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 投稿番号:101396 投稿日:2014年11月03日 16時57分01秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族][
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]Zよりの続きです。

自称「歴史探偵」の目で歴史の奥底に眠る謎を発掘し解明する。

究極の目標は「服部氏族」についての解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月05日 22時06分55秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=DZwuduJ19PUC&pg=PA14&lpg=PA14&dq=%E6%B0%B8%E4%BA%95%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%AE%88%E5%B0%9A%E6%94%BF%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=tMXN_18Plf&sig=ydhep4ft7fPAdfL8EEi4K54aRaQ&hl=en&sa=X&ei=Dh9aVPmgM-abigLKp4HgDA&ved=0CFwQ6AEwCQ#v=onepage&q=%E6%B0%B8%E4%BA%95%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%AE%88%E5%B0%9A%E6%94%BF%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

永井信濃守尚政を検索したら  徳川諸家系譜 2がヒットし

西郷局の話があって
そこには蓑笠之助服部平大夫藤正尚の名があって
その次に百々度右衛門の名も出てました。

永井尚政の名はそのページの後ろの方に出てました。


   アタマの中が服部貞信一族のことでグチャグチャなので徳川諸家系譜 2を読む気力がありません。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月05日 22時34分22秒 ) パスワード

永井尚政の名を検索したら西郷局のお話がヒットしました。



戸塚忠春の娘だったが、
兄が戦死して母に連れられ
祖父の西郷家に引き取られ、
従兄の義勝と結婚したものの
夫に死なれて母の再婚先に行って

    この話は服部正尚の家の話と同じで

「百々度右衛門某女」  ← これはどういう意味?


    服部家の下忍だった百々度右衛門の娘?
        この話は若狭国酒井家の石原信次郎が後に提出した話?


天正6年3月に服部正尚の家で家康はお愛さまに初めて会って
すぐに浜松に召し出して
伯父の西郷家の養女になって
それで西郷局になって

正尚の家で秀忠を産んだ
という話ですね。



百々度右衛門の名が出てきましたが・・・百々の度右衛門の娘がどうしたのでしょう?



良く分かりません。


     まさか西郷局の実父が百々の度右衛門ということはないですよね
     西郷局の記録が百々家にもある、ってことよね?
     謎
     百々度右衛門某の娘・・・
     という箇所に引っかかります。 
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月06日 06時56分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 百々氏について何か資料はないかと調べておりましたが、なかなかありませ
んでした。ただ藤堂高虎の家臣団の中に、百々という姓の家臣が3人おりまし
たので記します。
 ・百々作左衛門(御供衆 三百石)
 ・百々太郎兵衛(御留守居衆)
 ・百々彦右衛門(掃部組 二百五十石)

 服部正尚についても情報が少ないので、謎の部分が多いです。今後合わせて
更に探究したいと思います。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月06日 13時22分42秒 ) パスワード

ありがとうございます。


百々は岡崎の人という情報がありましたが
ひょっとすると「百地」と関係があるのかなと思いました。


なかなか正体が掴めない
それこそ忍者だったから?
とも思います。



謎だらけですね。
[5]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月07日 11時58分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

「百々」を「どど」と読める人は余りいないでしょうね。「もも」なら読
めますが。近江国犬上郡百々村より百々綱吉という武将が出ている。初めは
浅井氏に仕え、最後は牧野氏に仕えている。
 岡崎に百々町がある。豊田市に百々町がある。語源的に何か謎めいていま
すので、いずれ調べたいと思います。また岡崎には近いうちに行ってみたい
と思っています。

 今週の終末も天気が悪そう。堀江城址、久野城址、頭陀寺松下屋敷跡等を見に行く予定ではあります。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月07日 13時32分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


百々の本来の土地はどこなんでしょうね?
ということで調べてきました:


【名字】百々

【読み】ささ,ひゃくびゃく,ひゃくも,とと,どど,とど,どんど,どうど,どうどう,どんと,もも,ももどう,ももひゃく,ももも,とうどう

          すごい!
          お好きなのでどうぞ、って感じ。
          笑

【全国順位】 3,867位  
【全国人数】 およそ3,300人

ランキング
都道府県別ランキング


都道府県

順位

人数


宮城県 632位 およそ400人
岐阜県 2,286位 およそ60人
三重県 1,775位 およそ100人
滋賀県 1,048位 およそ200人
京都府 1,740位 およそ200人
大阪府 2,000位 およそ500人
奈良県 2,341位 およそ70人
広島県 2,029位 およそ200人
徳島県 1,488位 およそ70人
香川県 1,099位 およそ100人
高知県 1,182位 およそ70人



現滋賀県である近江国坂田郡百々村が起源(ルーツ)である、

宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)佐々木氏流がある。

ほか古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏がある。

三ケ月藩、現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵などにみられる。



そうしますと浅井に仕えてたというのは当然のようですね。


そして、もう1人アヤシイ存在が浮かんできますね > 藤堂高虎
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月07日 13時54分15秒 ) パスワード

愛知県東郷町の役場から:


百々(どうどう(どうど))の由来

どのような意味でこの地名になったかは定かではない。

「百々」の地名は、地名辞典によると全国に散在しており、いずれも水流域で水流の音に関係して呼ばれています。

この地にも「前川」の源流があり、急峻な流れであったというから、いつとはなしにこう呼ばれるようになったのでしょう。



で、等々力と同じなのかも。
http://baba72885.exblog.jp/11194571/

「等々力」の地名由来と「どど」地名


「とど・どど」地名の由来は次の5つが考えられる。

                                     @滝や激流の水音                           

東京都世田谷区等々力と神奈川県川崎市中原区等々力は、多摩川の両岸に対峙しているが、河道の変遷によるもので、もとは同じ村だった。

谷沢川の渓流に懸かる滝の音に由来するといわれている。

ほかに、山梨県甲州市勝沼町等々力は、扇状地を刻んでいる日川の流れの音だろう。

轟としては、長崎県北高来町轟渓流、長崎県諫早市轟峡、嬉野市轟滝、徳島県海陽町轟滝      


A山に鳴り響く強風の音、

小説「風の又三郎」の冒頭の「どっどど どどうど どどうど どどっと」と表現された音だ。                 

岐阜県恵那市土々ヶ根は、細長い丘陵。岐阜市百々ヶ峰341mは、岐阜市北部に聳えている。


B水がとどこおる湿地帯                         

愛知県豊川市樽井町土々川は、佐奈川とその支流のつくった沖積地にある。

名古屋市天白区の百々ヶ池は天白川沿いの湿地帯。

秋田県男鹿市百目木は、八郎潟東岸の水田地帯。              


C「どどー」と崩れそうな急傾斜地か、


D行き止まり(とどのつまり)のような地形                

愛知県南知多町山海土々坊の「坊」は崩壊地のこと。            


E海鳴りの音                              

青森県深浦町驫木 千葉県白子町驚(おどろき) 長生町驚は、とどろきが訛ったもの。                                

他に、福島県二本松市笹木野百目木、
京都府木津川市加茂町奥畑土々平、
愛知県岡崎市板田町土々メキ、
愛知県豊田市ドドメキ、
宮城県村田町百々目木、
山形県鶴岡市百々目木、
京都市山科区西野山百々町、
岡山県美咲町百々(どうどう) などがある。 


ところで、百は「十(とう)×十(とう)でとと・どど」と読むのだから、
百々は「どどどど」と読むことになると思うのだが。ま、いいか!      
[8]箱柳永田さんからのコメント(2014年11月07日 19時06分02秒 ) パスワード

  三柏様
>岡崎に百々町がある。豊田市に百々町がある。語源的に何か謎めいていま
すので、いずれ調べたいと思います。また岡崎には近いうちに行ってみたい
と思っています。

 岡崎の場合、どうど 町と読みますね、青山氏改め 清水さんが住んでます。
  南朝系の王孫の血を引く家もあるそうで、2系統になるそうです。
 http://blog.livedoor.jp/ttmsh/archives/7000870.html  百々池ノ入 紹介
 http://blog.livedoor.jp/ttmsh/archives/6396118.html  七所神社 紹介
   by岡崎市散歩ブログ さん
  七所神社北東に、清水墓守家があります。
 http://tikugo.exblog.jp/15583391/  by筑後川の航海日誌
    参考になれば幸いです。
  
  余談 百々住宅には、中村氏(系図に詳しい方、永田一夫氏の娘婿)が
 住んでます。一夫氏は長田支流永田一族を調べた方です。
 
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月07日 21時34分11秒 ) パスワード

箱柳さん


ありがとうございます。
見て来ました。
 http://blog.livedoor.jp/ttmsh/archives/7000870.html  百々池ノ入 紹介


七所神社の東 (岡崎市百々町字池ノ入)

坂を登り切ったところで、七所神社(ななとこじんじゃ)の森が見えました。古代、三河の地を治めていた国造(くにのみやつこ)の物部氏が作った神社です。
景観や環境が優れているとして、岡崎市からふるさとの森に指定されています。
森の中には西池ノ入1号墳という円墳もあります。
ここで、右折して、北に進みました。百々城は、ここから北西に行ったところにあります。

     ちはやの神様
     物部氏
     古墳が8つ
     16世紀に青山氏が来る

     百々氏   ←  ひょっとすると物部氏?


東三河には、日本武尊や弟の五十狭城入彦皇子(イサキイリヒコのみこ)らに征伐されるまで、大和朝廷と敵対する国家があったのでしょう。それが征伐されたため、東三河に大和朝廷の勢力が入り、 国衙を移すことができたわけです。日本武尊は、白鳥になったという伝説がありますが、豊川の国庁跡のある場所は、白鳥町です。日本武尊が勝ち取った地ということでしょう。日本武尊が立ち寄ったとされる場所もあり、白鳥神社がたってます。


     へえ〜


七所神社
http://blog.livedoor.jp/ttmsh/archives/6396118.html

神社の他に、古墳(西池ノ入1号墳)もあります。
百々町字池ノ入では、七所神社にある西池ノ入1号墳を含め、8個の古墳が見つかっています(百々古墳群)。いずれも6〜7世紀頃に作られた円墳とされています。


当神社の祭神は、物部氏と関連が深く、古代にこの辺りを拠点とした物部氏が 、 当神社を設置したと考えれば、かなり古くに作られたものです。物部氏が三河を治める国造に任命されたのが、4世紀頃だと考えられるので、4〜7世紀頃でしょうか。真福寺や滝山寺、北野廃寺など、物部氏と関連があると考えられる寺も、7世紀頃に作られたといわれています。


   このあたりになるとサッパリわけが分からない・・・
    ↓

祀られているのは、物部氏の祖である、可美真手命(ウマシマジのみこと)及び、 可美真手の父である、櫛玉饒速日命(クシダマニギハヤヒのみこと)、可美真手の子である味饒田命(ウマシニギタのみこと)及び彦湯支命(ヒコユキのみこと)、 彦湯支の子である、大禰(オオネ)命及び出雲醜大臣命 (イヅモノシコおおおみのみこと)、出石心大臣命(イヅシゴコロおおおみのみこと)の七柱です。
いずれも物部氏と関わりの深い神であり、当神社は、物部氏が設置したものと考えられます。
そして、『先代旧事本紀』の第10巻「国造本紀」には、 出雲醜大臣の5世孫の知波夜命(チハヤのみこと)が、物部氏を率いて、成務天皇により最初の三河国造に任命されたとあります。
とすると、古代、国造として三河を治めていたのは、物部氏となります。
ただ、『先代旧事本紀』 は偽書とされていますし、 成務天皇自体、存在が疑問視されています。
成務天皇が実在すれば、4世紀半ばの人物とされます。


岡崎市北部には、七所神社の他にも、 知波夜命を主神とする謁播(あつわ)神社を始め、経津主(ふつぬし)神社、村積神社、北野廃寺、真福寺、滝山寺など物部氏に関わりのあるとされる寺社がいくつもあり、古代、 物部氏が三河国造としてこの辺りに、本拠を構えていたと考えられるのではないでしょうか。
すると、古代、岡崎市北部は、三河の中心だったと考えられます。他にも岡崎市北部には、古代に、三河に派遣されてきた五十狭城入彦皇子(イサキイリヒコのみこ)の役所跡や皇子の墓とされる4世紀末から5世紀初頭に作られた前方後円墳もあります。 五十狭城入彦は日本武尊(ヤマトタケル)の弟です。


しかし、その後、三河国分寺、あるいは三河一宮は、現在の豊川市に作られることになります。 三河の中心は東の豊川平野に移ったと考えられます。
もともと、東三河は、古代、穂国と呼ばれていました。これは大和朝廷と敵対する国で、それが平定され、三河の中心地も東に移動したということかもしれません。その証拠に、穂の名は消えましたし、大和朝廷の支配を表す前方後円墳の設置場所も東に移動しています。 豊川市国府町の近くにある、5世紀後半に作られた船山古墳は、全長96メートルで、三河最大の前方後円墳です。この国府町あたりに、三河の国府が移ったのではないでしょうか。
国府駅付近には、知波夜命がつくったとされる三河国総社(そうじゃ)や、国庁跡とされる遺構もあります。


日本武尊は、白鳥になったという伝説がありますが、総社や国庁跡がある場所の地名は、豊川市白鳥町で、日本武尊を祀る白鳥神社があります。 これは、日本武尊が、 五十狭城入彦や、 知波夜命とともに、穂国を平定したことの名残ではないでしょうか。



http://tikugo.exblog.jp/15583391/
青山氏系清水家


三河百々城



住所:愛知県岡崎市百々町

 徳川家の家臣・青山氏の居城。青山氏は家康・秀忠に仕え関東総奉行として活躍した忠成が良く知られている。東京の青山の地名は忠成の屋敷跡と伝わる。
 現在は子孫の丹波篠山藩主・青山忠高が明和7年(1770年)に建てた碑が建つのみである。

忠成(忠成の父・忠門?)の弟が百々町に残り清水姓を名乗ったため、この周辺には清水姓が多いそうです。
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月08日 06時26分42秒 ) パスワード

箱柳永田様

 百々(どうど)のお話、ありがとうございます。名前についての由来について
は色々な説があるようですが、余り納得できるものがありませんので、今後さ
らに探究して行きたいと思っています。

 ところで、話はかわりますが、遠江中泉(磐田市内)に代官屋敷がございまし
て、代官として知られる人物として「大草太郎左衛門」がおります。
 この人の先祖は長田氏であります。磐田市発行の『中泉代官』によりますと、
「その先祖長田喜八郎広正は初め三河国大浜に住んでいたが、のち遠江国山名
郡新貝村(現磐田市)にうつり、長田を永田と改めた。その子政吉は同村八幡宮
の神主を勤めていたが、元亀元年(1570)家康の遠江入国にあたり、召され
て仕え、忠勤を励み、和口郷において知行高1000石を賜り、御厨庄の代官
にとりたてられた。」とある。
 その後永田家は初代政吉から、二代政次となるが、政吉には男子がなく、三
河以来家康に仕えていた「大草次郎右衛門義正」の長男政次を娘婿に迎えた。
 その後名前を大草に変え、政家、政信、政次、政清、正英、政永、政美、政
明、政薫、政郷と続く。但し、政薫の時、流罪となり政郷も追放となるものの、
信州で代官として復活している。
 長田氏、永田氏にはたいへん興味があり研究したいと思っておりますのでま
たいろいろご教示下さい。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月08日 08時16分37秒 ) パスワード

大草政薫について:


http://6703.teacup.com/ookusa/bbs/357

ここにもちょっと出てますね。
御子孫はご健在のようです。今年91歳?



もう1つ流罪になった顛末が書かれているのかも。
残念ながらワタクシのPCでは解凍できませんでした。

https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%A4%A7%E8%8D%89%E6%94%BF%E8%96%AB%E3%80%80%E6%B5%81%E7%BD%AA%E3%80%80%E3%81%AF


[ODF]こちら - 静岡県立中央図書館
www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/.../chiikigakushu.ods

内容:民謡雑記(小川竜彦) 地蔵風土記(尾崎邦二郎) 仏教文化の断片(望月薫弘) ...... 歴代の舟形墓碑、


    八丈島に流罪・大草太郎左衛門政薫(磐田市新貝)、浜名湖畔に ...
           ↑
          ココ
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月09日 15時38分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、午後より舘山寺方面へ行き、堀江城の遺跡を探したが、ホテル堀江
の庄はあったが、遺跡はなかった。ないはずである。そこには某鉄道会社の遊
園地やホテルができてしまっているのである。よく調べていかなかった私がバ
カでした。オッチョコチョイのよくあるパターン。
 次に向かったのは、大久保方面。大久保陣屋跡の近くのお寺巡り。
 神ケ谷に三つのお寺と一つの神社があった。志都呂陣屋跡と同じように、平
地より10メートルから20メートル上がった所に、上から天竜山洞雲寺、神
久留神社、敬雲寺がありました。
 洞雲寺は天竜山洞雲寺といい臨済宗方広寺派のお寺。遠江三十三観音霊場の
第七番札所。また、浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第一番目の札所。というこ
とでかなり由緒のあるお寺。ここには井伊共保公の碑が建てられ、その一画に
一族として、井嶋一族の墓がぎっしり並んでいた。そして「偉大なり 協力一
致」という石碑が建てられていた。一族が結集して協力し合い、助け合って生
きてきたということの証しか。
 そしてこの寺でビックリする事を発見した。それは、服部家の墓である。沢
山ある墓の中で、たった一つだけ、それも格式高く黒御影石で作られ、一基だ
けきわだっている。そして・・・それがあった。「源氏輪に二つ切り竹」とい
われているが、源氏でない人もいるので「十六切り輪と横二つ並び切り竹」と
でも言おうか、刑部の服部中保次の墓にあったのと同じ家紋であった。
 そもそも服部の墓はめったに見られない。ようやく期待していた墓に巡り合
うことができた。願わくば古くからの墓であってほしかったが、いまから十年
前に建立されたものであった。いずれにしても、伊賀系の服部氏の子孫がここ
神ケ谷・大久保地域にいたことの証明である。はっりいって大きな収穫であっ
た。
 その後、神久留神社、臨済宗方広寺派龍興山敬雲寺、臨済宗日峰山東林寺と
回ったが、特筆すべきものはなく、最後に義兄の眠る臨済宗吉祥寺(神ヶ谷)に
向った。
 吉祥寺には松下家の墓がたくさんあり、家紋は「丸に並び矢」(縦並び矢)で
ある。これは伊賀の服部家の標準的な家紋である。やはり服部と松下は溶け込
んだのではないかという感を強くしたのであった。
 中保次の孫保俊の時代から明治まで、大久保・神ヶ谷、山崎、小人見、伊左
地、長上郡上石田・下石田の領主・代官であり続けた。その子孫は絶対地元に
溶け込んでいる。
 
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月09日 22時50分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

>堀江城の遺跡を探したが、ホテル堀江の庄はあったが、遺跡はなかった。
>ないはずである。そこには某鉄道会社の遊園地やホテルができてしまっているのである。

残念でした。
そりゃあ、もう400年ほど経っているんですから、変わっていても不思議じゃないですね。

その鉄道会社がちょっとだけ記念碑を立てて残してくれてたら良かったのですけど
ま、ムリでしょう。


でも「残ってない」ということがハッキリしただけ「収穫」でした。


ところで「堀江城」が正しいのですか?
わたくし的には「堀川城」とインプットされてしまっているので、確認したいです。



>次に向かったのは、大久保方面。大久保陣屋跡の近くのお寺巡り。
> 神ケ谷に三つのお寺と一つの神社があった。
>志都呂陣屋跡と同じように、平地より10メートルから20メートル上がった所


洪水対策が出来てますね。
さすが日本人は「学習」しますから。


>井伊共保公の碑が建てられ、その一画に一族として、井嶋一族の墓がぎっしり並んでいた。


井嶋一族?
初耳でした。



>そして「偉大なり 協力一致」という石碑が建てられていた。
>一族が結集して協力し合い、助け合って生きてきたということの証しか。

すごい!
日本人・弥生系ですから、みんな仲良くですね。


>そしてこの寺でビックリする事を発見した。
>それは、服部家の墓である。
>「源氏輪に二つ切り竹」

服部家の「格式ある家」の紋ですね。
へえ〜


>「十六切り輪と横二つ並び切り竹」とでも言おうか

「横」というのが古い古い嫡流の家の紋、という感じですね。
後世「竪」になっていってますから。


>刑部の服部中保次の墓にあったのと同じ家紋であった。

どなたのでしょうね?


>願わくば古くからの墓であってほしかったが、いまから十年前に建立されたものであった。
>いずれにしても、伊賀系の服部氏の子孫がここ神ケ谷・大久保地域にいたことの証明である。
>はっりいって大きな収穫であった。

ご住職にお尋ねになったら良かったのに。
ご紹介頂いたら良いと思います。


    わたくしは1223年あたりに死んだ母方先祖の墓に行った時に
    1970年代に碑を建てた人の名前が書いてあり
    手紙を出したらお返事がありました。

    その方も84代目とのことでした。



>吉祥寺には松下家の墓がたくさんあり、家紋は「丸に並び矢」(縦並び矢)で
ある。
>これは伊賀の服部家の標準的な家紋である。
>やはり服部と松下は溶け込んだのではないかという感を強くしたのであった。

不思議ですね
名字と家紋の関係がどういうものかハッキリ知りたいですね。

その立派なお墓の服部一族と関係のある松下家なんでしょうか?

ご住職にお尋ねになったら良いと思います。



次回は菓子折り持参で。
にっこり


>中保次の孫保俊の時代から明治まで、大久保・神ヶ谷、山崎、小人見、伊左
地、長上郡上石田・下石田の領主・代官であり続けた。


今日から中保次の家を読み込みます。
楽しみです。


>その子孫は絶対地元に溶け込んでいる。

当然ですね。 



重大なご報告をありがとうございました。
XVIIも拝見しております。

あちらはかなり長くなり過ぎたのでココに記しておきます。
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月10日 11時31分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 アドバイスありがとうございます。
 お墓の所有者の名前はわかりますので、調べて手紙を書いてみます。
 洞雲寺には菓子折を持って訪ねてみます。
 勇気を出せば、それなりの成果・収穫が戻って来る・・・そんな気持ちは
この所、強く抱くようになりました。
 
 さて、昨日は天気か悪く、レス後、午後より図書館へ本を返しに、ついで
に歴史関係書を漁って来ました。
 収穫は一つありました。
 それは、『都道府県別姓氏家紋大事典 西日本編』(柏書房)の中の<三重
県>の欄の中に、「丸に三つ柏の服部氏」の情報が以下のとおり出ていた事
でありました。
 「服部:丸に三つ柏 伊賀・服部部後裔」
 その具体的な説明は残念ながら書かれてはおりませんでした。伊賀市へ
行って図書館で調べてみようかなとも思っております。

 また、『寛政重修諸家譜』全21巻の目次に目を通し、服部関係を当たっ
ところ、主要筋はすでにコピーしてありましたが、新たに20巻目の中に、
2系統の服部氏の記載がありました。それは、
 1.服部順定(もとさだ)
 2.服部保好(やすよし)
の2系統でありました。
 この内、1の順定の方が、「三つ追い柏」を使っていることがわかりまし
た。但し、この家系は医家の家系でございました。

 当日の夕方、浜松の図書館のホームページを閲覧したところ、「レファレ
ンス(質問コーナー)」がございましたので、「丸に三つ柏を使用した旗本服
部氏」について調べてほしい旨記載しましたら、本日さっそく回答のメール
が返ってまいりまして、感激いたしました。6点程の関連資料を当たってい
ただきまして、結論としては以下のとおりです。
 ─また、「寛政重集諸家譜」にて服部氏の系図を調べていたところ、「丸
に三つ柏」ではありませんが「三つ追い柏」を用いていた服部氏でしたら該
当ありました。「新訂寛政重集諸家譜 第20巻」288−289頁『服部
(平氏』:順定(了伯)−清定−清信−直賢−時亮−泰路と代々徳川家に仕えた
寄合医師の家系ですが、家紋は『八葉車の内矢筈2本 左巴 三追柏』とあ
りました。3番目の掲載でしたので、定紋ではなく替紋でしょうか? 柏紋
の服部氏はこれしか確認できませんでした。お役に立てず申し訳ありません。─
 何と親切な対応でしょうか、本当に嬉しくなりました。
 改めて感謝申し上げる次第であります。

 一昨日の話にもどりますが、もう一つ嬉しい出来事がございました。それ
は地元の古本屋さんでの事でした。寄ってみたいとはいつも思っておりまし
たが、駐車場がなく車では寄れない・・・と思って寄らなかったのですが、
土曜日で近くの銀行でATMで用を済ませ、店まで歩いて行きました。
 奥に結構歴史関係の本が揃っており、一冊を購入しました。結構地元での
歴史が記載されており、帰宅後通読しましたので、その新たなる発見につい
て次回記載いたします。
 なお、店主も40年来古書の仕事をしているので、何でも聞いて下さいと
いうことで、今後お付き合いが始まりそうです。松島十湖直筆の短冊と掛け
軸が格安でありましたので即購入いたしました。
 店主曰わく、家の解体や引越の時、丸ごといくらで仕入れ、仕分けしてい
いものを残す・・・目の前には、仕入れたばかりの代官所の記録がたくさん
積まれておりました。地元の歴史の宝物がたくさんありそうなので、今後期
待できそうです。
 
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月10日 22時11分43秒 ) パスワード

書き直し


三つ柏さん


へえ〜!


>『都道府県別姓氏家紋大事典 西日本編』(柏書房)の中の<三重県>の欄の中に、
>「丸に三つ柏の服部氏」の情報が以下のとおり出ていた事でありました。


         「服部:丸に三つ柏 伊賀・服部部後裔」
 

>その具体的な説明は残念ながら書かれてはおりませんでした。
>伊賀市へ行って図書館で調べてみようかなとも思っております。



「伊賀の服部部」ですか
そうしますと職業が織物の服部氏服部、という家でしょうか?


ここでこんがらがりました。

伊賀の服部家のどこかの家が職業系服部連となってどーたらという説明がありましたが
どなたの家だったのか記憶がハッキリしませんし
調べてみたらメモしていなかったです。

    これまた不思議です。
    これまで何度もこの記述を目にしてきたし
    メモしたはずなのに。


       何か先祖が隠そうとしているのか?
       変なパワーを感じます。
   
       またユックリ読み直します。




是非伊賀まで調べにいらっしゃってください。

なんだかまた振り出しに戻ってしまったような。

     例の高槻の神服神社の紋・・・でしたっけ?
    伊賀の服部連とこの神社の関係からの紋でしょうか?



三ツ柏さんのお宅は  神社関係なんでしょうか?
そして御殿医がご先祖にいらっしゃるとか?


先祖には  やっと!近づいた!  と思う瞬間に  肩透かし  を食らわされますね。
なかなかシッポを掴ませてくれませんね。



その古本屋さんに良い本がありそうな気がします。


下記の服部氏にはなかなか到達しないと思いますが楽しみにアタマの片隅にとどめておきますね。

1.服部順定(もとさだ)
2.服部保好(やすよし)



ぜひぜひお墓を建てた人にご連絡なさってください。
そしてお寺さんにも菓子折り持参で!

   あ、年末はお寺さんはお忙しいでしょうから、お早めに。
   彼岸の時とお盆の時はかき入れ時なので、迷惑になりますから、この時もお避けください。
   やはり今の時期が最高に良いのかも、今月中にでも。
    師走は坊主も忙しいって聞きますから。



とにかく上質のものスゴイ情報量に驚きました!
ありがとうございました。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月10日 22時36分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


やはり<15>はあれで良かったです。


服部半蔵の家で良かったです。


   服部保長の家は  ほのはやひの命の末裔で  允恭天皇の御宇に織部司に任じ諸国の織部を拾領。

   服部連と号す。

   その子孫、伊賀国阿拝郡服部の郷を領し
   今、諸国に遊仕と記す


   平氏にして葛原親王の後胤
   伊賀平内左衛門が末孫なり。

*************************
以下は無視してください:


(重複) レス15に書いたこと:


三つ柏さん


へえ〜!


>『都道府県別姓氏家紋大事典 西日本編』(柏書房)の中の<三重県>の欄の中に、
>「丸に三つ柏の服部氏」の情報が以下のとおり出ていた事でありました。


         「服部:丸に三つ柏 伊賀・服部部後裔」
 

>その具体的な説明は残念ながら書かれてはおりませんでした。
>伊賀市へ行って図書館で調べてみようかなとも思っております。



「伊賀の服部部」ですか
そうしますと職業が織物の服部氏服部、という家でしょうか?


職業系服部氏だったら服部保長(いわゆる服部半蔵の家)の家と関係があるみたいですが
半蔵の家は三ツ柏紋じゃないですよね



是非伊賀まで調べにいらっしゃってください。

なんだかまた振り出しに戻ってしまったような。
例の高槻の神服神社の紋・・・
ここの関係でしょうか?



三ツ柏さんのお宅は  神社関係なんでしょうか?


やっと!近づいた!と思うと肩透かしを食らわされますね。
なかなかシッポを掴ませてくれませんね。



その古本屋さんに良い本がありそうな気がします。


下記の服部氏にはなかなか到達しないと思いますが楽しみにアタマの片隅にとどめておきますね。

1.服部順定(もとさだ)
2.服部保好(やすよし)



ぜひぜひお墓を建てた人にご連絡なさってください。
そしてお寺さんにも菓子折り持参で!

   あ、年末はお寺さんはお忙しいでしょうから、お早めに。
   彼岸の時とお盆の時はかき入れ時なので、迷惑になりますから、この時もお避けください。
   今月中にでも。


ものスゴイ情報量に驚きました!
ありがとうございました。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月11日 05時16分27秒 ) パスワード

服部順定(もとさだ)を検索しましたら  ページが逆さに印刷されてて読めなかったです


清和源氏能勢氏のところです。



新訂寛政重修諸家譜 5 - Page 29 - Google Books Result
books.google.com/books?isbn=4797102098

1964
女、後妻は服部庄:二・保時,か赛女

こんな感じ???
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月11日 05時23分01秒 ) パスワード

さらに検索しました
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Roots/sub4-4c.htm

伊奈のクボタさんの系図に服部家からの嫁が出ていました。
壊れると思いますが。


    なお「宗良親王がらみ」のようです。



正久==========正矩――――――――――+―正盛―――――――+
  十左衛門 300石     清右衛門 新八     | 助左衛門 200石  |
  妻服部市左衛門娘    実君尚胤三男 200石   | 妻大岡祥次娘   |
  目付 徒支配 普請奉行 妻服部直正娘      | 金方支配 勘定奉行|
              目付 金方支配     | 厩支配 使役 番頭|
                          +―旨満       |
                          |          |
                          +―明正       |
                          | <分家>     |
                          +―孝涼       |
                         


もっと下の方
英正===========就正――――――――義正――――――――乾之助
  専次 伯父服部明正養子  平右衛門 吉之丞  六郎大夫 長太郎
  刃傷沙汰で服部家断絶後  10石 馬廻     妻加藤武晴娘
  分家する 10石      妻柿本清房娘    父就正に先立ち早世
  六郎大夫
  妻川島昌栄娘
  後妻三田村正根養女



刃傷沙汰で服部家断絶
ですって。

服部家もいろいろあったのですねえ。
         
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月11日 05時33分08秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%8B%9D%E6%88%90


水野勝成

父母
父:水野忠重、母:妙舜尼(本願寺光佐妹)
    ↑
   父忠重の母は華陽院さまです。家康の祖母。お大さまの母上

   そうすると家康とは従兄弟?

   でも父親と仲が悪くて大変だった話がURLに書かれています。


この人の履歴書に服部半蔵の甥の話が出てきます。

出奔[編集]

天正12年(1584年)の蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。
このとき服部保英(服部正成の甥)は勝成に属して武功をあげた。
      ↑
     ココ
 

家康・信雄が秀吉と伊勢桑名で睨み合う陣中において、父・忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構(事実上の他家への仕官禁止)として勘当した[19]。その後しばらく家康によってかくまわれ須賀口(清洲)の寺に引きこもっていたが、忠重の追及があり逃れた。美濃、尾張の関係城主を訪ねて、その地に逗留していたが、忠重よりの奉公構に各城主は遠慮して、長居はできず、遂には京都にいく。

以下略
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月11日 05時46分01秒 ) パスワード

いろいろ検索してたらビックリの情報があったのでアップします:


服部正就(半蔵正成の息子)

服部 正就(はっとり まさなり、永禄8年(1565年) - 慶長20年5月7日(1615年6月3日)?)

安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。
通称は半蔵(はんぞう)、あるいは源左衛門で、一般に服部半蔵の名で知られている服部正成の長男。

   家康の姪=家康の異父兄弟になります
                 ↓
正室は松平定勝(久松松平氏)の長女松尾、子は服部正辰。官位は石見守。


生涯[編集]

父の死により、服部家の家督、服部半蔵の名と、伊賀同心200人の支配を引継いだ。

しかし、正就は、徳川家から指揮権を預けられたに過ぎない配下の伊賀同心を、さながら自分の家来であるかのように扱った。

そのため伊賀同心は反発し、慶長10年(1605年)12月、四谷長善寺(笹寺)に籠って正就の解任と与力への昇格を要求する騒ぎに至った。

このため、正就は役を解かれた。

正就は逆恨みし、伊賀同心の首謀者10名に死罪を要望。
そのうち、逃亡した2名中1名を探し出して切り捨てたが、別人である事が分かり、完全に職を失うこととなった。

       けっこうオッチョコチョイだったのね(きゃはは)


そして正就は、妻の父である伏見藩の松平定勝の下に召し預けられた。

その後、名誉挽回を狙い、松平忠輝の軍に属して大坂の陣に参加するも、行方不明となる(『寛政重修諸家譜』は天王寺口で討ち死にとする)。



その後の服部家[編集]

弟の服部正重が服部半蔵を襲名するが、
岳父である大久保長安の大久保長安事件、
またその後の不祥事により失脚。

数藩を渡った後、桑名藩主・松平定綱(定勝の子)に召し抱えられて、桑名藩で服部半蔵家は存続する(大服部家)。

一方、正就の妻は桑名藩主松平定綱の姉である事から、
その子・正辰も桑名藩に仕えている。

血統から藩主一族の扱いを受け、服部半蔵家(大服部家)以上に優遇されている(小服部家)。



死への異説[編集]    ←   ココ

元・伊賀同心支配役(一般的には、伊賀忍者の頭領として知られる)が行方不明になった事から異説も生まれている。


1.密かに逃亡し、75歳まで無名の農民として生き続けた。
2.弟の服部正重(正成の次男)に服部半蔵の名を襲名させるため、邪魔者と見なされ、伊賀の同心達によって暗殺された。

等の説がある。

しかし、大きな合戦で戦死した武将の遺骸が行方不明になるのは珍しい事ではなく
   (特に、戦敗側の武将の首は手柄として、戦勝側によって大切に保管されるが、
    戦勝側の武将の首は喪失される可能性が高い)

不審というにはやや弱い。



登場する作品[編集]
『最後の伊賀者』(司馬遼太郎、短編小説)
『徳川秀忠』(戸部新十郎、小説)
『兵馬地獄旅』(横山光輝、漫画)
『サスケ』(白土三平、漫画):「服部半蔵」の名で登場。
『BRAVE10』(霜月かいり、漫画)


その他にも酒に酔って下っ端と喧嘩して殺された説とかありますね。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月11日 05時48分54秒 ) パスワード

http://tsukimidaruma.fc2web.com/sengoku/keizu_hattori.gif

服部家家系図

わたくしのノートでは読み難いけど、力作です。
大きな画面のPCだったら全部一目で見られるかも。
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月11日 09時34分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 貴重な情報ありがとうございます。とりあえず、読解いたします。
 本日中(今晩といったほうがいいかも知れませんが)に、能楽師服部正信・
正清の情報も入手しましたので、合わせてレスいたします。
[24]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月11日 23時25分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古本屋で仕入れた『重修浜名史論 上下完』(高橋祐吉編)の中に、思いがけ
ず、大福寺に居留していた能役者の服部正信・友清についての記述があり、今
までいくら探しても情報がなかっただけに、奇跡の大発見となった。直接的な
部分を書き出します。
 「江戸時代に入って、大福寺摩訶耶寺或いは岡本八幡宮宇志八幡宮等に云わ
ば仏事能や神事能が事ある毎に興行されたことも頷けると思う。そして特に本
格的な能楽を培ったのは大福寺に定住して同寺のお抱えとなったと考えられる
喜多流能役者服部氏の存在である。同氏が大福寺へ来た初めはその縁辺の子孫
で現三重県菰野町東町在住の内藤浜太郎氏が昭和二十八年調査記録したところ
によると、その祖服部三左エ門正信が父正勝と共に来往した様子で正信は喜多
流の開祖喜多(北)七太夫長能の弟子で伊勢松坂の出身であると云う。大福寺へ
来て同寺のお抱えとなったらしく屋敷を寺の境内に貰っていたと考えられ、そ
の事は文政八年(1825)十二月時の往持快雅上人が記述した瑠璃山乗の中に
「明和五年正月十二日夜長屋より失火、諸堂者災を免れ其余悉焼失、円入坊及
服部友清宅罹災、土蔵一宇免災。」とあって明らかである。
 そして正信は大福寺に在って同寺は勿論近隣の寺社の祭礼祝儀の際に能の興
行をしたのである。特に近時有名になった三河新城の能の伝統興隆に服部正信
その子源右エ門治直友清の力は大きいと思う。
 新城の富豪風流人であった鈴木禎介助の書いた能番組の後記に、友清につい
て宝暦五年(1755)8月に富永神社の祭礼能にはじめて翁が演奏され、友清
と云う八十八才の老人が勤めた旨を記している。
 かくして正信、治直友清二代に亘る活躍の後その子孫等は伊勢菰野藩に荻野
姓を名乗って仕官し当地を退去しているのである(友清の子は治賢茂七)。」

 次回は、能と柳生の関係についてまとめたいと思います。


 
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 03時58分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

貴重なお話をありがとうございました。



お寺専属の能楽師でしたか。


>もとは祖服部三左エ門正信が父正勝と共に来往した様子で
>正信は喜多流の開祖喜多(北)七太夫長能の弟子で
>伊勢松坂の出身であると云う


「正」の字が通字というのは服部半三保長系か、服部中の系統なのかしら?
   尾張の服部家は「政」の字ですものね。
   だから尾張じゃない。


ひょっとすると服部半三保長系かもですね。
半蔵の息子の家はお取潰しになって桑名藩に移っているから
桑名藩の服部氏と関係があったのかも。


もとは松阪の出身ということは
ここは江戸時代は紀州藩の飛び地ですから
それで遠江に来易く、お寺でも居候が出来たのでしょうか?


そして菰野藩のお抱えになっていきましたか。
菰野ではなくて桑名なら納得が行きますが、どうして菰野藩だったのでしょうね?


菰野について:

菰野藩祖は土方雄久の長男・土方雄氏である。

雄氏は織田信雄、豊臣氏に仕えて伊勢菰野に1万石を領していたが、
慶長4年(1599年)に徳川家康と本多正信の主従が画策した「幻の家康暗殺事件」の嫌疑をかけられて所領を没収され、常陸国太田に追放となった。

       ↑
     下の方に書きますね


しかし関ヶ原の戦い直前にその罪を許され、雄氏は伊勢・近江国内に1万2000石の所領を与えられて菰野に陣屋を構え、ここに菰野藩を立藩した。

第2代藩主・土方雄高は陣屋と城下町を建設し、商工業者を招いて新たに東町・河原町を新設する。また、藩の体制を整備して藩政の基礎を固めた。

しかし以後の藩主が財政において放漫だった結果、菰野藩の財政は逼迫する。このような状況を見た第7代藩主・土方雄年は保守的な家臣団を処罰して緩んだ綱紀の引き締めを図ったが、大坂や駿府の加番勤務、藩内における凶作などの天災から、藩財政は悪化の一途をたどった。第9代藩主・土方義苗は「臨時準備積立法」を制定して年間225俵の米を一割二分の利で13年間も積み立てた。さらに質素倹約や経費節減、灌漑工事などを積極的に行なって財政再建を見事に成し遂げ、文化的には藩校・麗沢館を創設するなどした菰野藩中興の名君であった。第10代藩主・土方雄興のとき、佐々木惣吉が稲の品質改良に務め、種関取米の栽培に見事成功した。また、紅屋善左衛門が現れて菰野茶として売出しをはじめ、嘉永年間には大谷九左衛門が第11代藩主・土方雄嘉の許可を得て、茶園を建設した。

明治4年(1871年)、廃藩置県により廃藩となって菰野県、安濃津県となり、翌年に三重県に編入された。

年貢の取立てが比較的緩やかだったため、明治維新まで一揆が無かった珍しい藩である。




「幻の家康暗殺計画」とは:


慶長4年、表向きは、9/9の重陽の節句に際し、豊臣秀頼に祝詞を申し述べると言うものの、
この時に「幻の家康暗殺計画」が発覚する。

                          ココ
                           ↓
家康を前田利長を首謀者として、浅野長政、大野治長、土方雄久等が登城途中の家康を討とうとしておるとの密告が齎される。

これにより、家康は伏見より自軍の兵2万を大坂へ呼び寄せて、いよいよ大坂城に居座る事に成功したのである。



10/2 幻の家康暗殺計画の容疑者の処分

奉行の浅野長政は蟄居、土方雄久は佐竹義宣の元へ、大野治長は結城秀康の元へ
其々預けの身と成る。

これにより奉行は4奉行から3奉行へなり、秀頼、淀君の側近も除された。

幻の家康暗殺計画は家康の豊臣体制切り崩しの一環であり成功する形と成ったわけである。


10/3 加賀征伐発令!!!前田利長、無抵抗で家康に屈する。

首謀者とされる、前田利長は容疑は晴れず、その風聞も高まり前田征伐の声明となった訳であるが。

元より全てが家康の虚偽でありこの声明を知った利長は動揺して直ちに家老の横山長知を家康の元へ送り陳弁に勤め
母の芳春院を家康の元へ人質として江戸へ送る事にて窮地を脱する。
    ↑
   ありましたね


これにより前田家は保全されたものの家康の膝下へ完全に組み込まれた形となる 。



家康の横暴止まらず!!!

昨年の伏見から大坂に入った後も家康は勝手に、加増、転封を行い多数派工作を行う。

加増した領地は全て秀頼の直轄領であり、職権を利用した横暴振りを強める。


11/20 出羽仙北の戸沢政盛が家康に景勝の動静を報じる。


上杉景勝が上洛を拒否!!!

上杉が城下に浪人を雇い入れ、軍備を増強している事を謀反と糾弾して使者を派遣。

誓詞の提出と上洛しての釈明を要求する。



景勝の非違8か条を書き連ねた弾劾状を送る

慶長5年
1600年 4/14 直江兼次が家康に対し堂々と返書。
「来るなら来い!白川口で迎え撃つ!!!」

弾劾状を受取った直江兼継は、各条ごとに激しく論駁、家康の要求をはねつけて、
挑戦状にも等しい世に名高い「直江状」を返書としたためた。



ここから関ヶ原の戦いの前に家康の「会津征伐」が始まるのですね。



菰野藩がこういう背景の家だったら、服部友清の子達が引き取られたというのも分かる気がします。


   土方家にしてみたら遠江と紀州に縁のある人間は政治的に欲しかったでしょうね
   なんせ初代藩主の父親が家康の罠に引っ掛かっているんですから。
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月12日 05時56分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 見事な推理、感服いたしました。伊勢・伊賀は特にあを様ご専門の分野です
ね。土方という名前は新選組の土方に通じるのでしょうか・・・? 私はまだ
伊勢・伊賀、また藤堂関係の知識に不足しております。これから藤堂高虎を探
究していきたいと思っています。伊賀・伊勢の中も単純ではなかったというこ
とですね。

 忍者と能、あるいは申楽(猿楽)との関係は、観阿弥・世阿弥親子の出自を
みても一目瞭然である。また、伊賀・柳生・宇治といったところは距離的に
も近く情報のネットワーク、即ち人脈のつながりがあったものと思われる。
また、猿楽・能と剣術も「秘すれば花」のように鍛錬して奥義に至るという
点、あい通じるものがある。また服部一族と申楽・能楽とのつながりも大いに
あるということ、忍術とも通じている。
 柳生と申楽・能の関係もしかり。但し柳生は猿楽よりも剣術に活路を見出し
た。
 相川司・伊藤明共著『柳生一族 将軍家指南役の野望』の中に柳生氏と能楽
との関係が詳しく述べられているのを発見した。能に関する本を探していたの
ですが、なかなかこれといった本はなく、最近ようやく松下之綱-おりん-宗矩
の関係から柳生氏に興味を持ち、本屋さんで本を漁ったところ上記本を見つけ
たもの。
 柳生氏と能の関係は字数でいうと結構長くなりますので、かいつまんで述べ
てみますが、ニュアンスが伝わりますかどうか・・・。
 一旦、ここで切ります。

 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 06時32分14秒 ) パスワード

土方歳三の家は  

  元はどこか有名な大名の家(武田か北条)の家来で
  家康から家臣に取り立てられるという話があったのに反故にされて 
  江戸時代、百姓になってしまった

  というのをこの平熱の「たまねこさん」だったかがお書きでした。
  「たまねこさん」が土方歳三に繋がる家の人だったと記憶しています。


  数年前にNHKの大河で「新選組!」の時に

  土方の家とその親戚になる家(たとえば佐藤家)はかなりの家だったようで
  佐藤家の当主(歳三の姉の夫?)が蔵から鎧兜を出して来るシーンがあって

  家康からのお召しを待ってたのかなあ、と思いました。


  多摩は百姓といえど先祖は武士だから
  徳川家に何かあれば鎧兜に身を包んで戦うという気骨があったようです。



菰野藩主の父・土方雄久について


     前田利家の従兄弟だそうです。

土方氏は源頼親に始まる大和源氏(宇野氏)の流れを汲む家柄であり[6]、
父の代から織田氏の家臣[7]であり、
雄久は織田信長とその次男の信雄に仕えた。

天正4年(1576年)の三瀬の変では田丸城での北畠一門粛清に関わった。

信長のもとでは伊賀国平定で功を挙げ、同12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは信雄の命令で家老の岡田重孝を殺害した。


これらの功績から、信雄より尾張国犬山に4万5000石の所領を与えられた。

天正18年(1590年)、小田原征伐にも従軍し、夜襲を行ってきた北条氏房の軍と戦い撃退している[8]。


小田原征伐後、信雄が改易された後は、豊臣秀吉の家臣として仕え、1万石の所領を与えられた(後に2万4000石まで加増)。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 06時52分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。


柳生の場合は「剣術」に特化した、ということですか。

やはり特技が有るというのは身を助けますね。


柳生宗矩にしてみれば親が大名じゃなかったというのが悔しくて
知恵を働かせて将軍家に取り入ったということなんでしょうね。

   50年早く生まれてたら柳生家は大大名になれてたかも。


    宮本武蔵も70年ほど早く生まれてたら大名になれた人物だったかも。
    時の運の無かった人です。

    でも人気もあるし、世界的な著述家でもありますから(「五輪の書」のことね)
    以て瞑すべし、ですね。 
[29]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月12日 11時18分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部正成、中保治、政光、正尚、貞信・・・この5系統が伊賀服部氏で
歴史に残る活躍をしたということですね。
 服部と柳生について語られている資料が余りないのはどうしてでしょうか。
ただ、荒木又右衛門が柳生の門下生だったようで、剣術の点でのつながりは
ある。
 服部半蔵正成・就成、政重、柳生宗矩・十兵衛・宗冬、家康・秀忠・家
光・・・ほぼ同時代人である。なぜ柳生と服部のエピソードが残っていな
い? それは路線の違いが大きかったからだと思われる。戦闘の最前線で
の攻撃、謀略・・・これが忍者系の路線。一方、柳生系はVIPの護身SP、
また護身術(剣)の指南役。戦闘の時代から平静な時代へと移るに従い、護身
としての剣術指南がより時代にマッチし出した。一方の戦闘系は必要性がな
くなって消滅して行く。仕えた上司も大名と将軍家の違い、服部と柳生の接
点はますますなくなって行く。

 さて、柳生と能の関係でありますが、長い文章てせありますので、要点を
圧縮しますので、も少し時間を・・・。
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月12日 13時44分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 書き込んでいたのですが、キーボードのミスタッチですべて消えてしまい
ました。ショック! 
 集中のできる家にて書き込みいたしますのでご容赦下さい。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 21時10分27秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございました。


   ありますね、ウッカリ消してしまう、って。

   アップする時にワタクシの場合は「発言」でなくてウッカリ「リセット」を押したりします。


   

なるほどね
柳生の方がアタマが良かったということですね。


荒木又右衛門は柳生で剣術を習ってたのですか
柳生は伊賀から西へスグの距離ですからね。

10年ぐらい前にテレビで柳生の里の柳生家の(柳生道場の?)屋敷の画像を見たことがあります。

今に至るも立派というのは柳生はナカナカのものでした。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月12日 22時35分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それでは、『柳生一族 将軍家指南役の野望』から―
 「柳生の庄は奈良から北東に16キロ。現在では奈良市の一部となっているが、かつてこの地を大和国添上郡柳生郷といい、山城国や伊勢国と境を接する
一帯であった。
 従来の歴史常識からすると多少違和感を覚えるかもしれないが、当時は定住
型の農耕民以外にも数多くの漂泊民=非農耕民(山民、商人、職人、芸人、な
ど)が存在しており、それは「まつろわぬ民」—古代から政権に服従しなかった民族—の子孫といわれている。猿楽師(能楽師)や忍者もまた漂泊民である。
 柳生の地は、畿内を結ぶ山岳ルートの重要ポイントに位置しており、漂泊民
によって情報—近隣土豪の動向など—が数多く集積する要地だったと考えられる。
 芸能も、平安時代に寺社に奉納した神楽などから派生した庶民芸能として、
鎌倉時代、演劇性を増して歌舞劇として発展し、室町時代に猿楽として成立し
ていく。
 近畿各地で一座が生れたが、名高いのは、春日大社と結びついた大和4座で
ある。その一座のメンバーが観阿弥であり、その子が能楽の大成者・世阿弥で
ある。これが後の「観世流」となる。そしてその観阿弥は、父を服部元成、母
を楠正成の姉(妹か)としており、ここに服部氏と楠氏のつながりが見られる。
 また、柳生の祖は春日大社の神人であり、一方の観阿弥率いる観世座は、春
日大社の神事能に奉仕していた。そこに観世能と柳生との結びつきが見られる。
 そして、この新しい芸能を厚く庇護したのが、室町幕府三代目の将軍、足利
義満であった。義満は当時の武士としては教養のある趣味人で、朝廷の貴族文
化の創造を目指していた。新興芸術の能、加えて無限の可能性を秘める若き世
阿弥(当時12歳)に、義満は新しい武家文化の息吹を感じたのである。
 ついに、1408(応永15)年、展覧能—天皇にお見せする能—を主催するこ
とに成功する。武家文化が、貴族文化より優位に立った記念すべき瞬間であった。
 武士が絶大な権力を持った江戸時代には、武家文化の代表たる能楽は幕府の
公式芸能と位置付けられ、さらに隆盛を極めることとなる。
 大和4座(金春、観世、宝生、金剛)に加えて、徳川秀忠がひいきにした喜多
七太夫の「喜多流」が新設される。
 一方、家光は、大名たちが舞う素人能を好んだ、という。また、尾張徳川家、
加賀前田家、仙台伊達家を初めとする各大名も、諸行事の祈りには能を鑑賞す
るとともに、自ら舞うこともあったのである。
 新陰流創成期にも、柳生石舟斎宗巌が皆伝を許した金春七郎氏勝という能役
者がいた。この氏勝が石舟斎に師事していたとき、金春流猿楽の秘伝「一足一
見」と新陰流の秘伝「西江水」とを交換したという。
 ただ、ことは秘伝のみではない。柳生新陰流、能楽、そのおのおのの流派の
基本的な考え方に、すでにして共通点が存在するのである。
 すなわち、新陰流の「陰」は、自らの心を秘して他人(敵)に向う、の意味も
あるが、一方、能楽のキーワードである「幽玄」も、他人(観客)の眼を意識し
て自らを慎むこと、を意味するという。
 ともに、自らの心を他人には見せず「秘すれば花」の心境である。
 こうした経緯もあって、特に宗矩は能楽への思い入れが深かった。
 それも、単に観劇するだけでは飽き足らず、自ら舞うこともたびたびであっ
た、という。
 こうして、能楽による情報網と剣術指南のネットワークを通じ、幕府、諸藩
の情報を収集することができた。また収集される側は逆に恭順のためにそれを
受け入れるようになっていったのではないかと思われる。
 伊賀と柳生、忍術と申楽(猿楽、能)、切っても切り離せない関係にあったこ
とは間違いない。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月13日 02時49分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


貴重なお話をありがとうございます。


確かに聞いてます
神武東征なのか稲作の伝播なのか  弥生人 vs 縄文人  の戦いで
弥生人に取り込まれなかった縄文人は逃散して山の中などに隠れ住んだと。


今の日本人でも集団生活に溶け込めない人がいますから
   縄文人の血が濃く出たのかなあ
と思ったりします。

   海外旅行のパック旅行でも必ず「団体行動の出来ない人」がいて
   帰国寸前の空港のチェックインカウンターで問題発覚をやらかすのがいます。

      例えば「パスポートが無い!」と言い出すと、添乗員が困ります
      当然このヒトは皆さんと一緒には日本に帰国が出来ませんからね。

      領事館に行って一時渡航許可証を取得しなきゃ日本の国に入れませんから

         船員手帳はオーケーですが、運転免許証は今でもオーケーなのかな?
      領事館が休日で閉まっていると何日も現地で領事館が開くのを待たないといけません。

      お金もかかりますしね。



稲作農耕弥生人系は「回りの仲間には迷惑をかけない」という性向が確立してますけどね
      あはは




「まつろわぬ人々」

秀吉も針を売り売りアチコチ放浪していますから
稲作定住集団行動協力型日本人にすれば秀吉の  その存在  その生き方  は仲間にいれたくない
というのがあって  「秀吉は身分が卑しい」  とされてますね。

母親も姉も弟もおとなしく百姓をしてたのに
稲作農耕弥生人の日本人にすれば百姓仕事を放り出した秀吉は許せない存在なんでしょうね。

秀吉のハシッコさも日本人の枠から外れて、とうてい、日本人には理解不能だったんでしょうね。


   ま、それでも松下加兵衛や信長のように秀吉を認めたヒトも少数いたわけですが。   


思い起こせば、わたくしも子供の時にヨソモノ・流れ者・知らないヒトにはついて歩くものじゃない、
という世界に住んでいましたっけ。

戦後でさえそんな感じですから中世や近世の日本じゃやはり特殊な人々とされたのでしょうね。



>徳川秀忠がひいきにした喜多七太夫の「喜多流」が新設される。

贔屓にしたというのは、これはやはり母・西郷局がらみでしょうね。
服部正尚がからんでますね。



>新陰流創成期にも、柳生石舟斎宗巌が皆伝を許した金春七郎氏勝という能役者がいた。

これは100%目から鱗でした。
金春七郎氏勝
この人物はアヤシイですね。


>この氏勝が石舟斎に師事していたとき金春流猿楽の秘伝「一足一見」と新陰流の秘伝「西江水」とを交換したという

これは「表」の話なんでしょうね。
「文化」の交流の「裏」に  柳生氏と金春流  の秘密の取引があったのかも。



>伊賀と柳生、忍術と申楽(猿楽、能)、切っても切り離せない関係にあったことは間違いない。

はい


おりんさまと柳生宗矩の夫婦関係は破綻してたようですが
妻には許せない夫の秘密があったのかもですね。

   柳生家の裏の仕事についてだったのかも。
   深い深い闇の中に沈んで暗躍してたんでしょうね。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月13日 09時57分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様のコメント─
 1.「喜多流」のひいきについては西郷局=正尚がからんでいるのではな
  いか。
 2.金春七郎氏勝と柳生石舟斎との「一足一見」と「西江水」の交換の裏
  に何か秘密があったのではないか。
 3.おりんと宗矩の亀裂には妻のゆるせない夫の秘密があったのではない
  か。

 猿楽師は大久保長安が猿楽師の出であったように、鉱山-銀・金とからんで
いたという事実を考察する必要がありますね。正尚も猿楽師(申楽師)。そう
いえば、中保治の奥さんも花井吉成という猿楽師の娘であった。金春という
姓も金にかかわっているにおいがする。やはり金を握ったものが強いのは世
の中の常。秀吉も元は猿。
 やはり、猿楽師をもっと突っ込んで探求する必要があります。
 新陰流の秘伝についてもその真髄を探求する必要があります。
 おりんとおふじ(後妻か)の関係、その子達の関係についても探求する必要
 があります。

 これらについては、家にてまとめます。いろいろ深い謎について。

[35]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月13日 12時10分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


なかなか興味深いお話をありがとうございます。



>金春七郎氏勝

なかなか一筋縄ではいかない人物のようですね。


http://1000ya.isis.ne.jp/0829.html

以下コピペ

金春七郎は慶長15年に35歳で死んでいるものの、ずいぶん武芸達者の者だったようで、宝蔵院胤栄から槍術の印可をうけたのをはじめ、神道流長太刀、大坪流馬術にも長けていて、とりわけて晩年の石舟斎の刀術に惚れこんだ。そこで金春からは「一足一見」という秘伝が、柳生からは「西江水の一大事」などが相伝された。

 これに対して、「殺人刀」「活人剣」は宗厳・宗矩の父子が長年をかけて練り上げた心技の実体験で得たところを綴っている。もちろん禅や能を踏まえている。そこで斯界では、この二書をしばしば「習の外(ほか)の別伝」とよんできたのだが、これが冴えわたっていて、読ませるのだ。

 宗矩の言い方は、だいたい当初に「負」をあげる。たとえば「兵は不祥の器なり」というふうに。それからやおら「正」に入っていく。

以下略


剣豪人物一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E8%B1%AA%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7

柳生家信(大野松右衛門)
柳生厳勝
柳生利厳(柳生兵庫助)
柳生宗章
柳生宗矩(柳生但馬守宗矩)


金春氏勝(金春七郎)(剣、槍、薙刀、馬)   載ってますね


剣豪としても著名な大名・武将など[編集]

鍋島元茂


徳川義直    尾張藩は柳生流だって聞いたことがありましたっけ
           柳生利厳から新陰流兵法の相伝も受けている


加賀爪甲斐守          ←  加賀爪さん!

加賀爪 直澄(かがつめ なおずみ)は、江戸時代前期の旗本、大名。武蔵国高坂藩初代藩主。加賀爪忠澄の長男。姓は加々爪とも表記する。

生涯[編集]

乱暴旗本の旗本奴として有名で、江戸の町で「夜更けに通るは何者か、加賀爪甲斐か泥棒か」と恐れられたが、書院番頭・大番頭・寺社奉行などの要職を歴任し、この功績が認められ、最終的には1万3000石に加増されて大名となった。延宝7年(1679年)に養子の直清に家督を譲る。しかし、自身の不手際から直清が成瀬正章と領地問題で争いを起こした責任が問われ、天和元年(1681年)に土佐に配流となった。



秋元但馬守

秋元 泰朝(あきもと やすとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。館林藩秋元家2代。秋元長朝の子。徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。

生涯[編集]

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣後、大坂城の堀の埋立に功績があった。豊臣氏滅亡後の残党狩りも行った。

寛永5年(1628年)、父・長朝の死により家督を相続する。寛永10年2月3日(1633年3月12日)、甲斐国東部の郡内地方を治める谷村藩の城代として1万8000石に封ぜられる。寛永13年(1636年)には、日光東照宮の造営で総奉行を務めた。

寛永19年(1642年)、この頃は全国的に深刻な寛永の大飢饉の最中であり、泰朝も対策にあたっていたが、10月23日に急死した。
[36]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月13日 21時40分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:レス[34]中保治→中保次

 『柳生一族 将軍家指南役の野望』(相川司・伊藤昭共著)より——

  西江水とは、中国の唐の時代の話で、「万物一切を友とできないのは、
 どのような人か」と弟子が師に訊ねると、師は「お前が西江の水を一息
 で飲み干したら答えてやろう」と言った。
  すなわち、文字通り西江の水を飲み干すような大きな心を持てば、全
 身に注意(ここでは水)が行き届き、しかも心がひとつ所に留まらず自在
 となる、ということである。
  つまり、柳生新陰流の修行は、この「西江水」―無身かつ自由の境地
 ―に至るための日々の鍛練なのだ、と言っていい。

  宗厳と七郎とはそれぞれ新陰流、金春流の奥義を交換しあったと伝え
 られるほどに親密な間柄で、七郎は新当流の長太刀、宝蔵院流槍術など
 も修行していた武芸のエキスパートであった。
  残念ながら七郎自身は若くして世を去るが、江戸時代に入ると七郎の
 子は加賀前田家、弟たちは尾張徳川家、仙台伊達家といった有力大名の
 お抱えの能役者として高禄で召し抱えられた。
 特に弟たちが仕えた尾張藩、仙台藩には、剣術指南として尾張藩―柳生
 利厳(宗厳の孫)、仙台藩―柳生権右衛門(利厳の弟)が同様に仕官してい
 た。この点は柳生新陰流と金春流―剣術と能―のリンクの具体例として
 非常に興味深い一面がある。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月13日 22時40分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


>江戸時代に入ると七郎の子は加賀前田家、弟たちは尾張徳川家、仙台伊達家といった
>有力大名のお抱えの能役者として高禄で召し抱えられた。
           ↑
          柳生のバックアップも考えられますね



>特に弟たちが仕えた尾張藩、仙台藩には、剣術指南として尾張藩―柳生利厳(宗厳の孫)、
>仙台藩―柳生権右衛門(利厳の弟)が同様に仕官していた。
>この点は柳生新陰流と金春流―剣術と能―のリンクの具体例として非常に興味深い一面がある。

ホント!
非常に興味深いですね。

やっぱり「表」の関係だけじゃなかったんでしょうね。


ありがとうございました。



>「万物一切を友とできないのは、どのような人か」と弟子が師に訊ねると、
>師は「お前が西江の水を一息で飲み干したら答えてやろう」と言った。

こういう中国の故事は好きです。
この話はいかにも中国的で面白い問答です。

そうか、これからは、こういう回答をして相手をケムに巻くことにするか。
[38]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月14日 08時55分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 能については、下記情報を見つけましたのでお伝えいたします。
『徳川将軍家の真実』(山下昌也)によれば、
 「ほとんどの将軍は、能や蹴鞠も嗜んだ。が、これらは趣味・娯楽という
より、お茶と並ぶ教養であり、社交の道具でもあったので、歴代将軍は能に
親しんだ。武芸好きの三代家光も、御三家やお気に入りの大名を呼んで、頻
繁に能を楽しんだが、家光は素人能が好きで、各大名に能を演じることを奨励
した。また、家光は今様の風流踊も大好きで、能とセットで催すこともあり、新しい振付けを命ぜられた柳生宗矩が困惑したこともあった。
 気紛れで我が儘な家光は、体調を崩した寛永十四年(1637)には、昼寝
ばかりしていて夜眠れないので、四座一流の能役者に夜を徹して演じさせ、
気が向けば、散歩など気晴らしの合間に時折、障子越しに能を見ていた。将軍
とはいえ、無礼な話である。」

 その後の将軍達も四代から十三代家定くらいまで能と謡が将軍家の楽しみの
ひとつであった。もう一つは「鷹狩り」であった。何がそんなにおもしろかったのか。戦国の世が終わり、血と涙・・・刺激がなくなったのが原因であろう
か・・・。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月14日 12時16分22秒 ) パスワード

三つ柏さん


家光は面倒臭い男だったんでしょうね。
ま、将軍さまなんだから好き勝手出来ましたけど。


能舞は武士のたしなみでもあったのですか
茶と並ぶ教養の1つ。
へえ〜

信長も秀吉も能を舞ってますからね

戦国時代は戦国時代のストレスを晴らす遊びで
平和な時代が訪れてからは紳士の嗜みとして優雅な動作の表し方の発表の場
だったのかもですね。


>家光は今様の風流踊も大好きで、能とセットで催すこともあり、
>新しい振付けを命ぜられた柳生宗矩が困惑したこともあった

困りますよね
宗矩は能が好きなフリはしてても能の大家じゃないんですから。


ここでまた疑問が出ます

金春は37歳で亡くなったということで
何故?

だって能でゆっくりした動作の運動をしているし
槍術や剣術で激しい運動もしているし

そういう人が若くして亡くなったというのは本当の死因は?
と考えてしまいます。

ひょっとすると消されたのかも、と。
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月14日 23時19分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『柳生一族 将軍家指南役の野望』より、まずは、金春七郎について―
 「さて、晩年の石舟斎は一族ばかりでなく、金春七郎にも数次にわたり兵
 法の極意を授け、死の直前にまでおよんだ。猿楽師・金春七郎、彼こそが
 最愛の弟子だったのかもしれない。」

  七郎については約1頁にわたっての紹介があります―
 「大和猿楽4座のひとつ金春流の能役者ながら、柳生宗厳から『新陰流兵
 法目録事』などによって新陰流の印可を受けた。晩年の石舟斎宗厳は、七
 郎への伝授の日々、といっても決して過言ではない。
  その一方で、七郎からは金春流の秘伝が宗厳に伝えられたという。いわ
 ば秘技の交換、両者の飽くなき武芸への執念を見る思いがする。
  また七郎は宝蔵院胤栄のもとでも修行し、その槍術も伝授されている。
 このように宗厳、七郎、胤栄を結ぶ「刀(剣)」というよりも、「刀槍」に
 あったと考える方が自然だろう。
  さて金春座は、大和4座の中でもとりわけ由緒があり、興福寺の薪猿楽
 の初日公演は金春座と決まっていた。しかも室町初期に能楽を大成した世
 阿弥の娘婿が金春禅竹であり、禅竹こそが最も世阿弥の教えを受けた能役
 者といわれている。
  その子孫が金春安照(禅曲)―七郎の父―であり、豊臣秀吉の寵愛を受け
 て金春流の全盛期を築き、大和国に5百石の知行を得たという。
  ちなみに能楽は室町幕府以来、幕府・政権の式楽―セレモニーの都度催
 される公式芸能―となっており、なにも自主的な興行を打っていたわけで
 はない。つまり能役者とは、ときの権力者に召抱えられた家臣(芸人)なの
 である。
  七郎は、父よりも早く逝去したために、その事績はほとんど伝わってい
 ないが、金春家の嫡流は<七郎氏勝―子・重勝―孫・元信>と受け継がれ、
「大阪の陣」の際に重勝は豊臣方として、大阪城に籠城している。また、
  @七郎の子・安信は「竹田権兵衛」家を起こし加賀藩・前田家へ、
  A七郎の弟・安喜は「金春八左衛門」家を起こし尾張藩・徳川家へ、
  Bやはり七郎の弟・氏紀は「大蔵庄左衛門」家を起こし仙台藩・伊達家へ、
 と仕え、それぞれが大藩のお抱え能役者として活躍した。
  幕末までにA、Bは断絶したが、嫡流と分家との間で領地問題などがつ
 きまとい、義絶状態だったともいわれる。そこには、なにかしら柳生の
 「江戸柳生対尾張柳生」の相克を見る思いもする。
  ついでながら、江戸初期に徳川秀忠がこよなく愛したことから、能楽5
 座に入った「喜多流」は安照の娘婿・喜多長能(ながよし)の流れである。」
 
 おりんについて―
 おりんは正室、後に側室として器量よしのお藤(?)がいた。
 おりんの子は、長男三厳十兵衛、三男宗冬、お藤の子は、次男友矩左門、
四男義仙である。三男と次男が逆になっているというか、正室と側室が交互
に子を産んだということになる。
 宗矩も順風満風というわけではなかったので、おりんもいろいろたいへん
んだったろうと思われる。宗矩が36才の時の子が三厳、42才の時の子が
友矩、44才が宗冬、65才が義仙となれば、三厳を生んだ時を20才とす
れば、28才で宗冬を生んでいることになる。いつまで生きたのかはわから
ない。

 家光の正確については、次回にまとめます。  
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月15日 02時53分15秒 ) パスワード

三つ柏さん


金春七郎についての情報をありがとうございます。
父に先立ちて死す、ですか。


その上に金春家もいろいろあったのですねえ。

そりゃあ利権が、最高の利権が絡んでますから、
絶交状態になってたでしょうね。



柳生家の中でも
奥では正妻おりん vs 側室お藤の戦いがあって
その上に父と子のバトルもありましたし
大変だったんですね。


将軍家の中でも 父秀忠 vs子家光 の争いがあったわけですし
その下に仕える者達には生きるか死ぬかの生存競争ですし

結局は秀忠の死で家光の完全勝利ですから
秀忠側には報復人事が待ってるわけで、影での死闘があったのでしょうね。

こういう闇を考えるのはまた愉しいですね。



家光の性格などまたお知らせください。
   だいたいは分かりますが
   将軍家という特殊家庭なりの苦しみは庶民には測り知れない凄まじいものがあったのでしょうね。


ありがとうございました。
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月15日 08時23分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は午後より古本屋にて歴史本・資料の宝探しをいたす予定。明日は
今年最後の芝刈り。ようやく日本も晩秋より冬の入口にさしかかっています。
風邪をひかないよう気をつけたいと思っています。
 
 日本左右衛門の話もレスの中に見られましたので、合わせて今夕記します。

[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月15日 10時17分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


今年最後の芝刈りですか。



日本左衛門についてウイキで調べました。


で、なんと!
服部中の家は徳山氏の家と縁続きなので  あらら?  と思いました。
下の方に徳山氏についても記します。といってもコピペですが。


日本左衛門
享保4年(1719年) - 延享4年3月11日(1747年4月20日))
江戸時代中期の大盗賊。本名は浜島 庄兵衛。

尾張藩の七里役の子として生まれる。
若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、
東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされる。


延享3年(1746年)年9月、被害にあった駿河の庄屋が北町奉行能勢頼一に訴訟し、

老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣される[1]。   ← この人

これにより盗賊団の幹部数名が捕縛されたが、日本左衛門は逃亡した。

日本左衛門は伊勢国古市などで自分の手配書が出回っているという噂を聞き遠国への逃亡を図るも、安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念(当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった)。


1747年1月7日に京都にて京都町奉行永井尚方に自首し[3]、江戸に送られ小伝馬町の牢に繋がれた。市中引き回しの上、同牢獄にて3月11日(14日とも)に処刑され、首は遠江国見附に晒された。[4]諸説あるが、確認されている被害は14件・2622両[5]であるものの、14件・2627両余り[6]と記す史料もある。


その容貌については、175cmほどの当時としては長身の精悍な美丈夫で、鼻筋が通って色白で、顔に5cmほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている。

肥前平戸藩主松浦静山の随筆「甲子夜話」にも、日本左衛門の話が収録されている。後に歌舞伎・青砥稿花紅彩画で義賊「日本駄右衛門」として脚色されたほか、白浪物などで様々に取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではなく、諸説入り乱れている。




関連史跡[編集]

現在に残る日本左衛門の史跡として、東京都墨田区・徳之山稲荷神社に日本左衛門首洗い井戸の碑があり、ほかにも遠州見附・見性寺に墓があり、遠州金谷宿・宅円庵には首塚がある。 首塚には斬首の後に晒された首を日本左衛門の愛人が盗み出し、宅円庵で弔ったと言う言い伝えがある。首塚の脇にはその旨が記された看板がある。

その他[編集]
随筆『耳嚢』巻之一によると、日本左衛門の処刑後、その子分の1人である山伏の逃亡話が記述されており、棒術を用い、相当な手だれであったが、機知を働かせた大阪の町同心によって捕縛されたとある。

脚注・出典[編集]

1.^ 池波正太郎著作の「おとこの秘図」では火付盗賊改方長官としている
2.^ 日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっているが、本所築地奉行に任命されたのは代々の旗本徳山五兵衛でも徳山重政のみであり、年代が合致しない。
3.^ 上記の碑には向島で捕縛されたとある。
4.^ 処刑の場所は遠州鈴ヶ森刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われている。
5.^ 『磐田市史 通史編 中巻 近世』 磐田市史編さん委員会編、磐田市、磐田、1991年、351ページ。OCLC 47578260。
6.^ 『遠シュウ見附宿日本左衛門騒動記注解』 渥美登良男・渡邊弘編、浜松市北部公民館古文書同好会、浜松、2003年、48〜50ページ。


**********************



http://www.tokuyama.net/edo.htm

江戸の幕臣徳山氏


 徳山一族の中で、歴史上最も波乱に満ちた生涯を送ったのは、貞孝の子五兵衛則秀であり、徳山一族を語るのに最大級の人物です。則秀は、幕臣徳山氏の初代であるのみならず、苗字の読みや家紋も改めるなど、影響力の大きな人物です。(家伝に、「はじめ『とこのやま』と称せしを、則秀がときより『とくのやま』と唱う。」とあります。)

  五兵衛則秀は、織田信長に従い、浅井、朝倉討伐や長篠合戦などに参加、その後柴田勝家の与力となって加賀の攻略に加わり、天正4年(1576年)御幸塚城(石川県小松市)を陥し、信長から御幸塚城主に任命されます。次いで、小松城に移った後、天正8年(1580年)の加賀平定後は松任4万石の領主となります。その後も、則秀は娘婿佐久間玄蕃盛政との縁もあり、柴田勝家配下として能登、越中方面で戦っています。天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際には、魚津城(富山県魚津市)攻略に参加していました。

  本能寺の変の後も則秀は柴田勝家に従っています。天正11年の賤ヶ岳の合戦にも柴田側として参加、有名な大岩山砦の奇襲にも先鋒として活躍し、「賤ヶ岳合戦図屏風」にもその姿が描かれています。賤ヶ岳の合戦は秀吉の迅速な帰還と前田利家の戦場離脱により柴田側は敗戦。則秀は秀吉に降り、高野山に蟄居しますが、後に出て丹羽長秀に仕えて8千石を得、次いで前田利家に仕えます。前田利家の死後、慶長5年、徳川家康に召し出され、以後幕臣となっています。

  五兵衛則秀は「徳山村史」に「勇邁にして機智策謀にたけ、隠忍長久の人生観を持ち」とあるように、魅力的な人物であったようです。勇敢なだけでなく、御幸塚城攻略では調略を廻らして城将を内応させるなど戦略面でも有能だったようで、戦国の世を生き抜いています。また、家康公の生涯や思想、人柄に似通うものが多かったのでしょう、晩年には家康公の御噺衆に列し、本領美濃徳山及び更木5千石を賜り、厚遇を受けています。



幕臣徳山氏(本家)

第2代直政(なおまさ)
  父死去の折幼少のため、姉婿九蔵英行(実は佐久間玄蕃盛政の子)に2千石を与えて後見とし、直政は3千石(のち3,243石)を相続した。大阪両度の役には使番となり、後に大阪城普請奉行、美濃国堤普請奉行となる。

※九蔵英行は僧となるの志ありて逐電したため領地2千石は幕府に没収となる。

第3代重政(しげまさ)
  万治3年(1660年)に初代本所築地奉行となり、本所、深川の都市計画と埋め立て、掘り割り開削、架橋を行う。(現在の墨田区、江東区にみられる整然とした碁盤の目状の街路網はこれを基本としている。)亀戸に天満宮を勧請、深川長慶寺を中興。本所石原に宅地を賜る(現在、徳之山稲荷神社がある場所)。後、勘定奉行。

第4代重俊(しげとし)
  2,743石を相続し、500石を弟権左衛門重次(幕臣徳山家の分家)に分知する。先手御鉄砲頭、盗賊奉行。池波正太郎の小説「堀部安兵衛」に登場。

第5代重舊(しげとも)
  秀栄(ひでいえ)ともいう。先手御鉄砲頭、のち火附盗賊改方に就任し、盗賊日本左衛門一味の捕縛に功績を挙げる。池波正太郎の小説「おとこの秘図」の主人公。

第6代頼屋(よりや)        ← 服部中保房の娘が頼屋の妻になりました
  使番、布衣。

第7代頼意(よりおき)       ← この人の次男が婿に来てます:服部中保舊です
  使番、布衣。

第8代頼福(よりとみ)
  26歳で死亡。

第9代貞賢(さだかた)
  18歳で死亡。

第10代秀起(ひでおき)
  分家筋にあたる逸見八左衛門義直の三男、養子となる。大阪町奉行、諸大夫石見守、先手御鉄砲頭。

第11代秀守(ひでもり)
  西丸御納戸、使番、先手御鉄砲頭。

第12代秀堅(ひでかた)
  出羽守。講武所砲術教授方出役を勤める。慶応3年(1867年)歩兵頭より歩兵奉行となる。翌年正月、徳川慶喜が幕府の兵を率いて入京しようとしたとき、二条城にあってこれを固めた。維新になって領地2,743石を奉還した。


幕臣徳山氏(分家)

  上記本家第4代重俊の弟権左衛門重次のたてた家である。500石。

第2代嘉之助重一(重次の養子となり、御小姓組となる)
第3代権左衛門重之(御書院番)
第4代小左衛門貞明(重之の養子。実は本家第5代秀栄の次男。御小姓組、御小納戸、甲斐守)
第5代小左衛門貞時(貞明の養子。実は竹本越前守正章の次男)
第6代小左衛門貞栄(貞時の養子。実は能勢惣八郎頼継の三男)
第7代小左衛門貞実
第8代小左衛門重元
第9代小左衛門某(領地奉還)



*服部中保房の母は長谷川久三郎正相の娘で

     この長谷川平蔵宣以の家は4070石で鬼平犯科帳の人だそうです。
        次男が長谷川正以だから
        この流れかも。

     平蔵の妻は大橋与惣兵衛親英だそうで
     服部家を調べてた時に大橋の家も出て来ましたっけ。


服部中保房の妻は永井伝八郎茂虎の娘です。

で服部中保房の子供は男子2人が早世して
長谷川久大夫徳栄の家から養子を貰いました。



永井茂虎は通称が伝八郎ですから
永井直勝の通称が伝八郎なので
この子孫なんでしょうね。

    旗本の服部家が丸に三つ柏紋なのはやはり永井家に関係があるからでしょうか?

       永井家の梨紋じゃなくてわざわざ長田家の三つ柏にした?


なんとなく核心に近づきましたね。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月15日 10時25分35秒 ) パスワード

調べれば調べるほど服部家との関係が浮き上がって来ます
当たり前ですね
昔は仲良しグループでツルんでたし
同じ格の家と縁結びをしたのですから。


そうすると平氏で服部姓で丸に三つ柏紋ということから  服部中保次  の関係が浮かんで来ました。


まだまだ調べなくては。
やはり現場100回ですね。

三つ柏さんが  なんとなく頭に浮かんだ人物から  思わぬ収穫が得られました。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月15日 15時25分48秒 ) パスワード

永井茂虎の家紋が知りたいです。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月15日 15時32分34秒 ) パスワード

http://homepage2.nifty.com/0305/keihu.htm
永井家の興味深いお話が書かれています。
旗本などの貴重な情報も書かれています。

家紋の1つに  二柏  というのもあって  ???  でした。
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月15日 20時06分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろ調べれば次から次へと新事実が出てきますね。徳山氏なんて聞い
たこともなかったのですが、まさか服部中系と親戚だったとはビックリです・・・。

 実は『中泉代官所』の中で、日本左衛門と徳山氏のことが出ておりました
ので、今夕書こうと思っていたところだったのです。

 一度ここで切ります。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月15日 21時44分36秒 ) パスワード

>実は『中泉代官所』の中で、日本左衛門と徳山氏のことが出ておりましたので、
>今夕書こうと思っていたところだったのです。


不思議ですね。いえいえ日本ですからチットも不思議じゃないのですが


徳山氏と服部中の家が繋がったのには驚きました。


   まさか  徳山氏  が出て来るとはねえ
   旗本で徳山氏なんて聞いたことが無かったのですが
   実は母方の親戚に徳山氏というのがいて   同じく84代目  という人物です

   それが  寛政重修諸家譜に  徳山ではない母方の名字が出てて
   通字が似てるようで微妙に違う
   でも母方は大阪城で働いてたし

   ということでワタクシは徳山氏とは母方父方双方で繋がりそうです。



日本人ですね。
知らないだけで日本中みんな繋がってる・・・ようです。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月15日 21時54分23秒 ) パスワード

<43>に書いた
     >第6代頼屋(よりや)        ← 服部中保房の娘が頼屋の妻になりました
         使番、布衣。

     >第7代頼意(よりおき)       ← この人の次男が婿に来てます:服部中保舊です
         使番、布衣。


この「御使番」って
服部中の家でもなってる人がいます。

   当然ですね徳山家の親戚ですから


この「御使番」って何をする人かな?と思ったので
こんなことを想像しました。


将軍や幕府の「お使い」で大名や旗本なんかのお家に行って(あ、城、か)

  「頭が高い!」
  
と言って「下」って書いた手紙を見せる人じゃないかなと。
 あれ?「上」って書いた手紙の時もありますね。

       何か「差」「区別」があるんでしょうね。


それとか改易になった家(じゃない城)の引き渡しを検分する役とか?


こういう  パシリの仕事  だったのかな?
と空想して楽しいです。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月16日 05時57分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 早朝より芝刈りですので、帰って来てからレスいたします。
 昨日の古本屋での収穫は、『史実 大久保石見守長』、『柳生一族 新陰流
の系譜』、『伊賀上野城史』、『遥かなる衣ヶ浦のみなと』です。
 では―





[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月16日 10時37分37秒 ) パスワード

>『遥かなる衣ヶ浦のみなと』

これは箱柳さん用ですね。
にっこり
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月16日 20時28分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろ宿題がありました。

 1.堀江城と堀川城
  堀川城は気賀にあり、すぐ南流れる都田川を渡ると、刑部があり、刑部城
 や服部中保次の墓がある。
  刑部から浜名湖沿いに南へ進むと舘山寺があり、そこに堀江城があった。
 さらに南へ行くと大久保陣屋や志都呂陣屋に至る。堀江城は志都呂と気賀
 の中間点に位置するといっていい。ここには大澤氏や中安氏が居城していた。
 堀川城は堀江城の出城であった。
 2.家光の性格について
  『柳生一族 将軍家指南役の野望』によると―
  「徳川家光は1604(慶長9)年、2代将軍・秀忠の次男として生まれた。
  側室の生んだ長男・長丸は2歳で早世していたため、実質的に嫡男とされ、
  幼名も家康、秀忠と同じ竹千代であった。
   ただし2歳年下の弟・国松(後の徳川忠長)の方が気が利いて可愛らしく、
  秀忠夫婦や周辺は国松を次期将軍にと望んだ、という。このため、家光の
  乳母・春日局は、駿府にいた家康を訪ね、竹千代への後継ぎ指名を直訴す
  る。
   そこで継嗣問題の混乱を嫌った家康は江戸に赴き、秀忠や家臣が居並ぶ
  前で、竹千代が後継ぎであることを明言する。
   ただし、これは通説であり、春日局を家光の実母とする異説も存在し、
  むしろそう考えた方が権力抗争の実態がよりリアルに映る。
   なお、この跡目争いは後に禍根を残し、秀忠死去の翌年(1633年)、
  家光は、甲斐、信濃、遠江国55万石の大名だった忠長―駿河大納言―
  を高崎城に幽閉し、自害に追い込んでいる。
   一般に、徳川一門は罪に問われても処遇は比較的ゆるやかで、配所で
  生涯を送るのて通例であり、それに比べると、この忠長への処置は、異
  例の厳しさといえる。なお、忠長の遺児が時代劇に颯爽と登場する「松
  平長七郎」とされるが、これは架空の人物。
   この行為を現代風に解釈すれば、家光は幼児期に冷遇されたのを根に
  持っていた、つまり家光のトラウマを感じさせる出来事ともいえよう。
   ただ、この処断にはもうひとつの側面があり、それは家光の健康問題、
  というファクターである。
   もともと幼児期より体の弱かった家光は、将軍となってからも、16
  28(寛永5)年には瘧(おこり マラリアに似た病気)を、1629(寛永
  6)年には疱瘡を患い、1633(寛永10)年、忠長配流の直前には、危
  篤と噂されるほどの重病であった、という。
   こうした健康への不安が、自分に対する忠長の脅威を増幅させ、ついに
  は忠長を自殺に追い込む結果となった、と考えることも可能であろう。
   そしてこの健康への自身の無さが、逆に身体頑健さへの憧れとなり、将
  軍としては異例ともいえる剣術への執念、となる。死の寸前に家光が「慶
  安御前試合」を開催したのも、その執念ゆえであろう。
   また家光が能を非常に好んだ背景には、彼が吃音者だったからだ、とい
  う説もある。能の謡であれば淀みなく、話せるというわけである。
   いずれにしても、家光という人物は、宗矩との関係を抜きにして語るに
  は、難しいものがある。
   したがって宗矩が出仕もせずにすねてみたり、家光が「但馬は本気で兵
  法を教えてくれない、諸大夫(従五位下)にまでしたのに」と不満をいうな
  ど、互いが駄々をこね、甘えたりもするのである。
   〜中略〜
   また、柳生友矩(三男)と同年に小姓になった者に、春日局の義理の息子
  にあたる堀田正盛(13歳)もいた。彼は家光の寵童―可愛がっている美少
  年―として知られ、後には松本10石を領する老中にまで出世を遂げる。
   じつは、この友矩も正盛と同様に家光の男色の相手だったという説があ
  る。男色は、戦国時代には武士の嗜みのひとつとされ、江戸時代には主従
  関係の要素も加わったといわれる。」

   ここで一旦切ります。
  

    
 

 
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月16日 21時54分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続いて―
 3.「おりん」に関する情報
  おりんの死亡した年は、1618年、柳生三厳の生まれたのが1607
 年、その時のおりんの年齢を20歳位とすると、28歳位で宗冬を生み、
 31歳位で亡くなっていることになる。正室であったが、側室もいた。

 4.金春七郎に関する情報
  柳生宗矩が弟子として一番可愛がった金春七郎(秦氏勝)の4代前の祖が
金春八郎(秦氏元、その親が金春七郎(秦氏信)法名「禅竹」。八郎の弟、
 すなわち禅竹の次男が秦信喜、彼より大蔵を名乗り、大蔵太夫十郎と称す。
 その三代後、曾孫が大蔵太夫藤十郎。すなわち「大久保長安」であった。

 5.永井茂虎は重元の次男(長男は直勝)白元(あきもと)の孫。家紋はまだ
 しかとはわからない。

 6.いろいろ沢山になりましたので、日本左衛門と徳山五兵衛の話は、明日
 に回します。

 

[54]箱柳永田さんからのコメント(2014年11月16日 22時33分00秒 ) パスワード

 あを様
 
>>『遥かなる衣ヶ浦のみなと』

これは箱柳さん用ですね。
             まさに、まさに! です。
 
  逢妻川を中心とするグループと矢作川を中心とする2つのグループがあり
 どちらも豊田市で合流するのですが、、、強い交流は無さそうなんです。
  まー、約5世代の進出差がありますので、、、でも江戸中期まで家紋は
 同じですから、気づくと思うのだが、、、この辺が不可思議。
  ひょっとしたら、解決の糸口?、、、なんです。
  期待して、読解を待ってます。

  「御使番」は主に戦場で命令を伝える係です。
 頭も武術も優れた者にしか務まりません!

  多くの合戦絵図には、背中に 五 の旗を立て 騎馬の母衣武者姿で
 書かれています。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月16日 23時00分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。


堀江城が中心で、堀川城は出城でしたか。


2以下、じっくり読み直しますね。


箱柳さん

ありがとうございます。
>「御使番」は主に戦場で命令を伝える係です。  → 伝令の頭でしたか
> 頭も武術も優れた者にしか務まりません!   → 安心しました。


>騎馬の母衣武者姿で書かれています。

母衣の着用を許された、
なんて書かれています。

なるほど。

意味があったのですね。
にっこり
[56]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月17日 06時44分13秒 ) パスワード

箱柳永田様

 「御使番」の話、ありがとうございました。ひとつ賢くなりました。「五」
の旗はもともと服部半蔵に由来すると記憶しますが、その意味を調べていませ
ん。仏教にからんでいるとすれば「五逆罪」で極悪の大罪。無間地獄に落ちる
とされている。但し、阿弥陀仏はどんな人でも救ってくれるということ。
「五」はそんなすさまじい意志と希望を表した旗だったんでしょうか?

 『遥かなる衣ヶ浦のみなと ―海運と産業の歴史―』は2年前に碧南市藤井
達吉現代美術館が主催した企画展覧のために制作された近世から近代にかけて
の衣ヶ浦周辺の海運と産業に関する資料となっております。絵図や古文書等が
ふんだんに紹介されておりますが、何かヒントになるものがあるか探してみま
す。
 『史実 大久保石見守長安』(北島藤次郎)という本も古本屋で入手し見てい
ます。意外と長安は実務的に革新的な偉業を成し遂げ、副将軍位の実力があっ
たといわれておりますので、江戸時代初期の歴史は長安がいろいろからんでき
ます。また、長安事件も実際にはものすごい衝撃的事件(豊臣秀次事件と並ぶ、30人位の人が処刑されているようです)でありましたので、もっと探究され
てもいいと思います。
 一里塚の話もありますね・・・。検地における寸法の確立、金・銀の精錬法
等、ある意味で近代的技術・学術を長安は先駆けて取り入れています。非常に
謎にもとんだ興味深い人物であります。何か永田氏の探究の参考になるものが
あればご連絡いたします。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月17日 13時24分02秒 ) パスワード

「五」の意味を調べてみましたが分かりませんでした。


母衣


母衣(ほろ)とは、日本の武具の一種。「幌」、「保侶」とも書く。

解説[編集]

     画像:平敦盛を呼び止める熊谷直実。
        その背中に大きな赤い母衣を負う。
        永青文庫蔵「一の谷合戦図屏風」より。


母衣は武士の「七つ道具」の一つとされている[1]。

戦場における甲冑着用の際に、縦に縫い合わせた長い布を背中につけたもので、馬で駆けると風をはらんでふくらみ、背後に長く引いて背面からの流れ矢を防ぐ役割を果たし、

大鎧とともに馬を駆り弓を主武器とする当時の武士の戦闘法に適していた。

騎馬戦闘が廃れた室町時代の頃からは、内部に鯨のひげなどで作った骨を入れ常にふくらんだ形状を維持して背負う装飾具に変化し、差物(さしもの)の一種となった。

「母衣」という表記はその形状と用途から妊婦の胞衣になぞらえたものという説もあるが、確かなことは不明である。


歴史[編集]

『日本三代実録』の貞観12年(870年)3月16日の条には、小野春風が大量の「保侶」を朝廷に乞うたという記事が見られ、このころから用いられていたことが確認される。この時代はまだ武士の大鎧は形成されていない。


『中右記』には永久元年(1113年)、源重時の郎従が甲冑の上に流れ矢を防ぐための保侶という布をまとい、これを一族の風として習い、源重武の郎従達も久安3年(1147年)の合戦で身にまとい、人目を驚かせたという[2]。

12世紀中頃では、武士甲冑による集団(一門)が揃って保侶を身にまとうという行為は、まだ珍しかった。

文永の役の際、紅の母衣をかけた肥後国の大将菊池二郎武房が蒙古人の首ふたつを太刀と長刀(なぎなた)の先に刺して持っていたという記録がある[3]。

武房は仲間の死体の中から起きあがってかろうじて生き延びた[4]とあることから、かなりの混戦だったとみられるが、紅の母衣が確認できるあたり、ちぎられなかったとわかる。


15世紀末前後成立の『鴉鷺合戦物語』の「第八 母衣次第、正素嫡子七郎折檻、鵠越後守上洛之事」の条には母衣について詳しい記述があり、


    それによれば本式は紅であり、
    赤白の色もあり、
    これは陰陽の2色であるとし、
    白は老武者がかけるものと説明している。

              コレではないわね
               ↓
    大きさについては「五幅五尺」、
    すなわち5尺の長さで約36cm幅の布を5枚縫合わせたもので「五大五仏」を表し、
    他に「八幅八尺」や「十幅一丈」(一丈は10尺)のものもあると記し、

    縫う糸についても口伝ありとする。

    その色から大きさ、製作まで信仰と密接に繋がっていたことがわかる。

    また陣中でかける母衣、合戦時にかける母衣、勝戦(かちいくさ)にかける母衣、歩立(かちだち)のかける母衣、討死が確定した状況でかける母衣と、状況によって使用する母衣は異なるとしている。

   『鴉鷺物語』が記述された15世紀時点では、紅・赤・白以外の色の記述は見られない。

        へえ〜
         ↓
上泉信綱伝の『訓閲集』(大江氏の兵法書を改良したもの)の巻十「実検」には、母衣をかけた武者の首は獄門にかけてはならず、仏法で母衣武者の首を何の配慮もなしに獄門にすれば、その首は成仏できないとの理由から扱いに気をつけるようにといった内容の記述があり、あえて討死にする際は母衣をつけたともあり、母衣で首を包むのが決まりとなっていた。つまり母衣を身に付けているのといないのでは、首の扱いに待遇差があった。



武士の組織化が進んだ戦国時代には、母衣は赤や黄など目立つ色で着色されており、
敵味方からも識別しやすい母衣は大名の精鋭の武士や、本陣と前線部隊の間を行き来する使番に着用が許される名誉の軍装として使われることがあり、
それら使番の集団を「母衣衆」と称した。


織田信長の軍には馬廻から選抜して使番として用いた「黒母衣衆」や「赤母衣衆」があり、
これはそれぞれ黒と赤に染め分けた母衣を背負わせたもので、
小瀬甫庵著の『信長記』によればそれらは以下の人物で構成されていた(第二「母衣之衆事」)。

   黒母衣衆 佐々内蔵助
       毛利新左衛門尉
       河尻肥前守
       生駒勝介
       水野帯刀左衛門尉
       津田左馬允
       蜂屋兵庫頭
       中河八郎右衛門尉
       中島主水正
       松岡九郎次郎

   赤母衣衆 織田越前守
        前田又左衛門尉
       飯尾隠岐守
       福富平左衛門尉
       原田備中守
       黒田次右衛門尉
       毛利河内守
       野々村三十郎
       猪子内匠助


ただし美濃国高木氏が伝えた古文書「高木文書」には以上のほかに、
黒母衣衆に「平井久右衛門」と「伊東武兵衛」、
赤母衣衆に「浅井新八郎」、「木下雅楽助」、「伊東清蔵」、「岩室長門守」、「山口飛騨守」、「佐脇藤八郎」、「長谷川橋介」、「渥美刑部丞」、「金森五郎八」、「加藤弥三郎」が任じられていたと記している[5]。


信長の母衣衆は地位としては黒母衣衆と赤母衣衆に格差はないものの、
『菅利家卿語話』には母衣衆ではなかった戸田勝成が前田利家に対し、
「赤母衣衆は、少し人の覚えも薄き様に申候」つまり黒母衣衆のほうが格上だったと話しており、
メンバー的にも黒母衣衆がやや年上であったと考えられる。

両母衣衆の構成員の知行はばらばらであり、各個が動員できる軍事力には差があったはずだが、同じ母衣衆として扱われている。

このほかには織田氏の職制を参考にしたと思われる豊臣秀吉の黄母衣衆などが有名であり、
江戸時代の諸藩の中にも藤堂家や仙台伊達家などに、軍事上の、という位置づけからは形骸化しているが母衣衆を置く藩があった。


脚注[編集]
1.^ 『広辞苑』(第六版 岩波書店)、「七つ道具」の項。
2.^ 笹山晴生 『古代国家と軍隊 皇軍と私兵の系譜』 『中公新書』、1975年 p.188 - 189
3.^ 筧雅博 『日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令』 講談社、2001年 p.103 ISBN 4-06-268910-3 
4.^ 同書 p.103
5.^ ただしこの記述は「渥美刑部丞」の証言がソースとされており、故に渥美刑部丞の自己宣伝つまり虚言である可能性が指摘されている。

参考文献[編集]
石村貞吉 『有職故実 下』〈『講談社学術文庫』〉 講談社、1987年 ※「甲冑・武具」
市古貞次ほか校注 『室町物語集 上』〈『新日本古典文学大系』54〉 岩波書店、1989年 ※『鴉鷺物語』所収 
『古事類苑』(43) 吉川弘文館、1998年 ※兵事部四十二・甲冑四
谷口克広 『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』〈『中公新書』1453〉 中央公論社、1998年 ※第T部 旗本のエリート、母衣衆

関連項目[編集]
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月17日 14時24分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 当家の本家(大本家)からの情報によりますと、仏壇内の位牌の裏には32
人の戒名が書かれているということがわかりました。兄弟子供の戒名も当然
ありますので、その辺も考慮して、現当主が75才として、それ以前は一代
25年で計算。75年前より遡ること13代として325年。合わせて400
年前後。則ち1600年前後・・・戦国時代末より江戸時代初期にはこの地
に定着していたと推測されます。但し、位牌に祖先の戒名を書いて祀る習慣
がいつ頃から始まったか、仏教史を研究する必要もありそうです。
 その他にはこれといった決定的な証左・情報は入手しておりません。村に
は芳永寺という羽鳥の源張院の末寺がありますが、その芳永寺にあった位牌
郡はどういうわけか笠井の定明寺に移行されております。何かもめ事、宗教
上の問題かどうかわかりませんが、あったようです。
 あお様の推測されるように、服部中、永井の線は雰囲気として大いに感じ
られはいたします。ただ決定的なものがないという状況は変わっておりませ
ん。

 さて、日本左衛門のはなしですが、『中泉代官所』の中に載っていました
ので、かいつまんで記します。
 「『向笠村史』に「浜島一代記」の大部分が載っている。この一代記は、
幕府が日本左衛門逮捕に乗り出した事情を次のように記している。延享3年
(1746)8月のある夜のこと、掛川藩領の大池村の百姓宗右衛門は日本左
衛門一味に襲われ、金1,000両、衣類60点余強奪されたばかりでなく、
妻女等は凌辱された。無残な仕打ちに憤怒した宗右衛門は直ちに役所へ訴え
出た。ところがけんもほろろ、逆に大叱責をうけた。というのは、宗右衛門
は掛川藩の御用達をつとめていたのであるが、採算の金子御用達に一度の利
子さえも下げ渡されない所へ、さらに久能山御普請の費用を命じたので、腹
に据えかねた宗右衛門は、近頃は勝手不如意のため到底今回の御用はつとめ
かねるときっぱり断った矢先のことだったからである。宗右衛門は無念やる
方なく、妻の向笠中村に赴き、一部始終を舅の三右衛門に話した。三右衛門
は五人組の喜八に相談にのってもらったが、どうせ代官所へ訴え出ても、取
り上げられない、一刻も早く出府して公儀にすがる外はないと意を決し、両
人連署の訴状を用意し、ひそかに国表を発足したのである。
 延享3年9月3日、幕府では容易ならぬ事件として早速評定を開き、9日、
盗賊改「徳山五兵衛秀栄(ひでいえ)」にこの捕方を命ずることに決定した。
 五兵衛は、2740石余の知行取で、延享2年7月、御先銕炮頭から盗賊
改に転じた旗本である。五兵衛は組内の屈強の捕手磯野源八郎等5名に日本
左衛門逮捕を命じた。さらにその後加勢として与力堀内十次郎と同心3名を
追加している。袋井宿武蔵屋において手筈をととのえ、9月20日の夜、見
付横町の万右衛門の家にて賭博開帳中踏み込んだのであるが、惜しくも大魚
を逸してしまった。
 見付宿においてめざす日本左衛門は取り逃がしてしまったが、この時大勢
の手下が逮捕されている。
 見付から逃亡した日本左衛門は、関西各地を逃げまわっていたが、翌4年
正月6日、京都町奉行所に自首した。江戸へ護送され、詮議も済んで、3月
11日、江戸中引き回しの上、伝馬町の牢獄で死罪が行われ、その首は遠州
見付宿に送られて三本松の史置場で獄門にかけられた。弟分の三人も同時に
獄門にかけられたということである。」 
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月17日 15時02分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 母衣衆の情報、勉強になりました。確か豊臣秀吉の家臣団にも黄母衣衆
がいて、いったい何のことか、特殊な集団なのかと理解できずにいぶかしく
思っておりました。昔の用語はそれなりに昔の時代環境・背景にかえって
理解する必要が大いにありますね。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月17日 22時14分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


日本左衛門と徳山五兵衛秀栄のお話を詳しく教えて頂いてありがとうございます。

村の長の家には1000両もあったんですか。
すごい金額ですね。
1億ぐらいの価値でしょうかねえ。

    近頃は勝手不如意のため到底今回の御用はつとめかねるときっぱり断った矢先のことだった

    これはマズイですね
    笑
    度胸の小さい役人には「お前だってヒトのこと言えた義理か。ざまあ〜」となったでしょう
    笑
    どっちもマズイ


徳山五兵衛秀栄はまさか21世紀に平熱で取り上げられることになるとはツユ思ってもいなかったでしょう

捕らえられて良かったです
でも自首のところはイマイチ残念でしたが。



「母衣」は武士の7つ道具の1つというところに笑いましたが
実用性と精神性の両方から武士の面目と目立とう精神に役立ったのだなと。

   敵の矢をかいくぐるのに適した盾みたいなものだったのかな?と
   その上に目立つし
   風を孕んで馬で疾駆するのに気持ち良かったでしょうね
   戦意が高揚したろうし


埼玉の川越の服部さんは武田に仕えてて母衣武者なのが絵に描かれているのを
雑誌の中で見ましたが
絵に描かれていても目立つし
子孫には誇りになりますね。


>位牌に祖先の戒名を書いて祀る習慣がいつ頃から始まったか、仏教史を研究する必要もありそうです

戒名の歴史をちょっと調べました:

      死生観の変化により死後に成仏するという思想のもと、
      故人に戒名を授ける風習が生れた。

      死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている。
      寺に支払った金額によって戒名のランクが変化する。笑

      戒名を用いない宗旨浄土真宗では、「法名」が正式な名称である。

      日蓮宗系(日蓮正宗を除く)では、「法号」が正式な名称である。


      院殿号より院号の方が格上とされる。
      しかし、現在では字数や見栄えなどから院殿号の方が格上とされる。

      室町幕府と江戸幕府の歴代将軍の大半は院殿号を贈られている。       将軍は死後の古文書・古記録では戒名で呼ばれるが、
      これは貴人の実名を呼称することを忌む習俗によるものである。


藤原道長の戒名は出てなかったです。

花山天皇の場合は仏教に帰依して 花山院 華山院 入覚 花山法皇、仏眼上人、熊野権現連名


ご先祖さまの平貞盛も見当たらないし
盟友の藤原秀郷の戒名も見当たらないです。


でも平安時代末期の、1181年に戦死したうちの先祖の戒名
○○院▲州太守◎◎△大居士             13文字

その子の1222年に亡くなったうちの先祖の戒名:
XX寺殿○○州大守▲▲◎◎大居士           16文字


こんなもんでしょうか?
つまり平安時代末期から戒名をつけるようになった???


源長院?住職さんは松島さん?  曹洞宗?
定明寺  笠井氏のお寺?    浄土宗?

  何があったのでしょうね?
  宗旨替え?


興味は尽きないですね。
これといった定石の回答がなかなか得られないですね。




[61]箱柳永田さんからのコメント(2014年11月17日 23時52分03秒 ) パスワード

 あを様 三柏服部様
 57の補足
http://poliles.com/%E4%BD%BF%E7%95%AA/
 使番について凡その説明です

 武田さんでは、ムカデ(絶対に後ずさりしないと信じられていた)
 徳川家では(御使番、使役とも。伝令将校)が使用したもので、「伍」または「五」の旗指物、意味は、「互」に通じ、仲間という意味とのことです。
 
五は使番専用の指揮権委任状(すごい信頼)と通行手形を兼ねた旗になります。
  >http://poliles.com/%e8%bb%8d%e3%81%ae%e7%b5%84%e7%b9%94%e3%80%81%e7%b7%a8%e6%88%90%e3%80%81%e5%bd%b9%e8%81%b7/
 戦国期の役名と仕事内容が端的に述べられています。
 >http://poliles.com/sample-page/   管理人さん の情報
  映画、小説情報よりも、現実を見つめているようです。
  <個人的には 大好きなタイプです。>
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月18日 12時11分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 母衣の読み方が「ほろ」ということで「幌」と同じではないかと辞書を引
いてみましたところ、語源としては同じということでした。イメージとして
は「おおい」のこと。
 忍法では矢を防ぐ方法として、マント(カッパ)、あるいは外套(衣類)のこ
とを謳っております。
 確か、黒地に「五」の字の白抜き指物は服部半蔵正成が元々使っていた。、
それを白黒逆にして家康が採用した。則ち、正成の勇猛さを認めたというこ
とを表明した・・・。
 「五」の意味については、「互」という解釈では少し物足りないと思いま
すのでもう少し探求してみますが、忍法は密教から影響を受けているはずな
ので、「五大」則ち「空・風・火・水・地=森羅万象=宇宙=大日如来」を
この「五」は表していないかと推測いたします。いずれにしても、もう少し
忍法の奥底を覗き、探求したいと思います。

 忍者というとやはり最終的には服部一族の長─服部半蔵正成、そして忍衆
の統括者─藤堂高虎抜きでは考えられません。半蔵も上忍ではあるが、高虎
の上忍と比べれば旗本(8千石)と大名(32万石)の違い。地位もスケールも
大きく違う。
 この藤堂高虎を忍者との関係について探ってみたい。何が出てくるか非常
に興味あるところです。
 いずれにしても近い内に一度伊賀へは行ってみたいと思っています。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月18日 23時00分27秒 ) パスワード

是非「千賀地」にいらっしゃって「桜」を見てください。

お泊りはやっぱり久居の榊原温泉かな?
    ななくりの湯
    ということで清少納言もお書きだったような


他にも百地砦=喰代?ほおじろ?こんな字だっけ?のあたりとか
湯舟とか
平田の明昌寺=家長の兄の平田家継の城跡のお寺とか

清盛のお寺の  安楽寺  だったかな?の跡とか


ちょっと離れるけど平家のゆかりの地とか
まとめて・・・
と思いますが2泊しないとムリかも。

ま、伊賀ではムリでしょうね
他に三つ柏さんのお行きになりたい場所がたくさんお有りでしょうから。


わたくしも伊賀に行きた〜い
車でないと移動が大変よね。


伊賀の西は柳生や楠関係だし。
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月19日 06時10分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 かつて伊賀には2度行ったことがありますが、今のように歴史に対し本格的
に興味を持っていたわけではありませんでしたので、本当にうわべだけしか見
ておりません。伊賀上野城、忍者村くらいといっても過言ではありません。
 今度はできれば図書館、古本屋に行き地元の資料を探りたいのと、天正伊賀
の乱の緊迫感を現地で想像したいという想いがあります。

 あを様にとってはまた特別な土地でしょうが、私にはまだ伊賀へのシンパシ
ィは薄い段階です。たぶん、伊賀で服部という文字をみれば、何か故郷のよう
な感じがするかも知れません。いずれにしても祖先において何らかの関係があ
る可能性はあるはずですので、霊感を研ぎ澄まし、過去の世界にチャネリング
してみたい。できれば墓石を見て祖先のうめきを感じてみたい。

 天正伊賀の乱・・・そこに大きな慟哭と憎しみとうねりがある。日本の歴史
にとってある意味でパンドラの箱。つついてはいけなかったもの―伊賀、そし
て秀次も、そして長安も・・・
 見えない裏の世界がある。過去にタイムスリップしてみれば、絶対実感とし
てそれは感じられるはず。それを感じてみたい。

 藤堂高虎はそれらをすべて知っていた。伊賀の乱のビフォー・アフターすべ
てを、家康と共に。
 というわけで、今、私の興味は藤堂高虎にあります。忍の世界とのつながり
を深く探りたい・・・。
 先日古本屋で購入した『伊賀上野城史』には、藤堂高虎の事がたくさん書か
れておりました。昨日その本を持って帰るのを忘れてしまいましたので、手元
になく、論理展開が難しいので、後で記すことにいたしたいと思います。
 必ずや深いところに秘密の化石の数々があります。それを発掘いたしたいと
思います。
 とりあえずはこれにて―

 なお『遥かなる衣ヶ浦のみなと』を読んでみましたが、鉄道や車のない時代
の物流は船、従って湊は歴史の中でもっと探究されるべきであると感じました。
 東三河、西三河、尾張の違いも一つは湊の違いにあったのかなあと。いい湊
を持つ、物流(海運、水運)を制することが一番大事であったのかなあと。
 いずれこの点についても更に探究したいと思っております。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月19日 08時40分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


遠出になりますから、準備をしっかりなさってください。
藤堂の研究もしっかり掘り下げてから。

今はネットがありますからスグに調べられますね。
良い時代になりました。


藤堂って伊賀甲賀しっかり抑えてたように感じます。
この人が何か秘密を濁っているようにも感じますが全然見当がつきません。
   多分甲賀の人じゃないかな?
   甲賀から福井あたりの人かな?
   ご先祖はどういう人かな?
いろいろ考えますが、何から見当をつけていって良いのかも分かりません。
   この人物はわたくしには「盲点」に入っている感じです。


>必ずや深いところに秘密の化石の数々があります。

はい


>それを発掘いたしたいと思います。

経過報告、よろしく、です。
にっこり
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月19日 08時47分40秒 ) パスワード

[闇に葬られた歴史]

http://books.google.com/books?id=fxHuBAAAQBAJ&pg=PT77&lpg=PT77&dq=%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E%E3%80%80%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=fpRlAaZFYn&sig=I6K3xg7zeUYpX-cHIJjKYO4HPl4&hl=en&sa=X&ei=VNlrVPSGBIG3ogSxkIKIAQ&ved=0CE0Q6AEwBjgK#v=onepage&q=%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E%E3%80%80%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

ここに出ている保田(藤堂)采女という半蔵のいとこ。
公儀隠密の元締め。

この人物を探ったら何か出て来そうですが。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月19日 08時50分54秒 ) パスワード

http://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=662


『寛政重修諸家譜』によると藤堂采女元則は服部半蔵正成とは同族の予野生まれ。

その後紀州土豪保田氏の保護を受け、藤堂高虎が今治に居た時代より高虎に仕え、慶安4年(1640)に上野の城代家老を世襲する藤堂采女家を興し七千石を与えられている。

采女家が城代職になり藤堂姓を許されたのは伊賀地侍の名族服部家の出自故、伊賀地侍達の懐柔の目的であったと云われる。

『伊賀付差出帳』には、元則、元住は伊賀全土の郷士を調べ登録し、鉄砲組や忍び衆等の組を作った。藤堂采女故郷碑は服部半蔵故郷碑、伊賀乱供養碑と共に予野の千賀地城址にある。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月19日 08時56分13秒 ) パスワード

http://hb4.seikyou.ne.jp/home/Takeo.Horii/tetsuya/basyouno.html


徹爺の話 “ 松尾芭蕉の忍者説 ”

          大和 徹爺

 俳人の松尾芭蕉が、忍者ではなかったのかとされている理由は、彼が俳諧師として
日本の各地を旅して回って色んな情報を収集し、集めた情報を俳句や紀行文の形で書き
残しているほか、彼が、伊賀忍者に関係の深い伊賀(現、三重県)の上野の城下町で、
忍者と縁が有った家の子供として生まれていること、また彼が若い頃に、忍者の頭目と
言われている伊賀上野城の城代家老の藤堂家に仕えていたことがあることなどから、推
定されると言うのであります。

明智光秀が、本能寺で織田信長を殺害した後、当時、信長の盟友の立場にあった徳川
家康をも殺害しようとして、京都周辺に網を張りますが、家康のボディガ−ドであった
伊賀忍者の服部半蔵らの働きによってその難を免れたことは、周知の通りであります。

               柳生も?
                ↓
家康は、伊賀や甲賀のほか柳生の忍者らも重用して戦国乱世を生き抜き、徳川幕府の
基礎を築いたほか、家康は勿論のこと、その後継者らも、忍者らを使って諸国の情報を
集め、また諜略にも従事させて、260余年という長い期間にわたる鎖国政策をも成功
させているのであります。

その家康が、征夷大将軍となって江戸に幕府を開いたのは、1603年のことであり
ますが、

芭蕉は、正保元年(1644年)、藤堂藩の城下町であった伊賀上野において
伊賀の柘植(つげ)出身の無足人であった松尾与左衛門と、伊賀の喰代(ほおじろ)の
百地(ももち、忍者百地三大夫で有名)氏の出の母との間に生まれております。

無足人と言うのは、一種の郷士のことで、苗字帯刀を許された一応は武士であります
が、仕えている主君からの録は貰わず、平時は農業を営み、戦時だけ槍を担いで出かけ
て行くといった、ちょうど戦国時代の兵農未分離状況下の土豪、すなわち、地侍を想像
して頂ければ良いと思います。

           ココから
             ↓

芭蕉は、幼名を金作と言い、10歳代の終わり頃から、伊賀上野城の城代家老の藤堂
采女の一族の、藤堂新七郎の嗣子の藤堂良忠に仕えたと言われております。


この藤堂采女は、もともとは伊賀忍者の上忍(じょうにん、頭目)だった保田采女で
徳川家康が、「幕府の先鋒、特恩家」と呼んで重用した藤堂藩藩主藤堂高虎が抜擢し、
苗字を与えて城代家老に据えたと言われており、藤堂新七郎家も、忍法の印可を受けた
家柄だったそうで、その家に仕えた芭蕉が、何らかの形で忍者としての役割を背負わさ
れていたとしても、それは極く当然のことだと言う訳です。



そして、芭蕉が俳諧の道に踏み込んだのも、この藤堂良忠の影響を受けたからだとも
言われ、それは、良忠が北村季吟の門下生で、蝉吟と言う号を持つた俳人であったから
間違い無いと言われています。

さて、芭蕉は「奥の細道」、「野ざらし紀行」、「鹿島紀行」、「笈の小文」などの
紀行文を残しておりますが、紀行文の内容、その全行程の長さ、一日の歩行距離の長さ
などから推定して、やはり忍者としての影が伺えると説く方も居られます。
しかし、芭蕉が忍者だったと言う直接の証拠は何も存在しないと言って否定する方も
居られることも事実であります。
でも忍者というものは、もともと己のしっぽは見せない、捕まえさせないと言うのが
当然の姿ですから、証拠が無いことで忍者説を否定することは出来ないと思います。
私は、芭蕉の出自や時代背景から見て、隠密の行動を取る忍者ではなかったが、情報
収集をするために旅をし、知り得た情報を俳諧に託して、伊賀の上忍まで報告していた
のだろうと思っております。
 さて、皆様方はどのようにお考えになりますかな。(00年4月9日完)

[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月19日 09時01分08秒 ) パスワード

http://rekigun.net/original/travel/igaueno/igaueno2.html


伊賀流忍者の里

 大和国と接する伊賀国は、古代より東大寺を中心とする南都の有力寺院の荘園が多く、中世に入ってからも、有力な守護や地頭に支配されることがなく、また他地域のように強大な武家が勢力を伸長することもなかった。このため、多数の土豪や地侍の群雄割拠状態にあった。その頃彼らは、敵から自らを守るため独自の諜報術やゲリラ的な武闘術を編み出し、それが伊賀流忍術、忍者の始まりと考えられる。そして伊賀国には千賀地(旧姓・服部)宗家、百地家、藤林家の上忍三家を中心とした、伊賀惣国一揆と呼ばれる自治共同体が形成されていった。ところが戦国時代になると、そんな伊賀惣国一揆も時代の波に洗われていく。元々耕作地が狭いうえに忍家の組織の肥大化により財政的に逼迫したことで、宗家の保長が室町幕府十二代将軍・足利義晴に出仕し伊賀を離れた(なお、この保長が初代服部半蔵で、後に徳川家康の祖父・松平清康に仕え、その家督を継いだ次男・正成が家康の神君伊賀越えで功をなし、徳川家の隠密頭まで務めた二代目服部半蔵である)。そして伊賀惣国一揆を壊滅に追いやったのが、織田信長による二度にわたる伊賀攻め(天正伊賀の乱)であった。
 やがて時代が徳川の世へと移ると、生き延びた伊賀者は、神君伊賀越えの功績から伊賀組同心として幕府に召し抱えられることとなる。ちなみに、家康の命で伊賀に入った藤堂高虎は、伊賀に残った忍家・忍者の勢力を巧みに温存する政策をとっている。その一つが無足人制度(農兵)といわれるもので、彼らは俸禄を受けないが、帯刀が許される無足人として武士と農民の間に位置づけた。そしてもう一つが、伊賀国の執政を司る城代家老に、初代服部半蔵・保長の孫と伝えられる保田采女(改姓後は藤堂采女)を起用したことである。築城技術ばかりが賞賛される高虎であるが、政治家としても超一流だったのである。 



●伊賀流忍者博物館

忍者屋敷、忍術体験館、忍者伝承館の3施設からなる伊賀流忍者の殿堂。忍術の資料の充実ぶりは世界でも屈指。謎に包まれた伊賀流忍者の世界を垣間見ることができる。館内の忍術体験広場では、現代に生きる忍者(?)が忍術を実演する忍術ショーも開催されており、老若男女を問わず人気のスポット。


(左)忍者屋敷は市内高山地区に実際にあった下忍の家を移築・復元したもの。(写真提供:社団法人 伊賀上野観光協会)



おまけ

愛宕町の服部邸。URLで画像が見られます。

出格子の窓、白漆喰で塗り込められた虫籠窓。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月19日 09時13分30秒 ) パスワード

http://tikugo.com/osaka/busho/toudou/b-toudou-moto.html


藤堂元則:初代保田采女

(とうどうもとのり)
生没年:1582〜1660年
身分:藤堂家の家臣
官位(通称、号):采女

{ 元は秀吉の家来の増田家の家臣ですって }

本姓・保田。

父は服部半蔵則直。        ← え?この人の父親も「半蔵」さん?

則直は紀伊保田庄の豪族で元は保田則直と言ったが、
伊賀予野の服部氏の養子となり服部姓を名乗った。


則直は千賀地谷に館を構えたので千賀地半蔵とも呼ばれる。


元則は則直の次男として生まれ
伯父の保田栄西の養子となって保田姓を名乗り、
伯父と一緒に増田長盛に仕えた。



【藤堂家へ】関ヶ原の戦いで増田家が改易されたため、1601年に藤堂高虎に仕え1500石を与えられる。1606年に兄・則宗と共に徳川家康に謁見し、彼の命令で藤堂姓に改めた。大坂冬の陣に従軍し功があって500石を加増される。

 夏の陣にも従軍し八尾・若江の戦いで、井伊直孝軍への軍使として向かい、玉串で高虎の言葉を伝えた。そしてそのまま木村重成隊と戦い首級を得た。この働きを直孝に賞され自身の槍を授けられる。翌日の戦いでは八尾での先鋒の壊滅により左先鋒の一人となった。


伊賀上野城

【普請監督】陣後、それらの功により合計5千石の領主となる。1628年に大坂城に赴き普請監督を務めた。1640年に伊賀上野城代の藤堂高清が死亡したため次の城代となる。1651年に隠居し家督を息子に譲って可休と号した。その後、病気となり京都で療養したが回復せず1660年5月24日に死亡する。遺体は京都の黒谷で火葬され伊賀長田村の西蓮寺に葬られた。妻は佐伯惟定の娘。

管理人から・・・
元則は土木関係に強かったようで、高虎の築城の手伝いをよくしています。
兄の則宗は家康に仕えて3千石の旗本となったそうです。
また父は有名な服部半蔵正成とは別人です。
関係もよく分かりません。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・三百藩家臣人名事典

*******************


藤堂采女とは

采女というのは藤堂氏の伊賀支配を担当した藤堂采女家の当主の代々の通称であり、この采女の名は元施という。

津藩の藩祖・藤堂高虎ははじめ伊賀支配を一族の藤堂高清に任せたが、高清が亡くなると服部正成(半蔵)の甥に当たる藤堂元則(采女)が務めるようになり、以後は采女家の支配下に入ったのである。

幕末の元施は家督相続前の文久3年(1863年)、天誅組の乱が大和で起こると、天誅組の指導者である吉村寅太郎と面識があったことから味方しようとしたが、結局は幕命や勅命に逆らえずに天誅組の鎮圧に務めた。慶応元年(1865年)、家督を継いで津藩主・藤堂高猷に仕えて7000石の家老・城代となった。

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは津藩軍の総帥を務めており、幕府軍を裏切って新政府につくという裏切り行為を行なった。ただしこれは藩主・高猷に命じられて行なったことだといわれている。

明治時代には敢国神社の神官を務めた。明治11年(1878年)に死去。享年43。
         ↑
        伊賀の一宮だったような




もう1つ同じような話:
藤堂采女 とうどう-うねめ

1836−1878 幕末の武士。
天保(てんぽう)7年10月23日生まれ。伊勢(いせ)津藩につかえ,伊賀(いが)上野城代家老をつぐ。鳥羽・伏見の戦いで藩論は尊王,佐幕のいずれともさだまらなかったが,独断で幕府軍を攻撃した。維新後,津藩の執政,権(ごんの)大参事,伊賀敢国(あえくに)神社権宮司(ごんのぐうじ)。明治11年6月26日死去。43歳。姓は保田とも。名は元施(もとはる)。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月19日 09時16分57秒 ) パスワード

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=334


侍から足軽まで100人超―津藩伊賀城代・藤堂采女家の家臣団構造


 津藩の成立は、1608(慶長13)年の藤堂高虎の伊賀・伊勢国入封による。その際、伊賀領国を支配するにあたり、藤堂出雲など重臣を伊賀上野城へ配置した。そして、二代高次時代の40(寛永17)年になり、伊賀国の土豪出身の藤堂采女元則を伊賀城代家老に取り立て、伊賀国の采配を任せた。


今回は、伊賀城代家老藤堂采女家の家臣団構造について紹介したい。
  近世大名家の藩政を支える上級家臣は、藩主から多くの知行を宛行(あてが)われ、家来(直臣)を召し抱えている場合が多かった。それは、上級家臣がもともと土豪・小領主として譜代の家来を召し抱えていたからであり、自身が大名家の家臣に組み込まれることで、譜代の家来がそのまま陪臣として大名に召し抱えられることになったのである。


そして、武家には知行を与えられる代わりに軍役(ぐんやく)が課せられたが、采女家は、藩の規定により、騎上7騎・鉄炮15挺・弓2張・鎗18本、その他若党、道具持ちなどの供廻り31人が課せられた。これらの軍役は家臣によって果たされたわけであるが、一般的に家臣団は侍(知行取)・徒士(かち)・足軽等武家奉公人などの階層に分かれた。


 藤堂采女家の場合、1657(明暦3)年の「切米帳」で見ると、侍層として佐脇小左衛門の200石を筆頭にして、50石の渡部与左衛門までの家来19名が記されている。例えば、200石の佐脇少左衛門の場合、その内訳は100石が所知行、残り100石のうち、35石が蔵米として伊賀で渡された。所知行とは、直接に年貢徴収することのできる村落(知行地)を宛行われることであり、おそらくは采女家が知行していた伊賀・伊勢国の村落の一部を宛行われたのであろう。当時、所知行からの収入は、年貢率が「四つ物成(40%)」となっていたから40石ぐらいで、蔵米との合計では75石ほどとなる。ただ、蔵米として渡される分は人によって異なり、50石取りの渡部与左衛門の場合は蔵米だけの支給で、15石であった。


  なお、采女家は知行高7000石で、40%に当たる2800石の実収入があったが、こうした侍層の俸禄合計が664石で、約4分の1が侍層の俸禄として使われたのである。



  ところで、これら侍層の由緒については、藤堂采女元則の隠居前年の1650(慶安3)年と思われる藤堂監物・四郎右衛門宛ての書状の中で「知行取は19人おり、4人は大坂にて手をもふさぎ申もの」、残り15人が「私取たてのもの」であったという。前者は大坂の陣まで敵方であった者が後に家来となったものと推測されるが、詳細はわからない。また、この書状からは「長門(元則息子)に「一人もちらし申さざるようにかたく申し聞かせたく候」と、代替わりに際して、家来を解雇するのではなく、継続して取り立てられるよう配慮したい旨が述べられている。


  次に、徒士層と考えられる階層について見ると、禄高は一部を除き10石前後で、その人数は37人ほどであった。これらの階層は、主人の身辺警護や侍層に供奉(ぐぶ)したと考えられる。そのほか、合力米を給された馬医・外科医・坊主など、十数人も抱えられていた。


  それに、足軽等の武家奉公人がいた。徒士層以上と足軽層と間に大きな格差があった。武家奉公人は、一年切りでの採用が多く、支配農村(伊勢国では今徳・草生・高座原村など、伊賀国は予野・南・比土村など)からの取立が多かったと言われている。禄高は2〜6石で、道具持ち・草履取り・馬の世話・門番・人足などで軍事の補助や采女家の日常生活に関する職務を担っていた。伊勢国で25人、伊賀国で26人が雇われている。


以上のように、采女家一家に仕える家臣は100人を優に超えていた。こうした多くの陪臣を抱えた上級家臣はほかにもあり、津藩全体となれば相当数の家来がいたことになる。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月19日 09時22分03秒 ) パスワード

スーパー忍者列伝:


http://books.google.com/books?id=Jb9UBAAAQBAJ&pg=PT83&lpg=PT83&dq=%E8%97%A4%E5%A0%82%E5%85%83%E5%89%87&source=bl&ots=Iv4MQRUsTM&sig=5xCkPHs00WiWW5-N_nVbNW2u3tw&hl=en&sa=X&ei=295rVPyjBoOoogTc3oCQAg&ved=0CHIQ6AEwDQ#v=onepage&q=%E8%97%A4%E5%A0%82%E5%85%83%E5%89%87&f=false


保田(藤堂)采女元則の父則直と服部半蔵正成が従兄弟って書いてあります。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月19日 09時33分41秒 ) パスワード

話題が変わるようでしたら XIX に移ってくださいね。
[74]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月19日 16時34分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さっそくたくさんの情報ありがとうございます。

 古本屋で仕入れた『伊賀上野城史』によりますと─
 藤堂高虎の父は虎高(高虎と文字が逆)といい、近江の三井出羽守乗綱の次
男で藤堂家に婿養子に入っている。
 高虎の子─高次─の子には基恒がおり、遠江堀江城主、第12代大澤氏へ
養子に入っている。また娘で井伊直勝の孫のところに嫁いだ者もいる。

 引治 2年(1556) 高虎生まれる。
 元亀 元年(1ご70) 浅井長政に仕え、小谷城攻略。高虎15才。
 天正 5年(1577) 木下秀長に仕える。
 天正 7年(1579) 第一次伊賀の乱。(高虎23才)
 天正 9年(1581) 第二次伊賀の乱 (高虎25才)
 天正10年(1582) ・君伊賀越え。 (高虎26才)
 天正19年(1591) 木下秀長死す。  高虎35才。
 文禄 4年(1595) 木下秀俊文禄の役にて死す。軍将高虎高野山に隠棲。
            その後、秀吉より伊予宇和島七万石を与えられる。
                    高虎39才。
 慶長 3年(1598) 豊臣秀吉死す。  高虎42才。
 慶長13年(1608) 伊賀および伊勢(安濃郡一志郡)の領主となる。高虎
            52才。
 寛永 7年(1630) 高虎死す。75才。

 高虎は、豊臣系の外様大名であったが、関ヶ原合戦の前後より家康を支援
し忠勤を励み、家康の知恵袋とさえいわれるまでに信頼を得ていた。

 ─ということであります。深い謎には行き着いていません。誰とどのよう
に付き合っていたかを調べてみます。服部正成とは当然親しくしていたと思います。加藤光泰とも文禄等の役で交わりがあると思われます。
 その他、具体的に誰と会っているのか・・・今後拾って行きます。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月19日 22時01分34秒 ) パスワード

保田氏というのがイマイチ掴めないというか
紀伊の保田氏で調べても藤堂家で出世した保田には結びつかないようですし


    多分保田采女の母方または祖母方=服部出身でしょうね=で
    伊賀の服部家と親戚なんだろうなと思いますが


藤堂とどう直接関係するのかイマイチ腑に落ちないのです。


    ま、藤堂も本性を隠しているんだろうな、と思います。


    伊賀の国を任せたほどですから
    ものすごい信頼関係にあった、というのは分かります。

    そこのところがどういう関係なのか
    藤堂の父またはもう少し前の時代?南北朝あたりまで遡るのか?

       服部保長が足利に仕えたころには保田の父や藤堂の父とは親しかったのだろうな
       とは思いますが
       奥歯が気持ち悪くなるぐらい正体が掴めないです。


       この3人というか3家の関係
       こんなところから謎解きをしたいのですが
       何を軸にしているか三つ柏さんのレスをもう1度ゆっくり考えます。
       
       全然わからない・・・ 
[76]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月20日 12時34分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤堂高虎については少しずつ情報を集めつつあります。また芭蕉について
も情報を収集しつつありますが、こちらはこちらでまた難しい推理の展開に
なりそうです。すでにあを様から情報を投げかけられておりますが、一つ一
つこなしてまいりたいと思います(後で記します)。

 伊賀へは今度の日曜日に行くことにいたしました。早朝6時出発です。ま
ずは上野図書館でどんな地元の資料があるか調べ、次は上野公園内の城・博
物館・資料館等を見て、街中で昼食。その後街中散策。寺町でお寺めぐり、
墓石・家紋の調査。あと時間が余れば、プラスアルファ・・・。その位で
早めに帰路につく予定です(紅葉の三連休の中日、渋滞が予想されますので)。

 伊賀上野城では、ちょうどタイミングよく、「藤堂高虎展」をやっていま
すのでラッキーです。いい情報もあるはずなので、楽しみに、ご報告します。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月20日 14時06分35秒 ) パスワード

おやおや早速ですか。
三連休の中日なら翌日もお休みですからユトリですね。

藤堂高虎展
ちょうど良かったですね。

お気をつけて!
[78]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月20日 16時09分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 以前伊賀を訪れた時に購入した上野市観光協会発行の『忍術の歴史』(奥瀬
平七郎著)は史実をよくくみ取り、かつ分かりやすく解説している良書であり
ます。服部家長・保長・正成、藤堂高虎・采女に関する部分をピックアップ
してしばらく記載いたします。
 「服部家長の没落と、忍術組織の地下潜伏─
   平家の没落によって、服部家長は失脚したが、服部家と忍術組織はふ
  たつに分割されて、各々温存された。家長は平家滅亡後、故郷に戻り
  (注1)、長男、次男、三男を源氏に寝返らせ、従来味方であった平家の
  残存勢力を伊賀から掃討することに専念させた。そしてかねてから気脈
  を通じていた柘植の豪族平宗清(当時、平清盛の異母弟池大納言頼盛の
  甲賀地方の荘園の代官だった)を通じて、服部家の保全について、三子
  の源氏方への帰順、協力を条件として、源頼朝の承諾を取り付けたので
  ある。宗清は平治の乱のあと、落人となった少年の頼朝を捕らえたが、
  主人頼盛の実母池禅尼(清盛の義母)と協力して、頼朝の命を救ったこと
  があったため、池一家と共に平家滅亡後も頼朝の殊遇を受けていたのだ。

   (注1)家長自身は、西海で戦没した態を装い、かねてから万一の場合
  に備得て用意していた伊賀の辺境、予野の里の郷士千賀地家の当主にな
  りすまし忍びの者を引き連れて、与野に隠棲したのだ。これ以後、服部
  姓の忍家は伊賀から消え去り、千賀地家が、忍術の宗家となったのであ
  る。」


[79]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月20日 22時55分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

久し振りに背筋がゾクゾクしました。

そしてワタクシが平田家継や藤原忠清や平信兼のことを考えると慟哭する
その背景に納得が出来ました。

   いやいや「納得出来ない思い」の裏付けが出来て、納得出来た、と書くべきでした。

   記録には残されなかった部分が見つかったという思いです。
   ありがとうございました。


そして服部家の家系に家長の子孫という表記と宗清の子孫という表記があることの謎がちょっと納得出来ました。



わたくし的には平知盛さまと手に手を取って一緒に入水したとされる乳母子の家長という人物
   この人は当時既にかなりのお爺ちゃんだった家長か
   その子で同名を名乗ってた家長か
そのどちらかだろうと思ってました。

だから「家長」は、壇の浦で入水して死んだという「家長」と伊賀に戻った「家長」がいても良いわけだ。


   やっぱりそうなんだと確信に至りました。



>家長は平家滅亡後、故郷に戻り、長男、次男、三男を源氏に寝返らせ、
>従来味方であった平家の残存勢力を伊賀から掃討することに専念させた

  この部分すっごく分かります。
  とにかく源氏には恨みはあっても平家の血を絶やしてはならない
  その為には弟や一族であっても自分の計画を邪魔する勢力は倒さないといけない
  そういうの分かりますし
  どこかでそんな話をちらっと読んだ気もします。
     当時は(混乱してるね)と思いましたが
     生き残る為には敢えて身内も切らなければならなかったのでしょう。



宗清も平家が壇ノ浦で敗れた後、いかに一族を救済するか、悩み頑張ったと思います。
     これに異を唱える人はいないと思います。


     ま、鎌倉の北条時政は源氏の部下達に平家の根絶やしを命じたでしょうけど。 



>家長自身は、西海で戦没した態を装い、かねてから万一の場合に備得て用意していた伊賀の辺境、
>予野の里の郷士千賀地家の当主になりすまし忍びの者を引き連れて、予野に隠棲したのだ。

予野のすぐ西は他国ですから
逃げ易かったでしょうしね

   柳生とか楠とか、あちらの人々と連絡が取り易かったでしょうね。


>これ以後、服部姓の忍家は伊賀から消え去り、千賀地家が、忍術の宗家となったのである

忍術の家はみんな「服部家長の子孫」「忍術の本家」を称したかった思いがあったのに
千賀地にだし抜かれた悔しさが読み取れます。



   この後、足利将軍に仕えて保長なり保次が「服部家の惣領」としてお墨付を頂いたことになって行くのかしら?
   そして天正10年の伊賀越えで家康から圧倒的なバックアップを取り付けた、ということになるのかしら?


続き、楽しみです。
よろしくお願い致します。
[80]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月21日 06時29分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 久しぶりに「背筋がゾクゾク」というのが歴史探究の醍醐味ですね。よか
った。まだまだいろいろ「エッ、ホントに?」「スゴイ !」がでてきますよ。

 では後で―
[81]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月21日 10時38分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤堂高虎で余り知られていないのが「水軍」との関係です。今いろいろ調
べていますが、文禄・慶長の役はまさしく海を渡り、海で戦う・・・ウェイ
トとしてはやりにくさも手伝い、陸の戦いも含めて全体の戦いの60%以上
はあったのではないか。波や風や岩礁といった危険性、食料に水の確保、馬
の運搬、エサの確保、矢・弾薬のストック・・・。よっぽど船をあやつるの
にたけた人々でないとこの海での戦いは無残な結果になることは間違いない。
私自身、船のことは体験で知っているりでよくわかる。まず風と波との闘い、そして嵐の時の係留場所の確保等々・・・。
 藤堂高虎は海人ではなさそうなので、部下に海人がいたということは間違
いない。ほかの水軍の長もしかりである。この辺は熊野をはじめとした水軍、
また平家ともからんでくるので、そのあたりの関係を探求したいと思ってい
ます。
 また、藤堂高虎は伊賀の領主となり、忍衆の再構築を図ったり、家康の最
側近でありましたので、謀略・情報収集の関係で柳生一族もある意味配下に
あったはず。松下之綱一族もしかり。そのへんの情報の発掘もしたいと思っ
ております。
 また、城作りのプロでありました。どんなシステムが働いたのか、大手ゼ
ネコン並の工事ではありませんか。重量との闘い、運搬との闘い、上へ上げ
る・積むといった工法。これら人・物・金・技術・情報・組織といったもの
をまとめるには当時としては天才的な知的集団が必要である。一体誰が協力
したのか。お金や命令だけでは決して成し遂げられなかったと思います。
その辺の探求もいたしたいと思っています。
 
『忍術の歴史』より、前回の続き─
 「千賀地宗家の出国と足利幕府への仕官
   伊賀の三忍家は、戦国時代にはいると、その組織の維持に困惑するよ
  うになった。忍者の世襲制(秘密保持のため必要)による組織の肥大化の
  ため、財政的に行き詰まったのだ。
   甲賀の忍家とちがって、伊賀の忍術組織は大組織であったから、国外
  からの需要が殖えても、到底その費用を賄うことは出来なかったのだ。
  窮状を脱する方法は、伊賀内部の忍術組織を再編、大幅に縮小する以外
  になかった。 (今でいうリストラですね。服部) 
   たまたま、その時、十二代将軍足利義晴が身辺警護のため、多数の忍
  者を召し抱えようとして、側近の松永久秀を介して、千賀地家の当主半
  三保長に、一族郎党を率いて足利家に、出仕することを要請してきたの
  だ。半蔵保長は百地・藤林の二家にこのことを伝えて、宗家自らが縮小
  化の犠牲となり、一族郎党を率いて足利家に出官することの了承を得た
  上で、将軍義晴の召致に応じ、故郷、予野を出て京都に移住した。(京
  都のどこに住んだのでしょうね。服部) 
   宗家出国後、千賀地半三に替わって宗主となったのは、友生村喰代の
  忍家の主百地丹波正西であった。
   尚、出国に当たって保長は、当時三歳の嫡子「則直」を妻の実家であ
  る紀州、保田庄の豪族保田栄西(先祖は、楠正成の縁辺といわれる。そ
  の時代から、伊賀忍家と血脈の交流があった)の養子として、保田家に
  送った。後顧の憂いを断ったのであろうが、保田栄西(保長の義弟であ
  ったと思われる)の強い希望を入れたものと思われる。というのは「則
  直」は、保田家において、嫡子「則宗」を儲けて後、その則宗に保田家
  を継がせ、自分は伊賀の予野に帰って千賀地の名跡を立てたからで、こ
  れは半三保長と保田栄西の約定によるものと、考えられるからである。
  因みに則直の次男、保田「采女」はその後、藤堂藩の伊賀上野城代家
  老に任じられた「藤堂采女」その人である。」

 次回へ─
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月21日 15時44分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


続きをありがとうございます。


>「エッ、ホントに?」「スゴイ !」


ですね。
早速「船」のことで納得しました。

>まず風と波との闘い、そして嵐の時の係留場所の確保等々・・・。

完全に意識外でした。


船のことは常に失念しています。
さすが太公望は目のつけどころが違いますね。


考えてみれば伊勢あたりですと  九鬼とか三鬼の水軍や  対岸の佐治=信長の親戚=とか
このあたりの水軍が高虎に協力しそうですね。


>十二代将軍足利義晴が身辺警護のため、多数の忍者を召し抱えようとして、
>側近の松永久秀を介して、    ← この人物も喰えないオヤジですから、忍者を使ってたんでしょうね



>千賀地家の当主半三保長に、一族郎党を率いて足利家に、出仕することを要請してきたのだ。

それで複数の服部姓の者が足利将軍に仕えた話があるわけですか
なるほどね

>(京都のどこに住んだのでしょうね。服部)

六波羅あたりでしょうか?

ま、花の御所の近くでしょうね

 
>宗家出国後、千賀地半三に替わって宗主となったのは、友生村喰代の忍家の主百地丹波正西であった。

ここで百地丹波が出ますか。

百地丹波正西?
「正」ということで  服部「正」を通字とする伊賀の仲間だったのかしら?

      蘆田に仕えた服部正吉
      服部中保次
      服部保長

      この3つは百地と共通するのかな?と。


      服部権大夫政信と伊賀で人を殺めて逐電した服部助左衛門康信の家は「政」の字を使用



>尚、出国に当たって保長は、当時三歳の嫡子「則直」を妻の実家である紀州、保田庄の豪族保田栄西(先祖は、楠正成の縁辺といわれる。その時代から、伊賀忍家と血脈の交流があった)の養子として、保田家に送った。後顧の憂いを断ったのであろうが、保田栄西(保長の義弟であったと思われる)の強い希望を入れたものと思われる。というのは「則直」は、保田家において、嫡子「則宗」を儲けて後、その則宗に保田家を継がせ、自分は伊賀の予野に帰って千賀地の名跡を立てたからで、これは半三保長と保田栄西の約定によるものと、考えられるからである。


ここで「楠」が出て来ますか。



      ここで「直」の字で
      旗本の服部家で「直」を通字にしている家を XVI で書きました。 
      最後に出て来た家で「5代で嗣無くして家絶ゆ」とされる家です

         服部直次の家で
         御鉄砲御用役の稲富喜大夫直賢が肩入れしてた家

      なんかちょっと分かったかも




>因みに則直の次男、保田「采女」はその後、藤堂藩の伊賀上野城代家老に任じられた「藤堂采女」その人


         この関係があれば御鉄砲御用役の稲富喜大夫直賢が何故あそこまで
         しつこくこの家の存続に躍起になっていたか
         なんかちょっと分かった気がします。
 


思わぬ収穫までありました。
ありがとうございます。
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月21日 15時47分16秒 ) パスワード

ということは織田に仕えていた津島の服部小平太も実は信長に仕える前に足利将軍に仕えていた
というのは有り得たのだ
と思いました。


それでこの津島の服部小平太も服部家の惣領を名乗る資格があったのだ、と。
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月22日 03時08分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

この連休に伊賀にいらっしゃって史料集めをなさるご様子ですので
これから伊賀・藤堂高虎・忍者・服部家についての情報が続々と挙がると思いますから
<74>のレス以下をXIXにコピペしました。

    http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101399_5.html
    続きはこちらへどうぞ。
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