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 投稿番号:101401 投稿日:2014年12月03日 10時15分53秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「長上郡の服部氏族]\」よりの続きです。

自称「歴史探偵」の目で過去の歴史の奥底に潜む謎を発掘し解明する。

最終目的は「服部氏族」に関する謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 21時31分00秒 ) パスワード

三つ柏さんのスレXIXの書き込みより転載:


近江を深く探求したいと思っています。

確かに、近江には何かシンパシィのようなものを感じます。

また、京都を中心としてそれを取り巻く地帯、
丹波、丹後、伊賀、近江、越前、近江といったところ全体にも、
そんな何か郷愁を感じます。

でも京都は幾多の戦乱を経験してきたせいか、人間関係がなかなか難い点があります。



多賀大社の話がでましたが、多賀という名前は、昔私が京都にいた時のある人を思い出させます。
多賀大社に関係するのかななんて思ったりもしましたが、
その後東北に多賀城(遺跡)があることも知り、
何か「多賀」には特別なものがありそうだなとは思いつつ、
深く探求するまでには至りませんでした。
 


「くの一・お多賀さん」の話、
多賀大社に関係する点も含めてもう少し説明していただけると大変うれしいのですが・・・。



ちなみに、藤堂高虎と多賀大社との関係、大いにありです。

インターネットで調べてみると、「立ち読み/波/新潮社」にこんなことが書かれておりました。



 「日本最大の情報網


   高虎はその面では大変に恵まれた場所に育った人物です。

   近江の藤堂村 (現・甲良町)の出身ですが、近江は東海道、中山道、北国街道などの結節点にあるとともに、
   琵琶湖の水運を利用して瀬戸内海ともつながっている。
 
   元来が流通の中心地だから物流や情報の何たるかが日常的に体得できたのである。

  もう一つは、高虎の生まれた在所の近くにある多賀大社の存在。

   藤堂家は婚姻関係を含め密接にかかわっています。
   末社三千社といわれる多賀大社の坊人たちの組織は、
   甲賀・伊賀の忍者を包含して巨大な情報網を形成していたのです。

   高虎はそれを諜報機関として仕える立場にあった。


   関ヶ原の直前、水面下で西軍の切り崩しを行って石田三成を嘆かせたり、
   徳川政権転覆が謀られた大久保長安事件を隠密に処理できたのも、
   この多賀一族に負うところ大だったことは確実です。」
  


高虎の秘密が少しずつわかって来ました・・・。
[2]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月03日 22時35分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 商人の詳しい情報の資料を余り持っておりませんが、以下の三人について
は、本能寺の変の証人に近い。
 『異説の日本史』(小林久三著)によりますと、
 「光秀の茶の湯の師匠は、堺の豪商今井宗久である。宗久は、近江守護佐
々木氏につながる地侍の子。千利休の師匠・武野紹鷗の娘婿となり、薬種、
鉄砲、火薬を商い、納屋(倉庫)衆となり、信長の蔵元になった。
 甲賀、伊賀に近い近江国蒲生郡日野は、鉄砲と火薬と薬種が特産物で、そ
れらを売り歩く日野商人は、南北朝時代から有名である。また、日野は忍者
と密接な関係で知られている。宗久は、おそらく日野の出身であろう。
 光秀の師匠でもある宗久は、本能寺の変に無関係なのかどうか。偶然かど
うか本能寺の変の前夜の六月一日、家康は堺で宗久と会い饗応を受けている。」

 もう二人気になる商人がいる。それは島井宗室と神屋宗湛である。『秀吉
奇跡の天下取り』(小林久三著)によればこの二人、本能寺の変の日、信長と
ともに本能寺内に泊まっていた。それなのに二人は無事脱出しているとい
うのだ。
 商人たちの出自、商売内容、人間関係、また何を考えていたのかを一度調
べたいと思います。
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月03日 22時43分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一部訂正:レス[1]藤堂高虎はそれを諜報機関として仕える→使える
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 22時59分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


>日野商人は、南北朝時代から有名である。
>また、日野は忍者と密接な関係で知られている。
>宗久は、おそらく日野の出身であろう。
>光秀の師匠でもある宗久は、本能寺の変に無関係なのかどうか。
>偶然かどうか本能寺の変の前夜の六月一日、家康は堺で宗久と会い饗応を受けている


背筋がゾクゾクしました。

  オソロシイですね
  やっぱりアヤシイですね

忍者、暗躍してますね。


そうですか前日の 6月1日は家康は堺にいましたか。
茶室という密室でどんな話が交わされたのでしょうね。


またいろいろ読んで来ます。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 03時25分22秒 ) パスワード

多賀神社   いろいろあるんですねえ


多賀神社(たがじんじゃ)は、イザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉冉尊)を祀る神社。全国に二百数十社ある。総本社は、滋賀県犬上郡多賀町にある多賀大社。

イザナギ・イザナミは日本神話の最初に出てくる神である。その神徳は幅広い。商売繁盛、家内安全、厄除け、無病息災、夫婦円満など。


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多賀神社 (多賀城市)



所在地
宮城県多賀城市高崎1-14-13

位置
北緯38度18分1.4秒
東経140度59分53.0秒

主祭神
武甕槌命

社格等
式内小社、村社

本殿の様式
神明造

例祭
4月15日


多賀神社(たがじんじゃ)は、宮城県多賀城市高崎にある神社である。祭神は武甕槌命と経津主命の2神。天照皇大神、久那斗神、菅原道真も配祀する。陸奥国の国府だった多賀城の南東、多賀城廃寺の隣に鎮座する。式内社「陸奥国宮城郡 多賀神社」、旧社格は村社。

歴史[編集]

古代に多賀城に赴任した陸奥国司や開拓民が崇敬していた近江国の多賀大社を遷祀したものが起源とされる。延暦15年(796年)に朝廷より従五位下の神階を受けた。その後、多賀城の衰退と共に神社も衰退して所在不明になり、浮島神社と混同されたりした。

反対に史料に見えず跡地が判明しているのが多賀城廃寺で、多賀城の南東に礎石と塔跡の基壇を残していた。江戸時代に地元では多賀城時代の寺の跡と伝え、塔跡に神明社という社を祀っていた。ところが別に延享2年(1745年)の『塩竃社記』が、礎石跡を昔の大社、多賀神社の跡地と推定した。地元の伝えのほうが正しかったのだが、いつの頃かこの神明社が多賀神社を名乗るようになったらしい[1]。

明治5年(1872年)9月、村社に加列された。その後、留ヶ谷の神明社と天神社、東田中の志引神社を合祀した。

社殿は多賀城廃寺跡の東塔基壇上に鎮座していたが、昭和40年(1965年)に多賀城廃寺が国の特別史跡に指定されたのに伴い、現在地に遷宮した。社殿は平成13年(2001年)に改築された[2]。


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多賀神社 (宮城県名取郡)

多賀神社(たがじんじゃ)は、宮城県旧名取郡にある神社である。 陸奥国延喜式式内社百座のうち名取郡にある二座のうちの一座「多加神社」であり、現在仙台市太白区富沢と名取市高柳に鎮座する二社が論社とされている。


多賀神社(仙台市太白区富沢)[編集]


所在地
宮城県仙台市太白区富沢3-15-1

位置
北緯38度13分4.6秒
東経140度51分34.6秒

主祭神
伊弉諾尊

社格等
村社
式内社

創建
景行天皇40年(110年)

本殿の様式
春日造

別名
大鷹宮

例祭
5月1日
テンプレートを表示

祭神[編集]
伊弉諾尊を主祭神として祀る。
その他に、大野田地区の春日神社(祭神:天児屋命)と寶龍神社(祭神:高龗神)を合祀している。

由緒[編集]

多賀神社の鎮座する地域には富沢遺跡・大野田遺跡などの縄文時代の遺跡や大野田古墳群、郡山遺跡があるなど、歴史的にも重要な地域であった。

多賀神社は仙台市内で一番古い神社であり、社伝によれば、景行天皇40年(110年)に日本武尊が東夷征伐の時に勧請したという。第21代雄略天皇2年(458年)には圭田58束を賜り神礼祭式を行ったと伝わる。往古は「大鷹宮」と呼ばれていたという。

境内由緒書によると、多賀神社はこの地方の守護神として領主や武将から篤く崇敬されたという。第70代後冷泉天皇の御代には、鎮守府将軍である源義家が東征の折に名取川を渡り当社に参拝し、武運長久を祈願し自筆の物を奉納したという。

享保年間に建ててあった仮宮が大破。その後も歴代仙台藩主から崇敬されたが、伊達重村の寄進を受け、安永4年(1775年)に社殿の普請が行われた。角田城主であった石川宗光からも「多賀神社伊弉諾尊」の神号献上を受け、奥方の代参や侍女の参詣で神社も賑わったと伝わる。

明治5年4月に村社に指定、同42年には大野田地区の春日神社と東大野田地区の寶龍神社を合祀し、大正8年の8月には幣帛供進社に指定された。

境内[編集]
社殿(拝殿・幣殿・春日造の本殿)
その他に、石碑や石祠、箍納め所、御神木の柏の木、神楽殿、社務所がある。



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多賀神社(名取市高柳)[編集]

所在地
宮城県名取市高柳字下西50

位置
北緯38度10分37.5秒
東経140度54分48.2秒

主祭神
伊弉諾尊
伊弉冉尊

社格等
郷社
式内社

創建
景行天皇28年(98年)

本殿の様式
流造

別名
名取総鎮守

例祭
5月1日
テンプレートを表示

祭神[編集]
伊弉諾尊と伊弉冉尊を主祭神として祀る。
その他に、近隣の神社の祭神である熊野加夫呂櫛御食奴神、天照皇大神、速須佐男命、応神天皇を合祀している。

由緒[編集]

景行天皇28年2月に日本武尊による東征の折に勧請されたと伝わる。雄略天皇2年(458年)11月に祭祀田として圭田58束を奉り祭礼を行ったという。当社の東には、その折に賜った祭祀田にちなむ「圭田」という地名が残されている。

神社の由緒によれば、日本武尊が東征のために奥州へやってきた時、相次ぐ戦いや長旅によって重い病気を患ってしまった。その時、柳の生い茂る温暖な地で祭壇や祠を設けて病気平癒を祈願したところ回復し、無事に大和の地へ帰ることができたという。その病気平癒や国家安寧を祈願した祠が「多賀神社」のはじまりだと伝わる。

当社の鎮座する地域にはこの由緒にちなむ地域名が現在も残されている。
多賀神社の北には日本武尊が戦勝祈願のための祭壇を設けた場所である「皇壇原(こうだんがはら)」
柳の木で祭壇を作り病気平癒を祈願した場所である「高柳(たなやなぎ(棚柳)→たかやなぎ)」(現在の鎮座地名)

また、当社の南東970メートルの民家敷地内には日本武尊の神霊を祀る「白鳥神社」が鎮座している。


白鳥神社



当社は仙台市太白区富沢の多賀神社との間で、式内社「多加神社」がどちらの神社であるかという論争が度々起こったという。歴史書「新撰陸奥風土記」には『多賀神社は富沢村にあり今は高柳村に鎮座するという。しかし、高柳の多賀神社は往古は「若宮八幡」と呼ばれていたものを多賀神社へ改称したものである』と書かれているとある。明治22年にも論争が起こり、それにより富沢の多賀神社を式内社、高柳の多賀神社は祭祀田などの社領のあった地だとした。太白区の「西多賀」の地名は富沢の多賀神社にちなむもので、閖上地区や高柳の当社付近は以前は「東多賀」と呼ばれていた。

明治4年2月には郷社になり、その後幣帛供進社に指定された。藩主や陸奥国守からも尊崇を集めていた。日本武尊の由緒にちなみ、特に病気平癒、延命長寿に御利益がある神社として近隣地域のみならず他県からも多くの崇敬者を集めている。

[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 03時32分50秒 ) パスワード

井伊大老

井伊直弼

生誕
文化12年10月29日(1815年11月29日)

死没
安政7年3月3日(1860年3月24日(満44歳没))

改名
鉄之介→鉄三郎(幼名)→ 直輔 → 直弼

別名
雅号:埋木舎、柳王舎、宗観
渾名:井伊の赤鬼

戒名
宗観院柳暁覚翁

墓所
豪徳寺(東京都世田谷区)

官位
従四位下侍従兼玄蕃頭、左近衛権少将、掃部頭、左近衛権中将、従四位上、正四位上

幕府
江戸幕府大老

主君
徳川家慶→家定→家茂


近江彦根藩主

氏族
井伊氏

父母
父:井伊直中、母:お富の方
養父:井伊直亮

兄弟
直清、穠姫、直亮、中顕、中川久教、内藤政成、松平勝権、直元、内藤政優、直弼、内藤政義


正室:昌子(松平信豪女)
側室:千田静江(千田高品の養女、秋山正家の娘)、西村里和(西村本慶の娘)


直憲、直咸、直安、直達、弥千代 (松平頼聰室)、女子(青山幸宜室)



井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。

幼名は鉄之介(てつのすけ)、のち、鉄三郎(てつさぶろう)。諱は当初、直輔(なおすけ)、のち、直弼(なおすけ)と改める。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、旧字体:无根水)がある。風流に生きた部屋住み身分の頃は「茶歌凡(チャカポン)」、大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。



生涯[編集]


                           この人
                             ↓
部屋住み時代に近江市場村の医師である三浦北庵の紹介で、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、
自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らした。

この頃熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していたが、風流に生きる姿から「チャカポン(茶・歌・鼓)」とあだ名された。


ところが弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄の直亮の世子であった井伊直元(直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定する。





幕末の動乱の中で[編集]

彦根藩時代は藩政改革を行ない、名君と呼ばれた。また、江戸城では溜間詰上席として、将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題をめぐり存在感を示す。



安政2年(1855年)8月4日、阿部はやむなく両名を老中から退けた。直弼は猛烈に抗議し、溜間の意向を酌んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫った。阿部はこれまたやむなく溜間の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立はひとまず収束したが、これは乗全、忠固の罷免に対して直弼を筆頭とする溜間諸侯が一矢報いた形といえる。


安政4年(1857年)6月17日に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜間の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。さらに直弼は第13代将軍・徳川家定の継嗣問題で紀伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めた。


大老就任[編集]


前代未聞の朝廷の政治関与に対して、幕府は態度を硬化させる。

長野主膳からの報告により、直弼は水戸藩降勅の首謀者を梅田雲浜と断じ、京都所司代酒井忠義に捕縛させ、安政の大獄の端緒を開いた。直弼はまた、無勅許調印の責任を自派のはずの堀田正睦、松平忠固に着せて両名を閣外に逐いやった。代わって太田資始、間部詮勝、松平乗全の3名を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようとした。さらに、水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じ、多数の志士(橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎など)や公卿・皇族(中川宮朝彦親王)らを粛清した。また、一橋派の一橋慶喜、徳川斉昭、松平慶永らを蟄居させ、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。そして、閣内でも直弼の方針に反対した老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にした。更に太田資始、間部詮勝の両両老中も罷免し孤立を深めた。


桜田門外の変[編集]

こうした独裁政治は、尊王攘夷派など反対勢力の怨嗟を受けた。安政6年(1859年)12月、直弼は若年寄の安藤信正を水戸藩主・徳川慶篤の下に派遣し、戊午の密勅の返納を催促した。この催促は数度にわたって続けられ、遂に慶篤は父の斉昭と相談の上、勅を幕府に返納することにした。ところが水戸藩の士民(特に過激派)が激昂して勅の返納を阻止あるいは朝廷に直接返納すべきとして混乱する[2]。

安政7年(1860年)1月15日、直弼は安藤信正を老中に昇進させ、この日に登城した慶篤に対して重ねて勅の返納を催促した。そして1月25日を期限として、もし遅延したら違勅の罪を斉昭に問い、水戸藩を改易するとまで述べたという[3]。 これが水戸藩の藩士を憤激させるのに決定的となり、2月に水戸藩を脱藩した高橋多一郎や関鉄之介らによって直弼襲撃の謀議が繰り返された。水戸藩脱藩浪士らの不穏な動きは幕府も関知はしており、2月下旬にはかつて水戸藩邸に上使として赴いたことがある松平信発が直弼を外桜田邸に訪ね、脱藩者による襲撃の恐れがあるため、大老を辞職して彦根に帰り、政情が落ち着いてから出仕すべきと勧めた。また辞職・帰国が嫌ならば従士を増やして万一に備えるように述べるも、直弼は受け入れなかった[4][5]。

3月3日5ツ半(午前9時)、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。供廻りの徒士、足軽、草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた時、関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士の有村次左衛門の計18名による襲撃を受けた。最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠を守ろうとした者も刺客に切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳没)。この事件を桜田門外の変と呼ぶ。

この日、彦根藩側役の宇津木左近は、直弼の駕籠を見送った後、机上に開封された書状を発見した。それには、水戸脱藩の浪士らが襲撃を企てている旨の警告が記されており、宇津木が護衛を増派しようとしたとき、凶報がもたらされた。

墓所は井伊家の菩提寺である豪徳寺(東京都世田谷区)。また茨城県水戸市所在の妙雲寺には直弼の慰霊碑が建てられている。また、当時彦根藩の飛び地領であった下野国佐野(現在の栃木県佐野市)の天応寺でも祀られている。混乱を恐れた幕府によって暗殺は秘密裡とされ、表向きには直弼は負傷によりしばらく休養とされた。そのため墓所に記された没日も実際の3月3日とは異なっている。直弼は3月晦日に大老職を正式に免じられ、閏3月晦日にその死を公表された。

跡を次男・井伊直憲が継いだが、これも3月10日に幕府に嫡子とする旨を届けながら4月28日に至ってようやく家督相続を許されるほどであった。なお、直弼が安政の大獄を行なったことを咎められ、文久2年(1862年)11月20日、幕命により彦根藩は10万石減封されている。

[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 03時40分31秒 ) パスワード

お多賀さんのこと


http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/10/post-2300.html
コピペ
井伊直弼の女スパイ・村山たか


安政六年(1859年)10月7日、安政の大獄で橋本左内らが死刑となりました。

・・・・・・・・・・・・・・・

安政の大獄当時、直弼の手足となって暗躍した女スパイとも言うべき存在・・・村山たか(たか女)について書かせていただきます。

・‥…━━━☆・‥…

村山たかは、文化七年(1810年)、近江国(滋賀県)の多賀神社般若院の僧と彦根の芸妓との間に生まれ、多賀神社の神官に預けられて育ちます。

彼女はたいへんな美人だったとの話ですが、それを裏付けるかのように、18歳の頃、時の彦根藩主・井伊直亮(なおあき)に見初められて愛妾となります。

しかし、それは長くは続かず、まもなく暇を出されて、京都で芸妓に出ます。



可寿江(かずえ)という源氏名で、なかなかの人気芸者だったようですが、
金閣寺の僧との関係で妊娠し、寺侍の多田源左衛門に譲り渡されますが、
出産と同時に子供ともども離縁されます。


そんな頃、彼女は、井伊直弼(いいなおすけ)と再会します。

再会・・・というのは、そう、彼女の最初の相手だった直亮は、直弼の兄・・・その当時は、埋木舎(うもれぎのや)と呼ばれた住まいで、未だ学問三昧の日々を送っていた直弼であっても、彦根城の掘一つ隔てた所に暮らす兄の愛妾の事を知らぬはずはなかったでしょう。

いや、むしろ、その美しさを憧れのまなざしで見ていたのかも知れません。


今は、あれから10年余り・・・
勉学に夢中の14〜5歳の少年・直弼は25歳の立派な男になり、
たかは、その美しさに色気が加わった女ざかりの30歳・・・
ふたりが男女の関係になるのに、時間はいりませんでした。


しかし、間もなく、二人は絶縁状態となります・・・いや、絶縁したように見せかけました。


直弼が側室を迎えたからだとも、
たかが彼の子供を出産したからだとも言われるこの別れ・・・
「たかとの縁をを切りたい」という内容の家臣への書状も残っていますが、

おそらく、これは、世間を気にしてのポーズであって、二人の関係は密かに続いていたと思われます。


やがて、たかは、直弼の国学の師であった長野主膳義言(しゅぜんよしとき)と心を通わせるようになります。


たまたま主膳が多賀神社に参拝した時に出会い、
話をするうちに彼女が直弼ゆかりの女性である事を知り、
その悲しい生い立ちや悲恋の物語に同情したのか?、
あるいは、今なお美しいたかの魅力にハマったのか?、
その心の内は計り知れませんが、とにかく、
主膳&たか、ともに、こののち、直弼の手足となって動くようになるのです。


兄・直亮の養子が病死した事で、彦根藩36万石を継ぐ事になった直弼は、天皇の許しを得ずに行った日米修好通商条約の調印問題、また徳川幕府の将軍の後継ぎ問題に揺れ動く幕府の大老という役職につきます。


日に日に激化する尊王攘夷派の動き・・・

多賀神社にいた幼い頃から歌舞を仕込まれ、
プロの芸妓として活躍していたたかは、どんなお屋敷にも怪しまれる事なく入り込め、
様々な情報を収集する事が可能でした。

        ですね



この情報をもとに、直弼は、安政六年(1859年)10月7日の橋本左内をはじめ、吉田松陰(しょういん)(10月27日参照>>)など、80人近い人物が処罰される事になる安政の大獄という大弾圧を断行するわけです。


しかし、ご存知のように、この事で尊王攘夷派の反発のターゲットとなった直弼は、安政七年(1860年)3月3日、桜田門外にて暗殺されてしまいます(3月3日参照>>)。


2年後の文久二年(1862年)の8月には、主膳も彦根藩によって斬罪にされる中、もちろん、たかの身にも危険が迫ってきます。


同じ年の11月、土佐と長州の尊王攘夷派に隠れ家を襲撃されたたかは、
「女の身であるゆえ死罪一等を減ず」と称して、
京都・三条大橋の橋脚に縛りつけられ、生きさらしにされてしまいます。


本来、生きさらしとは、そのまま息絶えるまで、通りがかる人々に罵倒されるるものですが、
この時のたかには、やじ馬の視線にはさらされるものの、実際に暴行を働く者はいなかったと言います。


当時、50歳・・・未だ、衰えぬ美貌であったからなのか?、
真冬の川風に吹きさらしの状況では、そう長くはないと思われたのか?


翌日には、主膳の門下生となっていた金閣寺の僧との間にできた彼女の息子・帯刀も捕まり、さらし首にされてしまいます。


確かに、大弾圧の片棒を担いだとは言え、この時の彼女の心境はいかばかりであったでしょうか。


しかし、さらされてから三日後、彼女に手を差し伸べる人がおりました。


百々御所(どどのごしょ)と呼ばれる宝鏡寺(11月19日参照>>)の尼僧でした。


助けられたたかは、剃髪して妙寿尼と号し、その後は、東山山麓の金福寺(こんぷくじ)で、直弼や主膳の菩提を弔いながら、静かな晩年を過ごし、明治九年(1876年)、67歳でこの世を去ったという事です。


金福寺には、彼女が三条大橋でさらされた時の肖像画(画像あり)とともに、
彼女が生涯大切にしていた直弼直筆の和歌の書かれた掛け軸が残っています。


♪柴の戸の しばしと云(い)いて もろともに
  いざ語らわん 埋火(うずみび)のもと ♪ 直弼


波乱に満ちた彼女の生涯・・・ただ一つの支えは、埋木舎で過ごした直弼との、わずかな時間であったのかも知れません。

[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 03時45分24秒 ) パスワード

http://rekishi-club.com/akujo/murayama.html

歴史くらぶ
コピペ


『中年悪女の系譜』

村山加寿江 井伊直弼の寵愛を受け、愛人のため志士の諜報活動
   ↑
  お多賀さんのこと


村山加寿江(かずえ)は、後に第十三代彦根藩主となる井伊直弼がまだ部屋住み時代、その寵愛を受け、後に井伊直弼が幕府の大老に就任、「安政の大獄」を断行した際、これを実質的に指揮した謀臣・国学者・長野主膳の愛人でもあった。

加寿江の場合、閨房で待つ、単なる愛人ではなく、主膳を助けて、その謀者となって息子の帯刀とともに、京の志士の動静探索に力を尽くした。そのため、逆に薩長両藩の志士に襲われ、三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩生き晒しの辱めを受けた。加寿江の生没年は1810(文化7)〜1876年(明治9年)。


村山加寿江(村山たか)は江州(滋賀県)多賀神社の神主の娘。幼少の頃より美人の誉れ高く、踊・音曲を好み祇園の芸妓となったが、金閣寺長老永学に落籍され、天保4年、一子、常太郎(帯刀)を産んだ。のち同寺の代官、多田源左衛門の妻となったが、その後離縁となり、彦根に戻ってまだ部屋住み時代の井伊直弼の寵愛を受けた。そして、直弼が家督相続するころに暇を出され、直弼の知恵袋と目されていた国学者・長野主膳がその後始末を任されたのだ。


加寿江は容色にも恵まれ、文章にも優れていた。九条家、今城家などにも出入りしたほどだから、知恵者の長野主膳とも意気投合して深い関係におちた。


その後、時局が急展開し、安政5年、幸運にも彦根藩主となった井伊直弼が幕閣の大老に就任。安政の大獄が断行されると、これを実質的に指揮した長野主膳を、加寿江は女だてらに彼の片腕となって助け、息子の多田帯刀とともに西南雄藩の志士の動静探索に力を尽くした。

これが後に勤王派の志士たちの耳に入り、その中の過激な連中から逆襲されることになった。

1862年(文久2年)、洛西・一貫町の隠れ家で長野主膳一味として薩長両藩の志士に襲われ、天誅のもとに息子の帯刀は斬殺され、加寿江は三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩、生き晒しの辱めを受けた。

そのとき尼僧に助けられ、彦根の清涼寺で剃髪して尼僧となった。その後、金福寺に移り、留守居として入った。彼女は妙寿尼と名乗り、ここで数奇な生涯を閉じた。

祇園の芸妓だった彼女が、後に日本国を動かす人物の寵愛を受け、さらに女だてらに天下・国家を動かしていた人物の片腕として働くという、この当時の女性にはほとんど経験できない人生を生きたのだ。

(参考資料)平尾道雄「維新暗殺秘録」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 04時01分14秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/ponntapiyo/e/8a33254485ef5db347aec90623393f78
コピペ

諸田玲子「奸婦にあらず」


[登場人物および舞台]

ジャンル :生きざま
中心人物 :村山たか(可寿江)
生   業:井伊直弼想い人(多賀神社坊人)
周囲の人々:井伊直弼、長野主膳(主馬)、長野多紀、多田帯刀(常太郎)、慈算他
場   所:彦根、京都、江戸


[あらすじ]

彦根藩内の多賀神社には、坊人と呼ばれ、神社のお札や秘薬を全国各地に売りに行く人達がいた。

商売の他、各地の情報を得る密偵達でもあった。

村山たかは、その多賀神社にうまれ、神社の実力者慈算の姪でもあった。

たかは坊人としての訓練をし、閨房術をも含む技術を身につけていた。

               ↑
              お〜 「ハニートラップ系」でしたか。
              なるほどね


              橋本龍太郎もハニートラップで失脚したと言われてますね
              愛人が実は中国のスパイだったって。
   



たかを、慈算は彦根藩主の元に出した。
当初は、藩主直亮の元で奉公していたが、あまりの癇のきつい性格の為、逃げ帰ったのだ。

やがて、その弟直弼と知り合い、二人は激しい恋におちいる。

国学を良くする長野主馬と知り合ったのもその頃であった。

主馬は、直弼とも気が合い、三人は不思議な関係を保つようになる。

時勢は急変し直弼は彦根藩主となり、やがて幕府中枢で大老として、政治のかじ取りをするようになる。

黒船の来航とともに、風雲急を告げ、世間は騒がしく、不安な様相をかもしだしていく。
直弼は遠い存在になったが、たかの想いは変わらない。

つかれたように江戸に出立するのだ。


[読んで思ったこと]

力の入った大作であった。久々の長編で、最初は苦しかったが、情勢のすこぶる激しい変化、またテンポの良い筆致で、読み進んでいけた。

たかという実在の女性が主人公であり、歴史で有名なあの井伊直弼との物語である。

歴史では語られない、色恋の話、男女の愛が強烈に描かれ、引き込まれて行く。

双方の想いに浸ってみるのだが、純粋一途の愛を感じざるを得ない。

凄い想い合いだ。


しかし、運命は激しく変遷し、二人は切り離されるが、なぜか繋がっているのだ。

たかは志を同じにする者には、おしみなく愛をささげるのだ。

長野主膳の存在も、もうひとつの物語の話だ。
博識で、人々を魅了し、野心を隠し淡々と生きていく姿も、面白い。


そして、たかを取り巻く、息子の多田帯刀、多賀神社の慈算と個性あふれる人たちと多彩である。
時勢の流れに運命を弄ばれた人達の生涯は様々であるが、なんともすごい物語ではある。




美しく生まれると大変なのよね。

フツーの女はソコソコの幸せを手に入れられるけど
美しい女は「最高の男」の近くに行けるから、最高の幸せから奈落の底に墜ちることもあるわけで
ま、いろいろ身近にも見ています。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 04時05分59秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E4%B8%BB%E8%86%B3


長野 主膳(ながの しゅぜん、文化12年10月16日(1815年11月16日)- 文久2年8月27日(1862年9月20日))


江戸時代末期の国学者で、大老・井伊直弼の家臣。前名は主馬(しゅめ)。諱は義言(よしとき)。桃之舎と号した。


人物[編集]

伊勢国飯高郡滝ノ村の出身で、先祖は上州長野氏ともいわれているが、
若い頃のことはあまり詳しくわかっていない。

本居宣長の国学に興味を持ち、天保12年(1841年)に近江国坂田郡志賀谷村に私塾・高尚館を開いた。

天保13年(1842年)、当時は部屋住みであった井伊直弼もこの私塾に興味を持って訪問しているが、
このとき主膳と直弼は師弟関係を結んだ。

やがて直弼が兄の死を受けて彦根藩主となると、主膳は直弼に招聘されて藩校・弘道館国学方に取り立てられ、
さらに直弼の藩政改革に協力した。

直弼からの信任は厚く、安政5年(1858年)に一橋派と南紀派による将軍後継者争いが起こると、
主膳は直弼の命で京都に赴き、公家衆らへの裏工作を行って南紀派が推薦する徳川慶福(家茂)擁立に貢献した。


しかし、直後の安政の大獄で直弼に対して一橋派の処罰や尊王攘夷派の志士の処罰を進言したため、
直弼に次いで恨まれる存在となる。

直弼が安政の大獄を行ったのは、
島田左近などを通じて朝廷内部の動向に関する情報収集に当たっていた主膳が、
戊午の密勅を察知することに失敗し、
水戸藩士の「悪謀」を過度に進言したことが要因になった、と言われている。


安政7年(1860年)、直弼が桜田門外の変で暗殺された後も彦根藩の藩政に参与したが、
直弼の跡を継いだ藩主・直憲からは疎まれ、
家老・岡本半介に直弼時代の功績や厚遇などを嫉視されて対立する。

そして文久2年(1862年)、文久の改革で井伊家が問罪されると、
半介の進言を聞き入れた直憲によって斬首・打ち捨ての刑に処された。
享年48。


打ち捨ての刑にともない葬礼は禁止されたが、明治期になって直弼が顕彰されると、彦根の天寧寺に墓所が建立された。


主膳や宇津木景福がこの時期に粛清されたのは、島津久光の率兵上京による幕政刷新、
井伊政権精算の圧力に自主的に対応したためである。

10万石減封、藩祖井伊直政以来の「京都守護」の地位剥奪など追罰は免れえなかったが、
長野らに直弼の「失政」の全責任を負わせた結果、彦根藩では他藩のような内訌は起きず、
王政復古後の政局に巧みに対応し、
いち早く新政府軍に加わることができた。


著作[編集]
沢能根世利
古学答問録
答問録脱文補遺
歌乃大武根

他に『古今集姿鏡』『淡路旧蹟考』『市辺忍歯別命山稜考』


関連書籍[編集]
松岡英夫『安政の大獄 井伊直弼と長野主膳』(中公新書、平成13年(2001年)) ISBN 4-12-101580-0
徳永真一郎『影の大老』毎日新聞社、1978年 のち光文社文庫
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月04日 10時38分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございました。おたかさんの話、鳥肌がたちました。まぶたの
裏もまんぱんにむくんでしまいました。今度の週末には、伊井谷の龍潭寺へ
行って線香をあげてまいります。
 とりあえずのお礼と、]\の方の情報とを合わせ、精読いたします。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 11時23分48秒 ) パスワード

>おたかさんの話、鳥肌がたちました

特殊な世界の父と母を持ち、特殊な人生を歩んだ(歩まされた)女性ですね。

   「どうしてこんな事になったの?!」
    という彼女の叫びが聞こえそうです。



http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/ichijyoji.htm

ここの「村山たか」さんの画像集は・・・ちょっと・・・
こわいです。

   彼女の思いなのか
   彼女の関係者の思いなのか

      う〜ん・・・

   という感じがします。


芭蕉の好きだったお寺も出てますので良かったらどうぞ。



+++++++++++++++++++++++++


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%BD%AD%E5%AF%BA_ (%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%B8%82)

龍潭寺(りょうたんじ)は、静岡県浜松市北区にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は万松山。本尊は虚空蔵菩薩。



歴史[編集]

寺伝によれば天平5年(733年)、行基によって開かれたとされ、当初の寺号は地蔵寺であったが寛治7年(1093年)に井伊共保が葬られた際にその法号から自浄寺と改められた。

平安時代から井伊氏の菩提寺であったとされる。


元中年間(1384年 - 1392年)、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの寺を中興したともいう。


               へえ〜



戦国時代の永禄3年(1560年)に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。

関ヶ原の戦いの戦勝にともない、井伊氏が近江国に転封となってからも井伊氏の外護を受け、江戸幕府からも朱印状を与えられた。


文化財[編集]


庭園

名勝(国指定)[編集]
庭園 - 池泉鑑賞式庭園。寺伝によれば小堀遠州の作庭。昭和11年(1936年)指定。
                    ↑
                   いいですね


重要文化財(国指定)[編集]
宋版錦繍万花谷 3冊(金沢文庫本)

静岡県指定有形文化財[編集]
龍潭寺伽藍 6棟(本堂、庫裏、山門、開山堂、井伊家霊屋、稲荷堂)[1]
紙本金地著色遊楽図 六曲一双

所在地[編集]

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1989



伊那谷の大川原の宗良親王の御在所は崖の15畳ほどの土地に作られていたようです。

    小屋でしょうね


わたくしから宗良親王へのご挨拶の分もお参りしてくださいね。
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月04日 17時23分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今度の日曜日になると思いますが、龍潭寺へ行ってまいります。
 今まで伊井氏や宗良親王に興味がなかったのに、ほんと不思議ですね。
 あお様のお導きのおかげと思っています。

 そういえば、龍潭寺では今紅葉の最後で特別展覧会をやっているみたい
です。これもラッキーです。また、井伊直政をテーマにした講演会が来月
開かれますので行くことにいたしました。講師は小和田哲男静大名誉教授
です。
 そうそう、先日の講演会で磯田先生が言っておられましたが、NHKの
大河ドラマに井伊直虎の「女城主」をやったらどうかと進言しておいたと
のことでした。直虎といいおたかさんといい、井伊家は女でもつ。
 
 なお、今まで「井伊」を「伊井」と書き違えていました。さかのぼって
訂正させていただきます。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 22時52分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


>大河ドラマに井伊直虎の「女城主」をやったらどうかと

いいですね。
井伊だけにイイですね。


わたくしも井伊家が平安時代からの家というのは全く知らず



また!こんな情報がありました:生母の再婚相手は松下氏ですって!驚


永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。幼名は虎松。井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、直政の祖父(または一族)井伊直盛は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。父の井伊直親は、直政の生まれた翌、永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。当時、虎松はわずか2歳であったため、新たに直親の従妹に当たる祐圓尼が井伊直虎と名乗り、中継ぎとして井伊氏の当主となった。

                  ココね(驚)
                     ↓
その後、生母が今川氏の家臣である松下清景と再婚したため、虎松は井伊氏の家督相続権を失う。


しかし、やがて井伊氏は井伊谷の所領を失い、虎松も今川氏に命を狙われる日々を送っていたが、新野親矩に救出されて、その後は養母である直虎に育てられた。天正3年(1575年)、徳川家康に見出され、井伊氏に復することを許され虎松を万千代と改めた。さらに旧領である井伊谷を与えられ、家康の小姓として取り立てられた。家督を代行していた養母の直虎が天正10年(1582年)に亡くなると正式に当主となった。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 23時01分40秒 ) パスワード

井伊直政も苦労しているんですね。



>井伊氏に復することを許され

これですね
日本って勝手に姓とか苗字とか名乗ったりしちゃいけないんですよね
ちゃんと「了承」とか「許し」とかを受けないとね

   海に囲まれた閉鎖社会だから
   みんな素性が分かってる
   というのもあったのでしょうね

だから素性の分からないヨソモノを警戒して来たし


三つ柏さんも紆余曲折を経ていつか先祖の来し方がハッキリしますよ。
頑張りましょうね。


[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 08時15分49秒 ) パスワード

http://rekishi-club.com/eiketu/ookubocho.html
「歴史クラブ」よりコピペ:組織にははまらない実用主義者だったのですね


大久保長安 家康に“忠”ではなく“能力”で仕えたが死後、晒し首に

 大久保長安は自己の能力を信じて行動した合理主義者で、武田氏、徳川氏に仕え、一時は徳川家康のブレーンとなり、日本の金銀を次々と掘り出し、家康に膨大な富をもたらした。ところが、長安は家康に使い捨てられただけでなく、死後、死体に刑を加えられ、遺児7人は全員処刑され、財産も没収されるという憂き目に遭った。生没年は1545(天文14)〜1613年(慶長18年)。

 大久保長安は、猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれた。長安の祖父は大和国春日神社で奉仕する猿楽(現在の能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。ただ、長安の両親については不明な点が多く、一説には秦氏の子孫だったともいわれ、確かなことは分からない。

 長安は甲斐の武田信玄に仕えたが、それは猿楽師としてではなく、建築、採鉱、道路づくり、税務などの技術を一身に備えていたからだという。武田家が勝頼の代で滅亡後、長安は家康の家臣として仕えるようになった。当時は「忠臣は二君に仕えるものではない」という考え方が厳然としてあったが、長安は自分は能力で武田家に仕えていたので、決して忠などという感覚で仕えていたのではない。家康に対しても「知識」と「技術」でお仕えするのだ−と割り切っていた。

 長安は組織づくりの名手だった。その組織も目的ごとに適した人材を集め、目的が実現されると解体してしまうソフトなつくり方をした。現代でいうプロジェクトチームだ。家康から命ぜられた仕事を完成すると、彼は非情にもその組織を潰した。同時に彼もまた未練なく次の任地へとぶ。そしてそこでまた、新しいプロジェクトチームをつくるのだ。

 長安の様々な功績の中で、とりわけ家康を狂喜させたのは、彼が日本の各地から金や銀を掘り出して家康に献じたことだった。石見国(島根県)の銀山、伊豆の金・銀山、そして佐渡の金・銀山の発掘は有名だ。彼は鉱山を発見すると、すぐプロジェクトチームを組んだ。それも極力、牢人(浪人)を採用した。能力主義に徹した。彼の採掘法は、日本の旧来のたて穴掘りをよこ穴掘りに変え、鉱石の洗浄、蒸留の方法に特別な手法を施す、外国の宣教師から学んだアマルガム法を採用していた。

この新技法を駆使し、プロジェクトチームで仕事を進める長安は、どこに行っても仕事を楽しくした。チーム員の給与や待遇を破格なものにし、生活を豊かなものにするために諸国から各種商人を呼んだ。遊女屋も盛んにした。長安は生涯、一つの土地にしがみつかなかったし、精神面でもしがみつきを嫌った。彼にとって永遠とか絶対というものは存在しなかった。こんな生き方は特異なものだった。それだけに、組織型人間からは疎まれ、やがて排除されることになる。官僚組織は統制に服さないものを憎む。憎むだけでなく、潰しにかかる。

 ただ、なぜか長安は生きているうちは攻撃を受けず、死んだ後、大弾圧をうける。生前、長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたという嫌疑をかけられたのだ。その結果、長安の7人の男児は全員処刑され、親交のあった大名、旗本も連座して改易などの憂き目に遭った。長安に大久保の姓を与えた大久保忠隣(ただちか)らも失脚した。そして、処分はこれだけでは済まなかった。家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して、晒し首にしているのだ。

 近年では、長安の不正蓄財疑惑は冤罪で、当時幕府内で権勢を誇っていた本多正信・正純父子の陰謀説とみるのが有力だ。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 08時20分45秒 ) パスワード

大久保彦左衛門 武功派・幕府窓際族で、『三河物語』は不満の書

 大久保忠教(おおくぼただたか)、通称・大久保彦左衛門といえば江戸庶民から“天下のご意見番”と呼ばれ、幕政に対する庶民の怒りや不満を代弁した『三河物語』を著し、無条件に庶民の味方と思われがちだが、これらは明らかに虚構であり、現実とは全く違うのだ。本当の大久保彦左衛門は庶民の味方でも何でもなかった。彼は徳川幕府創業のために、家康・秀忠父子を前面に押したて、戦闘してきた武功派の人物だった。自分を含む“武功派”の味方であり、家光の時代になって、いまや冷や飯を貰うのさえ容易ではなくなってきた“幕府窓際族”の代弁者に過ぎなかった。そして、『三河物語』は徳川成立史に名を借りた武功派の不満の書だった。

 もし、江戸市民のすべてが字が読めて、『三河物語』をつぶさに読めば、庶民の政治に対する怒りや不満を書いた箇所はそのかけらもない。大久保彦左衛門は徹底した支配者側の人間であり、しかも自分の知行については相当勘定高い人間であることを知るはずだった。

 1624年(寛永元年)から10年あまりの間、徳川幕府は幕閣の整備を急いだ。戦争しか知らない武功派は退けられ、民生、経済、外交などに優れた実務能力を持つ新官僚が続々と登用された。現代の閣僚ともいうべき老中、若年寄に起用された家光側近の松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛、三浦政次、太田資宗、阿部重次などは、すべて20代、30代の青年であった。戦争を知らないこの世代は、戦争しか知らない武功派には目もくれなかった。「徳川戦争史」はどんどん風化し、同時に武功派の武功そのものも風化していった。

 彦左衛門の『三河物語』は、この“風化”に対する抵抗だった。徳川戦争史の復元であり、その戦争を戦い抜いた武功派の存在意義の主張だった。それは、愚痴と嘆きに満ちた“恨み節”だったが、不満旗本群は揃ってこの怨歌に共感し、書き写して他に回した。これが『三河物語』が隠れたベストセラーになった理由だ。
 大久保彦左衛門は三河松平家の直臣として、三河国上和田(現在の愛知県岡崎市)で、由緒深い大久保家の八男として生まれた。幼名は平助。一時忠雄とも名乗った。子に大久保忠名、包教、政雄らがいる。妻は馬場信成の娘。生没年は1560(永禄3)〜1639年(寛永16年)。父は忠員(ただかず)といい、1582年(天正10年)に死んだ。長兄の忠世(ただよ)は家康の側近として鳴らし、西方からの有事に備えて、江戸への関門、小田原城を委ねられて6万5000石の大名に取り立てられた。二男忠佐(ただすけ)も沼津城主だ。このころの徳川家がいかに大久保家を大事にしていたかが分かる。
 彦左衛門は17歳のとき兄・大久保忠世とともに、遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。1590年(天正18年)小田原征伐の後、主君徳川家康が江戸に移封され、兄忠世およびその子で甥忠隣が相模国小田原城主に任じられると3000石を与えられた。1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いでも、家康本陣で槍奉行を務め活躍した。

 忠隣が大久保長安事件に連座して失脚、改易となると、それに連座して彦左衛門も改易されてしまう。その後、駿府へと召し出され、家康直臣の旗本として三河国額田に1000石を拝領し復帰した。1614年(慶長19年)、大坂夏の陣も槍奉行として従軍。その後、二代将軍秀忠の上洛に従い、三代将軍家光の世になって、旗奉行となっても武士としての生き方を貫いた。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」


額田の大久保彦左の屋敷跡を通ったことがあるけど
あれは連座後のことでしたか。
知らなかったな〜
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 08時25分02秒 ) パスワード

以下コピペ:

明智光秀 “逆賊”とは異なり、領国では様々な善政を敷いた名君

 明智光秀にはどうしても主君、織田信長を討ったダーティなイメージがある。この点については非難の声が大きく、近代に入るまで“逆賊”としての評価が圧倒的に多かった。とくに儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では「本能寺の変」の当日、信長の周辺には非武装の供廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、本能寺の変後に神君徳川家康が伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。しかし、光秀の実像はかなり違うようだ。生没年は1526〜1582年。

 明智氏は美濃の守護土岐氏の庶流とされるが、光秀の前半生は判然としない。光秀は公家の社会・しきたりにも明るい知性・教養派でありながら、一時は織田勢の有力武将のなかでも1、2を争うまでに武功を上げている優れた武将だった。足利義昭が信長と対立し始めたのを機に、義昭と袂を分かち信長の直臣となり各地を転戦。1571年(元亀2年)頃、比叡山焼き討ちの功績を認められ近江国滋賀郡を与えられ、坂本城を築いて居城とした。

1575年(天正3年)に惟任(これとう)の姓、従五位下、日向守(ひゅうがのかみ)の官職を与えられ、惟任日向守と称した。城主となった光秀はさらに、石山本願寺や信長に背いた荒木村重と松永久秀を攻めるなど近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略を担当。1579年(天正7年)、横山城主・小笠原大膳を自害に追い込んで平定した。横山城をわが物とすると、光秀はさっそく改築に取り掛かった。近郷の墓石や五輪塔をかき集めて石垣とし、これを福智山城と名付けた。「智」が「知」となったのは、1728年(享保13年)のことだ。

その丹波で光秀は領主として様々な善政を敷いている。彼は由良川という暴れ川に堤を作って、農民を水害から救った。また、農民が領主に収める税の一部を吸い取ってしまう地侍を退治、農民を助けた。このため、現在でも丹波で、地侍の子孫の中には光秀を悪くいう人がいるが、一般には評判が良く、広く敬われている。彼が民政を重視した結果だ。

また、丹波と山城の国境にある老ノ坂に差し掛かる手前に位置する亀岡市。かつては亀山といったが、伊勢亀山と区別するため明治2年に亀岡と改められたのだが、この亀山の発展のそもそもは光秀の治政によるものだ。

丹波を平定して、丹波29万石を領有することになった彼は、1573年(天正元年)から1年半かけて城を築いた。三重の堀に囲まれ、三層の天守閣を持つ亀山城は、東西1.5・、南北800・に及ぶ城下町を持っている。彼は丹波一国に近江の坂本を合わせた自分の領国の本拠地、いわば司令部をこの亀山に置こうとしたのだろう。わずか6万石の領内にしては破格な規模の城下町の佇まいだ。それだけに領民の誇りも高く、優れた光秀の民政力と相まって、亀山は繁栄の地となった。

本能寺の変の際も、明智軍1万3000はこの亀山城で戦備を整えて出発していったのだ。無念の最期を遂げた彼の、それまでの善政を慕う領民が、その霊を祀っている。こうしてみると、明智光秀は“主君弑逆”で民政手腕を評価されない“悲劇の名君”といえよう。

(参考資料)村松友視「悪役のふるさと」、井沢元彦「明智光秀の密書」、
永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「決断のとき」、海音寺潮五郎「武将列伝」
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 08時32分44秒 ) パスワード

三井はもとは越後の出身?
以下コピペ:

三井高利「単木は折れ易く、林木は折れ難し」


 これは『三井八郎兵衛高利 遺訓』の一節だ。この部分を正確に記すと、「単木は折れ易く、林木は折れ難し、汝等相恊戮輯睦(きょうりくしゅうぼく)して家運の鞏(きょう)を図れ」というものだ。1本の木は折れやすいが、林となった木は容易に折れないものだ。わが家の者は仲睦まじく互いに力を合わせ家運を盛り上げ固めよ−という意味だ。 

 伊勢松坂の越後屋、三井高俊の女房(法名を殊法)は、連歌や俳諧などにうつつをぬかして家業を省みない夫に代わって、毎朝七ツ(午前4時)に起きて酒、みその販売と質屋を切り回し、四男四女のわが子を育てるというスーパー女房だった。この四男が三井財閥三百年の繁栄の基礎を築いた三井八郎兵衛高利(1622〜94)だ。少年期の高利は、この松坂の店で母から商家の丁稚として厳しくしつけられている。

 当時の商人の理想は「江戸店持ち京商人」だった。江戸時代、最大の商品である呉服(絹織物)を日本第一の生産地、京都に本店をおいて仕入れ、大消費都市江戸で売りさばくため店を構える。これが商人の念願でもあった。商才にたけた殊法は当然、長男の俊次(三郎右衛門)を江戸に送り本町四丁目に店を開かせた。

 高利は14歳になったとき、母の殊法から江戸の兄の店で商売を習ってきなさい−と修業に出される。が、彼は江戸で長兄の俊次が舌を巻くほどの商才を発揮する。長兄から店を任された高利は、10年間で銀百貫目ほどだった江戸店の資金を千五百貫目(約2万5000両)に増やしているのだ。俊次はこんな知恵のよく回る弟が空恐ろしく、将来高利が独立して商売敵になれば、自分の店はおろか、わが子たちはみな高利に押し潰されてしまう−と頭を抱えた。そんなとき、松坂にいて母と店をみていた三男の重俊が36歳の若さで急死してしまった。次男弘重は上野国(群馬県)の桜井家へ養子に行っていたので母と店をみる者がいない。そこで、俊次は高利に松坂に帰って母上に孝養を尽くしてくれと、江戸から追い払った。俊次にとって格好のタイミングで厄介払いできたわけだ。

 以来、高利は老母に仕え店を守り、江戸での独立の夢を抱きながら鬱々として20余年の歳月を過ごすことになる。江戸の俊次が死んだとき、高利はすでに52歳になっていた。しかし、彼のすごいのはこれからだ。かねてからこの日のために、わが子十男五女のうちから、長男の高平、次男の高富、三男の高治と3人の息子を江戸に送り、俊次の店で修業させていた。その息子たちを集めると、本町一丁目に呉服、太物(綿織物)の店を開き、故郷の屋号を取って越後屋と名付けた。後年の三井財閥の基礎となる巨富は、晩年の高利のこの店で稼ぎ出されたものだ。
雌伏20余年、高利が練りに練った、当時としては誰も思いいつかなかった卓抜な商法が次から次へと打ち出される。その頃の商人の得意先を回っての、盆暮れ二度に支払いを受ける“掛売り”(“屋敷売り”)商売ではなく、“現銀掛値なし”つまり定価による現金販売の実施だ。そして得意先を回る人件費を節約した「店売り」であり、今まで一反を単位として売っていたものを、庶民にも買えるように「切り売り」をしたのだ。この店頭売り商法は大当たりした。

そんな状況に“本町通りの老舗”の商人たちは越後屋に卑劣な嫌がらせに出る。そこで高利はつまらぬ紛争に巻き込まれることを避け、駿河町へ移った。駿河町でも高利の商法は江戸の人々に受け入れられ、巨富を築き上げていく。その繁昌ぶりをみると、井原西鶴の「日本永代蔵」には享保年間(1716〜36)、毎日金子百五十両ずつならしに(平均して)商売しける−とある。新井白石の「世事見聞録」には文化13年(1816)、千人余の手代を遣い、一日千両の商いあれば祝をする−とある。まさに巨富としか表現のしようがない。

天和3年(1683)、高利は駿河町南側の地を東西に分けて、東側を呉服店、西側を両替店とした。これが後の三越百貨店、三井銀行となった。

(参考資料)童門冬二「江戸のビジネス感覚」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、
神坂次郎「男 この言葉」
                           
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 08時39分39秒 ) パスワード

茶屋四郎次郎 徳川家康と親しかった、京都三大富豪の一人


 茶屋家の当主は代々四郎次郎を称している。ここに取り上げるのは三代目清次だ。彼はとりわけ徳川家康と親しく、そんな間柄を示す様々なエピソードが伝えられている。1616年(元和2年)、大坂夏の陣で豊臣家を壊滅させ、ようやくほっとした徳川家康(75歳)。そんな家康が隠居する駿府(静岡)へ茶屋四郎次郎がやってきて、「近頃、都では何が人気じゃ」と問われた彼は、「天麩羅(てんぷら)」を紹介する。食通だった家康は、早速賄い方に申し付けて茶屋四郎次郎がいう、魚に衣をつけて油で揚げる、その鯛の天麩羅を食べる。そして、あまりの美味に思わず二枚も平らげてしまった。高齢の身でもあり、これが原因で胃腸を悪くし、この年、家康は他界したという。

 この頃の京都の三長者は角倉了以、後藤庄三郎、そして茶屋四郎次郎こと中島四郎左衛門明延(あきのぶ)の3人だった。明延の父、宗延(むねのぶ)は武士だったが、討死したため子の明延は大和へ引き籠って、商人を志した。大和の奈良芝という商人と親しくなって、その庇護のもとに商いの道に入ったといわれる。やがて四条新町のあたりに店を営み、そこへ足利将軍義輝が立ち寄って、茶を所望したので、茶屋の屋号が生まれたという。

明延の子清延の頃、徳川家に近づいて、その御用達となった。清延は家康に付き従って三方が原の戦い(1572年)、長篠の戦い(1575年)など53回も戦陣に参加、軍功もあったというから、商人というよりもう立派な武人だ。茶屋家は橘の家紋を用いているが、これは三方が原の戦いの後で、家康から褒美としてもらったものだ。清延は江戸へ入府した家康が目指した城下町建設に協力し、本町二丁目に屋敷を賜った。

 清延は天下の覇権取りを目指す家康の意を受けて、宮廷工作を行っている。長年にわたって勧修寺晴豊を窓口として宮廷にアプローチ、天皇の母に当たる新上東門院に取り入っていた。また、彼は豊臣秀吉に取り入って、朱印状を手に入れ、安南(ベトナム)国・南部の交趾(こうち)地方との海外貿易にも取り組んだ。普通、オーナー自ら船に乗り込むようなことはないが、武人であり商人という彼は自ら指揮して朱印船に乗り込んだ。

 1582年(天正10年)、織田信長が明智光秀に弑逆された、本能寺の変をいち早く家康に告げたのも清延だった。そして家康を、冷静に危機を間一髪で脱出させたのも、彼の武略と機転に富んだ的確な指示だったという。そんな茶屋四郎次郎の名声は高いが、その活躍期は意外に短かった。1596年(慶長元年)清延は享年52歳をもって世を去っている。病によるものか、何の記録も残っていない。死後、その子清忠が後を継いで二代目と称したが、まだ結婚もしないうちに病死して、その跡は弟の又四郎清次が継ぐことになった。それが三代目茶屋四郎次郎だ。

 茶屋四郎次郎は四代、五代と、代々四郎次郎を名乗っていた。ただ、その中でも家康の信任を得て、海外に出かけるほどの大きな商いをしたのは三代目清延と五代目清次だった。通称を又四郎といった清次は、1585年(天正13年)、清延の次男として生まれ、兄清忠が二代目を継いだが、病弱のため1603年(慶長8年)に死亡したので、清次が三代目を襲名することになった。彼は当初長崎奉行だった長谷川左兵衛藤広の養子となって、長崎へ行っていた。そこで彼もまた純粋な商人というより、武人にして商業に従事した者といってよく、武士として交易や長崎の監察業務に携わっていた。商人としては茶屋四郎次郎を、武人としては中島四郎二郎を名乗って、茶屋家の当主たちは巧みに武人の顔と政商の顔を使い分けている。1614年(慶長19年)、大坂冬の陣では家康の陣営に侍して御用を務め、和平工作のため大坂城へ入ったという。この年、家康の命で長谷川の養子という身分を離れた清次は、茶屋家三代目の当主となって、三代目茶屋四郎次郎を襲名した。

 清次は生糸の輸入と販売をする糸割符仲間の代表となった。彼は家康の側近に仕えて立場を固めて得た、この特権によって財を成した。彼は一般商人と違って、武士として生活しながら特権商人として稼いでいたのだ。さらに、生糸や呉服だけでなく、軍需品や武器も扱っていたともいわれる。しかし、1622年(元和8年)、彼は37歳という若さで世を去ってしまった。そこで長男の道澄が後を継いだが、その日から茶屋の凋落と縮小が始まった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」



おまけ

正式な名字は中島氏。信濃守護小笠原長時の家臣であった中島明延が武士を廃業し、大永年間(1521年〜1527年)[1]に京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる。茶屋の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(現在の京都市中京区)に設け
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月05日 08時43分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は忘年会。いよいよ今年もという感じです。

 井伊家の話、松下清景とはビッグニュースです! 弟の常慶は刑部城の城主
をしてましたから、その辺を調べようと思っていたところです。井伊家も謎がたくさんありそうですね! また、松下之綱は秀吉の側近でしたから、その辺からの関係も調べてみます。文禄の役では秀吉から船を造るように言われてい
ます。
 おたかさんの話はずっと心から消えそうにありません。できることなら、
タイムスリップして捕まる前に何とか助けてあげたいと思います。それでも
何とか命だけは助けてくれた人がいた・・・どんな人だったんでしょうね、
すごく力のある人だったんですね?
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 09時08分15秒 ) パスワード

三つ柏さん


面白い名前が飛び出ましたね。
井伊家と松下家の関係。

お寺さんに行くのに良い話題が見つかりましたね。
にっこり


やっぱりポースだけでも「勉強して来ました」の方が喜ばれるかもです。
ただし和尚さんが歴史好きなら。

興味の無いかたでしたら(鬱陶しいな)と思われてしまうかも。
こういう駆け引きがなかなか厄介ですが

お寺の歴史をよくご存知の方を紹介いただいたりという方向もありますので
臨機応変に。
ふふふ


おたかさんが髪をおろした彦根の清涼寺について調べました:
   画像によると、ものすごく立派なお寺ですよ、さすが!井伊直政の菩提寺です。


おたかさんを助けた尼僧というのは

   上記レスより:

   >>さらされてから三日後、彼女に手を差し伸べる人がおりました。
   >>> 百々御所(どどのごしょ)と呼ばれる宝鏡寺の尼僧でした。

     宝鏡寺(ほうきょうじ)は、京都市上京区にある禅宗寺院。
     宗旨は臨済宗系の単立。
     近世には皇女が入寺する尼門跡寺院であった。   ←  ココ
     山号は西山(せいざん)。通称人形寺(にんぎょうでら)。



ということは井伊家と御所からの両方からの救いがあったのかもですね。


清涼寺・七不思議

http://www.japanmystery.com/siga/seiryoji.html

滋賀県彦根市古沢町


 彦根の町は、関ヶ原の戦い直後に徳川四天王の一人・井伊直政が移封され、彦根城を中心として発展した。それ以前は、現在の町を見下ろす位置に佐和山城があり、石田三成が統治していた。佐和山城は関ヶ原の戦い直後に落城し、その後の彦根城建設のために石垣の多くも持ち去られ、また江戸幕府にとっての逆賊である石田三成の居城として歴史の舞台からは完全に抹殺された。その佐和山城趾のふもとにあるのが、清涼寺である。


 この寺には“七不思議”と呼ばれる怪現象が伝えられている。

まず、この土地の前の所有者であった石田家重臣・島左近にまつわる不思議が4つ。
   【左近の南天】は、島左近が愛でた南天の木が残っており、それに触れると腹痛を起こす。
   【壁の月】は、左近の居間を寺の方丈としたが、その壁に月形の影が浮かび出てきて、壁を塗り替えても浮き出てくる。
   【唸り門】は左近邸の表門を山門としたが、大晦日になると風もないのに低い唸り声のような音がしたらしい(現物は江戸時代に焼失)。
   【洗濯井戸】は、左近が茶の湯に使用した井戸であり、汚れ物をひたしておくと一晩で真っ白になったという。



残りの3つはかなり奇怪な話である。

関ヶ原の戦いの後、井伊家の家臣が佐和山城での戦利品を虫干ししていると、佐和山の方角から黒雲が湧き起こり、戦利品が風で持ち去られたという【佐和山の黒雲】。

本堂前のタブの木は佐和山城築城以前からある樹齢数百年のもので、夜な夜な女性に変化しては参詣者を驚かせたという【木娘】。

墓地の一角にある池で、佐和山城落城の折りに多くの人の血が流れ込み、それ以来夕刻になると水面に血みどろの女性の顔が浮かび上がるという【血の池】。



言い伝えを検証すると、この七不思議はすべて関ヶ原の戦いに密接に関係する。

実際、寺の境内は、島左近の住居があった場所とされており、
寺自体も初代藩主井伊直政が関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷が元で亡くなり、その菩提を弔うために建立されたものである。


そしてこの清涼寺が藩主井伊家の菩提寺として、多数の人間の血が流されたばかりの1602年に建立された事実に、大きな謎が隠されているように感じるところである。


<用語解説>

佐和山城
豊臣政権下、五奉行の一人である石田三成が統治する。1600年の関ヶ原の戦いで三成が敗走した直後、徳川方の兵が城を急襲する。主力は関ヶ原で壊滅していたが、三成の父・政継らが奮戦。しかし裏切りもあって3日で落城し、城兵やその家族はことごとく討ち死にか自害となった。


新たな領主となった井伊直政は、人心の刷新のために佐和山城を徹底的に破却し、彦根城建築を進める(破却の徹底ぶりは、直政の死を三成の呪いとみなしてのためという説も残っている)。



島左近
1540-1600。本名は清興。石田三成の臣下であり、4万石の禄高の時に2万石の俸禄を持って仕官したとされ、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われた。関ヶ原の戦いの時には石田軍の主力として大いに奮戦するが、鉄砲による狙撃で負傷、最後は敵陣へ突撃して討ち死にとなる。しかし遺体が見つからず、その後も生き延びたとの噂が残っている。


続く
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 09時18分41秒 ) パスワード

おたかさんのお話:清涼寺〜金福寺〜圓光寺編


http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-64.html


金福寺
左京区一乗寺花ノ木町


一乗寺の里、かって武蔵が吉岡と決斗の時、石川丈山が余生を送った詩仙堂、上田秋成「雨月物語」野仏庵のほど近くにある 金福寺。

俳聖・松尾芭蕉・与謝蕪村などにゆかり深いこの寺。

また維新の秘史が横たわっている。井伊直弼に関係深く、安政の大獄に一役買
った村山たか女(可寿恵)が、敗残の身を寄せたのが、ここである。



井伊大老の開国政策を助けるため、隠密として攘夷急進派たちの情報を大老に流していた、たか女は、大老が桜田門外で暗殺された直後、壬生に潜伏中を勤王の浪士に襲われ、三条河原で寒風の吹きつける冬空の中で三日三晩”さらしもの”にされた。



この窮地を彼女の恋がたきであったという志津女に助けられ、奇跡的に一命を取りとめた。


たか女は生まれ故郷の彦根の清涼寺に落ち着き、仙英禅師の弟子となって「妙寿」の名を頂いた。


ところがたか女の身の上にはさらに苦難のドラマが続いた。
間もなくたか女は同寺を追いたてられるはめになったのだ。
というのは、同寺にはその時、百人ばかりの雲水が修行中だったからだ。

禅師は心を痛めながら、たか女にいった。
「美しい尼僧がいたのでは、男僧の心が乱れて修行が出来ない。申し分けないが何処かへ移ってくれないか」


これには、気丈夫なたか女もわが身のあわれさに、がっくりと力を落とした。


そのころ、清涼寺によく出入りしていた大野木宮内というひとがいた。
南禅寺金地院の坊宮 (おもに年貢取り立て役)で。同院長老の可庭老師に認められ、世情に通じていた。

しかも、可庭老師は僧録司として全国僧侶の取り締まりをしており、とくに京の寺院の現状に明るい。


「そうだ。あの方に頼んで京の寺院に。
できたら密命によって隠密活動をしていた、 あの静かな一乗寺あたりがいい」


たか女は。思い立つとすぐさま宮内にその旨を申し入れ、禅師にも協力をたのんだ。
そして話は金地院可庭老師にただちに伝えられた。

「なんとかわいそうな・・・・・」


可庭老師は、非常にあわれみ、さっそく金福寺に”渡り”をつけてくれた。
 

たか女は己已年(つちのとみ)生でまれ当時五十四歳。巳は蛇、蛇は弁天様の使いである、


こんなたか女は、人知れず彦根の弁天様を深く信仰していた。
「あの三日間の”生きさらし”の刑に耐えたのは弁天様のお力だ」
たか女はこう信じ込んでいた。

そして「新しく住みついた金福寺に、弁天様を祭ろう」と。


そんなたか女に「弁天堂建立にひと肌るぎます」と申し入れてきた男がいた。
三条麩屋町に住む岐阜屋多吉。
たか女が芸妓のころ(21歳)ひいきにしていた織物問屋を営む豪商だ。


弁天堂は、こうした人たちの寄付でたちまち完成。。。たか女は最後の十四年間を静かにおくつた。



たか女の仮墓が金福寺の墓地にあるが、本墓は約400mほど北にある圓光寺境内の墓地にある。
木版活字を使った書籍の出版活動をしていたことで有名である。
圓光寺には今も伏見版木活字52320個が残っていて、陳列されている、


金福寺は一時期、荒廃したが、与謝蕪村によって整えられた。


村山たか女は船橋聖一作『女の生涯』で知られるようになつた。
新聞連載やNHK。大河ドラマや映画などで一時は賑わった、
 

一乗寺は平安時代から疎まれた土地でもありました。
その風土が反骨の郷土を作りました。


建礼門院。楠正成。鴨長明や三条実方、梅田雲濱、後水尾上皇、反抗者や失脚者を常に温かく受け入れています。
 
 
       うき我をさびしがらせよ閑古鳥
 

                       松尾芭蕉



       我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花
 
                       与謝蕪村



おたかさんをかばったり愛してくれた人達もいたのですね。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 09時19分42秒 ) パスワード

聖徳太子 厩戸皇子=聖徳太子かを疑問視 事績に虚構の疑いも
 聖徳太子といえば、様々な事績を挙げるまでもなく、日本人なら幅広い世代の間で最も認知されている、賢人・貴人の代表格の人物だ。しかし近年の歴史学研究ではこれまで聖徳太子の事績と考えられていたことを否定する文献批判上の検証や、太子の実在を示す『日本書紀』などの歴史資料としての信憑性の低さから、聖徳太子自体を虚構とする説もある。

廐戸皇子が実在したのは確かだが、廐戸皇子=聖徳太子かどうかが疑問視されているのだ。事実、廐戸皇子の事績で確実だといえるのは「十七条憲法」と「冠位十二階」のみだ。随書にも記載されている事柄だが、その随書には、推古天皇のことも廐戸皇子のことも一切記載されていないのだ。『日本書紀』にも廐戸皇子のことは記載されていない。

聖徳太子は用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女、穴穂部間人皇女。太子の生没年は574(敏達天皇3)〜622年(推古天皇30年)。本名は廐戸(うまやど)、別名は豊聡耳(とよさとみみ、とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ、一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「廐戸皇子」の呼称に変更している教科書もある。

 聖徳太子についての記述は日本最古の正史『日本書紀』をはじめ、いまは存在しないが最古の太子伝といわれる『上宮記(じょうぐうき)』、平安中期に完成した『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』、『上宮聖徳法王帝説』、また『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(ほうりゅうじ がらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)』や『四天王寺本願縁起』などにみられる。

 教科書ではこれらの文献をもとに、聖徳太子の人物像や事績を史実として紹介し、誰もがそれを紛れもない事実として受け止めてきた。父・用明天皇、母・穴穂部間人皇女の間に生まれた太子は、生まれるとすぐに言葉を話し、わずか3歳で合掌しながら「南無仏」と唱え、また幼少の頃から10人あるいは20人の声を同時に聞き分けることができたという。まさに超人的な聡明ぶりだ。
蘇我氏と物部氏が皇位継承をめぐり壮絶な戦いを繰り広げていた際も、蘇我氏に勝利の祈願を依頼されていた聖徳太子は、望み通り蘇我氏を勝利に導くことに成功した。弱冠14歳のときのことだ。また、高句麗や百済の知識人に帝王学を学び、天皇中心の中央集権国家が理想だと考えるようになったという。
 593年、19歳のときには、叔母で日本初の女帝、推古天皇の皇太子・摂政となり、内政の改革に努めた。また、607年には小野妹子を第二回遣隋使として隋に派遣し、隋との外交も進めている。飛鳥から、斑鳩の地に構えた新しい宮殿に移ってからは、世界最古の木造建築、法隆寺、四天王寺などの寺院を建立したほか、経典の注釈書『三経義疏』の著述をはじめ数々の歴史書の編纂を行うなど、様々な功績を残した−とされてきた。私生活では4人の妻をめとり、14人の子供をもうけている。そして622年、49歳で生涯を閉じた。

史実として語り継がれるこうした数々の事柄は、果たして事実なのだろうか。確かに、文献の中には過度に脚色されている部分があるが…。例えば聖徳太子は、伝えられる4回にわたって遣隋使を本当に派遣したのか?冠位十二階、十七条憲法は本当に聖徳太子によって制定されたのか?一つ一つ検証していくと、随書との食い違いは多く、謎は深まるばかりなのだ。聖徳太子はいなかったとする方が、無理がなく自然な部分さえあるのだ。また歴史上、廐戸皇子は、推古天皇の摂政として活躍したとされているが、その当時、摂政という官職はなかったとされている。

 もし実在しなかったと考えるなら、どうして「聖徳太子」という人物をつくり上げる必要があったのか?聖徳太子が日本書紀でつくり上げられたものだと仮定すると、責任者として編集に携わっていた藤原不比等の名前がクローズアップされてくる。不比等は日本書紀を編集する際に、自分にとって都合のいいように書き加える必要があったと思われる。

当時はもちろんのこと、後世の評価はどうあれ、藤原氏隆盛の原点ともいえる「大化の改新」を正しいものだと見せる必要がある。中大兄皇子と藤原鎌足の手柄をよく見せるためには、この二人によって滅ぼされた蘇我氏を悪者にしなければいけない。そのため、入鹿に滅ぼされた山背大兄王や、その父の廐戸皇子を聖徳太子としてつくり上げて、善人にしなければならなかったのではないか。
 不比等は藤原一族に次々と襲いかかる不幸なできごとは、蘇我氏の祟りではないかと考えた。そのため、蘇我氏の魂を鎮めなければならず、日本書紀という歴史書で蘇我氏の働きを褒め称え、魂を慰めようとしたわけだ。ところが、そうすると鎌足と中大兄皇子は蘇我氏を滅ぼした悪者になってしまうのだ。そこで、蘇我一族の善人としてシンボル的存在の、架空の人物=聖徳太子をつくり上げる必要があったのだ。これによって、藤原一族のメンツも立ち、蘇我氏の供養もできるのだ。こうして聖徳太子伝説ができあがったというわけだ。

 伝説とは別に、聖徳太子にまつわる説の一つに、聖徳太子=非日本人、具体的にいえばペルシャ人説がある。その根拠として歴史学者、小林惠子氏は聖徳太子が新羅征伐のためにつくらせ、今日まで法隆寺夢殿に伝承されてきた軍旗、四騎獅子狩文錦を挙げている。四騎獅子狩文錦はササン朝ペルシャの流れを汲む文様が最大の特徴で、翼の生えた馬、すなわちペガサスに乗って獅子を倒そうとするペルシャ人らしき騎士の姿が描かれたものだ。また、騎士が被っている冠はササン朝ペルシャの王、ホスロー2世のものと酷似しているばかりでなく、夢殿に安置されている救世観音像の冠の飾りとも同じデザインなのだ。救世観音像は聖徳太子をモデルにしたといわれており、聖徳太子=ペルシャ人説を裏付けている。

さらに小林氏は、聖徳太子は北朝鮮からイラン北部を征服していた遊牧騎馬民族、突厥人であり、しかもその中の英雄、頭達(たるどう)だとしている。突厥については『随書』の突厥伝に詳しく記載されている。有名人物の生死の記録はほとんど例外なく歴史書に残されているにもかかわらず、頭達は599年の戦いの記録を最後にぷっつりと歴史上から姿を消している。

頭達が姿を消したのとほぼ同時期、今度は日本で聖徳太子が登場する。これが頭達説根拠の一つだ。599年に消息を絶った頭達は実は翌年600年に北九州に上陸、北上して播磨(現在の兵庫県)の斑鳩寺に本拠地を置いたという。その証拠に、その際持ち込まれた西突厥製と思われる、いびつな形の地球儀が今でも斑鳩寺に残されている。また、ゴビ砂漠周辺にはカイルガナ(モンゴルひばり)と呼ばれる鳥が棲息しているが、斑鳩という名称もここからつけられたのではないかと推測されている。斑鳩は斑(まだら)の鳩と訳すことができ、実はササン朝ペルシャの女神、アナーヒターの使い鳥も鳩なのだ。

 聖徳太子の死もまた多くの謎に包まれている。621年、母の穴穂部間人皇女が死亡。翌年、聖徳太子が病に伏してしまう。太子を看病していた妃の膳大郎女が疲れから622年先立つとその翌日、聖徳太子も49歳の生涯を閉じ、3人は同じ墓に葬られたのだ。死因については一切解明されていない。恐らく3人とも異常死だったのではないかと推察されるが、研究が待たれるところだ。


(参考資料)黒岩重吾「聖徳太子」、黒岩重吾「斑鳩王の慟哭」、
井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、
梅原猛「隠された十字架 法隆寺論」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」、
小林惠子「聖徳太子の正体」、神一行編「飛鳥時代の謎」
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 09時29分02秒 ) パスワード

歴史クラブより

http://rekishi-club.com/akuyaku/ii.html
井伊直弼 視点は幕府のみで、日本の将来見据える視点に欠けた超保守派

 井伊直弼といえば「安政の大獄」で、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など将来日本の様々な分野で名を成したであろう、多くの有為の人材を罪に陥れ、処断した“極めつきの悪役”というイメージが強い。だが、果たして彼は本当に根っからの悪人だったのか?

 井伊直弼は近江彦根藩第十一代藩主井伊直中の十四男。幼名は鉄之助、鉄三郎。字は応卿、号は埋木舎・柳王舎・宗観。本来なら他家に養子にいく身だったが、庶子だったため養子の口もなく17〜32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。1846年(弘化3年)、第14代藩主で兄の直亮の世子だった井伊直元(直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定した。1850年(嘉永3年)直亮の死去により家督を継いで第15代藩主となり掃部守(かもんのかみ)に遷任する。

 直弼は1858年(安政5年)、幕府の大老に就任すると、孝明天皇の勅許なしで米国と日米修好通商条約を調印し、無断調印の責任を配下の堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外へ放遂した。また、違勅調印を断行した直弼らの責任を問うため、大挙して江戸城に登城した越前藩主松平慶永、水戸藩前藩主徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝、一橋慶喜らを、逆に大弾圧に乗り出した。いわゆる「安政の大獄」の始まりだ。弾圧の嵐は止まるところを知らず、反井伊派の公家、幕臣、藩士らに及んだ。吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らは死罪、近衛忠煕は辞官に、公卿だけでも90数人を処罰した。

また、十三代将軍家定の後継問題では、直弼は紀州藩主の慶福(よしとみ)を擁立し、第十四代将軍家茂を誕生させたが、対立した一橋派の徳川斉昭、松平慶永、徳川慶勝、一橋慶喜、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊信らを、違勅調印を唱えたことをからめて永蟄居や隠居などに処罰した。このほか川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。

 通商条約の違勅調印に続く安政の大獄は、尊皇攘夷派の反発、憤激を呼び1860年、大老井伊直弼は桜田門外で脱藩した水戸浪士ら総勢18人による襲撃で暗殺された。この日、3月3日朝、夜通しの雪が降りしきっていた。そのため、井伊家の120人余の供方は、いずれも菅笠に桐油合羽(とうゆかっぱ)といういでたちで、刀には柄袋をかけていた。不意の事件で、身支度も整わず斬られた者も多い。

井伊家の届け出には、井伊大老は負傷ということにして、子・愛麿が家督を相続し三十九代掃部頭直憲となった後、病死として処理された。ありのままに発表すれば、井伊家改易は幕府従来の規律だからだ。この「桜田門外の変」を境に、幕府の権威はかげりを帯びるようになる。この事件は白昼、お膝元、江戸城の間近で幕府最高の権力者が惨殺されたものだっただけに、世間に大きなショックを与えた。

 幕閣でこれだけの強権・独裁・恐怖政治を断行した井伊直弼だが、これは、あくまでも大老という職責を担う公人として、“徳川幕府の威信”を守るためにやったことだった。だが、この時代、求められていたのはもう少し俯瞰で、日本の将来にとってどうあるべきかを考え、行動できる人物だったのだろう。ところが、現実に幕閣を担った井伊直弼は、そうした視点に欠けた、超保守的な人物だったのではないだろうか。

 井伊直弼は、彦根藩主時代は藩政改革を行い名君と呼ばれた。彼は部屋住み時代、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを咲くことのない埋もれ木にたとえて「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた住まいで世捨て人のように暮らした。この頃、熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど聡明さを早くから示していた。したがって、彼は幕末・安政年間、幕閣に大老として登場して、その時代の幕府側にとって求められた“役割”を粛々と実践したに過ぎないのかも知れない。それだけに忌まわしい「安政の大獄」「桜田門外の変」に直結した井伊直弼の極端な“悪役”イメージを、彼自身はちょっと心外に思っているのかも知れない。

(参考資料)吉村昭「桜田門外の変」、松本清張・奈良本辰也「日本史探訪/開国か攘夷か」、
奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、立原正秋「雪の朝」、
平尾道雄「維新暗殺秘録」、白石一郎「江戸人物伝」
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 09時53分30秒 ) パスワード

おたかさんが井伊大老(井伊直弼)を愛したのは
たぶん

   まず、親から=多賀神社から=井伊直亮に献上されたのではないかと思うのです。

   そして井伊直亮はDVタイプか変態タイプだったのでは?と。

   おたかさんは直亮のことは嫌っていたのではないかなと。

   そういうのから井伊大老(直弼)が救ってくれたことがあったのではないのか?と。


おたかさんにとって井伊大老は
  「この人の役に立ちたい。この人の為なら死んでもかまわない」
というかけがえのない存在だったんじゃないかな?

きっと井伊直亮が嫌で嫌でしかたがなかった分、井伊大老=直弼=を深く愛したんじゃないかな?


でも長野主膳とのことは、ちょっと分からないけど
自分の好きな人が尊敬している師だから長野主膳のことも好きだったんでしょうね。


   普通女性は2人の男性を同時に愛することは難しいと思うけど
   ここがおたかさんが普通の女性とは違うところだったのかな?

   男性はA子も好きだけどB子も同じように好きというのは簡単でしょうけど。


   おたかさんにとって直弼が好きだけど高嶺過ぎる。人垣も多過ぎるし。そうそう構ってもくれないだろうし
   でも長野主膳は手近な存在だった?

   おたかさんにとって長野主膳は直弼の身代わりだったのかな?



あ、そうだ!
昔、「♪魅せられて♪」というジュディ・オングの歌がありましたっけ。

      「♪好きな男の腕の中でも違う男の夢を見るのよ♪」


それにしても清凉寺で「あなたがいらっしゃると若い僧達に迷いが出ます」と言われて
おたかさんはすぐに身を引いたんじゃないかしら?

   女は灰になるまで おんな  だから。
   あはは
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 09時58分46秒 ) パスワード

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以下コピペ:

天智天皇 謀略を駆使し、頂点に昇りつめた自己顕示欲に長けた策謀家

 天智天皇(当時は中大兄皇子)は、母・皇極帝の3年、「乙巳(いっし)の変」で中臣鎌足らと謀って、当時極めて大きな権勢を誇った蘇我氏(蝦夷・入鹿)を打倒、叔父・軽皇子を即位させ、孝徳天皇として立てて「大化改新」を断行。のち再び母を即位させ、自らは皇太子として政務を執った。こうしてみると、表面上はNo.2に甘んじる控えめな皇子を連想し勝ちだが、実はそうではない。様々な背景・理由があって即位することはなかったが、実権は彼が掌握していたのだ。有間皇子、蘇我倉山田石川麻呂、そして孝徳天皇など、彼にとって邪魔な存在はすべて謀略にかけ、追い込んで排除していく策謀家の側面が強い。

 天智天皇は父・田村皇子(後の舒明天皇)、母・舒明天皇の皇后、さらに後に即位して皇極天皇、重祚して斉明天皇となる宝皇女との間に生まれた。名は葛城皇子、開別(ひらかすわけ)皇子。田村皇子即位後、蘇我馬子の娘を母とする古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子とともに、皇位継承資格者とみなされ中大兄皇子を称した。皇后には古人大兄皇子の娘、倭姫(やまとひめ)を迎えた。父、古人大兄皇子は孝徳朝初期に吉野にあったが、謀反のかどで中大兄皇子の兵に捕らえられ殺害された。その際、倭姫は幼少のため中大兄皇子に引き取られ、後に輿入れしたのだ。

 天智天皇をめぐる女性の数は多く、嬪(みめ)として遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)、橘娘(たちばなのいらつめ)、常陸娘(ひたちのいらつめ)が嫁ぎ、さらに女官として色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、黒媛娘(くろめのいらつめ)、道君伊羅都売(みちのきみいらつめ)、伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)らが後宮に入った。遠智娘との間には建皇子、大田皇女、○野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)が生まれ、姪娘との間には御名部(みなべ)皇女や阿閉皇女(後の元明天皇)が、伊賀采女宅子娘との間には伊賀皇子(後の大友皇子=弘文天皇)が生まれた。

 中大兄皇子は、大化改新以前は隋に渡った南淵請安や僧旻(みん)から大陸、半島情勢を学び、高句麗や百済の動向、さらには唐の覇権拡大などを十分認識して皇室を中心とする中央集権国家の樹立に邁進した

 冒頭で様々な事情から即位せず、皇太子として政務を執り続けたと述べたが、その最大ともいえる事情の一つが実妹、孝徳天皇の皇后となった間人皇女(はしひとのひめみこ)と、男女の関係にあったと伝えられることだ。これは由々しきことだ。古代社会では、同母でなければ兄弟姉妹での男女関係、あるいは婚姻に至るケースはよくあり、決して珍しくない。近親同士の男女関係、いや婚姻についても甥と叔母、叔父と姪のケースは極めて多いとさえいえる。

ところが、実父、実母同士の男女関係は、現代はもちろん、古代社会においても厳に認められておらず、タブーとなっていた。中大兄皇子(=天智天皇)はこのタブーを破って、長く間人皇女との男女関係にあったので、即位したくても即位できなかったのだ。それでもいっこうにひるむことなく、実権は握り続けたわけだ。中大兄皇子は誰も仕返しが怖くて、そのことを指摘し非難できないことをいいことに、やりたい放題だったのだ。それほど身勝手で、自分だけは別の存在だとばかりに振る舞う、まさに“専制君主”あるいは“悪魔”のような人物だった−といった方が的を射ているかも知れない。

天智天皇とは、こんな人物だったから側近はいつもピリピリし、表面上は絶対服従の姿勢を示しながらも、内心はうんざりして、周囲も辟易していたろう。同天皇の打ち出す朝鮮半島政策に対する危うさも加わって、新羅、高句麗からの渡来人・帰化人らが入り混じった形で、反対勢力がいつどのように動き出してもおかしくなかった。同天皇が進言に耳を貸す人物でないだけに、朝鮮半島政策の路線を修正・変更するには抹殺するしかなかったわけだ。



 天智天皇の死には謎が多い。歴代天皇の中で天智天皇の墓がないのだ。
山科の草むらで同天皇の沓が見つかったが、『扶桑略記』には亡骸は遂に見つからなかったとある。
                              ↑
                            え〜〜〜?!そうだったの?!

何者かに襲われ殺害された可能性もあるのだ。それが、弟の大海人皇子に好意を寄せていた勢力の人物だったかも知れない。

(参考資料)遠山美都男「中大兄皇子」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、
黒岩重吾「天の川の太陽」、井沢元彦「隠された帝」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編」、
井沢元彦「日本史の叛逆者 私説壬申の乱」、梅原猛「百人一語」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、
神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化の改新の謎」
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 10時11分11秒 ) パスワード

以下コピペ:


天武天皇 現人神になった独裁的専制君主だが、実は謎だらけの人物

日本の古代史には謎の部分が極めて多い。ここに取り上げる天武天皇などその最たるものだ。例えば歴代天皇の中で唯一、生年が不明な天皇なのだ。生年だけではなく、前半生すら全く闇に隠されたままだ。なぜなのか?

一般に天武天皇はそれまで、大和朝廷を組織していた畿内の大豪族主導による合議制政治を否定。壬申の乱に勝利し、この戦いで有力豪族の多くを滅ぼしたことで、権力を天皇家に集中し「皇親政治」を実現した、賢君のイメージが強い人物と思われている。現実に『万葉集』などで天武天皇は、「大君(おおきみ)は神にしませば…」と詠われ、その政権は独裁的専制君主の地位に達していた。そんな現人神(あらひとがみ)になった天武天皇の生年が、また前半生がなぜ闇の中にあるのか。そこには、オープンにできない、奥深い事情があるのではないか。まさに謎だらけの人物といわざるを得ない。

天武天皇は名を大海人(おおあま)皇子といい、父は舒明天皇、母は皇極天皇で、正史では天智天皇(中大兄皇子)の弟とされている。しかし、最近の説では天智天皇とは兄弟ではなかったとか、兄弟にしても大海人皇子の方が兄だったとか、大海人皇子は渡来人だったといった説まで生まれている。中大兄皇子とは父が異なり、大海人皇子が年上だったからこそ、生年を明記できなかったのであり、大海人皇子に対する天智天皇の遇し方も尋常ではなかったのではないだろうか。

天智天皇にとって、大海人皇子は単なる兄弟の一人というわけにはいかない、“賓客”に相当する存在だったのではないか。そうでなければ、4人もの自分の娘を大海人に嫁がせる理由がない。これらの真偽はさておき、大海人皇子が天智朝の皇太子として、一時は政権の中枢にいたことは事実だ。「皇太弟」と表現されることもあったのだから、この点は間違いない。

ところが、幼少だった大友皇子の成長に伴い、天智天皇が皇太子=大海人ではなく、わが子大友に皇位を譲りたいと思うようになったことで、状況が激変する。天智天皇は、皇太子の大海人皇子の地位を奪い、671年(天智天皇10年)、大友皇子を太政大臣に任命し、政権のトップの座に就かせたのだ。太政大臣が官職として正式に登場するのは、これが初めてのことだ。天智天皇はわが子を皇位に就けるため、新しいポストを作ってまで大友皇子を政治の中枢に置いたのだ。大友皇子23歳のときのことだ。

そして、天智天皇が大友を後継者にするために謀った最後の機会が、病の床に就いた天智が、病気が全快しないのを予感し、大海人を招いたときだった。671年のことだ。天智は「私の病気は重い。お前に後を譲ろうと思う」といった。大海人は一瞬、真意を図りかねたが、即座に「いや、結構です。皇位は倭姫(やまとひめ)皇后にお譲りください。政治のことは大友皇子にお任せください。私は出家し、天皇の病気治癒を祈りましょう」と答えた。とっさに大海人は天智天皇の言葉が、自分に仕掛けられた罠だと察したのだ。事実、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)は、大海人が承知すれば、その場で暗殺しようと狙っていたともいわれる。危機一髪、僧形となった大海人皇子は吉野に逃れた。

後の歴史に即していえば、こうして大海人皇子による皇位奪取計画の火ぶたが切って落とされたのだった。天智天皇亡きあと近江京の総帥・大友皇子と、吉野で密かに態勢を立て直した大海人皇子、甥・叔父の戦い=古代史上最大の内乱「壬申の乱」はこの翌年、672年のことだ。この戦いに勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位、天武天皇となった。

(参考資料)黒岩重吾「天の川の太陽」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、神一行編「飛鳥時代の謎」、
笠原英彦「歴代天皇総覧」、関裕二「大化の改新の謎」、井沢元彦「逆説の日本史A古代怨霊編」、
井沢元彦「日本史の叛逆者 私説壬申の乱」
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 10時15分50秒 ) パスワード

隠密だったのは知ってたけどシーボルト事件の密告者というのは知らなかった。
でもちゃんと仕事を果たしたということですよね。


以下コピペ:


間宮林蔵 「間宮海峡」の発見者で、シーボルト事件の摘発者

 間宮林蔵といえば、幕命により樺太を探検し、樺太が島であることを確認、すなわち「間宮海峡」を発見したことで知られている。この間宮海峡の存在は、シーボルトによってヨーロッパに伝えられ、間宮の名は世界地図の上に永遠に刻み付けられることになった。林蔵はそのシーボルト事件の摘発者だとされている。探検・測量家で、幕府隠密でもあった林蔵は、その責務を冷静に果たしたに過ぎないとの見方もあるが、それは世の大きな批判と非難を浴びる行為でもあった。生没年は1780(安永9)〜1844年(天保15年)。生年には1775年(安永4年)説もある。

 間宮林蔵は常陸国筑波郡上平柳(かみひらやなぎ)村(現在の茨城県つくばみらい市)の農業・箍屋(たがや)に生まれた。名は倫宗(ともむね)。9歳のとき、村の専称寺にあった寺子屋に通い、読み書き、そろばんを学んだ。その後、地理学者、村上島之丞(しまのじょう)に規矩(きく)術(三角測量)を学び、1800年(寛政12年)、蝦夷地御用掛雇(えぞちごようがかりやとい)となった。同年、箱館で伊能忠敬に会い師事、のち天測術(緯度測定法)を学んだ。

林蔵は1806年(文化3年)、択捉を測量。1808年、調役下役元締・松田伝十郎と樺太に派遣され、伝十郎は西海岸、林蔵は東海岸を調査。翌年アイヌの舟で海峡を渡り、黒竜江下流地方を探検、樺太が島であることを確認した。1812年、再度蝦夷地に渡り、伊能忠敬の未測量地域の海岸を実測。


1821年(文政4年)完成した忠敬の「大日本沿海與地全図」には林蔵の測量が生かされているといわれる。

                    ↑
                これも知らなかった!


 1822年、林蔵は江戸に帰り普請役、1824年、安房、上総御備場掛手附(おそなえばがかりてつき)を命じられ、東北地方の東海岸を巡視。以後。林蔵は様々な姿に変装して各地を歩き、外国船渡来の風聞や密貿易調査の隠密活動に従事した。1828年(文政11年)、林蔵49歳のとき、シーボルトから小包が届き、彼は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え開封せずに上司に提出した。これによりシーボルトと幕府天文方・書物奉行の高橋景保との交流が明らかになり、これがシーボルト事件の発端となった。

オランダ商館付の医師、シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死(その後、死罪判決を受けた)した事件だ。処分者の多さに事の重大性が表れており、それをいわば密告した林蔵の卑劣さをなじる眼も少なくなかった。

 1834年(天保5年)以降の林蔵は、海防問題を通じて水戸藩と接触、藤田東湖らと交わった。2年後、林蔵は隠密として石見国浜田で密貿易事件摘発の発端を掴んでいる。しかし、健脚を誇った林蔵も少しずつ足腰が弱り、その後は隠密としての務めは果たせなくなっていった。59歳のとき、江戸で病の床に就き、6年後の1844年(天保15年)、江戸の自宅で65歳の生涯を閉じた。

 主な著書に「東韃(とうだつ)紀行」「銅柱余録」などがある。


(参考資料)吉村昭「間宮林蔵」、池波正太郎「北海の猟人」、池波正太郎「北海の男」
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 10時20分29秒 ) パスワード

以下コピペ:


蘇我馬子 日本古代史・最大の権力者で、大和政権の実権を掌握

 日本の古代史で、まさに“怪人”と評され、巨大な権力を持ち“悪役”の烙印を押された人がいる。それは蘇我馬子だ。彼は権力への妄執に取り憑かれ、目的のために手段を選ばず、政敵ばかりか天皇まで暗殺した。そして傀儡の天皇を操り大和政権の実権を掌握。息子の蝦夷、そのまた子の入鹿まで蘇我氏は三代にわたって、その権力は受け継がれた。確かに馬子が手中にした権力は強大だった。そのことは飛鳥寺、石舞台古墳など馬子が残した史跡からもうかがえる。

また、聖徳太子を重用し、四天王寺や法隆寺の創建を通じて日本の仏教伝来を主導したのも彼だ。後世の評判はともかく、馬子が日本の古代史で決定的な役割を果たした人物なのは間違いない。まさに怪人と呼ばれる所以だ

 蘇我馬子を悪役とする歴史観は、「日本書紀」に基づいたものだ。「古事記」「日本書紀」には潤色が加えられており、すべてを事実とは見做せない。馬子の実像も近年、従来とは異なる様々な見解が提唱されている。

 蘇我馬子は572年(敏達天皇元年)、大臣(おおおみ)に就き以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛を築いた。父は稲目。姉に堅塩媛(きたしひめ、欽明天皇妃)、妹に小姉君(おあねのきみ、欽明天皇妃)、子に刀自古郎女(聖徳太子妃)、蝦夷、河上娘(崇峻天皇妃)、法提郎女(田村皇子妃)などがいる。伝えられる馬子の生没年は551年(欽明天皇13年)〜626年(推古天皇34年)だが、定かではない。

 馬子には様々な事績があるが、大きなものの一つは父、稲目と同様、日本における仏教の興隆に力を注いだことだ。百済の工人に飛鳥寺を建立させた。また、渡来人である善信尼を百済に派遣して仏教を学ばせている。善信尼は、日本で最初の尼僧となった人物だ。

このほか、聖徳太子の優れた事績となっているものの中に、馬子こそがその主体者ではなかったかと指摘されているものも少なくない。あるいは、聖徳太子のよき理解者としての馬子がいたからこそ、太子はあれだけの、様々な改革を推し進めることができたのだとみる向きもあるのだ。

 ただ、馬子は大臣として54年もの長きにわたり権勢を振るっただけに、最高権力者としての“驕り”の場面も数多かった。馬子にとっては大王=天皇も特別、畏怖しなければならない存在ではなかった。東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使っての崇峻天皇暗殺が好例であり、天皇選びの際は、有力豪族も馬子の顔色をうかがいながらしか、意見が言えない状態だったようだ。まさに、馬子は王権を無視し、政治をほしいままにしていたのだ。こうした状況が蝦夷、入鹿と三代続いたわけで、その報復として後世、蘇我氏が“悪役”に仕立て上げられた最大の要因がここにあるのではないか。
古代史で強大な権力を誇った蘇我氏だが、そもそもそのルーツが定かではない。蘇我の名に渡来人である証拠が隠されているという説があるその論者の一人が作家の松本清張氏だ。朝鮮の史書「三国遺事」によると、かつて新羅は「徐伐(そぼる)」と呼ばれたことがあった。徐(ソ)は、蘇の音に連なる。伐と我は1画しか違わず、極めてよく似ている。したがって、蘇我は徐伐が転じた名ではないかというわけだ。

さらに渡来人説に立ちながら、馬子こそ当時の天皇だったとする見方もある。馬子天皇説はまず渡来人の勢力をより強大なものだったとする視点に立つ。そして天皇の始祖を渡来氏族に求め、その直系の子孫である馬子は皇位継承権があったとするものだ。また馬子が残した飛鳥寺、そしてその墓とされる石舞台古墳も天皇説の根拠とされている。つまり、・蘇我氏が氏寺とした飛鳥寺が法隆寺や四天王寺の2.5〜3倍の規模を持つ・石舞台古墳が崇峻天皇の墓より数段大きく、しかも当時の政治の中心地だった飛鳥に作られている−などから、天皇以外の誰にもそのような権力は持ち得ない、というのがその根拠だが果たして…。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、
黒岩重吾「磐舟の光芒」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」、豊田有恒「崇峻天皇暗殺事件」
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 10時28分05秒 ) パスワード

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以下コピペ:

長野主膳 幕末動乱期 大老・井伊直弼を陰で操った怪物参謀

 長野主膳(しゅぜん)は、幕末・維新史上の大怪物とも、大魔王とでもいうべき人物だ。幕末・維新の騒乱は井伊直弼の大老就任から始まったといっていいが、周到な計画を巡らせて井伊直弼を大老にしたのは井伊の参謀だった長野主膳であり、井伊が大老としてやったことのほぼすべて−紀州慶福(よしとみ)を将軍世子に決定したこと、勅許なく条約を結んだこと、安政の大獄を起こしたこと、和宮降嫁の運動に着手したことなども彼なのだ。突き詰めていえば、井伊はロボットで、陰でそれを操っていたのはこの長野主膳だったのだ。

 長野主膳は伊勢国の出身といわれるが、その出自、幼・少年時代のことなどは、詳らかではない。長野の幼名は主馬(しゅめ)、諱は義言(よしとき)。長野の生没年は1815(文化12)〜1862年(文久2年)。

長野は本居宣長系統の国学者で、和歌は速吟で、しかも上手だったという。そして、長野は“主義”の人ではなく、功業を目的とする人物だったといわれ、権謀に長けた策謀家というのが大方の評価だったようだ。

 天保10年、三重県飯南郡滝野村(現在の飯高町)にやってきた長野主膳は、紀州新宮の領主、滝野次郎左衛門の妹、滝と恋におちた。そして天保12年、二人は結婚する。長野が27歳、滝が31歳のときのことだ。結婚すると二人は滝野村を出て、京に上り、それから近畿、東海道の各地を巡遊。そして、最後に江州伊吹山の麓の坂田郡志賀谷村の阿原家に落ち着き、「高尚館」という国学塾を開いた。坂田郡志賀谷村は水野土佐守忠央(ただなか)の知行地の一つで、阿原家はその代官だったといわれる。

 長野は志賀谷村に落ち着くと、よく彦根にでかけた。やがて、弟子や和歌の友もできて数カ月の後、彼は井伊直弼に会うのだ。直弼は彦根井伊家十二代藩主の直中(なおなか)の十四番目の子だ。江戸時代の武家の三男以下ほど哀れなものはない。それは大名の家も同じだ。次男はお控えと称して、長男が万一若死にでもしたときのスペアとして相当な待遇をされるが、三男以下は他の大名や、家中の重臣の家に養子にいく以外には、わずかな捨扶持をもらって一生飼い殺しにされ、妻も持てない。妻を持たせて子供ができれば藩でその行く末までみなければならないからだ。女がほしければ妾をおくか、女中で間に合わせるよりほかない。妾や女中なら、構わなくてもいいからだ。惨めなものだ。

 直弼も養子の口を探したが、なかなかなかった。遂に東本願寺別院、長浜の大通寺に養子に入ろうとして、ずいぶん運動したが、これも結局まとまらなかった。井伊家ではこんな境遇にある子供には年給米三百俵を与えて、飼い殺しにする定めになっている。直弼はこれを受けて生涯を埋もれ木で終わる覚悟を決め、三の丸の尾末町の屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた。この家号でも分かるように、直弼の嗜好は国学にあったのだ。国学を仲立ちとして直弼と長野の関係は結ばれた。長野は埋木舎を訪問し語り合い、直弼と深い信頼を抱きあう師弟関係となった。長野、直弼ともに28歳のときのことだ。

 長野と直弼が知り合いになってから3年余の弘化3年、直弼の兄で世子だった直元が江戸で死亡、直弼が世子となった。そして、直弼が世子となって4年10カ月目の嘉永3年、井伊家の当主、直弼の長兄直亮(なおあき)が病死。遂に直弼が当主となった。一時は自らの運命を諦め切っていた直弼に、花が咲いたのだ。直弼36歳のときのことだ。

 直弼は長野を嘉永5年の春、知行百五十石の藩士として、藩校弘道館の国学教授とした。こうして長野は素性も知れない身の一介の浪人学者から、井伊家お抱えの国学者として百五十石を食む身分となったのだ。だが、人間の欲望には限りがない。この点は直弼も似た思いだったに違いない。長野は直弼を大老にしたいと考える。なぜなら井伊家はそうなれる家柄なのだから…。

大老は常置の職ではないが、平時でも置かれたことが多いうえに、こんな時局になっているのだから、置かれる可能性は大いにある。直弼は天性優れた才と度胸があるうえに、学問もしており、長い間逆境にあって下情に通じている。功名心の強い長野は、単に直弼のためだけにこう考えたのではない。直弼を大老として幕閣第一の権力者としたうえで、自分もまた幕府の要人になろうと考えていたのではないかと思われるのだ。

 1853年(嘉永6年)、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航、世情騒然となったその年、病気がちだった第十二代将軍家慶が死亡。そして十三代将軍に家慶の子、家定が就いた。だが、この家定は精神薄弱児的人物だったから、できるだけ早く将軍世子に賢明な人物を立て、その人物に将軍の政務を担ってもらおうとの動きがあった。こうして周知の通り、将軍世子に一橋慶喜を推す派と、紀州慶福(よしとみ)を推す派の二派が相争う状況となった。

 冒頭に記した通り、長野は井伊大老が断行したすべてをいわば主導したのだが、最も衝撃的だったのはやはり「安政の大獄」だ。狂気のような大検挙があった翌々年、万延元年、「桜田門外の変」で直弼は惨殺される。直弼の後を継いだ直憲からは疎まれ、その翌々年、文久2年、直弼という絶大な後ろ楯を失ったダメージは大きく、藩内の空気が一変、長野に対する批判が爆発。長野は“奸悪”の徒として禁固され、牢内で処刑された。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」


長野主膳の「長野氏」は   (伊勢の長野氏は)  南朝方でしたから
当然、井伊家とは南朝枠で親しくなったと思います。
特に直弼も主膳も国学が好きですから。

この人も気の毒な人でした。


時代が読めなかったからね。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月05日 10時57分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 おたかさんの話、女性ならではの推論、なるほどとうなずけました。
 金福寺の話ですが、実は一乗寺に私は住んでおりました。何かおたか
さんとは不思議なご縁がありそうです。
 清涼寺は龍潭寺の隣にありました。時間がなく、寄らずじまいでしたが、
すごく立派なお寺でした。是非今度行ってみたいです。
 それから百々御所ですが、近江八幡の郊外に百百寺というのがありまし
て、なんと読むのとガイドさんに聞いたら、「もも寺」と平凡な名前が
かえってきましたが、「百百」も何か謎めいていますね。
 金福寺も人形寺も昔訪れているはずですが、その当時は歴史には余り興味
がありませんでしたのではっきりとした記憶がありません。
 それにしても、芭蕉はいろんなところに登場しますね。これも不思議。
 そうそう、島左近の話ですが、何か気になっています。知人がその末裔
と思われますが、二俣に住んでいます。お父さんが市議会議員をやっておら
れましたので、それなりのお家だとは思いますが、何で二俣に?とは思いま
す。武士系はいろいろな事情で移動したんですよね。戦争で勝った負けただ
とか、転封とか処罰による隠棲とか・・・。

 いろいろな情報、ありがとうございます。勉強になります。しっかりと
理解するようがんばります。

 井伊谷が勉強したせいか少し輝いて見えてきました。日曜日にどんな発見
があるか、楽しみです。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 15時20分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88

なんと!
島左近の家紋は「丸に三つ柏紋」でした!




そして娘が柳生に嫁いでました!


島 清興(しま きよおき)は、安土桃山時代の武将。
石田三成の家臣。一般には通称の島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。

俗に勝猛(かつたけ)などともいうが、文書から確かなのは清興である[1]。

三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、
「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だった[2]。

      ココ
       ↓
娘の珠は柳生利巌の継室となっており、剣豪として名高い柳生厳包は左近の外孫にあたる。


死体が見つかっていないことから

・関ヶ原の戦いを脱して落ち延び、京都に潜伏し寛永9年(1632年)に没したとする説もある
(石田軍記、古今武家衰退記、関ヶ原御合戦当日記、新対馬島誌、関ヶ原町史等)。

・左近の遺体は、関ヶ原の合戦で戦死した大谷吉継の首級と共に見つかっていない[10]。

・さらには合戦後に京都で左近を目撃したと称する者が相次いだという。

・京都市の立本寺には島清興の墓があり、また位牌や過去帳も塔頭に残され、寛永9年6月26日没などと記されていることなどから、関ヶ原の戦い後、逃れてこの寺の僧として、32年後に死去したとされている点がその根拠となっている[11]。


     ココ
      ↓
・また天竜市山王に島家の後裔が在住している。

二十三代目の島茂雄によれば、島清興は島金八と名を変えて百姓に変装し、
春になると自身の部下を集めて桜の下で酒宴を催したという。

また居住地を「おさか」と呼んだといわれており、これは大坂のことと推察されている。

隆慶一郎はこの地を訪問して島茂雄から話を聞き、小説「影武者徳川家康」の題材とした。[12]。


・東広島市西条最古の酒造業者、白牡丹は自社の創業に関し、古書において「慶長五年九月 関ガ原の戦に、島左近勝猛、西軍の謀士の長たりしも、戦に破れ、長男新吉戦死す。次男彦太郎忠正母と共に京都に在りしが、関ケ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年酒造業を創む」とある旨を紹介しており[13]、現在も同社の社長職は島家(島清興(勝猛)の子孫という)が引き継いでいる。


・熊本市の西岸寺には、中興の泰岩和尚は島左近が鎌倉光明寺で出家した後身であり、細川忠興に仕えて小倉に知足寺を建立し、加藤忠広の改易後、細川忠利の肥後入国に際しては、忠利の命を受けて熊本に入り情報収集に努めたという由来記が残る[14]

[34]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 15時44分41秒 ) パスワード

では、もう1つ、おんな心について書きます。


キャンディーズの「♪年下の男の子♪」という歌があるように
年下の男の子はそりゃあ可愛いのです。


おたかさんは子供の頃からその美しさでいずれ殿様のお側にと育てられたのでしょう。

だけど殿様は難しい人で、虐待されてたのを直弼は知っていたと思います。
そしておたかさんにしてみれば部屋住みの直弼に同情したでしょう。

   ここら辺りでも直亮の妬みなどがあったかも。


今でも、今だからこそ?
婚期を逃したアラフォー女性が狙うのが年下の男の子。
   「シタ夫」と今の言葉で言うようですね。年下の夫のこと。


普通の日本人の感覚では夫は妻より年上であるというのがあって
ま、1つ年下の夫は金の草鞋を履いて探せ、というそうですけど
だいたい年上の男でないと女の親としては不安のようです。


どうしてかと言うと年下男に年上女は貢ぐとしたものですから。
経済的にしっかりして欲しいから親は娘に年上の男性と結婚して欲しいのでしょう。


5−6歳年下の男の子は可愛いのです。
向こうも甘えて来るし。


直弼とおたかさんもそのあたりの歳の差ですから
おたかさんには直弼は可愛いかったんでしょうね。

   きっと弟みたいな感じだったんじゃないかな?


だから、この子の為ならなんでもしてあげたい、と思ったのでしょうね。


直弼と長野主膳は同い年みたいですね。
それも誕生日が近いです。

  直弼  文化12年10月29日生まれ
  主膳  文化12年10月16日生まれ

        ということはこの2人は双子みたいに気が合ってたでしょうね。
        だから、おたかさんを共有するのに、お互いに許せてたのかな?

        
[35]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月05日 23時24分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 女性側からとらえた解説―女性心理がよくわかりました。男性にしてみると
お姉さまに甘えたいという心があるのでしょうか、母性への憧れみたいなもの。
 島左近の話、ますます身近になってきました。
 島左近―柳生宗矩―おりん―松下之綱―松下清景―井伊直政―松下常慶―
服部中保次と一本の線でつながる。しかも丸に三つ柏紋。三成の臣下に入らな
かったら、もっと出世したろうにと思われます。島左近は豊臣秀長の養子の秀
保にも仕えたということでありますので、藤堂高虎とは同じ仲間ということに
なる。どんな関係だったのでしょう。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月06日 02時49分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

下記の本に  島左近と柳生父子との関係が書かれています。

柳生宗矩の人生訓: 徳川三代を支えた剣豪、「抜群の智力」とは?
By 童門冬二

http://books.google.com/books?id=DqStyfJcpq0C&pg=PT80&lpg=PT80&dq=%E5%B3%B6%E5%B7%A6%E8%BF%91+%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%95%B7%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=r2whZb9lqa&sig=OQj9Mrj6Jx0d2TyTTWkG34l9Oyo&hl=en&sa=X&ei=cuuBVICbK-maigLxhYHoBQ&ved=0CFYQ6AEwBw#v=onepage&q=%E5%B3%B6%E5%B7%A6%E8%BF%91%20%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%95%B7%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

島左近と柳生石舟斎は筒井家に仕えていて、後に、豊臣秀長に仕え、その後秀長の養子に仕えた・・・と。


また関が原で西軍が敗れたのは
島左近が旧友である柳生石舟斎・宗矩父子に自分側の作戦を話し
これが大垣に伝わって、次々と東軍方が出ることになった
と書かれています。


関ヶ原の戦いは柳生宗矩の謀略戦だったと。



 
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月06日 04時48分04秒 ) パスワード

http://kanshi.roudokus.com/ishidamitsunari.html

漢詩の朗読のサイトより

石田三成と島左近を謳ったもの。


君臣同禄有誰同
休道権謀在此中
千古美談千古誼
遂教猛士殉英雄



君臣 禄を同じうす 誰あってか同じき
道(い)うを休(や)めよ 権謀 この内にありと
千古の美談 千古の誼
遂に猛士をして英雄に殉ぜしむ



現代語訳

石田三成は島左近を自分と同禄の二万石で召抱えた。主人と家来が同禄などとは、古来聞いたことがない。


こんなことは小手先の計算でできるようなことではない。

千年たってもすたれない美談であり、二人の絆は並々ならぬものとなった。

三成のこうした熱意が左近を動かし、ついに関が原で殉じるに至ったのだ。



解説

石田三成、島左近のアツい関係を歌った詩です。


島左近。「三成に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城」と謳われました。


最初は筒井家に仕え、松倉重信(右近)と並んで筒井家の両翼「右近左近」と言われました。


その後、豊臣秀長・豊臣秀保に仕えるも大和豊臣家断絶により近江市内で浪人となります。


そこへ赴任してきたのが石田三成です。三成は左近に任官の誘いをかけます。左近は何度も断るが、三成は禄高4万石のうち半分を左近に与えると破格の条件を出します。


さすがに左近も感ずるところがあったんでしょう。以後、三成と生命を共にします。


関が原ではを田中吉政・黒田長政らを相手に最後まで八面六臂の戦いっぷりを示し、最後は銃撃により討ち死にしました。


三成・左近主従が登場する作品は、なんといっても司馬遼太郎作「関が原」が欠かせないです。この作品に出てくる三成はもうメチャクチャカッコいいんですよ。


こういう独白とか↓


「なるほど、左近は大人である。家康はそれよりもさらに、地についた大人である。出来ることを無理なく、地道にやっていく。
(しかし小僧には小僧の持ち味がある。)
と三成はおもった。」


こういう台詞とか↓


「人にはうまれつきというものがあるらしい。大人くさいやつは、母の胎内から出てきたときから、分別くさい顔をしている(中略)おかしなものだ。小僧じみた人間というのは、四十の声をきくのも近いというのに、いよいよ小僧くさくなる。どうにもならぬ」


最初読んだときは、カッコよすぎて鳥肌立つかと思いました。


というわけで、石田三成、島左近のアツイ関係にワクワクしたい方は司馬遼太郎作『関が原』を読んでください。

以上
[38]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月06日 12時55分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「情報を制する者が世界(戦国の世)を制する」
 正に戦国時代は情報戦、それもマンパワーによる情報戦でありました。

 そういった意味から戦国時代をとらえると、
 @忍者
 A修験
 B神社
 C寺
 D商人
 等々、皆情報に絡んできます。それにを一度総括しなければなりませんが、
徳に商人でいえば、近江商人より堺商人の方が政治に大きく関与していたの
ではないかと思われます。神社では熊野神社の影響が大きく思われますので、
調べてみます。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月06日 15時06分30秒 ) パスワード

情報戦は今でも続いてますね。
いかに多くの優れた情報をゲットするか。

1番うまかったのが忍者でしょうか?
正体を出してない分、こっそりと、そして敵の中枢にまで入り込んで収集した?


   島左近もまさか柳生父子から漏れるとは思ってなかった?


商人は、堺が戦国時代は表に出てましたね。
権力者と結びついた。

   今のことばで言うと「政商」ですね。

   そしてここ数十年はODAと結びついて甘い汁を吸うのに熱心だった。
   こちらは情報を得てお金を得た、ですね。


熊野神社ですか?
「鈴木」姓が日本で1番多いのと関係しているのでしょうね。


面白いお話があったら教えてくださいね。
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月07日 07時13分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様のおかげで「おたかさん」を知り、そして井伊直弼に興味をもちま
した。今までは単に桜田門で暗殺された人程度にしかとらえていませんでし
たが、調べてみると、日本にとっても大変な決断をした人、であったことが
わかりました。それはいわゆる日米間の関係を「日米通商条約」という条約
の下に、対等な関係をめざし、かつ強化したという先見の明があったことで
あります。
 井伊直弼の決断の下に、アメリカへ使節団が送られ、ワシントンではどこ
も熱狂的な歓迎であったという。当時の大統領はジェームス・ブキャナン第
十五代大統領であり、歓迎の席上でこう言ったという。
 「日本帝国が最初にわが合衆国に使節を送られたことに感謝する。それは
日米両国の永遠の平和と友情の象徴であり、今度の通商条約は、日米両国に
限りない利益をもたらすに違いない。私はアメリカ合衆国の名において、皆
様がたの安全を確保し、日本までお送りする。」
 その時すでに直弼は暗殺され、葬儀も終わっていたという。使節団は知る
よしもなかった。
 たか女は、六十八才でこの世を去るまで、京都一乗寺の金福寺に入って、
妙寿尼を名乗り、直弼と主膳、息子の帯刀の位牌に朝夕祈りを捧げて菩提を
弔う日々であったという。
 
 本日は、これから引佐の龍潭寺に行ってまいります。どんな発見との出会
いが待っているか、直弼、たか女の菩提に祈りを捧げ、また井伊谷宮にも行
ってまいりますので、宗良親王のために、あを様からの厚い祈りを捧げてま
いります。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月07日 12時04分49秒 ) パスワード

本日は日本の友人が送ってくれた  アマテラスとスサノオの戦い  の箇所を読んでいたら

スサノオが海原を治める仕事もせずに泣いてばかりいるので父のイザナギが問うと
スサノオが「母に会いたいから根之堅洲国に行きたい」と答えて
イザナギが怒って「じゃ、好きにすれば良い。この国には住むな」と命令してスサノヲを追っ払ってしまい

   このイザナギは近江の多賀に鎮座している

と書かれていました。


   もちろん多賀神社がイザナギを祀っているのは知ってましたが
   でも、どこの神社だってイザナギを祀っているでしょ、と思ってました。

   いえいえ、イザナギが隠居の身を養うのに選んだ場所が多賀神社だったのか、
   と驚きました。



先週あたりにこの記事を受け取ったのですが(読んだのは本日)不思議ですね

おたかさんの事を先週は書きたくてしかたなくて
そして三つ柏さんも彦根にいらっしゃって
おたかさんに興味をお持ちになって

という偶然の流れに。

きっと何かのパワーが働いているのでしょうね。



龍潭寺のご報告をお待ちしています。
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月07日 16時42分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今帰ってまいりました。収穫の多い一日でした。まとめるのに時間が
かかりますので、しばらくお時間を下さい。お約束どおり、あを様の祈りを
宗良親王に伝えてきましたこと、まずはご一報いたします。 
[43]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月07日 20時32分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、寒い中、朝9時に車で出発し、井伊谷へ向かいました。距離的には12〜3キロメートル程である。北からせめることにした。まずは井伊谷城址
へ・・・小高い山の中腹に八柱神社という村社があり、そこに車を置き、徒歩
で「城山公園」と書かれた看板の横の、コンクリートで舗装された道を登る。
かなりきつい。このところ宴会が続いたので太り気味・・・息が苦しい。
 約5分程急な坂を上ると頂上へ着く。頂上は4〜500坪はあるだろうか。
入り口には立派なトイレが設置されている。頂上のセンター部分に白い木製の
碑と高さ10メートルくらいのポールが立てられており、旗かノボリをたてる
のだろう。碑には「井伊谷城跡」と書かれており、その奥に看板。書かれてい
る文字を読む―
 「井伊城はこの城山の南麓にあり、本丸、二の丸、三の丸に分かれ、井伊家
の居城であった。
 延元元年(1337)遠江介井伊道政が後醍醐天皇の皇子宗良親王をお迎えし
てより、元中2年(1385)8月10日宗良親王この地で薨去し給うまで、約
50年間、親王は京都と鎌倉の中間であるこの井伊城を本拠として、駿河、甲
斐、信濃、越中、越後、上野の国々を転戦された。
 平時にこの城山の「御所の丸」に居られ、
   夕暮れは湊もそことしらすげの
     入海かけてかすむ松原

   はるばると朝みつしおの湊船
     こぎ出るかたは猶かすみつつ
の御歌が残されている。
 この城山の一段高い所が、御所丸跡で、井の石陵があり、宮入御表門跡、搦
手門跡等がある。また東山麓には宗良親王を祭る二宮神社、親王の御念持仏を
祭る足切観音堂がある。」
 ということで、一段高くなった草むらに目をやると、「御所丸跡」と書かれ
た白い木製の碑が立っていた。
 私は草むらに入り、碑の側に寄り、宗良親王に向けてあを様の祈りの念を伝
え、般若心経を声を出して一巻唱えた。何か凛としたまた晴れやかな気分に
なったので、そこを後にして井伊谷宮に向った。

 井伊谷宮は4〜5回訪れているだろうか。いままでは別段何も考えもしなか
ったが、今回は違う。宗良親王に祈りを捧げる目的で来ている。駐車場より
参道を歩き、鳥居をくぐり階段を登る。約100メートル位か、神社に着く。
社務所でお守りとか書物を見る。宗良親王に関する本が2種類売られていたが、
まあ帰りにしようと本殿に向う。
 本殿ではいつもの通り、お賽銭を入れ、鈴を鳴らし、2礼2拍1拝を行う。
心の中であを様の念を伝える。ここでの般若心経は止めました。
 井伊谷宮と龍潭寺は裏と表で一体となっている。表(南)が龍潭寺、裏(北)が
井伊谷宮。今回は北から南への道程となった。
 井伊谷宮の本殿の奥、塀に沿って5〜60メートル程進むと、宗良親王の墓
の看板があった。
「後醍醐天皇皇子 宗良親王墓 宮内庁」
と書かれている。
 しながら、全体を塀で囲まれ、入口の門には進入禁止の柵があり、中へは入
れない。致し方ないので、門前で般若心経を一巻唱え、またあを様の念も伝え
る。

 そこから南方向へ向きを変え進むと、龍潭寺の墓地にさしかかる。
 ここには井伊家一族の墓が並んでいた。初代共保、22代直盛、23代直親、
直虎、24代直政、その他歴代の墓が並んでいた。藤堂一族のような大きな墓
はない。普通の墓に近い。少し大きな墓もある。松下家(清景系の松下家)の墓
もまとまってあったが小さい。松下は「源」が通字となっている。源太郎清景
の墓はどこかにあるのだろう(大きいはずだ)。井伊谷3人衆(与力)の墓もある・・・鈴木重時、菅沼忠久、近藤康用。また、井伊家を支えた武将の墓もある・・・新野左馬助、中野氏、鈴木重時・・・。

 墓地を抜けると龍潭寺の表の庭となり、最後の紅葉や千両の実が美しい。
 入場料を払って寺に入る。鶯張りの廊下を通り、寺正面の石庭を眺め、本尊
様に手を合わせ、廊下を右に曲がり、本尊様の裏側の奥へ・・・さてさて、そ
こには宗良親王の位牌があり、説明書きが次のとおりされていました。
 「宗良親王のご位牌
  龍潭寺は南朝、後醍醐天皇の皇子宗良親王の菩提寺です。興国元年(1340)正月、親王は井伊軍の砦、三岳城に立てこもり、これを攻める北朝
軍と激突します。
 三岳城は落城し、親王は駿河・越後・信州の各地を転々とし、信濃の大河原
の山奥で30年余り世を避け、過ごされました。晩年井伊谷に戻られ余生を送
り、元中2年(1385)8月10日、72歳で逝去されました。
 ご法名を「冷湛寺殿」といい、寺名も一時冷湛寺と称したと伝えられていま
す。お祀りされている御位牌は井伊大老直弼公がご寄進下されたものです。」

 ここで一度アップします(消えてしまわぬように)。

 
[44]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月07日 21時08分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そこで井伊直弼の文字が出てきましたので、さすが井伊家、ずっとつながっ
ている―と思いました。直政24代、直弼36代。
 宗良親王の御位牌は、「十一観音菩薩像」の右側に、そして左側には「東山
院 尊儀」と書かれた同じような御位牌があった。おそらくは奥方様であろう
か。
 さて、その十一面観音像であるが、これまた驚きである。説明書きにはおよ
そこう書かれていた―
 「信長の比叡山焼き討ちの時に、湖畔の寺も火をつけられ、その火から守る
ために、仏像を琵琶湖底に沈めた。江戸時代の初め、漁師の網にかかり、これ
を彦根の殿様に差し出したもの。口元に微笑みをたたえた奇跡の観音像。」
 何だか、背筋からゾグゾグとしたのは、寒さのせいではない。心底からこみ
上げる何かがあった。
 ここで御位牌と十一観音像に向い、心の中のあを様の想いと一緒に、般若心
経を一巻声を出して唱えました。若いカップル達が不思議そうに側を通って行
ました。
 そして、更に廊下を右に曲がり、今度は左手へ・・・そこには井伊家の霊殿
がありました。
 三人が祀られている。真ん中には第23代直盛、左手に第24代直政、右手
に初代共保。3人に対し、般若心経をまたあを様の想いと共に唱える。
 これですべてが終わった。あとは心ゆくまで小堀遠州作の池と石と緑と紅葉
の美しい庭を眺める・・・。
 帰りに本を2冊購入した。それは『遠江井伊氏物語』と『湖の雄 井伊氏』
であります。いろいろ知らないことも書かれていますので、また読み砕いて
ご報告いたします。

 それでは今回のご報告これにて。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月07日 22時08分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。
こみ上げるものがございました。


大河原で30年過ごしたのですか。
  たった15畳のような土地の御在所だった、と読んだ記憶です。
  戦う為の城というより、北朝方から身を隠していたような状況だった、と。


歌の家出身の母上をもつ親王には
歌を詠めることだけが生き甲斐だったでしょうね。

   神戸の旧家に親王の直筆があったとかって記憶です。
   その家もきっと南朝方だったのでしょうね。


井伊谷で最期を迎えられたのは良かったです。
広々としているんですものね。


本当にありがとうございました。


また思い出したことなどお知らせくださいね。



井伊家にとって家康は南朝以来の仲間だったのでしょうね。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月08日 11時00分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そういえば一つ思い出したことがあります。井伊城址から南を眺めると、
遠く山の切れ目に浜松のアクトタワーや高層ビル、そしてその向こうの海の
輝きが見えました。山の中ゆえ山ばかりかなと思いましたが、不思議でした。
浜松からは約20キロメートルは離れていると思います。
 宗良親王は、井伊城の天守の窓から、南の方向にある海の輝きを眺めなが
ら、感慨にしたり歌を読んだのでしょうね。『李花集』は一度読んでみたい
と思います。
 もう一つ思い出したことがございます。藤堂高虎の菩提寺が日蓮宗だった
とご報告いたしましたが、なぜ日蓮なのか・・・との疑問がふつふつとして
いました。末法の世の救い、パワーとしての日蓮にすがったのかとは思いま
したが、家康は浄土宗を勧めていましたので、どうもその辺の事情がわから
ない。
 今回、ビックリしたのは、日蓮は井伊氏の分かれであったことを知った事
です。ルーツは井伊氏だったのです。
 日蓮について新たな興味が湧いて来ました。これはこれでテーマといたしま
す。
 日蓮(宗)と高虎と家康との関係は果たしてあったのかなかったのか・・・?
 
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月08日 13時23分11秒 ) パスワード

はい

日蓮と井伊氏は繋がってますね。



日蓮


貞応元年2月16日(1222年3月30日/4月6日)

安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。

幼名は「善日麿」であったと伝えられている。

父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている[注釈 3]。

日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。




貫名氏

貫名氏は平安時代後期に井伊盛直の三男政直が、遠江国山名郡貫名郷を領して貫名氏を称したことに始まるとされる。

貫名氏は初代政直から、行直、重実、重忠と四代続いたが、重忠のとき鎌倉幕府から安房国小湊へ配流となった。その配流先で誕生したのが日蓮聖人である。



貫名氏館は現在の妙日寺境内一帯に築かれていたと云われる。
遺構はないが、境内には柳生但馬守が寄進した「妙日尊儀 妙蓮尊儀供養塔」があり、
その隣に正覚寺から移された貫名氏三代(政直、行直、重実)の墓と伝えられる供養塔がある。


貫名城主 貫名政直,貫名行直,貫名重実,貫名重忠

所在地 静岡県袋井市広岡(妙日寺)
http://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/nukinashi-yakata/

この地図からすると「加賀爪」氏の城とも近いではありませんか。4km。
これまたビックリ




井伊氏

井伊氏の淵源[編集]


井伊氏は藤原北家の後裔(系譜上では藤原良門の息子である藤原利世の子孫とされる)を称すも、三国姓(継体天皇の後裔)ともされ明確ではない。


中世に約500年間、遠江国井伊谷[1]の庄を本貫として治めたとされる。


南北朝時代、井伊谷の豪族であった井伊道政は遠江介であるゆえに井伊介とも称した。
道政は比叡山延暦寺座主である宗良親王の元に参じて南朝方として挙兵、
遠江国の居城・井伊城に招いて保護した。

また宗良親王の子・尹良親王も井伊城に生まれている。


しかし、北朝方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊城は落城した[2]。
北朝方、駿河守護今川氏と対立していたが、やがて今川氏が遠江の守護職を得るとその支配下に置かれる。


しかし、戦国期を通して、守護である今川氏とは微妙な関係であり、今川義元が尾張国の織田信長に敗れた桶狭間の戦いの際に井伊直盛は今川氏に従い討ち死にしたが、戦後まもなく謀反を企てたとして井伊直親は今川氏真に討たれている。



この、一族を多く失った「遠州錯乱」時期に、直盛の娘の井伊直虎が家督を継いだが、勢力は大きく衰退し、井伊谷の城と所領は家臣の横領や武田信玄の侵攻により数度失われている。



近世大名、井伊氏[編集]

1575年(天正3年)、養母の直虎に育てられていた直親の遺児の井伊直政(後に徳川四天王の1人となる)は今川氏を滅ぼした徳川家康を頼り、多くの武功をたて、1590年(天正18年)には家康の関東入府に伴い上野国箕輪12万石、関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山に18万石を与えられる。直政の死後、直政の子の井伊直勝は1604年(慶長9年)に近江国彦根に移り築城したが、1615年(元和元年)幕命により弟の掃部頭直孝に彦根藩主の座を譲った。直孝の代には35万石の譜代大名となる。なお直勝は亡父の官名・兵部少輔を世襲、3万石として安中藩藩主となった。


宗家・井伊掃部頭家[編集]

江戸時代の彦根藩家は直澄、直該、直幸、直亮、直弼と5代6度(直該が2度。なお直孝が大老になったかどうかは議論がある)の大老職を出すなど、譜代大名筆頭の家柄となる。また、堀田家、雅楽頭酒井家、本多家などの有力譜代大名が転封を繰り返す中、彦根藩家は1度の転封もなかった。


彦根城は35万石の大名としては、城郭が大きすぎ、築城にあたっては幕府が諸大名に御手伝普請をさせた。幕府が、大名の城を他の大名に普請させたのは、異例中の異例であって、京・大坂に備える城という意味があったといわれている。


江戸時代後期に直弼は老中阿部正弘の死後に大老となり、将軍後継問題では南紀派を後援し、一橋派への弾圧である安政の大獄を行うが、桜田門外の変で暗殺された。直弼の死後、幕政の混乱の責任を直弼に押し付けられる形で10万石を没収されたことから、大政奉還後には譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向。鳥羽・伏見の戦いでは新政府側に属し、続く戊辰戦争にも転戦する。明治17年(1884年)伯爵となり華族に列した。また、最後の藩主井伊直憲の双子の孫の内井伊直愛は、井伊家の旧領である彦根市の市長を1953年から9期の長きにわたって務めた。現18代当主は、井伊直愛の孫娘・井伊裕子と婿養子として結婚した井伊岳夫(18代当主としては本名でなく、通字の『直』を使った「井伊直岳」と名乗っている)で彦根市役所勤務。彦根城博物館長。


分家・井伊兵部少輔家[編集]

井伊直政の長男、直勝は病弱だったといわれる。
この直勝が興した系統は、

安中ですって(似てますね 笑)
  ↓
安中藩から西尾藩、掛川藩と転封された。


直勝の曾孫である当時の掛川藩主・兵部少輔直朝が精神病だったために改易となった。
                         ↑
                       へえ〜


しかし、宗家・掃部頭家から直興(直該)の 4男・直矩を兵部少輔家 5代目に迎えての家名再興存続が許されて、城を持たない2万石の与板藩主となった。その後、10代・井伊直朗が若年寄となったため、城主格に昇格した。維新後、子爵となり華族に列する。現当主は井伊達夫(旧姓中村、京都井伊博物館長)で、2007年に婿養子となって名跡を継いだ。



家臣団[編集]

井伊家は直政の頃に領地・家臣を与えられて家臣団が成立し、三度に渡る加増を受けた近江や上野の出身家臣が特に多い。また、武田氏滅亡後の武田遺領を巡る天正壬午の乱における働きで知行安堵が行われた武田遺臣や駿河の今川氏、相模の後北条氏など旧戦国大名家の遺臣も召し抱えており、「井伊年譜」に寄れば家臣団は「〜衆」といった組により編成されている[3]。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月08日 20時46分34秒 ) パスワード

>日蓮(宗)と高虎と家康との関係は果たしてあったのかなかったのか・・・?
 

この関係が分かると良いのですが。

徳川家の皆さんで菩提寺が日蓮宗というのは結構目にしていますが。
家康との関係など、江戸時代初期あたりの関係は記憶に無いです。

頑張って捜してみます。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月09日 04時29分36秒 ) パスワード

コピペ:


http://d.hatena.ne.jp/CHIKUGO/20100105/1262673909

井伊家秘話

井伊でない井伊一族



貫名家

2010年で、あの桜田門外の変から150年。
しかし、その事件後の彦根藩というのはあまり語られることがありません。
僕が今関心があるのはその辺りです。


父・直弼の死をうけて、藩主となったのが井伊直憲(なおのり)。なんと当時まだ12歳。

現代の12歳より、はるかに大人であったはずですが、幕末期の政治は当然難局中の難局。



そこで幼君、直憲を助けたのが、貫名筑後、新野左馬助、河手主水らであったのです。


そして実は、姓は違えどこの人たちは皆、井伊一族なのであります。


ではなぜ井伊を名乗っていないのでしょうか?



貫名家の場合をお話ししましょう。

「貫名」姓の始まりはおそらく平安時代。

保元の乱(1156)の頃に井伊家が、井伊・赤佐・貫名の三家に分かれたときがはじまり。


しかし理由は定かではありませんでしたが、一族の中ではその後長らくこの名跡は途絶えていました。

井伊家にとっては大切な名跡なのになぜでしょうか。


そこで11代藩主直中の指示により、その孫である筑後さんが貫名家を再興したそうであります。


ちなみに直中の子である中顕も筑後を名乗っていますが、こちらは井伊筑後となる訳です。間違いやすいのでご注意を。


下の写真は中顕さんが直中さんから筑後の名前を頂いたときの書状。わかる方は花押でわかるはず。


数百年のブランク?を経て、再興した訳ですがその昔の貫名氏との繋がりを示すものとしてこういう文書があります。


有名な話ですが、日蓮さんは貫名氏の出身とされているんですね。

   だからその舎利をお分けしますよ、という書状です。

なかなかヤヤコしいお話で、僕もここまで理解するのは結構な時間がかかりました。


貫名家というのは、あまり有名ではありません。

とはいえ、幕末・維新研究において無視はできない存在だと思っているのですが、どうなんでしょう?
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月09日 04時35分30秒 ) パスワード

高虎と日蓮宗と家康の関係:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E

元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、
「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。
心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」
と言った。


その家康の言葉に高虎は、
「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うと、

高虎はその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。

再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した[25][26]。


へえ〜

高虎はもとは日蓮宗だったんですか。
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月09日 06時50分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 こちらは寒波がきており、朝ふとんから出るのがつらくなりました。
 最近の気候は変化が大きすぎて予想がつきません。

 さて、日蓮についてですが―
 藤堂高虎が家康の枕元で、日蓮宗から天台宗に改宗して家康とあの世へもつ
いて行きますと涙を流したという話、まことに感動いたしました。
 それにしても、日蓮について、井伊家の資料を少しずつ見ていますが、出自
の関係はわかるにしても、それがどのような意味を持つ・・・すなわち井伊家、日蓮双方にどんな影響を与えていたかというのが全く見えません。この点を探
究すべくこれからさらに資料を集めてみます。

 おかげさまで井伊家についてはすごく親近感を持てるようになりました。
 井伊直政を中心にしてスゴイドラマが演じられている。大河ドラマにはもっ
てこいの人間関係の構成であります。但し、日蓮がこの時代にはおりませんで
したのは残念ではありますが、主人公は一人にしぼった方がいいのかも知れま
せんね。

 いちどここで切ります。

 

[52]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月09日 13時30分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


>日蓮について、井伊家の資料を少しずつ見ていますが、
>出自の関係はわかるにしても、それがどのような意味を持つ・・・
>すなわち井伊家、日蓮双方にどんな影響を与えていたかというのが全く見えません。


では井伊直政と日蓮宗について少々:

http://www.harimaya.com/kamon/column/igeta.html

家紋

井桁/井筒紋
井戸の地上部分の木組みから転じた、
徳川家康四天王の一人井伊直政の紋として知られる。


 井戸の地上に出ている部分、あるいはその木組みを井筒、あるいは井桁と呼んでいる。井戸は水をたたえた大切な場所であり、汚してはいけないところであった。つまり、生活に欠かせないことから、家紋として用いられるようになったと考えられる。また、「井」という字の単純明快なことも武家の紋にふさわしかったのであろう。


 井の字の正体を「井筒」、隅を立てたものを「井桁」と呼んでいる。いずれにしろ「井」の字を図案化したもので、井上・酒井・花井・駒井・石井などの諸家が用いている。まさに名字を現わしたものである。


 古い記録としては、朝倉氏の重臣であった甲斐常治の子、千菊丸の武具に家紋の井桁をちりばめた金銀の金物を用いるということが「文正記(文正元年=1466成立)」に記されたものである。甲斐氏の紋は「見聞諸家紋』にも井桁とみえている。また諸家紋には石井・長井氏の紋が記され、長井氏のものは総角のなかに井桁を据えた意匠である。

さらに遠江の井伊氏の家紋は筆記体の「井の字紋」で勢いを見せている。
              ↑
            井伊の紋
              ↓
 井伊氏の「井の字紋」はのちに幾何学的な井筒紋に替えられた。


            井伊氏由来
              ↓ 
井伊家は遠江国引佐郡井伊荘から発祥したが、その祖は井戸から生まれたという伝説をもっている。

井伊荘は浜名湖に近く、名井があって、多くに人が利用した。たんに「井」とよばれていたが、良い井戸というので「イイ」となり井伊の字をあてたのだという。

 あるとき、この井中より一子を抱いた化人が現われ、橘を一子のわきに置いて姿を消した。井谷八幡宮の神主は、赤ん坊の泣き声に驚き、神授として大切に育てた。これが井伊氏の祖先であり、家紋を「井桁に橘」とした由来であるという。

  のちには、橘と井桁とを二つに分けてそれぞれ家紋として用いた。
さらに橘は丸を付けて「丸に橘」となっている。


         日蓮宗の寺紋  
           ↓
日蓮宗の寺紋は「井桁に橘」として知られるが、宗祖の日蓮上人が井伊氏の支流という伝説から取り入れられたものという。


そのもととなったのは、
井伊家中興の祖で徳川家康の四天王の一人であった井伊直政が日蓮宗に帰依したことにある。

                             ↑
                            ええ〜?!
                            井伊直政が日蓮宗に?


         あらら
          ↓
日蓮上人が井伊氏から出たとするのは後世の付会であろう。



 井桁を用いた武家に駒井氏と長井氏とがあった。この両家はともに甲斐武田の家臣で養子縁組みをしていた。つまり、駒井昌長の弟吉正が、長井吉成の養子となったのである。これを記念して両家の「井」の字を重ねて、駒井氏は「重ね井桁」長井氏は「組井桁」にしたのだと伝える。

                   夏目氏
                    ↓
 また、「井桁に菊」という紋がある。旗本夏目氏の紋として知られ、その後裔で明治の文豪夏目漱石も用いたものである。

しかし、この紋の井桁部分は本来垣根を表現したもので「籬(マガキ)に菊」が正しい。

籬は複雑で描きにくかったことから、次第に簡略化され、とうとう「井桁」になってしまった。

家紋が変化していく一面を現した話といえよう。



井桁紋を使用した戦国武将家

伊地知氏 井伊氏 沢 氏 高城氏 夏目氏
                           
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月09日 14時13分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 井伊直政についてですが、すごい人たちが直政を囲んでいます。
  ・直政
  ・築山殿・・・直政の父のいとこ(井伊家出身) 家康の正室
  ・新野左馬助・・・直政の命の恩人
  ・南渓和尚・・・龍潭寺住職(井伊家出身)
  ・次郎法師 直虎・・・女城主(井伊家出身)
  ・松下清景・・・直政の継父
  ・新田喜斉・・・直虎を支えた政商
  ・松岡貞利・・・直政の父をかくまってくれた信州松岡城主
  ・川出良則・・・義兄弟
 とりあえず、これだけのキャストがそろうとものすごい展開になります。
 松下清景・常慶を通じて服部中保次親子、柳生宗厳親子にもつながります
し、井伊直弼の述懐という形でも登場させられます。その他いろいろな人が
登場して来ます。

 少し、情報の充電をいたします。
  
  
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月09日 14時18分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 すれ違いました。今は時間がとれませんので、家にて日蓮の出自につい
ても記述いたします。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月09日 14時32分38秒 ) パスワード

新田喜斉

http://www.okumachinet.jp/history/

堀川城跡                         新田喜斉

今川義元が永禄3年(1560)桶狭間の戦いで戦死した後、気賀領主新田喜斉ら住民により築城されました。永禄12年(1567)、2度にわたって徳川家康の大軍に攻められ落城。跡地には、記念碑が立っています。



獄門畷供養塔

徳川家康に堀川城を落とされた後、ここで700人余りの人々が首を討たれ、その首を小川に沿った道にさらしたことから「獄門畷供養塔(ごくもんなわてくようとう)」の名がつきました



駿河姫

井伊家歴代の菩提寺・龍潭寺の庭園は必見。国指定名勝で名作庭家・小堀遠州の作です。明治6年創建の井伊谷宮も注目。御祭神の宗良親王と井伊家の駿河姫の強い絆にあやかった縁結び絵馬は良縁に恵まれると評判です。


犬くぐり道    けっこう普通の裏道ふうですね

地元住民が関所を通るのに不便であったので、抜け道として作られた裏道。犬がくぐるのは差し支えないという法の抜け道でした。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月09日 14時46分42秒 ) パスワード

http://www16.ocn.ne.jp/~toukaido/2hime3.html

気賀などの復習です。
なかなかおもしろいサイトです。



http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/?mode=m&no=639

家康の逆鱗に触れた気賀一揆:
コピペ

1568年末になり徳川家康は遠江進攻を開始した。
目標は今川氏真の逃げ込んだ掛川城。
徳川勢は遠江に入ると井伊谷城、引馬城と瞬く間に
今川勢を駆逐して掛川城へ向った。

しかしすぐに掛川城が落ちなかった為に、
家康は三河に引き上げて出直そうと気賀にさしかかったところで、
気賀の小土豪たちが浜名湖北岸地域の今川方勢力(具体的には佐久城の浜名氏、堀江城の大沢氏)と
連携し堀川城に拠っていることを知ったのである(気賀一揆)

堀川城築城は遠江侵攻の前年といわれている。
後部は浜名湖を背にし前部は都田川の水を引いて浮き城のように、
徒歩で近寄れないようになっていたという。
その城主には寺子屋を開いていた浪人の新田友作がなり、
尾藤主膳、山村修理、竹田高正、新田義一といった土豪が、
村人を動員しこの城に立て篭もっていた。

この期に及んで今川氏につき家康にたてつく豪族に対し、
家康は容赦無い態度で臨んだといわれる。
個人的な推測になるが、
当然ながら武田氏と共闘する形で今川領を侵食する家康にとって、
一刻も早く同地を平定しなければ、
やがて隣接するであろう武田氏の侵攻を受ける可能性を考えたのではないだろうか。

この気賀一揆における堀川城の戦いでは、
城に籠った老若男女約2千人のう1千人が
容赦なくなで斬りにされたという。
当時の気賀周辺の人口は約3千人だったと推測されているから、
この堀川城の戦いだけで実に周辺人口3分の1を滅したことになる。
(後日さらに関係者7百人が処刑されているというから同地では人口の半分が死んだことになる)

城将たちのその後であるが、
竹田高正は堀川城内で切腹、
尾藤主膳は大沢氏の堀江城に逃れ後に切腹して果て、
山村修理は小舟で逃れ小引佐まで行き切腹した。
新田義一は剃髪し喜斎と号していたものの、
やがて代官の石川半三郎により捕縛され処刑されたという。

城址北方の全得寺では竹田高正と新田喜斎が祀られている。
また城址付近には「獄門畷」があり、石碑とともに
「桶狭間の戦いで今川義元亡き後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、
気賀の人々は、領主今川氏の為に堀川城を造り、最期まで戦った。
堀川城址は、此処から南へ600m程にある。
永禄12年(1569)3月27日、堀川城に2千人の男女が立てこもり、
3千人の家康軍に攻められて、落城したと言われている。
大久保彦左衛門の記録には「男女共になで切りにした」とある。
そしてその後に捕らえられた約700人の人々も、同年9月9日にこの附近で首を打たれた。
その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「ごくもんなわて」と言われるようになった」と
説明板が立てられている。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月09日 15時01分08秒 ) パスワード

直政と築山殿が繋がるというのは意外でした。
ま、地元の名門同士で親戚になっていたのでしょうね。



川出氏

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%B7%9D%E5%87%BA

徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河国宝飯郡小坂井村の有名氏族、菅原氏あるいは中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。 


【全国順位】 4,004位  
【全国人数】 およそ3,100人



ランキング

栃木県 1,670位    およそ100人
岐阜県 454位     およそ800人    岐阜に結構多いというのは何故でしょうね
愛知県 1,047位    およそ800人
三重県 990位     およそ200人



[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月09日 21時50分16秒 ) パスワード

川出という苗字はあんまりお目にかからないのですが
河出書房は元は岐阜かららしい。

   岐阜なら川出という名字が多いから納得ですが
   根拠がそれだけでは。


1886年(明治19年)
岐阜・成美堂が東京市日本橋区材木町に東京支店を開設

1888年(明治21年)
東京支店、岐阜・成美堂から独立(河出書房に改称するまでは、数学・物理・地理学方面の教科書・参考書から、農学関係書を中心に刊行)

1933年(昭和8年)
河出書房に改称
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月09日 21時59分34秒 ) パスワード

こんな話がありました。
以下コピペhttp://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/54435_49936.html


遠州地方の足洗

喜田貞吉

 徳川時代の法制では、エタは非人の上に立って、これを支配監督する地位にいたのではあるが、非人には通例足を洗うて素人しろうとに成ることが出来るという道が開いていたのに反して、エタには殆どこれが認められてないのが普通であった。これエタは神の忌み給う肉や皮の穢に触れたもので、人そのものが穢れているのであると誤信された結果である。したがって非人と呼ばれたものの多数が解放された今日、なおエタと呼ばれたもののみは取り残されるに至ったのである。しかるに遠州の或る地方には、かかる厳重な習俗の行われた時代にも、なお「打上げ」と称して、足洗いの出来る道が設けられておった。「全国民事慣例類集」に、遠江国敷知郡地方では、「三代皮剥ぎの業をなさざれば、平民となるの例あり。穢多は所持地多分ありて、貢租を納め、中には富豪の家あり。平民へ金銭を貸付る者もあるなり」と見えている。幕府の制では弾左衛門の主張のままに、絶対に足洗いを許さぬ方針を執とり、他地方に於いてもこれに倣って、だんだん階級観念が盛んになるとともに、またエタの人口の増殖とともに、エタに対していよいよ甚だしい圧迫を加える様になっても、この遠州地方のみには、まだ幾分寛大な扱いが遺っておったものとみえる。そこで、これらの地方に於ける維新後の状況はどうであるか、他の地方とはどう違っているかを知りたく、かねて調査の機会を求めていながら、未だ着手に及ばなかった折柄、同地方の或る篤志家から、最も有益なる、かつ最も愉快なる左の如き完全融和の事実の通信を得た。



「完全に融和されたる部落」


遠江 奇聞老人

 静岡県浜名郡□□□村字□□と称する部落は、通称六軒家と云ひ、小部落にして、幕府時代に在ては人民皮細工・草履細工を業とせしが、明治の初年頃従来の業を全廃し、みな農業に就き、婦女子は織業を営み、一般民と通婚行はれ、完全に融和されて殆ど昔日の痕跡を知るもの絶てなき状態なり。
 同郡□□□村□□と称する部落は、浜名湖岸に接し、現在戸数六十戸余、旧幕末の頃に於て人民の営める皮細工・草履細工を全廃し、足洗ひと称し、従来の細工道具を村社に奉納す。今尚同地氏神社殿には昔の道具伝り、存在せりとの説あれ共、殆ど今日にては過去の痕跡境遇を知るものとてなく、一般民と完全に融和し、通婚行はれ、殊に郡下屈指の蚕業発達し、富の程度向上し、総ての点長大足の進歩を為せり。
 同郡□□村に小字□□□と称する部落あり、戸数三十戸内外にして、旧幕末の頃に至り、皮細工・草履細工を廃し、足洗して農業に従事せし故、今日に於ては旧態を知るものなく、一般民と同等の進歩発達を見るに至れり。
 磐田郡□□□村□□と称する部落は、戸数三十戸余の小部落にして、人民の営める皮細工・草履細工は明治の初年頃全廃し、農業に従事し、已に一般民と完全に融和通婚行はれ、昔日の痕跡を知るものなきに至る。
 引佐郡□□村□□□□と称する部落は、戸数二十戸内外の小部落にして、明治初年の頃に至り、皮細工・草履細工を全廃し、足洗と称し、農業及副業として琉球莚製造に従事し、一般民と融和通婚行はれたり。されど人民に努力の風乏しく、中流以上の産を有するもの尠く、生活の程度稍劣等なり。

 右に見えたる五個の村落は、いずれも旧敷知郡か、もしくはその付近の地方のみで、かく完全に融和の行われたということは、村民各自の自覚努力の結果によるとは云え、一つは旧幕時代からこの地方の気風が、特殊民に対して寛大であった為かとも解せられる。しかも「エタの源流」如何を考えてみれば、これはむしろ当然の事で、他の地方で特に圧迫の多いのは、徳川時代太平の結果、階級思想の極端に発達したことと、肉食を穢とした迷信との結果であることを思うと、階級制度の打破せられ、その迷信の除去せられた今日、これらの完全に足洗の行われた貴重すべき実例を模範として、各自に自覚努力したならば、多年の因襲を破って完全なる融和を得るのも、さまで困難ではなかろうと思われる。






底本:「被差別部落とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年2月29日初版発行
底本の親本:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
初出:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
※表題は底本では、「遠州地方の足洗あしあらい」となっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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[60]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月10日 06時33分42秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%87%8E%E8%A6%AA%E7%9F%A9


新野 親矩(にいの ちかのり、? - 永禄7年(1564年))

戦国時代の武将。今川氏の家臣。通称は左馬助。

男子は伝わっていないが、
娘は後北条氏家臣の狩野主膳(彦根藩筆頭家老の木俣守安の父)に嫁いだ。

                      これも面白い


略歴[編集]

画像:静岡県浜松市北区引佐町龍潭寺の墓所


新野氏は今川氏一族であり、現在の御前崎市新野地区に居住する氏族であった。

親矩も新野新城(舟ケ谷城)の城主として今川氏に出仕していた。
主家今川氏は桶狭間の戦いの後、急速に衰えており、
今川氏連枝であった三河国の松平元康などの離反が相次ぐ中、
親矩は今川氏に忠節を尽くした。


永禄5年(1562年)、同じ遠江国人であった井伊氏の当主直親が小野道好の讒言により、
謀叛の嫌疑を掛けられて今川氏真に暗殺された。

  新野と井伊は親戚だった。今川や築山殿とも親戚ですね
      ↓
親矩は井伊氏の縁戚であったこともあり、
直親の正室で井伊家の家督を継いだ直虎や、直親の遺児である直政を保護している。


このことは井伊氏の菩提寺、龍潭寺の住職に「井伊氏1000年の歴史で、最大のピンチを救った」と評されている[1]。


その後も主家今川氏の衰退は止まらず、永禄6年(1563年)からは遠江国衆の引馬城主飯尾連竜が犬居城主天野景泰、元景父子、二俣城主松井宗恒らとともに今川氏に謀叛を起こした。


これは遠州錯乱と呼ばれる遠江一国を巻き込んだ謀叛であるが、
親矩はこの時も今川方として戦い、三浦正俊、中野直由らとともに討死にした。


                        
                        幕末が出て来ました
                        井伊直弼の実父ですから親良は直弼とは兄弟!
                             ↓
死後、左馬武神社に祀られる[1]とともに、幕末になって井伊直中の十男が親矩の子孫木俣守易の養子となった後、新野氏の名跡を再興し新野親良を名乗っている。


出典・脚注[編集]

1.^ a b “新野左馬助 井伊家救った情けの武将”. 中日新聞社. 2011年5月28日閲覧。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8


井伊直中

庭五郎(幼名)、直中

戒名
観徳院天寧広輝

墓所
滋賀県彦根市の清涼寺

官位
侍従兼玄蕃頭、掃部頭

幕府
江戸幕府

主君
徳川家斉


近江彦根藩主

氏族
井伊氏

父母
父:井伊直幸、母:井伊直存の娘

兄弟
直尚、直寧、直富、直中、直広、真田幸専、土井利義、直明、直容、直致、扁勝(長浜別院大通寺住職)、暉玄(長沢御坊福田寺住職)摂有(長沢御坊福田寺住職)、俊姫


正室:南部利正の娘
側室:君田富(お富の方)


直清(長男)、文(長女、蜂須賀斉昌正室)、某(次男)、直亮(三男)、鋭三郎(四男)、亀五郎(五男)、知(次女、榊原政養正室)、中顕(六男)、充(三女、内藤政順正室)、秩(四女)、中川久教(七男)、内藤政成(八男)、芳(五女、松平忠侯正室)、松平勝権(九男)、新野親良(十男)、直元(十一男)、横地義之(十二男)、内藤政優(十三男)、直弼(十四男)、内藤政義(十五男)
多喜(養女。阿部正簡の娘。井伊直暉正室)

井伊 直中(いい なおなか)は、江戸時代後期の大名。近江彦根藩の第13代藩主。井伊直弼の実父である。



生涯[編集]

明和3年(1766年)6月11日、第12代藩主・井伊直幸の六男として江戸で生まれる。幼名は庭五郎といった。天明7年(1787年)7月に兄で世子だった直富が早世したため、同年9月25日に世子となる。寛政元年(1789年)に直幸が死去したため、家督を継いで彦根藩第13代藩主となり、同年4月22日に掃部頭に任官する。

直中は寛政の改革に倣って積極的な藩政改革を行ない、財政再建のための倹約令や町会所設置による防火制度の整備、殖産興業政策を行った。寛政11年(1799年)には藩校として稽古館を創設し、算術や天文学、砲術など多岐に指導し、人材育成に努めた(後に弘道館と改名)。ほかにも治水工事などの干拓事業を行ない、藩祖の井伊直政らを祀るために井伊神社を創設し、さらに佐和山に石田群霊碑を建立して石田三成の慰霊を行った。

文化9年(1812年)2月3日、家督を子の井伊直亮に譲って隠居し、左兵衛督と称す。天保2年(1831年)5月25日に彦根で死去した。享年66。


人物・逸話[編集]



弓術・馬術など武芸に優れていた。特に砲術に秀でており、一貫流という流派を自ら興している。

実子に恵まれ、その多くは他藩の養子となって他家を継いだため、幕末の政治情勢に大きな影響を与えた。人数が多すぎたこともあって、14男の直弼のように養子先が決まらず部屋住みで過ごす者も出たが、直弼にはこれが幸いして3男・直亮の跡を継ぐことになった。

腰元が不義の子を身ごもったと知り激怒した直中はこれを重く罰したが、後にその不義の相手が自身の息子であったことを知り深く嘆き、腰元とその子の供養のために天寧寺を建てて手厚く供養した。この寺は五百羅漢の寺として広く知られている。
   
     あららら・・・


井伊氏では歴代藩主の名君の1人として数えられている。側室の中では直弼・直元の生母であるお富を特に愛し、お富が若死にしたときには身分の差から葬儀に参列できず、秋空に消えてゆく荼毘の煙を見ることしかできなかったという。また晩年の子供(直中数えで50歳の子)のためか直弼を愛したという[1]。


松平定信が老中に就任すると、定信は、当時英明を知られていた井伊直中と酒井忠徳(庄内藩9代藩主)に老中職に就くように再三説得をしたが、二人は談合の上、定信の勧告には応じなかった。(「贈従三位酒井忠徳公」大正13年発行)


経歴[編集]
1766年(明和3年):生まれ
1789年(寛政元年):2月26日、直幸死去により、4月16日に井伊家相続。
1812年(文化9年):2月3日、隠居。
1831年(天保2年):5月25日、死去、享年66。


[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月10日 06時55分33秒 ) パスワード

新野親良


     実弟の井伊直弼を長野主膳と共に助けた兄ですね。


時代
江戸時代後期から明治時代

生誕
文化5年3月6日(1808年4月1日)

死没
明治8年(1875年)6月10日

改名
守業→中守→矩明→親良

別名
茂之進(幼名)、民之進、大隈、左馬助、古拙(通称)、清来、雪楂、石蓮(号)

官位
左馬助。大隅守

主君
井伊直亮→直弼→直憲

氏族
井伊氏→木俣氏→新野氏

父母
父:井伊直中、母:山田清伯の娘
養父:木俣守易のち新野親矩

兄弟
直清(長男)、穠姫(長女、蜂須賀斉昌正室)、某(次男)、直亮(三男)、鋭三郎(四男)、亀五郎(五男)、知(次女、榊原政養正室)、中顕(六男)、充(三女、内藤政順正室)、秩(四女)、中川久教(七男)、内藤政成(八男)
芳(五女、松平忠侯正室)、松平勝権(九男)、新野親良(十男)、直元(十一男)、横地義之(十二男)、内藤政優(十三男)
直弼(十四男)、内藤政義(十五男)




河手良貞     ←  Q この河手は川出氏と同じでしょうか?
            A 川手と同じですね



新野 親良(にいの ちかよし)は、幕末の近江国彦根藩一門家老。井伊直弼の異母兄。詩文や書画に巧であった。




経歴[編集]

文化5年(1808年)3月6日、彦根藩第11代藩主・井伊直中の十男として生まれた。
生母は井伊家の家女で近衛家家士の山田小右衛門清伯の娘。
同年3月に筆頭家老・木俣守易の養子となり、木俣中守と名乗る。

         生まれてスグ?



文政13年(1830年)10月15日、藩祖・井伊直政の恩人の新野左馬助親矩の家を再興して2000石で別家する。

実弟の井伊直弼と同じく長野義言に師事し、
直弼が第15代藩主となると、嘉永4年(1852年)には家老となり
藩主、幕府大老の弟を支えた。


安政7年(1860年)3月に桜田門外の変で直弼が暗殺されて後は、
息子の河手良貞や甥の井伊亮寿(貫名亮寿)(井伊中顕の子)らと共に、
少年藩主の井伊直憲を補佐した。

万延元年(1860年)12月、弘道館御用係、後に弘道館総裁を務める[1]。
元治元年(1864年)の禁門の変では藩兵を率いて御所を守護した。

明治維新の後、明治2年(1872年)に彦根藩大参事となる。明治8年(1875年)6月10日に死去。享年68。

脚注[編集]
1.^ 『近江人物志』

参考文献[編集]
滋賀県教育会『近江人物志』
東京大学史料編纂所『彦根藩家中貞享異譜』




河手氏は

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%B2%B3%E6%89%8B

【全国順位】 7,345位  
【全国人数】 およそ1,300人

ランキング
山梨県 1,003位 およそ80人
長野県 1,428位 およそ200人
岡山県 1,009位 およそ300人



広島県山県郡、愛知県豊田市、長野県上伊那郡箕輪町がルーツのひとつ。
          
                   ⇅  箕輪と上伊那で繋がる?

武田氏に敗戦し河野氏が来住した場所が上伊那郡という説もある。←意味不明
広島県、長野県、岡山県などにみられる。

                   いまいち良く分かりません

関連姓は川手。 
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月10日 07時01分19秒 ) パスワード

下記は広島の河手(川手)氏です。   井伊家とは関係無さそう


川手(河手)家
浅口郡大谷村
http://gos.but.jp/kawate.htm

   画像のお墓はとっても立派なのでかなりの家だったようです。


もとの姓は「古城」と云って、更にその先は「毛利」で安芸国吉田に住んでいました。
八世の祖将監は慶長年中に安芸を出て、
その子四兵衛久治は蒔田家に仕えて大谷村とその隣の須恵村に領地を貰いました。

そこで河手氏の娘を妻に迎え、河手姓を名乗りました。


富久の代には藩に多くの貢献があって「河手」を「川手」と改めることになりました。
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月10日 09時05分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの情報ありがとうございます。読解いたします。

 年末になり、何かとあわただしい毎日であります。
 日蓮が気になってしまい調べようと思っていますが、日蓮の稲妻のような
輝きとパワーの秘密は何だったのだろうと探究するのに少し時間がかかります。
 井伊直政も興味の対象になりました。特に戦いでのめざましい活躍の裏に
は、やはり忍者軍団がひかえていたとかんぐっております。特に、松下一族
関係の陰の動き・・・これを探るのに少し時間がかかります。

 まずは、あを様よりの情報をしっかりと吸収したいと思います。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月10日 21時04分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


今の時期は忘年会の連続でしょうね。
食べたり飲んだり、将来、影響が出て来ますから
睡眠だけでも、と思いますが、ムリですね。笑


週末はしっかり身体を休めてくださいね。
お好きなことをなさるのが1番と懐います。


日蓮の稲妻ですか
どこかに彼の迫力について出てると良いですね。



井伊直政を囲む人々:

・直政
・築山殿・・・直政の父のいとこ(井伊家出身) 家康の正室     ま、存在が分かる
・新野左馬助・・・直政の命の恩人                 同上
・南渓和尚・・・龍潭寺住職(井伊家出身)              同上 
・次郎法師 直虎・・・女城主(井伊家出身)             同上
・松下清景・・・直政の継父                    同上
・新田喜斉・・・直虎を支えた政商                 政商?
・松岡貞利・・・直政の父をかくまってくれた信州松岡城主     ま、だいたい     
・川出良則・・・義兄弟   兄・新野親良の子として河手良貞が出てますが、いまいち分からない 


新田喜斉    領主として堀川で出て来たけれど、商人でしたか?
川出良則    なかなか掴めないです。

このお2人が全く納得出来ません。
三つ柏さん、「政商」と「義兄弟」について情報をお持ちですか?
[65]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月11日 00時14分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 少し日蓮にとらわれすぎました。井伊家との関連で秘密の化石は出そうには
ありません。但し聖徳太子とは法華経において関係がありそうです。宗教その
ものは難しいので後にします。

 本日は日蓮を調べていたので遅くなってしまいました。明日、新田、川出両
氏について記します。

  
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月11日 08時04分48秒 ) パスワード

>明日、新田、川出両氏について記します。


はい
楽しみにしております。


窓7の調子が悪くなり今は窓8です。


[68]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月11日 08時37分01秒 ) パスワード

http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/?mode=m&no=639


城址北方の全得寺では竹田高正と新田喜斎が祀られている。

http://yaokami.jp/1225679/

全得寺

宗派・教義
臨済宗 方広寺派

所在地
〒431-1305 静岡県浜松市北区細江町気賀7700-1



また城址付近には「獄門畷」があり、
石碑とともに「桶狭間の戦いで今川義元亡き後、徳川家康の遠州侵攻を防ごう」と、
気賀の人々は、領主今川氏の為に堀川城を造り、最期まで戦った。

堀川城址は、此処から南へ600m程にある。


    ↑
以上は家康の逆鱗に触れた気賀一揆より


このコピペは3回目ぐらいでしょうか?
復習ということで(笑)


1568年末になり徳川家康は遠江進攻を開始した。
目標は今川氏真の逃げ込んだ掛川城。
徳川勢は遠江に入ると井伊谷城、引馬城と瞬く間に
今川勢を駆逐して掛川城へ向った。

しかしすぐに掛川城が落ちなかった為に、
家康は三河に引き上げて出直そうと気賀にさしかかったところで、
気賀の小土豪たちが浜名湖北岸地域の今川方勢力(具体的には佐久城の浜名氏、堀江城の大沢氏)と
連携し堀川城に拠っていることを知ったのである(気賀一揆)

堀川城築城は遠江侵攻の前年といわれている。
後部は浜名湖を背にし前部は都田川の水を引いて浮き城のように、
徒歩で近寄れないようになっていたという。


その城主には寺子屋を開いていた浪人の新田友作がなり、
尾藤主膳、山村修理、竹田高正、新田義一といった土豪が、
村人を動員しこの城に立て篭もっていた。

この期に及んで今川氏につき家康にたてつく豪族に対し、
家康は容赦無い態度で臨んだといわれる。
個人的な推測になるが、
当然ながら武田氏と共闘する形で今川領を侵食する家康にとって、
一刻も早く同地を平定しなければ、
やがて隣接するであろう武田氏の侵攻を受ける可能性を考えたのではないだろうか。

この気賀一揆における堀川城の戦いでは、
城に籠った老若男女約2千人のう1千人が
容赦なくなで斬りにされたという。
当時の気賀周辺の人口は約3千人だったと推測されているから、
この堀川城の戦いだけで実に周辺人口3分の1を滅したことになる。
(後日さらに関係者7百人が処刑されているというから同地では人口の半分が死んだことになる)

城将たちのその後であるが、
竹田高正は堀川城内で切腹、
尾藤主膳は大沢氏の堀江城に逃れ後に切腹して果て、
山村修理は小舟で逃れ小引佐まで行き切腹した。
新田義一は剃髪し喜斎と号していたものの、
やがて代官の石川半三郎により捕縛され処刑されたという。     ⇔  喜斎 処刑さる

城址北方の全得寺では竹田高正と新田喜斎が祀られている。


また城址付近には「獄門畷」があり、石碑とともに
「桶狭間の戦いで今川義元亡き後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、
気賀の人々は、領主今川氏の為に堀川城を造り、最期まで戦った。
堀川城址は、此処から南へ600m程にある。
永禄12年(1569)3月27日、堀川城に2千人の男女が立てこもり、
3千人の家康軍に攻められて、落城したと言われている。
大久保彦左衛門の記録には「男女共になで切りにした」とある。
そしてその後に捕らえられた約700人の人々も、同年9月9日にこの附近で首を打たれた。
その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「ごくもんなわて」と言われるようになった」と
説明板が立てられている。



ワケ分からなくなりました。

喜斎は1568年以降に処刑されていましたか。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月11日 08時40分13秒 ) パスワード

<67>書き直し


新田喜斉  
気賀の領主として出てましたが、

瀬戸方久と一緒にヒットしました。

同一人物?
別人?



以下コピペ:

http://8904.teacup.com/sansyou3/bbs/85

永禄9年に今川氏真が井伊谷徳政を命じたにも関わらず、
領主井伊直虎は銭主瀬戸方久と結託して実施しませんでした。


その為、禰宜・百姓からの今川氏へ直接の訴訟となり、
永禄10年今川氏真は、井伊直虎を間に通さず瀬戸方久と交渉し、
瀬戸方久の買得地を徳政から除外することで井伊谷徳政を実施させています。


今川氏真は、瀬戸方久に対し条件として堀川城の普請にあたって金銭面等の協力を約束させ、
城主としての地位を与えました。


瀬戸方久は新田義一の子孫なので、新田の姓を名乗りました。


瀬戸方久の名が、この後に歴史上見当たらなかった為、新田喜斎=瀬戸方久の説を否定することは有りませんでした。


瀬戸方久について明らかな間違いということですので削除いたしますが、
新田喜斎についての情報がありましたら教えて下さい。お願いします。




おまけ

 新田義一とは?


諸書に見えるが、他書は新田「四郎」義一としており、
新田「小三郎」義一としているのは浪合記だけ。

また、浪合記では応永三十一年(1424)の条に新田小三郎義一の名が見えるのに対して、
他の文献では新田四郎義一は貞治三年(1364)討死としている。


したがって、浪合記の新田「小三郎」義一は、他書にみえる新田「四郎」義一の数代後の世代にあたる。



以下は、浪合記の新田「小三郎」義一ではなくて、その数世代前の新田「四郎」義一の解説。

新田四郎義一は新田四郎の妾腹の子(鎌倉管領九代記)、
あるいは、新田義顕の子(筑後佐田新田系図)という。


また、宮下氏過去帳では、新田義一を鳥山右近将監頼仲の弟とする。
鳥山右近将監は、岩松頼宥の所領の新田庄寺井郷を押領した人物として正木文書に名がみえる
(正木文書、観応元年(1350)五月七日、観応三年(1352)六月十二日)。


鳥山は、新田一族の名字である。



足利基氏が世良田を攻撃した時に、当時十四(または十三)歳だった藤王丸を捕らえたが、
基氏の前に引き立てられても臆せず、
眉目秀麗だったので助命し、十八歳で元服させて新田四郎義一と名乗らせたという
(鎌倉管領九代記、新田世良田諸抄、筑後佐田新田系図)。


この事件の年代は伝わっていないが、あるいは、前述の鳥山右近将監の寺井郷押領に対する措置として起こった事件かもしれない。


正平十七年(1362)、畠山国清が基氏に叛して伊豆修善寺に立て籠もった際、新田義一が討手の大将となった
(喜連川判鑑、鎌倉管領九代記、新田世良田諸抄、筑後佐田新田系図)。


貞治三年(1364)六月、芳賀禅可入道が基氏に叛した際、基氏に従って出陣して討死したという。
(新田世良田諸抄、筑後佐田新田系図)。


足利基氏の死後、新田義一の子の義光は所領を没収されたため、白倉、三浦、近藤、宮本、玉縄など十一人の家人と共に九州に下り、懐良親王から筑後国鳥飼郷を給り、上野介に任じられたという(筑後佐田新田系図)。

[70]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月11日 08時50分12秒 ) パスワード

http://park15.wakwak.com/~hokkeji/nichirenshounin.html

日蓮上人が「稲妻のような」と形容されることについて:「龍口法難」ですね
(忘れてました)

コピペ

      日蓮上人の処刑のシーンから



折から一陣の怪風サ−ッっと吹き来たれば、柵の矢来は一時に倒れ、白地の幕は虚空に飛んで白龍天をかくるが如し。立ち並べたる幕串も一時に倒れてパタパタパタ。たいまつかかり火「フーッ」っと消えて真の闇。警固・勤番の諸侍、馬上にうずくまるもあり。あるいは馬から落ちるもあり。一町二町とかくるもあり。三町五町とわしるもあり。血へどはいて悶絶僻地(もんぜつびゃくち)。前代未聞の龍の口の大騒動。大聖人は御安泰。『我此土安穏  天人常充満  園林諸堂閣  種種宝荘厳』あたりのあまりの騒がしさに大聖人『いかに方々、かかる大罪ある日蓮を差し置いて如何なれば遠のかるるぞ。はやはや頚打たせ給え、夜も明けなば見苦しかるらん。鎌倉武士の名折れになるぞ。』とこの期に及んでも鎌倉武士への思いやりは、大慈大悲の大聖人の御心のと尊さであります。

突如、対岸の江ノ島の辰巳(たつみ)の方角から戌亥の方角へ雷が轟き、稲妻が走りました。


これにより北条家に九代伝わるという名剣。三尺二寸の太刀「蛇胴丸(じゃどうまる)」の名剣が三つに折れ、さらに聖人の頸を跳ねんとした一向に怪風と共に「もののけ」が襲いかかり、頼綱ら一行は恐れをなし処刑場より逃げるように走り去り処刑は出来なかったと言われています。これが四大法難の最後の難であります『龍口法難』です。

以上




「法華経」の弘通に命をかけた、日蓮聖人の波瀾の人生をご紹介します。

『聖者の誕生』

日蓮聖人は貞応元年(1222)2月16日に安房国東条郷(あわのくにとうじょうのごう)現在の千葉県は天津小湊町でお生まれになりました。
父「貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)」戒名『妙日尊儀(みょうにちそんぎ)』(正嘉二年(1258)二月十四日逝去)
母「梅菊(うめぎく)」戒名「妙蓮尊儀(みょうれんそんぎ)」(文永四年(1267)八月十五日逝去)
の元にお生まれになり、母である梅菊は「日天子(にってんじ)」が蓮華の花に乗って梅菊の懐に入る夢を見て懐胎(かいたい)なされ、誕生の折には庭先に清らかな泉が湧きいで海は煌びやかに光だし当り一面、日蓮聖人の御誕生を祝うがごとく沢山の大きな鯛が海面に姿を表し、偉大な聖者の誕生を飾られたそうです。
又、庭先の湧き水をもって産湯(うぶゆ)に使ったという言い伝えが今日までも伝わっております。
そして後の日蓮聖人は、幼名「善日麿(ぜんにちまろ)」と名付けられました。


天福元年(1233)日蓮聖人が12歳の時に家の近くにある清澄寺(せいちょうじ)に勉学に入り…
(当時は学校自体が無く、勉強と言えばお寺に学びに行くのが通例です。)
師匠である「道善房(どうぜんぼう)」の元で仏門や学問を学び、時おなじくして「薬王丸(やくおうまる)」と名前を改められました。


16歳の時には正式に出家得度し「是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)」と名のられました。




是聖房蓮長は、清澄寺のご本尊、智慧の神さまである「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」に願を掛けられ「日本第一の智者となしたまえ」と祈念し、お堂に籠られ21日間の不眠不休の修行に入られました。そして21日満願の日には『生身の虚空蔵菩薩より大知恵を給はりしことあり(中略)明星の如くなる大宝珠を給りて右の袖にうけとり候(清澄寺大衆中)』と、虚空蔵菩薩から「智慧の宝珠」を授かったのです。その時の様子はこのようにも伝わっております。満願の朝、血をどっと吐き、周りの笹を真っ赤に染めて倒れてしまいした。しかし是聖房蓮長は疲れもなく心身爽快であり、当たりが明るくなったと伝えられます。これは虚空蔵菩薩のご利益で「凡夫の不浄の血を吐いて清浄な身」となられたのでしょう。この地に生える笹の葉に斑点があるのは、この血のあとで「凡血の笹」とよばれる様になったとの事です。このことがあってからは、「一切経(いっさいきょう)・全ての御経」を見るに、その要旨がすんなり頭に入り、その内容や勝劣が手に取るようにわかるようになったといわれています。その後、清澄寺の書物をすべて読破した是聖房蓮長は師匠の道善房に許可を得て、鎌倉・比叡山・高野山などに遊学し勉学に励まれました。沢山の宗派、諸経の一切を学ばれた是聖房蓮長は「法華経」こそが末法の世のすべての人々を救う事のできる唯一の経典、教えであると心に確信したのです。


『新たなる確信と決意』



そして、十有余年にわたる遊学を終えて師匠である道善房の元へお戻りになり、清澄寺にて初の説法に挑みました。建長5年(1253)4月28日の明朝、清澄山の山頂「旭森(あさひがもり)」にて当時の飢饉や疫病の諸問題の暗闇を照らすが如く偉大なる太陽に向かって、声たからかに「お題目・南無妙法蓮華経」を唱えられ、これをもって聖人自身の「立教開宗(りっきょうかいしゅう)」を誓われたのでした。御年聖人32歳のこと。新たに太平洋から昇る太陽のように人々を照らし、蓮華のように清らかな教えを礎に「日蓮」と名を改められたのでした。


『受難の幕開け』

日蓮聖人は乱れてしまった世の中、「末法(まっぽう)の世」を救えるのは「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」のみであるとし、その事で他宗派と論争や対論・問答し、他宗派の教論を当時の世の乱れと時代背景を重ねあわせ問答した結果、打ち破り、強烈に批判されました。このため、他宗派と激しく対立「何が真実であり・何が間違っているのか?」対論し、その結果「少々の難は数知れず、大難四箇度なり」と日蓮聖人が晩年の著書の中で自ら語られるように、その生涯は迫害と受難の連続でした。


しかし、これはまた日蓮聖人の生涯における受難の幕開けでもありました。清澄寺で最初の説法を行った日蓮聖人でしたが、他宗の熱心な信者であった地頭の東条景信(とうじょうかげのぶ)の怒りをかい、あやうく捕らえられるところでした。しかし、師匠の「道善坊(どうぜんぼう)」と兄弟子の二人「浄顕房(じょうけんぼう)」と「義浄房(ぎじょうぼう)」の助けにより無事に山を下り、同時に師匠でる道善坊より「師弟関係」の破棄、いわゆる破門を言い渡されてしまいました。(当時の時代背景は宗教の自由が無く鎌倉幕府が「コレ」と決めたならば、例外というものはありませんでした。また道善坊からの破門も、そうする事により清澄寺は勿論、日蓮聖人の身を案ずる師匠の優しさからだったかも知れません。)鎌倉に難を逃れ、松葉谷(まつばがやつ)に草庵を構えらた日蓮聖人は、この地で法華経を弘め始めました。

この頃、世の中では天変地異(てんぺんちい)が続出し、大地震・大飢饉など…
まさに末法の世の世相が現れるようになり、とりわけ建長8年(1256)からの5年間には疫病・飢饉・暴風雨・大火災などの災害が相次ぎ、なかでも正嘉元年(1257)8月23日に鎌倉を襲った大地震では数万人もの死者が出たといわれ、道端に死体の山が散乱するなど想像を絶する地獄絵図を見せつけられるようだったと言います。


『末法と諫言』
 以下略
[71]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月11日 12時08分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 来年は今より数倍の時間が取れますので、自宅でじっくりと書き込みがで
きそうです。実質的には、年末休みから時間がとれますので、あと半月の我
慢であります。
 あを様にご指導いただけるようになって、あと4日で8か月になります。
よく続いたなあと、自分ながら感心しているところでございます。今はいろ
いろな角度から歴史を眺められるようになりましたので、1年でも2年でも
謎探しの旅は続けられる自信が出てまいりました。これもあを様のご指導の
賜物と感謝申し上げます。今後、「千一夜物語=シェーラザード」を目指し
たいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。

 日蓮については、余りにも強烈な印象がございまして、末法の世という
状況の中で、法華経に真の救いを見出したようでございますので、この
「法華経」を理解しない限り、日蓮は理解できないのではないかと思います
ので、これから調べて行きたいと思っております。

 一度ここで切ります。
[72]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月11日 13時24分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一つ関係がわかりました。
 松下家(之綱・清景)と藤堂家(高虎)との関係ですが、どちらもルーツは
近江六角氏にありました。従って@井伊直政と松下清景・常慶・之綱と柳生
親子、A藤堂高虎と服部正成一族と服部中保次親子、この二つの関係は親近
感を感じる関係であったと思われます。具体的には、今後証左を探し出して
行きます。
 
 それでは、『遠江井伊氏物語』(武藤全裕著)より政商新田喜斉についての
部分を抜き書きいたします。
 「戦国初期、井伊領に登場した新田喜斉につき考察してみる。喜斉は井伊
直盛より次郎法師に至る間井伊氏と深くかかわってきた人物である。初めに
龍潭蔵『黙宗和尚時代古過去帳』十五日欄にある、次の記載を紹介する。
 <午ノ八月 歓屋宗喜居士 方休>
 歓屋宗喜は新田喜斉の戒名、午ノ八月は慶長十一年丙午年八月である。そ
の十五日に新田喜斉は没していることを示す資料である。
 龍潭寺には呉石の石田家が納めた新田喜斉の位牌も保存されているので次
に示す。
 表面 知足院殿歓屋宗喜居士 新田喜斉
 裏面 永禄十二年三月二十七日
    気賀堀川落城
    今川義元旗下 新田喜斉 八十二歳
    慶長十一年丙午八月十五日
    呉石谷塚ニ於テ死ス
 龍潭寺過去帳と位牌の記述により、新田喜斉は慶長十一年(1606)八月
十五日気賀呉石谷塚で没した人物で、方休の法名を持っていたことが解る。
 この新田喜斉について地元では「瀬戸方休」なる人物と同一か否かという
論争があった。これは新田喜斉についての調査不足からきたものである。新
田喜斉と瀬戸方休は明らかに同一人物である。前出の龍潭寺蔵『黙宗和尚時
代古過去帳』の記述「歓屋宗喜居士 方休」を見れば、歓屋宗喜居士は生前
方休を名乗り、位牌と照合すればその人物は新田喜斉であることが理解でき
る。ちなみに「瀬戸」は喜斉が住んでいた井伊領内の一地名瀬戸であり、瀬
戸村に住んでいた方休の意味である。」
 
 一度ここで切ります。 
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月11日 14時05分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。


>松下家(之綱・清景)と藤堂家(高虎)との関係ですが、
>どちらもルーツは近江六角氏にありました

六角で繋がりますか。
そして「忍者」で繋がりますね。
なるほどね。



>新田喜斉 = 瀬戸方休

同一人物でしたか。


続きを楽しみにしております。


なかなか「長上郡の名家の平氏で旗本で服部で丸に三つ柏紋」が見つかりませんね。

この丸に三つ柏紋がどうしても納得いかないですね。
   服織神社がらみか?
   長田氏がらみか?
   伊賀の呉服神社がらみか?
   事件に連座して家紋を柏紋にした?


https://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA4-PA22&dq=%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%A7%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%81%A7%E6%9C%8D%E9%83%A8%E3%81%A7%E4%B8%B8%E3%81%AB%E4%B8%89%E3%81%A4%E6%9F%8F%E7%B4%8B&hl=en&sa=X&ei=3SSJVK-RGsHuoATmz4HIAw&ved=0CB0Q6AEwAA#v=onepage&q=%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%A7%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%81%A7%E6%9C%8D%E9%83%A8%E3%81%A7%E4%B8%B8%E3%81%AB%E4%B8%89%E3%81%A4%E6%9F%8F%E7%B4%8B&f=false


ここに該当するらしき柏紋の服部氏が出てますが
「桓武平氏支流  寛政譜 20」と書かれているのは
既出の服部家だと思いますが  1つは医家  でしたよね。

ところが寛政譜 の20がネットでは見られないです。


ま、なんとかその内に。
[74]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月11日 14時21分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続き―
 「方休について『遠州渋川の歴史』の中で郷土史家石野修氏は次のように
記している。
 ― 方休の墓は瀬戸にもあり、この墓は方休の養子松井総十郎(又総四郎)が
瀬戸を名乗り、その子孫により元禄年間に建立された。今、瀬戸の子孫瀬戸
定雄家が方休の屋敷跡と思われる。松井氏は元二俣城主で、その前が小笠郡
下平川堤城主、その前は藤枝市の奥、花倉におり、今川範国の先鋒軍として
しばしば感状にあずかっている。出身は京都葛野郡松井で鎌倉の御家人であ
った。 
 さらに石野氏は言う、
 ― 方休は宇布見中村源左衛門喜楽と親類関係にあり、中村家が今川義忠
の被官となり雄踏に定着し、軍船を預かって浜名湖面を支配していた。この
中村家と組んで、井伊次郎法師の知遇のもと、浜名湖の商品交易をやってい
た方休の姿が浮かび上がる。
と述べ、瀬戸方休を近代の政商、三菱財閥の岩崎弥太郎に比肩している。
 いずれにしても、瀬戸方休即ち新田喜斉が経済面で井伊氏と深い関係に
あり、戦国期異色の女性地頭次郎法師を支えた重要な人物の一人であったと
言える。」

 方休の字は、方久、保久、法久、寶久、法休、方玖とも書かれるという。
 いわゆる海運業を営み、武器、武具、食糧、塩・・・いわゆる政商という
ことである。最後は塩の不正疑惑により、処分されたという。
 中村家と親戚ということは、中村家に娘を嫁がせている松下之綱とも親戚
ということになる。やはり、血のつながり、血脈は特に近世以前まではただ
一つのといえる程の信頼関係のきずなであったのでしょうね。逆に言うと、
お近づきになるには血縁関係があれば、即ち「私は何々筋の何々の息子です
」というば「ああ、何々の何々さんの子か」とすぐに仲間になれるというこ
と。これは現代でも通じるかも知れません。血のつながり、尊いものであり
ますね。

 ここで一度切ります。
 
[75]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月11日 15時36分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 川手取水良則について、やはり『遠江井伊氏物語』(武藤全裕著)より―
 「川手主水(もんど)良則は井伊直政の姉高瀬を妻とし、天正十年、家康の
命で井伊直政に付属された三河出身の武将である。後に二千五百石の家老と
なり、慶長七年、直政の嫡子直継代の彦根藩最古の家中分限帳には川手主水
四千石の禄高で記録され、家中においては井伊直孝(直政の次男)、鈴木石見
(重好)に次ぐ席次に位置している。
 この川手主水の出自は、奥三河足助庄川手城主、山田景隆の嫡子であり、
その先祖は『尊卑分脈』によれば、清和源氏の流れをくみ、源満政から十四
代目の山田頼範とともに、南朝につかえた歴史があるといわれている。宗良
親王の御子尹良親王が、山田頼範を頼って川田御所貝津に入ったとの伝承も
ある。」

 なお、井伊家はずっと後からであっても、祖の直政につくした新野左馬助
や川手良則にむくいるために、各家の再興を図っている。前者は、三十四代
井伊直中、後者は三十六代直弼によってもたらされた。井伊家の実直さが見
られるようだ。

 ではこれにて―
 しばし酒宴に・・・
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月11日 20時30分11秒 ) パスワード

スレッドを間違えて書いていたのでこちらへ転載:

そろそろ新しいスレッドXXIをお立てになってください。
そちらで続きを書きたいです。



三つ柏さん

とんでもないのが引っ掛かりました:


https://books.google.com/books?id=WiPIrDPZ1wIC&pg=PT12&lpg=PT12&dq=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E8%AD%9C%E3%80%80%E5%B7%BB%EF%BC%92%EF%BC%90%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=tMh89VYWdX&sig=xDZSUXTMaEkhY7GzrwPsqoZJf9A&hl=en&sa=X&ei=1iaJVN_cKsq5ogSIo4DIBA&ved=0CDYQ6AEwAw#v=onepage&q=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E8%AD%9C%E3%80%80%E5%B7%BB%EF%BC%92%EF%BC%90%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

ここに田口氏系牧野家が出てます。

その正路というのが実は服部又三郎義英の二男で
           母は田沼主殿頭家の家臣  星野兵右衛門之政が女  

と書かれています。

牧野家に婿養子に入ったのです。
この牧野家の家紋は「丸に三柏」。


牧野家は柏紋でよく知られて家ですよね。


ということは「牧野家」も絡んで来ました。



この牧野家と関係がある服部家なら丸に三つ柏紋でも不思議ではないですよね。
当時は親戚で子供をやったり貰ったりしてますから有り得ますし。


前に三つ柏さんが「牧野家が」とおっしゃってましたが
その牧野家がやっとご出現?

牧野家も調べる必要が出てきました。




服部又三郎義英
この人物が検索出来ません。

医家の人物ではないですよね?
もし覚えていらっしゃいましたら、また、巻20の服部家の人々の名前をお書きください。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月11日 21時09分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


>方休=喜斉

ありがとうございました。
やっと得心が行きました。


洋の東西を問わず人は名前をコロコロ変えるし、通称もあったり  英語でいう  AKA またの名  ということですね。

その上に漢字もテキトーに使うし。



塩の不正で罰せられましたか。



>川手主水(もんど)良則は井伊直政の姉高瀬を妻とした

この「高瀬」という直政の姉は記録に載ってないのですが、側室腹だったのかもですね。
それか早死したか。



直政の祖父母は=直親の両親ですが=井伊直満と鈴木重勝の娘?となっています。養父が直盛。

   この養父・直盛の娘が井伊直虎(次郎法師・祐圓尼)ですね。



>川手主水の出自は、
>奥三河足助庄川手城主、山田景隆の嫡子であり、
>南朝につかえた歴史があるといわれている。
>宗良親王の御子尹良親王が、山田頼範を頼って川田御所貝津に入ったとの伝承もある。

「足助」と聞くだけで  服部家との関係に思いが至りますが  もともと南朝方でしたか。


その上に、宗良親王の御子尹良親王のお名前が出れば、なるほど「お仲間」ですね。

井伊家だけでなく服部家とも深い縁しがあったのですね。
それで三つ柏さんのシンパシーをゲットしたのかも。


ね?
日本ですし
何か引っ掛かる人を調べていくと先祖に絡む
というのが有りますでしょ。

   日本ですから
   日本人ですから


でも屋号を使って名字が変わるからホント日本人の苗字はワケが分からないです

川手の前は山田さんでしたか。

でも当時の日本人には  スグにピンと来たのでしょうね。
地名から  例えば足助と聞いて  わたくしは(おお、昔の仲間か)とスグに分かりましたから。


日本人ってこういうことなんだな、と思います。
嘘ついたってスグにバレたんでしょうね。

顔を見れば出自が分かるように、面影、というのからも分かったのでしょうね。



それにしても  喜斉と川手については  こんがらがりまくりました。
あはは

川手の場合は川手姓ではサッパリ掴めなかったのに、
それが地名1つ「足助」でスンナリ納得できたのがコレまた不思議です。

日本だな〜
しみじみ
[78]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月11日 22時33分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今ほろ酔いきげんで帰ってきました。若い人たちと飲むとかえって酔
ってしまいます。一杯どうぞってこられたら断れませんので。
 ま、それはともかくとして、時代は変わっても人間の本質は変わっていな
いのではと最近思うようになりました。但し、武士の世界は一歩間違えれば
腹切りの世界が現実でしたので、真剣そのものだったと思いますが。また、
磔だの獄門だ首切りだの世界が現実としてたあった時代ですから、その点で
は明らかに違っていたといえますが・・・。ただ、人間としての感性は変わ
らなかったと思います。美しいものは美しい、悲しいものは悲しい、恋しい
ものは恋しい・・・人間としてのアイデンティティーは変わらないと思いま
す。ということは、時は流れても人は変わらない。少なくとも人間として二
本足で立ち上がった時から人間は変わっていないということ。時代だけが勝
手に変わって行くだけではないでしょうか・・・。

 あお様の推理はほとんどあたりますのでそのとおりだと思います。牧野氏
は意外と近い所にいましたので探究する必要があると思います。
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月12日 02時11分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


新しいスレッドをありがとうございます。
牧野家との関係はXXIで繋げていきたいと思います。



日本人は特に価値観がかなり纏められているから似た感性を誤差範囲で共有しているでしょうね。
先祖の思いをかなりの度合いで共感出来るのは日本人だからこそ。
もっともっと理解したいですね。


川手氏の前の苗字が山田ということで思い出したことがございます。

人を殺めて伊賀から逐電し今川義元・氏真に仕えた服部康高の子孫に
山田市郎兵衛直矩の4男が養子で来ています。
母は山田清大夫政孝の娘。


    この服部家の通称は  助左衛門  です。


この山田家の先祖が足助出身でしたら、先祖がらみなんだろうなと思います。

この助左衛門の家をメモしている時に(なんで山田家と縁組しているの)と思いましたが
もし繋がったら面白いですね。
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