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杉本苑子の「終焉」に石見銀山の奉行だった井戸平左衛門のお話が書かれています。
井戸平左衛門
井戸平左衛門は享保16年(1731)に第19代大森代官となりました。
翌享保17年(1732)は享保の大飢饉といわれる凶作にみまわれた年でした。
井戸平左衛門は飢えに苦しんだ領民を救うため、
年貢を免除したり、自らの財産や裕福な農民から募ったお金を資金として米を購入しました。
(個人的な蓄えの千両を使ったそうです)
さらに幕府の許可を待たずに代官所の米蔵を開いて飢えた人々に米を与えました。
(その結果井戸平左衛門は自裁しました)
また、サツマイモの栽培は他の作物と比べて労力もいらず多収穫で肥料も少なくて済むことを知り、
当時薩摩国以外への持ち出しは禁止だった甘藷(サツマイモ)を、苦労していちはやく石見へ持ち帰りました。
このおかげで石見銀山領では餓死者がいなかったといわれます。
井戸平左衛門は享保18年(1733)に亡くなり、
代官勤務は1年8ヶ月とわずかな間でしたが、
この地方では今に至るまで「いも代官」「芋どのさん」と呼ばれ慕われています。
大森町には井戸平左衛門を祀った井戸神社があります。
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