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 投稿番号:101386 投稿日:2014年10月03日 09時53分49秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について17

コメントの種類 :その他  パスワード

前スレッドでは、古代豪族へ繋がるご教示を沢山頂きました。

頭を切り換え、視線を変えてみると、様々な事が見えて参りました。

これからも、しっかりと勉強させて頂きます。

今後ともどうかよろしくお願い致します。

平川家について16より続きます(__)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101373_86.html

[1]子孫よりさんからのコメント(2014年10月03日 19時41分24秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

まず・・・

前スレッド平川家について16の コメント81そしてコメント85
こちらの調査は何故か?続けざまにいつもの不思議な「感」がザワザワとざわめいて、調べた結果だったのですが・・

コメント81では 
県犬養橘三千代(県犬養氏)の先祖である「天羽雷雄命」
そして
阿波・安房忌部氏の先祖である「大麻比古」
「天羽雷雄命」「大麻比古」この方々は兄弟である・・・

コメント85では
中原清業の父「史大夫中原清貞」は坂上重盛の子息であり乳夫主計允「中原定清」の養子になった。
中原清業は坂上氏系図の「坂上(岡田)清業」であった。

と上記の事が理解できました。

そして・・
本日理解出来た事は、
コメント81と85で調べた事は、今までの調査で登場した方々に繋がっていたと言う事です。

県犬養氏と坂上氏は平安時代初期の球磨に係わる方に繋がっていました。

市房山神宮を大同2年(807)に建立した久米三良こと藤原真宗(久米氏)です。
そして
藤原真宗の兄弟「藤原良尚」。
藤原良尚の四男:藤原菅根の娘は「平時望」の妻であり
藤原良尚は「平師季」(永厳上人の父)「平範国」「行親」の先祖となる・・

では藤原真宗(久米氏)と藤原良尚の父である「藤原春継」の記述をご覧ください。

藤原春継 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%98%A5%E7%B6%99

藤原 春継(ふじわら の はるつぐ、生没年不詳)は平安時代初期の貴族。藤原南家、右中弁・藤原黒麻呂の子。官位は従五位上・常陸介。
弘仁14年(823年)従六位上から従五位下に叙爵。天長4年(827年)には従五位上に叙される。その他、中務大輔や常陸介を務めた。

(・_・)系譜をご覧ください

父:藤原黒麻呂
母:縣犬養氏
妻:坂上盛の娘(?-860)
男子:藤原良尚(818-877)※永厳上人は裔
妻:不詳
男子:藤原広基
男子:藤原真宗(?-?)※球磨の久米氏です。

(・_・)藤原春継 この方の
母は・・縣犬養氏
妻は・・坂上盛の娘

と言う事です。

県犬養氏と坂上氏は平安時代初期〜平安時代末期の球磨に係わる方々に繋がっていました。

では<(_ _)>
[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月03日 20時21分15秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>鹿児島神宮については、未だ、勉強していませんでした
 
やはり「天孫人種六千年史の研究」を読まねば、チンプンカンプンでしょう。
それはさておき、ここにも中原閨閥の影が。

大隅正八幡宮祠官修理所検校職「酒井氏」の系図で成る程と理解されるでしょう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/04/04006.htm
 
中原氏の曩祖が火神族の饒速日命だからこそ、酒井氏に婿入りできたわけですよ。
[3]子孫よりさんからのコメント(2014年10月03日 23時08分34秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「酒井氏」の系図拝見致しました。

豊前の酒井勝の後裔。
何も解らないので勉強致しました。
酒井勝(すぐり)勝姓の氏
ただ、いまひとつ勝姓の意味が解りません。
酒井勝 は辛島勝と同じく宇佐国造と繋がってくるのでしょうか?

大隅正八幡宮とは現鹿児島神宮。(まず、ここから勉強です)

主祭神
天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)
豊玉比売命 - 天津日高彦穂々出見尊の后神

相殿神
帯中比子尊(仲哀天皇) - 八幡神を合祀した関係による
息長帯比売命(神功皇后) - 同上
品陀和気尊(応神天皇) - 同上
中比売尊(仲姫命) - 応神天皇の皇后。同上
太伯 - 句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる

天孫人種六千年史の研究は残念ですが、まだ読むことが出来ていませんが
私ですね・・胸の中がものすごくザワザワといえトキメキに似た感情が出ています。
今の感情の表現の仕方が解りませんが、でも、なんでしょうか、何の物証も無いのに、すごく解るのです。感というか・・心の声?

「中原氏の曩祖が火神族の饒速日命だからこそ、酒井氏(大隅正八幡宮祠官修理所検校職)に婿入りできた」

日本の苗字七千傑様、私、見えてきたようです(^・^)

そして、ご教示のお陰で、このような記述も見つけました。
荒田八幡宮 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E7%94%B0%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE_ (%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)

荒田八幡宮(あらたはちまんぐう)は鹿児島県鹿児島市下荒田二丁目にある神社。かつての鹿児島総廟とされる。

由緒[編集]
社伝によれば和銅元年(708年)の創祀というが、建久8年(1197年)の『建久図田帳』に「大隅正八幡宮御領鹿児島郡荒田荘」とある事から、平安時代末期に「大隅正八幡宮」(現鹿児島神宮)の荘園である荒田荘が立荘され、その守護神として同宮を勧請、同宮の分宮(わけみや)として創祀されたと見る説もある。

祭神[編集]
応神天皇、神功皇后、玉依姫命を祀る。
従前よりマムシ除けに利益があるとされ、社殿下の砂をお守りにする。その他、文教や海運、安産の面で篤い信仰がある。

※(・_・)
従前よりマムシ除けに利益があるとされ、社殿下の砂をお守りにする。

偶然とは思えないのですが・・
「マムシ除け」の御利益です。
平川義高を祀った荒田大王神社でも、マムシ除けの御利益が。

そして、
祠官[編集]
宮司は鹿児島神宮宮司が兼務。

以前、「荒田」と言う言葉で調査していた時には、全く勉強が出来ていなかったので、解らなかったのですが、今は・・・

中原氏の曩祖が火神族の饒速日命
中原氏と宮原(橘)は遡れば同族。

平河も明らかに繋がっていると確信してきました。

御教示、本当にありがとうございました。
[4]白石さんからのコメント(2014年10月03日 23時44分40秒 ) パスワード

こんばんは
福岡小倉区の八旗八幡神社≪守恒神社》
※守恒神社で 検索をかけると 「菅原神社」が出る。
祭神
息長帯比売命 オキナガタラシヒメノミコト
品陀和気命 ホムダワケノミコト
多紀里比売命 タギリヒメノミコト
市寸島比売命 イチキシマヒメノミコト
多岐都比売命 タキツヒメノミコト
興津彦神 オキツヒコカミ

興津彦神で検索
http://www.tukinohikari.jp/hotsuma/22-okitsuhiko-himitsunoharai/index.html
神功皇后と応神天皇 三人の姫は 天照とスサノオの天の安河原の誓約で生まれたとき スサノオの子とされた。
興津彦神 オキツヒコカミ は 御竈神の祭主で その祝詞の中に
ここも高天原のうちなれば・・・とある。

また 平野神社で も 久度の神としてまつられており、今木の神は百済の神のことで 神社の古びた木の案内には 百済の言葉が書いてある。
※平野社の祭神は皇太子守護の性格を持ったほか[1]、源氏・平氏・高階氏・大江氏のほか中原氏・清原氏・菅原氏・秋篠氏らから氏神として崇敬され、「八姓の祖神」とも称されたという[4]。

守恒神社の菅原神社
以前 コメントしたかと思っていますが、同級生は 宮原→親の離婚か?黒川
でも 私は なぜか 親が言っていたか 教室で聞いたかは定かでないけど 菅原さんと 言っていました。


[5]子孫よりさんからのコメント(2014年10月04日 08時36分06秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

八旗八幡神社≪守恒神社》

ただ、八旗八幡神社は小倉南区長尾と言う場所にありまして、「守恒神社」という名称ではなかったような・・(すいません、地元ですが詳しくわからなくて)
場所も守恒とはかなり離れていまして(おそらく3〜4キロ)

八旗八幡神社に関して、足立妙見宮の宮司様のブログに関連するお話がありました。
八旗八幡神社 式年祭
2009/05/10 19:06:57
http://www.myouken.or.jp/103425.html

「清和天皇貞観年中に山城の國(京都)の岩清水神宮より豊前の國一国一所の霊場として御鎮座されたそうでございます。」
とお書きになっていらっしゃいます。

守恒と言う場所は小倉南区にありまして、モノレール守恒駅・小倉競馬場・北九州市立大学なども近隣にあります。

守恒と言う場所により近いのは(それでも1キロ程の距離ですが)
蒲生八幡神社です。

蒲生八幡神社 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_ (%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B8%82)

蒲生八幡神社(かもうはちまんじんじゃ)は、福岡県北九州市小倉南区蒲生(がもう)に鎮座する神社。旧社格は県社。
御祭神[編集]
応神天皇
神功皇后
宗像三女神
大山祇命
細川幽斎
細川忠興 
歴史[編集]
往昔、蒲生村虹山(巣山)の峯に多紀理比売命・多岐都比売命・市寸島比売命の三神が天降り、「我、永く此地を守らん」と告げる。そこで、里人は紫の池の辺に多紀理比売命を祀り、虹山の山頂に多岐都比売命を祀り(蒲生宮)、紫の池の北に市寸島比売命を祀った。後に、蒲生宮に応神天皇・神功皇后を祀り、蒲生八幡宮とした。
元暦元年甲辰年に壇ノ浦の戦いで平氏が敗戦。安徳帝は入水し、三種の神器も海中に沈む。源頼朝はこのことに嘆き、規矩郡(企救郡)高浜浦の漁人の長、岩松与三に神器を探し出すよう命じた。岩松は蒲生八幡宮に神器発見・安全を祈願したのち海に入り、鏡と勾玉を網に得ることができ、源頼朝に献上。岩松はこの功績により、規矩一郡を与えられるが、蒲生の神々の御神徳によるものとし、一郡すべてを神社に寄進した。

元弘・正慶・建武年間、虹山城主・規矩氏に崇敬を受け、多くの神領を与えられる。応永年間には、規矩親忠が神殿を建立。大永2年4月に小倉城主・小野田種尚より、規矩郡大野庄平田二反を与えられる。
天正のはじめに、大友宗麟の兵火に罹り、神社焼失。このことを憂いた、岩松弥兵衛(三郎兵衛)は高浜(現在の井筒屋付近)に神社を造立し、社号を規矩(企救)八幡宮(高浜八幡宮)とした。小倉城主・高橋鑑種が社殿造営し、鳥居を建立する。天正年間、小倉城主・毛利成儀(勝信)からも篤い崇敬を受ける。慶長7年、小倉城築城に伴い、細川忠興は神社が鎮座する高浜を東曲輪とするために規矩八幡宮をもとの蒲生の地(中島山)に遷し、社号を再び蒲生八幡宮とした。寛永9年に入国した小笠原藩からも篤い崇敬を受け、社殿造営等がなされた。

特徴[編集]
小倉で最古の歴史を有する神社。
中世、小倉一円の産土神となる。(小倉郷土会)
氏子の多さが県下屈指である。その範囲は近郷のほか、小倉中心街にまでわたる。
厄祓い・厄除の神社として信仰を集める。
御社殿建築 御幣殿は北九州市で最古であり、御本殿は旧豊前国で最古である。

(・_・)
白石様、ありがとうございます。
白石様が「守恒神社」とヒントを与えて下さらなかったら、私、蒲生八幡神社について全く知らないままの状態でした。

そして蒲生八幡神社は鹿児島にも。
蒲生八幡神社 (姶良市) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_ (%E5%A7%B6%E8%89%AF%E5%B8%82)

蒲生八幡神社(かもうはちまんじんじゃ)は鹿児島県姶良市蒲生町上久徳にある神社。旧名は「正八幡若宮八幡宮」。

祭神[編集]
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の八幡三神を祀る。
歴史[編集]
藤原氏北家教通流の分出とされる蒲生(かもう)氏の初代当主舜清(ちかきよ)が保安4年(1123年)に大隅国へ下向、生母が宇佐八幡宮の宮司家出身であった縁で同宮から勧請して創祀したという。戦国時代、島津氏との激しい戦いの末に蒲生氏は敗れて島津氏の軍門に下り、弘治3年(1557年)他地に退去させられた。その後島津義弘により社殿が再建される。また元和4年(1618年)12月には義弘から鳥居と額が奉建されたともされる。

文化財の記述の中に
蒲生の大クス - 推定樹齢1,600年(平成22年現在)の楠の大木で、国の特別天然記念物。昭和63年(1988年)度の環境庁による巨樹・巨木林調査で日本一の巨樹であると認定された。宇佐八幡宮神託事件で大隅へ配流された和気清麻呂が当地を訪れ、手にしていた杖を地に刺したものが根付いたものと伝えられ、神社創祀時には既に神木として祀られていたという[2]。

「和気清麻呂」この方をお祀りされているのが小倉の足立妙見宮です。
http://www.myouken.or.jp/default.asp

(・_・)所で・・・
気が付きました。

蒲生八幡神社 (姶良市)の情報の中に

※藤原氏北家教通流の分出とされる蒲生(かもう)氏の初代当主舜清(ちかきよ)が保安4年(1123年)に大隅国へ下向、生母が宇佐八幡宮の宮司家出身であった・・・

日本の苗字七千傑様の【藤原氏教通流】姓氏類別大観 を拝見致しました。

「従三位通基の子教清は豊前に下向して宇佐八幡宮留守職となり、猶子と思われる蒲生舜清は大隅国垂水に宇佐八幡宮を勧請する。」
とありました。

【蒲生氏】(天孫系)姓氏類別大観も続けて拝見致しました。
「天津彦根命の裔孫にして、欽明天皇6年(545)に三麻呂は蒲生稲寸を賜姓される。
 後裔の惟俊は藤原季俊の猶子となり、藤原に改姓。」
とのお言葉が。

天津彦根命の裔孫。

今朝は、地元北九州の神社についてご教示を頂き、蒲生氏について勉強をする事が出来ました(^・^)
では<(_ _)>(^・^)
[6]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月04日 11時31分28秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>ただ、いまひとつ勝姓の意味が解りません。
 
勝(すぐり)はカバネ(姓)の一つで諸蕃の出自、村主(すぐり)と同じ。
八幡神関連ならば、おそらく辰韓系でしょう。
八幡神は辛国の神で、辰韓からの豊前への移住者が祀っていた。
だから最多の祭神が記紀などに登場しない。
八幡・の起源に豊前の法蓮が拘わっており、詳細は「彦山流記」を参照のこと。
http://www.gallelivre.com/glshop/?p=productsMore&iProduct=3170
  
辰韓が滅亡して新羅が建国されたことを、太安万侶が迷彩工作で伏せた。
まあ朝鮮史も辰韓の存在を曖昧にしているから、同じ穴のムジナ。
 
後世、応神天皇と習合して、現在では応神天皇が八幡宮の祭神。
尤も応神天皇の母系を遡れば、祖は辰韓系の天日槍命なのである。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03017.htm
[7]子孫よりさんからのコメント(2014年10月04日 16時01分58秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年10月04日 16時17分44秒
[8]子孫よりさんからのコメント(2014年10月04日 16時17分10秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「勝(すぐり)はカバネ(姓)の一つで諸蕃の出自、村主(すぐり)と同じ。」

村主 
すくり【村主】 コトバンクより

日本古代の渡来系氏族の姓(かばね)の一つ。〈すぐり〉ともいう。村主を〈すくり〉と読むのは,古代朝鮮語の郷,村を意味するsu‐kur(足流)という語に由来する。5世紀以降,主として朝鮮百済から渡来した技術者集団である漢人(あやひと)を,各国内の村に配置したさいに,各集団を統率した渡来人の長を村主と呼称したものらしい。やがて姓制が確立すると,称号である村主も姓の一つとなり,また後には氏名ともなった。村主の姓を称する氏族には,高向(たかむく)村主,西波多(かわちのはた)村主,平方村主などがおり,仁徳天皇の時代に百済などから村落の人たちが,こぞって日本に渡来したとする伝承を持ち,いずれも,後に坂上氏となる東漢(やまとのあや)氏の統轄下に,各種の技術者集団の統率者の役割を果たしていたらしい。

「八幡神関連ならば、おそらく辰韓系でしょう。
八幡神は辛国の神で、辰韓からの豊前への移住者が祀っていた。
だから最多の祭神が記紀などに登場しない。」

ありがとうございます。やっと意味が理解出来てきました。

御教示頂いた彦山流記を必ず読みます(^・^)

「尤も応神天皇の母系を遡れば、祖は辰韓系の天日槍命なのである。」

【三宅氏】姓氏類別大観 を拝見致しました。
天日槍命は新羅第4代国王脱解王の子息と言われている方なのですね。

あっ!!あの・・・
今、天日槍命について勉強をと思いまして、ウィキの記述を読んでいたのですが・・
日本の苗字七千傑様のご教示がヒントとなり、私、1年半前に夢に出てこられた「お菓子の神様」を見つける事が出来ました\(◎o◎)/!
(マタマタという大合唱が!でも、本当です!)

天日槍命 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3

アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)は、『古事記』、『日本書紀』に見える新羅の王子。『播磨国風土記』には神として登場する。

古事記においてアメノヒボコと阿加流比売神の子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理(たぢまもり・田道間守{日本書紀})であり、次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命であるとされている。しかし日本書紀において結婚したのはアメノヒボコでなく意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とされている点で異なる。また古事記ではアメノヒボコの話は応神天皇の段にあり、応神天皇の治政を述べるくだりで出現する。日本書紀では応神天皇は神功皇后の子であり、神功皇后の母はアメノヒボコの末裔の葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)であるため、古事記と日本書紀では系譜(アメノヒボコが出てくる話の時系列)が逆転している。
なお、アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある(新羅王族であった昔氏は、倭の但馬地域から新羅に渡り王となったとされており、新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている)。

※古事記においてアメノヒボコと阿加流比売神の子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理(たぢまもり・田道間守{日本書紀})であり

もう、かなり以前にコメントしていたと思います。(もしかしたら、変な人と思われるのが怖くて削除したかな?)
夢の中で私は、見た事も無い宮殿のような大きな神社のような不思議な建物の中にいて、外から突然男の人が袋を建物の中に投げ入れてこられ、ビックリして袋の中を見たら、沢山のお菓子のような物が入っていました。
私は、その方を必死に追いかけて、その宮殿のような建物の大きな門の外まで行ったら、小さな石橋があり、外は古代の街並みのようになっていて、その橋の上でその男の人に「あなたは何方ですか?」と聞いたら、
「知りたかったら調べなさい」と言われた・・・
という夢です。
この夢も先祖調査のきっかけになっていました。
おそらく、白石様と「お菓子に関係する神様」もしくは「プレゼントを投げ入れる?神様」の様なお話でやり取りをした記憶が・・

お菓子の神様はいらっしゃったのですね!

多遅摩毛理(お菓子の神様)を調べます(__) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%82%E3%83%9E%E3%83%A2%E3%83%AA

タヂマモリは、日本の古墳時代の人物。菓子の神としても崇敬される。『古事記』では多遅麻毛理、『日本書紀』では田道間守と表記される。

事記と日本書紀では系図が異なり、古事記では多遅摩比那良岐(たじまひならき)の息子で多遅麻清日子(たじまきよひこ)の兄だが、日本書紀では但馬日楢杵の息子である但馬清彦の息子である。11代垂仁天皇の命により、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めて常世の国に渡った。10年かかって葉附きの枝と果実附きの枝を日本に持ち帰ってきたが、垂仁天皇はすでに亡くなっていた。タヂマモリは半分を垂仁天皇の皇后に献上し、残りを垂仁天皇の御陵に捧げ、悲しみのあまり泣き叫びながら亡くなったという。

タヂマモリが持ち帰った「非時の香菓」は、記紀では現在の橘のこととしている。「タチバナ」という名前自体、タヂマバナ(田道間花)が転じたものとする説もある。当時「菓」といえば果物のことであったが、この説話からタヂマモリは菓子の神「菓祖」として信仰されている。
果物や薬草を求めて異界に行く話は世界各地に伝わるもので、この説話は中国の神仙譚の影響を受けているという説もある。例えば秦の徐福が蓬莱に不老不死の薬を求めに行く話とは類似する点が多い。
タヂマモリは、菓子の神として中嶋神社(兵庫県豊岡市)に祀られている。中嶋神社の分霊が太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都市)など全国に祀られており、菓子業者の信仰を集めている。
佐賀県伊万里市には、常世の国から帰国したタヂマモリが上陸した地であるという伝承があり、伊萬里神社にはタヂマモリを祀る中嶋神社がある。和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は、タヂマモリが持ち帰った橘の木が初めて移植された地と伝えられる。
内藤湖南は『卑彌呼考』にて、『魏志倭人伝』に記される邪馬台国が『記紀』に記されるヤマト王権であるとした上で、卑弥呼が魏に使わした大夫難升米はタヂマモリのことであるという説を唱えている。

\(◎o◎)/!えええええええええええええええええええええええっ!!
※タヂマモリが持ち帰った「非時の香菓」は、記紀では現在の橘のこととしている。「タチバナ」という名前自体、タヂマバナ(田道間花)が転じたものとする説もある。当時「菓」といえば果物のことであったが、この説話からタヂマモリは菓子の神「菓祖」として信仰されている。
\(◎o◎)/!お菓子とは「橘」の事ですか!!

\(◎o◎)/!えええええええええええええええええええええええええっ!!
※タヂマモリは、菓子の神として中嶋神社(兵庫県豊岡市)に祀られている。中嶋神社の分霊が太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都市)など全国に祀られており、菓子業者の信仰を集めている。
佐賀県伊万里市には、常世の国から帰国したタヂマモリが上陸した地であるという伝承があり、伊萬里神社にはタヂマモリを祀る中嶋神社がある。

「中嶋神社」・・なかしま神社・・・なかしま? はっ!

「佐賀県伊万里市 伊萬里神社」・・・伊万里市・・はっ!

先日、公忠公の末裔様から御縁を伺った「吉田神社(京都市)」

「夢」から始まった調査が、このように繋がってくるとは・・・?

中島霧島神社・・・なかしま・・・なかしま・・?

天日槍命と阿加流比売神の子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理(たぢまもり・田道間守)。

多遅摩毛理が持ち帰ったお菓子とは「橘」であったと言う事が解りました。

不思議な感じです・・(・_・)

では<(_ _)>(^・^)
[9]子孫よりさんからのコメント(2014年10月05日 08時52分28秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

今朝は「加賀国」について調べました。

藤原師高は、様々な記述に父「西光」の権威によって、加賀守となったと載っていますが・・・
私は、本当に「それだけ?」で加賀守になれたのか?が不思議に感じていたのです。

まず、白山事件について、西光を悪人とする事なく冷静な分析を行っている記述がありましたのでご覧ください。
白山神輿上洛 「福井県史」通史編
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/6a7-01-04-03-01.htm

律令制下の地方行政に参画した伝統的地方豪族たちは、平安時代になって徐々にその勢力を失い、土着国司の系譜を引く武士がそれにとって代わるようになった。一方、寺社は多くの荘園を管理することによって、土地・人民をめぐって朝廷やほかの領主との紛争を起こすようになった。とくに、寺社は僧兵・神人とよばれる武力集団を組織して時代を乗り切ろうとしたのである。また、これら地方の各寺社は中央の寺社との縦のつながりを強くし、全国的な組織のもとに団結する動きもみられるようになってくる。  白山をとりまく地域における白山信仰は、越前馬場(白山中宮=平泉寺)・加賀馬場(白山本宮)・美濃馬場(白山中宮=長滝寺)を拠点として盛んとなり、平安中期ごろからこの三馬場間での本家争いが激しくなる。やがて信仰上の権威と寺勢を保つため、平泉寺は応徳元年(一〇八四)に比叡山延暦寺の末寺となったのに続いて、加賀馬場の白山本宮(白山寺)は久安三年(一一四七)に延暦寺の別院の資格を得たのである。とくに、平安後期の加賀馬場は白山本宮を中心とする白山七社を中心に構成され、手取川河谷の中・上流域一帯を主な勢力範囲とし、白山寺の長吏や本宮の神主の統率のもとに、有力な農民を神人や衆徒としてかなりの武力をたくわえるようになっていたのである。  

(・_・)ここで
※白山をとりまく地域における白山信仰は、越前馬場(白山中宮=平泉寺)・加賀馬場(白山本宮)・美濃馬場(白山中宮=長滝寺)を拠点として盛んとなり、平安中期ごろからこの三馬場間での本家争いが激しくなる。
(・_・)江戸時代までこの争いは続いていたようです。

続けます(__)
後白河院と平清盛の手中に政権があった安元元年(一一七五)十二月、後白河院の側近で権力をふるっていた藤原師光の子師高が加賀守に任じられた。翌二年夏ごろ、師高の弟師経が兄の代官として加賀にやってきた。彼は父の権勢を背景に国衙権力の回復をねらい、国衙の東側に群在する白山中宮八院の一つである鵜川(石川県小松市)の涌泉寺に検注を試みたのである。国衙権力の回復をめざす師経側と国使の入寺に抵抗する寺僧側との主張が対立し、武力衝突を招く結果となった。結局、師経は涌泉寺に乱入して、僧坊のすべてを焼き払ってしまったのである。師経のやり方に憤慨した白山三社八院の大衆が師経の館を包囲したところ、すでに師経らは京に逃げ帰ったあとであった。そこで白山側は、師高・師経兄弟の処罰を実現しようと、本山延暦寺へ訴えたのであった。しかし、延暦寺からの返事は末寺のことだからと消極的であったので、翌年(安元三年)一月、佐羅宮(白山七社の一つ)の神輿を先頭に、甲冑に身を固めた白山側の衆徒たちが北陸道を上って延暦寺へ向かったのである。その時の様子を『源平盛衰記』はかなり詳しく述べている。
 二月五日に願成寺に着く。六日に仏が原、金劔宮、三日逗留する。十日に金劔宮出発、あわづ(粟津)に着く。十一日に須河社(江沼郡菅波?)、十二日に越前国細呂宜(木)山の麓、福竜寺森の御堂に入る。十三日に木田河のはた、十四日に小林の宮、十五日にかえるの堂、十六日に水津(敦賀市杉津)の浦、十七日に敦賀の津、金が崎の観音堂へ入る。三月十三日に神輿をかかげて敦賀津を出発、荒智の中山を越えて海津の浦に着く。十四日に客人の宮(日吉七社の一つ)の拝殿に入る。四月十三日に白山佐羅宮の神輿、日吉七社の神輿とともに比叡山から下洛する。
 参加した衆徒は「帰命頂礼、早松金劔両所権現、本地垂跡(迹)力を合わせ、思いを一にして、速かに師高・師経を召捕り給え」と口々に呪咀しながら都へ向かった。加賀から越前に入ると参集するものも多く、「御伴の人数九千余人、在々所々に充ち満ちたり」とあるように、相当の数になったものと思われる。また、敦賀に逗留した一月余の間、交渉や連絡などのために敦賀と比叡山、敦賀と加賀白山側との往復も盛んであったと考えられる。結局は、神輿を振りかざした巨大な衆徒集団の強訴に屈した中央政府は、師高・師経兄弟を解任し、尾張・備後へ流罪とせざるをえなかった。こうして白山側の執拗な訴えは、延暦寺などを巻き込んでかなえられたのである。

(・_・)
※国衙権力の回復をねらい、国衙の東側に群在する白山中宮八院の一つである鵜川(石川県小松市)の涌泉寺に検注を試みたのである。国衙権力の回復をめざす師経側と国使の入寺に抵抗する寺僧側との主張が対立し、武力衝突を招く結果となった。結局、師経は涌泉寺に乱入して、僧坊のすべてを焼き払ってしまったのである。

(・_・)
寺社勢力が非常に強大となっていたのですね・・
師経は国衙権力の回復をめざした・・・

しかし
涌泉寺に乱入して、僧坊のすべてを焼き払ってしまった・・・

あまりにも・・・

でも、何故?そこまでしたのか?

そこで、もっと知りたくなりました・・
加賀国の事を・・

長くなりましたので次のコメントに続きます。
<(_ _)>
[10]子孫よりさんからのコメント(2014年10月05日 09時08分02秒 ) パスワード

続けます(__)

まず、加賀国とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%9B%BD

越国が689年-692年(持統天皇3-6年)越前国、越中国、越後国の三国に分立し、718年養老律令制定により能登国が越前国から分離し、その後823年、さらに越前国から江沼郡と加賀郡を割いて加賀国が設置された。
同823年6月4日に、江沼郡の北部から能美郡、加賀郡の南部から石川郡が分けられた。加賀郡は後に河北郡と呼ばれ、大海川は現在も加賀と能登の両地方の大まかな境界となっている。
大化の改新の頃までは加賀郡は賀我、加宜、香我、賀加とも言われたとされる [1]。
加賀国は、令制国の中で最後に建てられた国である。その建国への提案は越前守の紀末成による。末成は、加賀郡が国府から遠く往還に不便で、郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散し、国司の巡検も難しいといったことを理由にあげた。太政官はこれを受けて弘仁14年 (823年) 2月に、越前の二郡を割いて加賀国を建て、中国にすることを奏した。3月1日に太政官は符を下して加賀国を作り、中国と定めた。同年6月4日に、江沼郡の北部を能美郡とし、加賀郡の南部を石川郡とすることを、加賀守を兼任した紀末成が言上し、これによって四郡になった。天長2年(825年)1月10日に、課丁と田の数が多いという理由で、加賀国は上国に変更になった[2]。

(・_・)ここで

※加賀国は、令制国の中で最後に建てられた国である。その建国への提案は越前守の紀末成による。
(・_・)「紀末成」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E6%9C%AB%E6%88%90
紀 末成(き の すえなり、天応元年(781年) - 天長2年12月4日(826年1月15日))は、平安時代前期の貴族。大納言・紀古佐美の九男。子に安麻呂・安根がいる。官位は従四位上・越前守、贈正四位上。
父:紀古佐美
母:不詳
妻:不詳
男子:紀安麻呂
男子:紀安根 - 子孫は東大寺八幡宮神主・上司氏
(・_・)子孫は東大寺八幡宮神主・上司氏。

(・_・)加賀国の記述転記を続けます

国府[編集]
国府は能美郡にあった。現在の石川県小松市古府町にあったと考えられている。
易林本の『節用集』では、「加賀郡に府」と記載がある。

国分寺・国分尼寺[編集]
国分僧寺は、承和8年(841年)、既にあった「勝興寺」(現 小松市)を国分寺に転用して設けられた。
尼寺は伝わっていない。

(・_・)国府は能美郡にあった。現在の石川県小松市古府町にあったと考えられている。「石川県小松市古府町」です。

続けます(__)
神社[編集]
延喜式内社
『延喜式神名帳』には、小社42社42座が記載されている。大社はない。

総社・一宮以下
総社 石部神社 (小松市古府) - 南北朝期に一宮を主張し、白山比・神社と論争になった。
一宮 白山比・神社 (白山市) - 式内社。
二宮 菅生石部神社 (加賀市) - 式内社。

あれっ??!(?_?)(・_・)
全くの勉強不足でした!
無知によるイメージが「加賀国」=「白山神社・白山信仰」となっていたのですが・・でも
「総社 石部神社 (小松市古府) - 南北朝期に一宮を主張し、白山比・神社と論争になった。」とあります。

総社 石部神社 (小松市古府)。小松市古府とは国府があった場所ですね。

すごく気になり始めました(-_-)

先ほどのコメントに
白山をとりまく地域における白山信仰は、越前馬場(白山中宮=平泉寺)・加賀馬場(白山本宮)・美濃馬場(白山中宮=長滝寺)を拠点として盛んとなり、平安中期ごろからこの三馬場間での本家争いが激しくなる。
ともありました。

では次のコメントで
白山信仰そして 石部神社について調べます。
<(_ _)>
[11]子孫よりさんからのコメント(2014年10月05日 10時00分02秒 ) パスワード

続けます(__)

白山信仰 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%B1%E4%BF%A1%E4%BB%B0

白山信仰(はくさんしんこう)は加賀国、越前国、美濃国(現石川県、岐阜県)にまたがる白山に関わる山岳信仰。
古くから「越のしらやま」として、詩歌に詠われた白山は、富士、箱根とならび「日本三名山」のひとつに数えられる秀麗な峰であった。また、白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で、人々の生活と農事の一切が成り立っていた。このため、古代より白山は「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川流域を中心に崇められていた。
奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、今日一般に認識されている「白山信仰」が成立することとなった。

(・_・)泰澄が登頂して開山
泰澄 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E6%BE%84

泰澄(たいちょう、天武天皇11年6月11日(682年7月20日) - 神護景雲元年3月18日(767年4月20日))は、奈良時代の修験道の僧。加賀国(当時越前国)白山を開山したと伝えられる。越の大徳と称された。

越前国麻生津(福井市南部)にて、豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれる[1]

※別の記述に
父は三神安角、母は伊野氏でその二男として誕生 とありました。
父 三神安角この方は
「父の三神安角は高句麗からの亡命帰化人の子であった」との記述
http://www.oidenense.net/node/24
そして
「父の三神安角は新羅系渡来氏族で殖産氏族の秦氏。」との記述もありまして・・
http://silicon-kid.cocolog-wbs.com/blog/2013/06/22-9f7c.html

あれっ?どちら?だろう? 渡来系の方であったのは間違いないようですが・

(・_・)白山信仰の記述転記を続けます。
崇神天皇7年に、白山を仰ぎみる遥拝所が創建されたと伝えられる。祭神は菊理媛尊(白山比・大神)、伊邪那岐尊(伊弉諾命)、伊邪那美尊(伊弉冉命)の三柱であった。
その後、717年(養老元年)に、修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に登って瞑想していた時に、緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音の垂迹である九頭龍王(くずりゅうおう)が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現したのが白山修験場開創の由来と伝えられ[1][2][3][4]、以後の白山信仰の基となった。

※御祭神は菊理媛尊(白山比・大神)、伊邪那岐尊(伊弉諾命)、伊邪那美尊(伊弉冉命)の三柱であった。

翌718年(養老2年)に、泰澄は御前峰に社を築き、白山妙理大権現を奉祀した。
平安時代には、加賀・越前・美濃の3国に禅定道が設けられ、「三箇の馬場(ばんば)は、加賀の馬場、越前の馬場、美乃の馬場也」(三馬場)と呼ばれた[5]。そして、神仏習合により、820年(天長9年)には、それぞれの馬場に、白山寺、平泉寺、長滝寺の神宮寺が建立された。
延暦寺の末寺となった加賀国白山寺白山本宮、越前国霊応山平泉寺、美濃国白山中宮長滝寺は白山頂上本社の祭祀権を巡る争いを続けたが、寛文8年(1668年)白山麓は江戸幕府の公儀御料となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得した。

※延暦寺の末寺となった加賀国白山寺白山本宮、越前国霊応山平泉寺、美濃国白山中宮長滝寺は白山頂上本社の祭祀権を巡る争いを続けた。
(-_-)すごく何か深い部分がありそうです。

(・_・)曹洞宗[編集]
日本曹洞宗の道元禅師(高祖承陽大師)が宋から帰国する前夜に、白山権現が碧巌録の写本を助けたとの伝承がある[7]。このことから曹洞宗大本山永平寺は、白山権現を永平寺の守護神・鎮守神としており、毎年夏には永平寺の僧侶が白山に参詣して奥宮の前で般若心経を読誦する。

(・_・)曹洞宗とも繋がりがあるのですね。
ここまで、調べた中では疑問は湧かなかったのですが・・

白山事件について別の記述では
「西光の子の加賀守藤原師高と弟の目代師経が、日吉神社末社の加賀白山神社領 を焼きはらったことから、日吉神社と一体の延暦寺僧兵が日吉の神輿を担いで 押し寄せ、兄弟の処罰を求めた。」
とありました。

やはり延暦寺が強く関わっているのですね。

では続けて
加賀国 総社 石部神社 (小松市古府)
そして
二宮 菅生石部神社 (加賀市)を調べます。

次のコメントで<(_ _)>

[12]子孫よりさんからのコメント(2014年10月05日 10時45分47秒 ) パスワード

では続けます。

加賀国 総社 石部神社 (小松市古府)
そして
二宮 菅生石部神社 (加賀市)

小松市古府は国府があった場所でした。

石部神社 (小松市古府) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE_ (%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%B8%82)

石部神社(いそべじんじゃ)は、石川県小松市古府町に鎮座する神社である。加賀国総社であった。式内社で、旧社格は郷社。
祭神[編集]
祭神は櫛日方別命であるが、『加賀國式内等舊記』などには大物主神と記されており、近世には船見山王明神と呼ばれていた。

※御祭神は櫛日方別命   

あっ!!(゜-゜) 後ほど・・

続けます(__)
歴史[編集]
創祀年代は不詳であるが。加賀国が越前国から分国された弘仁14年(823年)よりも前から存在していたと伝えられ、加賀国の国府の南に位置したところから府南社との別名があった。ただし、『白山之記』には府南社の創建は加賀国が越前国されたときであるとしている。延喜式神名帳には「加賀国能美郡 石部神社」と記載され、小社に列している。
当社が加賀国総社とみられており、一時は隆盛を誇ったが安元2年(1176年)の涌泉寺事件以降勢力が衰えた。慶長5年(1600年)に丹羽長重により社殿の修理などが施され、江戸時代には歴代の加賀藩藩主の保護を受けた。また、当社が加賀国一宮であると考えられていた時期もあり、白山比・神社と論争になった。

※(・_・)慶長5年(1600年)に丹羽長重により社殿の修理などが施される。

御祭神は櫛日方別命。
櫛日方別命 別名 天日方奇日方命:あめひがたくしひがたのみこと

天日方奇日方命は中原氏へ・・
日本の苗字七千傑様の《大国主命系綱要》そして
【中原氏】姓氏類別大観 を拝見致しました。

石部神社 (小松市古府)御祭神 天日方奇日方命(櫛日方別命)は磯城津彦命の御爺様であり中原氏の祖となる方でした。

※中原氏に繋がっていました。

続けて(・_・)

二宮 菅生石部神社 (加賀市) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E7%94%9F%E7%9F%B3%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE

菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)は石川県加賀市にある神社である。式内社、加賀国二宮で、旧社格は国幣小社。通称敷地天神、菅生天神。

現在の祭神は「菅生石部神」となっており、これは天津日高日子穗穗出見命、豐玉毘賣命、鵜葺草葺不合命の三柱の総称としている。
祭神については諸説あり、少彦名神とする説もある。菅生石部神の本体三柱も、元は祭神の諸説の一つであった。

※御祭神 
天津日高日子穗穗出見命、豐玉毘賣命、鵜葺草葺不合命の三柱

あっ!!(・_・) 後ほど・・

歴史[編集]
社伝によれば、用明天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まるという。延喜式神名帳では小社に列し、加賀国二宮とされた。古来より朝廷・武門からの崇敬が篤く、天慶3年には正四位下の神階が授けられた。『平家物語』巻七には、木曾義仲が当社へ「のみ(野美)の庄」を寄進したとの記述がある。中世には、一帯は北野天満宮の社領となっていた。「天神」の通称はそこからきたものであり、現在もその名残で境内に牛の像が残っている。
明治29年(1896年)に国幣小社に昇格した。
京都の敷地神社(わら天神)は、当社からの勧請である。

(・_・) 
※御祭神 
天津日高日子穗穗出見命、豐玉毘賣命、鵜葺草葺不合命の三柱

天津日高日子穗穗出見命
火遠理命(ほおりのみこと)は、日本神話や記紀に登場する人物。別名は、彦火火出見尊・日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)、虚空津日高(そらつひこ)。正しくは、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこ(たか)ひこほほでみのみこと)と言う。「海幸山幸(うみさちやまさち)」の説話に登場し、一般には山幸彦(やまさちひこ)(山佐知毘古、やまさちびこ)の名で知られる。神武天皇の祖父に当たる人物。

天津日高日子穗穗出見命 別名 彦火火出見尊
山幸彦様です \(◎o◎)/!

豐玉毘賣命 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%92%E3%83%A1
海神・綿津見神(海若)の娘。天孫・邇々芸命が大山津見神の娘木花佐久夜毘売との間にもうけた火遠理命(=山幸彦)と結婚し、鵜茅不合葺命を生む。

鵜葺草葺不合命
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AC%E3%83%A4%E3%83%95%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%82%A8%E3%82%BA
ヒコナギサタケウガヤフキアエズ(日子波限建鵜草葺不合命・彦波瀲武盧茲草葺不合尊)は、日本神話の神。神武天皇の父にあたる。

二宮 菅生石部神社 (加賀市) の御祭神は
天津日高日子穗穗出見命、豐玉毘賣命、鵜葺草葺不合命の三柱

そういう事か!!そういう事なのですね!!!

加賀国 総社 石部神社 (小松市古府)
御祭神 天日方奇日方命(櫛日方別命)
※磯城津彦命の御爺様であり中原氏の祖となる方。
そして
二宮 菅生石部神社 (加賀市)
御祭神 天津日高日子穗穗出見命、豐玉毘賣命、鵜葺草葺不合命の三柱

日本の苗字七千傑様より
「平川家の良峯姓は良峯安世の裔ではなく、多姓丹羽氏が良峯姓の名跡を嗣ぎ名乗ったものですから彦火火出見尊が曩祖。」
と御教示頂いていました。

藤原師高は加賀守であった・・・・

加賀国を勉強したら
心の中がス〜〜〜〜ッとなりました。(^・^)

では<(_ _)>(^・^)

[13]白石さんからのコメント(2014年10月05日 21時40分30秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 中原と坂上に関係があったこと コメントで わかりました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昨日は 風のひきはじめだったのか 体がだるく 一日 ごろごろしていました。

平野神社その2
@桓武天皇の呼び名・高野の新笠の呼び名

雌師親王 (後の垣武天皇) とその母の. 高跚締御

A社家の姓氏-平野流卜部氏-
延暦十三年(794)平安京遷都に際して、京外の北方に、大和国に奉斎されてきた今木 神.久度神・古開神を遷座・勧請したことにはじまる。のち、承和年間に至って比口羊神 を奉斎した。・・・ひめかみ と よむらしい。

B平野氏
坂上行松(坂上行増)を祖とする平野氏(長寶寺寺記、末吉氏家譜)から末吉家をはじめとする平野七名家

C 桓武天皇の母高野新笠は田村後宮に今木神を祀ってきたが、これは父方(天皇外祖父)和氏の神だった。同様に母方(天皇外祖母)土師氏の神だったのが、久度神であろう。桓武天皇は外戚の父方・母方の氏神を合祭して新しい都の皇太子守護神とし、桓武天皇子孫への皇位継承を確実にしていくために創始された。
 社伝では、桓武天皇の母高野新笠の先祖百済の聖明王にゆかりの遠祖仇首王を久度神とし、古開神を古の沸流王と開を肖古王にあてている。

D田村後宮の消息は 奈良天理市 祝田神社にあり
祝田神社(天理市)
田村後宮
 田村後宮(田村旧宮)とは、★藤原仲麻呂の私邸・田村第の跡で、仲麻呂没落(764)後官有となり、光仁天皇(在位770--81)が即位前に住まわれた御殿といわれ(続日本紀・光仁天皇・宝亀6年-775-及び同8年条に「田村の旧宮で酒宴を催し云々」とあり、即位後も私的な御殿として使われていたらしい)、平城宮左京四條二坊(現奈良市四條大路)の辺りにあったという説が有力という。

田村後宮は、桓武天皇の父・光仁天皇の御所でした。桓武天皇の母・高野新笠(たかの のにいがさ)は百済系渡来氏族の和氏(やまとのふびと)の出身として知られますが、 彼女が田村後宮に父祖伝来の今木神という百済系の神を祀っ
ていたの・・・
E仲麻呂は 藤原南家で 恵美押勝のこと。
F今木の神とは ヤマトタケル (ただ 後世の符節?)
この田部村説に対して、天理市田町にあった祝田神殿を充てる説があり、石上神宮略抄(1720・江戸中期)に
 「祝田神殿一座田村に在り、(石上)神宮の坤(西南)凡そ二十余町 田村旧宮の後(跡、田村後宮ともいう)に坐す今木神は日本武尊也。天平宝宇年中(757--65)従五位下★吉田連智首或いは知須と云ふが祭る所ならん。名を祝田社と云ふ。延暦元年(782)11月19日今木神に従四位上の冠位を授け奉る。遂に平安京へ遷都の時、今の山城国葛野郡平野の地に神格をなさしむ。第一神殿に祭れる今木神は日本武尊是也」
とあるのをうけて、
  「これに依れば、祝田社は山辺村大字田村(現天理市田町字天王付近)にありて、天平宝宇年中、吉田連智首が今木神即ち日本武尊也を祭れる所にして、即ち今山城国平野神社の本社なりしなり。田村の法林寺の寺伝に田村の旧名を今木里と称すと云ふも亦故なきにあらず」

G今木は賢木の異称
H高野新笠の父方・菅原氏 母方・和氏 
 桓武天皇父方・天皇家 光仁天皇
I 吉田連とは、
新撰姓氏録(815)に、
  「左京皇別 吉田連 大春日朝臣(古代豪族・★和邇氏の直裔氏族)同祖 孝昭天皇皇子天帯彦国押人命四世の孫彦国葺命の後也」
とある氏族で、本姓は吉氏、古代豪族・和邇氏に連なる氏族と思われる。
 また、姓氏録の説明欄に
  「吉氏の男(後裔)従五位下知須(吉田連智首のこと)等、奈良京田村里間に家居」
とあることから、山辺郡田村の辺りに居住していたのは確かなようで、その吉田連一族が、勅をうけて当地に社を建て鎮守社としたというのであろう。



[14]白石さんからのコメント(2014年10月06日 05時30分28秒 ) パスワード

三種の神器
剣 草なぎの剣(あまのむらくものつるぎ) ヤマトタケルが東征をするときに伊勢神宮におられた 垂仁天皇皇女・倭姫から 持たされたもの。
ヤマトタケルは 熱田神宮にいた みやづひめ に 剣を預け、お亡くなりになり 神宮ご神体になった。
また 山口に坐す 剣根の命のことばもあり、

http://gejirin.com/src/Tu/turugine.html

ソサノヲー葛城一言主−カツテ−?−ツルギネ。

『旧事』★天忍男命は、葛木の剣根命の娘の賀奈良知姫(かならちひめ) を妻とし二男一女を生む。即ち★尾張連の祖の瀛津世襲命、建額赤命(たけぬかあかのみこと)、世襲足姫命。瀛津世襲命または葛木彦命(かつらぎひこのみこと) は、池心朝 (孝昭天皇) の御世に大連と成った。

天忍男命は
伊予の国に高忍姫神社(全国唯一産婆の神・うがやふきあえずの出産のサンバをした) 
「天忍人命・★天忍 男命・天忍姫命」。が まつられている。 

剣根命 (蔓城主)。 
カツテ神の孫。 
カツラ姫・カツラヨリ姫の父。 
神武の時、カツキ(葛城) の国造となる。 ★葛城氏の祖。
  


天照の ご神体
こちらの近くに 小さな祠だけど 白菊大明神がまつってある。
きくりひめ(白山姫神) の ことで 
そのほこらでは 真ん中にお鏡
両端にキツネがいる。
小さいけど 正一位を 持っている。

玉 が 今までの話に出てこなかったけど
阿伽流姫は 赤い玉の化身という。

玉は また 島津氏が 持っていた。(どの種の玉か 忘れたけど 秘密?)

玉は また 蘇我氏が その工房を 管轄(?)していたのか 蘇我氏にまつわって 話が 出てくる。

石川の川は なり と よむのだそうで
蘇我蔵山田石川麻呂 は 乙巳の変のとき 天智天皇(中大兄皇子)側についていた。

石川 イシカワ 
石川の石は、★イソ(磯)にて、川は朝鮮語のナリで国・村・都の意味である。すなわち海洋民磯部族の集落を石川と称す。★武内宿祢の子蘇我石川宿祢は大和国高市郡石川村(橿原市石川、曽我)に居住す。石川族の集落より此の地名起こる。其の子は満智―韓子―高麗―稲目―馬子―蝦夷―入鹿にて、蘇我氏は百済渡来人なり。蘇我百済王朝については、「百済花苑、宇田伸夫著、近代文芸社」を参考されよ。此氏の祖、武内宿祢は安羅国(後の百済)渡来人の阿部族と同じく孝元天皇後裔と称す。武内の内は内海の★ウヅにて、渦の意味がある。渦は海洋民なり。ウツミ条参照。




[15]子孫よりさんからのコメント(2014年10月06日 09時41分00秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、沢山のご教示本当にありがとうございます。
お風邪の方は大丈夫ですか?

具合が悪いのに、色々調べて頂いて、すみません。

皆様、台風の影響は大丈夫ですか?
テレビのニュースを見ながら、とても気になっていました。
十分にお気をつけください(__)

私も、実は、昨日コメントを書いている時に、数回もどしていました(汚いですね(__))
これは、台風の影響です。
子供の頃からいつもそうです。台風が近づくと、具合が悪くなり、喘息の発作も出ていました。(今は、プクプクとした体型に変化して何故か喘息発作は出なくなりました)
今回は、耳がキーンと鳴って、それからずっと吐き気がひどかったです。
20年ほど前に、産業医大から開業された病院の先生と仕事でお知り合いになったのですが、その方に「台風や地震の際の体調不良」を話した所
「医学的な検証があると言う事では無いけれど、おそらく、あなたは、自然界の電磁波に強く反応する体質なのでしょう。気圧の変化にも敏感に反応するのでしょうね・・」と言われました。
電磁波・・30年近く、PCに携わる仕事をしてきたのに・・
人的な電磁波は大丈夫なのかな?変な体質です。

脱線致しました(__)

白石様、平野神社のご教示ですが、
「E仲麻呂は 藤原南家で 恵美押勝のこと。」

先日、少しだけ勉強したのですが、藤原良継(母:石上麻呂の娘)※初名は宿奈麻呂に関して
「宿奈麻呂は佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らと結託し仲麻呂暗殺計画を企図するも計画は仲麻呂側に漏洩。天平宝字7年(763年)4人は逮捕されるが、宿奈麻呂は単独犯行を主張、八虐の一つである大不敬との罪により解官の上、姓も剥奪された[1]。
天平宝字8年(764年)9月に仲麻呂が反乱を起こすと(藤原仲麻呂の乱)、宿奈麻呂は詔勅を受け兵数百人を率いてこれを討ち、従五位上から従四位下に昇叙されるとともに勲四等を叙勲され、さらに同年10月には正四位上・大宰帥に叙任された。天平神護2年(766年)には従三位に昇進。参議に任ぜられた石上宅嗣とともに公卿に列す。」
とありました。敵対関係にあったのでしょうか・・

全く関係ないのですが、突然思い出しました。
先日、英彦山神宮にお参りした時に宮司様に娘が御挨拶をすると
「こりゃまたフランス人形さんのようなお嬢さんだ」っととてつもないお世辞を言って下さいまして、(私には何も無かったですが(__)(ー_ー)!!)
そして、私と娘に
「昔はね、男性は一族の為に戦かい、女性は一族の為に、和解・和合を目的として嫁いだりと、全ては一族の為だったのですよ。今の時代は良いですよね(^・^)」
と言われました・・・。
おそらく、先祖に感謝をしなければという意味の御言葉だったと思います。
(帰りに「いいな〜お人形さんって(__)」といじけて見せると、娘は「文房具(糊)に描かれている顔のようだ〜!って宮司様も言えないでしょう(-.-)」と言っていました(__)(@_@。)

でも・・縁戚関係を結ぶと言う事は、様々な事情もあると言う事ですよね・・

脱線しました<(_ _)>

「和邇氏」 とは ウィキに
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%8F%A5%E6%B0%8F
和珥氏(わにうじ)は、「和珥」を氏の名とする氏族。
5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。和珥は和邇・丸邇・丸とも。

出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ朝鮮系鍛冶集団とする説がある[1]。
本拠地は旧大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)、また添下郡。
6世紀頃に春日山山麓に移住し、春日和珥臣となる。

とありました。
※太陽信仰を持つ朝鮮系鍛冶集団とする説がある。

白石様から伺った
「『旧事』★天忍男命は、葛木の剣根命の娘の賀奈良知姫(かならちひめ) を妻とし二男一女を生む。即ち★尾張連の祖の瀛津世襲命、建額赤命(たけぬかあかのみこと)、世襲足姫命。瀛津世襲命または葛木彦命(かつらぎひこのみこと) は、池心朝 (孝昭天皇) の御世に大連と成った。」

天忍男命は津守氏そして丹比氏へと繋がっていくのですね。

日本の苗字七千傑様の《天火明命裔氏族綱要》を拝見して解りました(^・^)

石川 イシカワ についてのご教示ですが

石川の石は、★イソ(磯)にて、川は朝鮮語のナリで国・村・都の意味である。すなわち海洋民磯部族の集落を石川と称す。

日本の苗字七千傑様の《武内宿禰氏族綱要》を拝見致しました。

あの・・・
私の父は 「武内宿禰」この方のファン?のようです。
話しているとよくお名前が出てきます。(父も年齢が72歳なので同じ事の繰り返しを言う事がよくあるからかな?)
私は宇佐神宮にお参りによく伺うのですが、その話をすると、この頃は必ず「武内宿禰」様の神社にはお参りしたか?!と必ず聞くのです。
以前から宇佐神宮の黒男神社(御祭神:武内宿禰)は知っていまして、宇佐神宮にお参りした時には必ず黒男神社へもお参りしていたのですが、この頃、やっと父と神様のお話が出来るようになって(皆様のご教示のお陰です)、父と会話が成り立つようになりました<(_ _)>
「黒男神社」お参りしたよ!と父に言うと
「そうか(^・^)そうか(^・^)」と言います。ファン?のようです。

話は変わりますが・・
あの・・・・実はですね
私、すご〜く小さい頃から「山幸彦」様のお名前は知っています。(エエッ?!との声が・・)
理由は・・・「絵本を持っていたからで〜す!」(^O^)/(な〜んだ・・との声が(-_-))

祖母か平川の伯父(みなみのじいちゃん)が買ってくれました。
宮崎にいる頃で、字も読めない頃だと思います。
父がいつも読んでくれていました。
「うみさちひこ やまさちひこ」という本だったかな?
内容は殆ど憶えていないのですが、「山幸彦」様のお名前はしっかりと憶えています。
(子供心に、父は山幸彦様の方を応援していたかのような・・?そんな記憶も残っているのですよね・・?)
祖母やみなみのじいちゃん(平川の伯父)からは、沢山の絵本を買ってもらっていました。

あと、何の絵本だったのか解らないけど
「ワニさんの上をピョンピョンピョン」という言葉が記憶にあります。
前から気になっていたのですよね・・
何だったのだろう?

白石様の御教示にあった「和邇氏」でワニ繋がりで思い出しました。

でもワニさんのお話なのでエジプトか何処かかな?
あと木の周囲を寅がぐるぐる回るという内容の絵本もありました。
英才教育?・・・結果はこの通りでございます(-.-)(@_@。

御姫様が登場するようなメルヘンなお話はしっかりと憶えているのですが・・
きっと子供心に興味が無かったのだと思います。(男の子むき?)
あっ!そうか!弟も一緒に絵本を読んでもらっていましたから。

かなり脱線致しました。
では、勉強勉強(^・^)
<(_ _)>
[16]子孫よりさんからのコメント(2014年10月06日 10時27分05秒 ) パスワード

追記

先ほど
子供心に、父は山幸彦様の方を応援していたかのような・・?そんな記憶も残っているのですよね・・?)
と書きましたが、思い出しました(-.-)

応援していたのは私と弟です。
何かのシーンでいつも父が「応援して」と言って
「やまさちひこさん がんばれ〜〜」と弟と言っていました。

ちなみに・・
やまさちひこさん・・ 山幸彦様が神様だと知ったのは
今から1〜2年前の事です。(嘘ではありません(ー_ー)!!悲しいかな本当です(@_@。)

やまさちひこさん は私にとっては絵本の中の方だったのです。

三つ子の魂百までも・・とはよく言ったものだな〜と思います
トホホ(@_@。
[17]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月06日 21時39分30秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫さん へ
 

姓氏類別大観<物部氏>を補訂しました。
折敷に三文字紋使用の神社は伊予に集中していますが、伊豆三島大社も使用。
実は、双方とも物部大新河命を祖とする同族なのです。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02113_001.gif
 

寺院では時宗が折敷に三文字紋を使用していますが、
開祖の一遍上人が越智姓河野氏なので大山祇神社の・紋を使用。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206b.htm
三島大明神や越智氏が用いている折敷に三文字紋も「明治神社誌料」によれば本来は角切菱(亀甲)でバビロニアの海神マルドゥクの紋なのですから当然なのです。
出雲大社の亀甲紋も同じで、遠祖は共にバビロニアなのでしょう。


 
伊豆北条氏が三鱗紋を使用していますが、
折敷に三文字紋の伊予北条氏の末裔正岡子規も丸に三鱗紋を使用。
[18]子孫よりさんからのコメント(2014年10月06日 23時50分28秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

姓氏類別大観<物部氏>拝見いたしました。

伊予と伊豆は確実に繋がっていると言う事ですね。

北条氏も、表向きとは別に、必ず繋がっている。そう確信出来そうですね。
宮原(橘)も辿れば「物部氏」につながり中原氏も同じく・・

バビロニアが遠祖。
ず〜っと前からバビロニアに何故か意識が向いていた意味が解りました。
ちょっと外れますが、
私がふがいない行為をした時に、父がいつも言っていた
「お前はハンムラビ法典を知っているか!!」
のあの言葉も、変わった親だな?と思った時も多分にありますが、今考えたら、父も「叔父さんに言われた」と言っている所から、もしかしたら、かなり以前(いつからなのかな?)家の一族では言われ続けていたのかも?と途方もない事まで考えてしまいました。

それから・・・実は今すごく鳥肌が立っています。
「時宗・・開祖の一遍上人が越智姓河野氏なので大山祇神社の・紋を使用。」

私、「一遍上人が越智姓河野氏」と言う事も全く知らずに、なおかつ、一遍上人がどのような方なのかも全く解らずに・・・タイトルに興味をもって・・
先日、本を買ったばかりだったのです。

家の近くのスーパーの片隅に古本屋さんがオープンしまして、買物のついでにワゴンに入った本などを見ていて、とても格安なので、「読書の秋」だから、本を読もう(^・^)と先祖調査うんぬんを抜きにして、タイトルに惹かれて買った本が
「わが屍は野に捨てよ」一遍遊行(乱世に生まれ 武家を捨て 愛欲に苦しみ 遊行の果てに一切の欲を捨てた 一遍の漂泊の生涯)
です。
他にも歴史関係ではない本を買いましたので、今週読もうと楽しみにしていました。

だから、日本の苗字七千傑様のご教示に「一遍上人」のお名前が出ていて、本当にビックリしました。

一遍上人は河野氏だったのですね・・(そこからかい(-.-)との声が・・(@_@。)

日本の苗字七千傑様の《物部氏》姓氏類別大観から 《置始氏》姓氏類別大観へ進んで見たのですが、こちらにも「中原氏」に改姓が・・

伊豆三島大社・三島大明神・越智氏・越智姓河野氏・北条氏・伊予橘氏・そして中原氏・・揃っているような気がします。

それから・・
実は今日、加賀国の富樫氏と藤原師高の気になる記述を見つけたのです。
でも・・先ほどまでは勉強不足で頭が混乱していたのですが、日本の苗字七千傑様からの御教示により
《得能氏/別府氏》姓氏類別大観 そして《林氏/稲葉氏》姓氏類別大観を拝見して悲鳴をあげそうになりました!

きちんと整理して明日コメントさせて頂きます。

御教示ほんとうにありがとうございました。



[19]子孫よりさんからのコメント(2014年10月08日 08時53分34秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日は事情によりコメント出来ませんでした(__)

先日からお話していた3匹の子猫の中のメイちゃんと名付けた子の具合が悪かったのです。

昨日の朝、起きたらすぐにいつものように子猫が私に「スキすき抱っこして」と甘えて来たのですが、メイが来ないので、子猫用のベットを見ると、グッタリというか、身体がペタンコになったような状態で、倒れていました。

3匹中2匹はすごく元気になってプクプクと太ってきていたのですが、メイだけは一向に体重が増えずに・・でも、前の晩もママ猫のおっぱいはしっかりと吸っているので安心していたのですが・・

すぐに、身体を温めて、猫用のサポート飲料にお砂糖を加えて無理やりですが飲ませてあげました。
病院が開くまでそれを繰り返し、意識がはっきりとしてきました。

病院に行くと、診断は脱水と栄養失調・低血糖でした。(内臓の働きが悪く、吸飲が弱かったようです)
小さい身体に点滴の代わりとなる注射を受けて、先生からは
「3時間置きに、高栄養の餌と水分・ミルクを与えて温めて下さい」との指示がありました。

ママ猫の「ちょび」に変わり、私がしばらくママになるぞ!!と

久しぶりに赤ちゃんの世話をしているような感じです。
ブランケットに包んで、小さな針の無い注射器でミルクを飲ませて、高栄養剤は指につけてお口に入れてあげています。
(何度も噛まれて痛いですけど、かわいいのでがまんがまんです)

夜中に目覚ましをかけて起きて、お湯を沸かしミルクを作りました。
飲ませていると、娘と息子が赤ちゃんの時を思い出しました。
特に娘は夜中に何度も起きて泣くので、同じようにだっこしていたな〜と。

今朝は昨日とは違い、メイちゃんは目がしっかりとしていて、身体も心なしか少しだけふっくらしたような気がします。
昨日は立てなかったのですが、今朝は産まれたての子羊のようですが立って少しだけうろうろしていました。

今から、メイを連れて病院に行って来ます。
体重が少しでも増えていたらいいのですが・・

仕事を辞めて、結構、こういう事ばかり続いています。
でも、仕事していたら出来なかっただろうな〜と考えると、うまく出来ているものだな〜と思いました。

病院から帰ったら、今日はしっかりとメイが寝ている間に勉強致します(^O^)/
(ママみたいです)
では
<(_ _)>(^・^)

[20]子孫よりさんからのコメント(2014年10月08日 16時00分15秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

メイと病院から帰ってきました。
体重は殆ど変りなかったのですが、先生もメイの顔を見て
「あれっ?!お顔がしっかりとお目目がパチクリとしてきましたよ!!」
と言って下さいました。
今日も点滴の代わりの注射を受けて、昨日と同じ指示があり
「お母さん、ここ2日くらいは夜中も大変でしょうが、頑張って下さい」と言われました。
ハイ!頑張ります(^O^)/(ちょっと眠いです(-_-)zzz。でも子育てダイエットになりそうです)

メイちゃんがスヤスヤ気持ち良さそうに眠っている所でコメントを<(_ _)>

先日、コメントしていた
「加賀国の富樫氏と藤原師高の気になる記述」なのですが・・

こちらをご覧ください(__)
松任城
http://www.geocities.jp/hokuriku1970/mattou.html
年代別の記述に
1128年 富樫氏一族、松任加賀介師高が館を築く。

とあります。1128年?? サイトの方には申し訳ありませんが、この「1128年「は、何かの間違いかな?と・・
でも、「富樫氏一族、松任加賀介師高が館を築く」・・富樫氏一族? 近藤氏と書いてあればまだしも「富樫氏一族」・・んんん?なんで?

となりまして・・

しかし、このような記述もあったのです。
富樫氏の盛衰  ピックアップして転記させて頂きます(__)
http://tiikijiten.jp/~digibook/shimada_lib/keitai.php?no=0002&part=2

○ 富樫氏の歴史と野々市

野々市の歴史は富樫氏をおいて語れません。現在石川県の政治経済そして文化の中心は金沢でありますが、その以前今から一千年前は、この地域野々市は政治経済文化宗教などの中心であって、五百有余年間続いたのであります。

野々市は加賀の旧都であって、しかも土地が肥えていて何を作っても産物がとれる。水陸の交通が便利であったこともあり山に近く海にも遠くなく、九艘川、木呂川の流れが好條件であったと思います。

富樫氏がここに政治の中心をおいたことがこの地域を繁栄させた根本だと思います。

○ 藤原利仁(富樫家始祖)
延喜十五年(九一五)藤原利仁鎮守府将軍宣下が加賀の領主となり、富樫氏と稱し野々市の所縁となる。

鎮守府将軍というのはその土地の治安にあたる役目ですが、利仁将軍は政治にも優れた人物でありました。敦賀に土着した人で都に出て関白藤原基経(もとつね)に仕えて重要な地位にもつき、東北の賊を平定にも行っております。上総の国・武蔵の国などの支配者にもなっております。

利仁将軍の長男太郎有家が越前国を治めて斉藤を名乗り、二男の叙用(としもち)が加賀国に派遣され、三男有頼(ありより)は越中国を治め井口を名乗る。

(-.-)「三男有頼(ありより)は越中国を治め井口を名乗る」・・井口・・何だか気になり始めました。

(・_・)少し進んで・・
○ 十二代 泰家 寿永二年(一一八三)

十一代家直に男の子がいなかったので弟の泰家が継ぐことになった。泰家は、謡曲「安宅」や長唄「勧進帳」の物語る一事で有名であるが、伝説の一コマである。 
文治二年(一一八六年)泰家は、始め近藤師高・師経兄弟について戦ったのですが、近藤一族が処罰されると早速朝廷に改悛の情を示めして許された。
この頃天下の情勢は、武士団が源氏と平氏に分かれ源平の戦いがまさにはじまろうとしている時でした。
(-_-)おそらく1186年は1176年の間違いだと思います・・

(・_・)でも、富樫泰家は始め近藤師高・師経兄弟について戦った・・とありますね・・

続けます。(・_・)
関東では頼朝が伊豆で挙兵し、信濃では木曽山中の木曽義仲が軍勢を引き連れて都の方へ攻め登るという、まさに源平合戦の時代になって来ます。平氏の方では、まず木曽義仲をやっつけなければならないというので、約十万の大軍をもって都から加賀へ攻めてくる。これが有名な倶利伽羅(くりから)の合戦の前哨戦です。

 この時、加賀及び越前の武士たちはいったいどちらに味方をすればよいかということで相談したのです。その結果いかんによって自分たちが滅びるか栄えるかの瀬戸際になります。非常に大事な問題なのです。加賀の國では、國司であり富樫泰家の一族の林氏とか松任氏など、加賀の武士を集めてどうするか相談したのです。

 泰家は、「今天下の様子を見ると平氏の総大将である清盛がひどい熱病にかかっているから、もうすぐ死んでしまうであろうし、一方の源氏はまだ人数が少ないけれども、その勢いがだんだん強くなってくると思うから、源氏の味方をして立ち上がろうではないか」といい、結局泰家の決心に従い立ちあがり、平氏の軍勢を攻めるために越前の國へ出陣しました。

 平氏の軍勢は十万でこの大軍と奮戦したが、ついに泰家の両腕と頼む富樫一族の林六郎光明太郎光平の父子が越前の三条野で戦死した。

 これがきっかけに富樫勢は総退却となり、平維盛を大将とする平氏の軍勢は加賀の國へ攻めこんで来ます。泰家は退却に退却を重ね、野々市の富樫館も打ちすて越中に逃れて行きます。

 しかし、そこで都へ攻め登ろうとする木曽義仲の軍勢と合流して、倶利伽羅の合戦に参加するのであります。合戦では木曽義仲勢が勝利を得るのですが、泰家もここで奮戦し活躍したのであります。そして木曽義仲を総大将に源氏は破竹の勢いで都へと進んでいきます。義仲の軍勢は京都まで攻め登りました。

 義仲勢は、血気盛んで非常に乱暴したので、後白河法皇は源頼朝に対して義仲をつかまえるよう頼みました。源頼朝は弟である義経に命を下して義仲を攻め、宇治の戦いで義仲は破れ戦死した。この義仲に従っていた泰家は、結局源頼朝の敵となってしまったため、泰家は頼朝の所へ使いをやって恭順の意をあらわしたのであります。

 その後源頼朝は、平氏滅亡の一番手柄をたてた自分の弟源義経を梶原景時のざん言によって鎌倉幕府から追放します。

 義経は近畿に居ることが出来ず、文治二年(一一八六)二月十日、三十人を従い山伏に身を紛し、内室の生家である京師一条今出川の久我邸を発して北陸に下がったが、源頼朝は時を移さず諸國に命じて義経追補の命を発した。

 泰家は、加賀守護を任せられたので源頼朝のため一功をあげんと安宅に関門を築いて手兵を廻して警戒していた。

 三月一日義経一行は加賀安宅に至るや、泰家は兵を備えて警備怠らず。これを見た一行は、"もし富樫氏にして此の関を通し許さない場合は・・"と堅き決意を示した。

 此の勢を見た泰家の心中は、"義経をとらへて鎌倉に出すことは何の難きもないことであるが、武士たるもののなす可き道でない"と、義経の心境に痛く同情し、弁慶の読み上げる勧進帳に事寄せ、山伏に偽装せる源義経一行を通したのである。

 これ仁あり、義あり、勇ある守護として富樫氏を世に伝えるところである。

(・_・)※木曽義仲・・先日から私、この方が気になって仕方がありません。
後ほどコメントを(-.-)

続けます(-.-)
丁度桃の節句で野々市の館で酒の宴を催し、弁慶が舞い上がり、比叡山に伝わる「延年の舞」を披露した。そして泰家は、鳴和まで弁慶、義経を見送り「鳴わ滝の水、日は照るとも絶えずとうたり、絶えずとうたり」とほろよい気分になって別れをおしみ合い、義経一行は奥洲めざして落ちて行った。

後に源頼朝にこのことが知られるや、泰家は野々市の館を逃れて奥洲の藤原秀衡のもとまで源義経を追いしばらくとどまることとなる。
また、弁慶は野々市の館内にて力持の曲藝をして大盤若石を投げた。この石は布市神社境内に保存している。(一國の守護の職にある者が関所の番人をするとはとうてい考えられないことですが物語では安宅を通って奥洲となっています)

泰家は、家春に家を譲り秀衡のところに留まり食田を与えた後、庄九郎を生み姓を前野と改めた。七世の長康に至っては尾張の羽柴秀吉に招かれ、名を喜太郎勝左衛門と改め、尾張に住し子孫は豊臣、徳川に仕へ前野家を相続した。尾張の富樫氏の祖である。
泰家の子泰景は、出羽の富樫氏の祖となる。某氏は能登七尾市光徳寺の富樫氏の祖となる。
その子繁家は、三河守山川の祖となる。知家の子に元家あり、景家は額氏の祖となる。
(・_・)※泰家は、家春に家を譲り秀衡のところに留まり食田を与えた後、庄九郎を生み姓を前野と改めた。
(・_・)※七世の長康に至っては尾張の羽柴秀吉に招かれ、名を喜太郎勝左衛門と改め、尾張に住し子孫は豊臣、徳川に仕へ前野家を相続した。
(・_・)あれ〜〜っ!??
 
松尾芭蕉が元禄二年(一六八九)七月二十四日野々市を通過し、源平の戦いのことを思い出して「義仲の目覚めの山か月悲し」「倶利伽羅や三度起きても落し水」という句を読んでいます。

と言う事ですが・・・
※近藤師高・師経兄弟について戦った「富樫泰家」は姓を「前野」に改めた・・
※七世の長康に至っては尾張の羽柴秀吉に招かれ、名を喜太郎勝左衛門と改め、尾張に住し子孫は豊臣、徳川に仕へ前野家を相続した。

実は・・・(・_・)・・・\(◎o◎)/!
一昨日、私、「前野氏」までの記述まで読まずに
「富樫泰家は始め近藤師高・師経兄弟について戦った」とここまでしか読んでいなかったのです。そして、「富樫氏」とは?と、富樫氏の調査にすすんでしまっていたので「前野氏」が登場して、本当にビックリしました。\(◎o◎)/!

まず、一昨日調べていたのは
富樫氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%A8%AB%E6%B0%8F

富樫氏(とがしし)は、藤原利仁に始まるといわれる氏族である。室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名である。表記は一般には富樫と表記するが、地名として富樫郷など富樫と書き、姓氏としては冨樫が正しく、守護大名冨樫氏は明確に使い分けていた。

代々加賀国に勢力を張り、加賀介を世襲し、武門の栄職であると言われる八介の一つの富樫介を称した一族である。家紋は天帝(北極星)と北斗七星への信仰(妙見信仰)から八曜紋を用いる。替紋として鹿角紋。
現在の野々市市に館を構えていた[注 1][注 2]。『野々市じょんから』は、富樫氏の治世を称えた17番まで歌詞のある民謡である。勧進帳で有名な富樫左衛門(富樫泰家)は、この富樫氏の人物である。

富樫泰家 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%A8%AB%E6%B3%B0%E5%AE%B6

富樫 泰家(とがし やすいえ)は平安時代末期・鎌倉時代初期の武将。通称は左衛門。能の演目『安宅』、歌舞伎の演目『勧進帳』の安宅の関関守・富樫左衛門のモデルとしても知られる。家系の富樫氏は藤原利仁に始まる一族だといわれている。富樫家経の子。富樫重光の父。
略歴[編集]
寿永2年(1183年)、源義仲の平氏討伐に応じて平維盛率いる大軍と加賀・越中国境の倶利伽羅峠にて対陣。燃え盛る松明を牛の角に結びつけ、敵陣に向けて放ち、夜襲をかける。この大胆な戦略が功を奏して大勝。寿永3年(1184年)に義仲が源頼朝の命を受けた源範頼・源義経に討たれた後は加賀国の守護に任ぜられる。 
文治3年(1187年)、兄・頼朝から追われ、山伏に扮して北陸道を通り、奥州平泉(現岩手県西磐井郡平泉町)を目指していた源義経一行を追及し、義経本人であることを確信しつつ、武士の情と武蔵坊弁慶の読み上げる「勧進帳」に感心し、義経一行を無事に通過させたという。そのことにより頼朝の怒りを買い、守護の職を剥奪された。後に出家し法名を仏誓とし、名を富樫重純(成澄)と改め、一族と共に奥州平泉に至り義経と再会を果たす。その後しばらく平泉に留まったが、後に野々市(現石川県野々市市)に戻り、極めて長寿であり天寿を全うし、そこで一生を終えた。

(・_・)家系の富樫氏は藤原利仁に始まる一族だといわれている
と言う事で「藤原利仁」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%88%A9%E4%BB%81
藤原 利仁(ふじわら の としひと)は、平安時代中期の武将。民部卿藤原時長(中納言藤原山蔭の同母兄弟)の子。越前国敦賀の豪族藤原有仁の娘婿ともなっていた。
生涯[編集]
左近将監などを経て、延喜11年(911年)上野介となり、翌延喜12年(912年)に上総介に任じられる。そのほか下総介や武蔵守など坂東の国司を歴任し、同15年(915年)には下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し武略を天下に知らしめたということが『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。この年には鎮守府将軍となり、その最終位階は従四位下であったとされる。
後代、平安時代の代表的な武人として有名になり多くの説話が残っている。なかでも『今昔物語集』の中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から敦賀の舘へ連れ帰った話が有名である[1](芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆した)。
次男の藤原叙用が斎宮頭となり、斎藤氏の祖となる。その孫の代では忠頼が加賀介となり、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、牧野氏の祖となり、加賀斎藤氏から堀氏、弘岡斎藤氏から富樫氏、林氏が出る。叙用の孫為時の家系からは吉田氏、前田氏、尚忠から吉原斎藤氏、河合斎藤氏、美濃斎藤氏が出たほか、重光から加藤氏、遠山氏が出る。また、一女は藤原秀郷の孫にあたる藤原文脩の室となり文行、兼光らの母となった。
利仁の後裔を称する氏族は多く仮冒は少ない。また秀郷と並んで藤原氏が武家社会に進出したことを象徴する人物と言える。

(・_・)
そこで日本の苗字七千傑様の【藤原氏利仁流】 姓氏類別大観を拝見しました。
利仁の子息「利行」・・井口氏・・ここで井口氏です。(祖母が「うちの川」と呼んでいたのは井口川。でも、国土交通省管轄の国の川です(ー_ー)!!)

そして・・【藤原氏利仁流】から《加賀斎藤/弘岡斎藤》そして《林 氏》それから《富樫氏》へと姓氏類別大観を次々と拝見していきました。
ですから、一昨日の日本の苗字七千傑様の御教示にあった「《得能氏/別府氏》姓氏類別大観 そして《林氏/稲葉氏》姓氏類別大観」を拝見して悲鳴をあげそうになったのです。
藤原氏利にも繋がっていると。

でも・・これだけではないようです\(゜ロ\)(/ロ゜)/

今日、転記した記述に「前野氏」が登場していたので、あらためて日本の苗字七千傑様の《富樫氏》姓氏類別大観を拝見したのですが・・
ありゃっ?!坪内氏?と・・気が付きました。(先日は気が付いていませんでした(@_@。)

良峯姓坪内氏と繋がっています\(◎o◎)/!
それに「前野氏」「坪内氏」は【良峰氏】姓氏類別大観に繋がっています!

このコメントの最初にもどりますが・・
「松任城 富樫氏一族、松任加賀介師高が館を築く」
この記述に 藤原師高を一族と呼んだ「富樫氏」は前野氏・坪内氏と「良峯姓」を名乗る家々へと繋がっていたと言う事です。

さらに藤原師高が築城した松任城には「丹羽長重」が後世に居城しています。

でも・・・・初めてです\(◎o◎)/!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

藤原師高の記述に「良峯姓」が繋がってきたのは!!

でも・・何故富樫氏と藤原師高は一族と記述されていたのか?

それと・・拝見した姓氏類別大観の数か所に「武内宿禰」。この方への繋がりが・・
この事に気が付いたのは、先日、父が「武内宿禰」この方のファン?ですとコメントした後なのです・・?

あの・・・
先日、コメント17で日本の苗字七千傑様から頂いたご教示に、何だか繋がっているような気がしてなりません。

後ほどコメントしますとお伝えした木曽義仲、この方も・・
無知識ですが感が・・

木曽義仲。この方は中原氏と繋がっているのですね。

コメントが長くなってしまったので次のコメントで。
では<(_ _)>
[21]子孫よりさんからのコメント(2014年10月08日 16時43分31秒 ) パスワード

追記

ず〜っとコメントしようかどうしようか悩んでいたのですがやはり気になるので・・
「別府姓」についてです。

先日、お話したように旧岡原村いえ宮原村には「別府」という地区がありました。
その別府の中心に「別府」さんという家が数軒ありまして・・
本家の別府さんを含め、別府さんの事を祖母は何故か「別府の一族」と呼んでいたのです。(別府さんが見たらびっくりするかな?)

そして・・
本家の別府さんの息子さんは私と同級生でして、彼は何故か?今は宮麓の「侍村」に住んでいます。
1軒、空家になった家(土地)がありまして(そちらのおばあちゃんが亡くなりまして)縁があったようで彼は今、結婚してそこに住んでいるのです。
ですから、「侍村」集落には現在「別府家」もある訳です。
私が実家に戻ったら御近所さんです。
それと・・調査で何度か見かけた「大平」さんも近くにあります。(侍村ではありません)
斎藤さんもあり、かなりの土地を所有しています。(怒られるかな(-.-))
それに・・・
父がいつも言っているのですが、旧宮原村も岡本村も特殊?な村だったようです。
明治に変わる前に農家であった家々も、元をたどればかなりの家が士族(武士)だったと。
普段は農作業をして暮らしていても、何かが起こった時(藩内外の有事)には「鎌」を「刀」に持ち替えて、皆、戦に出ていた「苗字帯刀」を許されていたと。
父の友人の歴史研究家の方が「ここはそういう村だった」と言われたそうです。

落人伝説がある場所だからかな?とは思うのですが・・

でも・・書けないけど、調査に登場した姓が、沢山いらっしゃいます。
縁があったのでは?と考えてしまいます・・

ず〜っと書こうかどうしようか?と悩んでいたコメントなので、もしかしたら削除するかもしれませんが、とりあえず、書きました。
では<(_ _)>
[23]子孫よりさんからのコメント(2014年10月08日 19時36分56秒 ) パスワード

再追記

やはり、先ほどのコメントを書いて、思いました。
縁戚関係は、重要だと・・

実は、まだまだ書いていない親戚の姓が沢山あります。

近しい所だけでもとりあえず
出口 寺田 堀田 藤本 小池 です。
今、調べている事は古代豪族に関してですから、きっと全ての親戚が何か縁があるのでは?と。

それから、戦後、宮原に集まって球磨の将来を平川の曾祖父と語り合っていた方々で旧岡原村の方は
伊勢さんと鏡さんでした。(後は親戚が多数)

では<(_ _)>
[24]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月08日 20時38分04秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>今日、転記した記述に「前野氏」が登場していたので、あらためて日本の苗字七千傑様の《富樫氏》姓氏類別大観を拝見したのですが・・
ありゃっ?!坪内氏?と・・気が付きました。(先日は気が付いていませんでした(@_@。)
 
濃尾閨閥に辿り着いた様ですね。
利仁流藤原姓坪内氏の誤りを一部訂正しましたので、確認して下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02017a.htm#002
 
坪内氏を始めとする濃尾の川並衆の支援無しには、
信長、秀吉の天下取りは露と消えたことでしょう。
しかし折敷に三文字紋を甘く見たので本能寺の変で信長が滅亡。
明智光秀の筆頭家老齋藤利三(稲葉氏の影が)が首謀者。
利三の娘ふく(後の春日局)は戦国孤児のハンデを負いながら、
朝廷の権威を背景に徳川家に仕官して大奥システムを構築。
離縁された夫稲葉正成も春日局のコネで徳川大名へ大出世、
春日局の兄弟も幕臣や諸蕃陪臣で御家安泰。
これを見れば、現今安倍内閣で考えている女性の企業役員数の割り当て義務付けなどヨタ話じゃないの?
 
こともあろうに幕末の淀藩主稲葉家は幕府を裏切り朝廷方へ寝返り、
それを見た様子見の諸藩も雪崩を打つように寝返り大政奉還へまっしぐら。
明治の初代首相も末裔の越智宿禰伊藤博文。
誠に饒速日命の後裔、折敷に三文字紋は神武東征、源平争乱、濃尾国盗物語、大政奉還など、機を見る素早さは恐るべきものですな。
[25]子孫よりさんからのコメント(2014年10月09日 00時30分29秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「濃尾閨閥に辿り着いた様ですね」
とお伺いいたしましたが・・・と言う事は・・・!!
感が当たったと言う事でしょうか????!
コメント17で頂いた御教示と私の調査は繋がっていたと言う事ですか?!

やった〜〜〜〜\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!

日本の苗字七千傑様の御教示のお陰です!ありがとうございます!

「誠に饒速日命の後裔、折敷に三文字紋は神武東征、源平争乱、濃尾国盗物語、大政奉還など、機を見る素早さは恐るべきものですな。」

本当ですね\(◎o◎)/!・・・うん?!・・ありゃ?!
(何だか複雑です・・・)

それから、実家を含む集落がどうしても気になって父に聞いたのですが
「斎藤」さんは「侍村」に入るそうです。
私が間違っていました。「侍村」集落はかなり広いです。
あと、侍村集落では斎藤さんのお隣が野島さんです。
(集落の皆様ごめんなさい。でも、み〜んな何か繋がっているような気がしてなりません)

饒速日命の後裔
今まで、勉強していなかった「熊野国造」を(__)

熊野国造 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%9B%BD%E9%80%A0

熊野国造(くまののくにのみやつこ、くまのこくそう)とは、熊野国(後の紀伊国牟婁郡、現在の和歌山県南部と三重県南部)を古代に支配した氏族。物部連や穂積臣と同祖。

「穂積臣」 こちら勉強していませんでした。 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%82%E7%A9%8D%E6%B0%8F

穂積氏(ほづみうじ/ほつみうじ)は、「穂積」を氏の名とする氏族。
古事記・日本書紀にも記される大倭国の有力豪族で、姓(かばね)は始め穂積臣、後に穂積朝臣。天津神・饒速日命が祖先と伝えられる神別氏族である。嫡流は後に藤白鈴木氏を称した。代表家紋は抱き稲。
物部氏、采女氏、熊野国造家とは先祖を同じくする同族とされる。

出自[編集]
神武天皇より先に大和に鎮座していた天津神・饒速日命の10世孫、大木別垂根命の子・穂積真津が、熊野神に稲束を積んで奉納したことから穂積姓を賜ったという伝承を持ち、姓は臣であった。ただし同じ饒速日命の後裔である鬱色雄命(内色許男命)を祖とする、別の伝承もある。飛鳥時代の天武13年(684年)、八色の姓制定に伴い穂積朝臣姓を賜った。発祥は大倭国山辺郡穂積邑(現在の奈良県天理市前栽の付近に比定)とする。
概要[編集]
古墳時代の官使・穂積押山は、継体朝に百済への使者に任命され、任那に駐在して任那加羅の哆唎の国守となり、任那のうち4県の百済への割譲に尽力したとされる。
穂積磐弓と黒斗売(笠味夫の娘)の間に生まれた穂積祖足は、推古8年(600年)2月、新羅に滅ぼされた任那日本府を救援するため、征新羅副将軍として新羅に出兵(新羅征討計画)し、五つの城を攻略して新羅を降伏させた。

中略・・
その後、穂積氏の嫡流は藤白鈴木氏を称したほか、一族は宇井氏、榎本氏に分かれた。
穂積氏の子孫として、藤白鈴木氏やその分家筋の三河鈴木氏、江梨鈴木氏、雑賀党鈴木氏などがある。また、日本民法典の起草者である穂積陳重もこの穂積氏の血統であるといわれている[1]。穂積を姓とする氏族は穂積朝臣以外にも、桓武平氏北条氏流、桓武平氏千葉氏流、藤原北家秀郷流などがある。

ええっ!!(・_・)
穂積を姓とする氏族は穂積朝臣以外にも、桓武平氏北条氏流、桓武平氏千葉氏流、藤原北家秀郷流などがある。

北条氏・千葉氏・・・・北条氏は理解していましたが、千葉氏もですか?!!
それに
藤原北家秀郷流・・・えっ!!?

日本の苗字七千傑様の 【藤原氏秀郷流】姓氏類別大観を今一度拝見いたしました・・・・ぎゃ〜〜〜〜お!!(すみません。でも悲鳴をあげそうです)

みっみんなつながっている〜〜〜!!
それに・・近藤氏から三池氏・鹿子木氏・武藤氏・少弐氏へもみっみんな繋がっている〜〜!!

《藤原秀郷流閨閥図》も拝見しました。
坂上田村麻呂、この方も、藤原鷲取、この方も・・・皆さん繋がっています!

うん??でも何故「藤原北家秀郷流」は穂積姓なのでしょうか?

でも、本当の大きな繋がりはこういう事だったのですね(゜-゜)

すごく驚きました。

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました。

<(_ _)>(^・^)
[26]白石さんからのコメント(2014年10月09日 00時34分19秒 ) パスワード

こんばんは
木曽義仲のやしない親は 中原兼遠ですね。
そして 義仲の父・義賢の京都松尾神社あたりの館を「大蔵の館」というのですね。(実は過去に 本で見たときは 松尾神社嵐山あたり )と書いてあったのですが、今ネット検索すると
出生地は武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企 郡嵐山町)とする伝承もあるとあります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この義仲に従っていたのが 
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ぶらり近江のみち
山本山のふもとを走る北国街道を、おびただしい軍勢が通りすぎようとしていた。その数 は、約5 ...★ 山本義経を先頭に、木曽義仲の軍勢は燃えるような真夏の近江路を、一路 京へ向かって進軍を続けて行った。 ... そこには義仲に従って出陣した山本義経がいる。


義仲軍団の崩壊 - 朝日将軍木曽義仲
京都に在中して平家に従っていた東国武士は平家に従い、木曽義仲追討軍として北陸 道の倶梨伽羅峠に向かった。 .....★ 錦織(にしきごり)冠者(かじゃ)義経男(むすこ)、前行」と あり、近江の山本義経の息子の錦織義弘(義高)が義仲と同じ頃比叡山にいたようだ。
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大阪高槻本照寺は元の 本願寺(光照寺)といわれ、別名「佐々木城」。塀に五本線を持つ由緒あるお寺です。

国史辞典にここの佐々木が近江佐々木とつながっていて その横に(山本)とありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山本をじくにすると 阿野氏が出て
頼朝弟 義経の兄弟・今若丸に関して 阿野全成が出ました。
玉松家
大政奉還の文を作った人。

成松から 松 松と思って 出てきた人。
私の実父は 山本で どうして 下益城郡や別府にいたのかしら?と 疑問の山本。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この義仲の周りには 森蘭丸兄 森長可もいて
のちに 岡山に来ますが その時 信州篠ノ井に戦敗せて岡山に走ってきていた笹井五郎 六郎兄弟 出でて仕え
後 小早川秀秋に仕えた。

子孫様 猫ちゃん 大変でしたね。。
体を壊さないよう 気を付けてくださいね。

木曽義仲が出てきたので 書いてしまいましたが 
どこでも と 言っていいほど 近くに出てきますね。
[27]白石さんからのコメント(2014年10月09日 01時53分26秒 ) パスワード

成松
伊達政宗の妾腹の子がいよ宇和島藩主になった。
妾腹とはいえ 飯坂局は 伊達の分家。同じ伊達の血筋。

田村氏は 正室。
ーーーーーーーーーーーーー

伊達家は 藤原利仁流。
伊達氏と伊佐氏 トリビア ネットより
この念西が伊達氏の始祖となったのです。 → 詳しくはこちら. □伊達政宗の先祖は茨城 県筑西市の出身!? 伊達政宗が活躍した戦国時代末期から遡ることおよそ400年前、 政宗の先祖の常陸入道念西(藤原時長)が、常陸国伊佐郡(現在の茨城県筑西市)を 所領 ...

藤原利仁
藤原 利仁(ふじわら の としひと)は、平安時代中期の武将。民部卿藤原時長(中納言 藤原山蔭の同母兄弟)の子。越前国敦賀の豪族藤原有仁の娘婿ともなっていた。 生涯[ 編集]. 左近将監などを経て、延喜11年(911年)上野介となり、翌延喜1...

藤原北家ーーー藤原時長ー利仁
      |
      −藤原山蔭

上のネットによれば こうなります。伊達氏も平川家とつながっているようですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日 この間書いた 白菊大神(大明神ではありませんでした)の祠を見てきました。
松尾 寺井の 家の名がありました。

紋は 稲。もうひとつ 変な模様が ありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
横浜の曹洞宗の総持寺は 鈴木氏ですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それと
橘氏が公卿になって 「薄氏」が いますね。

[28]子孫よりさんからのコメント(2014年10月09日 13時26分53秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

メイはミルクもごくごく飲み初めまして、高栄養のごはんもパクパク食べはじめました(^・^)

相変わらず骨川筋衛門でございますが、少しずつ、体力が回復してくれたらと願いながら、久々の子育てに奮闘いたしています。
今朝は、失敗しました。
1時半にミルクを飲ませたので、4時の目覚ましで起きて様子を見たらスヤスヤ寝ていたので、私もあと30分寝ようと(-.-)寝て、さあミルクとメイを見たらう○こまみれになっていました(汚い話ですみません(__))

あわてて、身体を綺麗に拭いてあげて、お手製湯たんぽ(単純にペットボトルに70度のお湯を入れただけですが・・)で身体を温めてあげました。

子育てには油断は禁物だ(ー_ー)!!とあらためて感じました。
娘が、「子育てを今、思い出してくれたら、将来ありがたいね(^・^)」と笑っています。

うん??(・_・)
あっ!!そうか!!\(◎o◎)/!
離婚はしましたが、前嫁ぎ先の母方のおばあさん、すなわち、私の娘の曾祖母は大三島の越智家から嫁いで来られていますから、娘の子供、すなわち私の孫は・・わ〜お!濃い!越智の系がミックスされると言う事ですね。
というか・・私の子供は二人とも\(◎o◎)/! 濃い!すでに、宮原(橘)と越智で、すでに濃かったわけですね・・

そういえば・・・
何かをしでかして、私に見つかる前にすかさず、嫁ぎ先のおじいちゃん・おばあちゃんに援軍を頼む「機を見る素早さは恐るべきもの」デシタ。
(日本の苗字七千傑様すみません。(__)ペコリ)

白石様、ご教示ありがとうございます。
白菊大神(大明神ではありませんでした)にお参りに行かれたのですね。

「紋は 稲。もうひとつ 変な模様が ありました」
と言う事ですが、昨日、勉強した内容に
「穂積氏、代表家紋は抱き稲。」とありました。稲ですね・・あれっ?!

それから・・
常陸入道念西(藤原時長)。以前からこちらの方の法名が「念西」で、「偶然かな??い〜や(ー_ー)!!きっと偶然だ」と思っていたのですが・・
浄心寺の五重塔の銘文にも「念西」という方の名が刻まれています・・

「伊達氏も平川家とつながっているようですね。」
あの・・・そうなのでしょうか・・?
私は何だか橘と何らかの繋がりがあるのでは?とは感ですが思っていたのですが・・

でも、こうなれば皆「同族」ですから、何でもアリかもしれないと腹を決めました。(言葉がおかしいですね・・(ー_ー)!!)

所で、昨日の私のコメントを読み返していて「あちゃっ!」と・・

「穂積を姓とする氏族は穂積朝臣以外にも、桓武平氏北条氏流、桓武平氏千葉氏流、藤原北家秀郷流などがある。
北条氏・千葉氏・・・・北条氏は理解していましたが、千葉氏もですか?!!」
と書いたのですが・・

すみません(@_@。(__)
北条氏を穂積を姓とする氏族とはこの無知識な私が理解していたなどとんでもありません(__)
北条氏が饒速日命の後裔であると言う事は日本の苗字七千傑様の御教示で理解できていました・・という風に書きたかったのです。
文才がないので、申し訳ありませんでした(@_@。

木曽義仲の養父は中原兼遠。
ただ、この方に関する記述を読んでいたら・・すごく気になる事が連続してありました。
平川に関係うんぬんと言う事ではなくて・・何かザワザワと気になるのです。

後ほどコメント致します。
では<(_ _)>(^・^)
[29]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月09日 19時53分46秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫さん へ

>「穂積臣」 こちら勉強していませんでした。
 
穂積姓は日本第二位の鈴木氏の本姓ですから、家系の基礎知識としては常識でしょう。
鈴木氏が愛知県に多い理由は、奥州平泉への途次、
病の為に三河の留まった重次が三河鈴木党の祖となり松平家臣となったことに因る。
三河松平氏の出自については諸説があるが、元は鈴木党で松平の地名を称したという異説もある。
三河鈴木氏の家紋は藤で、松平太郎左衛門家の家紋が藤輪に三つ葉葵という事実が両氏の間柄を暗示させる。
三つ葉葵は三つ割菊に類似しており、ここにもバビロニアの影が。
また静岡県に多い理由は、建武年中、熊野水軍の鈴木重行が鎌倉公方に招かれて伊豆国田方郡への来往も影響する。
熊野新宮神職に鈴木氏多く、熊野三山の末社は約三千、六十余州に熊野神社の無い国は無く、
熊野神社勧請の方面でも鈴木姓が全国に広まったのである。
 
松平氏の異説が正しいとすると徳川氏の建前上の清和源氏はともかく、
在原姓や賀茂姓でなく、饒速日命を祖とする物部姓穂積氏で越智氏と同族。
 
ということは春日局の母方稲葉氏と徳川氏の遠祖は同族。
 
春日局の徳川家仕官は、建前上は三条西実条の養女となり、
後水尾天皇に拝謁して従三位「春日局」と賜ったことが要因とされている。
更に同族という事情が重なったことが、仕官優位の条件だったのであろう。
[30]子孫よりさんからのコメント(2014年10月09日 23時04分48秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。

「穂積姓は日本第二位の鈴木氏の本姓」
全く不勉強でお恥ずかしいです。

「熊野新宮神職に鈴木氏多く、熊野三山の末社は約三千、六十余州に熊野神社の無い国は無く、
熊野神社勧請の方面でも鈴木姓が全国に広まったのである。」
※鈴木姓が苗字順位で日本第二位の理由がわかりました。

「三つ葉葵は三つ割菊に類似しており、ここにもバビロニアの影が。」
「松平氏・・饒速日命を祖とする物部姓穂積氏で越智氏と同族。」

すごく驚きました。
昨日伺った御教示「坪内氏を始めとする濃尾の川並衆の支援無しには、
信長、秀吉の天下取りは露と消えたことでしょう。
しかし折敷に三文字紋を甘く見たので本能寺の変で信長が滅亡。
明智光秀の筆頭家老齋藤利三(稲葉氏の影が)が首謀者。」
こちらにも繋がっていくのですね。

私、春日局についてはドラマで見たくらいの知識しかありませんでした。
(春日局という方は女性としてすごく興味がありました)
御教示を頂き、背景がわかりました。

ちょっと勉強します(__)
春日局 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80

春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。
父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。

(・_・)生涯について読んでいたのですが

日本の苗字七千傑様の御教示にもありました「三条西実条の養女」という事に関して
福は女であることから追われることはなく、母方の親戚に当たる[1]三条西公国に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。その後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者である。後に将軍家の乳母となるために夫の正成と離婚する形をとり、慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、元和9年(1623年)に老中に就任、寛永9年(1632年)には相模国小田原藩主となった。

家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。寛永3年(1626年)に江が死んでからは家光の側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であった[2][3][4]万や、楽、夏などの女性たちを次々と奥入りさせた。また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。
寛永6年(1629年)には、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。しかし武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得、三条西 藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号[5]、及び天酌御盃をも賜る。その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。
寛永11年(1634年)に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤利宗が後見人を務めた。寛永12年(1635年)には家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えた。
寛永20年(1643年)9月14日に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺。
死去の直前に当たる9月10日、家光は稲葉正則の娘(3歳)と堀田正俊の婚約、正則の妹と酒井忠能の婚約を発表した。この上意は新興譜代大名である稲葉氏と堀田氏を門閥譜代大名の酒井氏と結びつける意図があった。以後正則・正俊はそれぞれ幕閣に登用され、老中・大老に就任、幕政に参加した[6]

※母方の親戚に当たる[1]三条西公国に養育された
※その後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。
※武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得、三条西 藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号[5]、及び天酌御盃をも賜る。
※二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。
※死去の直前に当たる9月10日、家光は稲葉正則の娘(3歳)と堀田正俊の婚約、正則の妹と酒井忠能の婚約を発表した。この上意は新興譜代大名である稲葉氏と堀田氏を門閥譜代大名の酒井氏と結びつける意図があった。以後正則・正俊はそれぞれ幕閣に登用され、老中・大老に就任、幕政に参加した[6]

(・_・)

日本の苗字七千傑様のご教示の意味が解りました。
転記した内容以外にも次々と、今まで御教示頂いていた「家々」の姓が出てきました。

それと・・・
「三条西家」とは、
三条西(さんじょうにし)家は、藤原北家閑院流嫡流転法輪三条家の分家である正親町三条家の分家で、大臣家(旧家、内々)の家格を有する公家。
とありましたが・・「正親町三条家の分家」?

正親町三条家といえば
藤原兼高(母:藤原師高の娘) → 藤原顕嗣 → 女子(正親町公兼母?)
そして
正親町公蔭の母として記述されているお二人は(松殿兼嗣の娘・藤原顕嗣の娘)、どちらも「平河」と係わりのある方々でありました。

やっと見えてきました。
結局やはり同族となっていくのですね。

そして春日局の養子に堀田正俊。
「堀田氏」ですね。 あれっ?堀田氏? 堀田?

日本の苗字七千傑様の《淑光流》そして《堀田氏》《紀姓越智氏》姓氏類別大観 を拝見致しました。
「新宮氏」が見えます。うん?こちらにも「良円」と言う方がいらっしゃいます。
堀田氏は桓武平氏貞季流大橋氏にも繋がっているのですね!。
《紀姓越智氏》には松平氏・徳川氏の名が・・!

堀田氏は紀氏。
《長谷雄流》 に戻して見ると「木村氏」も見えます。

《武内宿禰氏族綱要》《紀氏族綱要》と拝見しました。
藤原利仁流石黒氏も見えます・・!

そうか・・やはり全て繋がっているのですね!

それに・・偶然かな「木村」「堀田」は親戚にもあります。

御教示のお陰で大きな繋がりの本当の意味がわかり、沢山の事が見えて参りました。
本当にありがとうございます。

<(_ _)>
[31]子孫よりさんからのコメント(2014年10月10日 10時50分31秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

と・・
笑っている場合ではありませんでした(@_@。
先ほど、シャワーを浴びていて、お湯の設定を変えたら水が急に出てきまして、
「いや〜〜〜っ!」と言った拍子に「ハッ!」と思い出した事がありましてコレマタ「いや〜〜っ!ありゃ〜lっつ!!」と。

何を思い出したかと言うと「鈴木氏」です!!

折角、昨日、日本の苗字七千傑様のご教示で「鈴木氏」を理解したのに、その時はピン!とこないで、水を浴びてしまった拍子に気が付いたのです。

平河は鈴木氏に関係しています!

平川家について16 コメント12
系図の中に鈴木氏に関しての記述があったのです!
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101373_87.html

転記します。平川家について16 コメント12
=========================================
所で、あらためて山江村誌に記述されていた「平河」の系譜を見ていたのですが、先日、コメントした犬童五兵衛の弟「平河将親」の子「平河久貞」についての記述を漢文でしたが私なりに解読したのですが・・・

「久貞」この方は、宝暦7年に起きた何かの事件に関係しているようです。
丑家中有事時因失誤被没収家
とあり、平河はこの時断絶したようです。
その後、弟の平河庄七紀治が新続平河家となったとありました。
ちなみに平河紀治には子供がいなかった為に愛甲次左衛門惟貞二男「惟重」為養子となって平河を継いだようです。
「久貞」の名は
平河喜左衛門 初喜内小休ト改又可笑ト改・・とあります。

宝暦七年丑家中有事時因失誤被没収家秩百石入獄七年出獄□塔原郷数年後有免赦移住人吉青井邑亦数年先之壮年之時仕官而於東都邸師鈴木徳左衛門滝盛而得疋田流鎗術道綂伝帰郷里有門弟数多流義益進是以召朝襄之賜一世一口月棒也

法名は定厳浄慧中尾

宝暦七年に起きた何かの事件に関与して入獄。その後出獄後、塔原郷での数年後に有免赦。そして人吉の青井邑に移住した後に「仕官而於東都邸師鈴木徳左衛門滝盛」
疋田流鎗術道を得て帰郷して門弟を多数得た。(かな?)
召朝襄之賜一世一口月棒也とはなんでしょうか?

と言う事で、
平河喜左衛門 初喜内小休ト改又可笑ト改 平河久貞についてでした。
でも・・・宝暦七年に起きた何かの事件・・なんだろう?

=========================================

平河久貞は「鈴木徳左衛門滝盛」のもとで「而得疋田流鎗術道綂伝」

「東都邸」とは?東都とはもしかしたら江戸ですか?

宝暦七年・・・江戸?・・鈴木徳左衛門滝盛・・・而得疋田流鎗術道綂伝

私はこの時続けてコメント13で
=================================================
平河家伝授巻のかなり後世の記述に関して、先日コメント致しましたが、すでに1700年代後半の情報まで到達していて、その後(幕末〜明治)を見ていたのですが、祖母方の「平川」の縁戚関係である「永田(医者)」「深水」「赤星」「黒木」などの繋がりは、上記の系図には表れず、やはり、何処かで、「平川」が分かれている事は確かです。(あたりまえか・・)

後世においての、こちらの系図は平川一族のいずれかの「家」の家系図となっていくので、参考程度に止めておこうと思います。

ただ、先日コメントした鎗術道(武術家)の「平河久貞(喜左衛門 喜内少休 のち可笑」。この方には娘が一人いらっしゃって、その方の記述に「母宮原権左衛門嫡女」となっていました。
愛甲にも親戚関係がありますから、一族の間での共通の「親戚」の名に「愛甲」と「宮原」が存在していると言う事は確かです。

================================================

と言う事で調査をここまでとしたのでした・・・・

でも

「穂積姓」である鈴木氏の鈴木徳左衛門滝盛という方と繋がりがあったと言う事は明らかです。

疋田流 鎗術 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%99%B0%E7%96%8B%E7%94%B0%E6%B5%81

新陰疋田流(しんかげひきたりゅう)とは、疋田景兼が伝えた槍術を中心とした長柄の武器術を猪多重良が大成させた武術流派。疋田景兼を開祖とする。疋田流とも呼ばれる。匹田流と書かれる場合も多い。
新陰流の剣豪として知られる疋田景兼は剣術だけではなく槍術等も伝えていたが、疋田の弟子の猪多重良が形を加え、新陰疋田流槍術を大成させた。
新陰疋田流は素槍を用いる槍術流派であるが、薙刀、剣術(ただし太刀対槍)、十文字槍、鍵槍の技も伝えられていた。
鳥取藩、伊予松山藩、岡山藩、徳島藩、仙台藩など全国各地で伝えられた。

疋田景兼 とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8B%E7%94%B0%E6%99%AF%E5%85%BC

疋田 景兼(ひきた かげとも、天文6年(1537年)? - 慶長10年(1605年)?)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、兵法家。姓については、侏田・引田・挽田とも表記される。
上泉信綱(上泉伊勢守)の直弟子で新陰流の兵法家。後世、疋田陰流剣術や新陰疋田流槍術の祖とされた。信綱の甥とも伝えられる。通称は豊五郎(ぶんごろう、文五郎、分五郎とも書く)。号は小伯(虎伯とも書く)。晩年には栖雲斎(せいうんさい)と号した。

加賀国石川郡に、上泉信綱の姉を母に生まれたと伝えられている。信綱に剣術を学ぶ傍ら、赤城山で剣術の修行に打ち込む信綱の生活の世話をしたと伝えられる。信綱に従って長野氏に属し、武田氏や北条氏との戦で活躍する。長野業盛が自害して長野氏が滅亡すると、武者修行に出た信綱に同行し、永禄6年(1563年)には、当時畿内随一との評判が高かった柳生宗厳と信綱の代わりに立ち会い三度とも全て勝ったと伝えられているが、これが記されているのは江戸時代の文献であり、尾張柳生家の伝承では信綱自身が立ち会ったとされ、また、鈴木意伯(神後伊豆守)が立ち会ったと記す文献もある。いずれにせよ、この敗北で宗厳は己の未熟さを悟り即座に信綱に弟子入りしたという。

\(◎o◎)/! あっ!!加賀国石川郡
上泉信綱の姉を母に生まれた。

疋田?・・・あっ!!疋田斎藤氏?

鈴木徳左衛門滝盛 疋田景兼
同族!!

見えてきました!!\(◎o◎)/!

<(_ _)>

[32]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月10日 14時08分30秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>堀田氏は紀氏。
 
堀田氏は八坂氏にも繋がり、祇園社執行家とも繋がる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03020.htm
 
祇園社とくれば祇園守、家紋、神紋にも祇園守紋がある。
しかし牛頭天王(素戔鳥尊)と祇園守の関係は、誰も明確な説明不可ですね。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/mamori.html
 
バビロン虜囚末裔のユダ族(現代のユダヤ人)なら一目でわかる。
モーゼ五書を巻物にして円筒形の容器に保管したものを具象化。
現イスラエル共和国でも、同様なものを見ることができる。
バビロニア〜大秦帝国〜秦韓(辰韓)〜山城(八坂郷)への悠久の旅路の果てか?
 
現在、祇園守紋を神紋とする神社は福岡県に多い。
八坂神社、三笠神社、三柱神社で立花氏関係。
[33]白石さんからのコメント(2014年10月10日 22時00分22秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 快調にはかどっていますね。

今日は 昨日見てきた 白菊大神の キツネのことを 考えていました。
向かって右は 玉を咥えていたように見え、左は巻物を咥えていました。

目は 細く切れ長でした。
巻物ってなんだろう? と 思って 

狐がくわえている巻物はなんだろう? と 考え 検索

狐と巻物 バビロンで検索

http://ameblo.jp/tsukioto2011/archive-201402.html
2014年02月のブログ|この世は謎だらけ - アメーバブログ
2014年2月17日 - 稲荷神社は、「お稲荷さん」、「お稲荷様」の名で親しまれ、赤い鳥居と狐が特徴的な神社 です。全神社の中でも最大の .... これは、★左の巻物が封印を施された巻物であり、それ を読み解くには鍵が必要であることを示しています。

やっぱり バビロニア と 思いました。

7000傑様も 
>バビロニア〜大秦帝国〜秦韓(辰韓)〜山城(八坂郷)
>八坂神社、三笠神社、三柱神社で立花氏関係。
とおっしゃっています。

鹿島氏を引き合いに出すと またまた 注意されそうですが
ウラルトゥの民が 南下して?(すみません。本を横にしていなくて)・・・趙世家の前半・・・(始皇帝の父は 趙へ 人質に出されていた。・・・ウィキより)
と 書いておられたように記憶しています。この ウラルトゥが アララト山があったところ と ウィキで みました。

一方 秦始皇帝の秦は 伝説では 殷の王亥と有易(親戚?)の話があり、有易の子孫が桃民・贏民になったという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
興味深いネットを見ました。
徐福の言葉も出てきます。
(過去に読んだ本から
徐福
斉の方士。
斉国は秦始皇帝の頃、中国で最高の文化水準を持っていた。
と 知識を得ていました。)

以下ネットより
穂積氏と秦
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-tospcc3&p=%E7%A9%82%E7%A9%8D%E6%B0%8F%E3%81%A8%E7%A7%A6&ei=UTF-8
水石の美を求めて 東三河の秦氏 その24 徐福伝承の謎
大島先生が書かれた論文資料からの孫引きになりますが、「牛久保・長山郷土史史料 写真集」第二集によれば、長山熊野神社は「神主秦氏後に穂積氏から鈴木と改め、後世 神保と改めたとある。」とのことです。

「神主の姓は古代の氏にして、家紋と社紋が同じであるのを恐れて、家紋を変えたとある。

秦氏は★平安京遷都後に歴史の表舞台から姿を隠しているので、東三河の徐福系秦氏も平安初期に姿を消した可能性があります)

「熊野神社御造営書留帳」には「文保2年(1318年)に本社氏子建立、神主秦氏神保平太郎重綱」との記述があります。注目すべき内容は★★「神主秦氏神保平太郎重綱」で、これを見る限りでは神保氏は秦氏となりますが、一般的には秦氏の流れをくむ惟宗氏の後裔とされています。

若一王子は熊野那智大社第五殿に祀られる神で、天照大神のこととされています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
とありました。




[34]白石さんからのコメント(2014年10月10日 22時25分02秒 ) パスワード

http://hane.ciao.jp/medamayaki/san1/archives/121
大秦国とか(東夷伝) | medamayaki1_blog(三国志的、読書的)
三国志の時代は西暦200年くらいからだけどその頃ヨーロッパではローマ帝国があっ たりローマは大秦国という名前で

・・・・仏陀の国
臨兒國,浮屠經云其國王生浮屠。浮屠,太子也。父曰屑頭邪,母云莫邪。浮屠★身服色黃,・・・この部分わかりません。お釈迦様は金色に輝く肌をしていたというから その 意味でしょうか?

坂氏 は  さか とも 読め、ばん とも 読める。
サカ族は お釈迦様を出した族で
ウィキより
 「塞」の発音について、『漢書』張騫伝の★顔師古の注では、「即ち仏経の謂う所の釈種とは、“塞”,“釈”の声(発音)が近く、本は一姓と聞く。」とあり、唐の顔師古は塞族と釈迦(シャーキャ)族がもとは同じ民族であったとしている。サカ人や塞人の起源がインド北西部にあることから、考慮に値する説と言える。
[35]白石さんからのコメント(2014年10月10日 22時47分27秒 ) パスワード

中国の秦に対し ローマは大秦という。
先にあげたネットの続き
・大秦国(ローマ)
国王はいつまでもその位にとどまれるのではなく、国の中で災害や異変がおこると、すぐ別の賢人が王に立てられ、もとの王はそのまま放逐されるが、王はそれを怨んだりはしない。
その国では人々は★背丈が高くて整ったからだつきをしていて、中国の人に似ているが、★胡服をつけている。彼らが自らいうところでは、★もともと中国から分かれてきたもので、つねづね中国と交渉を持ちたいと望んでいた。しかし安息国が仲介者としての利益を失うまいとするために、行き来ができずにいた、と。
人々は中国とは異なった字の書き方ができる。
その国のやり方では、公の宮殿も個人の住居も、★二階建てにする。……

子孫様は 少し色が黒いと おっしゃってたような・・・私は 黄色人種まるわかりです。ここらから ちがっているのかしら?

どちらにしても
白は黒の突然変異と 本で見たことがあり
エジプトの頃は 白は 白っこ と 言われて こきつかわれていたといい
遺伝子的にも 人間の母系は エジプトから 別れてきているように ウィキで見ました。

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[36]子孫よりさんからのコメント(2014年10月11日 00時00分35秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、御教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様
先日、図書館の帰りに小倉城周辺を散歩して、八坂神社へお参りしてきたばかりでした。

その時に神紋を見て、デザイン?が複雑だな〜このクロスしているのは剣?何?と思いながら見ていたのです。
(帰って、調べてはいませんでした(__))
「モーゼ五書を巻物にして円筒形の容器に保管したものを具象化。」
とても驚きました!!
目の前で見ると、西洋的なイメージを受け止めたのは確かですが、このような意味があったのですね!

日本の苗字七千傑様の《立花氏/田原氏》姓氏類別大観を拝見致しました。

藤原氏秀郷流 → 近藤氏 → 大友氏 → 立花氏 次々に画面を開きながら、「同族なのだな〜」とつくづく思いました。

《立花氏/田原氏》
藤原利仁流 斎藤氏にも繋がっているのですね。
大蔵姓 高橋氏も見えます。
大神姓 戸次氏にも繋がっているのですね。

全体が「やっと・本当にやっと」見えるようになりました。
御教示のお陰です。ありがとうございます。自分でもほんとうに嬉しいです。

白石様
お稲荷様の狐様の巻き物も実は・・と言う事ですね。
次々と驚きの御教示が!

秦氏
日本の苗字七千傑様の【惟宗氏】・【秦 氏】・《秦王裔氏族綱要》を拝見致しました。

「高丘氏(高岡氏)」がこちらにも見えるのですね。
日本の苗字七千傑様の《物部大連家》掲載姓氏 「高岳氏】【高岡氏】は物部麁鹿火大連の後裔」との記述もありました。

日本の苗字七千傑様、白石様
本当にやっと私、見えてきました。ありがとうございます(^・^)
では<(_ _)>(^・^)

 

[37]白石さんからのコメント(2014年10月11日 00時15分15秒 ) パスワード

八坂神社と五重の塔に関して 前は 聖徳太子が関与していると 思っていましたが 神社のことを ネットでつつくっているうちに 
八坂造 という 言葉が出てきました。伊利之という言葉も。

http://www.yasaka-jinja.or.jp/about/
八坂神社の歴史 | 八坂神社
狛国人・留川麻之意利佐が来朝したまま日本に亡命して定住し八坂造の姓を拝命した。

伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などとして近畿地方に繁栄した。

天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まりともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円(ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雑学ですが
平川子孫16で書いた弄良峯のこと
高祖持御史大夫印,弄之。——《汉书•周昌赵尧传》. 得鹊子还下弄;神气自若,傍若无 人。——《

良峯安世につながっているのか?ですが
周昌について ウィキを見たら 簡単には
高祖劉邦の側近。沛の 人。でした。秦の時には スラバヤ 卒史。






[38]白石さんからのコメント(2014年10月11日 05時09分34秒 ) パスワード

★平河天満宮 - 英和辞典・和英辞典 - Weblio辞書
「平河天満宮」に関連した英語例文の一覧(17ページ目) ... 良房との間に産んだのは 後に文徳天皇妃となった藤原明子(染殿后)ただ一人であり、他に側室も迎えられず後嗣 に恵まれなかった夫・良房は甥の★藤原基経を猶子とした。 
  ★★★明子
     藤原明子 とは - コトバンク - Kotobank
     朝日日本歴史人物事典 藤原明子の用語解説 - 平安前期の文徳天皇の     女御,★★清和天皇 の母。藤原良房と嵯峨天皇の皇女源潔姫の娘。名     は「あきらけいこ」とも。染殿后と称 される。
  
八坂神社は藤原氏の崇敬もあつく基経(昭宣公)は、その邸宅を寄進、感神院の精舎としたと伝わり、道長もたびたび参詣した。藤原氏全盛時代の中心人物の崇敬は、当社の地位が次第に高まることにむすびついた。

   ★★★このとき 道長の母・時姫の父が 山蔭。同母兄弟が 利仁(伊達      氏へ)。
      道長きょうだいに 道兼→豊前宇都宮流佐田氏へ
      道隆→菊池氏。この人の系図もしくは 彼ら兄弟の系図を 水無瀬      北条系図という。水無瀬あたりを桜井の地といい、後世楠正成親子      の桜井の別れはここだとその土地の人から聞きました。(奈良にも      桜井があるがここは 神武天皇即位の地だったはず。)           正規町天皇は水無瀬の このあたりに住んでおられたと 本で見た      ことがありますが・・・

      水無瀬には また 隠岐へ流された 後鳥羽天皇の離宮もある。

この天皇は
毛利元就(もうりもとなり)父子の献上金で、永禄3年(1560)になって即位。

http://arkness.blog.fc2.com/blog-entry-69.html
家紋を探る 【祇園祭】八坂神社の御神紋はキュウリではない【マクワウリ】
に 
「因みに牛頭天王は新羅から瀬戸内より備後国、つまり現在の広島県福山市に渡来している。
現在の福山市の素盞嗚神社がこそが日本で最初に牛頭天王を祀ったとされる場所だ。
因みにこの神社が茅の輪の発祥の地といわれる。
この後に播摩に勧請。
その後、播摩の牛頭天王は京都の八坂郷の瓜生山に降臨したとされる。」
とありました。

また
胡瓜は奈良時代〜飛鳥時代の頃に大陸から渡来している。
「胡」はペルシャのことであり、胡人というと「ペルシャ系ソグド人」を指す言葉である。
★ソグド人はもちろんペルシャ人のことである。因みにペルシャは現在のイラン。
ペルシャから直接シルクロードを通ってやってきたのか?
それとも半島辺りに定着した瓜が渡来してきたのか?
そこまでは分からない。
とも 書いています。
ゾクド人→サカを追いかけまわすと 出てくる。フェルガーナ・イリあたりに関与して出て、白馬。確か陸のシルクロード・漢の武帝が白馬をほしがった。天馬。さらに カザフの汗血馬(これが 赤馬・赤馬が関・赤間が関)の優秀さもある。に関与するもので イリあたりに チンギス・ハーンの子供がいた。と 記憶しています。
石氏 これを 音読みすれば 昔氏。
フェルガーナあたりに 百済の故地があったと 中国の本にあるそうですが・・・? 
[39]子孫よりさんからのコメント(2014年10月12日 07時47分08秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

メイは順調に回復して参りました。
体重もかなり増えてきまして、ケージから脱走をはかるくらいに元気になってきました。(でも、まだ力がないので、気持ちだけのようですが(^・^))
私はといいますと・・
体調は最悪です。
仕方ないですね(@_@。自然の脅威に身体が反応してしまうのですから(@_@。
(でも、メイのミルクとごはんとお薬は・・ちゃんと時間を見てあげています。母は強しとはよく言ったものですにゃ〜・・猫のママでございますにゃ〜)

白石様、沢山の御教示ありがとうございます。
すみません、コメント遅くなりました。
「胡瓜は奈良時代〜飛鳥時代の頃に大陸から渡来している。
「胡」はペルシャのことであり、胡人というと「ペルシャ系ソグド人」を指す言葉である。」

様々な地から日本へ沢山の方が渡って来たという事ですね。

素戔鳥尊
以前、コメントしましたが、長門の青海島で遊覧船に乗った時に、沢山の奇岩を巡ったのですが、島の西方で、一つの奇岩の前でガイドさんが
「素戔鳥尊が大陸に行かれる際に、この場所で風がやんでしまい船が動かなくなってしまいました。素戔鳥尊が岩に登り風が吹くようにと願うと、突然風が吹き始め、無事に船は動き出したと言う事です。以降、この場所で風がやむ事はなくなり、船は順調にすすむようになったと言う事です。」
とこのようなお話をされていました。

海外からの渡航者以外にも、素戔鳥尊も大陸へ行かれていたという事ですよね。
当時から交流は盛んだった・・
考えてみればローマではコロッセオなども建築されていたのですから、日本も世界との交流で、文化も発達していたのは間違いないと・・

古代の日本を未開の地のように想像してしまう固定観念があるとダメだと言う事ですね。

当時、世界の状況はどうだったのか?そう考えると2000年以上前の海外と交流を持っているであろう日本が想像しやすいです。

地面に穴を掘ったような火口の前に腰に草木で編んだ布?みたいなものを巻いただけの格好に、髪はボサボサの状態で土器を作っていたり・・・
出来れば、あのような模型?も、もう辞めてもらいたいな〜と思います(-.-)
もっと、違う生活を日本人はおくっていたと思うのですが・・

子供の頃の私は、かなり変わっていまして・・
毎日のように夜空を見上げて宇宙?を見ていました。
それと、地球儀が大好きで、グルグル回して色々な事を想像していました。

バビロニア・ローマ・ペルシャ・中国・カンボジアなどなど・・・
地球儀で言うと日本からみて左側?からのイメージですが、右側?例えば南アメリカなどとの交流は無かったのでしょうか?

私、子供の頃からバビロニアなどの文明以外に、南アメリカの古代文明のお話が大好きでした。
何故かあの名曲「コンドルが飛んでいく」を聞くと、涙が出ていたのです。
情緒豊かな曲ですよね・・風景が想像出来ます・・

今朝はかなり脱線いたしました。
実は気になる記述が沢山ありすぎて、体調不良で思考回路が低下しているせいでまとめる事が出来ていません。
今日も、きついかな〜(@_@。 ふぅ〜(@_@。

皆様、台風にはくれぐれもお気を付け下さい(__)
では<(_ _)>
[40]子孫よりさんからのコメント(2014年10月12日 15時01分34秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

父と先ほどまで電話で話をしていました。
先日から、きっと、親戚関係も大きく繋がっていると考えていた中でどうしても思い出せないおばちゃんの姓を聞く為です。

その方は、祖母の子供の頃からの大親友であり、平川とも宮原とも親戚関係にある方で、ただいつも祖母がその方を呼ぶ時に姓ではなく名で「○○しゃん」と呼んでいたので、わたしも「○○おばさん」と呼んでいました。(○○という名がとてもかわいらしいお名前でしたので・・)
私が30年前に球磨を出た日には、祖母が寂しいだろうと、家に来てくれていて、私の出発を見送ってくれた方です。
それを父に言うと・・
「お前は本当に何で忘れるとか!(-_-)/~~~ピシー!ピシー! 石塚さんタイ」と。
そうでした!石塚のおばさんでした!
と言う事でとても可愛がって頂いた伯母さんの姓は「石塚」でした。
おばさんは石塚家に生まれて、婿養子をとられています。
父は、石塚家は士族だったよ!と言っていました。
今までの調査で「石塚」という姓は確かまだ見ていなかったような・・?
だから思い出せなかったのかな・・(ー_ー)!!イヤイヤきっと私がボ〜ッと忘れていただけでしょう(-.-)

でも、祖母と石塚のおばさんは本当に仲が良かったです。
いつも家に来られて二人でお茶をしていました。祖母もよく遊びに行っていました。
だから、父からはいつもより余計に「まったくお前は!!」と言われてしまいました(@_@。

思い出したのですが、鹿児島のお寺様が来られる時にはおばさんも時折、家に来ていたような・・?

それから、湯前の平川家(2軒)には、祖母の父、すなわち私の曾祖父の弟が其々養子に入って平川を継いでいました。
だから、亡くなった湯前町長の平川の伯父は祖母の従兄弟だったわけです。
(今日、やっと意味がわかりました。ええええ〜〜っ!!との声が(-.-))
久米奥野の平川にも、曾祖父の弟が養子に入っているので・・
曾祖父の弟は其々が、上球磨の3軒の平川を継いだ事になります。
多良木の平川家には祖母の妹が嫁いでいるので・・

あっ!だから平川繋がりの親戚は祖母の実家を本家としてすごく多いのですね・・
なるほど!意味が解りました(__)(-.-)(今さらですが・・(@_@。)

ダラダラと長くなりましたが・・・
いつも「おばさんの」顔は思い出すのに姓を忘れてモヤモヤしていたのですが、今日、解決出来てすぅ〜っとしました。
(父に電話をするたびにこの件を忘れて聞いていなかったのです(-.-))
石塚のおばさんに「ごめんなさい」でございます・・というお話でした。

では<(_ _)>(^・^)
[41]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月12日 15時08分01秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>日本の苗字七千傑様の【惟宗氏】・【秦 氏】・《秦王裔氏族綱要》を拝見致しました。
 
秦氏来朝帰化の流れは?
「姓氏類別大観」および「応神朝帰化族の正体」を追補しました。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03001f.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kikajin.htm
[42]子孫よりさんからのコメント(2014年10月12日 17時41分07秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。

【秦 氏】姓氏類別大観 《秦王裔氏族綱要》拝見いたしました。

嬴(えい)姓。(漢字が読めなかったので調べました(__))

応神朝帰化族の正体を拝見して「嬴(えい)姓」について勉強させて頂きました。
「伊勢は辰韓系秦氏の上陸地」

でも・・・日本の苗字七千傑様
物凄い調査ですね\(◎o◎)/!
時間軸の矛盾点をすべて、見極めていらっしゃって、真実を追求する・・
私にとっては神様のような方です。
御教示頂けて、本当にありがとうございます。

「坂上氏や大蔵氏は後漢霊帝の末裔か」
の最後にお書きになっていらっしゃるお言葉、色々御教示頂いて、
こんな私でも「本当だ!!」と思いました。

ありがとうございました。(__)(^・^)


[43]白石さんからのコメント(2014年10月12日 22時53分29秒 ) パスワード

こんばんは
だんだん 風が吹くようになってきました。
明日のことを思って つい 身構えてしまいます。雨戸も 全部閉めました。
仕事は二日やすみなので ネット三昧をしていました。

平川は 桓武の子から始まる良峯ではなく 丹羽姓である ということで つながるのか?ですが 
前に 良峯で 検索をかけても 出てこなかったけど
テレビで ドメールという言葉を知り 追いかけて
弄(か)良峯が出ましたことは 先日書きました。
あのあと 周昌から ネットの表題を追いかけ て見ました。
周とある限り 周王室の周だと思って・・・
伊勢神宮荒木田家の人も 祖先は 周と言っています。
(今 神宮を出ていると 書いておられましたが・・・香淳皇后と血統を同じくしていると書いておられました。島津だと。
ウィキで 島津を検索すると
島津氏は、秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言・・・とありました。また 前に 島津はサダであることも知りました。)

弄良峯のこと
高祖持御史大夫印,弄之。——《汉书•★周昌赵尧传》. 得★鹊子还下弄;神气自若,傍若无 人。——《
   ↓?
中国史:秦漢補注/人物 - Itscom.net
★周章 〜B208 陳(河南省淮陽)の人。楚で春申君や項燕に仕えたことがあり、軍略 を以て陳勝に自薦して将軍とされた。 伐秦で函谷関を破って戯( .... 司馬遷からは有志 の侠客として、郭解と共に高く評価された。★ 周苛 〜B203 周昌の従兄。★ 周昌と共に劉邦 に従い、漢中で御史大夫とされた。 ..... 従兄弟の王音がB15年に歿して兄の★王商が執政 を嗣ぐと、特進を加えられて禁兵を統御したが、少府の財を侵して成帝に憎まれ、3年で 王商
   ↓?
史記・呉太伯世家による系譜
          (殷を滅ぼし周を興す。太伯、仲雍の子孫を探した)
(太伯)             ||
古公亶父―――季歴―――文王―――武王―――成王(周)
     |          呉王に任命/
     |―太伯         ↓ /鬯草を献じる
     |―仲雍―――…―――★周章(兄)―――呉王(=倭人)
(弟の季歴に国を委ねる) |
             ―――虞仲(弟)―――虞王(周の北方の国)

   ↓?
神社伝承・中国文献・考古学的事実の照合
太伯(句呉を建国)→虞仲→季簡→叔達→周章→熊遂→柯相→彊鳩夷→余橋疑吾→柯 盧→周?→屈羽→夷吾→ ...★ 松野連系図」によると、この夫差の子「忌」が、生まれ育った 江南地方を離れ、日本列島にやってきたと伝わっている。この系図による .... ★イザナギ・ イザナギ一族の祖先も伝承では呉の太伯であり、熊襲の祖先と同じとなる。呉王夫差の
   ↓?
松野連系図

 日本側資料にも松野連に伝わる系図と言うのが存在している。中国の史書には「周の元王三年、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記されている。「松野連系図」によると、この夫差の子「忌」が、生まれ育った江南地方を離れ、日本列島にやってきたと伝わっている。この系図によると「忌」のところに「孝昭三年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」と記されている。
※孝昭という天皇は 神武の子孫になっており 神武天皇にも 神倭伊波礼彦と倭を冠してあり 、 倭は 伊弉諾・いざなみの系も同系統というので 倭はもっと古くから あったのだろうと 思う。

※王商 - Wikipedia
王商(おうしょう). 前漢の人物。 王商 (蟸吾) - 涿郡蟸吾の人。漢の宣帝の実母王夫人 の甥に当たる。成帝の時代に丞相となった。 王商 (元城) - 魏郡元城の人。漢の成帝の 実母王政君の兄弟。成帝の時代に大司馬大将軍となった。王莽の叔父に当たる。

系図がずれなければよいのですが・・・
[44]白石さんからのコメント(2014年10月12日 23時15分18秒 ) パスワード

やっぱり きれいに でませんね。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/1/wajinden_5.htm
魏志倭人伝・5・補足

とか
http://hane.ciao.jp/medamayaki/san1/archives/121
大秦国とか(東夷伝)

を 見ていました。


[45]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月13日 00時51分07秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「孝昭三年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」と記されている。
 
記紀が神武即位を西暦紀元前660年に紀年延長をした為、
それに合わせる必要から孝昭朝(紀元前475〜393)に松野連系図を改竄。
 
紀年の改竄を除けば、松野連系譜は概ね正しい。
子孫は漢土に対しては倭国王を僭称したので、魏志倭人伝は松野連系図から人名を摘記(コピペ)したわけだよ。
 
神武即位はおそらく西暦361年(辛酉年)だから、記紀の紀年は信ずべからず。
まあ朝鮮の三国史記も、三韓時代を曖昧にして建国を紀元前に遡らせているから記紀と同じ穴のムジナ。
[46]子孫よりさんからのコメント(2014年10月13日 11時45分19秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、御教示ありがとうございます。

白石様から伺ったお話の中に
「神社伝承・中国文献・考古学的事実の照合」からの転記がありましたが
こちらの情報こそが、私が数年前に見つけてコピーして保存していた情報です。
おそらく、以前、2回ほど御紹介したと思います。

でも・・・
以前、コメントした時には、全く周りが見えていない上に不勉強も重なって、「球磨国」という言葉のみに興味を持っていただけでした。

でも、今は、皆様からの御教示のお陰です(^・^)
再度情報を読んだ所、その事がどのように、後世に繋がっていくのか想像を膨らませる事が出来るようになりました。

しかし驚くのは、日本の苗字七千傑様の御教示にあった
「紀年の改竄を除けば、松野連系譜は概ね正しい。
子孫は漢土に対しては倭国王を僭称したので、魏志倭人伝は松野連系図から人名を摘記(コピペ)した」
と言う事です。

そうなると・・・魏志倭人伝をもとに古代日本を推測する邪馬台国論争などは、どうなるのでしょうか?・・・・(-.-) あれれ〜っ?

日本の苗字七千傑様の【松野氏】姓氏類別大観を拝見いたしました。
「松野氏」「金沢氏」「松井氏」の掲載氏名が見えます。

松野氏は
藤原氏秀郷流の《大友氏(義長以降》そして先日ご教示を頂いた《立花氏/田原氏》にも見えますね・・
《卜部氏(壱岐系)》そして【藤原南家為憲流】にも見えます。(もちろんこちらには工藤氏・相良氏・二階堂氏があります)
【藤原氏道兼流】から繋がる《宇都宮氏》(こちらには中原氏も見えます)そして「北条時政」から繋がる《横田氏》。
こちらにも「松野氏」が見えます。
《横田氏》姓氏類別大観には「石井氏」「蒲生氏」も見えます。

「松野」姓が絡んでくる系は、全て今までの調査に登場していました。
全てが松野連に繋がってくるかは私には解りません。
しかし、このように系図を拝見すると、大きな輪が見えてくるような気がします。

今まで、1個人の情報から先に繋ごうとしていたから、混乱していた事がよ〜くわかりました。(つくづくと・・(@_@。)

でも、逆に、全体がやっとそうですやっと見えるようになったからこそ、今度はその中の「個人」に気が付く事があるようです。
(何だかモヤモヤが発生しているのですが・・それはまた後ほど(-.-))

台風上陸直後に耳が「キ〜ン」となりまして・・
丁度、父と電話で話をしていたのでテレビを見ていなかったのですが、耳がキーンとなった」と父に言うと「おっ!もしや上陸したかな?」と。
(私の耳キーンで上陸?と発想する父も変といえば変ですが・・変な親子です)
かれこれ数時間、耳がキーンと鳴りっぱなしです(-.-)

寝ているとかえって具合が悪いのが加速されそうなので、気分を変えて勉強します。(-_-)

では<(_ _)>(^・^)
追記 皆様おすまいの地域は台風の影響は大丈夫ですか?
くれぐれもお気を付け下さい。
[47]子孫よりさんからのコメント(2014年10月13日 13時54分55秒 ) パスワード

皆様、(^・^)

モヤモヤするのをそのままにすると身体に良くない(ー_ー)!!と思いまして・・
決意しました! こうなれば・・お伝え致します(__)

まず、最初に(__)
私のヒラメキというか妄想から言いますと・・
平河師高(良峯師高)と平河義高の関係は、球磨から始まったのではナイと思います。
おそらく親子関係ではないでしょう。
平河師高の後を継ぐいえ「平河」を名乗る後継者として球磨に下向したのが平河義高であると・・

今までの調査から、皆様もきっと平河師高とは本来「誰」なのかは推測出来ていらっしゃると思います。
あえて、今日は「良峯師高」と書きます。
良峯師高と縁のある「義高」。この方が「平河義高」

しかし、不思議な事に
建久八年閠六月の肥後の建久図田帳の一部とみなされる球磨郡田数領主等目録写(「相良家文書」)には
鎌倉御領五百丁 預所因幡大夫伴官(大江広元)
永吉三百丁(三百五十の誤りか) 地頭良峯師高息字平紀平次不知実名(師貞)
須惠小太郎家基領百五十丁
とります。

木上岩城 城主であった平河義高の名前は何処にもありません。
(以前、建久図田帳の作成には中原氏が係わっている事をお伺い致しました)

しかし、建久9年(1198年)12月の相良長頼の人吉城への入城の際には平河義高が大きく関わっています。

でも・・・・
この謎が、やっと理解出来るようになった「大きな繋がり」によって、見えてきたような気がします。

越智氏・北条氏・河野氏・伊予橘・中原氏・良峯姓丹羽氏・良峯姓(前野氏・坪内氏)・藤原北家利仁流・桓武平氏千葉氏流、藤原北家秀郷流 他にも坂上氏・紀氏・そしてもしや秦氏・・・繋がっているようです。

それから、現代に到る、宮原と平川の縁戚関係。
旧宮原村そして岡本村の家々・・

そして・・祖母が大事な縁戚であり友人である方を介して私に教えてくれたようです。

さらに・・
平河義高の家臣であった「柏木覚左衛門」。この方の名前が残っていた事はとてもありがたい事でした。

では・・・・
何がモヤモヤしていて・・そして見えて来たのか?

「木曽義仲」この方に関連した情報です。

次のコメントで(__)
では<(_ _)>
[48]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月13日 14時47分19秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>魏志倭人伝をもとに古代日本を推測する邪馬台国論争などは、どうなるのでしょうか
 
邪馬台国とは旧熊国(球磨国)のことであり、漢土に対して倭国王を僭称したということ。
その後、邪馬台国(旧熊国)は豊国に吸収される。
紀元266年、 一倭の女王(壹與か?)、西晋に朝貢。
これが豊国の女王のことでしょう。
さらに葦原中津国と連合して豊葦原千五百秋瑞穂国となる。
連合に際しての神聖条約締結地は、玄界灘に浮かぶ沖ノ島(現宗像大社奥津宮)。
後は紀年に偽りがあるが、記紀に記述の通り神武東征で大和に遷都。
詳細は、仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」を参照して下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/hypothesis.htm
 
また人名、地名の裏付けは「古代日本領土の起源」を熟読すれば一挙に氷解。
http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%81%AE%E8%B5%B7%E5%8E%9F%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%81%AE%E7%99%BA%E7%A5%A5%E7%9A%84%E5%BD%A2%E6%85%8B%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E5%85%89%E5%A0%82/dp/4880330175/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1413177896&sr=8-1&keywords=%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90

邪馬台国論争などは単なる与太話ですから、まともな歴史学者が古代の一時期をああでもないこうでもないと重箱のスミを突っつくテーマじゃ無いでしょう。
[49]子孫よりさんからのコメント(2014年10月13日 16時08分01秒 ) パスワード

では早速<(_ _)>
私のモヤモヤは以下の記述から繋がる様々な情報となるのですが、まずは
木曽義仲という方について(__)

木曽義仲 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2

源 義仲 (みなもと の よしなか )は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と称された。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って上洛する。連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍[注釈 1]となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。

生い立ち[編集]
河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。母は遊女。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)とする伝承もあるが、義賢が居住していた上野国多胡郡(現・群馬県多野郡)の可能性もある。
『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄の源仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。
諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。

(・_・)まずはここまでの記述から
※父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。
※畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れた
※駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。
※異母兄の源仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となる
※金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。
(・_・)
中原一族と金刺一族です。(多臣族)ですね・・
続けてピックアップしながら転記します(・_・)

寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送る事で頼朝との対立は一応の決着がつく。

ここで・・
(・_・)志田義広とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%BA%83_ (%E5%BF%97%E7%94%B0%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%85%88%E7%94%9F)

源 義広(みなもと の よしひろ/志田 義広 しだ よしひろ)は平安時代末期の武将。河内源氏第五代・源為義の三男。志田三郎先生(しだ さぶろう せんじょう)。またの名を義範、義憲(よしのり)とも。志田氏の実質的な祖。

若年時に都において帯刀先生の職にあり、後年関東に下向し常陸国信太荘(茨城県稲敷市)を開墾し本拠地としたため、通称を志田(志太、信太)三郎先生と呼ばれる。父・源為義は子福者で、50人を超える子がいたとされ、源氏の棟梁となる長兄の源義朝以下、帯刀先生義賢、左衛門尉頼賢、鎮西八郎為朝、新宮十郎行家らは、みなこの義広の兄弟であった。
※新宮十郎行家・・熊野三山の要職に就いていた新宮別当家嫡流の行範(のちに19代熊野別当に就任)の妻となった鳥居禅尼(たつたはらの女房)の同母弟として生まれ、しばらく熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称した・・とありました(__)

義広は初め同母の次兄・義賢と親しく、義賢とほぼ同時期に関東に下向した。仁平三年(1151年)12月、常陸国に志田庄を立荘する。この時の志田庄の本所は美福門院、領家は藤原宗子(後の池禅尼)であり、その立荘を斡旋したと思われる常陸介が宗子の息子の平頼盛であった[1]。この時点において義広が平頼盛に接近していたことが窺える。
(・_・)木曽義仲が庇護した「志田義広」この方は平頼盛と近しい関係にあったという事ですね・・・

では木曽義仲についての記述に戻ります(・_・)

7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた
中略・・・
8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下・左馬頭・越後守、行家は従五位下・備後守に任ぜられる[5]。16日になると、義仲は伊予守、行家は備前守に遷った。
(・_・)木曽義仲は伊予守でもあったのですね・・

中略・・・
治安回復の失敗
たまりかねた後白河法皇は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」[11]と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲にすれば、失った信用の回復や兵糧の確保のために、なんとしてでも戦果を挙げなければならなかった。義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。
後白河法皇への抗議[編集]
義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」[12]と朝廷を大いに喜ばせるものであった。10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える[13]。
そうとは知らぬ義仲は、西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった[14][注釈 4]。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした[15]。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給[16]、志田義広の平氏追討使への起用を要求する。
義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し[17]、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された[18]。しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった[19][注釈 5]。

(-.-)そして・・・決裂をむかえたのですね。

院側の武力の中心である源行家は、重大な局面であったにもかかわらず平氏追討のため京を離れていたが[21]、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった[22]。
これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護している[23]。義仲の返答に法皇がどう対応したのかは定かでないが、18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。

※ここでも「天台座主・明雲」・・

(・_・)ここからの記述がとても気になります・・
法住寺殿襲撃[編集]
詳細は「法住寺合戦」を参照
11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河法皇を捕縛して歓喜の声を上げた(『玉葉』同日条)。義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉する。この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死した。九条兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」[24]と慨嘆している。義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという[2

(・_・)・・・・・

21日、義仲は松殿基房(前関白)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」[27]と命じ、22日、基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。『平家物語』は義仲が基房の娘(藤原伊子とされる)を強引に自分の妻にしたとするが、実際には復権を目論む基房が義仲と手を結び、娘を嫁がせたと見られる[注

(・_・)※藤原伊子(ふじわら の いし、仁安2年(1167年)? - 承元元年(1207年)?)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。父は関白・松殿基房。源義仲の正室で、後に源通親の側室となり道元を生んだとされる。位階は従三位。松殿伊子とも記され、冬姫とも伝わる。
※道元とは・・曹洞宗開祖。

(・_・)戻ります(__)
最期[編集]
寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させた[注釈 1]。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した。
戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、21日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」[32]と評した。享年31。
義仲が戦死したとき嫡子・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれ、義仲の家系は絶えた。
戦国大名の木曾氏は義仲の子孫を自称している。

(__)
かなり長くなりました。

以前、別の調査で初めて「木曽義仲」この方の上記の情報を読んだ時、その時からモヤモヤした気持ちが出ていました。

でも、もっとモヤモヤする気持ちになる記述があったのです(__)

先日、私が加賀守となった藤原師高に関して、西光の威光だけではないのでは?と思い加賀国を調べた事は皆様、ご記憶して下さっていると思います。

そしてコメント12で
加賀国 総社 石部神社 (小松市古府)
そして
二宮 菅生石部神社 (加賀市)
小松市古府は国府があった場所でした。・・・と言う事で
石部神社 (小松市古府)と二宮 菅生石部神社 (加賀市)を調べました。

この時白山信仰についても調べていたのですが、コメントを行っていない記述があります。
何故ならばモヤモヤしたからです。
次のコメントでお伝えします。(__)
[50]子孫よりさんからのコメント(2014年10月13日 17時17分49秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」を拝見致しました。
今までの様々なご教示のお陰で、読ませていただくたびに、ドンドン意味が理解出来るようになってきました。(本当ですよ(-.-)・・漢字もお陰で拒絶反応を起こすことがなくなりました。(^・^))

「列島の過半を版図とした豊葦原国の間接統治が困難となり、宗主国の馬韓国(高天原)は天照大神の孫瓊瓊杵尊を南九州の笠沙岬に上陸させて韓国岳を経て高千穂峰より降臨して日向に奪回の橋頭堡を築くのである。(古事記高千穂峰降臨詔勅に『於是詔りたまはく、「此地は韓国に向ひ笠沙の御崎に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて、底津石根に宮柱太しり、高天原に氷椽高しりて坐しき。』)

※朝日の直刺す国・・・朝日ですね。 そうか・・\(◎o◎)/!はっ!!

関係ないのかも知れませんが「朝日」と名のつく将軍と呼ばれた方がいらっしゃいましたね・・(どなたかは解っていますが、関係ないかもしれないので・・)

古代日本領土の起源
もう、必ず買います!!

「邪馬台国論争などは単なる与太話ですから、まともな歴史学者が古代の一時期をああでもないこうでもないと重箱のスミを突っつくテーマじゃ無いでしょう。」

あの・・・何故、邪馬台国の位置について、歴史学者の方で拘る方がいらっしゃるのですか?
今、伺ったからではないのです。私、ず〜っと前から、そうです子供の頃から何故か?邪馬台国については興味がなかったのですよね・・・
(多分、前にもコメントしていたと思います。狗奴国にものすごく興味がありました。もちろん当時は球磨国という言葉は聞いた事はありませんでした。だから自分でも不思議なのです・・?)

しかし・・・古代について日本の苗字七千傑様にご教示頂き、白石様にも沢山のお話を伺い、皆様のお陰で沢山の事がやっとみえるようになりました。
父がず〜っと言い続けた「新しい所(平安時代や鎌倉時代)から調べて何が解る?!」という言葉の意味もやっと解りました。

本当にありがとうございます。

[51]子孫よりさんからのコメント(2014年10月13日 19時17分54秒 ) パスワード

では、早速モヤモヤするお話の続きを(-.-)

コメント12で
加賀国 総社 石部神社 (小松市古府)
そして
二宮 菅生石部神社 (加賀市)
小松市古府は国府があった場所でした。・・・と言う事で
石部神社 (小松市古府)と二宮 菅生石部神社 (加賀市)を調べました。

結果
加賀国 総社 石部神社 (小松市古府)
御祭神 天日方奇日方命(櫛日方別命)
※磯城津彦命の御爺様であり中原氏の祖となる方。
そして
二宮 菅生石部神社 (加賀市)
御祭神 天津日高日子穗穗出見命、豐玉毘賣命、鵜葺草葺不合命の三柱

と言う事が解ったのですが、
石部神社 (小松市古府)の記述に
当社が加賀国総社とみられており、一時は隆盛を誇ったが安元2年(1176年)の涌泉寺事件以降勢力が衰えた。慶長5年(1600年)に丹羽長重により社殿の修理などが施され、江戸時代には歴代の加賀藩藩主の保護を受けた。また、当社が加賀国一宮であると考えられていた時期もあり、白山比・神社と論争になった。

とあり

二宮 菅生石部神社 (加賀市)の記述には
歴史[編集]
社伝によれば、用明天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まるという。延喜式神名帳では小社に列し、加賀国二宮とされた。古来より朝廷・武門からの崇敬が篤く、天慶3年には正四位下の神階が授けられた。『平家物語』巻七には、木曾義仲が当社へ「のみ(野美)の庄」を寄進したとの記述がある。中世には、一帯は北野天満宮の社領となっていた。「天神」の通称はそこからきたものであり、現在もその名残で境内に牛の像が残っている。
明治29年(1896年)に国幣小社に昇格した。
京都の敷地神社(わら天神)は、当社からの勧請である。

とありました。
※木曾義仲が当社へ「のみ(野美)の庄」を寄進した。

では、コメントしていなかった事を・・
平泉寺白山神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B3%89%E5%AF%BA%E7%99%BD%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
本殿に伊奘冊尊、本殿右の別山社に天忍穂耳尊、左の越南知社(おおなむちしゃ)に大己貴尊(大国主命)を祀る。

養老元年(717年)、泰澄によって開かれたという。中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになる。白山信仰の越前側の禅定道の拠点(越前馬場)として、最盛期には48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成した。
『平家物語』には、平家と木曾義仲方との燧ケ城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。

(・_・)平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についた・・
にも係わらず一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。・・・

と言う事でした・・・
中原氏との縁が深く、金刺氏とも繋がりがあり、子息「義高」の母は中原兼遠の娘であって、「明雲」に関しての記述は読んで頂いた通りです。
そして富樫氏との縁はコメント20で書いた通りです。

しかし・・・先日までは単にモヤモヤするだけだったのですが・・「清和源氏」?と。

昨日、父より聞いた祖母の大親友であり平川とも宮原とも縁戚関係のある「石塚家」について、何だか気になり日本の苗字七千傑様の系譜を検索したのですが・・

石塚氏は
藤原氏秀郷流と佐竹氏の系にありました。
《佐竹氏》姓氏類別大観を拝見致しました。
《佐竹氏(室町期以降)》の系に「石塚氏」が見えます。
佐竹氏から山本氏に進んだのですが「柏木氏」も見えました。

【清和源氏総括】姓氏類別大観を拝見したのですが越智姓河野氏も見えました。
義隆流に繋がる「頼貞」この方は橘にも繋がっていきます。

義時流には「石川氏」も見えます。

今まで、頭の中に「清和源氏」は浮かんで来なかったのですが、あらためて様々な繋がりを目にする事が出来ました。

「義高」(よしたか)という方は沢山いらっしゃるようなので、一概に今、この方だ!と決めつける事は出来ませんが、また、一つ大きな繋がりを目にした事は明らかです。

では、頑張って勉強いたします(^・^)
[52]白石さんからのコメント(2014年10月13日 19時56分46秒 ) パスワード

こんばんは
台風のせいか 風がつよまってきました。
雨戸も閉めきって 部屋で じっとしています。
愛犬もなんとなく 感じているようで 上目で時々風の音を聞いています。

テレビドラマで 紅楼夢を 見ていました。
俳優さんの顔のことなので 筋や家のことではないのですが
また 俳優さんは芸名なのは あちらでも 同じだろうと 思うのですが

賈宝玉
宝玉のいとこ・林黛玉
子供時代の彼らの役をしている人の顔が 私 若いころ会社の同期だった 杉原さんと そっくりなのです。
杉原さんも未婚の若い女性でしたから もう少し 卵形の顔の輪郭で肉がついてなくすっきりしていたのですが しかし そっくりです。

できれば 俳優さんの本名を知りたいと 思います。
杉原さんは 杉原系図により 平惟盛子孫 秀吉正室高台院につながっているようですが
この俳優さんの顔を もう少しふくよかにすれば 此部さん・大人びさせれば在間さん もっと顔を長くすれば 故郷にいる堀川さん の顔になるのです。

おどろいたなあ と 想いながら 見ています。 
[53]子孫よりさんからのコメント(2014年10月13日 23時34分17秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、コメントありがとうございます。

紅楼夢というドラマを知らなかったので、早速ネットで調べました(^・^)

予告編を再生して見たのですが、おっしゃっている方がどの人か残念ですが解りませんでした。

でも、すごく映像が綺麗なドラマですね。
あまり、海外ドラマを見た事が無かったので、この頃は朝、再放送されているイ・サンは見ています。(俳優さんの髭が・・(●^o^●))

一般的に先祖様と現代人の顔はやはり似ているのでしょうか?

そう言えば!!
娘が面白いサイトを教えてくれました。
幕末のイケメン達特集のようなサイトです。(全く(ー_ー)!!との声が・・)
http://y-ta.net/bakumatsu-handsome-men/

もう、本当にビックリしました!!(●^o^●) ぽっ
渋沢平九郎さんや池田長発さんはEXILEのような・・

もっともビックリしたのは
東郷平八郎。この方の若かりしき頃のお写真には、驚きました。

と言う事で、少し頭を休めました(^・^)

こうして見ると、やはり現代人と先祖様は・・
顔はあまり変わらないのかもしれませんね・・・・?

では<(_ _)>(^・^)
[54]白石さんからのコメント(2014年10月14日 03時58分27秒 ) パスワード

こんばんは
ひと眠りして みたら 風はすっかりやんで 静かです。

画像のこと
桂小五郎とか 東郷平八郎とか の 眉の形(一本で少しぼさぼさ )と 目までの間隔とか 目の形(眼窩にそってまぶたが出来て もうひとつ眼のところで筋があるので 時には 三重まぶたに見える)が 私にそっくり と おもいます。あちらに 私が似ているのか^^

眉は そらなければ 太いです。体もがっしりしているので 時としたら 男みたいと自分では 思っています。
これで スペイン人?(過去に梅田で外国の人からそういわれたのです。化粧のせいかな?)

母は 148センチくらいで 小柄だったのにね。

明治のころまでの男の人は結構 男前でしたね。
なんだったのでしょう。食べ物でしょうか?

紅楼夢は 私はテレビで見たので うっかりしていました。
パソコン検索をかけたら 確かに ・・・
それに なんだか コマーシャルがでーんと 上に貼り付けてあって写真がみえないのも・・・

http://www.lala.tv/programs/kouroumu/
紅楼夢(こうろうむ)〜愛の宴〜 Dream of the Red Chamber ... - LaLa TV

で検索してみていただけますか?
画像が出たら 真ん中あたりの 白い服の人が林黛玉です。
宝玉は 少し 顔がかわっているような。年齢で細かく俳優さんを買えるみたいです。12歳くらいの時の顔が 一番似ている。

俳優さんとは 別に この話での名門は賈 、史、王、薛氏で 清国の(アイシーン・ギョロ氏)皇室と姻戚関係があり お互いにも姻戚関係があり・・・

賈宝玉
宝玉のいとこ・林黛玉
宝玉いとこ・薛宝釵
と いう 関係で 話は進みます。

朴氏をかついで 新羅を建国したという薛氏

7. 薛氏の由来:薛氏の主な6系統を紹介:
@任姓薛氏:「薛国」子孫の系統(私の家系・・・このページの作者のこと)
A嬀(田)姓薛氏:孟嘗君系統
 戦国時代に「薛国」が斉に滅ぼされ、孟嘗君のお父さんに封賞され、孟嘗君が死んだ後、また滅国され、子孫分散、劉邦が天下を取ったあと、孟嘗君を尊敬したため、その子孫に薛城を再封賞されるが、兄弟2人が譲りあい、ともに受賞しなく、安徽省宿県に移り、故郷を記念するため薛に改姓した。
B改姓:叱干氏系統
  北魏孝文帝(494年)、洛陽へ遷都後、胡漢融合を図るため、漢化改革を推進(禁胡服、断北語、改姓氏、定族姓)、119個の復姓を単姓に改定、叱干氏→薛氏(拓跋氏→元、独孤氏→劉)
C匈奴薛氏(山西省離石地区)
D鉄勒(族)薛延陀(内蒙古杭愛山脈)
E授姓:武則天が愛人の馮小宝を薛懐義に授与した(娘を薛氏に嫁したため)

他はまだ 調べていないのですが 結構古くから続いている家が多いのですね。
アイシーン・ギョヨロの祖先は 西方にいた 雑種。中国名は草冠に重の とう。漢王室と 姻戚関係を持っていた さだ で、のちに後金国(清)をたてる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
他に 鉄の王 金首露 を 見ました。
句奴(字があっているかな)の神をまつる族の中にいました。

韓流ドラマ「鉄の王、キム・スロ」 (韓国タイトル)の紹介 |
カヤ
天日鉾は 大カヤ国の王子という。

狗耶国の九つの部族のうちの一つである神鬼村の首長。イビガの政敵 など 表題に出ていました。




[55]白石さんからのコメント(2014年10月14日 04時05分38秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑様 ご指導ありがとうございました。
コメントを書いているうちに どこかへ飛んで行ったり して また 書き直しているうちに すっかり お礼を忘れていました。

古代のことは とんちんかんな ことを 書いたりすると思いますが よろしく ご指導お願いいたします。
[56]子孫よりさんからのコメント(2014年10月14日 14時06分09秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

あの・・!!ついに見つけました!

藤原家基(須恵小太良)・源義光・源義業 繋がっています!

では、ご説明を(-.-)

今朝、別の内容を調べていて偶然「藤原家基(須恵小太良)」の母が解りました。
藤原家光子 藤原家基
※系図纂要は家忠の子。母筑前守知家女。

母筑前守知家女・・筑前守知家とは
藤原北家良世の子「恒佐」から始まる系で 恒佐 → 懐忠 → 邦昌 → 邦恒 → 義綱(肥後守) → 知家(少納言。筑前守。従四位上)となります。
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/fujiwaranoyoshiyo.htm

筑前守知家こと藤原知家の兄弟に「知実」と言う方もいらっしゃる事を確認しておいて下さい。
知家という名は複数ありますが、調べた結果、時間軸から見てもこの方であると思います。
それと・・補足ですが
藤原恒佐の母は紀豊春女・勢子という方です。
藤原恒佐の妻であり「懐忠」の母は藤原清貫の娘です。
藤原清貫は「藤原保則」の四男です。

藤原家基の母が「藤原知家の娘」と言う事が解った所で、私のいつもの感がムズムズしました。
初めて目にしたこの方はもしかしたら、キーマンの一人では?と思ったのです。
もしや?昨日の情報にも繋がっているかも?と・・

\(◎o◎)/!やっぱり繋がっていました!!

源義光(新羅三郎)の妻であり源義業の母である方は・・
甲斐守知家〔或知実〕女。(尊卑分脈)

甲斐守に知家もしくは知実を見つける事は出来ませんでした。
なおかつ、詳細に確認をしましたが、時間軸で照合すると、「知家」または「知実」という名で合うのは・・藤原知家・藤原知実です。

もしも・・
源義光の妻であり源義業の母が藤原知家の娘であれば、源義業と藤原家基(須恵小太良)とは従兄弟となります。
源義業の母が藤原知実の娘であればふた従兄です。

源義業の子息「源昌義」佐竹氏の祖。
昌義の子のうち長男の忠義は大掾氏を継ぎ、佐竹氏は隆義が継承した・・
源義業の子息「源義定」山本氏の祖。柏木氏はこちらの系ですね・・

と言う事で、

藤原家基(須恵小太良)・源義光・源義業は繋がっていた・・というお話でした。

では<(_ _)>(^・^)
[57]子孫よりさんからのコメント(2014年10月14日 22時52分15秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

源義光の母は平直方の娘。

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏維将流】姓氏類別大観を拝見いたしました。

越智氏・北条氏・河野氏・源義家・義綱・義光。繋がっています。

そして
コメント56でお伝えしたように
藤原家基(須恵小太良)と源義光は繋がっていた・・

やはり饒速日命の後裔に繋がっていくと言う事ですね。

平河は鎌倉時代において北条氏とは縁戚関係にあり(北条重時の甥が平河師里)、「荒田寺」(現荒田観音堂)の「木造釈迦如来坐像」銘文に残された川野氏の名跡。
「奉造立釈迦如来像天台僧林与 保延7年2月14日」(僧林与=川野林与)


藤原家基(須恵小太良)は藤原知家の娘。
藤原知家は藤原恒佐の系。
藤原恒佐の母は紀豊春女・勢子。
藤原恒佐の妻であり「懐忠」の母は藤原清貫の娘。
藤原清貫は「藤原保則」の四男です。

紀氏にも繋がっています。

そして相良氏は源義家と繋がっていました・・

私は平河師高だけではなく、平河義高も確実に繋がっていると確信してきました。

ただ・・昨日もコメントしましたように、「義高」という名前の人物は多数いらっしゃいますから、一概に現時点で「この方だ!」とは言えません。

おそらく、良峯姓丹羽氏・多臣族・中原氏・北条氏・源氏・藤原氏
全ての系といずれかで繋がっている人物ではないのかな?と(あくまでも感ですが・・)

あと・・マタマタと言わないで下さいね
「母」と言う言葉が頭にどうしても浮かぶのです。
「母」の愛・・もしくは「母」への愛。(変な事言いだしたぞ〜!!との声が・・)

ずっと気になっていたのです。
平河の系に関しての、この文が・・
あらためて(__)

平城天王御子大納言正三位良峯朝臣安世任武蔵守
桓武天王ノ孫長岡ノ御子良峯蔵人頭宗貞四位両少将宗貞トモ云、御子両九郎義方、御母七郎
荒田寺別当依高、御子四人
荒田太郎盛高 有智山寺建立之叓
山田次郎東高 仁平元未辛十月十八日卯時柱立三年
惣領 平河三郎師高 久壽元年移ル、師高建立也、
横瀬四郎高実
以上
                良峯(花押)

「御母七郎」・・・これはどういう意味でしょうか・・

それと・・・

「御子両九郎義方」・・義方・・よしかた・・よしかた?
義方・義高・・よしかた・よしたか・・
「御子両九郎義方」の「義方(よしかた)」は良峯義方という意味ではないと思います。
「両九郎」・・・

「義高」に何故か母の愛を感じています・・・
(マタマタ(ー_ー)!!との大合唱が!!・・)

では<(_ _)>(^・^)
[58]子孫よりさんからのコメント(2014年10月15日 18時16分12秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

先日、日本の苗字七千傑様より「濃尾閨閥」についてご教示を頂きました。
美濃・尾張・・
そして・・
今朝、ふと美濃に阿蘇神社があった事を思い出しまして、再度確認を致しました。

阿蘇神社 (羽島市) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%98%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE_ (%E7%BE%BD%E5%B3%B6%E5%B8%82)

阿蘇神社(あそじんじゃ)は、岐阜県羽島市にある神社である。美濃路沿いにある、羽島市小熊地区(旧・羽島郡小熊村)の産土神であり、「小熊一宮」とも言う。
祭神[編集]
阿蘇都彦命
熊本県の阿蘇神社の祭神、健磐龍命と同一神である。

由緒[編集]
創建時期は不明。一説によれば、大橋氏がこの地に移住したさい、肥後国阿蘇神社から分祀した神社という。

※大橋氏でした。

天正14年(1586年)の木曽川の大洪水により、当地域は尾張国葉栗郡から美濃国羽栗郡に変更されている。このことから、阿蘇神社を創建した大橋氏は、平家一族の尾張大橋氏(平貞能の子孫)と推測されている。
境内には「県社」と表記した石碑があるが、『羽島市史』などによると、県社になった事実はなく、社格は村社であった。

(・_・)以前、上記の内容を確認した時には、理解出来ていなかった事が、今朝、あらためて見るとなるほどな〜と思いまして・・

※大橋氏・・父:平貞能 母:原高春の娘・・大橋貞経のお話を思い出しました。

大橋家伝

その先祖は九州の守護・大橋肥後守平貞能である。貞能は平家滅亡の後、肥後国大橋というところに隠れ住んでいた。その後、宇都宮に仕えて常陸に赴き出家した。そして三河国に移り住み、そこを大橋といった。ついで尾張国熱田に隠れ住んだ。農家の娘二人を妾とし、各々二人の女子を生んだ。

そんな折に頼朝が貞能の行方を捜索させた。尾張国の原大夫高春が匿っていることが知れたので、梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。貞能は自ら景季の陣に出頭して捕われた。景季は貞能を引っ立てて鎌倉に下りそのまま比企谷の土牢に入れた。

貞能の妻が肥後国で生んだ男子・一妙丸(後に貞経と名乗る)が父の行方を探して鎌倉にやって来た。鶴岡八幡宮に毎夜詣でて法華経を声高く読誦し、父の無事を祈ることが数ヶ月に及んだ。一妙丸の姿形がただならぬ人に見えたので、これをみる人々はみな不思議な思いであった。このことを頼朝卿の御台所がお聞きになって事情を調べ、頼朝卿にお話しになった。頼朝卿は一妙丸を連れて来させてその理由を聞いた。一妙丸は泣く泣く父のことを話した。これにより気の毒に思って貞能の生命を助けて所領安堵の下文を与えて九州に帰してやった。これが大友の元祖である。

源の一法師が貞能の家を継いだのである。貞能を尾張で匿っていた原大夫高春は千葉上総介広常の外甥であり薩摩守平忠度の外舅であるとか。

貞能の子・大橋太郎貞経の子孫は代々尾張・三河に居住した。貞能が尾張で儲けた四人の女子(二人の妾は同月同月に二人の女子を生んだ)を頼朝卿は鎌倉に呼んで一人を三浦の佐原太郎平景連に嫁がせた。真野五郎胤連の母である。また一人を佐々木三郎兵衛西念に嫁がせた。小三郎盛季の母である。一人を安芸国の羽山介宗頼に嫁がせた。一人を大友四郎太郎経家に嫁がせた。豊前守能真の母である。この四人の女子が生まれた里を末永く記念しようと四女と名づけた。その後四人の女子の母を神としてお祀りしていた社を、後に取り違えて頼朝の宮と称したそうである。

四人の娘さんのお話は信憑性はどうなのか?解りませんが

@一人を三浦の佐原太郎平景連に嫁がせた。真野五郎胤連の母である。
 ※佐原胤連の母と言う事ですね。
Aまた一人を佐々木三郎兵衛西念に嫁がせた。小三郎盛季の母である。
 ※佐々木三郎兵衛西念とは佐々木盛綱。小三郎盛季とは佐々木盛季ですね。
B一人を安芸国の羽山介宗頼に嫁がせた。
 ※葉山宗頼ですね。
C一人を大友四郎太郎経家に嫁がせた。豊前守能真の母である。
 ※大友四郎太郎経家とは大友経家。波多野氏からの系ですね。近藤能成と大友経家の娘との子が大友能直。

そして・・一妙丸(貞経)が不憫だと源頼朝に事の次第を伝えた「御台所」とは北条政子。

皆様に沢山のご教示を頂いて、このお話も・・何だか見えてきました。

阿蘇神社 (羽島市)のお話に戻りますが

羽島市小熊地区(旧・羽島郡小熊村)の産土神であり、「小熊一宮」とも言う。

小熊なのですね・・・。 なるほど・・。

大橋氏は良峯姓原氏との姻戚関係があり・・阿蘇神社
さすがに丹羽氏です(^・^)

さっ!!勉強をがんばります(^O^)/
では<(_ _)>(^・^)
[59]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月15日 20時00分47秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>平城天王御子大納言正三位良峯朝臣安世任武蔵守
桓武天王ノ孫長岡ノ御子良峯蔵人頭宗貞四位両少将宗貞トモ云、御子両九郎義方、御母七郎
 
 
文章自体がデタラメ大連発でしょ!
× 平城天王御子大納言正三位良峯朝臣安世任武蔵守
→ 良峯安世は桓武天皇の子。
 
× 桓武天王ノ孫長岡ノ御子良峯蔵人頭宗貞四位両少将宗貞トモ云、
→ 宗貞(遍昭)は良峯安世の子。
 
× 御子両九郎義方
→ 良峯七郎晨直の子蔵人頭衆樹、孫の蔵人義方を呼んで両蔵人。
 
△ 御母七郎
→ 母方が良峯七郎晨直の系という意味か?
 
※蔵人補任によれば、良峯義方は延喜15年(915)〜天暦11年(957)の人。
平河三郎師高は約二百年後の人だから、間に7〜8代のブランク有り。
良峯義方の末裔らしいが、確証は皆無。

[60]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月15日 20時59分07秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

追加訂正。
良峯七郎晨直の子蔵人頭衆樹、孫の蔵人義方を呼んで両蔵人。
 
→ 両蔵人でなく良蔵人。
藤原氏の蔵人を藤蔵人と呼ぶ様に、良峯氏の蔵人を良蔵人。
要するに、両九郎でなく良蔵人ということ。
[61]子孫よりさんからのコメント(2014年10月15日 23時26分00秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご丁寧な解説をして頂いて本当にありがとうございます。

私も、この文面はかなり変だと思っていました。
平城天王から始まって・・? 何故?
長岡ノ御子・・? 何故? ・・?と言う風にです。

何かのなぞ解き?なんてことまで考えていました。(@_@。

しかし
△ 御母七郎
→ 母方が良峯七郎晨直の系という意味か?

良峯晨茂は確かに肥後守でしたが・・・
兄弟ではありますね・・

「両蔵人でなく良蔵人。
藤原氏の蔵人を藤蔵人と呼ぶ様に、良峯氏の蔵人を良蔵人。
要するに、両九郎でなく良蔵人ということ。」

ありがとうございます。とてもすっきりしました。
「良蔵人」ですね。

おそらく、誰かが転記してめちゃくちゃになっているのでしょうね。

平河家伝授巻には安則が登場しますが、「師澄」「師康」の記述はありません。
ところが求麻外史には
「義高の先は良峯三郎師康にして良峯大納言安世二十八世の孫なり。師康数世の孫師澄康平六年肥後球磨郡永吉庄を賜い遂に徒りて居る」
とあり、安則の名は出てきません。

ところが熊風土記には
良峯大納言安世より十八代末葉 平河三郎師康苗裏也
人皇七十代後冷泉院御宇康平六年先祖師澄代 肥後国球磨郡永吉庄を賜て下向木上岩城に居住。

バラバラなのです・・

どれも異なると言う事です。

おそらく、争論の際に提出したと言われる系図に「真実」が書かれているのだと思います。

今までの調査、そして沢山の御教示により、良峯姓ではあるけれど「丹羽氏(多氏)」である事は間違いないことは理解出来ました。

「母方が良峯七郎晨直の系という意味か?」
「良峯義方の末裔らしいが、確証は皆無」

と言う事は
良峯姓(丹羽氏)であり、なおかつ母方が良峯義方の系に繋がるかもしれない良峯姓かも? となりますね・・・

母方が良峯義方の系・・あれっ? おやっ(-_-) 
宮原の先祖「橘」は伊予橘であることは「しっかりと」解りました。
理解出来た事により、沢山の繋がりが見えました。
と言う事は・・・
母方が良峯義方の系である別の・・・あっ!(-_-)

そう言えば・・・丹羽姓・橘姓・良峯姓・この変化の連続性は・・とても似ているような・・

そうか・・
色々、発想ができます。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございました。
[62]白石さんからのコメント(2014年10月16日 07時09分44秒 ) パスワード

おはようございます。
久方ぶりに すっきりと青空の見える朝です。

子孫様 どんどん 進んでいますね。
私には 言葉がいろいろ出ると ??となって しまいますが 平川が大きなつながりになっていくことは わかります。

ところで また 夢を見ていました。
子孫様 私の夢は 前にも書きましたが 自分のことについての予知夢のようです。なので いつも どういう ことかなあ?と 考えるのですが 大体においた幸せな気分で目が覚めるので マッ いいか 考えなくても・・・ひとつ ひとつ 良い方向に進めばいいんだから ・・・ と してきました。

今度の夢は 
小舟で川を下っているのは 感じていました。突然目の前に小舟があらわれて そこに お小さい方が 立っているのです。もうひとり 子供が一緒にいました。さおをささずにいるのに すうっと まるで 雲の上にいるかのようにゆれもせず 立っておられるのです。あれっ あれっ と 思っていると 後ろで何人かの男の人の声がして
「大丈夫だ また ひとつになる」という言葉はわかりました。
目の前は 中洲のようになって 草が間をさえぎるのですが 顔は 一メートルも間がないようにはっきりわかるのです。
そのうちに 中洲も終わって 船はまた一つになって無事に下って行きました。
何とも 不思議でした。

でも これも 大丈夫 という声で 夢から覚めた後は気持ちよい目覚めなので本当に大丈夫なのでしょう。過去の経験でこういう時は 日々のひとつひとつのことで心が良い選択をするように心がけると穏やかな生活を手に入れることが出来ましたので そのように心がけていきたいです。
 
[63]子孫よりさんからのコメント(2014年10月16日 08時26分57秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、コメントありがとうございました。

「また ひとつになる」・・・

何でしょうか、「予感」されているような気がするのですが。
とても良い方向へ進む予感です。

「ひとつになる」と言う言葉にはもしかしたら、白石様の先祖様が、「一族」が一つになる、すなわち、みんな同族とおっしゃっているのでは?と

白石様の御親戚である「山本氏」「林氏」が登場されています。

私の方も同じですが、きっと「同族」「一族」で一緒に球磨に下向してこられたのでは?と思うのです。
または、後世においても、縁ある「同族」「一族」が来られた・・・と
だから、今の調査において系の中に現在の縁戚関係または地域の方々と同じ姓が登場しているのでは?と

多分、日本全国どの地域も同じような感じで、その地域に由縁・地縁のある其々の一族・同族が一緒に移動されているのでは?と。

夢の答えは一つ
白石様の先祖様が白石様をいつもお守りになっていらっしゃると言う事ですよ!(^・^)

では(^・^)
[64]白石さんからのコメント(2014年10月17日 00時33分05秒 ) パスワード

s異性こんばんは
子孫様 先祖をさかのぼっていけば つながっていきますよね。

>親戚の林
林は直接の親せきにはないのですが、平川のおばが自分たちは林を屋敷と呼んでいる と 言っていました。ただ 敷地が大きいからそういう というのではなく特別な意味合いがあったような感じでした。

父母が結婚するとき仲人をしてくれた人の家に 嫁入ってきた人が 実家が田中で 田中・林は 辞典では つながっていくものがあり、
球磨川の石を取り除き それにより 鹿児島・宮崎から船で参勤交代の旅路にでていたのが 水運により八代へ抜けることができるようになった。この林は相良氏のおじだと 以前 本で見ました。
この夢のお告げに出るのが キツネです。
林は 蔵つくり・蘇我でもあり
田中は 曽我倉山田石川麻呂でもあるようです。

これが 
古代 斉の頃になると 斉の王室の嫁になる人に 林氏がいると 香乱記だかで見たことがあります。

今ネット検索すると
林氏正宗源流族谱序. - 唐贞观六年四月朔,中书令西河公并州温彦博譔. 林氏之先, 出自黄帝高辛氏后。黄帝乃有熊国君少典之子,姓公孙,名轩辕;母曰附宝,视大电绕 北斗枢星,感而有孕,二十五月而生帝于寿丘。长于姬水,有圣・,
とありました。
 
 
[65]白石さんからのコメント(2014年10月17日 00時52分19秒 ) パスワード

仏教戦争の時のことを
蘇我氏・物部氏は身内の争いとしていて
薬子の変のとき 平城天皇は 「拝志寺」へ 入られようとされ、お身内なのだ と 薬子が思う 描写が 薬子の乱に見られる。

越智宿禰姓 拝志(林)・伊藤系図
越智刑部少輔通尭の子孫、稲葉(河野)通兼の長男通裕・ 次男通村が伊予國越智郡 拝志郷を領して拝志(林)氏を称す。 ... 【歴史】伊藤博文公は、周防國熊毛郡束荷村字 野尻(現 山口県光市束荷字野尻)出身にて、實家の林氏は★越智河野氏なり。

身内意識はこのころからあったようです。
それが 地域では 近くにいた形になってでてくるのではなかろうか?と思っています。


[66]白石さんからのコメント(2014年10月17日 01時41分26秒 ) パスワード

64
s異性は 書いていません。どうも飛ばす時にくるっと変わるようです。

ネットより
不思議館〜古代の不思議〜謎のシュメール文明

紀元前5千年頃、後にメソポタミアと呼ばれるユーフラテス河の沿岸地帯に、ある農耕民族が住み着いた。 その農耕民族は、★ウバイド人と呼ばれ、その後、千年以上もそこに住み着き、泥でレンガをつくって街や神殿をつくり、その後のメソポタミア文明の基礎をつくることになった民族である。

※中国では一世をウバイドで有苗・三苗としている。二世が伏儀・女媧
上の話では シュメールの前に ウバイド人がいた ということになる。

紀元前3800年頃、どこからかシュメール人と呼ばれる民族がやって来ると、・・・
彼らは、エリドゥ、ウル、ウルク、ラガシュと言った高度な都市国家を次々とつくり上げていった。★★★医学では白内障での水晶体の混濁部分を除去すれば直るということやその手術方法も知っていた。※この時代でも白内障はなおったはずですね。よかった。よかった。

 それらは、都市としては世界最古のもので、今日、我々は、この文明をメソポタミア文明と呼んでいる。・・・
シュメール人の先祖は遠い昔アナンナキという遠い星から★金の採掘にやってきた神々の子孫。・・・
、「アヌンナキは★金を採掘するために他の星から地球へとやってきた」と信じていたともいわれており
アヌンナキが自分たちに似せて作り出した生命体が地球人類だということになる。

聖書の創世記にある「神は自分たちに似せて人を創った」という記述が実際に行われていたのだ。

※そして この話は魔王護法尊の話に通じていく。650万年前に金星から地球にやってきた という。
※西方の雑種・アイシーンにも通じていく。アイシーン・ギョロとは金の貴族という意味だそうです。

★ギルガメッシュ叙事詩
の中に、遺伝子の仕組みを理解していたと思われる記述がある。ギルガメッシュ本人が「私は半神半人で、血の2/3が神だ」という表現がある。

インダス文明があった現在のパキスタンは人口の90%がイスラム教徒になっていることから考えても、メソポタミア〜インダスは行き来が頻繁な地域であった)このシュメール人とインド原住民の原モンゴロイドの混血が★ドラヴィダ人だと考えられる。

出雲・向家の人があかした ドラヴィダ人。
 
★シュメール人は白髪(金髪)・碧眼→純粋な白人のような
一方★ウルの高官は帽子をかぶり エジプトのような付け髭をしている。おそらく王の姿だろう。

子孫様
祖先の血の一滴を求めるのは もしかしたら 自分に流れているのではないか?と追い求めるのは楽しいです。しかし また それを 宗教にからめるのは 私少し?の感がします。
うちは イスラム教ではないし キリスト教でもないし・・・
人が変わったのではない 宗教が変わったのだ と 思えば
祖先を同じくしながら 違う宗教の人がいるのは わかります。

ニュースで エボラに対し 最高の医療スタッフがくまれた
ということを 知りました。
人類の叡智は こういう物に対し 使われるものだと思います。

報復主義は さらに 報復でかえってくるばかりで終わることのないものです。

私 ずっと前 故郷に ハーブをつくって 乾燥させて売れば 食事の材料にも 匂いにも さまざまに 使える
と書いたことがありますが
なんと
咋今は 脱法ハーブなるものが 売られているそうで
まことに 智慧をあやまってつかっている 一つの例だと 思います。
そういう智慧を良いことにつかえば どんなに 平和な世がくることか・・・



[67]子孫よりさんからのコメント(2014年10月17日 01時46分01秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)
と言っても深夜ですが・・・

昨日、日本の苗字七千傑様より頂いたご教示の中にあった
「母方が良峯七郎晨直の系という意味か?」
「良峯義方の末裔らしいが、確証は皆無」
というお言葉。
私が今までの調査で理解している中に母方が良峯晨直の系という人物が・・
まだまだ、不勉強なので、他の良峯晨直の系は、まだ調査していません。
私が知っている、様々な書籍や古文書に記録されている良峯義方の娘「良峯美子」を母とする人物は「橘則光」です。
まずは、解っている所から調べようと思いました。

橘則光は橘敏政の長男であり母は 花山院乳母である良峯美子。良峯義方の娘です。

宮原の先祖である橘公業は伊予橘氏である事は、日本の苗字七千傑様から伺った御教示のお陰でしっかりと理解できました。

今まで、その事を理解出来ていなかった為に、折角見つけ出した情報を「宮原」に結びつけてしまい、「何故?」と混乱していたのでは?と。
「宮原」は伊予橘氏であり、「上記の系(橘則光)とは別の系だ」と考える事により、第三者的な視線を持つ事が出来ました。
それにより全く見えていなかった事が沢山あった事に気が付きました。
ご教示により「同族」「一族」という繋がりの本当の意味を理解する事が出来るようになったお陰で、「広い目」で繋がりを見る事が出来るようになったお陰です。

平河は良峯姓ですが、良峯姓と橘姓との縁については良峯姓丹羽氏が非常に解りやすいく、繋がりが見えます。

中原氏も建前上は安寧帝裔の皇別だが、物部姓十市氏の裔。
遡れば伊予橘氏(物部姓)の宮原と同族
とお伺いしました。

県犬養橘三千代(県犬養氏)の先祖である「天羽雷雄命」
そして
阿波・安房忌部氏の先祖である「大麻比古」
「天羽雷雄命」「大麻比古」この方々は兄弟である・・と言う事も理解出来ました。
こちらは「橘則光」の系へと繋がっていく・・

そして・・
西光・藤原師高と「橘」の関係は?
「同族」の意識が無かった時に調査していたので全く理解出来ていませんでした。縁戚関係は記録されていたのでした・・(やっと気が付きました。お恥ずかしい(@_@。)
西光の娘は紀伊次郎兵衛こと橘為範の妻。
「橘」姓を名乗る橘為範と縁戚関係があったと言う事です。
(この情報を見つけた時点でピンと来なかった自分が悲しいです(@_@。)

さらに
橘則光の系は「藤原南家巨勢麿流」・「貞嗣流」にも繋がっていました。
この系により源為朝と縁戚関係である事もわかりました。
そして
藤原伊周・藤原隆家の父「藤原道隆」の母が「橘氏」である事も解りました。
「菊池氏」との縁も見えました。
他の情報と併せて明日コメント致します。

まずは、疑うべきは調査!!という気持ちで調べてみました。
もちろん「橘」だけに拘る気持ちはありません。
多角的視野をもって調査あるのみと考えています。(^O^)/
では<(_ _)>(^・^)




[68]子孫よりさんからのコメント(2014年10月17日 01時50分08秒 ) パスワード

白石様、ご教示ありがとうございます。

沢山の情報を頂きました。
明日、じっくり読ませて頂きます。

ありがとうございます。
では、おやすみなさい(^・^)
[69]子孫よりさんからのコメント(2014年10月17日 08時47分40秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

ルンルンでコメントをと思っていたのですが・・・

朝、目が覚めて、コメントをまとめようと、再度見直しをしていて気が付いてしまいました。

おそらく私は、パンドラの箱をパカ〜ンと開けたようです。
今回の箱は様々な所へ通じるとても大きな箱だったようです。

姓は異なるが同名である方々の真実、その他、色々な事が見えてきました。
最初は偶然かも?と思ったのですが・・それは後ほどコメント致しますので偶然かそうでないか?は皆様にも御想像して頂ければと思います。
もしかしたら・・
何故、伊予橘氏である宮原の先祖「橘公長」が橘則光の系に繋がるような系図が何故??あるのか?、それを繋ぐ「公光」と言う人物とは?そこまで想像してしまうようなパンドラの箱があったのです。

あの・・・
多分、気が付いたのは、私が宮原(橘)と平河(良峯姓)両方の末裔だったからかもしれません。
もし、そうでなくて、どちらか一方のみを調査していたのであれば、あまりにも巧妙でおそらく気が付かなかったかも・・と
皆様がこの1年以上に渡り、歴史に無知識な私に根気よくご教示を下さったお陰です。
本当にありがとうございます。

後ほどきちんとまとめてコメント致しますが、
橘則光の系は「信西」に繋がる系と確実に繋がっています。それも、とても近しい関係です。
養子縁組を行った方の実家?を別の系として記録を残しています。
その事には橘だけではなく他の姓の家々も絡んでいるようです。

何故、そのような事になったのか?
もしかしたら・・ある人物との関係を隠ぺいする為かもしれません?。

鎌倉時代における「ある人物」に係わる隠ぺい工作?はすでに、平安末期から始まっていたのかもしれません。
(皆様、私が何を言っているのか????となっていらっしゃいますでしょうね(-_-))

きちんとまとめたコメントは必ず今日中にアップ致します。
その前に、一つだけ・・・
パンドラの箱のふたの表面?からお伝えしておきますね・・
球磨の久米氏久米三郎こと「藤原真宗」からの系である久米氏「藤原宗時」は藤原尹文の甥であり、藤原尹文の孫の妻は橘則光の娘です。

では<(_ _)>
[70]子孫よりさんからのコメント(2014年10月17日 15時28分23秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

では、早速<(_ _)>

母が良峯義方(良峯七郎晨直の孫)の娘 良峯美子である「橘則光」。
この方に関係する方々を昨日から調べていました。

まず、朝、コメントした内容を詳しくご説明します。

※藤原尹文及び久米氏「藤原宗時」との関係について
実は以前、平川家について11コメント26で、こちらの系についてある程度調べてはいたのですが、当時は、私の勉強不足により全く全体が見えていませんでした。
「橘則光の娘」についても、以前調べてはいたのですが、上記の件に繋がる能力が私に無かった為に単なる「個人」の調査に終わってしまっていました。

まず平川家について11コメント26で調べていた事を整理して転記します。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101348_95.html

※出来れば日本の苗字七千傑様の【藤原南家巨勢麿流】姓氏類別大観を見て頂きながらコメントを読んで頂いた方が、私のつたない文章が、お解り頂けると思います。(__)

==================================================

球磨の久米氏、久米三郎こと「藤原真宗」の系について

※藤原真宗 孫「藤原安于」
藤原安于の妻は藤原道明の娘。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/nanke2.htm
巨勢麻呂孫系図「宗時」参照

藤原道明は良峯仲遠(仲連)こと藤原尹文の父。
藤原尹文は藤原安于の妻とは兄妹。

※球磨の久米氏、藤原安于の子、藤原宗時は藤原尹文の甥になります。

※久米氏「藤原宗時」と橘との繋がり
藤原宗時の母方の祖父は「藤原道明」。ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E6%98%8E
藤原 道明(ふじわら の みちあき、斉衡3年(856年)[1] - 延喜20年6月17日(920年7月5日))は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原南家、相模介・藤原保蔭の長男。官位は正三位・大納言。字は藤階。

父母 藤原保蔭、★橘良基女
兄弟 道明、道快、道微、★橘良殖室
妻  ★橘房上女、丹治比蔭光女、藤原常作女、他
★母:橘良基女 兄妹:橘良殖室 「橘良基・橘良殖」は共に橘 安吉雄(たちばな の あきお)の子。
※橘 安吉雄の父:橘 常主(当主)
「橘常主(当主)」と橘則光の系に繋がる「橘真材」は兄弟。

※藤原道明の父「藤原保蔭」の系と橘の縁戚関係について
藤原保蔭 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E8%94%AD
藤原 保蔭(ふじわら の やすかげ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。藤原南家、宮内卿・藤原高仁の子。官位は従五位下・相模介。
※系譜
父:藤原高仁
母:橘氏
妻:橘良基の娘
長男:藤原道明(856-920)
男子:藤原道快
妻:錦部富成の娘
男子:藤原道微
生母不明
女子:橘良殖室
※「藤原道明」は、父方も母方も「橘」に繋がっています。

藤原尹文の昆孫(6代後)は藤原通憲(信西)。
藤原尹文は熱田大宮司家にも繋がっていきます。

=================================================
(・_・)と平川家について11コメント26では、上記の事を調べていました。

では続けて「橘則光」の系と藤原尹文との関係についてをお伝えします(__)
(__)出来れば日本の苗字七千傑様の《真作流/貞嗣流》姓氏類別大観を見て頂きながらコメントを読んで頂いた方が、私のつたない文章が、お解り頂けると思います。(__) 

※橘則光の娘は藤原尹文の系 藤原範基の妻

藤原尹文の孫「藤原高快」の系について。
尹文(母:丹治比蔭光女) → 永保(母:橘良殖女恵女) → 高快 → 範基(母:為朝女) → 泰房(母:陸奥守橘則光女)
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/nanke3.htm

ここでお詫びを(__) 範基(母:為朝女)の為朝は時間軸から照合すると源為朝ではないようです。すみませんでした(__)。

※藤原範基の妻が橘則光の娘。

これだけではありません。
藤原南家貞嗣流には橘則光の子息、「橘季通」そして「橘則長」さらに橘則光の曾孫となる「橘政光」の系が複雑に絡んでいます。

次のコメントにてお伝え致します。(__)
[71]子孫よりさんからのコメント(2014年10月17日 16時53分54秒 ) パスワード

では<(_ _)>

今からご説明する内容について、何故私が疑念をいだいたのか?
それは、昨日調べていた「橘成季」の記述がきっかけでした。
橘成季については「平川家について13」のコメント63ですでに調べていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101358_91.html

必要な部分のみを整理して転記します。
===================================================
伊賀守 橘成季について
ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%88%90%E5%AD%A3

橘 成季(たちばな の なりすえ、生没年不詳)は、鎌倉時代の人物。橘則光の後裔である橘光季の養子。官職は伊賀守。『古今著聞集』の作者。
競馬をよくし、詩文や管絃・絵画を好み、藤原孝時から琵琶の伝授を受けたが破門された。寛喜2年(1230年)頃には右衛門尉の官にあり、九条道家の近習として競馬等に活躍している。1254年(建長6年)に成季が編著した説話集『古今著聞集』の序文では「散木士」、跋文(ばつぶん=書物の本文の後に書く文章)では「朝散大夫」と自称している。『古今著聞集』を完成させた建長6年(1254年)には既に隠居しており、文永9年(1272年)より前に没したらしい。

日本の苗字七千傑様の《橘氏嫡流》姓氏類別大観を拝見致しました。
「橘成季」は橘光季の養子。
ここから「橘成季」が何処から養子に入ったのか調べたのですが
「橘氏」http://www.geocities.jp/keizujp2011/tatibana1.html

「橘成季 たちばなのなりすえ 橘清則の子 橘光季の養子」
==============================================
(・_・)と「平川家について13」のコメント63ではここまで調べていました。

「橘成季 たちばなのなりすえ 橘清則の子 橘光季の養子」
※橘清則は橘則光と清少納言の子である「橘則長」の系になります。
橘清則の子橘成季が養子となった「橘光季」とは橘則光の子「橘季通」の系になる橘政光の子となります。
ちなみに橘政光の娘を母とするのが「大炊御門 師経(おおいのみかど もろつね)」です。

(__)出来れば日本の苗字七千傑様の《橘氏嫡流》姓氏類別大観を見て頂きながらコメントを読んで頂いた方が、私のつたない文章が、お解り頂けると思います。

所が・・・
昨日、橘成季の出自についての疑念の複数の記述を見つけました。

古今著聞集 他、多数の書籍で疑念を書かれています。
兄弟であるならば、彼は橘氏に生れ同族光季の養子になったことになるが、系図の示すように、年代上にも多少の疑問が残とあって、則光から五代後に清成がある。明月記の「故光季養子、基成清成等一腹弟」によって、成季が清則の子の清^と光季政光 4 ...

昨日、気にはなっていたのですが、そのままスルーしていました。
今、探しても見つからなかったのですが(きっと探してご紹介致します)ある書籍に
「近年、橘成季の出自については、見直されていて、実範の子とする・・・」
という内容の事が書かれていました。
その時は何も考えなかったのですが・・・

今朝、調べた内容で考えが変わりました。
橘季通の娘に関連する情報です。

橘季通の娘は藤原氏長良流 藤原中清の孫「藤原清家」の妻です。

(__)出来れば日本の苗字七千傑様の《藤原氏長良流》姓氏類別大観を見て頂きながらコメントを読んで頂いた方が、私のつたない文章が、お解り頂けると思います。(__)

藤原永雅の母が橘季通の娘となります。
藤原中清 → 範永(母:藤原永頼女) → 清家(加賀守 母:但馬守藤原能通女) → 永雅(母:橘季通女) → 範綱(本名永綱。母:肥前守藤原成季女)
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/hujiwara7.htm  

すでにお気づき頂けたと思います。
藤原永雅(母:橘季通女)の子「範綱」の母は 肥前守藤原成季女。
「藤原成季」です。

藤原成季の父「藤原実範」ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E7%AF%84

藤原 実範(ふじわら の さねのり、生没年不詳)は、平安時代中期の廷臣・漢詩人。藤原南家貞嗣流、左兵衛佐・藤原能通の長男。官位は従四位上・文章博士。

文章博士・藤原義忠に師事し、治安3年(1023年)に文章得業生となって世に出る。生涯をかけて紀伝道をよく修め、当代随一の権威として知られることとなった。蔵人・文章博士・大学頭などを務めたが、康平5年(1062年)に病のため致仕。
漢詩人として、その詩作は『本朝無題詩』『本朝続文粋』などに収録されている。
(・_・)系譜を見て下さい。
系譜[編集]
父:藤原能通
母:藤原元尹の娘
妻:小野資通の娘
男子:藤原成季  ※ こちらになります。
男子:藤原季重
男子:藤原季兼(1044-1101)
妻:高階業敏の娘
男子:藤原季綱(?-?)
生母不詳の子女
男子:藤原行綱
男子:興義
男子:実慶
養子女
男子:藤原業仲 - 実は高階業敏の子
子の成季、季綱らも父と同様に文章道によって名をなし、その子孫からも文章博士を輩出したため、実範は後世、南家の家学の祖として一門の尊崇を受けることとなった。また三男の季兼の子孫は熱田神宮の大宮司職を世襲する家柄となった。

(・_・)・・・・・・・・・・
昨日、見つけた橘成季の出自に対しての疑念が書かれていた多数の書籍。
中に「実範」の子「成季」とはこちらの系を指していたのです。

ついに・・ここと繋がりました。

皆様、ご記憶されていると思いますが、私が今までの調査の中で「平河師高」は「藤原師高」ではないのか?という疑念を持ったきっかけは、平河と争論となった徳大寺実春を含む「徳大寺家」の系と藤原師高の娘を妻とする藤原長方の系他多数がこちらの「系」に繋がっていたからでした。

「橘則光」の系を調べた結果です。

皆様、偶然と思われますか??私もまだ、解りません・・・

では<(_ _)>
[72]子孫よりさんからのコメント(2014年10月17日 16時59分26秒 ) パスワード

追記

見つけた情報は「尾張」へと繋がっていました。
良峯姓丹羽氏・・・・「橘」への改姓がありました・・・・

その「橘」の縁はいったい何処の「橘」であったのか?・・
日本の苗字七千傑様の【良峰氏】姓氏類別大観を見ています。

橘姓に改姓・・・「季」の通字がたくさんあります・・・・
では<(_ _)>
[73]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月17日 23時35分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>その「橘」の縁はいったい何処の「橘」であったのか?・・
 
まだ橘に拘っていますね。
建前は建前として、平貞季流の貞と季が濃尾閨閥に関係している。
貞季の後裔の大橋氏は通貞以降、貞が使用されている。
貞能と姻戚に有る良峯姓原氏を遡ると季が良く使用されている。
熱田大宮司は季兼以降、季が多用。
越智姓稲葉氏は通貞以降、貞の字がよく使われる。
偶然とも思えませんね?
想像の域を超えないが藤原季綱の分かれ信西の影がちらつく西光の後裔が良峯姓を称したのか?
 
類例として一般的に奥州藤原氏は秀郷の後裔とされているが、
実は坂上頼遠が妻の祖父藤原千清の養子になり藤原姓を名乗った。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020.htm#002
 
多くが通説の出自を疑わないが、源平藤橘を名乗るのは都合が良いからですよ。
平基親の「官職秘抄」に「外記史に四姓(源平藤橘)の人を任ぜず」とある。
要するに下積みをバイパスする便法の一つ。
また家系による就任制約もある。(征夷大将軍の源氏慣例化など)
楠木正成が物部氏→橘氏、豊臣氏が不詳→平氏、徳川家康が在原氏→源氏。
母系や婚家を遡れば、満更間違いでも無いが。
養子や猶子を考慮しなければ、ほとんどの家系が仮冒となるのが日本。
中国も古代は養子相続が多かったが。
柔軟に考えましょうね。
[74]子孫よりさんからのコメント(2014年10月18日 01時24分39秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「建前は建前として、平貞季流の貞と季が濃尾閨閥に関係している。
貞季の後裔の大橋氏は通貞以降、貞が使用されている。
貞能と姻戚に有る良峯姓原氏を遡ると季が良く使用されている。
熱田大宮司は季兼以降、季が多用。
越智姓稲葉氏は通貞以降、貞の字がよく使われる。」

「季」と「貞」の字・・
そうなのですね・・。

「想像の域を超えないが藤原季綱の分かれ信西の影がちらつく西光の後裔が良峯姓を称したのか?」

藤原季綱の子に「藤原友実」。
実は、先日、この方に繋がる系を見ていました。

江戸城(平河城)を築城した太田道灌の系を見ていて、祖となる源頼政について勉強していた所、源頼政の母が「藤原友実の娘」とありました。

「源頼政は木曽義仲の兄、仲家を、経緯は不明だが養子にしている。」とありました。
ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF

太田道灌の母方は東漢氏の後裔「長尾氏」。

あの・・・
今、気が付いたのですが
源頼政の父は源仲政。そして祖父は源頼綱。
源頼綱は美濃守源頼国の五男。母は尾張守藤原中清女。
母は藤原中清の娘。
と言う事は・・
源頼政の祖父 源頼綱と藤原清家(妻:橘季通女)は従兄弟となります。
源頼政の父  源仲政と藤原永雅(母:橘季通女)はふた従兄。

源頼政は木曽義仲の兄、仲家を、経緯は不明だが養子にしている・・
藤原清家は加賀守・・

源頼政は ウィキの記述で
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF
青年期の頼政について史料は乏しいが、父の仲政が下総守に赴任した時に、これに同行している。保延年間(1135年-1140年)頃に家督を譲られ、保延2年(1136年)に六位蔵人に補任され、同年従五位下に叙された。頼政は鳥羽院に仕え、寵妃の美福門院や院近臣の藤原家成と交流を持っている。

とあり・・

源仲政は ウィキの記述で
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E6%94%BF
父と同様に歌人としても名を顕し、和歌の道を通して源俊頼、藤原為忠、藤原俊忠、藤原俊成、藤原家成などといった中級貴族と親交が厚く、摂政藤原師通の歌合にも招かれている。

とありました・・。

※源頼政の父母は 源仲政と藤原友実の娘
※藤原友実は藤原季綱の子。
※藤原季綱と橘を称した藤原成季(橘光季の養子)は兄弟。
※源仲政と藤原永雅(母:橘季通女)はふた従兄。
※源頼政は木曽義仲の兄「仲家」を養子にしている。(経緯は不明とあり)

木曽義仲・源仲家の父・義賢が大蔵合戦で甥の源義平に襲撃され戦死すると、父と共に大蔵にいた2歳の異母弟・駒王丸(義仲)は逃れて中原氏に庇護される。母と共に京にいたと思われる仲家は摂津源氏の源頼政に保護され、その養子となって京で成長した・・・

橘に拘っていると言う訳ではないのですが、どうもひっかかるのです・・
これも偶然なのでしょうか・・?

「想像の域を超えないが藤原季綱の分かれ信西の影がちらつく西光の後裔が良峯姓を称したのか?」

私の妄想を聞いて下さい。
これまでの調査の中に「信西の影がちらつく西光の後裔」が何処かにいらっしゃるような気がします。

でも・・
柔軟に考えます(__)(^・^)
[75]子孫よりさんからのコメント(2014年10月18日 10時38分28秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、日本の苗字七千傑様より
「まだ橘に拘っていますね」・・というお言葉があり、
今朝は、頭を切り換えて、別の件を見ていたのですが(私は拘るとそこから抜けだせなくなりますので(-_-))それにより、「発見」致しました!!
\(◎o◎)/!

結論から言いますと
球磨の須恵小太良こと藤原家基の母と、平頼盛の母「池禅尼」の父「藤原宗兼」は従兄妹です!

コメント56で
藤原家基の母が「藤原知家の娘」だったとお伝え致しましたが・・
藤原知家は「肥後守藤原義綱」の子。

「池禅尼」の父「藤原宗兼」の母は・・「肥後守藤原義綱」の娘です。
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/hujiwara1.htm

すなわち藤原家基の母と藤原宗兼は「いとこ」。
球磨の須恵小太良こと藤原家基と池禅尼はふた従兄妹となります。

何故、この事実を発見したかと言いますと、実は、昨晩コメントした源仲家が気になって調べていたからなのです。

源仲家 父:源義賢、母:藤原宗季女
母は藤原宗季の娘。(周防守藤原宗季)
藤原宗季は池禅尼の祖父「藤原隆宗」と兄弟です。
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/hujiwara1.htm

と言う事は
源仲家と池禅尼はふた従姉弟。

\(◎o◎)/! ありゃっ!!と言う事は・・・
池禅尼は・・球磨の須恵小太良こと藤原家基と祖母方でふた従兄妹。
池禅尼は・・源仲家と祖父方でふた従姉弟。
となります。

うん??はっ\(◎o◎)/!
と言う事は・・
池禅尼は「源義業」ともふた従兄妹と言う事ですね!

(-_-)・・・・・・
いつもの妙〜な感が働いて調べていた所は全て「池禅尼」が繋がっていたと言う事ですね・・
うん?!と言う事は・・
平頼盛も繋がっていると言う事か・・・・

と言う事で、今朝は「妙〜な感」は池禅尼に繋がっていました・・というお話でした。
では<(_ _)>
[76]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月18日 13時52分40秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>いつもの妙〜な感が働いて調べていた所は全て「池禅尼」が繋がっていたと言う事ですね・・
 
妙でも何でも有りませんよ。
池禅尼の祖を遡れば藤原長良に行き着く。
長良の兄弟は、良房、良方、良輔、良相、良門、良仁、良世。

平国香は元良望、兄弟は良兼、良将、良繇、良広、良文、良持、良茂。
藤原良方の娘が国香の妻だからなのですよ。
こちらも桓武天皇と藤原長良も繋がり、当然良峯氏も。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02000.htm#001
ここが藤原氏と平氏閨閥の出発点。
良峯の良が出現するのも奇縁ですね。
講釈師的な文献ばかり漁っていても、何も判明しないでしょう。
 
感ばかりだけでなく、冷静に幅広い系譜を辿ることです。
[77]子孫よりさんからのコメント(2014年10月18日 15時19分39秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

大縣神社を信仰宗主とする丹羽氏
と言う事で、また、少し情報が増えて来た「私の頭」で、再度、大縣神社について調べていたのですが・・・

また・・気が付いてしまいました\(◎o◎)/!
(以前、今からご紹介する情報を読んだ時には、全く気が付きませんでした(@_@。)

では早速<(_ _)>

「尾張国 二宮社(大縣神社)領 領有者の変遷について」
という情報を読んでいました。
http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%9B%BD%E3%80%80%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E7%A4%BE%EF%BC%88%E5%A4%A7%E7%B8%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89%E9%A0%98%E3%80%80%E9%A0%98%E6%9C%89%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.html

ピックアップして転記させて頂きます(__)

※平安期 大縣神社の領有者
領有が分かるのは、平安時代の院政期 鳥羽上皇頃からであります。
康治3(1144 或いは天養元年ともいう。)年正月24日の鳥羽院庁下文の内容からであります。
読み下し文にすれば、「藤原実行{ふじわらのさねゆき 承暦四〜応保二(1080-1162) 号:八条太政大臣・八条 入道相国. 三条家の祖。権大納言公実の二男。母は藤原基貞の娘。待賢門院璋子( 鳥羽天皇中宮)の兄。顕季の娘を妻とする。子の公教(後三条内大臣)・・筆者注}家をして、二宮社務を知行せしむ。在庁官人等は、承知しておく事。」という内容でありました。

* この天養元年は、かって散在していた各地の美福門院の畠地所領を一円化する為に尾張国守 平氏某が、在地の郡司・郷司等と図り、鳥羽上皇のお気に入りの美福門院領として篠木荘を成立させた年でもあったようです。

「 野田郷(春日井市)、林村(小牧市)、阿賀良村をも合わせた 範俊開発 地域の広がりとその地理的状況、国司 平忠盛と郡司との主導のもとに一円立荘された篠木荘の経緯を勘案するならば、春日部郡東北部一帯の開発領主とは、天養元(1144)年当時の郡司 橘氏一族とみるのが自然であろう。」( 講座 日本荘園史 5 P.359 上村喜久子氏論文 参照 )と。同書 P.344には、「散在型荘園から一円型荘園への移行(例えば、篠木荘等・・筆者注)の背景には、郡司・郷司ら一族と国司との結託が推察される。」 とも記述されていることによります。
大縣神社領たる現 小牧市林・池ノ内カに存在した旧 尾張国 林・阿賀良村は、篠木荘と隣接していたようです。篠木荘は、一円化されたとは言え、国衙領(野口・石丸保)をも含んでいたと思われます。おそらく、林・阿賀良村の二宮への寄進は、天養元(1144)年より以前に行われていた可能性がありはしないだろうか。

参考までに「尾張地域では、一宮は、現 一宮市の真清田神社、二宮は、大県神社、三宮は、熱田神宮であるとされ、この決定は、平安末期頃 12世紀中頃{康治2(1143)年}であるかと。只三宮の決定は、平治の乱以降とも推測されましょう。

(-_-)ここまでを整理すると・・
平安期 大縣神社の領有者
康治3年(1144年)
領有者・・・藤原実行(三条実行)
開発領主・・橘氏一族

(・_・)転記を続けます
その後、九条兼実(平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。 五摂家の一つ、九条家の祖。1149年に出生。・・筆者注)が領有し、子 良経カに伝領されたかと。{ 建保3(1215)年8月 後鳥羽院庁下文の内容から知る事が出来ました。犬山市史 史料編3 参照 }

この下文の内容から、この大縣神社(二宮)領は、康治3(1144 或いは天養元年ともいう。)年正月24日以前には、既に鳥羽上皇(或いは鳥羽天皇在位中カ)に、寄進されていたのではないか。二宮領の全貌は不明でありますが、尾張国林・阿賀良村については、康治3(1144 或いは天養元年)年には、寄進されていたと理解出来ましょうか。そうでなければ、上記の地も篠木荘に繰り入れられたでしょうから。寿永3(1184)年より約数十年ほど前の事柄でありましょう。

寄進主は、熱田社に関わる者か、丹羽郡司系の者であったのか、おそらくは前者ではなかろうかと推測いたしますが、確定はできないでしょう。その間には、尾張国の源平の勢力図は、保元の乱(1156年)・平治の乱(1160年)という二つの戦があり、大きく変わっていったのではないかと思われるからです。そして、しばらくは平氏政権が樹立され、木曾義仲により平氏一門は、京から駆逐され、壇ノ浦にて最後を迎え、源頼朝により鎌倉に幕府が開かれていく事になったのは、周知の事実でありましょう。
        
その寿永3(1184)年の下文にて、「原 高春(二宮大宮司)が、この地域の開発者として、二宮の領有を認められていったようです。」 「寿永2(1183)年には、平氏は、木曾義仲に京を追われ、撤退。原 大夫は、平家筋ではありましたが、源氏に加勢し、所領は、源頼朝に安堵されたという。」(春日井市史 参照) 

鎌倉幕府成立直後に、既に尾張国 篠木荘を頼朝は、鎌倉御家人の娘に所領を安堵したという記述も吾妻鏡に記載されているようです。おそらく、この安堵は、「源頼朝は、寿永2(1183)年10月宣旨により、東海・東山両道に対する行政権を得ております。」( 日本中世史像の再検討 1994年 山川出版社 P.87 参照 )という事柄に対応しているのでしょう。とすれば、当然本舗地頭職ではあったでありましょうか。
その後の篠木荘の経過は、よく分かりませんが、12世紀末頃は、京・鎌倉2地域の主による二元政治が行われ始めていたのでしょう。鎌倉の主は、京の主に遠慮しつつ、大胆な施策を遂行していたと推測できます。当然平氏が権益(領家職等を有す。)を有していた地域は没収され、源氏の権益領としたでありましょうが、皇室領については、概ね旧来通りにしていたのでしょう。

その当然の帰結でしょうか、尾張国二宮領の領有をめぐって、鎌倉期 承久の乱後に原家と九条家の間で、領有権争いが起こったようです。

(-_-)ここまでを整理します
大縣神社の領有者
領有者・・・九条兼実
開発領主・・原 高春(二宮大宮司)※寿永3年(1184)年の下文

(・_・)転記を続けます
鎌倉期 大縣神社の領有者

領有が分かるのは、建保3(1215)年8月の後鳥羽院庁下文であります。
その内容からは、「藤原兼子{ふじわら の けんし、久寿2年(1155年) - 寛喜元年8月16日(1229年9月5日 )は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公家女官。刑部卿・藤原範兼の娘。通称は卿 局(きょうのつぼね)。位階の昇進に応じて卿三位、卿二位とも。後鳥羽天皇の乳母。・・筆者注}をして二宮社を領掌せしむ。」とありました。
更に、同年9月3日の官宣旨では、「藤原兼子を院庁下文に任せ、二宮社を領掌せしむ。」とあるようです。

この二宮社領は、承久の乱(1221年)で、鎌倉幕府に所収され、その後関東尼(平政子 尼将軍北条政子)より、九条家に賜った由。建長2(1250)年11月 九条道家初度惣処分状(犬山市史 史料編 三参照)に記載されていた。

こうした事柄により、頼朝による寿永3(1184)年の下文を所持している原 大夫家と九条家の間で、二宮社の領有は、争われる事となったようですが、永仁3(1295)年9月12日 関東下地状により、「九条家の領有が裁定され、原 大夫家は、二ノ宮社の社官として二ノ宮社の命に従うべしとされました。」
そして永仁6(1298)年10月12日の関東御教書案にて、九条家の所領安堵が宣せられたようです。

* この永仁の領有権争い後は、領家(九条家)在地(原 大夫家 二ノ宮社の社務を司る事)と色分けされていったのでしょう。そして、続群書類従に記載されている「良峯家系図」を見ていくと、原 高春の子は、3人{高重(左近大夫将監)・高直(原大夫)・奉高}であり、高直の子に、元享2(1322)年6月27日付 春日部郡林・阿賀良村名主等連署状及び尾張国林・阿賀良両村名寄帳の名主として記載されている沙弥 浄円と同名の人物と思われる名称(僧 浄円)で記載されており、沙弥 浄円は、原一族の僧 浄円とは同一人物ではないかと推測いたしますがどうでしょうか。時の辻褄は、合うのではないかと推測いたします。また、系図上では、僧 浄円の家系は、浄円で、終わっているようです。
また、永仁3(1295)年の関東下知状に記載されている原弥三郎高国(原 大夫家カ)なる人物は、続群書類従にある「良峯家系図」には、見当たらない。別系統の原氏系統なのであろうか。まさか下知状に名前を誤記載したという事は、ないでしょうが・・・。名前の一字に”高”を用いている点、原一族の人物ではありましょう。
「 こうした点からも、二宮大宮司となった原 大夫家の系譜を疑問視する研究者は、多いようであります。」 ( 犬山市史 通史 参照 )

(-_-)ここまでを整理します。
鎌倉期 大縣神社の領有者
領有者・・・藤原兼子  建保3年(1215年)年8月の後鳥羽院庁下文
開発領主・・原 大夫家
その後・・
※承久の乱(1221年)で、鎌倉幕府に所収され、その後関東尼(平政子 尼将軍北条政子)より、九条家に賜った。

※争論後・・
領家(九条家)在地(原 大夫家 二ノ宮社の社務を司る事)と色分けされた。

(・_・)と一応、ここまでを転記させて頂きました。

平安期 大縣神社の領有者
康治3年(1144年)
領有者・・・藤原実行(三条実行)
開発領主・・橘氏一族

領有者・・・九条兼実
開発領主・・原 高春(二宮大宮司)※寿永3年(1184)年の下文

鎌倉期 大縣神社の領有者
領有者・・・藤原兼子  建保3年(1215年)年8月の後鳥羽院庁下文
開発領主・・原 大夫家

※争論後・・
領家(九条家)在地(原 大夫家 二ノ宮社の社務を司る事)と色分けされた。

ところで・・

藤原兼子とは(もうすでにお解りと思いますが・・)
藤原範兼の娘。
藤原南家貞嗣流  藤原実範 → 季綱 → 友実 → 能兼 → 藤原兼子 となります。
藤原友実の孫です。
藤原季綱の兄弟が橘を称した藤原成季(橘光季の養子)

そして藤原兼子は藤原頼実(大炊御門頼実)の妻。

藤原頼実(大炊御門頼実)の子が、球磨の久米三郎(後世)こと藤原家宗。
(藤原家宗の母は藤原伊行の娘。藤原義孝の末裔)
藤原頼実(大炊御門頼実)の養子が大炊御門師経。(藤原経宗の子・頼実の異母弟。母は橘政光の娘)
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E5%AE%9F

建保3年(1215年)年8月の後鳥羽院庁下文によると
藤原南家貞嗣流  藤原実範 → 季綱 → 友実 → 能兼 → 藤原兼子 の系にあり藤原頼実の妻、藤原兼子が大縣神社の領有者であったと言う事です。

ちなみに・・
康治3年(1144年)
領有者・・・藤原実行(三条実行)
開発領主・・橘氏一族
上記の橘氏一族についても記述されていました・・
http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E8%AC%8E%E3%81%AE%E5%A4%9A%E3%81%84%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E3%80%80%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%AE%AE%E5%8F%B8%E3%80%80%E5%8E%9F%E5%A4%A7%E5%A4%AB%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A6%9A%E6%9B%B8.html

中略・・
結論として「春日部郡東北部一帯の開発領主とは、天養元(1144)年当時の郡司 橘氏一族とみるのが自然であろう。」 となるのでしょう。上村氏の言う郡司 橘氏一族とは、一体 誰であったのか。
「姓氏家系辞書」の著者 太田亮氏は、この橘氏一族は、尾張連氏一族の分派とも、姓を替えた熱田大宮司職であった藤原氏一族であった可能性が高いと推論されているようですが、果たして春日部郡内の者で橘姓を名乗った者がいたのでしょうか。熱田大宮司家の系図には、橘姓を名乗った者は、いないようであります。

(-_-)とありますが・・・おやっ(-_-)( 一一) あれっ( 一一)
橘氏一族は、尾張連氏一族の分派とも、姓を替えた熱田大宮司職であった藤原氏一族であった可能性が高いと推論されている。
熱田大宮司家の系図には、橘姓を名乗った者は、いないようで・・・

いない(ー_ー)!!となっていますが・・いないかな〜〜( 一一)
( 一一)な〜〜んだか熱田大宮司家の系にと〜〜っても近い「橘一族」をど〜こかで見かけたような・・・
「隠ぺい工作」は崩れかかっているような気がいたします(__)
では<(_ _)>
[78]子孫よりさんからのコメント(2014年10月18日 15時48分15秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

藤原氏と平氏閨閥の出発点
「藤原良方の娘が国香の妻だから」

そうなのですね。わかりました(^・^) ありがとうございます。
それに
藤原良方は藤原冬嗣の三男。と言う事は祖母は百済永継。
冷静に考えれば、良峯安世は叔父にあたるのですよね。

「良峯の良が出現するのも奇縁」
私もそう思います。「良」の字ですね!

それから、先ほどのコメントを書いてあらためて考えました。
言葉はうまく語れませんが、きっと「橘」うんぬんかんぬんでは無くて
もっとも〜っと遡る系に全て繋がっているのだと。

本当にあらためて感じました。
神様の系(言葉がおかしいですが(__))をしっかりと御教示頂いたおかげです。
ありがとうございます。
ちなみに、漢字アレルギーはかなり良くなりました(^・^)
では<(_ _)>
[79]白石さんからのコメント(2014年10月18日 18時59分00秒 ) パスワード

こんばんは
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-gen-oota.html 太田系図
太田氏は清和天皇の苗裔、源三位入道頼政の嫡男伊豆守仲綱の五代孫摂津守資國に出づ。

画面をスクロールすると20に
太田源六郎持資
(20)資長(1429-  )武州江戸城主
   |法名道灌
とあります。太田道灌ですね。
江戸城と平川と太田と詳しい関係はわたくしの頭ではすでに ???となってしまいましたが、確か
つながっていたような・・・

この系図に至るには
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-takaoka-settsu.html
摂州多田院御家人高岡系図を開き 一番上の三角ぽっちりをクリック

http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-gen-ikeda1.html 摂津池田系図が出る。
43池田泰政のところの青い部分をクリック

http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-gen-tada.html 多田系図が出る。
伊豆守 仲綱を見つけ その下の→と横線をクリック
上の太田系図が出る。

子孫様
源頼政は 摂津渡辺党の棟梁。
以仁王は 

74>母と共に京にいたと思われる仲家は摂津源氏の源頼政に保護され、その養子

摂津渡辺党の棟梁の頼政は 
以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は治承4年(1180年)に★高倉天皇の兄宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画

★以仁王は また 後白河法皇の第三皇子の以仁王(高倉宮・三条宮)
★実母:藤原成子(藤原季成女)
★猶母・・子内親王(あきこないしんのう、保延3年4月8日(1137年4月29日) - 建暦元年6月26日(1211年8月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、八条院(はちじょういん)と号した[1]。

この八条院領に関して 平頼盛・山本義経・中原清業などの言葉がでたのでしたね。

高岡系図からたどって 太田道灌がでたことで、うちの平川に高岡から婿養子が入ったのも なんとなくわかります。
その前から 四浦にある家のつながりは ずっとずっとからまりからまって時代をおりてきたのだろうと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
頭がこんがらないうちに と 思って 書きました。
子孫様 一気に 冷え込んできました。

[80]白石さんからのコメント(2014年10月18日 20時25分33秒 ) パスワード

先日 大秦(ローマ)は 中国から分かれてきた。と 書きました。
なので 中国と交易したいのだけど 安息国が 邪魔をするので できないと ネット 大秦のところで かいてありました。
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その前 若いころ しらべていたとき
美濃は 岐阜。岐阜は岐山からきている言葉だと 本で知りました。

景行天皇条
に 美濃へ 行幸するのに 
皇車(すめらみこと)出でます。とあり
昔 倭には 馬牛はいなかった と 魏志倭人伝に書いてあったけど・・・ち違う本に 外国の施設に 馬など 見せなかったのだ と書いてあったり
 
とにかく 
私の頭は 馬車ということになって
陳から 舜の子孫の田と周武の女子と結婚する人がいて その系の人が 陳に姓を変えている。

この 周を 辞典で見たとき 「高車族」というのがいて、馬で引かせた車に乗っていたという。

高車族から 高昌国が 出て、そこは 孫悟空たちが 天竺へ行くとき 寄ったところ と 覚えていました。
鉄勒などのことばが 出ていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
安息国は表題でみると

安息国とは - 世界宗教用語 Weblio辞書
安息国とは?世界宗教用語。 中国がパルティア(Parthia)を呼んだ名称。現在のイラン およびその北方にあった王国。安世高、安玄(『法鏡経』の訳者)、安法欽(『阿育王伝』の 訳者)らは、ここの出身であり、「安」字がついている。→ ...


安息国って綺麗な名前ですよね?今の 新疆ウイグル自治区 は その昔 ...
安息国って綺麗な名前ですよね? 今の 新疆ウイグル自治区 は その昔、パルティア( 安息国)と言われ、首都を 高昌 と ... パルティアはスキタイ系の遊牧民族
とありました。

阿育王は 善財王に関与してくる人ですね。東南アジアの国の王はこの阿育王の血を受けているという。
善財王とその男子と上人が五本の矢によって熊野に飛来してきた。

この五本の矢の伝説が 五家荘の平家の落人伝説にもある。

29.クシャーナ朝と仏教の革新 - ZAQ
岡田茂吉によると、「華厳経に、補陀洛山に観世音菩薩あり、★善財童子等大慈悲経を説 かれるのを聞いて居られた。 ... 仏滅後200年, マウリヤ朝の首都パータリプトラで、 アショカ王(阿育王)の支援の下、1000名の僧侶を集めて、仏典の結集 ...


http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/world_history29.html
クシャーナ朝と仏教

前には 熊野と関係して善財王がでてくるなあ と 思っていたのですが
今 ネット検索すると やはり 平家物語にも 関与していました。
そしたら 五本の矢伝説も つながってきますよね。
阿育王寺と★平家物語 - 古代文化研究所 より
   白河法皇が得た仏舎利2,000粒のうち、1,000粒は阿育王寺から得たものであり、以後祇園女御(生
  没年不明)、平清盛(1118〜81)らに伝承されたという(「仏舎利相承図」胡宮神社)。また平重盛
  (1138〜79)は阿育王寺の拙庵徳光に金1,000両を寄進したといい(『平家物語』巻第3、金渡)、建
  保4年(1216)6月15日に源実朝(1192〜1219)と面会した陳和卿(生没年不明)が、実朝の前世を阿
  育王寺の長老(住持)であったと述べている(『吾妻鏡』建保4年6月15日条)。

善財王の后が 出産したのが 鬼谷 で 鬼谷先生は 王から 出ていました。
ばらばら ぐちゃぐちゃの列挙ですが これも また つながってくると 思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高車族
パルティアでは 車族というのがあるが これが 高車族ではなかろうか?

突厥
ハン位402-410)の時、トルコ系遊牧民族の高車(こうしゃ)を圧迫してモンゴル高原から 駆逐、高車を支配下に入れてモンゴル高原や天山東部一帯を支配した。 ... 史記』や『隋 書』など、当時の中国史書に記載された内容によると、このトルコ系民族の先祖は、敵対 する勢力との激しい闘いの末敗れ、少年アセナが一族の中で唯一 .... 中央アジアに勃興 したトルコ系民族の祖先の伝説にはなにかとオオカミが絡んでいます(狼祖伝説)。

モンゴル民族では"蒼き狼と白き牝鹿"伝説はあまりにも有名ですが、トルコ系では本編でも登場した★高車や丁零などにも突厥と同様の伝説があり、「"狼の血族"は"強い一族"の証」というのがあったのでしょう。伝説と言えば、★聖徳太子(574-622)は突厥出身であるという説があるそうです。真相はわかりませんが非常に興味深いですね。

またまた7000傑様に注意されそうですが
北支で中山国を建てたシャキィ族(カルデア人)の昔氏とナガ族の朴氏を鮮虞といい、. 彼らが後の奇子朝鮮を作り、その朴氏がチュルク族の匈奴冒頓部と混じて鮮卑となり、. 後に契丹の王族と王妃族になったのです。
このネットは どうやら 鹿島氏の論をひいているようです。

奇子朝鮮
殷の紂王のおじ・きじゃ が周の武王によって封じられた。
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[81]白石さんからのコメント(2014年10月18日 20時36分19秒 ) パスワード

施設は 使節です。
また 仁徳天皇などは 岡山の恋人に会いに行くのに お供も連れず 馬でぽっくりぽっくり 行ったそうです。

原野も同然のような時代に 昔の人は 勇気がありますね。
それとも 権を帯び 少しは 道路事情もよかったら そうはないのでしょうか?

http://gossip1.net/archives/1003780310.html
世界一のイケメンはトルコ人だった
を みました。う〜ん やっぱり 鼻が高い。

[82]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月18日 21時51分10秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>このネットは どうやら 鹿島氏の論をひいているようです。
 
鹿島センセは、偽書の「桓壇古記」を基に私論を展開しており、
折角の漢民族バビロニア起源論を台無しにしているのです。
壇君神話は記紀神話と同じ穴のムジナ。
従って、他の話も信じて貰えないのです。
朝鮮の最古の国家は衛氏朝鮮で有り、紀元前195年建国だから神武建国(紀元361年)より556年も古い。
詳細は「筆氏系図」参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03035.htm
また神代文字もインチキなので論外。
理由は「神代文字は存在したか?」を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a5.htm#041
[83]子孫よりさんからのコメント(2014年10月18日 23時27分49秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様のお父様「高岡氏」の系を拝見致しました。
日本の苗字七千傑様の【清和源氏頼光流】からの系、そして《池田氏》姓氏類別大観も拝見いたしました。

繋がっているのですね(^・^)

祖母の実家の平川も堀田家と縁戚関係がありますし、大きな繋がりとなるのですね。

日本の苗字七千傑様
「朝鮮の最古の国家は衛氏朝鮮で有り、紀元前195年建国だから神武建国(紀元361年)より556年も古い」
※朝鮮の最古の国家は神武建国556年も古いとは・・
やはり、中国により近い場所であったからこそでしょうか・・
すでに朝鮮半島北部の統一が行われていたと言う事ですね。

突厥・・・最初に拝見した時には「文字」が読めませんでした(@_@。
なので・・ちょっとだけ勉強致しました(^・^)
http://www.kobemantoman.jp/sub/207.html

知らなかった事を「知る」というのは、本当に楽しいです。

日本の苗字七千傑様、白石様
ありがとうございました(^・^)
[84]白石さんからのコメント(2014年10月19日 05時52分15秒 ) パスワード

おはようございます。
7000傑様ありがとうございます。
>台湾に伝わる伝承では「天照大神は徐福に連れられて琉球に渡った秦の始皇帝の三女である」というにわかには信じられないが、我が国の先祖の遡源が半島だけでなく大陸にあることを窺わせる。

高岡の場合 秦が濃いいので 目を引きました。
過去にしらべたとき この伝説を目にしていましたが、その時は 4女と書かれていました。たぶん 市販の本か 地名辞書?吉田東吾とか・・・でも 小さなことは あまり気にせず 

台湾・沖縄あたりが 古代宇留間と呼ばれていて、新羅は今の新羅の地でなくあの辺りであり

台湾は 宛(大宛)に通じて 宛がフェルガーナあたりで イリ・カザフあたり

百済の故地もフェルガーナあたり

と 本の読みちらしで つながっていました。

勿論 胡族・漢民族他 いろいろ のちに えだわかれしていくのだろうと 思うのですが・・・もしくは これらは 最初から遺伝子が違うのかもしれませんが 

うちの場合 家のつながり 住んでいる地域の小字 などが 古代につながる手がかりと思い しらべてきました。
すこしづつ 形になってきているのが うれしいです。

子孫様
高岡系図 
たかおか と 発音する系図はいろいろあり 我が家の場合 父母どちらも何のなにがし という人にいきつくとは わからないとは思うのですが、(以前山口の市役所に問い合わせたとき 山本の家の人の名を書きつけてくれました。)

高岡系図は 興味深いものがあり
厳密に選り分け選り分けしていれば 赤の他人さま という人も出てきますが
衛氏朝鮮=燕=常世国=赤染氏=北九州宇佐=鏡つくりにもいる→系を見ればにぎはやひ降臨の際の防衛32人のうちにおり 春日部もついている。

子孫様のコメント 平川子孫3 12にも春日部はでており たしか 和邇の ことばもあったような・・・




[85]子孫よりさんからのコメント(2014年10月19日 07時56分59秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様のお父様の系「高岡氏」も、調査で目にする事が多いと言う事は、大きな繋がりの中で、縁が深いと言う事ですよね(^・^)

越智氏 → 伊予橘氏 → 宮原(橘)の流れも必ず繋がっていると思います。

平川の系図には、姻戚関係の詳しい記述はあまりないのですが室町時代以降は詳細がかなり解り、「宮原」から平川への縁を何件も見かけるので、平川と「物部氏」との縁は確実にあるのだと思っています。

白石様の先祖様も私の先祖も確実に繋がっているでしょう(^・^)

所で・・・
実は唐突ですが・・・見つけたのです\(~o~)/
「良峯師康」の記述です!!
見つけたというのは実は適切ではないのです・・・
以前も見た事があったのですが、その時は「平戸記」というタイトルだけで「時間軸」が合わないとスルーしていました。
でも、今朝、別の調査をしていて、偶然、記述が登場したのですが、一緒に名前が記載されている方を調べたら「平安時代末期」の人物でした。
それで、びっくり致しまして。(これは、かなりの・・いえ大チョンボを私はしてしまっていたようです(@_@。)
皆様のご教示のお陰で、「私の頭」の中に沢山の知識が入ってきた事によって、見つけた情報が、複数年代に渡る方々の「名」だとは、何となくですが解ります。
早速次のコメントでご紹介致します。
では<(_ _)>
[86]子孫よりさんからのコメント(2014年10月19日 11時14分28秒 ) パスワード

それでは(・_・)

まず、こちらの記述をご覧ください。

増補史料大成 - 第 33 巻   googleブック検索による
右衞門尉橘・幸、平俊贞、左衞門尉藤以經、使宣旨、從五位上藤原時朝、&時、從五位下藤政綱,同,橘久家、神友家、藤助貞, ... 源友行、橘信重、良峯師康、源有朝、大中臣宣通,大、、、周防守藤源・信,金刺盛高、,大中臣光綱、木工允、、藤、宗長、秦、、

※良峯師康の名があります。

他にも
増補史料大成, 第 33 巻
佐伯維綱,親朝中臣助信、藤包良、平朝網源正重藤秀光,同季定、、中原・康、藤俊村、秦重康,左衞門尉藤甚賢大中臣經忠右衞門 ... 源影貝中原光房、右近將監平盛友、源友行、橘信重、良峯師康、源有朝、大中臣宣通,大、、、周防守藤源・信,金刺盛高、,

では、史料大成: 平戸記第2 , 三長記, 第 25 巻を
http://books.google.co.jp/books?id=E3ia9ES0FVoC&pg=PT110&dq=%E8%89%AF%E5%B3%AF%E5%B8%AB%E5%BA%B7&hl=ja&sa=X&ei=BOhCVOepCOTXmgX66YKYDw&ved=0CB4Q6AEwAA#v=onepage&q=%E8%89%AF%E5%B3%AF%E5%B8%AB%E5%BA%B7&f=false

100ページ、中央に左近将監藤重親の左隣に「良峯師康」の名が見えます。
「良峯師康」の下に源有朝とあります。

以前、この情報を見た時は、単純に「平戸記 寛元三年五月」の日付を見ただけで時間軸が違うとスルーしていたのです。
しかし、今日、別の調査をしていて、最初に転記した
増補史料大成 - 第 33 巻 が偶然ピックアップで表示されたのですが、記述されている名前の中に「金刺盛高」とありまして・・
先日、金刺氏のコメントをしたばかりなので気になって調べたのです。

こちらをご覧ください
諏訪大社・・・上社の歴史
  第一章 平安期から鎌倉期
http://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/e/878cbca0286f74ca05f15fa2c873bdca

ピックアップ致します
それは、下社の方から、金刺系図をもって登場してきます。その祖は金刺舎人という人で、この舎人の系譜にある貞継が始めて下社の大祝を名乗ります。この貞継は大祝になってから金刺宿禰姓を賜ったとあり、彼の兄は太朝臣の姓を賜ったとあります。そして源平時代に、源(木曽)義仲に従って活躍した手塚別当金刺光盛という人物が「平家物語」に登場しております。「金刺系図」によると、次ぎに出てくる大祝は盛継で、別名を「諏訪太郎太夫」とあります。続いて、盛重、盛高、重願、盛径と続きます。「尊卑分脈」をみると、源氏の系流の満快流の系図のなかに、手塚太郎信澄、その孫に諏訪太郎盛重、盛重の子に諏訪太郎左衛門尉盛高その弟諏訪三郎左衛門尉盛経が見え、この二つの系譜は重なっているようです。ここら辺は、よく理解が出来ない部分ですが、同じ人が金刺を名乗り、手塚も名乗り、諏訪も名乗っていた、と言うことのようです。更に清和源氏の満快流の系図にもなって、源氏との関係をもうかがわせるものとなっています。これを、無理矢理理解するとすれば、諏訪下社の神官の姓は金刺氏であり、木曽義仲に臣下して転戦した武家の方は、同族ながら手塚とか諏訪太郎とか名乗っていたのではなかろうか、と整理します。

※金刺盛高はおそらくこちらの記述にある金刺光盛の系「諏訪太郎左衛門尉盛高」かと推測します。

そして「源有朝」は
http://weekpedia.myht.org/wiki/%E6%BA%90%E6%9C%89%E6%9C%9D
源 有朝・全成(みなもと の ありとも/ぜんせい、1153年(仁平3年) - 1203年8月1日(建仁3年6月23日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶および武将で、通称は加賀七郎/阿野冠者、醍醐禅師/悪禅師と呼ばれた[1]。
源義朝(義頼)の7男で、生母は常盤御前、義平[2]・朝長・頼朝・義門・希義[3]・範頼[4]の異母弟、義円・義経の同母兄、朝家(隆成/隆盛)・頼保・頼高・頼元(全暁/全超/全起)[5]・時元(隆元)[6]・道暁・頼成の父。

※阿野全成 が源有朝だったのですね・・(勉強になりました)
阿野全成 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%85%A8%E6%88%90

1153年(仁平3年) - 1203年8月1日(建仁3年6月23日)

「源頼信」の名も見えます
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E4%BF%A1
生誕 安和元年11月29日(968年12月21日)
死没 永承3年4月17日(1048年6月1日)

こちらはいったい何なのでしょうか?
101ページの最後に 「僧」の方の名前があります。
何かの法要だったのでしょうか?

でも、ご覧頂いたように確かに「良峯師康」は存在したと言う事です。

ただ良峯師康の記述は平河の系についての記述では、古文書・江戸時代の書籍等でバラバラです。
平河は・・
安則から義高となる系もあれば・・(良峯氏先祖書)
師澄から師康となる系・その逆などですね・・(熊風土記・求麻外誌等)

ただ、言えるのはかなり後世(江戸時代中期から明治時代)にかけて作成されているものばかりなので、遡るのに当時資料が少なかった事も原因の一つとは思うのですが・・

ただ、「良峯師康」が存在した事は確かでした。
名前については源有朝=阿野全成の例もあるので、しっかりと調査したいとおもいます。

でも・・・ご紹介した史料大成: 平戸記第2 , 三長記, 第 25 巻の記述はいったい何なのでしょうか・・・?

しかし・・とても嬉しいです(^・^)
では<(_ _)>
[87]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月19日 11時59分27秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫さん へ
 
建前は建前として、多氏、阿蘇氏、金刺氏は神八井耳命の後裔。
諏訪氏も大国主命後裔でなく金刺氏の後裔。
良峯氏も島田氏→丹羽氏の後裔。
皆、同族で究極は彦火火出見命。
饒速日命は兄弟じゃありませんか→越智氏→伊予橘氏。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222.htm
建前とは異なり。諏訪上社も下社も同族。
通説に惑わされずに、遡源を確認することですね。
どこかで繋がる可能性あり。
[88]子孫よりさんからのコメント(2014年10月19日 12時43分16秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「同族」!!ですね。

今回「良峯師康」の記述を見つけましたが、得た物は、それだけでは無かったと思います。
金刺盛高という人物の存在も理解出来ました。
同族であり「盛高」という名の方がいらっしゃったと言う事がわかりました。
(偶然かとは思いますが、今後の調査にも目標が出ました)

新しいスレッドを立ち上げました。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。
平川家について18
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101393.html
[89]白石さんからのコメント(2014年10月19日 21時32分32秒 ) パスワード


彦火火出見命
若狭彦神社と市房神宮(若狭神社と同体)にまつられる祭神
市房神宮は 山幸・海幸とも祭神
天火明は海幸と教えていただきました。


若狭おばま「お水送り」〜(1)前奏である山八神事 2014.3.2 - Yahoo!ブログ
2014年3月5日 - @★若狭彦神社: 東大寺へのお水送りをする原因を作った張本人・遠敷明神こと若狭彦神 が祀られる神社。 .... 座敷は二つに分かれており、★内陣に当たる部分に、★「白石大明神」「 愛宕大権現」と書いた軸(ご神体)をかけ、右手に★阿弥陀如来座像を ...

★若狭彦神社について
★贏姓 高丘系図1 を検索(コピーして貼り付けてください。出ない時があります)

前にも書いたと思いますけど
18百済蓋鹵王妃眞華姫
その次が 武寧王斯摩(462-523)・・・★三島鴨神社に関わる人ですね。

葛城王朝 - 大阪府高槻市 鴨神社より
<ご祭神> 鴨氏の祖先の「鴨御祖(カモノミオヤ)大神」、即ち「加茂建角身命(カモノタケツヌミノミコト)」(天之御中主神から始まる天地創造時代の造化三神の一人・★神産巣日神の孫で、上加茂神社の別雷神誕生時の朱塗り伝説の祖神様)と、イザナギ・イザナミノミコト、大山積命(後述)。

中略

<三島氏の台頭・県主と当社の社名変更> 「伊予風土記(713年)」によると、百済からの渡来人で★百済第25代「斯麻王(しまおう)」の部族が仁徳天皇のころ、最初に「津の国御嶋に座せり」とあり、また「続日本紀(711年)」別記では、それは「摂津の国・嶋下郡の三嶋鴨社なり」とある。即ち3世紀から4世紀にかけて鴨氏の有力部族となり、河内の「息長氏」とも連携して「御嶋」から「三島氏」となって統合支配し、その社名も「三島鴨神社」となったものといわれています。従って、当社は全国の「三島」の地名・社名の発祥の地でもあります。ご祭神は、イザナギ・イザナミノミコトの7番目の「山の神・大山積大神」を別名「和多志の大神(海の神)」としても奉じています。★(三島神ともいわれて★清盛ゆかりの神社)

※宮司・北川氏
北川姓は故郷の隣の集落にいて 私の同級生にもいて この人が また 少し色黒という記憶はあるけど 美人で 学校の運動会で 大原女のだんすのとき お大原女にして 飾りつけをした記憶があります。
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さて
46までスクロールすると★昭慶門院が出ます。

昭慶門院 とは - コトバンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 昭慶門院の用語解説 - 1270−1324 鎌倉時代,★亀山 天皇の皇女。文永7年生まれ。母は藤原★(法性寺)雅平の娘雅子。永仁(えいにん)元年内親王 となり,4年院号をあたえられる。★後醍醐(ごだいご)天皇の皇子世良(ときよし)親王の養母 。
※亀山天皇は両院並立のもとになる天皇ですね。
このあたりは 思い切り南朝方のもとのようにみえますが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
脱線してしまいました。

しま のところを クリックすると扶余系図がでます。
30までスクロールすると 和朝臣・宅継・若狭彦神社神主がでます。

若狭彦神社をクリックすると 皇別・笠氏系図が出ます。
若狭 笠氏の始祖は、人皇第6代孝安天皇の曾孫★鴨別命の子小篠
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高丘は 姓系辞典に にぎはやひ 子孫。
上の贏姓 高丘系図1では 山幸に関与する白石と関係してくる。神主としてだが。
うりの白石に高岡から養子に入る関係のもと? 

彦火火出見命よりでてくる話でした。
高岡系図は 他にも いろいろ 興味深い話がでてきます。

































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昭慶門院 とは - コトバンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 昭慶門院の用語解説 - 1270−1324 鎌倉時代,亀山 天皇の皇女。文永7年生まれ。母は藤原(法性寺)雅平の娘雅子。永仁(えいにん)元年内親王 となり,4年院号をあたえられる。★後醍醐(ごだいご)天皇の皇子世良(ときよし)親王の養母 。


 





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