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 投稿番号:101383 投稿日:2014年09月28日 06時40分12秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族XIII
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族Ⅻよりの続きです。

歴史探偵の目で歴史の奥底に秘められた謎を解明する。

究極の目標は服部氏族に関しての解明です。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月28日 08時04分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 おとといの夜に飲み会があり、つい飲みすぎてしまい、昨日を通して調子
が戻らず、知能低下をきたしておりました。本朝はバッチリですが、これから
浜名湖へ船で釣りに行きますのでまた停止となってしまいます。

 実は、昨日は細江町気賀に行き、図書館で古文書等資料を漁っておりました。
頭のぐらつくさえない状態でありましたので、さほと成果はあがりませんでし
たが、「刑部」というのがどこにあったのかが、だいたいわかりました。
 それは『遠江国風土記伝』にありました。
   ・刑部郷 渭伊の正南1里余にある。
        上刑部に田米寺あり。
 と書かれておりました。渭伊とは井伊谷(いいのや)の井伊に間違いないと思
います。即ち井伊谷宮の真南1里(約4キロ)の所であるというのがわかりまし
た。これが唯一の成果でありました。これについては、次回地図に落としてみ
て、見当をつけ、行ってみたいと思っております。
 どこの馬の骨かわかりませんが、加藤、松島、鈴木、永井(長田)と仲よく
暮らしていたのは事実なので、武士くずれの可能性は大きいような感じはし
ます。服部氏族の世帯数も少ないということ。善地でせいぜい10世帯位。も
ちろん、子孫たちはたくさんよそへ出て行ったことはたしかですが。100年
経てば、男系世帯数は5倍以上になるはずです。400年ならば少なくとも100世帯位はなければなりません。ということは、少なくとも古代の服部氏
ではないような気はいたします。

 これからフィッシングに出かけますので、これにて。服部氏と妙見信仰と
いうレス[73]についての推測を次回記します。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月28日 08時26分54秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/toutoumi/ii_title.htm


永田さんに教えて頂いた神社集にありました。

渭伊神社
いいじんじゃ
静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1150  

神紋は三つ巴でした。



コピペ:

式内社 遠江國引佐郡 渭伊神社
旧郷社

御祭神
玉依姫命 品陀和氣命 息長足姫命



静岡県浜松市引佐町にある。
旧引佐町役場の西500mほどの井伊谷に鎮座。
神宮寺川が湾曲して流れる場所。

車道に面して参道入口の鳥居が、東向きに立つ。
参道を歩くと、突き当たりに境内。

境内には、木々が鬱蒼と茂り、
遊び場としては良い環境。
当日も、近くの園児達が遊んでいた。
木の実などを拾い集めて遊んでいる園児達に囲まれながらの撮影。

ただ、天気が良く、陽射しが強いため、
境内には、木陰が斑に落ちており、
撮影には不向きだった。

創祀年代は不詳。

近世までは、正八幡宮と呼ばれていた神社で、
祭神も八幡の神々。

当社の近くに、小掘遠州の庭で有名な名勝・龍潭寺がある。
当社は、元、その龍潭寺境内にあったらしく、
南北朝時代(一説に享保年間)に現在地へ遷座したというが、
真偽は不明。

三代実録に「貞観八年十二月二十六日授遠江国正六位上蟾渭神」とあり、
式内社・渭伊神社に比定されている古社で、
上代より井伊郷三十余村の総社であったという。

当社境内には幾つかの境内社がある。
まず、参道に天白社。
社殿の左手には、英霊社・稲荷社・祖霊社。
さらに、本殿周囲には、若宮八幡社、水神社、御鍬社、菅原社。
金山社、榊本稲荷社、モロード様伊豆社。





渭伊神社

引佐町井伊谷字天白にあり境内二千五百三十 五坪老杉古桧鬱蒼として繁茂し
北西南の三 方河水回りて(神宮寺川にして又宮川ともいう) 其風致最も秀拔なり

由緒創立の年代由緒詳ならざれども 三代実録に貞観八年十二月二十六日授遠江 国正六位上蟾渭神

風土記に延喜式神名帳遠江国引佐郡渭 伊神社とあり
又、江州彦根城主井伊家祖先 備中守共保寛弘七年其神井より出生以来
産土神として信仰厚し渭伊神社は往昔今の龍潭寺境内にありしも
南北兵乱の時今の地に移せりという

往昔より渭伊二十七郷の大産土神なり

旧地頭近藤氏の崇敬厚し


−境内案内より−



当社本殿の後方の丘は、薬師山とも呼ばれ、
また、天白磐座遺跡として有名な史跡。
参拝中にも観光客と思われるグループが丘を登っていた。

丘には、まっすぐの木立がはえ揃い、
いくつもの巨石が転がっている。
頂上付近には、古代の祭祀場と考えられる巨石磐座もあり、
当社祭祀に関連する宗教施設と考えられている。

気持ちが良かったので、何度か磐座周辺をさまよい、
神宮寺川の水を眺めていたら、
いつのまにか園児達は居なくなっていた。



天白磐座遺跡

『延喜式』にその名を載せる渭伊 神社本殿の背後にある薬師山の頂上 に位置し、約四〇メートル四方にわたって 群在する巨石群を神の依代[磐座] として我国屈指の規模をもつ古代祭 祀遺跡です。

 平成元年[一九九七]夏に実施さ れた発掘調査により四世紀後葉[古 墳時代前期]から平安時代に至る長 期間、連綿と続いた祭祀場であった ことが明らかとなりました。

 とくに高さ七メートルにおよぶ最大の磐 座の西壁直下は、古墳時代の祭祀場 として限定され、多量の手こね土器 や鉄鉾や滑石製勾玉などの祭祀に用 いられた遺物が出土しました。

 また、十二世紀末には末法思想に よる埋経のための経塚が巨岩群の中 央に営まれ、渥美製の経筒外容器が 和鏡と共に出土しています。

 この遺跡は渭伊神社の創祀が古墳 時代前期までさかのぼることを語る とともに、古代人の精神や宗教観を 解明するうえに重要な文化財です。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月28日 08時43分49秒 ) パスワード

上刑部村について:

江戸期〜明治7年の村名遠江国引佐郡のうち
三方原台地の北西,都田川(落合川)の下流域に位置する中世には刑部郷が見える。

はじめ幕府領,のち浜松藩領を経て,
文政7年からは陸奥国白河藩領村高は,「元禄高帳」623石余,
「天保郷帳」「旧高旧領」ともに687石余
「旧高旧領」では村高のうち乎豆神社領15石,
                  
                  ↓→ コレですね
ほかに寺社領1石余がある寺社には臨済宗田米寺・同宗雲泉寺・同宗平田庵・真言宗妙工庵(のち廃寺)・乎豆神社がある。


延宝年間の随庵見聞録(浜松市史)には「上刑部安光・中刑部・下刑部ハ皆一村ノ別也」と見え,
当村は刑部村から分村したことがわかる。


明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県を経て同年11月浜松県に所属明治7年中刑部・下刑部村と合併して刑部村となる...

         以下有料(笑)

*********************

田米寺を捜していたら遺跡に行ってしまいました。

http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=19&ved=0CFoQFjAIOAo&url=http%3A%2F%2Frar.nii.ac.jp%2Ffile%2F1488%2F20131017102541%2F0004%25E7%25A5%259D%25E7%2594%25B0%25E9%2581%25BA%25E8%25B7%25A1I.pdf&ei=dEknVLK4BJCtogThxICoAw&usg=AFQjCNFpp6d3_AXsn1BTTZKXnRV37IzfMA


祝田遺跡(細江地区)

文字が細かくて拡大すると読めないし
諦めました。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月28日 08時45分15秒 ) パスワード

こんな情報が載ってたらしいです。


[PDF]Page 1 Page 2 静岡埋蔵文化財調査研究所調査報 主984 財団 ...

rar.nii.ac.jp/file/1488/.../0004祝田遺跡I.pdf



また都田川の自然提防上に立地する遺跡群の様相は過去の調 ...
町内において 7ヶ所 (祝田、 田米寺、 茂塚、 森、 岡地船渡、 川久保、 市場遺跡) の .....
神風鈔に、 伊勢内宮の御厨と して、 都田御厨、 刑部御厨、 祝田御厨等の名がみえ、遠江から渥美半島`.
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月28日 09時32分22秒 ) パスワード

あ、13の  ローマ数字  XIII が  わたくしのPCのフォントでは
三つ柏さんのようなきれいなローマ数字で書けないので
     XIII を書いてください。
タイトルを編集しますから。


で、下方3分の1あたりに
http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/m/201403

廣田(刑部の古名)と出てました。

多分江戸時代以前の名前じゃないかと思います。



『引佐郡神社誌』(静岡県神社庁引佐支部・編)より。

蜂前神社について

「社伝によれば本社の勧請は應・天皇11年庚子3月8日(西暦270年)、
脇宮の勧請は允恭天皇御宇なりと言ひ、
社号は勧請の当初に於ては八ヶ前の地名に因って蜂ヶ前と称し、

允恭天皇以降は鳥飼神社又は羽鳥大明神と称へ、     ← 羽鳥大明神?


延長5年更に蜂前神社と改め古名に復したと言ふ。


三代実録貞観8年12月26日の条に「遠江國鳥飼神に従五位を授く」とある、
則ち是なりと定む。
舊記によれば、
應・天皇11年庚子3月8日八田毛止恵ハッタモトエなる者勅を奉じ、
遠江國へ下向し、
八田45町(祝田の古名)廣田70町(刑部の古名)岩瀬8町3反(瀬戸の古名)合せて123町歩餘りを開墾し、
本社を八ヶ前に勧請し蜂前神社と斎き奉り、
子孫代々祝部として奉仕した。

依って八田、上刑部、下刑部、岩瀬、石岡、五日市場、廣岡七ヶ村はこの神社を大氏神と崇め奉ると言ふ。


今川家・井伊家の崇敬あり社領を寄せられ、
徳川家康亦伊奈忠次をして社領5石を寄進す。

次いでこれを朱印に改め以って明治に至る。


明治41年1月12日神饌弊帛料供進社に指定せられ、
大正12年2月12日郷社に昇格、
大正12年2月22日郷社としての供進指定社と定めらる」



ブログ主さまのお言葉


うーーん、わけわからん。

これを読むと、この神社では熯速日命と甕速日命はそれぞれ別の機会にここに連れてこられたことになっています。


應・天皇11年と、允恭天皇の?年と。(允恭天皇は応神天皇の孫)。

ちなみに言いますと、蜂前神社の建っている三方原台地のこの崖のことを、「八幡山」といいます。


まず、神がここに来た前後に「八ヶ前」という地名があったってことです。
何が八?
「前」っていうのは「崎」と同じでしょうか?
そしてなんで「八」が「蜂」に変わるんだ。

「3月8日」と日付が限定されていることが気を引く。


それが「甕速日神と武甕槌神がここに来たとき」(=允恭天皇時代)に「鳥飼」または「羽鳥」と変わった。


それを延長5年(←延喜式の完成した年:平安時代中期)に、また「蜂」に戻した。


あえてここにそう書いてあるって事は、何らかの出来事があったってことですよね。


(神社名が変わることは良くあることですが、ちゃんと意味の分かる理由なはず)


まず、「日本三代実録(貞観8年12月)に出てくる“鳥飼神社”」というのが本当にこの神社なのかってことです。


また、「羽鳥」と「鳥飼」は良く似た印象ですが、
「ハトリ」は「ハットリ」さんかなと。                ← 服部さん?


「羽鳥」という地名は多いですけど、
浜松には豊町羽鳥というところに式内社である「服織神社」がありますし、
近くには「羽鳥八幡」という古社(創建年不詳)もある。

「服部さん」も意外と多いです。



『細江町史』には「八田毛止恵」に「はったもとえ」とルビが振ってあるんですけどこれは何者か。

念のため似た名前が無いかと『日本書紀』を読んでみると

   (案内板には「勅を奉じて」と書いてありますから、

朝廷の付近の人のはず)、

「応神天皇の3年」に「羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)」がいる。
似てない名前と思うかも知れませんが、「羽田矢代」は武内宿禰の長子で
「波多氏」の祖です。

羽田矢代宿禰そのものが東国へ来ることは無いでしょうが、
応神天皇3年の前後に武内宿禰は息子達と共に盛んに朝鮮に侵攻しまくってますので、
その8年後(朝鮮の動乱が落ち着いた頃)にその親族のひとりが東国へ何かの命で来ていてもいいかもしれない。

でも、日本古代史の世界では「波多氏」というとややこしいことを言う方が大勢いますので、
もっと本を読んだらもっと詳しいことを書いている方がいるかもしれません。


あるいは応神天皇の娘「矢田皇女」。
この人は仁徳天皇の后となった「八田皇女」と同一人物だろうとされているのですが

    (葛城の磐之媛に15年に渡って激烈な嫉妬を受けた女性)、

この人の関係者が辺境へ任を受けるなんてあり得ないことですけども、
応神天皇の子女達ってなぜか不自然に鳥にちなんだ名前が多いので、気になる。

  (兎=菟も鳥に含めて良いのならば;「菟道稚郎子皇子」「大鷦鷯皇子(後の仁徳天皇ですが、
   彼が誕生したとき産所に木菟が飛び込んできたという伝承がある)」


「根鳥皇子」「雌鳥皇女」「隼総別皇子」などがいる)。

姫のお名前が「モトエさん」だったという可能性が無いとは言えないこともないかもしれなくもなくない。


応神天皇の皇子「稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)」。

この時代名前に「毛」の入っている人がたまにいますが、
主に「東蝦夷」を連想するようです。
   (「上毛野君」とか)。

そして稚野毛二派皇子の息子には「八田真人」がいます。
ゆえあって稚野毛二派皇子の子女が全国に散らばっていても、全然おかしいことではありません。

   (その子孫のひとりがのちに継体天皇となる)


応神天皇37年、天皇は使いを呉国へ送り、工女兄媛・弟媛・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の4人を得ました。



22年にも天皇は備中の葉田の宮に移って、
兄媛に吉備の国の織部(はとりべ)を与えてるんですよね。      ← 全然知らなかった
                                でも岡山に服部って場所、ありますね
このふたりの兄媛は関係あるかどうか。


それから、「八田(はった)」が「祝田(ほうだ)」に変わったという伝承。
どこがどうなったらそうなるんだ。

(これには、この近くに「蜂前神社の祝部(ほうりべ)」が住む家があった、という伝もあるのですけど)


「八田」と「祝田」の間にはもちろん「蜂田」があったはず。いったいこの地で「蜂」の字はどこから来た?

[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月28日 10時04分28秒 ) パスワード

田米寺は存在していないようですね。
新しい名前に変わったのかも。


お寺さんの協会に問い合わせるのが良いと思います。
浜松市役所が良いと思いますけどね。
教育委員会の歴史編纂の課。



遺骨はどこかに移されているんでしょうね。




浜松にはお寺が335もある?
とビックリ

お寺に電話を掛け捲って情報を得るとか?



それで細江あたりの寺というと


金地院 -
053-522-0924 西気賀駅
(1.6km) 浜松市北区細江町気賀8027


金龍寺 -
053-522-1602 西気賀駅
(0.97km) 浜松市北区細江町気賀9614


真光寺 -
053-522-1603 西気賀駅
(0.88km) 浜松市北区細江町気賀9632


正覚寺 -
053-522-2316 気賀駅
(2.11km) 浜松市北区細江町気賀4162



正明寺 -
053-522-0021 気賀駅
(0.31km) 浜松市北区細江町気賀1060


善明寺 -
053-523-0259 金指駅
(0.9km) 浜松市北区細江町中川1734


全得寺 -
053-522-1009 気賀駅
(0.9km) 浜松市北区細江町気賀7700 - 1


大円寺 -
053-522-0091 気賀駅
(0.35km) 浜松市北区細江町気賀1456 - 1油田



中川寺 -
053-522-2685 金指駅
(0.7km) 浜松市北区細江町中川2670 - 1



長楽寺 -
053-522-0478 気賀駅
(1.48km) 浜松市北区細江町気賀7953 - 1


東林寺 -
053-522-0487 気賀駅
(0.31km) 浜松市北区細江町気賀1022 - 1




宝渚寺 -
053-522-1182 西気賀駅
(0.8km) 浜松市北区細江町気賀9776 - 1



宝林寺 -
053-542-1473 金指駅
(1.19km) 浜松市北区細江町中川65 - 2



龍雲寺 -
053-522-3298 気賀駅
(1.51km) 浜松市北区細江町気賀2860 - 1


蓮照寺 -
053-522-0782 気賀駅
(0.59km) 浜松市北区細江町気賀843 - 1



壽楽寺 -
053-522-3108 西気賀駅
(2.51km) 浜松市北区細江町気賀4246 - 1


田米寺の地図
http://www.navitime.co.jp/poi?node=00039468


ためでらばし
田米寺橋

静岡県浜松市北区細江町中川



田米寺橋のバス系統/路線


みをつくしバス〔銅鐸コース〕[遠鉄バス]
田米寺橋 ⇒ 聖隷三方原病院


みをつくしバス〔銅鐸コース〕[遠鉄バス]

気賀駅前/国民宿舎 ⇒ 田米寺橋





田米寺橋の最寄り駅

金指
約1.5km 徒歩で約20分


気賀高校前
約1.8km 徒歩で約23分


気賀

約2.9km 徒歩で約36分



田米寺橋の最寄りバス停

祝田
約658m 徒歩で約8分


防災センター



茂塚橋西

約807m 徒歩で約10分

[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月28日 10時10分32秒 ) パスワード

臨済宗田米寺   でしたね。


そうすると  臨済宗関係のお寺にお墓が移されているんでしょうね。

ちょっと近くになりましたね。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月28日 10時15分45秒 ) パスワード

臨済宗田米寺・同宗雲泉寺・同宗平田庵

この3つですね。


http://navishizu.com/jiin/hamamatsushi/p2_jiin.html
上記のお寺を捜したときの  浜松 お寺 ナビ です。

でも載ってないですよね。
[9]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月28日 21時42分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は午後2時にヒラメ釣りから上り、もちろん釣果もなかったからですが、
昨日やり残していた細江での調査にそのまま向かいました。車で見当をつけて
グルグル回りましたのですが、こういうやり方は全くのギャンブルであること
がよくわかりました。昔の事を調べるには、用意周到でなければならない、と
いう事がこれで身にしみてわかりました。

 結局着いたのが、あを様ご指摘の「蜂前神社」でございました ! 由緒等は
上記レスに記されたとおりです。以前から『遠州織物史稿』の中で読んで一度
行きたかった神社なので、行けてよかったです。羽鳥の服織神社よりある意味
立派でした。蜂前神社というのが古名で元の名前に復したということですので、
その辺の訳を探究してみますが、蜂はハッティ、ハッチを思い浮かばせます。
祭神はニギハヤヒ、ミカハヤヒ、タケミカヅチですので完全に物部系です。
物部と秦氏が合体したという事でしょうか。ここ細江町は銅鐸で有名です。
昨日、実は「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」へ寄って、銅鐸を見、またレ
プリカを叩いて音を鑑賞したところでした。音はお寺の鐘とドラの中間のよう
な音。想像よりはよく響くものでした。

 さて、その後、細江の図書館へ再び行き、『引佐郡誌』を探し出してもらい、
調べてみましたところ、新たなる事実を発見いたしました。
 『寛政重複諸家譜』によると、服部保次(初め宗次、要介、小平太、中)は、
天正15年4月18日遠江國にをいて死す。年62。法名長閑。
 今の呈譜、天正15年6月18日死す。年62。法名湖雲淨鑑。遠江國刑部
村に葬る、となっておりました。
 一方、『引佐郡誌』の方には「服部大和守墓」というものが載っており、天
正15年服部大和の守、長坂(姫街道字新屋より気賀町老ケ谷に至る間の坂道
を云う)に於いて、刺客のために害せられたるを葬る。法名を祥雲院殿湖雲淨
鑑大居士といい、宗安寺に葬られる。
 宗安寺は中川村中川にあり(刑部村等4ケ村が合併)。創立は弘治元乙卯年。
樵林謟林禅師開山なり。本尊観音菩薩。境内522坪。
由緒:弘治年間謟林禅師、茂山庵を結ぶ。天正18年姫街道長坂にて、服部
大和刺客のために害に遭い、遂に同案に葬り一寺となす。号して宗安寺と云う。
 慶長T9年時の城代松下常慶公、同寺の栗を駿府に献上し、栗の木一切伐木
を禁じられしと云う。其の後年々公儀に栗を献上したり。

 宗安寺の「宗」は宗純の宗でしょうね。家康も栗を見て保次を思い出し、
無念じゃのうとささやいたのではないか・・・。
 次回この寺を探しに行ってみます。

XIII : この字はちょっとおかしい。実は13より文字がありません。次は
]Wとなりますが・・・。
 20以上になったら、テーマ自体を少し変え、1からスタートとします。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月28日 22時40分50秒 ) パスワード

三つ柏さんの]W
これも間延びしてますね。

わたくしの英語入力のXIVも間延びしてますね。



>昔の事を調べるには、用意周到でなければならない、という事がこれで身にしみてわかりました。

はい
調査をしっかりやっていないと時間の無駄になりますね。
暇人なら良い時間潰しになりますが
お仕事のある人には大切なお休みを空振りで終わってしまいますね。


>蜂前神社               ←  不思議な偶然の一致ですね。

>というのが古名で元の名前に復したということですので、

     はい何故にその前は「羽鳥」だったのでしょうね?
     何か理由があったから「羽鳥」にしたんですよねえ
               

>その辺の訳を探究してみますが

     頑張って調べてください


>蜂はハッティ、ハッチを思い浮かばせます

     はい

[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月28日 22時54分59秒 ) パスワード

>祭神はニギハヤヒ、ミカハヤヒ、タケミカヅチですので完全に物部系です。

はい


>物部と秦氏が合体したという事でしょうか。

と思いました


>ここ細江町は銅鐸で有名です。

ですね
わたくしもバスを調べてて見つけました
「銅鐸コース」




>昨日実は「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」へ寄って銅鐸を見、またレプリカを叩いて音を鑑賞したところでした

あらら、やっぱり


>音はお寺の鐘とドラの中間のような音。

へえ〜
中国のドラから日本のお寺の鐘へと進化する過程のものなのかしら?


>想像よりはよく響くものでした。

なかなか古代人もやるものですね



>さて、その後、細江の図書館へ再び行き、『引佐郡誌』を探し出してもらい、

良かった!



>調べてみましたところ、新たなる事実を発見いたしました。

成果があって良かったです


>『寛政重複諸家譜』によると、

>服部保次(初め宗次、

宗次、だったんですか


>要介、小平太、中)は、 天正15年4月18日遠江國にをいて死す。年62。法名長閑。

>今の呈譜、天正15年6月18日死す。年62。法名湖雲淨鑑。

浜名湖らしい法名ですね


>遠江國刑部村に葬る、となっておりました。


はい


以上はだいたい定説通りですね



> 一方、『引佐郡誌』の方には「服部大和守墓」というものが載っており、

                   ↑
                 これはお初ですね


>天正15年服部大和の守、長坂(姫街道字新屋より気賀町老ケ谷に至る間の坂道を云う)に於いて、


へえ〜


>刺客のために害せられたるを葬る。

ウッソー〜〜〜〜
と驚きました




>法名を祥雲院殿湖雲淨鑑大居士といい、宗安寺に葬られる。

        ↑           ↑
     殿様の戒名ですね      これもお初ですね



>宗安寺は中川村中川にあり(刑部村等4ケ村が合併)。

     なるほどね


>創立は弘治元乙卯年、 樵林謟林禅師開山なり。本尊観音菩薩。境内522坪。
>由緒:弘治年間謟林禅師、茂山庵を結ぶ。天正18年姫街道長坂にて、
>服部大和刺客のために害に遭い、遂に同案に葬り一寺となす。号して宗安寺と云う。



>慶長T9年時の城代松下常慶公、
            ↑
          松下嘉兵衛の子孫でしょうか?



>同寺の栗を駿府に献上し、栗の木一切伐木を禁じられしと云う。其の後年々公儀に栗を献上したり。

       ↑
     この部分、何故なのか、調べる価値がありそうですね
   

>宗安寺の「宗」は宗純の宗でしょうね。

はい
そう思いました


>家康も栗を見て保次を思い出し、無念じゃのうとささやいたのではないか・・・。

はい
思い出しますよね


>次回この寺を探しに行ってみます。

是非是非!
多分教育委員会の歴史編纂課に問い合わせたら良いかと思います。



驚きました
そして物凄い情報でした
感謝!

[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月29日 06時51分38秒 ) パスワード

なんと!
このお寺、鈴木さんがらみで見ています。
犬のベンチで思い出しました。

奇特な鈴木さん
お金持ちの鈴木さんのイメージで。


以下コピペ:


宗安寺

http://ameblo.jp/blogbears/entry-11784558724.html

14-03-02 11:00:00
遠江国説話集番外編〜市野氏と万松山宗安寺(浜松東区市野町)。


浜松市東区市野町は江戸時代、「姫街道」の宿場町であった所で、地名の由来ははっきりしませんが、人の往来が多かったことから、「市」が開かれていたところから名付けられたと考えられます。


江戸時代初期、この市野には代官がおり、地名から「市野氏」を名乗ります。
『寛政重修諸家譜』によると、元は近江の「浅井氏」の出となっており、
浅井一族の一人がこの地に土着し、
鷹狩りに来た徳川家康から「地名をもって姓とせよ」と声をかけられたことが始まりだとされます。


この市野氏代々のお墓があるお寺が
万松山 宗安寺


曹洞宗寺院で、永禄元年(1558)に創建され、創建には市野氏も関わっていたようです。   


こちらのお寺はなんといっても旧浜松市内唯一の三重塔ですね。


            ココね
             ↓
平成十一年、檀家である鈴木六郎氏が寄贈したもので、塔内には聖観世音菩薩が祀られています。


お寺は姫街道沿いの市野町からは1`ほど北へ行ったところにあり(東名高速道路北)、以前は森の中の禅刹でしたが、現在は住宅地の中にあり、分かりにくい場所にあります。



参考文献

『町名の由来』(飯塚伝太郎 川崎文昭 神谷昌志 辻真澄 静岡新聞社 昭和五十四年)

『浜松歴史散歩』(神谷昌志 静岡新聞社 昭和六十年)



[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月29日 06時55分09秒 ) パスワード

http://www.fujinokunibunkashigen.net/resouce/main.php?search=area&mode=detail&article=2121



宗安寺






宗安寺は、本坂通(姫街道)市野宿の町並みから北へ約900mにある曹洞宗の寺院である。

永禄・天正年間に市野氏開祖である市野惣太夫真久(実久)を開基とし、潜龍恵湛が開創したといわれる。

永禄11年(1568)に徳川家康に仕えた真久は、慶長5年(1600)に遠江国の代官となり、同9年に市野村に屋敷地を賜ったという。

屋敷地は延宝8年(1680)の「浜松領分絵図」に記載されており、宗安寺の西南100m付近にあったとされるが、正確な位置は不明である。

その後、代官職と惣太夫の名は、真次・真利・真防と受け継がれている。宗安寺には真久、真次・真利・真防が葬られ、五代真則以後は江戸駒込勝林寺を葬地としている。

はままつ石塔めぐりより


所在地
浜松市東区市野町167-1



お問い合わせ
053-434-2200

関連ページ
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/ward/higashiku/chiikiryoku/history/jinjya/02soanji.h
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月29日 07時48分01秒 ) パスワード

書き直し


尾張の服部小平太と遠江の服部小平太が混乱しているような?


http://10e.jp/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%B8%80%E5%BF%A0

墓所 静岡県浜松市北区細江町中川 (気賀宿) 200m北に、小平太を祀ったといわれる宗安寺跡があります。 ※姫街道と側面に書かれた水道タンクの手前左手に老ヶ谷の一里塚跡があります。 江戸から68番目の一里塚です。右下に下りていく道は長坂と呼ばれています。 今川義元を討ち取った功により、この地を治めていた服部小平太は、天正15年(1587)にここで殺されたという事です。 服部小平太最期の地の説明板によると、今川義元を討取った服部小平太とは別人との説もあります。詳しくはこちら   URLへ


1595年没が通説。 遠江刑部の小平太は1587年没と「服部小平太(中保次)最期の地」碑の案内板に有る様です。服部中保次は、1526年生まれ、1587年歿。 足利義昭の護衛を勤めたことがあり、家康の伊賀越えのメンバーの一人でもある。 徳川家康の伊賀越え随行者リスト http://www.ne.jp/asahi/ninja/kasa/igagoe/ig-zuikou.html 服部中保次について記載のあるサイト http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100218.html 室町幕府最後の将軍・足利義昭の護衛役として近江の和田〜矢島〜若狭と同行したという、服部要介。 服部伊賀守宗純が後と伝うるも、先祖は平姓にて弥平兵衛宗清とする服部氏もありて、始めは織田氏に仕え、永禄8年より徳川家康に属せり人に服部要介宗次あり。 足軽同人を宰領して、服部中保次と改め、120貫の地を領す。 天正10年の伊賀越えにも功労あり。子孫は江戸の幕臣として数家に分れたり。 服部中保次(要介);天正15年死、年62。 家紋;十六桁車の内横矢筈、むかい蝶、揚羽向蝶の内十六葉菊。詳しくはこちら URLへ

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月29日 08時03分36秒 ) パスワード

中国の「赤穂浪士」のウイキを読んでたら

元祿赤穗事件- 维基百科,自由的百科全书
zh.wikipedia.org/zh.../元祿赤穗事...


淺野内匠頭的表兄弟美濃国大垣藩藩主戶田采女正氏定、
大垣新田藩藩主戶田彈正忠 ......

久米左平次(大番士)刀砍   ←  刃傷に及ぶ  って意味のようですよ=切りつけた?
松平忠頼(遠江国浜松藩藩主)和服部半八(大番士)。←  このお二人に
                 ↑
                どなた?

                半蔵・半三  なら分りますが
                半八って?笑


赤穂浪士のお話でこんな刃傷沙汰の事件ってありましたっけ?
つまり
良く似た人情事件が起きていた、という記事らしいです。



ということで調べて来ました



•慶長14年(1609年):水野忠胤の屋敷で、久米左平次(大番士)が松平忠頼(遠江国浜松藩主)と服部半八(大番士)に刃傷に及ぶ。

1609: Saheiji KUME (castle guard of hatamoto) attacked Tadayori MATSUDAIRA (the lord of Hamamatsu Domain, Totoumi Province) and Hanpachi HATTORI (castle guard of hatamoto) with his sword at the residence of Tadatane MIZUNO.



http://plaza.rakuten.co.jp/bizan413/diary/200701300008/

慶長14年(1609年):水野忠胤の屋敷で、久米左平次(大番士)が松平忠頼(遠江国浜松藩主)と服部半八(大番士)に刃傷に及ぶ。

久米と松平はその場で斬られて死んだ。

喧嘩両成敗により久米家と松平家はともに改易に処され、
服部も捕らえられて切腹改易となった。          ヲイヲイ

また直接は関係ない水野も切腹となった。


原因は囲碁の勝負に松平が口を挟んだためであった。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月29日 08時25分27秒 ) パスワード

この事件をもう少し調べてきました:


松平忠頼

時代
安土桃山時代 - 江戸時代前期

生誕
天正10年(1582年)

死没
慶長14年9月29日(1609年10月26日)[1]

戒名
観翁浄喜円通院[要出典]

墓所
東京都府中市紅葉丘の誓願寺[要出典]

官位
従五位、左馬允[1]



武蔵松山藩主・美濃金山藩主→遠江浜松藩主

氏族
桜井松平家

                家康の母が再婚して産んだ娘
父母                 ↓
父:松平忠吉、母:久松俊勝の娘=家康の異父妹・多劫姫[1][2]

兄弟
異父兄:松平家広[2]


正室:織田長益の娘[3]


忠重[4]、忠直、忠勝、忠久、忠好、忠利
     ↑


松平 忠頼(まつだいら ただより)

安土桃山時代から江戸時代の武将、大名。武蔵松山藩の藩主、美濃金山藩主、のちに遠江浜松藩主[5]。


のちに摂津尼崎藩主家となる桜井松平家本家を継いだが[2][5]、その死に様についてもしばしば言及される人物である(後述)。


生涯[編集]

天正10年(1582年)、松平忠吉の次男として生まれる[5]。
慶長5年(1600年)、兄・家広の跡を継いで武蔵松山の1万石を得て[5]、
関ヶ原の戦いでは東軍に与して三河岡崎城の守備を務め、戦後は尾張犬山城と美濃金山城を守備、
1万5000石を加増されて2万5000石となる[1]。

次いで、さらに2万5000石を加増され、5万石として遠江浜松藩に移封された[5][6]。

慶長12年(1607年)には、徳川家康の隠居城であった駿府城が火災にあった後の普請に参加している[1]。



          この事件ですよ〜

慶長14年(1609年)9月29日、従弟の水野忠胤の江戸屋敷に招かれて宴席に参加していた際、
同席していた久米左平次と服部半八の両名が囲碁の勝敗をめぐって口論、
刃傷に及んだ

      ココが重要
        ↓
(服部と懇意であった忠頼がしきりに服部に対して囲碁の助言をしたのが喧嘩の原因とされる)。



この争いを観た忠頼は仲裁に入ったが、逆上した左平次によって刺殺された[7]。享年28。

なお、この事件の責任をとる形で、
宴席の主催者である水野忠胤、
喧嘩の一方の当事者である服部半八は切腹を命じられている[1]。


死後、長男の忠重は幼少(9歳[4])であったため、また殺害された経緯から末期養子による家督相続は認められず、

松平家は一旦改易され、

浜松には徳川頼宣の家老水野重仲が入った[1]。


ただし、忠重は翌年8000石を新たに武蔵国深谷に拝領し[1]、その後は4万石となり大名に復帰している[4][5]。


脚注[編集]

1.^ a b c d e f g h 川口 1991, pp. 258-259
2.^ a b c 浜松情報BOOK n.d., 生涯.
3.^ “織田氏(長益家系・大和戒重藩、芝村藩)”. 平成新修華族大成. 2013年8月9日閲覧。
4.^ a b c “『尼崎市史 2』p119に掲載されている松平家の6代家広、8代忠重について知りたい”. 国立国会図書館. 2013年8月9日閲覧。
5.^ a b c d e f 村礒 1991, p. 354
6.^ 兄の遺領を継いだ、という説もある。川口 1991, pp. 258-259。
7.^ ただし、忠頼の死には異説もあり(浜松市史など)、「寛永系図」では、この事件にまったく触れられず、この日に没したことのみが記されている。川口 1991, p. 259。



ということは、この服部家と浜松藩主の松平家は仲が良かった、ということなんでしょうね。


この服部半八さんの家紋を知りたいところですね。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月29日 08時44分39秒 ) パスワード

全く関係ないけれど囲碁の世界では服部家って結構重要な立場になったのですねえ。



服部因淑


服部因淑(はっとり いんしゅく、宝暦11年(1761年) - 天保13年(1842年))

江戸時代の囲碁棋士。美濃国出身、井上春達因碩門下、七段上手。

井上家の外家服部家を興した。


因徹と名乗っていた青年時代には、本因坊元丈、安井知得仙知などと互角に戦い鬼因徹と呼ばれた。

御城碁には59歳で初出仕して76歳まで11局を務めた。養子の服部立徹は後の十一世井上幻庵因碩。



経歴[編集]

美濃国江崎村の農家に生まれる。幼名は虎之介。
    ↑
    ヲイヲイ
    ここでは書けないプライバシーがあります


同村の立江寺の僧から碁を教えられ、
その進歩を見た僧が豪商渡部氏に紹介し、
七世井上春達因碩門に預けられて因徹を名乗る。

また一時吉田姓も名乗った。

寛政8年(1796年)に六段。
この時の八世井上因達因碩は、坂口仙徳六段らの先例を出して御城碁出仕を願い出るが、
他の三家の反対により認められなかった。


この頃には元丈、知得にも互角の戦績で、鬼因徹と呼ばれた。その後因淑と改名。


文化6年(1809年)に弟子の橋本立徹を養子とする。
文化2年(1810年)に九世井上春策因碩が没し、因砂因碩が十世を継いだが、
因砂は五段であったために因淑が後見となった。

文政2年(1819年)に立徹を井上家跡目(井上安節、後に十一世井上幻庵因碩)とし、因淑は宗家の縁戚として、
因砂因碩が他の三家を説得して七段に進められ、御城碁出仕を果たす。


外家で七段の資格を得て御城碁出仕するのは、因淑が初めてとなる。


天保の内訌においては、文政11年(1828年)に本因坊丈和の八段昇段、続いて幻庵因碩八段昇段の後の家元会議に出席し、
知得仙知が丈和との争碁を打つように仕向けたが、丈和は仙知、因碩との争碁を打たないままで天保2年(1831年)に名人就位した。

天保13年(1842年)死去。


戦績[編集]

御城碁成績
1819年(文政2年)白番7目負 林元美
1820年(文政3年)白番中押負 本因坊丈和
1821年(文政4年)白番ジゴ 井上因砂因碩
1822年(文政5年)向三子9目勝 林柏悦
1823年(文政6年)白番2目負 井上安節
1825年(文政8年)向三子中押負 安井俊哲
1826年(文政9年)向二子14目負 林柏悦
1828年(文政11年)向二子中押負 安井俊哲
1830年(天保元年)先番ジゴ 安井知得仙知
1831年(天保2年)白番ジゴ 安井俊哲
1836年(天保7年)白番中押負 本因坊丈策

文政6年には井上家跡目安節と親子対局している。

他に、元丈とは黒番で12勝2敗、白番で1勝7敗1ジゴ、知得とは黒番で3勝3敗2打ちかけ、白番で4敗1打ちかけとしている。

享和元年(1801年)には浜松で山本源吉と二十一番碁を打ち(源吉先相先)、黒番5勝2敗、白番5勝9敗だった。文化5年(1808年)に関山仙太夫に向三子、二子でそれぞれ1敗。
代表局
享和元年(1801年)4月14日 安井知得 - 服部因徹(先番)



黒は上辺の城を激しく攻め、黒1(93手目)から眼を取りに行き、白8の時に黒9が手筋。白は黒Aを防いで白12が省けず、黒13の後白Bと生きなければならず、黒Cで地合が大差となる。105手完、黒中押勝。安井家跡目となって26歳六段の知得を剛腕で崩した。

著作[編集]
『温故知新碁録』1803年(布石と打碁集)
『繹貴奕範』1809年(布石と打碁集、山本源吉との二十一番碁を収録)
『置碁自在』1824年(二子から九子までの変化図と解説)



服部家[編集]

因淑の御城碁出仕により名門となった服部家では、同年に黒川立卓を養子として迎えて雄節と改名させ、跡を継がせる。雄節は五段で天保3年(1832年)から御城碁出仕し、六段昇段もして6年間勤めた後に辞退。天保13年に因淑に先んじて41歳で没する。服部家は一旦途絶えるが、後に幻庵因碩が弟子の加藤正徹に継がせて再興された。正徹は七段に進んで御城碁にも出仕した。


外家のうち2代以上続いて御城碁出仕者を出したのは、服部家と安井門の坂口家だけだった。


参考文献[編集]
相場一宏、福井正明「碁界黄金の十九世紀(第14回)」(「碁ワールド」誌2003年8月号)

外部リンク[編集]
木石庵「服部因淑」
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月29日 09時02分09秒 ) パスワード

http://uro.blog.ocn.ne.jp/blog/cat11529563/

7月27日のところに  吉田家と囲碁の話だ出てます。


吉田神社は貞観元年(859)に藤原山蔭が一族の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請し創建されます。その後、平安京における藤原氏全体の氏神となります。朝廷の信仰も厚く、正暦2年(991)には二十二社の前身である十九社奉幣に列されました。
 鎌倉時代以降は、卜部氏(吉田家)が神職を代々務めるようになり、室町時代末期に吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始すると、その宗家として明治になるまで神道界で大きな権威を誇っています。


それで「吉田姓」を名乗ったのですね。



以下は刃傷沙汰の記事です:


2012/10/19


囲碁が原因で改易となった大名 水野忠胤



Keityou Dsc_0932
慶長年間(1608年頃)の江戸の地図と日比谷見附跡



Dsc_0930 Dsc_0929_2
水野忠胤の屋敷跡付近の日比谷公園の心字池


 江戸に幕府が出来て間もない慶長年間(1608年頃)の地図を見ると、日比谷見附のすぐ隣に水野市正という屋敷があることが分かります。

 市正は官位であり、正式には水野忠胤という大名です。

 忠胤は徳川家康の従弟で、関ヶ原の戦いの功績で三河に領地を与えられ三河水野藩主となります。

 慶長14年(1609)9月に忠胤は親戚にあたる遠江浜松藩主・松平忠頼を招き茶会を開きます。

 この時、囲碁の対局をしていた忠胤の家臣が口論となり仲裁に入った忠頼を斬り殺してしまうという事件が発生します。忠頼が親交のあった片方の対局者に色々と助言したのが原因とも言われています。

 この事件の責任を取らされて忠胤は切腹となり藩も改易となりました。浜松藩も忠頼の息子が幼少であったため改易となっています。

 幕府が出来て日が浅く、徳川家の親戚といえども厳しく対処せざる負えなかったのでしょう。

 日比谷公園の心字池は昔、濠だった場所とのことですから、水野邸は池の東側(日比谷通り側)になります。
[20]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月29日 13時06分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 次々に新しい発見を垣間見せていただき感激と驚きです。

 宗安寺については、一度行ってみたいと思ってました。場所的に言うと、
中川(刑部村)の宗安寺とは別だと思いますが・・・中川の宗安寺をまだ探し
出しておりませんので、何とも言えませんが、何か関係がありそうな気もい
たします。
 次回行ってみます。合わせて中川の方も探してみます。

 細江の方も歴史の宝庫で、歴史は浜松等南からでなく、三ヶ日・細江の北
のほうから始まった(歴史が始まった)ような気もいたします。色々な史跡が
ありますので、地図を買ってよく調べてみたいと思います。

 服部半八、服部因淑、卜部氏=吉田氏等の情報も歴史の視野を広めてくれ
ました。それがまたどこかで必ずつながりますので、そこが絶対おもしろい
所ですね。

 さて、家康に仕えた服部氏には、大きく4つの系統があります。
 1.半蔵正成
 2.平太夫正尚
 3.中保次
 4.権太夫政光
 これらのいわゆる服部党は、ほとんどが「伊賀越え」にからんでいて、ま
た「大久保長安」とからんでいる。要するに、「情報」と「金」である。天下
を取るには正にこの2つが最大の武器となったのではなかろうか。
 伊賀越えは正に表情報・裏情報のクロスした最大の情報戦ではなかったの
ではないか。そこには信長暗殺及びその後の体制のスキームがすべて含まれて
いたように思えます。
 ただ、時代と共に服部党も徐々に排除・衰退して行く宿命にあったことは、
残念ではありますが、なんともし難い史実でもあります。

[21]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月29日 13時41分55秒 ) パスワード

三つ柏さんの本日の情報で更に検索してみました!
似たような記事ですが。


    尾張の服部小平太と遠江の服部小平太が混乱してますね。
    とりあえずアップ。


http://blog.livedoor.jp/shizuokak/archives/3770519.html


2013年06月03日20:45
                         廃墟です
                          ↓
服部小平太中安次を弔うため建立 臨済宗方広寺派 宗安寺跡  (静岡県浜松市北区(旧引佐郡)細江町中川 旧姫街道)


山門は気賀に残ってます。下の方に書かれています。

静岡県浜松市北区(旧引佐郡)細江町の宗安寺は、天正15年(1587年)に200m南にある姫街道 長坂で何者かに殺害された、服部小平太中安次(はっとりこへいたなかやすつぐ)を弔うために建立されました。



服部小平太中安次の最期の地 姫街道 長坂の記事はこちら

戦国時代の永禄3年(1560年)5月19日、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で織田信長の家臣であった小平太は、毛利新助(もうりしんすけ)らと共に今川義元を討ち取りました。

信長亡き後に徳川家康の家臣となった小平太は、この地の領主となっています。


天正15年(1587年)に一人で巡視していた小平太は、何者かによって長坂の途中で討たれました。


この地域は以前は今川氏が支配しており、小平太に恨みを持つ者の犯行だと言われています。


            なるほど


長坂で殺された人物と今川義元を討った服部氏は、別人だという説があります。
もしかして、同じ名前を名乗った2代目服部小平太がいたのかも??


明治時代の廃仏毀釈で廃寺となり、山門は正明寺(細江町気賀1060)に移築。


宗安寺跡には、石段・庭園跡・地蔵があります。



静岡県の歴史

臨済宗方広寺派 宗安寺跡の地図


アクセス

東名高速道路 浜松西ICの北西
現在の姫街道(県道261号線)沿いではありません。

参道 石段
石段横には、煙草乾燥小屋が残されています。


宗安寺跡の画像もあります。



その他
http://blog.livedoor.jp/shizuokak/archives/3722394.html

今川義元を討った 服部小平太中安次の最後の地 
姫街道 長坂  (静岡県浜松市北区細江町中川)



2011年05月03日20:45


今川義元を討った 服部小平太中安次の最期の地 姫街道 長坂  (静岡県浜松市北区細江町中川)


浜松市北区細江町(旧引佐郡細江町)には、東海道の脇道の姫街道が通っています。

姫街道の長坂は、今川義元を討った服部小平太中安次(はっとりこへいたなかやすつぐ)が暗殺された場所です。

戦国時代の永禄3年(1560年)5月19日、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で織田信長の家臣であった小平太は、毛利新助(もうりしんすけ)らと共に今川義元を討ち取りました。

信長亡き後に徳川家康の家臣となった小平太は、この地の領主となっています。

天正15年(1587年)に一人で巡視していた小平太は、何者かによって長坂の途中で討たれました。

この地域は以前は今川氏が支配しており、桶狭間の戦いで戦死した当地出身者も多く、小平太に恨みを持つ者の犯行だと言われています。

長坂で殺された人物と今川義元を討った服部氏は、別人だという説があります。

服部小平太中安次の最期の地 姫街道 長坂の地図

一里塚 地図
姫街道沿いに造られた、江戸から68里目の一里塚。
街道の両側に松の木を植えた築山(つきやま)があり、近くに富士見茶屋があったと伝えられています。
9697

一里塚石碑
9698

周辺案内図
現在地が一里塚の場所で、すぐ近くに服部小平太最後の地があります。
9699

中央配水池(水道タンク)
9700

姫街道
中央配水池のフェンス沿いに、姫街道が続いています。
9704

姫街道 長坂
9701

服部小平太 最期の地
9703

「服部中安次様最期之地」と刻まれた石碑
9702


服部小平太中安次を弔うため建立 臨済宗方広寺派 宗安寺跡  (静岡県浜松市北区(旧引佐郡)細江町中川 旧姫街道)





気賀郷の処刑場跡 姫街道の六地蔵  (静岡県浜松市北区(旧引佐郡)細江町老ヶ谷)





徳川家康が落城させた 刑部城跡(おさかべじょうあと)  (静岡県浜松市北区(旧引佐郡)細江町中川)


[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月29日 13時47分52秒 ) パスワード

中保次もお参りしたかも。


http://www.genbu.net/data/toutoumi/odu_title.htm

乎豆神社
おづじんじゃ
静岡県浜松市北区細江町中川4641−1



式内社 遠江國引佐郡 乎豆神社
旧郷社

御祭神
内宮 天照大御神 外宮 豊受大神

相殿
天手力男命 拷幡千千姫命 瓊瓊杵命
天児屋根命 天太玉命



静岡県の浜松市細江町にある。
天竜浜名湖鉄道・気賀高校前駅から300mほどの中川に鎮座。
362号線から高校の東側の坂道を登ると、
校舎の北側に境内がある。

境内入口は東向き。
鳥居をくぐり参道を歩き、参道を右手(北側)へ曲がると、
正面に社殿が見える、ちょっと不自然な参道だ。
ひょっとすると、昔は南側(今は校舎)に境内入口があったのかもしれない。

周囲には木々が多く、境内は昼でも少し暗いかも。
木漏れ日の中の社殿が良い感じで、
影の向きから、参拝は午前中だとわかるでしょう。

拝殿の後方に、神明造の本殿があり、
本殿の左側に、ひとまわり小さな神明造の祠がある。
大きい方が内宮、小さい方が外宮だと思うが、
確認していない。

創祀年代は不詳。

式内社・乎豆神社に比定されている神社で、
昔は神明宮と称していた。

当地は、古代において引佐郡家の所在地といわれ、
また、允恭天皇の妃の名代として刑部を定むともいわれ、
平安時代には伊勢神宮領御厨となった土地。

『式内社調査報告』では、境内社は、津島・八幡・熊野・浅間・金山。
『平成祭データ』では、津島・八幡・浅間・金山・秋葉。

だが、実際には、
境内左手に並んでいる境内社には、以下の六社の名が付いていた。
右から、津島神社、若宮八幡神社、諏訪神社、熊野神社、稲荷神社、春日神社。


以下略
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月29日 14時15分22秒 ) パスワード

[PDF]No.92(2009.5) - 岩田書院
www.iwata-shoin.co.jp/local/local-info_92.pdf

中川 惠司. 東京電車線路物語(13). 品川八ッ山陸橋. 井口 悦男. 東京文学地図帖 戦後編(17). 木場・洲崎. 槌田 満文 ..... 俊/岡田有平/刑部芳則/石田文一 ...... 〒432-8011浜松市中区城北3-5-1 静岡大学. 情報学部 ......

宗安寺の不動堂成立について.


ネットで見るには膨大過ぎて見つからなかったです
[24]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月29日 16時32分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 地図で宗安寺(中川)を探してみたのですが、のっておりません。さて困っ
たなと思いきや、あを様しっかり調べていただいておられる。
 わかりました。廃寺となってしまったようで、墓標はどこに行ったやら、
正明寺を探してみます。いずれにしても近日中に一度行ってみます。
 ありがとうございます。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月29日 22時55分02秒 ) パスワード

正明寺

1.
http://www.kimura-product.co.jp/aaa/kakuken/sizuoka.htm
 これかな?  下の方にありました。
正明寺 浜名湖四国第19番 浜松市細江町気賀 1060



2.
http://ameblo.jp/blogbears/entry-11755287270.html


遠江国説話集306〜犬くぐり道・犬くぐり(浜松市北区細江町気賀)。

犬くぐり道(関所破りの抜け道のことですね)


気賀関所を通行するためには、この町の人々さえ、通行手形が必要でした。しかも、夕方6時には門が閉められ、朝は6時にならないと開けられなかったため、大変不便でした。

そこで「犬くぐり」と呼ばれる抜け道が作られ、犬が通る道として黙認されたのだそうです。

正明寺の付近から気賀の町並の北側の山裾を通り、東は清水の北のはずれまで通じていました。

犬くぐりは正明寺の境内にありました。むしろを垂らした門があり、犬ならばくぐることができるけれども、人は立ったまま通ることができないので、むしろの下をくぐって通ったのだそうです。



犬くぐり


気賀関所にはゎ犬くぐり道と呼ばれる抜け道があったといわれています。


毎日、関所が開かれたのは明け六つ(午前六時)から暮れ六つ(午後六時)の間でした。

関所の役割は、往来の旅人や物資の取締、特に「入り鉄砲と出女」の監視です、従って、地元の人々が生活道路として関所を往来するにも通行手形が必要で、時間の制約もありました。
そこで犬ならばくぐって通っても差し支えないという関所の抜け道があったといわれています。これが犬くぐり道です。


地元のお年寄りが子供の頃、見聞きしたという話によると、蓮照寺墓地の東側に土塀があり、その下に、はって通れるくらいの穴があいていて、それが「犬くぐり」だったのだそうです。


『切り絵で伝える歴史散策「姫街道の町」』(いにしえの町づくり会 平成24年)所収。




3.豊田佐吉(浜松の出身なんですってね)にたどり着いて、服部という人の名が出てました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E4%BD%90%E5%90%89




佐吉は気風の良い藤八を、頼りがいのある旦那さんだと見込んだ。一方、藤八は佐吉の熱意を気に入った。藤八は屋敷の2階の6畳間に佐吉を居候させ、研究の援助をした。佐吉はすでに力織機の設計は完成させていた。だが、力織機の試作、動力の購入、そして試運転をするための資金がなかった。


藤八邸と試験工場は少し離れていた。昼夜を問わず佐吉は、研究室として使っていた佐吉の部屋と試験工場を日に何度も往復した。佐吉は、藤八家の家族や使用人のいる部屋を通らなければならなかった。そこで、藤八は2階の佐吉の部屋へ、玄関横から直接行くことができる専用階段を作った。藤八は佐吉が家族や使用人に遠慮することなく、昼夜出入りできるようにと配慮したのである[26]。

藤八は力織機の発明が完成するための資金と土地、建物を提供した。豊田式木鉄混製力織機は1896年(明治29年)11月15日に完成した。この木鉄混製の力織機を使った工場をつく ることになった。翌1897年(明治30年)秋、藤八の全面的な援助の元、資本金6000円、織機60台分2400円を投じて、佐吉と共同で乙川綿布合資会社が設立された[27]。

この工場から、その翌年の春、綿布が出荷された。乙川綿布で織られた製品を検査した三井物産東京本社の検査係はその優秀さを認めた。この時から、豊田と三井が強く結びついた。三井は豊田をパートナーとして支援し、補完する関係が始まった[28]。


藤八はこの後も、佐吉を側面から援助し続けた。佐吉と藤八の2人の友情は深まり、やがて義兄弟の契りを結ぶ。そしてもう一人、佐吉に惚れ込み支援し続ける人物が現れた。

               ココね
                ↓
後に興和紡績となる服部商店の服部兼三郎である。この3人の仲の良さを称して、立派な床の間に並んで飾られる三幅の掛軸のように「三幅対の仲」と譬えられた。名古屋の料亭「花月」で毎晩のように飲み明かす3人の姿があったという話が伝わっている[29]。


佐吉は藤八が亡くなった後もその恩を忘れず、藤八家との親交は続いた。佐吉夫婦は藤八の法要には必ず出席をした。その際には、乗って来た人力車を一丁ほど前で降りて、歩いて藤八邸の門まで来たと言い伝えられている[30]。



番外

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%92%8C%E7%B4%A1

興和紡

興和紡株式会社
Kowabo Company, Limited



本社所在地

〒460-0003
名古屋市中区錦三丁目6番29号

設立
2009年12月10日

業種
製造業

事業内容
印刷事業、不動産事業、自動車販売事業

代表者
代表取締役社長 三輪芳弘

資本金
5,000万円

売上高
17億3289万9千円(2011年3月期)

営業利益
3億6569万1千円(2011年3月期)

純利益
1億1929万9千円(2011年3月期)

純資産
124億2124万4千円(2011年3月31日現在)

総資産
397億2715万7千円(2011年3月31日現在)

従業員数
111人(2010年11月1日現在)

決算期
3月31日

主要株主
大栄産興株式会社

外部リンク
http://www.kowabo.co.jp/

特記事項:創業は1894年(明治27年)12月25日。

          ココね
           ↓
前身会社(株式会社服部商店→興和紡績株式会社)の設立は1912年(大正元年)10月25日。


興和紡株式会社(こうわぼう、英: Kowabo Co., Ltd.)は、日本の製造事業者。

株式非上場化のためのマネジメント・バイアウト(MBO)として、興和紡績株式会社を2010年11月に吸収合併している。


概要[編集]

本社は愛知県名古屋市に所在する。興和株式会社を中核に構成される「興和グループ」の源流企業。印刷事業、自動車販売を行う子会社の経営指導管理事業、不動産賃貸事業を行う企業である。かつて創業事業である紡績事業も存在していたが、グループ中核企業の興和株式会社に繊維部門を事業譲渡したため、現在は紡績事業を行っていない。


非上場化に伴う会社再編を経て繊維事業から離れた為、現在の会社名は「興和紡」に変更となっている。かつては射出成形品(金型製造を含む)、ヘルスケア商品製造事業なども行っていたが、これらも興和株式会社に吸収分割により事業譲渡している。


直結子会社として、興和冷蔵、シュテルン名古屋南(メルセデス・ベンツのディーラー)、名南三菱自動車販売(三菱自動車のディーラー)などの企業がある。かつては、知立電子工業と三興紙器があったが、閉鎖している。また関連会社として、興和株式会社、興和新薬株式会社、興和創薬株式会社などが存在する。

会長・社長は、興和紡、興和、興和新薬、興和創薬とも同じである。

沿革[編集]

旧法人・興和紡績[編集]
1912年(大正元年)10月 - 株式会社服部商店設立。
1920年(大正9年)4月 - 福井紡績株式会社を合併。
1939年(昭和14年)11月 - 商工分離の国策により、商事部門を分離(現在の興和株式会社)。
1940年(昭和15年)2月 - 興亜紡績株式会社に商号(社名)変更。松阪木綿株式会社、南海染工株式会社、株式会社矢田川染工所を合併。
1945年(昭和20年)10月 - 興和紡績株式会社に商号(社名)変更。
1950年(昭和25年) 2月 - 東洋紡織株式会社を合併。
8月 - 名古屋証券取引所に株式を上場[1]。

1961年(昭和36年)10月 - 大阪証券取引所に株式を上場[2]。
2009年(平成21年)12月 - マネジメント・バイアウト(MBO)のためTOBを実施し、株式を非公開化すると発表[3]。
2010年(平成22年) 5月 - 上場廃止。
11月 - 興和紡株式会社に吸収合併され、解散。


現法人・興和紡[編集]
2009年(平成21年) 12月10日 - マネジメント・バイアウトを目的として、大栄産興株式会社の完全子会社の興和紡株式会社を設立。
12月24日 - 興和紡株式会社による、興和紡績株式会社に対する株式公開買付(TOB)を発表[3]。

2010年(平成22年) 2月23日 - 興和紡績株式会社の株式取得
11月 - 興和紡績株式会社を吸収合併する。


子会社[編集]
興和冷蔵株式会社
名南三菱自動車販売株式会社
株式会社シュテルン名古屋南
三興紙器株式会社 (閉鎖)
知立電子工業株式会社 (閉鎖)
三興ビル管理株式会社
NobleSkillLTD.

脚注[編集]

[ヘルプ]
1.^
名証1部 3117 2010年5月14日上場廃止

2.^
大証1部(廃止) 3117 2010年5月14日上場廃止

3.^ a b MBOの実施及び応募の推奨に関するお知らせ 興和紡績株式会社・平成21年12月24日



思わぬ所で思わぬ名前が出て来るものですね。

わたくしは豊田家って昔の  挙母(ころも)の人だと思ってましたが
もともとは浜松の人でしたか。


昨日父と話していたら

昔は父の家のあたりから御嶽山が見えたなんて言ってました。

    御嶽山が良く見える次の日は雨
    と言ってたそうです。

三重県の御在所岳はわたくしも子供の時に毎日見えてました。


そうそう「猿投」も見えたと言ってましたっけ。


ということは忍者の服部家には猿投も視界の内だったんですよ。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 04時04分04秒 ) パスワード

服部兼三郎 かねさぶろう

生年: 明治3.11 (1870)
没年: 大正9.6 (1920)

明治大正期綿布卸商から綿糸布生産にまで多角化した名古屋の綿関係事業家。

尾張国丹羽郡古知野村(江南市)生まれ。へえ〜、「こちの」の人なんだあ〜
    ということは服部家ホンヤより信長の服部小平太の方が近いのかな?
    場所的には  北朝方の地域だし


名古屋の織物卸商糸重商店に入り,
主人の祖父江重兵衛の養子となるが,   祖父江さんは古い家で南朝方と思う

独立後の明治27(1894)年服部商店を開業。
屋号は〓。  ??? = ?   カネカ ですって  へ〜

知多木綿の集散のほか,明治末より知多での織布委託の賃織も行い,
営業税額1026円の規模となる。

先物で買って,実物で売る投機的取引を特徴としたが,
相場変動の危険が大きいため,大正3(1914)年より生産工程に進出し,のちの興和紡績の基礎をつくる。

織機の開発で有名な豊田佐吉との交流は深く,
また同店からは三輪常次郎(興和紡績),石田退三(トヨタ自動車)も出ており,
   ↑
  うっそ〜〜〜
  すごい!

中部財界の源流的人物といえる。

<参考文献>中部経済新聞社『中部財界人物伝』,木村茂編『商工興信録』


2.
服部兼三郎 はっとり-かねさぶろう

1870−1920 明治-大正時代の実業家。

明治3年11月生まれ。
27年名古屋で綿糸問屋を開業。
大正元年株式会社カネカ服部商店に改組し,短期間に業務を拡大し,
大紡績企業にそだてあげた。

会社はのち興和紡績,興和,興和新薬などのコーワグループに発展した。
              ↑
             従兄がここで働いていましたっけ


大正9年6月死去。51歳。   ←  たった51年で?驚


尾張(おわり)(愛知県)出身。旧姓は堀尾。   ←  旧姓 堀尾  って?
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 05時13分40秒 ) パスワード

全く関係ない正明寺のお話:尾張のお寺の件ですが遠江の正明寺の名にも関係するのか?謎


http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50574063.html

小池正明寺村   (こいけシャウミャウジ)村

正明寺と小池と二村を總て呼、
正明寺は禪宗の寺院今存在す

小池は正字也【服部貞女云】     ←  服部貞女?どなた?

小池は國府池の約れるにもあるべし  ←小池は国府池の約まったものであろう
今に小池正明寺村より國府宮の方へ魚代歟やらんに  ←今でも小池正明寺と国府宮は特殊な関係がある様だ
年々年貢を指出せり


 『尾張国地名考』(海部郡教育会/1916)より抜粋


      ここは尾張服部家ホンヤさんのエリアです



                ▼『稲沢の中世時代』より抜粋
小池正明寺村

正明寺と小池のニ村が合併されての呼名、
正明寺は禅宗の寺院で現存している。
小池は正字である。
〔服部貞女云〕
小池は国府池の約まったものであろう、今でも小池正明寺と国府宮は特殊な関係がある様だ。


この服部貞女を検索したら
   ↓
こんなんがヒットしました

http://books.google.com/books?id=un0q9ebQnhoC&pg=PA104&lpg=PA104&dq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E8%B2%9E%E5%A5%B3+%E3%81%AF&source=bl&ots=bk7O7stamE&sig=gOUgDUGCSwouNMLRqIsXOfj1jA0&hl=en&sa=X&ei=ULkpVMu8L8XeoASO7IH4DQ&ved=0CEsQ6AEwBg#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E8%B2%9E%E5%A5%B3%20%E3%81%AF&f=false

徳川諸家系譜 4, Volume 4
By 斎木一馬, 岩澤愿彦, 戸原純一

ここに載ってるらしいのですが  索引がグチャグチャで  みつからないです。

笠之助(服部平四郎某)の152 (服部平大夫某)の 151 (服部某) 11)152 養庄次郎(服部某)の152 薪 ...

服部家の面々が出ているようなんですが
[29]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月30日 06時58分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大変示唆に富む情報ありがとうございます。毎日すごく勉強になり賢くなり
ます。
 豊田の陰に服部あり・・・これもビックリ。正明寺の犬くぐりの話、名古屋
の正明寺の話、服部貞女の話、興味が湧いてきます。

 ひとつ困っています。服部権太夫政光(政秀)が遠江「河の庄」で3000貫
を賜ったという「河の庄」が比定できません。川の側には間違いないのでしょ
うけれど。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 07時05分57秒 ) パスワード

>服部権太夫政光(政秀)が遠江「河の庄」で3000貫を賜ったという「河の庄」が比定できません。


頑張って捜してみますね。


上のレスで書いた

  丸栄(十一屋さん)を牛耳ってると書いたのはドンキじゃなくてマツキヨだったかも。

  従兄はコーワ製薬じゃなくてきょーわらしい。協和製薬かな?


ま、たいした話ではないので、大筋には影響無いから、ご報告を。

ここでアップ
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 07時10分58秒 ) パスワード

<27>の書き直しです:


服部兼三郎について驚くような話があったので続けます:


江戸時代の名古屋の生い立ちについて

家康公が清洲越しをしましたが、清洲城があるところが海抜5メートル。名古屋城があるところは15メートル以上あります。名古屋城の場所に立てば全部見渡せるポイント。つまり、5メートルから15メートルへ高台移転したのが清洲越しです。

駿河湾沖の東海大地震というのは160年前、嘉永7年です。その津波というのは、堀川まで襲来しました。尾頭橋まで達して、以西を冠水した。つまり、伊勢湾台風の冠水エリアと全く同じです。そういうようなことがあって、それで名古屋城の北側の名城公園、これは巨大な沼でした。そうすると最北から攻め入るときに、堀川があるため攻められない。

名古屋は非常に攻めにくい城塞都市だったのです。

古地図を見ると笹島に「支那忠」とありますが、これは乃木大将が泊まった旅館です。明治19年に名古屋駅ができ、あたりは葦がしげる沼地でした。地盤の悪い場所です。東の方を見てみるとチンチン電車が走っていたのがわかります。

蒲焼町は今の「錦通」のことです。一説によると、名古屋城、築城の際に、職人さんたちが、蒲焼を食べる店が一杯並んでいたといわれています。?

世の中、伝馬という場所が多いですが、ここは飛脚の場所です。江戸時代はこの伝馬町と本町がクロスするところ、ここに「札の辻」という立て札があります。伝馬町を本町からちょっといきますと名古屋銀行(東海銀行の前身の1つ)があります。場所は、現在の八木兵本店です。これをつくったのはタキヒョーの滝さんです。

その下に明治銀行がありますが、この銀行を作ったのは奥田正香さんです。この奥田正香さんは20年以上、商工会議所の会頭をやったドン中のドンです。既存の勢力に対抗する意味で作ったのが明治銀行。現在は、八木兵さんの伝馬町支店になっています。

そこからずっと西を見ていきますと三井銀行があります。さらに、第一銀行があり、関戸銀行があります。この伝馬町は、明治名古屋のウォール・ストリートでした。



豊田佐吉翁にまつわる明治時代の名古屋の話

現在のテレビ塔の西側に、たての街がありますが、そのもう1ブロック向こう側が朝日町です。ここは、豊田佐吉翁の創業の地です。佐吉翁は慶応3年生まれ。湖西市で貧しい農家に生まれ、お母さんが機織をやっていました。その、機織を自動化するということで、織機の開発が始まるのです。湖西で過ごし、半田の乙川というところに行き、そこで織機の開発にめどをつけます。これで俺もいよいよ創業するんだ、といってスタートを切ったのが、この朝日町です。翌年に移転したのが現在のテレビ塔の南側、宝町。


次に引っ越したのは、現在も残っている武平町です。桜通にあるトヨタホームの東側にマンションがあります。そこが武平町工場の跡地です。そこは300坪の敷地がある本格的な工場でしたので、そこから世界にめがけて織機の輸出が始まりました。非常に一躍脚光を浴びたものですから、大隈重信など、全国の著名人がどんどん視察に訪れた場所です。


佐吉翁というのは、商売人ではありませんので特許権、知的財産権などというような発想はあまりない。実際には開発にお金を使いすぎまして、豊田式織機で解任になってしまいました。そこでアメリカに行って見たのが、自動織機だったのです。今度は、大手の力を借りずに、自分で借金してやるんだということでやったのが、栄生のノリタケの場所だったのです。これができたのは大正元年ですからすでに彼は45歳。当時の45歳というのは、感覚としては今の55歳よりもっと上です。60歳近くの人が、人生再チャレンジの場所だったのです。清水口のところにダイキン工業がありますがそこが豊田佐吉翁の邸宅跡地です。


道をまたいで、豊田利三郎さんという名前があります。この方は、娘婿です。佐吉翁は発明ばかりやりますので、実際に豊田という会社の実質的な切り盛りをしたのはこの利三郎さんです。その南側にあるのがソニーの盛田さんのご自宅。そのまた横になるのが、豊田喜一郎さんです。


喜一郎さんを生んだのは、たみという人なのですが、佐吉翁がどんどんと借金をするものですから、愛想を尽かして出ていったのです。当時、少年だった喜一郎は湖西にいたのですが、佐吉翁が再婚し、呼び寄せて一緒に暮らすようになったのが武平町の自宅兼工場です。


   服部兼三郎の話
      ↓
               
佐吉翁は特別な人望、人徳を持っている人で、彼を応援しようとする人がどんどんやってきました。そのうちのひとりが服部兼三郎さんという人です。この人は繊維の業界で、一代でのし上がっていった人です。彼は祖父江重兵衛商店(糸重)の丁稚として働き、娘までもらいながら、次期後継者の期待を受けるという大変なやり手な人でしたが、飲む打つ買うの、やり手だっために、追放されてしまい創業したのは八百屋町です。ところがそこが丸焼けになって、移転したのが宮町。そこで服部商店として、大陸に糸を売りまくって大成功を収めるわけです。


その服部商店で丁稚小僧だったのが、後のトヨタ再建の男・石田退三さんです。石田退三語録の中ででてきますが、ある日、みすぼらしい格好をしたオッサンが、ぬおっと入ってきた。挨拶もせずにただ立っている。それを見つけた主人が、「さあさあ、どうぞ」と通した。主人は「今日はいかほど?」と聞いたら、「今日はちいと高くてすまんが25万円ばかし貸してくれ」といったそうです。当時の25万円というのは、現在では1億を超える。それを、借用証書も書かずに、ありがとうとも言わずに出ていったそうです。これを見て肝をつぶした退三さんは、「あの人、どういう人ですか?」と聞いたら、「お前、よく覚えておけよと、あの人は豊田佐吉さんといってな・・・」といったエピソードがあるのが、ここの場所です。

     51歳の若過ぎる死は自決だったのです
           ↓
ところが第一次世界大戦があって糸が暴落してしまった。兼三郎さんは自殺に追い込まれてしまったのです。その葬儀委員長は佐吉翁です。その再建に取り組んだのが三輪常次郎。それが興和さんです。



名古屋には見れば見るほど変わった町名があります。町名は文化、歴史だと思います。だからなんとか町名復活運動をどうやって進めたらいいのか協力を仰ぎたいと思っています。



おまけ
http://minkabu.jp/blog/show/551556
昨年の9月21日のブログ


「興和がナゴヤキャッスル買収」 ← いつの話?去年?


コーワについて:
風邪薬のコルゲンコーワや胃腸薬のキャベジンで知名度抜群の名古屋の老舗医薬品メーカーと先入観を持ってました。

意外や意外、中核は商社の興和で非上場。

グループの沿革は、1894年 綿布問屋「服部兼三郎商店」として創業、


現在の企業規模はグループ連結売上3,270億円、  同従業員 5,202名

   (案外 でかくない、中堅どころの会社規模)

傘下のグループ企業は興和創薬、興和新薬、丸栄、名古屋観光ホテルなど

                     ↑
                    丸栄も?
                丸栄は「十一屋」さんと言って
                (つまり創業1615年)名古屋の老舗松坂屋が1611年創業
                江戸時代は名古屋の南部の干拓事業をやった大旦那さんです

                丸栄はマツキヨ?なんかにも身売りをしていると思います
                   ドンキではないと思います 


名古屋の名門企業でかつての老舗百貨店「丸栄」をひきうけてるのにはびっくり、
おまけにホテルまでやっているとは(ここら辺が非上場の良さでもあり弱点でもあるのかも、 
たしかかつて興和紡績というのが上場企業であったはずですが・・・)。



創業者の服部兼三郎が豊田佐吉の自動織機開発を支援したとあり、なかなかの人物みたいであるが、なんと、”大正9年 相場破綻で自決” と、ある。



さて、みんかぶの売れ筋 4571(NC)の第5位の大株主がこの興和。

創業者 服部兼三郎のDNAを脈々と今に受け継いで成長株への開発支援を早い時期から続けている。



個人的に、高コレステロール血症治療薬「リバロ」、名古屋観光ホテルを使用(経験あり)しており、
興和をとおして4571(NC)になにか縁を感じる(天啓かも?)。

おりしも、NC-6004 2013/6 膵臓がん対象フェイズV開始。

[32]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 07時23分20秒 ) パスワード

遠江国  河の庄 を調べ中です。


http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr1-14.pdf
これ、面白いですよ。

まだ当たらず遠からずの段階ですが。


「荘園の発生と大規模荘園の成立
〜県内の事例からみる荘園の成立〜」


いつごろ史料上に静岡県内の荘園があらわれるのであろうか。『日本三代実録』864( 貞観6)年3月4日庚寅条によれば、

内蔵寮の所領であった遠江国長上ながのかみ郡の田地 164町が貞観寺に施入
(寺社に寄進すること)されている。

次いで『日本三代実録』865年9月14日壬辰条によれば、遠江国長ながの下しも
郡の水田12町も貞観寺に施入されている。

貞観寺は、藤原良房と僧真雅により建立された嘉祥寺の西院が、862年に独立して貞観寺と称した寺院であり、
現在の京都市伏見区内にあったがその後廃絶した。

〈史料1〉の872年に作成された『貞観寺田地目録帳』は貞観寺領の田地を詳細に記録したものであり、諸国にわたる貞観寺の寺領を知る上で貴重な史料である。

この史料では、長上郡の所領を市野庄(荘)といい、
遠江国長下郡の所領を高家の庄(荘)といった。


市野荘はその約4割が未開発地であり、高家荘は荒田となり、もと清原池貞一
身田であったことがわかる。

市野荘は浜松市東区市野町付近に比定されており、
中世の史料には「市野郷」の名がみえる。

高家荘の所在は不明であるが、磐田市の天竜川河口付近とする説もあり、天竜川の洪水のため荒れ地となっていたことが考えられる。


 初期荘園では、荘園領主は律令国家の地方支配機構を利用して国司や郡司に経営をまかせ、班田農民の小作である賃租による労働に依存していた。



















多くは10世紀までに衰退していったといわれる。

市野荘も高家荘もその後の史料にはみえない。



2 県内における領域型荘園の成立


 また一方では、開発領主が所領を中央の権力者である貴族や寺社に寄進することによって寄進地系荘園が成立し、11世紀半ばには各地に広がった。この時期になると静岡県にも多数の荘園が〈史料1〉貞観寺田地目録帳事合柒佰伍拾伍町柒段捌拾弐歩熟田三百廿七町七段二百卌二歩荒田百卌八町三段八十六歩未開地二百七十一町六段一歩畠八町百十三歩
   〔中略〕

  遠江国庄二処 地百七十九町九段三百廿四歩市野庄地百六十七町在長上郡、
    熟田九十五町一段百六十四歩未開地七十一町八段百九十六歩
     已上、内蔵寮庄、依二太政官去貞観六年三月四日符一施入、
   高家庄地十二町九段三百廿四歩荒、在長下郡、已上、清原池貞一身田、依二太政官去貞観七年九月十四日符一施入、
   〔後略〕
(『静岡県史』資料編4古代278頁)
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 09時18分59秒 ) パスワード

まだ見つかりませんが
興味深い情報を仕入れました。

磐田市です。

鈴木家のことです;
http://www.city.iwata.shizuoka.jp/midokoro/bunkazai/pdf/walk_09.pdf


鈴木丑五郎翁

天保11年(1840)、遠江国豊田郡掛塚村に生まれ、家業は荷車製造
および醤油醸造業。少年時代から研究心が旺盛で、修理のため工場に運
び込まれる荷車のほとんどが車軸の磨滅と腐敗によるものであること
から、その防止の研究に没頭し、車軸の改良に成功。そのほか、もぐら
捕獲機、酒粕蒸留器などを考案しました。


鈴木勇次郎
文政12年(1829)遠江国豊田郡掛塚村に生まれ、実業の大工職を継
ぎ優れた技術を身につけ多くの弟子を輩出したといわれています。各地
から彼の技を慕い、門下生は百数十人を数えたといわれています。掛塚
屋台のほか、貴船神社・浜松銀行・浜松製紙・浜松製帽などの建築を一
手に受け、技術力を結集し顧客の要望に応えました。
村会議員、掛塚農会長、葉煙草収納組合長など多くの公職に就いて活
躍しました。



湊屋(鈴木家)

明治3 0年頃建てられ、『湊屋』の屋号で魚屋を営んでいました。
魚屋の西隣に石蔵(伊豆石)があり、魚屋の道具や製造した鰹節な
どを入れるために造られ、商売の勢いを証明する象徴であったよ
うです。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月30日 09時42分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さっそく、スゴイ情報ありがとうございます。荘園の発展経緯は律令制の
崩壊と貴族社会の発展と崩壊、武家社会の発展等の重要なキーワードですよね。勉強させていただきます。

 さて、下記サイトに、服部小平太保次の地碑等の紹介写真、紀行文が載っ
ておりましたので紹介させていただきます。

www.konoha-house.com/tokaido/t063kiga.html

服部小平太最期の地碑の写真、教育委員会の説明文の詳細、その他宗安寺
跡の紹介紀行が載っております。
 その中の教育委員会の説明文に、中保次の墓や戒名についての記載があり、欲しかった情報の全容が分かりました。

 情報は小出しに出てくる、しかも錯綜して─これが歴史探偵としての情報
心得となりました。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 10時15分54秒 ) パスワード

現在  遠江国 志津呂  から   河の庄  を捜しています。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 10時26分18秒 ) パスワード

<35>の書き直し:

アタマの中がグチャグチャで  河の庄を捜しているの志都呂のことを書いてしまいましたから。



この本をお読みになってください。
下の方にもありますが

   近世交通制度の研究
   渡辺和敏, 1991


books.google.co.jp/books?id=7t80AAAAIAAJ&q=%E5%BF
このURLは壊れているかも。

是非、図書館で捜してみてください。


*******************


以下これに至るまでのアレコレです:

またアタマの中を空っぽにして考えました。
現場100回



>服部権太夫政光(政秀)が遠江「河の庄」で3000貫を賜ったという「河の庄」が比定できません。
>川の側には間違いないのでしょうけれど。   ← 天竜川じゃないかと思います
                         大井川じゃないですよね 
  
     今切の関所番をやってた旗本ですよね


以下で天竜川に近いところは?

榛原郡 - 幕府領、旗本領、掛川藩、相良藩、三河挙母藩、三河西尾藩、伊勢長島藩、丹波篠山藩
佐野郡 - 幕府領、旗本領、浜松藩、掛川藩、横須賀藩
城東郡 - 幕府領、旗本領、浜松藩、掛川藩、横須賀藩、相良藩、三河吉田藩、三河西尾藩、丹波篠山藩
周智郡 - 幕府領、旗本領、掛川藩、横須賀藩、三河挙母藩
豊田郡 - 幕府領、旗本領、浜松藩、掛川藩、堀江藩、陸奥白河藩
山名郡 - 幕府領、旗本領、掛川藩、横須賀藩、堀江藩、陸奥白河藩
磐田郡 - 幕府領
長上郡 - 幕府領、旗本領、浜松藩
敷知郡 - 幕府領、旗本領、浜松藩、堀江藩、三河吉田藩
浜名郡 - 幕府領
引佐郡 - 幕府領、旗本領、陸奥白河藩
麁玉郡 - 幕府領、旗本領、陸奥白河藩

分らないですね。


服部家
3,000余石遠江国敷知郡・長上郡内

伊賀服部惣領家。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− コレですよね

天正10(1582)年、徳川家康の伊賀超えに従う。



http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=4&ved=0CDYQFjAD&url=http%3A%2F%2Fwww.town.miyashiro.saitama.jp%2FWWW%2Fwwwpr.NSF%2F155be1bc775295aa492576a50003c9bf%2F3d0fae93318809bb49257cdb0019877b%2F%24FILE%2FH25%25E4%25BC%2581%25E7%2594%25BB%25E5%25B1%2595%25E6%25B1%259F%25E6%2588%25B8%25E6%2599%2582%25E4%25BB%25A3%25E3%2581%25AE%25E9%25A0%2588%25E8%25B3%2580.pdf&ei=TfwpVIWcBsyxogS66oK4Aw&usg=AFQjCNGKKbsg987vH_2GhhrqFhnU2Y8fnw

浜松に来る前にいた宮代町の情報の復習:文字化けするのでコピペできません


太田荘百間郷と須賀村

元和5年  政季の子、政信が敷知郡(浜松市近辺)に移された
と出ています。


復習:
http://www.town.miyashiro.saitama.jp/www/wwwpr.nsf/155be1bc775295aa492576a50003c9bf/efcf9fdb938f49c74925705400287053?OpenDocument


<前の記事 [09百間陣屋と旗本服部氏] 次の記事>

文献史学的に旗本服部氏について分かる直接史料(旗本史料、地方史料)は幕府で編纂されたもの以外には皆無といえる。僅かに残る地誌や家譜などから旗本服部氏を考えてみたい。



1)旗本服部氏の太田庄支配
(1)『寛政重修諸家譜』によると
服部家の祖先は、伊賀国服部(三重県上野市)の住人で、永禄3年(1560)に家康に仕えたと伝えられている。政季(政光)は天正18年(1590)の小田原への参陣の際には、家康に従い本多忠勝の配下に属し、御使番を勤めている。徳川家康の駿河から関東への移封に伴い、文禄元年(1592)に武蔵国太田庄の内3000石を宛がわれた。さらに、慶長5年(1600)の上杉景勝の征伐に参陣し、この後に近江国長浜(滋賀県長浜市)に1000石の領地を与えられている。その後、慶長19年の大阪冬の陣、元和元年(1615)の大阪夏の陣にも参陣し、同年4月26日に京都で没している。妻は岩槻城主高力清長の女子である。政季(政光)の子の政信は、慶長5年の関ヶ原の戦いに参陣して御使番を勤め、帰陣後に武蔵国臼井で500石の領地を宛がわれている。慶長19年の大阪冬の陣、元和元年の大阪夏の陣にも御使番を勤めている。同年、父の遺領のうち、3000石を相続し、併せて3500石を知行した。その後、元和5年遠江国今切(静岡県浜名郡新居町)の関所番となり500石を加増され、采地も遠江国敷智郡に移されたと記される。


(2)『記録御用書本古文書』・・・史料1・2
▼徳川家康から服部与十郎に天正20年(1592)2月1日太田荘の内3000石を与えられたことが分かる。徳川秀忠から服部権太夫に寛永2年(1625)12月11日に遠江国敷智郡に所領を与えられた朱印状が残る。


    ココには長上郡は出てないですね。


(3)『寛永諸家系図伝』によると・・・史料7
  服部政光に天正19年(1591)武州太田領3000石を賜る。
  元和元年(1615)政光死去、政信父の遺領の内太田荘3000石を継ぐ。
  元和5年(1619)遠江国今切の関所番として遠江国敷智郡へ移封。


(4)『武徳編年集成』・・・史料4
▼天正18年(1590)8月武蔵太田郷3000石を服部権太夫政季が賜る。とある。

赤線部分に太田庄百間郷三千石とある。「諸家系譜」服部与十郎政季の条 



2)太田庄百間郷の範囲

▼文禄元年、徳川家康から旗本服部政季に太田庄3000石が与えられたことが分かる。しかし、太田庄のどこに所領があったかについては判明しない。しかし、平成15年1月に(独)国立公文書館内閣文庫に年未詳「服部家略譜」や文化8年「諸家系譜(服部)」があることが分かり調査を行った。その結果、服部政季・政信父子が領したのは太田荘の内百間郷3000石であることが判明した。

それでは百間郷3000石とはどの範囲をいうのであろうか。元禄16年の「日光御成道道拵免除願」(百間村折原家文書4717)によると「先規百間村一村ニ而高弐千四百石ニ御座候」とあり百間村は2400石であることが分かる。残りの600石については、その後の百間村相給を考えると分かる。

**************************


http://www.cyclopaedia.asia/wiki/%E5%BF%97%E9%83%BD%E5%91%82

志都呂に関する本


浜松市史
浜松市史
浜松市 (Japan), 1968

志都呂,據原^神ケ谷^伊左地の八か衬)と 1 ~ 1 ^々開発之地」二百九十五石七斗余を 合して四千二百九十五石七斗余の知行地を得ている。権太夫はこの当時今切の関所 奉行(前後二十一年間)であった。慶安元年(一? -から、服部中(保きが権太夫に代わっ て ...

books.google.co.jp/books?id=La9AAQAAIAAJ&q=%E5%
このURLは壊れているかも

****************************

これに載ってるかもですね。紹介文がしっかり壊れていますが。


近世交通制度の研究
渡辺和敏, 1991

その際、新任者は明が転出するまで、
代々の関所奉行が九年《一六九六)一一月に松平 半右衛門忠一七一坪の志都呂村の役屋敷は、元禄た。

    期待できますね
      ↓

一方、服部政信の使用した敷地 一六四)の土星利次の転出に伴い廃絶し次郎利次が使用したが、寛文四年〈一六橋吉 ...

books.google.co.jp/books?id=7t80AAAAIAAJ&q=%E5%BF
このURLは壊れているかも

取り寄せてお読みになってはいかがでしょうか?

**************************

全然関係無いのですが  服部金太郎さん  セイコーの創設者
http://sdn2.sakura.ne.jp/www-wp2/?cat=20&paged=2

服部金太郎。1860年10月9日 – 1934年3月1日、実業家。

江戸の京橋采女町の貧困な夜店商人の家に出生。
独立して服部時計店を開業し、銀座4丁目に進出。
外国製品に比肩しうる精巧品の製造に成功し、セイコー(SEIKO)に育てた。

家紋は丸に横木瓜紋。

[38]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 10時34分04秒 ) パスワード

http://www.konoha-house.com/tokaido/t063kiga.html

<34>

拝見しました。


この下りの山道は長坂といって、江戸時代の街道の雰囲気を感じます。

途中右側には服部小平太最期の地碑があります。これから行く
桶狭間の戦いに関係ありそうなので、パパが読んでくれました。



服部小平太最期の地

  服部小平太(中保次)は、永禄三年(1560)五月十九日の桶狭間の
 戦いで、織田信長の家臣として、毛利新助らと共に、今川義元を討ち
 取った功労者であった。

  この地方が徳川の勢力下に入ると、小平太は信長亡き後、家康の
 家臣として、勲功によりこの地を治めた。もともと今川領だったこの地
 方には、桶狭間に出陣して戦死した者もあり、小平太に恨みを持つ者
 もあった。

  天正十五年(1587)六月十八日、小平太は単身このあたり
 を巡視の折、ここで何物かに討たれた。
  
 なお小平太の墓はこの下数十メートルにあり、祥栄院殿湖雲浄鑑
 大居士と刻まれている。
 
 またここより二百メートルほど北に、小平太を祀ったといわれる宗安
 寺の跡がある。
                     平成二年三月二十日
                     細江町教育委員会



元気よく山道を下ってゆくと、小さなお堂があり姫街道の標識がある場所で
車道に合流します。小さな集落の中を進んでゆくと、左に新谷の宗安寺跡が
あったよ。

明治時代の廃仏毀釈でお寺は無くなっちゃったけど、石段と
石仏、庭などが残っているよ。集落を抜けると県道に出ます。そこで県道を
横断し、少し右にある小径に入ってください。右に田圃、左に小山が出てきたら
正解です。そのまま進むと、水路を渡る橋が現れます。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 10時42分49秒 ) パスワード

一体  津島の服部小平太と遠江の服部小平太は  同一人物なんでしょうか?


津島の服部さん:

服部 一忠(はっとり かずただ、生年不詳 - 文禄4年(1595年)7月)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は小平太、采女正。名は春安、忠次とも。

生涯[編集]

尾張国の出身。はじめ織田信長に馬廻として仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて今川義元に一番槍をつける戦功をあげた。しかし、義元の反撃を受けて膝を斬られたので、首級を挙げたのは助太刀に入った毛利良勝であった。桶狭間の戦い以降は織田氏の配下として目立った活躍は知られていない。

天正10年(1582年)の本能寺の変ののち、再び馬廻として豊臣秀吉に仕えて黄母衣衆の一員となる。天正13年(1585年)、従五位下采女正の官位に叙せられた。また、小田原征伐の戦功により、天正19年(1591年)に松阪城主に抜擢されて伊勢国一志郡に3万5000石を与えられ、同時に当時、尾張・北伊勢の支配した羽柴秀次に付けられた。文禄元年(1592年)、文禄の役において漢城に従軍。

文禄4年(1595年)の豊臣秀次失脚に連座して所領を没収され、上杉景勝に預けられた後、切腹を命じられた。次男の勝長は大崎長行の養子となり紀伊徳川家に仕えた。





遠江の服部さん

服部保次(宗次より改めた)  要助・小平太・中
遠江国引佐郡と三河国岡村で120貫文
遠江国にて死す
刑部村に葬る

子孫は遠江国敷知郡と長上郡に移さる
後、印旛沼を新しく開墾  


前のレスよりの復習:
 服部小平太(中保次)は、永禄三年(1560)五月十九日の桶狭間の
 戦いで、織田信長の家臣として、毛利新助らと共に、今川義元を討ち
 取った功労者であった。

  この地方が徳川の勢力下に入ると、小平太は信長亡き後、家康の
 家臣として、勲功によりこの地を治めた。もともと今川領だったこの地
 方には、桶狭間に出陣して戦死した者もあり、小平太に恨みを持つ者
 もあった。

  天正十五年(1587)六月十八日、小平太は単身このあたり
 を巡視の折、ここで何物かに討たれた。
  
 なお小平太の墓はこの下数十メートルにあり、祥栄院殿湖雲浄鑑
 大居士と刻まれている。
 
 またここより二百メートルほど北に、小平太を祀ったといわれる宗安
 寺の跡がある。



2人いたのか
情報が交錯しているのか?
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 13時14分39秒 ) パスワード

<37>の復習


http://www.cyclopaedia.asia/wiki/%E5%BF%97%E9%83%BD%E5%91%82


浜松市史
浜松市 (Japan), 1968


これは政信が持っていた浜松の8つの村の名前の一部と思いますのでご確認を。


以下文字化けしているので良く分かりませんが

志都呂,據原^神ケ谷^伊左地の八か衬)と 1 ~ 1 ^々開発之地」
    ↓

志都呂=敷知郡=浜松市西区志都呂町

據原=よりはら?はきはら?=敷知郡?     據り所=よりどころ

神ケ谷=浜松市西区神ケ谷

伊左地=敷智郡村櫛庄伊佐地郷
など8村


1 ~ 1 ^々開発之地
が295石だった?

二百九十五石七斗余を合して四千二百九十五石七斗余の知行地を得ている。


権太夫はこの当時今切の関所 奉行(前後二十一年間)であった。


慶安元年(一? -から、服部中(保きが権太夫に代わっ て ...

    ココも文字化けして良く分かりません

***********************


おまけ:復習

服部権太夫政信の父の名前について:宮代町のサイトより(復習)

http://www.town.miyashiro.saitama.jp/WWW/wwwpr.nsf/339fddb73266fa0049256b7900250f40/efcf9fdb938f49c74925705400287053?OpenDocument

5)服部政光と政季について

▼「寛政重修諸家譜」や「寛永諸家系図伝」では太田庄を領したのは政光と記されるが他史料では政季と記される。

「寛政重修諸家譜」編纂にあたり服部家から出された「服部略譜」や「諸家系譜」などでも政季と記されている。

しかし、「寛政重修諸家譜」では政光となっているが、
これは「寛永諸家系図伝」を引用したからであろう。

このようなことから、「寛永諸家系図伝」の編纂の際、
政光と政季を錯誤し記載したものと推定される。


**************************

それよりも  またまた  鈴木さんが出てました:


http://www.town.morimachi.shizuoka.jp/kanko/rekishi/choshi35.html

35 遠江一宮の舞楽の歴史 小國(左舞)/天宮(右舞)

舞楽は、欽明帝(きんめいてい)の頃大陸から渡来したと言う雅楽に舞を付したもので、唐楽(からがく)(左舞(さまい)、西域系、赤色装束)と高麗楽(こまがく)(右舞(うまい)、朝鮮・満州系、青装束)に分類され、平安時代藤原期に全盛を極め大寺社などで行なわれた。地方への伝播は、その後、密教寺院やこれと融合した大社などの法会(ほうえ)・神事(しんじ)に組み込まれていった。童舞(わらべまい)(稚児舞楽)は、鎌倉前期には盛行を見せ、畿内では醍醐寺や聖護院、東国では伊豆山権現や鶴岡八幡宮などで行なわれており、小國・天宮の舞楽もこれらと同様の稚児舞楽である。
遠江一宮(小國一宮社、小國社の摂社天宮)の舞楽は本来寺院方の行事であり、蓮華寺を中心とした一宮一山組織(両社の神人や天台系寺院の僧侶)と国司、守護・地頭などの武士層がこれに関係し、遠江国の 豊饒 ( ほうじょう ) や国家の安泰を祈って両社ともに12段の舞楽が行なわれてきたようである。


            ココです
              ↓
天正18年、円田郷粟倉の鈴木太郎左衛門(左近(さこん))が舞楽役となり、
同家が近世を通して小國・天宮両者の舞を司ってきた。


小國方の舞楽賄いは、神社から10俵の米が神宮寺に支給され、
楽頭(がくとう)・色香(しきこう)舞などは扶持田(ふちでん)が配当され、
舞楽一切を神主(旦那)が支えている。


天宮の祭礼は、若者衆(天社轂(てんしゃこく))が大きな担い手で舞楽や行道などの全ての段取りをなし、
天宮神領内の法事田(ほうじだ)(祭礼田)と町場の旦那衆の寄進によってこれを支えてきた。

両社の舞楽は、単独のものではなく、一宮と言う地域を金胎両部(こんたいりょうぶ)の思想に二分し、
これを左方・右方にも意味付けて、両社の舞楽を番(つがい)とすることにより、
遠江の豊饒と国家の安泰を祈る一宮の曼荼羅(まんだら)を形成させた。

[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 13時21分09秒 ) パスワード

http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh36_tokaido/sh36_tokaido.htm

東海道53次の  荒井  の絵ですが
あの舟は何の舟でしょう?

紋は笹竜胆ですよね?


関所の奉行の紋所でしょうか?


ちなみにうちの父は丸子の絵が好きで
丸子の茶屋の模型を自分で作ってたりしてます。

   藁葺き屋根はタワシを使ってました。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 13時31分06秒 ) パスワード


<40>のレスの
>>>慶安元年(一? -から、服部中(保きが権太夫に代わって ... <<<
に部分を補足します。



復習:少し前にレスしています

http://bird.blue.coocan.jp/forarai/arai_sekisyo.html


今切関所  歴代お奉行さま


元和5年(1619)   〜     寛文4年(1664)4月

1)
1代目奉行    服部権太夫政信
2代目奉行   服部杢助政重
(両名1才違いの兄弟)


3代目奉行    服部杢助政次
4代目奉行   服部中安俊


幕府から与力・同心の配属はなく、
各関所奉行の家来を関所の運営にあたらせていたようである。


2)
5代目奉行    服部中保俊
6代目奉行    佐橋甚兵衛吉次
7代目奉行    三宅半七郎重吉
8代目奉行    土屋忠次郎利次
9代目奉行    本多彦八郎助久

慶安元年(1648)に 服部中保俊・佐橋甚兵衛吉次の 代になって、
幕府 から直接与力・ 同心が配属される ことになった。
それぞれの関所奉行 に与力6騎・同心20人ずつ配属された。



第6代佐橋甚兵衛吉次、第8代土屋忠次郎利次の役屋敷は橋本村三軒屋にあったが、
他は志都呂村にあった。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 14時20分14秒 ) パスワード

ということでレス<29>の三つ柏さんの疑問の謎がかなり解けたのではないかと思います。


>ひとつ困っています。
>服部権太夫政光(政秀)が遠江「河の庄」で3000貫を賜ったという「河の庄」が比定できません。
>川の側には間違いないのでしょうけれど。


「河の庄」というのは特定できませんでしたが
河の近く
ということで  河X庄 または  河の近くのいくつかの庄園
というのが当たらず遠からずの答えじゃないかと思います。


http://www.cyclopaedia.asia/wiki/%E5%BF%97%E9%83%BD%E5%91%82
浜松市史    浜松市 (Japan), 1968

ここに書いてある  子の政信が持っていたという庄園
    志都呂,據原^神ケ谷^伊左地の八か衬)と 1 ~ 1 ^々開発之地


志都呂,據原^神ケ谷^伊左地の八か衬が父から受け継いだ3000貫(3000石)じゃないかな。

この浜松史を読めばそういうことが書かれているんじゃないかと  女の勘  で思います。

    女の勘
    これって実に良く当たるのですよ

       根拠が無いのが男性には理解に苦しむところでしょうけど
       奥様やお姉さまがたの指摘でドキッとなさった経験は有りませんか?



政信は今切の関所奉行になって3500石のうち1000石を弟に譲り
のちに加増されて  計  4295石余りになったと寛政重修諸家系譜に書かれているのと


上記「浜松史」の表記
(二百九十五石七斗余を合して) 四千二百九十五石七斗余の知行地を得ている
と合致するので


父親が持っていたであろう  河の庄  とは  志都呂,據原^神ケ谷^伊左地の八か衬

これらは  敷知郡にあるんですか?


長上郡が加増になった庄園なのかなと想像します。



とにかく  浜松史  をお読みになってください。
きっと膨大な量でしょうね。


間違ってたら恥ずかしいけど、
間違ってたらどうやって開き直るか今から考えて置きます。
赤面


敷知郡の中に河の庄というのがあると  尚良し  なんですが。


そうすると内山真龍の遠江風土記伝の地図に描かれていたのかしら?
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 14時23分14秒 ) パスワード

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765205

内山真龍「遠江国風土記伝」
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 14時46分29秒 ) パスワード

26コマ目からが敷知郡です。

   その前が  浜名郡  だったかな?
   ここに今切が出てます。

地図は解読できませんでした。
でも家紋みたいなのが出てましたが
意味が分かりませんでした。


敷知郡の村は全部で 128 なのかしら?
石高は  2万9324石9斗4合

ということで  3000石をここで貰ってたとしたら  8村  では計算が合わない?合う?
ギリギリ合うかな?


ということで  浜松史  頑張ってお読みになってくださいね。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月30日 16時20分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろとお骨折りいただきましてありがとうございました。何とかわかり
ました。河の庄という地名はいつかどこかで探し出しますが、あを様ご指摘の
とおり、志戸呂、大久保、神ヶ谷、伊佐治、古人見、大人見、上石田、山崎
を含んだ地域をいうのだと思いました。私の理解力が足りなかったこと申し訳
ございませんでした。

 小平太については、人物がダブっていて云々と以前よりありましたが、遠江
の刑部で亡くなったのは、旗本中保治に違いないと思います。問題は、今川
義元の首級を取ったのが誰かということですが、仮説では3説ほどありますが、忍者による情報収集がなければ義元が陣のどこにいるのかなかなかわか
らないので、忍者を取り仕切っていた人、則ち服部仲保次ではないかという
説が説得力を持ちます。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 22時43分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


あの文字化け部分
>>>志都呂,據原^神ケ谷^伊左地の八か衬

これは
志戸呂、大久保、神ヶ谷、伊佐治、古人見、大人見、上石田、山崎
の8つの村のことでしたか。


これらが敷知郡内なら


右の文字化け部分  >>>1 ~ 1 ^々開発之地<<<  の部分は  長上郡を開墾した
ということなんでしょうか?



>河の庄という地名はいつかどこかで探し出しますが

わたくしもその内に見つかると良いなと願っています。



   昔のことはホントにちらっと姿を見せてくれても
   すぐにスルリと逃げてしまいますね。
   なかなか捉えられないですね。

とにかく、いつか出会えることを期待して、気長にいきましょうね。
まだまだ人生は長いのですから。
にっこり



>小平太については、人物がダブっていて云々と以前よりありましたが、

はい
多分ダブってますよね



>遠江の刑部で亡くなったのは、旗本中保治に違いないと思います。

はい
服部中保次
でしょうね、

尾張の服部小平太じゃないと思います。




>問題は、今川義元の首級を取ったのが誰かということですが、
>仮説では3説ほどありますが、

えっ?!
もう1人いるんですか?
これは知らなかったです。



>忍者による情報収集がなければ義元が陣のどこにいるのかなかなかわからないので、
>忍者を取り仕切っていた人、則ち服部仲保次ではないかという説が説得力を持ちます。


誰が仕切っていたかの、この部分は、歴史物ドラマでいろいろ脚本が生まれてますよね。

   秀吉モノですと秀吉の手柄の話になります
   秀吉の才覚で村人を使って、などと。



桶狭間の時は  当時の家康は  まだ今川方武将として参加してましたから
       家康方から情報が漏れてた
と考えるのは合理的ですよね。




それにしても服部中保次ほどの人物が暗殺されたというのは信じられないほど意外でした。

   今川方によって、というのが定説でしょうね
   座りが良いです

   でも、分らないですよね

   政治の世界は「どんでん返しの連続」ですから
   誰が裏切ったか
   案外身近な人物だったかも知れないです。

       誰が妬むかな?
       と、犯人捜しをしたくなります。


       このテーマは探偵ごっこより刑事物ドラマごっこになりますね。
       笑


まだまだ謎は全く解明されていません。
頑張りましょうね。


暫くアタマを休めます。

最近はオバーサン脳になってて
自分でもアップした後で読み返して  げ〜  と驚くズレぶりです。

でも、そのズレから意外な発見があったりして。


豊田家と服部家の関係にはホントに驚かされました。

昔のクラスメートの中に南朝方で血と涙を共有した家の名字の人達がいたのが分ったり
日本人ってホントに8代も遡ったらみんな知り合いだったり親戚だったりなんだなあと驚きます。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月30日 22時55分47秒 ) パスワード

犯人、分っちゃったかも。


きっと  服部政季(政光) and/or そのグループ ですよ。

理由は  伊賀の服部家の頭領の座  争い。



政光は尾張の服部家の兄の家で定友の息子。
正当な後継者。
でも尾張での将来に見切りをつけて家康に従った。


ところが家康のところには先に中保次が仕えていた。
当然コッチでは保次が正当な後継者。
その上に保次には足利将軍のお墨付きがある。



ま、こんなところかも。
ふふふ
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月01日 01時09分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部中保次とかくつもりでしたが、誤字がございました。

 今、調べてみようと思っているものは、長田(おさだ)氏についてですが、
永井氏と同族でこの地にもおられる。家紋も丸に三つ柏ということ。服部と
永井はこの地ではある意味同根。永井氏と天満宮との関係も摂津ではあった。
長田氏と八柱神社との関係もある。長上には二社存在している。

 それから、服部政光の「権太夫」の「太夫」の意味についてである。本人
はいかなる意味で太夫を使ったのか。神職の意味もある。従五位以上という
意味もある。猿楽・能楽の座長の意味もある・・・。

 猿楽関係は近々まとめます。

[50]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月01日 02時21分24秒 ) パスワード

長上郡はもともと『長田』郡ですから
土地の長田氏とは結婚で結ばれているでしょうね。

で、ここに、鈴木家が絡む、のでは?と思います。


<40>に書いた鈴木さん。神職さんで良いのかしら?

http://www.town.morimachi.shizuoka.jp/kanko/rekishi/choshi35.html

35 遠江一宮の舞楽の歴史 小國(左舞)/天宮(右舞)

   天正18年、円田郷粟倉の鈴木太郎左衛門(左近(さこん))が舞楽役となり、
  同家が近世を通して小國・天宮両者の舞を司ってきた。


   小國方の舞楽賄いは、神社から10俵の米が神宮寺に支給され、
  楽頭(がくとう)・色香(しきこう)舞などは扶持田(ふちでん)が配当され、
  舞楽一切を神主(旦那)が支えている。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE

小國神社(おくにじんじゃ、おぐに-)は、静岡県周智郡森町にある神社。
神紋は「右三つ巴」である。   ← ちょっと違いましたね
式内社、遠江国一宮。

「小国」という社名は、出雲の「大国」に対する遠江の美称であるとしている。


******************************


大夫・太夫 の意味



1 ⇒たいふ(大夫)1

2 神主・禰宜(ねぎ)などの神職の称。たいふ。

3 御師(おし)の称。

4 芸能をもって神事に奉仕する者の称号。

5 猿楽座の座長。江戸時代以降は、観世・金春(こんぱる)・宝生・金剛の四座の家元をさして、観世太夫などという。古くは能のシテ役をさした。

6 説経節および義太夫節などの浄瑠璃系統の音曲の語り手。また、義太夫など、名前としても使う。

7 歌舞伎で、立女形(たておやま)の敬称。

8 近世後期、大道芸・門付け芸などの芸人の称号。万歳の太夫など。

9 官許の遊女のうち最上位。松の位。



なるほどね
もしかすると  神職だった・奉納舞い関係者だった  という意味の名乗りだったのかもですね。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月01日 06時57分30秒 ) パスワード

浜松近辺で三つ柏紋が神紋の神社・お寺さん


那閉神社(焼津市) 静岡県焼津市浜当目3−14−13
ただし
那閉神社(通称 虚空蔵さん)の神紋は「丸に蔓柏」紋


https://maps.google.com/maps/ms?msid=205511293955984130152.0004a8092bd89a5db5f4e&msa=0&dg=feature

平間寺:(へいけいじ:神奈川県)
丸に三つ柏紋 通称:川崎大師(かわさきだいし)


東福院(とうふくいん:東京都)
三つ柏



こんなところでした。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月01日 07時02分03秒 ) パスワード

滋賀県多賀町 多賀大社

御祭神 伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱
創建  定かではない。
     712年「古事記」に記載あり。 
     当初は、この地の豪族犬山君を祖神として祀る。
御利益 長寿祈願の神。(縁結び・家内安全ほか)


神紋  虫食い折れ柏紋
社紋として、三つ柏と三つ巴もあり。??

「お多賀さん」「お多賀大明神」と呼ばれ、親しまれている。
別宮に胡宮(このみや)神社がある。



お多賀さんのおたかさんというと井伊直弼の愛人だったおたかさんがいるけど
井伊がらみで  三つ柏紋 で繋がるんでしょうか?
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月01日 07時07分15秒 ) パスワード

池宮神社(いけみやじんじゃ)


0537-86-2309

所在
静岡県御前崎市佐倉5162

主神瀬織津比・命配神事代主命 建御名方命

創建伝:敏達天皇13年(584)6月例祭彼岸中日 納櫃祭:秋分の日


神紋丸に三つ柏・三つ桜


    ココも
    電話してみて   0537-86-2309

 
社格旧郷社備考桜ヶ池(県名勝、静岡県自然の森百選)、納櫃祭(県文)、本殿(市文)神徳開運厄除、商売繁昌、農業ほか交通東名高速道菊川I.Cより約25分 駐車場有
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月01日 17時45分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日はずっと出かけておりました。小国神社も天宮神社も近いのですが深く
突っ込んで調べたことがございませんでした。雅楽のような踊りがあるとい
うのは聞いたことがありました。
 多賀神社も興味をいだいておりました。一度だけ行ったことがございます
が、深く探求したことはございませんでした。
 池宮神社は浜岡原発のすぐ近くで桜が池の伝説で有名です。一度行ったこと
がございます。
 川崎大師は行った事はございません。
 今まで特に関心を持って神社等に接することがありませんでした。歴史を
掘り下げると色々なものが意味を持ってくるのでおろそかにできません。
 気になったものについては、必ず調べてみます。少し行動範囲を広めれば
と思います。

 先日、霊園で見付けた服部氏の家紋で、丸の中に7つの弧がありその中に
2本の矢が縦に並んでいる─これは百地系の服部氏の家紋、七曜星と並び矢
であることが分かりました。
 服部氏でも色々の系統の服部氏がいるということ。伊賀出身の西村氏(服
部氏)も柏紋を使うという。
 家紋の本を見ても、大枠は合っていても、それぞれ記述が違っているので
苦労します。つまりは完全なまでにはあてにできるものではないと言えます。
 引き続き、情報を仕入れて行きます。服部氏の墓石紋探しを中心に。
 
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月01日 22時45分46秒 ) パスワード

はい
いろいろな系統の服部氏がいますね。


声とか話し方でもいろいろな服部氏がいると思いますしね。


   もう随分前に起きたアラバマの服部君事件


   名古屋の最高頭脳の高校生の集まる県立旭丘高校からAFSで留学してたというから

      西三河なら岡崎とか東三河なら時習館とかね、あんな感じの超優秀な高校の生徒さん。

       本当に優秀な子供さんだったんでしょう

   お母さんは名古屋南西部の本物の服部家の血筋ね、という話し方をされるけど
   お父さんは名古屋南西部の人には思えない、でもやっぱり名古屋人の声と思いますから「カミ」の人かなと
       つまり名古屋の南部の人じゃない
       お父さんが婿養子さんなら100%理解出来ます


話し方の微妙な差で  同族かそうじゃないか  を感じることができます。



家紋が違うということは  決定的に何かあったのでしょうね。
   独立して別れたのか
   もともと大本が違うのか

でも丸に三つ柏紋は  旗本の服部氏が使用している  と書かれていましたから
確かにそういう家があった


だけどそれが特定できないというのは寛政重修諸家系譜の家紋集を読まなきゃいけないけど
   家紋のバージョンのがなかなかネットでは見つけられないです。

寛政重修諸家系譜に書かれている服部家の家紋は殆どが矢紋で。あとは揚羽蝶や16葉菊。
なかなか三つ柏紋には至らないです。


見つかればかなりの解決になるんですけどね。


どこから来たのでしょうね。

神社紋・お寺紋・芸能関係紋それから?


とりあえず地道な捜査ですね。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月01日 22時49分23秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E7%B4%8B
関が原合戦屏風


この絵の一番下の真ん中あたりに  石田三成軍陣地に  3本矢の家紋が出てますね。

例の服部氏なのに西軍についたって家でしょうか?
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月01日 22時51分48秒 ) パスワード

その東北の位置に  三つ柏紋  がありますが
山内氏なんでしょうね。

敵対してるみたいですものね。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月01日 22時54分56秒 ) パスワード

下の方の項:


神紋・寺紋

神社や寺でも各々に用いる固有の紋があるが、特に家紋と区別してそれらの紋は神紋(しんもん)や寺紋(じもん)と呼ばれる。しかし同じように校章といった各学校における紋章や、会社など社団法人には社章も存在するが、家紋の数や種類と比べると圧倒的に少ないため、日本の紋章学者の間では「紋章=家紋」という認識が一般的である。

神紋には、

    各神社にゆかりのある公家・武家の家紋が用いられる他、

唐などにおける図案や由緒縁起にまつわる図案など独自の意匠が用いられていることも多い。

    神職の系統の家系では、神紋が家紋代わりとなっている(花菱紋、柏紋など)。


神紋の例(柏紋「丸に三つ柏」)
神紋の例(梶紋「上諏訪梶の葉」)

[59]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月02日 04時00分21秒 ) パスワード

たいした情報ではありませんが

   服部  刃傷沙汰  ということでアップします。


http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Roots/sub4-4c.htm
中部地方の窪田姓


8)越後の窪田姓

新発田藩

天武天皇子孫ーーー高市親王…(十六代)…滝口惟光――窪田光貞…(ニ代)…政広―+
                       

幕末近く

英正
専次 伯父 服部明正 養子
刃傷沙汰で服部家断絶後
分家する 10石
六郎大夫
妻   川島昌栄娘
後妻  三田村正根養女


こんな事件が遠いところで起きていたというコーヒー・ブレークのネタということでアップ。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月02日 04時03分28秒 ) パスワード

またもや宮代町からの情報
復習

http://www.town.miyashiro.saitama.jp/www/wwwpr.nsf/155be1bc775295aa492576a50003c9bf/efcf9fdb938f49c74925705400287053?OpenDocument




<前の記事 [09百間陣屋と旗本服部氏] 次の記事>

文献史学的に旗本服部氏について分かる直接史料(旗本史料、地方史料)は幕府で編纂されたもの以外には皆無といえる。僅かに残る地誌や家譜などから旗本服部氏を考えてみたい。



1)旗本服部氏の太田庄支配
(1)『寛政重修諸家譜』によると
服部家の祖先は、伊賀国服部(三重県上野市)の住人で、永禄3年(1560)に家康に仕えたと伝えられている。政季(政光)は天正18年(1590)の小田原への参陣の際には、家康に従い本多忠勝の配下に属し、御使番を勤めている。徳川家康の駿河から関東への移封に伴い、文禄元年(1592)に武蔵国太田庄の内3000石を宛がわれた。さらに、慶長5年(1600)の上杉景勝の征伐に参陣し、この後に近江国長浜(滋賀県長浜市)に1000石の領地を与えられている。その後、慶長19年の大阪冬の陣、元和元年(1615)の大阪夏の陣にも参陣し、同年4月26日に京都で没している。妻は岩槻城主高力清長の女子である。政季(政光)の子の政信は、慶長5年の関ヶ原の戦いに参陣して御使番を勤め、帰陣後に武蔵国臼井で500石の領地を宛がわれている。慶長19年の大阪冬の陣、元和元年の大阪夏の陣にも御使番を勤めている。同年、父の遺領のうち、3000石を相続し、併せて3500石を知行した。その後、元和5年遠江国今切(静岡県浜名郡新居町)の関所番となり500石を加増され、采地も遠江国敷智郡に移されたと記される。

(2)『記録御用書本古文書』・・・史料1・2
▼徳川家康から服部与十郎に天正20年(1592)2月1日太田荘の内3000石を与えられたことが分かる。徳川秀忠から服部権太夫に寛永2年(1625)12月11日に遠江国敷智郡に所領を与えられた朱印状が残る。

(3)『寛永諸家系図伝』によると・・・史料7
  服部政光に天正19年(1591)武州太田領3000石を賜る。
  元和元年(1615)政光死去、政信父の遺領の内太田荘3000石を継ぐ。
  元和5年(1619)遠江国今切の関所番として遠江国敷智郡へ移封。

(4)『武徳編年集成』・・・史料4
▼天正18年(1590)8月武蔵太田郷3000石を服部権太夫政季が賜る。とある。

赤線部分に太田庄百間郷三千石とある。「諸家系譜」服部与十郎政季の条 



2)太田庄百間郷の範囲

▼文禄元年、徳川家康から旗本服部政季に太田庄3000石が与えられたことが分かる。しかし、太田庄のどこに所領があったかについては判明しない。しかし、平成15年1月に(独)国立公文書館内閣文庫に年未詳「服部家略譜」や文化8年「諸家系譜(服部)」があることが分かり調査を行った。その結果、服部政季・政信父子が領したのは太田荘の内百間郷3000石であることが判明した。
それでは百間郷3000石とはどの範囲をいうのであろうか。元禄16年の「日光御成道道拵免除願」(百間村折原家文書4717)によると「先規百間村一村ニ而高弐千四百石ニ御座候」とあり百間村は2400石であることが分かる。残りの600石については、その後の百間村相給を考えると分かる。

▼寛永元年(1624)、百間村は旗本朽木氏、永井氏、池田氏にそれぞれ1000石づつに分け与えられた。「武蔵国田園簿」によると百間村隣村須賀村には「阿部対馬守知行 弐百六石弐斗六升」とある。「元禄郷帳」では須賀村の石高は「八百弐拾五石九斗壱升九合」とあり、約600石の誤差が生じている。須賀村は岩槻藩領の他、旗本池田氏・永井氏の知行地でもあった。永井氏・池田氏との須賀村の知行地はそれぞれ300石であったことが戸田家文書(旗本永井氏)や渡辺家文書(旗本池田氏)の年貢割付状により確認されている。一方、百間村(百間東村)の永井氏知行地は700石、百間村(百間中村と百間中島村)の池田氏知行地は700石であったことが確認されている。これらのことからも、百間村2400石に須賀村600石を併せた範囲が服部氏の知行地であったと推定される。


黒色部分が宮代町における旗本服部氏の領地(須賀村は岩槻藩領含む)


3)百間陣屋(旗本服部氏屋敷)

服部氏の陣屋(屋敷)については、「新編武蔵風土記稿」や『百間史料』にその記載がある。

(5)『新編武蔵国風土記稿』
▼「服部氏の家譜に、権太夫政信慶長20年父政光が跡、武州太田庄3千石に自領500石を合わせ是を賜うと記せり。村内(百間村三組)に権太夫が屋敷跡あれば彼所領なるべし。」

(6)『百間史料』
▼「権太夫が屋敷跡は今の青林寺の境内及其北林是なりと云う。」と服部権太夫の屋敷が百間村の西原にある青林寺付近であると伝えられていることを記している。
▼元和5年の百間村検地帳(百間三組分)が残っていないため詳細は不明であるが元禄10年の百間村検地帳では、すでに青林寺は現在地にあることが確認されている。検出された堀の覆土に宝永の火山灰が堆積していないことからもそれ以前に破城されたものと推定される。



4)旗本服部氏の百間郷から移封

▼『寛永諸家系図伝』によると政光(政季)の子政信が「同五年勤遠州今切関御番干時加賜五百石」とあり元和5年に遠州今切に赴任したことが分かる。▼『記録御用所本古文書』にも寛永2年に徳川秀忠から服部権太夫宛の朱印状が確認できる。▼これらのことから、旗本服部氏は文禄元年(1592)から元和5年(1619)まで百間郷に領地があったことが推定される。服部政信の従兄弟である岩槻藩主高力忠房が元和5年に浜松に移封したことと関係があると推定される。▼なお、高力忠房も寛永2年に秀忠からの印判状が確認できる。元和5年に百間領5000石の天領(幕府領)の検地が行われているのは、旗本服部氏が百間郷を離れたためであろうか。

赤線部分が百間郷三千石と記される。(「諸家系譜」服部、服部権太夫政信の条)


5)服部政光と政季について

▼「寛政重修諸家譜」や「寛永諸家系図伝」では太田庄を領したのは政光と記されるが他史料では政季と記される。「寛政重修諸家譜」編纂にあたり服部家から出された「服部略譜」や「諸家系譜」などでも政季と記されている。しかし、「寛政重修諸家譜」では政光となっているが、これは「寛永諸家系図伝」を引用したからであろう。このようなことから、「寛永諸家系図伝」の編纂の際、政光と政季を錯誤し記載したものと推定される。

[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月02日 04時24分09秒 ) パスワード

https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C+%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E3%80%80%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%AE%B6


山名氏 の項にこういう書き込みがあります。


清水氏(清水恒豊流)分家・支流 山名氏(清水熙豊流)(武家) ....
九州の筑後柳川藩主家(大名)、
立花貞俶の子として生まれ、山名家に婿養子に入り旗本家を継承した。 ...

次男服部保教(服部保昌の養子)、

三男清水時庸(清水豊秋の養子)。


..... しかし85年後 清水恒豊の孫・時信が幕府の許可を受け山名姓へ改姓した; ^
寛政重修諸家譜による。

*******************

山名氏(清水熙豊流)

1.清水熙豊:清水恒豊の長男。弟に清水家家督を譲り別に家を立て山名復姓を願うも許されず。

2.山名時信:清水熙豊の子。元禄13年(1700年)3月2日、
      特に徳川綱吉から許され山名に改姓。
      450俵の禄を与えられる。
      以後子孫同じ禄。
      御家人なので常府(江戸住)。

             ココね
              ↓
3.山名時尚:時信の弟。次男服部保教(服部保昌の養子)、三男清水時庸(清水豊秋の養子)。

         通字からすると服部中保次の子孫系?
         状況証拠からは綱吉の御世以降の話でしょうね 

4.山名時連:時尚の嫡子。

5.山名時睦:時連の養子、清水豊秋次男。

6.山名時習:時睦の嫡子。子に時方、時勝、時守。




**************


保昌は
新訂寛政重修諸家譜 24: 索引 2 - Page 368 -


books.google.com/books?isbn=4797102284 -
1967 - ‎nihon

保鄉(服部) ... 服部)一保昭( :服部)保經(柳澤,松平) 3257 , 262 保慶(加々爪'眼部)一保快(加々爪^服部) ( :服部) ... 保昌(關) ...

ここに出ているけれど、よく分りません。


保昭という人物は印旛沼の開墾をしているけど時代的に合わないと思う。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月02日 06時34分09秒 ) パスワード

そういえば養子に来てたとの文章があったのを思い出しました。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月02日 10時43分32秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1375207658

Q:
今でも平家や源氏の血を引く子孫はいるのか?

A:
源義綱の子孫(美濃源氏) - 石橋氏、服部氏、宮氏など。

                   ↑
                どんな家紋なんでしょう?
                知りたいところです。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月02日 13時45分52秒 ) パスワード


寛政重修諸家譜  巻第1169  の手書きですよ〜


寛政重修諸家譜 1520巻. [265]

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577557?tocOpened=1

ここのコマ3から服部氏が記録されています。


服部保秀から始まっています。
   父は服部平吉保郷   続柄は  次男


   コマ6に服部保教
   実は山名十郎左衛門時尚?の次男  なんたらかんたら  というのが書かれています。

   享保15年に  あとが読めない
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月02日 13時49分52秒 ) パスワード

             ↑

レス<61>と対応してますね。驚きました・・・
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月02日 14時17分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 神職(神主)についてもっと知りたいと思い調べていましたところ、関西大学
の調査資料が見つかりました。
 『神社を中心とする村落生活調査報告─大阪府』
  www.kansai-u.ac.jp/Museum/naniwa/publication/book11.pdf

内容から必要なところだけまとめますと、
 1.世襲制かどうか?
    ・大きな神社は別として、世襲制でないものが多い。
    ・一代ごとに変わるもの。
    ・輪番で交代するもの。
    ・氏子の中より徳望のある人を選ぶもの。
    ・神主家を作り、1年交替とするもの。
    ・付近の神主に頼むもの。
    ・神職としての県(?)等の公的辞令を受けた者。
 2.どの程度の氏子が必要か?
    ・100戸でもできないことはないが、200戸位は必要ではな
     いか(これは私の推測)。
 3.収入は?
・氏子(1人あたり)より2石/年の給米による。
    ・初穂料の献納による。
    ・氏子費として村税の戸数割りによる。
等というような具合です。従って、今のような資格認定の一律制度は昔はな
かったものと思われます。極端にいえば、誰でも神主ににれる可能性はあっ
たのではないか・・・これが私の推論です。
 最も、歴史を遡ってみれば、神職・神主としてよく登場する姓氏はあります。服部氏も神職としてよくみられます。具体的には、古代の蚕の社の木嶋
神社・・・以降数々あり(時間があるときに色々拾ってみます)。服部氏以外
にも・・・たくさんあります。

 神職は、先生、神主、太夫、神官、もちろん神職、と呼ばれました。

 神職であったという記録は、世襲制の神社や大きな神社でなければ残って
いないのではないかと思います。

[67]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月02日 14時18分32秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=9_D6dNY4AlMC&pg=PA49-IA48&lpg=PA49-IA48&dq=%E6%BA%90%E6%B0%8F+%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F+%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E3%81%AF&source=bl&ots=6kmuzPq2cM&sig=zlZZeInfgn_nxghNv2wojtyjxfc&hl=en&sa=X&ei=FdosVNqAFpbZoATUuoG4DQ&ved=0CEEQ6AEwBA#v=onepage&q=%E6%BA%90%E6%B0%8F%20%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%20%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E3%81%AF&f=false

家紋でたどるあなたの家系, Volume 1
edited by 千鹿野茂


いくつかの服部氏が載ってます。



伊賀のいわゆる服部氏は源氏輪に並び矢筈・源氏輪に並び矢・源氏輪に堅い並び矢筈など


伊賀の北方の「北氏」  知盛さまの次男(だったと思う)の北氏は源氏輪に揚羽蝶で
替え紋に折れ烏帽子。



源氏=笹ですよね。笹竜胆とか。


美濃の清和源氏の石橋系の服部氏の家紋は  根笹  なんですって。
へえ〜


清和源氏の義光流の服部氏の家紋は 源氏輪に堅矢筈紋
            替え紋に   丸に一文字  を用いるですって。


清和源氏の義家流の服部氏の流れの  蓑氏は  丸に笠  ですって。




丸に三つ柏紋って    ????   何なんでしょう?

やはり替え紋なんでしょうか?

それとも定紋としたら系統が全く違う服部氏?
   例の高槻の神服神社系服部氏?

66ページに丸に三つ柏紋が出てるそうですが
わたくしのPCでは21ページから先に進めないです。

頑張ってやってみてください。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月02日 14時26分29秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=PA1&dq=%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E3%81%A7%E3%81%9F%E3%81%A9%E3%82%8B%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%80%80%E4%B8%B8%E3%81%AB%E4%B8%89%E3%81%A4%E6%9F%8F%E7%B4%8B&hl=en&sa=X&ei=WuAsVL3CIJTeoATxiIDYCg&ved=0CB8Q6AEwAA#v=onepage&q=%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E3%81%A7%E3%81%9F%E3%81%A9%E3%82%8B%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%80%80%E4%B8%B8%E3%81%AB%E4%B8%89%E3%81%A4%E6%9F%8F%E7%B4%8B&f=false


ということで頑張ってみました。

丸に三つ柏紋は72ページになってました。


前にレスしたのと同様に今回も梶紋の後、72ページから10ページほど、ちょうど落丁になってました。


図書館で御覧になってください。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月02日 14時48分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


スレがすれ違いました。



木嶋神社について

神紋は賀茂葵という二葉葵をモチーフにした紋ですが、
これは上(下)賀茂(鴨)神社と同じものです。

    残念!柏じゃなかったですね。


http://kyubiqu.sakura.ne.jp/kamisama.html

前略

この木嶋神社は秦氏の氏神ながら、現在に伝わるものは、賀茂氏の賀茂神社の係わりを思わせる不思議な謎があります。

1つ目は、この木嶋神社の神紋は賀茂葵という二葉葵をモチーフにした紋ですが、これは上(下)賀茂(鴨)神社と同じものです。
有力な対抗氏族であった賀茂氏と同じ神紋になった理由が不思議です。
2つ目に下鴨神社のある「糺ノ森」という場所、この木嶋神社にも境内の脇の森が「元糺ノ森」と云う場所が伝えられています。
「糺ノ森」では何らかの祭礼が行われた場所と思いますが、その神聖な祭礼場所が秦氏から賀茂氏に移ったのか?不思議です。
3つ目は木嶋神社に伝わる三本足の鳥居の存在です。三本足といえば賀茂一族に所縁のある賀茂建角身命の化身とされる八咫烏(ヤタノカラス)も
3本足です。鳥居は元々神聖とされる鳥が停まる場所(物)として造られました。3本足の鳥が普通の2脚の鳥居に止まるには安定感がありません。
そのために特別に3本足の鳥居を八咫烏(ヤタノカラス)のために造ったものでないのか?
しかし当の上(下)賀茂(鴨)神社には3本足の鳥居は伝わっていない。???不思議だけど何か面白い。

以下略
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月03日 05時51分53秒 ) パスワード

ごめんなさい

竪 と 堅 の漢字を間違えてドンドン書きまくってました。
大恥


清和源氏の義光流の服部氏の家紋は 源氏輪に<竪>矢筈紋
                      ↑
                    こちらが正しいです。


                 源氏輪に<横>矢筈紋
                      vs
                 源氏輪に<竪>矢筈紋

                 あ〜、恥ずかしい・・・
[71]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月03日 07時05分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「寛政重復家系譜」と「家紋でたどるあなたの家系」を掲示していただき、
素晴らしいの一言です。また、見やすく、早く閲覧できるのでストレスがたま
りません。有難うございました。
 私の方はというと、ある意味充電中でありまして、時間との闘いの毎日です
が、ブリリアントな発表ができますようにミステリーをさがしております。
 中保次の墓にも早く行きたいのですが、明後日には岩村・苗木の方へ行く
予定です。また何か発見があるかも知れません・・・。

 とりあえずはここで。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月03日 07時55分07秒 ) パスワード

>明後日には岩村・苗木の方へ行く予定です。

あらあら
遠出ですね。
お気をつけて。


でも天竜川沿いに北上して飯田の手前で中津川方向に行って更に西へ行けばスグですか?


岩村は信長の叔母さんと武田の武将だった秋山氏の結婚の話で有名な場所ですね。
怒った信長に全員虐殺されたとか。


苗木は三つ柏さんが前にもお書きでしたね。

   わたくしは明智光秀の奥さんの家(妻木)と苗木をごっちゃにしてて
   踏み止まった記憶がありますから、どこかで苗木が出てたのを微かに記憶しています。



お仕事がある時は調べ物をしたくても時間の縛りがありますから、なかなか、思い通りに行きませんが
逆に忙しい時に頑張るのが良い想い出にもなりますね。


本当に充電をしないと、いろいろな情報が交錯して、パンクしそうですよね。




そろそろ XIV を立ててくださいね。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月03日 08時21分12秒 ) パスワード

昔のスレッドを読み返していて(現場100回)

永井直勝は
父が長田重元で母は鈴木氏。


長田氏の家紋は柏系。
平氏系の服部氏も柏を用いる。
    ただコレが今1つ解明に至らないですね。


ところが永井氏の家紋は  一文字に三つ星・永井梨切口・石持地抜き唐梨
何故「柏」じゃないのか?
これも不思議ですね。


でも何か共通項があるようにも思えるし。


わたくしも充電が必要です。

[74]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月03日 17時27分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部氏を調べていたら、松島氏や遠山氏にもからんでくるかも知れません
が、長野県筑摩郡の麻績(おみ)村に服部氏がいることがわかりました。麻績
氏といえば浜松の新居地方にもある名前、麻の織物を朝廷・神宮に納める氏
族だと思いますが、今までその服部氏は全く知らなかったので、あを様わか
りましたら教えて下さい。

 次の次の日曜日には関市に行く予定です。関市には永井氏と山内一豊(かつ
とよ)の関係があるということ・・・信長ともからみますね。

 とりあえずこれにて。
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