[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 07時35分44秒 ) | パスワード |
武士と生まれたからには生死は隣合わせ。
命があるならば負けても次に勝ち
最終的に誉れを手にすれば良い。
そういう武家の代表として長田氏を取り上げてみました。
碧南の棚尾に永年伝わる古文書によると、源氏の地名は、平安時代の末期源平の
争いにより、平家の武将であった長田氏が知多郡美浜町の野間から、この地
へ逃れ隠れ住んだ。やがて、源氏の世になりここを源氏と称するようになっ
たと云う。
この伝承とは別に、鎌倉時代初め、源氏の武将熊谷若狭守直氏( なおうじ)
が地頭として棚尾に住んだ時、高台であったこの辺りを源氏山と称したため、
源氏という地名が付けられたという説もある。
その後、長田氏は大浜熊野神社や八柱神社の神官を永年に亘って務めるな
ど、この地域の有力な一族となった。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 07時59分28秒 ) | パスワード |
家康の命で長田氏から永井氏へ
永井氏
(桓武平氏長田氏流/大江氏流)
先祖は長田左衛門尉親政というが、父と弟が源義朝を討ちとった家号であるため、家康の命で大江氏となり永井を称した。
永井氏は重元のとき家康の父広忠に仕えた。
広忠は三河国大浜郷に砦を築き、重元に守備させた。
天正十年(1582)、織田信長の横死のあと、家康が伊賀越えで伊勢の白子に上陸したとき、重元は船を用意して三河の大浜郷の自身の館に迎えたえという。
永井氏は大浜郷の領主であったようでもある。
重元の子が直勝で、かれは家康に仕え、見込まれて嫡男信康の近習を務めた。
不幸にして信康が亡くなってからは、もっぱら旗本として戦場に立ち、天正十二年(1584)の長久手の戦いでは、秀吉方の将、池田恒興を討ちとり、味方を勝利に導くとともに、一躍勇名を轟かせた。
直勝に討たれた恒興は信長の乳母の子で、本能寺の変後、清洲会議で柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀らと並んで宿老の四人のひとりに数えられたほどの人物。後年、恒興の次男で、家康の娘婿にあたる輝政は、直勝と雑談におよんだおり、ふと「その方の禄はいかほどか?」と尋ねたことがあった。直勝が七千石だと答えると、輝政は「我が父ともあろう人の首にしては、安いものよのう」と冗談まじりにこぼしたという話が伝わっている。
武将としての直勝の名は、朝鮮の役のおりにも秀吉から「比いなき勇士よ」と賞賛され、面目を施している。慶長元年には、従五位下・近衛大夫に任官。
しかし、直勝は単に武功を重ねたのみならず、関ヶ原の役が終わってのちは、天下を平定した家康の片腕となって、その論功行賞をめぐる直参と大名家の反目を調停する任にあたった。なかでも井伊直政や本多忠勝に意見した話は有名である。
直勝のこうした活躍は、元和三年(1617)の常陸国笠間三万二千石、同八年の下総国古河へ七万二千石の加増移封というかたちで報われ、幕府の評定衆に列する栄誉をも担うこととなる。晩年、細川藤孝について、有職故実を学び、徳川家の礼儀、幕府の式典を定める重責を担った。
永井氏の家紋
『長倉追罰記』に「永井と那波は三つ星と一文字(本当は一文字に三つ星)」ともみえるように、室町中期には、永井氏がすでに一文字に三つ星紋を用いていたことが知られる。
そして、永井氏は一文字に三つ星紋の他に、唐梨(からなし=木の下に示とも表記する)と、鉄線紋も用いていた。唐梨は四弁の花のように見えるが、梨の実の切り口で、丁寧には「永井梨切口」という。鉄線は朝顔に類似した植物で、その蔓が鉄のように丈夫なことから鉄線と呼ばれるようになった。そして、宗支によって、家紋の意匠を違えている。三つ星の場合、一文字の書体に変化をつけ、唐梨は加納永井家の場合、「石持地抜き唐梨」であった。さらにいえば、鉄線は高槻永井氏が用いていた。
いずれにしろ、唐梨紋は永井氏の独占紋ともいえる、珍しい紋であろう。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 08時15分27秒 ) | パスワード |
尾張永田氏:
長田氏系永田氏
http://blog.sasakitoru.com/201112/article_1.html
平高望の四男良兼に始まる尾張国長田(おさだ)庄司の家系で永田氏と名乗った家系もあり、
尾張藩に仕えた永田氏はこの桓武平氏流長田氏の子孫が多いようである。
わたくし的には名古屋の長田氏=父長田致俊+子長田忠致の子孫のような?
名古屋には永田さんが多いです。長田さんより多いかな?という感触です。
長田景致(おさだ かげむね、生年未詳 - 建久元年(1190年))
平安時代末期の武将。長田忠致の子。
父、忠致の源義朝暗殺計画に加担し、実行の際には義朝の第一の郎従であり、自分の義兄弟でもある鎌田政清を斬っている。
『平治物語』においては、これ以外の場面でも常に父と一対で登場し、息の合った行動を見せている。
その最期もまた父と同時であり、義朝の子源頼朝の命で処刑されたという。
また、彼の子孫は三河国へ逃れて永井と名乗ったとも、甲斐国へ逃げて今でも家名を保っているとも言われている。
[4] | 箱柳永田さんからのコメント(2014年09月18日 23時48分38秒 ) | パスワード |
あを様
おさらいも含めて、伊賀伊勢での抗争から勅勘を得て長田一族は東へ活路を探します。平家との和睦に仲介を頂いた東大寺に紺瑠璃壺を謝礼として贈っており
回りまわって?正倉院御物として、(何時観られるの?)保管されております。
>http://verrier.ocnk.net/product/6 正倉院ガラス器の復元品です。
技法)吹きガラス
原作)中央アジア、10世紀
材質はソーダ・ガラス。紺色の発色は酸化コバルトによる。記録によると、この壺は治安元年(1021年)に、伊勢の豪族平政経(むねつね)が東大寺に奉納したことが知られている。
@長田(平)致経(まさつね)として記載されている良兼のひ孫です。
>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html ←永井系図
長田平親致の時、上皇に召されて保元の乱に参加、行軍中に、、、戦いになり
長男戦死、次男落行で、3男の乳母の住む(幼児の避難先)棚尾に隠棲するのね。
次男の消息は 言葉(伝言です)信州、駿州と不明なんです。
>http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1056971110
こんな家もあり、先人の働きにも拘わらず未だ確定にはなっていません。
致経以降親致まで主に賀茂の庄司を務めて、、、伊豆まで開拓地を作っており
親致忠致の親、致俊は門真荘=津島 の庄司 子の一人致直は門真氏を称し
鎌倉の地頭として(どの様に生き延びた?)門真市の開拓者として名を残しています。 致経の子である 師桑三郎の子孫は開拓地を東に移しながら各地で
地名を名乗り、、、瀬戸市の水野に到り、平姓水野氏となります。
>http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/KANMUG.HTM
by古樹紀之房間 より 先祖をたどる方には 一見の価値があります。
永井直勝の家系も確か書いてあったように思います。
>http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_42_13.html
by 兵の家各流・平氏 良兼・公雅流
・橋昌明『伊勢平氏の興隆−清盛以前』よりの抜粋と思われます。
>尾張藩に仕えた永田氏はこの桓武平氏流長田氏の子孫が多いようである。
あを様のこの話に ドンピシャの家があります、一軒は永田馬場に名を残す旗本
たぶん3000石、本家子孫は松坂在、他に2軒分家有。
我が家の3代清蔵の5男が鳥居氏の家臣に居り、鳥居氏断絶後→平岩家臣となり、またもや断絶で尾張徳川家で祐筆を務めていました。この家からは会津藩に務めた分家があり、、、行方不明。(明治の13年位までは所在は判っている) 尾張藩の八雲村開拓団のバックアップで(藩主の指名で)函館に廻船問屋を開き以後北海道に在住。
この家の情報では、他にも尾張藩永田姓の開拓団員があり、中々10中8,9まで
(身内と)詰め切れない。とのことですが、北海道は武士子孫が多く、内地の本家や分家が見つからない場合が多いようです。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月19日 02時53分06秒 ) | パスワード |
なかなか興味深いお話です。
>長田平親致の時、上皇に召されて保元の乱に参加、
>行軍中に、、、戦いになり
>長男戦死、次男落行で、
>3男の乳母の住む(幼児の避難先)棚尾に隠棲するのね。
次男はどこに行ってしまったのでしょうね。
3男は乳母夫婦がしっかり守ってくれて良かった。
以下コピペ:広常のことは意外でした
長田(ながた・おさだ)は、甲斐(現在の甲府市・甲斐市付近)、信濃(長野市・茅野市付近)、駿河(現在の御殿場市付近)、三河(現在の碧南市付近)、相模(現在の相模原市付近)、武蔵(現在の八王子市付近)に集中して分布します。
先ず、甲斐の長田氏の関係として見えるのは、桓武平氏良兼流で、尾張国知多郡野間庄の長田庄司忠致(尾張国知多郡長田庄を領したためという)の後裔という長田氏です。忠致は主君の源義仲を討ったことで有名ですが、その弟右衛門尉親致の子政俊を祖とし、その8世孫広常の弟平内左衛門信広が甲斐国に移り、武田信綱に仕えたとする系図が残ります。その孫に、「医聖」と称され、武田信虎の侍医となったという永田(長田)徳本が出ました。(但し、政俊という者が本当に親致に繋がるかが不明。下記参照)
また、猪狩村の長田氏は致忠の後裔といい、忠致の子忠久(但し、他の系図には見えない)を祖としています。その他にも亀沢村の兼武神職に長田監物、長田将監が史料に見えます。
基本的には、この長田氏の子孫と称する長田氏が甲斐・三河・相模・武蔵に分布しています。
その他の可能性として、信濃の長田氏は他田(おさだ)であり、科野国造一族の金刺舎人から出た他田舎人の子孫の長田(他田)氏。金刺舎人の後裔は、その後甲斐にも広まっています。
また、最初の平姓長田氏の系図では、南北朝期から代々三河国碧海郡大浜郷の熊野権現社神主を務めたと系図では記しており、また、広常が長田平大夫を称するまでは、大浜という苗字だったようで、長田致忠の長田氏との繋がりに疑問が出てきます。
駿河国有度郡に長田(中田)庄があり、ここは熊野那智大社の荘園であって、ここに駿河の長田一族が居ました。出自は不明ですが、藤原氏を称していたようです。因みに熊野国造からも、熊野別当からも長田氏が出ています。この長田氏は、一説に、大和国城下郡の安倍姓長田(他田)氏の一族とも言われます。
個々の家のことはやはり先祖を遡って調べる以外にありません。
人は移動するから、思わぬ所に根を張って子孫を残すものなんですね、当たり前だけど改めて驚きました。
ありがとうございました。
[7] | 箱柳永田さんからのコメント(2014年09月24日 19時36分52秒 ) | パスワード |
丸三柏服部さん
その後かその前?
服部さんのお話で、神社の神紋に言及されていて、、、触発されました。
で 神社の知識に詳しい 玄松子さまの 玄松子の記憶(訪ねた神社集)には
神紋も沢山掲載され、、、小宮神社の詳細も見てきました。
神紋調べ >http://www.genbu.net/sinmon/ で 試しに 柏 で
検索をかけたところ、!!! 大発見?!正確には
大感謝!!です、 玄松子様 ありがとう!が素直に出てきます。
>http://www.genbu.net/data/bicchuu/kounosima_title.htm
>http://www.genbu.net/data/noto/wakamiya_title.htm?print=on
他にも、書ききれないほどあります。
矢筈で検索すると
>http://www.genbu.net/data/awa2/usihiko2_title.htm?print=on
他、沢山でてきます。
平熱に集まる皆様にも、ご覧いただきたい㏋です。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月24日 22時48分54秒 ) | パスワード |
箱柳永田さん
どんどん新しいスレッドをお立てになってご紹介ください。
拝見しました。
三重県の服部神社のほかにも ひびき神社とか あぼ神社とかも使っているんですねえ。
知らなかったです。
ありがとうございました。
小宮神社
おみやじんじゃ
三重県伊賀市服部町1158
http://www.genbu.net/data/iga/omiya_title.htm
祭神
『惣國風土記』では、園韓神。
『伊水温故』『伊乱記』では、服部氏の祖神として酒君。
『三国地誌』では、諏訪明神。
『神社覈録』では、天鉾御命。
現在の祭神は、服部の地名から、機織の神・呉服比賣命となっている。
比々岐神社(比々岐は、比自岐の変化したものであるとする説)
http://www.genbu.net/data/iga/hibiki_title.htm
大村神社
おおむらじんじゃ
三重県伊賀市阿保1555
http://www.genbu.net/data/iga/oomura_title.htm
[9] | 箱柳永田さんからのコメント(2014年10月23日 13時47分44秒 ) | パスワード |
先日、碧南のてらまちめぐり に参加してきました。
>http://www.city.hekinan.aichi.jp/KANKOKYOKAI/teramachi/index.html
宝珠寺では 永井長田永田の一体感が、見えますので紹介します。
金龍山 宝珠寺(ほうしゅうじ)
トクホンサン
天文年間羽城の主長田重元は城の東南の角に宝珠寺を建立。
後に鎮守の稲荷を有縁の医聖「永田徳本」の遺徳を偲んで「徳本稲荷」と名付け「トクホンサン」の愛称で親しまれている。
曹洞宗のお寺。
長田・永井家ゆかりの寺、後の永井家からは小説家永井荷風、三島由紀夫、高見淳、タレント高見恭子、能楽師野村万作らを輩出
■大浜てらまち巡り対象寺■
■本尊・宗派
阿弥陀如来(坐像・市文) 曹洞宗
■歴史
1543(天文12年) 長田重元が羽城(はじょう)に香華院を建立、 開山・黙室英・(きん)
■施設・碑
本堂、山門、地蔵堂、鎮守社、水盤舎、鐘楼
住吉社跡の石柱、徳本稲荷・碑、都築九萬(漢方医)の碑、永井(直勝)塚、長田重元の墓、加藤菊女の墓
■人物
・永井直勝(1563〜1625)
当寺で生誕、下総国古川72,000石城主、徳川信康(家康長子)・家康・秀忠に仕えた、長久手合戦時池田恒興の首を取ったことで一躍名を上げた
・長田重元
駿河出身、羽城主、大浜熊野大神社神主、直勝の父、織田信長と敵対
・永田徳本(1513〜1630?)
重元実弟で医聖、武田信玄の侍医や徳川将軍医として仕えた、(株)トクホンは翁の名前から付けられた
私の家は 熊野大神社の次男(重元の伯父)から始まります。
宝珠寺にて、永田徳本さんの子孫が訪ねてこられた事、先年会合が持たれた事
この先も交流の予定があること等、喜ばしい話が聞けました。
次回は参加する予定です。
>http://www.city.hekinan.aichi.jp/KANKOKYOKAI/midokoro/index.php?c=rekishi 車で行かれる方はこちらもおすすめ。
追伸 碧南の服部長七翁の晩年は岡崎岩津天満宮の神主を務められていました、
不思議には思っていますが、、、人の縁は気まぐれに交わるようで
面白いですね。>http://kamezo.cc/blog/entry/163906
>http://kamezo.cc/blog/entry/165457
byヘボトさん
・長田重元 駿河出身、羽城主、、、は、
長田の苦難時代(家康の 徳政令乱発で社領を失う)
重元の母親は酒井氏の娘ですので、、、一時的に駿河長田党に身を寄せ
社領回復の政治活動をしております、 回復状=安堵状は京都大学所蔵として
公開されていたので、記憶がある方があるかもしれません。
静岡県の長田諸家は三柏、蔦柏です、
が、一軒だけ剣柏の家があり、その時の家?それとも忠致の子孫と、、
訪ねるきっかけが無いのね。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月23日 22時38分58秒 ) | パスワード |
すごい情報量ですね。
にっこり
>永田徳本(1513〜1630?)
>重元実弟で医聖、武田信玄の侍医や徳川将軍医として仕えた、
>(株)トクホンは翁の名前から付けられた
どこかで聞いたような、と思ってたら
そういうことでしたか
>私の家は 熊野大神社の次男(重元の伯父)から始まります
それで「ながた」を守ったのかもでしょうね。
また従兄弟の縁に繋がろうとしてたら「ながい」って名字に変えてたでしょうから。
>碧南の服部長七翁の晩年は岡崎岩津天満宮の神主を務められていました
↑
久し振りですね
へえ〜
不思議ですね
>長田の苦難時代(家康の 徳政令乱発で社領を失う)
世の中が不景気だったんでしょうね。
徳政令=日野富子なんですが家康も乱発してたんですか。
日本はつい20年ほど前、徳政令をやるだろう、って噂が乱れ飛びましたが
結局はやらなかったですね。
その代わりにゼロ金利になったのかな?これも一種の徳政令なのかな?
金融関係はトクしてるものね。
>重元の母親は酒井氏の娘ですので、、、一時的に駿河長田党に身を寄せ社領回復の政治活動をしております
やっぱり良い家とは縁組するべきなのだなあ
子供はたくさん持つべきなのだなあ
と、いろいろ考えさせられます。
[11] | 箱柳永田さんからのコメント(2014年10月24日 19時15分48秒 ) | パスワード |
あを様
>世の中が不景気だったんでしょうね。
言葉足らずですみません。
一向一揆の戦いの中で、一揆方の財政基盤崩壊を狙って
(当時の寺社は ある種の金貸しで、 寺社領を貸し、年貢を取ってました、
そうしないと修理、建て替えに必要な莫大な金額を積み立てられないのです)
乱発したのですが、一揆方の主要な寺は徳政免除の特権があり、、、
敵対もしていない、場合によっては、お味方の氏神様や他宗の寺も
貸した農地などを失ったようです。
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月24日 21時35分19秒 ) | パスワード |
>一向一揆の戦いの中で、一揆方の財政基盤崩壊を狙って
これは、そういう政策は懲罰的にあったでしょうね
>(当時の寺社は ある種の金貸しで、 寺社領を貸し、年貢を取ってました、
>そうしないと修理、建て替えに必要な莫大な金額を積み立てられないのです)
ですね
集金に全国を「勧進」とかしましたよね
(勧進で良かったのかしら?寄付金集め)
>乱発したのですが、一揆方の主要な寺は徳政免除の特権があり、、、
政治とはそんなもんですね
>敵対もしていない、
敵対もしなかったのに、
というのはワタクシも職場で経験しました
敵対する2つの勢力のどちらにも属さず1匹狼でいたら
両方から憎まれてひどいめに遭いました
>場合によっては、お味方の氏神様や他宗の寺も貸した農地などを失ったようです
これはひどいですね。
でも、そういうのって、ありますね。
味方したのに敵と同じ目に遭わされるって。
こういう立場の人の落胆や嘆きは敵だった人よりずっと深いですよね。
あるある!そういう事ってあります。
わたくしも職場でいろいろ巻き込まれましたっけ。
世界の激突する2つの勢力の局地番をロスで経験しましたっけ。
平和憲法第9条はワタクシを守ってはくれませんでした・・・
第二次世界大戦後には祖母が先祖伝来の土地を失いましたっけ。
あ、伯父2人が「陸戦隊」にいたから、これは当然の報いかも・・・
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月15日 15時33分16秒 ) | パスワード |
重複:
http://homepage2.nifty.com/0305/keihu.htm
永井家の興味深いお話が書かれています。
旗本などの貴重な情報も書かれています。
[14] | 箱柳永田さんからのコメント(2014年11月16日 21時04分59秒 ) | パスワード |
あを様
ありがとうございます
この家の家祖 白元は 長田の風習では なおもと となります。
主たる業務実績に 東海道などの一里塚を整備などが有ります。
>http://www.asa1.net/siseki-meguri/itiri/1itirizuka.html
総奉行 大久保長安 東海東山道 担当者 と考えてます。
後年の補修、再整備にも永井永田が見えますので、前例を重んじる
幕藩体制に、(ある意味)感謝し、、、このHP主に羨望の気持ちは
大いにあります。 今でも一里塚の前を通る時に、、
車を止めることがあります。
>http://kinosan.fc2web.com/hu5322b.htm
岡崎大平一里塚が 最後の方に写って、、、再整備後なんです。
>http://kinosan.fc2web.com/index.htm#nittei
最近の書き込み、訂正はないです が 作者が服部さんで
街道にある 服部家について 書かれる事があり
見直して居ります。
長田忠致 ただまさ は 永井氏のHPでは ただむねになっています
長田の風習が伝わってないのか、(江戸期創設の家ですので、あえての
伝承不足も仕方はないのです)、又 兄 長田親致の名が、
保元の乱に出てこない(平何某 の記述の見落とし)ので、弟とする
世間の多数決に従っているとの 見方もしています。
>>場合によっては、お味方の氏神様や他宗の寺も貸した農地などを失ったようです
この始末を、 酒井からの嫁が奮闘し 安堵状が出ています。
内容は、大略、、返してあげる、再度不始末をしてはいけません と
何故か、
神社側に非があるような書き方ですが、 新行記一先生によれば
家康が失態を犯しても、正直に書けないので、この様な書式になる、、と
この文書は京都大学所蔵になってます。
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月16日 22時52分18秒 ) | パスワード |
箱柳さん
ありがとうございました。
またユックリ読み直します。
さっと読んだだけでしたから細かい所には全く目が止まりませんでした。
さすがですね。
是非このブログ主さんとご連絡をお取りください。
伝わっていないことなど教えてあげてください。
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