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 投稿番号:101375 投稿日:2014年09月14日 22時31分19秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族Ⅺ
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]よりの続きです。

歴史探偵の目で、歴史の奥底に潜む謎の解明に挑む。

最終目標は服部氏族の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 22時55分57秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101371_77.html
10からの続きです。



頑張って解明していきましょう。
[2]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月15日 12時54分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 加藤清正の出自等や遠山氏との関係についての探究は圧巻でした。
そしていよいよ核心の加藤喜左衛門正次についての探究・・・ここはまさに
あを様の天才的な才能の発揮=歴史探偵の登場となりました。またスゴイの
一言であります。
 いただいた情報は膨大であるため、解読作業に時間がかかりました。
 
 加藤喜左衛門正次については、かなりわかりましたね。
 元々は竹本氏の出身。
 竹本城にまつわる家康の六男輝元の命運。そして正次への影響。

 豊臣秀次事件にかかわる武将と正次との関連性・・・これから探究すると
いうことですね。

 いずれにしても、「秀次事件」も大きかったけれど、「大久保長安事件」も
大きかった。いずれも、黒幕がいた。前者は石田光成、後者は本多正信。

 橋場日月氏の『服部半蔵と影の一族』にはこう書かれている。半蔵は慶長
元年(1596)に死去する。その後の服部一族ということで、

 「服部中保次のその後であるが、保次の妻は家康の六男・松平忠輝の家老
となった花井遠江守吉成の娘で、生まれた子は三九郎と名乗った。外祖父の
花井吉成の通称が三九郎であったから、これにあやかったものであろう。
 実は、この吉成も、元は猿楽師である。母の茶阿局が家康の側室となって
忠輝を生んだためにその家老となったもので、忠輝にはその後見役となった
大久保長安も元猿楽師と、猿楽師の人脈が彼のまわりを取り囲んでいた。

 そんな中、慶長十八年(1613)に大久保長安事件が起こると、これに
連座して青山成重、正就の弟正重が失脚し、平太夫正成(秀忠の母西郷の局
の継父)の家系も改易となった。
 但し、正尚の子孫はのち猿楽師として幕府に仕えている。

 松平忠輝も大阪の陣のあとに失脚したが、一連の政変は忠輝を将軍に擁立
しようとする勢力を、大久保長安とは対立関係にあった本多正信が粛清した
のかも知れない。」

 ということで、あを様も気にしていた猿楽師のネットワークが浮上して来
ました。正尚も丹波猿楽の猿楽師、大久保長安も猿楽師、花井吉成も猿楽師。
「猿楽師」が徳川3代を解くキーワードです。芭蕉にも何らかでつながるか
も知れません。
 光秀とはつながります。名張城の城主服部保章は正尚のいとこで、保章の
娘が光秀の先妻であった。

 ここでおしまいにいたしますが、昨日調査に行った事は、新居の関番の旗本
服部氏に関することで、服部正光・正信以外に「服部中」が出てくる。
服部中は謎めいたキーワードです。花井も猿楽師だったので、服部中の系統も
猿楽師の系統ではなかったのかと推測いたします。

 服部中の中はどういう意味でしょうか。中服部、上服部、下服部の中なので
しょうか?
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月15日 14時04分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

服部中保次は下記の71ページに出ています。

http://books.google.com/books?id=cxi2gPgFtMwC&pg=PA66&lpg=PA66&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=IuBVqU9OZW&sig=FADBHsUzqjaHuZ9M1QnLBcpibuU&hl=en&sa=X&ei=QjcSVPjrGYO1yAS6soLgDA&ved=0CB0Q6AEwADgU#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

かなりズリズリしなくてはいけませんが。



服部家はいろいろあれども、この服部家は高棟流平氏の服部氏で弥兵衛宗清から出ている。
あの頼朝から伊賀国阿拝・山田2郡のうち32ケ村を賜った。
また伊賀守宗純の子孫でもある服部家の出身である。


初めは宗次を名乗っていた。要介・小平太・中も名乗る。
                   あたる? ただし?
(足利将軍)光源院義輝に仕えて服部の惣領職を認められていた。

後、織田右府(信長)に仕えて永禄3年5月桶狭間での今川義元との戦いに戦功があった。

8年に召されて家康に仕えることになった。



その後、天正5年4月23日遠江国引佐郡および三河国岡本のうちに150貫文の采地を賜う。


もし戦死することがあれば息子の保正に相続を許されるとの書付も貰った。

天正10年6月(本能寺の変で)堺から伊賀路へ渡御の時、従いたてまつり
??同心50余人を預けられた。
鉄砲?

天正12年の長久手の戦いで供奉し、息子の保正が家康の御馬前で首級を挙げ
たので父親の保次が褒美に?の御刀を賜う。


天正15年4月18日遠江国において歿。
62歳
法名長閑。

呈譜で(訂正があって)亡くなったのは天正15年6月18日死す。
法名???   (活字が潰れてて読めない)
遠江国刑部村に葬る。


   ざっと書くとこんなもんです。

妻の名前は不肖。


息子・保正(のちに保政に改名)の妻は紀伊家の臣  川井刑部重長の娘


ここからがすごいことになっていますよ!

ここでアップ!
背筋がゾクゾク!
長上郡が出てます!
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月15日 14時23分57秒 ) パスワード

孫の保俊が  略  父・保正から1550石を相続し
500石を弟の保久に分け与え
その後、御小姓組を勤める。


寛永10年に甲斐国巨麻郡のうちに500石の加増

19年9月1日  荒井の関の関所番になる。   新居のことだと思います。
閏9月28日に関所に至り  服部杢助正次と相はかりて  当 暮れ 参府し
かの地のおもむきを言上すべきむね仰せをこうぶる。


20年6月6日  1000石を加増され都て(すべて) 3050石を知行す。

その後、采地を更して遠江国敷知・長上郡の内に移さる。      ←  ここね


慶安4年6月7日死す。
法名宗賢。

妻は水野太郎作清次が女。



ところが、その後が、この家はうまくいかなくなってます。
早世だったりして。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月15日 14時32分38秒 ) パスワード

とにかく服部中保次の子孫は先細りになっています。

日光奉行になってたり駿府に勤めたものもいたり。


妻を竹本とか小栗とか大久保とかから  ここでワーワー書いてた家から  貰ったりしてますね。


じっくりお読みください。



やっぱり服部氏が長上郡に来てるから、その御子孫なんですよ。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月15日 14時35分15秒 ) パスワード

服部中保次の「中」は  1文字で「中」ですから  当たるとか正しい  という
              あたる・ただし
という読みかも。


子孫にやはり  「中」  を名乗ってる人が数人いました。



アタマの中を空っぽにします。
でないとドンドン変な方向に検索して書きまくりそうですから。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月15日 15時44分57秒 ) パスワード

アタマの中がいっぱいでワケ分らなくなっています。空っぽにしなくては。

服部家にとって  遠江国新居の関に赴任するというのは  希望だったのかなと。

ひょっとすると  ずっと前の時代に  ココにいたのかも。
南北朝の頃かな?と。



服部政信の系統で    どなたかが    新居の関に来てた
服部中保次の系統でも  どなたかが    新居の関に来てた


服部政信の方は名古屋の服部家のホンヤさんの兄=友定=の系統でしたよね。
服部中保次の方は伊賀の服部さん。

   どっちも宗良親王にお仕えした宗純の子孫。
      ま、宗純も男子は何人もいたろうし。
      その上に、親戚の中で結婚するから

どっちにしろ宗純の子孫で良いということか?


ということは
宗良親王親の子・孫・曾孫のお供をして浪合村まで行って、その後、どこに定着したか

    1つは鰍浦に落ち着き   服部家のホンヤさん系  政信系へ
    1つは京都へ行ったり三河へ行ったりして     中保次系へ

ということなのかしら?



源平合戦の後、
伊賀の家長の子孫はどうなった?
伊賀の弥兵衛宗清の子孫は  宗純を経由して  中保次へ

そう言えばホンヤさんとこは途中で途切れて庶流から継いだと書いてありましたっけ。


この庶流というのが  弥兵衛宗清  の子孫のことを言ってるのかしら?

ま、どっちにしろ家長と宗清はもともと親戚だしね。

           おおまかなワタクシ。O型だからね。


子孫はお互いに養子に行ったり養子に貰ったりしてるだろうから  深く追求するな  ってコトで?


だって壇の浦で負けて食べていけなくなった方は宗清の家にも泣き付いてたろうし。
ここで宗清系に乗り換えた者もいるだろうし。

もともと伊勢伊賀に土地を持ってた者は戻って田圃作って生き延びたろうし。
後醍醐天皇のお召しがあるまで。


久居にも行ってるだろうし。

鈴鹿から南北朝の戦いに行ったのが名古屋のホンヤさんの先祖だろうし。


宗純の子供達が伊勢伊賀尾張に散ってたのはあり得るし。
     当然信濃や木曾や遠江や駿河やはたまた上野なんかまで行ったのがいるだろうし。
     人間、じっとなんかしてないし。特に男子は。


ということで  予 定 調 和。

   あ、意味は、水戸黄門なんかのドラマの最終のオチね。万事うまく収まること。

辞書から:
(日本社会で)小説・映画・演劇・経済・政治等広い範囲で、観衆・民衆・関係者等の予想する流れに沿って事態が動き、結果も予想通りであることをいう。「勧善懲悪の―を破った時代小説」「―の法案成立」


落ち着いたところで寝ます。お休みなさい。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月16日 00時00分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史を理解するのには本当に時間がかかりますね。情報も全く一緒というも
のはない。書き写し違い、聞き違い、思い込み、無知、もともとの詐称、改竄
等入り乱れているものと思われる。従って情報を見比べて整合性と最大公約数
を取る。こういう作業で時間がかかってしまう。でも致し方ないこと。少なく
とも整合性はと思っております。

 さて昨日浜松図書館に行き、まずは『新居町史』を調べてみたところ、今切
の歴代の関所番の旗本の名前が記されていました。

 ・慶長5年〜元和4年(1600〜1618) 江馬与右衛門(1250石)
・元和4年〜慶安元年(1618〜1648) 服部権太夫(4000石)
  服部杢之助(1000石)
・慶安元年〜承応元年(1648〜1652) 服部 仲(3000石)
  佐藤甚兵衛
 (その他13回の交代が続いていた)

 これを見ると、服部権太夫(政季から政信親子)と杢之助(政重と孫の正勝―
大久保家からの養子)までというのは一族で30年間続けたということのよう
に思われる。
 その後に服部中保次の子孫が続いたものと思われる。

 『見る読む浜松歴史年表』によると、

 ・元和5年(1619) 今切関所奉行、服部権太夫、志都呂に役宅を構える。

となっていますが、これは服部正季と大久保のことだと思いますが、微妙に色
々違っているのは歴史記録の常である。系図も必ずしも正しいと言えない場合
もある。

 さて、加藤喜左衛門正次の娘が服部政信の側室になっているが、慶長6
年に正次は蟄居している。この年に何があったのかであるが、この年には
大久保長安が石見銀山に関わり、膨大な銀を生産してみせた年である。そし
て徳川幕府の金融政策が画期的に変わった年であった。それは、いわゆる
慶長大判、小判、丁銀が発行されたことによる。

 加藤氏は元々竹本氏であり、竹本城にからむ。すなわち忠輝にからむ。忠輝
の家老の花井氏は猿楽師で大久保長安とつながっている。
 この年1601年においては、忠輝はまだ10才。但しその前〃年に伊達政
宗の長女5才と婚約をしていた。

 さて、蟄居の原因何であったのだろうか・・・何かがあったのである。

 本日はこの辺で。


    

 

[10]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月16日 04時20分37秒 ) パスワード

書き直し


ありがとうございました。


   ・元和4年〜慶安元年(1618〜1648) 服部権太夫(4000石)
                     服部杢之助(1000石)
    ・慶安元年〜承応元年(1648〜1652)  服部 仲(3000石)


この情報を調べに行かなきゃと思っていたところです。



服部権大夫の家と服部中の家は結局は繋がるようですね。


政信に至る服部氏は
服部新左衛門政久に子が無かったから
   庶流の服部重之丞信發が幕府に提出した系図によると
葛原親王の後胤伊賀平内左衛門保長の息子保清が伊賀の服部にいてこれを屋号とした。
保清の9代の孫修理亮保宗として、その子を伊賀守宗純とする。
その末裔。

ということは

この「保」の通字で服部家両者は繋がりますね。
   結局は「血」で繋がりますね。

  あ〜ややこしい。


ということは、やっぱり、昔っから服部家の憧れの地として遠江国の長上郡があったのかも。


   ずっと過去の古代なのか?
   平家の時代か?
   南北朝時代か?


加藤喜左衛門正次が「職務怠慢」とされたのは何だったのか?
   結局は  大久保・服部・加藤の親戚関係  vs  本多家  の争いなんでしょうね。

   政治的には忠輝と伊達家が疑われてたこと。



それにしても人名がみんな似ててワケ分らなくなります。
それで書き直しました。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月16日 06時35分27秒 ) パスワード

遠江と平家の関係を調べています。




池田の宿(しゅく)

天龍川の渡し場として栄えた宿。

遠江守だった平宗盛とこの宿の長者の娘だった熊野(ゆや)御前とのロマンスが有名です。

宗盛の切願を振り切って故郷に帰国したあとも、熊野御前はいろいろとエピソードを残しているのだとか。

「熊野の長藤」で有名な行興寺と源平新田という地名があります。
源平の時代には池田の宿は天龍川の西岸にあったのですが、川の流れの変化によって現在は東岸となり磐田市に属しています。



このお話、久しぶりに思い出しました。

ということは遠江と平家は関係があった、つまり、服部家の父祖伝来の地もあったのかも。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月16日 06時48分43秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/7f4854ab127735733887308ceb2ecb7f
上記の続きです。




源頼朝の命の恩人・慈愛深き池禅尼の出身地と伝えられる場所。
浜松市の中心街にあります。

・・・って、いや、禅尼(藤原宗子)は藤原北家の名門(父は従四位上ですが)の出で、池の禅尼と呼ばれたのは六波羅の池殿で暮らしていたからで、
決して出身地がその由来になったのではないのですが、、、、

しかし当地では一般にこういう通説になってるんだもん。

その理屈で言ったら池なんて字の付く地名、世界に星の数ほどあるぞ。
ま、この時代、藤原氏の末裔の広がりなんて、いろんな可能性が考えられます。
 
    宗子さんの一族が受領になって赴任してた可能性だってありますからね。


(G).長田(ながた)町
頼朝の父である源義朝を、知多半島の野間にて卑怯にも風呂場にて騙し討ちしたとされる長田(おさだ)庄司(しょうじ)忠致(ただむね)の出身地だといわれています。

・・・って、世の平家物語愛好家は、みんな長田庄司は三河の出身者だと思ってると思うんですけど。


しかも長田(おさだ)じゃなくて長田(ながた)だし、
よりにもよって蒲御厨の中心地にあるし、
今では長田町という名前は嫌われて和田町という名前に改称されてるし、
てか、よりにもよって和田だし。

でも考えてみれば、機を見て敏、世の流れに先んじて自分の長所を権力者に巧みにアピールしてみせるのはいかにも浜松人らしいです。

あの猜疑心の固まりである頼朝が、いくら激戦のさなかとはいえ、親が殺されて20年も経っているとはいえ、
最も憎っくき忠致に対して「粉骨砕身すれば美濃尾張を与える」と言ったなんて、
この背景には何かがあったと思えてならないです。

長田もまた騙されたんだよ。


長田氏の子孫と伝えられる一族は意外にたくさんいますし。


遠州人なんて、裏切ってより栄達を求めてナンボです。
その本能により他人にたやすく騙されるのもまた遠州人の特質です。

                あはは
                そうなの?


(H).鎌田町
逆に言うと、“とことん忠義の士”で知られる鎌田正清はどうも流行に本能的に敏感な遠州人っぽくないです。

むしろ伊豆人っぽい。

鎌田は長田の娘婿だったそうですが、そういう違和感が長田をああいう行いに走らせたと言えなくもなくもなくもなくはない。


逆にどう見ても勝ち目の無さそうな源義経に最後まで従ったと伝えられる鎌田正近(=正清の息子だといわれる)は、
なんとなく遠州人らしいです。

この磐田市鎌田町がその鎌田一族の故地だということです。

         へえ〜
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月16日 07時38分40秒 ) パスワード

http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh25_bushi/sh25_bushi.htm
武士の発生と牧


    遠江については下の方に
    服織の荘も出てます
    また「池どの」の件も下の方にあります。



駿河国は治承三年正月以前に平宗盛の知行国になり、
国守平維時(これとき)・日代(もくだい)(代官)橘遠茂(たちばなとおしげ)があった。                  ↑
                        橘さんが出てますね



  
                         服織荘
                          ↓
 また大岡荘(牧)や、蘇弥奈牧の故地と推定される服織(はとり)荘は、ともに平頼盛が領知する荘園であり、
  大岡牧は母方の叔父牧宗親(まきむねちか)があずかり知行していた。

          叔父さまでしたか

 宗親の娘が前述の牧の方である。 そのほか、益頭(ましず)荘(藤枝市・焼津市)・富士神領(旧富士郡一帯カ)に平氏の領有権がおよんだのは、ほぼ確実とみられる。

          へえ〜

 こうした、知行国・荘園制という原理を媒介にする支配の拡大方式のほかに、
武家権門としての平氏は、国家の軍事警察権を専掌することによって、諸国の武士を支配下におく方策もあわせとった。


       遠江には平氏との関係が深い?
         ↓
 遠江・伊豆や他の近隣諸国の場合と違って、
駿河武士について平時における平氏との関係を直接に語る史料はみいだせないが、
のち、頼朝の挙兵準備の報を、いちはやく平氏中枢に注進したのは、
国府(静岡市)近くの武士長田入道某だった。 
             ↑
            へえ〜


また、岡部五郎・荻野五郎・阿佐摩(あさま)二郎(浅間三郎とも)は、頼朝に敵対した(駿河)武士として、物語文学に名をとどめている。

 彼らにかぎらず、多くの駿河武士が源平内乱(治承・寿永(じしょうじゆえい)の乱)の初期段階では、
目代遠茂に率いられ、平氏方として参戦したこと自体は間違いない。

             へえ〜
             やっぱり服部家も何らかの形で関係してたかも  

   遠江ですよ〜

    ↓
 遠江国は保元三(1158)年以来、重盛・宗盛・基盛(もともり)・頼盛ら平氏一門が国司の任を重ねたところであり、
平氏領となった荘園なども少なくなかったと思われる。 

とくに重盛に関しては、笠原荘を起源とする広大な荘園)の初代「地頭」とする、かなり信頼性の高い所伝がある。

   重盛の=小松家=の家老は平家貞ですよ。
   家貞は6代に亘って清盛・重盛の家に仕えました

      やっぱり服部家と遠江の関係は  アリ  ですね。キッパリ



 鎌倉幕府の地頭職に先行する平安時代の「地頭」の存在は、すでにいくつか知られているが、
東国にその例は珍しく、
しかも平氏「地頭」が直接鎌倉幕府の地頭職に転換したと主張する点で貴重である。

 

 また、当国の武士浅羽宗信(むねのぶ)・相良長頼(ながより)らの一族は多数が平氏に属し、
あるいは遠江の出身と推定される橘公長(きみなが)、同子息公忠(きみた
だ)・公成(きみなり)らは平知盛(とももり)の家人になっていた。

         遂に出ました
         平知盛さまの乳兄弟の家は  服部家長  ですよ〜
                       家長は平六だから、上記家貞の6番目の息子ですよ〜


         三つ柏さんが気になさっていらっしゃる「橘氏」
         もろにココにもお名前がいくつか出ているではないですか

         やっぱり三つ柏さんは橘家に関わるんですよ


         やっとココで納得かもね。☆キラキラキラ〜☆


 公長の弟橘五(きつご)は、のちの一の谷合戦に平氏方として参戦した。



以下どうでも良いかも:


伊豆の国政については、頼朝挙兵の直前(治承四年六月)に平時忠(ときただ)(清盛の妻時子の弟)が知行国主、
その猶子時兼(ときかね)が守になり、
伊勢平氏の分流山木兼隆(やまきかねたか)が日代に起用されるまで、
平氏一門とのあいだにとくに深い関係は認められない。 

むしろそれ以前、平治の乱後は、摂津源氏の伸綱(なかつな)が何度も伊豆守になり、
父の頼政が長年の知行国主だった。
   ↑
   鵺退治の人で褒美に遠江国堀之内六ヶ村を賜った:鵺代

   当時陰陽師をやってた神服部さんを遠江にやった人ですよね
http://www12.ocn.ne.jp/~mizutori/onnzomaturi1.htm

   仁寿(にんじゅ)元年(八五一)従五位下に叙せられ、神服部宿祢毛人女(かんはとりすくねもとめ)と称した。
   久寿(きゅうじゅ)二年(1155)官を辞し山城国乙訓郡(おくにごおり)より遠江国浜名岡本に移り住み、
   五町八反を賜り御初生衣を調進した。」

  


 有力在庁の一族工藤四郎・五郎兄弟は仲綱の郎党となり、近藤国平も同様の存在かとみられるが、
そもそも頼政は、平治の乱に義朝を裏切って清盛方につき、晩年、清盛にすがってようやく公卿の座を得た人物である。


 頼朝に先行して頼政が挙兵したのは確かにしても、頼政や仲綱がはやい段階から反平氏の立場をとり、その結果が在地におよんでいたとは、とうてい思われない。 だから頼政父子の国政は、平氏の軍事支配が伊豆をおおうさいの妨げにはならなかった。

 伊東祐親は源氏重代の家人でありながら平氏に鞍替えし、逆に「平家重恩の者」とさえ称されるようになった。 祐親は平氏の政権下で京都大番役をつとめ、北条時政も一時上洛していたようだし、工藤祐経(すけつね)もその所領久須美(くすみ)荘の領家平重盛につかえていた。

 そして祐親は、のちの早河合戦(石橋山合戦)において、300騎を率いて頼朝を攻撃するなど、伊豆における平氏方武士団の中心勢力を形成した。なお、石橋山会戦のおり祐親の軍に属し、時政の男宗時をうちとった平井久重も当国の武士かと考えられる。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月16日 08時15分14秒 ) パスワード

とりあえず遠江と平家の関係がいくつかハッキリしました。
三つ柏さんは図書館で平家の荘園などについてチェックなさると良いですね。


平家貞は平家の家老。  正盛・忠盛・清盛・重盛・維盛・六代の6代に仕えた
長男は  貞能     この家が後に尾張の津島神社の大橋さんに
4男は  平田家継   伊賀の大山田に城を築いてた  わたくしの前世の父
6男は  服部家長   伊賀の家長。服部姓の者は皆この人の子孫を名乗りたい(笑)


この人達が遠江にどのように関わったか、その証拠が欲しいですね。

図書館で長上郡の歴史が読めると良いですね。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月16日 13時19分53秒 ) パスワード

牧宗親      驚きの人物!


牧 宗親(まき むねちか、生没年未詳)は、平安時代末期の駿河国大岡牧(沼津市)の豪族。

大舎人允。

北条時政の後妻である牧の方の父もしくは兄。
通称は三郎。
子に大岡時親。


平家一門である平頼盛に長年仕えており、
頼盛の所領で北条氏の本拠に近い駿河国大岡牧を領有していた。

『愚管抄』によると、牧氏は「武者にもあらず」と記されており、
下級ながらも貴族の出身であった。

頼盛の叔父とする説がある[1]。   頼盛の母の弟らしい。


北条政子の命で源頼朝の愛妾・亀の前が匿われていた伏見広綱邸を破壊したことから頼朝の怒りを買い、髻を切られる恥辱を受けた。

この事件で頼朝の岳父であり、宗親の婿でもある時政が頼朝への抗議として一族を率いて伊豆国へ引き上げる騒動になっている。

子の時親は牧氏事件で出家している。



脚注[編集]
1.^ 『尊卑分脈』に見える頼盛の母宗子の弟・藤原宗親と同一人物とする。杉橋隆夫1994


出典[編集]
杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」『古代・中世の政治と文化』上横手雅敬監修、思文閣出版、1994年、ISBN 4784208186
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月16日 14時10分10秒 ) パスワード

上記レス<13>の加筆です:横レスです:通字があるから同姓同名が時代を異にして存在するというお話


武士の発生のお話の

>駿河国は治承三年正月以前に平宗盛の知行国になり、
>国守平維時(これとき)目代(もくだい)(代官)橘遠茂(たちばなとおしげ)があった。 


註:

・平維時  
   平家の先祖・平貞盛の次男の平維将の子にも維時がいます。
   この人は10世紀の終わりあたり〜11世紀の初め?の人。
   


・橘遠茂

   こちらは貴族ではない橘氏

水軍を統括する河野氏一族の越智氏の分家。
皇室系の橘氏とは別系統。             ←  へえ〜
熊野国造の子孫という。

皇室の親戚である橘氏とは全くの別系統で、伊予国の越智氏一族。

水軍を率いて藤原純友の乱の時に
追捕使長官小野好古、追捕使主典大蔵春実の武将として活躍した伊予国警固使・橘遠保(楠木正成の先祖説もあるが確証はない)などが出た。


この系統で 他に駿河国目代・橘遠茂 などがいる。      ←  ここ



橘ノ遠保 (*〜944)成行の養子。伊予の橘ノ貞保の息。伊予国衛官吏。宇和郡の豪族。
939年「藤原純友の乱」に朝廷軍。小野好古とともに鎮圧。
960年軍功により村上天皇より河内国、備中国に所領。
息に保氏、保昌、行順、保経。


この人の従兄弟に  橘遠茂  がいる。笑   
こっちの遠茂は10世紀の終わりの人で
100年後の平家の目代に同姓同名の遠茂が遠江に存在。



<遠江国>

橘ノ入居 (*〜800)播磨守・遠江守・右中弁・左京大夫。奈良麻呂の息。
息に永継、永石、逸勢。娘婿に桓武天皇(桓武平氏祖)。

     娘婿に桓武天皇とは!
     桓武天皇と逸勢とは義理の兄弟ですね

     逸勢の父上は遠江守だった?

     そうすると逸勢は遠江にもともと縁があった?



▽橘ノ逸勢 (782〜842)但馬権守。入居の息。
842年「承和の変」伴ノ健岑とともに恆貞親王を擁立する謀反計画が発覚し流罪。

息に遠保、近保、安雄(清野の息?)。
   ↑
  逸勢の息子にも遠保がいる!時代が全く違うけど


平安時代初期の書家・貴族。参議・橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。
官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。


三つ柏さんのお好きな三ケ日で亡くなった人です。
三つ柏さんが橘逸勢がお好きな理由は要するにいくつもあるということでしょうね。


ということで橘逸勢(貴族)と平家の目代の橘遠茂(伊予橘氏)は他人になりますよね?
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月16日 14時21分00秒 ) パスワード

鉢田の戦い

戦争:治承・寿永の乱
年月日:治承4年(1180年)10月14日
場所:駿河国鉢田山(現在地不明)
結果:源氏軍の勝利

交戦勢力

指揮官

武田信義・北条時政    vs   橘遠茂・長田入道


鉢田の戦い(はちたのたたかい)とは平安時代末期の内乱である治承・寿永の乱における戦闘の一つ。

武田信義・北条時政と駿河国目代橘遠茂・長田入道との間に起こった戦い。



経過[編集]

治承4年(1180年)8月、石橋山の戦いの直後、甲斐の国境の波志田山において、甲斐源氏の安田義定らと駿河目代橘遠茂らが交戦し甲斐勢が駿河勢を打ち破った(波志田山合戦)。その頃までには甲斐源氏は甲斐一国を占領下においていた(『山槐記』)。


9月10日、武田信義・一条忠頼父子は信濃へ侵攻を期し、諏訪上宮に入った後その近辺の平家方の豪族を打ち平らげた。信濃を制圧した武田父子は9月14日、甲斐へ帰還する(『吾妻鏡』)。一方、石橋山の戦いの後、北条時政・義時父子は甲斐国へ赴き武田信義ら甲斐源氏と合流する。その後土屋宗遠も甲斐へ赴く(『吾妻鏡』『延慶本平家物語』)。

9月24日、甲斐源氏は軍議を開き駿河への侵攻を決定する(『吾妻鏡』)。一方石橋山の戦いで破れた源頼朝が生存していて坂東で勢力を拡大していると知った

平家は9月29日、平維盛を総大将とする追討使を進発させた(『玉葉』)。また、甲斐源氏が軍備を整えているという噂を聞いた駿河国目代橘遠茂は10月1日、駿河・遠江から兵を集めた。


10月13日、武田信義、一条忠頼、安田義定らの甲斐源氏は加藤光員、加藤景廉など石橋山の戦いで敗れた頼朝配下の武将たちのもその軍に加え富士北麓若彦路へ向かった。

同日、橘遠茂と長田入道は甲斐勢力を撃滅すべく富士野を回って甲斐国に攻め込もうとする。

翌14日、駿河勢が鉢田に進軍したところ甲斐勢と遭遇し戦闘が開始される。

山岳地帯の戦闘は甲斐勢が優勢となり、橘遠茂の子息二名、長田入道が討ち取られ、橘遠茂は捕虜となった(『吾妻鏡』)。


都から平家本軍が到着する前に行なわれたこの戦いにおいて、平家方の橘遠茂・長田入道が敗北した結果、駿河は甲斐源氏の手中に落ちた。

これは10月20日の富士川の戦いにおいて平家が敗北することになる要因の一つにもなった。


なお、9月に波志田山合戦の行なわれた波志田山と鉢田山の位置は同一とする説もあるが波志山と鉢田山の位置は現在も特定されていない。



橘遠茂と長田入道の関係から  平家と長上郡の関係が  浮かびません?
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月16日 15時31分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 遅くなってしまいました。せっかく書きかけたレスが消えてしまい、再度
書き直しです。

 連日のサプライズ、トリ肌が立つのは得意のハットリになりましたが、最
近は毎日ブルブルですので、人間になる前は鳥だったのかなあと鳥に親近感
を感じるようになりました。長上郡の羽鳥の南に白鳥(しらとり)という地名
がありますが、何か懐かしくなりました。

 本日も圧巻の推理の展開、スゴイの一言です。
 2系統の服部氏、1つは正信の系統、もう一つは中保次の系統、どちらも
もとは宗良親王に仕えた宗純の子孫。同族。
 平家と遠江の浅からぬ関係。源平の時代まで遡ってのノスタルジー。

 どういう訳か、旗本服部の知行地は敷地郡と長上郡の飛び地になっている。
どうしてなのか地図を見て考えてみた。敷地郡は浜名湖の東側一帯、則ち浜松
の西の守り。長上郡は三ヶ日から続く姫街道がやがて東海道に交わる手前で、
市野という宿場町があった。いわば街道の要衝。あとは新居と気賀に関所を
設ければ、守備はかなり整う。残りは二俣と池田を押さえればほぼ完成。本日長上郡を中心として地図を見てひらめいた事であります。

 もともと服部氏族に期待されていたものは、情報入手と防御取締りなのでは
ないか? また旗本服部氏は上忍・中忍で配下に50〜200人くらいの下忍
をかかえて活動をしていたのではないか。家康は正成の意見を最大限活かし、
人材の起用をした。それが新居での服部一族の世襲制のような関番のあり方に
つながったのではないかと推測いたします。
 同じ事は大久保の服部代官屋敷である。何年も同じ一族が居座るということ
はどうなのか。幕藩体制の組織のあり方を検証する必要はあります。

 中保次の方は、調べましたところ、伊賀越えに中保次とその親の源兵衛保成の2人が参加しています。あと名の知れた服部氏では、もちろん服部半蔵正成、服部正尚、服部美濃守貞信、それにつけくわえれば高力親子、多羅尾親子、永井直勝、その他諸々であります。
 正成をCIA長官とした服部関係者による情報網と守備攻撃また暗殺体制、
これが家康を最強にした仕組みであった、守備については正成にかなりまかせていたと思いますが、いかがでしょうか。

 長上郡は平家との関係は下地として分厚くあった。その上に家康・服部体制ができ上がった。もと平家の領地であったいわば古里ではなかりしか。
 地図をみると、市野莊を中心として1時の方向に美園御厨、2時の方向に羽鳥莊、4時の方向に池田莊、6時の方向に蒲御厨、7時の方向に浜松莊、
9時の方向に姫街道、10時の方向に行くと気賀、井伊谷、奧山、11時の方向に宮口と・・・後醍醐天皇が想起される。
 さてさて、これらに何か意味があるのだろか? 平家のノスタルジー、またレガリアとは、家康は源氏(?)、服部は平家なのに・・・。

 本日はこのくらいにしておきます。 
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月16日 15時33分22秒 ) パスワード

橘公長
(たちばな の きみなが、生没年未詳)は平安時代末期の武士。官職は右馬允。


出自[編集]

公長の出自は明らかでないが、大きく分けて二つの説が存在する。

一つは天慶の乱で藤原純友を討伐した橘遠保(越智氏の一族とも)の子孫とする説で[1]、
遠保から公長へとつなげる系図もある[2][3]。


もう一つは中央貴族橘氏の子孫とするもので、参議・橘好古の孫である橘則光の子・季通の玄孫とされる[4]。



経歴[編集]

弓馬と知謀に優れ、元々平知盛の家人であったが、治承4年(1180年)12月に平家を見限り、
同僚であった加々美長清の仲介で源頼朝の麾下に入る。

粟田口で当時源為義の家人であった斎藤実盛と片切景重と喧嘩になった際、
頼朝の祖父・源為義が朝廷に訴えず斎藤・片切を諫めた事から、
公長は源家への恩を忘れず、
縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向かったという[5]。

なお、実際には片切景重(原文「片桐」)は平治の乱(平治元年(1159年))で討ち死に、
為義はそれ以前の保元の乱(保元元年(1156年))の直後に刑死していることから、
原因となった喧嘩は治承4年(1180年)より相当前に発生したものと考えられる。


「京に馴るるの輩」という事で頼朝に重用され、元暦元年(1184年)、平頼盛の帰洛にあたって餞別の宴に同席した。

その後源義経の下で戦い、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦い後、捕虜となった平家の総帥・平宗盛の処刑を担当し、
その事と平重衡の最期について鎌倉の頼朝に報告した。

『平家物語』「大臣殿被斬」によると、世の人々は公長がかつて平家の家人であったことを忘れておらず、
その変わり身に多くの批判を浴びせたという。



子孫は肥前国に広がり、次男の公業が一時所領とした小鹿島(現秋田県男鹿市)の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。

系譜[編集]
父:橘公満[2]または公範[3]、公光[4]、公重
母:不詳
妻:不詳 長男:橘公忠(橘太)
次男:橘公業(橘次) - 子孫は小鹿島氏
男子:橘公経
男子:橘公仲


脚注[編集]

1.^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年
2.^ a b 『系図纂要』橘朝臣姓
3.^ a b 鈴木真年『百家系図稿』巻3,萩原(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年 による)
4.^ a b 「小鹿島橘系図」(太田亮『姓氏家系大辞典』所収)
5.^ 『吾妻鏡』治承4年12月19日条

関連項目[編集]
平家物語
吾妻鏡
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月16日 15時49分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、レスが2回スレ違いました。またまた驚くべき情報、心臓が早鐘を打ちます・・・「橘」がこんなに近くに存在したとは!
 じっくり解読させていただきます。感謝、感謝、感謝!
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月16日 16時02分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


すっごぉ〜い!

こういうのは全く見当もつきませんでした。
ありがとうございました。


>旗本服部の知行地は敷地郡と長上郡の飛び地になっている。
>どうしてなのか地図を見て考えてみた。

>敷地郡は浜名湖の東側一帯、則ち浜松の西の守り。
>長上郡は三ヶ日から続く姫街道がやがて東海道に交わる手前で、 市野という宿場町があった。いわば街道の要衝。
>あとは新居と気賀に関所を設ければ、守備はかなり整う。
>残りは二俣と池田を押さえればほぼ完成。

>本日長上郡を中心として地図を見てひらめいた事であります。


なるほどね。
わたくしもなんで?と思ってましたがサッパリ分りませんでした。
防衛上でしたか。



>家康・服部体制

これでピンと来ました。


家康は  賀茂氏ですしね  服部家とはなんとなく馬が合ったかも。謎

そして本多が潰したかったのは大久保の他に服部家だったのか!と。


伊賀越えで服部家が大いに家康を助けたから
そっちの線で服部家が強大な力を持つことを本多は警戒したのかも。
それに2代目将軍の秀忠のバックに服部家が絡んでいるし。
家康も服部家が秀忠を傀儡にするのを警戒するようになったのかも。


だから長安の金融能力を逆利用した?
長安の冤罪をでっちあげて、これで一網打尽で徳川家にのさばるグループを潰した?


長安は能力もあるけど派手だし
派手なところは前々から家康に嫌われていたのかもね。




大久保 長安(おおくぼ ながやす(ちょうあん))
戦国時代の武将。武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。


出生[編集]

天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。

武田家臣時代[編集]

父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安は信玄に見出されて、猿楽師では無く家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

信玄没後は武田勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄の新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって、甲斐武田氏は滅亡する。

但し一説では武田勝頼から疎まれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

徳川家臣時代[編集]

甲斐武田家が滅んだ後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の時に逗留するための仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。

長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の領地となる。しかし当時の甲斐国は武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて甲斐国の内政再建を命じた。但し、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐国の内政を再建したと言われている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は伊奈忠次や青山忠成、彦坂元正らと共に奉行に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。

また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は元正、忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8000石の所領を与えられた。但し、実際は八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。

長安はまた、家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、慶長6年(1601年)春に甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の6男・松平忠輝の附家老に任じられた。

7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という間尺を整えたのも長安である。山がちであり、各地に諸勢力が散在する封建日本でこうした着想があったのは幕府という統一的な行政機構の発足ゆえであろう。

これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称され、大久保忠隣と共に大久保派を幕府内に形成し、家康に寵愛されて本多派を形成していた本多正信と初期幕政の権勢をめぐって争い、岡本大八事件で本多派に勝利し、一時は幕政を牛耳ったとまで言われている。この頃、長安の所領は八王子8000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。

しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官をはじめとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、卒中のために死去した。享年69。

死後[編集]

長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたという理由で、長安の7人の男児は全員処刑され、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあった。さらに、家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して晒し首にしている。

また、長安の庇護者であった大久保忠隣らも後に失脚した。しかし長安が不正蓄財を行っていたという見解はほとんどなく、これは近年では、幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・正純父子の陰謀とも言われている。また、彼の財力と権勢を警戒した徳川家による粛清や、不正を行い易い他の代官に対する見せしめの意味もあると思われる(大久保長安事件)。

人物・逸話[編集]
まったくの外様(30歳近くまで徳川家と関わりがなかった)で老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。
金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという(このような派手な出費ぶりが家康に長安の不正蓄財の疑いを抱かせたとも)。
一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたと言われている。
長安の墓の所在は不明だが、一説には伊豆の土肥温泉街にあるのではないかと言われている。

長安による開発が行われた都市[編集]
桐生市(群馬県)
八王子市(東京都)

参考文献[編集]
所三男「大久保石見守長安と信濃」(一志茂樹先生還暦記念会編『地方研究論叢』,1954年)
村上直「大久保石見守長安の研究覚書(1)〜(5)」(『信濃』19-1〜3,5,6)ほか
大野瑞男「大久保長安の『遺書』」(『日本歴史』472,1987年)
林基「奥州・江戸間内陸舟運路の初期段階(1)〜(7)」(『専修史学』16〜22,1984年 - 1990年)
藤井讓治編『近世前期政治的主要人物の居所と行動』(京都大学人文科学研究所,1994年)
曽根勇二『近世国家の形成と戦争体制』(校倉書房,2004年)
曽根勇二『秀吉・家康政権の政治経済構造』(校倉書房,2008年)

関連項目[編集]
小説堀和久『大久保長安〈上・下〉』講談社
斎藤吉見『大久保長安 家康を支えた経済参謀』PHP研究所
半村良『講談大久保長安 (上・下)』光文社文庫
山田風太郎『銀河忍法帖』講談社 KODANSHA NOVELS SPECIAL
山田風太郎『忍法封印いま破る』講談社 KODANSHA NOVELS SPECIAL
岳宏一郎『御家の狗』毎日新聞社
鬼丸智彦『猿楽を舞う如く―天下の金山奉行 大久保長安』ブイツーソリューション
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月16日 17時17分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保長安事件は、秀次事件と同じようなインパクトのある事件でありま
した。この事件については、もう少し掘り下げて探求したいと思っています。
 大久保長安の謎とははたして・・・?
[24]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月17日 06時49分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日でセッションもおかげさまで6ヶ月目に入りました。ありがとうござい
ます。まだまだ続けられそうな気配です。テーマは無限に広く深くなって来ま
すので、それなりのより一層の論理立てと検証努力が必要となって来ますが、
がんばってみます。次は何とか1年を目指してみますので、あを様にはご自愛
いただき、ご無理のないようお願い申し上げます。

 さて、大久保長安事件についてのバックグラウンドとその後について、豊田
有恒氏の『世界史の中の石見銀山』という本の中に、なんでそこまでの処罰を
したのかという理由が書かれていましたので、簡潔に以下にまとめます。
 まず事件の始まりであるが、
  1.長安は脳卒中で68才で亡くなるが、その死後、家康は埋葬されてい
   た長安の遺体を掘り起し、首をはねた。さらにその遺体を安倍川の河原
   に放置させた。
  2.長安の6人の子息すべて、及び幕閣青山氏を切腹させた。すなわち、
      大久保藤十郎
       〃 藤次郎
       〃 運十郎
       〃 藤五郎
       〃 藤七郎
       〃 権六郎
      青山成国
    また、大久保家の重臣30人余りを打ち首獄門にした。
    さらに、大久保忠隣を改易。

  3.長安と親しい間柄だった家康の第6子の松平忠輝、越後高田75万石
   の大大名、左近衛少将、従4位。お家改易、伊勢朝熊へ追放、その後
   高山、諏訪に転々というような実子に対する厳罰。

    バックグラウンドには、まず本多政信、正純親子は大久保一派の功績
   と出世に妬みをいだいていた。そこに自分の家来の岡本大八が問題を起
   こす。それは大八がキリシタンであったため、キリシタン大名の有馬
   晴信がマカオ事件の後幕閣工作のため大八に賄賂を渡した。が、大八は
   何もしかったので訴えられ、賄賂が発覚した。
    これらの結末として、大八は斬首、晴信は有罪となり大久保長安に
   預けられ、のち死罪となったという事件があった。
    これは長安が伊達を通じてキリシタンやポルトガルに通じていたと
   思われるので、よけい本多親子の恨みを拡大させたものと思われる。
    従って、本多親子が、大久保一派への怨念をはらす策略・働きかけを
   したものとみられる。

    長安の蓄財と奢侈、ポルトガルとの関係は現実のものとしてあったよ
   うで、家康の厳罰もさもありなんと思われる面もある。ここは長くなる
   ので、時代背景としてキリスト教の伝導、大航海時代と貿易という時代
   に入っていたということの言及のみでとどめておきます。

 とりあえずはここで。次は猿楽師との関係に言及したいと思います。

  

 
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月17日 07時01分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


ぼちぼち考えていきます。
武田に仕えていた=だから有能=というのは知らなかったです。





http://katumasa1225.hamazo.tv/e2609675.html

遠江浜松のサイトです。
面白いサイトなので夢中になって読んでしまいます。


土地鑑が利かないので場所がさっぱりですが
貴平は羽鳥にあって橘諸兄の子孫が住んでいた所。秋鹿氏


羽鳥(はとり)庄とは?

 浜松の東部の旧国道1号宮竹の交差点から二俣鹿島橋まで通称「笠井街道」があります。

 長田郡衙=ぐんが=役所=が置かれていたと推定されている宮竹付近を通る笠井街道は、天龍川平野を南北に縦貫し、かなり古い時代から重要な道と考えられます。

「笠井の市」は遠州織物の集積地として全国的にも有名でした。      ⇔
笠井・宮竹 この地名は古代史上大事かも 


 笠井に入る手前に、「貴平」というところがあります。
               地頭がいた処だそうです。

ここは、橘諸兄の子孫とされる「秋鹿(あいか)氏」が最初に居住したところです。

 秋鹿氏は鎌倉幕府4代将軍藤原頼経(九条道家と西園寺公経の娘・倫子の子)に仕え、南北朝期に足利尊氏により遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補任されました。

のちに中泉郷に移られ見附の「府八幡社」の神主を兼任、徳川幕府の初代中泉代官となられ、明治以降は旧中泉公園(屋敷と庭園 一角に劇場や遊郭があったとされる)の主(あるじ)でした。

 天竜川沿のこの付近の郷は、古くから磐田国府とかかわりのある土地です。


ここからが三つ柏さんのおっしゃる   聖徳太子の3人のお子さん   のお話になります。 
                       ↑
                     聖徳太子の3人の子供達

集落の一角にある「八幡神社」にある由来書には、驚くべきことが記されていました。

この神社に合祀されている「玉宮」「中宮」「沖宮」とは、聖徳太子の三王子のことで、
蘇我入鹿の乱をさけて、この貴平の郷に匿われ、薨去されたのちにお供のものが三柱を建てたものだと書かれています。

にわかには信じ難いのですが、聖徳太子の有力なブレーンのひとりに常世(とこよ)の虫事件で活躍した「秦 河勝」がいますので、
まったく根拠のない話しともいえません。


遠江の麁玉郡や長田郡には秦氏に引きいれられた人々も入植していたと考えられているからです。




常世の虫事件

1.
645年は大化改新の年。その前年に起きた日本史上初の宗教弾圧事件が「常世の虫」である。

日本書紀によると、現在の静岡県に大生部多という男がいて、アゲハチョウの幼虫を奉り、
拝み踊れば富と長寿が得られると吹聴すると、人々に愛され、急速に勢力を増していったという。

「常世の虫」を奉る教団を危惧した葛野の秦河勝は、それを鎮圧した。


「その長さ四寸余、その大きさ頭指許の如し。その色、緑にして、黒点あり。その顔、全養蚕に似たり…」という虫。


2.
皇極天皇3年(644年)7月に常世虫教事件なるものが発生しています。

ちょうど大化の改新が始まる1年前です。


死生観『ウィキペディア(Wikipedia)』

橘にくっついた虫を富士川あたりの住民が常世の虫であると騒ぎ始めたのです。

家財を打ち捨てたり、踊ったり騒いだりしたようですが、これは明治維新直前の1867年に起ったええじゃないか踊りに酷似しています。

それほど世の中が混乱していたことが伺えます。

ええじゃないかは大政奉還の年に起きており、長い間続いた江戸幕府の支配から解放された人々の開放感が乱舞へと向かわせたのではないかと思います。

しかし、常世虫教事件は日本書紀の皇極記を見ると、そんな状況ではなく隠遁とした時代で踊っている場合なのか?という状況なのです。

言ってみれば644年は日本書紀によれば2・26事件の直前のような時期であり、そんな時期に関東でお祭り騒ぎが起るのはどうも不自然なのです。

これに対する私の解は、この皇極期に奪取されていた大和の王権が、大和の血統に復活した(大政奉還された)のではないかと思うのです。
しかし、また奪取される(斉明天皇暗殺)
               ↑
              ほんと?


ちょうど橘は伊豆が北限であり、永遠に枯れない皇孫の血統を意味するものです。

その橘につく虫を仰ぎ、乱舞するのは、単なる新興宗教の仕業では片付けられないものがあります。しかも伊豆周辺は弟橘姫伝説も豊富。



皇極天皇が大化の次につけた元号は白雉であり、徳島県三好市池田町にも白地(ハクチ)という地名があります。
この徳島のハクチは戦国期に四国最大の要所になっており、近くの山に登れば四国と瀬戸内のかなり領域を見渡すことができます。

しかも何かの折には吉野川を下って一気に落ち延びることができる最高の要塞です。秀吉軍と長宗我部軍の最終決戦場でもあります。

しかもすぐ北西の海際には661年に立ち寄ったとされる磐瀬行宮があります。

高知の朝倉もリアルな斉明天皇伝説があり、膨大な帆船を停泊させてくことができる港沿いです。高知の場合も風待ちをしてすぐに東に落ち延びる事ができます。

畿内に都を置いてしまえば瀬戸内から一気に攻め込まれた場合、逃げ切って再起を計れません。

明らかに斉明天皇は戦争のできる女帝でした。神功皇后を彷彿させます。その斉明天皇が狂心(たぶれごころ)の天皇とされ、突然死するのはあまりにも怪しいのです。
                        ↑
                  斉明天皇は突然死だったの?!

そして、その後の天皇の都の置き方は日本書紀の記述が正しいとするならば、あまりにも愚鈍過ぎるのです。

天智天皇の近江大津宮が本当に琵琶湖湖畔であれば狂気の沙汰でしょう。
それほど古代の日本人は愚かではありません。
潮を読み風を読み、港となるべき地を知っていたはずです。



3.
皇極3年(665年)、大生部多(おおふべのおお)という富士川に住んでいた豪族が、蚕に似た奇妙な虫を、常世神として崇め奉るという1つの事件が起こった。

ご霊験には不老不死、富、名誉などがあり、たちまちの内に世間に広がり、異常なまでに信仰を集めた。――今も昔も、新興宗教にはまる人ってのはいるもんだねぇ〜。

しかしその常世教団の快進撃も長くは続かなかった。

山城の国の豪族、秦河勝(はたのかわかつ。渡来民族、秦氏の子孫。京の太秦は、秦氏の拠点の1つ)により、
大生部多は打ち懲らしめられ、騒ぎは治まったとされている。――当時の国家権力に睨まれ、あえなく没してしまったのですよ。


なんで、常世虫信仰を秦一族が弾圧したのか……。「いーじゃん新興宗教ぐらい」そう思っていて、ハタと気が付いた。

そー言えば、秦氏は機織などの技能集団だった(秦を「ハタ」と読ませるのもそこからか?)。

当然、養蚕なんかも行っていたわけだ。…………まてよ? 養蚕!?


つまり、秦氏は蚕を扱っていた。蚕は、彼らの収入源たる織物を生み出す大切な存在だったのだ。
そこに蚕への信仰が生まれても不思議はない。

ところが、大生部多が蚕(に似た虫)を常世神として祀り上げた。
しかも、呪術的で邪なものとして……。


秦氏一族が先頭切って常世虫信仰を断絶させるために動くのも無理ないでしょう。

 
    中国から渡来してきた秦氏は蚕を扱っていた。
    日本で広まった常世虫信仰を根絶させたのは秦氏であった。

この2点から、私は秦氏が蚕を神として祀っていたと推理する(個人的には確信だぁ!)。
そして、蚕を日本に輸入したのも秦氏だと。その時に、蚕とともに、蚕に対する信仰も輸入されたのだろう。


もともと、村落内の神様というのは現世利益(もしくは災い)をもたらすものとされている(特に日本では)。
ということは、神の元になったものは利益を生み出すものでなくてはならない。

蚕は、その資格が充分あった。絹を生み出す蚕は、富という利益をも生み出してくれるからだ。


以上の理由から、蚕は神様になったのだ。



この事件が静岡発とはまたまた歴史の面白いところですね。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月17日 07時12分18秒 ) パスワード

服織神社は遠州織物のルーツの巻



笠井観音の東へ700~800m行ったところに長上郡の式内社「服織(はたおり)神社」があります。

    所在地: 浜松市東区豊町322
    祭神: 天穂日尊、建御名方尊


由緒書きには、元明天皇の和同元年(708) 出雲国から神さまお迎えして造営されたとなっていますが、
一帯には当時すでに織物に関係する人々が集団で暮らしていたと思われ、
彼らは、5世紀以降に入植した秦氏の品部の子孫と考えられています。


鹿玉(あらたま)郡には覇多(ハタ)郷があり、
長上郡の「朝日波多加神社」も秦氏に関わる神社とされます。

     この部分新しいですよね。



    清盛が源義朝のクーデターを鎮圧した事件。頼朝は伊豆に流された
    ↓
 平治の乱の後、後白河上皇のもと荘園の再編されているころの記事に、
遠江に関して次のようなものがあります。


平家全盛のころのことで、遠江守は、重盛、宗盛、基盛、頼盛と相次いで任官しています。


・) 永暦年間(1160ごろ) 京都新熊野神社へ遠江国羽鳥(はとり)庄を寄進する。
・) 嘉応3年(1171)    京都松尾社領池田荘と京都仁和寺観音堂の末寺の頭陀寺の寺領川匂荘とに紛争がおき、
              池田荘の四至膀示を定める。
・) 承安3年(1173)    最勝光院が建つ。このころからのち、村櫛荘は同院領となる。


 「服」の訓読みのひとつに(はとり)というのがあり、意味はハタオリ(機織り)のことで、
  漢字2字で服部、服織などと表記されることもありますが、
  羽鳥(はとり)もそのひとつです。

      この付近に、中世期に存在したとされる羽鳥庄があったと推定されています。

 市野庄も元は内蔵寮の領地であったといいますし、延喜式には、遠江の「調」として絹があったことが記されているそうです。


羽鳥もハタオリのことなんですね。
ということは羽鳥の方が服部や服織より古い時代かも。謎
[27]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月17日 09時17分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 またまたスゴイ情報、ハラハラドキドキの劇場が始まります。一番の核心
部分に迫ってこられましたね。私も中核には秦氏の存在があるということを
書こうかなと思っていたところですが、家康も服部氏も秦氏(賀茂氏)でつながる。平家と秦氏(松尾神社)の関係とはどういう関係だったのでしょうか。

 また、地図を見て気になっていた神社、大甕神社・・・これは物部氏の関係
かな、何で物部氏?と思っていたところであります。三輪氏もいますし、物部
、三輪、加茂、秦が腰をすえていたような感じもします。

 今回のあを様の情報により、かなり当時の姿が見えて来ました。もう一息と
いうところまで来ています。

 私は長上、長田の「長」がどうもひっかかります。「おさだ」「ながた」の使い分けも。神戸地震の後で現地視察に行きましたが、長田地区の火災での惨状がひどく、戦災の焼け跡のような感じ(想像)を思い浮かべました。
 「ナーガ」の響、出雲のにおいがしますのですが・・・ ? 元は一体何者 ?
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月17日 13時45分12秒 ) パスワード

大久保長安事件については、もっと暫くアタマを休めます。
    だいたいこの人物が大久保家ほどの家に養子に入ったのが不思議ですし
    さらに
    幕府の中枢にまで入り込んだのも不思議ですし。

じっくり休みます。


ところが大久保長安の旧姓は「大蔵」で、これは秦氏なんですって。
なんか大久保長安事件に絡みつかれている感じ。



秦氏についての復習


秦氏
「秦」を氏とする氏族。有力な渡来系氏族である。



出自[編集]

・『日本書紀』において、応神14年(283年)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されている。[1](別名は融通王[2])を祖とする。

・『新撰姓氏録』によれば弓月君は秦の始皇帝の末裔とされるが[3]、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって[4]、その真実性には疑問が呈せられており[5]、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。


・秦の遺民が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)の系統。(太田亮)[5]
・百済系渡来氏族。弓月の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音である。
・また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。(笠井倭人・佐伯有清)[6][7]
・弓月君は中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す。(田辺尚雄)[8]
・景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。(佐伯好郎)[9]


・『隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されており[10]、これを秦氏と結び付ける説もある[11]。


・本居宣長や新井白石は『新撰姓氏録』や『古語拾遺』に依ってハタでなく韓国(からくに)語のハダ(波陀)と読むとした[12]。



歴史[編集]

日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。


アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)説話のある地域は秦氏の居住地域と一致するという平野邦雄の指摘もある[13]。

難波津の西成・東成郡には秦氏、三宅氏、吉氏など新羅系の渡来人が多く住み、百済郡には百済系の渡来人が住んだ[14]。

山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。

雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられた[15]。

欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしいとされる[要出典]。

また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した[16]。


秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分かっているが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。

河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5〜6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。

秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ[要出典]、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとされる調査結果もある[要出典]。

伝秦河勝墓はこの地にある。

また、山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される[要出典]。

秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される[要出典]。

山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる[要出典]。

秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。

秦氏の末裔はこれらの社家となった[要出典]。

秦氏は相模原にも上陸し、現在の秦野市の地域に入植してその名を現在に留めている。高麗神社などが点在することから、足取りをうかがうことができる[要出典]。


天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与されるが、忌寸のほかに公・宿禰などを称する家系があった。


平安遷都に際しては葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとする説もある。

平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、
秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。

    東家、南家などは松尾大社の社家に、
    西大路家、大西家などは伏見稲荷大社の社家となった。
    伏見稲荷大社の社家となった羽倉家、荷田家も秦氏の出自という説がある[要出典]。

日本最古の戸籍半布里戸籍にも記されている(富加町)。



秦氏が創建に関係した主な神社・寺院[編集]
神社
松尾大社
伏見稲荷大社
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)
大避神社 - 兵庫県赤穂市坂越にあり、秦河勝を祀る。対岸の生島には秦河勝の墓がある。
敢国神社

寺院
広隆寺

秦氏に関する人物[編集]

弓月君

秦河勝 - 聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。村上天皇の日記には「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」と記されており、平安京への遷都や造成に深く関わっていたことが記紀の記述からも読み取れる。

またほぼ同時代に天寿国繍帳(中宮寺)の製作者として秦久麻がいる。


大生部多 (おおふべのおお) - 駿河国の不尽河(富士川)で虫を常世神とする新興宗教を唱えた。秦河勝に討伐されたが、大生部多も秦氏の系統といわれる[17]。

朴市秦造田来津 - 白村江の戦いで戦死。

秦吾寺 - 蘇我倉山田石川麻呂の謀反計画に連座し処刑。

藤原葛野麻呂 - 母方の祖父が秦嶋麻呂で、秦氏は藤原北家と婚姻関係を持った[18]。

弁正 - 秦牛万呂の子で、次男が秦朝元。秦朝元の娘は藤原清成の室(妻)となり、藤原種継を生んだ[19]。

道昌 - 俗姓は秦氏。法輪寺を再興した僧侶で、恒貞親王に密教を教えた[20]。

慧達 - 法相宗の僧侶。美濃出身で俗姓は秦氏[21]。

賀美能親王 - 秦氏で、嵯峨天皇の乳母[22]。

法然(母が秦氏の女性)

秦公春



末裔とされる氏族[編集]

末裔・枝氏は60ほどあるとされる[23]。

秦首、秦公、秦人、秦子、秦冠、秦姓[24]。
勝氏、忌寸氏、部氏[25]。

朴市秦氏(えちはた) - 近江国愛知(えち)郡。

     大久保長安の旧姓
       ↓
内蔵氏、大蔵氏[23](漢氏と共通)[26]。

            長田氏も?
              ↓
朝原氏、太秦氏、長蔵氏、長田氏[23]

惟宗氏[23] 薩摩島津氏[23] - 惟宗氏からの派生氏族。島津氏自体は当初は藤原氏末裔、後に源氏末裔を自称。

宗氏[23] - 惟宗氏からの派生氏族。宗氏自体は桓武平氏末裔を自称。 ←平知盛さまのお子様ですから

執印氏 (鹿児島氏) - 薩摩国一宮新田八幡宮社家。

神保氏[23]、安芸氏、市来氏、川原氏、河俣氏なども惟宗氏の出とされる。

長宗我部氏 - 信濃秦氏の秦能俊が土佐国長岡郡宗部郷の地頭となったため改姓。

川勝氏[27][28]

赤松氏[29]

東儀家

松下氏 - 松下氏自体は近江源氏流六角氏の末裔を自称。庶家に花井氏がある。



末裔を称する人物[編集]
荷田春満
つのだじろう - 秦氏の末裔と自称して漫画『うしろの始皇帝』を発表。
羽田武嗣郎、羽田孜、羽田雄一郎 - 羽田家は秦氏の末裔と伝えられる。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月17日 13時55分36秒 ) パスワード

浜松の復習: やっぱり秦氏が開発した所?  その後、長田氏が開発し続けた?
       長上郡も秦氏=長田氏=が開発?  ということは秦氏系服部さんの父祖の地でもある?


大甕神社
http://katumasa1225.hamazo.tv/e2609675.html


かつての天竜川本流は 今よりも東側の磐田寄りに流れ、
そこには「池田庄」という永く栄えた大きな荘園がありました。


浜松市東区中野町の国道一号の北側に、式内社に比定される「大甕神社」があります。

この付近から磐田市西南部にかけて中世期の「池田庄」があったところです。

ふるくは 天竜川の本流は磐田台地寄りに流れ、東海道の名所「池田の渡し」が置かれていました。



「池田庄」は京の葛野「松尾大社」の社領で 磐田の国衙や京の都とも深い関係があったようです。

松尾社は、渡来系の秦氏の氏神で、秦氏は 機織り、養蚕、酒作り、灌漑、建築などの生産技能にすぐれていたばかりか、明法道(惟宗氏)、雅楽(東儀家)、神官〈松尾社・伏見稲荷〉、僧侶、在庁官人などを多く輩出した氏族です。


大甕神社は江戸時代までは松尾大明神または中野大明神と呼ばれていたようです。

【祭神】大山咋神 大国御魂神 (配祀)大鷦鷯命 倉稲魂命 金山彦命


大甕(おおみか)とは 穀物や酒や水を入れるために作られた大きくて立派な瓶(かめ)のという意味だそうです。


[30]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月17日 14時47分34秒 ) パスワード

平家物語の中で
木曾の兵達が松尾大社に火をかけた話がありますが
これは木曾の兵達が乱暴者揃いだったから
という話だったと思います。


重衡さまが南都を焼いてしまったのは
風のせいだと書かれているのとはかなり違うなと。
   

考え直すと  何故  松尾大社を焼いたのか?
何か理由があったのかも。
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月17日 17時20分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 話は戻りますが、先日図書館で『大久保町誌』『神久呂町誌』を読みかけたわけですが、大久保町に代官屋敷があって服部氏、伊賀の守、橘氏云々とそれ
らしいことが書かれておりました。昔の字が読みづらくてしかも時間切れになりコピーもできませんでしたが、こちらとしては頭に入っていたのは、2系統の服部氏でしたが、それについての記載はなく、服部氏一本のような感じがしました。今度また行ってコピーして来ます。

 ただ頭に残っているのは、服部陣屋にちなんで、近くの神久呂小学校の徽章
はこうだと印影のようなものが記載されていましたが、見たところ「源氏車に2本矢筈」のようでありました。それは伊賀服部氏系の家紋系だなと思いました。

 とりあえずご報告まで。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月17日 22時53分31秒 ) パスワード

http://dir.yahoo.co.jp/Regional/Japanese_Regions/Tokai/Shizuoka/Cities/Hamamatsu/Education/Elementary_Schools/

校章の由来を検索したのですが残念。
画像ではハッキリしなかったです。



浜松市立神久呂小学校 (はままつしりつかくろしょうがっこう)

〒432-8005  静岡県浜松市西区神ケ谷町3490番地
   TEL 053−485−8508   FAX 053−485−1681

学区

 本校学区は,浜松市の北西に位置し,三方原台地の西南端を占め,西山町,神原町,神ヶ谷町,大久保町の4町からなっている。 
 かつて,ほとんど農業により生計を立てていたが,近年,都市の郊外住宅地として開け,他地域から移住する人が増えている。


明治 6年12月14日 神ヶ谷学校開設
明治 8年 9月18日 大久保学校開設
昭和33年 3月31日 浜松市神ヶ谷,大久保小学校廃校
昭和33年 4月 1日 浜松市立神久呂小学校開設



中学もチェックしましたが載ってないですね。

今時、校章とか校旗とか、はやらないのかもですね。
残念
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 05時09分31秒 ) パスワード

またもや路頭に迷いました。

上記に書いた  花井氏を調べていて



この2人の側室がこんがらがっているのに気付きました。

家康の側室:茶阿の局  と      阿茶の局
       ↑             ↑
   家康の6男忠輝母の?      政治的手腕に優れた人?




長沢松平氏[編集]

忠輝は慶長4年(1599年)1月、家康の七男で同母弟の松千代が早世したため、
その後を受けて長沢松平氏の家督を相続し、
武蔵国深谷1万石を与えられた。

慶長7年(1602年)に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る。


慶長8年(1603年)2月、信濃国川中島12万石に加増移封される(佐倉移封が前年12月であったため、
わずか40日で2度の転封となる)。


       花井氏
        ↓
そして姉婿・花井吉成が家老として補佐することとなった。

慶長10年(1605年)、秀忠の将軍・秀頼の右大臣就任の際に、家康の命令で大坂の豊臣秀頼と面会している。

慶長11年(1606年)、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚した。

しかし慶長14年(1609年)、重臣・皆川広照らによって御家騒動が起こり、広照らは失脚している。


慶長15年(1610年)、越後高田藩主(福島城主・後述)に任じられ、
このとき川中島12万石と併合して合計75万石の太守に任じられた。

越後領有当初の忠輝は、堀氏が築いた福島城の城主であったが、慶長19年(1614年)に高田城を築城し、これに移った。

高田城は幕命により、忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された。


改易・配流[編集]

しかし父・家康との距離は縮められずじまいのまま、
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役を命じられる。

剛毅な忠輝には不満が残る命令であったが、結局これに従った。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂に出陣した。


元和2年(1616年)4月、家康が死去した。

家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。

拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら馳せ参じたが、家康は最後まで面会を許さなかった。


『徳川実紀』は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去……」と伝えている。


元和2年(1616年)7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられ、伊勢国朝熊に流罪とされた。

生母・茶阿局は、家康の側室の阿茶局に取り成しを依頼したが、聞き入れられなかった。

元和4年(1618年)には飛騨国高山に、寛永3年(1626年)には信濃国諏訪に流された。





これまでに何度もお目にかかった花井氏は    もともとは  秦氏 →  松下  → 花井 に



花井吉成
(はない よしなり、? - 慶長18年8月21日(1613年9月25日))

江戸時代初期の武将。
松平忠輝の家老。
通称三九郎、
後に松平遠江守の名を許される。

室は徳川家康の側室茶阿局の前夫との子於八(忠輝の異父姉)。


娘(村上忠勝室)、
娘(大久保長安六男の大久保権六郎(右京長清)室)、       ←大久保長安6男の妻
玄芳院(服部仲保後妻)、                    ←服部仲保後妻
花井義雄(主水正、よしたけ)、
花井義賢(のちに松下に復姓)、                 ←松下に改姓
花井義房。


三河国東部生まれで、松下氏の一族。
若くして徳川家康の近習として仕え、慶長8年(1608年)、家康の命により家康の六男の待城城主松平忠輝の家臣となる。

慶長15年に忠輝が加増され、越後国高田藩主となったが、
松代を含む北信四郡もそのまま領したので、待城を松城と改め、吉成が城代を務めた。

吉成父子は北国街道の改修や、裾花川の瀬直しおよび犀川より川中島平へ用水路を引き水田開発をするなどの政策を行った。

そして、これらの土木事業は領民に感謝され、今でも花井神社として祀られている。


慶長18年、大久保長安事件の件に連座して、松代城にて自害。    ←長安事件で自害



法名は摩尼宝殿覚月照徹大禅定門。
墓所は長野市松代町松代の西念寺。

吉成の没後、子の義雄が松代城代となる。             ←子は無事だったのですね
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 05時27分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


やっと半年目を迎えましたか。
感覚としては、まだ、2ヶ月ぐらいしか経ってないような?
楽しい時間ですから。


近づいたのはまだまだ半分ぐらいでしょうか?


とにかく  古代から  源平  南北朝  戦国  江戸時代へと  かかわりがあることは見えて来ましたね。

どこの時代で  三つ柏紋を使うことになったのか  そこが知りたいですね。
旗本の服部家が三つ柏紋を使っているのは確かなんですから。
   この家を特定したいですね。
   またあの幕府の記録を読み直します。


見つかれば三つ柏さんの御先祖さまがかなりの精度で確定になりますね。
   でも当確が出てもヒックリ返ることがあるので慎重に。


これからも頑張りましょうね。
浜松の図書館に頑張って通ってくださいね。


永井家との関係は「地」的に古くからあったというのは分かりましたね。
つまり「血」でも関係があるということ。


加藤家との関係は系図で確実にハッキリしている。


鈴木家との関係もハッキリした。


松島家との関係は何だったか忘れてしまいました。でも松島さんの御先祖がハッキリしたので
松島家が伊那から降りて来て、という関係でしょうね。


[35]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月18日 06時43分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろお心遣いありがとうございます。旗本服部氏で三つ柏を特定できればとのお話、心強く思います。

 神久呂地区神ケ谷に嫁に入った私の長女の家は、松下ですので、花井家と関係ないか調べてみます。可能性はないと思いますが・・・。

 早朝より、本を漁っておりました。家康にからむ謎が一皮むけましたので、
本日、あとで記載いたします。

 一旦切ります。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 08時01分21秒 ) パスワード

花井もいろいろですね。
調べて来ました。


徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河の花井氏は清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)酒井氏氏流がある。

ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
古代氏族であり、
   美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏、
   菅原氏などにもみられる。

へ〜

三河の花井氏は酒井流ということは徳川家の親戚筋になりますね。



【全国順位】 1,076位
【全国人数】 およそ17,500人

※都道府県別ランキングのデータを資料等でご利用される場合は、「参考資料 名字由来net」「名字由来netより引用」などと記載していただき、自由にご活用ください。



北海道 1,037位 およそ800人
宮城県 1,902位 およそ70人
福島県 1,129位 およそ200人

埼玉県 1,394位 およそ600人
千葉県 1,634位 およそ400人
東京都 853位 およそ2,200人     
神奈川県 1,008位 およそ1,300人

山梨県 1,214位 およそ60人
長野県 1,384位 およそ200人
岐阜県 833位 およそ300人

静岡県 688位 およそ800人
愛知県 193位 およそ6,600人     愛知県がダントツ。ということは三河に多いのでしょうね
三重県 281位 およそ1,200人

大阪府 1,281位 およそ900人
兵庫県 1,777位 およそ400人
奈良県 878位 およそ200人
鳥取県 886位 およそ100人

島根県 1,020位 およそ90人
徳島県 1,446位 およそ70人
高知県 1,818位 およそ30人
福岡県 1,602位 およそ400人

 
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 08時08分40秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=cxi2gPgFtMwC&pg=PA66&lpg=PA66&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=IuBVqU9OZW&sig=FADBHsUzqjaHuZ9M1QnLBcpibuU&hl=en&sa=X&ei=QjcSVPjrGYO1yAS6soLgDA&ved=0CB0Q6AEwADgU#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

寛政時代に作られた服部氏の記録を全部見ましたが  無かったです  三つ柏紋の家。

書かれている皆さんはだいたい  車に矢紋  揚羽蝶  菊  こんなところでした。藤というのもありましたが。


ということは旗本の服部家でも、分家した家が使っていたのかも。
それで載ってないのかも。
寛永の記録も読まないといけないですね。


下に服部家のことを纏めます。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 08時14分22秒 ) パスワード

寛政重修諸家譜の最初に出てた服部家は

服部保長の系統

   服部半三(半蔵)正成の家系ですね。
           遠江に8000石知行した

     正就    5000石を自分のものにし(慶長9年岳父の松平定勝に預けられる)
     
           3000石を弟の正重に。 (妻は大久保長安の娘)
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 08時21分03秒 ) パスワード

2番目に重要なのは服部保次(要介・小平太・中)の家。


遠江国引佐郡と三河国岡村で120貫文。

遠江に死す。刑部村に葬る。


この流れの
保正は   1550石

保俊は   父の1550石の内、


        500石を弟・保久に。
     

      後に保俊は計3050石に。

      保俊の采地は後に遠江国敷知郡と長上郡に移される。


子孫の保貞は田安家の家老に。

その子孫  保昭は下総国印旛沼の新墾をする。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 10時49分39秒 ) パスワード

意外な服部氏について記します。


服部貞信

   平氏。服部家長の子孫。
   ただし伊賀国呉服明神の神職。      ← 伊賀の服部にある小宮神社のことかしら?   
       
   のち山城国へ。

   天正10年6月の本能寺の変にて家康と信楽まで同行。


   のちに遠江国浜松で160石を賜う。             ←  驚き

   のち武蔵国荏原郡に采地を移される。


子:貞富

   武蔵国荏原郡と常陸新治郡で400石へ。


その次:貞常

   全部で160石
   養老料で300俵    すごいね  年金!  300俵って150石相当でしょうか?


貞世   (貞富の子  3男)

   なんと! 1250石ですよ!
   養老料300俵!



不思議ではありませんか?

神職ですよ。

それも  遠江に采地をもらったり、1250石もの加増に、隠居料が300俵なんて。


関が原で謎の人々がいましたよね、背中にダビデの星。六芒星の人々。


    この家のことでしょうか?


呉服明神なんて初めて知りました。

姓氏と家紋



www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90.../hattori.html

又、後世 伊賀服部氏の後の服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、伊賀国呉服明神の神職、後に山城国宇治田原に住す、後 家康に属す)−貞富、家紋 車輪竪二本矢、七本矢...

    ここなんですが、この続きが読めません。


************************



伊賀越随行者(甲賀衆150名の中から)・・・(鳴海伊賀衆200名は別)


甲賀郡小川城主〔多羅尾四郎兵衛光主俊(67)〕・・家臣・次男・三男・五男

近江勢多城主〔山岡美作守景多隆(57)〕

近江善所城主〔山岡対馬守景(52)〕

伊勢亀山城主〔伴五郎兵衛盛兼(36)〕

宇治田原城主〔山口甚助長政〕・・家臣・荒木村2名・田原村2名・市野辺村1名

津田国見山城主〔津田主水頭正時〕

十市城主〔十市玄蕃充遠光〕・・家臣・3名

元城主〔美濃部下総守茂濃〕・・子弟・4名

元尾張黒田城主〔和田八郎定教〕

元尾張高槻城主〔和田伝右衛門惟長〕

服部美濃守貞信〔伊賀呉服明神の神職(52)〕     ← この人ですね

伊勢大湊船奉行〔吉川平助〕


****************************


伊賀越え


    明智光秀の反逆のあと、徳川家康による命がけの脱出

徳川家康はその生涯で四度の大難に遭ったと心の中の思いをのべていますが、
中でも「伊賀越えの難」は「御生涯艱難の第一」と徳川実紀に記しています。

戦国の風雲児・織田信長が明智光秀の反逆によって生害という知らせを家康が受けたとき、
堺見物の帰路、河内の飯盛山の麓(大阪府大東市)でした。

この時の共は酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、服部半蔵など重臣ばかりであったが、三十数名に過ぎず、その上、平服だったのです。

        高力の名がココには無い!笑


家康は「本来なら明智を討伐すべきだが、この少人数ではどうしょうもない。むしろ知恩院にて切腹を」と言ったが「本国に帰りの軍勢をととのえて、明智を誅伐することこそ信長公への報恩」という本多忠勝の進言により、脱出の方途の相談となりました。



信長より案内役として同行していた長谷川秀一の先導により、
おそらくは河内尊延(円)寺(大阪府枚方市)から宇津木越えから、
山城に入り、草内から木津川を渡って宇治田原を経て近江信楽。

その後小川から多羅尾、御斎峠、伊賀丸柱にいたり鹿伏兎を越えて伊勢にぬけ、船で三河へ帰国したいと考えられます。


伊賀に入るまでの難関を命がけで護衛したのが、大和の十市玄蕃允、呉服部明神の神官服部貞信、信楽の豪族多羅尾光俊、宇治田原の山口光広、近江瀬田の城主山岡景隆と弟の景友(後の道阿弥)らです。


     服部貞信は自宅で休息させたそうですよ 


反乱には付き物の野伏や一揆などにさいなまれはしましたが、
無事伊賀に入り、
その後は柘植三之丞など甲賀・伊賀の地侍が伊勢白子浜(鈴鹿市)まで案内したと言うことです。

この事跡を後世、神君伊賀越えなどと呼んでいます。



家康は、この時の甲賀・伊賀者二百名を召し抱え、服部半蔵正成をその組頭としました。

これが伊賀組同心の起こりです。


参考文献「徳川実紀」「伊賀者由緒」「三河後風土記」


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http://www.genbu.net/data/iga/omiya_title.htm?print=on

小 宮 神 社
おみやじんじゃ  
三重県伊賀市服部町1158



式内社 伊賀國阿拝郡 小宮神社
旧村社

御祭神
呉服比賣命
配祀
健御名方命 大山祇命 健速須佐之男命



三重県伊賀市にある。
伊賀上野駅から南東に、直線2Kmの服部町にある。
服部川の北、服部バス停の前に鎮座。

境内入口は西側の道路に面している。
境内に入り、参道を東へ歩くと南向きの社殿。
拝殿後方、垣の中に、中央に本殿。
左に、狹伯社。右に、蛭子社。        ←  えびすさん?
本殿の幕には、並び矢の紋がついていた。

『惣國風土記』によると、天武天皇三年三月の奉祭。

社名、小宮は「おみや」「をみや」と読む。

祭神・呉服比賣命に因んで、麻績(おみ)から来たものだとか。
伊賀一宮・敢国神社の大宮に対する、伊賀二宮としての小宮であるとか。

祭神に関しても諸説ある。

『惣國風土記』では、園韓神。
『伊水温故』『伊乱記』では、服部氏の祖神として酒君。
『三国地誌』では、諏訪明神。
『神社覈録』では、天鉾御命。
現在の祭神は、服部の地名から、機織の神・呉服比賣命となっている。

境内に入って左手に、ひとつの境内社がある。
大事に祀られている様子だが、社名は不明。

『平成祭データ』には、摂末社として、3社記されており、
狹伯社、蛭子社の他に、小宮神社(こみやじんじゃ、祭神少彦名命)とあった。

本社が、小宮(おみや)で、境内社が小宮(こみや)というのは面白いが、
この境内社が、そうであるかどうかは知らない。

[42]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 10時59分16秒 ) パスワード

尾張の服部氏系


服部政光

       遠江国河の庄に3000貫


       武蔵国太田庄で3000石


       近江国長浜で+1000石

           合計4000石


政信   
   
      遠江国今切関所番

      3500石のうち1000石を弟の杢助政重に分ける。

      のち4290石余に。 


政久

      2790石余


      1500石を弟・信成に


家紋は源氏車の内矢筈   揚羽蝶   16葉菊



政重   (服部政光の次男   母は高力清長の娘)

      近江長浜で1000石
 
      兄・政信と同じく今切の関所番



政次   名乗りは杢助

     今切の関所番 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 11時04分09秒 ) パスワード

流れ者系服部氏



康高
  
      少壮の時、伊賀国にをいて人を殺し
      駿河に至り
      今川義元に仕える


    
康次

      今川没後、小笠原氏資に仕える

      遠江国にて死す



康信

      450石


政行

      260石余を知行し

      150石を弟・政秀に分ける


[46]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 11時21分18秒 ) パスワード

その他   1

   服部直次


      直盛

       家光の時、大番となる。


この家は大番になっている。確か父親も大番だったような。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 11時32分38秒 ) パスワード

以上



遠江国関係の服部家っていくつかあったのね、と驚いています。


この中のどれかに該当すれば良いのですが。


寛永重修諸家譜も読まなくっちゃ。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 13時37分32秒 ) パスワード

書き直しL


本多家に仕えた服部氏



正吉 (重好)   重の字を通字にしたのは本多家に仕えたから、
           「正」の字を通字にしている本多の殿に遠慮したのだと思う



     蘆田信蕃に仕え
     天正10年北条氏直と戦った時に戦功あり



正長  (重長)

     関が原で本多正信の手についた

     大坂の役には本多正純に属した

     元和9年駿河大納言忠長卿に仕え
          のち  致仕。

         この段階では  隠居して悠々自適生活へ。



正次  (重明)
 
     忠長卿に仕え
       致仕して後
     100石+米50俵    ←  隠居料?



正久  (重昌)

     御蔵奉行
     のち
     肥前国天草の官舎に於いて死す



左次兵衛

     万治元年、友人と信濃国小諸に行って
     奴僕が土民と口論し暴行を加えたので
     友人と一緒に土民を切り殺したので

     小諸の人に捕まった。

     この事件で

     「軽々しく遠所に赴き
      奴僕等が口論の時は計らう旨もあるべきに
      小諸の町の衆に捕まっただなんて
      その罪、軽からず」

     として切腹せしめらる。    

                     あらら・・・





服部長次   服部七左衛門正長の次男   (正長は 上記  本多父子に仕えた人)

      忠長卿に仕え
        処士となる。  仕官しないこと。   



この子孫の長よし  (よしの字は  燐の  火扁が由   由+燐 みたいな字)



子孫が田安家の近習番に出世!

    徳川吉宗が創設した御三卿の1つ。つまり吉宗の次男の家。    
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 14時00分17秒 ) パスワード

<49>に書いた服部家
     
      なんか不思議。
      というかアヤシイ。


とにかく本多の父子に仕えたということで運が転がり込んだ?

忠長卿に仕えることが出来たのもラッキーだし
    元和9年は忠長卿の兄・家光が3代将軍になったから
    その祝儀で忠長卿は加増につぐ加増で
この服部家は楽隠居。


長次に至っては  気楽にブラブラしてた?


そして子孫は田安家の家老にまで抜擢された?





徳川忠長について:

国千代(幼名、国松・門松丸・北丸殿)→忠長

別名駿河大納言

官位
従四位下 参議兼左近衛権中将、
従三位 権中納言、従二位 権大納言


甲斐甲府藩主 → 駿河駿府藩主

父:徳川秀忠、母:江(浅井長政の三女)

兄弟
千姫、珠姫、勝姫、長丸、初姫、家光、和子
異父姉:豊臣完子、異母弟:保科正之

正室:昌子(織田信良の娘)


徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国であったことから、通称は駿河大納言。



生涯[編集]

慶長11年(1606年)、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の三男として江戸城西の丸にて生まれる。

幼名は国千代(国松)。誕生日は5月7日説[1]、6月1日説[2]、12月3日説[3]など諸説がある。

5月7日は異母弟保科正之の、12月3日は異母兄長丸の誕生日が誤伝したと考えられ、
また曲直瀬玄朔の『医学天正記』には6月1日生まれの「大樹若君様」(将軍の若君)
への診療記録があることから6月1日説が有力と考えられており、
『大日本史料』では諸説を紹介しつつ6月1日生まれとして章立てしている[4]。

乳母として朝倉局(土井利勝妹、朝倉宣正妻)が附けられたという。



父の秀忠や母の江は、病弱で吃音であった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたとされ、

それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったとされる。


この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代派の勝利で終わる。


徳川秀忠より松平姓(庶子扱される)を与えられ、松平を称す。

徳川姓であった叔父の徳川義直・徳川頼宣は将軍職継承権を持っていたが、忠長には、それがなかった。

元和2年(1616年)あるいは同4年(1618年)、9月に甲府23万8000石を拝領し、甲府藩主となる[5]。

のち信濃の小諸藩も併合されて領地に加えられた。

藩主就任に際し、朝倉宣正や郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団が編成され[6]、

のちに武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らがこれに加えられた。


元服前かつ幼少であった国千代が実際に入甲することはなく、藩の運営はこれら家臣団や代官衆により行われた。


しかし元和4年(1618年)10月9日、国千代は父を喜ばせるべく、自らが撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠の膳に供して最初は喜ばせたものの、その鴨は兄の竹千代が住んでいる西の丸の堀にて撃ち取ったものである事を知られた事で、「江戸城は父・家康が修築され、後には竹千代に渡さなければならない所である。国千代の身で兄である竹千代の住んでいる西の丸に鉄砲を撃ち込む事は、天道に背き、父・家康への配慮も無いことで、たとえ悪意無くとも将軍となる竹千代への反逆に等しい」と、逆に秀忠の激怒を買ってしまい、秀忠は箸を投げ捨ててその場を退出した[7]。



元和6年(1620年)9月に元服し、名を忠長と改める(名付け親は崇伝)。


               元和9年の慶事
                 ↓
元和9年(1623年)7月、家光の将軍宣下に際し権中納言に任官。


同年11月7日に織田信良の娘・昌子と婚姻。

寛永元年(1624年)7月には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を領有した。


なお、その際に小諸藩領は領地から外されている(のちに松平憲良が入封)。
寛永3年(1626年)に権大納言となり、後水尾天皇の二条行幸の上洛にも随行する。

なお、「会津松平家譜」によると忠長は正之に家康の遺品(葵紋入り)などを与えたり、
年代不詳ながら正之に復姓を薦めたりしたとされる。 


寛永8年(1631年)5月に、不行跡(家臣1名もしくは数人を手討ちにしたとされる)を理由として甲府への蟄居を命じられる。その際、秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが許されず、

寛永9年(1632年)の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたがこれも許されなかった。


秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。

また、その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易処分されている。
                  ↑
                 気の毒


寛永10年12月6日(西暦に換算すると原則的には1633年だが旧暦・新暦の対応で12月6日は翌年に当たる1634年1月5日となる)、

幕命により高崎の大信寺において自刃した[8]。

享年28。

墓は43回忌にあたる延宝3年(1675年)になって大信寺に建立され、
現在では高崎市指定史跡となっており、
硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されている。


また、正室については、上述の織田信良の娘・昌子が定説であるが、
極楽寺 (高崎市)には、忠長の墓碑と共に「承應三年正月廿一日 二世 神女清月彌勒院内儀松誉春貞大姉 徳川忠長正室 俗名 吉井庚子 五十五才」と記された墓碑がある。


側室は、大信寺の過去帳に忠長側妾で院殿がついている人が3人ほどいることから、存在を推測されるが、詳細は不明[9]。


子には松平長七郎(長頼)がいると伝えられているが、
これは従兄弟松平忠直が配流先でしこんだ永見長頼のことではないかとされ、
実子の存在は資料上確認されていない。

また大伯父の織田信長に顔立ちがよく似ていたといわれている。



改易の理由[編集]

改易の表向きの理由は前述の通り不行跡であるが、
本質的には幕府権力の確立・強化などを目的とした、
当時の幕府による大名廃絶政策(詳細は改易を参照)がその理由として挙げられる。


忠長の場合は改易に至る過程として、
江戸と駿府の両方に将軍がいるといわれるほどであった幕府・将軍家に対する不遜とも取れる言動もその一因としてあげられ、同様に改易された松平忠輝や忠直のようになるという風聞もあった(『細川家史料』)。


また、家光との間に確執があり、それが改易のみならず自刃という過酷な処分の一因となったとする説もある。


なお、従来より流布されている家臣や領民への無差別な殺害や、殺生が禁じられていた静岡浅間神社での猿狩り、その後の度を超えた狂乱ぶりが幕府に咎められたとする説は、そのほとんどが信憑性の低い伝聞や伝承が元となっており、従来からあるステレオタイプな暗君像を忠長に当てはめたものと考えられている。

猿狩りについても、猿による農作物被害に悩まされていた領民のために行ったという側面があり、暗君像をより強調するため不正確な伝聞や伝承が物語的に後付けされたものとされる。



※日付=旧暦
慶長11年:生誕
元和4年(1618年):1月11日、甲府藩主20万石を知行。
元和6年(1620年):8月22日、従四位下参議左近衛中将
元和9年(1623年):7月27日、従三位中納言

寛永元年(1624年):駿河国・遠江国・甲斐国で55万石を領有する。
寛永3年(1626年):8月19日、従二位権大納言となる。
寛永8年(1631年):5月、甲府(甲斐国)へ蟄居を命ぜられる。
寛永9年(1632年):10月20日、改易。
寛永10年(1633年):12月6日、配流地の高崎(上野国)で自害。享年28。

主な家臣[編集]
朝倉宣正(附家老、朝倉宣親が継ぐ)
鳥居成次(附家老、鳥居忠房が継ぐ)
屋代秀正(附家老、屋代忠正が継ぐ)
稲葉正利
松平忠勝 - 大番士の中から将軍秀忠によって朋輩53名とともに選抜され忠長に仕える。

三枝守昌
有馬頼次
内藤政吉

水野勝信
松野重元
浅井道多

木村友重
土岐頼泰(旗本土岐頼次三男)
山名豊晴 - 初名豊信、兵庫。忠長改易時に息子と共に内藤忠興に預けられる。                          息子は忠興に仕えた。
山田重次
松平正朝

原重久 - 原虎胤の四男重胤の子。忠長に仕えて代官となる。忠長改易に連座して子の重国とともに追放されるが、寛永13年(1636年)12月10日赦免されて御家人格で大番に列する。寛永15年(1638年)12月1日、禄二百俵を賜って旗本に列した。

屋代勝永
大久保忠尚 - 将監。忠長改易後、息子長次郎とともに他家に預りとなった。

興津直正
日向正久
渡辺忠

森山盛治 - 本多正信の麾下で大坂冬・夏の陣に出陣。その後忠長に付属された。忠長改易後は将軍家光に仕えた。

仙石久形 - 右兵衛・主水。忠長に仕えたが、朋輩に殺害され嗣子なく家は断絶した。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 14時15分44秒 ) パスワード

伊賀の呉服神社が気になります。



http://shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/158.htm


三重県の新羅神社(7)



@ 小宮神社と新羅

小宮神社は伊賀市服部町に鎮座。(式内社・伊賀国拝郡鎮座)。

伊賀上野の寺町から芭蕉翁生家を過ぎると服部川である。

旧の大和街道であろうか。服部川は現在では川幅は広いが、花畑やグランド、雑草などが生い茂り水の流れは細い。服部川に架かる橋を渡ると神社の森が見える。広い境内地で道路に沿って石の玉垣が100mくらい続いている。


小宮神社玉垣はコンクリートの土台の上にある。中央に石造りの大きな明神鳥居があり、鳥居と道路の間にこれも石造の、幅1mくらいの太鼓橋がある。

鳥居の両側には石灯篭が置かれ、左側の灯篭の左手に石碑があり、延喜式内小宮神社と刻まれている。

参道には狛犬や石灯篭が並び、小粒の砂利道である。右側に橿原神宮遥拝所と刻まれた石碑が西向きに立っていた。

杉の大木の間を入ると神社の社殿が左側にあり、社務所や参集殿が右側にある神社参道を真っ直ぐに進むと駐車場があり、その背後は田んぼである。

参道は東向き、社殿は南向きである。入母屋造りの拝殿は比較的大きい。瓦屋根で中央に太めの注連縄と鈴と麻縄が吊り下げられている。左右は白壁とガラス窓の壁である。簡素な登り高欄と宝珠柱や架木があり板の間に玉ぐし案がおかれている。

玉ぐし案の上にある頭貫に大きな額が掛けてある。金色で仰霊と書かれている。

拝殿の奥の梁には中央に金縁の立派な大きい扁額が掛けられており、太い金色の文字で小宮神社と書かれている。


その右側に蛭子社、左側にも扁額があり、春日社、狭伯社、津島社の三社の名が書かれている。

拝殿の手前に手水舎がある。拝殿の背後に石造の玉垣があり、本殿は流造であるが、屋根には千木や堅魚木などがついている。

中には組高覧などがついている。


唯一神明造に似た建物である。

境内社は本殿の左右に一社ずつあり、右側の神社は切妻造の覆屋の中に流造の社殿がある。蛭子社である。

右側の神社は切妻造で石垣の上に石の玉垣でかこまれて建物がある。

こちらは同村字夏ハセ四九七番地鎮座の狭伯社(建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命)にその境内社であった津島社、と大字服部字中之房の春日社を合祀したものである。



神社の祭祀氏族と新羅

 私が訪ねた時には、本殿の杉の大木が根を張りすぎて、石の玉垣を壊すということで、この大木を除く工事をしていた。総代と思われる人がおり、由緒書はまだ作っていないとのことで、神社の説明をしてくれたが「インターネットをみていただいた方が良くわかります」と言われて時代の流れを感じた。

それでも、ここは服部町の中心部で、この神社は服部氏の神社である。祭神は呉服姫命であるという。


呉服と書くのは服部のことで、            ← へえ〜
近くを流れる服部川もかつては呉服川といっていた。


この姫は応神紀三十七年に高麗国に渡り呉に行き、
呉の王から縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えたとの記載がある。

しかし、祭神については、
「惣国風土記」に園韓神とし、

「延長風土記」には服部氏の祖先が小宮大明神と狭い伯大明神を祀ったとする(建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命)。

また、「伊水温故」は秦酒君の霊社で服部氏の祖神なりとし、

「三国地誌」が俗伝として諏訪大明神というのが小宮宮で、
牛頭天王というのが狭伯神と伝えている。


「姓氏録」には大和国神別に「服部連。天御中主十一世の孫天御桙命之後也」とある。


園韓神については、延喜式で宮中三六座の中の園神・韓神のことであるが、この二神は大和王権の時代から祀られていた秦氏系の神の可能性が強く、平安京に移っても内裏の中に祀られていた。

この二神は元々、京都盆地に入植した秦氏が祀っていた産土神かもしれない。


伊賀の服部氏については阿拝郡服部郷にあり。


呉織という言葉は、呉と織という意味の二つに分かれる。
「はとり」は機織りのことであるが呉とは当時の倭の五王が使いを出していた南朝の宋国であろうか。
南朝へ行くには海路が便利であり、高句麗を経由しても北魏があるので、
直接には困難であることから考えるとこの呉はせいぜい高句麗のことであろう。


しかし、小宮社については、先に見た穴石神社の項で式内社の穴石神社は小宮神社との説もあった(度会延経「神名帳考証」)が、

「三国地誌」の引用している「天平風土記」に久礼波之登利須々杵川とあり、

「伊水温故」所引の「伊賀記」に倶礼羽川とある。


更に、平城京出土の木簡に「伊賀国安拝郡服部郷俵」などがみられることから、当地には養蚕、機織の技術をもった集団として伴造秦氏の下にいた呉服部が居住していたものといわれる。


神社の祭祀氏族は勿論、服部氏であり、秦氏の一族として開拓と共に神の信仰も厚かったと思われる。

当社の祭神とされる園神・韓神は延喜式で宮内省に坐ます神とされている。

園神も韓神も新羅の神とされ祭神は大己貴命とされている。


もともとは農耕神であったのであろう。


ちなみに、当地の服部氏は寿永二年(一一八三)服部平康行が源氏に忠勤して御家人となり、東大寺の領地を侵略したらしい。


服部氏も全国にみられ、大和では山辺郡に服部郷があり、波止利と称し、大和、摂津、河内、伊勢、伊賀、駿河、武蔵、など全国的にみられるが、

元来機織り部門を担い機織部からハトリベとなり、綾部、錦織部、衣縫部、赤染部などに名残をとどめる。



A 敢国神社

この神社は伊賀市一之宮に鎮座している。佐那具にある御墓古墳が比較的近い。小宮神社から車を使って一〇分くらいで着く。旧大和街道の国道25号に近い場所にある。広い境内地は南宮山の山裾の丘陵地である。伊賀の一宮だけあって、立派な社殿が並んでいる。表参道と裏参道がある。神社の駐車場が西にあり、その前から裏参道が登っている。

「元国幣中社敢国神社」と刻まれた石碑があり、隣に、三段の石段に乗った石の灯篭があった。一番低いところが、集落のあるところに面した道がある。表参道と書かれている。


敢国神社 参道となっている道路の東側は民家が並んでいる。石灯篭を過ぎると芭蕉の句碑が石を並べた土台の上に立っているが、苔が生えて文字の判読が難しいためか、横に説明板が建てられている。「手ばなかむおとさへ梅のにほひかな ばせを」。しばらく東に歩くと朱塗りの黒木鳥居とこれも朱塗りの一間社流造の神殿、木の灯篭も朱塗である。境内地の周りには池がある。市杵島姫者(弁天社)である。参道の東の端に朱色の両部鳥居がある。金色の文字の扁額がかかっている。東隣は手水舎。鳥居のしたから見上げると真っ直ぐに石段が伸びていて、はるか上段に社殿がみえる。鳥居から少し北に入ると左手に社務所と崇敬者会館が一緒になった大きな建物がある。社務所で由緒書をもらった。拝殿に登る石段の右手に石碑があり、御神水井戸 敢国神社と書かれて四隅を注連縄で囲んだ四角い井戸があり蓋をしてある。その奥に注連縄のかかった一つの岩があり、石の玉垣で囲まれている。

桃太郎岩という。

説明板には「古伝により、この桃太郎岩は今を去る五百五十年前、南宮山頂(前方に聳える山)からお遷申し上げ、安産及び子授けの守護の霊岩として全国各地より信仰を集めて居ります。御祈願を社務所のかたに…」とある。神社の栞には南宮山上に鎮座の木華開耶姫命を祀る浅間神社から霊を遷したと記されている。長い石段を登ると大きな境内地があり、唐破風の庇を持つ大きな拝殿と背後に祝詞殿がある。その背後には玉垣で大きく囲まれた中に三社殿が建てられており、中央が本殿、左が九所社、右が六所社である。拝殿には大きな扁額(敢国大明神)と白地の布に菊の紋章の入った幕が垂れていた。拝殿の内部の奥の梁に大きな扁額が掛けられており、中央に大彦命、右に少彦名命、左に金山比・命の三柱の神名が書かれていた。祝詞殿の階段の奥に本殿の建物があり、切り妻、平入りのような建物である。社殿は全て南向き。拝殿の前から西側へ裏参道が下り坂になって伸びている。拝殿の隣には、神饌所、神輿蔵、若宮八幡宮、子授けの神、神明社、大石社などが並んでいる。「南宮山の浅間神社はとても登れませんよ」と言われ、登るのを止めた。




秦氏族の祀った神

神社の由緒については、神社の栞に概略、次のように記載されている。

「当社は今から千三百年以上前の七世紀の中頃、六五八年に創建された。創建当時は大彦命・少彦名命の二柱であった。創建以前、当社の主神である大彦命は三五〇年頃第八代孝元天皇の長子として大和国に生まれたその子の建沼河別命と共に北陸東海を征討する役目を負われ四道将軍の一人として第一〇代崇神天皇の命をうけ、東国の攻略をされた。


この大彦命が大和朝廷に帰服(第七代孝霊天皇)して以来、
伊賀の国を本貫の地として居住、子孫は伊賀の国中に広がった。

伊賀国の阿拝郡を中心に居住し、阿拝氏を名乗るようになった。

古代伊賀地方には外来民族である秦族が多数居住しており、彼らが信仰する神が当社の配神である少彦名命であった。

当時は現在の南宮山の山頂付近にお祀りしていたが、創建時には南宮山から現在地に遷してお祀りして現在に至っている。


私たち伊賀人はこの二神の混血の民族であります…其の後南宮山の神社跡には美濃国の南宮社の主神である金山媛命を勧請した…九七七年にこの媛神社を合祀した…秦族は外来民族で色々な技術文化をてくれている。

例えば、伊賀の組み紐・伊賀焼・酒造などがある…
芸能でも田楽の祖・観阿弥は伊賀の出身者で…」とある。
まだ、続くが、要は、土着の神と渡来の秦氏族とが一緒になって伊賀の文化を作ってきたので、
祖として祀ってあるという。

この神社のある一宮地区は古墳が多く、昭和六年の県道の開通工事のために大岩古墳が消滅したが、古墳跡から須恵器、土師器が七〇〜八〇個、ヒスイ勾玉二個、メノウ勾玉数個、碧玉管玉一個が出土している。更に祭祀用の高坏や榊につけたと思われる臼玉などが見つかっている。

(東京リース株式会社・顧問)

[52]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月18日 17時20分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私も家康の戦場の絵の中にあった二人のダビデ紋の陰陽師のことが頭に
浮かんでおりました。必ず陰陽師がいたはずですし、それができるのは
土御門系か安部系か賀茂系か忌部系か中臣系か、卜部系か、神服部系か
・・・家康の場合、誰だったのか調べたいと思っておりました。
 家康と服部氏と陰陽師、この三者が本当の中枢秘密を握り采配していた
のではないか・・・そんなイメージを思い浮かべています。

 大加茂真也氏の『八咫烏の超日本史』の中に家康と賀茂氏との関係が書か
れていますので、細かな説明は省き、結論だけ簡単にまとめます。
 それによると、
 徳川家康は八咫烏の系譜であった。
 なぜなら、徳川家の祖松平親氏は、安部晴明の師匠・曾祖父である賀茂
光栄から13代目にあたるということである。
 また、その部下たちも賀茂族で固めたということである。
 酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政・・・。
 また、服部氏は秦氏とつながり、秦氏は賀茂氏とほぼ同族。
 つまり家康は、家臣団をすべて八咫烏の系譜でまとめたということである。

 従って、家康は八咫烏の初代一家・・・スサノオ、クシイナダヒメ、オオ
クニヌシを手厚く祀ったということである。
 これらの観点を頭に入れて長上郡をとらえてみると、何か新しい発見が
出てくるような予感がいたします。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月18日 22時38分37秒 ) パスワード

>徳川家康は八咫烏の系譜であった。
>なぜなら、徳川家の祖松平親氏は、安部晴明の師匠・曾祖父である賀茂光栄から13代目にあたるということである
>つまり家康は、家臣団をすべて八咫烏の系譜でまとめたということである

これは知らなかったです。

賀茂氏、というのは知ってましたが。





上記<51>を読んでて  あれ?  と思いました。

>「三国地誌」の引用している「天平風土記」に久礼波之登利須々杵川とあり
                         ↑
                     くれは のとり すずき川?
                        笑った〜

>「伊水温故」所引の「伊賀記」に倶礼羽川とある。
                  ↑
                くれは川?


   繊維会社の「クレハ」を連想しました。笑




松平 親氏(まつだいら ちかうじ)

室町時代初期の三河国の武将。

江戸時代に作成された系譜において松平氏・徳川氏の始祖とされている人物。

「松平氏由緒書」では名を信武と記している[1]。



生涯[編集]

父祖の系譜については、新田源氏世良田氏の末裔とされている[2]。
新田義重の四男義季が新田荘徳川に住して得川を称した[2]。
義季の二男を頼氏といい、世良田弥四郎と称し、三河守となった[2]。
その二男を次郎教氏、教氏の子が又二郎家時、家時の子が弥次郎満義である[2]。
満義のあとを政義、親季、有親と継いで有親の子が親氏という[2]。


しかし、この系譜は徳川家康が永禄9年(1566年)に叙任奏請をする際、世良田氏の系譜と自らの系譜をつなげたことが、日本史学者渡辺世祐により論証されている[2]。

今日の学界では家康によって粉飾された系譜というのが通説になっている[2]。

もっとも家康の祖父清康がすでに世良田氏を称していて、家康はその影響を受けたものと考えられている[2]。


親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家し、徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。

「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場合もある[3]。

しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは「武徳大成記」成立後の元禄期以降であることが、煎本増夫により明らかにされており、後世になってから作られたものと考えられる[1]。


  石川家とのつながりはココまで深かったのか
          ↓
徳阿弥は部下の石川孫三郎[4]を従えて諸国を流浪し、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、

        賀茂氏
         ↓
在原氏あるいは賀茂氏の血筋を引く同地の領主松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となった。

信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、
徳阿弥は還俗して松平三郎親氏(次郎三郎とも)と名乗ったという。


「松平氏由緒書」では信重から先祖を尋ねられた親氏が、「わたくしと申しますのは東西を定めずに旅する浪々の者でありまして、恥ずかしく存じます」と返事をしたとする[5]。
ここには氏素性の知れない者として親氏は書かれている[5]。


松平郷の領主となった親氏は、郷敷城を築き、嫡子(兄弟説[6]もある)とされる泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して戦国大名松平氏の基礎を築いたという。

しかし、「松平氏由緒書」の記述から、実際には買得によって土地を獲得したと見る説もある[7]。


親氏は武芸に通じ、教養があり、信仰と慈悲の心が深かく、領内に菩提寺となる高月院を初めとして多くの神社仏閣を建立し、貧しい領民には援助を惜しまなかったという。


しかし、以上のような親氏の出自と事歴については、後世の松平氏・徳川氏の主張に拠っており、
傍証となる同時代史料は無いため、既述した論考の他、

松平氏創業の二代、親氏と泰親が同時代の史料にその名を見出すことができないため、実在を疑う説もある。



生没年について[編集]

親氏は「松平氏由緒書」によれば、急逝したようである[8]。
親氏の生没年には諸説あり、定説の段階までには至っていない。
地元の松平町(豊田市)の伝承では明徳4年(1393年)頃に没したとされており、
平成5年(1993年)に親氏の没後600年を記念して、豊田市によって「親氏公600年祭」が行われた。


親氏の没年月日の伝承は10通りある[8]。

康安元年(1361年)4月20日(「法蔵寺由緒」・「大樹寺記録」・「奥平家記録」[8])
応永元年(1394年)4月20日(『三河海東記』[8])
応永元年(1394年)4月24日(『高月院記』[8])
応永20年(1413年)(「信光明寺縁起」[8])
応永21年(1414年)(「松平総系譜」[8])
応永28年(1421年)(「参陽松平御伝記」[8])
応永35年(1428年)(『東栄鑑』[8])
永享9年(1437年)(「瀧村万松寺系図」「梁山妙昌寺位牌」[9])
康正2年(1456年)(『大三河志』[9])
応仁元年(1467年)4月20日(『徳川歴代記』[9])
永仁6年(1298年)説(「大樹寺記録」)もある。



酒井氏との関係[編集]

また、後に松平氏の重臣となる酒井氏の系譜によると、
同氏の始祖広親は、親氏が松平氏を継ぐ以前に三河国碧海郡酒井村の領主の婿となって生んだ子であるという。

この説に従えば酒井氏は松平氏の同族ということになる。

ただし平野明夫の研究によると、松平信重の長女が坂井郷に嫁いだことによって生じたものであるとされる。

いずれにしても松平、酒井両氏は縁戚にあたる。


脚注[編集]

1.^ a b c 平野明夫著『三河 松平一族』(2002年、新人物往来社、21頁)
2.^ a b c d e f g h 平野明夫著『三河 松平一族』(2002年、新人物往来社、33頁)
3.^ 高山秀夫『江戸から東京へ 物語でつづる部落の歴史』p.5(文理閣、1977年)
4.^ 『称名寺略記』および『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』。同行者として石川孫三郎の名がみえる。
5.^ a b 平野明夫著『三河 松平一族』(2002年、新人物往来社、34頁)
6.^ 『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』において親氏が兄、泰親を弟としている。
7.^ 平野明夫著『三河 松平一族』(2002年、新人物往来社、43 - 44頁)
8.^ a b c d e f g h i 平野明夫著『三河 松平一族』(2002年、新人物往来社、30頁)
9.^ a b c 平野明夫著『三河 松平一族』(2002年、新人物往来社、31頁)

関連項目[編集]
松平郷松平家 - 初代当主
称名寺 - 「徳阿弥親氏」銘板碑が発見された。

参考文献[編集]
平野明夫『三河松平一族』新人物往来社 2002年、ISBN 4-404-02961-6 C0021




親氏????-???? | 泰親????-???? | 信光????-1488? | 親忠1488?-1496 | 長親1496-1503 | 信忠1503-1523 | 清康1523-1535 | 広忠1535-1549 | 家康1549-1566

[54]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月19日 03時21分37秒 ) パスワード

寛永諸家系図伝はネットでは見られないようです。



https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-148.php
『寛永諸家系図伝』

目次:総合的な系図集 皇室・公家・華族 武家(大名・幕臣) 文化、武芸、学問などの系統図 系図(系譜)を調べる際に参考になる文献

武家(大名・幕臣)   12と13が参考になると思います

12.『寛永諸家系図伝』太田資宗〔ほか編〕斎木一馬〔ほか〕校訂 続群書類従完成会 1980〜1997 17冊(GB43-146)人文・関西
【内容】寛永20(1643)年完成。大名・旗本諸家約1,400家を収録。清和源氏、平氏、藤原氏、諸氏の4部および医者、同朋、茶道の項からなる。
【索引】索引1〜2:家名、諱、称呼(幼名、通称など)、官職、国名、女子名姻戚、家紋
【備考】江戸幕府が編纂した最初の系図集。13.『寛政重修諸家譜』の予備版に当たります。

13.『寛政重修諸家譜』堀田正敦など編 続群書類従完成会 1964〜1967 26冊 (288.21-Ka479-H)人文・関西
【内容】戦国時代から寛政10(1798)年頃までの諸大名、幕臣(旗本・御目見以上の下士、医者など)約2,100家。
【索引】索引1〜4:家名、諱、称呼(幼名、通称など)、官職、国名
【備考】12.『寛永諸家系図伝』に続く幕府編纂の系図集。徳川氏を除く大名・幕臣約10万名を収録。各家の由緒、事績、家紋のほか、個々人の事績も含みます。

14.『徳川諸家系譜』斎木一馬,岩沢愿彦校訂 続群書類従完成会 1970〜1984 4冊 (GB43-12)人文・関西【内容】徳川将軍家、御三家、御三卿など徳川氏本支流の系図集。『柳営婦女伝系』(将軍の正室、側室などの女性の系図を収録)を含む。
【索引】家名、諱、称呼(称号、通称、院号、官職名)

15.『新編藩翰譜』 新井白石編 新人物往来社 1977 5冊 (GB43-91)関西
【内容】慶長5(1600)年から天明6(1786)年までの万石以上の大名家337家の記録と系図集。
【索引】なし
【備考】『藩翰譜』(慶長5(1600)年〜延宝8(1680)年)と『続藩翰譜』(延宝8(1680)年〜天明6(1786)年)を合本、再編集したものです。

16.『内閣文庫蔵諸侯年表』国立国会図書館の所蔵情報へのリンク新田完三編 東京堂出版 1984 (GB12-58)人文・関西
【内容】13.『寛政重修諸家譜』などを基とする明治4(1871)年まで存続した大名家の系譜。各大名家ごとに各人の領所、石高、没年、官位叙任などを記載。(系図ではない)
【索引】人名(家名ごとの五十音順)
【備考】排列は廃藩置県時の領所の五十音順

17.『断家譜』田畑喜右ヱ門撰 斎木一馬,岩沢愿彦校訂 続群書類従完成会 1968〜69 3冊 (GB43-2ほか)人文・関西
【内容】文化6(1809)年成立。慶長(1596〜1615)から文化年間までの約200年間に廃絶した大名、御目見以上の約800家。
【索引】家名、諱、称呼(称号、通称、院号、官職名)

18.『干城録』堀田正敦〔ほか著〕 人間舎 1997〜2003 15冊(GK13-G243ほか)
【内容】徳川氏創業から慶安4(1651)年までの一万石以下の幕臣2,700名余の伝記。(系図ではない)
【索引】なし ※日本人名情報索引(人文分野)データベースで検索が可能です。
【備考】13.『寛政重修諸家譜』よりも詳しい部分が多く、出典が明示されています。


********************

徳川諸家系譜 1

http://books.google.com/books?id=v7Wu2D-GDDYC&pg=PA83&lpg=PA83&dq=%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E4%BC%9D%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8&source=bl&ots=Ymon0ClJKZ&sig=AYkBDgrqO4dHI1_ZtddeY--Hqpk&hl=en&sa=X&ei=WBwbVIPkEZK6ogTXhIHgDQ&ved=0CDkQ6AEwAw#v=onepage&q=%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E4%BC%9D%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8&f=false

83ページ目に服部氏の名が出てるようですが  落丁。笑


888888888888888888888888


再度アップ  太田庄(埼玉の宮代)から遠江に采地替えになった服部氏
       宮代町は、昭和30年須賀村、百間村が合併

http://www.town.miyashiro.saitama.jp/www/wwwpr.nsf/155be1bc775295aa492576a50003c9bf/efcf9fdb938f49c74925705400287053?OpenDocument


[09百間陣屋と旗本服部氏]

文献史学的に旗本服部氏について分かる直接史料(旗本史料、地方史料)は幕府で編纂されたもの以外には皆無といえる。僅かに残る地誌や家譜などから旗本服部氏を考えてみたい。



1)旗本服部氏の太田庄支配
(1)『寛政重修諸家譜』によると
服部家の祖先は、伊賀国服部(三重県上野市)の住人で、永禄3年(1560)に家康に仕えたと伝えられている。政季(政光)は天正18年(1590)の小田原への参陣の際には、家康に従い本多忠勝の配下に属し、御使番を勤めている。徳川家康の駿河から関東への移封に伴い、文禄元年(1592)に武蔵国太田庄の内3000石を宛がわれた。さらに、慶長5年(1600)の上杉景勝の征伐に参陣し、この後に近江国長浜(滋賀県長浜市)に1000石の領地を与えられている。その後、慶長19年の大阪冬の陣、元和元年(1615)の大阪夏の陣にも参陣し、同年4月26日に京都で没している。妻は岩槻城主高力清長の女子である。政季(政光)の子の政信は、慶長5年の関ヶ原の戦いに参陣して御使番を勤め、帰陣後に武蔵国臼井で500石の領地を宛がわれている。慶長19年の大阪冬の陣、元和元年の大阪夏の陣にも御使番を勤めている。同年、父の遺領のうち、3000石を相続し、併せて3500石を知行した。その後、元和5年遠江国今切(静岡県浜名郡新居町)の関所番となり500石を加増され、采地も遠江国敷智郡に移されたと記される。


(2)『記録御用書本古文書』・・・史料1・2
▼徳川家康から服部与十郎に天正20年(1592)2月1日太田荘の内3000石を与えられたことが分かる。徳川秀忠から服部権太夫に寛永2年(1625)12月11日に遠江国敷智郡に所領を与えられた朱印状が残る。


(3)『寛永諸家系図伝』によると・・・史料7
  服部政光に天正19年(1591)武州太田領3000石を賜る。
  元和元年(1615)政光死去、政信父の遺領の内太田荘3000石を継ぐ。
  元和5年(1619)遠江国今切の関所番として遠江国敷智郡へ移封。

(4)『武徳編年集成』・・・史料4
▼天正18年(1590)8月武蔵太田郷3000石を服部権太夫政季が賜る。とある。

赤線部分に太田庄百間郷三千石とある。「諸家系譜」服部与十郎政季の条 



2)太田庄百間郷の範囲

▼文禄元年、徳川家康から旗本服部政季に太田庄3000石が与えられたことが分かる。しかし、太田庄のどこに所領があったかについては判明しない。しかし、平成15年1月に(独)国立公文書館内閣文庫に年未詳「服部家略譜」や文化8年「諸家系譜(服部)」があることが分かり調査を行った。その結果、服部政季・政信父子が領したのは太田荘の内百間郷3000石であることが判明した。
それでは百間郷3000石とはどの範囲をいうのであろうか。元禄16年の「日光御成道道拵免除願」(百間村折原家文書4717)によると「先規百間村一村ニ而高弐千四百石ニ御座候」とあり百間村は2400石であることが分かる。残りの600石については、その後の百間村相給を考えると分かる。

▼寛永元年(1624)、百間村は旗本朽木氏、永井氏、池田氏にそれぞれ1000石づつに分け与えられた。「武蔵国田園簿」によると百間村隣村須賀村には「阿部対馬守知行 弐百六石弐斗六升」とある。「元禄郷帳」では須賀村の石高は「八百弐拾五石九斗壱升九合」とあり、約600石の誤差が生じている。須賀村は岩槻藩領の他、旗本池田氏・永井氏の知行地でもあった。永井氏・池田氏との須賀村の知行地はそれぞれ300石であったことが戸田家文書(旗本永井氏)や渡辺家文書(旗本池田氏)の年貢割付状により確認されている。一方、百間村(百間東村)の永井氏知行地は700石、百間村(百間中村と百間中島村)の池田氏知行地は700石であったことが確認されている。これらのことからも、百間村2400石に須賀村600石を併せた範囲が服部氏の知行地であったと推定される。
3)百間陣屋(旗本服部氏屋敷)

服部氏の陣屋(屋敷)については、「新編武蔵風土記稿」や『百間史料』にその記載がある。

(5)『新編武蔵国風土記稿』
▼「服部氏の家譜に、権太夫政信慶長20年父政光が跡、武州太田庄3千石に自領500石を合わせ是を賜うと記せり。村内(百間村三組)に権太夫が屋敷跡あれば彼所領なるべし。」

(6)『百間史料』
▼「権太夫が屋敷跡は今の青林寺の境内及其北林是なりと云う。」と服部権太夫の屋敷が百間村の西原にある青林寺付近であると伝えられていることを記している。
▼元和5年の百間村検地帳(百間三組分)が残っていないため詳細は不明であるが元禄10年の百間村検地帳では、すでに青林寺は現在地にあることが確認されている。検出された堀の覆土に宝永の火山灰が堆積していないことからもそれ以前に破城されたものと推定される。



4)旗本服部氏の百間郷から移封

▼『寛永諸家系図伝』によると政光(政季)の子政信が「同五年勤遠州今切関御番干時加賜五百石」とあり元和5年に遠州今切に赴任したことが分かる。▼『記録御用所本古文書』にも寛永2年に徳川秀忠から服部権太夫宛の朱印状が確認できる。▼これらのことから、旗本服部氏は文禄元年(1592)から元和5年(1619)まで百間郷に領地があったことが推定される。服部政信の従兄弟である岩槻藩主高力忠房が元和5年に浜松に移封したことと関係があると推定される。▼なお、高力忠房も寛永2年に秀忠からの印判状が確認できる。元和5年に百間領5000石の天領(幕府領)の検地が行われているのは、旗本服部氏が百間郷を離れたためであろうか。

赤線部分が百間郷三千石と記される。(「諸家系譜」服部、服部権太夫政信の条)


5)服部政光と政季について

▼「寛政重修諸家譜」や「寛永諸家系図伝」では太田庄を領したのは政光と記されるが他史料では政季と記される。「寛政重修諸家譜」編纂にあたり服部家から出された「服部略譜」や「諸家系譜」などでも政季と記されている。しかし、「寛政重修諸家譜」では政光となっているが、これは「寛永諸家系図伝」を引用したからであろう。このようなことから、「寛永諸家系図伝」の編纂の際、政光と政季を錯誤し記載したものと推定される。






[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月19日 03時46分28秒 ) パスワード

伊賀者の暮らし:


御書物同心    海賀雅五郎由緒書 
御持弓同心でもあった海賀家の文書 
家紋は車の中に並び矢  へえ〜
http://www.geocities.jp/nkks437758/yuishogakiframe.html


先祖の初代海賀弥兵衛は伊賀出身で本能寺の変で家康の伊賀越えに案内して白子まで行った。
その後、鳴海で召し出された服部仲の手の者として一緒について行った。
天正18年の関東入府の時に一緒に行った。
武州仙川で5貫地を拝領した。



14.服部中保次 『寛政重修諸家譜』に「銕炮同心五十余人あづけらる」とある。天正十五年(一五八七)四月二十八日死。享年六十二。

ちなみに『寛政重修諸家譜』で、家康の伊賀路渡御に嚮導し、
この服部中保次に属した人の子孫がいるか調べると、
第二十一巻百五十頁の齋藤氏(三十俵二人扶持)、
第二十一巻二百三十一頁の寒河氏(五十俵三人扶持)、
第二十二巻二百二十一頁の眞井氏(三十俵二人扶持)が確認できる。

しかし、海賀家もそうだが、この三家も『伊賀者大由緒記』にある「天正十年伊賀国鹿伏兎山越御案内仕候者姓名」(伊賀者弐百人)にはない。

どうも服部中に属した伊賀者は、この”伊賀者弐百人”には入ってないようである。

それは以下の記述からも窺える。「一、服部半蔵支配弐百人之者鳴海伊賀と称し地方拝領仕候 一、右同人支配にて後被召出候者皆弐百人の親族にて追々御奉公仕候ものにては是は地方無之御蔵米斗拝領仕候 一、服部仲支配伊賀者は御入国翌年罷下半蔵手同様相勤申候」(『伊賀者大由緒記』より)。


15.服部中保正 保次の嫡男。『寛政重修諸家譜』に「父がつとめとなり、その同心七十七人をあづけらる」とある。

元和二年(一六一六)十一月二十日死。享年五十二。


16.現東京都三鷹、調布市内。仙川はこの当時から上仙川村と下仙川村に分かれていたようだが、このうち下仙川村は、家康関東御入国の天正十八年(一五九〇)から旧今川家家臣・飯高家(百七十石三十俵)の所領となって、幕末に至っているので、おそらくは上仙川村のことであろう。

上仙川村はのちに、元和元年(一六一五)の大坂夏の陣で戦功のあった柴田勝家の孫・三左衛門勝重(二千五百二十石余)に与えられている。


17.服部半蔵配下には天正十九年(一五九一)十一月、二百人に対して千貫文、つまり一人当たり五貫文の地方(じかた)が与えられているが、服部中配下にも同様に与えられたかは確認できない。


18.『伊賀者大由緒記』によれば、天正十年(一五八二)九月の韮山合戦、同年十二月の甲州ゑくさ合戦、同十一年八月〜十二月の甲州屋村合戦(伊賀者多く討死)、同年六月の尾州蟹江御陣、同十三年閏八月の真田御陣、同十八年七月の小田原御陣、同十九年九月の奥州御陣、文禄元年(一五九二)朝鮮出兵の際に肥前名護屋へ(隠密御用)、慶長五年(一六〇〇)六月の関ヶ原合戦、同十九年大坂冬の陣、元和元年(一六一五)大坂夏の陣(隠密御用)。


76.当時四谷北伊賀町には御持弓頭・柴田肥前守組の与力一人分、同心四十三人分の組屋敷
(総面積六二六〇坪余。位置は現在の東京都新宿区三栄町内)があり、
ここで借地をしていた人は、
小普請の旗本一人、御家人五十一人などその数七十一人に及ぶ。

雅五郎はその一人であった。


ちなみに御持弓同心であった海賀家歴代も、初代からとは言わないが遅くても三代目・彌兵衛ぐらいから雅五郎の父・善四郎(八代目)まで、四谷北伊賀町の御持弓組組屋敷に住んでいた可能性が高い。

まず八代目・善四郎が御持弓組を辞めた当時、どこに住んでいたかを見るために、組屋敷がわかる文政二年版の『文政武鑑』を見ると、善四郎が最後に属していた坪内玄蕃組(註(52)参照)の組屋敷が”下谷山ざき丁、四ツ谷伊賀丁”にあることがわかる。

でもこれだけでは、”下谷山ざき丁”か”四ツ谷伊賀丁”のどちらかが判別できない。そこで以下を見てください。


柴田肥前守組・・・下谷広徳寺西横町(二四六〇坪余。与力九人分)・四谷伊賀町(二六〇坪。与力一人分)・四谷伊賀町(六〇〇〇坪余。同心四十三人分)・四谷伝馬町三丁目横丁(一六八〇坪。同心十二人分)


服部仲組・・・牛込赤城明神裏門下(二八三〇坪余。与力十人分)・牛込赤城明神裏門外(七九九八坪余。同心五十五人分)


河尻式部少輔組・・・牛込早稲田町(一一〇〇八坪余。与力十人、同心五十人分)


これは『諸向地面取調書』による安政三年当時の御持弓組組屋敷の場所なのですが、”下谷山ざき丁”に当たる柴田肥前守組の”下谷広徳寺西横町”が与力九人分の屋敷であることから、同心である海賀家には関係ないことがわかります。

従って四谷伊賀町(=四谷北伊賀町)が、少なくとも善四郎が住んでいた組屋敷ということになります。

次に八代目・善四郎までの海賀家歴代が、三組ある御持弓組の内藤外記正重(註(20)参照)を初代の頭とする組(以降、便宜上”内藤組”と呼ぶことにする)に、例外なく属していたことに注目。

なおかつ柴田肥前守もこの内藤組の四十代目の頭(在任期間:嘉永七年(一八五四)五月九日〜安政六年(一八五九)十一月四日)であることから、この四谷北伊賀町の組屋敷が、いつごろから内藤組の組屋敷であったのかを、幕府普請奉行編纂の「御府内沿革図書」を収めた『江戸城下変遷絵図集』(原書房)で調べると、遅くても延宝年間(一六七三〜一六八一)から変わることなく”御持組”の大縄地(組屋敷)であったことが確認できる。ただこの段階では御持弓組か御持筒組かの判別はできないが、同じ延宝年間頃の江戸の地図である『延寶八年江戸大繪圖』で四谷北伊賀町辺りを見ると、”内藤新五クミ”、即ち内藤組四代目の頭・内藤新五郎正方(註(23)参照)の名前が確認できることから、この”御持組”は御持弓組で、しかも内藤組であることは明らかだろう。

遅くても延宝年間、即ちその当時御持弓同心であった三代目・彌兵衛から、海賀家は四谷北伊賀町に住んでいたようなのである。

ついでに『諸向地面取調書』に書かれた他の二組、服部仲・河尻式部少輔組の組屋敷のある牛込赤城明神、牛込早稲田町辺りも『延寶八年江戸大繪圖』で確認してみますと、それぞれ”渡部半三郎組”、”秋山十右組”の記載が見えます。


服部仲(中)保右は安藤傳十郎定智を初代の頭とする組の四十三代目の頭(在任期間:嘉永二年(一八四五)十二月二十四日〜安政四年(一八五七)七月二十四日)で、渡邊半三郎清綱はその五代目の頭(在任期間:寛文十一年(一六七一)四月九日〜延宝三年(一六七五)三月十日)、河尻式部少輔鎭長は松平小大夫正吉を初代の頭とする組の三十七代目の頭(在任期間:嘉永七年(一八五四)三月二十四日〜安政五年(一八五八)二月九日)で、秋山十右衛門正房はその四代目の頭(在任期間:寛文十三年(一六七三)一月二十三日〜天和元年(一六八一)十月十九日)というところから、この二組も内藤組同様、遅くても延宝年間以降、組屋敷の位置は変わっていないようである。四谷北伊賀町の組屋敷が、内藤組以外の御持弓組になる可能性は低いみたいである。

[56]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月19日 04時12分22秒 ) パスワード

http://www.amano-ya.com/news/denbe2.html

高岡の服部家=天野屋伝兵衛の家のお話




服部家の先祖は、伊賀服部郷(三重県伊賀市)の服部伊賀守紀宗純です。
紀ノ武内宿禰の弟紀ノ木兔宿禰より出ているので、
家紋は木瓜を使うとある(服部嘉十郎先生、広瀬幾多郎著)であるそうだ。

(妙国寺住職は、木瓜は農民など一般的な家紋であり違うと言っておられた)

宗純は南北朝時代、同士五十家の人々と共に、宗良親王を奉じて東国に転戦するも敗れ、参河、尾張、近江などに分散した。宗純は、尾張津島に(愛知県津島市)に移住した。

織田信長の時代、尾張津島にあった荷之上城を預かった服部家は、出身が近いだけに同じ一族である。

また、当時荒子城主であった前田家とも距離的に近く、信長がまだ尾張を全て統治していない初頭の時代、家臣となっていった熱田、津島の商人の中にいた商人たち、いわゆる津島七党と呼ばれる、堀田、平野、服部、真野、河村の中に見られる「服部」は、元をただせば同じ一族となる。

中でも桶狭間の戦いの奇襲作戦の中に、前田利家もいたとされるが、「信長公記」に記されている最後のいわゆる「今川義元」を追い詰め、最初に切りつけたが義元の刀に膝を切られて、最終的に毛利良勝なる馬廻りが義元の首を取るという下りがあるが、この馬廻りの一人「服部一忠」なる人物も、同じ一族の出となるらしい。

   この服部は、一忠の母方の姓を名乗ったもので、織田信長とも縁戚に当たるとも書いてあった。



そうなると織田信長とうちの先祖は繋がることにもなる。詳細真実は不明ではあるが興味深いところである。



さて、その後戦乱の時代になり、服部の子孫の名は見当たらなくなったが、元亀天正のころになって服部宗伍というものあり、その子の祐林(?)(通称弥助)がいて、その子が連及「甚吉」いわゆる天野屋の初代(三郎右衛門)となるのである。


連及は前田利家に仕えて度々の合戦に従軍し、天正年間に利家が越前府中に在城のころ、召しだされて種々の御用商人を承り、利家が色々なとこへ引越しされた時も御用を勤めたとある。

また、文禄年中、加越三州(加賀、能登、越中)を支配するようになり、伏見へ行かれた時も内命を帯びて仕えたということである。

越中守山城は、山岳城である。麓の守山には家臣のために寺も移設した。当初より日蓮宗、妙国寺も金沢より移転され守山に建てられたことが記録されている。

慶長10年に利長の時代になって、守山城から富山城に移り、この時に町人になり、天野屋三郎右衛門を名乗った。 (二代目が天野屋三郎左衛門正知である。)

富山に移った際、菩提寺「妙国寺」も富山に移されたが、現在も残る「富山妙国寺」の檀家からは、当時を伺い知ることは出来ない。

さらに慶長14年利長が高岡に新城と城下町を開くと高岡に移り定住した。慶長15年に服部連久は他の二名(横町屋弥三右衛門、越前屋甚右衛門)とともに町宿老(宿老役)に任じられ、元和6年に7名を加えて町年寄10人の制に改まった後も、高岡由緒町人の三家として新年拝賀に金沢へ登城する家柄であった。

 高岡に移った際、檀家寺である妙国寺も高岡に移され、このことで富山と高岡に同じ妙国寺が存在することとなったと思われる。最初土器町(成美)にあったが、その後、片原町へと移転した。

二代目正知(南郭の祖父)の妻の妙円の養父の伊藤内膳重正は、高岡町の名奉行であり、4代目正武の時には、正徳元年に本陣を命じられ幕末に及んでいる。

その間、天野屋は断続ながらも、代々町役人を勤め、高岡の発展に多大な貢献を成しえたといえよう。

天保4年(1833)「服部」姓が苗字ご免となっている。

高岡古城公園の存続に貢献した服部嘉十郎は、13代目の天野屋傳兵衛(嘉十郎)である。



服部伊賀守宗純系図

系譜纂要

平内左衛門     平内兵衛     彌平兵衛
服部家長   ━━━家清━━━    宗清━━━  宗俊━━━   清正
                     │
                   桑名三郎女 




伊勢河内服部党 寛政重修譜1171巻葛原親王後 他  ○吉野十一党七苗字

壊れるのでURLへ


この人の系図では  

友定の弟の政光の子・服部権大夫政季が  徳川旗本  になっているので
この家が三つ柏紋を使うことになった家で良いのなのかなあ?



やっぱり三つ柏さんの御先祖は尾張の服部家と同じ流れの家でしょうか?
この人の話でも、この人の家の元の服部家の家紋が分らないということです。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月19日 04時26分39秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/naoya_820/index-kenkyu-bon5.htm

忍術関係古文書(一部)


書名 著者 完 成 年 冊・巻 備  考

忍秘傳 服部 美濃 邊三郎 明暦1(1655)年 1冊 復刻版有り  詳しくはこちら


萬川集海 藤林 佐武次 保武 延宝4(1676)年 22巻 冊子 復刻版有り  詳しくはこちら


正忍記 名取 三十郎 正武 延宝9(1681)年 3巻3冊 数種あり 復刻版・現代語訳有り 詳しくはこちら


忍術秘書應義傳之巻   天正13(1585)年 1巻 内容は『忍術應義傳』と同じ 復刻版有


以下略




http://asahiup.digi2.jp/rekisi/igagoe/igagoe.html
伊賀越えの家康が落馬したエピソードとか     助けた若者は疋田姓を拝領
舟で白子から岡崎まで戻る時にお世話した         小川孫三の子孫の家とか
どのルートで岡崎に辿り着いたかとか

ちょっと面白いサイト。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月19日 04時47分30秒 ) パスワード

湯舟の藤林長門守は伊賀に3つあった服部家の1つで(もう1つは喰代砦の百地家)かなり身分が高かった忍者の家だそうです。

    服部は予野の千賀地の服部家ね。


萬川集海も藤林の子孫によって書かれたそうですし。


その藤林の話:


今川義元の忍者

http://ninjer.blog.shinobi.jp/ninja%20history/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83%E3%81%AE%E4%BC%8A%E8%B3%80%E8%80%85

藤林家由緒書の件で、
藤林長門守が今川義元に雇われていたと記載されているらしいという話があって、
これについて調べていたら、鈴木眞哉先生の本に、

今川方の岡部信元は三河刈谷城攻めで

「大久保彦左衛門の三河物語には、今川方は伊賀集を忍び込ませて信近の首を討ち取ったが、城兵に反撃されて、伊賀衆も八十人討ち取られ、信近の首も取り返されたとある。」
という記述を見つけた。



わたくし的にはホント?今川に付いてた?です。


藤林 長門守 (ふじばやし ながとのかみ、生没年不詳)

戦国時代の忍者。

伊賀の上忍三家の一つ藤林氏の当主であり、
伊賀北部で甲賀に境を接する湯舟郷を支配していた。

甲賀側にも多くの配下がおり、伊賀甲賀双方に影響力を持っていたとされる。

     湯舟と甲賀は山のこっち側と向こう側だから甲賀にも配下がいたというのはそう思います。

     で、母の従姉の御主人は甲賀出身で家紋は並び矢です。
     これにはビックリしましたが、やっぱり同祖なんだろうなと思います。
     ちなみに母の従姉の夫の名字は  藤○  です。

     一段と湯舟も家長の子孫なんだと納得しました。


服部氏の服部半蔵、百地氏の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。


本名は正保、保豊など曖昧。

伊賀流の頭目という立場でありながら記録はほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれている。

第二次天正伊賀の乱では甲賀の多羅尾氏ともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあれば、
織田の軍勢と最後まで戦い抜いた百地丹波と同一人物とする説もある。

『藤林家由緒書』には今川義元に雇われていた際、武田信玄の軍師山本勘助に忍術を教えたという記録が残っている。

     へえ〜
     じゃ、上記のエピソードは本物かも。



長門守の子孫、藤林佐武次保武が今に忍者の姿を伝える貴重な資料と呼ばれる『万川集海』を著している。




伊賀忍者の足跡  35

冨治林保武のお話
写真は西念寺にある冨治林一族の墓。
     伊賀上野市万町

http://www.pref.mie.lg.jp/gkenmin/hp/igabito/ninja_map/ueno/ueno_35.html

『万川集海』の著者藤林佐武次保武は三代(大?)上忍の一人である藤林長門の孫にあたる。

『冨治林家由緒書』によると別名伝五郎、又の名を保道といい、
元禄14年(1701)年に正式に伊賀者に召され、
高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林長門の姓を遠慮して冨治林と改めたと伝えている。

東湯船から上野万町に移り住んだ。


甲賀本『万川集海』は保武と保道あるいは保高を何故か書き誤っている。

第4世冨治林正直は『三国地誌』の編纂で藤堂元甫に命じられ伊賀編を担当した。
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月19日 09時19分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日も読みごたえのある資料ありがとうございます。天野屋の話もなかなか
奥深いものでございました。いろいろな関係が見えました。

 服部政光と服部政季の関係、政光と政季あるいは政秀がごっちゃになって
わからなかったですが、どうやらすっきりいたしました。
  ・友定 の弟が政光(政秀とも書かれる)・右京進・権太夫
  ・政光 の子が政季・与十郎・権太夫、妻は高力清長の娘
  ・政季 の子が「政信」・興十郎・権太夫と政重・杢助、及び「政重」
  ・政重 の子が正次
  ・正次の養子が正勝・平吉・杢之助(大久保四郎左衛門忠重の二男)
 更に、
  ・政信は加藤喜左衛門正次の娘を娶り、その子供は、
  ・政長
  ・政久
  ・信利
  ・信成
  ・正勝
  ・正長
 更に信成から信解と信親、この二系統が更に続いて行く。

 加藤喜左衛門正次は慶長6年に蟄居。加藤氏はもともと竹本氏で竹本城、忠
輝に関係する。
 
 ということで繰り返しになってしまいますので止めておきます。

 陰陽師の件ですが、遠江地方では、引佐名倉家、遠州山住系高橋家があった
といいます。山住神社は天竜の少し奥に水窪にありますが、家康との関係が
あります。

 とりあえずはここで。

 
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月19日 15時12分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


引佐の名倉家
陰陽師の家ですか。


山住神社も全く知りませんでしたが  神紋が!なんと三葉葵!

以下コピペ
「山住神社」は、山住山(1107m)山頂に鎮座し、山犬(狼)を祀る神社として有名。

元亀3年(1572年)、武田勢に追われていた徳川家康が山住に逃げ込んだとき、山犬が一斉に吠えて武田勢を退散させたとされ、三方ケ原の戦いの後、家康より二振りの刀剣が奉納されています。

当時、狼は山間部の狭い耕地を猪や鹿から守る益獣で農作物の守り神として、奥三河一帯で山住神社の山犬信仰が浸透していました。また境内には、樹齢1260年余の杉の大木かあり御神木となっています。神社の起こりは、和銅2年(709年)伊予の国(愛媛県)大山祇神社より移し奉ったと伝えられています。

元亀3(1572)年、徳川家康が三方ケ原の戦いの折、武運長久を祈願、戦いに利なくも山住神社の加護により一命の難を逃れたと、そのお礼参りのため、天正元(1573)年正月17日、再び参詣のために登山されたという記録もあるという。

その後に奉納された二振りの刀剣は、宝物として所蔵されている。


アタマの中がゴチャゴチャなので整理しなくては。


<54> に   百間陣屋(旗本服部氏屋敷)など
この服部氏には  旗本服部氏  というのが頻繁に出てますよね。


三つ柏さんの御先祖はこの家なのでしょうかねえ?


旗本服部氏に大小7つの流れ?があると上記に書きましたが
実際には  そこから派生した分家の服部氏がかなりありますし
分家になると本家に遠慮して家紋を替えたりするし

やっぱりワケ分らなくなります。
未だに分らないです。



上記に書いた天野屋伝兵衛の家はウイキによると

天野屋の初代服部甚吉連久(つれひさ)は、美濃郡上の出身で、
先祖は服部伊賀守宗純。

天正年中、前田利家越前府中時代に 御用商人として召抱えられる。

後に利長に従い、越中守山から富山に移った際に天野屋三郎右衛門を名乗った。

三郎左衛門は二代目正知であり、後に天野屋伝兵衛を家督の名にする。

正知には十二子あり、柳沢吉保に仕え、荻生徂徠の高弟として江戸時代の文壇を引っ張ってきた服部南郭は彼の外孫に当たる。

正徳元年(1711年)第四代の伝兵衛正武の時、藩主の宿である御本陣に指定され、
天保4年(1833年)には「服部」姓が苗字御免になり、=正式な使用を許されたということ

高岡由緒町人筆頭として260年以上も高岡の町年寄、町役人を断続的ながらも勤めた。


島田の豪商の服部氏もこんな感じだったんでしょうか?
島田では掛川のもっと東ですから、島田にいらっしゃるということは無いですよね。


川越の服部さんは武田の家臣だった家で、江戸時代は商人になっていて
鳴海の服部さんも商人になっているし。
この2つの家の紋は  車に矢  です。


服部氏の皆さんは矢の紋を使いたがるけど三つ柏紋はかなり違いますよね。
分らない
やっぱり分らない。




高岡の天野屋(服部さん)は木瓜紋らしいですね。

>妙国寺住職は、木瓜は農民など一般的な家紋であり違うと言っておられた

とありますが
名古屋では木瓜紋って多いんですけどね。
だから美濃も木瓜紋って多いと思うのですけど。

   妙国寺住職が言いたかったのは「服部家なら矢だろう」なのかな?と思いますが
   木瓜紋でもおかしくないと名古屋の人間は思います。


      でもやっぱり(服部家なら並び矢バージョンでしょ)と言いたいわたくしでもあります。





http://www.myouji.org/hattori.htm

4,遠江の服部 − − 延喜式、当国 長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり、
          共に古代服部の奉齋せし、神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。


この文章からすると  長上郡の服部氏は神職系  になりますよね。
服織神社か神服神社系ですよね。

    まさか神服部家は並び矢じゃないですよね
    頼政を切腹に追い込んだ平家系の紋はいくらなんでも使わないでしょう?
    お電話さなって確認なさってはいかがでしょう?


    神服神社なら三つ柏紋ですから、
    服織神社も三つ柏紋でしょうか?


    やっぱりお電話ですね。にっこり微笑んで背中を押す。笑





5,駿河の服部 − − 当国安倍郡に服職庄あり。
           而して、後世 服部氏多く、又、府中浅間社家に服部氏(名字)あり。

           浅間神社なら神紋は  羽団扇でしょうね(天狗の団扇みたいな)?

           神職の服部さんは何の紋なんでしょうね?



以上、無い知恵を絞ってみました。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月20日 05時19分14秒 ) パスワード

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765205

内山真龍  「遠江国風土記伝」

P7  長田郡   神社   式内社  62座   すごい!
P8  浜名郡   浜名氏系譜   浜名氏・猿田氏・大屋氏など


これで長上郡の服部さんを捜せば良いようですね。


ところがすっごく時間がかかるのでハヤバヤと燃え尽きそう。
暫く頑張ります。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月20日 06時05分47秒 ) パスワード

やっと47コマ目まで見ました。

浜名郡から始まって?
神社やお寺や村のことが書かれているようです。

  文字が読み難いので、そんな印象です。


11コマ目に浜名氏系譜というのがあって
   浜名氏・大屋氏・猿田氏だったかが書かれてました。




20コマ目に大福寺がありましいた。

25コマ目に今切が出てて
   37ページ  左のページの終わりに  公家塚があって  橘逸勢の名がありました。


コマ26に敷知郡?


コマ32に地図があって

コマ33に引馬古城

コマ34に浜松城


コマ38に志都呂


コマ45に観音堂   坪井村


コマ46に龍禅寺
     大安寺


コマ47に天林寺


こんな名前が出てました。


長上郡はいつ出て来るでしょうか?
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月20日 06時54分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 スゴイものを見つけていただきました。古本屋で買えば2万円はすると思います。いろいろな版が出ていて、あを様の見つけていただいたものは、地図も入って、また読みやすく最高です。しかも閲覧が素早くできます。私もいろいろ閲覧
してみます。ありがとうございます。
 昨日は、午前にフューネラルがあり、午後は休みをとって、現地調査の時間に
あてました。それは、大久保服部代官屋敷の近くの神ケ谷に松下一族が住んでいて(姉も嫁いでいる)、例の花井吉成(松平忠輝家老)が元々は松下姓であったとい
うことで気になったからであります。姉に聞きますと、嫁ぎ先は過去帳で拾うと
天明4年(1784)までは戒名があり遡れるそうです。花井との関係はわかりません
でしたが、家紋をきいたら、大久保代官屋敷からとったという神久呂小の校章と
ほぼ同じ「丸に並び矢」でした。深く調べれば、何かはわかるとは思いますが、
頭の片隅に置いておきたいとは思っています。

 話は変わりますが、徳川家康と陰陽道とのつながりは、やはり強いです。

 ここで一度切ります。後でまとめてみます。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月20日 07時08分19秒 ) パスワード

三つ柏さま


やっとやっと長上郡さまがお出ましになりました。
たぶんコマ80からです。
コマ79を確認のためもう1度読み直しますね。



フューネラルがあってお忙しかったのでは?


でもいろいろ驚くことがありましたね。
秘密


でコマ48からですが鳴江寺

コマ50舘山寺

52  諏訪明神社

55  佐鳴湖

56  剣聖塚

57  引佐郡

58  刑部郷

59  井伊郷

60  井伊右近太夫??慶長9年近江犬上郡彦根城に移る

61−67  南朝方のお話
    奥山因幡守が足利に?従わなかった話
    子は井伊古城に移った話
   
    宗良親王の話
    後醍醐天皇の崩御
    宗良親王の薨去
    

コマ68  気賀
      大谷

70  画像の取り込みの失敗

73  細江

73−74
    興良親王
    いず良親王

74−75  良王君  よしたかのきみ

77  麁玉郡


80 長上郡



[65]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月20日 08時23分06秒 ) パスワード

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765205


ざっと長上郡を読み終えましたが
服部の名は2か所見ましたが
事案の文章は見落としたのか気が付きませんでした。


また頭の中を空っぽにして挑戦してみます。


102からは磐田郡でした。


ここで窓7に戻ります。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月20日 09時31分09秒 ) パスワード

1番後ろからも読んでみました。
そこに神服部の名が出てました。


    ということは服部氏のこともどこかに紛れて書かれているのかも。



理解力の前に
全体的に、和文タイプの上に写真に撮ったもののようで活字が潰れていて、
また、画数の多いものはインクが滲んでて読めないです。



では長上郡の各コマについてカンタンに書きます。

長上郡

続日本紀?では長田郡。
西が敷知郡で北が麁玉郡東が豊田郡。

2万5721石6斗壱?升7合。

和銅2年にいろいろ不都合だから2つに分けた。


83  村の紹介

84  村の紹介

    永田  538石7升5合

    保元平治之時、長田庄司忠致住
    以女配鎌田兵衛政清

                  要するに長田忠致が住んでて
                  娘を鎌田政清に嫁がせた、ということでしょう

    長田寺
      今は 長福寺 ?   って江戸時代末期の話ですが

  
    長田郡は和銅2年に長上長下に分けた


85  源家について

    範頼は尾張の生まれ?
    由良の方が鬱になって尾張の熱田神宮に宿下がりした
    由良が範頼を連れてアッチコッチ移動した話   
    熱田と遠江の間を行ったり来たり


89  横須賀村

       何かで出て来たような?


93  誰の話か?田村麻呂の名が出てた
       こういうゴチャゴチャした所に服部家云々の話が書かれてたのかも

               また気合が入ったら読み直します


94  左  161ページ

    頭陀寺に   松下屋敷の話あり

       永禄元亀年間
       松下嘉兵衛
       木下藤吉仕之     木下藤吉郎にはなってませんでした
                   さすが徳川時代



96    167ページ

    松島村   135石7斗8升9合


    龍泉寺?
    曹洞宗  飯田??寺末


97   167ページ


    服織神社
    豊田郡羽鳥村

      たいして何も書かれていなかった
      でも豊田郷の神社が何故に長上郡の項に?

        それで服部氏のことも他の郡に書かれているのかも


99   171ページ  
           小池村   八王子社   3石6斗

           神主   (日向)八王子???

           天正後  服部半?(半蔵?)   意味不明

              ナントカカントカの命を祀っている




コマ301   

    奥山家について
                   南朝方に付いて井伊に走った話でしょう


コマ305   544ページ

    服織田神社
    白羽村   105石

    神服部於天下諸社?

       神服部家が天下のたくさんある神社を率いる?



漢字も読めず、いろいろ意味不明。

力尽きました。またいつか長上郡と他の記述を読み返します。
[68]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月20日 12時16分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろお骨折りいただいておりますこと感謝申し上げます。
 「知恵袋」の方、さっそく質問を掲示させていただきました。
 
 『遠江国風土記伝』を開きますと、「新井」の項目に、「三河記に曰わく、
 慶長5年子秋、今切を関所として服部権田太夫に与力10騎、同心40人
 を添え、番兵とす。
古老曰わく、〜江間与左衛門〜服部仲〜云々」とありました。
 
  服織神社については、「続日本記に曰わく、神護慶雲3年、天下・社に
 神服を奉り、豊田郡を註す」とありました。

  それと、長田庄の司、長田忠致がその娘を鎌田氏に嫁がせたということ
 ですが、鎌田氏の子孫は以前当会社に勤めておられました。不思議なつな
 がり・・・!

  余談ですが、昨日姉に聞いたところ、私達の亡くなった母の在所の姓は
 大石といい、何代か前に、松下嘉兵衛の家来だったということでした。

  いろんな所でエニシはつながっているんだなと改めて感じました。

  それと、今感じているのは、長田(郷)と羽鳥(郷)というのは、国内的に
 2つセットで存在しているのではないか? そんな観点からいうと、摂津
 と長上は通じているような予感がいたします。
  摂津には強く惹かれるものがあります。

  また、長上を中心とした神社で陰陽道に関係した神社があれば、例の戦
 場でのダビデ紋を付けた武将(?)の謎の解明が近づいて来ると思いますが、
 もちろん、それは遠江でなくても三河でもいいですが。

  次回、一度、陰陽師についてまとめます。

 

 
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月20日 12時58分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


新井に出てましたか?
新井は見ましたが  ぜんぜん  気付きませんでした。不覚!
目が捉えなかったようです。恥


とにかくまたアタマの中が空っぽになった時にまた読み返したり
先を読んだりしますね。


この風土記伝はコピーができるようなので印刷なさってはいかがでしょう?
もう、とっくにコピーなさっていらっしゃるかもですね。
にっこり



>服織神社については、「続日本記に曰わく、神護慶雲3年、天下・社に神服を奉り、豊田郡を註す」とありました


神護景雲3年   769年ですか。


<67> に書いた  神服部於天下諸社? 天下諸社?と思いましたが  何か他のことでしょうね。

また頑張ります。



鎌田の子孫が御当地御貴社にいらっしゃったとは。
不思議ですね。
で、ご本人は御存知だったんでしょうか?




お母さまの御実家が松下嘉兵衛の家来だっただなんてこれまた不思議ですね。

本当に日本人って何重にもご縁があって結ばれていますね。
当たり前だけど不思議ですよね。



長田と羽鳥のセットも不思議ですよね。
でも日本人ですから。



>長上を中心とした神社で陰陽道に関係した神社があれば

これはもう分かっているじゃないですか。
神服部さんですよ。

[70]箱柳永田さんからのコメント(2014年09月20日 15時03分01秒 ) パスワード

 丸三柏服部さん、あを様

>長田と羽鳥のセットも不思議ですよね。
 をさだ(長田)の名字の所在地は伊賀市の長田地区です、保元以後没収され
 読み替えられていますが、(紹介済み)長田川=木津川の絵図でも、その可能性を見いだせると思います(長田永田諸家では確定事項)。
 >http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=233  たぶん合っている? 長田川 絵図 三重で検索
 
 この川が服部川と伊賀上野城西方で合流していたと思います。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月20日 15時23分04秒 ) パスワード

箱柳永田さん

歴史的に長田と服部は何か関連があるんでしょうか?

そのうちに見つかることを期待します。
[72]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月20日 15時55分19秒 ) パスワード

箱柳永田様

 「おさだ」読みと「ながた」読みがありますが、直感的に思いますところ、
「おさだ」は織機の「筬(おさ)」をイメージします。私の住む遠州地方は昔
 織物家内工業が盛んで、「おさ」という言葉は良く聞いておりましたので。
 櫛のように並んだスリットで縦糸が通されるもの。
  「ながた」というイメージはやはり「ナーガ」を感じます。すなわち、
 海人系の「蛇・」・・・。
  直感ははずれる事も多いですが、当たった時の喜びも大きく、私の血に
 はギャンブラーの血が入っているのでしょうか。
  少し、探求したいと思っております。長田と羽鳥は古代史のキーワード
 です。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月20日 22時37分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


新しくスレッドを立ててください。

ここには  遠江風土記伝の続き  の書き込みをしたいと思っています。
[74]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月21日 06時27分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日はやや遅く起床。5時より本を漁っておりました。
 
 ただ今、新しいスレッドを立ち上げましたので、そちらに移ります。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月22日 09時38分21秒 ) パスワード

書き直し


http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765205

視力検査のような試験を受けて来ました。
半分しか解読できなかったです。



コマ17

    内山村   436石2斗1升6合




コマ17新井

   永正7年に急な波があって湖がなんたらかんたら



コマ18   22ページ

新井の戌  じゅとふりがな?

                  服部権太夫ですよ〜
三河記(巻7)に曰く        ↓
慶長5年秋  今切を関所として服部権太夫に与力10騎・同心40人を与えて
すなわち番兵とす。


古老曰く
慶長5庚子年新居の関が始まった。

江?奥左衛門に令して、
元和4戌午年  服部?仲?  江?に代って与力6騎(各150石)、同心20人(各7石2人扶ち)
住所  ??ケ谷?源太山に及ぶ?

承?元年  三宅半七帰?
明暦3年  土居忠二郎
寛文4年  本多?八郎
同9年   中根平十郎
??6年  石川文四郎
元和3年  松平主殿助?
元禄8年  松平半左衛門
同9年  成瀬?右衛門
      佐野?八
(居を新井中町に移す)


権?藤?十郎山に町家を移す  金山の館に於いて

藤?十郎?山は今の関所なり


同10年   新???吉田城主久世出雲守
宝永3年  同城主牧野備前守
宝永4丁亥年10月4日  牧野家臣  ????木?政為? 関司 当?
   ??有?被や  (いずくんぞ〜や)


古図?  今 湾岸? 以東10町ばかり?
元禄以来、今の関所なり。


新井と舞阪之中間  ?路27町ばかり。(註下)


近田?入首塚  ?
新井弥三郎者家証。



橋本村   23ページ目

明応8年
以後
急の波があって宿駅が損失を被った。

東鑑に曰く
治承5年閏2月17日
??庄橋本  ここを要害とす。

建久元年10月18日橋本駅に於いて
遊女等、群れをなす?
有繁多駅        賑わってたということでしょうね
物云々連歌
             というのが連歌に詠まれている?

源頼朝と橋本の遊女の話



コマ25  今切

      海の話。
   
      水主が368人いて
      舞阪は水主が32人いた
      などの記録。



コマ20   大福寺

  162歳の教待和尚が園城寺に久しくいて遠江に来た

というお話。

        能役者の服部父子の話は無かったです。



ざっとこんな感じで  漢字が全く読めなかったです。


長上郡の服部家のお話は少しずつ捜してみますね。
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