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 投稿番号:101371 投稿日:2014年09月10日 04時34分19秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族\の続きです。

歴史探偵の目で歴史の底流に潜む秘密を解明する。

最終目標は服部氏族の謎の解明。

[1]箱柳永田さんからのコメント(2014年09月10日 09時34分41秒 ) パスワード

  丸三柏服部さま
http://wadachiku-syoutenkai.jp/chiikiinfo/index.htm
 長上郡では既知とは思いますが、ここに長田忠致がでてきます。

http://www2.odn.ne.jp/mochiaruki/kuwari/kuwari.htm
 広い内容ですが、宗良親王上陸地の碑(写真)があります。
  探しましたが、日没org、観光課で地図をもらって再挑戦かな。
  
少し東の袋井浅羽には忠致4男を祖と称する永田さん(抱き茗荷)があります。
 静岡清水区や旧長田地区、浜名湖北岸にも長田の(庄司職)由来の地があります。三河、遠江、駿河は熊野神社が多い土地柄ですので伊勢志摩との海路は
 密接です。
[2]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月10日 10時27分52秒 ) パスワード

箱柳永田様

 情報ありがとうございます。やはり1人の知識範囲は狭いものであると、
改めて感じました。視野が広がりました。いろいろなヒントも与えていただ
き、今後の一里塚になります。
 歴史はありとあらゆるものが含まれますので知らないことばかりといっても過言でない。すべてに渡って1人で調べるのは不可能ですね。それと、理解力、プラス記憶力、プラス統合力が必要であります・・・。
 また、それぞれ興味範囲というものがあります。得意・不得意な分野がどう
してもできてしまいます。これはいたしかたないことですが。
 また今後もよろしくお願い申し上げます。
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月10日 10時41分57秒 ) パスワード

箱柳長田様

 追伸:長田氏から永井氏に改名したという理由が、長田忠致に原因があっ
たということですね。大まかには知っていましたが、具体的には知りません
でした。ありがとうございます。また視野が広がります。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月10日 14時06分30秒 ) パスワード

長田氏は桓武天皇の子孫で
平貞盛の大叔父の代で分れた家なのかな?

坂東平氏だったのが
伊賀伊勢尾張に来て?源氏と関係があったのが
平家とも関係があって
代表家紋は「柏」なんですよね。


やはり何重にも縁があるんでしょうね。


まさか長上郡にもご縁があったとは。
   「柏紋」で実は???


3つ柏さん

9の方にもちょっと「復習」を書いて置きました。
[5]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月10日 16時02分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろバックアップありがとうございます。歴史というのは水の底にあり
ますので、直感力・霊感力で補わないと見えませんね。学術的ではありません
が。
 4月16日よりあを様と交信を初めてよりやく5ヶ月、9月16日からは6
ヶ月目に入ります。その間にあを様よりいただいた情報はファイル10冊分位になります。完璧に消化しているわけではありませんが、だいたい頭には入っておりますので、5ヶ月前と比べたら、随分歴史探偵の能力が上がったと自分でも思います。この調子で1年続けられたら、どうなるのか。自分自身の変身に期待です。あを様には苦労をおかけしますが・・・!

 服部権太夫政秀については、『寛永伝』に永禄11年(1568)以降のこ
とであるが遠江河の庄に於て三千貫の地を拝領」と書かれているという。
この河の庄とは、川匂(かわわ)の庄のことか、池田等の川沿いの庄のことで
あるのか、今のところ古文書等を調べないとわかりません。また政秀親子がどこに住んだかもわかっていないし、正信の墓もどこにあるのか、古文書を当たったりして調べてみます。

 また、彼らが、正成や服部中保次等と実際どのような連携をとったのかも
興味のあるところです。また、伊賀越えのメンバーの中に何かヒントがある
かも知れませんので調べてみたいと思っています。
 高力清長も長上郡に100貫文の土地を拝領したということですので、どこであったのか興味のあるところです。
 また、松尾芭蕉(1644年生まれ)は一連の服部忍者がらみの流れの秘密
を何か知っていたのではないかと夢想しています。いずれ探求してみたいと
思っています。
 確証を求めての探求を更に続けます。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月10日 22時45分31秒 ) パスワード

3つ柏さん


もう5ヶ月経ちましたか。
いろいろ勉強させて頂きました。

3つ柏さんが古代から教えてくださって、助かりました。

流れがなんとなく掴めました。
神様のお名前はやはりこんがらがります。






服部権太夫政秀については、『寛永伝』

ものすごく重いけど  「駿府に居を構えた百人の武将」
http://plaza3.dws.ne.jp/~m.okubo/sunpu100.pdf
これが参考になりますか?


服部氏・津金氏・高力氏その他、お歴々のお名前が出てますね。

[ はじめに ] 02
市橋下総守長勝 03
板倉内膳重昌 04
伊奈牛之助忠雪 05
池田備後守重信 05
石川主殿頭忠總 06
蜂屋七兵衛定・ 07

服部権太夫政信 08
原主水胤信 08
林道春信勝 09
西尾丹後守忠永 13
堀丹後守直寄 13
細井金兵衛勝久 15
堀田若狹守一継 15

本多主馬俊昌 16
本多丹下成重 16
本多三弥正貫 18
本多伊衛門光直 18
本多小平次光平 19
戸川肥後守達安 19

戸田六兵衛吉政 20
藤堂和泉守高虎 20
徳永左馬助昌重 31
渡邊監物忠 31
加藤喜助正重 32
加々爪民部忠澄 32

片桐市正且元 33
金森長門守重頼 35
梶川平七郎分勝 36
梶川平左衛門分好 36
依田甚五左衛門守次 36
依田隼人守直 37
依田友之助信弘 37

横田甚右衛門尹松 37
高山主水盛聰 38
高木長次郎廣正 38
玉虫次郎右衛門繁茂 40
竹中豊後重利 40
竹中吉十郎重房 41

津金又十郎胤次 41
妻木雅楽・忠 41
内藤仁兵衛政吉 42
永井右近直勝 42
中坊左近秀政 44
中根喜蔵利重 44
中根但馬守正次 45
成瀬隼人正成 45

向井大学長保 47
牛込傳左衛門俊重 47
能勢伊予守頼次 48
岡田将監善同 48
岡部外記忠吉 49
大井新右衛門政景 49
大野十右衛門元繼 49
大久保石見守長安 50
大久保藤十郎 52
大久保外記藤ニ郎 52

小栗又市吉忠 52
畔柳寿学 53
山田清大夫重次 53
山寺七左衛門昌吉 54
屋代越中守秀正 54
曲淵藤九郎信正 54
曲淵清兵衛吉門 54

松平豊前守勝政 55
松平淡路守忠直 55
松平下総守忠明 56
松平長三郎忠貞 58
松平右近将監成重 58
松平筑後守康親 58
松平石見守康安 59
松平長右衛門昌舎 61
松平壱岐守正朝 61
松平大隅守重勝 62
松平志摩守重成 62

松倉豊後守重政 63
有馬加賀守頼次 63
秋山三左衛門昌成 64
秋元但馬守泰朝 64
安藤帯刀直次 65
佐藤駿河守堅忠 68
榊原内記照久 68
榊原伊豆守重政 69
真田隠岐守信昌 69

佐久間河内守政實 69
三枝伊豆守守昌 70
佐々信濃守長成 70
佐々木民部高和 71
三好因幡守一任 71
三好越後守可正 71
三好備中守長直 72
三好丹後守房一 72

三浦蔵人為連 72
三宅太兵衛長利 72
三宅與衛廣勝 73
三宅源右衛門是親 73
水野内記勝信 73
水野八十郎忠直 73
水野備後守分長 73
水野河内守守信 74
水野対馬守重央 74

彦坂九兵衛光正 75
日向半兵衛政成 75
森左兵衛可澄 76
森山市兵衛盛治 77
仙石左門忠政 77
諏訪左門・長 77
伊奈筑後守忠政 78
本多上野介正純 78

遠山民部利景 79
内藤紀伊守信正 80
松平和泉守家乘 81
松平右衛門正綱 82

高力河内守長次 84
近藤信濃守政成 85
三井左衛門佐吉正 85
三淵伯耆守光行 85
城和泉守昌茂 85
井出志摩守正次 86

[ 編集後記 ] 87
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月10日 22時49分16秒 ) パスワード

服部権太夫政信(1579-1642 64)

(外堀北側) 服部権大夫政光が長男、
慶長5年(1600 22) 関原の役に供奉し、御使番をつとむ。

御帰陣ののち武 蔵国臼井にをいて采地500石をたまふ。


慶長19年(1614 36) 大坂御陣のときも御使番をうけたまはりて台徳院殿 にしたがひたてまつり、
元和元年(1615 37) 再陣のとき5月7日天王寺黒門のうちにをいて敵と槍 をあはせ、首級を得たり。

此年父が遺跡のうち3千石を賜ひ、これまでの采 地あわせて3千500石を知行し、
千石の地を弟杢助政重にわかちあたふ。

5年御上洛のとき従ひたてまつり、京都にをいて遠江国今切の関所番となり、 500石を加恩せられ、
のち采地を同国敷知郡のうちにうつされ、新墾の田 をあはせてすべて4千290石余りを知行し、
寛永2年(1625 47) 12月11日御朱印を下さる。

寛永19年(1642 64) 5月17日今切にをいて死す。年64。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 02時07分56秒 ) パスワード

今切について検索しました:


新居の関が出ました。
すっごく立派!驚き!
http://senkuni.org/269araisekisyo/arai_sekisyo.html

初期は幕府の直轄だったんですねえ。
それに東海道53次にも描かれていた?「荒井」の名で。




いまぎれのわたし【今切渡】

東海道舞坂宿・新居(あらい)宿間の渡船場。

遠江国(静岡県)の浜名湖は,元来淡水湖で湖から遠州灘まで浜名川が流れ,そこに浜名橋が架けられていた。

しかし,1498年(明応7)と1510年(永正7)の地震・津波により決壊して〈今切〉となり,

交通は新居〜舞坂間27町を渡し船に頼ることになった。

この船路はその後の津波の被害により,1699年(元禄12)に1里,1707年(宝永4)には1里半に延長した。

江戸幕府はこの地に新居関を創設。



今切渡 【いまぎれのわたし】

東海道舞坂(まいさか)宿(現浜松市)と新居(あらい)宿(湖西市)の間,浜名(はまな)湖南部に架けられた渡船場。

浜名湖から遠州灘に注ぐ浜名川には橋が架けられていたが,戦国期の地震・津波により決壊した。




中村家文書

http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/SKYSearch.cgi?DEF_XSL=detail&SUM_KIND=MetaSummary&SUM_NUMBER=20&META_KIND=NOFRAME&IS_KIND=MetaMeta&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&IS_TYPE=meta&DB_ID=G0000004SKY&GRP_ID=G0000004&IS_EXTSCH=&IS_NUMBER=1&IS_START=1&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=ac1948024&IS_CND_S1=ALL

東京都
国文学研究資料館(歴史資料): [収蔵者詳細]   立川市 (050)5533-2930 http://base5.nijl.ac.jp/~archicol/

     遠江国引佐郡気賀宿中村家文書

項目 内容
識別記号 ac1948024
資料記号 23X
標題 遠江国引佐郡気賀宿中村家文書
年代 1540年〜 1883年
主年代
年代注記 1540(天文9)年-1883(明治16)年
記述レベル fonds
書架延長/数量 17m / 3924点
物的状態注記 3924点(875冊、2786通、193綴、6括、64鋪)
出所・作成 中村家


履歴
中村家は、1546(天文15)年に中村與太夫が吉村新町(後の気賀)の代官に任ぜられ、
次いで16世紀末の天正期には吉村湊の舟役徴収や市日の升取役を命ぜられるなど、
中世以来の在地土豪であったと考えられる。

気賀は早くから三河と遠江を結ぶ陸上交通の要衝であり、
また浜名湖舟運の基点として、浜名湖北岸地域の中心的な町場であった。

近世に入ると気賀を貫く本坂通が東海道の脇街道として重要視されるようになり、
気賀町に関所と宿場が置かれた。

中村家は当初より気賀宿本陣をつとめるとともに、
代々気賀町庄屋(名主という場合もある)および気賀上村庄屋を兼任した。

また7代当主中村与四郎は、
1760(宝暦10)年に気賀領主近藤用随に召し出されて気賀関所平番格となり、
その後竹田家を継いで竹田弥次郎重賢と名乗って、
1796(寛政8)年に退役するまで地方代官を14年、番頭を16年つとめている(『細江町史』資料編8)。

なお中村家は、近世を通じて有力な地主でもあった。

(関係地) 遠江国引佐郡気賀町(気賀上村)‐静岡県引佐郡細江町気賀[現在]
(主題) 本陣‐庄屋(名主);地主
(役職等) 本陣‐庄屋(名主);地主


       鈴木さんですよ〜
        ↓
伝来 気賀町鈴木庫太郎氏が中村家より譲り受けたものを1948年度に史料館に譲渡。
鈴木氏については『細江町史』資料編8「あとがき」(1994年)参照のこと。
入手源 気賀町鈴木庫太郎氏より譲渡。
        ↑
      ここもチェックしないといけませんね


範囲と内容 本文書群は、(1)気賀町庄屋文書、(2)気賀上村庄屋文書、(3)気賀宿本陣文書、(4)竹田弥次郎文書、(5)中村家家政文書、の5つによって構成されると考えられる。気賀町は気賀上村のうち街道沿いの屋敷地を気賀町と呼んだものであるが、検地帳などの基本帳簿はもとより、年貢免状も気賀上村とは別のものが発給され、支配行政上あくまで独立した扱いを受けた。また気賀町は気賀宿として人馬継ぎ立ての任務を負い、常設の宿問屋が置かれなかったため、かわって気賀町庄屋である中村家が人馬差配業務など宿運営の中心を担った。<lb/> これらのことから、(1)気賀町庄屋文書には、年貢・土地・戸口・治安・災害・救恤などに関わる町方文書のほか、大名公家等の通行に関する書付類や宿・助郷への人馬割付帳など、多数の宿駅文書が含まれる。気賀湊の碇役銭の取立納入関係文書も(1)に入れてよいと思われる。<lb/> (2)は中村家が気賀町とともに庄屋役をつとめた上村の村方文書である。上村は油田・伊目・呉石・小森・葭本・下の各村とあわせ、気賀村あるいは気賀七ヵ村とも呼ばれた。したがって、治水関係などの分野では気賀七ヵ村全体に関わる文書が多く見られる。<lb/> (3)は(1)と区別が難しい点もあるが、大名公家等の通行・宿泊に関する本陣中村家の帳簿等が多数残っている。<lb/> (4)は、中村家7代当主で後に竹田弥次郎重賢を名乗った中村与四郎が、気賀関所役人や地方代官として在役中に授受あるいは書写したと思われる文書と、退役後に書き残した写本史料からなっている。「本坂通往来留書」「御関所覚書」など気賀関所に関するものと、「気賀御関所御要害郷村帳」など要害村に関するものが目立つ。<lb/> (5)は金融・貸借関係の証文類が主体である。


評価選別等スケジュール ―
追加受入情報 ―
整理方法 『史料館所蔵史料目録』第2集の表記は「遠州気賀宿文書」。
利用条件 ―
使用条件 ―
使用言語 JAPANESE
物的特徴および技術要件 ―
検索手段 『史料館所蔵史料目録』第2集(1953年)およびカード目録
原本の所在 ―
利用可能な代替方式 ―
関連資料 中村尚氏宅(静岡県浜松市)に中村家文書多数が所蔵されており、一部は『静岡県史料』第5輯(1941年)、『静岡県史』資料編13・近世5(1990年)、『細江町史』資料編7(1987年)に掲載されている。
出版物 『細江町史』資料編1(1979年)、資料編2(1981年)、資料編8(1994年)に、「本坂通往来留書」(史料番号776)その他の若干の史料が写真と共に翻刻掲載されている。
注記
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)
更新日 2007/12/28 14:22:00
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 02時24分50秒 ) パスワード

といことで細江町史のあとがきで鈴木氏について読みたいと思いましたが
国会図書館までお問い合わせになってるようです。

http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000002886069.html


細江町史

細江町/2000.3

当館請求記号:GC128-93

分類:地方史誌


目次

口絵

はじめに
凡例
第1編 原始
第1章 細江のあけぼの
第1節 ナウマン象とともに 3

祝田坂の象化石 3

化石となった人骨 4

旧石器人の暮らし 6

浜名湖の生立ち 8

第2節 細江の縄文人 9       3つ柏さんの御先祖さま?

土器と弓矢の発明 9

狩猟と漁労 10

縄文人の主食 13          ナニを食べていたんでしょうね?鈴木だけに鱸とか?

縄文文化 14

縄文人のムラとつき合い 17     コレは大事だ


第2章 水田稲作と銅鐸
第1節 稲作の開始と展開 21

稲作の伝来 21

岡ノ平遺跡 23

水田農業の展開 26

弥生文化 29

第2節 細江の銅鐸 31       おやおや「銅鐸」ですよ。やはり「呼びかけ」があった?

銅鐸の谷 31           エジプトの「王家の谷」は知ってたけど 

銅鐸のまつり 34


第2編 古代
第1章 陣座ヶ谷古墳とその時代
第1節 弥生墳墓から古墳へ 41

畿内勢力の跫音 41

陣座ヶ谷古墳 43

古墳築造の意義 46

第2節 ヤマト政権と細江の古墳 49

「井」の国と名代・ミヤケ 49

古墳時代集落の動向 51

まつり 55

群集する小型古墳 57


第2章 刑部・伊福の里
第1節 律令国家と細江 64

奈良時代の政治の仕組み 64

律令期の集落と里 67

引佐郡家 70

第2節 古代の人々の暮らし 76

古代の人々の負担 76

古代の人々のまつり 78

律令制の崩壊 81

第3節 気賀荘 84

気賀庄 84

第4節 万葉集に詠まれた細江 85

澪標 85

吾跡川揚 86


第3編 中世
第1章 南北朝と戦国の世
第1節 宗良親王 91

宗良親王 91            鈴木家は当然絡んでますよねえ

無文元選と方広寺派 93

第2節 永正の乱 95

第3節 桶狭間の戦いと井伊氏 96

服部中保次の墓 96        この服部さんのお墓よりも政信のお墓はどこ?

桶狭間の戦いと井伊氏 97


第2章 徳川家康の遠江経略と細江地方
第1節 徳川軍の遠江侵入ルート 99

1 宇津山城とその役割 99

2 宗長手記にみる湖岸の諸城 100

3 松平家忠の宇津山攻め 102

4 『武徳編年集成』の記述 103

5 油田の地侍竹田高正 104

6 本坂の後藤氏・佐久の浜名氏 105

7 井伊谷三人衆・菅沼・近藤・鈴木 106

8 二説ある侵入ルート 108

9 陣座峠から奥山筋へ 109

10 『菅沼家譜』の記述 111

11 白須賀城落城 113

12 二河の奥貴山富賀寺 113

13 宇利の近藤氏初代満用 114

14 井伊谷城と『野田実記』 115

第2節 刑部城と蜂前神社 117

1 刑部城とその主将 117

2 刑部城の地形と規模 118

3 『図絵』にみる「瀬戸の郷士」 119

4 氏真の判物と瀬戸方休 122

5 蜂前神社の徳政文書 123

6 橋羽妙恩寺の寺紋 125

7 馬場美濃守と日豪上人 126

8 家康、蜂前神社に戦勝祈願 127

9 浜名湖西岸南下ルート 128

10 『浜松御在城記』について 129

11 中村源左衛門家の系譜 129        中村さんともご親戚かもですね

12 源左衛門正吉の登場 131

13 中村家由緒書 132

14 『浜松宿古来書留』 133

15 「西海別」と「東海別」の村々 134

第3節 引間城と飯尾氏4代 136

1 引間城とその周辺 136

2 築城の年代と築城者 139

3 飯尾氏4代の系譜 139

4 寿竜院の飯尾氏文書 141

5 飯尾連竜謀殺さる 142

6 東漸寺に連竜の供養塔 143

7 江馬安芸守と同加賀守 144

8 飯尾連竜室の奮戦 146

9 つばき屋敷と御台塚 146

10 浜松城築城の時期 147

11 築城当初の規模 148

12 惣奉行木原吉次 150

13 家康の掛川城攻め 151

14 『今川諸家臣分限記』 153

15 雲根寄進の気賀の松井藤太夫 155


第3章 堀川城と堀江城の攻防
第1節 大沢基胤と中安定安 157

1 堀江下野守の館 157

2 家康、大沢・中安に誓書 158

3 『野田実記』の記述 160

4 大沢氏の出自と系譜 160

5 基宿の代に「高家」に列す 162

6 宿直寺に大沢氏歴代の墓 162

7 藩主大沢基寿の回想録 164

8 中安兵部少輔定安 165

9 中安から分流した野中氏 166

10 中安定安、姉川で討死 166

第2節 竹田、山村、尾藤の三将 167

1 堀川城の地理的考察 167

2 攻防は永禄12年3月 169

3 両軍の人数について 170

4 家康一揆衆の真中を通過 171

5 残党七百人赦免説 173

6 気賀領主新田友作 173         新田さんなら宗良親王がらみの新田さん?

7 竹田高正の油田土着 175

8 高正の子雅楽介と酒造介 176

9 山村修理太夫自害の地 177

10 山村家由緒書 178

11 尾藤主膳は堀江城外で自害 179

12 春浦和尚も入定 180


第4章 三方原の戦いとその舞台
第1節 台地への西上ルート 182

1 武田信玄、遠江に南下 182

2 勝頼総大将で二俣城攻め 183

3 家康をめぐる合戦伝説 184

4 史料にみる二俣城の攻防 185

5 その後の二俣城の動向 187

6 武田軍の天竜川渡河 188

7 武田勢3万・徳川勢1万 191

8 申の刻に合戦の火ぶた 192

9 給食を担当した小荷駄隊 192      輜重隊は影の英雄達(涙)

10 討死した徳川の武将たち 193     これは読んであげたいですね  

11 軍が動いた祝田坂 194

12 決戦場祝田坂 195

第2節 広沢山普済寺の炎上 196

1 合戦当時の浜松城 196

2 玄黙寺と玄黙口 197

3 明光寺口と天林寺 199

4 酒井の太鼓をめぐる伝説 200

5 『三方原戦記』の記述 202

6 玄風和尚の『西来院由緒』 202

7 亀井山に硝煙蔵 206


第5章 武田信玄の刑部宿陣
第1節 古戦場犀ケ崖史譚 208

1 犀ケ崖の夜襲作戦 208

2 布橋伝説発生の起因 210

3 『遠江古蹟図絵』の「犀ケ崖」 211

4 大島蓼太の句碑 214

5 『三方原戦記』から 214

6 武田軍の撤収ルート 215

7 平口村・新原村と休兵坂 216

8 新原弥左右衛門と瑞応寺 218

第2節 宿名の寺屋敷円頓寺 219

1 陣平に大陣屋・前山に小陣屋 219

2 陣座ヶ谷と陣内平 220

3 古陣地について 222

4 『青山御領分絵図』 223

5 前山『史蹟』の碑 223

6 刑部から三河への進路 225

7 堀川の討死者の葬地 226

8 宿陣を可能にした谷間の湧水 227

9 刑部に朝倉義景の使者 228

10 松平清善宛の家康の宛状 229

11 油田を宿陣地とする説 230

第3節 油田の竹田家系譜 232

1 信玄、木曽義昌に書簡 232

2 『竹田家系図』の考証 232

3 木曽義昌について 234

4 『木曽家系図書』 235

5 竹田家の後裔たち 235

6 岡部政定とその家系 236

7 高正父子の五輪塔 237

8 刑部郷7か村 238

9 永井随庵の『浜名湖見聞録』 239

10 刑部村の庄屋内山平兵衛 241


第6章 築山殿の死と信康の自刃
第1節 浜松在城中の試練 243

1 哀しみと歓びの歳月 243

2 家族の愛をすて、家を守る 243

3 築山御前最後の地 244

4 西来院の月窟廟 246

5 『西来院由緒口上書』 247

6 築山殿の150年遠忌 248

7 豪華秀麗をきわめた廟堂 248

8 紀行文にみる築山廟 250

9 『遠江古跡図絵』にみる伝承 250

10 野中三五郎重政とその後篇 252

第2節 三郎信康の死と秀忠の誕生 253

1 松平源三郎康俊 253

2 松平康俊の刀と鎗 254

3 信康二俣城で自刃 255

4 服部半蔵と天方山城守 256      半蔵さん

5 清滝寺の伽藍の災禍 257

6 信康廟の五輪塔 257

7 三郎信康の火葬地 258

8 秀康、宇布見で出生 259

9 中村家の「胞衣塚」 260

10 長勝院お万の方 261

11 将軍秀忠浜松で出生 261      お愛さんも書かれている?

12 西郷局と心造寺の鉄灯篭 263    読みたいですね


第7章 吉川本町(気賀)の成立
第1節 堀川城とその人物群 265

1 気賀一揆の寺と地侍 265

2 気賀村の名倉常閑 266

3 本坂の後藤角兵衛実久 267

4 佐久城と浜名肥前守 268

5 『浜名記』全3巻 269

6 『牛窪記』にみる堀川 270

7 真木又二郎とその妻 271

8 新田喜斎について 271

9 三河清水城と新田氏 273

10 全得寺と知足院 274

11 喜斎の墓塔と念持仏 276

第2節 本多作左衛門と中村与太夫 278

1 井伊直親と祝田の大藤寺 278

2 『井伊氏南朝奉仕始末』 279

3 井伊直平、有玉篭屋で死す 279

4 築山御前の井伊氏系類説 280

5 直親掛川で謀殺さる 282

6 『南渓和尚過去帳』 284

7 本多重次の伝馬所設置 285

8 荒地開発権と吉村湊の舟役 287

9 堀尾帯刀吉晴の時代 288

10 松下常慶重綱の手形 289

11 中世から近世への移行 289

中世編の執筆について 291


第4編 近世
第1章 気賀の関所
第1節 姫街道と気賀の関 295

姫街道の名 295

姫街道のあらまし 295

細江町のなごり 297

第2節 気賀の関所 300

第3節 気賀関所の構造 301

気賀関所の構造 301

犬くぐり道 303

第4節 関所役人の構成と勤務 303

第5節 関所の武具と道具 305

第6節 制札(高札) 307

第7節 近藤の成立 309

第8節 貞用と初山宝林寺 312

第9節 気賀関守旗本近藤家 315

気賀関守 旗本近藤家 315

近藤家の陣屋 316

第10節 関所手形 316

女手形 316

関所手形 317

鉄砲手形 317

往来手形 318

第11節 女改め 318

第12節 鉄砲改め 320

第13節 関所とその要害村 321


第2章 気賀関所での通行と取り締まり
第1節 気賀関所と助郷村 323

第2節 金指関所 324

第3節 本陣中村家 325

第4節 宿場の人々 329

第5節 浄円院の気賀関通行 330

第6節 天覧の象の通行 331

第7節 将軍家茂上洛に関する気賀関所文書 333

第8節 道中御奉行様御条目 写 336

第9節 御関所御定法 337

気賀御関所御定法 337

定 339

大名の通行 342


第3章 打ち続く災害
第1節 宝永の災害 344

第2節 藺草神社 345


第4章 農民一揆
第1節 宝永の地震への対策 350

第2節 天保の飢饉 351

嘉永・安政の地震 352

第3節 農民一撲 354

天王ぶろに立篭る 359

事件の終末 361

永代三日夜灯 362


第5章 宿場の人々のくらし
第1節 遠州気賀村御地頭様支配覚書 363

第2節 正徳三年の御法度書 364

正徳三年の御法度書 364

第3節 御条目並五人組帳 365

第4節 気賀町方覚書 369

気賀町取捌定書 369

碇役之定 370

気賀町方覚書 373

油田への覚書 380

伝馬役 382

町役 382

働き人足 383

防災 385

年中行事 386

科人 390

参勤交代 393


第5節 気賀村の申送帳 395

年表 403
あとがき              ここに鈴木家について書かれている?



MOKUJI分類:地方史誌


                        是非ぜひお問い合わせを!

お問い合わせ先
国立国会図書館利用者サービス部サービス企画課
東京都千代田区永田町1-10-1
電話:(03)3581-2331
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 05時28分37秒 ) パスワード

鈴木家住宅(国指定・北区引佐町)

重要文化財でしょうね。
でも現在もお住まいなのか公開はなさっていらっしゃらないようです。




中村家で家康の次男の秀康が生まれたのですねえ。
   お万さまの御実家の知立神社と関係があったのか
   お万さまを保護した本多家と関係があったのか
秀康が将軍になってたら、中村家はまた違う家になってたのでしょうね。


重要文化財中村家住宅
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/bunkazai/shitei/yuto/yuto/nakamurake.html

(浜松市西区雄踏町宇布見)


約3,000平方メートルの敷地内にある寄棟造葦葺平屋建の建物で、桁行(間口)21.3m、梁間(奥行)11.2m、平面積238.7平方メートルです。建物は、棟通りと梁間方向中央の柱通りを揃え、これを境として、桁行方向に部屋が食い違いの配置になっているという特徴があります。
主屋の構造は、側柱(外回りの柱)は省略がなく、部屋境は2箇所を除いて柱を1間ごとに、楚石の上に直接立て、おもに貫(ぬき)で相互の連結がはかられています。


中村家の歴史


中村家の初代中村正範は源範頼の末裔の武士で大和国広瀬郡中村郷に住んでいました。文明13年(1481)には、14代正實が今川氏に招かれ、遠江国磐田郡大橋郷に領地を賜り、その後、敷知郡和田、平松、宇布見、山崎、大白須の五か荘が与えられ、文明15年(1483)に宇布見に屋敷を構えました。16世紀の今川氏の時代には、同氏の家臣で代官を勤め、浜名湖の軍船を支配しています。
永禄11年(1568)に徳川家康が遠江に入国した時、18代正吉は船を出して迎えるなどの御用を果たし、徳川氏に仕え今切軍船兵糧奉行や代官を勤めました。こうした関係から天正2年(1574)2月8日に徳川家康の側室お万の方が家康の第二子である於義丸(後の結城秀康)を当屋敷で出産し、その時の胞衣(後産)を埋めた胞衣塚が現存しています。


建築年次


貞享(じょうきょう)5年(1688)
建物は18世紀中頃の建物とみられていました。しかし、貞享5年(1688)の銘がある鬼瓦が主屋に保管されていて、棟に上がっていた鳥衾(とりぶすま)と取合いが一致しました。このことから、貞享の時代にほぼ完成していたと考えられます。また、解体中に正徳2年(1712)の墨書、享保6年(1721)の木札が見つかりました。しかし、これらは後に設置されたものと考えられました。
中村家古文書(御目見控帳・冊十一)から、寛政4年(1792)には棟が瓦葺きであったことが確認できます。
文政8年(1825)の「御朱印御徐地社中并居宅等坪数御取扱之次第書上帳」からは、貞享5年(1688)より8年前の延宝8年(1680)に浜松城主から「中納言秀康様御誕生之御間御修復并居宅向等御手入被仰」したことがわかりその費用として、金百両、米五十俵が下されています。



長屋門


江戸時代、式台や玄関と同じく一定の格式をもった家に建てられたもので、家相図には南向きに位置していますが、現在は東向きとなっています。棟木には安永4年(1775)と記されています。


胞衣塚


結城秀康がこの中村家で生まれその胞衣(えな)を納めた塚です。塚上の梅の木は徳川家康のお手植えと伝えられ、数代を経ています。




お問い合わせ
.



浜松市役所市民部文化財課

〒430-8652 浜松市中区元城町103-2

電話番号:053-457-2466

ファクス番号:053-457-2563




結城秀康

出生[編集]

天正2年(1574年)、徳川家康の次男として遠州浜松で生まれた。

ただし、当時の家康の居城だった浜松城ではなく、浜松城下の有富見村(宇布見村、
現在の浜松市西区雄踏町宇布見)である。

母は三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英の娘で、
家康の側室の於万の方(長勝院)。

於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。

家康は築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。



           中村家は源範頼がらみでしたか
                ↓

秀康は宇布見村にて今川氏、ついで徳川家で同地代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務めた源範頼の系譜である領主中村正吉の屋敷で誕生した。

現存する同屋敷の敷地(建築物は江戸初期)には、家康お手植えの松が植えられた「秀康の胞衣塚」が残る[4]。

この縁により、のちの福井藩の歴代藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。

「秀康は双子で誕生した」との説[5]があり、その相方の兄弟は永見貞愛とされている[6]。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 05時30分45秒 ) パスワード

前原銅鐸

銅鐸 どうたく (浜松市中区蜆塚四丁目 浜松市博物館)
平成12年11月17日 県指定有形文化財(考古資料)


昭和62年(1987)に浜松市都田町で実施した発掘調査で出土しました。

高さは68.5cmです。弥生時代後期のもので、三遠式と呼ばれる種類に属します。

埋められたままの状態で見つかった三遠式銅鐸は珍しく、貴重です。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 06時16分47秒 ) パスワード

http://www.gifu-bunkazai.jp/?page_id=273
岐阜のサイトなんですが



11  昭和54年5月25日

桑原家住宅

が載ってるんですけど



その昔、服部家のホンヤさんから「この近所で名家というと「桑原さんとこ」とお聞きしました。


     (馬の骨としましたら《うちに決まってるじゃないか》とお答え頂くものと思ってたので驚きました)
      ホント、うちのホンヤさんは皆さんに「ホンヤさん、ホンヤさん」と慕われる
      立派な・品性が上品なかたでいらっしゃいます。



それで桑原さんを検索したら!
なんと!

http://www.city.ogaki.lg.jp/0000000717.html

このお家だと思いますけどね

以下コピペ:

                   え〜!ビックリ!
                    ↓
桑原家の先祖は、天文14年(1545)伊勢の阿下喜から一之瀬に移り住み、
信長に仕えましたが、

関ヶ原の合戦後は、尾張藩の在郷武士として返り咲きました。


桑原氏は、30石を与えられ、村内では賄庄屋も兼ね、植林を奨励し用水路引き田畑の開墾を始めました。


桑原氏の邸宅は、寛永5年(1628)に中島郡駒塚(現羽島市)に住居を移しますので、
約22年間政所となりました。

現在は、約2,800平方メートルの敷地と建造物(六種)が、国の重要文化財に指定されています。


開館時間
原則非公開     今でもお住まいなんでしょうね。

ところ
大垣市上石津町一之瀬365



伊勢国阿下喜って言ったら、まんま、平家の里じゃないですか!?と、思いましたが
この桑原氏は  土岐氏?  つまり  源氏?


このあたりは平家の武門を担った藤原氏のエリアで、今でも、美男美女がゴロゴロいるところです。
そのまんま、平安時代の公達や姫君達が生まれ変わってこの平成の世に生活してるって、感じの所です。



ということで更に検索しましたら

http://castle.slowstandard.com/25tokai/27gifu/post_1082.html


桑原家の先祖は、天文14年(1545)伊勢阿下喜城(いなべ市)から一之瀬に移り住み、織田信長・豊臣秀吉に仕えた。


    (ここだけ読んだら平家一門かと思いました)

関ヶ原の合戦後は、尾張藩の在郷武士として重きをなしてきた。桑原氏は、30石を与えられ、村内では賄庄屋も兼ね、 植林を奨励し用水路引き田畑の開墾を始めた。

桑原氏の邸宅は、寛永5年(1628)に中島郡駒塚(現羽島市)に住居を移すので、約22年間政所となった。
享保18年(1733)、火災にあい、その後現在地に新築されたのが現建物であると思われる。

約2,800平方メートルの敷地と建造物(6種)が、国の重要文化財に指定されている。



更に検索したら古田織部との関係が出てきました:

http://www.okuiso.com/documents/minoyaki.pdf


こんな人のお名前も出てました。

岐阜県史通史編(史料編)
 豊臣代官名蔵入地
 加藤光泰 天正拾三年            加藤光泰さまです
    大垣城周辺 七〇〇〇石
 


では古田織部と桑原家の関係コピペ:



此家譜は、古田織部の女系に伝わる系図で最も信用出来うる系図である。

 古田家譜

  古田氏は大江広元の流れをくみ、代々美濃に住み、織部の祖父古田総兵衛
 は始め、土岐頼芸に仕え、頼芸が斎藤道三に亡ぼされたあと道三に組みし、
 のちに織田信秀に仕えた。総兵衛に長子加兵衛重安、次子主膳重定、末子与
 兵衛重俊の三子があった。長子重安は家督をついで信長に仕え、選ばれて足
 利義昭に付せられ、山城国西ヶ岡万吉領を与えられたが、(斎藤山城守入道
 道三の生地)義昭に直諫し怒りにふれて追われ、一時細川藤孝に身を寄せ、
 その剛直な性格が藤孝に愛され、のちには信長の許にもどって大小の合戦に
 働き、天正六年一月一日、六十一才で西ヶ岡に歿した。次子重定は、美濃土
 岐氏の支流桑原氏を継いで、一時桑原姓を名乗ったが同家に桑原次右衛門が
 生まれたので古田氏に復帰した。重定は紹鴎に茶を学び、勘阿弥と称したが
 天正十三年秀吉のすすめで三千石を領した。そして慶長三年八月十三日秀吉
 が死去すると、あとを追って十九日殉死した。


 織部は此重定の子である。重定が桑原家にある頃の天文十三年甲辰年に生れた。

  古田本家である。大膳亮重安にその頃は子がなかったので、佐介(織部)は伯父にあたる重安の養子となり、古田本家をつぐことになって再び古田姓を名乗ったのである。


            系図は壊れますからURLへ




                      ┌養子 佐介(重然)

                      ├平次郎重続

           ┌大膳亮重安──── ┼喜太郎重則
   

           │(桑原氏)     └弥三郎重忠
   

   古田総兵衛   ┼主膳正重定     ─佐介

           
           └与兵衛重俊


此家譜で問題になるのは、古田佐介(重然)が桑原重定、つまり桑原家で(天正十三年)生れて、
桑原次右衛門尉が其実弟であると云う事である。



F 桑原氏と古田織部の生国
 佐介は桑原家で生れているので、したがって桑原氏を調査する事によって佐介の出生地が判明すると思う。

 佐介の実弟の桑原次右衛門尉は、元亀・天正の初年頃には大身であった事が次の文献を見れば理解する事が出来る。

兵庫県の小西新右衛門氏所蔵の羽柴秀吉と宗易との連署状である。
追伸候、森三右衛門尉方大壷儀、貴所御存分尤に候、以上
いとちや碗 一段見事に存候 併 釡も見候 珍敷候 右之両種 桑原次右衛門尉に被レ遣候事候 秀吉も被二成御祝着一候 さりとは 御めきヽとくに存候 恐々敬白
                       抛 筌 斎
   正月十日                  宗 易(花押)
                         秀 吉(花押)
  木下助兵衛尉殿
 桑原次右衛門尉は、利休が賞美する程の井戸茶碗や、釡を、秀吉の一族の老武士、木下助兵衛尉から頂戴しているのである。此の事は、次右衛門尉が、かなり身分の高い武士であった事がわかる。もう一人の森三右衛門は、「稲葉氏由緒問答」には「森三右衛門は、信長公の臣なり、後に毛利壱岐守と名乗り秀吉公の代に、豊前小倉城主に成り、根本は美濃土岐の末由」とある。壱岐守の子、毛利豊前守は、西軍で関ヶ原敗戦後、山ノ内家に閑居していたが、大坂夏の陣には真田幸村と共に大奮戦し徳川の大将三人を射取り、後、秀頼と共に自刃した無双の勇士である。金山城主、森三左衛門と間違える人があるようだが、昔はよく姓氏を変えるので注意せねばならない。


       美濃の桑原氏について:

 美濃には豪族桑原氏は当時かなりいたようである。

斎藤時代から美濃の桑原姓の武士で関係のあるものを列記してみると、

@羽栗郡桑原村には、桑原十郎左衛門久頼という「美濃諸旧記」に出てくる有名な豪族がある。

A石津郡(養老郡)市の瀬城主、桑原兵庫資貞と、桑原次右衛門は、養老郡史によると兵庫は土岐盛頼の次男と云われ、別名を次右衛門といい、永禄七年の春、八十六名を従えて一之瀬村に移住したと記されている。三世の孫は太兵衛といい、太兵衛家の系譜によると、桑原兵庫資貞の母は、日根野左京亮女で、永禄二己羊年石津郡市の瀬村に居住し、天正四年播州於戦死と云う事になっている。其の子は桑原次右衛門盛重で、母は、揖斐五郎光親女である。桑原家は、土岐系の支流である事が此家譜で明確になったのである。

 此桑原次右衛門が古田織部の実弟であるとするなれば兵庫資貞が、織部の実父という事になる。そして織部の母は、土岐揖斐五郎光親女と云うことになるが、しかし古田家譜では織部の実父の桑原重定は、慶長三年八月十三日秀吉が病歿した後に十九日殉死した事になっている。資貞が古田姓を名乗ったことはないようであるし、資貞自身が古田織部の実父重定とは考えられないようである。


       この桑原氏系かな?
           ↓
しかし別に桑原家は一時伊勢日永城(四日市)阿下喜城(北勢下喜)に城主として居城していたが、
信長の指令で街道の鎮めとして一之瀬に居住した事が、桑原権之助系図には記されている。

市ノ瀬の知行高は「濃陽志略」によると、四百三十七石七斗二升であるが、
利休書簡に出て来る次右衛門尉が桑原次右衛門盛重であるとすれば、
市ノ瀬に居住していても、土岐系の氏族として千貫以上の石高を拝領していれば、
井戸茶碗や、釡も、所持できる美濃の中位の豪族であったとも思われる。

市ノ瀬の桑原資貞が、織部の実父ではない、とは言い切れないし、むしろ有望でさえあるのは、
桑原次右衛門が、織部の実弟と推定されるからであり、もっと、側面の資料が必要と思われるのである。

此の家譜で問題になるのは、
資貞の子が一人しかいないので、古田家譜にある重定が、桑原家に養子したところ、次右衛門が生まれたので、桑原家を出て、古田姓に還ったと記されている記述と、
土岐の支流である二点が一致している。

もっと深く研究すれば何かの連関が明白になるかも知れない。


桑原家譜には、古田姓や織部の記述がないので、確証をつかむ事ができないが、いずれにしても、古田一族とは何か、関係が深いことは確実であろう。



G 桑原右近衛門尉
 此の人は、弘治元年、斎藤義竜から、四千五百貫(三万石から四万石位)の知行を加茂郡太田を中心に頂戴しているので、此右近衛門が当時桑原氏のうちでは最も豪族であったようである。此の右近衛門が古田織部の父として桑原右近衛門重定と考えられないこともない。

 桑原右近衛門尉の太田近辺は、東濃と西濃の分岐点であり、又尾張犬山とは近く、鎌倉時代以来の刀剣や窯業の産地関市も含んでいるのであるが、戦記に全然出てこない不可解な人物である。しかし戦記物よりは当時の古文書の方が確かであることは云う迄もない。弘治元年、斎藤義竜(新九郎苑可)が父、斎藤道三と問題が起こったが、内容は右近衛門が義竜の実弟二人を殺害した張本人として四千五百貫の地を拝領した記録である。
    (斎藤善興氏文書)
  弘治元年十二月十一日斎藤苑可宛行状
  領地方目録
 一、羽生生頭領家(加茂郡富如村羽生)
 一、西田原   (関市西田原)
 一、今 泉   (美濃加茂市加茂野今泉)
 一、下麻布   (加茂郡川辺町下麻布)
 一、木 村
 一、太田領家  (美濃加茂市太田町)
 一、古井地頭領家(  〃  古井町)
 一、山上地領家(両半済 すみやき 本土(〃 山上町)
 一、蜂屋南北  (  〃  蜂屋町)
 一、金 山   (武儀郡 金山町)
 一、桐 原
 一、神 淵
 一、神 野 古田分共ニ  (関市 神野)
 一、揖 深        (富加村 揖深)
 一、大 村 一方 二方
   己上
右分可レ被二申付一候 至被官寺庵等 夫銭反銭之事は山県一途之間 可被申付候
猶長井隼人可申候
  十二月十一日          新九郎  苑可 (花押)
  桑原右近衛門殿

同内容文の弘治元年十二月十一日の齊藤苑可知行状が一通有って、次に今度働是忠節祝着之至候、殊更無人 候間、処、即時 落居候、無比類候、爰許被静候、不図可二見舞申一候、猶使者可申候、恐々謹言
   十二月十五日            新九郎  苑可 (花押)
  桑原右近衛門殿
         進覧之候
次の知行目録には右に記述した加茂郡武儀郡各村々と知行高が記述され末尾に
   己上 四千三百八十九貫高頭
    夫銭 反銭 こくが銭共々ニ
 この文意は、今度の働きはまことに忠節祝着の至りである。ことさらに人無きに、即時に解決した働きは、比類がない。静かになされているそうですので、使者をもって御見舞いします。新九郎 苑可 と云う意味である。四千五百貫の知行(約三、四万石)弘治元年には、いったい何が起こったかというと、連戦連勝して、負けを知らなかった斎藤道三が、大失敗をした年である。かねて廃嫡しようとしていた義竜に、自分の実子二人を、孫四郎、喜平治が、稲葉山城内において義竜に暗殺されると云う事件が(弘治元年十月)おこったのであった。

 苑可というのは支那の唐時代の武将であり、義竜は暴慢を憎んで天誅を加えたと云われた人の名を号しているのである。このとき、道三は、鷹狩に出ていたが、討報を知らされて愕然とした。桑原右近衛門の一撃は、美濃の武将を、義竜の元に結集することに成功して、道三との戦いは大勝した。道三との戦いには、桑原右近衛門の名が苑可の麾下としては見えないが、古田右近という名が記されている。古田山徳林寺系図のもう一本の古田家譜には、古田右近衛門なる武士が記されているので、古田右近というのが桑原右近衛門ではないかとも思われる。

長良川の決戦の時には桑原は、古田姓に復帰したのかもしれない。


 桑原右近衛門、及び土岐盛頼次男の桑原資貞が、織部正の父かどうか、第一資料がないので確証はないが、桑原氏は(土岐氏)、揖斐五郎光親以前に、土岐氏から分かれた、支流かどうかは不明である。しかし、土岐の支流といっても、土岐の支流の内には桑原などというのは古くからあまり知られていないので、比較的に発生が遅く揖斐五郎光親か土岐盛頼から支流になったとも考えられる。桑原家は、天文の頃ようやく土岐の支流として、武将や豪族になったようだ。土岐の支流の場合には、住んでいる地名を姓とするのが普通である。桑原村と云う所は、先述した中島郡(羽栗郡)桑原村の住人桑原十郎左衛門久頼がいた。桑原重定は、多分、この桑原村と関係があるように思われる。この時代桑原氏はまだ美濃には四散していないようである。天文時代には、桑原氏は土豪であって、桑原右近衛門尉は三、四万石の領主になった。桑原兵庫資貞も又、織部の父かも知れない。

 此項の結びとして、古田の傍系と考えられる、古田織部正重然は、桑原家の養子になった父の子として、中島郡(羽栗郡)桑原村で生まれたと推定できるのである。母は、土岐揖斐五郎光親の女なれば、古田織部は「土岐氏直系」の出、と言う事にもなり、文化人になっても不思議ではないように思える。
  
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月11日 07時01分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがにあを様いい本・情報を紹介して下さる。いつもマーベラス !

 『細江町誌』、内容を見てすごいなと初めて知りました。
 また、「駿府に居を構えた百人の武将」もすごいなと感じました。
 早速、浜松の図書館他あたってみます。

 浜松でなく駿府に住んだという理由を一度整理してみたいと思います。
 いずれにしても、浜松から駿府へ、また江戸へも移動ということですから。

 政信は1642年、今切にて亡くなったということ。追跡調査をしてみたい
と思います。

 とりあえずここで一旦切ります。
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月11日 07時04分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスがスレ違いました。

 読ませていただきます。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 08時22分30秒 ) パスワード

永井さんと鈴木さんが繋がりました!
やっぱりね〜


永井直勝

生誕
永禄6年(1563年)

死没
寛永2年1月27日(1625年3月5日)

別名
伝八郎(通称)

戒名
大雄院殿永井月丹大居士

墓所
茨城県古河市西町の永井寺

官位
従五位下、右近大夫

幕府
室町幕府→江戸幕府

主君
松平信康→徳川家康→秀忠→家光


上野小幡藩主→常陸笠間藩主→下総古河藩主

氏族
長田氏→永井氏

父母
父:長田重元、母:鈴木氏     ← ココ


正室:阿部正勝の娘


尚政、直清、直貞、直重、娘(柴田康長正室)、娘(土屋利直正室)、娘(淳美友之室)



永井 直勝(ながい なおかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本、大名。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主。永井家宗家初代。

美青年であったと言われている。←  名古屋の長田さんって美しい系ですから、やっぱり!



生涯[編集]

永禄6年(1563年)、長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)に生まれる[1]。はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正7年(1579年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正8年(1580年)、家康に召し出されて再び家臣となる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された。

文禄3年(1594年)、池田恒興の次男池田輝政が家康の次女の督姫を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。このとき、輝政が直勝の知行を聞くと5,000石であった。輝政は父を討ち取った功績の価値が5,000石しかないのかと嘆息したという。

文禄5年(1596年)2月7日、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている[2]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に近江国に2,000石を加増され、7,000石を領する。

大坂の陣にも参戦して戦功を上げ、元和2年に(1616年)上野小幡藩1万7,000石に加増。翌元和3年(1617年)には常陸笠間藩3万2,000石を与えられ、後に2万石を加増される。元和8年(1622年)、笠間を浅野長重に譲って、代わりに下総古河において7万2,000石を与えられた。

寛永2年(1625年)、63歳で死去した。跡を長男の尚政が継いだ。

子孫[編集]

子孫に作家の永井荷風や三島由紀夫などがいる。   ←  ええっ?!


    すなわち、
    直勝と大河内秀綱次女の由利姫との間に生まれた正直が荷風の12代前の祖先であり、
    直勝と阿部正勝の娘との間に生まれた尚政が三島の11代前の祖先にあたる[3]。


脚注[編集]

1.^ 碧南市音羽町にある宝珠寺には、永井直勝生誕の地の碑が建てられている。
2.^ 村川浩平『日本近世武家政権論』
3.^ 安藤武『三島由紀夫 全文献目録』p.442(夏目書房、2000年)
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 08時24分31秒 ) パスワード

3つ柏さん


長上郡の5名家の4つまではなんとなく分かって来ましたね。
では松島家はどんな家だったんでしょうね。


この5家は親戚になると思うのですが。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 08時44分30秒 ) パスワード

松島氏について:5ヶ月前に信濃系・諏訪系でしょ、と書きましたが、更に、調べてみます。


地名としての松島:http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/matsushima-jyo/


信濃・松島城

築城年代は定かではないが松島氏によって築かれたと云われる。
松島氏は信濃国伊那郡松島発祥で小笠原長清の末葉が松島に住んで松島氏を名乗ったことに始まるといわれるが
出自に関しては諸説あるようである。


松島氏は天文年間(1532年〜1555年)頃には福与城の藤沢頼親に属して武田信玄と戦ったが敗れたという。


現在の箕輪町役場周辺が城址で、天竜川の西岸の河岸段丘に築かれている。
                ↑
              天竜川つながり?



箕輪町役場とその南側にある市川神社との間を通る道が空堀跡だと思われるが、明確な遺構はない。

役場の西側に松島氏の墓所がある。
城主 松島氏 所在地 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪字松島(箕輪町役場)


付近の城址   距離はおよそ
1.2km 信濃・大出城
1.6km 信濃・箕輪城
2.5km 信濃・上ノ平城
2.7km 信濃・福与城
4.6km 信濃・羽場城
5.6km 信濃・荒神山城
8.4km 信濃・龍ヶ崎城
9.2km 信濃・春日城
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 08時50分36秒 ) パスワード

そもそも諏訪氏とは?
http://www.tiny.jp/~arugacom/suwakou/suwakeiz.html


【諏訪氏】


 出雲神の嫡裔大国主神の子の健御名方神の後裔と伝えられ、平安時代の初期に御衣木祝有員が諏訪上社大祝となり大祝を世襲する。


 盛重の時に源頼朝に従い諏訪太郎を称し、大祝諏訪家を宗家として武家集団諏訪神家党を形成する。


 天文11年大祝頼重が武田信玄に謀殺され断絶するが、従弟頼忠が徳川家康に所領を安堵される。

                             家康の名前が出ましたね


 ほか出自については金刺舎人裔、文殊裔、敏達帝裔、桓武平氏、清和源氏満快流など異説も多い。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 09時01分55秒 ) パスワード

http://members.jcom.home.ne.jp/kaskoba/20_036.htm
松島城ふたたび



信濃国 松島城
所在地:長野県上伊那郡箕輪町中箕輪字松島



箕輪町役場の敷地が松島城跡。5000分の1程度の詳細地図で見れば、役場敷地の東側を折れ曲がった小川(水路)が流れている状況がわかる。これがそのまま城跡の縄張りとして残されている部分でござる。

町役場すなわち城跡から1.2km東側に天竜川が流れ、御多分に漏れず、この城も天竜川河岸段丘に突き出した崖端城の様式。役場東の小川をなぞって城の切岸部が作られていた。とは言え、この一帯は町役場庁舎のみならず箕輪町図書館・情報通信センター・保健センター・文化センター・消防署本部郷土博物館・箕輪中学校といった公共施設が建ち並び、現代化に伴う削平が行われ旧態を偲ぶものは他に見受けられなくなってしまっている。曲輪取りも不明だ。


元来の城域は東西200m×南北300mほどの規模を持っていたと推測されている。
町役場前、郷土博物館との間に走る道路が河岸崖下へ降っているが、往時はもっと細い道で、恐らく空堀がそのまま竪堀となって切り落とされる状態だったのだろう。

              ココね
               ↓
この城は小笠原氏の傍流・松島氏の居城であった。
もともとは小県郡にいた一族で当地に移った後、在郷名から松島姓に改めたとされる。


            あらら!
             ↓
松島氏初期の当主が城内に葬られており、
そこには1531年(享禄4年)7月15日没・前松島城主対馬守頼実の名がある。

これは松島氏2代・政行の事を指す。

その隣には3代・貞実の墓石もある。
(但し、これらの墓は江戸時代になってから在郷諸氏により作られたものである)

      ということは慕われていたということになりますね


戦国時代になると松島氏は福与城(上記)の藤沢氏に従っており、この城は福与城の支城を成していた。


1545年の福与城平定戦の折も松島氏は藤沢氏と共に武田軍と戦ったが、敗れて降伏。
この後、1556年(弘治2年)春日城(長野県伊那市)の春日左衛門尉重親や殿島城(同)の殿島大和守重国ら伊那衆が武田軍に反抗した際松島豊前守信久も同調して挙兵した。

しかし結果として反乱は鎮圧され、


  ココね
  ↓
松島信久・春日重親・殿島重国を含む反抗首魁8名は狐島(きつねじま、伊那市内)の蓮台場で処刑されてしまう。

首は晒しものとされたが、郷土の自衛自尊に立ち上がった勇士を憂いた在地住民の手によって密かに奪還され、旧上伊那郡長谷村内の黒河内(くろこうち、現在では市町村統合で伊那市内)に葬られた。

この首塚は八人塚と呼ばれるようになり、1974年(昭和49年)4月30日、当時の長谷村(伊那市)の指定文化財になっている。


戦国屈強の名将・武田晴信(信玄)を英雄と見るか苛烈な侵略者と見るか、立場によって評価の分かれるところでござろう。



松島城の伝承は以後見受けられず、恐らくこれで廃城となったのであろう。


城跡としては文化財指定を受けていないが、
町役場庁舎西側にある松島氏墓所は1977年(昭和52年)5月9日、箕輪町の史跡に指定されてござる。

      へえ〜
      ということは信玄は村人から嫌われていた?

現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城主墓所は町指定史跡
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 09時04分28秒 ) パスワード

ということは、松島一族の中に家康に従った者がいた、ということでしょうね。

天竜川で下って、浜松に住んだ、というのは地の利からも分りますね。


だいたい掴めましたね。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 10時04分12秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/e/727e38d16fad44bbb5e491f801d9cbfa



2013-05-29

古書は語る−−−−−高遠記集成(蕗原拾葉)より

星野葛山常富
1774*−1813* 江戸時代後期の儒者。

信濃高遠藩士。大目付,郡代兼勘定奉行、侍講。編著に「高遠記集成」


この書の特徴は、後日談としての戦記物、木曽家系譜として読んだ方が良さそうである。したがって、当時の事実と当時の事実でないものが入り交じり、特定の家系に偏り、歴史の流れを歪めている部分も多い。勿論事実として認定する部分も多いが。

記述は江戸後期と思われる。ただ、高遠が武田の領国になった以降は精度が高まる。


笠原頼直略伝付高遠築城  蕗原拾葉11より 2013-04-15 22:36:42 | 歴史

     笠原頼直略伝付高遠築城 現代語訳   ラッキー!



さて、信州伊那郡笠原荘の高遠城は、元暦年中(1184-1185)に造られた城である。
笠原平吾頼直というものが築城したという。
頼直は、桓武天皇の末裔で信濃守維茂の曽孫にあたる。


笠原家の始祖は高井郡に住んでいたが、当笠原荘に移住し牧監(牧場の監督役)に任命され、天神山に居城を構えたという。

   ・・異説、年代は不明だが、(笠原)が高井郡に住んだという地を笠原村と呼んでいたというのは誤りで、笠原という村名は、(彼らの活躍した時代より)後世に付けられたものである。牧監は別当と同意の言葉である。


     平家全盛期ですね
        ↓
治承年中(1177-1181)笠原頼直が大番(御所などの守衛の役の意味か)で京都にいた時、一院(法王=後白河法皇)の第2皇子の高倉宮が以仁王と謀って、平家を誅殺して皇威を復興したいとの強い意思で、源(正三位)頼政入道を頼りに、勅旨を下した。

少し前、六条判官(源)為義に命令して東国の源氏に平家征討の令旨を出していた。新宮氏と領民はすぐさま呼応して行動したが、その計画は露見してしまい、検非違使などの役人が宮殿に直ちに向かったので、(平家打倒に呼応したものは)円城寺に逃げ、なお南都(平安以降、奈良を南都と呼んだ)の七つの大寺院の僧達に都の警備を依頼し、治承四年(1180)5月25日、頼政(入道)の家来衆と(園城寺の)寺法師とともに三百人以上のものが南都に守衛兵として集結した。

これに対して平家側は、(左衛門督)知盛と(右近衛少将)重衡と(前薩摩守)忠度を大将にして、御所守衛の武士を招集して二万八千人で防御に対応した。この素早い応戦で、予想より早めに宇治の郷で追いついてしまった。(宇治)平等院にて、一戦に及んで、平家打倒側は、頼政入道を始め、ことごとく討たれてしまい、以仁王?宮も光明山で流れ矢にあたり殺害されてしまう。笠原頼直は、この戦いで戦功を上げて、平家の勝利に貢献する。頼政入道の郎党や、以仁王宮は意味のない謀反をやって死んでしまい、戦いは終結して周辺は静かになったという。・・・治承の乱?

だが、東国に平家追討の命令を出し、挙兵を促せば、いずれか、諸国で、源為義(麒尾=優れた英傑)を頼って謀反の挙兵をする一族が密かに挙兵を企てている情勢になった。そこで、ここにいる平家守衛の人達は、それぞれ自分の領国に戻り、適切な行動を起こして反乱を鎮圧せよ、と御所の護衛の役目を解かれ、暇を貰って自国へもどる。この様な経緯で、頼直は6月下旬に領国(笠原荘)に帰る。そして隣国の同志と連絡を取りながら、挙兵の兆しを注意深く眺めていると、同年8月に伊豆国で流人であった(前右兵衛佐・源)頼朝は一院(後白河法皇)の院宣を奉って、蛭ヶ小島で挙兵し、目代(国司の第四等官の代理)の平兼隆の山本郷の館を襲って石橋山に登って与力加勢の連中を待って、平兼隆を討ち取ったことを宣告した。


東国の(平家打倒の)挙兵の勢いは下火にならず、ますます燃え広がる。

昔、久寿二年(1155)8月12日武蔵国で悪源太義平に討たれた源義賢がいたが、父の戦死の時わずか二歳であった木曽(冠者)義仲は木曽山中で成長していた。そして、さる5月に叔父の蔵人行家の勧めに応じて、令旨を賜った。叔父の行家は元の名を義盛と言うが、令旨を伝達する使いに任命されるとき、蔵人を官名され、その時に行家と改名した。木曾義仲が挙兵の旗を揚げようとするとき、高倉宮の平家追討の計画がばれて、頼政入道をはじめ、兄の蔵人仲家が戦死してしまったと聞いて、行家は落胆していたが、頼朝の挙兵を聞いて大変喜び、義仲とともに吉日を選んで9月7日に、急遽信濃国木曽谷で旗を揚げ、信濃国の源氏を招集するにいたった。


この日、笠原頼直は考えていた。

木曽義仲は源氏の正当な嫡流だから、頼朝の挙兵を聞けば、必ずそれに呼応して挙兵し、天下に号令をかける人になろうとするであろう。それならば、勢力の小さいうちに誅殺した方がいいと決断し、甥の穂科権八と笠原平四郎を始めとする三百人余が下伊那へ出陣するこになった。


(ある説では、桜沢や平沢等の道はまだ未開発であった。その上で兼遠の妻子はこの時妻籠に住んでいたという。兼遠一作任?)


栗田寺別当である大法師覚範は源氏に縁がある者なので、この笠原・直の動きを聞いて、急遽木曽義仲へ注進に赴き、木曽周辺の郷民を集めて、村上七郎義直とともに、総勢五百人余りで市原に出向いて一戦を交えた。だが日が西山に傾く頃になっても初戦は決着がつかなかった。だが事態が急を要したのは、村上義直軍の矢種が無くなり、再起を期して隠れて好機を待っていたが、夜半になって、片桐小八郎為安が軍勢を率いて義直の陣に加勢してくれたので、たちまち勢いを取り戻して、翌日の8日の明け方に、笠原の陣に攻め込み、鬨の声をあげるなどして乱戦になる。笠原頼直は、真っ先に馬を、戦いの中に乗り入れて、笠原軍を鼓舞て戦うと源氏方はたちまちに崩れだして一里ほど後退させられた。

平家側は勝ちに乗じて追いかけ、散々に躍りかかる。

源氏方は、昨夜より加勢した片桐軍を伏せておき、折を見て立ち回り、白旗や白印を靡かせて、鏃を敵に向けて、散々に矢を放つ。思いがけない敵の出現に、平家側はどっと崩れ、立ち往生してしまい、弓などを投げ捨てて雷が落ちるがごとく、隊列を抜け出して逃げる。その乱れに、前後より攻め込めば、平家方は大崩れを起こした。


平家側の管冠者友則は急遽旧領の大田切に逃げて隠れた。


源氏側は、残りの兵を集め、次の戦い方を協議をする。それは、木曽越えでやってくる覚範の木曽の援軍を待って戦うか、すぐに戦った方が有利か、評議は分かれた。だが、やがてやってきた義仲が言うには、凡軍は不意をつけばすぐ崩れるだろう。笠原軍は長征して表の道を来ているので、ここで味方は間道を通って笠原の根城を襲って焼き討ちにしよう、そうすれば当面の敵笠原軍は、逃げ場を失い敗北することは疑いの余地なし、と急遽決まって、殿原から木樵を捕まえて案内させ、駒ヶ岳を南に回り、道のない獣道を、岩石をよじ登り、葛や蔦のつるを頼って、険しい崖などを乗り越えて、苦労して伊那郡に討ち入りする。


(現在この道は木曽殿越えという、かなり険しい)


馬はみな乗り捨てて、歩行にて行進し、家に火を掛け、笠原の館辺りは、灰燼となり、馬も数百匹を解き放ち、そのあと木曽を目指して凱旋した。


笠原頼直は、笠原郷と自分の館が木曽軍に荒らされたのを聞いた。その時、笠原軍は多くの手勢が・直が手元のあり、笠原荘の館を守る兵は少ししか残してこなかった。だから、ここの負け戦は仕方のないことで、大田切が奪われなかったのは勝ちに等しい、と負け惜しみを思ったが、怒りを抑えて、館が焼け落ちるのを悔しそうに遠くから見ていた。



   ・・・鉾持神社の伝承に、治承4年(1180)高遠・板町三十町の地頭石田刑部が鎌倉勢との戦いで敗北した、・とある。



同年11月、甲斐源氏の武田太郎信義と一条次郎忠頼の両勢は有賀口より攻め込んで大田切を攻撃する。伊那郡の源氏側の人達は挙兵して、後ろより矢を放って城軍の管冠者を殺害したが、笠原頼直は囲みの一方を破って、城四郎資永を頼って越後を目指して逃げていった。


   ・・・鉾持神社の家伝では、養和元年(1181)より鎌倉郡代として日野(喜太夫)宗滋は三十町を賜り板町に住む。その子は(源吾)宗忠という。


養和元年(1181)6月、越後国の城資永兄弟が、千曲川の近くの権田河原で陣を置き木曽勢と戦うが、笠原平吾頼直は城軍に加勢した。しかし城軍は木曽軍に敗れて、頼直は高井郡に逃げ、片山の目立たぬ所に潜んで住んだという。


    (現在もその村は存在していて笠原村という。穂科権八も高井郡に隠れて住み、今の保科の祖になったという)


元歴元年(1184)、反目した木曾義仲を頼朝が成敗すると聞いて頼直は大変喜び、鎌倉に出向き、同5月に小山、宇都宮の軍に属して、清水冠者義高の軍を追討するとき功績があって、同6月に頼朝より本領安堵され、やがて故郷に帰り、各地に逃げ散らばっていた一族郎党を呼び返して、天神山では狭いので、東月蔵山の尾崎が好適地と決め、城郭を築き高遠と名付けた。この城は南側は岩石が急峻にそびえ、下方には三峰川の急流に臨み、西山側は山が険しく、松林が枝を張り密集して生い茂り、その下方は苔の生えた滑りやすい場所で、藤沢川も堀として通用する。東側は月蔵山の麓に連なっており、幾分平坦なところに塀と堀を幾層にして周りを囲み柵も設けて守りの堅固な城に適した場所であった。その形は兜釜に似ているところから甲山とも言った。


    (一説に、山の鞍の部分の甲山の呼称は、築城の以前よりの名前であったという。)


     頼直はここに移住し、子孫は代々相続したと言うが、年代は不明である。


暦応(1338-1432)の頃まで(笠原家は)連綿と続いたという。いま、笠原村の丑寅に蟻塚城という城趾があり、応永(1394-1428)の頃、笠原中務というものが住んだという。高遠が木曽に変わったときから子孫はここに移り住んだと言うが、文献が乏しく残念に思う。・・完



ココでアップ
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 10時06分52秒 ) パスワード

続き


概略・・・

笠原頼直は笠原荘(今の高遠)に牧監として、平安時代末期に住んでいたらしい。

笠原頼直は系譜が桓武天皇に繋がるらしい。そして治承の乱の時平家側の武将として活躍する。

笠原頼直は、木曾義仲の平家打倒の挙兵に抵抗して幾つかの戦いをするが、結局破れて高井郡に隠棲する.

時を経て頼朝に臣下し、反乱の鎮圧に貢献して旧領を安堵され、笠原郷に帰り高遠城を築城する。

この時から笠原郷を含めたこの地が高遠と呼ばれる。    「高遠」の名の由来



笠原家は1330年代に、支配を木曽家に替わられて、蟻塚城に移住。

    この時の木曽家は?


                   戦う神社・諏訪家
                        ↓
 笠原家は1520年代に、その頃勢力を拡大する諏訪家と戦い破れる。


この時の諏訪家は諏訪信定で以後高遠城は高遠(諏訪)家の支配となる。


    ・・傍証は、鉾持神社伝承。鉾持神社は鎌倉期前後政府の官舎か官舎と神社の併設所らしい。
      そして笠原家と縁を持つらしい。

      そこの伝承は笠原氏の存在確認の第2の証拠となり得るので、笠原氏の牧監と木曽氏との抗争と敗北は信憑性を深めそうだ。・・・感想



************************


木曽家親移住付高遠家廃興 蕗原拾葉11より  
2013-04-20


木曽家親移住付高遠家廃興 現代語訳


その後、何年か経て九十五代の帝を後醍醐天皇と呼んでいた。

帝が鎌倉の執権北条高時を誅殺でき、ようやく北条一族の過去の悪政に報いができた。

しばらくしたら、高時の次男の相模次郎時行が、信濃の諏訪郡の三河守諏訪頼重の許に隠れて生き残り、
時行と同志の北条残党を集め鎌倉へ反撃して復権する事を計画する。


旭将軍木曾義仲の六代目の後胤の木曽又太郎家村(・太平記大全には木曽源七)は出征し、時行軍と戦うが、
木曽軍は少数なので敗北を喫し、ついに時行は鎌倉へ乱入する。


足利治部大輔尊氏は応戦するが、時行に反撃される。要所の鎌倉で幕府に反目するので、尊氏は新田左兵衛督義貞を節度使(この時は鎌倉の鎮圧軍)に任命して鎌倉へ出向かせた。

義貞の軍勢は各所の北条残党を攻撃した。

箱根の一戦でも勝ち、少し前の足利直義も打ち破り勝ちを誇って搦手に向かうが、
官軍が、一宮の尊良親王に箱根の竹ノ下の戦いで敗北を喫したのを聞いて、義貞は力及ばずと思い帰京する。


尊氏は東国の幕府軍を率いて、再度北条残党に攻め向かっていった。

木曽家村はその前から尊氏に追随し、大渡の戦いから山門の攻撃、京中の合戦、豊島河原難戦、また西国落ちの湊川の戦いに至るまで、数々の戦いに戦功があった。


その功績で、暦応元年(1338)9月7日讃岐守に任官され、木曽谷とともに伊那郡高遠と筑摩郡洗馬を与えられ、
帰国して長男を高遠に住まわせた。

長男の名を高遠(太郎)家親といい、これが高遠家の始祖となった。



以下、木曽家の家系図
    (箇条書き、に書き直して)

木曽義仲には四人の男児がいた。      4人もいたのは知らなかったな〜

・長男は、志水(冠者)義隆、頼朝の虜になり元暦元年(1184)4月21日武州・入間河原で殺害される。
・次男は、原次郎義重。
・三男は、木曽三郎義基。
・末子は、木曽四郎義宗。

    ・・母は、上州の住人の沼田家国の娘であった。


・・原義重、義仲が討たれた後、祖父の家国に育てられ沼田荘に隠れ住んだ。その子を刑部少輔義茂という・・義茂は義重のことか?。・源三郎基家は、原義重の子。鎌倉五代頼嗣将軍(摂家将軍藤原頼嗣)から名香山荘を貰う。鎌倉に出仕。・安養野兵部少輔家昌は基家の子。上野家の始祖。・熱川刑部少輔家満は、系譜。熱川家の始祖。・千村五郎家重は系譜。上州に住んで、そこが千村荘になる。・・六郎は早世。
*・木曽七郎・伊予守家道は系譜。木曽須原に住す。義仲以後絶えた木曽家を再興し祖となる。
・木曽佐馬頭義昌は、系譜。この時、南北朝が分かれて天下に動乱が起こり、以後しばらく騒乱が続いた。

                        宗良親王
                          ↓

その中でも高遠郡は、南朝の皇子(一品征夷大将軍)宗良親王が大河原の香阪高宗の城郭を御所に見立てて、
朝敵の追討の計画を着々と遂行していた。

当信濃国の宮方には、
上杉民部太輔、仁科弾正少弼、井上、高梨、海野、望月、知久、村上の一族が勢力を誇示し、近隣の敵に対して優勢であった。


将軍側は
それぞれの城が孤立に陥り、防戦はするものの、反旗を降ろして宮方に従う。



*・木曽家親は義昌の子。やむを得ず木曽家親も降参して、大河原に長年にわたり臣下していたがやがて死去する。・・その年月は不詳。


*・その子の太郎義信が後を継ぎ、応安2年(1369)10月に、上杉弾正少弼朝房と畠山右衛門佐基国入道が両大将として大河原の御所を襲った。


これに対し宮方の諸将は塩尻の青柳の峠を守って防戦する。折しも、連日の大雪で双方の戦いが膠着していた時に、
12月21日、伊那の諸将は青柳の畠山入道の陣に夜襲を掛けて追い払うに至った。

上杉陣も勢いが衰え、同23日、和田まで退却し、それから武州の本田へ帰った。

それで、伊那郡が平穏になった。だが、長引いて宮方の気運がだんだんと衰え、信濃国の諸将がほとんど宮に反旗を翻していった。

康暦2年(1380)宗良親王は大河原を引き払って河内国にお帰りになった。


*・木曽義信も、守護の小笠原長基に臣下していたが、やがて明徳年中(1390-1394)に死去。・その子の(右馬助)義房が家を継いでいたが、応永28年(1421)に死んだ。
                       いずよし親王
                         ↓
*・その子の上野介義雄の代になって、南朝の宮の尹良親王
(宗良親王の第2皇子、吉野で元服して正二位大納言、元年(1386)8月に源氏姓を貰う)
は、千野(六郎)頼憲の諏訪島崎城には入った。


伊那の松尾小笠原兵庫介政秀と神ノ峰城の知久(左衛門慰)祐矯と大河原の香阪入道を始めとする諸将は、守護臣下から変心して守護の背いて、尹良についた。

*・木曽義雄も宮方についたが将軍側にも属して日和見して孤立の難を逃れ、家を失わなかった。文安2年(1445)3月16日死去。法名義雄殿寺○宗と号す。・その子(左衛門慰)義建、文明(1469-1487)の頃没す。
*・その子を兵庫助義俊という。義俊は、武名が父祖より優れ、近隣の小豪族を従え、諏訪刑部大輔頼隣(ヨリチカ)を討って諏訪郡を手に入れようと野望した。義俊は、小條での戦いで、接戦を制し、いったんは勝利したが、大将の義俊が流れ矢に当たって討死、それで味方は敗北して退去するところを、頼隣に追討され、高遠城に逃げたが、囲まれ何度も攻められられる。味方は準備無い突然の籠城なので、兵糧に欠乏し、兵は飢えに苦しみ、やむなく降参をして、いったんの延命を図る。


諏訪頼隣はこれを許しして、
*・義俊の幼な子の義嶺に元の領地を与える一方、義俊の旗本衆を諏訪家に帰属させ、代官として頼隣の次男右兵衛慰信定を天神山の城主に据えて諏訪へ帰る。

信定は義嶺が幼少をいいことに、牧を横領して義嶺に与えなかった。
義嶺が成長してこの不正を時の信濃守信有に何度も訴訟したが、言を濁し遅らせた。
挙げ句に、義嶺を追い出してその跡地を信定の所領にしようとしたので、とうとう憤慨して、
この不正を許さんと、信定に反旗を揚げて、多年の鬱憤を晴らそうと思っていた時、好機が到来してきた。


信濃守政満(頼隣の孫、信有の子)が大祝高家に殺され、諏訪郡、諏訪家が二つに割れて争乱が起こった。

                              ええっ?


義嶺はこの時とばかり与力の兵を集め、天神山に夜襲を掛ける。

信定は、諏訪の騒乱を鎮める事にも気を遣い、郎党を双方に分けて派兵してきた。

信定軍は少数だったので支えきれず、囲みの一方を破り、笠原山に逃げ登り、黒沢を峰伝いに諏訪へ退却する。

これで、義嶺は元の領土を取り戻し、その地の領主を支配するに至った。・その子は豊後守義里。

*・その子左衛門慰義久に相続して繁栄する。

天文(1532-1555)のはじめ、義久は、高遠の郡司小笠原孫六郎信定と不和になり小競り合いをするに及んで、隣の木曽谷の領主の左京太夫義康(・家村から八代あと、甲斐軍艦では左衛門佐義高)は、義久の軍が孤立し援軍がないのを確かめて、兵を潜めながら来て高遠を襲う。

義久は突然のことで防御の時間と対策がとれず城を明け渡して落ちていった。
哀れであった。
これで高遠九代百九十年の歴史の木曽高遠が絶えた。
木曽が木曽に攻略されたのである。


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[23]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 10時10分27秒 ) パスワード

続き

高遠治乱記では、永正年中(1504-1520)諏訪信定が天神山に城を構えて付近を領有していた。
天神山城には信定の子息を城主にして高遠一揆衆を治めた。
諏訪一族の統治に抵抗する貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)は、天神山城に夜襲をかけたが、保科が天神山の信定に、夜襲があることを知らせたので、信定の郎党は諏訪の黒沢山の峰伝いに諏訪に逃れた。

この夜襲に怒っていた諏訪信定は陣を立て直し、諏訪から藤沢谷を通り高遠に入って、貝沼と春日を討ち果たし、その両人の領地を、夜襲の知らせの礼として保科の与え城に戻った。


これより保科氏は、高遠一揆衆のなかで一番の大身になった。

   ・・この保科は誰か、不明。藤沢谷の保科、若穂保科から流れた保科正則の可能性。

   ・・この時の高遠城は不明。天神山城が諏訪一族の城であった。諏訪家の家系に拠れば、諏訪信定は、諏訪頼隣(刑部太夫)の次男で、信有(信濃守)の弟である。
  

    諏訪家の財力と武力は、かなり裕福だったので、他を軽んじて自身を信じすぎて、子孫などの力を信用しなかった。


ことに保科家は、従来からの諏訪家の家来ではなく、保科(正則?正俊?)の父は高井郡保科の領主であり、保科筑前守正則とその子の甚四郎正俊の代・・疑問・に、伊那郡に移り、正俊は文永二年83歳で卒する、と保科家系に記録がある。

逆に辿れば、正俊の出生は永正8年になる。このことを推測すると、永正年中に「高遠治乱」が起きたとすると、永正17年の永正末年でも正俊10歳の小児となり、10歳の正俊が武功を挙げて一家を興すというのは、無理がある。


一説には、木曽高遠家は木曽に負けて所領は減らされても、なお高遠に住んでいたが、まもなく病死する。子が無くて家系は断絶したともいう。


箕輪系図といって、伊那恩知集に記載された内容を見てみると、高遠家親の孫の右馬助義房になって、はじめて高遠と箕輪の両城を持ち、箕輪を家号とする。子孫に大膳義成というものが、天正(1573-1593)小笠原貞慶に従って青柳合戦で討死する。


その系図はすべて高遠と同じであり、ただ義嶺と義里の間に刑部左衛門某が記載されておるが、これは何故なのか説明できない。これを記して後世に考察を乞う。



矛盾と疑問点
諏訪信定を攻撃したのは誰か、春日氏と貝沼氏なのか、木曽(高遠)義嶺なのか、また木曽氏と春日氏と貝沼氏の関係は?

天神山城の攻撃(最初)は木曽氏伝承でも高遠治乱記でも記載有り、名前のみ違う。

木曽伝承には二度目の信定の反攻の記載がない。その後の保科氏の活躍の前提や、高遠頼継の各書の存在をみると、木曽のその後の存続は疑問が残る。

定説としてある、諏訪高遠家の系譜も満継以前に疑問が残る。


高遠家は、鎌倉時代は笠原高遠家、室町前期は木曽高遠家、文明以降室町時代は諏訪高遠家、戦国期は武田(高遠)、森(高遠)、京極(代官岩崎重次・高遠)、保科(高遠)、幕藩の藩主と続いたのか。木曽と諏訪の繋ぎが不明?特に諏訪高遠の頼継以前が不鮮明


一品や二品は天台宗僧侶の最高位位階であり、宗門経験のない尹良には、これはおかしい、かつ、尹良に征夷大将軍が任命されたという事実は根拠がない。


************************



千村内匠守城付保科正俊逆心 蕗原拾葉11より  
2013-04-23
  

    千村内匠守城付保科正俊逆心 現代語訳

千邨(=村)内匠



時が過ぎて、義久が引退しても、高遠は木曽家の影響下にあった。高遠城は木曽からわずかに10里(40Km)余りだが、その間には険しい山や大きな砕岩だらけの場所があって、荷車などの往来は難しい道であった。諏訪家と小笠原家は領地を接しており、犬牙のように反目して領地を覗っていた。


当時は両家が和睦し平穏を臨む思いも無くはなかったが、この時代の人の心は信用はできない。そこで、この城の要になる大将を選んでみた時、木曽一族の千村内匠を郡代として高遠の地方豪族を支配し、その中から武に強いもの選んで、溝口右馬介氏友(恩知集では溝口の祖は氏長で、氏友ではないという)、保科弾正正俊をして加増し、家老とし、隣郡に出陣がある時は、千村は城を守り、溝口、保科は配下の豪族を武装させて率いて出陣することと定めた。


その頃、甲州守護は武田大膳太夫晴信という。彼は武略、戦略にたけ賢者を尊び、譜代の家臣に、情をかよい腹心させ、父の左衛門慰信虎を追放して甲斐の一国を掌握する。


信濃国の強将は村上左衛門慰義清(・埴科郡葛尾城主)、小笠原大膳太夫長時(・筑摩郡深志城主)、諏訪刑部太夫頼重(・諏訪郡小條城主)、木曽左京太夫義康(・筑摩郡木曽谷福島城、王滝巣穴住)であり、信濃全体が一丸となって晴信に対抗し討伐することを合議した。

武田が犯した大罪・五逆の罪を糾弾すべきことを標榜して、まず諏訪と小笠原の両軍が、天文7年(1538)7月に、教来石を過ぎ、武田八幡を右手に見て、釜無川に沿って韮崎に進軍し、ついに同月19日、甲州勢と一戦に及んだ。甲州勢を追撃して勝利が目前に成った時、、武田軍の原加賀守は、近くの百姓を勝山に五六千人かり集めて見せかけとし、後方の撹乱を試みた。その多勢を見て狼狽した信濃の両軍は後退して敗北し、この一戦は武田の勝利になってしまった。晴信は両軍を追撃していったが、自軍も疲弊して士気が落ち、馬も疲れて喘ぎだし、動かなくなってしまった。そこで武田が敵軍をと見渡すと、信濃勢は白旗を掲げて五六百人が戦列を離脱し、甲州から退却を始めていたという。武田軍は八九町(=1Km弱)離れて追撃していたが、勝負の均衡が百姓を使った奇計で、あわよくも勝利してしまったが、兵馬は疲れ果てていた。もし少数の新手が加わわり、敵が逆襲を掛けたら、心許ない一戦になっていただろう。諏訪と小笠原の両軍はここで多少盛り返したが、形としては勝利のだし、負けるのもいやだと思い、軍勢をまとめて台より上に引き返すことを全軍に号令しようとしていた。



この敵部隊の一部の戦線離脱に、晴信は自軍の各将を招集して、この情勢分析を聞いてみると、敵は足並みを乱しているので、追討して攻撃しても面白い、という意見があった。、敵軍が、軍律も命令もなく敗走している中で、一軍だけは踏み留まっていた。このことを不審に思い、誰かに思うところを聞きやり、その返答次第では対応しようと言うことで、窪田介之丞に使い命じた。窪田は先頭に立って馬で行き、「この手勢は誰であるのか、合戦をするなら軍を寄せなさい、もう夕暮れなので合戦はやるもやらぬも良い」と大声で叫んでみたら、敵陣より武者が一人馬で乗り出して、「この一軍は信州伊那の者であり、信州の諸侯の合戦と聞き、双方の名門の戦いだから見物に出軍した。が、ゆめゆめ武田軍と弓矢を交えるつもりはなく、もう一戦が終わったので本国に帰国するのだ」と言ったので、窪田は信玄の許に飛んで帰り、このことを告げた。晴信は本陣を引いて様子を見ていると、伊那勢は備えを二分して退却を重ねていく。それで晴信も甲府へ凱旋帰国する。


ある日ある時、保科正俊が手勢を一カ所に集め、晴信の本陣を襲い、急襲と退却を繰り返し、本格的に攻撃しようと思っていたら、味方が攻められたので退却し離れた所に屯し、様子を覗いていたが、武田の陣は備えが厳重であり、これでは本陣を破れず、正俊は自分たちの勝利は無理だと思った。ある日は天文8年(1539)6月23日、台ケ原の合戦の時のことで、伊那郡への帰りは瀬沢山に入り芝平谷を通り退却したという。


それより、度重なる合戦は武田勢が勝利して、諏訪頼茂も和睦して、天文14年(1545)に頼茂は騙されて殺され、その跡(諏訪頼茂の領地と城)に板垣駿河守信形を郡代として置いた。武田左馬守信繁と秋山伯耆守晴近などは諏訪に在陣し、伊那と筑摩の両郡を押領しようと機会を覗い、時々藤沢や有賀の口より乱入して小競り合いを数回した。


高遠には、溝口右馬介、保科弾正、黒河内小八郎、同権平、非持春日、市瀬主水入道、同左兵衛、小原、山田の一党を集め、敵が寄せてくれば、青柳、杖突の嶺を固めて、藤沢の谷筋を通らせて、寄せくる敵を右に襲い左に槍を突いて苦戦させる作戦をとれば、過去に、攻めてくる敵に一度も負けたことはなかった。


だが、武田信繁と秋山晴近は別道の有賀口より乱入してきた。また馬場民部少輔信房を軍監にして四千人ぐらいが福与城を攻撃し、近在の小城は落とされた(この時福与城には藤沢治郎頼親を大将にして近在の士族が立て籠もったという)。


この天文16年(1547)2月の事である。この知らせで、木曽は三千人を桜沢に進軍させ、小笠原長時は七千人を塩尻に陣地し、松尾の民部太夫信定、下伊那の知久と阪西は三千人を宮田に進軍させ、番をさせたが、武田軍は総数で及ばないと思い早々と引き上げてしまった。


同17年(1548)5月も、晴信自ら出陣して有賀と岡庭より進入して、樋口や竜ヶ崎の砦落として、今度は是非上伊那を押領したいと準備してきたので、上伊那豪族は高遠、箕輪の両城に籠もり、各地の援軍を要請したが、今度は櫛の歯が欠けるように援軍は減っていた。だが越後の国主の上杉喜平冶景虎は、早速小県郡に進軍して内山城を攻めたので、武田勢は引き返して小県に向かった。数多い戦いで勝敗はそれぞれであるが、互いに攻め取った城や砦は、軍が引くと、たちまちに元の領主に戻った。


いまだ伊那では一城も武田に従わないので、計略を立てて回文を領主に回して、木曽や小笠原の連合に反旗して当家に従えば、その従心の浅深に関わらず倍の加増をするので味方せよ、として、まず高遠を手に入れようとし、合戦の時裏切ってくれれば十倍の加増を約束すると持ちかけ、さらに色々の手を使い調略したが、元来伊那の者は律儀で心は金鉄のように堅くて、少しも心変わりする者がいなかった。


           やっと!松島対馬守登場!


しかし噂が入り乱れるのは世の習わし、如何なる人も奸智に負け、また武田反感の謀言もあり、松島対馬守が実は武田に通じて逆心の策謀がありそうだと伝聞があったので、

木曽義康は大いに怒り、諸氏の前でこの是非を究明して懲らしめようと千村に命令した。

千村内匠は、義康を畏れて、丸山久左衛門を松島の館に遣わして呼び出した。

松島は何の疑いもなく翌朝の夜明けに宿所を出て、従者を十四、五人だけ連れて高遠に出向き、二の丸に入ろうとするところを、白木道喜斉、丸山九左衛門が武者だまりで待ち受け、左右より斬り殺した。

松島の従者はこれに驚き、抜刀して防戦したが、木曽側は、前からの準備で討ち手が多く、包囲して一人残さず切り倒した。


    (松島の従兄弟に松島左内という者がおり、彼は比類無いくらい働き、城兵の多くを切り倒すがかなわず、
     丸山久左衛門に突き殺されたという)。


殺害した松島と郎党の首は集められ木曽福島へ送ったところ、義康は笑って機嫌が良かった。


逆心への懲らしめはこれで出来たと限りなく喜んでいたという。


          ココは  松島家が慕われる理由ですね
                ↓
心ある者はこれを聞いて、家臣への扱いに信義のない木曽殿の振る舞いに、忠はあるが情がない、
松島への疑念が一度湧いたら、真実を糾すことなく誅殺に、疑念した。他人事だが辛いことである。

今は他人事だが明日は我が身か、と郡中の心は木曽殿から離れた。


このことで武田の家来になっても良いと思うものが少なくなかった。

御堂垣外の保科正俊は幾度となく武功を揚げ、槍弾正と異名を持つ強者の勇士で、居館に砦を築いて諏訪口を押さえていたが、この木曽殿の様子を踏まえて、深く考えた。武田の勢いは日を増すごとに強大になり、更にこの頃の木曽殿の振る舞いを見れば、今後の展望が開けないし悪い流れで武士道までが蔑ろにされる。この乱世では、時に家系が断絶することもあろうが、この人に従っていたら確実にそうなる。だったら武田勢を引き入れて高遠を乗っ取り、一族が後日繁栄するように計画した方がよいと、時に城番に来ていた非持三郎春日、淡路、小原某を呼んで密かに相談に及んだ。三人とも異議が無く了承し、我々は木曽の譜代ではないし、木曽が高遠を押領したので仕方なく従ったまでで、いずれ家を興し、かつ子孫のため、逆心した方が先祖の孝養にもなると四人は心を一致し、時節の到来を待った。


・・・概要と疑問点

木曽義久が引退した後の、高遠の統治について、ここでは木曽家の意向に沿った、高遠郡代が千村内匠に決まった経緯の記述である。そもそも木曽の高遠支配は、定説にない内容で、違和感を感じる。

ここには、諏訪信定の名前もないし、高遠頼継の名前も出てこない。何故か。高遠頼継との関係は別書で深掘りして証左を求めている。


       松島対馬守  
        ↓
その中で、松島対馬守が木曽を裏切り武田へつくという間違った噂で、木曽家の対応のまずさがあり、
伊那の団結の崩壊、とりわけ高遠の人心の離反が語られて、武田の侵攻に繋がっていく。

             ココも
              ↓

確か千村内匠に殺されたのは松島対馬で、定説では伊那孤島の八人塚伝承で殺された中に松島がいたが、
松島豊前守信友と言ったか、その関係?。


高遠満継も証左が難しく、諏訪信定が高遠を名乗ったかも確認が取れず、保科正俊の主はいったい誰かは、未だに謎で、整合性は更に険しい。


槍弾正と異名を持つ強者の勇士で・・はこの後の武田臣下時代のあだ名で、臣下前の記述はおかしい。
これは、後日談の戦記物?
・・感想



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[24]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 10時14分15秒 ) パスワード

続き


武田勢囲城付御嶽権現霊験 蕗原拾葉11より  2013-05-05 02:24:39 | 歴史

武田勢囲城付御嶽権現霊験 現代語訳

前文

これは、武田信玄が上杉謙信と対峙している時代の、同時進行の信州伊那制圧の始めの、高遠攻めの戦闘の様子を、当時高遠を支配していた木曽家から書いた戦記物語である。だが、これには異説があって、高遠を支配していたのは諏訪家だという説もある。

武田の信州攻め序章
武田晴信は信州を征伐しようと天文18年(1549)4月12日甲府を出発した。同13日諏訪郡小條の着陣。この報告を聞くと、保科正俊はすぐに晴信に使いを送り、武田軍と高遠軍が戦闘状態に入り、形勢が膠着した時は、高遠を裏切って武田の味方し参戦するむねの、一文を起請文にしたためて送った。晴信はこれを読んで大変喜び、了解して、伊那と木曽と松本に軍勢を三つに分けた。伊那方面へは浅利信友、馬場信房の2人を大将として、また足軽大将には山本勘助、安間三右衛門の2人を付けた。秋山伯耆守は諏訪に陣地し、伊那軍と度々小競り合いを繰り返し、軍立てや地形にも詳しいので、すでに先陣として出発していた。こんな時、同24日、越後の上杉が小県まで出陣してきたという報告が入り、急遽再び武田も海野平に進軍し、上杉と対峙した。同5月10日、上杉景虎が陣を引き払って帰国したので、晴信は諏訪に戻り、前述の大将達に命令して伊那口に侵入した。


武田の伊那侵入と高遠勢の対応
このことが高遠にも伝わったが、保科が裏切っているとは夢にも知らないで、前回のように、難所と思えるところに待伏兵を置いて、あちこちから武田勢を混乱させながら打ち勝とうと思っていた。城にはわずかの人数をのこすだけで、神宮寺には千村内匠を大将に残し、保科正俊、市瀬入道、同左兵衛、非持三郎、春日淡路、林式部、小原、山田の一族等の木曽の家来衆1200人を、杖突峠の嶺に敵陣を見下ろせるようにして備えた。金澤口へは溝口氏友を大将とし、青柳の嶺に300人と、わずかだが屯駐させ、敵が来たら、谷より神出鬼没に不意を突いて攻めかかる計画をたて、黒河内兄弟や原八郎や埋橋の一族には、道すがらの谷や嶺に5人、7人と別々に待ちぶせさせたが、その人数は3,400人に過ぎなかった。


武田の伊那口侵攻
武田の浅利や馬場は3000人の軍勢を二手に分け、青柳に攻めかかった。まえもって、保科が裏切りを内通していて、戦い半ばで反旗を翻すことを知っていたので、あえて、危険だと知っているところを登っていき、片倉の戦いでも、道の左右を伺いながら、ゆっくりと時たま脅かしの鬨の声を上げ、敵に挨拶するがごとく進む。溝口氏友は少人数なので無理をせず、にらみ合いだけでやり過ごす。杖突峠には秋山晴近の軍勢2000人が、7月4日夜明け時に、霧の中を攻め上っていく。互いに大声の鬨の声を発していく。鉄砲が数発発射されると、すぐに敵軍が魚が連なって泳ぐように、我先にと競って登ってくると、地理を熟知している味方の元気なものは、この岩陰やあそこの木立を盾にして弓矢を雨のように射かけていく。進軍してくる甲州勢の2,30人がすぐに射倒されるが、あとに続くもの注意深く防御しながら進軍していく。味方が嶺の陣地より隊列を整え槍先を揃えて突き進むと敵は先頭に槍先を受けて、戦闘状態になる。膠着状態が続き、甲州勢は波のように、引いては返し、また引いては返して、命を惜しまず戦ってくる。味方はその都度、引いて陣に戻り、さらに攻めていくので、場所が変わりつつ、弓や鉄砲で反撃し、敵が色めき立っているところを攻め込んでいく。双方とも、死を恐れずに戦っていたが、そこは味方のほうが地理に明るい山道なので猿やいたちのように、梢を伝いフクロウが木の上で戯れるように、逃げ隠れする。この様に、あちこちから攻めるので、敵は追い立てられてなかなか決着がつかない。日は昇り、すでに午後になろうという頃は、双方戦いに疲れ、陣を隔ててにらみ合いの状態が続く。



保科弾正の裏切り
保科弾正は前から武田に内通していたので、非持、春日、小原の武将達300人とともに打ち合わせて、戦闘場所を離脱して離れて、敵味方の戦いを傍観していた。そして頃合いを見て、軍の備えを逆に向けて立て直し、戦いで疲弊した高遠軍に向かって鉄砲を放ち、鬨の声を上げて攻め込んでいった。甲州勢は、保科の裏切るに呼応して、白地に黒い三階菱の軍旗を掲げて、まっしぐらに攻め込んでいった。市瀬入道は憎き保科の裏切りを見て大変怒った。状況は一変し、敵に取り囲まれ、逃げる道もふさがれてしまったので、皆が一丸になり、目前の敵の隊列の一点に絞りそこを突破して、その後に裏切りの保科を討って無念を晴らそうとして、殿原よ続け、剛の槍をつかみ取って隆々と振り回し、甲州勢の槍に中に突っ込んでいった。戦いは険しい細道で追いつ追われつの時、入道の槍は、突きの的を外して勢い余り、敵陣へつんのめり、14,5人を将棋倒して谷底へ転げ落ちた。甲州勢は串刺しになり、市瀬とともに岩に当たったり木の根に引っかかったりして、ことごとく死んだ。これが本格的な戦闘の始まりになった。



藤沢谷の戦い
高遠勢は死を覚悟した800人が城を守り、勝ちに乗じた秋山の手勢は、真一文字に進軍を開始する。だが、甲州勢は思いもよらず反撃されて、坂を下り、2,3町ぐらい敗走する。秋山の旗本が崩されそうになったので、自身で旗本を鼓舞して防戦し、激闘が続く。高遠勢は、新手の保科勢に隊列がだんだんと崩されていき、山田も林も討ち死にして大崩れになり、松倉を捨てて敗走する。秋山晴近は一計を図って、鉄砲隊を左右の山に配して待てば、敵が踏み留まり反攻してくれば、左右の山より鉄砲を放ち反撃をすれば、盛り返せずに敗走する。甲州勢は勝ちに乗じて、敗走の軍を追うと敗走軍の味方は、御堂垣外に退却しさらに追撃され、もはや逃れまじきと思う時、青柳を守っていた味方が劣勢を聞きつけ、御堂垣外に駆けつける。この戦いの状況を見た黒河内小八郎が真っ先に救援に駆けつけ、長い穂先の槍で、溢れるように多い多勢の敵に向かい、かまわずに切り込み、三騎の敵を倒したが、そのまま逃げずに踏み留まり、討ち死にしてしまった。この後敵は追撃を止めたので、高遠勢は虎口より城に戻った。



高遠城の戦い
千村内匠は剛のもので、ここまでは負け戦だが、意気消沈する兵士を見渡し、守りの薄いところに配し、虎口(危険箇所)に手勢を多くし、城兵1000人を集めて、油断無く敵を待った。甲州勢はその夜は保科の館の焼け跡に陣を張り、翌5日の巳の刻(午前10時頃)、3隊に分かれて軍勢が5000人ぐらいで、徐々に城に詰め寄り、向陣(対面陣)をしないで、月蔵山の山麓のやや平場に登り、一気の蹂躙を試みようとした。だが千村は、乾き堀の外に柵を設けて準備していたので、敵は柵のところで攻撃を妨げられ、そこへ城から矢や石を飛ばされ、敵兵が何人か討ち取られた。動揺した敵を見て、味方は城門を開けて打って出た。いきり立った敵を尻目に、さっさと兵を引き、城に戻り門を閉じる。この繰り返しを何度かやりった。虎口の人の多いところの防御はかなり厳重なので、敵の浅利、秋山、馬場の三大将は馬で見て回り、長期戦に切り替えて向陣(対陣)を張り、道を遮断して食料の尽きるのを気長に待つ戦略に方針を変えた。その後は攻めることを中断して長期戦に専心する。



晴信の動向
この時晴信は、佐久郡に軍を置き、景虎が出陣するのを牽制していたが、上杉の動向を見定めて、板垣(弥次郎)信里、日向(大和守)昌時、原(加賀守)昌俊は、足軽大将の小幡(織部正)虎盛、同弥次郎、原与左衛門、同総五郎、横田十郎兵衛、市川入道、梅印伝五郎の七騎とともに下諏訪に戻って布陣し、時どき塩嶺峠に登り、足軽を熊井や高出まで様子見させ、撹乱して深志勢の出方を待った。そこへ木曽勢が救援に来そうだと連絡が入り、井利藤蔵と内藤修理の手勢に、原美濃守と曽根七郎兵衛を加えて兵をさし向け、今回は必ず高遠を手に入れて伊那の拠点とし、そこから伊那全体の領有の足がかりとすると評定した。おりしも、高遠は籠城になって10日間になり、兵糧はすでに少なくなり、飢餓の状態になろうとしていた。木曽や小笠原の救援を命綱として頼っていると見た武田勢は、通じる道を塞ぎ、揚げ句に木曽にも乱入しようとした。



高遠城籠城
これを聞いた高遠の城兵は大変力を落とし、魚が濁水に息絶え絶えのように日に日に気力が衰え、取り囲まれて餓死するよりは、城を捨てて打って出て、差し違えて1人でも多くの敵を倒してから討ち死にする方がよかろうと決意し、決行は翌朝早朝に敵陣突入と決めたので、今宵限りの命だから、一杯の酒で生涯の思いを発散しようと友が身を寄せ合い、別れの酒で夜を過ごす。
天文18年(1549)7月16日、月夜の戌の刻(午後8時頃)を過ぎたあたり、霧がにわかに湧きだして辺りを覆い始め、細雨もしとしと降り出し、城内が物寂しくなり、虫の声が遠くに鳴く夜半に、東の城戸を密かに開く人があった。皆が驚いて素性を聞くと木曽谷より来たもので、千村殿に少し会って話しがしたい、と答えたので城中は、きっと木曽の救援の知らせであろうと耳打ちし、千村に知らせた。千村内匠はこの知らせで、急に起き上がり、腹巻きを外して肩に掛け、脇差しのみで門櫓に登り、松明を投げ落としてその人を見ると、年齢が80にもなろうかと思われる年老いた翁が、白い水干(狩衣)に烏帽子をつけて、内匠に向い、今夜の敵陣は長い遠征の為に疲れ切り、見張りまで怠って皆眠っており、とくに小原村にある陣地は、宵の頃より酒宴をしているので、今はほとんどが泥酔している状態で、急遽城を開けて、木曽へ向かって落ちていけば道筋の障害は何もないだろう、決断は早いほうがよい、と言い残して、何処かに去っていった。内匠は、一瞬茫然としたが、すぐに門櫓より飛び降りて溝口に相談したところ、溝口氏友も不思議な気分で居り、すぐ斥候を放って敵を探って時期について検討した方がよいと、実際に探って見たら、老翁の言葉の通りに敵陣は静かで、人がいるようにも見えなかった。



高遠城開城
しがらみが無くなったり捨てたりして気持ちを整理し、先に開城して急いで脱出することで、後日に後ろ指を指されたくないと三々五々に水の手に沿って河原に降りて、三峰川沿いを西に向かっていく。丑の中村を過ぎ、羽広村の仲仙寺着いて、集まってみて、此処までたどり着いた者を数えてみたら、630人であっと。そこからは、各別に落ちていく中で、溝口(右馬ノ介)氏友は、下伊那の、一族の松尾小笠原(民部太夫)信定の所に行き、寄食した。



千村内匠 木曽へ逃避
千村は残党を率いて木曽に行き、木曽義康に会見し、合戦の経過を報告した。そして宿舎に戻り年老いた母と対面した。母は一度死んだと諦めた息子が生き返ったと喜び、めくらの亀が浮いている木にしがみついているように、手を握り、語り合った。さても今度は保科弾正が裏切り、味方がこの様な敗北を喫し、また兵糧が尽きて落城してしまったこと、時期が迫り、悪いことに木曽殿にはご無礼だが、臣下の者はやる気を失い、今後の攻勢を誰一人考えず、その指揮を執ろうとしない。これでは、高遠を亡びるのは当たり前だ。優しい殿(和殿?)は、討ち死にと知らせがある度に拉がれ、連絡が無いと知ると、もし老木の桜が散ってしまったとしても、若木の桜はこれからだと御嶽権現に祈願して17日間断食をして、内匠が戦死したのは世の定めで、仕事がうまくいかなくても、老いの命をもう一度復活させ、今一度内匠に会いたいと懇願し、満願の夜になって、願いが叶い、この様なけなげなことは本当に大権現の霊験であると思った。

穴尊の世は、桃李に至るといえど、神明の応護は変わらず。
穴尊の意味が不明。

別説1
木曽軍記には千村の開城は天文17年(1548)7月16日、とあります。

別説2
伊那温知集によれば、松島対馬の誅殺は木曽義昌の代で天正10年(1582)という、しかし打ち手に選ばれた丸山久左衛門は天文23年(1554)8月に、武田勢が木曽に乱入した時に討ち死にしている。信用しがたい。
甲陽軍艦に弘治2年(1556)5月、伊那へ進軍したとあり、溝口、松島、黒河内、上穂、小田切、伊那部、殿島、宮田を悉く誅殺したとあり、天文23年(1554)、下伊那の松尾が落城して、小笠原長時と溝口氏友が遠州高天神へ逃げ、小笠原信貴は武田へ降参したことが小笠原家伝にも伝えられ、下伊那の老いた友人にも言い伝えが残っており、城は小さいけれど数10の城を残しておいて、20里に長旅のあとで、峻険の城を攻め落とすことは無理なので、軍艦の説も信用できない。

別説3
黒河内家伝では高遠落城のあと、溝口とともに黒河へ逃げ、三羽根の嶺に見張りを置いて、保科に降参した市瀬左兵衛が高遠へ出仕するのを妨げ、百姓までをも殺害したので市瀬に住んでいる住民は道路を封鎖して大沢の山伝いに高遠に行った。その後、保科は兵士を連れて焼き討ちし黒河内を滅ぼしたという。年月は正確ではないが天文18か19年(1549.1550)は確かである。

別説4
溝口家伝には小笠原(信濃守)貞宗の孫の(弾正少弼)政長の三男(左馬介)氏長が始めて溝口村に住んだ。その五代孫が越前守貞信という。天文(1532-)の始め、家を氏友に譲り、自身は下伊那の松尾に行き、小笠原に寄食する。高遠義久とは嫁親なので高遠の滅亡を憤り、木曽に憤慨しているその後天文13年(1544)正月13日松尾合戦で貞信は討ち死にし、嫡男の氏友は木曽に従い、そのあとで松尾にやって来たことを本文に記入するが、松尾落城のあと遠州の高天神に逃げ、更に京に行き三好家の客となり河内国高安郡で討ち死にする。その子孫は紀州に住んだという。



繋がりが変かも知れないので全文はURLへ
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 10時24分27秒 ) パスワード

横浜の松島氏(謎)距離的にあり得るかなということで:
http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1_0.htm



五蘭田城に拠った松嶋左衛門の悲話とその後の松嶋氏
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101371_24.html


黒川郷士は室町中期くらいまでは独立した武士団として、諸大名の支配をうけていなかったと思われる。


ところが、桐生の領主であった桐生靱負亟重綱は、前原美濃に命じて突如黒川谷に出兵し、五蘭田(五覧田、五乱田とも書く)城の松崎左衛門を降した(「桐生地方史」岡部赤峰、「桐生市史」桐生市)。そして、桐生重綱は家臣岩崎大六の姉を側室にしていたが、その側室が生んだ女子を左衛門に嫁がせ、友若という男子が生れている。


永正7年(1510)に北条早雲に呼応して主君である管領上杉憲房に反乱をおこした上田蔵人が立て籠る武州神奈川権現山城を攻めるという、山内上杉氏の号令に対して、桐生重綱はこの左衛門を名代にして派遣した。永正7年(1510)7月28日、左衛門は戦死し、残された妻子は一時同族によって夜討をかけられて避難したが、後に和談がなって、友若が左衛門を名乗り、本家家督を継いだという。この松崎氏は上杉謙信の作成させた永禄4年(1561)の関東幕注文には「松崎大和守 根篠」と記されている者の先祖であろう。


ところが、「松崎」という苗字は五蘭田城のあった勢多郡東村になく、周辺地区にも殆ど存在しない。「桐生地方史」の著者岡部赤峰も「渡良瀬沿岸地方史蹟」のなかで「松崎」は「松嶋」の間違いであろうとしている。

実際、電話帳掲載の名前を調べても、勢多郡東村で松から始まる苗字は「松島」(「松嶋」等を含む)が63件、その他3件の登録であり、隣の黒保根村では「松島」(「松嶋」等を含む)が30件(うち上田沢居住が20件)、

その他、黒川郷士で天正16年(1588)紀銘の石幢を建立した松井備後守の子孫と思われる「松井」4件ほか7件(「松崎」姓の登録はない)である。他地区からの流入者が多いと思われる大間々町や桐生市では「松崎」姓の登録もあるが、数の上では圧倒的に「松島」が多い。


やはり、松崎左衛門は、「松嶋左衛門」であって、かつて関所があったといわれ、小黒川と渡良瀬川が合流する現在の勢多郡東村荻原字関守に、関所防備のために砦程度の単郭の城(通常五蘭田城という山頂にある城は戦国期に黒川郷士が築き、真田や由良の手に落ちた後、後北条氏に後援された阿久沢氏らが奪回、整備したもの)を構え、小中や沢入に同族がいたと思われる。


元亀4年(1573)由良成繁から安堵状をうけた松嶋右京助は、安堵状が見つかったのが黒保根村上田沢の松嶋家であり、上田沢辺りの住人と見られ、また上田沢には皿窪の砦や寄居など、五蘭田城の周辺城砦が存在することから、五蘭田城に拠った松嶋氏は、上田沢に平常時住んでいたのではないだろうか。


権現山合戦の後、前述のような経緯があって左衛門の跡を継いだ友若と寡婦となった母とは、かなり後にはなるが再び桐生氏の政略結婚で引き離されることになる。つまり桐生氏は、左衛門未亡人を赤城南麓に勢力を張った膳城の城主膳因幡守に再嫁させ、膳氏の取込のための政略に利用したのである。

膳氏と桐生氏の対立はいつに始まるかしれないが(一説に桐生氏の家老格であった、摂津細川氏の末裔である細川内膳が天文13年(1544)3月2日に突如桐生大炊介祐綱に討たれ、膳氏はこの妹婿の仇をうつ機会を狙っていたという)、


膳氏はついに天文13年(1544)7月15日に21騎500人の兵を組織し、桐生を攻撃すべく進軍、桐生勢は家老の谷丹後守浄綱(一説に里見上総介勝広)を大将に迎え撃って、桐生近くの渡良瀬川畔の間の原(あいのはら)で戦闘に至った。その結果、間の原、笠懸野と合戦し膳勢の敗色が濃厚となった夕方に、膳城近隣の曹洞宗龍源寺の和尚の仲裁により、和睦が成立、膳因幡守は弟大学と家老の鶴見玄蕃を人質として桐生に差し出した。


その後桐生祐綱からの要請で、祐綱からは異母妹にあたる松嶋左衛門未亡人との政略結婚を受け入れた膳氏は、人質を返還され、桐生の幕下についたのであった。実に左衛門戦死から34年後であり、松嶋左衛門未亡人も年配になっており、名ばかりの結婚であることは言うまでもあるまい。


一方、左衛門を神奈川の合戦場に赴かせた桐生重綱は、永正13年(1516)10月荒戸野での鷹狩の際に突然死した愛馬浄土黒から落馬してなくなった。桐生重綱の子祐綱は、浄土黒を埋葬した場所に柳を植えて弔ったといい、その柳は桐生大炊介手植ヤナギとして群馬県指定天然記念物となっている。



松嶋左衛門、友若の後、松嶋氏がどうなっていったかは、松嶋氏の子孫が保有する古文書類や江戸時代に書かれた軍記類、その他伝承からアウトラインは分かる。

すなわち、永禄4年(1561)の関東幕注文にある「松崎大和守」も「松嶋大和守」の誤記と思われ、当時は上杉謙信の支配を受けていた。そのことは、沢入御用銅問屋松嶋十郎治所蔵の文書のなかに松嶋駿河守にあてた上杉輝虎の一種の感謝状があることでも証せられる。


また、「関八州古戦録」などの軍記物にたびたび登場する松嶋式部入道古伯は
永禄から天正くらいの人で、
沢入から高津戸まで勢力を伸ばした。


一方、同時代の小中の松嶋淡路守はいち早く桐生氏を見限り、
他の黒川郷士とも別行動をしていた模様で、
天正6年(1578)10月、黒川郷士と由良勢との合戦に先立ち由良方の武士として使者にたったところを川で遭難した事件が軍記類の記事に見られる。


上田沢、湧丸あたりの松嶋氏も桐生氏を見限り、水論に始まる桐生・由良の合戦では由良に加担したと思われ、前出のように桐生家が滅亡した元亀4年(1573)に松嶋右京助宛、由良成繁の安堵状が出されている。


天正5年(1577)松嶋左近之丞宛に上杉謙信の重臣河田重親から「禁制になっている竹木をみだりに切るな」という趣旨の文書が出されており、当時既に上杉氏の支配が揺らぎ、松嶋氏をはじめ黒川郷士たちは由良氏や後北条氏によしみを通じていくことになる。


すなわち、天正の初め頃までには松嶋氏らは桐生氏よりも上杉氏の直接支配をうけ、さらに一部は由良氏とも通じていた。

里見兄弟の高津戸合戦の後、その由良氏と黒川郷士は、天正6年(1578)10月に合戦を行ったが和睦し、以降黒川郷士は一旦由良氏の配下に入ることになった。


この頃、上杉謙信の後継者をめぐる越後上杉氏の内紛、いわゆる御館の乱で上杉景虎が敗死し、越相同盟が破棄されている。


したがって、上州へ後北条氏が攻勢をかけていくことになり、天正10年(1582)3月甲斐武田氏滅亡の後上州へ進出した織田信長家臣の滝川一益は、その年6月本能寺の変後、神流川合戦で後北条氏に敗れ、上州は後北条氏の支配が一層強まることになった。


天正11年(1583)その後北条氏からの独立を目指す由良国繁は、小田原城に軟禁され、太田金山城は包囲されるなどしたが、由良氏の支配下にあった五蘭田城を攻略するため、

後北条氏は阿久沢彦二郎に朱印状を与え五蘭田攻略の恩賞として仁田山五郷の所領を約束している。


すなわち、深沢城主であった阿久沢氏らは、また後北条氏配下として由良氏とは対立している。


天正12年(1584)7月、後北条氏に指示された阿久沢氏、目黒氏らは、五蘭田城を奪回し、普請を固めた。


これが五蘭田城址の現況になっている。阿久沢氏らは天正18年(1590)の小田原籠城戦に参加し、後北条氏と運命を共にした。一方、このころ松嶋氏はどうしていたか、今ひとつ分らないが、

沢入辺りの松嶋氏子孫は江戸期には名主や銅問屋、明治期には村長になっており、阿久沢氏のように武士身分には戻れなかったが、地域の名望家として現代に至っている。

[26]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月11日 11時59分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ほんとにほんとにありがとうございます。鈴木、永井、松島すべての糸口
が見えました。

 特に、一番わからなかった松島がこんなに克明にわかるなんて・・・
 松島対馬守の惨殺のところでは、思わず体が震え、嗚咽と熱いものが滲み
出てしまいました。今もおさまりません。信長の各種惨殺にも似た卑怯さに
怒りが涌いております。

 たぶん、松島氏に関しては、これが正解のような気がします。
 私が付き合っている松島氏は松島十湖の玄孫ではありますが、血統的にや
はり対馬の守と通じる清い心を持っていると思います。祖先の血が再興して
いると思います。

 更に、確証を求めて調べてみます。

 浜松は天竜川を境として西のはずれ、また北国からみて南のはずれ。逆に
その反対の入口でもあった。則ち要衝であった。気賀、新居、二俣・・・。
そしてまた、落人等の吹きだまりであったのか。これが、今の心情です。

 ありがとうございました、では表現できません・・・。
 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 13時08分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


松島氏について、合ってると良いのですが。



>松島対馬守の惨殺のところでは、思わず体が震え、嗚咽と熱いものが滲み出てしまいました。


これはね、「他人」じゃないからですよ。

やはり「血」でも松島家とは繋がっているのですよ。
3つ柏さんが泣けるのではなく3つ柏さんのDNAに刷り込まれた先祖の記憶が泣いているのです。


3つ柏さんの御先祖さまはこの惨殺事件を同時軸で御存知だったんですよ。


全くの他人でしたら、この話を読んでもただの文章、です。
涙が出たり慟哭することはありません。

   この松島氏の事件で3つ柏さんの流した涙は  サラサラの水っぽい涙ではなく
   粘り気のある涙ではありませんでしたか?熱さを伴う。

   あれはね、言葉で表現すると「血の涙」って思います「水の涙」ではなく。  



それから、もう1つ

松島十湖翁について:

>松島十湖には二つの面があった。
   一つは句作による芭蕉文学に傾倒する精神的なもの。
   もう一つは二宮尊徳を崇拝して経済・道徳によって指導する実践的なもの。



これには松島家と服部家の関係だと思います。
   確かになにか有りそうですね。


       芭蕉に二宮尊徳。


芭蕉は伊賀ですし(柘植の人でしたよね)
二宮尊徳は服部家がらみですしね。小田原の家老の服部家です。


だからこそ松島十湖翁は傾倒なさったのでしょう。



二宮尊徳:

相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に百姓・利右衛門の長男として生まれる。

当時の栢山村は小田原藩領であった。   ←  藩主は大久保家です!!!


金治郎が5歳の時の寛政3年(1791年)8月5日、南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その影響で田畑は砂礫と化し、父・利右衛門の田畑も流失した。

14歳のとき父・利右衛門が死去、2年後には母・よしも亡くなり、尊徳は伯父・万兵衛の家に身を寄せることとなった。

伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、
20歳で生家の再興に成功する。

この頃までに、身長が6尺(約180センチ強[1])を超えていたという伝承もある。
また体重は94kg[2]あったと言われている。


生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。

奉公先の小田原藩家老・服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、
見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。

その才能を見込まれて、小田原藩主・大久保家の分家であった旗本・宇津家の知行所であった下野国桜町領
   (現在の栃木県真岡市、なお合併前の二宮町の町名の由来は尊徳である)
の仕法を任せられる。

後に東郷陣屋(同じく真岡市)にあって天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。
その方法は報徳仕法として他の範となる。
その後、日光山領の仕法を行う。
以下略


こうやって人は何重にもご縁があります。
特に日本はね。


二宮尊徳の大久保家と服部家の件は  磯田道史先生のお書きになった記事で随分前に知りました。


   この人は元々は岡山の人じゃなかったかしら?
      ここでもご縁がありますし
   ちょっと違うけど静岡大学も縁が無いわけじゃないし


   人の縁というのは不思議だなと思います。


   本日もつくづく思いました。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 13時18分18秒 ) パスワード

>私が付き合っている松島氏は松島十湖の玄孫ではありますが、
>血統的にやはり対馬の守と通じる清い心を持っていると思います。
>祖先の血が再興していると思います。


はい
わたくしも(そうだろうな)と思ってました。


    まさか三つ柏さんが粘りのある熱い涙を禁じなかったというのは思いませんでしたが


   「 血統的にやはり対馬の守と通じる清い心を持っていると思います 」

       この部分はわたくしも上記の記録を読みながら
    
    (三つ柏さんのお友達の松島さんは祖先の血が再興しているんだろうな) 
       と思ってました。


           背後のパワーがそう騒いでたということですが。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 13時33分04秒 ) パスワード

おまけ

http://www.geocities.jp/sisin9monryu/nagano.kamiinagunn.html
上伊那郡の城館 〜辰野町・箕輪町・南箕輪村〜



下から2番目:松島陣屋


こちらの陣屋は江戸中期以降に天領となった箕輪領の1万石うち五千石は幕府旗本の太田氏が松島に陣屋を築き家臣をおいて統治しました。

当地は明治維新まで続きました。

現在は何もなく宅地、駐車場になっています。
旧長福寺の西側になります。
博物館から車で2分ほど南東に行ったところです。
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月11日 13時58分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一部訂正:〜西のはずれ→天竜川は都のある西から見て、東のはずれ。
 
 銅鐸文化も天竜川でほぼストップ。考えてみれば、三方原大地と磐田大地
がグランドキャニオンの崖、その間を縦横無尽に天竜川は流れていた。

 あを様のお陰で次から次へ謎が解明されて行くような気がいたします。ほ
んと、神がかりといっても過言ではないと思います。もちろん謎が完全に解
けたわけではありませんが、鍋には入ったかなと思われます。夢にだに思っ
ておりませんでした解決の糸口、一生かかるかなと思っていました。後は調
理人の腕次第ですね。

[31]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月11日 15時00分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスがまたスレ違いましたが、二宮金治郎と小田原の家老服部家との関係、
ここにも「服部」がからんでいる・・・過去に読んだことがありましたが、
すっかり忘れていました。まさか、こんなところでつながるとは思いません
でした。

 松島家の玄孫の方も一家の菩提寺が源張院というお寺なのですが、自分で
17代と言っておられました。火事かなんかで何代か前までの過去帳がなく
なってわからないと困っておられました。私も力添えになってやろうとは思
っておりましたが、現実的にははとんど何もしてやれない。せいぜい十湖に
ついて書かれた本を探して連絡するくらい・・・。
 17代というと425年前、すなわち1589年。対馬守の事件が1550
年あたり。時代的にはぴったし合う。確か本人が長野の方からやって来たと言っておられましたような記憶もあります。これはかなり濃厚になって来まし
た。私の涙も心なしかべたついておりましたし・・・!?

 私は十湖の俳句集を持っています。一集、二集とあり、全部で600句プラス?ぐらいだったと記憶しております(桁がまちがっていたらごめんなさい)。
 十湖は芭蕉にあこがれて俳句作りをしました・・・芭蕉の何を目差したの
か、江戸末期の人でしたから、想像以上の謎があるのかも知れません。全国
を歩いてしますしね。そこら辺の探求は今後芭蕉と合わせて考えてみます。

 本当にスゴイ感激というか驚きの日になりました! 心臓がまだパクパクし
ています。今日は一体どうなるのやら・・・。
 
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 16時29分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


>今日は一体どうなるのやら・・・。

今夜はグッスリお休みになってください。


わたくしは眠れそうになく、今日はまだ起きています。
思いを空っぽにしたいとしてネットゲームをして時間を潰して来ましたが
なかなか興奮が収まりません。


でも、もう、寝なくては、お肌に悪いので。
ではではお休みなさい。

[33]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月11日 16時43分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 修正:「三方原大地と磐田大地」 →「 三方原台地と磐田原台地」 に修正。

 昨日の情報で、特に「高力清長」に興味がひかれています。まず、人質の
竹千代と一緒に今川方へ入ったということ。この1点のみから見ても、いった
いどれだけの人なのか、と興味しんしん。その秘密を知りたいです。松平広忠が一番信頼する人。何でここまで?

[34]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月11日 16時48分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 またまたレスがスレ違い申し訳ございません。
 とりあえず、有機カンピュータをクールダウンさせます。

 では・・・。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月11日 22時35分05秒 ) パスワード

>特に「高力清長」に興味がひかれています

人間性に品性があるのは幼くして父や祖父を戦さで失い
幼いのに家康と共に人質生活をしたからでしょうね。

苦労が優しさをはぐくみ
それでいて!
政治力も身につけた

   こういう人物は仕事をする人間の鑑ですね。



3つ柏さんが特に惹かれる人物とお思いになるのは

  元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いで武功を立て、
  この功績により、遠州長上郡に100貫文の地を与えられた

ということではないでしょうか?


   どこだったんでしょうね。
   100貫文って今の感覚で言うと年収1000万?もっと?笑



きっと高力清長の持ってた土地あたりにお住まいなのかも。
どこか分かると良いですね。

とにかく3つ柏さんの御先祖は高力清長を知ってたと思います。
御先祖さまが(この人は高潔な人物だ)と思っていらっしゃったのが3つ柏さんのDNAに刷り込まれているんですよ。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月12日 06時14分54秒 ) パスワード

では高力氏について更に:

      家康より12歳年上だったんですってね。
      一回り違うから家康は頼もしい兄のように慕っていたんでしょうね。


http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira/matudaira_044.htm

高力氏の祖は源平合戦で活躍した熊谷次郎直実の末孫を称し、
直鎮の代に軍功により足利尊氏から三河国八名郡に所領を与えられ武蔵国熊谷より移り住んだ。

のち重実の代に八名郡宇利に城を築き今川氏に属して勢力を拡大したが、松平清康に攻められ敗れている。



高力氏は、これに連なる家系である。
正直は額田郡高力に住んで高力氏を称し、のち子の重長が松平氏に仕えた。



     画像:宇利城跡(新城市中宇利字仁田)    ← あらら、新城!なんか繋がりますね


高力氏の祖、三河熊谷氏の居城。今川氏に属したが、松平清康(家康祖父)に攻められ激戦の末落城。

一族は離散し
長子直安は豊根熊谷氏に、
次子直近は今川氏に仕え、
三子正直は額田郡高力に住し高力氏となり、のち子重長が松平氏に仕えた。

城跡の山頂には、郭跡・土塁・空堀が残る。



     画像:高力城跡(額田郡幸田町高力字熊谷)

高力氏代々の居城。
四代目の清長は岡崎三奉行の一人として活躍。

家康関東移封後は、武蔵国岩槻二万石の城主となった。
城跡は相見川の熊谷橋の付近で城跡碑が建てられている。



<高力清長の人物像>

高力清長は実直な性格により生涯家康に愛された家臣である。                   
大高城攻め以来、姉川合戦・三方ヶ原合戦でも奮戦し、三河一向一揆の折りは、高力城近くの本宗寺の一揆を征伐した後、散乱した経典を拾い集めて持ち主に届けた話は有名。

    以後「仏高力」とよばれた。 

その後も岡崎三奉行の一人として家康の初期政策に貢献、伊賀越えの難事には小荷駄奉行として殿し、
小牧合戦後の和議の使者も勤め 秀吉にも評価された。

天正十四年、五十七歳にて聚楽第の造営奉行をつとめ豊臣姓を賜り 従五位下河内守に叙任している。

秀吉朝鮮出兵時では、造船の才も発揮、渡海用の軍船を造っている。
  (造船で余った残金の黄金二十枚を家康に返上したところ、その淳直さに感服しこれを下賜された逸話は有名。)

家康関東移封後は、武蔵国岩槻城二万石を賜り 足立郡浦和一万石の地も預けられたが浦和領の年貢は自領に収めることなく、
常に直接江戸に送るよう配慮したという。


嫡男忠房(孫)は肥前島原藩主となり島原の乱後の再建と西国大名警備にあたるが
その子高長の代に領内統治の不手際により除封となった
   (重い夫役への領民不満)。



清長の嫡男忠房−高長と続いた肥前国島原藩は高長の失政で四万石が除封となった。


改易された高長の長男忠弘は、のち召し出され 下総国咄嗟・海上郡内にて
三千石の旗本家として名跡をつないだ。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月12日 06時49分15秒 ) パスワード

新城にいたとは!
東三河の新城だったら西三河より遠江の浜松の方が近いじゃないですか。


    地名1つでもピンと来ないですね。
    八名って場所、岡崎の六名とこんがらがってました。
    恥


だから幸田町に引っ越して松平家により近くなったのですね。

     八名を岡崎だと思ってたので齟齬をきたしてました。
    もともと方向音痴なので。



で八名について調べました:

歴史[編集]

7世紀後半の木簡が出土しないことから、大宝律令成立以後の8世紀に成立したと思われる。

           服織神社の創建時あたりには関係があったのかもね。


豊橋市域だと、石巻(山、神社)、多米(トンネル)など。



郡の名前は古代の部民(べのたみ)である八名部が多く住んだことから名付けられたという説や、
簗が多く設けられたことから命名されたという説がある。


         あらあら  お愛さまの西郷家が
                  ↓   
戦国時代、郡南部(現在の豊橋市西郷校区辺り)に2代征夷大将軍徳川秀忠生母西郷局(名は愛)を出した三河西郷氏(三河国守護代の西郷家の同族と言う)が本拠を置いていた。

具体的には、月ヶ谷(わちがや)城{同市嵩山(すせ)町}を大永年間、五本松城{同市石巻中山町(西郷校区)}を西郷正勝が1561年(永禄4年)に築城、天文年間に西郷清員が西川城{同市石巻西川町(西郷校区)。

後、三河吉田藩主小笠原長矩の弟小笠原長秋が2000石を受けここに陣屋を置いたと言う。}を築城したとされる。


近世以降、八名郡は「やなぐん」と呼ばれた。



明治維新直前岡部藩主安部信発(安部氏、あんべ)が武蔵国岡部(埼玉県深谷市)から陣屋を半原村(現、新城市)に移して、半原藩が発足したが、すぐ版籍奉還を迎えた。


明治維新後の八名郡役所は富岡村(半原村他が合併;のちの八名村)に置かれた。

明治初期、広域から生徒を集めた八名高等小学校(富岡村)により、教育のメッカになったが、すぐ衰退し、第一次産業以外のさしたる産業のない地域になった。


その中で郡の北部の大野町(現・新城市大野)は、秋葉街道の宿場町から発展した経済の中心として栄え、八名郡で唯一町制を敷いた。

大野町に置かれた大野銀行は1945年(昭和20年)東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に合併されるまで、八名郡はもとより東三河全域の経済を支配する銀行として君臨した。


窓8で書いたので疲労困憊。
[38]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月12日 06時52分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 早朝より調べものをしていたら時間が経ってしまいました。
 一旦、切ります。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月12日 08時33分56秒 ) パスワード

気分が乗っていてもお仕事に行かなくてはならないのでバタバタしますね。
ちゃんとお仕事に行って稼いで来ないと奥さんに叱られますよ。

明日は釣りでアタマの中のバグを一掃してください。
空っぽにして、また、最初っから考え直す作業をなさってください。


歴史を考えるのは、ゴチャゴチャし過ぎてて、ワケ分らなくなりますね。
わたくしはいつもゲームをして頭の中を初期化しています。


お愛の方ですが
母方が豊橋の西郷氏で父方が遠江の戸塚氏というのは大事なポイントですね。


http://www.f2.dion.ne.jp/~yokochi/tasiro8.html
静岡県姓氏500選抜粋

  戸塚(とつか)
 
   戸塚姓の八〇パーセントは西部に分布し、
   中でも掛川市、磐田郡大須賀町、浅羽町は三〜八位、
   県ランク一〇九位。
  

遠江の戸塚氏は、清和源氏で源養家の子、横地太郎長重の子勝間田平三郎成長が榛原郡勝間田村(榛原町)に住んで勝間田を称し、その子正重が戸塚七郷(榛原郡南部)を領して戸塚七郎と名乗ったのが始まりという。

正重の後裔、長頼は武田氏に属し、その子頼重は川中島の戦で負傷し、頼正の子正頼は上針戸の戸塚氏の祖となった。

頼重五代孫の戸輔 光利は元禄二年、医学を学んで帰郷し、これより代々医業を継ぎ光利の長男戸輔国治は仁田村で医業を継承し、次男泰治正治は掛川に出て医業を開き、掛川戸塚氏の祖初代隆珀となる。三男建治成之は金谷で眼科、四男周輔良治は駿府で内科を開業した。

隆珀の子維義(二代隆珀)の子柳斎(春輔)は駿府の儒医となり、弟の静海はシーボルトの高弟で、蘭方外科に長じ掛川藩太田氏に仕え、後に薩摩藩医から幕府奥医師となった。

この一族の多くは掛川藩太田氏の藩医となり著名の医家が輩出している。

            お愛の方(西郷の局)
              ↓
遠江戸塚氏について「寛政譜」では清和源氏為義流で遠江国戸塚村に住んで戸塚を姓とし、戸塚五郎大夫忠春は足利将軍義晴に仕え、後に遠江国に帰り大森城に住む。その子四郎左衛門忠家は初め今川義元に属し、後に徳川家康に仕え、弟心翁は江戸牛込天竜寺の住職となり、その妹ははじめ母方の西郷義勝に嫁いだが、義勝の戦死後、徳川家康に仕えて西郷局(宝台院)と称し、二代将軍秀忠と薩摩守忠吉の生母となったとある。

佐野郡上張村(掛川市)の戸塚氏の祖は武田勝頼家臣の戸塚飛騨守といい、元和の頃は正吉、慶安頃は正則という。戸塚九兵衛、左近右衛門、半弥は高天神城(小笠郡大東町)小笠原長忠に属し、天正二年(一五七四)、開城後は武田氏に属した。
              
  ◇清和源氏流は丸に舞鶴、鷹羽打違、向鶴紋。



だからお愛の方は家康の子を懐妊しても浜松で生んで育てたということですか。
駿河になんぞ行きたくなかったでしょうね。

    西郷家と菅沼家はこれまた親戚だそうで。
    徳川家がらみは東海地方でみんな繋がりますね。


東三河と遠江は切っても切れない続いた土地だったんですねえ。
ヨソ者にはこういう基本の知識がゼロなので途中で迷子になります。笑

       東三河は西三河よりも遠江の方が近い。
       なるほどね〜


家康にしたら、人質で今川家にいたことは、良い経験になったのでしょうね。

   今川の静岡←途中下車も?→浜松←途中下車も?→岡崎←途中下車も?→信長の尾張
   と、(各駅に女ありだったかもね。いろいろ都合が良かったのでしょうね)

      岡崎と名古屋の途中にはお万の方の実家の知立神社がありますしね。


        東海道をしっかり押さえてますね。
        これは秀吉には悔しかったかもですね。


家康が浜松のお愛の方については安心していられたというのが分ります。


   お万の方は駿河にいたということで築山殿の嫉妬を買ってお気の毒なことになりました。

   メス猫2人の争いで家康は大変だったでしょうね。
   それなら遠い所に置いておく女性の方が面倒が無くて居心地が良かったでしょうね。

   それに後家なら家康に期待する愛情もワンクッション置いてあったでしょうし。
   
   築山殿やお万の方は家康が初めての夫ということで愛情の奪い合いがすごかったんでしょうね。

   こういうのもあって家康は初婚の女より後家好みになったのかもね。 
   なるほどね。


戦国時代〜江戸時代を考えるのに東海地方の土地勘が無いとワケ分からないですね。

   わたくしには浜松が重要な場所というのが全然理解できてなかったです。

      高力清長が長上郡に100貫文の土地を貰った「嬉しさ」というのがやっと分りましたよ。  
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月12日 08時47分51秒 ) パスワード

http://castle.slowstandard.com/25tokai/28shizuoka/post_1508.html
タクジローの日本全国お城めぐり

旗本服部氏累代の陣屋



所在地
静岡県浜松市西区大久保町3280、大窪神社

形状
陣屋

現状・遺構等
【現状】 大窪神社ほか
【遺構等】 石垣?



歴史等

大久保陣屋は、旗本服部氏累代の陣屋で、
服部氏は大久保のほか、古人見・大人見・神ヶ谷・伊佐治・上石田・山崎などで3千5百石を領していた。

尚、服部正信は、寛永頃(1624〜44)、今切関所奉行という要職にあった。


大窪神社一帯が陣屋跡ですが、大久保町周辺は浜松市街中心部から10kmも離れていないのですが、
比較的開発が進んでいないようで雰囲気は残っています。

大窪神社の説明板に、「神社境内は江戸時代の代官屋敷跡で、馬渕氏の所有であったが、昭和26年に4神社が統合され大窪神社となった時に、寄贈されたもので、石垣は昔のままである。」とあるので、

神社へ登る石段両側の石垣が代官屋敷の遺構なのでしょうかねえ?


また、境内隅には大山巌の書による「戦捷記念碑」と「表忠碑」が立っています。


尚、神社の南側道路を隔てた向こうに見える建物があまりにも立派なので妙に気になり、地元の方に尋ねたら、
昔から「おやどさま」と呼ばれているのだそうですが、本陣か何かでしょうかねえ。


石垣
大窪神社の説明板に、「神社境内は江戸時代の代官屋敷跡で、馬渕氏の所有であったが、昭和26年に4神社が統合され大窪神社となった時に、寄贈されたもので、石垣は昔のままである。」とあるので、この神社へ登る石段両側の石垣が代官屋敷の遺構なのでしょうかねえ?



「戦捷記念碑」と「表忠碑」
境内隅には大山巌の書による「戦捷記念碑」と「表忠碑」が立っています。この2つの石碑は、戦前は大久保小学校にあったものですが、終戦以降埋められていたのが、昭和26年の大窪神社建設時に移設されたそうです。


「おやどさま?」

神社の南側道路を隔てた向こうに見える建物があまりにも立派なので妙に気になり、地元の方に尋ねたら、昔から「おやどさま」と呼ばれているのだそうですが、本陣か何かでしょうかねえ。こちらの方が、背後の急崖の山といい、立派な石垣や建物といい、陣屋らしいです(苦笑)。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月12日 08時51分56秒 ) パスワード

服部家と大久保家が  一体  というのは分かっているけど
ここまで一体というのは、ナニユエ?

これも調べなくては。


だけどワタクシ的には  大久保さん  という知り合いはいないです。


   そう言えばロス時代に家電屋さんに大久保さんという売り子の男性があいて
   なんか親しい感じで話しかけて来てましたっけ。

   この家電屋さんが閉店になってから、
   そのお店の同じく売り子だった女性がヤオハンに転職してわたくしに
      「大久保さんの近況を知ってたら教えてくれ」
   と変な質問をしてきてましたっけ。


   大久保さんと服部さんってそういう関係?
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月12日 09時08分52秒 ) パスワード

ちょっとちょっと3つ柏さん!
大変!
とんでもないのを発見!


政信の母は清長の娘って書いてありましたよ。


ここでアップ!


やっぱり3つ柏さんと清長は何かで繋がっちゃいましたよ!
気持ちだけじゃなかったのですね。

なんとなく清長と3つ柏さんって近いな関係あるなと思ってましたが。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月12日 09時18分36秒 ) パスワード

寛政重修諸家譜巻第1171の服部氏の欄です。第18の68ページ目です。


http://books.google.com/books?id=cxi2gPgFtMwC&pg=PA66&lpg=PA66&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=IuBVqU9OZW&sig=FADBHsUzqjaHuZ9M1QnLBcpibuU&hl=en&sa=X&ei=QjcSVPjrGYO1yAS6soLgDA&ved=0CB0Q6AEwADgU#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


政信の記録はこれまで過去にレスしたのと殆ど同じです。

千石の地を弟杢助政重に分かち与え     ← 弟はもくのすけさんでしたか
新墾の地を合わせて4290余石を知行した




妻は加藤喜左衛門正次が娘
ですって、

    服部と加藤はこれまた親しいですしね。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月12日 09時34分23秒 ) パスワード

とにかく凄く多い情報の上に縦書きですし

    よく分りませんでしたが

服部家も通字が「保」の家だったり「貞」の家だったり「政」の家だったり、
その家ごとの記録で
頑張ってコピーなさってください。


で杢助さんは45歳で父より早く亡くなって!
養子は  大久保家  からなんですって。


だから服部家の陣屋が大久保町にあるのはちっとも変じゃないわけ?!
にっこり


何重にも服部家と大久保家は縁を結んでいるんですねえ。
他にもお歴々の娘が嫁に来てたり
なかなか興味深かったです。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月12日 12時06分33秒 ) パスワード

寛政重修諸家譜巻

http://books.google.com/books?id=cxi2gPgFtMwC&pg=PA66&lpg=PA66&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=IuBVqU9OZW&sig=FADBHsUzqjaHuZ9M1QnLBcpibuU&hl=en&sa=X&ei=QjcSVPjrGYO1yAS6soLgDA&ved=0CB0Q6AEwADgU#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

ずっと最初っから読んでいました。

鈴木家から読みました。


で、尾張の服部家の項目も、最初っから読みました。


第18  67ページ

服部新左衛門政久の時に嗣が無く家が絶えた。
それで庶流の服部重之丞信發が呈譜に平氏にして葛原親王の後胤伊賀平内左衛門  
   これによると先祖は家長じゃなくて  

保長の子孫。


保長の子、平内兵衛保清、伊賀国服部に住せしより屋号とす  →  9代の孫  修理亮保宗 →  
伊賀守宗純    後醍醐天皇のお召しで南朝方に

→ その子左京亮宗家  →  宗信  →  宗政  → 
その子宗家が織田信秀に属す。後、尾張国河内に蟄居。45歳で歿。
                  ↑
              ココで完全に信長の織田家と訣別?


この服部宗家の妻は   なんと!  横井丹後守の娘でした。 


横井さんは尾張の名家で元々の出身は北条泰時3世の孫の子孫で今の御当主は37代目だったかな?  


尾張藩の御重臣の家でもあります。
幕末には尊王と佐幕の対立の時に巻き込まれて大変な目に遭ってます。



   わたくしとは実は実はという関係にあります。それも何重にも、いろいろ。個人情報。ヤバイんで書けない。


実はわたくしをアメリカにある某有名巨大企業に拾ってくださったのも横井氏であります。


いやあ〜
大昔からのご縁だったのですねえ。

母方で深い深いつながりがあるので、わたくしに良くしてくださってたのは理解できてましたが
まさか父方でも繋がってたのは本日まで知らなかったです。


ホントに日本人って   み ん な 親 戚 じ ゃ ん!


そうか〜
だからか〜

個人情報で書けないのが残念っ!しみじみ
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月12日 13時04分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日もまた昨日と同じくらいのサプライズです。おかげさまでどんどん明ら
かになって行きます。ホントにスゴイのひとことです。

 今までレスを解読をしておりましたが、また時間となり、出かけます。

 コンプリヘンドはしましたので、後で私の方も気がついた点、述べさせて
いただきます。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月12日 15時02分21秒 ) パスワード

3つ柏さん


時間を掛ける方が良いですね
名前がゴチャゴチャしててこんがらがります。
何回読んでも記憶出来ない・・・・



上記の  
権大夫左京亮信發が呈譜(幕府提出用の系譜)政家と称した
     織田信秀に仕えて後に手切れをした
     この人の妻が横井丹後守の娘で


その子政光(政秀改め。右京進権大夫)は今川と組んで信長と戦ったが
     桶狭間の戦いの後
     家康に仕えて岡崎で働き、後に、遠江国河の庄で3000石を貰った。

     この人の妻は千秋式部少輔の娘!


この千秋氏は東三河の設楽だったかの千秋さんでしょうね。
           名古屋の千秋氏は信長と懇意でしたからね
           桶狭間の戦いに出向く時に信長は熱田神宮に戦勝祈願をしているから 
           この熱田神宮の千秋氏は下記の千秋氏に決まってますね

      
              だからウチの千秋氏とは敵対関係の千秋さんですね  



        ホント驚きました
        千秋と言ったら熱田神宮のエライ人の名字ですものね
        この時には古代からの尾張氏は千秋氏の下に組み込まれてたから。


           「熱っ田さん」には父の在所はとても懇意というか
           初詣には従兄に連れられて行ったりしてました。

           従兄の結婚式はここだったし。


            ホンヤさんの先祖が、まさか、千秋さんと婚姻してたとは知らなかった。

           うちは一向一揆の指導者の1人だから(熱田神宮なんて)と思ってたのに。



千秋氏について:

千秋氏は藤原南家季範の子孫・熱田大宮司家の一流で、季範の娘は源義朝に嫁して頼朝を生んでいる。

それ以後、大宮司家は源氏と強く結びつき、次第に武士化していった。

憲朝の代に至り、三河国設楽郡千秋の地名を以て、名字としたのに始まるとされる。


室町幕府に仕え「永享以来御番帳」などに   複数の千秋氏  が確認され、室町将軍家の奉公衆を構成していた。

将軍の御的始めの射手を度々務める等、射芸に秀でた家柄であった。

そのためか、将軍足利義政やその妻日野富子の寺社参詣や猿楽見物等には、必ず御供衆に加えられている。

また、将軍家の息災祈願を司る祈祷奉行は、千秋家の世襲するところであった。



乱世に身を処す

千秋氏は代々京都に在住し、尾張・美濃・三河の広範囲にわたる所領の支配は下級の神官にまかせていたのだが、
戦国時代にいたって、尾張知多郡の羽豆崎城に移ってきた。

社領を直接支配する必要に迫られたのであろう。

しかし。この頃には、かつて三国にも及んでいた社領もわずかに残るのみであった。


尾張に乗り込んだ千秋氏は、守護代の一族として急速に勢力をつけてきた織田信秀と結び付く。

世は戦国時代、実力がものをいう世界、熱田宮の「大宮司」としての特殊性を認められていても、
世俗的には尾張の国人の一人に過ぎなかった。

かくして千秋氏は信秀の指揮のもとに各所での戦に駆り出される。


天文十三年、当時の大宮司千秋季光は、稲葉山城攻めの時に戦死。
長男の季直も戦死か、なんらかの闘争に巻きこまれたかで自然死ではなさそうな若死。

その弟の季忠は、すでに神官という性格でじゃなく、まったく武士そのものであった。
彼は大宮司とは名ばかりで、信長の一部将として活躍している。
そして。桶狭間の戦いのとき、今川軍の先鉾隊に戦いを挑んで戦死してしまった。


季忠の嫡子、のちの季信は、この時母胎内にいた。
母は実家の浅井氏に戻って、季信を生み、育てたという。
季信は十五歳で、初めて信長に謁した。
そして、「これからは軍事にたずさわることを止め、大宮司に専念するようにせよ」と言われたという。

その後も信長の統一戦は続くが、千秋季信がそれらの戦いに参加したという記録はない。
信長のことばに従って大宮司職に専念したようだ。



1.
中世熱田社の構造と展開 P78

http://books.google.com/books?id=53BdTcWK1soC&pg=PA78&lpg=PA78&dq=%E5%8D%83%E7%A7%8B%E5%BC%8F%E9%83%A8%E5%B0%91%E8%BC%94%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=BsLafo1J5E&sig=8ouOWWIJJUdlfvA6RozqL8pzSzA&hl=en&sa=X&ei=PIkSVOCBJ8v4yQT-kYKYBg&ved=0CB4Q6AEwAA#v=onepage&q=%E5%8D%83%E7%A7%8B%E5%BC%8F%E9%83%A8%E5%B0%91%E8%BC%94%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


2.
第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
     二 奉公衆と室町幕府料所
      越前奉公衆 千秋氏

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-3-01-03-02-03.htm
[48]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月13日 06時00分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ここのところ、あを様よりいただいたたくさんの情報を、一度私なりに整理
してみたいと思います。但し、頭の中で完全把握とまで至っておりませんので、
ポイント的に整理します。

 わかって来たことは、
 1.善地に昔から存在する5姓の謎
  @服部 A加藤 B永井 C松島 D鈴木
 2.遠江にいた旗本服部氏等
  @服部正成 A服部政信 B長上郡で100貫文を賜った高力清長
 3.伊賀越えの重要メンバー
 4.長上郡一帯の特徴
 ということです。

 1.善地に昔から存在する5姓の謎
  それぞれの姓は一見バラバラにみえるが、根底ではつながっていた。
  ここは長くなりますので関連項目あるいは今後徐々に。

 2.遠江にいた旗本服部氏
  @服部半蔵正尚は伊賀服部惣領家といわれるが、遠江敷知郡及び長上郡
   で3000余石を拝領。

  A服部政信は父が服部権大夫政秀でその祖父筋は服部左京亮友定。
   政秀は、遠江河の庄で3000貫を賜った。(服部友定の系図は政秀を
めぐって説が違っているので、今後の調査のポイント)
   政信は関ヶ原・大阪冬・夏の陣に出陣した後、1619年敷智郡に移封。
   親の遺領もついで3500石になる。
   政信の母、即ち政秀の妻は高力清長の娘であった。

   高力清長の祖は熊谷直実であった。
   清長は家康の人質時代、お側人として付き添った。
   三河に、ゆかりの宇利城跡や高力城跡等がある。
   長上郡で100貫文を賜る。
   文禄の役では軍船建造を担当する(加藤光安も軍船担当軍師だった)。

   政信の妻は、加藤喜左衛門正次の娘であった。
   加藤正次は、後の「伊賀組騒動」の時、忍者達を4班にし、その内の
  1班を預けられるというような地位にあった。(加藤正次の出自も今後の
  ポイント)

   政信の弟は政重、その子が政次、またその子は正勝で大久保四郎左衛門
  忠重の次男を養子に迎えた。敷智郡大久保に「おやどさま」と呼ばれる
  代官屋敷、大久保陣屋がある。(大久保氏も今後の調査のポイント)

   政重は慶長19年にわけありて蟄居するとあるが、慶長18年(1613
  年)に金山をめぐる「大久保長安事件」があり、青山成重、正成の弟正重の
  失脚、正尚の家系も改易となる大事件があった。政重はこのあおりを食ら
  ったものと思われる。(蟄居後にどうなったかが今後の重要なポイント) 

 3.家康最大のピンチといわれる「伊賀越え」に加わった者(後、遠江に関係
  する者他)
   @服部半蔵正成 A高力清長 B服部正尚 C服部中保次 D永井直勝
   E多羅尾光俊
   (伊賀越えは歴史のターニングポイント。今後の調査のポイントでもある)
 
4.長上郡の特徴
   長上郡は三方原台地と磐田原台地の裂け目に流れる川「暴れ天竜」の
  西河畔一帯にある。西の文化・支配の東のはずれ、また信州を中間点と
  して、日本海、アルプス、そして太平洋へと縦断するラインの南のはずれ。
   従って、文化・人物等のある意味での「吹きだまり」の地。また要衝。
   銅鐸の分布も天竜川を東端にして途絶えている。銅鐸は三輪・賀茂氏に
  関係する祭祀道具。あるいは権威の象徴。家康の祖は賀茂氏といわれて
  いる。  
 
   長上郡には羽鳥郷があり、また服織神社が奈良時代からあり、養蚕・
  絹織物の一大産地であった。
   これに類する所としては、大和国山辺郡、摂津国島上郡、伊賀国阿排郡、
  伊勢国奄芸郡、三河国八名郡、近江国野洲郡、美濃国安八郡、越前国邑久
  郡、備中国賀夜郡、因幡国法美郡等に「服部」郷がある。
   
   長上郡羽鳥には、蘇我入鹿の乱を避けて聖徳太子の皇子3人が、秦喜平
  に連れられて逃れて来た。その古墳が蛭子塚古墳として残っている。秦氏
  との関係が密接なところ。池田の庄は松尾大社(秦氏)の荘園でもあった。

   羽鳥地域(豊西村)には、服織神社のほか、八雲神社、八幡神社が3社、
  御嶽神社、住吉神社、天神社、八王子社、そして六所神社がある。この
  六所神社というのは、もともとは松平郷で家康等松平氏の祖神を祀る神社
  である。(家康との関係が今後の調査のポイントである)
もちろん、服織神社も家康は崇拝したという。
羽鳥から西に行くと「鈴木屋敷」という屋敷がある。そこは家康の隠れ
  妻の子、いわゆるお妾さんの子の育った屋敷といわれている。

   お寺としては、松島十湖の菩提寺の源長院(慶長元年開山)、正光寺、
  清観寺、清心寺、安楽寺、大清寺、蔵泉寺、妙光寺、長福寺、吉祥寺が
  ある。

   信州に松島対馬守一族がおり、事件後天竜を下った羽鳥に流れ着いた
  可能性がある。

   長上郡は昔長田郡の一部であり、長田氏も住んでいた。長田は永井、
  永田に改名される。

   池田の庄に加藤光泰の身内が秀次事件の後逃れて来て、善地に住み、
  5姓と姻戚関係になったという家系図が加藤家に残っている。

   善地の服部氏は、服部政信・政重の後裔か、服部郷の機織氏族か、平家
  の落人か、はたまた服織神社の関係者か・・・丸に三つ柏紋が秘密を握っ
  ている。

   まとめとしてはこんなところでしょうか。探究すればするほど、長上郡
  を中心に歴史にまつわる数々のエピソードが浮上してきます。まだまだた   くさんのものが眠っているはずです・・・。
  

 

 
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月13日 07時25分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

パチパチパチ(拍手)
すっごくうまく纏めたではありませんか。
大変な時間がかかったのでしょうね。


長上郡という土地の利ですが
   古代に織物で栄えていた
   ということで
その後の日本の歴史の影の舞台になっていたのかもですね。

   戦国時代には駿府と名古屋=京都や大阪=の真ん中ですし
   古代は舟で伊勢神宮の「隣」ということだったのですし。
      だから軍船関係でもいろいろ秘密があるのでしょうね。
      でも戦国時代が終わったからすっかり忘れ去られることになった。

         だけどその技術は現代に産業王国浜松として繋がっている、かな?


今回の探求は「加藤家」が鍵になりましたね。
加藤家が他の4家と関係してたことで謎がいろいろ解けることになりました。


   美濃も背後にいろいろあったのでしょうね。


   それよりも長上郡長下郡が「長田氏」から出てたというのには驚きました。
   歴史は本当に奥が深いですね。



わたくしは最初  服部・永井・加藤が武士関係で 松島・鈴木は神職関係と思っていましたが
みなさん武家のようですね。


   徳川家ももとは賀茂氏と関係があるそうなので浜松には神職関係でも縁があったのでしょうね。

   雑賀の鈴木家の名も出て来たりして驚きました。



浜松は圧倒的に駿府の影になっていたから判り難くなっていたのでしょうね。
その上に将軍家が江戸に行ってしまったし。


   あの「遠江風土記伝」の≪長上郡に名家あり≫という表現。
   作者の内山真龍としては将軍家を憚らないといけないし。
   実は深い深い意味があったのでしょうね。


浜松市天竜区大谷 内山真龍資料館

   内山真龍は、元文5年(1740)大谷村の名主の長男として生まれました。
   宝暦10年(1760)、21歳のとき賀茂真淵(かものまぶち)に入門し国学を学び、
   多くの門弟を育てる一方、諸国を旅行し、その他の故事を探り数多くの著作を残しています。

   「遠江国風土記伝」は、
    遠江国13郡下の郷名・村・駅・地図・古述・古跡や元禄高帳による石高・口碑伝説などが記され、
    各郡を1巻として13巻からなり、
    完成までに10年の歳月を費やしています。  



内山真龍にも浜松の寂れ方には忸怩たる思いがあったのかもですね。

そしてもっと深い処を調べたら長上郡の5名家は天竜の内山家とも繋がるかもですね。



>探究すればするほど、長上郡を中心に歴史にまつわる数々のエピソードが浮上してきます。
>まだまだたくさんのものが眠っているはずです・・・。
  
はい

驚くような秘密がたくさん眠っていると思います。
 

[50]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月13日 08時09分10秒 ) パスワード

ということで、賀茂真淵を調べて来ました。



賀茂真淵の師

賀茂真淵(かものまぶち)【1697〜1769】は、近世中期の国学者・歌人です。

真淵在郷(浜松)時代の師 杉浦国頭(くにあきら)【1678〜1740】は、浜松諏訪神社の神官で、 ← あらら?
荷田春満(かだのあずままろ)【1669〜1736】の門人です。

『和州紀行』『国頭千首』等の著述があり、遠江国学の祖です。    ← なるほど
妻の真崎(まさき)【1690〜1754】は、春満の姪(めい)で、
夫を助け、歌集『やどの梅』等を残しました。

真淵は11歳の時から真崎から手習いを教わりました。        ← はい?


真淵は、国頭から詠歌・古典を学び、杉浦家和歌会に参加し歌才を磨きました(『和歌会留書』)。



森暉昌(てるまさ)【1685〜1752】は、五社神社の神官で、春満に入門し、国頭とともに若き真淵の師です。

杉浦家歌会などにも参加し、遠江国学の隆盛にカを尽くしました。



享保の歌人柳瀬方塾(やなせまさいえ)【1685〜1740】も真淵を育てたひとりです。
方塾は“籠□翁(こもりくおう)”と称えられ歌論『秋夜随筆』を著わしました。



真淵は31歳のころ上京し、荷田春満に入門しました。
春満は京伏見稲荷大社の神官の子として生まれ、幼い時から和歌を詠み、徳川幕府から和学の下問(かもん)を得、
国学者として名を挙げた人です。



賀茂真淵 -人と業績-

賀茂真淵は、元禄10年【1697】3月4日、遠江国敷智(ふち)郡浜松庄伊場村(今の浜松市東伊場)に
賀茂神社の神官岡部政信(おかべまさのぶ)の三男として生まれました。   ← へえ〜  下記に註


真淵は、多感な青年期までを遠江で過ごし、          ← なるほどね。武士になりたかったのね
杉捕国頭・森暉昌らに学び、国学への目を開きました。
31歳のころから伏見の荷田春満のもとに遊学、春満没後は、
江戸に出て、八代将軍徳川吉宗の次男田安宗武(たやすむねたけ)に仕えました。


真淵の業績

第一は、『万葉集』を研究し"国学"を樹立したことです。真淵の著述には『冠辞考(かんじこう)』『万葉考』『歌意考』『国意考』『祝詞考(のりとこう)』等があります。

第二は、歌人として優れ、万葉風の和歌を復興し、1000首ほどの和歌を詠みました。

第三は、教育者として秀(ひい)で、340名余りにのぼる門人を育てました。
最も優れていたのは、伊勢松坂の本居宜長でしたが、
郷国遠江では内山真龍と票田土満(くりたひじまろ)が、特に優れていて、真淵の詠歌・学問が伝えられました。




内山真龍 -人と業績-

内山真龍(うちやままたつ)【1740〜1821】
近世後期の国学者です。
真龍は、遠江国大谷(おおや)村(今の浜松市大谷)に生まれ、
家を継いで庄屋となり、農耕に従事し、村政に尽力しながら、
俳諧・詠歌・国学・絵画に精進し、多彩なカを多方面に発揮しました。

真龍は、丈夫な体、強い意志に恵まれ、実地踏査を主とし、実証的実利的なところに、その学問の特色があり、
   『出雲風土記解(いずもふどきかい)』
   『遠江国風土記伝』
   『日本紀類聚解(にほんぎるいじゅかい)』
等の著述を残しました。

特に73歳の時成った『日本紀類聚解』は名高く、
光格天皇の天覧を得、
“長浜の浦の芦田鶴(あしたず)ち代ふとも雲ゐ迄とはおもはざりしを”(自画賛像)と感激しています。


真龍の業績

第一は、生活にも役立つ学問を形成し、庶民文化向上に資したことにあります。
第二は、石塚龍麿(たつまろ)・夏目甕麿(みかまろ)・高林方朗(みちあきら)等多くの優秀な弟子を養成し、
遠江国学を充実発展させたことにあります。

しかも、真龍の器量の大きさは、
自分の弟子で特に優れているものを、遠く伊勢に送り、相弟子本居宣長に入門させたことに見られます。



石塚龍麿 -人と業績-
 
石塚龍麿(いしづかたつまろ)【1764〜1823】は、近世後期の国学者・国語学者です。

遠江国敷智(ふち)郡細田村(今の浜松市協和町)に、石塚司馬右衛門の次男として生まれ、
初め短慶(のりよし)、通称安右衛門、家号を槇屋(まきのや)、
歌会では大倭(おおやまと)とも言いました。

兄は領主大沢家に仕え、代官役でした。


23歳の時内山真龍に入門して、詠歌・国学を学び、真龍の勧めに従って、26歳の時本居宣長に入門しました。

宣長が亡くなると、実子春庭(はるにわ)に入門しました。


龍麿は、龍門の七子(しちし)の最右翼として称えられ、宣長からも大いに期待され、
宣長最後の上京に大平(おおひら)に替わって秘書役として近侍し、
『鈴屋大人都日記』を残すほどでした。

詠歌に優れ、長歌「国賛歌(くにほがいうた)」は『八十浦の玉(やそうらのたま)』にとられ、雅文もよくし、
『花の白雲』「鈴木有鷹(ありたか)が桜の詞」等があります。

龍麿の業績
一番大きなものは、国語研究です。
31歳の時の自序を持つ『古言清濁考(こげんせいだくこう)』は、『玉勝間(たまかつま)』四で宣長に激賞され、
35歳の時の大平の序を持つ『仮字遣奥山路(かなづかいおくのやまじ)』は、上代特殊仮名遣研究の先駆(せんく)として
国語学者橋本進吉博士に見出され有名です。



ということは時代に大きく乗り遅れた忸怩たる思いが垣間見られる、ということではないでしょうか?

遠江国に生まれたのに、時代が武士の活躍の場でなくなっていて、では、何をするか、
ということで学者になっていったのかな?


    それにしても賀茂真淵って遠江の人でしたか。
    それも賀茂神社の岡部氏!  下記・註の岡部諸家の  5番目  ですね。

    家康とのからみもあって  武士になりたかったんでしょうね。


岡部氏には以下の系譜がある。

1.藤原南家乙麿(乙麻呂)流の一族。駿河国志太郡岡部郷(現静岡県藤枝市岡部町)に居住し、岡部(岡辺)権守を名乗ったのが始まりである。岡部氏 (藤原南家)を参照。
2.孝昭天皇を出自とする春日氏の裔である小野氏が坂東(関東)に居住し、武蔵七党の一派である猪俣党となる。猪俣党又は岡部氏 (小野氏)を参照。
3.清和源氏義光流の一族。佐竹氏庶流。岡部氏 (清和源氏)を参照。
4.藤原北家魚名流利仁一族の裔である斎藤氏から別れ出でる。岡部氏 (藤原北家)を参照。
5.八咫烏武津之身命の裔である賀茂氏/鴨氏(上賀茂社家/上鴨社家)の流れを汲む。岡部氏 (賀茂氏)を参照。



徳川幕府がらみの岡部氏:

藤原南家工藤氏の、工藤為憲から始まる。

鎌倉時代に、岡部泰綱が駿河国志太郡岡部郷(現在の静岡県藤枝市岡部町)の地頭になる。

戦国時代には、今川氏の家臣になる。しかし桶狭間の戦いで今川氏が弱体すると、攻め入ってきた武田氏に寝返る。
岡部元信は、甲州征伐の時、討ち死にするが、兄の岡部正綱は、徳川氏に仕える。

江戸時代に入り、正綱の子岡部長盛は、大垣城主となる。長盛の子、岡部宣勝の時、岸和田藩主になる。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月13日 08時21分12秒 ) パスワード

内山家についても調べてみました。


遠江国敷和郡内山村発祥の内山氏は名族。
江戸中期に国学者内山真龍を出している。

この人は21歳の時、浜松の駅で国学者賀茂真淵に会い
その後、明和6年=1769年=30歳の時、江戸に出て
その門に入ったが、わずか1ヶ月で真淵は歿した。

後、真龍は地理の実際について国史を究めようとし、各地を遊歴、
「地名記」などを著わしている。


「日本紀類聚解」は正親町公明に認められ、朝廷に献ぜられた。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月13日 08時50分52秒 ) パスワード

内山 真龍  
元文5年(1740年)1.1 〜 文政4年(1821年)8.22


内山真龍は遠江国豊田郡大谷村(浜松市天竜区大谷)の庄屋内山徳右衛門の長男として生まれ、
幼名は市六・竜麿とも称し、
病身の父親に代わり21歳から大谷村の名主を勤めました。

学問が好きだった真龍は、忙しい仕事のかたわら、宝暦10年(1760年)浜松にきた賀茂真淵に出会い、
宝暦12年にその門に入り、詠歌と『日本書紀』などの古代史考証に専心しました。


明和2年(1765年)、遠江国における古文辞学派の拠点で、真淵の漢学の師でもあった渡辺蒙庵(わたなべもうあん)の竹亭に入り和漢の古学を習得した。『出雲風土記解』(3巻・写本・1787完)をはじめ風土記の解釈、また一生涯の業といわれる『日本紀類聚解』(15巻・写本・1812完)などを著した。



真龍は、本を読んで研究するだけでなく、実際に現地調査を行い、多くの本(著作35部)を書いています。

交流も盛んで、江戸派国学や鈴屋門下、儒家、詩人におよび広かった。

また、真龍は82歳の生涯を、名主として大谷村の発展に尽くすとともに、国学の研究や弟子の育成につとめました。



遠江の内山氏は遠江国浜名郡内山(静岡県湖西市新居)をルーツとする



http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db2/kokugaku/utiyama.004.html
内山 真竜  ウチヤマ マタツ  大谷村庄屋 ・ 里正 ・ 国学者


〔生没年〕 元文5年(1740)1月1日〜文政4年(1821)8月22日 〔享年〕82

〔生国・住国〕 遠江豊田郡大谷村 : 静岡県天竜市大谷


〔墓地〕 天竜市内山本家邸内



〔学統〕 賀茂真淵

〔名〕几・敬美・竜麿 〔称〕市六・弥兵衛・徳右衛門(庄屋として用いる) 〔号〕雲里・竜洞・弁躰・奉国史翁・叢




【 解説 】

遠江国大谷村(静岡県天竜市)の庄屋内山美真の長男として生まれ、庄屋職を継ぐ。

大谷村里正。

母は豊田郡野部郷敷地村敷地村大当所の庄屋山下彦左衛門の娘鳳女。

父美眞は神書、仏書に通じ、外祖父山下氏も賀茂真淵に和歌を学んでいたため、真龍も幼少より雅道に親しんだ。

家長として自ら農耕に励み、家産を絶やすことは無く、
里正として父が病弱であったため23歳から庄屋職を務め、代々の領主の信任も厚かった。


宝暦12年11月、賀茂真淵に入門し、歌と古典の研究に励む。
安永4年、京畿の旅の途中宣長を訪れ、以来文通等で兄事した。

浜松の渡邊蒙庵には儒学や老荘を学ぶ。

明和4年日本書記の傍訓を抹去すべきと考え、真淵から叱責を受ける。

風土記の考証に通じ、寛政5年『出雲風土記解』を出雲大社に奉納。   ← へえ〜
                                    
出雲大社と何か関係があったのかもですね



寛政10年『遠江風土記傳』を著す。

日本書紀類聚註解書である『日本紀類聚解』は下賀茂神社泉亭家の執事俊永の仲介により、
正親町公明の執奏を経て内天覧の名誉を得た。

同書は武烈天皇の暴虐を異国の君主の暴状が挿入されたものと弁じたもので、その後齋藤彦麿等が論じた。

天覧を賞して文化11年10月3日領主近藤家より紋付袴が下賜され、苗字を名乗ることを許される。 ←へえ〜
          つまり正式に


この他仏典研究や座禅修行を行うなど仏教にも造詣が深かった。

真淵なき後、学問の継承・発展に力を尽くし、鈴屋門下の人々とも交わることで、石塚竜麿・夏目甕麿等、数多の門弟を輩出した。

遠江国学の祖。

(参照:本居宣長事典、 国書人名辞典. 第1巻、 国学者伝記集成. 第1巻. 続編、 日本人名大事典. 第1巻)


【 年譜 】

元文5(1740) 元日、遠江国大谷村(静岡県天竜市)の庄屋内山美真の長男として生まれる。
安永4(1775) 京畿の旅の途中、宣長を訪ねる。
天明6(1786)【成立】出雲行《いずもこう》
天明7(1787)【成立】出雲風土記解《いずもふどきかい》
寛政元(1789)【成立】遠江国風土記伝《とおとうみのくにふどきでん》
寛政元(1789)【成立】遠江国風土記伝《とおとうみのくにふどきでん》
寛政5(1793)【成立】出雲国造御嗣考《いずものくにのみやつこみつぎこう》
寛政8(1796)【成立】国号考《こくごうこう》
寛政12(1800)【成立】新撰姓氏録註《しんせんしょうじろくちゅう》
享和3(1803)【成立】宮所記《きゅうしょき》
享和3(1803)【成立】地名記《ちめいき》
享和3(1803)【成立】国図《こくず》
文化4(1807)【成立】神号解《しんごうかい》
文化8(1811)【成立】日本紀類聚解謡歌註《にほんぎるいじゅかいようかちゅう》
文化9(1812)【成立】日本紀類聚解《にほんぎるいじゅかい》
文化10(1813)【成立】古事記謡歌註《こじきようかちゅう》





【 出典 】
以下略



http://homepage2.nifty.com/tenryu/Rekishi.htm
天竜市案内(二俣城など)


●内山真龍墓

天竜市役所の台地をくだリ、山沿いに東則の道路を北に向ってしばらく行くと、集落があり、古民家を見かける。
大谷である。
古くは大谷村といい、77石9斗9升6合の村高であった。

遠州が生んだ世に誇るべき、江戸時代後期の碩学者内山弥兵衛真龍の生誕の地である。
真龍は元文5年(1740)正月朔日大谷村の庄屋内山美真の長男として生れ、生涯をこの地で過ごした。


    ココに内山家が名族とされる理由があるのですね
      ↓
内山氏は姓は藤原氏で、
信州佐久郡の内山城主内山美作守玄岑の後孫で、
代々庄屋を勤めた家柄で真龍はその7代目にあたる。


真龍は、5歳で文字を書き、12歳で新田埋立工事の図を引き、13歳で俳諧を詠んだといわれ、幼にして性明敏であった。

宝暦10年(1760)21歳のとき、賀茂真渕に入門して国学や和歌を修め、

明和2年(1765)26歳のとき、渡辺蒙庵の竹亭塾に入門して漢籍、詩文を学び、
諸国に旅行して、その地の故事を探り、本居宣長、池大雅、江川坦庵など数多くの人たちと交遊した。

また、書画の道を色々の人に学んだようであるが、

中でも阿波国の出身である井川淑慎斉について書や画、ことに梅の画法を習得した。

父美真が「壮年神書を読み、老年仏道に入る。」という生涯であったが、
真龍も仏典研究が好きで、独学を以て梵語の仏典までも読破したといわれる。

和漢仏の三学に通じ、書画に堪能であったが、中でも国学が最も大成され名をなしたものといえる。

真龍が後世に遺した著作は100巻に近いが、中でも出色の著作である「出雲風土記解、遠江国風土記伝、日本紀類聚解」などは学問的評価が今もなお高い。

ことに日本紀類聚解15巻は、真龍73歳の文化9年(1812)5月に光格天皇の内天覧を賜った。


    長浜の 浦の芦田鶴 千代経とも
        雲井までとは 思はざリしを
                       真龍

真龍の喜びは最高であり、当時の学界に非常なショックを与えた。

以来翁名を奉国史翁としたのも成るほどとうなずける。


真龍の生家は、間口10mほどの長屋門を持った二階建で、池のある広い庭がある。

門前の細い道を竹藪に添って少し登ると、左側に木立があり、墓域がある。

間口7m、奥行4mほどの槙囲いで、その中に大小32基の墓碑がある。

上段中央右の自然石に、「文政四辛目年八月世二日、治山真龍居士、活霊妙龍夫姉」と刻れた夫妻の墓があり、
真龍は82歳(1821)で没した。


   辞世
      
     風わたる 軒のしのぷの 露の玉
         散らぬ限りは 見つ丶しのばむ

                       真龍

真龍は、師弟の道を尊び、真渕の霊社を裏山に設けて、自ら師の像を方角の板木に彫刻して祀り、生涯怠ることがなかった。

昭和29年1月16日、特旨を以て正五位を追贈された。


内山家より北へ100mほどゆくと嵩山がある。
その麓の宇佐八幡神社の境内に、真龍霊社があり、
翁の遺徳顕彰の志を同じくする真龍会が忌日には祭儀を行なっている。

[53]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月13日 15時21分03秒 ) パスワード

またまた驚きました。



今日は出掛ける車の中で賀茂真淵や内山真龍の気持ちを考えたのです。

あれだけの頭脳と気概を持った人物達が、
   生まれた時代が封建時代の真っ只中で
   がんじがらめの身分制度に縛られて
自分の置かれた立場には戦国時代のような自分の力で出世するのは100%有り得ない

   内山真龍の場合は村の指導者として小さく生きていくより生き方は無いから学問に志したのだろうな
   とか
   賀茂真淵は賀茂氏の中で最高の権力を得た徳川家康に憧れただろうけど、
   まさか自分の能力を政治に生かす場など与えられないから学問に生きたのだろな
   とか


2人の気持ちが分るような気がしました。


内山真龍の場合は屋号の内山姓を晴れて堂々と苗字として名乗る名誉に浴して
ちょっとは思いが遂げられたのかな?と。



それで家に戻って地図を調べてみました。


内山真龍の御先祖の出身地、長野県佐久市内山という場所と
松島氏の出身の長野県小県郡という場所は

    直線距離にして東西に20kmぐらい?


今は遠江国に住んでいるとはいえお互いに信濃の出身で、先祖は一国一城の主になれなかった。

加藤家も服部家も永井家も、いいとこまではいったけど、最終的に城持ちにはなれなかった。

鈴木家はそれこそ他言を憚る秘密がある。


そういう思いが「長上郡に5名家あり」とサラッと記録されたのかな?と。



復習

鈴木一蔵  すずき いちぞう  弘治2年8月7日(1556年9月10日) - 没年不詳)

松平元康(後の徳川家康)の庶長子という説がある人物で、諱は重康。
母親は遠江国磐田郡見附宿の旅籠の娘と言われる。

雑賀党鈴木氏(または三河鈴木氏)の下で養育された為、鈴木姓を称したという。


家康の長男は松平信康であるが、この人物=鈴木一蔵=の存在が事実とすれば信康は次男ということになる。

弘治3年(1557年)正月に家康が築山殿と結婚したことを考えると、築山殿の親類である今川家に家康が取り入る為、
一蔵は実子とされなかった可能性がある。

一般的な俗説として家康に庶長子がいたと語られているのみで、
一次史料からは確認する事は一切できない人物である為、
著しく信憑性に乏しい。

関ヶ原の戦いの後、徳川頼房(家康の11男)に仕えた鈴木重朝と同一人物とされることがある。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月13日 16時02分36秒 ) パスワード

家康という人物についてゴチャゴチャ考えてみました。


マザコン
  母が離縁されて、その後、母は再婚し父違いの弟達が生まれた(羨ましかったかもね)
  祖母も数奇な運命を生きた女性で
  そういうのは家康の成長に大きな影響を与えたであろう


女は怖い
  今川に人質に送られる途中、父の後妻とその父・戸田康光によって売り飛ばされて尾張の信長のもとへ
  同じように母の愛に飢えていた信長と過ごした日々は結構楽しい思い出


女は面倒くさい
  正室の築山殿とその後に手をつけたお万の方の女の争いにはホトホト困った


  築山殿は義元の姪だから、妻に迎えたら、まず自分の命は安泰という計算があった?

 
  築山殿との結婚の前に子をなしていたが、取り敢えず、そういう事実は無かったということに?


  お万は自分の立場を自覚して築山殿の嫉妬心を煽らないようにしてくれたら良かったのに?
  

自分を守ってくれた家臣のためにも我が子を犠牲に?

   結婚前に作ってしまった子はテキトーに処分した
   嫡男の信康は信長さま恐さに死なせてしまった
   築山殿の嫉妬心の源泉になるお万とその子秀康も遠避けた


自分と家と家臣の為には孫娘も不幸に
   千姫の嫁ぎ先である豊臣家を潰した
   嫁の姉と甥の家でもある豊臣家を潰した



やっぱり鈴木一蔵は家康の子だったのかもね。

出世のためには上司の娘にさっさと乗り換え?
[55]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月14日 00時08分48秒 ) パスワード

奏楽の青海のあを様


 本日は午後より、現地調査にでかけました。それは、

1.羽鳥の正光寺と蛭子森古墳
 2.そして源長院、そして服織神社
3.そこから鈴木屋敷
 4.更にとんで大久保陣屋跡

のコースでした。
 自宅から1までは車で5分。羽鳥の正光寺は『豊西村誌』を読んで初めて
知った寺。特徴は、慶長以前の開基であるが、その境内がすごかったという。
52万坪というからいったいどれだけであったのか想像もつかない。当時は
今川氏の累代の祈願所であったという。初めて訪れるお寺であったのだが、
実は近くて遠い(?)お寺でもあったのです。というのは、そこの西隣にゴル
フ練習場(打ちっ放し)があり、私もよく行き、ちょうどお寺の方向に向って
ゴルフボールを打っていたというわけです(以前はショートコースもありま
した)。早朝練習に行くと、朝6時から木魚の音が聞こえてきました。今は
400年前昔のその面影はないようです。昔のことは想像もつきません。

 そこから車で3分程南へ行きますと、蛭子森遺跡があります。あお様の
よく言われるヒルコ読みではなく、エビス森です。遺跡はフェンスで囲まれて
いますが、石積みの石棺部分はむき出しになっています。聖徳太子の3人の
皇子が秦氏に連れられてやって来たという。正史には載っていないことなので、
こんなふうになっているのだと思う。天皇家関係の墓と認められたらどうなる
のか、もったいない歴史の資料だなと思いました。

 そしてそこから車で南へ3分、源長寺にやって来ました。松島十湖の句碑で
有名なお寺ですが、今回はその十湖のお墓を見つけたいと思って行きました。  ちょうど住職さんが墓地におられたので、お訊きすると、ここですと案内し
てくれました。その墓標は苔むした感じの古いお墓で、字が読めないほどであ
ったが逆に風格の感じられるものであった。手を合わせお祈りをした後、気が
付いたことを住職に訊いてみた。
 「ここは松島氏のお墓が特に多いですねえ。松島氏の丸に一文字の家紋が目
立ちますが」
 住職答えていわく、
 「この寺を開基した和尚は松島氏の出身で、たくさんの土地を持っていた」
との答えが返ってきた。先ほどの正光寺もたくさんの土地を持っていたという。
どういうことなのか。源長寺は、徳川家から加護されて、領地を与えられてい
たという朱印もあるようである。但し、現在のお寺は、四百年くらい前に作り
直されたようで、松島十湖の玄孫の方が言われるように、十七代までは遡れる
ということの意味を理解いたしました。

 源長寺から車で1分、徒歩なら3分東のところに服織神社がある。奈良時代
の輝きのよなものは全く見られない普通の神社ではある。2礼2拍手一拝を済
ませ、ぐるりと見て回るが、歴史の解明につながる神社紋とかその他の証左に
は遭遇しなかった。

 そこから、西へ車で20分程、今度はあを様ご紹介の鈴木屋敷を見に行った。
小学校の南にあり、大きな鎮守の森といった感じの中に、屋根つきの門、古ぼけ、崩れかけたいくつかの建物、倉、射場等が見られたが、今保存の工事が始
められていた。鈴木家から浜松市に寄贈され、来年が家康没後400年という
ことで、急ピッチで進めているようであった。

 さて、最後に向ったのは、大久保陣屋跡。はっきり言ってその近くに姉が嫁
いで行っており、何度も通っている所なのに、旗本の服部氏が代官をやっていて、そこに陣屋があったなんて全く聞いたこともなかった。あを様に指摘され
て初めて知ったこと。私にとってはすごくインパクトのあるニュースであった。
 そのすぐ近くにおいしい持ち帰り餃子の店があり、どちらかというと、今ま
ではそちらの方に興味と視線が向いていた。
 大窪神社というところに陣屋跡があるはずであった。到着して駐車場側から
公園か境内・・・に入っていくと、まずゲートボール場が目に入り、続いて正
門近くへ。案内板があり、「この境内は江戸時代の代官屋敷跡であり、石垣は
そのままである」と書いてあった。
 代官屋敷跡とは誰もわからないだろう。従ってそれを深く追求する人もない
であろう。時の経過と共に更に忘れられようとしている・・・。
 残念ながら、そこに陣屋跡があったであろうということを認識し、またその
立地を確認しただけの結果であったが、この発見は、私の歴史探偵の旅の中で
はものすごく意味のある発見であり、今後の手がかりとなるものであると確信し、本日の現地調査を終えました。
 帰りはやはりおいしい餃子を買ってかえり、ビールと共に食しました。



























































































































































































































































































































































































































































































































































































































[56]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 02時41分25秒 ) パスワード

お疲れ様でした。


1.羽鳥の正光寺と蛭子森古墳
2.そして源長院、そして服織神社
3.そこから鈴木屋敷
 4.更にとんで大久保陣屋跡


すっごい遠足(車ですから  遠乗り  ですね)になりましたね。
久し振りの社会見学でしたか。
にっこり


羽鳥の正光寺は52万坪?
大企業の工場の2つ分あたりでしょ?
ということは  もの凄い力を持ったお寺さんだった  ということですよね。

それにしてもゴルフの打ちっ放しで球をせっせと打ち込んでいたとは。
    そこまでは飛ばないのかな?
    150ヤードあたり?
バチ当たりでしたね。


    ま、お寺さんにすればワルガキはしょうがないな、で許してくださってたのかもね。
    笑


蛭子と書いて「えびす」と読むのは漫画家の蛭子さんと同じですね。
   四国から長崎に流れたとおっしゃってましたから、
   日本の古代史の鍵を握る四国の古代豪族の流れの場所に
   聖徳太子のお子様達が亡命してきた、ということなんでしょうね。



源長寺さんは徳川家の保護を受けていましたか。

ということはやはり小県出身の松島家もそれだけの家格があったからでしょうね。

        松島さんは小県の丸子の豪族だったのかな?
        それだったらわたくし的には座りが良いのですが。

小県は関が原の戦いの時に、真田vs徳川家の侍大将が意地をかけてた場所だし
小県の丸子の豪族は徳川方だったそうですよ。
秀忠率いる徳川方は真田に負けましたが。

        その後、丸子は真田に組み込まれたということなので
        真田に付かなかった人達が松島家なのかな?

             以上は想像です。

でも、そういう風に考えると源長寺さんが徳川家の保護を受けていたというのが分かり易いのですが。
とにかくそれだけのこと、何か、あったのでしょうね。


服織神社の衰退は哀しいですね。
歴史に取り残されてしまって。
もう絹織り産業は昔の輝きを復活できないですものね。


それにしましても鈴木家は良い選択をなさいました。
個人で持っているより管理して頂く方がどれだけ有り難いか。


   例えば家康に尾張藩の家老として付けられてしまった成瀬家は
   幕末にやっと城持ち大名になれましたが
   そのスグ後に明治維新になりました。

   つい最近まで個人で所有する「国宝」の城でしたから管理が大変で
      国宝ですから(重要文化財とは違って)国から援助金が出るとはいえ
   それはそれは大変なことでした。

   結局成瀬家は市にお願いをしたというわけでした。
   今の御当主は、もう50歳に手が届くあたりの方かしら?


長上郡の名家鈴木家として後世に残るのが良いと思います。


そして  鈴木家がらみということで  家康の長子だった一蔵もそろそろ日の目を見ても良いのではないでしょうか?
   コワいコワい鬼嫁の築山殿も死んでしまっているし。  
   

 
大久保の陣屋。
笑っちゃいますね、
服部氏がいたのに「大久保」の名でカモフラージュされてしまってましたね。
分らないですものね、誰でも大久保さんの御威光に目が行きますよね。

でもお姉さまがその近くにお住まいでいらっしゃっるのはやはり何かの引き合わせかも。


ま、大久保と服部は永きに渡っての運命共同体・刎頚の友・親戚・なんですから良い所にお住まいです。




花より団子、ビールには餃子。
良い一日になりましたね。
にっこり
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 02時50分46秒 ) パスワード

検索して来ました:


正光寺の歴史

所在地 静岡県浜松市東区豊町749番地
山号寺号 金光山 正光寺
所属宗派 臨済宗(禅宗)大本山奥山方広寺
本尊 聖観世音菩薩
合祀仏 薬師如来 弥陀三尊仏 他
鎮守 北星妙見菩薩           ←  へえ〜



由緒

当寺は、往古より妙見菩薩の霊場として知られ、創立年代は不明であるが、
17世紀の初め慶長年間までは、真言宗に所属し、美薗並びに羽鳥郷の内八ヶ寺の本寺にして、
当時の境内面積は52万坪(約171万u)あり、境内中央より何れへも八丁四方を所有していたと云う。

室町時代は今川家累代の祈祷所であり、今川氏真公直筆の花押入り古文書も寺宝として蔵されている。

慶長17年8月、雪斉惠宗禅師開山となり、臨済宗方広寺派に属し爾来法燈世系連綿として今日に及ぶ。

明治初年県下寺社合併の令達後、村内自光院(薬師堂)及び下石原(豊町下)海福寺の2ヶ寺が当寺に合併され、各本尊仏も合祀された。


朱印
慶長元年8月、大獣院殿(徳川家光公)御朱印、北条安房守殿(新蔵家)知行所内より
正光寺領を六石壱斗、薬師堂領を弐石下賜される。

その他伊那備前守除地四石一斗、施餓鬼料を弐石、了仙庵領を弐石賜る。

徳川家光公より家茂公に至るまで九通りの旨令書を存していたが、慶応三年九月、西京弁事御役所へ返納される。



道から山門まで約六十b、両側に樹齢百年以上を数える松の木が並んでおり大きな枝をひろげ、参道の空を被っている。昔は四十八本植えられていたそうだが今は枯れたもの、台風で倒れたものなどあって数は少なくなっている。四十八本というのは「いろは」四十八文字にあやかるもので、土地の人たちは「いろは松」と呼んでいる。過去二度三度と出水に見舞われたが、松は大地に深く根をおろし耐えてきているのだ。


山門に掲げられている白隠筆の「金光山」の扁額



駿河の国にすぎたるものが二つあり、富士のお山に、原の白隠

といわれたこの名僧は、十四歳でふる里駿河の原の松隠寺で得度、
諸方歴参ののち、信濃飯山の正受老人の法をつぎ、やがて京都妙心寺第一座となり晩年は三島の竜沢寺を開いている。

正光寺の山号額を白隠が書いたのは、同寺八世環渓和尚が白隠の弟子であったつながりによるもののようである。

環渓和尚は人々を寺に集め、碧厳録を講じたというから学才のほどがしのばれる。

同和尚が示寂したのが寛政六年六月十三日、七十五歳であった。

正光寺の現在は十八世松尾正澄である。



山門を入った左側に築山があり、二基の石碑が並んでいる。一基は十三世神野廉道和尚の碑である。
明治初期、この寺で寺子屋教育をして地域社会文化の向上につとめたため、
明治三十六年三月、地元の弟子達が浄財を出し合って建立したものである。

あと一基は、十二世和尚竹内竜道和尚明治三十九年一月「凌雲碑」が建立される。



霊塔は昭和五十七年四月墓地改装の際堀り上げた骨を納めたのに伴い建立された。
「和ー芳縁塔」と刻まれた石塔は、この寺に縁のあった人たちの永代供養塔として建てられた。
右には「六地蔵」も奉られている。


今川氏朱印

今川氏累代の祈願所で、永禄四年九月今川氏真より遠江国美薗ならびに羽鳥郷の内寺院十ヵ所の内へ八ヵ寺云々と書いた直筆を寄せられていた

今川氏滅亡以来寺運は甚だしく衰頽したが慶長十七年八月になって本派臨済寺から雪斎和尚を懇請して臨済宗方広寺直末金光山正光寺と改称中興の開山とした。


       幕末の小栗家といえば徳川幕府の有名人ですね。その関係?
            ↓
雪斎和尚は本村羽鳥、小栗九郎左衛門の子で、足利氏に仕えていたが、その衰亡帰すや駿河に至り今川義元に仕えて、その軍師となった。


今川氏滅びてから大岩臨済寺に入り禅学を修めた

[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 03時05分00秒 ) パスワード

ということで三河小栗氏についてコピペ:


三河小栗氏
小栗氏
(三河小栗氏)

丸に立浪
桜花
五三桐     ←  へえ〜  桐紋ですか


本姓
称 清和源氏新田氏流世良田氏(桓武平氏大掾氏流小栗庶流?)

       モロ、徳川氏の一族ですね

家祖
小栗吉忠

種別
武家
士族

出身地
三河国

主な根拠地
江戸
東京都

著名な人物
小栗忠順


三河 小栗氏(みかわ おぐりし、別名:又市系小栗氏)は、酒井氏とともに松平氏の庶家に属する氏族。

松平一族が常陸小栗氏と婚姻し家を興したとされるが、
小栗吉忠以前の系譜に謎が多い。

子孫に幕臣・小栗忠順などを輩出した。


なお、結城秀康に付属し、以後越前松平家の中核を担った小栗正高や、
その子で越後騒動の中心人物となった小栗正矩などを輩出した大六系小栗氏は常陸小栗氏の末裔になる。


概要[編集]

「松平氏」を参照
「松平郷松平家」を参照


『寛政譜』によると、上杉禅秀の乱・享徳の乱に起因する戦乱に敗走した常陸小栗氏が三河国へ土着し、その末裔の小栗正重( - 1494年?)の娘が松平氏一門・親長[1]と婚姻して、生まれた男子が忠吉( - 1538年頃)である。


松平親長と忠吉の母親小栗氏の娘は折り合いが悪く離別し、
母親は忠吉と共に父の小栗正重[2]の元へ寓居した。

正重は忠吉を養子とし、小栗姓を名乗らせて三河小栗氏が発祥し、母系の出自である小栗氏の庶流として発展した。



小栗忠吉は松平遠江某の娘と婚姻して小栗吉忠(又市)(1527年 - 1590年)を生む。

    またもや松平氏と縁を結んだ?


この小栗吉忠が徳川家康奉行人として浅井道忠・道多父子とともに名を連ね、
文献史上に登場することになる。


『国字分名集』[3]に、
「小栗又市家,清和源氏,本国三河,上野・下野・下総内2,500石,家紋 丸に立浪 桜花 五三桐,屋敷 神田駿河台 」と収録されている。



系譜[編集]
(松平親長)(小栗忠吉)
1.小栗吉忠(又市)
2.小栗忠政(又一)
3.小栗政信
4.小栗信勝(父の政信より先に没し家督は継いでいない)
5.小栗政重(政信の家督を継ぐ)
6.小栗信盈
7.小栗喜政
8.小栗信顕
9.小栗忠顕
10.小栗忠清
11.小栗忠高(中川忠英の四男で婿養子に入る)
12.小栗忠順 小栗忠道(駒井朝温の次男で婿養子(養女小栗鉞子の婿)に入っていたが、忠順と同時期に斬首される)
13.小栗忠祥(駒井朝温の三男で忠道の弟)
14.小栗貞雄(矢野光儀の子で矢野龍渓の弟。忠順の逝去二ヶ月後に誕生した長女小栗国子の婿に入る)
15.小栗又一
16.小栗忠人
17.小栗又一郎(漫画家 小栗かずまた)   へえ〜  今に続いているんだ〜


脚注[編集]

1.^ この松平親長を、松平郷松平家6代・隼人佐信吉( - 1542年戦没)の子で、7代・親長(家督:1543年 - 1564年没)若しくはその兄である伝十郎勝吉(1521年 - 1542年戦没)とする説、または安祥松平家(松平本宗家)4代・松平親忠(1431年 - 1501年)の長子・親長(岩津松平家祖・岩津太郎)に比定する説とがある。松平郷松平氏に比定した場合、年代的整合性は崩れる。

2.^ 兄の説あり
3.^ 文政10(1827年)年



小栗家って松平家と親類になる星の下に存在してたんですねえ。
で、幕末に不条理な運命に弄ばれて、ま、多くの一般日本人から同情される家だから、
    以って瞑すべし、
ですけど。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 04時52分09秒 ) パスワード

丸子と松島家の関係を調べているのですが  関係無い  のかなと思います。
松島さんは箕輪の方ですものね。



しかし別な発見が!

正光寺の和尚さん松尾氏は  松島さんと同じく信濃の豪族・小笠原氏の一族かも。




レス<57>

    正光寺の現在は十八世松尾正澄である。


        松尾氏ということで、以下が浮上しました。

レス<22>

    松尾氏の御先祖さまは南朝方だった?

>>伊那の松尾小笠原兵庫介政秀と神ノ峰城の知久(左衛門慰)祐矯と大河原の香阪入道を始めとする諸将は、
>>守護臣下から変心して守護に背いて、尹良についた。

        御先祖さまは伊那の松尾小笠原兵庫介政秀  でしょうか?


松尾城について調べました:

松尾城(まつおじょう)は、長野県飯田市にあった日本の城。


概要[編集]

信濃守護小笠原氏の居城である。

小笠原氏は政康の死後、深志(府中)小笠原氏・松尾小笠原氏・鈴岡小笠原氏に別れて対立したが、松尾城は松尾小笠原氏の居城であった。

天文23年(1554年)武田信玄の伊那侵攻の後、松尾小笠原氏の小笠原信貴・小笠原信嶺父子は武田氏の家臣となった。

小笠原信嶺はその後、織田信長の甲州攻めの時には織田氏に降伏し、本能寺の変の後、徳川氏の家臣となった。

徳川家康の関東移封の際、武蔵国本庄城に移り、松尾城は廃城となった。


現在、城跡は松尾鈴岡公園として整備されている。
鈴岡小笠原氏の鈴岡城とは毛賀沢川を挟んで向かい側にある。


*****************************
http://www.kakeisi.com/survey/survey_nagano.html
長野県のご先祖調べ

令制国の信濃国にほぼ相当します。(旧神坂村・旧山口村が岐阜県中津川市に編入)

古代は「科野(しなの)」の文字を用いています。


■戦国期以前の長野県
 南北朝時代の信濃国は、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられ、 応永7年(1400)「大塔合戦」では守護小笠原氏と村上氏を中心とする反守護勢力の在地豪族との間に争いがありました。

そこに、足利幕府と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立が加わり複雑な対立関係がつくられていました。

そのため信濃国では強力な支配権を持つ戦国大名が成長できず、信濃国守護の小笠原氏も一族内での対立もあり一つの地域勢力に留まりました。

主な勢力としては、越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高井郡の高梨氏(中野城)、埴科郡の村上氏(葛尾城)、関東管領上杉氏の被官である小県郡の海野氏・真田氏(戸石城)、 佐久郡の大井氏(岩村田城)・伴野氏(大井城)、安曇郡の仁科氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏(高島城)、 信濃国守護職の小笠原氏(林城)、木曽谷を領す木曽氏(福島城)、伊那郡の保科氏(高遠城)・伊那小笠原氏(松尾城)・知久氏(神之峰城)があります。


戦国時代も後半期になると、甲斐武田氏が侵攻し武田信玄の代には信濃国の大半を制圧、信濃北部の諸豪を援助する越後上杉謙信との攻防が繰り広げられます。

信玄、謙信の死後、織田信長が信濃国を制圧し、「本能寺の変」で信長が死ぬと徳川氏・北条氏・上杉氏の勢力が進出します。

その後、豊臣秀吉が天下を取り、徳川家康は関東に移封され信濃は豊臣方の武将の支配下になりました。


現地調査では、武田信玄・上杉謙信時代の古記録や伝承を見聞きできます。

信玄は甲斐(山梨県)ではヒーローですが、信濃では征服者ですから特に佐久地方では悪役で通っているようです。

          ここですね。
          松島家もひどい目に遭わされてますから。



■長野県の名字

戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。

長野県を概観すると、清和源氏がほぼ全域にわたり広がり、諏訪地方に諏訪神家党、安曇郡地方に仁科氏を中心とする桓武平氏、 小県郡佐久郡に滋野一族があります。

以下は長野県発祥の名字です。
この苗字であれば比較的ルーツを探しやすいと思われます。

埴科郡の村上氏流・・・入山・山田・今里・屋代・上条・下条・栗田・千田・小野・寄合・小野沢・飯田

高井郡の井上氏流・・・高梨・米持(よなもち)・時田・桑洞(くわぼら)・芳美(はみ)・須田・村山・保科(諏訪神家の分れともいう)

木曽谷の木曽氏流・・・上松・三富・野路里・馬場・熱川・高遠・上総・千村・市岡・沼田・山下・原・寺尾・安食野(あじきの)・黒川・立石

信濃国守護職の小笠原氏流・・・赤沢・大井・八代・小田・藤崎・鳴海・大倉・下条・上野・米田・麻積(おみ)・勅市(てし)・益田・内村・長坂・高畠・矢田・山中・ 勅使河原(てしがわら)・丸茂・常盤・島立・西条・坂牧・下枝・岩尾・長窪・小諸・耳取・平原・安原・志賀・板鼻

諏訪氏流(神家党)・・・知久・片倉・笠原・中沢・藤沢・座光寺・中尾・沢・平林・宮処・平出・小田切・手塚・武井・山田・宮下・金山・桑原・宮川・中尾・下平・沖・ 関屋・深沢・皆野・三塚・若尾・四宮・岩波・高木・浜・横田・保科・宮崎・海口・中島・茅野・

         松島   ← ココですね

・上原・矢・・栗沢・向山・中野・桜山・西保・真野・肥間・ 福島・平島・遠山・大妻・風間・小島・有賀・花岡・安部・保坂・元沢・小坂・春日・浦野・大塩

小県郡の滋野氏流・・・海野・根津・望月・鎌原・西窪・羽尾・小田切・会田・塔原・田沢・清野・大塚・光野・真田・中村・湯本・春原・岩下・横尾・浦野・野々口・ 諸星・樋口・吉川・吉宗・城・清原・西山・福満・福島・豊田・浜岡・池長


長野県の苗字ベスト20位をあげると、以下の通りです。
       ↑
    日本語英語ですね。「トップ20位」と書いて欲しいです

1小林 2田中 3中村 4丸山 5伊藤 6佐藤 7清水 8高橋 9山崎 10宮沢
11林 12柳沢 13宮下 14山田 15原 16竹内 17渡辺 18滝沢 19中島 20小松


長野県の名字の特徴の一つに、「〜沢」の名字が多いことがあげられます。
ベスト20にも、宮沢・柳沢・滝沢が入っています。


長野県には谷が多く、「〜沢」の地名がたくさんあります。これらの地名を名字にしていることと関係しています。


 また長野県は南北に長いため、北信・東信・中信・南信で名字の特徴が異なっています。


第1位の小林は北信地方に多く、第4位の丸山は中信に多くあります。



■江戸時代の長野県

江戸時代の信濃国は多くの藩領・天領・旗本領・寺社領にわかれていました。
廃藩置県時に長野県に存在した藩は以下の通りです。

藩名     城下町    主な藩主の変遷
松本藩    松本市    水野氏→戸田氏
上田藩    上田市    仙石氏→藤井氏
飯山藩    飯山市    本多氏
小諸藩    小諸市    牧野氏
岩村田藩   佐久市    内藤氏
高島藩    諏訪市    諏訪氏
高遠藩    伊那市    保科氏→内藤氏
飯田藩    飯田市    脇坂氏→堀氏
須坂藩    須坂市    堀氏
松代藩    長野市    真田氏    (長野って松代藩だったの?! 驚)


この他に木曽地方は尾張国名古屋藩領があり、
伊那郡内には美濃国高須藩・陸奥国白河藩、
高井郡内には越後国椎谷藩、
佐久郡内には三河国奥殿藩の飛び地がありました。
その他に善光寺、諏訪大社などの寺社領、天領、旗本領もありました。

   さすが信玄の地ゆえにズタズタに切り刻まれたということですね


藩庁が置かれた城下町には、大名家の移動にともない家臣や町人、寺院も移動します。
よって前の領地との関係も考える必要があります。

「江戸時代は武士」との伝承があれば、まずは藩士名簿である「分限帳」を確認することをお勧めします。
詳しくは各藩の項を参照してください。


■長野県の家紋
 長野県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、長野県の家紋ベスト10は次の通りです。

1位 片喰 2位 鷹の羽 3位 木瓜 4位 沢瀉 5位 蔦 6位 柏 7位 藤 8位 橘 9位 竹笹 10位 菱・花菱



日本の十大家紋と比べると、茗荷紋と桐紋がランク外となり、かわりに竹笹紋と菱紋がランク入りしています。


さらに地域別にみてみると、長野県北部はベスト10に日本の十大家紋がそろいます。
県中部・南部になると梶紋や文字紋、竹笹紋がベスト10入りします。


このなかで長野県の代表する家紋は梶紋と菱紋です。
   梶紋は、諏訪大社の神紋として知られています。
    梶の木は神聖な木とされ、その葉は供え物の敷物に使われました。
     神官や神社に奉仕する家々は梶紋を家紋として使用するようになり、
     さらに諏訪氏の一族や諏訪大社を信仰する者の間で広がりました。

     長野県の中・南部に梶紋が多いのは諏訪一族と諏訪信仰の広がりによるためです。

     長野県出身で梶紋を使っているとすれば、諏訪氏一族といわないまでも、 先祖が諏訪信仰と関係していたかもしれません。


一方の菱紋(三階菱、松皮菱紋)は小笠原氏族の代表紋です。

    小笠原氏の同族武田氏は四つ割菱紋を使っています。
    甲斐源氏の流れを組むもの中に菱紋を使っているものが多いようです。
    小笠原氏の家臣には菱紋と別の紋を組み合わせている者もいます。


■長野県の寺院
 長野県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、長野県の宗派別の割合は以下の通りです。

県北部(長野・飯山など) 
県中部(松本・上田・諏訪)
県南部(伊那・飯田)

    北部   中部   南部
天台宗 5%    5%    6%
真言宗 9%   29%   11%
曹洞宗 40%  39%   38%
臨済宗 1%    4%   23%
浄土宗 19%  13%    9%
浄土真宗25%   5%    9%
日蓮宗 1%    5%    9%

長野県全体を通して曹洞宗寺院が最も多くありますが、2位以下には特徴があります。

 県北部は曹洞宗以外に浄土真宗・浄土宗の寺院が多くあります。真宗は新潟県の真宗勢力と関係があるようです。

 県中部は曹洞宗・真言宗の勢力が強く、

  県南部は曹洞宗・臨済宗の禅宗勢力圏です。

  他地域に少ない臨済宗は木曽・上伊那地方に多いようです。

   真言宗や曹洞宗・臨済宗は墓石を建てる宗派ですので、比較的に古い墓石が残されています。


調査においては大きな味方になってくれます。



■長野県の神社
 信濃国一之宮は諏訪信仰の総本社諏訪大社です。その関係から県中部・南部を中心に諏訪神社が数多く創建されています。

 主祭神は大国主命の御子神建御名方神 (たけみなかたのかみ)と妃神の八坂刀売神 (やさかとめのかみ)。

 『古事記』では次の説話が記されています。武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りを迫った時、建御名方命は反対し、武甕槌命に相撲を挑みましたが負けてしまい、 諏訪まで逃れました。そして以後は諏訪から出ないで、天津神の命に従うことを条件に許されたとされています。

 諏訪大社には、大祝(おおほうり)を筆頭に五官の神職が置かれました。
 上社 大祝:諏訪氏(神氏。祭神・建御名方神の後裔) 神長官(じんちょうかん):守矢氏
  禰宜大夫(ねぎだゆう):小出氏 権祝(ごんのほうり):矢島氏 
 下社 大祝:金刺氏(科野国造の後裔)のち武居氏 武居祝(たけいほうり):武居氏
以下略になってます


へ〜
思わぬお話が読めました。

**********************


丸子城(まるこじょう)は信濃国(現在の長野県上田市上丸子)にかつてあった城である。

概要[編集]

築城時期は不明。天正13年(1585年)の上田城の戦いにおいて、真田昌幸が徳川家康軍を迎え撃った際、丸子三左衛門が城主だった。 上田城の戦いの後、徳川方の諏訪頼忠、岡部長盛らが攻撃したが、守りきった。 現在は史跡公園となっている。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 04時52分53秒 ) パスワード

もうかなりゴチャゴチャになっています。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 05時16分55秒 ) パスワード

だんだんズレて行くのでアタマの中をリセットします。


上伊那の歴史:松島家の慟哭の記録



伊那春近領の巻1(平安時代)
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/inagun.html
 

 上伊那地域の歴史書を見ると、頻繁に目にする言葉が「春近領」(はるちかりょう)です。「春近領」とは、信濃国内に3箇所分布している土地の総称になります。3箇所とは、近府春近領(松本市)、伊那春近領(伊那市)、奥春近領(長野市)で、その内の伊那春近領が上伊那地域にありました。

 


 伊那春近領は、小黒川より南に広がる天竜川の西段丘上(現在でも一部が春近と大字名で呼ばれている)から片桐(松川町)付近まで広がっていたとされ、幾つかの郷に分けられていました。


 
 伊那春近領は、もともと公領(国の土地)で、平安時代末期の院政の頃は、宮中の御服など上布類を調進する禁裏御服料所であったとされています。鎌倉時代になると源頼朝によって関東御料とされ、政所が所管するところとなり、地頭が派遣されました。


 
 また、上伊那地域には荘園が1つありました。蕗原荘(ふきはらしょう、箕輪町北小河内)という荘園で、天暦8年(954)から、


    後院→堀川天皇の中宮 篤子内親王→関白藤原忠通→近衛家

と、所有者が遷り変わり、有力者の間を転々としていたようです。




 さらに、上伊那地域では、有力な官営牧場が4箇所ありました。佐久地域の規模程ではありませんが、ここで産出された馬は、信濃国司の分として府中(松本市)にあった信濃国府へ送られたり、遠く朝廷へ献上されたりしていました。平出牧と宮所牧を支配していたのが、平出氏と宮所氏で、ここで生産された馬が平安時代末期から軍事力として利用されていきました。木曽義仲の四天王として活躍した樋口次郎兼光の墓が平出牧推定地にあります。


 
 

北条得宗家と伊那の巻2(鎌倉時代)

 

 鎌倉幕府の執権職をほとんど独占し、北条時政、北条義時、北条泰時と続く、北条家の嫡流を北条得宗家と呼びます。鎌倉幕府の関東御料とされていた肥沃な伊那春近領は、しだいに北条得宗家の領地とされ、政所、地頭代と呼ばれる得宗家の家臣が、伊那春近領に派遣されてきました。北条得宗家は、諏訪大社を中心として諏訪地域から上伊那地域の支配を強めて、経済、軍事力、或いは思想面の基盤としていたようです。

 上伊那地域には、諏訪氏の系流と唱える藤沢氏、中沢氏、平出氏、宮所氏、松島氏、深沢氏などが、北条得宗家の地頭をしたり、在郷を支配していたようです。

 片切郷、飯島郷には物品を交換する市場があり、京都へ通じる東山道沿いとして、物流の拠点となっていたとされます。


 

上伊那地域の郷



小井弖二吉郷
こいでふたよし
伊那市西春近
北条得宗家

赤須郷
あかす
駒ケ根市
北条得宗家

飯島郷
いいじま
飯島町
北条得宗家

田島郷
たじま
中川村
北条得宗家
片切郷 かたぎり 中川村 北条得宗家
藤沢郷 ふじさわ 高遠町 諏訪大社
黒河内郷 くろおごうち 長谷村 諏訪大社
上古田郷 かみふるた 箕輪町  
松島郷 まつしま 箕輪町             ← 松島郷 
大萱郷 おおがや 伊那市  
御園郷 みその 伊那市  
岩間郷 いわま 飯島町  
上穂郷 うわぶ 駒ヶ根市  
横厩郷 よこくるわ 中川村横問屋  
宮田郷 みやだ 宮田村  

 


南北朝の動乱と上伊那の巻3(室町時代)

 

 鎌倉幕府が滅亡すると、北条得宗家に深く関わってきた諏訪地域と上伊那地域は、北条家残党として、足利尊氏の勢力と対立していきました。足利尊氏は、信濃守護に小笠原貞宗を任命して、残存勢力の排除を命じ、小笠原貞宗は伊那に侵攻しました。北条家残党は、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の勢力と結びついて、各地で小笠原貞宗に徹底抗戦しました。

 

 小笠原貞宗は、諏訪大社を懐柔して、諏訪地域の勢力を取り込むとともに、伊那地域の勢力を破っていきました。観応2年(1351)その功により貞宗の息子である小笠原政長は、伊那春近領を領有することになりました。これ以後、上伊那地域は小笠原氏の勢力下として支配されていきました。

 


大塔合戦からの分裂の巻4(室町時代)

 

 応永7年(1400)善光寺平で、信濃守護の小笠原長秀と東北信濃の国人が、大塔合戦と呼ばれる戦いをしました。この戦いには、下表のように小笠原氏の軍勢として上伊那地域の豪族が多く加わっています。姓名と地名が一致していることから、ご当地に勢力を張る豪族であったのでしょう。

 



山田新左衛門尉 高遠町
神村次郎 伊那市
小井出薩摩守 伊那市
中越備中守 宮田村
宮田大和守 宮田村
上穂伊豆守 駒ヶ根市
赤須孫三郎 駒ヶ根市
田切五郎七 飯島町
飯島若狭守 飯島町
片桐中務丞 中川村
片桐但馬 中川村

 

 この戦いに敗れた小笠原氏は次第に弱体化し、府中小笠原氏(松本市)、伊豆木小笠原氏(飯田市)、松尾小笠原氏(飯田市)に分裂して、3者の対立がおこりました。さらにそこに諏訪大社上社(諏訪氏)と諏訪大社下社(金刺氏)の争いが加わり、争いは泥沼化していきました。大塔合戦に加わっていた豪族も、戦国時代の到来とともに、姿を見せなくなる者達もいました。

 


武田信玄の侵攻の巻5(戦国時代)     ←  ココですね

 

 高遠には、藤沢郷、黒河内郷がありました。この2郷は代々諏訪大社の領地で、戦国時代の頃には、諏訪氏一族の高遠氏が統治していました。

 高遠頼継は、諏訪大社の総領家を自分の物にしたいと考え、甲斐国の武田晴信(信玄)と諏訪大社下社の金刺氏に働きかけて、共同で総領の諏訪頼重を攻撃しました。諏訪頼重が倒された後、諏訪地域は武田晴信と高遠頼継に分割統治されました。ようやく諏訪大社総領の地位を手に入れた高遠頼継でしたが、諏訪のほとんどが武田氏の領地となったことに反発して、今度は武田晴信と争いました。

 

 

 天文11年(1542)武田軍は天竜川沿いに攻め下り、9月28日福与城(箕輪町)の藤沢頼親を攻め、降伏させました。翌29日には、板垣信方が上伊那と諏訪境になる有賀峠付近を制圧しています。天文13年(1544)藤沢頼親は再び武田氏に反旗を翻し、荒神山城(辰野町)に立て籠もりました。武田軍は荒神山城を攻撃しましたが、高遠頼継との連合軍に破れます。高遠軍はこの勝ちに乗じて、諏訪地域まで出て、あちこちに火を放ちました。


 天文14年(1545)4月11日遂に武田晴信が甲府を出陣し、15日に杖突峠を越えて、高遠へ攻め込みました。17日高遠頼継は逃亡し、高遠城が落城しました。20日武田軍は、そのまま福与城を攻撃しますが、府中の小笠原長時の援軍などがあって落ちませんでした。6月10日ようやく藤沢頼親は、人質を出して武田晴信に降伏しました。この落城の際に、高遠頼継に属していた保科正俊(江戸時代における高遠藩の祖、及び会津藩の祖)が武田へ降っています。


 数年後、降伏していた高遠頼継は甲府にて切腹させられてました。このようにして上伊那地域はことごとく武田氏の手に落ちました。

 



【伊那衆磔事件】           ←  ココです

 


 武田氏の上伊那地域の統治は、当初木曽義昌が行っていました。天文16年(1547)理由は定かではありませんが、木曽義昌が、伊那の松島貞実を呼び出して殺害しました。武田氏の統治は相当厳しいものだったようで、木曽氏と伊那地侍との遺恨は大きくなっていきました。そして、武田信玄が川中島の戦で主力を善光寺平に向けている最中に、伊那衆は団結して木曽義昌を攻撃しました。この攻撃は失敗に終わり、娘婿の木曽義昌に反抗した伊那衆に対して武田信玄は、全員を捕らえて伊那の狐島にて磔にしました。


磔にされた伊那衆の8名を下に挙げます。



溝口民部少輔正慶
長谷村


黒河内隼人政信
長谷村


殿島大和守重国
伊那市


小田切大和守入道正則
宮田村


伊那部左衛門尉重親
伊那市


宮田左近正親房
宮田村


上穂伊豆守重清
駒ヶ根市


松島豊前守信久
箕輪町



 磔にされた武将達の領地は、上伊那地域の中でも特に重要な地域になります。

              なるほど
               ↓
上伊那地域は、下伊那地域や三河方面へ進出する重要な拠点で、武田晴信は、統治を完全にする為にも、降伏した武将達の抹殺を木曽義昌に命じていたと云われます。


 


武田家の滅亡の巻6(戦国時代)

 

 武田信玄の死と共に、武田家も次第に没落していきました。

 織田信長は、長篠の戦いで武田勝頼を破って後は、武田氏配下の豪族を次々と調略し、武田晴信が上伊那地域を占領して37年の月日が経った天正10年(1582)信濃国に侵攻を始めました。下伊那地域より侵攻した織田軍は、次々と山城を落とし、武田氏に従っていたほとんどの豪族が降伏しました。武田氏に虐げられてきた上伊那の豪族達は、戦わずに降伏し、織田軍は無人の野を行くが如く高遠まで到達しました。

 武田信玄の息子である仁科五郎盛信だけが、高遠城に立て籠もり、織田軍と激戦を繰り広げました。高遠城の激戦は語り継がれるものですが、甲斐の武田勝頼の救援も得られず落城しました。

 伊那地域は、織田信長に命じられた毛利秀頼が治めるようになりましたが、数ヶ月後に織田信長が本能寺で死亡すると信濃国は、東から北条氏、北から上杉氏、南から徳川氏が侵攻し、領地の奪い合いの場となりました。


                   なるほどね
                     ↓
 三河国と接する伊那地域には、早くから徳川家康が酒井忠次を信濃国の統括者として派遣され、上伊那地域も勢力下に納めました。

 



徳川家康の関東移封の巻7(戦国時代)

 

 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の後に、徳川家康は江戸に国替えとなりました。当時、徳川家康勢力下であった信濃国の伊那地域、諏訪地域などの武将達も一緒に関東移封となります。徳川家康により高遠の統治を命じられていた保科正直も下総国の多胡(千葉県多胡町)に移りました。

 



諏訪
諏訪頼忠
上野国惣社


小諸
依田康真
上野国藤岡


松本
小笠原貞慶
下総国古河


木曽
木曽義昌
下総国網戸


高遠
保科正直
下総国多胡


下伊那
小笠原信嶺
武蔵国本庄


 


江戸時代と上伊那の巻8(江戸時代)

 
 豊臣秀吉が死亡して徳川家康が天下をにぎると、上伊那地域には保科正直が返り咲きました。

 これ以後、保科氏が高遠城を拠点とする高遠藩して、統治するようになりました。保科正直の跡を継いだ保科正光は、自分に息子が居るにも関わらず、2代将軍秀忠の次男(保科正之)を養子に迎え入れ、跡を継がせました。

 

保科正俊まさとし→正直まさなお→正光まさみつ→正之まさゆき(最上藩へ) 

 

 徳川秀忠は、正室の嫉妬をはばかって、気付かれないように見正院(武田信玄の娘)の養子とし、これを保科正光に養育を託したのです。3代将軍徳川家光は、保科正之を弟と公認して、最上20万石に大加増しました。

      家光、いい人だ


 保科氏と入れ替わりに高遠藩に入ったのが、関が原の戦で伏見城で奮戦討死した、鳥居元忠の孫の鳥居忠春が3万石で入封しました。しかし、鳥居忠春は医者に切りつけられ、さらに次の鳥居忠則は家臣の不始末から切腹し、鳥居氏は2代で没収となりました。

 

 鳥居忠恒ただつね→忠春ただはる→忠則ただのり(切腹改易)

 

 この後、約1年間の幕府直轄領が続いた後、内藤清枚が3万3千石で高遠へ入封となり維新まで続きました。

 


   内藤重頼しげより→清枚きよかず→頼卿よりのり→頼由よりゆき→頼尚よりたか→

長好ながよし→頼以よりもち→頼寧よりやす→頼直よりなお(明治維新)

 


 高遠藩の領地は、上伊那地域の6割程度を占め、一部は下表の筑摩地域にも及んでいます。おおまかには現在の高遠町と長谷村全域、伊那市の西箕輪、野口村、中坪村を除いた地域、辰野町の一部(小野村、飯沼村)を除いた地域になります。



本洗馬村 塩尻市洗馬 幕末まで高遠藩
岩垂村 塩尻市洗馬 幕末まで高遠藩
小曾部村 塩尻市洗馬 幕末まで高遠藩
古見村 塩尻市朝日 幕末まで高遠藩
針尾村 塩尻市朝日 幕末まで高遠藩
小野沢村 塩尻市朝日 幕末まで高遠藩
西洗馬村 塩尻市朝日 幕末まで高遠藩
今井 松本市 元禄3年天領へ
和田 塩尻市 元禄3年天領へ
山形 塩尻市 元禄3年天領へ

 

 


上伊那地域の統治の巻9(江戸時代)

 

 江戸時代初期の上伊那地域には、高遠藩の他に幕府天領、旗本知行所、飯田藩の領地がありました。高遠藩の領地は、筑摩地域の領地を除いて幕末までほとんど変わることがありませんでしたが、飯田藩領、旗本知行所は、しだいに幕府天領や別の旗本の知行所へと変わっていきました。

 

 飯田藩脇坂氏の領地は、下伊那地域から続いて大田切川(天竜川西岸)まで達し、飛んで一部(箕輪町)にもありました。脇坂氏の転封に伴って、大田切川までの上伊那の領地は幕府天領となり、箕輪の地は坂木藩板倉氏の領地(箕輪町、南箕輪村、伊那市西箕輪)となりました。後に板倉氏の転封にともなって幕府天領と、太田氏知行所5千石となり幕末まで続きます。


     太田氏は松島村に陣屋を置きました。 ←  ここ

 




太田氏知行所

南小河内村 箕輪町
松島村 箕輪町             ← ここ
福与村 箕輪町
下寺村 伊那市

 

 さらに上伊那地域の南部の旗本領として、江戸時代初期に井上知行所、立石氏知行所(井上相給)がありました。後に、この知行所は、近藤氏の知行所となって幕末まで続きました。




近藤氏知行所

四徳村 中川村 近藤氏直轄
上穂村 駒ヶ根市 千村預かり
大草村 中川村 飯島陣屋預かり
飯沼村 中川村 飯島陣屋預かり
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 05時48分39秒 ) パスワード

前にレスしているかも知れないですが  今回は地図に気付きましたからアップします。


http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/minowa/matusima.html

松島城について
  
    残念ながらコピペできないです。

要旨:

戦国期に信濃守護職小笠原の一族が松島に城を築いて松島氏を称した。

松島氏は上伊那の有力国人・藤沢氏(福与城主)の与力衆を勤めた。

天竜川西岸に勢力を広めた。

http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/minowa/matusima-tizu.html

地図では飯田線に伊那松島駅というのがあって箕輪町役場周辺。


松島家の墓地は役場西側。
菩提寺は役場すぐ近くに明音寺。
また駅の近くに松島神社。
松島頼実墓や貞実=おそらく信久=墓碑あり。



家紋が丸に一文字と書かれていますが
これは  新田家の家紋と同じですから
南朝方時代に新田家の家紋に替えたのかも。

大中黒・新田一つ引



敵の足利家の紋は2引きです。二引両だったかな?


この2つを「鍋の蓋」「お釜の蓋」と区別するそうですよ。
鍋の蓋の取っ手って  1つでしょ?  お釜の蓋は取っ手が2つありますものね。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 05時55分21秒 ) パスワード

アップした地図では大き過ぎて明音寺が画面に中に写ってないですね。
ちょっとカーサーを上にズリズリしてくださいね。



そうか・・・
松島氏は小笠原氏系でしたか。


   ということは諏訪大社との関係は無いのか有るのか
     「HERO」の田中要次演じるバーテンダーが「あるよ」と言いそう。
       笑   
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 05時59分39秒 ) パスワード

http://www.nagano-np.co.jp/kikaku/fk/bun_5-16.htm
「郷土を守ろうとした英傑」


郷土を守ろうとした英傑


郷土のため最後まで抵抗した豪族らをしのぶ八人塚


信濃の中南部をほぼ制圧した武田信玄は弘治二 年(一五五六年)、川中島 で上杉謙信と対陣した。

そのさなかに上伊那の諸 豪族が反抗ののろしをあ げ、信玄の娘が嫁ぐ木曽 氏を攻撃した。
しかし、 ことごとく捕らえられ処 刑された。

このうち主 だった八人の首を村人が 弔ったと伝えられるのが 伊那市長谷黒河内の八人 塚だ。
彼らは、最後ま で侵略者”武田”に抵抗し郷土を守ろうとした英傑として地元で知られて いる。

一九八五年、同所には碑が建てられ、毎年、法要が行われている。


最後まで残った抵抗勢力

信濃侵攻で、諏訪を手中にした信玄は伊那谷に 進出、高遠城や箕輪の福 与城を攻める。上伊那の 諸豪族らは強く抵抗し、 福与城では五十日に及ぶ ろう城戦を繰り広げる が、力及ばす降伏する。 天文二十三年(一五五四 年)までの約十年間で信 玄は、下伊那の知久氏や 飯田の小笠原氏を攻略。 木曽氏は降伏させたうえ で三女を木曽義昌の正室として嫁がせて一門とし て処遇するなど、南信濃 をほぼ手中にした。


 上伊那衆の反抗は、こ うした状況で起こった。

元長谷村文化財専門委員 長の中山善郎さん(82)= 同市長谷非持=は、「も ともと抵抗勢力として残 っていた諸豪族たちだっ た」と解説する。彼らが 川中島で上杉軍と対陣し ている状況を見て、勝機 を感じ武田に反抗するた めに、信玄の娘の嫁ぎ先 である木曽氏を攻撃した とする。


 あくまで反抗した上伊 那衆は信玄の怒りをか い、急きょ、伊那に矛先 を転じた武田軍によって 捕らえられて、狐島(伊 那市)の蓮(れん)台場 で首をはねられ、さらし 首になった。



村人が刑場から首を奪還    ← これは知らなかった

 八人塚の逸話を唯一伝 える甲陽軍鑑によると、 「信玄公弘治二年六月中 旬に又伊那へ御出馬あ り、七月、八月、九月都 合四月の間に伐随給ひ、 即ち伊那侍御成敗の衆 …」とあり、黒河内隼人 政信、溝口民部少輔正 慶、松島豊前守信久、伊 那部左衛門尉重親、殿島 大和守重国、宮田左近正 親房、小田切大和守入道 正則、上穂伊豆守重清の 名が続く。

同文書から は、八人以外にも処刑さ れた人がいたことが推測 できるという。


 このうち黒河内隼人政 信、溝口民部少輔正慶の 領民たちが、自分たちの 殿様の無念を思い、首を 取り戻すため闇夜に乗じ て刑場に忍び込んだ。し かし、暗さでどれが殿様 の首か判断できず、八つ の首すべてを持ち帰り、 供養したのが八人塚伝説 の原点とされる。

 毎年、春秋の二回、同 所では黒河内区によって 法要が行われている。武 田の侵入に抵抗した”郷 土の英雄”たちの霊をし のんでいる。
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月14日 11時05分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 またまた大変な情報、ほんとにほんとに有難く感謝申し上げます。スゴイの
一言です(久居の服部さんも同じ文句を使われていた)。

 正光寺の話、よくわかりました。小栗忠吉の出自に結びつきますね。実は、
昨日書き忘れてしまったのですが、正光寺境内のお墓を見に行きましたのです
が、見ると小栗家の墓が圧倒的に多くて、一体小栗氏とはどういう人と?マー
クが頭に渦巻いたのです。
 この点、あを様のご指摘により、関係がよくわかりました。但し、家紋は
「丸に七ツ星」でこれは北斗七星(七曜星信仰)を表すものだということです。
大きな丸の中に小さな丸を中心として六つの丸が取り巻いた紋です。中の丸は
輪でなく、満月型の丸です。
 この報告を忘れていました。

 紋がらみで言いますと、松島氏の家紋は「丸に一文字」ですが、一という文
字は筆で書いた「一」文字です。調べると、那須の与一(藤原流の首藤氏の後裔・・・山内氏もこれに属す)が同じ紋を使っています・・・。

 松島城、そして八人塚、首級の奪い返し・・・涙をさそいました。八人塚の
「ハチ」にも意味深なものを感じました。
 いずれにしても、これら等をまとめ、松島十湖の玄孫に伝えますので、また
その結果報告を近い内にいたします。

 遠山氏について以前ちょっと興味をいだいておりまして、家紋が確か丸に二
つ引きだったと思い、昔の資料をあたってみました。確かにそうでした。また
遠山氏の出自を見ると、藤原利仁流で、景廉の子の景朝の子孫となっているが、加藤光泰もまた景朝の弟景義の子孫で同族系であった !
 景廉が美濃の遠山荘の地頭職として補任されてまもなくその景朝より遠山姓
を名乗り、その後300年にわたり、東美濃一帯に明智遠山、苗木遠山等一族
を配して地盤を確保したという事である。
 そして、あを様ご指摘の小笠原氏の応仁の乱の頃の恵那進出によって、遠山
氏は衰退するものの、1530年前後に小笠原氏内に内紛、そして遠山氏の復
興につながる。岩村城主遠山景友の次氏の直廉は信長の妹を娶る。その後、武
田信玄が高遠城主秋山信友を美濃に侵入させたが、苗木城はこれを凌いだとい
うことである。

 ついでに(余談)、昔の資料(母方のおじさんの書いた系図)が目に入ったので
読み直してみたら、おじさんは太田家に養子に入った訳ですが、その義父の
お兄さんの奥さんは、松下嘉兵衛之綱の流れをくんだ子孫であることがわかり
ました。

 あを様のおかげで、今まで関係ないと思われていたことが、次々と甦って
来ます。本当に感謝、そして驚きです。

 本日は、午後より浜松図書館へ行き、資料をあたります。

 ヒルコについてもいずれまとめたいと思っています。

 前回のレスでは「そら」の変換が「奏楽」とでてしまいました。確かに「そ」
「ら」と読めないことはない。楽を奏でるということ、私にとってはあを様の
ことばは天上の音楽に聞こえますので間違いではない(笑)。
 それと前回はどういう訳か、スペースを無駄にしてしまいました(首、うな
だれ、謝)
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 12時51分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


驚きました。

またまたいろいろ繋がりました。
長上郡の服部家の部政信との関連の状況証拠がまた1つ増えたのではないかと思います。


そして太田家だの松下嘉兵衛之綱だの
やはりどんどん状況証拠が増えて来ました。


遠江だもの、そりゃ、地理的に関係があるのは当たり前でしょ、と思っていたのが
   え?本当に!

と驚きに変わってきました。


   松下嘉兵衛之綱に関係があれば秀吉と関係があるのは当たり前!
   加藤家が長上郡の服部家や松島家や鈴木家や永井家と親戚関係になるのも当たり前。

      加藤家の人が秀次事件で遠江に逃げて来たのも松下家との関係が背景にあったのかも。
      松下家が庇護したのかも。


やっぱりアッチもコッチも何重にも親戚関係にあったのですよ。


「奏楽」の件は全く構いません。
と申しますのは個人情報なのでココには書けませんが、いずれ。

いつものようなバカ話です。


東儀先生のことがあるので「奏楽」と書かれると東儀先生を思い出します。

明治時代の東儀先生の御先祖と服部家の先祖の関係
わたくしと東儀先生の関係。 

ですから「奏楽」=雅楽=東儀先生  → 東儀先生を偲ぶ  ということで
東儀先生の供養になります。

   東儀先生の奥さまの元二条家の姫君はまだ御存命なら良いな
   とも思ったりします。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 13時04分24秒 ) パスワード

信濃はまったく知らない土地なのでいろいろ勘違いを書きました。
汗+恥


上記
   小県 と 佐久(内山さんとどなたか)  それから  伊那
この土地感覚の話に勘違いがたくさんあるような。
大汗
 

ま、読む人が読めばワタクシが方向音痴なのが分かりますよね。



実は佐久には母方の先祖の一族の者が流されて殺されているので
その人のことを思い浮かべてしまうので
どんどんズレて行ってしまったと思います。


結構最近  数十年前に  その人の遺骨の入った甕が見つかった  と聞いていますし
それで  佐久について  身近に思っていました。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 13時18分04秒 ) パスワード

ちょっとちょっと三つ柏さん!

またまた驚きです!


服部政信の妻が加藤喜左衛門正次の娘ということで
この人物を検索したら  出てましたよ!加藤清正の項で。  下の方です。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3


清正の家臣[編集]

加藤清正十六将
飯田直景 - 日本槍柱七本、加藤三傑。   ← どこかで見た名前のような?
森本一久 - 加藤三傑。
庄林一心 - 加藤三傑。
加藤安政 - 絵本太閤記によると、朝鮮出兵で、蔚山倭城に押し寄せた明の大軍を鉄砲で撃退する、智勇兼備。
加藤重次 - 佐敷城代
加藤可重 - 内牧城代
斑鳩平次-実名は信好、異名は狸平次。数多く逸話が伝わるの豪傑。
龍造寺又八
貴田孫兵衛 - 前名は毛谷村六助。
吉村氏吉 - 吉左衛門。尾張国松木の出身で、当初は織田信雄に仕えたが、信雄の改易後は加藤清正に仕えて朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでの宇土城攻略に活躍した。
山内甚三郎 - 加藤清正に仕えて天草衆一揆鎮圧に功績を挙げ、朝鮮の役にも参加した。
九鬼広隆 - 九鬼嘉隆の甥。
天野助左衛門
木村又蔵 - 罷免された後も忠義を尽くし続けた人物。
斎藤利宗 - 斎藤利三の子。
赤星親武 - 赤星統家の子とされる。


その他
井上正忠(井上大九郎)-加藤清正二十将にも入れる、 朝鮮出兵などに活躍した。
加藤正方 - 加藤可重の次男。
森本一房
曾根孫六
小野鎮幸(小野和泉) - 旧立花氏重臣。日本槍柱七本の筆頭。
加藤正次 - 清正のいとこ婿。        ←???
加藤喜左衛門               ←???
大木兼能
日下部与助 -宇土城夜襲の際一番槍をつけた。
下川兵太夫 - 文禄の役に参加し、「清正高麗陣覚書」を記す。


もっと調べてみますね。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 14時17分07秒 ) パスワード

服部政信のことは   68ページ目ね。
 http://books.google.com/books?id=cxi2gPgFtMwC&pg=PA66&lpg=PA66&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=IuBVqU9OZW&sig=FADBHsUzqjaHuZ9M1QnLBcpibuU&hl=en&sa=X&ei=QjcSVPjrGYO1yAS6soLgDA&ved=0CB0Q6AEwADgU#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


妻は加藤喜左衛門正次の娘


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加藤正次 かとう-まさつぐ

1549−1613 織豊-江戸時代前期の武士。
天文(てんぶん)18年生まれ。織田信長,のち徳川家康につかえる。
長篠(ながしの)の戦い,小田原攻めなどに従軍。
慶長5年関ケ原の戦いのあと,奥平信昌のもとで京都の警護にあたった。
慶長18年8月17日死去。
65歳。
通称は喜左衛門。


***********************

こういう人もいました:多分同姓同名?

 興長禅寺(滑川)

興長禅寺
宗派・教義
曹洞宗 ソウトウシュウ


所在地※
〒355-0811 埼玉県サイタマケン比企郡滑川町ヒキグン ナメガワマチ羽尾ハネオ4717


創建等については詳しい情報はないのですが州山芳伊禅師の開山、当地の地頭加藤喜左衛門の開基により創建した曹洞宗のお寺です。

  

さらに:行った人のお話

数年前の秋の夕方に訪問したのですが、民家もほとんどない場所に建っているので静かでいいお寺です。

その時は焚き火をしていて木の焼けるパチンという音が陽の沈む前の静かな寺内に響いて何か心地よかったです。

今はどうか分かりませんが,その時は参加無料の座禅会を開いていました。

この静かな山深い場所で座禅をすれば私でも何か変われるかも、なんて思ったりして。



古田重然(織部)という戦国武将がいます。

織田信長(後豊臣)の家臣だったわけですが、武将というより茶文化人や茶器の製作者としての方が有名でしょうか。 
この織部が歴史秘話ヒストリアで放送された時に確か斜面を利用した器製造用の窯が紹介され、それが戦国時代に日本に伝わったという様な紹介をされていたと記憶しています。(違ったらスミマセン)

その斜面を利用した同様の窯跡がこの興長禅寺のすぐ近くに残っています。



右写真がその窯なんですが、説明看板を要約すると

この窯は須恵器という焼物を製造したもので、出土した遺物から6世紀から7世紀初頭に使用されたと推測されます 登り窯と呼ばれるもので斜度15度位 幅2〜2.5m  高さ1.5〜1.7m 残存している長さ15m  下部の焚口で火を燃やし1150度程の高熱を使用していた様。 

出土した物は 高杯 蓋  堤瓶 平瓶 壷 高台付壷 他です。



斜面を使った窯は戦国時代より遥か昔からあったと考えられるのかな?それともヒストリアで紹介した物とここにある窯は全く違う形態なのかな?


お寺の開基である加藤喜左衛門ですが、正次そしてその孫である正之と二人いるんですね。 

開山の州山芳伊禅師は天正13年三月朔日にお亡くなりになっていますが正之はその時はまだ生まれていないし、でも正次がこの地を領地としたのは開山の卒する後なので正次とも微妙に合わない・・・・

しかし新編武蔵風土記稿では慶長十八年八月十七日死去になっているので正次としています。

また一応ここを菩提寺としたのは正之からでそれ以前は桑子の妙源寺なんですよね(墓残ってるのかな?)実際墓も正之からが残ってるし・・・・・・


ただ正之だったら寛永10年頃(20歳位)以降でないと開基としては少し無理があるかな・・・・・今までの経験からですが新しい領土を賜った場合、最初の領主が菩提寺を造ることが多いので正次がここ興長禅寺とは限りませんがこの地区のどこかのお寺を開基(または中興)した可能性は高いと思います。



さてこの加藤家と武田家との関係ですが、家臣ではありません。


ただ小話としてなんですが、(開基?)加藤正次の父である正信が
元亀三年十二月二十二日の三方が原に参戦し討死しています。
              ↑
             ???
       

で戦後に武田軍より正信の遺体が運ばれ、子である正次がそれを受け取ったという事です。

後正次は関が原では御使番を勤め、同年京都警護の任を賜っています

慶長十八年八月十七日卒

妙源寺には上二人の墓残ってるのかな? 行ってみたいな〜
    加藤喜左衛門正之     加藤彦右衛門正顕     加藤伝八朗正英



    
上写真正之は開基の可能性のあるもう一人の方です。

元和八年十歳で徳川秀忠に拝謁し寛永十年十一月朔日に家を継ぎます。慶安二年正月二十七日(品川の?)東海寺の修繕奉行を賜ります。承応元年十二月十五日四十歳にて卒。 室は島田幽也利正の娘で墓に合葬されています。


正顕は正之の子で次の当主です。慶安元年七月十九日徳川家光に拝謁し 二年三月二十五日家を継ぎます。

天和二年正月八日卒、墓は他数名の方と共に眠っています。

正英は正顕の次の当主です。 享保十七年十二月七日卒、室は島田八郎左衛門利広の娘で共に葬られています。
          謎の宝篋印塔

    
上右写真の宝篋印塔の頭部が気になります。上の当主達と同等大きさで、歴史のある物の様に感じます。

まさか正之の先祖、正次や正信の墓の一部だったりして、違うかな?

     

*****************************


http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/higokatou.html

加藤(清正)家 家臣団

  加藤清信 (?〜1547年)

 加藤清正の祖父。因幡守。美濃の斎藤道三に仕え、尾張犬山城代となり、天文十六年、織田家との合戦で討死したという。

 

    加藤清忠 (1526〜1564年 38歳没)

 加藤清正の父。正左衛門。父の死後、斎藤道三に仕え美濃今須城代。敗戦により所領を失う。負傷により武士をやめ、遠縁にあたる刀鍛冶のもとで鍛冶としての修行をする。美濃の刀鍛冶、関弥五郎兼員の娘は六人。杉原家利室、大政所、青木秀以生母、加藤清正生母、小出秀政生母、福島正則生母である。秀吉の母方の祖父は刀鍛冶であった。加藤清正の父は武士を廃業し、刀鍛冶の修行をしたと言うが、これは関兼員の下であろうか。彼の娘を娶ったのは、そうした縁があったのかもしれない。清正が三歳の時に急死。この修行中に迎えた妻が、秀吉の母の血縁者(従姉妹)であったため、清正は秀吉に養育されることとなる。

 

    加藤清重 (1544〜1598年 55歳没)

 加藤清正の叔父、清忠の弟。喜左衛門。清正の重臣となる。慶長三年没。

 

 

  加藤忠広 (1601〜1653年 53歳没)

 加藤清正の嫡子。肥後守。父の死後、熊本藩主となる。幼少のため、藤堂高虎の補佐を受ける。徳川家によるものと思われるが、大阪の陣で重臣が豊臣方に内通したという噂が流れる。家中の分裂騒動や、無断で子を国に返したことなどから寛永九年六月一日に改易。出羽に配流。承応二年六月八日に同地で没した。

 

 

  加藤光広 (?〜1633年?)

 加藤忠広の子。清正の孫。愚君とする逸話があるが、これは幕府の流したものとする説がある。飛騨高山に流され、十六歳で没したという。十九歳であったという説もある。

 

 

  加藤可重 (?〜1604年)

 父は加藤清正の一族、片岡清左衛門。右馬允、清左衛門、言正。肥後内牧城代。清正の重臣となり、肥後入封後は内牧城代となる。朝鮮攻めで長男重正を失う。次男正方が幼いため、甥を養子とする。子は重正、正方、吉方。

 

 

  加藤正方 (1580〜1648年 69歳没)

 加藤可重の次男。右馬充。加藤十六将の一人。兄が討死したため、家督は従兄が継ぐが、のちにその養子となり家督を継ぐ。肥後内牧城代。百八騎持。慶長十七年、幕命により八代城代。清正の死後、忠広の家督相続を嘆願。八代城主。一門加藤正次との御家騒動に勝利。元和五年九月、八代城築城を開始。元和八年二月吉日、八代城完成。家臣西山宗因は俳句の祖として知られる。治水、干拓などで城下を発展させたが、忠広改易により失領。京に移る。俳句を愛した。蟄居先の安芸広島藩で慶安元年九月二十三日没した。

 

 

  片岡吉方 (?〜1612年)

 加藤可重の三男。内膳。慶長十七年十月、片野川で鷹狩を行う。しかし、佐敷城から訪れた四人の士卒と口論となり、殺害された。

 

 

  加藤正直 (?〜1643年)

 加藤正方の子。妻は清正の娘か。長尾善政没後、岩尾城代。慶長十七年、幕命により内牧城代。幕府旗本として七百石。寛永二十年七月二九日没。

 

 

  加藤正次 (?〜?)                ← この人?

 清正の従姉妹の婿。肥後筒ヶ嶽城代、南関城城代。美作。忠広の五家老。慶長五年、南関新城を築く。藩政をめぐり、元和四年、加藤正方と御家騒動に発展するが、江戸での対決で破れ流罪。理由は豊臣家に近い立場であったためという。清正記の幼少時の清正の記述を執筆したと伝わる。

 

 

  中川寿林斎 (?〜1622年)

 清正の従兄弟。一門として加藤姓を与えられ、熊本城留守居役。元和四年の御家騒動では、加藤正次に属し、子の正辰とともに流罪。正辰は国内の検地を担当。

 

 

  中村将監 (?〜?)

 清正の従姉妹の婿。水俣城代。水俣城破却後は熊本城で家老的立場となる。元和四年の御家騒動では加藤正方に属す。

 

 

  文英清韓 (?〜1615年)

 南泉寺住職。加藤清正の右筆となる。秀頼にも重用され、方広寺大仏殿再建に際しては鐘に銘を刻んでいる。これが有名な「前征夷大将軍従一位右僕射源朝臣家康公」、「国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌」の文字である。片桐且元と共に釈明をするも訴えが認められることはなかった。清韓は己の刻んだ文字が豊臣討伐に利用されたことを悔やみ、秀頼と運命を共にした。

 

 

  並河宗照 (?〜?)

 金右衛門、主税、志摩。加藤五家老。加藤清正没後、国政を委ねられる。元和四年、加藤正方一派は対立する加藤正次一派の行状を幕府に訴えた。同年八月、酒井忠世邸にて裁きが行われた。並河宗房は加藤正方に属して裁きに望んだ。ここで加藤正方一派は加藤正次一派が大坂の陣に際し、大船二艘で大坂城に援軍を送ろうとしたと述べた。さらに豊臣秀頼を肥後に匿おうとしたと訴えた。こうして加藤正方一派の言い分が認められ、加藤正次一派は処罰された。寛永九年、加藤家改易によって浪人となる。寛永十七年、土佐山内家に二千石で仕える。明暦元年、山内忠義の子安豊を養子に迎える。これにより家老職三千石となる。喜んだ宗照は自身の知行は今まで通り二千石として、加増分の千石は山内安豊に譲りたいと申し出ている。万治三年六月四日、山内忠義の子で幕臣となった山内一安が没した。そのため山内安豊が末期養子として一安の跡を継ぐことになった。山内忠義は並河家を絶やさぬよう考え、深尾重昌の子主税助を並河宗照の養子にした。後に主税助は並河宗房を名乗った。寛文八年没。

 

 

  加悦飛騨守 (?〜?)

 宇土名和一族。家老職。天正十一年十月八日、隈庄地方を攻めるが島津家に敗れる。九州征伐後、加藤清正に仕える。肥後河尻城代。

 

 

  森本義太夫 (1562〜?)

 加藤清正の幼なじみ。加藤家三傑の一人。加藤十六将の一人。文禄二年六月、朝鮮晋州城攻めで一番乗り。この功により、二千石を賜る。江戸城築城の際、加藤家は桜田周辺の石垣工事を担当することになった。工事の責任者になった儀太夫は周辺が埋め立て地であることを考慮し、慎重に石垣を積むことにした。隣を担当する浅野家は完成を急ぐあまり、地形などは気にしていなかった。両家の発想の違いは工事の速度に現れ、浅野家の石垣が完成しようというのに、加藤家は地盤を踏み固めている最中だった。しかし、激しい夕立が起こると浅野家の石垣は倒壊。百数十人が圧死するという大惨事になった。一方、加藤家の石垣は地盤を固めたため暴風雨に耐えたと云う。子の右近太夫は、亡き父と老いた母の後生を祈るため、寛永九年正月三十日、カンボジアのアンコール・ワットにて仏像四体を寄進。

 

 

  飯田角兵衛 (1562〜?)

 加藤清正の幼なじみ。加藤家三傑の一人。加藤十六将の一人。文禄二年六月、朝鮮晋州城攻めで一番首。この功により、三千石を賜る。朝鮮式の築城方法を学ぶ。名古屋城築城に参加。

 

 

  庄林隼人 (?〜?)

 加藤家三傑の一人。加藤十六将の一人。

 

 

  貴田統治 (?〜?)

 佐竹勘兵衛の子。前名毛谷村六助。孫兵衛。木田、喜田姓とも。加藤十六将の一人。怪力と俊足の持ち主として知られる。「清正代侍略記」に九百余石を知行と記される。「清正行状」の「高麗国出陣武者分備定」に、鉄炮衆四十名を率いると記される。足の速さを見込まれ、漢城陥落の報を名護屋に届けるための使者となり、わずか二週間で名護屋まで達したと言う。「清正記」でオランカイで討死したと記されたため、後の記録もオランカイ討死説が採用される。しかし、オランカイ攻めから二ヶ月後の清正の書状に、貴田孫兵衛の名があることから、討死説は誤りとわかる。また、朝鮮での酒宴の際、接待役となった女性論介に飛びつかれ、川に落ちて溺死したとも伝わる。論介は現在、朝鮮で義人として讃えられている。故郷に戻り、六十二歳で没したともされる。没後、名護屋貴田神社に祀られる。

 

 

  加藤与左右衛門 (?〜?)

 加藤十六将の一人。

 

 

  本山安政 (?〜?)

 加藤十六将の一人。

 

 

  鵤平次 (?〜?)

 加藤十六将の一人。

 

 

  龍造寺又八 (?〜?)

 加藤十六将の一人。

 

 

  吉村吉左衛門 (?〜?)

 加藤十六将の一人。

 

 

  九鬼四郎兵衛 (?〜?)

 加藤十六将の一人。

 

 

  山内甚三郎 (?〜?)

 加藤十六将の一人。

 

 

  木村又蔵 (?〜?)

 加藤十六将の一人。

 

 

  天野助左衛門 (?〜?)

 加藤十六将の一人。

 

 

  斎藤立本 (?〜?)

 加藤十六将の一人。

 

 

  赤星太郎兵衛 (?〜?)

 加藤十六将の一人。

 

 

  三宅角左衛門 (?〜?)

 加藤清正の家臣。角左衛門の部下の足軽は、明の正使である李宗城の私物を奪い逃亡。この一件は大問題となり、清正は帰国を命じられ伏見屋敷に蟄居することとなった。

 

 

  加藤重次 (?〜?)

 加藤家臣。肥後佐敷城代。文禄元年、朝鮮渡海。留守中、居城で梅北の乱が起きている。

 

 

  加藤伝蔵 (?〜?)

 加藤家臣。肥後隈府城代。

 

 

  加藤万兵衛 (?〜?)

 加藤家臣。慶長十七年、幕命により内牧城代。

 

 

  中村将監 (?〜?)

 加藤家臣。関ヶ原合戦後、水俣城代。

 

 

  長尾善政 (?〜?)

 加藤家臣。慶長六年正月、岩尾城代。

 

 

  林半之充 (?〜?)

 加藤家臣。朝鮮出兵時、肥後内牧城留守居役。

 

 

  加藤百助 (?〜?)

 加藤家臣。慶長五年九月、宇土城攻めで一番備頭。

 

 

  並河氏之 (?〜?)

 加藤家臣。関ヶ原合戦後、宇土城城番。

 

 

  吉村橘右衛門 (?〜?)

 加藤家臣。慶長五年九月、宇土城攻めで三番備頭。堤権右衛門と共に麦島城の接収を行い、守将として城に残った。

 

 

  蟹江与惣兵衛 (?〜?)

 加藤家臣。麦島城代。

 

 

  野尻久左衛門 (?〜?)

 加藤家臣。麦島城代。

 

 

  中村将監 (?〜?)

 加藤家臣。水俣城代。

 

 

  井上弥一郎 (?〜?)

 加藤家臣。文禄元年、佐敷城留守居役。梅北国兼が佐敷城を占拠すると、饗応の席を設けるとして国兼を誘い出し殺害。

 

 

  梶原助兵衛 (?〜1600年)

 加藤家臣。船手奉行。慶長五年九月、宇土城攻めで瓢箪淵に船を乗り入れる。籠城側の銃撃により討死。

 

 

  下川兵太夫 (?〜?)

 加藤家臣。文禄の役に参加。「清正高麗陣覚書」を記す。

 

 

  本妙寺日遥 (?〜?)

 加藤家菩提寺本妙寺三代住職。朝鮮人。余大男。高麗上人。晋州城攻めの際、加藤清正に見いだされる。朝鮮の父余天甲と書簡を取り交わした。

 


 

  【付記】

 

 

 

 慶長十二年十二月、加藤清正は「隈本」という地名を「熊本」に改めている。清正は三千四百七十石から一躍、肥後二十五万石の大名となった。家臣の不足は三百名に及ぶ佐々成政の旧臣を召し抱えることで補った。また、武具の不足は改易された讃岐の尾藤知宣の所有物で補った。

 

 

 【加藤十六将】

 加藤正方、加藤与左右衛門、本山安政、鵤平次、庄林隼人、龍造寺又八、吉村吉左衛門、貴田孫兵衛、九鬼四郎兵衛、山内甚三郎、木村又蔵、天野助左衛門、斎藤立本、森本義太夫、飯田角兵衛、赤星太郎兵衛

 

************************

ここにもいる
http://books.google.com/books?id=Ll9PTlI8ZxoC&pg=PA402&lpg=PA402&dq=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%96%9C%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=e9BJwXcndH&sig=-Eo749NDmGsn0dA0bLi84QqcR3w&hl=en&sa=X&ei=PxQVVNLSEIi1iwKi3YDgBQ&ved=0CDsQ6AEwAw#v=onepage&q=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%96%9C%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


徳川将軍家領知宛行制の研究
By 藤井譲治

右の欄のスグに見つかります。


****************************


ここにも

御庭番通史
By 若桜木虔

http://books.google.com/books?id=ylQrbi_CTFIC&pg=PT7&lpg=PT7&dq=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%96%9C%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=4lOZhD9urN&sig=-lIeNy032zsCVWQSK5vyImqZA7s&hl=en&sa=X&ei=PxQVVNLSEIi1iwKi3YDgBQ&ved=0CEAQ6AEwBA#v=onepage&q=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%96%9C%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


伊賀者同心が服部正就に反旗を翻して服部正就が罷免され事件です。

伊賀者は4つのグループに分けられて預けられたという記述で
預けられた先は

大久保彦左衛門忠直
久永源兵衛重勝
服部中保正
加藤喜左衛門正次     ←  ココ


**************************

再び清正関係の人物?


加藤清正の先祖と一族

(問い) 加藤清正のルーツ及び、清正の子孫(子供が何人で名前が何かなど)を調べていますので、教えてください。併せて、加藤氏について概説も望みます。


(樹童からのお答え)

1 加藤清正の子女には、熊之助忠正(九歳で夭折という)、某(夭折)、肥後守忠広(幼名虎松、虎藤)の三男子と、阿部修理亮正澄室(初め榊原康勝室)、紀伊大納言徳川頼宣室の二女子がいたとされますが、このうち正室清浄院(水野忠重の女、徳川家康の養女)所生ともいわれる忠広が嗣子となりました。<以上の部分は、ご指摘を受け再考して当初の表現を修正しましたが、その事情は下記応答をご覧下さい>


  嫡子となった忠広の子には豊後守光正(一に光広)のほか虎竹(沼田真田家に預けの正良と同人か),二女子という子があったと伝えます。豊後守光正は飛騨配流の途中,15歳ほどで自害し,正系は断絶します。

  また,忠広が出羽庄内に流されてからの子女として,熊太郎と一女子があったと伝え、その後裔が山形県に現存するとされます。後になって、有徳院将軍吉宗は享保年間に加藤清正の子孫を召し出し旗本としましたが,加藤寅之助に禄千五百石を給した(『肥後国志細注』)とも、加藤虎松に禄五百石を給した(『閑余漫録』)、とも記されます。


2 全国の加藤氏については、太田亮博士が『姓氏家系大辞典』カトウ条に概観的に記述されておりますので、ここではその記述を踏まえて記しておきます。また、愛知県の加藤氏の概観については、『角川日本姓氏歴史人物大辞典 23 愛知県』をご覧下さい。濃尾には多くの加藤氏の一族が居たことが分かります。


  一般に「加藤」という苗字は、利仁流北家藤原氏から出たとするものが最も著名で、利仁将軍の孫吉信が加賀介となって、その子孫が加藤を号するようになったとされます*1。この吉信の孫とされるのが貞正であり、この者が実際の加藤氏の始祖とみてよいように思われます。

  藤原貞正は『小右記』永祚元年(989)七月条に見えて実在が確認される人物で、それに拠ると、「滝口藤原貞正、帯刀藤原為延同意シテ敵三国行正ヲ射殺」とあります。すなわち、『尊卑分脈』に従兄弟とされる越前押領使為延(斎藤・進藤の祖)と組んで、敵に当たる越前の三国行正と争っていたことが知られます。貞正には太郎正重、二郎忠正、三郎親孝がおり、三郎親孝は、源頼信の乳母子で上野国司のときに随従した名高き武者の兵衛尉藤原親孝として『今昔物語集』巻25ノ11に見えます。

  二郎忠正の子(『尊卑分脈』では正重の子とする)の修理少進景道とその子景季は、源頼義に従って前九年の役に参加し、両者の名が『陸奥話記』などに見えます。景道の子景清(一に景貞。実は能因法師橘永・の孫で、養子という)の子の五郎景員(『尊卑分脈』ではこの一代が脱漏*2)は伊豆狩野に移住してそこで狩野介茂光の妹婿となり、その子加藤太光員・加藤次景廉とともに源頼朝創業の功臣として『東鑑』に見えます。その功績により、加藤一族の勢力は大きく増加し、景廉の諸子とその子孫は全国各地に展開します。


  すなわち、景廉の長男太郎景朝は美濃国恵那郡遠山荘を賜って遠山氏を名乗り(美濃苗木藩遠山氏の祖※下記参照)、その弟の六郎景長、七郎景義、八郎尚景などの加藤一族は『東鑑』に多く見えております。このうち、六郎景長の子孫が孫六嘉明(近江水口藩祖。三河の加藤氏)、七郎景義(あるいは加藤太光員の子の光定)の子孫が作内光泰(伊予大洲藩祖。美濃の加藤氏)とされております。


3 一方、虎之助清正の系は、同じ藤原姓でもこれら加藤氏とは別系とされますが(尾張の加藤氏)、御堂関白道長の後裔であって権中納言忠家の次男で美濃に下向した加藤武者正家の流れといい、正家の後は「家久−長頼−三高−三虎−虎時(虎村)−義時−正時−正吉−頼方−清方−清信−清忠−清正」とされ*3、頼方の代から愛知郡中村に住んだと伝えます。白石の『藩翰譜』でも一説として、この系譜の概要を記しています。


  ところが、「道長の後裔で権中納言忠家の子の加藤武者正家」という系図がいかなる史料にも確認されず、道長から権中納言忠家に至るという系譜*4にも多くの混乱があって、とても信拠できません。

そのため、清正以前の系図は、のちの創作で、豊臣秀吉と同じ尾張国中村の農民の子だったのが、藤原北家につながる系図を作り上げたものだろう、という見解も見られます*5。森山恒明氏も、この系図について「相当吟味さるべきである」と評価しております(『国史大辞典』)。


  それでは、どう考えたらよいのでしょうか。最近の研究では、秀吉の生家はたんなる農民ではなく愛知郡中中村の名主級の家とされており、その通婚した諸家(加藤、福島のほか小出、青木、杉原など)もみな小土豪クラスとみられてきているので、清正の系図をまったくの偽作として片づけるのは、問題が大きそうです。


4 加藤正家という者を系図関係で見たのは、宮内庁所蔵の『中興武家諸系図』巻七の「加藤系図」が最初でした。

そこでは、遠山景朝の子に景定(加藤太郎左衛門)、景正(加藤次郎左衛門、濃州牧村城主)、景永(遠山美濃守)の三人をあげて、景定以下は景元−正元と続け、正元の子に女子(国司忠家嫁)・美濃守正清・正頼をおき、美濃守正清の子に加藤正家が記載されています。


  当初、私は、この系図に現れる正家が清正の祖先ではないかと推したものです。

しかし、美濃の加藤遠山一族の系図について信頼性が高い「加藤遠山系図」*6には、景定(加藤太郎左衛門)以下の人物が全く見えず、『中興武家諸系図』所載の「加藤系図」は信頼性が乏しいと判断せざるをえないと考えるようになりました。


5 次に気づいたのが、中田憲信編『諸系譜』に所載の加藤系図であり、同書第九冊ノ一及び第十冊ノ三に掲載のものを合わせて考える必要があります。

  それに拠ると、加藤正家から正吉までの九代がそのまま同系譜に登場し、尾張熱田の名家加藤図書助家の支族として位置づけられています。

熱田加藤氏とは当地の名族で、東加藤(図書助家)、西加藤(隼人佐家)の両家があり、東加藤の順盛は家康を幼時預かったこともあります。

この加藤氏は加藤次景廉の子の六郎景長の子孫ともされますが(『張州雑志』など)、これは『諸系譜』所載の同上加藤系図に拠ると景長の七世孫景政が加藤図書助景任の養嗣となったからということです。

  この系統の加藤氏は、上掲『今昔物語集』に見える右兵衛尉親孝の後裔とされており、親孝の曾孫余三左衛門尉重景は『平家物語』に見えます。その子の四郎左衛門尉景正は尾張国法勝寺領下司となり、のち道元禅師に随って入宋したと系図に記されますが、鎌倉前期の陶工として名高い藤四郎景正のことで、尾張国山田郡瀬戸村に住して瀬戸焼物の陶祖とされています。いままで系譜が知られなかった藤四郎景正の系譜が、ここで分かるわけです。


  景正の子の代に、四郎正信と八郎左衛門尉景業で二系統に分かれます。後者の子孫が熱田の加藤氏となり*7、前者の子孫が加藤清正とされます。

四郎正信(法名春慶)の子孫は陶芸を伝えたものと考えられますが、系図に註記がないのでその辺の事情はよく分かりません。四郎正信の子が四郎正知で、その子が次郎春景と三郎正家と記載されます。

ここで、やっと清正の先祖とされる正家が登場することになります。三郎正家の子の三郎四郎家久・伊勢守長頼親子のころが南北朝期にあたるとみられますが、当時の史料にはこの加藤一族の活動は見えません。


  三郎四郎家久以降は上掲の系譜に合致しますので、その系譜に問題がないかというと、実はそうでもありません。仔細に検討してみると、愛知中村に定住したという頼方の位置づけが不明となっています。すなわち、上掲では「正吉−頼方」と続けられる正吉が頼方の父とは考えられないのです。「正吉−頼方」と続けると、期間に比して世代数が極めて多くなることに加えて、別の系図には正吉の子には新左衛門正弘・僧円真があげられて、子のなかに頼方が見えないという事情にあるからです。


  いまのところ、頼方の父祖は不明な点もあります(*8参照。後に追補記事もある)。父祖の可能性としては、@伊勢守長頼の弟として系図に見える五郎左衛門家方の子孫か、A長頼の曽孫の宮内少輔・二郎虎村の子孫に当たるのではないかと推しています。なかでも、Aのほうに傾くことになりますが、それは、先祖の頼方が宮内少輔と号したと伝えること、虎之助清正・虎藤忠広の「虎」の名から考えると、世代的には頼方を宮内少輔虎村の子(孫二郎義時の弟)におくのが妥当なように考えられます。

頼方は応仁の乱頃に中村に来住したと伝えますが、虎村の従兄弟藤二郎正房の子の二郎兵衛尉正保が東山公の寵遇を受けたという譜註も同上系図にあって、時代が符合するからでもあります。


  宮内庁所蔵の『中興武家諸系図』第43には、「正家−慈円−次郎家虎−頼方」と記されており、この「次郎家虎」が二郎虎村と同人かその弟に位置づけられることになります。この辺り(同人説にやや傾く)がもっとも穏当なところではないかと思われます。

  あるいは、Bとして、虎村の弟の四郎家正の子に頼方を置くことも考えられます。四郎家正の子には又四郎清家という者が見えて、清方から清正まで続く四代の通字「清」に留意されるからです。

その場合は、頼方は清家の兄弟にあたるのか、頼方が「四郎」と号したとする『尾張名所図絵』愛知郡中村条の記述に着目すれば、清家と同人という可能性もあるもしれません。

  なお、頼方が土岐一族から出て加藤氏の養子になったとする所伝*8があり、清正所蔵の槍の金具には桐と桔梗紋を刻んだ図示が『日本紋章学』にあって、信じてよさそうです。


6 愛知郡中村に落ち着いたとされる頼方以降の系は、割合簡単なものしか伝わりません。すなわち、清正の叔父に喜左衛門清重(五郎助。五郎八清国はその子か)がおり、清正の弟に三左衛門朝胤がいたと伝えるくらいで、一族の詳細が伝えられませんから、中村在住の段階ではかなり零落していた可能性も考えられます。

        この話は明智光秀の婿の実家と関係がある???
              ↓
とはいえ、清正の祖母が美濃刀匠関清次郎兼吉の娘といい、清正の母「いと」が刀匠清兵衛の娘とも御器所の関弥五郎兼員の娘ともいいますから、財力はそれなりにあったとみられます。この刀鍛冶の関一族を通じて、秀吉の家と結びつくことになります。



  主計頭清正が肥後熊本五十一万石の太守に栄進したこともありますが、その家臣団には同じ加藤を名乗って一族とみられる人々がかなり多く見られます。その子忠広のときの家中の争いは、筆頭城代家老の加藤右馬允正方(右馬允可重の子*9)側と加藤美作守政次・丹後親子側との間で元和四年(1618)に生じましたが、これらは皆清正の一族とみられます。『姓氏家系大辞典』によると、加藤美作守は清正の従兄弟聟と記されますし、同書には加藤美作守の弟にあげる加藤清左衛門は後右馬丞とありますから、美作守と右馬允とは兄弟だったのかもしれません(誤記の可能性もある)。一説に、両者は従兄弟だったともいわれます。

  忠広が出羽に配流になったとき、これに随った家臣のなかにも加藤を名乗る者があり、加藤頼母、加藤主水、加藤左平太があげられます。また、上記家中の争いの一方の当事者、加藤右馬允正方の子の左内正直は、幕府に召し出され子孫は五百石を知行する旗本となっています。

  こうした一族の広がりからみて、清正がたんなる農民の出であったということはまず考えられません。現在までに至る清正族類の子孫もかなり多いものと思われます。


  〔註〕
*1 『尊卑分脈』では吉信の玄孫に置かれる景道について、加賀介と註し「依為加賀介号加藤」と記しているが、景道が加賀介になったことは確認できず、おそらく景道の頃から加賀介となった先祖に因んで加藤と号するようになったという意味ではなかろうか。

*2 『尊卑分脈』に掲載される加藤氏の系図はあまり上質とはいえず、景員の脱漏のほか、忠正の位置にもズレがあり、また景廉の子に置かれる景経については実際は景廉の曾孫(行景の子)で系線の誤りがある。同書所載の他の武家系図も鎌倉末期ないし南北朝頃までの記載があることから考えて、これに信拠するのは注意を要する。

*3 中野嘉太郎編『加藤清正伝』、安藤英男編『加藤清正のすべて』でも、同様に忠家の子の正家から始まる系図を記載する。

*4 『改定史籍集覧』第15冊には「清正記」が所収され、そこには大織冠に始まる清正の系図が記載され、道長の後裔の摂関家から権中納言忠家が出たとされるが、きわめて混乱がある。例えば、その歴代を見ると、「良実(二条左大臣)−兼平(近衛)−家経(大納言)−忠孝(中納言)−師教(左大臣)−兼定(左大臣)−教藤(中納言)−教尊(大納言)」と続けて、教尊の長男が忠家とされるが、拙劣そのものである。

*5 『歴史読本』臨時増刊'84-3の「戦国大名家370出自総覧」の加藤(清正)氏の記述。このほか、『羽島市史』第一巻には、秀郷流の加藤氏から清正が出たという系図もみられるが、これまた疑問が大きいものである。

*6 比較的良本の加藤氏系図としては、蓬左文庫所蔵『諸士系図』に所収の「加藤遠山系図」があり、美濃の遠山一族に伝えられたもので、網野善彦氏が取り上げて『日本中世史料学の課題』で検討を加えているが、鎌倉初期の加藤五景員から始まるにすぎないことが惜しまれる。

*7 熱田の加藤氏の系図については、異説もあり、景正の弟の左衛門尉重則が祖とも伝える(『百家系図稿』第6冊)。同系図では、景正の子の藤四郎正信について、道元に従って入宋し法名道蓮とし、藤次郎正知に陶工、以下は「藤三郎−藤四郎春慶−藤五郎」と続ける。微妙な差異が両者で見られるが、陶工の加藤氏と熱田の加藤氏が景正の子孫であるということは変わりがない。

*8 鈴木真年翁は何に拠ってか、『史略名称訓義』の加藤清正の説明で、「祖土岐兵部少輔源頼定の庶子四郎頼方が、尾州中村に来たりて加藤新九郎景包婿となり、加藤氏を冒す」と記す。

  いずれにせよ、頼方を清正の家の直接の先祖とする所伝があり、頼方の父祖探索が必要であるところ、東大史料編纂所所蔵の『宮城系図』には、土岐明智民部少輔頼秋・同下野守頼秀の弟に加藤四郎主計頭頼方が記載され、「成加藤三郎大夫正吉養子移住尾州仕斯波武衛家」とある。加藤頼方が土岐一族から出たという所伝は妥当だと思われる。〔この部分については、改編した〕

 <追補> 『美濃国諸家系譜』第2冊所収の「加藤清正系図」では、明智城主明智修理大夫頼常の子で、刑部大輔頼房の弟が加藤四郎頼方だと記載する。明智修理大夫頼常が『宮城系図』に見える修理大夫国篤に相当し、刑部大輔頼房が国篤の子の下野守頼秀に相当するが、同書所収の「遠山家譜」にも刑部大輔頼房の名が見える。明智氏歴代の名が異なるが、官職名や事績・年代等からいって、加藤頼方が明智一族から出て、加藤正吉の養子になったということでは共通の所伝があることに留意したい。〔この部分は、06.7.10追補〕

*9 加藤右馬允正方は、もと片岡と名乗っていたが、清正により加藤姓を許されたとされる。
  『姓氏家系大辞典』カタオカ条28項には、片岡系図が記載され、藤原正家の子の家久の弟に正光があり、これが片岡氏の祖で、「正光−正行−正氏−正高−重孝(改片岡)−正重−正義−正仲−正国−可重−正方(可重の甥の片岡兵次重泰の養子)−正見(左内)等」と記される。『諸系譜』には家久の弟は記載せず、弟に正信・正光が見えないが、片岡系図はほぼ妥当な系図ではないかと考えられる。ただ、「正高=重孝(改片岡)」という可能性はないだろうか。

  清正の重臣、片岡右馬允可重・正方親子については、まったく別族たる清和源氏足助一族の出自とする系図(「足助族譜」で、中田憲信編『各家系譜』第1冊に所収)もあり、それによると、笠置山の後醍醐天皇忠臣足助二郎重範の末裔とされている。あるいは、この辺が妥当なところかも知れない。

 (03.3.15 掲上、3.30、10.10、04.11.23追加補訂)

 <加藤清正とその子孫について>

○清正関係では、中野嘉太郎氏の『加藤清正公傳』(明治42年刊)が好著といわれているようです。
○関係の論考・記述として、気づいたものでは、
 ・佐藤清五郎氏が『旅とルーツ』誌に
   「加藤清正と子孫の動向」(第67号、1994年)
   「(子孫訪問)加藤清正の末裔 十四世孫加藤醇さん」(第77号、1999年)
 という記事を書いており、後者では忠広を初代として、第2代光秋、第3代道久以下現代の当主までの略系を記載しています。
  なお、佐藤清五郎氏は、加藤清正の子孫探究ということで、日本家系図学会の平成七年度学術賞を受賞されています。

 ・『別冊歴史読本』21巻27号「豊臣一族のすべて」1996年7月。これにも加藤清正一族が取り上げられています。






 ※美濃の遠山氏について    ←  ココも  清正に繋がる?


遠山太郎景朝に始まる遠山氏は、遠山荘の岩村、明照、明知、飯間、串原、苗木、安木などの地に分居し、それらの地名を名乗る諸家に分かれたが、このうち苗木の遠山氏の後裔が幕藩大名として、明知の後裔が旗本(遠山金四郎景元の家)として江戸期に存続した。

この遠山氏の系図について、網野善彦氏が名古屋蓬左文庫所蔵の『諸士系図』に収められた「加藤遠山系図」を取り上げて検討されているが(『日本中世史料学の課題』の第三章 「加藤遠山系図」)、最近では、早瀬晴夫氏が『肥前の龍と遠山桜』(新風舎、2300円+税)を刊行され、流布する関係系図を多数掲載して検討を加えられている。ご関心の方はご一覧下さい。

  (03.12.23 掲上)



 (追補)
 
  加藤清正の系譜は、『美濃国諸家系譜』第2冊「加藤清正系図」にも見え、そこでは遠山氏の加藤景光の三男加藤源太光高(三高に相当する人物。一説に加藤伊勢守長頼三男とも記す)から出たと記される。光高の子の光虎(三虎)が足利尊氏の時代の人で、その玄孫の正吉が加藤四郎頼方の養父とするものである。
  また、岩村の遠山氏の系譜も、「加藤清正系図」の前後に「加藤氏之家譜」及び「遠山家譜」として同冊に掲載され、ともに明智一族との縁組みを伝える。すなわち、明智刑部大輔頼房の弟が加藤頼方であり、頼房の娘を室としたのが遠山景正だと記す。
  種々検討を要するが、とりあえずは、こうした系譜所伝があることを記しておきたい。

 なお、東大史料編纂所に謄写本がある『美濃国諸家系譜』については、岐阜の研究者・林正啓氏が注目されるが、他書に見ない系譜(しかも比較的信頼性がありそうな内容)がほかにもいくつかあって(例えば、豊太閤北政所の実家杉原氏など)、濃尾の中世武家諸氏の系譜には念頭においたほうがよさそうである。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 14時22分26秒 ) パスワード

http://www.nagai-bunko.com/shuushien/rekidai/kyoto.htm


歴代京都所司代一覧    加藤喜左衛門正次の名も!


京都所司代というのは、幕府の侍所の頭人(所司)の代官を指した。鎌倉時代にははっきりしないが、室町時代には京都と鎌倉に置かれていた。京都所司は、検非違使の職務であった京都の市政と警察権を行使したが、時には所司は在京せず、所司代が指揮を執った。そのため所司代が「京都市長」として一般に受け取られるようになった。織田政権から以降、京都所司代(あるいは京都奉行)は、市政を管理し、さらに朝廷や公家の支配機関となった。織豊時代には都市再開発を行い、今の京都の基本が作られている。江戸幕府ではさらに畿内8カ国の司法裁判権、西国大名の監視機関としての権限も与えられた。幕末に京都が表舞台になると、京都守護職が設置されて、その支配下に置かれるが、明治維新でともに廃止となる。


歴史上知ってるお名前の中にありました。

名    官名      在職期間    備考
加藤正次 喜左衛門    1601      詳細不明。


重くなって来ましたので  11をお願いしますね。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 15時30分40秒 ) パスワード

参考までに他のお歴々についてもアップ:



名     官名      在職期間    備考
村井貞勝  長門守     1573〜1582 織田政権下。本能寺の変の時、二条御所で死亡。
桑原貞成  次右衛門    1582 羽柴秀吉が任命。まもなく罷免される。
杉原家次  七郎左衛門   1582 まもなく罷免。

浅野長吉  弾正少弼    1583 浅野長政。まもなく罷免。
前田玄以         1583〜1600
奥平信昌  美作守     1600〜1601 関ヶ原合戦後の京都支配のため。
加藤正次  喜左衛門    1601 詳細不明。               ←ここ

松田政行  勝右衛門    1601〜1603 前田玄以の元で京都支配を担当、
             加藤正次や次の板倉勝重の元でも京都支配補佐を勤める   ← ここも

板倉勝重   伊賀守    1601〜1620 駿府町奉行、江戸町奉行、関東代官と歴任し、京都所司代となる。
             対豊臣政策もあわせて担当。宮中での猪熊事件を利用し朝廷への権力拡大をはかり、
             朝廷・公家・寺社の統制を行った。

板倉重宗   周防守    1620〜1654 勝重の子で、父の跡を継いで所司代職を引き続き担当した。後任者牧野親成時代も職務を補佐した。

牧野親成   佐渡守    1654〜1668
板倉重矩   内膳正    1668〜1670

永井尚庸   伊賀守    1670〜1676
戸田忠昌   越前守    1676〜1681
稲葉正通   丹後守    1681〜1686
土屋政直   相模守    1685〜1687

内藤重頼   大和守    1687〜1690
松平信興   因幡守    1690〜1691
小笠原長重  佐渡守    1691〜1702
松平信庸   紀伊守    1702〜1714

水野忠之   監物・和泉守 1714〜1717 後に享保の改革前半を担当。開発と年貢増徴を行ったが、米価が低落して問題となり、辞任した。

松平忠固   伊賀守    1717〜1724
牧野英成   因幡守・佐渡守・河内守 1724〜1734
土岐頼稔   丹後守    1734〜1742
牧野貞道   越中守・備後守1742〜1749

松平資訓   豊後守    1749〜1752
酒井忠用   讃岐守    1752〜1756
松平輝高   右京大夫   1756〜1758
井上利容   河内守    1758〜1760

阿部正右   伊予守    1760〜1764
阿部正允   飛騨守    1764〜1769
土井利里   大炊頭    1769〜1777
久世広明   出雲守    1777〜1781

牧野貞長   越中守    1781〜1784
戸田忠寛   因幡守    1784〜1787
松平乗完   和泉守    1787〜1789
太田資愛   備中守    1789〜1792
堀田正順   相模守・大蔵大輔1792〜1798

牧野忠精   備前守    1798〜1801
土井利厚   大炊頭    1801〜1802
青山忠裕   下野守    1802〜1804
稲葉正・   丹後守    1804〜1806

阿部正由   播磨守    1806〜1808
酒井忠進   讃岐守    1808〜1815
大久保忠真  加賀守    1815〜1818
松平乗寛   和泉守    1818〜1822

内藤信教   紀伊守    1822〜1825
松平康任   周防守    1825〜1826

水野忠邦   左近将監・越前守 1826〜1828 出世するために家臣の反対を退けて唐津藩から浜松へ転封した。老中になってからは天保の改革を行う。一旦辞職後老中に返り咲くも天保の改革が問題となり、老中辞職出羽転封の処分を受けた。

本庄宗発   伯耆守    1828〜1831
太田資始   備後守    1831〜1834
松平信順   伊豆守    1834〜1837
土井利位   大炊頭    1837〜1838 雪の結晶を調べた学者として知られる。

間部詮勝   下総守    1838〜1840
牧野忠雅   備前守    1840〜1843
酒井忠義   若狭守    1843〜1850
内藤信親   紀伊守    1850〜1851

脇坂安宅   淡路守    1851〜1857
本多忠民   中務大輔・美濃守 1857〜1858
酒井忠義   若狭守    1858〜1862
松平宗秀   伯耆守    1862

牧野忠恭   備前守    1862〜1863
稲葉正邦   長門守    1863〜1864
松平定敬   越中守    1864〜1867
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 16時07分11秒 ) パスワード

新訂寛政重修諸家譜 13の33ページ目  利仁流加藤家


http://books.google.com/books?id=7xglLs5oQWAC&pg=PA33&lpg=PA33&dq=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%96%9C%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=bFG2mO8eeD&sig=ogq9ip1NJvLprhFNpBguGBuC_3g&hl=en&sa=X&ei=7SQVVIG4O8KsjAKskICYBA&ved=0CFkQ6AEwCA#v=onepage&q=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%96%9C%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


加藤喜左衛門正次は初め  竹本姓 だった。
喜左衛門正任の息子だった。

三方ケ原の戦いで31歳で戦死した加藤正信の遺体を武田にもらいに行った。

正信には跡継ぎがいなかったので永禄11年加藤姓に変える。

正信の妹を妻にして加藤家を継いだ。


天正18年小田原合戦の後に武蔵国比企と上総望陀で2000石を賜う。


慶長6年罪があって蟄居して、後に赦されて
慶長18年8月17日
65歳で歿。

妻は加藤利正の娘。   つまり加藤正信の妹


ということは上記のお寺=興長禅寺はやはり加藤喜左衛門正次の寺で良かったのですね。
へ〜
[75]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月14日 22時26分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドⅪを立ち上げますので、そちらに移ります。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 22時32分15秒 ) パスワード

http://www.oshiromeguri.com/higashimikawa/07takemoto.html
竹本城
(たけもとじょう)


加藤喜左衛門正次の旧姓は竹本なので竹本氏を検索したら竹本城が出ました。

竹本氏の旧姓は南北朝時代には高田姓でした。



画像:竹本城跡を分断している県道372号線。この道路を境に、お城跡は東西に別れています。



所在地      豊川市御津町広石船山
立地       平城
築城時期     ?
築城者      高田政季
主な城主     高田氏、牧野氏、山田氏
現状       秋葉神社・畑地・宅地
地図



画像:東側は秋葉神社になっており、そのさらに東はガクンと低くなって田んぼになっています。この地形から想像できる事は、

湿地帯の丘上にあるお城ということですね。




愛知県中世城館跡調査報告書V 東三河地区より
作図者 奥田敏春 氏 


●縄張り図●


竹本城

●お城の歴史●


築城年代はよく分かっておらず、新田義貞(1301〜38)の家臣に高田薩摩守という豪傑がおり、
その次男・政季がこの地に居館を築いたのが始まりと伝わります。別名・『新宮山古城』。

その後、高田氏は『竹本』と改姓し、牧野氏を通して今川氏に仕えますが、竹本四郎左衛門成久の代に
桶狭間合戦が起こり、今川義元が討死。

それ以後、竹本氏はこの地に帰農した様です。

永禄五年(1562)からは長沢松平氏の所領となり、山田晴政が入城しましたが、時は戦国時代。

平城だった竹本城は御津支配には重要な場所でしたが、堅固ではなかったので、茂松城を有事の
際の詰城としました。

その後、長沢松平氏は家康の六男・忠輝が相続し、山田氏は家老になりましたが、後に忠輝は改易され流罪。

その時に山田氏は将軍家謀反の疑いで断絶し、竹本城は廃城となりました。



●あさメモ●


竹本城は、秋葉神社・畑地・宅地となっています。

まず、お城を県道372号線が分断しており、お城跡はこの県道を境に、西と東に別れています。

東側には秋葉神社があり、そこに大きな石碑と看板も建っています。さらに東側を見てみると
低くなっており、その先が湿地帯を想わせる田んぼになっています。

そして西側は宅地になっていますが、その北側がガクンと下がっており、ほとんど崖状態。

お城の雰囲気が残る高低差がありました。


画像:西側は宅地化していますが、北側に進むと高低差があることが分かります。写真は二枚とも北側から竹本城跡を写したものです。もしこの田んぼ、宅地がある場所が、かつての湿地帯と考えるなら、東側と同じく湿地帯を天然の防御としたお城ということが想像できますね。



>後に忠輝は改易され流罪。
>その時に山田氏は将軍家謀反の疑いで断絶し、竹本城は廃城となりました。

よく分りませんが
加藤喜左衛門正次が蟄居を命じられたのは
この忠輝の事件に連座?

   何故ならば忠輝が流罪になるのは実は大久保長安と親しかったからという影の理由がちらついているから。


   つまり  忠輝 ←→ 山田家 ←→ 大久保長安 ←→ 服部家 ←→ 加藤家  竹本城もとばっちり??


歴史は深過ぎますね。
というより人間の心の闇がお城の破却に?


秀忠なんて自分だって関が原に遅れたくせに忠輝の遅参を咎めた?



家康没後の元和2年(1616年)7月6日、兄の秀忠は忠輝に改易を命じた。

・大坂夏の陣のとき、大和から大坂に攻め入る総大将を命じられていたが、遅参したため。

・忠輝軍が大坂に向けて進軍中、近江守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の旗本、長坂信時らを斬り殺したため(ただし、当時の軍法では戦中の追い越し、つまり乗り打ちは切り捨て御免となっているので、忠輝の処置は合法である
)。

・大坂夏の陣の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じた。しかし、忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしていたため。

    以上が、秀忠が改易を命じた<<表向きの>>理由である。


しかし実際は、以下の理由もあったのではないかとされている。

・キリスト教ときわめて親しい関係にあったためという説。

・忠輝の岳父が伊達政宗であったため、

・また幕府内で奉行職を兼任し莫大な財力を背景に隠然と権力を振るっていた大久保長安と近い間柄であった

                    ↑
                  大久保長安

ことから、古くから秀忠から警戒され嫌悪されてきたという説。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月14日 22時51分22秒 ) パスワード

家康という男はよくよく自分勝手な人間だったようですね。



上司の娘と縁談があれば恋人と子供を捨てる

上司の娘と結婚すれば彼女の部下の女に手を出す

上司の娘との間に生まれた自分の子=信康=の性格を憎み
愛人=お万=の身分が低いからと遠避け
その子の顔が好みじゃないからと遠避け

忠輝も母親の身分は低いし
顔はお万の子に似てブサイクだし
性格は信康に似て気性が激しいから遠避け


結局愛したのはお愛の方だけ?
秀忠は生まれた時はお愛に似て愛くるしかった?
性格は温和だから   アタマは凡庸でも・関が原に遅参しても  1番可愛かった?


ひょっとすると信康の死は  家康は内心ほっとしてた?


家康って  メンド臭いのは  イヤだった?
家臣でメンド臭いのに自分の家庭でメンド臭いのはもっとイヤだった?


   わたくしもメンド臭いのはイヤなのでなんか家康の気持ちが分った気がした。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月15日 06時00分26秒 ) パスワード

新訂寛政重修諸家譜 13


http://books.google.com/books?id=7xglLs5oQWAC&pg=PA33&lpg=PA33&dq=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%96%9C%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=bFG2mO8eeD&sig=ogq9ip1NJvLprhFNpBguGBuC_3g&hl=en&sa=X&ei=7SQVVIG4O8KsjAKskICYBA&ved=0CFkQ6AEwCA#v=onepage&q=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%96%9C%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


父・加藤喜左衛門と子・正重は慶長6年=1601年に罪を得て蟄居処分になっています。

   子の正重は慶長5年の(関が原の戦いの時の)上杉征伐では御膳番を勤め1000石を賜っています。

   翌年慶長6年に父の事件で連座して罪を得て蟄居。

   しかし赦され、後に、山城国綴喜郡と相楽郡の中で500石を加増されました。


それでこの1601年の事件を追っているのですが      ←  いよいよ歴史探偵になってきましたね 笑

その前後の事件:

慶長3年
4月8日         - 浅間山が噴火
8月18日         - 豊臣秀吉死去

慶長4年
閏3月3日      - 勅版の『日本書紀神代巻』刊行
9月28日         - 徳川家康が、大坂城西の丸に入る

慶長5年
3月16日       - オランダ船リーフデ号、豊後に漂着
6月16日         - 徳川家康、豊臣家大老として会津征伐を決行。遠征軍を自ら率いて大坂城を進発
8月1日          - 伏見城の戦い。宇喜多秀家を総大将とする西軍により伏見城陥落、守将鳥居元忠以下1,800の将兵が戦死
9月15日          - 関ヶ原の戦い

慶長6年
1月 - 徳川家康、東海道に伝馬制を定める
5月 - 大黒常是を長として京都伏見に銀座を開設
7月 - 慶長丁銀の発行
8月16日 - 徳川家康、上杉景勝を米沢へ転封
月日不明 - 慶長小判の発行、慶長の幣制の始まり

慶長7年
12月4日 - 再建中だった方広寺大仏殿が焼失


慶長8年
2月12日 - 徳川家康、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開府
4月22日 - 豊臣秀頼が内大臣に任じられる
日本橋ができる


どんな事件が起きたのか分りません。
忠輝の事件とも関係が無いようです。


多分京都所司代の時に何かあった?
ということで調べたらコピペできなかったのですが

板倉勝重+加藤正次+米津清勝の3人が京都町3奉行として慶長6年9月に赴任しています。
http://www.geocities.jp/onriedo_gongujodo/imode/itakura-katsushige.html

そこで何かあった?
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月15日 06時10分42秒 ) パスワード

見つけましたよ。
現場100回。



http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0002/RO00020R109.pdf
ここの111ページに書かれています。

    近世京都における与力・同心体制の確立


加藤正次は職務怠慢にて蟄居を命じられたのだそうです。
あらら・・・
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月15日 06時20分33秒 ) パスワード

現場100回ということで秀次に近かった人々を検索して来ました。

http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/hosa.htm
豊臣秀次と関わりが深い人々


 豊臣秀吉の命で豊臣秀吉の甥・秀次の補佐役として派遣された附家老や秀次の重臣、家臣など秀次と関係が深い人々をこのページで掲載しています。

 
木村重茲(しげこれ) 常陸介 山城国淀18万石

 父親の代からの秀吉に仕えました。賤ヶ岳の戦いでは堂木山砦の守備大将を務めました。
 その後、各地を歴戦し小田原攻めでは先鋒の秀次隊に属し、文禄の役では朝鮮に渡海しています。秀次事件に連座し、彼のみ処刑(他は自害)されたことから彼は秀次の補佐役だったようです。大坂の陣で豊臣方の武将として活躍した木村重成は彼の息という説があります。

 聚楽第行幸では関白の行列の前駆右の最後尾に供奉しています。「東御門番役書」(『大日本古文書 家わけ第二 浅野家文書』編 東京大学史料編纂所 東京大学出版に掲載)によれば彼は聚楽第東外門である黒門の番衆を務めていた大名の一人です。 

 常陸町という町名は彼が屋敷を構えていたことが由来です。


 

駒井重勝 中務少輔
 秀次の右筆兼奉行。主が失脚し切腹すると1300石で秀吉に仕えました。関ヶ原の戦いの前哨戦の伏見城の戦いに西軍側で参戦し、関ヶ原の戦いの後に改易されましたが、前田利長に仕えました。
 彼が秀次に仕えていた頃の日記は『駒井日記』と呼ばれます。この日記には秀次の行動など当時を知るための重要な史料です。特に文禄4年(1595)4月10日に聚楽第の大まかな広さについての記載は貴重なものです。聚楽第に関する書籍などでその部分が引用されます。発掘調査に基づく聚楽第城郭範囲では未発見の堀は発掘された堀の位置と『駒井日記』の記述にある記述を基に位置を推測します。


 

田中吉政 兵部大輔 三河岡崎城 5万7400石
 浅井長政の重臣の宮部継潤の家臣、主が秀吉に仕えると彼も従います。
 筆頭家老として近江八幡城主の秀次の基に派遣されます。在京か従軍し不在領主の秀次に代わり領地運営の実務を執り、近江八幡の礎を築きます。秀次が尾張に移ると三河岡崎城に移りました。

 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、石田三成を捕らえた功により筑後国柳川城主32万石を与えられます。

 秀次事件では三万石(『新訂寛政重修諸家譜』の田中吉政の項では秀吉の直轄地を預けられたとあります)を加増されています。

 田中町の由来は彼の姓が由来と推測します。


 

中村一氏(かずうじ) 式部少輔 駿河駿府城 17万5千石
 近江長浜城主時代の秀吉に仕えました。
 近江八幡城主になった秀次の下へ附家老として派遣されました。

 小田原攻めでは秀次が総大将を務める北条側の重要拠点伊豆山中城攻めでは配下・渡辺勘兵衛の活躍もあり、一日で城を陥落させることができました。秀次が家康の備えとして尾張に移ると駿河一国を与えられました。

 秀次事件では伏見城から聚楽第へ秀次を迎えに来た使者の一人です。事件後、明確な理由は不明ですが加増されています。秀吉没後、政権の中老職につきます。関ヶ原の戦いでは東軍に属しましたが開戦前に病気のため亡くなり、息・一忠(かずただ)が東軍側として戦い、中村家は伯耆米子城を与えられました。

 一忠は「米子騒動」という江戸時代でも有名な御家騒動を起こし、若くして嗣子がないまま亡くなり御家は断絶しました。

 中村町は彼の姓が由来です。 


 

一柳直末 伊豆守 美濃本巣郡軽海西城 5万石
 秀吉古参の家臣の一人。秀吉の精鋭集団黄母衣衆(きほろしゅう。鎧の背に黄色の母衣を目印にしていた)、後に大母衣衆に属し、数々の戦で戦功を挙げる一方、兵糧奉行や普請奉行としても活躍しました。
 秀次が近江半国を与えられると附家老として派遣されました。他の附家老は近江国内に領地を与えられましたが、彼のみ隣国の美濃大垣城2万5千石を与えられました。秀次の相談役を務め、彼の下へ出仕していたため、彼から近江国内で千石を与えられていました。

 その後、美濃国の本巣郡軽海西城(もとすぐんかるみにしじょう)を与えられました。

 小田原攻めでは秀次が総大将を務めた北条側の重要拠点である伊豆山中城攻めに秀次隊として出陣します。城は一日で陥落しましたが、彼はこの戦いで戦死しました。


 

堀尾吉晴 帯刀先生(たちはぎせんじょう) 浜松城 12万石 
 秀吉古参の配下として各地を転戦しました。
 秀吉の甥秀次が近江半国を与えられると彼の附家老として派遣されました。小田原攻めの後に豊臣姓を許され、徳川家康の旧領の一部である浜松城を与えられました。

 秀次事件では伏見城から聚楽第へ秀次を迎えに来た使者の一人です。他の附家老達は加増か改易など何らかの処分が下されましたが、彼だけ何もなかったようです。 

 秀吉没後は中老の一人として家康と石田三成の対立の仲介をしていました。家督を息の忠氏(ただうじ)に譲り越前府中五万石の隠居料をもらいました。関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。

 息の忠氏が若くして亡くなり、幼少の孫忠晴(ただはる)を補佐しました。


 

 

山内一豊 対馬守  遠江国掛川城 5万石
 最初は織田信長に仕えますが、後に秀吉に仕えます。
 秀次が近江半国を与えられると附家老として派遣され、長浜城を与えられました。秀次が尾張に移ると遠江国掛川城へ移ります。

 秀次事件では伏見城から聚楽第へ迎えに来た使者の一人です。秀次が切腹した当日に理由はわかりませんが7千石を加増されています。

 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、土佐一国を与えられました。 


 

渡瀬繁詮(わたらせしげあき) 左衛門佐 遠江国横須賀城 3万5千石
 上野新田金山城主・由良成繁の子。北条氏に由良家の居城である新田金山城を攻め落とされ領地を失うと、彼は上方へ去り、秀吉に仕え、秀吉の甥・秀次に属しました。
 秀次が近江半国を与えられると附家老として派遣され、秀次が尾張に移ると遠江国横須賀城を与えられました。

 秀次事件では附家老のうち彼のみが改易処分を受け、預けられた佐竹氏の屋敷で自害しました。彼のみが最後まで秀次側であった結果と思われます。

           ↑
主人の咎で遠江に戻った、ということでこの渡瀬繁詮が浮上しました。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月15日 08時57分35秒 ) パスワード

遠江国横須賀藩

横須賀藩(よこすかはん)は、遠江国に存在した藩。藩庁は横須賀城(静岡県掛川市松尾町)。


概要[編集]


戦国期[編集]

天正2年(1574年)、武田勝頼によって東遠江の要衝であった高天神城が陥落する。これによって東遠江の支配権を失った徳川家康は、高天神城を奪還するために馬伏塚城の大須賀康高に命じて馬伏塚城を廃し、天正6年(1578年)から新たに横須賀城を築城させた。横須賀城は天正8年(1580年)に完成し、この城を拠点にして高天神城奪回の攻撃が始まり、天正9年(1581年)3月22日に高天神城は奪回された。後に康高が死去すると、城主は養子の大須賀忠政が継いだ。

天正18年(1590年)の小田原征伐により、家康が関東に加増移封されると、忠政も上総久留里藩に移封され、代わって豊臣秀次の家臣・渡瀬繁詮が入った。しかし文禄4年(1595年)、繁詮は秀次事件に連座して改易・死罪に追い込まれた。そのため代わって繁詮の重臣だった有馬豊氏が入る。この豊臣系大名の時代は「悪政の時代」として有名で、渡瀬時代は秀次の権勢をかさに着て過酷な重税を課し、それが納められなかった者は殺されたといわれる。有馬時代も豊臣秀吉の権勢をかさに着て太閤検地を実施したが、この検地があまりに過酷なものであり、そのために領民は重税に苦しめられたとされる。慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いで有馬豊氏は東軍に与して戦功を挙げたことから、戦後の12月13日に丹波福知山藩6万石に加増移封された。


立藩と大須賀時代[編集]

慶長6年(1601年)2月、久留里より大須賀忠政が再び横須賀に戻ってきて領主となった。これが、横須賀藩の立藩である。石高は5万5000石であった。忠政は豊臣大名時代の悪政を正して旧来の税制に戻すなどしている。

第2代藩主・大須賀忠次は元和元年(1615年)12月1日、本家の上野館林藩主榊原康勝が嗣子なくして死去したため、代わって榊原家の家督を相続することとなり、館林藩に移封された。これにより、横須賀藩は一時的に廃藩、幕府領となった。

能見松平時代[編集]

元和5年(1619年)10月、下総関宿藩より松平重勝が2万6000石で入ったことにより、横須賀藩が再立藩する。しかし元和7年(1621年)、第2代藩主松平重忠時代に1万4000石加増の4万石にされた上で、出羽上山藩に加増移封された。

井上時代[編集]

元和8年(1622年)、井上正就が5万2500石で入る。寛永5年(1628年)、第2代藩主井上正利は5000石を弟の井上正義に分与したため、4万7500石となった。しかし正利は徳川忠長事件で功を挙げ、さらに奏者番に栄進したことから、正保2年(1645年)6月27日に2500石の加増の上で常陸笠間藩に加増移封された。

本多時代[編集]

井上氏に代わって、三河岡崎藩から本多利長が5万石で入る。しかし『寛政重修諸家譜』にもあるように「領内の政事よろしからず。さきに巡検使封地に至るのときも、其はからひ御むねに違ひしにより所領を公収せられ云々」と悪政が敷かれていた。利長は正室が早世すると、遊女に700両の大金を支払って身請けし、酒宴や女性に溺れる毎日を過ごした。このような藩主では家臣にも黒柳権右衛門や松本新太郎、松山勘左衛門ら奸臣が集って政務を専横し、スパイを領内に派遣して密告を奨励し、さらに「法度百か条」を制定して領民の生活を厳しく統制するなどした。さらに延宝8年(1680年)8月、領内を暴風雨と高潮が襲う大被害に見舞われると、遂に領民の不満は爆発して幕府に嘆願が行なわれた。幕府も看過できず、天和2年(1682年)2月22日、利長は江戸城において23か条における折檻状を受けて改易に処された。後に利長は、出羽村山藩主として復活する。

西尾時代[編集]

本多氏改易後の3月9日、信濃小諸藩より西尾忠成が2万5000石で入った。これにより藩主家は安定する。

第2代藩主西尾忠尚は老中を歴任して幕政に参与したことから江戸暮らしが長かったが、そのために江戸文化が横須賀にも導入され発展することとなった。第4代藩主西尾忠移の正室は田沼意次の娘であり、忠移は相良城破却を務めた。また、忠尚同様に蘭学を好み、高森観好を登用して文化の発展に尽くし、この時代は西尾文化ともいわれた。殖産興業でも忠移はサツマイモ・茶の栽培、遠州灘の漁業促進などに尽力した。

幕末期に入ると、西尾氏は譜代の名門であることから家臣団が佐幕派・尊王派に分裂して抗争した。戊辰戦争が始まると対応に苦慮したが、尾張藩の説得を受け、また青山善一郎の仲介もあって尊王派が大勢を占めた。その後、横須賀藩は新政府の東征軍に協力する。



明治2年(1869年)2月29日、第8代藩主西尾忠篤は安房花房藩に移封され、横須賀藩は廃藩となった。



歴代藩主[編集]

大須賀(松平)家[編集]

6万石 譜代
1.忠政(ただまさ) 従五位下 出羽守
2.大須賀忠次(ただつぐ) 従四位下 式部大輔、侍従

松平(能見)家[編集]

2万6000石 譜代
1.重勝(しげかつ) 従五位下 大隅守 (大番頭、駿府城代)
2.重忠(しげただ) 従五位下 丹後守 (駿府城代)

井上家[編集]

5万2000石 譜代
1.正就(まさなり) 従五位下 主計頭 (御小姓組番頭、奉行人)
2.正利(まさとし) 従五位下 河内守 (奏者番)

本多家[編集]

5万石 譜代
1.利長(としなが) 従五位下 越前守

西尾家[編集]

2万5000石→3万5000石 譜代
1.忠成(ただなり) 従五位下 隠岐守
2.忠尚(ただなお) 従四位下 隠岐守 侍従 (奏者番、寺社奉行、若年寄、西の丸老中)
3.忠需(ただみつ) 従四位下 主水正 (奏者番)
4.忠移(ただゆき) 従五位下 隠岐守 (奏者番)
5.忠善(ただよし) 従五位下 隠岐守 (奏者番)
6.忠固(ただたか) 従五位下 隠岐守 (奏者番)
7.忠受(たださか) 従五位下 隠岐守 (奏者番)
8.忠篤(ただあつ) 隠岐守

幕末の領地[編集]
遠江国 城東郡のうち - 66村
佐野郡のうち - 9村
周智郡のうち - 6村
山名郡のうち - 17村

駿河国 志太郡のうち - 13村


関連項目[編集]
災害記念碑・津波避難施設 - 大野命山・中新田命山
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