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 投稿番号:101399 投稿日:2014年11月13日 10時21分44秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]\
キーワード:長上郡 服部氏族 丸に三つ柏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族][よりの続きです。

自称「歴史探偵」の目で歴史の奥底に潜む謎を発掘し解明する。

最終目標は服部氏族の謎についての解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月22日 02時47分42秒 ) パスワード

三つ柏さんが伊賀にいらっしゃる予定です。
それでXVIIIのレス<74>から伊賀と藤堂高虎と服部氏についてこちらに纏めてみます:


以下三つ柏さんの書き込み:



古本屋で仕入れた『伊賀上野城史』によりますと─

藤堂高虎の父は虎高(高虎と文字が逆)といい、近江の三井出羽守乗綱の次男で藤堂家に婿養子に入っている。

高虎の子─高次─の子には基恒がおり、遠江堀江城主、第12代大澤氏へ養子に入っている。また娘で井伊直勝の孫のところに嫁いだ者もいる。


引治 2年(1556)   高虎生まれる。
元亀 元年(1570)   浅井長政に仕え、小谷城攻略。高虎15才。
天正 5年(1577)   木下秀長に仕える。
天正 7年(1579)   第一次伊賀の乱。(高虎23才)
天正 9年(1581)   第二次伊賀の乱 (高虎25才)
天正10年(1582)   家康君伊賀越え。 (高虎26才)
天正19年(1591)   木下秀長死す。  高虎35才。
文禄 4年(1595)   木下秀俊文禄の役にて死す。軍将高虎高野山に隠棲。
            その後、秀吉より伊予宇和島七万石を与えられる。
                    高虎39才。
 
慶長 3年(1598)   豊臣秀吉死す。  高虎42才。
慶長13年(1608)   伊賀および伊勢(安濃郡一志郡)の領主となる。
                     高虎52才。
寛永 7年(1630) 高虎死す。75才。


高虎は、豊臣系の外様大名であったが、関ヶ原合戦の前後より家康を支援し忠勤を励み、家康の知恵袋とさえいわれるまでに信頼を得ていた。


 ─ということであります。深い謎には行き着いていません。
  誰とどのように付き合っていたかを調べてみます。

  服部正成とは当然親しくしていたと思います。
  加藤光泰とも文禄等の役で交わりがあると思われます。
   その他、具体的に誰と会っているのか・・・今後拾って行きます。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月22日 02時50分05秒 ) パスワード

レス<76>
以下コピペ:



藤堂高虎については少しずつ情報を集めつつあります。
また芭蕉についても情報を収集しつつありますが、こちらはこちらでまた難しい推理の展開になりそうです。


すでにあを様から情報を投げかけられておりますが、一つ一つこなしてまいりたいと思います(後で記します)。



伊賀へは今度の日曜日に行くことにいたしました。早朝6時出発です。

まずは上野図書館でどんな地元の資料があるか調べ、次は上野公園内の城・博物館・資料館等を見て、街中で昼食。その後街中散策。寺町でお寺めぐり、墓石・家紋の調査。あと時間が余れば、プラスアルファ・・・。その位で早めに帰路につく予定です(紅葉の三連休の中日、渋滞が予想されますので)。



伊賀上野城では、ちょうどタイミングよく、「藤堂高虎展」をやっていますのでラッキーです。
いい情報もあるはずなので、楽しみに、ご報告します。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月22日 02時54分39秒 ) パスワード

レス<78>
以下コピペ:



以前伊賀を訪れた時に購入した上野市観光協会発行の『忍術の歴史』(奥瀬平七郎著)は史実をよくくみ取り、かつ分かりやすく解説している良書であります。


服部家長・保長・正成、藤堂高虎・采女に関する部分をピックアップしてしばらく記載いたします。


 「服部家長の没落と、忍術組織の地下潜伏─
     平家の没落によって、服部家長は失脚したが、
     服部家と忍術組織はふたつに分割されて、各々温存された。

     家長は平家滅亡後、故郷に戻り(注1)、長男、次男、三男を源氏に寝返らせ、
     従来味方であった平家の残存勢力を伊賀から掃討することに専念させた。

     そしてかねてから気脈を通じていた柘植の豪族平宗清
     (当時、平清盛の異母弟池大納言頼盛の甲賀地方の荘園の代官だった)
     を通じて、服部家の保全について、三子の源氏方への帰順、協力を条件として、
     源頼朝の承諾を取り付けたのである。

     宗清は平治の乱のあと、落人となった少年の頼朝を捕らえたが、
      主人頼盛の実母池禅尼(清盛の義母)と協力して、頼朝の命を救ったことがあったため、
     池一家と共に平家滅亡後も頼朝の殊遇を受けていたのだ。


(注1) 家長自身は、西海で戦没した態を装い、かねてから万一の場合に備得て用意していた伊賀の辺境、予野の里の郷士千賀地家の当主になりすまし忍びの者を引き連れて、与野に隠棲したのだ。

    これ以後、服部姓の忍家は伊賀から消え去り、千賀地家が、忍術の宗家となったのである。」
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月22日 02時56分07秒 ) パスワード

レス<80>
以下コピペ:


まだまだいろいろ「エッ、ホントに?」「スゴイ !」がでてきますよ。

 では後で―
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月22日 03時00分59秒 ) パスワード

レス<81>
以下コピペ:



藤堂高虎で余り知られていないのが「水軍」との関係です。

今いろいろ調べていますが、文禄・慶長の役はまさしく海を渡り、海で戦う・・・ウェイトとしてはやりにくさも手伝い、陸の戦いも含めて全体の戦いの60%以上はあったのではないか。波や風や岩礁といった危険性、食料に水の確保、馬の運搬、エサの確保、矢・弾薬のストック・・・。よっぽど船をあやつるのにたけた人々でないとこの海での戦いは無残な結果になることは間違いない。

私自身、船のことは体験で知っているりでよくわかる。まず風と波との闘い、そして嵐の時の係留場所の確保等々・・・。


藤堂高虎は海人ではなさそうなので、部下に海人がいたということは間違いない。ほかの水軍の長もしかりである。

この辺は熊野をはじめとした水軍、また平家ともからんでくるので、そのあたりの関係を探求したいと思っています。


また、藤堂高虎は伊賀の領主となり、忍衆の再構築を図ったり、家康の最側近でありましたので、謀略・情報収集の関係で柳生一族もある意味配下にあったはず。松下之綱一族もしかり。そのへんの情報の発掘もしたいと思っております。


また、城作りのプロでありました。どんなシステムが働いたのか、大手ゼネコン並の工事ではありませんか。重量との闘い、運搬との闘い、上へ上げる・積むといった工法。これら人・物・金・技術・情報・組織といったものをまとめるには当時としては天才的な知的集団が必要である。一体誰が協力したのか。お金や命令だけでは決して成し遂げられなかったと思います。

その辺の探求もいたしたいと思っています。
 


『忍術の歴史』より、前回の続き─

「千賀地宗家の出国と足利幕府への仕官伊賀の三忍家は、戦国時代にはいると、その組織の維持に困惑するようになった。忍者の世襲制(秘密保持のため必要)による組織の肥大化のため、財政的に行き詰まったのだ。
  

 甲賀の忍家とちがって、伊賀の忍術組織は大組織であったから、国外からの需要が殖えても、到底その費用を賄うことは出来なかったのだ。


 窮状を脱する方法は、伊賀内部の忍術組織を再編、大幅に縮小する以外になかった。
    (今でいうリストラですね。服部) 


たまたま、その時、十二代将軍足利義晴が身辺警護のため、多数の忍者を召し抱えようとして、側近の松永久秀を介して、千賀地家の当主半三保長に、一族郎党を率いて足利家に、出仕することを要請してきたのだ。半蔵保長は百地・藤林の二家にこのことを伝えて、宗家自らが縮小化の犠牲となり、一族郎党を率いて足利家に出官することの了承を得た上で、将軍義晴の召致に応じ、故郷、予野を出て京都に移住した。
    (京都のどこに住んだのでしょうね。服部) 
   

宗家出国後、千賀地半三に替わって宗主となったのは、友生村喰代の忍家の主百地丹波正西であった。


尚、出国に当たって保長は、当時三歳の嫡子「則直」を妻の実家である紀州、保田庄の豪族保田栄西(先祖は、楠正成の縁辺といわれる。その時代から、伊賀忍家と血脈の交流があった)の養子として、保田家に送った。後顧の憂いを断ったのであろうが、保田栄西(保長の義弟であったと思われる)の強い希望を入れたものと思われる。というのは「則直」は、保田家において、嫡子「則宗」を儲けて後、その則宗に保田家を継がせ、自分は伊賀の予野に帰って千賀地の名跡を立てたからで、これは半三保長と保田栄西の約定によるものと、考えられるからである。


因みに則直の次男、保田「采女」はその後、藤堂藩の伊賀上野城代家老に任じられた「藤堂采女」その人である。」
 次回へ─


[6]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月22日 08時06分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろ段取りしていただき、ありがとうございます。昨日は、午後3時
頃、会社の私用のパソコンが7年目にしてクラッシュしました。オシャカに
なりました。来週は火曜日から出勤ですが、二〜三日もたもたしそうです。
家のパソコンは大丈夫ですのでご安心下さい。

 昨日は藤堂高虎と文禄・慶長の役について調べておりました。あを様ご指
摘のとおり、九鬼(嘉隆)氏は対馬舟奉行として参加しています。藤堂高虎は
壱岐舟奉行として参加しております。水軍については、日本の歴史(戦闘)の
中で想像以上の働きをしていますので、一度まとめてみます。高虎と水軍に
ついてもまとめてみます。九鬼は「くき」と読むのですね。本当は「くかみ」
が元々の読みで、漢字については「鬼」の頭の「点」がなかった。古代より
存在していた氏族・・・。

 さて、前回の続きですが―、用事ができましたので一旦ここで切ります。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月22日 09時00分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


PCがクラッシュですか。
面倒ですね。
7年もお使いでしたら手に慣れてたでしょうに。

窓8は良くないので窓10を買うことになるでしょうか?
   窓9を飛び越して次は窓10になるそうですよ。


とにかく新しいPCは手に馴染むまでが大変です。
書きかけで消えたりしますから
長々と続けず早めにアップが良いかもですね。
  

>漢字については「鬼」の頭の「点」がなかった

だそうです。
平熱の方からお聞きしました。



>保長は、当時三歳の嫡子「則直」を妻の実家である紀州、
 保田庄の豪族保田栄西(先祖は、楠正成の縁辺といわれる。
 その時代から、伊賀忍家と血脈の交流があった)の養子として、保田家に送った。

そうすると保田=服部でもおかしくなかったのですね。


やはり「楠」が関わってましたか。
楠木正成のゲリラ戦術はまさに忍者の技ですから
楠も柳生も伊賀も(甲賀も根来も)一衣帯水というのですね。
ま、吉野などの山岳地帯の人々の生存の知恵というのだったんでしょうね。


明日はくれぐれもお気をつけて
とにかく「焦らないこと」ですね。


[9]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月22日 14時44分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『忍術の歴史』の続きです―

 「服部保長の足利家致仕(退職)と三河・岡崎への移住
  服部保長は、足利義晴に一年余仕え、義晴の身辺の警護と、来訪する諸
 大名の応接役を受け持って近侍したが、足利氏の財政の悪化により、約束
 の封禄は与えられず、その郎党を養うのにも困窮する状態になった。この
 時、将軍に閲するため京に上がってきた、三河の大名清康(徳川家康の祖父)
 が半三の窮状を見て、将軍家を致仕(依願退職)して、縁辺と共に三河岡崎
 (清康の拠城)に転任し仕官することをすすめた。
  清康も鈎(まがり)の陣以来、機会があれば伊賀忍者の集団を召抱えたい
 と考えていたのだ。
  保長は清康の招請を快諾して、一族と共に岡崎へ移住した。清康は岡崎
 郊外に服部一族の居住地、開墾地(農地)として「伊賀」の地を区切って与
 え、保長には別に三百石の知行を給して、直参(譜代)としたのである。
  半三保長は、その後、「伊賀町」に郎党と共に定住し、次男正成以下三
 名の男子をもうけ、清康・広忠・家康(徳川と改姓)の三代に歴任して、徳
 川家の伊賀者の長官として、調・謀両面に亘って活躍したのである。
  家康の代になって、徳川家は織田家(信長)と同盟したから、自然、半蔵
 保長、半蔵正成の父子は織田信長に従うこととなり、終始、松永久秀や六
 角承禎等、反信長党と行動を共にした同族の百地(藤林)党に、対立しなけ
 ればならぬという皮肉な立場に立つようになった。」

 あと5回程(藤堂采女の服部系忍者保護策まで)続きます―
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月22日 22時14分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


本当に貴重な情報をありがとうございます。


>清康も鈎(まがり)の陣以来、機会があれば伊賀忍者の集団を召抱えたいと考えていたのだ。

なるほどねえ
諸国の豪族達は「鈎の陣」を知って忍者を採用しなきゃいけないと気づいてきたのですか。

その中に松平家もあった、と。


鈎の陣以降、というのは100%知らなかったです。


そして家康が信長と組むようになって服部氏は伊賀の藤林や百地と対立するようになる、
ですか。

なるほどね。


貴重なお話をありがとうございました。
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月23日 05時43分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[8]手当てありがとうございました。

 今から、伊賀へ出発です。

 いざ― 
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月23日 07時03分56秒 ) パスワード

無事のお帰りを待っています。
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月23日 22時28分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日午後6時半、無事戻ってまいりました。高速往復6時間の運転、現地で
は6時間、での強行軍でしたので疲れました。夕食後、眠気もおそってきまし
たので、報告は明朝にということにさせていただきます。では―
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月24日 01時37分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

ご無事で良かったです。
お疲れでしょう。
ゆっくりおやすみを。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月24日 03時57分00秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ki_yasda.html


保田(安田)氏
(清和源氏頼光流)

追洲流




 安田氏は、甲斐国山梨郡安田より起こった逸見清光の子義定が安田三郎を名乗ったことに始まる。

安田義定は、 源平合戦に先だって源頼朝から遠江守護に任じられ、寿永三年二月源義経に属して須磨一の谷において平氏と戦 い戦功を挙げた。

鎌倉幕府成立後に誅殺された。

その子孫は遠江・信濃・石見・肥後などに広まったという。
そのうちの一流が、紀伊国在田郡保田庄に住して戦国時代を経て徳川旗本家となっている。

    ↑
   この家でしょうね



保田(安田)氏の興亡

『続風土記』によれば、安田義定の子に忠義があり、その曾孫忠宗は保田荘の地頭職に補された。

忠宗の子権守宗重は保田庄と併せて湯浅荘を領し、文永年中の禁裏の火災に際して、
士卒を率いて馳せ参じその功により「十六葉裏菊」の御紋を賜わったと伝える。
                   ↑
               伊賀系服部氏が「16葉菊紋」を使用しているのは保田家がらみ?


 宗弘のとき、畠山氏に属して軍功があり、河内国倶禾庄誉田など四ケ村を与えられた。
その後、保田氏は土居城から七山城に住し、知宗の代には在田郡八幡山城に拠った。
その後、知宗は佐久間玄蕃允に属し、越前国に住して、天正十一年四月近江国賤ケ岳の合戦で討死した。

 知宗の跡は弟の繁宗が継ぎ、若狭守を称した。もとは高野山華王院住職であったが、賤ケ岳合戦で戦死した兄知宗の遺領を継承、紀伊保田庄を知行して、大和大納言豊臣秀長に仕えた。

のち大和竹田などで加増されて三千五百石。

その後、家督を繁宗に譲り隠居した。文禄三年(1594)主家断絶後は、繁宗とともに豊臣秀吉に直仕した。

        名張、ねえ・・・
         ↓
 繁宗は伊賀国名張郡四濃野城に居住し、文禄元年家督を継承して保田庄を知行した。
同年、秀吉の朝鮮出兵に際して肥前名護屋へ出陣。

秀吉の死後、慶長十一年(1606)九月山城国追分において徳川家康に拝謁し、
旧領三千五百石を安堵され徳川旗本に列した。

同十九年使番に任命され、丹波国篠山に出張している。


 その後、宗雪−宗郷−宗恒と続いたが、宗恒の子縫殿介が亨保八年正月、嗣子なく夭逝したことから、保田氏は断絶した。



出自の謎

 ところで、紀伊保田氏の系譜を見た場合、『尊卑分脈』にみえる安田義定の子に忠義は記されていない。

また、系譜の名前をみると、紀伊国の名族湯浅氏のそれと似た名前が並んでいるのである。

ちなみに『姓氏家系大辞典』には、保田氏について、「湯浅氏の族なり。寛政系譜に「知宗、弟 繁宗(若狭守)−則宗(伊賀名張郡西濃野城、後 保田庄、三千五百石)−宗雪(美濃守)−宗郷(越前守)−宗恒−某(縫殿助)、家紋 追洲流し」と記している。


 また、『続風土記』保田荘領主條に「源頼光の末孫に保田太郎忠宗あり、保田荘の地頭職たり。忠宗の子 権守宗重、湯浅荘を領し、併せてこの地を領す。宗重の子孫 後に断絶す。将軍尊氏、那賀郡貴志荘の地頭職 貴志氏を以って、この地を領せしむ。

貴志氏、よりて辻堂村に住す。天正十三年、豊臣氏に滅ぼされ、羽柴美濃守に属す」とみえる。


 紀伊保田氏を清和源氏の裔と断定することには、若干の抵抗が残るといえよう。


湯浅なんて言ったら、バリバリの南朝方と想う。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月24日 09時46分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 では、昨日のご報告を―

 やはり行楽シーズンの3連休の中日の日曜日とあって、早朝より高速道路
は車が多く、8時頃、鈴鹿のあたりで9キロ渋滞。抜け出すまでに30分程
時間を要しましたが、9時過ぎには伊賀上野に到着。さっそく伊賀上野城を
見ることにしました。
 藤堂高虎展ということで、いろいろな関係資料、鎧・冑、刀剣・槍、その
他の物品、衣服等たくさん展示されていましたが、それよりも藤堂高虎の秘
密に迫るもの、即ち窓口で頒布されていた書籍(資料集)の方に関心が向いま
した。
 『藤堂高虎文書集』、『上野城絵図集成』を購入、何か秘密を解くカギが
あればいいなと期待で胸が膨らみました。展示物の中にはこれといった発見
はございませんでした。
 次に上野図書館に向う。上野城から歩いて十分。そんなに大きい図書館で
もない。地域(郷土)の古書・資料集のコーナーを探す。余り置いてない。何
で?わざわざ伊賀まで期待して来たのに・・・。帰りかけ、入口の一画に、
本の頒布の宣伝コーナーがあった。伊賀古文献刊行会発行の十冊余の本が展示
されていた。以前よりインターネットで情報は入手していたので、その内の
一冊『伊賀旧考』を購入することにした。これで本日入手した本は3冊、金額
は高いが一杯飲みに行って消えてしまうよりずっといいと自分に言い聞かせる。
これらの本については、いずれ中を精査して改めてご報告いたしますが、心の
片隅には期待とまた逆に期待外れに終わるかも知れないという不安な気持ち
がミックス・・・。
 次は、お寺回り。ここには新たな発見がありました。
 日蓮宗長栄山上行寺―ここには、藤堂家歴代の墓がありました。いわゆる
菩提寺。日蓮宗とは意外な感じでしたが、日蓮にはそれだけのパワー・魅力
があったのでしょう。改めて探究するテーマとして浮上しました。
 大きな墓石、というよりイースター島のモアイ像といった方がイメージ的に
近いが。高さ3〜4メートルもある墓石、といっても四角四面のツルツルな
墓標ではない。そう、ちょうど城の石垣を切り出したような粗忽な感じの石塊
が並んでいる。高野山へ行くと、ほとんどが同じくらい大きな塔婆(三角、丸、
四角形の石の組み合わせたもの)ばかりですが、こんな大きな墓石は初めて見
ました。それも高虎、高次、高久、高睦(ちか)、高敏、高治、高朗(ほら)、
高悠(なが)、高嶷(さと)、高兌(ざわ)、そして高虎公父虎高公、継室、高重公
の墓が一堂に並んでいた。たぶん墓石の切り出しは穴太衆がやったんだろうな
と推測いたしました。いずれにしても、その墓石の存在感には圧倒されました。
 寺町にはこの上行寺も含めて8寺が通りを挟んで並んでいますが、ほとんど
駆け足で見てまいりまして、其の中でもう一つ注目したお寺がありました。
 浄土宗光明山攝取院念佛寺、ここには藤堂家一族(大名を除く)の墓(通常の
大きさの墓)がたくさん集まってならんでいました。また服部家の墓も所どこ
ろにあり、それは宗領家の家紋「源氏輪に並び矢筈」が主流のように思われま
した。もちろん服部氏でも「4つ目」のものもありましたし、「源氏車に三つ
矢」のものもありましたし、「源氏車に判読不明」のものもありました。それ
と百地家の墓もいくつかありました。服部家の墓でも百地家の家紋―「丸に7
つ弓月の並び矢(正式名称調べます)」と同じものがあったのは新たな発見でした。
 昼は田楽で有名な「わかや」で串田楽定食を食べ、精進料理のうな丼みた
いだなあ、味噌ダレがミソだなあと思いました。とってもおいしかったです。
昼飯に満足し、お土産屋を探しましたが、観光地と違って(?)店がない。何と
いう町か・・・観光地であって観光地特有の土産物街がない。自然のままの
観光をということか。不思議な町だ。いやスゴイ町だ。
 そして帰路・・・上野より西南3キロへ5キロ位行ったところにある、天正
伊賀の乱で、最後の戦いの前の戦い―比自山砦の戦いの場となった長田村の
長田山のふもとにあるお寺―西蓮寺を訪ねた。ここは伊賀の人々の宗教的聖地
の一画で、最後の戦い(柏原)の前の総力戦、織田軍五万に対して伊賀の人々
五千が集まったという。戦いは死傷者を出したものの、作戦としては見事に
敵に怖れを抱かせ、また煙にまいた一戦であったという。
 山を切り開いて何段にもつくられた墓地があり、檀家の多い大きなお寺に
思われる。そこで、予期してなかった発見があった。それは、藤堂采女家の
歴代の墓があった。いわゆる菩提寺であったこと。またよく見ると藤堂采女
家の8代、9代は「安田」という姓であったことも新発見でありました。
 「天正伊賀の乱400年記念碑」も建っており、その横に立つ観音様にお祈
りを捧げました。西蓮寺には服部土芳句碑もありました。これにつきましては
別途考察してみたいと思います。
 西蓮寺をたち、最後に向ったのは敢国神社、いわゆる服部家による「黒党際」
で有名な神社であります。上野からはかなり離れた山すそにありました。
 一ノ宮ということで、大きいであろうとのイメージを抱いておりましたが、
それほどでもなく、ただいろいろな神様が集まった惣社のような形でありました。
 お祈りを済ませ帰途へ―
 帰りは東名阪を通らず、第2名神から名神高速を通って名古屋から東名で
帰りましたが、一宮でいつものように11キロの渋滞。何とかしてほしいもの
であります。渋滞するのは構造上の欠点か。
 以上でとりあえずの報告を終わります。また関連の報告もいたしたいと思っ
ております。
 本日は頭陀寺へ行ってみます。
 ではまた―
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月24日 13時13分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


ご報告をありがとうございました。

服部で四つ目紋ですか。
これまた不思議ですね。



>天正伊賀の乱で、最後の戦いの前の戦い―比自山砦の戦いの場となった長田村

  どうでしたか。
  これまたご縁ですね。


の長田山のふもとにあるお寺―西蓮寺を訪ねた。ここは伊賀の人々の宗教的聖地
の一画で、最後の戦い(柏原)の前の総力戦、


>織田軍五万に対して伊賀の人々五千が集まったという。

  悲しくなります。 


戦いは死傷者を出したものの、作戦としては見事に敵に怖れを抱かせ、また煙にまいた一戦であったという。

  得意のゲリラ戦でしょうね。



昔何かで読みましたが伊賀の名物?土産?は「つけもの」だって。
特筆するような産業は無いし  伊賀の組紐 あたり?
ま、観光地にあるような甘いものとか美味しいものは期待できないと読みましたが

「いわゆる土産物は無い」
というのが良いのかも。


藤堂采女家の菩提寺ですか。
で9代目は「安田」姓?
これまた不思議ですね。


おつかれさまでした。
行楽シーズンということで渋滞に巻き込まれて大変でしたね。
でもご無事で良かった。
安心しました。


またよろしくおねがいしますね。

頭陀寺のご報告も楽しみにしております。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月24日 13時41分32秒 ) パスワード

本日ちらちらネットを見てた時に見つけた情報ですが
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_hato.html
服部中保次の「中」というのは
どうやら

この系図の「中服部家」から来ているのでは?
と思いました。

    この系図では中服部家の宗家の子孫は保長になっているので
    保長と中保次は一族かも。

    ちなみに保長という名前は2度出ています。


http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/6213/sinobi.htm
百地丹波の項目の中に半蔵についても書かれていて

以下コピペ:

服部半蔵正成

 伊賀上忍 「徳川隠密頭 忍者頭目」 また伊賀組同心八千石の旗本。天文十一年(1542)生れ。

   服部氏は、平家の伊賀平内左衛門家長からはじまっており、
   家長の子保長には三人の子(平太郎尹行)、(平次郎康頼)、(平十郎安則)、
   それぞれ上服部(平太郎尹行)、中服部(平次郎康頼)、下服部(平十郎安則)
   元々服部氏は伊賀の大庄で、機織を中心に文化をもたらしたと言われる。


   半蔵の父半三保長は上忍であったが、伊賀を出て、将軍足利義晴に仕える。
   そして伊賀の乱、天正九年(1581)に敗れ、三河に逃れた後、松平清家の元へ行き、広忠、家康に仕えた。

       ↑
     時代が間違っていると思います
     それに清家じゃなくて清康に仕えたのでしょ?


   半蔵は保長の五男で、後を継いで、家康に仕えた。



>中服部(平次郎康頼)

伊賀で人を殺めて逐電し今川に仕えたのち、文禄元年に秀忠に仕えた服部助左衛門康信という人物は

通字からすると、この中服部の一族じゃないかと思いました。

        ということは服部保長や服部中保次とも親戚かも。


   葬地が牛込の万昌院(吉良家の菩提寺でもある)の家。



で、服部神社にはいらっしゃらなかったのですか?
すぐ近くに服部というバス停がありますが。



まだまだ現場100回
100回は読まないといけないようです。
[20]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月24日 18時18分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正があります。うっかりミスです。
 @「安田」→「保田」です。
 A『伊賀旧考』→『伊賀旧考 伊乱記』です。
 B伊賀上野の図書館には地元の資料・古文書が2階の一画にありました。
  (時間がなくてその時は2階までは調べられませんでした。)
C百地家の家紋の正式名称→「七曜星に二枚矢羽根」でした。

 さて、本日は頭陀寺へ行って来ました。目的は松下加兵衛之綱に関する
化石(証左、ヒント、手がかり)探しと、実際に目で見る、現地を体で感じる
ということ(頭だけで考えていてもイメージの相違、イメージ不足は否めな
い)・・・現場100回にも通じます。

 ナビに行先をセットし、一路頭陀寺へ。頭陀寺はお寺。その側に昔、松下
加兵衛の生まれた松下屋敷があるはず・・・。

 頭陀寺に到着しました。お墓を掃除している人が見えた。正面より見る
と、遠江49薬師霊場 第12番札所と書いてある。宗派は高野山真言宗。
昔、私も49薬師回りを達成しているので、訪れたはずであるが、その当時
は歴史に余り興味がなかったため記憶に残っていない・・・。中に入る。弘
法大師の修行の道中姿像、不動明王、地蔵菩薩像が迎えてくれる。更に奥へ
入り、本堂にて「南無大師遍照金剛」を唱え、祈りを捧げる。
 本堂の裏側へ回ると、そこには役行者の祠と像、水子地蔵尊、馬頭観音堂、
それに松下「稲荷堂」があった。説明書きがあり、この稲荷堂は、松下屋敷
から移設したものであると(神仏云々の詳しいことはちょっと複雑のためカッ
ト)。
 松下屋敷はこの頭陀寺より南200m位の所に存在していた。今は公園と
なっているが、その真ん中より東側寄りの所に石碑が立っていて、「松下嘉
平次屋敷跡」となっている。「加兵衛」でなく「嘉平次」なのは、江戸時代
後期の加兵衛から数えて8代目、9代目がそう名乗ったからである。
 松下屋敷は頭陀寺城の跡に作られたようで、100メートル四方を上回る
敷地であったようだ。頭陀寺城はそれよりももっと広大であったということ
であるが、詳しいデータは今のところわかっていない。
 松下屋敷跡がわかったので、松下常慶の墓があるという「浄土宗 西傳寺
(西伝寺 せいでんじ)」に向った。
 西伝寺は頭陀寺の北東1キロメートル位の所にある。イチョウ並木がきれ
いで、掃除も行き届いた寺である。墓を探す。奥の一画に松下と書かれた墓
標が見えた。近くへ行ってみると、その一角が松下家一党の墓となっている。
写真を撮る。之綱から始まる家系図も掘られていた。見慣れた名前がいくつ
かあった。伯父さんの養子先の義理の叔母さんの名前もある。その叔母さん
の子供の名前も、また孫の名前も・・・残念ながら6年前に死亡とかかれて
いた。
 松下家の家紋は「4つ目」であった。
 とりあえず、以上にて本日の報告を終わります。



 
 
 
 
 
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月24日 20時22分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。


保田と安田は他のサイトに保田=安田になってましたから、大きな間違いではないと思います。


百地家の家紋の正式名称は「七曜星に二枚矢羽根」紋のこと、ありがとうございました。

   藤林も千賀地も百地も共通して「矢」を使っていることは知ってましたが
   「百地は七曜星に二枚矢羽根」というのが少々不思議でした。
       なぜ七曜星?
       ここに百地のアイデンティティ(藤林や千賀地とは違うということ)があるのでしょうね




馴染みの松下家の皆さんが鬼籍に入ってたのは残念です。


松下家の家紋は「4つ目」であったというのは佐々木の出身からだと前に読みました:


松下氏の苗字の地は、三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市枡塚地区・矢作川の西岸)である。

     家系は、宇多天皇の第八皇子・敦実親王の子孫を称する近江源氏佐々木氏一族の庶流・
     近江八幡市円山城主西條氏から分かれたとする説と、

     秦氏の系統とする説がある。

     傍系として松平忠輝の姉婿花井三九郎が出た花井氏がある。

佐々木氏流松下氏の系統で最も有名なのは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて大名となった之綱の系統である。

之綱は遠江久野城主16000石となった。




ご親戚の松下家が服部家と同じ丸に並び矢紋なのは、服部家と関係が出来てからかも、ですね。
[22]箱柳永田さんからのコメント(2014年11月24日 22時55分46秒 ) パスワード


>長田村の
長田山のふもとにあるお寺―西蓮寺を訪ねた
 >http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%93%AE%E5%AF%BA_ (%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%B8%82) ウィキペディア 

 天台宗ですか! 長田家も古くは天台ですので<いわゆる鎌倉仏教以前
 他には真言宗と ごく少数派が ちらほら です>
 >http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E5%AF%BA
 うーん! 行きたくなってきた、、、伊勢神宮が賑やかな間、渋滞が!
  三柏様 気になる情報をありがとうございます。
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月25日 13時03分32秒 ) パスワード

箱柳永田様

 レスありがとうございます。長田村・長田山に伊賀の人々が最後の決戦を
前にしてほとんど全員集合したのは、何か秘密があると思います。
 また、勇敢でまた美しくも悲しい女戦士の話もありますので、今夜載せた
いと思っています。私はは永井・長井・長田・永田にシンパシィを非常に感
じますので、今後も服部と同時に探究して行きたいと思っています。
 

空の青海のあを様

 コンピュータの件、代替機が早く整いましたので、予想外に早く復帰でき
ました。

 伊賀の名物は「漬物」であるということは「当り」です。古びた食品店
(おじいさん・おばあさんのやっている昔ながらの小売店。伊賀上野公園の
入口、市役所の前という観光上一等地にある)にて、「日野菜(赤かぶの大根
様の細長い根菜)」の漬物を買ってきましたが、京都の「すぐき」と「千枚漬」
をミックスしたようなおいしい漬物でした。伊賀にはこれといった産業はな
いと思いますので、観光に活路を見出すしかないのでは。たぶん過疎化の波
にさらされて、漬物を作ったじっちゃん・ばっちゃんもいずれ歴史の彼方へ
行ってしまい、うまい漬物もなくなってしまう・・・余計な心配をしてしま
いました。
 伊賀米と伊賀牛・・・確か山に囲まれた盆地・・・といっても平たんな
田園地帯が意外と広がっています。信長軍が田んぼの細い道を一列縦隊で
攻めてきたとは思えません。田んぼの中を泥を飛ばしながらワーッと一斉
に攻めてきたと思います。忍者の作戦は、底なしの泥沼作戦、道には落と
し穴に竹の槍、橋には細工を施したと思います。あの手この手で進行を阻止・・・現地を見て想像ができるようになりました。敵の侵入については
いち早く狼煙・鐘またはホラ貝等で知らされたと思いますし、女子供も皆
殺しされたといっても、実際の数はわかりませんが、逃げ遅れたか、戦う
姿勢だったのか、ただむざむざと死んで行ったようには思えません。
この辺はもう少し情報を収集してみます。
 遠江の堀川城の戦いでも、いろいろな説があり、語られる時はどうして
も強調される傾向もあるようですので。
 私だったら、信長軍とどう戦っただろうか・・・あらん限りのゲリラ作
線、相手方に忍び込んで信長の首を狙ったでしょう。
 ここでひとつ忘れてならないのは、家康も藤堂高虎も多羅尾氏も信長軍
として参加していることを忘れてはいけないということです。伊賀の乱ま
では敵方、乱後は見方。そんなうまい変り方ってミラクルですよね。そこ
に何か隠された秘密があると思います。探究したいと思っています。
 服部中保次は刑部村では「中さま」と呼ばれたそうです。中服部から来
ているのは間違いないと思います。何かプライドにかかわるものがあった
と思いますので、この辺も探究してみたいと思います。
 いずれにしても、正成も伊賀を出てしまった身ですので、どのように伊賀
とのコンタクト、コミュニケーションを取り続けたのか、この辺も知りたい
ですね。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月25日 15時19分29秒 ) パスワード

箱柳さん


早く伊賀に行って長田村の寺の家紋を調べて来てください。
服部姓で三ツ柏紋があったら面白いのですが。



三つ柏さん


http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/ninj/nin-1.htm#5

ここに「ハットリ」の語源が機織りでなく鉱山関係からだという説が書かれています。


   鏨で鉱石など削ることを専門用語でハツリまたはハツルという。
   語呂合わせを すればハツリ→ハトリ→ハットリである。


川家康は幕政を頼朝に習い、軍政を信玄に習ったといわれる。武田氏が信長 に滅ぼされたとき、家康は大勢の武田遺臣を家来にした。そんな中に元金春流 の能役者・大久保長安がいた。武田の隠し金山で働いていたとも云われる長安 は、金山奉行として家康に多大の黄金をもたらした。

長安が没したとき家康はその柩まで暴いて一家ことごとく死罪に処したから、 ほとんど資料がない。それでも長安王国の観のある相川金山のある佐渡島には、長 安を忍ばせるものがある。とりわけ長安屋敷の近くにある能舞台は、彼の前進 を彷彿させて余りある。晩年に佐渡へ流された世阿弥を想ったにち がいないのだ。

この長安に家康は二代目服部半蔵の弟を目付としてつけた。監視役だったよう にもうかがえるが、この男、長安の娘を嫁にしているくらいだから、長安と一 身同体であった。

元能役者の長安に何故金山開発の知識があったのか、不思議でならない。個人的な 能力とするには余りに出来過ぎたはなしである。そういう技術的な能力よりも、 代官頭を兼任した行政手腕の方が長安には似合っている。当初の金山開発は請 負いだから、長安はおそらく金山経営者として優れた資質を有していたのではないか。 とすれば、鉱脈の開発などといった技術面は、もしかしたら目付として送り込まれた 二代目服部半蔵の弟こそ、その担当者だったのではないかと考えられる。

長安の死とともに二代目服部半蔵の弟は行方不明。兄は既に部下のストライキ が原因で改易されていた。忍者がそれらしく活躍できる戦国時代はとっくにお わっていたのである。



他にも楠木正成などのお話が書かれています。



やっぱり人名や地名がゴチャゴチャになってワケわからなくなっていきます。。。


[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月25日 22時51分42秒 ) パスワード

ハツリについて調べました:


斫り


「はつり」の漢字表記。

現在も専門業者のトラック屋号等で見ることができる。


斫り(はつり。英語: clipping―,break up―)は、主に建設現場でコンクリートで作られた壁や土間などの構造物を壊したり、形を整えるために表面を鑿で削ったりすること。

人力によって行われる規模の作業を表すことが多く、重機械によって建物そのものを取り壊す場合はコンクリート造であっても斫りとは呼ばず、解体工事に分類される。




概要[編集]

もともと「斫」(シャク)という漢字は、『説文解字』に「撃也。从斤石聲」とあるように、斧で叩き切るさまを表し、部首は「斤」で、「石」は音符である。


一般に「はつり」という言葉で「表面をけずりとること」を表す場合、加工対象の材質を問わず漢字表記は「削(はつ)り」が正式であるが、建設業界を中心に「斫」という漢字をあてた「斫(はつ)り」が定着した。この経緯について、「斫る」は本来訓読みでは「きる」としか読まないことや、石という偏が使われているためか、石や岩を楔とハンマー(げんのう)を用いて割る「石をきる」作業が連想され、これに由来して「斫(はつ)り」と表記するようになったとの推考もあるが、「斫」という漢字の意符が「斤」にあり、石斧による斬撃を意味する点や、石材加工においても「はつり」とは表面処理的な除去行為を表すなど、作業のニュアンス・規模が異なる「石切り」との関連付けはいささか不自然である。


一方で、コンクリートのはつり工事を扱う企業・職方においては、手書きの際には「石」を偏に、旁は「斥」と記すことが古くからの通例であり、「斫」という漢字はあくまでウェブ上の表記や印字用の似て非なる代用字として使用されてきた経緯がある。


これは、全国各地に存在するはつり業共通の認識であることから、単なる書き違えとは考え難く、「石(のように硬いもの)を斥ける」という意味を表した完全な作字であった可能性が高い。



大正6年当時の隧道建設工程表より。”煉瓦「石斥」り”と確認できる。
こうして石やコンクリートのはつりに「斫り」をあてた表記が石材・建設業界に次第に定着し、時代とともに一般にも広く知られるようになった。ただし、定着したとはいえ、正式には誤用とされる「斫(はつ)り」が漢和辞典に収録されている例はわずかである。



斫り工[編集]

建設業の分業によって、斫り工事に専従する企業があり、その職方のことを斫り工という。口語では「斫り屋」と呼ばれ、多くは解体工事を兼務するが、より大規模な解体工事を請負う総合解体業の解体工とは区別され、下請負である斫り工事のみに特化した企業に多い。

主に、エアーピックハンマーやエアーブレーカーといった空圧工具または電動工具などの手持ち式機械を用い破砕する。その際磨耗した鑿は斫り工自ら鍛造し繰り返し再利用する。重厚な無筋コンクリートや転石の撤去の際には、鑿岩機とせり矢を用いて塊のまま分離させることもある。



需要[編集]

斫り工事の需要があるのは、主に鉄筋コンクリート造建物の改修工事である。既存壁に新たに開口部を設けるなど躯体そのものに変更を加える必要がある場合は当然であるが、内装材や建具のみの改装であっても、モルタル・タイルなど硬質な部分の除去が伴う場合には斫り工事が必要となる。

また、新築工事においてもコンクリートを使用していれば少なからず斫り工事が発生する。これについて、解体撤去に類する斫りが日常的に新築現場で行われているのは施工管理や型枠工事の不具合によるものではないかと疑問視する声も多いが、杭基礎の杭頭処理など斫りを前提とした必要工程のほか、堰板の根部から漏れ固まった「こぼれ切付」(段差取り)、「ヌスミ取り」(軽量鉄骨間仕切りなどで軸組壁を割り付ける際にはスラブコンクリートを打設した後に正確な位置出しを行い建具の埋め込みに必要な最小限の欠込みを斫る)など、施工便宜上の意図的な斫りも多くあり、躯体の欠損となりうるような斫りは殆ど行われないのが通常である。

戦後の代表的なコンクリート解体手法であったハンドブレーカ工法も、解体業の大型機械化や騒音問題による圧砕機導入などの低騒音化傾向により、一旦は衰退の一途を辿ると思われたが、近年、RC造等建築物の耐震設計の見直しやインフラ土木構造物の老朽化が浮き彫りになるにつれ耐震補強や修繕工事などの維持補修工事が頻繁におこなわれ、これら建物再生に付随する除去工程は局所的かつ手作業の必要があり、斫り工事の需要は再び拡大しつつある。



うちの父方の一族は固い商売が多いけど
なるほど
ハツリ系服部氏の血も引いてるのか
と納得。
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月26日 07時00分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「斫り」という言葉は建築用語で30年以上前にしりました。コンクリート
の出っ張りを削ったり、穴をあけたり、砕いたりする業種であります。
 「ハツリ」から「ハッツリ」「ハットリ」となったという説は初めてでおも
しろい説ですね。斫用の金具と修験者・密教僧の持つ「独鈷」。「独鈷」は
武器という説であったが、実は金属探しの斫り金具であったというのが正解の
ようです。いずれにしてもおもしろい説ですので、追及してみます。

 あと4回程、『忍術の歴史 伊賀流忍術のすべて』の重要な所を記載いたし
ます。著者の奥瀬平七郎氏は伊賀上野生まれ、早大政経学部卒業後満州電電に
勤め、終戦後引き上げ、伊賀にて市役所に勤務。企画課長、商工観光課長、収
入役、助役、そして市長を2期勤め、忍術屋敷の創建に務めた。忍術研究家と
しても著名ということで、私ももう一冊『忍術 その歴史と忍者』を持って
います。

 一旦ここで切ります。

 
[27]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月26日 09時42分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『忍術の歴史』(奥瀬平七郎著)より―
 「伊賀乱の発生と甲賀忍家の徳川家への帰服
  伊賀の忍者は鎌倉期以後、甲賀の忍家と攻守同盟を結び、大和の大名松永
 久秀、南近江(含甲賀)の領主六角承禎を第一線の防塞として支援し、伊賀・
 甲賀に中央武力の侵入することを防ぎ、国内の自主独立(地侍の連合政権)
 を握ってきた。彼等は時勢の進行と共に、国を開いて覇者の侵入を当然の
 事として受け入れ、国土と領民の保全を図るべきであったが、松永・六角
 等と共に織田信長に最後まで抵抗する道を選んだのだ。
  織田信長はかねてから、自分に敵対しつづけてきた六角承禎を、近江から
 追放した後、引き続いて長年六角を支援してきた伊賀・甲賀の地侍達を徹底
 的に掃討しようと考え、伊賀・甲賀の短期攻略を意図し、六万の大軍を編成
 、動員して伊賀・甲賀の攻略戦を実施しようとした。
  この事を察していた徳川家康は、服部保長、正成の父子を密かに甲賀に
 派し、甲賀の忍家を戸別に説得して、甲賀全土の保全と、甲賀忍家の存続
 のため、この際、織田方に組することを勧め同意した者を、次々に臣従さ
 せていった。
  甲賀の忍家の殆どがこの提案に賛成したので、家康は信長に「この度の
 攻略戦では、甲賀攻めは除かれたい。甲賀の忍家は従来の態度を改め、ほ
 とんど織田家に帰服しているから、伊賀攻めの先導兵に起用するが上策」
 と進言して、伊賀攻めのみに変更させた。
  これを徳として伊賀乱の後、甲賀の忍家は残らず家康に臣従したから、
 家康は、伊賀・甲賀忍者の大半を手に入れ、日本最大・最良の調・謀組織
 の持主となった。服部保長父子の大功績であった。
  保長はこの時、百地丹波にも無条件降服を勧めたが、当時二十歳代の血
 気盛りの百地丹波は、それを拒絶したのだ。」

  甲賀忍家を説得したものの、伊賀同族の百地(藤林)党とは折り合いがつ
 かなかったというところが謎の部分ですので、ここを探究したいですね。
  服部保長の一族郎党はすでに岡崎へ移住しているので、百地系が従わな
 くても、最低限の対策は終えていたということか・・・。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月26日 11時37分57秒 ) パスワード

ハワイでは12月1日と8日に知恵泉で「鬼平犯科帳の長谷川平蔵」を放送するようです。
    日本では11月11日と18日に?放送しています。

見なくっちゃ!

だって長谷川家は服部家がらみですものね。


今日は大岡越前守を録画で見ました。

将軍吉宗が農業の生産性を上げるために
大岡越前守は適材適所で
猿楽師の蓑笠之助も採用したということで出てました。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月26日 11時45分50秒 ) パスワード

蓑笠之助

http://www.c-hino.org/hino_history/view/499.html


異色の代官蓑笠之助(一)

 日野市域の幕府領には異色の代官が地域行政を担当している。

平山村の一時期を管轄した蓑笠之助正高【みのかさのすけまさたか】もその一人である。

         珍しい   服部正尚の神君家康公伊賀越え記念の家紋ですって
          ↓
この蓑家の家紋は「一階笠」であり、家伝によると「笠の紋は東照宮(徳川家康)伊賀路を渡御のとき、先祖正尚【まさなお】(服部千大夫)蓑笠をたてまつりしかば、おほせによりてこれを用ふといふ」とある。


このことは、天正10年(1582)6月本能寺の変の直後、徳川家康が伊賀越えの危機を乗り切り三河国へ帰城した際、
服部正尚の忠節を賞して「蓑笠之助」と命名されることになったことにも由来する。


 さて、伊賀の地侍【じざむらい】は、のち家康に直属し、夜討・放火・諜報など忍びの術を特技として身につけていた。
特に徳川氏の関東入国(天正18年)以後も、その集団体勢を解かず、江戸城下の甲州口を固めた。
この伊賀者の頭領が服部半蔵正成【まさなり】のとき、はじめは麹町【こうじまち】に、
のち四谷に屋敷を賜り、与力【よりき】30騎、伊賀同心200人を支配したが、
警備の城門を半蔵門と称し、広く知られている。

なお、正成の次男半蔵(のち伊豆守)正重の妻が、八王子に小門陣屋があった大久保石見守長安の娘であった。


 蓑笠之助正尚から3代目の正長のとき、慶長18年(1613)4月大久保長安が死後、一族が処罰を受けた際、縁故であったため連座し、所領を没収された。


しかし、のちに赦免されて巳野【みの】の姓に改め、猿楽の列に加えられたのである。

つまり、蓑笠之助の系譜は徳川家康の時代から極めて密接な関係にありながら、服部、蓑そして巳野に改姓しながらやがて猿楽師より代官蓑笠之助正高の時代になったのである。


 正高は、貞享4年(1687)に松平越後守光長の家臣小沢庄兵衛の長男として江戸に生れた。

のち享保元年(1716)に猿楽師宝生座【ほうしょうざ】配下の巳野兼正【みのかねまさ】の養子となり、同3年に家督を相続している。

この頃に巳野庄次郎と名乗っていたと思われる。


そのうち富士山の宝永噴火により破損した堤防の修理のため相模国酒匂【さかわ】川(神奈川県南足柄市周辺)の堤川除【かわよけ】普請の御用を命ぜられていた田中休愚【きゅうぐ】(東海道・川崎宿々役人)とも親しくなった。


           大岡越前守との関係
              ↓

同14年(1729)8月には、町奉行と地方御用【じかたごよう】を兼帯していた大岡越前守忠相【ただすけ】の在方普請役格として配属することになった。

この時、正式に蓑笠之助正高と改めたのである。



 当時、田中休愚は民政に関する献言書である『民間省要』を将軍吉宗に献上し、地方巧者として、治水技術についても高く評価されていた。やがて、正高がこの休愚の養女を妻にすることによって、両人の関係は一層親密になったことはいうまでもない。ちなみに休愚の生家は武蔵国多摩郡平沢村(あきる野市)である。

[30]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月26日 11時52分33秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E6%AD%A3%E9%AB%98


蓑正高


蓑 正高(みの まさたか、貞享4年(1687年) - 明和8年8月7日(1771年9月15日))

江戸時代の猿楽師。後に抜擢され江戸幕府の幕臣となり、関東の農政に携わる。通称は庄次郎。妻は田中喜古の娘。天正の頃より蓑家の者は「蓑笠之助」を名乗っていた[1]。



略歴[編集]
享保14年(1729年)8月に、「関東地方御用掛[2]」を兼帯する南町奉行の大岡忠相に抜擢され、その配下となる[1]。
享保17年(1732年)支配勘定格となり、天領のうち33,500石余りを預かる[1]。
享保19年(1734年)3月2日、相模国津久井県(神奈川県津久井郡)において支配地が1万620石余増加される[3]。
元文4年(1739年)2月8日に代官となり、廩米(りんまい、蔵米)160俵を給される[1]。
寛延2年(1749年)5月16日、勤めぶりが「よからざるにより」出仕を止められ小普請となるが、同年8月6日に許される[1]。
宝暦6年(1756年)12月26日に致仕。明和8年(1771年)8月7日に死去。享年85。法名は法山で、芝の増上寺に葬られ、以後、同地が蓑家の葬地となる[1]。



大岡支配役人[編集]

正高は元町人で、下町での商いや、山事(やまごと、投機)などで世間を渡る、世間師のような人物で蓑家の養子となっていた。どのような縁でかは不明であるが、田中喜古の元へ出入りして普請技術を学び、喜古の娘を妻とする。義父の喜古の仲介で享保14年(1729年)8月に在方普請役格となり、喜古とともに大岡配下の役人集団の1人として関東の農政に携わった。

享保17年(1732年)6月11日、支配勘定格に昇進し、喜古の後任[4]として相模国酒匂川流域の3万3560石余の支配を命じられる[3]。この際に、正高は身分が低く家も無く下僚の手代などを雇うのも困難であるとして、大岡は必要経費として金60両の拝借金を老中の松平乗邑に申請し、許可されている[3][5]。

富士山の宝永大噴火により荒廃した酒匂川流域は、田中喜古により普請工事が行われ、後に正高もそれに加わって享保12年(1727年)5月に完了。両岸地域は大岡支配役人の1人である岩手信猶の担当となる[6]。享保17年(1732年)閏5月に岩手が死去した後、同じく大岡配下の役人である荻原乗秀の預かりを経て、酒匂川流域は正高の支配地となった。同年5月1日から、正高は勘定所役人の井沢弥惣兵衛為永を責任者として東岸の普請工事を行っていたが、負担増加に村々が反発し、7月中旬頃に普請は中止となる。8月下旬に正高が担当者となって御救普請[7]として工事は再開される[8]。

寛保3年(1743年)7月5日、正高の支配地が再び増加され支配地が7万石となる[9]。延享2年(1745年)に大岡忠相が関東地方御用掛を辞任したことに伴い、正高は最後まで大岡の支配下に残っていた川崎平右衛門とともに勘定奉行支配下へと異動[10]。大岡役人集団は解散となった。正高の異動後、酒匂川の普請事業は勘定吟味役の伊沢弥惣兵衛正房[11]の担当となった。

寛延2年に小普請となるが、正高の後、蓑家は4代にわたり代官職を受け継ぐ。



その他の事績[編集]

正高は、「元より才智ある者なり」[12]と言われ、『徳川実紀』にも「稼穡(かしょく、農事・租税)」を好み「水理(水利)」をよく弁え「勧農の事かしこく沙汰せし」と、その地方巧者ぶりが記されている。将軍徳川吉宗からは岡田庄大夫俊惟(としただ)・青木次郎九郎安清(やすきよ)・上坂政形とともに「よろしき御代官」の1人として評価されると同時に[13]、上坂や田中喜乗とともに「大岡支配下の三代官」とも称され[13]、その腹心として大岡と頻繁にやり取りをした記録が残されている[13]。

大岡支配下の役人として働き始めた当初は御家人身分であったが、
大岡の尽力により元文2年(1737年)1月2日の年始御礼のときに初めて将軍との御目見えを果たす[14]。

                   ↑
                 能見物にどんな衣類を着せたら良いか
                 大岡越前が老中一の実力者松平乗邑に相談しているけど
                 この件だったかも

            



また、大岡は元文元年(1736年)4月9日から正高と田中善乗を昇進させる請願を繰り返しており、元文4年(1739年)2月に2人の正式な代官就任が決定した。

寛保元年(1741年)の11月19日に、支配所の相模国津久井県の村役人4名を、村方火災後の自力復興に尽力したことで褒賞し、大岡も改めてこれを賞している[15]。

元文2年(1737年)に、村役人への自覚を求めた農政書『農家貫行』を吉宗に献上。備荒作物として薏苡仁(よくいにん、はと麦)の栽培を奨励しており、相模国足柄郡では享保19年に薏苡仁蒔付量の調査を実施している。



蓑笠之助[編集]

蓑家の祖先は、元は徳川家康の天正の伊賀越えを助けた服部氏で、その時の働きを賞されて「蓑 笠之助」の名を授かったと家伝にある[1]。

しかし、慶長18年(1613年)、4代目・笠之助正長の時、大久保長安の罪に連座させられ、一時士籍から離れる[16]。以後は猿楽師となり、3代目[17]の正高の代までそれが続く[1]。

         へえ〜

一時、姓を「巳野」と改めるが、正高が幕臣となった際に「蓑」に戻す[1]。

         へえ〜


脚注[編集]
1.^ a b c d e f g h i 『新訂 寛政重修諸家譜』第十八 379頁
2.^ 関東の新田開発や治水などの農政を掌る役職。
3.^ a b c 『撰要類集』。
4.^ 田中喜古は享保15年(1730年)に病没。
5.^ 翌年の暮から5年間で返済するという条件での拝借となっている。
6.^ 普請工事の終了後、東岸は小田原藩領となったが、治水が不十分なため流域の住民たちが支配替えを願い、享保17年4月に東岸地域も幕府領となった。
7.^ 困窮民に扶持米を支給するための普請事業。
8.^ 小松郁夫「酒匂川治水の地方巧者蓑笠之助と大岡越前守」、中根賢「町奉行大岡忠相の小田原領支配―享保十〜十七年の酒匂川治水を中心に―」、同「町奉行大岡忠相の地方御用とその特質―享保十七〜延享五年の酒匂川治水を中心に―」、『開成町史・通史編』、『神奈川県史・通史編3・近世2』。
9.^ 追加された支配地は小宮領・三田領・府中三町・玉川通・新座郡・入間郡の土地の中から割り当てられた。
10.^ 『徳川実紀』。
11.^ 正高とともに酒匂川普請を行った伊沢為永の子。
12.^ 『蓑笠之助家系由緒之事』(佐屋町史編集委員会編集『佐屋町史』史料編二、愛知県佐屋町史編纂委員会発行、1980年)
13.^ a b c 『大岡越前守忠相日記』(大岡家文書刊行会編)。
14.^ 正高とこの時ともに御目見えをした田中善乗は、まだ御家人身分だったため、対面形式の謁見ではなく、将軍が奥へ入御する際に白書院勝手に平伏したままの通御(つうぎょ)の御目見えであった
15.^ 『新編相模国風土記稿』第5巻。
16.^ 『蓑笠之助家系由緒之事』311頁。
17.^ 猿楽師・蓑笠之助の3代目。

参考文献[編集]
『大岡越前守忠相』 大石慎三郎著 岩波新書
『大岡忠相』 大石学著 吉川弘文館 ISBN 4-642-05238-0
『吉宗と享保の改革』 大石学著 東京堂出版 ISBN 4-490-20427-2
『享保改革の地域政策』 大石学著 吉川弘文館 ISBN 4-642-03329-7
『代官の日常生活 江戸の中間管理職』 西沢淳男著 講談社選書メチエ ISBN 4-06-258314-3
『綱吉と吉宗』 深井雅海著 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-06431-6
『神奈川県の歴史』 山川出版社 ISBN 4-634-32140-8
『新訂 寛政重修諸家譜』第十八 株式会社続群書類従完成会
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月26日 14時15分29秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=v7Wu2D-GDDYC&pg=PA92&lpg=PA92&dq=%E8%93%91%E7%AC%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9&source=bl&ots=Ymos9DpJHZ&sig=V0OczbNnD35gCRLk9qNR3CQ1xXo&hl=en&sa=X&ei=yll1VIStB82wogSw1IHwDg&ved=0CFUQ6AEwBg#v=onepage&q=%E8%93%91%E7%AC%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9&f=false


落丁があってよく分かりませんが
青山成正  1200石・御鉄砲係というのが書かれていて

次にお愛の方=於相=西郷の養女となって家康の寵愛を得て
お愛の弟?服部惣右衛門はお愛の子忠吉に仕え、子孫は尾張に
お愛の弟?服部平四郎の項には
  父、隠居料150俵を賜り
  蓑笠之助と号し
  猿楽を仰せ付けられ
  子孫は宝生大夫座に付?
など。




時間のある時に読み直します。



http://books.google.com/books?id=MwdMQ6G_cyAC&pg=PT78&lpg=PT78&dq=%E8%93%91%E7%AC%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9&source=bl&ots=ejvTQkb_lA&sig=Lu5CTOG3MpMHZ7HKcaDbQ3ERvEw&hl=en&sa=X&ei=yll1VIStB82wogSw1IHwDg&ved=0CGMQ6AEwCA#v=onepage&q=%E8%93%91%E7%AC%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9&f=false

お江と徳川秀忠101の謎


    家康は正尚から借りた蓑と笠で変装して無事に伊賀越えに成功したことから、
    帰国後に正尚に蓑笠之助という名を授けています。
    以上のように、西郷局の養父は ...




http://books.google.com/books?id=MFguAAAAYAAJ&pg=PA96&lpg=PA96&dq=%E8%93%91%E7%AC%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9&source=bl&ots=pPza9TFSNb&sig=w_Sfwl7NasmrOsgDGzrH0oUkQeM&hl=en&sa=X&ei=yll1VIStB82wogSw1IHwDg&ved=0CFwQ6AEwBw#v=onepage&q=%E8%93%91%E7%AC%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9&f=false

奈良柴. 猿樂傅記. そぞろ物語. 望海每談. 狛犬考. 近世竒跡考


猿楽伝記に服部正尚のことが出ています。
長命清左衛門家は猿楽が起こった時から笛の家で本家で
家が栄えて子孫は謡・狂言にも分かれた  ?


蓑笠之助は初め長命平太夫という狂言師だった
伊賀の服部の末裔だから服部を号した

その子孫は蓑笠之助を号して
無役で
宝生座にいた

以下省略
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月26日 15時27分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 猿楽師とは一体何者なのでしょうね。今の我々には、イメージとして把握
できないですね。大久保長安でもこのテーマを追及してみたのですが、ただ
の能の踊り手ではない。権力の中枢ともつながり、また金銀の鉱物資源の産
出にもつながる。なんで猿楽師が鉱山とつながるのか、その理由がよく分か
らない。
 猿楽はの川勝をルーツとする。そして金銀・水銀と関係しているという。
もう一度、猿楽師について今後またまとめてみたいと思います。

 『忍術の歴史』の中にも、ちょうど今から続きを記載しようとしていた所
ですが、誠に不思議な猿楽師が登場します―
 「伊賀乱終末の謎・百地丹波と伊賀忍者の脱出
  伊賀乱は織田信長の計画通りの超短期全土掃滅作戦の成功に終わった。
  周辺六道から一斉に伊賀に侵攻した六万の織田軍は瞬く間に伊賀勢の
 抵抗を排し、全土を焼土と化して制圧したのだ。
  僅か六日の間の戦いで、織田軍は敗残の伊賀兵五百(百地丹波とその郎党
 百余名が、その中核であった)を、伊賀の西端柏原城に追い詰め、その四周
 を三万の大軍で包囲したのだ。いよいよ明朝、城攻めをして、城兵を一人
 残らず殺戮することに評議一決した時に、突然、安土の信長側近の猿楽師、
 奈良の大蔵五郎次が信長の使者として来陣、攻略軍の大将織田信雄に、信長
 の秘命を伝えたのだ。
  その命令は「城の力攻めはやめて、城将と和議を結び、籠城の兵を退去
 させて後、空になった城に無血入場せよ」という異常にものだった。
  攻城の将士は呆然となったが、信長の命には従わざるを得ず、大蔵五郎
 次を城中に送り、城将百地丹波と会談させ和議を結び、城兵に退路を支持
 し退去させた後、城を占領した。明らかに何者かが、信長を動かして百地
 丹波とその輩下の忍者達を死地から救ったと思われるが、その者の正体は
 不明である。
  僅かに考えられるのは、百地丹波は柏原城と至近の距離にある大和竜口
 村にも別宅を所有し、その家では、猿楽の勧進元を業としていた事実であ
 る。奈良の猿楽師、大蔵五郎次との関係が、当然、謎を解く鍵として暗示
 されるが、その五郎次の背後に、徳川家康と服部半蔵の姿が、仄かに浮か
 び上がってくるようなきがする。」

  なんとすごい猿楽師ではないか。信長を止めた !
  大蔵というと大久保長安ともつながり、従って服部一族ともつながり、
 さらにいえば中保次(の奥さん)ともつながり、猿楽師の花井吉成ともつな
 がり、また松下氏ともつながる、柳生ともつながる・・・。芋づる式にあ
 るグループみたいなものにつながります。
  服部氏と猿楽師の関係、もっと精査する必要ありです。
 
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月26日 22時42分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


全身粟立ちました。


4000km離れての不思議な一致でした。


>大蔵五郎次の大蔵家

   どこかに出て来ましたね。
   でも記憶に無し。

奈良の大蔵五郎次ということで、やはり、地域的に伊賀国大和国がらみでしょうか。

この人のお陰で百地は逃げることが出来たのですか。
もしや百地が大蔵五郎次に化けてたとか?
密使だったのは言えるかも。


またまた猿楽師いついて調べないと。
   結局は猿楽師も忍者のような存在だったのでしょうね。
   表の職業が猿楽師というだけで。

   伊賀の忍者は表は百姓や樵で。

   その他にも神社関係とか針売り(笑)とか。


日本全国自由に歩き回れるという職業が工作員ということかも
だからこそ普通の民百姓は敬遠したのかも。

まだまだ猿楽師について調べないと。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月27日 03時17分45秒 ) パスワード

上記にレスした ↓ の本ですが  奈良猿楽について書いてあります。
慶応の先生などが書いているようですが
今はハーバード大学所有で
日本で出版されているようです。


http://books.google.com/books?id=MFguAAAAYAAJ&pg=PA96&lpg=PA96&dq=%E8%93%91%E7%AC%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9&source=bl&ots=pPza9TFSNb&sig=w_Sfwl7NasmrOsgDGzrH0oUkQeM&hl=en&sa=X&ei=yll1VIStB82wogSw1IHwDg&ved=0CFwQ6AEwBw#v=onepage&q=%E8%93%91%E7%AC%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9&f=false


この中に P7  大蔵源右衛門は大鼓の家で  自殺して  家が絶えて
        大蔵道知・大蔵道意がなんたらかんたら

        大蔵・六蔵
        大鼓より小鼓の家に転じた

     P8  長命清左衛門  笛の由緒  並びに  蓑笠の助  噂の事

        同兵助  同権之丞の話


     P9  大蔵弥右衛門  同八右衛門狂言の家
        由緒之れ有り吼?=こんかい=の狂言の由来のなんとか


     P37  喜多七太夫の家は旧家にあらず
         慶長年中、元祖七太夫は大坂方で
         真田と一緒に家康に切り込んで失敗して
        逃げる途中で柳生但馬守に出会って叱られて

          なんちゃらかんちゃら

        藤堂がどーたらで

          なんちゃらかんちゃらで

        武士になった? 


結構面白いですよ。


縦書きなので、わたくしのPCでは(ノートだから)縦の画面が小さくて、読むのに大変で・・・
気力のある時でないと根気が続かないです。


でも奈良の猿楽についてまとめてあるのでなかなか面白いです。


「長命」という屋号から服部氏になったというのも100%知らなかったです。



結局は表は猿楽師で日本全国を回って

  必要に応じて土木に携わったり金鉱掘りをしたり

ものすごい技術集団だったのかもですね。
それこそ物部氏とか秦氏とかの近代版?



先週「嵐」の番組を見てましたが
嵐のメンバーがテレビ局の屋上で高さ5mの所に長さ30m?の平均台の幅15cm?を渡る競技をするんですが

大野君はスタスタ歩いちゃうんです
風もあるし
平均台の中央あたりは構造的にフラフラしてて、体重と風と渡る力で揺れて不安定で
その上に障害物もあったりして 
   幅15cmに障害物ですよ

大野君はぶっちぎりでスタスタ歩いてました。

その次が松潤でしたが、大野君ほどではなかったです
櫻井翔は「自分がやるのは時間の無駄」と言ってましたが確かに高所恐怖症みたいでした。


大野君の身体能力の高さに驚きました。
   大野君は歌もうまいし踊りも抜群だそうで
この子を見てて(現代版忍者だな)と思いました。


その後の競技は神経衰弱で
松潤の記憶力の良さに驚きました。

その上に松潤はコンサートの演出をずっとやって来ているんですって。
そんなのプロがやってるとばかり思ってました。

   ジャニーズって小器用な可愛い男の子を集めて芸能界を仕切って
   だけど若い子がこんなことに時間を使ってていいのか?
   と思ってましたが

   ジャニーズで長年成功するというのは  並みの人間じゃないんだな  って思いました。



   可愛い、だけじゃないんだね
   能力もアタマも良いってことなんでしょうね
   その上に礼儀正しくて問題を起こさず若者の模範になるような性格の良さも求められて


猿楽で日本全国を回ってた忍者って、いろいろな能力を有していたんだろうな、って
嵐を見てて思いました。


土地の有力者なり殿様なり(=菰野藩とか藤堂藩とか)奉行なり(=大岡越前守)将軍なり(吉宗)
そういう三権の長からも頼りにされた存在だったのかと。


都市計画をやったり農業生産を上げたり、
はたまた洪水対策に城造りや石垣組みの土木事業もする建築家。


猿楽師は一芸に秀でた人というよりはマルチ優等生の集団だったのかも。
   当然山に入るから薬草取り → 薬屋でもあったし。ということは化学にも強いし。
   狼煙を効果的に打ち上げたりする科学者でもあったのでしょうね。


各地の殿様達は猿楽師を招聘していろいろ相談してたのかもですね。
今で言うコンサルタントでもあった?


現代人の我々が忍者って?猿楽師って?と時代を遡って考えてはどうしても近視的にしか見られないのでしょうね。
盲が象を語るレベル。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月27日 03時26分04秒 ) パスワード

猿楽・能・狂言などの流派


江戸時代に家元制度を取っていた流派としては、
大蔵流(おおくら りゅう)・和泉流(いずみ りゅう)・鷺流(さぎ りゅう)の3派があったが、
このうち現在能楽協会に所属する流派として存続しているのは大蔵流と和泉流だけである。



鷺流は今日山口県・新潟県佐渡島・佐賀県に残存しているが、能楽協会への入会資格を認められていない。

その他に、室町時代後期から江戸時代初期にかけては南都禰宜流(なんとねぎ りゅう)という神人を中心とした流派があったことが知られている。


神人とは神社に属して芸能その他卑賤の仕事に従事した者の称で、かつて猿楽が有力寺社に属していた名残とも言える存在である。

室町時代には盛んに活動していたことが諸記録によって知られるが、
江戸時代に入ると急速に衰え、江戸初期には既存の流派(大蔵流など)に吸収されて消滅したと言われている。

その他にも無名の群小諸派が存在したようで、流派としては既に滅んでしまったが、
一部の台本は『狂言記』『続狂言記』『狂言記拾遺』『狂言記外編』という一般読者向けの読み物となって江戸時代に出版され世に残った。



大蔵流[編集]

猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派。代々金春座で狂言を務めた大藏彌右衞門家が室町後期に創流した。


現在大蔵流には、東京を本拠とする山本東次郎家・宗家大藏彌太・家・善竹十・家、京都を本拠とする茂山千五・家・茂山忠三・家、大阪神戸を本拠とする善竹忠一・一門がある。台本は江戸の大蔵宗家の芸系を受け継ぐ山本東次・家のものと、江戸時代以来京都を本拠としてきた茂山千五・家のものとに大別される。両者は芸風も対照的で、山本東次・家が武家式楽の伝統を今に残す古風で剛直な芸風なのに対して、茂山千五・家は写実的で親しみやすい芸風である。



過去に大蔵流から人間国宝に認定されたのは善竹彌五・・三世茂山千作・四世茂山千作・四世山本東次・の4名。四世茂山千作は2000年に文化功労者、2007年には狂言界で初の文化勲章を受章している。



和泉流[編集]   数年前に喧嘩してましたね。


和泉流は、江戸時代初頭に京都の素人出身の職業狂言師である手猿楽師(てさるがくし)として禁裏御用を務めつつ、尾張藩主徳川義直に召し抱えられていた七世山脇和泉守元宜が、同輩の三宅藤九・家、野村又三・家を傘下に収めて創流した流派である。


宗家は山脇和泉家で、一応の家元制度を取ってはいたが、三派合同で流儀を形成したという過去の経緯もあり、近世を通じて家元の力は弱かった。特に三宅藤九・家と野村又三・家には和泉流における狂言台本である六義(りくぎ)を独自に持つことができる特権があり、そうした面からも一定の独自性が保たれてきた。


現在和泉流は、名古屋を本拠とする野村又三・家(いわゆる野村派)と狂言共同社(いわゆる名古屋派)、そして東京を本拠とする野村萬藏家・野村万作家・三宅右近家(いわゆる三宅派)の3派に大別され、台本もそれぞれ異なる。芸風は江戸時代においては上方系が写実性に富んだものだったようだが[要出典]、近代に入り東京に進出してから変化した[要出典]。



過去に和泉流から人間国宝に認定されたのは六世野村萬藏、九世三宅藤九・、七世野村萬藏(野村萬)、二世野村万作の4名。野村萬は2008年には文化功労者に選ばれている。



鷺流[編集]

鷺流は徳川家康のお抱え狂言師となった鷺仁右衞門宗玄(1560–1650年)が一代で築き上げた流派である。宗玄は、もとは山城国猿楽系の長命座に属していたが、長命座が金剛座に吸収されてからは宝生座に移り、慶長19年(1614年)に家康の命令で観世座の座付となったのを機に一流をなした。家康に寵愛され、大蔵流を差し置いて幕府狂言方筆頭となって以降は、江戸時代を通じて狂言界に重きをなした。芸風は良く言えば当世風で写実的、悪く言えば派手で泥臭く卑俗なものだったらしい。宗家は鷺仁右衞門(さぎ にえもん)家、分家に鷺傳右衞門(さぎ でんえもん)家、門弟家に名女川六左衞門(なめかわ ろくざえもん)家などがあったが、宗家をはじめとしてほとんどの職分が観世座に属していた。

この観世座という巨大な座に頼り切った脆弱な構造が災いし、明治維新を迎えるや鷺流は混乱の極みに達した。時の家元だった十九世鷺権之丞は変人と評されるほどの人物で、とても流派を統率する力はなく、困窮した職分は大挙して吾妻能狂言に参加した。これは能楽と歌舞伎を折衷した演劇で、成功せずに明治14年(1881年)頃までには消滅してしまったものだが、参加組は歌舞伎役者に家芸を伝えたと謗られてその後も能楽界への復帰が許されなかった。そして明治28年(1895年)に十九世鷺権之丞が死去すると宗家は断絶。その後は最後の鷺流狂言師となった鷺畔翁が晩年に鷺流宗家を自称していたものの、大正11年(1922年)の彼の死去をもって鷺流は能楽協会に所属する流派としては廃絶するに至った。

鷺畔翁をはじめ能楽界を追放された鷺流狂言師たちは歌舞伎界に接近し、「松羽目物」と言われる能楽写しの舞踊劇の演出に多大な影響を与えた。その意味では、鷺流は今日の歌舞伎によって継承されているということができる。なお鷺流の狂言自体は山口県山口市で傳右衞門派が同県の指定無形文化財に、新潟県佐渡市で仁右衞門派が同県の指定文化財に、そして佐賀県神埼市千代田町高志地区で高志狂言が同県の指定無形民俗文化財として残っており、時折国立能楽堂などで上演されたこともある。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月27日 03時40分41秒 ) パスワード

https://ja.glosbe.com/ja/en/%E7%8C%BF%E6%A5%BD



1545 年 、 猿楽師 の 大蔵 太夫 十郎 信安 の 次男 と し て 生まれ る 。



ここ で 挙げ られ て い る の は 田楽 の 一 忠 、 喜阿 ( 亀 阿弥 ) 、 増 阿弥 、 近江 猿楽 の 道 阿弥 ( 犬 王 ) 、 そして 父 で あ る 観阿弥 。

彼 ら の 伝承 で は 河勝 は 猿楽 の 祖 で も あ る 。

永享 5 年 4 月 、 音 阿弥 の 大夫 就任 披露 の 勧進 猿楽 が 、 京 の 糺 河原 で 挙行 さ れ た 。


また 猿楽 は 武家 社会 に おけ る 典礼 用 の 正式 な 音楽 ( 式楽 ) も 担当 する こと と な り 、 各藩 が お 抱え の 猿楽師 を 雇 う よう に な っ た 。


同 時代 の 藤原 明衡 が 著 し た 『 新 猿楽 記 』 に も 記述 が あ る 。



鎌倉 時代 の 猿楽 が 発展 し 、 観阿弥 や 世阿弥 ら の 登場 に よ っ て 現在 の 能楽 と ほぼ 同等 の 芸能 と し て の 猿楽 が 形作 ら れ る 。

            ココですね

宗玄 は 、 もと は 山城 猿楽 系 の 長命 座 に 属 し て い た が 、 長命 座 が 金剛 流 に 吸収 さ れ て から は 宝生 流 に 移 っ た 。 .



また 猿楽 能 の 先駆 者 た る 観阿弥 を 敬慕 する こと あ つ く 、 観阿弥 の 命日 で あ る 十 九 日 に は かならず 供養 を 行 っ た 。


父 ・ 観阿弥 から 観世 座 を 受け継 い だ 世阿弥 は 、 ライバル で あ っ た 田楽 、 近江 猿楽 など の 芸 を 取り入れ た 。


猿楽 ( 現在 の 名称 は 能 ) は 、 若 い 頃 から 世阿弥 の 家系 に 連な る 観世 十郎 太夫 に 学 び 、 自ら 演じ る だけ で な く 、 「 風姿 花伝 」 で 学 び 故実 に も 通 じ て い た 。



それ は 今 まで に な く 見事 な もの で あ っ た 、 と し て 猿楽 の ジャンル を 列挙 し 、 また 名人 の 批評 を 行 う 。


観世 一座 が 人気 を 博 し た 原因 は 、 大和 猿楽 が 得意 と し た 物真似 芸 に 、 田楽 の 優美 な 舞 や 、 南北朝 に 流行 し た 曲舞 ( くせまい ) の 音曲 を とりいれ た 新 演出 が 、 当時 の 観客 の 心 に 強 い 感興 を お よ ば し た こと だ と い わ れ て い る 。

その よう な 状況 の なか 、 大和 猿楽 の 一座 で あ る 結崎 座 より 観阿弥 ( 觀 阿 彌 ) が 現れ た 。


また 和歌 、 連歌 など の 文芸 や 華道 、 茶道 、 香道 、 さらに 近江 猿楽 の 保護 者 と な る など 文化 的 活動 を 好 み 、 幕政 に お い て も 公家 と の 交渉 を 務め て い る こと など から 文化 的 素養 を 持 っ た 人物 で あ る と 考え られ て い る 。


            教養方向の文化で語られるから
            実用集団であることが忘れられたのかな?   


言わば 、 秀吉 に よ っ て 現在 に 続 く 能 が それ 以外 の 猿楽 から 選別 さ れ た の で あ る 。

( 狂言 含 む ) は 座頭 級 の もの を 楽 頭 、 太夫 、 一般 の 座員 を 猿楽師 、 また は 単に 猿楽 と よ ん だ 。


            集団だからいろいろな能力を備えた者が大勢いたってことですね。



また 二条 良基 を はじめ と する 京都 の 公家 社会 と の 接点 も 生まれ 、 これ ら 上流 階級 の 文化 を 取り入れ る こと で 、 彼 ら は 猿楽 を さらに 洗練 し て い っ た 。

            貴族や公家は汗の世界には興味は無いですものね              武家は現実的な生産に興味があるけど



従 っ て 猿楽 が 中心 と す べ く は ( 物真似 芸 など で は な く ) 、 舞 と 歌 で あ る と する 。


            我々の目もコッチに行ってたんですね 


一方 で 音 阿弥 は 青蓮 院 門跡 義円 の 寵愛 を 受け 、 応永 34 年 ( 1427 年 ) に は 義円 の 後援 の 元 で 勧進 猿楽 を 行 い 、 成功 を 収め た 。



江戸 期 に は 徳川 家康 や 徳川 秀忠 、 徳川 家光 など 歴代 の 将軍 が 能 を 好 ん だ 為 、 猿楽 は 武家 社会 の 文化 資本 と し て 大きな 意味 合い を 持 つ よう に な っ た 。


あの奈良の猿楽の本には手品のことも出てました
 ↓
手品 や 奇術 の 多く は 唐 から 伝わ り 猿楽 の 芸 の 一 つ で あ り 、 如何 様 ( いかさま ) と も 呼 ば れ 、 それ を 行 う もの を 如何 様 師 と も 呼称 し て い た 。


               手品や奇術は忍者には「折り紙」レベルの手先芸だったでしょうね



十郎 に つ い て は 、 康正 元年 ( 1457 年 ) 興福 寺 大乗 院 で 音 阿弥 と とも に 薪 猿楽 に 出演 、 寛正 6 年 ( 1465 年 ) 足利 義政 が 南都 を 訪れ る に あた っ て の 四 座 立合 能 で は 観世 方 の 一員 と し て 「 鶴次郎 」 を 演 じ 、 文明 ( 日本 ) 11 年 ( 1479 年 ) に は 興福 寺 中院 で 演能 と 、 いずれ も 奈良 で の 活動 が 記録 に 残 っ て い る 。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月27日 03時47分23秒 ) パスワード

http://blogs.yahoo.co.jp/sadotokai/6278552.html

佐渡と甲斐:    長安のお話をパクって  いえ  コピペです。



佐渡に色濃く残る大久保長安、しかしその由緒および家暦については定かではない。長安の出生から武田家とのつながりについても不詳の部分が多い。基になったものと共通するものが何なのかを探し、そこから見えてくるものが真実の長安像に近づくこととなる。
 否、もっと謎が深まるのかも知れない。


 年暦                   内容     資料名
天文14年
(1545) 猿楽師大蔵大夫の次男として生まれ、幼名を藤十郎ついで十兵衛と改めた。父大蔵について「舞曲拾葉抄」には今春座猿楽の大蔵大夫について「大蔵大夫は甲州に身をよせあり、家絶果て候につき、今春の末の子に大蔵を名乗らせ、大蔵大夫となせしと聞く」とあり、竹田権兵衛広貞の書簡には「大蔵大夫は甲州武田殿へ奉公に罷出候」とあるから、父の大蔵大夫と大和国を出て甲斐の武田家に仕えた。

江戸幕府の代官群像


2,
徳川氏の臣なり。申楽師今春七郎喜然の子にして及蓮の弟、初め族を大蔵と称す字は藤十郎甲斐の人武田信玄に籠もあるをもって、士籍に入ることを得土谷(屋)を冒す。武田氏滅びて後駿府の家康に仕えて大蔵大夫と称し申楽をもって業となす。

大日本人名大辞典


3,
大久保長安は、甲州武田家猿楽師大蔵太夫の次子で、名を藤十郎といった。武田氏末期には、田辺十郎左衛門のもとで黒川金山(筆註ー甲斐)の経営に携わっていたが、武田氏滅亡で浪人やがて家康の知るところとなり、小田原城主大久保相模守に預けられて大久保姓を与えられ、家康の幕下となった。

相川郷土史事典


4,
編年集成に金春八郎入道及蓮、同源左衛門の弟大蔵大夫の子二人、兄新之丞は土屋直村が名を与え、土屋新蔵と改め長篠にて戦死、弟大蔵籐十郎は御入れの時、足利家御所営作の図細川物数寄風呂の絵図を持来りて日下部兵右衛門方にて桑木風呂を営みける召出され大久保相州苗氏を授けは八千石を下さる。 ,

甲斐国志


5,
 大久保石見守御支配由緒之事

大久保石見守長安、初号大蔵太輔と云、金春方能師而、武田信玄に仕、天正元年信玄逝去の節逐電、其の頃大久保相模守忠隣、舞楽を好に付長安縁を求め相州に取入れ出頭す。忠隣の伯父大久保治左衛門中佐より名字を賜り大久保重兵衛と改む

佐渡古実略記


6,
長安の生い立ちは、祖父の代から武田家に猿楽師として抱えられ、父とともに信玄の寵愛を受け、士分に取り立てられ、武田家滅亡とともに信玄の孫を守りながら隠遁生活をしていたという。

家康は三河譜を中核としながら覇権獲得の途上において服従した今川氏、武田氏さらに後北条氏の旧臣を広く抱合し徳川家臣団として磐石な政治基盤をつくりあげている。

このうち、武田氏の旧臣の地方巧者といわれる有能な人材を家康の関東入国とともに一万石以上の付庸大名化することなく、武川衆・津金衆・蔵前衆・海賊衆・小人頭として武田家臣団の形態をのこしながら甲斐・信濃の守りとして、伝統的地盤の復活させることを契機に、後の旗本層に連なる徳川直属家臣に組み込んでいる。

江戸の栄華を支えた佐渡奉行たち


7,
大久保長安は、天文十四年(1545)猿楽師大蔵大夫の次男として生まれ、幼名を藤十郎といい、ついで十兵衛と改めた。長安と甲斐の武田氏との関係は、彼の父大蔵大夫が信玄の猿楽師として金勤仕したときからはじまる。従って長安は生え抜きの甲州武士ではない。

「舞曲拾葉抄」  


大蔵大夫は甲州に身を寄せあり、家絶果につき、金春の末の子に大蔵を名乗らせ、大蔵大夫となせしと聞く。

「金春代夫氏勝を祖とする竹田権兵衛三代目、広貞の書簡」
大蔵大夫は、甲州武田殿へ奉公罷出候
「翁物語」
猿楽であった長安が、芸が下手であったため、甲斐に下ったが、竹田氏滅亡後都へも上りかねて甲斐に引き篭もっていた。
「大久保石見森長安と猿楽衆 村上直氏」
大蔵大夫が金春座の傍系として名門であり、武田信玄に勤仕した当時は、一般に武家を保護者とした場合の通例として、芸能者が厚遇されたものと思われる。
長安の父大蔵大夫「当代記」
石見守と云は甲斐武田に住したる大蔵大夫の(道入子)末子也


「甲府市史」著者の見解

父大蔵大夫に従って甲斐にあった長安は、信玄かr認められ、やがて武田氏の御譜代家老衆土屋右衛門尉直村から土屋という姓を授けられ、兄新之丞とともに士分に取り立てられたといわれている。

長安は早くから民政官としての素質があったようである。事実、武田時代の長安は蔵前衆(代官衆)として民政を直接担当し、専ら貢税や司法、鉱山の採掘などに働いていたため、前線の戦闘部隊には配属されるようなことはなかった。云々 ,

甲府市史


8,
「甲州武田家臣団」土橋治重氏著 猿楽衆の項

観世代夫・大蔵大夫。両座あわせて(子役を入れて)五十一人。

大蔵大夫は名人といわれた・もっぱら、大蔵彦右衛門は脇、みますや弥右衛門は小鼓、こうの孫次郎、長命勘左衛門は狂言をした。そしていつもの客はもと美濃守土岐頼芸と旧近江の守護佐々木義賢の子、義治あった。この二人は国を追われて武田家に厄介になった。 ,

甲州家臣団


9,
「燕石十種」第一巻

(略)室生太夫が家は、元観世が一族、(略)金春・金剛は足利将軍の太夫にして、秀吉公御当家様までの太夫なり。中頃信玄の太夫にして、当御代別で御太夫なり。大蔵も信玄の太夫なり、日吉太夫は信長の太夫なり。

(略)金春太夫が家は、猿楽の開基楽頭大和円満が子孫なり。(略)金春が家、川勝大臣より近代の八郎まで五十一代に及ぶ旧家也。八郎が父を七郎とと云、其父を太夫といへり、渠に男子余多あり、嫡子八郎家を継て、後及蓮といふ。次男金春源左衛門、脇一色を勤む、是より脇師の家別に立、三男大蔵太夫と号す。渠は武田信玄の太夫となり甲州に行、其子後大久保重兵衛と号し、御家へ被召出、御譜代を勤、石見守に任ず。死後訳ありて滅亡す。三男大蔵源左衛門、太鼓の家と成、入道と号す。四男大蔵弥右衛門、狂言師となる。 ,

「燕石十種」第一巻


10,
「武徳編年集成」

大蔵大夫は、武田信玄が猿楽たりし、然るに其の子兄弟、無双の利口を以、信玄に二人とも取り立て土屋直村が苗字を授け、兄は新之丞、弟は藤十郎長安と称す ,

「武徳編年集成」


11、

「大蔵大夫相伝次第」

大蔵大夫が耐えそうになったときは金春からその跡を継ぐ仕来り(相互跡継)になっていたため、今春大夫禅曲の三男、庄左衛門氏紀(うじため)が長安の養子となって継いでいる。この氏紀が正式に家康の許しを得て養子となったのは、慶長十三年(1608)九月であるから、大蔵太夫の襲名はかなり後のあったということができる。

現在、石見国大森銀山付近にある式内社(島根県太田市大森町)には、長安が奉納したと伝えられる能面が三面所蔵されている。云々 、

「大蔵大夫相伝次第」


 筆註ー 上記の諸書の紹介からは長安の出生から徳川までの足跡は定かではないことがわかる。「甲斐国志」文化十三年の刊で最も古いが後に引用されている箇所は少ない。この間のについては諸説あり、謎は深まるばかりである。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月27日 04時04分31秒 ) パスワード

http://ejje.weblio.jp/sentence/content/sarugaku/4


英語での紹介のサイトからコピペ:



父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、そこで当時、最強の戦国大名と謳われていた武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになった。


主著は1938年(昭和13年)に上梓された『能楽源流考』で「平安時代の猿楽」「鎌倉吉野時代の猿楽」の2篇と附篇の「田楽攷」からなり、能の発生から戦国末期までの能楽史を網羅する。


能や猿楽を奨励するなど一流の文化人として名を馳せるが、猿楽師を家臣にしようとして家中での反感を買ったこともあった。


それらはやがて猿楽と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能の原型がつくられていった。


旋律にとんだ「曲舞(くせまい)」(白拍子の芸)などを導入して従来の猿楽に大きな革新をもたらした。

1375年、将軍足利義満は、京都の今熊野において、観阿弥とその息子の世阿弥(世阿彌)による猿楽を鑑賞した。 演者(狂言含む)は座頭級のものを楽頭、太夫、一般の座員を猿楽師、または単に猿楽とよんだ。

猿楽は本来神楽だから、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。

当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。

最初は余興的なものとして扱われていたが、やがて社寺の祭礼の中に、猿楽が重要な要素として組み込まれるような現象も起き始めた。


社寺の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、猿楽の座が寸劇を演じるようなこともあった。

これらがやがて、「猿樂の能」となり、公家や武家の庇護をも得つつ、能や狂言に発展していったと言われている。


これに対し、岩倉具視を始めとする政府要人や華族たちは資金を出し合って猿楽を継承する組織「能楽社」を設立。



能の原型である猿楽との関連は深く、互いに影響を与えあったのは間違いないが、起源的にどちらが先かについては諸説ある。


こういった集団は後に、猿楽や田楽の座に、あるいは漂泊の民である傀儡師たちに、吸収、あるいは変質していった。


寺社に所属する職業芸能人であり会日(縁日の原形)に寺社や大道で披露していた。


また公家や武家に庇護されたものは、能や狂言にまで昇華し、ゆえに猿楽は能と狂言の総称でもある。


手品や奇術の多くは唐から伝わり猿楽の芸の一つであり、如何様(いかさま)とも呼ばれ、それを行うものを如何様師とも呼称していた。


また、神事から発達した田楽・猿楽などが能など後の日本中世伝統芸能を形作る素地となった


和歌や古典を通じて得た貴族的教養を生かし「猿楽」を芸能・理論の両面から大成させることに心血を注いだ。

その結晶として、応永6年(1399年)には足利義満の後援で三日間の勧進猿楽を演じ、名実ともに芸能界の頂点に立った。


本著が成立する前年の永享元年(1429年)には世阿弥父子は仙洞御所での演能を強引に中止させられた。

ここで挙げられているのは田楽の一忠、喜阿(亀阿弥)、増阿弥、近江猿楽の道阿弥(犬王)、そして父である観阿弥。

結果『談儀』が書かれた頃には、本来の形での翁舞はほとんど行われなくなったことが記されている。

第21条では金春座、金剛座、十二座など、中央で認められていない大和猿楽の座が紹介されている。


『申楽談儀』も同様で、世阿弥の直系子孫であり、著者の元能も参加した越智観世座に秘蔵されたらしい。


『談儀』のみは後述の小杉本が底本となり、堀本は小杉本に欠けた29段以降と、主要な校異が翻印されたのに留まっている。良本であっただろうと評価されている。


前述のように本書は、明治41年、吉田東伍によって翻刻・刊行され、初めて一般の人の目に触れることになった。



•According to the document, the third son of Gensei UESHIMA who was a member of the Hattori clan in Iga Province was an actor of Sarugaku (form of theater becoming the basis for Noh), Kanami and his mother was a sister of Masashige KUSUNOKI.


          ココらあたりから
            ↓
これによると、伊賀国の服部氏族・上嶋元成の三男が申楽(能)役者・観阿弥で、母は楠木正成の姉妹だったという。


•Sarugaku (form of theater popular in Japan during the eleventh to fourteenth centuries), Kyogen (farce played during a Noh play cycle), and Renga (linked verse) became popular in both urban and rural areas; tea drinking customs also spread in the form of Chanoyu (the tea ceremony).

猿楽・狂言・連歌などは都市・農村問わず愛好され、喫茶の風習も茶の湯として広がった。
•In addition, Kyogen performances including lines contain lots of realistic expressions, because Kyogen was derived from Sarugaku by sophisticating its comical and mimic elements.

猿楽の持っていた物まね・道化的な要素を発展させたものであり、せりふも含め写実的表現が目立つ。
•After Shirojiro's death, Mangoro HIYOSHI, originally from the Yoshino-Sarugaku troupe, temporarily inherited the family, however, an adopted son Yataro UJI ultimately inherited the family as the ninth family head.

四郎次郎の死後、吉野猿楽出身の日吉万五郎が一時家を継いだが、最終的には養子の宇治彌太郎が9世を継いだ。、

•Initially belonging to the Chomei-za troupe of the Yamashiro Sarugaku group, Sogen transferred to the Hosho school after the Chomei-za troupe was merged into the Kongo school.

              コレですね
               ↓
宗玄は、もとは山城猿楽系の長命座に属していたが、長命座が金剛流に吸収されてからは宝生流に移った。


•He succeeded in establishing so-called Utamai Noh by introducing the elements of utamai in Dengaku Noh into Sarugaku Noh, which had been performed mainly in a mimicry form.

それまで物まね中心であった猿楽能に田楽能における歌舞の要素を取りいれていわゆる歌舞能を完成させた
•After he had obtained the position of Kanze dayu, the third Otoami Motoshige (1398-1467), as the master of sarugaku had the patronage of Yoshinori.

観世大夫を襲って後、三世音阿弥元重(1398年〜1467年)は猿楽の第一人者として義教の寵愛を受けた。


•However, Chichi no Jo, Okina, and Sanban Sarugaku have been always put on the stage in a series and, as such, it has the common name of Shiki Sanban.

しかし、父尉・翁・三番猿楽はかならず連続して上演されたためにこの呼び名がある。

•He seems to have perceived Okina as 'the existence that presides over the world of Noh of Saru Noh' (Sarugaku, which is a collective term for Noh and Kyogen that was used between the middle of the Kamakura Period and the beginning of the Meiji Period, and Nohgaku).

禅竹は翁を「猿能の能の世界を司る存在」と捉えていたようである。


•This school originated from the Sakado-za, a group of sarugaku (the prototype of the Noh play) performers who worked for Horyu-ji Temple, and the founder of this school was Ujikatsu (also called Magotaro) SAKADO.

法隆寺に仕えた猿楽座である坂戸座を源流とする流派で、坂戸孫太郎氏勝を流祖とする。

•According to 'Meishuku shu', the founder of sarugaku (the prototype of the Noh play and kyogen farce) in Japan is said to have been HATA no Kawakatsu, a court favorite of Prince Shotoku.


             へえ〜
              ↓
「明宿集」によれば、日本における猿楽の創始者は聖徳太子の寵臣・秦河勝であったとされる。
•While Kawakatsu followed the prince and rendered distinguished services such as destroying Moriya MONONOBE, he also performed some sarugaku plays to pray for a period of peace and tranquility under the prince's rule.

河勝は太子に従って物部守屋討伐などに功を挙げる一方、太子に命じられて猿楽の技を行い、天下の太平を祈願した。

•It is said that this Ujiyasu became the restorer of the Enmani troupe, and that his successors, from generation to generation up to Zenchiku, played a major role as sarugaku performers.

この氏安が円満井座の中興の祖となり、以下禅竹に至るまで代々猿楽の徒として活躍したという。


•In the sarugaku world after Zeami's death, the Konparu school with Zenchiku as the central figure became widely popular and extremely powerful.

このように世阿弥没後の猿楽にあって、禅竹を中心とする金春流はひろい人気を集め、大勢力となった。

•It is believed that Goshin Noh of Usa jingu started around 1175-1177, as a sarugaku (comical mimicry and speech performance in Heian period).

宇佐神宮の御神能は、安元年間(1175年-1177年)に猿楽として始まったものであると伝えられている。

•It is said that performers of this school were originally te-sarugaku (amateur Noh) performers who served at the Imperial Court, and then they served at the Owari Domain, where they had been active during the Edo period.

元来は禁裏に出仕した手猿楽の役者であったと思われるが、後に尾張藩に仕え、江戸時代は長らく同地で活躍した。


•In the Azuchi-Momoyama period, the first head Shozaemon Shigenaga ISHII who was a te-sarugaku (amateur Noh) player established the school in Kyoto under the guidance of master Kyuzaemon HINOKUCHI.

安土桃山時代に、京の手猿楽役者初世石井庄左衛門滋長が名人樋口久左衛門に師事して一流を興した。

•The acts of 'Marafuri' by Kuron or 'Mutsukiarahi' of Baramon (the performance of washing his loincloth) were inherited to sarugaku (form of theatre popular in Japan during the 11th to 14th centuries) developed in later years.

崑崙の「マラフリ」や、波羅門の「ムツキアラヒ(褌を洗う所作)」は、のちの猿楽にも受け継がれた。

•In culture, the Muromachi culture, which is characterized by interaction among people in different social strata, as seen in renga, sarugaku (the predecessor of Noh), and drinking tea, flourished.

文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化が栄えた。
•Such art came to be called "sarugaku" before long and became the prototype of the art which is currently known as Noh.

それらはやがて猿楽と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能の原型がつくられていった。
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月27日 06時29分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 猿楽・狂言・能についてのたくさんの情報ありがとうございます。なかなか
解説書がないので苦慮していましたが、かなりのことがわかりました。
 猿楽についての解説書がないか更に探してみますが、猿楽師グループとは、
秦氏一族を凝縮したような存在ですね。実態としてのグループ=ネットワーク
はどうだったんでしょうね。いろいろな専門グループと持ちつ持たれつの関係
であったはずです。いくらなんでも万能の天才一人で現実的処理ができるもの
ではないですから。そういえば空海も結局一人で土木工事や水銀採取等をした
わけではなかった。余り表には出ないが、丹生一族とかいろいろな支援者がい
た。
 支援者達は、どんな考えで支援したのか・・・というところのアイデンティ
を探究したいですね。

 空海を裏で支えた者、猿楽師を裏で支えた者、あるいはそれぞれを利用した
者とは・・・?

 一度、ここで切ります。

[40]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月27日 06時35分25秒 ) パスワード

また消してしまった。


発想の転換で

領主や藩主は猿楽が見たいから呼んだのではなくて
土木工事や農地改良や金掘りなんかの大事業が終了して
その「祭り」の余興に猿楽があったのではないかと。

だから猿楽はもともとは神への感謝の奉納神事だったのでは?と。
そして猿楽一行は技術集団だったのではと。
   
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月27日 10時52分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


>猿楽師グループとは、 秦氏一族を凝縮したような存在ですね。

はい
そもそもは  秦の川勝がアヤシイですね。



>実態としてのグループ=ネットワークはどうだったんでしょうね。
>いろいろな専門グループと持ちつ持たれつの関係であったはずです。
>いくらなんでも万能の天才一人で現実的処理ができるものではないですから。

>そういえば空海も結局一人で土木工事や水銀採取等をしたわけではなかった。
>余り表には出ないが、丹生一族とかいろいろな支援者がいた。

はい
いろいろな分野にそれぞれ得意な=優秀な=人物がいたと思います。

そういう集団を抱えていたのが秦氏であり物部氏であり空海の実家の佐伯氏ではないかと。
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月27日 12時54分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いままで二時間かけて打ち込んだものがキーボードタッチの失敗ですべて
消えてしまいました。ショック・・・。
 家にて打ち直します。
[43]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月27日 16時19分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ショックから立ち直りましたので進めます。これからは、適当なところで
切って載せますのでよろしくお願いいたします。

 猿楽師については、大久保長安を中心にしてまた新たなる情報も加味し、
今後まとめてみます。
 服部中保次については、周辺情報を拾い集めて今後まとめてみます。核心
には迫れないかもしれませんが、少しは的を絞れるかもしれません。

 さて、『忍術の歴史』(奥瀬平七郎著)より―
 「伊賀乱の亡命者百地丹波正西の足跡
  伊賀乱の時、柏原城落城の寸前に救出された百地丹波とその郎党百余名
 は、ひとまず高野山へ落ちのびたが、間もなく根来に転住、反織田・豊臣
 の雑賀党と共に、根来を本拠として、腹心の忍者石川五右衛門に、大半の
 郎党をゆだね、泉州、堺に派遣して、大盗賊団を結成させ、京・大阪を中
 心とする豊臣政権の中心地の撹乱をはかり、反豊臣系の堺の商人や、三好、
 松永の残党、本願寺、高野山等の反豊臣僧徒や、信者などを糾合し、反乱、
 挙兵の機をうかがっていたが、ついに決行の機会を得ることはできなかっ
 た。
  最後に秀吉の晩年、その養嗣関白秀次との不和に乗じ、秀次の依頼に応
 じ秀吉の暗殺を企て、石川五右衛門を伏見城に忍びこませたが失敗し、五
 右衛門は京の七条河原で、前代未聞の釜煎の刑に処せられ、輩下も悉く惨
 殺された。
  その後、百地丹波は、紀州の忍家として根来に定住、再び世に出ること
 は出来ず、紀州においてもうけたその子保武、正武と共に隠棲していたの
 である。」
[44]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月27日 16時43分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 [43]からの続きです。

 「藤堂采女元則の出自と、伊賀上野城代家老への起用
  藤堂采女元則は、上野予野の忍家千賀地半蔵則直の次男である。采女
 元則は、父半蔵則直が紀州の豪族保田栄西の養子となり、保田姓を名乗っ
 ていた頃、その次男として生まれ、保田家で成人したのだ。保田家の主
 栄西は、初め大和郡山の城主豊臣秀長(秀吉の異父弟)に仕えていたが、
 その頃、秀長の家老職を勤めていたのが、藤堂高虎であった。秀長の没
 後、後嗣の秀俊が急死した後、保田栄西は秀俊に替って、郡山の代官と
 なった増田長盛に仕えたが、関ヶ原の役後、増田長盛の改易により一時
 浪人したが、藤堂高虎の推挙によって、その孫則宗、元則の二人を伴っ
 て徳川家康に仕えた。次男の元則は、徳川家康の命で、慶長6年、19
 歳の時、藤堂高虎の臣となり、藤堂姓を許され一門に加えられたが伊予
 には出仕せず、郡山に在って家康、高虎の密命を受け、筒井改易の下工
 作(重臣の抗争の激化と切支丹入信の事実調査)と藤堂高虎の伊賀入国を
 迅速平穏に実現さすための下工作(伊賀忍家の懐柔・帰服等)を、実父
 則直と柳生宗厳・宗矩父子の協力の下に実施していたのだ。」
 (あを様の推理は当たっています。 服部)


  
[45]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月27日 17時07分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続きです―
 「藤堂高虎は伊賀入国後、家康の命に従い、藤堂采女に命じて伊賀に残
 存する忍家と忍者を調査させその数を確認させ、下人は城下の忍町に集
 住させ、中忍(独立している忍家)はそのまま郷内に置き、無足人(士分)
 とし、山・藪・川廻り等の職務を与え、下忍・中忍共に采女元則の支配
 下に置いた。藤堂采女こと千賀地(保田)采女元則は、家康の推挙(命令)
 で、27歳にして幕府忍者の補給源を預かることになった。家康はこの
 時すでに服部半蔵正成の子正就を改易していたのて゛、正成の父初代保長
 の孫元則を正統の服部家の主として、その血脈を伊賀に残したいと考えて
 いたのだ。藤堂采女は、伊賀藩の城代家老藤堂出雲の下で次席格で、伊賀
 忍者を総括していたが、寛永17年(1640)58歳で正式に伊賀城代
 家老の職につき、事実上の伊賀の支配者となった。幕命による忍者の移動
 (江戸転出)は、本藩にも秘密にしなければならなかったから、采女は、
 当時形式上幕府の隠密職の長の養子となって、父子の約を取り交わし、
 幕命による忍者の移動は、子の家来が親の家来になるのだから、一々本
 藩に報告するには及ばないという便法で、切り抜けていたようです。」
 
 本日はここまでとします。あと1回です。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月27日 22時53分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


再度の書き込みをありがとうございました。

大変でしたね。
もう少しでアップというところで全部消えてしまうってホント悔しいです。

   特に窓8はこの変な作動が起きると思います。

   わたくしの窓8の場合は左手が何かのキイに触れると消えてしまいます。



>保武、正武

この諱?「武」というのがアヤシイですね。
通字の「保」を止めたのはどうしてなんでしょうね。

でも服部氏に「保正」という名は何度か出てますから
服部家代々正統の?伝統の?名なのかも。



>藤堂采女元則の出自

ありがとうございます。


>正成の父初代保長の孫元則を正統の服部家の主として、その血脈を伊賀に残したいと考えていた

そうすると服部氏というのは足利将軍にお墨付をもらい
家康からもお墨付きをもらい

   認められてた家

ですね。


>藤堂采女は、伊賀藩の城代家老藤堂出雲の下で次席格で、伊賀忍者を総括していたが、
>寛永17年(1640)58歳で正式に伊賀城代家老の職につき、事実上の伊賀の支配者となった。

伊賀の実力者の名字が
「服部」でもなく「保田」でもなく
「藤堂」というところにもう1つ秘密がありそうですね。

ま、藤堂の娘が嫁に来ているんでしょうね。



>幕命による忍者の移動(江戸転出)は、本藩にも秘密にしなければならなかったから、
>采女は、当時形式上幕府の隠密職の長の養子となって、父子の約を取り交わし

            へえ〜


>幕命による忍者の移動は、子の家来が親の家来になるのだから、
>一々本藩に報告するには及ばないという便法で、切り抜けていたようです。

なかなか考えましたね。
賢い!


政治的に無難に動かないとヤバイというのは大久保長安事件でしっかり学習しているでしょうし

名字の変遷についても 千賀地 → 保田 → 藤堂 と変わって来たから
いまさら服部を名乗るなんて意味が無い
それより主人の藤堂の名字の方が都合が良かったのでしょうね。

   正体を隠すのに。



すごい情報をありがとうございました。

もう1回ですか
ありがとうございます。
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月28日 06時38分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 こちらでは今早朝。最近四時過ぎに目があくようになり、朝一の書き込み
です。
 あを様のクエスチョンとして采女元則(もとのり)の妻は誰かですが、元則
関係のみ今のところ手持ちの資料には見当たりません。
 先日上野城で購入した『上野城絵図集成』の中の年表を見ますと、高虎に
ついては、天正9年、但馬国で、
   「一色修理太夫義直の娘久芳」
と婚姻となっていました。
 また、采女元則の子元住(もとずみ、上野城代3代目)については、
   「高虎の姉の孫藤堂高経(津城代2代目)の娘」
と結婚しています。
 元則の妻の情報も必ずどこかででてくるとは思います。

 さて『忍術の歴史』、今回で終わります―
 「藤堂采女の藤林家再興と伊賀流忍術秘伝書『万川集海』と『正忍記』の
  完成
  藤堂采女は城代に就任後、伊賀乱の後、紀州に亡命、根来に潜伏してい
 た百地丹波正西を、大和竜口の百地家へ返し、その長子、保武を伊賀藩士
 に取り立て、忍術の名家、伊賀藤林家を再興させた。采女元則は、元伊賀
 の忍術の宗家千賀地氏の家長として、当然負うべき責任を果たしたのだ。
  更に、采女は召し抱えた藤林保武に伊賀(甲賀)流の忍術秘伝書『万川集
 海』(全32巻)を書き表わすことを勧めて、著述に没頭させ、その弟で紀
 州に残り新楠流(楠木流の再興)をひらいていた藤林正武にも、この事を知
 らせ、正武にも伝来の秘事を書き残すことを勧めた。」

  ここで一旦切ります。左手のタッチは私もそうですが気を付けましょう。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 09時28分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


伊賀の忍者と藤堂采女の関係の説明を丁寧に書いてくださって
ありがとうございました。


藤堂采女は「仕事」をカッチリやってますね。
伊賀の藤林と百地の名も存続させている。
たいしたもんです。


普通だったら自分の家だけ残したいでしょうけど。
やっぱり藤林も百地も服部も元は同じなのかも。


采女と高虎の親戚関係はハッキリとは良く分かりませんが
国を1つ任せる家老に任じているんですから婚姻で結ばれているでしょうね。
ただし高虎は古くからの家臣には「藤堂姓」を与えているそうです。

   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E6%B0%8F

   藤堂氏は高虎の子孫たる津藩藩主家と支藩のほか、
   高虎の兄弟と高虎養子・高吉の子孫が連枝としてあった。

   なお藩主夫人の実家も藤堂姓を名乗っている。

   また血縁関係に関係なく、高虎の草創期からの功臣にも藤堂姓が与えられていた。


藤林氏
伊賀流の上忍三家の一つ。服部家の支流とされ、独立したといわれるが、確証はない。

伊賀の北東部東湯舟郷を治めていた。

当主であった藤林長門守は服部家の服部半蔵、百地家の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。

藤林家の子孫、藤林保武が伊賀甲賀四十九流といわれる忍術の諸流を集大成した忍術書「万川集海」(ばんせんしゅうかい)を記した。



百地丹波

 伊賀上忍 生没不詳 天正九年(1581)九月の伊賀の乱で死したといわれる。

 百地氏は服部氏の一族であると思われる、それは百地氏の家紋が七曜星に二枚矢羽根、服部氏の家紋も矢羽根である。戦国期の丹波は三太夫の名前「絵本太閤記」で登場するが、忍者ではなく、ただの郷士で石川五右衛門の奉公先としてである。

 天正七年(1579)九月、織田勢の第一次伊賀攻めのとき、丹波は鬼瘤峠で織田勢めがけ弓、鉄砲で攻撃し、敵の大将柘植三郎左衛門は戦死、織田勢は敗退した。

 同九年九月、織田勢は信雄以下、四万四千の大軍で攻め込んだ。今度は、先年の失敗もあるので、大砲も持ち込み刃向かう者すべてを潰し、神社仏閣を焼、僧侶男女の区別無く殺害した。丹波は比自山、柏原城、と逃れ最後まで織田勢に抵抗したが十月二十八日に開城、降伏した。丹波の最後は解らず、以後消息を絶った。

 俗説、丹波は藤林長門守の一人二役で生き残ったともいわれる。



藤林長門守

 伊賀上忍 生没不詳 湯舟(三重県阿山郡阿山町)を本拠として、伊賀北部を支配した土豪

 上忍とは、音もなく、人に知れる事も無く、勇ましい武勇も無く、功績も記されず、と言われる。実際の上忍の働きは解らない。ことに藤林氏のことは余りにも知られていない。一つ登場するのは、「第二次伊賀の乱に東湯舟村 富士林氏」として見られるくらいである。

 伊賀の乱では甲賀の多羅尾氏とともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあるが、戦って滅んだ百地三太夫と同一人物ではという説があるので、面白い人物である。



石川五右衛門

 伊賀流忍者 盗賊の首領 生年は不詳 伊賀の石川村(三重県阿山郡阿山町)の生れ。身長は六尺九寸(約207Cm)あったという。

 父が病死すると、名を石川文吾に改め、田畠を売り払い、忍者百地三太夫の弟子になる。文吾は三太夫の妻と共謀して、三太夫の妾を殺し井戸に投げ込み三太夫の妻と駆け落ちする。その三太夫の妻も切り殺し、金を奪って京へ逃げる。京に出た文吾は、五右衛門と改名する。奪った金も使い果たした。そこで忍者の技を使って、石田三成の屋敷に忍び込み盗賊を働く。以上がよく知られる五右衛門の姿だ。

 また、絵本太閤記によれば、生まれは伊賀交野郡。名張の山中で異人の僧で臨寛と出会い、臨寛の弟子になる、忍術の話を聞き、法術を十八ヶ月習い、一を聞いて十を知り、というくらいで、すべて習い覚え、十九歳の夏、暇をもらって百地三太夫の弟子になる。

 その他、遠州浜松の大名、大野庄左衛門の家老真田蔵之進としたり、大明の京祖慶の遺児としたりする話があるが、勿論作り話。五右衛門に対して、確かな素性、事蹟はない。

 文禄三年八月二十三日、「晴天、盗人、スリ十人。また一人は釜にて煎られる。同類十九人、ハリツケにかかる。三条橋間の川原にて成敗なり、貴賤群集云々」と山科言経の日記にある。

 寛永十九年(1642)に編纂した「豊臣秀吉譜」には、文禄のころ、石川五右衛門という盗賊が、強盗、追剥、悪逆無道を働いたので、秀吉が京都所司代、前田玄以に逮捕させ、母親以下、同類二十八人とともに、三条川原で煎り殺した、とある。

 来日していたスペイン人の商人によると、当時、京都、伏見、大坂、堺に凶悪な強盗団がいたと伝える。其のうちの幾人かは捕まり、拷問にかけられ、頭目は生きたまま油で煮られ、妻子、父母、兄弟は、五親等までハリツケに処せられたと記してある。イエズス会宣教師ペトロ・モレホンによれば「1594年(文禄三年)の夏、油で煮られたのはIxicaragoyemon(石川五右衛門)と家族九人か、十人だった。一味は兵士のような服装だった」とその名を記している。

文禄三年(1594)八月二十三日没



服部半蔵正成

 伊賀上忍 「徳川隠密頭 忍者頭目」 また伊賀組同心八千石の旗本。天文十一年(1542)生れ。

 服部氏は、平家の伊賀平内左衛門家長からはじまっており、家長の子保長には三人の子(平太郎尹行)、(平次郎康頼)、(平十郎安則)、それぞれ上服部(平太郎尹行)、中服部(平次郎康頼)、下服部(平十郎安則)元々服部氏は伊賀の大庄で、機織を中心に文化をもたらしたと言われる。

 半蔵の父半三保長は上忍であったが、伊賀を出て、将軍足利義晴に仕える。そして伊賀の乱、天正九年(1581)に敗れ、三河に逃れた後、松平の元へ行き、清康、広忠、家康に仕えた。半蔵は保長の五男で、後を継いで、家康に仕えた。


 半蔵の初陣は、十六歳の時で、三河宇土城の夜討、遠州掛川城攻め、姉川の役、長篠の役など、徳川家の戦にすべて参加し手柄をたてる。しかし、これは忍者というより、武将としての手柄で、忍者らしい働きとしては、武田家の隠密、竹庵という者が潜入したのを討ち取った事位である。

 天正七年九月、二俣城で家康の子信康が自害した時、半蔵は検使として赴いた時、あまりに哀れで介錯出来なかったので、共に行った、天方山城守が介錯した(この時、介錯した刀が村正と言われる)。家康は「鬼の半蔵も主人の子の首は打てなかった」と語った。

 天正十年六月、本能寺の変の時は、家康と共に堺にいた。周りは明智勢や野武士、土民等で帰国するにもできなかった。その時半蔵は、伊賀、甲賀の者を集め、御斎峠から伊賀を経て、白子浦から家康を無事帰国させた。この伊賀越えで手柄をたて、千貫の禄が与えられ、半蔵はその取締役を任命された。伊賀組同心の始まりである。慶長元年(1596)十一月 没 五十五歳



村正

 伊勢国桑名(三重県桑名市)の人。1490?〜159?頃までの約九十年間、三代にわたって活躍した。また、村正は、徳川家に不幸を招く刀として、有名である。

 村正系と言うべきか、村正派と言うべきか、とにかく村正の切れ味は最高で、徳川家の家臣本多平八郎忠勝の槍も村正の一門、正重作である。この槍には、蜻蛉(トンボ)切という名がついていた。この蜻蛉切のいわれは、平八郎忠勝が合戦の合間、槍を立てて休息していると、その槍の穂先に一匹の蜻蛉が触れたところ、真っ二つに切れたところからついた。

 どのような災いが、徳川家にもたらされたのか。家康の祖父清康が、天文四年(1535)家来の阿部弥七郎に、誤って殺されてしまった。この時の刀が村正である。また、家康の父広忠は、岩松八弥という家来に村正の脇差で怪我をさせられる。家康も二回村正で怪我をする。そして家康の子、信康を介錯したもの村正で、このようにして村正が徳川家に対し、数々の災いをもたらした為、妖刀と言われた。しかし、島津など、徳川をよく思わない外様大名は、好んで持っていたと言う。また、村正の刀を持っているのが、徳川に知れると、叛意があると思われるので、名を消したり、改名して所有していた。

[49]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 09時33分03秒 ) パスワード

http://www.city.iga.lg.jp/kbn/Files/1/54035/attach/shiryou7.pdf

資料7

小見出し
伊賀統治の法度
初期城代と家中
戦陣・普請と伊賀
書状の時代
初期藩政の課題


藤堂采女元則と高虎
伊賀城代の役割の変化
采女元則の城代就任
江戸と国元
公儀と伊賀城代
元則の引退
城代の継承
両国への家中分置
伊賀付家中の形成
城代と伊賀奉行
家中統制機構の形成
寛永飢饉と伊賀
地方支配機構の形成
藤堂家の政治理念
(前期の知行制)?
藤堂采女家の出自
采女家の城代継承
幕府と采女家
采女家の家格
采女家の縁戚関係
藩主家と采女家


1
家臣の知行と由緒
2
家中統制
3
伊賀の職制
4
家臣の諸相
藩士の日記から
入交家の衣食住
養子縁組と婚礼
子の成長を祝う
葬送と弔い

女訓書「もしほ草」
家族の会話−藤堂采女家の私信から−
由緒書にみる戦(いくさ)
八尾常光寺と藤堂藩
1
支配機構と政策
2
伊賀国と上方
1
職制と職掌
2
伊賀者の姿(役儀)
1
格式と由緒
2
宮座と無足人
3
地主・豪農としての無足人
4
村役人としての無足人
無足人と地域社会
60
3
伊賀者と無足人
30
1
伊賀者
30
2
2
冠婚葬祭と旅
3
重臣家の女性たち
4
記憶の中の大坂の陣
20
2
家臣団と統治機構
20
3
伊賀附家臣の生活
1
日々のくらし
藤堂采女家
105
2
藩政の展開と家臣
40
1
藩政の動向
25
4
城和領と上方屋敷
慶長・元和期の伊賀統治
2
伊賀城代の成立過程
3
藩政確立と伊賀統治
4
藤堂藩の成立と伊賀
30
1
高虎の伊賀入封
40
2
伊賀統治のはじまりと采女家
1
伊賀市史 第2巻 通史編 近世 目次案



70
1
資料7
頁数
頁数
頁数
小見出し



村支配の法令
村の運営と村役人
内検と年貢諸役
土地売買
灌漑用水の確保
村の事件簿
2
村のくらし
20
1
20
2
20
1
穢多
2

3
番非人
1
国境争論
20
2
山論
3
水論
1
安政の大地震
2
さまざまな災害
3
飢饉と疫病
10
伊賀の道の概要
大和街道
伊賀街道
初瀬街道
伊賀の道(街道以外の道)
道標・常夜灯・一里塚
その他
御茶屋制度
宿場の諸役・規則
宿場の維持・整備
勧進橋
旅の目的
往来手形の発給と旅先での作法
道中規則
伊賀を通る人びと
伊賀の名所
3
巡礼
1
概要
2
山の生業
3
村の生業
4
町場の生業
1
概要
2
川と道の利用
3
伊賀焼
1
近世寺社の成立
3
2
藩の宗教政策
5
近世社会のキリシタン
浦上キリシタン
藩の解体と寺社
1
宗派別にみた寺勢の広がり
2
寺院の経営と退転
3
法会と信仰
4
念仏、修験の講
2
伊賀の寺院と社会
18
17
10
35
3
近世の諸相
10
4
幕末伊賀の宗教
96
7
寺社と人びとの信仰
28
1
近世伊賀の宗教
3
伊賀の生業と生産
30
モノの流通
10
1
旅の作法
2
旅・観光・名所
40
1
街道と伊賀の道
2
さまざまな道しるべ
3
宿場と宿場を支える人びと(宿駅制度)
90
6
人とモノの流れ→
30
1
街道と宿場
20
2
旅と巡礼
4
30
40
2
災害と疫病
30
90
5
地域をとりまく諸相
50
1
山論・水論
村方の世界
40
2
城下町上野
50
3
被差別民の役割とくらし
150
4
藩政下の村と城下町
60
1
伊賀の村落
40
1

以下略
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月28日 13時04分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

  フィニッシュです(『忍術の歴史』奥瀬平七郎著より)―
 「采女は、幕権の安定と平和期の永続によって、隠密(忍者組織)の必要が
 希薄化するにつれて、忍者が自然に衰退することを予見して、それまで口
 伝(口で伝える)として、文書に書き表わすことを厳禁されていた忍術の術
 技の実態が、滅失することを恐れて、文書として後世に伝えようと計った
 のだ。
  この配慮は見事に実を結び、保武により万川集海が完成され、藤堂本藩
 と幕府に献納されたほか、伊賀・甲賀両流共通の最高の秘伝書として、
 伊賀・甲賀の忍家に秘蔵されることになった(伊賀・甲賀の忍家では、こ
 の忍書を代々の当主が筆写して子孫に伝えた)。また同じ時期においても、
 伊賀流忍術の施術の心構えと要諦を説いた『正忍記』(上中下三巻)が、
 新楠流の開祖藤林正武によって著作公開されたのである。
  正忍記も伊賀・甲賀の忍家の秘蔵本となったが、この両書は、忍術秘伝
 書の双絶と称せられる名著である。忍書にはこの外、楠木流蒦口忍、伊勢
 三郎忍軍歌などの秀作がある。
  采女は万治3年(1660年)78才で死去したが、彼の死と共に、伊賀
 忍術の歴史の真相は、闇中に消え去ってしまった。
  因みに百地丹波正西は、長子藤林保武と共に伊賀に帰来したが、幕府に
 遠慮して伊賀には帰らず、大和国の竜口の別邸に隠棲、一生を送った。
  墓も大和竜口にある。附近の白山神社には毎年百地家が「猿楽」を奉納
 した事を証拠づける演能者名札多数が納められている。
  名張竜口の百地家は徳川時代に、大和竜口の百地家の二男が移住したも
 のである。」

  先日伊賀の西蓮寺を訪れた時、藤堂采女城代一族のやはり大きな墓標群
 にも圧倒されました(藤堂高虎一族のほうがもっと大きかったですが)。
  藤林佐次保武の墓は西念寺(上野市万町)にあるという、次の機会には是
 非見てみたいと思います。

  とりあえずこれにて、『忍術の歴史』の服部氏にからむ重要部分の書き
 出しは終了いたします。
 
  藤堂高虎についてはまだまだ秘密の発掘には至っておりません。
  家康が最も信頼した武将・・・秘密がないはずがない。
  
  この週末、明日は雨模様ですが、「近江八幡と彦根城」にバスツアーで
 行ってきます。歴史探索の時間は余りなさそうですが、結果についてのご
 報告はいたします。
  明後日は「磯田道史先生の歴史講演―バーチャル浜松城」を聞きにいっ
 てまいります。これはご期待下さってよいと思います!
 
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 14時21分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。


藤堂采女の機転のおかげで我々は忍者の秘伝を今でも読むことが出来るのですね。
やはりスゴイ人だったのですね。


   忍者の秘伝は記録に残りましたが
   いろいろな秘密は歴史の彼方に消えてしまったのでしょうね
   惜しいことです。


磯田道史先生は本当に素晴らしい人です。
歴史では食べていけませんが
我々は歴史から学ぶことがたくさんあります。
そういうのを磯田先生が我々に知らせてくださいます。

わたくしは磯田先生の大ファンです。
「武士の家計簿」以来。


磯田先生のようにこの世に生を受けて世の中の人の役に立てるって幸せな生き方ですよね。
それも先人達の知恵を発掘して教えてくださるのですから
確実な話なんですから。



近江八幡は随分前に行きました。
秀次の治めていた藩ですね。


彦根城にも行きました
天守閣の階段がすっごく急で(松本城も)筋肉痛になりました。

   もし彦根城の天守閣に登るようでしたら
   あとでしっかりストレッチをなさいますように。
   笑


では土産話を楽しみにしております。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 21時54分49秒 ) パスワード

閑話休題


こんな記事がありました:



DNA分析で縄文人と弥生人の混血が進んでいたことが判明

2014.11.28 16:00

 われわれの祖先はどのように日本に渡り、どのように変貌したのか。最先端のDNA分析により得られた新事実を、ヒトゲノムによって日本人の起源を探る研究の第一人者、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授が明かす。
 
 * * *
 DNA分析という手法の開発により、分子生物学によって日本人のルーツを探る研究は劇的に進歩した。
 
 DNAは「たんぱく質の設計図」とされる物質で、親から子に遺伝情報を継承する。

 人体を構成する約60兆個の細胞は、すべて最初の1個の受精卵が起源であり、細胞増殖によって体が作られる。この増殖でDNAが複製されるとき、稀にDNAが部分的な突然変異を起こすことがある。変異が精子や卵子などの生殖細胞で起きると、部分的に変異したDNAはそのまま子や孫へと引き継がれていく。
 
 アフリカで誕生した人類は7万年前から世界に拡散していったが、特定の集団のなかで誰かの生殖細胞に変異が起き、集団内でそれが広まり蓄積することがあった。また、別の集団との交流により、混血で変異が共有されることもあった。
 
 つまり、現代人と遺跡から出土する人骨のDNAを分析し変異の痕跡を比較すれば、どこで変異が発生し、どう受け継がれてきたかが分かり、人類がアフリカからどのようなルートを辿って拡散したかが見えてくるのだ。
 
 では、日本人はどこからやってきたのか。若干の想像を交えて、最新のDNA分析の結果から推定されるルートを提示してみよう。
  
 およそ7万年前に我々の祖先がアフリカを出たことはすでに判明している。数度に亘る「出アフリカ」の何回目かにアフリカを出た人々がアラビア半島を渡り、ユーラシア大陸の南側に進出。5万年ほど前に台湾や琉球諸島を経て、日本列島の地を踏んだと考えられる。これがいわゆる「縄文人」だ。1万年前までは最終氷河期で、海面は今より70m低かった。氷河にも覆われていたので、台湾、琉球からの渡来はそう難しくはなかっただろう。
 
 一方、7万年前にアフリカを出て東アジアに渡った人々は、小麦農耕の技術を身に付け、今でいう中国の中原と呼ばれる地域で人口を爆発的に増やした。そこからあふれ出た人々が稲作の技術を携えて移動し、およそ3000年前に朝鮮半島を経て、北九州に渡った。それが「渡来系弥生人」と考えられる。
 
 実はこの説は、DNA分析が行なわれる前からあったが、従来は、農耕民の弥生人により狩猟採集民の縄文人が駆逐され、北海道に追いやられたのが「アイヌ人」、南に追いやられたのが「沖縄人」と考えられていた。しかし、現代日本人のDNA分析によって縄文人と弥生人の混血が進んでいたことが判明し、両者の間で交流があったことが認められた。
 
※SAPIO2014年12月号



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[54]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月30日 07時22分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は朝5時に起き、5時半朝食、6時半に浜松をバスで出発し一路近江
八幡へ向かいました。紅葉も最後のシーズンに近づき、やはり人の想いは同
じ。天気も雨が降っておりましたが、高速道路は混んでおりました。しかも
事故が多く、東名の途中で事故渋滞、また名神の途中でも事故渋滞と2時間
の遅れで近江八幡には12時半の到着。30分だけの散策となりました。
 それでもこの30分で近江八幡のおよその雰囲気はつかみました。秀次公
の築いた城はもはやありませんでしたが、城主として地元では評判が高かっ
たということは、三成にもいえるが、良き藩政を行ったということにつきま
す。もっとも近江は近江商人の土地柄。進取の機運と合理的考えとかつ財力
があったのでしょうね。
 それで思い出したのは、藤堂高虎の父が近江の三井家より藤堂家へ婿養子
に入っていたということ。即ち高虎にも近江とのつながり、また近江商人の
バックアップがあったのではないかということを想像いたしました。
 近江八幡は美しい街、水郷の街でもあり、また秀次の悲哀を偲ぶ街でもあ
る。もう一度来ることを心に誓いながら、後ろ髪引かれる思いでやむなくバ
スに乗りました。
 次の目的地彦根は数年前に車で来ていて、城もまた街中も見てまわってい
たので、さほど目新しさはなく、街中散策だけにいたしました。
 街中のお寺にぶらり入って墓地を見て来ました。浄土宗宗安寺、どこかで
聞いたことのある名前・・・服部中保次の刑部村にあった寺がたしかそうだ
ったと思い出しました。あを様言われるように浄土宗の寺によくある名前か
も知れないと思いつつ・・・ビックリしたのは、首塚があったことです。
 その人の名前は木村長門守重成公と看板に書かれておりました。また、見
慣れた名前、大久保氏の墓、もう一つ「長野氏」の墓、時間がないので、と
りあえずパチパチとシャッターを押す。どんな人なのかわからないが、まあ
帰ってからゆっくり調べようと、この寺をあとにいたしました(本当はそこで
スゴイ発見をしていたのに気が付かなかった)。
 次に、彦根城から東方向の近くではあるが、龍潭寺までバスにて移動。
 龍潭寺は遠江引佐井伊谷に本山がある。紅葉の落ち葉のカーペットの上を
歩きながら写真を撮る。新たな発見が2つあった。
 1つは、あの「佐和山城」の城址跡という看板、石碑があり、龍潭寺の隣
の山に佐和山城があった事。加藤光泰も文禄の役の前の前に佐和山城に転封
されていた。どこにあるのかわからなかったのが、城址を目の前にしてここ
かと感激にしたりました。なお、石田三成が居城し大改築をおこなったこと
でも有名。
 2つ目は、「大久保忠隣公の幽居の跡」という石碑が立っていたこと(実
は、パチパチ写真を撮り、本日見て気が付き驚いたところであります)。
 長安事件後の連座で配流。こんなところに住んでいたのかとビックリ。何
か井伊家と大久保家の関係を調べたくなりました。宗安寺の大久保家の墓は、
この大久保家の関係する墓に違いないと関連して推測いたしました。
 余り、収穫のなかったように思えたせわしないツアーでしたが、帰って来
て写真を調べてみてビックリの収穫ある旅でありました。
 
 本日、木村重成について調べたところ、藤堂高虎との関係がまたビックリ。
大阪夏の陣で藤堂高虎に討ち取られたとのことでした。何と不思議な出会い !



[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月30日 22時56分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


今から出かけるのでカンタンに。

    先週の「官兵衛」の紹介で
    石田三成の菩提寺は宗安寺だと紹介されてました。
    そして三成像があって家紋が九曜になってました。


2時間も無駄になりましたか。
・・・いえ、渋滞を無事抜けられたのですからラッキーでした

事故に巻き込まれるのは本当にイヤなことですね。


木村重成は愛妻家で
彼の妻への遺言状は泣けます。

どこかにネット公開されていると良いのですが。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月01日 04時05分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


高虎の父について調べました:

藤堂虎高

生誕
永正13年(1516年)

死没
慶長4年10月18日(1599年12月5日)   享年84歳


改名
源助(幼名)→虎高

    この源助という名乗りは、
    もともとが源氏の六角氏から藤原氏の三井氏に養子に入って
    三井から藤堂氏に養子に行ったからなのか。
    へえ〜
    で、後に六角にまたまた仕えた?!
    ややこしい


別名
白雲斎(号)

主君
武田信虎→京極高吉→浅井亮政→久政→長政

           武田にいたのは100%知らなかったです

氏族
三井家→藤堂氏

           ここですね

父母
父:三井乗綱、養父:藤堂忠高



正室:藤堂忠高の娘
側室:宮崎一郎左衛門の娘

           養子に来て側室を持ってたなんて図々しいわね


娘(鈴木弥右衛門室)、高則、高虎、
娘(山岡直則室、後に渡辺守室)、高清、正高、娘(藤堂高経室)


藤堂 虎高は戦国時代から安土桃山時代の武将。近江犬上郡藤堂村の土豪。子に藤堂高虎など。愛智氏を称したこともある。


生涯[編集]

永正13年(1516年)、近江鯰江城主・三井乗綱の次男として生まれた。
藤原姓三井氏にあたり、江戸時代の豪商・三井家や江戸時代の大名家・藤原姓毛利氏(鯰江氏)らも近縁とされる。

若くして近江を離れて甲斐の武田氏に仕え、才を寵愛されて主君の武田信虎より「虎」の偏諱を授かるほどになったが、故あって武田家を離れた(巷説では若い他国者の出世に対する同僚の嫉妬とされる)。

近江に帰国後、藤堂忠高の婿養子となる。       藤堂家に養子

婿養子先の藤堂家は在地の有力土豪といえども、虎高の代には犬上郡数村を支配する程度に没落していた。

はじめ京極氏、後に浅井氏に仕えた。

長男・高則は早くに戦死したが、次男の高虎が出世していく過程で、自然とその家中に編入された。

家督を高虎に譲った後、故郷の白雲山を偲んで白雲斎と号した。

慶長4年(1599年)、高虎の領地である伊予宇和島城で死去した。享年84。




ここで鯰江氏(三井氏)について:

鯰江氏
日本の氏族。藤原姓三井家流、のち宇多源氏佐々木六角氏流。
               ↑
              六角から三井に養子に行って、藤堂に養子に行って、また、六角に仕えた
 
概略[編集]

荘園時代には興福寺の荘官であったという。
室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、   六角 → 三井

近江愛知郡鯰江荘に鯰江城を築き鯰江を称して以降、    三井 → 鯰江
代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えた。  六角に仕える

                  ↑
             アタマの使い方を知ってた

永禄11年(1568年)に鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから
織田信長の攻撃を受けて天正元年(1573年)9月に鯰江城は落城、
以後一族は各地に分散した。               六角が信長に負け一族離散

一部は同郡内の森に移住して森を姓とし毛利氏となった。  一部は森姓から毛利氏へ

なお定春は豊臣秀吉に仕えて大坂に所領を与えられ、    秀吉に仕える
同地は定春の苗字を取って鯰江と地名がついたという地名起源を今日に残している。

このほか豊臣秀次の側室に鯰江権佐の娘が上がっていたという。 秀次にも仕える


    波乱と流転の日々だったのですね



>街中のお寺にぶらり入って墓地を見て来ました。


>浄土宗宗安寺、どこかで聞いたことのある名前・・・服部中保次の刑部村にあった寺


      これまた偶然の一致?


>首塚があったことです。
>その人の名前は木村長門守重成公と看板に書かれておりました。

    女性に人気の武将ですね


>「長野氏」の墓

幕末の井伊大老の側近が長野氏ですね
そしてくノ一が多賀神社のお多賀さん


    とここで背筋がゾッとしました


    伊勢にも長野氏という南朝がらみの家があります
    その上に女スパイだったお多賀さん

    そして「宗安寺」と服部中の関係

    この繋がりは???
    歴史の闇に目を凝らし始めた瞬間?




>帰ってからゆっくり調べようと、この寺をあとにいたしました
>(本当はそこでスゴイ発見をしていたのに気が付かなかった)。

はい
その時に気づきたかったですね

でも「次回」はユックリ行けば良いですよね。



>龍潭寺までバスにて移動。
>龍潭寺は遠江引佐井伊谷に本山がある。

はい

井伊家で繋がりますね


>「佐和山城」の城址跡という看板、石碑があり、
>龍潭寺の隣の山に佐和山城があった事。
>加藤光泰も文禄の役の前の前に佐和山城に転封されていた。
>どこにあるのかわからなかったのが、城址を目の前にしてここかと感激にしたりました。
>なお、石田三成が居城し大改築をおこなったことでも有名。

日本は本当にいろいろな意味でも繋がりますね。

歴史は自分と切っても切れない関係で、我々自身が、歴史の流れに身を置いているんですよね



>「大久保忠隣公の幽居の跡」という石碑が立っていたこと
>(実は、パチパチ写真を撮り、本日見て気が付き驚いたところであります)。
>長安事件後の連座で配流。こんなところに住んでいたのかとビックリ。

ここにいらっしゃったのか!
ですね。

もしかすると三つ柏さんのご先祖さまと多いに関係した人物かも知れないですね。


>何か井伊家と大久保家の関係を調べたくなりました。

はい


>宗安寺の大久保家の墓は、この大久保家の関係する墓に違いないと関連して推測いたしました。

証拠捜しを始めませんとね。



>余り、収穫のなかったように思えたせわしないツアーでしたが、
>帰って来て写真を調べてみてビックリの収穫ある旅でありました。

逆に交通渋滞がこのような発見に繋がったのかもですね。


 
>本日、木村重成について調べたところ、藤堂高虎との関係がまたビックリ。
>大阪夏の陣で藤堂高虎に討ち取られたとのことでした。
>何と不思議な出会い!


きっと菩提を弔ってあげたい何か原因があったのかもですね。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月01日 04時06分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


高虎の父について調べました:

藤堂虎高

生誕
永正13年(1516年)

死没
慶長4年10月18日(1599年12月5日)   享年84歳


改名
源助(幼名)→虎高

    この源助という名乗りは、
    もともとが源氏の六角氏から藤原氏の三井氏に養子に入って
    三井から藤堂氏に養子に行ったからなのか。
    へえ〜
    で、後に六角にまたまた仕えた?!
    ややこしい


別名
白雲斎(号)

主君
武田信虎→京極高吉→浅井亮政→久政→長政

           武田にいたのは100%知らなかったです

氏族
三井家→藤堂氏

           ここですね

父母
父:三井乗綱、養父:藤堂忠高



正室:藤堂忠高の娘
側室:宮崎一郎左衛門の娘

           養子に来て側室を持ってたなんて図々しいわね


娘(鈴木弥右衛門室)、高則、高虎、
娘(山岡直則室、後に渡辺守室)、高清、正高、娘(藤堂高経室)


藤堂 虎高は戦国時代から安土桃山時代の武将。近江犬上郡藤堂村の土豪。子に藤堂高虎など。愛智氏を称したこともある。


生涯[編集]

永正13年(1516年)、近江鯰江城主・三井乗綱の次男として生まれた。
藤原姓三井氏にあたり、江戸時代の豪商・三井家や江戸時代の大名家・藤原姓毛利氏(鯰江氏)らも近縁とされる。

若くして近江を離れて甲斐の武田氏に仕え、才を寵愛されて主君の武田信虎より「虎」の偏諱を授かるほどになったが、故あって武田家を離れた(巷説では若い他国者の出世に対する同僚の嫉妬とされる)。

近江に帰国後、藤堂忠高の婿養子となる。       藤堂家に養子

婿養子先の藤堂家は在地の有力土豪といえども、虎高の代には犬上郡数村を支配する程度に没落していた。

はじめ京極氏、後に浅井氏に仕えた。

長男・高則は早くに戦死したが、次男の高虎が出世していく過程で、自然とその家中に編入された。

家督を高虎に譲った後、故郷の白雲山を偲んで白雲斎と号した。

慶長4年(1599年)、高虎の領地である伊予宇和島城で死去した。享年84。




ここで鯰江氏(三井氏)について:

鯰江氏
日本の氏族。藤原姓三井家流、のち宇多源氏佐々木六角氏流。
               ↑
              六角から三井に養子に行って、藤堂に養子に行って、また、六角に仕えた
 
概略[編集]

荘園時代には興福寺の荘官であったという。
室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、   六角 → 三井

近江愛知郡鯰江荘に鯰江城を築き鯰江を称して以降、    三井 → 鯰江
代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えた。  六角に仕える

                  ↑
             アタマの使い方を知ってた

永禄11年(1568年)に鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから
織田信長の攻撃を受けて天正元年(1573年)9月に鯰江城は落城、
以後一族は各地に分散した。               六角が信長に負け一族離散

一部は同郡内の森に移住して森を姓とし毛利氏となった。  一部は森姓から毛利氏へ

なお定春は豊臣秀吉に仕えて大坂に所領を与えられ、    秀吉に仕える
同地は定春の苗字を取って鯰江と地名がついたという地名起源を今日に残している。

このほか豊臣秀次の側室に鯰江権佐の娘が上がっていたという。 秀次にも仕える


    波乱と流転の日々だったのですね



>街中のお寺にぶらり入って墓地を見て来ました。


>浄土宗宗安寺、どこかで聞いたことのある名前・・・服部中保次の刑部村にあった寺


      これまた偶然の一致?


>首塚があったことです。
>その人の名前は木村長門守重成公と看板に書かれておりました。

    女性に人気の武将ですね


>「長野氏」の墓

幕末の井伊大老の側近が長野氏ですね
そしてくノ一が多賀神社のお多賀さん


    とここで背筋がゾッとしました


    伊勢にも長野氏という南朝がらみの家があります
    その上に女スパイだったお多賀さん

    そして「宗安寺」と服部中の関係

    この繋がりは???
    歴史の闇に目を凝らし始めた瞬間?




>帰ってからゆっくり調べようと、この寺をあとにいたしました
>(本当はそこでスゴイ発見をしていたのに気が付かなかった)。

はい
その時に気づきたかったですね

でも「次回」はユックリ行けば良いですよね。



>龍潭寺までバスにて移動。
>龍潭寺は遠江引佐井伊谷に本山がある。

はい

井伊家で繋がりますね


>「佐和山城」の城址跡という看板、石碑があり、
>龍潭寺の隣の山に佐和山城があった事。
>加藤光泰も文禄の役の前の前に佐和山城に転封されていた。
>どこにあるのかわからなかったのが、城址を目の前にしてここかと感激にしたりました。
>なお、石田三成が居城し大改築をおこなったことでも有名。

日本は本当にいろいろな意味でも繋がりますね。

歴史は自分と切っても切れない関係で、我々自身が、歴史の流れに身を置いているんですよね



>「大久保忠隣公の幽居の跡」という石碑が立っていたこと
>(実は、パチパチ写真を撮り、本日見て気が付き驚いたところであります)。
>長安事件後の連座で配流。こんなところに住んでいたのかとビックリ。

ここにいらっしゃったのか!
ですね。

もしかすると三つ柏さんのご先祖さまと多いに関係した人物かも知れないですね。


>何か井伊家と大久保家の関係を調べたくなりました。

はい


>宗安寺の大久保家の墓は、この大久保家の関係する墓に違いないと関連して推測いたしました。

証拠捜しを始めませんとね。



>余り、収穫のなかったように思えたせわしないツアーでしたが、
>帰って来て写真を調べてみてビックリの収穫ある旅でありました。

逆に交通渋滞がこのような発見に繋がったのかもですね。


 
>本日、木村重成について調べたところ、藤堂高虎との関係がまたビックリ。
>大阪夏の陣で藤堂高虎に討ち取られたとのことでした。
>何と不思議な出会い!


きっと菩提を弔ってあげたい何か原因があったのかもですね。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月01日 04時24分53秒 ) パスワード

木村 重成

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。知行3千石。


生涯[編集]

木村重茲の子といわれている。母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれる。

秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。慶長4年(1599年)12月17日、豊臣姓を与えられる[1]。豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追い出すのに一役買った。

大坂冬の陣では後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた。真田丸の戦いにも参加する。また、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞された。

慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴。敵陣へと突撃を開始するも、

井伊軍との激戦の末に戦死した。
井伊家家臣の安藤重勝に討たれたとも、同家家臣庵原朝昌に討たれたが
朝昌はその功を重勝に譲ったともいわれる。

                       ↑ 
                     庵原朝昌
                     モロに今川旧家臣ですね


首実検でその首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったので、その覚悟を感嘆させたという逸話が残っている。
  
                     おやおや安藤家の菩提寺でしたか
                         ↓
その後、首は重勝が密かに彦根まで持ち帰り、安藤一族の菩提寺である宗安寺に埋めたとされ、同寺院には木村重成の首塚がある。

墓は第二寝屋川の南側、大阪府八尾市幸町の公園にある。

また、木村重成に由来する地名として東大阪市若江南町1丁目には「若江木村通」という交差点がある。

なお、慶長20年(1615年)1月7日に大蔵卿局の姪の青柳を妻に迎え、八尾・若江の戦い前後に青柳と別れの盃を交わしたという。重成の死後、妊娠していた青柳は、近江の親族によって匿われ男児を出産後に出家した。そして、重成の一周忌を終えると青柳は20歳で自害したという。また、青柳の出産した男児は馬淵家の婿養子となり、馬淵源左衛門と名乗ったと伝えられている。


伝説[編集]

生誕地[編集]

佐土原藩主の島津忠持が、藩内の事跡や伝説等を選集させた『旧事雑記』に、「佐土原八日町に重成の誕生の地がある」と記されている。重成が大坂にあった理由は、重成の母がお伊勢参りの途中、大坂の宿に宿泊中であった際に、ちょうど豊臣家の家臣が秀頼の乳母を探しており、旅人まで物色していた最中に重成の母が目にとまり、秀頼の乳母になったためという。

また、八日町の荒神神社の『荒神様縁起』にも「武州東禅寺開山定州和尚、仏日山大光寺一道和尚、日本武将豊臣秀頼の乳兄弟 木村長門守重成の3名は、八日町松岩寺(松巌寺)前一番屋敷の産で有名な屋敷」とあった。付近ではこの一番地を木村屋敷と呼び、昭和31年(1956年)5月には、その場所に重成の等身大の石像が建てられ現存している[2]。


子孫[編集]

徳川氏の家臣・山口重信は八尾・若江の戦いにおいて木村重成と戦い戦死したが、重成の子孫の一つは牛久藩山口家に召抱えられ小川姓に改姓したと主張している。この事実は牛久藩側の史料からは証明できない上、史料学的に耐えうる小川家文書も現存していないため、伝承・伝説の範囲に留まる。なお、牛久藩の分限帳などによると小川氏は50石級の家臣であったといわれる。

また与板藩主・牧野氏に召抱えられた村井氏は、重成の弟の平兵衛重盛が村井に改姓したと主張しているが、この事実は与板藩側の史料からは証明できない上、史料学的に耐えうる村井家文書も現存していないため、やはり伝承・伝説の範囲に留まる。この村井氏は、江戸時代初期に与板藩において、家禄80石で仕えていたことが確認できるほか、藩主牧野氏が小諸藩へ移封後に用人職にしばしば、そして天保期の抜擢家老(一代家老)としてみることができる。[3]。牧野氏に仕えた時期は不明で、史料学的初見は「牧野康道(1657〜1689)分限帳」となるが、これより以前の牧野宗家の分限帳、御引っ越し御人数帳には村井姓はみられない。なお、小諸藩士・村井氏末裔が1975年に家詩と称して、自らの家系・家柄に関する碑文を、長野県小諸市古城に建立したが、公的機関に一次史料が豊富に残っている江戸時代中期以降に限って、家詩なる碑文と、それとを比較・検証してみると、両者の内容は著しく相違していることがわかる。

重成の従弟の木村八兵衛俊重は、大坂城落城後、武蔵国大門村に来て、すでに同地に帰農していた後北条氏遺臣・會田外記の娘婿になり、息子の會田敏明から代々日光御成街道大門宿本陣および同宿名主、紀州徳川家鷹場・鳥見役を勤めた[4]。さいたま市緑区大門にある徳川家の日光社参のために1694年(元禄7年)に建設された「大門宿本陣表門」は、1966年(昭和41年)に「埼玉県指定史跡」に指定され、現在でも引き続き会田家(會田家)が所有している。

家臣[編集]
飯島太郎右衛門 - 河内国高井田の農民で木村重成に仕え、若江の戦いで討ち死にした。
飯島三郎右衛門
篠原重之 - 木村重成の弟。
山口弘定 - 妹婿。
青木久矩
木村宗明 - 重成の叔父で主計頭。物頭で1000石。重成を補佐した。
内藤長秋 - 重成の番頭。3000石。内藤新十郎とも称す。母は饗庭局。
牟礼朝泰 - 讃岐国出身。700石。通称は孫兵衛。重成の旗下。

登場作品[編集]
小節若江堤の霧 - 短編集「俺は権現」に収録。司馬遼太郎著



大坂城のアイドルだった重成が妻に宛てた手紙というのを検索していますが出て来ないです。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月01日 05時16分56秒 ) パスワード

伊賀の呉服明神の服部貞信が  ゆへありて山城国宇治田原に住んでたという理由を調べているのですが分かりません。


天正10年6月に家康の伊賀越えがあった時


    堺から宇治田原の山中を経て三河に渡御あるの時
    貞信山中を嚮導すべき旨
    仰せをかうぶり一族等を相催し
    近江国信楽まで従ひて
    来国次の短刀をたまふ。


京都の南の宇治で何をしていたのか?
何故移ったのか?
非常に謎です。
いつ移ったのか?



宇治田原って宇治の東南の小さな場所。
なぜココに住んでたのか?

   服部と明智の関係を聞いたことがあるけど

家康が堺から逃げるのに宇治田原から駆け付けたということはないと思うので
堺あたりにいたのでしょうね

   つまり宇治田原に住んでたのは京都と大坂に近かったから
      何かやってたのでしょうね


でも見つからないです。
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月01日 07時00分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 またたくさんの情報ありがとうございます。これから読解いたします。
 磯田道史先生の講演よかったです。また次の次に記します。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月01日 08時39分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


>磯田道史先生の講演

またお知らせください。

磯田先生のお話は素人に分かるようにお話しくださるので良いですね。


本日は  今年の4月の I に書いた内容をまた読み直していました。
すると矢張りいろいろ新たな目で拾うことがありました。


上記に書いた  服部と明智の関係 ですが




             出羽守       娘(明智光秀妻)
    服部某ーー某ーー保章ーーーーーーーI
             名張城主      某(近江の北村に住し北村氏)
        I    
           
         某ーー服部正尚


つまり服部正尚の伯父の子が服部保章で、その娘が明智光秀の妻だった、と。



明智光秀の 妻は  正室:煕子(妻木 範煕女)
          前室・側室があったとの説もあり

ということで  あり得る かも。



以下は伊賀国名張のサイトより:
http://www.geocities.jp/hasekaido/naba4.html


天正の乱に関するその他の逸話

 ・乱の際には、名張の豪族も霞山城(現名張中村研屋坂付近)を築き抵抗するも、四方から攻められ敗北した。織田方で参戦した筒井順慶は戦の働きが悪かったために、 信長に曲り者と呼ばれ、1日250人〜300人殺して 48ヶ所の寺社・仏閣を焼き払ったと言われている。

 ・明智光秀の妻の父は当時名張城主 服部保章。保章のいとこ服部平太正尚は徳川秀忠の生母お愛の父親であることから、一部では本能寺の変との関連も噂されている。



なんと観阿弥と世阿弥は名張生まれなんですって。

観阿弥・太平記の項:


画像:観阿弥創座之地 創座の地:能舞台

1333年   鎌倉幕府滅亡の年に観阿弥が名張郡で生れる。
1363年   名張市小波田で猿楽の座を建てる。
        世阿弥生れる。

        観阿弥の妻は竹原大覚法師という小波田の領主の娘。


「太平記」巻14「官軍引退箱根事」

新田義貞家臣伊賀国名張郡中村出身の中村八郎(名張八郎)が鎧武者20人を投げ飛ばし、
2人を両脇に軽々と持ち上げたとある。

1331年に後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐のため挙兵すると、楠木正成も河内で挙兵した。
幕府は楠木討伐のために、同時に河内と 足利高氏を大将とする軍が伊賀を攻めた。
当時、楠木家と伊賀の関係は深く、正成は伊賀忍者を駆使していたという逸話もある。

能を大成した世阿弥の父観阿弥の母は 河内国橘入道正遠の娘で伊賀の服部元成に嫁いだ。

橘は楠木の本姓で、橘入道正遠とは楠木正成の父親の名前であることからも、伊賀と楠木家の関係の深さがわかる。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月01日 08時45分23秒 ) パスワード

名張と言ったら  百地  ですものね。

で、観阿弥と世阿弥は名張の生まれ!

そして松尾芭蕉の母は百地。


歴史って  隠してますね。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月01日 09時06分14秒 ) パスワード

そうすると伊賀の服部氏はみんなで力を合わせて天正10年6月の本能寺の変から家康を守った
ということになりますか?


   伊賀の呉服明神の神職の服部貞信は本拠地を宇治田原に置いて京都と大坂の情報収集をしてた?

   服部正尚は猿楽師のフリをして従兄の服部保章から明智の情報を得ていた?

   ここに藤堂家の伊賀家老になった服部(保田)も絡んでたろうし?

  

やっぱり表は猿楽師集団でアチコチに出入りしていて、実は情報収集師集団だったかも。
その一行はいろいろな技術を持つ人達で構成されていた?


   実用部隊。笑


藤堂高虎が城作りがうまかったというのも技術屋をたくさん抱えていたからでしょう。 

いろいろアチコチで見てた人には何が良いか分かったでしょうし。


それにしても人名がグチャグチャ。


長上郡には服織神社があって、と書かれていただけです。
またまた読み返さないと。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月01日 09時45分29秒 ) パスワード

光秀の妻の話:
以下コピペ:


http://blog.goo.ne.jp/tokihaima/e/890f1c895dbe2b39566af9b14b86671a


光秀の妻(5) 2003/ 2/25 15:40 [ No.113 / 453 ] 投稿者:akara_tuka2000

光秀の妻についてはもう1つ、伊賀の柘植(一説に名張)城主の服部(別姓・北村)出羽守保章の娘とする説が伝わっています。

出典となっているのは「明智系図(群書系図部集)」「幕府祚胤伝」「寛政重修諸家譜」あたりでしょうか(他にもあったら教えて下さい)。いずれも江戸時代半ばの編纂物です。


「明智系図」は1631年に光秀の50回忌に(光秀の息子らしい)玄琳が作成し、(やはり光秀の子孫らしい)喜多村弥平兵衛なる人物に提出したとの説明書きがあるのですが、この「喜多村」が服部保章の別姓「北村」と同一のようです。

伊賀の服部という姓、「保」という通字から、服部保長・正成(半蔵)父子の一族と推定されます。

上記資料によると、

家康の伊賀越えの際、家康一行を誘ったものの、
家康に随行していた服部平太夫正尚 (保章のイトコ;家康の側室西郷局の義父)に疑われ、
成功しなかったとあります。

光秀の妻が伊賀の出身だった・・・本当とすると、本能寺の変の原因を含め、
いろいろ想像をかきたてられるネタですが。



光秀の妻(6) 2003/ 2/25 16:02 [ No.114 / 453 ] 投稿者:
takara_tuka2000

光秀の妻の父を伊賀出身とする説ですが、
残念ながら「服部出羽守保章」なる人物が同時代の資料に見えないため、
現時点では不明としかいいようがありません。


服部出羽守は「柘植城主」と伝わっていますが、
史書に見えるこの時期の柘植城主は福地伊予守という人物です。

                    *福地も服部一族なんですけど
                     観阿弥の曽祖父の叔父が福地姓を称した
                     つまり観阿弥の高祖父の弟=服部清春


この人物は天正伊賀の乱のおり、同郷人を裏切って信長に通じ、本領を安堵されたとされています。


家康の伊賀越えの時は家康の警護に駆けつけたものの、
裏切りの前科からその後同郷人にうとまれ、
某所に隠遁したと言われています。


また、服部出羽守は名張城主とも伝わっていますが、
名張城は1585年に筒井家によって築かれたのが最初ですから、
それ以前には存在していなかったと思います。


もしかしたら、服部出羽守=福地伊予守なのかもしれませんが、単なる想像の域を越えません。

ただ、かの松尾芭蕉は福地一族と言われていますので、
彼が「月さびよ明智が妻の話せむ」の句を詠んだのは先祖の縁があってのことかなあ、
などと思ってしまいます。


               あらら・・・
               芭蕉さんは明智の妻について知っていた?

               すごい情報!

               この書込人に感謝。


芭蕉は予野の桜のことで
「一里<ひとさと>は 皆花守の子孫かや」 
と詠んでいます。


http://www.7kamado.net/hanagaki.html

花垣神社


鎮座地 三重県伊賀市予野194


御祭神 天兒屋根、經津主命、 武甕槌命、比賣大神

合 祀 乎美彌神、大日ルメ貴神、五男三女神、譽田別命、安閑天皇、木花咲夜姫命、
    宇迦能御魂神、八衢比古神、八衢比賣神、久那戸神、 建速須佐之男命、
    市杵嶋姫命、菅原道眞、大山祇神、火産靈神、三筒男神、大己貴神

例 祭 十月十八日


当神社は往古より現在地に鎮座ましまし、御祭神経津主神・武甕槌神・天児屋根命・姫大神を大字予野字花前に春日大神と称し、神社明細帳に其の由緒「右社ノ義ハ人皇第六十六代一条院ノ御宇、当村地名花ケ谷ニ一株ノ名樹アリ、


是レ八重桜ナリ。

即チ此ノ木ヲ上献ス。而ルニ帝叡覧アツテ深ク賞讃感悦シ給ヒ、宮門内ニ植置給フ。

故ニ其ノ後年々当村ノ民族ヲ徴サレ八重桜周囲ニ垣ヲ造ラセ給ヒ、亦花ノ満開七日ノ間宿直ヲ命セラレ是ヲ守衛奉ル。


此賞典トシテ以テ公事ノ賦役ヲ許サレ、花垣ノ庄ト地名ヲ賜フ。而後其樹跡ヨリ又一本八重桜生出シテ、数百年ノ今日ニ至リテ尚存セリ。

其ノ所縁ヲ以テ寛弘元年(1004)ニ方リテ、南都春日ノ神爾勧請ヲ乞ヒ奉リシニ、速ニ勅許アリテ同年花垣ノ里ニ奉遷シ、則チ当村産土神ト崇敬シ祭祀ノ礼典闕怠ナク重ナリ奉事シテ聯綿歴然タリ。最モ地名五ケ庄トモ又予野トモ称シテ、乃チ予野、治田、白樫、大滝、桂五ケ村ノ冠タル所以ハ、已ニ花垣ノ名称アルヲ以テ也。故今変セス右等ノ邑ヨリ尊崇敬事ス」とある。


後明治四十一年(1908)九月十九日許可を得て三郷神社と改称、更に大正十三年(1924)
十一月十二日許可を得て花垣神社と改称現在に至る。


なお社地の伊賀の八重桜は、昭和十二年(1937)十一月二十六日三重県天然記念物に指定せられ、元禄三年(1690)の春、松尾芭蕉はこの里に遊んで 「一里は皆花守の子孫かや」の句を残し、その句碑は参道入口の朱塗りの大鳥居の西側に建っている。



「一里<ひとさと>は 皆花守の子孫かや」 
               芭蕉翁

 元禄三年(1690)芭蕉四七歳の作。

季語「花守」で春。芭蕉真跡懐紙に「この国花垣の庄は、そのかみならの八重桜の料に備へられ侍りけるとかや、ものにも書つたへられ侍れば」と前書する。

奈良の八重桜は、伊勢大輔の「いにしへの奈良のみやこの八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな」(『詞花集』)の歌にも有名な桜。

『沙石集』等の説話集に、平安の昔、一条天皇の后上東門院が奈良興福寺の八重桜を京に移そうとしたところ、僧徒らが強く反対、后はその風雅心に感心し、伊賀国余野<よの>の庄を興福寺領に寄進、花垣庄となづけた。


 これより、里人は毎年奈良に赴き花垣を結い、花の盛り七日間は宿直<とのい>を置き守らせた、との話がある。


 三月下旬頃、芭蕉はここ花垣庄を訪れ、古の風雅を偲び、土地の人に挨拶の意を込めた即興句。句意は、「ここ花垣の庄は、その昔、奈良の八重桜の咲く頃は花垣を結い、里人が宿直をして桜の花守をしたという由緒深いところである。今でも、この一里の人たちは皆、花守の子孫なのであろうか。」
「案内板より」

 石碑の後方にも、手入れの行き届いた花壇がありました。

[66]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月01日 10時05分16秒 ) パスワード

http://sakuraoffice.com/husiyahime.html   画像を見てください。

光秀の妻になった女性の名は  伏屋姫  ?
初耳でした。


伏屋姫のサイト:


福地城

伊賀市(伊賀町)柘植町字浦出

光秀は柘植城・喜多村保光の娘を娶っている。
          ↑
        北村保章に通じますね
        北村も福地も服部家の流れです


福地城跡(柘植城)

福地城は、西に石垣の表門をもち、四方土塁の掻揚式の城である。本丸内部には、石蔵跡や井戸が残り、周囲には、館跡・堀跡が現存する伊賀随一の中世の城跡である。


城主は福地伊予守宗隆で、「満済准后日記」に日置・北村と共に柘植三方と呼ばれ、当地方の国人で あった。

芭蕉翁の先祖は福地氏の一族であるので、この城跡を芭蕉公園と名付け句碑及
び生誕碑を建て後世にとどめることにした。


芭蕉といえば、

    芭蕉句碑
    滋賀県大津市坂本5(西教寺内)  ←  これって明智光秀ゆかりの寺!


「月さびよ 明智が妻の 咄せん」


***************************


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%95%99%E5%AF%BA

西教寺(さいきょうじ)は、滋賀県大津市坂本にある仏教寺院。

天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山である。山号は戒光山、本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は聖徳太子とする伝承もあるが判然とせず、室町時代、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛が入寺してから栄えた。寺名は詳しくは兼法勝西教寺(けんほっしょうさいきょうじ)という。


比叡山東麓の大津市坂本地区の北方にあり、比叡山三塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置する。付近には比叡山の鎮守である日吉大社などがある。西教寺は、天台宗総本山の延暦寺、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)に比べ知名度は高いとは言えないが、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山として、400か寺以上の末寺を有する。




織田信長の焼き討ち[編集]

元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失した。

本堂は焼失の3年後に復興し、焼失した旧本尊の代わりに、甲賀郡(現・滋賀県甲賀市あたり)の浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊とした。


この阿弥陀如来像は現存し重要文化財に指定されているが、この像がもとあった浄福寺については詳細不明である。また、現存する本堂はその後改築されたもので、江戸時代中期の元文4年(1739年)の上棟である。


上記の信長による比叡山焼き討ちの後、
近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。

光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、
寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。

光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。

また、境内には光秀の供養塔が立っている。



やっぱり名張の服部家ゆかりの女性が光秀の妻だったというのは  芭蕉  からも推定できる?
[67]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月01日 11時08分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、レス[61]よりの推理、私もゾグゾグといたしました。「百地」
という名前にも妙に引っ掛かりを感じておりましたし、保章、貞信について
もよくわかっていない、謎めいている。そして大きな問題―「本能寺の変」。
 あを様、伊賀服部氏族の末裔としては、いずれにしても本能寺の変を服部
氏族側からの戦略としてとらえ直さなければならないと思います。それのキ
ーワードは「百地」そして「丹波」だと推測いたしております。今、いろい
ろ資料集めをしております。
 表の歴史は能舞台。役者は操り人形、あるいは象徴。本当は裏で台本を書
き、監督し、プロデュースした人達がいる・・・!?

 とりあえずここで一旦切ります。
[68]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月01日 11時54分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスすれ違いました。いずれにしてもあを様、歴史の核心部分を突いてい
ますので、ここはあせらず一つ一つ的を絞って論考する必要があります。証
拠、状況証拠、アリバイの点と線をつなげ、言葉に移し替えていく作業が必
要・・・これはもう刑事訴訟法の世界だ?! でも我々は自称歴史探偵だから
責任は持たない程度の自由推理で、判断は皆さんにしてもらえばいいのか・
・・!?
 芭蕉は本能寺の変には時代的に直接参加できない時代に生きておりますの
で、これはこれで芭蕉研究のテーマとして分離した方がいいと存じますが、
あを様いかがでしょうか。たしかに芭蕉は伊賀の乱を一種のトラウマとして
持っていると思います。芭蕉探究は深くかつ壮大なテーマです。いろいろ資
料は集めつつあります・・・。 
 天正伊賀の乱―これは「日本の臓物(はらわた)」をえぐり出した出来事で
あったと思います。もちろんその前に仏教側・一揆参加者への強烈な殺戮が
ありましたが。
 「日本の臓物」すなわち裏でうごめく者たちの慟哭が・・・能のシテの
部分のように、死の世界から蘇る・・・本当の人間の本質・仏性の花が心の
中で涙の水に浮びながら咲く・・・。
 天正伊賀の乱・・・これは私にとっても原点となりました。
[69]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月01日 14時56分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 磯田先生のお話の報告を先にいたしたいと思います。
 昨日の講演は主催が「浜松市立中央図書館」で、目的は浜松市の所有する
文化財(古文書、古地図、書、絵画等)を詳細な画像におさめ、それをデジタ
ルアーカイブとしてインターネットで公開するシステムを導入したというこ
とで、市民への広報と説明、そして今後の町づくりへの意見聴取でありまし
た。
 磯田先生は、静岡文化芸術大学の教授であり、岡山出身ではありますが、
今や浜松の一番誇れる、また著名な先生であります。この日も実は東京の
フジテレビで朝の番組「新報道2014」に参加されており、「アレッ今日
は午後より浜松で講演じゃなかったの?」とビックリいたしました。その
番組は、12月2日の総選挙公示を控えての「党首討論会」ということで、
安部首相他、各党の党首が全員集まっておりました。
 私は磯田先生はいつから政治評論家になったのかと不思議に思いましたが、
一番最後に一言、「安部首相、自民党の政治史の中で、政策を実行し最終的
な判断を仰ぐという選択ではなくて、政策の実行途上で、今後悪くなり批判
を浴びるようになる前に解散してしまおうというのは、とても姑息な手段、
党利党略以外の何物でもないのではないか」との発言があり、歴史学者とし
て一矢むくいたなと思いました。賢者は歴史に学ぶというけれど、それは
党利党略のためではなく、真の政治を全うするために学習しなければならな
い事。歴史に名を残すとはそういうことだと言っているように私の心には聞
こえてまいりました。政治家よ歴史を学べ。そして後世の人々にあがめられ
る人間を目指せと言っているような・・・!
 磯田先生の講演は、浜松市が導入したいわゆる「デジタルアーカイブ閲覧
システム」を使用して、実際にどういう活用ができるか市民の前で証明して
みせるといった極めて実験的な講演でありました。これまでにも浜松の町づ
くりに関して数々の意見・アイデアを市に提供しており(市長とは大学の先輩
・後輩でよく気が合うようである)、第二のデトロイトにならぬよう、観光を
主とした新しい産業の育成をしていかなければならないとの認識では一致し
ているようです。
 浜松は今まではモノづくりで成長して来たので、「過去の歴史」のような
非生産的なもの、経済発展に貢献しないものには目を向けて来なかった。これ
からは人口が右肩下がりに下がって行く時代なので、今までのやり方は変え
ていく時代にさしかかっている。観光―それは今までのように、自然を開発す
るリゾート開発を意味するのではない。歴史を語る観光へ、歴史を「見える化」する観光開発を計れ。看板を増やし、歴史を物語れるボランティアを増
やし、観光客に喜んでもらうようにする。歴史を楽しむことは、心の中のリゾ
ート開発である・・・等々、心ワクワクする話が続きました。
 画像を使った話では―
 1.「徳川16神将図」を拡大して見せてくれ、衣に織り込まれた家紋が
 わかりました。もちろん家康は「丸に三つ葉葵」、服部半蔵正成は「源氏
 車に並び矢はず」(総領家の家紋)でありました。
 2.安藤広重の「東海道五十三次」では、浜松の宿で「ざざんざの松」の
 看板が見えるということより、絵を描いた場所がほぼ特定されました。
 3.浜名湖の古絵図では津波の様子がわかりました。
 4.三方が原の合戦絵図では、隊列より軍の人数、家康のいた場所等々が
 わかりました。
 5.浜松城の絵図からは、関ヶ原の合戦以前には天守閣があった。それは
 松江城、黒田勘兵衛の作った城(なんと言ったか聞き取れなかった)にも
 面影を残したということであった。
 このように、次から次へと歴史の化石が磯田先生の手で発掘され解明され
ていくと、著作も矢継早に次から次へと出されて行くのだろうなと想像いた
しました。今後も磯田教授から目が離せません。
 また、是非浜松市のデジタルアーカイブもご覧になって下さい。
 「浜松市立図書館」でクリックなされてもいいし、また正式には、
 http://www.lib-city-hamamatsu.jp/
です。
 今、デジタルアーカイブ化されている資料は、テーマ別にいうと、
 1.徳川家康と三方原の合戦
 2.絵図 浜松城と城下の絵図
 3.絵図 国絵図
 4.絵図 その他
 5.災害の記録 絵図
 6.災害の記録 資料
 7.賀茂真淵と遠江国学
 8.地誌・古記録
 9.浜松の明治以降の資料
 10.浮世絵
です。
 
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月01日 15時18分38秒 ) パスワード

再度書き直し(大恥)

コイツが悪いヤツ
の矢印がまたまたずれてました。


http://www.kobe-service.net/~tabinikki/data/mie/nabari_jo.html

名張城


所在地 三重県名張市
近鉄名張駅西350m名張小学校北西すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2007/10/24


現存する屋敷の一部 戦国時代、名張には土豪の小さな城砦があったといい、当時の城主として服部保章という名も見えるが、定かではない。ただ、この名張周辺は、世間では伊賀忍者として名が通っている伊賀の地侍集団の一派、服部氏の所領だったらしく、服部氏に繋がる武将が居していたのは間違いなさそうだ。


名張城が本格的に築かれたのは桃山時代に入ってからで、
天正13年(1585)に伊賀へ入部した筒井定次が家臣松倉勝重(重信)を名張に封じ
勝重が子重政の縄張で城を築いた。


しかし、家老職を引き継いでいた重政は、
定次を諌める為か翌々年に筒井家から出奔してしまい、


代わって桃ヶ谷国仲が入城している。
       ↑
    コイツが悪いヤツなのよね


             ワルは桃ケ谷国仲です。
             酒池肉林に誘ったヤツ 


その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際には、筒井氏の本拠である上野城が西軍の新庄直頼によって落城しており、この名張城にも何らかの影響があった可能性もあるが、詳細はよく判らない。ともかく、戦後も定次は領地を安堵されて支配を続けたのだが、8年後の慶長13年(1608)には改易となっている。


この改易の理由としては、新旧家臣の対立説や政務倦怠説、京に近い伊賀を定次に任せることに家康が不安を抱いたという説、定次がキリシタンであったという説など、いろいろと挙げられているが、実際の理由はよく判っておらず、上記の理由が複合された結果なのかもしれない。


筒井氏の没落後、伊賀は藤堂家に与えられ、高虎が伊予から移ってきた。高虎は伊賀上野城と伊勢の津城をそれぞれの国の中心と考えており、名張には一族とも繋がりのある梅原武政を城代に据えたが、統治する上で不手際があった為、後に上野城代を務めていた高虎の異母弟高清に上野城と合わせて支配させている。


その後、寛永12年(1635)に伊予から伊勢へと替地となっていた高虎の養子高吉が翌年から名張へと入り、維新まで高吉の系は名張藤堂家として続いた。


ちなみに、高吉は丹羽長秀の三男で、最初は秀吉の弟秀長の養子となり、次いで高虎の養子になったという複雑な経歴を持っている。

高虎は、最初は後継者にと考えていたが、実子高次が生まれてからは冷遇したといい、このような背景もあって本家と名張藤堂家は仲が悪かったという。

後に名張藤堂家内で独立の画策などもあったが、結局は名張藤堂家領は名張藩として対外的に独立したものとはならず、あくまで藤堂家の藩内の分知のままであり、従って、名張城も名張陣屋と呼ばれていた。


現在の城跡には、名張藤堂家の屋敷が一部残っている以外、これといった遺構は無い。地形を見れば、屋敷のある一帯が周囲より高くなっており、かつてはこの高低を利用した平山城であったのは一目瞭然であるが、宝永7年(1710)に大火に見舞われた際に屋敷の大部分が焼けたというから、かつての城郭建築物としてなんとか残っていた建物類も焼け落ち、城としての面影が一掃されてしまったのだろう。

現在残っている建物は、この大火の後に再興された屋敷の一部で、当時の上級武士の住まいがどのようであったかがよく解るが、やはり城跡としては寂しい。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月01日 15時48分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


たくさん情報をありがとうございます。


磯田先生には本当に感謝です。
この先生は我々に「真に歴史から学ぶにはどうしたら良いか」を教えてくださいます。

アーカイブ
拝見しますね。


それにしても売れっ子になってますね。
学者は本代が要るからテレビに出るのも本代稼ぎというのもあるかもですね。



>表の歴史は能舞台。役者は操り人形、あるいは象徴。
>本当は裏で台本を書き、監督し、プロデュースした人達がいる・・・!?


はい
誰なんでしょうね。


多分、貞信じゃないかな?と想像しています。
この呉服明神の神職はなかなか喰えない男だったんじゃないかなと。
子孫が結構出世してますしね。

   事件は現場で起きている・・・じゃなかった・・・京都で起きていたのに
   宇治田原にいたであろう人間がどうして堺にいた家康の脱出に間に合ったのか?


多分
明智から前以て、名張在の岳父の保章へ、信長とその仲間の殺害を手伝えと話があって
  保章は正尚や半蔵に知らせていたのではないか?
  半蔵は家康に知らせ
  京都にいたであろう貞信は急遽堺に走って信長が殺されたことを知らせ
伊賀あたりの服部系の手下を集めて家康を逃がしたのではと。


他にもいろいろ想像はします。


家康は茶会に出ずに堺で遊んでた?
信長の茶会に家康が出なかったというのも不思議です。
出た後で堺に行った?


ま、楽しい推理です。



百地は伊賀の乱の後、喰代砦には戻っていなかったようで、おとなしく隠居してたんでしょうか?
それとも画策してた?


逆に明智を使って信長を暗殺させたのは伊賀の人々?

空想はとどまる所を知らないです。
あはは
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月01日 16時54分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の推理はあたりますので、今後裏付けとなる事実・資料等を集める
努力をしてみます。

 なんだか、江戸川乱歩の明智探偵を思い出しますね。

 私は「エドカ―・アラン・ポウ」を卒論としました。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月02日 03時31分32秒 ) パスワード

ポーですか。
いいですね、ポー。

ポーの名前を知る前に「映画  アッシャー家の崩壊」を見て、スケールの大きな物語の面白さに戦慄しました。

ちょこちょこ読みましたが
「レイブン」の詩にも衝撃を受けました。


でも人物は、こういう人はイヤです。
壊れている。

丁度、石川啄木(とか野口英世)とかみたいに、生活圏を共にするのはイヤです。


友人は「人間性がどうだったかなんてどーでもいい、作品が大事なんだ」と云いますが
作品は素晴らしくても人間が壊れてたらガッカリです。

   遠巻きに見てる分には面白いけど。
   巻き込まれるのはゴメンです。
   笑
   安定した生活が希望ですから。
   あはは



服部=きたむら=保章の名張「城主」の件ですが

たぶん名張の有力者だったのだろうなと思います。
百地丹波が出て行った後の有力者あたりかなと。


近江国北村に住していたから北村氏ということで
藤堂との関係がアヤシイ❢
[75]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月02日 07時07分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の言われるとおり、自己破壊的な人間が小説家の中にはおります。私
はその当時パトグラフィー(精神病理学的解析)というのに興味を引かれ、文章
にあらわれた作家の心理学的、どちらかというと精神病理学的解析にいどんだ
という次第です。自分の過去の話など余りしたくなく思っておりましたが、こ
の年になると、恥ずかしく思う気持ちもつい忘れ、うっかりもらしてしまいま
した。
 今、北村氏について調べていますが、保章は本能寺の変の後、近江の北村
に隠棲しむ、北村姓に改姓しているという事実があります。
 いずれにしても、陰にうごめく者ありということ。伊賀の人間たちはみな
信長に対し怒りを抱いていたわけですが、組織てきには家康を中心とした
服部氏族の諜報活動がネットワークとして働いていた。正尚が一番先に家康
のところに本能寺の変の発生を知らせたということですから。そして保章が
正尚の従兄弟、その従兄弟の娘が光秀の妻。ということは、やはり正尚及び
保章が情報を一番知り得る環境にあったということになる。信長暗殺につい
ての計画は正尚と保章が一番知っている・・・。果たして・・・

 ここで一旦きります。
[76]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月02日 09時12分58秒 ) パスワード

空の青うみのあを様

 北村氏と藤堂高虎の関係・・・ということで、北村という所をちょっと調
べてみますと、近江野洲という所。高虎の父虎高の出身地が犬神郡というこ
とはほとんど彦根に近い。野洲、近江八幡、彦根・・・近江一帯は大田園地
帯なので、ほとんど同じように見える。ただ領主の違いだけの問題。
 やはり、藤堂高虎と近江商人の関係か・・・匂ってくる。近江商人を調査
します。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月02日 22時48分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


北村って野洲ですか。

そうすると東というか東南というか  それこそ  水口とか甲賀伊賀に繋がるじゃないですか。


   「水口」で引っ掛かりました。5奉行の1人 長束正家。
    父の名は 水口盛里  と言います。


人間関係でも秀吉恩顧の大名に繋がるし、忍者にも繋がるし、やっぱりアヤシイ。



>ただ領主の違いだけの問題

この領主達を陰で繋いでたのが   ?   ですね。

北村と水口は実は陰で仲間だったかも。


近江商人ならアチコチ商売して歩いていたでしょうし。
忍者も同行してたかも。


面白くなりました。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月02日 22時52分43秒 ) パスワード

服部氏北村家とは関係が無いかも知れないですが。




北村 宗龍(きたむら そうりゅう、天文21年(1552年) - 寛永20年(1643年))

江戸時代初期の医師・連歌師。近江国出身、北村季吟の祖父[1]。




生涯[編集]

天文21年(1552年)近江国野洲郡北村(現滋賀県野洲市)に、北村正頼と妻谷権右衛門の娘との間の三男として誕生し、通称宗三郎・助庵とも号した[2][1]。医を曲直瀬道三に学び、連歌を里村紹巴に教えを受けた[2][1]。曲直瀬道三の推挙により毛利元就の八男元康の侍医となり、一時毛利家より300石の禄を賜った[2][1]。

北村に戻り、医業の傍らで永原天神連歌宗匠として野洲郡一体の連歌指導に勤めた。永原天神は建久元年(1190年)源頼朝が上京に際し連歌奉納を行ったことから、連歌との関連強く、永禄元年(1558年)今川義元も千句会興行を行った。また、江戸時代には天領代官出席の上、正月13日に「十梅千句」を社前に奉納することが慣わしとされていた[2]。

晩年は連歌・茶の湯を楽しみ寛永20年(1643年)死去し、法名は石心宗龍居士。医家と永原天神連歌宗匠は長男北村宗与が継ぎ、次男宗円は京において医を生業とした。北村季吟は宗円の嫡男とされる[2][1]。

         ココね
          ↓
なお、宗龍の妻は長束正家の娘で寛永18年(1641年)死去した。宗龍の兄北村正昭の流より儒学者北村可昌が生まれる。
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月02日 22時59分14秒 ) パスワード

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芭蕉と近江と北村との関係
以下コピペ:


近江は俳句の盛んな国である。むかし近江商人の隠居は教養のひとつとして俳句をたしなむ風があった。その背景には芭蕉の存在が大きい。

芭蕉がはじめて琵琶湖の美しい風景に接したのは、
当時京で活躍していた近江の国、野洲出身の歌人北村季吟を訪ねたときであった。
                    ↑
                  野洲・北村季吟

                   アヤシイ!


山里に生まれ育った芭蕉が峻険な鈴鹿の峠をこえてまもなく目のあたりにしたのは、比叡や比良の山々を背おって海のように広がる絵のような湖であった。修業時代の若い芭蕉はその後も幾度となく、湖南の風景を左右に見ながら、京と伊賀上野の間を往復したことであろう。

「老後はここで過ごしたい」
そう思うにはまだ若すぎたかもしれないが、多感な青年なりに考えることがあったにちがいない。晩年の2年近くを大津に過ごした芭蕉はその時期に、藩士、医者、町人、豪商、住職、能役者など多様な人達との交流を楽しんだ。実際、芭蕉は大津湖南地方を訪れること8回におよび、近江の風景や人間に深い愛着を抱いていたように思われる。

「死後もここで過ごしたい」
芭蕉はそのことを遺言した。


    ↑

   そうなの?
   ここに服部・北村保章とその娘と明智も絡む?


芭蕉の生涯の作品は980句確認されているらしいが、そのうち1割近くの89句が大津湖南地方で詠まれているという。奥の細道の52句に比しても、近江の密度の高さがわかる。36俳仙とよばれる弟子の国別分布をみても、近江12、江戸5、美濃・尾張各4、伊賀3、等で近江が群を抜いている。

芭蕉の近江好きは「行く春を 近江の人と 惜しみける」という句に代表される。その句は司馬遼太郎をいたく刺激して、彼を芭蕉に劣らぬ近江ファンにしてしまった。

芭蕉の跡をたどってみたい。芭蕉の句から滋賀県に関するものを時系列に拾ってみることにする。
暦は陰暦である。約40日遅らせると太陽暦の季節感にシンクロナイズする。芭蕉は毎年8月15日になると月見をして名月を愛でているが、それは今のお盆ではなくて秋分の日の仲秋の名月のことである。旧暦の秋は立秋(新暦の8月8日頃)から始まり立冬(新暦の11月8日頃)に終わる。9月23日頃はその中間点にあたる。仲秋は中秋とも書き、秋の真ん中のことである。

          ココから

            ↓

大津近辺の土地の名前になじむために国鉄の駅をたどって位置関係を確認しておく。大津を起点として東へ東海道線沿いに、膳所―石山―(瀬田の唐橋)―瀬田―草津と北上する。草津で東に折れると旧東海道にそって、水口を通り鈴鹿トンネルを抜けて伊賀の国に入る。そこから芭蕉の故郷である伊賀上野まで遠くない。

草津をそのまま北上するのが中山道で、守山―野洲―近江八幡を経て彦根、大垣に至る。西大津から湖西線が出る。唐崎―比叡坂本―雄琴―堅田…志賀―比良をとおり高島、安曇川、今津を経て福井県敦賀に至る。

湖南滞在中の芭蕉の行動範囲は大津を中心に東は瀬田まで、西は堅田までと解してよかろう。むろん、芭蕉はその全行程をつうじて滋賀県を通過する東海道と中山道を踏破している。

芭蕉は1644年(正保元年)甲賀と並ぶ忍者の里、伊賀上野の農民武士、松尾与左衛門の次男宗房として生まれた。10代後半ごろから俳諧をはじめ、京都の貞門七俳仙として著名な北村季吟に教えを受けた。29歳の春、専業の俳諧師となるべく江戸に向かう。それまで主流であった古風な貞門俳諧と、大坂に起こり新鮮な機知と滑稽で人気を得つつあった西山宗因率いる談林俳諧の二派が競い合っていたころである。

1674年(延宝2年)の春、芭蕉は伊賀上野へ帰郷した折、北村季吟から免許皆伝の証として、秘伝である俳諧論書『埋木』を授与された。一方で翌1675年には、江戸に来遊した西山宗因を歓迎して句会を開いている。芭蕉は結局季吟による貞門俳諧から談林俳諧に転向した。やがて俳諧宗匠としての地位を確立していく。

その頃、1677年夏に詠んだ句に近江蚊帳がでてくる。

  近江蚊屋 汗やさざ波 夜の床

さざ波は琵琶湖のこと。琵琶湖を思わせたのは蚊帳の青さであろうか、あるいはそれをもたらした近江商人であったろうか。

間もなく芭蕉は文学としての俳諧を志し、都心を離れて深川村に隠棲した。佗びと風雅を求める生活に入ったのは芭蕉37歳の時のことである。この深川の住まいには門人から贈られた芭蕉が見事に茂って、近所の人々は「芭蕉の庵」と呼んだ。

以下略
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 02時29分51秒 ) パスワード

http://www.kakeisi.com/survey/survey_siga.html

近江国の名字を見て来ました。


滋賀県のご先祖調べ

令制国の近江国に相当します。
古くは「淡海(あはうみ)」と呼ばれていましたが、京に近いことから「近江」の字があてられました。 ちなみに海とは琵琶湖のことです。
滋賀・栗太(くりた)・甲賀(こうが)・野洲・蒲生・神崎(かんざき)・愛智(えち)・犬上(いぬかみ)・坂田(さかた)・浅井(あさい)・伊香(いか)・高島(たかしま)の12郡で構成されていました。


■戦国期以前の滋賀県
鎌倉時代になると宇多源氏佐々木一族が近江国を支配し、戦国末期まで約400年君臨します。
近江国を湖北、湖南、湖西の三地域に分けてみると、湖北では佐々木一族の京極氏が支配し後に家臣の浅井氏が台頭します。
湖南は守護佐々木六角氏が戦国大名として支配、東南の甲賀地域には国人・土豪の小勢力による地域支配が行われていました。 湖西では佐々木一族の朽木氏が勢力を持ち、比叡山延暦寺も力を持っていました。


■滋賀県の名字
近江国の中心勢力である佐々木一族をみてみます。
近江の佐々木氏は佐々木信綱の四人の息子(大原重綱・高島高信・六角泰綱・京極 氏信)から広がったといわれています。
ではどのような苗字が分出したかみてみましょう。

 大原重綱・・・朝妻・島脇・高山・白井・本江・夫馬・竹谷
 高島高信・・・朽木・永田・市原・横山・田中・原・平井・下坂
 六角泰綱・・・堀部・森川・唐橋・鳥山・佐々・西条・愛智河・山内・鳥羽・上総・
  駒井・藤島・川島

 京極氏信・・・鏡・岩山・松下・長岡・一円・近江・岡田・松田・浜河・高橋・郡馬・
  金吾・尼子・江浪・完道・宇賀野・多田・永谷・高田・倉知・餅田・高屋・岩山・
  鞍智・黒田・大鹿・田中・塩谷・田辺

その他にも、佐々木信綱の弟・馬渕広定・・・長江・堀部・青地
 同弟・佐保時綱・・・山中
 同弟・伊佐行綱・・・大山

 佐々木信綱の 叔父・加地盛綱・・・磯部・小島・高浜・倉田・東郷・中村・野村
 同叔父・吉田厳秀
 同叔父・佐々木義清・・・富田・賀野・山佐・羽田井・高岡・広瀬・別府・塩冶・乙立・
  田原・下山・吉田・福依・高木・阪谷・上郷・坂田・後藤・駒崎・古志・荻原・重栖・
  南浦・湯・佐世・垣・山根


 次に佐々木氏以外の一族も見てみましょう。

清和源氏では、浅井郡山本に起こる山本氏、甲賀郡柏木に起こる柏木氏、坂田郡箕浦に起こる箕浦氏、浅井郡錦織に起こる錦織氏、浅井郡速水に起こる速水(早見)氏があります。これらの氏族は源平合戦の頃には登場しています。
その他に、平井、栗田、小椋、山田、和南(わなみ)、梅林、山上、大町、高岸、御園、岸下、林田、石塔、森、米井(よない)、奥、樋口、柳、河曲(かわわ)の諸氏も清和源氏といわれています。

藤原氏では、神崎郡国領に起こる国領氏、滋賀郡真野に起こる真野氏、愛智郡鯰江に起こる鯰江氏がいます。豪商三井家は鯰江氏と同族といわれています。

紀氏では、織田信長の家臣瀧川一益を出した瀧川氏があります。

古代氏族では、建部(たけべ)君の末裔として建部、日吉氏があり、三上祝の末裔として三上氏、蒲生稲寸の末裔として蒲生氏があります。 戦国大名の蒲生氏郷はこの一族です。


戦国大名でいえば、佐々木一族を押さえ戦国大名に成長した浅井氏がいます。これは三条公綱の末裔ともいわれますが、実ははっきりしていません。

           藤堂氏
            ↓
伊勢国津藩の初代藩主藤堂高虎は犬上郡藤堂に起こる一族、藤原姓とも中原姓ともいわれています。



甲賀郡には伴氏の一族として甲賀、平松、大原、山岡があります。

甲賀といえば忍者ですが、甲賀衆と呼ばれる党を作っていました。
甲賀衆には次の名字があります。

 頓宮(はやみ)、大河原、土山、佐治、大野、神保、隠岐、高峯、和田、上野、竹島、笹山、勝井、山岡、竹林、瀧、飯田、池田、望月、服部、芥川、鵜飼、内記、山中、伴、美濃部、中山、岩根、新城、八田、宇田、儀峨、大原、上野、多喜、池田、鳥居、大久保、大野、土山、平子、鮎川、黒川、饗庭(あえば)、葛城、山上、青木、宮島、針、夏見、杉山、長野、多羅尾、倉地、杉谷、三雲、牧村


 滋賀県の苗字トップ20位をあげると、以下の通りです。

1田中 2山本 3中村 4西村 5山田 6北川 7中川 8木村 9林 10清水

11井上 12小林 13北村 14吉田 15辻 16奥村 17西川 18森 19伊藤 20藤田


滋賀県の名字は、典型的な西日本タイプです。
「田」の付く名字が多く、稲作文化の先進地域の影響がみらます。
また「山」「木」「林」「川」などの自然地名や、集落をしめす「村」の付く苗字も多くみられます。
これも農耕社会を影響を受けている苗字です。

さらに「北」や「西」の方角が付く苗字が目立ちます。



■江戸時代の滋賀県
 江戸時代の近江国は西国の抑えの井伊彦根藩が北部の大部分を占め、その他は膳所藩、水口藩、大溝藩、西大路藩、宮川藩、山上藩、三上藩といった小藩、 交代寄合の最上家の大森陣屋、交代寄合の朽木家の朽木陣屋、さらに他国の諸藩領や天領なども入り交じり、複雑な領地区分となっていました。


廃藩置県時に滋賀県に存在した藩は以下の通りです。

藩名 城下町 主な藩主の変遷
彦根藩 彦根市 井伊氏
膳所藩 大津市 石川氏→本多氏
水口藩 甲賀市 鳥居氏→加藤氏
大溝藩 高島市 分部氏
仁正寺藩 日野町 市橋氏
山上藩 東近江市 安藤氏→稲垣氏
近江宮川藩 長浜市 堀田氏
三上藩 野洲市 遠藤氏


この他に堅田藩(堀田氏)・朽木藩(朽木氏)・大森藩(最上氏)・近江高島藩(佐久間氏)・近江小室藩(小堀氏) がありましたが廃藩となっています。



■滋賀県の家紋
 滋賀県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、滋賀県の家紋トップ10は次の通りです。

1位 片喰 2位 鷹の羽 3位 柏 4位 木瓜 5位 梅鉢
6位 桐 7位 目結 8位 藤 9位 橘 10位 蔦


日本の十大家紋と比べると、茗荷紋と沢潟紋がランク外となり、かわりに目結紋と梅鉢紋がランク入りしています。


このなかで滋賀県の代表する家紋は佐々木氏の定紋目結紋です。
実際、近江を発祥とする佐々木一族の多くは「目結紋」を使用しています。
そのため目結紋使用家はその出自を佐々木氏と判断してしまうほど認知されています。

ちなみに佐々木氏の氏神沙々貴神社の神紋は「平四つ目」といいます。



■滋賀県の寺院
 滋賀県の寺院をみてみましょう。

『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、滋賀県の宗派別の割合は以下の通りです。

    湖北・湖東(彦根・近江八幡等) 湖西(高島) 湖南(大津・草津)
天台宗 7%              12%       22%
真言宗 4%               4%        2%
曹洞宗 5%              34%       4%
臨済宗 6%               3%        4%
浄土宗 10%              7%       26%
浄土真宗 63%            40%       36%
日蓮宗 1%               1%        2%
黄檗宗 2%               0%        1%
その他 2%               0%        3%

滋賀県全体を通して浄土真宗の寺院が最も多くあります。北陸地方に次ぐ真宗王国です。

湖南地域は天台宗の本山比叡山の麓、寺門派三井寺もあり、天台宗の寺院が多くあります。 これに対して真言宗寺院が少ないのが特徴的です。 真宗寺院が多いこともあり、古い墓石は多くありません。

■滋賀県の神社
 近江国一之宮は建部大社です。
 主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。
 日本武尊は熊襲・東夷を平定された武勇の皇子で、32才の若さで伊勢国において崩御されました。 その後、妃の布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部に尊の神霊を奉斎されたのが始まりとされます。
とくに源頼朝が伊豆に流される途次、建部大社で源氏再興を祈願し、ついに平氏討伐・源氏再興の宿願が成ってから、武運来運の神として信仰を集めました。
 建部大社の祭祀は、建部氏(祭神・日本武尊の後裔)があたっています。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 03時07分18秒 ) パスワード

読み返したら結構面白い話がいくつか読めました。それで再度アップ:

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/4898/ninbetsu-h.htm

忍者人別帳(復習)


◆服部 笠之助 正長 はっとり かさのすけ まさなが
  ※笠之助伝に記載。

◆服部 笠之助 正尚 はっとり かさのすけ まさひさ
  ※  [小] まほろばの城/典厩 五郎著/新人物往来社刊
に記載。
  [小] まほろばの城/典厩 五郎著/新人物往来社刊


◆服部 七右衛門 忠頼 はっとり  しちえもん  ただより 1549〜1615

 平八郎。青山図書助成重。伊賀者 服部平蔵正信の次男。
             正尚の弟ですね

妻は北条家家臣 恒岡越後守常自の娘。元亀2(1571)年 母方の縁者である青山忠重の養子となり、青山平八郎を名乗る。天正12(1584)年 、兄平太夫の推挙により江戸に召されて徳川秀忠の傳役となる。慶長8(1603)年 従五位下に叙し図書助に改める。江戸開幕期には、秀忠付きとして参政し老職(老中) となり、1万石を領し大名の列に連なる。慶長18(1613)年大久保長安の三男権之助成国 を養子に迎えていた為、長安の死後に発覚した金銀横領事件(大久保長安事件)に連座し 7千石を減封され、下総国香取郡の采地に閉居する。大坂冬の陣の折、密かに本多佐渡守 正信の指揮下に従って出国した所、勘気を受けている身である事を咎められ掛川宿より 帰国する。夏の陣にも参陣したい旨を本多正信を通じて願い出たが、病気を患った為 適わなかった。その年の9月に死去する。法名英徹。嫡男成次がいたにもかかわらず、 なぜ大久保長安の子を養子に迎えたのかが謎である。大久保長安と服部半蔵家とが血縁 関係を結んだのと同じように、能役者と忍者を結ぶ何かがあったのかも知れない。


◆服部 甚右衛門 はっとり じんえもん ( 印代判官 いじろほうがん )


◆服部 出羽守 保章 はっとり  でわのかみ  やすあき 生没年不詳
  保光。のち喜多村(北村)氏。
  服部平太夫の従兄弟。
  伊賀柘植 (一説に名張)城主。

  娘は明智光秀の後妻で、天正10(1582)年一月には坂本城 で光秀の末子(内治麻呂)を出生している。
              出産してたのは知らなかった

   天正伊賀ノ乱で恨みを抱いた出羽守が、 明智光秀を唆し本能寺で信長を襲わせたのではないかとも考えられる。


              ああ、やっぱり

徳川家康 の神君伊賀越えでは、柘植城で家康一行を迎えて謀殺しようとしたが、
従兄弟である服部平太夫に見抜かれて未遂に終わった。

              そういうことだったの! 


この為に柘植城を追われ、近江国北村に隠れ棲み北村(のち喜多村)と改姓した。


他に明智光秀の後妻となったとする伏屋姫の伝承があるが、父親の名を服部鳥羽守としている。
鳥羽守という呼称は、国司の官位名としては誤伝(あるいは鳥羽一国という見方があるのか?)のような気もするが、出羽守と同一人物を指すのかは不明である。

服部出羽守の出自については不明であるが、伊賀の地誌などから推測できる。


  平頼盛(清盛の弟)の家臣平宗清が、 平氏滅亡後に流浪の果てに旧領地の柘植郷に棲みついたが、
   宗清には3人の子があり、

   長男は日置氏を称し下柘植を本拠とした。
   この日置氏が柘植一族の祖で、松尾芭蕉もこの一族である。


   次男は天正伊賀ノ乱に名が出てくる福地伊予守宗隆の祖で上柘植を本拠とした。

   三男が北村氏を称して中柘植を領した。
   これが服部北村氏の祖ではないかとも考えられるが、
   出羽守は近江の北村に移り住んでから北村(喜多村)氏と称したとも伝えられるからはっきりとはしない。
 

秦造酒公の子孫で、伊賀国阿山郡の城土佐守秀友が服部出羽守を名乗ったというから、
こちらの方が同一人物あるいは血縁者である可能性が高いと考えられる。

この出羽守の弟は 菊永右近太夫を称して、一族の兵部という者は兵術を以って世に聞こえた剛の者であったが、朝鮮役で戦死したという。



◆服部 半蔵 正重 はっとり はんぞう まさしげ 1580〜1652
  長吉。伊豆守。服部正成の次男。
  妻は大久保石見守長安の娘。

  半蔵正成の遺領のうち3千石を継ぐ。
  関ヶ原の戦いで抜駆けの罪に問われたが、結城秀康の口添えで許された。

  その後、家康の命で 服部半蔵3代目を襲名する。

  舅の金山奉行大久保長安と交互に佐渡金山を統制した。

  慶長18 (1613)年 、大久保長安の死後に金銀の不正蓄財が発覚して一族が処罰される事件(大久保長安事件)が起った時、

  正重は任地の佐渡に居たが、この変事を知り佐渡に留まる事を憚って出国してしまった。

  正重が越前国出雲崎までに至った時、幕府よりのお構い無しの奉書が届き、これを受け取ったが、
  許可無く任地を離れたる事が不届きであるとされ村上周防守義明に預けられた。

  村上家が断絶後は 堀丹後守直寄に預けられ、その後に赦免の沙汰があり堀家の家臣となる。
  しかし堀千介直定の代で 断家し流浪する。


  その後は、兄嫁の弟である松平越中守定綱に仕え、桑名藩で二千石を与えられる。
  息子の正吉には千石を与えられた。


  北島藤次郎著『史実大久保石見守長安』に、興味深い話しが載っているので紹介したい。

  能狂言の大蔵柳家譜によると、
  大蔵正左衛門信広(休岸)の後妻は長安の娘で、
  更にその娘が大蔵流十四代大蔵弥右衛門栄虎に嫁いでいるというのである。
 
  長安の娘は二人であり、
  一人が服部正重の妻、
  もう一人が三井十右衛門吉正の妻というのが通説となっている。
        ↑
       三井が出て来ましたよ!


  大蔵信正の後妻とあるのは、長安にもう一人の娘があったものか、
  それとも服部・三井氏のどちらかの妻が再婚したのかははっきりしていない。
 
  北島氏は仮説と断った上で、
  大蔵信広というのは服部半蔵正重の芸名であったのではないかと述べられておられる。

  忍者と能を結びつける話しとして非常に面白い説である。

  残念ながら推測の域を脱していない話なので、もっと究明してみる必要があると結ばれておられる。

  さすがに北島氏も、宝生流として残った簑笠之助家(長安の三男成国の養父 青山成重の兄)の事には触れられていない。(2002.3.1一部更新)




◆服部 半蔵 正成 はっとり はんぞう  まさなり 1542〜1596

石見守。服部保長(正種)の6男。「鬼半蔵」・「槍半蔵」などの異名を取り、徳川16将のひとりに 数えられている。伊賀組頭領。16歳で初陣し、伊賀者6、70人を率いて、三河宇土城の夜討に成功 したと言われるが、信憑性に乏しい。

  武田の間者・竹庵という者が岡崎信康に接近した時、その者を討 ち取ったという。謀反の疑いから信康に切腹の命が下った時には、その介錯役として信康の許へ赴いたが、 主君の息子を討つ事が出来ず、検死役の天方山城守通綱が代わって介錯したという。のち江戸の麹町に 安養院(西念寺)を建立し信康の霊を弔った。三方ヶ原の戦いでは、伊賀者150人を率いて奮戦した。

   天正10(1582)年、本能寺の変が勃発した時、堺の町に遊んでいた徳川家康を伊賀越えにて脱出させた。 もっとも異説もあり、半蔵が伊賀越えに随行していなかったとしているものもある。山岡荘八の小説 「徳川家康」には、伊賀越えの話に半蔵は登場していない。伊賀越えで家康を護衛した伊賀者200人余り の者は、半蔵に預けられ「鳴海伊賀ノ衆」と呼ばれた。

   慶長元(1592)年病没し、安養院に葬られた。法名 西念。安養院は、
   のちに半蔵に因んで西念寺と改名され、四谷へと移転している。


   [小]服部 半蔵 全5巻/戸部 新十郎 著/毎日新聞社刊
   [コ]半蔵の門 全14巻/小池 一夫・小島剛夕著/角川書店刊
     男弐 (おに) 全7巻/小池一夫・伊賀和洋著/集英社刊

画像右:写真は千賀地城址の服部半蔵供養塔
※この絵は森郁さまから提供して頂きました。






◆服部 半蔵 正就 はっとり はんぞう  まさなり 1565〜1615
  源左衛門。石見守。服部正成の嫡男。妻は松平隠岐守定勝の娘・松尾姫。半蔵正成の遺領のうち5千石を継ぎ、与力7騎・同心200人を預かる。 しかしながら正就は不肖の二代目だったらしく、伊賀同心を私兵のように扱い、そしてついには慶長9(1604)年、伊賀同心 たちが正就の罷免と自分たちの待遇改善を訴え四谷の長善寺に立て篭もったのである。忍者の起したストライキに対して 幕府の下した処分は、伊賀同心を大久保甚右衛門忠直・久永源兵衛重勝・服部中保正・加藤勘右衛門正次の旗本4名に分属され、 首謀者10名は処罰するというものであった。しかし、首謀者のうち2名が逃亡し、これに怒った正就が伊賀同心と誤って伊奈 備前守忠次の従者を斬殺してしまったのである。正就は閉門となり松平定勝に預けられた。大阪の陣において家名再興をかけ 松平上総介忠輝の陣に参戦するが、5月7日天王口において討死する。残された三人の遺児たちは、それぞれ松平忠勝から分家した桑名藩・松山藩・今治藩の重臣として代々仕えている。一説によると、大坂の陣の後に越後国萩城下に逃れた後、 正就まさなりの読み方を 正就まさちかと改め、燕に移り百姓となって暮らし75歳で没したという。



◆服部 半三 保長 はっとり はんぞう やすなが 生没年不詳

正種。浄閑入道。服部は北伊賀の知賀地に本拠を持つ服部一族の長 保長は、伊賀を離れて将軍 足利義晴に仕えてのち三河の松平清康・広忠・家康に仕えた。某年、岡崎において死去する。

[小] 魔界の忍者 服部 半蔵 保長/竹内 勇太郎著/光風社刊

画像右:写真は千賀地城址



  [小] まほろばの城/典厩 五郎著/新人物往来社刊



保田 采女 元則 [やすだ うねめ もとのり]1582-1660 wpe11.jpg (1568 バイト)
左助。左十郎吉次。初代藤堂采女。服部保長の長男 保元の孫で、千賀地半蔵則直の三男(もっとも異説あり)。妻は藤堂家の侍大将 佐伯惟定の娘。父を幼くして亡くした為、兄の甚兵衛則宗とともに紀州有田郡保田庄を領する伯父の保田栄西に育てられた。栄西の主君 豊臣秀長・秀俊父子に仕えた。その後は増田長盛に仕えたが関ヶ原の戦いで浪人していたところを藤堂高虎に拾われた。新参でありながらも藤堂姓を与えられ一門並の扱いで遇されている。高虎が伊勢・伊賀の国主となってからは、伊賀上野城の次席家老を経て同城代家老となる。元々伊賀忍者の棟梁筋に生まれである采女に、新領地である伊賀の郷士たちの懐柔に当らせたのである。忍者を含む伊賀の郷士たちは、藩士や無足人として藤堂家に召抱えられた。その後は、一時期を除き代々采女家が伊賀上野城々代家老を世襲している。



http://www.ne.jp/asahi/ninja/kasa/essay/essay01.html

笠之助伝が見つからず ↑ がありました:


笠之助随筆集 其之壱  kasanosuke's essay vol.1


能と忍者 〜 秘すれば花 観阿弥と世阿弥 〜

忍者の秘伝書『正忍記』の中に、変装術「七方出」として、七つの職業が紹介されているが、そのひとつに「猿楽師」(能役者)がある。

  能の大成者である観阿弥・世阿弥の出生地を伊賀とする『上嶋家文書』をめぐっては、頑なに大和出生説を唱える能楽研究学者からの痛烈な反論を食らうところとなり、その真相は未だに闇のベールに包まれている。

昭和三十七年に上野市(現伊賀市)の旧家から発見された『上嶋家文書』によると、伊賀服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の兄弟であるのだという。そもそも、この『上嶋家文書』なるものが江戸末期に書かれた写本であり、正成の甥が観阿弥だとする事自体が余りにも出来過ぎた話しなので、偽系図ではないかというのが大半の学者たちの主張である。

 確かに、江戸期には系図作りが商売になるほど偽系図が横行していたというのだが、わざわざ世阿弥の家系を引っ張って来る必然性が見当たらない。なぜなら世阿弥が『風姿花伝』を著した能の大成者として一躍脚光を浴び出したのは明治後期以降の事であって、江戸期においては無名に等しい存在でしかなかったからである。(注1)



 出生地の論議は別としても、世阿弥の先祖が服部氏である (あるいは自称していた) 事は、自らの著作物においても明らかである。

伊賀の上嶋家の祖先は、源頼政の子孫より出て源氏を称したといい、有宗の父有綱が源義経との縁を以って頼朝方から追われる事となり、有宗自身も大和国宇多郡深山吉冨より、伊賀予野谷のスチ族を頼って逃れた。その後、上嶋家は浅宇田村へ移り、吉冨三郎を名乗ってスチ族と結合したのだという。よって、上嶋家は通称「須知吉冨上嶋」の三姓を名乗ったとする。
 スチ族とは『古事記』に「須知の稲置」として登場する名張郡周智から発生した伊賀の古代氏族である。観阿弥伊賀出身説の謎を解明するキーポイントは、ここに隠されていると筆者は確信している。

 後に江戸幕府によって統制された大和四座(観世・宝生・金剛・金春)は、古くから互いに養子縁組を繰り返して、血縁関係を深める事で結束していたという事実がある。それぞれの流派の主張をしながらも、四座の結束をも忘れなかったのである。それは、戦国乱世を生き残る為の一流の処世術であったとも言えよう。
 全国の大名に抱えられた各地の能役者たちが、独自のネットワークを形成していたとなると、かなりの情報収集が可能であったのではないか?忍者と能役者の繋がりがあったとするならば、諜報活動を生業とする忍者にとって、これほど都合のよい事はないのである。



[82]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 03時13分47秒 ) パスワード

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戦国武将録

改めて読み直すとまたまた違う感慨を起こします。


戦国伊賀国人名辞典




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【あ】

青木信定【あおきのぶさだ(15??〜15??)】

青蓮寺城主。通称民部尉。1581年、織田信長勢40,000余りが伊賀国の侵攻すると、青木信定は青蓮寺城に籠城した。上出城、雪岡城、愛宕山砦などがあり、伊賀の国人衆が緊密な連携作戦を取りながら織田信長勢に対抗したが次々と落城した。

阿波正高【あわまさたか(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。、伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、織田信長勢が別の方面から侵攻してきたため、彼の領地は直接戦場にはならなかった。

家喜吉近【いえよしよしちか(15??〜15??)】

西ノ沢庄郷の豪族衆。官途は下総守。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、柘植口から滝川一益、滝川儀太夫、藤堂将監の隊が壬生野に侵入すると、付近の土豪衆は春日山城に籠城した。中林忠昭が指揮をとり、西之沢の家喜吉近が副将にして川東の清水岩城守、本城、川西の福西、谷村。外山の徳山や新堂の佐々木、金子らの猛者揃いであったため、滝川一益勢も攻め倦んだが、多勢に無勢で悉く討死した。

伊賀崎道順【いがさきどうじゅん(15??〜15??)】

柘植郷楯岡館主。通称孫兵太兵衛。別名楯岡ノ道順。伊賀豪族十二人衆のひとり。伊賀四十九流の祖。六角義賢の要請で、謀反を起こした佐和山城主百々内蔵助を、伊賀衆、甲賀衆の忍び四十八人を率いて攻撃した。伊賀崎道順は、百々内蔵助の家紋の入った提灯を用意し、家臣になりすまして城中に忍び込んで放火して落城に追い込んだ。

井上新左衛門【いのうけしんざえもん(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

植田光次【うえだみつつぐ(15??〜15??)】

阿波郷の豪族衆。官途は筑前守。伊賀豪族十二人衆のひとり。1582年「第二次天正伊賀の乱」では織田信雄方の柘植保重を討取って織田信雄勢を撃退した。織田信長勢の攻撃を受け、三河国に落ち延びた。1592年「本能寺の変」後は、羽柴秀吉に仕えた。

大井源兵衛【おおいげんべい(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

小沢智仙【おざわともひさ(15??〜15??)】

伊賀豪族衆。1582年「第二次天正伊賀の乱」で、織田信長勢に徹底抗戦を主張し、比自山城に籠城した。筒井順慶、蒲生氏郷、堀秀政に攻撃され、夜襲を企てるが織田信長へ寝返っていた菊川清九郎に看破され、夜陰に紛れて落延びた。

音羽宗重【おとわむねしげ(15??〜1581)】 

音羽郷の豪族衆。通称半六。伊賀十二人衆のひとり。1581年「第二次伊賀の乱」で討死した。

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【か】

柏原豪族衆【かしはらごうぞくしゅう】

滝野四郎五郎、滝野主水、滝野宮内、滝野八助、滝野小三郎、滝野寿屋、滝野源太、浅野左門、浅野尾太夫、横山彦九郎、福森四郎左衛門、福森四郎助、岡森市蔵、増森四郎、関増九左衛門、雲井新介、雲井五郎、山本喜左衛門、増井猪之助、増井太郎助、藤井九之助。

菊永右近太夫【きくながさこんだいふ(15??〜15??)】

伊賀豪族衆。1581年、蒲生氏郷勢がこの地に攻め込んだ際、菊永右近太夫は雨請山に籠城して戦った。

城戸弥左衛門【きどやざえもん(15??〜15??)】

伊賀豪族衆。伊賀豪族十二人衆のひとり。別名音羽ノ城戸。1579年、膳所の街道筋で織田信長狙撃した。1581年、織田信長が伊賀平定の視察の折に、伊賀一ノ宮敢国神社で休息中のところを、原田杢右衛門、服部甚右衛門と共に狙撃を試みるが失敗に終った。

久保源八郎【くぼげんぱちろう(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

小泉左京亮【こいずみさようのじょう(15??〜15??)】

佐那具郷の豪族衆。

出後正高【こうしゅつまさたか(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。、伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

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【さ】

沢村重久【さわむらしげひさ(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

清水岩城守【しみずいわしろのかみ(15??〜15??)】

壬生野城主。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、柘植口から滝川一益、滝川儀太夫、藤堂将監の隊が壬生野に侵入すると、付近の土豪衆(川東、川西、愛田)は春日山城に籠城した。中林忠昭が指揮をとり、西之沢の家喜吉近が副将にして川東の清水岩城守、本城、川西の福西、谷村。外山の徳山や新堂の佐々木、金子らの猛者揃いであったため、滝川一益勢も攻め倦んだが、多勢に無勢で悉く討死した。

下山甲斐守【しもやまかいのかみ(15??〜1579)】

名張郡比奈知館主。奈垣郷に勢力を誇っていた下山家は、自領が神宮領だったため、北畠具教に仕えて勢力を拡大した。1576年、北畠具教が織田信雄に謀殺されると、下山甲斐守は織田信雄に属した。1578年、伊賀国守護職仁木義視が伊賀国を追われると、織田信雄に伊賀国出兵を促した。1579年、織田信雄勢8,000余りは、下山甲斐守の先導で伊賀国に侵攻したが、伊賀国豪族衆の反撃を受け敗走した、下山甲斐守は討死した。

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【た】

鷹山飛騨守【たかやまひだのかみ(15??〜15??)】

伊賀豪族衆。1581年、蒲生氏郷勢がこの地に攻め込んだ際、山尾善兵衛と共に雨請山に籠城した。

高山保光【たかやまやすみつ(15??〜15??)】

黒田の悪党のひとり。通称十郎。黒田の悪党共に活動した高山保光は、服部家長の子孫と称し惣領家を高山とした。1581年「第二次天正伊賀も乱」で高山家は滅亡した。

滝野貞清【たきのさだきよ(15??〜1574)】

柏原城主。官途は上野介。1574年、滝野貞清は病没した。

滝野吉政【たきのよしまさ(15??〜1602)】

滝野貞清の男。通称十郎。1574年、父滝野貞清の病没により家督を相続した。1581年「第二天正伊賀の乱」では、柏原城に近隣の豪族衆1600余りと共に総大将として籠城したが、織田信長勢の猛攻を受け降伏した。その後、織田信雄に仕えた。1582年、織田信長が討死すると、一揆勢に追われ伊勢国に落延びた。

竹島景雄【たけしまかげお(15??〜15??)】

竹島城主。日置弾正の枝連衆。通称右衛門。1581年「天正伊賀乱」では、壬生野城の籠城して近郷の豪族衆と共に戦った。

田屋伊予守【たやいよのかみ(15??〜1581)】

河合郷田矢城主。通称三郎左衛門。1581年、織田信長による「天正伊賀の乱」の際、玉滝口より攻め入った蒲生氏郷勢らに対し、田屋伊予守を中心に、河合郷の豪族衆が田矢城に籠城して戦った。田屋伊予守は、茶器の「山桜の真壺」「きんこうの茶壺」を差し出して降伏するが謀殺された。

千賀地則直【ちがちのりただ(15??〜15??)】

千賀地城々主。服部保元の男。通称半蔵。室は保田長宗の娘。伊賀国の上忍 服部保長は、松平元康に仕えたので、服部家枝連衆は岡崎城に移り住んだが、嫡男に服部保元を伊賀の地に残して伊賀忍者を統率させていた。服部保長の家督を相続して千賀地則直を称した。

柘植保重【つげやすしげ(15??〜1579)】

福地宗隆の男。木造具政家臣。通称三郎左衛門。1569年、織田信長の南伊勢国の侵攻の際、木造具政を調略して北畠具房から離反させた。滝川雄利らと共に織田信長に降ったが、柘植保重が北畠具房に人質に出していた妻子は磔とされた。織田信長勢が北畠家領に侵攻すると、共に大河内城主北畠具房を攻撃した。北畠具房は織田信長に降伏し、織田信雄を養子迎え和睦した。これ以降 柘植保重は茶筅丸付きの家老となった。1577年、織田信長の命をを受け、柘植保重は長野左京亮、藤方慶由の家臣加留左京らと共に、北畠具教の枝連衆を三瀬御所で謀殺した。1579年「第一次天正伊賀の乱」では、織田信雄に属して日置大膳亮らと共に伊賀国に侵攻するが、退却する殿軍の最中に植田光次に討たれた。

柘植宗能【つげむねよし(15??〜15??)】

柘植宗家の男。

柘植清広【つげきよひろ(1540〜1629)】

柘植宗家の次男。通称三之丞。1581年「第二次天正伊賀の乱」が勃発した時、兄柘植宗能の指示で松平元康の麾下に属することを申し出たが、松平元康が織田信長と同盟関係にあった事から、三河国に移住して来るなら召抱える旨の返事を受けた。1582年、松平元康の「伊賀越え」では、枝連衆を率いて、信楽から伊勢白子への道を嚮導した。「加太越え」に及んでは、柘植一族が鹿伏兎一族と仲が悪いので暇を賜り、面体が知られておらず道を良く知る米地九左衛門政次が代わりを務めた。1600年「関ヶ原の役」では、鉄砲足軽隊20人を率いて参陣した。凱旋の時には近江国永原に召され、甲賀郡300石を領した。1603年、伏見の番を勤めた。1614年「大坂冬の陣」では御供に加わっていなかったのだが、松平正綱より伝えられ鉄砲を用いて参戦した。

百々百右衛門【どどひゃくえもん(15??〜1622)】

伊賀国豪族衆。1582年、松平元康の「伊賀越え」で警護に集まった伊賀者200余りのうちにひとり。服部正成に仕え、御切米16俵3人扶持を領した。1591年、松平元康の喰違での鷹狩に随行し永楽500文の領地を拝領した。1622年、近江国水口城の御殿番を勤めたがまもなく病没した。

富岡貞頼【とみおかさだより(15??〜15??)】

島ヶ原郷豪族衆。通称忠兵衛。伊賀豪族十二人衆のひとり。1581年、織田信長勢の案内役となった。忠節を示すため、武道の師を討ち、同胞の館を焼き、その一族郎党、実弟新八郎を謀殺した。

富野重正【とみのしげまさ(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

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【な】

中林忠昭【なかばやしただあき(15??〜15??)】

比土郷春日山城主。官途は丹後守。通称助左衛門。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、柘植口から滝川一益、滝川儀太夫、藤堂将監の隊が壬生野に侵入すると、付近の土豪衆(川東、川西、愛田)は春日山城に籠城した。中林忠昭が指揮をとり、西之沢の家喜吉近が副将にして川東の清水岩城守、本城、川西の福西、谷村、外山の徳山や新堂の佐々木、金子らの猛者揃いであったため、滝川一益勢も攻め倦んだが、多勢に無勢で悉く討死した。

名張豪族衆【なばりごうぞくしゅう】

新三郎兵衛、秋弘久八、沢野五郎七、勝山外右衛門、増井次郎八、大久保勘兵衛、猪尻四郎五郎、徳地丹後守、勝矢七郎大夫、山村惣五郎。

仁木義視【にきよしみ(15??〜15??)】

阿拝郡仁木館主。室町幕府伊賀国守護職。別名仁木友梅。1571年、織田信長の支援を受け伊賀国に入国した。しかし、国内に割拠する土豪衆をまとめることができなかった。1578年、伊賀国人衆に追放され甲賀郡に落延びた。

沼田彦七【ぬまたひこしち(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

延木佐馬允【のぶきさまのかみ(15??〜1581)】

黒田城主。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、筒井順慶の軍勢に攻められ落城し、延木佐馬允は討死した。
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 03時14分57秒 ) パスワード

続き

【は】

服部保長【はっとりやすなが(15??〜15??)】

阿拝郡服部城主。通称半蔵。別名千賀地半蔵。上忍三家のうち最大の勢力を誇った。伊賀国には、千賀地(服部)家、百地家、藤林家の三家があったがいずれも、伊賀国内をまとめることが出来る勢力が育たず、小豪族が乱立して、室町時代後期を迎えた。初め足利義晴に仕え北面武士に就任した。室町幕府に見切りをつけて、服部家を称して三河国に下った。後に松平清康、松平広忠、松平元康三代に仕えた。松平家も松平清康の代には大きく伸長したが「森山崩れ」を境に一気に衰退した。服部保長も松平家と共に今川義元の麾下に属した。

服部正成【はっとりまさなり(1542〜1596)】

服部保長の男。官途は石見守。通称半蔵。1582年「本能寺の変」では、松平元康の「伊賀越え」を枝連衆を挙げて助けた戦功により松平元康の忍び頭となった。麾下に多数の忍び衆を抱えて諜報活動で活躍した。服部正成は忍者というより槍術に優れた侍大将として数々の戦功を挙げた。

比奈知豪族衆【ひなちごうぞくしゅう】

山本外兵衛、山本太郎、山本五郎、山本三之。

平松源八【ひらまつげんぱち(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

平野善八郎【ひらのぜんはちろう(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

福山出雲守【ふくやまいずものかみ(15??〜1581)】

霧生城主。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、福山出雲守は、枝連衆の福山越後守、加番従騎の刈谷左衛門亮、刈谷伝五郎などと共に霧生城に籠城した。織田信長勢の攻撃を受け落城した。

福地宗隆【ふくちむねたか(15??〜1582)】 

上柘植館主。官途は伊予守。別名福地定成。北伊賀柘植三方衆のひとり。伊賀四大将のひとり。柘植で1,000石を領した。1581年、福地宗隆は織田信長に内通して、河合村の耳須弥次郎と共に伊賀攻の先導役を務めた。1582年、織田信長が討死すると、伊賀豪族衆の攻撃を受けて加太へ落延びた。後に松平元康に仕えた。江戸時代の歌人松尾芭蕉は枝連衆。

福喜多将監【ふくきたしょうかん(15??〜15??)】

朝屋郷の豪族衆。1581年「第二次伊賀天正の乱」では、比自山城の総大将として福喜多将監が籠城の指揮を執った。その際、百田藤兵衛と豪族衆2780余りと籠城したが、蒲生氏郷と筒井順慶勢の攻撃を受け落城した。

藤林保豊【ふじばやしやすとよ(15??〜15??)】

東湯船郷藤林館主。官途は長門守。別名藤林正保。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀国北部で甲賀に境を接する湯舟郷を領した。甲賀郡側にも多くの麾下の豪族衆がおり、伊賀国内、甲賀郡双方に影響力を持っていた。服部保長、百地泰光と並び伊賀国の三大上忍と称された。1581年「第二次天正伊賀の乱」では甲賀郡多羅尾氏と共に、織田信長に内通して、藤林家を家名を後世に残した。

藤山摂津守【ふじやませっつのかみ(15??〜15??)】

藤山城主。1582年「第二次天正伊賀の乱」では、雨請山城に籠城した。

------------------------------------------------------

【ま】

町井貞国【まちださだくに(15??〜15??)】

木興城主。伊賀豪族十二人衆のひとり。室町幕府より伊賀木興荘の地頭職に任ぜられ木興城を本拠とした。

町井貞信【まちいさだのぶ(1514〜1581)】

町井貞国の男。通称左馬允。1571年、織田信長の支援を受けた仁木義視を守護として迎えた。1579年「第一次天正伊賀の乱」では軍師を務め、織田信雄を敗走させた。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、木興城で籠城した。織田信長勢を迎え撃つが、衆寡敵せず、一族郎党三十七名と共に討死した。

町井貞直【まちいさだなお(15??〜15??)】

町井貞信の男。

耳須具明【みみすともあき(15??〜1581)】

伊賀地頭家。通称弥次郎。河合郷地頭。1581年「第二次天正伊賀の乱」で、織田の家に内通したことにより、他の伊賀衆の復讐の標的となる。反撃にあい討死。

三輪善之助【みのわぜんのすけ(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

百地泰光【ももちたんば(1512〜1581)】

百地清右衛門の男。官途は丹波守。別名百地三太夫。名張郡を勢力下に置く豪族衆で、伊賀忍者衆を束ねる上忍三人衆のひとり。織田信長は、織田信雄に命じて伊賀攻めを行わせた。1579年「第一次天正伊賀の乱」では、単独で侵攻した織田信雄勢を撃退した。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、織田信長が指揮を執り兵50,000余りで侵攻した。百地泰光は、柏原城に籠城して抵抗したが、衆寡敵せず織田信長勢の攻撃を受け討死した。

百田藤兵衛【ももたとうべえ(15??〜15??)】

長田郷の豪族。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。、伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、織田信長の侵攻軍に対して徹底抗戦を主張した。長田比自山城に籠る。戦況が悪く、個々に戦うを不利と見て、他の砦から一揆勢を比自山城に集めて交戦した。その際、一揆勢が織田方へ寝返った耳須弥次郎を見つけて討ち取っている。城の長田丸を守備し、筒井順慶軍を忍者隊で翻弄するが、織田軍本体との合流を恐れて柏原城に撤退した。

森田浄雲【もりたじょううん(1510〜1582)】

猪田郷一宮城主。伊賀豪族十二人衆のひとり。1581年、織田信長に降伏した。1582年、一之宮城に籠城して、織田信長の伊賀征伐兵に対抗するが討死した。

森脇甚助【もりわきじんすけ(15??〜15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

------------------------------------------------------

【や】

保田則宗【やすだのりむね(1569〜1614)】   

千賀地則直の男。通称甚兵衛。室は桜井和泉守の娘。 1595年、紀伊国有田郡保田繁宗の家督を相続した。1606年、松平元康に仕えた。1610年、能の観世太夫黒雪が松平元康に追放され、高野山へ逃れてきた際には、黒雪の世話をした。

保田元則【やすだもとのり(1582〜1660)】

千賀地則直の三男(保田栄西の養子)。官途は采女。通称左助。別名藤堂采女。室は佐伯惟定の娘。兄保田則宗と共に伯父保田繁宗に養育された。羽柴秀長、羽柴秀俊に仕えた。その後は増田長盛に仕えた。1600年「関ヶ原の役」の敗北により浪人した。後に、藤堂高虎に仕え、新参でありながらも藤堂姓を与えられ枝連衆並の扱いで遇された。藤堂高虎が伊賀国主となってからは、伊賀国上野城代家老となった。藤堂高虎は、伊賀忍者の棟梁筋に生まれである保田元則に、新領地である伊賀国の郷士たちの懐柔に当らせた。忍者を含む伊賀の郷士たちは、藩士や無足人として藤堂家に召抱えられた。

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【資料T】

伊賀国(4郡/240,000石)

阿拝郡:伊賀上野城。
山田郡:平田城。
伊賀郡:掛田城。
名張郡:名張城。

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【資料U】

伊賀十二家評定衆【いがじゅうにけひょうてんしゅう】

長田館主:百田籐兵衛、朝屋館主:福喜多将監、木興館主:町井左馬充貞信、河合館主:田屋掃部介、音羽館主:音羽半六、島ヶ原館主:富岡忠兵衛、依那具館主:小泉左京、比土館主:中林助左衛門、布生館主:布生大善、柏原館主:滝野十郎吉政、下阿波館主:植田豊前光信、西之沢館主: 家喜下総介。

比自山の七本槍【ひじやまのななほんやり】

百田藤兵衛、横山甚介師尚、町井清兵衛、新八右衛門、森四郎左衛門、福喜多将監、村田勘四郎。

北伊賀柘植三方衆【きたいがつげさんぽうしゅう】

柘植三方、日置大膳、北村。

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【資料V】

伊賀国【いがのくに】

戦国期の伊賀では、北東部東湯舟郷に藤林長門守率いる藤林家が、南部大和との国境城山と東部友生村喰代郷に百地丹波守率いる百地家が、そして中央部予野に千賀地服部宗家がそれぞれ城塞や砦を構えていた。伊賀は鎌倉末期まで、その国土の九割近くを荘園として管理していた大和東大寺の支配下にあった。中央から任命された守護や地頭は残りわずか一割ほどの土地の支配権しか持たず、ために伊賀の地侍たちは中央の支配を受けなかったという特異な背景があった。そして東大寺の勢力衰退に乗じて各地侍はその荘園を思い思いに侵略、ために数十もの独立勢力として割拠するという異常事態になった。この状況下では、家を保つためにはそれぞれが情報網を持たなければならず、情報収集術に優れた忍者達の活躍の場が自然と出来上がっていったのである。中心となったのは千賀地服部家で、国の要地に前述の藤林、百地家を据えて近郷の地侍達を支配させていった。国主は持たずに一族で一党を形成すること、掟を定めた上で重要事案については党同士が回文を回し、必要に応じて連判状や起請文を認めることなどを決め、これを伊賀地侍の中から選出した十二人の代表によって運営した。

伊賀焼【いがやき】

始まった頃は水瓶や種壺、擂り鉢などの日用雑器が焼かれていたが、陶土産地が山一つ隔てた信楽と同じだったため、信楽焼とほとんど区別がつかなかった。だが桃山時代の天正年間後期に入ると、伊賀領主となった筒井定次が、阿山の槙山窯にて茶の湯に用いるための茶壺、茶入、花入、水指などを焼き始めた(筒井伊賀)。これらにはビードロ釉(ゆう)と呼ばれる緑色の自然釉が見られる。焼き締まった赤褐色の土肌に吹き出た無数の長石粒と折り重なり、質朴でありながら風流な焼き物となったのである。その後は小堀遠州によって「遠州伊賀」と呼ばれる伊賀焼が焼かれた。これは前者の「筒井伊賀」とは対照的に瀟洒な茶器である。

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戦国人名辞典は1530〜1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一V(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 06時44分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

そろそろ新しいスレッド XX を立ててください。
[86]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月03日 06時59分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 スゴイ情報、じっくり読解させていただきます。

 近江商人を中心に、大阪商人、伊勢商人の情報を調べていますが、時間がか
かります。藤堂高虎にも近江商人の気質は流れております。千利休は近江出身
の堺の商人でありました。情報網として考えると、いろいろなものがつながっ
て来ると思います。当然家康ともまたつながります・・・。
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 14時07分10秒 ) パスワード

商人についてチョコチョコ見ていますが
なかなかコレというのに当たりません。

でも商家は忍者には都合が良いですし
何か出そうな気もしています。


新スレ XX をありがとうございます。
[88]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月03日 14時25分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 近江を深く探求したいと思っています。確かに、近江には何かシンパシィ
のようなものを感じます。また、京都を中心としてそれを取り巻く地帯、
丹波、丹後、伊賀、近江、越前、近江といったところ全体にも、そんな何か
郷愁を感じます。でも京都は幾多の戦乱を経験してきたせいか、人間関係が
なかなか難い点があります。
 あを様の前々回のレスでしたか、多賀大社の話がでましたが、多賀という
名前は、昔私が京都にいた時のある人を思い出させます。多賀大社に関係す
るのかななんて思ったりもしましたが、その後東北に多賀城(遺跡)があるこ
とも知り、何か「多賀」には特別なものがありそうだなとは思いつつ、深く
探求するまでには至りませんでした。
 あを様の言われた「くの一・お多賀さん」の話、多賀大社に関係する点も
含めてもう少し説明していただけると大変うれしいのですが・・・。
 ちなみに、藤堂高虎と多賀大社との関係、大いにありです。
 インターネットで調べてみると、「立ち読み/波/新潮社」にこんなことが
書かれておりました。
 「日本最大の情報網
  高虎はその面では大変に恵まれた場所に育った人物です。近江の藤堂村
 (現・甲良町)の出身ですが、近江は東海道、中山道、北国街道などの結節
 点にあるとともに、琵琶湖の水運を利用して瀬戸内海ともつながっている。
 元来が流通の中心地だから物流や情報の何たるかが日常的に体得できたの
 である。
  もう一つは、高虎の生まれた在所の近くにある多賀大社の存在。藤堂家
 は婚姻関係を含め密接にかかわっています。末社三千社といわれる多賀大
 社の坊人たちの組織は、甲賀・伊賀の忍者を包含して巨大な情報網を形成
 していたのです。高虎はそれを諜報機関として仕える立場にあった。関ヶ
 原の直前、水面下で西軍の切り崩しを行って石田三成を嘆かせたり、徳川
 政権転覆が謀られた大久保長安事件を隠密に処理できたのも、この多賀一
 族に負うところ大だったことは確実です。」
  高虎の秘密が少しずつわかって来ました・・・。
  
 
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 15時39分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


>京都は幾多の戦乱を経験してきたせいか、人間関係がなかなか難い点があります。

でしょうね

  歴史と文化のある世界ですから
  人間関係の壁を突破と申しますか
  英語で言う「氷を破る」ことが出来るまでは
  大変でしょうね

  一旦、信頼を勝ち得たら、力になってくれるんでしょうけど。
  それまではね。


お多賀さんのことは
井伊大老とその腹心の長野主膳とお多賀さんがタッグを組んで
安政の大獄をやった
ということで、調べてみます。
  XXの方に書こうと思います。


  この長野主膳は伊勢の長野氏=それこそ南朝方なのか、信濃の長野氏なのか=やっぱり南朝方?
  未だに良く分かりません。

     井伊大老が中心人物だけに南朝方以来の信頼関係なのかな?とか。

     東北の多賀城も、後に南朝方で絡んだのかな?とか

  いろいろ考えてみます。

     近視的に見てるとどんどんズレて行くんじゃないかとも危惧していますが。
     笑 


>近江は東海道、中山道、北国街道などの結節点にあるとともに、
>琵琶湖の水運を利用して瀬戸内海ともつながっている。
>元来が流通の中心地だから物流や情報の何たるかが日常的に体得できたのである。

藤堂高虎は戦国時代ではなく平和になった江戸時代に生まれていたらその才覚で豪商になった人でしょうね。


>末社三千社といわれる多賀大社の坊人たちの組織は甲賀・伊賀の忍者を包含して巨大な情報網を形成していたのです

まさに「お多賀さん」の活躍の手助けをしたということですね。
お多賀さんは多賀神社の娘と聞いてましたが
ま、調べてみます。


   でも彼女は井伊大老が暗殺されてから
   捕らえられてそれはそれは女性として恥ずかしい「晒し者」の罰を受けているそうで
      アソコを晒された、ということです。


では次の書き込みあたりからXXの方に移りましょうね。
[90]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 02時08分50秒 ) パスワード

http://nanidoko123.iinaa.net/basyo/basyo01.html


ここに芭蕉の師であった近江国野洲の北村という俳諧師が出ています。


松尾芭蕉の父・松尾与左衛門は上柘植村の無足人(準武士分の上層農民、松尾氏)で、母は梅と言います。

寛永21年(1644年)、二男(兄のほか、姉と3人の妹がいます)として誕生し、幼名は金作、名は宗房と言いました。

元禄7年10月12日(1694年、11月28日:新暦で)没 。


俳号は、最初、実名の「宗房」を使い、「桃青」、「芭蕉(はせを)」と順次改名しています。


13歳の時に父が亡くなったこと、生活苦も重なったと思われることから、
若くして伊賀上野の侍大将藤堂家の嗣子で2歳年上の「良忠」に仕える。


    芭蕉の師、北村季吟
     ↓
共に、北村季吟の門下に入り、俳諧を志す。

作成年代が判明している最古の句は寛文2年(1662年)の年末に詠んだもので、
「春や来し 年や行きけん 小晦日 (はるやこしとしやゆきけんこつごもり)」
19歳の句だそうです。


  ココね
   ↓
■北村季吟は近江国野洲郡北村(現、野洲市)出身の歌人・俳人で
    元禄2年(1689年)には歌学片として幕府に仕える。

    のち、北村家が幕府歌学方を世襲した。




芭蕉は寛文12年(1672年)に処女句集(貝おほひ)を上野天満宮に奉納後、延宝3年(1675年)に江戸に下り、神田上水の工事に携わって、延宝6年(1678年)に宗匠となっています。


俳号「芭蕉(ばしょう)は、37歳の冬、
居を江戸市中の小田原から江戸深川元番所森田惣左衛門御屋敷の深川草庵に移すし
1681年38歳のとき草庵にある芭蕉の木がおおいに茂ったので「芭蕉庵」の庵号で呼ぶようになり、
俳号として「芭蕉」を使用するようになる。


「野ざらし紀行」の旅は貞享元年(1684年8月)から翌年の4月にかけ母親の墓参を目的に伊賀上野に向かって、
門下の千里とともに旅に出る、時に41歳。

東海道を上ってお伊勢まいり、琵琶湖を眺望して「辛崎の松は花より朧にて」と詠む。

4月に木曽 ・甲州路を経て芭蕉庵に帰還した。



「おくのほそ道」の旅は元禄2年(1689年3月27日:旧暦・・新暦では5月16日)に
門下の「河合曾良」とともに江戸の深川を出発、旅に出る。

およそ2400km、およそ半年をかけ、東北・北陸を巡りました。

その年の8月に大垣に着き、いったん故郷の伊賀上野に帰着します。


        やっぱりアヤシイ
          ↓

芭蕉と淡海の縁については、師が淡海の出身でもあり、色々と近江や琵琶湖のことは聞かされていたのではないでしょうか?又、門下も近江出身の人が多いようです。野ざらし紀行の途中、琵琶湖を眺望、唐崎の松や路傍に咲くスミレ草など大いに感動を得たことでしょう・・。


又、「奥の細道」の旅の翌年、元禄3年(1690年))4月6日から、7月23日までのおよそ4ヶ月間、大津市国分にある幻住庵で過ごしました。

「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」の書き出しで知られる「幻住庵記」を遺しています。


翌元禄四年の八月十五夜、中秋の名月には、木曽塚(義仲寺:ぎちゅうじ:膳所〈ぜぜ〉)無明庵で句会が盛大に行われたそうです。芭蕉はこの義仲寺にたびたび宿泊したように、こよなくこの地が好きだったと言います。旅の途中、病に伏し大阪の地で亡くなるとき、門人に『亡骸は木曽塚に送るべし』と遺言します。

その言葉通り、元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉の亡骸を乗せた舟は夜のうちに伏見へ、翌13日には伏見から木曽義仲を祀る膳所の義仲寺に到着した。

14日に葬儀が行われ、その夜には境内に埋葬されたということです。


51歳の生涯でした。
[91]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 02時24分05秒 ) パスワード

下記は中国のサイトですが  後がオソロシイですからね〜  中国からの嫌がらせだけでなく
アメリカのNえすAからの検閲も来るかも知れないし




忍者第一部分神君伊贺之越(3),忍者- 牛bb文章网



www.niubb.net › 在线书库 › 政治军事 › 忍者



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明智家灭亡后,被・出伊贺的出羽守一党在近江国北村隐居下来,以北村(后改为喜多村)自称。“本能寺之变”前半年诞生的光秀幼子内治麻吕,**以后以喜多村弥兵卫为 ...



明智滅亡の後、伊賀の出羽守の一党は近江国北村に隠棲して、北村を称した。
後に喜多村と改める。

「本能寺の変」の半年前に光秀の末子 内治麻呂が誕生。
北村弥兵衛を名乗る。


   こんな感じ?


上記のレス<64>に対応してますね。

一部コピペ:

http://blog.goo.ne.jp/tokihaima/e/890f1c895dbe2b39566af9b14b86671a


光秀の妻(5) 2003/ 2/25 15:40 [ No.113 / 453 ] 投稿者:akara_tuka2000


光秀の妻についてはもう1つ、
伊賀の柘植(一説に名張)城主の服部(別姓・北村)出羽守保章の娘とする説が伝わっています。


出典となっているのは「明智系図(群書系図部集)」「幕府祚胤伝」「寛政重修諸家譜」あたりでしょうか(他にもあったら教えて下さい)。

いずれも江戸時代半ばの編纂物です。


「明智系図」は1631年に光秀の50回忌に(光秀の息子らしい)玄琳が作成し、

(やはり光秀の子孫らしい)喜多村弥平兵衛なる人物に提出したとの説明書きがあるのですが、
                ↑
              この人と同じ名前ですね
              この人は当時50歳ぐらいですね

この「喜多村」が服部保章の別姓「北村」と同一のようです。


あらら
中国の方のほうが日本の歴史をよくご存知のようで・・・
[92]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 02時38分15秒 ) パスワード

http://www.pref.mie.lg.jp/gkenmin/hp/igabito/vision/reports/reports07-1.html


コピペ:  全文はURLへ
    

伊賀・甲賀忍者フェスタ基調講演「忍者の実像と虚像」
柚木俊一郎 平成12年11月19日 15:00〜
  ↑
 甲賀忍者館の館長さんですね



柚木俊一郎:

織田信長は(足利義昭を?)将軍にすることを決めて、平和裏のうちに近江を通らせてくれという話をするんですが、これ7日間、観音寺城に泊まって説得したと言います。

ところが、近江四方の六角は通さないと。

それで、強硬手段で上洛することになるんです。
それで甲賀の方は義昭につきましたもので、和田惟政、和田伊賀の守というんですが、これを中心に一つの義昭軍をつくっております。

この義昭軍の中にこの伊賀の人たちも加わっているわけです。


ですから、もう既にそのときに、信長ではないんですよ、将軍義昭の配下として将軍をつくるために動き出しているんです。甲賀も伊賀も。

そして、信長が京都へ将軍を連れて上洛するということになりまして、先ほど申しましたように六角は反対してます。そこで六角氏を義昭が攻めるんですね。それを守ってたのが甲賀の武士たちなんです。
   
       この話、面白い!
       ↓

ところが甲賀の武士たちは義昭についてますから、もうすでに京都の方へ行ってるんですね。その残ったところへ六角は甲賀へ逃げてまいります。
そしてそのままほっとかれまして、甲賀と伊賀の主だった武将はすべて将軍義昭に、新しい将軍について動き出しているんですね。

そして上洛が成功しまして、その人たちは信長軍に入ったんじゃなしに、義昭の親衛隊として動いているんです。

そしてその後、逃げてきました近江四方の六角を追討するために、甲賀軍が攻め入っております。

そしてその後で、甲賀軍に攻められましたので伊賀へ逃げてきているんです。

そのときに逃げた人の名前に、佐々木さん、中村さん、望月さん、山岡さん、和田さん、甲賀にもあって伊賀にもある名前、そのときに甲賀から来た人が多いんですね。

そんな一つのこともございまして、残った甲賀というのは信長ににらまれながらいたんですね。

                    へえ〜


その後5、6年たちますと、今度は将軍義昭と織田信長が不和になっております。ですから、これは毛利と組みまして毛利、石山本願寺、すべてもう反信長軍というのが形成されまして、これは将軍義昭を中心に甲賀も伊賀もまた加わりまして、そして浅井、朝倉、姉川の戦いまでずっと反信長軍として動き出すわけです。

   これで信長に残っている人たちは目をつけられるんですね。

ところがこの中で、もう一つ余り今まで甲賀、伊賀の歴史が語られなかったことがあります。

   信長にさっさとついている人たちが多かったんです。

柘植氏にしましても、福地氏にしましても。既にもう信長軍の、信長がどんどん大きくなるとき、桶狭間から斎藤龍興なんかをつぶしていく、伊勢をつぶす。その間にほとんど甲賀、伊賀の連中は走り回ってるんですね。あの短い時間の中に信長の力を恐れさせたのが、この甲賀、伊賀の機動力だったんです。


そして、この地元だけ残っている人がかろうじて甲賀と伊賀を守ってたんですね。
             ↑
       天正伊賀の乱の伊賀者の分裂と戦いですね
             ↓

こういうような構造が一番大きいんです。そして天正伊賀団もなぜ起こったのかというと、反信長軍に加盟した人と、それから既に信長配下で動いている人、こういうような内部分裂が起こってます。


どうしても甲賀の人も伊賀の人も、伊賀は一致団結して一枚岩ですよと言いたいんです。甲賀もそうなんです。そうしたらなかなか話がつかないんですね。

有名な人が出てきましても、この人物をなかなか育てることができなかったんです。

甲賀でいう滝川和馬ですね。滝川和馬さんというのは、信長の四天王の一人なんですよね。今でも甲賀の地元の人、はい、有名な武将だれやと言ったら、滝川和馬とだれも言いません。もうこれは日本中、昔からの定評でございまして、大久保彦左の日記の中に滝川左近の丞、あいつはだめな武将だと、地元を攻めた卑劣な武将であるなんて書かれてます。その伊勢、長島一揆なんて全部最後までつぶしたのも彼ですね。それほど恐れられた武将であった。でも、これ地元の英雄でも何でもないです。ただ、甲賀出身の武将とされているだけです。

               ↑
              滝川一益との関係は?

           半蔵
            ↓
それから言いますと、服部半蔵はなかなか有名になっておりますが、服部半蔵も考えていきますとなかなかおもしろいんですよね。

天正伊賀団のときに服部半蔵はどこにいたと思います。あのときに服部家というのは全部滅んでおります。活躍したのだったら服部家というのは確かにありますが、服部半蔵は何してたんでしょうかね。地元にいなかったんですね。三河にいたんです。

そして神君伊賀越えがその後になって起こっております。このときも服部半蔵はおりません。もう服部とついたら、全部服部半蔵になっておりますからそういう話になっていくんですが、どうしても有名な人物というのはつくっていきたいもので、虚構と、それからつくられた話というのは違います。でも忍者だから何をしてもいいんだという風潮がちょっとございまして、どんどんそういうような形で進んでおりますが。

             ココ大事
              ↓
ちょっと話を戻しますと、その天正伊賀団になる原因となりましたのは、将軍義昭に協力しているからなんですね。だからつぶすしか方法がなかったんです。そのときに協力した連中もたくさんいます。先ほど言いました信長に組み入れられている人間、その親戚の人間はやはり自分の地元を攻めておりますね。そして、確かにつぶれてます。これは六角の力であるか、反信長軍の力であるか、これは当時の勢力によってどっちへつくかによって違っております。ですからこの天正伊賀団まで、常任が3人とかそういうような人がいたんじゃないんですね。協定衆の12人衆、日出山で死んだ彼ら、柏原城で死んだ彼らは、あのときに信長によってつぶされた。


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[93]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 03時07分19秒 ) パスワード

続き


そのときに何が起こったかという歴史をやはり、そしてなぜ全滅をさせられたかというのが大きな問題になります。

この歴史を正確に伝えることによって、忍者の歴史が生まれると思います。


それほどしないと、よそでいっぱいつぶされてるんですよ。


伊勢の長島一揆衆にしても同じように信長に殺されてるんですが、
なぜ伊賀がそれほど恐れられたかというのが問題なんですね。

ですから、その中にあった強力な組織、そしてそれがなければ全国に伊賀の名前がとどろかないんですね。
それより前に忍者の話は余り出てまいりません。

江戸時代は確かにあります。
江戸時代はそれの業績によって、江戸城へ入ります。

ですから戦国時代にそれをさせたこと、
その16年間に伊賀の中で起こったことが伊賀の本当の歴史だと思っております。


それをもっと発掘していきたいと思いますし、していってほしいと思います。



         何故忍者が歴史から消えたのか?
               ↓

それで、なぜ歴史がこのように消されていったかといいますと、
まず昭和40年代の忍者ブームによって余りにも忍者は非道なことをする、
そして足軽っぽく、
下級武士のように扱われたために、地元の伊賀武士として働いた家の歴史はほとんど語られなかったんですね。


ですから服部家といいましても、伊賀の服部にございません。

多分、阿山の服部家が中心だと思います。

       ↑
      ということは「藤林家」が正統?他には柘植あたり?


こういうなんが伊賀の中で余りにも先行したために、本当の歴史がまだオープンに出てないんですね。


同じようなことが甲賀でもございました。

甲賀で例えば、大原道明寺とか一族の名前で動いております。
その中に分家があります。
分家の中の名字が出てまいりますと、
甲賀の53人衆の中に名前出てこないから、
この人らは違うんだと、潜りだというような扱いをされまして、無視されてまいりました。

だから本当の組織を無視しますと、
例えば天正伊賀団というのは、伊賀記が書いてますように、あの1軒ずつの家を書いてるんですね。
そして1軒ずつの家がすべて中世城郭、とりで、やかたを持ってるんです。
                   ↑    ↑
                 いわゆる我々が簡単に口にする「城」ですね



そしてその中が一つの変わった組織として、日本中を恐れられた伊賀の実力はそこにあったんですね。


ですから当時は、小大名がどんどん大きくなります。それによって集約されていく中で、集団で一つのものをつくって、そして伊賀国の守護、仁木氏を追い出してしまうんですね。守護を追い出すんですよ。
これは当時の戦国大名の興っている最中に、伊賀の連中12人で守護を追い出している。
                           ↑
                          スゴイ!



これの歴史の方が日本中では大事だと思います。
そして、そういうような一つの集団が伊賀忍者として全国で恐れられるわけですね。
ですから別に飛んだりはねたりする忍術、この話はもうちょっと後でしますけど、そういうようなものじゃないです。


そして、伊賀の中で消していった、消されてしまった歴史というのはやはりあります。

やはり忍者というのは跡を残しません。
跡を残しませんから調べにくいんですが、そういうのは城跡が残っているようにいろんな形で伊賀にも残っていると思います。

ですから、伊賀が一丸となってその本当の歴史、戦国時代の信長が攻めるだけの理由があったということをスタートにして、伊賀の歴史を調べていただきたいと思います。


この16年間というのが全国に伊賀武士を有名にさせて、そして後の徳川幕府の時代に入るわけですね。


で、先ほど申しました服部半蔵が神君伊賀越えのときにいなかったというのは、
御存じのように伊賀越えといいますのはまず本能寺で信長が殺されたとき、
その日の朝起こっている最中に、朝の4時ごろ堺を家康は出てるんですね。
      ↑              ↑

       来ましたね〜!家康の秘密!


家康が堺をその時間に出まして、まだ信長が死んだことを知りません。
こっそり朝出まして、枚方まで行ってやっと信長の死んだことを知ってるんですね。
  
       出た!宇治田原!
         ↓
それで枚方から宇治田原、宇治田原から山田、
そして朝宮、朝宮から普通多羅尾に行ったと言われておりますが、
多羅尾に行っておりません。



そのときには多羅尾にはお城ございません。
多羅尾氏のいたのは、信楽町の小川というところにあります。
そして小川から牧山の方へ抜けております。
音羽牧山に抜けて、石川通って柘植へ入ってます。

この牧山から柘植までの間というのは、信長を伊賀に入れた人たちの領地でございます。
                       ↑
                      ええっ?!?

ほとんど信楽を通ってますので、伊賀を通っておりません。


乙木峠からこの上野市に入ったという話がございますが、これを通りますと約4時間以上のロスタイムになります。

かなり直線で行っておりますので。

確かに朝宮の方で、石像を積んで乙木峠を通ったという別派がいたという話も残っておりますが、
これは通ってないと思います。
何せそれで通って逃げます。


で、なぜ伊賀越えと言うかという、伊賀を通らないと伊賀越えにならんから伊賀越えという形で進んでおりますが、
実際はそうじゃございません。

天正伊賀団によって、伊賀衆がいるから一番難所になるんですね。


伊賀の残党によって家康が殺される可能性がありましたので。

地域を越えるより伊賀衆のいるところを通り抜けなければいけないというのが伊賀越えなんですね。

それは確かに音羽衆、後から追いかけてます。
追いかけてまして、そして柘植の北村家の連中と戦ってます。
                ↑
               ええっ?!
               ここで北村?服部保章の家?


ここで不可解なことが一つ、最近出てまいりました。

そして不可解なことといいますのは、
伊賀を越えて、柘植を越えて、大加太越えを越えて、板谷、板谷から白子浜、白子浜から三河へ行くんですが、

この逃げている最中に先ほど申しました服部半蔵がおりません。

服部平内というのが出てまいります。


これは信楽町の小川城まで迎えに行きまして、そして柘植の柘植氏に渡しております。

                 やっと半蔵が「伊賀越え話」に登場
                    ↓
そしてこれらがすべて済んでから、感謝状を持ってきたのが服部半蔵なんです。そして、この協力した武将たちをまとめて伊賀組の組頭になったのが服部半蔵なんです。
なら、その後まとめたのは確かに服部半蔵なんです。
その中にそう書かれております、感謝状の中にしっかりね。
           ↑

        本能寺の変の真相ですね
           ↓

で、不可解なと言いましたのは、柘植に北村家という家がございます。

中に書いてるんですね、その感謝状の中に。どう書かれてますかといいますと、家康が逃げてきたときに道案内の者がいないから北村団の者がいると。

そこの北村というのは明智の舅になるから、別心がないとか言われているんです。
事件が起こったのは、明智が信長を殺して事件が起こっているのに、
逃げている家康は柘植の北村は、これは実は北村の娘が明智に嫁いでるんですね。
ですから、その関係であるから別心がないと書かれているんです。

これは家康の感謝状の中に書かれてるんですね。

ですから、もし伊賀の中で家康の感謝状が出てまいりましたら、その辺をよく読んでいただきたいと思います。

その辺に、すんなりと書かれている文章の中に、すごい歴史が残っている可能性がございます。
            ↑
          本能寺の変の真相ですね



そして、伊賀の衆は50人しか助けてないんですね、当時は。
ところが、無足人台帳を見ましても200人に膨れ上がっているんですね。
この辺にも何らそうなった理由があると思います。
その名簿自体に大きな理由があると思いますね。
そして、先ほど申しました北村を別心がないから頼ってもよろしいということで、北村に頼ります。

そして大加太を越えます。

そこへ音羽の衆が来まして、北村の家来たちと戦ってます。
そして2人死んだ模様でございますね。
北村の家来は2人死んでます。


それを筒井順慶が6月の8日に手紙を出してます、北村に。

それで家来2人死んで、よくぞ助けてくれましたということを書いてますね。
こういうような手紙が出てまいります。


そうしますと、その当時起こってた私たちの知っている信長の最後と話が違います。

そういうなんがこの甲賀の中には出てくる可能性が大いにあります。
そういうふうな歴史が秘めてる地域であるということです、
その時代にとっては。
そういうようなことがいっぱいあったために、信長が恐れ、そして家康も恐れてるんですね。

                  藤堂高虎ですよ
                    ↓
それで、伊賀の大きな武将と言いました藤堂高虎。藤堂高虎は近江の藤堂村の出身なんて書かれておりますが、
実際は甲賀郡の甲西町、宮島家出身なんですね。
甲賀の人間なんですよ、藤堂家なんていうのはね。
それも、余りPRされてない。
そういうような形で進んでいます。

                    ↑
                藤堂高虎は実は「甲賀」だった! 


             松尾芭蕉の真相
                 ↓
そして、実際のとこを見まして松尾家でもそうですね。芭蕉さん。芭蕉さんが忍者であったら困ります。といいますのは、皆さんの持ってる、日本中の人が持ってるイメージの忍者であったら困るだけなんです。だから松尾家、これは伊賀町でも上野市でも私はどちらでもいいと思うんですけど、もとは柘植の松尾家だと思います。そのときに生まれたか、先代が生まれたかはそれはわかりません。が、無足人であった松尾家、忍居と言われる松尾家の出身は確かです。そして彼の青年時代に、万川集海がまとめられているんですね。あれだけいろんな文章を読んだり、いろんなことを研究している人が、横で万川集海という大きな編集をしている最中に知らないということはありません。何らかの形で知っているはずなんですね。ですから、芭蕉の中にいびきの図なんていうの出てくるのこれは当たり前です。万川集海のようなシキベンにそのまま絵に描かれているのがいびきの図ですね。



ですから、飛んだりはねたりしているのが忍者たちの姿でもございません。
いろんな情報網あります。
いろんな忍者おります。
ですから先ほど申しました浅井の先祖、朝倉の先祖、それから明智の先祖、これを持っている人たちが甲賀、伊賀にいるんですね。

この人たちが動き出しますと、一つの大きな武器になります。
ですから、この子孫だけつなげていく忍者たちもいたわけですね。
それで江戸屋敷に入ったまま、そのまま帰ってこなかった人もおります。
そういうような活動をしながら、忍者たちは一つのものをつくり上げていきます。


   ですから忍者のできることは、先ほど申しました忍者は、封建制の中で一つの組織をつくりました。

   もう一つ大事なのは、江戸時代に普通であれば職業を選べません。武士は武士、町民は町民、百姓は百姓です。忍者はそれをしたら終わりですね。忍者は主人を選べたんですよ。どの武将だったから仕えてもいいかということ、これが大きな問題です。

       自由選択のできない世界の中で、
       忍者は主人を選べるというのが封建制に対する逆らいでもあります。
       これは忍者に許された特権でもありますね。
       そして、そんなに下賎なものじゃないんですね。

       伊賀の実態はわかりませんが、
       甲賀の方では、まず江戸城に50人、青山の甲賀屋敷に50人、これが一昼夜で入れかわります。


伊賀の場合ですと、半蔵門から新宿百人町、この間は家康がこの神君伊賀越えで得た知識でしょうかね。
あの間には一切の外様大名は入っておりません。
そういう譜代大名も入っていません。

         ⇅ すごい!

郷士と言われる連中だけが、半蔵門から今の麹町警察署をそのまま甲州街道までの間、だれも敵の勢力を入れてないのが家康の国つくりなんです。


そしてこの間に、特に百人町を中心に伊賀の連中、あそこに住んでおります。
そして資料館にもあると思うんですけど、伊賀差出所といいますのはこの100人が地元で100人準備してます、すぐ交代できるように。

で、100人ずつの交代をしまして、ですから200人要るのは江戸に100人、地元に100人ですね。
200人の人数が要るんです。
そして50人ずつの昼夜交代。
それで伊賀の場合は空け屋敷番といいまして、お取りつぶしにした大名屋敷の空いたところを全部管理して回ってます。
                        へえ〜



それで、こういうような黒装束がベースになっておりますが、実際はねずみ色の伊賀袴と言われる姿が伊賀組の制服でございます。これが映画界の盛んなころには、まだねずみ色の完全な袴姿である、そして覆面もしている伊賀組の姿があったのを覚えていらっしゃる方もいると思いますが、これが正式な伊賀者の制服でございますね。そして彼らが、江戸城を見回ってたわけです。



ところがなかなか江戸幕府も渋くて、30俵二人扶持では食えない人がたくさんおりまして、そのときに傘張り、伊賀組の紐の内職が江戸で有名になったんです。

だから伊賀の傘張りね、その中に使います和紙が古い和紙はどんどんそれに使っていきます。
そして和紙の話、もう一つありまして明治の初めごろの教科書にはこの伊賀和紙が使われているんですね。
伊賀和紙は古紙でつくりますから、伊賀で出てくる古い資料は全部古紙に変わりまして、明治の初めの教科書に変わってるんです。だから資料が出てこないんですね。

古いのは全部売れる、リサイクルできたわけです。だからほとんどの文書が、地方文書と言われる文書は明治の教科書に変わってるから、伊賀には資料が少ないんですよ。それはちょっと余談なんですが。


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[94]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 03時16分53秒 ) パスワード

続き


そして、よく公儀隠密お庭番と言いますね。

これも残念ながら、甲賀の人、伊賀の人は入っておりません。
これは8代将軍が、吉宗が和歌山から来ます。

和歌山から来たときに、甲賀の人、伊賀の人すべて解約してます。
もうおたくら要りませんよということで、全部地元に戻ってるんです。

そして、そのときに向こうから連れてきた根来の衆が、公儀隠密お庭番という名前をもらってるんです。


                    へえ〜
                    そうだったの


だから伊賀の者も甲賀の者も、公儀隠密お庭番は正式はないんです。
広義な意味でお庭番というのは使われてますが、そういうのはございません。


それによって、甲賀に戻りました甲賀武士たちは天保義民というのをやりまして、
水野、老中を追い出してしまうという事件を起こすわけですね。

だから、彼らはそういうような動きをしてます。
そして伊賀の人たちもそうなんですね。
ここから出たら無足人て何してたんやと、忍者は何してたとよく言われます。

何もしてないですよ。名字帯刀だけ許されて、禄なしです。
役職なしなんです。

正式に言うと浪人なんです。


それで甲賀の人は甲賀古石、伊賀は一応無足人ですね。

これは浪人で、何も職を持っていません。


ただ、これは全国的にありまして、よく旗本8万旗と言います。将軍の家来たちですね。
旗本8万旗、これを数えていきますと1万3,000旗ぐらいしかないんですよ。
それほかの人はすべて郷士制度で、いざ鎌倉というときに家康に動ける人、徳川幕府のために動ける人。

しかも、これは神君のお墨つきを持っている人たちだけなんです。


どんな将軍が変わろうとも、一番最初江戸幕府ができた神君のお墨つきを持っている人だけが江戸幕府に動くという、これを足して8万旗と言うんですね。


そういうような人たちを全国につくってます。
全国に散らばらしてるんですね。
ですから藤堂藩の中にもいます。


よく、どうしても今の県境みたいに地図を書きたがります。
三重県のあれは伊賀の中、きれいな地図ができ上がっておりますが、明治維新まではあんなにきれいな地図じゃありません。

山は入ってない、もう虫食いだらけの領地なんですね。

そして特に甲賀、伊賀、甲賀の方は漁師が200人おります。

伊賀の方も藤堂藩を除いて、ものすごく細かく分かれてます。

           なるほどね
            ↓
これはまとまらないために徳川幕府がやった政策です。


そして自由に動けるようにしてたのかもしれません。
これは家康の力だと思いますね。
そのように、まとまらないように伊賀も甲賀もさせられて、300年たってます。


で、悲しいかなですね、大きな集団は主人を選ばずに大きな自分らの仲間内で代表を決めてやってたんですが、
その家はすべて親から子へという制度の中に組み込まれていくんですね。

そのために、あくまでも忍術というのは廃れていきます。


そのときに書かれ出したのが、今言われてる忍術の巻物なんですね。
伊賀であれば忍秘伝。
そして甲賀と伊賀とを合わせて、万川集海というものをつくる。


それでもう一つ、和歌山の方で正忍記というのがありまして、これは三大忍書と呼んでおります。

ただ、三大忍書というのは後からつけましたのでいろんな本がございます。


その中で万川集海というのが、これを調べていきますと甲賀、伊賀合わせてつくっております。

48流派あった忍術をまとめて一つにしたと。
その中には甲賀、伊賀、約20人の忍者の・・・ことを集めて本にしたと書かれております。


で、この中にはいろんなことが書かれてるんですが、これね、ほん最近まで使われてるんですよ。
陸軍中野学校の教程本、これに使われております。


小野田さんというのがグアム島で見つかりました。
小野田さんが、一番最初に見つかったときに言ってるんですね。
任務を遂行してましたと。
彼はラジオを持ってたんですね。
彼の本当の任務は大日本帝国がもうつぶれると。
だから、これはもう日本は負けますよと。
でも、地下に入って大日本帝国は残るから、再起のために各国へ派遣された人たちなんです。

で、再起したときには、情報と、それから破壊運動をせよという目的で派遣されたんですね。
小野田さんはその1人だったんです。
だからラジオも持ってました。


彼がなぜ出てこなかったかといいますと、全部知ってたんです。日本がどうなってるのかも全部知ってるんです、彼はね。

そして日本から、もう戦争は終わりました、出てきなさいということを言われてるんですね。

でも出てこなかったのは、
彼がアメリカに支配された傀儡日本の国、新アメリカの日本の国の言うことを聞かなかったんですね。

本当に大日本帝国がないということがまだわからなかったんです。
それで出てこなかっただけなんですね。
あそこで大日本帝国の命令があれば、彼は出てきたんですね。

         鈴木紀夫さんですね
         ↓
それで一介の旅行の青年が、そういうようなことはありませんよということで3日話し合って、
やっとわかって出てきたんですね。

もうないということを確信で出てきてますね。
だから、それを最初に言ってるんですよ。

これはなぜそういうようなことが起こったかといいますと、
小野田さんというのは陸軍中野学校で万川集海の精神を勉強してます。
あれを教えられてるんです。現代の忍者なんですね。


だから教育だけで、それだけのものをつくり上げた忍者の精神の世界です。
だから別に、飛んだりはねたりだけじゃなしに、もっと実際にスパイといいますか、
忍者としての本当の教育をほん最近までされてたものなんですね。


だから甲賀、伊賀にしましても、
日本中、そして世界中にない一つの文化という、忍者という世界を持っているということを地元の誇りにして、
今後ともいろんなことを検証していきたいと思っております。


長々と話しましたが、このように思っておりますので一つよろしくお願いいたします。  
[95]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 09時45分56秒 ) パスワード

友人から送られて来た  多分今年10月の初め頃の朝日新聞の記事ですが

「信長、上洛作戦着々と」「実現2年前、加勢促す書状」「足利義昭側が記す」

という記事です。

天下統一をめざした織田信長が、
実際に上洛をはたした1568(永禄11)年の2年前、
すでに上洛作戦を立てていたことを示す手紙が、
熊本市内で見つかった。

室町幕府最後の将軍となる足利義昭側の書状で、
熊本美術館などが、発表した。

状況の変化で実現しなかった「幻の上洛作戦」は、
信長が早くから天下取りを強く意識していたことをうかがわせる。

以下略



検索したら有りました!



信長「幻の上洛作戦」裏付け 足利義昭側の書状見つかる

森田岳穂

2014年10月3日18時23分

写真・図版:発見された足利義昭側近の手紙=東京大学史料編纂所提供


 天下統一をめざした織田信長が、実際に上洛(じょうらく)を果たした1568(永禄11)年の2年前、すでに上洛作戦を立てていたことを示す手紙が、熊本市内で見つかった。室町幕府最後の将軍となる足利義昭側の書状で、熊本県立美術館などが3日、発表した。状況の変化で実現しなかった「幻の上洛作戦」は、信長が早くから天下取りを強く意識していたことをうかがわせる。

 書状は14通で、共同調査していた同館と熊本大文学部付属永青文庫研究センター、東京大史料編纂(へんさん)所が、もともと足利家に仕えていた細川家家臣の子孫の民家から発見。書状の裏面は、のちに医術書に使われ、文が書き込まれていた。

 いずれも1566(永禄9)年8月28日付で、近江国(現・滋賀県)に亡命していた義昭が、側近を通して近畿地方の伊賀や山城国の武士宛てに書いたもの。室町幕府再興をめざして上洛するにあたり、信長が味方するので加勢するようにと働きかける内容だった。義昭と信長が早くから強い結びつきを持っていたことがわかる。


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[96]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 09時54分33秒 ) パスワード

朝日の記事はログインしないと続きが読めないので他をあたりました:


日経
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG0301G_T01C14A0CR0000/

信長「幻の上洛」、大名離反で頓挫 裏付ける書状発見
2014/10/3 13:20 記事保存

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    ここも!


 熊本県立美術館と熊本大、東大は3日、織田信長が天下統一に向け、1568年に上洛(じょうらく)する2年前に計画した「幻の上洛作戦」を裏付ける足利将軍家側近の書状を発見したと発表した。計画の存在は知られていたが、書状により信長が予定していた上洛の経路が具体的に判明。日付から、計画が実行直前で頓挫したことも分かるという。

 県庁で記者会見した熊本大永青文庫研究センターの稲葉継陽教授は「信長が早期から京都で実権を握る計画を立てていたことを裏付ける非常に貴重な史料だ」と述べた。

 書状は、室町幕府13代将軍、足利義輝の暗殺後、京都を逃れた義昭(後の15代将軍)の側近らが署名した計14通で、いずれも1566年(永禄9年)8月28日付。

 幕府再興を目指す義昭と側近が伊賀(三重県)や山城(京都府)など京都周辺の勢力に宛て「御入洛の御供として織田尾張守参陣し候」と、義昭の上洛で信長の協力を得たことを示し、自らに味方するよう呼び掛ける内容だ。

 宛先などから、信長らは尾張(愛知県)から北伊勢(三重県)、甲賀(滋賀県)、矢島(滋賀県)を経て京都に入る予定だったことが分かる。書状の日付の翌29日、近江の有力大名、六角氏が義昭側から離反、計画は頓挫した。


             この名前は新聞記事には無かったです
                ↓
 書状は足利家に医術で仕えた米田貞能(求政)に託されたとみられるが相手先には届けられず、その後は裏返して袋とじにし、再利用して中世の医術書が書き写されていた。

 熊本県立美術館が昨年10月、永青文庫研究センター、東大史料編纂所と共に熊本市の個人宅の古文書を調査し、医術書の裏面の書状を発見した。米田家は後に熊本藩の家老となった。

 書状は、同美術館で10日から一般公開される。〔共同〕


++++++++++++++++++++++++++++++++++++

http://matome.naver.jp/odai/2141232755880082801

織田信長上洛計画の書状がでてきた!


室町幕府最後の将軍足利義昭が織田信長とともに上洛(じょうらく)を果たした永禄11(1568)年の2年前にも、2人が京に上る計画を進めていたことを示す書状が熊本市の民家で見つかり、熊本県立美術館(熊本市)などが3日、発表した。

 美術館によると、書状は永禄9年8月28日付で計14通。近江矢島(現在の滋賀県守山市)に亡命していた義昭とその側近が山城南部や伊賀の武士に支援を要請する内容で、上洛のお供として信長の参陣が決まったと明記されている。

 日程が決まり次第、改めて使者を送ると書かれていたが、この翌日に近江の戦国大名・六角氏の離反が発覚。義昭は近江を脱出し、書状は出されずに終わった。上洛計画も頓挫したという。



書状は、室町幕府13代将軍、足利義輝の暗殺後、京都を逃れた義昭(後の15代将軍)の側近らが署名した計14通で、いずれも1566年(永禄9年)8月28日付。

 幕府再興を目指す義昭と側近が伊賀(三重県)や山城(京都府)など京都周辺の勢力に宛て「御入洛の御供として織田尾張守参陣し候」と、義昭の上洛で信長の協力を得たことを示し、自らに味方するよう呼び掛ける内容だ。

 宛先などから、信長らは尾張(愛知県)から北伊勢(三重県)、甲賀(滋賀県)、矢島(滋賀県)を経て京都に入る予定だったことが分かる。書状の日付の翌29日、近江の有力大名、六角氏が義昭側から離反、計画は頓挫した。



書状は足利家に医術で仕えた米田貞能(求政)に託されたとみられるが相手先には届けられず、その後は裏返して袋とじにし、再利用して中世の医術書が書き写されていた。

 熊本県立美術館が昨年10月、永青文庫研究センター、東大史料編纂所と共に熊本市の個人宅の古文書を調査し、医術書の裏面の書状を発見した。米田家は後に熊本藩の家老となった。

 書状は、同美術館で10日から一般公開される。



この記事については他にもいろいろ検索出来ます。
[97]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 10時07分36秒 ) パスワード

この新聞記事  上記レス<92>の柚木さんのお話に対応してますよね。
驚きました。


   10月に日本の友人からこの記事が送られて来てて(当時は興味無かったのに)
   平成12年になされた柚木さんの講演を上にコピペして

   ああ、すごい偶然だな、と。
   そして柚木館長さんのお話の奥の深さと甲賀に対する思いに思い至りました。


三つ柏さんも近江にシンパシーを感じるとか、昔のお知り合いに多賀さん関係がいらっしゃるとか

まさか2014年の師走に  こうしてここで  えっ! と驚きですよね。


なにか心の中で繋がるものが見つかれば良いのですが。
と申しますのは
だいたい浜松の人が何故に京都の学校だったのでしょう?

普通静岡だったら東京に進学じゃないですか?
でも京都に行きたかったのですよね。

   浜松にとって東京は京都より近いんじゃないですか?
   東京には京都よりたくさんの大学があるし。

どうして京都だったんでしょうね。
[98]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月04日 17時01分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 京都へなぜか?ですが、子供の頃の絵本や幼稚園での発表会での踊り
「一寸法師」の「京へはるばる上りくる」が潜在意識の中にインプット
されてしまったのではないかと思っています。
 また、絵本や絵の世界と京都がオーバーラップしてしまった。クロス
ーバーしてしまった。それとやはり金閣寺のまばゆいばかりのイメージ
に魅了されてしまったのかと思います。金閣寺のすぐ側に住んだのもその
せいです。
 自分の無意識の世界、霊的世界、前世などが分かるといいですね。
[99]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月04日 22時42分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


>自分の無意識の世界、霊的世界、前世などが分かるといいですね。

はい
分かると良いですね、何となく心に引っかかること、気になること、が分かればスッキリします。


 
幼い子供って自分が生まれて来る時のことを記憶しているとか聞きます。
  胎児の時に親が夫婦喧嘩をしてたのを覚えてて精神的にダメージを受けて生まれて来るとか
  産道から出る時の体験とか
  はたまた受精する時のこととか


何かあったのかもですね


三つ柏さんの場合は、前世に「京の都の記憶」があって、
幼稚園児の時の経験が、その後の進路に影響したのかもですね。

  わたくしの場合は子供の時にいろいろ読んだ京都に自分の過去世がマッチしないです。
     田舎に住んでたという記憶ばかりです。

  横浜市立大学に行きたいと思ったことはありますが
  合格率がそれほど確実ではなかったので自然消滅しました。
  それに親が下宿なんかさせてくれないと思ったし。

     後でそうでもなかったのかと分かりましたが。
     結局都会に出て遊びまくったのではないかと思うので名古屋にとどまって良かったかも。


三つ柏さんに何か遺伝子に刷り込まれているのかもですね。
そういうのが分かると良いのですが。
[100]A.AKECHIさんからのコメント(2015年03月15日 12時33分34秒 ) パスワード

こちらは服部氏関連の掲示板とお見受けいたしますので、本格的(?)コメントは出来ませんが、一言御礼まで。
実は私は、(本能寺→)山崎 の落ち武者となった後、伊賀の方々に大変お世話になりまして、お蔭様で400有余年後の今日まで永らえることが出来た明智一族の者です。お世話になった伊賀の方々の筆頭は何と言っても城主の(代々何れもの)藤堂采女様ですが、こちらにも書かれていますように藤堂采女家は元は服部家ですので、この場をお借りして御礼を申し上げる次第です。
もう一つ、この掲示板で、明智や本能寺の変に繋がる情報を沢山採り上げて頂いていることにも御礼を申し上げたいです。 
ついで(で申し訳ありません。)に補足を少々…
[47]「主人の藤堂の名字の方が都合が良かった」とありますが、このとき保田から藤堂に改姓したのは、高虎や采女ではなく家康の指示だったそうです。勿論、采女にとり「都合が良かった」のは間違いありませんが…
[63]「本能寺の変から家康を守った」のはその通りですが、本能寺の変で家康を狙ったのは、明智光秀ではありません。明智一族の者の著書「本能寺の変431年目の真実」http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-14382-8.jsp をご参照下さい。
[101]丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月16日 09時46分18秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 『本能寺の変431年後の真実』については、単行本が出た時に即購入し
て読んでおります。
 今後も伊賀や家康との関係と並行して探究は続けて行きたいと思っていま
すので、よろしくお願い申し上げます。

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