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 投稿番号:101403 投稿日:2014年12月08日 09時55分27秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について20

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様、大変ありがたい御教示をいつもありがとうございます。

そして
今まで、全く知らなかった故郷の歴史を、郷土誌を通じて知る事が出来るようになりました。

今後とも、どうかよろしくお願い致します。

こちらは平川家について20-1 コメント82からの続きになります。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101398_82.html

[1]白石さんからのコメント(2014年12月10日 20時11分39秒 ) パスワード

こんばんは
暮れの買い出しや 年賀状のことで忙しくしていました。

天御中主命 すごいですね。
はるか昔の神様ですね。

宇佐の方は書いてあったので 他のところでは どうだろうか?とみてみました。

正之★木稲荷大明神
県内外の方々に親しまれている「正ノ木まつり」は、★太田町に鎮座する稲積神社

由緒
第十代★崇神天皇の御代四道将軍★武淳川別命が田畑を切り開き
★甲斐源氏の祖、★一条次郎忠頼丸山に館するに当り、庄城稲荷と呼ばれ氏神として甲斐源氏一条忠頼一族の崇敬する所となっていたが
文録年中浅野長政の築城に当り一蓮寺と共に現地に遷された。

他のところは でていませんね。
文中 出ている言葉は過去にも 出てきた言葉で 太田町などは 平川に関与していて 

ご祭神は 自分たちのご先祖様を まつるのが 普通だから 
平川は 単純には 一条 崇神天皇 継体天皇 などをとおって 天御中主神へ・・・
となるのでしょうか?

ーーーーーーーーーーーーー
話がかわりますが
先日 夫の愚痴を書いていましたが
息子が 娘の代わりに 食事時の手伝いをしてくれて
助かります。

そして
こまごま こまごま 私が もったいない 我慢 我慢 と 思って 30年来使ってもう こわれそう というのを 買ってくれたり
圧力鍋も 子供が小さいころは 使って 重宝していたのを
やはり 年金生活では 万円をこす 金額では おいそれと 手が出ないのを 買ってくれて 
やはり 便利です。あっという間に できるので・・・

夫を反面教師にしたみたいですね。^^
嫁さんはまだいないので 今の内だけでも 息子に甘えとこう と 頼りにしています。
子孫様は 娘さん と 仲良く で いいですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
スーパーには 11月から お正月品が並んで
本番には げんなり しそうです。 
[2]子孫よりさんからのコメント(2014年12月11日 00時43分29秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

息子様、本当にお優しいですね(^・^)
うらやましいです(^O^)
今のうちに、い〜〜っぱい甘えられたら良いですよ(^O^)
息子様もそれがとても嬉しいのでは・・(^・^)

「甲斐源氏」のお話ですが・・・・
あの・・この頃ずっと「源氏?」に繋がっていると思い込んでいたのですが、実は、強烈な衝撃を受ける記述を読んでしまいまして・・この数日、頭が混乱していました。
尼妙阿(良峯女)の夫の姓は「平」の人だった様なのです・・・????(?_?)

混乱してコメント出来ないでいましたが、色々検証をしていまして・・その途中なのですが、意を決して?コメント致します<(_ _)>

球磨郡誌を読むと相良長頼には子息七人、子女が二人であったとなっています。

相良長頼
子息: 頼親、頼氏、頼俊、頼村、為頼、頼員、頼貞
子女: 犬童女、命蓮尼(虎若女)

そこで・・あれっ??長頼の娘で良峯(平河)に嫁がれた「尼妙阿」は????

となっていました。

所が、その謎が「求麻外史」によって解けたのです。最初は漢文で訳すのが大変だったのですが「新訳求麻外史」を見つける事が出来まして、かなり楽になりました。

「新訳求麻外史」のコマ番号「34」に頼俊公の記述がありますのでご覧ください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959084

正嘉元年丁巳秋九月十四日、幕府宗尊親王教書 相模守北条時頼 武蔵守北条長時連書 を公に賜い、人吉荘の南方成恒 (鎌倉の下文及び教書は皆成恒に作る。譲状は国字を以て書す。亦奈利門所に作る。洞然状は奈利恒に作る。歴代参考は成恒に作る。今之に従ふ、・・)荘の地頭職に補す(教書に曰く、寛元四年、永頼法師蓮佛の譲状及び建長六年十一月某日、蓮信送傳状に地頭職を補すとあるに従う。蓮信未だ何人なるを詳かにせず。)下文を尼妙阿及び西心法師に賜ひ、食邑を給す(尼妙阿未だ何人たるかを詳かにせず。政■案ずるに嘉暦二年探題府の蓮道公に奥ふる所の書に曰く、三郎入道蓮佛の女子尼妙阿と、此れに依りて則ち蓮佛公の女たること疑ひなし、■し犬童女の法号なり。今考ふる所なし。疑ひを存して以て博覧の士に俟つ)

\(◎o◎)/!
疑いを残してはいるものの・・とありますが・・
尼妙阿とは「犬童女」の法号である!!
「犬童女」とは・・・・(-.-)

でも・・(゜-゜)そう言えば山江村誌の平河の系図に「平河」と名乗っている人もいれば「犬童」と名乗っている人もいました・・??

そこで、「犬童女」と呼ばれた法号「尼妙阿」という女性と「西心法師」と言う方を調べたのですが・・

ここから・・めちゃくちゃ「混乱」してしまいました(@_@)

まず・・
Shigaku zasshi - 第 89 巻 - 3 ページ より
即ち犬童本宗家の文害群は享禄にその家とともに滅びたのであ今日『犬童文書. ... おそらく近世相良正史が頼員法名を濟信とすることに依拠したのであ『相良系図, 1 は・・この犬童丸名を得ていた西信(永網)は犬童氏祖にあたる人物と推定される。
平永綱は ... 犬童丸名地頭であつた西信は平永綱(法名西心)と同一人物と考えられる。
長頼女の一人を犬童女と記しているが、この女性こそ正しくは長頼の姉妹であり、永綱の母 ...
平永綱は相良(藤原)長頼の甥であるが相十六、平姓であるから長頼妹(または姉)を母とし平某を父としたことが・・


(@_@)長頼女の一人を犬童女と記しているが、この女性こそ正しくは長頼の姉妹であり、永綱の母 ...  えええええっ!!
平永綱は相良(藤原)長頼の甥であるが・・平姓であるから長頼妹(または姉)を母とし平某を父としたことが・・・
\(◎o◎)/!
この犬童丸名を得ていた西信(永網)は犬童氏祖にあたる人物・・西信?
\(◎o◎)/!そして、ついに尼妙阿(犬童女)の子息「平永綱 法名西心(西信」という人物が一体誰であったのかを突き止めました。

というか・・・私、何故か?この方に関する相良家文書が、何故だか意味は解らないけれど気になって?パソコンに保存していました。
明日、ブログにアップ致します<(_ _)>

では「平永綱」こと「相良西信」とは一体誰か?
相良頼員 さがら よりかず この方です\(◎o◎)/!
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%A0%BC%E5%93%A1-1077702
相良頼員 さがら-よりかず
?−? 鎌倉時代の武士。
相良長頼(ながより)の子。寛元4年(1246)肥後(熊本県)人吉荘南方を父から分割譲与される。弘安(こうあん)の役での軍功を幕府から賞された。通称は九郎。法名は西信。

\(゜ロ\)(/ロ゜)/も〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜う!!
何が何だかさ〜〜っぱり解らなくなりました!!

整理すると・・
尼妙阿(犬童女)
※長頼女の一人を犬童女(尼妙阿)と記しているが、この女性こそ正しくは長頼の姉妹
※平永綱は相良(藤原)長頼の甥である
※平永綱は相良(藤原)長頼の甥である。平姓であるから長頼妹(または姉)※犬童女こと「尼妙阿」を母とし平某を父とした。
※平永綱 法名西心とは実は 相良頼員 法名西信 ・・・同一人物
※そして・・最後に「尼妙阿」は良峯(平河)に嫁いで「良峯氏女」と呼ばれていた・・

と言う事で
犬童氏の祖「相良頼員」は「平永綱」でもあり、良峯氏女「尼妙阿」こと「犬童女」と「平某」との間に生まれたと言う事です・・・
「平某」・・・??
しかし、ここでフト頭をよぎったのは
「字平 紀平次」と呼ばれた「平河師貞」です・・「字平」・・・?
そう言えば「貞」の字を「員」に変えた中原の某氏がいらっしゃったような・・??(余談でした(-_-))

そう言えば・・当時の結婚は通い婚や入り婿が多かったと伺いました・・

しかし・・「永綱」が「頼員」という方であったとは・・・(名前が違いすぎます(@_@。)
さらに・・平河の系図には
相良弥三郎頼貞とか相良藤三郎長貞とか・・平河家系図として名があります・・
それに・・「長重」も・・

混乱しながら、段々「怖く」なってきました・・(-_-)何だか、もっともっと出てきそうな・・(目には目を・歯には歯を・・って・・)

しっかりと調査は続行致します。

さらに・・
相良長頼と良峯(平河)義高の確執の一因になったのでは??と思う記述も見つけています。まさに「良峯」を巡る、問題でした。
こちらは明日、コメントさせて頂きます。

と言う事で、私も混乱しましたが、おそらく皆様も「????」となられた事かと思います(__)

謎多き・・平河家でございます(__)
では<(_ _)>
[3]子孫よりさんからのコメント(2014年12月11日 09時26分41秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

というかっ!!みなさま〜〜〜〜〜〜〜!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

私、幼い時に聞いた記憶が、蘇りました\(゜ロ\)(/ロ゜)/ーーー!!!!!
球磨郡誌と新訳求麻外史をじっくり読んでいて、次々と記憶が蘇ってきたのです!!

私、祖母から、きっと「ちゃんと」先祖について聞いていました。(正確に言うと聞いていたようです(__))
所が、その話が・・私が成長するに従って、頭の中でゴチャゴチャになってしまっていたようです。

おそらく、最大のキーマンは「新堀氏」です。
私の頭の中では「宮原」「平川」「新堀」の先祖の記憶がゴチャゴチャになっていたようです。
だから、こちらのスレッドで最初の頃、こんな事を言っていたのでしょう。
宮原の先祖について
「相良氏と一緒に球磨に来たと聞いています」
でも・・一緒に球磨に下向していたのは「新堀氏」です。

さらに新堀氏について「宮原の曾祖母が新堀から嫁がれて来られていた」と書いていましたが、この頃、「あれっ?曾曾ばあちゃん?(高祖母??)」とコレマタ勘違いをしていました。
何で「??」となっていたかと言うと、父から、宮原の曾祖母の系を
八代の某有名?な神社 →(嫁ぐ) 小池家 →(嫁ぐ) 宮原
と聞いたからなのです。
だから、「あれっ?新堀は?あ〜〜じゃあ新堀家から来られたのは曾曾ばあちゃんか〜(゜-゜)」
と、コレマタ大変な思い違いをしていたようなのです。

では、何故、思い違いをしたのか?それは子供の頃祖母に聞いたこの言葉からでした・・
「家には新堀から来とんなるもんね〜〜。新堀やったとよ。」
「相良さんと一緒に球磨に来とんなったとよ〜」
「宮原は橘やったとよ〜」
この祖母の言葉を幼かった私は
「宮原」には新堀から曾ばあちゃんが嫁いでこられた。
「宮原」は相良さんと一緒に球磨に下向してきた。
その「宮原」は橘だった。

と、とんでもない勘違いをしてしまったようであります。
正しいのは「宮原」は橘だったとよ〜のこの話だけです(__)

祖母が言った「家は」の「うち」は「宮原」ではなく(ー_ー)!!「平川」の話だったのです!!(きっと)

昨日まで「犬童女」と呼ばれた「尼妙阿」の記述で頭が混乱していたのですが、少し冷静になって、もう一度最初から、記述を読み返しながらドンドン記憶が蘇ってきました。
頭がパッ!となった記述は「尼妙阿」が相良長頼の「妹もしくは姉」という言葉からでした・・

相良長頼の「妹もしくは姉」の記述で、もう一人の方の情報に
※相良頼景の娘が「須恵氏?」に嫁ぎ、そして「娘」が生まれた。
※その娘は「新堀氏」に嫁いだ。

という記述があったのです。
「須恵氏」の娘。
実は、この部分がず〜〜っと引っ掛かっていたのです。
だって、球磨郡誌および求麻外史では「平河義高」の所領は「須恵」も含まれていたからなのです・・・

当時は「通い婚」は普通に行われていた事でしたよね・・・

そして「新堀氏」について調べた所、何だか、今までの調査「全て」に繋がってしまいます。

実は、私、先日、「平河」は相良氏と一緒に下向した?
と書いたのは(疑った)のは新堀氏ではなく「平原氏」だったのですが、危なく見過ごす所であった「新堀氏」がキーマンだと確信しました。

では、どうしてそう考えるに至ったかは次のコメントで<(_ _)>
では<(_ _)>
[4]子孫よりさんからのコメント(2014年12月11日 12時49分45秒 ) パスワード

皆様、今日は(-_-)・・・(+_+)

あの・・・・
父に電話で聞いたのですが・・・叱られました(@_@。

新堀家と縁戚関係にあったのはやはり「宮原家」だそうです(-_-)

それも・・・かなり古来から、おそらく宮原(橘)が球磨郡久米郷宮原に下向された頃、その辺りから、ず〜っと縁戚関係を続けているそうです(-_-)
父いわく「大昔から」と子供の頃から聞いていたそうです。

すみません。と言う事で朝のコメントは間違いです。
私が祖母から聞いていた事は、記憶が正しかったようです。

宮原(橘)は、新堀家(相良頼景と共に球磨に下向)と鎌倉時代より縁戚関係を続けていた・・
と言う事でした・・・

と言う事は・・?
新堀家は・・
中条家長にも繋がり・・八田氏にも繋がり・・
あ〜〜〜ん(@_@。
私が、「繋がった(^◇^)」と喜んだ情報は全て、私「宮原」の方に繋がっていたと言う事ですね・・トホホホ
嬉しいような・・でも平川ではないし・・複雑な気分でございます(__)
すみませんでした(-_-)

犬童女について調べます(__)
では<(_ _)>
[5]子孫よりさんからのコメント(2014年12月12日 13時09分27秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

昨日はとんでもない暴走をする所でした。すみません(__)

所で・・・
昨日、父から相良氏族新堀家と宮原の縁を聞いた後で、ふと、本当に宮原(橘)と相良氏は球磨に下向してから縁が出来たのかな?と疑問を感じまして・・

何せ相良氏はそもそも「遠江国」の藤原「工藤氏」だったのですよね・・
そして、橘公長は平知盛の家人を離脱して、源頼朝の前に現れる前に「縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向かった」と言う事でした・・

何だかモヤモヤしてはいたのですが、とりあえず、昨日の続きをと思いまして、新訳求麻外史をじっくり読んでいたのですが・・

さらに宮原(橘)の先祖橘公業と相良長頼の承久の乱での縁を見つけてしまいました。
橘公業(新訳求麻外史では公成の名で登場します)と相良長頼は一緒に戦っていました。

新訳求麻外史 コマ番号27に記述があります(__)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959084

六日、遅明時房・足利義氏と大軍を率いて摩免戸を渡る。守将能登守藤原秀康・平九郎・三浦胤義・中條盛綱 等守を棄てて宵遁る。
公(承久記には佐賀羅三郎に作る。佐賀羅は相良に相同し)及び伊具六郎有時善左衛門尉太郎康知・奥岳橘左衛門尉公成(東鏡に小鹿島橘左衛門尉に作る)・阿保刑部丞實光等 後を躡んで競ひ馳せ、美濃筵田に抵る比、官軍三十餘騎還り戦ふ。公(長頼)等撃って之を殱す。・・中略
東軍勝に乗じて長騙す。山田次郎重忠軍を回して坑瀬川に陣す。
公(長頼)、公成と兵を合わせて進み済る。

(゜-゜)その後は、壮絶な戦いが繰り広げられたとの内容が記述されていました。
※奥岳橘左衛門尉公成と相良長頼は兵を合わせて進み済る・・・
状況から戦略であったのは解るのですが、承久の乱当時から、相良長頼と橘公業は、知人?であったのですね・・

しかし、東鏡には「小鹿島橘左衛門尉公成」とある所を求麻外史では「奥岳橘左衛門尉公成」と作りましたよ〜〜と記述されていますが、確かに承久記には「奥岳嶋橘左衛門」とありました。さらに相良長頼は佐賀羅三郎・・

承久記を近代デジタルライブラリーで見つける事が出来ましたので、早速読んでみます(__)

と言う事で、平河を調べてはいるのですが・・宮原の先祖「橘公業」・相良長頼の承久の乱での戦の様子も少し勉強出来ました。

では<(_ _)>
[6]子孫よりさんからのコメント(2014年12月12日 15時00分59秒 ) パスワード

皆様、ここでちょっと雑談を<(_ _)>

求麻外史を読んで痛感しているのは
「何て戦や事件の多い事か!!」と言う事です。

もう、ず〜〜〜っと、その様な内容を読み続けています。
鎌倉期以降、南北朝の戦後もず〜〜っと、色々な事が起こっていて、戦の連続です。
江戸時代って、今まで、「すご〜く平和になった日本」のイメージだったのですが、ここ「人吉・球磨」はそうではなかったようです。
次々と事件や乱が発生して、ウィキでも、相良氏歴代当主の記述に「○○公の時代は比較的穏やかな時期が10年程続いた・・」なんて書いてありまして、じゃ〜〜人吉球磨では穏やかな時代はたいそう珍しかった訳??何て皮肉にも取れてしまうような・・それ程、珍しい「藩」だったのでしょう(-_-)

さらに、記述を読んでいると、「宮原」の先祖や「平川」の先祖が討ち死にされた話とか目にしますし・・
「深水」とか「犬童」とか、先祖に係わる親せき筋の名も様々な事件?お家騒動で登場してきますし・・
ましてや、男性だけではなく女性子供までも、一緒に自害したなどの記述も多数あって・・

そういう明治に到るまでの混乱・波乱の人吉球磨において、記述に登場する様々なDNAを引き継いで、私は、「よくこの世に生を受ける事が出来たものだな〜」と本当に痛感しました。本当に感謝致します。
そう考えると、人吉・球磨に生を受け、先祖が何百年もこの地にあったという球磨・人吉の人々は、それこそ先祖様に「自分がこの世に生を受ける事が出来た事」を感謝しなければいけないのだな〜と・・

そう言えばウィキに
人吉藩(相良藩)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9

藩内抗争[編集]
人吉藩では深水氏と犬童氏の対立に始まり、門葉(相良一族、小衆議派と呼ばれる)と家老(大衆議派)との対立が絶えず、たびたびお家騒動・事件が起こった。古来からの小領主ゆえに門葉が数家あり、また家臣も古くからの存在で、互いの権利主張が当主の権力を小さくしていった。しかし、これほど多数の騒乱が起こった藩は極めて珍しい。一方、同じく古来からの小領主であった大村氏は、大村藩の初期段階で強制的に改革を行い藩主の権力を強化し、それにより藩内を纏めることに成功している。
※しかし、これほど多数の騒乱が起こった藩は極めて珍しい。・・(-_-)
(・_・)
普通は藩お取り潰しになってもおかしくない騒動が頻繁に起こっていたにも関わらず本当によく700年以上も続いたものだな〜と(-_-)

でも、中にはこの様な記述が書かれていました。(-_-)
竹鉄砲事件[編集]
竹鉄砲事件(たけでっぽうじけん)は、8代藩主頼央が鉄砲により暗殺された事件である。別名、御手判銀事件とも呼ばれる。元々相良家の記録にはなく、秘匿されていた事件であるが、渋谷季五郎が相良家近世文書を整理中に偶然発見し判明した。
発端は7代頼峯の宝暦5年(1755年)に領内を襲った大水害である。藩は当時すでに財政が逼迫していたが、この大水害により藩士の生活は壊滅的な打撃を受けた。翌宝暦6年(1756年)、藩士救済策として、家老・万江長右衛門らの大衆議派が希望者に対し御手判銀の貸し付けの触れを出した。しかしこの貸付は、その借り高に応じて家禄を渡す分を差し引くというものであり、100石取り以上の上給者らは、その返済方式では実質的に知行の削減となり藩士が一層貧困に喘ぐとして異を唱え、門葉方に訴え出た。実際、上給者で借り受けを請う者は無く、万江ら一同は謹慎に及ぶ。一方、相良頼母(後の頼央)ら門葉は、この一件を江戸の頼峯への報告する際、速やかに処分すべく万江を切腹にし、他の者を逼塞すべしとの密書を送っている(万江らは処分されず、謹慎も解かれた模様)。
宝暦7年(1757年)、藩主・頼峯は、帰国に際して従前どおり門葉(実は弟)の相良頼母を仮養子にしようとした。頼母は門葉の中心的人物であったため、家老・万江らはこれに反対し、連判状を提出するにいたった。しかし頼峯は、強硬な反対を押し切って頼母を仮養子として帰国した[4]。ところが、頼峯を毒殺し頼母の擁立を企てがあるという遺書を残して、藩医・右田立哲が自殺するという事件が起こった。頼峯は吟味のうえ小衆議派を処罰した。
宝暦8年(1758年)、頼峯は江戸参府の途上発病し、江戸到着後死去した。死去により頼母が出府し、8代藩主・頼央となった。翌宝暦9年(1759年)6月に帰国した頼央は、その2ヶ月後に急死する。相良家の記録では、7月に体調を崩し薩摩瀬の別邸で療養していたが、病状が悪化し死亡したとされている。
しかし言い伝えによれば、薩摩瀬の別邸に滞在中の7月、鉄砲により狙撃され8月に至り死亡したという。藩は、銃声を子供の竹鉄砲(爆竹)であると誤魔化し、調査を求める訴えを取り上げなかったという。大衆議派と小衆議派が対立する中、小衆議派の中心人物であった藩主の抹殺を謀ったものと言われている[5]。
また、これにより藩主相良家の血統は断絶し、以後約10年間、他家から晃長、頼完、福将、長寛の4人を相次いで継嗣に迎え入れるという不安定な家督相続を続け(内密の藩主すり替えも行っている)、なんとかお家断絶の危機を切り抜けていった。

(・_・)※(内密の藩主すり替えも行っている)、なんとかお家断絶の危機を切り抜けていった。

人吉藩(相良藩) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9

藩主家の相良氏は鎌倉時代初頭の建久4年(1193年)、この地の地頭に任ぜられた。その後戦国大名に成長し、江戸時代に入っても領主として存続し明治維新を迎えた極めて稀な藩の一つである。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の際、老臣の深水長智は大友氏・島津氏の間に挟まれた小領主の苦衷を秀吉に訴えた。長智の奔走により当主の相良頼房(後の初代藩主・長毎)は領土を安堵された。
慶長元年(1596年)深水長智の甥・頼蔵と重臣・犬童頼兄との対立が激化しこれを石田三成が仲裁。結果、頼蔵が敗訴し彼の後ろ盾となっていた加藤清正の下に奔り、深水一族は頼兄により討たれた。これにより犬童頼兄は相良清兵衛頼兄と名乗り家老・執政となり相良家の中心的役割を果たしてゆくこととなる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、事件の仲裁に立った三成への恩義から当初西軍に付いた。しかし頼兄は日向国の小領主である秋月種長・高橋元種らとともに東軍への寝返りを実行した。その結果、彼らは徳川家康より旧領を安堵され各自立藩した。
人吉藩は薩摩藩とよく似た中世の名残を残した行政機構となっていた。その1つは外城制である。領内には14の外城があり、それぞれに数人の家臣が居住し領地と領民の支配を行った。兵農分離がなされておらず、半農半兵の無給郷士が人口の約1/3を占めていた。また、キリシタン禁制とともに浄土真宗本願寺派禁制を厳守していたことも薩摩藩と同じである。

(・_・)あの・・・・
私の曾祖母の実家である「深水家」深水一族と、犬童氏は明治に到るまで、藩内でず〜〜っと敵対していたと、別のウィキの記述で読みました。

つ〜〜ことは??家の「ここの親戚関係」は「平川」と「宮原」と「椎葉」を挟んで明治以降に生まれたのかな?? そういえば・・今でも・・(-_-)・・(ー_ー)!! 嘘です(__)

(・_・)だけど・・藩内の記述に
「外城制」
領内には14の外城があり、それぞれに数人の家臣が居住し領地と領民の支配を行った。兵農分離がなされておらず、半農半兵の無給郷士が人口の約1/3を占めていた。

(・_・)と言う事は・・藩の一大事(外部からの侵略など)には一致団結するけれど・・結構、皆「カッカッと煮えたぎる」本能?のような物?を持った人々が集まっていたのですね・・

今は「モ〜ゥ」と牛さんが楽しく寝ころび、山鳥が「カァ〜」?とさえずり、野に花が綺麗に咲いて、山は雄大で・・人は静かで穏やかで・・
( ^^) _旦~~
・・・・・・・あ〜〜〜〜想像できない(ー_ー)!!
こんなに激しい場所であった何て・・・

でも・・本来、ここは狗奴国(球磨国)、後世では熊襲と呼ばれた人々の地。
この平和を脅かすものが出たら・・・(−−〆)

それから・・
子供の頃からず〜〜っと不思議だった、球磨のキャッチフレーズ。
「落人の里」・・これは、結構御存知の方は多いかと思いますが・・
もう一つあるのです。それは
『「日本」の故郷』・・・・・??
この言葉は、ず〜っと何の意味かな〜って思っていたのですよね・・(p_-)

きっと、まだまだ、私が知らない事が沢山隠されているのかも?知れません。

では<(_ _)>
[8]子孫よりさんからのコメント(2014年12月13日 00時25分46秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

何だか偶然なのですが、
「日本財団図書館(電子図書館) 「町村合併による中山間地域の振興ビジョン策定に関する調査研究」報告書」財団法人 地方自治研究機構
という研究書類を見つけました。

球磨郡の中球磨を対象とした研究報告書です。
目次
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00164/mokuji.htm

※リンクが貼れないので、アドレスバーにコピーすると見れます(__)

そして
6 観光、交流 (2) 歴史的観光資源
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00164/contents/052.htm
※リンクが貼れないので、アドレスバーにコピーすると見れます(__)

人吉盆地は、古くから文化が発達してきた地域であり、文化遺産が数多く残されており、その数は県内でも傑出している。

古くは、平安時代建立の釈迦堂(須恵村)や日本7大薬師の一つで年間2万人以上来訪する谷水薬師、武家屋敷跡や上村城跡(以上上村)など鎌倉、室町時代からの上村氏や宮原氏、相良一族にゆかりのある史跡も数多く存在する。

また、近年、郡内の人々に見直され沢山の人が訪れるようになった相良三十三観音めぐりの内、中球磨には二十九番札所の宮原観音(岡原村)を始め7つの観音が点在している。

また、須恵村は、社会人類学者J.F.エンブリーが昭和10年より約1年間滞在し、日本の村落社会の代表として研究し、世界に紹介した地域であり、学術的な意義も高い。このように彼が紹介した日本の農村の民俗を後世に伝える場としての活用を検討してみるのも一つの方法であろう。その際、他地域の事例、例えば遠野市による、柳田国男が紹介した民話、伝承の観光資源としての活用といった方法が参考になると思われる。

(p_-)あんにゃ・・(・_・) 何だか、家の名前がありますよ・・・

(4) 情報、交流 表3-6 地域資源一覧表(観光、交流関係)
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00164/contents/053.htm
※リンクが貼れないので、アドレスバーにコピーすると見れます(__)

表の中に
高山  深田村 旧豪族平川氏の出城跡。中球磨地域の展望ができる。

とあります。この山は私の実家から直線で見えます。
公園になっていたのですね・・・(^◇^)

おんや〜〜(p_-) (゜-゜)
表の中に
宮原城址 岡原村  宮原一族の歴史。相良藩の銀山。日明貿易の経緯。
岡本城址

とあります。
(゜-゜)あれれっ??知らない間に研究されていました?(?_?)(^O^)/(?_?)
でもちょっとビックリしました・・(゜-゜)

(p_-)ちょっとまてよ・・・・(p_-)(?_?)

何だ??ここに書かれている「相良藩の銀山」「日明貿易の経緯」とは・・??
ぎっぎんざん!!? 日明貿易???? なんだぁ!!これは??

そう言えば・・・
先日、父に、調査で見つけた「宮原村の鉱山」の話を聞いた所
「あ〜〜跡があるある(^◇^)ばってん行ったらいかんぞ!(ー_ー)!!。お父さんも子供の頃、コソッと入って見たばってん怖かった!!。」
と言っていました。
でも、そこで取れていたのは何でも「猛毒」の成分を持った・・あれっ??何だったかな??カタカナのような「ナントカカントカ〜」と(すみません(__)覚えていません)という物で危ない(−−〆)と言っていました。

だから、私も怖いのでコメントしていませんでした(すみません(__))

でも・・ここには確実に「銀山!!」って書いてあります・・・(p_-)おんやっ??
さらに「日明貿易の経緯」って・・???

(p_-)私は、何だか、まだまだ我が一族より教えてもらっていない事が沢山あるような気がしてきました(-.-)

と言う事で
私は知らなかったけれど岡原村の宮原一族は研究されていました(-.-)
というお話でした。
では<(_ _)>
[9]白石さんからのコメント(2014年12月13日 05時17分24秒 ) パスワード

こんばんは
突拍子もない話ですが
こちらの ちちんぷいぷい という番組で 天のうずめの命 を まつる神社の宮司様が 荒田 と 出ていました。
この神は 芸能の神とされており 猿田彦との出会い。
猿田彦も 高い鼻 目力がある神だけど
眼勝神 として書かれる。

子孫様の系統の 目が特徴的なのに 通ずるかも・・・

小式部の内侍の 大江山 いく野の道の 遠ければ・・・
の話の 前か 後に ありました。

母の 泉式部には 橘 平 他 の 人がからんで いるのですね。

そして
荒田は 深田の良峯師高の 墓に 書かれている言葉。

黒豆は やはり LLサイズがいいかなあ とか 思いながら 見ていた てれびなので
メモをとっておけば 良かったなあ と 思うのですが・・・



[10]子孫よりさんからのコメント(2014年12月13日 19時22分04秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

猿田彦様は、北嶽神社に御祭りされていらっしゃいますよね。
天のうずめの命のお話は、先日、何故か?父から聞いていました。

踊りがとても御上手で、白石様がおっしゃっている「芸能の神様」という事でした。

稲積神社は国内に数ヶ所ありますが、父いわく、宮原村にあった稲積神社、神社様の名称も大事だけれど、旧宮原村の稲積神社の場合は、御祭神を重要視しなければいけない!と言っているのです・・??

「天御中主神右五神」
「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)さらに右五神。すなわち別天津神(ことあまつかみ)

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) - 至高の神
高御産巣日神(たかみむすひのかみ) - 征服や統治の神
神産巣日神(かみむすひのかみ) - 生産の神
その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神として身を隠した。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
天之常立神(あめのとこたちのかみ)

父は・・・
大変おそれ多い事なのだ!と言っていました・・・

そして、父はさらに
「平川だけの話ではないと思うよ。神様は土地の守り神であられるから、きっとこの土地に、ずっと遡れば、おそれ多い話だが”きしゅ”に繋がる家々が集まっていたのだろう」
と言っていました。”きしゅ”って何だろう?(話がずっと続いていたので、そんな事も知らんのか!と怒られそうで聞けませんでした(-_-))

家々・・・そう言えば、何処にも記述されていない話が聞けました(^O^)/

旧宮原村の「切畑地区」は、久米・奥野を飛び越えて何故か?湯前の領地だった理由でございます(__)

それは、私の曾祖母の実家「深水家」が関係していました。
何でも、昔は、曾祖母の実家深水家の所までが、「切畑」と呼ばれていて、「切畑」は曾祖母の実家の深水家の領地だったそうです。
そして、その「深水家・深水一族」はそもそも、湯前の領主だったそうでして・・
だから、久米・奥野を飛び越えて、曾祖母の実家深水家が所領している切畑地区は「湯前領」だったそうです。

解りやすく言うと、実家が湯前領主だから、子供の所領地は「湯前領」になる・・ と言う事のようですね・・

(^O^)どの書籍にも「謎」と書かれていた事が解りました(^O^)/
っと言うか・・聞くのが一番早かった・・と言う事でした(-_-)

それからもう一つ・・
父が子供の頃、深水の伯父(二男。宮原村の深水家を継ぐ。ちなみに勲章を受けた長男の伯父は、これまた、昔から深水家が所領していたという旧岡本村の”長岡”という場所に家を建てています・・というか・・すごいな深水家(p_-))と祖母が話をしていた所・・
深水の伯父が「家は藤原だった」と言ったそうです。
そこで、父がちょっと知ったふりをして
「そらそうタイ。相良さんは藤原タイ(^O^)」と言った所・・
深水の伯父は「相良の藤原というだけじゃナカ(ー_ー)!!」と言ったそうです・・
何だか・・深水にも謎の「藤原」があるようでございます(p_-)
父は、「ちゃんと聞いておけばよかった・・」と言っていました。

さらに・・・
曾祖母の実家「深水家」と少し広い道を挟んで、お向かいが「万江家」なのですが、こちらの万江家は、久米・奥野の平川家(祖母の実家の平川、私の曾祖父の弟があとを継ぎました(__))と、こちらもかなり昔から縁戚関係を結んでいたそうです・・・
今でも、久米・奥野の平川家とこちらの万江家は親戚関係で繋がっています・・
と言う事です。

そして・・・確信にせまるお話を・・

先日から気になっている「平河」は「平(たいら)」だったのか??と言う事を父に話したのですが・・

父が
「お父さんも、実はね、椎葉のばあちゃん(祖母の姉)から、平川は”平(たいら)”やったと聞いたことがあるとタイ(-.-)」
と\(◎o◎)/!

でも父いわく「椎葉家は確実に平家やった。これは間違いない。もしかしたら、椎葉のばあちゃんは其の事を言ったとかもしれんけど??・・平川の件・・これは・・本当に解らんトヨ(-.-)」
と・・

しかし父は
「平家とか源氏とか橘とか藤原とか関係ナカ(ー_ー)!!もっと先!遡っていけば、うちは皆、繋がるとタイ」
と言っていました・・・・・・・(゜-゜)(?_?)

と言う事で、真相は・・わかりませんが(?_?)
父が言う事なので・・間違いないのでしょう・・

と言う事でした(__)
では<(_ _)>
[11]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年12月13日 22時43分29秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>深水の伯父が「家は藤原だった」と言ったそうです。
 
深水家は相良祐長の後裔。
深水氏で有名なのは相良家執政の深水宗方。
秀吉の九州征伐で宗方がうまく立ち回って旧領球磨郡を安堵。
さらに葦北の津奈木、水俣の七十三町が加わり、水俣城の城代になる。
 
人吉藩は薩摩藩同様に外城制で、人口の三分の一は郷士という特殊状況も考慮すると良い。
[12]子孫よりさんからのコメント(2014年12月13日 23時29分40秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。

深水氏と芦北の関係。

実は、私の深水の高祖父が、土地を提供して建立された浄土真宗のお寺なのですが、初代の住職の方は、芦北のお寺から高祖父がお招きしたそうです。
何で、わざわざ芦北?だったのか今まで、ずっと解りませんでした。

御教示頂きまして、本当にありがとうございます。

「人吉藩は薩摩藩同様に外城制で、人口の三分の一は郷士という特殊状況も考慮すると良い。」

領内には14の外城があり、それぞれに数人の家臣が居住し領地と領民の支配を行った。・・という記述がありました。そこにさらに郷士。

お家騒動も起こりやすい環境ではあったと言う事ですね・・

故郷の歴史が少しずつ見えて参りました。

では<(_ _)>(^・^)
[13]子孫よりさんからのコメント(2014年12月14日 16時12分55秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

今から、国民の義務?権利?を果たしてきますので手短に(-.-)

このような記述を見つけました。(-.-)

藤原氏概説
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/fujiwarag.htm

より・・(-.-)

相良−  為憲流で工藤同族と称するも異伝あり、もと遠江人で後に肥後に遷、実際の出自は遠江古族(物部氏族か和邇氏族の匂いあり)の裔か。内田−相良同族の勝間田末流、遠江に住。

(p_-)・・・(>_<)・・・(゜-゜)・・・・\(゜ロ\)(/ロ゜)/
ええええええええええええええええええええええっ!!

なんですと!!
実際の出自は遠江古族(物部氏族か和邇氏族の匂いあり)の裔か・・・って!!

相良氏も物部氏族に匂いがプンププ〜ン(o|o) って!!

きっ気にはなっていたのです・・確かに・・・
だって、物覚えの悪い、歴史に興味の無かったこの「私」でさえ、相良氏の同族と言われる「新堀氏」とうちの「宮原」はかなり縁があったと覚えていたのですから・・結構、何度も何度も聞かされていたには違いありません。

だから、この頃は、橘公業の妻が「藤原氏」と言う事をふまえて、「相良氏」と何か縁があったのかな??と思っていたのですが・・

まっまさか!!物部氏族の縁であったとは・・\(◎o◎)/!

ふんが〜〜〜っ!!恐るべし物部氏族(-.-)

あっ( 一一)そう言えば以前、日本の苗字七千傑様から
「誠に饒速日命の後裔、折敷に三文字紋は神武東征、源平争乱、濃尾国盗物語、大政奉還など、機を見る素早さは恐るべきものですな」

と伺っていましたが・・昨日「人吉藩」の記述を読みながら「あれれ〜っ(-.-)」と思ってはいたのです・・

天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の際、老臣の深水長智は大友氏・島津氏の間に挟まれた小領主の苦衷を秀吉に訴えた。長智の奔走により当主の相良頼房(後の初代藩主・長毎)は領土を安堵された。
慶長元年(1596年)深水長智の甥・頼蔵と重臣・犬童頼兄との対立が激化しこれを石田三成が仲裁。結果、頼蔵が敗訴し彼の後ろ盾となっていた加藤清正の下に奔り、深水一族は頼兄により討たれた。これにより犬童頼兄は相良清兵衛頼兄と名乗り家老・執政となり相良家の中心的役割を果たしてゆくこととなる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、事件の仲裁に立った三成への恩義から当初西軍に付いた。しかし頼兄は日向国の小領主である秋月種長・高橋元種らとともに東軍への寝返りを実行した。その結果、彼らは徳川家康より旧領を安堵され各自立藩した。

(-.-)
※天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の際、老臣の深水長智は大友氏・島津氏の間に挟まれた小領主の苦衷を秀吉に訴えた。
※慶長元年(1596年)深水長智の甥・頼蔵と重臣・犬童頼兄との対立が激化しこれを石田三成が仲裁。
※慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、事件の仲裁に立った三成への恩義から当初西軍に付いた。しかし頼兄は日向国の小領主である秋月種長・高橋元種らとともに東軍への寝返りを実行した。その結果、彼らは徳川家康より旧領を安堵され各自立藩した。

★豊臣秀吉に訴えて・・石田三成に仲裁してもらって・・・徳川家康(東軍)へ寝返りをして・・・
(・_・)
この流れを見るからに、何だか・・・
「機を見る素早さは恐るべきもの」という言葉が脳裏をよぎったのですよね・・

だから・・今日見つけた記述には何だか「納得」してしまうような・・

って言うか人吉・相良藩自体が、家の宮原を含めても、大半が「物部氏族」だったりして(^◇^)・・・・・(?_?)・・何だか笑えない(-.-)

そうか・・・・
「目には目で、歯には歯で(タリオの法)」
「目には目で、歯には歯で」との記述は、ハンムラビ法典196・197条にあるとされる(旧約聖書、新約聖書の各福音書にも同様の記述がある)。しばしば「目には目を、歯には歯を」と訳されるが、この条文の目的は、いわゆる同害報復を要請するものではなく、無限な報復を禁じて同害報復までに限度を設定することであるので、誤りである[要出典]。195条に子がその父を打ったときは、その手を切られる、205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られるといった条項もあり、「目には目を」が成立するのはあくまで対等な身分同士の者だけであった。

(__)だから・・中々、まとまらなかった訳ですねぇ〜〜〜(__)

日本の苗字七千傑様より「ヨタ話」とお叱りを受けるかもしれませんが・・
相良氏は実際の出自は遠江古族(物部氏族か和邇氏族の匂いあり)の裔か・・
という記述を見つけました・・
というお話でした(__)

では<(_ _)>
[14]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年12月14日 22時02分54秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>相良氏は実際の出自は遠江古族(物部氏族か和邇氏族の匂いあり)の裔か・・
 
あまりにも曖昧な表現ですね。
実は遠州系国造の素賀国造、久奴国造、遠淡海国造が全て饒速日命の後裔。
従って、この線で論議すべきでしょう。
有名な西行の「年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」で知られる日坂(新坂)に注目すべきでしょう。
街道には、大同二年(807)坂上田村麻呂創建の式内社事任八幡宮がある。
物部十市根の子の印岐美は遠江国造、後裔は志紀氏、久奴氏、佐夜氏。
中でも佐夜氏は当地に拠った豪族。
近辺の佐野郡の地名もその影響か?
また物部大新河の孫阿佐利は伊予の風早国造であり、後裔に佐夜部氏が有り後裔の岩下氏は橘姓を称している。
物部氏と橘氏の縁が深いことだけは確か
しかし現時点では相良氏との関係は掴めず、当て推量のヨタ話でしょう。

[15]子孫よりさんからのコメント(2014年12月14日 23時35分48秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。

「遠州系国造の素賀国造、久奴国造、遠淡海国造が全て饒速日命の後裔」
「物部十市根の子の印岐美は遠江国造、後裔は志紀氏、久奴氏、佐夜氏」

遠江国自体が、物部氏と深く関わっていると言う事ですね。

ただ、相良氏との関係は当て推理にすぎない・・と。

御丁寧にお教え頂いて本当にありがとうございました。

「街道には、大同二年(807)坂上田村麻呂創建の式内社事任八幡宮がある。」
坂上氏も関連している・・・

日本の苗字七千傑様の《後漢光武帝裔氏族綱要》から系を見ていたのですが、「江上氏」姓氏類別大観を拝見していて気が付いたのですが「成富氏」。

平河観覚書状の中に「成富名のつく」から始まる言葉がありました。
「成富氏」・・・

それから「江上氏」で思い出したのですが・・
関係ないとは思うのですが・・祖母が料理研究家の「江上トミ」さんと、御縁がありまして・・私が中学生の時、「この本は大事にしてお嫁さんに行く時に持って行きなさい」と「江上トミ」さんの料理本(すごく厚いりっぱな本でした)を祖母から渡されました。
江上家との繋がりを話してくれたのですが・・悲しいかな忘れてしまいました(@_@。

やっぱり、色々な事を祖母から聞いていたようです。
その時は、妙に「現代に生きている、まだまだ若い私に古い話をして、どうしたんだろう・・」くらいしか考えていませんでした。
だから、頭に残っていないのです・・

祖母が元気な頃に、もっともっと孝行して、なお且つ、沢山話を聞いておけば良かったと心から反省しています。

これからも、御教示の程、どうかよろしくお願い致します。

日本の苗字七千傑様のお陰で、また一つ、祖母からの言葉を思い出す事ができました。
ありがとうございました。
[16]子孫よりさんからのコメント(2014年12月15日 06時43分55秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、日本の苗字七千傑様から御教示頂いた「坂上田村麻呂創建の式内社事任八幡宮」。
こちらのお話を伺った後で、やはり、神社の意味は重要なのだと言う事をあらためて理解致しました。

そこで、どうしても気になる、旧宮原村にあった「稲積神社」の由来を調べようと朝から、少し調査してみたのですが・・

稲積庄。「稲積」という地名・・・
関連する情報を探していた所・・
那須鳥山市の公式ページが登場しましたので・・拝見いたしました(__)

まず、稲積神社について
http://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/9,1288,38.html
稲積神社は勧請由来に次のように述べられています。「那須宗資-なすむねすけ-(須藤三郎)が平治の乱の時に源義朝-みなもとのよしとも-の軍に味方し、平清盛-たいらのきよもり-の軍と戦い敗れ、兄資房-すけふさ-と共に甲斐国稲積庄に逃げ隠れた。その際、土地の鎮守である稲積明神に本国帰参を祈ったところ、永万-えいまん-元年(1165)勅免により帰国を許された。帰国後、宗資は那須家を相続し、神田城(那珂川町)から下境の地にあった城に移り住み、甲斐国より稲積明神を城内に勧請して鎮守とし、城を稲積城と名づけた。」(大略)
以後、那須家の守護神として那須家の厚い崇敬をうけ、那須家改易の後も歴代藩主の崇拝と保護をうけました。 現在、神社には多くの文化財が残り、秋の例大祭(8月最終日曜日)には、獅子舞も奉納され多くの参拝客で賑わいを見せます。

※那須家の守護神として那須家の厚い崇敬をうけ
那須家(須藤氏)の守護神であったのですね。
( ..)φメモメモ

さらに、那須鳥山市の公式ページを見ていると
宮原八幡宮 とあります。
こちらにも「宮原」でございます(゜-゜)

宮原八幡宮
http://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/9,1292,38.html

宮原八幡宮は、延暦-えんりゃく-14年(795)坂上田村麻呂-さかのうえたむらまろ-が蝦夷討伐の勝利を祈願し、筑紫山に宇佐八幡宮を勧請したのが始まりとされ、明応-めいおう-2年(1493)那須資実-なすすけざね-が烏山城の拡張を行った際、現在の地に遷社されたといわれています。
天正-てんしょう-18年(1590)那須氏が改易され、その後、城主の交替が度々行われましたが、その間も各城主の崇敬と庇護は厚かったようで、修理や寄進が度々行われました。現存する棟札や多くの文化財がそのことを物語っています。
交通:JR烏山線烏山駅下車…徒歩25分(車5分)

\(◎o◎)/!あっ!!
偶然にも、こちらにも「坂上田村麻呂」。この方のお名前が・・!!
延暦-えんりゃく-14年(795)坂上田村麻呂-さかのうえたむらまろ-が蝦夷討伐の勝利を祈願し、筑紫山に宇佐八幡宮を勧請したのが始まり。

「稲積神社」「宮原八幡宮」・・・
「宮原」「那須」「坂上田村麻呂」・・・
「筑紫山」「宇佐八幡宮」・・・

平川家について20−1 コメント80で調べていた事に
大分県宇佐市 稲積六神社
http://www.genbu.net/data/buzen/inazumi_title.htm

御祭神
伊弉册尊 速玉男命 事解男命
国常立命 火産霊命 彦火々出見命

10号線から耶馬溪へ向う44号線(宇佐本耶馬溪線)を南下。
しばらく走ると、眼前に円錐形の典型的な神奈備山が見える。
南下して、5Kmほどの場所にある稲積山だ。
稲積山の麓、伊呂波川の側にある神社が当社。
神社への道は狭く、車一台がやっと通れる幅。

宇佐神宮に関する辛嶋氏伝承では、八幡神は、欽明天皇の御代、
宇佐郡辛国宇豆高島に天降り、大和国の膽吹嶺に移り、
紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、
乙・社、 酒井泉社、 瀬社、 鷹居社、 小山田社、 現社地へと移ったとする。

その「宇佐郡辛国宇豆高島」が、この稲積山ではないかと、
「八幡信仰」において中野幡能氏は指摘する。

(・_・)
不思議な事に、今、頭の中で「グォ〜ングォ〜ン」という音?が反響しています。
こちらの
※宮原八幡宮は元々那須氏の「鳥山城」の場内にあって、城の増築の為に現在地に移られた。
※稲積神社は那須氏が甲斐国より稲積明神を城内に勧請して鎮守とし、城を稲積城と名づけた。

「宮原」という名・地名。
「宇佐八幡宮」「稲積神社」「宮原八幡宮」「坂上田村麻呂」「那須氏」・・

球磨郡久米郷宮原。
この土地を所領したので先祖「橘氏」は土地の名から「宮原」と名乗った・・・

それから・・一つ気になる事があります。

岡原小学校ですが・・・
府本(麓)にあったので、最初は「府本小学校」
「府本(麓)」とは
「「麓」は郷士(普段は農業を営み、有事の際は戦う武士)が住む集落」
以前、箱柳永田様のスレッドで、箱柳永田様が調査されていた事を拝見しまして、勉強させて頂きました(__)

そして、府本小学校は「府内」と呼ばれる場所にあったと先日コメント致しました。
※ 府内稲積神社拝殿に府本小学校創立。

ちなみに、こちらの「府内」という言葉なのですが・・
府内 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E5%86%85
府内 (豊後国) - 現在の大分県大分市の江戸時代までの旧称。

府内 (豊後国) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E5%86%85_%28%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD%29
府内(ふない)は、大分県大分市中心部の明治時代初期までの旧称である。府内は、豊後国の国府であり、府内藩の藩庁である府内城が置かれた城下町であった。
古代には、豊後国の国府は、現在の中心部からやや南側にあたる大分川沿い(現在の古国府付近)にあったと推測されている。

(・_・)
「府内」は豊後。宇佐八幡宮は「豊後」にあって、宮原村の稲積神社は「府内稲積神社」と呼ばれていた・・

「宮原」という名・地名。
「宇佐八幡宮」「稲積神社」「宮原八幡宮」「坂上田村麻呂」「那須氏」・・
そして「豊後」

宮原村にあった大炊霧島神社と中島神社は「大神惟基」が創建。
「大神惟基」は豊後の人・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・。

何だか、頭の中の反響音がどんどん激しくなってきました(__)

では<(_ _)>


[17]子孫よりさんからのコメント(2014年12月15日 09時10分28秒 ) パスワード

あの・・・・・・・・・・・
皆様、頭の中で「グォ〜ングォ〜ン」という音?が反響し続けるので、何だかとても神社について気になってしまいまして・・・

今までも、こちらのスレッドで様々な神社についてのご教示を頂いていましたので、もう一度見直していたのですが・・・

わっわたし!!私!!
すご〜〜〜く重要な事を見落としていました\(゜ロ\)(/ロ゜)/!!

宮崎の「霧島神宮」についてです!!

平川家について(続3)コメント3で調査していました。

公忠公の末裔様より「宮原公忠の略系図 」をご教示頂いて、しかし、自分の「宮原」とどう繋がっていくのか、当時は、父が私に「宮原」の先祖について何も教えてくれていなかったので・・・
球磨郡久米郷宮原。
この土地を所領したので先祖「橘氏」は土地の名から「宮原」と名乗った・・・
こういう事も当時は全く理解していませんでした・・・

宮崎 霧島の「霧島神宮」についても当時、調べていたのに、すごく重要な事が書かれていたのに、その事をスルーしていました・・・

平川家について(続3)コメント3で調査していた事をあらためてまとめて転記いたします。
(参考サイトのアドレスが変わっていたので移転先のアドレスを新しくリンクいたしました(__))

「霧島山略縁起」 サイト中段に記述があります(__)
http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/KIRISHIMA_NISHI.html

大隅国曽於郡西御在所
霧島山六宮大権現
[中略]
○当山ハ即高千穂二上峯にして、掛まくも畏天照皇大御神の大詔をもて、天津璽八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣、三種の神器を天孫天津彦火瓊瓊杵尊に授たまひ、天孫乃天ノ磐座離レ、天ノ八重雲ヲ排分て天降ましし神跡にぞありける
[中略]
○凡山周廻二十里余、高数千仞、山腰常に雲を帯ハさることなし、 本社[即山ノ半腹也、]より絶巓に至ること三里余也、[中略] 東嶽の麓に御池といふあり、大なること湖の如し、 [華林寺より東方四里許の所也、凡周廻二里許、性空上人当山の本地真影を拝せんが為に、此池の上に臨で七日七夜護摩を修せられたるに、水面に十一面観音を先として六観音すべてあらハれ給ふを感見し、正しく御本地を定められたる霊蹤なり、其修法の所を今ハ護摩壇と称せり、此池上西北八町余の所、即東霧島宮なり、]
[中略]
○抑当山神社寺宇の開基ハ、人皇三十代欽明天皇の御宇に、慶胤とひし仙人ありて、始て神殿を造立し、 其後神火起て焼亡したりを、村上天皇天暦年中に、性空上人[後に播磨国書写山円教寺を開基し、彼所にて年八十歳にして寂せられたり、]錫杖を此処に駐て法華経を読誦し、本地の尊体示現し給ふを感見し、安住せらること四年にして、神社堂寺を造営せられたる故に、院を錫杖と号す、 寺号ハ天孫こゝに天降まして木花開耶姫を皇妃とし給ひし由緒に縁、且ハ法華の字にも便あるにより、華林と命られたり、 性空より二十一世道恵といひしに至まで、台家連続したりしに、文暦元年甲午十二月に神火起り、宮殿寺宇神器霊宝に至るまで、悉焼失せり、 夫より二百五十年を歴て、文明十六年甲辰歳、邦君の命により、真言密宗兼慶法印[柏原備前守橘公資三男也、]当山を中興せり
[中略]
○御本地十一面観世音菩薩画像一幅 宝殿に奉納せり、人皇五十一代平城天皇皇子真如親王の御筆にして、当山第一の深秘也、
[中略]
○本地堂 十一面観世音丈余の木像を安す、中興開山兼慶法師の自作也、脇士ハ三十三身ノ形像なり

\(◎o◎)/!
夫より二百五十年を歴て、文明十六年甲辰歳、邦君の命により、真言密宗兼慶法印[柏原備前守橘公資三男也、]当山を中興せり

※橘公資三男也・・・\(◎o◎)/!
橘公資は久米郷の旧宮原村を所領して、初めて「宮原」を名乗った先祖でございます!!

宮原の先祖、橘公資の三男・・真言密宗兼慶法印
霧島神宮を中興!!

なっなんと〜〜〜!!

○御本地十一面観世音菩薩画像一幅 宝殿に奉納せり、人皇五十一代平城天皇皇子真如親王の御筆にして、当山第一の深秘也、
[中略]
○本地堂 十一面観世音丈余の木像を安す、中興開山兼慶法師の自作也、脇士ハ三十三身ノ形像なり

なっなんと〜〜〜〜!!

現在、皆様からの御教示のお陰で、様々な事がようやく理解出来るようになり、上記の記述がいかに重要な事であったのか・・・
本当にビックリ致しました\(◎o◎)/!

さらに「性空上人」も橘氏でした。(こちらも以前調べていました(__))

950年 高千穂河原への再興奉還をおこなったのが 
天台宗の 性空上人 →平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行

1448年 社殿再興
真言宗の 兼慶上人 →真言密宗兼慶法印[柏原備前守橘公資三男也] 
宮原の先祖、橘公資の三男・・真言密宗兼慶法印

あっ(?_?)
だから、父は宮原村に鎮座されていた「稲積神社」の御祭神の話をしていた時に「平川だけの話ではない・・」と言ったのですね・・・
(もっと、解りやすく父さん言ってくれないと・・私はすぐにピン!ときません(@_@。)

しかし・・・
岡原霧島神社は子供の頃からすごく身近な神社様でしたが、宮崎の霧島神宮は何だかすご〜く遠いイメージだったのですが・・
御縁があったのでございました(__)

あの・・・・不思議ですが・・
コメントを書いたら、「グォ〜ングォ〜ン」という頭の中の音が消えて、キリキリ痛かった頭痛も止まりました。

先祖様、しっかり理解していなくて本当にすみません(__)(@_@。
ぼ〜〜っとした子孫ですみません。

私・・がんばります<(_ _)>

では<(_ _)>
[18]白石さんからのコメント(2014年12月16日 05時37分32秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 がんばっておられますね。
私 暮れの買い出しに頑張っていました。^^

性空(橘善行)
小式部内侍を連れて ★和泉式部が再婚した相手(?)
和泉式部は、越前守・「大江雅致(まさむね) の娘」で、和泉守・橘道貞の妻となったので「和泉式部」と呼ばれるようになり・・・・・・式部は「藤原道長の要請で中宮彰子の女房として宮廷に入る。」

私 前に 
贏姓 高丘系図1 で 昭慶門院の言葉がついている人がいて 和泉局と書いてある。
と 書いたことがありますが、そこにいたる 先祖に 藤原 雅亮室というひとが います。系はずれますが・・・
藤原 雅亮は北家・長良流で高倉・堀川(堀河具視)・高子などが系にみえる。

この高丘系図につく人たちが うちの高岡と直接つながっているとは いえないけど、
子孫様の方の橘(つまり 近くにいる形) 
和泉式部の夫になる人や父などに 大江 橘などみえる 
藤原 雅亮(長良流 法性寺流)

高丘系図につく人に 時の中心にいた人たちと 接触していたといえる人がいる。
[19]子孫よりさんからのコメント(2014年12月17日 07時38分59秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、御教示ありがとうございました(^・^)

コメント遅くなりまして、すみません(__)
実は・・いつも色々な所に連れて行って下さる、M田さんが洗車をすると言うので、お礼方々?私もお手伝いをしたのですが・・
ホイルを磨いている時に「グキッ(*_*;」とつき指を・・(@_@。
腫れて昨日は痛かったのですが、今朝は腫れもおさまり、もう大丈夫です。
M田さんからは「慣れない事をさせてごめんね・・」と言われてしまい、結局お礼どころか、かえって心配をかけてしまって・・・
わたし・・何の役にもたちませんでした(@_@。
(なぜ・・??つき指など??とお思いでしょうが・・眼鏡をかけていなかったので、ボワ〜〜ッと見えていて・・おもいっきり、ホイルに指をグキッと・・)
でも、今日は入力しても、だいぶ痛くなくなりました(^_^)/

白石様はすごいですね・・女性の鏡でございます。お正月の準備をしっかりされて、御主人の事も、すごく大事にそして、しっかりとお尽くしになっていらっしゃいます・・

私、実家に戻って、ちゃんと出来るか心配です(__)
だって、御近所や親戚の伯母さん達は、自分で、お味噌やお醤油まで、作る事が出来るのです・・(私が作れるのはせいぜいドレッシングくらいです・・(@_@。)

それに・・今までずっとマンション住まいだったから、草むしりとかした事ないし・・(父が、定期的に観音様(宮原観音)の草むしりがあるよ〜って言っていますが、私にも出来るかな・・(@_@。)
子供の頃は、家の外回り(庭のお手入れや、家庭菜園など)は、祖母が子供の頃から祖母の実家、平川で働いて下さっていた方が、ず〜っと祖母の側にいて下さって手伝って下さっていたので、私はその方(おばちゃ〜ん(^・^)っていつも私は甘えていました)の周りをウロウロして、自分ではおばちゃんの手伝いをしているつもりだったのですが結局、邪魔していたような・・
(今は、もうその方はお亡くなりになりました)

(・_・)来年2月にはついに!!球磨の実家に帰りますので(^O^)/、決心したからには、何でも出来るようにがんばります!っと言うか「努力」します(^O^)/

所で・・
「山本氏」についてですが
丸目長恵 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E7%9B%AE%E9%95%B7%E6%81%B5
丸目 長恵(まるめ ながよし、天文9年(1540年) - 寛永6年2月7日(1629年3月1日))は、戦国時代の相良氏の家臣で、江戸時代初期の兵法家。上泉秀綱(後に信綱)の弟子として、四天王[1]の1人とも数えられ、タイ捨流兵法の流祖。通称は蔵人佐(くらんどのすけ)、または石見守であるが、講談等で用いられた丸目蔵人(まるめ くらんど)の名で広く知られる。本姓は藤原を称し、号は徹斎。晩年は剃髪して石見入道徹斎を名乗った。
天文9年(1540年)に、当時は相良氏の領国内であった肥後国八代郡八代(熊本県八代市)で誕生した。父は丸目与三右衛門尉、母は赤池伊豆の女と伝えられる[2]。弘治元年(1555年)、薩摩兵が大畑(熊本県人吉市大畑町)に攻めてきたとき、父と共に戦い、初陣で武功を挙げ父と共に「丸目」の名字(元は山本姓と言う)を与えられた。

(・_・)八代の出身で・・元は山本姓。

白石様は「山本姓」についてお調べでしたが、丸目長恵、この方も、元は「山本」姓だったのですね。

ちなみに、「赤池家」は、私の故郷、宮麓の「侍村」にあります。
赤池家と平川は親戚だったようで、赤池の息子さんが、東京?かどちらからか、岡原に来られて(私が小学生の頃)平川の土地に家を建てられました。
ですから、「赤池伊豆」という方のお名前が出たので、あれっ??と思いまして・・「赤池家」ですね・・・?

・・・・あっ!!
今、急に思い出したのですが・・
「三好家」・・
こちらも、私が子供の頃、広島だったかな?鳥取だったかな?(忘れました(@_@。)どちらからか岡原村に引っ越して来られて、この時は、祖母が色々、相談に乗ったり、お手伝いをしていました・・
私の同級生がいたのですが、どういう関係なのかその時はよく解らなかったのですが、今、考えると、祖母はとても親身になっていましたね・・・
子供心に「何故かな??」と疑問に思った事を急に思い出しました・・

ほんとうだ・・っ!!
今までの調査で「三好氏」が登場するたびに、何だか懐かしくなっていたのは、岡原の三好さんを思い出していたからだと思います。
何で、祖母との関係を忘れていたのだろう・・??

・・・・・・・・・あっ!!
またまた、思い出しました。「片瀬家」です。
同級生で友達であり、なお且つ親戚でした\(◎o◎)/!
「宮原」の繋がりなのか「平川」の繋がりなのか?は忘れましたが、でも、以前、熊本では片瀬という姓は珍しいと聞いた事があったのを今頃、思い出してしまいました(@_@。
あんにゃ〜〜〜(+_+)
あっっ!!そうだ、「片瀬」「木村」「犬童」「平川」「宮原」が繋がっていたような記憶が蘇ってきましたヨ〜〜!!(゜-゜)

と言う事で、白石様の調査に登場されていた「山本氏」。丸目長恵は山本氏でした・・というお話から「赤池家」「三好家」「片瀬家」について思い出しました(^O^)/というお話でした・・・
では<(_ _)>
[20]子孫よりさんからのコメント(2014年12月17日 07時55分22秒 ) パスワード

追記
思い出しました・・・

「片瀬」「木村」「犬童」「平川」「宮原」そして「蓑毛家」です。

「片瀬」「木村」「蓑毛」「犬童」「平川」「宮原」は
其々の親戚関係で繋がっていました。

段々、記憶が蘇って来たわたくしでございます<(_ _)>
[21]子孫よりさんからのコメント(2014年12月17日 13時25分24秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

朝コメントしました「三好家」について父に聞いたのですが、
「解らんな〜」と言っていました(__)

それから、「祖母がお手伝いした」と書いたのはもちろんお家のお手伝いと言う訳ではなく((ー_ー)!!ばあちゃんには、おそらく出来ません)、父いわく
「岡原村に来られたから、ここは何処何処で・・とかそういう事を教えてあげていたのでは?」という事です。

でも、電話して良かったです。
あらたに、父に聞く事ができました。

父は、祖母(ばあちゃん)より、岡原村における?宮原家の古からの親戚を、「覚えとかんばイカンヨ!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」と聞いていたそうでして
「石川家」と「鬼塚家」だそうです。

むか〜〜しからの宮原家の親戚だから、必ず覚えとくようにと言われていたそうです。

・・・・はっ!!私も何だか聞いた事があるような〜〜〜〜トホホ(-.-)

むか〜〜しからと言う事は、今までの事例?から何百年も前からという意味だと思います。
父も、「何百年も前からやろうネ〜〜」と言っていました。

そう言えば「鬼塚さん」はよく家に来られて、仏壇にお参りされていらっしゃいました・・・(__)

家は宮麓ではないのですが、旧宮原村には間違いありません。
多分、「竹野」とか「熊野」とかあちらにお家があった記憶が・・・

祖母が覚えておくようにと言ったからには、何かあるのかと思いますので
「鬼塚家・鬼塚氏」を調べてみようか?と思いました。

では<(_ _)>(^・^)
[22]子孫よりさんからのコメント(2014年12月17日 16時35分39秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場でございます(^・^)

「鬼塚氏」
日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観を検索したところ、藤原氏長良流 《有馬氏/大村氏》の「掲載姓氏」に上記の他【鬼塚氏】が有馬氏族とありました。
おんやっ?中条氏もありますね・・・??

でも・・・【鬼塚氏】が有馬氏族

「有馬氏」です\(◎o◎)/!

皆様、憶えて頂いていらっしゃいますか!
旧宮原村、宮麓の庚申塔にある姓を。
有馬は、殆どが下の名が消えているようで
有馬藤助 有馬山■ 有馬善■ 有馬藤■ となっていました。
そう言えば石川家もありました。
「石川藤次郎」「石川金右衛門」という方々でした。
あとは「溝口」という姓もありました。

私は「有馬」というお家は御近所にはありません(ー_ー)!!と書いていましたが・・
鬼塚氏は有馬氏族・・・
親戚の石川家も現在は宮麓(御近所)ではなく別の場所ですし・・
もしや、親戚の鬼塚家は「有馬氏族」?!

【有馬氏略史】
http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/arima.html

有馬氏の出自は大村氏と同様、藤原純友をその租とし、そののち(『寛政重修諸家譜』では八代後)の朝澄が有馬氏の開祖であるとする。しかし宝治元年(1247)六月五日、「有間朝澄」という人物が子、深江入道蓮忍に先祖宗伝の地である「肥前国高来郡東郷内深江浦」の地頭職を譲る文書によれば、朝澄は「左衛門尉平朝澄」であり、「藤原」姓ではないことが明らかとなっている。また、別の文書では朝澄が開発した田畑が前の文書中の村内に含まれていて、これは有馬氏が同地域の在地領主であることを示すものであるという。また有馬氏は当初、貫地の有間庄から名を取り、「有間」と称していた。「有馬」と称するのは南北朝期以降であるという。

鎌倉時代、有間氏は『吾妻鏡』に見え、肥前国御家人となって島原半島でいくつかの小地頭職を得ていたと考えられているが、一部地頭職の改易、東国御家人の地頭任命などで鎌倉時代の有間氏はそれほど勢力を伸ばすことのできる存在ではなかったらしい。時代は下って鎌倉幕府が瓦解後、後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、有間彦五郎入道蓮恵がかつて奪われた地頭職の回復を雑訴決断所に訴えていることが分かるが、結局は退けられている。

それ以後、南北朝・室町期の有馬氏については史料がほとんど存在せず、動向がよく分からないという。わずかに貞和六年(観応元年、1350)、有間次郎三郎澄世が足利直冬について活動し、応永元年(1394)には南朝側についていること、また有間鬼塚彦七郎澄明が文和三年(1354)九月から翌年十一月まで南朝側に付いているのが確認されるのみという。

(・_・)
有間鬼塚彦七郎澄明が文和三年(1354)九月から翌年十一月まで南朝側に付いているのが確認
\(◎o◎)/!本当だっ!有間鬼塚彦七郎澄明・・「鬼塚」という姓です・・

「澄明」・・「澄」・・「澄」・・?

そうでした(゜-゜)平川の調査にて有馬氏は登場していました。
「師澄(純)」という方がいらっしゃったのでした・・・

でも・・親戚の「鬼塚家」が庚申塔にある「有馬氏」で・・
もしも「有馬氏族鬼塚氏」であったら・・

あんにゃ〜〜!!「有馬氏」に繋がっているのは「平川」ではなくて「宮原」と言う事になりますよ〜〜〜〜〜
\(゜ロ\)(/ロ゜)/・・・あ〜〜ん、マタマタです・・

平川に繋がれば、真実に近づきそうな「家々」は、平川ではなく「宮原」に繋がっています〜〜
\(゜ロ\)(/ロ゜)/・・・

うううん???ハテ?でも、何故、ここ「宮原村」に??

( 一一)おんやっ??! もしや・・「ぎんざん」が関係しているのかっ??( 一一)(きんさんぎんさんではありません(ー_ー)!!・・(__))

あの・・・
やはり、故郷「旧宮原村」の宮原山?には「銀山」がっ
ありました〜〜〜〜\(゜ロ\)(/ロ゜)/・・・

この件は夜にでもコメントいたします<(_ _)>
父にも色々、聞いてみました・・(-.-)

では<(_ _)>

[23]子孫よりさんからのコメント(2014年12月19日 01時14分24秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

今日は、球磨郡宮原村にあった肥後国宮原銀山の調査について御紹介致します。

まず、こちらの年表をご覧ください
http://www.geocities.jp/e_kamasai/bangai/ban6t.html

1545(西暦) 天文14(年号) 12(月) 小槻伊治、相良氏領内産の鏈を鑑定させる。
1546(西暦) 天文15(年号) 7(月) 石見吹大工洞雲、肥後宮原の銀石を鑑定する。

続けて
今日は何の日(8月2日の出来事) 歴史データベース
http://rekiseek.bangrid.com/today/0802
1546/08/02 肥後の宮原銀山が発見される。 

では、場所の特定です
日本歴史, 第 518〜523 号 より
義溢の害状により銀山の所在地は宮原(球磨郡岡原村)であつ・・
も生野銀山に行ったことがあることを示している。また、この十一年に石見の人間により開発されたと伝えられており、洞雪にも勝るものであったことが分かるのである。

※銀山の所在地は宮原(球磨郡岡原村)

さらに 宮原銀山と相良義滋について、様々な文献で記述があります。
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%AE%AE%E5%8E%9F%E3%80%80%E5%BA%9C%E6%9C%AC%E3%80%80%E9%8A%80%E5%B1%B1&btnG=%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E3%81%AE%E6%A4%9C%E7%B4%A2&tbm=bks&tbo=1&hl=ja&gws_rd=ssl#hl=ja&tbm=bks&q=%E5%AE%AE%E5%8E%9F%E3%80%80%E9%8A%80%E5%B1%B1%E3%80%80%E7%9B%B8%E8%89%AF%E7%BE%A9%E6%BB%8B

特に、日本歴史 - 第 518〜523 巻 - 85 ページ では
先に示した宮原の銀山 ... 銀山が発見されたわけで、義滋の満足はここに極まったという、・・・海外交易に勝るとも劣らない富を生むであろう

(・_・)と言う事です。
宮原銀山の鏈を鑑定させたのは「小槻伊治」
「鏈」とは 
http://www.v-museum.pref.shimane.jp/special/vol06/develop/develop2.html
銀の製錬方法 より
選鉱された鉱石を「正味鏈」といいます(江戸時代には、一般に鉱石を「鏈(くさり)」といいました)

(・_・)小槻伊治と言う方は、宮原銀山の発見にかなり関係を持っていたようですね・・・??
小槻伊治(大宮伊治) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E4%BC%8A%E6%B2%BB
大宮 伊治(おおみや これはる)は、戦国時代の官人。大宮官務家最後の当主。左大史・大宮時元の子。
生涯[編集]
永正9年(1512年)に従五位上に叙され、4年後に正五位下に昇叙。永正17年4月11日(1520年4月28日)に父時元が50歳で没する。室町時代後期の大宮長興・時元親子と壬生晨照・晴富親子の時代以来、官務(左大史上首)と小槻氏氏長者の地位を巡る大宮家と壬生家は朝廷や室町幕府を巻き込んで激しく対立を続けてきたが、明応2年(1493年)以来27年にわたって官務の地位を占めていた時元の急死は、小槻氏宗家の地位を争う両官務家間の対立を深めた。
中略・・・
大永6年(1526年)に後柏原天皇が崩御すると、伊治は新しく即位した後奈良天皇に働きかけ、7月8日に官務に任じられた。当然于恒は強く反発、更に大永7年(1527年)に大宮家に近かった細川高国が政治的に苦境に立たされると、壬生家の巻き返しが始まった。そのため、仲裁に入った三条西実隆は清原宣賢らとともに両家の和解案を作成、大永7年9月12日に官務を3年間の任期として3年目の2月に交替を行うこと(ただし、片方の当主が20歳未満の場合はこの限りではない)、官務の職とともに小槻氏の氏長者の地位と渡領の権利を移動することなどを柱とした和解案に合意、和解案の正本のうち1通は天皇の元に届けられて了承を得た[2]。これを受けて享禄元年(1528年)に伊治は壬生于恒に官務を譲る。だが、実際には大宮・壬生両家とも、経済的な困窮から地方に下るなどして官務の職務を遂行できず、相手方に官務職が移る事態が頻発した[3]。享禄2年(1529年)に伊治は『御成敗式目』の版本を刊行(日本における法律書の出版の嚆矢とされる)、この年には和解案に定められた3年を待たずに官務に復帰している。

天文7年(1537年)正四位上、天文13年(1544年)には尾張権守に叙任。だが、壬生家(于恒・登辰)との争いや経済的困窮から苦境に陥ったために、伊治は天文15年(1546年)には在官中にも関わらず、周防国の守護大名・大内義隆を頼って下向した。この時、壬生家も官務を出すことが出来ず(天文10年の于恒没後、当主が決定できず、この年僧籍にあった登辰を強引に還俗させて当主としていた)、天文17年(1548年)に登辰が官務に任ぜられるまで官務が事実上空席であった。
周防においては伊治の娘が義隆の寵愛を受けて側室となり、大内氏の跡継ぎとなる義尊を儲けた。だが、天文21年(1551年)、主君・義隆に対して挙兵した陶隆房の軍に襲撃されて殺害されてしまった(大寧寺の変)。
伊治が亡くなる直前の同年7月9日に8歳になる息子・国雄が従五位下に叙せられている[4]。国雄は父と運命を共にはしなかったものの、成人することなく没したらしく、その後の記録が残されていない。更にその後も大宮家の家督を継がせる猶子・惟右を迎える(永禄8年(1565年)12月7日・従五位下[4])ものの、これも消息不明となっている。このため、元亀3年12月9日(1573年1月12日)正親町天皇は壬生家の当主朝芳(于恒の子で登辰の弟)に対して大宮家継承を命じる女房奉書を下した。ここに大宮官務家は断絶し、以後壬生家が明治維新まで官務を世襲することとなった。

(・_・)相良氏と大内氏との関係の縁で「宮原銀山」の発見にも係わっていたと言う事でしょうか・・

所で・・
小槻伊治(大宮伊治)は陶隆房の軍に襲撃されて殺害されてしまった(大寧寺の変)・・と言う事ですが・・
実は陶隆房、この方に関連した事で、ずっと気になっていた事があります。

実は、今年の夏、娘と山口の瑠璃光寺(るりこうじ)に五重塔を見に出かけたのですが・・
瑠璃光寺(るりこうじ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%A0%E7%92%83%E5%85%89%E5%AF%BA
仁保瑠璃光寺[編集]
陶氏の7代当主陶弘房の死後、弘房の夫人が夫を弔うために文明3年(1471年)建立した。当初は安養寺と呼ばれ、現在の山口市仁保高野にあったが、明応元年(1492年)に瑠璃光寺と改められた。

(・_・)陶弘房の死後、弘房の夫人が夫を弔うために文明3年(1471年)建立した瑠璃光寺ですが、境内に陶氏の氏神様である神社がありまして、そちらの神紋が「橘紋」だったのです。
瑠璃光寺には今まで何度も伺っていましたが、今回は、皆さまのご教示のお陰で、今まで全く気にしていなかった事に目が向きまして・・
あれっ??何で「橘紋」なのかな??
とそこで疑問を感じたのですが・・調べる事はしていませんでした・・

陶氏・・すえし・・スエ氏・・・????

そう言えば大寧寺の変には相良氏が関係していましたよね・・
相良武任と陶隆房の確執が一因でした・・

さらに・・・
小槻伊治(大宮伊治)この方のウィキの記述にあった
※大宮家に近かった細川高国が政治的に苦境に立たされると、壬生家の巻き返しが始まった。そのため、仲裁に入った三条西実隆は清原宣賢らとともに両家の和解案を作成、・・・
(・_・)「三条西実隆」「清原宣賢」・・・三条西氏 清原氏

三条西氏といえば・・森頼定(妻:橘公業の娘)・・→《戸田氏》・・と・・
繋がっていましたよね・・
さらに清原氏は球磨の「西村」の神社仏閣に「名」を残していました・・

陶隆房 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%99%B4%E8%B3%A2

弘治元年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら2万から3万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。しかし毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した(厳島の戦い)。享年35。

(・_・) 毛利元就に味方する村上水軍・・

私・・今・・日本の苗字七千傑様の《藤原姓森氏/毛利氏》 姓氏類別大観
をぼ〜っと見つめていました。
森頼定の系・・・でも中央の「一文字に三つ星」の家紋が私を見つめています・・

そう言えば、人吉藩の日明貿易に「宮原村」が関係していたようですが、人吉藩の日明貿易は・・
義滋の跡を継いだ相良晴広の時代には分国法「相良氏法度20か条」や「晴広式目21か条」を制定し、また周防国守護大内氏の許可を得て、明との勘合貿易にも取り組み最盛期を迎えた。・・とありました。
大内氏の朱印状を人吉藩は得ていたと他の記述にありました・・

(・_・)
※橘公業が西園寺公経と替地をした土地が「球磨郡久米郷宮原」
※時代は下り・・相良藩当主、相良義滋の時代に球磨の宮原で銀山発見。
※鉱石の鑑定依頼をしたのは「小槻伊治(大宮伊治)」
※大宮家に近かった細川高国が政治的に苦境に立たされると、壬生家の巻き返しが始まった。そのため、仲裁に入った三条西実隆は清原宣賢らとともに両家の和解案を作成
※人吉藩は周防国守護大内氏の許可を得て、明との勘合貿易にも取り組む。
※相良武任と陶隆房の確執
※大内一族そして宮原銀山の発見に関係した小槻伊治さらに相良武任は陶隆房によって滅ぼされた・・
※陶隆房は毛利元就及び味方する村上水軍によって滅ぼされる・・

それから・・
小槻氏は平川の調査で以前、コメントしていました。
肥後進士と呼ばれた能因法師について調べた時です。
橘則光と清少納言(清原元輔の娘)の子供である橘則長の妻が能因法師の姉妹。
能因の兄で養父か、一説に父と呼ばれた肥後守橘氏の事件です。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/noin/people/family/tatibana-tameyasu.htm

能因の兄で養父か、一説に父・・であれば・・
橘則長の妻は・・母が小槻氏となりますね・・・「肥後」も繋がっていたのですよね・・・さらに「清原氏」も・・

そして・・後世において球磨郡宮原村の銀山開発に「小槻氏」が関係していた・・

すごく長くなったのですが、もう一つこちらを見て下さい。
まさか?とは思うのですが・・
人吉庄預所「中原遠盛」とその後の公文「藤原盛員」の件なのですが、以下に御紹介する「大内氏」の系を見て頂きたいのです
http://www.geocities.jp/okugesan_com/kugebuke.htm

偶然かな?とは思うのですが 遠盛(得地三郎太夫) 盛員 さらには 助弘

人吉庄預所「中原遠盛」から「平河師種」にかわった・・・

「宮原銀山」を調べたら・・
もしかしたら、全ては繋がっているのでは?と疑ってしまう事ばかりで・・
でも、先入観はいけませんよね・・

かなり、長くなりましたので、続きは明日に<(_ _)>
[24]白石さんからのコメント(2014年12月20日 01時41分07秒 ) パスワード

こんばんは
あと少しでお正月ですね。

瑠璃光寺から 仁保あたりの地図を見ていたら 平川小学校が見えました。
そして
住所が 平井になっていました。
何か つながってくるかも ・・・と思って 武家家伝平井氏を見ると
鎌倉幕府の功臣★佐々木定綱の流れ。定綱の子信綱の曾孫にあたる高島泰氏の子★師綱 が近江国高島郡平井を領して、以後平井氏を称したもの。

宇多源氏は 出雲・但馬高岡系譜をあけ 左上のぽっちりをおすと 出雲宇多源氏佐々木系譜が出る。定綱もついている。
でも 時代が・・・平河師高は1154年 萬福寺を建立。この時代の天皇は近衛天皇、後白河天皇。佐々木定綱は(1142-1205)。定綱のやしゃごから 平井を名乗るのですね。

平井は坂本龍馬のまわりの話で 前に 20−1 3で出てきました。
あっちでこっちで からまりあっているように 思えます。

平河は 河内源氏の筋で
多田院御家人の高岡もいます。

平頼盛の母方を見ていたら 能因を引き連れて 伊予に行った藤原実綱(日野)がいました、
実綱は父と同じく長元元年(1028年)に対策に及第。早くから大学助を務め、長元2年(1029年)に文章得業生となる。この時の官位は正六位上・大学助。長元4年(1031年)蔵人に補される[1]。左衛門尉、大学頭、文章博士、五位蔵人、右衛門権佐、式部大輔、備中守なども務めた。治暦2年(1067年)には★能因を従えて伊予守として現地に赴任した。位階は正四位下。『本朝続文粋』に作品がある。永保2年(1082年)3月23日卒去。享年71。

能因は こちら 高槻のこそべ というところに 塚があり
伊予に行った後 こちらに すんだのか?

そして
毛利に仕えている 平川氏も おり

★平川村の平川元忠の弟忠親は分家して布賀村の菖蒲城主となり、戦国末期には本家 と共に毛利家に仕えていましたが、関ヶ原の乱以後は帰農して布賀村庄屋を勤めました 。 伊豆守忠親――長門守経貞==三郎右衛門久親――+==弾正忠正親――+= = ...
★山口(神谷)家
上道郡西大寺村
★守屋家
浅口郡西阿知村西原

★印のところの文言をはりつけると 系図が出ると思います。
過去に 神谷さんという人と コメントしたことがありますが
山口でもあるのですね。
山口は 単純には 大内。

系図をいろいろみていると 池上も出てきます。姻戚関係だったか?
そして 
どうやってでたのか 平川は 調氏でもあり
調氏は 坂上氏であり
星野でもあり
星野には
平城天皇子孫 の系が 熱田神宮に入り 再び出て 毛利へ養子に入った。大江である という筋があり 神功の方のしそんが 星野。前に 千秋家とからまっていたようでした。







[25]白石さんからのコメント(2014年12月20日 01時42分17秒 ) パスワード

神谷氏が石見銀山に関係していたようですよ。
[26]白石さんからのコメント(2014年12月20日 02時26分15秒 ) パスワード

メール書きました。読んでみてください。
[27]白石さんからのコメント(2014年12月20日 12時13分44秒 ) パスワード

神功の方のしそんが 星野
は 神宮の方の子孫が 星野。
です。

千秋家は 家康にも 関与しているようです。

神宮に関与して 八木家があり
平光盛(八木光盛)も そうではないのかしらん?と思います。

このとき 
千秋家と17世紀頃 姻戚関係などある 山口
華族の高丘などあり 今 高丘家は 神宮をでておられる とか?

大内氏に関与している大寧寺 そのあたりの話に 上杉があり
上杉の戒名に 高岳の文字が入っている。

長尾から 上杉に入る人がいるが
長尾は 長尾市というひとの話があり
祖先が 新羅の天日鉾。

赤い玉の化身のあかるひめ を おいかけまわしていたという。
あかるひめの赤い玉は 塩ひる玉で
しおみつ しおひる玉は 住吉神宮にあり
神功皇后が 三韓征伐にでかけるとき 借りていった。

天御中主命系図
神代系図(国常立命)
【天御中主命系図】
【神代系図】
【皇別 若狭 笠氏系図】
【高句麗 高氏系図】
【(推算)百済 扶餘系図】
【天日槍命系図】

【世系】天日槍命は、稲飯命に出づ(神武天皇の皇兄)

長尾の祖先にある天日鉾命
長尾から上杉へ
上杉の戒名にある高岳の文字

先日お話した もしかしたら 北朝に味方したかもしれない 道筋

新撰組は 八木邸に駐屯していた


[28]子孫よりさんからのコメント(2014年12月20日 17時35分20秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

白石様御教示ありがとうございます(^・^)

所で・・・
昨日、パソコンにウィルスが侵入してしまいまして・・
リアルタイムのウィルスチェックがかかっているにも関わらずです(−−〆)
スルーしていたのです!!もう(-_-メ)

サイトを検索していましたら、中国語のサイトの中に
「大内氏とか相良氏とかなんと宮原とかこれまた銀山な〜んて」記述が見えまして、
「おっ!!これは!日本では公表されていない事が中国でなんらかの情報となっているのか??!」
とページを開き、日本語訳をして読んでいた所、突然、別のウィンドウにムービーが登場しまして・・(内容は・・Hなやつです(*_*))

おかしい(p_-)と思って、すぐにページを閉じて、一旦PCの再起動をして、別の操作をしていた所、すぐにフリーズして、電源が落ちました・・
もう一度起動させて見た所同じ症状が出ましたので
「これはきっとウィルスに違いない!!」と。

すぐにスキャンをかけたのですが、クイックスキャンではウィルスは引っかからず、「でも、おかしい!」とフルスキャンで、1時間ほどじっくりチェックしたら、ウィルスが見つかりました。

駆除したのですが、どうも動作がおかしいので、レジストリが書き変わったな!!と思い、こうなったら手作業で!と悪戦苦闘。
(最初にシステムの修復機能を使おうとしたのですが、修復ポイントがウィルスによって破壊されていました・・)

何度も動作チェックをして、1日半かかり、どうやら、修復できたようです。

久しぶりにSEの時の知識を活かしました・・でも、だいぶ私の脳の機能が書き変わってしまい??かなりの時間を使ってしまいました・・トホホ
脳の機能はアップデート出来ませんので・・(-.-)

そういう事で、まだ、若干の不安が残りますので・・
白石様、メールは拝見しましたが、ウィルスに感染して駆除して修復したばかりのパソコンで返信するのは、セキュリティ上問題かとおもいまして・・
後日、安全を確認した所で、お返事をさせて頂きます。
すみません(__)

普段はのんびりし過ぎる位で、比較的おだやかと言われる私ですが、今回は、かなり激怒してしまいました(−−〆)
怒ったら、私、かなり怖いです。
目には目を歯には歯を!!・・・嘘です何もしませんから(p_-)(^・^)
今のうちに、大事な情報を全てバックアップして、一旦パソコンを初期化しようと思います。

と言う事で調査はしばし中断でパソコンの修復をいそいで行います。
でも・・何故あのページには「相良」「宮原」「大内」「銀山」とか、私がパクリと食いつきそうな内容が書かれていたのだろう???????

では<(_ _)>
[29]白石さんからのコメント(2014年12月21日 01時59分32秒 ) パスワード

子孫様
ごめんなさい。もしかしたら 私のメール???

一週間前ほどから体がどんよりして 風邪かしら?と思いながら仕事に出かけていました。そして 金曜日の夜 風邪薬をのんで 寝たら 
普段から医者嫌い 薬も飲まないので 良く効きすぎて
爆睡して 会社から電話が入るまで寝ていました。

疲れがたまっていたのでしょうね。

そして
今 パソコンをあけて びっくり!!

じつは 前のパソコンの時
メールに 知らないところから 入っていたのを うっかり 開けて
(業者のメルマガがいやというほど入るので 次から次へと削除していたのですが ンッ どこやろ ??と思うアドレスがあって そのとき あけなかったらよかったのですが ひょっとあけてしまったら ばあーっと 尖閣諸島の写真やら何やらが それこそ いらないわよ というくらい 沢山入ってきたのですそして 何やら 地球全体を矢印で結んだ画像が出た と思ったら ばあーっと その矢印の中心に向かって 何か 盗まれていくような 感じで ・・・)

あかん と 思って 他の方へのメールなど 一切 していなかったのですが
パソコンも買い換えたし 大丈夫かな??と おそる おそる という感じで 前にメールしたら 大丈夫そうだったから 今回 メール入れたのですが・・・

四浦のことなので 子孫様しか わからない と 思って・・・ 
私も家のことで 病気のことが 知りたいのです。でも 今後は控えますね。
あと少しで 的がしぼれる と 思っていたのですが・・・

ソニーのことなどもあり 
情報化社会は 本当に怖いですね。

あのH写真のページ 又 百度百科とかいうところ(良峯のこと) そしていきなり動作がおかしく ゆらんゆらんと画面がゆれはじめコメントを書こうとしたら 元のソースとかいうのが出てきたり・・・ コメントを書いていたり メールを書いていたりすると どこかへ びゅんびゅん飛んでいったり 

字を 確かめて書いて 大丈夫とおもっているのに くるんと変わってでていたり
少々 疲れました。 

書かれていた言葉のあたりが 核心なのでしょうね。
[30]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年12月21日 22時51分27秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>【世系】天日槍命は、稲飯命に出づ(神武天皇の皇兄)
 
稲飯命は新羅王赫居世と同一人物と思われるが、大きな誤りですよ。
下記系譜を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222.htm#001
[31]白石さんからのコメント(2014年12月22日 00時51分55秒 ) パスワード

19 丸目蔵人
父は丸目与三右衛門尉、母は赤池伊豆の女と伝えられる[2]。弘治元年(1555年)、薩摩兵が大畑(熊本県人吉市大畑町)に攻めてきたとき、父と共に戦い、初陣で武功を挙げ父と共に「丸目」の名字(元は山本姓と言う)を与えられた。

(・_・)八代の出身で・・元は山本姓。

白石様は「山本姓」についてお調べでしたが、丸目長恵、この方も、元は「山本」姓だったのですね。

丸目蔵人は山本姓だったのですね。

前に調べたときに 丸目 赤池 ともに 相良氏族についていました。

そして 丸目は 高岡の嫁方です。川向の集落で初神神社があるところの集落。赤池さんは 前にお話しした ついに 音楽学校の校長先生になった人です。大きな目をパッチリと見開いて 手にハンカチを握りしめて 鍵盤を連打していたのを思い出します。
NHKの団員だった音楽の先生が ハンカチを落とさないようにと教えてくださったそうでした。
確か その頃調べたときは 赤池氏は 宮崎の方に祖先がつながっていったようでした。赤池入道とか 言葉が・・・

つまり
私の家で考えると 山口の方の母方の話は 熊本の方の 父方の話に つながってくるのですね。
母方の戸籍も おもしろいことに 
母が 戦争の間に 勝手に籍を入れた人がいて 大層な剣幕で怒ったいたのですが
平野という人なのですが その苗字は 四浦にもあって
山口の 平野の家のつながりに 白石やら 永田やら 他 あって
それを そのまま 持ってくると 父の家のつながりになるのです。

そして
母方では 平野姓を大層きらっているのです。四浦は関係ないですよ。
佐田では 蛇よりも きらいなのだそうで、昔からだそうで
となれば 考えられるのは 
平野は 平野神社に
代表されるように 百済系で
佐田は どちらかというと 契丹とか 突厥とか 蒙古とかに いくらしくて
漢王室や 唐王室やらの姻戚関係があって 清を建てていて

つまり 何らかの 政治的ないきさつを 抱えていた と 推考しています。
結局 山口あたりは 平家・・・どちらかというと 百済。

今となっては 母もおらず どうでも
よいことなのですけど・・・四浦では 逆に 平野 平川 など 平がつく家は さしおり 平家のながれ と 母は言っていました。
 

そして おおきなくくりが 昔 本で見た 山口 佐田 高岡の同じ固まりが山口にもある ということです。

ひょんなことで つながってくるものですね。
もちろん あっちにこっちに 同じような苗字はあるのだけど
姓系辞典をみると 分厚いのですよ。そんなのが 4冊くらいあるのです。
それなのに 同じ苗字で でてくるというのが ・・・・・
[32]子孫よりさんからのコメント(2014年12月22日 00時59分33秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

と言っても真夜中ですが・・・

日本の苗字七千傑様、白石様、御教示ありがとうございます。

パソコンは、どうにか大丈夫だと思います。
初期化しようと考えたのですが、セキュリティソフトを2015版(最新)に変えた所、ウィルスの断片がまだスタートアップに影響していた事が解りまして、修復して、「安全」な状態になったようです。

白石様のメールではありません(ー_ー)!!
おそらく例のページでございます(-_-メ)
(もう二度と見るかっ!!と)
でも、以前使っていたセキュリティソフトの防御システムをスルーしたのだから、最近のウィルスは恐るべき!でございます。
パソコンに不具合が発生すると、本当に疲れます。ず〜っとニラメッコでした。

所で・・
私、パソコンにトラブルが発生する前に、ある事に気がついていました。

それは、相良氏に養子に入られた方々についてです。
(偶然かもしれませんが・・お聞きください(__)
次のコメントで<(_ _)>

[33]白石さんからのコメント(2014年12月22日 01時15分47秒 ) パスワード

江上さんの話
あちらは ダムのことやらで ゆれたことがあったので
政敵???
小さな地域なのに いや それだからこそ 小さなことでも大きくとりあげられ つつくられることが あるみたいですね。

過去に 村会議員さんで 江上さんが おられたように 思っています。でも 何か のことで やめられたみたいで

江上ははめられた と いうことばを 聞いたように思っています。

議員さんにおられたように 記憶しているということを 言いたいのですが・・・

本当に人数も少なく 生きていくのに必死な人が多い地域だから 地域の為に頑張ってほしいですね。

そして
江上 深田 などは 漢王室子孫の系にあるみたいですね。

うどんも そばも 手作りで・・・そうですよね。私も子供の頃 縁側に母が 麹をひろげて ? よくわかりません。混ぜていたのを 寄って行こうとしたら あんたは きたらいかん ばさばさ動いて ほこりのたつで
といわれ 手伝おうと思ったのに と 少し ふくれてみたりしましたが
昔の家は 朝晩 ほうきではき 雑巾で拭いても 翌日は もう ほこりがたまっていました。不思議でしたねえ。

味噌をつくっていたのでした。
一日中 何か かにか して 日が暮れて
でも そういう 生活の知恵というものがとぎれると 何か 大きな社会変化で電気もガスも使えなくなったりする時がきたら どうしていきていけばよいかわかりませんね。都会のように 少しの土もみえない コンクリートでうめつくされていれば・・・作る人がいて買う人がいて 消費する人がいて のサイクルの中で 生きているのですもの。
子孫様 田舎暮らしをされるとか 種まきから収穫 料理 マキ拾い すこしでいいから 子供たちに 教えてあげられたら いいですね。 
娘さんに子供ができて 話などしながら 味噌つくりをしたりして・・・楽しいでしょうね。
[34]白石さんからのコメント(2014年12月22日 01時22分53秒 ) パスワード

江上をなんで 覚えていたかというと
過去に 竜造寺家から 白石をたどったことがあって
球磨郡には 竜造寺家の話にある化け猫騒動みたいな話があって

つながるかどうか の前に 強烈な印象があるのですが

ウィキより
一旦は平安を見た大友氏による支配は程なくほころびを生じ、肥後は諸勢力による草刈場の様相を呈し始める。永禄2年(1559年)、現在の菊鹿町で、それぞれが国人として独自性を持ち出した★旧菊池家臣の権力争いが激化し始めた。赤星親家は合勢川の戦いで隈部親永に敗れると、その子・赤星統家は大友氏を頼り、対抗して隈部氏は肥前の龍造寺隆信に助力を請いた。事態は天正6年(1578年)11月、耳川の戦いでの大友宗麟敗北によって動き出した。龍造寺氏はこれを好機と捉え南下を開始し、2年後には肥後に迫った。筒ヶ嶽城(荒尾市)の小池親伝を下し、さらに★次男江上家種を大将とする軍は隈部氏と共同戦線を張り、長坂城(山鹿市)に進め赤星方の星子中務廉正を攻略した。翌年には嫡子・政家を大将に据えて再び軍を進めた。赤星統家は人質を出して降伏し、菊池城を退去した。その後には隈部親永が入り、肥後北部の支配権は大友氏から龍造寺氏へ移った。


 
[35]子孫よりさんからのコメント(2014年12月22日 02時14分56秒 ) パスワード

では早速。

まずは・・
相良頼完 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%A0%BC%E5%AE%8C
相良 頼完(さがら よりさだ)は、肥後人吉藩の藩主。公式には第9代藩主とされる2人目の人物である(後述)。
父母 父:鷲尾隆熙
兄弟 鷲尾隆建、相良頼完
子 養子:福将

寛延2年(1749年)、羽林家公家の大納言鷲尾隆熙(大炊御門経音の次男)の次男として生まれた。一度大坂の寺に預けられていたが、相良家の養子話が持ち上がった頃にたまたま鷲尾家に戻されていた。
宝暦12年(1762年)に(本来の)第9代藩主相良晃長が死去する。鷲尾家と相良氏は縁戚関係に当たることから[1]、その後釜として藩主に擁立され、人吉藩内において極秘のうちに宝暦12年(1762年)12月15日に家督を継いだ。姻戚とはいえ公家から後継者を選ぶことになったのには、極秘のうちに事を運ぶ必要があったが、他の大名家や旗本の子息では武家社会で顔が知られている、また露見すれば累が及ぶ危険があるといった事情や、相良氏が藤原南家の流れをくむという事情があった。
10歳で死去した晃長に末期養子を迎えるのは難しく(17歳以下での末期養子は認められていなかった)、さらに頼完は晃長より3歳年長であり、幕府に認定されず無嗣断絶で改易になる可能性が高かった[2]。それを恐れた藩の重臣たちが、幕府には晃長が全快して頼完と改名したと説明し、晃長と同一人物ということにされたので、公儀への記録では宝暦9年(1759年)12月11日に家督を継いだことにされている。
明和2年(1765年)2月15日、将軍徳川家治に御目見した。同年12月18日、従五位下近江守に叙任される。
藩政においては明和期の天災により、藩財政難で苦しんだ。
明和4年(1767年)1月17日に死去した。享年19。跡を養子の福将が継いだ。
後日談[編集]
天明5年(1785年)に対馬藩主・宗猪三郎(義功)が将軍家治に御目見せずに死去した際、対馬藩家老が幕閣に内々に折衝したところ、幕閣より判元見届使の対馬派遣の不可欠である旨と、他家において藩主急死の際に別人を替え玉に仕立てた例の存在を示唆され、これにより対馬藩においてもすり替え工作(弟の富寿が替え玉となる)が行われることになった。このため、人吉藩の藩主すり替えは幕府に察知されていたが、問題にされていなかった可能性がある。

(・_・)
※寛延2年(1749年)、羽林家公家の大納言鷲尾隆熙(大炊御門経音の次男)の次男として生まれた。
(・_・)この方の父は大炊御門経音の次男だったのですね。

大炊御門経音 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%82%8A%E5%BE%A1%E9%96%80%E7%B5%8C%E9%9F%B3

大炊御門 経音(おおいのみかど つねなり、天和2年12月7日(1683年1月4日) - 正徳4年4月13日(1714年5月26日))は江戸時代前期の公卿。おもに霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)の2代に仕えた。官位は正二位権大納言。
大炊御門経光の子内藤義竜の子。大炊御門信名の養子に入り、藤原北家師実流の清華家、大炊御門家20代当主となった。
中略・・・
正室は米沢藩主上杉綱憲の養女(高家吉良義央の娘)。子に大炊御門経秀、鷲尾隆熙(鷲尾隆冬養子)、孫に経秀の子の大炊御門家孝、隆熙の子の鷲尾隆建、相良頼完がいる。 鎌倉時代に装束着装の家であったことを意識し、装束書を精力的に蒐集したらしく、『雅亮装束抄』(『装束秘抄まさすけ』葉室本・宮内庁)や『良宗卿装束抄』(京都府立総合資料館)『源語装束抄』(宮内庁・斎宮歴史博物館)『物具抄』(斎宮歴史博物館)など、経音所持本から書写もしくは対校された資料は少なくない。

(・_・)大炊御門経光の子内藤義竜の子。大炊御門信名の養子に入り、藤原北家師実流の清華家、大炊御門家20代当主
(・_・)大炊御門家4代当主は・・大炊御門師経。
大炊御門 師経 ウィキより(もう、お解りだと思いますが・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%82%8A%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%B8%AB%E7%B5%8C
大炊御門 師経(おおいのみかど もろつね)は、平安時代末期から鎌倉時代中期の公卿。右大臣。大炊御門と号す。実父は左大臣藤原経宗
父母 父:藤原経宗、母:橘政光の娘 
※兄の藤原頼実には実子はいたが、その養子になる

(・_・)橘政光は先日コメントした「小槻氏」に繋がっています。
橘政光は橘光綱の養子。実父は「橘清則」の子供「橘則行」。
橘清則の曾祖父は「橘則長」・・・先日コメント致しました。
橘則長の妻は能因法師の姉妹。
すなわち橘政光は「橘則光」「清原氏」「小槻氏」に繋がっていると言う事です。
そして橘政光の娘は大炊御門師経(大炊御門家第4代当主)の母。
時代は下って・・・
肥後人吉藩の代9代藩主は相良頼完(大炊御門家20代当主 大炊御門 経音の二男)

と言う事です。
鷲尾家と相良氏は縁戚関係に当たることから・・
(第2代藩主・頼寛の継室・妙光尼は鷲尾隆尚の娘、第3代藩主・頼喬の継室・月仙院は鷲尾隆量の娘であった。)
という理由であったとウィキには記述されていました。

(・_・)
人吉藩の藩主すり替えは幕府に察知されていたが、問題にされていなかった可能性がある。
との記述がありましたが、幕府は完全に気が付いていたけれど、問題にされていなかった・・というより、あえて、問題にしなかった(見て見ぬふり・・)のようですね・・・

鷲尾氏は平河の調査で以前コメントしていました。
平川家について8 コメント16です。
どうかぜひ、ご覧ください<(_ _)>
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101343.html

この時は・・
紀平二元保そして紀平師貞(平河師貞)そして藤原家宗・・「鷲尾神社」に関しての調査でした。
★源頼朝が、諸国に守護・地頭を設置した文治元年(1185)の翌年六月鷹尾郷には、藤原家宗が地頭として任命されています。
藤原家宗とは藤原 頼実の子 大炊御門家宗
父:藤原 頼実
母:藤原伊行の娘

そして、藤原家宗とは球磨の久米三郎こと「藤原家宗」です!!
久米三郎こと「藤原家宗」は大炊御門師経の甥。

そして私は平川家について8 コメント16の上記の調査で、初めて「三池氏」について知ったのでした・・・

なんだろう??・・ここまでは、すべて、後世の球磨・・人吉藩に繋がっているような気がします・・

さらに気になるのは・・
宮原の祖「橘公長」「橘公業」は伊予橘氏であり物部氏族。こちらの系に「矢野氏」があります。
橘則光の系である橘政光。橘政光の後の系にも・・「矢野氏」

※橘公業と西園寺公経が替地を行った球磨郡久米郷宮原。
※球磨の久米三郎と呼ばれた「藤原家宗」(後の鷹尾郷地頭)
※橘政光・大炊御門師経・清原氏・小槻氏
※「紀平師貞」と呼ばれた「平河師貞」
※紀平二元保(鷹尾大宮司紀元保)
そして・・時代が下った「人吉藩藩主」そして「妻となった女性たち」・・・

繋がっているような・・??
これは、単なる偶然なのでしょうか・・???

さらに・・もうひと方。
伊予橘氏(物部氏族)に繋がっている人吉藩藩主の方がいらっしゃいます。

この続きは明日に・・
では<(_ _)>
[37]子孫よりさんからのコメント(2014年12月22日 09時33分42秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、御教示ありがとうございます(^・^)

あの・・白石様の御教示にあった「江上氏」についてですが・・・

「旧菊池家臣の権力争いが激化し始めた。赤星親家は合勢川の戦いで隈部親永に敗れると、その子・赤星統家は大友氏を頼り、対抗して隈部氏は肥前の龍造寺隆信に助力を請いた。事態は天正6年(1578年)11月、耳川の戦いでの大友宗麟敗北によって動き出した。龍造寺氏はこれを好機と捉え南下を開始し、2年後には肥後に迫った。筒ヶ嶽城(荒尾市)の小池親伝を下し、さらに★次男江上家種を大将とする軍は隈部氏と共同戦線を張り、長坂城(山鹿市)に進め赤星方の星子中務廉正を攻略した。翌年には嫡子・政家を大将に据えて再び軍を進めた。赤星統家は人質を出して降伏し、菊池城を退去した。その後には隈部親永が入り、肥後北部の支配権は大友氏から龍造寺氏へ移った。」

とこのお話です・・・
龍造寺隆信の二男が「江上 家種」。江上氏ですね。

以前、平川家について14コメント1で御紹介しましたように
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101362_88.html

竜造寺隆信の三男 後藤家信(竜造寺家信)
妻は後藤貴明の女。後藤貴明の養子。
後藤貴明(渋江公勢の曾孫)

でございました。渋江公勢は橘公業の後裔となります。

後藤家信(竜造寺家信)と江上家種は兄弟だったのですね。
祖母から聞いた「江上家」との繋がりは・・・あ〜〜ん思い出せません(@_@。

さらに御教示の中に「赤星氏」のお話。
そして・・さらに「小池氏」。「筒ヶ嶽城(荒尾市)の小池親伝」

何だか・・親戚にある姓が「戦っていた相手同士で」グニャグニャ繋がっています・・・・(+_+)(?_?)

ちなみに、家の親戚「赤星家」は平川とはもちろんですが、深水家との繋がりの方がとても深いようです。(父から聞きました(__))

(゜-゜)・・・うん??と言う事は、未だ、記述で登場していない家の近しい親戚は・・
「黒木家」と「西田家」と「深松家」ですね・・
(後は・・様々な記述で名があがっていたような・・)

黒木家には平川の曾祖父の弟が養子に入り、西田家には、祖母の兄が養子に入っています。
深松家は、とても祖母が親しくしていた近しい親戚ですが、私は、関係をよく理解していないので、父に詳しく聞いてみます(__)

何せ、家の親戚(宮原も平川も)は、親戚関係となったのが数百年前から・・とかいう状態なので、私には何が何やらよく解りません。
御教示頂いて、本当にありがたいです<(_ _)>
本当に、白石様、感謝いたしております<(_ _)>

それと・・どうも、宮原は佐賀・長崎・福岡 方面の数百年前からの親戚?とず〜っと繋がっていたようなのです・・(どんだけ長く付き合うのだろう・・??(?_?))
やっぱり、同族?意識が強いのかな??

何百年の付き合いと言えば・・
実家におまつりしてある観音様ですが・・
父の話では、どうも「平川」に関係しているようです。宮原家に祖母が観音様をおもちした??
実家にある観音様と関係のあるお寺様が、以前からお話している大口のお寺様です。
確かに大口と言えば「平河」に関係しています。
でも・・・南北朝時代のお話でございます(゜-゜)・・なっ南北朝時代って・・
お付き合いがめちゃくちゃ「長〜〜〜〜い」

でも、日本の親戚関係・お付き合いとはそもそもこういうものなのでしょうか?(?_?)

さらに・・
私が結婚した時に、恋愛結婚であったのですが、祖母は「偶然タイね〜」と言っていまして・・
(ですから、離婚原因はあくまでも、二人の問題であったわけでして・・)

前嫁ぎ先の夫「母方」の越智家もそうなのですが・・
実は、前夫の「父方」の祖母、すなわち、私の子供たちの曾祖母は、玉名の「宮原家」から嫁いでこられていまして・・
この方の従兄弟が尺八で有名な「吉田氏」
https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%94%B0+%E6%99%B4%E9%A2%A8-1658382

<(_ _)>申し訳ありませんが、「吉田氏」の実名を、コメントにお書きになるのは、お控えください<(_ _)>
前、嫁ぎ先の関係者が何らかの検索で、こちらのスレッドに気がついてしまうかも知れませんので<(_ _)>

私の祖母は、この事を知っていまして・・
でも・・「偶然タイね〜」とは、何が偶然だったのか?前夫の祖母の実家が同じ「宮原」姓だったからなのか・・前夫の母方の祖母が越智氏に関係したからなのか・・未だに解りません・・


やはり・・人の縁はとても不思議なものですね・・

あっ!!所で・・
昨日、コメントした人吉藩主 相良氏へ養子に入られた「伊予橘氏」に繋がる方のコメントはお昼すぎにさせて頂きます<(_ _)>
しばし、休憩を・・
では<(_ _)>(^・^)
[38]白石さんからのコメント(2014年12月22日 19時42分49秒 ) パスワード

31 赤池と赤坂と 大きく勘違いしていました。
校長先生になった人は 赤坂さん。


文に出てくる赤池は 
父が戦後買い求めた家の近所にありました。

でも 姻戚関係はありません。
赤池という地域名は 人吉にありますね。赤池原町とか赤池水無とか。

37龍造寺 の 話は ウィキからひろったものです。

そして 
子孫様のお話の 後藤。
うちの高岡の姻戚の 五藤。
そして
うちの平川の親戚の後藤。
うちの方のは 五藤が 後藤にかわったものか?
つきあってるのは 後藤がある集落みたいなので 五藤から後藤?

鷲尾
黒田 職隆(くろだ もとたか)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。黒田重隆の子。子 に黒田孝高(官兵衛・如水)などがいる。
一方 小寺氏は
播磨の守護大名・赤松氏の庶流であり、姫路城のち御着城を本拠として勢力を伸ばした。
小寺氏は娘婿に黒田をとり 小寺を名乗らせた。
赤松氏は 村上源氏で 四浦に 有馬がいるが
天草攻めの寄せ手に 有馬がおり 近くにいても不思議ではないようです。
村上源氏なら 黒田も ある意味 佐田の仲間ですね。

メールします。みてくださいね。 
[41]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年12月23日 12時14分50秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>でも・・「偶然タイね〜」とは、何が偶然だったのか?前夫の祖母の実家が同じ「宮原」姓だったからなのか・・前夫の母方の祖母が越智氏に関係したからなのか・・未だに解りません・・
 
偶然じゃないですよ。
伊予橘氏は橘安麿の後裔成行の養子となった遠保の後裔で、
遠保は越智姓から改姓した橘実遠の五代後裔。
小鹿島の橘氏は、実は物部姓越智氏の後裔。
橘広相の後裔とする旧説は仮冒でしょう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201a.htm
 
以下のURLも参考に。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#030
[42]子孫よりさんからのコメント(2014年12月23日 14時07分40秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

頂いたご教示から、推測するに・・
おそらく、前嫁ぎ先も越智氏の縁で、2〜3代に渡って姻戚関係となっていた可能性があると言う事ですね。

と言う事は、そこに恋愛結婚で伊予橘氏末裔「宮原家」から私が嫁いだという事は・・・・\(◎o◎)/!

これって・・何だかスゴクないですか\(゜ロ\)(/ロ゜)/

もしかしたら、双方、同族をカギワケル臭覚を持っていたりして・・??!

離婚はしましたが、子供は二人生まれた訳ですから・・
ぎゃおっ!! 以前もコメントしましたが・・私の二人の子供は・・・
現代に生きるものすご〜〜く濃い?「物部氏族」ですね!!

う〜〜〜ん(p_-)あの二人(私の子供)の顔を見ると・・
二人に流れる遥かなる先祖のDNAは確かに遠〜い地から海を渡ってやってきました!!という事がよ〜〜く解ります(p_-)
(決して、あっさりとした顔だちではありません(ー_ー)!!)

さらに・・娘のお婿さんは・・・ニックネームが
「残念なJOY(ジョイ)」君とか「残念なウェンツ」君でして・・・
残念とは、「おしいっ!!(^O^)」と言う意味とか・・

これはもしや!!(p_-)
ちなみに、私は18歳の頃「シンディーローパー」に似ているとよく言われていました(なんだっ!これは?)

そして・・
父は、「お父さんは背が伸びなかった(-.-)」と言ってはいるものの身長176cm。
父の弟、すなわち叔父は身長180p。従兄弟は、二人は190cm台で一人は186cm。

そして、176cmの身長の父は親戚全体からみると「小さい」方なのです・・\(◎o◎)/!

みんな「デカイ」!!じゃなかった背が高い!!
ああああああああああああああっっ!!平川も皆、背がすごく高いです????

(p_-)皆、背が高くてハーフのような顔だちですね・・・
それも、「宮原」「平川」双方の親戚がなおかつ「深水」も「黒木」も・・・
ああああっ!!殆どです!
顔の共通点は、奥目で鼻がすごく高いです!
そう言えば、映画「テルマエロマエ」に出てきた「平たい顔の一族」の様な顔だちの人は一人もいません(ー_ー)!!

確実に日本人が演じた「古代ローマ人」の俳優さん達・・そのもの!です。

じつに面白い\(^o^)/

(゜-゜)あっ!!そうか!私の顔は目・口元は球磨の顔ですが・・鼻と身長は・・丸い鼻と身長は・・・母譲り・・
だから、父と母の離婚原因は「先祖同士が合わなかった」だったのかな・・??(?_?)

遥かなる昔、遠い地より海を渡って来たDNAは確実に、一族に流れていると思います(p_-)

ううん?とういうことは・・「平川」も・・??

でも、家の御近所、いいえ旧宮原村の人々は、皆、テルマエロマエで日本人が演じた「古代ローマ人?」のような顔をしていますね・・(決して平たくない・・です)

あっ!!このお話は昨日コメントしようと思っていました、あの情報・・「人吉藩主 相良氏へ養子に入られた「伊予橘氏」に繋がる方」にそれこそ
繋がっていきそうです\(◎o◎)/!

では、内容をまとめてまして、後ほど<(_ _)>
[43]子孫よりさんからのコメント(2014年12月23日 16時48分10秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

では早速<(_ _)>

まず・・・
人吉藩についてのウィキの情報なのですが・・・最近、実に解りやすい\(◎o◎)/!と・・・

歴代藩主ごとに「官位」や「続柄」が表となり、とっても解りやすいです(^O^)
(編集された方に感謝でございます<(_ _)>)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9
(ちなみに相良長頼のウィキ情報はかなり以前と変わりまして・・なんと!!先祖「平河」についても、少し詳しく記述されています<(_ _)>)

では、本題に入ります。
肥後人吉藩の第11代藩主 相良 長寛(さがら ながひろ) について

相良長寛 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E5%AF%9B

宝暦元年(1751年)12月6日、備前岡山藩主池田宗政の次男として生まれる。幼名は護之進。のち初名の政長(まさなが)を名乗る。
外祖父(母方の祖父)にあたる6代目筑前福岡藩主、黒田継高は、実子の重政、長経を相次いで亡くし、跡継ぎがいなかった。このため、継高と重臣たちは評議の上で、継高の長女・藤子が嫁いだ岡山藩池田家から外孫である政長を養子に迎えることに決定した。しかし、幕府の要請により一橋宗尹の五男の隼之助(後の黒田治之)を養嗣子に迎えることとなったため、この養子縁組は破談になった。宝暦13年(1763年)のことである。
それから数年間を実家の池田家で過ごした後に、明和6年(1769年)3月5日、第10代人吉藩主相良福将が死去した際に、末期養子として家督を継いだ。同年3月15日、将軍徳川家治に御目見した。同年4月28日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。同年5月4日に江戸を出発し、6月16日に人吉城に入った。お国入りにあたって、板倉勝興の三男・至親を仮養子に指名した。明和7年(1770年)12月16日、従五位下壱岐守に叙任された。安永3年(1774年)11月15日、長泰(ながやす、政長から改名)から長寛と名を改めた(改名に関する詳細は後述)。

(・_・)備前岡山藩主池田宗政の次男として生まれる
※池田宗政 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B2%BB%E6%94%BF
池田 治政(いけだ はるまさ)は、備前国岡山藩の第5代藩主。岡山藩池田家宗家7代。
寛延3年(1750年)1月9日、第4代藩主・池田宗政の長男として生まれる。母は黒田継高の娘、藤子。幼名は新重郎、のち初名の敏政(としまさ)を名乗る。明和元年(1764年)、父の死去により家督を継ぎ、同年のうちに元服、将軍徳川家治より偏諱を賜って治政に改名する。この当時15歳で決して幼少というほどの年齢でもないが、初めはまだ存命し隠居中であった祖父の池田継政から政務についてある程度の補佐を受けていたものと思われる。

(・_・)備前国岡山藩 池田氏。
日本の苗字七千傑様の《池田氏》姓氏類別大観 をまず、拝見すると・・
白石様\(◎o◎)/!「高岡氏」がっ!!
さらに・・《池田氏(室町期以降)》姓氏類別大観 に進むと・・・

ぎゃあお〜〜っ\(◎o◎)/!
がっ画面の左上に!! 伊予橘氏 「楠木氏」がっ!!
楠木正成 → 正行 → 教正・・こちらの「教正」この方が「池田氏」に養子に入り・・・・後裔が「岡山池田氏」
肥後人吉藩の第11代藩主 相良長寛。この方に繋がっていました。

系図の中の池田 恒利は池田恒興の実父ですが、
ウィキでは
池田政秀には娘(養徳院)がいたが男子が無かったため、滝川貞勝の次男である恒利を婿養子に迎えた[1][2]。この恒利と養徳院との間に嫡男の恒興が生まれている[1][2]。
となっていました。
正室:養徳院は池田政秀の娘。

と言う事は・・伊予橘氏「楠木氏」の系がしっかりと繋がっていると言う事ですね・・・

(ちなみに、昨日最終回を迎えた信長協奏曲というドラマでは池田恒興は「ツネチャン」で森可成は「モリリン」と呼ばれていました(^O^)・・脱線致しました・・すみません(__)・・だって私の脳にはとても解りやすかったのですもの・・(-.-))

あっ(p_-) 今、初めて気がつきました。
ツネチャンの娘はモリリンの息の正室・・あっ・・すみません(__)
池田恒興の娘は森可成の息「森長可」(もり ながよし)の正室です。
(゜-゜)・・と言う事は・・
森可成は「森頼定」の後裔で・・森頼定の妻は伊予橘氏「橘公業」の娘「薬上助局」・・(橘公業はわたくし「宮原」の先祖でもございます<(_ _)>)

何だか「森氏」は伊予橘の系と御縁があるようですね・・(゜-゜)

それはサテ置き(ー_ー)!!

上記の事で肥後人吉藩の第11代藩主 相良長寛 この方は「伊予橘氏 楠木氏」の系でもあったと言う事が解りました(・_・)
と言う事は、これまた「物部氏族・越智氏」の影が・・

あの・・・これまた今、一つ気が付いたのですが
相良長寛は「お国入りにあたって、板倉勝興の三男・至親を仮養子に指名した。」
とありまして・・系譜には「(仮養子:巨勢至親 (板倉勝興三男))」
※巨勢至親・・板倉勝興三男・・巨勢氏・・??

(p_-)何かありそうでございます(p_-)

紀姓「池田氏」と物部氏族「伊予橘氏」・・

そういえば・・平河も「紀」姓の影がありました・・

あっ!!皆様、一つ御報告を<(_ _)>
「紀平師貞」と呼ばれた「平河師貞」と並んで記述されていた紀平二元保(鷹尾大宮司紀元保)
「紀 元保」の本名?が解りました\(^o^)/
「税所氏」に繋がっています!!

このお話は、きちんとまとめてコメント致します。

では<(_ _)>

[44]白石さんからのコメント(2014年12月23日 20時06分51秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 そう!!そうなのです。
私 前から お伝えしたかった こと

それが 何か かいてるうちに ぐちゃぐちゃなっては ・・・ いつも あれーっということになっていって・・・

高岡と池田氏は同祖。
紀 姓の人が養子に入り 源の人が養子に入り 池田に養子に入り・・・

摂州多田院御家人高岡系図に池田氏同祖と書いてあります。

日本の苗字7000傑様 ご教示ありがとうございました。
お礼をいわなければならないのに 先日来風薬をのんだら爆睡してしまったり
メールが おかしくなったり テレビニュースなどで サイバー攻撃のことが出たり 
少し パニックになっているうちに 頭からとんでしまっていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
高岡女子の復活^^
余りの不景気に ものつくりをしている家は やりくりが 苦しくて
一年くらい 音沙汰なしで どうしているだろう と 心配でしたが

先日 話をすることが出来ました。けろっとした感じで なんだ 心配して私が痩せる思いだったではないか?というほどでした。

同級生の一人が へそくりを使って 自分をないがしろにしているような家人(息子夫婦・夫)から離れて入院を一か月して帰ったら 
やはり おばあちゃんがいないと 息子夫婦はしんどく 夫は何も火事が出来ず
あとは うまく いっている 
という話を 聞き込んで 心が晴れやかになったようですよ。^^

あばあちゃんパワー 恐るべし ですね、
今は 正月の飾り何時家を 商売をしている家だから しないわけにいかない
20個くらい あちこちに 飾るのだ と 言っていました。

ぞっとする と 言っているので それは うれしい悲鳴じゃないの?と 私も言いました。


[45]白石さんからのコメント(2014年12月23日 20時18分05秒 ) パスワード

火事は家事です。
飾り何時家はかざりつけ です。

相変わらずくるっと変わって表示されます。判読してくださいね。
[46]子孫よりさんからのコメント(2014年12月24日 01時05分13秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、良かった(^・^)。私も高岡氏と池田氏の関係に気がつきました(^・^)

所で・・紀平を名乗った方のお話をコメントする予定だったのですが、急きょ変更致します<(_ _)>

実は・・
またまた・・平河ではなくて私「宮原」の先祖、橘公長の後裔で気になる方を見つけてしまいました(゜-゜)
この方々の系は、昼のコメントで書いた「池田氏」のツネチャン(ー_ー)!!ではなくて「池田恒興」に繋がっています(゜-゜)

では、早速<(_ _)>

偶然なのですが、見つけてしまいました・・
まずは、こちらをご覧ください
織田家 家臣団
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/oda.html

こちらの中に「中村一宗」の系が記載されています
中村一宗二宮実一子実忠孫時忠曾孫忠員玄孫友忠耳孫友平流橘公長裔?
  一継
  一統
  一康
  一秀
  一政孫平次
  一成一政子
  一氏====1600一成子一政子?瀧吉一子?孫平次従五位下式部岸和田水口駿府城主羽柴秀次傅中老
  忠一15901609一氏子一角一学松平伯耆 駿府米子城主

\(◎o◎)/!何だこれは??中村一宗・・・耳孫友平流橘公長裔?・・って何!!

と・・・
そして「中村氏」について調べたのですが
武家家伝 中村氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakamura.html
大田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、中村氏を橘姓として「甲賀郡杣荘発祥の豪族にして、秀吉に仕えて有名なる中村一政、同一氏を出す。此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれると云ふ。されど異説多く、或は佐々木氏の族、山崎の余流とも伝へ、藤姓と云い、平氏と云ふ説もあり」と記されている。橘姓、佐々木、藤姓、平氏と盛りだくさんなもので、古いむかしのことに関しては不明といったところであろう。
 一方、『古代氏族系譜集成』所収の中村氏系図(参考系図参照)によれば、桓武平氏平良文流の中村庄司宗平の子二宮友平を祖としている。二宮氏は鎌倉幕府に仕えたが、二宮実忠のとき、鎌倉幕府が滅亡したことから甲賀に蟄居した。その子一宗は中村小二郎を称して宗良親王に仕え、一宗から六代目に一政があらわれ、その孫が中村一氏となっている。
 ところで、中村氏は近江国甲賀郡に繁衍した伴四党(大原・上野・伴・多喜)の流れという説がある。近江伴氏は、大納言伴善男の子孫という大伴姓富永氏の一族で、伴家継が多喜に住して多喜を名乗った。室町時代、六角高頼に属した多喜勘八郎俊兼は、長享の乱(1487)に活躍して甲賀二十一家の一に数えられた。多喜氏系図によれば、俊兼の孫馬杉秀信の子孫作がはじめて中村を名乗り、その子が中村一氏となっている。

いずれが真実を伝えているのか、にわかには判じがたいが、のちのことから考えると甲賀説が有力に思えてくる。いずれにしても、中村氏は一氏の代に世にあらわれたことだけは史実である。

(゜-゜)ああああっ!!
大田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、中村氏を橘姓として「甲賀郡杣荘発祥の豪族にして、秀吉に仕えて有名なる中村一政、同一氏を出す。此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれると云ふ。
でも・・或は佐々木氏の族、山崎の余流とも伝へ、藤姓と云い、平氏と云ふ説もあり」と記されている。・・って・・何だか、何処かで聞いた事のあるような・・

(゜-゜)そこで
中村一政、同一氏を出す。此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれると云ふ。・・という言葉から、もっと調べてみました。(__)

まずは・・中村一氏 この方から <(_ _)> ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%B8%80%E6%B0%8F

中村 一氏(なかむら かずうじ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の三中老の1人。
一氏は近江国甲賀(現・滋賀県甲賀郡)の瀧(又は多喜)という家の出身とされる[1]。瀧孫平次(後の一氏)は、生来果敢な人間で、どちらかと言えば村の暴れ者だった[1]
はやくから織田氏の家臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。天正元年(1573年)頃に秀吉より近江長浜のうち200石を拝領する。
天正5年(1577年)天王寺を攻略、本願寺門跡派の一揆を鎮圧や、天正10年(1582年)山崎の戦いに鉄砲隊を指揮して武功をたてる。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いに参戦し、和泉国岸和田城主となり3万石を拝領する。
天正12年(1584年)秀吉の紀州攻めにおいては新都・大坂防衛の主将として紀州勢と対陣。岸和田城下に紀州勢の猛攻を受けるも(同年の小牧・長久手の戦いにより秀吉軍主力が尾張へ出陣した間隙をぬったもの)、寡兵ながら城を守り切り、翌年の反転攻勢においても主導的役割を果たした。
天正13年(1585年)近江国水口岡山城主になり6万石を拝領、従五位下式部少輔に叙任された。天正18年(1590年)小田原征伐において羽柴秀次隊の先鋒を務め、ほぼ単独で松田康長の守る山中城の主要部分を攻略。功により駿河国駿府14万石を拝領する。また、文禄4年(1595年)駿河直領(蔵入地)の代官として駿河を任され、慶長3年(1598年)三中老の一人に任命された。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、合戦前の7月17日(8月25日)に病死。戒名は大竜院殿一源心公大禅定門。墓は静岡市の臨済寺にある。
なお、合戦には弟の一栄や、家督を継いだ長男の中村一忠が出陣し、美濃表で大いに戦った。戦後、その戦功によって伯耆一国米子城17万5,000石および国持大名の格式を与えられたが、慶長14年(1609年)に一忠は急死。跡継ぎを欠いた中村家はわずか2代で断絶。江戸幕府により改易された。

(゜-゜)村の暴れん坊?から駿河国駿府14万石を拝領する。
あんにゃ〜〜〜!!すごいですね!
(・_・)系譜を見て下さい
氏族 中村氏
父母 父:中村一政?、母:不明
兄弟 一氏、一栄
妻 正室:安養院(池田恒興女)
子 一忠、甚左衛門

\(◎o◎)/!正室:安養院(池田恒興女) ツネチャンこと池田恒興の娘です。
さらに!!安養院(池田恒興女)は昼、コメントした森可成の息「森長可」(もり ながよし)の正室でもあった方で・・池田恒興の系譜には・・
※安養院(森長可室、後に中村一氏室)っとあります\(◎o◎)/!
と言う事は・・\(◎o◎)/!安養院(池田恒興女)は、最初の夫も、再婚相手も「橘公長」そして「橘公業」の後裔と言う事になります。
えええええええええええっ!!
だっだから「信長協奏曲」というドラマで池田恒興(ツネチャン)が気になって気になって・・
(ー_ー)!!違います。向井理が気になっていたのでした・・(●^o^●)

ではさらに中村一氏の子「中村 一忠」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%B8%80%E5%BF%A0

中村 一忠(なかむら かずただ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。伯耆米子藩主。中村一氏の子。
豊臣秀吉の死後、徳川派と反徳川派の中、豊臣家の三中老である一氏は、嫡子一忠の将来と中村家の存続を願う家老横田村詮の意見を聞き、駿府城下の村詮内膳屋敷で徳川家康と会談し、東軍方に加わることを決めた。しかし重い病にかかっていた一氏は、関ヶ原の戦いの直前の慶長5年7月17日(1600年8月25日)に死去した。
関ヶ原の戦いの後の慶長5年(1600年)11月、先の会談を踏まえた家康は、11歳の一忠に伯耆一国を与え、米子17万5,000石に移封した。さらに一忠は伯耆守に任じられ国持大名とされた。また、幼少の一忠に叔父の横田村詮を後見役、執政家老として同行させた。
村詮は年少の城主一忠に替わって藩政に携わり、城下町米子の建設に辣腕を振るった。この村詮の手腕を妬み、出世を目論む一忠の側近・安井清一郎、天野宗杷等は村詮の排除を計画し、一忠に甘言を弄して惑わせた。慶長8年11月14日(1603年12月16日)、一忠は正室浄明院との慶事に託けて責めを負わせて村詮を誅殺した。村詮の子・主馬助、柳生宗章等は飯山に立て篭もったが、一忠は隣国出雲松江藩主堀尾吉晴の助勢を求め鎮圧した。
後日事件の報告を受けた家康は、自ら任じた村詮の殺害に激怒し、幕府は首謀者の安井、天野を吟味も無く即刻切腹に処した。また、側近の道上長兵衛、道上長衛門にも事件を阻止出来なかった理由により江戸において切腹に処した。一忠には品川宿止めの謹慎に収めお構いなしとした。
なお、慶長13年(1608年)には家康から松平姓を与えられた[1]が、叔父・村詮を殺したこと、また城内外からの陰口妄言に苛まれ、慶長14年(1609)5月11日、20歳の若さで急逝した。小姓の服部若狭邦友、垂井勧解由延正2名が殉死している[2]。

(゜-゜)この方は、若くして色々な事がおこったのですね・・

一族・縁者[編集]
父・中村一氏
母・安養院(池田恒興娘)
叔母婿・横田村詮
正室・浄明院(松平康元の娘。徳川家康の養女)

(゜-゜)母は安養院(池田恒興娘)。
えっ!正室は浄明院(松平康元の娘。徳川家康の養女)。

なんと!!

うううううんん???!! と言う事は・・徳川家と姻戚関係にあったと言う事ですね・・すごいな〜中村氏。

だけど・・・池田氏は伊予橘氏と本当に縁があるのですね・・・(゜-゜)

そして・・最後に日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観を拝見いたしました(__)

あっ!!何となんと!「三浦氏」と「中村氏」は同族ではありませんか\(◎o◎)/!
「千葉氏」とも、同じく同族。
そう言えば「千葉氏」は・・橘公業に繋がって、それから・・あっ!三池貞家まで繋がっていました!
なんと!!平河ではなくて「宮原(橘)」の方に縁がえんが〜〜っ!!・・・何故????

《二宮氏/神保氏/中村氏》姓氏類別大観を拝見いたしました(__)
今まで、拝見してきた何処かに「橘公長」との縁があると言う事でしょうか?

だけど・・こちらは「桓武平氏良文流」
平河が「平」か??とか言って混乱していたのに・・宮原(橘)の先祖が、「平」の家と繋がっていたとは・・・

こうなると、こちらのスレッドは「平川家について」ではなくて・・
「平川家と宮原家について」になってしまいそうです・・(?_?)

と言う事で長くなりましたが・・「中村氏」と伊予橘の系についてというお話でした。

では<(_ _)>
 
[47]子孫よりさんからのコメント(2014年12月24日 01時20分32秒 ) パスワード

追記
そう言えば・・私の実家「宮原家」の家紋「丸に剣方喰」と同じ家紋の「中村氏」もありましたが・・
中村氏 (下野国) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B0%8F_%28%E4%B8%8B%E9%87%8E%E5%9B%BD%29

こちらは、別の系なのですよね・・
でも、「中村姓」が何だか気になります(?_?)????
[48]子孫よりさんからのコメント(2014年12月24日 08時46分32秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

今朝、昨晩のコメント46の調査が非常に気になりまして・・

中村氏の記述にあった
「大田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、中村氏を橘姓として「甲賀郡杣荘発祥の豪族にして、秀吉に仕えて有名なる中村一政、同一氏を出す。此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれると云ふ。」
※中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれると云ふ・・・こちらの「瀧氏」とは?と
早速、調べました(p_-)

瀧(又は多喜)氏
日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観を検索すると
《甲賀大原氏》→ 《山岡氏/多喜氏》の姓氏類別大観を拝見する事が出来ました。
記述にあった
「ところで、中村氏は近江国甲賀郡に繁衍した伴四党(大原・上野・伴・多喜)の流れという説がある。近江伴氏は、大納言伴善男の子孫という大伴姓富永氏の一族で、伴家継が多喜に住して多喜を名乗った。室町時代、六角高頼に属した多喜勘八郎俊兼は、長享の乱(1487)に活躍して甲賀二十一家の一に数えられた。多喜氏系図によれば、俊兼の孫馬杉秀信の子孫作がはじめて中村を名乗り、その子が中村一氏となっている。 」

という内容をもとに《山岡氏/多喜氏》の姓氏類別大観を拝見すると、確かに「向氏」に「俊兼」と言う方がいらっしゃいます。

(゜-゜)こちらの系を遡ると・・
《甲賀大原氏》→《設楽氏》→ 《三河伴氏》→ 《大伴氏》→ 【大伴氏/伴氏】 となります。
あっ!!と言う事は【斎部氏】《阿波忌部氏》と同族と言う事ですね。
なおかつ・・【大伴氏/伴氏】の系は《佐伯氏》さらに「大友氏」「波多野氏」にも繋がっている・・・・

(゜-゜)またまたでございます。
平河に繋がっているのでは??と調べていた上記の系は「伊予橘氏」である橘公長に繋がっていました・・すなわち・・系は違っても、私「宮原(橘)」にも縁があったと言う事です。(?_?)(?_?)(?_?)どうなっているのだろう??

さらに・・《山岡氏/多喜氏》・・山岡氏?多喜氏・・瀧・滝・・
何だかどんどん気になりまして・・・

さらに日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観を検索すると・・・
「【滝氏】【村岡氏】が加藤氏裔を称する。」という記述がピックアップされました・・

「加藤氏裔」・・??
そこで・・確認すると・・
【藤原氏利仁流】  姓氏類別大観 に「加藤氏」
っと言うか!!ここは!!!藤原氏利仁流とは!!
以前、やっと「藤原師高」に繋がった!!と喜んだ《加賀斎藤/弘岡斎藤》冨樫氏が連なる系ではありませんか\(◎o◎)/!

さらに!!後世の平河久貞が鎗術を学んだ「疋田氏」にも繋がり!さらに「井口氏」もこちらの系でございます\(◎o◎)/!

なぜにぃ〜〜〜!!平河ではなく「宮原」の先祖「伊予橘氏 橘公長」に繋がるのでしょうかぁ〜〜〜〜!!

なっなんとぉ!!!\(◎o◎)/!さらに!!
「遠山氏は利仁流を称する」・・・「遠山氏」です

「遠山氏」はっ!!
人吉藩10代藩主 相良福将(さがら とみもち)
こちらは美濃苗木藩主・遠山友明の次男でございます!!
人吉藩 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9

こちらに衝撃の言葉が!!!!!
※人吉藩10代藩主 相良福将(さがら とみもち)相良家とは血縁・姻戚関係なし
※美濃苗木藩主・遠山友明の次男
※遠山友明はこの養子縁組を斡旋した時の老中首座・松平武元の実弟にあたる

松平武元とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%AD%A6%E5%85%83

松平 武元(まつだいら たけちか、正徳3年12月18日(1714年2月2日) - 安永8年7月25日(1779年9月5日))は、上野館林藩および陸奥棚倉藩の藩主。親藩ながら江戸幕府の寺社奉行、老中を務めた。越智松平家3代。
常陸府中藩主松平頼明の次男。正室は桑名藩主松平忠雅の娘。子は武寛(四男)、戸田氏教(五男、大垣藩養子でのち老中)、娘(松平忠泰正室)、娘(戸田光和正室のち松平乗完継室)、娘(安藤信成正室)、娘(松平忠済正室)、娘(森忠興正室)、娘(久世広誉正室)、娘(溝口直信正室)らがいる。官位は従四位下、侍従、右近衛将監。

\(◎o◎)/!越智松平家3代・・・えええええっ!!
越智松平家 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%99%BA%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6
越智松平家(おちまつだいらけ)は、松平氏の一支系で、親藩・御家門のひとつ。
江戸幕府6代将軍徳川家宣の弟である松平清武を家祖とし、上野国館林藩、のち石見国浜田藩の藩主家として続いた。通字は「武」(たけ)。
概要[編集]
清武は甲府藩主徳川綱重(甲府徳川家)の次男であるが、はじめ甲府藩士越智喜清(おち よしきよ/のぶきよ)の養子として育てられた。のちに松平の名乗りを許されて越智松平家が成立する。5代将軍徳川綱吉の晩年の1707年に館林藩主として取り立てられ、兄家宣が6代将軍となると5万4千石まで加増された。清武の子清方は父に先立って没したため、尾張徳川家連枝の美濃高須松平家から養子武雅を入れた。武雅も水戸徳川家連枝府中松平家から武元を養子に入れ、越智松平家は以後は実質的に水戸家の血統(徳川頼房の男系子孫)によって占められることになった(その後に養子入りした武揚、武成、武聰の3代の当主も該当する)。

\(◎o◎)/!と言う事はなんですか!!
越智松平家の「松平武元」の実弟「遠山友明」の次男が「人吉藩10代藩主 相良福将」 ウィキには「相良家とは血縁・姻戚関係なし」とありますが・・
縁があるのは「越智氏」そして「遠山氏」と縁があるのは・・・いっよたちば・・
ぎゃ〜〜〜〜お!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

さらに!!松平武元の子息子女
子は武寛(四男)、戸田氏教(五男、大垣藩養子でのち老中)、娘(松平忠泰正室)、娘(戸田光和正室のち松平乗完継室)、娘(安藤信成正室)、娘(松平忠済正室)、娘(森忠興正室)、娘(久世広誉正室)、娘(溝口直信正室)らがいる。
えええええええええっ!「森氏」「溝口氏」

冷静に考えて見ます(p_-)
人吉藩 養子の藩主
※9代 相良 頼完・・3代頼喬の正室・月仙院の弟・権大納言鷲尾隆長
の養子(正室の弟)・権大納言鷲尾隆熙の次男 鷲尾隆熙(大炊御門経音の次男)
※10代 相良 福将・・相良家とは血縁・姻戚関係なし(美濃苗木藩主・遠山友明の次男)遠山友明はこの養子縁組を斡旋した時の老中首座・松平武元(越智松平家)の実弟
※11代 相良 長泰→長寛・・相良家とは血縁・姻戚関係なし(備前岡山藩主・池田宗政の次男)
池田宗政は池田恒興の後裔。池田恒興は伊予橘氏「楠木氏」の後裔。
※池田恒興の娘 安養院(森長可室、後に中村一氏室)
※森長可 中村一氏 共に伊予橘氏 橘公長・公業の末裔?

皆様\(゜ロ\)(/ロ゜)/
私が、先日から調べてきた「伊予橘氏」である宮原の先祖「橘公長」「橘公業」の系が、「平河」の調査であがって来た「全て」の系に繋がり・・
なお且つ!!人吉藩 藩主 養子であった上記の3人の方々に「物部氏族」「越智氏族」「伊予橘氏」其々が繋がるのは・・・
偶然でしょうか〜〜〜〜〜!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
(?_?)(?_?)(?_?)(?_?)

何が何やら・・解らなくなって参りました・・・

では<(_ _)>
[49]子孫よりさんからのコメント(2014年12月24日 13時51分10秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

あの・・・マタマタ見つけてしまいました(p_-)

私の故郷、球磨郡旧宮原村に関する記述です。

Yunomae-machi shi(湯前町史)より
宮原村の内、小豆島村は讃岐国小豆島より移住人(百六十八戸)、久米(ほ十七戸)三ケ村に分ち合併す・・・

なんと!宮原村に小豆島村と呼ばれる地域があって、そこには讃岐国小豆島より良住人(百六十八戸)の方がいらっしゃった!!他の地域にも小豆島より移住して来られた方々が・・

いったい誰が何の目的で・・・?
(?_?)・・あっ!讃岐国トナ!・・・・(?_?)・・はっ\(◎o◎)/!
これまた、失礼致しました(-.-)
いったい誰が?って・・小豆島より何百人もの方々をお呼びしたのは・・我が先祖「宮原」の一族でしょう・・・(-.-)

本当に・・知らなかった事ばかりです。

所で・・・
今朝のコメントをお読み頂いた皆様はきっと「何と言えばいいのか・・」とお考えになっていらっしゃると思います(__)

ですから・・私が先に・・

あの・・私の実家「宮原」も祖母の実家「平川」も同じような事を子供に言って、教育してきたのだと思います。
私が、父から言われてきたのは
@自分より弱い人を攻撃してはいけない。弱い人の味方になりなさい。
Aケンカは先に手を出した方が負け。(女の子なのにですよ・・)
Bもし、何かひどい事をされたら・・
「お前はハンムラビ法典を知っているか!!目には目を歯には歯をじゃあ!!やり返してて来い!!」(怖っ(@_@。)

子供の頃から、今まで、ずっと思っていたのです。子供に「ハンムラビ法典」を言って、教育する家は日本にどれくらいあるのだろう??と(?_?)

しかし・・考えてみると・・
このような教育を子供にしてきた一族が・・
何百年も我慢する事などあるのでしょうか??????!!
平河は惣家を殲滅され、宮原は所領を奪われ・・この状態をこの二つの一族が何百年も我慢するのでしょうか??

もし・・我慢してきたのであれば、こどもに「目には目を歯には歯をじゃあ!!」って教育するでしょうか??

実は、私、今、書いた事を実はず〜っ何カ月も考えていたのです。
何かあるのじゃないのかな?と・・

でも、父も親戚一同も、すご〜く、皆、心優しい人ばかりです(^・^)
私は、大好きです。
では<(_ _)>(^・^)
[50]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年12月24日 23時55分36秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>私が、先日から調べてきた「伊予橘氏」である宮原の先祖「橘公長」「橘公業」の系が、「平河」の調査であがって来た「全て」の系に繋がり・・
なお且つ!!人吉藩 藩主 養子であった上記の3人の方々に「物部氏族」「越智氏族」「伊予橘氏」其々が繋がるのは・・・
偶然でしょうか
>池田氏は伊予橘氏と本当に縁があるのですね・
 
当然ですね。
実は池田氏は伊予橘氏後裔、それどころか相良氏も後裔。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/ikeda_keizu.htm
 
もっと大きな流れは、物部氏→越智氏→伊予北条氏→河野氏→稲葉氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206.htm
織田・徳川・池田・稲葉・齋藤・明智氏等が勢揃いで戦国乱世の究極。
最終的には徳川が天下を取り、稲葉が実利を占めるが幕末には裏切り。
正に饒速日命の後裔、折敷に三文字紋の恐ろしさでしょう。
明治の伊藤博文は初代総理となる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206b.htm#003

九州方面の流れは、物部氏→越智氏→伊予橘氏→小鹿島氏→宮原氏
 
こんなことは義務教育の歴史では、絶対に触れませんからね!
[51]子孫よりさんからのコメント(2014年12月25日 01時50分05秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございます。

この数日間、ずっと、「ここまで繋がるものだろうか?」としかし、自分の中では本当は「確信」していました・・
「偶然ではない」と。

人吉藩 藩主 9代10代11代の方々は、全て、伊予橘氏すなわち宮原と同族である系に繋がっていました。
(大炊御門家4代当主「師経」は橘政光の孫。橘政光の後裔には伊予橘氏と同名の「矢野氏」。)

さらに、頂いたご教示の「河野氏」 →《林氏/稲葉氏》姓氏類別大観を拝見して明確に理解できました。
河野氏 稲葉氏 藤原氏利仁流 紀姓池田氏 徳川家(徳川家康) 織田家(織田信長)清和源氏頼光流(明智氏) 繋がっています。
ですから、伊予橘氏(物部氏族)である、先祖「橘公長」「橘公業」の九州以外の系がこちらに繋がっているということを・・

上記に関係する伊予橘氏「物部氏族」池田氏(橘公長・橘公業それぞれの後裔と姻戚関係あり)が血縁関係のない「相良氏」の養子となった。

教科書には確かに載せられませんね・・

平河も確実に繋がっていると確信しています。(はっきりと言ってしまいました)

父が妙な事を言ったのです。(父は平川の系は、本当に知りません)
「深田と宮原という場所はまっすぐな線で結ばれている。この二つの地は、家(宮原)と平川が繋がる古代の一族の聖地のような場所やったんやろうね・・」と。

最後に私の最大の推測を・・・(あくまでも、私の考えですから、さらに・・史実には基づいていません)
なぜ、宮原の先祖は平家を離脱し、源頼朝についたのか・・
さまざまな文献に記述されている事も事実ではあると思うのですが、最たる理由はきっと、我慢出来ない事、すなわち、物部氏族「伊予橘氏」に繋がる、「複数の人物が」、一族・同族として、決して許すことの出来ない惨たる目にあったのでは・・?
源頼朝の挙兵こそが、「最たる機」であると判断したのではないのか?と・・

四国の豪族の方々に「源氏」に付くように説得したのは「橘公業」。(もちろん、源頼朝の命ではありますが・・)
そして、説得に成功し、署名を受け取り、源頼朝に届けた・・
その中に「河野氏」「河野一族」はもちろんの事、越智一族に繋がる、沢山の四国諸国の豪族の署名がありました・・
源義経に「藤原師高」の子息を面通ししたのは「橘公業」・・

私の頭の中の図式は・・皆様がご想像ください(-.-)

では<(_ _)>

[52]白石さんからのコメント(2014年12月25日 05時24分01秒 ) パスワード

おはようございます。
子孫様 とうとう というかんじですね。
がんばってこられたので 成果も出たのでしょう。

先日 陛下のお誕生日ということで テレビでお元気なご一家おそろいのお姿を拝見いたし 何ともうしましょうか まさに 国父・国母ですね。

おられる ということが 心の安心です。
被災地にお見舞いにおいでになった時も みんなも 同じ思いではないでしょうか? 来てくださった ということが がんばろうという思いにつながる という。

ところで
陛下のお顔を拝見して 夫と結婚したころのことを思い出しました。
眉 の ことですが
陛下の眉と 主人の眉は 同じ形なのです。くらべるのは良くないけど・・・
夫の鼻も付け根に小骨があり 子供も受け継いでいます。

子供の眉は 違って 手を入れなくても きれいに 円を描いています。

それで
あちらの身内がそのことを話題にしていて 私の鼻が鼻べちゃなのを評して
「ちょこんと 高い 鼻やねえ」と 言っていました。

初めて会って 顔のことを話題にするか?と 思っていましたが、眉・小骨のある鼻などは 夫の筋のようです。

おもしろいですね。遺伝子とは・・・

うそを言わず出てくるのですから・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
息子はあのあとも 網戸をなおしてくれ 風呂のシャワーをなおしてくれ
自分の部屋に加湿器を買い込んで しゅー と させています。
どうも こういうことが 好きなようです。前の家の奥さんに言わせると
「息子 いきいきしているやないの!!」という評価で 人の目にもわかるようです。 

夫は 定年後 
「もう 背広を着るのはいやなんや」といって 一か月民間で何やら働いて
「一か月働いたからもういいやろ と 思うてやめてきた。あとは 優雅に暮らしたいんや」と 家にいます。

えんぴつ画に夢中で 一日24時間でも いいくらいに 打ち込んでいます。
もともと こういうことが 好きだったそうで 民間に一時務めたけど それでは生活できないから 父親が公務員試験を受けさせたら 一発でうかったんや ということでした。

私が思うに それが 正解だったようです。両極端にはしる 性格のようで 公務員のように どうでもこうでも こうで、 自分の判断はない という世界だと その枠の中にいるけど 
自由に動ける世界では はちゃめちゃ人生だったろうと 思います。

息子は 保育所の頃 電車のパノラマ図を描いて 先生が 遠近を出して上手にバランスよく描くのですよと 驚いておられました。

電車単体の絵では 組み立てられるように のりしろまで ついていました。

メールで 夫のえんぴつがを送ります。スレッドと関係ありませんが ・・・笑ってみてやってください。

気質みたいなものでしょうか?
薬子の変で 廃太子になった 高岳(高岡)親王は 本が好きな物静かなひとだったそうです。父も やさしくて 
軍隊で なぐられたりしなかったの? と 一度私が聞いたことがあったけど
「うにゃ そぎゃんこた なかった」と 父は言い
母も 「むぞがってくいやって そばからはなそうと しやらんかったと」 と言っていました。
写真で 父が 中央に写っている大将の人の左後ろにうつっている写真を見ながら尋ねたときのことです。

父は 高岡で 夫の方とは 直接関係ありませんが
みんな おだやかなのですね。舅の方とか 九州男児とか で みれば 男尊女卑の気風が強いですが・・・









[53]子孫よりさんからのコメント(2014年12月25日 21時53分18秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

白石様、コメントありがとうございます。

やっと、事の本質というものが理解出来てきたような感じです。

白石様・日本の苗字七千傑様、お二人より、ご教示を頂き、無知識な私を導いて下さったお陰です。
本当にありがとうございます。

でも、まだまだ、やっと、しっかりとした線が見えただけですので、これからも、勉強を頑張っていきたいと思っています。

今後とも、どうかよろしくお願いいたします<(_ _)>(^・^)
[54]白石さんからのコメント(2014年12月25日 22時52分42秒 ) パスワード

こんばんは
四浦平家城
私の家の川向の集落に「四浦平家城」がありました。
私の若いころ 誰も そのことを 言っていたようではありませんでした。
ただ
平川の男子(故人)嫁が一武から来ている。
が 四浦平家城のあったと
と 言っていました。

こちらで 城郭体系を見て その 絵図面が熊本大学にあることを知り、その前後だったか地域の子供たちの歴史探検隊に 箕田さんが説明してくれていました。平家城 相良外城 古く 縄文の頃の遺跡 と 遺構が重なっているようです。

前にも  申しましたが どこも 本など持っているような家はありません。
それなのに 
平川男子が 四浦平家城の存在を話していたのです。

その家は 高岡から入り婿(先に婿に来た人が死に 次に兄弟が婿になっている。 これを 後世になると ひとり死ぬと肉親の誰かが嫁の世話をする形)。川向の尾方から祖母のとき嫁入り。

この中の誰かが 城の存在を知っていて伝えていると思います。
もちろん 平川当主(その頃のおじいさん 元士族だった)が知っていた可能性が大です。
[55]白石さんからのコメント(2014年12月25日 23時23分13秒 ) パスワード

その尾方の家は 私の同級生の家で 同級生は 平氏とは聞いていないといっていました。家紋は 桐紋と言っていました。

椎葉さんの干し柿
前に五木の平家一門をまつっている椎葉さんの話がありましたが、同級生の椎葉さんも 同じ苗字で いずれ たどりたどれば ひとつになるのではないか?と 思いますが
真っ赤なルビーのような 干し柿を 冷凍庫保存して 夏にも おいしくいただいています。私ももらいましたが 商品化すればいいのに と 勧めるくらい 上手に 皮も薄く やわらかく つくります。

前に 菊池の方の人で おじいさんの代に天草から来られ おばあ様だったかが 須江氏だという人も 真っ赤なルビーのような干し柿を写真に出していました。芳の旅館の人です。ぐうたらママの快適生活 に 料理レシピなど出ています。御主人が奥様にお料理の手ほどきをされた と コメントに書いておられました。

高岡女子も このような干し柿をつくるそうです。四浦は ようかんのような硬い白い粉をふいた干し柿ではなかったか? と 聞くと 
八代に来て覚えたと 言っていました。

総合して考えると
八代あたりは こういうやわらかい るびーのような 干し柿らしい 
と 思い

八代 泉 五家荘 と 頭が勝手に つながり

八代の干し柿 と 打ち込んでみました。

  

[56]白石さんからのコメント(2014年12月26日 00時08分29秒 ) パスワード


八代つながりで出る話
父は戦時中の一時期 山口県都濃郡に家を借りていました。母からは しきりに徳山という言葉を聞きました。

八代の干し柿で検索
鶴の話題(熊毛町関係)
八代の柿は木になっている間は種があっても、干し柿にするとどうしたわけか、種が すっかりなくなってしまうのです。 こうして八代では、干した柿を干し柿とも、つるし柿とも 言わず、鶴の恩返しの「鶴柿」と言うようになったそうです。

何とめずらしい と 思い 
だけど 本当に熊本の八代かしらん? 山梨の方にも八代があるし と思い
熊毛町を検索

熊毛町 - Wikipedia
熊毛町(くまげちょう)は、山口県の東部にかつてあった町。熊毛郡に所属していた。 2003年4月21日に徳山市、新南陽市、鹿野町と合併し、新たに周南市となり消滅した。

もうひとつ 八代の干し柿より
つる柿(周南市)の言葉が出て
周南町八代で検索
2003年(平成15)4月、徳山市と新南陽市、熊毛(くまげ)郡の熊毛町、都濃(つの)郡の鹿野町が合併して成立。

山口県都濃郡には 平知盛家人がすんでいたという。周防国都濃郡富田・富田高綱のようです。

平知盛にまつわる話が 真木和泉です。
真木和泉を赤間神宮にまつっているのが 白石正一郎です。

富田は高岡から出る言葉ですが
こちら 高槻の賀茂神社があるところは 賀茂郡富田郷といっていた。
高倉天皇(安徳天皇父)の安産祈願がなされたところ。

こちらに 本照寺(元の本願寺といわれる)があり 中世の頃までは全国の寺院の総本山だったところ。
住職・日野氏。嫁は 二条から代々きており 近年でも 子供がいないときは二条から養子を迎えていると 近所の着物やさんから 聞きました。

別名「佐々木城」
こちらからのびて 近江の源氏・佐々木氏につながり 山本。

人吉の老舗旅館の人で 確か 確かそうだと思うのですけど
女優・富田千春さん 芸名ですけど 顔は 外人さんのようです。

[57]白石さんからのコメント(2014年12月26日 00時38分46秒 ) パスワード

周南市の歴史
若山城
(山口県)
別名
富田若山城、周防若山城

築城主
陶氏(陶弘政もしくは陶弘護)

築城年
14世紀中頃から15世紀後半

主な改修者
陶隆房(陶晴賢)

主な城主
陶興房、陶隆房、

廃城年
弘治3年(1557年)頃

若山城(わかやまじょう)は、周防国都濃郡富田(現山口県周南市)にあった山城。守護大名大内氏の親族であり歴代その重臣でもあった陶氏の本城である。

陶は 大物主子孫・太田多根子に 関与してくる言葉。

一方
徳山城
沿革[編集]
元和3年(1617年)、毛利輝元の次男・毛利就隆が、兄・毛利秀就から下松に3万石を分封される。
慶安元年(1648年)、現在の地である野上村に陣屋が築かれ、翌年に竣工。
慶安3年(1650年)、就隆は藩庁を野上に移し、地名を徳山に改称する。
享保元年(1716年)、万役山事件により、徳山藩は改易される。
享保4年(1719年)、徳山藩再興。
天保7年(1836年)、萩藩の斡旋により、徳山藩主が城主格となり、陣屋が城扱いとなったため、「御舘」を「御城」と呼ぶようになる。

母の家があったところは 佐波郡 (防府市)で 防府市と周南市は重複しているようでもある。

佐波郡から はるか 昔 ヤマトタケルが 九州へ 船出した。
おばからは おばあ様は 毛利さまから院号をいただいたのだよ と 聞き
本家の法名をみると 維新くらいから 院号がついています。
うちは 真宗なので 少し 不思議ですが
本願寺さまからは 昔 本人が寺をもっていたりしたら 院号がつく
ということでした。

干し柿から発展して 山口あたりの方へいってしまいました。

[58]子孫よりさんからのコメント(2014年12月26日 01時37分53秒 ) パスワード

白石様、ご教示ありがとうございます。

まず「尾形家」についてですが、白石様の御親戚の尾形様、平氏とは聞いていないとのお話ですが・・

私の祖母の平川の兄嫁、そして、祖母の姉の二男の嫁の実家である親戚の「尾形家」は、以前からお話しているように、代々青井阿蘇神社にお仕えして、現在は、長男の叔父が宮司として「宗像大社」「鵜戸神宮」そして「菊池神社」を転勤で移動し、現在は、あさぎり町の「岡留熊野座神社」通称「幸福神社」の宮司であり、その他に須恵の複数の神社宮司も兼任しています。
上記から、おそらく、私の親戚である、こちらの尾形家は「豊後大神氏」へと繋がっているのでは?と推測しています。

白石様の御親戚である「尾形」様の系がどちらに繋がるのかは?私にはもちろん勉強不足でわかりかねますが、一応、ご参考までにあらためて、お伝えいたしました。

ただ、祖母の姉が養女に入った椎葉家には、代々伝わる、平家一門の守り観音がありますし、こちらは「平姓」である事は子供の頃何となく聞いています。

しかし、この情報がすぐに平川が「平姓」であったという事には結び付かないと思うのです。

この部分は慎重に調査していこうと思っています。

「平河家文書」を代々伝えて保管してこられたのは多良木黒肥地の「平川家」。
黒肥地という事から、「横瀬高実」を祖とする、横瀬氏の系に繋がる可能性もあります・・(あくまでも推測ですが・・・)

祖母の実家、旧宮原村の平川家には、系を伝えると言われる「刀」が代々受け継がれてきました。残念なことにこの刀は叔父が、先の大戦中に朝鮮半島に在住したという人物に渡したという事ですので、今はもうありません。
巻物・絵巻物は多数、こちらも代々伝えられ継承されてきたそうです。

ただ、上記の2軒の「平川家」に共通するのは「宮原」との姻戚関係です。
平河家文書(黒肥地平川家所有)にも、黒肥地平川家と「宮原」の度重なる姻戚関係が系に残っています。
祖母の実家、旧宮原村在の平川家は、ご存知の通り、私の実家「宮原」との姻戚関係は明らかであり、かなり以前からの姻戚関係であった事も聞いています。
さらに、祖母の平川の甥は、私の祖父の姪(正しくは従姉の娘)と結婚していました。

また、父の親友である「平川家」にも「宮原」との姻戚関係があります。

「宮原」と書きましたが、正しくは物部氏族「伊予橘氏」と平川家との姻戚関係と考えるべきだと思います。

推測で申し訳ありませんが、白石様の御親戚である「平川家」にも、上記の数々の「平川家」同様、物部氏族「伊予橘氏」もしくは「物部氏族」との姻戚関係がおありになるのではありませんか?

平河依高が創建した荒田寺には「川野氏」である僧「林与」の名跡が残っています。
これが、球磨の「平河氏(平川氏)」と物部氏族「河野氏」を結ぶ、最大のカギであると、私は、この頃考えていました。

おそらく古代の「球磨」と「四国」は繋がっているのだと・・思うのです。

昨日、コメントしたように
宮原村の内、小豆島村は讃岐国小豆島より移住人(百六十八戸)、久米(ほ十七戸)三ケ村に分ち合併す・・・
今度、帰郷しましたら、人吉の図書館で湯前町史をぜひ読みたいと思っているのですが、上記の記述より旧宮原村・久米村・そして何れかの「村」、この三ケ村に讃岐国小豆島の住人が移住されたという事で考えても、時代は下った中世においても球磨と四国との繋がりを強く感じます。

四国の他、今までの平河の調査で様々な地名を目にしてきましたが、とくに備前 備中 備後 この地名は頻繁に目にしてきたと思います。
中には、とても恐ろしくなる記述もありました。
平河師里の刈田狼藉を上洛して訴えようとした坂兵部房覚英は上洛の途次備後国で殺害された・・・という話などは、視点を変えると「平河」と備後国の何れかに確実に「縁」があったという事ではないのでしょうか・・
平河は「備前前司」と呼ばれる「北条氏」との縁もありました。
そのほか、多数の記述あり・・
現在の「岡山県」にもカギがあるのでは?

そう考えて今、ウィキの記述をあらためて読んでみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E7%9C%8C

温暖な瀬戸内の気候を背景に古代より独自の文化圏を形成し、現在では中国・四国地方の交通の要衝として発展している。
北は中国山地、南は瀬戸内海に面しており、大小併せて約90の島を有す。東は兵庫県、西は広島県、南は香川県、北は鳥取県と隣接している。
広島県東部に位置する備後地方や香川県島嶼部などと併せ、古くは「吉備国」と呼ばれた。吉備国は大和朝廷に並ぶほどの強大な勢力を持っていたとされ、県内にも数多くの遺構が残っている。江戸時代には岡山に池田氏、津山に森氏が入封し、倉敷は天領となった。特に池田氏は日本三名園の後楽園を造成し、閑谷学校を開くなど、文化・教育面で多大な功績を残した。
(・_・)江戸時代には岡山に池田氏、津山に森氏が入封
(・_・)特に池田氏は日本三名園の後楽園を造成し、・・大な功績を残した

古代[編集]
6世紀前半に大和朝廷への臣従したのち、吉備国は勢力抑圧のために備前国、備中国、備後国の3国に分割され、さらには備前国から美作国が分国された。国府は現在の岡山市(備前国)、総社市(備中国)、津山市(美作国)にそれぞれ置かれた。
旧吉備国からは奈良時代に中央政権で権勢を振るった吉備真備や道鏡の天皇位簒奪を阻んだ和気清麻呂らの優れた人材を輩出した。
平安時代には備前・備中は受領にとって実入りの多い、「上国」の一つとされており、農業生産力が高かった。またこの時代に各地に荘園が拓かれた。特に鹿田荘は藤原氏の氏の長者が受け継ぐ4つの荘園(殿下渡領)の一つであった。その他に大安寺荘(岡山市北区)など。平安時代末期には平氏の勢力圏に置かれ、1183年(寿永2年)には県の南東部、倉敷市玉島地区で、翌年には藤戸地区で源平合戦が繰り広げられた(水島の戦い・藤戸の戦い)。

(・_・)池田氏と岡山は、明らかなる縁ですが・・
ひとつ、とても気になる記述を見つけました・・
美作には森家が18万6千石で入封。4代で断絶の後、越前松平家の宗家筋の津山藩10万石、三浦家の勝山藩2万3千石が成立した。
幕末期になり薩摩藩や長州藩による倒幕の動きが広がると、外様であった岡山藩は勤皇派に、親藩・譜代であった津山藩・備中松山藩は佐幕派に分かれ、1868年(明治元年)に勃発した戊辰戦争の際には当時の藩主である板倉勝静が老中職にあった備中松山藩を朝敵として岡山藩などが攻撃を加えた。

(・_・)美作には森家が18万6千石で入封。

美作って・・えええっ!!そういえば橘公業と美作朝親の妻をめぐる騒動。合戦に発展する可能性もあったあの騒動・・美作って・・

上記の記述を読んでも、明らかに「物部氏族」は岡山県との縁が深いという事がわかりました。
その土地に「縁」があった痕跡(記述等)が残る「平河」。

後、もう一か所、平河の調査にて様々な記述で目にしたのは「伯耆国」。
こちらについては、今後、しっかりと調査いたします。

では<(_ _)>(^・^)
[59]子孫よりさんからのコメント(2014年12月26日 06時44分49秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、私がコメント58を入力している間に、白石様からのコメント57がアップされていたようで・・
ご教示ありがとうございます(^・^)

お母様の御実家は佐波郡だったのですね(^・^)
「佐波郡」と聞くと、すごく懐かしいです。
徳地町には、以前何度か伺った事がありまして当時は「佐波郡」だったかと?記憶しています(^・^)

ところで・・
昨日、白石様のコメントに
「前に五木の平家一門をまつっている椎葉さんの話がありましたが、・・・」
というお言葉がありますが、すみません(';')こちらは、私の親戚をおっしゃっていらっしゃるのでしょうか??(違っていたらすみません(._.))

もしも・・もしも・・私の親戚に関するお話でしたら・・内容がちょっと違っていますので・・・?
もしも、そうでしたら、おそらくこのお話を書いたときに、暗号のような文書になったせいですね(ごめんなさいでございます(._.))
(平川家について18 コメント33ですね・・)
あらためて、ご説明を(._.)

五木から嫁いで来られているのは、深水の叔父嫁。すなわち叔母です。
叔母の実家は、「平家」そして「菅原家」の伝説に関係する「家」なので、ご存知の方がいらっしゃるかも知れませんのであえて「姓」は書けません。

平家一門の守り観音に関する、椎葉家とは違います(._.)祖母の姉が養女に入った椎葉家は五木ではありません。

深水の叔母の五木村の実家からは、さらに、昨日コメントした尾形家に嫁いで来られていまして・・
その方を母とするのが、祖母の兄嫁。
すなわち・・
五木村某家 → 嫁ぐ「深水家」(祖母の従弟の嫁) という姻戚関係と
五木村某家 → 嫁ぐ「尾形家」・・を母とするのが、祖母の兄嫁(平川先代当主の嫁)。
五木村某家 → 嫁ぐ「尾形家」・・を祖母とするのが、椎葉の叔父嫁。(平川から養女に入った祖母の姉の子供の嫁)
深水家 → 嫁ぐ「平川家」(祖母や上記の兄弟姉妹の母)

という事です。

うううん???こうやってあらためて書いてみると・・
五木村某家 (先祖・菅原氏および平家に関係)は、尾形・平川・椎葉・深水を繋ぐ「鍵」となるお家ではありますね・・???ありゃりゃ??

ただ、五木村某家 と尾形・平川・椎葉・深水の姻戚関係は、最近始まった事ではなく、何百年も続いているようです・・ううん??あれれっ??

あらためて、ご説明したお陰で、私の頭の中でもやっと理解できたような気がします・・

遡ると・・平河義高は、妻子を縁戚のいる五木に逃がしていた・・

あんれ〜〜っ?????

白石様、ありがとうございます。何だか、説明をあらためてした事で、少し見えてきたようです・・<(_ _)>

では<(_ _)>
[60]子孫よりさんからのコメント(2014年12月26日 07時01分47秒 ) パスワード

追記

そういえば・・・

実家から約300メートルほど先、平川家の土地であり、さらに、祖父の生家からも300メートルほどと近い、場所に・・
稲積神社(御祭神 天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)さらに右五神。別天津神(ことあまつかみ)」
そして・・
菅原神社が鎮座されていらっしゃったのでありました・・・

では<(_ _)>・・(._.)・・(?_?)
[61]子孫よりさんからのコメント(2014年12月27日 01時38分58秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

あの・・・唐突ですが・・ついに真相にせまる事実が解りました。
祖母の実家、旧宮原村の「平川家」についてです。

すみません。朝のコメントでは五木の親戚を「某家」と書きましたが、こちらの名前を出さなければ、真相を説明できないと考えて、あえて、書かせていただきます。
五木の親戚の姓は「緒方」です。
そして「緒方家」は「左座家」(ぞうざ と読みます)という「家」と親戚関係あり「左座家」は祖母の実家「平川家」とも遠く縁戚関係となります。

「緒方家」は平家に繋がるという事は知っていたのですが、私の頭には「緒方」というと、豊後の緒方氏しか思い浮かばず、「大神氏」では?ないのかな?と・・さらに「平家」に繋がる?という意味も全く解らず、調査する事も行っていませんでした(@_@。
五木村緒方家 → 嫁ぐ「深水家」(祖母の従弟の嫁) という姻戚関係と
五木村緒方家 → 嫁ぐ「尾形家」・・を母とするのが、祖母の兄嫁(平川先代当主の嫁)。
五木村緒方家 → 嫁ぐ「尾形家」・・を祖母とするのが、椎葉の叔父嫁。(平川から養女に入った祖母の姉の子供の嫁)
深水家 → 嫁ぐ「平川家」(祖母や上記の兄弟姉妹の母)

朝のコメント59・60を書いた後、どうしても気になりまして、親戚に電話をかけて確認しました。
そして・・・
従弟と話しをして、祖母が従弟に話した事を聞く事が出来ました。
今からお話する事が、祖母が亡くなる前に「私に話しておかなければいけない」と言った事の一つだと思います。

祖母が従弟に伝えた言葉
「ばあちゃんの先祖は、平清盛の直系で孫にあたる人やったとよ」
「平川の親戚は緒方と尾形がある。平川と尾形と緒方は最初から親戚やけん覚えとかないかん」

従弟は、「私はこの話を知っているもの」と思っていたようです。
おそらく、祖母は、私がすでに嫁いでいて、「宮原」や「平川」の事を聞く事もなかったので、いつか話せばいいだろうと思っていたのだと思います。
所が、祖母が亡くなった年の正月(この時までは祖母はとても元気でした)に、私が実家に帰省した際・・・
その当時の私は、心身ともに疲れ果て、結婚生活を継続する自信がなくなり、初めて祖母に、少しだけ、心の内を話しました・・
祖母は、「あんたは宮原の大事な娘バイ。いつでも帰ってきなさい」と言ってくれました。
そして・・「あんたには、話とらん事が沢山あるけん。これから、色々、話していかんバいけんタイね(^・^)」と嬉しそうに笑っていました。

従弟に「平清盛の孫で、ばあちゃんの先祖になる人の名前は?!!」と聞いたのですが、従弟は聞いたかもしれないけれど、覚えていないという感じでした・・
今年の正月に帰省した時に「平川」と「良峯氏」の関係を話したので、従弟は祖母の話を思い出して、???と混乱していたようです。
(従弟は、私が上記の祖母の話を知っていると思っていたようですから、混乱しても当然です・・)
さらに・・正月、私が、話をした時に、親戚の叔父が「うちは平家タイ!!」と言った事は、以前コメントしていたかと思います・・

頭を整理しました・・
※平清盛の孫
※「緒方」「尾形」とも関係している人物
※今までの調査であがった、球磨に関係する「平姓」の人物は?
 「平 頼盛」 「平貞能」 「平重盛」 さらに、平氏に関係する「藤原景清」

落人伝説・・・そう言えば以前、父が「ここでは亡くなったと言われた人達が生きとんなったトヨ」と言っていました。

漠然と推測するよりも、「キーワードがそろっているのだから」と調べたのですが・・・

やはり五家荘そして五木村の「緒方家」が鍵となっていたようです。
秘境五家荘・五木の里・人吉
http://www.iokikai.or.jp/itukinosato.htm
ピックアップして転記させて頂きます(._.)

壇の浦で源氏に敗れた平清盛の孫、清経は豊後竹田に逃れ、緒方実国の娘を妻に迎えて緒方姓を名乗った。後、現在の五家荘に隠れ住んだ。やがてその子孫たちはそれぞれ緒方姓を名乗り3家が庄屋を務め椎原、久連子、葉木に別れ住んだ、という。
 また平家の落人が住み着く約200年前、藤原一族の陰謀によって、筑前太宰府に流された菅原道真には二人の子供がいた。道真の死後、この兄弟の仕返しを恐れた藤原一族は、筑前に軍勢を差し向ける、しかし兄弟は肥後の山深い樅木、仁田尾に左座(そうざ)姓を名乗って隠れ住んだ。その子孫の2家が庄屋として村を治めた。

(・_・)平清盛の孫、清経は豊後竹田に逃れ、緒方実国の娘を妻に迎えて緒方姓を名乗った。
(・_・)筑前太宰府に流された菅原道真には二人の子供がいた。・・兄弟は肥後の山深い樅木、仁田尾に左座(そうざ)姓を名乗って隠れ住んだ。

(・_・)さらに転記します。
椎原の緒方家
平清経は源氏の追討を逃れるために入水と見せかけて、四国伊予今治、阿波国祖谷さらには豊後竹田へ。その後、姓を緒方と改めて泉村椎原に住み着き、この地を支配した。
(・_・)四国伊予今治、阿波国祖谷・・・伊予と阿波・・あれっ??

(・_・)おそらく、尾形・平川・椎葉・深水を繋ぐ「鍵」となる「緒方家」はこちらの記述にあった平清経の系となる「緒方家」だと推測しました。

平清経とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%B5%8C
平 清経(たいら の きよつね)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の三男。母は正室の藤原経子。横笛の名手として聞こえた。
略歴[編集]
寿永2年(1183年)に平家一門が都落ちした後は、次第に悲観的な考えに取り付かれ、大宰府を元家人である緒方惟義に追い落とされたことをきっかけとして、豊前国柳浦にて入水自殺した。享年21。『平家物語』「六道之沙汰」の段で建礼門院による述懐に、清経の死が平家一門の「心憂きことのはじめ」として語られている。
清経が入水したのは現在の大分県宇佐市柳ヶ浦地区・駅館川沖合といわれており、これにちなんで駅館川河口付近に小松塚と呼ばれる五輪塔および慰霊碑が建てられている(「小松」の名は清経の父・重盛が小松殿と通称されたことに由来する)。また、小松塚のたもとにある橋(駅館川河口に最も近い)も小松橋と名付けられている。

系譜
父母 平重盛、藤原経子
兄弟 維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実
妻 藤原成親の娘

\(◎o◎)/!
父が「平重盛」・・・・あっ!!繋がりました!
母が「藤原経子」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%AD%90_ (%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%A5%B3)
藤原経子 (藤原家成の四女)
藤原 経子(ふじわら の けいし/ つねこ、生没年未詳)は、平安時代末期の女官。父は中納言・藤原家成。兄弟に藤原隆季・成親がおり、成親は同母兄と見られている。左大臣・大炊御門経宗の猶子。
平重盛の正室となり、清経・有盛・師盛・忠房を産む。仁安元年(1166年)、叙爵。同年10月、憲仁親王の立太子にあたり、乳母に選ばれた。仁安3年(1168年)、高倉天皇即位により、従五位上・典侍となる。嘉応元年(1169年)11月の八十嶋祭では、勅使役を勤めた。夫・重盛の官位から、大納言典侍、大納言三位と呼ばれた(ただし、従三位に叙された時期は不明)。承安元年(1171年)以降の記録は見られないが、重盛没後も存命であり、その後出家したものと推測される[1]。

\(◎o◎)/! この方は藤原家成の娘だったのですね!!
さらに、この方の母は「藤原経忠の娘」。
藤原経忠にも繋がりました\(◎o◎)/!
そして、藤原経忠の母は増秀の娘。

橘則光の兄弟「橘則隆」。
「橘則隆」の娘は藤原北家道綱流「藤原顕綱」の子「藤原兼経」息「藤原道経」の妻となり「増秀」をうみます。
増秀の娘が「藤原経忠」の母です。
橘則光そして橘則隆にも繋がりました\(◎o◎)/!

平清経の妻 藤原成親の娘
\(◎o◎)/!
藤原成親・・この方は!! もう、皆様お解りと思いますが、あらためてウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%88%90%E8%A6%AA
藤原 成親(ふじわら の なりちか)は、平安時代末期の公卿。中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。
中略・・
鹿ケ谷の陰謀[編集]
詳細は「鹿ケ谷の陰謀」を参照
安元2年(1176年)7月に建春門院が死去したことで、後白河法皇と平家の対立はしだいに顕在化する。その対立は、安元3年(1177年)4月の白山事件により決定的なものとなった。延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こしたのに対して、師高の父・西光は天台座主・明雲の処罰を後白河法皇に進言するなど、院と延暦寺の抗争は激化していた。清盛が上洛して、後白河院の命令を受けて延暦寺攻撃の準備を進める中、6月1日成親は突然、清盛によって逮捕された。
『愚管抄』によれば、成親は「何事ニカメシノ候ヘバ見参ハセン(何事か御召しがあったので参りました)」と公卿座にいた平重盛・頼盛に挨拶して奥に入ったところ、清盛の家人・平盛俊に縄をかけられ部屋に押し込められてしまい、驚いた重盛が「コノタビモ御命バカリノ事ハ申候ハンズルゾ(今度もあなたの命だけはお助けするようにと、父の清盛に頼んでみます)」と励ましたという。西坂本まで下っていた大衆は「敵を討っていただいたことは喜ばしい」と、清盛に返礼を述べている。成親は嘉応の強訴以来、西光と並んで延暦寺の宿敵だった。
『百錬抄』が「成親卿已下密謀有るの由」、『愚管抄』が「成親、西光、俊寛ナド聚(あつま)リテヤウヤウノ議ヲシケルト云事ノ聞エケル」と記しており、平氏打倒の謀議があったことは事実と思われる。成親が陰謀を企てた理由として、『平家物語』は辞職した藤原師長の後任の左近衛大将を所望したところ、平重盛と平宗盛の兄弟が左右大将に任命されたことを恨みとしたとするが、大将になれるのは限られた家柄のみであり、成親の身分で大将を望むのは現実的でなく事実かどうか疑わしい。同じ話は『平治物語』にも藤原信頼の逸話として見え、『平治物語』と『平家物語』の成立は同時期と考えられることから、双方ともに文学的虚構である可能性も否定できない。
6月2日、成親は備前国に配流され、18日、解官された。平重盛から衣類を送られるなどの援助を受けていたが、7月9日に死去した(『百錬抄』)。食事を与えられずに殺害されたといわれる(『愚管抄』)[5]。

(・_・)平清経の妻は藤原成親の娘

藤原成親は西光・藤原師高と同じく鹿ケ谷事件で亡くなったのです・・

平清経は平重盛の子息であり、平清盛の孫であり・・しかし
藤原家成の孫でもあり、藤原成親の甥にして娘婿でもあり、藤原経忠(母増秀の娘)のひ孫であり、橘則光そして橘則隆にも繋がり、そして、西光の甥であり、藤原師高の従弟であり、豊後「緒方氏」緒方実国の娘を妻にもち・・
平清経という方は・・・
私がこの1年半をかけて調べてきた全ての人物に繋がる人だったのですね・・

「ばあちゃんの先祖は平清盛の直系の孫だった・・・」
これが、私の祖母の言葉です。

祖母の言った「先祖」となる人物が「平清経」この方なのかはまだ解りませんが、「平清経が緒方実国の娘を妻に迎えて緒方姓を名乗った。」というこちらの緒方家とは、平川は何百年も前から繋がっているようです。

さらに、最初にご紹介したサイトの記述中にあった「樅木村」。
http://www.iokikai.or.jp/itukinosato.htm
樅木・・ここは!!
山江村誌に記述されていた、黒肥地平川家所有「平河家系図」の中に
平河将親の子供「平河長雄」の記述に
平河長雄 樅木伊左衛門。樅木家相続。

とありました!!

皆様も驚かれたと思います。私も、突然の事で・・
「良峯氏」と平河の関係についても、未だ解っていません。
さらなる調査を進めます。
では<(_ _)>
[62]子孫よりさんからのコメント(2014年12月27日 08時33分50秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

今朝は、ちょっと遅くなったクリスマスプレゼントを持って、弟の所に出かけてきます。(^・^)

その前に、昨日のコメントで書かせて頂いた事を、再度、確認してみました。

まず、昨日、見落としていた記述がありました。

平 清経 父母 平重盛、藤原経子
母の藤原経子。この方に関するウィキの記述
「藤原 経子(ふじわら の けいし/ つねこ、生没年未詳)は、平安時代末期の女官。父は中納言・藤原家成。兄弟に藤原隆季・成親がおり、成親は同母兄と見られている。左大臣・大炊御門経宗の猶子」
(・_・)平 清経の母藤原経子は左大臣・大炊御門経宗の猶子。
ここで、大炊御門家に繋がっていたのですね・・

大炊御門経宗(藤原経宗) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%AE%97
藤原 経宗(ふじわら の つねむね)は、平安時代末期の公卿。大炊御門家の初代の藤原経実の四男(あるいは五男)。同母姉に贈皇太后・懿子(二条天皇の生母)がいる。

記述の内容は、夜、検証しますが・・
先に系譜をご覧ください。
父:藤原経実
母:藤原公子(藤原公実の娘)
妻:藤原清隆の娘
男子:藤原頼実(1155-1225)
妻:橘政光の娘
男子:大炊御門師経(1175-1259)
生母不明
男子:宗源
女子:三条実房室
女子:藤原兼房室
猶子:藤原通成 - 藤原清隆の子
猶子:平宗実(1168-?) - 平重盛の子
猶子:藤原経子 - 藤原家成の四女、平重盛の正室、高倉天皇乳母

(・_・)ああああああああ〜〜〜〜〜
そうか・・・・そうでした・・・
妻:橘政光の娘
男子:大炊御門師経

この方は、大炊御門師経の父でした・・
妻:橘政光の娘。橘政光は先日、コメントしていたように・・
橘政光の後裔には伊予橘氏と同名の「矢野氏」
そして・・
※人吉藩9代藩主 相良 頼完・・3代頼喬の正室・月仙院の弟・権大納言鷲尾隆長の養子(正室の弟)・権大納言鷲尾隆熙の次男 鷲尾隆熙(大炊御門経音の次男)

という事は・・・
平 清経の母、藤原経子の養父「大炊御門経宗」と橘政光の娘を母とする「大炊御門師経」の後裔が・・人吉藩9代藩主 相良頼完 という事ですね・・・

そうすると・・確かに、平清経に関連する系は後世の人吉藩に繋がってくるという事ですね・・

そうか・・・

平 清経の妻は「緒方実国の娘」
こちらの調査は、弟の病院から帰宅して、夜にも行います・・

では<(_ _)>




[63]白石さんからのコメント(2014年12月27日 20時17分52秒 ) パスワード

こんばんは
樅木さん
椎葉さんと同じように 私が知っている樅木さんが 子孫様がかいておられる樅木氏につながるかは? でも 同じ字を書き 地域には 相良氏族の中に見える名字が結構あり 平河の霊社があったと伝える 山田葉木 の 地名と同じくする萩に高岡 高田 田中 永田がおり
やはり たどり たどれば 樅木家も つながっていくだろうと 思います。

この 樅木さんは お母さんの顔は ターシャ・テュウダーのような顔の人でした。勿論 若いころですから 人目をひく美人だったわけです。

アメリカ籍の人と結婚して 女子・男子と二人の子供がいました。
そのうちの 女子だけだったか 母親もろともだったか 定かではありませんが
中学在籍中に 父親のところへ引き取られていくことになり 渡航に必要な書類も皆 その女子が書いたのだとか

まったく 子供たちは どこからそういう知識をしいれてくるものか
ハーフは頭がよかっげな
4分の一だと クォーターげな とか
ハーフは運動神経やら頭のよかっげな
とか
はてには
ドイツ人と血の混じれば一番頭のよかっげな
とか さまざまにいって
いじめではならくて 羨望のまなざしで
体力測定のときなど 鉄棒にぶらさがり 顔を鉄棒の上に出して 何分持つか とかやっていると
皆 ばたばた 落ちてくるのに そのひとだけ とてつもなく長い時間ぶらさがっていると 「やっぱりなあ」とか
妙に納得でした。

足が長く腰高で 顔立ちも当然よくて 
ハーフが良かったいな とか へんに 納得しながら
ドイツ人との混血が優れていると聞けば ダンケシェーン とか ゲルピン とかいって 情報に乏しい地域ながらも 想い出は楽しいものでした。

何年か前 帰った時 集落に 樅木さんはおんなっとよ と娘が言っていました。
あれから 50年くらいたっており その人たちが帰ってきたものか 親せき筋の人が住み着いているのか わかりません。
[64]子孫よりさんからのコメント(2014年12月28日 09時01分57秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

弟に会いに行ってきました(^・^)
私になりに選んだクリスマスプレゼントを弟はとても喜んでくれました(^−^)
(CDです)

白石様、コメントありがとうございます(^・^)
白石様のお知り合いの樅木家。
地域もそんなに離れていない場所という事で、繋がりがある可能性は高いという事では・・・

白石様の御親戚の「平川家」と白石様のお知り合いの「椎葉家」「樅木家」さらに五木・五家荘の「緒方家」との縁戚関係はいかがなのでしょうか?

私の祖母の実家「平川家」と緒方家は近年でも縁戚関係は継続されているので、白石様の御親戚の「平川家」が同じように「緒方家」との縁戚関係が継続されているのであれば、先日から、コメントしているように「緒方家」は球磨全体に広がった「平川一族」と強い繋がりがある「鍵」になるのかな?と思うのですが・・いかがでしょうか?

ただ、昨日、熊本県合志市の弟の病院への往復の際、時間が長いので、少し冷静に考えてみたのですが・・

※近年の「緒方家」との縁戚関係(旧宮原村在「平川家」)
五木村緒方家 → 嫁ぐ「深水家」(祖母の従弟の嫁) という姻戚関係と
五木村緒方家 → 嫁ぐ「尾形家」・・を母とするのが、祖母の兄嫁(平川先代当主の嫁)。
五木村緒方家 → 嫁ぐ「尾形家」・・を祖母とするのが、椎葉の叔父嫁。(平川から養女に入った祖母の姉の子供の嫁)
深水家 → 嫁ぐ「平川家」(祖母や上記の兄弟姉妹の母)

このような関係は、何百年も継承されてきた・・という事なのですが・・

冷静に考えてみました(・_・)
「緒方家」(平清経 末裔の伝承あり)→ 尾形家(宮司家・・おそらく大神氏?)
こちらは、現在でも伝承「そのもの」の姻戚関係のような・・

では他は?・・と考えると「深水家」が絡んでいますよね・・
という事は・・
もしかしたら、祖母は「ばあちゃん(母:深水より嫁ぐ)」の先祖は・・・
という意味であったのかな???とも

ただ、従弟はこの話「平川・・平説」を、親戚の中では常識のような感じで言っていました・・?
従弟の祖父「秋岡(伊藤)」の亡くなった先代は、球磨の親戚関係の系譜をとても詳しく御存じの方で、「宮原」の事も「平川」の事も一番勉強されていたようです。
そして、叔父(私の父の弟)は、ある程度は話を聞いてきた・・と。
おそらく、従弟も叔父から、いくらかの話は聞いているはず・・
今年の正月・・従弟と私が、話をしている時に、ほろ酔い加減で横になっていた叔父が急にパッと起き上がって「平川は平家タイ!」と言って、すぐに又横になって(寝たふり??)をしていました・・
でも、その前、叔父がまだ起きている?時に「良峯」について話をしている時は「ふんふん(^・^)」とニコニコ聞いていたのです・・
叔父が少し怒った?ように「平川は平家タイ!」と急に起き上がって言った時・・私と従弟は何を話していたのか??・・思い出せません(*_*;
きっと、寝たふり?をしていた叔父が「これはイカン(ー_ー)!!」と思う事を私が言ったのだと思います・・・(*_*)

あの時・・もうひとつ感じたのは・・
叔父・従弟以外に他に親戚が何人かその場にいたのですが、皆で「宮原」の話をしている時・・
私が「平安末期」時代の話に触れようとした際に、「この場では・・(ー_ー)!!」という空気がす〜っと流れた・・(父と叔父の表情で解りました)
だからそれ以上私は、話すのを止めました(-.-)
きっと、親戚の中には「平安末期」時代の宮原(橘)の「先祖」の「ある話」について、話す事は控えた方が良い「1軒の家」があるのは確かのようです・・・
(色々あるので・・難しいという事はこの時よ〜く解りました(._.))
今考えると、親戚の其々に様々な系が絡んでいるので、だから、共通の「平川の系」を軸として、強く繋がっているのだな〜と痛感しました。
もし・・そうじゃなかったら・・(ワ〜オ(._.))

平川の「平家」説も、即「平 清経」に繋げる事はしません(ー_ー)!!
もっと冷静に、全体を勉強しながら、調査します。
いつも父が言っているように
「先祖や先祖に関係のない人を、あたかも簡単に先祖では?!と言ったらその方が腹かかれる!(怒られる)」と思いますので・・
マタマタ、不思議な事を!!という声も聞こえますが(._.)?これが、私が父から受けた教育ですので・・<(_ _)>

では(^・^) <(_ _)>






[65]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年12月28日 12時15分58秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

平川の地名は各地に有るが、肥後平川氏は遠江国城東郡平川邑発祥が妥当。
建前上、平川氏は良峰姓となっているが、饒速日命の後裔じゃないかな?
遠江と言えば、素賀国造( 静岡県小笠地方)、久奴国造( 静岡県磐田地方)、
遠淡海国造( 静岡県浜名地方)、珠流河国造( 静岡県駿東地方)が
全て饒速日命の後裔では有りませんか?
相良氏も遡れば 饒速日命の後裔で伊予橘氏の裔楠木氏が淵源。
同じく小鹿島の伊予橘氏も同祖。
従って平川氏は素賀国造裔の可能性大。
相良氏の榛原郡とは隣り合わせ。
遠江東部は物部氏(特に穂積姓鈴木氏)、紀氏(池田氏など)、藤原南家が多い地域。
池田氏だって血系的には伊予橘氏なんだから?
何故、平川氏は相良氏の肥後に下向したのか?
ある程度、絞らないと調査は拡散してしまいますよ!
[66]白石さんからのコメント(2014年12月28日 13時08分29秒 ) パスワード

こんにちは
おがた
うちの平川へ祖母の代で嫁入ってきた川向の尾方。
その尾方の女子は同級生で じぶんとこの尾方が平氏とは聞いていない ということは 先日書きました。
平川のおば すなわち 尾方から来た祖母の子は おばあさんのもとえは平氏だったと 言っていました。平川は元士族と・・・そして 父の母の墓の行方も 私は大阪に来ていて知らなかったのに 改葬したところまで知っていました。
尾方の女子は 早くに 大阪に出たので 聞いていなかったとも考えられます。どちらも 桐紋を 使います。

球磨郡誌で 尾方は平氏とぞ 信じがたしと 書いてありますが
平氏を言う尾方がいたかも ・・・・

子孫様のところは 尾形・緒方で 神職を持ち回りされているとか ・・・明治のころまで 世襲制だったのが そのご 持ち回りになった ということは 熱田神宮で教えていただきました。あそこは 最後まで残ったのが 千秋家ですね。頼朝を出しているところ。
市房神宮の尾方氏から お手紙をいただいており つまり この 尾方氏は 明治の頃からおられたかただったか と。
神社本庁の本に載っている青井阿蘇神社の宮司・尾方氏もそうなのか?

とにかく 私の知っているおがた は 尾方です。
一人 同じ会社にいた緒方君がいますが その人が 島根出身の田中さんと 一卵性双生児かと 間違えるくらい 姿かたち・笑い方口の開け方までそっくりでした。

玉子型を少しのばしたような輪郭の顔で 色白でした。

[67]子孫よりさんからのコメント(2014年12月28日 13時34分29秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

そうですね・・全て饒速日命の後裔に繋がっています。
「源平藤橘」・・といった繋がりではなく、もっともっと先を辿れば、みな同祖という事ですね。
(だから父に何を聞いても、その辺(鎌倉時代以降)はよく解らん(ー_ー)!!それより、もっと先の系を見なさいと言われるわけです(._.))

先日コメントしましたが宮原(伊予橘氏)の先祖、「橘公業」も遠江国に深い縁があったようですし・・
その後の平川との姻戚関係も明らかですし・・

どう考えても「遠江国」に何か核心があるようです。

ところで・・
今まで、コメントしていませんでしたが、一つ、カミングアウトします。
私の前嫁ぎ先ですが、まだ、一つ、書いていない事がありました。
(どうしようかな・・と思っていたのですが、ここまでくれば(._.)!)

前夫の母方の祖母は大三島「越智家」から嫁がれたと書きましたが・・
その嫁ぎ先、すなわち前夫の母の実家は・・「池田家」です(._.)

(-.-)すなわち・・
大三島「越智家」 → 嫁ぐ「池田家」 → 嫁ぐ「前嫁ぎ先」・・・生まれたのが前夫。
という事になります。
「まんまやないか〜〜〜い!!」とすごい合唱が聞こえてきたような・・(-.-)

その前夫と・・物部氏→越智氏→伊予橘氏→小鹿島氏→宮原氏・・生まれる「私」が・・
偶然出会い・・恋愛して・・結婚した!!という事です! ぎゃおっ!!

こっこれは!!よくテレビ番組で取り上げられているどんなミステリーよりも
「より」ミステリーな現実でございます(-.-)

どう考えても「クンクン」(o|o)!!と臭覚が働いたとしか考えられません(p_-)

もしかしたら、遥かなる先祖様は「ものすごい強大なパワー」をお持ちだったのでは?!
「お前たちは・・ここで出会うのジャ〜!!」と・・・
そして二人の子供が生まれた・・

あの・・(マタマタと言わないでくださいね(._.))
私の両親は「先祖が合わなかった」という摩訶不思議な理由で離婚しました。
もしかしたら、これは、母方が饒速日命の後裔ではなかったから??・・・?

そして「先祖が合わなかったという両親」から生まれた私が、前夫と結婚して、子供を産み(離婚はしましたが・・)その・・何というか・・軌道修正?をした????

確かに・・前夫とは離婚するほどの状態ではありましたが・・
義父・義母・さらに前夫の母方の祖母から、私はとても、とても大事にして頂きました。
本当に、感謝しています。

全てに感謝する心を持っていきたいと思います。

さっ!!御教示を頂きました、「遠江国」を中心に、調査開始です!!
では<(_ _)>

[68]子孫よりさんからのコメント(2014年12月28日 13時41分45秒 ) パスワード

白石様、御教示ありがとうございます(^・^)

白石様の御親戚の「平川家」と「尾形家」は姻戚関係にあったという事ですね。
教えていただいてありがとうございます。

あの・・
「子孫様のところは 尾形・緒方で 神職を持ち回りされているとか ・・・」
この部分ですが・・すみません、何だか?違います。

家の親戚の「尾形家」は歴代神職を継承していますが、親戚の「緒方家」は神職ではありません。
後世では地域の「庄屋」でした。
解りにくいですよね・・・すみません(._.)

では<(_ _)>(^・^)
[69]子孫よりさんからのコメント(2014年12月28日 13時48分51秒 ) パスワード

追記
あの・・白石様。

御教示にあった
「神社本庁の本に載っている青井阿蘇神社の宮司・尾方氏もそうなのか?」
のっ「尾形氏」が家の親戚の「尾形」でございます(._.)

今の「宮司職」のお仕事?は大学卒業後、まるで、会社のように転勤?で、国内の様々な神社を移動されるみたいです。
がっしかし、先代までは家の親戚の「尾形家」は青井阿蘇神社の宮司を代々継承してまいりました(._.)

何だか、解り辛いですよね・・すみません(._.)
[71]子孫よりさんからのコメント(2014年12月28日 14時06分39秒 ) パスワード

さらに・・
「市房神宮の尾方氏から・・・」
の尾形氏も、全て一族。「尾形宮司家?」とでも言えば解りやすいでしょうか・・

つまり、球磨・人吉の殆どの神社宮司職は「尾形家」一族が継承しているという事でございます。

球磨・人吉には宮司職を継承する「尾形一族」があるという事です。<(_ _)>

「緒方家」は、後世と書きましたが(何時からだろう?)名字帯刀を許された「庄屋」であったという事です。
この辺りは、今度帰省して確認します(._.)
[72]子孫よりさんからのコメント(2014年12月28日 14時39分16秒 ) パスワード

白石様
すみません(._.)
今、よ〜く考えたのですが・・「緒方」と宮司職の関係は・・??
私も、適当な事を書けないな!と思いました。
帰省してきちんと確認します。

「庄屋」についても・・「士族」とも聞いた事があったような・・??・・あれっ??
よくわからないのですが「庄屋」と「士族」は別ですよね???(?_?)

いい加減な事は書けないので、全て帰省してから、きちんと聞いてきます(._.)
ちなみに30日より球磨に帰ります(^O^)/

では<(_ _)>(^・^)
[73]子孫よりさんからのコメント(2014年12月28日 15時58分47秒 ) パスワード

マタマタ登場です(^・^)

えっ〜〜〜お正月休みに入られた方々もいらっしゃるかと思いますので(誰に話しかけているのでしょうか?)
ここで、もう一つ!

宮原摩訶不思議劇場にご招待を<(_ _)>・・今日は冬休み特別スペシャルです((ー_ー)!!)

前嫁ぎ先との「縁」・・偶然の出会いですが・・摩訶不思議です。

ただ、もう一つあるのです。

度々、登場するM田さんについてです。
M田さんのお母様の実家の姓については以前、ご紹介いたしました。
こちらも、この頃の調査で何度も目にするので、何かしら御縁があるのかな??とは思っていたのですが・・

先日(5日程前)、ある「事実」を知りました。

M田さんの「M田」は、この方のおばあ様の姓だそうでして・・
そして・・おじい様の姓はと言うと・・・・
「鬼塚」でした。

もうお気づきの方もいらっしゃると思いますが・・

私の祖母(ばあちゃん)が父に言っていた言葉・・以前コメントしていました。
転記いたします(-.-)

コメント21より(-.-)
父は、祖母(ばあちゃん)より、岡原村における?宮原家の古からの親戚を、「覚えとかんばイカンヨ!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」と聞いていたそうでして
「石川家」と「鬼塚家」だそうです。

っと私書いていました・・(-.-)(?_?)(?_?)(?_?)(-.-)
先日、M田さんのお家の御仏壇にお参りしていて、ふと気がついて、M田さんに聞いた時の私の「超〜ビックリ」(ー_ー)!!いえ「驚き」。皆様にもお解り頂けますでしょうか?
ちなみにご出身は「天草」という事でした・・

何だか・・人の出会いは縁ですよね〜(^・^)・・では、すまされない程、私の出会いは摩訶不思議です\(◎o◎)/!

という事で、摩訶不思議な私の出会い・・というお話でした。

では<(_ _)>・・・あっ(;一_一)・調査はどうした!!の声が・・
では<(_ _)>


[74]白石さんからのコメント(2014年12月28日 21時54分43秒 ) パスワード

こんばんは
鬼塚先生
おもしろいですね。子孫様が書かれる苗字のところは 先生として 教えていただいた 方がたの苗字にあります。
鬼塚先生は 坂本九ちゃんのあごを すこし引き延ばして細くし たような顔で 愛嬌がある目をしていました。同級生の堀川・林田君・紫安さん の 顔に似てきます。紫安さんは おかあさんが山田の出だったそうです。

http://23.pro.tok2.com/~freehand2/frame-411.html
鎌倉時代を歩く 壱で興味深いことをみました。

常盤御前のまわり
平治物語に拠れば、常盤は近衛天皇中宮の九条院(藤原呈子)が女官を採用する際に千人の美女から十人を選び、更にそこから一人を選んだ絶世の美女。

常盤は長男の今若を醍醐寺へ、二男の乙若を園城寺に入れ、末子の牛若丸だけを手元で育てた。

今若丸の行く末 子孫は 前にもコメントしましたね。。
★ウィキより
全成の娘は藤原公佐(滋野井実国の養子、実父は★藤原成親)と結婚しており、その子実直は母方の全成の名字を称し公家としての阿野家の祖となっている。後醍醐天皇の寵愛を受け後村上天皇の母となった阿野廉子はその末裔である。また、幕末に活躍した★玉松操もこの阿野家の末流に連なる。
[75]白石さんからのコメント(2014年12月28日 22時10分57秒 ) パスワード

★常盤御前は 清盛との間に 女子を生んでいる。つまり 義経たちとこの女子はいふきょうだい ということになり
義経と清盛と比べれば 常盤を介して 清盛に近くなった義経は 清盛にとって 不安材料だったのでは?とも思う。

★※長成と秀衡:長成の母の従兄弟が平忠盛(清盛の父)と交流のあった鳥羽上皇の近臣従三位藤原忠隆。その長男が★藤原基成

★一條長成と常磐の間に生まれた能成はこの当時23歳、義経の側近として行動を共にしている。義経失脚後の一時期は不遇だったが、義経の死没19年後の建保六年(1218)には政界に復帰し、父長成の果たせなかった従三位(公卿)に昇進しているのも興味深い。

藤原長成は 藤原北家道隆流(水無瀬流)・・・菊池に関与してきますね。
義経が幼少時、奥州平泉の藤原秀衡に庇護されたのは、長成の支援によるものといわれる。秀衡の舅である藤原★基成は長成の母方の従兄弟にあたる藤原忠隆の子であり、親戚関係にあった。

子孫様のコメントに過去あった人たちがでています。子孫様はこのページはすでにご存じとは思いますが・・・
[76]白石さんからのコメント(2014年12月28日 22時49分44秒 ) パスワード

★義経が前髪を切り落としたあたりは
日本書紀に拠れば、鏡の里は第十一代垂仁天皇(在位は紀元前29〜紀元後70年・神話の世界)の頃に帰化した新羅の王子・★天日槍(あめのひぼこ)の従者が定住して陶芸や金工を生業とし祖神として王子を祀ったのが最初。後に★近江源氏系・佐々木氏支族の鏡氏が崇敬しこれを守った、と。

★近江国蒲生郡は義朝に臣従した佐々木秀義の本領だったが平治の乱で敗れて関東に逃れ、鏡の里で牛若が元朊した承安四年(1174)3月は相模国で渋谷重国の食客として暮らしていた。6年後には先妻の子4人(定綱・経高・盛綱・高綱、母は為義の娘)が頼朝に従って挙兵し幕府の樹立に貢献している。渋谷重国の娘が産んだ末子の義清のみ大庭景親に従ったが後に許され、頼朝御家人に加わった。一族は後に承久の乱(1221年)で敵味方に分れ殺しあうことになる。.

比企の尼は男子に恵まれなかったが、三人の娘(養女または姪の説もあり)がいた。長女の婿は伊豆の流人時代から頼朝側近として信任の厚かった安達籐九郎盛長(1135〜1200)、二女は河越重頼に嫁して義経の室(郷御前)を産んだ。三女は伊東祐親の次男・祐清に嫁し、祐清の没後は平賀義信(新羅三郎義光の孫)に嫁して大内惟義や平賀朝雅(後に北條時政の娘婿)を産んでいる(二女と三女は共に頼家の乳母でもある)。
※平賀 大内なども出るので 子孫様 きっと 読んでおられると思います。
近江の平川氏が宇田源氏の筋だけど 球磨の平川とのつながりは?
あるのでしょうか?
高岡と平川と つながってくるものがあるのでしょうか?


先妻の子4人 などは
出雲 但馬 高岡氏系図に義清がおり 富田氏は宇多源氏出雲 佐々木流。佐々木義清の息子で隠岐泰清の四男、四郎義泰が出雲國意宇郡富田を領 してより富田氏を名乗る。 【家紋】輪違・丸に違鷹羽 ...

武蔵児玉党の富田氏からは 有道氏が出る。
左上ぽっちりをおせば佐々木系譜が出て  

[78]子孫よりさんからのコメント(2014年12月29日 10時41分42秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2015年01月10日 11時19分31秒
[79]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年12月29日 13時54分35秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>何故「素賀国造」の祖「美志印命」は饒速日命の後裔となるのでしょうか?
 
素賀国造の出自については、神武朝に美志印命を国造に定め賜うとあり、
天穂日命裔とされている。
別に美志印命は、ウマシイニと訓ずべきで饒速日命の子、
宇麻志麻治命が素賀国造の祖との説が存在する。
他に大和の蘇我氏説もあり。
 
遠江国佐野郡に素賀邑あり。
出雲国大原郡に須賀邑あり。
国造本紀の編者が素賀と須賀を混同したのであろう。
天穂日命裔が遠江地域には縁が薄く、
やはり素賀国造は饒速日命の後裔が妥当。
詳細は「姓氏家系大辞典」などを参照のこと。

[80]子孫よりさんからのコメント(2014年12月29日 21時30分30秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

日本の苗字七千傑様、お忙しいところ、ご教示本当にありがとうございます。

「宇麻志麻治命が素賀国造の祖との説が存在する。」
「天穂日命裔が遠江地域には縁が薄く、
やはり素賀国造は饒速日命の後裔が妥当。」

ありがとうございました。
「遠江国佐野郡に素賀邑」

遠江国は相良氏に繋がり、なおかつ橘公長も「縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向かった」という記述が残っています。

遠江国佐野郡 素賀邑・・・素賀国造

対象が絞られたので、調査をしっかりと行います。

では(^・^)

[81]子孫よりさんからのコメント(2014年12月30日 08時47分16秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

只今から、球磨の実家に帰ってまいります。

今年一年間、様々なご教示を頂き、私をお導き頂きまして、本当にありがとうございました。

来年もどうか、よろしくお願いいたします。

ちなみにパソコンは持っていけませんので、コメントは1月3日より開始する予定です。

では行ってきます(^O^)/
[82]子孫よりさんからのコメント(2015年01月03日 23時48分46秒 ) パスワード

皆様
沢山のありがたいご教示の数々、ありがとうございます。

新しくスレッドを立ち上げました。
今後ともどうかご教示の程、よろしくお願いいたします。

平川家について21
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101407.html
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