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 投稿番号:101381 投稿日:2014年09月25日 17時19分27秒  パスワード
 お名前:箱柳永田
神社紹介集
キーワード:神社 御祭神 神紋
コメントの種類 :史蹟  パスワード

 先祖達の足跡を辿っていくと神社、お寺の調べで社史、由来書き、寄進者など市史、郡誌、神社庁の出版物が最善ですが、寺社調べの時間節約になればと思い神社や城砦跡の紹介と得られた(私にとって)有益な情報を載せていきます。

[1]箱柳永田さんからのコメント(2014年09月25日 19時19分22秒 ) パスワード

 http://www.genbu.net/  全国をカバーする 玄松子さんの㏋です。
 他のコーナーにも紹介しましたが、多くの方が見られますよう再掲します。
 
 神紋で検索ができる、神様の夢のような機能があります。
 私は、全文読破中ですが、膨大な量(全て訪問調査)に
 ただ頭が下がります、(詳細な調べに)感謝しています。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月25日 22時52分45秒 ) パスワード

ありがとうございます。


本当に膨大な数ですよね。
助かります。


でも交通費だけでも凄いですよねえ。
あはっ
[3]子孫よりさんからのコメント(2014年09月25日 23時15分46秒 ) パスワード

箱柳永田様
初めまして、スレッド「平川家について」にて先祖調査を行っています、宮原と申します。

神社紹介集

ぜひ、利用させて頂きます。
本当に助かります。

ありがとうございました。
[4]箱柳永田さんからのコメント(2014年09月26日 00時53分52秒 ) パスワード

 
 全国に広がっている熊野神社が、どんなところに祭られているか、合祀により名称が変わっている神社など、思わぬ発見があります。
http://www.mikumano.net/zenkoku/index.html   全国熊野神社参拝記
 各地の方々が協力して作っています、御祭神の違いも?和歌山県の熊野三山も
違いますから、どの神社からの勧進?などと思いをはせております。
  
http://www.mikumano.net/zaiti/hekinan2.html  我が家の本家さん
http://www.mikumano.net/zaiti/okazaki11.html  我が町の氏神さん
 合祀があり、御祭神  伊弉册尊 速玉之男命 事解之男命が初めです。
http://www.mikumano.net/zaiti/kasugai1.html  春日井篠木荘は
 長田忠致の孫娘(鎌田さんの娘)が頼朝に探し出されて地頭になった所です。
http://www.mikumano.net/zaiti/nagoya1.html  佐久間さんの屋敷跡にあります、すぐ南に隣接して、長田(永田)弥左衛門の屋敷(水野さん切腹後佐久間さんに与力) 何かある!は身内の贔屓かしら、私は燃えました。
 で、神社が紹介されるごとに、図書館に行きます、空振りは多いです。

 熊野神社参拝記が無い頃(20年くらい前に)沖縄出身の(当時院生)銘苅氏に沖縄に神社があるか?御祭神は本土と同じ?と聞いたところ
  神社は有りますよ、祭神は夏休みに調べてきます。と、、、
結果 伊弉冉尊、速玉男尊、事解男尊の三神を祀っている、あめくぐう天久宮!
 頭は暴走状態、く、く、熊野神社だ!うちと同じだ!  

 台湾ー日本の中継基地として沖縄に長田致将が、創建、という仮説(妄想)は
 すぐに消飛びましたね。  図書館で調べた所、最古のもので6百年位で
 (800年前の創建でなければー)無関係。 いい思い出です。
  
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 03時46分56秒 ) パスワード

沖縄にも日本式の神社があるんですか。

   明治政府の肝煎りで創建されたのか
   島津氏の支配下で導入されたのか
   島津氏以前から存在してたのか
   興味深いですね。

   島津氏以前からなら、為朝が沖縄に行ったハナシの信憑性が高まるし。
      例えば平家が落ちて行った話も可能性があるのか、とか。



島津氏以前から沖縄には日本式神社がずっと存在していたというなら
台湾だって日本人が行ってた可能性があるかも
と思えるし。笑

ロマンが広がります。      



>>>伊弉冉尊

この漢字のイザナミさんは初めて見ました。
沖縄っぽいですよね。古代らしいというか。


イザナミとイザナギって兄妹の関係でありながら夫婦なんですか?
兄妹の関係は初めて知りました。

ま、エジプトだってシスターとブラザーで結婚してるから、よくある話ですが。
[6]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月08日 10時51分20秒 ) パスワード

丸三柏服部様
>http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/index.html
戦国時代の城 と題してますが平安末期にも広がる、秀逸さです。
主に 関東に広がる城館が網羅されています。
>http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/sadamoriryuuheisi.html
ここに、高望王の息子が居館を設けた場所があります、地図で見ると
北からの侵入者を見逃さないよう東西に連なって見えます。
高望王の居館は、、、扇の要、、付近になっるのかな、実際は山や川があるので、ずれると思います。
>高望王は、平の姓をもらい常陸大掾となり、寛平元年(889年)には上総介となった。通常は、名前だけで現地に赴くことはなかったが、 高望王は、関東地方に赴任した。そして膨大な領地を獲得し、それを多くの子に分配した。嫡男国香には真壁郡石田を、!!!次男良兼には真壁郡羽鳥を!!!、 三男良将(良持)には下総国豊田郷を、四男良正には筑波郡水守郷を与えた。五男良文については、明確でない。 そして国香は常陸大掾源護の娘を娶り、常陸大掾となった。良兼は下総介、良将は鎮守府将軍などになって栄えた。

この膨大な量を記憶すれば、、、鎌倉時代の前後も含めて、、、
達人も夢ではない!、、しかしながらコンピューター並みの頭脳を自称する!
?私が持つ能力は、、、寝ると忘れる(電源を落とすと 初期化する)org
何度も何度も、訪問するのですよ。
昔の館跡は結構な確率で、神社や寺になって残っていることがわかります。
有力者は安全な所に家を建てるのねー。





[7]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月08日 12時53分18秒 ) パスワード

箱柳永田様

 「戦国時代の城」はとてもいい資料となります。ありがとうございます。

 私もリセット癖があり、本は何回読んでもそのたび真新しく感じられます。でも、これではいけないと思い、最近は忘れないよう、できるだけ帳面に
「覚え」(要旨メモ)を取ったり、本には蛍光ペンと柔らかい芯のシャープペ
ンシルでポイントにマークしております。こうすれば、たとえ忘れても見つ
けるのが早いです。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月08日 16時20分09秒 ) パスワード

箱柳永田様

 「平熱」の「三河平氏」「三河平氏 その2」「三河平氏 その3」を
偶然ながら発見し読ませていただいております。
 何とすばらしいスレッドですね。長田氏に関する情報満載。あを様も
参加されておられる。
 一生懸命読解に努めます。
[9]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月08日 23時58分46秒 ) パスワード

丸三柏服部さん

お褒めの言葉ありがとうございます。文才の乏しさに恥じ入るばかりです。
  >http://www.geocities.jp/shiro20051212/index.html
  by HN ◎ 成田三河守 さま 
 この方も実地調査重視で、歴史的な調べもしっかりしています。
  館跡の解説に三河武士団の在所が判ったりして、発見があります。
 >http://www.geocities.jp/shiro20051212/Toro-jo.html
  再建後、4百年ずっとお世話になっている本宗寺、一揆に加わった中で
 改宗しなかった岡崎人の多くはここに通います。(再建待ちはできても葬式は 門寺で行っていた)門寺は3軒あり、報恩講などは2寺に行きす。 
 浄土真宗本願寺派(お西)は岡崎市では<確か>18軒を数えます。
 (三河三か寺は家康の命で大谷派(お東)になり、末寺の多くも同様です。)
 明治まで南にある営農大学の敷地が寺領に相当します。
 土呂の御堂と美合本宗寺とも石川氏の寄進で、安城野寺本證寺の攻略(高田派から本願寺派)と安城城を奪取し松平家に贈呈するなど、
 石川氏の財力と智謀は想像の域を超えている。
[10]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月23日 01時19分19秒 ) パスワード


 服部様
 少し違法行為かも知れませんが、
 >http://jpon.xyz/2012/43/21/10.html  見て みました。
 住所でポン と云う 電話住所検索のできる、
 下調べに (怠け者ですから、)最近使ってます。
 >http://edononagori.fan.coocan.jp/hata.html
 旗本陣屋・天領陣屋・代官所
 

http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_akatutumijinya_tokyo.html
 赤堤陣屋:服部氏陣屋 
 >http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_ookubojinya_hamamatu.html
   大窪陣屋  服部氏  石垣の表情が面白いですね。

  HP作者の紹介をしたいのですが、、、未熟で見つからないので、
   少し時間をください、わかりましたらサンキューレターを書きます。
  この方の 大変な時間と労力に感謝します、取り敢えず紙上にて。
  
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月23日 05時54分07秒 ) パスワード

http://edononagori.fan.coocan.jp/hata.html
旗本陣屋・天領陣屋・代官所
 

コレ、すごいですね。ホント、すごい。



韮山代官所 世襲代官江川邸 5〜100,000石    
川成島陣屋 (本郷氏陣屋)本郷家5000石  陣屋門

小塚陣屋 日向家2080石  代官の松永家住宅    
樋代官所 用水管理 代官所長屋門 植松家代官屋敷

久能陣屋 (榊原氏陣屋)交代寄合、榊原家1,800石  照久寺   
井出館 江戸時代は名主 高麗門、長屋

大鐘屋敷 旗本大鐘氏3000石⇒江戸中期以降は庄屋  屋敷   
山本代官屋敷 (山口氏陣屋)山口家3000石 吉野家長屋門 勘助


黒田代官屋敷 本多家4260石 飯山藩本多家分家 代官屋敷  
 平芝陣屋 (米津氏陣屋)米津家4000石 長瀞藩分家 長屋門

菅谷陣屋 (西島陣屋)菅谷家4500石
岩井陣屋 (鍋島公陣屋)鍋島家5000石 菩提寺の広岳院

和田陣屋 (稲葉氏陣屋)稲葉家3000石 淀藩分家
匂坂代官屋敷 (高木氏陣屋)高木家4000石

森町陣屋土屋家3552石 北島家代官所長屋門


掛塚陣屋 (加賀爪氏陣屋)<3千石⇒13千石⇒改易> 陣屋門
堀氏代官屋敷 (堀氏陣屋) 旗本、堀家1500石 長屋門

中泉陣屋 110,000石の天領支配陣屋 陣屋表門・裏門
皆川陣屋 皆川家3000石 移築陣屋門  菩提寺の金剛寺

堀江陣屋 (大沢氏陣屋) 高家、大沢家5000石 陣屋門
大久保陣屋 (服部氏陣屋)服部家3500石   

 志都呂陣屋 (五井松平氏陣屋) 交代寄合、五井松平家5500石  
大谷陣屋 (近藤氏陣屋)近藤家3000石 近藤氏代官大野屋敷 

  新居関所 関守は吉田藩7万石、大河内家  関所建物

気賀陣屋 (近藤氏陣屋)交代寄合、近藤家3500石 墓所 ⇒ 気賀関所   気賀陣屋の近藤家が関守を兼務


井伊谷陣屋 (近藤氏陣屋)近藤家5000石 菩提寺の龍潭寺
金指陣屋 (近藤氏陣屋)近藤家5400石 菩提寺は宝林寺 陣屋門




掛塚陣屋/加賀爪氏陣屋
            :静岡県磐田市笠梅1175                    
掛塚藩、加賀爪氏13千石陣屋。 
掛塚陣屋跡は笠梅1175。 
移設の掛塚陣屋門は向笠竹之内。


初代正尚が長久手の戦い、小田原征伐の武功で1592年に3000石。 
2代目忠澄が1625年に4500石、1631年に9500石、江戸町奉行・大目付を勤める。 
3代目直澄は書院番組頭、寺社奉行を勤め、1668年13000石で大名に列した。 成瀬氏との間での領地係争問題で4代目直清の時、1681年に改易となり廃藩となった。

領地は遠江に6500石、相模、武蔵に6500石⇒高坂陣屋   


掛塚陣屋門は個人宅に移設/向笠竹之内/説明板在り

加賀爪氏陣屋跡には木造の碑がたっている、生垣の一番向う側に 向笠公民館にある絵地図





赤堤陣屋:服部氏陣屋
          :東京都世田谷区赤堤2丁目   旗本服部氏1400石            
☆天正18年(1590)、貞信が160石拝領、貞富で400石、貞治で1300石、常方が1400石。

貞信-貞富-貞常-貞治-常方-貞殷-貞則-貞徳-貞勝-貞陽 。

赤堤陣屋は六所神社辺り。赤堤陣屋領主、服部氏の墓は西福寺。

    (服部半蔵家とは別系統) 

       ↑
      赤堤の服部家は伊賀国呉服明神の神職の家ですから


赤堤陣屋/服部氏陣屋は中世の世田谷城の支城の跡に築かれた。
現在の六所神社と赤堤幼稚園。

服部氏陣屋の領主、服部氏の墓がある西福寺/一族の墓がある





井出館/井出代官屋敷
         :静岡県富士宮市狩宿91  井出館 井出代官屋敷

井出館の高麗門と長屋 狩宿の下馬桜で有名


鎌倉時代から続く井出氏の居館。富士浅間神社の大宮司家に仕えた。
戦国時代は今川氏、武田氏に従う。
江戸時代に至り、徳川氏から三島代官にも任ぜられたこともある(三島代官所は1759年廃止⇒韮山代官所に統合)。

江戸の後期は名主(門の左側の説明板に書かれていた)であった。
 ※江戸期に伊豆国君沢郡300石の旗本、井出志摩守正次とは同族。
説明板からして井出館の主は農民だから、江戸期の旗本井出氏ではない(狩宿地区は旗本杉浦桂之進の領地⇒教育文化課ご教示)。

郷代官をしていたかもしれない。


「狩宿の下馬桜」 1193年、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝が富士の巻狩の陣に陣屋を設け、桜の枝に馬をつないだと伝えられている。 <しろやまざくら>。

徳川15代将軍、慶喜も京都への途次、井出館に寄り詠む
  あわれその 駒のみならず 見る人の 心をつなぐ 山桜かな


井出館の井出家菩提寺の本門寺、井出家累代のお墓





大久保陣屋:服部氏陣屋
            :静岡県浜松市西区大久保町3280  服部氏3500石   
大久保陣屋跡は大窪神社  

☆文禄元年(1592)、服部政光が武蔵太田庄で3000石賜う。
元和5年(1619)、服部政信が遠江国の今切関所(新居関所)番となり采地も、この地に移された(500石加増)。

服部政久が跡を継ぐが、後継ぎがなく絶えた。


大窪神社境内に大久保陣屋説明板あり  

[12]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月23日 10時42分26秒 ) パスワード


http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_motojyukujinya_okazakisi.html
 柴田勝門が本宿に陣屋を構えた。富田家が世襲郷代官を務めた。
  地元民の詳細説明
 冨田病院は作曲家冨田勲氏の実家(長男です、跡を継がなかった)なのです。
  本宿の方は、明治
時代からお世話になっています。
 >http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A8%E7%94%B0%E5%8B%B2
   ウィキペディア 冨田勲氏  ジャングル大帝! よかったです、、
 いかん!歳が、、、新日本紀行が好かったです。

 >http://edononagori.fan.coocan.jp/okudonojinya275igai.html
  奥殿陣屋 陣屋詰め藩士中根氏(元市長 中根鎭夫)で知られています。
 
 >http://edononagori.fan.coocan.jp/fumoto.html
  「麓」は郷士(普段は農業を営み、有事の際は戦う武士)が住む集落なので”城下町特有の華やかさは皆無” だがそこには ”時を越えた温もりが未だ残っている”。・・・・ ふるさとの麓を帰省の折々に訪ね、その景観を残しておきたい。私領地では郷士でなく家中士といった。
 薩摩藩はキリスト教のみならず、一向宗(浄土真宗)の信仰を禁止(山之口麓に遺構)し、租税も8公2民(普通は4公6民)という重い租税であった.。

 愛知県からは(夜行バスも無い)地の果て!?薩摩藩の風景が見られます。
 >http://edononagori.fan.coocan.jp/fumotonejime.html
 肝属郡南大隅町根占北  に 永田歯科(鹿児島県には 永田さんが多い)
  らしき建物と院長が、、、HPの作者はどちらの方?感謝を込めて
  お念仏を、、、もう禁止ではないよね。
 
[13]子孫よりさんからのコメント(2014年10月25日 06時39分09秒 ) パスワード

箱柳永田様、おはようございます。
突然、お邪魔いたしまして申し訳ございません。
平川家についてで先祖の調査をしています、宮原です。

箱柳永田様のコメント12を拝見致しまして、私の故郷、熊本県球磨郡あさぎり町(旧岡原村)の、宮麓・岡麓と呼ばれていた地区の意味がやっと解りました。
岡原村は宮原村と岡本村が明治時代に合併してできた村です。

「「麓」は郷士(普段は農業を営み、有事の際は戦う武士)が住む集落なので”・・」

父から、「宮麓、岡麓は明治に変わる前に農家であった家々も、元をたどればかなりの家が士族(武士)だった。普段は農作業をして暮らしていても、何かが起こった時(藩内外の有事)には「鎌」を「刀」に持ち替えて、皆、戦に出ていた「苗字帯刀」を許されていた」と聞いていました。
父の友人の歴史研究家の方が「ここはそういう村だった」と言われたそうで、私は「そういう村とはどういう村?」と不思議に感じていたのですが・・。
「麓」とは単純に「山麓」という意味かと思っていました。

箱柳永田様のお陰で、やっと故郷の「宮麓・岡麓」地区の意味を理解する事が出来ました。

本当に、ありがとうございます。

こちらのスレッドに、横からお邪魔しても・・と思いながらも、ぜひお礼を申しあげたくなりまして。

私の高祖母(平川)の実家も、球磨郡湯前町の「永田家」です。

箱柳永田様のすばらしい調査のお陰で、私の「謎」も解けました。
これからも、こちらのスレッドを拝見して、しっかりと勉強させて頂きます。

あらためて、本当にありがとうございました。
[15]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月25日 16時48分56秒 ) パスワード


宮原様
 過分なお言葉ありがとうございます
  薩摩藩を調べたことが、お役に立てて幸いです。

 

 
  
[16]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月25日 16時58分23秒 ) パスワード

 あを様

 >箱柳さんの長田家と中根家は、もともと先祖が近くて、仲が良いのではありませんか?
  父親も死に、、、中根氏も、、たぶん耄碌(90近い)を期待して
  時効だからと、脱線します。某岩津の学校で級長と副級長でしたね。
 勿論、うちの親が副なんですが、、、。中根氏はその後岡崎師範へ
  (私は!その場所!に勤務してました、過去形です)
 中根氏が現役の間、毎年、同年会をしてました、、、ブツブツ言いながら
  参加の呼びかけと、、なんか!の依頼(選挙違反?)。

 中根氏の選挙の運動もしています。
 (学生時、親からアルバイト代貰って)私めが!(腐れ縁?かな〜)
  うちの親、、定年後、趣味のパチンコを、、、プロ宣言をして、、
 僅か2,3年ですが(黒字の年があったようで)、、、近所の子にも
 お裾分けしてましたね〜。 え?私?、、ネットで遊んで、、、
   気になる事があると図書館や歴史講座に出没してます。
  3月に60歳定年で、、、、新米の失業者です、、、、
       一応求職はしてますよ、、、、条件が合わないのです!

    咥え煙草で働けるところ! 知りません?。  
[17]子孫よりさんからのコメント(2014年10月25日 17時48分47秒 ) パスワード

箱柳永田様

私は、宮麓・岡麓に関して、疑問を持っても、何も調べてはいませんでした。
薩摩藩の記述に「答え」が記載されていたと言う事で、視野を広げた調査を行っていなかった事を、反省致しました。

箱柳永田様と同じ姓の「永田家」の血が私にも流れています。
私は歴史の勉強を始めたばかりの新参者ですが
これからも、どうぞよろしくお願い致します。<(_ _)>
[19]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月26日 01時50分19秒 ) パスワード


 奥殿陣屋 市のHPより
http://okutono.com/index.htm
   足助香嵐渓にいく、矢作川東岸の裏道からすぐ、、、なんです。
 >http://okutono.com/access-1.htm

 鎭夫さんちは陣屋からすぐのところ で、
  整備した時に、なんで大平(大岡氏)や土呂陣屋の松を
 先にしろ〜とか反対勢力が五月蠅かったですね。
  
 
  陣屋跡の松(小学校になってます)この辺が石川党の拠点の一つ
  土呂本宗寺が北に広がっています。
 >http://www.okazaki-seizai.co.jp/special/200609.html
  三河中心に巨木が紹介されています、(少し前、話題になっていた
  市川さんの地元、奥山田の桜もあります 村積山の南側)

  >やっぱり何重にもご縁が続いているものなのですねえ。
   はい、山の中の巨木を見に行っても、安心して立小便もできません。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月26日 13時43分25秒 ) パスワード

>石川党の拠点の一つ

ええッ❢❢❢
石川氏って、そこが本拠地だったんですか。

石川氏も松平家の古くからの家来ですから  安祥か幸田=額田=の方かな  と思ってました。


三河って、平岩とか中根とか稲葉とか鳥居とか本多とか大久保とか近藤とか、
譜代大名の名字がゴロゴロしてるから
関係者が拡散してるんだろうなとは思ってました

でもやっぱり「本拠地」って特定出来てるんですねえ。


三河長田氏は碧南のドコソコ、とか。
にっこり


そこから三河中に広がってるのか。
で、この人達が遠江や駿府にも広がって、更に、尾張にも来て、そして日本全国に。


岡崎なんか  松平さん  が普通にいますものね。


>はい、山の中の巨木を見に行っても、安心して立小便もできません

ですよね
コッチは知らなくても向こうはコッチの父親とか伯父を知ってるという世界ですものね。

ま、だから犯罪率が殆どゼロということでもありますね。

[21]箱柳永田さんからのコメント(2014年11月07日 21時18分28秒 ) パスワード


 >http://tikugo.exblog.jp/10791139/
 筑後川の航海日誌 より (著書の宣伝をかねて)
 http://tikugo.exblog.jp/profile/  筑後師のプロフィール

 勉強になります、三柏服部さんのところにも、余談として書きましたが
 百々には中村氏と 豊田宮口から 永田武さんの 親 が引っ越してます。

 知ってたの?偶然?、、、何かあるよう、、なんです。

   あを様
>三河って、平岩とか中根とか稲葉とか鳥居とか本多とか大久保とか近藤とか、
譜代大名の名字がゴロゴロしてるから
関係者が拡散してるんだろうなとは思ってました

  そうなんです、悪い事に 諸大名や旗本さん達の小説を読むと、、
  お友達の顔が浮かぶのね、、。
      まるで、、、学芸会!、、岡崎からは時代劇の監督は、、
   出ないだろうな、、、。
  
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月07日 21時45分20秒 ) パスワード

箱柳さん

>諸大名や旗本さん達の小説を読むと、、
>お友達の顔が浮かぶのね、、。

ですね
友人達の名字を聞いた初めには必ず諸大名の名前が浮かんで
(どういう関係なのかな)
と思いますから。


今になって思い出すと  あの人とワタクシの関係は  先祖繋がりなのかなあ と浮かびます。

尾張人のワタクシに三河は関係無いと思ってたけど
そう言い切れないところが日本ですね。


   ハッキリ納得出来るのは「南朝方」時代で繋がるのかな?と思うところ。
   その前の源平時代にも遡って良いのかなとか


   でも古代の物部とかにまで遡るのはカンベンしてよと思うけど
   古代も切っても切れないのかな?
   いやいや大陸や半島からの関係以降なのかな?

      そうすると結局はアフリカの  チンパンジー vs ボノ  の時代まで遡るのか?
                       凶暴   vs おとなしい
                       石器人  vs 弥生人
                        

      な〜んて思ったりね
[23]箱柳永田さんからのコメント(2015年03月30日 16時32分54秒 ) パスワード


 大橋 蛍火さんのHP紹介
 >http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2006/08/no1__9cc0.html
 No1 最初が間違った から

 最近、読み解きしています(平安以前は 全くの素人)
 皆様に追い付くには、早道かなと(断定)歴史の初歩から再構築中、
  腑に落ちるまで、(同じ所を)再三読み返しているhpです。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page184.html
  資料室 は 多分宝の山(私には 超難解)ぜひ御覧ください。

 雑談 鳥取の永田さん(ドイツの航空機事故)
   池田さんの所に 長篠で名をあげた 穂積之助の子孫がいるのです。
  (鳥取歴史博物館で 家譜を確認)明治以後は簡単には、、と保留中。
 縁の類と考えてますので、機が熟したら向こうからやってくると、準備だけしています。 永田(長田)の家は複数どころか、沢山あるので、押しかけますと
 ちがった系統に誘導する事になりますので、(大元は同じですが)慎重に行動しています。
 最近、豊田市の光恩寺さん(三河鈴木党 家紋 鈴御幣)と連絡を取って
  矢並の鈴木党を探って、、、墓めぐりの途中です。岡崎の墓苑にも数基あり
 手早い連絡方法を考慮中、、、置手紙以外の方法があれば、
 ご教授を、お願いします。
 
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月30日 22時13分19秒 ) パスワード

頑張ってね〜
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月31日 05時46分24秒 ) パスワード

どう解釈するか、進むにつれてどんどん方向が違っていきます。


他の人の解釈を読むと  へえ〜   っと驚きます。
そういう意味だったの?と。

とにかく自分に力が無いし
その前に国語力が無いし。


頑張ってください。
[26]箱柳永田さんからのコメント(2016年03月28日 01時59分17秒 ) パスワード


 皆様
 筑後川の航海日誌さんがHPのリニューアルの最中です。
 新・筑後川の航海日誌になってます。
 きっかけは 百々の青山さん 
 http://tikugo.com/blog/aichi/mikawa_dodojo/  
> 青山氏がらみで出て来た忍者の百々氏は
     「百々」どーど
百地=ももち=百百地 ということから「地」が落ちて「百百」→「百々」=どーどになったのかも。
青山も服部も百々も百地も元は地縁血縁でしっかり結ばれた人々だったのかなと感慨深く思います。

 此処の清水本家は子が無く、老未亡人は確か80と余歳
 付近に分家多数ですので、墓守の心配は少ないです。

 @最近の調べもの 少し出た成果
  矢作橋の親柱を見つけました。
 >http://marukado.blog75.fc2.com/blog-date-20080908.html
   まるかど日記 2008年の話を見つけ確定しました。
 2010年頃から碧南のてらまち巡りに出かけています。ほぼ毎回同じベンチで
焼きそばとか食べていました。 ふと見ると?
腰掛になっている石は50p×50cm×2m50pの、片方には灯篭のような穴があり、腰掛では無いことは明白なのです。
参考です>http://kamezo.cc/blog/entry/170491  byヘボト氏 湊橋親柱
付近に住む方に聞くと、矢作橋の親柱と聞いていますよ! それも数名が! 
(嘘でしょう!矢作橋親柱は岡崎の矢作にある筈!)
私が矢作神社で見たのは何、(もっと小さかった)まさか聞き間違い(目の前にあるのは湊橋の倍はある)お寺の門柱には穴は開けないし、とか考えながら、
入念に腰掛の周りを観察すると、何も書かれていない!文字は下面というか、
埋まっているのね。 約2トンを引っ繰り返す(自称色男)事も出来ず、断念。
 2015年に宝珠寺の(おばさま=前住職の縁者)を訪ね、写真や拓本を持っている人を探すことに。碧南市の学芸員さんには碧南の教育委員会や市職員の方を、
おばさまは引き続き物知りの老人に聞き取り調査(代が変わっていたり、押入れの奥の方で、出てこないのね)私がネット検索と分担して続けていたところ、
http://okirakuhobby.blog114.fc2.com/blog-entry-1102.html  この様な親柱の記事が多い中で、まるかど日記 を見つけました。 
 >http://www.fubaisha.com/search.cgi?mode=close_up&isbn=0141-7
  鉄道でゆく東海絶景の旅  著者: 内藤昌康
  内藤氏は本も出しているという事で、お礼のメールを出し、
 本屋で注文をしました、住所を探せたら、訪問してサインを戴こうと、、、。
これにて一件落着!な訳ではなく、なぜ此処に在る?他の三本は残っている? 
 疑問が又もや殖えるのね。
  岡崎市民には少しばかり興味がある話(ベンチにしてごめんなさい、珈琲こぼして申し訳ない)なので、市の学芸員と市長に報告しておきました。
 7月の市制百周年に(両市の交渉が)間に合うと良いのだが。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月28日 06時59分09秒 ) パスワード

箱柳永田さん

「親柱」という表現は知りませんでしたが
転がっているという表現が哀しいですね。


警察署のいかにも歴史建造物も朽ちるに任せてあるのも哀しいですね。



>7月の市制百周年に(両市の交渉が)間に合うと良いのだが。

間に合うと良いですね。


忘れ去られていたり、コーヒーこぼされたり、哀しすぎますものね。

いや、笑っちゃいけないんだ。。。
[28]箱柳永田さんからのコメント(2016年08月26日 01時52分58秒 ) パスワード


矢作橋親柱 続編

 1670年(寛文十年)4代家綱の時 橋の入札があり、岡崎の大工五郎左衛が請負人、鷲塚の庄屋片山八兵衛が請け人になった。工事中に洪水があり材木の流失により、総工費1萬5千余両になった。中日新聞 (昭和46年4月6日夕刊)
 発見場所のすぐ南に片山家の酒造蔵があり、(記念に)レプリカ、又は古い親柱を運んだのかな。蔵を手放す原因は3連続で酒が腐ったとか、都筑弥厚に投資とも言われていました。
 片山家の系図では藤原道隆子孫→菊池(元寇で戦死あり)→片山となっており
 九州に主に居たと思われる。 水野忠政の娘 亀の嫁ぎ先 姉は永見家と家康の母。 長田(下之宮)時代に一人、永井直勝娘が片山家に嫁いでいて、不勉強が露呈した次第です。水野家、永見家からは養子(男)もあり、親柱が欲しいと
 言われたら、幕府側も断れないだろうな、と想像しています。
  親柱の字が、三百年で風化してないのが不思議なんですが、明治大正の柱は
もっと小さくて(しょぼい)、風格から江戸期の物と思い込みたい私がいます。
 
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月26日 02時08分11秒 ) パスワード

>蔵を手放す原因は3連続で酒が腐ったとか

はい
造り酒屋は2回もうまくいかないと潰れるとか聞いたことがあります。
3連続では壊滅的な打撃だったでしょうね。


>永見家

知立の池鯉鮒神社の神職の家ですね。
秀康の母がこの家の出身でしたよね。



>親柱の字が、三百年で風化してないのが不思議なんですが

墨って長持ちしますよね。
それこそ平安時代の道長の日記が今でも読めるとかで世界遺産に登録しようとしたことがありましたよね。


ということで調べてみました:http://oshiete.goo.ne.jp/watch/entry/e4d851723d66cefbdb6d2a33b958f3b1/

Q
墨は長持ちするのか?何故なのか?


A1
「墨っていうのは煤(すす)を膠(にかわ)で固めたもの。それをすって水に混ぜたのが墨汁。黒色の成分は煤であり、主成分は炭素です。非常に安定しているので簡単に変質したりしません」


A2
「墨の構成成分であるカーボン(グラファイト)は非常に強固な構造で、熱や太陽の光に対しても容易に分解しません。(中略)…ということで、1000年以上は楽に持ちます」



墨は色あせにくく、長期の保存にも適しているとのこと。



■和紙と墨の合わせ技が効果的


また、平安時代などに書かれた古い文献がいまだに残っている理由について、次のような見解が寄せられています。

「墨は化学変化しにくく、湿気にも強く、防かび効果があり、虫などに対しても忌避効果があります。ただ、日本の文書が長く残る理由は和紙の方が大きいです。和紙に墨の組み合わせは保存状態が良ければ2000年以上もつのではないでしょうか」



「現在でも墨の方は昔と大差ないように思います。ただ、和紙の方がレベルが落ちている感じで、墨の文字以外のところが腐食したりするケースがあります。現在の墨と和紙でも保存状態が良ければ1000年はもつと思います」

今日までに発見された墨書きの古い手紙や文献は、これからの未来にも受け継がれていくことでしょう。また、今では科学の進歩で様々なインクや紙が登場していますが、墨と和紙を生み出した昔の人々の知恵は素晴らしいと改めて感じることができるQ&Aでした。

以上
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