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 投稿番号:101373 投稿日:2014年09月14日 12時57分04秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について16

コメントの種類 :その他  パスワード

前、スレッドも、あっと言う間にコメント90が近づいて参りました。

沢山のご教示本当にありがとうございます。

新しいスレッド「平川家について16」を立ち上げました。

今後ともどうかよろしくお願い致します。

「平川家について15」より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101367_87.html

[1]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月14日 21時11分30秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>私「宮原」の先祖「橘」も南北朝の戦の際は二分化して、戦ったようです。
 
 
当時としては、当然のことでしょう。
天下の阿蘇家も宮方、将軍方、兵衛佐殿方の三者鼎立に呼応して保険をかけるために三大宮司家に分立した時期もあった。
最終的には北朝大宮司と南朝大宮司が対立するが、南朝の滅亡で北朝大宮司に統合。
 
建武新政の崩壊で、足利尊氏は畿内から海路西奔、備後鞆津で光厳天皇の院宣を獲得、宗像大社、香椎宮に戦勝祈願。
武具も不十分な中、圧倒的優勢な南朝菊池軍との対決を迎えることになるが、
ここに宗像大社は少弐、大友、島津が味方する尊氏に賭けて武具を提供した。
多々良浜の戦いでは神風が吹き(元寇の際に2度吹いたから3度目になるが)、風下に立たされた菊池軍は大敗北、九州南朝勢力衰退の緒となる。
上洛時は瀬戸内の水軍が全て尊氏方に付き、神武東征ルートを辿る様に湊川へ。
[2]子孫よりさんからのコメント(2014年09月14日 23時45分15秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

阿蘇家・宗像大社・そして瀬戸内海の水軍と尊氏方に付いた事で勝利を導く事が出来たと言う事ですね。

瀬戸内の水軍の力は強大なものだったのですね。

其々の一族が、保険をかけて、分かれて戦った・・・
先人の方々は、命をかけて、一族のいずれかが後世に残る道を選ばれていたのかと考えると、平和な現代に生まれてきた自分達は、本当に与えられた命を大切に生きて行かなければならないと、それが義務だと思いました。

多々良浜の戦いでは神風が吹き・・
時の運がどちらを選んだか・・という事ですね。

歴史を勉強するようになり、この頃、命の大切さをより深く考えるようになりました。

実は、2週間前に、道の片隅で弱っていた子猫を家に連れてかえりまして・・
症状がよくなかったので、夜でしたが、かかりつけの病院に電話をして、対応を確認して一晩看病し、翌朝、病院へ連れて行きました。

母猫とはぐれてしまっていたようで、脱水症状がひどく、ひきつけも起こしていました。
即、入院となったのですが、3日間点滴を受けて回復、家に連れて帰りました。
病院では、元気を取り戻してすぐに、大暴れをしたと聞き、大丈夫かな?と思っていたのですが、2日間は心を開いてくれませんでしたが、3日目に、私の膝にちょこんと乗ってきまして・・・
すぐにビクビクするので「ビク」と名前をつけました。
慣れてくると、ものすごい甘えん坊になりまして、私の足元をずっと付いてまわりました。

でも、ビクは、ベランダの網戸越しに空を見上げて、時折、とても悲しい声で鳴いていました。お母さんが恋しかったのかもしれません。

実は、今日、ビクが逃げてしまったのです。
ベランダの網戸が少し開いていたのを私が気付かずに、ほんの10秒くらいのすきに、パッと外に出てしまいました。

すぐに探したのですが、姿が見えませんでした。きっとどこかに上手に隠れていたのだと思います。

先ほども家の近所を探したのですが、見当たりませんでした。

症状の悪い時に、看病しながら、思ったのですが、人間だけではなく、猫だって、先祖があって今に到っている・・と。
突然、現れた訳ではありません。一匹の猫の命は、数え切れないその子の先祖となる猫から受け継がれている事を・・

ビクは回復して、私の側にいて、好きな時にご飯を食べて、水も沢山飲んで、幸せな気持ちでいてくれていると思っていたのですが、これは、私の思い上がりだったのかもしれません。

病院では生後3カ月くらいと言われましたが、ビクはその間、外の世界で、ビクの時間を過ごしてきたのです。
狭い部屋に閉じ込めているのが、ビクにとってはストレスだったのかも知れません。

でも、もし、私の事を好きになっていてくれたのであれば、また、こっそりとビクビクしながら、ベランダより遊びに来てくれるかもと・・願っています。

でも・・ビクは自由になったかもしれませんが、私は、寂しくて仕方ありません。

しかし・・、私はよっぽど、猫や動物に縁があるのだと思うのです・・
だって、ビクは、偶然私が、通りかかった道の片隅に震えながら寝ていたのですから・・

「出会い・命」を考える事が出来たこの2週間でした。
でも、きっとビクは遊びに来てくれると思います。(^・^)
だって、ビクのお友達になった、仲良しの猫ちゃんが家にはいますので・・

あの・・ちなみに、私が飼う猫ちゃんはみんな笑います・・(本当ですよ)
猫以外に、道を歩いていると、カラスも話しかけてきます・・(本当ですよ)

退職前に、同僚と、公園でお茶をしていると、カラスが私に話しかけてきていました。これは同僚も皆、知っています。
(何と言っているのかは解りませんが)
同僚は「ホラ、また宮原さんに何か言っているヨ」と言っていました。(本当です)※信じるか信じないかは皆様次第でございます(-_-)

くだらないお話になりましたが、動物と話せる先祖がいたのかな?と思う今日この頃でございます。

では<(_ _)>(^・^)
[3]子孫よりさんからのコメント(2014年09月15日 14時48分47秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

先日もお伝えいたしましたように、ここ数日は、球磨にて最初に「平河」を名乗った「師澄」についての情報を調べていました。
「平河師澄」の名が登場したのは1063年。

このあたりの記述を探す為に、寺社に関係する情報を見ていたのですが・・・
球磨に存在した寺社の中に私が完全に見落としていた情報を偶然、見つけてしまいました。

肥後における集落の展開と祭祀 - 181 ページ より
まず鍋城の西光寺にあった釈迦如来(現 I 川野氏蔵)、の大治五年十一月五日造立銘のある檀主僧快暹、鍋城の長運寺にあった薬師如来(信国氏蔵)の同年同日造立銘の檀越僧快暹の名が、太郎天では「大治五年口歳次|二月十五日报奉造」の腹部銘の中 ...

※鍋城・・・西光寺・長運寺
※檀主僧快暹
※大治五年(1130年)

<(_ _)>球磨に「西光寺」があったとは、全く知りませんでした(@_@。

鍋城 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%9F%8E

鍋城(なべじょう)は、熊本県に存在した中世の山城。
熊本県球磨郡多良木町黒肥地字鍋城の丘陵南端の標高222mに位置する。東西にそれぞれ小椎川と栖山川が流れ、南麓で合流している。南西側の登城口に大手下の字名が残る。丘上にはかつて長さ43m、底幅5.5mの堀切があり、南側が本丸と二の丸の2区画に分かれていた。
歴史[編集]
当城は上球磨の要地にあり、古くから上相良氏(多良木氏)の本拠地だった。文安5年(1448年)に多良木頼観・頼仙が永留長続に雀ケ森で討ち取られると、上相良氏は滅亡した。これにより相良氏本宗は長続が継ぎ、多良木氏の旧領は子の相良頼泰に与えられた。
長享元年(1487年)に陰謀が発覚して頼泰が殺されると、多良木城や鍋城は宗家の相良為続の支配下に戻った。天文14年(1545年)には、頼泰の孫で八代岡の地頭・相良治頼を推戴して人吉衆が反乱を起そうとしたが、計画が漏れて治頼は鍋城に拠ろうとした。しかし城代の税所源兵衛尉が入城を拒み、治頼は耳取原で戦って敗れた。永禄2年(1559年)の獺野原の戦いでは東長兄ら人吉勢が当城を本拠とし、湯前城の丸目頼美らに対峙している。

肥後・鍋城
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/nabe-jyo/
歴史
築城年代は定かではないが鎌倉時代に上相良氏によって築かれたと云われ、 以後代々上相良氏の居城となった。

鍋城は相良頼景が多良木に下向した後に築城されたと言う事であれば1180年以降となります。しかし、築城年は定かではないと言う事です。

鍋城にあった西光寺と長運寺。
西光寺にあった釈迦如来(川野氏所蔵)・大治五年十一月五日(1130年11月5日)
長運寺にあった薬師如来・(信国氏所蔵)大治五年十一月五日(1130年11月5日)
同年同日。造立銘 檀主 僧快暹

上記から、鍋城の築城以前から西光寺・長運寺は存在した。もしくは、薬師如来像は、何れから、移されてこられたと言う事になります。

鍋城に存在した西光寺。(完全に見過ごしていました)
現在は西光堂という名で後世(1500年代)に別の場所へ移築されています。
多良木黒肥地には西光寺谷という地名も存在しています。

そして・・・
平河(良峯)依高が別当であった荒田寺についてですが、以前コメントした内容を転記致します。
「荒田寺」(現荒田観音堂)の「木造釈迦如来坐像」について
錦町公式ページより
荒田観音堂内にあり、県下で三例目の墨書きで胎内腹部前面に「奉造立釈迦如来像天台僧林与 保延7年2月14日」の銘文が書かれています。本像は彫眼、彩色像で像高86.5cm。カツラ材一木造で、頭、体部は耳の後方で前後二材に割矧ぎ、膝前は横一材を寄せてあります。平安末期に造られた本像は、表情が穏やかで端正な気品を見ることができ、年代の重みが十分うかがえます。

ここで※天台僧林与という方の名が出ました。

所が、
「天台僧林与」に関しては、多良木町に以前あった(現在熊本市川野氏所蔵)の釈迦如来坐像には「(在銘仏として)川野林与保延七年一一月十四日」と墨書で記されているとの記述がありました。
「保延七年」(1141年)。荒田観音堂の木造釈迦如来坐像 「天台僧林与」と「川野林与」。
同一人物だと推測されます。

※僧快暹と天台僧林与
僧快暹の銘文は・・1130年11月5日。
天台僧林与の銘文は・・1141年。

ちなみに須恵平等寺永厳上人の開山は1120年。
「開山ヲ永厳ト云。然二其前モ永厳京都醍醐寺修,ノ後当郡二下テ平等寺ヲ造立シテ住ス。其節右ノ如来モ守来ノ本尊也。当寺過去帳ヲ考フル二開山永厳上人ハ仁平元年^八月十四日寂ス。寿七十歳ト云。」
永厳上人は仁平元年八月十四日(1151年8月14日)に亡くなりました。

そして・・
平河師高および平河一族(良峯氏)が建立した有智山万福寺は1151年に着工、1154年に完成。
永厳上人は有智山万福寺そして荒茂勝福寺の塊基である。

★続けて、西光寺・長運寺の薬師如来 造立銘 檀主 僧快暹について調べました。

偶然かもしれませんが、同名の「僧 快暹」という方についての記録がありました。
東寺百合文書 文書名 讃岐国善通寺所司等解案
http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=8298

※差出人 都維那慶真 寺主快暹 上座智進
※事書 讃岐国善通寺所司等解申請仁和寺僧正御室政所其裁事
※書止 以解
※人名 別当延与 法務僧正 仁和寺僧正御室 僧延誉 弘法大師 目代法師得勢 寺主快暹 上座智進 都維那慶真
※地名 讃岐国
※寺社名 善通寺 仁和寺
※その他事項 別当/法務/僧正/去々年大風/目代/都維那/寺主/上座/

年月日延久4年正月26日(西暦1072年)

もう1件
文書名讃岐国善通寺所司等解案
http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=24780

※讃岐国善通寺そして仁和寺に関する文書のようです。(残念ながら読めません(__))

※川野林与(僧 林与)僧快暹 讃岐国善通寺 仁和寺・・・・

実は・・・
ここまでの情報(寺社関係)を調べたきっかけは、他の情報を見つけた事から始まっています。

それが「師澄」の調査だったのです。
次のコメントで詳しくご説明致します。
では<(_ _)>
[4]子孫よりさんからのコメント(2014年09月15日 18時34分50秒 ) パスワード

では、早速、先ほどの続きを(__)

以前、平川家について12コメント1にて、平河師澄と釈迦岳・寺井・佐賀郡新北村に関する情報を記述させて頂きました。
必要な情報のみピックアップして転記します(__)

※球磨郡誌 - 130 ページ より googleブック検索
右衛門義高は良岑大納言安世の後裔平川師澄(師澄の遣筠は本文五八頁釋迦岳にあ寺井、(佐贺郡新北村か未詳)、等の各地を領するに及び相良氏の. ...

※藤原氏族系図 - 52 ページ より
直澄より幸澄にいたりて六代の間常陸国に潜居し、平氏となりて相馬を称し、家紋も繋ぎ馬を用うという。註当社刊桓武 ... 同清漫へき師澄に作る。左衛門太郎。 ... ここに於て直澄従五位下、遠江権守に叙任し、肥後国藤これを上御霊社に併祀す。且詔して其族 ....
★直澄より幸澄にいたりて六代の間常陸国に潜居
★平氏となりて相馬を称す
★清漫へき師澄に作る。左衛門太郎
★直澄従五位下、遠江権守に叙任し、肥後国藤これを上御霊社に併祀す。

※日本の苗字七千傑様の【藤原氏長良流】姓氏類別大観 を拝見しました
純友 → 諸純 → 直純 → 師純 → 永純 → 清純
そして、こちらは「有馬氏」と「大村氏」に繋がっています。

※九州中世社会の研究より
長谷場三氏は、それぞれ直澄が大村、高来、鹿児島に来住したとする系譜を作成してしたその庶家であることが明らかにされている。 ... なお「長谷場系図」は直純について、直澄―師澄―永澄―清澄ー行澄―経澄―朝澄としているが、『長谷場系譜』はややこれと ...

※島原半島戦国史: 高陽史譚
本郡が大村氏の治下に磨せしこ亡を盃詔せん亡するものあり 0 夫に就ての解詑は後に譲る。大村氏は直澄の後を子師澄緯ぎ、師澄の後は永澄。清澄。娃澄等子孫相博へて幸澄に至る。大村氏家系藤原鎌足|不比等|房前|其楯|内麻呂|冬嗣|長良|遼網|良範コ.

============================================

上記の事を平川家について12コメント1にて調べていた訳です。

今回、あらためて調べたのですが、「師純(師澄)」の2代後の清澄そして行澄。この方々についての記録の中に気になる内容がある事に気が付きました。

以下ご紹介する内容は、かなり沢山の書籍およびネットでのサイトで取り上げられていたのですが、私には、一番解りやすく記述されていたサイトがありましたのでご紹介致します。

伊勢平氏 平正盛
こちらのページをスクロールすると表題「晩年の正盛」という記述があります。
http://www1.ka6.koalanet.ne.jp/souma/iseheisi6.htm

転記させて頂きます。
晩年の正盛

 元永2(1119)年11月から12月ごろ、院より正盛に対して、仁和寺寛助僧正領・肥前藤津荘の前荘司平清澄の子・平直澄を追捕すべき宣旨が下された。仁和寺寛助僧正が白河院と親密な僧侶だったこともあって、院は信頼厚い武臣・正盛へ追捕を命じたものだろう。正盛は直澄の首を取って京に運び、12月27日に検非違使へ引き渡している(『中右記』)。平直澄の首が入洛した際に、降人の源常弘(五位の位階を持っていた)とその子・某丸、紀権守(平直澄舅)の三人も引き回されている。

 ただし、直澄の追討については「遣郎従搦得」(『長秋記』)とあって、正盛自身は出陣していないことがわかる。さらに、入京後の検非違使へ引き渡す儀式についても、「但正盛不具、以郎等進、於六條河原、検非違使受取」とあって(『中右記』)、正盛がこの頃には脳血管疾患等により倒れ、体の自由が利かなくなっていた様子が垣間見える。なお、正盛の随兵百人は多くが「西海南海名士」であったという(『中右記』)。天永4(1113)年以降、正盛は備前国の受領であり、瀬戸内海を通じて四国、九州諸国との関係を築いていたのだろう。このことがのちの「平家」と西国との関わりの原点になったのかもしれない。

 この直澄追討の功績により、正盛は「叙一階」された(『長秋記』)。別書には、翌元永3(1120)年正月6日、「備前守正盛叙従四位下、是犯人追捕賞者、人驚除目」とあり(『中右記』)、この日の除目で「正五位下」から一階上がって「従四位下」に叙されたことがわかる。なお、「正五位下」の一階上は本来は「正五位上」であるが、この当時「正五位上」は飛ばされ、「四位」「従四位下」へ叙される慣例だったことが『公卿補任』等から確認できる。

 正盛が派遣した郎等によって討たれた平直澄は肥前国藤津荘(仁和寺寛助僧正領)の前荘司平清澄の子で、平清澄が元永元(1118)年冬に何らかの不手際を犯し、領主の寛助僧正によって勘当され、京都に召喚され留め置かれた。かわって新荘司として僧範譽が遣わされたが、現地に残っていた清澄の子・平直澄は後禍を恐れて主家の命に抗わずに荘務を行っていた。しかし直澄は京都でつらい思いをしているであろう父・清澄へ宛てて密かに盗んだ米を送っており、これが三、四回発覚して差し押さえられてしまう。これを怨んだ直澄は荘司の範譽とその妻を拉致して海島に監禁した上、食料を与えることもしなかった。さらに、抵抗したと思われる範譽の郎従五、六人を殺害し、事が大きくなってきたことから仁和寺から院へと通報され、院宣による追討へと繋がったと思われる(『中右記』)。

まとめます(__)
元永2(1119)年11月から12月ごろ、院より正盛に対して、仁和寺寛助僧正領・肥前藤津荘の前荘司平清澄の子・平直澄を追捕すべき宣旨が下された。

※@肥前藤津荘は仁和寺寛助僧正領であった。
※A平直澄は肥前国藤津荘(仁和寺寛助僧正領)の前荘司平清澄の子。
※B平清澄が元永元(1118)年冬に何らかの不手際を犯し、領主の寛助僧正によって勘当され、京都に召喚され留め置かれた。
※C新荘司として僧範譽が遣わされる。
※D直澄は京都でつらい思いをしているであろう父・清澄へ宛てて密かに盗んだ米を送っており、これが三、四回発覚して差し押さえられてしまう。これを怨んだ直澄は荘司の範譽とその妻を拉致して海島に監禁した。
※Eその後、範譽の郎従五、六人を殺害し、仁和寺から院へと通報され、院宣による追討へと繋がった。

と言う事です。

では
※@肥前藤津荘は仁和寺寛助僧正領であった。
仁和寺僧 寛助。
平川家について12コメント6で調べていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101352_49.html
広沢流系流派略系譜
仁和御流略系譜(派祖・覚法) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-覚法
西院流略系譜 (派祖・信証) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-信証
★保寿院流略系譜(派祖・永厳) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-永厳
華蔵院流略系譜(派祖・聖恵) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-聖恵
忍辱山流略系譜(派祖・寛遍) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-寛遍
伝法院流略系譜(派祖・覚鑁) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-覚鑁

★保寿院流略系譜(派祖・永厳) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-永厳

永厳 ようごん (須恵平等寺開山)
1075−1151 平安時代後期の僧。
承保(じょうほう)2年生まれ。真言宗。寛助(かんじょ)の法をつぐ。

上記の寛助僧正領が肥前藤津荘であったと言う事です。

※平清澄が寛助僧正によって勘当され、京都に召喚され留め置かれたのは元永元(1118)年冬。
※院より平清澄の子・平直澄を追捕すべき宣旨が下されたのは元永2(1119)年11月から12月ごろ。
※球磨の須恵平等寺、永厳上人の開山は1120年。
※藤原氏長良流 純友 → 諸純 → 直純 → 師純 → 永純 → 清純
※平河師澄の球磨における記録は1063年。

以前、日本の苗字七千傑様より伺ったご教示に
「旧来から藤原長良後裔が有力説ですが、紀国造族の大村直裔の直澄が何らかの理由で平姓に改称して肥前大村氏という説も有り。
平氏清盛流矢上氏も純を通字としており、有馬/大村の各系図も錯綜しているので真相は闇の中。」
とのお話がありました。

そして、まだまだ、気が付いた事があります。
この情報も平川家について12コメント10で調べていました。
真言宗 広沢流系流派略系譜の中の
伝法院流略系譜(派祖・覚鑁) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-★覚鑁

覚鑁(かくばん、嘉保2年6月17日(1095年7月21日) - 康治2年12月12日(1144年1月18日))は、平安時代後期の真言宗の僧。真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。
諡号興教大師(こうぎょうだいし)。肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分)生まれ。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘。

★父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘で肥前国藤津庄生まれ。
この方は肥前国藤津庄生まれであったと言う事です。

続けて
忍辱山流略系譜(派祖・寛遍) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-★寛遍

寛遍(かんぺん、康和2年(1100年) - 永万2年6月30日(1166年7月28日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は大納言源師忠。尊勝院大僧正・忍辱山大僧正とも称される。
寛遍の父源師忠については、今までの調査で、かなりの登場回数となっています。
父:源師房 母:藤原頼宗の娘 正妻:橘俊綱の娘

母:藤原頼宗の娘。
藤原頼宗の妻は藤原伊周の娘。藤原伊周は菊池氏の祖と言われる藤原隆家の兄弟。
源師忠の正妻は橘俊綱の娘。
橘俊綱は藤原家光の父。藤原家光の子が須恵小太良こと藤原家基。
源師忠の正妻は須恵小太良こと藤原家基の伯母となる・・・

寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助
※寛朝・・父は宇多天皇の皇子敦実親王。989年(永祚元年)10月26日円融天皇の命により広沢湖畔に遍照寺を建立。
※済信・・父は左大臣源雅信(宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖)
※性信・・父は三条天皇、母は藤原済時の娘娍子
※寛助・・
寛助(かんじょ、天喜5年(1057年)- 天治2年1月15日(1125年2月19日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は右大弁源師賢。成就院大僧正・弁大僧正・法関白とも称される。
略歴[編集]
仁和寺経範の室に入って密教を学び、性信入道親王(しょうしんにゅうどうしんのう)から灌頂を受けた。白河法皇からの信任が厚く、1099年(康和元年)権律師に任じられて以降、遍照寺別当・仁和寺別当・東寺長者・東寺法務を歴任した。1113年(永久元年)鳥羽天皇の病気平癒の修法の報償として、東寺結縁灌頂の小阿闍梨(こあじゃり)が僧綱に任じられる慣例のもとを築いた。その後も、広隆寺別当・法勝寺別当・東大寺別当を歴任し、1121年(保安2年)大僧正に任じられた。

★寛助の父 源師賢 
頭。五蔵。左中弁。正四位下。父:宇多源氏 源資通 母:源頼光女。号藤津弁。

球磨と東寺の繋がりは「人吉次良」こと藤原友永にありました。
平川家について12コメント50より
父の藤原伊勢人は東寺を建立した人物。
藤原伊勢人 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E4%BA%BA

延暦15年(796年)、かねてから一堂を建て観音を祀りたいと祈願していたところ、霊夢の託宣により鞍馬山に導かれ、同地に毘沙門天像が祀られているのを発見。さらに再度の霊夢により、観音と毘沙門天の同一なることを告げられ、これに深く感銘を受けて同地に伽藍を建立した。これが現在の鞍馬寺の起源となったと伝わる。また同年、桓武天皇により造東寺長官に任命され、東寺を建立したともされている。

★伊勢人の後裔である。友永以降代々が、鞍馬寺の別当を任命する権限を有していた。
藤原友永は「佛寺修造」も行っている。

以前、日本の苗字七千傑様より「寺社関係の調査」を勧めて頂きましたが、
本当にありがとうございます。

「平河師澄」が何故、球磨に下向したのか?
寺社に関係している可能性が高いのでは?と痛感しています。
では<(_ _)>
[5]白石さんからのコメント(2014年09月15日 21時54分43秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 少し忙しくなってきました。
白石から 伊達が出ていたのは確か前にコメントしていたと思います。

腹違いの姉が 成松だといいはるので 一生懸命調べました。

私の父は高岡。母は佐田。
白石へ夫婦養子。
白石へは 高岡から 嫁。山口から嫁。山口のきょうだいの母方が 浅松という家と○○の女子。これはわからない。姉は母の筋というので この わからない方に 成松はいるのだろう。伊津野がいることからもそのように思われる。
まだ ここのところが はっきりしていませんが 殿様の侍従か何かをしていた。

一つは 母の実父の山本。義経の兄弟の方が出てきました。
そして
みて みて 前から 伊達など わたくし しきりに 言っていましたでしょ!!

ブログの表題です。↓
前のことになる。 当時、 筆者は水軍研究のため伊予や豊 後の各地を ... (Adobe PDF) - htmlで見る


bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php?...

成松文書の存在を知ったのは、 もうかれこれ十年近く. 前のことになる。 当時、 筆者は ... 昭和五十四年 } 月、 佐伯氏関係の史料収集のため、 佐. 伯を訪れ、 羽柴先生に 色々 ... まず、 成松氏は、 室町期、 南海部郡鶴見町辺にその本. 拠を持っていた小領主 ..

↓これから重要
千葉県佐倉市上志津1428−240
成松勇策氏所蔵
福川一徳著
成松文書より抜粋 法花津氏へ
法花津 成松氏と改める系図
仙台中納言・伊達政宗公に御子二人あり。秀宗公・忠宗公是なり。然れども秀宗公ご妾腹の長男たるによりて法花津播磨守秀宗公と改たむ。
四国伊予の太守となり 在城す。その時 中国 の太守 毛利元就公、 九州豊後の太守に在すは 大友義統公是なり。以下略
※毛利高政の判物などある
伊達氏
仙台だけど 側室の子が伊予宇和島にくる。その系のようです。伊達氏からも白石がでます。これは後で。

なんだか 見えてきたようです。毛利氏とか 高政とか 言葉が出てきてその頃にいたとわかります。

子孫様 わたくしのことばかり書いてごめんなさい。子孫様のスレッドなのに・・・でも きっと 平川と 何らかの形で 関係していると思います。

[6]白石さんからのコメント(2014年09月15日 22時44分40秒 ) パスワード

とあるサイトで 以下のものを 見ました。子孫様過去に腕のあたりに 筋があると 書いておられましたよね。
漢民族の線だったか・・・私にはないなあ と。

秦始皇帝はバクトリア王ディオドトス、兵馬俑(へいばよう)はペルシア軍団


鹿島はさらに、中国の神話に出てくる人頭蛇身の伏犠(うっき)は、バビロン神話の人頭魚身のオアンネスであり、中国の古典とされている司馬遷(前一四五〜九六)の『史記』前九七年は、オリエント史を地名遷移して漢訳した「翻案偽史」であることを、克明な対比作業によって証明した。

そして、漢民族は、

股・・・字の間違いか? 殷? 
(シュメール人)→周(アッシリア人)→秦(バクトリア人)

の文化遺産をそっくり棚ボタ式に受け継いだと主張している。

その漢民族は、大きな恩恵を受けた殷人(シュメール人)を夷、すなわちエビスと呼び、その夷=エビス=殷人が日本列島にやってきて打ち建てたのが、東表国(とうびょうこく)であり、それこそが神武以前の先王朝である天の王朝であるというのだ。

シュメールって 殷だったのですね。知らなかった。 という話でした。

6000年史の本は まだ 読めていないのですが
はやく 読んでみたいものです。

[7]子孫よりさんからのコメント(2014年09月16日 00時02分09秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様のご先祖の調査、かなり、進展したと言う事ですね。
\(^o^)/良かったですね(^・^)

文面から、喜びが伝わってきました(^・^)
私も、とても嬉しくなりました。(^・^)

成松氏は、お母様の系となるのですか?(すみません、理解力に乏しくて・・)
でも、今までのモヤモヤが一気に解けそうですね。
本当に良かったですね(^・^)

それから
漢民族線ですが、腕の曲げ伸ばしで出来た線ではなく、何故か「あれっ?何故こんな所に線が?」という感じの線です。

でも、南九州の人にはかなりの確率で、あると言われているようです。

科学的な実証はどうなのか解りませんが(-_-)
ちなみに、この頃、ぽっちゃりしてきた私の腕には、以前にもまして、かなりはっきりと線が・・(まるで赤ちゃんの腕のような・・でも、そこまで太っていると言う訳ではありませんが・・( 一一))

まあ、進化を遂げていく中で、色々な「血」が混ざっているのは、皆様、当たり前かな〜と思いますが(^・^)

そういえば、先日、テレビでカンボジアの世界遺産の特集が放送されていました。

とてつもない高い山の断崖絶壁の上に立つ要塞のような城やアンコールワット。
圧倒されました。
とてもすばらしかったです。
古代クメール人の高度な技術を目の当たりにして、感動致しました。
(高所恐怖症の私はテレビを見ているだけでゾクゾクしましたが・・)

これからも、知らなかった事を沢山理解していく事を、とても楽しみに思います。

では<(_ _)>(^・^)
[8]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月16日 01時00分48秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>白石さん へ
 
 

鹿島・氏が「桓壇古記」と「東日流外三郡誌」の二つの偽書を引用している点で残念ですね。
フランスの学者ラクペリー提唱の漢民族バビロニア起源説があり、漢民族も日本民族と同じくバビロニアから渡来したもので、中国古代史はバビロニアなどのオリエント史を借史した点では荒唐無稽なものでは無い。
秦帝国は中国西部から興起した国家で中国語の文法が印欧語に近く、オリエント(バビロニア)起源を裏付ける。 
しかし家紋や神名の相似関係で「天孫民族六千年史の研究」の方が有用性が高い。
まあ後学の為に鹿島・著「倭と王朝」、「倭と辰国」などに目を通すのも良いだろう。
とにかく胡散臭い上古史関連書籍も多いが、清濁併せ大量に消化しないと真実には近づけないでしょう。
[9]白石さんからのコメント(2014年09月16日 06時00分40秒 ) パスワード

おはようございます。
7000傑様 ご教示ありがとうございます。
若い時のように少しの時間をおしんで というわけにもいかず どうにも気力が衰えて・・・という状態になって 情報が集まりだして ・・・何とかして「天孫民族六千年史の研究」を読んでみたいと思います。

子孫様
朝早くから鳥がさえずっています。
私や 息子なども 動物が割と好きで、
子供のカラスなど 外階段の踊り場などの 向こう側に起用につかまって
あと 一メートルくらいに近づいたらひょいと顔をのぞかせて きたり、近所の犬など 私が 飼い主と話をしていたりしていて 何か驚くことがあると ばあーっと 私の足の間に逃げ込んだり 
結構 動物と交流?^^しています。

目が からすだって おどけて かわいいのですね。
そして
あるときなど 猫が 私の方を見てしきりに鳴くので みると 烏二匹が木にとまって 猫をいじめているのです。そんなときの烏の獰猛なおそろしげな眼の色はすごいです。

貴重なスペースを・・・ごめんなさい。すぐ この手の話にのって・・・
[10]白石さんからのコメント(2014年09月16日 22時15分18秒 ) パスワード

こんばんは
成松は腹違いの姉の方の話です。
熊本には苗字検索をかけてもないというあさぎり町の浅松の家に宇土から成松の女子が嫁。
浅松と成松夫婦の間の女子が 
あさぎり町白石・あさぎり町山口・下益城の平江(庄屋をしていた)へ嫁。
その子供たちが それぞれ おたがいに 結婚しているという話。
平江女子と 高岡姓の父と結婚。その妻は3人の子を残して若死に。その一人が 姉。
後妻に山口県の佐田氏から母。白石へ夫婦養子。その子が私。

あねと山口男子と結婚。
彼らと私は 父母が夫婦養子に入った白石で 固まる。
ーーーーーーーーーーーーーーー
ところで
母の実父の山本は 下益城・別府と住んでいた。
なんで 下益城と ずっと 不思議だったけど
松浦水軍を育てる 将軍系図につく山本義経。八条院に候。という人を考えると山口県で戸籍を出すとき印を押している市長に 山本・松浦がある。
又 頼朝弟・義経の兄弟の筋の女子が藤原と結婚して阿野。
山本。
八条院所領に関して中原がおり、母の佐田と同じ家紋を持つ 豊前宇都宮流佐田氏がある。
うちに婿養子に入った人の実家と(この人にも佐田の血が入っている)と広島の住所が同じところ。
佐田文書を持つこの家は 毛利・大友・黒田・細川と次々つかえ 戦国の世を乗り切った。

母の方の祖母は山本男子と結婚。この人と祖母はやはりいとこどおしで 母はその前もその前の人も いとこどおしだったという。この 山本が 私がなんで 下益城へ?と 思う人。私的には 母は 佐田・山本の血が濃い。
[11]白石さんからのコメント(2014年09月16日 22時53分21秒 ) パスワード

7000傑様には叱られそうだけど
とあるサイトの中には(例の先日の)
12.9日、倒幕軍の進発予定が麻郷に届く。「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条実美(さねとみ)ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一 同は打ちそろって、田布施町麻郷の井神(地家の隣)の高松八幡宮での事で「王政復古の大号令」を発している。
 午後、小御所会議が開かれる(通史にある京都御所での話ではない)。新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸 隊)の出陣式を行った。

と 京都のことではない として書いている。
この 王政復古の文と 錦の御旗のデザインをしたのが 義経の兄弟の子孫の女子が嫁入る方の筋だそうで この部分 (王政復古の文・デザインを玉松がした)のことは 本当のようである。
この玉松は 単純に 成松と一字違い・松 松と思って検索してみたら 出てきたものです。

白石は 伊達に関しても言葉が出たというつながりがあり、河野の系図にも 白石はあり う〜んです。伊達からは清和源氏佐竹氏族
河野の方からは越智 白石嬉野氏 そして 古代祭祀氏族高御産巣日系の日奉氏も。

姓系辞典では 肥後の白石は 清和源氏。菊池に仕え菊池が相良に負けた後相良に仕えるとして
菊池の侍帳には 高岡 坂本 白石 平川の固まり そして 尾方 高田牧宰のことばがある。

うちの白石の現在本家は 人吉永国寺の流れのお寺によっています。

成松は過去に子孫様のスレッドにも ありましたよね。どこか 保育所のひとだったか?
[12]子孫よりさんからのコメント(2014年09月17日 01時51分25秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様と成松様のご関係、しっかり理解出来ました(^・^)

ちなみに、私の知っている成松様は幼稚園を経営されています。
子供二人が大変お世話になりました。

不思議な御縁ですね(^・^)

北九州の隣街、苅田の日産九州工場の近くに「白石」という地名があり、近くに「白石神社」があります。
私、いつも、この道を通る時に、「白石様、お元気かな?」って思っています(^・^)

今日は、一日、本を読んだり、情報の検索を行っていました。(時折、家事もしています(__))

所で、あらためて山江村誌に記述されていた「平河」の系譜を見ていたのですが、先日、コメントした犬童五兵衛の弟「平河将親」の子「平河久貞」についての記述を漢文でしたが私なりに解読したのですが・・・

「久貞」この方は、宝暦7年に起きた何かの事件に関係しているようです。
丑家中有事時因失誤被没収家
とあり、平河はこの時断絶したようです。
その後、弟の平河庄七紀治が新続平河家となったとありました。
ちなみに平河紀治には子供がいなかった為に愛甲次左衛門惟貞二男「惟重」為養子となって平河を継いだようです。
「久貞」の名は
平河喜左衛門 初喜内小休ト改又可笑ト改・・とあります。

宝暦七年丑家中有事時因失誤被没収家秩百石入獄七年出獄□塔原郷数年後有免赦移住人吉青井邑亦数年先之壮年之時仕官而於東都邸師鈴木徳左衛門滝盛而得疋田流鎗術道綂伝帰郷里有門弟数多流義益進是以召朝襄之賜一世一口月棒也

法名は定厳浄慧中尾

宝暦七年に起きた何かの事件に関与して入獄。その後出獄後、塔原郷での数年後に有免赦。そして人吉の青井邑に移住した後に「仕官而於東都邸師鈴木徳左衛門滝盛」
疋田流鎗術道を得て帰郷して門弟を多数得た。(かな?)
召朝襄之賜一世一口月棒也とはなんでしょうか?

と言う事で、
平河喜左衛門 初喜内小休ト改又可笑ト改 平河久貞についてでした。
でも・・・宝暦七年に起きた何かの事件・・なんだろう?
では<(_ _)>

[13]白石さんからのコメント(2014年09月18日 01時20分47秒 ) パスワード

こんばんは
事件 なんでしょうね。このころ おしもの乱?

刈田の白石神社
ありがとうございます。もろ 白石のことばですね。
刈田 白石 鎌足の子孫・刈田 
しらべていこうとおもいます。
前に 磐井が白石を名乗ったということから 九州の上の方に 磐井の勢力があって 甕棺墓が出るということを書いたことがあったような。
甕棺墓は 伊勢神宮荒木田家の人が アマテラスの遺骨または神武天皇の遺骨が入っていたとあかしていましたが。

ーーーーーーーーーーーーー
相良に秋月より入っており 上村の字に木原があっても不思議でないこと
ウィキより
人吉藩をぼんやりとみていました。
すると
 あきなが
相良 晃長が目に入りました。
6代長在の正室・寿昌院の弟・秋月種美(日向高鍋藩主)の三男

秋月氏を日本の苗字7000傑秋月氏でみると
秋月種生の子孫に 高鍋秋月家があります。

右上の原田氏をクリックし もう一つ上 岩門氏をクリックすると 木原・山口が出てきます。先日書いた 木原です。

秋月は 又 徳川家康の六男を出しています。
[14]白石さんからのコメント(2014年09月18日 06時14分55秒 ) パスワード

>磐井が白石を名乗ったということから 
逆です。すみません。
白石が磐井を名乗った です。

>字に木原があっても不思議でない
系図上 秋月と山口が同祖にあがっていくという意味。まだ何もいきさつはわかっておりません。

どうして 出てきたのか 忘れたのですが


佐田には 益田氏家臣というのがあって 
でも 益田 は 天草四郎などにも 言葉が出てくるので 
うちは キリスト教ではないし 
と 思って そのままに なっていたのですが
(秀頼の子供が益田の子供になった)(天草氏は岩門から原田へ別れる途中からわかれる)

2ちゃんねるで 徳川家康も益田でー
というのを ひろって 
あっ なんだろ
と 気になったのですが どこでみたのか ページをコピーしとけばよかった と 思います。

ただ 
 益田氏は石見の大族として知られる御神本氏の一族で、関白忠平の九代の孫国兼( 一説に定通)を祖とするといわれる。
というのをコピーしていて 
もう 出かける用意をするので あとで 書きます。
[15]子孫よりさんからのコメント(2014年09月18日 08時45分29秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございました(^・^)

平河家伝授巻のかなり後世の記述に関して、先日コメント致しましたが、すでに1700年代後半の情報まで到達していて、その後(幕末〜明治)を見ていたのですが、祖母方の「平川」の縁戚関係である「永田(医者)」「深水」「赤星」「黒木」などの繋がりは、上記の系図には表れず、やはり、何処かで、「平川」が分かれている事は確かです。(あたりまえか・・)

後世においての、こちらの系図は平川一族のいずれかの「家」の家系図となっていくので、参考程度に止めておこうと思います。

ただ、先日コメントした鎗術道(武術家)の「平河久貞(喜左衛門 喜内少休 のち可笑」。この方には娘が一人いらっしゃって、その方の記述に「母宮原権左衛門嫡女」となっていました。
愛甲にも親戚関係がありますから、一族の間での共通の「親戚」の名に「愛甲」と「宮原」が存在していると言う事は確かです。

ただ、私は、一つの記述に拘るといつものように先に進めなくなる性格ですので・・

現在、旧岡原村宮原地区にあるお寺は、曾祖母の実家「深水家」が浄土真宗の僧の方を招いて、お寺を創建致しました。江戸末期の事だと聞いています。

それ以前の系図は、免田に移った別のお寺様にあると父から聞いていますので、実家に戻り次第、うかがって、確認します。

今日は、進捗をお伝え出来るようにがんばります(^・^)
では<(_ _)>
[16]子孫よりさんからのコメント(2014年09月18日 10時13分24秒 ) パスワード

皆様(__)

何だか、私、もしかしたら、とんでもない勘違いをしていたようです。

今年の正月前の大掃除で父が「ばあちゃんが、何故、この御札を貼っていたかよく解らん?」と言っていた「高野山 遍照寺」の御札についてです。
毎年、御札を頂いて、家に貼り、私にも送ってくれていました。
「必ず、守って頂けるからね」と・・
未だにこちらの「高野山 遍照寺」がどちらのお寺様か解らなかったのですが・

今朝のコメントの後、免田の真言宗のお寺を調べていたら・・
あったのです「遍照寺」。免田にです(めちゃくちゃ近い(@_@。)
http://www.weblio.jp/content/%E9%81%8D%E7%85%A7%E5%AF%BA

遍照寺
読み方:ヘンジョウジ(henjouji)

別名 免田高野山

宗派 真宗大覚寺派

所在 熊本県球磨郡あさぎり町

本尊 薬師如来

(__)仏教の事は、もちろん全く解りませんが、何故「真宗大覚寺派」なのに免田高野山なのかな?と思いまして・・

真言宗大覚寺派 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E5%AF%BA%E6%B4%BE

真言宗大覚寺派の歴史は、大覚寺の開創に始まる。嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院で、空海が五大明王を彫刻して五覚院を建てた。疫病流行の際には、嵯峨天皇宸筆の般若心経を講読して、心経堂に納入した。876年(貞観18年)淳和天皇皇后正子内親王の令旨により開創され、淳和天皇第二皇子恒寂入道親王が賜り、入寺して、大覚寺の伽藍を整備した。
918年(延喜18年)、宇多天皇が大覚寺で両部灌頂を受け、1268年(文永5年)には後嵯峨天皇が入寺、21世門跡に就任、続いて、亀山天皇も入寺し、22世門跡になった。1307年(徳治2年)〜1321年(元亨元年)、後宇多天皇は院政を行い、大覚寺塔頭・蓮華峯寺を仙洞御所とした。このとき、諸堂を整備したため、後宇多法皇を中興の祖と称する。南朝系の大覚寺統の天皇とゆかりがある。1336年(建武3年)全焼。1392年(元中9年)、南北朝の動乱を経て、南北朝和議の場として使用された。
応仁の乱では全焼したが、豊臣氏・徳川氏の保護もあり、伽藍を再建し、門跡寺院として繁栄したが、江戸時代末期に衰退した。明治時代の始めには無住となったが、47世門跡・楠玉諦、48世門跡・高幡龍暢らの尽力で復興した。
1925年(大正14年)には、真言宗高野派・真言宗東寺派と合同して、古義真言宗に属したが、太平洋戦争中に、政府の宗教政策により、古義真言宗と新義真言宗の合同が計られ、大真言宗に統合された。1949年(昭和24年)、大真言宗を解消して、真言宗大覚寺派と公称して現在に至っている。

高野山真言宗 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97

高野山真言宗(こうやさんしんごんしゅう)は、真言宗の宗派。総本山は高野山金剛峯寺。別称として、高野宗・高野派。
平安時代に空海が唐・長安の青龍寺で恵果から密教を学び、日本に帰国して開いたことに始まる。
寺号の金剛峯寺の金剛峯の名称は「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祗経」(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)の最初の3文字「金剛峯」を引用して、空海が名付けた。

合併以前は、寺号の金剛峯寺は高野山全体を指す名称であった。現在のように特定の寺院を指して寺号とすることはなかった。現在の金剛峯寺の建物は1863年(文久3年)に建立され、高野山真言宗座主の住居としても使用されている。
近代[編集]
明治時代以降、政府の宗教政策から、他の真言宗宗派(真言宗御室派(総本山仁和寺)・真言宗大覚寺派(大本山大覚寺)など)と合同した古義真言宗に属し、古義真言宗総本山となる。のちに分派・合同した。
1872年(明治5年)、女人禁制が解かれる。

あさぎり町免田の遍照寺が何故「免田高野山」と呼ばれるのかは、やはり、お寺様に伺ってお聞きしたいと思います。

祖母の御札は何処のお寺様の御札だったのか?
決定はもう少し先になりそうです(__)

では(__)
[17]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月18日 11時29分40秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>仏教の事は、もちろん全く解りませんが、何故「真宗大覚寺派」なのに免田高野山なのかな?と思いまして・・
 
浄土真宗に大覚寺派などは有りませんので、ネットの記載は大きな誤り。
免田村とは、荘園の年貢課役を免除された村の意味。
おそらく免田村全域が高野山領だったのだと思われます。
他地域の免田と識別する為、免田高野山と呼称。
肥後宇土に佐野寺免田が有るからね。
 
高野山の明遍は信西の子、遍照寺の一字に反映されているでは有りませんか?
[18]子孫よりさんからのコメント(2014年09月18日 15時16分49秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

真宗大覚寺派 → きっと真言宗大覚寺派の間違いですね。
確認しましたら、免田の遍照寺は真言宗のお寺でした。

「免田村全域が高野山領」
とても、勉強になりました。ありがとうございます。

以前から伺っていたように、寺社関係の所領は国内でも膨大な領域であったと言う事ですね。

「高野山の明遍は信西の子、遍照寺の一字に反映されているのでは・・」
確かに「遍」の字ですね。

先日から、地元の寺社関係を調べていますが、非常に興味を引く内容が多数出ています。

本日の進捗ですが、故郷に以前あったお寺で、全く知らなかった事が解りました。

「竜興山庭柏寺」についてです。
竜興山庭柏寺は、私の故郷旧岡原村宮原に存在していたお寺でした。

こちらの記述をご覧ください。後ほど、以下の記述をまとめます。(__)

九州相良の寺院資料 より
人吉城第十七代相良晴広の次男徳千代(後の頼貞)は十三享禄ー一年二五一一九)竜興山庭柏寺建立。弘治一一年二五五^ ^ ! ^ .曹洞宗のち黃橥宗廃絶岡原村宮原集^〉 0 歓喜院参照。院という。 ... 飲喜院は初め定法跡に修験道勝軍斎頼盛が住し、勝軍坊と号す〈探源記〉元禄十弘治ー一年〖一五五六)定法院跡に愛宕权現を創建。

最初は何の事だか?よく解らなかったのですが調べましたら詳細が見えてきました。
人吉市史 - 第 1 巻 - 338 ページ
宮原龍興山庭柏寺建立享禄二年(一五二九)岡原村(宮悦冊興山庭拍寺建立)、稲留某(法名光 ...

法群蓮乗院了徳永幸(註)八代市悟其寺抗内に轟漣の丘坤墓がある。 ... を以て相暗まるべき娑卑一に候、恐々諦言八月十五日乾滋(花押)右兵拓佐段義洩の室は原田豊永氏、享禄元年八月十五日卒去、法名庭柏祐意、宮原龍興山庭柏寺がその牒所である。

改訂・補九州相良の寺院資料 より
寛正三年〈一四六一一)、一説には寛正元年再興、承応年中〈一六五一一〜五五)寺堂を全部改築、延宝三年〈一六七五)本尊釈迦三尊を京都で補修。 ... (一五七三〜九一一)八代高田の竜成寺が衰亡したので、僧永空は湛慶作という同寺の本尊聖観音像と人吉城第十一一代相良長毎の位牌を守護して岡原.岡本に移り、永空寺を開く。その後、永空寺は衰亡したので、宮原庭柏寺の僧行摧が再興し、岡本城下に移して本秀院と改称。
他にも
この堂が蓬莱堂および蓬莱寺と関係がありそうだが、裏付け資料がない〈編者〉 0 蓬莱寺参照ほんしゅうぜんいん本秀禅院岡原村岡本曹洞宗 ... その後、永空寺は無住となって衰亡したので、宮原庭柏寺の行摺が再建し、岡本城下に移して本秀禅院と改める。

そして・・・
Yunomae-machi shi - 40 ページ
その頃頼房公は名を義陽と改め、八代城におられたが公に対して始終よい感情を抱い ... 禄の頃になって、庭柏寺の天山常茂の法脈を継ぎ、宮原村に移り住まわれたものの、生れつきの勝気するとその翌年、徳千代君 ...

(・_・)
上記の記述で解った事は
※人吉城第十七代相良晴広の次男徳千代(後の頼貞)は享禄二年(一五二九)旧岡原村宮原に竜興山(龍興山)庭柏寺を建立。
※相良晴広の次男徳千代(後の頼貞)は庭柏寺の天山常茂の法脈を継ぎ、宮原村に移り住まわれたものの生れつきの勝気であった。
※稲留某(法名光 ...
※・・・を以て相暗まるべき娑卑一に候、恐々諦言八月十五日乾滋(花押)右兵拓佐段義洩の室は原田豊永氏、享禄元年八月十五日卒去、法名庭柏祐意、宮原龍興山庭柏寺がその牒所である。★享禄元年(1528年)
★「乾滋」「右兵拓佐段義洩の室」「原田豊永氏」「法名庭柏祐意」
※僧永空は湛慶作という同寺の本尊聖観音像と人吉城第十一一代相良長毎の位牌を守護して岡原.岡本に移り、永空寺を開く。
※その後、永空寺は衰亡したので、宮原庭柏寺の僧行摧が再興し、岡本城下に移して本秀院と改称。
※八代市悟其寺抗内に轟漣の丘坤墓がある・・「轟」という字は平河に関する古文書で何度か見かけました。

簡単にまとめました。(__)

そして、相良氏の研究をされている方の、次のサイトを見つけたのです。
SAGARA BLOG 肥後相良氏
http://bushispirit.blog.shinobi.jp/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F/

表題「深水長智 主家を護るために」
相良家の重要な位置を占めていた深水一族のうち、目立ってその名前を残したのが深水宗方長智(ふかみ・そうほう・ながとも)です。
彼が特に活躍し始めるのは、18代義陽の戦死後、嫡子忠房を次期当主に立てる頃からでした。
その頃は島津幕下体制に組み込まれたばかりで、隙あらば相良家が島津家に呑み込まれてしまいそうな勢いでした。
ここで腹の据わった態度を見せ付けなければ、「そんなゴタゴタしてるんなら、島津が管理してやるよ」と相良家の家督相続問題に介入されてしまいます。
その結果、島津の介入が続きゆくゆくは島津家に呑まれてしまう危険性があったようです。

しかし、敵は外ばかりでなく相良家内部にも。

忠房の叔父にあたり、義陽と同日に生まれた弟・頼貞(よりさだ)でした。
頼貞の幼名は「徳千代」でしたが、子供の頃から強情で、片意地なところがあったそうです。
その上、兄になにかと反抗。
父・晴広は、その性格から「成長すれば、必ずや領国を乱すであろう」と心配し、寺に入れることを遺言したと言います。
遺言通り頼貞は寺に入れられて庭柏寺(ていはくじ)の住持となりましたが、勝手に還俗し、八代から薩摩に移っていました。
そこに入ってきた情報が兄・義陽の戦死でした。
頼貞は甥・忠房よりも自分が領国を支配するべきだと考え始めます。
以下略章・・

※相良晴広の遺言で頼貞は寺に入れられて庭柏寺(ていはくじ)の住持となりましたが・・・

(・_・)ここまでの調査をまとめて、とても驚いています。
だって・・・
相良頼貞 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%A0%BC%E8%B2%9E

今までは、上記の話は「人吉」での出来事と考えていたのですが、実際には違うようです。

相良頼貞が旧岡原村宮原に建立した「竜興山庭柏寺」ですが・・
「竜興山(龍興山)」とは?と調べたのですが・・
龍興山(りゅうこうざん)
阪府堺市にある寺院「南宗寺」の山号。

南宗寺 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AE%97%E5%AF%BA
南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。山号は龍興山。開山は大林宗套、中興は沢庵宗彭、本尊は釈迦三尊である。茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。古田織部作と伝わる枯山水庭園は、国の名勝に指定されている。
弘治3年(1557年)当時、畿内髄一の実力者に上り詰めた河内飯盛山城主・三好長慶(みよしながよし)が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大徳寺90世の大林宗套に開山を依頼して、創建したものである。創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝える。

(・_・)三好氏?三好氏と言えば「阿波国」
三好氏は西光の子息「近藤親家」とも繋がりがあったような・・・
近藤親家は近藤師高の弟・・・・
それに記述の中に
※稲留某(法名光 ... と稲富氏といえば・・
稲富頼貞・・この方は平河の一族でもありました。
平河家伝授巻に「相良弥三郎頼貞」とあり、この方からの系がその後の「平河系図」にしばらく続いていました・・??おそらく婿であった可能性が・・

それにですね・・
南宗寺(なんしゅうじ)は弘治3年(1557年)に開山。
旧岡原村宮原の竜興山(龍興山)庭柏寺は享禄二年(1529年)に建立。

あれっ??年代が・・
何だか「ぐにゅ〜〜りぃ〜〜」と繋がっているような気が・・
ましてや、この舞台は旧岡原村宮原・・祖母の実家「平川」が・・?

旧岡原村宮原の竜興山(龍興山)庭柏寺は宮原城の下「堤」と呼ばれる場所の近くであったと言う事ですが・・
実は子供の頃祖母から「堤の側に昔はお寺があったとよ〜」と聞いていました。
もしや・・この「庭柏寺」の事だったのかな??!
稲富頼貞と相良頼貞と年代の違う二人の「頼貞」。この方々の事は以前から気になってはいたのですが・・

そして。もう一つとても気になる記述がありました。
※※・・・を以て相暗まるべき娑卑一に候、恐々諦言八月十五日乾滋(花押)右兵拓佐段義洩の室は原田豊永氏、享禄元年八月十五日卒去、法名庭柏祐意、宮原龍興山庭柏寺がその牒所である。

原田豊永氏とはおそらく「原田郷」の豊永氏。
他の方々の情報を調べていませんので、これから調査致します。

地元と言う事もあり、大変気になります(・_・)

では<(_ _)>
[20]子孫よりさんからのコメント(2014年09月18日 22時18分08秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

あの・・・文字化けしていました(__)

※を以て相暗まるべき娑卑一に候、恐々諦言八月十五日乾滋(花押)右兵拓佐段義洩の室は原田豊永氏、享禄元年八月十五日卒去、法名庭柏祐意、宮原龍興山庭柏寺がその牒所である。
「右兵拓佐段義洩の室は原田豊永氏」
この記述は
「義滋(相良)の室は原田郷豊永氏の娘」という意味で・・・
すなわち、旧岡原村宮原の「宮原龍興山庭柏寺」を墓所とされている方は
「相良義滋」の室。法名庭柏祐意 という方でございます。

でも・・・すでにお寺は、明治維新の際に廃寺されました・・
その場所はどうなっているのでしょうか・・
何だか、とても心配です。

周囲には「宮原」の先祖代々の墓所があります。(歴代宮原城当主も含む)
そう言えば・・・
先祖代々のお墓の中に
寛永十二年(1635年) 宮原十兵衛 菩提 心涼祐傳禅定門 三月二十八日 宮原谷中 敬白
というお墓がありまして、人吉中尾墓地にも同じ戒名の
宮原 犬童十兵衛 城主
というお墓があります。
求麻郷土研究会発行の「郷土」には調査の結果七代「公久」と判明とありました。

でも、何故?「犬童」と・・?

人吉中尾墓地・・中尾・・あれっ?なかお?????

先日、コメントした犬童五兵衛の弟「平河将親」の子「平河久貞」
平河喜左衛門久貞の法名は「定厳浄慧中尾」

平河を新たに継いだ弟の平河紀治(平河庄七)の法名は樹林政道 墓中尾
平河喜左衛門久貞の妻は「宮原権左衛門嫡女」

あれっ?????????
何だか、お寺を調べていたら、いつの間にか「平河」の一族(親族)と宮原の関係に繋がってきているような・・・?

私、球磨郡の実家に帰りましたら、先祖代々のお墓を大事に致します(__)

それと・・・
かなり以前にお話しましたが、実家の敷地内にかなり以前(数百年前)のお墓が数基あり、何方のお墓か解らないとコメント致しましたが・・
もちろん、今は、父がきちんとお祀りさせて頂いています。
正月に帰省した時に、お参りしながら、戒名を見たのですが、女性のお墓が2基。大きなおそらく男性のお墓は、字が完全に消えていました。

女性のお墓は「享禄」だったのをしっかり、おぼえているのです。
写真を撮ろうかと考えたのですが、父が「ダメ」と言ったのでやめました。

ものすごく、気になります。
「宮原」のお墓ではないとは聞いています。
それと・・何故、実家の敷地内にお墓があるのか・・?
きっと、祖父が中国から帰って来た時に、宮原の土地に家を建てた際には、お墓はあったのだと思います。
一応、実家の敷地は、かなり広いので・・(何もありませんが、敷地だけは・・・(__))
子供の頃、祖母に「ここには昔・・」と言われて「なになに??」と聞いたら、
「ううん(ー_ー)!!他に家があったと・・」
と言っていましたが・・ものすごく気になってきました(@_@。

私、実家に戻ったら、かなり忙しくなりそうです。(痛感致しました(__))
では<(_ _)>
[21]白石さんからのコメント(2014年09月19日 06時28分31秒 ) パスワード

おはようございます。
真言宗
主人の家の宗派を調べていたら(何せ姑は舅の実家には行かなかった人
で、宗派もわからなくしていて 自分の家のお寺に夫婦の墓を作って、だから 宗派も変わっているのですが )

主人の方は 最近の先祖まで 三つ お寺を変わり 皆 「古儀真言宗仁和寺御室派」でした。
その前(最初が宗派不明です。ただ 真言宗は密教で 昔はあまり宗派をかえなかったのでは と 思うので 最初も 真言宗だったのでは と)

真言宗は 一度途絶えて 復活した と 聞いていますが。
しん
主人の家の人から 復活したときに 墓から 拓本をとっておいた と いうことで ご先祖様のことを 知りましたが、やはり 初めの方は 昔は自然石だったということで 男 女としか わかりません。かろうじて 年などが わかっているようです。

系図?らしきものを 教えていただいたことがあります。
主人の方も嫡流ではないのですが 後は 舅が大学の先生に調べていただいたということで

信州篠ノ井に戦敗して 作州にのがれ 森候に仕え 小早川に仕え・・・
秀吉の頃 挑戦に渡海した人もいたようです。
信州松本藩士戸田家家臣に いるそうです。

古儀真言宗は 宇多天皇の信じた宗派です。

大阪の茨城市の総持寺は 中興の祖に 花山天皇。
お寺は 藤原道長の母の祖父・藤原山陰に関与していて 一条天皇の勅願ところです。

この 山陰でつながってくるのが 伊達氏だったと・・・

ところで
 横浜・鶴見区にも曹洞宗大本山の”総持寺”があるが、当寺は高野山真言宗で、藤原氏の氏寺である。
と書かれたのを 見ました。

ここは 聖子ちゃんの お寺だと前に知っていました。

今は 見ることができるかどうか? 毛利氏の名前も出ているブログがあったのです。
毛利氏は 興正寺にゆかりしていると 思っていたのですが・・・

とにかく
遍照寺は 真言宗。
なら 祖先をたどるとき 他の宗派にも もしかしたら ですが 変わっていたりして 他に ご先祖様の名前がでたりする 可能性もあるかも ・・・


[22]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月19日 20時33分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>>横浜・鶴見区にも曹洞宗大本山の”総持寺”があるが、当寺は高野山真言宗で、藤原氏の氏寺である。
と書かれたのを 見ました。
 
 
総持寺は行基の開創で真言宗に属したが、元亨元年(1321)曹洞宗に改宗。
曹洞宗は真言宗に比べれば新興宗教だからね。
また大名も複数の宗派に属しているものもかなりある。
夫人が別宗派に帰依という例もある。
大名の宗旨については下記URL参照のこと。

http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/daimyou_religion.htm
[23]子孫よりさんからのコメント(2014年09月19日 22時10分33秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます(__)(^・^)

父に確認したのですが・・・
昨日お話した、平川の系が残っている免田のお寺は「曹洞宗」のお寺でした。

どういう経緯かは、私では解らないのですが、旧岡原村宮原から、明治に変わって免田に移られたとの事です。

そして、その後、深水の高祖父の時代(もっと前の時代かも・)に浄土真宗の僧の方を招いて、土地を提供して、お寺を建立したようです。

移られた曹洞宗のお寺があった場所は、宮原龍興山庭柏寺と同じ場所です。

平川の叔父(みなみのじいちゃん)が亡くなる前に、免田のお寺に、先祖の過去帳を見に行きたいのだけど・・と父に言われていたそうですが、急激に様態が悪化したので、一緒に行く事が出来なかった・・と言ってました。

父には、私が球磨に戻ったら、「一緒に行こうね」と話ました。

宮原龍興山庭柏寺は曹洞宗から後に黄檗宗に変わったそうです。
廃寺の時期がいつだったのかは、未だ確認していません。

そして、「宮原」も平川と同じく曹洞宗でした。

地区のお寺が浄土真宗に変わった事により、平川も宮原も改宗したのでは?と思います。(何せ、深水家が建立しましたので・・)

ですから・・なおのこと、祖母の御札は不思議なのですよね・・??
ちなみに、宮原観音堂は「天台宗」です。室町時代に建立されています。

宮原龍興山庭柏寺を創建した相良頼貞の時代は安土桃山時代なので、次々と変わっていったのでしょう。

お隣の旧岡原村岡本には、
八代,高田の竜成寺の僧永空は岡本の永空寺を開く。本尊は竜成寺の旧本尊。とありました。
八代の竜成寺は相良長毎の墓所があるお寺です。竜成寺が廃寺となり、僧永空は相良長毎の位牌を保護して、旧岡原村の岡本に来られたそうです。

改訂・補九州相良の寺院資料 より
「僧永空は湛慶作という同寺の本尊聖観音像と人吉城第十一一代相良長毎の位牌を守護して岡原.岡本に移り、永空寺を開く。」
「その後、永空寺は衰亡したので、宮原庭柏寺の僧行摧が再興し、岡本城下に移して本秀院と改称。」
と言う事です。

しかし本尊聖観音像が湛慶作であり、岡本の永空寺に・・・
今は、田んぼと山と川の、本当にのどかな田舎ですが、当時は何だかですね・・何か想像がつかないのが本音です。

宮原庭柏寺があった場所ですが、堤とよばれる池があり、その周辺は庭園のようになっていました。
岡原霧島神社の裏から山を少し登った所で、子供の頃に行った時は、突然、別世界が広がったような物語の世界にいるような感じでした。
私は、全く怖くなくて、違う時代に来たかのようにワクワクしたのですが、一緒に行った友達は「怖いから早く帰ろう(@_@。」と言っていました。
すぐ近くに宮原の先祖代々の墓所があります。

話を祖母の御札に戻しますが、遍照寺は 真言宗。
平川の先祖・それも平安とか鎌倉の時代の先祖の信仰に関係しているのかな?とふと思いました。

お寺様と言えば、鹿児島から来られていたお寺様は「大口」のお寺様でした。
父に今日、ちゃんと確認しています(__)
大口と言えば、「馬関田庄預所平河師里」であって、大口とはお隣どうし。

何かの由縁がある可能性が・・・推測ですが・・
もしかしたら・・祖母の本当の年齢は1000歳を超えていたりして・・( 一一) ウソです。ごめんなさいばあちゃん(__)

寺社関係の調査はまだまだ続けていきます。
では<(_ _)>(^・^)
[24]子孫よりさんからのコメント(2014年09月19日 22時51分14秒 ) パスワード

追記

旧岡原村の宮原地区や岡本地区の寺社を調べていて、偶然見つけた情報です。

宮原城の麓にあった中島霧島神社についてです
球磨郡誌 - 63 ページ
祭神應神天皇は同村落の下鎮座で八幡社と稱神社の五神は、同村宮原字片土山鎮座切畑神社と稱してゐたが右を本社へ 明治四十三年には元村社であった大字宮原宇中島鎮座の中島霧島神社を合併して現地に移轉し・・・
中島霧島神社、神主尾方三・左衛門惟基、神託に從つて此に来たり之を創立したものである。...

その他にも
熊本県神社誌 - 262 ページ
尾方惟基中島霧島神社及大炊霣島神社を創立。
椎葉貞^横瀬宣任一天和一一年 I 大神宮(伊勢本)熊野座神社菅原神社诹訪神社
岡原町宮原一 11 五四岡原町宮原六三七岡原村岡本一七八四岡原村岡本一一八八二岡 ...

※中島霧島神社、神主尾方三・左衛門惟基、神託に従つて此に来たり之を創立したものである。

※椎葉貞■・横瀬宣任・・・大神宮(伊勢本)熊野座神社菅原神社諏訪神社
椎葉・横瀬・・あれっ??
大神宮(伊勢本)熊野座神社菅原神社諏訪神社・・旧岡原村の神社です。

(・_・)尾方三・左衛門惟基という方が宮原に来られて中島霧島神社を創立・・
尾形惟基??創立の年代が解らないのですが・・
(神託に従つて此に来たり・・・)

まだまだ、寺社の調査は続けなければならないようです(-_-)
<(_ _)>
[25]子孫よりさんからのコメント(2014年09月19日 22時53分15秒 ) パスワード

追記
文字が・・・(@_@。
「尾形三郎左衛門惟基」でございます。
[26]子孫よりさんからのコメント(2014年09月20日 01時27分12秒 ) パスワード

皆様(^・^)解りました\(◎o◎)/!

旧岡原村、宮原と岡本にあった(今は、合祀して岡原霧島神社になっていますが・・)神社の謎が!!

旧岡原村宮原(宮原城麓付近)にあった「中島霧島神社」

そして
旧岡原村岡本にあった「大炊霧島神社」

双方の神社、創建は大同元年九月です。(806年9月)

すなわち青井阿蘇神社と同じ時期と言う事になります。

楼門の左手にある案内板の内容がサイトに出ていました。
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/940bfd509b46080ba34e78d425c67262
青井阿蘇神社由緒
鎮座地 熊本県人吉市上青井町
御祭神 建磐竜命 阿蘇都比売神 国造速瓶玉神
当神社は 第五十一代平城天皇の大同元年 肥後国阿蘇郡鎮座阿蘇神社の御分霊を阿蘇の神主尾方惟基比所に勧進すと、後鳥羽天皇建久九年相良氏当郡に封ぜられ 其の後 慶長二年二百五十余社の宗社と定め 神領二百十六石を供莫?し 大宮司をして統括せしむ 祭礼最も荘厳を極め 神社を中心として領内に祭政一致の範を示し 子孫累代其の遺風を守り 明治初年に及ぶ 爾来当地方の一の宮として郷民深く尊崇す。

こちらにも「神主尾方惟基」と書かれています。
熊本県神社誌 より
尾方惟基中島霧島神社及大炊霧島神社を創立。

と言う事は・・・・
旧岡原村の「中島霧島神社」と「大炊霧島神社」を創建した尾形惟基とは「大神惟基」と言う事ですか・・・・!。

そう言えば切畑大明神も大同年間創建になっていました・・・

今は、野山と化しているあの場所にそれぞれ、このような由緒のある神社があったとは・・・めちゃくちゃ驚きました。

でも・・
「神託に従つて此に来たり之を創立したものである。」
とは・・・ものすごく興味が湧いてきました。
大同元年は平城天皇の時代です。桓武天皇がお亡くなりになられてすぐですね。

そして・・もうひとつ大変不思議な記述も見つけたのです。
球磨郡誌 - 63 ページと球磨郡誌 - 75 ページに其々
「大同元年九月岡原神社岡原村字調訪.」(諏訪かな?)

岡原神社・・??????
岡原とは岡本と宮原が合併したから岡原ですけど・・・・

もしや・・・?大同元年ですよね・・
@元々、「岡原」という土地は「岡本」と「宮原」を足して古来から呼ばれていた?
または、
A「岡原」という言葉(地名)を作る為に「岡本」と「宮原」という地名が生まれた・・これはちょっと飛躍し過ぎましたが・・

大同元年創建の「岡原神社」という神社が岡原村字諏訪?に鎮座していた??

(-_-)頭がぐるぐるなりそうなので、この事は、おって調査いたします。

なんだろうな・・おそらく殆どの「村民」は大神惟基が創建した「中島霧島神社」と「大炊霧島神社」のお話は知らないと思います。

なにせ・・三池氏が所領していた土地が存在した村なのに、伝承の代わりに、小学校で三池炭坑節を踊るのが通例となっている場所ですから・・(__)
「岡本城」の様々な出来事も殆どの「村民」は知らないのでは・・
(私がその証拠です)
伊勢元に住んでいた「伊勢小太郎」という人物を殆どの人は知らないのでは・・
切畑大明神を再興したのは平頼盛であるとは殆どの人はしらないのでは・・
同じく切畑大明神に源頼朝の曾おばあさま藤原景清公の母上が合祀されていたとは誰も知らないのでは・・
他にも色々・・
だって私はこの年になってやっと勉強して知りましたから・・
うん??もしや知らなかったのは私だけ・・?(ー_ー)!!

これはいかんです(ー_ー)!!
私は、球磨・岡原に戻ったら、何か行動を移さなければいけないような気がします。
(でも・・何をしよう??(@_@。)

と言う事で、今日も数多くの事を勉強致しました。
では<(_ _)>
[27]白石さんからのコメント(2014年09月20日 07時29分35秒 ) パスワード

>同じく切畑大明神に源頼朝の曾おばあさま藤原景清公の母上が合祀されていたとは誰も知らないのでは・・
頼朝の父方でしたかしら・・母方でしたかしら。ごめんなさい。子孫様 わたくし 頭が・・・

でも 頼朝の母違いに源義経・今若・・・この人の子孫が 玉松。
山本 ・・・ いまのところ 言葉つながりだけで 私の母の 実父が出てくる。

山本郡
宮原のご先祖様でしたかしら・・・山本郡をとおって ・・・でしたかしら菊池へ。

私 姉たちから ついじ ついじ と 聞いていたのですけど 
球磨郡誌に ついじというところに四所神社があって そこの 神主みたいな人が 天氏 ・ あべ氏です。
菊池→米良→女性の筋なのか 養子だったのか 天氏へ
というのを 夜 見ました。

もう一度 帰ってから見てみようと 思います。


[28]子孫よりさんからのコメント(2014年09月20日 10時26分07秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、コメントありがとうございました(^・^)

「切畑大明神に源頼朝の曾おばあさま藤原景清公の母上が合祀されていた」
とは・・
源頼朝の父「源義朝」の母は藤原忠清の娘。
すなわち、藤原景清(平景清)の姉弟です。

と言う事で「源頼朝の曾おばあさまは藤原景清公の母上」となるわけです。
ちなみに
あさぎり町免田永才には景清の母、もしくは恋人と呼ばれる「虎御前」のお墓があります。

ところで・・・
白石様のコメントで私、気が付きました!

そうか「藤原景清公の母は源義経の曾祖母様にもなられるのだ!!」と。
(こちらの方に頭が回っていませんでした。)
ありがとうございます。

切畑大明神があったのは、旧岡原村宮原切畑地区。すなわち久米郷宮原。
切畑大明神に藤原景清公の母上が鎌倉時代に合祀。(合祀を行った人物はまだ解りませんが・)
この場所は、宮原の先祖「橘薩摩」の所領。(切畑城という外城もありました。宮原城から450メートルしか離れていませんが)

橘公長と橘公業は源平の戦いの際「源義経」と行動していたのでした・・
藤原景清公の母は源義経の曾祖母でもあったのでした・・

うん?そういえば・・
屋島の戦いの直前に四国に上陸した源義経の道案内をした近藤道家。
近藤道家が源義経に初めて会った時に、近藤道家の出自(西光の一族)を義経に説明したのは橘公長と公業。

私の頭の中のパズルがキチンと収まりました。(・_・)ハイ。

「山本郡」についてですが
平河の先祖「良峯安則(平河安則)」です。
良峯安則が菊池経頼を頼って下向してきて、山本郡楠原に住んだのです。
安則居住の跡には後世、鹿子木氏が築城をして居城しています。(鹿子木氏の本拠地です)

平河は「師康」「師澄」「安則」と名が出てきますが、「平河」の名を継いだ縁戚関係と言う事も十分考えられますので・・

今朝は、白石様のコメントのお陰で、頭を柔軟にして別の視点を持つ事が出来ました。
ありがとうございました<(_ _)>(^・^)
[29]子孫よりさんからのコメント(2014年09月21日 01時18分25秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)
(かなり夜中になっていますが・・)

昨日コメントした
熊本県神社誌 より
尾方惟基中島霧島神社及大炊霧島神社を創立。(創建は大同元年九月)
何故か、私にはこちらの二社が、対・ペアの様な気がしてなりませんでした。

そして、中島・大炊という言葉が私の無知識の為に非常に気になり調べました。

「大炊」(大炊寮)とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%82%8A%E5%AF%AE
大炊寮(おおいりょう)とは日本の律令制において宮内省に属する機関の一つである。大炊とは大飯炊(おおいかしぐ)の略称といわれる。「おほい(おおい)つかさ」等とも言う。

宮中で行われる仏事、神事の供物、宴会での宴席の準備、管理を分掌する。また、御料地の管理も行った。平安時代以降、頭は中原氏が世襲した。
※中原氏が世襲

供御院[編集]
大炊寮の史生が「供御院預」として監督した。供御とは天皇の食事であり、天皇、上皇、東宮、中宮など皇族の食事を調理すると共に食材を準備、管理する。

上記の事が記述されていたのですが・・・
まだまだ、いつもの感が騒いでなりません。

そして、こちらの情報を見つけました。
志知中島 大炊神社
http://awajinokuni.web.fc2.com/mihara/shichinakashima-ooi.html

淳仁天皇が、天平宝字八年(七六四年)十月九日、政治の争いの犠牲となって皇位を廃され、親王の位を賜って「淡路の公」という名で、御母当麻夫人とともに淡路島に配流され、ここ中島大屋所に住まわれたといわれています。配流された翌年の天平神護元年(七六五年)十月二十三日に、この地でなくなられ御遺体はここ天皇塚に埋葬されたと伝えられています。住民は今も、霜よけの「こも」を編み、埋葬場所と伝えられる杉の木の根本にかけ、天皇の霊をお慰めしています。天皇塚の北方に並んで現在、淳仁天皇をお祀りした大炊神社が造営されています。

※淳仁天皇がお住まいになった「中島」大屋所
※淳仁天皇をお祀りした「大炊神社」
※淳仁天皇がお亡くなりになられたのは七六五年。

旧岡原村宮原に中島霧島神社、そして岡本に大炊霧島神社が創建されたのは「大同元年九月」(806年9月)
淳仁天皇がお亡くなりになられて41年後です。

淡路と球磨郡旧久米郷宮原そして岡本。
全く、接点のない場所のようにありますが、二社の創建が41年後と言う事は、かなり近いのでは?と考えます。
そして、何故?この場所に?
尾方惟基(大神惟基)は「神託に従つて此に来たり之を創立したものである。」

おそらく、今までの調査の中で最も身体の中から「知りたい!」と湧きあがる気持ちが・・尋常ではない程、心がざわめいています。

淳仁天皇 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87

淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。
※諱は大炊(おおい)

人物[編集]
天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。母は当麻真人山背。だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。
聖武天皇の遺言によって立太子したが、天平勝宝9年3月29日(757年4月22日)に廃された道祖王に代わって、未婚の女帝・孝謙天皇により4日後の同年4月4日(4月26日)に立太子された。この立太子は、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙によるものだった。大炊王は仲麻呂の子・真従の未亡人である粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていた。
※藤原仲麻呂は藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の次男。

践祚[編集]
天平宝字2年(758年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。
だが皇位に就いたのは良かったが、政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、また仲麻呂の後見人である光明皇后(藤原光明子)が強い影響力を持っていた。政策は、唐で安禄山の乱が発生した為、九州の警備を強化したが、仲麻呂が推進した新羅討伐計画を許可し、官位も唐風の名称に改めるなどした。また、仲麻呂主導の政権は平城宮の改築を実施し、それに伴って天皇は小治田宮や保良宮に行幸して事実上の仮の宮殿としている。
ところが、保良宮滞在中に孝謙上皇が弓削道鏡を重用しだしたことから不和となっていく。そして、淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡との関係について諫言したことを契機にして両者の関係は対立するようになっていく。天平宝字6年6月3日(762年6月28日)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。また、佐藤長門は孝謙上皇と淳仁天皇の対立の本質を天武天皇皇統でも傍流(舎人親王系)の天皇を自己の「臣」とみなす上皇(『続日本紀』天平宝字8年10月壬申条)と自己を孝謙天皇の皇太子ではなく「聖武天皇乃皇太子」として即位したとみなす天皇(『続日本紀』天平宝字3年6月庚戌条)の間に発生した王統及び皇位継承に関する認識の差として捉え、たとえ仲麻呂や道鏡がいなかったとしても2人の対立は避けられなかったと指摘する[1]。

追放[編集]
天平宝字8年(764年)9月に恵美押勝の乱が起きた後も、最大の後見人であるはずの仲麻呂と行動をともにすることは無かった。その原因については既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている(仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた)。
乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、親王の待遇をもって淡路国に流される。廃位と同時に、上皇は重祚して称徳天皇となった。一方先帝である淳仁天皇は、廃位のため太上天皇号(上皇)を奉られることはなかった。だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力もあって、このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、翌天平神護元年(765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じている。この年の10月、逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない[2]。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。

(・_・)
※称徳天皇は、翌天平神護元年(765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じている。
※佐伯助とは コトバンクより
http://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E5%8A%A9
?−778 奈良時代の官吏。
天平宝字(てんぴょうほうじ)8年淡路守(あわじのかみ)となり,同国に配流(はいる)となった淳仁(じゅんにん)天皇を監視した。山背(やましろの)守,兵部大輔(ひょうぶのたいふ),肥後守を歴任。従四位下。宝亀9年11月4日死去。
(・_・)肥後守だったのですね・・
もう一つ補足します。
※年号「宝亀」について コトバンクより
http://kotobank.jp/word/%E5%AE%9D%E4%BA%80
ほうき【宝亀】
日本の元号(年号)。奈良時代の770年から781年まで、光仁(こうにん)天皇の代の元号。前元号は神護景雲(じんごけいうん)。次元号は天応(てんおう)。770年(神護景雲4)10月1日改元。光仁天皇の即位に際して肥後国から白亀が献上され、これを瑞祥として改元が行われた(代始、祥瑞改元)。

淳仁天皇について、ウィキからの転記を続けます(__)

系譜
父:舎人親王(676-735) - 天武天皇皇子
母:当麻山背(?-?) - 当麻老女
夫人:粟田諸姉(?-?) - 元藤原真従室
母不明
安倍内親王(?-?) - 伊勢斎宮、のち磯部王(桑田王王子)妃
石見王(?-?) - 高階峯緒(峯緒王、高階氏祖)父

陵(みささぎ)は、兵庫県南あわじ市賀集にある淡路陵(あわじのみささぎ)に治定されている。公式形式は山形。
淡路国三原郡(現在の兵庫県南あわじ市の天王森丘とされる)に造営された。宝亀3年(772年)光仁天皇は僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めた。宝亀9年3月23日(778年4月24日)に山陵扱いとされた。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
諡号[編集]
明治3年7月24日(1870年8月20日)に、弘文天皇(大友皇子)・仲恭天皇と共に明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られた。

(・_・)かなり長い転記となりました。(__)

淳仁天皇の諱である「大炊」。
大炊霧島神社。
淳仁天皇がお住まいになった淡路の「中島」。
中島霧島神社。

創建したのは尾形惟基(大神惟基)

淳仁天皇を淡路で監視?していた「佐伯助」

どのような繋がりで旧岡原村の宮原と岡本に神社は創建されたのか・・?
何故、この場所が選ばれたのか?
御神託とは何か?

そして石見王(?-?) - 高階峯緒(峯緒王、高階氏祖)父
高階峯緒は855年肥後守となりました。

高階氏・・・信西へ繋がりますね・・・

全国の大炊神社を調べたのですが、全て、淳仁天皇に所縁のある土地で、私の勉強不足かもしれませんが、沢山の数ではないような・・

今まで、故郷の事について全く知らなかった自分が情けないです。

これからは、地元の事をしっかり勉強致します。
では<(_ _)>
[30]子孫よりさんからのコメント(2014年09月21日 12時59分30秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

故郷の寺社に関する事を調べていて、偶然、曾祖母の実家「深水」の観音様について記述がある事に気が付きました。

故郷では私の実家「宮原」と「平川」「椎葉」「深水」「黒木」「深松」は同じ宮麓地区であり、現在もがっちりとスクラムを組んで、親戚関係が強く結ばれているのですが(平川繋がり)其々の家に何故か「観音様」があります。

深水には同級生のふた従兄もいましたので、頻繁に遊びに行っていました。
遊びに行くとまず最初に仏壇の仏様にお参りをしていました。(親戚には同年代の子供が多かったのですが、どこの家に行っても、皆其々、同じようにお参りをするのが当たり前となっていました)

観音様には、祖母と一緒に遊びに行った時だけ、お参りする事が出来ました。

その観音様の記述が
改訂増補九州相良の寺院資料 九州相良の寺院資料 他書籍に載っていたのです。

(叔父の名前)氏宅 地蔵堂(高千尾は高千穂のことか)月日高千尾庄川曲村観音寺常住鐘応永三十年癸卯〔一四一三一)・・・
※高千尾庄川曲村観音寺常住鐘
※応永三十年癸卯(1413年)

他の記述には
球磨郡岡原村宮麓、(叔父の名前)氏宅地蔵堂。永享五年〈一四三三)径^センチ。宮崎県高千穂から移動。

※観音様は高千尾(高千穂?)庄 川曲村 観音寺 から移動されて来られたようです。

「高千尾」は「高千穂」でいいのかしら?
川曲村?高千尾(高千穂)に川曲村を探したのですが、まだ見つける事が出来ません。(調査不足かな・・)
応永三十年癸卯とは1423年です。
球磨に観音様が移動されたのは永享五年(1433年)

(・_・)それ程の歴史のある観音様とは知りませんでした(@_@。

だから、祖母と一緒の時にしかお参りする事が出来なかったのですね・・
(私のような、やんちゃ娘は・・・危ないです(ー_ー)!!)

深水観音堂とも関係があるのか見たのですが・・
http://www.hitoyoshi-hikari.com/rensai_kannon/vol16/16.html

『深水・長命寺』とも呼ばれ、永正二年(1505年)に建てられ、天文四年(1535年)に再興されたという。
ご本尊は聖観音座像で、境内には古い五輪塔や板碑型の墓碑が並び、天瑞和尚の墓もある。

http://www.vill.sagara.lg.jp/index.php?type=article&mode=articleView&articleid=900&categoryid=19

永正二年(1505年)に建てられ、・・・

おやっ?・・?

もう少し調査してみます。

曾祖母の実家の御堂には、もう数体の観音様がありましたが、心ない人がいまして・・
ですから、今は厳重に管理されています。

所で、私の同年代の親戚は皆同じだと思うのですが
先祖についての詳しい内容は、あまり聞かされていませんが、先祖への感謝の気持ちはしっかりと受け継いで参りました(__)

では(^・^)
[31]白石さんからのコメント(2014年09月21日 15時11分42秒 ) パスワード

こんにちは
芦原様
永田(芦原)聖観音 永田(芦原)聖観音 所在地 臨済宗「聖泉院」の境内にある本尊はもとこの寺の末寺「施無畏院」から、明治時代に移されました。元の所在地は★大村鬼木の芦原でしたので、今でも「芦原の観音さん」呼び親しまれているのです。ここの本尊は合掌をしておられますが、それは手を合わせるあなたを拝んでいてくださっているのです

永田
製材所がありまして 姉も昔 勤めさせていただき 結婚に際して 着物なども作っていただいたと よくしていただいたことに感謝していました。

観音様を見ていて
http://www.hotarunomura.com/yamae-guidebook/historywalk.html
上のような記述を見つけました。
大村は人吉鬼木町あたりを言っていると思います。
ここらに 北条の勢力が昔ありました。わたくしが 過去に とくそう に 読める と書いたのは これと 小山を 意識して書いたのです。

ここに 球磨郡誌を読めば 菊池が相良氏家老になったことが 書いてあります。

大村横穴古墳群があるところ 菊池文書があった。

過去に 私が気にしている 目のことで お話をしていた人が ここの鬼太鼓のことを 書いておられました。 
[32]白石さんからのコメント(2014年09月21日 15時14分45秒 ) パスワード

鬼太鼓ではありません。
文字が 送る瞬間に化けるようです。

鬼木の太鼓おどり です。
[33]子孫よりさんからのコメント(2014年09月21日 17時38分52秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(__)(^・^)

永田(芦原)ですね。地名ですかね?

脱線しますが・・・

日本の苗字七千傑様、白石様
秋になりましたね。秋茄子の季節です。

沢山の茄子を頂きました。何処産の茄子かは解りません。
お礼状を書いた方が良いでしょうね。

肌寒くなりましたのでお風邪などひかれないように
お身体には十分お気を付け下さい。

追記
謹上という言葉は使った方がいいのでしょうか?
何もわからないもので・・

では(__)(^・^)
[34]白石さんからのコメント(2014年09月23日 01時35分00秒 ) パスワード

こんばんは
謹上
う〜ん 市販の 書き方まで 親切に書いてあるのを使うので ・・・
わかりません。お役に立てなくて・・・

ネットで 曹洞宗の方が 写真付きで 祝い事のことで 書いていますね。

お手紙
これも う〜ん
普通に ありがとうございました は いただいて 一週間以内くらいに出すと習いましたけど アテナには ただ 住所氏名だけ。
ある ずうっと 上の立場の方と接する機会のある方から伺った話ですが ああいう方は お手紙はかかれないのだ と いうことでした。

お電話で話されるのだと ・・・あとに残ると困るからね・・・と。
私はそういう階層におりませんので これも わかりません。

余り格式ばって 出費も見栄を張って あとが つづかないではどうしようもないので、自分がこれまで生きてきた中でできる範囲に体裁をしたらよいのでは と 思います。相手に不快を与えない程度に。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
天孫人種6000年史が 手に入らないので ネットで何とか見れないか?と思って検索を続けていたら いくつか 表題が出てきました。

そして
バビロニアから移住してきた我らの祖先は、 鹿児島に建国し、大隅国一宮である鹿児島神宮が太古の都であるとした

鹿児島神宮に呉の子孫という松野氏が関与しているのですね。
鹿児島神宮には 天孫ににぎの剣がささっているのですね。

本を書かれた三島氏は伊予の三島神社の人だけど
大阪高槻の三島鴨神社が全国の三島社の本だという。(高槻教育委員会)
大山積神は仁徳の世に百済から渡来して津の国に坐したという。この神は百済武寧王(しま王)

そして半島で発見された武寧王の墓からはいろいろ学ぶものがありました。
★★★武寧王の墓のつくりは中国江南地方に見られる。★★★松野連の遠祖・呉の夫差の子「忌」が、生まれ育った江南地方

副葬品は黄金製のベルト、太刀、黄金のかんざし、薬師寺塔の水煙を思わせる頭飾り、棺の中には黄金で飾られた頭台と足台などである。それぞれ素晴らしい装飾性で有名になった。以下のパネル写真は、この資料館の壁に飾ってある副葬品の写真だ
★★★日本の古墳から出土したものが、驚くほどそっくりなのは大いに考えさせられる。

この誌石が出土したことで、武寧王陵は三国時代の王陵のうち被葬者の身元を確認できる唯一の墓となった。たとえ省略されているとはいえ、「三国史記」から脱落していた事実を補充する事ができ、買地券からわかるように、百済人の思想研究に重要な端緒となった。この誌石2枚が古墳の築造年代をはっきりと示してくれたために、王陵出土遺物は、三国時代の考古学研究、特に編年研究の基準史料となっている。

墓室は磚(せん)を積み上げて作ってあり、アーチ型の天井である。ここに、槙の木でできた王と王妃の柩が安置されていた。
日本語の説明板には無かったが、英語版の方に「この柩は日本の近畿地方南部の Koya-Mountain でとれた槙の木で作られていた。」となっている。コウヤマキは日本にしか生育せず、この柩の材料は日本製ということになる。武寧王と日本の深い関係が窺える。
朝鮮半島からもたらされた鉄の見返りに、日本から何が運ばれたのか。古代史最大級の謎に、新たな仮説が登場した。
・・・ 木材だ。韓国南部の古墳で昨年、朝鮮半島では自生しないクスノキの棺が発見されたからだ
木棺が見つかったのは、慶尚南道昌寧郡の松●洞古墳群(全23基)の7号墳(5世紀末〜6世紀初頭)。当時一帯は
★★★加耶(かや)と呼ばれ、小さな国がいくつもあり、7号墳は、そうした国の支配者のものとみられる。
百済中期の都、熊津は錦江の中流に臨み、今の忠清南道公州にあたる。
★★★百済の王墓で被葬者が特定できるのはここしかない。

「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到。(癸卯年=523年)乙巳年八月癸酉朔十二日
甲申、安登冠大墓。(乙巳年=525年)立志如左。 」

武寧王の墓は いわゆるかまぼこ型の部屋である。奥の北壁と側壁にはそれぞれ
龕(がん:壁に突き出た小さなでっぱり)を設け、磁器の灯盞(とうさん:ランプ)を置き、その一つには灯芯の燃えかすが残っていた。この形式の墓室は、朝鮮三国の歴史を通じて他に類例がないが、
中国江南地方に見られる。★★★松野連の遠祖・夫差の子「忌」が、生まれ育った江南地方


もう一神は事代主神 (ことしろぬしのかみ)
事代主神は鴨氏の氏神とされ、当地に鴨氏の進出が背景にあるとされる[4]。『日本書紀』神代巻には、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝橛耳の娘・三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。三島溝橛耳一族の氏神として、当社近くには溝咋神社が祀られている。鴨氏→平清盛の母の筋。白河天皇との間の子が清盛で平忠盛が育てた。

本には関係ないけど
ユダ族とバビロニアの関係
ユダ族等の残り2支族は、エルサレムを都として南ユダ王国を建国した後、紀元前586年 に新バビロニアに滅ぼされた。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となった

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下は先に書いたことの繰り返しだけど 切り取って貼り付けるとおかしくなるので そのままにします。
高槻の三島鴨神社
大阪高槻の三島鴨神社は
今城塚古墳や仏教伝来の約200年前、石清水八幡宮や奈良春日大社の約400年前に 鎮座された、

この神社は 全国の三島社の元ともいわれる。

鴨神社 (高槻市) - Wikipedia
祭神について『神社明細帳』等の諸書では大山積神とされるが、後述のように当社を式 内社・三島鴨神社とみる説では、祭神は鴨氏の祖神とみられる。また、当地は三島県主 が勢力を持っていた所であることから、その祖神を祭神とみる説もある。

『日本書紀』神代巻には、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝橛耳の娘・三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。三島溝橛耳一族の氏神として、当社近くには溝咋神社が祀られている。

『伊予国風土記』逸文によれば、伊予国乎知郡(越智郡)御島に坐す大山積神(大山祇命に同じ)は、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座していたという

贏姓 高丘系図1にある女子が百済蓋鹵王妃になり その子が武寧王(しま王)。
その子孫に高野新笠 桓武天皇御生母。

桓武天皇と結婚するのが 百済王姓 三松系図にのる 百済永継の女子(太田氏は飛鳥部奈止丸女子)。

ーネットよりー

この人と藤原内麻呂の間の藤原冬嗣の六男に藤原良門がいて、この人の次男に藤原高藤がいて、この人の娘に藤原胤子がいて、この人が宇多天皇との間に生んだ子が醍醐天皇で、これが今上天皇まで繋がってるわけ。あと清和源氏にも繋がってるから。つまり源頼朝にも繋がってるわけ。

初めの頃 天皇家に血が入っているかもしれないと書いてありましたよね。

とんでもなく長くなりました。
6000年史 6000年史と思って ネット検索を続けていたら こうなりました。





 

[35]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月23日 02時25分10秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>6000年史 6000年史と思って ネット検索を続けていたら こうなりました。
 
断片情報の様で、役に立ちませんね。
世の中ネットでは入手不可の情報が沢山あります。
ほぼ焚書同様なので、こういう本は容易には手に入らない。
出たらすかさず購入しないと困難。
国会図書館の特別閲覧室なら可能かも知れないが、旅費と時間を考えたら?
まだ、この本は手に入る方でしょう。
 

下記の補訂本が有る様だから、気が向いたら購入すべし。
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E8%AA%AC%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E4%BA%A4%E6%B5%81%E5%8F%B2-1974%E5%B9%B4-%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%AB%E5%AD%A6%E4%BC%9A/dp/B000J9H18Q/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1411405694&sr=8-1&keywords=%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E6%B8%A1%E6%9D%A5
[36]子孫よりさんからのコメント(2014年09月23日 08時46分53秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様、御礼状への回答、ありがとうございます。
何せ、私なにも解らないものでとても参考になりました。

ただ、頂いた茄子の産地が気になっていたのですが、
もしかしたら、日向茄子かな?とも思いまして。
球磨産の茄子でしたら、あらたまったお礼状を出しても、相手の方が恐縮されるかな?とも。

でも、手紙は難しいですね(__)

日本の苗字七千傑様、お伺いした書籍。ぜひ読みたいと思います。
ご教示頂きまして、ありがとうございます。

白石様から頂いたご教示にありました
「朝鮮半島からもたらされた鉄の見返りに、日本から何が運ばれたのか。古代史最大級の謎に、新たな仮説が登場した。
・・・ 木材だ。韓国南部の古墳で昨年、朝鮮半島では自生しないクスノキの棺が発見されたからだ」

※クスノキは朝鮮半島では自生しないと言う事は全く知りませんでした。
木材の輸出に関してですが、平安時代において、大宰府からの輸出品の中に日田や球磨で採取された木材が含まれていた事は以前記述を読んだ事があります。

その他、「硫黄」は非常に喜ばれたという事でした。
鉱物(金・銀・亜鉛など)も輸出の対象品でした。

輸出とは別になりますが、税の対象として「紙」があったようです。

美濃などが、紙(和紙)の生産では有名ですが、古来の「紙(和紙)」についての記述で
美濃紙: その歴史と展開 - 120 ページ より
保延六(一一四十)年分に「球磨紙」五〇帖、翌七(一一四一)年分に紙三〇帖、保延三(一ニニ七)年から康治^肥後康治元(一・・・
「紙綿多」とされたこの国の紙は、早い時期には球磨紙といわれていたのであろう。
球磨紙での年貢(納税)について阿蘇家文書に記録が残っているようです。

1141年・・・あれっ?!

所で、実は昨日、娘とM田さんと3人で英彦山神宮にお参りに伺いました。

最初は大任町の道の駅で野菜を買うのがメインのドライブだったのですが、突然M田さんが娘に「英彦山に行った事ある?」と聞いて娘が「ないです」と答えると、じゃあ英彦山にいこう!と言う事になりました。(私は何度か伺っています)

英彦山神宮は田川郡添田町のかなり標高の高い場所にあります。
麓からロープウェイを利用したのですが、山々が重なり合って見えそれは大変素晴らしい景色でした。
景色を楽しんでいた所、ふと、何かと視線が合いまして、よく見ると、それは鹿さんでした。
私は「あ〜〜〜〜っ!!鹿!鹿!鹿さん!」」と大声で叫んでしまいました。
到着し、ロープウェイを降りる際に、係の方が「ここで、鹿を見る方は、幸運な方と言われているのですよ」と教えて下さって、とても嬉しかったです。

ロープウェイの駅から少し山を登り、英彦山神宮に到着いたしました。
http://hikosanjingu.or.jp/

お参りをさせて頂き、境内を散策していますと、宮司様が外に出てこられて、英彦山神宮の由来などをご説明して下さいました。

過去数回伺った時には、宮司様とお会いする事は無かったので、とてもありがたくお話を伺いました。

そして・・
私はふと英彦山領であった釈迦岳に名跡を残した平河師澄の記述を思い出しまして、意を決して、古文書について伺う事にしました。

すると、宮司様は
「こちらは、大友宗麟そして豊臣秀吉より過去に焼き打ちに遭いました。その際に、古からの文書などは殆ど燃えてしまったのです。ですから、当時の記録が殆ど残っていないのですよ」
「当時最大3800坊の修行僧があり、もしや武器を手にすれば大変な脅威になると考えての事だったのでしょう」
「その後も、何度も様々な襲撃を受け続けてきたのですよ」
とおっしゃいました。

宮司様よりご出身はどちらですか?と聞かれ
「熊本の球磨郡、今はあさぎり町ですが、旧岡原村、昔は久米郷宮原と呼ばれていたようです。」とお伝えすると
「球磨郡ですか!!」と、とても驚いていらっしゃいました。

それから、宮司様より英彦山と鷹についてのお話を伺いました。
英彦山神宮では鷹を神としてお祀りされていると言う事です。
神殿の中の金の鷹も案内して下さいました。
英彦山神宮の神紋についてもご説明を頂きました。
鷹の丸に二引という大変珍しい神紋だと言う事でした。
画像があります。
http://www.genbu.net/data/buzen/hikosan_title.htm

宮司様は、「英彦山には沢山の鷹が飛んでいて、境内にも鷹の羽が沢山空から降りてきますからね(^・^)」と笑っていらっしゃいました。
由来について、英彦山神宮の創建は約3000年前と伺いました。
(文字が無い時代だから、記録としては残っていないけれど、伝承は続いていますとのお話でした)

宮司様は、とてもフランクなお話もして下さいました。
色々お伺いをした後に、池の亀さんと遊んでいた娘(子供みたいですよね)が、私と宮司様の側にまいりまして・・
娘が宮司様にご挨拶をすると
「ま〜あ!!お嬢さん!。あなたはテレビに出る仕事をしなさい!!。テレビに出てじゃんけんせないかん」と・・
私と娘は一瞬「・・・・・?」となりましたら「AKBですよ」と。
もう、その場は大笑いとなりました。
(娘は既婚者なので、AKBはもう無理です・・と)
(あっ!私は独身です!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!との天からの声が・・)

宮司様より、貴重なお時間の中、沢山のお話を、お伺いする事ができまして、本当にありがたく感謝いたしております。

そして!!
ロープウェイの駅までの帰り道、参道で先頭を歩いていた娘の前に、とても大きな長いロープの様なものが突然現れまして・・
娘が「お母さん、見て!!」と。

それはとても大きなそしてとても長い長い「蛇」さんでした。
ビックリしまして、見ていると、私と娘の前をゆっくりと蛇は横切り、そして、参道横の木の長い枝に、添え木のようになが〜く伸びた状態でくっつきました。
娘は「蛇」さんを見るのは動物園以来で、野生の?蛇さんを見たのは生まれて初めてでした。
蛇さんに、娘と二人で「お参りさせて頂きました。またお伺いします(__)」と言って、駅に向かいました。

英彦山神宮の宮司様とお話が出来まして、ほんとうにありがたい一日でした。(^・^)

では<(_ _)>(^・^)
[37]子孫よりさんからのコメント(2014年09月23日 09時55分41秒 ) パスワード

ああああああああああああああ〜〜〜〜っ!!

先ほどのコメントを書いている時から「鷹」・・鷹・・鷹?
とはなっていたのですが・・・

あらためて英彦山神宮についてサイトで情報を見ていたのですが・・!

まず、あらためて英彦山神宮の御由緒から
http://hikosanjingu.or.jp/PAGE1.php

御由緒

ご祭神
英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神(伊勢神宮)の御子、天忍穂耳命であることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。
嵯峨天皇の弘仁10年(819年)詔(みことのり)によって「日子」の2文字を「彦」に改められ、次いで、霊元法皇、享保14年(1729年)には、院宣により「英」の1字を賜り「英彦山(ひこさん)」と改称され現在に至ってます。
英彦山は、中世以降、神の信仰に仏教が習合され、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えましたが、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、昭和50年6月24日、天皇陛下のお許しを得て、戦後、全国第三番目の「神宮」に改称され、英彦山神宮になっています。

御本殿(上宮)
神武天皇が御東征の時、天村雲命(あめのむらくものみこと)を遣わされて祀られたと伝えられていますが、社殿ができたのは、崇神天皇41年と言われてます。

摂社
産霊神社 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・玉依姫(たまよりひめ)・熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)
中津宮 市杵嶋姫命(いちきしまひめみこと)・多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)・多岐津毘売命(たぎつひめのみこと)
下津宮 速須佐ノ男命(はやすさのおのみこと)・神武天皇・大国主命
玉屋神社 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)

※摂社 産霊神社 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・玉依姫(たまよりひめ)・熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)

こっこれは!!
鷹の神様・・・あ〜〜〜っ!!

こちらのサイトをご覧ください
天神地祇。:「九州北部域の高木神。」英彦山神宮と鷹の神祇。
http://aburabaku.blog.jp/archives/2322715.html
「九州北部域の高木神。」英彦山神宮と鷹の神祇。 
ピックアップして転記します(__)出来ればサイト内全文お読み頂ければと思います(__)

 九州北部域の神奈備ともされる霊峰、英彦山は、古代より信仰された神体山。中世の神仏習合期には日本有数の修験の霊場、彦山権現として栄え、往時は三千八百ともいわれた坊跡などにその痕跡をみる。
 今は英彦山神宮として山頂に上宮を置き、山域に摂末社を点在させる。社伝では天照大神の御子、天忍穂耳尊を祀ることから「日子山(ひこさん)」とされる。

天忍穂耳尊を祀る英彦山神宮 奉幣殿。

 が、筑前から豊前域に展開する「英彦山神領四十八大行事社(高木神社群)」と呼ばれる末社群が、何故か高木神(高御産巣日神、高皇産霊尊)を祭神としている。
 そして、英彦山の山頂域が、高木神祭祀の旧地とされ、山頂直下に高木神を祀る産霊神社(むすび)が鎮座することで、英彦山の本来の祭神は高木神であったともされる。

 高木神信仰に由来する、「鷹」の神祇と呼ばれるものがある。英彦山の開基伝承では、英彦山開山の一、藤原恒雄(忍辱)が殺生の罪を犯し、一頭の白鹿を射た際、「鷹」が現れてその白鹿を生き返らせる。
 そして、神紋を「鷹羽」として、東麓の豊日別神降臨の地を鷹巣山、第一の末社を鷹栖宮(高住神社)とする。また、英彦山の在所、田川(たがわ)も古くは鷹羽郡であった。

 「鷹」の神祇とは、修験に纏わるともされるのであるが、その基層には古く、根源的な信仰がみえる。
 英彦山の本来の祭神が高木神であり、英彦山の神が「鷹」の化身であることは「鷹」の神祇が、高木神に由来するということ。もとより、小郡あたりの仲哀伝承において、高木神は「鷹」の姿で現れ、横隈の隼鷹神社に祀られていた。
 「鷹」とは高木神の「たか」に由来する。高上ゆえに天空高く在って疎薄。そして猛禽ともされた神の異名。鷹に纏わる社は「鷹羽」の神紋を掲げ、鷹巣や鷹取など「鷹」地名を散在させる神祇。

中略・・
そして、遠賀川流域、直方の神奈備が「鷹取山」であり、鷹羽が転じたとされる田川の中枢域、後藤寺に鎮座する春日神社は、豊前国一国一社弓矢神と称され、後藤寺の氏神として弓削太神「豊櫛弓削遠祖高魂産霊命」なる高木神を祀る。
 後藤寺は古く、弓削田の庄とされ、高木神の後裔、天日鷲翔矢命の裔とする高木神氏族、弓削氏が在った。(*2)

また、同地、香春の地主神、香春神社も神紋を「鷹羽」として、元宮とされる古宮八幡宮の域が「鷹巣」と呼ばれる森であった。この社の神は宇佐八幡神の正躰として奉納される銅鏡の化身。
 豊前の神祇の地、宇佐においても、八幡祖神は「鷹」の姿で駅館川の畔に現れたため、「鷹居社」にその神霊を祀ったとして、宇佐八幡宮の創始譚に繋がっている。宇佐氏の祖、菟狭津彦は高木神の裔ともされる。

 そして、英彦山南麓、日田の地名由来も「鷹」の神祇であった。日田の大湖に羽を浸した大鷹は、湖水を流して日隈、月隈、星隈の三隈を出現させる。また、比多(ひた)国造も高木神氏族。高木神の5世孫である剣根命(つるぎね)の後ともされる。(*3)
 その下流域、高良玉垂命を祀る筑後国一宮、高良山においては古名を「鷹群山(高牟礼)」とし、地主神の高木神はもとは山上に在り、高良山の本来の祭神であったとされる。

「鷹羽」の神紋を掲げる神社群が濃密に鎮座し、鷹の巣や鷹取など「鷹」地名を散在させて、「鷹」の神祇が九州北半域を縦断する。
 洞海湾域、八幡(やはた)あたりから直方、田川、英彦山へと遠賀川を遡り、香春、宇佐へと繋がり、日田から筑後の高良域へと高木神の神祇が広がっている。この連鎖が意味するものとは。

中略・・・
 「鷹」の神祇において、田川、後藤寺に在った弓削氏族は弓を作る弓削部を統率した。弓削氏は物部氏と関連が深い。また、後藤寺の北、伊方(いかた)の伝承では、伊方の民は弓に長じ、射方(いかた)として天皇の軍の先鋒とされたという。田川の域は古く「弓」に纏わる地

そして、英彦山の南麓、日田には矢に纏わる「靱編連(ゆぎあみ)」の存在がある。「靭」とは矢を入れる容器。靱編連とは靭を作る氏族。やはり、天皇を護る軍団ともされた。その下流域の浮羽は「的(いくは)」に由来し、ここも弓矢に拘わる域であった。

 高木神域、遠賀川下流の鞍手では「剣」が称えられ、豊前、田川の高木神氏族、弓削は「弓」を削る。英彦山南域の日田や浮羽には「矢」に纏わる氏族。これら「鷹」の神祇、高木神域にみえる兵伎や戦闘集団の痕跡。高木神を奉祭する民は、その猛々しさゆえに「鷹」をトーテムとしたのであろうか。

中略・・・
後藤寺の氏神、春日神社。豊櫛弓削遠祖高魂産霊命なる高木神を祀る。

中略・・

(-_-)以下の記述も後ほど、しっかりとサイト内の文章を、私、読みます(__)

英彦山神宮
福岡県田川郡添田町英彦山
主祭神 天忍穂耳尊
官幣中社
古代より信仰される霊峰、九州北部域の神奈備ともされる。社伝では天照大神の御子、天忍穂耳尊を祀ることから日子山(ひこさん)とされたという。

高住神社(鷹栖宮)
福岡県田川郡添田町英彦山豊前坊
主祭神 豊日別命(豊日別国魂神)
英彦山北東域の北岳登山口に鎮座。神域第一の末社。古く、豊日別命は豊の守護神として鷹巣山に祀られていた神とされる。萬幡豊秋津師姫命か。

産霊神社(むすび)
福岡県田川郡添田町英彦山山頂域
主祭神 高皇産霊神(高木神)
山頂域の社地は往古、高木神祭祀の旧地とされ、聖武期に再建されたとも。

高木神社群(大行事社)
英彦山神領四十八大行事社(末社)
主祭神 高皇産霊神(高木神)
田川郡添田町、田川郡大任町、嘉麻市、久留米市田主丸町、宮若市、京都郡みやこ町、築上郡築上町、筑紫野市、朝倉郡東峰村、朝倉市など旧、英彦山神領に20数社が鎮座する。「大行事社」とされていたが高木神を祀ることで明治以降に「高木神社」と改名されたという。


いや〜〜ん!!(*_*)\(゜ロ\)(/ロ゜)/
私は、なんてオオボケのおまぬけなのでしょうか!!
折角、日本の苗字七千傑様よりご教示頂いていたのに、宮司様から「鷹」のお話を伺っている時に何故「ピン!」とこなかったのでしょう(@_@。

私は、全くダメですね(__)(@_@。

もしかしたら、何かのお導きで、「昨日の出来事」があったのかも知れないのに・・(@_@。

きっと、天国で、私に繋がって頂けている先祖様は皆「トホホホホ〜(__)この娘はこげんありますな〜(-_-)」と、嘆いているかもしれません(__)(@_@。

もっと勉強します(__)(@_@。
[38]白石さんからのコメント(2014年09月23日 23時20分56秒 ) パスワード

こんばんは
7000傑様 ご教示ありがとうございました。
さっそく 本の購入をいたしました。
そして
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/yondaikisyo.htm
を今まで 読んでいました。

そして
新聞で 京都から 富士山の写真が撮れたこと
大阪も 入試に絶対評価を行うようになったこと
など 知りました。

古代の人は 船で 移動した人たちも いたし、 佐田彦の母方の系は神魂命 橘氏も母方は 神魂命にのぼる。天孫系で神武に至るとき 母は 海神の女子であること など 
この人たちのルーツは やはり バビロニアだろうか?と 思います。
佐田彦は 高い鼻で書かれるし 天と地を照らす神として 書に書かれています。

子孫様
積極的に あちこち 行っておられますね。
高木神 神武よりはるか 昔の方ですね。神魂神・津速魂神・とともに 3魂神と呼ばれる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
子孫様のコメントに前にあった 性空子孫より3から抜粋しました。

真言宗の 兼慶上人 →真言密宗兼慶法印[柏原備前守橘公資三男也]

玄清法印 → 玄清法印は大宰府の出身。766年にうまれ、幼名を乙丸といった。父親は当時都から西下してきた橘光政。乙丸は7歳のとき受戒し、名を玄清と改める。 荒神祭の開祖

皇慶阿闍梨 → 祖父は橘広相。性空の甥にあたる。


えびの市の白鳥神社も性空上人(橘善行)

宮原の祖の事を全く理解していない時に書いたコメントに求菩提山・英彦山・国東半島(六郷満山)のお話を何度かさせて頂いていたと思います

祖母方の良峯安世公も空海との親交が厚かったと。空海は真言宗の開祖ですよね。
良峯宗貞公も花山の元慶寺を建立。ここは天台宗の寺院


性空上人(橘善行)は国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三ヶ所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。
とあり、強い関係性が見えます。
良峯素性公も天台宗
★天台宗は漢王室孝献帝実母は王氏という の 子孫の「三津首・最澄・伝教大師」によってひらかれた宗派。
比叡山には 今も橘氏がおられるようですが・・・

良峯は劉姓という 前に見た本にあった ことが なぜか 気になって どこかに 書いてないかしら? とは おもうのですが・・・
ーーーー
この 性空というひとのことを 昨夜見ていました。
ーーーーーーーーーーーーーー
埼玉苗字辞典
秩父
良文に四人の子ありき、嫡男忠輔は父に先立ちて死す。二男忠頼は村岡三郎、奥州介と号す、武蔵国の押領使として上総・下総・武蔵三ヶ国を領す、下総・秩父の先祖なり。三男忠光は三浦郡・安房国を押領す、三浦の先祖これなり。四男忠道は村岡平大夫、村岡を屋敷として鎌倉・大庭・田村などを領地す、鎌倉の先祖これなり。→香川氏・梶原氏などへいくみたい。

長くなりそうなのでいったん アップします。



[39]子孫よりさんからのコメント(2014年09月23日 23時23分38秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

あの・・・・
英彦山神宮について勉強していたら、以前、調査していて、自分でも何で気になって調査しているのかよく解らなかった「平川家について15」コメント59に繋がっていました(・_・)・・・

まず、先祖とは関係ない事ですが、昨日見た「蛇」さんは英彦山に生息する「タカチホヘビ」という蛇でした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%9B%E3%83%98%E3%83%93

人間との関係[編集]
1888年に高千穂宣麿男爵が”発見”するまでは日本人研究者に認識されていなかったため、和名には彼の名が付けられている。しかし Peters (1869年)の原記載に「“angeblich aus Japan” (おそらく日本産)」[1]と記されており、高千穂が”発見”する約20年前には既に外人によって本種の標本作成と種の認識がなされていた。
また夜行性で人目に触れることが少ないためかつては幻のヘビと言われたこともがあるが、現在では人目につかないだけで特に珍しい種類ではなく、生息数はそれほど少なくないと考えられている。

(・_・)娘とM田さんにも見てもらったのですが二人とも「あっ!!昨日の蛇さん!!」と。間違いないと思います。

昨日、帰りのロープウェイで係の人に「今度は蛇さんを見ました(^・^)」と言うと、係の人は
「おたくは、よっぽど運が良いのですね〜。鹿を見て蛇もみたとは(^・^)」と言われたのです。

ものすごく嬉しかったのですが、実は今日の調査は、こちらの「蛇」さんに興味を持った事から始まったのです。
次のコメントでご紹介致します。
(__)
[40]白石さんからのコメント(2014年09月23日 23時24分03秒 ) パスワード

坂東八平氏は良文の後裔となっているが、羊妙見大菩薩の導師良文の信徒なり。

3 秩父国造族三宅連
天上腹(あまのうわはる)は天表春命、天下腹は天下春命である。是等の子孫が三宅連(みやけのむらじ)
天表春命兄弟は鍛冶師日桙集団の一員である。新羅王の昔(せき)氏が本姓で、三宅連の子孫知々夫氏は昔ノ氏(関野)を称す。
4秩父縣主の本名は関野氏で、新羅族昔ノ氏なり。セキ条参照。また、秩父志に「薗田家、秩父神社祠官、天下春命神裔、藤原姓、世系不詳」と見ゆ。
五 秩父郡司 武蔵国大里郡及び秩父郡は、藤原冬嗣の子良房、其の孫忠平、其の子右大臣九条家藤原師輔の所領にて、秩父郡司は其の家宰である。
・・・・・・・・秩父氏後裔の薩摩国伊地知氏系図

六 観音信仰と秩父氏始祖 秩父観音霊場は室町時代より有名になったが、古代は鉱山鍛冶師及びそれにより失明した人達が眼病治癒のために信仰していた。・・・今昔物語卷十二に「播磨国飾磨郡書写山(兵庫県姫路市書写山円教寺)と云所に性空聖人(康保三年開山)と云う人あり、本・京の人也、★橘朝臣善根と云いける人の子也。のち筑前国★背振山に移り住す」と見え
[41]子孫よりさんからのコメント(2014年09月23日 23時31分21秒 ) パスワード

白石様、ご教示ありがとうございます。

私、自分が以前書いたコメントの事をすっかり忘れていました(@_@。
今でも、歴史に関して知識が本当に乏しいのですが、この当時は、「全く皆無」でございまして、コメントを書いていても、意味は全く解っていなかったのを今、痛感しています。

本をご購入されたのですね。
すぐに手に入る事が可能であれば私も注文致します(^・^)

では、次のコメントで勉強の成果をご説明致します。
[42]子孫よりさんからのコメント(2014年09月24日 00時47分27秒 ) パスワード

では、早速(__)

英彦山神宮 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%BD%A6%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E5%AE%AE

英彦山神宮(ひこさんじんぐう)は、福岡県田川郡添田町の英彦山にある神社である。旧社格は官幣中社。通称彦山権現。日本有数の修験道の霊場として栄えた。
天忍穂耳尊を主祭神とし、伊佐奈伎尊・伊佐奈美尊を配祀する。
英彦山は、北岳・中岳・南岳の三峰からなり、中央にある中岳の山頂に当社の本社である「上宮」があり、英彦山全域に摂末社が点在する。

英彦山は古代より神体山として信仰されていたとみられる。当社の開基については次のような伝承がある。継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が英彦山山中で修行中に猟師・藤原恒雄こうゆう(のちの忍辱〈にんにく〉)に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという。
また別の伝承では祭神忍骨命の降臨した地とされて山上に一祠が建てられたのが起源とも云う。清和天皇代の貞観7年(865年)に従四位上を授けられたとあり、延喜式神名帳にも忍骨命神社として名を残す。
いずれも伝承で実際の歴史は、11世紀初頭に増慶によって中興されるまでについては不詳である。しかし早くから神仏習合し彦山「権現」の名を用いていた。
「英彦山」という山名は、社伝では天照大神の御子(日の御子)である天忍穂耳尊を祀ることから「日子山」と呼ばれるようになったとしている。弘仁10年(819年)、僧・法蓮が、山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見て当山を再興し、「日子山」を「彦山」に改めたとされる。

※11世紀初頭に増慶によって中興

続けます(__)
12世紀より天台宗に属し、西国修験道の一大拠点として栄えた。元弘3年(1333年)、後伏見天皇の第八皇子・長助法親王(後の助有法親王)を座主に迎えて以降、座主はそれまでの輪番制から世襲制となった。現在の社家・高千穂家はその末裔である。

※後伏見天皇の第八皇子・長助法親王(後の助有法親王)を座主に迎える
※現在の社家・高千穂家はその末裔である。

続けます(__)
当時僧坊3000余、四十九窟(行場)を有するといわれたが天正年間(1573年〜92年)秋月氏・大友両氏の兵火が及んで焼失、近世初期に小倉藩主細川忠興が社殿を再興した。
焼き打ちや寺領廃止もあり打撃を受け、江戸時代以降は衰微した。元禄9年(1696年)に天台修験の別格本山となった。享保14年(1729年)、霊元法皇より、天下に抜きん出た霊山であるとして「英」の字が授けられ、「英彦山」と称するようになった。
明治の神仏分離により修験道が廃止され、天台山伏の本山であった霊仙寺(現・霊泉寺)を分離し神社となって「英彦山神社」に改称した。1883年に座主の高千穂宣麿が男爵を授けられ、華族に列した。1898年(明治30年)に官幣中社に列した。1975年、現在の「英彦山神宮」に改称した。

※1883年に座主の高千穂宣麿が男爵を授けられ、華族に列した。

まず、座主の高千穂宣麿。この方について
高千穂宣麿 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8D%83%E7%A9%82%E5%AE%A3%E9%BA%BF

高千穂 宣麿(たかちほ のぶまろ、元治元年12月15日(1865年1月12日) - 昭和25年(1950年)12月23日)は日本の昆虫学者、貴族院議員、宮司、男爵。
生涯[編集]
中納言徳大寺実則の次男として京都に生まれる。母は山内豊資の娘・嘉年子。父方の叔父に西園寺公望がいる。1870年、一家で東京に移住。父実則は明治天皇の侍従となり、侯爵(のち公爵)の位を受ける。

※(^・^)目元のあたりが、現在の宮司様にそっくりでよく似ていらっしゃるような気が致します。

続けます(__)
訓蒙学舎、学習院、学農社農学校などに学び、11歳頃から小石川の薬園(東京大学小石川植物園)や御成門の開拓使博物館に通って動植物への興味を満足させる。
1877年、学習院に入学。昆虫の標本作りに熱中する。博物学に志し、神田の共立学校(開成中学校・高等学校)に通って、大学予備門への入学を目指していたが、1883年、豊前彦山の座主高千穂家を継ぐことになったため、学業を中断して西に下り、英彦山神社の宮司となると共に、6月13日、男爵の位を受ける。
彦山の大自然で生物の採集と観察に熱中し、1888年、日本人として初めてタカチホヘビを採集。
1900年、英彦山神宮の社務所の付近に高千穂昆虫学実験所を設立。1902年、コーネル大学留学を卒えた桑名伊之吉を迎え、九州昆虫学研究所と改称。

※日本人として初めてタカチホヘビを採集。
この「蛇」さんを昨日、娘と見たのであります。\(^o^)/
※中納言徳大寺実則の次男として京都に生まれる。母は山内豊資の娘・嘉年子。父方の叔父に西園寺公望がいる。

(・_・)では、続けて、
※元弘3年(1333年)、後伏見天皇の第八皇子・長助法親王(後の助有法親王)を座主に迎えた。と言う事で

※英彦山座主 後伏見天皇の第八皇子・長助法親王について
後伏見天皇  ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87
後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。

系譜をご覧いただくと・・
※正親町守子(東御方) - 正親町実明女
  第六皇子:承胤法親王(1317-1377) - 天台座主
  第七皇子:長助法親王(1318-1361)- 英彦山座主 ※※こちらです。
  第八皇子:亮性法親王(1318-1363) - 天台座主
  第五皇女:璜子内親王(璜=王編に黄)(章徳門院)

対御方(1297‐1360) - 正親町実明女
  第四皇子:尊実親王 改 慈真法親王(1314-?)
  第四皇女:覚公女王 (? - ?)
  第十皇子:尊道入道親王(1332-1403) - 天台座主

※長助法親王(1318-1361)- 英彦山座主 母:正親町実明の娘。
★正親町守子そして対御方 お二人とも正親町実明の息女です。

(・_・)では皆様、「平川家について15」コメント59そして61で私は何を調べていたのか?でございます(__)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101367_88.html

私が調べていたのは
藤原長方の子息藤原兼高(母:藤原師高の娘)この方からの流れでございました(・_・)
※@藤原兼高(母:藤原師高の娘) → 藤原顕嗣 → 藤原兼頼 → 藤原定兼・女子(洞院公泰母)★1
※A藤原兼高(母:藤原師高の娘) → 藤原顕嗣 → 藤原顕経(従五位上。下野守。法名寂恵)
※B藤原兼高(母:藤原師高の娘) → 藤原顕嗣 → 女子(正親町公兼母?)

「平川家について15」コメント61を転記します。(__)

正親町 忠兼(本名実寛・公蔭)[ 永仁5(1297)年 〜 延文5/正平15(1360)年10月19日 ]
実明男。母藤原兼嗣女?。京極為兼猶子。後、小倉公雄猶子。後年、復実父。法名・空静。
元徳2(1330)年正月5日叙従三位。
観応3/正平7(1352)年8月12日出家。
正二位・権大納言。
※母名は諸家知譜拙記と尊卑分脈の公蔭の項に記載されたものだが、尊卑分脈では藤原顕嗣の女にも公蔭母と記されている。

正親町公蔭 父:正親町実明 母 藤原兼嗣女?もしくは藤原顕嗣の女

藤原顕嗣の娘と言う事は藤原師高の玄孫となります。

または藤原兼嗣の娘と言う事になれば・・
「藤原兼嗣」を調べたのですが、「兼嗣」という複数の人物から時間軸が合うのは
★松殿兼嗣[ 延応元(1239)年 〜 文保元(1317)年3月3日 ]
松殿兼嗣の妻は「中将実春朝臣女」
徳大寺実春の娘が妻という事でした。

正親町公蔭の母として記述されているお二人は(松殿兼嗣の娘・藤原顕嗣の娘)、どちらも「平河」と係わりのある方々でありました。

=============================================

お解りいただけましたでしょうか・・・
後伏見天皇 皇子
※長助法親王(1318-1361)- 英彦山座主 母:正親町実明の娘。
そして・・
※正親町公蔭 父:正親町実明 母 藤原兼嗣女?もしくは藤原顕嗣の女
 ★藤原顕嗣の女(娘)であれば・・藤原師高の玄孫
 ★藤原兼嗣の女(娘)であれば・・母が徳大寺実春の娘(徳大寺実春は平河の争論の相手です)

すなわち!
英彦山座主 長助法親王の母と正親町公蔭は兄妹であったと言う事です。
お二人とも「正親町実明」子息子女。

(・_・)平川家について15 コメント59からの流れ。あの時は、自分でも何を調べているのか良く解らないのだけど何故か「調べなきゃ!!」といつもの感に突き動かされていたのですが・・・

英彦山神宮とこのような形で先日のコメントが繋がっていたとは、自分でも本当に驚いています。

英彦山神宮には、昨日、本当に偶然伺ったのです・・
M田さんが私の娘に英彦山のすばらしい景色を見せてあげたいと・・

それから
日本の苗字七千傑様、お忙しい所、申し訳ございませんが、ぜひお教え下さい。

日本の苗字七千傑様の《豊後大神氏》姓氏類別大観を拝見したのですが、大神惟基を祖とする「高千穂氏」と英彦山神宮 社家の「高千穂氏」。
何か繋がりがあるのでしょうか?
どうか、ご教示をよろしくお願致します。

では<(_ _)>
[43]白石さんからのコメント(2014年09月24日 01時01分09秒 ) パスワード

そうなんです。運が良かったというのか?

http://www.keieihonbu.com/ijichi.htm
伊地知一族の歴史
伊地知は 畠山だったけど 島津とのからまりが さだ で つながっていて
さだ は 北畠で 関に つながっていて。。。。。

★佐田神社というのがあって 毛利元就が崇拝したというのだけど、そこには「神在祭り」があって どらごんが あがるという話があって それは 背中が黒い へびだということです。

そして その間は 住吉の神など 警護にあたるのだそうです。

関には 平清盛子孫にも いて・・・

文中 頼朝など見えます。頼朝のひいおばあさま だったか?平川景家が絡むのですよね。

また 
本田は 千手の局の父に 本田の言葉が見えます。
何か 昔からの縁があるのでしょうね。

島津と犬童家は 姻戚関係でしたかしら・・・・
犬童も平川だったから・・・

いろいろ でてきて 同じ発音をするから つながってくるのだろうと おもいますが

清盛の母は 賀茂氏
賀茂氏遠祖は 高魂神・神魂神にはじまっているようですね。
ーーーーーーーーーーーーー
鍛冶師日桙集団
六 観音信仰と秩父氏始祖 秩父観音霊場は室町時代より有名になったが、古代は鉱山鍛冶師及びそれにより失明した人達が眼病治癒のために信仰していた。

このキーワードで検索する 英彦山と尾張氏
http://popowin00.exblog.jp/21609944
葛城氏のルーツ:脱輪HISTORICA
2014年2月5日 - ニギハヤヒ(物部氏)より先に九州に入植した高皇産霊(たかむすび)を始祖とする。 九州入植の ... 北九州での葛城氏の入植地は、遠賀川上流域、複数の高木神社のある あたり、英彦山にかけての地域だ。 ... 高尾張氏(笛吹神社)一族もいた。

笛吹き神社で検索する
葛木坐火雷神社
葛木坐火雷神社(かつらきいますほのいかづちじんじゃ)は、奈良県葛城市笛吹(旧新庄 町笛吹)にある神社である。式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。通称笛吹神社。境内 に日露戦争で政府から与えられたロシア製大砲が残る。

笛吹き神社
火雷大神と天香山命を主祭神とし、大日霊貴尊・高皇産霊尊・天津彦火瓊瓊杵尊・伊古比都幣命を配祀する。葛木坐火雷神社の元々の祭神は火雷大神で、天香山命は笛吹神社の祭神である。

★天香山命はにぎはやひ が 天にいたとき もうけた子供ですね。尾張氏の遠祖。天道日女命というひとが 山口にからんでくるようです。


 


[44]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月24日 07時55分33秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>>大神惟基を祖とする「高千穂氏」と英彦山神宮 社家の「高千穂氏」。
何か繋がりがあるのでしょうか?
 
全く無関係。
彦山座主家は僧籍でしたから、明治に高千穂を創姓。

迷走を続けている様ですね。
建前と固定観念に固執していることも混乱の要因。
宮原家と平川家が瓊瓊杵尊を同祖としているのが真実でしょう。
宮原家は橘諸兄の後裔ではなく、伊予橘氏(物部姓)で饒速日命(天火明命)が曩祖。
平川家の良峯姓は良峯安世の裔ではなく、多姓丹羽氏が良峯姓の名跡を嗣ぎ名乗ったものですから彦火火出見尊が曩祖。
 
下記の後半部の異説に着目して下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a2.htm#015
 
饒速日命の別名が火明命で天火明命に通じ、天孫降臨で日向高千穂に居住、神武東征に先立ち大和に遠征して長髄彦が率いる大倭連合王国に取り込まれてしまったのが真実の様だ。
しかし神武統一後、物部氏は大和朝廷で重きを成した。


先代旧事本紀は、記紀・拾遺からの摘記(現代風にはコピペ)が大半だが、物部氏伝承や国造本紀に関しては参考になる点もある。

少し固定観念から脱却して見ては?
[45]子孫よりさんからのコメント(2014年09月24日 09時57分00秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、お忙しい中、ご教示本当にありがとうございました。

調査の中で大神惟基、この方の名前が頻繁に出て来ていたのでもしや?と思いましてご質問致しました。

理解出来ました。ありがとうございます。

「建前と固定観念に固執していることも混乱の要因」

今朝伺ったご教示で、本当に痛感致しました。

そして、父が日頃から私に「鎌倉時代や平安時代のような新しい?時代を調べて何が解るか?!」と言っていた本当の意味が理解できました。
(私は、父は少し??と思っていたのですが・・父に謝らなければいけません(@_@。)

あの・・・多分、皆様の歴史の常識は私の未知の世界ですので、ご教示の
「宮原家と平川家が瓊瓊杵尊を同祖としているのが真実でしょう。」

というお言葉の「瓊瓊杵尊」がどういうお方(神様)なのか、すぐにピンとこなかった私は本当に情けないです。

瓊瓊杵尊は ウィキより(すいません。本当に・・しっかりと解っていなかったもので・・)
天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子[1]。兄に天火明命(あめのほあかり)がいる[1]。『日本書紀』の一書では天火明命の子とする。
大山祇神の娘である木花之開耶(このはなのさくや)姫を妻とし、火照命(海幸彦)・火闌降命(火須勢理命)、彦火火出見尊(山幸彦)が生まれた[1]。

天孫降臨[編集]
天照大御神の命令を受けた建御雷神と天鳥船神が大国主から国譲りを受けて葦原中国の統治権を確保する。 その後に天照大御神の命により、ニニギノミコトは葦原中国を統治するため高天原から地上に降りたという[1]。これを天孫降臨と呼ぶ[1]。『古事記』では、この降臨の地については「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるだけ)に天降りまさしめき」と記述している。『日本書紀』では、「日向襲之高千穗峯」あるいは「筑紫日向高千穗」と記述している。
この降臨の経路の解釈ついては、日向国の高千穂峰に降り吾田国(現在の鹿児島県南さつま市)の長屋の笠狭碕に到達したとする説が有力である。日向(ひむか)の歴史はかなり古く、鹿児島県大隅地方もその昔は日向と呼ばれていた。行政上、日向国が設置されたのは7世紀になる。

※天照大神の子である天忍穂耳尊という方(神様)が、先日伺った英彦山神宮の御祭神 主神でいらっしゃるのですね。
この方(神様)が瓊瓊杵尊のお父様。

※高皇産霊尊 こちらの方(神様)が以前、日本の苗字七千傑様よりお伺いした神様で、
「産霊神社(むすび)
福岡県田川郡添田町英彦山山頂域
主祭神 高皇産霊神(高木神)
山頂域の社地は往古、高木神祭祀の旧地とされ、聖武期に再建されたとも。」
とありましたように、英彦山神宮の神殿には金の鷹がお祀りされてありました。

高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命が瓊瓊杵尊のお母様ですね。

あの・・・・
ものすごく壮大なお話になっていますので、私の頭はとても・・何だろう「緊張」致しております。

ただ・・・
ず〜〜〜っと下って、平安時代には英彦山領の釈迦岳には「平河師澄」の名跡があり、さらに、よ〜く考えると、英彦山がある添田(副田)庄は橘公業(宮原の先祖)が西園寺公経と替地をおこなって所領した土地でありました・・

他にも由縁のある神社を調査したいと思いました。

日本の苗字七千傑様がおっしゃる通り、私、「固定観念から脱却」していきます。

どうか今後とも御協力の程よろしくお願い致します。
<(_ _)>
[46]子孫よりさんからのコメント(2014年09月25日 13時11分31秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

昨日は一日「神社」についての勉強をまず一から(根本)となる所から勉強しておりました(・_・)

本当に、な〜んにも解っていませんでした。
今から書くコメントを読んで皆様、お口がアングリとなるかもしれませんが、御了承下さい。(あなた!!尾形家と縁戚関係にあるのでしょう!!と言う声が飛んできそうですが・・寺社関係に関して、「知らないものは知らない(@_@。」ですから、勉強をしたのであります)

まず、「氏神」についてです。
辞書も調べましたが、まずはウィキより (__)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E7%A5%9E

氏神(うじがみ)は、日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のこと。同じ氏神の周辺に住み、その神を信仰する者同士を氏子(うじこ)という。現在では、鎮守(ちんじゅ)ともほぼ同じ意味で扱われることが多い。氏神を祀る神社のことを氏社という。
本稿では、氏神・鎮守・産土神・氏子などについて記述する。

氏神[編集]
本来の氏神は、古代にその氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かった[1]。例として、中臣氏は天児屋根命、忌部氏は天太玉命を祀った[1]。また、中臣氏と関係の深かった武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)を、藤原氏が春日大社に祀るなど特殊な例もあった[1]。
※中臣氏は天児屋根命 ※忌部氏は天太玉命 ※武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)を、藤原氏が春日大社に祀るなど特殊な例

続けます(__)
世以降、氏神の周辺に住み、その祭礼に参加する者全体を「氏子」と称するようになり、氏神は鎮守や産土神と区別されなくなった。同じ氏神を祭る人々を「氏子中」、「氏子同」といい、その代表者である氏子総代を中心に神事や祭事が担われている。氏神を祀る神社の周辺には住んでいないが、その神を信仰する者を「崇敬者(すうけいしゃ)」といい、氏子と併せて「氏子崇敬者」と総称する。

中世以降の例としては、源氏の八幡神(八幡宮)、平氏の厳島明神(厳島神社)などが挙げられる。皇祖神アマテラスを祭った伊勢神宮は、本来は天皇家の氏神であるが、明治維新以後、物心両面で天皇を中心とする国家体制が築かれていく過程で、日本人全員の総氏神であることを主張するに至った。

※源氏の八幡神(八幡宮) 平氏の厳島明神(厳島神社)
※皇祖神アマテラスを祭った伊勢神宮は、本来は天皇家の氏神であるが、明治維新以後、物心両面で天皇を中心とする国家体制が築かれていく過程で、日本人全員の総氏神であることを主張

(・_・)本当に全く理解していませんでした(@_@。
※本来の氏神は、古代にその氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かった。
私は、今まで、超現代的に、住んでいる地域の神社様の事を氏神様とお呼びすると思っていました。本来の意味は違うのですね・・

そこで、ここまでの勉強であらためて理解出来た事は・・
平安時代初期における故郷、球磨・人吉の神社の創建に関してです。

球磨・人吉では大同年間にかなり沢山の神社が創建されています。

青井阿蘇神社 (人吉)大同元年(806年)尾形惟基(大神惟基)創建
http://www.aoisan.jp/

御祭神
初代の天皇である神武天皇の孫にあたられる健磐龍命(たけいわたつのみこと)、その妃の阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、お二人の子供の國造速甕玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)の三柱の神々

※人吉は「人吉次良」こと藤原友永の所領でした。

続けます。

大王神社 (多良木黒肥地) 大同二年(807年)
日向国(宮崎県)の住人・土持太郎、田部忠網が久米蓑毛(現・多良木町久米)に墨、多良木源島に帝廟(天子のみたまや)を勧請した。その後現在地に遷座した
http://yumeko2.otemo-yan.net/e364065.html

御祭神
神武天皇
「宗教法人」黒肥地神宮。(王宮神社)
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.532461583537206.1073741863.269261349857232&type=3

黒肥地は、平安時代末期には「平河(横瀬)」が地頭。

続けます。

市房山神宮 大同2年(807)の鎮座 久米三良こと藤原真宗 創建
http://www.kumamoto-shinsei.jp/shrine-map/modules/gnavi/index.php?lid=160
御祭神
霧島神宮と同体
主祭神 天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
木花開姫尊
彦火火出見尊
豊玉姫尊
鵜鷀草葺不合尊
玉依姫尊
神倭磐余彦尊(神武天皇)

※ 霧島神宮 公式ページ
http://www.kirishimajingu.or.jp/contents/goyuisho.html

※ ウィキ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE
欽明天皇の時代(6世紀)、慶胤(けいいん)なる僧侶に命じて高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始まりとされる。
山の麓にあるという立地のためたびたび炎上する。天暦年間には性空により瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に遷される
※性空 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E7%A9%BA
性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。

※市房山神宮 大同2年(807)の鎮座 久米三良こと藤原真宗 創建

続けます
※大炊霧島神社 中島霧島神社 (旧岡原村岡本 旧岡原村宮原)大同元年(806年)尾形惟基(大神惟基)創建
御祭神
(霧島神宮と同体とあり)

※切畑大明神 (旧岡原村宮原切畑)大同年間創建とあり
御主神 (記述が確認出来ませんでした)

しかし・・球磨郡誌 - 63 ページには
祭神應神天皇は同村落の下鎮座で八幡社と稱神社の五神は、同村宮原字片土山鎮座切畑神社と稱してゐたが右を本社へ合併、但地主神社豊嶽神社は
※祭神應神天皇
※地主神社豊嶽神社 との言葉も見えます。

(・_・)大同年間に大炊霧島神社 中島霧島神社 切畑大明神は創建されましたが、その当時の領主は・・・
久米郷なので久米氏 藤原家宗となるのでしょうか・・?

続けます

北岳(嶽)神社(北嶽日吉神社) 相良村四浦  一節に大同年中(806年~810年)の設立ともいふ。
御祭神 大山祇神
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.458610834255615.1073741838.269261349857232&type=3
熊本県庁ページ
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/kitadakemori.html
この北岳神社は日吉神社系列で西暦810年に創立されたということで・・との記述があります。?
御祭神 大山祇神

(・_・)大同年間に創建された球磨・人吉の神社を記述させて頂きました。
まだまだ、調査不足ですので、今後も引き続き調べていきます。

天孫系の神様が殆どでした・・・(ですよね?大丈夫かな?)

所で・・
球磨・人吉は相良氏下向前は平河を除く、人吉次良(藤原友永)須恵小太良(藤原家基)久米三良(藤原家宗)と「藤原氏」が圧倒的です。

藤原氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F

関連項目
神社
談山神社 (奈良県桜井市)
元は「多武峯妙楽寺」という名の寺院。鎌足の子・定恵の創建。
伝・鎌足墓所、伝・不比等墓所が所在。
春日大社 (奈良県奈良市)
祭神は下記4柱で、合わせて「春日神」と呼ばれ、藤原氏から氏神として崇敬を受けた。全国の春日神社は、当社や藤原氏子孫による分祠に由来する。
武甕槌命(鹿島神宮祭神) - 常総出身の中臣氏に由来
経津主命(香取神宮祭神) - 上に同じ
天児屋根命(中臣氏祖神)
比売神(天児屋根命妻)
枚岡神社 (大阪府東大阪市) - 元春日
大原野神社 (京都市西京区大原野) - 長岡京遷都に伴い春日大社から分祀
吉田神社 (京都市左京区吉田) - 平安京遷都に伴い春日大社から分祀
寺院
興福寺 (奈良県奈良市) - 藤原氏の氏寺

「春日大社」 ですね。

※勢力として「藤原氏」が圧倒的であった球磨において、先ほど記述した大同年間創建の神社は・・・?
単純に阿蘇と霧島に近いという土地だからでしょうか?(・_・)(勉強不足です。でも、何だか、ここが、ひっかかるのですよね・・・?)

(・_・)この様な記述を見つけました
平安時代の信仰と宗教儀礼 
http://books.google.co.jp/books?id=93jj4xf6q94C&pg=PT142&lpg=PT142&dq=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90%E3%80%80+%E7%A5%9E%E7%A4%BE&source=bl&ots=lycVmd7igh&sig=Q27VMnHtOybKYGLi-SYkuVE2Auo&hl=ja&sa=X&ei=wD8jVIqyEsXX8gXf1YCQCA&ved=0CDYQ6AEwBA#v=onepage&q=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90%E3%80%80%20%E7%A5%9E%E7%A4%BE&f=false

152ページ より
表題 3神社の選択 の記述をご覧ください(__)
平安期において自由な神社参拝の選択が行えるようになったとの内容のようですが・・
久安二年(1146年)3月
権中納言藤原家成は「宿願」を果たした事で一族を率いて住吉社を参詣している。家成が住吉社を選択した理由は、家成が歌人であり、住吉社が歌道の神としても信仰されていたことが考えられる。
とありました(・_・)
でも・・153ページには
藤原定家(及びその一家)が日吉社に対して一方ならぬ崇敬をし、それが父俊成によって春日社に代わる信仰対象として選択された結果である事を指摘したが・・
とあります。上記の指摘とは141ページに詳しく書かれていました。

藤原家成が信仰した「住吉社」とは
住吉大社 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE
祭神[編集]
主祭神は以下の4柱で、住吉大神と総称され海の神として信仰される。底筒男命、中筒男命、表筒男命は合わせて「住吉三神」と呼ばれる。
第一本宮:底筒男命 (そこつつのをのみこと)
第二本宮:中筒男命 (なかつつのをのみこと)
第三本宮:表筒男命 (うはつつのをのみこと)
第四本宮:息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと) - 神功皇后 (じんぐうこうごう)に同じ。

住吉三神 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E4%B8%89%E7%A5%9E

底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。海の神、航海の神、また和歌の神とされる。

伊邪那岐尊と伊邪那美命は国生みの神として大八島を生み、またさまざまな神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐尊は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒男命が、瀬の流れの中間で中筒男命が、水表で表筒男命が、それぞれ生まれ出たとされる。

※伊邪那岐尊と伊邪那美命のお子様なのですね。

※英彦山神宮では「天忍穂耳尊を主祭神とし、伊佐奈伎尊・伊佐奈美尊を配祀する。」とありました。

続けて日吉社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE
祭神[編集]
2つの本宮と以下の5つの摂社から成り、日吉七社・山王七社と呼ばれる。
本宮
西本宮:大己貴神(大国主神に同じ)
東本宮:大山咋神
5摂社
牛尾宮:大山咋神荒魂 - 大山咋神の荒魂
樹下宮:鴨玉依姫命
三宮宮:鴨玉依姫命荒魂 - 鴨玉依姫命の荒魂
宇佐宮:田心姫神
白山宮:菊理姫命

全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。西本宮と東本宮を中心に400,000m²の境内を持つほか、猿を神の使いとする。社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている[1]。

大己貴神(大国主神に同じ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB
『日本書紀』本文によるとスサノオの息子。また『古事記』、『日本書紀』の一書や『新撰姓氏録』によると、スサノオの六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。スサノオの後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させる。だが、高天原からの使者に国譲りを要請され、幽冥界の主、幽事の主催者となった。国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建てて欲しいと条件を出したことに天津神が約束したことにより、このときの名を杵築大神ともいう。

大国主を祀る主な神社[編集]
大国主を祀る神社は多い。
出雲大社(島根県出雲市)
大前神社(栃木県真岡市)
大國魂神社(東京都府中市)
大神神社(奈良県桜井市)
出雲大神宮(京都府亀岡市)
気多大社(石川県羽咋市)
気多本宮(石川県七尾市)
八桙神社(徳島県阿南市)

※大神神社(おおみわじんじゃ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE

※平等寺 (桜井市)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%AD%89%E5%AF%BA_ (%E6%A1%9C%E4%BA%95%E5%B8%82)

※慶円 (九州大伴氏菊地家出身)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%86%86

まだまだ、どんどん興味が湧いていますが、あまりにも長くなりましたのでここまでと致します。

もっともっと勉強したいです(・_・)
では<(_ _)>
[47]白石さんからのコメント(2014年09月26日 02時21分11秒 ) パスワード

子孫様 こんばんは
本が届きました。
早速 目を通していますが 全体を把握するにはまだまだですね。^^

北嶽神社
坂本大明神ともいい、近江日吉社の末社。
地元では 市房神宮につぐ 高神をまつっているといい、
日吉神社では 最初山上に 「大山咋神」をまつっていた。

平安時代に 最澄(美津首)が 大和三輪神社から「大物主」を勧請して平安京の守護神とした。

大山咋神は松尾神社の神様でもあり、賀茂神社のお父様。
最澄は漢王室後漢献帝の子孫で、帝の実母は王氏。

最澄は 天台宗を学びに中国へ行った。
中国の天台宗は、★隋の天台智者大師、智・(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。智・は隋の第2代皇帝煬帝の帰依を受け、浙江省天台山国清寺と湖北省荆州玉泉寺を建立し、天台宗を確立した[1]。

初祖は★北斉の慧文、第二祖は南岳慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智・である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智・を第四祖とする場合もある)。
北斉  蘭陵王などがいたあの北斉。高句麗がほろんだあと遺民が建てたという北魏の後の・・・
北斉などの頃か少しあと 北周の方では 皇帝につかえていた 後の煬帝の先祖が位をついでいる。
[48]白石さんからのコメント(2014年09月26日 02時23分41秒 ) パスワード

ところで 子孫様
隋の後 唐の頃について
届いた本のp337
大化の改新の頃は まだ (鎌足は)唐国人であることを遠慮して・・・中臣姓を名乗っていた。
と 書いてあります。

岩波版の古い文庫本の邪馬台国について 書いてあった本では
蘇我氏が討たれたとき、村人が走り込んできて「韓人 鞍作り(林臣・蘇我)を殺しぬ」といったと書いてあり、韓は唐のことなのか?岩波本は良くしらべてある という定評だったので 韓=半島と思っていましたが・・・

菊池の侍帳につく 高岡・坂本・白石・平川 そして 言葉で出る尾方・高田牧宰。牧宰とは 唐の国主のことだそうで、山口では江戸時代頃の行政区割りで宰判という言葉があります。
[49]白石さんからのコメント(2014年09月26日 06時48分59秒 ) パスワード

http://www.asuka-tobira.com/syotokutaishi/bukkyodenrai.htm
仏教伝来
仏教を日本に持ち込んだのは 百済聖明王で、聖徳太子の力によるところも大きく、蘇我氏が広めた。しかし、百済系のひとによって その前から仏像や経文など仏教に関わるものを私的に持ち込んだと考えるのが自然でしょう。

鳩摩羅什
350年 インドの名門貴族出身でカシミール[3]生まれの鳩摩炎(英語版)(サンスクリット:Kumārāyana)を父に、亀茲国王の妹のジーヴァカ(サンスクリット:Jīva)を母として亀茲国に生まれる。
唐の玄奘三蔵による訳経を「新訳」(しんやく)と呼び、鳩摩羅什から新訳までの訳経を「旧訳」(くやく)それ以前を古訳と呼ぶ。

三蔵法師は他にもいて 下益城郡白木平あたりには 三蔵法師が来たという。
このあたりには 清水寺などもある。

今度取り寄せた本には インドをとおって 日本にたどり着いた人たちがいることを書いていますね。ということは 出雲のインドが故郷で奈良時代頃までは重要な位置にいた という 向家の人のお話につうずるのでしょうか?
光明子(藤原氏・光明皇后)が生まれたとき インドからお祝いに来たとうのは出雲から?
東大寺の食堂の入り口に祭られている人が本当の仏様というのかお寺が大事にしておられる人で インドの人のお姿とか 前に本で見ました。
四国の金毘羅様は インドの人とか・・・
余り 宗教に詳しくなかったので うろ覚えですね。すみません。

そして

そんなこと あんなこと が バビロニアに通じているのですね。
[50]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月26日 13時27分09秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>昨日は一日「神社」についての勉強をまず一から(根本)となる所から勉強しておりました(・_・)
 
神社は神社本庁が掌握している神社だけでも約8万社。
本当は20万社程度あった神社を明治に合同させただけ。
だから神社内にも小社や祠も多く、祭神も様々。
いまも神社本庁も把握していない神社は増え続けていますから、現実の神社総数は不明。
 
従って、Wiki等で個別撃破していると迷宮に飲み込まれてしまいますよ。
 
全体を把握するには下記書籍が適切。
「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか 最強11神社―八幡・天神・稲荷・伊勢・出雲・春日・熊野・祗園・諏訪・白山・住吉の信仰系統 」(幻冬舎新書)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A7%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E5%A4%9A%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%9C%80%E5%BC%B711%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%80%95%E5%85%AB%E5%B9%A1%E3%83%BB%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E3%83%BB%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E3%83%BB%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E3%83%BB%E5%87%BA%E9%9B%B2%E3%83%BB%E6%98%A5%E6%97%A5%E3%83%BB%E7%86%8A%E9%87%8E%E3%83%BB%E7%A5%97%E5%9C%92%E3%83%BB%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E3%83%BB%E7%99%BD%E5%B1%B1%E3%83%BB%E4%BD%8F%E5%90%89%E3%81%AE%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E7%B3%BB%E7%B5%B1-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B3%B6%E7%94%B0-%E8%A3%95%E5%B7%B3/dp/4344983270/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1411705044&sr=8-1&keywords=%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A7%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E5%A4%9A%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B
[51]子孫よりさんからのコメント(2014年09月26日 22時45分34秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様、早速書籍の購入をさせて頂きます。
迷宮に飲み込まれる・・(@_@。もう、グルグル状態にはならないようにします。
御紹介頂きまして、ありがとうございます。

白石様、ご教示ありがとうございます。

私も、書籍の方を早く購入したいのですが、実は、今、家の子猫3匹が猫ヘルペスにかかってしまい、病院通いをしています。
人間と違って、保険が効かないので・・でも、大切な命ですから、元気になって欲しいと、夜中にも何度か起きて、猫用のバランス飲料を飲ませたりと・・

子猫たちが元気になって、出費が抑えられるようになりましたら、私もすぐに書籍の購入を致します(^・^)
とても、楽しみにしているのですが、今はこのような状態なので、ぜひ、お読みになった情報をご教示下さい<(_ _)>
よろしくお願い致します(^・^)

「インドをとおって 日本にたどり着いた人たちがいることを書いていますね。ということは 出雲のインドが故郷で奈良時代頃までは重要な位置にいた・・」

わぁ〜本当にめちゃくちゃ気になります。すごく、こういうお話、興味が湧きます。

「大化の改新の頃は まだ (鎌足は)唐国人であることを遠慮して・・・中臣姓を名乗っていた。」

学校で習った歴史とは、実際は違うのですね。
教科書には書かれない事(書けない事?)が沢山あって・・・
私、もしかしたら、「書けない事が書かれている教科書」であったら、すごく勉強していたかもしれません・・・・(なんてことを言ってみたりしてみました(__))

明日は、弟の病院に行って来ます。
母の代理で先生との面談があるので、いつもよりは、早く出発するのですが、このような姉なので、弟も心もとないかも・・

弟の病院は合志市ですし、場所は、良峯安則が住んだ山本郡楠原のすぐ近くです。

時間があれば、行ってみたいのですが(・_・)(でも、いつも面会に行くと、弟は、私の帰りのバスぎりぎりまで『姉ちゃん姉ちゃん』とこの調子なので、難しいかな?とは思うのですが・・
(いくつになっても、男の子?は甘えますね(-_-)でも、新しく入られた看護師さんからは、私は妹と勘違いされていまして・・私が否定しないと、弟は必死に看護師さんに目で訴えます。(^・^))

ただ・・
弟の方が、子供の頃、祖母や平川の伯父そして椎葉の伯母から聞いた事をしっかり憶えているのですよね・・(当時から弟は発症していましたが、皆、弟を宮原の後継ぎとして、とても大事にして、尊重していました)・・私が、ちょっとヤキモチを妬くくらいにです。
「みなみのじいちゃんがこう言う事を言っていた!」とか、私が完全に忘れていた事を弟はしっかり憶えています。
だから、「ハッ!」っとする話が突然出てきたりします。

いつも、言っていますが、私は弟の分まで、頑張らなければと!

「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか 最強11神社」が手元に到着するまで、書かれている言葉の意味が解る程度(基本のき・常識の部分です(__))までは、勉強しておかないと(>_<)

あの・・・本当に何も知らない!と皆様、呆れていらっしゃるでしょうね・・

でも、恥ずかしいですが、私は自分の無知を隠す事なく、それを克服出来るように頑張ります。

では<(_ _)>(^・^)
[52]白石さんからのコメント(2014年09月27日 01時52分39秒 ) パスワード

こんばんは
武士が良く唱える 南無八幡大菩薩

うちは 真宗になってるし・・・と 思っていたら
http://maturinookkake.blog.fc2.com/blog-date-20111229.html
子  千手観音( 縁日七日)   元寺小路  観音堂
丑寅 虚空蔵菩薩( 十三日)   向山    虚空蔵堂
卯  文殊菩薩( 二十五日)    茶屋町  文殊堂
辰巳 普賢菩薩( 二十四日)    向山   愛宕神社
午  勢至菩薩(二十三日)    北目町 二十三夜さん
未申 大日如来(八日)      柳町    大日堂
酉  不動明王(二十八日)    三滝―新伝馬町 不動堂(明治四年新伝馬町に移す)
戌亥 ★★阿弥陀如来(十五日 )  八幡町   大崎八幡
〔中略〕阿弥陀は八幡の本地仏なる故同じとされた。
これらの神仏には真言宗・天台宗の寺院か修験が別当をしており、祭礼にはその生年に当る者がよく参詣した。』★★

とありました。
以上「宮城県仏教史」より抜粋

阿弥陀は 卑弥呼の頃 漢王室ですでに研究されていたそうです。
ーーーーーーーーーーー
比叡さん随一の知恵者・法然は 厳しい修行をしなければ得度できないことから女・貴族などでもできる 修行に阿弥陀の存在を知り 浄土宗を開いた。
そのことで 比叡山を追放されてけど、
この部分 私なりの理解です。言葉たりません。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
法然は「 藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)を与えられる。

藤井
皇室に入ると この 字は 葛井に変えられる。
阿保親王の母・葛井道依の娘)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03014.htm より王氏。

最澄先祖母方に王氏。北魏・北斉などにも 王氏が関与している。

法然上人の父・漆間時国(うるまのときくに)は、美作国(岡山県)久米の押領使でした。母は 秦氏。・・・この部分私は清原氏ときおくしていたのですが。

[53]白石さんからのコメント(2014年09月27日 02時33分53秒 ) パスワード

漆間と宇留間は 同義語。
宇留間は 琉球の古名。
また 岐阜県各務原(かかみがはら)市鵜沼の旧地名。
岐阜とは 周が起こった 岐山からきているという。過去にネットでひろったのですが・・・

古代は 新羅は琉球・台湾あたりにあったという。
ーーーーーーーーーーー
八幡でしたね。
 ネットより
妙見菩薩 え〜。この項目はムッチャむずかちいのれす。神仏習合や密教・真言密教・ 天台密教などなど、 関係項目が ... そしてこの妙見信仰と、もともとこの地にあった八幡 信仰とか習合して、 千葉一族という武士団の守護神となっていったよう ...

http://glosbe.com/ja/en/%E5%A6%99%E8%A6%8B%E8%8F%A9%E8%96%A9
妙見菩薩
明治 元年 ( 1868 年 ) 、 仏教 的 神号 の 八幡 大菩薩 ( はちま ん だいぼ さつ ) は★★ 明治 政府 に よ っ て 禁止 さ れ た 。★★

八幡大菩薩と妙見菩薩で検索

していて、神仏混交時代・十一面観音菩薩 ...


立木神社と妙見菩薩
この神様(妙見菩薩)は、
菩薩の総大将であり
青龍に乗り左右の手には
★日輪と★月を携える寿命の神 で ... が実るまでの言葉があるが 8という数字も
★妙見菩薩と同体とされる★八幡大菩薩
の8 か 北斗七星と北極星を足した総計8から柿を植えたのかもしれない。
★妙見菩薩と八幡菩薩は同体
★千葉一族の守護神
★成田ですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
八幡大菩薩御縁起 - 成田山仏教図書館蔵書目録
成田山仏教図書館蔵書目録/書 名:八幡大菩薩御縁起/叢書名:神道大系 文学編2 中世神道物語.

成田山仏教図書館蔵書目録/書 名:八幡大菩薩愚童記/叢書名:神道大系 神社編 42 阿波・讃岐・伊予・土佐国.

平将門の新皇即位と菅原道真・八幡大菩薩−菅原道真・八幡神をめぐって

成田山仏教図書館蔵書目録/書 名:平将門の新皇即位と菅原道真・八幡大菩薩−菅原 道真・八幡神をめぐって−/叢書名:千葉県史研究 9.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
菩薩には雷神の性格があるらしいのですが、道真公に関与しているのか わかりません。目録だけ出ました。

しかし
過去に 妙見が出たとき、徳川家康もまつられる神社があって
菅原は 家康の母方の系に出てくるのもあるので 何らかの関係があるかもしれない。

菊池は 宮原。
菊池と関与して 西郷。
家康の子・二代将軍秀忠の母は 菊池氏で西郷の局。
-----------------------
妙見といえば 白山で 菊理姫。伊弉諾とイザナミがケンカしたとき 仲裁したという人。
菊理媛神 - Wikipedia
菊理媛神、又は菊理媛命(ククリヒメのカミ、ククリヒメのミコト、キクリヒメのミコト)は、 日本の神。加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比・神(しらやまひめのかみ) と同一神とされる。



[54]白石さんからのコメント(2014年09月28日 01時31分07秒 ) パスワード

子孫様 こんばんは
p77
バビロニアの菊花紋は アラブであっては ★サバ王国、ヴァン王国、★ペルシア王室の紋章

サバ王国について 過去に 佐波神から しらべ 地域への便りで書いたことがありますが、山口県たたら浜(佐波郡)あたりにいたか 下益城郡にいたか 

自分でも 送ったメールは消してしまっていて パソコンも変わっているので 今 ぱっと書けませんが 

@宮中(サバ王国での)で 白馬を 走らせていたそうですよ。
Aサバ王国はシバ王国でもあり、ヒンヅー教にも つながっているようです。
そして
B佐波郡が ヤマトタケルが九州美々津縣へ向けて 出立した港です。

次に

ペルシアと漢王朝で検索をかけると
蘇我氏以前 | セレンディピティ - 楽天ブログ - 楽天市場
当時の支配層が、すべてオリエントの移民(秦人・ペルシアとユダヤの混血)だったから ですが 夏がウルク、殷がイシン、周がアッシリア、秦がペルシアの当て字であり、漢王家 の指示により 【史書】を著した司馬遷が宮刑に処せられた真相も李陵 ...


http://saigaijyouhou.com/?m2=res&no=2875&sp=1&page=5
前のページ 真実を探すブログ
司馬還の史記は偽史より
[B.C.256]

バクトリア知事ディオドトスが再びクーデターによってグレコ・バクトリアを建て、ディオドトス一世と称した。ところが、B.C.248年、オリエントの混乱のため、グレコ・バクトリアは宗主国ギリシヤとの連絡路を失って孤立した。そのため、B.C.246年、ディオドトス一世はペルシアやユダヤからの亡命者とともに中国大陸に至り、中原近くに「秦」を建てた。

[B.C.221]

バクトリア王ディオドトス一世は、秦王政を名乗り、清強なペルシア軍団を率いて中国統一に成功すると、自ら「秦始皇帝」を名乗って秦帝国を建国した。が、その時、もはやオリエントに帰る望みは絶たれていたため、秦王らはオリエント史を漢訳して、せめて史書の上だけでもと、オリエントを中国に移し替えることにし、それまでの史書をことごとく焼き捨てさせた。









[55]白石さんからのコメント(2014年09月28日 02時27分00秒 ) パスワード

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140926/wlf14092621300031-n1.htm
高野山・執金剛神立像、重源の要請で快慶が制作?「建久八年」の文書 ...
1日前 - 高野山真言宗総本山・金剛峯寺(和歌山県高野町)にある快慶作とされる木造執金剛神 立像(しゅこんごうしんりゅうぞう=(国重要文化財)の内部から、「建久八(1197)…

高野山と東大寺の間に 深いつながりがあったことがうかがえると テレビでも言っていました。ネットで検索すると 上が出ました。

重源
宋の人。
私が前に くりくりお目目の大仏様と書いた人。
称号は 南無阿弥陀仏

余り このスレには 関係がありませんね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
子孫様 
ぜひ こちらを ご覧ください。
http://saigaijyouhou.com/?m2=res&no=2875&sp=1&page=5

http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,ezh_ja,bT,uaHR0cDovL2pqenguamluamlhbmcuZ292LmNuL3N6eC9uZXdzdGV4dC5hc3A/aWQ9MTU3MzQ=
晋江郭姓源流 - 晋江政协
黄帝子孫
週文王季弟虢のおじは虢の国に封じることを受ける

なにがどうなっているのか?で すが
安倍彦・長脛彦兄弟は 晋の姫と結婚しています。本から得たことですが。

[56]子孫よりさんからのコメント(2014年09月28日 09時22分47秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございました(__)(^・^)

昨日は、弟に会いに行って参りました。
お陰さまで、弟の調子はとても良く、先日お話した筆を咥えて描いた「馬」の絵も完成していました。
11月に病棟の文化祭が開かれます。
その際に展示されるとの事で、昨日は弟より「その時の楽しみに(^・^)」と言う事で絵は見せてはもらえませんでしたが、私も完成した絵を楽しみに文化祭に参加したいと思います(^・^)

白石様、沢山のご教示本当にありがとうございます。

※「藤井」
かなり、以前コメントした事がある「良峯」を名乗られていた方
三条公茂。この方について 鎌倉遺文では

伊勢少掾藤井松永内竪頭目良峯充村 <中宮大夫藤原朝臣>となっています。

「藤井」ですね・・「良峯充村」=三条公茂
三条公茂・・まだ、コメントしていませんが、この方も結局「藤原師高」とは繋がっています・・・

それはさて置き(__)

「バビロニアの菊花紋は アラブであっては ★サバ王国、ヴァン王国、★ペルシア王室の紋章」

あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
物凄く興味をそそられる内容です!!

私も早く読みたいです!!
子猫も少しずつ元気になってきましたので、通院は今週いっぱいくらいで大丈夫かも・・

本当に楽しみです(^・^)

所で・・・
昨日、弟の病院で突然「ヒラメイタ」事がありまして・・
次のコメントでお話させて頂きます。

では<(_ _)>(^・^)
[57]子孫よりさんからのコメント(2014年09月28日 09時24分35秒 ) パスワード

追記

白石様、ぜひ読むようにと教えて頂いた記述、じっくりと読ませて頂きます。

ありがとうございました(__)(^・^)
[58]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月28日 10時36分43秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「バビロニアの菊花紋は アラブであっては ★サバ王国、ヴァン王国、★ペルシア王室の紋章」
 
紋章に関心をお持ちなら下記URLを。

http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#024
 
さらに下記書籍を読めば、ユーラシアの東西両端に家紋は繁延したことが解る。
ヨーロッパの紋章・日本の紋章 (シリーズ 紋章の世界)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E7%B4%8B%E7%AB%A0%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%B4%8B%E7%AB%A0-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E7%B4%8B%E7%AB%A0%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E6%A3%AE-%E8%AD%B7/dp/4309222927/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1411867601&sr=8-1&keywords=%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E7%B4%8B%E7%AB%A0%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%B4%8B%E7%AB%A0
[59]子孫よりさんからのコメント(2014年09月28日 10時48分12秒 ) パスワード

表題
「弟の病院がある場所」について

昨日、弟の病院で病院側と患者・患者家族との懇談会に参加しました。
(母は三者面談と言っていたのですが・・もう!母の言う事は・・仕方ないか(__))
会場は、病棟とは少し離れた、外の連絡通路を通っていく部屋で行われました。
懇談会が終了して、連絡通路を歩きながらぼんやり景色を眺めていました。
この病院は以前は国立病院でしたが、今は国立行政法人国立病院機構と変わっています。
膨大な敷地の中に様々な木々、そして自然の草花と、とてもすばらしい環境の中にある合志市の病院です。
そこで、ふと「ここは、病院が立つ前はどのような場所だったのかな?」と思いました。

今朝、早速、調べたのですが・・

まず、「合志市」についてです ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E5%BF%97%E5%B8%82

合志市(こうしし)は、熊本県中北部の市。2006年2月27日、菊池郡合志町・西合志町が合併して誕生した。

歴史[編集]
中世
建久年間(1190年 - 1198年) 合志郡の地頭職に任じられた中原師員によって竹迫城が築城される。
1337年(延元2年/建武4年) 南北朝時代、北朝方の合志幸隆が守る竹迫城を、南朝方の菊池武重が攻める。
1580年(天正8年) 合志親為、肥後に侵攻してきた島津氏と、これに与同する城親賢と久保田に戦って敗北。
1585年(天正13年) 竹迫城、島津氏の侵攻を受ける。新納久饒および川上忠堅の軍勢を合志隆重が迎え撃つが敗れる。
1587年(天正15年) 豊臣秀吉の九州征伐を受け、薩摩へ撤退する島津氏が竹迫城を焼却。

※建久年間(1190年 - 1198年) 合志郡の地頭職に任じられた中原師員によって竹迫城が築城される。
(・_・)以前「竹迫城」についてコメントした時には、全く気が付きませんでしたが、中原師員(師貞)は合志郡の地頭だったのでした・・
※合志幸隆が守る竹迫城・・
以前コメントした
「※合志氏一族の平川行親(合志隆祐の四男)」という記述が頭をよぎりました。

竹迫城 
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/takaba-jyo/
築城年代は定かではないが建久年間(1190年〜1199年)に中原師員(竹迫輝種)によって築かれたと云われる。 中原師員ははじめ原口城を居城としていたが、後に竹迫城を築いて移り竹迫氏が代々居城とした

(・_・)あの・・・城跡が表示されている地図をご覧ください。

竹迫城の左側、緑地帯があり「合志市」の文字がある場所。
この緑地帯の一角に弟が入院している「再春荘」病院があります。

良峯(平河)安則が居住した楠原に近いとは聞いていたのですが、竹迫城にも近かった・・・
原口城
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/haraguchi-jyo/
築城年代は定かではないが鎌倉時代に中原師員によって築かれたと云われる。 建久年間(1190年〜1199年)に関東より下向した中原師員が上荘に竹迫城を築いて移るまでに在城した館という。

現在の竹迫日吉神社周辺が城址で、神社の背後には土塁と空堀が残っている。

原口城は竹迫城以前の館といわれているが、古地図によれば、竹迫城の南西側を守る出城として活用されたのか、新城という名で掲載されている。
※地図をご覧ください。こちらも病院ととても近い場所になります。
城主
中原師員
所在地
熊本県合志市豊岡字宮の本(竹迫日吉神社)

そこで、病院周囲の地図を見てみました。

解りやすく、ブログに画像としてアップしています。
竹迫城・原口城・須屋城・楠原城・千束城などの跡が、病院の周囲を囲むようにありました・・
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11931315528.html

須屋城
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/suya-jyo/
築城年代は定かではないが、 南北朝時代に須屋隆正の居城と云われる。

楠原城
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/kusubaru-jyo/
築城年代は定かではないが鎌倉時代に鹿子木貞教によって築かれたと云われる。 鹿子木氏は中原氏流大友一族で貞教が鎌倉時代に鹿子木荘の地頭職を得て下向し鹿子木氏を名乗ったのことに始まるという。

以後、鹿子木氏の十代目鹿子木親員(寂心)までおよそ三百年在城したという。
城は楠原集落の北東端にある楠野神社一帯に築かれていたという。この神社はちょうど丘陵の北東端にあり、北と東側は天然の要害となっている。

合志市 名所
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%90%88%E5%BF%97%E5%B8%82_%E5%90%8D%E6%89%80%E3%83%BB%E6%97%A7%E8%B7%A1%E3%83%BB%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E7%A5%AD%E4%BA%8B%E3%83%BB%E5%82%AC%E4%BA%8B

楠原城跡は、以前にもコメントしましたが、良峯(平河)安則が菊池経頼を頼って肥後に下向した後に最初に居住した場所です。
その後、鹿子木氏が築城後、鹿子木氏の拠点となった場所です。

今朝、ブログにアップした地図を見ながら思い出した事がありました。

かなり、以前コメントした、数年前に弟が一旦危篤状態に陥り、その後奇跡の回復となった、あの夜の事です。
あの夜、窓の外の光景を見たのは、私だけではありませんでした。
複数の方が目撃して、その後の弟の回復を担当の先生や看護師さんは「奇跡的です!」と言って下さいました。

あの・・・・
弟が40年以上入院をしている病院は、父や、祖母、秋岡(伊藤)の伯父、平川の伯父、深水の伯父・・親戚一同が真剣に検討を行い、探した病院です。
筋ジストロフィーの専門病棟があり、環境もすばらしいと・・
おそらく、進行がすすみ、一生治る事のない病気を持って生まれた弟、退院する事は一生無いであろう弟が、生涯を過ごす大事な場所を、皆で決めました。
他にも候補の病院は数件ありましたが、遠くてもここが一番良いとの結論でした。

先ほど、病院の周囲にあった城跡に名を残した「中原師員(師貞)」「合志氏」「竹迫氏」は今までの調査で、登場していました。
系図上では、関係性は未だ解りませんが
もしも・・・もしも、遠い先祖に何らかの係わりのある方々、一族であれば、弟は、本当に縁のある場所で40年以上過ごしてきた事になります。

良峯(平河)安則の名跡を残した場所とも、とても近い距離にあります。

気管切開を行って28年。
声を失い、何度も危機を乗り越えてきた弟。
幼児期に発症した例では、全世界的に見ても奇跡だと言われている弟。
弟は、きっと皆に「守られて」いるのだと思いました。

現在、とても調子が安定している弟の「馬の絵」を私は、とても楽しみにしています。

では<(_ _)>(^・^)
[60]白石さんからのコメント(2014年09月28日 14時43分32秒 ) パスワード

「阿蘇神社」縁起がある「宇佐八幡山王日枝社」の神紋は 「橘紋」。
山王日枝社(近江)には荒覇吐神が描かれている。
古代は夷をもって 夷を制するというやり方が 大和朝廷でもあった。

ウィキより
アラハバキ社は「氷川神社」の地主神である[6]。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので[7]、先住の神がアラハバキとみられる[8]。

出雲向家の方も 出雲神社は 自力で自分たちで建てたのだと言っておられ、国造家とはかかわりないと 言っておられました。歴史の変換の中で 国造家がまつるようになったようです。

この家には パピルスに書かれた古文書もあったようです。

「荒脛族」は神武東征以前の渡来人なり。武蔵国には奉斎神の荒脛社が多くあり、後世は「氷川社」に改称し、其の末社に落とされてある。
私の記憶では 氷川神社は 宮原。橘。
橘氏のおこりは 藤原不比等と縣犬飼橘三千代との間の子にはじまる。
藤原鎌足は 中臣鎌子であり、黒田鎌子。鎌足の子が不比等。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
良峯師高の墓にある 荒田のことば
前に言った言葉でしたが 良峯は 劉姓ということが どうも 頭にこびりついています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この頃 ネットで見つけたのですが
荒田井日羅夫
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埼玉苗字辞典
成 ナル 幸手に存す。ナルの詳細は鳴海(なるみ)条参照
鳴海 ナルミ 成・鳴のナルはナルウと発音され成生・鳴生(ナルウ)と書き、生(うみ)の字に海と書き、成海・鳴海をナルミと唱えた。例として、麻・浅のアソはアソウと発音され麻生・浅生(アソウ)と書き、生(うみ)の字に海と書き、麻海・浅海をアサミと唱え、秩父地方では佳字の浅見(あさみ)を用いる。★成・鳴(ナル)はナリと同じで、古代朝鮮語の津(ナリ)・川(ナリ)のことで、人や物の集まる所を称し、★鉱山鍛冶等の非農民集落を称す。和名抄に尾張国愛智郡成海郷を載せ、奈留美(なるみ)と訓ず。大化元年七月紀に★「倭漢直比羅夫を尾張に遣はす」。大化三年四月紀に「倭漢直★荒田井比羅夫」と見え、正倉院文書に「天平十五年正月九日、荒田井直族子麻呂年十六、右人、尾張国愛智郡成海郷戸頭荒田井直族益麻呂戸口」。「天平二十年四月二十五日、荒田井直族鳥甘年三十二、尾張国愛知郡成海郷戸主荒田井海見戸口。荒田井直族牛甘年二十九、尾張国愛知郡成海郷戸主荒田井益万呂戸口」とあり。★倭漢直(やまとのあやのあたえ)族は大和国に渡来した漢国(あやのくに)、即ち韓半島南部の★安耶(あや)国の坂上族★なり。尾張国にも多く渡来し、比羅夫は尾張の人なり。坂上系図に「阿智王(応神天皇の御世、本国の乱を避け、七姓漢人等を率いて帰化す。大和国桧隈郡に居住す。尾張次角村主等是其後也)―都賀使王―志努直(倭漢直祖)―刀禰直―荒田井直佐留―□―比羅夫―能麻呂―益麻呂」と見ゆ。★古代の戦法は同族を用いて同族を征伐させた。大和朝廷は津軽蝦夷征伐に同族の坂上田村麻呂(刀禰の兄駒子の子孫)を征夷大将軍に任じて派遣した。★愛知郡成海郷(名古屋市緑区鳴海町の成海神社付近)は万葉集頃から鳴海と記され、陶器を焼いた古代の古窯跡群がある。鍛冶集団の安耶国坂上族荒田井氏は居住地を成海(なるみ)と名付けた。津軽に土着した鍛冶集団安耶人は苗字に鳴海、或は成田と称した。ナリタ条参照。各市町村に存す。○秋田県大館市六十戸。○青森県上北郡野辺地町四十六戸、北津軽郡金木町八十四戸、中津軽郡岩木町四十八戸、西津軽郡車力村六十戸、南津軽郡浪岡町十九戸、平賀町三十戸、黒石市百二十五戸、五所川原市百戸、弘前市二百七十戸、青森市三百二十戸あり。

★坂上族と荒脛は同族
★坂上族に荒田井の言葉が。

★成田・鳴海は成
★羊
羊氏は 卑弥呼の頃 魏の曹操と交流しており、
魏の曹操のまわり
辛憲英(シンケンエイ) 辛毗の娘。羊耽の妻。
羊氏は司馬氏・夏候氏と姻戚関係を持っていた。

蕃 バン 
中国は北方の異民俗を蕃(えびす)した。大和朝廷は中華思想により朝鮮半島の渡来人を蕃と称し、姓氏録には諸蕃と記した。佳字に番、伴、坂、半、榛等を用いる。

多村 タムラ 
多(おお)の転訛にて、多(大)ノ国の多族集落を多村、田村と称す。神武天皇東征以前のい渡来なり。大村と同じにて、多ノ国は後の百済、伽耶諸国となる。伽耶人は新羅の勢力が強い時は新羅人と称す。オオ条参照。岩槻、越谷、熊谷等に存す。

羊の祖先は
羊氏
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羊氏_互动百科
周官羊人之后,以官为氏。周代有官职为羊人,其子孙以官职为姓,遂为羊氏。出自祁氏,原为羊舌氏,为春秋时晋国大夫祁盈之后。始封于羊舌(今山西洪洞、泌县一带),其后遂为羊舌氏。后去舌为羊氏。

また
三 多胡羊太夫 天児屋根命の後裔忠臣羽鳥(服部になる?私注)連は物部連にくみして上野国へ遠流となると伝説あり。以下略
四 多治比姓羊太夫 風土記稿比企郡★平村(都幾川村)条に「大般若経百二十一巻は慈光寺縁起云、貞観十三年三月前上野国権大目安部朝臣小水麻呂の書写・・・群馬郡南下村(吉岡町)の★多治比姓田胡氏系略之図に「天武天皇―穂積親王―上道王―多治比真人〓羊太夫」とあり。田子氏八戸現存す。同郡南大類村(高崎市)の天田氏系図に「穂積親王の子孫小幡羊太夫宗勝の三代目天田丹波守重忠を祖とす」とあり。天田氏四十戸現存す。多胡碑の多治比真人に附会す。

五 蕃族羊太夫 渡来人蕃(えびす)の集落を蕃田、伴太と称す。粟生系図に★「御堂関白藤原道長公―宇治関白頼通公―民部大輔(任隆是也。多胡庄・玉村・ミドリ・片山庄を知行す。宇治殿五男上野国に住す)―羊太夫(カラシナノ大明神と号す)―伴太大夫(依八幡殿仰、タン小玉党ニウタル)―伴太太郎(此スエハ上野国ニアリ)、弟伴太次郎―玉村次郎―片山武者五郎師綱―粟生五郎左衛門尉広隆(能登国羽咋郡粟生保知行)」と見ゆ。子孫は武州成田氏★にて、永正四年旅宿問答に「関白道長の孫・式部大輔任隆、武州の太守として下向し、幡羅の郡に御座す。郡徒之を称して幡羅太郎と号せり。此の曽孫に成田の三位式部大輔助隆、是れ八幡殿の伯父と申し伝へたり」と見ゆ。任隆は羊太夫にて、藤原氏領の家司なり。
六 新羅族羊太夫etc
とあちこちちらばりながら 子孫が下りてきたように見える。

祁氏には 祁姓劉氏があったと思っており、劉邦のずっと昔の祖先になったように思っています。
辛氏は検索をかけたのですが、出てきたのは 5つ源流があるらしい、高辛氏の后がいて 辛氏になったらしい ということしか わかりませんでした。しかし、これも あやふやです。読めないので・・・
また 似姓とも・・・



[61]子孫よりさんからのコメント(2014年09月28日 18時29分40秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。
日本の苗字七千傑様、先日ご教示頂いた
「「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか 最強11神社―八幡・天神・稲荷・伊勢・出雲・春日・熊野・祗園・諏訪・白山・住吉の信仰系統 」(幻冬舎新書)
購入致しました。(^・^)
早速、勉強させて頂きます。

本日ご教示頂いた、「ヨーロッパの紋章・日本の紋章 (シリーズ 紋章の世界)」もすぐに購入したいと思います。
楽しみが増えています(^・^)
ありがとうございます。

白石様
「氷川神社」のお話ですが、すごく興味が湧きました。
確かに、氷川に宮原三宮社があります・・

宮原三神宮

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8E%9F%E4%B8%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE

宮原三神宮(みやのはらさんじんぐう、みやはらさんじんぐう)は、熊本県八代郡氷川町にある神社である。旧社格は郷社。八代北部全域の守護神として尊崇されている。
1159年(平治元年)、二条天皇の勅命により、平重盛が越中前司平盛俊に命じて社殿の造営がはじまる。1161年(応保元年)、社殿が竣工。平盛俊の弟である平盛房を社司に任じ、勅使平重盛らと共に神輿を報じて神霊を勧請し創建された。伊勢神宮内宮(天照大神)、日吉大社(国常立命)、下鴨神社(神武天皇)の3神を祀ったので三宮社と称した[1]。
1588年(天正16年)、キリシタン大名小西行長の焼討ちにより社殿が焼失した。1602年(慶長6年)、加藤清正公により復旧し、後の細川氏より手厚い保護を受ける。1661年(寛文元年)、神蔵寺をはじめ六坊が建立され、八代の妙見宮にならい宮地妙見宮となる。
明治維新以降、神仏分離令により、神蔵寺を廃し、社号を宮原三神宮と改称し、郷社に列した[2]。

御祭神は
 天照大神
 国常立尊
 神武天皇

国常立尊 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%B9%8B%E5%B8%B8%E7%AB%8B%E7%A5%9E

国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話に登場する神である。日本神話の根源神として一部神道・新宗教で重要視されている。

『古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊と表記されている。別名、国底立尊(くにのそこたちのみこと)。神名の「クニノトコタチ」は、日本の国土の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説[1]や、日本国が永久に立ち続けるの意とする説など、諸説ある。
天地開闢の際に出現した神である。『日本書紀』本文では、国常立尊を最初に現れた神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている[2]。『古事記』においては神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。
『日本書紀』では最初、『古事記』でも神代七代の最初に現れた神とされることから、始源神、根源神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。

国之常立神を祀る神社[編集]
神仏分離により、各地の妙見社は祭神を天之御中主神と改めたが、一部には、国之常立神を祭神に改めた社もあった。国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、以下の諸社で祭られている。
聖神社 (秩父市)(埼玉県)
蘇羽鷹神社(千葉県松戸市)
日枝神社(東京都千代田区)
大鳥神社(東京都目黒区)
二宮神社(東京都あきる野市)
山津照神社(滋賀県米原市)
城南宮(京都府京都市伏見区)
玉置神社(奈良県吉野郡十津川村)
熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の相殿
若桜神社(鳥取県八頭郡若桜町)
小村神社(高知県高岡郡日高村)

本日、購入した書籍をしっかりと読んで「全体の把握」に努力いたします。(__)

それから・・

「鍛冶集団」
実は、私、かなり不思議に思う事がありまして・・
先祖に係わる「名」なのですが・・
何故かかなりの確率で「刀」の名前と一緒なのです。

今、すぐには思い出せないのですが
「安則」「助廣」はそうです。
他にも、今まで何度も「あれっ?」と思う事がありました。
冗談抜きで、最初の頃は「まさか?刀の名前を適当に系図に・・?」な〜んて、とんでもない疑惑を持った事もあるほどです。(絶対に違いますが(ー_ー)!!)

いつかコメントしようかな?とは思っていたのですが。

刀と言えば、代々伝わっていた国宝級と呼ばれた刀の件もありますし・・

一つ一つ、勉強していきますので・・
よろしくお願い致します。

では<(_ _)>(^・^)
[62]白石さんからのコメント(2014年09月29日 03時04分45秒 ) パスワード

こんばんは
7000傑様
ご教示ありがとうございます。
頭がなかなか切り替わらなくて えっ ユーラシアって どこだったっけ?
ヴァン王国って ?
という状態です。あきれないで どうぞ よろしく お願いいたします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
とりあえず ネット検索で把握を と ユーラシアはわかりました。
ヴァン王国が なかなか 出なくて 変な (アニメみたいな)のばかりが出るので ダメかな?と 思っていましたが

目覚めて そうだ 古代史関係だから と 古代史も 検索条件に入れたら
出ました。

ウラルトゥ   鹿島先生の本でも 記憶がありました。
でも 詳しくはなんだったか?
ここまでわかったら あさって 図書館で調べようと 思います。

一緒に 表題が出ていて シシュナガ朝。
これも マガダ国が出て 16王朝 このあたりから 
確か 月の王朝 熊野に来た 善財王の話につながる 鬼谷で出産した妃の話
と 記憶がよみがえってきました。
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吉田神社
吉田経房・・・この人は 藤原山蔭のおじさん と 記憶していましたが、どうなのでしょうか?
京都大学のあたりですね。確か・・・

山蔭
茨木総持寺(真言宗・一条天皇の勅願所)を建てた人。道長の母方のおじいさん。

京都平野神社
社家の姓氏 平野流卜部氏
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-tospcc3&p=%E5%8D%9C%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E5%B9%B3%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80&ei=UTF-8
その格式は高く皇太子守護の神社
今木神が平城京の田村後宮に祀られ、久度神は大和国平群郡鎮座の式内社久度神社の神霊として祀られており、ここに古開神も併せて祭られてきた。
田村 !!多村 ★多氏 昨日かおととい コメントした。

それは、桓武天皇の外祖父・外祖母それぞれに由縁のある神を合祭・合祀したことによる。
 桓武天皇の母高野新笠は田村後宮に今木神を祀ってきたが、これは父方(天皇外祖父)和氏の神だった。
和氏!!たどりたどれば 秦王室に関係ある 高丘の地も入っている。

同様に母方(天皇外祖母)土師氏の神だったのが、久度神であろう。桓武天皇は外戚の父方・母方の氏神を合祭して新しい都の皇太子守護神とし、桓武天皇子孫への皇位継承を確実にしていくために創始された。
 
社伝では、桓武天皇の母高野新笠の先祖百済の聖明王にゆかりの遠祖仇首王を久度神とし、古開神を古の沸流王と開を肖古王にあてている。
前に調べたとき 平氏・源氏・菅原氏・もうひとつなんだったか?の若君もまいりに行っていたそうです。

系図が出ていますが 天御中主命にあがっていきますね。途中に黒田が・・・

平野神社と北野天満宮はとなりどおしだったと記憶していたので それで検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%B9%B3%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%A8%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E9%A6%AC%E6%BA%80%E5%AE%AE&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=slv1-tospcc3&x=wrt
天慶5年(942)7月12日に西ノ京七条二坊十三町(現在の西ノ京北町辺り)に住んでいた★多治比文子(たじひのあやこ)という女性に右近の馬場(現在の本社の鎮座地)に天満宮を祀るようにとの神託があったが家が貧しく祀ることができず、代わりに自宅の近くにお祀りをしていました。その後、天暦元年(947)に近江国比良宮の神主★神良種(みわのよしたね)の子の太郎丸という7歳の少年にも同じく神託があり、その神託の通り数千本の松が一夜にして右近の馬場に生じたので文子・良種・北野朝日寺の僧最珍等が協力して、同年6月9日に現在の場所に天満宮を建立したのが当宮の創祀となっています。
 
※この神社の それぞれの 社の前に立っている札に 宇多天皇と菅原道真だったか?に 血縁関係があったことを 書いてありました。

あれ〜 記憶があちこち 抜けてしまって もう一度 調べなおさなければ ・・・ と 思っています。
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確か 伊豆の卜部家というのがあって 吉田と別れていたんだよ と 記憶がよみがえってきて ウィキで検索

吉田社の系統は冷泉のち室町を家名とするが、永和4年/天授4年(1378年)に足利義満が室町第に移ったことに伴い、吉田兼煕がそれまで名乗っていた室町を憚って、社務を務める吉田に家名を改めた。江戸時代には堂上家(半家)として三家(吉田家・萩原家・錦織家)を数えた。平野社の系統は江戸時代に猪熊家のち★藤井家を称し、堂上家(半家)に列した。
000000000000000000000
これらの大本は
私の勝手な推測です。
ヴァン 伴 坂 に変化するではないか ?
苗字とか は バビロニアに関与する音を書いていたのではなかったか?
坂上もそうではないか?



[63]白石さんからのコメント(2014年09月29日 04時09分56秒 ) パスワード

埼玉苗字辞典
坂上 サカノウエ 浦和、草加、杉戸等に存す。サカウエ、サカガミ参照。坂(さか)は坂(ばん)の転訛にて、★蕃(ばん)の佳字なり。姓氏録には渡来氏族を諸蕃と載せる。蕃(ばん)条参照。坂上氏は中国の後漢帝を築いた劉氏の子孫と称す。応神天皇二十年に党類十七県人民、七姓漢人等を率いて来朝した阿智使主劉照は大和国高市郡桧前村(奈良県明日香村)に居住して、東漢(やまとのあや)又は倭漢と称した。但し、此の一族は朝鮮半島南部にあった★加耶諸国の呉国の出身者が多い。加耶諸国の内に安羅(あら)国があり、安耶(あや)とも称す。漢(あや)は中国の国名では無く、★漢人は安耶国の渡来人を称す。クレ、アヤ、アラ条参照。

【日韓】 日本文化の根は檀君天孫文化〜私たちの古代史、日本皇室に ...
http://tablet2ch.com/2c/kamome/news4plus/1312122180/all
日本文化の中には私たちの古代史がそっくり入っている。

天皇が祭りを勤める時に着る赤い服にもその痕跡がある。服の左側肩の部分の三足烏と右側の
ヒキガエル模様は驚くべきことに百済王の袞竜袍と全く同じだ。1926年、日本王室宝物倉庫から
出た百済の袞竜袍の絵がこれを証明する。

ところでさらに驚くべきなのは新嘗祭の日に祭る神が「韓神」ということだ。しかも最後に「アジメ
(おばさん)、オゲ オ,オ,オ,オ オゲ」という★古代新羅語がそのまま出てくる事実、これは日本の天
帝が我が国から渡っていったことを証明するものだ。

新嘗祭の始まりは★崇神天皇といったが彼は新羅の人だ。日本の‘古事記’と‘日本書紀’二史で
「新羅の天日槍王子が熊の神壇と玉、刀、もろ刃の矛、青銅鏡など七種類を持ってきた。」という
記録と崇神天皇が★三輪山大神神社で初めて天帝に上がったという記録がある。

多治比氏
氏守の娘高子は嵯峨天皇妃、門成の娘池子は淳和天皇に仕え同子内親王を産む。

伊達氏は 総持寺に関与する山蔭と同じ流れになる。大友氏もそう。


[64]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月29日 20時46分51秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>ヴァン 伴 坂 に変化するではないか ?
 
ヨタ話の典型例でしょう。
南匈奴単于の後裔劉淵(光文帝)裔和薬氏の末裔に坂氏。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03028.htm
しかし坂氏は清和源氏頼光流を称している。
ここに吉田も顕れる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004c1.htm
 
劉姓だから漢王室と反応するむきが多いが、漢王室外戚に劉姓を乱発したのが現実。
九州福岡に多い古賀姓は漢王室裔でなく、実は南匈奴単于の後裔が大半。
後漢光武帝と(再興)の漢高祖光文帝、武と文の紛らわしさ、錯覚しやすい。
日本でも源平藤橘を外戚に乱発したのだから、目くじらをたてることもないが?
[65]白石さんからのコメント(2014年09月29日 22時01分15秒 ) パスワード

7000傑様 ありがとうございます。
なかなか 事情がわからなくて

でも 
しらべているうちに いろいろ 勉強になることが たくさんあります。

子孫様 こんばんは
今 良峯の言葉を ネットで見て忘れないうちにと思い書いています。
―――――――――――――――――――――
その前に 韓流ドラマで 後宮の涙というのをみていて ドメールとか吐谷渾とか出てきたので 調べていました。このドメールの女性とは 回族と似ています。どらまなので 実際はわかりませんが。でも そういう容貌を意識して配役しているとも思えます。

彼らは 使臣であり 商売もしており、突厥にも売りに行っていた。
吐谷渾とは 
吐渾谷は文字を持たず、従って吐谷渾文字の文献は存在しない。
唐の公主を妻にたびたび迎えた。 

・・・中園の文献から吐谷渾語を拾い、その検討によって、
・・・しかしベリオ氏同司巴ロ0同は吐谷渾について記@吐谷渾の支配者たちを
蒙古語族と推定した。との推定は一つの優れた見解としなければならぬが、事責唐代の車内海・チベットの地名には蒙古語に近いものが少くないのである。
しかしこれらの蒙古語的地名は、嘗然本来は吐谷渾語であったと考えなければならない。中略

唐初の頃
弄讃(ソンツコノ〉は年若くして位を嗣ぎ、性質は勇武で経略の才に富み、
その隣園の★羊同(注羊氏ですね)やもろもろの美(きょう族のきょうの漢字を書いてありましたよ。文字化けしています)族は皆これに服従した。

弄を検索すると
高祖持御史大夫印,弄之。——《汉书•周昌赵尧传》. 得鹊子还下弄;神气自若,傍若无 人。——《世说新语•简傲》. 3、弄,姓氏,弄氏。弄姓主要分布在中国广西壮族自治区 玉林市的成均镇和樟木镇等地方。 4、弄,上海小区名称,一般以弄代替多少栋。
※樟木があるところに 分布し増えた 。 らしい。
※かささぎ の 言葉もページにはあり カササギは新羅昔氏の事。
又 調氏(坂上一族)。

http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,ezh_ja,bT,uaHR0cDovL2JhaWtlLmJhaWR1LmNvbS92aWV3LzEwMzIwNjIuaHRt
こういうのもありました。少しは意味がわかりました。四川の大学の先生の祖先の墓。
弄良岑氏墓编辑
良の岑氏の墓でして編集します
※四川あたりにあり 大学の先生の祖先の墓。

弄花抄 - Wikipedia

本書「弄花」の名称は三条西実隆の師にあたる肖柏の号「弄花軒」によるもので、実隆 自身の命名であると考えられている。広島大学国文学研究室所蔵平瀬家旧蔵本は『源 語弄花抄』と題されている。肖柏が一条兼良や宗祇の源氏物語についての講釈を聞いて・・・
.
吐谷渾はチベットの青海あたりにいた。吐蕃より ずっと前の世代。
我が国の文化を国風文化にしたのは 良峯安世や林ほか 全員12名だが 舞楽の「青海波」は 優美で螺鈿の太刀を帯びて 平氏の君や源氏の君も踊った。

渾をはりつけようとすると 海になります。
この語のもとは 海なのでしょうか?
青海あたりは 塩湖で
青海波は湖に浮かぶチドリが遊ぶ様子とか ナミがキラキラする様子を表したものだということです。
しかし、最澄が 留学中にあれだけの知識を持って帰国したということなど やはり 彼が あちらに 故郷をもっていたのではないか?と ネットにはありました。
今 留学している人たちだって その国の事情・生活全般を吸収するのには かなりの経験・日数が 必要で
まず 生活に不自由なく話せるようになって やっと難しい 講義もうけられるようになるのでは ないでしょうか?それが あちらで育っていれば もしくはそういう人の中で育っていれば  すぐになれて 吸収も早い。

坂上は百済氏で東漢で 和漢で ・・・ 坂上(劉姓)の中で だれだれの子となるとき その 母の人が劉姓でない人 とか。
[66]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月29日 23時20分07秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>坂上は百済氏で東漢で 和漢で ・・・ 坂上(劉姓)の中で

これもヨタ話
前漢高祖(劉邦)の後裔は文氏(文忌寸、文宿禰等)が著名で河内を本拠とするので当該氏族を西漢(西文)氏、大和の後漢帰化族文氏を東漢(東文)氏と呼称する。
百済氏は余姓ですから間違えない様に。百済氏は扶余族(中国東北部)で坂上氏は漢族なのは常識ですよ。
記紀、古語拾遺、姓氏録で確認して下さい。
劉姓の場合は匈奴族などにも賜姓しているがね。

>最澄が 留学中にあれだけの知識を持って帰国したということなど やはり 彼が あちらに 故郷をもっていたのではないか?と ネットにはありました。
 
最澄は帰化族の三津首の裔で漢語会話に不自由しないし、当時の朝廷は漢語が標準語。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03004.htm
 
仏教界は漢語どころか梵語の駆使も常識。
中央エリートと一般庶民の語学レベルは天地雲泥の差。
朝廷文書から記紀や拾遺、姓氏録も全て漢文。(3世紀頃から続いているんだから当たり前だが)
漢語が当時の東アジア公用語だったのだから、現代感覚で考えないように。
[67]子孫よりさんからのコメント(2014年09月30日 00時56分30秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

コメント遅くなりまして申し訳ありません。
実は、今、体調が・・自律神経が変?なのかな・・と
土曜日、弟の病院に行った日ですが、じつは、その前日までの数日間は殆ど眠れなかったのです。寝ようとしても目がランランとなって、眠くならないというか。
所が、弟の病院からの帰りのバスから、異常な程の眠気がおそいまして。
帰宅して、横になりそのまま寝てしまいました。
昨日も、ものすごい眠気が一日中続いて、今日も、同じように眠くて眠くて・・
これではいけない!と掃除や食事の準備などはするのですが、片付けをしている時からすでに眠くなります。
先週の睡眠不足を今週補っているのかな?と。(そんな事はないですよね・・)
運動不足かもしれません。
寝不足の時は、少しウトウトしている時に、目まぐるしく夢を見たのですが、今は、全く見ないです。脳が休息したい休息したい!となっているのかな〜?
規則正しい生活を心がけます(__)

日本の苗字七千傑様のご教示にありました
「九州福岡に多い古賀姓は漢王室裔でなく、実は南匈奴単于の後裔が大半」
結婚するまでは、私は、父と久留米に住んでいたのですが、知り合いの方に「古賀」という姓が沢山いました。(久留米や筑後地方・八女や柳川の友人でした)
福岡県に多い姓だったのですね。

高良内という地域に住んでいたのですが、高良大社の裏、山を切り開いた新興住宅地でした。父の自衛隊は「高良台」

今、色々勉強していますが、由緒ある場所であった事がやっと解りました。

白石様、ご教示ありがとうございます。
「良峯」という姓(言葉?)に意味があると言う事でしょうか?

「青海波」
源氏物語では光源氏と頭中将(とうのちゅうじょう)が帝の前で、ともに舞ったといいます。
ちなみに宇津保物語では頭中将の兄が「師澄」です。

平家物語では平重盛の子息、平維盛が後白河法皇50歳の祝賀で「青海波」を舞い、絶賛された事が書かれているとありました。
平維盛の妻は藤原成親の妹でした。
平維盛 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%9B%9B

そして、源義経の愛馬の名が「青海波」でした。

雅楽「青海波」は和邇部太田麿(わにべのおおたまろ)が曲を作り、良峯安世(よしみねのやすよ)が舞を作り、小野篁が詠を作ったと言う事です。

あれっ?!白石様のご教示から「青海波」をあらためて、調べていたら、眠気が襲う頭の中に何だか不思議な「感」が現れました???

そう言えば・・以前の調査で
「深田村の勝福寺は、平河氏が平重盛の菩提を弔うために建立されたものといわれ、本尊の木造毘沙門天立像ほか7立像が現在も残されています。」
という記述を見つけていたのでした・・

他にも
多良木町史 - 1051 ページ
平重盛菩提のため、深田村荒茂山勝福寺毘沙門天が彫作される。

平重盛の妻は藤原家成の娘「藤原経子」。
平維盛の妻は藤原成親(藤原家成子息)の妹

以前調べた時は、理解が出来なかったのですが、今なら「なるほど!!」と解ります。 そういう事ですね(-_-)

藤原経子 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%AD%90_ (%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%A5%B3)

藤原 経子(ふじわら の けいし/ つねこ、生没年未詳)は、平安時代末期の女官。父は中納言・藤原家成。兄弟に藤原隆季・成親がおり、成親は同母兄と見られている。左大臣・大炊御門経宗の猶子。
平重盛の正室となり、清経・有盛・師盛・忠房を産む。仁安元年(1166年)、叙爵。同年10月、憲仁親王の立太子にあたり、乳母に選ばれた。仁安3年(1168年)、高倉天皇即位により、従五位上・典侍となる。嘉応元年(1169年)11月の八十嶋祭では、勅使役を勤めた。夫・重盛の官位から、大納言典侍、大納言三位と呼ばれた(ただし、従三位に叙された時期は不明)。承安元年(1171年)以降の記録は見られないが、重盛没後も存命であり、その後出家したものと推測される[1]。

※左大臣・大炊御門経宗の猶子

大炊御門家。
大炊御門師経の母は橘政光の娘。
橘政光の系は「矢野氏」に繋がり、伊予橘氏の系でも「矢野氏」が繋がり・・?
どちらを見ても、「橘公長」「橘公業」に繋がっているような・・

大炊御門家・・「大炊」・・おおいのみかどけ・・おおい・・おおい?・・「大炊」?

でも大炊御門家は
藤原北家師実流。平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実(1068年(治暦4年) - 1131年(天承元年))を祖として創立された。大炊御門北、万里小路東に邸宅があったため大炊御門を称する。
でしたよね・・・

「大炊霧島神社」・・おおいきりしまじんじゃ
(・_・)(?_?)(・_・)・・・

しっかり本を読んで勉強致します(__)

では<(_ _)>(^・^)



[68]子孫よりさんからのコメント(2014年09月30日 09時25分11秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、いろいろ夢をみまして・・(内容はマタマタ(ー_ー)!!となりますので(__)でも・・目覚めて色々調査してみました)

今朝の表題は
「いろいろ調べていたら中原清業という人物について少しは理解出来ました」
でございます。(・_・)

まずは、こちらをご覧ください
落人伝說の旅: 平家谷秘話 - 143 ページ
同地の平家の末裔と伝える釘田氏の系図では、内府平重盛の八子、従五位常長を祖としていることになっている。 ... 同地の平川氏もやはり平家の末裔で、その証拠には宗家に刀剣などを所蔵していたが、それらはいつのころか失われていまはないという。

※鹿児島の釘田氏についての記述です。
と言う事は、上記の内容にある「平川氏」とは平光盛の系と言う事になるのかな・・?と。(こちらの宗家に刀剣などを所蔵していたが、それらはいつのころか失われていまはないと言う事ですね。よく似たお話があるものです(・_・))

そこで、「平光盛」。この方をもっと調べてみよう!と思いました。

そして、偶然、このような研究書を見つけました。
東京大学史料編纂所研究紀要 第23号 2013年3月
イェール大学所蔵播磨国大部庄関係文書について
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/23/kiyo0023-01.pdf

読み進めて行くとページ「(9) イェール大学所蔵播磨国大部庄関係文書について」に表題「中原清業」からなる記述が登場します。
<(_ _)>転記に時間がかかりそうですので、ぜひ、お読み頂ければと・・(__)

「中原清業はやはり史大夫であった清貞の男として・・・」
史大夫中原清貞の子・・中原清業。

山江村誌より
人吉庄は球磨庄の本家(蓮華王院)、領家(八条女院)預所(平頼盛 → 光盛、後見として中原清業)の権利を保障する形で成立したといえる。

他、書籍にて・・
領家は八条女院で、鳥羽院皇女・子内親王である。預所は対馬前司中原清業で、平頼盛の後見侍であり、大隅守・備後国目代・播磨国目代・大宰少弐などを歴任した、史大夫である。
それだけに「球磨臼間野庄」から「人吉庄」の成立まで積極的に係わった一人である。

(・_・)「人吉庄」の預所は平光盛(後見として中原清業)。
平光盛(後見として中原清業)から中原盛通。
徳治二年預所が中央势力である中原盛通から在地势力の平河師種に代った。

※史大夫中原清貞の子・・中原清業。

日本の苗字七千傑様の《大外記中原氏》 姓氏類別大観 中原師元の系に「清貞」という名の方が見えます。

中原清貞とは平清盛の養子「平清貞」なのですね。
平清貞 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E8%B2%9E

平 清貞(たいら の きよさだ、生年未詳 - 寿永3年2月7日(1184年3月20日))は、平安時代末期の武将。平清盛の養子。実父は大外記を務めた中原師元であり、兄に師尚がある。名は一説に「清定」とも。
早くから清盛に養われ、平家の公達として成長。一門の繁栄の中で尾張守に任官する。
寿永3年、一ノ谷の戦いにおいては、義兄知盛の指揮下に入り、生田の森の陣を警備する。しかし源範頼軍に陣を突破されると、従兄弟の経俊、義兄の清房とともに三騎で敵陣に突入し、討ち取られた。
子の師行は後に師尚の養子になり、中原氏に復姓している。

※平清盛の養子。実父は大外記を務めた中原師元であり、兄に師尚がある。
※一門の繁栄の中で尾張守に任官する。
※平知盛は義兄。
※子の師行は後に師尚の養子になり、中原氏に復姓

平清貞(中原清貞)の子が中原清業。

人吉庄預所
平頼盛 → 光盛(後見として中原清業)→ 中原盛通 → 平河師種

※平清貞(中原清貞)の義兄「平知盛」の子息「知忠」の乳母は西光の娘。
※平知盛の妻「治部卿局」。祖父は「藤原忠宗」
※治部卿局(平知忠の母)の祖父「藤原忠宗」と須恵小太良こと藤原家基の父「藤原家光」と・・
そして、しつこく何度も書きますが
謀反の冤罪を受け暇を賜り天に遣わされたと言われた「平河師高」に対して、文治三年十二月三日の天野遠景下文は、「謀反他人に勝る」として宇野御厨小値賀島地頭職に補任となっていて・・
所が小値賀島地頭職に実際に補任されたのは・・
藤原忠宗・藤原家光の弟「尋覚」。

(・_・)上記の繋がりに無関係と思っていた中原清業は・・実は繋がっていました(・_・)
さらに・・
※尋覚の母は「清原氏」。
※清原祐安は中原師元(清貞の父)の養子となり中原祐安となる。

以前、日本の苗字七千傑様に西光(藤原師光)の名について質問させて頂いた時に「おそらく母は中原氏」とご教示頂いていました。

再度(__)
人吉庄預所
平頼盛 → 光盛(後見として中原清業)→ 中原盛通 → 平河師種

今まで、中原清業と平河の関係が全く見えてこなかったのですが、上記の※マークを付けた内容を精査すると、私の「感」は確実に繋がっていると思うのですが・・

さらに中原師元について(あらためて(__))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%85%83
代々大外記を務める家柄に生まれる。元永2年(1119年)元服して音博士に任ぜられ、権少外記・少外記を経て、保安2年(1121年)には自身も大外記の官職に就いている[1]。天治2年(1125年)従五位下に叙爵[1]。以後、直講・助教などを兼任しながら大外記職を務め、保元2年(1157年)に掃部頭に任ぜられた際に一旦辞するが、永暦元年(1160年)に再度任じ、永万2年(1166年)まで勤め上げた。
こうした大外記としての豊かな経験から先例に明るく、大治3年(1128年)に家司として招かれた摂関家において、藤原忠実・頼長父子より厚い信頼を受け、その相談事に数多く与った。忠実との会話を師元が筆録した『中外抄』は、院政期の公家社会の様子を克明に伝える史料の一つである(同書の書名は中原の「中」と大外記の「外」から各々一字を取ったもの)。
保元元年(1156年)の保元の乱によって忠実が奈良の知足院に逼塞して後は、忠実の孫・基実の家司を務める傍ら、大炊頭や出羽守を歴任し、承安2年(1172年)には位階は正四位上に至った[1]。

※藤原忠実・頼長父子より厚い信頼を受ける。
※忠実の孫・基実の家司を務める傍ら、大炊頭や出羽守を歴任。
※基実の家司・・近衞基実。
 正室:平盛子(平清盛の娘)
 妻:藤原忠隆の娘
 長男:近衞基通(1160-1233)
 妻:藤原顕輔の娘
 次男:粟田口忠良(1164-1225) - 子孫は粟田口家
 女子:近衛通子(1163-?) - 高倉天皇妃、安徳天皇准母、准三宮
※妻:藤原顕輔の娘。藤原顕輔と藤原家保は兄弟なので、近衞基実の妻と藤原家成は従兄妹です。

(・_・)近衞基実の家司を務める傍ら、大炊頭や出羽守を歴任・・・・
されたのが中原清業の祖父「中原師元」なのですね( ..)φメモメモ

と言う事で
「いろいろ調べていたら中原清業という人物について少しは理解出来ました」
では<(_ _)>(^・^)
[69]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月30日 12時06分45秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>今まで、中原清業と平河の関係が全く見えてこなかったのですが、上記の※マークを付けた内容を精査すると、私の「感」は確実に繋がっていると思うのですが・・
 
中原氏も建前上は安寧帝裔の皇別だが、物部姓十市氏の裔。
遡れば伊予橘氏(物部姓)の宮原氏と同族じゃないですか。
良峯姓丹羽氏も児玉党(物部姓有道氏)の流れが?
平河氏も丹羽氏と同様、何らかの縁で良峯姓を名乗ったのでしょう。
究極的には饒速日命が曩祖か?
[70]子孫よりさんからのコメント(2014年09月30日 21時02分47秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「中原氏も建前上は安寧帝裔の皇別だが、物部姓十市氏の裔。
遡れば伊予橘氏(物部姓)の宮原氏と同族じ」

そうなのですね!!同族!
だから!以前コメントしたように橘の調査をしていると「中原氏」が登場していたのでしょうか!

物部氏の系で、今、驚きの情報を見つけました!(私が全く理解していないからなのですが・・)
物部氏 ウィキより 系譜がっ!!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E9%83%A8%E6%B0%8F

藤原宇合と石上麻呂の娘の間に産まれた方々が
藤原広嗣 藤原良継 の兄弟なのですね。

藤原良継 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E7%B6%99

藤原 良継(ふじわら の よしつぐ、霊亀2年(716年) - 宝亀8年9月18日(777年10月27日))は奈良時代の貴族。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の次男。初名は宿奈麻呂(すくなまろ)。官位は従二位・内大臣、贈正一位・太政大臣。勲四等。平城・嵯峨両天皇の外祖父。

系譜
父:藤原宇合
母:石川国咸大刀自[3] - 石上麻呂の娘?
妻:阿倍古美奈(阿倍粳蟲の娘) - 尚侍兼尚蔵
女子:藤原乙牟漏(760-790) - 桓武天皇皇后。平城天皇・嵯峨天皇母 ★
妻:蓼原氏
男子:能原長枝[4](768?-?)
生母不明
男子:藤原詫美
女子:藤原楓麻呂室 - 藤原園人母?
女子:藤原人数(?-809) - 藤原鷲取室、藤嗣母 ★
女子:藤原家依室 ★
女子:藤原永手室 ★
女子:藤原諸姉(?-786) - 藤原百川室、旅子母

★マークを付けた方々、今までの調査で登場されていました!!
★藤原鷲取そして藤原鷹取は其々「良峯鷲取」「良峯鷹取」という記述があり
以前の調査で時間軸が合わないから何故?と言っていた方々です。
★藤原家依
★藤原永手

そういう事か!

「良峯姓丹羽氏も児玉党(物部姓有道氏)の流れが?」

今から調査致します!
ありがとうございました。
[71]子孫よりさんからのコメント(2014年09月30日 21時26分25秒 ) パスワード

追記

尾張氏考
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-8.html

途中省略・・
既に「物部氏考」の項で述べてきたように、現在では一般的には、物部氏と尾張氏は天孫族である「天火明(あめのほあかり)命」即ち「饒速日(にぎはやひ)命」を始祖とした、同族とされている。

省略・・

2)尾張氏人物列伝
 先代旧事本紀に準拠して記す。併せて国宝「海部氏系図」及び記紀その他各種情報に基づく記事をも載せた。
2−1)天火明命(?−?)神世
@父:天忍穂耳命 母:栲幡千千姫(高皇産霊尊娘)
A妃:天道日女(屋乎止女・高光日女:大己貴神娘)子供:天香語山 
佐手依姫(市杵嶋姫・息津嶋姫・日子女神:素戔嗚尊娘)子供:穂屋姫
三炊姫(御炊屋姫:長髓彦妹)            子供:可美真手(宇麻志麻治)兄弟:邇邇芸尊
B呼称:あめのほあかりのみこと     別称:ニギハヤヒ
古事記:「天火明命」 日本書紀:「火明命」
別名:天照国照彦火明命(日本書紀)ーーー天照御魂神
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(日本書紀:神武天皇東征以前に大和で王として君臨
「物部氏」祖と明記。但し天火明と同一神とは明記されてない)
饒速日命(にぎはやひ)と天火明命は同一神と明記してあるのは「旧事本紀」である。
但し、「海部氏本紀」には「饒速日尊亦名天火明命」の記述がない。ところが子供には
饒速日の子供とされている可美眞手命(宇麻志麻治)の名が明記されている。
C尾張氏の始祖。同時に物部氏の始祖(旧事本紀)となっている。
古来尾張氏は、天孫と記紀にも明記されているが物部氏はその辺りがぼかされており、新撰姓氏録にも物部氏は、天神の項に入れられた。現在もこの辺りの議論はつきないようである。
D古事記では天忍穂耳命の子供となっているが、日本書紀ではニニギ尊の子供となっており、一書の記述の中に上記の記述あり。子供「天香語山」となっている。
記紀の記述的には殆ど登場しない人物である。
E各地の天照御魂神社で祭神として祀られている。太陽神

[72]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月01日 12時07分05秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>既に「物部氏考」の項で述べてきたように、現在では一般的には、物部氏と尾張氏は天孫族である「天火明(あめのほあかり)命」即ち「饒速日(にぎはやひ)命」を始祖とした、同族とされている。
 
問題のポイイントは天村雲命でしょう。
 
天火明命裔氏族綱要の丹波国造の彦和志理命以降の系譜。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
 
度会氏系図の彦和志理命以降の系譜。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02107.htm#001
 
そっくりじゃ有りませんか。
度会氏の祖、天牟良雲命も天村雲命と読みは同じ。
やはり尾張氏系譜に天村雲命は挿入されたもので、天忍人命は高倉下命の子で海神族が妥当でしょう。
安閑天皇、宣化天皇の母方が尾張氏なので、瓊瓊杵尊裔に変更して建前にしたのでは?
有名な籠神社祝家海部氏も海神族。
尾張の熱田と薩摩の阿多(吾田)は同じで、火神族と海神族は深い親戚。
バビロニアを故郷とする陸のシルクロード経由と海のシルクロード経由の合流。
昭和天皇も伊勢と熱田が存続するならば・・・の独白録が理解出来ますね。
饒速日命は別名の火明命が示す通り、火神族でしょう。
[73]子孫よりさんからのコメント(2014年10月01日 16時13分36秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

【尾張氏】《天火明命裔氏族綱要》姓氏類別大観そして《度会氏》姓氏類別大観を拝見致しました。

本当にそっくりでした。

尾張氏(祖 天火明命 火神族)の系譜に天村雲命(海神族)が挿入されていると言う事ですね。

「尾張の熱田と薩摩の阿多(吾田)は同じで、火神族と海神族は深い親戚。」

知識がありませんので、ひとつひとつ理解しています。
天村雲命 
天村雲命 あめのむらくものみこと

「旧事本紀(くじほんぎ)」などにみえる神。
饒速日命(にぎはやひのみこと)の孫。天香山命(あめのかぐやまのみこと)の子。伊勢神宮三神主のひとつ度会(わたらい)神主らの祖先神。天孫降臨ののち,葦原中国(あしはらのなかつくに)の水質がよくないため,天照大神(あまてらすおおみかみ)の命をうけ,改良したという。

全く、お話が変わるのですが
旧岡原村の地名についてです。おそらく正式な地名ではないと思いますが、以前学校や役場があった場所を「桧山」と呼んでいました。
別府という集落の「桧山」です。

先日、偶然に思い出したのですが、以前は「桧」が沢山生えていたから?と思っていたのですが、ここは山ではなく、完全に盆地の中の平地です。

桧山から少し多良木方向に進むと「熊野」そして隣の集落が「伊勢元」です。

岡原小学校と役場は、大正時代まで、宮麓地域、平川家の土地にありました。
役場・学校跡のすぐ横が祖母の実家平川家です。
今は、田んぼになっています。
そこから800メートルくらい下った所「桧山」に学校と役場は大正時代に移転しました。

山でもないのに「桧山」。
何か、意味がある地名なのかな?と思いましたが、きっとご紹介頂いた書籍にヒントが書かれているのかもしれないとは感じています。

地名で思い出したのですが・・
多良木の「平川家」何軒かは迫田(さこだ)にあります。
同じ迫田に「久我家」がありまして、多良木の平川と久我家は親戚です。
以前、辞書で「迫田」を調べたのですが「山間(やまあい)の小さな谷にある田。」とありまして・・・
でも、ここも、山ではありません。山から遠く離れた平地です。
もちろん「谷」ではありません。

故郷の地名は、地図にも載っていない、「侍村まちむら」のような地域だけの呼び名が多く残っていて、とても興味が湧いてきます。

宮麓の親戚を呼ぶ時には、深水は「横馬場」椎葉は「溝下」(幸野溝の下の集落)黒木は「切畑」、蓑田や星原(祖父の実家とは別)は「門前」と、地域独自の地名で呼んでいます。

そして平川は「みなみ」
同じ地域に2軒の平川があるのですが、でも、「みなみ」と呼ばれるのは祖母の実家の「平川家」だけです。
隣に別の「平川家」があるのですが、そこの方も祖母の実家を「みなみ」と呼びます。

だから、「みなみ」とは、やはり場所を表しているのではないと思います。

「桧山」から最終的には「みなみ」に関してと、まとまらないコメントになってしまいまして、すみませんでした<(_ _)>

さっ!!「物部氏」に関しての勉強を再開致します。
では<(_ _)>(^・^)


[74]子孫よりさんからのコメント(2014年10月01日 16時33分13秒 ) パスワード

追記

祖父の生家の周囲には家は全くありません。
集落にはなっていません。

少しだけ小高い丘になっていて、まわりは田んぼのみの1軒です。

そこから少し下ると「侍村まちむら」があります。
祖父の生家は宮麓集落のちょうど中心です。

祖父の生家から少し離れた地域に其々の集落が祖父の生家を遠く取り巻くようにグルリと集まっているという感じです。
祖父の生家がある場所には地域名は・・ないです。
何故だろう?あそこだけは地域名では呼ばないですね・・??

ふと思い出しまして・・

では<(_ _)>
[75]子孫よりさんからのコメント(2014年10月01日 16時55分25秒 ) パスワード

再追記

あの・・・冷静に思い出したのですが取り囲むというのはやはり違います。

祖父の生家は山から400メートルくらいは離れていると思うのですが、祖父の生家を中心として左右横方向合わせて200メートルくらい、真っ直ぐ山までは一軒も家はありません。

全て田んぼです。祖父の生家の上には山まで直線的に家は一軒もありません。
もちろん、その範囲以外は左右に集落は沢山あります。
何故だろう?何か意味があるのかな?と今になって思いました??

では<(_ _)>
[76]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年10月01日 18時04分22秒 ) パスワード

お久しぶりです。

私の親戚には、椎葉も溝下もいますね。
ともに、宮崎県椎葉村から来たと伝え聞いています。

恐らく、私の親戚にいる那須・甲斐・椎葉・溝下は
椎葉山騒動以降に球磨郡に移り住んできたのでしょうね。


これは直接は関係ないですが、吉田神社が出てきたので少し書きます。

吉田神社(京都市左京区吉田)と私は母方で縁が深いです。
私の母方の祖父は吉田神社と京都大学付近に実家がありました。

家も離れがあるくらい広かったそうで
帝大生が離れに下宿していたそうです。

祖父は帝大生の方に「米国と戦って勝てるのか」と質問すると
「勝てるわけがない。負け戦になるだろう」と聞いていたので

玉音放送を聴いて日本が負けたと知っても
特に驚く事はなかったようです。

祖父は下宿していた帝大生の影響もあり読書家でした。
私も、その祖父の影響を多分に受けているのでよく本を読みますね。

[77]白石さんからのコメント(2014年10月01日 20時19分43秒 ) パスワード

こんばんは
>子孫様 寝不足で目がらんらんと・・・

眠れない時でも 体を横たえて静かにしていると 体の疲れはとれます と 以前テレビでやっていました。
私は
頭寒足熱を 少し オーバーにして 
足は 冬のふわふわの二重になったあまり足をしめつけない ひざ下まである靴下をはき 頭は アイスノンを 熱があるときより 一枚多めにタオルを巻いて 寝ます。
すぐ 眠りにつけますよ。一度 おためしあれ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
弄良峯のこと
高祖持御史大夫印,弄之。——《汉书•周昌赵尧传》. 得鹊子还下弄;神气自若,傍若无 人。——《

日本の良峯と 直接関係してくるかは?ですが 百済永継も 飛鳥部奈止丸も 地名を負っていますね。
百済の王族ではあるけど。子供は父母がいて生まれるのだから 母の祖先に上の
弄氏につながるものが あるかもしれない。

周晶など 見えるが どういう関係になるかは わかりません。

遠い 祖先で 枝分かれした先かも しれませんね。

ここらあたりは 名前が先か?姓が先か?の類の話になるのだろうと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この間購入した本を読んでいたら
★日の神は ウツ
★つきの神は バル と 書いてありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
購入した本では
★八幡神は はちはた と 読むと
また検索をかけると
八旗八幡神の言葉もありました。

ここらは まだ 読み込んでいないので 書けませんが・・
以前 東条氏の バル神 ミトラ教。に関したページは 見ました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私には 腕の筋がないなあ と 思うこと
ウィキより
漢族に典型的な遺伝的血統があるわけではなく[8]、その実体は漢字の黄河文明を生み出した中原と周辺の多民族との間で繰り返された混血。ゆえに、異民族でも漢族の文化伝統を受け入れれば、漢族とみなされる。実際、漢民族は現代に至るまでの長い歴史の間に五胡、契丹、満州、モンゴルなど、多くの民族との混淆の歴史を経て成り立っている。

漢民族も 混血しているのですね。



[78]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月01日 20時40分39秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>旧岡原村の地名についてです。おそらく正式な地名ではないと思いますが、
 
当たり前でしょう、岡本と宮原の合成地名だからね。
 
小字については領主の趣味で付けられるから、地形に関係なく平安朝の京都を意識した優雅な地名が付けられることも有る。
田舎じゃ同苗が多く、小字で識別することが多いのも当たり前。
大字以上は意味があるが、小字以下は地形の意味無しだが苗字に使われることも有る。
 
財閥三井家も家を識別するために北家、南家など様々な識別家名が存在する。
それと似たようなものでしょう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004c_002.gif
[79]子孫よりさんからのコメント(2014年10月01日 21時36分50秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

公忠公の末裔様、お久しぶりです。(^・^)

公忠公の末裔様の御親戚「那須・甲斐・椎葉・溝下」家は、私の親戚と共通ですね。

ちなみに、私も、椎葉山騒動に関係していると考えていました。
祖母の姉が養女となっていた椎葉家には以前コメントして、すぐに削除した内容にも記していました「平家一門の守り観音」があります。

椎葉山騒動の舞台となった椎葉村には「平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという」伝承があります。
ここでもやはり「平知盛」です。

橘公長・橘公業は平知盛の家人であった訳ですし、平川もおそらく何らかの関係はあったのでは?と思います。(先日のコメントから)
椎葉山騒動が起きた後、縁を頼りに来られた可能性はあるのでは?と思っていました。

椎葉山騒動は元和5(1619)年
その後、建立された(1655年)、実家近くの庚申塔には椎葉宗衛門の名が残っています。
「宮原」「椎葉」「平川」は名前が並んで残っているようです。
(きっと、この時点で縁戚関係が発生していてもおかしくないですね)

公忠公の末裔様、共通の名である親戚が偶然にも?あり、なお且つ、父より、川辺川の橋を渡る際に「この近くに宮原の親戚があった」という事を聞いていますので、もしかしたら近年(戦前頃)まで、両家は縁戚関係を続けていたのかもしれませんね。

祖父が早くに亡くなり、祖母はその後どちらかと言えば実家「平川」との繋がりに重きを置いたようなので。(今までコメントした祖父・祖母と生家との関係をお読み頂ければ何かがあったとは御想像がつくかとは思いますが。ただ、今の代では、強い絆で繋がっています(^・^))

吉田神社
御縁がおありになるのですね。
「、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。」
「鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。」
御祭神
建御賀豆智命 (たけみかづちのみこと、武甕槌命)
伊波比主命 (いわいぬしのみこと、経津主命)
天之子八根命 (あまのこやねのみこと、天児屋根命)
比売神 (ひめのかみ)

摂社 神楽岡社
祭神:大雷神、大山祇神、高龗神

公忠公の末裔様のお母様は京都のご出身でいらっしゃるのですね。

橘公長は「京に馴るるの輩」という事で頼朝に重用され、元暦元年(1184年)、平頼盛の帰洛にあたって餞別の宴に同席した。
と言う事で、遠い、私達の先祖に深く縁のある場所で公忠公の末裔様はお生まれになられたのですね。

ちなみに・・
私の従兄弟(今年の正月にコメントをしてきました)はオーストラリアの女性と結婚しまして、今は、オーストラリアに家を建てて、住んでいます。
海外に住んでいる従兄弟は、偶然にオーストラリアでネットを見ていて、こちらのスレッドを見つけたようです。

子供も4人生まれています。
橘薩摩の系はいまや、海外にも広がったと言う事ですね(^・^)

父に先日聞いたのですが、初代宮原城城主を含める先祖代々の墓所は登記上、家になっているようでして、いずれは、私が管理する事になりそうです。

球磨に帰ったら、きちんと清掃して、先祖がゆっくりお眠り頂けるようにしたいと思います。
その時は、ぜひ遊びに来られて下さい。(^・^)
本当ですよ!お待ちしますから(^・^)

それから・・
私も、しっかりと本を読みます(^O^)/

では<(_ _)>(^・^)
[80]子孫よりさんからのコメント(2014年10月01日 23時39分33秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様、
「小字については領主の趣味で付けられるから、地形に関係なく平安朝の京都を意識した優雅な地名が付けられることも有る。」

そういう事なのですね。やっと疑問が解けました。
「山」ではないのに何故?とずっと思っていました。

ありがとうございます。
でも・・・やはり先祖は京都が懐かしかったのでしょうか・・?
でしょうね・・だって、華やかな京都から公綱は久米郷宮原へ・・ですから(__)

白石様、
「頭寒足熱」 懐かしいです(●^o^●)
祖母からいつも言われていました。
「私の足はとても冷たいから足を温めなさいと」冬は湯たんぽを作ってくれていました。
これから、私も伺ったようにフカフカの靴下を履いて寝てみます。
頭はアイスノンですね( ..)φメモメモ
やってみます(^O^)/

★日の神は ウツ
★つきの神は バル
★八幡神は はちはた と 読む

月の神
ツクヨミ(ツキヨミ)は、日本神話の神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%A8%E3%83%9F
ツクヨミ(ツキヨミ)は、日本神話の神である。後世は普遍ツクヨミのことを男神だと信じているが、実際その性別は記紀に述べられることはなかった。
『記紀』においては、伊弉諾尊(伊邪那伎命・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。天照大神(天照大御神・あまてらす)の弟神にあたり、素戔嗚尊(建速須佐之男命・たけはやすさのお)の兄神にあたる[1]。
ツクヨミは、月の神[2]とされている[3]。しかし、その神格については、文献によって様々な相違がある。『古事記』ではイザナギが黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大御神、鼻から生まれた建速須佐之男命と共に重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、『日本書紀』では伊弉諾尊と伊弉冉尊の間に生まれたという話、『古事記』とは逆に左目から生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もあり、支配領域も天や海など一定しない。
ツクヨミは太陽を象徴するアマテラスと対になって誕生するが、比較神話学の分野では、様々な神話に同様の発想があることが指摘されている[4][5]。例えばギリシア神話においても太陽神アポローンと月の女神アルテミスが双子とされる[6]。
中国の盤古伝説[7]には、盤古が死してその左眼が太陽に、右目が月になったという起源譚があり、また、『旧約聖書』の創世記では、天地創造の四日目に、神が空の中に「二つの巨いなる光」、すなわち太陽と月を創り上げて、それぞれに昼と夜を司らせ、光と闇を分けたという日月の創造が語られている。
日本神話において、ツクヨミは『古事記』『日本書紀』の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに『日本書紀』第五段第十一の一書で、穀物の起源が語られているぐらいである。これはアマテラスとスサノヲという対照的な性格を持った神の間に何もしない神を置くことでバランスをとっているとする説もある[8]。
同様の構造は、高皇産霊尊(高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神(神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。スサノヲとは支配領域やエピソードが一部重なることから、同一神説を唱える者もいる[9]。民族学者のアレクサンダー・スラヴィクはツクヨミを女神と仮定した上で、死者の主である男性的な神オーディンが同じく死者の主であり母祖であるペルヒタ(ホルレ)と対になっているように、男神スサノヲと女神ツクヨミは一対と見ていいのではないか、としている[10]。

(・_・)子供の頃、私は星を見るのが大好きで、首が痛くなるほど夜空を見上げていました。
祖母は「星を見るのは良いけれど、お月さまをあまり見てはいけません」
と言っていました。
月の磁力の影響を言っていたのかな?とは思うのですが、他に何か意味があったのかな?とも・・(祖母は結構、男尊女卑的な事を言っていたので、あまり意味は無いのかもしれませんが・・お風呂など、父より先に入るなどもってのほかでしたね・・弟が次に入り私は最後です・・ご飯が炊けたらまずは父のお茶碗に・・炊飯器の中に最後に残ったご飯はかすりご飯と言って、絶対に男性に食べさせてはいけないとか・・神棚に何かお供えするのも全て父。私は触ってもいけませんでした・・昭和40年代生まれの私ですが、何時代の女性?みたいな育ち方をしているのかもしれません(__))

脱線致しました(__)でも、私、決しておしとやかではありません(ー_ー)!!
これは、きっと何かの遺伝です。なんちゃってデス。

漢民族線ですが、医学的に証明されている訳ではないので・・・信憑性には?
混血は、必ずありますよね。きっと。

私の顔は目は西洋系で鼻はまん丸の母譲り。
鼻が球磨の方に似ていたら人生もっと変わっていたかもです。
ちなみに、私の顔に一番似ているのは100円ショップとかにあるまつ毛がピンとしたピンクの豚さんの貯金箱だそうです(ー_ー)!!
何かを企んでいる時にはあの顔をしているそうです。
それと、顔が描いてある、糊。フエキ糊のフエキ君に似ているそうです(@_@。

こちらのブログにフエキ君が三輪車に乗っているアニメが流れるのですが、娘が「お母さんが自転車に乗っているみたい」と言います。
http://www.fueki.jp/index.html

あっ!!めちゃくちゃ脱線致しました<(_ _)>
この頃、とても神聖なお話が多かったので・・ちょっと頭を休めました<(_ _)>

では、しっかりと勉強いたします。
<(_ _)>(^・^)

[81]子孫よりさんからのコメント(2014年10月02日 10時34分13秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

早速ですが、このような内容の記述を見つけました。

忌部氏考
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-24.html
読んだだけでは私の理解力ではなかなか難しいので日本の苗字七千傑様の【斎部氏】 姓氏類別大観を拝見しながら読み進めると、とても解りやすかったです。

所で、
表題「忌部氏系図解説・論考」という内容の中に

阿波忌部の祖「天日鷲命」は天太玉の妻の兄弟である。その子供が「大麻比古」でこの2神の妻の名も記されているがその出自は残念ながら筆者の調査で見つからなかった。
この「大麻比古」の兄弟に県犬養氏の祖「天羽雷雄」がいる。(本稿橘氏考参照)
この大麻比古の子供「由布津主」と天太玉の孫「天富命」の娘「飯長姫」が夫婦となり産まれた子供が阿波・安房忌部氏の祖である「訶多々主命」である。
同じく天太玉の妻の兄弟に出雲忌部氏祖の「櫛明玉命」がいる。これ以外の五神は天太玉と直接関係が不明である。系図によっては天太玉の子供として紀伊忌部祖「彦狭知」讃岐忌部祖「手置帆負」を記しているものもある。
筑紫・伊勢忌部祖とされる「天目一箇命」は、有名な神である。出自には諸説あるようだが天照大神と素戔嗚尊との誓約で産まれたとされる「天津彦根」の子供という説を採用した。
「天御影命」とも同一神との説もある。何故この神が忌部に関係したのかは不明である。
天太玉の孫天富命が神武天皇朝の人物となっている。中臣氏の天種子命と同一扱いである。
この天富が天日鷲らを引き連れて阿波国に移動し麻などの栽培を開始したとのことである。またこの阿波忌部の一部を引き連れ東征して安房国に移り安房神社を建てて天太玉を祀ったとある。以上が古語拾遺に基づく神代ー神武天皇あたりの忌部氏の物語である。
(一部は姓氏家系辞書・古代豪族系図集覧などを参考にした)

※「天日鷲命」の子供が「大麻比古」そして「天羽雷雄」
 ★「大麻比古」の子供「由布津主」と天太玉の孫「天富命」の娘「飯長姫」が夫婦となり産まれた子供が阿波・安房忌部氏の祖である「訶多々主命」である。
 ★「天羽雷雄」・・県犬養氏の祖
※★「大麻比古」「天羽雷雄」この方々は兄弟と言う事ですね。

同サイトの 橘氏考(附:県犬養氏考)
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-22.html

表題「3)県犬養氏人物列伝」
 県犬養氏(懸犬養)は、「神魂命」の流れである「天羽雷雄命」を元祖とする「神別氏族」である。犬養部の一派の首長として大和朝廷に仕えてきた。本拠地は、河内国古市郡である。奈良時代初期の不世出の賢夫人と呼ばれた「県犬養三千代」が出て一族は、大いに奮う。三千代は、元明天皇より「橘宿禰」も賜り「県犬養橘宿禰」とも称した。

※天羽雷雄命
@父;天日鷲翔天命 母;不明
A兄弟;天白羽鳥命、大麻比古命
B県犬養連元祖、倭文連祖とされている。
C系譜;天御中主尊ー天八下尊ー天三下尊ー天合尊ー天八百日尊ー百日満魂ー神魂命ーー角凝魂ー伊佐布魂ー天底立命ー天背男命ー天日鷲翔天命。
 
※3−1)県犬養田根(?−?)
@父:不明 母:不明  県犬養連祖天羽雷雄の末裔。
A子供:黒比古・多比
 
※3−2)黒比古(?−?)
@父:田根 母:不明
A子供:東人

3−3)県犬養東人(?−?)
@父;黒比古 母;不明
A子供;三千代(美努王室、藤原不比等室)石次、古麻呂、八重
B県犬養宿禰の祖。
 
※3−4)石次(?−742)
@父;東人 母;不明
A子供:内麿
B739年式部大輔から従四位下参議となった。
巨勢奈弖麻呂、大伴牛養、大野東人と一緒。
 
※・県犬養三千代(?−733)
@父;東人 母;不明
A最初の夫;30敏達天皇の曾孫「美努王」
子供;葛城王(橘諸兄)、佐為王、牟漏女王(藤原房前室)
次の夫;藤原不比等(正室)ーー子供;安宿媛(光明子;45聖武天皇后)、多比能(異説あり)
別名;県犬養命婦、橘氏太夫、県犬養橘宿禰
B708年元明天皇より「橘姓」を賜姓され橘氏の元祖となった。
C天武、持統、文武、元明の4代の天皇に内命婦(5位以上の位階を持つ女性)として仕えた。
D「美努王」が大宰府に赴任中に三千代を不比等が見染めて再婚した。
E平城宮東面の不比等邸と向かい合う門は、平城遷都当初より「県犬養門」と称されてい た。三千代を顕彰するための命名と思われる。元明天皇の意向、不比等の妻への思い。
F720年夫不比等を失う。不比等の莫大な遺産の大半は、妻三千代を経て光明子に受け 継がれた。
G721年元明太上天皇の病気平癒を祈って出家している。づっと元明に仕えた。同年正三位。733年従一位を死に当たって追贈された。

と言う事は(・_・)整理すると

県犬養橘三千代の先祖である「天羽雷雄命」
そして
阿波・安房忌部氏の先祖である「大麻比古」
「天羽雷雄命」「大麻比古」この方々は兄弟である・・・

そういう事なのですね。

勉強になりました。
では<(_ _)>(^・^)
[82]子孫よりさんからのコメント(2014年10月02日 10時50分02秒 ) パスワード

追記

日本の苗字七千傑様の【度会氏】 姓氏類別大観を拝見しました。

あらためて、「なるほどな〜」となりました。

では<(_ _)>(^・^)
[83]子孫よりさんからのコメント(2014年10月02日 23時15分18秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年10月02日 23時18分18秒
[85]子孫よりさんからのコメント(2014年10月02日 23時17分45秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

早速ですが、表題
「いろいろ調べたら、中原清業、この方の事が沢山解りました!」です。(・_・)

まず・・・
今まで、何度も中原清業を中原氏系図で探しても、何故か見つかりませんでした。

それもそのはずです。
「中原清業」は「坂上清業」であったからです。

こちらをご覧ください(__)

官史補任 318ページと 319ページ に中原清貞そして中原清業について記述があります。
http://books.google.co.jp/books?id=Yhdd_shnStAC&pg=PT52&lpg=PT52&dq=%E5%A4%A7%E9%9A%85%E5%AE%88%E3%80%80%E6%B8%85%E6%A5%AD&source=bl&ots=Xb5NcjBOCe&sig=yxEqrBtby9luVqyLMvGjw8KFBQw&hl=ja&sa=X&ei=_xktVLLEA5KA8QWakoDIBQ&ved=0CCIQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E5%A4%A7%E9%9A%85%E5%AE%88%E3%80%80%E6%B8%85%E6%A5%AD&f=false

中原清貞 318ページ
父 坂上重盛(『続群書類従』「坂上系図)ただし、同系図清重とする。
中原清業父(『兵範記』久寿元旨「朝野群載」巻第五)

中原清業 319ページ
家族  父史大夫中原清貞(『兵範記』久寿元年六月二十四日条、『坂上系図』)
六位史 保元三年(一一五八年)
経歴  
久寿元年六月二十四日 文章生課試及第(『兵範記』)。久寿二年十二月 備後掾 文章生兼国(『叙目大成抄』第十 文章生)。
文治元年正月二十三日 対馬守 史巡(『玉葉』文治元年正月二十三日条『洞院家記』第十四)。 備後目代(文治元年八月二十一日 備前国留守所下文『鎌倉遺文』一)。太宰少弐 播磨国目代(建久三年九月二日 播磨国留守所府『鎌倉遺文』六一五)
系図等
従五位下 太宰少弐 史 対馬守 後白河院北面(「坂上系図」)。
中原清重傍注「五位下 豊前介 鳥羽院御時 依父重守勅勘事(源義親同心)乳夫主計允定清為子 仍号中原」
備考
平頼盛後見人(『玉葉』寿永三年四月一日条)。平頼盛郎従(『玉葉』文治元年正月二十三日条)。

日本の苗字七千傑様の《坂上田村麿流》姓氏類別大観を拝見致しました。

岡田重盛 →清重(清貞ですね) → 清業

確かに確認出来ます。

別の書籍にては中原清業を「平ノ清業」と表記してありました。

※中原清業とは「中原氏」に養子に入った坂上重盛の子息「清重こと清貞」の子であったと言う事です。

中世公家と地下官人 - 61 ページ では
坂上氏が中原姓を称した例は他にもあり、坂上清重が中原定清の養子となり出納となっている。また坂上氏以外にも下毛野俊職が外記中原宗職の子となり主計允,侍となり、その子俊宗も大外記師安の子となり侍となっている。また中原広宗の猶子になった者に ...

とありました。

《有象系中原氏》では範政が坂上姓に改姓していますね・・・ 
縁戚関係があったと言う事ですね。

「いろいろ調べたら、中原清業、この方の事が沢山解りました!」
でございました。では<(_ _)>
[86]白石さんからのコメント(2014年10月03日 02時47分27秒 ) パスワード

こんばんは^^
子孫様 追記です。

体が温まると 喉を やられるので、手足を温めたら あごまで 厚手のバスタオルくらいのものでよいから かけて 寝ると 喉を やられません。あつくなると 勝手に はぎとっているので。
自分の好きな風景とかを 思い浮かべながら寝ると すぐ 眠れます。成功したら 次にも すぐ眠れるようになります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日 図書館に行ってきました。
八幡
遍照寺は 私の祖父母が買い求めた家の 筋違いにあります。
祖父母の家から 駅に行くとき 免田小を見ながら行っていたのですが 駅まで5分くらいでした。

家のすぐ前が バス停で そこを 多良木方面に行くと 黒田という字のところがあります。
黒田は 免田。

熊本県の地名 平凡社 p817
墓誌銅板
が出て、裏面を砥石でけずって 何が書いてあるかわからない。

黒田村
1191 5 2
良峯師高譲り状案(平河文書)球磨郡球磨庄(同郡同庄と書いてある)の内 黒田の村とあり 
1438 3 10
免田平河分坪付帳(免田文書)
★ 黒田ちん(陳と横に書いてある)の内之門・・・
1699球磨郡神社記
岡留権現 天満天神 八王子大明神

この 陳の内 とは?どういう意味でしょうね。わからないけど
黒田は 中臣鎌子(藤原鎌足)の横に 黒田と 太田氏は書いていた。
白洲正子氏は 鎌足弟を 稽文恵とし 春日で アマテラスを名乗ったと 11面観音巡礼で 書いています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鹿児島神宮は 大隅正八幡宮が別称で
ネットからひろったのですが
★「天孫人種六千年史の研究」を読んだ。 三島氏は、三島 神社神官で、日本の都は古代の一宮。バビロニアから移住してきた我らの祖先は、 鹿児島に建国し、大隅国一宮である★鹿児島神宮が太古の都であるとした .

主祭神
天津日高彦穂々出見尊
豊玉比売命

帯中比子尊(仲哀天皇) - 八幡神を合祀した関係による
息長帯比売命(神功皇后) - 同上
品陀和気尊(応神天皇) - 同上
中比売尊(仲姫命) - 応神天皇の皇后。同上
太伯 - 句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる
★前には この 大伯の方から松の系図が出たのですが、

欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に、「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたと言う。継体天皇の代のことであると言う。」との記載がある。★ 八幡神は大隅国に現れ、★次に宇佐に遷り、ついに★石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。

宇佐の方では
『八幡宇佐宮御託宣集』 託宣・示現 年表 - 山口大学 (Adobe PDF)
2014年5月20日 - たした神でもあり、『八幡宇佐宮御託宣集』が様々な意味で貴重な文献として注目に 値することは言 ..... 玉垂権現・聖母大菩薩・志賀嶋明神に告げ. 87. 88. *92,. *465-. 6. * 83,. *90,. *92,. *93,. *97. 89. 「私云」. あり。 〈★八幡を. 陳大王の.娘の大比留女と書く。

陳の祖先は

陳姓源流 - 南陳宗親網 - このページを和訳
陳姓源流. 作者:佚名來源:互聯網更新時間:2011年10月11日. 陳姓源流. 一、陳氏 屬地. 潁川郡,今河南長葛縣老城西。 二、陳姓來源. 1、出自★媯姓,其始祖為媯滿,也 為虞★舜之後裔。 據《通志.氏族略》所載,周武王滅商以後,追封前代聖王的後人媯滿 于 ...

甄姓源流 - Gin Sun Hall
關于陳胡公媯滿﹐《史記陳杞世家》14是這樣說的﹕『陳胡公滿者﹐虞帝舜之後也。昔 舜為庶人時﹐堯妻之二女﹐居于媯汭﹐其後因為氏姓﹐姓媯氏。舜已崩﹐傳禹天下﹐ 而舜子商均為封國﹐夏後之時﹐或失或續。至于周武王克殷紂﹐乃復求舜後﹐得媯 ...


媯姓 - 维基百科 - このページを和訳
單一淵源:源於★有虞氏,出自上古★高辛氏後裔★舜帝的封地,屬於以居邑名稱為姓。 舜 出生于姚墟,當舜還是個平民的時候,就有・有望,部落首領堯十分欣賞他的才幹, 於是把兩個女兒娥皇、女英嫁給了他,並讓他居住於媯水之邊。媯水,發源於今山西省 ...


姚氏と媯氏

『新唐書』巻七十四下 宰相世系四下 姚姓.★ 姚姓,虞舜生於姚墟,因以為姓。陳胡公裔 孫敬仲仕齊為★田氏,其後居魯,至田豐,王莽封為代睦侯,以奉舜後。子恢避莽亂,過 江居呉郡,改姓為媯。五世孫敷,復改姓姚,居呉興武康。敷生信,呉 ...

単純に羅列しただけですが  高岡 中原ともに にぎはやひ を 祖先としている筋があり、にぎはやひ は 天照を 冠している。






[87]子孫よりさんからのコメント(2014年10月03日 10時02分21秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

白石様ご教示ありがとうございます。

鹿児島神宮については、未だ、勉強していませんでした(__)

先日買った書籍もじっくりと理解しながら読み進めています。

ご教示頂いた
「★ 黒田ちん(陳と横に書いてある)の内之門・・・
1699球磨郡神社記
岡留権現 天満天神 八王子大明神」

こちらは現在「岡留熊野座神社」となりまして
先日、コメント致しましたように現在、尾形の伯父が宮司となっています。

沢山、お話を聞かなければ( ..)φメモメモ

こちらのスレッドも、もうすぐ90に近づいてきました。
昨日は「中原清業」=「坂上清業」と言う事も解りました。

皆様、今後とも、どうか、ご教示の程、よろしくお願い致します。

新しいスレッドです(^・^)
平川家について17
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101386.html
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