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長門本と延慶本を対照させた本文を入手しました。読み比べて楽しんでいます。
平家は都落ちの途上、福原で一夜を過ごし、旧御所や旧宅を焼き払って福原から船に乗りこみます。この場面で、二位ノ尼時子(清盛妻)が、動揺する兵どもを集めて演説し結束を固めたことになっていますが、この演説は本当にあったことなのでしょうか。承久の乱で東国武士たちを奮起させた鎌倉の二位ノ尼北条政子の演説に想を得た虚構ではないかという気がしてなりません。皆さんはどう思われますか?
夫頼朝に続いて、頼家、実朝という二人の息子も失い、頼朝の血縁につながる藤原氏の幼い若君(三寅)を貰い受けて将軍家の跡継ぎとするほかなかった政子とは事情が異なり、時子の場合は、宗盛が平家の総帥として清盛の跡を継いでおり、時子が演説しなければならない必然性はなかったと思われます。
ちなみに、延慶本では、船に乗った後、二位ノ尼は屋形の中、宗盛が屋形の上に居て伝えます。兵たちは三百余名。海の上でよく聞き取れたのでしょうか。長門本では、船に乗る前夜、嶋の御所に主だった兵どもを呼び集め、二位ノ尼は主上(安徳帝)を抱いて、南面して話します。幼い三寅君を抱いて、簾中に理非を聴断したといわれる鎌倉の二位ノ尼政子の姿が長門本でより濃く重ね合わされているようです。覚一本では、この場面で同様の演説をするのは宗盛で、二位ノ尼は登場していません。
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