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 投稿番号:101391 投稿日:2014年10月15日 20時26分03秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]Y(服部氏7+2家)
キーワード:長上郡 服部氏族 三つ柏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]Xよりの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に秘められた謎を解明する。

究極の目的は、服部氏族の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月18日 22時46分54秒 ) パスワード

松島氏の悲劇は分かりました。
松下家・大久保家・服部家の関係も分かりました。


しかし、まだ、全然核心に迫っていません。


永井家と服部家が加藤家で繋がっているのは分かっていますが
  永井家と服部家の繋がりが今1つ分かりません。
  これが分かれば家紋の縁かりが分かりそうです。


そして服部家がどの服部氏から出ているのかが分かりません。
  ほぼ今切の代官だった服部氏だろうというのは分かっています。
  この家は尾張の友定の家、というのは分かっていますが
  今1つハッキリさせたいものです。


ということは寛政重修諸家譜をもう1度読み直すことから現場100回の精神に戻れ、ですね。
以上決意表明。笑
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月19日 02時50分07秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=cxi2gPgFtMwC&pg=RA1-PA3&lpg=RA1-PA3&dq=%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F&source=bl&ots=IuBWtW1MWX&sig=HRz-NppBrsXNS5pUqmzCp62iScY&hl=en&sa=X&ei=XDsmVICYOIWuogTjiYCwAg&ved=0CCcQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F&f=false

頑張れ>ワタシ
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月19日 06時30分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろのご指導ご教示、ひしひしとありがたく感謝申し上げます。
 寛政重修諸家譜については、私も細江の図書館で見つけましたので、現物
を通読したいと思っています。読み砕くのは時間がかかりますができるだけ
時間をとって挑みたいと思いますが、いろいろ日程的に詰まっていてすぐに
はできませんのが心苦しいところです。
 
 お菊の話がでましたので、「番町皿屋敷」についての切り抜きがありました
のでご紹介いたします。
 実際にあった話を森田座が狂言化し大当りをとったということです。
 ネタは、1681年の事で、旗本大久保彦六(何と大久保氏 ! )の住む番町
屋敷内での出来事、奉公してまだ日の浅い下女おふじがその屋の井戸に身を
投じて自害して果てるという事件が起こった。彦六がおふじを見初め、せまっ
たがなかなかいうことをきかないので、パワハラ、即ち毎日秘蔵の揃い皿を
磨かせ続けさせた。お藤はノイローゼになり井戸へ、助六もその後ノイローゼ
になり発狂、狂い死にしたというもの。

 本日は芝刈りに出かけますので、これにて。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月19日 06時49分06秒 ) パスワード

いろいろなバージョンがあるようですね。
下記は服部家のバージョンです。



牛込の皿屋敷[編集]

皿屋敷伝説の、重要要素である10枚の皿のうちの1枚を損じて命を落とす部分は、江戸に起こったという逸話にみつかる。

早い例は、正徳2年 (1712年) の宍戸円喜『当世智恵鑑』という書物に収録される。

要約すると、次のような話である[23][24]:


江戸牛込の服部氏の妻は、きわめて妬み深く、夫が在番中に、妾が南京の皿の十枚のうち一枚を取り落として割ってしまったことにつけ、それでは接客用に使い物にならないので、買換えろと要求するが、古い品なので、もとより無理難題であった。

更に罪を追及して、その女を幽閉して餓死させようとしたが、5日たっても死なない。
ついに手ずから絞め殺して、中間に金を渡して骸を棺に入れて運ばせたが、途中で女は蘇生した。

女は隠し持った200両があると明かして命乞いするが、4人の男たちはいったん金を懐にしたものの、後で事が知れたらまずいと、女を縊りなおして殺し野葬にする。

後日、その妻は喉が腫れて塞がり、咀嚼ができずに危険な状態に陥り、その医者のところについに怨霊が出現し、自分に手をかけた男たち既に呪い殺したこと、どう治療しようと服部の妻は死ぬことを言い伝えた。


三田村鳶魚は、この例「井戸へ陥ったことが足りないだけで、宛然皿屋敷の怪談である」としている[23]。また、「牛込の御門内、むかし物語に云[う]、下女あやまって皿を一ツ井戸におとす、その科により殺害せられたり、その念ここの井戸に残りて夜ごとに彼女の声して、一ツより九ツまで、十を[言わずに]泣けさけぶ、声のみありてかたちなしとなり、よって皿屋敷と呼び伝えたり..」と享保17年(1732年)の「皿屋敷」の項に見当たる。牛込御門台の付近の稲荷神社に皿明神を祀ると、怪奇現象はとだえたと伝わる[23][25]。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月19日 10時01分23秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=cxi2gPgFtMwC&pg=RA1-PA3&lpg=RA1-PA3&dq=%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F&source=bl&ots=IuBWtW1MWX&sig=HRz-NppBrsXNS5pUqmzCp62iScY&hl=en&sa=X&ei=XDsmVICYOIWuogTjiYCwAg&ved=0CCcQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F&f=false

64ページ


服部石見守保長の長男の服部市平保俊は
永禄3年三河国高橋合戦で  24歳で  討ち死にしましたが


1)子の保英は永禄10年13歳から家康に仕え、天正10年の伊賀越えにも同行し
  

2)その子(孫)の元正は(後に保元と改称)
  15歳で大坂の両陣に供奉し
  寛永2年下総国印旛葛飾で300石
  大番になって組頭にも進み200石加増され
  寛永10年には更に500石の加増を受け
  采地替えで下総国海上と上総国長柄?長鞆?・山辺の計3郡で1000石に。

3)その子(曾孫)=元正の子=の元延は14歳にして秀忠に仕え
  大番となり200俵
  のちに200石を加増され采地替えで400石に。

  妻は大久保治右衛門忠佐の娘。!!!!!!!!!!!!!!!大久保忠佐の娘ですよ
  


                  永田家ですよ
                   ↓
4)もっとずっと子孫の保春の娘が  永田三郎右衛門尚昌の妻になっています。

     時代は有徳院さまだから吉宗の時代あたり?

[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月19日 10時07分11秒 ) パスワード

上記の服部家の紋は

16桁矢筈車  16葉菊  むかい蝶   矢車

です。



服部半蔵の家と紋は同じかもですね。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月19日 22時59分22秒 ) パスワード

三つ柏さん


   恐れ入りますがXVIIを立ててください。


   ここは寛政重修諸家譜の服部氏に特化したいと願っています。


というのは <5>の「子孫の保春の娘が永田三郎右衛門尚昌の妻になっています」ということで

これは寛政重修諸家譜で永田家も見なきゃいけないかなと。
これまでは  長田氏の旗本系は永井家だろうと思っていましたが  旗本の永田家も、かと。
そうすると長田家でもあるのかなと。これは江戸時代以降は無いと思っているのですが。


寛政重修諸家譜は少しずつ読んで行きます。
一応 服部家 → 永田家 → 永井家 → の順番に読んで行きたいのですが
ディジタル化しているのを探さないといけません。

多分永田家については箱柳さんがもうお調べではないかと期待しています。


ということで箱柳さん
寛政重修諸家譜の永田家のURLをご存知でしたらアップしてください。
お願いします。


[8]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月19日 23時57分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 引き続きの探究ありがとうございます。]Zをたてます。

 私も永井との関係を寛政重修諸家譜の服部氏の関係で探してみましたら、
服部中保次-保正-保俊-保秋-保房と続きますが、この保房の妻が、永井伝八郎
茂虎(直勝の子)の娘でありました。

 また、左京亮-政光-政信-政久、この政久の妹か゜長井五右衛門吉勝に嫁い
でいます。

 服部と永井の関係・・・どんな深い関係があったのか、ぜひ調べたいと思い
ます。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 03時50分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


XVII のアップ
ありがとうございます。


それから
>服部中保次-保正-保俊-保秋-保房と続きますが、この保房の妻が、永井伝八郎
茂虎(直勝の子)の娘
>また、左京亮-政光-政信-政久、この政久の妹か゜長井五右衛門吉勝に嫁い
でいます


中保次の家に永井家より嫁
左京亮の家から長井家に嫁

やっぱり服部家と長田家は嫁で結ばれているのですね。


中保次の家では結局は永井家から養子をもらったり養子に出しているんでしょうね。

左京亮の家でも長井家から養子をもらったり養子に出したりしているんでしょう。

これらの永井家・長井家の家紋が柏だったら!
   でも永井家は梨だったりするんですよね。


やはり永井家と長井家の家紋で  丸に三つ柏紋  があるか知りたいところですね。


ところで三つ柏さんは服部家で旗本で丸に三つ柏紋の家が見つかりましたか? 
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 04時59分56秒 ) パスワード

川勝氏について調べて来ました:


家紋(江戸時代初期) 釘抜


川勝氏(かわかつし)は、日本の氏族のひとつ。本姓は秦氏。秦河勝の後裔と伝えられるが、その系譜は必ずしも明確ではない。分家も少なくないが、江戸幕府の幕臣川勝氏がよく知られている。家紋[1]は、桐に鳳凰、釘抜、五七桐、五三桐など。通し字は、それぞれ「広」、「隆」、「氏」(家紋、通し字とも幕臣川勝氏)。


経歴(幕臣)[編集]

戦国時代、丹波国桑田郡下田の国人領主であった下田美作守広氏[2]の嫡男、広継(光照)のとき川勝を称したのが始まりだという。


家伝によれば、下田美作守広氏は秦河勝(広隆)より32代目の嫡流とされる。


川勝氏(下田氏)は桑田郡・船井郡内を知行し、室町幕府に仕えてきた。先の応仁の乱では、幕府の管領を務めた細川勝元に従って、他の国人衆とともに合戦に参加した。川勝広継は12代将軍足利義晴、13代将軍足利義輝に仕え、北桑田郡美山町静原の島城を本城とし、八木の守護代内藤氏、京北の宇津氏、篠山の波多野氏など、丹波の戦国武将と対峙した。

広継の嫡男川勝継氏は織田信長に従い、天正元年(1573年)、信長の命を受けた細川藤孝に従って、山城国の淀城攻め(第二次淀古城の戦い)に参加した。また、天正4年(1576年)からの明智光秀の丹波攻略には与力となって協力した。継氏の嫡男川勝秀氏は豊臣秀吉に仕え、秀吉の馬廻を務めて、天正10年(1582年)、丹波国何鹿郡内に3,535石を与えられた。また、文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、肥前名護屋城に在陣した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、嫡男川勝広綱とともに西軍に与して丹後田辺城攻撃(田辺城の戦い)に参加した。

しかし、秀氏父子は徳川家康に赦されて、改易を免れることができた[3]。


慶長6年(1601年)、室町期以来の丹波の旧族、細川三斎の推挙により召し出され、秀氏は旗本家を興した。

慶長12年(1607年)、広綱は父秀氏の家督を継いだ(知行は丹波内3,570石余)。江戸時代には、秀氏・広綱に始まる旗本の川勝家(本家)の他に、広継の嫡男の川勝継氏の系統からは3家の旗本家が出ている(系譜1)。また、広継の二男の川勝知氏の系統からも川勝隆尚流など4家の旗本家が出ている(系譜2)[4]。

これら旗本家は、若年寄、大目付、勘定奉行、外国奉行、外国事務副総裁、開成所総奉行などを務めた幕臣を、主に幕末に輩出した。明治元年(1868年)の江戸城無血開城に際して、川勝広運は同年正月23日より若年寄を務めた。また、外国奉行であった川勝広道は同年2月6日、外国事務総裁山口直毅のもとで外国事務副総裁となった。


幕臣以外にも、八戸藩、棚倉藩、八幡藩そして忍藩などの藩士に、川勝家があった。それぞれの藩において、川勝家は家老などの要職を務めた。また、江戸時代には船井郡八木町に豪農の川勝家があった。現在でも南丹市八木町(旧・船井郡八木町)の屋賀・青戸および亀岡市旭町(旧・南桑田郡旭村)の美濃田・杉に川勝姓が集中しており[5]、その周辺の京都府南部、大阪府北部、兵庫県東部に川勝姓の人の多数が住んでいる(京都府だけで全国の4割以上)。もちろん、幕臣川勝氏の子孫の人たちのほか、東京都にもまとまった数の川勝姓の人が住んでいる。


脚注[編集]

家紋:

1.^ 家伝によれば、桐に鳳凰は聖徳太子より拝領の紋、
釘抜は足利義晴(義昭とも)より拝領の紋とされる。
また、『寛永諸家系図伝』によれば、寛永20年(1643年)当時の家紋は釘抜とある。

2.^ 家伝(『寛政重修諸家譜』編纂時の呈譜など)によれば、下田美作守広氏は秦河勝(広隆)より32代目の嫡流とされる。

しかし、『寛永諸家系図伝』には、広隆と美作守某(丹波国の住人)は「此間断絶す」とある。

3.^ 西軍のほとんどが所領没収となった中、細川幽斎が拠る田辺城攻撃に参加した多くが所領安堵となっている(関ヶ原の戦いの戦後処理)。

ちなみに、秀氏は丹波国何鹿郡内から丹波国氷上郡・船井郡内に、広綱は丹波国多紀郡・船井郡内から丹波国船井郡内にそれぞれ転封となった。秀氏の減封の多寡に関しては不詳。

4.^ 略系譜(幕臣)は、『寛政重修諸家譜』によった。『寛永諸家系図伝』とは相違する部分がある。また、『寛政重修諸家譜』において川勝知氏が川勝広永の祖(初代)とされているが、川勝知氏は徳川旗本ではないため、川勝勘左衛門重氏を以って川勝広永の祖とした。同様に、川勝氏久が川勝氏徳の祖とされているが、川勝貞徳を以って川勝氏徳の祖とした。


5.^ 幕臣川勝氏の家紋とは異なり、(丸に)立ち葵を家紋にしている家も少なくない。

このことから、二葉葵(賀茂葵)を神紋とする京都賀茂神社と、古代の川勝氏祖先との関係が窺われるといわれている。


参考文献[編集]
熊井保編 『江戸幕臣人名事典(全一巻)改訂新版』 新人物往来社、1997年 ISBN 4-404-02553-X
石井良助監修、小川恭一編著 『江戸幕府旗本人名事典(第1巻)』 原書房、1989年 ISBN 4-562-02038-5
石井良助監修、小川恭一編著 『江戸幕府旗本人名事典(第4巻)』 原書房、1989年 ISBN 4-562-02041-5
『川勝家文書』 東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年 ISBN 4-13-097657-5
『寛永諸家系図伝(第14)』 続群書類従完成会、1992年 ISBN 4-7971-0249-7
『寛政重修諸家譜(第18)新訂』 続群書類従完成会、1981年 ISBN 4-7971-0222-5
小川恭一編著 『寛政譜以降旗本家百科事典(第2巻)』 東洋書林、1998年 ISBN 4-88721-304-2
阿部猛・西村圭子編 『戦国人名事典コンパクト版』 新人物往来社、1990年 ISBN 4-404-01752-9
『煎茶の用語集』 主婦の友社、茶の湯案内シリーズ13、1988年 ISBN 4-07-924951-9
『日本鉄道史(上篇)』 鉄道省、1935年
武内博編『日本洋学人名事典』 柏書房、1994年 ISBN 4-7601-1104-2
『日本歴史大辞典(第3巻)』 河出書房新社、1985年 ISBN 4-309-60903-1
宮崎十三八・安岡昭男編 『幕末維新人名事典』 新人物往来社、1994年 ISBN 4-404-02063-5
奈良本辰也監修『幕末維新人名事典』學藝書林、1978年

[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 05時25分53秒 ) パスワード

<4>の続き
番町皿屋敷の件です。



http://ginjo.fc2web.com/73sarayasiki/sarayasiki.htm

舞台の番町を歩く
 

JR市ヶ谷駅を降りると目の前が幹線の”靖国通り”で、駅前が交差点になっています。通りの先に靖国神社があって、この様に呼ばれています。靖国神社方向に向かい最初の右側に入る路地の入り口に東京三菱銀行が有ります。一方通行出口の標識がある道が”帯坂”で、前方を見ると緩い昇りで150mも行くと”二七 (にしち)通り”に突き当たって、坂が終わります。坂の終わりの左側に千代田区が建てた”帯坂”標柱が立っています。
         ↓
       「帯坂」はお菊さんが帯を引きずりながら逃げた坂だとか



       
この界隈は江戸時代は旗本屋敷の街であり、忍者ハットリクンのモデルの服部半蔵の屋敷がこの近くにあった。

                    服部半蔵の屋敷?


現在は、一番町から六番町まであ りますが、昔、番町と言った所で、
「お菊さん」の亡霊で有名な岡本綺堂の傑作講談「番町皿屋敷」の舞台となった街です。

    「お岩さん」で有名な「四谷怪談」の四谷は隣町です。


番町にあったという「青山主善」の屋敷跡は見当たりません。
当然で、この噺は岡本綺堂のフィクションで、伝説ですから、実在しないのはしょうがありません。

そうすると”帯坂”のいわれはどこから出てきたのでしょう。こちらの方が怪談じみてきます。

[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 05時35分47秒 ) パスワード

http://www.burari2161.fc2.com/nagaikafuu.html


服部はっとり坂
(小日向1−7と2−16の間)

坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。
             ↑
           権大夫だったら政信などの服部家?


服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。


永井荷風は眺望のよいところとして、『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂大日坂等は皆斉ひとしく小石川より牛込赤坂番町辺を見渡すによい。・・・・・」と書いている。


坂下にある文京区立第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。

戦災で廃校となった。

文京区教育委員会
平成9年3月
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 05時39分32秒 ) パスワード

http://wako226.exblog.jp/d2012-07-06/



半蔵御門


半蔵見附門
半蔵門は、寛永4年(1627)に大手門(追手門)と正反対の裏手に位置する搦手門として建造された。現在の門は東京大空襲で焼失したため和田倉門の高麗門を移築したものである。


この門の警護を担当した旗本服部半蔵正就の組屋敷が門前にあり、与力三十騎、伊賀同心二百名を支配していたことから半蔵門と呼ばれた。


半蔵門は主に天皇・皇族の日常の出入口に用いられ、13万坪の吹上御苑には天皇の住居である御所などがある。天正年間以前は局沢と呼び16の寺があったが、家康が入城してこの寺を郭外へ移し、後に諸侯の邸宅も移して吹上庭園とした。



半蔵門は江戸城防備の搦手門で甲州街道(国道20号)の起点である。すなわち、江戸城が有事の際に幕府の天領である甲府城へ向かう退路となる。

幕府はこの麹町大通り沿い一帯に旗本屋敷を配備し、半蔵門および四谷門の濠を深くして防備を厳重にした。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 05時49分09秒 ) パスワード

http://www7a.biglobe.ne.jp/~reroman/kawano.htm

夏目漱石のお話です。全文はURLへ


夏目漱石と父母の地・新宿               

 

                             川 野 純 江

 

 作家夏目漱石を語る時、欠かせない作品に『坊っちやん』がある。主人公は江戸っ子坊っちゃんで、坊っちゃんの出生地は書かれていないが、「庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立っている」というその生家の庭の様子は、漱石の実家に似ている。漱石の実家は、明治十三年、火事に遭い、焼けた土を三尺取りのけ、そこに新たに邸宅を建てたとのことだ(夏目鏡子『漱石の思ひ出』)。そして庭には大きな棗の木が五六本植えてあった(談話『僕の昔』)。


東京生まれについて、漱石は、「何、僕の故家(いへ)かね、君、軽蔑しては困るよ、僕はこれでも江戸ツ子だよ、しかし大分江戸ツ子でも幅の利かない山の手だ、牛込(現在の新宿区東部)の馬場下で生れたのだ」(談話『僕の昔』)、「私は東京で生れ、東京で育てられた謂わば純粋の江戸ツ子である」(談話『一貫したる不勉強―― 私の経過した学生時代』)など、話している。東京朝日新聞社入社前後の話である。


歴史的に江戸っ子とは、もともと江戸城前面の一角に住む誇り高い町人に由来する。そして、徳川幕府のお膝元江戸は、江戸城を内堀と外堀で囲む総構えの造りのもとに発達した城下町で、主に武士の住む武蔵野台地の山の手と、町人の多く住む日比谷湾などを埋め立てた下町に区分される。





『行人』の舞台は東京市番町の「古い歴史を有(も)つた家」で、当時の麹町区(現在の千代田区西半部)番町とは江戸時代は大番組の旗本の在所で、大番組とは旗本によって編成された江戸城防御の精鋭の兵力部隊であった。


軍事都市江戸は、東を海とし、北・南は荒川・多摩川など川や渓谷があったが、西は江戸五街道の一つの甲州街道が伸びており、江戸城西側の警護はとくに重要であったのである。外堀(外郭)西の要衝として、四谷見附、市ヶ谷見附、牛込見附などがあり、内堀(内郭)には、伊賀者の頭・服部半蔵に由来する半蔵門、紀州藩藩主から第八代将軍となった徳川吉宗が徳川御三家に次ぐ三家として創設した、吉宗の子・孫を家祖とする御三卿(田安家・清水家・一橋家)の田安門、清水門があった。ちなみに、漱石の母夏目千枝は四谷大番町(注 大番組に由来)の大きな質屋の出である。娘時代に明石公に御殿奉公していたとも伝えられており、明石藩の江戸屋敷であるとすれば、半蔵門そばの現在の国立劇場の地にそのお屋敷はあった。


さて、漱石は慶応三(一八六七)年、江戸牛込馬場下横町に生まれた。父夏目小兵衛直克は、牛込穴八幡前馬場下横町以下、十一か町及び高田馬場を支配する町方名主で、江戸名主組合二十一組の二十番組の世話役であった。


名主とは、江戸町役人の一つで、江戸町奉行支配下の江戸町年寄に所属している。

大名主の夏目小兵衛の家は「玄関(げんか)」と称され(『硝子戸の中』)、漱石の父は「お玄関様」として威張っていた(前掲『僕の昔』)。


しかし、漱石誕生翌年の慶應四(一八六八)年、明治維新により明治政府が成立。東京府が設置され、明治二年、名主制は廃止された。新制度のもとで、夏目小兵衛は東京府六大区の第四大区区長(明治九年辞職)などを勤めている。明治十一(一八七八)年、郡区町村編制法が公布されて、二十三区の原形となる十五区が東京に設置された。十五区は、皇居のある麹町区を起点として、時計回りに「の」の字を書くように区の順番が定められ、麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川という順番であった。明治二十二(一八八九)年、市制町村制の施行によって、十五区の範囲に東京市が設置された。以後、昭和七(一九三二)年に三十五区制。昭和十八(一九四三)年、東京都の設置。昭和二十二(一九四七)年に現在の二十三区制になっている。江戸の名主制は、明治時代に区制となって現在に至り、その間、市区改正(都市計画)などが重ねられ、巨大都市江戸は、巨大都市東京へと変貌してきたのである。


漱石は江戸、東京府、東京市に生きた。名主夏目小兵衛の家はその後家運が傾いていったが、作家江戸っ子漱石はどのように生きただろうか。




『趣味の遺伝』の「父母未生以前の記憶と情緒」による浩さんと小野田令嬢の相思相愛は、紀州藩出身者同士の恋愛として物語られている。なぜ紀州藩なのかだが、江戸、徳川幕府、紀州家について先述した外に、牛込にはさらに清水徳川家下屋敷が、四谷にもさらに田安徳川家下屋敷があり、また四谷に隣接する赤坂には紀州藩江戸屋敷もある。江戸牛込の父・江戸四谷の母になじみ深い、江戸の「父母」としての紀州藩が構想されたのであろう。明治になって江戸城が天皇の宮城となってからは、「父母」の江戸を継承する「天子様」(明治天皇)の東京を漱石は見守ることになる。明治天皇を国家元首とする大日本帝国・明治日本に対して、実際、『趣味の遺伝』の学者余は「帝国臣民たる吾輩」と力説している。


漱石作品における紀州藩は、『趣味の遺伝』の外は『行人』で紀州様と語られているのみである。『趣味の遺伝』は激動の明治をよそ目に開花している東京の「父母未生以前」の恋と友愛の物語であるが、『行人』は江戸城警護最強の地に建つ「父母」の家の没落と「記憶と情緒」の危機の物語である。作家江戸っ子漱石の文学の樹立と崩壊の二作として読まれる。名作『坊っちやん』と『こゝろ』がそれぞれの次作であり、江戸っ子の夢と夢の極点が物語られた。なお、有名な文明批評『現代日本の開化』は紀州和歌山で講演された。


あれこれ書いたが、要は作家漱石の出自が江戸城西側の幕府ゆかりの「父母未生以前」の地、漱石の「父母未生以前の記憶と情緒」にあるということである。その地が江戸の歴史的防衛の地であったことが、倫理的な漱石の文学を特色づけているように思われる。


新宿・早稲田の歴史的人間像の一人として夏目漱石を取り上げ、その基盤を論じてみた。〔注 漱石の父夏目直克(なおかつ)について、通説を覆し直克(なおよし)と読む資料が発見された。二〇一四年二月六日付産経新聞〕

                            二〇一四年二月二十八日

 

主な参考文献

 

『漱石全集』(一九九三年版)岩波書店

『漱石の思ひ出』夏目鏡子述 松岡譲筆録 岩波書店

『夏目漱石研究資料集成 』(第三巻)平岡敏夫編 日本図書センター

『漱石研究年表』荒正人 集英社 

『夏目漱石事典』三好行雄編 学燈社

『「坊っちやん」と「明暗」』川野純江 鶴書院

『新宿の歴史と文化』新宿歴史博物館・新宿未来創造財団

『新宿文化絵図』新宿区地域文化部文化観光国際課    

『新修 新宿区町名誌』新宿歴史博物館

『区制改革』東京都公文書館

東京都公文書館HP

『牛込四ッ谷淀橋周辺江戸切繪圖』新宿歴史博物館(製作 人文社)

『江戸東京学事典』三省堂

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 05時54分49秒 ) パスワード

http://corgi.m78.com/tokyofuregashira/tokyofuregashira.htm


初出2011/12/22

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comment


東京の武家触頭

— その成立時期は明治何年か —


著者名

大久保と青山の鉄砲百人組屋敷図

元鉄砲百人組の住宅地図「大久保百人組屋敷図」(国立国会図書館蔵)(図1A) と「青山百人組屋敷図」(国立国会図書館蔵)(図2A) には,それぞれ, 絵図の左上(南西)に,西を上にして,縦書きで
大久保元百人大縄組屋敷繪圖面
  此組一圓
    小栗又兵衛觸下

(大久保元百人大縄組屋敷絵図面 此組一円 小栗又兵衛触下, 図1B) ,絵図面左上(東)に,南東を上にして,縦書きで
青山元百人大縄組屋鋪絵圖面
  此組内五拾七人
    小栗又兵衛觸下

(図2B)と書かれている. どちらも「小栗又兵衛觸下」と書いているが, 「何々触頭」という肩書を付けていない.
前者は, 『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』(新宿区教育委員会,1984年)に写しが掲載されているが,別稿「百人組屋敷絵図」に述べたように人名に間違いがある. また,前者に良く似た絵図面が拝領地願「地所之儀ニ付奉願候書付」(貫属 枩本定之助外六十八人,1872年)にある.


二つの絵図面を国立国会図書館では「旧幕府引継書」としている.出版者は「写」となっていて,国会図書館に拠れば,複製という意味ではなく,印刷でなく手書きであることを表しているという. 「旧幕府引継書」とは幕府から新政府へ引き渡された評定所,町奉行所,寺社奉行所,勘定奉行所,作事奉行所等の所管資料のうち,東京府に交付された江戸町奉行所を主とした江戸町施設関係の資料で,書庫狭溢の為,上野の東京図書館に寄託されたものとしている(国立国会図書館百科編集委員会,1988年,322〜323ページ).ただし東京府で保管中に混入した物が含まれる可能性があるという.

旧幕府引継書というのが正しければ,これらの絵図は徳川幕府の時代に作製したものである.


「元」と書いてあるが,文久2年12月19日(グレゴリオ暦1863年2月7日)百人組は廃止されている(『續徳川實紀 第四篇』「昭徳院殿御實紀 文久二年十二月十九日 百人組之頭組共被廢止候」(・板勝美,1967年)480ページ)ので,これらの絵図はそれ以降に作成されたものである.

「大久保百人組屋敷図」について,『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』では「元」を根拠に「百人組が解散された明治期の図であろう」(新宿区教育委員会,1984年,361ページ)としている. 一方, 『大久保鉄砲百人組』(鈴木 貞夫,2000年)の26ページの図6と27ページの居住者一覧表の説明では「明治2年」とし,25ページでは「此組一円 小栗又兵衛触下」を根拠に「明治二年十一月の武家触頭が定められた以後に作成」,28ページで「明治二年十一月,武家地は・・・地域ごとに武家触頭が定められたので,この直後に作成された図と考えられる.」としている.

 これらの絵図からは「小栗又兵衛」が触頭であることはわかるが,東京府管轄下の武家の触頭だったのだろうか?武蔵知縣事または品川縣管轄下の武家の触頭だったのだろうか?

また, 武家触頭が定められたのが明治2年11月というのは本当だろうか?

以下興味のある方はURLへ。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 05時59分20秒 ) パスワード

触頭とは:

東京府は町奉行所を引き継ぎ,町方について名主に代わる年寄を置いた.
武家については東京府の管轄は町奉行の支配地を受けついだために,武家地の管轄は曖昧になっていたが,明治二年十一月に至って,太政官から次にように布達されて,武家地も東京府の管轄に属することが明確にされた.


武家地が東京府の管轄に属しても,身分の別があるために,
これを町人の仲添年寄の支配下に入れることが出来ないので,
別に触頭というものを置いた。


東京府にはこの時まで武家の触頭がいなかった,明治2年11月,東京府はこの時初めて武家の触頭を置いたと言っているようであるが,本当に東京府はこの時初めて触頭を置いたのであろうか.


幕府時代から寺社を管理するために「觸頭」(ふれがしら=触頭)の制度があり,長崎奉行所にも触頭という職があった.(東京大学史料編纂所,1982年,1995年)


興味のある方は上記URLへ。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 06時10分18秒 ) パスワード

http://4travel.jp/travelogue/10768363


西念寺は1593年、服部半蔵が創建した寺だそうです。

********************



最初麹町にあったのが後に四谷に寺が移ったそうです。

ということで調べました:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%BF%B5%E5%AF%BA_ (%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8C%BA)


西念寺 (新宿区)


西念寺(さいねんじ)は、東京都新宿区若葉2丁目に所在する浄土宗の寺院。専称山安養院西念寺。徳川家康の譜代家臣で徳川十六神将に数えられる服部正成(半蔵)が開基した寺として知られる。


同寺院は、服部氏菩提寺であり、正成をはじめ服部一族の墳墓が存在する。

また、正成が守役を務めた徳川家康の長男・信康のために彼が建てたとされる供養塔が現存している。


概要[編集]

西念寺の所在する若葉2丁目地域は、JR中央線四ツ谷駅から、新宿通り(甲州街道)沿いに約300m西進すると同通りの左手一帯の閑静な住宅街であるが、江戸時代には伊賀町と呼ばれ徳川家に仕えた伊賀衆の組屋敷があった。同寺開基の服部正成はこの伊賀同心200人・与力30騎からなる伊賀衆の組頭であったとされる。

また、同寺から新宿通りを逆に都心方向に東上すると服部正成にちなみ命名されたという、旧江戸城(現皇居)半蔵門に達する。



画像:服部半蔵正成の墓




松平信康の供養塔
西念寺は徳川氏が江戸に入封してまもない、1594年(文禄3年)に服部正成が江戸麹町の清水谷(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にその前身である庵(安養院)を創建したことに始まる。正成はかつて非業の死を遂げた信康の慰霊のために、出家入道して西念と号し安養院に供養塔を建てて菩提を弔いつつ余生を過ごした。そして、1596年(慶長元年)の死後には法名・専称院殿安譽西念大禅定門と追号されて同庵に葬られた。

その後、安養院は周辺に江戸城拡張工事が及んだために、1634年(寛永11年)頃に現在地に移転、寺院として新築されたとする[1]。現在の西念寺の山号・寺名は彼の法名に因む。

史跡・指定文化財[編集]
徳川(松平)信康供養塔:新宿区指定史跡。現在の本堂右脇の裏手にあり、三葉葵紋の石扉を有する玉垣内の大きな五輪塔(石塔)、正面に「清瀧寺殿前三州達岩善通大居士」の刻銘がある。新宿区教育委員会が設置した「岡崎三郎信康供養塔」の説明板がある。
服部半蔵正成墓:新宿区指定史跡。同寺墓地入口すぐ左手にある大きな宝篋印塔(石塔)で「安誉西念大禅定門」・「慶長元年丙申霜月十四日」と刻銘されており、新宿区教育委員会が設置した「服部半蔵の墓」の説明板がある。
服部半蔵の持槍:同寺には「槍の半蔵」[2]と異名された服部正成が浜松城で家康より拝領したと伝わる槍を寺宝として所蔵している。新宿区登録有形文化財に指定されているこの槍はかつて一間半(約2.6m)程あったというが、現在は欠けて短くなっている。

交通[編集]
四ツ谷駅:JR中央線・JR総武線、東京メトロ丸ノ内線

脚注[編集]

1.^ 同寺「新宿区指定史跡・服部半蔵の墓」の説明板によると正成は1593年(文禄2年)に家康から寺院を建立するように内命を受けたが、これを果たす前に死去したとする。
2.^ 「槍の半蔵」は渡辺守綱の異名とされるが、服部正成も「鬼半蔵」とともにこの異名が伝わる。

参考文献[編集]
河原芳嗣 『江戸・大名の墓を歩く』/1991年、六興出版/ISBN4-8453-5073 C0321


昨日調べた服部保長の長男の家の流れもここが菩提寺です。
[20]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月20日 14時15分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 永井と服部の関係、大いにありなんですが、徳川家康とともに岡崎、浜松、
駿府、江戸と移動して行く中で、なんでここ善地にという謎が解けません。
 善地で検索してみると、信濃の箕郷町に善地があり、この近くに永井一族
が存住しているという。箕輪の松島氏とも関連してきそうな気もしますので
すが・・・。他には、今のところ有力な情報が見つかっておりません・・・。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 14時34分58秒 ) パスワード

書き直し:


服部保長には子供が3人いて


3男の半蔵の家は服部家の本家になって正就の時に長安事件に連座して松平家に預けられ
その後、松平家に仕え


長男は三河国高橋合戦で討ち死にで、細々と続き
次男も三方ケ原で討ち死にで、その子は尾張の蟹江城攻めで討ち死にをし、その後、細々と続きました。


それで  半蔵は半三  つまり3男だったから  半三 → 半蔵になったのか。
                        

やっと私的な謎が解けました。


こちらに寛政重修諸家譜で読んだものを書き続けていきます。

    やはり2回や3回読んだだけでは気が付かないものです。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月20日 14時39分22秒 ) パスワード

三つ柏さん


>永井と服部の関係、大いにありなんですが、

はい
非常に同意なんです


>徳川家康とともに岡崎、浜松、 駿府、江戸と移動して行く中で、なんでここ善地にという謎が解けません。


はい
どうして善地に、というのが、分からないですね。


>善地で検索してみると、信濃の箕郷町に善地があり、この近くに永井一族
が存住しているという。
>箕輪の松島氏とも関連してきそうな気もしますのですが・・・。
>他には、今のところ有力な情報が見つかっておりません・・・。

信濃関係なんでしょうか?


調べないといけないですね。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 06時21分47秒 ) パスワード

やっと服部保長の一族が終わりました。

長男:保俊   三河国高橋合戦で討ち死に   24歳


次男:保正   三方ケ原の役で討ち死に

        その子  長男  保成  尾張国蟹江城攻めで討ち死に  35歳
                第1子  保次
                第2子  保森(保盛)


3男:半蔵   正就の時に大久保長安事件で岳父の松平定勝家の家臣に



驚いたのは  加賀爪家・井出家・福王家と縁組しているのが多いなと思いました。


福王家って?
こんな家があるのは全く知りませんでした。  


とにかく  保の字だらけでワケ分からなくなりました。
また読み直さないといけません。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 06時54分33秒 ) パスワード

書き直し:


加賀爪氏とは?
と調べたら
http://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E7%88%AA%E6%B0%8F


服部正次室  というのが出てました。

うまくコピペ出来なかったです。
URLへ。


上杉政定
生没年:
父:上杉満定
正室:
加賀爪忠定



加賀爪忠定
生没年:
父:上杉政定
正室:
政泰



加賀爪政泰
生没年:
父:加賀爪忠定
正室:
泰定



加賀爪泰定
生没年:
父:加賀爪政泰
正室:
政豊



加賀爪政豊
生没年:
父:加賀爪泰定
正室:

1562-1596政尚  
政増

娘(服部保次室)                          ココ
娘(常陸笠間藩主 小笠原吉次室)
娘(本間政季室)
(養子) 保忠(父:服部保次)                    ココ




加賀爪政尚生没年:1562-1596
父:加賀爪政豊
通称:甚十郎、民部、隼人正
従五位下備後守(備前守?)
武蔵高坂館主1596 
慶長伏見地震被災

正室:
1586-1641 忠澄



加賀爪忠澄
生没年:1586-1641
父:武蔵高坂館主 加賀爪政尚
通称:甚十郎従五位下民部少輔1596-1641 
武蔵高坂館主1631-1641 
江戸南町奉行大目付
正室:(父:紀伊田辺城主 安藤直次)1610-1685 
直澄
信澄
定澄
娘(伊勢神戸藩初代藩主 石川総長室)




加賀爪直澄
生没年:1610-1685
父:武蔵高坂館主 加賀爪忠澄
通称:藤八郎、甚十郎、次郎右衛門
従五位下
甲斐守
書院番頭
大番頭
寺社奉行1668-1679 
武蔵高坂藩初代藩主
正室:(父:武蔵小室藩二代藩主 伊奈忠政)1639-1660 
直輔1643-1685 
(養子)直清



加賀爪直輔
生没年:1639-1660
父:武蔵高坂藩初代藩主 加賀爪直澄1658 
従五位下1658 信濃守
正室:



加賀爪直清
生没年:1643-1685
父:伊勢神戸藩初代藩主 石川総長
義父:武蔵高坂藩初代藩主 加賀爪直澄従五位下土佐守1679-1681 
武蔵高坂藩二代藩主1681 改易                    アララ
正室:(父:美濃岩村藩二代藩主 丹羽氏定)            岩村藩!
娘            
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 07時02分47秒 ) パスワード

加賀爪氏はもともと上杉の出で、遠江国掛塚ゆかりで、今川家の親戚の名門中の名門だったんですねえ。



掛塚藩


掛塚藩(かけづかはん)は、遠江国(現在の静岡県磐田市掛塚)に存在した藩。武蔵国比企郡高坂宿(現在の埼玉県東松山市)の高坂館に藩庁を設置した時期もあるため、高坂藩(たかさかはん)とも称する。



目次 [非表示]
1 歴史
2 歴代藩主 2.1 加賀爪(かがづめ)家

3 関連項目


歴史[編集]

藩主家である加賀爪上杉家の祖先・上杉政定は今川範政の猶子になった人物で、出自は上杉氏という名族である。

この経緯から加々爪氏は今川氏に仕えていたが、今川義元が織田信長によって討たれたことで今川氏が衰退すると、徳川家康の家臣となった。

その後、加賀爪氏は代を重ねるごとに加増を受けるようになる。

特に加々爪忠澄は関ヶ原の戦い、大坂の陣で武功を挙げたため、順調に加増を受けて寛永10年(1633年)には9500石を与えられた。

この2年前には町奉行となっている。


忠澄の後を継いだ直澄は徳川家光のもとで御小姓を努めたことから2000石を与えられた。

寛永18年(1641年)に忠澄が死去すると、その家督と所領9500石を継いで、合計1万1500石を領する大名となって諸侯に列し、掛塚藩を立藩した。

このとき、直澄は弟の信澄に1000石、定澄に500石を分与している。


その後、直澄は寛文元年に寺社奉行となって、同8年には3000石を加増された。


延宝7年(1679年)に直澄が隠居した後は直清が後を継いだ。


しかし天和元年(1681年)2月、直清は旗本の成瀬正章と領地の境界をめぐって争うという事件を起こし、
直清に落ち度があったとして幕命により所領を没収されて改易されてしまったのである。



歴代藩主[編集]

加賀爪(かがづめ)家[編集]

1万1500石→1万石→1万3000石。譜代。
初代:加賀爪直澄(なおずみ)【寛永18年藩主就任−延宝7年6月18日隠居】〔書院番頭。大番頭。寺社奉行〕
二代:加賀爪直清(なおきよ)【延宝7年6月18日藩主就任−天和元年改易】

[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 07時06分15秒 ) パスワード

福王氏


【名字】福王

【読み】ふくおう,ふくお

【全国順位】 26,648位
【全国人数】 およそ100人


徳川家に仕える幕臣福王氏は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
近年、関東地方に多数みられる。
「福」は深・吹などが転化したもの。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 07時09分37秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12103578577


Q:幕臣に福王氏は、見られますか?


A:鳥羽伏見の戦いの直前、旧幕府軍が京都で警備にあたる部署を定めた記録の中に、
「大津より三条橋 福王駿河守床勘之助歩兵一大隊」とあります。

守名が付いているところをみると、身分はそれほど下でもないようです。


この守備割はかなり知られており、鳥羽伏見の戦い関係の本にはよく出てきます。
手元にあるのは『七年史』です。

小学校の時福王先生という女の先生がいらしたので印象に残っています。



A:御家人分限帳に9家見られます
石高はどの家も低いです250俵前後で
一族の通り名は・・信(信之、信美、信近、信俊・・・)
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 07時12分09秒 ) パスワード

加賀爪上杉家


加賀爪上杉家(かがつめうえすぎけ)は、日本の氏族の一つ。関東管領を歴任した上杉氏の一族。


出自・概略[編集]

加々爪氏とも書かれる。上杉氏は藤原北家勧修寺流の流れを汲む名家である。加賀爪家は、八条上杉家の上杉満定の末裔である。満定の子の政定が今川範政に猶子として迎えられ、そのまま駿河に土着し、政定の子である忠定が加賀爪を称した。後に徳川家旗本となり、出世して一時的に譜代大名となるも、改易された。

歴代当主[編集]
1.上杉政定
2.加賀爪忠定
3.加賀爪政泰
4.加賀爪泰定
5.加賀爪政豊
6.加賀爪政尚
7.加賀爪忠澄
8.加賀爪直澄
9.加賀爪直清
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 07時15分36秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/enshucastle/enshyushiro/kagatsumekai.html

      加賀爪甲斐守屋敷跡
読み方:かがづめかいのかみやしきあと

築城年:不 明

築城主:不 明

様 式:居館城

遺 構:屋敷門

所在地:磐田市笠梅

 アクセス

車 : 県道277号線(磐田山梨線)新豊院北約500m先の市道沿い付近。

駐車場 特にありません(空き地を利用)。  



 加賀爪甲斐守直澄は1万石の大名で、内6,500石は遠江にあり、残り3,500石は武蔵(現在の
埼玉県、東京都)相模(現在の神奈川県)にありました。


寛文元年(1661年)には寺社奉行に進み、同8年(1668年)には3,000石が加増されます。

元和元年(1681年)直澄が改易処分を受け加賀爪氏は断絶しましたが、弟二人の内の一人が旗本として幕末まで大海の一部を地行していました。現在、加賀爪家屋敷門が向笠竹之内の寺田家に残されています。(向笠史談会案内より)






読み方:かがづめかいのかみやしきあと

築城年:不 明

築城主:不 明

様 式:居館城

遺 構:屋敷門

所在地:磐田市笠梅

 アクセス

車 : 県道277号線(磐田山梨線)新豊院北約500m先の市道沿い付近。

駐車場 特にありません(空き地を利用)。                     





加賀爪甲斐守直澄は1万石の大名で、内6,500石は遠江にあり、残り3,500石は武蔵(現在の
埼玉県、東京都)相模(現在の神奈川県)にありました。


寛文元年(1661年)には寺社奉行に進み、同8年(1668年)には3,000石が加増されます。

元和元年(1681年)直澄が改易処分を受け加賀爪氏は断絶しましたが、弟二人の内の一人が旗本として幕末まで大海の一部を地行していました。現在、加賀爪家屋敷門が向笠竹之内の寺田家に残されています。(向笠史談会案内より)

加賀爪甲斐守屋敷門





居館跡は新豊院より北約500m付近の道沿いに「加賀爪甲斐守屋敷跡」標柱がある辺りにあっ
たとされます。

向笠史談会案内では、屋敷跡では延宝7年(1679年)に嫡男直清に家督を譲ったが天明元年(1781年)に所領境界線論の処置不十分を理由に所領を没収され家督は断絶したと紹介している。しかし、屋敷跡門がある向笠竹之内では、元和元年(1681年)直澄が改易処分を受け加賀爪氏は断絶したと紹介…年代で100年ものズレがあるのは単に間違いだけなのか疑問が残りました。


また、袋井市上新池にある加賀爪屋敷跡との関係なども不明であることから今後もこのことは調べて行きたいと思います。

現代段階での個人的憶測では、加賀爪屋敷は上新池にあったが貞享2年(1685年)に改易されたことで笠梅に屋敷を建て移り住んだとする方が説明し易いのではないかと考えます。

         
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 07時19分23秒 ) パスワード

井出氏は


家紋
井桁
丸に井桁


本姓
藤原南家為憲流二階堂氏庶流

家祖
二階堂正重

種別
武家

出身地
駿河国富士郡井出

主な根拠地
駿河国

著名な人物
井出正次


井出氏(いでうじ、いでし)は日本の氏族。富士上方(現在の静岡県富士宮市)の在地領主。



概要[編集]

藤原南家の流れとされ、二階堂左衛門尉正重が駿河国富士郡井出の地に住みつき「井出氏」を称したことに始まるという。今川氏に被官しており今川氏との関係が強く、大永3年(1523年)から永禄12年(1569年)まで20点の今川氏から井出氏への発給文書が存在する[1]。 富士上方に位置する「上野関」の管理が今川氏により任されており、また上野関銭を安堵されていた[2]。

花倉の乱の際、当時の当主である井出左近太郎は栴岳承芳(今川義元)側に付かず、玄広恵探側に付いたと言われる[3]。今川家家臣として河東の乱にも参加し、戦功として富士上方の稲葉給及び屋敷が安堵されている[4]。また大宮の富士氏と共に武田氏の駿河侵攻に抵抗しており、今川氏真より安堵状[5]と感状[6]を受けている。富士郡大宮の地に屋敷を有していたと考えられ、駿河侵攻における大宮城の戦いにおいては富士氏らと籠城したと言われている[7]。

また、江梨鈴木氏の分流にも井出氏があった。


井出館[編集]
井出家高麗門・長屋


井出館は源頼朝の富士の巻狩の際に宿所が置かれたと伝えられる場所[8]であり、幔幕を張ったといわれる[9]。井出家の一部は現在「井出家高麗門及び長屋」として、富士宮市の指定文化財に登録されている。


参考文献[編集]

大久保俊昭、「今川領国における国人・土豪層の動向と存在形態」『戦国期今川氏の領域と支配』、岩田書院、2008年
『寛政重修諸家譜』、巻1100
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 07時25分33秒 ) パスワード

【名字】井出

【読み】いで,いいで

【全国順位】 531位
【全国人数】 およそ39,200人



井出臣、井出首(秦氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
藤原南家工藤氏流、
越智氏(物部氏の子孫)などにもみられる。

現長野県である信濃、現静岡県である駿河地方に多くみられる。


現在の長野県の井出は、静岡県の身延から信濃へ渡った井出で、
その昔は武田信玄の時代に、武田に仕え、山本勘兵衛のもとで土木関係に力を発揮し、
武田の金鉱探しに力を発揮すると言う土木集団で知られていた。

    ↑

   アヤシイ


苗字に関するエピソードもある。

主にオランダのアムステルダムの干拓埋め立て工事が有名であるが、
これには武田の信玄堤(堤防工事)の工法が持ち入れられ、
そのため日本から遠征し、
そのままオランダに骨を埋めた流れで現在日本人を先祖にもつIDEさんという方たちが現存しており、
自分がヨーロッパやアメリカを歩いたとき名前の読みをアイディーでなくIDEをイデと読まれ驚いた事があったという。

土木に秀でた家系には、中巨鎌足が天智天皇から賜ったことに始まり藤原氏より派生し井出右大臣を排出し、
皇室の要職者も多く排出している。


そして、天智天皇から静岡県身延山に身延山新勝寺を開山するため指しむかられ、
現在まで身延山の檀家総代の家系が井出さんである、

そこから二手に分かれ、

1手は長野に北上し信濃で武田の家臣団に加わり、
武田の土木に力を注ぎ、
武田の軍事道路の棒道の維持管理の為に配置されたため、
山梨県甲府市から長野県佐久市をへて長野の川中島までに現在でも井出姓は多くみられる。

また身延山の静岡側には、奈良県から最初に渡来したときは、身延の西に井出村という地名があり
ここが東日本での最初の定着地であろうと言う説がある。

そして身延山の開山の後、山梨県の大石寺造営の為もう一派が現在の富士市に移り、その家ノ前に三島の下馬桜が有名である。


またその後、天命により富士吉田市(河口湖)に富士講の為、
現在の富士吉田登山口(道)の維持管理を目的として遣わされたことから、
山梨に井出が多いとされている。


現在東京等では、山梨系と長野系を起源とする井出姓を確認することが出来る。



井出さんも名家なんだ〜
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月22日 07時37分15秒 ) パスワード

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000041446


佐久の井出氏

Q:
信州佐久の「井出氏」(信濃橘姓)の、以下の人物の名前の読み及び生没年を知りたい。
@井出大和守以親
A井出兵部太夫長門守以季(知季) 村上義清の家臣、海尻城主  
B井出土佐守知與(知与)
C井出縫殿尉知次 武田晴信(信玄)の家臣



A:
『姓氏家系大辞典 1』の〈井出氏〉、『系図纂要 14下』『公卿緒家系図』『宮廷公家系図集欄』『国史大系 60下 尊卑分脈』等の〈橘氏〉に系図があるが、それぞれの正確な読み・生没年については、Cの没年や一部の読みを除き、判明しなかった。調査状況および参考となる資料の記述を以下のように紹介する。

@読み・生没年ともに判明せず。

A〈以〉の文字の用例として、『名前10万よみかた辞典』『名乗辞典』に「ノリ」「モチ」「ユキ」「シゲ」の読み方がある。以季の子である〈以基〉は「ノリモト」とあり、一族に〈以繁〉(ノリシゲ)、〈以政〉(モチマサ)といった名がある。
『大日本史料』に名前が見られるのは1300年代中頃である。『公卿人名大事典』より子の以基は、生年不明〜応永21(1414)年7月とある。

B読み・生没年ともに判明せず。

C長野県図所蔵資料から、「縫殿丞」の読みは、「ヌイノジョウ」(「佐久市志 歴史編2」p474)、「ヌイドノジョウ」(『図説・佐久の歴史 上』p70)とあり。没年は天正3年3月。また、『信濃史料 11』p199・370の行状の日付が天文12年及び17年とあり、その頃活躍していた人物らしい。



Aの「井出兵部太夫長門守(イデヒョウブダイブナガトノカミ)以季」は、
中世長野県(南佐久郡南牧村)海尻城(ウミジリジョウ)の城主で、
平成19年5月のNHK大河ドラマに出ていた人物である。

臼田町の郷土史家によると、1543年頃(天文年間)の人で、別名「知季」といったらしい。



検索プロセスの報告:

系図関係資料を探索する。『姓氏家系大辞典 1』等に〈井出氏〉〈橘氏〉の系図があり、〈以親〉-〈以季(知季)〉〜其の孫〈知興(知与)〉-〈知次〉と人物を確認するが、読みや生没年の記載なし。

《大日本史料総合データベース》(東京大学史料編纂所)を検索するが読みや生没年に関する記述は見つからず。

『国史大系 別1 公卿補任索引』(吉川弘文館)、『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)、『佐久の人物と姓氏』(櫟)、『長野県歴史人物大事典』(郷土出版社)、『郷土歴史人物事典 長野』(第一法規)や『日本城郭大系 8』(新人物往来社)「海尻城」の項を探索するが、読みや生没年の記載なし。

長野県立図書館へ調査を依頼する。(4)の人物について、ヌイノジョウ(「佐久市志 歴史編2」より)、ヌイドノジョウ(「図説・佐久の歴史 上」より)の読みについての回答あり。

その他の調査済み資料は以下のとおり。

「南佐久郡誌 古代・中世編」(長野県南佐久郡誌刊行会)「南牧村誌」(南牧村誌編纂委員会)「海尻城沿革考」(井出英作)「定本 佐久の城」(郷土出版社)「図解山城探訪 9 佐久南部資料編」(長野日報社)、「千曲之真砂」(『新編信濃史料叢書 9』所収)「南佐久郡の古文書金石文」(南佐久郡教育会)「南佐久郡古城址調査」(歴史図書社)


レファレンス共同データベースって
http://crd.ndl.go.jp/reference/
こんなにしっかり調べてくれるものなの?

三つ柏さんも家紋の件、依頼なさっては?
[34]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月22日 23時41分39秒 ) パスワード

 あを様
 >多分永田家については箱柳さんがもうお調べではないかと期待しています。
 永田弥左衛門久琢について、調べたことはありますが、服部さんは出てきた記憶がないのです。でもって、久琢の日記<子孫への戒めを含む>には、
 長田とは一切無関係である(by松阪市歴史博物館 学芸員)と書かれているそうです。(かなりの悪筆で、、、苦労した とも)
 この方は、主人の運が悪く水野→佐久間→織田信長→信忠→信雄→徳川秀忠
 となっており、随分苦労した と思われますので、ひょっとしたら
  長田に生まれたことで不利をこうむっていると、、、、考えています。

 
 
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月23日 05時58分49秒 ) パスワード

箱柳さん

>この方は、主人の運が悪く水野→佐久間→織田信長→信忠→信雄→徳川秀忠 となっており、
>随分苦労した と思われますので、
>ひょっとしたら
>長田に生まれたことで不利をこうむっていると、、、、考えています。

そうなんですか。


>長田とは一切無関係である(by松阪市歴史博物館 学芸員)と書かれているそうです。
>(かなりの悪筆で、、、苦労した とも)

何か秘密がありそうですね。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月23日 07時40分10秒 ) パスワード

<25>と加賀爪氏の復習


服部家から養子に行った保忠は一体どういう立場だったのでしょう?


上杉政定
加賀爪忠定
加賀爪政泰
加賀爪泰定

加賀爪政豊
    子  政尚    この人以降、大活躍するのですね  
    娘(服部保次室)                ここ         (養子) 保忠(父:服部保次)          ここ           


1代目  加賀爪政尚     旗本          3000石
2代目  加賀爪忠澄     昇進昇進また昇進     9500石
3代目  加賀爪直澄     大名になる      1万3000石
加賀爪直輔    生没年:1639-1660  この人は21歳で亡くなってますね

4代目  加賀爪直清     それで養子をもらったのですね  
               で、この人の時に改易になったのですね
              生没年:1643-1685
              父:伊勢神戸藩初代藩主 石川総長
             義父:武蔵高坂藩初代藩主 加賀爪直澄従五位下土佐守1679-1681 
              武蔵高坂藩二代藩主1681 改易                    
              正室:(父:美濃岩村藩二代藩主 丹羽氏定)            
            
              とんだ養子を貰ってしまいました。




加賀爪家:

初代正尚が長久手の戦い、小田原征伐の武功で1592年に3000石。 
2代目忠澄が1625年に4500石、1631年に9500石、江戸町奉行・大目付を勤める。 
3代目直澄は書院番組頭、寺社奉行を勤め、1668年13000石で大名に列した。 

成瀬氏との間での領地係争問題で4代目直清の時、1681年に改易となり廃藩となった。

領地は遠江に6500石、相模、武蔵に6500石⇒高坂陣屋   
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月05日 14時16分34秒 ) パスワード

やっと伊賀国呉服神社の神職だった服部貞信系の一族の本家分を読み終えました。
まだまだ分家が残っています。



驚きました。
関ヶ原に貞信が行ってるのは分かってたけど
    関ヶ原の合戦屏風に描かれた六芒星の人物では?と想像している人です
息子も16歳で供奉してたのです。


そして貞信は160石

その子貞富は計400石をもらい、何度も出て来た「赤堤」の人です。

その孫の貞常は従5位下備後守になり計1600石を知行し、養老料に300俵を頂いています。

その曾孫貞治はお目付けになり、後に、伊豆下田の奉行になっていました。

その玄孫常方は本所の火事場目付となり、後に、上総国夷隅郡に采地を移されました。

その常方の姉妹が藤堂勝兵衛良明の妻になり
常方の養子の貞殷(一族の服部貞直の子)の妻は藤堂勝兵衛良明の娘。
    ややこしい。


貞殷の子、貞則の妻は諏訪七左衛門頼均の娘。
     貞則の姉妹達はそれぞれ伊奈忠衡の妻と間部忠義の妻。


貞則の子、貞徳(さだのり)の妻は酒井飛騨守忠香の養女。
                   ↑
                 なにもの?
                 多分大身の旗本かも

貞徳の子、貞勝は中奥勤めで1400石。


家紋は車輪竪2本矢・七本矢・矢の字桔梗


    確か家紋のサイトを見てた時に、この家は  卍紋 も使っていると読んだ記憶ですが・・・
    その紋については書かれていませんでした。


[40]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月05日 14時49分11秒 ) パスワード

書き直し


この呉服神社の神職の貞信の一族の者はやっぱりアヤシイ!
神職が伊賀越えで家康とお近づきになってココまで出世するかなと不思議です。

確かに服部神社は「黒党なんとかという忍者の基地」だったようですけど
浜松で160石で召し抱えられた後、子孫が出世街道を驀進。



  本当に子孫が良い家と御縁が出来ています。
  貞徳の妻は酒井飛騨守忠香の養女ということで大身の旗本かと思っていたら❢

       と〜んでもないご身分のお方でした❢
       藩主でした❢大汗


そのほかにも貞常の弟が永井信濃守尚政の家臣になっていたり
加藤玄蕃則棟に嫁いだり人もいたりしています。



****************************


貞則の妻は  酒井忠香  ということで調べました。


酒井 忠香(さかい ただか、1715年(正徳5年)- 1791年12月3日(寛政3年11月8日))

越前敦賀藩の第4代藩主。
忠稠系小浜藩酒井家別家4代。
享保4年(1719年)9月5日生まれとも。

第2代藩主・酒井忠菊の八男。正室は水野忠定の娘。子に酒井忠恕(長男)、酒井忠節(次男)、水谷勝政(三男)、酒井忠言(四男)、山名豊磐(五男)、酒井忠貞(六男)、酒井忠進(七男)、娘(内藤正弼正室)、娘(水野忠敞正室)、娘(浅野長富正室)、娘(酒井忠記正室、のち小出英敦室)、娘(滝川利雍正室)、娘(酒井忠貞室)。官位は従五位下、播磨守、飛騨守。

生涯[編集]

享保16年(1731年)、兄である第3代藩主・忠武の養嗣子となって家督を継いだ。延享2年(1745年)に大番頭、宝暦8年(1758年)に奏者番、宝暦11年(1761年)に寺社奉行兼帯、明和2年に(1765年)西の丸若年寄などを歴任して徳川家基付の重臣となった。家基亡き後は将軍に仕えた。

天明8年(1788年)に家督を子の忠言に譲って隠居し、寛政3年(1791年)11月8日に77歳で死去した。法号は水翁仁海実国院。


酒井氏敦賀藩4代藩主 (1731年 - 1788年)


酒井忠稠1682-1706 | 酒井忠菊1706-1722 | 酒井忠武1722-1731 | 酒井忠香1731-1788 | 酒井忠言1788-1797 | 酒井忠藎1797-1833 | 酒井忠毗1833-1867 | 酒井忠経1867-1871 | 廃藩置県


*************************


永井尚政とは:

時代
安土桃山時代 - 江戸時代前期

生誕
天正15年(1587年)

死没
寛文8年9月11日(1668年10月16日)

改名
尚政→信斎(法号)

別名
伝八郎(通称)

墓所
京都府宇治市宇治山田の興聖寺

官位
従五位下、従四位下、信濃守

幕府
江戸幕府


上総潤井戸藩主→下総古河藩主→山城淀藩主

氏族
永井氏

父母
父:永井直勝、母:阿部正勝の娘
    ↑      ↑
   へえ〜    へえ〜


兄弟
尚政、直清、直貞、直重


正室:内藤清成の娘


尚征、尚保、尚庸、直右、尚春、尚申、尚盛(八男)、長子(立花忠茂正室)、娘(高力高長正室)、娘(松平忠憲正室のち松平康尚正室)、娘(松平定政正室)、娘(森長俊正室のち大沢基躬室)、娘(米津田盛正室)、娘(上林重胤室)、娘(小浜広隆正室)ら


     すごい!



永井 尚政(ながい なおまさ)は、江戸時代前期の大名。上総潤井戸藩主、下総古河藩第2代藩主、山城淀藩初代藩主。永井家宗家2代。

東京都新宿区の「信濃町」の名は、信濃守となった当時の下屋敷があったことに由来する。

生涯[編集]

永井直勝の長男として駿河国に生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍し、慶長7年(1602年)には徳川秀忠付の小姓となった。慶長10年(1605年)4月26日、叙爵して信濃守を称した。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参陣して功績を挙げたため、御小姓番頭に任じられた。その後も幕府への忠勤に励んで加増を受け、元和5年(1619年)には上総潤井戸に1万5000石を領する大名にまで昇進した。元和8年(1622年)、宇都宮城釣天井事件で本多正純が改易された後、老中に選ばれた。寛永3年(1626年)、父・直勝が死去したため、家督と所領である下総古河8万9000石を相続した。寛永9年(1632年)に秀忠が死去すると、北条氏重や土井利勝らと協力して、増上寺に秀忠の廟を建立するための監督官を務めた。


寛永10年(1633年)、老中職を解任されて山城国淀藩10万石へ加増移封された。その後は京都所司代と協力して京都や大坂の治安を担った。寛永年間に大規模な飢饉が起こったときは、領民の救済にあたり、島原の乱が起こったときは、京都の守備を命じられた。その後も、江戸城普請や禁裏における普請などで功績を挙げた。正保元年(1644年)11月23日、従四位下にのぼった。明暦4年(1658年)2月28日に致仕。後に入道して信斎と号した。


寛文8年(1668年)9月11日死去、享年82。


**********************


加藤玄蕃則棟をサーチしたら

https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E7%8E%84%E8%95%83%E5%89%87%E6%A3%9F%E3%80%80%E3%81%AF&peek=function()%7Breturn%20this%5Bthis.length-1%5D%7D

中国語のサイト
だから内容は読みに行きませんでした。


姓名部/苗字稱號 - Kojiruien

ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?...


Aug 8, 2014 - p.0305
姓氏氏則不三必受二之天子一、人々有レ之、後世子孫、傍支別 ...... ヽ其城下に至り、二三ケ月程逗留す、

   家老加藤玄蕃よりの手簡に、     ←  同一人物?謎

吉平太樣 ...


++++++++++++++++++++++++


ということで、先月あたり、服部保長の一族を読んでた時に出て来た面々のご親戚の方達も
このような立派な身分の人達だったのかなと、

   また読み返して、サーチしなくっちゃ・・・・


      現場100回って、ホントね。


やはり伊賀の服部家はそれぞれの服部家が配下の忍者をいろいろな藩に派遣してたのかもですね。
[41]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月05日 17時27分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今JOBから開放されたところですので、家にて読解いたします。
 ありがとうございます。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月06日 13時52分17秒 ) パスワード

服部貞信の系統の服部備後守貞常の次男の子孫がしっかり出世しています。
             貞常の妻は加賀美才兵衛正光の娘です。


まずこの加賀美才兵衛正光について:

加賀美正光 かがみ-まさみつ

1573−1629 織豊-江戸時代前期の武士。

天正(てんしょう)元年生まれ。加賀美正吉の父。
武田信玄,ついで徳川家康につかえる。

天正18年家康にしたがい小田原攻めに出陣し,翌年の陸奥(むつ)九戸一揆(くのへいっき)の鎮圧や関ケ原の戦いにもくわわる。
のち江戸幕府の書替役をつとめた。
寛永6年2月2日死去。57歳。甲斐(かい)(山梨県)出身。通称は才兵衛。




貞常の曾孫になる女子は大岡淡路守忠主の妻だそうです。   ← 何者?

で、この大岡淡路守忠主の娘の夫が  鳥文斎栄之

鳥文斎 栄之(ちょうぶんさい えいし、宝暦6年〈1756年〉 - 文政12年7月2日〈1829年8月1日〉)


江戸時代後期の浮世絵師、旗本。        ← 旗本の浮世絵師


寛政から文化文政期にかけて活躍、武家出身の浮世絵師らしく、清楚で慎ましやかな全身美人画で人気を博した。



生い立ち[編集]

文竜斎(閲歴不明)の門人。姓は細田、名は時富。俗称は民之丞、後に弥三郎。鳥文斎と号す。治部卿とも称した。

肉筆画に、華暎、独有の印が見られる。

栄之は後に従六位に叙せられている。


江戸本所割下水(現・墨田区亀沢)に拝領地を有し、初め浜町に住み、後に本所御竹蔵の後方に移ったという。


父は細田時行、母は境野氏の出とされるが、妾腹ではないかともいわれている。

細田家は500石取りの直参旗本で、栄之の祖父時敏は勘定奉行を務めている。
                          ↑
                       これまたすごい


栄之自身は時行の長男として生まれ、安永元年(1772年)9月6日に17歳で家督を継いでいる。

絵は初め狩野典信に学び、師の号「栄川院」より「栄」の一時を譲り受け栄之と号した。
後に浮世絵に転じたため、師の栄川院より破門を言い渡されたが、栄之の号だけは永く使用していた。

その後諸役を務め、天明元年(1781年)4月21日から天明3年(1783年)2月7日まで西の丸にて


将軍徳川家治の小納戸役に列し絵の具方を務め、家治が絵を好んだので御意に叶い、日々お傍に侍して御絵のとも役を承っていた。

                          ↑
                        なるほどね


天明元年(1781年)12月16日には布衣を着すことを許可されている。

上意によって栄之と号し奉公に励んだが、天明3年(1783年)12月18日辞して
無職の寄合衆に入っている。
    

天明6年(1786年)には将軍家治が死去、その三年後の栄之34歳の時、寛政元年(1789年)8月5日には病気と称して致仕、隠居した。

しかしこれは将軍が病死であったことにより、憚ってのこととであるとされる。

そして妹を養女として迎え、これに和三郎を婿入りさせて時豊と名乗らせ家督を譲った。



浮世絵師へ[編集]

栄之は狩野典信に師事した後に文竜斎に師事し、すでに天明(1781年 - 1789年)後期頃から浮世絵師として活動を始めており、初作は天明5年(1785年)刊行の黄表紙『其由来光徳寺門』の挿絵である。初期の作品は、天明期の美人画界の巨匠・鳥居清長の影響が強く、清長風の美人画などを描いている。


寛政元年に家督を譲った後は本格的な作画活動に専心し、寛政(1789年 - 1801年)期には栄之独自の静穏な美人画の画風を打ち立てた。特に女性の全身像に独自の様式を確立、十二頭身と表現される体躯の柔らかな錦絵美人画を寛政後期まで多数制作している。


栄之の描線は細やかで優美、その女性像は背丈のスラッとした優雅なもので、当時ライバルだった喜多川歌麿作品に見られる色っぽさや淫奔さとは、はっきりと一線を画したものであった。


栄之は遊里に生きる女性を理想像に昇華し、清長よりもほっそりとして、歌麿のような艶麗さがなく、容貌は物静かといった栄之独自のスタイルを確立している。


また『源氏物語』などの古典の題材を当世風に描いた3枚続「風流略(やつし)源氏」のように、彩色は墨、淡墨、藍、紫、黄、緑といった渋い色のみを用いた「紅嫌い」と呼ばれるあっさりとした地味なもので、それでいて暖かみを感じさせる独特の雅趣のある表現を好んでいた。


この「紅嫌い」の創案者は栄之であるといわれる。栄之はこの作風をもって一枚絵で歌麿とその人気を競った。中判や柱絵にも優れた作品があるが、錦絵の代表作ではシリーズ物の「風流略(やつし)六哥仙」、「風流名所十景」、「青楼美撰合」、「青楼芸者撰」、「青楼美人六花仙」などがあげられる。なかでも「青楼美人六花仙」のシリーズは黄潰しの背景に花魁の座像を気品高く描いており、栄之ならではの傑作とされている。反対に歌麿が得意とした美人大首絵は全く手掛けておらず、あくまで全身像にこだわる栄之の姿勢が窺える。栄之は細田氏であったが画姓としてはこれを用いず、別に細井氏を名乗っているものがあり、その一例として寛政13年(1801年)、葛飾北斎と共作した西村屋版の豪華な色摺り絵本『新版錦摺女三十六歌僊絵尽』に「細井鳥文斎筆」とあるのをあげられる。これも家柄を憚ってのことと思われる。



肉筆画へ転向[編集]

栄之は寛政10年(1798年)頃には錦絵の一枚絵の制作を止める。江戸期の記録には「故在りてしばらく筆を止む」「故障ありて錦絵を止む」などの記述が見られ、版画作品の発表を取りやめざるを得ない事情があったことが想定できる。享和(1801年 - 1804年)・文化(1804年 - 1818年)期にかけては専ら肉筆の美人風俗画を手がけており、気品のある清雅な画風で人気を得た。江戸時代は、木版画の下絵を手懸ける者「画工」より、肉筆画専門の「本絵師」のほうが格上と見られており、栄之の転身も彼の出自と、当時の身分意識が影響していたとみられる。

寛政12年(1800年)閏4月、妙法院宮真仁法親王(門跡)が江戸に下向した折、将軍が栄之に命じて評判の隅田川の図(おそらくは肉筆による絵巻物)を描かせるということがあった。京に帰った妙法院宮は、それを絵を好んだ後桜町上皇に江戸土産としたところ、上皇は殊のほかお喜びになり、ついには仙洞の御文庫に納められたという。これを伝え聞き名誉に感じた栄之は、「天覧」と刻んだ印章を作り、記念としたのであった。ついに浮世絵が帝の叡覧に供せられるという誉れに浴した瞬間であった。評判となったこの一事によって栄之の画名を高めるとともに、以降自作に対し大いに矜持を抱いたといわれる。さらにこのことが当時の人口に広く膾炙し、隅田川を描いたそれと同趣向の作品の揮毫を各方面から次々と求められたとみられ、同様の「吉原通い図巻」がおよそ21点ほど確認されている。

その後は栄之は没年まで優れた肉筆画を描いており、学んだ絵の骨格がしっかりしているので晩年の肉筆画にも佳作が多く、ただ美人画のみではなく風景画にも優れた作品が残されており、特に隅田川の風景を好んで描いている。ただし、絹本の作例には同じ下絵を使い回した同工異曲の作品も多く、弟子たちを動員して工房的な量産体制があったことが類推できる。その一方で、極めて稀だが肉筆画の落款に、「治部卿栄之藤原時富筆」と位や肩書きをつけて署名することがあり、これらは名だたる大名からの需めに応じて描いたものであると思われる。「遊女立姿図」(東京国立博物館所蔵)や「美人図」(大和文華館所蔵)などに「治部卿栄之藤原時富筆」という落款がされている。

後に栄里、栄昌、栄深、栄水、栄文、栄鱗、栄晁、栄綾、栄京、栄意、栄雅、栄舟、栄隆、栄波、栄山、栄尚、蕉鹿、五郷など多くの優秀な門人を輩出している。文政12年(1829年)、74歳で死去した。 墓所は台東区谷中の蓮華寺。既に合祀墓に移されていて墓石は存在しない。法名は広説院殿皆信栄之日随居士。



まさか浮世絵師がここにもいたとは。
驚き
それも服部家回りで、とは。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月06日 14時15分02秒 ) パスワード

更に子孫に常岑というのがいて
この人は養子で

   父は成瀬惣十郎政久の4男で
   母は大久保庄右衛門忠許の娘だそうです。



      成瀬といえば尾張徳川家の付け家老で城持ちになったのは幕末という不運な殿様がいます

      大久保忠許は大久保家の家系図11ページの下の方に名前があります。1162ー1721  
         http://plaza3.dws.ne.jp/~m.okubo/MikawaOkubo-SouKeihu.pdf



そのまた養子に貞固というのがいて
    この人は一族の服部主人?主水?貞徳の次男で
           母は酒井飛騨守忠香の養女で(前述)

 


この家の家紋が!  車輪竪2本矢   左角萬字   つまり  卍紋


現在読んでいる貞信子孫の別の流れの服部家も萬字紋を使っていて  これは  卍 のことなのかな?と。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月07日 07時24分46秒 ) パスワード

伊賀呉服明神の神職だった服部貞信の分家を1つ読み終えました。


従5位下大膳亮に叙任した服部貞世の流れです。服部貞冨の3男です。

武蔵国入間郡で750石、下野国都賀郡にて500石  の計1250石の旗本です。


この貞世の子供2人は綱吉の嫡男徳松どのの家来となって将来は輝ける出世が見込まれていたのでしょうね
ところが逝去してしまう。

だから小普請組になったり  
   その後、長男は桐間番や中奥に番。
       次男は失心でクビに。鬱で退職になったのでしょうか?


その後、950石を相続した子孫は吉宗の日光詣でで同僚にとんでもないのがいて
名前は松平内膳親房、
それを隊長に速やかに報告しなかったために小普請に格下げされて翌年許されたそうです。

   ま、名字が松平という男ですから、許されたのでしょうね。


この家の家紋は  車輪に竪2本矢紋  七本矢紋

[45]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月07日 07時50分40秒 ) パスワード

また別の分家ですが入間郡に300石を分かち与えられた家は
4代目に松平新兵衛清安の子を養子に迎えています。



上記に書いた、おいたをした松平内膳親房の関係者かも。


この家はここで絶えています。


家紋は  車輪に竪2本矢紋  七本矢盾紋?  矢の字桔梗

[46]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月07日 07時52分22秒 ) パスワード

ここで2家目=神職の服部貞信の流れ=を終了して、いよいよ尾張の服部家の出番です。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月08日 07時26分52秒 ) パスワード

服部権大夫政信の家です。   家紋は  矢筈車


   記録が混乱してて  祖父=政光(政秀あらため政光)
             父も政光で後に子孫が政季に改めた

                逆に覚えてた〜〜〜悲鳴


祖父政光、桶狭間の戦いで家康の御感をかうぶり、
岡崎にをいて召され仕へたてまつりしかば
遠江国河の内の庄にをいて3000貫の地をたまふ。
三方原の役に仰せを受けて海陸の敵に備へむがため遠江国東村城を守衛す。


    遠江国東村城とは?

検索したら


【求助】不懂殿跟其他高人可否帮个忙:关于战国之城 - 浪人御所
www.sengoku.cn/bbs/thread-155655-1-1.html


またもや中国のサイトがヒットしました。危ないから行かないように。


Jul 23, 2009 - 20 posts - ‎8 authors

常陸国海老ヶ島城 四保城 阿波崎城 釜井城 清水城 大日城 寺田城 殿山城 東 ..... 長窪城 興津城 葛山城 富士大宫城 長浜城

遠江国宇津山城 掛川城 二俣城 高 .... 边城
  ↑
 8人の中国の人達、何の話をしてるのでしょうね


ここからは伊勢国です。
                  これも伊勢の東村城でしょう
                        ↓
向平城 下平城 麻生田城 阿下喜城 中山城 治田城 東村城 飯倉城 古田 ...


遠江国東村城とは?
要するに  浜名湖  あたりでしょうか?



で、政信は今切の関所奉行になって4290石余

政信の子供達

長男は秀忠い仕えてたけど父に先立ちて死す

2男は家光に仕えて従5位下玄蕃頭に叙任、父に先立ちて死す
     子はいたけれど名前が伝わっていない

3男は上総国夷隅郡へ   無嗣につき断絶

4男は別家をたてる

娘は長井五右衛門吉勝の妻

5男は高木筑後守政次の養子に
   この高木家というのは三方ケ原の戦いで家康を助けた家だそうです。
   

    つまり三方ケ原の戦いの時には服部家と親しい関係にあったのでしょうね。



高木筑後守政次を検索しましたがパワー不足で繋がらないです:
https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E9%AB%98%E6%9C%A8%E7%AD%91%E5%BE%8C%E5%AE%88%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E3%80%80%E3%81%AF



私が好きな松戸の景観スポット第1弾(松戸地域):松戸市公式 ...
https://www.city.matsudo.chiba.jp/.../matsudo...

Nov 25, 2013 - 徳川家康の命の恩人、高木広正の菩提を弔う松龍寺を、徳川将軍八代吉宗は2回、十一代家斉、十二代家慶 ... 葵の里」の松龍寺 -高木筑後守正次の墓-.


松戸城 - 日本の城めぐり MARO参上

江戸時代に入ると旗本・高木筑後守正次がこの地を与えられ、明暦3(1657)年まで高木氏が館を構えていたとされ、その後、享保10(1725)年には、徳川8代将軍・吉宗が鹿 ...


松戸城
www.siromegu.com/castle/tiba/matudo/matudo.htm

近世に入ると、松戸近辺は徳川氏の旗本知行地となり、松戸城は高木筑後守正次が、文録二年(1593)から引き続いてその子の正勝が、明暦三年(1657)まで館を設けて ...


松戸陣屋-高木氏陣屋
edononagori.fan.coocan.jp/hata_matudojinya_tiba.html

松戸陣屋/高木氏陣屋:千葉県松戸市(現、松戸神社) 旗本、高木氏3300石, 松戸陣屋/高木氏陣屋探訪2012.09. 文禄元年(1592)、高木筑後守正次が知行地を拝領し松戸 ...


松戸城 -平八郎軍鑑- - Biglobe
www5d.biglobe.ne.jp › トップ › 戦国の部屋 › 関東地方

その後、徳川氏の知行地となると、高木筑後守正次・正勝が在城したという。


松戸城(千葉県松戸市):春の夜の夢:So-netブログ
atenzasports23z.blog.so-net.ne.jp/2014-11-07

1 day ago - 高城氏が、北条氏と共に滅亡すると、松戸城には徳川家康の家臣高木筑後守正次が入り、1657年まで高木氏の館が構えられていたと伝えられている。

など。

[48]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月08日 07時34分48秒 ) パスワード

空のあお海のあを様

 ただ今開かせていただきました。熟読いたします。用事がつまっています
のでまた後でレスをいたします。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月09日 08時24分43秒 ) パスワード

本日は服部正光・政信・政重・政次の家を終わりました。


平氏で
葛原親王の後胤
伊賀平内左衛門保長の息子  平内兵衛保清の子孫
伊賀国服部に住せしより家号とす
保清9代の孫を修理亮保宗とし
その子を伊賀守宗純とし
その子を左京亮宗家とし
その子を伊賀守宗信とし
その子を左京亮宗政とし
政家は宗政が男なりといふ。


      ここらあたりでこんがらがりそう。


某  権大夫  左京亮  信発(のぶひで)が呈譜 政家に作る
   つまり服部左京亮政家

   織田信秀に属しのち尾張国河内に蟄居す。
   妻は横井丹後守某が女


その子  政秀あらため正光
     桶狭間の戦いで家康の御感をかうぶる
     岡崎にをいて召されて仕へたてまつり
     遠江国河の内の庄にをいて3000貫の地をたまふ。

     三方ケ原の戦いで遠江国東村城を守衛す。

     妻は千秋式部少輔某が女



その子  政光     あらため政季

     武蔵国太田庄のうちにをいて采地3000石を宛行はるるの旨御朱印をくださる

     近江国長浜のうちにをいて1000石を加へらる

                  計4000石

     妻は高力河内守清長が女



政信の長男  権大夫政信
       遠江国敷智郡のうちに4290石余
       今切の関所奉行

       妻は加藤喜左衛門正次が女


          政信の子  政長
                父に先立ちて死す

          政信の次男  政久
                従5位下玄蕃頭
                采地  1000石
                浅草長敬寺に葬る

         
                   政久の子  某
                         家督を相続して後、断絶     

          政信3男   政久  のちに  信利に作る
                2790石
                采地を上総国夷隅郡に移さる

                嗣無くして家絶ゆ


          政信4男   信成
                 別家をたてる


  
          政信 娘   長井五右衛門吉勝が妻


          政信5男   正勝
                 高木筑後守政次が養子



家紋は矢筈車


    服部政信の家の家紋は矢筈車。    
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月09日 08時48分13秒 ) パスワード

服部政信の4男の家:服部信成の家
          家譜を訂正した信発(のぶひで)の先祖になります
          母は加藤喜左衛門正次が女


          采地を上総国夷隅郡のうちに移さる
          1500石

          妻は川口久助宗次が女


信成の子   権大夫信解 
       1200石

       正徳元年信濃国飯山城を青山大膳亮幸秀にたまふにより
       成瀬吉衛門正起とともに彼の地に至り
       城引渡の役を勤む


       妻は大岡備前守清重が女


信成の次男  信親   服部幸八郎幸成が祖

信成の娘   北村氏の妻



信解の子(養子)信隆  服部権右衛門信親が次男
            母は朝比奈左兵衛利昌が女



信隆の子   信由   病者たるにより家督足らず
            妻は安西甚兵衛正栄が娘


信隆の養子  信任   斎藤頼母利保が5男
            婿養子になる


信任の長男   信貫
            妻は遠山隼人伊氏が女

信任の娘        布施主水正孝が妻

信任の次男  某   吉之助  

信任の娘        木 村 八 十 八  安 糸卓 が妻


信任3男  信貫の養子  信発のぶひで
                 兄・信貫が養子となる  実は信任の3男                 この人の時に寛政重修諸家譜の訂正を行っている
                
             17歳で相続
             采地  1200石


家紋  源氏車の内矢筈   揚羽蝶   16葉菊
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月09日 09時04分55秒 ) パスワード

服部信親の家


     実は服部与左衛門信成が次男
     母は川口久助宗次が女


     上総国夷隅郡にをいて300石

     妻は朝日奈左衛門利昌が女



信親の子   昭政(てるまさ)

       妻は荻生惣七郎観?が娘



信親の子   信隆   服部権大夫信解が養子


信親の子   弘田(ひろみち)

            内田八郎兵衛弘泰が養子



昭政の子  信次
            妻は朝岡半右衛門泰倫の女
            後妻は朝日奈左兵衛元輝が女


昭政の娘達
  
1人は         河合幸右衛門邑昌が妻
人は          西城の大奥に仕ふ(西の丸のこと)


信次の娘婿 幸成   実は築山伊右衛門貞暢が次男
           母は朝比奈左兵衛元輝が女

           23歳で家督相続 
           300石


信次の娘   佐橋三左衛門佳永が妻



幸成の子   伊之助信英
       貞八郎某



家紋は  源氏車の内矢筈   16葉八重菊   上藤
                         ↑
                        上り藤紋と思います。
                        養子になった時に採用?
       
     
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月09日 09時42分39秒 ) パスワード

今切の奉行だった服部家の政重の家です。    家紋は矢筈車


            政重には慶長19年に蟄居があり   (1614年)
            孫の代に家が絶えた理由が書いてあります。



            慶長19年は大坂冬の陣があった年であり
            大久保長安事件が18年に発覚しています。



服部権大夫正光が次男  服部杢助政重
                母は高力河内守清長が女

            慶長5年より東照宮に仕える  御小姓組    
            
            慶長19年、ゆへありて蟄居し         ← ココ
            元和元年、召されて父の遺跡近江国長浜の1000石を相続
            元和5年、兄政信と同じく遠江国今切の関所番になる
            元和5年、采地を遠江国敷智郡のうちに移さる
            寛永元年今切にをいて死す  45歳




政重の子  政次   杢助
           寛永元年家督相続
           今切の関所番となる
           正保3年死す          41歳


政重の娘       折井市左衛門正利が妻



政次の子  政勝   杢之助
           実は大久保四郎左衛門忠重が次男       ← 大久保忠重
           母は某氏

           正保3年12月9日家督相続   13歳 (1646年)


           承応3年2月23日御書院の番士  (1654年)
           のちに狂気せしにより食禄を収めらる


           妻は森川出羽守重俊が女
           後妻は安部摂津守信盛が女



家紋は矢筈車 



大久保長安事件:

長安は池田輝政の娘を次男の大久保藤二郎と、三男の青山成国を青山成重の娘と、六男の大久保権六郎を忠輝の家老・花井吉成の娘と結婚させていた。

その他にも池田輝政を通じて浅野幸長や加藤嘉明、山崎家盛、富田信高、高橋元種、佐野信吉、石川康長らとも縁戚関係を結んでいた。

壮大な縁戚関係であるが、本多親子は、長安が諸大名を糾合して謀反を起こそうと企んでいたと讒訴した。

長安としては、本多派に対して優位に立つために諸大名を味方に取り込み、派閥を強化しようという狙いがあったが、それを逆に利用されてしまったのである。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月09日 09時53分54秒 ) パスワード

政勝の妻達:

たいした家のお嫁さんを2度までも貰ってるのですねえ。

失心とか狂気とか書かれていますが、何があったのでしょうね。

 


http://homepage3.nifty.com/hyuuga/daimyou/morikawa.htm

森川出羽守重俊
1万石の大名ですって。


http://homepage3.nifty.com/hyuuga/daimyou/abeokabe.htm
安部摂津守信盛


天正十八年(1590年)、安部弥一郎信勝は五千二百石を領して岡部に居住した。

その子、摂津守信盛は一万九千二百石を領し、五代丹波守信峯は遺領二万二百石を領して陣屋を設置。以後、明治元年(1868年)に信発が三河半原に移封されて廃藩になるまで続いた。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~hatabo/meijyou/12_Saitama/okabe/index.html
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月09日 09時54分27秒 ) パスワード

次は服部中です。
[55]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月09日 12時42分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 元和5(1619)年に服部政信、政重が今切関所奉行に就任、次の代は正信
と政重の子政次、次の代からは政次と中保次の孫保俊の2人体制で今切関所奉
行は引き継がれて行く。
 その後、寛永20(1643)年に、政信系統から中系統(保俊)へ采地の移行
が行われている。結果保俊は敷知郡大久保、神ケ谷、山崎他、長上郡上石田、
下石田を領すようになった。 大久保陣屋・屋敷も政信・政重が志都呂陣屋・
屋敷へ移ると仲保俊は大久保陣屋・屋敷へ入ったものと思われる。政信死後、
こんどは志都呂の陣屋・屋敷へ移動したと思われる。
 今切の関所奉行は中系では保俊のみであったが、大久保地域では名実ともに
お代官様として代々、明治まで続いたものと思われる。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月10日 09時38分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


やっと服部中保次の長男と次男の家を読み終わったところです。

   立派なお名前の数々が登場し
   アタマの中が興奮状態です。

     近々けん玉を買って来てアタマを休めます。


政信が死んで子供達は江戸の近くに転勤したから

翌年の慶長20年1000石を保俊が貰ったのかもですね。
     これで保俊は計3050石に。
     この後、采地が遠江国敷知・長上郡に移る、と。
 

今はアタマの中が興奮状態なので明日にでも服部中の長男と次男の家について書きます。


   とにかく保次の家も立派な家から嫁やら養子やらが来ています。
   驚きました。


   親戚の間で嫁を貰って養子を貰ってと、しっかり固めていますね。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月10日 22時42分41秒 ) パスワード

補足



服部半蔵の家についてスレッドXVIIIのレス16より:


   服部保長の家は  ほのはやひの命の末裔で  允恭天皇の御宇に織部司に任じ諸国の織部を拾領。

   服部連と号す。

   その子孫、伊賀国阿拝郡服部の郷を領し
   今、諸国に遊仕と記す


   平氏にして葛原親王の後胤
   伊賀平内左衛門が末孫なり。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月11日 06時57分52秒 ) パスワード

では服部保次の家について:


平氏
高棟流にして弥平兵衛宗清より出
宗清頼朝将軍より伊賀阿拝郡服部村に住せしより子孫服部をもって家号とす
保次はその後裔伊賀守宗純が末孫なりといふ


服部要介・小平太・中 宗次あらため保次

義輝に仕え
のち信長に仕える

桶狭間の戦いで義元が本陣に馳せ向かひ
戦功を勤す

永禄8年めされて東照宮に仕へたてまつり
9年仰せによりて足軽同心50人(訂正  55人)を預けらる。

天正4年また同心22人を加へ預けられ
合戦あるごとに仰せをうけたまひて敵地の境を警衛す


5年4月23日遠江国引佐郡をよび三河国岡村のうちにをいて120貫文の采地をたまふ


10年6月和泉国堺より伊賀路を渡御の時したがひたてまつり
鉄砲?同心50余人を預けらる

12年長久手の役に供奉し 男 保正 御馬前にをいて首級を獲しかば
賞せられて保次に  朱元の? 御刀をたまふ。

15年4月18日遠江国にをいて死す。年62。
法名  長閑

今の呈譜  天正15年6月18日死す。年62。
法名  湖雲○○

遠江国刑部村に葬る。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月11日 07時23分59秒 ) パスワード

保次の長男保正

慶長5年関ヶ原の戦いに真田昌幸と戦う
7年上総国夷隅郡のうちにをいて  1550石

上野国新田の大光院を建立したまふ時、久永重勝とともに仰せをうけたまひて
かの地にいたり、その普請を奉行す

19年大坂のこと起こるによりただちに中山道を経て馳せ参る

その後浄土宗の僧  了的 覚山
   日蓮宗上総国浄楽寺の僧と宗論のことあるにより
   西ノ丸に於いてこれを糾明せられ
   浄楽寺の僧6人を流罪に処せらるの時  
   保正おほせをうけたまはりて
   これを駿府の奉行所に送る

元和元年大坂再陣の時したがひたてまつり

2年11月20日死す。52歳。  法名  正雲
四谷の湖雲寺に葬る

湖雲寺は保正かつて四谷別荘の内に開基せるところなり。
父保次が法名の字をあて寺号とすといふ。

のち、この寺、麻布に移され、代々の葬地とす。

妻は紀伊家の臣  川井刑部重長が女


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


保次の次男   半右衛門 保信
             服部幸之進保教が祖


[60]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月11日 09時36分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 情報ありがとうございます。読解いたします。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 05時21分02秒 ) パスワード

保正の子達

  長男  某  (後に保光に作る)
          母は重長の女


      元和元年大坂の役に父保正と共に従ひたてまつり
      青山伯耆守忠俊が軍伍に列し
      5月7日天王寺口にをいて討ち死にす

      27歳


  次男 保俊  三九郎  中  
         母は重長が女

     慶長13年より秀忠に仕え   
     後、家督相続   1550石
               500石を弟保久に分かち与ふ

     寛永10年甲斐国巨摩郡のうちにをいて500石を加へらる

     19年9月1日荒井の関所番となり閏9月28日関所に至り
     服部杢助政次と相はかりて
     当暮 参府し彼の地のおもむきを言上すべきむね仰せをかうぶる

     20年6月6日1000石を加へられて合わせて   3050石 を知行す。

     その後、采地を改めて遠江国敷知長上2郡の内に移さる


     慶安4年6月7日死す   

     妻は水野太郎作清次が女




   3男 保久   別家を立てる

      服部弥五兵衛保春が祖

      母は  紀伊家 臣 川井重長が女
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 05時30分37秒 ) パスワード

保俊の子4人

     長男   保重 
          母は清次が女


     寛永18年父に先だちて死す   

          妻は柴田筑後守康長が女


 
              保重の子・保秋  母は康長が女
                       2歳で家督相続   
                       のちに叔父  保継の養子となり
                       家禄返上

                       のち服部中家を継ぐ



   次男  保継   母は康長が女
       初め水野太郎作清次が養子となり
       清次に男生まるるにより父がもとにかへり嗣となる

       慶安4年12月11日  家督相続  のち御書院番となり
       承応3年5月27日死す


       妻は徳山五兵衛直次が女     ←  徳山家は後にも出て来ます


  娘  中根氏の妻


  3男   清氏

       水野太郎作清定が養子    ←  ここも注目


         服部中の家は兄弟で水野家の兄弟の家に養子に入った!
    
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 05時55分15秒 ) パスワード

保継の養子  保秋  (保継の兄の子)

       承応3年12月27日家督相続   15歳
       小普請となる

       天和3年3月1日 死す


       妻は長谷川久三郎正相が女




保秋の子  保房     母は正相が女

      天和3年7月31日  相続  小普請となる
      亨保4年10月3日  死す  61歳

      妻は永井伝八郎茂虎が女            ← 永井氏から嫁





保房の子4人


     長男  保根(やすもと)  
     
         宝永6年正月23日   父に先立ちて死す




     次男  某   早世




     3男 養子  保貞         従5位下  大和守ですよ

        長谷川久大夫徳栄が長男    長男が養子になった?
        母は佐々木半左衛門長定が女  


        亨保15年5月28日西の丸の御目付にうつり
        元文 4年9月22日  日光奉行に進み
            12月16日従5位下大和守に叙任す
        延慶3年 6月11日御作事奉行に転じ
        寛延 元年7月4日 朝鮮聘使の旅館修造のことを勤めしにより時服3領をたまふ
        
           2年10月15日日光御宮修理のことあるにより
                  これを検せんがため彼の地に赴く

           3年3月15日家光100回の法会行はるるにより、そのコト預かりて
                  日光山にいたり5月16日時服3領をたまふ

             8月15日御宮修理のこと承はりて後かの地へ赴く

       
         宝暦元年3月25日田安の家老となり       ←田安家家老ですよ!
           5年8月16日職を辞す

           8年7月3日  死す     67歳



娘    兄  保貞が養女となる




        保貞は自身が優秀だったのか?
        実家の長谷川家に力があったのか?
        母の実家の佐々木家に力があったのか?

        保貞の妻の欄が空白なのが残念です。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 07時38分32秒 ) パスワード

保長の子 7人  しかし  養子が多い



    娘   実は保房が女
        保長に養われた


        徳山五兵衛頼屋が妻     再び徳山家が出て来ました!   
  
    養子で嫡男  保弘

        実は長谷川久大夫徳栄が6男    ← 再び長谷川家から養子です
        母は佐々木半左衛門が女        この夫婦からの2人目の養子です(保貞の弟)

        保貞さきに男子ありといえども皆先だちて死するにより
        自分の実家から弟を養子に迎えた

   
        保弘は宝暦5年12月12日家督相続
           寛政元年正月18日死す      77歳


        妻は  高木主水正 正陳が女     ← 高木家





   次男  保富   母は某氏
    
       延亨2年9月12日 父に先だちて死す   24歳

       妻は  水野河内守忠富が女       ← 水野家




   3男  早世

   4男  早世

  

   娘    織田伊織信寛が妻           ← 織田家ですよ〜




5男  保宜  やすよし

        2番めに入力した兄・保弘が養子
        この人が次に家督相続


   ここで一旦送ります。
 
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 07時50分19秒 ) パスワード

保弘の子   とはいえ  弟の保宜が養子になって家督相続


    保宜   実は保貞が5男
         母は某氏
         兄・保弘の養子


      明和元年5月16日家督相続
        6年正月21日より火事場見廻りを勤め
      安永8年10月16日職を辞し
             20日  死す         34歳



      妻は松平図書勝房が女              ← 松平家




保宜の子  実は養子  保舊  やすひさ

        実は徳山五兵衛頼意が次男          ← 徳山家です!
        母は某氏


        保宜が終に臨みて養子となる


        安永8年12月26日相続    17歳   ← 17歳!
        采地   3050石            ← 3050石ですよ!

        妻は前田安房守矩貫が女           ← 前田安房守!

                   すごいね!






保舊の子   保右
  
       母は前田矩貫が女





      家紋は  16桁車の内横矢筈
           むかひ蝶
           揚羽むかひ蝶の内16葉菊


ここで断絶のようです。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 07時55分55秒 ) パスワード

服部中保次の家はもう3流れあります。
頑張ります。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 22時36分52秒 ) パスワード

その前に服部中保次の嫡流の家と縁結びした旗本の家を調べたいと思います。

養子の保貞の経歴が立派だから調べてみました。

ところどころ編集に失敗しています・・・


*************************


長谷川久大夫徳栄    多分以下の家の関係者なんでしょう(保留)

菩提寺のブログのようです:
http://blogs.yahoo.co.jp/jiunzan_ryugenji/60529068.html

本日に、仁叟寺に葬られている江戸時代初期・当地を統治・・・しておりました地頭の長谷川家の先祖供養法要をご裔孫の方より依頼され、お勤めいたしました。

昨夜に卒塔婆を書きながら、改めまして『仁叟寺誌』の長谷川氏の項を拝読いたしました。

長谷川氏といってもわからない方が大半かと思われますが、鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵といえばわかる方も少なくないかと思われます。



    ええっ〜〜〜
    そういう家だったの〜〜〜
    だからだったの〜〜〜



その大先祖(初代にあたる方)が当寺に葬られている長谷川讃岐守です。

それゆえ、明治になるまで長谷川家は江戸詰の長谷川宗家より毎年盆暮には当寺に献茶料などを納めておりました。

幕末には250回忌を修行し、墓前に燈籠が供えられたことも文書などで明らかになっております。

開山堂には開基である奥平家はじめ奈良奉行でも有名であった溝口氏(鹿の角取りを始めた方だとか)や初代吉井藩主の菅沼氏、他の外護者と共に位牌も安置されております。


長谷川讃岐守・淡路守

 仁叟寺本堂西墓所内に、江戸時代初期の宝篋印塔形の大きな墓碑が、南向きに二基建てられている。左側が長谷川讃岐守、右側が長谷川淡路守。初代と二代である。墓碑には、それぞれ「祖庭院殿趙英宗伯大居士 慶長十三年(一六〇八)二月七日寂」、「長松院殿惠林了智大居士 寛永十六年(一六三九)三月九日寂」、とある。

 『寛政重修諸家譜』によれば、長谷川家の本貫地は大和国(奈良県)初瀬で、そこより駿河国(静岡県)小川村に移り住んで数代が過ぎるとある。讃岐守の父は正長といい、今川氏に仕えたのち、徳川家康に仕える。元亀三年(一五七二)の三方原合戦のとき、討死する。享年、三七歳。

 正長には、正成・宣次・正吉がおり、それぞれ別家を起す。正成の長男が正信で、讃岐守の養子となる。宣次家の八代目が、長谷川平蔵宣以で「鬼平犯科帳」の人物である。平蔵の次男に正まさ以ためがおり、正以は讃岐守家に養子に入り九代目となる。

○初代・讃岐守(正吉・久三郎家)。
 天正七年(一五七九)徳川秀忠の小姓をつとめる(一一歳)。のちしばしば加恩があって、上野国甘楽・碓氷両郡にて四〇七〇石余の采地を与えられる。その後、渋谷において別荘の地八万五〇〇〇余坪を賜う。慶長一三年(一六〇八)二月七日没す。享年、四〇歳。戒名、祖庭院殿●英宗伯大居士。上野国神保村の仁叟寺に葬るとある。
 讃岐守が、仁叟寺に葬られた事由として、近郷に自分の采地を領有し、その地に居住していたためと思われる。
 ところで、『自治体史』などにより、各村の大名・旗本の変遷をみてみよう。
 @「吉井町」の項、天正一八年(一五九〇)菅沼定利―慶長五年(一六〇〇)代官林虎之助―伊奈備前守。その後、四給となり、安藤対馬守・渡辺山城守・倉橋内匠頭・長谷川讃岐守となり、その後、転換数次で延宝二年(一六七四)松平信平(吉井領)となる。
 A「矢田村」の項、天正一八年、菅沼領―慶長三年、代官伊奈備前守・同長谷川久三郎(讃岐守)支配。以後、延宝まで交々支配し、同二年、松平信平(吉井領)となる。
 B「中島村」の項、天正一八年、菅沼領―慶長六年(一六〇一)より代官支配―同七年より寛文五年(一六六五)までの六三年間、長谷川讃岐守の知行地となる。
 C「小串村」の項、天正一八年、菅沼領―慶長六年代官地―同七年より四給地・倉橋内匠頭(寛文八年没収)・安藤対馬守・渡辺山城守・長谷川久三郎(讃岐守)・三氏は、寛文九年(一六六九)まで知行地とした。
 D「小暮村」の項、天正一八年(一五九〇)、菅沼領―慶長六年長谷川久三郎が知行し、寛文四(一六六四)、代官支配となる。
 E「馬庭村」の項、天正一八年、菅沼領―慶長六年、長谷川久三郎知行、寛文四年、代官支配となる。

 長谷川氏は、吉井地区六町村、高約三千石余の知行地の支配をしていた。この間、長谷川久三郎家も初代正吉、二代正信、三代正相と、四代目正明の代になり、元禄一一年(一六九八)上野国の采地が遠江国(静岡県)城東・山名郡内に領地替が実施される(高四千七一石余を約一二〇年間支配する)。

○讃岐守・淡路守の、約六〇年間の主な出来事について記す。
 永禄一二年(一五六九)、正吉生まれる。元亀三年(一五七二)、父正長が三方原で戦死。天正三年(一五七五)・長篠の戦い、奥平信昌・菅沼定利活躍。同七年、正吉小性組になる。この年、上野国碓氷・甘楽両郡の内に、四〇七〇石余の采地を賜う。同一〇年、武田氏滅ぶ。同一八年、小田原の北条滅ぶ。秀吉、家康に関東国替を命ずる。吉井に菅沼、宮崎に奥平が入る。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦い。改易大名多発。徳川自領増加。翌六年、菅沼忠政美濃加納城へ。小暮村・馬庭村が正吉の知行となる。同七年菅沼定利没す。小串村の一部・中島村・吉井町の一部を知行する。矢田村の代官(正吉)。同八年、正吉(長谷川讃岐守)没す。同一九年(一六一四)、大阪冬の陣。翌元和元年、大坂夏の陣。豊臣家滅びる。豊臣方改易多数。徳川の天下となる。元和二年(一六一六)、家康没す。長谷川正相(三代目)生まれる。寛永一〇年(一六三三)、三代正相書院番。同一六年、三代正信没す。三代目正相遺跡を継ぐ。

○二代・淡路守は正信という。通称・久三郎。長谷川筑後守正成(正吉の兄)の長男で正吉の養子となり、久三郎家二代目を継ぐ。
 文禄四年(一五九五)生まれ。寛永二年(一六二五)采地の御朱印を賜う。のち御徒の頭となり、同三年上洛のとき供奉し、同九年(一六三二年)御書院番の組頭となる。同年従五位下淡路守に叙任す。同一〇年采地七〇〇石を加増され、後この地を収公される。同一六年(一六三九)没す、年四四歳。法名・了智。小石川の吉祥寺に葬る。のちに吉祥寺は、駒込に移される。
 仁叟寺にある正信の墓碑は、後日分骨による供養墓碑である。
 墓碑に、「長松院殿惠林了智大居士 寛永十六年(一六三九)三月九日寂」とある。すでに江戸幕府は大名、旗本に対して、各地の所領地から江戸詰めを命じ、江戸に屋敷を構え居住させていた。

○三代・正相すけ。初め正綱・久三郎。
 寛永一〇年(一六三三)初めて家光にまみえる。同一三年御書院番に列す。同一六年遺跡を継ぐ。慶安三年(一六五〇)家綱に仕えて西城に。のち本城に勤仕。寛文三年(一六六三)御先弓の頭に移る。九月に桜田門修復の奉行をつとめる。一二月布衣を着する事を許される。同四年の洪水のとき、采地荒廃せるにより廩米に改められる。四〇七〇俵余を賜る。天和二年(一六八二)、上野国新田邑楽両郡のうちにおいて五〇〇石の加増あり。貞享四年(一六八七)つとめを辞し、寄合となる。元禄二年(一六八九)没す。年七四歳。法名・遂永。墓地は正信と同じ。

○四代・正明。善右衛門・貞右衛門・五兵衛。正相の二男。
 寛文四年(一六六四)初めて家綱にまみえる。同七年御小姓組に列す。元禄二年(一六八九)遺跡を継ぐ。同一〇年、上野国から遠江国城東・山名両郡へ移る。享保元年(一七一六)没す。年七一歳。法名・日音。谷中の大行寺に葬る。この墓碑は当寺にあり。

○五代・正武。万之助・久三郎。正継くみの長男で正明(四代)の養子となる。
 正徳元年(一七一一)遺跡を継ぎ、小普請となる。同二年、初めて家宣にまみえる。同三年没す。年三二歳。法名・道性。墓地は正信と同じ、代々墓地とする(駒込の吉祥寺)。

○六代・正誠ざね。内蔵助・久三郎・讃岐守・従五位下。号眺山。長谷川久大夫徳たか栄よしの二男で正武の養子となる。
 正徳三年(一七一三)遺跡を継ぎ、小普請となる。享保四年(一七一九)寄合となる。同九年(一七二四)御小性組に列す。同年吉宗に仕え、二の丸勤仕す。同一〇年、西城御書院番となる。同一五年西城御書院番の組頭に進み、布衣を着することを許される。元文五年(一七四〇)小普請の支配に移る。延享四年(一七四七)甲府勤番支配。従五位下・讃岐守に叙任す。宝暦元年(一七五一)西城御持弓の頭となる。同三年任務を辞す。明和元(一七六四)没す。年六九歳。法名・元水。

○七代・正脩むろ。久三郎・三郎助。長谷川徳栄の五男で正誠の養子となる。
 宝暦七年(一七五七)遺跡を継ぐ。明和四年(一七六七)御持筒の頭となり、布衣を着することを許される。同八年(一七七一)小普請組の支配に移る。安永六年(一七七七)没す。年六七歳。法名・普舌。

○八代・正満みつ。栄三郎。正脩の長男。
 安永六年(一七七七)遺跡を継ぐ(三三歳)。采地、四〇七〇石余。後妻は大岡越前守忠宣の女子。

○九代・正以。鉄五郎・久三郎。長谷川平蔵宣以(鬼平犯科帳の主人公)の二男。正満に男子がいたが、死去により養子となる。要職は百人組の頭。日光奉行。

○一〇代・正直。久三郎・能登守。
 要職・寄合。火事場見廻り。寄合肝煎。講武所頭取。日光奉行。万延元年(一八六〇)没す。

○一一代・久三郎。
 要職・寄合。便番。
 長谷川久三郎家と仁叟寺は、江戸時代を通して関係を有していた。代々の当主が先祖供養のためなどで、年三〜四回茶湯料・回向料などをお供えしていた。勝手目録・盆付届・年始状などの、書状・書簡など二〇数通が現存している。
 初代祖庭院の、没後二五四年の墓碑修理の件についての覚状がある。文久二年(一八六二)、家臣中野弥惣左衛門より送られている。墓碑の修理を行うとともに、その時に建立した一対の燈籠が今も残っている。



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佐々木半左衛門長定

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六角家
www.geocities.jp/kawabemasatake/rokkaku.html

六角時信13061346頼明弟頼綱子佐々木泰綱孫信綱曾孫定綱玄孫秀義耳孫秀定昆孫経方 .... 高俊高賢子半左衛門幸綱 ..... 長定朝定子朝長甥朝高孫高清曾孫実高玄孫.


京極家
www.geocities.jp/kawabemasatake/kyougoku.html

京極高氏13061373貞宗嗣宗綱孫氏信曾孫佐々木信綱玄孫定綱耳孫秀義昆孫秀定仍孫経方雲孫章経裔成頼流京極宗氏子満信孫氏信曾孫四郎 ..... 秀時員昌嗣佐々木定秀子主馬. 正吉秀時子小七郎. 正頼正吉子角左衛門. 員定 .... 半左衛門仕六角義賢.


高山彦九郎記念館・高山彦九郎関連人物一覧表
www5.wind.ne.jp/hikokuro/kanrenjinbutu.htm


及川次左衛門・老菊屋長兵衛・生沼五郎兵・応永寺住寺・正親町故一位・正親町一位 ..... 佐々木盈蔵・佐々木栄健・佐々木岐山・佐々木義惣・佐々木鍵蔵・佐々木左兵衛長 ..... 芦庵・長坂徳左衛門・長坂長(釣)閑・長崎鉄之丞・長崎南長・長崎半左衛門・長崎屋・ ...


高山彦九郎記念館・高山彦九郎交遊録
www5.wind.ne.jp/hikokuro/koyuroku.htm

田沼意次・牧野貞長・松平定信・松浦静山・脇坂安董・脇坂安親 ... 立誠・河野恕斎・郡山道遠・小嶋梅外(大梅)・小松原醇斎(剛治)・財津吉恵・斎藤高寿(芝山)・佐々木備後守・佐藤一斎・佐藤尚 .... 平瀬光雄〈弓術〉・深井半左衛門〈槍術〉・簗又七(次正)〈剣術〉.


石川県関係人物文献検索 -該当人物一覧-
www4.library.pref.ishikawa.lg.jp/searchstep2.php?...

... 佐々木 右京, 佐々木 観十, 佐々木 喜太夫, 佐々木 定明, 佐々木 定賢, 佐々木 定治, ... 佐々屋 建太郎, 指江 半左衛門, 佐双 久左衛門, 佐竹 七左衛門, 佐竹 秀賢, 貞継, ...


中務大輔高盛 佐々木哲学校/ウェブリブログ

実際、宝永五年(一七〇八)に、兄義治の子孫である加賀藩士佐々木定賢が、旗本 .... 田中)半左衛門代にも右の子孫佐々木源兵衛之申入候証書取置候」とあり、ここに出て ...

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わが家の歴史 佐々木哲学校/ウェブリブログ
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Feb 26, 2012 - 半左衛門家の大沼系図では、愛綱を佐々木与右衛門家の源義房(綱房)の .... 越後新発田氏は、細川清氏の弟頼和の跡を継承した佐々木長綱(盛綱流 ...


太梁公日記 - Volume 1 - Page 110 - Google Books Result
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前田治脩 - 2004 - ‎Daimyo
... 院付御用人)小西半左衛門―小西貞明(近習番)御武所様―前田重教け 0 代藩主) . ... 左衛門―佐久間亮(大小将横目)佐々木兵庫―佐々木定国(宗門奉行,小将頭)篠島 ...


織田氏(弾正忠家) − Reichsarchiv 〜世界帝王事典〜
reichsarchiv.jp › 家系リスト

1574 守山城主 孫十郎右衛門尉信次: 信正: 娘(桜井城主 松平信定室) ? ... 1574 半左衛門秀成: 1547-1621 長益(有楽斎)(長益家系へ); 側室:岩室殿(父:岩室孫三郎 .... 土方雄氏室): 娘(生駒直勝妻): 娘(佐々木政勝妻); 側室:津田氏(父:織田長利) ?


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[68]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 22時39分35秒 ) パスワード

つづき

高木主水正 正陳              ←  素晴らしい!

高木正陳

高木 正陳(たかぎ まさのぶ、寛文5年(1665年) - 元文6年2月5日(1741年3月21日))は、河内丹南藩の第6代藩主。

第4代藩主・高木正盛の次男。母は板倉重矩の娘。正室は本多正永の娘。子に高木正府(長男)、板倉勝里(次男)、娘(谷衛衝正室)、娘(遠山友由正室)、娘(永井直堯正室)、娘(服部保弘正室)。官位は従五位下、主水正。

天和元年(1681年)、先代藩主で兄の正豊が嗣子無くして若死にしたため、その跡を継いだ。大番頭、奏者番となる。

茶人であり、一尾伊織の門人の一人であった。

元文6年(1741年)正月に病に倒れ、2月5日に死去した。享年77。跡を養嗣子の正恒が継いだ。墓所は東京都杉並区永福の栖岸院。



高木氏丹南藩6代藩主 (1681年 - 1741年)


高木正次1623-1631 | 高木正成1631-1635 | 高木正弘1635-1658 | 高木正盛1658-1670 | 高木正豊1670-1681 | 高木正陳1681-1741 | 高木正恒1741-1743 | 高木正弼1743-1780 | 高木正直1780-1781 | 高木正剛1781-1826 | 高木正明1826-1848 | 高木正坦1848-1869 | 高木正善1869-1871 | 廃藩置県



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水野河内守忠富

https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E6%B0%B4%E9%87%8E%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%AE%88%E5%BF%A0%E5%AF%8C%E3%80%80%E3%81%8C&peek=function()%7Breturn%20this%5Bthis.length-1%5D%7D


水野氏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/水野氏
 
                ココ 
                 ↓
なお忠顯は水野忠清の4男で、次代・水野忠富、次々代・水野忠英はいずれも松本水野 ... 守信 半左衛門 河内守 寛永13年12月22日(1637年1月)卒、年60 家康に仕え、 ...


寛政重修諸家譜(17): 『鬼平犯科帳』Who's Who
chuukyuu.info/who/edo/2007/04/17_5550.html

Apr 15, 2007 - 権十郎宣尹が西丸御書院番入りしたのは、23歳。46歳で番頭となっていた水野河内守忠富(ただよし)は、水野一門でも家柄は古いほう。5700石。


C-6 >臨済宗 圓満山 廣徳禅寺 - ∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」
blog.goo.ne.jp/.../e5bb353f33650da123ea244471284...



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Mar 8, 2013 - ... 五十三年(1978)移転完了。 ○水野守政と子孫の菩提寺 常滑水野家 水野監物守隆(守次)━河内守守信=守政=忠慎(ただちか)━忠富(ただとみ)┓


C-6 >永明院(ようめいいん) - ∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」



blog.goo.ne.jp/.../eb18e2cb7c16c4a3c2396911162a2...



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Mar 24, 2008 - 常滑三代城主 水野監物の墓 大岳周崇を開基に四代守信が創建」 三代 ... 八代 忠富(ただとし 初守忠 左京 半左衛門 内膳 河内守 従五位下 致仕號我誰、 ...


水野氏(沼津藩) − Reichsarchiv 〜世界帝王事典〜

reichsarchiv.jp › 家系リスト

生没年:1652-1713; 父:信濃松本藩二代藩主 水野忠職: 1666 従五位下: 1666 中務 ... 正室:(父:肥前佐賀藩二代藩主 鍋島光茂): 1673-1718 忠周: 忠富: 娘(石川勝之 ... 藩五代藩主 水野忠良: 幼名:健次郎: 1843 従四位下: 1843 河内守: 1846 小姓頭取 ...


∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」
upthrusts4.rssing.com/chan-2641957/all_p2.html


水野梅暁(みずの ばいぎょう)略歴明治10(1877)年1月2日生まれ。 .... 菩提寺 常滑水野家 水野監物守隆(守次)━河内守守信=守政=忠慎(ただちか)━忠富(ただとみ)┓


[PDF]3. 大坂城代・定番・町奉行・加番一覧 - 大阪府立図書館
www.library.p...


Osaka Prefectural Nakanoshima Library

Jan 10, 2012 - 秋田河内守俊季B(慶安2.1.3没)→相馬大膳大夫義胤/西尾丹. 後守忠昭B/ ... 日根野織部正吉明/水野隼人正忠清/酒井右近大夫直次(寛永. 7.3.10没)/ ...


[PDF]近世中後期江戸幕府側衆の再検討 - 早稲田大学リポジトリ
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/.../KyoikugakuKenkyu...

...... 水野河内守忠富. 御側衆. 三一. 田沼主殿頭意次.


古文書 コレクション
www.tor.jp/komonjo/collection.html

鮭一尺罷献之候遂披露候處一段之御仕合候恐々謹言 井上河内守 九月朔日 正直( ..... 忠裕・水野忠成・大久保忠真・松平乗寛への(登城の老中奉書に対する)請書である.


徳川諸家系譜 2 - Page 180 - Google Books Result
books.google.com/books?isbn=4797102586 - Translate this page

斎木一馬, ‎岩澤愿彦, ‎戸原純一 - 1974
石川富三^、 0 募目松平能登守、〇御篦刀松平越御矢取松平河内守,御乳附押 5 ... 御用掛、西丸松平能登守、参政水野^岐御逝去、|滅^停止、〇廿七日、総出仕、三月三 ...



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織田伊織信寛

ネットには該当者無し



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松平図書勝房     同姓同名でしょうか?   素晴らしすぎ!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%8B%9D%E6%88%BF

松平勝房

時代
江戸時代中期

生誕
元禄15年3月18日(1702年4月14日)

死没
延享3年12月30日(1747年2月9日)

改名
源三郎(幼名)→勝房

戒名
徳広院殿随巌道喜大居士

墓所
東京都豊島区巣鴨の白泉寺

官位
従五位下、美濃守

幕府
江戸幕府


下総国多胡藩主      この人で良いのでしょうか?謎

氏族
久松松平氏

父母
父:松平勝以
母:池田政武の養女(池田政直の娘)

兄弟
権太郎、勝房


正室:水野忠定の娘


養子:勝尹


松平 勝房(まつだいら かつふさ)は、下総多胡藩の第2代藩主。

元禄15年(1702年)3月18日、初代藩主松平勝以の次男として生まれる。
長兄の権太郎が早世したために世子となり、享保元年(1716年)12月に従五位下・美濃守に叙位・任官する。

享保13年(1728年)、父の死去により家督を継いだ。

享保21年(1736年)4月6日、家督を養子の勝尹に譲って隠居した。延享3年(1746年)12月31日に死去した。享年45。


久松松平家
松平勝以1713-1728 | 松平勝房1728-1736 | 松平勝尹1736-1768 | 松平勝全1768-1794 | 松平勝升1794-1818 | 松平勝権1818-1848 | 松平勝行1848-1869 | 久松勝慈1869-1871 | 廃藩置県


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[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 22時42分19秒 ) パスワード

続き


徳山五兵衛の家

https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%BE%B3%E5%B1%B1%E4%BA%94%E5%85%B5%E8%A1%9B%E9%A0%BC%E6%84%8F%E3%80%80%E3%81%AF&peek=function()%7Breturn%20this%5Bthis.length-1%5D%7D


江戸の幕臣徳山氏 - 徳山姓の研究
www.tokuyama.net/edo.htm


徳山五兵衛則秀−「とくのやま」と称す 徳山一族の中で、歴史上最も波乱に満ちた生涯を送ったの ... 第7代頼意(よりおき) 使番、布衣。 第8代頼福(よりとみ) 26歳で死亡。


断家譜2 - Page 77 - Google Books Result
books.google.com/books?isbn=4797102675 - Translate this page

岩澤愿彦, 斎木一馬
... 入小普請徳山五兵衛支配、後仙石弥兵衛支配時(頼意) (久 53 寛延四年辛未生江戸、安永五年丙申四月四日家督百五某- I 断絶,勘解由居、後小普請徳山五兵衛支配時 ...


岐阜県:35集諸家1徳山稔
www.pref.gifu.lg.jp/.../35syoke-1-toku...


巳(弘化2か).2, (服忌御問合度に付)親類書(原本), 徳山五兵衛, 1通, 徳山家 A-(2)- ... 徳山五兵衛法号に付折紙)(原本), 前宝泉沙門東州浄勝, 徳山五兵衛(頼意), 1枚 ...


更木陣屋-徳山氏陣屋              ←   へえ〜



edononagori.fan.coocan.jp/hata_sarakijinya_gifu.html

徳山氏の菩提寺は長慶寺/東京江東区 ☆更木陣屋の初代の徳山五兵衛則秀は、織田 ... 日本左衛門一味捕縛E頼屋F頼意G頼福H貞賢I秀起/大阪町奉行J秀守/先手 ...


あ、消しちゃった〜

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その北側には本所奉行の徳山五兵衛の屋敷がありました。 御竹蔵と蔵前の ... 隣接する石原も同様で徳山五兵衛さんは本所開拓にふさわしい土地を賜ったことになります。


村井長頼 奥村永福 長九郎左衛門 高山右近 山崎長門 片山伊賀 ...



detail.chiebukuro.yahoo.co.jp › ... › 歴史 › 日本史

Aug 17, 2012 - 村井長頼 奥村永福 長九郎左衛門 高山右近 山崎長門 片山伊賀 徳山五兵衛 青山吉次 中川光重 高畠石見参考文献 ... 家臣の意味で、家に仕える臣下。


御進発供奉御役人付
www.um.u-tokyo.ac.jp/.../40205....

... 須田淡路守 三百表 野田下総守 三百表 横山紀伊守 三百表 荒尾大和守 三百石


 まだ見てない気がします
  ↓
服部加賀守 御先手御鉄炮頭 千石 三枝左兵衛 二千七百四十三石 徳山五兵衛 三百表 ...


第三章 家臣団の成立: 近世加賀藩と富山藩について
kinseikagatoyama.seesaa.net/article/364358356.html

Nov 3, 2014 - 万石以上は、慶長年に本多政重五万石・長連頼三万三千石・横山長知三万石・ .... 徳山五兵衛は他国と通じこちらの秘密を知っているだけに何をするか ...


金沢学序説 歴史が示す21世紀の指針
www.hokkoku.co.jp/tokusyuu/jyosetsu/20000112.html


Jan 12, 2000 - 油断 するな」「徳山五兵衛は隠れて他の大名と昵懇(じっこん)である と聞き及んだ。わが死後は必ず裏切るとみてよい」 片山伊賀守延高は、利家が越前 ...


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前田安房守矩貫

https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%AE%89%E6%88%BF%E5%AE%88%E7%9F%A9%E8%B2%AB+%E3%81%AF&peek=function()%7Breturn%20this%5Bthis.length-1%5D%7D


大坂城誌: 浪華誌 - Google Books Result
books.google.com/books?id=Aw0uAAAAYAAJ - Translate this page

小野清 - 1899 - ‎Osaka (Japan)
... 万丸紫高富京極周四千石撖内匠頭政賢,主殿頭正・番內十三石一万五辰稻葉兵部少輔正巳三千石中坊河內頭直皓堀淺野壹岐守長致亥八百石二千玉前田安房守矩貫 ...


[PDF]寛政改革期における小普請組の制度改革
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/index.php?...

榊原采女数馬. 11. 酒井因幡守忠敬. 森山源五郎. 本目権兵衛. 12. 天. 明7年9月1. 0日. 中奥小姓. 前田安房守矩貫. 森川七郎衛門. 能勢又十郎. 寛政元年の小普請支配.


記念碑 - 南房総データベース - NPO南房総IT推進協議会
furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?topicid=98

また存命の母に対しても孝養をつくし、そのため寛政7年(1795)6月には、時の領主前田安房守より米五俵銭五貫文を与えられ、そのうえ母の生存中は毎年米二俵づつを下 ...


近世の村々 -南房総資源辞典 - 南房総いいとこどり
www.mboso-etoko.jp › トップ › 和田町史

寛政前期には忍領、後期には松平左金吾、前田安房守と上組・下組に分かれ、天保 ..... 山住の身は黒滝の流汲大猪も鹿も馴る友達」と詠しければ彼の鹿泪を流しかんずる ...


[PDF]地名 図番号 国名 郡名 島名 山名 河川・湖沼海岸 ... - InoPedia
www.inopedia.jp/img/f_users/r_107880713img20100801144110.pdf

Aug 1, 2010 - しおみとうげ. 九州沿海図1. 塩見峠. しおみみさき. 204. 塩見岬. 塩見村(前田安房守知行所)しおみむら. 92. 前田安房守知行所. 塩尾村. しおむら. 138.


庄田家系譜(正本)
www.ksskbg.com/takako/shoda.html

同年九月廿五日於吹上御庭大的/上覧相勤申候 拝領物無之 一 同十戊午年十月十六日□定昼夜廻相勤申候 一 同十二申二条在番前田安房守組之節罷登申候 一 享 ...


天保類集 - 旧幕府引継書 - FC2
kyuubakuhu.web.fc2.com/sioki.tenpou.htm

候丼世話いたし候類 貫受候小児を殺或は捨又は世話いたし候類 取と火業いたし候もの ...... 例―寛政二年町奉行伺小普請組前田安房守組神田五郎左衛門方伯母やそ一 ...


Full text of "Kaga-han shiryo" - Internet Archive
https://archive.org/stream/.../kagahanshiryo10ishi_djvu.txt

仉勝次・死骸取ル付料鳥目三貫文、 代人被召抱候儀火涫役御大小將よ. り御家老衆, ...... 一、 右相^、 御前御M 座御居間書院二之間に而、 前田安房守殿. 齋藤長八・ ...
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月12日 22時43分27秒 ) パスワード

長過ぎて、拒否されたので、3回に分けました。
ちゃんとアップ出来てるのか謎です。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月13日 02時14分23秒 ) パスワード

長谷川家の菩提寺のブログを読み直しました:


○六代・正誠ざね。内蔵助・久三郎・讃岐守・従五位下。号眺山。


       徳栄は<たかよし>と読むのですねえ
          ↓
長谷川久大夫徳たか栄よしの二男で正武の養子となる。



レス<63>の服部家の話に


養子に来る話の前に嫁が長谷川家から来ていることが書かれていますね。
   しっかり固めているんですね。




大出世の  養子  保貞    従5位下  大和守

        長谷川久大夫徳栄が長男    長男が養子になった?
        母は佐々木半左衛門長定が女 

長男が養子になった?と驚きましたが
ホントに驚きます
普通長男は自分の家にとっておくし
自分の家の本家には養子に出したいだろうと思うけど

何故に服部中の家に養子に出したのか?



きっと「それなり」の理由があるんでしょうね。


更に、この長谷川家からは6男も養子に来てるし。

   わたくし的には「長谷川君ってアタマが良い」という先入観がありましたが
   納得でした。笑 
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月14日 02時28分34秒 ) パスワード

服部中保次の長男保正の3男<保久>の家について書きます:


保久  三八郎  三右衛門

    14歳で秀忠に仕え始めて御小姓となり
    元和元年大坂の役に供奉し
    父の遺跡から500石を下総国葛飾郡のうちにをいて分かちたまひ
    その後、西の丸に候す。

                      500石相続

    寛永9年大番に戻り
    10年2月7日相模国大住郡のうちにをいて新恩200石をたまひ
    すべて700石を知行す。


                       700石になりました


    17年11月20日僧沢庵が別荘の普請を奉行し   沢庵和尚!へ〜
    慶安2年10月25日一橋門普請のコト承り
    後 番を辞し  小普請となる

    延宝3年5月19日死す    82歳
    四谷の湖雲寺に葬る
    後、この寺を麻布に移さる
    代々葬地とす。



保久の子
    長男  保信   500石
    次男  保高   200石   別家を立てる




保信に男子が3人いたが
    長男  保善  父に先だちて死す
    次男  保守  男子は早世  娘2人
    三男  保道   
           保道の子保房が次兄保守の養子となり家督相続


保房       よく働いています


    亨保20年12月19日 鉄砲玉薬奉行となる
    元文5年7月27日   御広敷番の頭になる
    寛保3年2月9日    御広敷の用人に進む
        12月21日  布衣を着するを許さる

    延亨2年9月1日より西の丸勤務
    宝暦元年将軍吉宗公薨去により7月4日寄合に列す
      2年9月15日西の丸御広敷の用人に復し
      6年10月15日二の丸のお留守居となり
      11年7月5日死す     64歳




保房の子

    嫡男  保助          病によりて家督足らず


    娘   山本備後守茂紹が妻


    次男  保昭
        将軍の放鷹に扈従し鳥を射て物をたまふ

        天明6年3月21日  印旛沼の新墾により20石余の采地が廃田となり米をもって替へ賜る

        妻は服部多宮保頼が娘


    娘   久野伊兵衛宗房が妻

    娘   根来鋳?太郎長主が妻          ← 根来氏!



保昭の子

    娘   間宮庄五郎公信が妻          間宮はちょくちょく出て来ます
    娘   渥美源太郎親通?が妻         渥美氏も2回めかな?

    嫡男 保春
  
        19歳にて家督相続  500石

        寛政3年6月17日駿府城の勤番となり引っ越し

        妻は本多平右衛門正喬が娘       本多氏は初めてと思います


保春の子  4人いたが断絶

       娘
       嫡男  保定
       娘
       娘



家紋は16桁車の内横矢筈二
   むかひ蝶
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月14日 03時00分39秒 ) パスワード

書き直し


服部中保次の家の分家  (保次の嫡男の3男の家)

   服部三右衛門保久の次男 保高
         200石を分けてもらって別家を立てた人


   保高  延宝3年7月11日  父の遺跡相模国大住郡の内にをいて
                  200石を分かち給ひ小普請となる

       のち采地を下総国豊田郡のうちに移さる

       6年3月29日  小10人に列し
       貞亨3年12月19日御腰物奉行に転じ
       元禄9年12月22日年ごろ怠りなく勤めしにより黄金3枚をたまふ

       13年10月6日新番に移り12月22日米50俵を加増あり

       正徳元年3月晦日番を辞し
       亨保11年8月10日死す     70歳

       麻布の湖雲寺に葬る
       のち代々葬地とす

       妻は小栗仁右衛門信政が女        ← 小栗氏!



保高の嫡男

     保あきら   <日>の下に<高>

     妻は大奥の侍女堀尾が養女


保あきらの嫡男  保時

     妻は間宮市太郎信豊が女           ← 間宮氏




保時の子5人     朝比奈家から養女を貰って朝比奈家に養子を出した
           なぜ?

    
     嫡男  保均   家督相続25歳  采地200石 +  米50俵

              天明8年12月25日大番に列し、後、的を射て時服をたまふ


              保均 の妻は  和田三郎左衛門持澄が女
                 後妻は  間宮源五右衛門信禄?が女      ←間宮氏!!!


    娘  朝比奈忠四郎昌方が養女               朝比奈!
    娘  大岡松三郎直久が妻                 大岡

    次男 昌保    朝比奈喜三郎昌幸が養子         朝比奈!!!

    娘  実は斎藤伊右衛門盛次が娘              斎藤から
       保時に養はれ清水左衛門時良が妻となる        清水家へ 



保均の子  3人

    嫡男  保秀   五郎吉
    娘
    次男   某   雄次郎



家紋は車の内横矢筈
   揚羽むかひ蝶の内16葉菊
   むかひ蝶 
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月14日 03時54分59秒 ) パスワード

服部中保次の次男の家です。   早々と分家になった家です。


服部半右衛門保信

    服部中保次が次男
    慶長2年召されて家康に仕えた
    16歳
    のち御腰物奉行
    米300俵をたまふ
    元和元年大坂の御陣に供奉し
    寛永17年4月10日死す    59歳

    四谷の勝興寺?に葬る

    妻は内藤平右衛門某が女                内藤氏



保信の子


   嫡男  保信 のちに 保重に作る

          妻は大久保次郎八郎忠重が女      ←  大久保ですよ


   次男  保儀

       兄の養子となる



保信(のち保重)の子


   嫡男   保儀  (弟が養子となった)
             
             元禄2年6月10日  大坂の御金奉行に転ず

             宝永元年4月27日職を辞し
                10月24日死す     69歳

             牛込の仏性寺に葬る
             後、代々葬地とす


             妻は庄与左衛門直重が女




保儀の子2人

     嫡男=養子 保寿やすなが

          実は内藤十郎左衛門正康が5男        ← 内藤家ふたたび! 
     
          母は小島助左衛門忠余が女


          元禄9年12月12日日頃怠りなく勤めしにより黄金5枚をたまふ

                                  5枚!

     次男 保勝

        のち兄  保寿が養子となる

        妻は竹本弥右衛門正宅が女      竹本氏は2回めかな?


保寿の子たち  3人  
     実は兄 保寿には子が男子2人女子1人の計3人いたが
     嫡男は親に先だちて20歳で死に
     次男正儀は内藤十郎左衛門正房の家に養子になっていた

            ↑
          内藤家へですよ〜

         


保勝の子2人

    嫡男  保頼   
            
          内藤家からですよ〜
             ↓
        実は内藤権十郎正勝が次男
        保勝が養子となる

        

        保頼は寛保3年12月5日仰せを承りて古利根川に至り白鳥を射はらふ

           明和5年5月15日西城の裏門番の頭に転じ
               12月18日布衣を着することを許さる
           安永7年3月24日老を告げて職を辞し寄合に列す
                    この時、時服3領を給ふ
             8年5月29日致仕し養老料米300俵をたまふ
           寛政元年2月7日死す   88歳    

           妻は根岸又兵衛正直が女



   娘   多田三八正英が妻




    

保頼の子2人

    
  嫡男  保道

      妻は笠原又十郎信種が女


  娘   服部長三郎保昭が妻


 
        ここからがスゴイんです
          スキャンダルかも


保道の子5人   4人男子の養子
         1人女子の養女


   長男  直経  
       実は塙宗悦直竪が次男            ← 塙から養子
       保道が養子となって、その女を妻とし
       後、家を出て、所在を知らず           行方不明!


   次男  保昌
       実は間宮靭負信直が三男           ← 間宮家から養子!
       保道が養子となって、その女を妻とし
       後に父に先だちて死す
  

   三男  保郷
       実は都筑又右衛門政峯がヨン男        ← 都筑家から養子!
       保道が養子となって、その女を妻とし
       後に父に先だちて死す


   四男  保教やすたか
       実は斎藤権大夫善政が次男
       保道が養子となって、その女を妻とす


       寛政4年4月7日家督相続  34歳  米300俵
         9年5月26日大番に列す

       妻は保道が養女



   娘  くだんのムスメ

      実は多田三八正峯が女             ← またもや多田家ですよ!

      保道に養はれて、後、保昌に配し
      保昌死する後、保郷に配し
      保郷また死するにより保教が妻となる


        アヤシイ! 
        絶対アヤシイ!

        最初の婿養子・直経は行方不明って?
        武士でも失踪ってあったの?

          もし養子に来る時に支度金を持参して来るなら
          持参金目当ての殺人事件?


            4回も結婚出来ちゃったなんて
            ズルイ!
            笑




            この代で絶えたというのもアヤシイ!




家紋は  源氏車の内矢筈
     むかひ蝶       
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月15日 10時28分10秒 ) パスワード

やっと巻18に載っている服部氏関係者を読み終えました。

いろいろアリました。
  切腹になった若者とか
  仕事が間に合わなかった宮仕えの人とか。

明日あたりアップします。

今は頭の中が満杯です。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月16日 06時22分51秒 ) パスワード

残りの服部氏3流れ
今朝また読み返して驚いているところです。

たいした家ではないと思っていたのですが
実は隠れたところで凄いのかも、です。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月16日 06時39分39秒 ) パスワード

消してしまった


窓8なので、失敗!
後ほど
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月16日 11時45分20秒 ) パスワード

平氏で伊賀出身の服部家:ゆへありて駿河国に赴く:通称は助左衛門あたり

            今川家で結構重要な家だったようです
                    ⇅
                菩提寺がらみで   吉良家とも昵懇だったかも
                    ⇅
                菩提寺がらみで   蘆田に仕えた服部正吉とはどういう関係か              



服部源左衛門対馬守康高

少壮の時、伊賀国にをいて人を殺し
立ち去りて駿河国に至り
今川義元に仕へ某年死す


その子康次  助之丞  牛助
今川氏真に仕へ18人衆の内たり。
天正13年12月21日遠江国にをいて死す


     以下から徳川家に仕えるようです

その子助左衛門
文禄元年3月召されて秀忠に仕へ
慶長5年真田昌幸を征したまふの時したがひたてまつり
7年正月25日相模国大住郡のうちにをいて采地160余石をたまひ
のち大番に列す
元和元年大坂の役にて凱戦ののち
武蔵国豊島郡のうちにをいて50石余の地を加へられ
寛永10年2月7日常陸国鹿島郡のうちに200石を加増あり。
すべて410石余を知行す。

寛文4年3月17日死す   84歳
牛込の万昌院に葬る                 ←  ここが大事!
   万昌院は市ヶ谷から移された          ←  ここも大事!

妻は加藤喜兵衛吉次が女
後妻は榊原八兵衛正成が女


養子政泰  助左衛門

    実は榊原三大夫正信が三男          後妻の親戚の家から養子を貰った
    妻は揖斐半右衛門政軌が女


その子政行  助大夫  助三郎  助の丞
       元禄13年7月11日家督相続
       410余石のうち260石余りを相続し
       150石を弟の伊左衛門政秀に分かち与へ分家設立
       8月13日死す


       小日向の龍興寺に葬る    ←   実家の寺でしょうか?謎
       妻は土井甲斐守家臣  大谷宜庵が女

       妹は山高十右衛門信氏が妻



政行の子   政広   喜十郎

       亨保8年9月13日死す   37歳

       康信と同じ牛込の万昌院に葬る


政広の養子政信  助左衛門
 
        分家の服部伊左衛門政秀が長男
        母は甲府の家臣久保源左衛門某が女

        (いとこの)政広が終にのぞみて養子となる

        甲府の勤番となり甲府に移り住む
        寛延3年8月11日死す
        甲府青沼町の法輪寺に葬る
  
        妻は磯辺元右衛門盛安が女


政信の子

        娘は母離別の時したがひて外祖父盛安がもとに行く

        長男政孝
        寛延3年11月2日相続
             15歳
             260石余


             妻は蜂屋右衛門正約が女
             後妻は中村九大夫正房が女
             また 伴 孫兵衛政令が女を娶る

                     すごいね3回も結婚してる
                     ズッル〜〜〜

      娘  筧太郎左衛門勝周が妻



政孝の子

      娘  分家の2代目  服部猪左衛門康通が養女(下の方に書きます)
      某  早世
      政実  まさやす  猪三郎   母は3番目の妻=政令が女
      政徳  



家紋は車の内横矢筈二筋 



葬地の牛込の万昌院は後で記す全く別の?服部家の菩提寺と同じで
ここは   なんと!   吉良家の菩提寺でもあります。


    ということは伊賀を出奔してから駿河国で今川家に仕えていた時に
    かなり厚遇されてて
    吉良家とは江戸でも親しかったのかも。

       2代目が氏真に仕えて18人衆の1人だったと書かれていますから
       今川家が存続していたらかなりの身分になっていたのでは?と思います。


**********************


分家の服部家

服部政秀  次郎三郎  伊左衛門

       服部助左衛政康が次男
       母は揖斐半右衛門政軌が女


      元禄13年7月11日  父政康が遺跡の相模国大住郡の内にをいて
      150石を分かちたまひ小普請となる

      亨保4年10月18日小十人に列し
      13年4月吉宗日光山に詣でたまふの時したがひたてまつり
      寛保3年閏4月12日老いを告げて番を辞す
 
            この時  金10両をたまふ

      延亨元年8月3日致仕し
      寛延元年6月18日死す     75歳


      牛込の万昌院に葬る

      妻は甲府の家臣  久保源左衛門某が女



政秀の子  5人


   養子 長男  政信  助左衛門  服部喜十郎政広が養子 
      
      次男  康久  多病なるにより家督足らず

      三男  康通  猪左衛門  
              采地  150石
              延亨2年9月13日  小十人に列し
              のち、しばしば的を射て時服をたまふ


              宝暦13年4月18日西の丸新番に転じ
              安永8年4月16日より本城に務めとなり
              天明元年4月26日西の丸に復す
                6年閏10月20日より本城に候し
              寛政9年3月8日また西の丸の務めとなる

      娘
      娘      紀伊家の臣 腰山友丹正英が妻



康通が子  6人  
 
      長男  康平   父に先だちて死す
    
      次男  康吉やすよし 父に先だちて死す

                    康通の悲しみが伝わって来ました

  養子  三男  康忠  実は加藤三郎兵衛忠居が三男
              康通が養子となり
              その女を妻とし  また父に先だちて死す


  養子  四男  康可やすよし  実は山田市郎兵衛直矩が四男
                  母は山田清大夫政孝が女
 
                  康通が養子となりて  
                  その女を妻とす

                  妻は康通が養女    あらら!


  娘     本目権右衛門親政が養女
 
  養女    実は本家の服部金三郎政孝が女
        康通養ひて康忠に配す

        康忠死するの後、康可が妻となる   



家紋は車の内横矢筈二筋
   むかひ蝶
      
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月16日 12時10分35秒 ) パスワード

蘆田家に仕えた服部家



服部和泉守正吉まさよし(重好)   

    蘆田右衛門佐信蕃に仕え
    天正10年家康北条宇品おと甲斐国若神子わかみこに御対陣の時
    氏直豆生田まめおたにに砦を築き兵士をしてこれを守らしむ。

    味方の兵、禾(のぎ=藁のことか?)を刈り捨てむかため
    彼の地に出張するの時
    正吉もその列にありて戦功をあらはす。


    妻は清野大炊某が女



その子  正長(重長)  七左衛門  八左衛門  母は大炊が女 

    父とともに蘆田に仕え
    天正10年家康甲斐国新府に御出陣の時
    忠功あるにより召されて仕へたてまつり

    のち下総国匝瑳郡そうさぐんの内にをいて采地100石 + 米50俵をたまふ。

    慶長5年関ヶ原の御陣の時
    本多佐渡守正信が手に属して供奉し
    19年大坂の役には
    本多上野介正純が隊に属してしたがひたてまつる。



    元和9年駿河大納言忠長卿に付属せられ
    後に致仕し
    寛永19日10月16日死す 

    市谷の万昌院に葬る            ← 市ヶ谷の万昌院!

       代々葬地とす

    妻は  関  才兵衛光正が女
   
 
正長が子  2人

    長男  正次(重明)  七左衛門
        母は光正が女


        秀忠に仕へたてまつり大坂両度の御陣に供奉し
        のち、父と同じく駿河大納言忠長卿に付属せられ
        忠長卿罪かうぶりたまひ
        領国を除かるるの時
        正次も御勘気被りて処仕となる


        寛永13年9月18日召し返され
        後、旧地100石 + 米50俵をたまふ

        17年3月9日死す



  次男  長次  服部新五郎長右が祖   忠左衛門  (別家を立てる)


以下いろいろ良い話悪い話があったので後日書きます。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月17日 02時59分09秒 ) パスワード

正次=重明=の子  2人
 
   長男  政久(重昌)  六左衛門   出世頭!

          寛永17年7月11日相続  小普請
          承応3年大番に列す
          万治元年2月27日  米50俵を加へられ
  
              のち、御蔵奉行を務め         ← 御蔵奉行!
          延宝3年3月10日これを許さる

            7年4月7日御代官に転じ100俵を加増あり

          元禄3年12月28日肥前国天草の官舎にをいて死す  ← 天草の奉行でしょうか?

          彼の地に葬る

          妻は早川十右衛門正勝が女



  次男   某  左次兵衛     喧嘩で切腹になった人

          万治元年11月6日先に塩入次右衛門某とともに信濃国小諸に赴き 
          帰路のとき桶川郡にをいて奴僕等土民と口論し
          彼の地の市人奴僕を打擲せるにより左兵次右衛門とともに          市人2人を切害し、つゐに彼等が為に捕らへらる。

          これによりてその始末を糺明あるのところ

          かろがろしく遠所に赴き
          奴僕等口論のとき計らふ旨もあるべきに
          無作法の処置
          しかのみならず
          その身市人のために縛せらるの条
          その罪軽からずとて切腹せしめらる。        ← 切腹!






正久=重昌=の子

    昌方  百助  兵蔵  母は某氏
  
    元禄4年12月5日家督相続
    12年2月11日大番となり
    亨保元年閏2月2日新番に転ず

    9年11月15日より二の丸に候し
    後、西の丸の務めとなる

    その後番を辞し
    寛延2年8月26日死す

    妻は内藤源大夫景快が女


昌方の子 5人

   長男=養子=昌行  実は須藤四郎兵衛某が次男
             昌方が養子となりてその女を妻とす

             亨保10年10月25日大番に列し
             寛延2年11月2日相続
             宝暦2年8月1日死す     60歳
 
             妻は昌方が女


  娘    加藤甚兵衛正恒が妻
  娘
  娘    昌行が妻

  次男  教昭  のりてる  

      兄・昌行が養子



昌行が子  4人

  長男=養子=弟  教昭

      宝暦2年11月3日  相続
        8年7月27日大番に列す

        9年3月29日新番に移り
      明和3年10月20日番を辞し
          12月9日  死す      43歳


         妻は加藤備後守昌景が女


  娘  遠山十之助直救が妻
  次男  昌武
  三男  某


教昭の子  昌栄まさよし  銕てつ八郎  四郎兵衛 四郎左衛門  重左衛門

              母は昌景が女

     明和3年12月27日相続
              16歳
              采地100石 + 米200俵

     寛政元年7月5日甲府の勤番となり彼の地に移り住む
       3年8月18日その勤に応えざるにより逼塞せしめられ
        11月27日許されて小普請に貶さる


             無能で降格???

       妻は榊原藤左衛門鎮候が女



昌栄の子  3人

   娘
   長男  重栄しげよし  早世
   娘



家紋  源氏車の内両矢筈二本
    むかひ蝶

    寛永系図  鳩酸草を家紋とすといふ
          かたばみ


              服部姓でかたばみ紋使用家は「秦氏系服部氏」らしいのですが。



この家は天正時代あたりに家康に仕えたことにより
今川氏直の配下で
服部助左衛門(伊賀で人を殺して逐電して駿河国で今川義元氏真父子に仕えた人)と知り合った?

その後、吉良家とも交流があり?

江戸で吉良家ともども、この両家は牛込(もと市ヶ谷)の万昌院を代々葬地とすることになった?   


それとも伊賀にいた時からの知り合い?
  片や蘆田に仕え
  片や今川に仕え
結局家康に仕えて、江戸に出た?

  伊賀では親戚か遠縁だった?                     
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月17日 03時40分53秒 ) パスワード

巻18最後の服部氏です。
この家は稲富氏と非常に縁が深いです。

娘の嫁ぎ先の稲富家の援護射撃(笑  理由は下の方に)にも拘らず 5代目で嗣無くして家絶ゆ

       ↑
 
      わたくしの本では 稲富氏も平氏系 になってます



服部直次   惣左衛門
       某年死す   61歳


直次の子3人

   嫡男  直盛  権八郎  母は某氏

       寛永13年2月6日  初めて家光に拝謁す

            12月27日大番となる
       某年  死す    22歳       若いのにねえ


  娘    朝比奈藤左衛門忠利が妻
  娘    稲富喜大夫直賢が妻      ←  この人が歴史に名を残している
                         御鉄砲御用役だって!


直盛の養子  直常 または  直頼  喜六郎  惣左衛門
          実は稲富喜大夫直賢が3男   母は某氏

          直盛が養子となる
          寛文3年死す


直常の養子  某  八郎左衛門
          実は稲富喜大夫直賢が4男   母は某氏
          直常が養子となる

          寛文3年12月11日家督相続
          米300俵をたまひ、のち、大番に列す

            11年死す


   娘      稲富喜市郎直貞が養女


5代目  某  亀之助  母は某氏

         寛文11年7月8日家督相続
         小普請となり
         延宝5年死す

        嗣無くして家絶ゆ



家紋は矢筈車



ここで稲富喜大夫直賢について:

http://www.siromegu.com/castle/kyoto/yumiki/yumiki.htm


弓木城跡

所在地: 京都府与謝郡岩滝町字弓木


歴史
弓木城副郭。削平と帯曲輪がわかります。  

京都府与謝郡岩滝町の一帯は、律令国家の時代には拝師郷と呼ばれる行政地域の西方にあたり、与謝郡衙の存在も推定されています。鎌倉時代になると岩滝町から宮津市須津にかけては稲富保と呼ばれ、摂関家近衙家の所領となりました。


弓木城は、この稲富保を名字の地にした稲富氏が室町時代後期以降根城とし、
丹後国守護一色氏が最期の拠点とした丹後地方を代表する中世の山城ですが、
そのくわしい歴史はわかっていません。


稲富氏については、「寛政諸家系図伝」に「はじめは山田氏なり。丹後国忌木(=弓木)の城主たりし以来、あらためて、稲富氏となる。」とあり、

初代稲富氏のもとの姓は山田氏で、丹後弓木城主となってから改姓して稲富氏を名乗ったことになります。

そして、二代目直時のときに、丹後国守護一色氏の家臣となったようです。


ところで「丹後国御壇家帳」には「いミの木」の大なる城主稲富氏ほか四名の名をあげ、これとは別に「いミの木の地下」にそうめん屋ほかの名をあげています。


弓木城主郭。細長い形状です。  

天正十年(1582)織田信長の命令をうけた細川藤孝(幽斎)、忠興(三斎)父子の丹後攻略により、一時丹後一色氏は弓木城に立籠りました。が、抗議の甲斐なく滅亡しました。

               ここ
               ↓
四代直家は、当時希代の鉄砲の名手として一色氏に仕えていましたが、運良く滅亡をまぬがれ一時細川氏に仕えた後、豊臣秀吉、徳川家康に珍重され、晩年は、尾張徳川家の祖義直(家康の第九子)に仕えました。


今日の丹後弓木城は、一色氏最期の地としてあまりにも著名ですが、もともとは稲富氏の居城であり、丹後の中世山城を代表する弓木城の滅亡は、まさに丹後における中世の終焉を象徴する画期的な事件であったといえましょう。

『弓木城跡案内板』より




http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/fe941421ce8397a9fb8190a063f2c572

稲富伊賀祐直ハ丹後国一色の家人也一ニ本ハ弓木の城主なり、一色亡ひて後御家人に成候、生得強力にて様の具足を着なから飛廻りける故二両具足と呼れし者なり、其上鉄炮の上手也、鉄炮一流ハ佐々木少輔次郎・稲富相模守・其孫伊賀守祐直と相伝す、天正の比秀吉公の仰に依て御師範と成しよし、御家中ハ勿論他家ニも門弟数多有領弐千石と云、不分明、今度御出馬の御跡に小笠原・河北と共ニ被残置候ニ、大切の時に至り節義を欠たるを甚憎ミ思召、見逢次第可討放と被仰付候、無程井伊直政に懸入頼ミ候得とも、忠興君御構ゆへすへき様なく松平忠吉公へ被進、猶も御許なかりけれハ家康公ニ被達、家康公ニも伊賀か振舞を御憎ミ候へとも、其芸の古今に勝れたるを惜ませ給ひ、或時の御夜話に我齢の延ん事を存ざる者御座候ハんやと御請被仰候ヘハ、我生得鷹と鉄砲とを好む、願くハ稲冨を与へ玉へ、剃髪染衣共なして鉄炮の咄を聞キ楽にいたし度候、立腹ハさる事なれとも一芸に堪たる者すたるハ惜き事なり、勘忍して給はれと御詫被仰候間、黙止難く御許容被成候、祐直則剃髪して一夢と号し、其後吉田へ御礼に参り御目見申上候時、年も寄らぬ様と結構なる御挨拶これあり有之候となり
     一説に、昼参る事を憚り夜来りしかハ、各以前の不義を憎ミ、大蝋燭を多く灯し昼の如くなりしかハ、稲富大きに迷惑しけると也
     武徳大成に、慶長十五年八月神君鉄炮の上手稲冨一夢を被召出、妙術を聞せ給ふ、将軍家も江府に召され鉄炮を習はせ給ふと云々
     又一書、稲富伊賀御所望にて尾州の御家に有り、一夢か嫡子土佐、其子主膳、其弟権之允相続て尾州の御家人となる、一夢か甥稲富善太
     夫関東へ被召出、其子喜太郎、其子喜三郎今御旗本に有と云々
     難波一統誌ニ、駿河大納言忠長卿御国君と申候時、鉄炮を稲冨に習ひ給ひ鴨を御打被成候事有略之、其所ニ稲冨宮内少輔か父は細川忠興
     に仕へたる伊賀守也、宮内も父に劣らぬ上手なりけれハ、将軍家ニ被召出しそと聞へしと云々
     部特編年集成云、稲富伊賀入道一夢召駿府、問其火炮妙術、是庚子乱為細川家長臣守大坂宅、然越中守妻子及生害期逐電故、忠興大怒
     不免仕諸将、沈淪辺土、然尾州侯忠吉君密召之、授食禄蟄居尾州、雖然両公惜彼妙術絶其伝、召忠興於江城、将軍家賜小松内府重盛為
     宋朝経山寺仏光禅師結縁贈黄金時返翰・定家卿七首和歌懐紙等及重器名物等上、竭御言論可宥稲冨罪旨、忠興漸領掌故祐直為将軍家
     御師範、其弟稲富喜大夫直堅列御家人、同十六年二月九日於駿府卒
     又或人云、高麗御陳中ニ諸大将狩し給ふことあり、其時虎出たりしを各是を射留んとせしに、稲富伊賀と立花家十時三弥かまえをさして馳通
     る、両人是を鉄炮にて打候ニ、稲富ははつれ十時か玉中りける、跡にて其間数を計り見るに稲富は近く十時ハ遠し、其上稲富ハ鉄炮の名
     手、十時ハしろうとなり、今度の稲冨の形情によつて、其時も臆したる故にはつれたる成へしと人各評しけると云々



     関連サイト 稲冨流砲術伝授書  学習院大学図書館・貴重書コレクション 

           稲富流砲術伝書   早稲田大学図書館・古典籍総合データベース

           紙本著色稲富流砲術奥義秘伝図巻  九州国立博物館収蔵品デジタルアーカイブ

             



http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3462/2/mth_129_tsutaya.pdf
日本近世国家における「藩意識」の研究:弘前藩の事例を中心に

Mar 24, 2010 - @井上外記と稲富喜太夫の騒動に関する信政の発言. A井上を討った稲富の小 ...... 有之、津軽家之儀、先祖右京大夫為信. 、. 身命に替え、関東へ. 御.

この記事、どこにあるか分かりませんでした。





弟子:いのうえりゅう

近世砲術の一流派。
流祖は井上外記正継(げきまさつぐ)(?―1646)。
外記流ともいう。

正継は播州(ばんしゅう)英賀(あが)の城主井上九郎左衛門正信(まさのぶ)の孫で、通称は九十郎。

稲富(いなとみ)流はじめ諸流を修めてこれに創意工夫を加えて一派を開いた。

1614年(慶長19)大坂の陣に酒井雅楽頭忠世(うたのかみただよ)の組に属して大筒を預かり、
その功によって采地(さいち)500石を与えられた。


35年(寛永12)幕命によって従来の大筒に改良を加え、南蛮銅を用いて各種鉄砲100余丁を作製した。これらは目方も10分の1、操作も容易で、射程も8町から40町(約4キロメートル)に及び、命中精度も良好であった。

38年御鉄炮(おてっぽう)御用役に任じられ、与力5騎、同心20人を預けられ、500石加増、1000石を領した。

『武極集』『玄中大成集』『遠近智極集』の三部書をはじめ多数の著述がある。

       
            ここ
             ↓
46年(正保3)同役の稲富喜大夫直賢(なおかた)と術技のうえで確執を生じ、
同年8月15日小栗長右衛門宅における和解の席上、口論刃傷(にんじょう)に及んで横死した。

       ↑
      中保次の最後の方の子孫が小栗二右衛門の家と縁を結んでましたね
      この小栗と上の小栗は関係あるのかな?


1666年(寛文6)正継の養子左大夫正景(さだゆうまさかげ)(1618―83)が召し返されて御鉄炮役に復し、
以後幕末まで子孫相次いでこの流儀を伝えた。[渡邉一郎]

『『寛政重脩諸家譜』第4(1964・続群書類従完成会)』
 
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月17日 03時43分41秒 ) パスワード

稲富氏について


稲富祐直

いなどめ すけなお、天文21年(1552年) - 慶長16年2月6日(1611年3月20日)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、砲術家。稲富流砲術の開祖。号は一夢、理斎。別名に直家。伊賀守。稲富直秀の子。弟に稲富直重。弓木城主。

祖父・稲富祐秀から砲術を学び、それを発展させて稲富流砲術を創始したといわれている。合戦の際に具足を2枚重ねて着ていたため二領具足の異名を持つ(長宗我部氏の一領具足とは関係が無い)。

はじめ一色氏に仕え、主家が滅ぶと細川忠興に仕えた。慶長2年(1597年)慶長の役では、蔚山倭城に籠もって活躍したという。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいては、細川氏の大坂屋敷に居て、忠興の妻である細川ガラシャの警護をしていたが、ガラシャが石田三成の人質作戦に巻き込まれて死去すると、自身は砲術の弟子に助けられて屋敷から逃亡したという。そのため戦後に忠興から恨まれて殺されそうになったが、徳川家康にその砲術の腕と知識を惜しまれて助命された。

その後は、松平忠吉や徳川義直に仕えたという。後に剃髪して一夢、理斎と号した。井伊直政や浅野幸長なども弟子にした。しかし加藤清正からは売名家として非難されている。

慶長16年(1611年)に死去。子がいなかったために、実姉の子稲富秀明を養嗣子としたが、正保年間に死去したため、弟の稲富秀隆が跡を継いだ。

小説[編集]
松本清張『火の縄』講談社文庫
中村彰彦『ガラシャを棄てて』(徳間文庫・『敵は微塵弾正』収録)
松本清張『逃亡者』(角川文庫・『軍師の境遇』収録)
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月17日 03時50分29秒 ) パスワード

以上で巻18だっけ?の服部氏について読み終わりました。


以下の服部家についてはボチボチ捜していきます。

    『寛政重修諸家譜』全21巻の目次に目を通し、服部関係を当たったところ、
     主要筋はすでにコピーしてありましたが、新たに20巻目の中に、
     2系統の服部氏の記載がありました。それは、
           1.服部順定(もとさだ)
           2.服部保好(やすよし)
      の2系統でありました。


この内、1の順定の方が、「三つ追い柏」を使っていることがわかりました。
但し、この家系は医家の家系でございました。


頑張ります。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月17日 07時22分07秒 ) パスワード

2系統の服部氏、
   .服部順定(もとさだ)
   .服部保好(やすよし)
両方とも載ってないです。




市ヶ谷 → 牛込 の萬昌院について調べました。
「赤穂浪士事件」の吉良さまが葬られているという以上に驚きがありました。


以下コピペ
龍寶山萬昌院功運寺

所在地
東京都中野区上高田4-14-1

位置
北緯35度42分45秒
東経139度40分43.30秒

山号
龍寶山(りゅうほうざん)

宗派
曹洞宗

本尊
釈迦如来

創建年
昭和23年(1948年)(萬昌院功運寺として)
萬昌院は天正2年(1574年)、
功運寺は慶長3年(1598年)

開基
今川長得、永井尚政                ← 永井氏が出てきました

                           功運寺は永井家の菩提寺だから!

正式名
龍寶山萬昌院功運寺

文化財
吉良上野介の墓、今川家の墓


萬昌院功運寺(ばんしょういんこううんじ)は、東京都中野区上高田にある曹洞宗の寺院。山号は龍寶山(りゅうほうざん)。

元禄赤穂事件(忠臣蔵)で知られる吉良義央の墓がある。



歴史[編集]

元々は萬昌院という寺と功運寺という別々の寺であったが、1948年に合併してできた寺である。


萬昌院[編集]

萬昌院は山号を久寶山(くほうざん)といい、天正2年(1574年)の創建と伝えられる。開基は今川長得(一月長得)、開山は仏照円鑑禅師(喚英長応)。

長得は戦国大名今川義元の三男であり、
長得の兄今川氏真もはじめは萬昌院に葬られた。

また、今川家と先祖を同じくする一族であり、
江戸時代初期には極めて近い姻戚関係にあった吉良家の菩提寺にもなっている。

もともとは江戸城半蔵門近くにあったが、
その後市谷田町、
筑土八幡町(いずれも現在の新宿区)と幾度かの移転を繰り返した。

1914年に現在地に移転してきたが、1917年に火災により本堂・書院などが焼失してしまった。


功運寺[編集]

功運寺は山号は竜谷山(りゅうこくさん)といい、慶長3年(1598年)の創建である。開基は永井尚政、開山は黙室芳・禅師。永井尚政は将軍徳川秀忠のもとで老中を務めた人物で、功運寺は永井家の菩提寺となっている。

創建当初は江戸城桜田門外にあったが、三田(芝三田功運町)に移り、
1922年に当地に移転してきた。
その後、戦後の1948年に萬昌院と功運寺が合併し現在に至っている。
本尊は、釈迦如来坐像。


施設・史跡[編集]

墓地[編集]

糟屋武則(戦国武将、賤ヶ岳の七本槍の一人)の墓(武則の墓は自身の居城・加古川城跡である兵庫県加古川市の称名寺にもある)

水野成之(旗本、旗本奴として著名)の墓

吉良家の墓
吉良義央の墓もある(義央の墓は自身の領地であった愛知県西尾市の華蔵寺にもある)。

今川家の墓
萬昌院を開いた今川長得などの墓や供養塔がある。


永井家の墓
功運寺を開いた永井尚政の一族の墓がある。
永井尚長(尚政の孫)は、増上寺で行われていた将軍家の法要中に刃傷を受け殺害された人物だが、
加害者の内藤忠勝は浅野長矩の叔父に当たる。
これにより一旦断絶した永井家は尚長の弟によって再興され、
その末裔である大和新庄藩主累代の墓も本寺にある。


栗崎家の墓
江戸時代の外科医・栗崎家三代(道喜・初代道有・二代道有)の墓。
なお、二代栗崎道有は松の廊下で斬られた吉良義央を治療している。


大関増業(下野黒羽藩主、国学者)の墓

初世歌川豊国(浮世絵師)の墓

林芙美子(小説家)の墓


1960年までは当寺院内に江戸時代の町奉行・大岡忠相の墓もあったが、大岡家の菩提寺であった神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺に移転した。


拝観は日中の時間帯のみ無料。


施 設[編集]

当寺院が母体となって隣接してある幼稚園「まこと幼稚園」を運営している。


アクセス[編集]
中央線各駅停車・大江戸線東中野駅より徒歩12分。
地下鉄東西線落合駅より徒歩8分。
西武新宿線新井薬師駅より徒歩10分。


関連項目[編集]
萬昌山長延寺 − 旧今川家菩提寺。萬昌院と開山(仏照円鑑禅師喚英長応)を同じくする。
観泉寺− 杉並区にある寺院。観泉寺にも今川家の累代の墓地がある。
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月17日 07時38分57秒 ) パスワード

やっぱり不思議です。

人を殺して伊賀を出奔した服部家と蘆田に仕えた服部家は一体どういう関係だったのか?


更に今川家との関係は?

ま、両家ともに今川家(特に氏真)に仕えていたようなので
その関係なんでしょうけど。
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月19日 08時01分14秒 ) パスワード

また服部家を全部チラチラと読んでみたのですが
未だに勘違いしているメモなどがありました。

やはり現場100回
100回は読み直さないといけないです。


   名前、むずかし過ぎ〜
   続柄、ややこし過ぎ〜
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月20日 06時06分40秒 ) パスワード

服部貞勝


呉服明神の神職の家の出世頭です。


服部 貞勝(はっとり さだかつ、宝暦11年(1761年[1]) - 文政7年5月22日(1824年6月18日))は、江戸時代後期の旗本。服部貞徳の長男。母は酒井忠香の養女。通称は久太郎、頼母、久右衛門。官位は従五位下備後守、のちに伊賀守。室は戸田氏朋の娘。子女に服部貞陽ら。



目次 [非表示]
1 来歴
2 脚注
3 関連項目
4 参考文献


来歴[編集]

中奥番・服部貞徳の長男として生まれる。寛政6年(1794年)小姓組となり、天明8年(1788年)に家督相続、1400石を継ぐ。

天明9年(1789年)に中奥番士、文化2年(1805年)御徒頭、同3年西丸目付、同4年本丸目付と昇進し、文化7年(1810年)、駿府町奉行となる。文化9年(1812年)地誌「駿河大地誌」の編纂を企画したが、11月に松前奉行に転任となった。翌文化10年(1813年)9月、ゴローニン事件を解決する。文化13年(1816年)5月に勘定奉行勝手方兼務(松前奉行は12月に退任)となる。文政2年(1819年)閏4月に勘定奉行公事方となり、道中奉行も兼務、但し同年9月、小普請組支配となった。

文政7年(1824年)死去。墓所は世田谷区赤堤3丁目の西福寺。

脚注[編集]

1.^ 『徳川幕臣人名事典』によれば明和6年(1769年)生。

関連項目[編集]
文政丁銀

参考文献[編集]
寛政重修諸家譜
『徳川幕臣人名事典』東京堂出版、2010年


箱館奉行(蝦夷奉行・松前奉行)

箱館奉行(蝦夷奉行)
戸川安論 |
羽太正養 |
(松前奉行に改称)



松前奉行
戸川安論 |
羽太正養 |
河尻春之 |
村垣定行 |
荒尾成章 |
小笠原長幸 |
服部貞勝 |
安藤雅久 |
本多繁文 |
夏目信平 |
高橋重賢 |
(松前藩の復領により廃止)



[89]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月20日 09時01分40秒 ) パスワード

幕末の長崎奉行に服部常純という人物がいました。


服部 常純(はっとり つねずみ、生没年不詳)は、江戸幕府旗本。通称、左衛門佐。官途は従五位下、長門守のちに筑前守。(肖像写真)

時代的に寛政重修諸家譜には書かれていない人ですが
通称からすると  蘆田に仕えた  服部正吉の子孫かなと思います。




服部常純


文久3年(1863年)4月に小納戸頭より長崎奉行となり5月に長崎に着任。

長崎開港の後であるので、多くの外国人が住んでいたことや、各地より浪人が多く流入した為、
警備隊を組み、治安維持および外国人保護にあたらせた。

慶応2年(1866年)軍艦を購入し、奉行所の組頭柴誠一を艦長に任命した。

乗組員に長崎海軍伝習所で学んだ地役人を採用し、長崎港の警備にあたらせた。

同年8月に勘定奉行に就任し、慶応3年(1867年)海軍奉行並となり、慶応4年2月12日より若年寄となった。


明治政府に出仕し、明治4年修史局2等協修として地誌編纂に携わり、
明治6年から明治10年1月まで地理局地誌課に務める。
[90]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月22日 02時40分35秒 ) パスワード

XVIIIのレス<82>より重複:


三つ柏さんじょり百地の名前は正西と教えて頂きました。

そのレスをここに重複して載せます:


百地丹波正西?
「正」ということで  服部「正」を通字とする伊賀の仲間だったのかしら?

      蘆田に仕えた服部正吉
      服部中保次
      服部保長

      この3つは百地と共通するのかな?と。


      服部権大夫政信と伊賀で人を殺めて逐電した服部助左衛門康信の家は「政」の字を使用



>尚、出国に当たって保長は、当時三歳の嫡子「則直」を妻の実家である紀州、保田庄の豪族保田栄西(先祖は、楠正成の縁辺といわれる。その時代から、伊賀忍家と血脈の交流があった)の養子として、保田家に送った。後顧の憂いを断ったのであろうが、保田栄西(保長の義弟であったと思われる)の強い希望を入れたものと思われる。というのは「則直」は、保田家において、嫡子「則宗」を儲けて後、その則宗に保田家を継がせ、自分は伊賀の予野に帰って千賀地の名跡を立てたからで、これは半三保長と保田栄西の約定によるものと、考えられるからである。


ここで「楠」が出て来ますか。



      ここで「直」の字で
      旗本の服部家で「直」を通字にしている家を XVI で書きました。 
      服部氏一覧の最後に出て来た家で「5代で嗣無くして家絶ゆ」とされる家です

         服部直次の家で
         御鉄砲御用役の稲富喜大夫直賢が肩入れしてた家

      なんかちょっと分かったかも




>因みに則直の次男、保田「采女」はその後、藤堂藩の伊賀上野城代家老に任じられた「藤堂采女」その人


         この関係があれば御鉄砲御用役の稲富喜大夫直賢が何故あそこまで
         しつこくこの家の存続に躍起になっていたか
         なんかちょっと分かった気がします。
 



[91]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月22日 22時26分49秒 ) パスワード

服部半三保長の家について:


XIXからのコピペ:重複


伊賀の忍者について:
源平合戦の壇ノ浦以降家康に仕えるまで:



平家の没落によって、服部家長は失脚したが、服部家と忍術組織はふたつに分割されて、各々温存された。


家長は平家滅亡後、故郷に戻り(注1)、長男、次男、三男を源氏に寝返らせ、
従来味方であった平家の残存勢力を伊賀から掃討することに専念させた。

そしてかねてから気脈を通じていた柘植の豪族平宗清
   (当時、平清盛の異母弟池大納言頼盛の甲賀地方の荘園の代官だった)
を通じて、服部家の保全について、三子の源氏方への帰順、協力を条件として、
源頼朝の承諾を取り付けたのである。


宗清は平治の乱のあと、落人となった少年の頼朝を捕らえたが、
主人頼盛の実母池禅尼(清盛の義母)と協力して、頼朝の命を救ったことがあったため、
池一家と共に平家滅亡後も頼朝の殊遇を受けていたのだ。


(注1) 家長自身は、西海で戦没した態を装い、かねてから万一の場合に備得て用意していた伊賀の辺境、予野の里の郷士千賀地家の当主になりすまし忍びの者を引き連れて、与野に隠棲したのだ。



これ以後、服部姓の忍家は伊賀から消え去り、千賀地家が、忍術の宗家となったのである。


*************************



千賀地宗家の出国と足利幕府への仕官


戦国時代にはいると、その組織の維持に困惑するようになった。忍者の世襲制(秘密保持のため必要)による組織の肥大化のため、財政的に行き詰まったのだ。
  
甲賀の忍家とちがって、伊賀の忍術組織は大組織であったから、国外からの需要が殖えても、到底その費用を賄うことは出来なかったのだ。

窮状を脱する方法は、伊賀内部の忍術組織を再編、大幅に縮小する以外になかった。

たまたま、その時、十二代将軍足利義晴が身辺警護のため、多数の忍者を召し抱えようとして、側近の松永久秀を介して、千賀地家の当主半三保長に、一族郎党を率いて足利家に、出仕することを要請してきたのだ。

半蔵保長は百地・藤林の二家にこのことを伝えて、宗家自らが縮小化の犠牲となり、一族郎党を率いて足利家に出官することの了承を得た上で、将軍義晴の召致に応じ、故郷、予野を出て京都に移住した。


*****************************



服部半三保長は、足利義晴に一年余仕え、義晴の身辺の警護と、来訪する諸大名の応接役を受け持って近侍したが、足利氏の財政の悪化により、約束の封禄は与えられず、その郎党を養うのにも困窮する状態になった。

この時、将軍に閲するため京に上がってきた、三河の大名清康(徳川家康の祖父)
が半三の窮状を見て、将軍家を致仕(依願退職)して、縁辺と共に三河岡崎(清康の拠城)に転任し仕官することをすすめた。

清康も鈎(まがり)の陣以来、機会があれば伊賀忍者の集団を召抱えたいと考えていたのだ。

保長は清康の招請を快諾して、一族と共に岡崎へ移住した。清康は岡崎郊外に服部一族の居住地、開墾地(農地)として「伊賀」の地を区切って与え、保長には別に三百石の知行を給して、直参(譜代)としたのである。


半三保長は、その後、「伊賀町」に郎党と共に定住し、次男正成以下三名の男子をもうけ、清康・広忠・家康(徳川と改姓)の三代に歴任して、徳川家の伊賀者の長官として、調・謀両面に亘って活躍したのである。

家康の代になって、徳川家は織田家(信長)と同盟したから、自然、半蔵保長、半蔵正成の父子は織田信長に従うこととなり、終始、松永久秀や六角承禎等、反信長党と行動を共にした同族の百地(藤林)党に、対立しなければならぬという皮肉な立場に立つようになった。
[92]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月24日 20時35分02秒 ) パスワード

XIXのレス19あたりからと重複事項:


1.保田家が拝領したという「16葉裏菊紋」を服部家も使用している家がある。

2.服部「中」の名乗りは先祖に大服部・中服部・小服部を家号として呼び始めた記録がある

  おそらく  服部保長が中服部の中心の家で、  後に服部中保次の家が名乗りに使用し

        また、伊賀で人を殺して出奔し今川に仕えた助左衛門康信の家も中服部の出かも。

            
        そうすると蘆田に仕えてのちに家康に仕えた服部和泉守正吉=重好
            服部○左衛門の家も中服部の内かも。





またまた読み返して纏め直さないといけないようです。
[93]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月24日 20時42分18秒 ) パスワード

結論として、寛政重修諸家譜に記載されている旗本だった服部氏7家は千賀地の服部家
それも中服部家の出身かも。


江戸時代に大久保長安事件で松平家に預かり処分になった服部正就の家が
松平家の中で大服部・小服部と区別して呼ぶのも
千賀地で昔大服部・中服部・小服部と家号で呼び合っていた時の名残りかも。



まだまだ現場100回
何度も読み返さないといけません。
[95]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月25日 03時27分41秒 ) パスワード

<94>の書き直し


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F

この系図によると


千賀地保行

服部保長    (この人は鎌倉時代あたりの人)

保清


(9代略)


保宗

宗純      (南北朝の戦いの時に後醍醐天皇とその子の宗良親王に従った)
          転戦の後、尾張に定住

宗家

宗信

宗政

政家      織田信秀と手切れになる

        

友貞? (尾張服部家で反信長。暗殺される)::  政光(桶狭間の後、家康に従う)

             ここで尾張在住組と徳川家に仕える組に分かれる
        

正友 (友貞の弟と思ったけど息子らしい)::  政季(武蔵国等で4000石)
                                 
                          政信(兄)       政重 (弟)
                  
                (政信の子)政長 政久 信利 信成 正勝 高木九兵衛  (政重の子)政次

                                  (政重の孫実は大久保忠重次男)政勝 




そうすると尾張の服部家ホンヤさんと服部権大夫政信服部杢助政重兄弟は
鎌倉時代の下服部家の流れになりますね。


服部政家の家は南北朝の戦いの後、尾張にいて
戦国時代に織田父(信秀)と手切れになって、
その後、
政家の子供達、友貞と政光の時に織田子(信長)と対立して桶狭間で今川と組んで信長を殺そうとして失敗。


友貞が織田方に伊勢で謀殺されて後、弟?子?の正友は尾張に残り
政光は家康に従った。



そうするとワタクシはやっぱり千賀地服部家の子孫になりますか。
へえ〜
だと思ってたけどココまでの確証(笑)はありませんでした。


中服部の保長の家(服部半蔵など)と保次の家とは共通の保行を祖としてはいるけれど
ココで分かれたのか。
へえ〜


前世の記憶で、平安時代の末期、
千賀地には、藤原忠清の息子と一緒に「桜」を見に久居から遊びに行った記憶があるから
千賀地は気になってたけど

平田の父(家継)が殺されてから千賀地に引き取られてたのか。


本日あの系図がやっと読めた。


西暦940年に殺された平将門が亡くなる数年前あたりからのわたくしの記憶が、やっと1本の記憶に繋がった。

前世の記憶、まさに1080年間の思い、平熱にグダグダ書き込んで17年、
(だろうな)と思ってたことが 
   服部家(平田家継)⇔保田家=藤堂采女家⇔秘密⇔藤原忠清 
で決着しました。

ありがとう三つ柏さん。
[96]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月25日 16時33分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 すごい感動です。1080年の時を超えて、今、記憶の点と線が繋がった!

 私も感慨にしばらくしたりとう存じます!
[97]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月25日 22時40分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


もうちょっと系図を読み込みますね。

服部中保次が中服部系を称しているのに宗清系服部伊賀守宗純の子孫ということは?
ま、下服部家から途中で中服部系に養子に行ったのだろうと思いますが
また読み返さないことには。


   現場100回です。


いずれ1080年の記憶というのを纏めてお知らせします。
やっぱり日本人というのは何重にも血で繋がってるんだなと思います。


ただ神代の時代とか大陸とか半島での前世の記憶は全く無いです。

大陸の古典なんかは大好きなのに。
   一応わたくしの1000代分の母方のミトコンドリア(笑)には大陸の女性もいることにはいるけど。


とにかく930年代からの記憶しか無いです。
これまた不思議???

   でも入鹿は好きです。
   すっごく同情しています。

   だけど繋がらない・・・


とにかくまだまだ何度も読み直さないことには。


服部7家のことをずっと読んで来て、一応、遠縁なんだろうけど
やっぱり各家のアイデンティティは7家ともそれぞれなんだなあと。


お愛さま=西郷局の継父の服部正尚が服部保長が近い親戚だった
            保長が正尚の大伯父
というのは収穫でした。
[98]丸三柏服部さんからのコメント(2014年11月26日 06時35分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部中保次のことについて『寛政重修諸家譜』では、
「今の呈譜に、平氏高棟流にして弥平兵衛宗清より出、宗清頼朝将軍より
 伊賀国阿拝山田2郡のうちにおいて32村の地をたまい、阿拝郡服部村に
住せしより、子孫服部をもって家号とす。保次はその後裔伊賀守宗純の末裔
なりという。」
 となっていて、その間4代位が不明となっている。年代で行くと友貞や政光
(政秀)と同じ世代になり、系図がないというのは不思議である。どこかに必ず
あるはずであると思います。意図的に消したのか? この謎を探究してみます。
[99]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月26日 12時07分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

よろしく!


中保次は宗純の子孫なら友貞や政光と同じ下服部なのに
何故に  中服部  に化けたのでしょう?

   養子になったとしか考えられないのですが
   不思議ですね。


中服部家は保長(子孫は服部半蔵系)と正清(服部正尚や青山成重系)の流れが
    大久保長安事件で潰されましたから
下服部家の者が中服部家を継いで、その時に、保次から中服部家のように操作したのでしょうか?


是非解明を。

わたくしも読み直してみます。


XIXに書きましたが
正尚の子孫が後世大岡越前守によって(蓑笠之助が)将軍にお目見えたてまつったことは
やはり家康を正尚等が無事に伊賀越えをさせた過去があったからでしょうか?

大岡越前は伊勢にいたこともありますから当然伊賀越えのことは知ってたでしょうし。
[100]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月12日 05時53分09秒 ) パスワード

<10>は消しました。

旗本の川勝氏って随分な数いらっしゃるのね
という書き込みでした。

http://www.weblio.jp/ontology/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C%E6%97%97%E6%9C%AC_1
[101]相良四郎さんからのコメント(2023年03月18日 18時25分15秒 ) パスワード


まずは読み進めるところからと思います。

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