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 投稿番号:101366 投稿日:2014年08月18日 13時34分55秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族[
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族Zからの続きです。

「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に秘められた謎を解明する。

最終目的は、服部氏族の謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月18日 14時14分56秒 ) パスワード

はい。
遠江国の服部氏はどこから来たのか、ですね。


一般的には源平時代の平家の服部氏と南北朝時代の服部氏と戦国時代の家康配下の服部氏が有名どころですが

古代氏系の服部氏もありますから、こちらの流れがどうなったのか、解明できると良いですね。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月18日 14時46分06秒 ) パスワード

神武天皇の妻:



最初の妻:

吾平津姫(あひらつひめ)
    吾平津媛とも表記される。
    『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)。

    阿多小椅の妹。
    神武天皇日向在住時に嫁し、手研耳命と岐須美美命を生んだ。
                 たぎしみみのみこと
                   ↑
                 この人が下記の父親の後妻と結婚するんですね


2?番目の妻:
ヒメタタライスズヒメ
(媛蹈鞴五十鈴媛命)
                   ↑ 
     夫である神武天皇の死後、上記の夫の連れ子の手研耳命とも結婚しているんですねえ。

       これはわたくしの家の家書の中でもそういう関係があります。
       家督相続をする時に、相続財産の1つに父の後妻というのもあって
       後妻にすれば、
       故きオットの連れ子と再婚できれば自分の身分は安泰というのがあったのかも。


子女
日子八井命
神八井耳命
綏靖天皇



父親
三輪大物主神      ←  出ました!

母親
勢夜陀多良比売     




ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)は、神武天皇の皇后である。  

                         後妻さんですね


神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、
大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、在地豪族を懐柔しようとした。

天照大神の子孫である神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命が結婚することで、天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた1つに統合されることになる。




神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命までの系譜(『古事記』による)
『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命」と記す。
『古事記』 では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記し、
別名、「富登多多良伊須岐比売」(ホトタタライスキヒメ)としている。


皇后の名の中にある「タタラ」とは、たたら吹きを指したり、その時に用いられる道具を示す場合もあり、このことは、皇后の出身氏族が、製鉄と深い関係がある出雲(安来市圏域、安来市、横田町、奥出雲町を含む)地域であったことを物語っていると考えられている(加藤義成『古事記参究』素行会(1986年)など)。



両親[編集]


古事記[編集]
『古事記』では、三輪大物主神(スサノオの子孫大国主の和魂とされる)と勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)の娘である。

勢夜陀多良比売が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子がヒメタタライスズヒメである。ホトを突かれてびっくりして生まれた子であるということでホトタタライスキヒメと名づけ、後に「ホト」を嫌ってヒメタタライスケヨリヒメに名を変えた。



日本書紀第6の一書・先代旧事本紀[編集]

『日本書紀』第6の一書では「事代主神化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫 或云 玉櫛姫 而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也」とあり事代主神が八尋鰐と化し三嶋溝樴姫あるいは玉櫛姫のもとに通い、媛蹈鞴五十鈴媛命が生まれたという記述がある。なお『先代旧事本紀』巻4地祇本紀にも「都味齒八重事代主神 化八尋熊鰐 通三島溝杭女 活玉依姬 生一男一女(中略)妹 踏韛五十鈴姬命 此命 橿原原朝立為皇后 誕生二兒 即 神渟名耳天皇 綏靖 次產 八井耳命是也」と同様記述がある。



子供[編集]

神武天皇との子は、上から順に、日子八井命、神八井耳命、綏靖天皇である。




手研耳の反逆[編集]

神武天皇の死後、神武天皇の子である手研耳命(タギシミミ)と結婚するも、
タギシミミの反逆において子供たちに夫の謀意について知らせて反逆を防いだ。



手研耳命





移動: 案内、 検索



手研耳命
(たぎしみみのみこと)


続柄
神武天皇の皇子

出生
不明


死去
神武天皇76年(紀元前585年)
不明

埋葬
不明
不明

配偶者
媛蹈鞴五十鈴媛命(神武天皇の皇后)

父親
神武天皇(初代天皇)

母親
吾平津姫


手研耳命(たぎしみみのみこと、生年未詳 - 神武天皇76年(紀元前585年))

古墳時代の皇族。神武天皇の皇子。母は、吾平津姫で、同母弟に岐須美美命(ただし古事記のみ登場)が、異母弟に綏靖天皇、神八井耳命、彦八井耳命がいる。

神武天皇の崩御後、父神武天皇の正妻媛蹈鞴五十鈴媛命を妻にし、彼女と神武天皇の間に生まれた3人の異母兄弟を弑逆しようと計画していたため、そのうちの神八井耳命と神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇)に殺された。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月18日 15時13分21秒 ) パスワード

昔は今のような医療知識が無いのですから

   アソコからの大量出血を「そう表現したか!」です。


     
        子宮筋腫か子宮癌か。
        はたまた卵巣癌か。
   

古代の人には驚きだったでしょうね。
で、その原因を「川屋」に用を足しに来るのを待っていて、ナニしたと?

想像の翼、広げ過ぎじゃない?



とはいえ、古代人も現代人同様、病には苦しめられていたんでしょうね。
へ〜



>管玉の色ですが、コバルトブルーともいえるかも知れません。

そうでしたね
青色の。

ラピスラズリほどの濃さじゃなかったでしたよね。
 

そうか、古代人はなんとかラピスラズリの濃い青の管玉を作ろうと頑張っていたのかもですね。


    そうするとやはり大昔シュメールとかメソポタミアとかから日本に来ていたんでしょうね    
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月18日 15時59分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 
 神武天皇の妃は三輪氏の出身ということですね。

 賀茂氏と三輪氏は同族というけれど、その違いがよくわからない。

 そもそも漢字の姓などもともと存在しなかったのですよね。

 漢字の持つ意味をうまく訓に当てはめた。三輪と賀茂、物部・・・。

 漢字の意味を姓にうまくオーバーラップさせた。


 三輪氏も賀茂氏も物部氏も葛城氏も顔が見えない。今後の課題は、氏族

の年代、顔、規模、ステータスをはっきりさせる事・・・。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月18日 22時30分43秒 ) パスワード

また消えた・・・・なんで?
ということでカンタンにシュメールと日本人の関係をコピペ:


1)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10118917565

「シュメール」という名前はアッカド語から来ていますが、本来の発音は「シュメル」です。

第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか天皇呼称の古語「すめらみこと」は「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行した結果、まともな歴史学者達がそのような俗説を封じる為に「シュメール」と長音記号を入れて表記するようになりました。



2)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB


シュメールについて:
日本における俗説と表記[編集]

第二次世界大戦中に、「高天原はバビロニアにあった」とか天皇呼称の古語「すめらみこと」は「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行した[出典 5]。このため、シュメール学の京都大学・中原与茂九郎[註釈 9]がこれを避けるため「シュメール」と長音記号を入れて表記した[出典 5]。これが現在の日本語の慣習の起源である[出典 5]。

当時、小島威彦と仲小路彰の発案で「スメラ学塾」が開講され、その思想に感化された川添紫郎(「キャンティ (イタリア料理店)」オーナー)や建築家の坂倉準三らが「スメラクラブ」という文化サロンを結成した[出典 6]。仲小路は、上代において日本を根軸とする「スメラ太平洋圏」があり、進行中の太平洋戦争を「上代スメラ太平洋圏復興への皇御軍(すめらみいくさ)」と考えていた[出典 7]。しかし、坂倉の義父である西村伊作は、「(坂倉らが関係しているスメラという団体は)人類の根本の人種であるスメル人が日本にも移り住み、それが日本の天皇のすめら命になったと言っているが、一種の誇大妄想狂だ。坂倉はこの戦争に勝ってオーストラリアを全部取ったら別荘を作って遊びに行ったり、飛行機でパリに買物に飛んで行く、というようなことを空想していた。」と書き残している[出典 8]。





3)
http://hexagon.inri.client.jp/floorA3F_hb/a3fhb301.html

「日本人シュメール起源説」の謎

 

 




●現在の歴史学が“世界最古”とする文明はシュメール文明である。シュメール文明は、シュメール人によってメソポタミアの最南部、チグリス・ユーフラテス川の下流域に築かれた文明である。

シュメール人は、遥かな古代、どこからともなくこの地に姿を現し、何の手本もなしに、独力で人類最初の文明を築き上げ、今から4000年前、突然その姿を消してしまったとされる。

 

 
(左)シュメールの初期王朝期の石膏像 (右)華麗な姿で有名な
 ウル遺跡のジッグラト。シュメールといえばこの聖塔が思い浮かぶ。

 




●このシュメール人の存在は、わずか150年ほど前の1850年代まで、全く知られていなかった。

メソポタミアの歴史に詳しい聖書も、古代ギリシア・ローマの文学も、シュメール人については一言も触れていない。シュメールという名称そのものが、数千年の長きにわたって、人類の記憶から消え去っていたのである。現在でも、シュメール文明の興亡は、人類史上最大の謎のひとつとされ、歴史学はそれを「シュメール人問題」と呼び、解き明かせぬ歴史上の難問のシンボルとして扱っている。

 



シュメールは、数多くの文明が興亡を繰り返してきた
メソポタミア地方の最南部に興った。だが、
いつ、どのような経路を通ってその地に
やってきたのか誰も知らない。

 

●20世紀になって欧米考古学者、言語学者、オリエント史学者によって解読され始めたシュメール人の文字と言語は、次のようなことが明らかになっている。




【1】シュメールの楔形文字は、漢字の形成とほぼ同じ過程を経て成立した

【2】シュメール文字は現代日本語の漢字仮名まじりと同じ構造をもつ

【3】シュメール文字は子音のみならず母音をも記す(シュメール周辺のセム系言語の文字は、子音のみを表記する)

【4】シュメール語は膠着語である


※ 日本人は漢字仮名まじり文章で生活しており、日本語の文法は膠着語(にかわで接着するの意で、テニヲハの接着語によって単語がぺったりとくっつくさまを示す)系統に属する。更に日本語は、母音が非常に強調される特色がある。

 


シュメール文字の発達経過を示した表。
人類が使っている文字の源流がここにある。

 

●日本において、シュメール文明についての研究は、戦前早くから進められてきた。「スメル学会」や「バビロニア学会」が組織され、何冊もの研究報告が出版されていたのである。

だが、そんな研究報告の多くがあまりにも驚異的な内容を含んでいたので、戦後の“実証主義”の歴史学のなかで、ほとんど故意に抹殺されてしまった。そこに共通する論点が、だれもが予想もしないような「日本人シュメール起源説」だったからである。

もっとも、それを最初に唱えたのは日本人ではなかった。元禄時代、日本にやってきたドイツ系のオランダ人歴史学者ケンペルである。日本の歴史を研究した彼は「高天原はバビロニアにあった」とし、「日本人は、はるか西方のその源郷から渡来した」と提唱したのである。

 



 

●しかし、当時の日本には、まだ、民族の歴史を世界史規模で考えるだけの視野がなく、注目する人もいなかった。

が、大正年間になって、バビロニア語を学んだ原田敬吾氏がこのケンペル説を踏まえ、新たに「日本人シュメール起源説」を発表したのである。

「人類発生の原点とみられる西アルメニア高原から流れ出す、チグリス・ユーフラテス川下流域の沃野シュメールの地──この平原こそ、人類最初の楽園“エデンの園”(シュメール語でエディンとは平野のこと)であり、日本民族の祖先もここから移り住んできたのだ。」


●これが原田説の骨子だが、彼は論拠として「シュメールの日の神ウト、海の神ヤーなどが、広く日本で崇拝された痕跡があること」、「創世神話、イシュタル女神の冥界下りなど、シュメール神話の多くが、日本神話に取り入れられていること」、「古事記のイザナギノミコトの服装が、シュメール君主の服装に合致すること」、「シュメール人は元来海辺の民で、航海術にたけていたこと」、「日本語の地理的名称にシュメール系の言葉が多いこと」──などをあげている。

原田氏がこの「日本人シュメール起源説」を最初に提示したのは、大正7年11月の「バビロン学会」。当時、シュメール学は現在とは比較にならないほど未熟だったが、そのなかでこれだけダイナミックな仮説を唱えることができたのである。





●この原田説を継承、発展させたのが三島敦雄氏である。

伊予大三島神社に奉職し、神社・古典に造詣の深い三島氏は、昭和2年12月に発行した『天孫人種六千年史の研究』で、「日本人シュメール起源説」を論じている。これは600ページ近い大著で、その論証は多岐にわたっている。

 


緻密な論証によって、日本人の起源を
シュメールに求めた三島敦雄氏の
『天孫人種六千年史の研究』

 

●まず、三島氏はいう。

「古語に天皇をスメラミコトとも、スメラギ、ミカド、明津神とも申しあげることは、国家としてはかつて国の基底であった。なのにこれら原始時代の言語は、すでに遠く古代においての言義を忘失し、ために我々が民族史も国語の理想信仰も、不徹底ならざるを得なかった。しかしその語源を徹底研究することによって、われらが日本人の本源は、さながら暗雲を破れる旭日を仰ぐ感じでわかってくるのである。」

この語源とは何か。

「スメ(皇)、スメラ(天皇)とは古代バビロニア語のスメル(Sumer)と同語で、ル、ラは助辞の変化、シュメールとも発音された。このスメとは神の意で、ラテン語のスメ(Summae)も至上至高の意で同系語である。スメ(皇)をすべ(統)の意に解して“統制”の意にするのは、はなはだしい間違いで、天皇=神であり、スメル国は皇(スメ)国と一致して神国ということなのだ。また、スメラギとはスメル、アグ(AK)の複称であり、ミコト(尊、命)、ミカド(天皇)の言語はミグト(Migut)の転訛で“天降る開拓者”すなわち神ということ。明津神とは、シュメール語の日神ウツ(Ut)の御子たる火神アグの権化として、この国土に降りたまわったのだ。」


すなわち、三島氏によれば天皇の古語はすべてシュメール語で解釈でき、いずれも“天から降られた神”を意味している。とすれば、古代の日本に天皇をいただいて天降った(=渡来した)民族は、シュメールの王族とその民だった──ということになる。

また、古代バビロニアの日像鏡、月像の首かざり、武神のシンボルである剣は、日本の三種の神器に一致し、古代バビロニアに多く見られる菊花紋は旭日を美術化したもので、皇室の菊花紋章に一致する──とも指摘して、証拠を次々に突きつけている。


●ただ、三島氏は日本に渡来したのはシュメール人だけではない、と考えていた。

彼は大陸の東端にある日本列島には、様々な民族が渡来・漂着していたことにも注目していた。たとえば倭人派は前インドのクメール族であり、隼人派と前出雲派はマラヤ・ポリネシヤ族、後出雲派は朝鮮ツングース族などである。

結局、三島氏の日本人シュメール起源説を要約すると、次のようなものになる。

「古代の日本列島にはさまざまな民族が渡ってきたが、建国の大業を経営統一した中心人種は、世界の諸文明の祖であるシュメール系民族だった。彼らは今から数千年前その大宗家たる皇室を奉戴して、人類文明の揺りかごである西の豊葦原の瑞穂の国から、日出ずる豊葦原の瑞穂の国に移住し、シュメール人本来の大理想を表現するためにこの日本を築いた」……と。





●この三島氏に先立つ大正10年、『古事記神話の新研究』で、やはりシュメールの故地メソポタミアと日本文明との関係を追求したのが石川三四郎氏である。

石川氏は明治時代に活躍したキリスト教社会主義者だが、社会運動への弾圧が厳しくなるなかで日本を脱出。ヨーロッパや北アフリカを流転して歩いた。この本の構想はその放浪生活の中で生まれたもので、したがって用いられた資料の多くは西洋のものであった。

石川氏もまた、日本とメソポタミアの文明が非常によく似ていることを、シュメール神話と日本神話の比較などから指摘する。が、彼の場合、直接的な日本人シュメール起源説をとらず、そのメソポタミア文明の媒介者としてヒッタイト民族を置くのである。

 


メソポタミアと日本文明の関係を
追究した石川三四郎氏の
『古事記神話の新研究』

 

●“鉄を発明した民族”として知られるヒッタイト人は、紀元前2000年ごろ、いずこからともなく現れて、トルコ・アナトリア高原に一大王国を築く。その勢力はシュメール文明を継承したバビロニア王国を滅ぼし、当時、世界最強を誇ったエジプトを破るほど強大だったが、紀元前13世紀末に突如として消息を絶ってしまう。

ヒッタイト人もまた、シュメール人と同様、どこから現れ、どうやってその“鉄の文明”を築き、どこへ行ってしまったのか、まったく解明されていない謎の民族である。が、石川氏はいう。

「私はこのバビロンの神話を日本に伝えたのはおそらくヒッタイト民族であろう、ヒッタイト民族はすなわち我らが天孫民族であろう、と信じる者である。」


彼はその証拠として、




【1】天忍穂耳命が「正勝吾勝勝速目」の名を自ら冠り、「吾れカチカチ」と名乗ったこと。

【2】その「カチ、カチ」民族すなわちヒッタイトであること。

【3】ヒッタイトの岩屋生活は、天孫民族の天の岩屋戸に酷似すること。

【4】天孫民族の八咫烏(やたがらす)はヒッタイトの両頭鷲像に似ていること。

【5】古事記が諸神を『柱』の語で数えるのは、ヒッタイト人が『柱』形をもって国王を表徴するのと同じ意義を持っていること。


など9項目をあげ、それを詳しく論証している。

 


強大な勢力によって、当時、世界最強の
エジプト軍さえ打ち破ったヒッタイト人

ヒッタイト人もまた、シュメール人と同様、どこから現れ、
どうやってその“鉄の文明”を築き、どこへ行ってしまった
のか、まったく解明されていない謎の民族である

 

●更に注目すべきことは、石川氏が“ヒッタイト人の謎”に挑戦していることである。

彼は、紀元前2004年にメソポタミアから突然姿を消したシュメール人こそ、ヒッタイト民族の祖先ではなかったか、と考える。なぜならば、シュメール人の消失とヒッタイト人の登場は、ほとんど時期を同じくしており、シュメール人の滅亡を歌ったメソポタミアの哀歌は“彼らは遠い山中に連れ去られた”ともいっているからだ。

また、アナトリアの厳しい自然の中に、突然、高度な金属技術を持った新しい文明が誕生した謎も、彼らがシュメール人だったとしたら、たちどころに氷解する。そして何よりもヒッタイト人は文字を扱うことに優れていた。ヒッタイトの遺跡のひとつでは、古代世界最大の粘土板文書図書館が発掘され、そこには、当時メソポタミアで使われていた全ての言葉が記録されていたのである。つまり、石川説もまた、少し形をかえた「日本人シュメール起源説」なのである。





●ところで、「シュメール起源説」と「日ユ同祖論」はどのような関係にあるのだろうか?

戦前、東洋宣教師会ホーリネス教会を指導した中田重治氏は、日ユ同祖論の熱心な提唱者だったが、彼が昭和7年に出版した『聖書より見たる日本』によれば、彼もまた聖書のいうヘテ人=ヒッタイト人に注目しているのである。

彼は次のように述べている。

「このヘテ人と文明の祖となったシュメール人とは非常な関係があり、あるいはヘテ人はシュメール人の一部ではなかったろうかとさえいわれている。このヘテ人が今より2500年前、古代イスラエル王国の滅亡とともにどうなったかわからなくなってしまった。しかるに、オックスフォード大学の考古学の権威セイヌ博士の発表したところによれば、それは日本人である。その骨格、その顔つきは日本人にひどく似ていて、目尻が上がっており、髪はわが神武天皇時代の人を絵に見るように、弁髪を束ねていたとのことである。日本人の中にたしかにこのヘテ人の血が入っているとは、私ひとりの想像ではないと思う。」


●これは石川説とほとんど軌を一にしている。

そして、シュメールとの関係についてはこう述べている。

「シュメール人は聖書のエラム、すなわち今のぺルシアの都スサに居住して発展したとのことであるが、日本の古代史にスサノオノミコトが兵を引きつれて東に上ったとあるが、あるいはこれは、その都のひとりの王ではなかったろうかとも想像できる。」

もちろん、中田説の中心は“日本人はセム系の古代イスラエル民族を中心として形成された特殊の民である”ということにある。が、メソポタミアの歴史を追求していくと、そんな日ユ同祖論者も、シュメール人やヒッタイト人の存在を無視できなくなってしまうようである。





●ちなみに、元衆議院議員の黒岩重治氏は、『大和民族の発祥』という私家本の小冊子で三島説をやや発展させた説を提示しているが、この中で、黒岩氏は次のように述べている。

「ユダヤ人の祖先であるヘブライ人は、スメルの奴隷であった。そして、スメルがヒッタイト族に敗退したとき、スメルの奴隷のヘブライ人は、一部はヒッタイト軍に降伏し、一部はスメルによって解放され、アラビア半島に移ったのである。」





●なお、八切止夫氏の『天皇アラブ渡来説』によれば、三島氏の著作『天孫人種六千年史の研究』は、昭和10年代には陸軍大学、陸軍士官学校の課外読本の一つに採用され、ペルシャ作戦、アラブ侵攻計画といった机上演習もなされたという。つまり、昭和11年以降、三島氏の本は時代の流れの最尖端を行く超ベストセラー(合計100万部近い)であったという。

しかし、1945年8月の敗戦後、アメリカの占領軍は、この本を1冊残らず探しだして没収し焼却した(焚書)、と八切氏は述べている。

 


八切止夫氏の
『天皇アラブ渡来説』

 

●ところで、最近、シュメールと古代日本をめぐる謎に関して、世界的なレベルで関心が高まっているといえる。

たとえば、アメリカ・オリエント学会は、その学会誌の1988年第1号の巻頭に『ムル・ムルからスバルヘ』という論文を掲載している。シュメール学の権威であるS・N・クレーマーによれば、

「ついこの間まで、プレアデス星団を指すシュメール語ムル・ムルと、この星々を表す日本語スバルとの間に、何か歴史的な、あるいは文化的なつながりを想定するなど、だれにも夢想だにできないことだった。それが優れたオリエント学者ロイ・ミラーが、権威あるアメリカ・オリエント学会の会長講演をもとに加筆し“スバルの跡をたどれば、本当にシュメールの昔にまで行き着く”ことを論証したのである」という内容の論文だった。

そして彼は「将来のオリエント学は、日本の文化と古代シュメール文化の間に、このほかの様々なつながりを発見するだろう。このような比較研究は、近年までは想像もされないことだったが!」と言っているのである。


●また、今、日本列島で衝撃的な発見が相次いでいる。

まず最初に山口県下関市の西端、関門海峡を目の前にする彦島から、奇妙な模様=「ペトログラフ」を刻んだ石が次々に発見された。解読を進めるにつれ、驚愕の事実がわかってきた。なんと、それは、シュメールの古代文字だったのである。更にこの後、ペトログラフは、九州北部と山口県西部の各地で相次いで発見された。このペトログラフの発見のニュースは、日本国内よりも海外でより注目され、高く評価されている。


●日本のペトログラフ研究のパイオニアである吉田信啓氏は、アメリカ岩刻学会が主催する国際学会に初めて招待された時の感想を次のように述べている。

「欧米の学者が“環太平洋にペトログラフがある以上、日本列島にも当然ペトログラフが存在するはずだ”という仮説を立てていたところへ、私が日本の資料を持っていったのである。彼らの仮説を証明する形になって、休憩時間にも質問ぜめにあい、コーヒーを飲む暇もなかった。海外でこれほど大きな反響があるとは、最初は全く思ってもみなかった。」

[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月18日 22時32分56秒 ) パスワード

その他、御興味がお有りでしたら下記URLへ。


https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA+%E6%97%A5%E6%9C%AC
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月19日 06時20分42秒 ) パスワード

レス<4>

>賀茂氏と三輪氏は同族というけれど、その違いがよくわからない


賀茂氏に3種類あるようですね。
賀茂氏と三輪氏が同族というのは  (2) に書かれていますね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E6%B0%8F

賀茂氏

賀茂氏(かもうじ/し、加茂氏・鴨氏・加毛氏とも)は、「賀茂(加茂・鴨・加毛)」を氏とする氏族。



   1 天神系(賀茂県主) 1.1 出自に関する諸説  ←  ここで秦氏がからみます
                             上賀茂神社・下賀茂神社の神職さん系ですね

                             別格の高い身分の賀茂氏で良いでしょうか?

                             桓武天皇が一目置いていた賀茂氏ですね



   2 地祇系(三輪氏族)             ← ここで賀茂氏と三輪氏が同族?
                            平安時代に陰陽道で活躍する賀茂氏ですね
                            職業系貴族で、身分はかなり低いか?


     
    なるほど
    1と2が混乱するんですね。
    3は1の派生ということで良いでしょうか?


   3 備前鴨(加茂)氏              ← 岡山の加茂氏ですね
                            賀茂神社の備前出張所の加茂氏で豪族ということかな?



1.
天神系(賀茂県主)[編集]

八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命[1]を始祖とする天神系氏族[2]。

代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡・愛宕郡を支配した。

子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となった。

また、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。      ← あらら  秦氏が!


氏人には鴨長明(下鴨社家)、賀茂真淵(上賀茂社家)がいる。



出自に関する諸説[編集]

山城国葛野の賀茂県主は、大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説がある。
『山城国風土記』逸文では、賀茂県主の祖の賀茂建角身命は神武天皇の先導をした後、
大和の葛城を通って山城国へ至ったとしている。

しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。

また、『出雲風土記』では意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、
また現在の島根県安来市には賀茂神社があり、
祖神である一言主の同一神、言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もある。



2.
地祇系(三輪氏族)[編集]       賀茂氏と三輪氏が同族という説明です
                   賀茂氏は三輪氏の一部
                   この賀茂氏は天武天皇の御世に脚光を浴びる?


大物主(三輪明神)の子である[3][4]大田田根子の孫大鴨積を始祖とする[4][5]、三輪氏族に属する地祇系氏族。

大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。
姓は君のち朝臣。


大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された[6]。
なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。

姓は君であったが、壬申の乱の功臣である鴨蝦夷を出し、天武天皇(684年)13年に朝臣姓を賜与された。


平安時代中期には陰陽博士の賀茂忠行を輩出し、
その弟子である安倍晴明が興した安倍氏と並んで陰陽道の宗家となり、
子孫は暦道を伝えた。

賀茂忠行の子には家業を継いだ賀茂保憲や儒学者に転じた慶滋保胤がいる。


室町時代には、嫡流が勘解由小路家を称して堂上家となり代々陰陽頭を務めたが、戦国時代に断絶した。
なお、庶流の幸徳井家は江戸時代も地下家として続き、江戸時代初期は陰陽頭を務めるが、
幸徳井友傳の死後、安倍氏系の土御門泰福に陰陽道の宗家の地位を奪われ、
中期以降は陰陽助を務めた。



3.
備前鴨(加茂)氏[編集]

平城京跡出土の木簡(735年(天平7年)から747年(天平19年)までの間の木の札)に、「備前国児嶋郡賀茂郷・鴨直君麻呂調塩三斗」 と墨で書かれたものがある。

賀茂郷の鴨の君麻呂という豪族が、三斗という大量の塩を奈良に送っており、鴨神社の荘園の預り主であったということが窺える。

なお、当時の賀茂郷が現在の荘内と宇野・玉・日比・渋川までの範囲であり、南北共に海に面していた。

当時の製塩土器である師楽式土器の分布状態から見ると、南岸で製塩されたものとされているが、下加茂村は北岸という地理的利便性から、こちら側でも製塩されたものと思われる。


鴨直君麻呂との関係は不明であるが、「宇喜多氏系図」(備前藩大森景頼所蔵)や岡山の歴史書などには、宇喜多氏の系譜を汲むとされる加茂次郎の名前が見え、備前児島半島を東児島、中児島、西児島と分けた中の、中児島に住んだとされる。


1903年(明治36年)まで児島郡に上加茂村と下加茂村があったが、合併して荘内村となった。なお、鴨神社や加茂神社があり、両神社の間を鴨川が流れている。

特に鴨神社は平安期初頭に創建され、大和国葛上郡加茂の高鴨神社から味鋤高日子根命を祭神として勧請した。延喜初年の創建とされる児島郡内最古の神社であり、延喜式神名帳では備前国式内23社の内の1社である。


備中連島(戦国時代以前は備前国児島郡都羅郷)の、連嶋町史(昭和31年発行、発行者 連島町誌編纂会)第八章 連島の古城址に、北茂城の城主として、1735年(享保20年)に編纂された『古戦場備中府志』(平川親忠著)巻の五 浅口郡の条下には、当城主に吉備大臣の嫡孫右京太夫光栄としている。伝云、孝謙天皇天平勝宝四年五月賀茂朝臣を賜る、天文暦数を掌る、一家両道を兼ねて宝器を保つ、暦道を以て其子光栄に伝へ天文道を以て弟子安部の晴明に伝う、自此己後両道相分つ云々と記述されている。この伝云う記事は『右大臣吉備公傳纂釈』より引用したものと思われ、重野安繹『右大臣吉備公傳纂釈』(『岡山県通史』上編374頁 編著永山卯三郎)には、或いは伝う陰陽道博士賀茂保憲は吉備公の裔なり、天文博士を兼ね、973年~975年(天延中)に暦を造り暦道を其子光栄に伝へ天文道を安部晴明に伝うとの記事があることから、右京太夫光栄は賀茂光栄であったことになるが、納得し兼ねるとしている。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月19日 06時52分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 さすがあを様、あけてびっくり玉手箱です!

 よくぞ調べていただきました!!

 私の旅行疲れも蒸暑さによる頭脳オーバーヒートボケもいっぺんに吹っ飛び

ました。

 ありがとうございます。パワーをいただきました。目が覚めました。

 いただいた情報これからじっくり味わって解読いたします。


 三輪氏から賀茂氏へ、そして秦氏がからむという大きな流れのように思われ

ます。三輪氏と賀茂氏のどちらがステータスが高いのかまた黒幕なのか、

その辺をさらに探究したいですね。


 とりあえずは、ここで。またアップします。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月19日 08時26分42秒 ) パスワード

恐縮です。



次に賀茂氏と秦氏の関係を調べたいと思います。


http://www.bell.jp/pancho/travel/hata/preface.htm
ここに賀茂氏や秦氏や土師氏や八坂氏の勢力図が出ています。



1.
葛城山麓から京都盆地に進出してきた鴨族

奈良県の金剛山の東側山麓は開けた段丘上の斜面をなしている。弥生時代に、この斜面に住み着いて陸稲や稗、粟などの畑作農耕に従事した集団がいた。鴨族と呼ばれた一族である。御所市鴨神に高鴨神社という神社がある。鴨一族がその発祥の地に建てた氏神社である。

弥生時代の中頃、鴨族の一部が金剛山の東斜面から大和平野の西南端にある今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波(かもつは)神社をまつって水稲栽培をはじめた。また御所市東持田の地に移った一派も葛木御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作に入った。それで、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになった。ともに鴨一族の神社である。

その鴨族の出自を求めると、神武天皇東遷の時烏(カラス)に化けて天皇を熊野から大和へ道案内した賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)に行き着く。大和を平定した後の論功行賞で、神武天皇はその功に対して厚く報償したという。そのときから賀茂建角身命を八咫烏(やたがらす)と称するようになった。




平安遷都以前の山背の豪族分布


『山城国風土記』逸文によると、大和の葛城山にいた賀茂建角身命が山代の国の岡田の賀茂に至り、木津川を下り、葛野川(桂川)と賀茂川の合流点までやってきた。そして北方の賀茂川を見渡し、「狭く小さいけれど石川の清川なり」と述べ、「石川の瀬見の小川」と名付けた。その後、賀茂建角身命は賀茂川の上流の久我の山麓に住むようになった、と伝えている。神が一人で移ることはない。その神を祀る集団の移動するのである。すなわち、何時のころか、葛城山麓を離れた鴨氏の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して、この地に定着した史実を伝えている。


      賀茂氏と秦氏の関係
        ↓


やがて、鴨族はヤマト王権の支配下に組み入れられて賀茂氏を名乗るようになり、その族長は賀茂県主(かものあがたぬし)と呼ばれた。

鴨族が京都盆地に定着した時期はよく分かっていない。

一般には、渡来系氏族の秦氏より早くから住み着いていたように考えられている。

しかし、鴨族は秦氏と同時に大和からやってきたとする説もある。
『新撰姓氏録』には、応神14年に渡来した秦氏が「大和朝津間腋上地(わきがみのち)」に住んだという記述がある。

この腋上は、鴨族が盤踞していた葛城山の東山麓に位置している。
このため、秦氏の移住と時を同じくして、鴨族の京都盆地に入り込んできた、というわけである。


鴨族は賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を氏神として祀り、一族の紐帯を強めていた。

上賀茂神社の社伝によれば、この神は賀茂建角身命の娘・玉依比売命(たまよりひめのみこと)と山代の乙訓(おとくに)社の火雷神(ほのいかづちのかみ)との間に生まれた若き雷神である。

だが、『古事記』は賀茂別雷大神の父親を火雷神ではなく、大山咋神(おおやまくいのかみ)としている。

大山咋神は秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大宝元年(701)に建立した松尾大社の祭神である。


     ↑ 
    古事記によると鴨族の氏神である賀茂別雷大神の父親は松尾大社の祭神である大山咋神で
    松尾大社は秦忌寸都理が701年に建立。


        ここで賀茂氏と秦氏が繋がりましたね



      秦氏と賀茂氏は婚姻関係で結ばれた間柄
            ↓
このため、秦氏と賀茂氏とは婚姻関係で結ばれていたこと、
上下賀茂神社の神と松尾大社の神とは共通の姻族神であったことがうかがえる。

さらに、稲荷神社を創建した秦伊侶具(いろぐ)は、賀茂県主久治良(くじら)の子で、
松尾大社の鴨禰宜板持と兄弟という伝承も、稲荷神社に伝わっているとのことだ。
            ↑
      稲荷神社創建主の秦伊侶具は 1 賀茂県主久治良の子で
                    2 松尾大社の鴨禰宜板持と兄弟   


            すっごい話が出ましたね
            ビックリ



 『日本書紀』に記された秦氏のプロフィール

「秦氏」とは?

京都の古代を語るとき、伝承や文献資料に常に登場する氏族がいる。
葛野大堰(かどのおおい)を築いたとされる秦(はた)氏である。

ヤマト・飛鳥を拠点とした東漢(やまとのあや)氏や河内地方を本拠とした西文(かわちのふみ)氏と同じく、秦氏も朝鮮半島から渡来した氏族である。蚕養や機織り、金工、土木などに優れた技術を有し、どちらかというと中央政権と関わるよりも、地方に根を張っていった殖産的豪族だったとされている。

そのためか、著名な氏族である割には、氏族の系譜や一族の足跡が史書にあまり記されていない。秦氏について、史書から知ることのできる内容は、せいぜい下記のことぐらいである。

        大事!
         ↓
平安時代の初め、弘仁6年(815)に作られた『新撰姓氏録』という書物がある。平安京の左右両京や畿内諸国に居住していた当時の氏族について、その系統、氏名の由来、賜氏姓の時期などを記したものだ。その中で、秦氏の出自は、「秦の始皇帝の末裔」となっている。

だが、『新撰姓氏録』の記事はあまり信用できない。

秦氏は、平安初期の中国文化礼賛に便乗して、伝承の改変を行ない、中国の皇帝との系譜的な結合をはかろうとしたものと思われる。
同じ例が東漢氏についても言える。東漢氏は、後漢霊帝の曾孫阿智王(阿知使主)を先祖としている。


            真相?
             ↓
一方、『日本書紀』は、応神14年のこととして、秦造(はたのみやつこ)の祖・弓月君(ゆづきのきみ)の次のような来朝説話を載せている。

すなわち、この年弓月君が百済からやってきたが、彼が奏上して言うには、
「私は、私の国の120県の民を率いてやってきた。だが、新羅人に邪魔されてため、彼らを加羅国(からのくに)残したまま来朝した」。

そこで、天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を派遣して、弓月君の民を連れてこさせたという。


しかし、この伝承も信用できない。

応神天皇は4世紀末ごろの大王とされている。
その頃の朝鮮半島南部では、新羅は加羅諸国に侵入する国力はまだなかった。

新羅が加羅諸国を脅かすようになるのは6世紀になってからである。

「秦」は、波陀とも書いて”ハタ”と読む。
韓国語では海のことを”パタ”と言う。

そのため、もともとは海からやってきた人々という意味で秦氏と呼ぶようになったとする説が有力である。

      つまり秦氏は海からやってきた人々?


応神14年の弓月君来朝記事にある程度史実性があるとすれば、4世紀末から5世紀の初めころには、弓月君を長とする一族が、朝鮮半島南部からやってきたということだろう。

だが、応神紀には、渡来関係の記事が多く掲載されている。

どうも『日本書紀』編纂の時点で、渡来系氏族の伝承の編修が行われたようだ。したがって、弓月君の来朝時期が史実であるという保証はない。



弓月君は120県の民を引き連れて来朝したというが、これは実数ではなく誇張であろう。だが、後で述べるように、一族の者たちが多くの臣(おみ)や連(むらじ)に四散して配属されたようだから、相当数の人間が渡来してきたことは事実のようだ。

ただ、一度に大挙してやってきたとは考えにくい。
一定の期間に波状的に何回も渡来が繰り返されたと見るべきである。


ただし、葛野大堰が設けられたのは5世紀後半とされていることから、一族が葛野に定住するようになった時期は、5世紀前半ごろと見なして大差はないであろう。




 『日本書紀』に登場する秦氏の人々

『日本書紀』でその伝承や記録が記されている秦氏の人物は、秦酒公(はたのさかのきみ)、秦大津父(はたのおおつち)、および秦河勝(はたのかわかつ)の3名である。。

1.
秦酒公の名は、雄略天皇(在位456 - 479?)の時代の記述に登場する。
天皇は寵愛する秦酒公のために、それぞれの臣(おみ)や連(むらじ)に四散して使われていた秦氏の民を集めてやった。
その礼として、酒公は絹やカトリ(上質の絹)を献上して、朝庭にうず高く積み上げたという。
しかし、これは後に秦氏の本拠地となった禹豆麻佐(うずまさ、太秦)という地名の起源説話であり、史実とは思えない。


2.
秦大津父は山背国の深草の住人である。
欽明天皇(在位539 - 571)はこの大津父を寵愛し、即位するとすぐに、国家の財政をあずかる要職である大蔵の官に任じたという。
大津父については、次のような逸話が残されている。
欽明天皇が即位する以前に、「大津父というものを寵愛すれば、壮年になって必ず天下を治められるであろう」との夢のお告げがあった。そこで、深草の里から大津父を探しだし、近くに侍らして手厚く遇した。
そのため、大津父は富を重ねることになったという。


3.
秦河勝については、『日本書紀』の3カ所に記載がある。
推古11年(603)11月、聖徳太子は大夫(たいふ)たちに「私は尊い仏像を持っている、だれかこの仏像を祀るものはいないか」と言われた。
そのとき、秦河勝が進んで申し出て仏像を貰い受け、蜂岡寺(今の広隆寺)を建立したという。
それから7年後、推古18年(610)10月、新羅と任那の使節が推古天皇の小墾田(おわりだ)の宮に入京したとき、河勝は新羅使節の先導役も務めている。


こうした記述から判断すると、『日本書紀』は推古朝における大夫の一人として河勝を見ているようだが、一般には聖徳太子の側近か、あるいは聖徳太子の政治を陰で支えたスポンサーとして河勝を見ている。




秦氏の系譜

その後にもう一度、河勝の名が『日本書紀』に登場する。
皇極3年(644)7月、東国の富士川のほとりに住む大生部多(おおふべのおお)が、蚕に似た虫を常世(とこよ)の神として、この神を祀れば富と長寿が得られるといって信仰を勧めた。

この新興宗教に似た騒動は瞬く間に広がり、都でも田舎でも常世の神を捕まえて安置し、歌い踊って福を求め財宝を投げ出した。
民衆を惑わすこうした信仰を憎んで大生部多を懲らしめた人物がいる。

それが秦河勝である。
常世の神といいふらした者を懲らしめた河勝は、神の中の神であるとのざれ歌がはやったという。



上に述べた3人について、その具体的な系譜は知られていない。
3人の関係を図のようにとらえる説もあるが、この系図が正しいかどうかは不明である。




 秦氏による桂川流域一帯の掌握

現在の桂川は、古くは葛野川と呼ばれていた。上に述べたように、葛野川は梅雨時期や台風シーズンには、きまって洪水を引き起こし、流路もそのたびに変わった。だが、この暴れ川のおかげで、その流域は京都盆地でももっとも肥沃な土地であった。だから、古墳時代前期(4世紀)には、葛野川右岸を支配していた豪族がいた。彼らは京都盆地で最も古い首長墓を現在の向日町付近に築造している。したがって、洪水の不安を解消できれば、葛野川流域が有数の穀倉地帯になることは分かっていた。残念ながら、当時の治水技術では、この暴れ川を制することはできなかった。

          秦氏の活躍:治水工事編

それを可能にしたのが、高い水準の土木技術をもって京都盆地に入植してきた秦氏である。

秦氏は5世紀中葉以前にすでに盆地の深草に居を構えていたが、5世紀後半に深草の地から葛野にその本拠を移したと思われる。彼らは葛野大堰を築造し、水路を造成し、田畑を開拓した。水を制するものは土地も人も制する。葛野川流域で農業を営んでいた住民たちは、大堰築造の恩恵を受け、秦一族の支配下に組み入れられていった。


このことを裏付けるように、5世紀後半になると、それまで古墳が全く築造されなかった嵯峨野丘陵に突然首長墓が出現する。現存する最古の首長墓は清水山古墳だが、それに続いて、天塚、仲野親王陵古墳、馬塚、蛇塚古墳が継続的に築造され、最後に双ケ丘の一ノ丘に円墳が築かれた。この双ケ丘1号古墳の築造時期は7世紀前半とされている。

このように5世紀後半以降、嵯峨野に大型首長墓を築き続けたのは、葛野大堰の建設によって葛野川の治水に成功し、盆地の最も肥沃な一帯を支配下においた秦一族である。






 秦氏にちなむ神社と仏閣

京都市右京区太秦(うずまさ)は、御室(おむろ)川の西、双ケ岡(ならびがおか)の南の地域である。この地には、秦氏が氏寺として創建したと伝えられる京都最古の名刹・広隆寺がある。また、秦氏にちなむ神社として大酒神社、蚕の社、松尾大社がある。一方、秦氏のもう一つの根拠地とされる深草(ふかくさ)には、伏見稲荷神社がある。



広隆寺の創建に関しては、二つの説がある。『日本書紀』は、推古天皇11年(603)に秦河勝が聖徳太子から仏像を賜り創建したと伝えている。また、聖徳太子が推古天皇30年(622)に没したとき、その供養のために秦河勝が建立し、翌年に新羅から献じられた仏像を納めたとも言われる。当初は北区の平野神社付近にあったが、平安遷都の際に現在の地に移転したと考えられている。



大酒神社は『延喜式』(*)の神名帳にも記載されている古社で、一名を太秦名神といい、秦酒公(はたのさけのきみ)を祭神として祀っている。以前は、秦氏の氏寺・広隆寺の中にある桂宮院の守護神として境内に祀られていたが、明治初年の廃仏毀釈によって現在の場所に移された。
(*)『延喜式』は、平安時代の延喜5年(905)に編修を開始、延長5年(927)に完成、康保4年(967)から施行された。


蚕の社は、木島(このしま)神社の摂社で、蚕養の守り神として萬機姫(よろずはたひめ)を祀っている。



松尾大社は、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大宝元年(701)に創祀したと伝えられる延喜式の古社で、大山咋(おおやまくい)神と市杵島姫(いちきねのしまひめ)命を祭神として祀っている。



伏見稲荷神社は、和銅4年(711)に秦伊呂具(はたのいろぐ)が三つ峰に社殿を建て倉稲魂命(くらいなたまのみこと)を祭神として祀ったのが始まりとされている。そのいきさつについて、面白い伝承が伝わっている。伊呂具は稲束を積み上げて金持ちになり、その米で餅を作り弓矢の的にしたところ、的にされた餅が白鳥になって飛んで行き、三つ峰の頂上に飛び降りた。その場所から”稲が成った”ので、伊呂具は不思議に思い、社殿を建てたというのである。その後、1438年に社殿は現在地に移され、秦氏の子孫によって累代にわたって奉祭されているという。




 秦氏の首長の墓だと言われている古墳

葛野には、秦氏の族長を埋葬したされる古墳が数ケ所ある。その中でも、太秦面影町にある蛇塚古墳と、嵯峨野の東端にある双ケ丘(ならびがおか)の頂上にある双ケ丘1号古墳は巨大である。


蛇塚古墳
太秦面影町の蛇塚古墳

蛇塚古墳は、京福電鉄嵐山線「帷子ケ辻(からびらのつじ)」駅の南の住宅街に位置している。曲がりくねった狭い路地を進むと、石室部分の巨大な積み石を露出した異様な景観が突然姿を現す。その積み石が構築した石室の内部空間は、明日香村の石舞台に次いで広い。

双ケ丘は南北に一直線に三つの丘が並ぶ丘で、北から一の丘、二の丘、三の丘と呼ばれ、全体が国の名勝に指定されている。丘と丘の間には多数の小円墳が群集して築かれているが、一の丘の頂上には双ケ丘1号古墳と呼ばれている大型の円墳がある。






 古代豪族・賀茂氏の氏神として知られる神社

下鴨神社
下鴨神社

京都市街の東部を流れる賀茂(かも)川は、高野(たかの)川と合流する三角州あたりで鴨(かも)川と名前を変える。この賀茂(鴨)川は古代に禊(みそぎ)が行われた聖なる川である。その川沿いに、京都きっての古社がある。賀茂川にかかる御園橋の東にある上賀茂神社と、鴨川の葵橋の東にある下鴨神社だ。いずれも、古代豪族・鴨族が奉祀してきた神々を祭神とする山城国の一ノ宮である。

鴨族は、葛城山に住んでいた賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を氏神としていた。神武天皇東遷の時、天皇を熊野から大和へ道案内した人物である。山野を行く姿が勇猛で、烏が空を飛ぶようであったことから、後に八咫烏(やたがらす)の名で尊称された。『山城国風土記』逸文によると、この賀茂建角身命が、葛城山の峰から山代国に移ったと記している。

賀茂建角身命は丹波から伊賀古夜比売(いかこやひめ)を娶り、玉依日子命(たまよりひこのみこと)と玉依比売命(たまよりひめのみこと)という二人の子をもうけた。玉依日子命は、後に父の跡をついで賀茂県主(かものあがたぬし)になったとされている。妹の玉依比売が瀬見の小川(現在の賀茂川)で川遊びをしていると、川上から一本の丹(に)塗りの矢が流れてきた。それを持ち帰ったところ、たちまちに懐妊して、賀茂別雷神(かものわけいかづちのかみ)を生んだという。 

上賀茂神社はこの賀茂別雷神を祭神として祀っている。したがって正式な呼称は賀茂別雷社(かもわけいかづちのかみのやしろ)である。一方、下鴨神社は母の玉依比売命と外祖父の賀茂建角身命を祀っている。このため正式には賀茂御祖社(かもみおやのやしろ)と呼ばれる。


      秦氏と上下賀茂神社の関係

秦氏が、この上賀茂神社・下鴨神社の創建に関係がある。というのは、別雷神の父、すなわち玉依比売の夫は火雷神(ほのいかづちのかみ)とされているが、『古事記』はこの神が京都の松尾大社に祀られている大山咋神(おおやまくいのかみ)であるとしている。

さらに、伏見稲荷の祠官家大西家の家系図は、伏見稲荷の創始者・秦伊侶具(はたのいろぐ)が鴨県主久治良の子であり、松尾大社の創始者・秦都理(はたのとり)が鴨禰宜板持と兄弟であったとしている。また、鴨県主家伝では、賀茂社の禰宜黒彦の弟の伊侶具と都理が秦の姓を賜り、それぞれ伏見稲荷と松尾大社を作ったことになる。これでは、伊侶具も都理も鴨氏の出身ということになってしまう。一方、秦氏本系帳では「鴨氏人を秦氏の聟(むこ)とし、秦氏、愛聟に鴨祭を譲り与う。故に今鴨氏禰宜として祭り奉るのはこの縁なり」と記されているという。


     秦氏と賀茂氏の関係の真相?

両氏族がお互いに自家に都合の良いように系図を作り上げていることが見え見えで、どこまでが史実か今になっては分からない。おそらく後から京都盆地に進出してきた秦氏が、先住の鴨族と平和的に共存するために、それぞれの祭神を婚姻関係で結ぶ伝承を作り上げ、鴨族の祭祀する神も秦氏の氏神の一つとして後に上賀茂神社に祀ったものと思われる。こうしたことから、上下賀茂神社と松尾大社の3社は、まとめて「秦氏三所明神」とも称されている。そこで、今回の史跡探訪では、両賀茂神社を秦氏ゆかりの史跡に組み入れている。

[10]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月19日 08時46分42秒 ) パスワード

賀茂県主について:    下の方に秦氏が出て来ます

http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2685.html


賀茂県主語り部内容の系図を書いていてふと気づいたことがある。
それは神祇氏族である賀茂氏のことです。


語り部説では賀茂氏発祥は神虫(カムイ)麿で、一般的には「鴨蝦夷」として知られる者だという。この神虫麿が壬申の乱の戦いで天武軍に従軍して勝利を収めたので、記念して三川(東三河)の照山に社を建て「神神社」として祀ったのが始まり。その後、社は元からあった「王伴神社」とともに麓に遷座され、創建されたのが豊橋賀茂神社。つまり、賀茂氏発祥は三川であると以前の記事に書きました。

※八名郡照山の南麓には、元々、大伴氏の祖神・大伴明神が祀られており、その後、賀茂別雷神が勧請された。旧八名郡に鎮座する賀茂神社について、、『賀茂本記』に「三河大伴直、白雉元(六五〇)年、八名郡大照山の草木を掃い云々」と記されているという。


■鴨蝦夷
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E8%9D%A6%E5%A4%B7

確かに、それはそれで間違いはない。

しかし、賀茂氏には天神系と地祇系の2種があり、「天神系」は京都の上賀茂神社・下鴨神社の社家で京都の葛野を出自とする賀茂県主系。祭神は賀茂別雷神(上賀茂)と玉依姫命・賀茂建角身命(下鴨)であるが、玉依姫命と賀茂建角身は賀茂別雷神の母と祖父であるとされる。

   ※出自で分けると、賀茂県主系、高賀茂系、播磨賀茂系の3種あるという。


もう1つは奈良県葛城の高鴨神社の社家の鴨氏、通称・高賀茂氏ですが、祭神は迦毛大神(アヂスキタカヒコネ)。その他として事代主命(一言主、葛城垂見)も配祀している「地祇系」。「迦毛大神」は大国主命(荒田別)と宗像三女神のタキリビメの間の子とい云われることから、高賀茂氏とは出雲王朝系の家系であることが分かる。


  画像
  高鴨神社
 (高鴨神社 この上の高台には高天原と云われる平地がある)


実際、語り部は出雲王朝直系末裔の葛城氏である鞍作毛人(蘇我入鹿)の次男・大田田禰子の子である神虫麿(鴨蝦夷)としているので、完全に符合する。この地祇系統からは陰陽道の賀茂忠行(清明の師匠)が出ているが、末裔は徳川家康の出自である松平郷の松平氏にも繋がるのです。徳川が賀茂氏(鴨氏)と云われる所以でもある。


オイラが神虫麿で述べたのは、どうも後者の高賀茂氏のことであったようだ(滝汗)。



賀茂氏

この2つの系統の賀茂氏は別種だとも言われるが、『山城風土記』には、「葛城を離れ、山代岡田を経て、乙訓の久我に入りその山手(現在の長岡京)に落ち着きその後山代葛野郡に入り最終的には愛宕郡の現在賀茂神社あたりに落ち着いた」と記されていて、どうもハッキリしないのです。「カモ(賀茂・鴨・迦毛)」とは「カムイ(神)」から来る言葉であるのは間違いないしと睨んでいますが、鳥系の姓は神祇祭祀者が天と地を繋ぐ者である故に相応しい姓でもある。


以上のことから、神祇を扱う者に対し平氏や源氏のように恩賜姓として与えるものが「賀茂氏」なのかもしれない。

そう考えれば、源氏のように祖が異なるのも当たり前となる。飛鳥昭雄氏の説はこの2つの賀茂氏がごちゃ混ぜになってしまい混乱している感じがしますね。

まぁ、どちらも陰陽使いという点では共通しており、高賀茂(鴨氏)が道教をベースにした表の陰陽道なのに対し、賀茂県主の方は裏の陰陽道である漢波羅ですが、これはユダヤ教の奥義カバラと同じもの。



さてさて、賀茂県主の祖・賀茂別雷神は記紀にも記されていない神ですが、賀茂別雷神を祖先とする賀茂県主系が大嘗祭などの天皇重要祭祀を一手に取り仕切っている点からも実に謎の氏族。この日本最大の謎が分かれば、日本建国の秘密が分かるとも云われる所以です。


下鴨神社境内には、摂社・河合神社があり、ここの末社「任部社(とべしゃ)」と呼ばれる八咫烏(やたのからす)をまつる神社がありますが、飛鳥情報では日本の古代からの秘密結社・八咫烏はこの下鴨神社に属していると云う(ふふふふ)。

社伝では八咫烏とは賀茂建角身命のことだとされているが、確かに、建角身命と玉依姫を祀る下鴨神社には八咫烏神社があって、上賀茂にはないわけですね。


語り部によれば、八咫烏とは壬申の乱の200年前、三川の照山で徐福国(大漢国・扶桑国)討伐に出向いた初期大王家の倭讃(景行天皇)が本陣を置き、ここで徐福国首脳との会談を開いた場でもあるが、この照山(捕鳥山)の周辺の弥生人を恭順化させ、初期大王家の味方にしていたがこれが八咫烏。元々は鵜匠を頭にスリーマンセル(3人1組)で行動する鵜飼たちのこと。その黒い衣装と3人1組から「三本脚の大きな(八咫=150cm)烏」とされたという。

※鵜飼いは全国10何か所あるが、何故、古事記の時代から続く長良川系の鵜匠だけが国家公務員(長良川6人、愛知県犬山が2〜3人)なのか?の謎が、これで解けてくるw


また、同じく八咫烏をトレードマークにしているのが熊野大社ですが、ここに祀られている熊野大権化とは実は徐福のこと。そして徐福国にある太陽が産まれるという扶桑樹を目指して日本列島に大挙して大陸から渡ってきたのが倭人と呼ばれる長江出身の中国人(苗族)であり、これが弥生人の正体ですが、この倭人が九州から上陸して三川の徐福国を臨む地にまで進出し魏の調停を後ろ立てに無理矢理建国してしまったのが邪馬台国と記される倭国です。


太陽には烏が住んでいると伝承されていることから「烏(カラス)」とは恭順化した弥生人を指す言葉であると語り部はいう。


万葉集に神武天皇が詠んだ一首があるが、神武東征とは邪馬台国討伐と徐福国討伐時の内容をまとめて記したもの。

楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも
い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 
島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね

(現代語訳)
楯を並べて射るという、伊那佐の山に登り、樹の間から敵をうかがいつつ行軍し、戦ったので、俺はもう腹ぺこだ。鵜飼いの仲間どもよ、はやく助けに来てくれよ。



豊橋の横に三ヶ日みかんで有名な引佐郡(現・浜松市北区)があるが、徐福国討伐も終盤に差し掛かった頃、徐福国の本隊が引佐山に逃げ込み、そこでの戦いが上のような逼迫した状況であり、鵜飼(八咫烏=恭順化した弥生人)が食料を運び込んだことで、辛くも戦に勝ったという話。この時から八咫烏は大王家を護る、つまり、天皇制護持の請け負う秘密組織(弥生人故に外観的にバレ難いという利点あり)となったのであろう。

※照山近くに江島という地名があるが、かつてここは「鵜飼島」と呼ばれ、照山を守る神社として神武天皇の主戦力をなした天忍日命を祭る大伴神社があった。

この大伴神社はその後、照山、豊橋賀茂神社に遷座した。ちなみに大伴氏(王伴氏)の太祖は金露首・九男の倭武日で「天忍日命」である。



天神系、地祇系のいずれの賀茂氏も三川の照山(捕鳥山)での事跡が発祥であることには変わりはない。



天神系・・・徐福国討伐時の本陣、恭順化した弥生人=八咫烏の起源
地祇系・・・壬申の乱での戦勝記念で神虫麿が「神神社」創建が起源


この2つの賀茂氏が上と下からサンドイッチ!しているのが日本という国。


三川の照山(捕鳥山)のある豊橋市章は▽と△からなることを何度も書きましたが、この照山の事跡を暗示しているかのような図案ですね(ふふふふ)。また上下賀茂神社のある京都市の市章はダビデの星(六芒星)を彷彿とさせる意匠。京都北部の丹波の福知山市などはそのものズバリの六芒星となっている。


今でも日本の真の都は京都ですが、これは皇統奉公衆の本拠地が京都であることからです。実際、遷都宣言もされておらず、東京は東方面へ行幸した行宮地に過ぎないのです。いずれ天皇は京都に戻ってくる筈ですが、3.11の原発事故被災がその契機になるであろうことは誰もがウスウス感じていることですね。


飛鳥昭雄氏と面会した八咫烏の人の話では「賀茂氏とはレビ族だ」と自称しているそうで、このことから飛鳥氏は賀茂氏は忌部末裔であると断じている。しかし、語り部の話の内容かからは、どうも賀茂氏の祖・賀茂別雷神の妻の父(建角身命)とは、弥生人のような感じがしないでもない(笑)。


忌部氏の祖は忌豊富であると語り部はいい、倭旨(金首露)が列島渡来時に連れてきた八柱(子供、少名彦名)の一人だという。この忌豊富とは記紀では「天富命」と記される者であろう。天富命は天太玉命の孫であり、天太玉命の配下には五神がいて、それぞれが全国に散って各地の忌部氏祖となったという。天富命は阿波の土着した天日鷲命【阿波忌部氏】を伴ってさらに東国に赴き、そこに太玉命社を建立して移住先を阿波と同じ読みの安房国と称したという。


(天太玉命の孫)
・天富命 【安房忌部氏】

(天太玉命配下の五神)
・天日鷲命 【阿波忌部氏】
・手置帆負命 【讃岐忌部氏】
・彦狭知命 【紀伊忌部氏】
・櫛明玉命 【出雲忌部氏】
・天目一筒命 【筑紫・伊勢忌部氏】


天太玉命とは、王治王朝を開いた倭得玉のことでもありますが、上の伝からは忌部氏は王治王朝廃止時に神祇継承させた物部氏と同族となる。「忌部と物部は同族なり」と八咫烏がいうのも納得ではある。ただ、忌豊富(天富命)に関しては、語り部は金露首の子と記しており、また、倭得玉、倭仁、倭豊玉、倭武日らのように六男、七男、八男、九男というような子を示す表記はなく、本当に金首露(扶余依羅)の子供なのか判然としない。しかし、血縁ではない天太玉配下の五神は間違いなく神祇祭祀氏族の者であり、これがレビ族の者であるというのは納得の行く話だ。



では、忌部氏と古代祭祀を争った中臣氏はどうか?

中臣氏は丹波道主から別れた氏族で鹿島神宮・香取神宮の神官になっている。その後の八綱田【出雲王朝一代目】の時に分家したのが海部氏であり、そのまた分家が度会氏。海部氏の籠神社も度会氏の伊勢外宮も出雲系神社であるのが、ここから分かりますね。


話が忌部氏や中臣氏にまで及んでしまったが、ここで話を元の賀茂県主に戻そう。


『山城国風土記』によれば、賀茂建角身命と伊可古夜日女(いかこやひめ)の間には玉依彦と玉依姫の二子があったが、ある日、玉依姫が小川で遊んでいると上流から丹塗りの矢が流れて来て、彼女はこれを家に持って帰って床に置いたところ懐妊して男の子・賀茂別雷命を産んだという。これが賀茂県主の祖。子供は大きくなて、7日7晩の宴会時に祖父・建角身命から本当の父に酒を飲ませよと言われるや否や、男の子は天井を突き抜け天に昇っていった。これにより丹塗り矢の正体は乙訓郡の火雷神であることが分かり、彼は「賀茂別雷神」と名付けられたという。これが「丹塗り矢伝説」と呼ばれるものですが、似たような話が奈良県桜井市の大神神社にもあるが、こちらは川から流れて来た「丹塗りの矢」がホト【女陰】に刺さって死んでしまう。


この丹塗りの矢は、「丹」で水銀(辰砂)を求めて山の民である縄文人(アイヌ人)を示し、「矢」で騎馬民族スキタイを示している。つまり、縄文人に渡来要請された騎馬民族スキタイ(初期大王家)が「丹塗りの矢」の正体なのです。


丹塗りの矢
(丹塗りの矢が突くのは必ずホトと決まっている)

       え〜?
       そうなの〜?
       笑


この火雷神は松尾大社の祭神・松尾大神でもある。京都嵐山にある松尾大社は秦氏系神社ですが、秦伊呂具=賀茂伊呂具、秦鯨=賀茂久治良、秦都理=賀茂都理らが同一人物であるように秦氏と賀茂氏(天神系)は婚姻を通じて一体化しているのはよく知られているところ。まぁ、平安京を造成する際に秦氏と賀茂氏の領地を寄進して京都は作られたといいますが、御所(今の御所の500m西側)は元々秦氏の屋敷があったところ。御所と上下賀茂神社は鴨川を挟んで、こっち側と向こう側に分かれていますが、多分、秦氏と賀茂氏の領地境界線が鴨川だったのであろう。 葛野郡【嵐山のあたり】と愛宕郡【北区・左京区】は賀茂県主系の出自とされている場所なのです。

※賀茂上下神社のある地域は、かつての愛宕郡。

もう1つの本拠地は乙訓(おとくに)群ですが、ここはは京都南方の長岡市の南側に位置し、京都競馬場とサントリー山崎蒸留所の挟まれた地域。かつて、ここには継体天皇の宮があったとされる場所でもある。

ちなみに、サントリーの名は創業者の鳥井信治郎の「トリイさん」を逆にしたという俗説がありますが、本当のところは「太陽(サン)と鳥(カラス)」であるという。サントリーも三井家と同様に八咫烏=皇統奉公衆に関わっていそうです(ふふふふ)。
※実際、サントリーは独立色は強いが三井グループに属している。


この乙訓の名は葛野(かどの)郡から分離した際に、元の葛野を「兄国」、分離した方を「弟国」としたことに由来すると云われ、弟国評の木簡が出土したことから大宝律令(701年)以前には既に兄国評と弟国評として分れて存在していたことが分かります。

何故、兄・弟と名付けられたのか? オイラが思うに地祇系の縄文アイヌ人系の出雲王朝直系の葛城氏や秦氏はエドム人というエサウ末裔の兄部族であり、騎馬民族スキタイの初期大王家はヘブル人のヤコブ末裔の弟部族であるところから来ていると睨んでいる。


この地名から賀茂県主とは初期大王家の血筋の者であることが分かる。


実際、賀茂神社の伝えるところによると、賀茂県主の太祖は「天神玉命」から始まるという。これは先に述べたように、天照大神の岩戸開きの神事に由来する神の名で「天児屋命」が丹波道主、「天太玉命」が王治得玉(尾張氏の祖)、「天櫛玉命」が小治豊玉(宇佐氏の祖)であることから、似ている「天神玉命」もこの時の名であることは容易に推測できる。しかし記紀や『先代旧事』や 『新撰姓氏録』にはこの名はない。ただ、似ている「天神立命」というのはあるが、、、、

この「天神立命」とは大倭豊王朝二代目の倭仁のことであろうとオイラは思っているが、、、、

「天神玉命=天神立命」ではないのか?

以上のことから、賀茂県主の出自は大倭豊王朝(倭仁)の分家筋で祭祀を扱うようになった氏族に遡ることができるのですが、この氏族には配下として徐福国討伐時に恭順化させた弥生人(八咫烏)が宛てがわれたのかもしれません。だからこそ、そのトップが「八咫烏」と呼ばれたのかもしれない。まぁ、あくまでこれは推測です。

やがて、この「恭順化した弥生人=八咫烏」が秘密結社化していくが、これが飛鳥氏のいう秘密結社「八咫烏」。オイラが思うに、この八咫烏が穢多・非人・サンカ等の「まつろわぬ民」をまとめていると思うが、その組織形態はクズシリ、クズコ、ムレコの各親分(やぞう)として3人がサンカの頭領(アヤタチ)がいて、それが秘密結社「八咫烏」の裏天皇であり、更にその上には大親分(おおやぞう)と呼ばれる大烏がいると云われる。現在は下鴨神社の大宮司、鎌倉八幡宮の大宮司、熱田神宮大宮司の曾孫の広瀬祐也(フリーメーソン33位階)の3人が裏天皇だとされている。


大烏とは、金鵄であり、現在はKという人物だというは、、、トビは猛禽類であり鷹の仲間でもあり、八咫烏の「烏」とは自ら異なる系統に属する。「白い鷹」とも呼ばれる秦氏のことが「金鵄」であると云われるが納得のいく話です。秦氏とは三川の徐福技術を継承して殖産興行的に経済を成り立たせ国体を側面支援する一族らの総称であり、垂直的な血胤的氏族ではない。まぁ、賀茂氏と秦氏、藤原氏と秦氏のように姻戚関係を結んでいることは間違いないが、、、強いていえば、この国に古代から存在する皇統護持のインナーグループ。それは藤原摂関家、三井財閥、賀茂県主...いろいろな氏族にまで跨っている筈です。
※賀茂県主系の賀茂氏は、初期大王族が持ち込んだレビ族・忌部氏の神事を継承し、更に、出雲系神社の籠神社の「藤祭」を奪って「葵祭(旧・賀茂祭)」として定着させ、出雲王朝最後の王・荒田別の子・縣主塩古以来の「蚕の社」の神事を「糺の森と」共に下鴨神社に移した。こうして各氏族に伝わる様々な神事を担わせるようにして賀茂神社神事は増強され、国体護持を標榜する皇統奉公衆の牙城とされていったのであろう。八咫烏をシンボルとする件の熊野本宮にしても、賀茂県主系と表裏関係にある高賀茂(役小角が祖)-吉野(蔵王権現は役小角が見出す)-熊野というラインで抑えているのだろう。これが臣民を使役する長吏として穢多・非人を使い、下層民(被支配者階層)をそこから決して抜き出せない「メビウスの輪」のようなエンドレス状態にして、その上に支配者層が君臨するという「天皇-エタシステム」の全貌。この要が下鴨神社であるとなる。

つまり、秦氏=皇統奉公衆である。           ← 秦氏について



国旗
(旗竿の白黒が八咫烏、先の金玉が金鵄、旗が天皇家=天照大神の末裔を示すという日本の国旗。
旗は旗竿が無ければ棚引かない。

秦氏の「秦」とは秦の始皇帝の大陸技術=徐福国の技術の「秦」を示す以外にも

「旗(幡)」という意味もあった。)

          ↑
      秦の意味の3つ目が旗を指す?

さてさて、以上、賀茂県主の出自について洞察して述べてきたが、1つは初期大王家(扶余系)に繋がることは間違いなさそうなのですが、百済系大王の世となっても隆盛を極めているのはチトおかしい気がする。やはり肝心な部分は未だに謎なのです。ここに公式な記録では決して知れない改竄・隠蔽が施されていると感じる。

う〜む、一体、どの氏族と接続したらいいのやら、、、(滝汗)

語り部は「(兄である草香と敵対して破って)こうして目は王朝の警察任務を賜る。

記紀の物部目の事で彼の息子から、熊野氏・賀茂氏・荒山、荒甲・・火矢の名手が出る。

熊野氏…実名熊野乙世は、賀茂大角とも言う大物主系賀茂氏祖」と云っていることがトドメのヒントとなった。

物部氏から賀茂氏(天神系)が出ているのだな、、、(ニタリ)。
     ↑
  天神系賀茂氏は物部氏から出ている?



で、賀茂県主の系図を記すと、、、こうなる。

賀茂県主系図
(扶余系を出自とする神祇氏族【賀茂県主】が、百済系天皇を護持する点が未だに謎なのだが、、、国体護持という観点からは、既に滅亡してしまった扶余系を立てることを諦めたのかもしれない。それが桓武天皇の平安京遷都時の秦氏との婚姻を通じて土地提供につながったのではないのか? この業績で大伴氏・宇佐氏・尾張氏・物部氏・紀氏・忌部氏・橘氏、、、等の他の初期大王家血族とは違って、中央で生き延びることが出来たのかもしれない。そして、賀茂県主系の賀茂氏はレビ族である忌部氏神事を継承しつつ、他の氏族の神事を盛り込みながら皇統(国体)護持の牙城化したのだろう。)




忌部氏
一般に平氏とされている織田信長は、祖先の出自の越前国では忌部氏だったとか。

徳川家康も葵の家紋に見られる通り、実は鴨氏だとか。

羽柴秀吉は、豊臣朝臣をわざわざ新しく創らせているとおり出自は不明。

[11]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月19日 09時04分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 電光石火の情報、さらにビックリです、 感嘆符×3=!!!。

とりあえず、先程のレスと合わせて、全頭脳をフルに回転させコンプリ

ヘンドします。しばらくのお時間を!
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月19日 09時38分31秒 ) パスワード

本日分のレスの中で  三川  三河  豊橋  三ケ日  などが出て来て  あれ? と思いました。
近づいたのでしょうか?謎


頑張って頭の中を整理してみてください。


では次へ行きます。


丹塗矢伝説 【にぬりやでんせつ】

1.
神が丹塗(にぬり)の矢に姿を変えて女性に近づくという神婚の伝説。《古事記》には三輪山の大物主神が丹塗矢に変じ,溝を流れて用便中の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に近づき,のちに美男子に姿を変えて比売と結ばれたという話が見え,《山城国風土記》逸文にも玉依日売(たまよりひめ)が川を流れ下ってきた矢を床の辺に持ち帰って火雷神(ほのいかつちのかみ)の子,可茂別雷命(かものわけいかつちのみこと)を生んだという話がある。



2.
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1441213809

Q:
丹塗り矢伝説というのは何ですか。渡来人・秦氏が関わっていると聞きました。


A−1:
秦氏が古事記に深くかかわっているので、『古事記』に記されている伝説では、大物主大神が美しい勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)を見初めて、姫が厠に入った時に丹塗矢になって溝から流れ下り、姫のほとを突きました。驚いた姫がその矢をもってきて床のそばに置いたところ、矢はたちまちに麗しい男性となり、姫はその男性と結婚しました。そして生まれた子の名は富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライスケヨリヒメ)と言います。この姫が成長して三輪山の麓で七媛女の一人として遊んでいるのを初代神武天皇に見初められ、結婚することになります。
また、丹塗矢が娘のいる川下へ流れて来たという神武天皇の婚姻伝説の類話が『山城国風土記』の「加茂社縁起」に含まれています。
参考
「日本神話事典」



A.−2
五穀豊穣を願う神婚譚の部類で、秦氏に関わる特別なものでもないようです。
加茂上、下社の祭祀氏族は加茂(鴨)県主とされ、加茂氏と秦氏は葛城からいっしょに、山城へ進出したと考えられていて、加茂氏と秦氏は姻戚関係にある。
「山城国風土記」逸文の「加茂社」の項
加茂建角身命の子玉依日売が「石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち取りて、床の辺に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき」
詳しくは谷川健一編 「日本の神々」をご覧ください。

いままでに回答した丹塗矢伝説についてを貼り付けました
http://search.chiebukuro.yahoo.co.jp/search/search.php?p=%E4%B8%B9%...

雷神・龍神
http://search.chiebukuro.yahoo.co.jp/search/search.php?p=%E9%9B%B7%...


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弓矢


弓矢(ゆみや)とは、弓と矢からなる武具。狩猟具、軍事上での武器、祈祷や神事のために使われる。






日本語においては、幸(さち)と言い箭霊(さち)とも表記し、幸福と同義語であり、弓矢とは「きゅうし」とも読み弓箭(ゆみや・きゅうし・きゅうせん)とも表記する。

弓矢は、武具や武器、武道や武術、戦い(軍事)や戦(いくさ)そのものを意味する。

特に戦に限っては「いくさ」の語源が弓で矢を放ち合うことを表す「射交わす矢(いくわすさ)」[1]が、「いくさ(射交矢)」に変化したといわれる。また的は古くは「いくは」と読み、弓矢そのものであり、「射交わ」が語源となっている。



神々と弓矢[編集]

『古事記』・神道 応神天皇 - 『古事記』の品陀和氣命(応神天皇)の別名は、大鞆和気命とありその由来は誕生時に腕の肉が鞆のようになっていたことによるという。

そのため弓矢神として現在も様々な神社で祀られている。

八幡神 - 八幡大菩薩ともいい、応神天皇のことでもあるが、応神天皇を主神として、神功皇后、比売神を合わせて八幡三神とも捉えられている弓矢神。

また慣用句として弓矢に限らず、射幸心の伴う事柄で、当ってくれと願う時に「南無八幡」と唱える語の語源となっている。



山幸彦 - 山佐知彦とも表記し、昔話としても広く知られる弓矢を用いる狩りの神。「幸(さち)」が「弓矢・釣竿と釣り針」を示したり、狩りの獲物や漁の獲物を指す「山の幸・海の幸」を表す謂れとなる物語の海幸彦と並ぶ主人公である。


天若日子 - 天雅彦とも表記し、霊力を持つ天麻迦古弓(あめのまかごゆみ)という弓と、天羽々矢(あめのはばや)という矢を携えた弓矢の神。天の鹿児弓・天之波士弓(あめのはじゆみ)・天之加久矢(あめのかくや)など様々な表記名称がある。


ヒンドゥー教 シヴァ - 4本の腕に金剛杵と槍と弓矢と刀を持つ神。弓はピナーカといい、矢はパスパタという。
ヴィシュヌ - サルンガという太陽の光で出来た弓と、炎と太陽の光からなり翼を持つ矢を、携えた神。
インドラ - 風雨と雷を操り、虹を弓として使う神。
カーマ - 「サトウキビの弓」と「5本の花の矢」の「愛の弓矢」を持つ神。 マーラ - カーマを起源とし仏教・密教においては愛染明王と言い、天上界の最高神で弓を持つ神。



呪いや祓いの力を持つ弓矢[編集]

さまざまな文化において、手を触れずに、遠隔の敵ないし獲物を仕留めることのできる弓矢は、ギリシャ神話や日本で「遠矢・遠矢射」といわれる力として特別視され、「エロスの弓矢」や「天之返矢」ように呪術的な意味が与えられた。さらには見えない魔物や魔を祓う、武器や楽器のように使用するものとして、「鳴弦」や現代に伝わる「破魔矢・破魔弓」などがあり、これらは神話・伝説などに登場する、弓矢の呪力の象徴とも言える。また日本においては、原始宗教のアニミズムが色濃く残っており、弓矢は吉凶を占う道具としての側面も持っている。


中華文明圏において「強」「弱」という漢字に弓の字が使われているのは、それが武力の象徴であり、呪術用に特化して飾り物となった(弱の字は弓に飾りがついた姿を現している)武力を「弱」と捉えたことに注目できる。

日本でも、このような弓の呪術性は、鳴弦という語に示され、平安時代に、宮中で夜間に襲来する悪霊を避けるために、武士たちによって、弓の弦をはじいて音を響かせる儀礼が行われていた。


こうした用法から、世界各地で弓は弦楽器の起源の1つとなったと考えられ、儀式に用いる弓矢ではなく、本来の弓を楽器として用いる場合もあり、代表的な物としてハープは楽器ではあるが、弓を起源としその形態を色濃く残すものでもある。


現在でも玄関や屋根に魔除けやお祓いや結界として、弓矢を飾る地方や人々をみることができるが、古くは『山城国風土記』逸文に流れてきた「丹塗りの矢」で玉依姫が身ごもり賀茂別雷神が生まれたという話があり、賀茂神社の起源説話にもなっている。

丹塗りとは赤い色のことだが呪術的な意味を持っていたことが指摘される。

望まれて抜擢されるという意味の「白羽の矢が立つ」とは、元は「神や物の怪の生け贄となる娘の選択の明示として、その娘の家の屋根に矢が立つ(刺さる)」という、日本各地で伝承される話から来ており、本来は良い意味ではなく、心霊現象としての弓矢を現している。


広く庶民に知られる話としては『平家物語』の鵺退治がある。話の内容は「帝(みかど)が病魔に侵されていたが、源義家が三度、弓の弦をはじいて鳴らすと悪霊は退散し帝は元に戻った。しかし病魔の元凶は死んではおらず帝を脅かし続けた。悪霊の討伐として抜擢された源三位入道頼政(源頼政)は、元凶である鵺(ぬえ[20])という妖怪・もののけを強弓、弓張月[21]で退治した」というものだが、記述から弓矢には、楽器として悪霊を祓う力と武器として魔物を退治する力があると、信じられていたことが窺える。


天之返矢(返し矢)については矢の項目『古事記』を参照。



祓い清めを表す言葉[編集]

破魔矢
本来は、古くから神事に纏わる弓矢の語でもあるが、さまざまな、古文や句などで使われており、俳句の季語と同じように、間接的な比喩として穢れ・邪気・魔・厄などを、祓い清めることを表している語でもある。

葦の矢・桃の弓 - 大晦日に朝廷で行われた追儺(ついな)の式で、鬼を祓うために使われた弓矢のことで、それぞれ葦(アシ)の茎と桃の木で出来ていた。
破魔矢・破魔弓 - はじまりは正月に行われたその年の吉凶占いに使う弓矢。後に、家内安全を祈願する幣串と同じように、家の鬼を祓う魔除けとして上棟式に小屋組に奉納される神祭具のことで、近年では破魔矢・破魔弓ともに神社などの厄除けの縁起物として知られる。


蓬矢(ほうし)・桑弓(そうきゅう) - それぞれ、蓬の矢(よもぎのや)・桑の弓(くわのゆみ)とも言い、男の子が生まれた時に前途の厄を払うため、家の四方に向かって桑の弓で蓬の矢を射た。桑の弓は桑の木で作った弓、蓬の矢は蓬の葉で羽を矧いだ(はいだ)矢。


弓を鳴らす - 鳴弦とも言い、弓の弦を引いて鳴らすことにより悪霊や魔や穢れを祓う行為。弓鳴らし・弦打ちともいう。


弓を引く - 反抗や謀反(むほん)や楯突くことだが、本来は鳴弦のことで弓の弦を引いて鳴らすことにより悪霊や魔や穢れを祓う行為。




弓矢に纏わる語[編集]

弓矢・弓箭
弓矢神(ゆみやがみ) - 弓矢を司る神。武の神・軍神
弓箭組(ゆみやぐみ・きゅうせんぐみ) -  奈良時代の丹波国南桑田と丹波国船井に発足したといわれる朝廷の警護をした弓矢に秀でた者の集団。
弓矢取り(ゆみやとり) - 弓矢を用いること。武士。
弓矢取る身(ゆみやとるみ) - 武人である我が身。武士。
弓矢台 - 調度掛のこと。江戸時代に弓矢を飾った台。
弓矢の家(ゆみやのいえ) - 弓馬の家とも言う。弓矢の技術に長けた代々続く家系。武家、武門。
弓箭之士( ゆみやのし・きゅうせんのし) - 武士、弓兵。
弓矢の長者 - 弓矢の達人、弓術に長けた人。弓矢の家の長、弓術の流派の開祖。武家の棟梁。
弓矢の道(ゆみやのみち) - 弓馬の道とも言う。弓矢の技術、弓術。弓矢の技を身につける過程での道義や信条、弓道。武道、武士道。
弓矢の冥加(ゆみやのみょうが) - 弓矢に宿る神仏の加護。弓矢に携わる者が感じる果報。武士の幸せ。
弓矢八幡(ゆみやはちまん) - 八幡神、八幡大菩薩を指し同義語として南無八幡がある。武士が何かに願いを込めたり誓約する時の言葉。
弓矢槍奉行(ゆみややりぶぎょう) - 江戸幕府の役職で弓矢と槍の製造、監守を司ったところ。
弓折れ矢尽きる - 刀折れ矢尽きると同義語。戦う手段が尽きてどうしようもない状態。打つ手がないこと。

弓に纏わる語は弓の「弓に纏わる言葉」を参照。







脚注[編集]
1.^ 矢・箭は古語ではサと読む。


へえ〜
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月19日 10時35分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様フルスロットルで頭脳回転ですね。こちらはローギアで坂道を登って

おります。いっぱいのごちそうを目の前にして、さあどう食べようかと、ちょ

っと余りにうれしすぎて、おもわずニヤニヤ笑みがこぼれてしまいます。

 とりあえずの感想です。頑張らなきゃ・・・。

 
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月19日 15時40分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いただいたレスの情報読み終わりました。精読したため、疲れましたが

かなり闇の中の加茂・三輪・物部・秦の相関図が見えてまいりました。あり

がたく感謝申し上げます。徐福との関係、三河との関係が今後の課題として

再浮上して来たように思われます。


 とりあえずは感謝申し上げ、私の方も三輪関係の情報を後でアップいたし

たいと思います。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月19日 20時59分16秒 ) パスワード

>かなり闇の中の加茂・三輪・物部・秦の相関図が見えてまいりました。

はい
なんかチラッと見えましたよね。


>徐福との関係、三河との関係が今後の課題として再浮上して来たように思われます。

はい
徐福がこういう形で出て来るとは期待していませんでしたが
そのあたりに真相が隠れているのかな?と思いました。

三川  三河もまさかここで出て来るとはと驚きました。


まだまだ歴史の闇は明けないですね。



>三輪関係の情報を後でアップいたしたいと思います。

よろしくお願いいたします。
[16]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月20日 07時09分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日はいい資料をいただきました。かなり理解度が進んだ感じです・
 でもまだ調べなければならないことは無限にありそうです。


 「三輪氏」にまだこだわっています。三輪と蛇(巳)をからめる説が一番
妥当なような雰囲気があります。直近で出会ったのは、伊藤宏之氏『シリ
ウス星と謎の古代空間』という本ですが、こう言っております。

 「三輪山の「ミワ」の「ミ」とは巳のヘビと考えられ、『古語拾遺』に
ヘビのことを「ハハ」と記しており、「ハ—ワ」は転じ易い語であり、この
古いヘビの呼称の「ハハ—ハ」が「巳」と結合して「ミハ—ミワ」三輪となる
と推考できます。」

 しかしながら、これもどうも短絡的なこじつけ理論に近いような気がして
なりません。確かに「蛇」との関係は根底にはあると思いますが、だからと
いって三輪=蛇とは安易な推論ではなかろうかと、今は思えてなりません。

 問題は三輪山信仰はいつからあったか、三輪山の祭神は大王の祭神であっ
たのではないか。三輪山付近に天皇家がやって来て、その後祭神を三輪山に
祀ったと思われる。やって来たのは出雲出身の大王? 
それとも、出雲族はすでにやって来ていて、その後に天皇家がやって来た?

 大王とは何? 大王の定義は天孫の族長という意味か? 大王同士の格闘
か禅譲かがあった・・・。

 大和朝廷の成立についてはだいたいわかりますので、そういう交代があっ
た事は確かなのでしょう。

 結果として、三輪山の祭祀者は、三輪氏→物部氏→中臣氏へと移って行く。

 三輪という名前は色々な意味を暗示させます。本当の意味を知りたい。

 キリストの磔刑の図にはキリストだけでなく、他に2人の磔刑者がいて、
合計「3人」が描かれている。この3と何か関係して来る可能性はあるのだ
ろうか。

 「呪いの藁人形」の施主は、丑の刻に神社で藁人形に「3本」の五寸釘を
打つ。その頭には「3本」のロウソクと鉄の「輪」をかぶる。

 三輪は三羽、「三羽烏」を連想させる。三羽烏は八咫烏、3本の足を持つ。
八には別のいわくがあるようである。3つの足というのは3人1組となって
行動したという意味であるともいう。

 どうも三輪は八咫烏を暗に意味した名前なのではと思う気持ちが強くなっ
ております。

 では、賀茂氏や忌部氏は、八咫烏を暗に意味していないのか?
 賀茂氏は「鴨」で鳥という点で類推できないこともない。忌部氏はこちら
は「巳の心の部」でやはり蛇につながるのでちょっと違う。物部系である。

 同じレビ族の中での構成が、どういう風になっているのか知りたい。

 いずれにしても、古墳の大部分が封印されていますので、発掘されれば
いろいろな謎が一気に解明されて来るものと思われます。

 シルクロード、アラビア、エジプト、シュメールと遡ることができる天皇
家の謎は、葬儀の方法、死生観も過去にさかのぼって調べる必要があります。
例えば、遺体の処理方法はミイラ作成ではなかったのか? 埋葬時には甦り
のシステムを考えていなかったか?

 ミイラとはどういう語源? ミイラとは何かミーワ、ミワとつながらないか・・・大胆な発想・推論・・・これが本当なら大発見。

 英語ではミイラの事をマミィという? ママのこと、母のこと、ハハは蛇。
 何だかわからなくなってしまいます。



 
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月21日 07時19分00秒 ) パスワード

書き直し:



長々と書いていたら、また、消えてしまいました。

    

今夜はもう寝ます。


ただミイラのマミーと母のマミーは綴りも発音も同じですが「同音異義語」ということを書いておきます。

    結論は   全く  異なります。


ミイラのマミーの方は大元はペルシャ語の「蝋」mumだったかな?
ここからラテン語やアラビア語の「処理された遺体」という語になって
フランス語になって
そこから英語のマミーという語が出来ました。


母とかお母ちゃんという方のマミーは  mommyからmummyという言葉に変化しました。
そしてmommyという語はmommaから出ました。
18世紀あたりかな?

  イギリスやアメリカの東部の英語です。
   アメリカの他の地域は  mommy や  mummy は使わないです。
   mammy の方だと思います。  これは mama から出たと思います。


だからミイラのマミーと母のマミーが同じか?と言ったら  同音異義語  なので  全く違います  です。
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月21日 07時20分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 古代の首長の古墳・・・どのような死生観で、どのような埋葬方法で、また
どのような祭祀を、誰が行なったのか、興味があります。

 数年前に韓国の公州の武寧王陵、慶州の天馬陵等見に行った事がありますの
で、その辺の話もまとめたいと思います。

 昨日は、蒸し暑くオーバーヒート気味で、体調も悪く頭も全然働きませんで
した。
 本日は何とか頑張ってみたいと思っています。

 とりあえずはこれにて。
 
[20]Hattoriさんからのコメント(2014年08月21日 08時58分20秒 ) パスワード

横から失礼いたします。
解剖学用語で、乳房のことをmammaと言います。
母親をママ、マッマというのはここから来たのではと考えていました。
中国でも媽媽マーマーですから面白いですね。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月21日 16時12分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

ミイラのマミイから、マンマ、ママ、母、乳房という風に発展しましたが、
飯のマンマも真名井のマナもマという音、韓国語でおいしいを「マ」シッソ
ヨという・・・言語学的に「マ」という言葉のルーツを探るとおもしろいと
思います。

 さて、エジプトでは大王は死後ミイラにする考え方がありましたが、シル
クロードの中央アジア地域にもミイラにする考え方があります(美女のミイ
ラも有名)。中国にもあるようです。
 しかしながら、韓国の武寧王(百済)の陵や天馬塚(新羅)の古墳からは、ミ
イラは出なかったようです(防腐処理が特にされてなかったのか?)。

 日本では天皇陵は宮内庁で厳重に封印していますので、中は見られません
が、長い歴史の中では盗掘されたものもいくつかあるようです。
 また、工事中に偶然に地下から古墳が発見されたというような場合には、
それがすぐには天皇につながるかどうかわからないので、発掘される場合が
あります。
摂津の阿武山古墳であります。

 阿武山古墳には遺体の保存状態が良く、肉片も毛髪もその他信じられない
ほど残っていたようです(防腐処理がされていた?)
 埋葬されていたのは、中臣の鎌足=藤原鎌足らしく、天皇家とのつながり
から宮内庁の意向により古墳は早晩埋め戻されたようです。
 奥州の藤原三家には即身成仏のミイラのしきたりがありました。ひょっと
すると、藤原家=中臣家にはミイラになって永遠の生命を願うというような
死生観があったのだろうか。

 また、藤ノ木古墳については発掘調査が行われ、中には真っ赤な布で巻か
れ、防腐処理されたミイラの遺体が二体出たという。埋葬されていたのは、
相当地位の高い者であり、いろいろな推測がなされているが、いずれにせよ
エジプトのミイラ技術、死生観みたいなものが引き継がれていたのではない
か。
 またミイラ作りは特別な人しか許されない。特別職というと、私は三輪氏
や忌部氏、中臣氏等祭祀族がかかわったのではないかと推測するわけであり
ます。
 三輪氏のミワがミイラから来たというのは短絡的な考えでしたが、ミイラ
作りにたずさわっていたという可能性を全く否定することは今のところでき
ないとは思います。

 

[22]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月22日 06時35分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 今頭の中に浮かんでいるのは、物部氏や忌部氏は当初から姓氏を表したもの
ではなく、宮廷での職種を表したものではなかったのかなと。
 宮廷の中の仕事に、「物忌」というものがある。深くは突っ込んでないが、
この「物」と「忌」が分離され「物部」と「忌部」になったのではないか。
 中臣氏は別の由来があるのだろう。三輪氏、賀茂氏、渡会氏も別の由来が
あるのだろう。
 物部氏は急落し、忌部氏と中臣氏が残る。その後中臣氏の全盛時代となる。

 もう一つ頭に浮かんでいる事は、古代の歴史の重層構造(歴史の転換に大き
く影響したもの)である。これも深くは突っ込んではないが以下のとおりである。


         天武・持統天皇・藤原氏の歴史隠蔽政策
                ↑
        原始キリスト教徒秦氏の到来と宗教秘儀政策
                ↑
        高句麗・百済・新羅からの民族・文化の到来
                ↑
         長江文明・苗族の到来・弥生文化
                ↑
      ヘブライ(失われた十氏族)の到来と古代氏族勃興
                ↑
        シュメール・ポリネシア民族・文化の到来
                ↑
           (最下層) ムー文明の残滓


 まだ、三輪氏にはこだわっています。ニギハヤヒにもいろいろな説があり
ますが、納得がいってません。これからも探究し続けます。

 ところで、古墳関係を調べたところ、天皇の遺体を火葬にし出したのは、
持統天皇の時からだそうです。天武天皇は遺体、持統天皇は粉骨として埋葬
されていたということがわかりました。持統天皇というのは、天皇制の歴史
の中で、エポックメイキングな存在、キーウーマンであります。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月22日 12時34分27秒 ) パスワード

また  消えました   
結局12万円払ってました
それでも不調です。



あの矢印の分類は面白いですね。
ムーが最初というのは考えもつきませんでした。



わたくし的には日本のミイラは  即身仏 + 平泉  のあたりでしたが


調べて着ました:

もう消えるのがストレスなのでスグにアップしますね。





ミイラの語源[編集]

日本語の「ミイラ」は16〜17世紀にポルトガル人から採り入れた言葉の一つで、ポルトガル語: mirra は元来「没薬」を意味するものであった。「ミイラ」への転義の詳しい経緯は未詳であるが、没薬がミイラの防腐剤として用いられた事実や洋の東西を問わず“ミイラ薬”(ミイラの粉末)が不老長寿の薬として珍重された事実があることから、一説に、“ミイラ薬”(の薬効)と没薬(の薬効)との混同があったという[5]。只、薬に使用したため、体調を崩し、死者まで出た事から、後には燃料として、欧米中心に輸入されていたと早稲田大学名誉教授でエジプト考古学研究の権威吉村作治は述べている[6]。

英語: mummy をはじめとするヨーロッパの各言語における名称は、ラテン語: momia を経てアラビア語: مومياء‎ (mūmiya')に由来し、さらに遡れば「瀝青」を意味するペルシャ語: mumiya が語源であったとされる[7]。また、漢字表記の「木乃伊」は、オランダ語: mummie (モミー)または英語: mummy (マミー)の音写とするのが一般的である[8]。日本語の漢字音で読む「モクナイイ」はあまりにも原音から遠い印象があるが、北京語でこれを読むと「ムーナイイー」(普通話: mùnǎiyī)のようになる。『本草綱目』人部「木乃伊芳」[9]に薬として記述されるように、かつては中国でも漢方薬としてミイラが使われていた。日本ではこうした語の表記だけを中国語から借用し、「ミイラ」の語に充てるようになった。

16〜17世紀のヨーロッパにおいて、ミイラは一般的な薬として広く使用されていた[10]。そのため、ミイラを取ることを生業とする者が増えた。なお、ミイラを取るためには墳墓の中に入ったり、砂漠を越えたりする必要があることから危険がつきまとい、ミイラを探す人間が行き倒れることもあった。彼らの死体がどれほどの確率で自然乾燥によりミイラ化したかは不明であるものの、このことを指して「ミイラ取りがミイラになる」という言葉が生まれたという説がある。数多くの盗掘が行われ、近現代の考古学研究を阻害する要因となったのは事実である。しかし、実際には本物のミイラを取りに行くよりも捏造品を売りさばくほうが楽であり、墓暴きが横行したという諺の成立由来は怪しい。なお、薬としてのミイラは日本にも輸入されており[11]、江戸時代には大名の間で人気だったという。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月22日 12時38分43秒 ) パスワード

日本のミイラ[編集]


    意外でした。
    そんなに古くから行われていたの?でした。


密教系の日本仏教の一部では、僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命し、ミイラ化した物を「即身仏」(そくしんぶつ)と呼ぶ。仏教の修行の中でも最も過酷なものとして知られる。

この背景にあるのは入定(にゅうじょう)という観念で、「入定ミイラ」とも言われる。本来は悟りを開くことだが、死を死ではなく永遠の生命の獲得とする考えである。入定した者は肉体も永遠性を得るとされた。

日本においては山形県の庄内地方などに分布し、現在も寺で公開されているところもある。また、中国では一部の禅宗寺院で、今もなおミイラ化した高僧が祀られている。

木の皮や木の実を食べることによって命をつなぎ、経を読んだり瞑想をする。まず最も腐敗の原因となる脂肪が燃焼され、次に筋肉が糖として消費され、皮下脂肪が落ちていき水分も少なくなる。生きている間にミイラの状態に体を近づける。生きたまま箱に入りそれを土中に埋めさせ読経をしながら入定した例もあった。この場合、節をぬいた竹で箱と地上を繋ぎ、空気の確保と最低限の通信(行者は読経をしながら鈴を鳴らす。鈴が鳴らなくなった時が入定のときである)を行えるようにした。行者は墓に入る前に漆の茶を飲み嘔吐することによって体の水分を少なくしていたといわれている。漆の茶にはまた、腐敗の原因である体内の細菌の活動を抑える効果もあった[13]。

これらは死を前提にするため当然ながら大変な苦行であり、途中で断念したものも多数存在する。また、死後腐敗してミイラになれなかったものも多い。ミイラになれるかなれないかは上記の主体的な努力によることと、遺体の置かれた環境にも大きく影響するだけでなく、関係者に裏切られること無く掘り出されるかにも左右される。



現存する即身仏の一覧


人名 寺院名  所在地  入定年または没年  享年

無際大師 總持寺 神奈川県横浜市鶴見区 延暦9年(790年) 91

弘智法印 西生寺 新潟県長岡市寺泊野積 貞治2年(1363年) 82

弾誓上人(?) 阿弥陀寺 京都府京都市左京区大原古知原 慶長18年(1613年) 63

本明海上人 本明寺 山形県鶴岡市東岩本 天和3年(1683年) 61

宥貞法印 貫秀寺 福島県石川郡浅川町小貫 天和3年(1683年) 92

舜義上人 妙法寺 茨城県桜川市本郷 貞享3年(1686年) 78

全海上人 観音寺 新潟県東蒲原郡阿賀町豊実甲 貞享4年(1687年) 85

心宗行順法師 瑞光院 長野県下伊那郡阿南町新野 貞享4年(1687年) 45

忠海上人 海向寺 山形県酒田市日吉町二丁目 宝暦5年(1755年) 58

秀快上人 真珠院 新潟県柏崎市西長島鳥甲 安永9年(1780年) 62

真如海上人 大日坊 山形県鶴岡市大網 天明3年(1783年) 96

妙心法師 横蔵寺 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原 文化14年(1817年) 36

円明海上人 海向寺 山形県酒田市日吉町二丁目 文政5年(1822年) 55

鉄門海上人 注連寺 山形県鶴岡市大網 文政12年(1829年) 62

光明海上人 蔵高院 山形県西置賜郡白鷹町黒鴨 嘉永7年(1854年) 不明

明海上人 明寿院 山形県米沢市簗沢小中沢 文久3年(1863年) 44

鉄龍海上人 南岳寺 山形県鶴岡市砂田町 明治14年(1881年) 62

仏海上人 観音寺 新潟県村上市肴町 明治36年(1903年) 76


奥州藤原氏[編集]

歴代奥州藤原氏のミイラが知られる。

詳細は「中尊寺金色堂#藤原4代のミイラと副葬品」を参照

奥州藤原氏のミイラ

初代 藤原清衡 中尊寺金色堂・清衡壇 大治3年7月13日(1128年8月10日) 72
二代 藤原基衡 中尊寺金色堂・基衡壇 保元2年3月19日?(1157年4月29日?) 52?
三代 藤原秀衡 中尊寺金色堂・秀衡壇 文治3年10月29日(1187年11月30日) 66
四代 藤原泰衡 中尊寺金色堂・秀衡壇・首桶内 文治5年9月3日(1189年10月14日) 23 頭部のみ

[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月22日 12時58分47秒 ) パスワード

古代中国のミイラ[編集]

古い文献(『大唐西域記』『西京雑記』『抱朴子』など)に入定ミイラの記述があり、『高僧伝』では晋の元康8年(298年)に訶羅竭という僧が死に火葬に付されたが半焼けになってしまい、座したままでも崩れなかったため石室に安置して礼拝したと記されている。『大唐西域記』では玄奘が西域の僧のミイラについて言及している。

現存するミイラとしては広東省韶州市南華寺にある唐代中期の禅僧慧能の肉身仏(即身仏)などがある。なお、中国では現在でも即身成仏としてミイラが作られている。ただし、生きたままミイラになるのではなく、死後に遺言によってミイラとして作られるものであり、全身に金箔を塗ることにより生前に近い形を保とうとしている。

これらより有名なミイラは「楼蘭の美女」として知られる古代のオアシス都市楼蘭のミイラであろう。シルクロードブームで一躍知られるようになった。西域は乾燥(砂漠)地帯で、ミイラができ上がるのに好条件であり、そのため中国におけるミイラは西域に多い。



中国は人肉食という料理の1つがあるから
   (他の国では命をつなぐのに食べたということはあるけど  ??? 料理ではないですよね)
だから梨で赤ちゃんの形をしたのも平気で売られるのでしょうか?

画像集
https://www.google.com/search?q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%80%E6%A2%A8%E3%80%80%E8%B5%A4%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93&rlz=1T4VRHB_enUS601&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=1rz2U8qAJfTNsQSkzID4DA&ved=0CB4QsAQ&biw=960&bih=465

記事
http://appllio.com/20140820-5591-baby-shaped-peer
赤ちゃん型の「梨」が中国に存在、海外で話題に



10年ほど前に「ボディ」というのを見に行ったことがあります。

  ポリマー加工?

  処理されているのですが
  法輪功の信者などの犯罪者とされた人の体が使われていたようです。

人間の体の解体は得意な国ですから、それを見世物にするというのも平気なのかも。

  そうとは知らずに見に行って、後で、処刑対象の人の体だったと知りました。


  中国では公開処刑の後、見物人がそれぞれもらって帰宅すると聞いたことがあります。


中国だったらミイラにして薬にして売るということはあるだろうなとは思いましたが
世界中でミイラ=薬という感覚があったようですね、


なるほど3柏さんは意図せずとも  パンドラの箱  を開けてしまったのかも。

   日本では  科挙と宦官は輸入されなかったそうですけど  ← 吉備真備がしなかったとか?
         ミイラ=薬  は日本では定着しなかったのかもですね。
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月22日 17時32分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 今晩は飲み会があり、思考能力ゼロとなりそうです。

 即身成仏といえば、空海を思い出しますが、五穀を絶ち、防腐薬を飲み、
弥勒菩薩か大日如来かわかりませんが、真言を必死で唱えながらやがて
無限の曼荼羅世界へ入っていく・・・。その念は強烈な光の結晶となった。
─想像の世界ですが。

 それではまた。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月22日 21時53分07秒 ) パスワード

3柏さん


いまごろ宴会の真っ最中でしょうか?
にっこり


わたくしはこの所、思考が停止してて・・・
でも、さきほど、ハタと気付きました。


<25>を訂正せねば。


パンドラの箱を開けてしまったかも知れない3柏さん。。。
とんでもないことにお気付きになったのかも知れない3柏さん。



     ミイラ=薬
     そして仏僧の即身成仏願望。


わたくしは仏僧が即身仏になりたかったのは「自分のため」と解釈していました。

いえいえ
衆生を救うために仏になりたかったのでは?
と気付きました。



釈迦の話に虎に我が身を食べさせる話があったと思いますが
    仏僧は自分の身を衆生のために捧げたかったのかな
と思いました。


   特に薬師如来系の仏僧は我が身をミイラにして薬にして衆生の病の苦しみを救いたかったのかなと。


レス<23>
   薬としてのミイラは日本にも輸入されており、江戸時代には大名の間で人気だったという
を考え直してみました。


ひょっとすると物部氏または秦氏はミイラ製造技術を持っていたのかなと。
[28]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月22日 22時30分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今ちょうどテレビではフェルメールの番組をやっていますが、光と影、すな
わち作者は光と影の立体構造の中に生を吹き込み、いわゆる実存の一瞬を1枚
のキャンバスに封じ込めた。それが絵画であればこそ、想念としての価値が創
出されるのである。写真であったならば、想念の凝縮とまでには行きつかなか
っただろう。
 それは一瞬が永遠という事。一瞬が永遠としての生を持つという事。

 フェルメールが何でこんなに人々の気持をひきつけるのか、それは単に
立体的というだけの魅力でなく、特に心象世界にまで及ぶおける女性のビーナ
ス性を捉え、かつ引き出しているからではなかろうか。

 中途半端にお酒が入りました。 

[29]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月22日 22時42分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 すみません、レスに気が付きませんでした。たしかに究極の宗教心は己の
身を差し出すということ。日本には切腹という究極の滅私の精神がありましたが、それは長い精神風土のもたらしたもの。民族のDNAといってもいいかも
、だけど不思議ですねえ。

[30]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月23日 05時05分48秒 ) パスワード

実はこちらではNHKドラマの「聖女」が(広末涼子主演)放送されて
第1話を昨夜見ました。


ドラマのオープニングはフェルメールの聖プラクセディス Saint Praxedis
実在の女性  の絵を紹介するシーンからでした。

フェルメールのこの作品は今年7月に10億円+で落札されたそうです。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20140709-00037209/


ビックリして見てました。
その上に3柏さんからの書き込みがフェルメールですから
何か暗示的ですね。



http://hotnews1234.com/2915.html
イタリアのフィチェレッリの作品の模写なんだそうです。
その比較がこのURLで見られます。


わたくし的なフェルメールの作品の面白いところはレオナルド・ダ・ビンチのモナリザのように
   何か言いたげ
のところです。


   アメリカの女性の顔というと白い歯を全部剥き出しにして笑っている顔で
   とても表層的でまったく奥行きが無いです。
       まるで馬が笑っているような


フェルメールやダ・ビンチの「絵」になると、この表情は何なんだろうと興味が湧いてきます。
   何を見てるの?
   何を言いたいの?

描かれているだけなのに「対話」がしたくなるような誘いがあります。



それで広末涼子のドラマはフェルメールの絵から始まって面白い展開になりました。

   あの聖女の絵は本物だとされましたが
   ドラマの中では1987年の設定ですから「贋作という噂がある」という紹介でした。


      この絵が本物か偽物かは「あなたが判断してね」と。
      わたしが犯罪者かどうかはあなたが判断してね、と? 


昨夜は4000kmも離れているのに、フェルメールのことを同じく考えてたなんて、なんたる偶然の一致でしょう。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月23日 07時29分21秒 ) パスワード

今回はわたくしの手違いで消してしまいました。


大物忌神 【おおものいみのかみ】

『延喜式』に登録される出羽国大物忌神社(山形県遊佐町の鳥海山上)の祭神。この神社は古くから出羽国の一宮として,また東北随一の名山鳥海山の山頂にある神社として有名だった。大物忌神は大忌神(オオイミノカミ)に同じとされるが,そのオオイミノカミは,広瀬神社(奈良県河合町)に祭られている若宇迦売神の別名。広瀬神社では,律令時代に,宮廷の四時祭のひとつ大忌祭が行われた。ウカは穀物霊であるが,それをオオイミノカミというのは,穀物の霊が天照大神に忌み清まって奉仕するからとされる。大物忌神のモノイミも,神霊のまえに心身を清めて仕えることを意味しており,伊勢神宮には,天照大神に神饌を捧げる大物忌という神官がいた。



へえ〜



物忌みとは?
https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%AE%AE%E5%BB%B7+%E3%80%8C%E7%89%A9%E5%BF%8C%E3%80%8D+%E3%81%AF



以下は縦書きなので読み難いのでご案内のみ。




古代史論叢 - Page 70 - Google Books Result

渡辺直彦 - 1994 - ‎Civil service
渡辺直彦 物忌の軽重にっいて(鈴木)二ニ一一述べてみたい。 ... から十一世紀初頭 I それはすなわち「宮廷陰陽道」の完成社会への位置づけをなすにはいたっていない。


戦国時代の宮廷生活 - Page 72 - Google Books Result

奥野高廣 - 2004 - ‎Japan
なお十一月の卯の日か辰の日に新嘗祭が宮廷の年中行事として行われていた。古くから収稷祭として十月の物忌後の霜月祭(収穫祭の以前に十月に物忌をする)がある。




平安時代の信仰と宗教儀礼 - Google Books Result古代人の思考の基礎 - Google Books Result

上達は神館で、物忌みをする人の籠る所である。 ... であるが、我々の計り知れない昔から丶日奉部が、舎人部から出て、天皇に仕へ、地方に帰って、宮廷から伝った神秘な ...


三橋正 - 2000 - ‎Buddhism
神仏隔離にっいては、佐藤眞人「平安時代宮廷の神仏隔離—『貞観式』の仏法忌避 ... 加納重文「平安中期の「物忌」にっいて」(『古村上天皇の御物忌に関する記事は多い。


天照大神と伊勢神宮成立の経緯 - 訓読のすすめ

Feb 19, 2012 - 大物忌はひとたび選任されるともっぱら斎戒につとめ、宮廷外に出ることは禁ぜられ、出た場合には即刻退くことになるという厳しさであった。こうして大物忌 ...


知ってるようで知らない日本人の謎 20 - Google Books Result

大森亮尚 - 2012 - ‎Literary Collections
ははきぎ-つち『源氏物語』「帯木」の巻にも「なが雨晴れ間なき頃、内裏の御物忌みさし続きて」と、平安朝時代の宮廷生活にも五月雨の頃の物忌み、謹慎生活があったことが ...


健康雑学 − 厄年と健康

大宝令 に規定があり、陰陽寮がおかれたが、次第に俗信化し、宮廷・公家の日常を物忌・方違え などの禁忌で左右した。」(広辞苑). 平安時代の物忌・方違え 物忌は運勢の ...


大嘗祭の本義 - Google Books Result

此七人の天つ処女の縁故で、丹波からは、八処女が、宮廷へも、伊勢へも出て来て、 ... のは誤りで、脱げば、物忌みから解放されたのだから、神人とならねばならぬ筈だ。


折口信夫 大嘗祭の本義 - 青空文庫

Jul 13, 2007 - 国家を愛し、宮廷を敬ふ熱情に於ては、私は人にまけぬつもりである。 ..... 結局此は、五穀が成熟した後の、贄として神に奉る時の、物忌み・精進の生活で ...




1つ2つ面白そうな案内があるので読みに行っても縦書きなので読めなくて残念です。


日奉部のところが興味を引きました:

古代人の思考の基礎
上達は神館で、物忌みをする人の籠る所である。
... であるが、我々の計り知れない昔から丶
日奉部が、舎人部から出て、天皇に仕へ、地方に帰って、宮廷から伝った神秘な ...

    面白そうですよね。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月23日 14時00分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 物忌みの情報ありがとうございます。@物部氏とA忌部氏とB三輪氏の本性
がなかなか見えそうで見えない・・・。

 が、あを様、たった今ひらめきました。

 Bの三輪氏についての結論です。理論づけは後にします。

 三輪氏についてはいろいろと推論をしてきましたが、これが最終結論です。
 従って、もう三輪氏にはこだわりません。抜け出すことができます。

 最終結論:三輪氏のミワは「三つの輪」をいう。あたりまえのことではな
いかといわれてしまうが、この三つの輪とは、大犬座の「シリウス」を指し
ます。シリウスはシリウスAとBとCの三連星で、軌道が三重丸となるので
す。この三重の輪を三輪と言ったのだと私は思います。
 理論付けはこの後2〜3時間後にいたします。

 用字ができましたので途中下車いたします。
 

[33]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月23日 14時48分09秒 ) パスワード

そうそう!
冬の大三角形!
思い出しました。


この6月にもプラネタリウムで聞いたばかりでした。

   ハワイ人がタヒチへ往復するのに大三角形を目印にしているって。



コピペ:

三輪(みわ、みのわ、みつわ、さんわなど)とは、日本の苗字、地名である。

名字としては、東海地方に多く分布しており、特に愛知県、岐阜県に多い。

古代、大和国磯城郡三輪山(現在の奈良県桜井市)を本拠とした大国主の後裔という豪族、三輪氏(大三輪氏、大神(おおみわ)氏とも)が著名。


「みわ」とは、神を意味する言葉であり、
「みわ」の語源としては、苗字研究家の丹羽基二は「ミワの『ミ』は美で美称であり、『ワ』は輪で丸形の物、つまり神に捧げる酒器(みき)、瓶(かめ)のこと。

     転じて神自身の呼称となった」と仮説を立てている。



「三輪」の字を当てた理由としては、大和三輪山にこのような伝承が残っている。

美和山(現在の三輪山)の麓に、活玉依姫(いくたまよりひめ)という美しい姫がいた。
ところがある夜から姫のもとに立派な若い男が訪れた。
姫はその内、身籠ったが、男は夜明けには帰ってしまうので男の名も素性も分からないという。

不審に思った父母はこれに心配し、寝床あたりに赤い土を撒き、緒環(おだまき:紡いだ麻糸を玉のようにしたもの)の糸を男の着物のすそに刺しておくようにと姫に助言する。男が訪れた翌朝、糸は戸の鍵穴から抜け出で美和山の神の社に届き、姫のは緒環にはわずか三つの輪のみが残った。ここから三輪の字を当てたという。



地名
三輪山(奈良県桜井市にある山) 三輪神社(奈良県桜井市にある神社。大神神社(おおみわじんじゃ)、三輪明神とも。日本最古の神社だという。大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る)


ここでアップ。
消えるとイライラするので。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月23日 14時51分09秒 ) パスワード

活玉依姫(いくたまよりひめ)とは


タマヨリビメ(タマヨリヒメ、玉依姫)は霊(たま)の憑(よ)りつく巫女[1]、神。『古事記』は玉依毘売命、『日本書紀』は玉依姫尊と表す。


記紀・風土記などに見える女性の名で、固有名詞ではない[1]。従って、豊玉姫の妹(海神の娘)や、賀茂別雷神の母などとして数多く登場する。
1.神霊を宿す女性・巫女。
2. 1.日本書紀第七の一書に、「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子として玉依姫命が見える。ここでいう児萬幡姫は栲幡千千姫命の別名で、天火明命と瓊瓊杵尊の母である。
2.日本神話で、海の神の娘。ウガヤフキアエズノミコト(鸕鷀草葺不合尊)の妃となり、四子を産んだ。末子は神武天皇(カンヤマトイワレビコノミコト、神日本磐余彦尊)。
3.賀茂伝説で、タケツヌミノミコト(建角身命)の娘。丹塗矢(本性は火雷神)と結婚し、ワケイカズチノカミ(別雷神)を産んだ[2]。


日本神話[編集]

綿津見大神(海神)の子で、豊玉姫の妹である。天孫降臨の段および鸕鶿草葺不合尊の段に登場する。トヨタマビメがホオリとの間にもうけた子であるウガヤフキアエズ(すなわちタマヨリビメの甥)を養育し、後にその妻となって、五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)を産んだ。末子の若御毛沼命が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)となる。

『古事記』および『日本書紀』の第三の一書では、トヨタマビメは元の姿に戻って子を産んでいる所をホオリに見られたのを恥じて海の国に戻ったが、御子を育てるために、歌を添えて妹のタマヨリビメを遣わした、とある。『日本書紀』本文では、出産のために海辺に向かう姉に付き添い、後にウガヤフキアエズの妻となった、とだけある。

第一の一書では、トヨタマビメが海の国へ帰る時に、御子を育てるために妹を留め置いた、とある。第四の一書では、一旦トヨタマビメは御子とともに海に帰ったが、天孫の御子を海の中に置くことはできず、タマヨリビメとともに陸に送り出した、とある。

他の玉依姫[編集]

「タマヨリ」という神名は「神霊の依り代」を意味し、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女を指す。タマヨリビメ(タマヨリヒメ)という名の神(または人間の女性)は様々な神話・古典に登場し、それぞれ別の女神・女性を指している。例えば、『山城国風土記』(逸文)の賀茂神社縁起(賀茂伝説)には、賀茂建角身命の子で、川上から流れてきた丹塗矢によって神の子(賀茂別雷命)を懐妊した玉依比売(タマヨリヒメ)がいる。

他に、大物主の妻の活玉依毘売(イクタマヨリビメ)がいる。全国にタマヨリビメという名の神を祀る神社が鎮座し、その多くはその地域の神の妻(神霊の依り代)となった巫女を神格化したと考えられる(一般には、神話に登場するウガヤフキアエズの妻のタマヨリビメとされることが多い)。賀茂御祖神社(下鴨神社)に祀られる玉依姫は『山城国風土記』に登場する玉依姫である。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月23日 14時54分20秒 ) パスワード

上記は一般的な  たまより姫  の件でしたが
次は驚くべき情報、かも。


活玉依姫

http://www.geocities.jp/rekishi_chips/hatumode2.htm


1.三輪伝説T 〜処女懐胎『古事記』

初詣
1.三輪伝説1 〜 処女懐胎「古事記」
2.三輪伝説2 〜 令嬢変死事件「日本書紀」
3.三輪伝説3 〜 お持ち帰り「古事記」


● 古事記の説話 ●

 昔、活玉依姫(いくたまよりひめ)という美女があった。
 あるとき、彼女は結婚もしていないのに妊娠した。
 父母はいぶかしがった。娘を問い詰めた。
「おまえは夫もいないのに、どうして妊娠したのか?」
 活玉依姫は答えた。
「毎晩毎晩、いい男が通ってくるんです」
 父は不機嫌になった。
「その男とは、どこのどいつだ?」
 活玉依姫は、首を横に振った。男がどこからやって来るのか、どんな身分の男なのか、名前すら知らないという。そんな小さなことはどうでもいいほど、魅力的な男だというのだ。

 父母は困惑した。とにかく、男の正体を突き止めないことには話にならない。
 そこで一計を案じた。
「今度男が来たとき、その衣服にこっそりと長い糸を通した針を刺しておくように」
 娘に命じたのである。

 その晩も男はやって来た。活玉依姫は父母に言われたように、男の衣服に針を通した糸を刺しておいた。
 男は夜明け前に帰っていった。糸がついていることには気づいていないようだった。

 翌朝、父母は糸をたどっていった。糸の先には男の家があるはずである。
「つまらん男だったら、承知せんぞ」
 糸は三輪のお社で止まっていた。つまらん男だなんて、とんでもなかった。男の正体は、大神神社の祭神・大物主神だったというわけだ。

*          *          *

※ 『土佐国風土記』逸文にも同様の説話が伝えられているが、女のほうは活玉依姫ではなく、後述する倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめのみこと)の話になっている。

 

● 検 証 ●

 この説話において不自然な点は、男の正体は「神」だったということだけである。
 だが、この点も「神」を「上」、つまり、「身分の高い人」に置き換えれば解決する。
 つまり、大物主神は神ではなく、当時はまだ生存中の、おそらく三輪を支配していた豪族の首長だったのであろう。「引きこもり」の神ではなく、生身の人間の男だったからこそ、人間の女に興味を持ち、毎晩通い、妊娠させることができたわけである。



ここでアップ
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月23日 14時56分30秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/rekishi_chips/hatumode3.htm



2.三輪伝説U 〜令嬢変死事件『日本書紀』



初詣
1.三輪伝説1 〜 処女懐胎「古事記」
2.三輪伝説2 〜 令嬢変死事件「日本書紀」   ← ここ
3.三輪伝説3 〜 お持ち帰り「古事記」


● 日本書紀の説話 ●

 昔、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)という令嬢があり、彼女のもとに通ってくる男があった。
 例の大物主神である。
 大物主神は暗くならないと現れず、夜明け前にどこへともなく去っていった。
 そのため、倭迹迹日百襲姫命は夫の顔を見ることもできず、不満だった。

 あるとき、倭迹迹日百襲姫命はたまりかねて大物主神に言った。
「たまにはもう少し遅くまでとどまっていてください。そうすれば私は、あなたのうるわしいお姿を見ることができます」
 大物主神ももっともなことだと思った。
「では明日の朝、私はあなたの櫛(くし)箱の中に入っていよう」
「櫛箱の中?」
 そんな小さい箱の中に、どうやって人が入るのであろうか?
 大物主神が笑って言った。
「そうだ。ただし、真の私の姿を見ても、決して驚かないように」

 倭迹迹日百襲姫命は変に思ったものの、翌朝、まさかと思って櫛箱を開いてみた。
 するとそこには、かわいらしい小さなヘビが入っていた。
「私だ。大物主だ」
 ヘビは言った。
 倭迹迹日百襲姫命は悲鳴をあげた。
 大物主神は人の姿に戻ると、ブリブリ怒った。
「おまえは私に恥をかかせた。今度はおまえが恥をかく番だ」
 大物主神はそう捨てゼリフを残すと、大空のかなた、三輪山のほうへ飛んでいった。
 倭迹迹日百襲姫命は後悔した。力が抜けたようにしりもちをついた。
 その折、箸(はし)が局部に刺さり、死んでしまったという。

 倭迹迹日百襲姫命は大市(おおち。桜井市)に葬られ、昼は人が、夜は神が墓を造ったという。
 後に彼女の墓は箸墓古墳(はしはかこふん)と呼ばれるようになった。邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ともいわれている、あの日本最古級の前方後円墳である。

 

● 検 証 ●

 この説話は非常に不自然である。
 どうしてしりもちをつくような場所に箸が立っているのであろうか?
 仮に立っていたとしても、最悪な事態になるほど、うまいことしりもちをつくことができるものであろうか?
 こんな話は新聞の三面記事でもお目にかかったことはない。ちょっと信じられない話である。
 それよりもこれは殺人事件だと考えるほうが自然である。「恥をかかせた」ことに激高した大物主神が、倭迹迹日百襲姫命を刺し殺したに違いないのである。

 ではなぜ、大物主神は倭迹迹日百襲姫命を殺してしまったのであろうか?
 いったい彼女は彼にどんな恥をかかせたというのであろうか?

 カギは「かわいらしい小さなヘビ」であろう。
 彼女はヘビに驚いたわけではない。その「小ささ」に驚いたのである。彼の全身ではなく、彼の一部の大きさに驚き、バカにしたのではなかろうか?
「オオモノヌシなのに、ちっちゃい!」
 思わず、そんなようなことを口にしてしまったのだ。
 大物主神はカチンときた。箸を手にとって振り上げた。
「貴様のモノこそ自慢するほどのものか!」
 と、怒り狂って殺害に及んだと思われる。だからこそ、彼は彼女の局部を刺したのである。

 倭迹迹日百襲姫命は、伝七代大王・孝霊天皇(こうれいてんのう)の皇女とされている。そのような皇族の令嬢を殺害しておきながら、大物主神は全く罪に問われなかった。彼女の死は事故死として処理されたのである。
 このことは、大物主神が司法も介入できないほどの強大な権力を持っていたことを物語っている。


へえ〜
あはは
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月23日 15時00分44秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/rekishi_chips/hatumode4.htm


3.三輪伝説3 〜 お持ち帰り「古事記」



初詣
1.三輪伝説1 〜 処女懐胎「古事記」
2.三輪伝説2 〜 令嬢変死事件「日本書紀」
3.三輪伝説3 〜 お持ち帰り「古事記」       ←  ここ


● もう一つの古事記の説話 ●

 昔、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という美女がいた。
「そんなに美人なのか」
 うわさを聞きつけた大物主神が見にいってみると、うわさ以上であった。
「おお、すごすぎる!」
 大物主神は勢夜陀多良比売に一目ぼれした。夢中になった。なんとか彼女が外へ出たときを見計らって声をかけようと試みた。
 でも彼女、かなりの出不精のようで、トイレのときしか外出しなかった。しかも用がすめば、すぐに家の中に引っ込んでしまうのである。
 これでは声をかけるチャンスがない。用を足している最中しか、チャンスがない。
「まさか最中に声をかけるわけには……」
 はじめはそう思ったであろうが、ほかに機会がないので、強硬手段に出るしかなかった。

 「それにしても、どうやって声をかけようか」
 大物主神は考えた。いいことを思いついた。
 赤い矢に化けると、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れてみたのである。
 なかなか気づいてくれなかったので、彼女の下を流れていくときに、しりをつっついてみた。
 彼女はびっくりして気が付いた。
「あら。きれいな矢」
 彼女はそれを家に持ち帰った。
 寝床のわきに置いておくと、大物主神は男の姿に戻り、二人は結ばれたという。

*          *          *

※ 『山城国風土記』逸文や『秦氏(はたうじ)本系帳』や『賀茂縁起(かもえんぎ)』などにも類似の話があるが、いささか登場人物の名前が異なっている。

 

● 検 証 ●

 この説話において不自然な点は、大物主神が矢に化けたという点である。
 しかしこれは「化けた」ではなく「変装した」に置き換えれば解決する。
 つまり大物主神は、赤い矢に変装して勢夜陀多良比売に近づいたのである。

 では、なぜ矢になって近づかなければならなかったのであろうか?
 なぜ赤くなければらなかったのであろうか?

 理由は簡単である。
 大物主神は矢に変装することによって、
「やぁ!」
 と、オヤジギャグをぶっ放したかったのである。
「完璧なギャグだ」
 大物主神は思った。
「これなら彼女もイチコロだ」
 ほとんど確信した。
 そして、それを実行に移した。
 矢に変装し、彼女が用を足しに出てくる頃を見計らって、川の上流から流れてみたのである。

 ところが、彼女は気づいてくれなかった(無視かもしれない)。
 そのため彼は、はるか下流まで流されていった。
「失敗か」
 彼は岸に上がって舌打ちした。
 しかし、自分の考え方が間違っているとは思えなかった。ギャグが失敗したのではない。彼女が気づいてくれなかったから失敗したのである。

 翌日、彼はまたしても彼女が出てくる頃を見計らって川の上流から流れてみた。
 今度は目立つように、全身赤塗りにした矢に変装して流れてやった。
「今度こそギャグを言うんだ!」
 ところが、またしても彼女は気づいてくれなかった(無視であろう)。
 そのため彼は、前日よりはるかはるか下流まで流されていった。
「また失敗か」
 彼は身震いしながら浜辺に上がった。

 彼はこりなかった。
 翌日も全身赤塗りにして流れてやった。
 だが、彼女は今日も無視である。
(このままでは、今日も海まで流されてしまう……)
 危機を感じた彼は、たまりかねて彼女の下からしりを突っついてみた。
 これではさすがに彼女も無視できなかった。
 彼は立ち上がった。
 そして、今までずっと耐え忍び、胸に秘めていたオヤジギャグを、これでもかと言わんばかりの満面の笑顔でぶっ放した。
「やぁ!」
 彼女はシラけていた。笑ってくれなかった。
「やぁ! やぁ!」
 彼は躍起になって連呼した。
 むなしかった。切なかった。
 そして、彼は倒れた。連日流されたため、風邪を引き、高熱を発していたのである。

 彼女は泣いた。いろいろな意味の涙を流した。
「なんて、バカな男……」
 彼は彼女の家に運び込まれ、介抱された。
「君のせいだ」
 彼がじめじめと言った。自分のやったこと(どう考えてもセクハラ)を棚に上げて、彼女のことを非難した。ついでに口説いた。体調が悪いことをいいことに、彼女にべたべた甘えてやった。

 やがて二人に愛が芽生えた。彼は風邪が治っても、家には戻らなかった。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月23日 15時10分40秒 ) パスワード

以上3つのお話のまとめ。



http://www.geocities.jp/rekishi_chips/hatumode1.htm


★ 大物主神っていったいナニモノ?

〜素麺(そうめん)の里に伝わる三輪伝説の検証!
    上記にコピペしてあります。


 上記は、日本最古の神社といわれる大神神社(おおみわじんじゃ。奈良県桜井市)の祭神・大物主神(おおものぬしのかみ)にまつわる「三輪(みわ)伝説」の紹介。


 御存知の方も多いに違いない。大物主神がほれた女のものに通う、あの伝説である。



「三輪伝説」登場人物 

【大物主神】おおものぬしのかみ。三輪の主。大神神社祭神。

   【活玉依姫】いくたまよりひめ。大物主神のオンナ。
   【倭迹迹日百襲姫命】やまとととひももそひめのみこと。孝霊天皇の皇女。大物主神のオンナ。
   【勢夜陀多良比売】せやだたらひめ。大物主神のオンナ。



やっと「三輪伝説」が分かりました。
時間、かかり過ぎ。汗


三輪伝説  実は  3人のオンナとのお話でもあったのですか。
気付かなかった〜
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月23日 15時14分12秒 ) パスワード

>三輪(みわ、みのわ、みつわ、さんわなど)とは、日本の苗字、地名である。
>名字としては、東海地方に多く分布しており、特に愛知県、岐阜県に多い。

確かに、名古屋には 三輪さん  って多いです。
小学校の時の同級生にも覚えているだけで2人はいました。


どうして愛知県や岐阜県に多いのでしょうね?
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月23日 19時28分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 遅くなりました。三輪の関係の情報ありがとうございます。

 修正がございます。文字変換の間違いは急いでいる時は発生しますので
特に直しませんが、論理の違いは直したいと思います。
 [21]における藤原三代と藤原鎌足(=中臣氏)とは関係がありませんでした。

 さて、三輪氏の三輪はシリウスの三つ星の軌道の三重輪であるという自論
の説明ですが、

 三輪山は北緯34度32分の聖線、春分・秋分の日の出・日没の方向を結
ぶ太陽の道=レイライン上にある。三輪山からこのレイラインを通って東へ
行くと、伊勢の斎宮跡を通りさらに神島へ抜ける。西へ向かうと箸墓古墳、
穴虫峠へ抜ける。
 また、三輪山の西南麓にある崇神天皇を祀る志貴御県坐(しきのみあがた
にます)神社を中心として、夏至の太陽は三輪さんの頂上から昇り、冬至の
時は外鎌山の頂上から昇る。このように三輪山は太陽信仰の聖地であった。
 そして、シリウスですが、地平線からシリウス星と太陽が同時に出現す
るいわゆる「ヘリアカル・ライジング」の日を元旦とした(但し、古代エジ
プトではあるが)。
 聖なる元旦という日を決定する星がシリウス(三重星、三輪星)であった。
太陽を祀る山が三輪山で、その祭祀を執り行う氏族が三輪氏となったのだと
思う。日本にも太陽信仰と星辰信仰は一体としてあったということです。
日本に渡来して来る前の記憶・知識を携えてきていたわけであります。

 とりあえず、これで。

[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月23日 22時49分33秒 ) パスワード

興味深いお話でした。
わたくしにはとうてい思いもつかないお話でした。
ありがとうございます。



>三輪山は北緯34度32分の聖線、春分・秋分の日の出・日没の方向を結
ぶ太陽の道=レイライン上にある。


そういう神秘の山でしたか。


古代の人はすごいですね。
エジプト時代から受け継ぐ知識でしたか。


プラネタリウムで教わったシリウスって  東  を示すということだったのかなと
今頃  ?  と思いました。

   北が背後で説明を受けたので、方向音痴がますます方向感覚を失っての知識だったので
   ピンと来ていませんでした。



>藤原三代と藤原鎌足(=中臣氏)とは関係がありませんでした


「あった」で良いと思いますよ。


奥州藤原氏の御先祖さまの藤原経清について:


時代
平安時代中期

生誕
不詳

死没
康平5年9月17日(1062年10月22日)

別名
亘権守、亘理権大夫

官位
陸奥権守、従七位下、従五位、散位、修理大夫?

氏族
藤原氏

父母
父:藤原頼遠、母:平国妙姉妹

兄弟
経清、連国


安倍頼時女


清衡、刈田経元、経衡



藤原 経清(ふじわら の つねきよ、? - 康平5年9月17日(1062年10月22日))

平安時代中期の陸奥国亘理郡の豪族。
『尊卑分脈』によると藤原秀郷の6代後で、     ← ココ  武門系藤原氏です
父は下総国住人藤原頼遠。
母は平国妙の姉妹。室は安倍頼時の娘。子に奥州藤原氏の初代清衡。


経歴

陸奥権守従七位下に叙せられ後、散位。
亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)と称したと言われている(大夫は五位の官人の異称)。

『尊卑分脈』によれば「亘権守・亘理権大夫」とあるが、「権大夫」という職位がどんな役職であるか、実際にどのような官職であったか判明していない。

ただ、子の清衡も権大夫[3]であったこともあり、地位を証明する信頼の置ける史料は現存していないが、在庁官人として陸奥国府多賀城に勤務していたと見られている。

その名が登場する史料は、長年『陸奥話記』のみとされており、

    藤原姓も私称ではないかとされてきたが、   ← 3柏さんの疑念はコレですか?

近年、永承2年(1047年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に「経清六奥(六奥は陸奥の意)」と見えることが指摘されている。

この史料によると、少なくとも藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められており、
従五位に昇叙し散位ではあったようである。


    ということで、奥州藤原氏は鎌足の子孫の藤原氏、ということで。にっこり
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月24日 10時57分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤原氏の係累の情報、ありがとうございます。さすがあを様、お詳しい。

 歴史は幅が広く、どうしても自分の興味範囲中心の知識となってしまう。
 平安〜鎌倉の知識は私の今後の課題。いずれテーマも掲げて取り組みたいと
思います。

 さて、三輪氏関連でもう少し補足しておきたいと思います。

 三輪山において三輪氏は祭祀を行っていた(大神神社、石上神社か、この違
いは別途考察する)。祭祀とは何かこれも詳しく考察してはいませんが、ただ
お祈りをするだけのように現代人は思ってしまうけれど、祭祀は統治とイコー
ル、即ち天皇には祭司権と統治権が同時にあったということ。当時するには
まずは暦を作るということが最重要であった(これも深く考察する必要がある)。
 暦を作るには天体の観測が絶対に不可欠であった。1年を決めるには太陽の
動きを観察するのが一番の方法である。古代文明はみな太陽の動きを観測した。
それは@春分・秋分ラインを見るもの、A夏至・冬至ラインを見るものの2
種類に大別される(詳しくはまた別途考察)。

 三輪氏のルーツはというと、古代ユダヤレビ族のようですので、当然シュメ
ール、バビロニア、エジプト、アラビア等での経験・知識を記憶していたで
しょうし、特にエジプトでは太陽を中心とした天文・宗教が発達した。
 エジプトでの捕囚時代もあった訳でありますので、当然その知識は携えて
いたと思われます(ついでにいえばミイラの作製技術も)。
 三輪氏が三輪山で行なったことでシリウスと太陽との「ヘリカル・ライジン
グ」の観察が行われていたならば、私の最終結論は当たっているものと確信
いたします。

 それにしても、古代の天文観察は、現代の天体望遠鏡並みの精度を誇って
いる。天体望遠鏡なしでは考えられない。失われたオーパーツとして何故発見
されないのだろうか。

 いろいろテーマは無限に発生して来ますが、あを様よりいただいた情報の
中にも、今後更に探究したいものがございます。

 それは、@物忌—日奉部、さらに日置氏、A三輪氏が岐阜・愛知に多い現象、
B赤い塗矢の謎、C九州三輪(ソーメン)の謎、Dホト、タマ、ハシの謎・・・。
 神話に「ホト」が多用されている謎・・・現代でも「ホトホト」困ってし
まうと我々は言います・・・!

 フェルメールにも驚きましたが、こちらは夜10時の「フェルメール」特集
の番組でした。
 フェルメールを探って行くと、ひょっとしてダビンチコードのような謎が
浮上してくるかも知れませんね。特に「聖プラクセディス」の絵画。殉教者
の血を拭いて壺に入れる・・・。何か意味深です。
     
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月24日 22時49分29秒 ) パスワード

そうですね
昔は  政治=祭祀  でしたよね。

   国のトップが両方支配してました。
   今は政教分離ですが。


3柏さんは、もう、歴史探偵になってますね。
古代史をかなり御自分のものになさってます。
すごい進歩ですね。


あの日奉氏って何なんでしょうね
なかなか満足のいく説明に辿り着けないです。

   漢字から見当はつけてますが。笑


期待してます。
にっこり
[44]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月25日 00時45分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一つ訂正があります。三輪ソーメンは奈良県でした。昔、山の辺の道を一度
歩いた事がありますが、その当時はハイキングが目的で、歴史のレの字も頭に
なかった。今、改めて三輪山を調べてみると、この地方は古代からの歴史が渦
巻く所であったことがわかりました。また、三輪ソーメンはここ三輪の名産品
でありました。兵庫県の揖保のソーメンと並んで有名。

 三輪山のふもと大神神社から石上神社まで山の辺の道は続いています。もう
一度行ってみたいと思います。三輪山も登ってみたい。あを様より教えていた
だいたようにパワースポットということ。言い換えると巨石文明の跡、龍脈
の通り道。
 三輪さんはピラミッドであるという説もあります。
 また三輪山と畝傍山を結ぶ線が冬至線で、その延長線に忌部山という小山
があるそうですが、これも人口造りであるという。三輪山と耳成山を結ぶ線は
夏至線であるという。
 三輪山とその地域にまつわる話はきりがないほど一杯ありますので、もう少
し時間をかけようと思っています。忌部山なんかも出てきましたし、日本で
初の前方後円墳の箸墓もありますし、そこも含んで十五基以上も古墳がありま
す。どうも三輪山は日本の初期の歴史の中心であったような気がします。

 ミイラのはなしで藤ノ木古墳の件を出しましたが、この古墳に納められた
遺体の腹部中心からベニバナの花粉が大量に検出されたという事です。これは
これらの遺体がミイラ化処理、即ち内臓の摘出等の処理がなされ、そこに防腐
剤としてベニバナを乾燥した紅花(こうか)を詰めたのではないかと考えられて
います。真っ赤な布等で包まれていた。これは朱で水銀を含んでおり、防腐
効果がある。
 この二つの遺体について、一つは天皇になろうとして蘇我馬子に殺された
穴穂部皇子、もう一つはその理解者で翌日に殺された宅部(やかべ)皇子であ
ろうと言われています。
 しかしながら、中原和人氏は『古代史の真相』の中でこう言っています。
 「藤ノ木古墳に納められている遺体は上宮聖徳とその妻ホホキミノイラツ
メである。上宮聖徳は東漢氏の長男として生まれたが、秦氏のバックアップ
を受けた弟の勢力との王権争いに敗れて、妻と共に自殺した。
 一般的には、藤ノ木古墳の被葬者は不明とされている。そして二人の遺体
は何者かに盗まれてしまっている。」
 遺体を盗むなんて、ちょっと考えらせない。この遺体の真実が暴かれると
過去の歴史か大影響を受けるので、それを心配した勢力が何らかの処理を
したと考えた方がいいのではないか。
 ベニバナはもともとエジプトやエチオピア、アラビア、インド、中央アジア
原産といわれています。レビ族がその種を持って来たのかなと夢想します。
 
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月25日 08時57分25秒 ) パスワード

三輪素麺製造の始まり[編集]

歴史的には仏教伝来と共に6世紀から7世紀に仏教伝来と共に三輪に小麦栽培・製粉技術と共に伝えられたとされている。

伝説によると大和三輪において紀元前91年(崇神天皇7年)、大物主命の五世の孫である大田子根子命が大神神社の大神主に任ぜられ、その十二世の孫である従五位上大神朝臣狭井久佐の次男穀主が初めて作ったという。


三輪素麺の歴史って古いんですねえ。
知らなかった。

揖保の糸の方は砂糖が使ってないから糖尿病患者に良いというのは聞いてるけど。



三輪山には是非いらっしゃってください。
パワースポットでどんな経験をなさるか楽しみです。



水銀

元素記号の Hg は、古代ギリシア語: ὕδράργυρος (hydrargyros ; < ὕδωρ 「水」 + άργυρος 「銀」)に由来する ラテン語: hydrargyrum の略。また、古くは ラテン語: argentum vivum (「生きている銀」、流動する点を「生きている」と表現した)ともいい、この言い方は 英語: quicksilver(古語。なお形容詞 quick は古くは「生きている」の意味であった[2])、ドイツ語: Quecksilber などへ翻訳借用された。


古来の日本語(大和言葉)では「みづかね」と呼ぶ。


漢字では古来  工の下に水と書く 「汞」(拼音: gǒng)の字をあて、
標準中国語(普通話)でもこの表記が正式である(中国では「水銀」は通称として用いられる)。

   

英語名 mercury は14世紀から用例があり[3]、占星術や錬金術の分野で最初用いられたものである[3]。 これは、天球上をせわしなく移動する水星を流動する水銀に結びつけたもの[3]とも、また、液体で金属であるという流動性が、神々の使者として天地を自由に駆け巡ったヘルメース(ギリシア神話の神で、ローマ神話のメルクリウス(Mercurius)と同一視される)の性格と関連づけられたためともいわれる[4]。


古代においては、辰砂(主成分は硫化水銀:鮮血色をしている)などの水銀化合物は、その特性や外見から不死の薬として珍重されてきた。

特に中国の皇帝に愛用されており、不老不死の薬、「仙丹」の原料と信じられていた(錬丹術)。

それが日本に伝わり飛鳥時代の持統天皇も若さと美しさを保つために飲んでいたとされる。

しかし現代から見ればまさに毒を飲んでいるに等しく、始皇帝を始め多くの権力者が命を落としたといわれている。

中世以降、水銀は毒として認知されるようになった。



水銀の鉱山としては、スペインのシウダ・レアルにある国営アルマデン鉱山が有名。
古代ローマの紀元前372年からイスラム帝国時代、そして2004年7月の生産停止に至るまで辰砂及び自然水銀を産出していた。


日本では、佐世保市相浦の佐世保層群相浦層、北海道留辺蘂町にあったイトムカ鉱山(自然水銀の産出が多いことでも有名)や古代から産出記録がある丹生鉱山が知られている。



硫化物は辰砂と呼ばれ、催眠、鎮静効果のある生薬として漢方の処方に用いられることがある。

密かに堕胎薬としても使われた(無論極めて危険である)[21]。


へえ〜



「赤い色」というのは魔除けというのも聞いたことがあります。

ひょっとすると死体に魔物が入らないようにというおまじないだったかも。
丁度、葬儀の時に死者の胸に短刀を置くみたいな?



>上宮聖徳は東漢氏の長男として生まれた

これは知らなかったです。



>そして二人の遺体は何者かに盗まれてしまっている。

薬として売られたのでしょうか?
とんでもない悪人がいたものです。




>ベニバナはもともとエジプトやエチオピア、アラビア、インド、中央アジア
原産といわれています。
>レビ族がその種を持って来たのかなと夢想します。

面白いですね。



やっぱり飛鳥の地は面白そうですね。
こういう知識があって歩くのはいよいよ面白いですね。

是非お時間が出来たらお出掛けください。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月26日 05時28分34秒 ) パスワード

水銀は美白効果があるそうですが後にお肌がボロボロになるそうで
持統天皇は飲んでた?
ということはお肌がボロボロどころじゃないですよね。


ということで検索して来ました:
http://cosme-science.jp/column/3000cosmetics/3030x01.html


日本の化粧の歴史です:

Q:うんと昔、最初の「化粧品」ってなにが原料だったのかしら。

A:多分、赤土ですね。
  古代の人々は酸化鉄、硫化水銀、酸化鉛(IV)などを多く含む赤い土を顔や体に塗って魔除けや再生を願い、神への畏敬の念を表しました。

  これが化粧の始まりだとされています。


Q:どうして赤土なんですか? たくさんあったから?

A:そうですね...赤は太陽、炎、血の色です。そこになにか神聖なものを感じたんじゃないでしょうか。


N美:ああ、そういえばハニワの顔が赤く塗られている写真を見たことある。
   大昔の日本人もそう感じてたのね。


編集者

『魏志倭人伝』には「倭人は赤色を体に塗る」という一文がありますよ。あと、『日本書紀』の海彦山彦神話だと、海彦が赤土を手や顔に塗って弟の山彦に忠誠を誓った、とあります。これは化粧に関する国内初の記述ですね。



●飛鳥・奈良時代(592年〜794年)


6世紀後半、大陸や半島文化とともに、紅・白粉(おしろい)などの化粧品が輸入されます。この時代になると化粧は儀式的なものから、美しさを求めるためのものになってゆきますね。


Y菜

このころの美人って唐風のふっくらした顔に切れ長の目、ですよね。正倉院の「鳥毛立女屏風」みたいな。


編集者

初の国産白粉がこの時代に出てますね。献上された持統天皇はとても喜ばれたそうで。そして713年には三重県で伊勢水銀(いせみずがね)が発見されるという大事件。


     江戸時代の鉛入り白粉は知ってたけおd
     この時代既に国産があった?
     へえ〜


N美

白粉は女性天皇にはうってつけのプレゼントよね。けど、水銀の発見ってお化粧となにか関係あるの?


おそら

水銀は白粉の原料だったんですよ。伊勢水銀を原料とする伊勢白粉は公家御用達となり、和の化粧の基本アイテムとして大いに栄えるんですね。


●平安・鎌倉時代(794年〜1333年)


編集者

894年に遣唐使が廃止。そこから国風文化が発達しはじめます。お化粧も美女の条件も国風になっていくんですね。


Y菜

平安美女の第一条件といえば、丈なす黒髪。洗うの大変だっただろうなー。


おそら

そうなんですよ。そのうえ洗髪には禊ぎ(みそぎ)的な意味もあったので余計にややこしい。シャンプーする日もいちいち占いで決めたんですよ。


N美

ちょっとした行事並みね。洗うのにはなにを使ってたのかしら。水だけ?


おそら

いえ、灰を溶かした水の上澄み「灰汁(あく)」を使っていたようです。濡れ髪は、香炉の火で乾かしました。


Y菜

電気がないから乾かすのも一苦労ですよね。そうそう、顔を真っ白に塗ったのも電気がなくて家の中が暗かったのが原因ですよね。ホントに真っ白! に塗ってようやく暗い中で引き立ってキレイに見えたんだって。


N美

へぇ、なるほど。白い顔にするための白粉は、さっき出てきた伊勢白粉?


おそら

上流階級は伊勢白粉ですね。庶民は鉛白粉や、お米や粟のデンプン白粉を使っていました。


編集者

お歯黒が定着したのも、白塗りの顔が原因だとか。顔が白いと歯の黄色が目立つので、黒く染めてしまったという。


N美

そういえばお歯黒って虫歯予防になるのよね。古墳から出るお歯黒の歯、虫歯がほぼゼロだって。ちょっと惹かれない?


Y菜

えー、虫歯はイヤだけど歯が真っ黒なのもイヤです〜(笑) ところで、お公家さんの「まろ眉」はどうしてあんな上のほうに描いたのかな。なにか理由があるんですか?


おそら

ああ、茫眉(ぼうまゆ)。そうですねー、眉は感情が強く表れるところですよね。それが無くなることで静かで高貴な雰囲気になるという美意識があったようです。あと、茫眉を描ける「ステイタス」を誇示する目的も。


●室町・安土桃山時代(1336年〜1603年)


編集者

この時代になると権力が貴族から武士へ移り、世の中が落ちつくにつれて文化の発展が始まりますね。戦乱で乱れた秩序を回復しようと、礼儀作法が細かく規定されたり。


おそら

ええ、そのせいで化粧にも細かな決まりができました。眉の形も、身分・職業・年齢などで決まっていたんですよ。


Y菜

うわ、なんか面倒くさい...。石鹸が日本に登場するのって確かこのころですよね。国産だったんですか?


おそら

いえ、国内ではまだですね。当時はスペインの石鹸工業最盛期で、それを外国商人が持ち込んだんでしょう。貴重品だったので、主に薬として使われていたようです。


編集者

体を洗うものとしては小豆や緑豆の粉、米ぬか。シャンプーはフノリやうどん粉を湯に溶かしたもの、粘土、火山灰、サネカズラなどが一般的だったようです。

●江戸時代(1603年〜1868年)


編集者

江戸になると町人文化が発達して、粋(いき)などの概念が生まれますね。また、白粉がベースメイクとして定着します。


おそら

1650年ごろ、本格的な鬢(びん)付け油が誕生します。これを使うことで、より凝った髪型が可能になったんですね。主原料は松ヤニとロウ。武士がヒゲを整えるために手作りしていたワックスのようなものから発展したんだそうです。


編集者

よほど流行ったんでしょう、1670年ごろには歌舞伎役者がプロデュースした鬢付け油店が出ていますね。


おそら

流行といえば... 1804年ごろ、花魁(おいらん)たちに「笹口紅」が流行ってますね。口紅を濃く付けて玉虫色に光らせるんです。


N美

このころの口紅は紅花が原料でしょ。そんな高いものを重ねづけ?


Y菜

その高いのをパーッと使うのがカッコいいんじゃないかな。ほら、花魁って芸能人みたいなものだから。


おそら

多分そんなところでしょうね。笹口紅は庶民にも流行りましたが、庶民はそんな贅沢な使い方できないので... まず下地に薄墨を塗り、その上に紅を塗って同じ効果を出しました。


Y菜

あのね、庶民が使う鉛白粉って鉛が入ってますよね。そんなのものを肌に塗って、大丈夫なんですか?


編集者

いや、実は白粉による鉛中毒は結構あったようです。歌舞伎俳優などには特に多かったとか。また、このころには中国の安い鉛白粉が普及していて、それも被害拡大の一因だったかもしれません。


N美

お化粧が原因で身体を壊すなんて、悲しいわよね。白粉には薄塗り、厚塗りみたいな流行はあったの?


おそら

そうですね... 関東では薄化粧が、関西は濃艶な化粧が好まれたという違いくらいでしょうか。でも、薄く塗るほうが上品という認識はあったようですよ。


Y菜

江戸時代の化粧水=ヘチマ水、って印象ですけど、ヘチマ水って「商品」として売ってたんですか?


おそら

そのようですね。『浮世風呂』の著者、式亭三馬も自家製ヘチマ水を売り出してます。小ぎれいなビンに詰めて「江戸の水」と名付け、自著でも宣伝。ニセ物が出るほど売れたそうですよ。

●明治時代(1868年〜1912年)


おそら

1870年には華族にお歯黒と眉そり禁止令が出ます。社会的記号としての化粧はここで終わりですね。あと、このころからスキンケアという概念ができてきます。


Y菜

あ、だからかな。ベルツ水って明治時代に出たんですよね。医薬部外品で今でも売ってますよ。


N美

じゃあ、洗顔石鹸なんかも大分普及したの?


編集者

いえ、庶民が石鹸を普通に使いはじめるのは明治も後半になってかららしいです。明治初期は江戸時代とあまり変わらなくて、ぬか、あかすり、軽石、フノリなどで洗っていたようですね。


Y菜

ぬか袋は今でも重宝ですよ〜。肌の調子が悪くて石鹸がしみるときはぬか袋が一番!


N美

そうねぇ。私もかかとの手入れ、結局最後は軽石にもどるわ。あと、髪には椿油。江戸コスメって何気に優秀よね。


編集者

19世紀、江戸は世界に冠たる大都会だったんです。人が多いと需要も増えるから、いい商品が出たでしょうね。


おそら

そうですね。ただ、鉛白粉はまだ野放しに近い状態で... 1894年には歌舞伎役者が鉛中毒で重体になる事件も。1900年にようやく無鉛白粉ができますが、それでも昭和はじめに製造禁止令が出るまで鉛白粉は売れ続けたんですよ。


Y菜

ええー! そんな毒だって分かってるものを、なぜ買うかな?


おそら

実はね、鉛が入っているほうがよく延びて、化粧もちもいいんですよ。しかも安かったから。


編集者

水銀白粉の伊勢白粉も、このころには製造過程での水銀中毒が問題になってますね。


N美

キレイのためなら命がけ... 分からないことないけど、でもやっぱり健康が第一よねぇ...。

●大正時代(1912年〜1926年)


編集者

大正は女性の社会参加が進んだ時代ですね。バスガールや女性記者など。


おそら

そうですね。それにつれて、メイク法もいろいろと研究されだしました。1915年には竹下夢二のイラストを宣伝に使ったヘチマ化粧水が大ブレイクしたりも。


Y菜

そのヘチマ化粧水、今でもありますよね。お手頃価格だから学生時代にはよく買いました。


おそら

このころから色つきの白粉も出はじめます。あと、口紅も紅花のものから顔料・染料を配合したスティックタイプへ移行していきますね。


編集者

クリームや乳液なども出て、化粧の洋風化が進んだ時代ですね。


N美

モボ・モガの時代だものねー。断髪にクロシェ帽スタイルなんて、今でもちょっと素敵って思うわ。

●昭和時代・第二次大戦前(1926年〜1945年)


編集者

1932年に、石鹸系の固形シャンプーが発売されてますね。週一回はシャンプーしよう、というキャンペーンも。それをきっかけにして「シャンプー」という言葉が日常語になったようです。


おそら

そして2年後の1934年、鉛白粉の製造禁止令が出されます。


Y菜

ここでようやく鉛白粉が消えるんですね。


おそら

そう。ようやく、ですね。この年は世界初の油中水型乳化クリーム(w/o型乳化)が発売された年でもあって。世界初の女性ホルモン入りクリームでもあったので結構話題になってますね。油性白粉(練り白粉)や油性クレンジングクリームもこのころにお目見えしたようです。


N美

でも、ここからしばらくはお化粧どころではなくなるのよね。


編集者

「贅沢は敵」の時代ですね。当時の文部省からは口紅や白粉、頬紅の禁止令が出たそうです。化粧品を文部省が規制するっていうのも妙な話ですね。


Y菜

なんか、そういうところにも時代の性格が表れてますよね...。

●昭和時代・第二次大戦後(1945年〜1989年)


編集者

1953年には最後の伊勢白粉メーカーが廃業していますね。洋式の第1塩化水銀の製法が普及したことと、医薬品の法的規制がきつくなったことが主な原因だったようです。


Y菜

飛鳥時代からの歴史がとうとう終わったんですね。じゃあ、今の舞妓さんが塗ってる白粉に水銀は...?


おそら

入ってませんよ。今の白粉はカオリンやタルク、酸化亜鉛などからできてますから。そして、これ以降はファンデーションの時代ですね。1961年には、汗で落ちない「パンケーキ」が発売されます。


N美

雑誌なんかで時々見るんだけど、そのころのお化粧ってすごく凝ってるのよね。つけマツゲも上下バッチリ。一生懸命に西欧型美人を目指してるって感じ。


おそら

昭和40年代は一般女性が普通にメイクをするようになったんですね。「小麦色美人」が注目されて、色白至上主義もなくなって。


編集者

高級アルコール系シャンプーや、親水性のクレンジングクリーム(o/w型)の発売。化粧水も肌質ごとに製品を分けたりpHに配慮してみたり... いろいろ工夫が始まったのがこの時代ですね。


おそら

そう、「しっとりだけどさっぱり」が要求されるなど、私たち技術者の苦悩が始まるのもこのころからです(笑) あと、水溶性の男性整髪料もこの時期に出てます。それまでは油性ポマードやチックが主流だったので、結構画期的でしたね。


編集者

1970年ごろになると、欧米人にはない日本女性としての美しさが求められだしましたね。1972年には日本人モデル山口小夜子さんがパリコレに出演して人気を博したりしてます。


N美

80年代には日本メーカーから「バイオ口紅」が出たわよね。これって、すごいことだったんでしょ?


おそら

そうなんですよ。バイオ口紅に使われた色素シコニンは、ムラサキという植物からほんの少ししか取れない貴重品だったんです。それを、バイオ技術で大量生産に成功したんですよ。


Y菜

シコニン、紫色を出すのに使ったんですか?




おそら

いえ、さすがにそこまで大量に使えたわけでは... 抗炎症作用があるので、荒れ止めですね。あと、保湿。でも、とにかく植物の細胞を培養してこんな風に応用できたのは世界初だったんですよ。

●平成時代(1989年〜)


N美

平成っていったら、まずは小顔に茶髪ブームかしら。それまでは一般人が髪を染めるのは白髪隠しくらいのものだったんだけど、それがオシャレとして認知されたのよね。


編集者

そうですね。あと、紫外線がお肌にもたらす害がよく知られだしたのも平成以後です。そして美白ブームの到来。


おそら

単に「色白=美」ではなくて、肌を紫外線の害から守ったら白くなった、という流れですね。肌のためには良いことだと思いますよ。


N美

美白ブームなのに、ガングロ(顔黒)ヤマンバギャルとかも出たわね。あれはビックリだったわ...。


おそら

化粧品技術者としては、やっぱり2000年の原料規制緩和が印象ぶかいですね。化粧品に配合できる成分を自由に選べるようになって責任が重くなりましたが、その分やりがいも大きくアップしましたよ。


Y菜

化粧品の全成分表示がメーカーに義務づけられたのも平成になってからですよね、2001年だから。これがなかったころの敏感肌さんは大変だったろうな〜。合わない成分が入っていても、買う前にチェックできないんだもん。


N美

そうよねぇ。なにが入っているか分からないものをお肌に塗るなんて、ずいぶん度胸のいいことしてたわね、私たち。


Y菜

そう考えると、化粧品の世界って、時代によってホントに大きく変わってますよね。多分、これからも...10年後20年後はどんな風になってるのかな。


N美

やっぱり良いほうに変わっててほしいわ〜。身分で化粧法が決められたり、メイクのせいで身体を壊したり、国が個人のお化粧に口を出したり... そんなのイヤだもの。


おそら

同感ですね。みんなが安心してお化粧に励めたり、そのための製品作りに没頭できたりするのは幸せなことなんだ、と思います。


編集者

実はですね... 〆切り前の修羅場になるたび「化粧の時間が惜しい!」と叫んでいました。でも今後は心を入れ替えます(笑) では皆さま、今日はこの辺で。






(2011年10月初出)


チェックポイント

◎「化粧」は、儀式のために顔や体に赤い色(赤土)を塗ることから始まった。
◎飛鳥・奈良時代に唐から白粉が渡来し「色白=美」に。平安時代には暗い中でも引き立つ白化粧が発達。貴族の使う白粉は主に伊勢水銀が原料。化粧は個性の表現というより、身分や職業を表す義務のようなものに近かった。
◎江戸時代は鉛から作る白粉が一般にも定着したが、鉛による中毒事故も発生。鬢付け油やヘチマ水など、各種化粧品の販売もあった。
◎明治・大正にかけて女性の社会進出が進む。メイクにも工夫が生まれ、スキンケアに気を遣うようにも。
◎昭和に入って鉛白粉製造が禁止になり、戦後には水銀白粉も廃れた。ファンデーションやクリームなど、新型コスメが登場。色白至上主義が終わり、日本女性独自の美しさを求めるように。科学の先端技術がコスメに応用される。
◎平成になるとヘアカラーが一般的に。UV対策の定着。全成分表示の義務化始まる。原料の規制緩和により、メーカーの自由度も増した。


以下略
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月26日 06時08分05秒 ) パスワード

友人からの情報:8月5日朝日新聞の記事より


「神社が語る  古代12氏族の正体」
関  裕二
840円+税


祥伝社新書   http://www.shodensha.co.jp 03-3265-2081
[48]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月26日 07時02分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 物部氏、秦氏の探究は富士登山で例えるなら1合目をうろうろといった
あたりか。記紀神話が分かりにくくしている。

 今、戸矢学氏の『ニギハヤヒ』と『ヒルコ』と亀山勝氏の『安曇族と徐福』
という本を同時進行で通読していますが、特にこの『ヒルコ』がアマテラス
及びスサノオから初代天皇や物部氏とか具体的な実在人物に至るまでの関係
をみごとに解き明かしてくれます。

 今、時間がないので、今後のレスでまとめさせていただきますが、「徐福」
の件についても同時に解き明かされています。
 戸谷学氏の著作はもう一つ『ツクヨミ・秘された神』というのがあり、い
わゆる三部作となっていますので手に入れたいと思っています。

 安曇族というのは、海人族で、特に古代から近代まで海上と陸地をつないで
大活躍したというよりも、文明の進展・発展に大いに寄与した氏族ですので、
検討するに値するものと思われます。
 その頃の船・航海術・天文等が文明史を解くカギとなり得ます。

 それに関連して、氷河期から間氷期とは一概に言えないが、海水面の上下、
いわゆる海進・海退による地形も、古代を語る時は同時把握しなくてはなり
ません。歴史の本を読むと、いくつかの本には「その当時の海岸線はもっと
上にあった」とかそんな表現がチラホラあります。これははっきりさせてお
くべきでしょう。戦国時代でさえそんな表現がありますから・・・。

 ということであります。ではまた。
 
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月26日 09時18分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスすれ違いました。

 化粧の歴史、勉強になりました。こういう知識も何かの時に役立つのですね。倭人というもののルーツのヒントともなる。入れ墨が海人族系とわかる
ように。伊勢水銀も丹生や銅、金の発掘と関係して来ると思います。鈴鹿の
あたりか・・・? ベニバナが口紅に使われていた。染料とばかり思ってい
ましたが。江戸時代のある時期には岩手県最上川上流地方のベニバナ生産の
シェアは全国の50%以上であったという。何か謎がありそう。

 秦氏については、過去いろいろ参考資料を収集しましたが、結論としては
賀茂氏にその使命が受け継がれているのかと思われます(八咫烏、金鴉???)。
物部氏も、秦氏も、忌部氏も皆表舞台から消えてしまった・・・?
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月26日 12時10分35秒 ) パスワード

3柏さん


「ヒルコ」が重要な鍵を握ってましたか?
不思議ですね。
流されて・・・どうなったのでしょう?
楽しみです。


徐福も楽しみです。


『ツクヨミ・秘された神』
これも「こだわる人」がいるのを知っていますが
『秘された神』なんですか。
面白そうですね。



海岸線は自然にも動きますし
人為的にも干拓工事がずっと行われていますし、
特に江戸時代の安定期には日本中で農地拡大が行われましたから

今の海岸線から古代を考えるのはムリでしょうね。



お時間のある時に少しずつお書きになってください。
楽しみにしています。
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月27日 06時59分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 海進の関係で色々調べていましたら、NHK制作の過去の特集番組があり、
簡単に言うと2万年前は日本列島と大陸とは陸続きであり、即ち海水面が今
より100メートルも低かった。温度も10℃以上低かった。
 シベリア地方にはブリアート人(モンゴロイド)が住んでおり、マンモスハ
ンターであった。
 それが、2万年前に更に寒冷化し、住めなくなり日本本土へ渡って来たと
いう。従って縄文人は主としてブリアート人だという。もちろん南からやっ
て来た人達もいた。インドネシアのワジャク人に似た港川人・・・。

 先住民族アイヌ人の話はなかった。ではアイヌ人はいつ、どこからやって
来たのか。いわゆる蝦夷ともいわれる毛の濃い、ひげの濃い人達だと思うが。
日本各地に地名やらその痕跡を残しているし、言語もある。雄大な叙事詩も
残している。

 一説によると、アイヌはユダヤ人ではないかという。アブラハムのカナン
定住が3900年前であり、出エジプトが3300年前であるので、その頃
というのは既に大陸とは海で断裂されていたので、海を渡って来たのか。

 海を渡って来た人は沢山いる。アイヌ民族もそうだっただろうか。調べて
みたくなりました。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月27日 14時42分07秒 ) パスワード

ブリアート人というのがモンゴロイドにいましたか。
初耳でした。

    これが縄文人というのには説得されます。
    笑


モンゴロイドは確かにロシアから西にも行ってますね。
   その後、ずっと後世、チンギスハーン一派が西に行ってますし。
      フィンランド人とかハンガリー人とか。

でも本当に大昔にアジア人が西ヨーロッパにも行ってるんですよね。


アイヌはわたくしが子供の頃は古代白人種なんて書かれてました。
でも最近は白人じゃないとか。
ユダヤ人説ですか。



港川人は最近よく聞きます。
確かにインドネシアなんかの東南アジアの人が北上して沖縄人になって日本人にもなったのだろうなと思います。


興味深いですね。


ノアの時代は黒海だかに住んでたなんて話もありますし
地質学の好きな友人によるとこんな感じです。以下コピペ:


    ノアの方舟は,地質学から見ると実話です。

    世界中に洪水伝説が残っている。
    北海の底に,五大湖の倍くらいの湖の痕跡がある,
    地中海も黒海もかつては盆地だった証拠がある。
    日本も東北地方の久慈市沖,それと三沢市沖に大きな湖と川の痕跡がある。
    黄河も,古代は沖縄沖で海に出ていて、沖縄には黄河の流れた跡がある。

    古代は,今より海岸線が120m低かったというのは常識です。
    最近では,ノアは黒海の海底になった地域に住んでいたと言うのが常識です。
    地球全体で,120mの海水が上がったとすると,大量の水が来たわけで,これが月捕獲説になりました。

    月が捕獲されたとき,月の氷が地球に落ちてきたと言うのが月捕獲説です。
    ですから,最近はノアの大洪水は実話とする学者が多いです。

         ここら辺になるとサッパリついて行けないんですけどね。
         笑



古代解明するにはまだまだ年月がかかりそうですね。


ユダヤの話では神がカインの末裔を洪水で滅ぼしてノアの子孫のみに限定しようとして起こしたものだそうです。

日本人はノアの3男の子孫でこれは白人とアジア人になったとか。


ワタシは遺伝子上は日本人が91.6%で残りは東アジア人だそうで、
ヨーロッパや中東やアフリカは入ってなくて東南アジアも入ってないそうで
結構新しい人類のようですよ。

   ネアンデルタールの遺伝子を東アジア人は2.8%持ってるそうだけどワタシは2.7%だそうで

   中東が無いということはユダヤ人やシュメール人は入ってないらしい。笑


つまりブリアート人の子孫なのかも。なんか納得します。
ブリアート人の、東アジアでウロウロしてたグループの子孫なのかなと。

顔も自分では縄文系と思うし。   姉と祖母は弥生系なんですが。


こういうのって実に楽しい推理です。
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月28日 07時06分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 縄文時代の日本人を調べていたら、大変すごいサイトを見つけました。
それは、
http://www.geocities.jp/ikoh12/jikoshoukai.html

  伊藤俊幸さんという方ですが、「日本人の源流を探して」というテーマで
詳しく研究発表をされています。それはびっくりする程素晴らしい内容ですの
で一度見て下さい。
 煎じ詰めますと、陸橋を渡って来たのはブリアート人だけではないという
ことで、縄文人に2系統ある。
 一つは、北海道を含む列島の東地区には、バイカル湖文化系の「東日本人」。
もう一つは、九州、四国を含む列島の西地区には、華北文化系の「西日本人」。
ということです。

 しかしながら、アイヌ民族については、どこから来たのか、よくわからない。謎が残っているということです。

 時間がないので、私の夢想を述べますが、アイヌ民族と琉球民族は、いわゆる
ムー大陸から来た、あるいは逃れてきた人であるという仮説です。

 ではまた後で。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月28日 10時13分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 先程のhttp、アクセスできませんので、こちらへ。
http://www.geocities.jp/ikoh12/index.html

また、「失われた大陸伝説」というサイトも一度ご覧になって下さい。
    http://www.holisticnz.co.nz/index.php?main_page=history   

ここでは、アイヌ民族と琉球、そしてポリネシアがからんで、海の底に
沈んでしまった文明があるのではと推論しています。

 沖縄にはニライカナイの伝説が、その他竜宮伝説とか、伊勢にもそんな伝説
あるそうです(これらについて、具体的にはまだ追求していません)。

 MAXで300メートル海水位が下がったら、どこまで陸地になりますか
ね。海底にはたくさんの遺跡が眠っていると思います。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月28日 13時19分38秒 ) パスワード

URLの改訂、ありがとうございます。

ここからも入ってみました:
http://www.geocities.jp/ikoh12/
日本人の起源


この伊藤さんという方は修猷館高校のご出身?
すっごい優秀な県立高校でしょ?

なにかいろいろあったようですね。


>縄文人に2系統ある。
>一つは、北海道を含む列島の東地区には、バイカル湖文化系の「東日本人」。
>もう一つは、九州、四国を含む列島の西地区には、華北文化系の「西日本人」。

面白いですね。



>MAXで300メートル海水位が下がったら、どこまで陸地になりますか
ね。

200m海水位が下がったら、

伊豆諸島・小笠原諸島・カロリン諸島・沖縄・台湾・
ベトナム・インドネシア・それからオーストラリアが御近所さんになりますね。
それこそポリネシアも。
そして南アメリカ大陸にも手が届いてしまいそう。

そういう時代があったのかもですね。



民族の大移動は決して舟だけじゃなかったのかもですね。
大昔、陸続きだった時に、民族の大移動があったのかも。


   現代から考えると「海を舟」で?ですが
   そんな大変な思いはしてなかったのかもですね。


>海底にはたくさんの遺跡が眠っていると思います。

ですね。


上記URLはじっくり読んできます。
ありがとうございました。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月28日 14時13分48秒 ) パスワード

ルカリオンだね。「ポケモン」の。


[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月28日 14時37分00秒 ) パスワード

ルカリオンとかポケモンとか、ご存知無いですよね。




http://www.holisticnz.co.nz/index.php?main_page=history


「ハワイキ」というのはうちの近所のマンションの名でもあります。

本来はニュージーランドに渡る前の、マオリ族の故郷、という意味です。


hawaiiki

In Māori mythology, Hawaiki is the homeland of the Māori, the original home of the Māori, before they travelled across the sea to New Zealand. It also features as the underworld in many Māori stories.


URLからのコピペ:

ニュージーランドの先住民マオリ人は、太平洋ポリネシアの地域から西暦900年頃にアオテアロア(マオリ語で、白い雲のたなびく国の意味、ニュージーランドのこと)にやってきたのではないかと言われています。

では彼らはそのずっと前はどこにいたのか − マオリの古い伝承の中に、彼らの本当の故郷「ハヴァイキ」という言葉が残されています。
この「ハヴァイキ」は「とこしえの地」という意味で、タヒチでは「ハヴァイイ」クック諸島では「アヴァイキ」サモアでは「サヴァイイ」ハワイ諸島では「ハワイイ」という風に、若干の違いがあるもののこの地域に広く共通して存在した「ある場所」を指しています。その場所はマオリだけでなくポリネシアン全体の聖地であり、魂の故郷、「原郷の地」でした。そしてこの原郷の地は、各地の伝説によると遠い昔に海の底に沈んでしまったというのです。



マオリは  Maori と綴るのが日本語に似てるなと思います。
ハワイ語には R の音は無いから。  L はあります。



ハヴァイキは わたくし的には 「アラハバキ」(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)を連想します。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%90%E3%82%AD

アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)は、日本の民間信仰の神の1柱である。

その起源は不明な点が多く、歴史的経緯や信憑性については諸説ある。
東日流外三郡誌で遮光器土偶の絵が示されており、
それに影響を受けたフィクションなども見られるなど、
古史古伝・偽史的な主張と結びつけられることも多い。


アラハバキを祀る神社は約150[要出典]で、全国に見られる。
東北以外では客人神(門客神)としてまつられている例が多く見られる。

客人神とは本来、客人(まれびとを参照)の神で、
ここでは元のその地の神(地主神)に主客転倒があったものとされる。



諸説[編集]


縄文神説[編集]
縄文神の一種という説がある。



蝦夷の神説[編集]
「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権・朝廷により東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とする説が唱えられている。


蛇神説[編集]
吉野裕子の、かつての日本の、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたとする説で唱えられているもの。

吉野によれば、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。

伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われるというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつく[1] 。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という。



足腰の神説[編集]

長脛彦を祀るということから。
脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰があった。
多賀城市のアラハバキ神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、
脚絆等を奉げられていたが[2]、後に「下半身全般」を癒すとされ、
男根をかたどった物も奉げられた。



塞の神説[編集]
宮城県にある多賀城跡の東北にアラハバキ神社がある。
多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。
谷川健一によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るためにアラハバキを祀ったとしている。
朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。
つまりこれはアラハバキに「塞の神」としての性格があったためと[3]述べている。

さらに谷川によると、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は、「蝦夷をもって蝦夷を制す」であったそう[4]で、
もともと蝦夷の神を多賀城を守るための塞の神として配し、
衛視の佩く脛巾から、アラハバキの名をつけて[5]、蝦夷を撃退しようとしていたという。



製鉄の神説[編集]
先の、多賀城跡近くにあるアラハバキ神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。
多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であるという。
後述する氷川神社にも鉄と関連付ける説がある。

近江雅和によると、アラハバキから変容したとされる門客人神の像は、片目で祀られていることが多いという。
片目は製鉄神の特徴とされている。
近江は、「アラ」は鉄の古語であるということと、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物採取を実態としていた修験道はアラハバキ信仰を取り入れ、「ハバキ」は山伏が神聖視する「脛巾」に通じ、アラハバキはやがて「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容していったと述べている。

真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、「塞の神」と製鉄の神がここで結びついてくる。



氷川神社との関係[編集]
アラハバキが「客人神」として祀られているケースは、埼玉県大宮の氷川神社で見られる。
この摂社は「門客人神社」と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。
アラハバキ社は氷川神社の地主神である[6]。
現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので[7]、
先住の神がアラハバキとみられる[8]。

氷川神社は、出雲の斐川にあった杵築神社から移ったと伝わり、出雲の流れを汲む。
出雲といえば日本の製鉄発祥の地である。
氷川神社の祀官は鍛冶氏族である物部氏の流れを組むとのことである。   ←物部氏!
氷川神社のある埼玉県は古代製鉄産業の中心地でもあるという。
但し、音韻的に斐川は「シカワ」から転訛したものであり、
氷川は「ピカワ」から転訛したものであることから、全く繋がりはないとの説もある。

この大宮を中心とする氷川神社群

   (三ツ星である氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)
    はオリオン座の形、
    つまりカムド(神門)の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、
    ちょうど天を映した形になっている点は注目に値する。

                 思わぬ話になりました
                   ↓
さらにこの氷川神社群は秩父神社群(北斗七星(=アメノトリフネ、ウケフネ)の形に並んでいる)と比企郡ときがわ町の萩日吉神社において一点で交わり一対一で対応していることは、あるいは(その測量技術の精度の高さもあることから)古代朝鮮道教との強いつながりを窺わせる。

氷川神社が延喜式に掲載されている古社であり、かつ、氷川神社の主祭神がスサノオになった(=元々主祭神であったアラハバキ神が客人神になった)のは江戸幕府の政治的意図によるものであることからすれば、出雲と氷川の繋がりの話は、大和朝廷による蝦夷(含、渡来人)支配の一過程であると捉えたほうがよさそうである[要出典]。




四天王寺との関係[編集]
聖徳太子が物部守屋との仏教受容をめぐる戦いを制し建てた、日本初の大寺である大阪市の四天王寺について、
アラハバキ及び縄文系との関わりが指摘されている。

四天王寺の地の元来の地名は「荒墓邑」(アラバキ?)であり、
場所は縄文系説が言われる物部氏の地に立てたと伝えられる。
             ↑
            物部氏
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月28日 14時46分09秒 ) パスワード

https://www.google.com/search?q=%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%A2%E3%83%B3+%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA&rlz=1T4VRHB_enUS601&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=KcH-U6D6HKf1iwLju4GICA&ved=0CDAQsAQ&biw=960&bih=465

「ルカリオ」が正しい。
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月28日 15時18分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 貴重な情報ありがとうございます。またヒントが得られ、視野も広がりま
した。

 アラハバキに関するの本はもっていますが、よくわからなく、ギブアップ
していたところですので、もう一度読み込んでみます。

 ハヴァイキの話も非常に奥深く、またハワイアンの精神性にもかかわって
いると思います。その代表が「フラ」だと思います。「フ」は息。「ラ」は
太陽ではないでしようか。
 「フラ」は「ユラ」につながり、物部神道の祝詞を想像させます。神道の
祝詞は声を震わせます。フラダンスも体を震わせます。神道の場合は声を振
るわすことにより、頭の中にバイブレーションを起こし、チャクラを開かせ
るようです。究極的には「オーム・・・」=「南無」=「阿吽」の響となる
ようです。
 物部神道については、ユダヤ祭祀関係から引き出すヒントがなく、どうも太古のムー文明の方にヒントがあるような予感がします。
 ハワイの精神性も古代の母なる文明から来ている、沖縄についても同様、ニライカナイを探求すれば母なる文明に行き着くのではと思います。
 でも、何で物部氏がムー文明とつながるか・・・謎はさらに謎を呼びます。
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月28日 17時06分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 神道と仏教を混合してしまいました・・・「南無」。
 神道でよく出ることばというものがあると思いますが、別途考察してみたい
と思います。言葉にはそれぞれ魂があるという・・・「言霊」それはバイブレーション、波動、気ということ。
 宗教の祈りは、すべて呼吸法と波動が基本となる。


 
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月28日 22時31分45秒 ) パスワード

>「ハヴァイキ」は「とこしえの地」という意味で、
>タヒチでは「ハヴァイイ」
>ハワイ諸島では「ハワイイ」


ハワイイ=hawaii
つまり我々が布哇・夏威夷と呼んでいるハワイは現地ではハヴァイイと発音するようです。

    hawa’i’i  こんな感じで ハワイイ ハヴァイイ と発音します。


     Wの発音は イとエの後でV音に、 ウとオの後でW音に、アの前の始まり時はV でも W でも可
      after i and e it is pronounced v
     after u and o it is pronounced like w
      at the start of a word of after an a it is pronounced like w or v
 
     テレビで見ている限り現地の皆さんは「ハヴァイイ」と発音しています。


前からハワイとタヒチの交流の話を書いてきましたが
タヒチの人にとっては布哇は 「とこしえの地」 だったのかな?と。
それで交流があったのか?

   分かりません。


また HULAのことも分かりません。
単純にフラは踊りだと思っていました。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月28日 22時45分49秒 ) パスワード

わたくし的にはアラハバキ=荒神さまです。


でも間違っていたようです。

我が家では荒神様は存在しないのですが、お正月のみ竃にお飾りをしてました。
でも竃はガスコンロに変わってから壊したし、お正月のお飾りもしなくなったし。


大人になってから、ある汚い物を土の中に埋めたら?と発言したら
   「それじゃ、荒神様が怒る」
と反論されて   荒神様?  とビックリしました。
   (そんなもん、すっかり忘れてた)

今でも  荒神様  が存在する地域があるんだなと  驚きました。



ウイキより:

荒神(こうじん)とは、日本の荒ぶる神、悪神の一種。


概要[編集]

日本の古典にある伝承には、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)を対照的に信仰した様子が記されている。 民間伝承でも、温和に福徳を保障する神と、極めて祟りやすく、これの畏敬(いけい)の誠を実現しないと危害や不幸にあうと思われた類の神があった。後者が一般的な意味での荒神である。後者は害悪をなす悪神であったので、本来これを祀るものはなかった。


仏教の伝来とともに、インドで行われた、例えば夜叉・羅刹などの悪神を祀りこれを以って守護神とする風習が伝わった。そして古典上の荒ぶる神の類を、陰陽師(おんようじ)やその流れを汲む祈祷師(きとうし)が、外来教典に基づく神のように説いたことからこの呼び方が普及したのである。


すなわちヒンドゥー教での悪神が仏教に帰依した後に守護神・護法善神とされた風習が、日本の風土でも同じくされたものである。つまり古来からいう荒魂を祀って荒神としたということになる。



信仰史[編集]

荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようである。ちなみに各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である。県内に荒神社が一つもない県も多い。



荒神信仰には後述するように大別すると二通りの系統がある。(三系統ともいう。)屋内に祀られるいわゆる「三宝(寶)荒神」*(1)、屋外の「地荒神」である。

屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。

御祭神は各県により若干の違いはあるが、道祖神、奥津彦命(おきつひこのみこと)、奥津姫命(おきつひめのみこと)、軻遇突智神の火の神様系を荒神として祀っている。神道系にもこれら火の神、竈の神の荒神信仰と、密教、道教、陰陽道等が習合した「牛頭天王(ごずてんのう)」のスサノオ信仰との両方があったものと考えられる。祇園社(八坂神社)では、三寶荒神は牛頭天王の眷属神だとしている。

牛頭天王は、祇園会系の祭りにおいて祀られる神であり、インドの神が、中国で密教、道教、陰陽思想と習合し、日本に伝わってからさらに陰陽道と関わりを深めたものである。疫神の性格を持ち、スサノオ尊と同体になり、祇園会の系統の祭りの地方伝播を通して、鎮守神としても定着したものである。




種類[編集]

三宝荒神は、「无障礙経(むしょうげきょう)」に説かれているところの a.如来荒神(にょらいこうじん) b.麁乱荒神(そらんこうじん) c.忿怒荒神(ふんぬこうじん)の三身を指すとされたようであるが、偽経とされる説がある。偽経は中国で作成されたお経であり純粋な釈迦の教義とは言いがたいが、熱烈な信者も存在することは確かである。

後世、下級僧や陰陽師の類が、財産をもたない出家者の生活の援助をうけやすくするため、三宝荒神を信仰(帰依)するように説いたことに由来している。像容としての荒神は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから、しだいに俗間で信仰されるようになったものである。

竈荒神の験力によると、生まれたての幼児の額に荒神墨を塗る、あるいは「あやつこ」と書いておけば悪魔を払えると信ずる考え方がある。また荒神墨を塗ったおかげで河童(かっぱ)の難をのがれたという話も九州北西部には多い。

荒神の神棚を荒神棚、毎月晦日(みそか)の祭りを荒神祓(はらい)、その時に供える松の小枝に胡粉(ごふん)をまぶしたものを荒神松、また竈を祓う箒(ほうき)を荒神箒とよんで、不浄の箒とは別に扱う。

地荒神は、屋外に屋敷神・同族神・部落神などとして祀る荒神の総称である。 中国地方の山村や、瀬戸内の島々、四国の北西部、九州北部には、樹木とか、大樹の下の塚を荒神と呼んで、同族の株内ごとにまた小集落ごとにこれを祀る例が多い。山の神荒神・ウブスナ荒神・山王荒神といった習合関係を示す名称のほか、地名を冠したものが多い。

祭祀の主体によりカブ荒神・部落荒神・総荒神などとも称される。旧家では屋敷かその周辺に屋敷荒神を祀る例があり、同族で祀る場合には塚や石のある森を聖域とみる傾向が強い。部落で祀るものは生活全般を守護する神として山麓に祀られることが多い。

樹木の場合は、地主神、作神(さくがみ)であり、牛馬の安全を守るが、甚だ祟りやすい。また祀る人たちの家の火難、窃盗を防ぐというから、三宝荒神の荒神と全然別質のものとも言えない。地荒神にみられる地域差は、その成立に関与した者と、受け入れ側の生活様式の差にあったとみられる。

地荒神も三宝荒神と同様、毎月28日とか、正月、5月、9月の28日に祭りを行う例が多い。あるいは旧暦9月か11月かに、稲作の収穫祭のような感じをもって行われる。頭屋(とうや)制で同族や集落の家々が輪番で祭を主宰する古い祭りの形式を伝えているものがある。

仏教における荒神信仰[編集]
三宝荒神

仏教系では仏・法・僧の三宝を守る神様とされる。荒神の尊像は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)であり、不動明王に通じた怒りの形相である。六臂の持ち物はその像によって差異があるが、一般には 右手…独鈷・蓮華・宝塔(五鈷杵・金剛剣・矢)。左手…金剛鈴・宝珠・羯磨(金剛鈴・弓・戟または槍)のような形がとられている。江戸時代には民家の台所には必ずといってよいほど祀られていた。そしてその祀り方は御札あり、御宮あり、幣束もあっていろいろな形がとられていた。

ここにいう三宝とは、
三宝の本質は真理の一体化であるとする(同体三宝の説)
三宝はそれぞれ別の姿であるとする(別三宝の説)
三宝は仏教を維持し伝えて行く上の三宝で仏像と経巻と出家僧の三つを言う説

すなわち仏教で最も尊いものを宝に例えたもの
1.仏=仏様:悟りを開き衆生を教え導く者
2.法=教え:仏の説いた真理
3.僧=お釈迦様の教えを守る人達:仏教教団 と説かれていたらしい。

民間習俗における荒神信仰[編集]
あやつこ(綾子[1])

子供の「お宮参り」の時に、鍋墨(なべずみ)や紅などで、額に「×」、「犬」と書くこと言う。悪魔よけの印で、イヌの子は良く育つということに由来するとされ、全国的にでは無いが、地方によって行われる所がある。



古文献によると、この「あやつこ(綾子)」は紅で書いたとある、だが紅は都の上流階級でのみ使われたことから、一般の庶民は「すみ」、それも「なべずみ」で書くのが決まりであったという。この「なべずみ」を額に付けることは、家の神としての荒神(こうじん)の庇護を受けていることの印であった。東北地方で、この印を書くことを「やすこ」を書くと言う。宮参りのみでなく、神事に参列する稚児(ちご)が同様の印を付ける例がある。



「あやつこ(綾子)」を付けたものは、神の保護を受けたものであることを明示し、それに触れることを禁じたのであった。のちには子供の事故防止のおまじないとして汎用されている。柳田國男の『阿也都古考』によると、奈良時代の宮女には「あやつこ(綾子)」の影響を受けたと思われる化粧の絵も認められ、また物品にもこの印を付けることもされていたらしい。


***********

上流階級は「紅」でねえ・・・
庶民は紅なんか手に入らないから「鍋ずみ」で。だから「竃」の神様なのかな?


「紅」というのは古代史を考える上で重要な「色」なのかもですね。
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月29日 10時40分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 荒神、紅、「あやこ」・・・インプットしておきます。ありがとうございます。

 さて、海進の関係、時代と対比してまとめておきますので、参考にして下さい。

(時代)               (海水面)
 ・旧石器時代 〜BC14000年頃
 ・縄文時代  BC14000年頃〜
        BC13000年    −120m ウルム氷河期の最盛                 期が終わる。
        BC10500年    −120m 最後の寒冷期(オー
                          ルデストドリアス。
                          その後、海水面は急                          速に上昇。縄文海進
        BC9000年     −55m  徐々に上昇。
        BC8000年     −31m  徐々に上昇。
        BC7000年     −25m  徐々に上昇。  
        BC6000年     ±0m   現在の海水面付近
        BC4300年     +4〜5m 更に上昇。(一説には
                          10m上昇)。
        BC3000年     +4〜5m
        BC800年      −4m 縄文海退

 ・弥生時代  BC300年頃〜
        AD0年        −2m   弥生小海退

 ・古墳時代  AD250年

 ・飛鳥時代  AD592年
        AD700年      −1m   ロットネスト海進。

 ・奈良時代  AD710年

 ・平安時代  AD794年
        AD1000年     −0.5m
        AD1100年     +0.5m 平安海進。

 ・鎌倉時代  AD1185年

 ・室町時代  AD1336年
        AD1350年     −1m パリア海退。

 ・安土桃山時代AD1573年

 ・江戸時代  AD1603年

 ・明治時代  AD1868年

 ・大正時代  AD1912年

 ・昭和時代  AD1926年

 ・平成時代  AD1989年
        AD2000年     ±0m   現在の海水面 

 これを分かりやすく説明すると、

 1.BC10500年に−120mだった海水面が、何かのきっかけで
   1500年の間に65m海進が進んだ。それは徐々だったか一辺に進
   んだのかは探求する必要がある。彗星の衝突の影響かも知れない。
   その後も海進が進んで行く。

 2.BC4300〜BC3000年は海進のピークで、今よりも4〜5m
   海抜が高かった。平野部はかなり沈んでしまっていた。その後海退に
   転ず。

 3.BC800年頃には、小海退のピークで海抜−4m程海岸線が後退す    る。

 4.その後徐々に海進、AD1100年頃に海抜0.5mまでの海進があ
   ったが、その後AD1350年に−1mまで後退。それ以後は少しづ
   つ海進が進む。

 5.AD2000年ほぼ現在の海水位になる。地球温暖化の作用も加わっ
   て海進が進みつつある。

 ちなみに、月の引力で海水の満ち引きがあるが、東海地方では大潮と小潮
の海水位の差は±60p位、120p位である。赤道の方ではもっともっと
あると思われる(具体的数値は調べていない)。
 今は護岸工事、堤防がしっかりしているので、何ともないが、昔はそんな
対策はほぼなかった訳で、1mの海水面の上昇はどの程度の影響をもたらし
たのだろうか。結構影響は大きかったと思われる。大潮の時は1mが2mに
なっただろうし・・・。

 本日はこれにて。
   
      
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月29日 22時59分42秒 ) パスワード

得意な友人から教えてもらいました:


以下コピペ:


縄文時代は25,000年ありますから,正確に言ったら,海進と海退が交互にあったと言うべきでしょうけど,

平均でいまより120m海岸線が低かったのです。


上野の不忍池は,入江の跡です。

古代は,上野も海の底だったと言うことです。
このように,海進の時代もあったわけです。


マレー半島,インドネシア,ニューギニアはスンダランドと言う亜大陸でした。

日本の場合,間宮と宗谷の両海峡は陸地。
対馬海峡も陸地。
津軽海峡は一部が陸地。
それで,日本海は大きな湖でした。


台湾から屋久島まではつながっていた。
なんせ,黄河は沖縄で太平洋にそそいでいた。


鎌倉までは,地球全体が寒かった。
小氷河期と言いますけど。

だから,新田義貞,稲村ケ崎で太刀を,海の放り投げなくても,海岸線は今より後退していたので,通れたと最近言われています。



古代,名古屋周辺の地形も今とは全く違っていました。
名古屋に津島と言うとこありますけど,ここは島だった。
それで津島です。

熱田神宮も島。

名古屋は清州あたりが海岸線で,その先は湾です。


それで,岐阜の金華山つまり岐阜城のあるところですけど,金華山の下までが名古屋湾。
岐阜が,かろうじて海岸線。
輪中は,輪中でなく海底でした。


ただ,天武天皇の直轄地の安八郡ですけど,これ今の岐阜市だったと言う説が強いのです。
8世紀ころの地形ですけどね。


これ東京も同じで,
四谷あたりが海岸線。
後は海。

房総半島にあった,下総と上総ですけど,
国府は400mしか離れていない。
市川市にありますけど,下総国府跡と上総国府跡。

なんでかと言うと,陸地がこのあたりにしかなかった。
それで,400m位しか離れていなかった。
海の上に,国府造れませんから。(笑)


これ武蔵も同じで,武蔵の国府は,今の府中市の東京競馬場の傍にありますけど,府中市や国分寺市から都内に行ったら海。

吉祥寺や三鷹も海の底だったかもしれません。

新宿なんて,魚以外住めません。
海だから。
当時,歌舞伎町でデートしていたのは,魚さんのオスとメスだけ。

しかも,当時は利根川と荒川,墨田川が合流して流れていました。


ですから,四谷あたりは,水草が生い茂っていました。
有名な,歓楽街吉原。
これ,元は葦原です。
低湿地帯を家康が埋め立てて,歓楽街にしました。
でも葦原では,客が来ないので,吉原にしました。

これは,家康が江戸に来た時もそうで,
先ず家康が荒川と隅田川を別にして,
その後,どの時代だったか忘れましたけど,
利根川の流れを変えて,銚子に出した。


神奈川県も川崎市は完全に海底。
横浜市と横須賀市は,一部が,かろうじて陸地。
[65]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月30日 07時22分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。すごくイメージとしてよくわかります。津島という
地名もそれで納得です。熱田まで海岸線であったということも本で読んだこと
がありましたが、納得です。ただ、正確に何年頃というのがわからない・・・。
 年代が詳しくわかれば、人々の行動もよく推測できるようになりますね。
  
 前回のレスで、物部神道の「布瑠の言」すなわち「ひふみよいむなやここの
たり、ふるべ、ゆらゆらとふるべ」のゆらゆらをフラに関連付けましたが、そ
れは、遠い昔に沈んだ母なる国が共通にあったというところからの発想であり
ました。物部氏がレビ族としたら、このような呪はちょっと想像できない。ユ
ダヤ系の祭祀・祈法ではないのではないかという疑問を持っています。

 本日は時間がないので、次の機会にしたいと思います。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月30日 08時24分38秒 ) パスワード

>熱田まで海岸線であったということも本で読んだことがありましたが、納得です。
>ただ、正確に何年頃というのがわからない・・・。



下記は鎌倉時代の作だそうで、文章が美しいです。
この時代、熱田神宮はやはり海に面してましたね。
昼間の潮の引いてる時は馬で通れた?


    『海道記』(かいどうき)
     貞応2年(1223年)成立と考えられる紀行文。
     内容は貞応2年(1223年)4月4日、白河の侘士なる者が京都から鎌倉に下り、
     17日鎌倉に着き、善光寺参りの予定をやめて、
     さらに帰京するまでを描いている。
     中世三大紀行文(ほかに『東関紀行』、『十六夜日記』)のうちの一つ。
     作者未詳。(鴨長明だと思われてた時代もあったそうです)


         現代語訳 (笑) http://asakawa.na.coocan.jp/ronbun-4b.html


http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/kaido1.html

海道記(前半)


尾張〜三河〜遠江〜駿河あたりをコピペ:美しい文体です


市が江は現在の服部家のホンヤさんの家のあるあたり
      源義朝が美濃国の青墓から東国へ逃走途中
         野間の内海で長田父子に殺される前に
      尾張に着いたからもう安全だろうと舟から降りたとされる場所あたり





 苗代の水にうつりて見ゆるかな稲葉の雲の秋の面かげ

 日数ふるまゝに故郷も恋敷、立帰過ぬる跡を見ば、何か山何か水、雲より外に見ゆる物なし。朝に出て暮に入、東西を日光に弁ふと云へども、晩は泊り明ば立つ、昼夜を露命に論ぜん事はかたし。自ら歩を拾て万歩に運べば、遠近限ありて、往還期しつべし。たゞあはれむ、遥都鄙の中路に出て前後の念に労する事を。

 故郷を山のいづくに阻てきぬ都の空をうづむしら雲
 
夜隠に市が腋(いちがえ)と云処に泊る。前を見おろせば海さし入て、河伯の民潮に孚れ、後に見仰ば峰峙て、山祇の髪風に梳る。磐をうつ夜の波は、千光の火を出し(入海の潮は夜水を打ば、火の散る様にひかる也、)かゝなく暁のムササビは、孤枕の夢を破る。此処に泊て心は独り澄ども、明行ば友に牽れて打出ぬ。

 松がねの岩しく磯の浪枕ふしなれてもや袖にかゝらん



** 市が腋=市ケ江 尾張国。現、愛知県海部郡佐屋町。**



 七日、市腋を立て津島渡と云処舟にて下れば、蘆の若葉青みわたりて、つながぬ駒も立はなれず、菱の浮葉に浪はかくれども、難面き蛙はさはぐけもなし。取こす棹のしづく袖に懸りたれば、

 指て物を思となしにみなれざほみなれぬ波に袖はぬらしつ

 渡りはつれば尾張国晩に移りぬ。片岡には朝陽の景うちにさして、焼野の草に雲雀鳴あがり、小篠が原に駒あれて、泥し気色引かへてみゆ。見ば又園の中に桑あり、桑の下に宅あり、宅には蓬頭なる女、蚕簀に向て蚕養をいとなみ、園には潦倒たる翁、鋤を柱て農業をつとむ。大方禿なる小童部といへども、手を習ふ心なく、たゞ足をひぢりこにする思のみあり。弱くしてより業をならふ有様、哀にこそ覚ゆる。実に父兄の教へつゝしまざれども、至孝の志自らあひなる者歟。

 山田うつ卯月になれば夏引のいとけなき子も足ひぢにけり

 幽月影顕れて、旅店に人定ぬれば、草枕をとめて萱津の宿に泊りぬ。


**津島渡 津島川の末の渡し場。**
**萱津の宿 尾張国の宿駅。現、愛知県海部郡甚目寺町。**


 八日、萱津を立て鳴海浦に来ぬ。熱田宮の御前を過れば、示現利生の垂迹に跪て、一心再拝の謹啓に頭を傾く。暫く鳥居に向て、阿字門を観ずれば、権現の砌、潜に寂光の都に移る。其土木霜旧て、瓦の上の松風天に吹といへども、霊験日新にして、人中の心華春の如に開く。而のみならず、林梢の枝を垂る、幡蓋を社棟の上に覆ひ、金玉の檐に鐺うつ、厳錦を神殿の面にみがく。彼和光同塵の縁は、今日結て悦を含むと云ども、八相成道の終は、来際を限るに期なき事を哀む。羊質、未参の後悔に、向前の恨あり、後参の未来に、向方の憑みなし。願は今日の拝参を以て、必当生の良縁とせむ。路次の便詣なりと云事なかれ、此機感の相叶ふ時也。光を交ふるは冥を導く誓なり。明神定て其名におへ給はゞ、長夜の明暁は神に憑ある者哉。

 光とづる夜の天戸はや明よ朝日恋しき四方の空みん

 此浦を遥に過れば、朝には入塩にて、魚に非ずは游ぐべからず、昼は塩干潟、馬をはやめて急行く。酉天は溟海漫々として、雲水蒼々たり。中上には一葉の舟かすかに飛て、白日の空にのぼる。彼辰(原字は人偏)男の船のうちにしてなどや老にけん。蓬来嶋は見ずとも、不死の薬は取ずとも、波上の遊興は、一生の歓会、これ延年の術に非哉。

 思せじと心をつねにやる人ぞ名をきく嶋の薬をもとる

 猶この干潟を行ば、小蟹どもおのが穴々より出て蠢き遊ぶ。人馬の足に周章て、横に跳り平に走て、己が穴々へ逃入を見れば、足の下にふまれて死ぬべきは、外なる穴へ走り行て命を生き、外におそれなきは、足の下なる穴へ走り来て踏れて死ぬ。憐むべし、煩悩は家の犬のみならず、愛着は浜の蟹も深き事を。是を見てはかなく思ふ我等は、賢哉否や。生死の家に着する心は、蟹にもまさりてはかなき者歟。

 誰もいかにみるめあはれによる波の溺ふ浦にまよひきにけり

 山重て又重ぬ、河阻て復阻たりぬ。独旧里を別て、遥に新路に赴く。不知何日か故郷に帰らむ。影を双て行道づれども、境にふるゝ物の哀は心なき身にもさすがに覚て、屈原が沢に吟て、漁父が嘲に恥ぢ、楊妓が路に泣て、騒人の恨をいだきけんも、身の譬にはあらねども、逆旅にして友なき哀には、なにとなく心細きそらに思しられて、

 露の身を置くべき山の陰やなきやすき草葉も嵐吹つゝ

 潮見坂と云処をのぼれば、呉山の長坂にあらずとも、周行の短息はたへず、歩を通して長き道にすゝめば、宮道二村の山中を餘(正しくは貝偏:ハルカ)に過ぐ。山は何れも山なれども、優興は此山に秀、松は何れも松なれども、木立は此松に作れり。翠を含む風の音に雨をきくといへども、雲に舞鶴の声晴の空をしる。松性々々、汝は千年の貞あれば面替りせじ、再征々々、我は一時の命なれば後見を期し難し。

 今日過ぬ帰らば又よ二村のやまぬ余波の松の下道

 山中に堺川あり。身は河上に浮で独渡れども、影は水底に沈で我と二人り行。かくて参川国に至ぬ。雉鯉鮒(ちりふ)が馬場を過てすりの野原を分れば、一両の橋を名けて八橋と云。砂に眠る鴛鴦は夏を翁して去り、水に立る杜若は時を迎て開たり。花は昔の花、色もかはらずさきぬらん、橋も同じ橋なれば、いくたび造かへつらむ。相如世を恨しは、肥馬に駄て昇遷に帰る、幽子身を捨る、窮鳥に類して此橋を渡る。八橋よ八橋、くもでに物思ふ人は昔も過きや、橋柱よ橋柱、おのれも朽ぬるか。空く朽ぬる物は今も又過ぬ。

 住わびて過る三川の八橋を心ゆきても立かへらばや

 此橋の上に思事を誓て打渡れば、何となく心も行様に覚て、遥に過れば宮橋と云所あり。敷双のわたし板は朽て跡なし、八本の柱は残て溝にあり。心中に昔を尋て、言の端に今を註す。

 宮橋の残柱に事問ん朽ていく世かたえわたりぬる

 今日の泊を聞ば、前程猶遠といへども、暮の空を望ば、斜脚已に酉金に近づく。日の入程に、矢矯宿におちつきぬ。


**鳴海浦 鳴海潟。尾張国の歌枕。**
** 熱田宮 熱田神宮。**
**宮道二村の山中 宮道山と二村山。尾張と三河の国境にある。**
**雉鯉鮒(ちりふ) 池鯉鮒。現、愛知県知立市。**
**相如(しょうじょ) 前漢の人。故郷を出る時、蜀の昇仙橋に司馬の車に乗らずには渡るまいと書き付けて、望み通り司馬となった。**
**矢矯宿 矢作の宿。三河国の宿駅。現、愛知県岡崎市。**


 九日、矢矯を立て赤坂の宿を過ぐ。昔此宿の遊君、花齢春こまやかに、蘭質秋かうばしき者あり。顔を潘安仁が弟妹にかりて、契を参川吏の妻妾に結べり。妾は良人に先て世を早し、良人は妾に後て家を出。しらず利生菩薩の化現して夫を導けるか、又しらず円通大師の発心して妾をすくへるか。互の善知識、大ひなる因縁あり。彼旧室妬が呪咀に、てうちて舞悪怨かへりて善教の礼をなし、異域朝の軽仙(正しくは言偏)に、鼻酸持鉢忽に智行の徳に飛ぶ。巨唐に名をあげ、本朝に譽を留るは、上人実に貴し。誰かいはん初発心の道に入ひじりなりとは、是則本来の仏の世に出て人を化するに非や。行々昔を談じて、猶々今にあはれむ。
 
 いかにして現の道を契まし夢驚かす君なかりせば
 
かくて本野が原を過れば、ものうかりし蕨は春の心おいかはりて、人もおもらず手をおのれがほどろとひらけ、草わかき萩の枝は秋の色疎けっれども、分行駒は鹿の毛にみゆ。時に日鳥山に隠て、月星躔に露はなれば、明暁をはやめて豊河の宿に泊りぬ。深夜に立出て見れば、此川は流広く水深して、誠に豊なる渡也。川の石瀬に落る波の音、月の光に越たり。河辺に過る風の響は、夜の色白く、まだみぬひなの栖には、月より外にながめなれたる者なし。

 知人もなぎさに波のよるのみぞ馴にし月の影はさしたる


**赤坂の宿 三河国の宿駅。現、愛知県宝飯郡音羽町。**
** 此宿の遊君 源平盛衰記に「遊君力寿」とある遊女。**
**参川吏(みかわのり) 三河守大江定基。**
**本野が原(ほんのがはら) 三河国。現、豊川市。**


 十日、豊河を立て、野くれ里くれ遥々と過る、峰野の原と云処あり。日は野草の露より出て、若木の枝に昇らず、雲は嶺松の風に晴て、山の色天と一に染たり。遠望の感、心情つなぎがたし。

 山の端は露より底にうづもれて野末の草に明る凌露

 やがて高志山にかゝりぬ、石利を踏て火敲坂を打過れば、焼野原に草の葉萌出て、梢の色煙をあぐ。此林池を遥に行ば、山中に堺川あり。是より遠江国に移ぬ。

 くだるさへ高しといへばいかゞせんのぼらん旅の東路の山

 此山の腰を南に下て遥に見くだせば、青海浪々として、白雲沈々たり。海上の眺望は此処に勝たり。漸に山脚に下れば、匿空の如に堀入たる谷に道あり。身をそばめ声を合せてくだる。下りはつれば、北は韓康独往の栖、花の色夏の望に貧く、南は范蠡扁舟の泊、浪の声夕の聞に楽しむ。塩屋には薄き煙靡然となびきて、中天の雲片々たり。浜翏には捜る潮涓焉とたまりて、数条の畝戚々たり。浪による海松布は、心なけれども黒白を弁へ、白洲に立る鷺は、心あれども毛砂にまどへり。優興にとゞめられて暫く立れば、此浦の景趣は窺に行人の心をかどふ。

 行過る袖も塩屋の夕煙たつとて海士のさびしとやみぬ

 夕陽の景の中に橋下の宿に泊る。ゴウ海南に湛て、遊興を漕行舟に乗せ、駅路東に通ぜり、譽号を浜名橋にきく。時に日車西に馳て、牛漢漸くあらはれ、月輪嶺に廻て、兎景初て幽なり。浦に吹松の風は、臥も習はぬ旅の身にしみ、巌を洗ふ波の音は、聞も馴ぬ老の耳にたつ。初更の間は日比の苦に、七編の薦の席に夢みると云ども、深漏は今宵の泊の珍重に目覚て、数双の松の下に立り。磯もとゞろによる波は、水口かまびすしくののしれども、明蔭り行く月は、雲の薄衣を被て忍やかに過ぐ。釣魚の火の影は、波の底に入て魚を焦し、夜舟の棹の歌は、枕の上に音信て客の寝覚にともなふ。夜も已に明行ば、星の光は隠て、宿立人の袖は、よそなる音によばゝれて、しらぬ友にうちつれて出づ。暫く旧橋に立とゞまりて珍き渡を興ずれば、橋の下にさしのぼる潮は、帰らぬ水をかへして上ざまに流れ、松を払ふ風の足は、頭を越てとがむれどもきかず。大方羇中の贈は此処に儲たり。

 橋本やあかぬ渡ときゝしにも猶過かねつ松のむらだち
 波枕よるしく宿のなごりには残して立ぬ松の浦風


**峰野の原(みねののはら) 現、愛知県豊橋市今橋町付近とおもわれる。
**高志山(たかしやま) 三河国。現、愛知県豊橋市南部の台地。
**韓康独往(かんこうどくおう)の栖 韓康は後漢の人。薬を売っていたが、名を知られたことから嘆じて覇陵山中に遁れたという。
**范蠡扁舟(はんれいへんしゅう)の泊 范蠡は越王勾践の臣。勾践を補佐して呉を滅した後、五湖に扁舟を浮かべて去ったという。


 十一日、橋下を立て、橋の渡より行々顧れば、跡に白き波の声は、過る余波をよび返し、路に青き松の枝は、歩む裾を引とゞむ。北に顧れば湖上遥に浮で、波の皺水の貌に老たり。西に望めば潮海広く滔(はびこり)て、雲の浮橋風の匠に渡す。水上の景色は彼も此も同けれども、潮海の淡鹹(たんかん)は気味是異なり。邑(サンヅイ:みぞ)の上には波にはう鶚(みさご)、すゞしき水をあふぎ、船中には唐櫓をす声、秋の雁をながめて夏の天に行もあり。興望は旅中にあれば、感腸頻に廻て思休しがたし。


        浜松ですよ〜
         ↓
 此処をうち過て浜松の浦に来ぬ。長汀砂ふかくして行ば帰が如し、万株松しげくして風波声を争ふ。見ば又洲嶋潮を呑む、呑めば則曲浦の曲より吐き出し、浜猗(サンズイが付く)(ひんい)珠を汰(ゆ)る。汰ば則畳巌の畳に砕き敷く。優哉艶哉、難忘館忍。命あらばいかでか再来て此浦を見む。
 
  波は浜松には風のうらうへに立とまれとや吹しきるらん
 
林の風にをくられて廻沢の宿を過、遥に見亘て行ば、岳辺には森あり、野原には津あり。岸に立る木は枝を上にさして正しく生たれども、水にうつる景は梢を逆にして本に相違せり。水と木とは相生中よしときけども、移る影は向背して見ゆ。時已に誰枯になれば、夜の宿をとひて池田の宿に泊る。


**浜松の浦 新居・舞阪辺の松原かとされる。
**廻沢の宿 舞沢。遠江国の宿駅。現、静岡県舞阪町。
**池田の宿 遠江国の宿駅。現、静岡県磐田郡豊田町。


 十二日、池田を立て暮々行ば、林野は皆同様なれども、処々道ことなれば見に随て珍く、天中川を渡れば、大河にて水の面三町あれば舟にてわたる。水早く波さがしくて棹もえ指えねば、大なるエブリ(木偏に八)を以て横に水をかきて渡る。彼王覇が忠にあらざれば、呼他河斯(サンズイ)むすぶべきに非ず、張博望が牛漢の浪にさかのぼりけん。浮木の船かくやと覚て、

 よしさらば身を浮木にて渡なん天津みそらの中河の水


 上野原を一里斗り過れば、千草万草、露の色猶残り、野煙径煙、風音又よはし。あはれ同くは、これ秋の旅にてあれな。

 夏草はまだうら若き色ながら秋にさきだつ野べの面影

 山口と云今宿を過れば、路は旧に依て通ぜり。野原を跡にし、里村を先にし、うちかへ/\過行ば、事の任と申社に参詣す。本地をば我しらず、仏陀にぞいますらん、薩埵にもいますらん。中丹をば神必憐給べし。今身もおだやかに、後身も穏かに、椙の村立は三輪の山にあらずとも、恋敷は問てもまいらん。願は只畢竟空寂の法味を納受して、真実不虚の感応を垂給へ。

 思ふ事のまゝに叶へよ杉たてる神の誓のしるしをもみん

 社の後の小河を渡れば、佐屋中山にかゝる。此山口を暫くのぼれば、左も深き谷右も深き谷、一峰に長き路は堤の上に似たり。両谷の杪を眼の下に見て、群鳥の囀を足の下に聞く。谷の両片は又山高し。此際を過れば中山とは見たり。山は昔の山、九折の道旧が如し、杪は新なる杪、千条の緑皆浅し。此所は其名珠に聞つる処なれば、一時の程に百般たち留てうち眺め行ば、秦蓋の雨の音、ぬれずして耳を洗ひ、商垤(正しくは人便‥てつ)の風の響は、色に非して身にしむ。

 分のぼるさやの中山中/\に越て余波ぞくるしかりける

 時に鴇馬蹄疲て、日烏翅さがりぬれば、草命を養んが為に、菊河の宿に泊ぬ。
 或家の柱に、中御門中納言(宗行卿)斯書付られたり。
 彼南陽県菊水、汲下流延齢、此東海道菊河、宿西岸終命。
 誠に哀にこそ覚ゆれ。其身累葉の賢き枝に生れ、其官は黄門の高き階に昇る。雲上の月の前には、玉の冠光を交へ、仙洞の花の下には、錦の袖色を争ふ。才身にたり栄分にあまりて時の花と匂しかば、人其をかざして近も随ひ遠も靡き。かゝるうき目みむとは思やはよるべき。さてもあさましや、承久三年六月中旬、天下嵐あれて、海内波さかへりき。闘乱の乱将は花域より飛て、合戦の戦士は夷国より戦ふ。暴雷雲を響かして、日月光を覆はれ、軍虜地を動して、弓剣威を振ふ。其間万歳の山の声、風忘て枝を鳴し、一清の河の色、波誤て濁を立つ。茨山汾水の源流、高く流て遥に西海の西に下り、卿相羽林の花の族ら、落て遠く東関の東に散ぬ。是のみにあらず、別離宮の月光処々に遷ぬ、雲井を隔てゝ旅の空に住、雉籠山の竹声方々に憂たり、風便を絶て外土に吟ふ。夢か現か、昔もいまだきかず。錦帳玉當(正しくは王偏)の床は、主を失て武宿となり、麗水蜀川の貢は、数を尽て辺民の財となりき。夜昼戯て衿を重し鴛鴦は、千歳比翼の契生ながらたえ、朝夕に敬て袖を収めし僮僕も、多年知恩の志思ながら忘ぬ。実に会者定離の習、目のまえにみえ。刹利も首陀もかはらぬ奈落の底の有様、今は哀にこそ覚れ。今は歎とも助べき人もなし。泪をさきだてゝ心をはく打出ぬ。其身に従ふ者は甲冑の兵の、心を一騎の客にかく。其目に立者は剱戟の刃、魂を寸神の胸にけす。せめて命の惜さにかく書付られけむこそ、する墨ならぬ袖の上も露ぬべく覚れ。

 心あらばさぞな哀と水茎の跡かきつくる宿の旅人



**天中川 天竜川。諏訪湖に発し、遠州灘に注ぐ。
**張博望が牛漢の浪にさかのぼり 張博望は漢の張賽。武帝の使いとして、大夏に赴き、黄河の源を窮めたことを、「牛漢(天の川)を遡るといった。
**上野原(うえののはら) 遠江国の宿駅。
**山口と云今宿 山口は遠江国の宿駅。
* 菊河の宿 遠江国の宿駅。現、静岡県榛原郡金谷町菊川。


 妙井渡と云処の野原をすぐ。仲呂の節に当て、小暑の気様々催せども、いまだ納涼の心ならねば手にはむすばず。

 夏深き清水なりせば駒とめてしばしすゞまん日は暮なまし

 播豆蔵宿(はづくらのしゅく)を過て大堰川(おおいがわ)を渡る。此河は中に渡り多く、水又さかし。流を越へ嶋を阻て、瀬々片々に分たり。此道を二三里行ば、四望幽にして遠情をさへがたし。時に水風例よりも猛くて、白砂霧の如に立。笠を傾て駿河国に移ぬ。前嶋を過に波は立ねど、藤枝の市を通れば花はさきかゝりたり。

 前嶋の市には波の跡もなしみな藤枝の花にかへつゝ

 岳部の里邑を過て遥に行ば、宇津山にかゝる。此山は山中に山を愛する巧の削成せる山也。碧岸の下に砂長して巌をたて、翠嶺の上には葉落て壌をつく。肢を背に負ひ、面を胸にいだきて、漸にのぼれば、汗肩袒の膚に流て、単衣をもしといへども、懐中の扇を手に動して、微風扶持可なり。かくて森々たる林を分て、峨々たる峰を越れば、貴名の譽は此山に高し。大方遠近の木立に心もわけられて、一方ならぬ感望に思みだれて過れば、朝雲峰くらし、虎李将軍が棲を去り、暮風谷寒し、鶴鄭太尉が跡に住む。既にして赤羽西に飛ぶ。眼に遮る者は檜原槙葉、老の力こゝに疲たり。足に任する者は苔の岩根蔦の下路、嶮難にたへず。暫くうち休めば、修行者一両客、縄床そばにたてゝ又休す。

 立帰る宇津の山臥ことつてん都恋つゝ独越きと

 「行々おもへば、すぎきぬる此あひだの山河は、夢に見つるかうつゝにみつるか。昨日とやいはんけふとやいはん、むかしを今とおもへば我身老たり、今をむかしとおもへば我心わかし。古今をへだつる物はわが心の中懐なり。生死涅槃猶如昨夢といへるもあはれにこそおぼゆれ。昨日過にしあとはけふの夢となり、今は此所をすぐる、明日いづれの所にして今はきのふといはん。誠にこれ過ぬるかたの歳月を、夢よりゆめにうつりぬ。昨日今日の山路は、雲よりくもにいる。

 あすや又きのふの雲に驚かんけふはうつゝのうつの山ごえ」

 手越の宿に泊て足をやすむ。


**妙井渡(しみづのわたり) 位置不明。菊川宿に泊り、ここは十三日目の記述となる筈。
**播豆蔵宿(はづくらのしゅく) 遠駿国境の宿駅。遠江国榛原郡初倉。
**大堰川(おおいがわ) 大井川。
**前嶋 駿河国志太郡。
**岳部の里邑 岡部宿。駿河国の宿駅。
**手越の宿 駿河国の宿駅。現、静岡市。


 十三日、手越を立て野辺を遥々と過ぐ。梢を見れば浅緑是夏の初なりと云ども、叢を望めば白露まだきに秋の夕に似たり。北に遠ざかりて雪白き山あり。とへば甲斐の白峰といふ。年来聞し所、命あれば見つ。凡此間、数日の心ざしを養て、百年の齢を延つ。彼上仏の薬は下界の為によしなき者哉。

 惜からぬ命なれども今日あれば生たるかひのしらねをもみつ

 宇度浜を過れば、波の音風の声、心澄処になん。浜の東南に霊地の山寺あり。四方高晴て、四明天台の末寺也。雲閣繁昌して、本山中堂の儀式をはる。一乗読誦の声は十二廻の中に聞へて絶事なし。安居一夏の行は、採花汲水の勤験を争ふ。修する所は中道の教法、論談を空仮のオトガイに決し、利する所は下界衆生、帰依を遠近の境に至す。伽藍の名を聞けば久能寺と云、行基菩薩の建立土木風きよし。本尊の実を尋れば観世音と申、補陀楽山の聖容出現月明なり。大方仏法興隆の砌、数百箇歳の星漢霜旧たり。僧侶止住の峰、三百余宇の僧坊霞ゆたかなり。雲船の石神は、山の腰に護て悪障を防き、天形の木容は、寺内に納て善業をなす。千手観音彼山より石舟に乗て此地に下賜けり。其船善神と成て山路の大坂にいます、石舟の護法と号す。彼海岸山の千眼は、南方より北に下て有縁を此山に導き、宇度浜の五品は、天面を地に伝て舞楽を此浜に学べり。昔稲荷大夫と云者、天人の浜松の下に楽を舞けるを見て学び舞けり。天人々の見をみて、鳥の如に飛て雲に隠けり。其跡を見ければ一の面形を落せり。大夫是を取て寺の宝物とす。其より寺に舞楽を調て法会を始行す。その大夫が子孫を舞人の氏とす。二月十五日、常楽会とて寺中の大営なり。其後天に帰る廻雪は春の花の色、峰にとゞまる曲風は歳月の声。仍此浜を過れば、松に雅琴あり波に鼓あり、天人の昔の楽今聞に似たり。

 袖ふりし天津乙女が羽衣の面影にたつ跡のしら浪

 江尻の浦を過れば、青苔石に生ひ、黒布磯による。南は奥(サンズイ)の海森々と波をわかで、孤帆天にとび、北は茂松鬱々と枝を垂て、一道つらをなす。漁父が網を引、身を助として身を労しめ、游魚の釣をのむ、命を惜て命を滅す。人幾の利をか得たる、魚幾の餌をか求む哉。世を渡る思、命をたばう志、彼も此も共に同じ。是のみかは、山にあせかく樵夫は、北風を負て晩に帰る、野にあしなへぐ商客は、白露を払て暁に出づ。面々の業はまち/\なりと云ども、各々の苦みは是皆渡世の一事也。

 人ごとに走る心はかはれども世をすぐる道はひとつなりけり

 此浦を遥に見亘して行ば、海松は浪の上に根を離たる草、海月は潮の上に水に移る影、ともにこれ浮生を論じて人をいましめたり。

 波の上びたゞよふ海の月も又うかれ行とぞ我をみるらん

 清見関を見れば、西南は天と海と高低一に眼を迷し、北東は山と磯と嶮難同く足をつまづく。磐下には浪の花、風に開春の定めなり、岸のうへは松の色、翠を含て秋におそれず。浮天の浪は雲を汀にて、月のみ舟夜出て漕、沈陸の磯は磐を路にて、風の便脚あしたにすぎ。名を得たる所必しも興をえず、耳に耽る処必しも耽らず、耳目の感二ながら従たるは此浦にあり。関屋に跡をとへば、松風空く答ふ、岸脚に苔を尋れば、僮(正しくは木偏)花変じて石あり。関屋の辺に布たゝみと云処あり。昔関守の布をとりをきたるが、積て石に成たると云り。

 吹よせよ清見浦風わすれ貝ひろふなごりの名にしおはめや
 語らばや今日みるばかり清見潟おぼえし袖にかゝる涙は

 海老は波を游ぎ、愚老は汀に溺ふ、共に老て腰かゞまる。汝は知哉生涯浮める命今いく程と、我は不知幻の中の一瞬の身。
 かくて息津浦を過れば、塩竈の煙幽に立て、海人の袖うちしほれ、辺宅には小魚をさらして、屋上に鱗を葺り。松の村立浪のよる色、心なき心にも心ある人にみせまほしくて、

 たゞぬらせ行ての袖にかゝる浪ひるまが程は浦風もふく

 舳(正しくは山偏)崎(くきがさき)と云処は、風瓢々と翻りて砂を返し、波浪々と乱て人をしきる。行客こゝにたへ、暫くよせひく波のひまを伺ひていそぎ通る。左は嶮き岳の下、岩の迫を凌行、右は幽なる波の上、望めば眼うげぬべし。遥々と行程に、大和多の浦に来て、小舟の沖中に溺へるをみる。ハン帆飛て万里、風のたよりをたのみて白煙に入、ゴウ波うごきて千雲、夕陽を洗て紅藍に染む。海館の中に、此処は心をのみとゞめず。

 忘じな浪の面影立そひて過るなごりのおほわだのうら

 湯居宿を過て遥に行けば、千本の松原と云所あり。老の眼は極浦の波にしほれ、朧なる耳は長松の風に払ふ。晴天の南には、翠蓋の笠あれば袖をたまくらにす。砂浜の水には、白花散ども風を恨ず。行々路を顧れば前途弥ゆかし。 
 聞わびぬ千々の松原吹風の一方ならずわけしほるこゑ
 蒲原の宿に泊て菅薦の上にふせり。


十三日は十四日目となる。



**宇度浜(うどのはま) 羽度山南麓の海岸。駿河国の歌枕。
以下略


ここでアップ
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月30日 08時33分41秒 ) パスワード

で、現代語訳のコピペ(笑)


■四月六日(鈴鹿〜市腋)
 中国の孟嘗君の故事では馬に乗った五人の家来は、函谷関で鶏の鳴き真似をして、夜明け前に門を開けさせて通ったというが、私の旅の場合は、その故事とは違って追われて急ぐわけでもなく、鶏の鳴いたあとで、夜が明けてから宿を出発した。

 山中を半分過ぎてから、だんだん下りになって行くと、絶壁の岩が削って造ったように鋭く立っているが、山は静かで谷川はいかにも穏やかである。こうして村里に出て田の中の畦道を通って行くと、右にも左にも、稲を植えた田が遠く広々と続いているのが見える。耕したもの、耕さぬものがあり、苗は所々である。それだけでなく、池や溝が方々で崩されている。そこから水をおのおのが思いのまま引いてあり、畦が並んで、苗が思い思いに植えてある。

 民の出す煙は、君主の恩恵により盛んになり、天子の徳は、民が農業する大地から開けるものだ。竜神はもともと稲を守って夏の雨を降らせ、電光はかねてから稲を守って実のらし秋を待っている。春の農業を励むと、秋の収穫での年貢が期待される。

 日数が重なるにつれて故郷のことも恋しく思い出されて、振り返ってみても、見えるのは山と雲だけである。朝に東から出て夕方に西に沈む陽の光によって、東か西の方角を判断している。晩になれば泊まり夜が明ければ出立する。その昼夜を露のようなはかないことだと論断するのは難しい。自然と一歩を拾いながら万歩になるようにしているので、遠距離でも限りがあって、きっと行って帰ることが期待できるに違いない。ただ自分を哀れに思うのは、遥かに遠く、都と田舎との中間のあたるこの地に出て来て、これからの前途を思ったり、過ぎ去った後方の道を顧みたりして心を痛めている自分に対して、ただ、哀れに思うばかりである。夜になって市腋に泊まった。前を見下ろすと海が入り込んで、川の神に養われているように魚が海中を泳ぎ、後ろを見上げると峰が聳えていて、山の神の髪が梳かされているかのように、草木が風になびいている。岩を打つ夜の波は千筋の光を発し、入海の潮は夜に水を打つので火が散るように光る。ここに泊まって心だけはすっきりしたが、夜が明けると友に誘われて出立した。

◇孟嘗君=中国の戦国時代(前403〜221)の人。
◇函谷関=中国の戦国時代に秦が設けた関所。現河南省霊宝県の西南にある。地形が険しく、交通上の要地であった。
◇市腋=愛知県津島市から弥富町に至るあたりの木曾川の河口で「市江」ともいう。


■四月七日(市腋〜萱津)
 市腋を出発して、津島の渡し場を舟で下ると、あたりは蘆の若葉が一面に青く続いているのが眺められて、繋でいない馬もそこに立ち止まってどこへも離れていこうとしない。水面に浮かんでいる菱の葉に川の波が寄せて水をかけているけれども、葉の上に乗って平気な顔をしている蛙は、騒ぐ様子も見られない。そのような水面に舟を進めている船頭が持って手前の方に漕ぐ、棹の滴が、私の袖にかかる。渡り終わったところで、伊勢の国から尾張の国に入った。


        養蚕ですって(ビックリ)

          ↓

 そこでは家族皆が養蚕を営んでいる。畑では老人が、鋤で土をおこして農業に精を出している。このあたりでは、おかっぱの髪をした子供たちは、文字を習おうとする気もなく、ただ、足を泥だらけにして田畑で働くことを考えている。これらの人々が、若い頃から自分の家の仕事を手伝っている様子は、しみじみと心を打たれることである。彼らは、なるほど父や兄の教えを受けて、厳しく育っているわけではないのだが、この上ない親孝行の心が自然にこのような結果になるものなのだろうか。かすかな月が空に姿を見せてきた、宿に人々が落ち着いたので私も萱津の宿に泊まった。


◇津島=愛知県津島市。中世までは渡船宿場として栄えた地。伊勢の桑名と尾張の熱田を結ぶ航路の中途に位置 していた。
◇萱津=尾張国の宿駅。海東郡。現名古屋市の近郊にあたり甚眼寺町に萱津の地名が残っている。『東関紀行』にも「萱津の東宿の前を過ぐれば、そこらの人集まりて、里もひびくばかりにののしりあへり」とあり、賑わいの様子が記されている。


■四月八日(萱津〜矢矧)
矢矧橋
東海道第一の長橋といわれた。 長さ二百八町(約370メートル)



 萱津を出発して鳴海の浦にやって来た。熱田の宮の御前を通ったので、この神宮の前にひざまずいて来世成仏の良縁を祈る。この浦を遠く過ぎると、満潮で深いから、魚でなければ泳ぐことが出来ない。昼は潮が引いた後の砂地を、馬の足を速めて急いで通った。

 更に干潟を進んで行くと、そこには小さな蟹がめいめいの穴から出て遊んでいるが、人馬の足に驚き慌てて穴の中に逃げる、なかには足の下の穴に走って来て、踏まれて死ぬ蟹もいる。このような光景を見てはかなく思う自分はいったい賢いのであろうか、愚かなのであろうか、この世に執着するは蟹にもまさってはかないものよ。

 三河の国に入り八橋にさしかかる。花が咲いているが、伊勢物語に書かれた花であろうか。
熱田神宮(草薙の剣がご神体)


その時と同じ色に咲いているのであろう。 陽が西の方角に近づいている。やがて、沈むころに矢矧の宿に落ち着くことが出来た。


◇鳴海の浦=名古屋市緑区鳴海町あたり。ここは古くから東海道 の宿駅として知られている。
◇熱田の宮=熱田神宮。熱田大神を主神とし、他に天照大神、素戔鳴尊、倭建命などを祭っている。倭建命の東征にまつわる草薙の剣が、ご神体とされる。
◇八橋=『伊勢物語』東下りの話以来、歌枕として、また、カキツバタの名所として名高い。現在の知立市八橋町。
◇矢矧=「矢作」とも書く。古くは「矢矯」とも書かれた。矢作 川の西岸にあった宿駅で、対岸の岡崎の町と、橋によって通じ ていた。その矢作橋は近世にも名高い橋であった。



 ■四月九日(矢矧〜豊河)

赤坂宿 旅舎招婦の図


矢矧を立って赤坂の宿場を過ぎる、昔この地で、美しい遊女を妾とした三河守定基は、遊女が早世したあと悲しみのあまり出家し、後渡宋して聖僧の誉れが高かったという。旅を続けながら道連れの人と昔のことを語って、ますます、現在においてもしみじみと心を打たれる。

 本野が原を過ぎて行くと、春は若く柔らかであったワラビは、夏の今は、生長して人も折ろうとはしない、それが生えた野原を分けて行く馬の色は、秋の鹿の毛のように見える。陽は幾重にも重なった山の向こうに隠れて、月は星の軌道の上にはっきりと姿を見せる頃になったので、明日の朝は早く出発することに決めて、豊河の宿に泊まった。

 深夜外に出てみると、川は広く水深く誠に豊かである。


◇赤坂の宿=愛知県宝飯郡音羽町。中世・近世を通じて、遊女の多い宿として知られた。
◇本野が原=豊川市の西方にあった野原。今も市内の地名として残る。近世初頭までは一面に草の生えた原であ った。
◇豊河=愛知県豊川市。豊川の流域の沿い、後に豊川稲荷の門前町となった。現在は東名高速道に沿う工業地帯としても栄えている。


■四月十日(豊河〜橋本)
 豊河を出立し、野となく、里となくはるばる過ぎて行く途中に、峰野の原という所があった。そこでは、朝の太陽は、野原の草の露の向うから出て来て、若い木の枝にまで昇らないほどの高さであった。雲は峰の松を吹く風に吹かれて、晴れやかに浮かんでおり、山の色は、晴れた空と同じように青い色に染まっている。これらの遠くから眺めた感動は、その気持ちを言葉で表現しようとしても難しいことであった。

 まもなく高志山に登りかかった。尖った岩を踏みながら、火敲坂を通り過ぎると、焼けた原に草の葉の芽が出ていて、梢の緑の色はは、
高志山(豊橋)
 標高60b 『東関紀行』『十六夜日記』にも記されてる


ぼうっと煙ったような感じである。山の中に堺川があった。ここから遠江の国に入った。

 海上の眺望が実に素晴らしい。夕日の影はまだ短いものの、橋本の宿に泊まる。宿の南に大海があって舟に乗って遊者が居る。宿場をつなぐ街道は東方に通じて、そには名高い浜名の橋が評判であることを、人から聞いた。丁度、陽が西に速い速度で傾いて、空には牽牛や天の川が次第に姿を見せ、月が山の頂きに昇りはじめている。

 海岸に吹く松の風や、岩を洗う浪の音は、今まで慣れていないのでなかなか寝付かれない。夜が更けてから林の中に立った。風や浪、月や雲の風情は旅先のよき贈り物である。


◇峰野の原=現在のどのあたりか正確には明かではない。豊橋市の西方にあった野原であろう。
◇高志山=「高師山」と書かれることが多い。豊橋市の東南部から静岡県湖西市元町に至る、丘陵地一帯の称で、標高60メートル前後。『東関紀行』『十六夜日記』には高師山とある。
◇火敲坂=詳しい場所は明らかでない。
◇堺川=現も堺川。愛知県のほぼ中央を流れる川で、豊橋市の南部で三河湾に注いでいる。
◇橋本の宿=浜名湖の南西、新居町あたり。鎌倉時代の栄えた宿場で浜名の橋と海岸の松原の美観によって東海道の名勝の地であっが、中世の末に津波に襲われて滅びたという。



■四月十一日(橋本〜池田)

「長汀砂フカク。萬株松シケクシテ、波風聲ヲ争ウ」
と述べている浜松の海岸。  (『日本の古典』学研)


 
 橋本を出立し、橋の所の渡し場から、舟の進むにつれて振り返って見ると、通った跡の水面に白い波が立つ。また街道に生えている青い松の枝が、着物の裾にからむのは、歩く自分を引き止めようとしているかのようである。
 北方に振り返ると、浜名の湖の上は、波が立ち、それが顔に皺が寄ったように見えて、年老いた人を思わせるものがある。また、西方を遠く眺めると、海が広々と広がって、その上空に吹く風のしわざによって、浮橋のような形の雲が横たわっている。水上の景色は、湖も海も同じようなものではあるが、淡水の湖と塩水の海とは、趣きが違っている。

 水の上には波に羽を打つモズが、船の中では、櫓を押す音がして、秋の雁の声が連想される。今は夏であるが、その空に雁が飛んでゆくような気もする。このように、趣ある眺めは、旅の途中に目にすることが出来るから、それに感動する心は、しきりに繰り返し湧き起こって、さまざまな思いが、容易に止まらない。


         浜松ですよ〜
           ↓
 ここを通り過ぎて浜松の海岸にやって来た。この景色は何と優美であることよ、また、何と華やかな美しさであることよ。この美観は、容易に忘れることはないし、感動に耐えられない。もし私に寿命があるとしたら、何とかして、もう一度やって来て、この海岸の景色を浜名湖の美しさに魅せられて、優美艶やかと称賛した。林の風に送られて、廻沢の宿を過ぎたあたりから黄昏時になったので、池田の宿に泊まった。


◇浜松=静岡県西部の海岸(遠州灘)浜名湖と天竜川との間に位置し、もとは渡船場であったが、鎌倉時代から 宿駅として発達した。後の城下町としても栄え、現在は、商工業都市・観光地として知られている。
◇廻沢=「舞沢」とも書く。後明応七年(一四九八)に津波で流出。舞坂(舞阪町)が、その後進の地とされる。
◇池田の宿=静岡県磐田市。東海道の旧駅で、当時は天竜川の西岸にあったが、後に東岸に移り、近世は衰えた。



■四月十二日(池田〜菊河)

 池田を出発して、天中川を渡ったが、大河で水面は三町もの距離があるので舟で渡った。水の流れが速く、波も激しく危険で、舟は棹も指すことが出来ないので、大きなえぶりを用いて、横の方に水を掻いて川を渡った。

 山口という新しい宿場を過ぎ、野から里、里から野へと繰り返し繰り返し過ぎて行くと、事のまゝと申す神社があって参拝した。来世の身も安らかでありますようにと参拝した。

 社の後ろの小川を渡れば小夜の中山にさしかかる。この山の入り口をしばらく登ってゆくと左右は深い谷で、その間にある一つの峰の上に続く道は、まるで堤防の上を行くような感じだ。両側

小夜の中山

「谷ノ杪ヲ目ノ下ニ見テ群鳥ノ囀ヲ足ノ下ニ聞ク」と述べている、
東海道の難所の一つである。
(『東海道五十三次』集英社 )


の谷の梢を眼下に見ながら、多くの鳥の囀る声を足の下に聞いた。その谷の両側は、山が高く聳えている。
 私の葦毛の馬は脚が疲れて、陽も西に傾いたので、はかない命を大切にしようと思って、菊河の宿に泊まった。そこの柱に、故中御門中納言宗行卿(藤原宗行卿)の詩が、次のように書き付けられてあった。




彼 南 陽 懸 菊 水 汲 下 流 延 齢
(彼の南陽県の菊水下流を汲んで齢を延ぶ)
此 東 海 道 菊 河 宿 西 岸 終 命
(此の東海道の菊河西岸に宿りて命を終ふ)

あの中国の南陽県の菊水という川は、その下流の水を汲んで飲むと寿命が延びた、と聞いている。そこと同じ「菊」の名は付いても、この東海道の菊河では、私はその西岸に宿って命を終えることである。

 本当に気の毒なことに思われる。この人は、代々尊貴な家柄の一族に生まれ、その官位は、中納言まで昇進し、才能は十分に備わり、栄達は身分を超えるほどで、当時の華やかは存在として勢い盛ん であった。それほどの宗行卿がこのようにつらい思いをしようとは誰が考え付くことができたであろうか。
 それにしても、驚きあきれることよ。承久三年六月中旬、天下に風が吹き荒れ、国中が乱れた。武将が花の都から飛び出し、戦う武士は田舎の東国から戦場に来た。荒々しい軍勢は大地を動かすほどで、弓や剣が強い力を振るった。天皇たちは波の高い海を渡って遠く西海かでくだり、公卿や将軍らの身分の高い者たちは、都から遠い関東に引かれて斬られた。これだけではない。皇妃たちもあちこちに移され、遠く離れた旅の空の下に住み、鄙びた地で竹に吹く風の音を聞き、それぞれ憂いのおおい日を送る。人から伝えられた便りも途絶えてなくなり、都を離れた土地をさまよっている。未だかつてこのようなことは聞いたことがない。錦帳をめぐらし玉で飾られた床は、主を失って武士の宿となり、黄金や錦などの貢物は、すべて田舎武士の財産となった。

 本当に会者定離のならいが目の前に見える。身分の高い者も低い者も別なく地獄の底で苦しむ様子は、今は哀れに思われる。今嘆いても此の人たちを助けられる人はいない。宗行卿は涙を流し、心が弱まったま出立した。その身に従うものは、甲冑を身につけた武士で、彼らの心は馬上の人に向けられている。何としても命の惜しい気持ちでこのように柱に書き付けられたのだと思われるが、わが身の袖の上にも涙の跡が今にもあらわれるように思われる。


◇天中川=天竜川のこと。長野県諏訪湖に源を発し、静岡県を南下して、浜松市の東方で遠州灘に注いでいる。 全長216キロ。大井川・富士川と合わせて、東海道の三大川と称されてきた。『更級日記』にも「いみじく苦 しければ、天中といふ川のつらに、仮屋造り設けたりければ・・」とある。
◇えぶり=農具の一種で、長い柄の先に横板を付け、土を平らにしたり穀物などを掻き集めたりするのに用いる。
◇山口=掛川市に地名が残っている。「山口」の名は、小夜の中山への入り口という意味に由来。
◇事のまゝと申す社=掛川にあった事任神社のこと。『枕草子』『東関紀行』『十六夜日記』にも見える。
◇小夜の中山=掛川市日坂と榛原郡金谷町菊川との間を結ぶ山道。四キロ余りの急な坂道で、大井川とともに東海道二大難所とされた。月の名所。
◇宗行=(1175〜1221)鎌倉時代朝廷に使えた役人。後鳥羽上皇の信任を得て、承久の乱で幕府を倒す 計画に加わったため捕らえられ、関東へ送られる途中駿河廻沢で殺された。
◇承久三年=(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げて失敗し、結果的には、仲恭天皇は退位させられ、後鳥羽(隠岐)・土御門(土佐)・順徳(佐渡)の三上皇は各地の配流され、計画に参加した公家・武士たちは処罰された。



■四月十三日(菊河〜手越)
藤原宗行の塚



 幡豆蔵の宿場を過ぎて過ぎて大井川を渡った。この川は中にいくつもの瀬があちらこちらに分かれている。風も強く白い砂が霧のようにたちこめている。笠を傾けながら駿河の国に入った。

 藤枝から岡部を過ぎて宇津山にさしかかった。壁のように切り立った崖の下には、砂地が長く続いて、大きな岩が立っており、登るにしたがい汗が肩の肌に流れて単衣が重たくなった。扇子を出して微風を送ると心地よい、そのように通っているうちに、すでに陽は西に飛ぶように傾いている。老人としての私に体力は、ここで疲労を感じた。また、苔の生えた岩や、ツタの葉の陰になっている道を、足に任せて歩くが、その道の険しさは、辛くて耐えられないほどである。そこで修業者が二人休んでいた。


◇幡豆蔵=榛原郡。後に「初倉」「筈倉」と書かれる。大井川の南岸の地で、もと宿場であったが、掛川との間に 日坂や金谷の宿が置かれたため廃された。
◇大井川=遠江の榛原郡と駿河の志太郡との間を流れた大河で、「大堰川」とも書いた。現在は、赤石山脈から源を発して、静岡県中部を南下し、駿河湾に注いでいる。全長一八○キロ。古来、流れが急で、荒れる川として知られ、東海道でも第一の難所とされた。
◇藤枝=藤枝市。近世の東海道五十三次の宿場町として、また現在は、農産物の集散地として工業都市として知 られる。
◇岡部=岡部町。東海道の宇津谷峠越えの道の宿場町として栄えた。
◇宇津山=静岡市宇津谷と岡部との境にあり、この山の頂を東海道が通っている。『伊勢物語』の東下り以来、歌 枕として名高い。多くの和歌や物語・紀行の材料とされてきた。狭くて急な坂道が、今も昔の面影を留めている。


■四月十四日(手越〜蒲原)

蒲原(『東海道五十三次』歌川広重)


 手越を出発して、野をはるばる越えて行く、梢の緑を見れば夏の始めのようであるが、草叢を見れば露が降りていて、秋のようでもある。

 北には今だに雪が白く積もっている山がある。その名を人に尋ねてみると、甲斐の白根山だという。かつて何回か聞き及んだ山であり、見ることができて長い旅の命が延びた心地がする。

 宇度の浜を過ぎると、寄せる波の音や吹く風の音が聞こえて、そのために心が澄む土地である。海岸の東南に、尊く厳かな感じの土地に建っている山寺があった。寺の名を聞いてみると「久能山」という。「法華経」を読み上げる声は一年中、常に聞こえて絶えることがないという。

久能山(現在)
一時宗徒1500人、建物360の隆盛を見せた。1225年頃焼失。作者は一日中読経の絶えない隆盛時の久能山を見た。


行基菩薩が建てたもので、建立以来数百年もの長い歳月を経過している。二百を数える僧房は、一面に立ち込める霞の中に建てられている。
ここは羽衣伝説の地であろう、この浜辺を通ると、松風の音には優美な琴を思わせるものがあるし、海岸に打ち寄せる波には、鼓を打つ音を聞くように感じられる。あたかも天人の音楽を聞いているようである。

 江尻の海岸を過ぎてゆくと、青い苔が石に生えており、黒い海藻が海岸に打ち寄せている。南を見ると、沖の海は波を湧き立たせていて、その遠くに一艘の舟が空を走るかのように浮かんでいる。北は茂った松が枝を垂れ、そこを一本の絃のような道がつづいている。

清見が関を見ると、西南はどこが空でどこが海なのか見分けることが難しく、北東は、山と海岸が同じように険しくて歩くと足がつまずいてしまう。海辺の岩の下には、今が春だとばかりに波の花を咲かせ、岸辺の上には、秋が来ても平気だというように松が緑色を保っている。空は海のように雲が波打際に寄せる様子に似て、舟のような月が夜になると出て、陸の海辺は岩が道のように連なり、飛脚のような風が朝に吹く抜けてゆく。この地の評判を聞いてはいたが、実際に見てみるとやはり素晴らしい所であり、波に濡れながら行くのがすがすがしい。この所を「清見」と名付けたのは誠に道理にかなっている。

 海老は波の中を泳ぎ、老人の私は波打ち際をさらすように歩いている。どちらも歳をとって腰が曲がっている。お前は知っているか、生涯を水に浮べて過ごす命があとどの位かを。私は知らない。幻のような世のほんの一瞬を生きている身がいつ死ぬかを。

 岫が崎という所は、風がフュウフュウと吹いて砂を飛ばし、波が高く、乱れて打ち寄せて、通ろうとする人を遮り止める。旅人はここでじっとこらえて、しばらくの間、寄せては引く波の合い間をうかがって、急いで通るのである。そのようにして大和田の浦にやってきた。小舟が海の中に漂っている、風に吹かれる帆が飛ぶように走っている。

 湯居の宿を通ってはるかに進むと、千本の松原という所が
千本松原(現在)



あった。その松風の音は、空は晴れているのに、降ってくる雨を思わせるが、松には緑の枝があって、雨を防ぐ笠の役割をしてくれるから、その下で安心して袖を枕に寝ることも出来る。砂浜には海の水が打ち寄せて、白い花が散るように見えるけれど、せっかく咲いた花を散らす風を、恨む気にもならない。このようにして、旅を続けながら、通ってきた道を振り返ってみると、前途にいよいよ好奇心が持たれる。
蒲原の宿場で一泊して、菅で編んだむしろの上に横になった。


◇手越=現静岡市手越。安倍川の下流にあり、鎌倉時代からの宿場、特に遊女の多い宿として知られた。
◇甲斐の白根=甲斐の西方にそびえる白根山。山梨・ 長野・静岡三県の境にある白根三山のこと。三千b を越え、富士山に次ぐ第二の高山で、南アルプスの主峰。
◇宇度の浜=静岡市の南東で、清水市に接するあたり。 有度山(三○八b)の南方、駿河湾の一部。久能海岸から三保の松原と呼ばれているあたりまでの海岸 を指した。
◇久能山=古く推古朝に、駿河国守久能忠仁が寺を建て、観音菩薩を安置
以下略



古文は本当に美しい。
現代文は全然奥行きが無い・・・
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月30日 08時52分41秒 ) パスワード

http://nitibotu.exblog.jp/m2009-03-01/


熱田神宮のあたりがいつごろ干拓されたのか調べているのですが
アッチコッチ面白い記事があるのでなかなか到達しないです。

上記は尾張名所図絵のURLです。



*熱田湾は、名古屋湾と呼ばれるようになった。
もとは熱田潟、熱田の浦、熱田の海、尾張の海とも言われた。
享禄のころまでは上知我麻神社あたり(現在の「ほうろく地蔵」の場所)までが海であった。
その後、次第に築地して、今のようになった

   享禄(きょうろく)は、大永の後、天文の前。1528年から1531年。つまり室町時代

   


*江戸時代を通じて多くの新田開発がなされ、熱田潟の地形は大きく変わった。
以前あった精進川が大正15年(1926)に埋め立てられ、新たに新堀川となるなど、
明治以降も国道の開通や都市開発の中で大きく変化している。
現在は宮の渡し公園に「時の鐘」と「常夜灯」が復元され、当時の面影を残している。


     ということは熱田の宮というか海は江戸時代の後期に干拓されたってことですか。

[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月30日 09時15分21秒 ) パスワード

なかなか名古屋の尾張の干拓の「コレ」という記事には行きつけないのですが
江戸時代末期の寛政時代に名古屋は大規模な干拓がありました。

   熱田前新田というのです。

   その後も引き続き干拓事業は行われてて
   最近も行政はやろうとして大反対に遭って頓挫したと記憶しています。
   今はその干潟を守ろうということで野鳥天国になっています。


http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0619pdf/ks061906.pdf

これによると日本は縄文時代から5000年に渡って海岸線が大きく変動していないラッキーな国のようです。
レス<63>に逆戻りしました。


とにかく東海道53次でも熱田の宮から舟で桑名に行くことが書かれてますから
江戸時代は熱田はずっと海のすぐ近くだったようです。
[70]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月30日 20時44分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすが青様。素晴らしい情報をありがとうございます。このような紀行文が
あったとは全く知りませんでした。いい勉強をじっくりとさせていただきます。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月30日 22時59分03秒 ) パスワード

Nでは何をなさったのですか?



方向音痴のわたくしとしましては  上記紀行文の  「鳴海の前に熱田を通った」  とは分かっても
その距離感が分かりません。


わたくし的には鳴海と熱田ってすっごく距離があるような感じで

   多分これは名鉄電車の運行の感覚からなんだと思いますが

昔の人が旅をした時の方向感覚・距離感覚はまた別なものがあったのかと思います。


名古屋南部の干拓は  津金文左衛門  という熱田奉行がしきってて
大金をかけてしまって切腹した
奥さんも自害した
と聞いています。


以下コピペ:



津金 胤臣
(つがね たねおみ、1727年10月23日 - 1802年1月22日)
江戸時代中期の武士。一般的には津金 文左衛門(つがね ぶんざえもん)の名で知られる。


略歴[編集]

享保12年9月9日、尾張国名古屋(現在の愛知県名古屋市東区平田町)で、尾張藩士・津金胤忠の長子として生まれる[1]。幼名は薪之丞。津金氏は甲斐武田の家臣であったが武田勝頼が滅びたのちに尾張へ移り住んだもので、尾張藩に仕えて胤臣で7代目であった[2]。

寛保2年(1742年)、父・胤忠が急逝したため15歳で家督を継ぎ、馬廻や藩主・徳川宗睦の世子である徳川治休の小姓を経て守役を務めた。漢学を須賀精斎・亮斎親子に、和歌を冷泉為泰に学ぶなど[3]学問に親しむとともに武術にも秀で、また経済・土木など実学にも長けた人物であったという。この後、宝暦13年(1763年)36歳にして金方納戸役となり、その後も明和元年(1764年)に勘定奉行、安永6年(1777年)に先手物頭と要職を歴任。寛政元年(1789年)には62歳の高齢ながら錦織奉行となった[3]。

寛政3年(1791年)には熱田奉行兼船奉行に任ぜられ、寛政12年(1800年)から熱田前新田[注釈 2]の干拓事業を指揮。また、晩年には海西郡で飛島新田(現在の海部郡飛島村)干拓に携わったが、これの完成した享和元年12月19日に病没。享年76。

墓所は大須の大光院に置かれていたが、1952年(昭和27年)に改葬されている。なお、この改葬の際のアクシデントがきっかけで、死後150年を経て切腹説が流布することとなった[4]。



加藤民吉との出会い[編集]

胤臣は熱田前新田の開拓民としてこの地に居た加藤吉左衛門・民吉親子と出会い、これが後に瀬戸窯に磁器をもたらすきっかけとなった。

当時の瀬戸では陶器だけが生産されていたが、肥前磁器(伊万里焼)など磁器の台頭によって苦境に喘ぎ、「窯を継ぐのは長子だけ」「一戸にろくろ1つのみ」など窯数の制限が行なわれて、吉左衛門も長男に窯を譲ったのち次男である民吉ら家族とともに熱田に移り住んでいた。彼らが瀬戸から来た陶工であることを知った胤臣は、かねて入手していた清国の『陶説』に書かれていた染付磁器(南京石焼)の作り方について指導し、知多郡加家から土を取り寄せるとともに、熱田新田の古い堤防を利用して窯を築かせるなどしてこれを焼かせ[5]、続いて藩と瀬戸の陶工らに働きかけて、瀬戸で次男以下にこの「新製焼」[注釈 3]の窯を開くことを認めさせている。

なお、当初の新製焼は肥前磁器などに品質で劣るものであったため、胤臣の没後にその遺志を継いだ養嗣子の津金庄七(胤貞)、瀬戸代官・水野権平や瀬戸村の庄屋で陶工でもあった四代 加藤唐左衛門らが尽力して、国内の磁器の本場である肥前に民吉を送り出している。



切腹説の流布[編集]

戦後、名古屋市の戦災復興事業に伴い市内に点在する寺院の墓所を平和公園へ移すことが決まり、胤臣が埋葬されていた大光院でも墓地の改葬作業が行なわれた。

1952年5月11日、土中から胤臣の棺を引き上げる際に木棺の蓋がはずれて遺体が露出する事態が起きる。胤臣の遺体は屍蝋化した状態であったが、棺の中に血の付いたと思しき布があったことから「胤臣は飛島新田開発による藩庫窮迫の責任を負って切腹した」との風説が流れることとなった[4]。胤臣の死因については尾張藩の『藩士名寄』において病死と記されており、後述する「津金君遺愛碑」にも「微疾あり」との記述があって、亡くなる直前には療養中であったことが伺える。また、津金家の子孫にも切腹したという話は伝わっておらず、そもそも遺体は体を折り曲げた姿勢だったため、傷口などを確認できる状態ではなかったのだが、日本画家の山田秋衛が同年に『郷土文化』第七巻・第四号に寄せた一文で発掘の様子を記し、ここで「調査研究の何物にも立ち入っていない」と断りを入れながらも先に記した「胤臣切腹説」を挙げており[6]、この影響が少なくないと考えられる。



飛島村への改葬[編集]


津金君遺愛碑(長昌院)
当時、中区で菓子製造業を営んでいた飛島村出身の人物が、胤臣の遺体が見つかったことを知って、墓所を含めた飛島村への改葬を名古屋市や津金家などに申し入れた。

飛島村では胤臣を郷土の恩人として語り伝えていたこともあり、遺体は名古屋市や大光院、津金家の許諾を得て、発掘から数日後に村内の長昌院[注釈 4]へと移送して改葬法要を行なったのち、荼毘に付されて遺骨は遺族と分骨された[7]。墓碑については名古屋市に整備計画があったことからこれを断念。胤臣が亡くなった直後に墓所に置かれ、胤臣絶筆あるいは辞世と言われる和歌が刻まれた歌碑「津金君遺愛碑」については、名古屋市が関与しないとしたため大光院の快諾を得てこれを長昌院に移している。また、胤臣の業績を顕彰するため、1953年(昭和28年)に村内の神明社に銅像が建てられた。

なお、大光院にあった墓碑は平和公園に移されたが、2010年(平成22年)の時点では新しいものになっており、元の墓碑の行方ははっきりしない。


参考文献[編集]
瀬戸市史編纂委員会・編 『瀬戸市史 陶磁史篇 三』、瀬戸市長 加藤繁太郎・発行、1967年
飛島村史編さん委員会、飛島村史調査編集委員会・編 『飛島村史 通史編』 飛島村役場・発行、2000年

注釈[編集]
1.^ 昭和天皇即位に伴うもの。加藤民吉も同日に従五位を追贈されている。
2.^ 現在の名古屋市港区。名古屋市交通局名港工場付近に「熱田前新田」の地名が残る。
3.^ 後に「新製焼」は「染付焼」(瀬戸染付)、旧来の陶器は「本業焼」と呼ばれた。
4.^ 飛島新田の干拓当時、胤臣が居た会所跡に建つ。


脚注[編集]

1.^ 『瀬戸市史 陶磁史篇 三』、P.30
2.^ 『飛島村史 通史編』、P.535
3.^ a b 『飛島村史 通史編』、P.536
4.^ a b 『瀬戸市史 陶磁史篇 三』、P.10
5.^ 『瀬戸市史 陶磁史篇 三』、P.6
6.^ 『飛島村史 通史編』、P.538〜P.541
7.^ 『飛島村史 通史編』、P.542

外部リンク[編集]
飛島村:津金文左衛門




カテゴリ: 尾張藩の人物
江戸時代の技術者
1727年生
1802年没



わたくしの前世の記憶にオーバーラップしてしまって不思議な感覚があります。
「平田町」ということで。

それでこの人が気になるのか?と。

また「飛島村」のことからも。


飛島村は日本で1番裕福な行政というNHKの番組を見たことがあります。
なんか泣ける。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月31日 04時29分42秒 ) パスワード

赤が魔除けになるというのは中国とその周辺国だけかと思ったらイギリスでも赤の効用が重宝されているようです。



紅茶にはテアフラビンという赤い色があって
この抗菌作用が素晴しいのだそうです。

もともとイギリスでコレラ?の予防に飲まれていたのが日常的に紅茶を飲む習慣になったそうです。



嗽も紅茶でするのが1番効果があるそうです。



コピペ:


テアフラビン

特性

化学式 C29H24O12
モル質量 564.49 g/mol
精密質量 564.126776
特記なき場合、データは常温 (25 °C)・常圧 (100 kPa) におけるものである。


テアフラビン(Theaflavin)は、フラバノールから構成される抗酸化性のポリフェノールで、チャの葉を紅茶に加工する発酵の過程で、酵素による酸化を受けて生成する。テアフラビンはテアルビジンの一種で、赤い色を持つ。緑茶にはアナログ化合物の没食子酸エピガロカテキン(EGCG)が含まれるが、テアフラビンは含まれない。

2008年時点で健康への効能について多くの示唆があるが、生体への利用についてはほとんど分かっていない。これらの化合物がどうやって血流に吸収されるのかはよく分かっていないため[1]、紅茶を飲むことだけで下記のような健康への効果が現れると考えるのは安全ではない。

EGCGは肝臓でテアフラビンの一種に代謝されることは分かっている。



健康[編集]

HIVと認知症[編集]

いくつかの茶ポリフェノール、特に没食子酸基を持つものは、様々な作用機構でHIV-1の複製を阻害する。研究室内では、テアフラビン誘導体はカテキン誘導体よりも強い抗HIV-1活性を有していることが分かっている[2]。

緑茶に含まれるカテキンのEGCGは、gp41とともに働くgp120に結合する。どちらの受容体も、HIVがヒトの健康な免疫細胞を乗っ取るのに必要である。そのため、実際には他の要因が事態を複雑にするが、これら化合物はHIVの侵入を防ぐ能力を持つと考えられている。

EGCGと同様に、紅茶に含まれるテアフラビンやテアルビジンも血液脳関門を通過し、AIDSの症状としての認知症の他、加齢に伴う認知症にも有効であることが確認されている。



コレステロール[編集]

テアフラビンは、ヒトの血中コレステロール濃度の低減に効果があることが確かめられている。

総量にも悪玉コレステロールにも効果がある[3]。     ← LDLが高いので早速!



            
がん[編集]

テアフラビンは、DNA、RNA、タンパク質レベルを含め、がん細胞の成長、生存、転移を制御する[1]。

テアフラビンを含む茶ポリフェノールは、血管内皮細胞増殖因子を減らし、受容体をリン酸化することで、非液性がんと関係する血管新生を阻害することが発見されている[1]。

EGCGやテアフラビンは、NF-κBの核転座を阻害することで一酸化窒素合成酵素を抑制し、一酸化窒素の生産を抑える。これにより、結果としてIκBキナーゼ活性を抑制する[1]。

ウロキナーゼとマトリックスメタロプロテアーゼの効果により、がん細胞の転移が阻害される[1]。


紅茶に含まれる数種のテアフラビンとテアルビジンは、インスリン/IGF-1の効果をまね、寿命と老化に関連するほ乳類のFOXO1aに作用する[1]。

テアフラビンは、10-30μg/mlの濃度でインターロイキン8遺伝子の発現を仲介する腫瘍壊死因子αを阻害する[1]。

TF-2は、COX-2遺伝子と作用して大腸癌を抑える[4]。

TF-3は、超酸化物を除去する[5]。



酸化[編集]

テアフラビンの酸化によって、ビステアフラビンAやビステアフラビンBを含む様々な生成物ができる。

健康に効果のある誘導体[編集]
テアフラビン-3-ガラート(TF-2)は、大腸癌細胞のアポトーシスを引き起こす[4]。  ← いいね!

テアフラビンジガラート(TF-3)は、重症急性呼吸器症候群(SARS)の3CLProを阻害する他、HIVのgp41にも結合する[6]。
3-イソテアフラビン-3-ガラート(TF2B)は、SARSの3CLProを阻害する[6]。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月31日 08時07分36秒 ) パスワード

以下友人の話:スサノオの八股のおろちの話も別の面が見えて来るような?




過去に災害のあった地名は,まず島です。

ここは,昔島だったところもありますが,水害で常に島のようなところでもあります。
例えば有名な,川中島は,これ千曲川の水害でしょっちゅう島のようになったからです。

それと,アザという地名,麻布もそうですけど,アザは古い言葉で谷底という意味です。

それと,ヨシという地名ですが,これは低湿地帯という意味です。
葦もですけど,漢字が悪いと言うので吉に直した地名もたくさんあります。
吉原がその代表です。元は葦原と言いました。

谷という地名,ここは完全に谷です。
四谷は,四つの谷の合流点だったと言います。

それと蛇という字。
これは,昔、日本人は蛇を土石流で表しました。


最近は,地名をかえているので,わからないこともありますけど,
今回の広島市の場所も,昔は八木大蛇悪谷と言ったそうです。

意味は,八木は地名。大蛇は大土石流。
つまり,八木地区にある,大きな土石流がしょっちゅう起きる悪い谷という意味です。
[74]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月01日 07時10分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日の海はコンディションはB、風・波やや強し、雨も少々、結果として
釣果もB。しかしながら遠くに富士山が蓬莱山のように見え、やはり日本は
富士山の国だなと海の上から感じました。

 釣り仲間に津金さんという開業医がいますが、珍しい名前だと思っていま
したが、津金文左衛門というような立派な方がおられたという事、何かつな
がりがあるかも知れません。一度訊いてみます。何かのご縁かも知れません。

 紅茶の話、イギリスで飲まれているのが不思議にお思っていましたが、納得
しました。
 静岡県は緑茶の産地ですので、飲むのは緑茶が圧倒的に多いのですが、日本
食には合うような気もします。紅茶、ウーロン茶も飲みますが、緑茶よりも長
く保存がきくメリットもありますね。

 また、これから復帰をいたしますのでよろしくお願いいたします。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月01日 22時43分08秒 ) パスワード

意外でした。

尾張の津金という家は武田がらみだということで
まさか静岡で津金さんが?
と思いましたが

津金さんはもともと静岡の方が関わりが大きいのかもですね。
なんせ武田・今川・北条の同盟ラインで。


我が家には1箱100袋の緑茶(中国産  笑)が封を切らない形でありますが
これは友人に回して
しばらく紅茶を飲んでみようかと思います。

1年後に結果が出るかも。
お茶でコレステロールが良くなるなら簡単ですから。



ではまたよろしくご指導ください。


これは窓8で書いています。
ここまで書けました。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月02日 04時26分10秒 ) パスワード

津金氏について調べてきました:


1、津金氏の祖


■津金氏の祖については二説があります。

一つは佐竹氏説で、津金氏の祖は源義業から18代目の佐竹胤義になるとしています。この説の裏付けは『甲斐国志』の記述にあります。

もう一つは武田氏説で、こちらは新羅三郎義光の曾孫の昌義の子孫である対馬守某(なにがし=氏名不明)が津金の祖となり、これを武田氏の族に収めています。これは『寛政重修諸家譜』の第173に裏付ける記述があるようです。


■津金の祖は佐竹胤義であるとする佐竹氏説は山梨の津金氏が家系譜の拠り所としているもので、津金家が編纂したリーフレット津金一党の軌跡に近代の津金氏までの系譜が明記されています。反対に対馬守を祖とする武田氏説は、手元の資料によると、不明な点が多いのが説得力に欠けます。この武田氏説は甲州から江戸に移り住んだ津金氏の子孫が拠り所としているようです。


■これら二説の大きな違いは、誰が最初に津金の姓を名乗ったかという点にあります。

佐竹氏説では、佐竹胤義は文明年間(1471〜1486)に長男胤秀をつれて常陸国から甲州に移り武田信昌に仕え、下津金の地に古宮城を建てて津金姓を名乗ったとあります。古宮城は当資料館のすぐ裏にある諏訪神社がその場所だったということがわかっています。

一方、武田氏説では、佐竹信濃守昌義の子孫の対馬守某が津金村に移り住んで家号としたとあり、対馬守は不詳のままにされています。佐竹昌義は佐竹胤義の数代前になるのでいずれが津金の初代としても佐竹氏の血筋と言うことは確かなようです。しかし、昌義から対馬守某そして胤義の繋がりが不明なので説得力に欠けます。


■津金氏の祖である佐竹氏の祖は、源義業という説と昌義という説がありますが、津金の系譜はわかっているだけでも9種類もあるということですのでここではそれぞれの記述は省略します。各系譜に共通していることは昌義は義業の1代後であるということです。


■ちなみに、義業の弟の義清は逸見(へみ)氏の祖に、また義清の2代目が信義で武田氏の開祖となっています。つまり、佐竹氏も武田氏も義光を先祖にもっていることになり、清和源氏をみなもとにその同じ流れに属すと言えます。


■結論、佐竹氏説も武田氏説も津金氏の先祖は甲斐源氏の流れを汲む佐竹氏であることを説明しています。

誰がはじめに津金の姓を名乗ったかについては上記の通り主張の分かれるところです。

これら二つの説の主張の分かれ目は津金の先祖が佐竹氏なのか武田氏なのかという点にあるのではなく、根拠となる資料の記述の違いにあるようです。

つまり、『甲斐国志』か『寛政重修諸家譜』のどちらを頼るかということです。



2.同族


■甲州の津金氏は名古屋、東京(江戸)、長野県の佐久の3方面に分散しました。

3代目の胤時の長男胤久が大阪冬の陣と夏の陣において徳川家について戦い、それ以降尾張に移住しました。

一方、長野の津金氏と甲州の津金氏との直接の関連は明らかではないのですが、

3代目の胤時の四男津金主税が海ノ口の高見沢家に養子に入り、

また、4代目胤重は佐久の川上より津金家に婿として入ったということですので、

この3、4代目が信州津金氏との接点になります。

しかし、主税が津金姓を続けて名乗ったのかはわかっていません。

長野の原村の津金家の宗門帳によると祖先は甲州より移住したとの記録もあるそうですので、信州の津金氏は甲州の津金氏から出たことは確かなようです。

そして、江戸の津金氏は、武田氏滅亡後、徳川家に仕えた津金氏の一部が江戸に移り住んで幕府御家人や旗本になったということです。


■甲州津金氏の菩提寺は百体石仏で有名な海岸寺(須玉町上津金:臨済宗)になります。

源義光が開基したと伝えられています。

津金胤秀は下津金に東泉院(曹洞宗)を開きました。胤秀の墓はこの東泉院にあります。東泉院の寺紋は武田菱です。


■名古屋津金氏に縁のある寺は含笑寺(がんしょうじ)と梅屋寺(ばいおくじ)です。両寺とも曹洞宗です。

一方、東京四ッ谷にある全勝寺は津金胤卜の菩提寺になっています。



3.津金の由来


■では、そもそも「津金」という名の由来は何でしょう。一説によると、もともと「栂峰」という字であったらしく、栂(つが)が多く生育していた土地だったことから付けられたとのことです。

「津金」になったのは、佐竹胤義、または対馬守某が「栂峰」を氏名にするときに見栄えの良い漢字に変えたのではないかとも推察できますが、これは定かではありません。


■長野県北佐久郡立科町に津金寺という寺がありますが、この寺は津金氏が出る前からあったとのことです。

この津金寺と山梨の津金の地名と津金の姓との関連は不明ということです。

津金寺は天台宗のお寺で、この寺には津金にある海岸寺の開祖である行基菩薩が彫ったと伝えられる2体の千手千眼観世音のうちの一つを本尊としています。




4.津金衆



■甲州の津金一族は武田家に仕えた武士集団として「津金衆」の名で知られています。

津金衆は、共通の祖先を持ち、通婚などによって結束を固めた血族集団であったと伝えられています。

彼らは戦国時代には甲斐から信濃へ通ずる佐久往還の防衛を担っていました。


武田家滅亡後は、徳川家康に仕えて北条氏のこの地への侵攻を食い止め、以後徳川家の旗本となりました。

当資料館の裏にある諏訪神社は古宮(ふるみや)の城跡として知られておりここに津金衆の城があったという説もあります。




 参考資料


•「近世初頭武士集団における親族関係 ― 得に甲州津金衆における ―」、服部治則、甲斐中世史の研究上、 pp.37-72、 磯貝正義・村上直 共編、雄山閣、(発行年不明)
•山梨県姓氏歴史人物大辞典、 角川日本姓氏歴史人物大辞典 19、角川書店、平成元年
•須玉町誌、須玉町、pp.198-206、須玉町役場、昭和50年
•須玉町誌 史料編第2巻近世、須玉町、須玉町役場、平成10年
•津金一党の軌跡 津金家、昭和48年、11ページ(パンフレット) 佐竹氏説に基づいた家譜
•津金氏、津金和彦、 昭和56年、35ページ、(手稿本複製)
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月02日 05時20分24秒 ) パスワード

ヤマタノオロチの派生:


面白い考え方ですね。
ヤマタノオロチは、すると、8ヶ所で土石流が起こったのかもしれませんね。


古代はどうだか知りませんけど、日本では七までが有限、八が無限という考えがあって、

だから地獄も八大地獄と言われますけど、その八つ目が無限地獄です。


古代人も八を無限の数字としているならば、
土石流は八回もしくは八ヶ所に限らず、何回も起きた、という表現もあるでしょう。
七までが有限ですから、
「なくて七癖(最低でも七つ)」なんて言葉もあるわけで。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月02日 05時21分24秒 ) パスワード

キリの良いところで新しいスレッドをお願いします。
[79]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月02日 06時55分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 津金氏について等、ありがとうございます。スレッド「長上郡の服部氏族\」を立ち上げましたので、そちらに移動します。
[80]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月27日 09時31分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 書き込んだものがすべて誤操作で消えてしまいました。外出のため、後で
もう一度書き込みます。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月27日 13時06分26秒 ) パスワード

楽しみにしております。

その情報はスレッド8関係ですか?

そろそろ13を立ててくださいね。
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