[1] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月21日 08時01分42秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
おかげさまで色々な情報がわかり、過去の世界がおぼろげにも見えてきた
部分もあります。
家紋については、それだけで出自を追うというのは、状況証拠たった一つで
判断するということになりますので、なかなか難しいということもわかって来
ました。
決定的証拠がない場合は、状況証拠をいくつも積み重ねて、かぎりなくYES
に近づけるという手法を取るしかない。最後は推定〜であるという結論となる。
調べて行けば行く程、色々な情報が出て来ておもしろいという反面、どんどん
迷宮に迷い込んでしまいますね。
善地の5姓については、おかげさまでバックグランドが見えてきました。
ただ、服部が伊賀系か服織系かのところがまだ決定打がない。
住んでいるところの天満宮の謎も有力な手掛かりとなり得る状況証拠の一つ
ではある。このすぐ近くに住んでいたということと、姉から聞いた話によると
神社前に畑を所有していたが、耕すと勾玉類がでてきたりした。即ち一帯に
古墳があり、どうもその地にお宮を建てたらしい。もちろん天竜川の氾濫、洪
水は昔は常であったから、少しでも高い所へ建てたということもあるだろう。
天満宮は今は学問の神様といわれるが、本来は雷神であり「まがごと」をおさ
める、天変地異を抑え・悪病を追い払う意味で建立したのではないか。
神社に神職はつきものであり、鈴木系、松島系、服部系、神服部系は十分周
りにいた。
鈴木系も神職が多く用いる柏紋も家紋の一つとして用いたということを知っ
たが、この辺の鈴木氏は「丸に違い鷹の羽」紋を使用している。松島は「丸
に一の字」であるし、服部氏は本来なら「源氏輪に並び矢」、これは大久保
の代官服部氏(伊賀系)が使っていた。伊賀系の服部氏も、ずっと遡れは土豪で
神官を兼ねていたという情報もあるので、必ずしも並び矢だけとは限らないか
も知れない。
込み入った話になってしまいました。
一旦、区切ります。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月21日 09時57分17秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
長上郡の服部氏は一体
神職系?
武士系?
どっちなんでしょうね?
内山真龍によれば 神職系 ですが。
>伊賀系の服部氏も、ずっと遡れは土豪で神官を兼ねていたという情報もあるので、
>必ずしも並び矢だけとは限らないかも知れない。
はい
あの小宮神社ですね。
神社も寺も、もともと、武装してましたしね
荘園争いもやってましたし
教義上の争いもあったし。
時代が大きく動いた時は流れに乗って大きな戦争に加わったでしょうね。
元から住んでた伊賀の服部の人達は平家と結びついたでしょうし
ここで武士化していったでしょうね。
でも平家以降は家紋を並び矢に替えたという家が多かったでしょうね。
当然自分の家の紋を守り続けた家もあったでしょう。
まだまだですね、たった5ヶ月経ったところですから。
頑張りましょう。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月21日 10時07分37秒 ) | パスワード |
服部氏流の服部家は、対い蝶(むかいちょう)、平蝶の「蝶の家紋」を使用。(平氏の家紋)
http://www.harimaya.com/kamon/column/tyou.html
服部氏が主に用いてる家紋として、矢筈(やはず)の家紋。
この服部氏は、『新選姓氏録』によると渡来系の服部氏でなく、ホノハヤヒノミコから出た神別の服部氏。
http://sky.geocities.jp/poko7648/newpage31.htm
未勘源氏の服部氏は、升の家紋。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/masu.html
なお家紋は、主流、支流、一門一党とひろまり、原形を保ちつつ変化し、同系の子、孫と受け続いたもので、また、定紋(本紋、正紋)の他に、副紋(そえもん)、替紋(控紋、裏紋)があり、勲功で下賜されたり、婚姻その他で紋を加えたりして、一家に数個家紋を持っている家もあります。
また、女紋は嫁いだ家の家紋を使用せずに、女性の実家の家紋を使用しても良い事になっています。
通常の服部家の家紋なんてありません。
関東ベースですが姓で家紋検索できます。
http://www.asgy.co.jp/index.html
検索してみてください。
日本中にはこれ以上の血縁関係の無いであろう服部さんがたくさんいるということです。
以下は前にもアップしたと思います:
徳川十六将図で見る限り服部半蔵は【丸に並び矢筈】となります。
また服部氏の氏神神社である小宮神社の神紋も丸に並び矢筈ですので、氏子である服部半蔵もその紋を使用していたと思われます。
YouTube(徳川十六将図)
http://www.youtube.com/watch?v=pOFtx8KObU8
小宮神社
http://kamnavi.jp/en/mie/omiya.htm
なお寛政重修諸家譜 巻第千百六十八 の服部氏の記述では家紋が【八桁車の内竪矢筈二】と書かれてはいます。
ただその家紋が源氏車に矢筈を指しているかは確証はありません。
※国立国会図書館デジタルコレクション
寛政重修諸家譜 264 コマ数105を参照してみてください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577556?tocOpened=1
補足の回答として…
半蔵のグッズとしては源氏車に並び矢筈を紹介してますね。
これもあながち間違いでもありません。
服部氏の中には【源氏車に並び矢筈】もあり、【矢車】【七本矢】などを使用している家もあります。
また平氏の蝶の家紋や菊の家紋、轡の家紋などを使用している家もあります。
一般的には一軒にひとつと思われがちの家紋ですが、武将などは実際にいくつか家紋を使用しました。
ですから半蔵自身もひとつでは無くいくつかの矢筈の家紋を使用していたと思われます。
先ほど服部氏は小宮神社の氏子と書きましたが、もともとは小宮神社の神官です。
ですから服部半蔵は並び矢筈は使用していましたでしょうし、寛政重修諸家譜に書かれている家紋も使用していたでしょう。
ここで服部氏の中に源氏車に並び矢筈が使用している家があるため、【八桁車の内竪矢筈二】を源氏車に並び矢筈と解釈して半蔵の家紋として表しているのでしょう。
今も昔も同じ家紋でも書き手によって家紋の名は違った書き方で表すので読み手としては迷うのです。
ちなみに服部氏は渡来系と元々日本にいた服部氏がいます。
半蔵の服部氏は渡来系といわれてはいます。
ここでアップ
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月21日 10時20分19秒 ) | パスワード |
並び矢紋の由来:
http://www.asgy.co.jp/cgi-bin/kmnlist.pl?ya
「矢」紋の意味と由来は、弓矢を持って暮らす狩猟民族か武族と言う事でしょうね?
「矢」紋の多くは矢尻が付いてなくて、羽根だけが多い。羽根は元々姓(かばね)を意味した。
「白羽の矢」もあったでしょう。此の場合は、神のご意思を意味する。
或いは白鳥、或いは鷹の羽、或いは矢車もあった。
各々独自の意味があった事でしょう。其の固有の紋章をその士族のシンボルとした。
姓は、普通の苗字とは違って、天皇から頂いたものと言われます。
由来を更に調べて、大切にしてくださいね。
由来については例えば下記にも有ります。
@
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1356063873...
Ahttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1416051974...
Bhttp://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=-hNrvDD_sksJ&p=%E5%AE%B6%E7%...
以下は前にもアップしました:
http://www.harimaya.com/kamon/column/kasiwa.html
家紋の由来<柏紋>
ここでも長田さんが・・・
柏 紋
古代では柏の葉にご馳走を盛って神に捧げていた。これに由来して柏が「神聖な木」と見られるようになった。柏手を打つとは神意を呼び覚ますことをいう。柏は神社や神家と切っても切れない縁があるようだ。柏紋を最初に使ったのは、神社に仕えた神官だったようだ。
公家でも神道を司った卜部氏が用いた。
現在、柏を神紋としている神社は各県に一社はあるという。(丸に三つ柏)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1237803227
静岡県で柏紋の神社は
那閉神社(焼津市) 静岡県焼津市浜当目3−14−13
【主な使用家】
代表的なのは、土佐山内氏と譜代の牧野氏である。牧野氏は槙野とも称するが、槙とは神聖な木を指し、柏のことである、という。
伊勢の久志本氏は皇大神宮に奉仕し、尾張の千秋氏は熱田大宮司として奉仕をした。
筑前の宗像氏、吉田神社の卜部氏等神官に柏紋が多い。
また、備前吉備津神社宮司の大守氏は、庵に柏という珍しい紋を使用している。
清和源氏では今井氏・神尾氏・井上氏。
藤原氏では中御門氏・萩原氏・藤井氏・高橋氏・加納氏。
桓武平氏では長田氏など。
ほかに大江氏流の境野氏が上り藤内に三つ柏紋。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月21日 13時53分59秒 ) | パスワード |
レスの3と4は見つけたのでコピペしました。
特に驚いたのは
>服部氏は小宮神社の氏子と書きましたが、もともとは小宮神社の神官です。
>服部半蔵は並び矢筈は使用していましたでしょうし、
>寛政重修諸家譜に書かれている家紋も使用していたでしょう。
>ちなみに服部氏は渡来系と元々日本にいた服部氏がいます。
>半蔵の服部氏は渡来系といわれてはいます。
そうか・・・
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月21日 22時45分31秒 ) | パスワード |
レス<5>の続き:
服部家が旗本で神職だった話は 服部貞信 の件になりますでしょうか?
本姓平氏の家長子孫
伊賀国呉服明神の神職 これが小宮神社のこと?
のち
山城国
天正10年家康に信楽まで同行した
後に遠江国浜松で160石を賜う
のちに 武蔵国荏原郡に采地を移さる
子
貞富
武蔵国荏原郡と常陸新治で400石へ。
↑
水戸の黄門さま関連で書いた記憶があるような?
黄門さまが隠居なさって お供の所で 「助さん格さんですね」 と書いたような
その次
貞常は全部で160石
養老料 300俵賜う
貞世 貞富の第3子
1250石 1250石ですよ!アヤシイ!実にアヤシイ!
養老料 うるち米で 300俵
この一族でしょうか?
特に貞世は何故に 1250石も?
確か服部家で家康の晩年の子の頼房に同行した人がいたような?
常陸かあちらの方に行った人がいたような? スレッド X か XI で書いたような気がします。
誰か別の人とこんがらがっているかも。
この一族が浜松に残ったとは考えられないでしょうか?
そうすると服織神社あたりに?
[7] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月21日 23時17分36秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は秋の彼岸の入りの二日目の日曜日ということで、墓参りと、ついでに
フィールドワーク、即ち墓碑名ならぬ墓碑家紋を調べに、羽鳥地域の寺へ行き、
1.服部で柏紋(身内)以外を使用している服部はないか
2.その他の姓で柏紋を使用している姓はないか
という観点で調査をしてきました。
服部で「丸に三つ柏紋」は少しありましたが、身内のようです。服部自体
余り世帯数が少なく、お墓も出くわしませんでした。
服部以外では、次のようにかなりあり、びっくりしました。ポピュラーな
紋なのだと思いました。
・内山、越前、日内地、杉山、市川、山本、石津、後藤、河合、中岡、岩井、
歌崎、牧野、磯貝、蔵茂、池田、清水、河西、鈴木・・・
この内、牧野、河西は当然ですが、鈴木があったのは収穫でした。なぜなら
当家系統の祖先に鈴木家より養子が入っていますので。
熊野系の神職は丸に三つ柏紋も使用している・・・。
ひとつひらめきました。当地方の服部家の家紋を調べれば、何かわかるはず
です。即ち、丸に並び矢を使っているのかどうかがわかれば。
たぶん、大久保長安事件、伊賀組事件等、忍者系統は粛清されたこともあり、
徳川の膝元でありますので堂々と伊賀の家紋を使用するのは憚られたと思われ
ますので、浜松地域の服部氏は並び矢紋は隠したのではないか・・・?
次回の休みには、電話帳の服部姓分布を参考にして、身内以外の服部家のお
墓を探し、家紋を調べてみます。
[8] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月22日 00時42分01秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
遅くまですみません。レスいただきましたが、スレちがいました。
貞信の件、なぜ浜松で160石いただいたのか?
神職、小宮神社?、伊賀呉服明神の元神職、宇治田原の館に居住、伊賀越え
に参加したのは何故? それは、信楽までの地理に詳しかったからか。伊賀越
えのご褒美が160石か?
この人の動きがわかるといいですが。
呉羽明神について関連情報―
世阿弥の父観阿弥の観世座は伊賀小波多より大和国城下郡の結崎へ進出する
わけですが、この地には糸井神社が鎮座し、その祭神は本殿が豊鍬入姫、二ノ
宮が猿田彦命、三ノ宮が綾羽明神、四ノ宮が呉羽明神である。同社はもともと
機織りの神であったという。また、結崎の南東6キロの所に服部神社2座が
ある。観阿弥の父は伊賀杉之内の服部信清。
ところで、猿楽・能楽師には服部氏が多い。なぜ? あの大福寺にいた
喜多流能楽師の服部正信・友清の子孫はどうなったのか? 友清の墓碑名は
大鶴林友清である。大福寺に親子の墓がある。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月22日 03時16分52秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>服部以外では
>内山、越前、日内地、杉山、市川、山本、石津、後藤、河合、中岡、岩井、
>歌崎、牧野、磯貝、蔵茂、池田、清水、河西、鈴木・・・
内山さんは 内山真龍のご親戚でしょうか?
>この内、牧野、河西は当然ですが、
はい
三つ柏紋使用者の 代表 ですものね
>鈴木があったのは収穫でした。
>なぜなら当家系統の祖先に鈴木家より養子が入っていますので。
>熊野系の神職は丸に三つ柏紋も使用している・・・。
この鈴木家と親戚になるのかもですね。
この収穫は楽しい発見でしたね。
>当地方の服部家の家紋を調べれば、何かわかるはずです。
>即ち、丸に並び矢を使っているのかどうかがわかれば。
はい
服部で丸に並び矢でしたら 伊賀伊勢尾張出身だろうと想像出来ますね
>浜松地域の服部氏は並び矢紋は隠したのではないか・・・?
はい
事件があって大混乱になりましたから
憚ったかも知れないですね。
それにしても大久保服部陣屋って、どうして、大久保って枕詞が付くんでしょうね
大久保さんも陣屋の担当をしてたのかしら?
>電話帳の服部姓分布を参考にして、身内以外の服部家のお墓を探し、家紋を調べてみます。
はい
どこに固まって住んでいるか分かると良いですね。
これは楽しい探検になりますね。
奥さまは海釣りよりは安心なさいますでしょうけど
藪蚊にはくれぐれもお気をつけて。
まさかデング熱ウイルス持ちの蚊はいないと思いますが
服部貞信
>神職、小宮神社?、伊賀呉服明神の元神職、宇治田原の館に居住、伊賀越えに参加したのは何故?
>それは、信楽までの地理に詳しかったからか。
宇治田原の歴史
http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/sightseeing/guide/index.html
コース
「信楽街道〜家康伊賀越えの道」(郷之口〜立川〜湯屋谷〜奥山田)
コピペ:
当時信長の命で交通の要所である宇治田原を押さえるため郷之口に「山口城(宇治田原城)」を構えていた山口甚介秀康は、家康が向かっていることを知って配下を迎えに行かせました。
家康一行は、市辺(現在の城陽市)を経由して宇治田原に入り、山口城で昼食をとったといいます。やがて馬を換えて出発し、当時山城と近江を東西に結ぶ「信楽街道」が通過する立川、湯屋谷を経て奥山田に入りました。
国境の裏白峠を越えて朝宮に入った家康一行は、多羅尾氏の小川城に入り、一泊したといいます。
以降は警護も強化され、伊賀を経由して白子浜に出て、そこから舟で伊勢湾を渡って無事三河に到着しました。
なお、山口甚介秀康は小川城主の多羅尾光俊の子であり、
道中の市辺や宇治田原、信楽(甲賀)、伊賀に味方する人物が多かったことからもこの地を経由したとも考えられます。
番外
「天武天皇伝承〜宇治拾遺物語」(南〜郷之口)
コピペ
宇治田原にも伝わる、天武天皇(大海人皇子)にまつわる伝承は、
「宇治拾遺物語」巻十五に収録された「清見原天皇、与大友皇子合戦事」で語られています。
蘇我入鹿を倒し、「大化の改新」を進めた天智天皇の弟である大海人皇子は皇太子の地位にありましたが、
天皇の御子である大友皇子が太政大臣として政治に携わっていました。
天皇が病になったとき、大海人は病床の天皇から自分の後継者となる意欲があるかと問われると、
ないと答えて出家し、吉野へ籠もりました。
大海人の存在を危険視した大友は、大海人を謀殺しようと計りますが、
これを知った大友の妻で大海人の娘である十市皇女がフナの包み焼きに隠した手紙で身の危険を知らせました。
へえ〜
そうだったの
これで納得!
吉野を発った大海人は、身分を隠し山を越えて北に向かい、数日して山城国の田原にたどり着きました。
来訪者にただならぬ気配を感じた里人は、高杯に盛った焼き栗やゆでた栗を差し出しました。
大海人はこれらの栗を「願いがかなうなら、芽を出せ」と埋めて里を後にし、伊勢を経由して美濃に入りました。
多くの兵を連れて近江に戻った大海人は、大友の軍と戦って勝利し(壬申の乱)、大和で天武天皇として即位しました。
やがて田原の里に埋められた栗は芽生えて立派な栗林となり、
そこで収穫された栗はあたかもゆで栗のごとく色つやがよく、「田原の御栗」として献上されるようになりました。
宇治田原の伝承では大海人は近江から吉野への道中に田原へ立ち寄ったとされています。
>呉羽明神
>世阿弥の父観阿弥の観世座は伊賀小波多より大和国城下郡の結崎へ進出するわけですが、
>この地には糸井神社が鎮座し、その祭神は
本殿が豊鍬入姫、二ノ宮が猿田彦命、三ノ宮が綾羽明神、四ノ宮が呉羽明神である。
へ〜
本当に呉服明神ってあったのですか
>同社はもともと機織りの神であったという。
これもすごい
>また、結崎の南東6キロの所に服部神社2座がある。
そんなに存在しているということは
服部氏がいたってことでもあるんでしょうね
>観阿弥の父は伊賀杉之内の服部信清。
>ところで、猿楽・能楽師には服部氏が多い。なぜ?
あちこち猿楽なんかを奉納して歩いたりしたんでしょうか?
その本当の目的は敵情視察?
>あの大福寺にいた喜多流能楽師の服部正信・友清の子孫はどうなったのか?
>友清の墓碑名は大鶴林友清である。大福寺に親子の墓がある。
面白いですね
この人達の子孫がいるのかもですね
静岡で柏紋を使っている神社:
那閉神社
http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4407024
神社名 : 那閉神社(なへじんじゃ)
代表者 : 宮司 松 下 正 之 ← 松下さん
各種御祈祷 : 海上安全 大漁満足 五穀豊穣
良縁成就 学業成就
鎮座地 : 〒425−0012 焼津市浜当目3丁目14-13
問い合わせ先 : TEL.(054)628−6049
FAX.同 上
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月22日 03時32分19秒 ) | パスワード |
http://kamnavi.jp/mn/index.htm
物部氏のホームページだそうです。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月22日 03時36分33秒 ) | パスワード |
そのホームページの中に 京都の項に阿刀神社を見つけました:
阿刀神社
京都市右京区嵯峨南野町
交通
嵐山渡月橋北側の丸太町を東へ15分
丸太町沿いの入り口の石碑
神社は「HOTEL SUN MEMBERS」の南側に隠れている。
祭神
天照大御神 元大神宮社を改称
阿刀宿禰祖味饒田命(神社明細帳)
アト→ヤツ 谷川の神、水神
由緒
山城郡葛野郡の式内社である。
所在は失われていたが、地元民が安堵橋の近くの小祠であるむね主張し、これが是認されたようだ。
『新撰姓氏録』に「山城国神別阿刀宿禰、石上朝臣、同祖、饒速日命孫味饒田命之後也、阿刀連同上」とあり、阿刀氏の祖神を祀る氏神社とされる。
平安遷都にあたり河内国渋川郡跡部の本拠辺りからこの地に移住した、祖神を遷座したといわれる。
たたずまい
神社へ行くためにのみ存在する狭い道をたどってホテルの南側の領域に今にも押しつぶされそうに鎮座、屋敷神のようだ。
社殿
お祭り
10月 上旬日曜日 1日間 例祭
京都山城寺院神社大事典(平凡社)、式内社調査報告
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月22日 03時44分35秒 ) | パスワード |
愛知県と静岡県の物部氏系のお社も載っていました:
愛知
尾張愛知 熱田神宮・摂社 高座結御子(たかくらむすびみこ)神社「高倉下命」名古屋市
尾張愛知 洲崎神社「素盞嗚尊、布都御魂」名古屋市中区栄1−31−25
尾張愛知 熱田神宮・摂社孫若御子(ひこわかみこ)神社「天火明命」名古屋市
尾張愛知 七所社「高倉下命 ほか」名古屋市中村区岩塚町字上小
尾張愛知 物部神社「宇麻志麻遲命」 名古屋市東区筒井3-31-21
尾張愛知 味鋺(あじま)神社名古屋市北区
尾張中嶋 真清田神社「天火明命」 一宮市真清田1-2-1 ← 蜂須賀さんの奥さまの御実家だったような
尾張中嶋 久多神社「天背男命、茜部天神」愛知県稲沢市稲島町石畑136
尾張中嶋 石作神社「建真利根命」石作連火明命六世孫。愛知県海部郡甚目寺町大字石作字郷61・62
尾張葉栗 小塞神社「天火明命」一宮市浅井町尾関字同者6
尾張丹羽 立野天神社「配 天火明命」一宮市大字浅野字天神2
尾張丹羽 大明神社「天火明命」一宮市大字北小渕字南切1356
尾張丹羽 比良賀神社「天香語山命 ほか」犬山市羽黒摺墨101
尾張丹羽 栗栖神社「宇麻志麻知命」犬山市大字栗栖字大平840
尾張春日井 八劔神社「天之火明命 ほか」名古屋市守山区大森2
尾張春日井 三社大明神社「天香山命 配 天火明命、建稻種命」瀬戸市中水野町1−579
尾張春日井 尾張戸神社「天火明命、天香語山命、建稻種命」瀬戸市十軒町913
尾張春日井 白山神社「可美真手命」(物部神社を合祀)春日井市二子町
尾張春日井 白山神社摂社天神社「味饒田命」(物部神社を合祀)春日井市二子町
尾張春日井 八所社「宇麻志麻治命」 西春日井郡豊山町大字豊場字木戸69
尾張春日井 尾張神社「香山命 ほか」小牧市大字小針字中宮107
尾張海西 星大明社「饒速日命」海部郡佐屋町大字西保字宮西
尾張知多 壬生神社「天火明命」 知多郡美浜町河和字岡脇15
尾張知多 野間神社「宇麻志麻遲命」知多郡美浜町大字野間字高川16
尾張知多 尾張三社「天火明命 ほか」半田市亀崎町10
尾張碧海 八劔神社摂社社口社「饒速日命」安城市和泉町宮ノ腰63
安城は今は三河に入れるけど?
三河碧海 暮戸神社「合 石上神」岡崎市暮戸町字宮岸4・5
三河碧海 社宮神社「石上神 ほか」岡崎市富永町字社本48
三河碧海 和志取神社摂社社口社「布都御魂神」岡崎市西本郷町字御立4
三河碧海 社口社「布都御魂神」豊田市畝部東町長乱43
三河碧海 二本木八幡社「天照國照日子火明命」安城市緑町1−27−4
三河碧海 春日神社摂社諏訪社「建御名方命 配 饒速日命」安城市木戸町東屋敷66
三河碧海 山神社摂社住吉社「合 饒速日命」碧南市山神町7−26
三河碧海 天満神社摂社斎宮社「饒速日命」刈谷市半城土町本郷1
三河碧海 八幡社「合 石上神」刈谷市重原字一色1
三河額田 石座神社「天照國照日子火明命 ほか」 額田郡額田町大字石原字宮ノ
三河額田 七所神社「饒速日命、可美眞手命、味饒田命、彦湯伎命、大禰命、出雲醜大臣命、出石心大臣命」
岡崎市百々町字池の入28
三河渥美 鞍掛神社摂社若一王子社「饒速日命 ほか」豊橋市岩崎町字森下77
三河渥美 八所神社「合 饒速日命 ほか」渥美郡田原町大字神戸字極楽
三河設楽 中山神社「布留太神 ほか」南設楽郡鳳来町豊岡字南平34
静岡
遠江榛原 水川神社「饒速日命」榛原郡中川根町水川540
遠江周智 山名神社「物部山無媛連公 or 饒速日命」山梨村 『白鳥伝説』下21
論社 山名神社「素盞嗚命 配 應神天皇、菊理姫命」静岡県周智郡森町飯田2950
論社 山名神社「素盞嗚尊、伊弉冉尊、豐受大神」静岡県袋井市上山梨389
遠江佐野 己等乃麻知(ことのまち)神社「美麻知命」現在の社名と祭神は事任八幡宮[ことのままはちまんぐう]「應神天皇、玉依姫命、神功皇后」
静岡県掛川市八坂642
遠江磐田 入見神社「印岐美命:イカガシコオの子」『白鳥伝説』下30
論社 岩田神社「大國主命 配 武甕槌命、經津主命、天兒屋根命、姫大神」
静岡県磐田市勾坂中425
論社 府八幡宮「足仲彦命、祭神不詳」静岡県磐田市中泉112-1
遠江引田 須倍神社「合 宇麻志麻治命」浜松市都田町
駿河駿東 見目神社「高倉下命」裾野市麦塚120
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月22日 03時52分52秒 ) | パスワード |
コピペ
物部氏の七転び八起き物語
一世紀初頭 東遷神話 北九州での敗退と東遷
縄文晩期、遠賀川流域で稲作が始まる。
饒速日命が天つ神の命により天磐船に乗って河内国河上哮峯(いかるがのみね)に天降り、 更に大和の鳥見白庭山に遷ったとされている。
九州遠賀川流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が奴国との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされている。邪馬台国の建国である。*1
四国の北岸を通っていったのは、どうやら吉備の勢力を避けていったからと思われる。
堺に上陸、生駒の西の日下から大和川流域に展開した。須波摩神社や石切劔箭神社のある日下は先土器時代から縄文弥生の遺跡の多い所である。
弓削神社など饒速日命を祀る神社が大和川流域に多く分布している。また、摂津の三島に落ち着いたとの説もある。新屋坐天照御魂神社が鎮座している。*4
草香の日下が日本となり、饒速日命は我が国の名付け親と言える。
饒速日命が河内の河上哮峯以外に降臨したとする伝承の地がいくつかある。
大和 奈良県北葛城郡當麻町 葛木二上神社「豊布都魂神」神社資料 河内の河上哮峯とは天安川の川上との説があり、哮峯とは二上山を言うとされる。
日向 二子山速日峯 宮崎県東臼杵郡北方町巳259 早日渡神社「主神 饒速日命」、宮崎県東臼杵郡諸塚村大字七ツ山7190 諸塚神社「合神 天饒速日命」和漢三才図絵に瓊瓊杵と誤解した記事。*4
筑前 笠木(笠置)山 福岡県鞍手郡宮田町大字磯光267 天照神社「饒速日尊」垂仁16年 社伝による。*4
筑後 福岡県小郡市大崎1 媛社(磐船)神社「媛社神、織女神」 佐賀県鳥栖市姫方町189 姫古曽神社「市杵嶋姫命」*4
筑後 高良山 福岡県久留米市御井町1 高良大社「高良玉垂命」太田亮著高良山史 *4
丹波 田庭の真名井 京都府宮津市字大垣430 篭神社「彦火明命」但馬故事記
河内 大阪府堺市大浜 大阪市八尾市恩智中町5-1 恩智神社「御食津神」大いなる邪馬台国 鳥越憲三郎
紀伊 神倉山 和歌山県新宮市 神倉神社「高倉下」旧事本紀に高倉下は父君と共に天降った。
常陸 信太郡 茨城県常陸太田市天神林町 3228 稲村神社「饒速日命」→ 下総 千葉県佐原市香取1697 香取神宮「經津主大神」常陸国風土記
出羽 鳥海山 秋田県仙北郡協和町境 唐松神社・日天宮「饒速日命」唐松山御縁起大略・秋田物部文書
饒速日命伝承については、畿内に渡来して半島系倭人集団の国作りの営みの中から、それぞれの集団毎の始祖神話が統合され、さらに海人族の海を渡り来る祖神伝承が習合して、饒速日命神話が整えられていったのではないかと推定されている。*5
伝承の発生地域を畿内に限定する必要はなく、九州の遠賀川流域からも、石見からも、丹波丹後からも、始祖伝承が各地から大和に持ち込まれて、形成されていったのであろう。 巻向遺跡から各地の土器が出ているが、大和は古来より各地から人々が集まる所であったようである。
饒速日命は霊に他ならないと言われる。*5 石上の伝承を物部神話に取り込み、フツノミタマ→銅刃の雷光→ニギハヤヒ→と集団の鍛冶神に昇華させていった。 一度、遠祖神となると、鍛冶神以外に武神、豊穣神、太陽神などいろいろな機能が付加されてくるのは、神々の本来の役割である。
二世紀後半 神武東遷 葛城王朝の伝え
日向でくすぶっていた磐余彦は、先に饒速日命が大和に天降った事を承知の上で、大和攻略を開始した。 生駒の西の日下の地で物部の一族である長髄彦の抗戦により、皇兄の五瀬命は傷つき、紀ノ川付近で落命した。後に竈山神社に祀られた。
しかしながら、磐余彦の新しい武器の前に物部一族は自ら長髄彦を葬り磐余彦に従い、十種の瑞宝を捧げざるをえなかった。
これを大和の国魂であった饒速日命の魂が長髄彦から離れた故とする折口信夫説がある。大和神社の祭神を饒速日命とする説につながる。
以降「内物部」として大和の大王に仕えるのである。
古事記は宇麻志麻遅命が長髄彦を誅したと書く。この神を日本書記は可美真手命と言う。剣はケンと読むがこれがカミであり、可美と記される。 真手は槌である。奇稲田姫の親神の脚摩乳手摩乳の槌である。鍛冶道具である。饒速日命を構成した鍛冶神の祖神の一つである。物部連、穂積臣等の祖とされる。*5 いつのころからか、可美→甘(カミ)→甘(ウマシ)→宇麻志、味と変わっていった。新しき神が親神となる神話の世界で、饒速日命の子に位置づけられていった。
いづれにしろ、神武東征は初代皇統から蘇我氏までを含む葛城系と物部・中臣等の物部系の争いの由縁となり、以降の歴史を血で彩ることになる。
大和の古代の勢力圏を西の葛城と東の磯城との対立と共立で見ていく史観がある。これに高句麗の勢力をからめて日本の古代を見ると比較的説けやすい。妥当な仮設と言える。葛城−紀伊−難波−吉備−筑紫−百済の系列と磯城−山城−近江−越・若狭−出雲−新羅の系列の関係史から見ていくのである。
持統天皇は天智天皇の娘として、皇統を葛城系とするべく女帝として君臨し、自らを天照皇大神とし、大神の託宣として天譲無窮の理を神話に入れたのである。
百済・新羅の対立関係は日本の覇権闘争に持ち込まれ、互いに陰謀、暗殺、内乱などを繰り返した。 百済側が最終勝利し天孫族を名乗り、新羅側と新羅を蔑む事になった。近世の日本人に朝鮮人を蔑視する風潮が残っていたのは、根はこの辺にまで遡る。半島内の対立を半島人が日本に持ち込んだと言うことである。
銅鐸
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物部系が銅鐸祭祀を行ったものなのか、葬ったのか、議論の別れるところではある。伊福部氏の二面性(物部・尾張氏、鴨氏)による混乱である。
末期の銅鐸は静岡の浜松市付近から発見されているが当地は物部氏の勢力範囲の東限。その東の静岡市阿倍は蝦夷の領域であった。
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末期の銅鐸 浜松で発見
一部の物部氏は蝦夷とともに東国へ落ち延び「外物部」となり、蝦夷と共に大和政権に抵抗するのである。長髄彦の兄の安日彦が落ち延び、東北の安東氏のち安倍氏となり、秋田氏につながると言う物語*3もある。
物部は「内物部」と「外物部」に別れ、双方が相争う事になるのである。
日本書紀の伝える所では神武東征以前から、天津神の子である饒速日命の王国が大和に存在していた。これは根強い言い伝えであったようだ。従って、新たに大和の支配者となった王を饒速日命の同族として記述しなければならなかった。
饒速日命は北方系の「天降る始祖」と南方系の「船に乗って海の彼方から寄り来る神」と言う、日本の古代信仰を特徴づける「海」の海神族と「天」の天孫族の習合神としている。 神武天皇の由緒もまさしくこれに倣って創作されている。日本書紀は饒速日命を物部氏の遠祖としている。
古事記では、嫡流神武天皇が天降ったので、後を追ってきたとしている。古事記が書かれた時には、物部氏の先行王朝を無視できるほど天孫系の力が物部系を圧倒していたのであろう。 文中に引用されている歌謡を比較すると、古事記は日本書紀に比べて新しいのである。書かれたのも新しいと考えられる。古事記は邇芸速日命を物部氏の祖とは書いていない。
孝元天皇の皇后を出す。
孝元天皇は鬱色謎命をたてて皇后とした。また伊香色謎命をも妃とした。物部一族の屈服であり、外戚化でもある。 孝元天皇と鬱色謎命の子が開化天皇である。開化天皇と伊香色謎命の間の子が崇神天皇とされている。孝元天皇の妃が次代の開化天皇の妃にもなっている。 葛城系の男王に磯城系の王妃という調和が記紀の言いたい皇統の姿である。
しかし高句麗系の侵入者ともされる崇神天皇の三輪王朝に追われ、開化天皇の王子の日子坐王が亡命近江王朝をたてた。*2
鬱色謎命は穂積臣の遠祖の鬱色雄命の妹である。鬱(内)醜雄は雷神を祀る鍛冶王である。固有名詞ではない。 雷神系鍛冶王の鬱色雄命の娘の伊香色謎命と、崇神天皇を生んだとする命を別人として厳香(銅)醜女と見て、銅鐸祭祀系蛇神信仰種族の女と見る見方がある。*5 銅鐸祭祀と言えるか否かは疑問。 開化天皇までを葛城系、崇神・垂仁天皇を磯城系とできよう。
開化天皇は率川(奈良市)で崩御、日子坐王が山城・近江に逃れた。後に、開化天皇の異母弟、武埴安彦の王権奪回の試み、日子坐王の娘である垂仁天皇皇后狭穂姫と兄の狭穂彦王の王権奪回の試みがあった。
日子坐王は近江の三上の息長水依比売を妻とし、近江を統一していき、大きい力を持っていった。日子坐王こそ、応神天皇、継体天皇を生み出した、天皇家の始祖である。
四世紀半ば 崇神天皇 大物主大神を祀る。物部氏石上神宮を祀る。
崇神天皇は物部氏の伊香色雄を神班物者(かみのものあかつひと)とした。物部連の祖とされる伊香色雄は厳香(銅)醜男であって、やはり固有名詞ではない。
次の垂仁天皇の時代、物部の十千根大連(とうちねのおおむらじ)に出雲の神宝を調べさせたとある。 物部氏は既に軍事を司ると共に、石上神宮を治める立場にいる。物部氏は石上氏の十種の瑞宝等の伝承を受け継いだとの説がある。
崇神・垂仁天皇は五十瓊殖・五十狭茅である。「五十」は「厳」「伊香」である。*6 記紀は崇神王家のシンボルを「五十」とし、筑紫の伊都国の五十跡手を新羅系の天日鉾の苗裔と記して、崇神王家をイリ王家とし、本来の大和王権と区別をしている様である。 ところが、大和平野に本格的政権を樹立した崇神王家の伝承は根深く残っていたので、崇神天皇の前半の英雄物語を、神武天皇を創作して肇国の名誉を葛城系に横取りしたのであろう。
*6では「五十」は朝鮮語の「O-SI(P)」で、「押」「忍」と同義としている。
五世紀初頭 応神・仁徳の河内王朝
近江王朝の勢いは大和の三輪王朝を一地方政権とした。近江の景行天皇と倭建命が国内統合を進めていたが、 九州を統一した狗奴国の後裔との戦いの中で仲哀天皇が敗死した。敗れた側の常として、息長帯比売が狗奴国王にさしだされた。 その子息が品陀和気の命(応神天皇)である。東遷し、近江王朝の残党を征し、三輪王朝を組み入れて河内王朝を設立した。 物部氏、蘇我氏等が政治を担当した。
紀伊国の荒川戸辺の娘「遠津年魚眼眼妙媛」は崇神天皇の皇妃となり、豊城入彦命を生んだ。しかし次代の皇位は弟の活目尊(垂仁天皇)に行き、紀伊国の豪族の中央への夢は砕かれた。 また垂仁天皇の正当な後嗣ぎの五十瓊敷命は皇位につけず、近江系の大足彦(景行天皇)が継いだと記紀は語っている。これらの事は、やはり荒川戸辺の娘「中大女」を妻とした物部の大新河命と十千根兄弟の大連の政権の下でのことである。 荒川戸辺としては、血を分けた豊城入彦命の皇位継承を断念さされ、あまつさえ、皇妃を入れた崇神天皇の正当な流れさえ切られてしまった。
崇神天皇の妃は、阿倍臣の祖の大彦王家の媛、紀伊の媛、尾張の大海媛である。五十猛命と異名同神と推定される、大屋毘古、天香山命を連想させる妃達である。
五十瓊敷命が石上神宮に泉南日野で製造した刀剣を捧げたのは紀の国の屈服であった。同じ頃、紀の国の五十猛命を祀る伊太祁曽神社が社地を明け渡している。これも国譲りの一つである。
物部は八十連とされる、幅広い部族を統合する名であり、凝り固まった一族ではない。
応神、仁徳王朝のキイマンは武内宿禰である。出自は開化天皇の父の孝元天皇と伊香色謎命の子の彦太忍信命の子の、屋主忍男武雄心命が紀伊の宇治彦の女の山下影姫を娶って生まれたとしている。物部の血が流れている。 紀の国に武内宿禰誕生の地などの伝承が残るが、母とされる山下影姫の姿が見えない。福岡県小郡市の竃門神社、八女郡水田村の玉垂神社に祭神として祀られている。神社は少ないが存在する事は、紀伊の宇治彦の女の山下影姫は、実は九州の女であったのかも知れない事を示している。 東征した神功皇后のモデルの女性かもしれない。
六世紀初頭 袁本杼(おほど)の命の登場 越前王朝
雄略天皇以後、この王朝の血が絶え、播磨に近江の流れを引く王朝が誕生したが武烈天皇は一族ともども滅亡した。 物部氏、蘇我氏、大伴氏は越前の王を日本の支配者として迎えた。九州に残った狗奴国の後裔の王である磐井は、越前王朝に反旗をひるがえしたが、528年、敗死した。 現在の天皇家は越前王朝につながっている。物部氏・蘇我氏は、真の支配者として政治の実権を握るべく、権力争いを繰り広げる。
磯城の倭と葛城との共同王権であった大和王権であったが、雄略天皇と葛城一言主神との説話が語るように、葛城の地位が低下した行った。 雄略の死後、当然の如く、葛城氏の巻き返しがあった。近江王朝の流れをひく応神・仁徳朝は允恭天皇系に簒奪されていたが、再び日子坐王を祖とする葛城王権の復活の物語である。 億計王、弘計王は履中天皇系の復活であるし、日子坐王の王妃の意祁都比売、袁祁都比売の名はここから創作されたようである。
この王家も没落した。いよいよ袁本杼命の登場である。日子坐王の亡命ルートの逆を進軍し、大和を完全包囲し、また大和内の大伴氏や物部氏と呼応して、ここに一度は九州勢に屈服した日子坐王を祖とする王権が復活した。 物部麁鹿火の出自に、信濃諏訪氏の女を母とする伝えがある。袁本杼命の軍事的中核の東国となった物部兵団の将師である。外物部の中央復帰であった。
狗奴国の後裔である磐井君は、吾こそは日本国の支配者である、と決起したのである。許勢・物部氏の連合軍によって、九州の磐井王朝は滅びる。
この時、物部氏は自らの発祥の地である九州の統治権を手に入れている。故郷に錦を飾ったのである。なおこの時からの九州での物部の重複が、物部の本貫の地を、遠賀川流域か筑後川流域かを分かりにくくしている。
安閑・宣化朝の没落と欽明朝の興隆
欽明天皇をこの国の最初の統一王とする見方がある。大連として物部尾輿が登場する。
尾輿は凝竈で物具生産に携わる鍛冶王である。*5 尾輿は弓削連の祖で、石上坐布留御魂神社の本来の奉仕者であった倭古連の女阿佐姫と、剣の神香春神に仕える巫女加波流姫を妻にしている。 ここに物部諸族が石上神宮の祭祀権を入手した。また弓削物部尾輿は、九州の物部の支持をも得た、新たな物部の統率者となった。
尾輿の子が守屋である。
↑
物部守屋
587年 物部氏・蘇我氏の仏教をめぐる争い
新興勢力蘇我氏は仏教を掲げ、それに物部氏、三輪氏、中臣氏(物部一族)が対抗した。大臣の蘇我馬子は聖徳太子らとはかり 大連の物部守屋を滅ぼした。各地の物部氏が守屋のために戦った訳ではない。それでも以降の、 蘇我氏の物部狩りは厳しかったようであるが、名を変えたり、落ち延びたりして生き延びた。 東北の安倍一族も物部氏の後裔ではないかとの説もある。(長髄彦が落ち延びアラバキ王国を築いたとの説もある *3)
蘇我氏の急激な台頭は、百済からの大挙の移民の力であろう。蘇我氏は百済王家に出自を持っている。ここに葛城氏の血を継承し、大王家に妃を入れる貴種の仲間入りを果たした。
この戦争は宗教戦争の様相があるが、皇位継承争いにかこつけた蘇我氏の国家権力簒奪の試みである。蘇我側に、紀、巨勢、葛城、大伴、阿倍、平群、春日などの諸豪族を味方に引き入れ、物部守屋大連を攻めたのである。 守屋にまつわる伝承は多い。生きて近江に逃れたと、近江浅井(滋賀県浅井郡)の波久奴神社に伝わっている。他に、物部守屋大連命を祭神とする神社が、大和磯城(奈良県田原本町)村屋坐彌冨都比賣神社の村屋神社、 飛騨大野(岐阜県高山市)錦山神社、信濃伊那(長野県高遠町)守屋社、甲斐巨摩(山梨県中巨摩郡)大輿神社、福島県に守屋神社三座と点々と連なっている。秋田の唐松神社を目指した物部守屋の一子那加世の足跡であろうか。
守屋の一族の財産は、摂津荒陵の四天王寺の建立に使われた。四天王寺内に守屋祠がある。ほかに守屋の妹が蘇我馬子に嫁いでいるが、この妹が半分を取り、孫の入鹿の権勢の基礎となったとの味方がある。
645年 大化の改新、672年 壬申の乱
中臣鎌子は中大兄皇子らとはかり、蘇我入鹿を皇極天皇の目前で殺傷し、親の蝦夷をも殺した。ここに蘇我本家は滅び、 分家筋の山田石川氏が蘇我氏を嗣いだ。物部本家を滅ぼされた中臣氏の復讐戦との見方もある。
天孫本紀には、守屋の家は、守屋の子で大海人皇子の舎人物部朴井連雄君によって復活したとある。日本書紀でも吉野決起の件では舎人筆頭にあり、東国に入り大功有るを以て、大紫位・氏上を賜ったと記されている。天武5年没。朴井連家は物部朝臣麻呂が後継し、石上姓を賜った。天武天皇の崩に際して誄[しのびごと]をした石上朝臣麻呂である。
よく似た名の物部連麻呂は、大友皇子に最後まで従った武将であるが、天武天皇にも起用され、持統即位に際して大盾を樹てるという栄誉を担ったのである。
伊勢神宮の成立、石上坐布留御魂神社から石上神宮への止揚、神宝還付などが行われた。律令による国家支配体制へ向かったのである。
旧事本紀には、饒速日命の降臨に際し、防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る神々の中に天児屋命を入れている。中臣連等の祖である。 物部氏の嫌がらせとの説もある。中臣氏(後の藤原氏)は蘇我氏の資産を継承し、王権の再生産を補助する立場に立った。
7世紀後半 律令制確立、記紀の編集
梅原猛氏は藤原不比等を日本歴史上の最大の政治家とする。物部・中臣・藤原と連綿と続く自らの氏族を、 天皇家とともに永久にこの国の支配者とする企て行い、律令制の導入による古来からの他の豪族の力を削ぎ、 また日本書紀の編集・普及により天譲無窮の神話で天皇家を不倒のものとした。 武士の登場により、天皇家とともに政治権力からは離れ、また奥州藤原氏は源頼朝に滅ぼされたが、 基本的には天皇家と藤原氏の流れが、まさに不比等の計画通り、今日まで続いており、我々日本人の血と精神に流れているのである。
*1 大いなる邪馬台国(鳥越憲三郎)講談社
*2 日本史探訪2(林屋辰三郎)角川書店
*3 東日流外三郡誌
*4 白鳥伝説(谷川健一)小学館
*5 物部氏の伝承(畑井弘)三一書房
*6 古代倭王朝論(畑井弘)三一書房
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月22日 15時37分20秒 ) | パスワード |
復習
服部氏(はっとりし)は、日本の氏族のひとつ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F
系図はこちらへ
出自[編集]
伊賀国阿拝郡服部郷(三重県伊賀市)が発祥地とされ、小宮神社の神主と伝わる(『延喜式』・『伊賀考』等々)。
服部氏の系譜は諸説があり、『平家物語』によると桓武平氏忠正流とされ、その一族なる服部六郎時定(服部家長と同人物?)なるものが、源氏方の伊豆右衛門少尉有綱を討ち取ったとされる記述がある。
ただし、上記の平家の系統とするのは仮冒であり、
実際は楠木氏(伊予橘氏)、
あるいは秦氏の末流とされる(秦氏説については『三国地誌』・『永閑記』によると「服部氏を秦氏の裔とするは、非なり」と記されている)。
しかしながら、服部氏の系譜はいずれも確証が明確ではないので信憑性に乏しい。おそらく、伊賀地方の土豪(神官も兼務とされる)の出であると思われる。
概要[編集]
服部氏の祖とされるのは、平安時代の武将・服部家長(内左衛門尉)である
(『源平盛衰記』)。壇ノ浦の戦いで平氏側につくも、生き残って伊賀に落ちて、姓を「千賀地(ちがち)」に改めた(ただしこれは異説であり、信憑性に乏しい。通説では服部家長は、壇ノ浦の戦いで戦死している)。
戦国時代に子孫の半蔵保長が、服部姓に復したという。はじめ将軍足利義輝に仕え(北面武士就任の説もある)、のちに松平清康・広忠に仕えた。以後服部氏は代々松平氏(徳川氏)に仕えている。保長の子、服部正成は徳川家康に仕え、伊賀忍者を率い活躍した。正成らの配下の屋敷の近くにある門は「半蔵門」と呼ばれ、皇居に現存している。
しかし正成の死後、跡を継いだ長男服部正就が配下の酷使により総反発を受けた。
さらに正就の弟服部正重が岳父の大久保長安の投獄事件(大久保長安事件)に関与するなどの不手際も重なり、
服部氏は改易処分となる。 ← これで家紋を替えたというのは当たり前のように思います
後に、正重は兄・正就の小舅(義弟)の松平定勝(服部正就の室が松平定勝の姉)の縁があったので、
それに頼った。
以後の服部氏は久松松平氏(定勝の系統)に仕えた。
その他の服部氏[編集]
本願寺配下の服部氏は、前述の服部氏とは別系統で、 ← 尾張の服部です
伊勢国奄芸郡が発祥とされる。
戦国時代の「服部党」当主の服部友貞が有名。
尾張国河内を領して伊勢長島城の城主も務めたが、
1568年に織田信長の謀略にかかり討ち取られ、
服部一門は長島一向一揆に参加し織田氏に抵抗し続けた。
長島一向一揆崩壊後、服部正友ら服部一門が織田氏の許可を得て復帰し、市江島(現在の弥富市)を開墾。
江戸時代には尾張藩の元で大庄屋として存続し、子孫として服部擔風などを輩出した。
陸奥弘前藩の服部氏は、
関ヶ原の戦いの時に津軽為信に仕えた服部康成が大垣城攻めで功を上げ、
筆頭家老となったのが始まりである。
系譜の詳しいことは不明だが、服部康成が伊賀国出身であることから、服部半蔵と同族の可能性がある。
その他[編集]
芥川賞受賞作家で東京都知事をつとめた石原慎太郎は自身の家系について佐野眞一との対談の中で「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです[6]。そんな大家でもないけれど、元は、落魄 (らくはく) した士族です[6]。先祖は武田の残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った[6]。弓の名人だったらしく、戦 (いくさ) で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが (笑) 、それで七つ矢車の家紋を許された[6]。歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った[6]。」と述べている。慎太郎の祖父石原信直(警察官)は服部信義の二男である[7]。
脚注[編集]
1.^ 服部時定の子・服部時保の子?。
2.^ 栗木助左衛門の子。
3.^ 大久保忠重の2男。
4.^ 斎藤利保の5男。
5.^ 築山貞暢の2男。
6.^ a b c d e 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』28頁
7.^ 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』29頁
服部氏が伊予橘氏の末裔?
楠正成と親戚というのは分かってたけど
伊予橘の末裔というのは ちょっと・・・信じられない。
[15] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月23日 03時43分21秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
舞阪町史研究会が昭和42年に発刊した「きさじま第2号」の中に、新居の
関所についての記述がありましたので、要約してお伝えします。
「慶長9年(1604)12月、大地震大津波により志都呂番所(大久保番所)は壊
滅し、再建するに当たって、家康の命により荒井に関所を設けることにした。
家康が関ヶ原で勝利を得て、江戸幕府を開いたのが慶長8年である。この
頃には武田が没落して、甲州勢が秋葉山を越えて浜名湖東岸を経て曳馬・浜
松へ侵入する可能性はなくなったので、その警護のために志都呂(大久保)に
置いた関所は廃止し、その代わりに陣屋を置いてこま地方の治政を司らせ、
同時に知行地もこの近くに割り当て関所番の者にこれを与えた。
関ヶ原合戦後、家康は豊臣氏に恩顧のあったものを配下にしたが、これら
の者の反逆を怖れたので、その動静を探る手段として、また不逞分子の江戸
潜入を防ぐため、浜名湖という天然の境界を防衛地として、その西岸で警戒
態勢を布いた。これは戦術的な大きな変更だった。
家康は、若い頃から各地の戦斗に駆使した伊賀の忍者出身者を警戒担当の
関所番とした。服部権太夫以下服部中までの関所番は何れもいが出身の総領
職を勤めた服部半蔵ゆかりのものである。半蔵ゆかりの者を警戒担当として
関所番を命じた事は、いかに家康が関西の豊臣の残存勢力の動向に最新の注
意を払い、これを探るための努力をさせたかということがわかる。
その動静を探るため、忍者の根拠地として関所が使用されていたと判断さ
れる史料はいくつも残っている。」
だいたいは予測したとおりでありました。
慶長6年(1601) 志都呂に今切関所
慶長9年(1604) 志都呂から荒井に移転
元和2年(1616) 家康没
・ 元和5年(1619) 服部権太夫正信 これより24年間関所番
服部杢之助政重 これより6年間関所番 今切で病没
・寛永元年(1624) 服部杢助正次 これより22年間関所番 生保3年没
・寛永19年(1642)服部中保俊 これより10年間関所番 今切で病没
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月23日 06時50分33秒 ) | パスワード |
情報の共有をありがとうございました。
忍者の駐屯地みたいなものでしたか。
駿府に入られたくない、
江戸に入られたくない、ということだったのですか。
不穏な者は締め出したいですものね。
どうして大久保というのでしょうね?
「窪地」だったのかしら?
さきじまって?
と思って検索してみました。
舞阪町がいつも独立した形を取ってきたわけは、
江戸時代舞阪、新居は天領=幕府直轄であったため
(他は神ヶ谷、笠井、木船、三ヶ日、佐久米、都田、本坂、白須賀)。
また志郡呂から宇布見、小人見、伊佐地、村櫛、鷲津にかけては、旗本知行地、その他は大名領、
寺島などは寺社領であった。(地図抜粋)[5]
また、東海辺(別)(ひがしかいべつ)=舞阪、と西海辺(にしかいべつ)=新居、に分けられていた。
また浜松地区は敷知郡とされており、その対応にも村、町の名称を分けて使われていた。
そのため町が独立したかのようになる。
その歴史上にあるのが、舞阪町(地域)である。
へえ〜
地名はコロコロ変えないでほしいです。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月23日 10時14分16秒 ) | パスワード |
宇布見 服部で検索しました:
明治以降の中村家当主:中村家住宅は1973(昭和48)年6月2日国指定重要文化財となった。
中村家初代当主
中村家の初代中村正範は、源範頼の末裔の武士で、大和国広瀬郡中村郷に住んでいた。
1481(文明13)年に14代正實(まさざね)が今川氏に招かれ、遠江国磐田郡大橋郷に領地を賜り、
その後、敷知郡和田、平松、宇布見、山崎などが与えられ、1483(文明15)年に宇布見に屋敷を構えた。
16世紀の今川氏の時代には同氏の家臣で代官を務めた。
中村家と徳川氏
1568(永祿11)年に徳川家康が遠江に入国したとき、
18代正吉(まさよし)は舟を出して迎えるなど徳川につかえ、
今切軍船兵糧奉行や代官をつとめていた。
こうした関係から1574(天正2)年2月8日に
徳川家康の側室のお万の方が家康の第2子である於義丸(おぎまる:後の結城秀康)をこの屋敷で出産することになった。
その時の後産を埋めた「胞衣塚(えなづか)」が現存している。
1590(天正18)年徳川家康が関東へ移ったが、18代中村源左衛門正吉は宇布見村に残った。
当時は庄屋を務めていたが、
藩祖を結城秀康とする越前福井藩や津山藩からは士分格として扱われ、
越前松平家一門や浜松藩主から、於義丸誕生の御殿や胞衣塚の修繕を目的として、金銀を与えられている。
また徳川御三家、老中、大阪城代、京都所司代の諸大名たちや越前松平家一門の大名が東海道を通行するときには、
中村家の歴代当主がお目見えをするのが恒例となっていた。
このように徳川氏との関係で格式の高い家柄であるため、
一般の庄屋たちとは異なり、浜松城主と単独で拝謁できるほど、古くからの特異な庄屋として知られていた。
明治維新時の28代貞則(さだのり)は、討幕軍を警護する遠州報国隊の結成に尽力し、
郷社の神官を勤め、後に郵便局を開設した。
29代東海は神職となり当地方の精神的な支柱として住民の尊敬を集め、東海様とよばれた。
30代正輔(まさすけ)は服部、中村養鼈場を開いたほか、 ← どういう意味?
中村さんが中村養鼈場を開いたのは分りますが
服部中村養鼈場って?
店長さんは服部さんですって。
明治12年(1879年)、日本では琉球藩が沖縄県となり、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がお生まれになり、
世界ではエジソンが白熱電球を発明した同じ年にすっぽんの服部が浜名湖で創業しました。
ご親戚なんでしょうか?
【浜名湖すっぽん 「服部中村養鼈場」】 株式会社 服部中村養鼈場
〒431-0211 静岡県 浜松市西区 舞阪町舞阪 2621-101 TEL:053-592-0020 FAX:053-592-7724
1902(明治35)年には郵便局長に就任。
31代幸八は1949(昭和24)年から衆議院議員として長く政界で活躍した。
何か服部家との関係が有りそうですね。
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月23日 10時32分32秒 ) | パスワード |
上記 服部中村養鼈場の件の補足です:http://www.hamamatsu-books.jp/chronology/all/7.html
1897 明治30 舞阪
服部倉治郎がウナギやスツポン養殖池を浜名湖近くに養殖池
1900 明治33 舞阪
服部倉治郎、中村正輔の両名は那須田又七の池を譲り受け、養鰻を手がける。
これが成功し浜名湖養鰻の端緒を開く
わ〜
すごぉ〜い!
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月23日 10時35分32秒 ) | パスワード |
遠江 伊佐地 服部 で検索しました。
このレスは以前アップしています:
復習ね
大久保陣屋跡に建つ大窪神社
旗本服部氏累代の陣屋
所在地
静岡県浜松市西区大久保町3280、
大窪神社
大久保陣屋は、旗本服部氏累代の陣屋で、服部氏は大久保のほか、古人見・大人見・神ヶ谷・伊佐治・上石田・山崎などで3千5百石を領していた。
尚、服部正信は、寛永頃(1624〜44)、今切関所奉行という要職にあった。
『日本城郭大系9より』
大窪神社の説明板に、「神社境内は江戸時代の代官屋敷跡で、馬渕氏の所有であったが、昭和26年に4神社が統合され大窪神社となった時に、寄贈されたもので、石垣は昔のままである。」
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月23日 11時01分33秒 ) | パスワード |
http://www42.tok2.com/home/hakubutukan/musashi/hattori.html
帝國博物学協会
武蔵國
服部氏屋敷
所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町西原
交通機関 東武伊勢崎線 姫宮駅下車 徒歩20分
別 名 -
略 歴 江戸初期の旗本、服部氏の陣屋伝承がある。
服部氏は、徳川家康の関東入封に従い、武蔵国太田庄三千石を与えられ、この地に陣屋を構えた。
元和5(1619)年、遠江今切の地に所領換えになって移った為、陣屋は廃された。
現 況
屋敷址は青林寺隣地から、県道を挟んだ反対側の地までの地である。
現在では、地表面に遺構と呼べるものは残されていないが、平成12年の発掘で、土塁や堀跡が検出されている。
地籍図から、複郭の屋敷地であった事を窺い知る事ができる。
郷土博物館前から続く直線道路は、往時の馬場跡と伝わっている。
画像
屋敷址付近
青林寺本堂
屋敷址付近
札の辻
伝馬場跡
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fjituhata180.html
江戸旗本上位180
順位 旗本家(本地・家格)当主名 表高 村数 実高(石) 領地所在 採用名 在所、大村等備考
100 久貝家(遠江) 久貝忠左衛門O174 4,500 7 4,790.69900 河内武蔵 相模守
02/10/22新規
121 服部家(伊賀) 服部仲 3,050 6 4,277.34730 遠江 服部中 −
141 松下家(遠江) 松下加兵衛 3,000 10 3,960.60651 伊豆上総 嘉兵衛
02/10/21追加 ご存知松下加兵衛
183 大沢家(遠江) 大沢弾正K118 2,600 18 3,217.56900 武蔵上野下野
伊豆相模下総 顕一郎 8郡に分散-
xxx 朝比奈家(遠江) 朝比奈寿之丞 1,200 6 1,335.33970 下総(葛飾)
鋳太郎
−
xxx 今川家(遠江) 今川従五位 1,000 5 1,323.80700 近江武蔵 −
高家A224
井草村、上鷺宮
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月23日 11時34分07秒 ) | パスワード |
この事ですね:
http://bird.blue.coocan.jp/forarai/arai_sekisyo.html
新居関所 新居宿 浜名の橋
なかなか参考になることが下の方に出ています:
○管理体制---幕府直轄の時代 URLへ
*は関所奉行制初期 **は関所奉行二人制 ***は関所奉行一人制 ****は関所奉行二人制
関所奉行名
*関所設置〜 元和5年(1619)
江馬与右衛門一成 江馬与右衛門秀次 (秀次は一成の長子) 田辺庄助 松平若狭守康信
任期に空白期間もあり、関所奉行も臨時的に置かれた。 関所奉行制も未だ確立していなかった。関所役人の構成についても初期の段階 でよくわからない。
役屋敷
早出村 (松平若狭守康信、 田辺庄助の住居は不明)
**元和5年(1619)〜寛文4年(1664)4月
服部権太夫政信 服部杢助政重 (両名1才違いの兄弟) 服部杢助政次
服部中安俊
↑
へえ〜
幕府から与力・同心の配属はなく、各関所奉行の家来を関所の運営にあたらせていたようである。
役屋敷
志都呂村にあった。
服部中保俊 佐橋甚兵衛吉次 三宅半七郎重吉 土屋忠次郎利次
本多彦八郎助
慶安元年(1648)に 服部中保俊・佐橋甚兵衛吉次の 代になって、幕府 から直接与力・ 同心が配属される ことになった。 それぞれの関所奉行 に与力6騎・同心20人ずつ配属された
役屋敷
第6代佐橋甚兵衛吉次、第8代土屋忠次郎利次の役屋敷は橋本村三軒屋にあったが、
他は志都呂村にあった。
***寛文4年(1664)4月〜 元禄9年(1696)2月
本多彦八郎助久 中根平十郎正致 石川又四郎政往 松平主馬助康雄
松平半右衛忠明
2人奉行の片方の土屋忠次郎利次が奈良奉行に転出した 為に関所奉行は 一人制となり、二組に別れていた与力・同心も合流し、本多彦八郎助久のもとに、 与力12騎・同心40人が配属された。
役屋敷
志都呂村にあった
****元禄9年(1696)2月〜 元禄15年(1702)
成瀬滝右衛門重章 佐野与八郎政信
両奉行は江戸から隔年に交代して勤務。与力・同心はその年に勤務する奉行に配属された。 このとき与力3騎・同心10人が増員されたので、合計与力15騎・同心50人の体制となった
役屋敷
初めて幕府の費用により、関所西方の 内山村三十ヶ谷に建てられた
○管理体制---吉田藩の時代
元禄15年(1702)閏8月、幕府は、三河国吉田藩主久世出雲守重之に対し、新居関所の管理を命じ、 管轄を幕府直轄から吉田藩へと移した。 新居関所が吉田藩の管理になると関所の運営が円滑・厳重に出来るよう新居町ばかりでなく、 その周辺村落も吉田藩領に編入された。これらの村々を吉田藩は新居付村とよんだ。 また、関所の運営のため、「貰請け役人」を設け、世襲化もした。
吉田藩では関所を含めて「新居付村」の支配に当たった役人を”新居付役人”と呼び、江戸詰・江州付役人とともに本藩役人と区別していた。新居付役人は次の3つに分かれていた。
@関所役人(関所の管理) 中之郷の北屋敷に居住
A町方役人(新居町方の民政支配) 源太山南(地籍は橋本村)の南屋敷に居住
B地方役人(新居付村の年貢収納などの地方支配)
以下URLへ
***************************
新居関所 取締り
★★★ 女性の通過に厳しい関所 ★★★
上りの女性だけでなく、下りの女性をも検閲し、江戸に向かう武器も検閲していた。 同じ東海道筋の箱根関所以上の厳しさであった。 その他、手負い・囚人・首・死骸も対象であった。 また、遠州灘の湊として、海上交通の取締りをも行う関所であった。
☆☆☆ 新居関所の取締り ☆☆☆
関が原の合戦、大阪の陣までは臨戦状況下であり、敵対勢力の反乱防止と関東侵入の取り締まりに 主眼が置かれていた。
豊臣氏の滅亡で敵対勢力がなくなると、関所の取り締まりが「入り鉄砲に出女」 (江戸への鉄砲の持ち込みと、いわば人質である大名の妻の江戸からの帰国防止) といわれたように、武器の移動監視、人改めを中心として、体制維持に危険な要素を取り除く役割を担っていった。
管理 時期 変化内容
幕府直轄
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いに際し、敵軍の侵入や味方の裏切り・寝返りを防止し、 残党の取り締まりを行う為に関所を設置。 この時期は臨戦状況下であり、必要に応じて関所番が置かれた。
大坂の陣
の頃 大坂出陣に際し雑説・流言を言う者の取り締まり、人質のほか婦女子の渡船場での検閲、 そして陣中からの亡命者を監視するよう関所での検閲を強化した。
1625
(寛永2年) 徐々に一般旅行者も増え、参勤交代を行う大名も多くなり、 それに応じて全国の主要な関所に三ヶ条からなる「定」を高札として掲示させ、取締りの基本方針を示す。
1651
(慶安4年) 由井正雪の乱(慶安事件)
は、幕藩体制の根幹を揺さぶる事件であり、しかも箱根関所を越えて駿府まで逃走されてしまった。 関所での検閲体制を強化する契機となった。
1652
(慶安5年) 慶安事件の影響を受け、6月、新居関所に対して「相定証文なき鉄砲ハ、通すへからさる事」と 鉄砲改めを規定する文言を追加し、高礼文を提示した。
1661
(寛文元年) 幕府留守居から女手形の記載事項を示した高礼文「女手形可書車載之覚」が通達され、手形の様式が徹底された。
1667
(寛文7年) 全14ヵ条からなる 「 今切御閔所改次第」 (解説) を発布した。調べの基本は以降ほとんど変化なし。
三河吉田藩
1711(正徳元年) 正徳元年五月、「手負・死人」云々の項が追加された。また、正徳改革の一環として、従来の諸慣行を基に 関所高札を立替えた。この内容は関所が廃止されるまで変更なかった。
1714(正徳4年) 六月に、夜間通行規則の追加が行なわれた。 それによると、夜間通行が許されるものは、以下の者、または、 これら役所からの継飛脚とか、証文を持っている家来衆だけである。
関所の種類
江戸時代の中頃には、幕府のつくった関所は、 本街道に設置され関所と裏街道に設置された比較的規模の小さい関所を あわせて全国に53ヵ所に上り、関所同士が、相互に関連し合い、関所毎に検閲の内容が異なっていた。
たとえば、女性の検閲方針については、ほぼ、次の4つに分類される。
@すべての女性の通行を禁止する。
A関所周辺の女性に限り、名主・庄屋の証文で通行させる。
B特定の役所の証文を持参する女性に限り通行させる。
C幕府留守居発行の証文を持参する女性に限り通行させる。
@、Aについては裏街道に設置された比較的規模の小さな関所で行い、
B、Cが本街道に設置された重要な関所での検閲方針であった。
新居の関所はCに該当した。
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月23日 11時42分16秒 ) | パスワード |
服部中保俊は由井正雪の一行を通してしまって譴責されたのでしょうか?
1651 (慶安4年) 由井正雪の乱(慶安事件)
は、幕藩体制の根幹を揺さぶる事件であり、しかも箱根関所を越えて駿府まで逃走されてしまった。 関所での検閲体制を強化する契機となった。
1652(慶安5年) 慶安事件の影響を受け、6月、新居関所に対して「相定証文なき鉄砲ハ、通すへからさる事」と
鉄砲改めを規定する文言を追加し、高礼文を提示した。
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月23日 11時50分29秒 ) | パスワード |
服部貞勝 家紋は何なんでしょうね?
(はっとり さだかつ、宝暦11年(1761年[1]) - 文政7年5月22日(1824年6月18日))
江戸時代後期の旗本。 ← 通字からすると伊賀の呉服明神の神職・服部貞信の子孫?
服部貞徳の長男。
母は酒井忠香の養女。
通称は久太郎、頼母、久右衛門。
官位は従五位下備後守、のちに伊賀守。
室は戸田氏朋の娘。
子女に服部貞陽ら。
来歴[編集]
中奥番・服部貞徳の長男として生まれる。
寛政6年(1794年)小姓組となり、天明8年(1788年)に家督相続、
1400石を継ぐ。 ← すごいよね
天明9年(1789年)に中奥番士、文化2年(1805年)御徒頭、同3年西丸目付、同4年本丸目付と昇進し、
文化7年(1810年)、駿府町奉行となる。
文化9年(1812年)地誌「駿河大地誌」の編纂を企画したが、11月に松前奉行に転任となった。
翌文化10年(1813年)9月、ゴローニン事件を解決する。 ← すごい!
文化13年(1816年)5月に勘定奉行勝手方兼務(松前奉行は12月に退任)となる。
文政2年(1819年)閏4月に勘定奉行公事方となり、道中奉行も兼務、
但し同年9月、小普請組支配となった。 ← 降格?
文政7年(1824年)死去。墓所は世田谷区赤堤3丁目の西福寺。
脚注[編集]
1.^ 『徳川幕臣人名事典』によれば明和6年(1769年)生。
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月23日 11時54分07秒 ) | パスワード |
http://www.town.miyashiro.saitama.jp/www/wwwpr.nsf/155be1bc775295aa492576a50003c9bf/e17a4d995ea78b20492570e0002844a9?OpenDocument
伝承旗本服部氏屋敷跡の調査成果がホームページにアップされました。
情報発表日:2005年12月23日(Fri) total;997
服部権太夫さんの埼玉宮代時代の屋敷の図面がいくつか見られます。
[25] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月23日 18時23分34秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
とりあえず素晴らしい情報本当にありがとうございます。いつもながらスゴ
〜イとうなってしまいます。
これからじっくり読ませていただきます。
私は本日は親戚の墓参りもかねて、浜松市の大霊園へ行き、服部の名の記さ
れたお墓と、丸に三つ柏の家紋のついたお墓を探しに行ってまいりました。
約3000基の墓を見ましたけれど、服部氏の墓は3つしかありませんでした。
その3基の内一つは丸に並び矢で、輪の内側に7つの弧が内向きにつながって
矢を取り囲んだ格好。2つ目は、丸に違い鷹の羽、3つ目は鶴のような鳥
ということで、サンプル数がわずかで余り役立ちませんでした。服部という
姓は稀少種だなと思いました。
丸に三つ柏の紋の方はどうかというと、それこそいくらでも見つかり、誰で
も使えるポピュラーな紋だなと少し落胆しました。それでも永井を一軒見つけ
ましたのは貴重であります。
その他でおもしろかったのは、物部、そして伊賀の墓を見つけたことでした。
話は少しずれますが、4番目の姉に定明寺の話を聞いてみたら、元々は善地
村の東泉寺という末寺に位牌は祀られていたので、定明寺筋ではないとの事。
途から乗り換えたということですので、定明寺の葛西氏の丸に三つ柏とは縁が
なさそうです。
そうすると、当方の服部は、旗本で丸に三つ柏を使っていた服部氏、あるい
は摂津の神服神社系の神職をしていた服部氏。
その他とした平氏系の服部氏、あるいは奈良時代以前からの土着の服部氏で
鈴木、長田、永井より紋を移入された者、あるいはすべてが自作。
・・・余り期待しない方がいいのかもしれませんね。
とりあえずはこれで一旦切ります。
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月23日 22時41分26秒 ) | パスワード |
へえ〜
服部氏でもいろいろな紋が有るんですねえ
わたくしなんぞは 服部=並び矢系のバージョン しか知りませんでしたが
平熱でいろいろ有ると知って驚きましたけれど
浜松という限られたエリアでも異なった紋が存在すると知って驚きました。
映像の世界で見る旗本の服部家は 車に並び矢紋 ばかりでしたけど。
またまた振り出しに戻りましたね。
でもまた違う視線で考え直しましょうね。
家紋は謎々の部分がありますから
御先祖さまがどういう思いで丸に三つ柏紋に定めたか
謎解きが深まったということで。
三つ柏さんは待望の男子だったのですか?
そうしますと、御先祖さまの秘密を是非とも解き明かさないと、ですね。
にっこり
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 03時28分52秒 ) | パスワード |
復習:もう誰が誰やらこんがらがってますから復習です
青山 成重
江戸時代初期の武将・大名で老中。
半蔵こと服部正成の一門出身で、服部正信の次男。
母は青山忠教の娘。
正室は常岡当自の娘。子は成次、娘。
兄に服部正尚。七右衛門。図書助。
青山成重
天文18年(1549年) - 元和元年9月7日(1615年10月19日))
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
江戸幕府老中。
服部氏の一門・服部正信(平蔵)の次男。
母は青山忠教の娘。
正室は常岡当自の娘。
子は成次(長男)、娘(浅羽幸正室)。
兄に服部正尚。七右衛門。図書助。 ← 西郷の局の継父
元亀2年(1571年)、母の従兄の青山忠重が戦死し、子がなかったため、主君徳川家康の命で青山氏を嗣いだ。
徳川秀忠の後見役となった。天正18年(1590年)の家康関東入封の際に下総国香取郡に3000石を与えられた。
慶長6年(1601年)に2000石を加増、
さらに慶長8年(1603年)12月25日に下総国内において5000石を加増され、
石高が1万石に達したため下総飯田藩を立藩した。
慶長13年(1608年)、老中に就任するが、
大久保長安の子成国を養子にしたことから、慶長18年(1613年)の大久保長安事件に連座し、罷免、改易される。
7000石を減知され、飯田の地に蟄居した。
大坂の役では本多正信に供奉を懇請して武功を挙げて挽回を図ろうとしていたが、
結局赦免されることのないまま死去した。
3000石は成重が赦免されず死去したため、収公となったが、改めて嫡男の成次に新知1000石が与えられ、
子孫は旗本として存続する。
成次の子青山成政の代に1200石となり、4代あとの青山成存は勘定奉行になっている。
青山氏下総飯田藩藩主 (1603年 - 1613年)
青山成重1603-1613 | 大久保長安事件の影響で廃藩
もうすっかり忘れていました。
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 03時41分24秒 ) | パスワード |
レス<27>の書き直しです。
三つ柏さんに、下記の天方氏のなかなか興味深いお話があります。
天方氏は鎌倉幕府 → 南朝方 → 大久保にも絡むし、服部半蔵とも行動を共にしています。
青山姓に変わってますし。紋も替えてますよ。
青山氏でピンと来ませんか?
でも服部半蔵の孫の青山氏とは系統がちょっと違うようです。
そこを繋ぐのが松島氏なのかな?と思いました。
確か松島家の紋が 一 という字だとおっしゃってましたよね。それで。
さらに 鎧作りに優れていた という話
ちょっと驚きました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/amakata.html
天方氏
元々は 一の字紋/青山に改姓して 細輪に葉菊紋に
(藤原氏秀郷流首藤氏族)
遠江国周智郡天方郷から起こった。
もとは藤原秀郷の後裔首藤氏の一族である。
藤原助清は三河国に住し、首馬頭に任じたことから首藤氏を称した。
後裔にあたる俊通は滝口刑部丞を名乗り、その子が滝口四郎俊綱である。
山内首藤氏とは同族の関係になる。
代々鎌倉御家人であったようで、通隆の代に鎌倉幕府が滅亡。
通隆は北条高時に殉じて鎌倉で自刃した。
以後、世に隠れていたようで、通隆以後荷代の実名は伝わっていない。
通秀の代に至って、遠江国天方城に住した。
これより天方の地名をもって家号にしたという。
通興の代に今川氏に属した。
今川義元が桶狭間で信長に討たれ、氏真の代に今川氏は衰退することになる。
通興は、今川氏没落後、石川伯耆守数正について家康に謁え、以後徳川氏に仕えた。
天正二年、家康が遠江国乾城を攻めた時、大久保忠世に属して、案内役を勤めた。
これより、通興は大久保忠世に属して、家康の戦に参加し、数々の戦功を挙げている。
嫡子の通之は早世し、
次男の通綱が家督を継いだ。
通綱は織田信長の嫌疑を受けて、切腹の命を受けた家康の嫡子信康の検視役を命じられ、
同役の服部半蔵とともに遠江二俣城に赴くことになった。
信康自刃に際し介錯を頼まれた半蔵がその任に堪えきれず、代わって通綱が信康の介錯をした。
通綱はのちに信康介錯のことをはばかって出奔し、
家康の次男で信康の弟にあたる越前藩主結城秀康に召し出されて仕えた。
通綱は、鞍・鎧づくりに優れ、その作品は彦根井伊家に伝わっている。
通綱の子孫は福井藩士として続いた。
通興のあとは、娘婿青山忠成の子通直が継いだ。
通直は幼少の時より家康に奉仕し、慶長八年の家康上洛にも随行し、
慶長十八年には、すべて二千二百五十石を知行した。
慶長十九年の大坂の陣にも参陣し、
秀忠に従って、天王寺の戦いにおいて戦功をはげまし、玉造口の戦いでも大坂方を槍を合わせて甲首一級を挙げている。
寛永二年、上総国武射、下総国葛飾・香取、相模国高座四郡のうちで二千二百五十石の朱印状を賜った。
同三年には従五位下備前守に叙任、同七年十一月に死去した。
旗本家天方氏はのちに青山氏に改姓している。
家紋は、首藤氏ゆかりの「一文字」紋が本来の定紋であったが、
青山氏との関係から「細輪に葉菊」紋の方が後世では定紋となっていった。
青山忠成
青山 忠成(あおやま ただなり、天文20年8月6日(1551年9月6日) - 慶長18年2月20日(1613年4月10日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府町奉行、老中。常陸国江戸崎藩初代藩主。青山家宗家初代。
青山忠門の長男。母は卯野某の娘。正室は天方通興の娘。子に忠次(長男)、忠俊(次男)、朝比奈泰重(三男)、幸成(四男)、天方通直(五男、天方通興養子)、娘(川口近次室)がいる。官位は従五位下、常陸介、播磨守。
経歴[編集]
青山氏は三河国額田郡百々村(現在の愛知県岡崎市)出身の国人で、忠成の父・忠門(青山忠世の子)が松平広忠・徳川家康に仕えたことから記録に残る。忠成は若年期から家康に近侍していたが、元亀2年(1572年)、父が武田信玄との戦いで討死したために家督を継いだ。
家康の信任は厚く、天正13年(1585年)には家康の3男秀忠の傅役に命じられた。天正16年(1588年)には秀忠に従って上洛、豊臣秀吉によって従五位下常陸介に叙任されている。さらに天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると江戸町奉行に任命され、5,000石(文禄元年(1593年)には2,000石加増)の領地を与えられた。また、原宿村を中心に赤坂の一部から上渋谷村にかけての広い屋敷地を賜っており、現在の東京都青山の地名は、屋敷地の一部であったことが由来といわれている。なお一時期、青山氏が改易された際に屋敷地も没収され、広大な土地には毛利氏の別邸など大名屋敷が林立することとなったが、後に大名として復帰した際にも以前ほどではないものの小大名とは思えないほど広大な敷地を有していた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては秀忠の軍に従軍し遅参したものの、翌慶長6年(1601年)に常陸江戸崎1万5,000石の所領を得ている。さらに江戸奉行・関東総奉行を兼任し、江戸開府後も本多正信・内藤清成と共に老中として幕政において重きをなした。慶長11年(1606年)、内藤と共に一時蟄居を命ぜられているがすぐに赦免されている。同年1万石を加増され、所領は2万5,000石となった。
慶長18年(1613年)、63歳で死去し、跡を次男の忠俊が継いだ。
関連項目[編集]
高槻城
補足
秀忠治政のとき、仁の酒井雅楽頭、智の土井大炊頭とならんで勇の青山伯耆守として将軍秀忠を輔け、武蔵岩槻四万五千石を領した。しかし、元和九年(1623)忠俊は、三代将軍家光の勘気にふれ、領地は収公された。忠俊がなぜ勘気にふれたのか、その理由についての明確なものは記録として残っていない。
もっとも考えられるのは、当時の秀忠・家光の二元政治にその因を求められないか。すなわち、忠俊は秀忠から信頼の厚い側近であり、家光の若手側近グループからすれば、最初に排除されなければならない存在であった。また忠俊は、家光の補導役として強諌直言のこともあった。これらの結果、古い政治家となった忠俊は舞台から去らざるを得なかったのではないか。
寛永九年、秀忠が死ぬと、忠俊も自ら剃髪してかねて大徳寺の宗珀和尚から与えられていた法号道称を用いて、春室宗信と名乗った。しかし、秀忠の死は二元政治の終焉を意味し、同年江戸より「赦免」の手紙が届いた。これは、勘気が家光の個人的なものではなく、当時の政治状況によって起きたものであることを背面から語っているものだ。つまり、家光は忠俊の忠誠をわかっていながら、自己の権力の教化のためには秀忠派の忠俊を切り捨てざるを得なかったということだろう。
こうして、嫡子の宗俊は大名に返り咲き、その後青山家の家運は営々と栄え、その嫡流の多くが幕閣の重職についた。
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 04時08分51秒 ) | パスワード |
「一文字紋」のことですが
「一」は「敵無し」=カタキ無し と読むそうです=つまり「無敵」の意味。
だから山内一豊は本来は「かつとよ」と読むべきであって かずとよ ではないそうです。
首藤山内系には保元の乱 1156〜1159 以前から使っていたと書かれているそうです。
また 源氏系の服部氏も使っているそうです。
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 05時33分18秒 ) | パスワード |
http://edononagori.fan.coocan.jp/hata.html
旗本のお話:服部家2つ、鈴木家、竹本家、新井今切の関の陣屋など
《旗本》とは江戸幕府直臣の中で知行高1万石以下で将軍に謁見できる御目見以上の格式をもつ者を指す。
「国字分武鑑」という寛政年間の資料によれば総数5,205人、総知行高263万石であったという。
このうち実際に領地を与えられた者は2,264人であった。
あとは蔵米、現金等で受け取った。その他に将軍に拝謁できない御目見以下の後家人が17,339人いた。
万石以下3千石以上で無役の旗本を《寄合》といい、3千石未満で無役の旗本、御家人を《小普請》といった。
寄合のなかでも、大名と同じく参勤交代が許されてされていた旗本を《交代寄合》といい、
老中支配で、役職に就く事はなかった。
由緒ある地方豪族や大名家の分家、改易された大名家の名跡を継ぐもの等が多い(従って3千石以下の家もある)。
尚、《寄合》は江戸定府で、若年寄支配である。
旗本は領地支配を代官、名主、天領代官に託していたので、交代寄合旗本以外は領地に行った領主は、まず無いのが普通だった。
陣屋又は代官屋敷(名主が郷代官の場合が多々ある)は年貢の徴収が主で、規模も小さい。
従って陣屋(町)の名残を今に留めている所は少ない。
http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_akatutumijinya_tokyo.html
(服部氏陣屋)旗本服部家1400石 菩提寺の西福寺
赤堤陣屋/服部氏陣屋:東京都世田谷区赤堤2丁目 旗本服部氏1400石
確かに伊賀の呉服明神の神職・服部貞信の子孫です。
☆天正18年(1590)、貞信が160石拝領、貞富で400石、貞治で1300石、常方が1400石。
貞信-貞富-貞常-貞治-常方-貞殷-貞則-貞徳-貞勝-貞陽 。
赤堤陣屋は六所神社辺り。赤堤陣屋領主、服部氏の墓は西福寺。(服部半蔵家とは別系統)
赤堤陣屋/服部氏陣屋は中世の世田谷城の支城の跡に築かれた。
現在の六所神社と赤堤幼稚園。
赤堤陣屋/服部氏陣屋の領主、服部氏の墓がある西福寺/一族の墓がある
*************
おまけ
鈴木さん陣屋
1.
酒呑陣屋(しゃちのみじんや) /旗本鈴木氏陣屋:愛知県豊田市幸海町池杖12-3 旗本鈴木氏1120石 酒呑陣屋探訪:2011.06
酒呑陣屋跡は祐源寺を目標にすればよい。
戦国時代以前からこの地方に勢力を持っていた鈴木氏は、鈴木信重の時代に松平氏に仕えたのが始まりで、
寛永2年(1625)、920石拝領し、その後加増で1120石。酒呑陣屋領主の菩提寺は祐源寺であるが墓所はない。
鈴木氏の墓は妙昌寺にある。
菩提寺の祐源寺。
妙昌寺と三河鈴木氏廟所碑が建っている墓所
(戦国時代以前から勢力を持っていた鈴木氏の墓石は夥しい)
酒呑陣屋跡の石垣と民家/あきやま様、になっている庭
左側に行くと酒呑陣屋領主の鈴木氏菩提寺の祐源寺。道を丘の方に登っていくと右側の写真の石垣が見えてくる。
2.鈴木さん陣屋
則定陣屋 /鈴木氏陣屋:愛知県豊田市則定町本郷 旗本鈴木氏1000石
則定陣屋跡は現、則定小学校。
菩提寺は心月院だが墓所はない。
お墓は妙昌寺の墓所にある。
則定陣屋
☆則定城主、鈴木重次が関ヶ原の戦い後に、本地を安堵され500石。
後に加増されて1000石。
二代目の重成は島原天草の乱後の初代天草代官
菩提寺の心月院 則定陣屋領主、鈴木氏のお墓と妙昌寺
則定陣屋跡の小学校。往時を忍ばせる陣屋石垣が僅かに残っている。
************************
3.
静岡県の陣屋一覧
静岡県 編集が面倒なのでURLに行ってください。
韮山代官所 世襲代官江川邸 5〜100,000石
川成島陣屋 (本郷氏陣屋)本郷家5000石 陣屋門
小塚陣屋 日向家2080石 代官の松永家住宅 樋代官所 用水管理 代官所長屋門 植松家代官屋敷
久能陣屋 (榊原氏陣屋)交代寄合、榊原家1,800石 照久寺 井出館 江戸時代は名主 高麗門、長屋
大鐘屋敷 旗本大鐘氏3000石⇒江戸中期以降は庄屋 屋敷
山本代官屋敷 (山口氏陣屋)山口家3000石 吉野家長屋門 勘助
黒田代官屋敷 本多家4260石 飯山藩本多家分家 代官屋敷
平芝陣屋 (米津氏陣屋)米津家4000石 長瀞藩分家 長屋門
菅谷陣屋 (西島陣屋)菅谷家4500石
岩井陣屋 (鍋島公陣屋)鍋島家5000石 菩提寺の広岳院
和田陣屋 (稲葉氏陣屋)稲葉家3000石 淀藩分家
匂坂代官屋敷 (高木氏陣屋)高木家4000石 森町陣屋
土屋家3552石 北島家代官所長屋門
掛塚陣屋 (加賀爪氏陣屋)<3千石⇒13千石⇒改易> 陣屋門
堀氏代官屋敷 (堀氏陣屋) 旗本、堀家1500石 長屋門
中泉陣屋 110,000石の天領支配陣屋 陣屋表門・裏門
皆川陣屋 皆川家3000石 移築陣屋門 菩提寺の金剛寺
堀江陣屋 (大沢氏陣屋) 高家、大沢家5000石 陣屋門
服部陣屋 下に書いてあります
↓
大久保陣屋 (服部氏陣屋)服部家3500石 志都呂陣屋 (五井松平氏陣屋) 交代寄合、五井松平家5500石
大谷陣屋 (近藤氏陣屋)近藤家3000石 近藤氏代官大野屋敷
新居関所 関守は吉田藩7万石、大河内家 関所建物
気賀陣屋 (近藤氏陣屋)交代寄合、近藤家3500石 墓所 ⇒ 気賀関所 気賀陣屋の近藤家が関守を兼務
井伊谷陣屋 (近藤氏陣屋)近藤家5000石 菩提寺の龍潭寺
金指陣屋 (近藤氏陣屋)近藤家5400石 菩提寺は宝林寺 陣屋門
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ということで服部陣屋
http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_ookubojinya_hamamatu.html
大久保陣屋/服部氏陣屋:静岡県浜松市西区大久保町3280 服部氏3500石
大久保陣屋跡は大窪神社
☆文禄元年(1592)、服部政光が武蔵太田庄で3000石賜う。
元和5年(1619)、服部政信が遠江国の今切関所(新居関所)番となり采地も、この地に移された(500石加増)。
服部政久が跡を継ぐが、後継ぎがなく絶えた。 ← そういうことでしたか
ということは譴責ではないですね
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静岡の陣屋おまけ
http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_sitorojinya_hamamatu.html
志都呂陣屋/五井松平氏陣屋:静岡県浜松市西区志都呂町 志 志都呂陣屋/五井松平氏陣屋探訪:2010.06
交代寄合、五井松平家5500石。志都呂陣屋跡/志都呂幼稚園(旧小学校)。五井松平氏の菩提寺、墓所は大円寺/東京都杉並区。
伊昌が天正18年(1590年)下総国銚子に2000石賜わる。忠実が寛永4年(1627年)下総国海上郡内で6000石を賜わり交代寄合旗本となる。三代後の忠明が元禄11年(1698年)領地換えとなり志都呂陣屋を構え、新居関所関守を兼ねた。その後7代で明治を迎えた。
志都呂陣屋跡/志都呂幼稚園
五井松平家:初代忠景-元心-信長-忠次-景忠-伊昌-忠実-伊耀-忠益-忠明-忠松-忠寄-忠命-忠元-邦之助-忠凱-弘之助
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静岡の陣屋おまけ
http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_araisekisyo_hamamatu.html
新居関所:静岡県新井町 新居関所
新居関所 新井関所再訪歴:2010.06
新居関所は今切の関所ともいう。
慶長5年(1600年)、徳川家康が創設した。全国で唯一現存する関所建物。
「女・鉄砲・手負死人及び首」は証文がなくては絶対に通さなかった。
初めは、幕府の直轄で、旗本が関守をしていたが、元禄15年(1702年)からは吉田藩七万石が関守を務めた。
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陣屋 おまけ 竹本氏の陣屋だから
http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_takenoyajinya_aiti.html
竹谷陣屋/竹本氏陣屋:愛知県蒲郡市竹谷町新井58辺り 竹谷陣屋/竹本氏陣屋探訪:2010.10
旗本、竹本氏2026石。
竹本正綱が享保3年(1718)、三河国内の領地1026石のために築いた陣屋(その他は武蔵国千石)で明治まで存続。
領地は郷代官の鈴木氏(第2代日本社会党委員長鈴木茂三郎の生家)が代々治めた。
竹谷陣屋は八幡神社周辺だが遺構や碑文は皆無。
[32] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 10時09分25秒 ) | パスワード |
http://www.search.ask.com/?tpid=ORJ-SPE&o=APN11405&pf=V7&trgb=IE&p2=%5EBBD%5EOSJ000%5EYY%5EUS&gct=hp&apn_ptnrs=BBD&apn_dtid=%5EOSJ000%5EYY%5EUS&apn_dbr=ie_11.0.9600.17280&apn_uid=274AA8E4-C208-413F-9F48-A501D18403C7&itbv=12.15.5.30&doi=2014-09-15&psv=&pt=tb
「家紋でたどるあなたの家系」
213ページに
伊賀阿拝郡服部村に住みし称号す
貞豊の系の替え紋
定紋は源氏輪に並び矢
として ページの左には「字紋」と書かれていて
ずっと上の方の前のページを見ると 「左万字紋」 卍 の項だと思います。
寛政重修家系譜では 服部貞富 になってる人のことじゃないかと思います。
たぶん 豊と冨を間違ったタイポ=タイプミス= だと思います。
伊賀の呉服明神の神職の服部貞信の子孫です。
卍は上古、諸国でもっとも愛用された紋章の1つ。
バビロニア、アッシリアなどでは十字と同類で「天神」または「太陽神」を表す記号。
卍は釈迦の紋章として有名だが
これは中国にも伝わった。
唐の則天武后は新たに文字を造るに当たって
卍を用いて「日」の字とした。
卍は十字紋の1変形。
ちなみに
服部系 服部氏は 十字紋使用者がいる。
また
旗本の服部に九曜紋を使用している家もある。
皇后さまの御実家の正田家も九曜紋。
そうすると 丸に三つ柏紋も某服部家の替え紋かも知れないですね。で、定紋が源氏車に並び矢とかで。
謎
寛政重修家系譜にも「家紋編」があると思いますがサイトに行けないです。
これが読みたいのに。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 10時32分07秒 ) | パスワード |
大成建設のサイトより
http://www.taisei.co.jp/about_us/library/column/tower/2005/1168584050767.html
伊賀忍者 服部氏と 六所神社
東京の西郊・世田谷の住宅街の真ん中を二両連結でのんびり走る東急世田谷線は、懐かしい路面電車情緒をたっぷり味わわせてくれる。
東急世田谷線の松原駅を降りて、閑静な町並みを東南へ三分も歩くと 六所神社ろくしょじんじゃ (世田谷く 赤堤あかづつみ 二−二五−二)の杜もりに着く。朱塗りの社殿が緑に包まれて古社の風格がある。
参道わきに「御由緒」の碑があり、天正年間(一六世紀後期)徳川の旗本、服部貞信が府中の 六所宮ろくしょぐう (現 大国魂神社 おおくにたまじんじゃ )を勧請し、赤堤の総鎮守として奉斎したと説明している。
六所宮とか六所神社というのは、六つの神社を合祀したお宮のことである。武蔵国の総社として知られる府中市の大国魂神社は武蔵の主要な六神社を合祀している。武家の棟梁となった源頼朝が尊崇したため、その後も武士の信仰を集め、江戸時代に入っても領内の豊作と安全を願って各地に六所神社が勧請された。
因みに、神奈川県大磯町の六所神社も相模の総社で有名だが、こちらは相模の主要な六神社を合祀しており、祭神は大国魂神社とは異なる。
世田谷区赤堤の六所神社を奉斎した服部氏は、伊賀(三重県西部)の出身で、忍者のリーダー服部半蔵に連なる一族らしい。
天正十年(一五八二)本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたとき、徳川家康は旅先の堺にいて窮地に陥った。供にいた服部半蔵がこのピンチを救った。
家康を護衛して伊賀の峠を越え、ぶじに本拠地の三河へ帰還している。
世田谷の服部氏はそのころ宇治田原(京都府南部)にいたが、
この伊賀越えの際に直ちに手勢を率いて家康の案内を務めたという。
旗本に登用され、天正十八年(一五九〇)家康の関東入りに従って赤堤村などを所領とした。
近くの西福寺(同区赤堤三−二八−二九)は服部氏の菩提寺である。
http://saifukuji.com/
(掲載号:09月22日号)
六所神社
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/12_setagaya/12026.html
御祭神
大国魂命(おおくにたまのみこと)
例祭日
9月23日
神職の服部氏の通字が「貞」なのは平家の先祖の平貞盛からでしたか
御由緒 ↓
天正十二年十二月、平貞盛の数世の孫服部貞殷が府中の六所宮現大国魂神社を勧請して赤堤の鎮守と定め、服部家の祈願所として奉斎したのが始めです。天明七年九月社殿再建、明治七年には赤堤村社と定められました。
所在地 〒156-0044 世田谷区赤堤2-25-2
TEL 03-3321-5396
FAX 03-3321-5396
最寄り駅 東急世田谷線「松原駅」 徒歩3分
小田急小田急線「豪徳寺駅」 徒歩7分
ここの神紋が分ると良いのですが。
************************
http://books.google.com/books?id=pGxyzt4ejFwC&pg=PA356&lpg=PA356&dq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E8%B2%9E%E6%AE%B7%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=AEyrqwJSEO&sig=80uhOtkqP93fRjmfkFgk9FoMRhA&hl=en&sa=X&ei=nxwiVKr9PNXeoATGhIHwDw&ved=0CDYQ6AEwAw#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E8%B2%9E%E6%AE%B7%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
新訂寛政重修諸家譜 24: 索引 2
貞利の項に 矢印が付いてて 服部貞殷 となってました。
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 10時47分14秒 ) | パスワード |
http://www.113saka.e-sampo.co.jp/slopes113/95hattori/
服部坂(文京区)
地区: 春日・小石川・小日向地区
坂の場所: 小日向一丁目7と二丁目16の間
服部与兵衛門のお抱屋敷があった。民間の所有する農地などの土地を購入し建築した屋敷は、抱屋敷(かかえやしき)と呼ばれる。対して、与えられた土地に建てられた屋敷は拝領屋敷。
由来:
坂上に代々旗本服部氏が住んだことによる。
*********************
http://www.geocities.co.jp/tokyo_ashy/s-kohinata.html
小日向
小日向・音羽
『服部坂』
小日向1丁目7と2丁目16の間。
「服部坂は荒木坂の西なり、此坂の上に服部氏代々おれり、ゆへに坂の名とす、寛永の江戸図にも服部氏の屋敷をのす」
『改撰江戸志』。
また、「服部坂は、此所は服部権太夫殿代々住居の地なり、今に存す」『続江戸砂子』とも。
『服部坂』は、町内中央より艮(北西)の方神田上水の向かいにあり、俗に『服部坂』と称した。
この坂の中程から西の方に、旗本 服部与兵衛門の屋敷があったので、こうに唱えたと言う。
江戸時代、坂と坂下の両側は町屋で、小日向水道町と言った。
西側の服部氏の屋敷跡には、明治2年に小日向神社が移された。
すぐ南隣りの現在の区立第五中学校の地には、明治11年に開校した黒田小学校があった。
旧黒田藩主 黒田長知のゆかりで黒田小学校と称した。
永井荷風も通学したが、戦災で廃校になった。
http://books.google.com/books?id=f8MUAgAAQBAJ&pg=PA17&lpg=PA17&dq=%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=qaiH3U2Fjf&sig=nlHOhZ5Igoc8BzHvL13H2G9f0Ok&hl=en&sa=X&ei=VB8iVKGFL9GwogTRjILgDA&ved=0CFkQ6AEwCDgK#v=onepage&q=%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
坂の町・江戸東京を歩く
By 大石学
文京区小日向1丁目2丁目の服部坂は
服部與兵衛の抱え屋敷(別邸)があった所だそうです。
名前は記憶の片隅にあるような気がしますが、どなた?
恥
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 10時50分39秒 ) | パスワード |
http://www.geocities.jp/tomtohiro/OhmiHattori.html
滋賀県の服部陣屋 上田氏の屋敷があった所。
場所が「服部」という地名。
お城の概要
住所 :守山市服部町 現在の状態 :集落
遺構 :堀跡・移築門 形式 :陣屋
別名:築城者 :上田重秀 有名城主 :上田氏
築城時期 :寛永12年(1635) 体力消耗度★★ お勧め度★★
現地の状況と見どころ
服部陣屋は、高級旗本上田家5000石の采地陣屋である。
服部の地は野洲川東岸に位置し、元々は野洲川本流と支流に挟まれた中洲であったが、近年支流は埋め立てられた。服部町は、大きくは津田集落と服部集落に分かれていて、陣屋は服部集落あった。この集落全体が陣屋地であったと思われ、現在も三方を水路に囲まれた平方形をとどめている。
遺構らしきものは見当たらないが、外周の水路は堀跡、津田集落内に壊れかけ
た移築門が残っている。
画像:壊れかけの移築門
歴史
上田氏の出自は、甲斐武田氏の支流盛義が信濃上田郷に住み、上田氏を名乗ったのが始まりとされる。戦国期には丹羽長秀の家臣となり、長秀が没した重安(宗箇)の時に豊臣秀吉に仕え、越前国にて1万石を給わった。関ヶ原合戦は西軍に与したため領地を没収されるが、紀伊和歌山城主浅野幸長に招かれ、浅野氏が安芸広島移封後は亀居城17000石を与えられた。
上田重安の嫡男重秀は、将軍家光に召し出され、寛永12年(1635)近江野洲郡森川原・服部・立花・小浜・木部・比江・小比江・吉川の8ヶ村にて5000石の旗本に取り立てられた。次男の重政は浅野家に残り、その子孫は安芸浅野氏の家老職を世襲して明治維新を迎えた。
旗本上田氏は、のちに上地令により吉川村の替わりに武蔵国高麗郡に分地を拝領した。
以後旗本上田家は、江戸幕府の西丸御留守居・大目付・御留守居・御小性組番頭などを歴任し、高級旗本として10代続いて明治維新を迎えた。
R8「小篠原」北西方面〜県道155号約2.3Km先「竹生口」直進北上〜県道151号約2.4Km先「西河原北」左折西進〜県道48号約1.3Km先「服部町」バス停前左折南下〜「南産土神社」南側服部集落一帯
アクセス:
駐車 :服部集会所前
ひとくちMEMO :地元民もあまり知らないが、名門であった上田家の采地陣屋
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 11時03分01秒 ) | パスワード |
https://www.google.com/search?q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E7%B4%8B&sa=X&biw=1152&bih=558&tbm=isch&tbo=u&source=univ&ei=xSMiVNmSFJLcoASGnoHQCQ&ved=0CCAQsAQ
服部家の家紋のバリーエーションの数々(変な日本語だけど、ホント、さまざま)
有松の絞問屋だった鳴海の服部さんも出てますね。
屋号は 井桁屋さん。
一瞬、服部家のホンヤさんの案内板かと思いました。
ホンヤさんの「御籠」の紋にも似てるし。
[37] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月24日 12時20分55秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
またまたスゴイ情報をありがとうございます。解読いたしました。
まずは、墓標の件ですが、昨日の調査の中で、珍しい名前だなと思った墓標
がございました。それは「首藤」家の墓でした。
天方氏はもともと「首藤氏」、のち「滝口氏」、天方城に住してより天方と改姓ということ。首藤というのは天方氏の祖の名前だったのですね。
天方氏の子孫は浜松にもいて、会社を経営されています。家に帰れば新聞記事の切り抜きもありますので、もう少し詳しく報告できます。
天方通綱は半蔵正成と秀次の検視に二俣城へ行き、介錯までし、その後出家
したが、のち結城秀康に召し抱えられた。秀次事件については、謎があります
が、特にここの部分は意味深ですね・・・秀次と秀康の関係。
青山氏と天方氏、青山氏と服部氏との関係の解読に少々時間がかかりましたが、青山氏は忠成・通直により天方氏と二重につながり、服部正尚は成重を
通じ青山氏とつながる。従って、服部氏と天方氏も縁つながりとなった。
そのな関係の中で、天方通綱は半蔵と二俣城へ、秀次の介錯、出家、そして
結城秀康に拾われたという事実があった。
話は少し変わりますが、掛川を車で走っていた時の事、食事時に近づいて
いたため食堂・レストランを探してキョロキョロしていたところ、あるお店
の看板に「丸に三つ柏」の家紋がでていましたので、興味をひかれ、入って
みました。店主にその家紋の事を訊くと、店主答えていわく、
「結城家の台所にはこの家紋があったので、それにあやかり利用させてい
ただいています」と。
私はこの一件より、ずっとホントかなと探求してきましたが、何の手がかり
もなきまま、今に至っております。
天方氏と青山氏と服部氏の関係がわかった今、ひょっとして何か手がかりが得られないかとぬか喜びをしております。
もう一つは、服部貞信と六所神社の関係。浜松にも六所神社があるので、貞
信が関係していないかと推測されます。これも1つの手がかり。
いろいろヒントを与えて下さいまして、本当にありがとうございます。感謝
申し上げます。
[38] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月24日 12時26分08秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
レス[32]以降とスレ違いました。引き続き解読させていただきます。
[39] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月24日 13時04分47秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「六所神社を服部家の祈願所としていた」とありましたが、本来六所神社は、松平郷にある松平家が特別大事にする神社だと思いましたが・・・?
浜松には異常にこの神社が多く、中野町を筆頭に全部で47社あります。
何かがある・・・探求してみましょう。
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 14時31分55秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
一生懸命捜していると 向こうから 情報がいろいろ飛び込んで来ますでしょ?
ホントに面白い現象ですよね。
ねえねえ、こっちにも興味を持ってちょうだい、と言ってるみたいに。
でも、もう、地名と人名と神社名などの名称がこんがらがってます。
3柏さんもだんだんその傾向が???あはは
やはり大きな ハトロン紙 でしたっけ? 大きな紙に小さな文字で関係を整理して一覧式に書かないと
何がナニやら、どの時代だったか、
もう混乱の2文字ですよね。
浜松は徳川氏の出世の第一歩を築いた土地ですから
徳川関係を調べていると
いろいろ思わぬ情報が一杯集まりますね。
三つ柏紋のことでも
結城家の台所にあった紋を使用している、とは?
1. 結城秀康は 中村家で養育されたんでしたっけ? 中村家関係の方が拝領した紋でしょうか?
2. それとも天方氏が結城家に行って拝領したのでしょうか?
なかなか興味深いですね。
やはり手っ取り早く言えば「日本人はみんな繋がってしまう」というのですか?
笑
それも何重にも。
そこに今では首藤氏も絡んできたし。ああ、天方氏でしたね。
ホント面白いですね。
六所神社と服部氏と徳川氏の関係については
回答:
>武家の棟梁となった源頼朝が尊崇したため、
>その後も武士の信仰を集め、
>江戸時代に入っても領内の豊作と安全を願って各地に六所神社が勧請された。
これでしょうね。
家康は頼朝の戦略を研究しまくったでしょうから。
秀次じゃないですよ
<29> ↓
天方通綱は織田信長の嫌疑を受けて、切腹の命を受けた家康の嫡子<信康>の検視役を命じられ、
同役の服部半蔵とともに遠江二俣城に赴くことになった。
良く似た名前ですからこんがらがりますね。
ま、服部氏は皆さん 伊賀の出身だとか 平内左衛門家長の子孫だとか 名乗りたいので
一応 定紋が源氏車+並び矢で 替え紋に実は本当の家紋を使ってたのかもですね。
ま、替え紋は、服部家の皆さんが集まる時に使ってたのかもですね。
皆さんが同じ紋だとパッと見た時にどこの誰か分りませんものね。
みんな自称伊賀出身の家長子孫ですから。
だけど、どなたが三つ柏紋を使ってた旗本の服部氏なんでしょうね。
神職系服部氏=貞信系ではないようですね。
ココの替え紋は 字紋 卍 のようですから。
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 14時41分48秒 ) | パスワード |
http://www.iganinja.net/gktorai/
伊賀服部氏は渡来人だった!
(ところどころ意味不明な言葉があって、よく分かりませんでしたが)
以下コピペ:
服部氏は、応神朝前後の渡来人であった。
ちょうど、畿内政権がまとまり、氏と姓による支配組織がかたちづくられるころである。
『永閑伊賀名所記』によると、 「応神天皇の御代に、呉国よりも漢よりも、緒を縫いなども−し、または糸綿もつみひくものを渡せしに、呉国より渡るを呉服といい、漢より来るを漢服といいけり。ともに秦の始皇または後漢の元帝の子孫なるゆえ、それを姓とするとかや」 といアブ。
このさい、呉は高句麗、漢は伽羅、安羅など朝鮮半島南部の国家群、という説はとらない。
直接にはそうかもわからないが、彼らが長い年月をかけ、そこかしこに留まり、混在しながら、はるか西域からやって来たものと考えたい。
同じ意味で、始皇ないし元帝の子孫というのもとらないが、要するに、一一流あっ たことがうかがえる。その一一流はまた、神別・蕃別ということにもなる。
『三国地誌』では、 「呉服部は蕃別にして、子孫、猪の爪を紋とす。猪の爪とは機の稜なり。服部 連は神別にして、その子孫、矢羽を紋とす」 とある。
『新撰姓氏録』では呉服部造は百済国人阿漏使の末で、服部連は妙な 名だが、摸之速[口命十一一世、麻羅宿禰の未だとしてある。
そして、〃酒ノ君″という者が、これらををつかさどったとしてある。
『伊乱記』では、「しかれば、服部氏の祖というは酒ノ君なり」 といっている。
酒の君とはたぶん、秦 酒公のことだろう。
あの不思議な伝説をもち、能楽の始祖とあがめられた秦河勝の祖で、かつ景教をもたらしたかもしれない人物である。
『新撰姓氏録』では、服部氏と秦氏を峻別してあるが、所伝では一体だ。
一体といえば、「諸家生出各別にして、混然として一統の如く、みな服部となる」(『三国地誌』) と、伊賀服部氏は混然一体となったことを伝えている。
国内に断然、勢力をもったと思わねばならない。 勢力をもってきた》」との一つのあらわれは、伊賀国一の宮である敢国神社の奉仕であろう。
この神社の祭礼は、十一一月初卯に行なわれる。花園河原(佐那具)に神輿が出座して、七日間神事が行なわれるが、俗に〃クロトウ祭り″という。
そして、「これを勤むる族は、たとえ凡下なりというとも、賎種を除き、服部氏を免許せるいう。つまり、服部族でなくては、奉仕できないのだ。
クロトウとは、経費が千石もかかるので〃苦労当″とあて、あるいは参加者がみな黒装束にするので、〃黒党″ともあてる。
黒装束はいうまでもなく、忍者を象徴するものである。
祭神はいま、大彦 命、少彦名命ならびに金山比嘩命の三神である。
『三国地誌』では少彦名、金山の二神であるとしている。 はじまりはしかし、上古、伊賀の大族だった阿倍氏の祖、大彦命だけだったと思われる。
ところが、機織をつかさどる少彦名と金掘りをつかさどる金山の両外来神をかついだ服部族が、敢国神社に進出した。
ある時期まで、神社は氏族の中心として、政治・経済・軍事の拠点として、一国の観があった。
服部族は勢力が強大になって、一の宮をも勢力下におさめたというわけである。
源平時代に、服部(伊賀)璃献藤緋剛毅感が出る。
平家に従い、
六条院のとき弓 で名をあげたが、
新中納知盛と乳兄弟だったので、平家が西海で滅びるまで、近侍して働く。
『源平盛衰記』では、壇ノ浦で平知盛とともに果てることになっている。
が、ひそかに生きて帰って、予野庄の千賀地(上野市)に隠れ住んだのだという。
それ自体、忍者的だが、平家の一家人ながら、なかなか勢威のあった人とみえ、「服部平内左衛門家長、武術の名誉多かるゆえに、庶疎盛りに盛りて、府内に蔓延す」(『伊乱記』) 『三国地誌』では、伊賀の服部氏がみな家長の子孫であって、平家の武士から家を 興した、と−)ているのはいぶかしいことだ、とさえいっている。
ちなみに、『寛政重修諸家譜』で見る服部各氏は、ほとんど平氏ということになっている。
この家長の直系を称し、とりもなおさず宗家を名乗る子孫が、名高い半蔵正成である。
千賀地に生まれたので、千賀地ノ半蔵ともいう。
その事績はしかし、『寛政重修諸家譜』で見るかぎり、おおむね徳川家康の忠勇な家来にすぎない。
父の保長は、〃煙の末“といわれた上忍だが、はじめ足利義晴に仕え、その後三河に来て、松平(徳川)清康・広忠・家康の三代に仕えたというから、早いうちに伊賀を出国していたものらしい。
半蔵もしたがって、父に次いで家康に仕えるのである。
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 14時56分58秒 ) | パスワード |
http://www.ict.ne.jp/~hi--no/uhssi/isiker/ukozihci.html
伊賀の服部一族 (伊賀の服部氏には3つの流れがあったんですって)
伊賀で服部といえば 忍者!と早とちりしてはいけない。家康に仕えた「槍の服部半蔵正成」が伊賀者を束ねていたのは事実だ。その父 保長が伊賀出身と言うのも事実だろう。しかしただそれだけ である。
服部一族は諸所に分散し 分家、諸家多くある。住み着いた地名を冠している。
予野の千賀地谷(ちがちだに)に住み着いた者は千賀地服部と称した。保長は千賀地服部の出身と言われている。(宗家ではなく 下の服部とよばれ百姓侍の末であったといわれている。)
上野市服部に小宮神社がある。
延喜式伊賀二十五座に列せられ 伊賀二ノ宮と称せられている。 服部氏の祖神「酒の君」をお祭している。
応神天皇の時代(270年〜310年)に呉国と漢国より絹を織ったり綿糸を紡ぐ女性たちが渡ってきた。
呉国から来た人を呉服(くれは) 漢国より来た人を漢服(あやは)と呼んだ。
この渡来人が所属した部署を部(とり)と 言った。
ゆえに 呉服部、漢服部と書く。
この部とは衣服をつかさどる者に名付けられこの先祖が酒の君で この酒の君が伊賀で領した場所を服部という。
服部氏に三流ありという
・漢服部は平内左衛門相続し平氏 紋は 丸に横二つ切り竹矢筈
・呉服部は服部六郎時定相続し源氏 紋は 左ひとつ巴
・敢国服部は一ノ宮の神事を勤める一族で源氏 紋は八つ矢車
また一説に「伊賀一円服部名字七流にて候」(応仁元年 1599年 米良文書)ともいう。
伊賀平内左衛門尉家長
平知盛の家臣。壇ノ浦では冑を二領着て知盛とともに入水している。
服部村に住んだので服部を称す。
五人の子供がおり
竹野屋(荒木に住す)
宮田(丸柱に住す)
高畠(高畠に住す)
杉本(湯舟に住す) ← 信長を鉄砲で撃った人の一族かしら?こんなような名だったような
小泉(依那具に住す)という。
服部六郎源時定(みなもとのときさだ)
頼朝の従士 服部の産。
敢国服部
伊賀一ノ宮と称せられる敢国神社(あえくに 又は あいくに))の古祭「くろうとう」を勤める一族は服部氏のみという古法が有る。
この一族を敢国服部と呼ぶ。
藤堂采女元則
伊賀上野城代職の藤堂采女は予野の産である。
由緒書きには
源姓 保田氏 実は安田 家紋追州流 今は三角文字 ← 家紋
元則 幼名左十郎 また 佐助と称す 緯は吉次のち元則 実は千賀地半蔵則直の子
とある。
系図
この系図は郷土史家の久保文雄著 伊賀史叢考より作成してみた。
久保先生も 紀州保田家と予野千賀地の関係 は不明とされている。
群書類従系図部には
則宗
伊州名張郡四濃野城主 豊臣秀吉公に仕える 慶長十四年十二月京都に於いて卒 歳四十六 号元亨院雪貞利白居士とある。
名張郡四濃城主とあるが伊賀郡予野城主が正しい。
采女家は予野では千賀地姓を名乗っているが 明治になり保田姓に復姓している。
実質的に予野の千賀地宗家は則直で終わったことになる。
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 15時03分59秒 ) | パスワード |
http://www.iganinja.net/gjkanse/
能の大成者・観世家は伊賀服部氏の出である!
以下コピペ:
秦河勝から何百年かのち、散楽を昇華させる天才が出現した。
観阿弥・世阿弥父子である。
「秘すれば花なり。秘せずぱ花なるべからず、となり」(『風姿花伝』)という有名な言葉がある。
〃花〃と称する秘伝の本義を秘するというわけだが、
「そもそも、一切のこと、諸芸道において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆえなり。しかれば、秘事ということをあらわせば、させる事にてもなきものなり。これを、させる事にてもなし、という人は、いまだ秘事という事の大用を知らぬがゆえなり」と、これほど明確に〃秘の効用〃を説いたものはほかにない。あの造化神のごとき上忍の心を坊篠とさせるものだ。
この観世家は、伊賀服部氏の出である。「伊賀杉内の服部氏に一二人の子があった。上はつぎつぎ早死したので、残った末子を連れ、大和の長谷寺に参詣する道すがら僧に会い、観世という名をつけてもらった」
(『観世系譜ごこれは観阿弥清次のことだが、伸の世阿弥元清の弟の子が幸臼阿弥、その七子に小次郎信光雲という者がいて、この者の画像賛(画中に題する詩文)に、なっている。
伊賀服部という武士出身であることを、多少誇りにしていたと思われる。
この服部氏は、忍者としてもっとも有名な「服部半蔵」の姓である。
陰の系譜の具体的なかたちとして、伊賀者、ひいては伊賀の大族服部氏こそ、忍者の源流を探る唯一の手がかりである。
そこで、もう少しこの観世氏とのかかわりをみてみよう。
昭和三十一年ころ、上野市の「上島氏文書」が紹介された。
整理するとこうである。
一、観阿弥は伊賀杉の内の服部信清の3男で、のち長谷の猿楽師に預けられた
二、観阿弥の母親は、河内国玉櫛庄楠入道正遠の娘である
三、観阿弥の妻は、伊賀小波多の領主、竹原大覚法師の娘である
四、観阿弥の伯父は、服部行心入道で、所領が大和結崎にあった
これによると、観世家諸所伝は納得いくが、注目すべきは、しかし母親が楠正遠という人の娘であるということである。
前にも触れたが、楠入道正遠は正成の父親と伝えられる人物である。
古来、楠木正成ほど有名で、かつ素姓のわからない人物はいない。
わずかに伝えられる『楠木氏系図』では、姓は橘氏、父の名は正遠とある。
すると、観阿弥は正成の甥ということになる。
個人的な伯父・甥の関係ばかりではなく、
楠木一族と服部一族との関係が推察される。
まだ、この文書を裏づけるなにものもない。
また、観世家の服部氏が、忍者(上忍)服部半蔵の系統とどのような関係にあったかも明らかではない。
が、姻戚関係を結んだとしても、決しておかしくないと思われる背景があった。
すなわち前に述べた「悪党」の横行である。
当時活躍した悪党楠木氏が、
同じ悪党の匂いのする服部氏と結ばれて、
なんの不思議もない。
楠木氏は坐どらに、散所(古代、賎視された民の一つ)の長だったという説もある。
だとしたら、賎視されていたにちがいない申(散)楽の座主と結ばれても、これまた不自然ではない。
[44] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月24日 15時53分46秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
名前はよほど注意しないと、こんがらがります。秀次と信康は両方とも涙
をさそう悲劇の主人公なので、私の頭の中ではついつい1つになり、間違え
てしまうことがあります。レス[37]は信康が正しかったです。
織田信長の天正伊賀の乱他の一連の焦土惨殺事件、信康事件、本能寺
の変、伊賀越え、秀次事件、大阪の陣、関ヶ原の戦い、家康の征夷大
将軍、秀忠の擁立はめまぐるしく続いて行きますが、底流ではつながってい
るものがあるような気がします。ターニングポイントは、伊賀越えです。ここを入口と出口として大きく時代が変わっていきます。すべての重要な秘密が
ここに集約しているものと思われます。
それと、一連の激動の時代を俳句の中で振り返っている芭蕉は、色々な裏
の真実を知っていたのでしょうね。世阿弥の悲劇も思い出しながら、また無
情と夢幻の世界の中に吸いこまれそうになりながら・・・。
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 22時53分26秒 ) | パスワード |
>ターニングポイントは、伊賀越えです。
>ここを入口と出口として大きく時代が変わっていきます。すべての重要な秘密がここに集約しているものと思われます
わたくし的には 呉服明神の神職の服部貞信の系が 長く続いたのが不思議です。
この家が秘密を握っているんでしょうか?
そうすると東京の服部さんとお知りあいになりたいですね。
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月25日 06時46分38秒 ) | パスワード |
全くの横レスです。
遠江国横須賀って?
と思い検索してみました。
横瀬 → 由良 → 渡瀬という名に変わった武将がいました。
秀次事件に連座して一代で終わりました。
渡瀬氏
一つ目結(釘抜?)*
(武蔵七党横山氏流/新田氏族・佐々木氏流)
*渡瀬繁詮が自害してのち、渡瀬氏の遺領を継いだ有馬氏の軍旗より。 渡瀬氏の遺領を継承した有馬氏は渡瀬氏の軍旗も引き継いだと思われ、その旗紋を渡瀬氏の家紋と推量した。 江戸時代に久留米藩主となった有馬家では、釘抜紋を替紋の一つとしている。
戦国時代、岩松氏の執事から身を起こし、下剋上によって主家を没落させ戦国大名となった横瀬氏がいた。 成繁の代に足利将軍義輝から書を賜って横瀬を改め由良を名乗るようになった。永禄元年(1558)、越後の長尾景虎(上杉謙信)に 金山城を攻められ景虎に従うようになった。成繁には嫡男国繁を頭に、長尾顕長・矢場繁勝そして渡瀬繁詮と 系図上で四人の男子があった。
成繁のあとを継いだ国繁は上杉謙信に属し、その武勇は謙信に舌をまかせるほどであったというが、 永禄九年(1566)に後北条氏に属するようになった。その後、横瀬由良氏は後北条氏の圧迫に抵抗したものの、 天正十二年(1584)、後北条氏の攻撃によって金山・館林両城を開き退去するにいたった。以後、横瀬由良国繁・長尾顕長 兄弟は後北条氏に仕え、天正十八年(1590)の小田原の役では兄弟ともに小田原城に籠城した。
一方、繁詮も後北条氏に仕えていたが、やがて上方に上って羽柴秀吉の家臣になった。天正十三年(1585)三月の 秀吉による紀州根来攻めに従軍し、羽柴秀次に属して和泉千石堀の戦いで戦功をあげた。その後、秀吉の命で 豊臣秀次付の家老となり、同十八年、小田原征伐にも参加した。戦後、遠江横須賀城を与えられ、三万石(のち五千石を 加増)の大名に抜擢された。
繁詮ははじめ横瀬氏を称し、のちに渡瀬(わたらせ)を名乗るようになった。太田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、 「新田族譜」という本をひいて、渡瀬詮資のところに「渡瀬又四郎、遠州渡瀬村に住す、母は有馬豊氏の女」とある。 渡瀬詮資は繁詮の男子だが、遠州渡瀬村の比定地は明らかではない。また、繁詮は詮繁と書かれることもあり、 別に氏繁・繁勝・重詮とするものもある。
はかない栄耀栄華
遠江横須賀の領主となった繁詮は、千利休に茶道を学び、高山右近と知己でキリシタンであったともいう。一方、詮繁の領内統治には失政が多く、年貢率を上げ、また領内にいろいろな課役をかけたため、訴えられることもあった。しかし、暴政を布いたという逸話は「キリシタン=圧政者=改易」という単純な図式からもたらされたとするものもある。
繁詮は豊臣大名の一人として、文禄元年(1592)の文禄の役には広島城に駐屯、同三年の伏見城工事に携わるなど賦役に活躍した。ところが、文禄四年に起った関白秀次事件に連座し、改易処分となった。そして、常陸の佐竹義宣に預けられることになった繁詮は、旅の途中の碓氷峠で自刃したと伝えられている。わずか、一代の栄耀栄華であった。
なお、横須賀城と三万五千石の所領は、詮繁の家老であり岳父であった有馬豊氏にそのまま安堵され、渡瀬氏の家臣も すべて豊氏に付き従った。形としては、秀次事件に連座した詮繁のあとを、そっくりそのまま有馬豊氏が継いだことに なった。詮繁は有馬豊氏の女との間に又四郎詮資をもうけていたたというが、所領はこの詮資に相伝されなかった。 秀吉にすれば、時代は戦国の余塵のなかにあり、徳川家康への押えという意味からも年嵩の豊氏を渡瀬氏の後継と したのであろう。
その後、有馬豊氏は秀吉に直仕し、秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いには東軍に属して出陣した。そして、 戦後、丹波福知山六万一千石、子の代には摂津領を加えて八万石の大名となった。さらに、大坂冬・夏両陣にも従軍した 有馬氏は、元和六年(1620)九州久留米へ移封され、一躍二十一万石の大大名に飛躍したのである。以後、有馬氏代々は 久留米城に住して明治維新に至った。
上記の通り、横須賀三万五千石の大名となった渡瀬氏に関して、由良横瀬氏から分かれたとするものが通説となっている。 しかし、豊臣秀吉に仕えるようになったきっかけ、摂津有馬氏との関係など腑に落ちないところがある。
播磨渡瀬氏の存在
東播磨の一角美嚢郡吉川町に渡瀬というところがあり、そこに戦国時代の平山城址があり、その城主は渡瀬氏を 称していた。渡瀬城主の渡瀬氏は佐々木氏の祖秀義の末男に生まれた源十郎義範に始まるといい、義範は秀義が 源頼朝から与えられた播磨吉川庄を譲られて来住、地名をとって渡瀬氏を名乗ったと伝えられる。室町時代 の明徳二年(1391)に起った明徳の乱に渡瀬右衛門綱光が活躍、戦後、将軍義満から摂津・播磨の境に二万石の領地を賜り、 渡瀬に渡瀬城を築いてみずからの本拠とした。その後、乱世を生き抜き、渡瀬小治郎好光のとき羽柴秀吉の 中国攻めに遭遇した。
秀吉が干殺しにして落とした三木城合戦が起こると、小治郎好光は別所氏から妻を迎えていたこともあって 別所方に味方した。そして、弟左馬介に兵を添えて三木城に送り込むとみずからは渡瀬城に立て籠もった。しかし、三木城が落ちる前に 秀吉の大軍に攻められて落城、伊丹の荒木村重をたよって落ち延びた。ほどなく、敗残の身を預けた荒木村重が 織田信長に謀反を起こすと、妹が嫁している京の本庄周防守のもとに身をよせた。
やがて三木城が落ちると 羽柴秀次に仕え、有馬豊氏の娘を後妻に迎えた。そして、天正十年(1582)、本能寺の変で信長が斃れ、 山・の合戦が起こると秀吉方として出陣、手柄を立てたという。天正十八年、小田原の陣に参加、戦後、徳川家康が 関東に移封されると、遠江横須賀三万石を与えられ渡瀬左衛門佐重詮と名乗った。そして、秀吉の覚えもめでたい 有馬豊氏が家老として重詮を支えたのであった。
翌天正十九年、豊臣秀次が聚楽第留守居に任ぜられると、中村式部少輔・山内対馬・池田三左衛門らとともに 与力大名となった。ところが、文禄四年(1595)、秀吉の怒りをかった関白秀次が高野山に放逐されたうえに 切腹の処分を受けた。好光も秀次付きの大名としてこの事件に連座となり常陸国に流され、遠江横須賀の領地は 岳父である有馬豊氏に与えられた。 その後、好光は下野宇都宮において自害したため、渡瀬氏はまったく改易となってしまった。 子の忠好は大坂の陣に際して大坂城に入り天王寺の戦いで討死、子の忠宗は渡瀬において帰農したという。
■播磨渡瀬氏参考略系図
渡瀬氏の名残
渡瀬氏の旧臣の多くは有馬氏に仕え、有馬氏が久留米二十一万石の大名に出世すると久留米に移住していったと 伝えられている。先にも記したとおり、有馬氏は旗印に釘抜紋をつけているが、おそらく渡瀬氏の旗印を受け継いだ ものであろう。そして、釘抜とはいうが、 渡瀬氏が佐々木氏流を称していることから「平一つ目結」紋であったと思われる。
渡瀬氏の場合、由良横瀬氏流とするにはいささか無理があり、当時の状況、旗印などの傍証から播磨渡瀬城主の渡瀬氏で あったとする方が、話はスッキリとするのだがいかがだろうか。その真偽はにわかに見極められないが、 有馬氏の運の良さと、旧主であった渡瀬氏の不運をみたとき、人の世にはなんとも抗いがたい運命があることを 感じさせる。 ・2010年08月25日
渡瀬氏の家紋を探る
渡瀬氏の家紋に関しては、大須賀町の三熊野神社に渡瀬氏が寄進した幕があり「大根丸」が 据えられているといい、境内の石灯籠にも同紋が刻まれている。しかし、写真を見たところ 「大根丸」は「三つ丁子巴【左】」の誤認であるようだ。一方、「吉川町誌」の渡瀬小次郎の項には 渡瀬氏の家紋は「三つ藤」を用いたと記されている。三つ藤の出典・意匠は明記されていないが、 なにやら三つ丁子に通じるようで出典と意匠が気にかかる。また、静岡県在住の渡瀬氏から、 大根の家紋【右】を用いているという情報をいただいたが、こちらは「大根の丸」に通じるものがあり 渡瀬氏の家紋の特定は一筋縄ではいきそうにない。
[47] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月25日 12時24分30秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
松平郷の六所神社が気になっていたので、ウィキで調べましたところ、
「古六所(ころくしょ)神社[編集]所在地は坂上町字古社(旧松平町㮛立(そだめ)村)(座標)。神明社末社の小石祠。大簗山妙昌寺古記集によれば、簗山(現王滝町)にある妙昌寺3世住職無染融了(むぜんゆうりょう)上人がシキミの採取のために山に入ったところ、笈を松の木にかけて休息している老人と出会った。無染上人が誰何したところ、自分は奥州鹽竈明神である、と老人は応え、この近隣に住まう氏子の守護のために出張してきたので定住先を選ぶように、と言い残して煙のように消えてしまった。驚いた無染上人はこの話を松平親氏に伝え、松平親氏はまずこの地に奥州鹽竈明神を勧請した後に、蜂ケ峰に地蔵尊6体を勧請して六所大明神としたという。」
と説明書きがありました。
この中でピンと来るもの・・・それは「塩釜」(原文は旧字体で書いてある)
明神である。かの芭蕉も「塩釜」を訪れている。何やら秘密がありそうです。
手元に資料がございませんので、帰宅してからにします─
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月25日 14時17分11秒 ) | パスワード |
どうして塩釜が三河に出て来るんでしょうね?
不思議です。
でも塩釜神社って日本中にあるんですってね。
知らなかったです。
>手元に資料がございませんので、帰宅してからにします─
よろしくね
楽しみにしております。
以下、全然役に立たない情報です。
志波彦神社・鹽竈神社(しわひこじんじゃ・しおがまじんじゃ)は、宮城県塩竈市にある神社(二社が同一境内に鎮座)。
志波彦神社は式内社(名神大社)。
鹽竈神社は式外社、陸奥国一宮。両社合わせて旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
神紋は「塩竈桜」。
鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社である。
元は当地には鹽竈神社のみが鎮座していたが、明治時代に志波彦神社が境内に遷座し、現在は正式名称を「志波彦神社鹽竈神社」とし1つの法人となっている。
鹽竈神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜(シオガマザクラ)があり、毎年当地の報道で取り上げられている。
また塩竈みなと祭の際には、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて松島湾を巡幸する。東北開拓の守護神であり、東北地方で最も多くの初詣客が集まることでも知られる。
塩土老翁神は謎の多い神であるが、海や塩の神格化と考えられる。
神武天皇や山幸彦を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願の神でもある。
以下略
**********************
塩釜明神と松平家の関係:
http://honda1877.digi2.jp/jinjazuki.htm
多くの資料の中から眼に付いたものは、3冊の古文書であった。
その一つは、以下に示す『郷社六所神社図記』であった。残念だが、記述された年代は判らない。
これは、豊田市から発行された資料に一部紹介されていたので、「おやっ?!」と、眼に付いた。
そのほかには、『六所大明神由緒(社掌:酒井高吉監修・明治35年1月)』及び『郷社六所神社由緒 三河八代記(梁山妙昌寺寶物由緒之写』であった。
永和3年(1377)に、松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)が、加茂の地に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀してから、念願の地に安置するまでの間、地元権力者との融和の期間が必要だったのかもしれない。
・・・管理人はそのように推測する。
1367 貞治 6 高月院建立 高月院、足助次郎重宗の子、重政(寛立上人)が松平郷主在原信重の援護を受けて「寂静寺」として建立。 2/高麗、倭寇禁止を要求。
1377 永和 3 松平太郎左衛門親氏、吉木山(現・六所山)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。 8/19'松平太郎左衛門親氏、吉木山(又は芳樹山と称す)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。ご本殿を芳樹の宮と名付け、六所大明神と称した。猿田彦神(さるたひこのかみ)、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)、岐神(くなどのかみ)、日本武尊(やまとたけるのかみ)を、御祭神とする。それまで、吉木山は、そのものを神体山として、古往は大山祗神を祀り、産土神として奉拝していた。その後は、隠居神として同じ山頂の東北にある峰に遷り、八ケ峰神社となった。注:社伝「朝野襃藁(ほうこう)」による。「寂静寺」親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから高月院と改め松平氏の菩提寺となる。 '8/菊池武朝、北朝軍に大敗。高麗、倭寇禁止を要求。
1506 永正 3 親忠に続く、長親、信忠の代まで家督をめぐる内訌。
古瀬間城、この頃以前に築城。 古瀬間城:志賀町城山、この頃、加茂郡(豊田)に進出を目論む松平氏は、岩津城主長沢松平源七郎勝宗の庶子弥三郎宗忠をして、南古瀬間村に出張り、村長(むらおさ)鈴木左京亮重政ともども、新城街道を押さえ、高橋荘攻略の拠点として築城『竜田院文書』。 今川方伊勢長氏、客将伊勢宗瑞(北条早雲)と共に三河に侵入牧野氏の今橋城(後の吉田城・豊橋)を陥落させ、西三河に侵入、松平一族と戦う。(数年に及ぶ)長親、今川勢を退けるが、岩津宗家が滅ぶなど、松平一族は多くの犠牲を払った。こんな中で、名実共に松平総領家となった安城家でさえ長親・信忠の代には家督をめぐる内訌があった。本願寺の強大な三河教団が形成されていて、戦国大名に対抗する程の勢いであった。今川氏の侵入を撃退し検断不入といって、警察権や裁判権を持つという特権を得ても居た。後に、家康が弾圧を試みて、一向一揆に発展する。 7/北陸に一向一揆
略
**********************
六所山は古来より猿投山・本宮山と共に三河国三霊山のひとつとされ、山自体が神体とされて大山積神(オオヤマツミ)など6柱の祭神が奉祀されていた[2]。
現在でも字金姓の小台地にたたずむ一の鳥居は、六所山を遙拝するのに最も適した場所にあり、古代、この地に最初期の遙拝所が建てられたものとも推察し得る[3]。
後に社殿の築造という仏教文化に由来する概念が国内に浸透し、六所山山頂にも社殿が築かれることになるのは遅くとも平安時代末期頃と考えられており、上宮近辺で平安時代から室町時代にかけての土器(かわらけ)片が発見されるのは、この地でこの時代に祭祀が行われていたことを裏付けるものである[4]。
なお、1604年(慶長9年)の『慶長検地帳』には鳥居下という地名がみられることから一の鳥居がこの時期にすでに築造されていたと推定されるが、建立そのものの時期はよく分かっていない。鳥居の両際には長らくマツの巨木が立ちそびえており、2本とも樹齢500年以上と言われていたが、1959年(昭和34年)9月に上陸した伊勢湾台風によって倒れている[5]。
一帯はかつては松平郷といい、松平氏(徳川氏)発祥の地である。
1377年(永和3年・天授3年)8月19日、松平宗家初代松平太郎左衛門親氏が奥州より鹽竈(しおがま)六所明神(鹽竈神社の六所宮の神)を六所山に勧請した上で奉祀したとされる。
それまで「吉木山」「蜂ケ峰山」などとされていた山名が、以降六所山と呼ばれるようになる。
産土神として奉拝されていた大山祇神はその社地を譲って北東の蜂ケ峰に遷され、以来「隠居神様」と呼ばれながら六所神社摂社の八ケ峰神社として存続することになる一方、新たに祀られた客人神の本殿は芳樹宮と名付けられ、六所大明神と称されて、松平氏・徳川氏の氏神として歴代当主の崇拝を受けていくことになる[6]。
早くも1474年(応仁元年)には松平宗家第4代松平親忠が、1520年(永正元年)には松平宗家第5代松平長親が社殿の再建に取り組んでいる[6]。
1527年(大永7年)12月には野火で社殿が全焼したが、このとき松平長親と松平宗家第6代松平信忠は連署の上、松平家一門に対して殿舎再建への寄進を依頼している。
なお、下宮は六所山南麓にある槙ケ田和村(現豊田市花沢町)に鎮座していたのを現在地に移し、当地を宮口村と名付けて社領としたのも松平長親だとする伝承が残っている[7]。
1542年(天文11年)に松平宗家第8代松平広忠に嫡子竹千代が誕生した際に礼拝がなされたといわれる高宮村(現岡崎市明大寺町)の六所神社に対し、竹千代長じて岡崎城城主となった徳川家康は、永禄年間(1558年-1570年)に六所山六所大明神の祭神6柱のうち3柱を勧請し、遷座したという[8]。ただし岡崎市誌によれば、松平広忠寄進状などの史料より1546年(天文15年)以前にはすでに遷座していたことがうかがわれる[9]。
1590年(天正18年)の徳川家康関東移封の後は岡崎城城主田中吉政の支配下に入り、寺社領の没収を受けるが、1602年(慶長7年)に徳川家康より高20石の大明神初穂料を下賜される。
江戸時代に入ると、1617年(元和3年)には松平太郎左衛門家第8代松平由重によって本殿が造営されるのと同時に玄米4石7斗8升3合が例祭料・灯明料として宮口村高より免引され[10]、1638年(寛永15年)には松平太郎左衛門家第10代松平重和によって再び本殿が造営され[10]、1667年(寛文7年)・1683年(天和3年)・1686年(貞享4年)には奥殿藩大給松平家初代松平乗次によって堂宇が再建・改修され[10]、1736年(元文元年)から翌年にかけては奥殿藩大給松平家第4代松平盈乗による堂宇の再建[10]、灯明料として玄米2石4斗の寄進、例祭料として7斗8升3合の免引などがあり[8]、1779年(安永8年)には奥殿藩大給松平家第5代松平乗穏による堂宇の造営[11]、1790年(寛政2年)には奥殿藩大給松平家第7代松平乗尹による堂宇の造営[11]、奥殿藩大給松平家第7代松平乗尹による堂宇の造営[11]、1849年(嘉永2年)には奥殿藩大給松平家第9代松平乗利による下宮における不動一宇の造営[11]、1858年(安政5年)と1861年(文久2年)には奥殿藩大給松平家第10代松平乗謨及び松平太郎左衛門家第16代松平頼載によって本殿の再興・修復、鳥居の再興が行われるなど[11]、徳川家・松平家一門、とりわけ宮口村領主である大給松平家と松平郷を領した松平太郎左衛門家による厚遇ぶりには枚挙の暇がない。
1873年(明治6年)、六所大明神から六所神社と改称する。旧社格は郷社で、1917年(大正6年)には御料林となっていた六所山社有林の払い下げが許可され、翌1918年(大正7年)から1920年(大正9年)にかけて下宮の拝殿及び祭文殿が再建、1921年(大正10年)には県社に昇格している。現在は愛知県神社庁に属し、登記名を宗教法人六所神社としている[12]。
[49] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月25日 14時24分24秒 ) | パスワード |
東京散歩・東京散策
http://www.ee-tokyo.com/kubetsu-23/sanpo/setagayaku/annai/matsuzawa-mura.html
赤堤の旗本服部家に関する情報
伊賀の呉服明神だった服部貞信の子孫の家です
旧松沢村
地域の概要
明治22年に松沢村が成立し、昭和7年(1932)、世田谷区発足時に編入された。江戸時代初期、
赤堤村は松原を含み、旗本服部氏の所領であった。後の領主替えで幕府領となるとともに、松原村が独立した。近代になると、京王電気軌道の開通などにより、住宅地として開発され、大正8年(1919)には松沢病院が上北沢に移転した。
江戸時代末期の村名
松原村、赤堤村、上北沢村
現在の主な町名
松原、赤堤、桜上水、上北沢
松原寺町 関東大震災後に築地本願寺内寺町から移転してきた寺院が集まり、寺町の景観を作り出している。浄徳寺、正法寺、延重寺、常念寺、勝林寺の浄土真宗本願寺派5寺からなる。 松原5−43・46
八幡神社 (区有)桜上水八幡神社旧本殿
万寿3年(1026)の創建と伝えられる旧上北沢村の村社。旧本殿は天明8年(1788)の棟札が残る一間社流造の本格的なもの。 桜上水3−21−6
密蔵院 吉良氏家人であった鈴木氏の菩提寺。観音堂を寺として再建したとされ、寺号を観音寺よいう。 桜上水2−24−6
西福寺 (区有) 木造薬師如来立像 阿弥陀一尊画像板碑
江戸時代初期に赤堤村を所領とした旗本服部氏の菩提寺で、服部氏一族の墓がある。本尊木造薬師如来像は平安時代末期頃の作と考えられる。(非公開 赤堤3−28−29
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月25日 14時33分18秒 ) | パスワード |
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/collections/records/catalogs/pdf/090009.pdf
尼崎にも旗本の服部氏関連があるようです。
どなたでしょう?
芦田義高氏文書概要
2:文書群名芦田義高氏文書
3:出所芦田義高家
5:地名摂津国川辺郡上食満村/兵庫県川辺郡上食満村/川辺郡園田村上食満/
尼崎市上食満/尼崎市食満3丁目
6:行政区分1.幕府領/旗本服部氏知行所/兵庫県第12区/下食満組戸長役場/園田
村/尼崎市
2.幕府領/幕府領・京都所司代領・大坂城代領/(近代以降は「1」に
同じ)
4:家業・役職等近世:上食満村年寄
近代:上食満村区長代理者
7:歴史芦田家の当主は代々「太兵衛」を襲名し、近世には上食満村のうち旗
本服部氏知行所の年寄、近代には上食満村区長代理者などを務めた。
上食満は市域北東部、藻川の西岸、中食満・下食満の北に位置する。
史料上の初見は元和3年(1617)「摂津一国高御改帳」で、これよりさき
1605年「慶長十年摂津国絵図」には上食満の村高をあげて飯満と記され
ている。
8:伝来平成5年(1993)5月、芦田氏より寄託。
10:点数480点(目録件数453件)
11:年代享保12年(1727)〜昭和45年(1970)
12:構造と内容本文書群は@村方文書、A芦田家の私的文書からなる。@のうち土
地・貢租関係では江戸時代の田畑売買証文、明治から昭和戦前期の田畑
宅地の地租領収書が多く、明治10年代の改正地券も含まれる。村政関係
では、庄屋・年寄など村役人の任命・退役に関する領主旗本服部家の申
し渡しや村からの願書があり、治水・水利関係では上食満村内で芦田家
など4軒だけが三平井掛りであるため、溝掘人足負担を村から補助して
ほしいとの願書などが含まれる。
13:関連史料-
1:文書群番号090009
14:閲覧条件原本
9:史料入手先芦田義高氏(原蔵者)
15:作成者中村由佳
尼
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月25日 14時44分57秒 ) | パスワード |
http://a11234842.travel-way.net/jinnja.hudokorotyou.page21.html
こちらは栃木県鹿沼の服部氏関連です。
むかしの上府所村 (現在の下武子町)
鹿沼の歴史 「鹿沼市史資料編 近世1」参考
上府所村
黒川左岸にある。「慶安郷帳」には府所村とあるからその頃までは上・下を含めて一村であった。「元禄郷帳」には高103石余とある。天保9年には家数8軒・人数35人を数えた。
上府所村の概要
「慶安郷帳」に府所村とあるように、もとは下府所村と一村であったと見られる。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに103石余。鹿沼藩領、武蔵岩槻藩領などをへて、元禄期(1688〜1704)には旗本服部氏領。
宝暦13年(1763)に下総佐倉藩領となり、その後幕府領をへて再び佐倉藩領となり幕末に至った。天保9年(1838)時の家数8軒、人口35人。鹿沼宿の定助郷。神社は二荒山神社があった。
参考
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年
むかしの下府所村 (現在の府中町・府所町・府所本町)
「鹿沼市史資料編 近世2」参考
下府所村
「慶安郷帳」には府所村とある。中世の府所郷に対して、近世初頭に上・下府所村にわかれたもので、天保9年(1838)の下府所村の村高は163石余・家数34軒・人数120人、幕末は天領で鹿沼宿の助郷村であった。村内を流れる黒川や武子川の分流による洪水のため、川欠けなどの災害がたびたびあった。また水利に恵まれ水車が営まれている。
下府所村の概要
黒川の両岸にまたがる村域をもち、鹿沼宿の田町と接する。17世紀前半までは、上府所村とともに「府所村」の領域を構成していたと考えられる。「慶安郷帳」では、「府所村」で、田高142石余、畑高60石余であった。ただし、慶安2年(1649)には下府所村として検地を受けており、かつての「府所村」が実質的には上・下の二つに分村していたことがわかる。この検地帳の名請人をみると、肩書きに職種や営業内容を付す者が多く、鹿沼宿に隣接する下府所の百姓が商工業に従事していた様子がうかがえる。また、鹿沼宿からの出作人の存在も想起される。「元禄郷帳」では、下府所村一村で161石余の村高となる。近世前半は阿部重次の鹿沼藩領から武蔵岩槻藩領へと推移し、
元禄期に旗本服部氏領となり、 ← どなた?
伊賀の呉服明神の服部貞信系は武蔵荏原と常陸新治と思ったけど
こっちにも貰ってたのかしら?
一体どなたの?
文政期に改革組合村ができて以後は幕府の支配を受け、幕末を迎える。黒川の洪水の被害を受けやすく、洪水対策をめぐっては、隣接する田町と共同歩調をとることが多かった。
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月25日 15時03分47秒 ) | パスワード |
<51>の鹿沼
鹿沼市の紋章ってなんと!六芒星がもと?
鹿沼市の市章http://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%A0%83%E6%9C%A8%E7%9C%8C%E9%B9%BF%E6%B2%BC%E5%B8%82%E5%B8%82%E7%AB%A0.svg
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月25日 15時13分47秒 ) | パスワード |
木村氏のことが偶然目に入りました。紀氏系だとかいろいろある中に
服部氏流の木村氏も存在するそうです。ここは源氏を称しているそうです。
その部分:
摂津国武庫郡本庄村青木の古代氏族物部氏の末裔。
紀伊の名族鈴木氏流、
古代名族日下部氏流、
服部氏流などがある。
へえ〜
↓
服部氏流の木村氏は清和源氏を称して、のちに粟津、さらに外家の号をもって木村を称するようになったものという。
東北の木村氏は岩代国田村郡木村から起こった田村氏重臣の木村氏、南部氏譜代の木村氏、陸前国遠田郡の豪族木村氏が知られる。そして、これら木村氏の支流が各地に広まって、木村氏は大姓のひとつに数えられるようになったのである。
木村氏の家紋は、
近江源氏佐々木氏流が「目結」、
秀郷流が「左三つ巴」を用い、それぞれの出自が家紋によくあらわれている。
その他、日下部氏流は丸に違い矢、
↑
逆なら納得するのにねえ
↓
服部氏流は松皮菱などを代表紋とし、
丸に釘抜き、花輪違いを用いる木村氏もいる。
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月25日 15時27分58秒 ) | パスワード |
http://gos.but.jp/hattori.htm
岡山の服部氏だそうです。下の画像に家紋がちらっと見えますが、見たことのない家紋と思います。
でも墓石の高さからはかなりの家格の服部氏だなと。
昔は身分によって墓石の高さも制限がありました。
花房職之は宇喜多家の内紛から、佐竹氏に預けられますが、
この時に家康のはからいで、次男職直は江戸に残されました。
職直は、家康の四天王の1人と云われた榊原康政の口添えで旗本に列し、
その恩に報いるために榊原と改姓しました。
その後、上杉征伐や大坂の陣で活躍し、関東に800石、
また、元和3年、父職直の死後、備中都宇郡内に1000石を分与してもらい、三本木に津寺知行所を設置しました。
新たな服部氏
↓
この知行所陣屋跡は「代官屋敷」と呼んでいますが、この責任者(代官)が服部家の先祖です。
寛永7年に死去した賢清は、都宇郡加茂村上新庄畑田(岡山市新庄上)で庄屋を勤めた西田家から養子に入った人です。
古戦場備中府誌によると、もともと、新庄上の帝釈山城主に服部善兵衛尉という人が居て、これが服部家の先祖のようです。
善兵衛尉は、高松城の水攻めの際に、両陣営の連絡係を勤め和議に持ち込んだ裏方だったようです。とすれば、江戸時代の服部家代々が住んだ三本木という所は、生坂清水家の先祖が行動を共にしていた生石家の旧領でもあり、戦国時代にさかのぼる縁故の家ということになるかも知れません、
また、服部家と岡山市三手の渡邉家も縁戚関係になるそうです。寛政4年に死去した源蔵の義兄弟になる井手和平宗信が西田如竹と号しているのも、西田、服部両家の複雑な親戚関係を証明しています。
江戸中期から末期まで代官(大庄屋)を勤めた家は上記の系で、九右衛門を襲名しているようですが、墓碑からは「甚左衛門」を襲名した株家もあったことが解ります。甚左衛門を襲名した服部家は御野郡福富村にもあり、同所にも則武姓があること、その隣接地を尾上則武家が開発していることなど、福富村の服部家も津寺服部家と同族ではないかと思います。
代官服部の墓碑に並んで新しい服部姓墓碑群が並びます。その間に古い墓碑がいくつかあり、それらを解読してみました。
**院顕實信士 寛政元年七月十八日
**院妙實信女 闢祖服部又兵衛娘同名照女 明和元年八月十一日
**院了悦信士 加茂村由岡崎来同名安兵衛 寛保二年十月十八日
という三人の仏様を合祀したお墓があります。それに
「服部妙實五代孫同名仙左衛門安政二年再建」
とあります。
闢祖服部又兵衛は元文三年に亡くなっている又兵衛で、中島村林幸助に嫁ぎ(を婿養子に迎え)、夫が早世したので岡崎安兵衛を後夫に迎えて(林姓で)分家したようです。
仙左衛門父、喜三治も林姓を名乗っていますので、跡入り婿の実家の姓林を幕末まで名乗られ、その後服部に復したと理解しました。
次代が、
**院清光信士 文化二年九月二十日林氏
**院妙等信女 安永四年十二月五日
次々代が、
**院真浄日*居士(高松)服部喜三治文久二年歿年六十五
**院妙浄日*大姉 上足守瀬原広八郎娘 服部勝太郎祖母明治十七年歿
次々々代が仙左衛門、**院了悦信士と**院顕實信士をそれぞれ一代に数えると、仙左衛門が五代目になります。
**院清光信士は九右衛門宣之と従弟になるようです。
琢士、保太郎と養子が2代続きますが、保太郎は離縁復籍し、娘さのも白井家に嫁いだので、本家は絶家となりました。琢士の通称は貞四郎(琢士)は幕末の津寺村名主を勤めています。
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 04時11分23秒 ) | パスワード |
土地勘が無いからトンチンカンなレスばっかりやってます。
大恥
赤堤の旗本の服部氏のサイトに
>善性寺から西は高台で、
>以前は赤堤村字陣屋跡(江戸時代、左兵衛以来旗本服部氏がここに陣屋を置いていた)といい、
>「砦山」と呼ばれたところである。
と書かれていたから 伊賀の呉服明神の服部貞信の子孫のことだろう と思っていたら
大成建設のサイトにもっと詳しく素晴しい情報が書かれていました。
http://www.taisei.co.jp/about_us/library/column/tower/2005/1168584051158.html
大成建設のサイト
赤堤と 松原の 今 昔
田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
『万葉集』の山部赤人やまべのあかひとの歌で、静岡県の田子の浦から雪の富士を望んでいる。ところが奈良時代の富士は、一方で噴火活動を続け噴煙を上げていたらしい。同じ『万葉集』に、こんな歌もある。
我妹子わぎもこに 遭ふよしをなみ 駿河なる 富士の高嶺の 燃えつつかあらむ
かわいい恋人に会えないので、私の胸は火を噴く富士のように燃えると訴えている。
関東地方では有史以前から富士や浅間などの火山が噴火して火山灰を降り積もらせた。これが関東ローム層と呼ばれる赤土の堆積である。だから赤のつく地名も多い。
ココね
↓
世田谷区の赤堤あかづつみは、世田谷吉良氏の出城があって、赤土の堤に囲まれていたからだという。
ここの古刹、西福寺(同区赤堤三‐二八‐二九)には、戦国時代末期の天正十二年(一五八四)に高野山金剛峰寺から送られた文書があって、そのあて先に「赤堤村西福寺」と明記されている。
この人
↓
江戸時代に入ると支配者が替わる。旗本の服部左兵衛貞信の知行地になり、
新しく作られた玉川上水から灌漑用水が引かれ、新田も広がった。
世田谷吉良氏の旧臣だった松原佐渡守の一族は帰農して赤堤村内に開拓地を作り上げた。
これが松原村の起源で、元禄(一七世紀末)のころ赤堤村から分離独立している。
明治以後、この地域は首都東京の後背地になり開発はやや出遅れた。大正四年、京王電鉄の新宿‐調布間開通の際、電鉄が地元の協力者に電灯供給の特別サービスをした。これが松原の電灯第一号になったとか。
いま松原は、北に京王線、南に小田急線、東を井の頭線、西を東急世田谷線と電車路線に囲まれる、交通至便の近郊住宅地である。
(掲載号:08月11日・18日合併号)
以下が最重要!
荏原郡赤堤村。明治22年「市制町村制」により荏原郡松沢村の大字。昭和7年松原村の一部をあわせて世田谷区赤堤町1〜2丁目。同40年新住居表示により赤堤町1〜2丁目に松原町3〜4丁目・世田谷町2〜3丁目・上北沢町1丁目の各一部を併せた町域を現行の「赤堤」とした。
赤堤って場所は武蔵国荏原郡にあったのですか。
これが分らなかったからトンチンカンなレスばっかりしてました。
大恥 穴があったら入りたい というのです。 赤面
寛政重修諸家譜に
貞信は遠江浜松で 160石 後に 武蔵国荏原に采地を移されて
子の貞富が武蔵国荏原と常陸新治で400石を貰って
貞富の子の貞世が1250石もらって
と書かれていたのでずっと後の子孫が赤堤に陣屋を構えたのだと勘違いしてました。
荏原郡赤堤村 = 世田谷区赤堤町。
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 04時31分40秒 ) | パスワード |
http://pcr.lar.jp/kyoudo/wkd02_rekishi.html
武蔵・相模の話らしいです、秦野とかの。
2.2 歴史時代の武相
2.2.1 秦野と秦人
2.6.村落住民の組織管轄沿革の解説
作成者注記:以下の重量換算で出る「石高の重量換算値」は現代の標準的な換算値を使用しています。 米の量を言う石は本来容積であり、また桝の容積は時代によって違うことがあるので御注意ください。また村高は村の全生産量ではなく年貢米の量です。
以下に小田原北条氏に仕えた「服部太郎」なる人物が出てます。
どなた?
旗本になっているそうです。
四之宮 往古の事跡は詳らかでない。
永禄年間小田原北條氏の臣服部太郎の領地に属す、その後天正18年豊臣氏の東征して北條氏及ぴ関東の豪族皆滅亡した。
同年8月1日徳川氏関東に遷り府を江戸城に開くに及んで、服部氏徳川氏に仕へ旗本に列せられてなおこの地を領した。
文禄年間同氏検地して村高533石4斗7升9合80,022kgと定めた、延宝2年に至り本高の内55石8,250kgを分割して次男擣次郎に与えた。その年服部太郎の釆地さいち;領地、以下同じは悉く上地幕府の直轄地、以下同じとなり幕府徳川氏の直轄に属した。由て代官成瀬五左衛門をして支配せしめた、享保7年高64石7斗1升9,707kgを旗本竹尾四郎兵衛采地に給い、高413石7斗6升9合61,960kgを姫路侯酒井雅楽頭領地に賜うた。同13年酒井氏の領地は幕府直轄となり、同年高337石9斗4升5合50,692kgを旗本杉浦出雲守采地に高276石8斗2升4合41,524kgを河越侯松平大和守領地に賜うた、文化11年松平氏の分はまた徳川氏に返し天保14年これを小田原侯大久保加賀守領地に賜うた、
明治まで続いた旗本服部氏
↓
明治元年大政維新のさい旗本服部、竹尾、杉浦三氏の釆地は一旦韮山県に属せしが、その年12月神奈川県所管に転じた。
大久保氏領地は小田原藩の管する所となり、同4年7月14日藩を廃してさらに小田原県とし、その年11月14日全村ことごとく足柄県に移った。同9年4月18日神奈川県の所管に帰した。
番外の服部氏には
人を殺して伊賀から出奔して今川義元に仕えた服部家高・康次系と
蘆田信蕃に仕えた服部正吉(重好) 天正10年北条氏直と戦った人
がありますが。
この場合、場所的に、服部正吉系でしょうか?
この2家も旗本ですけど。
あとワケ分らない服部氏に直次・直盛(家光の時に大番になった)がいますが。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 05時32分38秒 ) | パスワード |
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/6213/sinobi.htm
三つ柏さんが前にお書きになった 上服部 中服部 下服部 の答え?
服部半蔵正成
伊賀上忍 「徳川隠密頭 忍者頭目」 また伊賀組同心八千石の旗本。天文十一年(1542)生れ。
服部氏は、平家の伊賀平内左衛門家長からはじまっており、
家長の子保長には三人の子(平太郎尹行)、 (平次郎康頼) (平十郎安則)、
それぞれ 上服部(平太郎尹行)、中服部(平次郎康頼)、下服部(平十郎安則)元々服部氏は伊賀の大庄で、機織を中心に文化をもたらしたと言われる。
保長の子供の文字が、それぞれ 尹 康 安 であるのは 読みは全部「やす」?
保の子の長男系は「尹」の字を使い、次男系は「康」の字を用い 十男系は「安」の字を使ったのでしょうか?
で、みんな「やす」から始めたとか?
ま、通字でどの系統か分りますよね?
伊賀で人をあやめて出奔して駿河国で今川義元に仕えた服部康高は保長の次男系?
この項、人物と年代が間違っていると思いますが(謎)
↓
半蔵の父半三保長は上忍であったが、伊賀を出て、将軍足利義晴に仕える。
そして伊賀の乱、天正九年(1581)に敗れ、三河に逃れた後、松平清家の元へ行き、
広忠、家康に仕えた。
↑
天文18年=1549年=に亡くなっているんですが
そして清家って誰?
半蔵は保長の五男で、後を継いで、家康に仕えた。
半蔵の初陣は、十六歳の時で、三河宇土城の夜討、遠州掛川城攻め、姉川の役、長篠の役など、徳川家の戦にすべて参加し手柄をたてる。
しかし、これは忍者というより、武将としての手柄で、
忍者らしい働きとしては、武田家の隠密、竹庵という者が潜入したのを討ち取った事位である。
天正七年九月、二俣城で家康の子信康が自害した時、半蔵は検使として赴いた時、あまりに哀れで介錯出来なかったので、共に行った、天方山城守が介錯した(この時、介錯した刀が村正と言われる)。家康は「鬼の半蔵も主人の子の首は打てなかった」と語った。
天正十年六月、本能寺の変の時は、家康と共に堺にいた。周りは明智勢や野武士、土民等で帰国するにもできなかった。その時半蔵は、伊賀、甲賀の者を集め、御斎峠から伊賀を経て、白子浦から家康を無事帰国させた。この伊賀越えで手柄をたて、千貫の禄が与えられ、半蔵はその取締役を任命された。伊賀組同心の始まりである。慶長元年(1596)十一月 没 五十五歳
村正
伊勢国桑名(三重県桑名市)の人。1490?〜159?頃までの約九十年間、三代にわたって活躍した。また、村正は、徳川家に不幸を招く刀として、有名である。
村正系と言うべきか、村正派と言うべきか、とにかく村正の切れ味は最高で、徳川家の家臣本多平八郎忠勝の槍も村正の一門、正重作である。、この槍には、蜻蛉(トンボ)切という名がついていた。この蜻蛉切のいわれは、平八郎忠勝が合戦の合間、槍を立てて休息していると、その槍の穂先に一匹の蜻蛉が触れたところ、真っ二つに切れたところからついた。
どのような災いが、徳川家にもたらされたのか。家康の祖父清康が、天文四年(1535)家来の阿部弥七郎に、誤って殺されてしまった。この時の刀が村正である。また、家康の父広忠は、岩松八弥という家来に村正の脇差で怪我をさせられる。家康も二回村正で怪我をする。そして家康の子、信康を介錯したもの村正で、このようにして村正が徳川家に対し、数々の災いをもたらした為、妖刀と言われた。しかし、島津など、徳川をよく思わない外様大名は、好んで持っていたと言う。また、村正の刀を持っているのが、徳川に知れると、叛意があると思われるので、名を消したり、改名して所有していた。
百地丹波
伊賀上忍 生没不詳 天正九年(1581)九月の伊賀の乱で死したといわれる。
百地氏は服部氏の一族であると思われる、
それは百地氏の家紋が七曜星に二枚矢羽根、服部氏の家紋も矢羽根である。
戦国期の丹波は三太夫の名前「絵本太閤記」で登場するが、
忍者ではなく、ただの郷士で石川五右衛門の奉公先としてである。
天正七年(1579)九月、織田勢の第一次伊賀攻めのとき、
丹波は鬼瘤峠で織田勢めがけ弓、鉄砲で攻撃し、
敵の大将柘植三郎左衛門は戦死、織田勢は敗退した。
同九年九月、織田勢は信雄以下、四万四千の大軍で攻め込んだ。
今度は、先年の失敗もあるので、大砲も持ち込み刃向かう者すべてを潰し、
神社仏閣を焼、僧侶男女の区別無く殺害した。
丹波は比自山、柏原城、と逃れ、最後まで織田勢に抵抗したが
十月二十八日に開城、降伏した。丹波の最後は解らず、以後消息を絶った。
俗説、丹波は藤林長門守の一人二役で生き残ったともいわれる。
藤林長門守
伊賀上忍 生没不詳 湯舟(三重県阿山郡阿山町)を本拠として、伊賀北部を支配した土豪
上忍とは、音もなく、人に知れる事も無く、勇ましい武勇も無く、功績も記されず、と言われる。
実際の上忍の働きは解らない。ことに藤林氏のことは余りにも知られていない。
一つ登場するのは、「第二次伊賀の乱に東湯舟村 富士林氏」として見られるくらいである。
伊賀の乱では甲賀の多羅尾氏とともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあるが、
戦って滅んだ百地三太夫と同一人物ではという説があるので、面白い人物である。
[60] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月26日 06時09分54秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
世田谷赤堤の旗本服部氏、摂津尼崎の旗本服部氏、栃木鹿沼の旗本服部氏、
岡山の旗本服部氏・・・よくぞ調べていただきました。彼らは土着とは限り
ませんので、つながる可能性はありますね。柏紋かどうかは現地調査をすれ
ばわかるかもしれません。それにしても、鹿沼市のダビデ紋にはおどろきで
す。
さて、塩釜の件ですが、小林久三氏の『天下統一の闇史』(この本は小林氏
の渾身の一作)の中に書かれておりました。要約すると、
1.松平家に入った徳阿弥親氏は、鴨氏であった。
2.元々の松平氏も鴨氏であった。
鴨氏は山城で秦氏に吸収されたが、拒んだ一派がいて、尾張・三河方面
に移動して行った。
鴨氏は塩釜(製塩用の釜)等の鋳鉄製品を作る技術者集団だったのだろう。
彼らは矢作川をさかのぼり松平郷に達したのである。
3.徳阿弥は一族との結束を強化するため、陸奥国塩釜神社から勧請して、
六社神社を創建した。鴨氏は古代から塩焼き釜を作っていたのだ。それ
が一族の原点でもある。
4.この六所神社は一度焼けたが、再建された時の奉加帳には「松平一党の
氏神、先祖崇拝の霊社なり」と記されている。
5.松平氏は、まさしく鉄を産み出し、川沿いに放浪して歩く産鉄集団だっ
た。なぜ川沿いかというと、アシやカヤ、ススキ等のイネ科、ガマ科の
植物の根には、褐鉄鉱が含まれ、これを原料にして野タタラで小規模な
製鉄が行われた。徳阿弥は鋳物師集団も引き連れていたはずで、要する
に彼らは古代で大型の塩焼き釜―塩釜を作る集団であった。
ということで、「塩釜」がその後の徳川家にとっても特別な意味をもつ、
つまり祖先の霊を思い起こさせるものだったのだろう。
なお、大加茂真也氏の『八咫烏の超日本史』によれば、陰陽家・葛城賀茂
氏系図の中に、氏親(松平)が載っているということである。
また、仏教的には、「六」というのは「完全数」である。例えば、「六道」
「六地蔵」とか、結局ダビデマークも六角形で「六」なのである。
とりあえずはここで。
[61] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月26日 06時27分40秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
レスがスレ違いました。またまた読み応えのある情報をありがとうござい
ます。解読いたします。尊徳の仕えた家老の服部氏は太郎の関係者でしょう
か・・・?
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 09時37分37秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
・「塩釜」とは 製塩用の釜のことですか。驚
そして徳阿弥親氏は鴨氏で流れ者の鋳物師でしたか。
なるほどね
それで正体がいまいち不明な人物だったのですね。
さすが!アタマ冴えてますね!
・ >>>尊徳の仕えた家老の服部氏は太郎の関係者?
この服部氏を忘れておりました。
大久保家に仕えた家老でしたね。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120726/wec12072616300000-n1.htm
以下コピペ:
ココ 服部十郎兵衛 1200俵取り 実態は403俵 借金 250両=米700俵相当 あらら・・・
↑
小田原藩家老、服部十郎兵衛に奉公した二宮金次郎(尊徳)は31歳で結婚した。
相手は19歳の中島きの。そのころには所有する田畑は、3町8反(3・8ヘクタール)を超えるまでになっていた。一時は離散した二宮家は再興し、さらに身代を増やしたと言っていい成功ぶりだった。
「その手腕を以って、わが家の家政も見てくれぬか」
主人の十郎兵衛からそう言われたのはその年の暮れである。薄々は感じていたものの、服部家の台所事情は相当に苦しいものだった。
元々は米にして1200俵の禄(ろく)を食(は)む大身の家である。
が、藩の財政難に伴って禄の借り上げ、返上が続き、
そのころには403俵の扶持(ふち)しかなかった。
それで家老職の体面を保とうとするのだから、商人からの借金が膨らみ、250両にもなっていた。
当時の相場で米700俵余りに相当する額である。年収の2倍近い借金に、十郎兵衛はついに音を上げたのだ。
だが、金次郎は迷った。武家奉公したとはいえ、農民の身分で武家の、それも家老職の家の家政に当たるには相当の覚悟が要った。倹約を強いるにしても、家人が従ってくれなければ役目は果たせない。新妻を残して服部家に住み込むことにも不安を覚えた。
続く
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 09時46分21秒 ) | パスワード |
続き
「5年という約束でよろしければ」
そう返事をしたのは年が明けてからである。その後すぐに、服部家の収入と支出を記載した帳面を何年分も調べた。5年で米700俵余りの借金を返すのだから単純計算では、収入の6割程度で暮さなければならない。つまりは徹底した節
約が不可欠ということだ。
「今後5年間、ハレごと以外の食事はめしと汁、着る物は木綿に限ります。必要でないことは一切、しないことと致します」
金次郎は主人から家人、使用人に至るまで、この方針を徹底させた。家中の灯りを早めに消して油代を節約したことは言うまでもなく、女中たちには釜の底の汚れを落すように徹底した。底がすすで汚れていれば、余計に薪(まき)が必要になるのである。
金次郎の措置はさらに人間通らしかった。そうして薪を残せば買い取って、金子を与えたのである。今風に言えば、成果主義の導入で家中の士気を高めたというところだろう。そこに言葉を尽くしての説明も忘れなかった。
「無駄をなくして、その物が持っている性質、良さ、特徴を生かすこと。それが倹約というものだ」
このころ、金次郎は経済的に苦しむ他の藩士たちのために、五常講という仕組みをつくってもいる。金を出し合って積み立て、困った人が出ると貸し出すという方法で、今日の信用組合に似たものである。
五常というのは、人として行うべき5つの道という意味で、
仁(優しい心がけ)、
義(正しい心)、
礼(感謝の心)、
智(工夫と努力の心)、
信(約束を守る真心)のことだ
と金次郎は説いた。
これらの道をお互いに守れば、貸した金が戻らないことはないだろうということで、貸付は無利息だった。実際は、返済が終わると礼として余分に金を差し出す人が多く、それがさらなる運用資金になった。
五常講は、金次郎が学んだ儒学の道徳性と、実学で身につけた商才が一体となって出来た制度と評価される。これが、後に各地で出来る報徳社の基になる。世界最初の信用組合が出来るのは、1864年のドイツでだが、五常講はそれより40年以上も早く生まれている。金次郎の、さらには日本人の先進性をうかがわせる逸話である。
二宮金次郎(尊徳)が5年の約束で引き受けた主家・服部家の建て直しは結局、借財の解消までに35年の年月を要した。
主人の十郎兵衛が、小田原藩主、大久保忠真の老中就任に伴って江戸在勤になったため、出費がかさんだのである。
苦闘する金次郎には慶事もあった。建て直しを始めた文政元(1818)年の11月、忠真が領内の手本となる者として表彰した13人の1人に選ばれたのだ。水害のために没落した二宮家を再興したこと、信用組合の原型とも言える五常講をつくって藩士たちを救ったことなどを忠真は評価していた。
〈その身はもちろん、村ためにもなり〉
賞詞にあった表現に、金次郎は働く真の意味と目標を再認識したと言われる。今までは自分のために働いてきたが、それが結果的に世の中のためになっていたことに気付き、だとすれば世の中のことを考えて働けば、結果的に自分のためにもなるのではないか。そう考えたというのである。32歳の開眼だった。
金次郎が年貢用の枡(ます)の統一を忠真に具申したのはその2年後である。忠真が藩政改革について、領内から意見を募ったことに応じたものだった。
当時、小田原藩内では18種類もの枡が用いられ、農民が決まり通りの米で俵を作っても、藩の検査で不足を指摘されることが多かった。藩役人の不正もはびこりやすかった。この不備は父の利右衛門が生前に何度も言っていたため、金次郎は3杯で1俵になる枡を設計して献上した。
その才覚に改めて注目した忠真は、藩財政の建て直しを命じようと考えた。江戸期の大名家の例に漏れず、小田原藩も勝手向きは苦しかった。しかし、農民・金次郎の起用に重臣らが猛反対した。あきらめきれない忠真が思いついたのは、分家の旗本・宇津家の財政再建である。
宇津家の領地は下野国(栃木県)桜町。石高4千石で、年貢米は4千俵余りが取れる地だが、荒廃して取れ高1千石、収められる年貢は1千俵そこそこという惨状だった。忠真は度々、家臣を送って再建しようとしたが、成果が上っていなかった。
服部家の家政を立て直す際、それまでの帳簿を丹念に調べた金次郎は、この依頼に対しても入念だった。約200キロ離れた桜町まで8回も出かけ、領内3つの村を隅々まで回った。農民が逃散して荒れた農家や、人の手が長年入っていない田畑、日々の暮らしで精一杯の領民らを見て、金次郎が宇津家に頼んだのは年貢の猶予である。
具体的には、年貢を今まで通りの1千俵にしてもらえば、10年後には2千俵にするというものだった。改革に取り組んでも収穫は徐々にしか増えず、その増加分を年貢として取り立てられれば、農民の勤労意欲が殺がれて建て直しはできない。生産力再生のためには10年間、余剰分を農民に分配せよという主張である。それは同時に、その間は領主や家臣らは倹約せよ、というものでもある。
金次郎の家や藩の建て直し方法は報徳仕法と呼ばれるが、考え方の根本は「分度」と「推譲」から成り立っている。分度とは、支出は収入に見合ったものでなければならず、そのためには生活の無駄を排して計画的に支出しなければならず、そうすれば必ず余分が生まれるという考え方である。分度生活で金や土地が得られると、まだ立ち直ることができない人々の再建基金に当てる。これが推譲である。この分度と推譲が組み合わされて初めて、家や村が救われるというのが金次郎の思想だ。宇津家に求めたのはまさに、その思想の実現だった。
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 09時57分16秒 ) | パスワード |
大久保忠真
小田原藩主、加賀守。大阪城代、京都所司代、老中など幕府の要職を歴任しました。特に晩年は老中主座を務め、名君と慕われました。藩政においても農民二宮尊徳を登用しました。
初代大久保忠世から数えると11代目にあたります。
↑
11代目ですか
多分二宮尊徳の偉人伝を読めばこの家老の服部氏のフルネームが分るのではないかと思います。
それから大久保家に代々仕えた服部家を探すのも良いかと思います。
[65] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 10時05分02秒 ) | パスワード |
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/5017/
二宮尊徳の話:
尊徳先生 小田原藩家老服部家の家政改革を行う
○二宮尊徳先生が、服部家で林蔵という名前で若党をしていたときの事である。
小田原では家老などの大家では、年末の勘定やらは一々計算せずに、来年の収入高から入用だけの金を勘定奉行か何かに借りてくるのが普通でした。
ちょうど50両の金が入り用なので、金次郎を使いにやりましたが、奉行が出てきて「受け取りを持ってきたか」といいました。
ところが、金次郎はにわかに顔色をかえ「拙者が使いとして参ったのに、受け取りは入りますまい。意外なことを承るものかな」と不服を唱えた。
「しからば金は確かに渡す。汝のような者なら決して間違いないだろう」と快く渡したという。
○勘定奉行は、金次郎が律儀なのとしっかりしていることに感服した。
そこで服部氏の家に行ったとき、
「ここのうちには、なかなか立派な若党がいますなあ。一家の出納もこの男にやらせてみてはどうでしょう。」というと、
「なるほど金次郎という男は、いつも独り言をいって人のやっていることを笑っている。きっと胸に何か考えていることがあるに違いない。おさん(下女)のことでも、下男のことでも、やらせてみると何一つできぬことがないという男です。ひとつやらせてみましょう。」
そこでまず勝手方(台所)の元締めをやらせた。
すると第一に山男の取り締まりを始めた。小田原藩では、箱根の山が近いから、家老などの家ではたくさんの男どもがいて、別に一日どのくらいという定めがないから、途中で背負いかごを預けて、箱根街道でかごかきのアルバイトをする者が多かった。すると小銭が入るから、バクチをする、遊女遊びにふけることになる。
金次郎は、まずこの山男を取り締まって毎日山から採ってくる薪の量を決めた。山男も仕方がないから、嫌々ながら採ってきた。
(佐々井典彦氏によると、文化12年2月に、服部家を去り際に作った「御家政御取り直し趣法帳」に、中間三人のうちの一人が「山御仲間」となっており、年間経費見積もりに「炭48俵」はあるが、薪代がないことから、この話の信憑性が裏付けられるという)
第二に、おさんどんに勧めて毎日トタン箱に一杯ずつ墨鍋をコソげて集めると、天保銭一枚をやることにした。するとおさんらはしきりに鍋や釜のお尻をコソげて、いつでもきれいに磨いている。
薪はよく燃えて無駄にたく必要がないから、薪の入用が違ってきた。そこでその中から山男に褒美をだした。
おさんも喜び、山男も喜んで、勝手元がまず整ってきた。
それから、第三におさんの夜業を取り締まった。それまでも夜になると糸車で糸をひかせていたが、一晩にどれほどという決まりがなかったため、のんべんだらりと居眠りしながら引いていた。
金次郎は、日に何ほどの分量をやらねばならぬと決めて、それより余計に手間料をとらせたので、おさんらも励みだした。
金次郎のやり方は、まずこんなものであったという。
(佐々井典彦氏によると、
文化11年の「五常講」の記録によると、
各人別の褒賞品が出ている。
女中には、足袋、手拭い、髪付け、手だらいなど、
下男にはそろばんなどである。
また、藁を月々二荷ずつ仕入れて、男たちに夜なべで縄をなわせる。
800文の藁が、6貫540文と8倍以上に売れ、これを共同資金にした。
同時に夜遊びの癖がなおるというのである。
尊徳先生のこうした工夫は、後に桜町の仕法で、精励する者へ鍬や鎌を褒美として与えたり、夜なべに藁をなうことを奨励することにつながっていく。
いわば、この服部家での工夫が、仕法において人々を奨励しながら仕事に励ませるという方法の原点になるといってよいかもしれない。
○(「随感随筆」より)
尊徳先生が、服部家の家政改革に従事していたとき、飯炊きの女にこう言った。
「釜や鍋の底に付く鍋墨だが、おまえはつとめてとってくれ。一升になったら、2銭で買ってやろう。何升でも持ってきなさい。」
女中はなぜ鍋墨がいるかわからなかったが、毎日削り落として貯え、一升になると持っていった。
尊徳先生は約束通り、買い上げておき、人知れず竹藪に穴を掘ってそれを埋めたという。これは理でさとすより、むしろ利で誘ってこれをさとし、行いやすく、守りやすくさせ、結果として薪や炭の節約になったのである。
○佐々井信太郎氏の「二宮尊徳伝」にはさらに細かい話がのっている。
尊徳先生が小田原藩士のある女中から、小遣い銭の借用を申し込まれた。
先生はその入用の理由を聞いた。女中はその理由を話した。
先生はいかにして返すかを聞いた。女中は給金で返すと言った。
給金は親元からすでに借りられていた。尊徳先生が問いつめると、女中は返済の方法に迷いかつ嘆いた。先生は返済の方法を教えた。薪炭の節約であった。
薪炭の現在入用平均高にて主人から請け負う。たき方を研究して節約する。鍋炭をを削り落とす。このようにして返済しなさいと教えた。
そしてたきかたを聞いた。女中は無造作にたいている旨を答えた。
先生は薪は全部燃焼して煙を出さないようにすること、まず3本にて鍋の底に丸くあたるようにすること、薪を去った後の火力、消し炭の利用を教えた。
そして節約した薪はまたこれを主人に売ればよいと教えた。
数日後、尊徳先生はその実況を視察したが、鍋炭が落としていなかった。そこで先生はなにほどかで鍋炭を買うことにした。いらい鍋炭は残らず落とされた。そこで始めて小遣い銭は貸し付けられた。
そして「借りた金は人の道である五常の道によって返済するべきである。五常によって積み、五常によって返す。これを五常講というと。」
(二宮先生道歌15)
日々(にちにち)に積もる心のちりあくた 洗い流して我を助けよ
尊徳先生 小田原藩主から表彰される
○大久保忠真公は、二宮先生に桜町領の復興を依頼し、いわば先生を世に出した人である。
文政元年(1818年先生32歳)の8月、忠真は大阪城代から老中となり、小田原領内に帰着した折り、11月に農政6箇条を公布するとともに、同月15日に酒匂川の河原で領内の孝子節婦奇特者を表彰した。
先生も行いが奇特として表彰された。
○天保14年に先生が幕府に出した
「勤め方住所伺いたてまつりたてまつり候書付」にはこうある。
(できるだけわかりやすい表現になおした)
「京都・大阪の在勤が9ヶ月に及んで、このたび小田原に帰着したついでに、郷中を見渡したところ何となく近年怠惰にながれているようである。
このままではいよいよ困難なことになるであろうと、本当に嘆かわしい。
これから老中職となると、小田原城に居住することもないだろうから、今回こうして参ったのが良い機会だから、一体の心がけのあらましをさとしておこう。
詳しいことは、奉行たちから申し渡すから、一同油断なく励まなければならない。
1 風俗をつつしんで、世間の悪い習慣に流れず、一途に本心から精出して、良い習慣を失わないことが第一である。
右の条々を一同に申し渡されて、さらにわたしには次のとおり直々に仰せになりました。
「かねがね農業に精出して心がけが良いと聞いた。その身はいうまでもなく、村のためにもなり、近頃惰弱な風俗の中で、特に一段奇特なことであるからほめておく。
役を勤めるものはその身を怠っては万事ゆきとどかないことにもなり、小作たちの手本にもなることであるから、いよいよ励まねばならない。」
実にこの出会いのときの感激が、尊徳先生を、
一家を再興し、村の貧窮の者を助ける、いわば地域のリーダー的な役割から、
内村鑑三氏が「生涯の贈り物」とたたえたような、日本を代表する偉人
となったのである。
(二宮先生道歌16)
姿こそ 深山(みやま)がくれに苔むせど 谷うちこえて見ゆる 桜木
☆○大久保忠真公は、文政3年(1820、大久保公40歳、先生34歳)9月、民間の提言を求め、役にたつことをもうし出させた。
小田原では、年貢を納める枡が4斗1升から4斗3升まで18種類くらいあって、標準とするべきものがなく、それに役人がつけこんで余分にとりたてるため、農民が苦しんでいた。
先生はしばしば枡を統一するようたびたび願い出たが、郡奉行や代官などから叱られるだけで改正は行われなかった。
○そこで、大久保公の提言募集を受けて、二宮先生は、大久保公に、枡を統一するように申し上げたところ、「小田原及び江戸屋敷の諸掛かりの枡を調べてみよ」という仰せであった。
そこで古今の枡を調べてみたが、これといって基準とするべき枡がみあたらない。
その旨を申し上げたところ、何か適当な考えはないかというお尋ねがあった。
そこで、米という字に根拠をとって、深さを八寸八分とし、横を一尺3厘3毛とし、
これを3杯合わせて米一俵4斗1升と同様になると申し上げた。
小田原の諸掛りで相談の上、江戸屋敷に伺い、直接大久保公に申し上げたところ、採用になり、それから年々年貢を量る枡となった。
(「小田原領枡改革覚書」より)
この間の事情を二宮先生は語録においてこのように語っている。
「わが小田原藩では、一定の正しい枡がなくて、それにつけこんで余分にとりたてられるので、農民は苦しんでいた。
私の父はこれを憂いとして、常に嘆いていた。
私は父のこの遺志を寝ても覚めても忘れることができなかった。
家老服部氏の求めに応じて、その家政を改革したのは私の本意ではなかったが、
服部氏は代々家老の家柄であるから、これが縁となって枡の改正が実現できるかもしれないと思ったわけだった。
その後、先君大久保忠真公の下問を受けて
「権量(ごんりょう)を謹(つつし)み
法度(ほっと)を審(つまび)らかにす」
という言葉と、枡改正の方法とを記して献策した。
その枡は高さ8寸8分を定めとする。
寸は十であるから、八十八でちょうど米という字にあたる。
先君はこれを良しとして採用され、私は始めて父の遺志を全うすることができたのである。」
尊徳先生によると、服部家の家政改革も実は父の枡の改正をという遺言を実現するためだというのだ。いかにも尊徳先生らしい話だ。
文政三年11月18日付けで、二宮先生が服部家の当主十郎兵衛に送った手紙がある。
この頃、二宮先生は服部家の依頼を受けて、その召使いとなり、林蔵という名で家政の改革にあたっていた。
その手紙の中に新らしい枡のことも出てくる。
「私が願い出た藩の枡の改正について感謝の米を差し出したいという農民の様子を聞きました。
改正の新枡ではかったお年寄りが
「このようなありがたいご時世もあるのか」といったと聞きました。
新枡については、領分はもちろん一同感謝していると聞きました。
かつまた旦那さまのご評判は小田原全体にたいへんよろしゅうございます。
まず始めにあたって終わりを明らかにすることが大切とぞんじます。」
父の遺志を実現させて、父が生存ならこのくらいと思われるお年寄りから喜ばれて、
心底喜んでいる金次郎がうかがわれる。
(二宮先生道歌16)
増減は 器かたむく 水とみよ あちらに増せば こちら減るなり
[66] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 10時21分52秒 ) | パスワード |
この本なら大久保家の代々の家老だった服部家のことが分るかもです。
http://books.google.com/books?id=iULAO9JmPwsC&pg=PT65&lpg=PT65&dq=%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E7%9C%9F%E3%80%80%E5%AE%B6%E8%80%81%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=Yo5-EFB7Vk&sig=LhgO6xDHe_4SbZGUSnIyx-rNhgI&hl=en&sa=X&ei=fbckVJ3CNIWtogSq8oLoCw&ved=0CB4Q6AEwAA#v=onepage&q=%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E7%9C%9F%E3%80%80%E5%AE%B6%E8%80%81%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
二宮尊徳の経営学: 財政再建、組織改革を断行できるリーダーの条件
By 童門冬二
服部十郎兵衛は 大久保家の上から3番目の大身の家老だった。1200石。
しかし税率があるから 5公5民なら 手取り収入が 600石、
4公6民なら 公である服部家には40%しか入らないから 480石しか収入がなかったことになるんだそうです。
服部家の次代は 清兵衛 で 息子の名は 波江 だそうです。
二宮尊徳が31歳の時の服部家の当主は清兵衛。
[67] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 10時57分39秒 ) | パスワード |
江戸300藩
山本明著
http://books.google.com/books?id=gs_YOz2ecmYC&pg=RA1-PA8&lpg=RA1-PA8&dq=%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%AE%B6%E3%80%80%E5%AE%B6%E8%80%81%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%AE%B6%E3%80%80%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=oVLdWutMu5&sig=Doz-9LbNe-SyEOW5XZIkAD9p2e4&hl=en&sa=X&ei=McAkVMHfC4faoATCsoKYCA&ved=0CEwQ6AEwBg#v=onepage&q=%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%AE%B6%E3%80%80%E5%AE%B6%E8%80%81%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%AE%B6%E3%80%80%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
88に小田原藩が出てます。
11万3000石
大久保彦左衛門(忠孝)の兄の忠世の家なんだそうです。
この忠世の嫡男が忠隣で、大久保長安の事件で連座して忠隣は慶長19年滋賀県に配流されたのです。
ということは あの服部さんの流れの服部さんでしたか。あはっ
その後、忠隣直系の大久保忠朝が久し振りに72年ぶりに許されて幕末まで小田原の藩主になったのでした。
へえ〜
ビックリ
慶長18年に大久保長安が亡くなって
慶長19年に大久保長安事件が起きて
これは本多正信正純父子の陰謀だと言われてて
その後元和8年1622年2代将軍秀忠暗殺計画の宇都宮事件で本多正純が改易に。
この本多家の家紋は「立ち葵紋」ですよ。
ビックリ
ということは二宮尊徳のお話に出て来る服部家は 服部保長系の服部氏かもですね。
服部半蔵正成
長男 服部正就
次男 服部正重
この系統かもですね。
服部 正重(はっとり まさしげ、天正8年(1580年) - 承応元年(1652年))
江戸時代の旗本。通称は半蔵(はんぞう)。
服部正成(服部半蔵)の次男。兄は服部正就。弟は僧侶の正広。妻は大久保長安の長女。
子は服部正吉ら。
↑
この名前、どこかで見たような?
生涯[編集]
1600年、関ヶ原の戦いで初陣。戦いの前日夜に徳川家康の陣で酒盛りしながら、父親の初陣話や活躍を聞く。翌日合戦(法螺貝の合図)の前に敵陣に一人で入り、寝込を襲い敵の侍大将の首を取り、家康に届ける。
1614年、大坂の役で行方不明となった兄・服部正就(3代目服部半蔵)に代わり、服部家の家督と服部半蔵を襲名する。
服部家は伊賀忍者の頭領として一般に知られるが、
既に兄の服部正就の代において伊賀同心の支配の役目は解かれており、
正重は舅の大久保長安と共に佐渡金山などの政策を担当した(佐渡金山の同心)。
1612年の大久保長安事件ではお咎めなしであったが、目付より佐渡で待てと言われたものの、佐渡で待たずに佐渡島の対岸の出雲崎で目付一向を出迎えたため、徳川家康の逆鱗に触れ、3千石を没収され浪人となる。
その後、越後国(新潟県)の3藩に家来として仕えるが、
どの藩も藩取り潰しやお家断絶、家督争いにより再び浪人となり、
5年後、
兄嫁の実家久松松平家の松平定綱に召し抱えられ、
2千石を得たことで桑名藩の家老として服部半蔵家は存続することとなる。
正重は1652年、73歳で没した。
なお、桑名では正重の子孫の家を大服部家、 正就の子・服部正辰の子孫を小服部家と呼ぶ。
↑ ↑
ここでも大服部家 ここでも小服部家
混乱しまくりです。
大久保家が72年ぶりに小田原藩に復帰出来た時に家老に抜擢されたのかもですね。
謎
[68] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月26日 12時41分12秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
歴史探偵あを様、スゴイ推理ですね。家老服部氏の出自の謎がもうすぐ解
けそうなところまで来ましたね。お見事です。最後の一押しは現場検証か、
また小田原市誌等の資料探索か、時間があればなんとかなります・・・。
もう一度熟読いたします。
[69] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 13時57分23秒 ) | パスワード |
http://homepage3.nifty.com/kurobe56/ks/ks0060.htm
第0060話 藤沢宿支配代官
鵠沼
御代官支配歴代
「我がすむ里(巻の上)」には次の記述がある。これを手がかりに他の史料を参
考にして一覧表を作成した。
御治世の後、
慶長年間彦坂小刑部殿始て御支配あり、
それより深沢八九郎殿、
米倉助右衛門殿、
依田肥前守殿、
寛永年中服部惣左右衛門殿、 1617(元和 3)年−1630(寛永 7)年 14年間
この人が服部太郎でしょうかねえ?
慶安年中成瀬五左衛門殿、
天和年中国領半兵衛殿、
貞享年中西山八兵衛殿、
元禄年中古郡文右衛門殿、
同十年竹村惣左衛門殿、
同十三年平岡三右衛門殿、
同十四年小長谷市右衛門殿、
宝永年中小林又左衛門殿、
正徳年中河原清兵衛殿、
享保年中江川太郎左衛門殿、
同年松平金左衛門殿、
同九年日野小左衛門殿、
同十七年斉藤喜六郎殿、
寛延年中戸田忠兵衛殿、
同年辻六郎左衛門殿、
宝暦四年岩出伊左衛門殿、
同六年志村多宮殿、
明和二年伊奈半左衛門殿、
池田喜八郎殿、
同六年久保田十左衛門殿、
同七年江川太郎左衛門殿、
同年野田文蔵殿、
寛政四年子四月より小笠原仁右衛門殿、
同じく六月より三十六年の間大貫治右衛門殿、
文政六年十一月より当分御預所として中村八大夫殿、
天保二年六月廿日より江川太郎左衛門様統て、
慶長元年より今年まで二百三十八年御代官三十八人、
中にも韮山の御支配今に至るまで三度に及ぶ、
惣じて此地は、神祖御入国己来一度も私領に入ず、
泰平の世にあるすら幸ひなるに、
聖代の御民となりて隔なき御仁恵を蒙る事別てありがたき身の冥加忘るべからず。
***********************
彦坂氏って、最近、どこかのレスに出て来たような?
1596(慶長元)年に鵠沼村全域は幕府領(幕領・天領とも)に定められ、藤沢宿支配代官の管理下に置かれることとなった。その初代代官に任じられたのが彦坂小刑部(おさかべ)元正である。
彦坂小刑部元正は三河国の国人で今川義元に仕えた彦坂光景の嫡男。今川氏没落後に徳川家康に仕えた父と共に、代官として活躍した。
江戸幕府成立後、関東代官に任ぜられ、相模国岡津(現神奈川県横浜市泉区)に陣屋「岡津陣屋」を置き、藤沢宿を含む東海道方面の幕府天領を管轄した。
1601(慶長 6)年6月、不正が発覚して代官を改役され、家禄も没収となった。
[70] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 14時10分42秒 ) | パスワード |
PDFに入っててものすごく重いので見られないのでアップします。
[PDF]PDF(約2.7M) - 慶應義塾大学文学部古文書室
kmj.flet.keio.ac.jp/document/Minamikanto.201103.pdf
この史料は、故野村兼太郎経済学部教授が収集したものである。
.... 相模国足柄上郡金手村 (神奈川県大井町金手).
38. 安 房 国. AW-01 安房国朝夷郡白浜村 〔高木家文書〕 ......
武蔵忍藩領(奥平松平氏)、
嘉永6年(1853)に幕府領(備前岡山藩預地)となった。 ← コレ あやしい
明治元 ...... 服部一郎右衛門組 恩給知上総国 御奉行所様. ← コレも あやしい
一紙.
[71] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月26日 16時48分00秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
鵠沼の代官の名前に、江川太郎左右衛門の名前がありました。この人は、
韮山(伊豆)の反射炉(溶鉱炉)を造った事で有名です。
昔の支配体制、藩の体制を一度勉強し直します。
本日はこれにて。
[72] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 21時53分05秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>昔の支配体制、藩の体制を一度勉強し直します。
はい
重要な基礎ですよね。
我々は結局は学校で表面しか習っていないから実際のところが分かってないということを認識しますね。
旗本で服部姓で三つ柏紋使用の家がなかなか分らないのは
三つ柏紋が定紋なのか拝領紋なのか替え紋なのかも分らないし。
寛政重修諸家系譜に家紋バージョンがあるそうですが
このサイトに行けないし。
行けても凄い数の家々から捜さないといけないので
大変な作業でしょうね。笑
近くに行けたかなと思うのに肩すかしを食うし。
なかなか辿り着けないですね。
時々アタマを休めて頑張りましょう。
[73] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 22時30分02秒 ) | パスワード |
アタマ休めレス
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/titibu1.htm
平姓秩父一族と丹党
4 知々夫国造とその末裔
妙見信仰
知々夫国造家について知られることは、極めて乏しいものですが、その一部を以下に記しておきます。これらの事情も、平姓秩父氏や丹党が知々夫国造末流であることを示唆するものとみられます。
(3) 秩父神社が関東の妙見信仰の中心であり、
平姓秩父氏と同族と称する房総の千葉一族も強い妙見信仰を持って中世に活動していました。
前掲した知々夫国造の系譜は分かりにくいものですが、
要は少彦名神の後で伊豆国造や服部連の同族であり、 ← 服部
畿内では服部連の一族が能勢妙見の信仰を担ったものとみられます。 ← 服部
サッパリ分りません。
でも服部氏と妙見信仰の関係ということでアップしておきます。
[74] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 02時39分00秒 ) | パスワード |
家光の時に大番になった服部家があって
その名前は 服部直次・服部直盛 ですが
それと関係があるのか無いのか
ハッキリしませんが一応アップしておきます。
http://taroukun-rekishi.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/index.html
清水中世史研究所
蘇えれ中世のひとびと ← 中世というより近世ですが
2010年1月23日 (土)
神後伊豆宗治
剣聖上泉伊勢守信綱の高弟に神後伊豆宗治と疋田文五郎がいる。上泉信綱は箕輪長野業正・業盛親子に仕え、長野家滅亡後に、武田信玄の仕官要請を断り、新陰流を普及させるため諸国流浪の旅に出たという。この時に供をしたのが神後伊豆と疋田文五郎である。
永禄六年(1563)の陽春、郷国上州をあとにした上泉伊勢守信綱は、年若き懇弟疋田豊五郎、老弟鈴木意伯の両人と数名の従者を召しつれて、板東諸国を歴遊したところ、新陰流兵法に一人として対当するものもなく、東海道を上って、尾州清洲城で信長に謁して引きとめられたが、もとより仕える志がないから、しばし足を留めただけで辞去した(柳生厳長著『正傳・新陰流』)。
奈良柳生の庄で柳生石舟斎が上泉信綱の試合を望んだとき最初に立ちあい勝ったのは神後伊豆である。又、将軍義輝公に上泉信綱が新陰流を上覧したときの打太刀は神後伊豆が務めた。
【神後伊豆守】
神後伊豆守(名は宗治、一に元冶。武州八王寺の出身、上州箕輪城主長野氏の臣。晩年尾州に仕うとも、また奥州秋田におもむいたともいうが不明)は上泉伊勢守にしたがって諸州を修行し、微妙を得た。ゆえに将軍義輝公が神後を召してその伝を得んことを請う。
ココね
↓
後に関白秀次公もまた神後を師とした。神後の門に遊ぶ者の中では服部藤次兵衛が傑出していた。
はじめ平安城に居し、後、江都に来た。
柳生但馬守が服部のことを大猷大君(家光)の台聴に達したから、大猷大君から褒詞があり、また上使を以って真明剣を服部に尋問されたのに、服部つつしんでこれを言上したてまつった。
また和田兵斎・土屋将監という者があって服部と同じく神後に学んでその術神の如きであった。
神後は兵斎が豪気で精妙を得たのを賞して、上泉より相伝するところの化羅(掛絡の俗字、袈裟をいう)を兵斎にさずけた。将監は後、奥州におもむく。死処は不明だが、佐竹家臣渡辺七郎右衛門という者がその伝を継ぐ(綿谷雪著『日本武芸小傳』)。
武州八王寺とは現在の八王子市元八王子町である。ここに往古、慈根寺という古刹があり、建暦三年(1213)五月二日の和田合戦で滅んだ横山氏の人々の中に「…ちみう(ちこんしィ)次郎・同太郎・同次郎・同五郎…」がいる。「ちこんしィ」は慈根寺のことでである。神宮寺とも後に言われた。神後伊豆は神宮伊豆とも書かれている。神後伊豆は『戦国人名辞典』(新人物往来社刊)に武州八王子の地侍の生まれとあるから、この末裔であろうか。
鈴木意伯は母方の姓であるという。鈴木氏は大石道俊の家臣に鈴木中務丞や、大石縄周や北条氏照の家臣になった鈴木周広や鈴木弥五郎がいる。八王子城で討死した人々を記した相即寺過去帳には、鈴木佐渡守・鈴木彦八・鈴木庄五郎がいる。
元八王子村の道場尾根(通称峯山)には神後伊豆の道場があったという言い伝えがあるが、時宗の二世、他阿の道場跡ではないかと思われる。
神後伊豆の差していた刀は武州下原鍛冶の周重である可能性が強い。そして、今は枯れて切られてしまったが、建久二年(1191)であろうか、梶原景時の突いていた杉の枝が根づいたといわれる梶原杉は樹齢780年と言われ、神後伊豆も天文年間(1532〜1554)には見ていたのではないだろうか。この大杉は私の育った当時の村のシンボルであった。今から思うと不思議な懐かしい気がする。
[75] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 03時50分06秒 ) | パスワード |
宇都宮城釣天井事件
宇都宮城釣天井事件(うつのみやじょうつりてんじょうじけん)は、江戸時代の元和8年(1622年)、下野国宇都宮藩主で江戸幕府年寄の本多正純が、宇都宮城に釣天井[1]を仕掛けて第2代将軍徳川秀忠の暗殺を図ったなどの嫌疑を掛けられ、本多家は改易、正純が流罪となった事件である。ただし、実際には宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在せず、改易は別の原因によるものとされる。
背景[編集]
正純の父・本多正信は将軍秀忠付の年寄、正純は駿府の大御所徳川家康の側近であった。正信・正純父子は政敵大久保忠隣を失脚させるなど、幕府内に強い影響力を持っていた反面、幕閣内では政敵も多かった。だが、正信の存命中において、正信に逆らえる者は実質おらず、家康も正信のことを、「自分の友」とまで言っていたほど信頼は厚く、その地位は揺るがなかった。
元和2年(1616年)、家康と正信が相次いで没すると、正純は2万石を加増されて下野小山藩5万3000石となり、秀忠付の年寄(後の老中)にまで列せられた。しかし、正純は先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。元和5年(1619年)10月、福島正則の改易後、正純は亡き家康の遺命であるとして、奥平忠昌を下野宇都宮藩10万石から下総古河藩11万石へ移封させ、自身を小山5万3000石から宇都宮15万5000石への加増とした。だが、これにより、正純はより一層の反感を周囲から買うことになる。
経過[編集]
元和8年(1622年)、正純は秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後、宇都宮城に1泊する予定であったため、城の普請や御成り御殿の造営を行わせた。4月16日に秀忠が日光へ赴くと、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母・加納御前から「宇都宮城の普請に不備がある」という密訴があった。内容の真偽を確かめるのは後日とし、4月19日、秀忠は「御台所が病気である」との知らせが来たとして、予定を変更して宇都宮城を通過して壬生城に宿泊し、21日に江戸城へ帰還した。
8月、出羽山形藩最上家親の改易に際して、正純は上使として山形城受取りのため同所に赴いた。その最中、秀忠は、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策したなど、11か条の罪状嫌疑を正純へ突きつけた。伊丹康勝と高木正次が使いとして正純の下に赴き、その11か条について問うと正純は一つ一つ明快に回答した。しかし、康勝が追加で行なった3か条[2]については回答することができなかったため、所領は召し上げ、ただし先代よりの忠勤に免じ改めて出羽由利郡に5万5000石を与えると命じた。
謀反に身に覚えがない正純がその5万5000石を固辞したところ、逆に秀忠は怒り、本多家は改易となり、正純の身柄は久保田藩主佐竹義宣に預けられ、出羽横手への流罪とされた。後に正純は1000石の捨て扶持を与えられ、寛永13年(1637年)3月、正純は73歳で秋田横手城の一角で寂しく生涯を終えたという。
波紋[編集]
正純謀反の証拠は何も無く、秀忠も宇都宮城に不審点が無い事を、元和8年(1622年)4月19日に井上正就に行なわせた調査で確認している。この顛末は、正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、加納御前の恨みによるものともされる。加納御前は正純が宇都宮に栄転したのに伴って格下の下総古河への転封を命じられた忠昌の祖母であり、しかも加納御前の娘は、正信・正純親子の陰謀で改易させられた大久保忠隣の嫡子大久保忠常の正室であった。
加納御前の怨みも入ってますね
土井利勝と大久保家の関係も調べてみないことにはね。
また、秀忠自身も父家康の代から幕閣の中で影響力を大きく持ち、自らの意に沿わない正純を疎ましく思っていたという説もある。秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の(通常このような場合、諸大名を江戸城に集めて申渡していた)対応を取った。説明を聞かされた当時の小倉藩藩主細川忠利は「日比(ひごろ)ご奉公あしく」という理由であったと父の細川忠興に書き送っている。[3]。
この事件は後に講談や歌舞伎の格好の題材となった。ただしそれらの内容は、翌1623年の越前藩主松平忠直の謀反嫌疑の事件の影響を受けていると指摘されている。
脚注[編集]
1.^ 釣天井とは天井を綱のようなものでつり下げておき、切って落とすことによって下にいる人の圧殺を図る装置のことである。
2.^ その3か条とは、城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲を無断で購入したこと、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたこととされる(「宇都宮市史 近世通史編」23頁)。
3.^ 山本博文『江戸城の宮廷政治』(講談社学術文庫)
[76] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 03時56分35秒 ) | パスワード |
土井利勝 浜松生まれで、家康の御落胤説もあるんですって。
時代
安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕
元亀4年3月18日(1573年4月19日)
死没
寛永21年7月10日(1644年8月12日)
改名
松千代、甚三郎(幼名)→利勝
戒名
宝池院殿前拾遺穏誉泰翁覚玄大居士
墓所
茨城県古河市大手町の正定寺の宝篋印塔
東京都港区芝公園の増上寺塔頭寺院の安蓮社
官位
従五位下、大炊頭、従四位下、侍従
幕府
江戸幕府老中→大老
主君
徳川家康→秀忠→家光
藩
下総小見川藩主→佐倉藩主
→古河藩主
氏族
水野氏→土井氏
父母
父:水野信元、養父:土井利昌
兄弟
利勝、元政、昌清尼
妻
正室:松平近清の娘
側室:栄福院、松花院、正寿院
子
利隆、勝政、利長、利房、利直、
娘(生駒高俊正室)、娘(堀直次正室)、
娘(松平頼重正室)、娘(井上吉政室)、
娘(那須資弥正室)
養女(高木正則室)
特記
事項
徳川家康の落胤説あり ← へえ〜
土井 利勝(どい としかつ)は、安土桃山時代の武将。江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府の老中・大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った[1]。その事績や資料については原念斎が編纂した『賢相野史』に詳しい。
生涯[編集]
出生[編集]
元亀4年(1573年)3月18日、徳川家康の伯父・水野信元の三男として生まれる。
系図には徳川家家臣・土井利昌の子と記載されている。
ただし、利昌の実子として遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)で生まれたという説もある。
天正3年(1575年)に信元が武田勝頼と内通したという罪により織田信長の命で家康に討たれた後、
家康の計らいで利昌の養子になった。
利昌には長男の元政がいたが、それを差し置いて利勝が家督を継いでいる。
なるほどアヤシイ。
なお、利昌を実父とする場合、母は葉佐田則勝の娘とされている[2]。
また、家康の落胤という説もある。
井川春良が著した『視聴草』には、家康の隠し子であることが書かれている他、徳川家の公式記録である『徳川実紀』にも説が紹介されている
。この説によると、利勝は幼少時から家康の鷹狩りに随行することを許されたり(土井家は三河譜代の家臣ではない)、破格の寵愛を受けていたためである。
また当時、家康は正室の築山殿との仲が冷え切っており、そのために築山殿の悋気を恐れて他の女性に密かに手を出して利勝が生まれたという可能性も否定できないところがある。
森銑三は、父とされる信元と家康の性格を比較した時、短慮であった信元よりも、思慮深い家康の方が利勝の性格と共通する要素が深いと考察している[3]。
江戸幕府開府まで[編集]
天正7年(1579年)4月に徳川秀忠が生まれると、7歳にして安藤重信や青山忠成と共に秀忠の傅役を命じられた。役料は200俵である。天正19年(1591年)に相模国に領地1,000石を得る。慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの際には、利勝は秀忠に従って別働隊となり、江戸から中山道を通って西へ向かった。しかし信濃上田城の真田昌幸を攻めあぐみ、関ヶ原の決戦にはついに間に合わなかったものの、戦後に500石を加増されている。
慶長6年(1601年)に徒頭に任じられ、慶長7年(1602年)12月28日に1万石を領して諸侯に列し、下総国小見川藩主となった。
家康・秀忠時代[編集]
慶長9年(1604年)、李氏朝鮮より正使・呂祐吉以下の使節が来日するとその事務を総括した。慶長10年(1605年)4月、秀忠が上洛して後陽成天皇より征夷大将軍に任ぜられると、随行していた利勝も4月29日に従五位下・大炊頭に叙位・任官し、以後は秀忠の側近としての地位を固めていった。
慶長13年(1608年)には浄土宗と日蓮宗の論争に裁断を下して政治的手腕を見せ、慶長15年(1610年)1月、下総国佐倉3万2,000石に加増移封となった。10月に本多忠勝が死去すると、家康の命令により12月1日に秀忠付の老中に任じられた。慶長17年(1612年)に4万5,000石に加増される。
慶長20年(1615年)、大坂の陣が起こると、利勝は秀忠付として従軍し、豊臣氏滅亡後、秀忠より猿毛柄の槍を贈られ、さらに6万2,500石に所領を加増された。夏には青山忠俊、酒井忠世と共に徳川家光の傅役を命じられた。元和2年(1616年)、秀忠の名で一国一城令と武家諸法度(13条)を制定した。これにより戦国時代は完全に終わりを告げ、諸大名は幕藩体制に組み込まれることとなった。4月に家康が死去すると、久能山に葬られる際には利勝がその一切の事務を総括した。
家光時代[編集]
元和8年(1622年)、家康の側近として辣腕を振るった本多正純が失脚した。背景に利勝の策動を指摘する声もある。正純の失脚によって、利勝は「名実ともに幕府の最高権力者」[1]となった。
元和9年(1623年)、秀忠は将軍職を家光に譲った。将軍交代の際には側近も変わるのが通常であったが、利勝はこの後も青山忠俊、酒井忠世と共に家光を助け、幕政に辣腕を振るっていく。寛永2年(1625年)に14万2,000石に加増された。
寛永10年(1633年)4月7日、下総国古河16万石に加増移封される。寛永12年(1635年)、武家諸法度に参勤交代を組み込むなど19条に増やして大改訂し、幕府の支配体制を確定した。政権が家光に移ってほどなく、徳川忠長と加藤忠広が改易されたが、家光と内密に謀を巡らせた利勝がわざと家光との不仲を装い、謀反の旨をつづった文を諸大名に回したところ、他の諸大名はこれを即座に家光に提出したが忠広と忠長だけは提出しなかったことが改易の契機になったという話がある。[4]
なお、利勝の妹が忠長の乳母であったという説もあり、乳母コネクションを重視する作家永井路子は、忠長派と見なされてもやむをえない立場にあった利勝と家光との間に一種の暗闘と妥協があったと見ており(「異議あり日本史」)、この事件後に利勝は徐々に政治の実権から遠ざかったとしている。
寛永13年(1636年)、それまでの永楽通宝など明銭に頼っていた通貨制度を一新し、寛永通宝の鋳造を柱とする新通貨制度を制定した。寛永通宝は明治時代の中頃まで流通していたという。
寛永14年(1637年)頃から中風を病むようになり、病気を理由に老中辞任を申し出るが、家光より慰留されて撤回する。寛永15年(1638年)11月7日、体調を気遣った家光の計らいにより、実務を離れて大老となり、事実上の名誉職のみの立場となった。
寛永21年(1644年)6月に病床に臥し、将軍代参の見舞いを受けるなどしたが7月10日に死去。享年72。後を長男の利隆が継いだ。
人物・逸話[編集]
利勝と同じく、江戸時代初期に幕僚として活躍した人物には優れた人物が大勢いたが、なかんずく、利勝は公正さを重んじ、人柄と資質については抜きん出ていたと評される[5]。その言行には模範、教訓となるようなものが多かった。
秀忠が家督を家光に譲ることを利勝を経由して家臣達に申し渡したとき、井伊直孝一人が不安な様子を見せていた。利勝は直孝を白書院へと連れてゆき理由を問いただした。直孝は、大坂の陣などで諸大名の財政が逼迫しているのに、さらに将軍が隠居すれば、祝儀などにより金を使うことになり、民を虐げることにもなると危惧していた。それを聞いた利勝は、直孝の懸念を秀忠に伝えた。直孝の強い直言もあって秀忠も納得し、翌年の秀忠隠居は取りやめとなった[6]。
将軍・家光が増上寺へ参拝へ向かおうとしていた時、櫓の白壁が欠損していることに気づいた。家光は松平信綱に修繕を命令したが、修繕は困難であった。そこで信綱は、他の櫓の戸をはずし、壊れた部分に一時的に当てることによって修復したように見せかけようとしたが、利勝は、それは姑息なごまかしに過ぎず、無理であれば無理であると率直に言上すべきであると信綱を叱責した[7]。
利勝は、最上義俊が最上騒動で改易されて浪人となった際、義光以来の重臣・鮭延秀綱の身柄を預かると、のちに召抱えて5,000石もの高禄を与えた。しかし秀綱はこの5,000石を自分の家臣14人に公平に与えて自らは無禄の客分となり、その14家へ日々順に転々として寄宿し、余生を過ごした。その14名は土井家では中級の家士に取り立てられ、大半の家は幕末まで続くことになるが、鮭延の没後、その恩顧に報いるべく古河に鮭延寺を建立して供養に努めた。
幕府の実力者として諸藩より評価されており、依頼を受けた場合は幕藩関係で事前の根回しや指南を行う取次の老中となって、その藩の指導をおこなった。
家康の落胤といわれる利勝であるが、利勝自身は落胤と噂される事を大変嫌っていたと伝わる[8]。
年表[編集]
元亀4年(1573年)3月18日、誕生。
天正7年(1579年)、徳川秀忠の傅役となる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原へ出陣するも間に合わず。
慶長7年(1602年)12月28日、下総小見川1万石の大名となる。
慶長8年(1603年)、江戸城神田橋内に屋敷を拝領する。
慶長13年(1608年)12月、1万石加増される。
慶長15年(1610年) 1月、下総佐倉3万2000石に加増転封される。
8月3日、老中となる(『寛政重修諸家譜』。『柳営補任』によると老中就任は元和9年9月)
慶長17年(1612年)、4万5000石に加増される。
慶長20年(1615年)閏6月21日、6万5000石に加増される。
寛永2年(1625年)9月2日、14万2000石に加増される。
寛永10年(1633年)4月7日、16万石余をもって下総国古河城主となる。
寛永15年(1638年)11月7日、大老就任。
寛永21年(1644年)7月10日、大老在職のまま没。
主な登場作品[編集]
NHK大河ドラマ『春の坂道』(1971年、演:江守徹)
『徳川家康』(1983年、演:木村四郎)
『独眼竜政宗』(1987年、演:遠藤征慈)
『春日局』(1989年、演:中条きよし)
『葵 徳川三代』(2000年、演:林隆三)
その他のテレビドラマ『天下騒乱〜徳川三代の陰謀』(テレビ東京新春ワイド時代劇、2006年1月2日、演:西田敏行) - 利勝を中心に徳川三代の時代における政争が描かれた作品。 この作品では利勝を家康の落胤として描いている。
映画『柳生一族の陰謀』(1977年、演:芦田伸介) - 三代将軍争いが秀忠の死と同時に始まるなど確信犯的に史実を無視した映画であり、利勝も忠長派の総帥として暗殺合戦の陣頭指揮をとり、自らも暗殺される物語となっている。
小説『忍びの卍』(山田風太郎)
注釈[編集]
脚注[編集]
1.^ a b 『江戸お留守居役の日記』 42ページ
2.^ 川口素生 著『戦国武将、逸話の真実と謎』学習研究社、2007年、p.318
3.^ 森銑三著作集続編 第一巻 79ページ
4.^ 藤野保「徳川幕閣」(中公新書)・136ページ
5.^ 森銑三著作集続編 第一巻 80ページ
6.^ 森銑三著作集続編 第一巻 78-79ページ
7.^ 森銑三著作集続編 第一巻 77ページ
8.^ 川口素生 著『戦国武将、逸話の真実と謎』学習研究社、2007年、p.319
参考文献[編集]
書籍川口素生『戦国武将。逸話の謎と真相』(学習研究社、2007年)
山本博文『江戸お留守番居役の日記 寛永期の萩藩邸』(講談社学術文庫 ISBN 4-06-159620-9)
[77] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 13時01分01秒 ) | パスワード |
重過ぎて肝心の下記の情報に辿れません。
でも関東東部の千葉あたりの陣屋について詳しく書かれています。
[PDF]研究紀要 第28号 - 千葉県教育振興財団
www.echiba.org/pdf/kiyo/kiyo_028.pdf
大名出張陣屋・旗本陣屋の三つは房総の陣屋を構成する主要なものです。
歴史 青山成重は旗本服部正信二男で、「寛政重修諸家譜」に拠れば、
「十八年 ...... 寛政期の資料 (資料@)には丸に伊の代官と記された窪田氏(4石2人扶持足高9俵)や
...... の鋳鉄製筒)が茂原市郷土資料館に展示されており、
そこには違柏紋の家紋と「天保十五辰.
www.echiba.org/pdf/kiyo/kiyo_028.pdf
大名出張陣屋・旗本陣屋の三つは房総の陣屋を構成する主要なものです。 ...... 歴史 青山成重は旗本服部正信二男で、「寛政重修諸家譜」に拠れば、「十八年 ...... 寛政期の資料 (資料@)には丸に伊の代官と記された窪田氏(4石2人扶持足高9俵)や ...... の鋳鉄製筒)が茂原市郷土資料館に展示されており、そこには違柏紋の家紋と「天保十五辰.
[78] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 13時04分26秒 ) | パスワード |
そろそろスレッド13を立ててくださいね。
[79] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 13時20分25秒 ) | パスワード |
http://www003.upp.so-net.ne.jp/esato_iwakuma/ryosyu.htm
(夷隅郡岩熊村 幕末の領主)
領主の名と石高は、友人の某博物館に勤務する研究員(高校の歴史の先生)に調べてもらいました。
1 服部氏「給分講」
◎服部権太夫 300石 ◎服部権之丞 200石
・我が家は服部氏の内「小服部」と呼ばれる領主の小作だったようです。
「給分講」といって共有の田んぼを持ち回りで米を作りその売り上げで、毎年十数件が集まり懇親会を開いています。
@ 服部氏の系図
権太夫 政信----与左衛門 信成----権太夫 信解----権太夫 信隆----吉十郎 信任----権太夫 信貫---正文----栄吉(断絶)
服部氏の祖は、服部権太夫政信で徳川家康幕下の旗本にて三河の出、石高四千二百九十石にて寛永十九年卒後、
新左衛門政久二千七百九十石と与左衛門信成千五百石に分地する。
岩熊村の支配は与左衛門信成系にて代々権太夫を名乗る。
※@は近所の定年退職された元学校の先生が調べてくれました。
A 我が家は服部氏の子孫が途絶えた後の家に入ったようで、
仏壇には服部正文等の位牌があり、墓地に墓石もたっており季節毎にお参りしています。
2 遠山氏「遠山講」
◎遠山金四郎 300石
遠山金四郎を代々名乗る領主の顕彰碑が、当地岩熊の八葉山法華寺の境内に建立されています。
碑文詳細
法華寺本堂
阿弥陀堂
3 中根 鍬太郎 400石
4 福島 左衛門 206石3斗6升
5 法興寺領 28石(当家の菩提寺です)
6 法華寺領 20石(遠山金四郎家顕彰碑のあるお寺です。)
*********************
@の岩熊村とは千葉県にあったそうです。
以下コピペ
夷隅郡
上総国 > 夷隅郡
千葉県 > 夷隅郡
千葉県夷隅郡の位置(1.大多喜町 2.御宿町 水色:後に他郡から編入した区域 薄黄:後に他郡に編入された区域)
夷隅郡(いすみぐん)は、千葉県(上総国)の郡。
人口17,491人、面積154.76km²、人口密度113人/km²。(2014年8月1日、推計人口)
以下の2町を含む。
大多喜町(おおたきまち)
御宿町(おんじゅくまち)
1889年(明治22年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町のほか、現在の行政区画では概ね以下の区域にあたる。
勝浦市の全域
いすみ市の大部分(椎木・和泉・中原を除く)
長生郡睦沢町の一部(大上・佐貫・妙楽寺)
歴史[編集]
古くは古事記に「伊自牟(いじむ)」、日本書紀に「伊甚(いじみ)」として登場する地名であり、日本書紀には朝廷の直轄地として「伊甚屯倉(いじむのみやけ)」が置かれたとの記述が存在する。郡名としては「夷灊」など様々な当て字が用いられてきたが、江戸時代初期に「夷隅」の字が当てられ、定着したとされている。
本郡は、1889年の明治の大合併直前には165町村を数えたが、大合併により23町村に再編された。郡役所は大多喜町に置かれた(郡役所跡地には現在、千葉県夷隅合同庁舎が建っている。)。戦後、昭和の大合併と勝浦市の市制施行を経て、1961年8月1日に太東町と長者町が合併して岬町が発足したことにより、長らく5町による体制となった。その後、平成の大合併では、紆余曲折を経て2005年12月5日に夷隅町、大原町、岬町が合併し、いすみ市が発足したことにより、現在の2町の体制となった。
近代以降の沿革[編集]
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での当郡域の支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)が存在。下記の他、長者町(旗本領)、浜勝浦村(岩槻藩領)が存在したが、記載されていない。
遠江国のように幕府領(幕府や旗本などの領地)と、いろいろな藩の飛び地だったりしています。驚
[80] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 13時55分53秒 ) | パスワード |
夷隅郡に領地を持っていた服部氏は
服部保次の子孫です。ビックリ
http://books.google.com/books?id=cxi2gPgFtMwC&pg=RA1-PA3&lpg=RA1-PA3&dq=%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F&source=bl&ots=IuBWtW1MWX&sig=HRz-NppBrsXNS5pUqmzCp62iScY&hl=en&sa=X&ei=XDsmVICYOIWuogTjiYCwAg&ved=0CCcQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F&f=false
七年上摁國夷隅郡のうちにをいて新恩千五百五十石をたまひ、そのゝちおほせによりて常陸國笠間城を守衡す。十年台・院殿洛に ... 十(服部氏) 移さる。慶安四年六月七日 ...
前述の
旗本寄合席 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/旗本寄合席
4,500石: 上総国夷隅郡・長柄郡・埴生郡・武射郡・市原郡。下総国匝瑳郡、上野国邑楽 ..... 3,000余石: 遠江国敷知郡・長上郡内: 伊賀服部惣領家。天正10(1582)年、徳川 ...
もの凄く見難くて、コピペできないのが残念ですが、
復習
服部保次(要介・小平太・中)
この人は遠江国引佐郡と三河国岡村で120貫文を貰って遠江国で亡くなり刑部村に葬られました。
その子 保正(後の時代に 保政と書き直される)
名乗りは 通丸・三十郎・中 など
父の死後、父の同心を77人預けられた。
下総国葛飾郡で500石をもらい
その後
慶長7年の関が原の時に真田攻めで上総国夷隅郡で1550石を貰った。
その子・保俊は父の1550石を遠江国敷知・長上に采地を移された。
弟の保久に500石を分け、
後に500石を加増され
計3050石になった。
別の服部氏
服部信親(権右衛門)
服部与左衛門信成の次男
母は川口久助宗次の娘(この川口さんは アイコッコさんの御先祖さまです)
天和2年父から上総国夷隅郡のうち300石を分け与えられた。
のち大番になった。
子・昭政(てるまさ) 大番
昭政の弟 信隆 (孫右衛門・権太夫)
服部権太夫信解の養子
名前が錯綜してて頭の中が大混乱です・・・・涙
[81] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 14時08分37秒 ) | パスワード |
服部正吉はどなた?なんて書きましたが
蘆名信蕃に仕えてた人です。
子の正長が本多正信正純父子に仕え、後に駿河大納言忠長卿に仕えて孫の正次も悠々自適でした。
↑
家光の弟
ここの一族は「正」の通字を後に「重」に変えています。
すっかり忘れていました。なかなか記憶が定着しません。DHAのサプリを服用しなくっちゃ。
[82] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 14時14分08秒 ) | パスワード |
なんとなく三つ柏さんの御先祖さまは
服部政光系(尾張の服部家ホンヤさんの兄の家)で今切の関所番だった旗本
または
服部保次(要介・小平太・中)の子孫で敷知郡や長上郡に采地を持っていた旗本
のどちらかじゃないかなあ?
わたくしとしては 保次の方じゃないか と。
政光の方は嗣子無くして断絶しているから。
[83] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 14時36分47秒 ) | パスワード |
ということで 現在どういう町の名前か分りませんが
遠江国刑部村のお寺に行ってみてはいかがでしょう?
そこに服部保次のお墓があれば良いのですが。
[84] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 15時20分34秒 ) | パスワード |
最後の1行が面白かったのでアップ
http://mrneko.huu.cc/bakno/sannsaku040.html
志都呂陣屋と築出橋
浜松市志都呂町
雄踏街道から北にゆるやかな坂を100メートル程登った中腹に市立志都呂幼稚園が有ります。
その幼稚園の敷地となっているのが 陣屋があったところです。
現在はまったく史跡は残っておりませんが江戸時代はこの陣屋で旗本五井松平氏が施政を行った拠点です。
五井松平氏は三河五井に本拠を置く中堅の旗本で
浜松市の東部から浜北市の中央部にかけて二十三ヶ村を知行していましたので
陣屋にはかなりの数の家臣が役人として働いていたようです。
陣屋がどの程度の規模かは明確では有りませんが、志都呂村誌の中で見られる絵図によると牢屋まで備えた 本格的な陣屋構えで有ったようです。
☆ 「築出橋」(現在の志都呂橋)は松平氏が東海道に出るのに新川があって不便な為橋を掛けようとしましたが、
川幅が広い為両岸から 堤を築き橋ををけたのでこの名前がつきました。
また、今切関所の関守服部氏も館を構えて、服部氏はここから浜名湖を船で今切関所まで通勤したようです。
[85] | 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月28日 07時30分30秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
核心部分に迫りましたね。スゴイです。よくぞここまでお調べになったと
感激しております。小田原から始まって、秦野、尼崎、鹿沼、岡山・・・夷隅
へと。そしてここに政信と保次の采地が・・・。
ここでレス13へ移動します。
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