[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 14時46分58秒 ) | パスワード |
スレッド XVI の レス<20>の書き込みから:
>永井と服部の関係、大いにありなんですが、
>徳川家康とともに岡崎、浜松、 駿府、江戸と移動して行く中で、なんでここ善地にという謎が解けません。
>善地で検索してみると、信濃の箕郷町に善地があり、この近くに永井一族
が存住しているという。
>箕輪の松島氏とも関連してきそうな気もしますので すが・・・。
>他には、今のところ有力な情報が見つかっておりません・・・
http://www.pref.gunma.jp/06/h4010211.html
県内の一級河川一覧
浦川
左岸 群馬郡箕郷町大字善地字中尾根2042番地先
右岸 群馬郡箕郷町大字中野字右切谷158番地先
車川への合流点
こちらでは群馬県の箕郷町大字善地になっていますね。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 15時17分07秒 ) | パスワード |
http://m.webry.info/at/53922401/201012/article_15.htm?i=&p=&c=m&guid=on
66 と 101 と 147 を見てください。
箕輪初心●高崎の城154城00番「高崎の城一覧表」
新編高崎市史資料編3・・・154城
@鼻高の砦△ 達磨寺西1km福泉寺東隣*築城・・・長野氏の砦?
*武田方の本陣か?
A八幡館× 八幡神社西300m*築城・・・上杉顕定か?
B八幡神社△ *築城・・・長野氏の砦 *武田方の本陣か?
A木嶋屋敷△ 八幡神社東350m*築城・・・木嶋氏の砦?
*武田方の本陣か?
D鳴熊城× 小島鉄工所西300m 永正4年?
・戦国時代 福田忠政が築城
・永禄9年(1566) 武田方の倉賀野16騎の筆頭で、箕輪城攻略の先鋒
倉賀野秀景が先陣。
武田信玄より剣崎・藤塚・豊岡を拝領・・・廃城か?
E剣崎小路城△ 剣崎(鳴熊・・・剣崎神社)
剣崎小路城の歴史
・天正18年 柴田勝家の孫勝雲 徳川家康より2000石で入城。
F福田屋敷×・・・・ 豊岡とりせん西隣
・永禄9年(1566) 武田方の倉賀野16騎の筆頭で、箕輪城攻略の先鋒福田氏一族。
武田信玄より剣崎・藤塚・豊岡を拝領。
・天正10年(1582)武田氏滅亡。北条氏に従属。→板鼻に転居。
G峰岸屋敷× 豊岡の宗傳寺東隣
・戦国時代・・・・・築城は峰岸氏
H豊岡の砦→根津陣屋×豊岡中学校東300m
・戦国時代・・・長野氏配下の吉田伊豆守文頼の築城。東山道の押さえか?
★私説・・・武田支配下になった時には、領土安堵されたが、内藤時代に反旗。
北条の時代に、榛名本郷の領主に復帰。?
・天正18年(1590) 徳川家康配下根津甚平が1万石で入封。
I下並榎の砦△ 並榎の常仙寺:君が代橋東300m築城
・戦国時代・・和田業繁(長野業政の娘婿)が築城。
・永禄元年(1557)着到帳:飯塚左衛門丞忠則並榎砦在住。(長野氏の配下)
・慶長5年 常仙寺は飯塚常仙が開基?
・江戸時代 板垣籐九郎在住。
■訪問記・・・高崎市の赤坂。現在は常仙寺。比高5m。
・・・逆に並榎砦のことを聞かれた。
J並榎城△ 天竜護国寺・墓〜向こう岸
・築城・・・永禄〜天正
・永禄元年(1557)の着到帳:飯塚左衛門丞忠則並榎砦在住。(長野氏の配下)
・永禄4?年・・・和田業繁(長野業政の娘婿)は武田方になった。
・永禄6年(1563) 上杉輝虎(謙信)の攻撃
・永禄9年(1566) 武田方の箕輪城攻略に参陣。
■訪問記・・・高崎経済大学の南東1kmに天竜護国寺
+南部丘陵地域が並榎城である。
★烏川を南面に望む地域。城の形跡はないが、地形をうまく利用している。
K住吉城× 沖町郵便局南
・永禄元年(1557)頃・・・住吉城住吉玄蕃在住。(長野氏の配下)
・永禄8年(1565) 箕輪城長野氏 VS 武田信玄
(若田原の戦い)・・・出陣拠点?
■訪問記・・・高崎市の沖町。現在は長野堰の水路が印象的である。
榛名白川の流れの変化で城の痕跡消滅。 (原型なし)
L井野屋敷△ 楽間町石田(西地区)
・○○○○年 築城年代不明・・・井野氏(箕輪城の保塁)
井野与五右衛門屋敷
M石神の砦× 楽間町石神(西地区)
・○○○○年 築城年代不明 (箕輪城の保塁)早瀬川を利用した砦
■訪問記・・・鰻神社
N我峰屋敷△ 我峰町
○○○年 築城年代不明 (箕輪城の保塁)
永禄元年(1557)頃・・・清水氏が住吉城住吉玄蕃と入れ替わる。
我峰在住。(長野氏の配下)
O行力上屋敷× 箕郷線工場南隣
○○○○年 築城年代不明 (箕輪城の保塁)
P行力中屋敷△ 箕郷線西
○○○○年 築城年代不明 (箕輪城の保塁)
永禄9年(1566) 武田方の大熊氏(元上杉謙信配下箕冠城主)が箕輪城攻略に参陣。
永禄10年(1567) 武田信玄より大熊氏がこの屋敷を拝領。
Q行力下屋敷×箕郷線西
○○○○年 築城年代不明 上杉氏の所轄置
天文20年(1551) 長野氏に編入? (箕輪城の保塁)
永禄10年(1567) 武田信玄より大熊氏がこの屋敷を拝領。
R北新波の砦◎ 長野小北西200m 満勝寺砦と隣接
○○○○年 築城年代不明
永禄6年(1563)9年? 城主新波新右衛門は那波(伊勢崎)が高浜砦攻撃に来た時、
青柳金王丸と共に撃退。(箕輪軍記)
Q北新波の砦・・・発掘調査は昭和60年に終了。
R満勝寺館
@満勝寺・本堂裏の土塁と空堀・・砦跡の2碑
紫陽花の咲く北新波砦と隣接する満勝寺
S乙業の館 △ (浜川町乙業 館跡)
14??年 長野乙業の築城。(箕輪城へ移動前の長野氏初期の館)
+来迎寺(長野氏累代の墓)+対岸に箕輪城4代目長野業盛の墓
21与平屋敷× 箕郷高崎バス路線 出光GS東500m
○○○○年 築城年代不明 (箕輪城の保塁?)・・・与平築城。
鍛冶遺構の発見・・・圃場整備で消滅。
@北新波の砦 E満勝寺館 D北爪の砦 C寺の内館 G御風呂遺跡(浜川運動公園)
B矢島砦 F隆業館=浜川館 G乙業(おとなり)館 H来迎寺(長野氏累代の墓)
22高田屋敷×ローソン北500m 新幹線下(消滅)
○○○○年 築城年代不明 (箕輪城の保塁)
1560年 関東幕注文の中に妙義町の「高田小次郎・・・。」の名があり、長野武士団に所属。
23長町屋敷×浜川信号北の3つ目の右に入る道付近
○○○○年 築城年代不明 (箕輪城の保塁)
○○○○年 武田氏に焼き払われた。(伝)
24 矢島の砦×(数万回通った道から)・・・前橋高崎線の浜川ファミリーマート北西100m。
○○○○年 築城年代不明 (箕輪城の保塁)矢島久左衛門貞勝(長野業政4家老)
楼台や鉄砲を意識しての構造に改築。矢島氏は松井田城の後詰に出陣。
○○○○年 武田氏に焼き払われた。(伝)
永禄9年(1566) 箕輪城滅亡後浪人→吾妻岩櫃城下で酒屋(
*北新波の砦と同じ構造・・・100m×100mの本郭+外郭(副郭式=囲郭)
25浜川砦(浜川館)△
■訪問記・・・北高校の野球グランド西。川を挟んで100m。うまく川を利用している。
○○○○年 築城年代不明 (箕輪城の保塁) 長野隆業か?
城郭の中で最も堅固な自然の要害・・・井野川と小川の間に囲郭を築城。
藤井豊後守友忠(長野氏執事・筆頭家老)・・・長野氏の出身か?
26 北爪の砦(北城)△
○○○○年 築城 (箕輪城の保塁) 北爪周防守=土佐守政勝
永禄9年(1566) ?武田氏に焼き払われた。(伝)
27 寺ノ内館 ×
○○○○年 築城 (箕輪城の保塁) 築城者不明・・・松田加賀守?
本郭・二郭・三郭・・・・推定東山道北道が南の端を通る。
近藤義雄先生説・・・建久元年(1190)長野氏先祖の石上氏が在地国司の
官僚bRとbSで来たが、鎌倉時代には
不要になった。それで、東山道ぞいに館を一番早く築いた。
28 芦田貝戸屋敷 × 高碕経済大学附属高校すぐ裏 ・浜川運動公園
○○○○年 築城 (箕輪城の保塁) 単郭・・・・推定東山道北道の北
29 八木屋敷 △ 上小塙大森院南隣・・・・でも、烏子稲荷も古墳兼城郭では?
○○○○年 築城 (箕輪城の保塁) 八木氏?
30 下小鳥神戸屋敷×
○○○○年 築城 (箕輪城の保塁)
31 大八木屋敷△ (一番東側の土塁)
○○○○年 築城 (箕輪城の保塁) 茂木氏か?
32 熊野堂館 ×
○○○○年 築城 (箕輪城の保塁)
33 小八木環濠遺構△ 中川小の南に隣接。
○○○○年 築城 (箕輪城の保塁)
金井氏は倉賀野城主金井淡路守の子孫?
34 小八木新井屋敷△(青木屋敷)17号線群馬三菱の道反対
○○○○年 築城
35 妙典寺 仁治3年(1243) 北条家臣真山善助?
36 浜尻八幡屋敷 ○○○○年 築城年代戦国
■m見所・・・堀・土塁の一部
37 井野環濠遺構 △井野駅東100m
○○○○年 築城年代戦国 与五右衛門屋敷+砂田屋敷
38 専福寺 ○・・・・貝沢野球場反対 ○○○○年
真っ黒・・・築城年代戦国
39 貝沢東新井屋敷△ 貝沢スーパー東隣接
○○○○年 築城年代戦国 新井雅楽之助
210m×150mの外郭
40 塚越屋敷 △ 万日堂南50m
○○○○年 築城年代戦国 塚越氏?
41 貝沢八幡屋敷×塚沢小北300m。日本たばこ貝沢アパート前
○○○○年 築城年代室町 新井若狭守
後北条に従属し、国府台の戦いに参戦。
42 原環濠遺構・・・中尾団地北に隣接
○○○○年 築城年代戦国
43 黒崎屋敷 ○ 42の北に隣接 34小八木新井屋敷東隣 44中尾城に隣接
○○○○年 築城年代戦国
黒崎氏(先祖は浅利信種の弟:下条氏(武田信玄の娘婿)・・・
44 中尾城 △ 日高病院北200m〜関越自動車道下
13??年 築城年代戦国 430m×530m
45 金尾城 △ 前橋インター北〜群馬高専グランドまで
■訪問記・・・
15??年 築城年代戦国 金尾佐渡守 550m×500m
156?年 倉賀野城主金井淡路守の弟右源太ひろ時が入城?
46 上日高屋敷 △ 日高遺跡の東〜日高神社周辺
15??年 築城年代戦国 田村氏
47 日高環濠遺構× 村主神社付近
15??年 築城年代戦国 湯浅氏
48 日高大下環濠 ×東京電力の変電所
15??年 築城年代戦国
49 湯浅屋敷 △ 染谷川沿い
15??年 築城年代戦国 湯浅氏
50 上新保環濠遺構△ 49の関越南
15??年 築城年代戦国 阿久沢氏・串田氏の屋敷
51 諏訪環濠集落・・・48と50の間染谷川沿い
15??年
築城年代戦国 井草氏等の屋敷
52 上新保北屋敷△ 染谷川と関越の交差東
15??年 築城年代戦国
高橋氏の屋敷・・・太田金山城由良氏家臣→平井城上杉氏家臣
53 下新保環濠遺構× 染谷川橋付近:高碕インター西1km
15??年 築城年代戦国
自然の要害・・・染谷川と井野川川の合流地点の南西の屋敷群。
54 華王寺 △サンピア高碕南に隣接
15??年 築城年代戦国
天正11年(1583) 新保村の土豪・・小嶋・反町・井草・阿久澤・登坂(北条家朱印状)
55 山王屋敷× 高崎インター西700m
15??年 築城年代戦国 箱田氏?
天正12年(1584) 新保村の土豪・・小嶋・反町・井草・阿久澤・登坂(北条家朱印状)
56 猿田屋敷× 55に隣接
15??年 築城年代戦国
57 上飯塚城△ 第1病院信号南東300mの常福寺周辺
15??年 築城年代永禄期か? 和田氏が有力? 飯塚常仙か?
永禄6年(1563) 武田信玄は和田業繁を臣下にし、
長野氏領の大八木屋敷に対抗か?
58 長泉寺 × 59北100mアピスタ?
15??年 築城年代戦国
59 鼠屋敷 × 高崎北駅北200m高碕貨物敷地〜南
15??年 築城年代戦国
60 飯塚左近屋敷× 群スイミング北の線路下
15??年 築城年代戦国
61 西沖屋敷 × 問屋町駅前
15??年 築城年代戦国
62 赤戸屋敷 × 塚沢小西隣
15??年 築城年代戦国
63 高関屋敷 △(角田屋敷)環状線沿い・城東自動車教習所東50m
15??年 築城年代戦国
64 岡田屋敷 △城東小南西100m三角公園北
○○○○年 築城年代平安か? 奥州の岡田将監
65 新後閑屋敷 △琴平神社
15??年 築城年代戦国
新後閑右京亮は和田信業の馬廻衆で、上杉輝虎(謙信)を
和田城で撃退。→大類城へ
天正11年(1583) 清水寺に布を献上。
ココ?
↓
66 長井屋敷 ×環状線から駒形線東に500m
15??年 築城年代戦国
島名城主長井豊前守政実→長井三河→部
長井三河は和田信業に従属。
67 上大類新井屋敷× 66の北隣り・北に井野川
15??年 築城年代戦国 新井刑部か?和田信業の馬廻衆
68 天田館 × 高崎インター西1km駒形線染谷川橋を南500m
14??年 築城年代室町 天田か?・・・・子孫は焼き物の同門
69 村北屋敷 × 68の東200m 」
14??年 築城年代室町 天田か?
70 大類館 △
14??年(嘉吉) 築城年代室町 大類城に先行する館。
大類中務丞→大類五郎左衛門尉か?
71 大類城△ 高関交番から東に1km信号を北に300m・大類中東100m
15??年 築城年代戦国 和田業繁か子信業が築城。 400m×400m
天正3年(1575) 和田業繁が長篠の戦いで討ち死に後、
新後閑右京亮や天田(甘田)氏が城代。
*和田城の保塁・・・上並榎城・上飯塚城・新井屋敷・大類城・和田下ノ城
72 大類寄居 ×
14??年 築城年代室町 上杉氏の配下※寄居は中世の古い時代の言い方
73 降照(ぶってん)屋敷・・・群女短大の北東
14??年 築城年代室町 高井氏
74 塚ノ越屋敷 △宿大類町
13??年 築城年代室町 塚ノ越屋敷→大類館→大類城。
75 佐野屋敷 ×上佐野の常世神社
13??年 築城年代鎌倉 佐野源左衛門常世の屋敷
室町時代にも存続・・・烏川の水運を利用
76 堀口屋敷 △ 下佐野の定家神社東
14??年 築城年代室町 漆山古墳を背後に建造
77 清水屋敷・・・下佐野の定家神社南
14??年 築城年代室町
78 夕日長者屋敷・・・下佐野新幹線下 ?
79 江木環濠遺構・・・江木食品工業の西・北
15??年 築城年代戦国 南屋敷・北屋敷など5つの環濠
80 丸茂屋敷 △ 上中居ヤマダ電機北東
14??年 築城年代室町
■見所・・・水堀
81 宇名室環濠遺構× 上中居のヤマダ電機東
15??年 築城年代戦国 堤氏など
82 反町屋敷× 旧上中居のヤマダ電機付近
15??年 反町氏 反町美濃守は極楽寺に墓地
反町大膳亮は和田信業の和田城で上杉輝虎(謙信)を撃退。
天正3年(1575) 和田業繁が長篠の戦いで怪我をしたので、駒場まで
連れてきた。討ち死に。
越前松平忠直に2000石で仕えた。→高崎で浪人。
■訪問記・・・見所・・・水堀5m〜8m
83 新堀の砦× 旧ヤマダ電機に隣接
15??年 築城年代戦国 反町氏の中居砦
84 下中居新井屋敷×・・・下中居飯玉神社西
15??年 築城年代戦国 新井氏の砦・・・・五角形の砦
85 高尾屋敷くぐり窓×・・・下中居飯玉神社西
15??年 築城年代戦国 高尾佐渡守?の砦・・・・五角形の砦
和田氏の騎馬衆「高尾三騎」(甲陽軍艦)
高尾屋敷・福田屋敷・佐藤屋敷・・・長野堰近く
86 下中居福田屋敷×
15??年 築城年代戦国 福田氏の屋敷
87 下中居佐藤屋敷×
15??年 築城年代戦国 佐藤氏の屋敷
88 島野環濠遺構 △
15??年 築城年代戦国 阿久澤氏?の屋敷群
89 柴崎西浦屋敷 中居団地北
15??年 築城年代戦国 高井氏?の屋敷
90 高井屋敷 ○・・・高崎駅の東に2km国道354号
15??年 築城年代戦国 高井氏?の屋敷
91 柴崎桜井屋敷 ○国道354号
文明6年(1474) 築城年代戦国 桜井与左衛門の屋敷
92 光明寺 ×・・・国道354号
14??年 築城年代戦国 桜井氏?
93 村間屋敷 ×・・・ながいスイミング敷地
14??年 築城年代戦国 桜井氏?
94 蟹沢屋敷 △
14??年 築城年代戦国 桜井氏?
95 大下屋敷 △ (柴崎東屋敷)
14??年 築城年代戦国 田口吉真の屋敷
96 隼人屋敷 ×・・・・354号高井屋敷反対
天文年間 築城年代戦国 原隼人(太田金山城横瀬氏に負けた那波氏の家臣)
97 道場屋敷 × ・・・・谷中堰沿い
14??年 築城年代戦国 桜井氏?
98 矢島西城 ×・・・・矢島彦島神社南西。高碕インター西1kmを南に200m
文明9年(1477) 築城年代戦国 足利成氏の陣城か?
99 矢島反町屋敷 ×・・・矢島西城の東駒井病院
天正期(1572〜)? 反町氏
100 鈴ノ宮屋敷× 高崎市カントリーエレベーター 不明
ココも
↓
101 元島名城 △ 高碕インター〜南西部〜井野川まで
応永年間(1393〜) 島名伊豆守が桜屋敷を築城か?
永禄年間(1557〜) 永井(長井)備前守が居住
永禄13年(1570) 永井氏は武田方として小幡氏と共に忍城・深谷城を攻撃。
天正10年(1582) 永井氏は北条氏に追われ、箕輪や赤城に分散?
■訪問記・・・高崎ICの南西部。でも、遺構は?
102 元島名内出×・・・元島名城の南東
15??年 築城年代戦国 阿久澤氏?の屋敷
103 栗原・矢中屋敷△矢中町
15??年 築城年代戦国 栗原内記の屋敷
倉賀野城主金井淡路守の弟矢中新左衛門の屋敷
104 下村北屋敷 △・・・矢中中学校西
15??年 築城年代戦国 矢中7騎の屋敷(松本九郎兵衛・大澤備後)
105 宝昌寺裏屋敷 ×・・・・矢中小学校敷地内
15??年 築城年代戦国 矢中新左衛門関係か?
106 中島屋敷 ×・・・京目町・前橋川曲町
15??年 築城年代戦国 中島氏か?
107上京目深沢屋敷・・・・長泉寺〜東へ
15??年 築城年代戦国 深沢氏?
(大間々の阿久沢氏が北条氏に追われ、京目に定住。)
108 上滝中屋敷 高南中学の東の関越下
13??年 築城年代南北朝 か訪問記・・・?
109 江原屋敷○
15??年 築城年代戦国 江原重安→江原重久
江戸時代 江原氏は農民になった。
江原源左衛門は天狗岩用水の引き込みの用水路を造った。
110 榎町内出
15??年 築城年代戦国 矢中新左衛門関係か?
111 下滝館 文明9年(1477) 築城年代戦国 足利成氏の陣城か?
112 八幡山館?
113五左右衛門原屋敷・・・ 滝川小敷地 ?
114 慈眼寺
文和元年(1352) 足利尊氏の命で中興
戦国時代 武装化 2郭・3郭
■訪問記・・・
●●和田城○・鎌倉初期 和田正信が築城。
・戦国期 和田業繁・信繁父子の和田城
+下之城砦・並榎砦の二つの外城。 (立体交差付近が、和田城)
(高崎城を参照)
115 和田下之城 高碕操車場北 *下之城グランド&善如寺さん宅
15??年 築城 和田氏 *和田城(和田業繁)の支城
■訪問記・・・とりあえず、諏訪神社に行った。信玄の影響がこれほどとは思わなかった。
諏訪神社の祭りによって、地元民との交流を図る作戦は見事だ。
和田業繁の弟が入ったことが記されていた。
116 上稲荷前屋敷 *倉賀野城の外砦
117 倉賀野新堀屋敷 *倉賀野城の外砦
118 養報寺 *倉賀野城の外砦
119 朝日長者屋敷 *倉賀野城の外砦
120 万福寺屋敷 大鶴巻古墳南 *倉賀野城の外砦
121 宮之前屋敷 ・・・・倉賀野中学校西 *倉賀野城の外砦
122 倉賀野西城・・・倉賀野中学校北西50m *倉賀野城の支城
123 永泉寺の砦 ×・・・倉賀野駅前北西 *倉賀野城の外砦
124 倉賀野城× (上記別掲) 倉中〜倉賀野河岸 800m×400m
○○○○年 武蔵児玉党の一派秩父三郎高俊が倉賀野氏を名乗る。
上杉憲政幕下の重臣
天文15年(1546) 川越の夜戦で、倉賀野行政が戦死。倉賀野党16騎が城を守護。
天文16年(1547) 小田井原合戦で、上杉憲政が武田晴信(信玄)に攻撃を志賀城後詰.
倉賀野十六騎の倉賀野秀景が先陣。 800m×400mの城
弘治3年(1557) 武田晴信(信玄)による西上州侵攻が激化。
長野業政は、箕輪城と倉賀野城などの支城網を駆使し撃退。
永禄2年(1559) 9月 武田信玄が板鼻に陣取った際に従ったと言われているが・・・・?
武田信玄の家臣となり、金井淡路守秀景→倉賀野秀景に改名。(現地説明板より)
倉賀野城で内部分裂があったとも見られている。(高崎市史?)
永禄8年(1565) 倉賀野城落城。信玄の家臣となり、金井淡路守秀景→倉賀野秀景に改名。
(子孫の会と高崎市の街巡りパンフレットを参考。)
永禄9年(1566) 武田信玄の箕輪城攻撃に剣崎城主として参加。
永禄11年(1568) 武田信玄は倉賀野城南西方向2.5qの所に根小屋城を築城。
(根小屋城・・・佐久の伴野氏・大井氏が城番1566年説在り不明)
天正10年(1582) 武田氏滅亡。→倉賀野氏は滝川一益に従属→本能寺の変で織田信長死去
滝川一益+倉賀野秀景 VS 北条氏邦+私説(敵にまわった元長野・武田の人質軍団)
滝川氏撤退→倉賀野氏は北条氏に従属。
北条氏康の重臣:塀賀(はが)伯耆守康忠(私説:駿河興国寺城主兼任)が城主。
→金井淡路守は小田原城へ出勤〜〜〜あああ〜〜〜。
天正18(1590)年 豊臣秀吉の小田原征伐で落城。金井秀景は小田原で籠城し死去。
(ご愁傷様でした。人生楽ありゃ、苦もあるさ〜〜〜苦がありすぎかも。)
125 倉賀野東城 *倉賀野城の支城
126 東中里城・・・倉賀野オイルターミナル北西200m 太田氏か?
127 堀米屋敷・・・綿貫町観音山古墳東300m 堀米新左衛門
128 岩鼻の砦=岩鼻陣屋跡+県立博物館
元亀〜天正 和田氏の砦か(伝)?
武田信玄が箕輪城の城代内藤豊後守に守らせた。
江戸時代 岩鼻陣屋 ・・・・戊辰戦争で渦中に。
■訪問記・・・
129 下斎田城・・・・原研の川向こう 田口氏
130 大道端屋敷・・・・群馬の森の井野川向こうの新幹線下 ?
131 八幡原館 ・・・・群馬の森の井野川向こうの新幹線下 安達屋敷(伝)
132 若宮館 △・・・・日本化薬高崎工場東の橋向こう八幡宮・烏川
15??年 ○○庄兵衛
永禄年間 田中氏が屋敷に入った。江原氏と一緒に・・・・。
133 灰塚屋敷・・・・原研の川向こう 足利成氏の関係か?
134 八幡原城 × ・・・・日本化薬高崎工場東関越の先・烏川
135 八幡原中内出
136 中島内出(田口屋敷)・・・宿横手町
永禄・・・・・・・・屋敷 田口兵庫業祐は長野業政の使番頭
永禄9年(1566) 武田方の箕輪城攻略で戦死。
田口兵庫業祐の子孫は密かに帰郷?
137 萩原城・・・高崎IC東1km昭和大橋手前 萩原氏
138 新居屋敷・・・宿横手町 ?
139 寺尾上城◎ =乗附城:下乗附蓮浄坊城山
南北朝時代 野付治部左衛門が築城。
戦国時代 城の改修
140 乗附屋敷 ×・・・高崎高校北西200m
南北朝時代 野付治部左衛門が築城か?
141 前田屋敷 ×・・・・高崎高校西100m ?
142 石原屋敷 ×・・・石原利済寺
天正18年(1590) 由良一族矢場十騎の石原喜兵衛が居住。
和田氏の家臣になった石原作太夫・作右衛門
143 寺尾館×(=治部屋敷) 特別養護老人ホーム
南北朝時代 世良田氏か 佐藤氏が築城。
144 寺尾左近屋敷 ・・・・養護老人ホーム川向こう
南北朝時代 藤巻氏が築城。
145 寺尾中屋敷 ?
146 寺尾中城 ◎
尹良親王
↓
147 寺尾茶臼山城 農大二高の南東の山・・高崎葬儀場の東の裏山:城山団地
南北朝時代 尹良親王(後醍醐天皇の皇孫で宗良親王の第二王子)が築城?
応永4年(1397) 寺尾城を拠点。
応永31年(1424) 三河へ向かう途中信濃で北朝方の軍勢に包囲され自害。
茶臼山城は寺尾城郭群の一角を形成?
南北朝の争乱後 茶臼山城の歴史や役割については不明???
戦国時代 上杉、北条、武田の激しい争奪の舞台。
丘陵続きにある根小屋城は武田信玄による築城。
「烽火台?」と地元の人はいう。山名城も武田勢が在城。
148 根小屋城 根小屋城址・・・本丸跡・二の丸跡・三の丸跡
●武田信玄は倉賀野城南西方向2.5qの所に根小屋城を築城計画。
●永禄11年(1568)武田氏が築城・・・佐久の伴野氏・大井氏が城代
@上州各地の狼煙の集約地根小屋→飛行機墜落の御巣鷹山近くの叶山→甲府
A上杉氏・北条氏の牽制の役目
149 山名城=寺尾下城 (山名町城山) 木部氏の山城
■訪問記・・・高崎山名丘陵コース(高崎自然歩道)
@金井沢の碑(726年)
A山名八幡宮(鎌倉時代) 源義朝→ 新田義貞孫が山名姓→山名宋全(応仁の乱
B山の上の碑(681年) 国史と古墳(奈良)・・・10分で・・万葉歌碑27基あるそうだ。
C山名城「マムシ注意の看板・・山名の古碑・古墳・33観音を見ながら進む。10分ほどで城址に着く。
150 山名館=山名の光台寺
11??年 山名氏
151 木部北城 阿久津町北城玄頂寺
戦国時代 木部氏の北城 武田氏の倉賀野攻略の拠点?
■住職の妻の話 「慶長5年〜。」
※住職へのインタビュー・・・大井氏(実家は小諸」
・・・私見「根小屋城の大井氏の末裔では?」)の創建」
152 木部氏館 木部町の心洞寺
■飯島氏の話・・・「堀之内という地区が心洞寺南西部100mにあるので、そこが木部館。」
14??年 古河公方足利利成の幕下木部氏?
15??年 心洞寺創建。 木部駿河守範虎は長野業政の娘婿?
15??年 山名城に在住?
■見所・・・木部氏の墓
153 木部氏館 木部町堀之内(木部氏の里城)
永禄6年(1563) 武田氏家臣甘利昌忠
箕輪城周辺に放火→木部に陣を寄せ・・・(浦野家文書)
木部氏は武田家家臣として50騎の将? 100貫文の所領
天正18年(1590) 北条氏の滅亡で、木部氏は没落。
※木部氏の家老クラス増尾家が近い。
154 和田城 (上記) (2007年10月立体交差のため、形跡が全くない。)
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 15時19分27秒 ) | パスワード |
<2>の書き直し
http://53922401.at.webry.info/201310/article_28.html
箕輪初心●箕輪城114『2013年第11回箕輪城祭り』
ここに「下田邸」の画像がありますが
下田家は本日いろいろアチコチフラフラ脇道に寄ってる時に 下田氏 の名前がありました。
でも覚えていない。。。
箕輪城
長野軍 vs 武田勝頼
なんですか?
箕輪城についてずっと前のスレッドで書いた記憶はあります。
当時は 伊那と佐久と箕輪がこんがらがってました。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 15時23分20秒 ) | パスワード |
箕輪城跡
箕輪城は榛名山からのびる低い尾根の末端部を巧みに利用して造られた城です。標高274 メートルに位置し、西は榛名白川の清流に望む約20メートルの断崖、南は椿名沼の沼地、なだらかな北東部は水堀で囲まれていました。東西約500メートル、南北約1100メートル、面積47ヘクタールにおよぶ広大な城で、低い尾根の線に沿って、東北から西南の方面に、各郭が深堀で仕切られて並んでいました。
特に二の丸の南の大堀切は、城を南北に二分し、ただ一つの土橋によって連絡されていました。1500年頃、長野氏により築かれた城郭はその後、武田、織田、後北条の各大名により造り替えがおこなわれ、現在の遺構の大半は井伊直政在城当時のものと考えられます。「日本百名城」のひとつに選ばれています。[国指定史跡:昭和62年12月17日指定]
旧下田邸書院及び庭園
箕輪城主長野氏の重臣下田大膳正勝の子孫で、江戸時代には代々安房勝山藩・白川陣屋の代官をつとめた豪族下田氏の屋敷跡です。
江戸時代の書院と堀部安兵衛が築庭したと伝わる庭園が残されています。[群馬県指定重要文化財:昭和48年8月21日指定]
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 15時32分17秒 ) | パスワード |
箕輪初心箕輪城114『2013年第11回箕輪城祭り』写真集 城 ...
Oct 28, 2013 - 08:30 箕郷支所へ・・・着がえ○実行委員長・・関口修一氏(箕輪城元気隊事務局) ... 岡田会長・清水副会長・生方氏・永井氏などガイドがいた。
... 城元気隊・御嶽教講社 ・箕輪城市実行委員会・
中善地盆踊り保存会・蟹沢・下善地 など多数。
今年も10月の終わりの日曜日あたりに箕輪城祭りが行われるのかもですね。
遠江国の善地という名は箕輪城ゆかりなんでしょうか?
知りたいですね。
真龍先生の遠江風土記伝をまた読まなくては。
[7] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月20日 17時05分38秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
いろいろお調べいただきありがとうございます。信濃の歴史は氏族が入り
乱れ、歴史時間も幾重にも重なり、またアメーバのように力関係が変化しま
すので、複雑過ぎて頭がついていけません。あを様よりすでにいろいろ情報
をいただいているのですが、消化し切れていないのが現状で申し訳なく思っ
ております。
ただ、長野からの縦の高低差の道は想像以上につながっているのかも知れ
ません。遠いようで近いのが遠江〜信濃なのかも知れません。三遠南信とは
よく言ったものです。信濃でも南信濃、伊那地方へは山道ですが、距離的に
は意外と近いのかも知れません。今のように車のない時代ですから、徒歩で
歩く分には東西南北どこへ行こうとMAXで1日10里。半分の5里として
も20q。十日で200q。浜松〜名古屋が100qちょっとですから、長
野まで山道ですのでその3倍として、300q。約2週間の行程か・・・。
下るのは天竜を下れば徒歩の数倍以上早いはずであります。
遠江と信濃の交流の歴史を少し探究してみます。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 22時46分02秒 ) | パスワード |
土地は力関係で境界線が移動しますから
今の時代から過去を遡って考えるのは難しいですね。
善地という地名は結構普通にあるのでしょうか?
名古屋では聞いたことが無かったので浜松特有なのかと思っていました。
長野だけでなく群馬にも広げないといけないのかもですね。
それにしても長野の地名は「長野氏」から出てるようですか?
これは知らなかったです。
見てたのかも知れないですが記憶に残っていなかったです。
三重県の長野氏は知っていました。
歴史は難しいですね。
善地という地名がどこから来たのかも調べないといけないですね。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月21日 04時37分13秒 ) | パスワード |
そもそも「善地」の意味を探って来ました:
善地
読み方:ゼンチ(zenchi)
仙台藩で、村内第一の土地をいう。
******************************
善地
読み方:ゼンジ(zenji) ぜんじ、だったんですか?ここで驚いています
所在 静岡県浜松市
***********************
善地
読み方:ゼンチ(zenchi)
所在 徳島県阿波市
普通、ぜんち、って読むと思ってました。
意味は「そのエリアで1番良い場所」ですか。「そのエリアで」「その村で」というのがポイントなんですねえ。
[10] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月21日 13時22分19秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
箕輪という地名、箕輪城という城、たまたま二つ存在しており、混同して
しまいました。それは上伊那(信濃)と群馬にあり、善地はたまたま群馬の箕
郷町という所にありました。
善地という地名が信濃の箕輪だったら松島氏と関係づけられたのですが、
残念です。
いろいろすみませんでした。
永井氏と服部氏について調べていますが、時間不足で中途半端ではありま
すが、少し述べてみます。
永井氏にとっては、服部正信系も服部仲保次系も、また服部半蔵正成も同
じ伊賀服部氏族、服部党としての認識であったのではないかと推察します。
さて、服部と永井に共通してからむいくつかの事件がありました。
1.天正6〜7年 第一次天正伊賀の乱(1578〜1579)
2.天正7年 信次事件
3.天正8年 長田から永井への名前変更(当然家紋も変えた)
4.天正9年 第二次天正伊賀の乱
5.天正10年 本能寺の変
6. 〃 伊賀越え
これに対応する事象─
1.永井氏にも忍者がいた。百地系ではあるが、永井内膳等がいた。
2.長田直勝は最初信康に仕えた。半蔵も信康をかわいがっていた。
3.現在善地に居住する永井氏は2系統あって、長田と永井を示す2種類
の家紋を使用。また服部と同族となっている。
4.伊賀の忍者は殲滅させられた。生き延びた者はたくさん遠江にも逃れ
て来た。
5.打倒信長は共通認識となった。
6.伊賀越えで更に仲間意識が強くなった。
まだまだ服部と永井の間を結ぶ要因となる事象はたくさんあります。今後
発表したいと思います。また、忍者というものがどの程度使われていたかと
いうと、ほとんどの武将が忍者を雇っていたのではないか? これも重要な
テーマの一つであります。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月21日 21時15分36秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>箕輪という地名、箕輪城という城、たまたま二つ存在しており、
>混同してしまいました。
わたくしもずっと前のスレッドに松島氏を書いてた頃に混同しました。
>それは上伊那(信濃)と群馬にあり、善地はたまたま群馬の箕郷町という所にありました。
これはね、きっと、ずっとずっと前の時代に何かあったのですよ。
同じ人物 and/or 一族が移動か転勤したりして?
同じ地名をつけたのかな、とか思います。
やはり今の時代から遡るのは混乱しますね。
>善地という地名が信濃の箕輪だったら松島氏と関係づけられたのですが、
はい
わたくしも当時 伊那・佐久・箕輪 でそのように思いました。
でも、関係があったかも知れないし。無かったのかも知れないし。
人間は移動しますから、我々は翻弄されますね。
古代からなのか、中世からなのか、近代からなのか、
諏訪大社がらみなのか?
いろいろアチコチフラフラ見てたらその内に何か分かるかも知れないので
頭の片隅に置いておきましょう。
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月21日 21時43分52秒 ) | パスワード |
>永井氏にとっては、服部正信系も服部仲保次系も、また服部半蔵正成も
>同じ伊賀服部氏族、服部党としての認識であったのではないかと推察します。
でしょうね。
「伊賀」と「服部」がキイワードで。
一昨日から読んでいる 服部保長流は
ほのはやひの命の子孫で
允恭天皇の御世に織部司となって全国の織部を統括した服部連の子孫で伊賀国服部郷を領し
葛原親王の子孫で平氏の服部家長の子孫
だそうです。
へ〜
そ〜なんだ〜
>服部と永井に共通してからむいくつかの事件
1.天正6〜7年 第一次天正伊賀の乱(1578〜1579)
2.天正7年 信次事件 ← 徳川信康ですよね?
名前が似てるからこんがらがりますね
3.天正8年 長田から永井への名前変更(当然家紋も変えた)
家紋はいくつも持っていますから
その中の1つなんでしょうけど
何故それを選んだか?というのは謎々ですね
4.天正9年 第二次天正伊賀の乱
5.天正10年 本能寺の変
6. 〃 伊賀越え
>これに対応する事象─
1.永井氏にも忍者がいた。百地系ではあるが、永井内膳等がいた。
へえ〜
百地系ですか。
2.長田直勝は最初信康に仕えた。半蔵も信康をかわいがっていた。
3.現在善地に居住する永井氏は2系統あって、長田と永井を示す2種類の家紋を使用。
また服部と同族となっている。
幕閣になっていった永井氏と浜松に残った永井氏の、秘密を知りたいですね。
服部氏と同族になった理由も分かって来るかも知れないですね。
4.伊賀の忍者は殲滅させられた。生き延びた者はたくさん遠江にも逃れて来た。
でしょうね。遠江の服部中とか保長(半蔵)を頼って来たでしょうね。
5.打倒信長は共通認識となった。
6.伊賀越えで更に仲間意識が強くなった。
>まだまだ服部と永井の間を結ぶ要因となる事象はたくさんあります。
でしょうね。
>今後発表したいと思います。
楽しみにしております。
>また、忍者というものがどの程度使われていたかというと、ほとんどの武将が忍者を雇っていたのではないか?
もちろん、そうでしょうね。
戦いは「情報戦」ですものね。
講談などで派手に扱われた豪族や大名の忍者は名が残っているんでしょうけど
そうでない忍者はひっそりと姿を隠しているんでしょうね。
それが本来の忍者の姿ですから。
>これも重要なテーマの一つであります。
はい
[13] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月22日 12時04分28秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
忍者について調べていますが、忍者の定義ですが、忍者とはどんな能力
があり、何をどうする人なのか? どこからどこまでを忍者というのか?
戦国時代はどの大名も忍者を使っていた。武田、北条、今川、もちろん
徳川・・・その他多数。
毛利元就の配下に、世木(世鬼)氏という忍者部隊がいたそうです。今まで
聞いたこともない氏族なので非常に興味を持っています。何かわかりました
ら教えて下さい。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 12時44分09秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
NHKの木曜時代劇?の「ぼんくら」が本日から始まりました。
こちらでは火曜時代劇ですが。
与力?役の岸谷五郎の「井筒平四郎」の家紋が「丸に三つ柏」です。
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 12時50分13秒 ) | パスワード |
>毛利元就の配下の世木(世鬼)氏
http://www.rekishijin.jp/ninjya-blog/ninja-11/
毛利元就は世鬼氏を使って
尼子晴久を調略し尼子晴久の手で尼子国久を討ち取らせた、
だそうです。
詳しくは上記URLへ。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 12時58分35秒 ) | パスワード |
http://samuraiworld.web.fc2.com/motonarikiko-ninja.htm
元就は、あまりに常識人すぎる嫡男隆元に事あるたびに『謀多きは勝ち、少なきは負ける』というように、
策略の重要性について説いているが、
それは兵法に精通した元就からみれば、常識人隆元は、あまりにも頼りなく思えていたからである。
その元就の中国地方制覇を陰で支えていたものが、忍者(間者)の存在である。
元就が間者一族を抱えていたことは知られている。
その代表的な一族が世鬼一族である。
世鬼一族は、もともとは駿河の今川氏の末裔今川正信とされている。
これはビックリ!今川氏?
今川正信は、駿河から安芸国に移り住み、石見地方の豪族高橋家に仕えていた。
高橋家は、元就の兄興元の正室の実家にあたる。
兄興元が病死した後、嫡子幸松丸が2才で毛利家の家督を継いだ後は、
祖父にあたる高橋久光が後見役として何事につけ毛利家の家事に容喙してきた。
元就が毛利家の家督を継ぐやいなや、すぐさま高橋家を得意の謀略によって一族族滅にしている。
兄嫁の実家を元就が潰している?
これにもビックリ!
元就がワルだというのは知ってたけど。
世鬼一族が毛利元就の下に組み込まれたのは、この高橋一族の族滅後ということになろう。
高橋一族を滅ぼし、その領地を毛利氏のものにしたことは、元就の中国制覇へのきわめて重要な意味を持っている。
それは、当時の毛利氏と比較して、圧倒的に広大な領地を持っていた高橋氏の領地を獲得できたことで、
他の安芸国人衆から一歩抜きんでることができたこと、
もう一つが、戦術的に当時の第一級の忍者一族を獲得できたことである。
世鬼氏は、山名宗全にも呼ばれているほどの軍略の達人であったらしい。
また織田信秀にも仕えている。
織田にも?!
これにもビックリ!
世鬼という地名は、現在の広島県高田郡美土里町にはなく、
瀬木という地名があり、
ここがかつての世鬼であったと推定できる。
美土里町には、高橋氏の安芸国の拠点、高橋城や松尾城があり、安芸への最前線に世鬼一族は高橋氏から領地をもらっていたのであろう。
その任務に毛利氏の情報収集が含まれていたことは、世鬼一族の配置からして容易に推測できる。
元就は高橋氏を滅ぼし、それまで毛利氏の情報を収集していた世鬼一族を、逆に毛利氏のために利用することになったわけである。
因みに、元就が得意の調略によって、孫子の兵法を地で行くような実例を列挙しておく。
●尼子氏の藩屏で尼子氏最強の軍事力であった尼子国久率いる新宮党を、元就に内通しているうわさを当主晴久に信じこませて、尼子晴久に打たせた事件。
●陶晴賢の重臣で元就の戦法を知悉していた江良房栄を、元就に内通しているといううわさを信じ込ませて、陶の重臣弘中氏に岩国で打たせた事件。
●吉川家当主の興経を幽閉し、さらに興経に元就への謀反ありとのうわさを流させ、再々にわたる潔白を主張する興経父子を殺害した事件。
●月山富田城総攻撃の最中に尼子氏譜代家臣の宇山父子を元就に内通しているといううわさを勝久に信じこませて、勝久に打たせた事件。
以上有名な事件を挙げたが、
この事件は元就が中国制覇を達成していく中で、その後の趨勢を決定的づける事件である。
元就という人間の非凡さ、歴史を自己の意思へと引き寄せていく常識をはるかに越えた異常識さは、戦う前に勝つ、という徹底した兵法哲学にある。
そして元就の兵法を現実のものにしていったのは、世鬼一族のような間者たちの働きがあったからである。
画像は現在の美土里町の瀬木集落
その昔 元就に間者として仕えた一族世鬼氏ゆかりの地と考えられる 。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 13時04分14秒 ) | パスワード |
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-72.html
元就と忍び
元就と言えば、「孫子」の指南書通りの調略を用いてできるだけ犠牲を少なく、大敵に立ち向かう方法を取りました。
その時に欠かせないのが情報です。
戦国時代の諜報部隊と言えば、忍び。
いわゆる忍者で、甲賀者、伊賀者が有名です。
元就も忍びを雇っていたとされ、その数は25家とかなり多いです。
その中でも有名なのが世鬼(せき)一族です。
世鬼氏は元々、安芸の人間ではなく、
「駿河の今川政信が安芸へ渡り、高橋氏に仕えた後、元就に仕え、美土里町の世鬼に住んだため、世鬼と名乗った。
その子、正秋は忍びだが、合戦で討ち死、
正秋の子、政近は輝元に仕えた。」
(「毛利元就の人間学〜家康が学んだ遅咲きの人生〜」中江克己著)
そうです。
実はもう一説あり、
萩藩閥閲禄によると、
駿河今川氏出身なのは変わりませんが、
「応仁の乱、西軍の指導者山名宗全に世木政久が仕えていたが
文明元(1469)年、東軍・細川勝元の戦いで傷を負い、
高橋氏に招かれ、仕えた。
政久の子、政親は軍略により高橋氏から世鬼の地を与えられ、
世鬼と改名。
政親には子どもが二人おり、
兄の政棟は織田信長の父、信秀に仕え、
弟の政高が毛利家に仕えたとされている。」
両方とも「政」が通字で、高橋氏が滅んだ後に元就に仕えたようですが、
伝わる話を系図にすると別家になります。
上は出典はありませんが恐らく陰徳太平記だと思われるので、
2番目の萩藩閥閲禄のほうが、はるかに信ぴょう性が高いです。
これを裏付ける出来事として、
信長は元就の死を知り、元就の77日の法要に使者を送った。
ことが挙げられます。
↑
今で言う 49日 のことでしょうか?
信長といえば父・信秀の位牌に抹香の灰をぶちまけたり、
人の死にあまり重みを感じていないような事をしていますが、
天皇や幕府など払うべき敬意(?)はきちんと払っています。
この時、毛利氏とはまだ領土が接していませんでしたが、
外交上、西方を抑えておきたかったのだと思います。
ただ、毛利側に取ってみれば偉大すぎる当主の死
(といっても孫の輝元は覚悟していたと手紙で残しているので、
元就の死の1・2年前には実権は隆景に移っていた気もします。)
をできれば隠したいはずなのに、
なぜ信長が?
それも77忌という身内しか知らない法要を知っていたのか?
これは、世鬼政高が織田氏に仕えたのであれば問題が解決します。
よって、萩藩閥閲禄の方が信用できます。
ちなみに、この世鬼一族の末裔、世木騎六は、幕末に高杉晋作率いる奇兵隊に属し、斥候として戦ったようです。
よって、江戸時代も忍び衆として活躍を続けていた可能性もあります。
へえ〜
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 13時07分56秒 ) | パスワード |
http://ameblo.jp/miyajimax-hiroshima/entry-11453336998.html
世鬼の里 訪問記 です。
僕の師匠「世鬼衆忍者 頭領 世鬼 政時」の末裔の里
現在の広島県高田郡美土里町瀬木
まずは、文献探索ということで、毛利元就の城
郡山城のふもとにある
「安芸高田市歴史民族博物館」
http://www.akitakata.jp/hakubutsukan/
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 13時14分42秒 ) | パスワード |
http://takatoshi24.blogspot.com/2013/04/blog-post.html
戦国武将録
戦国忍衆人名辞典
【あ】
青蛙の藤左【あおがえるのとうざ(15??〜15??)】
武田家の忍衆。フランシスコ会宣教師ルイス・ソテーロの下で、情報収集や工作など手足となって働く。麻袋に入れた青蛙を常に持ち、それを常食とする事からこの名がついた。羽柴秀吉を謀殺しようとして捕まり、四肢の指を全て切り落された上追放され、しぶとく生残るも雇ってくれる者もなく、自殺しようとした所をソテーロに諭されキリシタンとなった。「影武者徳川家康」by隆慶一郎。
【せ】
世鬼政親【せきまさちか(15??〜15??)】
安芸国高田郡垣瀬郷の忍衆。毛利元就に仕えた。毛利元就は二十五人からなる世鬼家枝連衆を足軽衆として扶持し、領内の六カ所に分散させて住まわせていた。1523年、尼子経久が安芸国に侵入すると、毛利元就は尼子経久に属して、大内義興家臣蔵田房信が守る鏡山城を攻撃した。毛利元就は、世鬼政親を使って情報を集め、副将蔵田直信の謀略、策略、奸計を駆使して調略した。
世鬼政棟【せきまさむね(15??〜15??)】
世鬼政親の男。織田信秀に仕えた。
世鬼政時【せきまさとき(15??〜15??)】
世鬼政親の次男。1525年、毛利元就は、尼子政久と断絶し大内義興との旧盟に復した。1537年、尼子政久が討死して、尼子晴久が家督を相続すると、毛利元就は世鬼政時に仕える忍衆を使って、尼子家臣団の調略を開始した。尼子晴久と新宮党の尼子国久の対立すると、罪人を巡礼姿に変えさせ、偽の密書を忍ばせ尼子領内で殺させた。この密書が尼子晴久に渡り、それを信じて、尼子国久を謀殺した。これを指揮した世鬼政時が率いた忍衆だった。1563年、毛利元就は、戦いを繰り返しながら尼子方の将兵を寝返らせ、月山富田城を開城に追い込んだ。尼子晴久は毛利元就の策謀にのせられ、居城を失った。
世鬼政定【せきまささだ(15??〜15??)】
世鬼政時の男。世鬼政定、世鬼政矩のふたりは毛利輝元に忍衆として300石を領した。その後、市来佐渡守に嫁した世鬼政親の末娘が実家で生んだ世鬼政任の家が続き幕末に至った。
世鬼政矩【せきまさのり(15??〜15??)】
世鬼政時の次男。世鬼政定、世鬼政矩のふたりは毛利輝元に忍衆として300石を領した。その後、市来佐渡守に嫁した世鬼政親の末娘が実家で生んだ世鬼政任の家が続き幕末に至った。
その他
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 13時33分42秒 ) | パスワード |
渥美源吾【あつみげんご(15??〜15??)】
松平元康の忍衆。「徳川(松平)殿は良い人持ちよ 服部半蔵は鬼半蔵 渡辺半蔵は槍半蔵 渥美源吾は頸切り源吾」と称された。1600年「関ヶ原の役」では、先手の斥候に出た際に「今日の戦いには勝利する」と報告した。これに対し「第一、先方が見えないほどの深い霧なのに、何を根拠に必勝と申されるや」と反論されると、渥美源吾は「今日、もし敗軍となれば、一人も生きて帰ることはできません。目ききを咎める人もおりません」と答えた。
伊賀崎道順【いがさきどうじゅん(15??〜15??)】
柘植郷楯岡館主。通称孫兵太兵衛。別名楯岡ノ道順。伊賀豪族十二人衆のひとり。伊賀四十九流の祖。六角義賢の要請で、謀反を起こした佐和山城主百々内蔵助を、伊賀衆、甲賀衆の忍び四十八人を率いて攻撃した。伊賀崎道順は、百々内蔵助の家紋の入った提灯を用意し、家臣になりすまして城中に忍び込んで放火して落城に追い込んだ。
千賀地=服部=則直【ちがちのりただ(15??〜15??)】
伊賀国千賀地城々主。服部保元の男。通称半蔵。室は保田長宗の娘。伊賀国の上忍 服部保長は、松平元康に仕えたので、服部家枝連衆は岡崎城に移り住んだが、嫡男に服部保元を伊賀の地に残して伊賀忍者を統率させた。服部保長の家督を相続して千賀地則直を称した。
柘植清広【つげきよひろ(1542〜1631)】
柘植宗家の次男。通称三之丞。1581年「第二次天正伊賀の乱」が勃発した時、兄柘植宗能の指示で松平元康の麾下に属することを申し出たが、松平元康が織田信長と同盟関係にあった事から、三河国に移住して来るなら召抱える旨の返事を受けた。1582年、松平元康の「伊賀越え」では、枝連衆を率いて、信楽から伊勢白子への道を嚮導した。「加太越え」に及んでは、柘植一族が鹿伏兎一族と仲が悪いので暇を賜り、面体が知られておらず道を良く知る米地九左衛門政次が代わりを務めた。1600年「関ヶ原の役」では、鉄砲足軽隊20人を率いて参陣した。凱旋の時には近江国永原に召され、甲賀郡300石を領した。1603年、伏見の番を勤めた。1614年「大坂冬の陣」では御供に加わっていなかったのだが、松平正綱より伝えられ鉄砲を用いて参戦した。
百々百右衛門【どどひゃくえもん(15??〜1622)】
伊賀国の忍衆。1582年、松平元康の伊賀越えで警護に集まった伊賀衆200人のひとり。その戦功より尾張国鳴海城に召し出され、御切米16俵3人扶持を領し、服部正成の麾下に属した。1591年、松平元康の喰違での鷹狩に随行し永楽500文の地を拝領した。1622年、近江国水口城の御殿番を勤めた。
【は】
服部保長【はっとりやすなが(15??〜15??)】
阿拝郡服部城主。通称半蔵。別名千賀地半蔵。上忍三家のうち最大の勢力を誇った。伊賀国には、千賀地(服部)家、百地家、藤林家の三家があったがいずれも、伊賀国内をまとめることが出来る勢力が育たず、小豪族が乱立して、室町時代後期を迎えた。初め足利義晴に仕え北面武士に就任した。室町幕府に見切りをつけて、服部家を称して三河国に下った。後に松平清康、松平広忠、松平元康三代に仕えた。松平家も松平清康の代には大きく伸長したが「森山崩れ」を境に一気に衰退した。服部保長も松平家と共に今川義元の麾下に属した。
服部保俊【はっとりやすとし(15??〜1560)】
服部保長の男。松平元康に仕えた。1560年「桶狭間の戦い」の後、三宅右衛門大夫の高橋城攻めに参陣して討死した
服部保正【はっとりやすまさ(15??〜1573)】
服部保長の次男。通称源兵衛。1573年「三方ヶ原の戦い」で討死した。
服部正成【はっとりまさなり(1542〜1596)】
服部保長の六男。官途は石見守。通称半蔵。十六歳で初陣し、伊賀者六十余りを率いて、三河宇土城の夜討で戦功を挙げた。1579年、織田信長から松平信康が謀反の疑いにり自刃したさい介錯役として松平信康の許へ赴いたが、討つ事が出来ず、検死役の天方山城守通綱が代わって介錯した。1582年「本能寺の変」では、松平元康の「伊賀越え」を枝連衆を挙げて助けた戦功により松平元康の忍び頭となった。多数の忍び衆を抱えて諜報活動で活躍した。服部正成は忍者というより槍術に優れた侍大将として数々の戦功を挙げた。
服部正就【はっとりまさなり(1565〜1615)】
服部正成の男。官途は石見守。通称半蔵。室は松平定勝の娘(松尾姫)。服部正成の遺領の内5,000石を領して、寄騎衆七騎、伊賀同心200人を預かった。1604年、服部正就は、伊賀同心と諍いを起した。松平元康は、伊賀同心を大久保忠直、久永重勝、服部保正、加藤正次の馬廻衆四名に分属され、首謀者は処罰された。服部正就は閉門となり松平定勝に預けられた。1615年「大阪夏の陣」では、松平忠輝の属して参陣するが討死した。
服部正重【はっとりまさしげ(1580〜1652)】
服部正成の次男。官途は伊豆守。室は大久保長安の娘。服部正成の遺領の内3,000石を領した。1600年「 関ヶ原の役」での抜駆けの罪に問われたが、結城秀康の口添えで許された。その後、松平元康の命で 服部半蔵家の家督を相続した。大久保長安と交互に佐渡金山を統制した。1613年、大久保長安の病没後に金銀の不正蓄財が発覚して一族が処罰されると、服部正重は佐渡に居たが処罰を恐れ佐渡国を離れ、処罰を受け、村上義明に預けられた。
服部正信【はっとりまさのぶ(15??〜15??)】
服部家枝連衆。通称平蔵。室は青山忠教の娘。
服部正尚【はっとりまさなお(15??〜15??)】
服部正信の男。通称平太夫。戸塚忠春が討死後その室娶り、於愛(松平元康の側室(西郷局))を育てた。1582年「本能寺の変」が起こった情報をいち早く松平元康に知らせ「伊賀越え」に同行した。
服部忠頼【はっとりただより(1549〜1615)】
服部正信の次男(青山忠重の養子)。通称七右衛門。別名青山成重。室は恒岡常自の娘。1571年、の養子となり、青山平八郎と称した。1584年 、兄服部正尚の推挙により松平秀忠に仕えた。老中職となり10,000石を領した。1613年、大久保長安の三男青山成国 を養子に迎えていた為、大久保長安の病没後、下総国香取郡に蟄居し7,000石に減封された。1614年「大坂冬の陣」では、本多正信に従って出陣したが、蟄居中のため参陣することが出来なかった。
藤林保豊【ふじばやしやすとよ(15??〜15??)】
東湯船郷藤林館主。官途は長門守。別名藤林正保。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀国北部で甲賀に境を接する湯舟郷を領した。甲賀郡側にも多くの麾下の豪族衆がおり、伊賀国内、甲賀郡双方に影響力を持っていた。服部保長、百地泰光と並び伊賀国の三大上忍と称された。1581年「第二次天正伊賀の乱」では甲賀郡多羅尾氏と共に、織田信長に内通して、藤林家を家名を後世に残した。
百地泰光【ももちたんば(1512〜1581)】
百地清右衛門の男。官途は丹波守。別名百地三太夫。名張郡を勢力下に置く豪族衆で、伊賀忍者衆を束ねる上忍三人衆のひとり。織田信長は、織田信雄に命じて伊賀攻めを行わせた。1579年「第一次天正伊賀の乱」では、単独で侵攻した織田信雄勢を撃退した。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、織田信長が指揮を執り兵50,000余りで侵攻した。百地泰光は、柏原城に籠城して抵抗したが、衆寡敵せず織田信長勢の攻撃を受け討死した。
望月千代【もちづきちよ(15??〜15??)】 元祖「くの一」???
信濃国小県郡古御館主。佐久郡望月城主望月盛時の室。1561年「第四次川中島の戦」で、望月盛時が討死した後、武田晴信に仕えたという。甲斐、信濃の巫女の統帥を命じられた。孤児、捨て子などの少女を集め、彼女らに強い仲間意識と忠誠心、女であることを生かしての情報収集、色香で男を惑わす法を教えこんだ。そして諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませ、一人前になると各地に送り、知り得た情報を集め、有力な情報を武田晴信に伝えた。※「信玄狙撃」by新宮正春。
おふう【おふう(15??〜15??)】
松平元康の側妾於梶の方付の女忍。風魔小太郎の娘。甲斐の六郎の室。世良二郎三郎の命で風魔小太郎の下へ向かう甲斐六郎を案内し、その道中で契りを結び夫婦になった。二人の役目は陰ながら世良二郎三郎を守ること。おふうは六郎の背後を守って二人の息はまさにぴたりと合っていたが、妊娠で現場を離脱。七郎出産後、自ら養育するため甲斐六郎と別れ、里に残った。「影武者徳川家康」by隆慶一郎。
甲斐の飛助【かいのとびすけ(15??〜15??)】
武田家の忍衆。甲斐の六郎の大伯父。於梶の方麾下の忍衆で、大御所(世良二郎三郎)の警備を担当した。影武者徳川家康」by隆慶一郎。
甲斐の六郎【かいのろくろう(15??〜15??)】
島勝猛に仕えた忍衆。元は武田家の忍衆。1600年、島勝猛の命をうけ「関ヶ原の役」での戦いで、松平元康の本陣に侵入して、松平元康を謀殺した。その後は、世良二郎三郎に仕えて忍びの指揮を任された。本物と影武者の違いを爪を噛む癖から見極め、風魔小太郎の正体を見破るなど明晰な頭脳も兼ね備えていた。左腕を失ってからは、金縛りの術も使うようになった。「影武者徳川家康」by隆慶一郎。
神戸ノ小南【かんべのこなん(15??〜15??)】
伊賀国神戸郷の下忍。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され怖れられた。
城戸弥左衛門【きどやざえもん(15??〜15??)】
伊賀豪族衆。伊賀流忍衆の中忍。伊賀豪族十二人衆のひとり。別名音羽ノ城戸。火縄銃の名手で、他の忍者達の間でも恐れられた。1579年、膳所の街道筋で織田信長狙撃した。1581年、織田信長が伊賀平定の視察の折に、伊賀一ノ宮敢国神社で休息中に原田杢右衛門、服部甚右衛門と共に狙撃を試みるが失敗に終った。
杉原盛重【すぎはらもりしげ(1532〜1581)】
杉原理興家臣。杉原匡信の次男。官途は播磨守。室は毛利興元の娘。1557年、毛利元就の麾下に属した杉原理興が継嗣のないまま病没すると、杉原盛重はその勇猛ぶりが吉川元春に評価され、杉原理興の跡を継いで備後国神辺城主となり、備後忍衆の頭目として野武士、山賊、海賊、忍び崩れを召抱えた。忍衆では、徳岡久兵衛、安原神次郎、菊池肥前守、別所雅楽允の他に佐田彦四郎、佐田五郎、佐田小鼠の佐田三兄弟などを召抱えた。杉原盛重が出陣中、藤井皓玄が神辺城を攻略しが、すぐに鎮圧され藤井皓玄は自刃した。1564年、尼子家との戦いでは山中幸盛と戦い、伯耆国の行松正盛が病没するとその後家を娶らせ、西伯耆国の要衝である尾高城を領した。1569年、尼子家再興を目指す山中幸盛に尾高城を奪われることもあった。その後、杉原盛重は東伯耆の要衝八橋城を領した。1580年、南条宗勝の子で織田方に寝返った南条元続や、その弟小鴨元清の攻撃を受けるが撃退した。1581年、杉原盛重の病没後、家督を継いだ嫡男杉原元盛に次男杉原景盛が反発し、杉原景盛が杉原元盛を謀殺したが、毛利輝元は杉原景盛の相続を認めず所領は吉川元春によって没収された。
高羽左兵衛【たかば さへえ(15??〜15??)】
伊賀国上野郷の下忍。通称左四郎。別名上野ノ左。特に変装術に優れていたと言われ、忍者たちの間でもその存在が怖れられた。
高山ノ太郎四郎【たかのやまたろうしろう(15??〜15??)】
伊賀国の忍衆。別名笹蟹(甲山)太郎四郎。「万川集海」の記載された十一人の忍術衆のひとり。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され、怖れられた。
保田則宗【やすだのりむね(1569〜1614)】
千賀地則直の男。通称甚兵衛。室は桜井和泉守の娘。 1595年、紀伊国有田郡保田繁宗の家督を相続した。1606年、松平元康に仕えた。1610年、能の観世太夫黒雪が松平元康に追放され、高野山へ逃れてきた際には、黒雪の世話をした。
保田元則【やすだもとのり(1582〜1660)】
千賀地則直の三男(保田栄西の養子)。官途は采女。通称左助。別名藤堂采女。室は佐伯惟定の娘。兄保田則宗と共に伯父保田繁宗に養育された。羽柴秀長、羽柴秀俊に仕えた。その後は増田長盛に仕えた。1600年「関ヶ原の役」の敗北により浪人した。後に、藤堂高虎に仕え、新参でありながらも藤堂姓を与えられ枝連衆並の扱いで遇された。藤堂高虎が伊賀国主となってからは、伊賀国上野城代家老となった。藤堂高虎は、伊賀忍者の棟梁筋に生まれである保田元則に、新領地である伊賀国の郷士たちの懐柔に当らせた。忍者を含む伊賀の郷士たちは、藩士や無足人として藤堂家に召抱えられた。
山口光弘【やまぐちみつひろ(1563〜1647)】
多羅尾光俊の五男(山口長政の養子)。官途は主膳。通称藤左衛門。甲賀五十三家の多羅尾光俊の五男。三井寺観学院で修行中、織田信長の給仕に出たところを見出され、跡取の無い宇治田原山口城主山口長政の養子に入った。1582年、松平元康の「伊賀越え」では、山口城に迎え、多羅尾光俊のいる信楽小川城まで警護した。1583年、山口長政が伏見で病没後に起った「小牧、長久手の戦い」では、松平元康方に属した為、羽柴秀吉の怒りを買い山口城を没収され浪人した。山口城は、枝連衆の山口正弘が名跡を継ぎ入城したが、のち加賀国大聖寺城に移ったため廃城となった。
多羅尾光吉【たらおみつよし(15??〜15??)】
南近江国甲賀郡信楽小川城主。室は池田数正の娘。1487年、足利義尚は、六角高頼攻めた「長享の乱」で、観音寺城主六角高頼は甲賀郡に落延びた。六角高頼は、足利義尚の大軍を相手にはゲリラ戦を展開した。多羅尾光吉ら甲賀郡武士団は足利義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀郡五十三士と称された。多羅尾光吉と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は足利義尚方に属したため、多羅尾光吉は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って落延びた。1501年、近衛尚通は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾光吉は伊庭貞隆の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、信楽随一の領主として7,000石を領した。
多羅尾光俊【たらおみつとし(1514〜1609)】
多羅尾光吉の男。通称四郎右衛門。室は伊勢貞孝の養女。1568年、六角義賢が織田信長に観音寺城を追われると織田信長に属した。1582年「本能寺の変」では、長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て伊賀から三河国へと向かう松平元康を、小川城に迎えた。宇治田原城主山口長政の養子になっていた五男山口光広からの報せを受けた多羅尾光俊は、自身は病で床に臥していた為、嫡男多羅尾光太、三男多羅尾光雅らを向かわせ山田村で松平元康一行を出迎えた。山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の百五十余人をそへて松平元康を護衛、伊賀路を誘導する戦功を挙げた。 1582年、羽柴秀吉は浅野長政に山城国から信楽、伊賀に出て、柘植から加太越えに滝川一益の亀山城を攻めるよう命じた。織田信孝に属する多羅尾光俊は、四男多羅尾光量の拠る和束の別所城に攻め寄せた浅野長政勢を多羅尾光俊は夜襲で撃退した。浅野長政は、多羅尾光俊と和睦、多羅尾光俊は羽柴秀吉に属した。1586年、羽柴秀次に仕え、信楽を本領に、近江、伊賀、山城、大和で80,000石余を領した。
多羅尾光太【たらおみつもと(1552〜1647)】
多羅尾光俊の男。官途は左京進。通称久右衛門。室は竹内下総守の娘。後室は北条家臣山角豊前守の娘。1582年「本能寺の変」では、松平元康の「伊賀越え」を甲賀衆を率いて成功させた。その後、父多羅尾光俊と共に羽柴秀吉に仕えた。娘の於万は羽柴秀次に嫁いだ。1596年「羽柴秀次の事件」に連座し、改易に処され、領地信楽に蟄居した。松平元康に仕え200石を領した。1600年「関ヶ原の役」で戦功を挙げ甲賀郡で1,500石を領した。
多羅尾光雅【たらおみつのり(1555〜1636)】
多羅尾光俊の三男。通称久八郎。室は浅野長政の養女。
その他
[21] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月22日 23時59分39秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
いろいろお調べいただきありがとうございます。忍者が伊賀、甲賀だけでな
くいろいろあり、それぞれ役割を果たしていたということ。メジャーではなか
った忍者達にも、スポットライトを当ててもいいのではないかなというような
気もいたします。
帰宅後、私の持っている資料を見てみましたが、何と100以上の流派があ
るということがわかりました。
その中で特に気になった流派は、
1.永井流 伊勢に伝承
2.伊賀流その2 土佐山内家に服部正信はじめ服部氏。
3.義経流 越前松平家に伝承。他に義経流を称するものに服部治
部右衛門がいる。
です。永井流は永井氏と関係があるのか、正信は正尚の父のであるか正信なの
か。服部治部右衛門とはどういう人なのか・・・。
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月23日 08時07分52秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
2.伊賀流その2 土佐山内家に服部正信はじめ服部氏。
これですが
日本語のには出てないのですが中国語のには出てますね。
謎
アヤシイなと思う人物に下記の人がいます。
百々百右衛門【どどひゃくえもん(15??〜1622)】
伊賀国の忍衆。1582年、松平元康の伊賀越えで警護に集まった伊賀衆200人のひとり。その戦功より尾張国鳴海城に召し出され、御切米16俵3人扶持を領し、服部正成の麾下に属した。1591年、松平元康の喰違での鷹狩に随行し永楽500文の地を拝領した。1622年、近江国水口城の御殿番を勤めた。
この人がらみで下記の人物が浮かび上がるのですが。
レス2つとも同一人物です。
百々越前守安行 (どどえちぜんのかみやすゆき 1548〜1609)
百々越前守安行は山内一豊に従い土佐に入国、高知城築城の総奉行にして土佐藩家老をつとめた。
百々氏は室町時代の有力大名である京極氏の支流で、近江国犬上郡百々村(滋賀県彦根市)を拠点とする一族。 その嫡子である越前守安行は、はじめ織田信長に仕えるが、本能寺の変で信長が自刃すると、豊臣秀吉に従い山崎の戦いに参戦。 その後は岐阜城主織田秀信(1580〜1605)に家老として仕え、朝鮮出兵にも加わった。関ヶ原戦では秀信は三成方に付き、家康方の西上狙撃を受けて落城。 百々越前守はその中で主君秀信の助命を交渉、秀信を出家させて一命をつないだ。
戦後仕官先を失った百々越前守は、京都に隠棲するが、前田玄以らの仲介で一豊に仕えることとなり、その後一豊の元で実務担当者として能力を発揮した。
以下が同一人物です:
百々 綱家(どど つないえ、天文17年(1548年)? - 慶長14年(1609年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は安信、安行とも。越前守。
経歴[編集]
天文17年(1548年)頃に誕生したといわれる。 百々氏は、近江国犬上郡百々村に居を構えて百々氏を称し、浅井氏に属した。
姉川の戦いで浅井長政が織田信長に敗れた後は織田氏に仕え、中山道と北国街道の分岐点の摺針峠の関所を護る。天正10年(1582年)、本能寺の変において信長が横死すると羽柴秀吉に属し、山崎の戦いで軍功を上げる。その後、秀吉によって信長の嫡孫・三法師(織田秀信)の後見役を命じられ、後には家老をつとめた。この際、代官領と併せて1万1千石を領している。文禄元年(1592年)、文禄の役の際には、秀信の名代として兵6000を率いて朝鮮へ渡海している。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成ら西軍に与した秀信に対して徳川家康ら東軍に与するよう諫言したが、聞き入れられなかった。米野の戦いでは、飯沼長資や津田藤左衛門らとともに兵2500を率いて東軍1万8千を相手に奮戦するが、やがて劣勢に陥って殿軍を務め撤退し、岐阜城籠城の方針を決めるも、福島正則の言に従って降伏する。秀信は高野山に流され、綱家は京都で蟄居を命じられた。
関ヶ原の戦後は浪人したが、土佐藩主山内一豊により百々に対する家康の赦免状が許可され、7000石の築城奉行として土佐山内氏に仕えた。綱家は築城の名手であり、近江坂本の石工集団「穴太衆」の技術力を駆使して高知城の築城に携わり、慶長6年(1601年)には江戸城の石垣修復にも参画している。しかし、慶長14年(1609年)に高知城築城の総奉行を務めていた途上で、丹波篠山城の石垣普請に参画するため兵2000を引きいて赴くが、心労が重なって病にたおれる。京にて静養したが、病死した。享年63。
子孫は代々山内氏に仕える。なお、幕末の土佐藩参政吉田東洋の父・光四郎正清は、百々家から吉田家へ養子入りしている。
築城の名手[編集]
江戸時代末期に岡田文圓が表した「新撰美濃誌」には、「岐阜中納言秀信の家臣百々越前守、ここに居りしゆえ、名字を百々と称しけるとぞ」と書かれたりしている。また昨今の「地名事典」の中には、岐阜市の最高峰の「百々ヶ峰の名は、越前守の居城があったから」とか書いているのもあるが、築城の名手であったことから、そんな話が生まれたのかも知れない。また「岐阜城落城後の越前守は行方不明」と書いている事典もあるが、「築城の名手」として高知城・江戸城・篠山城の築城に当たっている。そうした技術を持っていたが故、本能寺の変の前に安土城の築城等にも関わっていたものと思われる。[要出典]因みに安土城には百々橋なる橋があった。
下記は中国語サイトですが
https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%AE%B6+%E5%BF%8D%E8%80%85%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3%E4%BF%A1%E3%80%80%E3%81%AF
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www.sanada.net.cn/bbs/viewthread.php?action...tid...
Oct 31, 2004 - 伊贺流忍者的特色据说是个人能力要大大强于集团综合能力,擅长使用火术和 ... 伊贺流(土佐分支)[/B] 土佐山内家服部氏分支,流祖为服部正信。
ね?
[01-21] 忍者动画闲话斋- -动漫地带- KOFIA 论坛KOFIA ...
www.kofia.info/showtopic-6078.aspx
自己很快会来更新的说。相关地址火影忍者291(转帖)http://forum.kofia.info/cn/ ... 土佐山内家服部氏分支,流祖为服部正信。 7.一全流 近松彦之进茂 ...
忍术相关文献及参考图书一览- 『 中日文化交流』 - 咖啡日语论坛
coffeejp.com › 咖啡日语论坛 › 论坛
主要由6部分构成,分别为1/忍术的起源与发祥;2/忍者的精神纲领;3/方法论;4/阳忍 ..... 伊贺流(土佐分支) 土佐山内家服部氏分支,流祖为服部正信。
日本忍者_忍者吧_百度贴吧
tieba.baidu.com/p/806891573
甲贺忍者是不以正统武艺去对付敌人,自战国初期以来,甲贺忍者在忍术上就比伊贺忍者要高一著,甲贺忍者向来就不学习 ...... 土佐山内家服部氏分支,流祖为服部正信。
[转帖] 忍术相关(页1) - 忍术入门馆- 忍者中国会员社区忍者 ...
www.ninja.cn › 忍者中国会员社区 › 忍术入门馆
Sep 8, 2006 - 伊贺流(土佐分支)<br/><br/>土佐山内家服部氏分支,流祖为服部正信。<br/><br/>7.一全流<br/><br/>近松彦之进茂矩开创的流派,茂矩曾师从伊贺 ...
ま、中国語サイトには行かない方が身のためと思います。
笑
彼らは何を語り合ってるんでしょうね?
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月23日 08時13分55秒 ) | パスワード |
出掛けます。
3.服部治部右衛門
https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B2%BB%E9%83%A8%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E3%80%80%E3%81%AF
全国の忍術流派 (平成20年4月改定 神道軍傳研修所編)
www.eonet.ne.jp/~bankeshinobi/ryugi.html
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西法院武安流, 村田太郎右衛門重家, 武者捕の内, 仙台藩, 佐藤某, 詳細不明. 西法院流, 同上, 同上 .... 服部流,
服部治部右衛門, ココ
伊賀流の内. 藤林流, 藤林長門守保豊 ...
武藤文庫 全文閲覧可能資料 - 長崎大学附属図書館
www.lb.nagasaki-u.ac.jp/.../eturan...
Nagasaki University 長崎大学?
ココ
↓
豊後国大分・速見郡亥御成箇郷帳, 天保十亥年十二月, 御名家来服部治部右衛門・天野弥籐次, 御勘定所, 竪帳, 74丁, 26.3×19.2, 小口書に「天保十亥年几帳」と有。
[24] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月23日 12時13分03秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本当に歴史は化石の宝庫ですね。掘れば必ず目新しい化石(情報)が出てく
る。もっとも取り出す能力がなければできませんが。あを様の能力は本当に
スゴイと思います。私では疑問や謎のタネは拾えても、その回答的情報を取
り出す能力がない。あを様は私にとっては正に万能の救いの神様であります。
忍者の話は通常はすべて証拠を残さないのが鉄則ですから、記録が残ると
いうのは本当は忍者側のやることではないですね。記録が残るというのは、
上忍以下を使っていた武将や殿様関係者が記録を残したということではない
か。服部半蔵正成・正就は武将であったので、客観的な記録はある程度残さ
れている。それでも正成についても謎のヴェールにつつまれている。
私は旧浜松城の中にある会社に勤めているが、そこは城のなかの武士の屋
敷となっているが、具体的に誰が泊まった、住んだという情報は今のところ
一切拾えていない。
正成がどこに住んでいたのか非常に興味を持っている。正尚については、
当初掛塚・掛川に住んでいたということはわかっている。中保次系や正信系
もあを様のお陰でだいたいわかってきた。正成は浜松城内に住んだのか、
城外にすんだのか、何か手がかりがほしいものである。
正成の幼少の頃の名前は何と言ったのだろうか。ある本には「小源太」と
なっていたが本当だろうか。伊賀越えで松下小源太光綱という人がいたが、
これは関係ない・・・。
正成の本当の姿(容姿・頭脳)を知りたいです。母親は美人だったようです
が・・・。頭も他の兄弟と比べて格段良かったのではないか・・・。
私は、歴史がひっくり反る秘密がひょっとして半蔵正成を中心に隠されて
いる可能性があると個人的には思っています。ロマンの見過ぎといえばそう
かも知れませんが・・・。
今川、人質、信長、築山秀次、信康、本能寺、朝鮮、光秀、伊賀越え、冬
・夏の陣、関ヶ原、天海、長安・・・激動の時代であり、バックに意志決定
に関する相当の人がいたのではないかと思って探求しています。
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月23日 14時04分55秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
帰宅しました。
もうすぐ寝ますので
また明日にでもいろいろ上記のわたくしの書き込みを整理します。
>私は旧浜松城の中にある会社に勤めているが、そこは城のなかの武士の屋
敷となっているが、
>具体的に誰が泊まった、住んだという情報は今のところ一切拾えていない。
もちろん、そういう、記録はちゃんと有りますよ。
お城の中にそういう係がいる筈です。
市によってはたまに公開したり
昔の家臣の子孫には優先的に見せたり
いろいろありますから浜松でもやってると思います。
ただ、常時の公開じゃないと思います。
ネットで出している所もあるとは思いますが浜松は全く調べたことも無いです。
名古屋は旧家臣の子孫が見られるように新聞に出ます。
やはり教育委員会の歴史編纂課かお城のそういう係か
県立図書館・市立図書館でお尋ねになったら良いと思います。
国会図書館だったら持ってるかもですね。
ネットで捜せるかな?
それに教育委員会の歴史編纂の所でしたら郷土の歴史家を紹介してくださいますよ。
某国立大学の教授達を紹介されて戸惑ったこともあります。
いやあ、そこまでの脳が無いので、と遠慮したこともあります
その方達はとてもご親切だったんですが。
とにかくご紹介頂いたら良いのにと思います。
もう少しいろいろな情報を集めてからが良いと思いますし
ライフワークでもっと将来時間が出来てからでも良いし。
今はお仕事がお有りですから落ち着きませんものね。
>正成がどこに住んでいたのか非常に興味を持っている。
>正尚については、 当初掛塚・掛川に住んでいたということはわかっている。>中保次系や正信系もあを様のお陰でだいたいわかってきた。正成は浜松城内に住んだのか、
>城外にすんだのか、何か手がかりがほしいものである。
服部半蔵正成は三河生まれで浜松にいたのでしょうけど
結局は江戸に行ってますから
お寺を建ててますものね、麹町の西念寺。ここが江戸の服部家の菩提寺で
保長の子孫達も初めのころはこのお寺に葬ってて
後に 西迎寺 に変わっています。
半蔵は半蔵門の向いに住んでたって話がどこかにありました。
半蔵が住んでた家の向かいにあった門だから「半蔵門」と名付けられた、と。
部下達は甲州街道沿いに住んでたって。
天正18年(1590年)の小田原征伐で家康に従軍した。
その功により遠江に8000石を知行した。
↑
どこでしょうね。
でも教育委員会の歴史編纂課だったらご存知だと思います。
幼名は 半蔵の小説を読めば出てると思いますから
戸部新十郎の作品の「服部半蔵」をお求めになれば、
いろいろな三つ柏さんがお知りになりたい情報が出てると思います。
幼名や采地なんか。
当然浜松でどこに住んでたかも書かれているはずです。
この戸部新十郎という人は先祖は名古屋の人じゃないかなと思っています。
尾張のことをとても良くご存知ですから。
それか編集者が集めて来た参考文献が優れているんでしょうね。
半蔵は 6男だったという情報もありますし4男だったという情報もありますし
つまり兄達が2人は幼くして亡くなっているのかも。
寛政重修諸家譜では保長の子達は3人しか出てないですが。
XVII で書いたように長男と次男は討ち死に。
ということで戸部新十郎の「服部半蔵」は是非お求めを。
「小源太」の意味は前にも書きましたが
父が源太だったから、その倅ということで小源太と呼ばれたのかも知れないし
長兄が源太だったけど、亡くなって、その名を継いだということで小源太になったのかも知れないし
久し振りに出来た子だから、小源太になったのかも知れないし。
半蔵の幼名は小源太ではなかったということであって欲しいです。
源太では姓が源氏で最初の男子という意味ですから
「平家の服部家長」の子孫を標榜するには 源太 じゃマズイ。
だけど南朝方で、宗良親王に従って、いず良親王+良王君の時に源姓を賜ったから
それで「源氏」を称して源太なのか?
父が足利将軍に仕えたから 源太 を使ってた?
主人の家康が源氏だから
(ちょうど梶原景時が源頼朝にゴマ摺って自分の息子を源太と呼んだように)
服部家も 源太 を使った?
と、いろいろ考えます。
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月23日 14時23分16秒 ) | パスワード |
戸部新十郎の作品:
「多岐流太郎」時代[編集]
春陽堂などで二百編に及ぶ作品を発表したが、上述の通り「戸部新十郎」の本名で活動を始めたときに、「妖説五三ノ桐」以外は残す価値がないとして、「妖説五三ノ桐」以外の作品の原稿を全てを廃棄した。
なお、戸部の死後、「多岐流太郎」時代の作品「忍法新撰組」を掲載した雑誌の切り抜きが戸部の書斎より発見され、光文社文庫より発行された。
この他の「多岐流太郎」名で現存している作品には「怪奇・伝奇時代小説選集 1」(春陽堂書店)収録の「幻法ダビデの星」がある。
作品リスト[編集]
長編[編集]
妖説五三ノ桐
安見隠岐の罪状
服部半蔵
蜂須賀小六
伊東一刀斎
前田利家
総司はひとり
徳川秀忠
風盗
北辰の旗
西海水滸伝
松永弾正
前田太平記
前田利常
忍法新選組
短編集[編集]
最後の刺客
鬼剣
伊賀組始末
伊賀組同心
秘曲
総司残英抄
寒山剣
野望の峠
秘剣 水鏡
秘剣 花車
秘剣 龍牙
秘剣 埋火
秘剣 虎乱
幻剣 蜻蛉
エッセイ・解説本[編集]
日本剣豪譚・戦国編
日本剣豪譚・江戸編
日本剣豪譚・幕末編
日本剣豪譚・維新編
明治剣客伝・日本剣豪譚
戦国史譚 徳川家康
戦国興亡武将たちの進退
戦国武将の本領
乱世の武将 秘伝の処世術
歴史の風影 武将・豪傑・剣士
信長の合戦 八つの戦いで読む知謀と戦略
戦国夢幻 織田信長
秀吉・見果てぬ夢
蜂須賀小六伝
考証 宮本武蔵
二十五人の剣豪 宮本武蔵から近藤勇まで
剣士の名言
剣は語る 己を乱す迷いに克つ、25の剣跡
加賀風雲録
前田利家 十五ヵ条の訓え
戦国の異能人
忍者の謎 戦国影の軍団の真実
忍者と忍術
忍者の履歴書
忍者と盗賊
大江戸裁判事情
侠客
日本異譚太平記
秘伝兵法二十七番
兵法秘伝考
海外雄飛の群像
北方領土物語
戸部新十郎とか多岐流太郎とかの名前でピンと来ました。
きっと北尾張の「滝」一族の出身者かな?
現代で言うと「たきひょう」「たきさだ」とかいう老舗繊維会社がありますでしょ?
これは「滝一族」です。
北尾張の有名進学校に「滝」というのもあります。
昔は実業学校でしたが
今は北尾張の超有名進学校です。
わたくしは名古屋人なので北尾張のことは全く知りませんが。
だいたい北尾張は北朝方の本拠地ですしね。
滝兵:
1751年(宝暦元年)現在の愛知県江南市で京呉服・絹織物卸売商「絹屋兵衛門」を創業。
↑
もろに北朝方の本拠地(妙興寺)
滝定:
1864年(元治元年)創業の老舗繊維商社
[27] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月23日 22時57分36秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
あを様より戸部新十郎のご紹介を受け、帰宅後にあらためて調べてみると
戸部氏の著作は5冊持っておりました。
解説もの:『忍者の履歴書』、『忍者・戦国影の軍団』、『忍者の謎』
小説もの:『伊賀者始末』、『忍法新選組』
しかしながら、あを様ご紹介のように戸部氏の著作はそんなにも沢山あった
のですね。知りませんでした。ありがとうございました。またひとつ発見です。
さっそく、『服部半蔵』をネットで注文いたしました。小説は全体のイメージ
をつかむのにはいいと思います。知識だけでは、断片的でイメージ不足でもの
とものがつながらない。小説は一応は想像の産物という点、論理に使うのには
不向きでありますが、中にはちゃんと時代考証や事実に基づいて書かれている
ものもあるかも知れません。それは作者によりますが、戸部さんの場合はかな
りしっかり把握されていると思われます。従って小説の中のイメージ等、今後
大いに参考にさせていただこうと思います。
せっかく浜松という場所で、しかも時代さえ違わなければ家康・半蔵・秀忠
・正成のすぐ側にいるわけですので、何とか詳しい実態を知りたい・・・これ
が私の強い願いであります。先週の事、浜松城の発掘調査で今まで知られてい
なかった堀の跡が見つかりました。発掘調査によってもいろいろな秘密がわか
って来ると思います。その内、脱出用のトンネルが見つかるのではないかと思
っています。
さて、寺林峻という作家の書いた小説本『服部半蔵』(今まで読む気になか
なかなれなかった)をあらためてペラペラと読んでみると、不思議な事に、浜
松城の築城と半蔵の岡崎から浜松への移転について書かれているところがあり
ました。それには半蔵は浜松城の真南の諏訪神社の北側に屋敷を得たと書かれ
ていました。この作家も結構事実関係に基づいて小説を構築されているので、
ある程度信憑性があるものと思われます。今でいう元城町か元目町かという所
のようです。大いなる進歩。これもあを様のおかげです。
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 02時24分09秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>寺林峻という作家の書いた小説本『服部半蔵』(今まで読む気になかなかなれなかった)
これはやはり「時期が来てなかった」ということでしょうね。
購入なさった時に読んでも記憶にとどまらなかったと思います。
時期が来て読めば、おおそうか!そうか!、と納得するのにね。
>不思議な事に、浜松城の築城と半蔵の岡崎から浜松への移転について書かれているところがありました。
>半蔵は浜松城の真南の諏訪神社の北側に屋敷を得たと書かれていました
諏訪神社!!!
松島家はこの時代に服部家と御縁が出来たのかも、ですね。
これはスゴイ収穫だったかも。
>今でいう元城町か元目町かという所のようです
浜松の古地図が手に入ると良いですね。
その当時、諏訪大社はどこにあったか。
そこから半蔵の屋敷が特定出来るかも。
わたくしには 諏訪大社 → 松島家 が来ました。
お寺とか神社とか、諜報活動にはピッタリですよ。
特に諏訪大社なんて日本全国で知られていますから動き易かったのかな?と。
服部家と松島家のそもそもの交流が分かりそうかも!
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 02時42分23秒 ) | パスワード |
そうそう、浜松の江戸時代の情報は、教育委員会にとっても整理が難しいかもですね。
なにせ、浜松藩というより幕府の直轄領やいろいろな藩の飛び地が混在してましたから。
尾張藩のようにバッチリギッチリ幕末まで1つの藩だったところは整理が簡単だったでしょうね。
そうか・・・
教育委員会にはあんまり期待出来ないかもですね。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 03時50分38秒 ) | パスワード |
書き直し:
やっぱり持ってました。
4と5、それに9と10が欠番でした。
笑
第1巻のそうそうに「高羽左兵衛」が出てました。
レス<20>に出ています。
高羽左兵衛【たかば さへえ(15??〜15??)】
伊賀国上野郷の下忍。通称左四郎。別名上野ノ左。
特に変装術に優れていたと言われ、忍者たちの間でもその存在が怖れられた。
付箋がたくさん貼ってあるので、わたくしは読んでたようなんですが、
全く記憶に残ってませんでした。
第1巻の42ページに保長の子供達の名がでています。
子供が何人もいて
市兵衛保俊
源兵衛保正
勘太夫
久太夫
44−45ページに
5番目の子の名が 「梅の木」 という名で出ています。
観阿弥の祖という「杉の木」になぞらえたらしい、と。
「秘蔵の花」という意味で。
家康と同じ年令、とされています。
天文11年(1542)生まれ。
ただし家康は12月26日生まれということで
家康の方が少々年下です。
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 04時00分37秒 ) | パスワード |
速見郡亥御成箇郷帳, 天保十亥年十二月, 御名家来服部治部右衛門について
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/muto/eturan/
No.33
/政治・行政- 諸藩
豊後国大分・速見郡亥御成箇郷帳 天保十亥年十二月 御名家来服部治部右衛門・天野弥籐次 御勘定所 竪帳 74丁 26.3×19.2 小口書に「天保十亥年几帳」と有。先頭頁に武藤印有。 34
その1http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/muto/eturan/034_1.pdf
出ないです
その2 http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/muto/eturan/034_2.pdf
これも出ないです
最近アクロバットとかjavaとか出ないのです。謎
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 04時05分27秒 ) | パスワード |
https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/sites/default/files/hosei.txt
九州大学の史料
こんな感じ 笑 よっぽど相性が悪いのか?見せなきゃと思ってるけど本心は見せたくないのか?
↓
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7,���B���w,���n�����}����,�@���j��,Aj 20-S-39,�����b,����13
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 04時38分12秒 ) | パスワード |
<23>
神道軍傳研修所編に出てる 服部流 服部治部右衛門 について
http://www.eonet.ne.jp/~bankeshinobi/ryugi.html
青森 津軽家には早道之者が在った。
甲賀流 服部長門守康成 津軽藩家老1千石
はい?
宮城県
甲賀流・伊賀流 横田備中守高松 伊賀・甲賀系 仙台藩
伊達家には黒脛巾組が在った。
↑
黒はばきって有名ですよね
岩手県
南部家には間盗役が在った。
新潟県
上杉家には夜盗組が在った。
すごいネーミング(呆)
山梨県
武田家には出抜が在った。
相手を出し抜く?
長野県
戸隠流 平安期の、仁科大助なる人物が祖という。 高松壽嗣氏の説か。
芥川流 芥川九郎右衛門義綱 甲賀流の内 松本藩
伊藤流 伊藤兵部太夫忠縄 飯綱神社千日太夫家 飯綱山修験系 松本藩
栃木県
松元流 松元六右衛門 甲賀木村家系
東京 徳川幕府には甲賀組・伊賀組・根来組の鉄砲組や、御庭番が在った。
森流 幕府隠密森組
忠孝心貫流 平山行蔵潜 実用流武術の内
北条流 北条安房守氏長 軍法の内 甲州流兵法の系
山鹿流 山鹿素行高歩 軍法の内 甲州流兵法の系
茨城県
神道流 飯篠山城守家直
松田流 松田一楽斎秀任 甲州流兵法の系 水戸藩
昔アメリカで日本のドラマの字幕が「乱波」=トランペットになってて笑いました
神奈川県 後北條家には乱波の風摩が在った。
伊豆流 風間小太郎 北條家
北条流 同上 同上 北條家
静岡
無極量情流 浅見政太夫忠勝
秋葉流 秋葉山修験系 尾張藩 尾張徳川家には甲賀之者が在った。
愛知 尾張徳川家には甲賀之者が在った
一全流 近松彦之進茂矩 全流錬兵伝の内 伊賀・甲賀系 尾張藩
全流 徳川吉通 同上 伊賀・甲賀系 尾張藩
甲賀流 伴上野家・木村家 尾張藩
自知流 木村奥之助康敬 砲術の内 甲賀系 尾張藩
南木流 東海由比翁正雪 兵法の内 尾張藩
伊賀流 竹之下平学頼英 尾張藩
伊賀流 滝野半九郎定勝 尾張藩
滝野流 同上 伊賀流の内 尾張藩
当流 同上 同上 尾張藩
三重県 すごい!多過ぎ! コピペしたくない!
三重県の特産なのか?
戦国大名家や江戸諸藩には、伊賀衆・伊賀者・伊賀侍・忍び等々と称される者が在った。
最上家の伊賀衆や伊賀藩、徳島藩等の伊賀者や彦根藩の伊賀徒士等々である。
伊賀流 伊賀国の忍術の総称で伝系は種々あり。伊賀郷士に伝承し各地に伝播。家名を流名とする場合がある
伊賀崎流 伊賀崎弥平太兵衛 伊賀流の内
大井流 大井孫太夫 伊賀流の内
内川流 内川半助 伊賀流の内
高山流 高山四郎右衛門 伊賀流の内
上月流 上月佐助 伊賀流の内
沢流 伊賀流の内
滝流 滝不雪 甲賀・伊賀流の内
柘植流 柘植三之丞清広 伊賀流の内 鉄砲術
辻一務流 辻一務 甲賀・伊賀流の内
服部流 服部治部右衛門 伊賀流の内 ココ
藤林流 藤林長門守保豊 伊賀流の内
百地流 百地丹波守泰光 伊賀流の内
荒木流 伊賀流の内 荒木は服部だって言うけど
北村流 伊賀流の内
友田流 伊賀流の内
太田流 伊賀流の内
上柘植氏流 伊賀流の内
義盛流 伊勢三郎義盛 伊賀流の内 義経の家来だった人物ですね
曾我流 伊賀流の内
内山流
永井流 永井流ですね
このことでしょうか?
ここで一応アップ
落ちたらイヤなので。
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 04時59分47秒 ) | パスワード |
長野の欄にヒバリさんの伊賀流服部忍術が無かったですね。
京都
三刀流 佐々木○宗
小笠原流 小笠原大膳太夫頼氏(氏隆) 軍法の内
氏隆流 同上 軍法の内
山崎流
兵庫(京都)
村雲流 丹波国村雲荘の忍術の総称。丹波郷士村雲党(桑田党)に伝承 三木家 波多野家
波多野流 同上 三木家 波多野家
滋賀 ここも三重県同様うんざりするほど多い!
戦国大名家や江戸諸藩には、甲賀衆・甲賀者・甲賀侍・忍び等々と称される者が在った。
岸和田藩の甲賀組、高槻藩、会津藩等の甲賀の者等々である。
甲賀流 近江国甲賀郡の忍術の総称で伝系は種々あり。主に甲賀古士五十三家に伝承し各地に伝播。家名を流名とする場合がある。
蒲生流 甲賀系 蒲生家
甲陽軍鑑的統流 前原筑前守信行 甲州流兵法の系
頓宮流 頓宮四方之介利盛 甲賀流の内 北山九家の内
山中流 山中山城守長俊 甲賀流の内 柏木三家の内
森川理極流 森川理極高政 甲賀流の内
理極流 同上 同上
野間流 野間平左衛門重直 甲賀流の内
郷家流 美濃部東太郎忠次 甲賀流の内 柏木三家の内 岸和田藩
大伴流 伴太郎 甲賀流の内
伴流 伴播磨守 甲賀流の内 柏木三家の内
木村流 木村石見守 甲賀流の内
上野流 上野主膳正 甲賀流の内 南山六家の内
和田流 和田伊賀守惟政 甲賀流の内 南山六家の内
甲賀流和田派 同上 同上 同上 藤田西湖(勇) 詳細不明
忍一流 甲賀流の内
大野流 大野宮内少輔 甲賀流の内 北山九家の内
青木流 青木筑後守 甲賀流の内
鵜飼流 鵜飼源八郎 甲賀流の内 荘内三家の内
笹山流 笹山監物 甲賀流の内
望月流 望月出雲守 甲賀流の内 北山九家の内 このあたり有名ですね
芥川流 芥川左京亮 甲賀流の内 北山九家の内
多羅尾流 多羅尾四郎兵衛光弘 甲賀流の内 多羅尾さんは超有名だし
喜多流 喜多兵官 甲賀流の内 中興を中辻左門とする。 江戸期には禁裏に勤仕という。
神伝不動流 水月翁了心 甲賀山伏の武術の内 高松壽嗣氏の伝系とは異なる。
如水流 甲賀太郎吉弘 三河・近江伴党の武術の内
破軍流 森知海之助 武術の内 甲賀系
氏隆流 小笠原宮内大輔氏隆 軍法の内 小笠原流軍法の系 彦根藩
岐阜県
大垣流
美濃流
富山
四身多久間見日流 足立平陸正保 武術の内 富山藩
石川県 前田家には偸組が在った。
↑
北朝鮮の「喜び組」みたい。
越前流 伊賀系 加賀藩
三島党 越前穴馬の土豪 加賀藩
無拍子流 二木新十郎政長 武術の内 加賀藩
福井県 松平家には武具掛の下に忍之衆が在った。
義経流 源義経 軍法の内 伊賀・小笠原系 福井藩
和歌山県 紀州徳川家には伊賀者、根来同心があった。
紀州流 紀州徳川家には伊賀者、根来同心があった。
新楠流 名取三十郎正澄 兵法の内 楠流系 紀州藩
名取流 名取与市之丞正俊 同上 甲州流系 紀州藩
雑賀流 鈴木孫一 砲術の内 雑賀衆 超有名
根来流 杉之坊明算 砲術の内 根来寺
根来電光流 根来電光
名映流
九鬼神流 薬師丸蔵人隆眞 九鬼宗門の内 熊野修験系 高松壽嗣氏編の資料に、忍術の記載が有るという。
奈良
楠流 楠河内守正成 兵法の内
楠木流 同上 同上 楠正成を祖と仮託し、異名を含め各地に軍法の内として伝播
九州流 志賀下野守秀等 本心流剣術の内 甲賀系
飛鳥流 高松壽嗣氏の説か。 高松壽嗣氏編の資料に、忍術の記載が有るという。
秀郷流
鳥取
出雲神流 秋篠刑部左衛門督清成 平法の内 山名家
武蔵円明流 岡本勘兵衛正誼 武術の内 鳥取藩
島根 島根なら古くからのが有りそうなのに
伊賀流 河井浄演
岡山県
備前流 香取兵左衛門忠宗 神道流剣術の系 伊賀系 岡山藩
上泉流 上泉伊勢守信綱 新陰流剣術の内 小笠原流軍法系 岡山藩
広島
福島流 野尻次郎右衛門成正 引光流と同系 広島藩
引光流 熊坂長範 引光但馬守 藤井幸右衛門 広島藩
山口
世鬼家 長州藩 毛利家には忍の兵が在った。 世鬼 出ましたね
ここでアップ
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 05時06分23秒 ) | パスワード |
高知
三雲流 三雲新右衛門 軍貝の内 伊賀・甲賀系 土佐藩
ここで服部正信が出ました!
伊賀流 服部武左衛門正信 三雲流・藤林流軍貝の内 伊賀・甲賀系 土佐藩
福岡県
黒田流 甲賀系 筑前藩 松尾剣風(廣) 詳細不明
伊賀流 服部半蔵 前川守 詳細不明
北原家 柳河藩 立花家には秘密役が在ったという。
↑
そのものスバリ
熊本県
大江流 小笠原大膳太夫頼氏 小笠原流軍法の系 熊本藩
八幡流 小笠原大膳太夫頼氏 小笠原流軍法の系 熊本藩
長崎
南蛮流 火術の内
鹿児島県
兵道 島津忠国 兵法の内 伊集院修験系という 薩摩藩
鞍馬揚心流 塩田甚太夫 武術の内 薩摩藩
塩田揚心流 同上 武術の内
ここでアップ 土佐で 服部正信 がでましたね。意外でした。
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 05時19分33秒 ) | パスワード |
その他
愛洲移香流 愛洲移香斎久忠 陰流剣術の内
上泉流 上泉伊勢守信綱 軍法の内 小笠原流軍法系
一佐流 莪桂仙 武術の内 佐々木盛綱を中興祖とする。
雲隠流 伊賀平内左衛門家長 高松壽嗣氏の説か。 高松壽嗣 初見良昭
が祖という。
現実流 白雲流系という。高松壽嗣氏の説か。
玄泉流
源流 白雲流系という。高松壽嗣氏の説か。
五遁十方流 白雲流系という。高松壽嗣氏の説か。
五遁十二法流
十方流 高松壽嗣氏の説か。
白井流
清心流 森霞之助勝重 柔術の内
制剛流 水早長左衛門信正 柔術の内
琢磨流
天遁八方流 白雲流系という。高松壽嗣氏の説か。
戸田流 黒塚十太夫
白雲流 白雲道士が祖という。高松壽嗣氏の説か
不動眞徳流
北条流無楽派 上泉流軍法の系
無辺流
安田流
義経流 服部治部右衛門正信 伊賀系
↑
ええっ?!服部治部<右>衛門正信
高知の人は 服部武 <左>衛門正信でしたよね。
微妙に名前が違うのは 別人 でしょうか?
それとも単純に孫写しで間違えた?
卜伝流 塚原卜伝高幹 武術の内 新当流系
扶桑流 竹内宿祢 軍学の内 藤田麗斎を中興祖とする。
玉虎流 姚玉虎なる女性が祖という 高松壽嗣氏の説か。 高松壽嗣 初見良昭
玉心流 高松壽嗣氏の説か。 高松壽嗣 初見良昭
楠流 滝川遊節輝長 兵法の内
心貫流
大気流 塚田紫雲 詳細不明 高松壽嗣氏の説か。
根岸流
大和流 大和忍法を称する。 矢野剛秀 詳細不明
黄門流 白雲流系という。高松壽嗣氏の説か。
村雨流 村雲流か。
揚心流 秋山揚心義時 柔術の内
補記
伊賀流 東日教 詳細不明
伊賀流 伊賀白佑斎範弘 詳細不明
以上
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 05時39分52秒 ) | パスワード |
<21>のレス
1.永井流 伊勢に伝承
ありましたね。レス<36>の1番下に出てますね
**************************
2.伊賀流その2 土佐山内家に服部正信はじめ服部氏。
レス<36>
服部流 服部<治部右>衛門 伊賀流の内
レス<38>
ここでも服部正信が出ました。
伊賀流 服部<武左>衛門正信 三雲流・藤林流軍貝の内 伊賀・甲賀系 土佐藩
***************************
3.義経流 (1)越前松平家に伝承。(2)他に義経流を称するものに服部治部右衛門がいる
はい、義経流は2つアップされてましたね。
1.
福井県
義経流 源義経 軍法の内 伊賀・小笠原系 福井藩
*松平家には武具掛の下に忍之衆が在った。
2.
その他
義経流 服部治部右衛門正信 伊賀系
でもこの人物は特定できないです。
多分両方とも同一人物でしょうね。
治部右衛門正信と武左衛門正信は別人でしょうね。
書き間違えなら同一人物かも。
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 06時22分29秒 ) | パスワード |
http://takatoshi24.blogspot.com/2013/04/blog-post.html
服部治部右衛門正信は誰?ということで、もう1度、読み直しました。
服部正信【はっとりまさのぶ(15??〜15??)】
この人でしょうね。
時代的に。
服部家枝連衆。通称平蔵。室は青山忠教の娘。
下記の正尚の父でしょうか?
アヤシイということでも合いますよね。
服部正尚【はっとりまさなお(15??〜15??)】
服部正信の男。通称平太夫。戸塚忠春が討死後その室娶り、於愛(松平元康の側室(西郷局))を育てた。1582年「本能寺の変」が起こった情報をいち早く松平元康に知らせ「伊賀越え」に同行した。
服部忠頼【はっとりただより(1549〜1615)】
服部正信の次男(青山忠重の養子)。通称七右衛門。別名青山成重。室は恒岡常自の娘。1571年、の養子となり、青山平八郎と称した。1584年 、兄服部正尚の推挙により松平秀忠に仕えた。老中職となり10,000石を領した。1613年、大久保長安の三男青山成国 を養子に迎えていた為、大久保長安の病没後、下総国香取郡に蟄居し7,000石に減封された。1614年「大坂冬の陣」では、本多正信に従って出陣したが、蟄居中のため参陣することが出来なかった。
つまり戦国時代のかなり早い時期の人ですね。
服部半蔵の父=保長=の父か?おじか?祖父か大おじか?
忍者ということで、この系統でしょうね。
西郷局の継父だった正尚の父でしょうから
通字の「正」の字が共通するし半蔵にも通じるし。
やっぱり正尚は忍者系の人だったんでしょうね。
治部右衛門という名乗りが同じだったらバッチリなんですが。
[42] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月24日 06時53分12秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
またしてもスゴイスゴイ情報ありがとうございます。これから出社して
ゆっくり読解いたします !
一つ訂正があります。寺林氏の小説の中の半蔵の屋敷の場所ですが、私は
浜松城の東のイメージで思い込んでしまっておりましたので、間違えました。
真南と書かれていますので、利町(とぎまち)。今は五社神社がありますが、
その境内の中に諏訪神社があります。本当は浜松城築城時代には、もっと南
の中島町六本松にあったということです。そこまでは作者はわからなかった
かも知れません。五社神社も元々は浜松城二の丸にあり、秀忠の産土神とな
り、1641に完成している。その隣には1580年に西郷局が開基した
心造寺がある。
[43] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月24日 10時44分40秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部正信は義経流か藤林流か、どちらも伊賀系ということでありますので、
同一人物にほぼ間違いないと思います。正尚の父ですね。土佐の牧野氏(時代
的に合うか? )に仕えたか?
百々百右衛門もスゴイ名前ですが、正成の配下で、百々安行も山内一豊に
仕えている。
「忍者人別帳」というサイトがあり、家系図もついておりますので、便利
です。一度見て下さい。アドレスは下記のとおりです。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/4898/ninbetsu-h.htm
世木氏は、今川の雪齋の緻密な計算の下、毛利、織田等に仕官、あるいは
下忍等潜り込んで情報を今川・後に徳川にもたらしたようです。いわば間諜
(スパイ)。竹千代とも正成とも会っているようです。元々は今川氏の末裔、
今川正信を祖とするといわれる。ここでも「正信」。本当に「正信」が多い
ですね。
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 13時26分13秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
「正信」という名は当時の武士のキラキラネームだったのかも、ですね。
笑
服部家では「政信」もありますしね。
ま、通字で、どの家かおおよその見当はつきますから
服部正信は正尚の父で
下忍達を各地の大名に送り込んで指導したり指示したり
裏から操ってたのでしょうね。
そして弟子達を監督するのに正信は日本中を歩いていたのでしょうね。
土佐とかね。
いろいろな「工作」の仕方を教えるボスだったのでしょうね。
子の服部正尚もアチコチ動きまわってたんでしょうね。
そして家康の頃にやっと落ち着いて来て
正尚の子達は旗本として政治の場に表で関わったのでしょうね。
「治部右衛門」という名はかなり後の方で名乗ったのじゃないかな?
死後に贈られた名乗りかも知れないし。
「服部半蔵」全10巻
早く届くと良いですね。
わたくしは寛政重修諸家譜を読んで整理しなくては。
なかなか進まないです。
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 15時02分39秒 ) | パスワード |
服部家 + 青山家 + 百々家 についての関係を説明します:
復習です:
服部正信の次男 つまり正尚の弟=忠頼 は親戚の青山家に養子に行きました。
これは正信の妻が青山の娘だったから。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/4898/mino-keizu.htm
それで母の従兄弟の家に養子に行ったわけです。
服部忠頼【はっとりただより(1549〜1615)】
服部正信の次男(青山忠重の養子)。通称七右衛門。別名青山成重。
1571年、養子となり、青山平八郎と称した。
1584年 、兄服部正尚の推挙により松平秀忠に仕えた。
老中職となり10,000石を領した。
1613年、大久保長安の三男青山成国 を養子に迎えていた為、大久保長安の病没後、
下総国香取郡に蟄居し7,000石に減封された。
服部家と青山家の関係はこれで説明がつきました。
ここで忍者の百々家ですが、岡崎に百々という場所があります。
わたくしは「どーど」と伸ばして発音します。
すごい山の中という印象です。
百々百右衛門【どどひゃくえもん(15??〜1622)】
伊賀国の忍衆。
1582年、松平元康の伊賀越えで警護に集まった伊賀衆200人のひとり。
その戦功より尾張国鳴海城に召し出され、御切米16俵3人扶持を領し、服部正成の麾下に属した。
ここで百々家と青山家の関係について書きます。
忠頼が養子に行った先の青山の義父の兄弟に忠門がいます。
青山忠門
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
青山忠世の子。
三河松平氏の家臣。別名は忠義、通称は藤蔵、藤八郎、藤右衛門、喜大夫。
ココもアヤシイ(甲賀と関係?)
↓
青山氏は、もともとは上野国の出身で、忠門の時に近江国から三河国へ移り、
額田郡百々村を領して松平広忠に仕えたという。
↑
どーど
広忠には服部保長も仕えています。
服部保長【はっとりやすなが(15??〜15??)】
通称半蔵。別名千賀地半蔵。
初め足利義晴に仕え北面武士に就任した。
室町幕府に見切りをつけて、三河国に下った。
松平清康、松平広忠、松平元康三代に仕えた。
青山忠門は第二次小豆坂の戦いにも参戦した。
広忠死後は一時、今川義元の麾下に入るが、
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは広忠の子・元康(のちの徳川家康)の寄騎となり、
義元死後は元康に帰属する。
永禄6年(1563年)、三河一向一揆の際も元康側につき、岡崎城を守備した。
死に関しては諸説あり、元亀2年(1571年)武田氏の三河侵攻に際しては良く防戦したが、その時の傷が元で死亡したという説と、天正3年(1575年)、武田氏との戦いで討ち死にしたという説がある。1571年説では享年54、1575年説では享年65。
子の忠成は徳川氏に仕え、江戸期を通じて譜代大名として列せられた。
青山忠成:
青山忠門の長男。母は卯野某の娘。正室は天方通興の娘。
↑
天方氏も前に出て来てるので復習:
天方氏
家紋:
一の字/細輪に葉菊
(藤原氏秀郷流首藤氏族)
遠江国周智郡天方郷から起こった。
もとは藤原秀郷の後裔首藤氏の一族である。
藤原助清は三河国に住し、首馬頭に任じたことから首藤氏を称した。
後裔にあたる俊通は滝口刑部丞を名乗り、
その子が滝口四郎俊綱である。
山内首藤氏とは同族の関係になる。
代々鎌倉御家人であったようで、通隆の代に鎌倉幕府が滅亡。
通隆は北条高時に殉じて鎌倉で自刃した。以後、世に隠れていたようで、通隆以後荷代の実名は伝わっていない。
通秀の代に至って、遠江国天方城に住した。これより天方の地名をもって家号にしたという。
通興の代に今川氏に属した。今川義元が桶狭間で信長に討たれ、氏真の代に今川氏は衰退することになる。
通興は、今川氏没落後、石川伯耆守数正について家康に謁え、
以後徳川氏に仕えた。
天正二年、家康が遠江国乾城を攻めた時、大久保忠世に属して、案内役を勤めた。
↑
大久保忠世ですよ
↓
これより、通興は大久保忠世に属して、家康の戦に参加し、数々の戦功を挙げている。
嫡子の通之は早世し、次男の通綱が家督を継いだ。通綱は織田信長の嫌疑を受けて、切腹の命を受けた家康の嫡子信康の検視役を命じられ、同役の服部半蔵とともに遠江二俣城に赴くことになった。
信康自刃に際し介錯を頼まれた半蔵がその任に堪えきれず、代わって通綱が信康の介錯をした。
通綱はのちに信康介錯のことをはばかって出奔し、家康の次男で信康の弟にあたる越前藩主結城秀康に召し出されて仕えた。
通綱は、鞍・鎧づくりに優れ、その作品は彦根井伊家に伝わっている。通綱の子孫は福井藩士として続いた。
通興のあとは、娘婿青山忠成の子通直が継いだ。
通直は幼少の時より家康に奉仕し、慶長八年の家康上洛にも随行し、
慶長十八年には、すべて二千二百五十石を知行した。
慶長十九年の大坂の陣にも参陣し、秀忠に従って、天王寺の戦いにおいて戦功をはげまし、
玉造口の戦いでも大坂方を槍を合わせて甲首一級を挙げている。
寛永二年、上総国武射、下総国葛飾・香取、相模国高座四郡のうちで二千二百五十石の朱印状を賜った。
同三年には従五位下備前守に叙任、同七年十一月に死去した。
旗本家天方氏はのちに青山氏に改姓している。
家紋は、首藤氏ゆかりの「一文字」紋が本来の定紋であったが、
青山氏との関係から「細輪に葉菊」紋の方が後世では定紋となっていった。
↑
服部保長の一族が「車に矢の紋」の他に 16葉菊紋も使っているのは
この青山氏との関係だったのかな?と思いました。
やはり日本は何重にも「血」でも「家紋」でも繋がっているんですね。
なぜ服部保長の一族が16葉菊紋も?と実に不思議でした。
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 15時33分15秒 ) | パスワード |
で、この青山家(青山忠成の方ね。 服部忠頼=青山成重じゃない方ね)
は 孫の代で、青山忠俊は 大久保忠佐 の娘と結婚しているんですよ。
服部保長の玄孫 やしゃご も妻には 大久保治右衛門忠佐の娘 を妻としています。
この元気爺さんについて:でも男の子には恵まれなかったようです。
大久保忠佐
時代
戦国時代 - 江戸時代前期
生誕
天文6年(1537年)
死没
慶長18年9月27日(1613年11月9日)
改名
弥八郎(幼名)→忠佐
別名
治右衛門(通称)、
道喜(法名)
戒名
日諦源喜院
墓所
静岡県沼津市下河原町の妙海寺
幕府
江戸幕府
主君
松平広忠→徳川家康→秀忠
藩
駿河沼津藩主
氏族
大久保氏
父母
父:大久保忠員、母:三条西公条の娘 ← へえ〜
春日局
明智光秀の家臣だった父が処刑されてから
母方の親戚に当たる三条西公国に養育された
ということで 大久保と春日局も 繋がっちゃいました
兄弟
忠世、忠佐、忠包、忠寄、忠核、忠為、忠長、忠教、忠元
子
竹丸、
忠兼、
娘(久兵衛室)
娘(本間平兵衛室)
娘(青山忠俊正室) ココ
娘(服部元延室) ココ 服部保長の玄孫です
養子:養女(高木正次室)
大久保 忠佐(おおくぼ ただすけ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。駿河沼津藩主。徳川氏の家臣。
生涯[編集]
天文6年(1537年)、大久保忠員の次男として三河国上和田(現在の愛知県岡崎市)で生まれる。父や兄忠世とともに松平広忠、家康に仕えた。武勇に優れ、元亀3年(1572年)の一言坂の戦いでは本多忠勝と共に殿軍を務めている。天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加して武功を挙げた。
天正18年(1590年)に家康が関東に移ると、上総茂原において5,000石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従ったが、真田昌幸・信繁親子に足止めされている。慶長6年(1601年)、家康から駿河沼津2万石を与えられて大名となった。
嫡男の忠兼は早世していたため、当時幕府旗本であった八弟の忠教を養子にして家を相続させようとしたが、忠教は「自分の勲功ではない」として固辞した。
慶長18年(1613年)9月27日に忠佐が77歳で死去すると、沼津藩は無嗣断絶で改易となった。
人物[編集]
蟹江七本槍、徳川十六神将の1人に数えられる。
長篠の戦いにおいて、織田信長から兄の忠世と共に「膏薬(敵方に貼り付いて離れぬ意か)」と言われてその武勇を賞賛された。
関連項目[編集]
山田長政 - 家臣として仕えていた。
大久保氏沼津藩藩主 (1601年 - 1613年)
大久保家
大久保忠佐1601-1613 無嗣断絶で改易
ホントに日本って、何代も遡ったら、みんな繋がってしまいますね。
繋がるという話ならわたくしは春日局と母方でも繋がりますし。
笑
[47] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月25日 06時54分01秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日はまた名古屋へ、明日は青(あを)の水平線の彼方へとスケジュールが
詰まっておりまして、考える時間が余りありません事お許し下さい。
今、奥瀬平七郎の『忍術 その歴史と忍者』をあらためて読んでいますが、
藤林、百地の両氏、石川五右衛門、豊臣秀次、藤堂、采女との関係について、
興味深い話がありましたので、帰宅後に少しまとめます。
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月25日 09時44分45秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
あれもしたい、これもしたい、だけど時間が限られている
ということでお忙しい週末ですね。
その上に本も読みたいのに、ねえ?
お気を付けて行ってらっしゃ〜い。
帰宅後、お時間ありましたら、知らせてください。
遠出の時はムリはしないということで、お気をつけて。
[51] | 丸三柏服部さんの代理さんからのコメント(2014年10月27日 12時25分31秒 ) | パスワード |
書き直し:
一昨日は、名古屋にいる息子とおいしい寿司を食べ、昨日は、釣りたての
カツオ(今回は平ソーダ)のタタキ、ハチカサゴとメイチ鯛の刺身を食しまし
て大満足、本日も幸せ感が残っています。
医者のT氏も沖釣りが大好きで、趣味の世界に職業の壁もないのだろう、
おもしろいものはおもしろい、楽しいものは楽しい、美しいものは美しいと
人間だったら共通に感じるのだろうと思います。
今週末は、志都呂陣屋跡訪問調査と新居図書館での古文書調査、細江図書
館での『寛政重修家系譜』閲覧調査をする予定です。
今、頭の中はリフレッシュされリセット(スッキリ)されていますので、や
や客観的にものを見る、また総合的にものをとらえることができそうな感じ
であります。
あを様の言うように、「復習」そしてリセットが大事かと!
確かに私の部落(江戸時代風に)には、加藤、鈴木、松島、永井、服部の5
姓がほとんどであった。それに長田(長田)、榊原が少々、東へ行くと長谷川、
南へ行くと小栗と、江戸時代、あるいはそれ以前より続く家系がある。
今の世ではつまびらかでないが、何か人間関係、氏族関係、血脈があった
のであろう。武将や旗本、大名の采地での人間模様はどうだったのか、改易
や転封の場合の家族・生活・家・土地はどうだったのか・・・古文書の中で
そんな歴史の化石を見つけたいと思っています。
永井氏にはすごくシンパシィを感じますので、この関係も深く探求してみ
たいと思っております。
服部中の系譜も親近感を感じておりますので、深く探求したいと思います。
兵站・海運についても大きな要素ですので探求したいと思っております。
もう一つ、申楽・能・狂言、連歌・俳句についても同様に思っております。
昨日のの番組で、メキシコのピラミッドの最新発掘情報の番組をやってお
り、新たに地下道がみつかり云々・・・ということでしたが、早起きと疲れ
で眠ってしまいました。残念!
その気になれば、歴史の化石はいくらでも掘り起こせるものと確信してお
ります。
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月27日 12時49分10秒 ) | パスワード |
書き直しておきました。
にっこり
今週末もいろいろお忙しいようですね。
>メキシコのピラミッドの最新発掘情報の番組
はい
放送してましたね。
って、さっきこちらでは放送してたのですが
最初の5分見ただけです。
これが日本のピラミッドだったらちゃんと見ましたが。
多分三つ柏さんも(なんだ、メキシコか、ちょっとガッカリだな)ということで眠ってしまわれたのでは?
と思います。
息子さんは名古屋ですか。
どういう引っ張り合いで名古屋なのでしょうね?
何かご縁があって名古屋なんでしょうけど。
釣りたてのカツオって
へえ〜
すごい。
予定がいっぱいでお忙しそうですね。
こんな感じで学生時代に勉強してたら?と考えたりなさいません?
笑
そうそう 熊 倉 ェ刀 夫 くまくらいさお さんが静岡にいらっしゃるんですってね。
いさおの 功 の字は ェに力じゃなくて ェに刀 なんだそうです。
静岡文化芸術大学学長さんなんですって。
絵に興味がお有りなら、お近づきになれたら、と思いますが
他の文化のお話でも、もし、講演などありましたら是非に。
>今週末の志都呂陣屋跡訪問調査と新居図書館での古文書調査、
>細江図書館での『寛政重修家系譜』閲覧調査
ご報告を楽しみにしております。
[53] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月28日 01時41分46秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
前レスで、長田(おさだ)と書くつもりが長田(長田)と漢字になっておりま
した。
さて、今まで私は、石田三成の讒言によって豊臣秀次は謀反をたくらだと
として切腹とされたとの一面的な情報をそのまま信じていましたが、奥瀬平
七郎氏の『忍術 その歴史と忍者』によって、別の2つの視点がある事を知
りました。
1つは石川五右衛門。五右衛門というと漫画のキャラクターのイメージが
強いですが、実は百地系の忍者であり、彼もまた天正伊賀の乱の敗戦後、諸
国へ散って行き、信長、秀吉に対して深い恨みを抱いていた忍集の一人であ
ったという。
2つ目は家康。家康は、北政所と淀君の不仲に乗じて、秀吉中心の堅い結
束をバラバラに分解し、実力派の武将を自陣に抱え込む事を計った。また、
秀次が関白をついで以後は当面の敵は秀次となり、秀頼が生れたのをきっか
けに、家康は陰に陽に手をまわして、太閤と秀次の間に溝が生ずるように計
ったという。
そんな中で、秀次の心の乱れと乱交のうわさは高まり、やがて秀吉への謀
反の讒言ということになるのだが、実は秀次の家老、木村常陸が、伊賀忍、
石川五右衛門を雇い、太閤暗殺のため桃山城に忍びこませ謀反を計ったとい
う。窮鼠猫を噛むの状況に追い詰められてしまったということになる。
家康の謀略はまんまと成功したのであり、さらに秀次方の武将への連座責
任の波及をできるだけ抑え彼らに恩を売っている。
ざっとこんなことであるが、忍者以上の謀略を考え出すことができたのが
家康であった・・・(本当だろうか、指南役がいたのではという疑問は残る)。
信康の自刃についても、逆転の複雑な謀略のにおいがする。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月29日 05時28分10秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
今回の「軍師 官兵衛」では家康が動いてましたね。
黒田長政はすっかり家康の懐に飛び込んでましたね。
>本当だろうか、指南役がいたのではという疑問は残る
指南役がいたとしたら 「本多正信」 ですよ。
家康の知恵袋は本多正信。
>信康の自刃についても、逆転の複雑な謀略のにおいがする
これは信長側がやったのが定説でしょうけど。
家康側でもアヤシイ人物がいたのでしょうか?
壊滅したとはいえ今川の力を恐れ、最強の武田を恐れ、強大な北条を恐れる人物が
この3国と親しい信康がいてはイヤな人物ですね。
家康でも今川義元の姪の産んだ信康が迷惑だったかも知れないし。
[55] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月29日 15時25分06秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
天正7年(1579) 徳川信康事件
文禄4年(1595) 豊臣秀次事件
慶長18年(1613) 大久保長安事件 その後「大久保忠隣」失脚
元和8年(1622) 宇都宮城釣天井事件 本多正純失脚
この4つの事件を見ると、秀忠の出生に伴い、後継者の決定、天下取りへ
の策謀、その後、大阪冬・夏の陣、関ヶ原の戦いを経て天下を取り、大久保
・本多の確執が双方の失脚を経て、秀忠を中心とした徳川体制の確立、体制
固めの方向に動いて行くという流れとなっています。ある意味、秀忠を中心
としたベクトルが働いていたということで、そこを深掘りしたいと思ってお
ります。
現在知識不足のため、そこの核心に迫るだけの力を持ち合わせておりませ
ん。
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月29日 22時54分24秒 ) | パスワード |
>秀忠を中心としたベクトルが働いていたということで、そこを深掘りしたいと思っております
まさに服部家が闇の部分で動いていたという感じですね。
ふふふ
[57] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月30日 03時58分05秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は飲み会があり、ほどほどの酔いで熟睡でき、ただ今の頭の中は爽やか
にリセットされ、アルファー波が出ております。
歴史探偵が証拠を見つけるのには、ちと時間がかかりますが、それよりも犬
のように匂いをかぎつける敏感な鼻が大事ということで、今鼻がピクピクして
おります。これは加齢による過敏症かも知れませんが・・・。
あを様流の「復習」・・・まだ復習する程の知識を得てはおりませんが、
秀忠を核として洗い直してみる必要があります。
その前に、2つほど訂正。
1つは、伊賀越えに参加した人の件ですが、当初の人数が何人で、途中か
ら何人が加わり、さらに何人がどこから警護に集まって来たのかという状況
について正確には把握していませんでしたので、誤解を生む表現があったか
も知れません。当初からの家臣団・関係者が30人程(これはもちろん表向き
の話)、そして伊賀衆200人余、甲賀衆150人余は途中から警護のために
集まってきたようです。そしてその中の200人近い人が伊賀越えの途上で
戦って亡くなっているようです。
2つ目は、「関ヶ原の戦いの後に冬・夏の陣」という順序を間違えていま
した。
さて、秀忠を核として、洗い直しまた探究しなければならないと思ってい
る事は、
1.そもそも秀吉はどんな出自であったか。
2.同じく、家康はどんな出自であったか。
3.家康が秀吉の異父妹を第二の正妻に、秀忠の娘千姫を秀頼に嫁がせたの
は単なる政略結婚だけだったのだろうか。
4.秀忠の生母「お愛」はどんな出自であったか。
5.お愛の継父「正尚」は、本当は継父ではなく、実父ではなかったのか。
6.正尚は正成より系譜の上で格が上だったのではないか。
7.正尚は猿楽師、長安も猿楽師。はたして猿楽師の本質とは何だったのか。
8.秀忠や服部氏にからむ大久保氏とはどんな出自であったか。
9.天正伊賀の乱の後、百地・藤林はどこへ行ったのか。山の民・クガタチ
の動きはどうであったのか。
10.家康はどこまでが本人で、どこからが偽者(影武者)だったのか。
いずれにしても、秀忠にウェイトを置いて探究してみたいと思います。
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月30日 07時33分46秒 ) | パスワード |
窓8で書いているのでストレス全開です。笑
>当初からの家臣団・関係者が30人程(これはもちろん表向きの話)、
>そして伊賀衆200人余、甲賀衆150人余は途中から警護のために集まってきたようです。
>そしてその中の200人近い人が伊賀越えの途上で戦って亡くなっているようです。
すごいですね。
だから家康は人生2度の大難の1つが伊賀越えだったのですね。
大久保氏は彦左衛門が
家康を中心とする三河武士はもとは三河の山奥の小石がゴロゴロしているような荒地にへばりついて
雑穀食べて生きていた
なんて書いてたような。
そこから南に降りて来て安城に出て来て、ここから三河武士団は出世していくんですから
もともとは食べるのが精一杯の貧しい暮らしをしていた人々でしょうね。
関連作品
安彦良和『三河物語』(マンガ日本の古典23) 『三河物語』そのものをモチーフとした作品ではなく、関ヶ原の戦い直後から晩年の忠教の姿を、彼に仕えた一心太助の視点から語るという体裁になっている。『三河物語』の内容そのものは、彦左衛門が語る軍談として断片的に引用されている。
宮城谷昌光『新三河物語』 彦左衛門(作中では幼名の平助で呼ばれる)を主人公として、大久保一族の活躍と挫折を書く。『三河物語』を著した後の姿も書かれている。
童門冬二『老虫は消えず 小説大久保彦左衛門』 『三河物語』が江戸城の武士らに熟読される理由「付箋」が語られている。
戦国時代の人間像を追うのはロマンですね。
[59] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月31日 07時10分07秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
秀忠について少し探ってみましたが、なかなか隠れた謎が出てきそうもない
が、世継ぎを中心にして、体制の確立が計られ、静かなる暗殺・粛清が行われ
ていった気配はある。忍者体制も伊賀・甲賀から隠密体制・柳生へと変わって
行く。少しまとめたいと思っています。
それから、江戸時代の頃に起きた地震・津波について新居の関の被害等につ
いて今まとめています。
[60] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月31日 14時38分29秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>世継ぎを中心にして、体制の確立が計られ、静かなる暗殺・粛清が行われていった気配はある
はい。
権力を握ると次は内部粛清が始まりますね。
秀忠の時代は改易の嵐でした。
>忍者体制も伊賀・甲賀から隠密体制・柳生へと変わって行く
はい
柳生の暗躍がありましたね。柳生宗矩は根来衆を使って・・・
ホント?
「柳生一族の陰謀」はご覧になりました?
ハナシについていけなくて、内容を覚えていませんが、
最後は 柳生宗矩 vs 十兵衛 の争いになるのですか?
この父子は仲が悪いというのはよくドラマで描かれますが
これも本当だったのでしょうか?
今ならこの映画は興味深く鑑賞出来ると思いますが当時は「荒唐無稽」と思ってました。
柳生が将軍家に近づくのに裏ではこんなことをやっていたのでしょうか?
柳生宗矩という人物は本多正信タイプに描かれますが
実像もそうだったのでしょうか?
ぜひ纏めて読ませてくださいね。
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月31日 22時54分55秒 ) | パスワード |
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%83%90%E3%82%AB%E6%AE%BF%E4%BC%9D%E8%AA%AC
江戸時代バカ殿伝説だそうです。
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月01日 05時59分51秒 ) | パスワード |
「柳生一族の陰謀」では、秀忠暗殺の黒幕は 松平伊豆守信綱・春日局 だろうと。
「江戸時代のバカ殿伝説」の土井利勝の話では:
コピペ:
家光は親父の頃からの「負の遺産」である利勝を疎み
謀反の濡れ衣を着せ弟忠長と一緒に始末しようと画策したが、
一枚上手の利勝には上手い事逃げられてしまった。
実は利勝は忠長の傅人で、利勝の妹が乳母をしていた。
春日局が戦ったのは、本当は秀忠夫婦ではなく利勝兄妹だったらしい。 ← ココ
腹違いの妹がお大の方=家康の母
↓
元亀4年(1573年)3月18日、徳川家康の伯父・水野信元の三男として生まれる。系図には徳川家家臣・土井利昌の子と記載されている。ただし、利昌の実子として遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)で生まれたという説もある。天正3年(1575年)に信元が武田勝頼と内通したという罪により織田信長の命で家康に討たれた後、家康の計らいで利昌の養子になった。利昌には長男の元政がいたが、それを差し置いて利勝が家督を継いでいる。
家康にそっくりだったから家康の落とし胤の噂がある
なお、利昌を実父とする場合、母は葉佐田則勝の娘とされている[2]。
また、家康の落胤という説もある。井川春良が著した『視聴草』には、家康の隠し子であることが書かれている他、徳川家の公式記録である『徳川実紀』にも説が紹介されている。この説によると、利勝は幼少時から家康の鷹狩りに随行することを許されたり(土井家は三河譜代の家臣ではない)、破格の寵愛を受けていたためである。また当時、家康は正室の築山殿との仲が冷え切っており、そのために築山殿の悋気を恐れて他の女性に密かに手を出して利勝が生まれたという可能性も否定できないところがある。森銑三は、父とされる信元と家康の性格を比較した時、短慮であった信元よりも、思慮深い家康の方が利勝の性格と共通する要素が深いと考察している[3]。
家康とは血で繋がってるから顔も似てるだろうし性格も似てたかも という説もあり
知恵伊豆松平信綱とは?
松平 信綱(まつだいら のぶつな)は、江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩初代藩主。老中。官職名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。
出生[編集]
慶長元年(1596年)、徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として武蔵国[2]で生まれる。父の久綱は伊奈忠次配下の代官として小室陣屋付近(埼玉県北足立郡伊奈町小室)に居住していたので、当地で生まれたとする説が有力である。生母・深井氏は白井長尾氏の末裔であり、母方の祖父・深井好秀は長尾景春の玄孫である。
養子[編集]
慶長6年(1601年)に叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となる。あるとき正綱が1人でいると、当時は三十郎と名乗っていた信綱がやって来て、「私は代官の子で口惜しい。恐れながら名字が欲しいので養子にしてほしいです」と嘆願した。
正綱は笑いながら「そなたはまだ幼少の身分で本名を捨て我が名字を望むのはなぜか?」と訊ねた。
「私の本名では御上の近習を勤めることは叶い難い。何卒養子にもなれば御座近く御奉公できるかもしれない」と答えた。
正綱は不憫に思い、「なるほど、望みのように養子にしよう。けれども1通り父母に申してのとになり字を遣わそう」と挨拶した。
両親にもこの旨を話して事が済むと、信綱は大いに喜んで「今日よりは松平三十
郎なり」と述べたという[3]。
家光の小姓・元服[編集]
慶長8年(1603年)9月3日、将軍世子の徳川秀忠に、11月には正綱に従って伏見城に赴き、11月15日に徳川家康と初めて拝謁した[4]。慶長9年(1604年)7月17日に秀忠の嫡男・徳川家光が誕生すると、7月25日に家光付の小姓に任じられて合力米3人扶持になった。慶長10年(1605年)12月3日に5人扶持となる。
慶長16年(1611年)11月15日に前髪を落として元服する。慶長18年(1613年)1月28日に井上正就の娘と結婚した。
ただし慶長15年(1610年)から慶長16年(1611年)にかけて胃病を患い在郷で養生していたという。
出世の道[編集]
元和6年(1620年)1月20日に500石を与えられた[5]。 このとき家紋も三本扇とした[6]。
この年の12月下旬に養父の正綱に実子の松平利綱(正次・左門)が生まれると、信綱は名跡を継ぐのは利綱であるとして自らは名を正永から信綱と改め、元和9年(1623年)6月15日に御小姓組番頭に任命され、新たに300石の加増を受けた。
7月には家光の将軍宣下の上洛に従い、従五位下伊豆守に叙位・任官された。
寛永元年(1624年)5月16日には1,200石を加増された。寛永3年(1626年)7月には家光の上洛に再度従った。寛永5年(1628年)1月5日には相模国高座郡・愛甲郡で8,000石の所領を与えられて[7]、合計1万石の大名となった。
このときに一橋門内において屋敷を与えられた。寛永7年(1630年)5月17日には上野国白井郡・阿保郡などで5,000石を加増される。
寛永9年(1632年)1月に大御所だった秀忠が死去すると、信綱は養父と共に遺銀400枚を賜った[8]。 4月13日に家光の日光山参詣に従う。11月18日には老中と小姓組番頭を兼務した[9]。
寛永10年(1633年)3月23日、阿部忠秋や堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次らと共に6人衆[10]に任命された。5月5日、阿部忠秋や堀田正盛らと共に家光より老中に任じられ[11]、同時に1万5,000石を加増されて3万石で武蔵忍に移封され、忍城付の与力20騎・同心50人を預けられた。
この年の5月から井上正重らと近江国や大坂・奈良などを巡検した。
11月には徳川忠長配流の地を予定してか上総国佐貫を巡検している。
寛永11年(1634年)3月3日に「老中職務定則」と「若年寄職務定則」を制定。6月には家光の上洛に嫡男・輝綱と共に従い、6月27日に家光より駿府城で刀と盃を賜った。閏7月29日に従四位下に昇叙される。
寛永12年(1635年10月29日、それまで兼務していた小姓組番頭を罷免された[12]。 11月には寺社奉行や勘定頭、留守居などの職制を制定。11月15日には月番制も定め、将軍直轄の体制を固めて職務を円滑に進めることができるように改革を進めた。
寛永13年(1636年)4月に家光が日光参詣に赴いた際、信綱は江戸に留まって江戸城普請監督を務め、12月の朝鮮通信使の日光参詣では惣奉行として随行した。
寛永14年(1637年)10月16日には家光を自邸に迎えて盛大に饗応した。
寛永15年(1638年)11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。
寛永16年(1639年)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。
慶安元年(1648年)4月に養父の正綱が死去した際には銀100枚を賜ったが、その遺領は実子の松平正信や松平正朝に継がせて自らは拒絶した。
カシコイね。
この頃は家光実父の台徳院(秀忠)、生母の崇源院の法事奉行を務めている。
才智と評価[編集]
幼少の頃より才知に富んでおり、官職の伊豆守から「知恵伊豆」(知恵出づとかけた)と称された[23]。
家光は「いにしへよりあまたの将軍ありといへども、我ほど果報の者はあるまじ。右の手は讃岐(酒井忠勝)、左の手は伊豆」(『空印言行録』)と評し、忠勝と信綱が幕府の確立に大きく寄与したことを評価している。
また「伊豆守ごとき者を今1人持ったならば心配は無いのだが」と小姓の三好政盛に語った[24]。
柳生宗矩、春日局と共に家光を支えた「鼎の脚」の1人に数えられた。
↑
ココ
酒井忠勝は阿部忠秋に「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。あれは人間と申すものではない」と評している[25]。
阿部忠秋は「何事にもよらず信綱が言うことは速い。自分などは後言いで、料簡が無いわけではないが、2つ3つのうちいずれにしようかと決断しかねているうち、信綱の申すことは料簡のうちにある」とその才智を認めている(『事後継志録』)[26]。
行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。
また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。
幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げ、のちの大正11年(1922年)12月に埼玉県で最初の市制を布かれるきっかけになった。信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である[27]。
政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木で洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。
それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという(『名将言行録』)[28]。
ただしこれだけ多くの人々に評価されていながら、
人望は今ひとつで ← ココ
「才あれど徳なし」と評されてもいる。
老中首座時代には同僚であった堀田正盛の子・堀田正信にその幕政を批判されてもいる。
これは信綱が茶の湯や歌会、舞、碁、将棋などを好まずくそ真面目に政務を行なっていたためともいわれている。
また信綱は下戸で酒を嗜まなかったといわれており、ここにも一因している。
信綱の好きなことは暇なときに心を許した者を集めて政治などの話を問答することだったという[29]。
明暦の大火の際、信綱は老中首座の権限を強行して1人で松平光長ら17人の大名の参勤を免除した。
徳川頼宣は信綱が勝手に決めたことを非難したが、「このようなことを議すると、何かと長談義に日を費やし無益です。後日お咎めあれば自分1人の落度にしようとの覚悟で取り計らいました。今度の大災害で諸大名の邸宅も類焼して居場所も無く、府内の米蔵も焼けました。このようなときに大名が大勢の人数で在府すれば食物に事欠き、飢民も多くなるでしょう。よって江戸の人口を減少させて民を救う一旦となります。万一この機に乗じ逆意の徒があっても、江戸で騒動を起こされるより地方で起こせば防ぐ方策もあろうかとこのように致しました」と述べた。
頼宣は手を打って感嘆したという。
ちなみに飢民救済のため、信綱は米相場高騰を見越して幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。
そのため江戸で大きな利益を得られると地方の商人が米を江戸に送ってきたため、幕府が直接に商人から必要数の米を買い付け府内に送るより府内は米が充満して米価も下がったという[30]。
明暦の大火の時、大奥女中らは表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように信綱は畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印とし、その後に大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御された故、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させたという(『名将言行録』)[28]。
慶安の変で丸橋忠弥を捕縛する際、丸橋が槍の名手であることから捕り手に多数の死者が出ることを恐れた信綱は策を授けた。丸橋の宿所の外で夜中に「火事だ」と叫ばせた。驚いた丸橋が様子を見ようとして宿所の2階に上ってくると、その虚をついて捕り手が宿所内に押し寄せて丸橋を捕らえたという(『名将言行録』)[28]。
家光への忠義
↓
家光が竹千代と名乗っていた頃、将軍の秀忠の寝殿の軒端でスズメが巣を作り、子がかえった。当時は11歳だった三十郎こと信綱は家光から「巣を取ってまいれ」と申し付けられたので、日が暮れてから寝殿の軒に忍んだ。ところが巣を取るとき、誤って足を踏み外して中庭に落ちてしまい、寝殿にいた秀忠に気づかれてしまった。秀忠は刀を手にして「誰の命令でここに来た?」と問い詰めたが信綱は「自分がスズメの巣が欲しかっただけでございます」と答えるのみであった。秀忠は誰の命令か事情を察していたが強情な信綱を見て、「年齢に似ず不敵な奴だ」と信綱を大きな袋に入れて口を封じて縛りつけた。秀忠の正室で家光の生母である於江も事情を察して、夜が明けると侍女に命じて密かに信綱に朝食を与えた。昼に秀忠は再び誰の命令か言うように問い詰めたが、信綱は前と同じように答えるだけだった。秀忠はその態度を見て怒るどころか今後を戒めた上で解放した。のちに秀忠は江に向かって「(信綱が)今のまま成長したら、竹千代の並びなき忠臣となるだろう」と言って喜んだという[34]。
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月01日 06時19分43秒 ) | パスワード |
忠長+土井利勝 vs 家光+松平信綱+春日局
跡目争いは熾烈です。
ここで柳生が家光方に近づこうと陰謀を企てるのもアリだったでしょうね。
[64] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月01日 08時27分07秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
大変興味深い情報、ありがとうございます。今から読解いたします。
本日は、現地調査で志都呂陣屋跡、新居関所、そして新居図書館他へ行って
まいります。
また、後で報告いたします。
[65] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月01日 09時37分24秒 ) | パスワード |
土井利勝の父であり徳川家康の伯父になる水野信元について:
永禄11年(1568年)の信長の上洛に従軍。
その際に信長とは別に朝廷に対して2千疋の献金を行った[8]。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いにおいて佐和山城を攻落した[9]。
同3年(1572年)の三方ヶ原の戦いに援軍として参陣した[10]。
信元は篭城戦を主張し野戦にこだわる家康と対立したが、結果として野戦で敗走し憔悴した家康に代わり指揮。
夜の浜松城に松明をたき鉄砲隊を配し、武田軍を威嚇をして窮地を脱している。
天正2年(1574年)の長島一向一揆討伐の際には「しのはせ攻衆」に加わっていた。
『耶蘇会士日本通信』には信元は「三千の兵を率いたる大身」と記述されている。
ココ 信元の死
↓
天正3年12月(1576年1月)、佐久間信盛の讒言により武田勝頼との内通を信長に疑われ、
三河大樹寺(岡崎市鴨田町字広元)において殺害された[11]。
墓所は愛知県刈谷市天王町の楞厳寺。法名は信元院殿大英鑑光大居士。
信元殺害の原因[編集]
『松平記』が記す信元殺害の原因は、
秋山信友が攻略した美濃国岩村城を天正3年(1575年)に信長が囲城した際、
水野領から食料の調達に応じる者があり、
これを聞いた佐久間信盛が信長に対して、信元の内通を訴えたというものである(巻6)。
信元の死後、その所領は、信盛が失脚する天正8年(1580年)までの間、佐久間領となったことが
「小河かり屋跡職申し付け」との「信長公記」(巻13)の記述より推測されている[12]。
信元の死に佐久間信盛が関与したかどうかはともかく、
この出来事は三河からの武田氏の脅威が除かれた時点で起こったことから考えて、
陰謀があったのですね
↓
尾張、三河において信元が持つ権力の排除が目的であったという見方もできる。
普通日本の家督相続って父の物は全て嫡子が相続するから
信長の父の愛人で、父の死後、信元に与えられた女性は、普通だったら信長が相続するんだけど
信元に与えられた?奪われた?
そのゴタゴタも信元が処分された原因なのかしら?
『新編東浦町誌 本文編』(1998)は信元殺害が、織田・徳川双方の合意によってなされたものであるとする(203項)。
家康は母方の伯父を見殺しにしているんですねえ
現存する文書[13])から、
彼が三河の領国支配に関与していたことが推定でき、
後に彼の存在が織田・徳川両家にとって目障りかつ不用なものとなっていたのではないかとも推測できる。
信元の子[編集]
1.養子「信政」(元茂。信元の弟・信近の子)
2.「某・十郎三郎」(母は「松平信定」の娘)
3.監物「守次」(守隆)の妻
4.荒尾善次の妻(後室)
5.大膳「吉守」の妻
6.戸田孫八郎重康(守光)の妻[14]
7.大崎七郎右衛門昌好の妻
8.安部摂津守信盛の「養妹」[15]
9.鈴木弥一右衛門重政の妻
10.寺沢志摩守広盛の妻
11.彦三郎「元教」の妻
12.鈴木内蔵助重信の妻[16]
13.「茂尾」(平兵衛、甚左衛門)、以上3名の男子と10名の女子が「寛政譜」新訂6巻37項に掲げられている。
なお、水野家(結城水野家と思われる)の家譜によると、
信元の末子は土井利昌(小左衛門正利)の養子となった土井利勝であるという(「寛政譜」新訂6巻37項)。
しかし、土井家の家譜にはその旨の記載がない(同5巻246項「土井」)。
『尾陽雑記』によると、土井利勝の母は織田信秀の愛妾だった。
↑
これまたビックリ
信秀の亡きあと、水野信元が側女にする、とある。
お大さまの母上の華陽院のように男から男へ(あ、力のある男達だから良かったのかな?)
乗り換えるって普通のことだったのかしら?
ま、それだけ美しい女性だったということでしょうね。
主な家臣[編集]
牛田政興(?〜?) 玄蕃頭。牛田城主。永禄三年、今川家に落とされた猪川城奪回戦で功があった。
水野守隆(?〜1598)監物。実名は直盛・守次などとも伝わる。常滑城主。澤田ふじ子著「修羅の器」という小説の主役。
中山勝時(?〜1582)岩滑城主。妻は水野忠政の娘。
久松俊勝(1526〜1587)坂部城主。水野氏と松平氏の間で去就が定まらず、信元は於大の方を嫁がせたが、やはり両属的な立場にあった。
神谷長直(1536〜1593)通称は金七郎。信元が殺害されたあと、佐久間信盛の与力になる。新訂寛政重修諸家譜に項目がある。
高木清秀(1526〜1610)のちに徳川十六神将に数えられる。
水野信政(?〜1575)信元の嫡男だが、「重修譜」では信近の子、伯父信元の養子とある。信元の連座の罪に問われ、二十七日、父とともに切腹した(重修譜・水野系図ほか)。
水野藤九郎(?〜?)信元の一族であろうが、誰に当てはまるかは不明。永禄六年(1563)九月十五日、信長より鷹の進上に対して礼を述べられている(古今消息集)。
川口宗勝(1548〜1612)宗吉の子。母は信長の伯母、妻は福富秀勝の娘(重修譜)、津島の人で、水野信元に仕えるという(尾張志)。
浅井道忠(1530〜?)桶狭間の戦いののち、家康への使者となった。
清水左京亮(?〜?)緒川の人なので、水野信元の臣であろうと考えられている。永禄十年(1567)七月八日、尾張に立ち寄った里村紹巴を招いて、連歌会を催している(富士見道記)。
毛受勝照(?〜1583)元々は水野姓で、尾張東部の稲葉村(現・尾張旭市)の出身。子孫は水野姓に戻ったという。
拝郷家嘉(?〜1583)詳細は不明ながら知多半島付近という水野領出身で、水野家とも姻戚関係にあったらしいとのこと。
補注[編集]
1.^ 『刈谷市史』第2巻(1994年)では『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』と略す)に現れる「近守」を忠政の子から除外し、信元を長男としている。
2.^ 「新編東浦町誌 資料編3」295項(延命寺文書)、309項(無量寿寺文書)、「張州府志」巻30の正盛院の項、および「知多郡史」所載、文政10年「藤次郎」の250回忌が営まれたとの心月斎寺記(上巻187項)に拠る。
3.^ 『信長公記』首巻
4.^ 「武徳編年集成」永禄元年2月、3年6月の18日、19日、および永禄4年2月の記述。
5.^ 「東浦町誌」資料編3所収、岡部五郎兵衛宛の今川氏真書状(345項)および「松平記」巻2の記述。
6.^ 『松平記』巻2。『三河物語』は信元の関与を記さない。
7.^ 『牧野文書』
8.^ 『言継卿記』
9.^ 『信長公記』巻3「あね川合戦の事」
10.^ 『信長公記』巻5「味方ヶ原合戦の事」
11.^ 『寛政譜』の記事に拠る。信長に追討を命じられた家康の家臣・石川数正と平岩親吉によって殺害されたことになっている。『松平記』では切腹したとするが、その場所については記さない。『三河物語』は信元の死について触れていない。
12.^ 『刈谷市史 第2巻』107項など
13.^ 愛知県幸田町の本光寺所蔵の「深溝へも達而異見を申候」とする信元書状。また、牧野康成を同家の跡目として認める永禄9年の信元書状。『新編東浦町誌 資料編3』312項および313項より。
14.^ 「妙源尼」。子「光康」は水野姓を名乗り尾張藩に仕える。「士林泝・」巻77「水野」
15.^ 後に水野重央の妻となる。同6巻91項。新宮水野家2代「重良」の生母
16.^ はじめ松平大学「某」に嫁し、夫の死後に内蔵助「重信」に再嫁。重信の戦死の後は「伝通院」に仕え、「一木」の名を与えられる。家康の関東入封につき従い、江戸城内、紅葉山に住んだとの「寛政譜」の記述がある(新訂18巻10項「鈴木」)。内蔵助「重信」との間に杢之助「重政」(杢之助重次)をもうけ、その子孫は旗本となっている。なお、「寛政譜」が意図した「一木」の読みは「ひとつぎ」と思われる。同書はその名の由来を、杢之助「重政」の采地が三河国高橋庄の一木郷であったことにもとめており(同15項の按文)、この「一木」の地名を「ひとつぎ」と記している。
[66] | 箱柳永田さんからのコメント(2014年11月01日 10時39分21秒 ) | パスワード |
>『尾陽雑記』によると、土井利勝の母は織田信秀の愛妾だった。
↑
これまたビックリ
信秀の亡きあと、水野信元が側女にする、とある。
@補足です、織田中根で馬揃えに登場する信長末弟中根信照
>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%85%A7
母の家が津島大橋の分家中根と思っています、商家という言葉に騙されて
しまいますが、熱田港の加藤家の商船から弓、鉄砲を放つだけで、
海賊船になる、とイメージを広げる必要があります。
[67] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月01日 13時05分18秒 ) | パスワード |
箱柳さん
読んできました。
ビックリ!
「美しい」ということは、才能の1つなんですねえ。
「男子」を生む、というのは女性の幸せの1つなんでしょうけど
力のある男のオンナとなって男子を産むと栄えるわけですね。
オンナはそういう生き方が出来るのか・・・
しみじみ
この織田中根信照は白痴美の白痴を受け継いだのか?
土井利勝はカシコそうなのに。
この母親とは一体白痴美だったのか聡明だったのか
これまた謎ですね。
織田信照
生誕
不明
死没
慶長15年10月18日(1610年12月3日)
別名
織田越中、織田中根
官位
越中守
幕府
室町幕府→江戸幕府
主君
織田信長→信雄(→徳川家康→本多忠勝?)
氏族
織田氏→中根氏
父母
父:織田信秀、母:尾張熱田の商家の娘
養父:中根忠貞
兄弟
信広、信長、信行、信包、信治、信時、信興、秀孝、秀成、信照、長益、長利、市、犬、ほか
妻
正室:本多忠勝の妹?
織田 信照(おだ のぶてる)は、安土桃山時代の武将。織田信秀の九男または十男。織田信長の庶弟。母は尾張熱田の商家の娘とされる。官位は越中守。織田中根、織田越中とも。
生涯[編集]
尾張熱田の商家の娘を織田信秀が強引に拉致、妾にして産ませたのが信照だと伝わる[1]。
これまたスゴイ話ですね。
でも、こんなもんだったんでしょうね。
この生母はのちに水野信元の側室となったともいわれ、
土井利勝の母でしょうね
信長の弟だが、生母・中根氏の縁で遠江二俣城主・中根忠貞の養子となり、中根姓を称した(『系図簒要』)。
ちなみに生母の中根氏は『尾張誌』に「尾張第一の美麗たる」と記録されている美女であった。
天正9年(1581年)年2月の京都御馬揃えの際には御連枝衆として、弟である「源五(長益)」、「又十郎(長利)」、さらには姪の入り婿である「勘七郎(織田信弌。本姓は大橋氏)」よりも後に「中根」として参加している。
天正10年(1582年)に信長が死去した後は信長の次男・織田信雄の家臣となった[1]。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参戦し、奥城を守ったが、羽柴軍の攻勢に敗れて落城、捕虜となったが、信長の弟であるということから一命は助けられた。戦後は再び信雄に仕えたとされる。
信雄からは一門衆として重用され、尾張沓掛城主として2,000貫文の高禄を与えられている(『織田信雄分限帳』)。
文禄3年(1594年)7月7日、熱田神宮に長刀を寄進した記録がある。以降の動向は不明。
逸話[編集]
元禄年間に書かれた「張州府志」では”織田越中者天性魯鈍人也”と評されている。同誌に拠れば、城から出ることはほとんどなかったらしい。
また、「馬を50頭持っている」と豪語していたが、実は一頭しか所有していなかった。この辻褄を合せるため、下人に命じて朝から晩まで人目に付くところで一頭だけのその馬を洗わせ続け、あたかも沢山の馬を所有しているように見せかけていた、と書かれている。「朝から晩まで馬を洗い続けねばならないほど馬を所有している」と見せかけた智謀ではあるが、同書にすら書かれてしまっている以上、策は衆人にばれていたとも考えられる。
異説[編集]
信照は、徳川家康の家臣本多忠勝に仕え、家老となった中根氏の祖・中根平右衛門忠実としても伝えられている。
ただし中根忠実と織田信照(織田中根)との経歴には些か不都合があり、同一人物である、と断定する史料にも乏しい。
同一人物である、とする場合、信雄の配下を離れて、家康の配下になった時期までは明確ではないが、養父である忠貞の実弟・中根正秋(中根正照のことか?)が三方ヶ原の戦いで落命して以降、絶えていた正秋の跡式を継いだとされる。
家康の関東移封後、天正19年(1591年)頃から上総大多喜10万石の城持ち大名となった本多忠勝に、付け家老として配されたという。
忠勝の異父妹婿であったためともいわれる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、大多喜の留守居を嫡子・源次郎忠晴と務めた。戦勝に伴う伊勢国桑名への移封で同僚らと先入、縄張り・町割りなど城下の再整備に従事している。
慶長15年10月18日(1610年12月3日)、主君・忠勝に殉じて追い腹を切り死去した。
戒名は観月院殿覚窓浄安居士。
付家老ということで本多家と公儀の両方から扶持を受け、3,000石を食んでいたという。
嫡子・源次郎忠晴が平右衛門の通称とともに家督を引き継ぎ、子孫らは本多家の家老として職責を全うしている。
脚注[編集]
1.^ a b 西ヶ谷恭弘『織田信長事典』P232
参考文献[編集]
書籍西ヶ谷恭弘『考証、織田信長事典』 東京堂出版、2000年。
史料『系図簒要』
『張州府志』
『織田信雄分限帳』
『尾張誌』
関連項目[編集]
都築秀綱
梶勝忠
河合政光
林為忠
松下景綱 ← 松下之綱の関係者でしょうか?
[68] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月02日 01時18分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、雨の中、志都呂陣屋跡、新居関所・資料館を見に行ってまいりま
した。
志都呂陣屋跡は、丘陵地の坂の途中、平地から15メートル位の所か、や
はり津波の被害を避ける位置に作られている事を確認いたしました。今は志
都呂幼稚園の敷地となっています。
『新居町史』には、
「元和2年(1619)7月、徳川頼宣が紀州へ移封し、新居は再び幕府直轄
地になった。それにともない、服部権太夫政信と服部杢助政重の兄弟が今切
関所番に任命された。これ以降、しばらくの間、関所奉行2人制が続いた。
兄の服部政信は40才で関所奉行となり、500石を加増されて、敷知郡
に知行地を移した。その知行地は、新しく開発した田を合わせると計4290
石であった。また、志都呂村に坪数4171坪の役屋敷を構えた。
弟の服部政重は兄と一才違い、関所奉行の就任に伴って、知行地1000
石を敷知郡に移した。役屋敷は兄と同じ志都呂村に構えたが、嫡子服部杢助
政次が使用した後に廃止したので、その実態は不明である。寛永元年(16
24)、新居において死去、享年46才であった。
服部政重のあとに関所奉行になったのは、19才の嫡子杢助政次であった。
政次は父の築いた志都呂の役屋敷を使用し、伯父にあたる政信とともに関所
を管理した。
寛永19年(1642)5月、服部正信が64歳で死去した。そのあと土は
同年9月、小姓組であった服部中保俊が就任し、政信の使用した志都呂の役
屋敷に入った。保俊は服部政信と同姓であるが、血縁関係にはない。この役
屋敷はその約50年にわたって使用されたが、新任者は就任のたびごとに先
役に屋敷の代金を支払って入居し、修復などの費用はそれぞれが負担した。
服部保俊は奉行就任にともない、知行高1000石を加増され、遠江敷知郡・
長上郡のうちで計3050石を知行した。
正保3年(1646)、服部政次が41才で死亡した。
慶安4年(1651)6月、服部中保俊が死去した。」
志都呂陣屋跡隣に臨済宗のお寺があったので、墓を見に寄ってみました。
すると、この寺には高部氏の墓が大変多く存在していた。松下氏も2〜3軒
あって例の「丸に並び矢」であった。松下房利が伊賀守であり、継室が大久
保忠重の娘であり、忠重の次男は服部正次(政信の弟政重の子)の養子となっ
ており、近い関係にあるように思えてならない。
その後新居の関所と資料館を初めて訪れた。関所の内部を一回りし、最後
に女改めの別室を拝見した。関所破り等については刑罰は厳しく行われてい
た。資料館にはいろいろな資料を売っていたので購入する事にしました。
今回は、特にビックリするような発見は見い出せなかった。やや残念。
帰路、舞阪にてシラス干しを購入し、そういえば関所の庭もおシラスだ、何
か関係があるのかと思案いたしました。今後は購入した資料の中身をよく読
み、何か見つけたいものだと思っています。
明日は細江図書館にて『寛政重修諸家譜』をとにかく通読し、何かを発見
すべくがんばってみます。
[69] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月02日 03時39分42秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>保俊は服部政信と同姓であるが、血縁関係にはない
へえ〜
かなり前の時代からの「別流」ということですね。
政信の方は14世紀に鈴鹿を出て後醍醐天皇のお子さんに従って転戦して
尾張に住み着いた家で家康に従ったのは桶狭間の戦い以降
保俊の方は伊賀に残った家が三河に出て家康に仕えた
またゆっくり書きます。
[70] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月02日 06時05分13秒 ) | パスワード |
とりあえず 徳川頼宣 から:
(うっかり水戸の頼房とこんがらがってましたから)
生誕
慶長7年3月7日(1602年4月28日)
死没
寛文11年1月10日(1671年2月19日)
改名
長福丸(幼名)→頼将→頼信→頼宣
別名
紀伊頼宣 尊称:南龍公
神号
南龍大神
戒名
南龍院殿従二位前亜相・永天晃大居士
南龍院殿二品前亜相永天晃大居士
墓所
長保寺(和歌山県海南市)
官位
従四位下 常陸介、従三位参議 右中将 権中納言、従二位 権大納言、贈正二位
幕府
江戸幕府
主君
徳川家康→秀忠→家光→家綱
藩
水戸藩主→駿府藩主→紀州藩主
氏族
徳川氏(紀州徳川家)
父母
父:徳川家康、母:養珠院(正木頼忠女)
兄弟
松平信康、亀姫、結城秀康、督姫、秀忠、松平忠吉、振姫、武田信吉、松平忠輝、松千代、仙千代、義直、頼宣、頼房
妻
正室:瑤林院(加藤清正の娘)
側室:理真院、越智氏
子
光貞、因幡姫(池田光仲正室)、修理、松姫(松平信平正室)、松平頼純
徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。
常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。
母は側室の養珠院(お万の方)である。
8代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。
幼名は長福丸、元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に表記を改める[1]。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した。
生涯[編集]
1602年(慶長7年)、伏見城にて生まれる。
1603年(慶長8年)、2歳にして常陸水戸20万石を与えられる。江戸定府のまま水戸には入らず、1606年(慶長11年)、家康に従い京都に上り元服する。同年、駿府50万石に転封され駿府城に入り、同城で名目上の隠居となっていた大御所の父家康の許で育てられた。
1609年(慶長14年)、肥後熊本藩主加藤清正の五女・八十姫と婚約。翌年9月徳川家より結納使として頼宣の伯父三浦為春(生母の兄)が清正の領国肥後国に下って納幣。
1611年(慶長16年)、家康と豊臣秀頼が京都二条城で会見を行った際は兄の徳川義直と共に東寺まで出迎え、(人質として)加藤清正に預けられた。のち、義直と共に返礼の名代として大坂城の秀頼を訪問。
1614年(慶長19年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。翌年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した。
1617年2月27日(元和3年正月22日)、家康も清正ももはや鬼籍ではあったが、かねてよりの約束により前述の加藤清正の五女・八十姫(瑤林院)を正室とする。
1619年(元和5年)、紀伊国和歌山55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる。入国の前に家臣を派遣して、以前の領主・浅野家に対する領民の不満などを調査させている。入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、紀州藩の繁栄の基礎を築いた。また、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。さらに、浪人問題を解消すべく多くの対策を打ち出した。
1651年(慶安4年)の慶安の変において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため、幕閣(特に松平信綱・中根正盛ら)に謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった。
これは有名な話ですが
わたくしは自称「吉宗の落し胤」と言ってたと思ってた
同時期、明の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。また、将軍家光の兄で頼宣の甥である尾張の徳川義直が死去し、格上の将軍家綱がしかし幼少であることから徳川一族の長老となり、戦国武将的な性格からも幕政を司る幕閣には煙たい存在となった。
その後、慶安の変に絡む疑いは晴れて無事帰国したが、いまだ拡張整備中だった和歌山城の増築を中止しなければならなかったとも言われる(和歌山県和歌山市にはこの伝承に因む「堀止」という地名がある)。
1667年(寛文7年)嫡男・光貞に跡を譲り、隠居した。紀州藩主としての治世は47年9か月であり、この間の江戸参府19回、紀州帰国18回、紀州在国の通算は21年10か月であった。更に隠居期間が3年7か月あり、この間の江戸参府1回、紀州帰国2回であった[2]覇気に富む人柄であったと伝えられている。
逸話[編集]
父である老家康が最後まで手元に置き、自ら薫陶を与えて育てた。
まだ幼いにも関わらず馬に乗せ、小川を飛び越えるように強要し、落馬して入水しても家康は放置した、と伝わる。
大坂冬の陣の初陣の際、父である大御所家康自らが鎧初めを行う、特別な扱いを受けた。
夏の陣に際して先陣を希望するが、却下された。これを涙を流して悔しがったため、松平正綱が「まだお若いから、これから機会は何度でもありましょう」と慰めたが、頼宣は「14歳が 2度あるのか」と怒った。
これを聞いた父の家康は「今の一言こそが槍(手柄)である」と言って頼宣を褒め、諸大名も感嘆した、と伝わる。
秀忠と頼宣は仲が良くなかったのかも?
1.
家康没後に駿河から紀州に転封となったがこれは、二代将軍の秀忠が父の家康の遺風に対抗し、自身の権威を見せつけるため「家康の子、すなわち自分の兄弟である」「家康が直々に配した」「父が自分の所縁の地を与えた」頼宣ですらも、自分は転封させることができる、すなわちそれ以下の格の諸大名は親藩譜代外様を問わず、全ては我が権威の下である、ということを天下に示すためであった、とも言われている。
2.
駿府は一旦天領を経て、秀忠の次男である徳川忠長をもって駿河藩55万石となったがこれも、父と同様に自分も御三家相当の家を設立することができる、そして御三家から駿府を奪い、我が子に与えることで、家康の権威より自分のほうが格上であるとする意思表示であったとする説がある。
西国転封の際、頼宣は再建成った大阪城を領することを願ったが、かなえられなかったと伝わる。
アタマ良いのかもね
↓
由比正雪関連の疑惑が出た際、幕閣は頼宣を江戸城に呼び出し、不審な点があれば直ちに捕らえるつもりで屈強な武士を待機させて喚問に臨み、証拠文書前に正雪との関係を詰問したが、
ココ
↓
頼宣は「外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である」と意外な釈明をし、嫌疑を晴らした[3]。
外様大名などが首謀者とされていたならば、天下は再度騒乱を迎え、当該の大名の取潰しなど大騒動であっただろうが、将軍の身内の自分が謀反など企むわけないだろう?という意味である。
へえ〜
鄭成功に関する援軍要請の際は、「西国に将軍の身内は自分一人ゆえ、西国大名の全指揮権を名代として自分に与えてくれれば、日本の面子を充分に立てて来る」と乗り気であったとも、「出兵しても日本に利がない」として反対だったとも伝わる。
やっぱりバカ殿?
↓
頼宣は様斬(ためしぎり)を好み、自ら囚人を試し斬りした後、家来一同に「さてさて、この名刀や、かくの如き切り手は日本はおろか、唐天竺にもあろうか?」と問うたところ、
儒者の那波活所が「名刀ならば唐には干将莫耶という名剣があります。また人を殺すことを楽しんだ王なら殷の紂王など悪王がおります」と答え、
「およそ殺人を面白がるのは禽獣の仕業。人間の行いではありません」と諫言した。
以後、頼宣は試し斬りをやめたという。
↑
結構まとも?
官職位階履歴[編集]
※日付は明治5年12月2日までは旧暦
1603年(慶長8年)11月7日 - 常陸国水戸藩主として常陸の大部分(20万石)を知行。
1604年(慶長9年)9月 - 5万石を加増。
1606年(慶長11年)8月11日 - 元服し、頼将を名乗る。従四位下常陸介[4]に叙任、常陸国主となる。
1609年(慶長14年)12月12日 - 駿河・遠江両国50万石に転封。居城は駿河国駿府城。
1611年(慶長16年)3月20日 - 従三位参議左近衛権中将に昇叙転任。その後、年月日不詳にて参議辞職。
1617年(元和3年) 7月19日 - 権中納言に転任。
7月21日 - 権中納言辞任。
1619年(元和5年)7月19日 - 紀伊国55万石余の藩主として転封。
1626年(寛永3年)8月19日 - 従二位権大納言に昇叙転任。
1667年(寛文7年)5月22日 - 隠居。
1671年(寛文11年)1月10日 - 薨去。 墓所は和歌山県海南市の慶徳山長保寺
1915年(大正4年)11月10日 - 贈正二位。
家系[編集]
正室:瑤林院(父:加藤清正)
側室:中川氏 長男:徳川光貞
側室:山田氏 次男:修理
側室:越智氏 三男:松平頼純
長女:因幡姫(池田光仲室)
次女:松姫 (松平信平室)
関連項目[編集]
紀州東照宮
和歌山城西之丸庭園
木村友重
小説[編集]
魔界転生(山田風太郎)
脚注[編集]
1.^ 諱の一文字目については徳川家が源氏の末裔であることを示すために、その通字の一つである「頼」の字を用いたものとみられる。
2.^ 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)
3.^ 小山誉城「徳川頼宣の晩年」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)
4.^ 常陸国は天長3年(826年)以降、親王任国とされ「常陸守」は武家官位として名乗らない。
[71] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月02日 06時16分04秒 ) | パスワード |
http://bushoojapan.com/tomorrow/2014/03/06/15580
家康の息子のお話です。
慶長七年(1602年)のあす3月7日、御三家の一つ・紀州徳川家の初代となる徳川頼宣が誕生しました。
八代将軍・吉宗のジーチャンでもあります。
男の子では上から数えて10番目なので、いい加減扱いが適当になるかと思いきや、家康の猫かわいがりときたら現代人からするとドン引くレベルです。
どのくらいかというと、頼宣数え2歳にして水戸20万石をやるわ、同5歳で元服させて駿府に50万石をポンポンあげてしまっているほど。その気前の良さ、もうちょっと秀康とか忠輝にも分けてやればよかったのに(´・ω・`)
何度でも言いますが、当コーナーは織田信忠・結城秀康・松平忠輝を全力で判官びいきしております。
Contents [hide]
1 猫かわいがりと同時に家康自ら武術も仕込む
2 「頼宣の言うことはもっともだ。今の発言こそ手柄である」
3 あの加藤清正の娘・八十姫と幸せな結婚生活を
4 倒幕嫌疑をかけられるも豪気な切り返しで一蹴
5 嫁の棺に付き添って和歌山まで帰国するほど愛し・・・
猫かわいがりと同時に家康自ら武術も仕込む
とはいえさすがにただ甘やかすだけではなく、隠居後も手元に置いたのは自ら武術を仕込むためだったという見方もあります。
その一つに「頼宣が落馬して水に落ちても、家康は助けず放置した」という話があるんですが、ソレ家康が昔信長にやられたのと同じでないのとツッコみたいところです。ついでに泳ぎも教えるつもりだったんでしょうか。
生まれたのが遅かったので、頼宣の初陣は大阪冬の陣なのですけれども、このとき家康は初めて鎧をつける儀式「鎧初め」を自らしてやったそうです。
でもこのとき同じく初陣だった義直(頼宣の一つ上の兄)についてはそういう話が伝わっていないので、やっぱり頼宣をひいきしていた節があります。一つしか違わないのにこんなに違う扱いをされて、よく義直がグレなかったものです。義直えらい、ちょうえらい♪
「頼宣の言うことはもっともだ。今の発言こそ手柄である」
そして頼宣(と義直)は無事初陣を終え、半年後大阪夏の陣で二回目の戦に臨むことになりました。
このとき頼宣は、「先陣はぜひ私に!」と名乗り出たのですが、まさか家康の息子(しかもまだ中学生)を最前線に出すわけにもいかず、希望は聞き入れられませんでした。
頼宣はよほど悔しかったらしく、涙を流して訴えたといいます。あまりの剣幕に重臣が「まだお若いのですから、これからも先陣の機会はありましょう」となだめたにも関わらず、「私の14歳が2回あるわけではなかろう!」とますます機嫌を悪くしたとか。
これを聞いた家康のコメントがまた、もう猫も逃げ出すくらいの可愛がりようです。
「頼宣の言うことはもっともだ。今の発言こそ手柄である」
ここだけだったら普通に賞賛の言葉なんですが、普段の甘やかしぶりを知ってしまうともうただの与太話にしか聞こえないのが何とも。
あの加藤清正の娘・八十姫と幸せな結婚生活を
ですが頼宣は頭もキレる人だったようで、父の寵愛を楯にするような言動はしませんでした。
加藤清正の娘・八十姫(やそひめ)との結婚生活も順調でしたし、元和三年(1619年)に和歌山へ移封された後は、藩を豊かにするべく力を注いでいます。
現在、和歌山県は愛媛県と並んでみかんの生産地として知られていますが、そのきっかけは頼宣だったそうですよ。
もともと和歌山で栽培されていたのを、頼宣が「うまい!!」(テーレッテレー♪)と大絶賛し、税を免除してまで生産を支援したとか。
「自分の好物を世に広めようとした」と考えると、ちょっと可愛いですね。もちろん実利的な理由が大きいでしょうけども。
他にも和歌山城や城下町の整備をしたり、優秀であれば浪人でも召抱えて人材を充実させたりと、かなり熱心に領国経営へ取り組んでいます。
倒幕嫌疑をかけられるも豪気な切り返しで一蹴
しかし、まだ戦国の気風が残る世の中では、さすがの頼宣も一生順風満帆にとはいきませんでした。
ときは移って慶安四年(1651年)、甥っ子の三代将軍・家光が亡くなった後の話です。
将軍位そのものは無事四代家綱に受け継がれたのですが、このときまだ11歳。当然ながら自分だけで政務を行うことはできません。
このスキを狙って、家光までの時代に改易などの理由で増えていた浪人たちが「幕府ひっくり返そうぜ!」と良からぬことを企てます(1651年 由井正雪の乱)。結局バレて大事には至らなかったのですが、この事件の首謀者達がよりによって頼宣からとされる手紙を持っていたのでさあ大変。
人材の出自にこだわらなかったためにこんなことになるとは、頼宣自身も思っていなかったでしょう。
というのも、頼宣は最終的に何のお咎めも受けていないからです。。
釈明の仕方がまた一味違っていて「これはめでたい。他の大名ならいざ知らず、私の名前で謀反を起こしたことにするとは、幕府が安泰な証である」というものでした。
つまり「これが外様大名なら本当に関与していた可能性が高いが、将軍の身内である私が謀反を起こすわけはないのだから、幕府は安泰だ」という意味です。
この開き直り……もとい堂々たる態度は、伊達政宗の「セキレイの目」とか「白装束で十字架持参」と同じニオイを感じますね。二人に関するエピソードはあまりありませんが、気性は似通ってたかもしれません。
嫁の棺に付き添って和歌山まで帰国するほど愛し・・・
パッと見わかりづらいこの弁明は幕閣にあっさり受け入れられたらしく、頼宣は約10年間、目をつけられて国許へは帰れなかったものの、それ以外には大したペナルティも受けずに済みました。
覇気のありすぎる性格を警戒されたためともされていますが、それこそ言いがかりですよねえ。仕事できれば性格は関係ないでしょうに……といいたいところですが、この時代性格と能力を混同して評価されてたことが多いので仕方がない。
その後は穏やかに暮らしたらしく、多くの場合嫡男・光貞に家督を譲るまで頼宣の行動に関する記述はありません。
ですが、ここでは一つ特筆させていただきたいことがあります。
正室の八十姫が江戸屋敷で亡くなったとき、頼宣は棺に付き添って和歌山まで帰っているのです。
夫婦仲が良かったとされる大名は他にもいますが、ここまでした人はおそらく頼宣の他にはいないでしょう。
頼宣が実家を失くした(※注)八十姫へ一方的に同情していたわけでもなく、姫のほうも生前頼宣のために仏像を奉納していたりと、まさに相思相愛だったことがわかります。
生まれは遅かったものの、情も濃く覇気に富んだ頼宣はまさに”遅れてきた戦国武将”と呼ぶに相応しい人物だったのではないでしょうか。
※注:八十姫の実家加藤家は、二代目忠広の行いがよろしくない”らしい”というイチャモンをつけられて改易されておりました
参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E5%AE%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%A4%E6%9E%97%E9%99%A2
http://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/foodculture/19.html
[72] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月02日 06時20分27秒 ) | パスワード |
>松下氏も2〜3軒(基)あって
>例の「丸に並び矢」であった。
>松下房利が伊賀守であり、継室が大久保忠重の娘であり、
>忠重の次男は服部正次(政信の弟政重の子)の養子となっており、
>近い関係にあるように思えてならない。
この関係で家紋が「丸に並び矢」なのでしょうか?
不思議ですね。
[73] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月02日 10時04分39秒 ) | パスワード |
本日見終えた文庫本にこんな言葉がありました:
歴史はミステリー
我々はアリバイを崩さなくては
ということで
服部中の暗殺はやっぱり今川の旧家臣による犯行ではない
と思います。
理由は
身分のある人物が単身でフラフラ外出してるわけがないから。
誰かに呼び出されたのだと思います。
恨みを持つ今川の旧家臣の犯行、ということにしたのだろう、と。
ということをその本を読み終えた時に思いました。
笑
[74] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月02日 23時41分31秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
頼宣の情報ありがとうございました。すごく勉強になり視野が広がりまし
た。家康がかわいがったということ、利発で素直で剛健でかわいく、母の
家柄・人柄・容姿が良ければいう事はない・・・?
さて、本日の細江行きの成果は次の三つであります。
1.今まで何気なく通っていた道の側に「堀川城址」があったこと。今までは
気に留めた事は一度もなかったが、本日初めてその意味・歴史的価値がわ
かった事。
2.『文政武鑑』というのがあり、これには大名・家臣の家紋他が記載されて
いて、家紋探しには最高の本。これを細江図書館で見つけた事。
3.同じく図書館で、『松下加兵衛と豊臣秀吉』という本を見つけた事。この
本により、松下と服部中の関係の解明が少し進みそうです。
とにかく、歴史の根は一本二本というような単純なものでなく、見えない
根が一杯はえているという事を感じます。
では、具体的に―
1.堀川城址は案内によると気賀関所の西ということで、本日行ってみる事に
しました。細江警察署の北裏が気賀関所、そしてその北側に細江図書館も
ある。細江警察署を超えて西へ行くと、500メートル位か、道路の左脇
にフェンスで囲った石塔が見えた。昔から何回もこの道を通っているけれ
ど、何か史跡がある程度の認識しかありませんでした。そもそも歴史に余
り興味がなかった訳であります。それが、本日、車を止めて入口に立って
いる石碑を見る。―「首塚」・・・一瞬ギクッとする。石塔は堀川城址と
掘られている。今は知識があるので気持ちはズッシリと重い。
石碑の左10メートル位の所には、盛り土の上に墓石が立てられている。
時々お参りに来る人がいるのか、コウハナがそえられ、またビニール袋
に入った塩が2袋置いてある。お浄めの塩なのだろう。
道路側の「堀川城址」の案内看板を読む―
「日本中が戦乱に明け暮れていた室町時代の終わり頃、この地方は今川氏
の勢力下にあった。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、義元が戦死し
た後、土地の人々はここに城砦を築き、地名にちなんで堀川城と名づけ、
刑部(細江町中川)にも刑部城を築き、徳川家康の遠州侵攻に備えた。
永禄11年(1568)刑部城を落した家康は、翌12年3月27日に
3000人の軍を率いて堀川城に攻め入った。男も女も戦える者およそ
2000人は、すべて城に立て籠もって抵抗したが、みるまに落城した。
この戦いに加わった大久保彦左衛門が書いた三河物語には「男女ともに
なで切りにぞしたりける。」とある。残った人々も徹底的に捕えられ、9
月9日ことごとく首を打たれた。3月27日の戦いでおよそ1000人、
9月9日に700人余、当時の住民の半数以上の犠牲者を出したと伝えら
れる。 昭和63年3月20日 細江町教育委員会」
夜も遅くなりましたので、この続きは明日にします・・・。
[75] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 03時15分36秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
すごい成果のあった日になりましたね。
刑部・首塚のくだりでゾクゾクしました。
そうか!
この恨みで服部中が暗殺されたのかしら?
と思いました。
ということは服部中が暗躍した?
そうなんですか
堀川城跡の近辺は何度も通っていた所でしたか。
歴史って、ホントに素通りしているものですね。
何かきっかけが無いと心にドシンと響きませんね。
続きが楽しみですが、ごゆっくり。
あ、日本は祭日ですね。文化の日。わたくしの祖父の命日です。
連休で良かったですね。
[76] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 03時21分55秒 ) | パスワード |
http://www.geocities.jp/hirahokazu/osakabejou.html
堀川城跡のサイト
「獄門畷」
なかなか興味深いサイトです。
[77] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 03時31分26秒 ) | パスワード |
http://atenzasports23z.blog.so-net.ne.jp/2013-11-10
堀川城は、気賀の土豪、斎藤為吉・竹田右京・新田四郎・山村修理・尾藤主膳らが築いた城柵である。戦国時代、この地は今川氏の勢力下にあり、今川義元が桶狭間で討たれ、今川氏が弱体化すると、1568年にこの地の今川方の土豪達は、徳川家康の遠江侵攻に備えて堀川城と刑部城を築いた。
1568年、刑部城を落とした家康は、翌69年3月27日、3千の軍で堀川城を攻めた。土豪達は農民ら2000人と城に立て籠もって抵抗したが、間もなく落城し、男女共1000人がなで斬りにされ、捕虜となった人々も700人余が首を討たれたと、戦いに参加していた大久保彦左衛門の『三河物語』に記載されている。
堀川城は、浜名湖畔に築かれた平城であったが、現在は耕地化で完全に湮滅している。わずかに城址碑と首塚が残っているだけである。尚、近くの気賀宿には関所跡や気賀宿西入口の枡形、斬首された首が晒された獄門畷などが残っている。又、城址から西に1.5km程の所には、城を逃れた後燃え落ちる堀川城を見ながら切腹して果てた城将山村修理の墓が残っている。
泣ける
http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/archives/4031182.html
徳川家康が攻略 約1000人が討死した 市指定史跡 堀川城跡(址) (静岡県浜松市北区(旧引佐郡)細江町気賀呉石)
静岡県浜松市北区(旧引佐郡)細江町の堀川城は、戦国時代(室町時代後期)の永禄10年(1567年)に徳川家康の遠江侵攻に備えて、今川氏配下の気賀領主 新田友作らによって築かれました。
その際、この地に鎮座していた屯倉神社(みやけじんじゃ)を東岩崎水神社に移して合祀し、屯倉水神社と改称。
永禄12年(1569年)3月27日、徳川軍が3000人の兵力で堀川城を攻略。
堀川城に立て篭もった約2000人のうち、半数が討死しました。
堀川城は都田川(北)と入江(西と南)で囲まれ、東側に城門がありました。
永禄11年(1568年)に徳川家康が、細江町中川の刑部城(おさかべじょう)を落城させます。
永禄12年(1569年)3月27日には、徳川軍が3000人の兵力で堀川城を簡単に攻略しました。
堀川城は、男女合わせて約2000人が立て籠もっていましたが、「男女ともになで切りにぞしたりける」と家康家臣 大久保彦左衛門の「三河物語」に記されています。
[78] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 03時37分29秒 ) | パスワード |
http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/archives/4031182.html
今川義元を討った 服部小平太中安次 最期の地 姫街道 長坂 (静岡県浜松市北区細江町中川)
静岡県浜松市北区細江町(旧引佐郡細江町)には、東海道の脇道の姫街道が通っています。
姫街道 長坂は、今川義元を討った服部小平太中安次(はっとりこへいたなかやすつぐ)が暗殺された場所です。
戦国時代の永禄3年(1560年)5月19日、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で織田信長の家臣であった小平太は、毛利新助(もうりしんすけ)らと共に今川義元を討ち取りました。
信長亡き後に徳川家康の家臣となった小平太は、この地の領主となっています。
天正15年(1587年)に一人で巡視していた小平太は、何者かによって長坂の途中で討たれました。
この地域は以前は今川氏が支配しており、桶狭間の戦いで戦死した当地出身者も多く、小平太に恨みを持つ者の犯行だと言われています。
長坂で殺された人物と今川義元を討った服部氏は、別人だという説があります。
http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/tag/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%B0%8F%E5%B9%B3%E5%A4%AA
服部小平太
[80] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 09時18分30秒 ) | パスワード |
書き直し
レス<78>
>信長亡き後に徳川家康の家臣となった小平太は、この地の領主となっています。
1) 信長亡き後に徳川家康の家臣となった
↑
ここちょっと違和感あります。
寛政重修諸家譜では永禄8年召されて家康に仕えることになった
と書かれています。
2) この地の領主となっています。
服部中保次(宗次・安次)は天正5年4月23日に
遠江国引佐郡と三河国岡村で 120貫文 拝領。
この引佐郡の領地というのは 細江町気賀=堀川や刑部?=のことですよね。
[81] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 09時27分04秒 ) | パスワード |
こんがらがりまくっています。
寛政重修諸家譜より服部中の家について:
服部小平太・中・保次
足利義輝に仕え「服部の惣領職相違あるべからず」の旨、判物を給ふ。
後、信長に仕え、
永禄3年桶狭間で今川義元の本陣に馳せ向かひ、戦功を?す。(勤す?)
8年召されて家康に仕える
9年足軽同心50人(のち55人)を預かる
天正4年同心更に22人を預かる(計77人)
5年4月23日引佐郡・三河国岡村のうちに120貫文の采地をたまふ
10年6月伊賀越え
こんな内容です。
[82] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 09時32分49秒 ) | パスワード |
足利義輝から「服部の惣領」というお墨付きは尾張津島の服部小平太も貰ってるとどこかで読みました。
服部中と津島の服部小平太
非常に前振りがにています。
後半は違うのよね。
服部中は後に家康に仕え遠江国に領地を持ち、後に暗殺された。
津島の小平太は信長に引き続き仕え、秀吉の家臣となり、秀次のお守役になり連座切腹。
[83] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 09時40分34秒 ) | パスワード |
もう1度、寛政重修諸家譜にもどります。
もしかすると、服部中と津島の服部小平太は兄弟か従兄弟か、そういう関係だったのかな?と。
服部中保次:
平氏高棟流
弥平兵衛宗清子孫
宗清は伊賀国阿拝・山田2郡のうちに於いて32村の地をたまひ
阿拝郡服部に住せしより子孫服部をもって家号とす
保次はその後裔
伊賀守宗純が末孫なりといふ
[85] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 09時47分12秒 ) | パスワード |
服部小平太一忠
服部 一忠(はっとり かずただ、生年不詳 - 文禄4年(1595年)7月)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
通称は小平太、采女正。名は春安、忠次とも。
生涯[編集]
尾張国の出身。はじめ織田信長に馬廻として仕え、
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて今川義元に一番槍をつける戦功をあげた。
しかし、義元の反撃を受けて膝を斬られたので、首級を挙げたのは助太刀に入った毛利良勝であった。
桶狭間の戦い以降は織田氏の配下として目立った活躍は知られていない。
天正10年(1582年)の本能寺の変ののち、再び馬廻として豊臣秀吉に仕えて黄母衣衆の一員となる。
天正13年(1585年)、従五位下采女正の官位に叙せられた。
また、小田原征伐の戦功により、天正19年(1591年)に松阪城主に抜擢されて伊勢国一志郡に3万5000石を与えられ、同時に当時、尾張・北伊勢の支配した羽柴秀次に付けられた。
文禄元年(1592年)、文禄の役において漢城に従軍。
文禄4年(1595年)の豊臣秀次失脚に連座して所領を没収され、上杉景勝に預けられた後、切腹を命じられた。
次男の勝長は大崎長行の養子となり紀伊徳川家に仕えた。
[86] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 10時08分19秒 ) | パスワード |
微妙に違うけれど 服部中の家は服部政光・政信・政重の家にかなり近いようです。
服部政光・政信・政重の家:
平氏
葛原親王の後胤
伊賀平内左衛門保長の息子の平内兵衛保清が伊賀国服部に住せしより家号を服部とす
保清9代の孫修理亮保宗
その子を伊賀守宗純とし
その子を宗家とし
その子を伊賀守宗信とし
その子を左京亮宗政とし
その子を政家とす
その子左京亮
服部政光の父は服部権大夫・左京亮・信発または政家
織田信秀に属し
のち尾張国河内に蟄居 ← ということは何か事件があって織田家と喧嘩した?
天文5年8月13日死亡 45歳
妻は横井丹後守
服部政光
桶狭間の時に兵糧を家康に持って行って喜ばれた
それで岡崎で召され仕えることとなった
妻は千秋氏の娘
その子政信以下が新井の関奉行になっていく
[87] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 10時52分18秒 ) | パスワード |
つまり尾張の服部家は2つに別れていた:信長家臣と反信長一派
*1つは信長の家臣:服部中と 津島の服部小平太 の2つ
*もう1つは反信長:尾張の鰍浦の服部家(ホンヤさんの家)3つ
かじかうらと読みます
計5つの服部を称する流れがあったのだろう。
*服部中の家と津島の服部小平太の家はかなり近い関係
同一人物かと思うほど近い関係
ただし服部中の家は桶狭間の後に家康に仕えた
津島の服部小平太はそのまま織田家に仕えた
兄弟か従兄弟か?
↓
ここの関係は一応親戚だろうけど、ちょっと遠い親戚だろう
↑
*尾張の鰍浦の服部家一族は、桶狭間当時、少なくとも3人の人物がいたんだね
3人とも反織田信長だった
今川家と服部家で信長を挟んで殺すつもりだった
多分、兄弟か従兄弟の関係で
服部政光の父が3人の「父親」だったのかも。
服部政光の父は権大夫信発または政家で、
初めは織田信秀に属していて、喧嘩して蟄居して
以来、3人の男子は反織田信長。
以下は尾張の3つの服部家の代表について:
・服部政光は父のことから反織田で
桶狭間の時に家康に兵糧を持って行って喜ばれて仕えることになった
その子・政信以下は出世して遠江国の関所の奉行になった
・服部左京亮友定(友貞)が服部家の反信長の中心人物で、
今川義元と同盟してて、信長を挟んで殺すつもりだったが失敗
・服部家ホンヤさんの先祖(友定=友貞 の弟)
友定が伊勢長島の後、伊勢で謀略で殺されてから
信長にアタマ下げて
尾張に今もいる
************************
以上が尾張の服部家のざっと分類した流れ。
[88] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 11時03分48秒 ) | パスワード |
服部政光らの父=尾張の鰍浦の服部家の大黒柱=が亡くなったのは
天文5年 ということは 1536年。
つまり桶狭間の戦いのかなり前。
↑
永禄3年5月19日(1560年6月12日)
ということは服部中や津島の服部小平太が生まれる前あたりに服部政光の父は織田家と喧嘩してたのでしょうね。
ひょっとすると 服部中や小平太の「お祖父さん」だったかも?
それか大伯父さまか?
だから 服部中グループと服部政信グループが親戚か?と問われたら 一族だろうけどかなり遠い?
従兄弟か、また従兄弟か、もっと遠い関係?
[89] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 11時05分37秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
また新しいスレッドをキリの良いところで立ててください。 XVIII ですね。
[90] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 11時07分32秒 ) | パスワード |
寛政重修諸家譜「服部氏」
http://books.google.com/books?id=cxi2gPgFtMwC&pg=RA1-PA3&lpg=RA1-PA3&dq=%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F&source=bl&ots=IuBWtW1MWX&sig=HRz-NppBrsXNS5pUqmzCp62iScY&hl=en&sa=X&ei=XDsmVICYOIWuogTjiYCwAg&ved=0CCcQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F&f=false
もう名前が似ててグジャグジャです。
その上に画面が不安定でフラフラしてどこかに行方不明になるし。
コピペ出来ないのが残念です。
[91] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 11時11分28秒 ) | パスワード |
今、確信しました。
服部中が暗殺されたのは
服部中が堀川城の1700余名を惨殺した実行部隊だったから?
[92] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月03日 11時18分00秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
あを様の言われるように、服部中保次は刑部村の領主となったわけですか
ら、当然「堀江城の戦い」には一番の働きをしたのだと想像します(今後、郷土
史の本で保次の行動、また地元の勢力の動きを調べてみます)。生き残った者
にとっては恨み骨髄であったでしょうね。
それにしても、700人もの捕虜の打ち首、断行する方にとっても地獄で
あったでしょうね。余りにもむごく、今の私達には考えれません。家康が
本当にやらせたのでしょうか。他の戦いでもそうだったのでしょうか。いわ
ゆる皆殺し、殲滅。見せしめと同時に、反抗の芽を根こそぎ取り除いてしま
う。戦いの実際というものがどうだったか今後探究してみます。家康はもう
少し温情がある人だと思っていましたが・・・信長との関係がそうさせたの
でしょうか。
さて、2番目の『文化武鑑』(文政ではなかった)ですが、岩村城の博物館
で同じような古文書を実際に見ましたが、大名、家臣のいわゆる名鑑、プロ
フィールの紹介。一番目立つのが、家紋、そして槍印、押、駕、纏、船印・
帆幕印・・・いわゆる戦闘の時の識別。
文化時代というと1800年代初頭ですので、本当は1600年代であっ
てほしかったのですが、世代が8世代もちがって来る勘定になります。
それでも、今までに巡り合ったことのない資料ですので、色めき立ちまし
た。やった! 思わずほくそ笑んだ訳でありますが、『寛政重修諸家譜』はそ
っちのけで全7巻の内2冊に目を通してみました。「丸に三つ柏」の旗本
服部氏を探しました・・・が、この紋で出て来るのはほとんど牧野氏、そし
て長田氏、あと少数で落合氏、窪田氏、石原氏、野沢氏、松平氏でありまし
た。残念ながら、服部氏は見つかりませんでした。それでも、牧野氏と長田
氏が丸に三つ柏を使っていた事が、事実としてわかりましたので収穫です。
我が家系の家紋は長田氏との関係でとらえた方がよさそうです。直勝が長田
から永井に改めたのが天正8年(1580)の事である。たぶんその時に家紋
を変えたでしょう。直勝以外の長田氏も名前を永井に変えたが、家紋はその
ままにした人と新たな家紋にした人が出てしまった。これは祖先に対する郷
愁の相違であったのではなかろうか。その後、服部と長田氏の婚姻関係で
家紋が丸に三つ柏の服部になったのか・・・。服部中の末裔としてつじつま
があうのか。服部中保次が亡くなったのは天正15年(1587)、62才で
なくなっている。つまり保次55才の時に、直勝は永井に名前を変えた。
服部・永井は刑部村近辺には住めないので離れた所に住んだか・・・。これ
らは私の夢想。
さて、3つ目の『松下加兵衛と豊臣秀吉』であるが、この本はこれから
じっくり読みたいと思っています。できればインターネットで取り寄せ、
本の中に鉛筆や蛍光ペンでマーク・メモをしたいと思っています。
この中に服部中保次と刑部村の事が書かれており、またそれが松下之綱
と関係するという事でビックリしました。今はこの本を熟読しておりませ
んので、その一部だけですが、興味深いので長くなりますがご紹介いたし
ます。
「松下正三氏と常慶・松下せぎの話
この松下正三さんには、いろいろの歴史の記憶についてご教示をい
ただいた。まず記憶に残るのは、桶狭間の戦いで、今川義元に一番槍
をついた服部中保次が、領地見回りのため浜松・神ケ谷の陣屋から馬
でこの地を訪れた時、正三さんの家のすぐ裏手の姫街道長坂で刺客の
ために殺されたことである。
正三さんの父親はその現場をまさに見て来ているかのように氏に伝
えてくれたとのことである。正三さんが連名でこの服部氏暗殺の記念
碑を現場に建てた事、犯人はたぶん、この地の者で、今川氏の恩顧を
受けた者であろうということ。〜中略〜
だが、正三さんは自分の家が松下常慶安綱(おりんを生んだ之綱の奥
さんの兄弟、松下連昌の子)の子孫であるということは、明示されては
いなかったと記憶している。常に謙虚であり、奥深いつつましやかな
人であった。
しかしながら、姫街道が三方原台地から下り坂となり、細江の気賀
にぬける平地になるその接点に、松下正三さんの家はうるのはなぜで
あろうか。屋敷の敷地の中を姫街道が貫いているというのは、どう解
釈すればよいのだろうか。
ある時この疑問を正三さんにぶつけてみた。その時、松下正三さん
は、たぶん私の家は関所のような役目をしていたのではないでしょう
かとぽつりと言われていた。
実は、この姫街道をもう少し北星方向に進むと、都田川の橋にぶつ
かる。川を越えれば、細江町の中心部で気賀の関所となる。江戸時代
に橋はなかったそうだ。大雨などだ大水になると川越できないので、
この集落は、通常は農業で生計を立てているのだが、にわかに宿場町
の体をなすというのである。
じつは、そんな地理的な関係において、正三さんの家は家康の側近
ともいえる常慶の分家でもあることから、姫街道を「いざ」という時
は遮断するようなあるいは気賀の関所の補完的な意味での「要衝」に
建てられているということが十分に想像できるのである。先祖が常慶
ゆえに、「ある」役割を託されたいたのかも知れない。」
松下氏についてはこの本の中に一杯興味深い話が載っていますので、今
後ご紹介して行きます。
いずれにしても、神ケ谷の姉の松下家(丸に縦並び矢)はますます服部中
家との関係、そして松下之綱の系列の可能性が出てきました。要衝の警護
をしたということ・・・。もし私の先祖が服部中系であったなら、なんと
いう祖先の霊のお導きであったか・・・。中安家もまた別のケースでつな
がっているのかも。私の母方の先祖平野家が松下之綱に仕えていたという
。また私の父の母(祖母)は殿様の水野家の末裔の乳母をしていて、報徳構
でよく金原明善の家に行っていたという。歴史の根は縦横に絡み合って、
本人の知らない所で操つられている気がします。先祖は見ているのでしょ
うか?
[93] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月03日 14時36分58秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
すごく重要なお話をありがとうございます。
驚きです。
>郷土史の本で保次の行動、また地元の勢力の動きを調べてみます)。
>生き残った者にとっては恨み骨髄であったでしょうね。
ということは気賀のあたりでは服部中の家は土地の人には不倶戴天の敵ということになりますね。
服部中はもともと織田家中の者で義元を殺した張本人の1人
今川義元の領地を横取りした家康の家来
堀川城を落とし、村人を殺しまくった張本人
本当に服部中がやったのでしょうか?
>それにしても、700人もの捕虜の打ち首、断行する方にとっても地獄であったでしょうね。
>余りにもむごく、今の私達には考えれません。
>家康が本当にやらせたのでしょうか。
家康がやらせたというより、家康に忠誠を示すために、より残酷にやった、でしょうか?
>他の戦いでもそうだったのでしょうか。
>いわゆる皆殺し、殲滅。見せしめと同時に、反抗の芽を根こそぎ取り除いてしまう。
伊賀の乱でも動くものは全て殺されたそうですから、
僧侶も女も子供も犬でさえ。
伊勢長島の一揆ではうちの村の人達が2万人?殺されたそうです。
>家康はもう少し温情がある人だと思っていましたが・・・
自分の息子でも死なせていますから、孫の婿=秀頼=も死なせているし、息子の嫁の姉=淀殿=も死なせているし
戦さに温情など有り得ないですよ。人道的な拷問が存在しないように。
>信長との関係がそうさせたのでしょうか。
信長も秀吉も、そうそう、家康は頼朝についても研究していますから
敵は根絶やしが1番、と思っていたでしょうね。
>『文化武鑑』
>「丸に三つ柏」の旗本服部氏を探しました・・・が、
>残念ながら、服部氏は見つかりませんでした。
本当に残念です。
文化時代には丸に三つ柏紋の旗本の服部氏は・・・
ここで「はっ」と気づきました!
ひょっとすると
関所の奉行が吉田藩に任されて、業務を担当する役人が吉田藩に吸収された
と前に書いていますから
それで丸に三つ柏紋の旗本=徳川幕府の役人としての旗本=の服部氏は文化時代には消えていたのかも。
ということは豊橋の市役所に問い合わせないといけないですね?
豊橋の図書館、とか?
吉田藩についてもチェックですね。
>服部と長田氏の婚姻関係で家紋が丸に三つ柏の服部になったのか・・・。
「三つ柏紋」ということは、そうなんだと思います。
でも、違うかも知れないし。
松下家は丸に並び矢紋なのにね。
これも不思議ですね。
で、松下加兵衛之綱の家紋は何なんでしょう?
まさか丸に並び矢紋ということはないですよね。
確か、佐々木の四つ目紋だったような?
以下、「江戸時代のバカ殿伝説」に出て来た話と重なります:
松下重綱の子・長綱は年齢を理由に陸奥三春城主になり、
土佐藩主・山内忠義の娘・喜与(喜代、清とも)と婚姻するが、
縁戚であった加藤明成・明利の改易に連座して改易され、
以後は上総・伊豆に所領を持つ交代寄合旗本3000石として存続した。
江戸時代の旗本であった松下家は13家を数えるほどである。
「江戸時代のバカ殿伝説」より加藤明成について:
1.袂を分かち出奔した家老に激昂し、
「奴を成敗できるなら会津40万石返上しても構わない!」と豪語、
お望み通り家老は成敗され、会津の所領は没収された。
ちなみにその家老(堀主水)の妻子を救ったのは、豊臣秀頼の娘の天秀尼。
彼女が住持をしていた鎌倉東慶寺は、駆け込み寺として江戸期を通じ女性の救済機関になった。
改易後、倅のいる石見国(現在の島根県西部)に身を寄せた。
2.お金、特に一分金がなぜか好きで、皮肉交じりに「加藤一分殿」と呼ばれた。
きっと、夜中に「一分金がいちま〜い、にま〜い」と数えて喜んでいたに違いない。
3.某漫画では柳生十兵衛にイチモツを斬りおとされて悲惨なことに
>服部中の末裔としてつじつまがあうのか。。
まだ分からないですね
服部中の家は いすみ郡
保正(保政)の時に上総国夷隅郡に移されて
保俊の時に遠江国敷知郡・長上郡に移されてますから
この保俊の子孫かも、ですね。
寛政重修諸家譜が不安定で、
Aの人とBの人を読み比べようと、カーサーを動かすと
どこかに消えてしまうので
なかなかうまく情報が拾えないし、名前がややこしくて、分けがわからなくなるし。
なかなか読めないでいます。
>『松下加兵衛と豊臣秀吉』
>この中に服部中保次と刑部村の事が書かれており、
>またそれが松下之綱と関係するという事でビックリしました。
わたくしも驚きです。
是非また知らせてくださいね。
秀吉と之綱の関係
そして秀次に仕えていた加藤家の関係
これで松下家と加藤家が関係するというのが分かりそうですね。
>姫街道が三方原台地から下り坂となり、細江の気賀にぬける平地になるその接点に、
>松下正三さんの家があるのはなぜであろうか。
>屋敷の敷地の中を姫街道が貫いているというのは、どう解釈すればよいのだろうか。
>たぶん私の家は関所のような役目をしていたのではないでしょうかとぽつりと言われていた。
謙虚な人ですから、遠慮しいしい、我が家はその昔、要衝の建物だった、
とおっしゃっているのでしょうね。
>正三さんの家は家康の側近ともいえる常慶の分家
>姫街道を「いざ」という時は遮断するような
>あるいは気賀の関所の補完的な意味での「要衝」に建てられている
>ということが十分に想像できるのである。
>先祖が常慶ゆえに、「ある」役割を託されたいたのかも知れない。」
でしょうね
屋敷=城
そういう役目を持っていたということですね。
>もし私の先祖が服部中系であったなら、なんという祖先の霊のお導きであったか・・・。
服部中か服部政信か
どちらかでしょうね。
>私の母方の先祖平野家が松下之綱に仕えていたという。
平野氏は南朝方ですから
そちらでも服部家と繋がるのでしょうね。
>また私の父の母(祖母)は殿様の水野家の末裔の乳母をしていて、
>報徳構でよく金原明善の家に行っていたという。
水野家は家康とお大さまで繋がる親戚ですから
やはり昔っからの関係から乳母に選ばれたのかもですね。
>歴史の根は縦横に絡み合って、本人の知らない所で操つられている気がします。
はい
我々は日本史の中に、まさに、今も生きているのです。
我々が知らないだけ。気づいてないだけ。
>先祖は見ているのでしょうか?
もちろん!
「頑張れ!」と手に汗握って応援してくださっていますよ。
「もう少しだ!」と。
吉田藩も、新井の関所の件で、お調べになってくださいね。
では XVIII を立ててくださいね。
[94] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月04日 15時52分37秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
松下加兵衛之綱の関係の続きです─
『松下加兵衛之綱と豊臣秀吉』(冨田公文著)によると、松下常慶安綱が伊賀
忍者だった可能性について次のように述べています。
「なお、松下常慶を「伊賀忍者」としているものがある。
それがどこに典拠するものかは不明であるが、『武功盛衰記』(南條範夫)
という本には、駿府城の徳川家康の寝所に丹波忍者の石川某という者が忍 び入り、家康の命をねらおうとした。ところが、警備をしていた松下常慶
に見つかり、組み討ちとなったが石川某は消え失せたという。
さきに、松下系図の常慶の中に「奥勤」の意味は、家康の身辺警護、今
風にいえばSPとしての役割をしていたというのは十分想像できる。台所
奉行とはそのような役職であろうと思われる。
そして、そういった役職において信頼と実績を積んだ松下常慶の子孫は
代々、直参旗本として、主に治安維持の役職「火付け盗賊改め方」を勤め
た。いわゆる「鬼平犯科帳」の世界である。
〜中略〜
もともと井伊家と松下家は関係が深かったから領地も隣り合っていたの
だろう。この点で、(松下常慶系は)同じ松下一族とはいえ、豊臣秀吉恩顧
の松下加平衛とは姻戚関係にありながら、それとは対立軸にある徳川幕府
の重職をになった松下一族の系譜といえるのである。
徳川家康の遠州侵攻前後の松下常慶安綱の活躍と、兄・松下源太郎清景
が井伊直政の継父となって今川氏の追求から保護したこと、徳川家康の母
於大の方が家康の出産前に安産を祈願した三河の鳳来寺との関係など、三 遠を結ぶ1つの糸のようなものが見えてくるような気がする。
井伊直政が、三河譜代の武将ではなかったのにもかかわらず、井伊家が
彦根32万石の大大名になった背景にこのような松下一族の働きがあった
のも1つの背景として考えることもできる。その家康と井伊直政を結びつ
けたのが、松下家であるとすれば、井伊家にとって、影の功労者は松下清
景であり、そして松下安綱であると思うのである。」
なお、井伊直政についての秘密も書かれているので、これは次回にします。
いずれにしても、新居の関番だった服部正信系・服部中系も中忍・下忍の
組織で警備していたわけで、その反対側の気賀の関所でも同様な警護をして
いたならば、松下家も忍者の一族だった可能性、そして服部と松下の姻戚化
も大いにあり得たことではないかと推察いたします。
[95] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月04日 22時24分47秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
そうだったのですか
実は松下常慶安綱にはそういう秘密があったのですか。
ま、どこの豪族でも情報網を持っていたのでしょうけど
領主自ら情報網にタッチしてた
または情報網を管轄することで立身出世していった
という成功例なんでしょうね。
「同心」というのは情報網を担う下っ端で「忍者」と同義語だったのかもね。
江戸時代には表に出て来て警察化して
現代ではドラマがたくさん作られて
「同心」という言葉からは過去の姿である「忍者」は想像出来ないけど
パシリ → 忍者 これに身分を与えて → 同心へ出世 かな?
井伊家ってわたくし的には「普代」大名家なんですが
確かに三河の人じゃないですものね
本来の徳川家の譜代じゃないですね。
いつもそのことを忘れています。
またお時間のある時に井伊家の秘密を教えてください。
このスレッドではまたまた大いなる飛躍がありました。
[96] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月05日 12時47分08秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
あを様のいわれるとおり、忍者から同心への移行について、今後少し探求
してみたいと思います。江戸に幕府が移ってからは、忍者部隊というイメー
ジではなく、同心とか鉄砲隊とか千人隊とか隠密とか、どちらかというと表
向きの組織に変わって行きます。服部半蔵の時代から、警備・諜報の実権は
藤堂高虎等へと移って行くのではないか。合わせて柳生宗矩の活躍の時代の
到来・・・この辺の推移を探求したいと思います。
忍者とは何か、忍者の定義とは・・・?
「雇われ異能集団」・・・これだけでは総括できないですね?
後で、「井伊直政が家康に重用された背景」についてを記載します。
[97] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月05日 15時13分21秒 ) | パスワード |
井伊直政について楽しみにしております。
忍者についても、柳生に指揮権が移っていくこととか、
実に不思議ですね。
だいたい松下家から娘が柳生宗矩に嫁いだり
柳生が服部家潰しをしたり
やっぱりアヤシイ。
[98] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月06日 00時08分55秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
井伊直政が家康に重用された背景について、冨永公文氏(私の高校の後輩
にあたる、歴史家、郷土史家、元中学校教諭)は『松下加兵衛と豊臣秀吉』の
中でこう記述しています。
「井伊直政の異例の出世について『井伊年賦』において、家康の正室・築山
殿の母が今川義元の義妹とされているが、実際は井伊直平の娘で、元は今川
義元の側室であり、不要になった側室を関口氏に下げ渡したとされる。いわゆ
る「拝領妻」であったという。
それゆえ、築山殿の生んだ、家康の嫡子信康亡き後において、信康とは血
縁関係にある井伊直政に信康を重ねて見て寵愛し、取り立てたのではないか
と推定されている。つまり、井伊直平にとっては孫娘にあたるのが築山殿で
あり、さらにそれを今川義元の娘として家康にと嫁がせたというのである。
『井伊直平公一代記』(引佐町史第一集)
こんど引佐図書館へ行った時に、『引佐町史』で実際に確かめてみます。
[99] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月06日 06時16分30秒 ) | パスワード |
拝領妻、でしたか。
これって、清盛も拝領妻の子、ですものね。
斎藤道三の側室も拝領した女性だし。
それで柳生のことを考えたのです。
呉服神社の服部貞信は宇治田原に住んでたことがあって
柳生の里というのは伊賀の西だし
実はこの貞信というのは昔っから柳生家のことを知ってたのでは?と。
観阿弥の家でも楠一族と関係があったりして
だから服部貞信が柳生と通じてたというのはアリだったのではないかと。
人間のことって、表面からでは分からないですね。
特に女性が絡むと
西郷局のことでも本当の父親は百々度右衛門かも知れないし。
特に出世しますと出自ロンダリングが行われますから
西郷局の父親は謎だったりするかも。
父親は、遺伝子上の実際の父親は誰か分からないというのが人間かも。
笑
[100] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月06日 08時26分48秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
柳生と服部貞信、大いに関係ありそうですね。探求してみます。
[101] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月07日 06時22分13秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
柳生と服部貞信の関係はとりあえず頭の隅におきます。柳生と松下の関係を
先に考察して行き、背景を探ってみます。
松下之綱の娘、おりんが両家の橋渡しとなったわけですが、これはどんな背
景があったか?
『松下加兵衛と豊臣秀吉』によると、「島左近」が介在しているという事で
ある。
「松下加兵衛之綱の三女おりんと柳生宗矩が結婚し、かの柳生十兵衛三厳と
宗冬の兄弟が生れたのは有名な話である。その二人の中をとりもったのが島左
近の存在である。
島左近は有名な人物であるが、良質な史料に恵まれないために不明なことが
多いのも事実である。松下加兵衛之綱の娘と柳生宗矩の婚姻にはこの島左近が
大きくかかわっていたのである。
これは奈良市柳生の芳徳寺(大和柳生家の菩提寺)の住職のお話によるものだ
が、島左近の屋敷(場所は他説あり)に松下加兵衛之綱の娘が武家奉公していた
時に、そこを訪れた柳生宗矩がこの娘を見そめて結婚したという。この話は、
柳生の里では有名な話で、地元の人々によって昔からそう語り継がれていると
いうことである。
浜松の鈴木遠音氏は『浜松周辺の古跡漫歩』の中で、「石田三成の紹介で、
松下之綱の娘、おりんが、島左近の屋敷において行儀作法を教えていたところ、
たまたま訪ねてきた宗矩が、おりんを見そめて、ふたりは結ばれた」と記して
おられる。なお、このあらましは読売新聞社編集局の『新家康探訪』にもその
まま引用されている。
私は、この松下家と柳生家の関係を興味深く思っていたが、松下加兵衛之綱
と豊臣秀吉とは主従を越えた親戚あるいは兄弟のような関係であったと考えて
いるから、豊臣秀吉子飼いの石田三成の重臣となった島左近の存在は注目に値
するものだ。
とすれば、豊臣秀吉のもとにあって、松下一族は石田三成や島左近とも近い
関係にあったということも推察できる。」
松下之綱と島左近の関係はわかった。では島左近と柳生宗矩との関係は?
学研の『忍者と忍術』によれば、
「柳生但馬守宗矩を忍びの範疇に加えるのはいささか躊躇を覚える。それでも、若い頃の宗矩はわずかながら諜報活動に従事した形跡もある。
太閤秀吉が没した直後の慶長四年(1599)正月、柳生石舟斎は石田三成の
動静を探るため、息子宗矩を島左近のもとに遣わした。左近は筒井順慶の家老
だった時期があり、その頃、同じく順慶に従っていた柳生家とは知己だった。」
奇しくも之綱と雪舟斎の思惑(?)が「島左近家とおりん」ここで一本の線と
してつながったのである。これも武に生きる者たち同士のシンパシィであった
のか・・・。これにより、柳生家は松下家と井伊家、井伊家と家康の関係にお
いて、次の時代の権力の中枢(特に家光)へと昇って行くことができた。
井伊家もそう、柳生家もそう、まさに松下様のおかげでの出世でありました。
[102] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月07日 07時07分35秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
意外なところで意外な人物が繋がりましたね。
松下加兵衛と秀吉は近かったから三成とも親しかったでしょうね。
で、島左近がここに加わって、加兵衛の娘が加わって、
柳生が参入ですか。
人間関係は本当に大切でうまくやらなきゃいけないですね。
どこでどう出世の道が開けるか
どこでどう命が助かるか
昔、一匹狼だった自分を反省、です。
[103] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月08日 07時29分40秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日、『松下加兵衛と豊臣秀吉』を読んでいて再確認したことがございまし
た。それは、頭陀寺松下家の系図が詳しく書かれておりましたので、私の伯父
さんから聞いた話というか系図の説明書きを見比べたところ、ぴったりと線が
つながりました。
それは、之綱の長男(松下屋敷初代)からはじまります。
暁綱―遥綱―浄綱―喜綱―登綱―茂綱―嘉平治―嘉平治―源四郎―しん―
定雄―洸(東京都在住)
伯父さんからもらった説明書きは、「しん」は二女で、四女が松下きよみ。
きよみは太田家の長男に嫁いだ。太田家の三男には男子がなく、私の伯父
照夫が婿養子に入った。即ち、しんは照夫にとって叔母さんの姉さんというこ
とになる。血縁関係はないけれど、松下之綱は私にとってグッとシンパシィ
を感じる人となりました。
[104] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月08日 08時01分59秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>血縁関係はないけれど、松下之綱は私にとってグッとシンパシィを感じる人となりました。
伊賀の呉服明神の神職だった服部貞信の子 貞冨の妻が 太田彦左衛門清政の娘です。
父子で関ヶ原に供奉し、采地が世田谷の赤堤です。
貞冨の長男が従5位下備後守を叙任し1600石を知行していました。
次男は永井信濃守尚政の家臣となり
3男は服部別家を立て
4男は春日佐次右衛門家定の養子になっています。
現代に於いても 松下 ⇔ 服部 ⇔ 太田 の関係が繰り返されているのでしょうか?
現代から考えると血縁は無いように見えても、どこかで有るのかも。
「ヒーロー」の田中要次のように「あるよ」。
笑
やっぱりどこかで繋がってるんでしょうか?
[105] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月08日 09時12分31秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ひょっとしてつながっているかも・・・太田家の祖先については全く聞いて
おりませんが、松下家は由緒ある家柄ということがわかっていましたので、太
田家も武家だったと思います。伯父さんの妻のさださんもすごくしっかりした人、いわゆる礼儀、行儀作法のキチッとした人です。今度会った時に訊いてみ
ます。
祖先の時代の土俵の上で私たちは相手の先祖のことは知らないで相撲をとっ
ている・・・そんな感じがいたします。姉の松下の今は亡き義兄は、この照夫
伯父さんと気が合った。やはり、気が合うというのは先祖からのDNAに記憶
が残されているということでしょうか。
[106] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月08日 11時09分13秒 ) | パスワード |
太田彦左衛門清政を検索したら(高木)なんて出てました。
↓
寛永諸家系図伝: 索引 - Page 16 - Google Books Result
books.google.com/books?isbn=4797102519
1997
... 太田四郎太田隆義 3 255 太田秀頼 8 29, 116 太田行光 7は 0 太田新六郎太田 ...
太田行政 7 150 8 98 太田彦左衛門太田(高木)清正〔 ...
↑
ココです
で、高木?
と驚きました。
だって今日調べた服部政信の5男の正勝が養子に行った先が高木筑後守政次の家ですよ。
良く覚えてた!えらい! > 自分
つまり
伊賀の呉服明神の神職服部貞信の嫁 ← 太田家 ⇔ 高木家 ⇔ 太田家 ←服部権大夫政信の5男
ということは伊賀の神職の服部家と尾張の服部家は結構繋がりがあったということですよね。
これは意外でした。
レスが100を超えてしまいました。
管理人さんごめんなさい。
[107] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月08日 11時29分49秒 ) | パスワード |
旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。正しくは、寄合という。旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。若年寄支配。交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。幕末には交代寄合を含め180家存在した。
目次 [非表示]
1 概要
2 おもな旗本寄合の一覧
3 補注
4 関連項目
概要[編集]
享保4(1719)年6月、留守居支配(留守居は老中支配)より若年寄支配の寄合となり、元文5(1740)年、3,000石以上の旗本を全て寄合とした。
寄合の基準は以下のとおり。
家禄3,000石以上
家禄3,000石以下であっても留守居・大番頭・書院番頭・小姓組番頭の次代は寄合に入る
家禄3,000石以下でも交代寄合は寄合に入る[1]
家禄3,000石以下布衣以上の役職を勤め、無役となった者は役寄合として寄合に入る
例外として、旧大名の金森家・本多家(本多忠央系)は寄合に入る[2]
例外として、仙台藩伊達家縁家である田村家[3]は寄合に入る
ただし、3,000石以上であっても表高家に属する者は寄合に入らない
寛政2(1790)年に寄合より非役職の寄合肝煎が選出され、寄合より役職・出役への推薦・斡旋を行うようになる。小普請金にあたる、寄合御役金は100石に付き金2両の割合で8月と2月の分納であった。
旗本寄合は、寄合肝煎の調整・指示のもと、駿府加番[4]・江戸城門番[5]・中川御番[6]を交代で勤務していた。
大草家
3,500石遠江国榛原郡・豊田郡・山名郡・城東郡、駿河国志太郡内初代・大草高正[19]の義母・大草局[20]の縁で徳川家光の抱守を勤め、700石。二代・大草高盛は累進し、800石、後に1,000石加増。三代・大草高忠が1,000石加増され、寄合に列する。
太田家
5,000石信濃国伊那郡内寛文11(1671)年、遠江浜松藩主太田資宗の三子・太田資良が本藩より分知される。太田家
3,000石遠江国城東郡、武蔵国多摩郡、相模国愛甲郡・高座郡内徳川家宣の側室右近の方[21]の実家。宝永3(1706)年に召出される。
高木家
5,000石近江国甲賀郡、山城国相楽郡内三河譜代。初代・高木守久、二代・高木守勝が大目付を勤め、加増を重ねた。高木家
4,000石遠江国豊田郡・榛原郡・周智郡内三河譜代。初代・高木広正は武功を重ねる。広正、二代・高木正綱は忍城番を勤めた。
服部家
3,000余石遠江国敷知郡・長上郡内伊賀服部惣領家。天正10(1582)年、徳川家康の伊賀超えに従う。
本多正純 - Wikipedia
本多正純の娘は太田政治の妻。
本多正純の失脚[編集]
ここに高木政次が出て来ます。大久保家・青山家・服部家の怨みを晴らした?
元和8年(1622年)8月、出羽山形の最上氏が改易された際、正純は上使として山形城の受取りに派遣された。
9月上旬に最上領に入った正純は、周辺諸大名とともに無事に城を接収した。
しかしそのとき数日遅れで遣わされた伊丹康勝と高木正次が正純糾問の使者として後を追っていた[2]。
伊丹らは、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に11か条の罪状嫌疑を突きつけた。
正純は最初の11か条については明快に答えたが、そこで追加して質問された3か条については適切な弁明ができなかった。
その3か条とは城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたこととされる[3]。
先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽国由利(現在の由利本荘市)に5万5,000石を与える、という代命を受けた。
この時、使者として赴いた高木正次、伊丹康勝らの詰問に、さらに弁明の中で、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で応じ、その5万5,000石を固辞した。
これが秀忠の逆鱗に触れることとなった。
高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると、秀忠は激怒し、本多家は改易され、
身柄は佐竹義宣に預けられ、出羽国由利へ流罪となり、後に出羽国横手にて幽閉の身となった。
正純の失脚により、家康時代、その側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになる。
この顛末は、家康・秀忠の二元政治時代、本多親子の後塵を拝して正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、あるいは、秀忠の姉・加納御前(亀姫)が秀忠に正純の非を直訴したためだともされる。
忠隣の親戚に当たる大久保忠教(彦左衛門)は、誣告を用いて忠隣を陥れた因果を受けたと快哉を叫んだという。
思わぬところに行き着きました。
[108] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月08日 11時39分50秒 ) | パスワード |
高木正次について調べました:
高木 正次(たかぎ まさつぐ、永禄6年(1563年)- 寛永7年11月30日(1631年1月2日))
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。河内丹南藩初代藩主。高木主水源正次。
ココ!大久保の養女!
↓
高木清秀の三男。母は水野元氏の娘。正室は大久保忠佐の養女。子に高木正成(長男)、娘(永井直清正室)。幼名は善次郎。官位は従五位下、主水正。
概要[編集]
父の代には織田家に仕えていたんですって。
尾張緒川にて生まれる。
天正10年(1582年)より徳川氏に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣して武功を挙げた。文禄・慶長の役にも参陣している。文禄3年(1594年)、家督を継いで5000石を領する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信濃上田城の真田昌幸と戦い、その功績により慶長7年(1602年)に2000石を加増された。
慶長12年に大番頭に任じられる。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では江戸城の守備を務め、翌年の大坂夏の陣では大坂に出陣して戦功を挙げた。これにより元和3年(1617年)、近江にて2000石を加増された。元和9年(1623年)には大坂定番となって1000石を加増され、領地も河内丹南に移されて、合計1万石の大名として丹南藩主となった。
寛永7年(1630年)11月晦日、68歳で死去した。法号は智光院、墓所は大阪府松原市丹南町の来迎寺。跡を長男の正成が継いだ。
高木氏丹南藩初代藩主 (1623年 - 1631年)
丹南藩(たんなんはん)は、河内国丹南郡などに1万石を領有した藩。藩主は譜代大名の高木氏。藩庁は丹南郡丹南村(現在の大阪府松原市丹南)の丹南陣屋。
略史[編集]
藩祖の高木正次は、相模国・武蔵国・上総国・下総国及び近江国に9千石を領する旗本だった。元和9年(1623年)に大坂定番に就任し1千石の加増を受け、河内国丹南郡22村に1万石を領する大名となった。
2代正成の時に安房国・上総国に3千石が加増されたが、3代正弘の時に2人の弟に1千5百石ずつ分与して1万石に戻った。
高木正次1623-1631 | 高木正成1631-1635 | 高木正弘1635-1658 | 高木正盛1658-1670 | 高木正豊1670-1681 | 高木正陳1681-1741 | 高木正恒1741-1743 | 高木正弼1743-1780 | 高木正直1780-1781 | 高木正剛1781-1826 | 高木正明1826-1848 | 高木正坦1848-1869 | 高木正善1869-1871 | 廃藩置県
[109] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月09日 09時09分15秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
人間関係、結構知らない糸が張り巡らされていますね。
高木政次を初代とすると、六代目の正恒の二女は、「永井大蔵直堯」の妻、
三女は「服部中保広」の妻となっております。
服部、永井、太田、高木、水野・・・みんなどこかでつながって、それを
ひとつの縁戚ネットワークとして誇り、また頼っていた。少しでも縁戚、血
のつながりがあればそれで家族に近い親近感・お付き合いができた。逆に言
うと、昔にあっては血のつながり、縁戚しか頼れるものがなかったと思われ
ます。
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