[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月01日 02時50分05秒 ) | パスワード |
親藩
松平忠輝
1.家康の六男。兄の秀康同様、家康からは嫌われた。 赤ん坊の頃醜かったからという。家康はどうも、子供の美醜で扱いを変える癖があったらしい。
2.伊達政宗の娘婿。 政宗の長女の五郎八姫と結婚する。
一時期、政宗が忠輝を担いで幕府転覆を謀っているのではないかという噂が流れた。そのため秀忠にも警戒された。
付け家老の大久保長安も、何やらあれこれ画策していた気配がある。
3.結局、大阪夏の陣のあとに改易される。しかしそれから長い長い余生を送り、なんと92歳まで長生きした。 「信長の野望」でクリアしないように続けていると、最後まで生き残る武将となることが多い。
4.隆慶一郎の小説では超人的な武勇を備えたスーパーヒーローみたいになっているが、あんまり真に受けないように。
徳川頼宣
1.親藩、それも将軍を扶翼する御三家でありながら幕府転覆を目論んでいたらしい不逞者。
2.時代劇や小説とかだと大抵悪役。
3.由井正雪の乱の黒幕だったという噂もある。
4.紀州和歌山藩祖で、南竜公と呼ばれた。南海道の竜。
徳川頼房
1.義直、頼宣と違い家光とは仲が良かった。何故かと言うと、他の二人と違って、家光の言うなりに動くパシリだったからである。
2.夜な夜な家光と共に城を抜け出して江戸の街を徘徊。夜遊びに耽っていた。
松平忠直
1.結城秀康の息子。
2.親父が家康の長子(もっと上の信康は早死にしたので)だったのに跡を継げず、おかげで秀忠の家来みたいな扱いになったことに腹を立てて大荒れ。
3.大阪夏の陣では真田幸村を討ち取る大殊勲を立てたのに、そのわりに褒賞が少なく、またもや大荒れ。
4.ついに隠居を命ぜられて豊後に流される。まだ28歳という若さだったんだが。
保科正之
1.頼房同様、家光のパシリ。
2.「何があっても会津藩は徳川宗家への忠勤に励むこと」と家訓を残した所為で会津藩は後年悲惨な事に。
3.2代将軍徳川秀忠の庶子。恐妻家の秀忠が生涯2度だけした浮気の、たった1度の大当たり。 正之に対する幕臣のコメント。「2代様はよくぞ浮気をしてくださった!」
徳川綱條
1.親父の水戸黄門と一緒に水戸藩の財政を悪化させた人。
徳川宗春
1.大浪費家で尾張家の財政を圧迫させた一方、風俗王国名古屋の基礎を築いた殿様として、栄・錦一帯では崇拝されている。
2.八代将軍になる目もなくはなかったとか。それと関係あるのかどうか、紀州出身の吉宗とは仲が悪かったらしい。吉宗は緊縮財政・重農主義だし。
3.奇抜なファッションでも有名だった。
松平頼恭
1.平賀源内という天才を臣下に持っておきながら、それに気づかずあっさりのがしてしまったバカ殿。 長崎に留学させ、さらに江戸に送ったところ致仕されてしまった。ぶちきれた頼恭は、源内を終身仕官お構いにしてしまう。
2.もっとも、学問はよくできたらしい。ひとかどの本草学者でもあり、殖産興業に務めた。大名としては一応名君の部類には入るようだ。 それだからかえって源内とうまく行かなかったという噂もある。
松平定信
1.地方自治体でうまくやれたからと、国政に打って出て、極端な倹約を推進して景気をぶちこわしたバカ殿。 前任者の田沼意次が放漫財政すぎたので、ある程度の緊縮は仕方がなかったが、それにしても規制のやりすぎで、都市部は火が消えたようになってしまった。
当然下々からの評判は悪く、「白河の水の清きに住みかねて元の濁りの田沼恋しき」などと悪口を言われた。
2.政治姿勢が、左翼知識人っぽい。 やたらと自分の名声を気にし、部下に自分を美化した本をたくさん書かせて広める事で、自己のイメージアップに腐心した。 近年では定信を批判する意見も珍しくないが、それでも何となく清いイメージがあるのは、上記の川柳とともに、豊富な定信顕彰本の内容に歴史家たちも無意識のうちに影響されてしまうためだろう。
老中時代の政策の特色は、「幕府の権力強化」という一点に尽きる。幕府のトップとしてはある意味正しい姿勢だろうが、日本全体のことを考えるという視点に欠ける。 出版物の統制もその一環。このお陰で著作権がある程度保護され、滝沢馬琴のような専業作家を生む契機にもなったが、定信は別に戯作者を保護するために法律を出したわけではない。
地方行政は成功したように言われるが、実際はあまり成果が上がらず、藩財政もあまり好転しなかった。 当時の記録類では、下級藩士や民衆は面従腹背で、定信の息子すら評判と実際は違うと愚痴をこぼすほど。
その一方で、自分のために豪華な大名庭園を4つも造っている。庶民も入園可能など先進的な面もあり、当時の大名は庭園に凝るのがステータスだったから仕方がない面もあるが、部下の俸禄は削っておいて自分の庭園を作るのはどうなんだろう・・・。
晩年まで改革に邁進するが結局あまり成功せず、最後には老中時代の人脈に物をいわせ、豊かな桑名藩への替地を強引に実現させる。 自藩士たちは豊かで中央に近い温暖な土地に行けると大喜びだったが、変えられた方からすればたまったもんじゃない。
これで財政が好転すればまだ救いがあるが、運動資金を賄うために作った膨大な借金のせいで、明治まで苦しい財政が続いた。意味ねえ!
しかも京都に近くなり、あの定信の藩ということ幕府に目をつけられ、幕末には会津藩とともに京都の警備をするハメになる。
やった政策が無意味どころかマイナスになり、関係ない人々にも多大な迷惑をかける。政治家失格どころか人としてどうなのってレベル。
『寛政重修諸家譜』や『集古十種』を編纂させるなど、文化人としては一見まともなのも左翼臭い。 老中引退後、大田南畝など寛政の改革で迷惑を被った知識人たちと交流し、自分の絵巻物の詞書を書かせたりする。 私人と公人としての顔を使い分けたと言えるかもしれないが、単に無神経なのか、文化的に名声ある人々と交流することで自己の評判を高めようとしたのか、正直解釈に困る。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月01日 02時52分14秒 ) | パスワード |
譜代
本多正純
1.家康・秀忠の謀臣として活躍したので、当然頭は良かったが、やりすぎて改易されるはめに。「秀才バカ」とはまさに彼のことであろう。
2.親父の正信が口を酸っぱくして、「謀臣はただでさえ人に嫌われるんだから、大きな封地なんか絶対貰うんじゃないぞ」と教え諭していたのに、宇都宮藩で15万石も貰ってしまって、案の定ヒンシュクを買った。 「宇都宮釣り天井事件」は捏造だったようだが、その程度の罠を仕掛けられても仕方のない立場だということを理解していなかった。やはりバカである。
3.話の枝葉末節にこだわって、要点に目が行っていない逸話が複数残っている。やっぱり秀才バカ。
水野勝俊
1.武士の歴史の中で、この人にまさるバカは居ないであろうというほどのバカ。 福山城下が燃えてしまうと、町人に気を使って、彼らの負担が増えないように普請の速度を遅らせろと言ったり、鷹師が藩内の畑を荒らしたら百姓がソイツを処罰しろとか、度重なる飢饉の折には減税&貸付をやったりという名君ではある。 結果、財政難になるも今度は自分たちの服装を質素なものとしたりするなどしたが、そんなことするくらいなら沼名前神社の改修その他、領内の寺社への寄進をしないほうが……
こんな人物だけど、パパが破天荒すぎて有名なあまり、そのことを、人々に認知されていない辺りが、悲しすぎてバカバカしくなってくる。
2.上記の通りのあまりの名君ぶりに感動して、勝俊が死んだ時、一緒に腹切って殉死したバカも居る。 しかしこのバカ主従が地元で取立ててよく扱われるわけではない辺りが、ますます持ってバカげている。 水野家が5代かそこらで途絶えたのがその原因だが、なんというか……
3.島原の乱の折、原城内へ、一番乗りを果たしている。 父親は大阪の陣の折に大阪城へ一番乗りを果たしているが、親子揃ってあんたのやるべきことはそれではなかろうと言いたくなってくる。 おまけに父親の大坂城一番乗りは捏造宣伝。幕府認定公式一番乗りは越前松平軍。 それが悔しい余り、水野の家伝では大坂の陣の越前松平を捏造disりまくり。
4.ホントは父親が嫌いだった(?) 父親が藩主の間は、自分は城から10kmほど離れた港町に滞在し続けたらしい。
藩主の座を禅譲してもらうと、今度は隠居したはずの父親が藩政に口出しするようになり、口喧嘩になることが度々あったとか。
土井利勝
1.初めて大老になった人。
2.「ヒゲは伸ばすより剃る方が紳士的」という考えを浸透させた。
3.顔つきが似ている、徳川政権下で異常なほど重用され、栄達した、という二つの理由だけで家康の落胤扱いされた気の毒な人。 前述のヒゲ剃りも、あんまり家康に似てると言われたので、イメチェンしようとしたのがきっかけらしい。
家康の母の兄、水野信元の子なので、多少似ていてもおかしくはない。
4.柔和で誠実なイメージがあるが、本多正純を追い落とした黒幕ではないかと言われていたり黒い噂も結構ある。人間誰しもが持つ二面性というやつである。
5.家光は親父の頃からの「負の遺産」である利勝を疎み謀反の濡れ衣を着せ弟忠長と一緒に始末しようと画策したが、一枚上手の利勝には上手い事逃げられてしまった。 実は利勝は忠長の傅人で、利勝の妹が乳母をしていた。春日局が戦ったのは、本当は秀忠夫婦ではなく利勝兄妹だったらしい。
6.現実に桃源郷を作ろうとして所領の古河で桃を沢山栽培した。
7.「人は見た目が9割」をわかりやすい言葉で説明した。 いわく、「どれだけ優れた者でも、玄関先(第一印象)で終わっては意味がなかろう? 特に若者は心に留めよ」
柳沢吉保
1.綱吉の寵臣。 一生を綱吉に捧げ尽くし、綱吉の好みを知り尽くして先手先手を打ったために、大のお気に入りになっていた。
ただし、綱吉を諫めたりすることはできず、綱吉が暴走すると一緒になって暴走していたイエスマン。本当の忠臣とは言えないかも。
2.赤穂事件の裁きで、ワイロを貰って吉良上野介に有利な判決を出したというのは濡れ衣。吉保にそんな権限は無かった。
井伊直弼
1.幕末に大老に就任し、独断でいろいろ進めた揚げ句に暗殺された。 やったことが良かったとか悪かったとかいう以前に、独裁的であったのが殺された原因。 いろんな問題が急を要することばかりで、衆議に諮っていてはらちがあかないと腹をくくり、覚悟の上で独裁をおこなっていたようだが、日本人の独裁者嫌いぶりを甘く見ていた。
井伊直弼はローマ帝国の皇帝にたとえたらネロのような男だからな。
暗殺はされたんだけど、それを公式記録に書くと藩が取り潰しになるため、「桜田門外で発病し、後日病死したこと」に記録上はなってるそうな。
2.個人的には温厚な教養人であり、やった政策も後から見れば別に悪くはなかった。そのためわりと早い時期から弁護者も現れたようだ。 そのおかげで、NHK大河ドラマでは輝ける最初の主人公に。
前項のくりかえしになるが、政策が正しかろうが、性格が良かろうが、とにかく独裁ということを嫌うのが日本人。
3.茶道の世界においては、偉大な人。 自前の茶流を持っていることからもそれはうかがえる。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月01日 02時53分53秒 ) | パスワード |
外様
前田利常
1.鼻毛を伸ばし放題にしていただらしない殿様。 家臣に鏡を渡されたが、「これは国を守るための鼻毛じゃぞ」と答えたという。わざとバカ殿の振る舞いをしていた節がある。 バカだと思ってもらって幕府から目を付けられないようにしてた、らしい。この当時は改易が多かったので、大名家の中でも最大の百万石は警戒されるもの。
2.人前で男の勲章を晒した伝説あり。バカとしかいいようのない奇行。 実は明晰な人物で幕府に警戒されないための韜晦だったとか言われてるが、幕府の警戒の眼を逸らすために人前で○ンポを晒すという発想にいたる頭はバカ以外の何物でもない。
3.江戸城敷地内(もちろん屋外)で堂々と大小便したらしい…。
4.そうは言っても、そこそこの名君であったらしい。
小堀政一
1.ガーデニングが日課のような親爺。またの名を小堀遠州という。 それでボロ儲けしたうえ大名にのし上がったってのが腹立たしい。
2.御茶や生花も趣味だったりする。おっさん、嫁入り修行でもしてんのか?
加藤明成
1.袂を分かち出奔した家老に激昂し、「奴を成敗できるなら会津40万石返上しても構わない!」と豪語、お望み通り家老は成敗され、会津の所領は没収された。 ちなみにその家老(堀主水)の妻子を救ったのは、豊臣秀頼の娘の天秀尼。彼女が住持をしていた鎌倉東慶寺は、駆け込み寺として江戸期を通じ女性の救済機関になった。
改易後、倅のいる石見国(現在の島根県西部)に身を寄せた。
2.お金、特に一分金がなぜか好きで、皮肉交じりに「加藤一分殿」と呼ばれた。 きっと、夜中に「一分金がいちま〜い、にま〜い」と数えて喜んでいたに違いない。
3.某漫画では柳生十兵衛にイチモツを斬りおとされて悲惨なことに…
浅野長矩
1.後世の作家に物語のネタを提供してくれた偉大なバカ殿。
2.頭に血が昇りやすい
3.吉良上野介にイビられていたらしいが、被害妄想だったという説も
4.女癖も悪かったらしい 大名には珍しく側室を置かず、正室ひとすじだったという説もあるぞ。
5.本人は傍迷惑なバカ殿だったが、事後「仇討」して名誉を回復してくれた部下に恵まれたおかげでイメージはクリーン。
6.梶川与惣兵衛とか多門伝八郎とか、一部の方々はこの人のおかげで歴史に名を残すことが出来た。
7.吉良上野介の地元では大層嫌われてるのだろうと思いきや、それほどでもない。
8.緊張すると息苦しくなる「痞(つかえ)」という症状を持っていたとか。「不安神経症」あるいは「パニック障害」を患っていたとみられる。精神科医に見てもらえば刃傷沙汰は起こさなかったかもしれない。
上杉鷹山(治憲)
1.藩政改革成就のため二人の家老に腹を切らせ、他数名の家老を逼塞させて改革を断行したバカ殿。 結果的に成功したからよかったが、一歩間違えれば阿波徳島の蜂須賀重喜みたいになっていた。
2.聖人君主として語られているが、奥さんが××だったとかそういう都合の悪い点はスルーされている。
3.藩政改革が円滑に進捗したのは養父の重定が後ろ盾になってくれたからである。つまり本当にえらいのは鷹山ではなく重定ということになる。
4.実は上杉家と血縁はなく、九州の日向高鍋藩の秋月なんとかとかいう小大名の子。紆余曲折あって、上杉の養子となった。後に鷹山が藩政を立て直したことを耳にした高鍋藩の人達は地団駄踏んで悔しがったそうな。
島津重豪
1.絶倫、浪費家、有能な家老や志士を大量粛清、これがバカ殿と言わずしてなんというのだろうか。 しかし、シーボルトには、開明的で英明な君主と評されている。
2.行きすぎた蘭癖で、上記の通りの滅茶苦茶も確かにあったが、後々のためになった施策も多い。
島津久光
1.憂さ晴らしのため一日中花火を打ち上げたというエピソードがある。
2.因循姑息な保守家というのが一般的なイメージ
3.司馬遼太郎からは完全にバカ殿扱いされている。
4.時代劇や小説で西郷や大久保に上手い事出し抜かれて憤慨→部下に八つ当たり、というのはよくある光景。
5.母親お由羅の方が飛天御剣流の使い手だったお陰で白兵戦の腕は卓抜していたようで、単なる「お山の大将」ではなかったようだ。
6.国政に関して独特のビジョンを描いていたようだが西郷大久保ら藩士達からは鼻で笑われていた。 西郷には陰で「阿斗」と呼ばれていたとか。言うまでもなく三国志・蜀漢の後主劉禅の幼名で、「無能な二代目」の代名詞。
7.英国と薩摩の関係を大いに揺るがすこの事件はこの人が江戸から京都経由で鹿児島へ帰る途上で起きた。
8.「殿」のカテゴリに入れられてはいるがこの人、一度も藩主にはなったことがない。江戸参府の際には「藩父」というわけのわからん肩書きで江戸城に押し掛けた。
9.明治になっても側近に「で、わしはいつ将軍になれるのじゃ?」と聞いていたとか。
山内容堂
1.お酒大好き そのため、付いたあだ名が「鯨海酔侯」。
2.酔えば勤皇、醒めれば佐幕と評された。つまり変節漢。
3.武市半平太の一派、土佐勤皇党を弾圧した。
4.歯槽膿漏で口臭がひどかったらしい。
中川久清
1.中川清秀の孫で三代目岡城主。
2.足が悪いのに登山好き 輿みたいなのに乗って、家臣に担がせて登山してたらしい。
特に久住連山の大船山が好みらしく、この山の中腹あたりに墓を建てて入ってる。
彼にアルペン大名とか言うあだ名をつけた歴史関係の本がある。
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