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 投稿番号:101357 投稿日:2014年07月12日 19時17分09秒  パスワード
 お名前:久居の服部家
藤堂高虎に仕えた服部家

コメントの種類 :人物  パスワード

藤堂家に仕えた服部家について
分かっている事柄を語っていきたいと思います。

[1]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月12日 19時54分28秒 ) パスワード

服部家初代
服部少助保秀は1589年(天正17年)
紀州粉河にて藤堂高虎公に350石籏奉行として仕う。
後伊予を経て伊賀に移る。
1654年(承応3年)没

2代
服部平左衛門保由
藤堂高通公、久居藩創設に及んでは
伊賀上野城と久居藩の両方に仕える。
1671年(寛文11年)没
[2]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月12日 20時03分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

色々な事をお調べいただき本当にありがとうございます。


家紋の件なのですが、
前述の通り早死に家系のため、そういった部分は正しく伝わっておらず、

丸に三つ矢筈(横向き)
丸に三つ桔梗の2つの説があるのです。

桔梗で伝え聞いていたようですが、
親戚筋からそれは女紋だ、と指摘を受け
矢筈に変わったようです。
横向きも正しいのかすらわかりません。
[3]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月12日 20時07分42秒 ) パスワード

丸に三つ桔梗ではなく丸に三つ割り桔梗の間違いでした
[4]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月12日 20時11分53秒 ) パスワード

また、服部少助をネットで調べると

元、池田伊予守秀氏臣

と出ておりますが、池田秀氏は全くの別人と思われ

間違いですよね。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月12日 22時53分40秒 ) パスワード

https://x181.secure.ne.jp/~x181007/kamon/goodslist.cgi?in_kate=15-4636

丸に三つ矢筈紋


横向き、かも知れないということで、3つで横向き、というのは初耳でした。



http://sara.gionsyouja.com/kamon/yahazu.htm
横で3つ矢筈紋は見つからないです。




http://www.ippongi.com/2009/01/19/ya/

石原裕次郎さんとこは「7つ矢車」ですって。



このサイト、なかなか面白いです。

でも、矢紋は  いかにも武家の家紋って感じですよね。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月13日 09時39分01秒 ) パスワード

http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN4502.pdf
P65

惣領番入制度、その成立と意義    

                   次男以下の部屋住みが召し抱えられた、ってことでしょ?

表8 番士の惣領一覧

No. 惣領氏名  惣領の番入先番入の理由  当主氏名当主の所属する組  当主の番入年月日

4 服部保教  西丸書院番武芸吟味  服部保昌小性組(三浦玄蕃頭組) 元禄7(1694)10/28


12 服部信隆  西丸書院番当主の勤務年数  服部信解小性組(阿部志摩守組)天和3(1683)閏5/21


このサイトは殆どが縦書きなので読み辛いです。
頑張ってこういう情報もあるということでお読みになってください。

どこかに一族の方のお名前が出てるかも。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月13日 09時47分58秒 ) パスワード

http://books.google.com/books?id=pGxyzt4ejFwC&pg=PA369&lpg=PA369&dq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%BF%9D%E7%94%B1%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=AExvnvKMAL&sig=HlUz0f7_QDxBSqqFgqtMh0Txzs8&hl=en&sa=X&ei=ldXBU9-UEMbwiwLGyYD4AQ&ved=0CB0Q6AEwAA#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%BF%9D%E7%94%B1%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

ここの「ホ」  367ページから369ページにかけて
通字が「保」の人のお名前がたくさん出てます。

「保」のところには服部さんがたくさん出てます。

お暇な時にどうぞ。

[9]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月13日 21時03分22秒 ) パスワード

いつもありがとうございます。

保の名鑑確認いたしました。

いくつか発見できましたが、

服部姓でないものもいくつかあり…
あるものも他人かもわかりませんね。

国会図書館も1日では到底済みそうにありませんし
勤めながらではなかなか進みそうにありませんが、
なんとか早急に調べたいと思います。
[10]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月13日 21時11分08秒 ) パスワード

荒木又右衛門の父、兄が平左衛門、
その父と同じ場所で生きた少助の子供が平左衛門

又右衛門がかくまわれた岡山の池田家と、
伊予藩の池田秀氏

繋がりそうで繋がらない
偶然の一致なのか

何か関係があるのか

研究したいと思います。
[11]ごんのすけさんからのコメント(2014年07月20日 16時35分49秒 ) パスワード

藤堂家の家臣について調べている者です。

服部少介は「宗国史」には天正17年召出となっており「故舊也非臣」となっていますが、孫の服部平左衛門が藩に提出した書面では「祖父少介儀於豫州被召出御知行二百石被下関ヶ原御陣之砌・・・」「私ニ而三代御奉公申上年数年数八十二年ニ罷成候」とあります。

この書面は他の藩士が提出した文書と一綴となっているのですが、今西家の項には「祖父平助八拾七年以前文禄二癸巳年・・・」とあるので出仕は本人申告の慶長三年頃が正しいと思われます。寛永7年の分限帳にも「三十二年罷在候肝煎保田甚兵衛殿其以前ハ池田伊豫守殿二居申候」とあります。恐らく元々、高虎の知己だったのでしょう。「服部少助ハ以前池田伊予守秀氏秀雄ノ子後当家ノ臣タリニ仕ヘケルカ浪々トナルヲ保田甚兵衛元知士ノ肝煎ニ而召出サレ三百石ヲ賜フ」ともあります。

服部家は2代目の平左衛門が大坂冬の陣に戦功を挙げ元和元年、親・少介とは別に百石を与えられて、その後、初代・少介の隠居時に親の禄三百石を与えられ都合四百石となっています。

代々の実名や死去日は分からないままでしたので宜しければご教示願えませんでしょうか。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月20日 22時13分51秒 ) パスワード

久居の服部家さん


良かったですね、ごんのすけさんからレスが届いて。


早速   「宗国史」 を手にいれませんとね。
国会図書館で、まず、この本をチェックですね。
[13]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月30日 11時03分26秒 ) パスワード

ごんのすけ様

レスありがとうございます。
お返事遅くなり申し訳ございません。

初代 服部少助 承応3年5月27日没
2代 服部平左衛門保由 寛文11年11月28日没
3代 服部平左衛門保明 享保11年5月23日没(1726年)
4代 服部平左衛門保延 享保15年9月20日没(1730年)

何年まで必要でしょうか?
ただ6代、8代は墓石が風化しており「保」以下の字が
残念ながら判読できず、不明となっております。


ごんのすけ様
空の青海のあを様

宗国史ですね。チェックします。

でも中国語を読んでいるようで、
ふわっとした雰囲気で内容はつかめますが
細かい意味がさっぱり理解できません(笑)

初代・2代は大坂の陣の両陣に出陣した、
ということしか分かっておりませんでしたが
そういう経緯があったのですね。
ありがとうございます。


[14]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月30日 12時21分44秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年08月11日 09時18分47秒
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月31日 05時17分51秒 ) パスワード

http://www.city.kaizu.lg.jp/life-guide/learns-play/history-culture/cultural-assets/kaizushi-shiseki.html

駒野城について:

海津史からの記事ですね。
江戸時代、美濃国にあった尾張藩の飛び地の高須藩の歴史ですね。

   幕末にこの高須家の兄弟達が尾張藩主・会津藩主・桑名藩主・浜田越智藩主・一橋家に養子に出ましたね。


慶長5年関ヶ原合戦の際、石田三成が此地を巡察し桑名より大垣への守りのため塁壁の構築を命じたといわれます。


「寛政重修諸家譜巻第1105」の徳永氏の項には、
松ノ木城主徳永寿昌は「関ヶ原合戦のときは池田伊予守秀氏が籠れる美濃国駒野の城を攻む」とあり、
駒野城には池田秀氏なる石田三成方の武将がいたことになりますが、
はっきりせず、
それ以後は廃城になりました。

江戸時代は高須藩の所有になり、明治35年1月旧藩主松平義生氏より、城山村教育基本財産として寄付を受け、城山小学校として今日に至っています。



********************

http://home.att.ne.jp/green/toudou/kashin%20ha_ho.htm



【服部少助】
諱不明。元、池田伊予守秀氏臣。慶長四年、保田甚兵衛の肝煎により召し抱えられ三百石を給される。翌五年、関ヶ原陣には板島に残り、人質を要求した西軍の兵と海上に於いて戦い、陣後その功により五十石加増され都合三百石となる。大坂両陣には藤堂新七郎組に属した。


【服部康次】
(大夫)。後の藤堂右京康成の父。天正五年、紀州粉川に於いて高虎に召し出される。紀州一揆平定に功有り。朝鮮の役に従い、帰国の際、殿を勤めたという。慶長五年、関ヶ原陣に従う。後、今治に於いて病死。


【服部保久】
(竹助)。天正九年頃より高虎に仕える。同十年、備中国高松城攻め、山崎合戦に従う。天正十一年の但馬国平定、賤ヶ岳合戦に従い、陣後百石を給される。続く伊勢松島城攻め、同十二年の小牧長久手合戦、同十三年の紀伊国雑賀陣、四国戦、同十五年の九州征伐など、高虎に随身して各地を転戦した。文禄元年三月、朝鮮陣に従軍、釜山戦で武功を立て高虎の父・虎高より連名の感状を受けている。文禄三年、高虎が宇和島に入封した際、千石を給されたが、保久はこれを辞退したらしい。慶長二年、朝鮮再役に従う。同五年、関ヶ原陣に従軍し、首級を挙げる。同十一年、高虎が備中二万石を加増された際、藤堂内膳と共にその支配を命じられた。大坂両陣には藤堂主膳吉親隊下に属す。




************

http://www.eonet.ne.jp/~busyo/sengoku/l_i.htm


池田秀雄(いけだ ひでお) 1528〜1598

○孫次郎 景雄 伊予守
◇子:池田伊予守秀氏            ←  ココ


近江・六角氏臣。しかし尾張・織田氏の侵攻に伴い、これに従う。本能寺の変では明智光秀に味方し戦うも敗戦。その後秀吉に仕え、伊予・国分城8万石を得た。慶長の役にて、朝鮮において病死。



******************************

http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi16.html


こんなのがありました。


服部正栄という西軍についた服部さんもいるんですねえ。
これは知らなかったです。

近江国内  1万石  慶長5年10月16日 服部土佐守正栄  関ヶ原西軍参加


[16]久居の服部家さんからのコメント(2014年08月01日 22時13分26秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

いつもコメントありがとうございます。
やはり同一人物が関ヶ原で東西に分かれることは
オカシイですからどこかの史実が間違っているのですね。


奥深いです。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月02日 14時46分16秒 ) パスワード

書き直し:


ん?
ちょっと意味が分かりませんが・・・


服部少助について:大坂冬の陣と夏の陣に藤堂新七郎の部下として参加したというのが結論だと思いますが。


   下記のレスは役に立つと良いのですが。
   


参考:
http://tikugo.com/osaka/busho/toudou/b-toudou-sin.html



藤堂良勝
(とうどうよしかつ)
生没年:1565〜1615年
身分:藤堂家の家臣
官位(通称、号):新七郎


【従兄弟】父は多賀良政。母は藤堂忠高の娘。藤堂高虎の従兄弟。祖父・多賀良氏は近江佐々木家の家臣だったが良政が2歳の時に戦死したため、良政は祖母と一緒に親族の藤堂忠高の元に身を寄せた。そこで良政は成長したが伊勢での戦いで戦死してしまう。残された良勝は虎高(高虎の父)に育てられ、その妹を妻とした。

【活躍】1577年の三木城攻めで初陣し、1578年の摂津神崎の戦いでは水練の技術を活かし川中で敵の足を捉えて首を獲る。その後良勝は鳥取城攻め、備中高松城攻め・山崎の戦い・賤ケ岳の戦い・紀州征伐・四国征伐・九州征伐・小田原征伐に従軍し勇名を馳せた。

 そしてその功に対して高虎が豊臣秀吉よりもらった名刀と鞍馬を与えた。また宮部継潤からも九州征伐の功を賞して馬と黄金を贈られている。1595年に高虎が伊予今治の大名になると1千石を与えられた。朝鮮出兵にも従軍し巨済島の海戦で敵の船に一番乗りし火をかけ大戦果を上げたので黄金と1千石を加増される。

藤堂良勝の墓
常光寺に墓

【加増を断り続ける】関ヶ原の戦いでは大谷吉継の陣に猛攻撃をしかけ藤堂軍全体の名を高めた。その功で8千石の加増を与えられるということになったがこれを断る。1609年に高虎は再び1万8千石の加増を命じたが断ったため、高虎は遂に激怒した。そこでようやく良勝は3千石の加増だけを受ける。大坂冬の陣では当初留守をしていたが、渡辺了が高虎と衝突し罷免されたため、良勝が後任となった。

 冬の陣後、またも高虎から2万石の加増を命じられ、いよいよ断りきれなくなった良勝は大坂の陣が無事終われば受けるという条件で了承する。

 大坂夏の陣では右先鋒を務め従軍。そして若江の戦いで木村重成隊と激突し副将・藤堂良重と共に奮戦の末、戦死した。遺体は八尾市本町5−8−1の常光寺に葬られる。子孫は代々新七郎を名乗り重臣として藤堂家に仕えた。

管理人・・・勇将です。若江の戦いでも自分の隊よりはるかに数の多い木村重成隊相手に大奮戦をしています。彼の子孫・新七郎良忠は俳諧の才能があり、松尾芭蕉の主人です。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・大坂の役・三百藩家臣人名事典



藤堂新七郎とはこういう人物でしたか。
この藤堂さんのお父上が多賀姓ということは  多賀神社関係の人なのかもね。

   幕末の井伊大老の腹心の部下(女性)のおたかさんも多賀神社関係の人だったと記憶しています。



それで    >同一人物が関ヶ原で東西に分かれること<

        これは1人の人間が東西に分かれたのではなく
            大坂の役の冬の陣と夏の陣の両方に徳川方=東軍=として参加した
        という意味では?


大坂両陣:

つまり冬の陣と夏の陣の戦いの両方に参加して大活躍だった。




  冬の陣の時は

      大坂冬の陣では当初留守をしていたが、渡辺了が高虎と衝突し罷免されたため、良勝が後任となった。

         「渡辺了が高虎と衝突し罷免されたため」急遽参加になった。  ← ココ重要


  夏の陣では木村重成と激突して戦死。                    ← ココ重要




つまり服部少助さんは藤堂新七郎良勝に属して冬の陣にも夏の陣にも参加した。
夏の陣では主人が戦死してしまった。


服部少助さんは常に東軍方だった。


    もし、お書きの意味が違ってたら「ごめんなさい」です。


      今日は大掃除をしてたので忙しくてわたくしのアタマが混乱しているかも。
      昨日は大洗濯だったし。汗
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月02日 15時21分54秒 ) パスワード

池田さんは池田さんでも伊予系と備前系は全く違いますね。



伊予の池田秀氏:』

池田秀氏(いけだ ひでうじ、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将・大名。池田景雄(秀雄)の子。池田貞雄の父。伊予守。孫二郎、高祐。



秀氏の池田氏は佐々木氏の一族。             ←  ココ


父の景雄は六角氏の家臣であったが、六角氏の衰退により織田信長や明智光秀に属し、後に豊臣秀吉に仕えて功績をあげ、伊予国大洲2万石を領した。

秀氏は1595年、豊臣秀次の自刃の際に福島正則、福原長堯とともに検視役を務め、1597年には父とともに慶長=の役のため朝鮮へ渡海するが、
翌1598年に父が陣没したため家督を継ぎ、伊予大洲2万石を継承した。

関ヶ原の戦いの際は西軍に属し伏見城の戦いなど緒戦において活躍したが、
西軍の敗北後は美濃駒野城に篭城するも東軍の徳永寿昌に降伏、
所領を没収され高野山に上った。


罪を許されて助命されたのちは藤堂高虎に仕えた。   ←  へえ〜


子の貞雄はのちに江戸幕府に仕え旗本となっている。




岡山藩の池田氏:


美濃池田氏

備前蝶
本姓 称・清和源氏源頼光後裔        ← 源氏?
家祖 源泰政?

出身地 美濃池田郡池田荘
主な根拠地 美濃池田郡池田荘

著名な人物 池田隆政
支流、分家 鳥取藩主家
(武家・華族(侯爵))

池田氏一門
(武家・一部の家が華族(男爵と子爵)それ以外は士族)

通し字は「政」。



出自[編集]
近世大名の池田氏の系譜は、新井白石が作成した系譜の『藩翰譜』(または後世の『寛政重修諸家譜』)によると、源頼光の末裔を自称し、頼光の四世孫でかつ源三位頼政の弟にあたる泰政がはじめて池田氏を称したとされる。

泰政の九世孫と称する教依(のりより)は内藤満之の娘を妻とした。この妻はかつて楠木正行に嫁いでいたが正行の戦死で教依に嫁いだという。そのため、教依の子教正が正行の子であるという説が生まれ、この説は池田光政以降も根強く続いたといわれる。

そして、教正の五世孫にあたるのが池田恒利というものである。しかし、この系譜は確証性が乏しく、仮冒の可能性が高い。系譜の比較考証が考慮する必要性がある(滝川氏と同族説もある)。



また、『寛永諸家系図伝』の作成者林羅山(或いはその子大学頭鵞峰)の言述によると、寛永9年(1633年)に藩主の座に就いたばかりの岡山藩主池田光政は「わが家の遠祖は源頼光流とするように」と自らの系譜作成を依頼したという。 


また、近世の池田氏は上記の通り摂津池田氏の教正の末裔だと言われてきたが文政4年(1821年)に美濃池田荘本郷村の龍徳寺から恒利の戒名「養源院殿心光宗伝禅定門」の五輪塔が発見されたことから美濃池田氏の系統である可能性も出ている。


歴史[編集]

備前岡山池田氏の家紋
「備前蝶」


ともかく池田家の始祖池田恒利は滝川貞勝の息子とされ尾張の織田信秀に仕え、その妻・養徳院が織田信長の乳母となっている。その子の恒興は、信長の下で戦功を立て、信長の死後は羽柴秀吉に仕え美濃国大垣城主13万石を領した。

恒興とその嫡男の元助は小牧・長久手の戦いで豊臣方につき戦死する。しかし、恒興の次男輝政は逆に徳川家康に接近して娘婿となり、以降池田家は外様でありながら徳川家一門に準ずる扱いを受けるなど破格の待遇を受けるようになる。


関ヶ原の戦いでも徳川方につき戦後功により播磨52万石を与えられ姫路藩主となり、姫路城を現在に残る大規模な改修を行った。

1603年(慶長8年)輝政の次男忠継は、兄利隆の監国で備前28万石を与えられ、岡山藩主となった。さらに1610年(慶長15年)には、輝政の3男忠雄に淡路一国6万3千石を与えられ洲本藩主となる。1613年(慶長18年)、輝政が没すると、播磨の遺領は長男・利隆が相続し、10万石分だけ弟忠継に分与された。これにより忠継の領国は備前岡山藩38万石となった。

利隆の没後、嫡男光政は幼かったことから播磨姫路藩42万石から因幡・伯耆二ヶ国の32万石に移封となり鳥取藩主となった。備前は忠継の没後、弟忠雄が家督を継ぐ。しかし、忠雄の没後、嫡男光仲が幼少であったことから鳥取藩の光政と入れ替えられた。以後、光政系が岡山藩、光仲系が鳥取藩を相続した。明治維新後、華族令により、ともに侯爵に列せられた。


家紋の蝶は、恒興が信長から下されたものに由来し(平資盛の末裔を称する信長は、木瓜紋以外に桓武平氏の定紋・揚羽蝶も大事にした)、それを変形させたものである。
[20]久居の服部家さんからのコメント(2014年08月03日 21時10分16秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

いつもありがとうございます。

そうですか…
伊予系と備前系は全く違うのですね。
複雑に入り組んでいて単純な推理では
全く見当はずれなんですね。
ここも繋がらなくて残念です。

そして服部少助=池田伊予守秀氏が

服部少助

>翌五年、関ヶ原陣には板島に残り、人質を要求した
西軍の兵と海上に於いて戦い、陣後その功により
五十石加増され都合三百石となる

ということで東軍で増石。

池田伊予守秀氏

秀氏は1595年、豊臣秀次の自刃の際に福島正則、福原長堯とともに検視役を務め、1597年には父とともに慶長=の役のため朝鮮へ渡海するが、
翌1598年に父が陣没したため家督を継ぎ、伊予大洲2万石を継承した。

関ヶ原の戦いの際は西軍に属し伏見城の戦いなど緒戦において活躍したが、
西軍の敗北後は美濃駒野城に篭城するも東軍の徳永寿昌に降伏、
所領を没収され高野山に上った。

ですから西軍で没収。

関ヶ原の戦いにおいて
服部少助=池田伊予守秀氏が
  東軍=西軍
の図式になり、同一人物ではない、
と推察されるのです。

説明がわかりにくくて申し訳ありませんでした。
見解はいかがでしょうか?

よろしくお願いいたします。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月04日 06時34分09秒 ) パスワード

あらあら、いろいろゴチャゴチャになっているようですね。
表を作ると良いですよ。
何年にナニがあってどこにいたか、整理するのが良いと思います。



ちょっと整理しました:



1)服部少助保秀と池田伊予守秀氏は全くの別人です。

2)池田伊予守秀氏は  伊予守と名乗っていても  伊予国全部を任されていたのではなく、
  大洲の2万石だけです。(それも2万石ということは大洲の一部ということですよ)

    この2万石は父親が慶長の役で朝鮮で戦没したので大洲の2万石を相続したのです。

  
  池田秀氏は関が原の戦いでは西軍に付き、負けて、後に許されて籐堂高虎の家来になりました。


     多分、池田家と籐堂家の、近江あたりでの昔むかしからの先祖達のヨシミで
     関が原の後、籐堂高虎に拾ってもらったということじゃないかな?
     
     池田秀氏の先祖は源姓で名門佐々木出身だから、籐堂の家より格式が高かったと思う。

     きっと池田秀氏の先祖が籐堂高虎の先祖に何か優しいことをしてあげてたんじゃないかな?
     それで「血」でも遠い親戚になると想像しています。

     その昔のヨシミで今度は籐堂高虎が池田秀氏を拾ってあげたんだと思う。

     


3)籐堂高虎の出世を戦いごとに整理するのが良いと思いますよ。

  この人は出世魚のように急速に出世していますから、特に整理しませんとね。
  加増につぐ加増で、アッチコッチの城主になって忙しいヒトでした。


  高虎は天正13年の戦いで紀伊国粉河で5000石を貰ったのが出世の始まりのようですね。



服部少助は
一説によると   天正17年に紀伊国粉河で高虎に召し抱えられた。
もう一説では   伊予国で200石で召抱えられた  と孫が報告している
  

   どっちが本当なんでしょうね?




  籐堂高虎は1595年には宇和島で7万石を貰っていましたが
  慶長の役で1597年には大洲にも1万石を貰って、
  計8万石の大名になっています。



服部少助保秀は確かに池田秀氏に仕えていた時もありましたが
   1589年(天正17年)に紀州粉河にて藤堂高虎公に350石籏奉行として仕う
とありますから
   関が原の戦いのずっとずっと前、とっくに、籐堂高虎に仕えていました。

   だから関が原の戦いの時には服部少助と池田秀氏は敵同士になっていました。








このスレッドを最初っから見て行きますね:ここでアップします。消えるとくやしいので。



服部家初代
服部少助保秀は1589年(天正17年)
紀州粉河にて藤堂高虎公に350石籏奉行として仕う。
後伊予を経て伊賀に移る。
1654年(承応3年)没



また、服部少助をネットで調べると
元、池田伊予守秀氏臣・・・・・・・・・つまり池田秀氏に仕えていた

と出ておりますが、
池田秀氏は全くの別人と思われ
間違いですよね。

      はい
      完全に別人です。
      間違いです。



荒木又右衛門の父、兄が平左衛門、
その父と同じ場所で生きた少助の子供が平左衛門

又右衛門がかくまわれた岡山の池田家と、
伊予藩の池田秀氏

繋がりそうで繋がらない
偶然の一致なのか
何か関係があるのか


      伊賀や伊勢の服部家の者には
      平家の侍大将だった服部平内左衛門六郎伊賀家長は憧れであり先祖だったと言いたい人物なので
      伊賀伊勢の服部家の人間が自称「平左衛門」を名乗るのはごくごく当たり前でした。



又右衛門が匿われた岡山の池田家は伊予大洲の池田家とは時代が全く合いません。
   荒木又右衛門(慶長4年(1599年) - 寛永15年8月28日(1638年10月5日)

伊予大洲の池田家はとっくに関が原の戦いで領地を失っています。



服部少介は「宗国史」には天正17年召出となっており「故舊也非臣」となっていますが、
孫の服部平左衛門が藩に提出した書面では
「祖父少介儀於豫州被召出御知行二百石被下関ヶ原御陣之砌・・・」
「私ニ而三代御奉公申上年数年数八十二年ニ罷成候」
とあります。

この書面は他の藩士が提出した文書と一綴となっているのですが、
今西家の項には「祖父平助八拾七年以前文禄二癸巳年・・・」とあるので出仕は本人申告の慶長三年頃が正しいと思われます。
寛永7年の分限帳にも「三十二年罷在候肝煎保田甚兵衛殿其以前ハ池田伊豫守殿二居申候」とあります。恐らく元々、高虎の知己だったのでしょう。「服部少助ハ以前池田伊予守秀氏秀雄ノ子後当家ノ臣タリニ仕ヘケルカ浪々トナルヲ保田甚兵衛元知士ノ肝煎ニ而召出サレ三百石ヲ賜フ」ともあります。

服部家は2代目の平左衛門が大坂冬の陣に戦功を挙げ元和元年、親・少介とは別に百石を与えられて、その後、初代・少介の隠居時に親の禄三百石を与えられ都合四百石となっています。

代々の実名や死去日は分からないままでしたので宜しければご教示願えませんでしょうか。




池田伊予守秀氏は関ヶ原西軍参加とありますが、
服部少助は関ヶ原は御留守残りのようです。



【服部少助】
諱不明。元、池田伊予守秀氏臣。慶長四年、保田甚兵衛の肝煎により召し抱えられ三百石を給される。翌五年、関ヶ原陣には板島に残り、人質を要求した西軍の兵と海上に於いて戦い、陣後その功により五十石加増され都合三百石となる。大坂両陣には藤堂新七郎組に属した。








[22]久居の服部家さんからのコメント(2014年08月06日 09時23分42秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

そうです、やっと疑問が解けました。

臣 ← これですね

この1文字を見落としていたために
頭の中が?だらけになっていました。

おかげさまで今まで思っていた疑問や
調べたかったことはここで全て解決できました。
本当にありがとうございました。


また、直接血は繋がっていませんが
新たに服部土芳さんについて
色々調べてみる必要がありそうになってきました。
歴史は奥深いですね。

またこちらで色々質問させていただけたら
ろ思います。
今後ともよろしくお願いいたします。 
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月08日 15時52分40秒 ) パスワード

書き直し:



服部 土芳
(はっとり とほう、明暦3年(1657年) - 享保15年1月18日(1730年3月6日))は江戸時代前期の俳人である。

松尾芭蕉と同郷の後輩で、蕉門十哲の1人に加えられることもある。
芭蕉晩年の俳論を整理した『三冊子』などの著書を残した。

伊賀上野に生まれた。
本名は保英、通称は半左衛門。

藤堂藩士・木津三郎兵衛保向の三男に生まれる。
服部家の婿養子となり藤堂藩に出仕する。

幼いころに芭蕉に俳諧を学び、はじめ蘆馬(芦馬)と号した。
貞享2年(1685年)、水口宿(滋賀県)で旅の途中の芭蕉と20年ぶりに再会し、
翌年、藩を致仕して俳諧に専念する。

貞享5年(1688年)、庵を開き、訪れた芭蕉の「みのむしの音を聞にこよ草の庵」の句から蓑虫庵と呼ばれる。

元禄2年(1689年)、号を土芳と改めた。
編著書に『三冊子』、『蕉翁句集』、『蕉翁文集』があり、芭蕉の俳論、俳句を残した他、
『横日記』、『蓑虫庵集』などの日記を残し、当時の俳諧についての価値の高い資料を残した。

土芳の句には「棹鹿のかさなり臥る枯野かな」などが『猿蓑』に所収されている。





******************


服部家初代
服部少助保秀は1589年(天正17年)
紀州粉河にて藤堂高虎公に350石籏奉行として仕う。
後伊予を経て伊賀に移る。
1654年(承応3年)没


   初代 服部少助 承応3年5月27日没
   2代 服部平左衛門保由 寛文11年11月28日没
   3代 服部平左衛門保明 享保11年5月23日没(1726年)
   4代 服部平左衛門保延 享保15年9月20日没(1730年)





***************
ということは 服部土芳 は  服部保秀に近い?分家の?服部家に養子に行ったのかもですね。


1)4代目の保延の後釜ではないようですから。
    4代目さんと同じ年に亡くなってますね。

2)土芳の名乗りは「半左衛門」ですしね。


   どなたかが昔のスレッドで「半田」というのは、本来の平家の「平田」姓を隠して姓にした
   とお書きでした。


      つまり<半>田も<平>田も同じ、って。

      *平家の平田は、平六郎服部家長の兄である、平四郎平田家継のことです。
                ↑                 ↑
            この人が平内左衛門伊賀の家長ね     わたくしの前世の父


本心では「服部平左衛門」と自分も名乗りたいけど   ← こっちは本家!
遠慮して「服部半左衛門」と名乗ったのかも。     ← 自分は分家の養子だから?


     服部<平>左衛門保{秀}
     服部<半>左衛門保{英}


なんか  気持ち  が分かると思いませんか?

   養子だから遠慮した?
   分家だから遠慮した? 


でも初代の服部平左衛門保秀に対する憧れとか尊敬とか敬愛とかは感じますよね。


ひょっとすると土芳の母が服部半左衛門家またはその分家の出身なのかも知れないですね。

母の実家筋に男子がいないから養子になったのかも。


それで御先祖さまの=祖父?の保秀の名をちょっと漢字を変えて保英としたのかも。


服部土芳関係を調べたらいろいろ秘密が分かると思います。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月09日 06時02分35秒 ) パスワード

服部土芳 【はっとり・どほう】


朝日日本歴史人物事典の解説.


生年: 明暦3 (1657)
没年: 享保15.1.18 (1730.3.6)


江戸前期の俳人。
通称は半左衛門。
伊賀国(三重県)上野の人。
藤堂(津)藩の伊賀付藩士であったが致仕し,蓑虫庵を結んで隠棲。
伊賀蕉門の中心人物であったが,俳壇的野心はなく,俳諧を友とし

生涯を独身で過ごした。

そうした人柄にふさわしく,

技巧を廃した素直な作品が多い。篤実な性格で松尾芭蕉の最も忠実な門人のひとりとして知られており,芭蕉死後その作品を収集して霊前に備えた。土芳の著した『三冊子』は,芭蕉の俳論を伝える資料として極めて高い価値を有している。<

参考文献>富山奏『伊賀蕉門の研究と資料』




>生涯を独身で過ごした。
>そうした人柄にふさわしく技巧を廃した素直な作品が多い



「半左衛門」と称したのは、ここらあたりに理由があるのかも知れないですね。

   武士の家に生まれたら子孫を残すのは大きな勤めの1つでしょ?
   結婚もせず子も残さない「半人前」という意味なのか?


     ま、母の里なのか、その縁なのか、子の無い服部家を継いだのだから
     自分も自分の代で終わらせて続きは他の親戚の者に譲れば良いと思っていたのかもね。


       伊賀の服部家の名を名乗るなら是非とも平内左衛門を名乗りたいところでしょう。
       それか「服部半蔵」一族の「半」に因んでいるんでしょうか?


「半左衛門」と名乗ったのには何か理由がありそうです。
いろいろ読んだら書かれていそうですね。
[26]久居の服部家さんからのコメント(2014年08月09日 23時34分48秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

いつも本当にありがとうございます。
スゴい!すご過ぎます!!
ここまで私が調べていたら3年ぐらいかかりそうです(笑)

そうなんです。保英の名前が気になっていたのです。
「半」にはそんな秘密があったのですね!
なんか名前が似てるな〜程度にしか思っていなかったので…


いや〜調べる楽しみが増えてきました。
早く調べに行きたいです。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月10日 07時52分16秒 ) パスワード

久居藩
1669年
5万石


   伊勢国津の第2代藩主・藤堂高次は寛文9年(1669年)9月29日に隠居する際、
   子の第3代藩主・藤堂高久に命じて
   次男藤堂高通に5万石を分与して、支藩である久居藩を立藩させた。

   このため、津藩は27万3950石となる。


服部家初代
服部少助保秀は1589年(天正17年)
紀州粉河にて藤堂高虎公に350石籏奉行として仕う。
後伊予を経て伊賀に移る。
1654年(承応3年)没


   初代 服部少助保秀   承応3年5月27日没   (1654年)
   2代 服部平左衛門保由 寛文11年11月28日没  (1671年)
   3代 服部平左衛門保明 享保11年5月23日没  (1726年)
   4代 服部平左衛門保延 享保15年9月20日没  (1730年)


ということは2代目の保由さんの時にお宅の御先祖さまは  久居  に引っ越したというわけですね。
2代目さんが亡くなったのは引っ越して2年後ですか。
ということは引越で疲れてしまったのかも知れないですね。
きっと若い時は父親と一緒に戦場を駆け回ったのかもですね。
その時の傷が原因だったかもですね。


3代目さんは若くして家督相続をしたのでしょうね。
父親の死の55年後に亡くなっているのですから。


4代目さんは先代さんの4年後に亡くなっているので歳をとってから家督相続をしたのかな?
家督相続して4年後に亡くなったのですね。
この人は良い時は無かったんじゃないかな?
オヤジはうるさいし。笑
やっと自分の天下が来たと思ったら若死に。



こうして考えていると服部土芳は伊賀に残った服部家に養子に行った人ですね。
性格は随分気楽な男だったようですね。
なんせ   1657年生まれで  1730年に73歳で亡くなったんですが


    貞享2年(1685年)、水口宿(滋賀県)で旅の途中の芭蕉と20年ぶりに再会し、
    翌年、藩を致仕して俳諧に専念する。


1685年に20年ぶりに芭蕉に会った。この時、土芳は28歳。
つまり子供の時に芭蕉先生から俳句を習って28歳で久し振りに会って
翌年   <藩を致仕>   つまり  29歳の年には隠居  ですよ。退職! 

   きっと気楽に生きたかったんでしょうね。
   好きな俳句でも詠みながら。

だから独身で子供も持たず、さっさと別の人を養子に立てて、責任を逃れたんでしょうね。 


    藤堂藩士・木津三郎兵衛保向の三男に生まれる
    とあるから、母が服部家の出身で
   
    3男生まれでは一生部屋住みだから、
    母方の伊賀の服部家にせっかく養子に押し込んだのに気楽な3男坊の気分のまま
    俳句に夢中になって一生を終えた

こんな感じの人ですね。

この 木津三郎兵衛保向 というのも通字に「保」がついてるから  服部家と近い家だったかもね。

    木津氏は山城国南部の出身ということで南朝方だった。
    もともと平家とは近い家だったんでしょうね。



       木津氏:
    木津忌寸(倭漢氏族)=きづのいみき(やまとのあや氏族)
    清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)武田氏流、平賀氏流、
    桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
    中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)などにみられる。

       やっぱり平家系でしょうね。(と勝手に解釈)笑



では土芳が大好きだった芭蕉についても考えてみましょう。
ここで土芳が「半左衛門」を名乗った1つの可能性がありますから。 


   服部家はもともと伊賀の人だろう
   
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月10日 08時35分02秒 ) パスワード

服部家はもともと伊賀の人だろう
そして
松尾芭蕉ももともと伊賀の人で、その上に、伊賀の柘植とか上野とかの出身だともいうから
いよいよ土芳と芭蕉は「元は平家の服部家」で繋がるのでしょう。


    伊賀の柘植というのは、
    平家が壇の浦で滅亡して、頼朝が命の恩人である池の大納言・平頼盛に感謝して
    頼盛の家老の(頼朝の命を実際に救ったのは宗清ですから)
    宗清に伊賀に於いて土地を与え、
    宗清が柘植の木を植えたという話があって、ここは柘植と名付けられた(笑)   


   きっと土芳が芭蕉を好きだったのはそういう「血」の繋がりもあったのかも。
   8歳まで芭蕉に薫陶を受けたその背後に御先祖さまがらみのエニシがあったのですよ。


ということで芭蕉:


松尾 芭蕉   寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)         江戸時代前期の俳諧師。
        現在の三重県伊賀市出身。
        幼名は金作[2]。通称は甚七郎、甚四郎[2]。名は忠右衛門宗房[2]。
        俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。
        北村季吟門下。




伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない[2]。
出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説[2] と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。

これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。

阿拝郡柘植郷(現在の伊賀市柘植)の土豪一族出身の父・松尾与左衛門と、
百地(桃地)氏出身とも言われる母・ 梅 の間に次男として生まれる[2]。

     父の家も母の家もバリバリの忍者だね〜(笑)
     芭蕉も名乗りは「平(内)左衛門」を称したかったでしょうね。



     兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた[2]。

     松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民だった[5]。


明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去[2]。

      兄の半左衛門が家督を継ぐが、         ← 出ました!半左衛門!

その生活は苦しかったと考えられている。


そのためであろうか、 異説も多いが寛文2年(1662)に[5]若くして
伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えたが、
             ↑

        レス<17>を参照なさってね。

        服部少助は藤堂新七郎良勝に仕えてますね。大坂冬の陣・夏の陣で。
        藤堂新七郎良勝は藤堂高虎と母方の従兄弟です。
        高虎の加増の話を断わり続けてとうとう高虎が怒ってしまったという逸話のある
        藤堂家の重臣です。


        だから芭蕉も土芳も藤堂新七郎良勝家にはご縁があるんですよ。
        芭蕉も土芳も話が盛り上がったでしょうね。


芭蕉のその仕事は厨房役か料理人だったらしい[2]

2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入った。



江戸日本橋の桃青[編集]

延宝3年(1675年)初頭(諸説あり[2])に江戸へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、
日本橋の小沢卜尺の貸家[6]、
久居藩士の向日八太夫が下向に同行し、      ← 久居藩がらみです
後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅に入ったともいう[6]



隠密説[編集]

45歳の芭蕉による『おくのほそ道』の旅程は六百里(2400キロ)にのぼり、一日十数里もの山谷跋渉もある。
これは当時のこの年齢としては大変な健脚でありスピードである。


     これは紀行文であって実録じゃないのにね・・・


これに18歳の時に服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって「芭蕉忍者説」が生まれた[29]。


      あらあら・・・
      藤堂新七郎の息子は服部半蔵の従兄弟でしたか。
      これは藤堂良勝の孫になる藤堂良忠のことでしょうね。



      服部半蔵・藤堂新七郎良勝  こんな名がたくさん出て
      幼い土芳の心はワクワクしてたんでしょうね。


また、この日程も非常に異様である。黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した松島では1句も詠まずに1泊して通過している。この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっているためだとされる[30]。

『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されている(曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている[31])。




このスレッドに出て来た人々を、大きな紙に、人物相関図を作ったら良いのですよ。

そうすれば人間関係がもっとハッキリして、また行間に彼らの人間性も滲み出て来ますよ。


いろいろ   想像の翼を広げて  笑  あの時はどんな気持ちだったんだろうな  なんて考えたら
ちょっとは核心に近づけるかも。



土芳は伊賀系服部家(それこそ服部一族の本家になりますよね)へ養子に入ったものの
師匠である芭蕉のような生き方をしたかったんでしょうね。


伊賀の服部家は藤堂家とは親戚になりますからお金はあったんでしょうね。
  武士なんかより俳諧師になりたい
その思いは叶ったということでしょうね。  


幸せな一生だったようですね。
性格も素直だったそうですし。
[29]久居の服部家さんからのコメント(2014年08月11日 09時33分40秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

はい、ほんとに大きな紙が要りそうです(笑)

色々なことが出てきますね。
繋がりが意外なところで出てきて楽しいですね、調べるって
土芳さん、やはり親近感沸きます。
芭蕉も服部に絡んでくるとは…(驚)


2代目は久居に来て2年後に亡くなってたんですね。
だから菩提寺の過去帳に初代のことが細かに記載されていたり、
3代目が色々活躍したのですね。

いつも詳しい解説ありがとうございます。
本当に初心者にも分かりやすく歴史に溶け込めます。感謝。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月11日 13時03分34秒 ) パスワード

>本当に初心者にも分かりやすく歴史に溶け込めます。感謝。

いえいえ
どういたしまして。


別スレの「3柏紋」さんが御親切に古代の日本の豪族のことを整理して書いてくださいますから
わたくしも久居の服部さんに同じように(分かる範囲で)整理しているだけです。

   情報が多過ぎるのもなかなか逆にトッカカリがつかめないし
   人物の名前がゴチャゴチャしてワケわからなくなるし
   時代背景はもっとヤヤこしいし


やはり整理すると流れが掴めて来ますよね。

是非とも「平家物語」や「保元物語」や「源平盛衰記」はお読みになってくださいね。
そしてNHKの大河「清盛」も是非御覧になってください。
   清盛の家老の平家貞役の梅雀さんはあなたにも似てるのかしら?
   名古屋の服部家のホンヤさんに似てる気がします。

     この家貞の子供達が大橋家の先祖になる貞能、服部家の先祖になる家長、そして平田家継ですから。



芭蕉の家はどっちにしろ平家の分家なんでしょうね。

   みんな親戚回りになりますから
   誰が誰やらこんがらがりますが

平安時代に桓武平氏の平正度の子孫が平家になっていきます
柘植に土地をもらった宗清の側室の1人は父方がやはり平家で
彼女の祖父になる人が清盛の弟の家盛の乳母の夫だったそうですから

   清盛の弟=若くして亡くなった家盛=の母=池禅尼が頼朝の命乞いを清盛にしたのは
   宗清が池の禅尼に「頼朝は家盛さまに似ている」と言ったなんて話がありますから


柘植の皆さんは平家といえども家盛の弟の平頼盛系で、源氏方に近かったんでしょうね。


でも宗清の息子=家清=は、
わたくしの前世の父の平田家継(家継と宗清は従兄弟)などと一緒に平家の滅亡後に*鎌倉方と一戦*しています。

   たぶんね、家継がらみで、久居の服部さんにレスすることになったんだと思います。

   久居はわたくしにとっても非常にオカルト体験の多い場所でしたしね。 
こういう話も芭蕉は幼い土芳に話したのかもですね。
   

服部家長は平田家継の弟ですから宗清とは従兄弟になります。
だから平安時代まで遡ると芭蕉も土芳も同じ一族でしょう。

そして権勢を誇った平家は源氏に敗れ、義経も兄頼朝に敗れ、滅びました。そして鎌倉幕府も。

   「夏草や  つわものどもが 夢の跡」

     この句も御先祖がらみで読み直すと、また、別の感慨に耽りません?


土芳はいろいろ考えて、独身でいて、好きな俳諧をして一生を終えたいと思ったのでしょうね。
「家が何だ?!」とか思ったのかもね。



平家滅亡後に鎌倉と一戦した仲間には
伊藤=藤原=平=忠清や
平信兼(この人の息子は平政子と結婚するはずだったのに源頼朝に横取りされて殺されています=山木兼隆)
がいます。
平宗清の息子の家清
平田家継がいます。



わたくしは平安時代の末期に久居で生まれたのだと思う。
父?とっても老齢の父なのか祖父なのか?は大山田の明昌寺の山に屋敷があって
幼いわたくしは忠清の息子と一緒に千賀地の=予野の花垣神社まで桜を見に行きました。

            千賀地は服部半蔵の出身地です。

   この桜の事では久居がらみでいろいろありました。

   もっと前の前世の記憶では千葉の市原の国分寺の右手に住んでたような。
   ひょっとすると  平信兼の先祖は知り合いなのかな?  と。


ですからね、人と人が知り合うって、遠い過去からのエニシがあるんじゃないのかな?と。
結婚もね。

出会った瞬間に良い感じを持ったら、きっと先祖同士が仲良かったんじゃないかな?
出会った瞬間にイヤな感じを持ったら、きっと、敵だったんじゃないかなと。


全く何にも感じない人というのは先祖にも接点が無かったんじゃないかなと。


わたくしのオットは結婚当初「自分は海にいた」とか「蟹だった」とか変な話をする人で
   (アタマ、おかしいんじゃない?)
と思ってたのですけどオットのおかげで自分の過去生に気付きました。
    厳島神社や赤間神宮に「ワタクシと」行きたい、行きたい、とうるさかったし。

   オットのおかげで久居で経験した不思議な感覚が見えてきたし。
   赤間神宮でも不思議体験をしましたし。


土芳は芭蕉からどんな影響を受けたのか。
何かちょっと分かった気がしません?


今年のお盆はしっかり先祖供養をなさってくださいね。
[31]久居の服部家さんからのコメント(2014年08月15日 18時33分36秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

いつもありがとうございます。

法事行ってまいりました。
今年から親父に代わって
務めてきました。
お布施代とか、いろいろ確認しないといけないことが
たくさんありましたよ…。

前世ってホント影響あると思います。
今は色々と修行の時期です。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月15日 23時00分11秒 ) パスワード

久居の服部家さん


御先祖さまのことを実感として身近に法事を営むことが出来て、それも初めてなのに、良い法事が出来ましたね。
御先祖さまもお喜びと思います。


桓武天皇の子孫
坂東に行った
平将門を討ったのが従兄弟関係であった平貞盛で、この人が我々の直接の御先祖さま

   この時に仲間になってくれたのが藤原秀郷
   この人の子孫も伊勢に来て
   藤原氏=俗姓伊藤=これが藤原忠清の家になり
   平家の武門を担当してくれた
  
   伊藤と服部は刎頚の友
   平将門事件以来の親友です


貞盛の子の維衡が1006年=寛弘3年に伊勢に来た

その子の正度には5人男子がいて正衡の曾孫が清盛で栄えに栄えた。
   正度の他の4人の男子の子孫は清盛を支えて一緒に栄え

   源氏に敗れた後に南朝方として働き戦国時代には反信長で戦い
   その後は徳川家がらみで栄えることが出来た

      結構第二次大戦後でも裕福な家でしたよね
      ただしバブル後にどうなったかは謎ですね
      特にココ20年のこのデフレ時代にどうなったか
      今は衰退でしょうか?残念っ!


とにかく御先祖さまのだいたいの流れが法事前に分かったことはラッキーでした。


いろいろな本をお読みになってください。
栄枯盛衰
平家の子孫は波乱万丈の時代を経験してきました。

そして我々の今があります。



1990年代にオットと藤原秀郷の墓に行きました。
円墳の方ね。
神社じゃない方。


だんだんお墓に近づいた時にお墓の御近所の方とちょっと言葉を交わしました。
   「秀郷公に御挨拶に来ました」

そしたら  雷が鳴ったのですよ。


まるで「わざわざの挨拶、いたみ入る」って感じのタイミングでした。



その後、忠清の子孫の方から、自分の家のことをちゃんと一族の者を集めて伝えてくれた長老がいた、と聞きました。

こういう人が1人はいないとね。


この伊藤さんの家は三重県の教育委員会から蔵を調査のために開放して欲しいと依頼されたそうですけど
断わったと聞いています。


うちの服部家の方はホンヤさんが愛知県に協力してますけどね。
そのせいで?泥棒には何度も入られたとおっしゃってました。

確かに協力はしない方が良かったのかもですね。



ま、話は尽きないですね。
[43]スーパーコピーブランドさんからのコメント(2017年11月27日 18時44分56秒 ) パスワード
URL=http://www.jpbrandok.com

茨城県の水戸は徳川家ゆかりの土地であり、献上された数々の名菓があります。
吉原殿中の由来も江戸時代水戸藩の藩主が奥女中に残ったご飯粒を乾燥させて焼き、きな粉をまぶして作ったものとされています。
もち米で作ったあられを水あめで固めた丸い棒状のお菓子は食感もよく、さくっとしています。
水あめの粘りけが後味を引きます。
吉原殿中も各店によっていろいろありますが中でもあさ川製菓の吉原殿中はきなこそのものに味わいがあり、きなこ本来のうまみを感じさせます。
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