、藩主忠充が乱心して刃傷事件を起こし改易された。その後四男康顕に旗本として6千石が与えられて再び家名の再興が許され、幕末まで続いた。

      この家系からは、5千石の旗本1家が分家として出た。



勝俊系[編集]

勝俊は、8千石の旗本として下総国多古に領地を与えられたが、この家系はやがて加増され諸侯(多古藩1万2千石・無城大名)となった。

      この家系からは、5百石の旗本2家が分家として出た。




定勝系[編集]

俊勝の三男・定勝の家系は、久松松平家3系の中では最も隆盛した。定勝は兄弟中もっとも長命で、小南3千石を振り出しに掛川藩3万石、伏見城代5万石、桑名藩11万7千石と栄進している。


定勝には6人の男子がいた。

     長男定吉は早世、

     次男定行は定勝のあとを継承して伊予松山藩15万石の祖となった。
        この家系から1千石の旗本1家が分家として出た。



     三男定綱は、大垣藩6万石から桑名藩11万石の祖。
        子孫は一時、高田藩・白河藩に移されたこともあるが、
        幕末には桑名藩主であった。

           なお、松平定信は田安徳川家からこの家系に養子に入った。



     四男定実の家系は旗本2千石で、
        またこの家系からは250俵取りの旗本1家が分家として出た。



     五男定房は長島城主7千石から今治藩3万石の祖。

                ラッキー!


     六男定政は刈谷藩2万石を与えられたが、

        のち出家して幕政批判をしたために廃絶、
               
                とんでもないヤツが出たのですねえ

        子孫は旗本として家名再興を許された(知行500石・俸禄1500俵)。




この他、『南紀徳川史・第4冊』によると
桜井松平家の松平忠頼の三男忠勝が定勝の養子となった久松松平家が
紀州藩高家になっており、
この家より徳川家茂の生母である実成院が出ている。

       へえ〜
       これも知らなかった
[80]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月27日 07時36分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 情報ありがとうございます。本日は名古屋行きとなっておりまして、帰って
からゆっくり読ませていただきます。では―
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月27日 07時46分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


お気をつけて〜



阿久比で気が付きましたが

   知多半島ということで  長田氏と久松氏はご近所さんですね。


   どこかで必ず親戚関係にあったのでは?と思います。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月27日 07時55分23秒 ) パスワード

http://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/2005/11/

夜霧の古城


徳川家康と知多半島(その4:緒川の宇宙山乾坤院)




前回まで、半田からなかなか出なかったが、阿久比町へ行く前に緒川町へと飛ぶ。


なぜなら、徳川家康の生母於大の方について、もう少し話をしなければならないが、
それには阿久比の久松家に再嫁した話からではなく、
緒川で於大の方が生まれたところからでないと、順序としてうまくいかない。



於大の方は、享禄元年 (1528 ) に現在の愛知県知多郡東浦町の緒川という場所で生まれた。

            華陽院さま。美しさの余り男から男へと贈り物にされた
                ↓
父は緒川城主水野忠政で、母は於富の方という。

於大の方の父、水野忠政の代には緒川付近から刈谷にも勢力を伸ばし、於大の方6才の時には城を刈谷に築いて家臣団とともに移り住んでいる。


水野氏は、戦国時代に東は三河の知立から、西は知多半島は河和あたりから常滑にかけて、広大な地域を支配下に置いた。それは同時に、水野氏の支配圏が東は駿河の今川、西は尾張の織田という強大な勢力にはさまれた形であることを意味した。



東西を今川、織田の両雄に挟まれたのは松平氏も同じである。

松平氏は家康の祖父、清康の代に三河のほとんどを平定するに至り、実に水野忠政はその妻、すなわち於大の方の母、於富の方を離縁し、清康に差し出す政略結婚を行っている。



さらに、松平氏は清康が天文4年(1535)の12月5日織田信秀を攻めるために守山に布陣していたおり、家臣の阿部弥七郎に殺害されるという、いわゆる守山崩れでなくなって、広忠がその跡を継いだが、家臣の離反が相次ぎ家運は衰退していった。


天文10年 (1541)、その松平広忠に、於大の方は嫁がされた。翌年、竹千代、後の家康が誕生するが、父松平広忠は幼い竹千代を人質として今川に差し出し、その今川方の前線で何とか家名を保つことになった。



では、なぜ衰退しゆく松平氏に於大の方は嫁がされたかといえば、近隣の豪族同士ということもあるが、やはり松平氏の後ろに今川氏がいて、その今川と松平を通じてよしみを結ぶという政略があってのことであろう。


於大の方とその母、於富の方という親子2代にわたり、水野氏と松平氏は政略結婚で結ばれた間柄ということになる。




この於大の方の生家、水野家はどういう出自かといえば、於大の方の父、忠政の代には緒川城主であったのだから、忠政より数代前には緒川に定着していたと思われる。


それ以前については、江戸時代大名となった水野氏が幕府に提出した系図以外に確たる資料がなく、はっきりわからない。これは、徳川家康の祖父、松平清康以前の松平氏について、明確にわからないのと同様である。



水野氏は忠政の曽祖父にあたる貞守の代に緒川(小川、あるいは小河とも書く)に復帰、これを領邑としたといい、水野貞守は南北朝期の延文5年(1360)に小河の地で守護土岐氏に攻められて滅亡した小河氏の末裔で、小河氏は一時春日井郡水野(今の愛知県瀬戸市中水野)に退転しており、そのため水野氏を名乗ったという。


しかし、水野氏が鎌倉時代以来の土地の名門であった小河氏の子孫かどうかは確証がなく、元は春日井郡水野にいた水野氏が、何らかの縁故で緒川に来て土地の名家の名跡を継いだか、勝手に名乗った可能性がある。



その水野貞守が文明7年(1475)に創建したというのが、曹洞宗中本山である古刹、宇宙山乾坤院で、その乾坤院には「水野先祖御判物写」という文書があり、水野氏先祖の小河氏を小河村地頭職に補任した鎌倉幕府政所下文や足利尊氏の感状など 小河氏の事跡を物語る資料を写したものであるという。



また、水野氏は勢力下におさめた諸氏を自らが帰依した曹洞宗に改めさせて支配力の強化をはかったという


ここで一旦アップ
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月27日 07時59分51秒 ) パスワード

乾坤院の寺伝によれば、

「当山は、室町時代中期の文明7年(1475)に緒川城の守護を目的に初代城主 水野貞守公の寄進によって、川僧慧済が開山した。以来、代々水野家の菩提寺であり、江戸時代を通じて尾張徳川家より禄を下されるなど、厚い庇護を受けてきた。四代目水野忠政公の息女で、徳川家康の生母である於大の方(伝通院)からも、三里四方の山林を寄進されたと伝わっている。明応9年(1500)から明治7年までは輪番制度をとっていたが、以降は今日に至るまで独住制を継承。現在は直門六十一ケ寺、門葉寺院総数五百余ケ寺を有する曹洞宗の中本山をいただいている。明治初頭の廃仏毀釈、第二次世界大戦、伊勢湾台風の大被害から復興を果たし、今日、境内は二万坪におよび、松・杉の森を背景にした七堂伽藍(文化財)は整然として古格を表し、清浄境の趣を呈している。また禅寺の根源となる座禅道場や寺院に隣接する於大公園は一般に開放され、多くの人々に親しまれている。」 とのことである。




実は、乾坤院と水野氏の深いかかわりを示すものとして、乾坤院の総門があり、これは水野氏が城主であった緒川城の城門を移築したものである。また、乾坤院の本堂の裏にある堅雄堂は、於大の方の弟忠守の孫である岡崎城主水野忠善が寛文10年(1670)に曽祖父忠政の御霊屋として建立した、祖霊供養のための御堂である。その堅雄堂の西隣には於大の方の父、水野忠政の墓がある。さらに西側には於大の方の弟忠守、その子忠元、孫の忠善の五輪塔の墓が並んでいる。




於大の方の異母兄である水野信元は、忠政のあとをうけて、積極的に知多半島へも進出した。成岩の成岩城を攻落としたのも水野信元である。そのころ、乾坤院は水野一族からの寄進を受けて、諸堂を整備したり、経済的安定を得た。


しかし、水野信元の領民が甲斐の国に物資を送ったことから、信元が武田氏に内通したとの嫌疑により、天正3年(1575)織田信長の命で岡崎で誅されるにおよび、水野氏の緒川支配は一時中断した。


乾坤院も太閤検地などで寺領を失って荒廃した。
その乾坤院がかつての隆盛を取り戻すのは、文禄3年(1594)刈谷城主となった水野忠重の寄進や関ヶ原合戦後に緒川を領有した水野分長の寺領三十一石七斗の寄進、山屋敷の領有権安堵という水野一族の尽力によってである。さらに、緒川が尾張徳川家の領地となった江戸時代も、 於大の方の実家の菩提寺である乾坤院は、於大の方、家康の血を引く尾張徳川家の庇護を受ける。
すなわち、寺領は黒印地として領有を認められた。

                             へえ〜、すごい
                                 ↓
江戸時代の乾坤院は、唯一の檀家水野氏の菩提寺として、尾張・三河・遠江に六十一ヶ寺の末寺を擁する曹洞宗中本山となったのである。



なお、堅雄堂を建てた水野忠善の子孫に、老中となった水野忠邦がいる。


さて、次回からは緒川から、知多半島をでてしまうが刈谷に目を転じ、さらに知多の阿久比町に戻ることにする。

[84]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月27日 08時13分09秒 ) パスワード

           ↑

    なんか意味不明のコピペになってしまいました。
    ごめんなさい




http://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/2005/11/

   知多半島の地図を参照なさって欲しいのですが

   阿久比(久松氏)  と  東浦(お大の実家)  と  野間(=内海 長田氏  頼朝時代)

   亀崎という場所も水軍だったそうです。  




以下は長田氏のお話です。


野間大坊は、多分源義朝を討った長田忠致らが日常的に使っていた場所ではあるが、長田氏の館そのものではなく、長田氏館は野間大坊の東へ200〜300mほど離れた場所にあったらしい。

現在、付近の水田や畑のなかを細い道が通っており、その道沿いの畑のなかに「長田屋敷」と書かれた、地元の史跡保存会が立てた看板がある。


また、その近くには、源義朝に返り忠を行った長田忠致父子が、後に頼朝によって磔に処された後、松を目印に埋葬されたという場所もあり、「磔の松」といわれている。


源義朝は、平治元年(1159)の平治の乱に敗れて東国へ落ち延びる途中、尾張国野間で、「相伝の家人」である長田忠致のもとに身を寄せる。

だが、長田忠致、景致父子の裏切りによって、長田の郎党に入浴中を襲われた源義朝は「せめて木太刀にてもあらば」と悔やみながら、法山寺の湯殿で命を落としたという。

なお、その法山寺は、「長田屋敷」から東へ600mほど行った、小さな山の上にあり、現在の名鉄野間駅がすぐ西側にある。

その際、源義朝に従っていた鎌田正清も別の場所で討たれたという。

それで、野間大坊には義朝と、その従者である鎌田正清の墓があり、義朝の墓には、その最期の伝承(「尾張名所図会」などやその影響を受けた芝居、物語で広く知られている)にちなんで木太刀が供えられている。


しかし、愚管抄では、この義朝の最期について、長田に謀られて監禁され、もはや脱出不可能であるという鎌田正清の言に対して、「サフナシ、皆存タリ、此頸打テヨ」と義朝は言い、正清が義朝の首を打った上、自決したと伝えており、状況が異なっている。



実際、法山寺に行って見たが、石組みの露天風呂風の湯船は、伝承に基づいて作ったもののようだ。

しかし、知多にも温泉は多く、野間周辺でも野間の病院に付随した温泉や内海にかけて海岸にある温泉、坂井温泉など温泉が出るところがあるし、法山寺にも御湯殿薬師といったいかにも温泉の効能をあらわしてくれそうな仏様がいるのだから、ここに温泉が出ていても不思議ではない。


しかし、源義朝が温泉につかっていたか、どうかはさだかではなく、むしろ法山寺にかくまうと言って連れてこられ、そこで監禁されたという方が正しいように思われる。



ここでアップ
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月27日 08時19分33秒 ) パスワード

そもそも長田忠致とは、どんなプロフィールかといえば、


伊勢国飯野郡長田庄を根拠にしていたが、
知多半島へ移住したものか尾張国内海庄司となった人物で、

桓武平氏ではあったが、平清盛らと同じ国香流ではなく、良茂流であったらしく、中央政界からは遠い存在であった。


また源義朝の「相伝の家人」と呼ばれたように、平氏と勢力を競っていた源氏とも結びつきをはかり、何とか領地の保全、地位の向上を図ったらしい。


長田忠致は、鎌田正清の妻の父であったというから、主筋の源義朝と同時に娘婿を討ったことになる。

少しはためらったかもしれないが、その後の言動を見ると、やはり手中に良い獲物が飛び込んできた、これで干されていた身にも運が向いてきたと、長田父子は思ったのであろう。


一方、鎌田正清の妻となっていた長田忠致の娘はどうだったのか。伝承では鎌田正清の妻は、正清の後を追って自決した貞女となっている。しかし、実際その場所に妻がいたのかどうかも含めて、史実は不明である。



長田忠致父子は、義朝を討った手柄で、長田忠致は壱岐守に、子の景致は左兵衛尉に任ぜられた。しかし、長田忠致はこれが不満で、せめて「尾張国をも給はるべきにて候」とたびたび申し立てたというから、図々しいにも限度がある。これを清盛が怒ったという説と、周りの怒りを清盛が抑えたという説とあるようだ。

     わたくしが読んだ本では怒ったのは平家貞になってました。
     6男が服部家長。



父の仇として内心うらみ続けた源頼朝が、表面的には許した振りをして長田父子を利用したあげく、磔にしたというのが、一般的な伝承であるが、実際には、中央政界の平氏の怒りによって、長田父子は一旦与えられた官位を取り上げられ、首を切られそうになって内海に逃げ帰ったらしい。



そのときの様子を詠んだ平治物語記載の狂歌は、

  おちゆけば命ばかりは壱岐(生き)の守
           そのおはり(終り、尾張)こそきかまほしけれ

というもの。


尾張一国をねだったために、せっかく主殺し、婿殺しまでして手に入れた壱岐守の官位も棒に振り、落ち延びて命だけは助かったが、もう終りだというような意味である。


この狂歌が、伝承のなかで尾ひれがついて、以下のようになった。

   ながらへて命ばかりは壱岐(生き)の守
           身のをはり(身の終り、美濃尾張)をぞ今ぞ賜はる


すなわち、源頼朝が平氏に対抗して関東で復活し、力をつけてきた頃、長田父子は鎌倉に赴いて頼朝に謝罪したが、頼朝は本心を隠して長田父子を許した振りをして、身命を惜しまず、平氏討伐に邁進して軍功をあげるなら、罪を許して、美濃尾張を与えると申し渡した。


長田父子は、その言葉に感激して、平氏討伐で数々の軍功をあげた。

これに対し、天下を平定した源頼朝は約束通り、美濃尾張(身の終わり)を与えるとして、義朝の墓前で長田父子を磔にし、亡骸を長田屋敷の裏山の松の根方に埋めたというのである。その死に際して、前述の歌が高札にかかれたとも、長田忠致の辞世であったともいう。


画像の<磔の松と石碑>
ちょっとおどろおどろしい感じがします。



しかし、これはあくまで「話」である。

実際には、平氏の怒りをかった長田忠致は、野間内海の庄司としても失脚し、歴史の表舞台から姿を消す。

「保暦間記」によると、後に長田忠致は捕らえられ、建久元年(1190)10月の頼朝の上洛の際に、美濃青墓で斬首されたことになっている。



この建久元年(1190)の上洛の際、頼朝は、尾張の御家人須細為基の案内で、父義朝の墓に参じている。墓が荒れ果てているかと思っていたら、意外に綺麗になっており、かつて平康頼が義朝の墓の荒廃ぶりを嘆いて整備してくれたためと知って、あらためて平康頼に感謝している。


実は野間大坊自体、承暦年中白河天皇の勅願で建てられたという寺伝はあるが、実際は平康頼が義朝供養の堂宇を創建し、源頼朝が伽藍として整備したのが事実であろう。
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月27日 08時24分18秒 ) パスワード

なお、非常に分かりやすいアンチヒーローである長田忠致父子は、後世になっても狂歌の題材となった。

   主を切り聟を殺すは美濃尾張(身の終り)
           昔は長田今は山城

これは、主人である土岐頼芸らを追って、美濃の国取りをおこなった、斎藤山城守、つまり斎藤道三について歌った狂歌であるが、「主を切り聟を殺すは美濃尾張」は「昔は長田」の長田忠致の所業である。斎藤道三は主人を追放し、息子である義龍と戦ったが、そこまでのことはしていない。



ところで、野間には長田屋敷や磔の松以外にも、源義朝の最期や長田父子に関連して、いろいろ伝承が残っている。



血の池

野間大坊の大門東側にある池で、長田父子が義朝の首級を洗ったという言い伝えがある。今でも正月7日にここで国家鎮護の祈祷がおこなわれる。もしかしたら、野間大坊を城代わりに使う際に、水堀が周囲を回っていて、その一部が池のように残ったものか。



乱れ橋

野間の田上と長田屋敷址の間を杉谷川という小さな川が流れているが、その橋で乱れ橋というのがある。これは、渋谷金王丸や鷲津玄光たち源義朝の郎党が、主君の危機を聞いて、この橋まで来たときに長田の郎党と乱戦になったというのが由来のひとつ。しかし、誰がわざわざ源義朝の郎党に、義朝の危機を伝えたのだろう。


胴塚

田上の法山寺の西の山頂に五輪塔があり、源義朝の胴塚(千人塚)と呼ばれている。長田氏が渋谷金王丸や鷲津玄光たちと戦ったときの戦死者の首を葬ったともいう。仙人塚、耳塚、古墳塚など、いろいろな呼び方があって、なぜそんなに別名があるのか、よくわからない塚である。




長田父子のような話は、源平の頃だけでなく、鎌倉時代以降、特に戦国時代においてもよく聞かれた話である。人の世の愚かしさ、罪深さは、時代を経ても変わらないものか。しかし、かつての殺伐とした話の舞台とは思えないように、野間の里はのどかである。

<<参考文献>>
 『美浜町誌』  愛知県南知多郡美浜町 (1983)

以上
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月27日 09時46分24秒 ) パスワード

同じく尾張で道真公の末裔と言ったら  前田家  ですね。


http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/maeda.htm

  海東郡荒子村(現名古屋市中川区域)の土豪の四男として生まれた利家の家系は、
死後天神様として崇められた右大臣菅原道真を先祖として伝え、
そのため加賀百万石の領地においては、
子供の成長に応じ学問の神様・道真の木彫像を親が用意する習俗も今に残る。


しかし、中世尾張の小土豪の家系が当時、正確に伝えられたのであろうか。
白石の『藩翰譜』では、利家の父は記されても、利仁流藤原氏の別伝もあげられ、
先祖の道真からの系図が前田家にきちんと備わっているという印象は受けない。


私は、金沢藩の支藩城下町であった富山で勤務した際、富山や金沢でいくつかの前田氏関係系図に当たったが、
そのなかに割合整理された系図が唯一あった。

それが、明治期の系図研究者鈴木真年翁の手になる『前田家系図』である。その前書きから当時陸軍参謀本部にいた翁が編集して直筆で記述し、富山の佐伯有敦氏に呈示されたものであることが分かり、現在金沢の市立図書館加越能文庫に所蔵される。


この系図は、神代(ただし、遠祖を天照大神とせず、「意美豆努命一云健速須佐之男命」とする)から説き起こし出雲国造、その一族の野見宿禰から出、土師連を経て菅原道真、さらに利家までに至るが、道真前代部分はここではとくに取り上げない。



      スサノオ?


道真の後については同系図も含め真年翁関係資料を参照して記すと、
その長男高規の五世孫従五位下修理進知頼が美作国苫田郡戸川に下向し、
その子孫が有元・福光・殖月・鷹取や原田などの諸氏に分かれて国内の勝田・久米郡等で大いに繁衍し、
美作菅党(菅家)と呼ばれた。


その活動が著しかったのは南北朝動乱期であり、
『太平記』巻八に見える元弘三年四月三日の六波羅攻め大激戦のなか、
京四条猪熊で美作菅家一族は宮方に属して多く討死した。


その後も、この一族は播磨の赤松氏に従って存続・活動したが、
そのなかで原田式部丞佐広は嘉吉の赤松満祐白幡城落城の時(1441年)、

尾張国海東郡下一色に至ったと伝える。


その子孫が美濃国安八郡前田村に居住の前田一族の女婿となって前田を号したとされ、

さらに利家の祖父蔵人利隆(利成ともいい、海東郡前田城主与十郎種利の弟)の時に分家して荒子に移ったという。


なお、美濃の前田氏は藤原利仁将軍の末流、斎藤一族の出といい、
秀吉五奉行の一、三位法眼徳善院前田玄以はこの流れである。


  この前田氏の系図については、中世系図は系図仮冒が多いという意味で、多角度から厳しくチェックしなければならない。


前田氏の遠い先祖に遡る系図は、金沢の前田本家では現に保存されていなかったのである。

鈴木真年翁はどこで、前田氏の系図を入手したのであろうか。

                 えっ?!そうだったの?知らなかった!
                   ↓
現在荒子には利家生誕地伝承の残る荒子観音(天神)があるからといって、直ちに先祖道真の伝承は信頼できるのであろうか。



『日本紋章学』に記すように、

@前田侯爵所蔵の利家の父利春(利昌)の画像には平朝臣とあり、
A『加邦録』に見える将軍家光が加賀藩主前田光高がその姓を菅原と改めたことを謗る歌の話、
B『武蔵野燭談』に見える利長公に出自を尋ねて「利家以前は余これを知らず、此頃林道春をして之を調べしめ居る」旨を応られたという所伝、をあげて、


著者沼田頼輔は「前田氏改姓の真相はこれを想像するにかたくない」と記している。



前田は  平氏説  菅原氏に化けた説   南朝方説?  
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月27日 09時53分39秒 ) パスワード


  それでは、前田氏の菅原姓というのは疑問なのであろうか。

この関係の問題は大きく三つほどに分けられる。


すなわち、尾張の前田氏の先祖は美作菅家だったのか、
美作菅家の先祖は菅原道真だったのか、
前田氏の梅鉢紋はいつ始まったのか、という諸点であろう。



  先ず第一の美作菅家を先祖とすることは、私は信頼して良いのではないかと考えている。


前掲の尾張前田氏の中世歴代が具体的に記される系図は、鈴木真年翁関係の系図集を仔細に見ていくと、十五世紀中・後葉に尾張の原田氏から分かれて下野国足利に移住した一族に伝えられたことが推測される。

すなわち、『百家系図稿』巻十所載の「原田系図」に拠ると、利家の三代祖となる原田与十郎佐友の兄・佐道が下野足利に移り、その子孫が二系(足利にあって上杉氏に仕えた系統と武蔵国高麗郡に居住の系統)に分かれて、そのうち足利のほうがより後代(佐道の六世孫で十七世紀後葉頃の人物)まで実名が記載されている。この子孫に伝えられた系図を真年翁がどこかで入手したのであろう。系図の流れや名・号は自然であって、内容的には疑う事情に乏しいと評価される。こうした早く遠くに分かれた支流が本宗家に失われた系図をきちんと伝えた例は、ほかにも幾つか見られる。



  『寛永系図』には、道真公が筑紫にあって二子をもうけ、

兄を前田と称し、
弟を原田といい、

その後、前田某が尾張国に移り住すという内容の記載があるのも、前田と原田との関係の深さを窺わせる。



  美作国久米郡の原田氏については、数通りの系図が伝えられる。


菅原姓では大きく二種あり、

『作陽誌』には上総介平忠常の五男忠高の子孫とする平朝臣姓の系図(もちろん仮冒系図であるが)まで記載される。

先に利家の父が平朝臣とあったことを述べたが、この平姓はこうした所伝に由来するものではなかろうか。

美作菅家の原田氏は、菅原姓とも平姓とも称していたのである。



  利家の出た荒子の前田氏は、同郡下一色(現名古屋市中川区下之一色町)に居た前田氏を宗家としていて、
この宗家は尾張前田氏第二代の原田与十郎佐治以来、「与十郎」を通称としていたが、
第五代与十郎種定は天正十二年(1584)の小牧合戦の際、
子の長種・利定とともに秀吉に味方し、家康・信雄連合軍に攻められ落城している。

こうした尾張前田の庶流家の庶子として生まれ、信長の命により兄・利久に取って代わり当主となった利家の事情からみて、金沢藩主家に前田氏の中世歴代が伝わらなくともあまり不思議ではない。


なお、現在、下之一色町と荒子町との位置関係は、前者の東北約三キロに後者が当たり、そのほぼ中間でやや下之一色寄り北方に本前田町・前田・前田西町の一帯(下之一色の北方約一キロ余)が庄内川を挟んで位置する。



  美作・播磨から何故、遠い尾張国海東郡まで落ちてきたのか、この辺の事情は何ら記載がなく分からない。

ただ、尾張のこの地域には郡名の「海部」で知られるように、
古代から海神族系統の氏族、
とくに和邇氏族・多氏族が繁衍していたという事情があり、

下之一色の西方近隣には和邇部に由来する蟹江という地もある。
                    ↑
                   ええっ!!!


これらの事情が美作と何らかの交流につながっていたのかもしれない。
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月27日 10時01分58秒 ) パスワード

これまで三つ柏さんと勉強してきた古代の話が前田で繋がったとは!

そして  柳生  も出て来ますよ〜



 3
  次に、美作菅家が実際に道真の子孫であったのだろうか。

私は、当初、この辺の系譜はほぼ信頼していた。
しかし、菅家一族の有元氏でも原田氏でも数種の系図を伝えること、全国の菅原姓を名乗る武家の系図の殆どが疑わしいこと、などの事情から、疑問が増大してきた。


結局、おそらく菅家一族も美作古来の豪族であって、その場合、後孫が行方不明となっている備前国邑久郡の吉備海部直の族裔が古代のある時期に吉井川を溯上して定着したものではないか、と推測するようになった。あるいは、後述する和邇部臣との関連もあるのかもしれない。

                                 長田
                                  ↓
  美作菅家一族の系図をみると、原田氏の近親には播磨国の佐用郡や長田荘に居住するものが見える。


利家の先祖として見える原田二郎兼知とその兄・佐用菅太知季のことであり、
南都本平家物語には「播磨国佐用党、同国の在庁、利(ママ)季、兼知等云々」、『源平盛衰記』には「「播磨国佐用党、利(ママ)季、兼知を始めとして、七百余騎云々」と見える。


                長田
                ↓
  兼知の子の原田右馬允知貞は長田荘に居住し、承久合戦のなかで討死したが、
その子右馬太郎知明は美作国に帰住したと記される。


この長田荘の地は、『和名抄』の賀古郡長田郷、いま加古川市尾上町長田となっており、
住吉大明神を祀る古社尾上神社が鎮座する。


『播磨国風土記』に見える古い地名であり、地名起源伝承として、昔、大帯日子命(一般に景行天皇と解されているが、年代などから成務天皇とするのが妥当)が和邇部臣の祖・印南別嬢のところへ妻問いで御幸した際にちなんだ起源譚が見える。


佐用郡は美作に隣接する播磨西北部に位置し、中世以降、赤松一族が繁衍したことが知られるが、赤松一族にも佐用氏が見える。


赤松氏は流布する系図では村上源氏の出とされるが、
明らかに仮冒であり、
私は、実際には古代播磨に繁衍した和邇部臣一族の末流ではないかと推測している。


また、佐用郡に南接する赤穂郡には、海神族倭国造の祖が居住したとも伝える。


これら美作の原田氏を巡る事情は、その源流が海神族にあったことを窺わせる。



  美作菅家一族はいずれも菅公の末裔と称して梅鉢紋を使用したことは、『日本紋章学』に見えるが、
同書にあげられる梅鉢紋使用の諸氏には興味深いものがある。


                   久松の本家
                    ↓ 
京の菅原姓公家六家のうち、五条家を除く高辻・唐橋などの五家はいずれも梅鉢紋を用いた。

武家では、まず、同じ尾張国内で知多郡の大族久松氏(幕藩大名の久松松平氏)があげられ、
公家高辻の支流と称する系図を持ち梅鉢紋を使用した。


しかし、この系図仔細に検討してみると出自仮冒があることが分かり、
実際には古代知多郡の大族、知多臣・和邇部臣一族の末流と推される。


また、北陸に梅鉢紋使用の諸氏が多く、加州江沼郡の敷地天神を氏神として崇めた斎藤氏などが梅鉢紋を使用した。
斎藤氏は一族が美濃各地に天満宮を勧請したが、美濃の堀・前田などの諸氏は斎藤と同族と伝え、やはり梅鉢紋を使用した。
 


   室町期の『見聞諸家紋』には加賀国石川郡の松任氏や大和国添上郡の筒井氏が同紋を用いたと記される。

松任氏は利仁流藤原氏の富樫・林一族であるが、
実はこの一族は海神族から出た彦坐王一族(和邇氏族と同族。一般にいう「阿倍氏族」は疑問)の道君の末流であった。

林一族の山岸氏も、美濃国大野郡大洞村に遷住して、天神を信じ梅鉢紋を用いた。


阿倍氏族という佐々貴山君や和邇氏族の後裔が繁衍した近江でも、梅鉢紋使用の氏は多く、
佐々木一族の佐々木・深尾・竹腰などが同紋を用いた。


大和国添上郡では、筒井氏をはじめ今井・辰市・中坊などの諸氏が用いた。


沼田頼輔は、添上郡は菅原氏の発祥地であり、天満宮の信仰が行われた故であろうと記すが、そうではない。


筒井等の諸氏は系譜に諸説(藤原氏とも三輪氏ともいい、他の説もある)あるものの、
実際には添上郡に繁衍した和邇氏族の末流とみられるし、
中坊氏は柳生氏の一族であって、
柳生氏も菅原一族の出とする系図を伝えるが、
実は和邇氏族櫟井臣の族裔であった。

[90]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月27日 10時10分22秒 ) パスワード

  長々と『日本紋章学』の記述を基礎に梅鉢紋使用諸氏を概観してきたが、

武家で梅鉢紋を使用した諸氏は菅原姓と称しても、
実際には海神族とくに和邇氏族の流れを汲むものが多かったことが知られる。


海神族はわが列島に稲作・青銅器などの弥生文化を伝え、北九州の奴国を中心に居住した。

和邇氏族は記紀では孝昭天皇の後裔と称するものの、その奴国王家の嫡宗的な存在であり、
この氏族には粟田臣、久米臣、柿本臣、葉栗臣、櫟井臣、葦占臣、根連、楊生首など、
植物に関する姓氏がきわめて多かったことに注目される。


美作菅家の「菅」も、菅原の菅ではなく、植物の菅であったのかもしれない。


そうすると、その本来の出自は、播磨和邇部の同族(この場合、早い時期に赤松一族と分岐か)ないし吉備海部直の末流で、いずれにせよ、源流を海神族の一派とみるのが妥当であろうということになる。



  菅公の子孫と称し梅鉢紋を使用した美作菅家の一族原田氏の一派は、
その主・赤松氏没落の時、海神族が繁衍した尾張国海東郡に遷り、
その地でやはり梅鉢紋を使用していた北陸出自の斎藤一族前田氏と縁組みして前田氏を名乗り、
やがて英傑利家を出して、梅鉢紋使用氏族の多い加越能の地の太守となった。



まとめてみると、こういう粗筋になる。
長い歴史の中には様々な巡り合わせがあるが、本件もなかなか面白いものの一つではなかろうか。



  なお、美濃の前田氏が起こった安八郡も、和邇氏族が多く居住した地域であり、
美作菅家の一族にも前田氏があったことは系図に見える。



   これって宮本武蔵の幼友達の本位田家の出身地かも
    ↓
勝田郡位田村八幡宮の社人に前田豊前が見えると『姓氏家系大辞典』に記載されるから、これもおそらく菅家一族の後裔であろう。


そうすると、「前田」という地名自体が海神族に縁由深いものかもしれないし、古代筑紫の前田臣氏も海神族の流れであった可能性もあるかもしれない。



  最後にもう少し附記しておくと、前掲『前田家系図』の件で鈴木真年翁が接触した佐伯有敦氏とは、私の最も尊敬する系図学者佐伯有清氏の祖父であることが分かった。


有敦氏は明治に富山藩最後の藩主前田利同の東京の住居に寄寓しておられ、そのとき陸軍参謀本部に勤務の鈴木真年翁と出会った模様である。氏はのち栃木県に遷られたが、佐伯家は代々富山藩校の儒者をつとめ藩主の教育にあたってきた事情が寄寓の要因ではなかったか、とのお話である。有清氏もいわれるように、系図を巡る奇遇の一つと思われる。



  たしかに富山県には立山の麓の集落に佐伯姓の人々が多い。この佐伯の一族は立山信仰と密接に結びつき、祖先は立山に鷹を追って入ったという立山開祖佐伯有若(あるいはその子・有頼)と伝えるが、これは系譜的には疑問があるのではないかと私には思われる。越中国司の子弟が任地に土着するという所伝には一般に疑問を感じるとともに、別に掲げた拙稿「越の白鳥伝承と鳥追う人々」で記述したように、伝承的にみて似通う古代鳥取部の流れではなかったかと考えるからでもある。

         
[91]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月27日 10時39分57秒 ) パスワード

http://rot.blog.jp/archives/1007871127.html


1番下の話が興味深かったです。

梶原が北条氏に負けて逃げようとした先は  長田氏?



鎌倉景政


 鎌倉景政は源義家が陸奥の清原氏を滅ぼした戦争で軍功を挙げたとされ、景政の父・景成は丸子(まりこ)公景の娘を母としたと伝える。


      丸子って、丸子宿の峠の茶屋はうちの父が趣味で縮小版を作ってましたっけ


 丸子公景は相模の大領であったとし、大領とは大宝律令が定めた郡司にて最高位となる職で終身官であった。丸子を"まりこ"と訓ずるのは古く丸は"まり"であって、関東で丸を"まる"に転訛させ、鞠の方だけ"まり"として残した。


 丸子を日本神話に顕れる高倉下(たかくらじ)の後裔とする伝承を見せ、高倉下は神武天皇に霊剣を与えたとし、日本武尊が天叢雲剣を奉納した熱田神宮の神職を世襲した尾張氏を派したとするが、古代ギリシア人は○○族を○○イとする接尾辞を揮っており、高倉下とは稲を保管する高床式建物を営む人々を指したものと思われ、相模一宮の寒川神社が在る高座郡は"たかくらのこおり"であった。


 すると相模・鎌倉郡は何を意味するか考えるならば、海岸線に向かって丘陵が鎌の形で迫っているからとする人は知能指数を低くし、素直に鎌を保管した倉の在った地と答える人はいぃ線行ってます。


 古代たたら製鉄とはタタールの製鉄か知らんけども、棒を並べて皮を張った送風器を吹いて製鉄を営んだ古代日本にて三方を山に囲まれ一方から風が吹き込む地形は製鉄を裨益し、鎌倉の地は古代には製鉄を盛んにした筈の地であり、そこに製品を収納する倉が建ったのは自然であろう。


 丸子氏が相模の他に紀伊・信濃に分布していたことは興味を惹き、

『今昔物語』にて平維時の郎党であった坂上晴澄という士が紀伊・伊都郡に在ったとの叙述を見せ、

『将門記』には将門に随った士に坂上遂高という名が見られ、

将門の従兄であり将門を討った平貞盛の孫とする惟時は貞盛の猶子となったとする説を見る点、
貞盛の長子・維叙を実に藤原済時の子とする説と併せ、

将門の叛乱を見た時の台閣の長・藤原忠平の孫となる済時を侮蔑する記事を『愚管抄』巻第三が記し、

加えて『抄』巻第四は済時の従兄・兼家の子である中関白・道隆の僚友としてともに醜悪な生活を送った様子を冷笑しており、

『愚管抄』の著者を九条兼実の弟とする学説から、
『抄』が特筆する中関白・道隆の子・隆家の後裔となる信隆の娘を母とした後鳥羽上皇が隠岐に追却される前後に記された書が叙べる視角を客観的に調整して考えるならば、


維時を猶子とした平貞盛は藤原済時の子もまた猶子としており、
藤原済時の孫に該る女が相模・三浦郡下に在った三崎荘の領家であったとする研究を朧気に憶い出し、

中関白・道隆系統の者らが相模との利害関係をもったことを憶測させ、
平維時の子・直方は在京する摂関家の家人でありながら鎌倉の邸と娘を源義家の父に与え、
義家の外祖父となったとする点、


相模の大領・丸子公景の娘を母とした鎌倉景政が義家に随ったのも平直方なる者との関係を因とした可能性を感得する。


    なっが〜い!
    長過ぎ!



 鎌を在庫する製鉄業者が集住したかも知れない鎌倉の地を支配することは領主にとっても領主を保護した摂関家にとっても魅力的なことであり、

鎌倉景成の祖父と伝える章名は甲斐権守の官職に在ったとする点、
平貞盛とともに将門を討った藤原秀郷が城を構えたという伝承を遺す下野・安蘇郡下の唐沢山麓の天明郷に秀郷が河内・丹比(たじひ)郡から招聘した鋳物師らが集住し、


  鎌倉時代の鋳物師。下野国安蘇郡天明に住んでいた
 ↓
天明の名工とされる卜部助光が1321年に制作した銘を示す梵鐘に助光を甲斐権守としていることを考え併せ、

『将門記』にも将門の配下に多治経明なる士が在ったとし、
武蔵・加美郡下にて河内・丹比郡を所職としたであろう多治比(たじひ)三宅麻呂の後裔と思われる族が製鉄を生業としており、


9世紀後葉に京・平野神社の神職に採用された卜部平麻呂を伊豆の出身と伝え、
平麻呂の後裔が京・吉田神社の社務を世襲し、
阿蘇神宮の神職を世襲した族は馬匹の生産に従っていたとされ、
その阿蘇氏が甲斐に馬匹の生産を拡げ、
さらに下野・安蘇郡に拡張したことが安蘇郡の号となったとする説から、

騎乗には馬の蹄に鋼鉄の板を履かせねば蹄が割れて化膿し走行を不能とする為に製鉄と馬匹の生産は不即不離の関係に在ったことを思うならば、


         馬の飼育と製鉄業の関係
              ↓
鎌倉章名や卜部助光らが補された甲斐権守の官職は馬匹の生産と密接に関係した製鉄業との関係を推測させ、


鎌倉景政の活動資金はそうした製鉄業に係る利権から生じていたものと推測される。



 さて、祖父を甲斐権守の官職に補された章名なる者と伝える鎌倉景政の父を『尊卑分脈』は瀧口致成とし、

平公雅の孫とする点は実に説得力有る説であり、


将門の従兄として将門・室の兄であったと伝える平公雅の父・良兼は上総を拠点にしていたが将門に滅ぼされたとし、


公雅の子である平致頼は藤原道長・四天王に挙げられる者であり、

                          長田氏 
                           ↓
平致頼の後裔を唱えて尾張・知多郡下の内海荘を営んだ長田忠致は頼朝の父を殺しているが、

知多郡阿久居郷に配流された菅原雅規の後裔が14世紀に同郷を拠点とした族を久松氏と伝え、

徳川家康の生母が再稼し、

家康の異父弟を生んだ久松氏は後に松平姓に更迭しており、


久松氏の祖とする菅原雅規は道真の孫に該り、
雅規の子となる菅原薫宣は甥を『更級日記』著者の父・孝標とし、

この菅原薫宣の娘を室とし尾張・知多郡に在地した長田氏の祖とする平公雅の娘を母とした者が有道惟能であって、


有道惟能の父・惟広は中関白・道隆の家令を務め、

惟能より6世先となる氏道はまた『尊卑分脈』が平高望の祖父とする葛原親王の家令を務め、
氏道が833年に有道姓を与えられたことが『続日本後紀』に見られ、


因みに菅原雅規の父は高視とし『尊卑分脈』は平高望の父を高見王とするが、
有道惟能の従兄として定直の名を伝え、

ひょっとしてこの有道定直こそ平直方の正体だったかも知れない。



 『尊卑分脈』が鎌倉景政の父とする瀧口致成は有道惟能の母方祖父となる平公雅の子・致頼の子であった可能性を示唆し、景政の父が蔵人所を警衛する滝口の武士であったことをも教える。



 有道氏の祖が仕えた葛原親王の兄となる平城上皇と嵯峨天皇との対立から勃発したとされる薬子の変に因り設置された蔵人所の初代長官を任じた者が嵯峨天皇を補弼した藤原冬嗣であり、冬嗣の母である百済永継の遠祖を祀るとされる社が伊豆の生まれと伝える卜部平麻呂が社務に就いた京・平野神社であって、摂関家の高祖と言える冬嗣以往、摂関家の権力を支える足場となった蔵人所の長官職を冬嗣から引き継いだ者はまた百済永継が藤原内麻呂と婚ずる前に後宮にて桓武天皇との間に生した良岑安世であった。



因みに、尾張・丹羽郡に在った父の代まで尾張上四郡を領知した岩倉城主の織田伊勢守家に仕えていた丹羽長秀は春日井郡児玉郷を拠点とし、尾張下四郡を領知する清洲城主の織田大和守家の奉行であった織田弾正忠家に仕え、近世大名となった丹羽氏は良岑安世の後裔を唱えたが、丹羽氏の出自を有道氏とする説を見る。



 近衛府が内裏を警衛していた処を蔵人所の管掌下となる滝口の武士が内裏の警衛を任ずるようになるのは平将門の叛乱を見た藤原忠平の兄である時平と菅原道真の二人がともに内覧を任じた9世紀末のことであり、将門もまた関東から上京して藤原忠平の家人となり、因って滝口の武士に採用された士であった。



 『吾妻鏡』は鎌倉景政の孫を三浦郡長柄郷を所職とした長江義景としており、この長江氏を出自とする者が太閤殿下にとって維幕の将と謳われた竹中重治であり、重治の父である竹中重元は美濃・大野郡下の大御堂城主であった処、不破郡下の岩手城を奪取し同郡下に菩提山城を築き、重治は同城を継承した。


 1579年に卒去した時の竹中重治は羽柴秀吉による播磨・加古郡下の三木城攻囲の陣中であったが、有道惟能の母方祖父となる平公雅の子・致頼は藤原道長・四天王に挙げられる士で、同じく道長・四天王に挙げられる藤原保昌は藤原南家祖・四子である巨勢麻呂流として弟となる保輔を強盗団の首領として知らしめ、保昌の弟・保輔に対して発布された逮捕状は15回を記録し、遂に司直の手が迫った保輔は本邦初となる切腹を演じたが、保昌の方は道長の家人として摂津・川辺郡平井郷を拠点とし、平井郷に隣接する地に多田荘を開いて清和源氏発展の経済的基礎を堅めた源満仲の子・頼信は頼朝の遠祖として河内源氏の祖となり、平致頼・藤原保昌らと同じく道長・四天王に挙げられる士であって、藤原保昌が拠点とした川辺郡平井郷から西へ延びる有馬街道上の有馬氏と播磨・加古郡下の三木城に拠った別所氏はともに播磨・佐用郡を本拠とした赤松氏の分流であり、往年の系図学の権威であった太田亮は赤松氏の出自を有道氏と説き、藤原保昌の父を致忠と伝える点、保昌とともに道長・四天王に挙げられる平致頼の後裔を唱え頼朝の父を殺した長田忠致の諱を逆転させていることは興味深いものを感じ、長田忠致と等しく平公雅の流れを汲む竹中重治はやはり女系から平公雅の血脈を引く三木城主を攻囲する陣中にて卒去したことは因縁を感得する。



 鎌倉景政の叔父らから岐れた族が大庭・長尾・梶原であったとし、大庭景親が石橋山合戦で平家方の大将として源頼朝を攻めたのは、景親の父である大庭景宗が領知していた高座郡下の伊勢神宮領であった大庭御厨に1144年頼朝の父・義朝が三浦義明とともに濫妨狼藉を果たしたことを因とするものと思われる。


 鎌倉幕府宿老十三将から弾劾された梶原景時の眷族郎党らが殺戮された地は

朝廷の東海道・清見ヶ関が在った駿河・有度郡吉川郷と伝え、

同郷は藤原南家祖・三子となる乙麻呂流とする吉川氏の本貫であるが、


平将門が叛乱の最中に身柄を拘束した藤原南家乙麻呂流・惟幾の任じた常陸介は親王任国である常陸では実質的に長官の職であり、惟幾の子・為憲は平高望の娘を母とし、この為憲の後裔が吉川氏であって、北条政子・義時らの母方祖父・伊東祐親もまた同じ流れを汲み、


有度郡吉川郷周辺には楠木郷や長崎郷といった気になる字名を見せるが、
吉川郷に隣接する堀込郷を流れる巴川は清水港に注ぎ、

由井正雪の乱の折には紀州藩の軍船が停泊したとの伝承を見せ、


梶原景時が眷族郎党を率いて清見ヶ関を目指したのは虞らく船を使って尾張・知多郡下に在地した長田氏を頼ろうとしたものではなかったか。




   宮尾登美子も真っ青な長文!
[92]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月28日 00時20分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 徳川家康の実母「於大」については、磯田道史先生も言っておられました。
絶世の美女であったと。従って、今徳川家康は「イケメン」であったという
証拠を、塑像で再現する試みを没後四百年記念として行っているということ
でありますが、時間がかかるということです。その内発表になりましたら、
お伝えいたします。
 最近、磯田先生の出演するテレビ番組がありました。一つは県内のローカ
ルテレビ局の家康特集でした。もう一つが、フジテビだと思いましたが、新
報道2001だとおもいますが、「富士山の爆発」をテーマにして、過去の
噴火の時の古文書の記録をいくつか紹介するというものでした。実際にあっ
た噴火の生々しい記録でしたので、信憑性が高く、防災に役立つものと確信
いたしました。
 さて、あを様のレスを読ませてもらい、菅原家の血脈が柳生家にもつなが
っているということに驚きました。
 やはり、歴史を探究すればするほど、色々なつながりが見えて来て、点と
線がつながっていくというおもしろさに魅了されます。
 永井氏と服部と遠江と天満宮の関係を「点」とすると、「線」で結ぶこと
のできる史実を今必死で探していますが、なかなか出て来ません。結城秀康
の母於万の方が永井氏出身だということですので、この母の関係を調べてみ
ようかなと思います。
 本日は、運転の疲れと、昼に食べたごちそうがいまだに腹にもたれていて
体調芳しくありませんので、この辺で・・・すみません。
 一つ思い出しました。余談でありますが、知人で「中井」さんという人の
話ですが、彼の父系のルーツは京都。理由は知らないが名古屋に来て、御器
所の服部氏の女性と結婚されたということで、御器所という町の名前が珍し
いのと、中井、服部という名前にもひっかかるものがありますので、一度調
べてみたいと思っております。
[93]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月28日 03時09分55秒 ) パスワード

ご無事のお帰りで、安堵いたしました。
師走はみんな「走る凶器」となる可能性がありますから。


さて秀康の母のお万さまのご実家は「永見」ですが「永井氏」と関係があるのかどうか
分からないのですが

    「永」の字が共通しているから親戚かも
     または三つ柏さんの勘違いかも

実は上記のレスを書いていた時に
   知多半島あたりの地図を見てた時に
頼朝の父上はどうして知多半島の先っぽの
美浜町=中部国際空港のある所=野間=内海に行ったのだろう
と考えてました。

   もちろん腹心の部下の鎌田の妻の実家=長田氏がいたのは分かりますが

   あんな先っぽまで行かなくても長田の親戚なら碧南にもいたわけですから
   もっと知多半島の北の方で東に抜け出てたなら
   1日だって早く関東に逃げられたのに
   と思ってました。

      たとえば阿久比=久松氏=や  碧南=長田の兄?弟?なんか

   その中間に知立があるなあ
   と見てたので

今朝三つ柏さんの書き込みに知立神社が出て来て驚いています。
なんかテレパシーで繋がっているようで。



池鯉鮒神社は古くからあって
かきつばたで有名ですね。

    今は「餡巻」かも。


伊勢物語に在原業平の

からころも  きつつなれにし  つましあれば  はるばるきぬる  たびをしぞおもふ

これとセットで記憶しています。


社伝では、第12代景行天皇の時に東国平定に赴いた日本武尊が当地で戦勝を祈願し、平定後の帰途に感謝して建国祖神の上記4柱を祀ったのが創建という[2][1]。一方、第14代仲哀天皇元年の創建とする説もある[2]。

江戸時代まで当社の神主家であった永見家の『永見氏家譜』によれば、その出自について饒速日尊後裔で知波屋見命(知波夜命:初代三河国造)十五世孫の三河姓貞連が、白鳳2年に天武天皇の勅命により知立神主になったとしている[2]。



お万の方の産んだのは双子で
片方は永見家に引き取られて神職になって
子は残さなかったとか。
[94]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月28日 03時37分59秒 ) パスワード

御器所(ごきそ)


清盛が父から相続した土地に御器所があります。
だから御器所は平家方。


さらに下って
秀吉の母上の「なかさん」の在所は御器所です。
御器所から名古屋市中村区に嫁に行きました。尾張の中村、ですね。


それで御器所は  平家 +  南朝方  だと思うのですけどね。
ここに服部さんがお住まいでしたら元々縁のある場所だと思います。



中井さん
全く分かりませんが


中井氏は  仲井・半井・中居と同じ。


甲斐の中井氏は  解礼(けれ)氏と称した古族
         奈良時代末期に中井と改名

    安芸の中井氏も同じ


会津の中井氏は  山内氏の支族


近江の中井氏は  三河大伴氏の末裔で設楽太郎俊実3世の孫で   
         承久の変に後鳥羽上皇の召しに応じて洲股で討ち死にした中井五郎実景に始まる


家康に仕えた五畿内の大工の棟梁中井氏は
江戸・京都・駿府に屋敷を構えていて
大和守中井主水正清の末で
もともとは橘氏とも巨勢氏ともいう。


   正清の大砲は大坂城の本丸にしきりに当たって家康を感動させたそうです。



常陸鹿島中居から起こる豪族中居氏は桓武平氏大掾氏の支族。


半井氏は和気氏の末で代々医家として朝廷や幕府に仕え典薬頭に任じられた者が多い。




中井貴一の先祖は楠木の子孫!




永井荷風の父上は尾張の愛知郡鳴尾村出身だそうです。
   これは現在の名古屋市南区の笠寺とか星崎とか、あの辺りで
   なんと!
   鳴海(有松っていうのかな?)   尾張の名家服部家  の近くです。


意外な人に結びつくものですね。
[95]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月28日 04時06分17秒 ) パスワード

ちょっと上のレスで  久松家も長田家も  古代の豪族の海人族に繋がるような話になってますが


梶原氏は尾張の春日井にも土地を持ってました。

    北条に追われてここに逃げるつもりだったのかなと思いましたが
    長田氏を頼るつもりだったらしいと話が出てて驚きました。



梶原景時は頼朝の命の恩人で1番の腹心だったのに、頼朝が若死にしてしまい
後継者の2代目将軍頼家に嫌われて気の毒でした。

    子の代にとって先代の腹心なんて鬱陶しいばかりの存在ですものね。
    イチイチ比較されるし。


でもその後継者の頼家も妻の一族が滅ぼされ、
自分も将軍職を剥奪され押し込められ暗殺されたという悲惨な最期で、
自分が助けてやらなかった景時を、どう思ったのでしょうね。



梶原 景時(かじわら かげとき)

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。

石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。



生涯[編集]

頼朝への臣従[編集]

                         平家の忠臣
                           ↓
梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族であり、大庭氏とは同族である。

曾祖父、または従曾祖父に後三年の役で源義家のもとで戦い武勇を謳われた鎌倉景政がいる(梶原氏の祖・景久の従兄弟)。


梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人であったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。

                          平家の重臣・平信兼の子
                           ↓
治承4年(1180年)8月、源頼朝が挙兵して伊豆国目代・山木兼隆を殺した。
景時は大庭景親とともに頼朝討伐に向い、石橋山の戦いで寡兵の頼朝軍を打ち破った。敗走した頼朝は山中に逃れた。



大庭景親は追跡を続け、山中をくまなく捜索した。『吾妻鏡』によると、この時、景時は飯田家義ともども頼朝の山中の在所を知るも情をもってこの山には人跡なしと報じて、景親らを別の山へ導いたという。


『源平盛衰記』ではより詳しくこの場面が述べられている。敗軍の頼朝は土肥実平、岡崎義実、安達盛長ら6騎とししどの岩屋の臥木の洞窟(現在の湯河原町)へ隠れた。大庭景親が捜索に来てこの臥木が怪しいと言うと、景時がこれに応じて洞窟の中に入り、頼朝と顔を合わせた。頼朝は今はこれまでと自害しようとするが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て蝙蝠ばかりで誰もいない、向こうの山が怪しいと叫んだ。大庭景親はなおも怪しみ自ら洞窟に入ろうとするが、景時は立ちふさがり「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄った。大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は九死に一生を得た。

その後、頼朝は安房国へ逃れて再挙し、千葉常胤、上総広常ら東国武士が続々とこれに参じて大軍に膨れ上がり、10月に鎌倉に入った。頼朝は平維盛率いる平氏軍を撃破し、大庭景親は捕えられ斬られた。12月に景時は土肥実平を通じて頼朝に降伏。翌養和元年(1181年)正月に頼朝と対面し御家人に列した。弁舌が立ち、教養のある景時は頼朝に信任され鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられた。時期は不明だが景時は侍所所司(次官)に任じられている。



寿永2年(1183年)12月、上総広常と双六を打っていた景時は、にわかに盤をのりこえて広常の頸をかき斬り討ち取った。広常に謀反の企てがあるとの噂があり、頼朝が景時に命じて殺させたものだった。後に謀反の疑いは晴れて頼朝は後悔しているが、広常は鎌倉政権軍の中でも飛びぬけて大きな兵力を擁しており、そのために不遜な振る舞いが多く、また上洛して平氏を倒すよりも関東での割拠を指向しており、武家政権の樹立を目指す頼朝にとって危険な存在であった。



義経との対立[編集]

寿永3年(1184年)正月、景時父子は源義仲との宇治川の戦いに参陣。源義経配下の嫡男・景季は佐々木高綱と先陣を争い武名を上げた。戦後、源範頼・義経・安田義定らは戦勝を鎌倉へ報告したが、いずれも「勝ちました」程度の簡単なものであったところ、景時の報告書だけが義仲の討ち取られた場所、様子、おもだった敵方の武将の死者と討ち取った者の名前など詳細に戦果を記しており、頼朝はその事務能力・実務能力の高さを喜んだ。

同年2月7日の一ノ谷の戦いでは最初は景時が義経の侍大将、土肥実平が範頼の侍大将になっていたが各々気が合わず所属を交替している。範頼の大手軍に属した景時、景季、景高父子は生田口を守る平知盛と戦い、大いに奮戦して「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きをした。合戦は源氏の大勝に終わり、この戦いで景季は平重衡を捕えている(『平家物語』、『源平盛衰記』)。

2月18日、景時は土肥実平とともに播磨・備前・美作・備中・備後5か国の守護に任じられた。

景時は平重衡を護送して一旦、鎌倉へ戻り、4月に土肥実平とともに上洛して各地の平氏所領の没収にあたった。8月に範頼が平氏討伐のため鎌倉を発向し、中国地方から九州へ渡る遠征に出た。義経は頼朝の勘気を受けて平氏討伐から外されていた。『吾妻鏡』に景時の淡路島などでの活動が見られ、また、頼朝から範頼に対して実平、景時とよく相談して遠征を遂行するようにとの命令があり、範頼に従って西国の占領にあたっていた。



兵糧や兵船の調達に難渋した範頼が苦戦したことから、元暦元年(1185年)正月、頼朝は義経の起用を決めて摂津国で軍を編成させ、讃岐国屋島の平氏の本営を衝かせることにした。『平家物語』によれば、義経の軍に属した景時は兵船に逆櫓をつけて進退を自由にすることを提案。義経はそんなものをつければ兵が臆病風にふかれて退いてしまうと反対。景時は「進むのみを知って、退くを知らぬは猪武者である」と言い放ち義経と対立した。いわゆる、逆櫓論争である。2月、義経は暴風の中をわずか5艘150騎で出港して電撃的に屋島を落として、景時の本隊140余艘が到着したときには平氏は逃げてしまっていた。景時は「六日の菖蒲」[1]と嘲笑された(屋島の戦い)。


3月、義経は長門国彦島に孤立した平氏を滅ぼすべく水軍を編成して壇ノ浦の戦いを挑んだ。『平家物語』によれば、軍議で景時は先陣を希望したところ、義経はこれを退けて自らが先陣に立つと言う。心外に思った景時は「総大将が先陣なぞ聞いたことがない。将の器ではない」と愚弄し、義経の郎党と景時父子が斬りあう寸前になった。合戦は源氏の勝利に終わり、平氏は滅亡した。



『平家物語』にある逆櫓論争や先陣争いの史実性については疑問とする見方もあるが、『吾妻鏡』にある合戦の報告で景時は「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。合戦が終わった今はただ関東へ帰りたいと願います」(大意)と述べており、義経と景時に対立があったことは確かである。



この報告がいわゆる「梶原景時の讒言」と呼ばれるが、『吾妻鏡』は「義経の独断とわがまま勝手に恨みに思っていたのは景時だけではない」とこれに付記している。後に義経が後白河法皇から頼朝討伐の院宣を得て挙兵した時も、平氏討伐戦で義経が華々しい戦勝をしていたにもかかわらずこれに応じる武士はわずかしかいなかった。また、「梶原景時の讒言」に対し、景時以外の義経に同行していた将たちが、頼朝に対して義経を弁護していない(少なくとも、弁護していると信用できる史料はない)ことも事実である。



義経は頼朝の怒りを受けて鎌倉へ帰還することを許されず、京へ追い返された。9月に景季が上洛して頼朝からの源行家追討の命を伝えるべく義経の邸を訪れると病として面会できなかった。一両日待って面会に行くと通され、義経は脇息にもたれて灸を打ち衰弱した様子で病が癒えるまで行家追討は待ってくれるよう言った。鎌倉に戻った景季がこれを頼朝に報告すると、景時は面会を一両日待たせたのは不審であるとし、その間に食を断って衰弱して見せたのだ、行家と同心しているのは間違いないと言上した。


土佐坊昌俊が義経暗殺に派遣されるが返り討ちにあい、義経は院宣を得て行家とともに挙兵するが兵が集まらず失敗し、京を落ちて奥州平泉の藤原秀衡のもとへ逃れるが、文治5年(1189年)に秀衡の死後その跡を継いだ藤原泰衡に殺された。義経の首は鎌倉へ送られ景時と和田義盛がこれを検分している。



幕府宿老[編集]

景時の讒言と呼ばれるものには夜須行宗と畠山重忠の事例がある。夜須行宗が壇ノ浦の戦いでの恩賞を願ってきたとき、景時は夜須という者の名なぞ聞いたことがないと申し立て訴訟になり、証人が出て夜須の戦功が明らかになり景時は敗訴した。罰として景時には鎌倉の道路の普請が科せられた。

畠山重忠が罪を受けて謹慎させられ千葉胤正に預けられた。重忠は罪を恥じて絶食してしまい、頼朝は重忠の武勇を惜しみこれを赦免。重忠は武蔵国の館に戻ったが、景時はこれを不審として、重忠が恨みに思い謀反を企てていると言上した。頼朝は重忠へ使者を遣わせると、恥辱と感じた重忠は自害しようとし、使者はこれを押しとどめて申し開きをするため鎌倉へ行くよう説得。景時が尋問役となったが重忠は身の潔白を断固として反駁し、頼朝もようやく疑いを解いた。人望のある重忠を陥れようとしたとして景時は御家人たちからひどく恨まれた。一方で景時は都築経家、金刺盛澄、城長茂、曾我兄弟の赦免を願い出ることもしている。

文治5年(1189年)7月、奥州合戦に景時父子もこれに従軍。藤原泰衡は敗走して殺され奥州藤原氏は滅びた。捕虜になった泰衡の郎党・由利八郎を景時が尋問したが、その傲慢な態度に由利八郎は怒り尋問に応じようとしなかった。代わって尋問にあたった畠山重忠が礼法に則って遇したため由利八郎は感じ入り尋問に応じ「(景時とは)雲泥の違いである」と言った。


建久元年(1190年)、頼朝が初めて上洛すると景時はこれに供奉し、途中の遠江国橋本宿での遊女を集めての宴で頼朝と景時が和歌を交わしている。また、『沙石集』に奥州合戦の際に頼朝と交わした和歌が残されている。12月1日、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした[2]。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入ったが子の景茂に賞を譲っている。建久2年(1191年)の徳大寺実定の死去の記事に景時と弟の朝景が実定から学んだとの記述があり、梶原氏は優れた歌人を輩出した徳大寺家と交流を持ち和歌を学んでいた。



建久3年(1192年)、景時は和田義盛に代わって侍所別当に就任した。『吾妻鏡』はこの交代について、景時が一日だけでも仮に別当になりたいと懇願し、義盛がそれならばと暇のついでにこれを許したが、景時が奸計をもって別当職を奪ってしまったとしている。しかし、侍所別当という重職がこのようないきさつで交代するとは考えにくく、実際には頼朝の意向によるものと考えるのが妥当であろう。実際、戦乱の時代が終われば、武人である和田義盛よりも、武勇だけではなく、事務能力・実務能力に優れ(前述の義仲との合戦の報告書など。当時の坂東武者は文章を書ける者はほとんどいなかったといわれている)、また和歌のひとつもこなせる景時は頼朝にとっては得難い手駒であっただろう。後世の秀吉における石田三成、家康における本多正信の例と同じである。『愚管抄』でも「鎌倉ノ本体ノ武士(鎌倉殿頼朝の第一の家来の意味)」と評価されている。


正治元年(1199年)正月に頼朝が死去すると、景時は引き続き宿老として二代将軍・源頼家に重用された。4月に若い頼家の失政を理由に政務が停止され十三人の合議制が置かれると景時もこれに列した。




没落[編集]

詳細は「梶原景時の変」を参照

頼家と有力御家人との対立が元で不祥事が続き、これを嘆いた結城朝光が「忠臣は二君に仕えずという。故将軍が亡くなった時に出家遁世しようと思ったが、ご遺言により叶わなかったことが今となっては残念である」と言ったことが景時に伝わり、景時は、これを頼家への誹謗であると讒言し断罪を求めた。

このことを知った御家人たちは怒り、三浦義村、和田義盛ら諸将66名による景時排斥を求める連判状が頼家に提出された。頼朝の死後、頼家の元でも継続して権力を振るう景時に対する御家人の不満として噴出したのである。11月、頼家は景時に連判状を下げ渡すと、景時は弁明せずに一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退いた。



正治2年(1200年)正月、景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立した。途中、駿河国清見関にて偶然居合わせた吉香友兼ら在地の武士たちと戦闘になり、同国狐崎にて嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時は付近の西奈の山上にて自害。一族33人が討ち死にした。『吾妻鏡』は、景時が上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に建てて反乱を企てたとしている。しかし義経の転落を見ていた景時が同じ轍を踏むとは考えられず、土御門通親や徳大寺家といった京都政界と縁故を持つ景時は、都の武士として朝廷に仕えようとしていたと見られる[3]。梶原一族滅亡の地は梶原山と呼ばれている。なお、吉香友兼が景茂を打ち取った際に所持していた青江の太刀は、友兼の子孫である安芸国人吉川氏の家宝として伝授され、国宝「狐ヶ崎 」として現在に伝わる。



後世の評価[編集]

一般に、景時には「義経を陥れる讒言をした大悪人」といった印象が持たれている。残されているエピソードや資料における記述などから、力のあるものにはへつらうが、格下相手には高圧的で尊大、という印象を持たれている[4]。ただし、その悪名には誇張が含まれていることも多いと推測される[5]。



鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、その死に際する記事で「二代にわたる将軍の寵愛を誇って傍若無人に振る舞い、多年の積悪が遂に身に帰した」と記されている。景時追放の原因とされた讒言は、『玉葉』によると将軍・源頼家に、その弟・実朝を将軍に担ごうとする陰謀があることを報告したものであり、景時追放の3年後には北条氏の陰謀によって頼家が追放・暗殺され、実朝が将軍となり北条時政が実権を握っていることから、北条氏に不都合な景時追放の真相は歪曲され、景時を悪人として断じているのである。元々その職務から恨みを買いやすい立場であった景時への、御家人たちの不満に火を付けて煽ったのは時政の娘で実朝の乳母である阿波局であった。



『平家物語』『源平盛衰記』では、逆櫓論争など義経と景時の対立の話がより具体的に記述されている。そして、義経を主人公とする『義経記』では景時は敵役として描写されている。

景時に対するこうした印象が本格的に定着したのは、庶民文化が隆盛した江戸時代であった。分かりやすい勧善懲悪が好まれた歌舞伎や講談で義経を悲劇の英雄とする判官贔屓とあいまって、敵役の景時はこれを陥れた大悪人とされた[6]。

明治になって近代歴史学・文学の時代になると、幸田露伴や山路愛山などが単純な判官贔屓をよしとせず、「頼朝のために進んで憎まれ役を買っていた」という景時擁護論を著している。一方で東京帝国大学教授の黒板勝美は、『義経伝』で義経賛美の立場を明らかにするとともに、景時を「奸佞なる人物」と断じた。歴史学の権威であった黒板の見解は影響力を持ち、以後長く辞典類などで景時は「讒言をもって人を陥れる人物」と記述されるようになった。



戦後になると、研究者の間では判官贔屓で記述することは減り、作家や読者も旧来の一面的な勧善懲悪的な観点では飽き足らなくなる。義経の政治面での無能さが指摘されるようになり、その一方景時は頼朝の武家政権の確立のために進んで憎まれ役を買った、善人とは言えないまでも優れた官僚的な人物であると評価されるようになった。この様な見方は海音寺潮五郎の史伝や司馬遼太郎の小説『義経』、永井路子の短編小説『黒雪賦』(直木賞受賞作『炎環』収録)が代表的である。



上横手雅敬は、「如才はないが人間性が卑しい」「虎の威を借る狐」「侍の大将にはふさわしくないが主を選べば最も優れた従臣」と評している[7]。



一般に影響力のある近年のテレビドラマにおいて、景時が単なる大悪人とされることは少ない。上記の『黒雪賦』を含む永井路子作品を原作とした大河ドラマ『草燃える』や、『義経』では、景時は義経と対立するものの、頼朝への忠誠心の篤い優れた官僚的な武士として扱われている。


一方で、景時を大悪人として描くドラマも存在しており、例として近年の作品では『源義経』がある。作中で義経は美化され、最後には死なずに蝦夷地に逃れることになっており、景時は悪意をもって義経を陥れ平泉まで追ってきて最期は討ち取られるなど大幅に脚色されている。





    長田氏も梶原氏も元は桓武天皇の子孫の坂東平氏の子孫ですから
    もともと知り合いだったのかもですね。  



やっぱり先祖=古代もちゃんと覚えてないといけませんね。
[96]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月28日 07時14分05秒 ) パスワード

そろそろXXIIに行きましょうね。
[97]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月28日 09時29分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの貴重な情報ありがとうございます。しっかりと読解いたします。
これから松島十湖の曾孫さんと会うので出かけます。
 帰りましたら、また記します。
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