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 投稿番号:101387 投稿日:2014年10月03日 17時33分25秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]W 
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]Vよりの続きです。

歴史探偵の目で歴史の奥底に潜む謎の解明に挑む。

最終目標は服部氏族の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月03日 22時05分29秒 ) パスワード

以下の2点ですね:

>長野県筑摩郡の麻績(おみ)村の服部氏
>関市での永井氏と山内一豊(かつとよ)の関係


とりあえず
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%B8%BE%E5%9F%8E

麻績城

城郭構造
山城、居館

築城主
服部氏

主な城主
服部清信、青柳清長、(麻績氏)

廃城年
1596年

遺構
曲輪、土塁

指定文化財
県指定史跡[1]

麻績城(おみじょう)は、長野県東筑摩郡麻績村にあった日本の城。


概要[編集]

戦国時代麻績の地を支配したのは服部清信であった。

麻績城の南西の麻績古城(虚空蔵山城)に居を構えていたが、守りを強化するために麻績城を築いた。

しかし、天文22年(1553年)甲斐の武田晴信が筑摩郡に侵入し、青柳城の青柳清長を従えて服部氏を追い払い、
青柳氏が麻績氏を名乗り、麻績城には青柳氏が移った。

そして武田氏の滅亡後、信濃国を手に入れた織田信長が本能寺の変で死去した天正10年(1582年)以後、この地は上杉景勝、小笠原貞慶の争奪の地となり、最終的には小笠原氏の支配地となった。

脚注[編集]

1.^ “県史跡 (PDF)”. 長野県 (2013年1月1日). 2013年4月5日閲覧。

長野県の教育委員会編纂の史料が欲しいですね。



ここでアップ
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月03日 22時20分45秒 ) パスワード

わたくしでは順番がメチャメチャなので
ご自分でも  URLに書いた 2010年4月のブログの目次にいらっしゃってください。


服部
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/427486605

妃羽理 公式ブログ/服部


私の忍術の流派は、麻績服部流といいます。
伊賀流忍術の一派ですが、伊賀といえば、皆さん真っ先に思い出す人物は、服部半蔵ですよね

でも、この服部半蔵、大半の人が、忍者だと思い込んでいるようですが、それは全くの誤解です!

服部半蔵は、武士です!


ただ、代々服部家は伊賀地方の豪族だったので、
伊賀の忍者をとりまとめていたという事実が、どういう訳か、半蔵自体が代表的な忍者というイメージになってしまったようです


今日は、ちょっと難しいんですが、その服部氏の成り立ちをお話します。



時は、大和政権の成り立ちの頃。
朝廷の組織は、氏姓制度によって創られていました。
氏とは、名字のこと、姓とは位のこと。
位には、臣、連、君、直などがあった。
もちろん、一番頂点は、天皇の祖先、大王。
葛城、平群、蘇我氏などの大和の有力豪族には臣。
大伴、物部、中臣氏などの特定の職能を持って朝廷に仕える有力豪族には連。
筑紫、毛野などの地方の有力豪族、つまり、もと縄文民族には君。
大和政権の支配に服した一般の地方豪族、つまりもと縄文民族には直。
という具合に位づけをした。


それぞれの姓には、
  伴と呼ばれる、朝廷の警備や神の祭りを担当する人民、後の武士の原形。
  品部と呼ばれる職人。
  名代、子代と呼ばれる農民などが支配されていた。


そのうちの品部には、陶部、錦織部、鞍作部などのそれぞれの専門職人がいた。
そのうちの機織部(はたおりべ)と呼ばれる服を作る専門職人がいた。
それはやがて、服をつくることから、服部(はとりべ)と呼ばれるようになっていった。
これが、服部氏の始まりである。


これらの部民は、大陸から渡ってきた帰化人がなっていったのだが、
そのうちの秦氏の一派、呉服(くれは)一族がもたらした機織り技術が、
服部(はとりべ)の技術に発展していったことから、服部氏の祖先は、秦氏という見解が有力である。


ともあれ、もともと、服部氏は、大和政権の組織下に生まれた氏族であり、
もともと縄文民族であった山の民を束ねるに至ったわけであり、
忍者そのものになりえない家柄なのである。


服部半蔵自身が忍者ではないことを説明するには、ちょっと難しすぎたかな?


コメント

服部半蔵は全部で12人います。

服部石見守半蔵 という名前は世襲制で、代々受け継がれて来た名前なんですよ

皆さんが、よく耳にする服部半蔵は、服部石見守半蔵正成のことで、
伊賀生まれではなく、三河の生まれで、半蔵としては、二代目です。


初代は服部石見守半三保長といって、彼は伊賀生まれです。


ブログで説明したとおり、服部氏は秦氏の末裔なので、弥生民族の中に溶け込んでいった帰化人。


風魔小太郎は、足柄から丹沢にかけて生息していた山賊、風魔党の頭領なので、縄文民族の流れでしょう。


服部氏にまとめられていた伊賀者たちとは、出所が一緒の可能性はありますが、服部半蔵と風魔小太郎はまったく家柄が違うんですよ。

[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月03日 22時25分34秒 ) パスワード

編集します。書き直し:


http://gree.jp/hibari_g/blog/month/2010-04

2010年4月のブログに長野の麻績の服部氏について書かれています。



http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/428791695


服部清信


麻績服部


妃羽理 公式ブログ/麻績服部

前回は、服部氏の成り立ちについて説明しました。

今日は、私の忍術の流派、麻績服部流忍術のネーミングのもとになった、麻績服部(おみはっとり)氏の説明をします。


麻績服部流の祖は、鎌倉時代の藤原朝臣服部伊賀守という人。

藤原は中臣の子孫なので、位としては連だが、蘇我氏などが滅んだことで一番最初の氏姓制度が崩れて来たので、飛鳥時代天武天皇の頃、新たな姓が生まれた。

そのうちの一つが朝臣(あそん)。

朝臣とは、皇族だけど、天皇とは血縁関係が遠い臣姓。

ここまでを聞くと、凄く高貴な家柄?と思うかもしれませんが、そうではありません。


その高貴な人の配下にあった服部(はとりべ)の家柄ということ。

〜守というのは、一国の民政、裁判を司るために、中央政府から派遣される地方官に与えられる役職。

つまり、伊賀守とは、伊賀の国の地方官ということ。


服部半蔵は代々石見守だったが、これは、徳川家が、服部家に、石見銀山の管理を任せようとして与えた役職。

しかし、服部伊賀守と服部石見守の決定的な違いは、
伊賀守は、朝廷から与えられたきちんとした役職であるのに対して、
石見守は、一つの家であるにすぎない松平家(徳川家)が、朝廷の制度を真似て勝手に付けた役職。

どういうことかというと、幕府というのは、初めは単なる朝廷の組織する軍隊のことだったので、鎌倉時代の承久の変までは、全国に及ぶ政治権力は、朝廷の方が強かった。

しかし、承久の変で、幕府が、朝廷に勝つと、幕府が完全に全国を支配するようになったにすぎないので、〜守に本当に役職的に意味があるのは、鎌倉時代の承久の変以前であって、それ以降の〜守というのは、安易に付けられる役職になってしまい、実際に石見に勤めなくても石見守という名前がついてしまうようになった。


何が言いたいかというと、この服部伊賀守は、承久の変以前の役職なので、きちんと伊賀で勤めた人だということ。

つまり、伊賀地方の服部氏の祖であるということ。
もっというと服部半蔵の祖先ということ。

その服部半蔵の祖先の服部伊賀守が、伊賀守の任期を終え、承久の変以後力を持った鎌倉幕府から、今度は地頭として派遣された地が、信濃(長野県)の麻績(おみ)の地だった。


この麻績の地は、承久の変以前は、朝廷の直轄地だったので、地頭はいなかったのだが、承久の変以後は、幕府領になったので、地頭が置かれた。


では、なぜ、服部伊賀守を起用したのか?

それは、伊賀も朝廷の直轄地だったので、武士の勢力の及ばない土地の民の扱いに慣れていたことが、この抜てきの理由だろう。

ともかく、この服部伊賀守が、伊賀から連れて来た民衆と、もともと縄文民族の末裔の多い信濃の民衆との技術が錬磨されたのが、麻績服部流忍術の源流なのである。


その服部伊賀守の子孫である麻績服部左衛門清信の頃に、完成したのが、麻績服部流忍術なのである。


私の本名は、宮下というのですが、宮下家は、服部清信の弟、服部加信斉が神主を務めた麻績神明宮を代々守っている家で、私はその一族の流れを組むものです。


そういった縁で、私が麻績服部流忍術の正当継承者になった訳です。


コメント




妃羽理 4/21 11:09

伊賀流忍術の継承者は、全国に12、3人ほどいるのですが、伊賀麻績服部流忍術の継承者は、私一人です!

これは大問題で、私がニューハーフであることが、更に問題を深刻にしています

私の子孫が出てこないことは、麻績服部流忍術の断絶を意味するからです

かといって、弟子もいないので、大変な問題なのです。
父親との溝が埋まらない原因はそこにあると言っても過言ではありません。

[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月03日 22時36分07秒 ) パスワード

ご作動が起きていますがアップ


忍者の祖先


妃羽理 公式ブログ/忍者の祖先

どういう人達が忍者になっていったか?
今日は、そのお話をします

そもそも、私達日本人は、大きく分けて2つの民族の混血です!
1つは、縄文民族。いわゆる顔の濃いソース顔の民族。
もう1つは、弥生民族。いわゆる顔の薄い醤油顔の民族。
つまり、狩猟漁労を中心にしていた原住民、縄文民族の暮らしていた土地に、稲作文化を持って大陸から渡ってきた弥生民族に征服されたことによって産まれた国、それが、日本なのです

稲作をするには、田んぼを作る土地の確保が必要。
土地を確保して、農作業を進めるには、組織的社会秩序が必要。
それが、大きくなっていったのが、大和朝廷。
縄文民族の中には、もちろん、その農耕民族の傘下に入っていったものも多い。
しかし、その文化をよしとせず、農耕勢力から逃れていったものもいた。
北の果てまで逃げて行ったのが、アイヌ民族。南の果てまで逃げて行ったのが、琉球民族。
お互いあんなに離れていて、気候も全く違うのに、どちらも顔が濃く、文化も似ているところが多いのは、もともとが一緒だから。
では、そこまで逃げ切れなかった人達は何処へ?
答えは、当時の農耕技術では、開拓不可能な山岳地帯。
当時の山岳地帯で、山を走り、岩を登り、狩猟漁労の文化を守り続けた人達が、身につけたのは、尋常ではない身体能力。
その能力を、田んぼの文化の人達の歴史が進むにつれ、戦争の道具として利用する権力者が出てきた。
それによって、完成して行ったのが、忍びの技なのだ。
その血を受け継ぐ、私、妃羽理が、ニューハーフという枠を超えて、かたくなに忍者スタイルにこだわる理由は、そのようにして、日本の歴史の中で、絶えず虐げられられてきた民族文化のの集大成である忍術を絶やしてはいけない!
そんな思いからであることは、お分かりいただけますでしょうか?


妃羽理 4/13 19:23

日本での漢字の使用は、5世紀頃といわれているが、江田船山古墳出土の太刀や、稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれている漢字は、弥生期のものである可能性があるとされていることからも、漢民族が弥生民族である可能性は充分にありますが、残念ながら私にもそこまでは断定できません

もうひとつの考え方としては、漢民族によって楽浪郡を設置されてしまった朝鮮民族が、安住の地を求めて日本に渡って来たのが、弥生民族なのではないか?というものもある。
その根拠は、日本語の文法が、韓国語の文法と同じで、中国語と異なるということ。
でも、そうなると、漢民族からせっかく逃れてきたのに、わざわざ漢の文字を使うだろうか?という疑問も出てくる。
残念ながら、私も伝えられていることは、農耕民族が渡って来たということだけなので、民族の正体の断定までは、できないのです。

ここでアップ
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月03日 22時42分16秒 ) パスワード

忍者食

今日は、忍者が実際に食べていた「兵糧丸」を紹介しま〜す

材料は、梅干し、アワビ、鯉の生き血、大麦、甘草、高麗人参、生姜、ナツメ、トウキ、杜仲などの薬草、きな粉。

本来は、一粒で半日は空腹感を感じないのだが、現代社会では食材を揃えるのが難しいものばかりなので、私は栄養素の分析からの代用品で作っている。
例えば、アワビは高価過ぎるので、タウリンと動物性たんぱく質の摂取の観点から、カキやホタテの貝柱などで代用する。

鯉の生き血は、鯉自体なかなかスーパーには並んでないし、生きていることが条件なので、手に入れにくい。

鉄分摂取の観点から、私はプルーンとほうれん草を使っている。

ところが、鯉の生き血には、もう1つ重要な役割がある。
鯉の生き血に含まれるグルテンが、大麦粉を団子状にするのに必要なのだ。
大麦粉を団子状にするには、小麦粉と混ぜることが必要なので、私は手間を省くために、元々、大麦が入ったパンを買って来て、養命酒に浸して丸める。
何故、養命酒かというと、甘草や高麗人参等の手に入れにくい薬草のほとんどが含まれているからである。

どうでしょう?皆さん。
全く食欲をそそられないでしょ?
そうなんです!
忍者食は、皆さん興味を持ってくれるものの、決して美味しいものではないんです

ん〜。なんていうか〜。甘酸っぱいのに、生臭い感じで、私が発表したところで、全く流行らないこと間違いなし

ということで、私は口直しのデザートに、豆腐に、粒あんとバナナのスライスをトッピングしたものを食べている。
まあ、これも周りからは引かれるけど、美味しいと言ってくれる人も中にはいるんじゃないかな?
ともかく、こんな感じの食事をしていると、せめて休日ぐらいは、美味いラーメンでも食べたいなぁ
となる訳ですよ
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月03日 22時45分08秒 ) パスワード


師匠


妃羽理 公式ブログ/師匠 画像1

私の忍術の師匠、黒井宏光先生が、シルクドゥソレイユの日本公演キャストのパーティーで忍術を披露するということで、伊賀から東京へわざわざいらっしゃたので、私もお手伝いに行きました。
私個人も、2009年のポールダンス世界大会において、シルクドゥソレイユのスカウトさんや関係者の方々に、鎌ヌンチャク等のショーを披露したことがあるのですが、今回は、日本で働くシルクドゥソレイユのキャストとその家族に、リアル忍術を披露するというのがコンセプトで、黒井先生のところにお話が来たものなので、私がショーに出演してしまうと、お客様の関心が、私のキャラそのものにそれてしまうという、師匠の判断で、私はあくまでも、今回は裏方として参加させていただきました。
ちなみに、写真左から2番目が、私の師匠、黒井先生です。
一番左が、兄弟子の八丁堀さん、左から3番目が、先生の奥さんの伊賀さん、4番目が、先生の愛娘、ナナエちゃん、一番右は、私の忍者サーカスチーム、『座・COME偉(ザ・カムイ)』のメンバーでもあり、今回のサポートアクターでもある林蔵さんです。
ショー自体は本当に大盛況で、皆さん、九字護身法と、手裏剣の実演には、えらく食い付いてました。
やはり、私自身のショーも、日本より、海外の方が受けるのも、こういった神秘的な部分が興味をそそられるようでしたから。
今回の師匠のショーで、ますます海外に拠点を置く願望が強くなった私なのでした。


P.S. 以前、紹介したFXCMジャパンさんの10周年記念の面白動画がアップされました。

YouTubeで「妃羽理」で検索すれば、すぐ見ることができます。ちょっと恥ずかしいんですが、バカバカしくて笑えると思うので、是非見てみてください



http://www.youtube.com/watch?v=-08ZMPrIRfw

すごいカラダです。
やっぱりオトコだったのね。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月03日 22時52分29秒 ) パスワード

こんな感じでボチボチ挙げていきますね。


思っていらっしゃることをドンドンお書きになってください。

テーマを与えられる方が検索し易いです。
自分でグダグダ考えているとドンドン逸れて行きますから。



分からないことはカレイにスルーしますので。
でもアタマの片隅にあればどこかでヒットしてお応えできるかも。


ということで再びリセットして頑張りましょうね。
とにかくご無事でお帰りを。


どんな野外研修になったかお知らせください。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 01時39分31秒 ) パスワード

麻績神社を検索してたら  仁科神明宮にたどりつき
   なんと長田の名称が出て来ました。


仁科神明宮


本殿(国宝)

所在地
長野県大町市大字社宮本1159

位置
北緯36度26分59.8秒
東経137度52分44.5秒

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%A7%91%E7%A5%9E%E6%98%8E%E5%AE%AE


神宮雑例集によると後冷泉天皇の永承3年(1048年)に始めて信濃に御厨が建立された記事が見える。

                               
                              ココね 
                               ↓
新宮雑書信濃御厨の記事(建久3年(1192年))にも、麻績、藤長、長田の御厨とともに仁科御厨の名を連ねており、
しかも仁科御厨に限り、
「件御厨往古建立地」と注記してあるので、信濃で一番古いことがうかがえる。


信濃国内の御厨は全て伊勢神宮領であった。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 01時43分26秒 ) パスワード

http://azumino-fan.net/gyokyo-17/omi.htm    服部清信 について


風来亭 フォト日誌


麻績村 麻績城跡
麻績城跡の老松


境目の小豪族の歴史は悲哀に満ちている。

北信と中信とが接するこの地域は古くから大勢力による争奪戦が繰り広げられ、
戦国期は谷間を隔てて麻績城の服部氏と青柳城の青柳氏がこの地域を支配していた。

武田信玄の北信進出の際には武田方についた青柳氏に対し、
服部氏は村上義清とともに行動して敗れ、
上杉謙信を頼って越後に去っている。

麻績城には青柳氏が入り麻績氏を名乗った。


その後、武田氏が滅ぶと上杉景勝の後ろ盾で服部氏が麻績城に復帰する。



麻績城主郭

しかし小笠原長慶が中信に復帰して進出してくると小笠原方に寝返ったために上杉勢によって攻め滅ぼされる。

一方、小笠原方についた青柳氏は上杉方との内通を疑われて松本城に呼ばれて謀殺されてしまう。


久々の陽光に誘われて北アルプスの眺望を得ようと登った山城。


本郭跡からは木々に遮られて展望は得られなかったが、谷間越しに青柳城跡を眺めながら 小城の主の悲哀を思った。




麻績城跡は城山(標高940m)と呼ばれる山頂一帯に戦国時代初期に築かれたと推定される規模の大きな山城で、
周辺の要地に数箇の支城を持つ。

服部清信は居館を建てた西側虚空蔵山城の守備を補強するために麻績城が築かれた。


山頂は主郭までは細い尾根道が続き防衛上有利である。


尾根道の間に3本の堀がにあり、 最西端の主郭とその東の二郭の間の堀は中でも幅が広く深くて山腹まで下がっている。 主郭の西側―虚空蔵山城の間に何段かの帯郭が設けられ、主要な防衛線であったろう。 東に連なる「のろし山」は上杉・武田軍も使用したと推定される。



麻績城では天文22年(1553)から天正17年(1589)にかけて上杉、武田、小笠原の豪族の間で争奪戦が数度行われた。


麻績村教育委員会
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 02時16分02秒 ) パスワード

服部清信は  寛政重修諸家譜  巻20 の288ページにあるようですが
ネットでは見つかりません。


http://tomioka.at.webry.info/201206/article_13.html

    服部清信の息子は  清正?



高城の変革

<< 作成日時 : 2012/06/16 17:30 >>



高城の変革

『長野県史跡名勝天然記念物調査報告』に麻績城を中心とした守りで

「西の固めには日向村高部落に高城を置いて、これを支城とし大岡・牧野方面に備えていた。・・・」

麻績城の東方の備えである安坂城(あざか)に対して(後日紹介します。)、
高城は西の備えの重要な拠点である。と書かれている。


 天文22年(1553)4月に武田氏が筑北地方に侵入すると、麻績城主服部清正は村上氏を頼り塩田城から越後に走る。


その後は武田氏に降伏した青柳城の青柳小四郎が所領する。


 一時上杉方に占領されていた麻績城を武田方で取り返し、筑北地方は改姓した麻績(青柳氏)勘解由左衛門清長が所領している。


天正10年3月に武田氏滅亡後は筑北地方は上杉景勝の支配下に入り
麻績城は旧服部氏麻績左兵衛清正が復帰する。
          ↑
        服部清正



これ以降は小笠原貞慶が勢力を伸ばしてきて、麻績城の変革で記述しているとおりです。


 こうした中で高城の城主として伝えられている高野氏の出自は、わずかに諏訪氏との関係を持っているだけで、はっきりしたことは分からない。

高野氏の土着はかなり早い時期で南北朝の末頃には高城を築城していたと見られる。


服部清信が入部してから、その家臣として高城主高野備後の名があるが武田氏侵攻で服部氏が越後に走った時には高野備後も同行し、


後に服部清正が麻績城復帰の際、備後の子高野三郎左衛門も高城に復帰した。



武田氏にとっては麻績城は川中島への前進基地であり牧の島方面の備えであり、やがては府中と川中島との中継基地となる。

天正期の上杉、小笠原の争奪戦で見れば上杉氏にとっては安曇へ進出する橋頭堡であり、高城は牧の島や眠り峠を越えて安曇への玄関口となる。

従って備えは西や南に意を注いだはずである。


これに対し小笠原氏にとっては猿が馬場峠を経て川中島へ進出する足場であり同峠から進出してくる上杉勢を食い止めたい地点である。

従ってその備えは、青柳城と連携して北や西への備えたことになる。 

『山城探訪』より 長野県立図書館所蔵 



そうすると麻績城は  上杉vs武田 の川中島の戦いの時に重要な場所だったのですね。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 02時21分36秒 ) パスワード

お遊びですが  服部清信ってどんな人?こういう人だったのね。


http://coreblog.org/naming/boys/p_6e054fe1.html?ln=670d90e8

名前を占う
結果が悪くてかわいそう。今すぐ名前を変えるべき


服 部
19 (8+11)画

清 信
20 画

= 36点
総合評価



先祖から受け継いだ運
最大凶 19画

戦争で活躍してきた家系。
武将が祖先にいるようです。
平和な時は、教育者、指導者として活躍してきました。


他人はどう見る?
吉 17画

自分に好都合な人を選ぶのがうまい。
人を見る目が厳しい。
グループを作る人、というように見られています。


性格
最大凶 20画

男女とも、子供運が弱い。
責任感が強い。
頑張り屋ですが,スロースターターです。


自分も知らない内面
凶 22画

プライドが高い。
きれい好き。
見栄っぱり。
まじめな努力家です。
失敗や貧乏を恥と考えています。


まとめると
大吉 39画                  ←  ステキ!

さわやか。
多趣味。
義理人情に厚く、人の面倒見が良いタイプ。
短気、せっかちで泣き虫な面も。
喜怒哀楽をよく人前で表わす。


今日の
運勢

十分に考えずにことを急ぎすぎるために争いことが起きます。勢いにのると収... 詳しく見る
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月04日 02時30分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 早速お調べいただき、ありがとうございます。
麻績(おみ)流忍術については、伊賀の服部氏がルーツなのかなあとは思われ
ますが、麻績氏については、麻を作り荒妙(あらたえ)を織る氏族は忌部氏が
ルーツかと思われます。

『遠江織物史稿』の中に次のように述べられています。
「この麻績氏は長白羽命の末で、皇大神宮伊勢に鎮座以来、麻績機殿に仕え、
神衣(おんぞ)祭御料の荒妙の製織に奉仕した家系である。
 神衣祭の祝詞には、―天照坐皇大神の大前に申さく、服部、麻績の人達の
常も仕え奉る。和妙(にぎたえ)、荒妙の織(はた)の御衣(おんぞ)を奉る事を
申し給はくと申す―とある。
 『古語拾遺』淨御原朝(天武)の条に―凡て大幣(おおぬさ)を造るにも、亦
神代の職に依りて、斎部(いんべ)の官、共作へまつる諸氏を率いて、例に准
いて造り備えまつるべきなり。然れば、神祇官の神部には、中臣、斎部、猿
女、鏡作、玉作、盾作、神服(かむはとり)、倭文(しず)、麻績等の氏有るべ
きなり―と。
 右によって、神服、倭文、麻績の部族が神祇官に属し、大神宮に奉仕した
事が分る。これらの部族は朝廷に仕えたものもあり、民間にあって夫々の業
に従事したものもあって、これが現在に至るまで服部、麻績の姓を称してお
る。
 『遠江国浜名郡輪租帳』の中、新井郷に、神麻績部、麻績部のある事は、
注目に値する。姓の上に神の字があるものは、神宮奉仕の部族で、三ヶ日の
神服部氏も姓の上からは神宮奉仕の関係者とみるべきである。」

 どこに属する麻績氏か知らないが、長野県に麻績氏が存在したという事に
なる。絹と麻は、即ち服部氏と麻績氏は、朝廷や伊勢神宮においてセットで
必要なものであったということになる。そしてセットで移動した・・・?


 
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 02時30分25秒 ) パスワード

http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Nagano/OmiMura/article.html

麻績村の記事


2007.10.06 •秋めぐり 「風林火山」(NHK大河ドラマ)ゆかりの地へ
•麻績城址

•麻績は由布姫の母の里としてにわかに脚光を浴びた。   驚き。ひょっとすると由布姫の母方の実家は服部氏?
                            そうするとこの麻績の服部さんは
                            諏訪大社の一員?

                            南朝がらみなら十分有り得ますが



◦麻績城から諏訪因幡守(いなばのかみ)頼重の側室となった菊の前御前。


◦2人の間に生まれた娘が後の諏訪御料人(本名は不詳)で、「風林火山」は由布姫として登場する。


•村の伝承によれば、葛尾城(坂城町)城主の村上義清の配下だった服部清信が1508年(永正5)、麻績の地を拝領。


◦没後、子の清長が築いた山城が麻績城。


麻績城は子の服部清長が築いた城でしたか。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 02時43分15秒 ) パスワード

http://www.ameba.jp/

ひばりさんのブログ  2014年9月22日   かなりはしょりました。


今日は、1日かけて先祖参りをしたニコニコ

午前中に長野駅に程近いホテルを出発して、麻績村へ

11:00頃着いて、
我が伊賀麻績服部流忍術の祖・服部伊賀守麻績城主 服部清信公
麻績神明宮 神主 服部加信濟公のお墓掃除とお参りを1時間半かけて終えて


その後、服部清信公の弟、服部加信濟が神主を務めて依頼、我が宮下一族が守ってきた麻績神明宮をお参りして

14:00ちょっと前に叔父の家に着き、それから17:00まで3時間かけて、我が宮下家のご先祖様のお墓掃除とお参りをした

それにしても、麻績という土地は、
山に囲まれた
なんて美しい田園地帯なんだ

観光地化された伊賀よりも、
忍の者の息づかいが聞こえてきそうだ!!
流石、隠れ里グッド!

なんて、風情を味わいながら、
今年もやるべきことを全てやって、清々しい気分になったニコニコ

うちのご先祖様のお墓は、叔父の家の裏山のふもとにあるので、叔父の家から50mもないが、
叔父は足が悪いので、私の作業の様子も見に来られないし、老人なので、携帯も持っていない。


私は麻績服部流忍術の継承者としての使命感を持って来ているし、自分では善行だと思っていた。

現に、掃除に3時間もかかるほど、墓場は汚れていたし、
いとこ達も、そんなに丁寧には掃除していないことがうかがえた ガーン


村なので、私しか歩いていない駅への道。

前から、下校中の中学生たちが、
見ず知らずの私に、すれ違いざまに、
誰もが
「こんにちはパーニコニコ」
と言ってくる

東京では、道で中学生に挨拶されることなどないので、びっくりしたが、なんか、その汚れない態度に、ポジティブになったニコニコ

私も、オカマだとばれないように、高い声で
「こんにちは」
と返してる自分の姿に、我ながら笑った(σ≧▽≦)σ


筑北中学の中学生だとか(^w^)
知らない人にも、とりあえず挨拶♪

いい教育方針だニコニコ
と関心してると


                **高遠でも小学生の皆さんに挨拶されましたっけ
                  さすが教育県の長野
[16]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月04日 02時47分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交錯しました。いろいろお調べになっていただき、明るみに出て来た
感じがします。小笠原系服部氏とはこの氏族の事をいうのでしょうか?
子孫はどうなっているのでしょうね。
 ひょっとすると三つ柏紋を使っているかも・・・わかりませんが。

 スレッドのテーマにカッコ書きで(麻績服部氏)と間違って入ってしまいまし
た。もう直せませんと思いますので、このままにします・・・。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 02時52分33秒 ) パスワード

http://beccan.blog56.fc2.com/blog-entry-1745.html

画像がたくさんあります。
神紋は  太陽? 伊勢神宮のアマテラス由来?


長野県麻績村の麻績神明宮



=== リーフレットより ===
麻績神明宮の由緒と歴史

麻績御厨と神明宮
麻績神明宮は、伊勢神宮の荘園である麻績御厨の守護神として
内宮より勧請分社され、祭神は天照大神である。



社の創設は、御厨の設定とほぼ同じころと考えられ、
伝承では白鳳期としているが、文献上正確な記録は残されていないものの、
信濃国所在で創立の明確な御厨や各種の伊勢神宮関係資料と
麻績神明宮に残る宝物の製作年代から推定して、
平安時代後期10世紀から11世紀の間であろう。



国府所在地松本から善光寺平地方一帯に、
帯状に分布している御厨の中で、その中心的な位置に立地する点や、
麻績郷八ヶ条(坂井、麻績−旧日向を含む三村)を範囲とされていたから、
面積の上からも極めて広く、全国有数で
重要な御厨であった。
それ故、内宮からも重要視されていたものと思われる。


平安時代末期から鎌倉、室町前期にかけて、内宮への貢物は
鮭・鮭の子・かちぐり・ほしなつめなどで、鮭の類は
全国的に漁獲量の多い所で、懸仏・鰐口なども多く寄進され、
信仰の深かった盛んな様子が窺える。

しかし、応仁の乱以後地方の自立傾向が目立つと、
次第に伊勢との結び付きが衰退し、
神宮領としての役割は15世紀後半〜16世紀前半に終わりを告げた。





戦国時代から江戸時代の神明宮


戦国時代には麻績地方の豪族服部清信、青柳頼長等の庇護・寄進を受けて、社勢は再び隆盛に向かった。

江戸時代に入ると、松本藩主水野氏の本殿造営の援助もあり、
8233u(八反三畝四歩)の境内地に仮殿・神楽殿・拝殿・籠屋・舞台が
次々に造営され、数百年の老杉が聳え、荘厳な社叢の雰囲気の中に
今日見ることができる立派なたたずまいを保っている。
その他氏子の寄進による一・二の鳥居、下馬橋等も備わった。

以降略
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 03時01分48秒 ) パスワード

http://shinano33.com/hudasyo/index.html


すごく清々しいというか気品があるというか上品なお寺です。

信濃33観音札所めぐり
第一番札所

仏眼山 法善寺



法善寺概観


ご本尊名
聖観世音菩薩

ご本尊愛称


宗派
曹洞宗

所在地
〒399-7701 東筑摩郡麻績村上町8147

駐車場
門前にあり

TEL
0263-67-2061

URL


ご詠歌
逆縁も 洩らさで救う 西谷の 巡礼塔を おがむ尊さ


開山・開基
(西谷寺)定恵(和銅年間)   ← 鎌足の息子とされる人?
                   出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」だった人?
                   弟に藤原不比等などいる人?


10世紀初頭に奈良興福寺系の寺院として創建されたと伝えられ、当時は法相宗岩龍山西谷寺と称していた。

15世紀に廃寺となったが、明応元年(1492)に賢甫宗俊禅師を迎えて曹洞宗佛眼山法善寺となり、

その後麻績城主服部清信が再興し、家庭円満の守り仏として檀徒、村民の篤い帰依を受け今に至っている。

江戸時代には徳川三代家光から十三代家定まで年八石を賜る御朱印寺として将軍家の保護を受けた。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 06時09分00秒 ) パスワード

>関市での永井隼人と山内一豊(かつとよ)の関係


ごちゃごちゃした話ですが
http://www.rd.mmtr.or.jp/~asashi/newpage807.htm
ここに興味深い話が出ています。


    結論
    永井隼人の再婚相手の女性の連れ子の下の姫が後に山内一豊の妻になった
    というお話です。


    この人々をめぐる脇役に竹中半兵衛の名も出て来ます


以下コピペ

昨年、当誌に「見性院の出自」に関する一文を掲載させていただいた。
しかし紙数の関係で重要な項目である、その母の史実を省かざるを得なかったのであったが、
今年度に入りしばらくして高知山内家が伝来の家宝を高知市に寄贈されることになり、
その中の最高位にあった「国宝・古今和歌集巻二十(高野切)」は高知県が購入とのニュースが流れた。


 この「国宝・高野切」については、一昨年逝去された十八代山内豊秋様が郡上へおいで下さった節にも話題になったことがあり、郡上東家のかかわりが考えられることから、再度「見性院とその母」のことを記させていただきたいと思う。


 @ 郡上東家(ぐじょう・とうけ)のこと
    
   
鎌倉時代房総の雄・千葉常胤の第六子胤頼は、東庄を領し東氏となる。
2代目の重胤は源実朝の愛臣であり、共に藤原定家の弟子であった。
3代目胤行は承久の乱後、この郡上の地「山田庄」を加領された。

彼の妻は藤原定家の孫娘(為家の子)であったと伝えている。

胤行は年をとってから郡上へ来たが、現在の美並町苅安、戸谷川のほとりに戸谷坊をつくって住む。
彼が重病になったときに鎌倉将軍から和歌と手紙が送られ、胤行も返歌と手紙を出して別れをしている。

この和歌の家「東氏」は室町時代郡上を統治するが、その一族には中国に渡り、帰国後京都五山の住持をつとめた人も多く、また十一代の東常縁は宗祇に古今伝授を行ったことで有名である。

この和歌の名家十三代目が東常慶という人である。(※この人の娘が友順尼)


この東常慶の代、天文9年(1540)越前衆(朝倉)の侵入を受け、山田庄の牧の篠脇城や城下が焼かれてしまい、八幡の赤谷山へ城を移した。(この山をのち東殿山と呼ぶ)
 

 A 東家と遠藤家 
       ↑ 
     山内一豊の妻になったお千代の実の父が遠藤盛数


東家と、ここに登場する遠藤家は本家と分家の間柄であるが、
東家13代東常慶はこの遠藤盛数を特に見込んで自分の娘と結婚させた。

東常慶は盛数に東を名乗ることを望んだが盛数が潔しとせず遠藤を通したと伝えられている。

東家が東殿山に移ってから18年後の永禄2年(1559)東常慶の一子が盛数の兄を殺すという大事件により、
両者が戦い、和歌の名門東家に代わり遠藤盛数が八幡山に城を築いた。

しかし3年後の1562年に盛数が病死。         ← ここからが重要なのかな?

長男慶隆は13歳、弟2人に女子2人が残された。



B 盛数未亡人の再婚                  ← 本題かな?
 

家来たちは郡上を守るため奥方に有力な武将への再婚を願い出た。

相手は関城主の永井隼人(※岐阜城主の斎藤龍興の叔父)。    ← 永井氏登場


このとき奥方は自分が誇り高い東家の娘であるとの自負から、再婚を強く拒まれたと伝えられている。

しかし隼人も奥方を病気で失っており、再婚を望まれ遂に実現したのであった。


この再婚が「人質」であったとの説を言う人もあるが、東氏の研究者であった郡上大和町の故野田直治氏は何回も「奥方の気性から人質説は妥当ではない」と話しておられた。


前回も記したように、この再婚にあたり、東家以来の奥方の付人「埴生(はぶ)太郎左衛門高照」も同道しているが、
この埴生家というのは、東氏が千葉から郡上入りしたとき、
東家の氏神の妙見菩薩を奉戴してきた家柄である。

もう1軒同職の埴生家があるが、こちらは現在も大和町栗巣におられる。



この再婚のとき、盛数との間の2人の姫は母と共に行かれるが、
下の姫はまだ3歳ぐらいであった。               ←  この人がのちに山内家へ嫁となる

東家・遠藤家系図が郡上の寺や、ゆかりの家々に残っているが、この姫の下に「山内対馬守様室」と殆どの系図に記されている。

中には上の娘のところに書かれているのも少し存在するが、このことは前の文(前号)で記した通りである。


          重要になってきました!(永井と山内がつながる寸前ですね)
             ↓
永井隼人の屋敷は、井の口(岐阜市)にあり、母と2人の姫はそこに住んだ。
                        ↓
                 遠藤盛数の妹姫が後の山内一豊の妻に


 C 安東家・山内家・不破家・竹中家・遠藤家・東家


           竹中半兵衛も出てきましたよ!


永禄7年(1564)近江に近い岩手城の竹中半兵衛が斎藤龍興に反目して稲葉城(のち岐阜城)を乗っ取るという事件が起きた。

       もとす・きたかたの安藤の娘?
              ↓
竹中半兵衛の妻は本巣北方の安東伊賀守守就の娘なので、安東一族は半兵衛に呼応して、
山の下で鬨(とき)の声を出し大軍に見せかけたとの記録が残っている。


この安東家へは以前東常縁の兄・氏世が婿入りしており、東家・遠藤家にとって大切な親戚である。


郡上大和町牧の東氏居館跡から「進上あんとう」という木簡が発掘されている。

この事件の折、母と2人の娘の所へ長兄の遠藤慶隆が遊びに来ていたが、
岐阜城下が騒がしくなったので、安東家の勢力下にある山県郡深瀬村へ揃って避難したという記録が残っている。

         安藤は山内一豊の義兄だった?
             ↓
また安東家へは山内一豊の姉・通姫が嫁入りしているし、
安東伊賀守の娘(※竹中半兵衛妻の妹)を遠藤慶隆が妻にしている。

さらに不破家ともそれぞれ縁を持っており、近江に近い不破家へは親戚の出入りが実に多かった記録がある。


          やっと関が出て来ました
               ↓
D 関城(安桜城・あさくらじょう)の落城と近江への逃避行
      
永禄8年(1565)9月、
信長が関の安桜城(あざくらじょう)攻め落としたので永井隼人は浅井長政を頼って近江へ行き、
永禄9年浅井の城へ入った。
             ↑
           永井と信長は敵同士!  


2人の娘とその母は不破家に入った模様である。
この年、2人の姫の兄・遠藤慶隆に安東家から嫁しておられた奥方が、御産の後、亡くなられた。

このとき生まれた姫は後に飛騨の金森可重に嫁し、長男は金森宗和という。
宗和流お茶の指南として山内家へ入った人である。



 E 姉川の合戦・小牧長久手戦や佐々成政攻めの陣立て表 

元亀元年(1570)、信長の浅井・朝倉攻めが開始され、
山内一豊(伊右衛門)や遠藤慶隆(左馬助)をはじめその親戚関係者が同一陣中に組み込まれた陣立て表が残されている。

特に最近佐々成政攻めの秀吉の朱印状の現物も公表され、親戚で固めた当時の戦いの様子がよくわかる。

         永井氏御討ち死に
            ↓
天正元年(1573)永井隼人が討ち死に、

         山内一豊の結婚(千代さんと=見性院)
            ↓
さらにはこの頃、山内一豊の結婚が行われていることも類推できる。
もちろん相手は遠藤盛数の末の娘(見性院)である。
              
           


 F 石山合戦と教如と母友順尼 

一番下の姫を嫁がせた母は、付人の埴生太郎左衛門と共に故郷郡上の東家の菩提寺戸谷坊へ入られた。

この頃、1570年から10年間続いた石山合戦が天皇の言葉により和解、父顕如はすぐ受け入れられたが、長男教如は自分に相談なく事が運ばれた裏に、継母の画策のあったことを知り、絶対従わなかった。

信長の厳しい「教如を討て」の命を逃れ、遂に郡上の戸谷坊へ立寄られるに至り、姫の母と埴生に会われたのであった。戸谷坊=現乗性寺の過去帳に照用院釈尼友順なる項目があり、この間の事柄が記されている。また浄土真宗本願寺の鷺森旧事記にも教如の郡上落ちと隠棲は詳しく記述され郡上明宝西気良に隠棲地とその世話をした八代八右衛門の墓も残されている。

遠藤盛数未亡人は、子どもを守るため永井隼人への再婚、関安桜落城による流浪と、2人の姫と苦労をされたが、ようやく姫たちを結婚させ、祖先の菩提寺へ入ることができた。

たまたま出会われた教如上人から「照用院釈友順」と法名を戴き、長い間の付人埴生太郎左衛門高照も「西教坊照山」と法名を得、天正10年(1582)に再録されているが、この事を明記し良心的である。このため天正10年が永禄10年と誤記された場所もあるが全体に正確である。



 G おわりに 

友順尼は見性院を結婚させるまで共に行動しているが、その間、東家の和歌の道を指導したことが見性院の詠んだ和歌から感じられると研究者が発表しておられる。

また冒頭に申し述べた「古今和歌集」や山内家が徳川将軍綱吉のとき幕府に献上した東常縁直筆の古今和歌集(前回記述)などは、東家の東常慶の姫である友順尼と見性院のルートしか考えられず、他から山内家へ入ったという記録も見当たらないと、十八代御当主の故山内豊秋さまは何回もお話になっておられた。

10年前、郡上八幡が第3回目の「一豊様と千代様サミット」を実施したとき、「国宝の高野切を貸して上げる」と言われた豊秋様の東家に対する思い入れの強さに驚き、国宝の重さに恐れをなして御辞退申し上げた事も、今は懐かしい思い出となってしまった。
                              
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 06時15分15秒 ) パスワード

この永井隼人と家康のブレインの永井直勝はどういう関係でしょうね。


復習:
永井直勝


時代
戦国時代 - 江戸時代前期

生誕
永禄6年(1563年)

死没
寛永2年1月27日(1625年3月5日)

別名
伝八郎(通称)

戒名
大雄院殿永井月丹大居士

墓所
茨城県古河市西町の永井寺

官位
従五位下、右近大夫

幕府
室町幕府→江戸幕府

主君
松平信康→徳川家康→秀忠→家光


上野小幡藩主→常陸笠間藩主→下総古河藩主

氏族
長田氏→永井氏

父母
父:長田重元、母:鈴木氏


正室:阿部正勝の娘


尚政、直清、直貞、直重、娘(柴田康長正室)、娘(土屋利直正室)、娘(淳美友之室)

永井 直勝(ながい なおかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本、大名。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主。永井家宗家初代。美青年であったと言われている。



生涯[編集]

永禄6年(1563年)、長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)に生まれる[1]。はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正7年(1579年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正8年(1580年)、家康に召し出されて再び家臣となる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された。

文禄3年(1594年)、池田恒興の次男池田輝政が家康の次女の督姫を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。このとき、輝政が直勝の知行を聞くと5,000石であった。輝政は父を討ち取った功績の価値が5,000石しかないのかと嘆息したという。

文禄5年(1596年)2月7日、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている[2]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に近江国に2,000石を加増され、7,000石を領する。

大坂の陣にも参戦して戦功を上げ、元和2年に(1616年)上野小幡藩1万7,000石に加増。翌元和3年(1617年)には常陸笠間藩3万2,000石を与えられ、後に2万石を加増される。元和8年(1622年)、笠間を浅野長重に譲って、代わりに下総古河において7万2,000石を与えられた。

寛永2年(1625年)、63歳で死去した。跡を長男の尚政が継いだ。

子孫[編集]

子孫に作家の永井荷風や三島由紀夫などがいる。すなわち、直勝と大河内秀綱次女の由利姫との間に生まれた正直が荷風の12代前の祖先であり、直勝と阿部正勝の娘との間に生まれた尚政が三島の11代前の祖先にあたる[3]。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 06時19分27秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=J8txvZKWtiMC&pg=RA5-PR5&lpg=RA5-PR5&dq=%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%9A%BC%E4%BA%BA%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=rMzWmr2eZC&sig=3Kcj2Qk8PEtFfNWtUlfOb4eg5DY&hl=en&sa=X&ei=mRIvVIOdKs-oogSuloCADA&ved=0CFcQ6AEwBw#v=onepage&q=%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%9A%BC%E4%BA%BA%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

永井隼人が出てます。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 06時28分08秒 ) パスワード

永井隼人佐が斎藤龍興と争った時のお話ですね。



つまりこの永井氏は前レスにあるように
>>>永井隼人の屋敷は、井の口(岐阜市)にあり、母と2人の姫はそこに住んだ。

ということなので  斎藤道三  龍興に仕えてた  永井氏ですね。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 06時53分00秒 ) パスワード

復習:

関城主  永井隼人=この人は斎藤龍興の叔父でもあります

(見性院の母と再婚・信長は敵) 


以下は別のサイトよりコピペ:

 プリントに、この頃に、隼人が討ち死にとこう書いてあります。この隼人討ち死にということはどういう意味があるかということをちょっとお話します。これもですね、お話をしたことがあるので思い出していただけるかも分かりませんし、もう忘れてしまわれたかもしれませんが。永禄5年(1562年)に盛数が病気でなくなります。その亡くなりましたときに慶隆はわずか13才でした。下の見性院様は3才位で小さいお子さんばかりです。そこで家来達が13才の慶隆を守るために、関の安桜(あさくら)城主でありますところの永井隼人がちょうどその頃お嫁さんを病気で失っておりましたので盛数の奥方に、すなわち盛数の奥方は東常慶の娘でしたね。その方に慶隆を守るために永井隼人へお嫁入りをしてください、再婚してくださいと頼んだ。ところが東家のお姫様で誇り高い女性ですからものすごく怒られたんですけれどもみんなで頼んで永井隼人のお嫁さんにいってもらっていたんですね。その永井隼人です。すなわちこの永井家と遠藤家とは奥様でつながっているわけです。この永井隼人は一代信長に抵抗をした人で、永禄8年(1565年)以降、信長の美濃残党狩りを逃れるため、近江の浅井長政の所に身を寄せていましたが、天正元年(1573年)8月頃死去します。戦国のならいで山内や遠藤は信長方についております。




関の歴史
http://takayukik.exblog.jp/4950794/

関の歴史@『安桜山城(関城)』


「山内一豊の妻千代は、幼少の頃、安桜山城で暮らしていた」
らしい。

関の歴史@『安桜山城(関城)』


1565年。織田信長と稲葉山城の斉藤氏の戦い。信長軍は、尾張小牧城を拠点として、犬山城を降し、木曽川を渡って、猿ばみ城(坂祝町勝山)を攻め落し、東濃から中濃へと、稲葉山城を狙って進捗していた。

防戦する斉藤側は、安桜山城に長井隼人他、加治田城(富加)、堂洞掛上城(富加)に武将を配し、守りを固めた。


信長勢は、加治田城の城主佐藤紀伊守の裏切りもあり、紀伊守も含めた約2千騎で堂洞掛上城を降したあと、長井の軍と肥田瀬川原で激しい合戦を繰り広げた。長井軍は大きな痛手を負った。

勢いに乗った信長勢は、安桜山城を攻め、城は落城した。

信長が兵を戻そうとすると、長井隼人は、残兵をかき集め、信長を襲った。稲葉山城の斉藤軍からも兵3千余の応援が駆けつけ、激戦の末、信長軍も多くの死傷者を出し、小牧城へ撤退したのであった。

稲葉山城が落城する3年前、関が原の戦いに35年前のことである。

それ以後、安桜山城に城は作られていない。

(参考文献:中濃広域観光推進協議会『美濃路ポケット読本Vo.3』)

------------
また、もう一つのエピソードとして、安桜山城に千代が暮らしていたという説がある。

千代の出生の地については諸説あるが、功名が辻では、近江の国の若宮家の娘として物語がはじまった。

郡上では、昔から千代は初代八幡城主・遠藤盛数公の姫であるという郡上説が信じられており、それが近年になり相次いで、それを裏付ける数多くの古文書や系図などの史料が浮上してきたという。

郡上説では、幼少の千代は、数奇な運命をたどっている。


千代が3歳頃に、父遠藤盛数が亡くなり、それをきっかけに、母友は遠藤家安泰のためしぶしぶ、八幡城をにらむ関市安桜山城主永井隼人に、娘を連れて再婚した。

しかし、程なく信長勢に攻められ安桜山城は落城。

母子は信長の手を逃れ近江へいき、そこで、兄嫁(長兄遠藤慶隆の妻)の実家である北方城主安東家の養女となったという。



*************************

全然違いますが

明智光秀の娘の再婚相手は関の刀鍛冶の倅だった人です。
    この娘は「官兵衛」の中にも出て来ました。
        荒木村重の息子の村次の妻でした。
    村重・村次の謀反で光秀が引き取った娘です。


では美濃の永井氏を調べてきますね。


[24]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 07時11分47秒 ) パスワード

まず  長井氏には3つの流れ  がある。

長井氏

長井氏(ながいし)は日本の氏族。著名なものとして、以下の3氏族がある。

・大江姓長井氏
・藤原北家利仁流斎藤氏族長井氏
・桓武平氏良文流三浦氏族長井氏


ということで美濃の長井氏について:

藤原北家利仁流斎藤氏族長井氏:藤原利仁流なら加藤さんと同系ですね


長井氏
(長井斎藤氏)


本姓
藤原北家利仁流斎藤氏族

家祖

武蔵斎藤氏系
長井正美


美濃斎藤氏系
長井利隆?


出身地
越前国

主な根拠地
武蔵国(武蔵斎藤氏系)
美濃国(美濃斎藤氏系)



長井氏は、藤原北家利仁流斎藤氏一族である日本の氏族。少なくとも二系統があるという。

1.武蔵斎藤氏と呼ばれる斎藤実盛の系統。本拠とした武蔵国幡羅郡長井荘(埼玉県熊谷市)[2]から長井氏を称する。

2.美濃守護代の斎藤利永の子利隆から始まる。これは美濃斎藤氏と呼ばれる。


利永流長井氏は主家斎藤家の没落に乗じて、
配下の長井新左衛門尉(斎藤道三の父)と美濃の権力を握る。

しかしその後1530 〜 1533年のわずかな期間に、
長井氏(長井利安・長井長弘・長井利隆)らの謎の急死が相次ぎ、
新左衛門尉も亡くなり、
長井家は新左衛門尉の子が継ぐ事になり、その子は「長井規秀」を名乗った。


その後規秀は、「斎藤利政」(のちに道三)へと名前を変え、守護代斎藤家を継いだ。


長井氏(美濃斎藤氏系)のその後[編集]

長井道利は、斎藤義龍に「道三の子の暗殺」を提言、
道三の息子二人は義龍の暗殺により死亡している。

斎藤氏滅亡後は足利氏に仕え戦うが1571年摂津で戦死。

長井道勝は、長良川の合戦では斎藤義龍側につき道三と戦った。
道三を生け捕りにしようとしたが、横槍が入り果たせなかったという。
のちに姓を井上に改め豊臣秀吉に仕えた。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 07時44分17秒 ) パスワード

美濃の長井氏=永井氏は  家康の家来の三河永井氏と混同してはいけないと思います。


三河の永井氏:

桓武平氏良兼流の致頼を祖とする長田氏の系統で、平安時代末期に主君源義朝を弑した長田忠致の兄である親致が永井氏の祖である。右近太夫直勝の代に、主君徳川家康の命により、主君を弑した忠致に繋がるとして、大江姓永井氏に改姓された。

直勝は譜代大名となり、次代の尚政が老中に就任する他、尚政の子弟が分家を興すなど隆盛の気運にも恵まれた。

ところが1680年、直勝の曾孫・信濃守尚長が志摩鳥羽藩主の内藤忠勝に刺殺され、永井宗家は一旦改易となる。だが、尚長の弟・直圓が御家再興を許され、大和新庄藩主として復帰した。以後の永井氏は明治維新まで存続した。

また、幕末期に将軍・徳川慶喜に付き従い活躍し、明治政府の元で開拓使御用係、左院小議官、元老院権大書記官などを務めた永井玄蕃頭尚志は旗本家の出身。永井荷風らを輩出した愛知県の豪農・永井家は安土桃山時代の頃に別れた分家にあたる。



この名門永井氏はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E6%B0%8F

三河の永井直勝の父・長田重元の先祖はなんと大橋家に繋がってます

               いず良親王の間違いと思
                 ↓
後醍醐天皇 → 宗良親王 → 興良親王 → 良王君 → 大橋信重 → 定広 →  長田から婿養子?広正 → 長田重元



その上に  小鳩くるみ にまで繋がってます。笑
三ツ柏さんは男の子だからご存知ないでしょうけど、お姉さま方はご存知と思いますよ。

      小鳩くるみは松島トモ子(ライオンにアタマ齧られた人)とライバル関係でした。笑

      ライバル同士が永井と松島姓で繋がるなんてね。日本ですねえ。驚


******************

http://books.google.com/books?id=9_D6dNY4AlMC&pg=PA158&lpg=PA158&dq=%E7%BE%8E%E6%BF%83%E3%80%80%E6%B0%B8%E4%BA%95%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=6kmuAUp3eI&sig=MbnitXnKxn66yEL47HYj5z52f14&hl=en&sa=X&ei=kSAvVKnwLIPYoAT-lYFI&ved=0CG0Q6AEwCQ#v=onepage&q=%E7%BE%8E%E6%BF%83%E3%80%80%E6%B0%B8%E4%BA%95%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

「家紋でたどるあなたの家系」

158 ページに美濃永井家の家紋が出てるそうですが
ダウンロード出来ないです。

**********************
別のサイトでは

長井氏 長井氏
(大江長井氏)
長井氏
(長井斎藤氏)

の家紋は一文字に三つ星になっています。  

https://tools.wmflabs.org/templatetiger/tt-table4.php?lang=jawiki&template=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B0%8F%E6%97%8F&where=&is=&order=%E5%AE%B6%E7%B4%8B&&offset=60&limit=30

一文字に三つ星
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 07時50分40秒 ) パスワード

小鳩くるみ:アニメの「アタック・ナンバー・ワン」で鮎原こずえの声をやってました。 
            バレーボールのアニメです


鷲津  名都江
わしづ  なつえ

出生
1948年1月20日(66歳)

出身地
愛知県一宮市     これは知らなかった〜

学歴
青山学院大学文学部卒業

ジャンル
童謡

担当楽器


活動期間
1952年10月〜1988年11月
2004年12月〜

鷲津 名都江(わしづ なつえ、1948年1月20日 - )

日本のイギリス文学者・児童文学研究者で、目白大学外国語学部及び目白大学大学院言語文化学科教授。

童謡歌手・声優として小鳩 くるみ(こばと くるみ)、タレントとしてわしづなつえの名義でも活動していた。

作家・永井荷風の大叔父である鷲津蓉裳の曾孫に当たる[1]。



血液型 は AB型。愛知県一宮市出身。青山学院大学文学部卒業、同大学院教育学研究科修了。ロンドン大学大学院修士課程修了、M.A.

3歳の時、NHK名古屋放送局主催の歌唱コンテスト「声くらべ腕くらべ子供音楽会」に出場。40人程度の参加者の中から唯一の合格者となる。1952年10月に、日劇の「秋の踊り」で小鳩くるみとして日劇最年少デビューを果たす。同年12月から『ちえのわクラブ』(TBSラジオ)に童謡歌手として、またこの番組がテレビ開局に合せてTBSテレビに移行すると同時に司会者となり、1968年3月に終了するまで16年間レギュラー出演。1953年5月に、ビクターの専属となり、音楽活動をストップしている現在も専属継続中で、数年前に専属50周年を迎えた。

小学生時代の1955年から1961年まで雑誌「なかよし」のカバーガールを担当したこともある。その後もNHKのうたのおねえさんとして『ドレミファ船長さん』『なかよしリズム』『おかあさんといっしょ』(NHK教育)に10年間出演。本名を平仮名にした「わしづなつえ」名義で、ワイドショー番組『アフタヌーンショー』(テレビ朝日)の司会を務めたこともある。

またアニメ『アタックNo.1』(フジテレビ)のヒロイン・鮎原こずえ、
ディズニー映画『白雪姫』の主役・白雪姫の声などを担当していた。

1976年から1986年まで『お達者ですか』『お達者くらぶ』(NHK教育)(日本初の高齢者向け番組)の司会者として通算10年間出演。1985年4月、目白学園短期大学(現・目白大学短期大学部)非常勤講師(英文科)に就任。『お達者くらぶ』が11年目の番組改編により、4歳でデビュー以来初めてレギュラー番組が切れるのを機にイギリス留学を決意。1986年に、目白学園短期大学(現・目白大学短期大学部)助教授(英文科)に就任してイギリス古来の童謡・マザーグースの研究を進め、1986年9月 - 1990年にはイギリスに研究留学を行った。

帰国後は芸能活動を再開することはなく、教育・研究活動に専念。2004年12月 - 2005年1月放送『NHK人間講座』(NHK教育)で、毎週月曜日にマザーグースの研究成果を紹介する講義『ようこそ!マザーグースの世界へ』を担当、久しぶりのテレビへの復帰となった。

[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 08時05分58秒 ) パスワード

http://www.rd.mmtr.or.jp/~asashi/newpage1126.htm


重複しますが永井隼人のお話


永井隼人、信長から逃れる          

 その次に永禄8年9月、信長が関の安桜城へ襲い掛かりました。信長は、何でも信長の反対をする永井隼人は邪魔ですのでこれを攻めた。このとき隼人は、井ノ口の周辺の加治田という所へ出兵しておりました。そしてこの戦争の後、信長の誠に執拗な美濃の残党狩りというのが始まりました。

そこで隼人は、もうそこにおることが出来なくて浅井や朝倉を頼るしかないので江州を頼って逃げていきました。そして永禄9年(1566年)、浅井長政のもとへ入ります。おそらく、その永井隼人と再婚したお母様と見性院は一緒に近江へ落ちているようなのです。

信長の残党狩りというのはとても恐ろしく岐阜の周りにうろうろしておれない。だから浅井を頼りまして江州へ落ち延びていったのです。



これも近江の「おまつさま」とこんがらがる一つの原因にもなるわけです。


その次に、先ほど言いました永禄8年(1565年)、本巣北方の安東伊賀守の娘を慶隆がお嫁様にもらいました。これは翌年、女の子を生まれましたんですが、すぐ死んで終われました。

それで残りましたお姫様を慶隆は育てられてこの娘さんが大きくなって飛騨の金森可重(ありしげ)の所へお嫁入りに行かれました。そしてそこで子供さんが生まれます。最初に生まれました子供さんが金森宗和という方でお茶の指南に入られるんです。これは後のことを一緒に話しているので皆さん頭がゴチャゴチャになるかもしれませんが。この金森宗和のお母さん(遠藤慶隆の娘)は、後に京都の室町に住まわれたので「室町殿」と呼ばれています。


その次ですね、永禄9年(1566年)8月9日、おまつ御料人の父親が戦死しまして、先ほど見ました浅井長政からの安堵状が届く。この安堵状には永禄9年閏(うるう)8月13日とはっきりと書かれてあり、浅井長政が直ちにこの安堵状を出していることがわかります。

浅井長政は家来を大事にするよい人のようですね。

永禄9年以降、隼人は主として近江におります。それは信長の美濃の残党狩りが厳しかったので母子ともに、この見性院たちも一緒に居ったのではないかと丸山先生もおっしゃっております。論文の中にもそのように書かれております。そうでないと危なくておる所がないわけです。信長という方は皆さんも知っていらっしゃるように中々冷酷な面がございましたので、許さないというと、どんなことでもやられる、お坊様を何千人と殺すというような、比叡山焼き討ちもしたことですから怖いんですね。
 
 その次、プリントの11番目ですが、永禄12年(1569年)に飛騨の三木(みつき)自綱(よりつな)が郡上を攻めたことがあります。この時、慶隆は和睦を致しまして、前の奥様(安東家の娘)が永禄9年に亡くなっていますので、三木の娘さんをお嫁さんにされる。これは前の講座でお話したことがあります。

その次に12番、元亀元年(1570年)、信長が朝倉攻めを行いました。一豊や慶隆は一緒に秀吉の下に入りまして姉川の戦いに出ております。そしてこの姉川の戦いの時も遠藤は安養寺とともに信長と武田へいろいろ両面外交をやっておるわけです。

その次、元亀3年(1572年)本願寺の教如が、朝倉義景の娘さんをお嫁さんにしております。一方、元亀元年(1570年)から天正9年(1580年)までの10年間は石山本願寺を守るための石山合戦の最中で、教如はもちろん反信長勢力ですね。


天正元年(1573年)、永井隼人が討ち死にします。


永井隼人一族の18代子孫の永井源六郎氏(武芸川町)は、数年前「戦国武将、永井隼人とその系譜」を発刊され系図とともに見性院の郡上説を発表しておられます。

浅井長政の城も落城、浅井長政も死にます。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 08時16分24秒 ) パスワード

永井隼人佐は永井道利というお名前だったのね。へ〜



http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/gifu/gujyosi/kishitsurugi/kishitsurugi.html


岸剣(きしつるぎ)神社

郡上市八幡町柳町438(平成20年11月22日)

 郡上市でもこの辺りは紅葉の真っ盛り、神社の入口や境内は杜の緑の中にモミジの真っ赤な色が冴え、まさに「♪〜濃いも薄いも照る山紅葉〜♪」の有様で、今年初めて本格的な紅葉狩りが出来ました。入口石段上には変わった形の鳥居が建ち、境内下は郡上八幡城(別名・積翠城)二の郭跡となっています。

ここには幕末に非業の最期を遂げたり、悲哀の内に故郷を捨てざるを得なかった陵霜隊士を偲んだ碑が建っています。

                             幕末に佐幕派だった郡上藩の武士のことです


 境内入口への石段を上がると右手には境内社が三社祀られ、参道を左に折れると境内入口には台輪鳥居が建ち、正面に向拝のない拝殿と、後方の覆い屋内に本殿が建立されています。

 本殿後方の北参道入口にも社号標が建ち、ここからは濃飛八景と謳われた城山公園となり、山頂には郡上八幡城が建っています。


                      ここから

 郡上八幡城は戦国時代末期、永禄2年(1559)遠藤盛数が東殿山の戦いで東氏を滅ぼし郡上を統一し、八幡山に城を築板のが始まりです。八幡山は、南を吉田川、西を小駄良川が流れており、これが自然の堀の役目を果たす要害の地でした。このときふもとに城下町をつくったのが、城下町郡上八幡の始まりです。

盛数は、郡上統一後わずか3年で没し、その子慶隆がわずか13歳であとを継ぎ、八幡城の危機を救うため慶隆の母を関城主(関市)永井道利(斎藤竜興の叔父)のもとへ再縁させました。

良妻賢母の誉れ高い「山内一豊の妻」は、遠藤盛数の娘で、再婚した母と共に苦労を重ね、やがて縁ありて、織田信長に仕官して間もない山内一豊のもとに嫁いだと郡上八幡では言い伝えられています。


その後秀吉の天下となりますが、慶隆は織田信孝についたため秀吉の不興を買い、領地2万石を没収され、

わずか1万3千石の城主として加茂軍白川村に転封され、
信長の名将稲葉一鉄の嫡男・稲葉貞通が八幡城主に着任し八幡城の全面改修を行いました。


左遷された遠藤貞通は関が原の戦いの時点では、東軍(家康方)に属し、
稲葉貞通は西軍に属した稲葉貞通の八幡城を攻め、和睦した貞通は、大分県の臼杵5万石に転封され、
慶隆は郡上に復帰し、2万7千石を拝領しました。

寛文年間、藩主・遠藤常友は、古今伝授の故事を伝える宗祇水を整備し、白雲水と名を改め、
また、承応の大火の後、防火用水を拡充し、城下町を整備したといわれています。

 主神:素戔嗚尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊、天照皇大神、菊理姫尊、猿田彦尊、 合祀:(白山神社)菊理姫尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊、(八幡神社)応神天皇、武内大臣
 祭礼日:例大祭・4月第3土・日曜日
 境内社:養蚕神・天神七代・金毘羅社、積翠神社、英稲荷神社


 由緒:養老元年(717)に元正天皇の勅命を受けた泰澄大師が気良の里に御宝剣を神体として鳥居の宮を建立したのが始まりとされています。

 後に、治承2年(1178)に気良の里の住民が旱魃に際して降雨を祈願して岩の上に剣を祀ったところ大雨となり、剣は流出し肴町に漂着し、肴町の岩山に宮を建て不動の宮として祀られました。


 慶長19年(1614)に、八幡城主・遠藤慶隆公が宮ヶ瀬橋近くに不動の宮を遷座し城下の氏神とし、後水尾天皇から岸剣宮の称号と十六菊花紋を許されました。

 明治19年現在の社殿の南側に移転遷宮しましたが、昭和17年又現在の境内へ復座されました。昭和53年、金幣社に昇格しています。

 4月第3土・日曜日に執り行われる春祭は岸剱神社・日吉神社・八幡神社三社の大神楽競演が見ものだそうで、郡上八幡に春の訪れを告げる大事な祭礼です。朝早くから神楽の音が山間の町に響き、両日は街のどこかで神楽が打たれているそうですが、もともとは日吉神社と岸剣神社とで行われていた祭礼を、小野八幡神社も秋祭りを春祭りに変更して三社が一緒に執り行う事となったのだそうです。日吉神社は雄獅子、岸剣神社は女獅子がでて,、日曜日の夜の打ち上げで神社へ戻る獅子の名残惜しげな様、町内の氏子が提灯を持って迎える様は実に情緒ある風景だそうですし、その他八幡神社の豪快な奴踊りなど、見どころ満載のようです。

 県・重要無形民俗文化財の岸剣神社大神楽は、八幡城主遠藤友常が京都より勧請し、寛文7年(1667)に初めて祭礼を行ったと伝えられています。
 又、7月中旬から郡上踊りが開催されますが、7月28日には岸劔神社川祭が行われます。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 08時40分59秒 ) パスワード

http://www.kemaake.com/c_toukai/c_iwamura.html

岩村城が出てます。


岩村城
いわむらじょう



別名 霞ヶ城

形態 山城
築城年 承久3年(1221)以降
築城者 加藤景朝

主な城主 遠山氏、河尻氏、森氏、大給松平氏

所在地旧国名 美濃
所在地 岐阜県恵那市岩村町字城山
アクセス 明知鉄道、岩村駅
↓徒歩(約20分)
岩村町歴史資料館

概要
-----------歴史------------

鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景康が文治元年(1185)に遠山荘の地頭に任じられた。

景康の子、景朝は岩村に移り性を遠山に改めた。

岩村城はこのころの築城であると考えられ、築城当初は山麓に位置した居館的なものであった。以後400年近くにわたり遠山氏が居城とした。

戦国時代末期になると織田氏・徳川氏・武田氏の抗争が激しくなり、それに伴い本格的な山城が構築されていったと考えられる。

武田氏による二度の攻撃を受けたが、力攻めではついに落城しなかった。

開城後遠山氏は武田方となる。

長篠の戦いで武田氏が弱体化すると織田信長が長男信忠を総大将として岩村城を攻撃し、
五ヶ月にわたる戦闘の後、岩村城は陥落した。


織田方の城となると河尻秀隆が城主となり、城の改造を行い現在の城郭の原型を造った。

その後森氏が城主となり、城代の各務元正が18年を費やし近世城郭を築き上げた。

現在残る石垣の多くはこのころのものである。


江戸時代には大給松平氏、丹羽氏、再び大給松平氏が城主となり明治維新を迎える。


---------構造・特徴--------

城内最高所の本丸は標高717メートルに位置する。これは江戸時代の諸藩の居城の中で最も高い。 そのため備中松山城、 高取城とならんで日本三大山城の一つに数えられている。

遺構 普請:石垣、空堀、曲輪
作事:現存せず
天守:なし

登城日 2014/2/10


感想など アクセスについては最寄り駅である明知鉄道の岩村駅から城の入り口にある岩村町歴史資料館までは徒歩20分ほどです。

城までの道筋は古い街並みを活かした整備がされており情緒たっぷりで退屈しません。

ただ明知鉄道の本数は一時間に一本しかないため注意が必要です。

ですが、帰りの電車まで時間が余ってしまった!なんてことになっても、 ゆっくりと街並みを見ていればあっという間に時間がすぎることでしょう。

日本三大山城の一つに数えられる岩村城ですが、他の二つの城に比べると登城はだいぶ楽です。 それもそのはず、確かに本丸の標高は717メートルあるのですが麓の各ポイントの標高と直線距離は以下となっており…

岩村駅 標高約500メートル
↓ 直線距離 約1200メートル
岩村町歴史資料館 標高約560メートル
↓ 直線距離 約600メートル
岩村城本丸 標高約717メートル

あくまで目安ですが、岩村駅から岩村町歴史資料館までは1メートルあたり平均5センチメートルの勾配、岩村町歴史資料館から岩村城本丸までは1メートルあたり平均26センチの勾配となります。

山城としてはゆるやかな勾配で、山城の急峻な趣はあまりありません。それぞれの曲輪もなかなか広く、山城というよりは平山城といった雰囲気を感じました。 城内の各所に残る石垣は野面積みが多く、隅部の算木積みも未発達で安土桃山時代後期の様子を伝えています。 今回は積雪の影響で詳しく見ることが出来ませんでしたが、調べたところ打込ハギの石垣もどこかにあるとか…この辺りは同じ時代でも好みによって積み分けていたのかもしれません。 標高717メートルの本丸からの眺めは絶景かと思いきや、あまり良くありません。周りが木々に囲まれているためで、遠くを見渡せるのは北東方面のみです。 残念ながら情緒ある城下町を見下ろすことはほとんどできません。

いろいろと書いてきましたが、山の中に忽然と現れる石垣群は実に見事で、日本三大山城の名に恥じない立派な城です。 山城でありながら登山も比較的楽でおすすめできる城です。 今回は積雪に阻まれ隅々まで見ることができませんでしたが、いずれ折を見て再び登城したいです。


登城記 各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。

1. 岩村の街並み

岩村の街並みその一

岩村の街並みそのニ

岩村駅から数分歩くと岩村の古い街並みが現れます。ここから岩村町歴史資料館までこのような情緒ある町並みが続きます。 最近電柱の地中化が完了したそうで、より一層昔の趣を感じられます。勾配は比較的緩やかで、ゆったりと街並みを楽しむことができます。 写真奥が岩村城方面になります。
途中、町の方に「お城に行くなら雪に気をつけて」と温かい声をかけていただきました。先日苗木城に行ったことを話すと、苗木よりこっちのほうが雪深いとのこと。


2. 岩村町歴史資料館周辺

太鼓櫓と表御門その一 撮影対象1

太鼓櫓と表御門そのニ

太鼓櫓と表御門その三

太鼓櫓

岩村町歴史資料館は昭和47年(1972)に城山の山麓、江戸時代の藩主邸跡に開館しました。二階建の資料館で、岩村城や岩村藩に関する資料を展示しています。 登城した月曜日は残念ながら休館日、見学することはできませんした。
平成2年(1990)には藩主邸の表向きに建てられていた、太鼓櫓、表御門、脇櫓、平重門などが復元されました。この辺りから城下町まではほど近く、太鼓の音もよく聞こえたのではないでしょうか。


3. 藤坂と初門

藤坂

初門

岩村城の大手登城道のうち、麓の藩主邸から一之門まで続く急な坂道は「藤坂」と呼ばれています。 加藤景康の妻が生まれ育った紀州から持参した種から育ったフジの大木があったことが由来とされています。
「初門」は比較的直線状に伸びる藤坂で唯一クランク状に折れ曲がった部分で、有事の際はここに臨時の門を設けて通行を遮断するようになっていました。 城山への最初の関門となります。



4. 一之門

一之門その一

一之門そのニ

一之門は大手一之門とも呼ばれ、古絵図によると石垣と石垣の間に建つ楼門だったようです。 城に向かって左側に多門櫓、右側に張り出した石垣上に土塀を設け、門前の守備を固めていました。


5. 土岐門

土岐門その一

土岐門そのニ

土岐門は一之門に続く第二の門で、登城道はこの門の内側で大きく折れ曲がり、小さな曲輪を形成しています。 古絵図によると薬医門または四脚門だったようです。土岐氏を破ってその城門を奪い移築したことからこの名前がついたとされています。 この門は恵那市内の徳祥寺に移築され現存しています。


6. 畳橋・追手門と三重櫓

畳橋跡

追手門の石垣その一

追手門の石垣そのニ

追手門周辺古絵図(現地案内板)

畳橋は追手門へ渡るための橋で、南からの登城道と東向きに開かれた追手門をL字形につないでいました。 この形も特徴敵ですが、有事の際には床板を畳のようにめくることができ、このことから畳橋と呼ばれていました。 畳橋を渡ると棟門、枡形、渡櫓門で構成される追手門がありました。渡櫓門の脇には畳橋を正面も見下ろすように三重櫓が構えられており、天守のない岩村城の実質的な天守とされていました。 一枚目写真奥の石垣の上に三重櫓が建っていたようです。城下町の馬場と本通りはこの櫓を正面に見えるように設計されていました。 いくつもの石垣が折り重なる様子は岩村城の見どころのひとつです。
現在。この辺りの石垣は改変がされており、整備されている通路とかつての登城道は一致していないようです。 また、畳橋の架かっていた空堀が埋まってしまったためか、畳橋の端の位置もよくわからない状態です。


7. 八幡曲輪周辺

八幡曲輪周辺の石垣その一

八幡曲輪周辺の石垣その二

竜神の井

霧ヶ井

追手門を過ぎると視界が開け、直線上の緩やかな坂道となります。両脇には広々としたいくつかの曲輪が広がっています。 このあたりの造りを見ると平山城に居るような錯覚をしてしまいます。
竜神の井は岩村城で最大規模の井戸で、昭和60年(1985)に築城800年記念として復元されました。岐阜県の名水五十選に認定されており、今も水を湛えています。 ただし生水は飲用しないようにとのこと。
霧ヶ井は岩村城の別名「霧ヶ城」の由来となった井戸です。敵が攻めてきたとき、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に投じると、たちまちに霧が城を覆い隠し城を守ったといわれています。 蛇骨は二の丸の宝蔵に収蔵されており、虫干しをした記録が残されています。こちらも岐阜県の名水五十選に認定されています。


8. 六段壁

六段壁その一

六段壁その二 撮影対象2

六段壁その三

六段壁周辺古絵図(現地案内板)

本丸の北東面に雛壇状に築かれた六段の石垣は六段壁と呼ばれ、岩村城のシンボルとなっています。 古絵図では石垣は最上部の一段のみ描かれており、崩落を防ぐために順次補強の石垣を積んでいった結果、現在の姿になったようです。 これらの石垣は犬走りとしても活用でき、防御面も強化されています。石垣の修築等にも利用されたことでしょう。



9. 長局埋門

長局埋門その一 撮影対象3

千石井戸その二

長局埋門は本丸に至る表門にあたり、渡櫓門となっていました。門を潜ると帯曲輪状の長局となっており、ここからさらに一段上がったところが本丸となります。



10. 本丸

本丸 撮影対象4

本丸東口門

城内最高所の本丸は北と東に門が開かれ、東口門が表門にあたります。南東隅には昇竜の井戸があります。 現在では周囲を木々に囲まれ視界はよくありませんが、北東方面の視界は開けており長野方面の山々を望む事ができます。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 08時47分31秒 ) パスワード

苗木遠山氏

苗木遠山氏(なえぎとおやまし)は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派。

鎌倉幕府の有力御家人であった加藤景廉の子孫の遠山昌利が、広恵寺城(現在の岐阜県中津川市福岡町の植苗木)から(1532年)に美濃国恵那郡高森(現在の岐阜県中津川市苗木町)に館を移し、恵那郡の木曽川以北と加茂郡の東部を支配したのが始まりであるが、昌利の子である遠山景徳に世継ぎが居なかったため、遠山氏の本家岩村遠山氏から、遠山直廉を養子として迎えた。

遠山直廉は苗木城を築き活躍するが、死後は飯羽間遠山氏から遠山友勝を養子に迎え、その孫の遠山友政が初代苗木藩主となり、子孫は大名として存続し、明治になって子爵となる。



歴史[編集]
元弘(1331〜1334年)遠山景長が、高森山(現在の中津川市苗木町)に砦を築く。
元弘(1331〜1334年)〜建武(1334〜1336)の頃、遠山景利が恵那郡福岡村植苗木に広恵寺城を築く。

1526年 遠山昌利が植苗木から高森山に館を移す。
1532年 遠山直廉が高森に苗木城を築く。
1560年 遠山直廉 桶狭間の戦いに出陣する。

1565年 遠山直廉の娘(織田信長の養女)が武田勝頼(武田信玄二男)に嫁ぐ。 
1569年 遠山直廉 広恵寺に禁制を下す。
元亀(1570〜1573年)の頃、遠山直廉が武田氏からの指示により飛騨国益田郡竹原へ侵攻し三木氏と戦い大威徳寺を焼くが、矢傷が元で後に死去する。 遠山直廉の死去により飯羽間遠山氏の遠山友勝が苗木遠山氏を相続する。

1582年 可児郡の兼山城主であった森長可に苗木を攻められる。

1583年 兼山城主の森長可 再び苗木地方を攻め苗木城が落城。遠山友忠・遠山友政父子は徳川家康を頼り浜松に走る。
1599年 森氏 信濃川中島に移封される。川尻直次が苗木城主となり、城代・関治兵衛 城を守る。

1600年 遠山友政は徳川家康の命を受け苗木城を攻略奪回し、徳川家康から苗木領を安堵され、後に苗木藩が成立する。
1869年 (明治2年)苗木藩主の遠山友詳(友禄)が版籍奉還により藩知事となる。

1871年 (明治4年)廃藩置県により苗木藩は廃藩となり、苗木県となる。
1884年 (明治17年)7月7日華族授爵ノ詔勅により、遠山友詳(友禄)は子爵となる。


中世[編集]
戦国時代始めには、甲斐・信濃を領する武田氏に属していたが、岩村城城主であった遠山景任が病死すると織田氏に仕えた。これにより武田とは関係が悪化した。

近世・近代[編集]
苗木藩の藩祖は、遠山友政である。友政は父の遠山友忠とともに織田信長に従っていたが、信長死後の東美濃騒動、さらに徳川家康に与したために所領を失い、苗木は河尻秀長の所領となった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで河尻秀長は西軍に与したため、戦後に所領を没収され、代わって東軍に与して武功を挙げた友政に10,500石が与えられてここに、苗木藩が立藩したのである。

友政は、大坂冬の陣では桑名城の守備、大坂夏の陣では松平忠明に属して武功を挙げ、元和5年(1619年)12月19日、苗木で死去した。豊臣秀吉の家臣の森氏に苗木城を奪われた遠山友政は、関ヶ原の戦いに際し西軍方の苗木城主の川尻直次と岩村城主の田丸具忠を攻め開城させた。

これにより東濃地方は徳川方の勢力下に入った。友政のこの働きが認められ、徳川家康から恵那郡と加茂郡の46村、10,521石余りを安堵された。その後、2代秀友、3代友貞は土地開発に力を尽くし、家臣団の編成も進め、苗木領の基礎が確立した。

苗木藩成立当時の苗木領の石高は10,521石だったが、享保17年(1732年)に、この内の500石を幕府に返上することになり、下野村などが天領になった。

藩政においては小藩ゆえの悲しさから、幕府の相次ぐ手伝い普請や軍役などにより財政窮乏が早くから始まる。このため、新田開発を行なって4286石の新田を開発したが、第5代藩主・遠山友由の大坂加番による出費などもあって財政の改善には至らなかった。歴代藩主は藩政維持のため、厳しい倹約令を出し、天保年間には給米全額の借り上げを行なうなどした。

最後の藩主・遠山友禄は文久元年(1861年)に若年寄となり、さらに大坂警備も任されたが、そのため出費がさらに重なって財政は火の車となる。友禄は五種類の藩札発行による改革を図ったが、元治元年(1865年)に2度目の若年寄就任、慶応元年(1865年)に第2次長州征伐にも参加したことによる軍費から、遂に財政は破綻した。


明治維新後、14万両あった藩の借金は、苗木城破却に伴う建材や武具などの売却、藩士全員を強制的に帰農、家禄を返還させ、帰農法に基づいて政府から支給される扶持米を3年間返上させること、藩知事遠山友禄の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、明治4年には5万2600両までに縮小した。

維新直後においては、平田派国学の影響を受けた藩政改革が図られ、苗木藩領内で徹底した廃仏毀釈を実行し、苗木遠山氏は菩提寺である雲林寺も取り壊した。明治4年(1871年)の廃藩置県と版籍奉還によって苗木藩主遠山友詳(ともあき)のち、遠山友禄は子爵となった。

苗木藩の領地[編集]
恵那郡--6,318石4斗餘


家紋[編集]
主紋:丸に二引き

一族[編集]
岩村、明知、苗木、飯羽間、串原、明照、安木の7家で七遠山という(「遠山譜」)。安木(阿木)の代わりに大井が入る場合や、明照に代わって馬籠を入れる説もある(松田之利「遠山氏」『国史大辞典』)

岩村遠山氏 - 惣領家。岩村城主。戦国時代に遠山景任の死で断絶し、天正3年に岩村城が落城して滅亡。

飯羽間遠山氏 - 飯羽間(飯場)城主。苗木遠山氏の名跡を継承。友信のとき苗木から分かれるが、武田の攻撃で落城・降伏。武田滅亡後に友信が信長に処刑され滅亡した。

明知遠山氏 - 明知城主。景朝の子・景重が祖[2]。江戸時代は旗本として存続。末裔に遠山景元がいる。

明照遠山氏 - 明照(阿寺、阿照、阿照羅)城主。飯羽間遠山友忠が長子・友信に飯羽間城を譲ったのち城主となる。のち友忠の次子・友重が継ぐが天正2年武田の攻撃で落城。

串原遠山氏 - 串原城主。上村合戦時は遠山右馬助とその子・五郎経景がいた。武田氏による串原落城後、旗本明知遠山氏に仕えたという。

安木遠山氏 - 安木(阿木)城主。遠山景員の次男・景賢が祖だという[3]。

福岡遠山氏 - 美濃国恵那郡福岡町に拠った一族。景朝の子・景村が祖。広恵寺城を守り遠山昌利が後醍醐天皇の皇子・宗良親王に仕えていた。

武蔵遠山氏 -遠山直景(明知遠山氏10代目とする景保の子、景成の弟)を祖とする武蔵国に在住した遠山氏。後北条氏家臣で江戸城代。直景が北条早雲に仕え武蔵へ移ったのにはじまる

館林遠山氏 - 苗木遠山氏の弥右衛門景利を祖とする。榊原康政に仕えて500石を得る。

武蔵遠山氏 : *相模遠山氏 : 武蔵遠山氏の分家。相模国足柄上郡川西村新庄城の城主遠山康光(直景の子または綱景の子)の系統。

相模遠山氏 - 武蔵遠山氏の遠山直景の次子・康光の一族。江戸時代に旗本となった。

信州遠山氏 : 信州伊那郡江儀庄に拠った遠山氏。「江儀遠山氏」とも呼ばれた。美濃遠山氏と同族というが詳細は不詳。「伊那旧事記」では明知遠山氏の一族とする。

[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 08時50分51秒 ) パスワード

復習


加藤光泰(かとう・みつやす) 1537〜1593

豊臣家臣。加藤景康(景泰)の子。通称は作内。名を景教・光康とも。従五位下・遠江守。

美濃国多芸郡の土豪で、はじめ斎藤氏に属していたが、織田信長によって斎藤氏が滅ぼされると浪人となる。ほどなく羽柴秀吉に召抱えられた。

はじめはわずか30石ばかりの知行だったが、功を重ねて立身した。

元亀3年(1572)、浅井長政に近江国横山城を攻められたおりに城外で左膝を負傷し、竹中重治らに助けられて窮地を脱するも、以来足が不自由になった。


天正2年(1574)、近江国内で1千5百石を与えられる。播磨国三木城攻めの功で5千石を加増され、天正9年(1581)の因幡国鳥取城攻めにも従軍した。


天正10年(1582)の山崎の合戦後に、明智光秀の領していた丹波国亀山城主と1万7千石を与えられ、のちに近江国貝津城主、高島城主2万石を務め、天正13年(1585)には美濃国大垣城主として4万石を与えられた。


だが秀吉の蔵入地で不正を働いたため、知行を召し上げられた。のち、一時は羽柴秀長に属したが、天正15年(1587)に許されて近江国佐和山城と2万石を与えられ、従五位下・遠江守に叙任。


天正18年(1590)の小田原征伐には駿府城に在番し、それらの功で24万石の甲斐国府中(甲府)城主となった。


天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役においては渡海、漢城に籠城するが病にかかり、帰国途次の西生浦で病死した。文禄2年(1593)8月29日、57歳。法号は剛園宗勝曹渓院。一説には石田三成に毒殺されたともいう。


竹中重治と親交が深く、光泰の娘は重治の嫡子・重門の妻となった。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月04日 09時18分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 またスゴイ情報ありがとうございます。とりあえず熟読いたします。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 15時40分03秒 ) パスワード

三ツ柏さんの疑問は以下の2点でしたね:

A>長野県筑摩郡の麻績(おみ)村の服部氏
B>関市での永井氏と山内一豊(かつとよ)の関係

A
長野の麻績服部氏は藤原氏の出身で伊賀の服部氏の先祖になる。
レス 4 に書いてあります。

B
関の永井氏は藤原利仁流なので藤原姓。本姓藤原氏で俗姓永井。
この人の再婚相手の連れ子が後に山内一豊の妻になった女性。


なので三河の家康の家来の永井氏とは出自を異にする。
   三河の永井氏は元は本姓平氏で俗姓長田氏。家康との関係から永田・永井へと改名。




レス9

>信濃国内の御厨は全て伊勢神宮領であった

    


レス16

>小笠原系服部氏とはこの氏族の事をいうのでしょうか?

   まだ分かりません。調査中です。

   麻績服部氏の出自自体は  藤原姓  とヒバリさんがお書きなので藤原姓でしょうか?

           本姓藤原  俗姓服部
           そこに赴任地だった伊賀も絡みますよねえ。

   小笠原系というより信濃系服部氏でしょうね。
   でも小笠原氏から派生した服部氏も存在しているかも



整理すると       桓武平氏出身  vs  藤原氏 
            伊賀服部    vs  信濃服部
            クレハ(絹)  vs  麻績(麻)
            平姓      vs  藤姓
            呉服服部    vs  麻績服部
            子孫      vs  祖先 
            分家      vs  本家
            有名      vs  没落

まだ他にあるでしょうか?




またスレッドに(麻績服部氏)と入れたのはわたくしでございます。
失礼を致しました。

   古いスレッドの中の情報を読み直すのにアチコチウロウロするのに
   どのスレッドに今書き込んでいるのか分かり易くしようと(麻績服部氏)と
   サブタイトルにつけたのです。

   三ツ柏さんが今週末は遠出のようでしたので、お帰りになるまでに消せばいいや
   と思っていたのです。

   その後、夫の歯医者通いについて行ってました


スレッド番号の他に(  )で主に何を書いていたかを記しておくと
   あの情報はどこにあったっけ?
と探す時に便利かなと思ったのです。

   そういうわけでした。
   失礼をば致しました。

   タイトルはいくらでも変更が可能です。
   (  )の中に  XXXを入れて欲しいとおっしゃってくだされば入れますよ〜



三河の永井氏の先祖が途中で尾張南朝方のリーダーの大橋氏と親戚になっているのには驚きました。
                         ↑

                      伊賀服部の兄の家


やっぱり家康との関係も南朝方というククリがあるんだと思います。


日本人はやっぱりみんなどこかで親戚なんですよ。
権力者とお近づきになるのに
  お宅さまのご先祖さまの▲▲さまとXXでご一緒した◎◎の子孫です  
という名乗りは重宝したんでしょうね。

かなり「使えた」手だったんでしょうね。


嘘だったらスグにバレるし。


当時の日本では嘘はスグにバレたんじゃないかなと思います。
顔とか表情とか体格とか
なにか「分かる」ものがあったんじゃないかと思います。


わたくしでも初めて会った人に会った瞬間に何か親しげなものを感じる人ってありますもの。
全然接点が無いと無関心でしょうし。

   なんかイヤな人だなと思うと、その人の名字が S だったりします。
   父方・母方  共に敵だった  S  です。

   そのS氏の下の名前を聞いて  ああ、あのSの子孫か  と改めてやっぱり分かりますし。


これ以上はヤバイから書けない。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月04日 17時28分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は一日会議、会議後にレスを熟読しました。読み応えあり。重要な点
は帳面にメモしております。忘却は一瞬で起きますので、必ずメモする習慣
をつけるようにしております。
 あを様のようにスイスイとは行きませんので、読み砕いて理解するまでに
時間がかかります。学生の頃は歴史の話は催眠効果がありよく眠ってしまい
ましたので、今思うと青春の貴重な時間をムダにしたなともったいなく思い
ます。
 興味を持って勉強すればスイスイとまでもいかなくても、何とか頭に残り、
また触発が触発を生み、相乗効果となってビビットな記憶となって行きます。
 往年の記憶力はございませんが、おかげさまで脳細胞もアルファー波が出る
ようになりました。脳が喜んでいます。

 脳といえば「能」なのですが、あの大福寺の服部正信・友清親子(喜多流)
について追跡していますが、なかなか資料が見つかりません。でもあきらめ
切れませんので、必ず真相に近づきたいと思っています。正信という名前も
一杯ありますし、実に紛らわしい。喜多流というのは、猿楽・狂言に近い流派
だと聞きます。世阿弥とは対極にある。あの正尚の子孫につながっている可能
性はあるかも。大福寺に能面等が残っていますし何か手がかりがあるかも知
れませんので、時間を取って見に行ってみたいと思っております。
 「猿楽」については近く記します・・・予告ばかりになっておりますが。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 22時40分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


>忘却は一瞬で起きます

はい
本当に一瞬ですよね。

大切なことまで記憶に残らないのが悲しいです。


最近は人の名前が覚えられなくなっています。
ま、今は通字の名前の世界のことを書いていますから、こんがらがりますね。


服部正信・友清父子の件は喜多流に問い合わせるか
大福寺や役場に問い合わせる
または三重県の菰野(でしたよね)の役場に問い合わせるなど
いくつか手がかりはありますが
とにかく情報を集めまくらないといけないですね。そして読まないと。
それには時間が・・・

 

明日は楽しい遠足ですね。
良い成果があるといいですね。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 22時44分44秒 ) パスワード

復習


服部(服織)氏


古代職業部の機織り部門を担った機織部の服部(hatoribe)に由来する姓氏。「ハタオリ」「ハトリベ」から「ハトリ」そして「ハットリ」と呼ぶようになった。衣食住の「衣服」に関係する職能部族には「綾部」「錦織部」や「衣縫部」「赤染部」などがあり、それぞれ姓氏として名残をとどめているが、その中でも服部氏が一番多い。その居住地が服部の地名になった。
 服部は、文明が高く人口の多い畿内から、全国の主要地に配置されていった。それらを中央で統轄する伴造が服部連であった。この系統の有力な服部氏は、山城・大和・摂津・河内・伊賀・伊勢・三河・武蔵など、当時の文化地域に進出していった。
 代表家紋は「矢車」と「矢筈」。

■各地の服部氏の由来

■大和の服部
和名抄 当国山辺郡に服部郷を収め、波止利と註し、東大寺要録に服部の荘を載せたり。又、延喜式 城上郡に服部神社あり、皆 この部の在りし地なり。又、後世 高市郡の医師に服部時寿(子篤)あり、宗賢と号す。高取藩に仕う。名医なり。

■摂津の服部
和名抄 当国 島上郡に服部郷を収む。又、延喜式に服部神社、荘園目録に服部御領を載せたり。又、服部城あり、松永久秀築く。当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。又、後世、大阪 神戸などに服部氏多し。

■山城の服部
当国にもこの部民多かりしならん。又、後世 伊賀服部氏の後の服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、伊賀国呉服明神の神職、後に山城国宇治田原に住す、後 家康に属す)−貞富、家紋 車輪竪二本矢、七本矢、矢の字桔梗」と。
又、京都の人に服部元喬あり、もと伊賀の服部より出づと云う。荻生徂徠門の俊才にして、南郭と号し、服 南郭と称す。宝暦卒。その長男 惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名ありしも、また早世す。よりて門人 西村元雄を季女に配して家を継がしむ。又、国学者服部中庸は、元居門にして、水月と号す。
又、服部敏夏あり、これも本居門にして、通称を中川屋五郎右衛門と称せり。又、剣客に服部藤次兵衛あり、神後伊豆守の門(新陰流)、皆 京都の人なり。

■遠江の服部
延喜式、当国 長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり、共に古代服部の奉齋せし、神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。

■駿河の服部
当国安倍郡に服職庄あり。而して、後世 服部氏多く、又、府中浅間社家に服部氏見ゆ。

■武蔵の服部
和名抄 当国都筑郡に高幡郷、幡屋郷、また、男衾郡に幡々郷、また、久良郡に服田郷を収む。服部の部民の多かりしを知る。後世、久良岐郡の名族にこの氏あり。新編風土記に「服部氏(弘明寺村)。先祖を玄庵道甫と云う。村内 寶林寺の開基なり。相伝う、元は伊賀国名張の城主なりしと云えど、正しき伝えはなし。後、故ありて跡をくらまし、当所に来て隠棲し遂に農民となれり。されど系図は無し、先祖より持ち伝えし物とて、甲冑二領、刀、短刀五振、文書四通を蔵せり」と。又、足立郡服部氏は、二本矢を家紋とす。

■両総の服部
和名抄、下総国埴生郡に酢取郷を収む。後世、羽鳥村の残るを見れば、羽鳥の誤りにて、この部のありし地ならん。後世、豊田郡下石毛村の人 服部謙蔵・波山は、書家として名あり。

■常陸の服部
真壁郡に羽鳥郷あり、この地より起りしもあらん。

■近江の服部
和名抄、野洲郡に服部郷を収め、八土利と註し、高山寺本には、波止利と訓ず。後に服部村あり。この地名を名乗りしもあらん。

■美濃の服部
和名抄、当国安八郡に服織郷あり。

■奥州の服部
磐城国標葉郡、岩代国会津郡などに羽鳥の地名あり。この部民のありし地か。この地名を名乗りしもあらん。田村家臣に服部氏あり。又、新編会津風土記に「耶麻郡猪苗代 進功霊社。社司服部安休尚由の社なり。安休は初め春庵とて、林道春の弟子にて、後、保科正之に仕え、侍臣となる。天和五年没す」と。

■越前加賀の服部
天平神護二年の越前国司解に「余戸郷戸主 服部子虫、鹿蒜郷戸主 服部否持」など見え、又、和名抄、今立郡に服部郷を収め、波止利と註す。又、神名式に「江沼郡服部神社」見ゆ。

■因幡の服部
和名抄、法美郡に服部郷を収め波止利と註す。又、神名式、法美郡に服部神社を載せたり。後世、服部庄起こる。この地より起りしもあらん。

■伊賀の服部氏
当国阿拝郡に服部郷あり。延喜式、阿拝郡に小宮神社あり。伊賀考に「小宮は、服部氏の惣社にして、伊賀国二之宮」と云い、三国地誌に「昔は服部の輩、阿拝郡を領地せる故に、服部の社もありと、永閑記に見ゆ。土俗なべて服部氏を秦人の裔となすは、非なり」と。この氏族滋蔓して、伊賀一洲に散在す。平内左衛門尉家長が源平盛衰記に現われ、その名最も高ければ、この族を桓武平氏となすもの多し。
又、東鑑 文治二年六月二十八日條に「左馬頭能保の飛脚参着す。去る十六日、平・仗 時定(平家物語には、服部六郎時定)、大和国宇陀郡に於いて、伊豆右衛門尉源有綱(義経の婿)と合戦す。而して有綱、敗北し、右金吾相具し、深山に入りて自殺し、郎従三人傷死し了んぬ。残党五人を搦めとり、右金吾の首を相具し、同二十日、京都に伝う云々。これ伊豆守仲綱の男なり」と。又、円覚律師、これは服部広元の子にして、京都 法金剛院、及び清涼寺の僧侶たりしが、慶長元年卒すと。

■三河の服部氏
服部系譜に「将軍義晴 臣 服部半三保長(石見守・三河に来たり松平清康に仕う)−石見守正成(半三・遠江国八千石)−石見守正就、弟 伊豆守政重(半蔵・三千石・後 松平定綱家臣)」と。
編年集成に「服部半蔵正成、伊賀組 二百人にて、谷村城を守る」と。寛政系譜に「家紋、八桁車の内竪矢筈二、十六桁矢筈車、十六葉菊、むかい蝶矢車」と。

■伊勢の服部氏
和名抄 奄芸郡に服部郷あり、八止利と註す。この地より起りしもあらん。永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、北畠氏に属す。


[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月04日 22時46分44秒 ) パスワード

復習


伊賀の服部一族



 伊賀で服部といえば 忍者!と早とちりしてはいけない。家康に仕えた「槍の服部半蔵正成」が伊賀者を束ねていたのは事実だ。その父 保長が伊賀出身と言うのも事実だろう。しかしただそれだけ である。

 服部一族は諸所に分散し 分家、諸家多くある。住み着いた地名を冠している。予野の千賀地谷(ちがちだに)に住み着いた者は千賀地服部と称した。保長は千賀地服部の出身と言われている。(宗家ではなく 下の服部とよばれ百姓侍の末であったといわれている。)

                              

上野市服部に小宮神社がある。
延喜式伊賀二十五座に列せられ 伊賀二ノ宮と称せられている。 服部氏の祖神「酒の君」をお祭している。
応神天皇の時代(270年〜310年)に呉国と漢国より絹を織ったり綿糸を紡ぐ女性たちが渡ってきた。
呉国から来た人を呉服(くれは) 漢国より来た人を漢服(あやは)と呼んだ。この渡来人が所属した部署を部(とり)と 言った。ゆえに 呉服部、漢服部と書く。この部とは衣服をつかさどる者に名付けられこの先祖が酒の君で この酒の君が伊賀で領した場所を服部という。




 服部氏に三流ありという
 漢服部は平内左衛門相続し平氏          紋は 丸に横二つ切り竹矢筈
 呉服部は服部六郎時定相続し源氏         紋は 左ひとつ巴
 敢国服部は一ノ宮の神事を勤める一族で源氏  紋は八つ矢車

 また一説に「伊賀一円服部名字七流にて候」(応仁元年 1599年 米良文書)ともいう。

伊賀平内左衛門尉家長
 平知盛の家臣。壇ノ浦では冑を二領着て知盛とともに入水している。服部村に住んだので服部を称す。
 五人の子供がおり 竹野屋(荒木に住す) 宮田(丸柱に住す) 高畠(高畠に住す) 杉本(湯舟に住す) 小泉(依那具に住す)という。

服部六郎源時定(みなもとのときさだ)
 頼朝の従士 服部の産。

敢国服部
 伊賀一ノ宮と称せられる敢国神社(あえくに 又は あいくに))の古祭「くろうとう」を勤める一族は服部氏のみと
 いう古法が有る。この一族を敢国服部と呼ぶ。

藤堂采女元則
 伊賀上野城代職の藤堂采女は予野の産である。
 由緒書きには 
  源姓 保田氏 実は安田 家紋追州流 今は三角文字
  元則 幼名左十郎 また 佐助と称す 緯は吉次のち元則 実は千賀地半蔵則直の子 
 とある。

   
上の系図は郷土史家の久保文雄著 伊賀史叢考より作成してみた。久保先生も 紀州保田家と予野千賀地の関係は不明とされている。群書類従系図部には 
 則宗 
伊州名張郡四濃野城主 豊臣秀吉公に仕える 慶長十四年十二月京都に於いて卒 歳四十六 号元亨院雪貞利白居士とある。
名張郡四濃城主とあるが伊賀郡予野城主が正しい。
采女家は予野では千賀地姓を名乗っているが 明治になり保田姓に復姓している。実質的に予野の千賀地宗家は則直で終わったことになる。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 02時28分52秒 ) パスワード

番外
このレス、向こうと重複します:


http://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA20-PA22&lpg=RA20-E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=LXdVQrK7Vi&sig=VaUxbq9oxAS0e1Q0d_gp7p5P0EQ&hl=en&sa=X&ei=MiwwVP36HM-togTK4IKAAQ&ved=0CB4Q6AEwAA#v=onepage&q&f=false

PA22&dq=%E4%BF%A1%E6%BF%83%E3%80%80%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B5%81%

332ページに
筑後国の藤原北家宇都宮流長田氏の紋が  「対い鶴」紋  と書かれています。

長田氏もいろいろなんですねえ。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 03時03分53秒 ) パスワード

やっと柏紋の「タイトルの書かれた」だけのページが見られました!
でも服部家のページはやはり載ってなかったです。

その代わり!カタバミ紋で長上郡の仲田さんがぁ〜〜〜!


http://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA20-PA22&lpg=RA20-PA22&dq=%E4%BF%A1%E6%BF%83%E3%80%80%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B5%81%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=LXdVQrK7Vi&sig=VaUxbq9oxAS0e1Q0d_gp7p5P0EQ&hl=en&sa=X&ei=MiwwVP36HM-togTK4IKAAQ&ved=0CB4Q6AEwAA#v=onepage&q&f=false


72ページ目です

丸に三ツ柏紋
柏紋


カタバミ紋 酢漿紋 片喰紋

87ページ
酒井
三河国碧海郡酒井より起こる
清和源氏新田氏流
または
大江氏流

   寛政諸  2・6・18


88ページ
仲田
遠江国長上郡仲田より起こる名族     仲田さんは片喰紋。本当に?
                    何者でしょう?


永田
伊勢国の名族


松平
三河国賀茂郡松平より起こる
清和源氏義家流新田氏族世良田支流
  (寛政諸  1.4〜6)
   (徳川1〜4)



下の方の「家名索引」も「ツ」で終わってました。
あはっ

やはり本屋さんで立ち読みか図書館で探すか、ですね。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 03時10分31秒 ) パスワード

続き


327ページの鶴紋の立ち鶴・丸に立ち鶴紋で

和田
近江国の蒲生氏族
(天羽・石巻・島田・服部・日根野・藤井・森)
となっていました。


   この項でも非常にプライバシーな話がございます。
   でもココには書けない。


   本当に日本人というのはみんな繋がってる
   繋がってるのは分かってたけど思ってた以上に繋がってました。 
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 03時28分52秒 ) パスワード

http://www.harimaya.com/o_kamon1/saguru/genzi.html

ここに源氏で服部氏は  根笹紋  の短い短い説明がありました。


義国流として

新田氏      大中黒
足利氏      二つ引両
義忠流栗原氏   菱井桁に三文字
義時流 石川氏   笹竜胆
義隆流 森氏    根笹/対い鶴
義綱流 服部氏   丸に根笹/葉輪に矢筈二本   ←  ココ



おまけ


清和源氏の家紋から探る



 清和源氏の家紋は「笹竜胆」が代表紋とされるが、鎌倉幕府を開いた源頼朝が笹竜胆紋を用いた確証はない。

清和源氏諸氏の家紋を見ると、足利氏が「引両」、武田氏が「菱」、佐竹氏が「扇に月の丸」、土岐氏が「桔梗」、 村上氏が「上文字」というように笹竜胆を用いる家は見出せない。


清和源氏の流れで「笹竜胆」を家紋とした家は といえば、徳川家に仕えて近世大名となった石川氏が知られるが少数派というしかない。


ところで、徳川幕府が編纂した「寛政重修諸家譜(寛政譜)」は、徳川家に仕えた大名・旗本の系図と家紋を 網羅したもので、源平藤橘をはじめとした五十七氏千百家以上の家紋を知りうる格好の史料である。


 寛政譜に記載された清和源氏は、義家・義親・義忠・為義・義時・義隆・義綱・義光・頼清・頼季・頼任・頼光・頼親・ 満政・満快流の十四氏である。


それらのなかで各流の代表紋はといえば

義家流の足利氏が「桐紋」と「二つ引両紋」、
義時流が「笹竜胆紋」、
武田・小笠原氏らが含まれる義光流では花菱・割菱・松皮菱などの「菱紋」、
村上氏が含まれる 頼清流では「上文字紋」、
土岐氏一族の多い頼光流は「桔梗紋」、
満政流では「沢瀉紋」「永楽銭紋」、
信濃に広まったという満快流は「梶葉紋」がそれぞれ多数派であり各流における代表紋といえそうだ。


とはいえ、義時流では森氏一族の鶴紋が多数派を占めており、鶴紋を義時流の代表紋とするのはためらわれる。


 ちなみに、寛政譜に記載された清和源氏各流の総家数千八百家のうち、「笹竜胆紋」を用いた家は四十三家で 全体に占める比率は1%で清和源氏の代表紋とはいえない数字であった。


      


■各流諸家の代表紋


頼光流
土岐氏 桔梗
浅野氏 瓜の内に違い鷹の羽
池田氏 笹竜胆/輪蝶/揚げ羽蝶

頼親流
石川氏 対い鶴/鶴目
高木氏 丸に打ち違い鷹の羽
土方氏 三つ頭左巴
大森氏 銀杏葉三枚

頼清流
村上氏 丸に上文字
頼秀流 井上氏 井桁
為義流木曽氏 笹竜胆

義国流
新田氏 大中黒
足利氏 二つ引両
義忠流栗原氏 菱井桁に三文字
義時流 石川氏 笹竜胆
義隆流 森氏 根笹/対い鶴
義綱流 服部氏 丸に根笹/葉輪に矢筈二本     ←  ココね

義光流
武田氏 割菱
小笠原 氏 三階菱
佐竹氏 五本骨扇に日の丸
南部氏 割菱/対い鶴

満政流
水野氏 丸に二本沢潟
山田氏 三つ洲浜
満季流
樋口氏 丸に三つ引/抱き牡丹
高屋氏 三石/丸に花菱

満快流
知久氏 車輪/桔梗/梶の葉
片桐氏 丸に鷹割羽/亀甲の中に花菱


http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/sg_hasei.html
清和源氏各流の代表家紋


[42]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 04時29分11秒 ) パスワード

レス<16>の

>小笠原系服部氏とはこの氏族の事をいうのでしょうか?

答えは「ノー」だと思います。


理由:

時系列にて記す:

1.(承久の変以降に地頭としてやって来た服部氏があり)
   戦国時代麻績の地を支配したのは服部清信であった。

2.しかし、天文22年(1553年)甲斐の武田晴信が筑摩郡に侵入
  青柳城の青柳清長を従えて服部氏を追い払い、
  青柳氏が麻績氏を名乗り、麻績城には青柳氏が移った。

3.そして武田氏の滅亡後、信濃国を手に入れた織田信長が本能寺の変で死去
  天正10年(1582年)以後、この地は上杉景勝、小笠原貞慶の争奪の地となる

4.最終的には小笠原氏の支配地となった。


この流れですから麻績の服部氏は小笠原の中の1つというのは成り立たないと思います。


>今はどうなっているのか?

既に力尽きて、ヒバリさんのお家は宮下姓だそうです。
叔父さんが住んでいていとこ達が3人いるけど土地を離れている

麻績服部忍術を継承しているのは今ではヒバリさんのみ。




麻績服部氏についてヒバリさんのお話ですと

すっごく古い時代に麻績は伊勢神宮の御厨になった。

藤原朝臣伊賀守という人が伊賀に赴任した
そして
子孫の伊賀の服部氏が鎌倉幕府時代  承久の変  以降に地頭として麻績に派遣されてきて
麻績に服部氏が定住することになった。

   そしてこの時、伊賀の忍者の技術が麻績服部伊賀忍術として定着した

こんな感じでしょうか?
   

ヒバリさんの書き込みより:

藤原朝臣伊賀守と服部石見守半蔵の決定的な違いは、
    伊賀守は、朝廷から与えられたきちんとした役職であるのに対して、
     石見守は、一つの家であるにすぎない松平家(徳川家)が、朝廷の制度を真似て勝手に付けた役職。

鎌倉時代の承久の変までは、全国に及ぶ政治権力は、朝廷の方が強かった。
しかし、承久の変で、幕府が、朝廷に勝つと、幕府が完全に全国を支配するようになったにすぎないので、
  〜守に本当に役職的に意味があるのは、鎌倉時代の承久の変以前であって、
  それ以降の〜守というのは、安易に付けられる役職になってしまい、
   実際に石見に勤めなくても石見守という名前がついてしまうようになった。


ヒバリさんは何が言いたいかというと、

この藤原朝臣伊賀守は、
承久の変以前の役職なので、きちんと伊賀で勤めた人だということ。

つまり、伊賀地方の服部氏の祖であるということ。
もっというと服部半蔵の祖先ということ。

その服部半蔵の祖先の服部氏が、伊賀守の任期を終え、
承久の変以後力を持った鎌倉幕府から、今度は地頭として派遣された地が、
信濃(長野県)の麻績(おみ)の地だった。



    ということは服部半蔵の先祖は
    藤原氏が伊賀守として伊賀に来て
    伊賀の服部に住んだのが伊賀の服部氏になった?

    ここから更に信濃の麻績に移動したのがいる。
    これが信濃の麻績服部氏?


そうか・・・
だから服部半蔵一派が平家の家長の子孫というのは家系洗浄だ〜と言われるのですね。

平家の子孫というより実はもっと前は藤原氏の子孫。

   藤原氏と平氏は仲が良いし
   藤原氏と源氏も仲が良い


この藤原さんが伊賀に定住して、のちに平家とも婚姻して、平家が滅んで、鎌倉幕府になって

   伊賀国服部に残ったのと信濃国麻績に移ったのとに分かれた。

    
   伊賀に残った服部氏は鎌倉幕府には冷たくされたし
   そこで平家が先祖ということにしていったのでしょうね。

   特に南北朝の時代になれば鎌倉幕府と源氏=北条氏=を倒すのに平家の子孫というのが合理的ですね。


    また源氏の恩恵を受けた伊賀の服部氏は源姓を称したのかもね。
    特に妻の実家が源姓なら簡単です。名乗っちゃったもん勝ち〜

       尾張の服部家ホンヤさんでも源姓を拝領しているし

    さらに家康がらみで源氏を名乗っちゃった家もあるでしょうしね
       家康は藤原姓を名乗った後に源氏の「氏の長者」になってますし。 


    日本は中国や朝鮮と違って氏姓がグチャグチャになってますからね。
    

    もともと日本には
    (大陸から氏姓制度なんてのを導入したものの)
    国民性に合わなかったのでしょうね。

            ということにします

まだまだ調べてみます。
最近ヒバリさんのファンになっています。
   カラダは男だけどココロは細やかな女の子なんだなあと。
彼女のブログをもっと読みますね。

また面白い話があったらアップしますね。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 09時20分54秒 ) パスワード

ありました!
小笠原氏を祖とする服部氏。

麻績服部氏となっていました。

ここでアップ
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 09時50分41秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/c/3699b988ed2d522886c6aff5c3e9b4b0

コピペ:全文は上記URLへ


研究ノート 「信濃御厨の成立と御厨を基盤とした武士団の発生」

2014-09-16 15:22:22 | 歴史



研究ノート 「信濃御厨の成立と御厨を基盤とした武士団の発生」


信州の御厨 

御厨 

芳美御厨(高井郡)
保科御厨(高井郡)
布施御厨(更級郡)
富部御厨(更級郡)
村上御厨(更級郡)
仁科御厨(安曇郡)
矢原御厨(安曇郡)
麻績御厨(筑摩郡)  ← ココですね  麻績御厨
会田御厨(筑摩郡)
*藤長御厨


○保科御厨(高井郡) ・・長田御厨ともいう。     ←  長田御厨

                             でも長田氏とは関係はありません

・・・ 長承三年(1134)、長田御厨が定められ、
保科氏の祖先は長田御厨の庄官をつとめ、一族は各郡村の名主職・公文職をつとめた。

長田御厨の長田は他田に通じるもので、
そこの庄官をつとめた保科氏の祖は他田氏であったと思われる。

その後、南北朝時代まで長田(保科)御厨の名が、歴史書に散見される。



○麻績御厨(筑摩郡)

麻績村は、長野県東筑摩郡の村。文治二年(1186)、吾妻鏡に「麻績御厨(大神
宮御領)」との記載が見える。

                              ココね
                               ↓
・・・ 麻績城の城主は鎌倉期、麻績御厨の荘官として入部した小笠原長親を祖とする服部氏(麻績氏)とされ、
応永七年(1400)に勃発した「大塔合戦」には村上氏の与力として麻績山城を守城した。

・・・ 麻績神明宮 :平安朝のころ、伊勢神宮の御領地、麻績御厨の守護神として直接内宮に勧請し分社。 本殿、拝殿を始め五棟の建物が国重要文化財に指定。 境内には樹齢八百年と言われる御神木があり、村の天然記念物に指定。


*********************


これらの御厨から、中世に武士団が発生し、後に豪族と成長したものも現れます。

芳美御厨からは井上一族、
保科御厨からは保科一族、
富部御厨からは戸部一族、
村上御厨からは村上一族、仁科御厨からは仁科一族が武士団として成長しました。

北信濃のこれらの一族は、基本的には、御厨を"押領”しながら成長したので、
室町幕府が、鎌倉幕府を倒して、前北条の資産を新政府側にする方針に頑強に抵抗しました。

これが大文字一揆で、大塔合戦とも呼ばれた戦いです。


室町幕府の政策と意図に従って、荘園や御厨を幕府側に取り戻そうとする守護・小笠原と
押領した荘園と御厨を既成事実として領有したい大文字一揆衆の戦いです。


大文字一揆衆の主力・主導者は村上一族と仁科一族です。

大文字一揆衆は強固で、結局守護・小笠原長秀は敗北して京都へ逃げ帰ります。


信濃国守護・小笠原家が、甲斐・武田信玄に敗北して、信濃が武田に蹂躙される原因は、
小笠原家が、信濃国の守護大名として成長できなかったことにあると言われています。

甲斐と信濃では、戦国時代にも、経済的規模は、信濃の方が三倍とも四倍とも大きかった言われています。


それなのに何故 ・・・?この答えは、小笠原一族内の内訌・一族内抗争とともに、
北信濃と諏訪神党の、既得権益保守の連合豪族を統治できなかったことと言われています。


御厨が散在している所在地を点検していると、一つの特徴が浮かび上がってきます。

布施御厨、富部御厨は川中島の犀川寄り、
芳美御厨、保科御厨、村上御厨、藤長御厨は千曲川流域、
矢原御厨、麻績御厨、会田御厨、仁科御厨は犀川とその支流に位置します。
       ↑
      麻績御厨


「神鳳鈔」などで確認すると、伊勢神宮へ奉納する貢ぎ物は、鮭と鮭の子(いくら)、麻の布、馬がほとんどです。


ここから確認出来ることは、信濃川の上流・千曲川と犀川には、平安時代から鎌倉・室町時代までは、鮭が遡上していた事実が判明します。

それも、恐らく大量な鮭の遡上であったのでしょう。


          麻績御厨
            ↓
そして、当時の衣服の繊維・麻布は、御厨内に麻の木が植えられ、さらに布にする織機が存在していたことが覗われます。

大量の麻布は、伊勢神宮の神官の衣料のみならず、一般人の衣料用に換金されていたことが想像できます。


併せて、御厨内に、牧が併設されていてことの裏付けも出来そうです。



日本で定常的に鮭の遡上が認められる南限の河川は、太平洋側は多摩川であり、日本海側は島根県の江の川の支流濁川が確認されています。鮭は太平洋側の伊勢までは行っておらず、伊勢神宮としては貴重なものだったのかも知れません。
日本海側の河川で、大量に鮭が捕獲された地域は、新潟県、長野県、富山県だそうです。


この鮭をキーワードにすると、
信濃国のもう一つの大河・天竜川流域に、御厨を発見できない理由が判明してきます。

千曲川・犀川流域に、御厨を見る理由は、運搬ルートの関係があるようにも思います。
定説には、伊勢宮への貢ぎ物の運搬は、東山道とされてきていますが、量的な運搬は、まず日本海側へ出て、北陸道を京方面へ向、伊勢へ向かったというルートが仮設されます。

この場合、舟と馬が、運搬の主役になります。こちらの方が、説明が合理的のような気がしますが ・・・


現在、河川の汚染が浄化されて、鮭が昔のように戻ってきています。しかし千曲川には、なかなか鮭が戻ってきません。これは、飯山にあるダムが、鮭の遡上を拒んでいるようです。海無し県の、長野県が、かって鮭捕獲量のトップ3に君臨していたという食文化の特色は、水清く、自然の豊かな、誇るべき事だと思うのですが、どう思いますか。

ここでアップ
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 10時24分15秒 ) パスワード

まとめ;

麻績御厨  吾妻鏡に「麻績御厨(大神宮御領)」との記載 
      麻績神明宮
     麻績御厨の荘官として入部した小笠原長親を祖とする服部氏(麻績氏)
     麻績御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園


**********************

ここには小笠原氏流に服部の名は無いです。


http://www5b.biglobe.ne.jp/~giemont/seiwaichizoku.htm
清和源氏の流れの家々


清和源氏一族の姓

 清和天皇から約1200年後の現在には、その後裔 (清和源氏) と言われる一族の姓が各地に次のように残る。



義親流
阿野 愛智 旭 安食野 熱川 上瀬 上松 上野
淡路 大島 賀茂 鎌倉 鎌田 加賀 賀崎 蒲生
垣富 木部 木曾 吉良 熊野 河野 下瀬 清水島
新宮 志田 高遠 武曾 竹向 鎮西 對馬 土佐
中野 練絵 野路里 八條 八幡 馬場 山尾 松平
三豊 吉見



新田氏族【義国男義重流】
今井 一井 伊賀 牛沢 江田 大井田 大島 大舘
大田 金谷 北 額戸 長岡 新田 仁田山 里見

関岡 世良田 田中 竹林 鳥山 豊岡 徳川 羽川
堀口 細谷 堀内 堀江 本庄 桃井 山名 山本
宮田 由良 横瀬 脇谷 伊関 岩松 村田 寺井

田部井 田島 藪塚 金井 田部井
小野 国定 岡山 海保
今井・榊田 中條 里見・
西久保 新井・荒井・荒居



足利氏族【義国男義康流】
足利 荒川 石垣 石搭 板部 一色 石橋 入野
尾張 今川 稲村 稲田 泉出 大山 大窪 大木
大板 大野 上山 上地 上野 吉良 木田 板倉

加古 春日 蒲安 鞍谷 黒川 古河 喜連川 蟹沢
篠川 榊原 西條 末野 塩松 関口 瀬名 斯波
渋川 杉原 高巣 高楡 高清水 田中 楯岡 土山

品川 豊島 津川 戸賀崎 戸崎 東條 藤堂 長岡
中野 長沢 長吉 永山 二本松 名和 仁木 西室
新野 丹羽 乗木 畠山 東根 廣澤 堀越 平岩

細川 蒔田 萬里 萬里小路 三浦 水田 宮原 山野辺
最上 桃井 満持 矢田 和束 吉田 吉和 岡
御調 小鹿 小股 小弓 尾崎 安井 矢田堀



為義流
梅田 加賀



義忠流
河内 稲沢 稲富・飫富



石河氏族【義時流】
石河 緯戸 平賀 萬刀 陸奥


若槻氏族【義隆流】
押田 上野 笠合 蔵人 多胡 森 陸奥 若槻(輪賀月、若月)


石橋氏族 【義綱流】
石橋 阿部 賀茂 大橋 上谷 木部 久乃部 佐久良
浅敷 高野 竹城 桜邊 手原 中内 服部          ←  服部氏
三上 美乃 山口 山崎 小島 宮



佐竹氏族【義光長男義業流】
粟野 葦間 今宮 石塚 稲木 稲毛 宇留野 太田
大野 大内 大沢 大山 大山田 上有智 亀岡 上村
仮名 葦島 刑部 北酒出 国井 北久米 酒出 白鳥
白石 白羽 下妻 高部 高林 高倉 高久 竹岩

田谷 手綱 天神 林 綱懸 利倉 豊間 戸村
東野 中根 中條 中澤 中野根 長倉 長山 並河
額田 野口 東 部垂 藤井 常陸 袋田 古屋

町田 馬渕 南酒出 南 森土 山田 山入 依上
岡田 岡部 岡安 小縮 小川 小瀬 小田野 小屋
小野 小野崎



山本氏族【義光次男義定流】
大鳥 柏木 河内 手島 綿織 早水 豊後 真島
箕浦 山本


武田氏族【義光三男義清流】
愛州 愛祖 青木 穴山 油川 秋山 浅原 浅利
甘利 市部 今井 岩手 石橋 一宮 一條 岩崎
石木 石和 伊澤 板垣 飯室 上田 泉 植木
於曾 大幡 大津 大井 大桑 巨海 落合 河内

河窪 上條 上曽禰 上総 幸徳 加々美 蛎崎 方原
勝沼 葛川 栗原 熊谷 倉科 黒坂 駒井 小松
巨勢村 境 下曾禰 神宮寺 下條 白須 志摩 塩部

曾禰 武田 田中 田井 高畠 東條 常業 奈古
那胡 長淵 南部 中條 長手 二宮 西村 仁井
八條 波沙 鼻和 坂東 早川 馬場 初鹿野 北條

平田 深津 布施 別府 逸見 萬為 鞠屋 松尾
馬渕 間淵 円井 増坪 牧原 松原 丸井 三好
御宿 御本 武川 武藤 安田 安井 山崎 山宮

屋代 八福寺 八代 保田 山田 湯川 吉田 米倉
横根寺 利見 小倉 井澤 折井 小佐手 尾喜 岡
海野



小笠原氏流                      ←小笠原氏ですが
阿倍野 赤澤 阿刀部 芥川 阿波 安宅木 伊那 一宮
内村 上野 大井 大倉 狩戸 開善寺 西條 板牧
下條 島立 下枝 十河 高畠 勅使河原 津毛 常磐
中川 中條 長坂 鳴海 仁加保 野口 伴野 平賀

藤崎 深志 丸毛 松尾 萬吉 三好 村田 米田
八代 米里 矢田 山中 横根 益田 麻続 小田
田代



南部氏流
一戸 四戸 九戸 八戸 羽坂


平賀氏族【義光男盛義、実光、親義流】
犬甘 飯澤 大内 金沢 木津 小早川 佐々毛 竹内
新田 西方 武蔵 小野 田村 岡田



村上氏族 【頼信次男頼清流】
吾妻 安藤 近江 粟田 入山 今里 飯田 出田
上野 大蔵 大藤 上條 粟田 下條 島本 千田
西川 林 判官坂 平地 平池 平屋 深原坂 古池

三河 村上 山田 屋代 寄合 吉田 小野 小野澤
岡田 守岡 久我 重永



井上氏族 【頼信三男頼季流】
安木田 葦田 飯沼 大槻 乙葉 河内 桑洞 窪
黒岡 国井 久留栖野 久下瀧村 佐久 須田 関山 高梨
常葉 時田 芳美 本庄 村上 矢井守 米持 井上
小谷 小坂 鴇田



頼搭義政流【頼信男】
河内 国井 常盤


多田氏族【摂津源氏、頼光流】
安房 伊豆 飯倉 飯室 落合 大田 大中川 大河内
河内 各務 上有智 川那部 可児 神門 神野 倉垣
倉科 粟野 坂田 関 清水 下間 芝井 斎院
多田 田代 多治見 田治見 田尻 手島 野瀬 能登

高田 鳥羽 遠山 能瀬 原 蜂屋 萩原 平野
久嶋 古川 船津 飛騨瀬 不破 馬場 深津 深栖
福島 堀 溝杭 美濃 松崎 山縣 山田 井上
小中川 小船津 小国 小野 尾塞 能勢 池田 両角
車田



土岐氏族 【頼光嫡子頼国男国房流】
浅野 秋原 麻生 荒川 饗庭 明智 池田 石谷
稲木 今岑 揖斐 伊賀 植村 植戸 宇田 大井
大竹 大須 大桑 表作 隠岐 笠毛 仮名 萱津
萱野 木田 北方 桐原 久久利 気良 小弾正 郡戸

斎藤 佐良木 猿子 芝居 下石 島田 西郷 墨股
洲原 世保 檀蔵寺 多治見 田原 高井 田中 月海
出羽 土居 土佐 外山 中村 長澤 則松 郡家
原 蜂屋 萩原 羽崎 久尻 肥田 肥田瀬 福光

福島 深澤 深坂 船木 穂保 堀内 本田 三栗
美濃 見松 美作田 八居 山尾 鷹巣 和田 井口
尾里 内海 敷根 土岐 只越・只腰 斎院 金山



宇野氏族 【大和源氏、満仲三男頼親流】
愛子 麻生 荒加賀 朝日 粟田口 入屋野 入野 犬甘党
宇野 岩井 石川 大寺 大田 大野 大森 加賀
辛川 河尻 坂地 澤井 澤田 竹田 田村 戸坂

土方 豊島 成田 八條 広瀬 二河 福原 法華経  ← こんな名字がある?
岑田 陸奥 楊梅 矢澤 柳津 小高



頼平頼範源賢流【満仲男】
太田 大井党 柏原 戸島 檜坂 多田 八尾



八島氏族【尾張源氏、三河源氏、 満政長男忠重流】
葦敷 明智 泉 和泉 上田 浦野 河邊 加茂
加賀見 柏谷 上有智 開田 鏡 木田 小島 相模
志内 世保 白川 津保山 高田 生津 原 平野

彦坂 水落 村岡 八島 吉田 吉野 山田 山里   ← 最近 彦坂 ってよく見ます
小河 足助(三河源氏) 佐渡 岩井 水野



善積氏族 【満政次男忠隆流】
雨夜 雨谷 雨宮 雲倶 澤股 駿河 周防部 辻岡
辻 出羽 富塚 豊田 富塚 羽仁 東 藤野
陸奥 善積 與佐井 和田 岡 小倉



高屋氏族【経基三男満季流】
粟田 石橋 石搭 梅林 大町 奥 河曲 岸下
岸下 高岸 高屋 林田 坂東 平井 樋口 御園
村田 森 山田 山上 柳 米井 和南 和田

小原 小椋 牛田 梶田 青山 澤



満快流【経基男】
伊那 飯間 飯沼 飯島 飯田 岩間 泉 大島
大室 大屋 片切 駒澤 佐那田 諏方 諏方部 瀬橋
洗波 堤 土水 手塚 那須 夏目 中津乗 新井村

西 野邊 林 埴田 芳美 東 二柳 松本
前澤 室賀 村上 三刀屋 依田 猪木 小田 三木
横尾 知久



源氏で服部氏は石橋流しか載ってなかったです。
小笠原氏流では無かったです。


ま、小笠原が信濃の国守で来ていたら、地方の役人だった麻績の服部氏は娘を差し出したというのはアリですよね

まだまだ謎です。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 10時31分00秒 ) パスワード

このスレッドは  麻績の服部氏で満載になりそうなので
そのうちに  XV を立ててくださいね。



http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/omi/omi.html

コピペできないです。


麻績城を造ったのは
小笠原長親を祖とする服部氏(麻績氏)
と書かれています。


1583年
上杉勢の攻撃を受けて麻績城は落城。
服部氏滅亡
と書かれています。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 10時46分54秒 ) パスワード

http://folklore.office-maeta.jp/060828.htm


名字の由来

面白かったですよ。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 10時54分35秒 ) パスワード

ヒバリさんが松尾芭蕉忍者説について書いていらっしゃいます。
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/511807575


『奥の細道』でお馴染みの江戸時代の俳人、松尾芭蕉は、忍者だったという説があります。

その根拠は、芭蕉が伊賀出身であること、無足人、つまり、農民でありながら、刀を持ち武士としての仕事も許され、名字も与えられていた家の出であることがあげられる。

しかも、41歳から51歳で他界するまでに何度も旅を繰り返した。

手段が徒歩の時代、しかも今より遥かに寿命の短い時代の晩年に、そんなことができるのは、忍者だからに違いない

という考えが起こっても不思議ではない。


一体どこから旅の費用が出て、どういう方法で関所を通ったのか?
バックに幕府からの各地の調査依頼があっての旅であろうと考えるのは、実に理にかなった解釈である。


ちなみにTBSの『水戸黄門』の旅は全くのフィクションで光國自体は人生の中で近場の旅を一度しただけだという。


しかし、芭蕉の旅は本物だ。


写真は私の流派、伊賀麻績服部流忍術(いがおみはっとりりゅうにんじゅつ)の発祥の地、長野県東筑摩郡麻績村の隣にある、あの有名な『姨捨山(おばすてやま)』で芭蕉が詠んだ一句である。


芭蕉が、伊賀流忍者が住んでいる地を訪れているのも、決して偶然ではなく、幕府からの監視業務の依頼があってのことだと、私は思っている。

だだ、芭蕉本人が忍の術を使えたかどうかは、私にも、わからない。


芭蕉の弟子、蕉門十哲の1人、河合曾良は忍術者だと、私は師匠から聞いている。


ちなみに、服部半蔵=松尾芭蕉というのは、ロマンのある話ではあるが、ない!!

服部は文字通り服部家。伊賀に住んでいたころの服部家は、千賀地家を名乗っていたのに対して、
芭蕉の名は、伊賀藤堂藩の百地家の家系図にあるからだ。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 11時05分51秒 ) パスワード

宮下家は麻績の神明宮の神官で
服部清信公の弟の服部加信斎公が神官をしてたようです。


ヒバリさんのブログ
2011年8月


3日ほど夏休みをいただいたので、長野県の麻績村に先祖参りに行って来ました。

何度も説明していますが、私は伊賀流忍者の末裔ですが、私が継承している麻績服部流忍術は、鎌倉時代に服部伊賀守という人が三重県の伊賀から長野県の麻績(おみ)に移り住んでから、麻績の地に根付いた流派なので、私の先祖は、伊賀ではなく麻績に眠っておられます

だから、私は毎年夏休みが取れると麻績に先祖参り行くのですが、今年は偶然、私の兄も同じ日に休みが取れたので、兄夫婦と1歳の甥っ子、父と母が一緒に麻績に先祖参りに行くことが出来、実に30年ぶりぐらいに一家揃って、先祖参りに行けました。

これもきっとご先祖様の思し召しでしょう

兄は、自分の家族と父母を乗せて車で行ったのですが、私は電車で行ったので、麻績に着いて一番最初に、服部清信さまと服部加信斎さまのお墓参りをしました
(写真)
次に、服部加信斎さまが宮司をしていた麻績神明宮をお参りして
(写真)、
最後に私のご先祖様のお墓参りをしました

ちなみに、写真の立て札は、我が宮下家(私の本名)が、服部加信斎さまが宮司を務めている任期以外の麻績神明宮の宮司をやっていたことを説明する立て札で、服部清信さまと服部加信斎さまのお墓の横に設置されているものです。


今年は、こうして家族揃って先祖参りが出来たし、服部家のお墓参りも、麻績神明宮参りも出来たので、これからきっといいことがあると思います
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 11時40分07秒 ) パスワード

ヒバリさんのお家と三ツ柏さんのご親族とは繋がりそうですね。


呉服と麻績
武田に蹴散らされた松島と麻績服部
家康も三方原で蹴散らされてますし。


ヒバリさんは  1969年6月1日  生まれだそうです。
歌舞伎町でCOLORSというお店をやってて  夜11時から翌朝6時の営業だそうです。
昼間はテレビや舞台なんかで忙しそうです。


ご先祖さまにしっかり感謝して慕っているのが分かって
良い家庭に育ったのでしょうね
と思いました。


不思議ですね
滅びても今でもちゃんと御家は続いているんですから。

ヒバリさん、やっぱりスゴイ!


ものすごく強い生命力を持ってて子供好きで飲食業で成功する人なんでしょうね
と思います。
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月05日 20時10分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 台風18号が近づき雨もひどくなりそうなので、本日の岩村行きは延期にし、
その代り、近場の細江へ行き、服部中保次の墓を見に行くことにしました。
 姫街道(261号線)の坂を下り、少し行くと左手にマックスバリュー(スーパー)
があり、もう少し行くと気賀の手前を都田川が流れ、落合橋がかかっている。
 そのマックスバリューの交差点を左折し、山すそを右折。ぐるっと山(台地の
裾)を回り込んで山道を行くと、まずは看板と石碑があった。
 「服部小平太最後の地
  服部小平太(中保次)は、永禄3年(1560)5月19日の桶狭間の戦いで、織
田信長の家臣として、毛利新助らと共に、今川義元を打ち取った功労者であっ
た。
 この地方が徳川の勢力下に入ると、小平太は信長亡き後、家康の家臣として、勲功によりこの地を治めた。もともと今川領だったこの地方には、桶狭間に
出陣して戦死した者もあり、小平太に恨みを持つ者もあった。天正15年(1587)
6月18日、小平太は単身このあたりを巡視の折、ここで何者かに討たれた。
 なお小平太の墓はこの下数十メートルにあり、祥栄院殿湖雲淨鑑大居士と刻
まれている。
 また、ここより200メートルほど北に、小平太を祀ったといわれる宗安寺
の跡がある。          平成2年3月20日 細江町教育委員会」
とあった。

 そしてその左下に石碑があった。石碑には「服部中保次様最期之地  天正
15年6月18日」と刻まれていた。石碑は花崗岩を大きく削ったもので、形
はちょうど細かな加工をする前の灯篭の原石といったところか。
 小平太が襲われた所は、刀も振り回せない姫街道といっても森の中。物陰か
ら一気に突かれたら防ぎようがないような所であった。油断をしたのか、謀ら
れたのか、わからないが、何かあったに違いない。

 そこから徒歩で坂を下り、右へ回り込んで50メートル位行くと、「中保次
の墓→」の小さな案内看板が家の軒下に立っていた。雨で濡れる細い草むらの
登り道を20メートル位登ると、3メートル四方の石の垣根で囲まれたまずま
ず立派なお墓があり、両側に80センチメートル位の高さの灯篭が左右の端に
立てられたいる。墓の左右の筒ににコウハナが飾られており、ちゃんとお祀り
してくれている方がおられるようだ。(心で感謝)

 墓には先ほど教育委員会の案内に書かれていた戒名が刻まれていた。墓を
更によく見る。墓のてっぺんに家紋らしきものがあるようだ。苔むしているの
でよく見えないが、雨の中、こすってみると紋が表れた。
 それは、源氏車に横並び矢のようだ。矢の形は少しかわっていて、ちょうど
左右に長い長方形の右辺・左辺をМ字形にしたもの、もう少しイメージしやす
い表現でいうと、2つの矢羽根の上部を横に切り、その2つを向かい合うよう
にして貼り付け、それを二枚横に平行に並べた形。いずれにしても、伊賀服部
氏の家紋に間違いない。墓の左面に「天正年中 當所領主俗名服部中小平太・
・・」その下の文字は苔に隠れて見えない。先ほどの石碑とほぼ同じ説明書き
の看板が立てられていた。

 雨の中でもあり、余りゆっくりもできないので、家に帰ることにした。地元
の墓を少し調査したいという考えもあったからだ。
 それは、長田氏の墓の家紋。長田氏は「丸に三つ柏」を使っている。服部家
に長田氏から養子が何代か入っていれば、男系の家紋に代わる可能性があると
思ったからだ。はたして・・・長田氏の墓はなかった。または、見つからなか
った。
 しかし、新たな発見をした。ここの寺には五氏の墓が圧倒的に多く、五氏の
家紋はすでに調べてわかっていた・・・のだが、何と見落としていた。
 それは、永井氏であるが、「永井梨の切り口」の家紋があったのでそれがす
べてだと思っていたのだが、出るは出るはぞくぞくと。永井の墓の半数は、何
と「丸に三つ柏」であったのだ !
これは即ち、永井氏が長田だった頃の家紋、元々の家紋を変えなかった筋の
人がいたのではないか・・・そして服部家は女系が続き、永井家より何代か婿
養子が入った。そして家紋も「丸に三つ柏」に変わった。
 (あるいはその反対だったのかも知れない。だがこの場合は丸に三つ柏紋の
由来の説明が難しくなる。)
 
 いずれにしても、本日の収穫は、中保次の家紋と永井氏の家紋。
 スレッド]Xを立てます。





[52]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月05日 22時45分51秒 ) パスワード

背筋がゾクゾクするご報告で驚きました。


>左右に長い長方形の右辺・左辺をМ字形にしたもの

「切り矢筈」っていうのかしら?
よく分かりませんが・・・


伊賀の服部家の   立派な家系の方の   服部氏の紋ですね。



永井さんで三ツ柏って!
まさに  長田家の紋  ですね。


ということは長田家から服部家に婿として来てた可能性も出て来ましたね。

旗本の服部氏というのが
  服部系で?
  永井系で?
三つ柏紋を使っていた可能性が出て来ましたね。


素晴らしい成果でした。


あとはその檀家さんの永井さんがみつかると良いですね。


台風が来てて逆にラッキーでした。
おかげでスゴイ収穫になりました。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 04時23分37秒 ) パスワード

ヒバリさんがおっしゃる藤原姓伊賀服部氏捜し:九州肥後にも存在

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/uti_koga.html


内空閑氏    ←  「うちのこが」って読むの?びっくり

●五葉木瓜/矢車/鷹の羽
●藤原北家流/伊賀服部氏流


「矢車」紋は伊賀服部氏流の代表紋であり、「鷹の羽」を用いたのは、菊池氏から下賜されたものであろう。



内空閑氏は、戦国時代に肥後国山本郡最大の豪族であった。
内空閑は「うちのこが」と呼び、内古閑とも記される。


内空閑氏の出自については諸説があり、伝承によると伊賀国の出身だという。

『肥後国誌』によれば、内空閑氏の祖は藤原氏で伊賀国服部荘の地頭であったという。
すなわち、備前守基貞が明徳三年(1392)に肥後に下向、霜野に城を築き内空閑を家号とするようになった。

そして、『下野雑記』を載せ、
後嵯峨天皇のときに伊賀国上野城主服部備前守が、肥後国山本郡に五百五十町歩を賜り、同郡に移住し、
その地名をとって内空閑刑部大輔元鎮と号するようになったというのである。



一方、服部内空閑家に伝来する系譜によれば、
伊賀国上野城主服部伊賀守藤原鎮基の長男備前守基貞が、
永仁元年(1293)伏見天皇のとき、肥後国山本郡に五百五十町歩を賜り、
その年のうちに下向して来たとしている。

さらに、『事蹟通考系図』には、明徳元年(1390)基貞のとき、
伊賀を去り菊池武朝に属し、
武朝より五百五十町歩の所領を得て、内空閑に下向し内空閑に改めたとしている。


以上のように、内空閑氏に関する伝承をみると、伊賀国服部荘の地頭で上野城主であった貞基が肥後に領地を得て下向した。

そして、霜野城を築いて内空閑氏を称したということで、ほぼ共通している。


しかし、下向の時期については、たとえば永仁元年説と明徳元年説を比較すると百年近くの差があり、不明としかいいようがない。



戦国時代への序章

内空閑氏の祖が伊賀国の住人であったかどうかは別にして、
内空閑氏が肥後守護菊地氏の老臣として活躍していたことは紛れもない事実である。

『菊池家老臣連署知行坪付』によれば、
「内空閑備前守重載」が城上総介頼岑、隈部和泉守宗直、赤星弾正少弼重規など十名の人々と一緒に老臣としてその名を記されている。


また、内空閑氏の人物として、重載をはじめとして、鎮真(鑑貞)・鎮資・為載らが、『五条文書』『正観寺文書』『願行寺文書』『宝成寺文書』などの古文書のなかに名前をあらわしている。

そして、為載は重載の父であり、文明十三年(1481)の菊池重朝の『万歌連歌』にも名を連ねている。


内空閑氏が仕えた菊池氏は、南北朝期に宮方として活躍し、室町時代を通じて肥後守護職の座にあった。
しかし、十五世紀後半になると、次第に衰退の色を深くし、一族や重臣の反抗に悩まされるようになった。

重朝のとき、叔父宇土為光が謀叛を起したが、重朝はこれを撃退している。
ところが、為光を保護した相良為続との間で抗争となり、重朝は連敗を喫して、為光の宇土城復帰を黙認する有様となった。


重朝のあとを若年の武運(能運)が継承すると、重臣隈部氏が謀叛を起こし、これに相良為続も同調した。
一旦敗れた武運は、明応七年(1498)、有馬氏、筑後・豊後の援軍を受けて挙兵、隈部氏らの叛乱を退けた。


文亀元年(1501)、伯耆為光を擁する隈部忠直が謀叛を起こし、能運は有馬氏を頼って肥後から退去した。
文亀三年、能運は重臣城越前守、隈部兵部少輔らに擁立され、有馬氏、相良長毎らの応援を得て、八代城を攻撃、為光を討ち取った。
しかし、翌永正元年(1504)、能運は前年に受けた戦傷が癒えず死去してしまった。



守護菊池氏の衰退

この能運の死をもって、肥後国は本格的な戦国時代を迎えることになるのである。
能運の死後、一族から政隆が家督に迎えられたが、重臣らはこれを歓迎しなかった。


菊池氏の動揺をみた阿蘇大宮司惟長は、肥後守護職を望み、
大友義長の支援を得て菊池氏の重臣に種々の働きかけをした。

その結果、菊池氏の重臣八十四名は政隆を追放し、
惟長を迎えて守護に推戴した。

肥後守護となった惟長は大宮司職を弟の惟豊に譲り、隈府城に入ると菊池武経と称した。


一方、山鹿に逃れた政隆は、山本郡の内空閑重載の援助を乞うた。


重載は一族の内空閑朝誠・同運直・同朝貞らとともに政隆を追放した八十四名の内に加わっていたが、
心からの惟長支持派ではなかったようだ。


その後、政隆は山鹿、山本、玉名と転々とした末に、大友軍と戦って敗れ自害した。
一方、菊池氏を継いで肥後守護となった武経も、菊池氏重臣の反抗によって、永正八年、阿蘇へと帰っていった。


内空閑重載、隈部親氏ら菊池氏重臣は、菊池一族の詫磨氏から武包を迎えて守護とした。



永正十五年(1518)、大友氏を継いだ義鑑は、菊池氏重臣に迫って武包を追放させると、
同十七年、弟の重治を菊池に入れ肥後守護としてしまった。

重治は隈府城に入ったが、やがて鹿子木親員、田島一族の支持を得て隈本城に落ち着いた。


これは、菊池家中における実力者である隈部・赤星・城氏らを、重治が嫌った結果でもあった。


かくして、肥後守護となった重治であったが、次第に大友宗家か自立する動きを見せはじめた。


結局、重治はその高慢な姿勢が災いして重臣らの支持も失い、相良氏を頼って隈本城から退去した。

義鑑は内空閑長載ら、菊池氏重臣らに重治への協力をせぬように書状を送り、天文十二年(1543)、
みずからが肥後守護となった。


ここに至って、肥後守護菊池氏の命運は極まったといえよう。



乱世を生きる

天文十九年、大友義鑑は「二階崩れの変」で家臣によって殺害された。
これをみた義武(重治改め)は、田島氏、鹿子木氏らと結んで隈本城に復活した。
一方、義鑑のあとを継いだ義鎮は家中の混乱を治めると、城氏、小代氏らの支持を得て、
肥後に進攻すると翌年には肥後の中北部を征圧し、義武を殺害した。


義鑑は隈府城に赤星氏、隈本城に城氏を入れ、守護代として志賀親守を配し、
大津山城には小原鑑元を城督として入れて筑後方面に備えた。

かくして、肥後は大友義鎮の支配下、菊池氏老臣らが実質的な支配を行った。


この結果、肥後一国には強力な戦国大名が生まれず、五十二人の国衆とよばれる土豪層の割拠状態となった。


ところで、長載の子親貞は天文二年(1533)五月、薩摩の島津氏が芦北津奈木を攻めたとき、
城・赤星・田島・鹿子木氏らと菊池家を奉じて戦い、戦死したと伝えられている。


つぎの鑑貞は大友義鑑から一字を賜り、義鑑の死後は義鎮に仕えたというが、その治績は伝わっていない。

鑑貞の子が鎮資で、民部少輔・但馬守を名乗り、正観寺文書・宝成寺文書などによれば、
『内空閑鎮資書状』などを残し、菊池氏の老臣の一人として活躍していたことが知られる。

そして、肥後国が義鎮の支配下に入ったとき、霜野城にあって肥後国人の有力者のひとりであった。


鎮資は隈部親家の娘菊姫を室に迎えたが、二人の間に子ができなかったため、菊姫の弟源三郎(のち鎮房)を養子に迎えた。

ところが、その後男子(のち鎮照)が出生したことで、
内空閑家中は養子派と実子派とに分かれて対立が生じた。


そして、永禄九年(1566)の盆踊りのとき、互いの放言から大騒ぎになったと伝えられている。



内空閑氏の対立はその後も続き、内訌をみた隈本城主城親賢が仲介に立った。
親賢は着々と勢力を拡大する隈部氏を牽制するため、積極的に鎮照・鎮房の間をとりなしたのである。

そして『霜野由来記』によれば、
鎮房が霜野城を本拠に二百七十五町、
鎮照が内村城を本拠に二百七十五町を領することで内紛は一件落着したとある。



戦国時代の終焉

天正六年、日向に進攻した大友氏が耳川合戦で島津氏に敗れると、
城親賢は大友氏を見限り島津氏にくみするようになった。

一方、隈部氏は天正五年ごろより肥前の龍造寺隆信に通じて肥後侵攻を促し、
天正七年、龍造寺隆信は小代氏を攻略、同九年には赤星氏を隈府城に破り肥後を支配下においた。

龍造寺の肥後侵攻を阻止するため、城氏は島津氏に支援をたのみ、援兵を隈本城に迎えている。


その間、内空閑氏は隈部氏とともに龍造寺氏に通じていたようで、
島津勢の攻撃を受け、内村城は落城した。

鎮照は霜野城に逃れて、鎮房とともに島津勢の攻撃を防戦した。

その後も島津氏の侵略は続き、
ついに天正十一年、内空閑氏は島津氏の軍門に降った。


翌天正十二年、島津氏は有馬氏を支援して島原沖田畷で龍造寺隆信と戦い、隆信を敗死させた。


ここに至って隈部親泰も降伏、
天正十四年には阿蘇氏が追われ、肥後一国は事実上島津氏の勢力下におかれた。


肥後・肥前を征圧した島津氏は、大友氏の本拠である豊後への侵攻を開始した。

島津氏の攻勢に万事窮した大友宗麟は、上洛して豊臣秀吉に島津氏征伐を依頼、
天正十五年(1587)、秀吉は島津征伐の軍を発した。


物量とも圧倒的に優勢な秀吉軍の攻勢に、島津義久は降伏して薩摩に逼塞した。


その後の九州仕置において、秀吉に従った鎮西の国人衆は秀吉より所領を安堵され、内空閑氏も山本郡のうちで千五百町を安堵された。



秀吉は肥後一国を佐々成政に与え、三年間の検地禁止を命じた。
ところが、領内把握を急いだ成政は検地を進め、
これに反発した隈部親永らは国衆一揆を起した。


成政は六千の兵を率いて隈部城を攻撃、親永は子親安が籠もる城村城に入って佐々勢を迎え撃った。


内空閑鎮房も一揆方に味方して、成政の甥宗能を鹿子木で討ち取った。



内空閑氏の滅亡

この事態をみた秀吉は成政を尼崎に呼びつけ、天正十六年五月、命令を守らず一揆を引き起こした罪をもって切腹を命じた。


一揆軍に対しては九州諸大名に動員令を出し、黒田如水を上使として送り隈部親永は降伏した。
その後、親永と親安は切腹を命じられて、それぞれ腹を切り隈部氏は滅亡した。


内空閑鎮房は霜野城を落ちのびて、柳川に陣する安国寺恵瓊のもとに走って弁明につとめた。

しかし、柳川城主立花宗茂によって討ち取られた。


一方、内空閑鎮照は小代氏を頼って玉名郡石尾村に逃れていたが、安国寺恵瓊は周辺の武士に命じて鎮照を襲撃した。

鎮照は散々闘ったあと屋敷に火をかけ自害して果て、内空閑氏は滅亡した。


とはいえ、内空閑氏の子孫については『内空閑財満系図』によれば、
鎮照戦死のとき一児が残され、長じて鎮員を名乗ったという。

子孫は財満を称して存続したと伝えているが、往時の勢いに盛り返すことはかなわなかった。

【参考資料:熊本県大事典/植木町史/鹿央町史 など】



■参考略系図
・「内空閑氏記」所収系図を紹介。下記のものは鹿央町史より。

基貞─為載─重載─長載─載久─親貞─鑑貞─鎮資┬鎮房
                       └鎮照  
[54]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月06日 13時49分31秒 ) パスワード

  丸三柏 服部さま
>永井さんで三ツ柏って! まさに  長田家の紋  ですね。
 
 当方も、、驚愕しております。 新たな発見に感謝します。
 浜松図書館には長田(どの系統)→永田(秀忠乳母はどこから?)が、
疑問で、何度も足を運んでいました。浜松には 三河長田系、長田分家系永田、旧永田村関係と凡そ分類できると思われる所で一旦中止状態にしていました。 
 
 まさか永井氏になっていたとは!、。南朝がらみで、金指から湖北の西に
広がって長田家のものが駐屯、開拓していたとは聞いています。
 
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 14時38分20秒 ) パスワード

秀忠の乳母:大姥局



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A7%A5%E5%B1%80

大姥局


大姥局(おおうばのつぼね、大永5年(1525年) - 慶長18年1月26日(1613年3月17日))

江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の乳母。
今川家家臣岡部貞綱の娘で、夫は穴山梅雪家臣の川村善右衛門重忠。
甥に徳川家家臣の岡部永綱がいる。

大母局(おおばのつぼね)、岡部局(おかべのつぼね)とも。


子の川村荘八(岡部荘八)は、本多政重との諍いにより殺害されている。   ← 秀忠は本多は嫌いでしょうね


生涯[編集]

夫の川村重忠は最初今川家に仕え、人質時代の徳川家康の世話役であったが、
今川家衰退後は夫共々北条家に仕えた。


重忠の死後しばらくは駿河国で暮らしていたが、
生母を幼くして亡くしていた家康の子・秀忠の乳母として徳川家に召し出され、草創期の大奥で権勢を振るう。


秀忠は恐妻家で、嫉妬深い正室の江(崇源院)には頭が上がらず、側室を持つことも許されなかったとされているが、

大姥局の侍女であった静(のちの浄光院)に手を出し、妊娠させてしまう。
これを知った大姥局は静を庇護し、崇源院から匿って、無事に出産させた(生まれた子・幸松は大姥局と懇意にしていた見性院の養子となった。


紆余曲折を経た後に会津松平家を創始し、幕府の重鎮となった保科正之である)。


法華宗門徒であったらしく、池上本門寺の有名な五重塔(重要文化財)は慶長13年(1608年)に岡部局の発願、寄進により建立された。法名は正心院日幸尼。



ということは、この夫の川村という人は人質時代の家康に親切な人だったんでしょうね。

やっぱり人間、他人には親切にしておかないとね。
どこでどう報われるか
まさか秀忠の乳母が亡き川村の未亡人に決まるとはね。

良い夫を持ったものです。


岡部家って
岡部貞綱の曾孫?の勝元は幕臣になっていますから
岡部貞綱系は大姥局が出たことで一族安泰。大名になっているのもいるし。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 15時02分39秒 ) パスワード

長田氏は  古代氏族の他田 という名でも存在しているそうです。
それが平氏に変わった。

   今日、ヒバリさんの「藤原氏で服部」というのを調べてた時に
   諏訪大社についても調べてて
   この時に、長田さんが他田=おさだ=という名で出ているのを見ました。


古代氏族の他田から平氏の長田に変わったその理由も知りたいですね。



>浜松には 

   三河長田系、
   長田分家系永田、
   旧永田村関係

>と凡そ分類できると思われる所で一旦中止状態にしていました。


   また最初っから考え直さないといけませんね。
   現場100回です。


 
>まさか永井氏になっていたとは!。

   そうなんですよね
   現代から見るとワケ分からないんですよね。


>南朝がらみで、金指から湖北の西に広がって長田家のものが駐屯、開拓していたとは聞いています。


古代氏族  → 平安時代 → 源平時代 → 南北朝 → 戦国時代 → 江戸時代 → 現代

日本の歴史そのものですね。


 
   日本人同士の関係は  古代がらみ  源平がらみ  南北朝がらみ  戦国がらみ  江戸がらみ
   で何重にも絡み合ってるようですね。

   まさに日本史は我々日本人の歴史なんですね。


ヒバリさんのお話で、ココでは書けないような、日本人の歴史の秘密に気づきました。



このヒバリさんって人はすごい人だと思います。

   きっと麻績城が落ちた時に子供のことですごく泣いたんじゃないかな?
   それで子供を産みたいのに身体は男性だからその辛さがあるんじゃないかな?
   麻績城で先祖の清信公と一緒に戦いたかったんじゃないかな?

なんかそういうイメージが伝わってきます。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 15時17分29秒 ) パスワード

それに  金指  ですか? 

スレッド XV の方で長田氏=古代氏族他田氏=おさだうじ=について書いていますが

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E7%94%B0%E6%B0%8F

金指は金刺に通じるでしょうか?  

ココ

有力な他田氏としては、他田目古の系統がある。
多氏出身とされる科野国造家の後胤とされる  金刺舎人直金弓(金刺氏)の子で、

他田舎人部の伴造家となったことから他田舎人直となり、子孫は他田を名乗ることになる。

したがって、目古の兄である金刺麻背を祖とする諏訪氏とは同祖の関係となる。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 15時22分24秒 ) パスワード

長田さんの過去の暴露?


他田氏


家紋   
不詳

本姓
他田部氏

種別
武家
神官

出身地
信濃国小県郡    ←  小県は前にもしつこく書きましたね
             伊那とこんがらがってましたっけ(恥)
             そうそう  佐久  のことでしたよね?

主な根拠地
信濃国小県郡
信濃国諏訪神社


他田氏(おさだし)とは、日本の氏族のひとつで、
神武天皇の皇子  神八井耳命 かむやいみみのみこと を祖とする多氏に属する古代氏族とされる。



概要[編集]

他田氏の祖は部民制における他田部の出で、
部民制は7世紀に血縁に基づく氏族制へと変わっていくが、
部称は氏族名に転化されて残り、
                        いな!笑
奈良時代の神護景雲2年(768年)に爵2級を与えられた伊那郡の他田舎人千世売(おさだのとねり-ちよめ)や
万葉集に防人の歌を残した小県郡の他田舎人大嶋(おさだのとねり-おおしま)など、
主に信濃国を中心に他田を名乗る人物が記録に残されている。

ただし、同じ「他田舎人」であっても祖先が「他田の宮に奉仕する舎人」だったということ以外は示しておらず、
必ずしも血統的な同族と特定されるわけではない。


また、承平8年(938年)に東山道を京に向かう平貞盛と追撃してきた平将門の軍勢100騎とが信濃国分寺付近で戦った記録に、戦死者として信濃国小県郡の郡司他田真樹(おさだのまき)の名前が残されている。

     ここら辺りで  平氏  に変わったのかも



後述する他田目古系統など、主に各地の郡衙などに勤める地方役人であったとされるが詳細はわかっていない。

9世紀中頃より郡司の権限が国司に集約されるに従って、他田氏の記録も見られなくなっていく。


他田目古[編集]

有力な他田氏としては、他田目古の系統がある。

多氏出身とされる科野国造家の後胤とされる金刺舎人直金弓(金刺氏)の子で、

他田舎人部の伴造家となったことから他田舎人直となり、

子孫は他田を名乗ることになる。


したがって、目古の兄である金刺麻背を祖とする諏訪氏とは同祖の関係となる。


他田目古の子孫は、孫の老が従六位下伊那郡擬少領(「擬」は臨時の意味)に補されたことで主に南信濃に勢力を持ち、文治5年(1189年)の奥州合戦で勲功をあげた他田太郎重常を輩出している。

また伊那の豪族で、江戸時代に柳間詰交代寄合(三千石)として家門を保った知久氏の祖も目古系統の他田氏とされている。



その他[編集]   信濃の御厨(長田御厨や麻績御厨など)のコピペをしてた時ですね


祖が長田御厨の庄官を勤めたと伝えられる信濃国高井郡発祥の保科氏には「長田は他田に通じるもの」として他田氏出身とする説があり、

「信濃史源考」では諏訪氏の庶流としていることから前述の他田目古の系統である可能性もある。



ここで再び  松島と長田と麻績服部と伊賀服部が  絡みますね。
結局やっぱりみんな繋がってしまいますね。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 15時31分16秒 ) パスワード

http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira/matudaira_082.htm

金指など:旗本の近藤さん


http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira/matudaira_082.htm


近藤氏


始祖秀郷流藤原氏脩行が近江掾となり、近江藤原から近藤を称したことに始まる。



その後 一流が伊豆に移住し、源平合戦・承久の乱に名が見える。

直満の代に三河国八名郡宇利庄に住した近藤氏もその分流にあたり数代目(不詳)満用の時、松平清康(家康の祖父)に仕えた。


享禄三年(1530)  清康が宇利城を攻めた折、満用は松平氏に臣従したようである。


満用は宇利村を領していたと思われる。


満用の長子乗直は、松平清康に従い狩猟時に鹿を捕らえその角を裂く勇力から鹿角紋を与えられる勇者であったが、戦傷で歩行の自由を失い、弟忠用が家督を継いだ。


守山崩れによる松平清康の不慮の死により一時期近藤氏は今川に属すが、桶狭間合戦後忠用・康用父子は再び松平傘下となる。


ココ
 ↓
西遠江の案内役を務め康用は、武田氏の侵攻を宇利にて防ぐ功を上げている。
のち康用の子 秀用は井伊谷を与えられ武田の侵入防止役を任されている。  秀用は、長篠役でも軍功を上げるが、小牧の役時は、井伊直政に付属させられのち井伊家臣となることを嫌い出奔した。

慶長七年(1602)許され帰参、徳川秀忠に仕え上野国青柳にて五千石を得、槍奉行を務め、相模国内にて一万石に加増され諸侯に列した。

のち、所領を遠江国井伊谷に移されるが、家禄を子に分知し 子孫は旗本家五家となって続いた。



<旗本家として続いた引佐五近藤家>

近藤秀用の跡 宗家季用−貞用に五千四百石(金指)、
秀用二子用可に三千四百石(気賀)、
秀用四子用義の子用将に五千石(井伊谷)、
さらに気賀家用可の長子用行が三千石の分知(大谷)、
秀用の弟用伊が分知された(花平)


引佐町石岡の宝林寺の東隣の山腹に金指近藤家の墓所がある。

龍潭寺(井伊谷1989) 近藤家墓所もある。

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