【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101354 投稿日:2014年06月06日 11時41分35秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏の服部
長上郡の服部氏族W
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族Vの続きです。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月06日 21時49分16秒 ) パスワード

茂さん


以下の書き込みは IIIで埋もれてしまうのは惜しいので IVに転載します。



 以前、『遠江織物史稿』の中に豊西に貴平村があって、ここの旧家内藤は秦姓で、秦川勝の五男貴平が入鹿の乱を避け、上宮太子の皇子三人を奉じ、遠江に蟄居し連綿今日に及ぶと書きましたが、正にその証拠たる遺跡についての記述が、『濱名郡豊西村史』の中にありましたので、以下に記します。


 「古墳墓

  三皇子の墳墓


  蘇我入鹿の乱を避け、皇子三人(御諱不詳)供奉し遠江国に蟄居し、姓を内藤と改め、木部(きべ)の林に一村を開発して三人の皇子に仕え時節を待ちしが、終に運至らずして皇子三人共に薨去し給ひしかば、是非なく其郷里の土とならせ給ふ。其村を貴平(きべ)と云う。三人の皇子を大宮、中宮、沖宮の三ヶ所に祭祀し奉りしも、明治維新の際一村一社の布告により八幡社に合祀し奉り、産土神と崇め奉る。」


  実際、以前に平野部に古墳ということでめずらしいので私は見に行ったことがございますが、その時には聖徳太子の子息関係だとは知りませんでした。


  いろいろ少しずつわかってくるとおもしろいですね。


*********************

内藤姓は普通藤原秀郷の子孫としたものかと思いますから、ちょっと不思議だったので検索してみました。

どうやら「貴平」関係で(秋葉神社について?)学術的な?ことで過去にゴタゴタがあったようで、コピペしてみます。


http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/akibatoukai01.htm

   下記は吉田東伍が勘違いしてたという話です。(ヨソ者にはさっぱり判りませんが)



  8、内山真龍『遠江国風土記伝』(一七八九年)の「岐気保神」説



『東海道名所図会』(一七九七年)の前に、内山真龍の『遠江国風土記伝[41]』(一七八九年)が出て、はじめて「岐気保神」説を提起した。

九二七年(延長五)にまとめられた「延喜式」によれば、八八一年(元慶五)磐田郡を割いて山香郡を置いたとある。山香郡は平安初期に磐田郡を分割して設置されたもので、承平年間(九三一年〜九三八年)成立の「和名類聚抄」によると、山香郡には、大岑・与利・岐階・気多の四郷である[42]。ただし磐田郡内にも山香郷があり、混乱があるようである。内山は「岐階は岐気と同じく、熊切郷に当る[43]」という。

四郷の場所の比定は、『佐久間町史』上巻(一九七二年)及び『春野町史』通史編上(一九九七年)の考証に譲るが、難解なのは岐階郷で、『春野町史』は、「熊切川一帯あるいは不動川上流域から気田川流域の春野町領家におよぶ一帯を想定してみたい」と慎重である。

 ついで内山は、秋葉寺について触れている。

「秋葉寺、曹洞宗、可睡斎の末、真巌派、気田領家の西北高き五十町秋葉山上に在り、大登山と号す、朱符の高二十六石余、末寺十一寺、并に観音権現二宇を建つ、即ち火防の大神なり、勅願所として此山の威厳を増す[44]」

観音と権現の二宇とは、本尊の聖観音を祀った堂宇と、鎮守の三尺坊大権現を祀った堂宇があったというもので、これは二つの縁起や各種の地誌、旅行記と同じである。

かれは「日本三代実録」の「貞観十六年五月十日丁酉。授二遠江国正六位上岐気保神従五位下一[45]」の記事に着目する。そして次のように述べる。

「三代実録に曰く「貞観十六年(八七四年)五月十日、遠江国正六位上岐気保神に従五位を授く」と、按ずるに、倭名抄に岐気は山香郡の郷名なり、保は火なり、此山岐気の保神社の地に当る、而して火防の神と称するか」

内山は、一方で岐気保の保(ほ)は、火(ほ)ではないかという。そして秋葉山について、「此山、岐気の保神社の地に当る、而して火防の神と称するか」という。しかしその根拠ははっきりしない。内山説を検討した『佐久間町史』上巻(一九七二年)は、内山の「火防神にむすびつけるやり方が強引にすぎて承認できない[46]」としている。

なお「岐気保神」は、「日本三代実録」にはあっても、「延喜式」にはない。六国史に記されて、「延喜式」には漏れているので、式外社という。「延喜式」に記されていない神社を国史見在社という。前述したように、「延喜式」巻九・神祇九・神名上の遠江国の周知郡には、茅原川内神社、小国神社、馬主神社の三座しか記されていない。

しかし山鹿郡設置(八八一年)直前の神階授与(八七四年)の記事が、どうして「延喜式」に漏れているのか、不思議である。前述したように、従五位下の神位を持つ神が記録されていないのは、もともと誤認だったか、あるいは消滅したかであろう。式外社とか国史見在社とかいっても、実在性はきわめて薄い。

それを一七八九年(寛政元)になって、なんらの傍証なしに九〇〇年以上連綿としてつづいていたと想像する方がおかしいのではないか。



    9、伴信友『神名帳考証』



伴信友『神名帳考証』(一八一三年=文化十年)は、まず大己貴命を祭神とする小国神社説を引用している。

「本堂聖観音行基作、秋葉山権現社当山鎮守、祭神大己貴命或曰式内小国神社、三尺坊秋葉同社ニ祭ル当山ノ護神也[47]」

秋葉権現堂に小国神社の大己貴命が同居している。そして「当山ノ寺説旧記享禄天文ノ間ニ兵火ニ焼亡ス」とし、鈴鹿連胤撰『神社覈録』と同じく、「秋葉事記ノ大略」を典拠としている。伴もこの史料を見ている。

そして伴信友は、「按ココニ小国神社ナリトアルハ非ナルベシ 上ノ小国神社ノ条考ベシ」と述べている。これで小国神社=大己貴命説は、終止符を打たれた筈である。

後述するが、現在二〇〇年前に終止符が打たれた小国神社=大己貴命説に振り回された説が登場している。滑稽というほかはない。

先に引用した享保略縁起の写本の一つである山田家本は、一八九一年(寛政三)七月十五日の写である[48]。なぜこの段階で一七一七年(享保二)の享保縁起の写本が出来たのか。本来の秋葉寺はどのようなものであったのかという究明を志したものではなかったのか。

なお、一八七〇年(明治三)に編纂を完了した『神社覈録』は、伴信友が小国神社説を否定したことを記してはおらず、明治維新後に亡霊の小国神社説を復活させたことになる。

さて、小国神社説を否定した伴信友は前掲『神名帳考証』で次のように述べて、内山説を支持した。

「岐気保神

 [三実]「貞観十六年五月十日、遠江国正六位上岐気保神従五位下

○国人内山真龍云和名抄山香郡ニ岐階キケ郷アリ即コノ岐気也、岐気ノ火ノ神ト申テコレ今ノ秋葉神社ナルベシ」

この点については、鈴鹿の『神社覈録』も伴を踏襲している。

「岐気保神社

 祭神 

内山眞龍云、倭名鈔山香郡ニ岐階キケ郷アリ、即コレ岐気也、岐気ノ火ノ神ト申テコレ今ノ秋葉権現ナルベシ、但秋葉ハ今周知郡犬居村ニ属シ、山峯ニ社アリ

 神位

 三代実録 貞観十六年五月十日、遠江国正六位上岐気保神従五位下」

右は伴信友とほとんど同文である。

これにより、内山の推測は確定的なものとなり、以後今日までの俗説の基礎となった。

 伴も鈴鹿も岐階に「キケ」というルビを振っている。これは正しいだろうか。

「階」の漢音は「かい」だが、呉音は「け」である。一方「岐」の漢音は「キ」、呉音は「ぎ」である。この時期には、漢音と呉音の混同は発生していないだろうから、発音としては、漢音なら「きかい」、呉音なら「ぎけ」である。「きけ」はありえないのではないか。もっとも濁音は表現していない可能性もあるが、それなら今日では、濁音を表記して議論すべきであろう。なお「岐気」は、漢音なら「きき」、呉音なら「ぎけ」である。「岐気」・「岐階」について、漢音呉音の相違の検討はされていない。

また「保(ほ)」が「火(ほ)」というのは、他に例があるのだろうか。各種の古語大辞典、万葉集事典等を見た限りでは、「保」を「火」の意味に使用した事例はないようである。

「岐気」は、岐階と気多を合わせた地名で、保というのは、郷のような地域呼称ではないかと思われるのだが、どうだろうか。令では保は、「五保」のような地域単位に用いられている。

しかし、明治維新の神仏分離に際しては、前述したように、教部省が内山説を盲信し、さらに井上頼圀『県社秋葉神社由緒考[49]』(秋葉神社社務所 一九一〇年)により支持した。


明治維新後、内山説をもっともらしく説明したのは、吉田東伍の『大日本地名辞書』である。同書は、「岐階」は「岐陛」の誤りとし、万葉集巻十二の「あらたまのきへ(麁玉の岐倍)」であるとする。「日本三代実録」に、「階」が「陛」と誤った事例があるのだろうか[50]。

そして「キヘ」に「ア」が加わって、「アキヘ」となり、さらに「アキハ」となったという。しかし麁玉郡は同じ遠江の別の郡(浜松市北区、旧浜北市)であり、これは牽強付会である。第一、「キキホ」または「キケホ」から、「キヘ」へ、さらに「アキヘ」から「アキハ」への変化は、現代の音韻学でも説明できないだろう。

参考までに、夏目隆文「「あらたまのきへ」私注――遠江国麁玉郡覇多郷の伎人の戸」[51]と題する論文を紹介しておく。

万葉集の「あらたまのきへ」は次の二首である。

巻十一・二五三〇 璞(あらたま)の 寸戸(きへ)が竹垣 編目ゆも 妹し見えなば あれ恋ひめやも

巻十四・三三五三 阿良多麻(あらたま)の 伎倍(きへ)の林に 汝を立てて 行き かつましじ 寝を先立たね

右二首の「あらたまの」を、宣長は枕詞とするが、夏目氏は、遠江国の麁玉(あらたま)郡であると論じ、巻十四・三三五四の「キヘ」をも併せて、これは「伎」と書かれることに着目されている。

巻十四・三三五四 伎倍(きへ)人の 斑衾(まだらぶすま)に 綿さはだ 入りなましもの 妹が小床に


                     ココね
                     ↓

「伎」は帰化人の工業技術者を意味する語で、「伎人堤」「伎人郷」の「伎人」に当て、「伎倍」「寸戸」を伎人の集落と解する。これは記紀にある帰化人[52]の遠江への入植記事とも合致し、「きへ」はのちの「貴平」「木部」という地名になる。また三三五四番はいわゆる帰化人のうち、秦氏がとくに機織りに関係が強く、それ故に「斑衾の綿さはだ」が「伎倍人」に導かれ得たとする。詳細な考証ののち、夏目氏は「「キヘ」人の最初の定着地と推定される覇多郷周辺の古代農村社会に発生基盤を持つ麁玉地方の口誦歌」とされた。

なお秦氏は新羅系帰化人で、遠江・駿河に入植し、榛原郡などの地名、駿河における常世の虫の流行に対する秦河勝の鎮圧、河勝の子久能による久能寺創建伝説などに名を残している。

吉田東伍はとんでもない勘違いをしていたのである。



10、秋葉信仰研究の逆行――阪本是丸論文



 最近、従来の秋葉信仰研究の蓄積を大後退させる論文を読んだ。

 一つは阪本是丸氏の「秋葉山本宮秋葉神社小考[53]」(一九九九年・二〇〇七年)である。

第二は、河村忠伸氏の研究「遠州の秋葉山と修験[54]」(二〇〇七年)である。

 阪本氏の主張は、秋葉の神が古来存在したという点に尽きるが、これは氏の独自な観念からの演繹にすぎず、なんら実証的なものではない。

阪本氏は、秋葉山に「秋葉社」という神社が存在していたと主張している(二〇〇ページ)。その根拠として、秋里籬島編『東海道名所図会』巻四(一七九七年=寛政九)に「秋葉社」が図示されているとし、「秋葉権現社本堂の側にあり当山鎮守とす祭神大己貴命或云く延喜式小国神社三尺坊秋葉同社に祭る当山守護神とす」という説明文を紹介している。

阪本氏は「秋葉社(秋葉権現社)と三尺坊の社殿(祠宇)が明確に区別されている」(二〇〇ページ)とされるが、本文には、「同社」とあり、秋葉権現社に祭神(大己貴命)と三尺坊が合祀されていると読むのが普通である。

初歩的な問題だが、阪本氏は権現と「神」との語義を錯覚している。神仏習合・本地垂迹のもとでは、権現は神なのである。阪本氏は一七九八年(寛政十)に秋葉寺役寮が出した修復料勧化の文書[55]には、「正一位秋葉大権現・・・・神前ニ配置」とあり、祈祷料の請取文書などに「右致神納候」とあることなどから、「信仰の対象が紛れもない「神」であったことがうかがえる」といわれる。本地垂迹説への氏の基本的理解に問題がありそうだ。

さらに阪本氏は、「火之迦具土大神」について述べているが、延喜式の鎮火祭の説明をしているだけである。この鎮火祭が、古代中世に秋葉山で行われたという実証をされない限り、この説明はまったく意味がない。ついで母を死なせ、父に殺された火之迦具土神が、「火の二律背反性」を物語っていると説明されるが、これまた現代の宗教的観念の所産であって、まったく歴史具体性を持っていない。要するに「火之迦具土大神」はどこで、どのように祀られてきたのか、まったく説明されていないのである。ましてその神が秋葉山の祭神だったという史料は、何一つ示されていない。

なお、太郎坊大権現を祀っていた愛宕権現社も、神仏分離で愛宕神社になるに当って火之迦具土神を祭神としたが、これもこの時期の平田派の国学者・神官たちの創作した神学だったのではないか。

 こうして具体的論証なしに、阪本氏は突然「秋葉山には「火神」が鎮座されていると認識され、それが信仰の対象であった」と結論される。「火神」とは三尺坊大権現ではなかったのか。

しかしこのような史料提示ぬきの主張は、歴史学の方法とはいえない。まさに「創られた伝統[56]」である。

阪本氏は、「内山真龍が秋葉山の神を「岐気保神」とし、またそれを『神名帳考証』の伴信友、『神社覈録』の撰者鈴鹿連胤といった神社考証に秀でた国学者が承認したこと」も根拠とされるが、内山の書はかれの想像を述べただけで、ちゃんとした分析をしているわけではない。伴は小国神社説を否定したが、あとは内山の想像に追随した。鈴鹿は何の考証もせず、伴が否定した小国神社説を注釈なしに紹介し、誤解を蒸し返した。三人とも、到底「神社考証に秀で」ていたとはいえない。こういう近世国学への無批判な依存は、内山を盲信した明治初年の教部省と同じで、学問的方法とは無縁である。御自分で一つ一つ実証されたい。

阪本氏は神仏分離・廃仏毀釈についての安丸良夫氏の批判に移る。わたしには、安丸氏の説は、きわめて常識的なものと思われるが、阪本氏は安丸氏が『明治維新神仏分離資料』を熟読していないと批判されている。

本稿は阪本論文への全面批判を志しているが、もっと史料を熟読して、観念からの演繹ではなく、史料批判を通じて歴史に位置づける判断をしてもらいたい。

 最近の河村忠伸氏の前掲「遠州の秋葉山と修験」(二〇〇七年)は、阪本氏よりは多くの文献を参照しているが、現在の研究水準から言えば不十分である。とくに、秋葉の神についての考察は『東海道名所図会』や『遠江古蹟図会』を典拠にされており、この点は前述の阪本氏への批判で尽きていよう。

なお河村氏は前掲論文で次のように述べている。

 「岐陛が訛って「あきへ」更に「あきは」と変化したと考えるほうが妥当ではなかろうか」

 どこが「妥当」なのだろうか。これは吉田東伍説を下敷きにしたものであり、まったく根拠のない想像である。

 なお両氏の神仏分離・廃仏毀釈についての論及については、稿を改めて論じる。



  おわりに

 

 宮内省図書寮編修官であった井上頼圀が、秋葉神社の依頼を受けて執筆したのが、『県社秋葉神社由緒考』(一九一〇年、一九二一年再版)である。おそらく冒頭に述べた森林の上地をめぐる秋葉寺との民事裁判のために、秋葉神社が史料の整備を依頼したものであろう。

 冒頭に井上は、近世の秋葉大権現の鎮火の霊験に触れつつ、祭神は火之迦具土神とし、秋葉神社の社伝によると丹波の愛宕神は、その荒魂を祀り、秋葉大神はその和魂を祀るとすると紹介している。そのような社伝は明治維新以降の創作であろう。

全体として、ほぼ内山真龍の『遠江国風土記伝』に従って、「日本三代実録」の岐気保神を秋葉の神として論証しようと参考史料を列挙している。ただし「日本三代実録」の火之迦具土神をあげるものの、秋葉の神が岐気保神であるとの積極的論証は控えているようである。なお、「延喜式」は紹介していない。「延喜式」には、岐気保神は記載されていないから、もし掲載していれば岐気保神が消滅した神ではないかという疑問が生じたであろう。

 本稿では、近世における秋葉寺・三尺坊の縁起の変遷を見た。とくに十八世紀末の小国神社後身説へのブレが、三尺坊以外になんらかの神がいたとの幻想を生み、最近の阪本是丸氏や河村忠伸氏の研究に影響を与えていることを論証した。これらは砂上の楼閣である。

 歴史学は史料の実証にはじまり、実証で終わる。ある観念の演繹によって都合のいい史料を探し、耳に心地良い結論を出すのは、手軽ではあるが、邪道である。多数の史料を博捜し、万人が納得する結論を帰納していくのが、歴史学の正道である。

 さらに学問的業績で必要なものは、研究史の精査である。秋葉信仰研究で論文を書くなら、重要な関連論文をことごとく読んでから、ペンをとるべきである。それまでは、発表を控えるべきだ。

 本稿作成には、国立国会図書館、東京都立中央図書館、静岡県立中央図書館、浜松市立中央図書館、神奈川県立中央図書館、横浜市立中央図書館、相模原市立中央図書館、町田市立中央図書館の所蔵書を利用させて頂いた。記して感謝の意を表する。



[41] 内山真龍『遠江国風土記』(郁文舎 一九〇〇年、復刻、歴史図書社 一九六九年)


[42] 『春野町史』通史編上(一九九七年)によると、大東急記念文庫版では、大岑・与利・岐階・気多だが、名古屋市博物館本では、気多が気比になっていると指摘している。


[43] 内山前掲書(一九六九年)四一三ページ


[44] 内山前掲書(一九六九年)四四一ページ


[45] 黒板勝美編『新訂増補国史大系』第四巻 日本三代実録巻廿五(清和天皇)(国史大系刊行会 一九三四年)三四二ページ


[46] 『佐久間町史』上巻(一九七二年)二五三ページ


[47] 伴信友「神名帳考証」(『伴信友全集』第一巻 国書刊行会 一九〇七年、復刊、ぺりかん社 一九七七年)二二九ページ。なお「神名帳考証」の先駆は度会(出口)延経(一六六一〜一六七三)であるが、六国史等の抜粋を併記しているだけである。『日本庶民生活資料集成』第二十六巻「神社縁起」(三一書房 一九八三年)。同書の山路興造氏の解題によれば、『神祇全書』(皇典研究所 一九〇六年、復刻、思文閣 一九七一年)には脱落があるという。


[48] 静岡県教育委員会文化課編『静岡県文化財調査報告書第二十五集、静岡県歴史の道調査報告書ーー秋葉道ーー』(静岡県文化財保存協会、一九八三年、改定版一九九四年)一三四ページ。藍谷俊雄『秋葉信仰の根元 三尺坊』(秋葉山秋葉寺 一九九六年)一〇五〜一一〇ページ


[49] 一九一〇年の改訂版が浜松市立中央図書館に所蔵されている。


[50]一九六〇年代後半に、「三国志」の魏志倭人伝の邪馬台国に関して、「壹」と「臺」の異同について論争が起こった。現存する「三国志」の最古刊本では、「壹」であるが、通説では、これを「臺」とし、「ヤマタイ」国と読んでいた。しかし古田武彦氏が、『三国志』を精査し、「壹」と「臺」の書き誤りは一例もないと立証された。「気」「階」が「陛」の誤りというのであれば、「日本三代実録」に他の事例があることを指摘される必要がある。


[51] 美夫君志会『美夫君志』八号 一九六五年三月 四八〜七二ページ、のち同氏著『萬葉集の歴史地理的研究』第五章 法蔵館 一九七七年 一一六〜一三八ページに収録)


[52] 『日本の中の朝鮮文化』全十二冊(講談社)の著者である金達寿の提言以来、「帰化人」を改めて「渡来人」の称が使用されるようになり、学校教科書もこれに倣っている。大和国家確立以前で「帰化」の語はふさわしくないこと、政治的文化的主導権は渡来人の手にあったことがその理由である。飛鳥地方を含む今来郡(のち高市郡)では、人口の七〜八割が、朝鮮半島からの「今来」の渡来人であり、飛鳥王朝は、朝鮮系渡来人王朝であったように思える。しかし渡来、移住は時代を特定できない一般的用語で、歴史用語としては、いまいちしっくりこない。金達寿の提言を全面的に支持しつつも、ここでは夏目論文の用法に従う。



*******************

最近は合併合併で昔の地名が失われて見当もつかなくなっているので
こんなサイトを見つけた
というあたりでアップです。地元の方には役には立たないかもですが。


市町村の変遷(遠江関係)

http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/04tyubu/22_sizu31.htm



*********************

出雲と遠江のちょっと面白いお話かも:

http://yishibamemo.seesaa.net/category/16468839-4.html

2013年05月02日


姓氏家系大辞典 第1巻 2ページ 秋鹿氏

秋鹿 アイカ

出雲国秋鹿郡より起こるという。
この地は出雲風土記に秋鹿郡、和名抄には秋鹿郡秋鹿郷を載せて、安伊加と註す。
風土記に拠れば、上古秋鹿日女命の御座せし地なりという。
この氏の事は寛政系譜に
「由緒を記せる書に、橘氏にして、諸兄廿代の後裔出雲守朝芳、出雲国秋鹿郡に住せしより家号とす。四代朝慶({鎌倉幕府4代将軍}将軍)頼経仕え、藤原姓を賜う」
と。

すなわち最初は橘姓にして後に藤原姓となれりというなれど、信じ難かるべし。


もと遠江国府八幡の神職、羽島庄貴平、中泉、西郷の地頭なりしという。   ← ココ

家紋 角の内三頭左巴、魚葉、七巴。

引用
太田亮 著
姓氏家系大辞典 第1巻
タグ:歴史 姓氏家系大辞典 秋鹿氏
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月06日 22時57分39秒 ) パスワード

秋鹿氏

屋敷跡が残っているんですねえ。
http://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/aika-yashiki/


天正年間(1573年〜1592年)以降の中泉府八幡宮神主秋鹿氏(あいか)の屋敷という。

天正元年(1573年)十五代秋鹿直朝は徳川家康の中泉御殿造立に際して中泉御殿の屋敷を献上し久保村の秋鹿屋敷に移転したとされる。

天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に際して直朝は家康に供奉し、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後に中泉に戻り、以後明治まで神主として続いたという。
説明
秋鹿屋敷は現在中泉歴史公園となり「扇子池」という庭園が残っている。 どうやら近年まで解放されていなかったようであるが、現在は金・土・日に公開されているようである。とはいっても駐車場にロープが張られているだけで周囲から庭園は見えます。


城主 秋鹿氏

所在地 静岡県磐田市中泉字奥久保(中泉歴史公園)




秋鹿氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aika_kz.html

秋鹿氏
折敷に三つ巴
(橘姓/藤原を称す)


 秋鹿氏の祖は橘諸兄といい、二十代の後裔出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に住し、その地名をもって秋鹿を称した。ちなみに、秋鹿氏は「あいか」と読む。
 朝芳の四代の孫朝慶は、鎌倉将軍頼経に仕え、その一族に列して藤原に改めた。そして、朝慶から六代にあたる左京亮朝治のとき、南北朝の争乱に遭遇し、朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補された。以後、代々中泉に住し、ある時は武将として、ある時は代官として、また府八幡宮の神官として活躍した。
 室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。
 戦国時代、朝兼は今川氏親に仕え、その子の朝延は今川義元に仕えた。朝延が弘治三年に没すると、直朝が家督を継ぎ、天正十八年の「小田原の陣」に随従し、家康が関東に転封されると、常陸国に住した。慶長五年、関ヶ原の合戦ののち、遠江国の旧領を賜り、府八幡宮の神職となり、中泉に住して代官を務めた。以後、子孫は徳川旗本として続いたが、朝就の代より、府八幡宮神主に専従した。
 他方、朝兼の三男政朝は、永禄四年に家康に仕え別家を立てた。天正十一年、家康の女が北条氏直に嫁したとき、付属せられて小田原に至った。十八年に小田原城が落ちると、上総国武射郡に籠居して死去した。あとを継いだ朝矩は徳川家康に仕えて、天正十二年の長久手の役に出陣して討死した。

■府八幡宮(ふはちまんぐう)

 天武天皇の曽孫桜井王が遠江國の国司として赴任された時、庁舎内に祭られたのがこの神社のはじめである。従って、府八幡宮と称し、奈良平安時代の社宝が現存する。また、鎌倉時代には秋鹿氏がこの地に止まり神主となり、江戸時代は代官も兼ねて250石を給せられた。境内には、桜井王と時の天皇の問答歌が刻まれた万葉歌碑がある。


天武天皇の名前が出てますね。
[3]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月06日 23時52分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 うっかりWの方を見るのをおこたりまして、レス遅れてしまい申し訳あり

ません。


 伎倍という村の名前、改めて意味がよくわかりました。本当にありがとう

ございます。善地の西2キロの所に貴布弥という町があるのですが、伎倍の

里とも言われております。機織女の絵なども宣伝にに書かれたりして、意味

はわからずとも何となくイメージ的にはそれとなく感じていましたが、今回

あを様のご指摘のおかげではっきりその意味がわかりました。

 
「ココね」というあを様の声が、天より降ってくるように聞こえて来ます。

ありがたき、また素晴らしきお導きのように感じられます。


 不思議です。あを様のご指摘でいつも何かがつながるのですが、今回さら

に秋鹿氏でつながりました!!!。


 秋鹿氏については、菩提寺が磐田にあります。お寺の名前は泉蔵寺。そこ

の御子息が当社に勤務しているのです。


 秋鹿氏については、書き出すと長くなりそうです。次回にアップした方

がよさそうです。頭に霞がかかってきましたので・・・。


 いずれにしましても、あを様は驚きです。ジーニアス! 


                         丸に三つ柏の服部
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月07日 03時58分08秒 ) パスワード

>驚きです

わたくしの方こそ驚いています。
何かの力が「書いてやれ、書いてやれ」とせっつきますから。



まさか秋鹿家というのが今でも存続していたとは。
それも出雲国もからむなんて。
でも、発音も美しく文字も上品で、キレイな名字で素敵ですね。


秋鹿家は橘氏とからむようですが遠江には橘逸勢の神社もありますしね
ご縁はちゃんとあるのでしょうね

そして橘家は「反骨の家」だとか。
御子孫も反骨の人なんでしょうか?笑


*************************


ところでフと阿刀家について知りたいと思ったのですが
@天神系で物部の子孫
A弘法大師の母上の阿刀氏の末裔が紀伊伊都郡で中橋氏を称しているそうです。

ちなみに阿刀部という姓もあるけど、出自は未定、だそうです。 



中橋氏:http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%AD%E6%A9%8B  より

中橋氏は古代氏族であり、
美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏渋江氏流(現佐賀県と長崎県である肥前、大村藩)、

阿刀氏流(現和歌山県と三重県南部である紀伊)、
忌部氏流(現徳島県である阿波)
などにもみられる。


「中橋」の意味:
  「中」は中心、なかを表す。
  「橋」は国の内外を渡す要所を表す。


「橋」ってそういう意味があったのですねえ。
知らなかったです。


弘法大師の母上は四国の出身なのか和歌山の出身なのか気になってきました。




で、「阿刀」とは何なのか?と思い、
中国語で検索したら、
コールターつまり
鋤の刃先の鋭い刃のことだそうです。


「阿」というのが  丘が曲がりくねったという意味で  「くねった」「曲がった」

つまり、「曲がった刃」ということでしょうね。それで鋤の刃。



Meaning of colter :コールター
A   knife or cutter, attached to the beam of a plow to cut the sward, in advance of the plowshare and moldboard.

In Chinese: 科尔特  わたくしの耳には  くぁくぅ  「鍬」みたいに聞こえます。笑


科尔特
[例为。翘嘴红鲌,神父。翘嘴红鲌属犁头,刀。比照。短剑         阿刀或刀具,      阿刀 あるいは 刀具  ってそのままじゃないですかねえ。
贴在梁犁削减草地,   草刈り鎌みたいなもの?
    

Coulter
an agricultural instrument, elsewhere called "ploughshare"

Chinese: 犁刀


English: advance   前進?漸進?

Advance
1. To move or go forward; to proceed; as, he advanced to greet me.
前に進む
2. To increase or make progress in any respect; as, to advance in knowledge, in stature, in years, in price.
増える      
3. To rise in rank, office, or consequence; to be preferred or promoted.
昇進する

Chinese: 推进   進める


弘法大師の母上の御実家の名字「阿刀」とは  
   鋤でバッサバッサと草を刈って前に進んで繁栄する  
って意味?


***********************


ちなみに「服部」も調べてみました:

【名字】服部
【読み】はっとり,はとり,はとりべ,ふくべ,ふくい,はった    ← 「ふくい」と「はった」は読めないでしょ?笑

【全国順位】 134位
【全国人数】 およそ153,000人

【解説】古代の服部伴造の子孫が主流がある。
    ほかに源・平・藤・橘などの様々な流派がみられる。

    語源は、古代の機織職業部から起こり、地名にも存在する。
    服部の居住地が多く、衣類を織る職業姓に属す。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月07日 06時12分35秒 ) パスワード

失礼をば致しました。

>秋鹿氏については、菩提寺が磐田にあります。お寺の名前は泉蔵寺。
>そこの御子息が当社に勤務しているのです。


御子息はお寺さんの方の息子さんでしたか。

勝手に秋鹿氏の御子息と思い込みました。
大恥
[6]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月07日 12時54分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 会議の間を縫って─


 これは中津川宗全さんという郷土史家(泉蔵寺の住職と親戚)が郷土史「磐

南文化」という郷土誌に寄稿したものの抜粋です。


 「まず秋鹿氏は古来より代々府八幡宮の神主であったこと。その初代は秋

鹿左京亮朝治とされ、その先祖は敏達天皇で、その五代後が橘諸兄、なおそ

の十代後の橘朝芳が出雲守に任ぜられ、始め雲州秋鹿郡の城主であった。ま

た三代後の孫の出雲守朝慶が藤原頼経に仕えて藤原の姓を受けられ、その六

代の孫が中泉に来て中泉の初代となった秋鹿左京亮朝治である。

 
 朝治は建武元年(1334)に足利氏に仕え、東方へ下向の途中府八幡宮

の瑞夢を見て中泉に留まり、今川範国に属し、羽鳥庄貴平郷と中泉の両郷の

地頭職と、さらに府八幡宮の神主になった。その後天下の支配者がかわり、

十五代の弥太郎直朝の時に徳川家康に召され、地頭色と神主も兼ね、奉仕

する事になった。」

 とりあえずここまで。

                          丸に三つ柏の服部
 
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月07日 14時47分10秒 ) パスワード

秋鹿氏の御先祖は敏達天皇5世の子孫橘諸兄ですか。
で、この人の母が絶世の美女橘三千代になるのですか。
では古代日本の名門中の名門ですね。


>南北朝の時に朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補された

へえ〜


やはり遠江国というのは古代日本に於いて中央とパイプが太く繋がってたんでしょうね。
なんとなく橘逸勢が伊豆に流された(途中で亡くなったが)というのが分かる気がしました。
[9]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月07日 17時25分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 
 続きです─


 「こうした事から元亀二年(1571)浜松城に移った家康は、二之宮

(磐田市)にある大池にしばしば鷹狩りに来ては、その近くに屋敷を構える

秋鹿氏宅(元国府の跡?)を旅館と定めて遊猟していた。


 こうした事から十五代朝直は屋敷を天正元年(1573)に家康に献上、

よって御刀一腰と代わりに久保の土地を賜り移った。

 この久保村とは、江戸時代以前の中泉は中市場といっていたが、この中

泉の区域の内に、府八幡宮の社領となった奥久保・田町・石原を分離して

久保村と称していた。


 御殿の地には天正六年に仮別荘が建てられ、さらに十二年からは城砦を

築き要害を備えた新御殿の建設に着手、十五年(1587)に堅固な新御

殿の落成となった。


 こうして元秋鹿屋敷が家康の御殿となり、さらに天下統一の拠点となっ

たことは周知のことである。」


「十六代当主秋鹿朝正の時、徳川二代将軍の秀忠公が大阪冬の陣を終えて

帰還する途中、中泉御殿に本陣をおいて待機して居る父家康公に対面のた

め、東海道の新道脇でまだ農家がまばらにしか無かったころの、秀忠公の

元御小姓であった秋鹿朝正の屋敷を、秀忠公が本陣と定めた。」


 「さて大阪冬の陣が慶長十九年に始まり、十二月二十一日に両軍が講話。

これにより大阪城の外堀と内堀までも埋め立てた秀忠軍は、翌元和元年

(1615)二月七日に久保に到着し、秋鹿屋敷において出迎えの父家康

公と対面して、大歓迎を受けるとともに今後の作戦を練っている。


 同年三月十五日にいたり、懸念していた通り大阪方が再び挙兵したとの

報に、家康は四月四日駿府を発し六日中泉に到着。秋鹿屋敷を作戦本部と

して協議、十七日になって、・軍に大阪再征を命じている。


 五月八日大阪城は落城、天下は全く徳川の世となった。


 この天下統一の重要な役目を果たしていた所は、まさしく久保の秋鹿屋

敷と、中泉の家康御殿であったのである。」


ということですが、一般的には磐田の中泉に御殿があってしばしば来ては

過ごしていたということは、今の世間一般には余り知られていない。また

御殿でのエピソードもあったはずであるが、余り知られていない。

当然磐田と浜松の間には天龍川が流れており、天竜を渡るには、池田の渡

しを利用したのか、掛塚湊を利用したのか余り語られていない。


 「現中泉石原の無量山泉蔵寺は、永正元年(1504)十二月十二日に、

勅諡(天皇からの贈り名)廣鑑・應禅師黙宗上人を開山となし、遠州見付

の見性寺末として再建された後に、秋鹿家十四代の朝廷を中興となし、

当地における秋鹿家初代の出雲介従五位下左京亮朝治(法名泉蔵寺殿霊獄

道源大居士)を開基とした寺である。」

 
 以上で秋鹿氏についての記述は終わりますが、出雲との関係、宮司との

因果関係等今後調べて行きたいと思っています。


                         丸に三つ柏の服部


[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月07日 22時45分54秒 ) パスワード

秋鹿氏のお話をありがとうございました。


遠江と家康の世界がまったく違って見えて来ました。
感慨に耽っております。

8と10は消しておきました。


感無量で言葉も出ないです。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月08日 04時17分30秒 ) パスワード

ウイキより


秋鹿郡

秋鹿郡(あいかぐん)は出雲国にかつて存在した郡である。
現在の自治体名でいえば大部分が松江市(一部は出雲市)に相当する。


由来[編集]

『出雲国風土記』によれば、郡の名前はこの地にかつて秋鹿日女命(あいかひめのみこと)が住んでいたことに因むという。


歴史[編集]

古代
律令制度発足と同時に設置されたと考えられる。
郡家は多太郷にあった。
郡域は現在の松江市の北西部に該当し、農業や日本海・宍道湖双方の漁業でもって栄えた。

比較的狭い地域であり、江戸時代には松江城が築かれた旧島根郡や現在のJR西日本松江駅のある意宇郡方面が繁栄したためその後背地となった。


郷里[編集]

天平5年(733年)2月30日に成立したとされる『出雲国風土記』には4つの郷の内に12の里があり、それとは別に神戸里があったと記されている[1]。4つの郷にはそれぞれ3つの里があった。



秋鹿日女命あいかひめのみこと

「天勅を受け大己貴命の火傷を治療給はん為に此國に降り給ひて」

   大己貴命(おほなむち)は大国主命の若い頃の名前なので、
   若い頃の大国主命が火傷を負ってその傷を治すために地上に降りられた神。


夫が薬局に行って薬を貰って来てくれとガタガタ言うので何を調べていたのか忘れてしまった。



ま、そういう出雲国秋鹿郡に派遣された、ということでしょうね。
[13]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月08日 21時52分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 私は本日は一日芝刈りに行っておりましたので、頭の中が空になってしまい

ました。


 先日ご紹介いただきました、『真説 日本古代史』について著者を武光誠

さんと書いてしまいました(インターネットで検索したところ、同じタイトル

で著者が武光誠さんという情報に出くわしたからです)。武光さんなら書きそ

うな歴史の真相の話でもあったからであります。


 しかしながらよく調べてみると、武光さんのレベルよりかなり突っ込んだ

革新的な内容であります。そこで提供サイトについて調べてみましたところ、

次のような発信元であることがわかりました。

 それは―

 「がんばろう!日本

  文献史学研究室

  抹殺された古代豪族「尾張氏」を調査・探究する

  文献史学研究室は、現存するさまざまな古文献を

  調査研究することにより、

  正史『日本書紀』の編集寺に改竄・抹殺されたと

  思われる真の歴史ストーリーを

  追及するための研究機関です。


  服部宿禰兼行(はとりのすくねけんこう)  室長 神(かん)」


となっていました。服部というのがまた偶然なのか必然なのか・・・内容的

にはとても高度な情報ですので、とても1人で書かれているようには思われ

ませんか゜、このような情報(本として出版できる内容なのに)を我々に提供

していただけるということに本当に感謝ですね。



 今、私の頭の中には、


 1.丹後王国の謎

 2.海部氏族―海人族の謎

 3.海部氏族と服部氏族の関係


 についての興味が湧き上がっています。


 秋鹿氏がつながったように、また思いがけないつながりが見つかること

を期待して―。


                          丸に三つ柏の服部



 

 

[14]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月08日 22時52分06秒 ) パスワード

>抹殺された古代豪族「尾張氏」を調査・探究する文献史学研究室
>服部宿禰兼行(はとりのすくねけんこう)  室長 神(かん)


父が20年ぐらい前に「尾張さんが今でも細々と続いていると言ってた」と教えてくれたことがありました。



知り合いに尾張姓の人がいて、日本のさる高貴な方達がらみの人で、ネットには出せないので、いつか近々コッソリ、ね。

この人の家は奥さまに言わせると「うちは新しいですよ」とおっしゃってました。


でも消された豪族尾張氏に御興味がお有りの茂さんにちょっとお役に立てたようで嬉しく思っています。


また何か調べてみます。
[15]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月09日 13時40分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 [13]の訂正のお知らせ─


  間違い: 服部宿禰兼行(はとりのすくねけんこう)  室長 神(かん)


 これを次のとおり訂正します。


     → 室長 神服部宿禰兼行(かんはとりのすくねけんこう) 

                          丸に三つ柏の服部

 



                                   





 

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月09日 22時55分31秒 ) パスワード

あちらもこちらも拝見しております。
にっこり



神服部さんでしたか
でしたら信頼性が一気に高まりました。


卑弥呼の時代には日本中の国々で交流があったようですね。
出雲・吉備・尾張・遠江
そういう国々で作られた特徴の分かる土器がヤマトでも伊都でも発見されているそうで。


またアタマの中をリセットして検索し直してみます。


いろいろな情報が茂さんのレスで(あのことか?このことか?)と糸口がありそうで繋がりそうで
なかなか組み立てられないです。
[17]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月10日 06時16分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 いつもありがとうございます。感謝申し上げます。


 このところの短期間で膨大な情報量でありますので、漂流している部分も

あります。何に的を絞っていいのか時々わからなくなってしまいます。いわ

ゆる歴史の海の上で、風が吹き荒れ、波が覆いかぶさり、流れも入り乱れて、

翻弄される木の葉・・・空海の遣唐使船のようなものと思えばいいのか・・

・でもその当時コンパスはあったのかな・・・気になります。


 丹波王国から丹後王国、出雲王国への流れ・・・なかなか複雑なものがあ

り、わかりにくいです。いずれにしても物部氏族が分裂・追いやられて行く

流れはある程度わかりました。従って、朝廷側に協力した内物部氏と追いや

られる外物部氏の二種類があるということ。物部氏の同族に海部氏や尾張氏

があり、愛知県の海部郡は海部氏と関係している。尾張は物部氏にとって重

要な土地であった(尾張に赤星にからむ玉置山がある?)。


 話は飛ぶますが、あを様ご指摘の長上郡豊西の「服織神社」の祭神が出雲

と諏訪の2神という謎・・・物部氏の東進と関係しているのではというおお

ざっぱではありますが予感がいたしますのですが・・・。


 なかなか難しい出雲関係の古代史、人の名前も神様の名前もややこしくて、

頭の中すっきりしません。海部氏はひっそりしていますが、実際は一番重要

な氏族(レガリアにからむ)ではないかというこれも予感がします。


 未熟で浅学でありますので、結論までには相当時間がかかってしまいそう

です・・・(大変なテーマ)。今、船場俊昭氏の『消された物部氏 天津甕星

の謎』(※あまつみかぼし)という本を読みこんでいます。


 徐福について仕入れた本についてはいずれご報告をいたします。


                          丸に三つ柏の服部



[18]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月11日 11時42分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 海部氏と服部氏の接点についての記述がありましたので、記します。

 『先代旧事本紀』の「巻第五 天孫本紀」より─


 「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかり

くしたまにぎはやひのみこと)。またの名を天火明命、またの名を天照国

照彦天火明尊、または饒速日命という。またの名を胆杵磯丹杵穂命(いき

いそにきほのみこと)。

          〜中略〜

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命を妃として、天上で天香

語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。

          〜中略〜

 天香語山命(あまのかごやまのみこと)は、異腹の妹の穂屋姫(ほやひ

め)を妻として、一男をお生みになった。

          〜中略〜
 
 六世孫・建田背命(たけたせのみこと)。

 神服連(かむはとりのむらじ)、海部直(あまべのあたい)、丹波国造

(たにはのくにのみやつこ)、但馬国造(たじまのくにのみやつこ)らの

祖である。」

 
 とりあえずここまで。


                         丸に三つ柏の服部
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月11日 12時49分54秒 ) パスワード

茂さんがお気にかけていらっしゃった  尾張 海部 丹波 服部  などが繋がってしまいましたね。
にっこり
   


http://www.genbu.net/saijin/taketase.htm
建田背命
たけたせのみこと
または  建田勢命


   邇芸速日命六世の裔孫で、建斗米命と中名草姫の子。武諸隅命の父。
   神服連、
   海部直、
   丹波国造、
   但馬国造などの祖。


建田背命 を祀る神社一部

   伊富岐神社 境内社 岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484−1       伊吹神社ですね


       ここだったら愛知県海部郡に近いですから納得です。



http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/3-1-takedase.htm

『勘注系図』   丹波國造海部直等氏本記


丹波の支配者、六世孫建田勢命
 
彦火明命六世孫に建田勢命(たけだせのみこと)という人物が登場する。

『先代旧事本紀』尾張氏系譜では建田背命と表記される。         ← ココ

『勘注系図』では建田勢命は笠津彦命の子とするが、注記には建登米(たけとめ)之子という記述がある。

     建登米の子であれば『先代旧事本紀』尾張氏系譜と同じである。 ← ココ


建田勢命は笠津彦命の後に続く、丹波の支配者であるが、
笠津彦命の子ではなく、建斗米命(建登米)の子である。

   『勘注系図』はその注記で次のように記す。

「大日本根子彦太瓊【孝霊】天皇御宇、於丹波國丹波郷、爲宰以奉仕、然后移坐于山背國久世郡水主村、故亦云山背直等祖也、后更復移坐于大和國」

       現代和訳(笑)   わたくしの母方先祖にも繋がりました。笑

建田勢命は最初丹波の宰(みこともち)となる。
その後山城久世水主村(やましろくぜみずしむら)に移り、
さらにその後大和に戻ったとする。

    つまり建田勢命が大和王権の命を受けて丹波支配を行ったのである。


建田勢命が丹波支配の府を置いたとされる場所は、京丹後市久美浜町海士である。
そこには建田勢命の館跡とされる伝承地がある。
またその近くの矢田神社は建田勢命とその子供建諸隅を祀る。

その後山城久世に移り住む。
久世とは、現在の京都府城陽市久世である。
ここに水主神社という古い神社がある。
祭神を彦火明命として、以下尾張氏の人物が祀られる。         ← ココ

このあたりが建田勢命が移り住んだ場所であろうか。
そしてまた大和に戻ったのである。



『先代旧事本紀』尾張氏系譜によれば、五世孫建斗米には七人の子がある。

建田背(たけだせ)命、
建宇那比(たけうなび)命、
建多乎利(たけたおり)命、
建彌阿久良(たけみあくら)命、
建麻利尼(たけまりね)命、
建手和邇(たけたわに)命、
宇那比姫(うなびひめ)命である。


『勘注系図』にはこの内、建田勢命(建田背命)、建田小利命(建多乎利命)、宇那比姫命の三人のみを記す。

しかも宇那比姫については建田勢命と同一世代に記すが、建田勢命と、どのような関係にあるかは不明である。

だが『先代旧事本紀』を見れば、建田背命を長男とする七人兄妹の、一番下の妹であることが解る。


神様のお名前は長過ぎて読み方もややこしくて  覚 え ら れ ま せ ん。涙


でも、結構面白いものですね。

   なんか心に引っ掛かっていた場所が実は先祖と絡みがあったなんて。

   茂さんの長い長い心の旅路も埋もれていたレールがところどころ顔を出して来た
   という感じですね。


神服部さんが遠江に来た路線が解明できると良いですね。
[20]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月11日 13時26分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 さっそくのレスありがとうございます。歴史を恐竜の化石に例えると、

たぶんここら辺に眠っているはずだと推測し、掘ってみたら少しずつ骨

の一部が出て、やがて骨格全体が見つかる。やっぱり最初の勘とか直感

がきっかけになるのですね。


 短時間に本もたくさん読みこなせないので、必要なところだけつまみ

読みないし、鉛筆でマーキングをしております。


 とりあえず海部氏・物部氏・尾張氏の謎に迫り、服部氏との関連も探り

つつ、埋もれた真実を知るということ。歴史の隠蔽が行われたならなぜ行

われたのか、それにも二重三重のからくりがありそうな予感がします。


 亀の歩みですが、一歩一歩、歩を進めたいと思います。


 聖徳太子についても総括が必要となって来ました。穴穂部間人も丹後

出身(?)といいますし、スポットライトを当ててみたい。


 いつも断片的ですみません。


                          丸に三つ柏の服部


 
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月11日 14時57分40秒 ) パスワード

勘は大切ですね。
シュリーマンも勘でトロイの遺跡を発見しましたからね。


   でもその頃には幼い頃の夢を聞いてもらってた初恋の人は別の人と結婚してしまっていたけど。


ライフワークでボチボチ捜していけば良いのですよ。
焦るとどんどんズレて行きますから。



>穴穂部間人も丹後出身(?)といいますし


http://www.bell.jp/pancho/travel/tango/sec-14.htm

コピペ:

京丹後市丹後町間人。
後ケ浜(のちがはま)海水浴場。
巨大な「立岩」が黒々と横たわっていた。
高さ25m、周囲1kmもある玄武岩で、 波が岩礁を浸食して出来たという。


ここに間人皇后ゆかりの碑。

後ケ浜に建てられた間人皇后ゆかりの碑
「間人」と書いた漢字地名を”たいざ”と読める人はそれほど多くないだろう。


その由来については、次のような地名伝説が伝えられている。

時は、第26代用明天皇が崩御した西暦587年である。
この年、皇位継承問題に端を発して大和朝廷の政治勢力を二分する物部氏と蘇我氏が武力衝突にまで発展した。
世にいう蘇我−物部戦争である。
587年は干支年で丁未(ひのとひつじ)に当たるため、「丁未の変(ていびのへん)」ともいう 。


この戦乱を避けるため、今は未亡人となって皇后の地位を降りた穴穂部間人が、当時蘇我氏の領地だった丹後に身を寄せてきた。

そのとき上陸した場所が「大浜の里」と呼ばれた今の「後ケ浜」であったという。


別の説では、丹後の地は穴穂部間人皇女の湯沐邑(とうもくゆう、料地)だったとされている。

そうであれば、この地に避難してきた可能性を否定しないが、湯沐邑であったとする根拠は寡聞にして知らない。


戦乱が終わってこの地を去る際、皇后は自らの名をこの地に贈った。
そのため、地名が「大浜の里」から「間人(はしひと、はしうど)」に変えられた。
ところが、住民たちは「皇后の名を口にするのは恐れ多い」ので、
皇后が退座(たいざ)した事に因んで「間人」と書いても「たいざ」と呼ぶことにしたという。


間人皇后・聖徳太子母子像

もちろんこの逃避行の話は『古事記』や『日本書紀』に記述されていない。
当地だけに語り伝えられてきた伝承にすぎない。
こうした伝説に基づいて、立岩の近くの砂浜に銅像が建っている。
間人皇后とその子・聖徳太子をイメージした母子像である。
近づいてみると、幾分顔を下に向けて波打ち際を眺めているような童子とその母親の像だった。


丹後に上陸した場所に建てられている間人皇后の像が、なぜ幼子の聖徳太子を伴っているのか理解に苦しんだ。

『日本書紀』を一読すれば、丁未の変が勃発したとき、聖徳太子はすでに14歳に達していた。

蘇我氏の陣営に荷担して従軍した皇族の中にその名を連ねている。
それどころか、敗戦濃厚だった蘇我軍が反戦に転じることができたのは聖徳太子の働きによると、
『日本書紀』では蘇我軍勝利の第一の立役者に祭り上げている。


したがって、間人皇后が戦乱を避けて丹後に一時身を寄せていたことがあったとしても、聖徳太子を伴ってやってきたはずはない。


そこで、連れてきたのは聖徳太子の異母弟の麻呂子皇子(まろこのみこ)だったとする説がある。

麻呂子皇子は用明天皇と葛城直磐村(かつらぎのあたいいわむら)の娘・広子との間に生まれた皇子である。

麻呂子皇子とは、
蘇我−物部戦争から16年後の西暦603年、
撃新羅将軍に任じられた聖徳太子の実弟・来目皇子(くめのみこ)が筑紫で病没したため、
その代わりとして派遣された当麻皇子(たいまのみこ)とされている。

だが、この説も不自然である。


聖徳太子には実弟として、来目皇子の他に、殖栗皇子(えぐりのみこ)や茨田皇子(まんだのみこ)もいた。

我が子が何人もいるのに、夫が別の女に生ませた子供を連れてくるというのは、現実的ではない。



後ケ浜と立岩


麻呂子皇子を連れてきたという伝承は、
あるいは母子像の近くに聳える立岩に関係した麻呂子皇子の鬼退治伝説の影響かもしれない。


推古天皇の頃、現在の大江山に住む3匹の鬼が人々を苦しめていたという。

そこで大和朝廷は麻呂子皇子を大将軍に任命して鬼の討伐に向かわせた。
3匹の鬼のうち2匹は官軍に討ち取られたが、土熊(つちぐま)という鬼は現在の竹野で生け捕りにされた。
皇子は末代までの証拠にするため、土熊を丹後の岩に封じ込めた。
その岩が現在の立岩であるとされている。


地元の人たちによると、波風の強い夜になると、立岩から鬼が号泣する声がきこえるという。




http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271965

    穴穂部間人は実はペルシア人だった?


以下コピペ:

聖徳太子の母(穴穂部間人(あなほべのはしひと)は、伽耶の一国の阿羅(安羅)国の王族という話の他に・・・


『古代天皇家と日本正史(著:中丸薫)』の「第1章 聖徳太子は仏教ではなくペルシャ・ゾロアスター教の人」から転載します。

太子の母(穴穂部間人(あなほべのはしひと)は、
伽耶の一国の阿羅(安羅)国の王族であると記載があります。

もともと、伽耶地域は、大伽耶と金官伽耶、阿羅伽耶(安羅)、古寧伽耶、星山伽耶、小伽耶他に多くの小国家があった。

国としてまとまることがなかったが、鉄の産地としては有名。


●聖徳太子の母とは、何者?

聖徳太子の母は、生年も享年も不明であり、非常に謎が多い女性である。

『書紀』の「欽明紀」には「はし部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ」とあり
「穴穂部間人(あなほべのはしひと)」とも呼ばれるが、
この場合の「はし(泥の下に土と書く)」、

そして「間」が、ペルシャを意味する。


これは新羅・真興王(しんこうおう)の「阿羅波斯(あらはし)山」の「波斯山」の「波斯」の場合と同様である。


朝鮮半島南部では、4世紀に百済、新羅、伽耶(小国家群の総称)という3つの国家が、あるときには、連帯し、あるときは反目するという複雑な関係の中で共存していた。

新羅が強大になったのは・第24代新羅王だったこの真興王(在位540〜576年)の時代で、伽耶のほぼ全域を支配。

さらには現在のソウルを百済から奪い、朝鮮半島の西海岸まで領土を拡張して、直接中国に臨むようになっている。


『日本書紀』によると、この真興王は「阿羅波斯山」に城を築いて、日本の侵攻に備えたという。事実、半島南部には、真興王が建てた碑が現存している。「阿羅」とは、伽耶の有力国家だった金官伽耶を意味しているそして「波斯」とはペルシャのことであり、この地名は、王の背景を暗示するものである。


太子の母の名も、これと同様、そのルーツを示している。


ところで、日本海に面した京都府丹後町は、古くから伽耶の文化が入り、稲作、鉄の技術が早くから発達し、丹後王国として栄えた。

この地には、穴穂部間人(あなほべのはしひと)(泥+土部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)が皇后になった時、朝鮮半島の言語で「領地」を意味する「湯浴邑(タモル)」が置かれている。

つまり、この地は間人が用明天皇から受けついで所有したということだ。


この地域には、「間人」と宙いて「たいざ」と読ませる地名があるが、死者を朝鮮半島に向けて埋葬する風習が残っているなど、半島との関連の深さを感じさせることから、「たいざ」が朝鮮の言語であっても不思議はない。

「たいぎ」は半島の言語で「すべてを繋いだ」という意味で、文字通りの解釈「間にいる人」「仲介者」と似ている。

    「たいぎ」?  たいざの入力間違い?


さらに間人皇后は同名の穴穂部という弟がいて、「生ける王」を自称した。

その名にある「穴」とは「阿羅」=伽耶のことであり、日本では「荒」とも表記された。

そして、太子が生まれた磐余(いわれ)というのも、実は半島の伽耶にまつわる地名である。


当時の倭国においては、「伽耶の王族だけが正統な王となれる」という不文律が、かなり以前からあったと考えられている。

伽耶連合は、聖徳太子の生まれる前にすでに滅亡して新羅に吸収されていたが、伽耶の王族や貴族は、半脇三国に離散したり、列島に移住するなどして、その後も重大な役割を果たしていたのである。


つまり聖徳太子は、伽耶王族の出身であり、しかも、キリスト教発祥の地である西アジア(中近東)と深く関連しているのである。


    以下3に続くそうです。
 

 
http://kotobank.jp/word/%E7%A9%B4%E7%A9%82%E9%83%A8%E9%96%93%E4%BA%BA%E7%9A%87%E5%A5%B3

穴穂部間人皇女 【あなほべのはしひとのひめみこ】
朝日日本歴史人物事典の解説.

生年: 生年不詳
没年: 推古29.12.21 (622.2.7)

欽明天皇と蘇我小姉君との皇女。用明天皇の皇后。聖徳太子の母。
泥部穴穂部皇女,穴太部間人王,孔部間人 公主,神前皇后,鬼前太后,間人穴太部王とも。

異母兄橘豊日尊(用明天皇)の妃となり,敏達3(574)年に宮中の諸司を巡行した際,馬官の厩戸の前で聖徳太子を容易に出産したという。

合わせて4男を生んだ。用明1(586)年に皇后となる。用明の死後,継子である多米王と再婚し,佐富女王を生んだ。

大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長陵に,聖徳太子とその妻膳部菩岐岐美郎女と共に合葬された。

石室内の3棺のうち,奥正面の石棺に葬られているという。
(明石一紀)


    泥部なんて初めて知りました。


http://www.satoshi-nitta.com/syotoku/syotoku-8.htm

以下コピペ:
第八章 「穴穂」の謎

聖徳太子の父君・第31代用命天皇は、第30代敏達天皇崩御後、異母弟の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を押さえて、磐余(いわれ)の池辺双槻宮(いけへのなみつきのみや)で即位し、聖徳太子の母君である穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)が皇后になります。

聖徳太子十二歳の時であります。


ここにも「穴穂」という名が複雑怪奇に現れます。

「穴穂」とは物部一族の別称であることは、前に述べました。


聖徳太子の父君・用命天皇は、深い仏教信仰の人であったようで、和泉市の松尾寺(まつのおじ)は、用命天皇の本願で役小角(えんのおずみ)が開基した寺として有名であります。

しかし、この時代はまさに、神道擁護派の物部氏と、仏教推進派の蘇我氏の争いが頂に至っていた。

用命天皇は、即位と同時に、欽明王朝以来のこの難問の決着を図らねばならない立場にありました。

ところが、用命天皇は、即位して二年後の四月二日、新嘗祭の当日に急逝してしまいます。

一説には、暗殺説があります。

聖徳太子にとっての悲劇は、父の死と共に、彼の母君である穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)の数奇な人生にあった。

穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)は、用命天皇の父君・欽明天皇と蘇我稲目の第一女である小姉君(おあねぎみ)の間の皇女であり、夫の用命天皇とは異母兄妹であったのに対し、用命天皇の母君、つまり、聖徳太子の祖母は、蘇我稲目の第二女である竪塩媛(かたしおひめ)であったからです。


用命天皇の死後、皇位継承権をめぐって、蘇我氏と物部氏の争いが激化します。

物部守屋は当然のように、穴穂部皇子を時期候補として押しました。

穴穂部皇子は、「穴穂部」が示すように、穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)の同母弟であったのを利用して、物部守屋は彼女を抱き込もうとした。

聖徳太子の立場は極めて微妙な立場であったことが、こういった経緯から、わかってきます。


「記紀」に書かれているような、聖徳太子が蘇我氏側に立って、物部守屋を撃つために四天王寺を建立した、という説を鵜呑みにできないほど、「穴穂」の意味は大きいのであります。

物部氏と蘇我氏の争いは、「神」と「仏」の争いの陰に隠れて、継体王朝の後を継ぐ、欽明王朝と敏達王朝の覇権争いに、「穴穂」一族が一枚噛んだ、まさに、易姓革命の様相を呈していたのであります。



「万世一系」が色褪せるほどの激しい権力争いが、宗教争いの舞台裏で為されていたのであります。


    へえ〜


ここで一旦レスを上げますね。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月11日 15時21分20秒 ) パスワード

http://trakl.exblog.jp/17654666


波斯人(はしひと)とはペルシャ人 その1

以下コピペのコピペ:


http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/persia4.html より抜粋!!

聖徳太子の個人教授にはペルシャ人がいた
by Akira Kato  August 3, 2003



太子は、高句麗からの渡来僧・慧慈(えじ)を個人教授として内教(仏教)を学んだとされています。 さらに外典(そとふみ)を覚袈(かくか)から学んだそうです。

仏教から外典というと、その中には儒教、道教、景教、拝火教、バラモン教、 つまり仏教以外のさまざまな経典が含まれます。

この覚袈が渡来人であったと言われていますが、 どこの国からやって来たのか、については確証がありません。


聖徳太子は、蘇我氏の一員だと言っても過言ではないほど、蘇我氏とは切っても切れない繋がりを持っています。

また、蘇我氏は渡来人を支配することによって実力をつけてきたということからも分かるように、渡来人の集団とは強い絆で結ばれています。 私は、蘇我氏自身も高句麗りからやって来たとみています。このことについては、このページ (蘇我氏は高句麗からやってきた) で説明しています。


要するに、聖徳太子は、小さな頃から渡来人に取り囲まれて生活していたと言うことは、先ず間違いないようです。従って、成長してからも 彼の回りには実に渡来人が多いのです。

先ほど述べた高句麗からの渡来僧・慧慈(えじ)と外典(そとふみ)を教えた覚袈(かくか)は、 太子に影響を与えた数多い渡来人の中のたった二人に過ぎません。

太子の個人教授にはこの二人の他に慧聡(えそう)がいます。この人は、実は慧慈(えじ)と同じ年に百済から来朝しています。

『書紀』 に 「慧慈、慧聡は内教を弘演(ひろめ)て並(ならび)に三宝の棟梁となる」、とあります。これら名僧は、飛鳥寺を造り終えると同時に、 飛鳥寺の住僧となっています。

しかし、この当時の国際関係を考えると、一見、不思議な感じがします。交戦を続ける高句麗と百済の敵国同士の両僧が、同時に来朝し、 飛鳥寺に共に居住して、仏教の二大棟梁となる、ということは、常識的には考えられません。

こじつけて、説明しようとするならば、高句麗の慧慈を通して北朝仏教を、一方百済の慧聡を通して南朝仏教をともに導入しようとした、 ということが言えるでしょう。 しかし、これとても、もう一つ説得力に欠けます。そこで、この当時の坊さんの役目を考えてみる必要があります。

一言で言ってしまえば、言葉の響きは良くありませんが、坊さんは頭を丸めたスパイです。仏教を国教とする時代です。 しかも、「推古女帝と聖徳太子」のページで述べているように、 蘇我馬子の宗教観には、仏教を思想面で受け入れると言うよりも、政治に利用するという意図がありありと見て取れます。

したがって、慧慈、慧聡、覚袈は、太子の宗教の専門の師であるばかりでなく、高度の政治外交の顧問格でもあったわけです。 しかも、スパイとしての役目を担っていますから、「同時に来朝し、 飛鳥寺に共に居住して、仏教の二大棟梁となる」ことは、不思議でもなんでもない。むしろ、この二人にとっては、好都合だったと言えるでしょう。 居ながらにして情報交換ができるのですから。


後年、慧慈(えじ)は高句麗へ戻っています。もちろん、時の高句麗王に報告のためです。坊さんになってスパイ活動をしたという良い例は、 藤原鎌足の長男・定慧(じょうえ)です。この人のことは、このページ (藤原鎌足と長男・定慧) で詳しく述べています。 あまり出過ぎたことをしたために、天智天皇の命令で殺されています。(http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/joe01.html


百済は高句麗や新羅にたえず攻められるため、大和朝廷に幾度も軍事援助を求めています。派兵の代償として、 五経博士などの文化使節を送ってきたわけで、慧聡(えそう)もそうした文化使節の一員です。その記事は 『日本書紀』 の「継体紀」  「欽明紀」や 『百済本紀』 に書かれています。しかし、文化使節とは、表向きのはずで、慧聡(えそう)のような僧侶は、 時の権力者に近づく機会が多いわけで、よく言えば、百済大使、悪く言えばスパイの親分として活動していたことは、いわば当然のことです。


五経博士の「五経」とは儒教の易・書・詩・礼・春秋で、これとともに医博士、暦博士、採薬師施(くすりかりのはかせ)や僧侶など、 各分野の専門家を送って来ており、諸博士の人名も中国の南朝人と分るものもあり、時の大和朝廷は百済のみならず、 百済を介して南朝文化の導入も意図していたことがうかがわれます。


ここで、このページのタイトルについて考えてみましょう。


覚袈(かくか)は果たしてペルシャ人だったのだろうか?
覚袈は外典(そとふみ)を太子に教えたのです。
外典とは儒教、道教、景教、拝火教(ゾロアスター教)、バラモン教を含めた仏教以外のさまざまな経典ですから、 儒教と道教については百済人や高句麗人でも教えることができたかもしれません。

しかし、景教、拝火教、バラモン教となると、 百済人や高句麗人ではてにおえなかったのではないでしょうか?

このように考えれば、覚袈がペルシャ人であったとしても不自然ではありません。



聖徳太子の一族にペルシャ人が居たの?

ここで考えなければならないことは、これらの高度の文化を、一体、大和朝廷の誰が受容できたのであろうか?と言うことです。 語学の素養もない、外国文化に触れたこともない一般の官吏ではまず無理です。つまり、これらの高度の文化を受け入れることができるのは 語学の素養もあり、外国文化に触れたこともある東漢人(やまとのあやひと)や今来漢人(いまきのあやひと)などの渡来人です。

この人たちを掌握していたのは一体誰か?

蘇我氏です。

従って、蘇我氏の中にもまた語学の素養があり、外国文化に明るい人たちがたくさん居ないと、 彼らを掌握し切れません。このことからも、蘇我氏が渡来系の氏族であったということがよく分かります。


上に述べたような理由で蘇我氏のもとには渡来人がたくさん集まってきます。渡来人の中には、もちろんペルシャ人も居ました。 当然のことながら、蘇我氏を頼って行ったでしょう。


ここで、前のページからの本題に入ります。聖徳太子の母親はペルシャ人だったのか?


当時ペルシャ人をハシ人と呼び、波斯人と書きました。太子の個人教授の一人である覚袈(かくか)がペルシャ系の人ではないかという推測は、 太子の母が穴穂部間人(あなほべのはしひと)と書かれている事と、大いに関係があります。

間人(はしひと)とは波斯人(はしひと)でペルシャ人のことで はないか!

と、いうわけです。


太子が赤い髪の毛をしていたという伝承があります。
この伝承に真実が隠されているのではないか?
もしそうだとするなら、太子の母親がペルシャ人であるということも決して荒唐無稽な事ではありません。



聖徳太子の父は用明天皇、母は蘇我稲目の孫娘です。この稲目の父は高麗(こま)で、高句麗からやってきたのですが、実は この人がペルシャのサカ族の出身だと言う研究家も居ます。

しかし、そんな遠いところにペルシャ人を持ってゆかなくてもよいのです。私はその説よりも、 むしろ穴穂部間人の母親、つまり小姉君(おあねぎみ)がペルシャ人の血を受け継いでいるのではないか、とみています。


もし当時、ペルシャ人が日本へやってきて、どの一族を頼りにするかといえば、当然、飛ぶ鳥を落とす勢いの蘇我氏の元を訪れたことでしょう。

その頃、渡来人を掌握していたのが蘇我氏だからです。

ペルシャ人の中には、蘇我氏との絆を確固なものにするために、 蘇我稲目に娘を側室として差し出す親も現れたでしょう。

そのようにして穴穂部間人が生まれた、と考えるわけです。


小姉君の父はたしかに稲目なのですが、母親の出自につい て日本書紀は沈黙しています。

なぜ沈黙する必要があるのか?その答えを出すには誰が日本書紀を書いたかが分かれば簡単です。


天武天皇の息子の舎人親王が編集長だったと言うように書かれていますが、
彼はむしろ発行人であり、実際に編集に当たっていたのは藤原不比等です。

藤原氏は、元、中臣氏ということで、日本古来の氏族となっていますが、不比等のおじいさんの御食子(みけこ)は百済からやって来ました。


従って、 自分たちが「よそ者」であるということを書きたくなっかたように、穴穂部間人の出自についても沈黙していたのです。


では、なぜ、不比等は自分の名前を編集長として書紀に書かなかったのか?
それには、これまた事情があります。
そのことについてはこのページ (『壬申の乱』は 天智帝暗殺で始まった) で説明しています。


しかし、この説を採ると、飛び越えねばならないハードルがあります。

どういうことかというと、実は、 小姉君の母親が物部氏出身と思える節 があるのです。


というのは、当時の皇子・皇女は一定の年齢まで母方の実家で養育されるの が普通でした。

そして育った土地の名前をつける慣習がありました。

飛鳥で 育った大王の娘なら飛鳥皇女と呼ばれるわけです。


すると穴穂部間人皇女の穴穂も 地名に由来することになります。
大和周辺に穴穂の地名は河内と奈良の石上にあります。
皇女がどちらで育ったか分りませんが、どちらも物部氏の領地なの です。


つまり小姉君は蘇我稲目の娘であると同時に、物部氏の娘でもあったのです。

しかも穴穂部間人皇女は物部の土地で成長しました。
しかし、ご存知のように、 仏教をめぐって蘇我氏と物部氏は対立し、それまでの史上最大の戦闘を繰り広げました。

したがって、このようなことがあり得るだろうかと、あなたは疑問に思うかもしれません。


ところが、それ以前、朝廷で権力を握っていた大伴氏を退けるため、蘇我氏と物部氏は手を握り合ったことがあります。
どういうことかというと、小姉君は、蘇我氏と物部氏が宮中で勢力を伸ばす方策として、互いに婚姻関係を結んでいた当時の産物ということになります。

「友情の証」として、蘇我稲目かあるいは彼の父親の高麗が自分の側室の中から美しいペルシャ人の娘を物部の氏の長者に与えたのでしょう。

このようなことは、この当時よくあることでした。

軽皇子(後の孝徳天皇)が小足姫(おたらしひめ)を中臣鎌足(藤原鎌足)に与えたのもこのような例です。
このことについては、このページ (藤原鎌足と軽皇子) で述べています。


そのお返しに、今度は、物部氏がペルシャ人の女性から生まれた娘を蘇我稲目の側室として与えたわけです。

その娘から生まれたのが 小姉君だというわけです。
したがって、小姉君の体内にはペルシャ人の血が4分の1流れていたわけです。

彼女の娘が穴穂部間人皇女です。

確証があるわけではありませんが、これが事実とするならば、聖徳太子には、16分の1のペルシャ人の血が流れていたことになります。


太子が赤い髪の毛をしていたという伝承は、このことによって説明がつきます。



また、後に推古天皇を生む堅塩媛(きたしひめ)と小姉君の間の確執も、このことによっていっそう良く理解することができます。

つまり、この腹違いの姉妹は共に欽明天皇の後宮に入ります。

ところが、若くてきれいな小姉君へと天皇の愛は傾いてゆきます。

それも分かるような気がします。

エキゾチックなペルシャ人の血を引いている小姉君は、天皇の目には、さぞかし魅惑的に映ったことでしょう。


しかし、堅塩媛(きたしひめ)にしてみれば我慢のならないことです。

このようなことを身近に見て来た娘の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)も、 当然、この混血児の叔母のことを良く思うはずがありません。

母親からずいぶんとグチをきかされたことでしょう。
この豊御食炊屋姫が推古帝です。


推古天皇は、後年、この小姉君の血を引き継いでいる皇子(聖徳太子も含めて)が天皇になることを極力避けようとしています。

推古帝の身になってみると、2重の意味でこのような皇子を排除したかったでしょう。

先ず「よそ者」の血が流れているということ。
しかも、 この混血児の叔母のために、自分の母親がつらい目にあってきたということ。

このように考えてゆくと、つまり小姉君にペルシャ人の血が流れているとすれば、 このあたりの事情が非常にすっきりと説明できます。


しかし、これだけに止まりません。

なぜ、聖徳太子は厩戸王子と呼ばれたのか?

母親の穴穂部間人皇女が宮中 を見回るうちに、馬屋の前で産気づき、そこで出産したからという逸話が日本書紀などに見られます。
これはキリストの生誕を彷佛とさせます。

しかし、納得ゆくような説明が見当たりません。



ここで、聖徳太子の母親にペルシャ人の血が混じっていたこと、また彼女の回りにペルシャ人を含めて、多くの渡来人が居たことを考えると、このことも、 非常にうまく説明がつきます。

では、次のページでもっと詳しくこのことを見て行こうと思います。


    興味がお有りでしたら、どうぞ。笑



http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter3-1.html
香川道成の推理学 (2)日本の歴史 「蘇我の大王」
天武天皇の謎を解く

【第3章 謎を解く】 (1)天武天皇の系図の謎


以下略
これも結構面白そうでしたよ。



とにかく古代史はワケ分からないです。
とにかく名前がついていけないし。

世間には詳しく読み込んでいる人がいるもんですねえ。


聖徳太子にペルシア人の血が流れていると言われても否定できないです。
聖徳太子の生誕噺でもキリストの話を朴ったなと思っていますから。
ゾロアスターも入って来ているし。


平安時代になると今の日本人に近い日本人種になっているんでしょうけど
その前の時代は何分の1かの西の血が混じってて
当時の日本には髪が赤かったり眼が青かったりしてた人が結構多かったのかもね。


我々が学校で習ったりする古代の歴史はかなり歪曲されているんでしょうね。

[23]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月11日 16時45分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 穴穂部の間人皇女については、一気に理解が進みました。いろいろな権力

争いの中で翻弄されていく母と子、そして引き裂かれる母と子の愛。


 たしか、聖徳太子が愛した妃は、あをさんご指摘ですが、身分の低い出の

妃でしたね。名前はなかなか覚えられない・・・ホホキミノイラツメ?

 聖徳太子は、彼女の中に満たされない愛を追い求めた?


 いつも女性は悲劇と共にロマンの対象となりますね。


いただきました情報、ありがたく熟読させていただきます。


                          丸に三つ柏の服部
[24]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月12日 09時56分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 穴穂部の間人皇女が丹後に帰ったということ、そして膳部菩岐岐美郎女については、膳部氏も元々は丹後の出身ではなかったかということ。

 聖徳太子を巡る謎は丹後を避けて通れない・・・。

 ただ今充電中。

                           丸に三つ柏の服部
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月12日 14時25分37秒 ) パスワード

http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2010/01/post-84a1.html

8ページ目からお読みくださいね。

10ページ目に「膳部山」が出ています。
若狭国ですが。
若狭国は大和政権の「御食つ国」だった、と。




http://zarameya.blog.fc2.com/blog-category-2.html

丹後の歴史と伝説

若狭最大の古墳  上ノ塚古墳

6枚目の画像の下の説明よりコピペ


埋葬者は、地元では若狭国造氏、膳臣(カシワデノオミ)といわれているそうで、
その支族が脇袋古墳群や天徳寺古墳群なのでしょう。


丹後など、日本海沿岸の地域の特徴として、巨大な前方後円墳、ヤマト政権と関わると同時に、古くから独自に大陸、半島や九州の氏族とも交流していた様子が理解できます。


古墳からの出 土品には、極めて異例な広幅式冠帽や角杯形土器があり、当時の表玄関日本海ルートによる交流の事実を証明しています。


******************


その下の三輪山の神様の記事も面白かったですよ。
大物主神  つまり大国主命


以下コピペ:

1 大物主神とは・・・。

天皇家は、天照大御神の子孫とされるが、天皇家以前の日本は、神代(かみよ)の時代という。
その時代、出雲国の大国主神がこの国の国作りをされていた頃、海の彼方遠くから、国作りを協力していた神がいた。

少名毘古那神(すくなびこ)という。

しかし、途中で常世の国(海の彼方)に渡ってしまわれた。


大国主神は困っていたが、海上を照らし輝いて来られる別の神がいた。
その神は、「私を、大和国を囲む青い垣根のように連なる山々の、東の山の上に祭りなさい」と言った。

ここが三輪山と思われる。《古事記》


大国主神は別名を大物主神、または大巳貴命(おおなむち)ともいう。
大巳貴神と少彦名命(すくなびこな)は、力を合わせ、この国の生活が成り立つように作り変えられた。

しかし少彦名命は、「よく出来た所もあるし、できなかった所もあるね」と言って、常世の国へ帰られた。

《日本書紀》大国主神は、国の完成していない所を、一人で歩いてお造りになり、やっと出雲国に着かれた。


「この国を治める者は、私ただ一人である。私と一緒にこの世を治める者は、もしかしているのだろうか」

するとその時、神々しい光を海上に照らす神が近寄ってきた。


それは、大巳貴神自身の幸魂・奇魂だった。

神は、「やまとの国の三諸山に住みたい」といい、すぐさま宮を三諸山に造り、お祀りした。
これが大三輪の神である。《日本書紀》


このように、大巳貴神自身の霊魂を自ら三諸山(三輪山)にお鎮めになったという。


以上のように、古代出雲国が葦原中国(日本国)だったと思われる。


さて、少彦名命とはだれか、常世とはどこなのか・・・。

大国主の国造り に際し、波の彼方より 天乃羅摩船 (アメノカガミノフネ)に乗って来訪した 神と言われ、
遠く朝鮮半島が想像出来るのだが。
また、熊野から波の彼方の常世の国に帰られたというので、ナニカ深い意味があるのだろう。





大国主は多くの別名を持つ。

このことについては、神徳の高さを現すという説[1]や、元々別の神であった神々を統合したためという説、等がある。


大国主神(おおくにぬしのかみ)・大國主大神 - 根国から帰ってからの名。大国を治める帝王の意

大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち)・大汝命(おほなむち『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち)・国作大己貴命(くにつくりおほなむち)

八千矛神(やちほこ) - 須勢理毘売との歌物語での名。矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す

葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを) - 根国での呼称。「しこを」は強い男の意で、武神としての性格を表す

大物主神(おおものぬし)-古事記においては別の神、日本書紀においては国譲り後の別名

大國魂大神(おほくにたま)・顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)- 根国から帰ってからの名。国の魂

伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称

所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称

幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)

杵築大神(きづきのおおかみ)
以上


鱸とか鰤みたいにコロコロ名前を変えないで統一して欲しい。




■出世魚早見表■



魚名
出世段階


ボラ
ハク→オボッコ(イナッコ)→スバシリ→イナ→ボラ→トド


コハダ
ジャコ(シンコ)→コハダ→コノシロ


スズキ
コッパ(デキ)→セイゴ→フッコ→スズキ→オオタロウ

ブリ
東京近海  ワカシ(ワカナゴ)→イナダ→ワラサ→ブリ
関西     モジャコ→ワカナ→ツバス→ハマチ→メジロ→ブリ
紀州近海  ワカナ→ツバス→イナダ→ハマチ→ブリ(オオウオ)
瀬戸内海  ツバス→ツカナ→ハマチ→メジロ→ブリ
丹後地方  マンリキ(イナダ)→マルゴ→ハマチ→ブリ

へえ〜

コハダとハマチが大好きですが
コハダの最後はコノシロですか。
コノシロも美味しいですよね。


ブリも好きですが我が家では安いハマチをいつも買ってました。
ブリはあんまり食卓に乗らなかったような。
多分   ハマチの刺身が  時間節約でラクだったからかも。



http://1st.geocities.jp/huhito80/F-BG-azumi.html

安曇氏

古代の海洋豪族。海人族。
海神綿積豊玉彦命の子、宇都志金折命の後裔と伝えられ安曇部を率いて代々朝廷に奉仕した。
天武天皇13年(685)安曇宿禰を賜姓、持統天皇5年(691)に朝廷に纂記を提出した古代有力18氏の一つ。



     註:古代有力18氏とは

       http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7.html
       古代豪族リスト

       その中の18氏とは
       蘇我氏・多治比氏・息長氏・県犬養氏・橘氏・吉備氏
       紀氏・葛城氏・巨勢氏・平群氏・多氏・毛野氏・阿部氏
       和邇氏・春日氏・膳氏(阿部氏と同族らしい)               和気氏・越智氏


           以下1番下にコピペ


安曇(あずみ)氏
概説
概要
古代日本を代表する海人族として知られる有力氏族で、安曇氏とも表記する。
阿曇族、安曇族ともいう。
安曇(あづみ)は海積(あまづみ)より生じ、海部(あまべ)の民の長の称なり。 
後世は安住氏、安積氏、阿曇氏、阿積氏、厚見氏、厚海氏、渥美氏、英積氏など多様の表記が起こる。
凡海氏は大海氏とも表記される。


本貫地
 発祥地=筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)志賀島一帯とされる。

安曇氏の移住
古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、後に最初の本拠地である北九州の志賀島一帯から離れて全国に移住した。
この移住の原因として、磐井の乱や、白村江の戦いでの安曇比羅夫の戦死が関係しているとの説がある。
   対馬、伯耆、美濃、三河、阿波、淡路島、播磨、摂津、河内、近江、他

氏姓
姓=連  その後、685年(天武13年)に安曇宿禰を賜姓


系譜
「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。
「新撰姓氏録」では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。



安曇氏の事績


691年(持統5年)
朝廷に纂記を提出。
古事記、日本書紀の編集に際し、第41代持統天皇、藤原不比等の命により、16家、2神社の家伝・系図を上進させる。
 @神社古文書
    石上神社古文書、大神神社古文書
 A系図
    春日氏、大伴氏、佐伯氏、雀部氏、阿部氏、膳部氏、穂積氏、采女氏
    羽田氏、巨勢氏、石川氏、平群氏、木角氏、阿積氏、藤原氏、上毛野氏



792年(延暦11年)
内膳奉膳であった阿曇宿禰継成は、高橋氏との内膳たる勢力争いに敗れ、阿曇氏は内膳たる正当性を失い、以後、中央政界からその姿を没してしまう。






主な古代豪族リスト  (新撰姓氏録参考)

分類 氏族名 歴史上人物

1) 皇別氏族  (335氏) 1 

1蘇我氏  馬子、蝦夷、入鹿など多数
2多治比氏 桓武天皇妃「真宗」葛原親王母
3息長氏  継体天皇以降朝廷を裏から支えた氏族
4県犬養氏
5橘氏   諸兄、奈良麻呂など多数
6吉備氏  真備
7紀氏  (紀国造、朝臣系)朝臣系から多くの大臣を輩出
8葛城氏  襲津彦
9巨勢氏  継体天皇以降に台頭。大臣輩出
10平群氏  雄略ー武烈朝に大臣輩出。没落? 真鳥、鮪
11多(大、太)氏  最も古い皇別氏族。謎多し。
12毛野氏  崇神天皇の裔。関東北部配。
13阿部氏  比羅夫、軍事氏族。
14和邇氏  后妃輩出
15春日氏  后妃輩出
16膳氏   朝廷内食事を司る氏族。阿部氏同族
17和気氏  清麿、垂仁天皇、鐸石別命
18越智氏  瀬戸内海の豪族、孝霊天皇


2)神別氏族  (404氏)
1 中臣氏 鎌足 大中臣氏、祭祀氏族。
2 大伴氏 家持、天皇家歴代の連姓   雄略天皇時大連、室屋
3 佐伯氏  大伴氏の分流  空海の出自                ← 空海
4 物部氏 守屋、最も古い豪族の一つ。連姓   雄略天皇時大連、
5 宇佐氏   宇佐八幡宮
6 阿刀氏 物部氏流。空海の母親出自                  ← 空海母上の家
7 尾張氏 物部氏と同族?                       ← 尾張氏
8 倭氏、大倭氏 初代倭国国造、市磯長尾市宿禰 出自諸説:椎根津彦説
9 出雲氏 出雲大社社家
10 忌部氏 祭祀を司る。
11 土師氏  出雲系
12 穂積氏  物部氏と同族。
13 三輪氏 三輪神社社家
14 賀茂氏 複雑。賀茂神社社家


3)諸蕃 (443氏)
1 東漢氏(坂上氏) 田村麻呂
2 秦氏   聖徳太子、桓武天皇などに貢献               ← 秦氏
3 百済氏 百済王家



4)不明
1 磯城氏 幻の豪族、欠史八代の后妃を輩出
2 十市氏  幻の豪族、同上。


へえ〜
[26]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月12日 17時27分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いつもながらすごい情報力、驚きと尊崇、そして感激です。


 私は本日一日、穴穂部間人皇女と膳部菩岐岐美郎女と丹後の関係がないか

ずっと調べていましたが、なかなかいい情報に巡り会えなくて困っていた所

でありました。あを様のレスを今見て、疑問の固まりが氷解するのを感じて

います。また、エンドルフィンがあふれ出しております。


 たぶん、穴穂部間人皇女と膳部菩岐岐美郎女とさらに聖徳太子と空海の4

者は、丹後というキーワードの下につながります。そんな強い予感を感じま

す。

 いつも感謝、感謝、感謝です!


 何とかまとめたいと思います。あしたは、読書の時間はたっぷりとれます

ので。

 あさっては早朝からまた一日、空の青海のあをに包まれた水平線の上で揺

られております。ハマチ(ワラサ)がかかるかも知れませんね。


                          丸に三つ柏の服部
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月13日 07時34分27秒 ) パスワード

ワラサですか。
天然モノですね、かかると良いですね。



それにしても   安曇  と言ったら  長野県の安曇野でも  しか浮かばないのに

安曇=古代の海洋族?
そこから武人で有名な阿部氏や
阿部氏から更に天皇の食事係の膳部氏に分かれた?


難しいけれど古代史は先祖の話でもありますから知らないことが分かるのって楽しいですね。

   人生みたい。
   困難なことが立ちはだかるけど乗り越えたら楽しい思い出になりますから。



空海の父上の家は地方の名家とは想像がつくけど母上の家も名家だった
   そして西の世界のことを知っていた
というのが確信になって来ましたね。
[28]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月14日 15時58分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いつもありがとうございます。

 おかげさまで、丹後にからむ疑問がほぼ解けました。

 要点だけをまとめます。


 1.丹後地方は裏日本(日本海)の玄関(扇の要)として、昔から(太古から)

 我々の想像以上に栄えてきた。その証拠として、丹後地方だけで、巨大

 なものも含め大小6000基以上の古墳が存在しているという。これは、

 多いと言われる大和政権があった大和地方を上回る数である。

 (東三河地方も意外と多く、700基以上ある。)


             松尾光氏『歴史と旅'982月号 丹後』参考



 2.籠神社の極秘伝によれば、投馬国は後の丹波国のことであるという。
 
  投馬と丹波という語感が似ていることはもちろんですが、かつての丹波

  国は丹波と丹後、そして但馬を併せた領域に広がっていた。

   いや、それとても律令制度のもとで区分けされた行政区分であって、

  実際は出雲から丹後半島、さらには若狭沿岸、琵琶湖周辺にまで及ぶ

  広大な地域が投馬国であったのだ。その投馬国を支配していたのが物部

  氏と同族の海部氏であった。海部氏の同族には、同じ天火明命を祖とす

  る尾張氏がいる。尾張氏の勢力は東海地方にまで及び、ちょうど機内を

  ぐるりと囲むほどであった。

   もはや、それは投馬国=丹波国という概念を超えるものであり、あえ

  ていうなれば「大丹波王国」とでもいうべき国だったのだ。もっともは

  じめから広大な領域を支配していたわけではない。「魏志倭人伝」が記

  す3世紀ごろは山口県から出雲、そして丹波に至る中国地方から北部近

  畿地方を支配下に治めていた。それが徐々に勢力を拡大し、東海地方か

  ら伊勢、そして熊野に至るまで勢力を拡大していったのである。


飛鳥昭雄・三神たける著『物部氏の謎』より


 3.たしかに、小姉君が堅塩姫に比べて不自然なほど冷遇されていたこと

  は史実なのだが、この小姉君が竹野の姫君であることを考えると、小姉

  君の血を引く間人が蘇我の追手を逃れ、丹後に行った理由も明確になっ

  てくる。

   間人は小姉君を通じて物部と縁続きである。そして追手を逃れて、自分

  を匿ってくれる母の地元の竹野に里帰りしたということだろうし、間人

  が鬼前大后と呼ばれていたわけも、小姉君から丹後の血を引いていたか

  らだと推察できるのである。

 
           月海千峰著『古代ユダヤ人と聖徳太子の秘密』より


  
   従って、母、祖母が海部氏であったということは、聖徳太子も当然

  海部氏の血を引いているということになる。


   膳部菩岐岐美郎女については、膳部氏は天皇の食卓に様々な物産を供

  することを担当する氏族であるが、その氏族の祖の古墳が丹後地方に多

  く存在するという。

  

  ―ここで一時止めます。
  

   
                          丸に三つ柏の服部

[29]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月14日 22時47分50秒 ) パスワード

投馬国、ですか?
初めてでした。


古代は今の知識から考えると、なるほど、分からないですね。

昔は但馬国も丹後国も丹波国も同じ部族が支配してて「国境」が無かったのに
後の勢力争いで「線引き」が行われて
それで我々には分からなくなっているのですね。


「消えた国」
例えば「穂の国」のように
歴史から消されて知らない国があった。


面白いですね。


続きを楽しみにしております。
でもごゆっくりどうぞ。
[30]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月14日 23時11分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様


  穴穂部間人について、


  月海千峰著『古代ユダヤ人と聖徳太子の秘密』では―



  「欽明は大和朝廷としての優位を確立するために、膨大な富を有する

  渡来勢力に繋がりの強い蘇我稲目の娘である堅塩姫を娶ったのだが、

  いまでいえば成り金の娘と結婚したようなものである。人は富を得る

  と次に名誉がほしくなるのと同様に、欽明天皇も世間に有無を言わさ

  ぬ血筋の女を入れると、自らの地位を固めたくなったのだろう。

   そこで目をつけたのが、衰退したとはいえ物部より高価な血をもつ

  海部の巫女であった。そして豪族たちは、欽明を名実ともにただ一人

  の大王と認めたのである。」


 
   また、小林久三『聖徳太子はどこから来たか』では、間人皇后につ

  いて、
 

   「間人皇后が、蘇我・物部戦争を逃れて一時期、間人に避難してい

  て、戦後、皇后の座を退座したという伝承は、暗示的である。蘇我氏

  と物部氏の対立が、間人皇后つまり蘇我稲目の娘の小姉君系列が原因

  で起ったことを示唆するのではないか。同時に、それは鉄の生産をめ

  ぐって。

   蘇我氏は一族の勢力を伸ばすために外戚政策をとり、稲目は二人の

  娘を欽明天皇に嫁がせた。小姉君と堅塩媛である。

   小姉君は、穴穂部間人皇女と穴穂部皇子を産み、堅塩媛は用明天皇

  と推古天皇の母となった。蘇我氏がねらったのは、継体天皇以降、一貫

  して皇位継承に圧倒的な影響力をもつ息長氏一族と結びつくことだった

  のだろう。

   産鉄集団としての息長氏は、継体天皇以後、中央王権に確固とした

  勢力をもつようになっていたのだが、その背景にあったのは、おそらく

  六世紀前半に朝鮮半島になんらかの重大な技術革新があって国内の産鉄

  集団に異変があり、出雲から丹後半島にかけて大規模に産鉄を行ってい

  た息長氏系統が一気に力をもったという事情があったのであろう。」


  と言っております。海部部氏、息長氏と結びつくことは絶大な意味を

 持ったということ、それは―



 一度またここで切ります。


                        丸に三つ柏の服部

  




[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月15日 06時13分20秒 ) パスワード

>衰退したとはいえ物部より<高貴>な血をもつ海部の巫女であった。
>そして豪族たちは、欽明を名実ともにただ一人の大王と認めたのである。


>>欽明を名実ともにただ一人の大王と認めたのである


へえ〜
欽明天皇の意味はここにあったのですか。


余談:
巫女って、お告げを神から受けるのに、その場所には「麻の実」があった、そうですね。


ということは、麻の力で、お告げを得ていた?
今でいうマリファナ=大麻=みたいなもの?

中東の神事?の舞いでもハシシだかの幻覚薬を吸って踊りまくると読んだような???


先週の「歴史ヒストリア」を見ててそう思いました。




>蘇我氏は一族の勢力を伸ばすために外戚政策をとり、
>稲目は二人の娘を欽明天皇に嫁がせた。

この手法が後に藤原氏に使われるのですね。
蘇我氏はやっぱり政治的にたいしたもんですね。



>小姉君は、穴穂部間人皇女と穴穂部皇子を産み、
>堅塩媛は用明天皇と推古天皇の母となった

はあ〜
「血」で大王家をがんじがらめに、ですね。




>蘇我氏がねらったのは、継体天皇以降、一貫して皇位継承に圧倒的な影響力をもつ息長氏一族と結びつくことだったのだろう。


<25>の復習

1) 皇別氏族  (335氏) 1 
      1蘇我氏
      3息長氏  継体天皇以降朝廷を裏から支えた氏族

                     これですね


>>産鉄集団としての息長氏は、継体天皇以後、中央王権に確固とした勢力をもつようになっていたのだが、
>>その背景にあったのは、おそらく六世紀前半に朝鮮半島になんらかの重大な技術革新があって国内の産鉄集団に異変があり、
>>出雲から丹後半島にかけて大規模に産鉄を行っていた息長氏系統が一気に力をもったという事情があったのであろう

つまり息長氏は当時「経済力ナンバーワン」の一族だったのですねえ。




継体天皇:コピペ

『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。
近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。


『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。


まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。

そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。
男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。

翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした。


継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。

しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。

日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、
また、
継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。


531年に、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。

天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。


死去年に関しては、『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。
『古事記』では没年齢は約40歳だが、『日本書紀』に従うと約80歳の長寿であった。

品太(ほむだ)王の五世(いつせ)の孫(みこ)、袁本杼(をほどの)命、伊波禮(いわれ)の玉穂宮に坐しまして、


天の下治らしめしき(この後は、何人かの妻を娶って産ませた子供が19人でこれらの子から後の3人の天皇が出たことを書いている。

即ち欽明、安閑、宣化 の3天皇である)。                ← コレですね



継体天皇の皇后(妻)は応神直系の手白香皇女。

皇后は雄略天皇の孫娘で、仁賢天皇の皇女であり、武烈天皇の妹(姉との説もある)。

継体天皇は大和に入る以前に現地で複数の妃を持ち沢山の子もいたが、即位後には先代天皇の妹を正式の皇后をとして迎え入れた。

これは政略結婚であり、継体天皇は先代天皇の妹で正当な血筋を持つ直系の手白香皇女を皇后にする事により、武烈天皇系との融和を図るとともに、一種の入り婿という形で血統の正当性を誇示したと考えられている。


継体天皇は他に沢山の子がいたにもかかわらず、嫡子は手白香皇女との間の皇子である天国排開広庭尊(欽明天皇)であった。

欽明天皇もまた手白香皇女の姉妹を母に持つ、宣化天皇皇女の石姫皇女を皇后に迎え敏達天皇をもうけた。


ヤマト王権の傍系の血を、皇后の直系の血統により補強したと考えられている。


かくして継体天皇と手白香皇女の皇子である欽明天皇の血筋が、長く現在まで続く事になる。


註:夫人は尾張目子媛ほか。                        ← ココ  尾張氏ですね


  目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女)


尾張氏が出て来たので蘇我氏=蘇我稲目=との関係をちょっと御披露しますね。



蘇我稲目

(生まれは武烈天皇8年(506年)頃 -没年は欽明天皇32年3月1日(570年3月22日))

古墳時代の豪族。蘇我高麗の子、蘇我馬子ら4男3女の父。

娘3人を天皇に嫁がせた(馬子が葛城県を本居としているため、稲目の妻は葛城氏の出と推測される)。


宣化天皇元年(536年)大臣となる。

同年、天皇の命により凶作に備えるため尾張国の屯倉の籾を都に運んだ。

欽明天皇元年(540年)欽明天皇が即位すると引き続き大臣となり、
娘の堅塩媛と小姉君を天皇の妃とした。

    堅塩媛は七男六女を産み、
    そのうち大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)が即位している。

    小姉君は四男一女を産み、
    そのうち泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位している。


         ↑ 
     ココで蘇我氏と尾張の関係が何かあるって感じますね。




畿内政権からみた尾張氏 [編集]

記紀ではしばしば后妃を出した氏族とされる。

遠祖である奥津余曾の妹、余曾多本毘売命(世襲足媛)は孝昭天皇の皇后となり、子は孝安天皇となっている。

崇神天皇の妃を尾張大海媛とする、など皇統譜の古い時期に尾張氏と天皇が結びついている。


継体天皇の大和入りするまでの正妃は尾張連草香の娘、目子媛。
第一子の勾大兄皇子は安閑天皇として、
檜隈高田皇子は宣化天皇として即位。


敏達天皇と皇后額田部皇女(推古天皇)の子に尾張皇子がいる。

     (乳母が尾張氏の出身だった?尾張で養育された?)



壬申の乱では海部氏に養育された大海人皇子へ私邸や資金を提供するなど全面的に支援し、
天武天皇の誕生に格段の功績を上げている。


持統天皇10(696年)年5月条に、尾張宿禰大隅が位階・功田を授けられる記事が見える。
『続日本紀』天平宝字元(757年)年12月条によれば、
この突然の恩賞授与の記事は、壬申の乱の功績によるものであるという。




尾張氏(因幡国) [編集]    鳥取のお話です。


本姓
出自不詳

出身地
因幡国八上郡

主な根拠地
因幡国八上郡 ほか



支流、分家

佐治氏(武家)    ← 佐治さんって、
             尾張国知多半島大野の豪族で信長の妹=お犬さま=が嫁に行ってて、
             お市の方の3女のお江の最初の夫も佐治さん。2番目の夫は徳川秀忠


曳田氏(武家)      曳田さんは佐治重貞の兄です 。曳田康貞。


因幡国にも尾張姓を名乗る一族が存在した。
この尾張氏は八上郡司を務める豪族で平安時代末期には一族のうち佐治氏、曳田氏が開発領主として成長した。
このうちの佐治氏は鎌倉幕府御家人となり、和田合戦で活躍した佐治重貞は佐治郷地頭職に任じられたことが知られている。
庶流に比べて尾張氏の本流については詳しく分っていない。



因幡で尾張氏とは?
尾張氏は古代にも一族が土地を持ってたのかもですね。




http://kodai.sakura.ne.jp/konohitogahimiko/303-futatunokeifu.htm

第3章  海部氏と尾張氏系譜


(3)卑弥呼も台与も尾張氏
    
      あらら・・・
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月15日 06時22分31秒 ) パスワード

http://kodai.sakura.ne.jp/konohitogahimiko/303-futatunokeifu.htm

第3章  海部氏と尾張氏系譜  (系図はURLへ)


(3)卑弥呼も台与も尾張氏
    

以下コピペ:

         ↓ わたくしのPCでは載ってないです

上段が海部氏の『勘注系図』である。下段は『先代旧事本紀』尾張氏系譜である。
『勘注系図』でも本家とも云うべき尾張氏の系譜を部分的に記す。宇那比姫命については、六世孫として系図の端のほうに単独で記す。 『勘注系図』の中では宇那比姫は傍系の人としての扱いである。尾張氏系譜を見てはじめて、宇那比姫が建田背命の妹である事が解る。


最初、私は『勘注系図』に卑弥呼を見た。そのため永い間、卑弥呼は海部氏の人と思っていた。これは大きな間違いであった。


丹波は尾張氏の支配地域で、丹波の当主は尾張氏なのである。       ←  ココ


したがって『勘注系図』という丹波国造の系譜の中に尾張氏の人物が登場する。

『勘注系図』の六世孫の位置に宇那比姫が登場する。

ただし他の人物とどのような関係にあるか不明である。傍系の人という扱いである。
だがややこしいのは、建田背命(たけだ せのみこと)、建諸隅命(たけもろずみのみこと)、倭得玉彦命(やまとえたまひこのみこと)である。

この人たちは海部氏の当主であり、かつ尾張氏の当主と云う 立場にある。
そのため両方の系譜に当主として登場する。


したがって、『勘注系図』で建諸隅の娘とする、天豊姫命すなわち台与も、尾張氏の女である。



(4)卑弥呼は葛木高尾張の生まれ                 ← え? 
             愛知県の尾張じゃなくて高尾張?つまり首都圏の別邸住所?笑


尾張氏の多くが葛木氏の女性を妻としている。

   尾張氏と葛木氏は深い関係にある。

尾張氏の本拠地は葛木高尾張と云われる。             ← コッチが本宅だった?


高尾張は葛木に在った古い地名の一つとされるが、詳しいその場所については不明である。


奈良県南西部の御所市に葛城山という山がある。
奈良県と大阪府の県境に位置する。
高尾張はこの葛城山の山麓のどこかである。


下の系図で赤字で示す人物は葛城氏の人物である。
尾張氏と密接な関係にある事が読み取れる。


葛城とは奈良盆地南西部の地名である。
古くは葛下郡(かつらぎのしものこおり)と葛上郡(かつらぎのかみのこおり)に分かれ、
葛城下郡は現在の大和高田市、香芝市、葛城市、北葛城郡王寺町、上牧町あたり。
葛上郡は御所市、あたりである。


葛木氏の本拠地が何処か定かではないが、葛城国造と称されたこの氏族の支配地は、奈良盆地西南部の相当広い範囲であろう。



卑弥呼すなわち宇那比姫の父親は、建斗米命(たけとめのみこと)である。


建斗米命と従兄弟の瀛津世襲(おきつよそ)は、葛木彦とも呼ばれる。
おそらく葛木高尾張に住んでいたであろう。
したがって卑弥呼も葛木高尾張で生まれたと思われる。


『日本書紀』によると、神武の時代高尾張邑から葛城邑に名前が変わったとされる。
葛城邑とは現在の御所市である。


また建斗米命の妻は、紀伊国造(きいのくにのみやつこ)智名曾(ちなそ)の妹、中名草姫(なかなくさひめ)である。

したがって卑弥呼の母親は、現在の和歌山市出身である。


へえ〜
とんでもない所に繋がってしまいました。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月15日 06時27分56秒 ) パスワード

もう1つね。

http://kodai.sakura.ne.jp/konohitogahimiko/302-amabe-owari.htm



第3章  海部氏と尾張氏系譜

  (2)丹波は尾張氏の支配地


海部氏と尾張氏は共に初代を天火明命(あめのほあかりのみこと)として、その子供が天香語山命(あめのかごやまのみこと)、孫が天村雲命(あめのむらくものみこと)である。


天村雲から分かれる二つの系譜がある。

ひとつは、天村雲命と伊加里姫(いかりひめ)の子である倭宿禰(やまとのすくね)に続く系譜である。

もうひとつは天村雲と阿俾良依姫(あひらよりひめ)の子、天忍人(あめのおしひと)に続く系譜である。



前者が丹波の支配者、海部の系譜で、後者は葛木高尾張にいた、尾張氏の系譜である。


ところがこの二つの系譜は、建田背命(たけだせのみこと)、以降ふたたび同じ系譜をたどる。
永い間その意味が理解できなかった。


ようやくその意味を理解した。

丹波は尾張氏の支配地なのである。

最初、尾張氏の傍流である倭宿禰が丹波の当主となる。
その後笠水彦、笠津彦と続くが、
丹波の当主はふたたび、尾張氏本家とも云うべき建田背命となる。



したがって建田背命、建諸隅命(たけもろずみのみこと)、倭得玉彦命(やまとえたまひこみこと)は尾張氏の当主であると共に、丹波海部の当主でもある。

そのためこれらの人物は、尾張氏と海部の両方の系譜に当主として登場する。


そのように理解する事によって『勘注系図』という丹波直の系譜と、尾張氏の系譜が部分的に、同じ系譜を伝える理由がはじめて理解できた。


したがって『先代旧事本紀』尾張氏系譜は、建田背命を、もちろん尾張氏の人物とするが、その一方で海部直(あまべのあたい)丹波国造(たんばのくにのみやつこ)但馬国造(たじまのくにのみやつこ)等の祖ともするのである。



また『熱田太神宮縁起』が「海部は尾張の別姓」とするのは、この頃の海部は、尾張氏でもあったということである。


そうか・・・
丹波は尾張氏の支配地だったのか・・・
[34]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月15日 07時41分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 いろいろたくさんの情報ありがとうございます。一昨日は一日ドック入り

し、昨日も一日雑用があり集中できませんでした。本日も午前中は雑用があ

りますので、午後からまたアップし直します。

 (なお、昨日は風が強く出漁できませんでした。波の高さが2メートル位に

なると限界となります。江戸時代以前の帆船による航海もどのように判断・

対処したのか一度研究してみます。陸上より海上の方がずっと物量・速度共

上回っていたと思いますので。)


 それにしても、ありがたき情報熟読させていただきます。

 取り急ぎ御礼まで。


丸に三つ柏の服部


 
[35]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月16日 00時42分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 引き続き、息長氏について、小林久三氏の『聖徳太子はどこから来たか』

より、


 「産鉄集団としての息長氏は、継体天皇以後、中央王権に確固とした勢力

をもつようになっていたのだが、その背景にあったのは、おそらく六世紀前

半に朝鮮半島になんらかの重大な技術革新があって国内の産鉄集団に異変が

あり、出雲から丹後半島にかけて大規模に産鉄を行っていた息長氏が一気に

力をもったという事情があったのであろう。


 こういった変化のなかで、越前三国の九頭竜川河口に育った男大迹(おお

ど)王が、第二十六代の継体天皇になった。鉄を制する者は、王権を制する。」


 「産鉄や金属精錬の技術革新によって、軍事力を飛躍的に増大した新羅は、

六世紀半ばから百済の影響下にあった任那を滅ぼしたが、その技術は、丹後

半島の間人を経由して近江の息長氏にもたらされ、息長氏の勢力は急速に膨

張した。兵器廠として、息長氏の発言力は増大したのだが、この息長氏の前

には物部氏、大伴といった軍事集団も歯が立たない。圧倒的な鉄の産出力と

供給を誇る息長氏では、王権といえども鼻息をうかがわざるをえなくなった

からだ。


 あわてたのは、蘇我氏である。

 百済系産鉄族との関連が深かった蘇我氏は、心ならずも新羅系の息長氏と

手を結ばなければならない。でなければ、蘇我一族そのものが危ない。そこ

で蘇我稲目が考えたのが、息長氏と婚姻関係を結んで、息長氏系統の天皇の

外戚になることである。


 小姉君と堅塩媛の二人の娘を欽明天皇に嫁がせたのが、その外戚政策の一

端だったけれども、この政策が血を血で洗うような血族の争いを生む原因と

なった。小姉君系と堅塩媛系の間に凄惨な対立が生まれ、暗殺につぐ暗殺、

謀殺につぐ謀殺といった事態になっていくのである。」


 こうして、いわゆる「乙巳の変」から「壬申の乱」までの激動の、日本史

の台本そのものを変えてしまう時代へと突入して行くのである。



 さて、膳部菩岐岐美郎女について、聖徳太子との縁をもう少し補強いたし

ます。


 同じく、小林久三氏の『聖徳太子はどこから来たか』より、


 「膳臣は、若狭の豪族であり、新羅系の息長氏、息長氏系の継体天皇とも

密接な関係をもっていただけでなく、聖徳太子ゆかりの斑鳩は膳氏の本拠地

でもあった。そればかりか、膳部菩岐岐美郎女は、太子の最愛の妃でもある。

 『日本書紀』の欽明朝に出てくる膳臣の記事は、すべて高句麗と関係があ

る。膳氏は、日本海ルートを通じて、高句麗、新羅、さらには粛慎、最終的

には騎馬民族の突厥ともかかわりがあったと考えられる。」


 「膳臣氏はもともと若狭の豪族。天皇の食膳を調達する氏族で、古くから

若狭の海産物を天皇の食膳に供する仕事を担当していた。

 若狭の海産物を飛鳥に届け、天皇の食膳を用意するという仕事の性質上、

スピードを要する。若狭の小浜から敦賀、敦賀から琵琶湖北端と陸路を利用

したあと、湖北の塩津から船で宇治から木津川をさかのぼるというコースが

考えられる。この湖上交通に大きな影響力をもっていたといわれるのが、和

邇泊(どまり)という港をもつ和邇氏つまり小野一族であった。」


 聖徳太子、その母、その祖母の祖先がペルシャか突厥かいずれにしても西方

系であったようであるが、膳氏も同じような出自がうかがえられる。膳には柏

の葉が関係し、ユダヤと関係する。

 膳部氏、また菩岐岐美郎女と聖徳太子との関係、深く探ればまだまだいろい

ろありそうである。聖徳太子はユダヤ王朝の血を引く皇子だったとの月海千峰

氏の指摘もある。


 いずれにしても、母穴穂部の間人、聖徳太子、菩岐岐美郎女の三人が磯長陵

に母を中心にして眠っているという。これが何を意味するか・・・弥勒と共に

再びこの世に下生するというのであろうか。それは後の空海、厳子媛にも通じ

る。

 空海もまた厳子姫(海部氏)と一体になり、ユダヤの王朝のレガリアをついだ。


 (空海とユダヤとの関係については、月海黄樹氏の『空海は古代ユダヤの錬

金術師だった』に詳しく書かれている。今回はながくなるので省きます。)


 一応、これにて海部氏、穴穂部間人皇女、聖徳太子、菩岐岐美郎女、空海

が一本の糸でつながります。空海の母系祖も父系祖もユダヤにつながるよう

であります。


 今私が疑問に思っていること、それは「名張」と「尾張」という地名・言葉

の深い意味です。掘り下げれば何かありそうな予感がします。当時は漢字はな

くヘブライ語的な訓音があった。漢字はあとで当てはめた。


                          丸に三つ柏の服部
 
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月16日 05時35分08秒 ) パスワード

ありがとうございました。
繋がりましたね。


息長氏は鉄の生産力を上げて軍事的・経済的・政治的に大きな力を持って
大王家に娘を嫁入りさせたのですか。

そこで蘇我氏は学習した、と。
だが娘を2人同時に同じ大王に嫁がせたばかりに後々に禍根を残した、と。



膳部氏と高句麗の関係を調べてみました:
http://red.ap.teacup.com/hangui/1349.html

「本朝皇胤紹運録」に依れば聖徳太子の妃は膳部(カシワベ)の出で有ったらしい。

この膳部とは福井県の若狭の豪族で、日本海を挟んで高句麗とも近く、
そこを辿ればシベリアからモンゴルまで行けるし、
更にはアルタイ地方の突厥まで関わりが有るのだと言う。

この突厥とはタタール人が建国した国で、製鉄文化を築いた遊牧民で有った。 ←  ココ

製鉄には風を送る事が必要で、歌舞伎用語の「タタラを踏む」と言う語源は、このタタールから来ていると言われる。

「夢殿」とは遊牧民族のパオに似ているらしい。

友人のウンチクに依れば、あの夢殿は聖徳太子の住居でも有って、遊牧民族に憧れを持っていたのだと言う。
黙って聞いていれば、聖徳太子は北方騎馬民族で有った等と言え出しかねない。




調べている内に面白い話を見つけました:

http://kamodoku.dee.cc/jitouki-wo-yomu.html

持統紀を読む

日本書紀第30巻の最後がこの持統天皇紀である。
持統天皇は天武天皇の跡を襲って女帝となった。
統治期間は11年。
跡を孫の軽皇子に譲って退位した。


5年(691年)
・3月 奴婢に関する詔を出す。
       奴婢に関する詔…父母のために売られた場合以外はすべて良民として扱うように、という内容。


・8月 18氏(大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・
       大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穂積・阿曇)
    に詔を出し、祖先の簒記(系譜と由来)を提出させる。


6年(692年)
・3月 中納言・三輪高市麿の中止の諫言にもかかわらず天皇は伊勢に行幸する。
    天下に大赦を布告する。


上記は
http://kamodoku.dee.cc/kiki-wo-yomu2.html
「記紀を読む」のサイトより


天武天皇崩御の年に、天武天皇の病気について、興味深い話がありました。
http://kamodoku.dee.cc/tenmuki-ge-wo-yomu.html

15年 朱鳥元年 (686年)
   ・5月 天皇が病んだので、川原寺で薬師経を読誦する。
   ・6月 天皇の病変は「草薙の剣の祟りである」との占いが出る。即日、草薙の剣を尾張の熱田社に送り返す。
   ・7月 朱鳥という年号を立て、今年を朱鳥元年となす。
   ・8月 諸王・諸臣が天皇の病気回復を願い、観音像を作り、観世音経を読誦させる。
   ・9月9日、天皇崩御。この時に当たり大津皇子が謀反を起こす。

      ・草薙の剣…記紀神話によれば
       スサノヲがヤマタノオロチを退治した時に、その尾から見付け出され、
       ヤマトタケルが東国を平定した時に使われた。

       元来、熱田神宮に納められていた剣とされる。


「祟り」とはどんな噂が立っていたのでしょうね。



尾張のお話
ここにも興味深い話がいくつかありました。
http://www.asuka-tobira.com/owari/ajiyoshi.htm
愛知県の春日井市の紹介のサイトなので尾張から北尾張に焦点が当てられています。


名古屋市を中心として愛知県の西地域を尾張と呼んでいる。
尾張は織田信長や豊臣秀吉などの戦国の武将を生み育てた地域だが,
この地名は,今から1500年以上も前,この地域を治めていた豪族「尾張氏」に由来する。

「尾張」は古くは「尾治」と表記されており,開墾・治水の意味を持つ「墾・治(2字とも「はり」と読む)」が使われていた。

ここを治める尾張氏は伊勢湾やその北の木曽川・庄内川流域の広大な濃尾平野を支配する大豪族だった。



断夫山(だんぷさん)古墳(名古屋市熱田区)6世紀

全長151m 前方部幅112m 後円部径80m 高さ16m 尾張地方最大の前方後円墳

4世紀から6世紀にかけて近畿地方を中心として大王や豪族の墓である古墳が造られた。
古墳が造られた時期を前期・中期・後期の3つに分けると,
大阪府堺市の大仙古墳に代表される大規模な前方後円墳が全国で造られているのは中期である。

しかし,尾張地方では後期になって熱田神宮の北に位置する断夫山(だんぷさん)古墳(名古屋市熱田区)などの墳丘長が150mを越える比較的大きな古墳が造られた。

断夫山古墳は,県下1位の規模で,この近くに熱田神宮があることからも,伊勢湾沿岸の海人(あま)を率いた尾張氏の墓とされている。



尾張氏と「海人(あま)」一族

伊勢湾沿岸の「海人」(あま−現在,愛知県南部に海部(あま)郡という地名がある)は単に漁業を主労働としていた一族ではなく,木曽川,長良川,揖斐川の木曽三川を利用してそれぞれの上流地域と交流するための技能(造船や操船)を持っていたとされる。

また,当時陸路で木曽三川を渡るのは川の増水時期は困難なことだったろうから,伊勢湾を船で渡るほうが楽と考えられる。

尾張地域と伊勢地域は船でも結ばれていただろう。
尾張氏は「海人」一族と深く関わり,この地域に強大な力を持った。


大海人皇子(後の天武天皇)の乳母は,尾張郡海部郷出身で,その首長である大海氏の娘であった。
               ↑
          壬申の乱の時、天武天皇を助けた海部の活躍は乳母の実家だったからなのか 


古代の海−伊勢湾岸は現在の熱田区までであり,断夫山古墳は海岸線近くに造られていた。海を支配していた尾張氏はやがて内陸地の広大な水田地帯も支配する。



丹後半島元伊勢籠(この)神社と海人氏・尾張氏           ← 丹後半島と尾張氏
(京都府宮津市字大垣)

丹後半島の付け根,天橋立の北に2000年以上の歴史を有する元伊勢籠神社がある。

垂仁天皇及び雄略天皇の時代に天照大神と豊受大神が現在の伊勢に遷されたので,「元伊勢」と名がつけられた。

祭神は「彦火明命(ひこほあかりのみこと)」−またの名を「天火明命(あめのほあかりのみこと)」「天照国照彦火明命」。


ここの神主家は丹波国造から始まり,大化改新後に祝部(はふり)となって現在の宮司に至るまで代々海部(あまべ)氏が直系で世襲してきた。


国宝海部氏系図は現存する日本最古の系図であるが,始祖彦火明命が2枚の神鏡を天祖から授かって海上の冠島に降臨したと記載されている。  

伊勢湾を中心に活躍した「海人(あま)氏」も尾張氏も太陽神である「天火明命」を祖神とした。

現在の宮津市一帯にいた海洋民である海部氏一族が太平洋側へ移り住み,尾張氏と深くつながったと考える。

つながりの深さ故,海部氏一族の祖神である「天火明命」を尾張氏の祖神ともしたのではないか。


このつながりによって,尾張氏にとっては伊勢湾一帯の水運と漁業を完全に支配することができた。

また,尾張氏は伊勢神宮の始まりに大きく関わっていたとも考えられる。   ← なるほど!
 


熱田神宮(名古屋市熱田区)

熱田神宮は熱田大神(草薙剣)を祭神としている。

また,ここには尾張氏の遠祖として仰がれる宮簀媛命(みやずひめのみこと)や建稲種命(たけいなだねのみこと)も祀られている。


東海市から名古屋市南部一帯を支配していた尾張氏は次に名古屋市の熱田地区に進出し,
やがて,名古屋市北部から春日井市を含む尾張西部,北部へと勢力を伸ばしていった。


       ↑
 
    ということは、知多半島→渥美半島→遠江にも力が及んでいた、ということでもありましょうね。
    考えたこと無かった〜
 

味鋺神社(名古屋市北区楠町)

味鋺・味美地区は物部氏との関係が深い。

味鋺(あじま)は
「物部氏の可美真手命の名にちなんでいる。宇摩志摩治命とも表記する。可美真手命は饒速日命の御子で、物部氏の祖神とされている。

神武の御代、宇麻志麻治命は物部一族を率いて尾張国に居住したと伝えられている。

大和朝廷の権力が及ぶにあたって、物部氏族は平地から山手の土岐の方に(岐阜ですね)追われたとされている。



尾張連草香(おわりのむらじくさか)

娘の目子媛(めのこひめ)を継体天皇に嫁がせて,天皇の外戚となった。

継体天皇と目子媛との2人の子は大王となる。

これにより尾張氏は大和王権とも密接につながり,益々その支配力を大きくしていった。

味美二子山古墳の被葬者は尾張氏の勢力下にあった豪族と考えるが,
断夫山古墳を尾張連草香の墓,
味美二子山古墳を目子媛の墓とする説もある。



付記 「壬申の乱」と尾張

大海人皇子側の物部雄君(もののべのおきみ)は尾張一帯を治めていた尾張氏と深くつながっていた。

物部雄君によって情勢を的確に判断した尾張氏は,大海人皇子につくことを決意する。 

そのころ,朝廷から派遣されていた役人の小子部さ鉤(ちいさこべのさひち)は朝廷の命を受けて,
先帝の陵を造るために現在の名古屋市,春日井市,西春日井郡を含む尾張国一帯から30000人を集めていた。

尾張地域の権力者尾張氏がこの者たちを大海人皇子側の兵となるよう小子部さ鉤を説得し,不破に向かわせた。

不破に着いた兵たちは,大海人皇子によって分散され,
美濃や三河からの兵と一緒に,新しい将軍のもとで再配備されて行動した。

小子部さ鉤にとっては大海人皇子につくことは本意ではなかったのかもしれない。

朝廷に対する裏切り行為と考えた小子部さ鉤は,後に自害している。    ←
気の毒に


「壬申の乱」では,物部氏の働きにより,この二子山古墳の豪族の子孫たちが活躍したと考えられる。



春日井市西部から名古屋市北区の古墳群はかつて180もあったとされるが,ほとんど滅失しており,現在は味美古墳群として4基が存在するだけとなった。

その中でも,二子山古墳は1936年(昭和11年)12月16日に国の史跡に指定された極めて状態が良い,規模の大きな前方後円墳である。


二子山(ふたごやま)古墳,春日山(かすがやま)古墳,御旅所(おたびしょ)古墳などと合わせて味美古墳群を形成する。



二子町の御旅所(おたびしょ)古墳 5世紀末

直径31m 高さ2.9m の円墳
墳頂には祠が設置され,祭事の際に特別な場所として扱われている。
周囲をフェンスで取り囲んでいる。



春日山(かすがやま)古墳 6世紀中

全長72m 後円部径38m 後円部高さ6m 前方部幅50m 前方部高さ4.5m 前方後円墳
埴輪の発見なし
現在は公園として整備されている。



味美(あじよし)二子山古墳 5世紀末〜6世紀初

全長約95m 前方部幅65m 高さ8m 後円部径48m 高さ8m 前方後円墳
 
白鳥塚古墳に次いで尾張地方第4位の規模,国の史跡に指定されている

味美二子山古墳は断夫山古墳とほぼ同時期に造られた前方後円墳。
これら2つの古墳は墳形や出土品が類似していることから,被葬者は何らかのつながりがあったと考えられる。

5世紀,鉄製農具や灌漑工事などの農業技術の発達によって,大規模な水田開発が可能となった。
また,同時に古墳の規模も大きくなっていった。
春日井市西部地域は,尾北の丘陵地と伊勢湾に挟まれて水田開発をするには最適な平野部にある。

ここに味美二子山古墳のような大きな古墳が造られていることから,
早くから水田開発に取り組んでいた豪族たちの姿も見えてくる。

伊勢湾岸や名古屋市一帯を支配し強大な勢力となっていた尾張氏はこれら豪族ともつながり,内陸への勢力を拡大した。



このサイトは北尾張が中心のサイトですから、三河や遠江関連のサイトが見つかると良いですね。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月16日 09時02分43秒 ) パスワード

遠江国について復習


遠淡海国造(とおつおうみのくにみやつこ・とおつおうみこくぞう)は遠江国西部を支配した国造。遠江国造とも。


祖先[編集]

『古事記』によると建比良鳥命。
    別名は武夷鳥命・天夷鳥命・天日照命など。


天穂日命の子。
出雲国造・无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造などと同系。
ただし、
『国造本紀』には物部氏の祖である伊香色雄命の子の印岐美命が成務朝に遠淡海国造に任じられたとある。

                                  ↑ へえ〜
                                    



建比良鳥命(たけひらとりのみこと)は、日本神話に登場する神である。
   『古事記』では建比良鳥命、『日本書紀』では武日照命(たけひなてるのみこと)・武夷鳥命 ・天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)と記され、天日照命(あめのひなでりのみこと)とも称される。

   『古事記』ではアマテラスとスサノオの誓約の段で、天之菩卑能命の子が建比良鳥命であり、出雲国造・无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直[1]・遠江国造等の祖神であると記されている。



天菩比命之子、建比良鳥命
【此出雲國造无耶志國造上菟上國造下菟上國造伊自牟國造津嶋縣直遠江國造等之祖也】
                                 ↑
                                 ココ


氏族[編集]

出雲氏または物部氏。



本拠[編集]

遠江国。現在の静岡県西部。



************************


「尾張」の名称と由来[編集]

7世紀後半の木簡では尾張国と尾治国の二つの表記が見られる[1]。
平安時代に作られた『先代旧事本紀』天孫本紀の尾張氏の系譜にも「尾治」とある。
大宝4年(704年)に国印が鋳造されたときに尾張と定められたと推定される[2]。



「尾張」の発音が「終わり」と重なる点からもわかるように、ヤマト王権の勢力圏の「端・東端」と見なされていた。
この「尾張」に類する地名には「熊野」があるが、こちらも発音が「隈の」(奥まった所)に通じている。


歴史[編集]

古代から平安時代まで[編集]

7世紀に律令制が敷かれると尾張国造の領域が令制国の尾張国の範囲となり、防人の通行路にもなった。
7世紀中葉には、国と評による地方行政区画が施行されていたが、本格的な地方行政制度は8世紀の初頭に地域を国・郡・里の3段階に区分し、『延喜式』民部式によると尾張は、海部・中嶋・葉栗・丹羽・春部(かすがべ)・山田・愛智・知多の八郡であった。


易林本の『節用集』によると尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、
その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた。



*************************



http://hirohatakibisetsu.blog100.fc2.com/blog-date-201206.html

〔その9〕第五段階 大和支配体制の確立 (300年代〜320年代)


鍵となる氏族:物部氏、伊予オオヤマツミ族、トヨキイリヒコ一族、阿倍氏、尾張氏

   (注:ブログ「広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説」第7章 参照)

1.サホビコの反乱と出雲対策 
 3世紀末に第十代崇神天皇が他界し、第十一代垂仁天皇に代が替わります。
 アメノホヒ族が率いる出雲の民による関東平野南部の開拓は継続しますが、中央の朝廷ではサホビコ(沙本毘古)の反乱が発生します。サホビコは丹波(丹後)将軍となった崇神天皇の腹違いの弟ヒコイマス(日子座)が沙本のオオクラミトメ(大闇見戸賣)ともうけた皇子で、妹サホビメ(沙本毘賣)は垂仁天皇の愛后となっています。サホビメは夫側につくか、兄側につくかで悩みますが、最後は兄側について討ち死にします。反乱が一段落した後、垂仁天皇はサホビメの遺言を守って、サホビメの腹違いの兄タンバミチヌシ(丹波道主)の娘たち3人を后に迎え入れます。
 垂仁天皇の悩みは、サボヒメの遺児ホムチワケ(本牟智和氣)がひげが生える年齢に達しても、しゃべることができないことでした。原因は出雲の大神をきちんと祀っていないためのタタリだったことが判明し、神の宮(出雲大社)を建立します。さらに出雲への配慮として、鴨氏を山城(京都)へ移動させ(賀茂神社)、大和盆地西南部の警護を出雲の民に抜擢し(高鴨神社と鴨都波神社)、出雲出身の野見宿禰は相撲と(形象)埴輪の祖となります。



2.富士山麓の開拓と東海道の開通
 垂仁天皇は東国経営の締めくくりとして、富士山麓の開拓事業に着手します。富士山は第六代孝安天皇の頃から、度々噴火して富士宮市、三島市など山麓は火山灰や溶岩でおおわれ、富士山と箱根山の間を抜けて相模に入る東海道は開通していませんでした。
 富士宮浅間神社の社伝は「(第五代)孝霊天皇の御世に富士山が噴火して鳴動常ならず、人民は恐れて逃散し、国中が荒廃したので、垂仁天皇が治世三年に山麓に浅間大神を祀り山霊を鎮められた」と伝えますが、伊豆国一の宮である三島大社の祭神は伊予の大三島を根源地とするオオヤマツミで、駿河国一の宮である富士宮浅間神社の祭神はオオヤマツミの娘で皇孫ホノニニギの后となるコノハナノサクヤヒメと、伊予とつながることから、伊予系の民が開拓民として送られたことが類推できます。
 



東海地方は尾張族の影響が強いはず、とのイメージを描いていましたが、
国造一覧を見てみますと、
東海8カ国のうち、駿河国と伊豆国も含めた5カ国を物部氏系が占めています。

遠江国一の宮の1社である小國(おくに)神社(森町)、三河国一の宮である砥鹿(とが)神社(豊川市近くの一呂町)の祭神は国土開拓神オオナムチですが、

遠江国と三河国の国造も物部氏系ですから、垂仁天皇朝の伊予の開拓民をを率いたのは物部氏だった、と推定できます。


静岡市東部の盧原国造の初代は第十二代景行天皇の皇子ヤマトタケルに随行したキビタケヒコ(吉備武彦)の子となっています。

ヤマトタケルは焼津で土地の首長から野焼きにされそうになりますが、垂仁朝の後でもまだ大和への抵抗勢力があった様子を窺い知ることができます。

反乱をおこしたサホビコの3代孫が甲斐国造の初代となっていいることも意外です。


気になるのは掛川市です。掛川市は素賀国の中心部で、国造の初代は神武朝起源とされ、遠江国の2つ目の一の宮である事任八幡宮(掛川市)の祭神はムスビ系のコゴトムスビの后神コトノマチヒメと八幡神となっています。

物部氏が進出する以前から、掛川市は紀伊半島と房総半島を結ぶ海路の中継地として堅固な国が成立していた、という気がします。



東海地方の物部氏系国造
参河国造(愛知県岡崎市):(成務朝)初代は知波夜(物部連の祖・出雲色大臣の5世孫)。

遠淡海国造(静岡県西部):(成務朝)初代は印岐美(物部連の祖・伊香色雄の子)。

久努国造(静岡県磐田市):(仲哀朝)初代は印幡足尼(物部連の祖・伊香色雄の孫)。

珠流河国造(静岡県富士市):(成務朝)初代は物部連の祖・大新川の子。

伊豆国造(静岡県伊豆市):(神功摂政)初代は若建(物部連の祖・天蕤桙の8世孫)。


(東海地方の物部氏以外の国造)
穂国造(愛知県豊川市):(雄略朝)初代は菟上宿禰(生江臣の祖・葛城襲津彦の4世孫)。

素賀国造(静岡県掛川市):(神武朝)初代は美志印。

盧原国造(静岡県静岡市東部):(成務朝)初代は思加部彦(吉備武彦の子)。

甲斐国造(山梨県):(景行朝)初代は臣知津彦(狭穂彦の3世孫)。



5.トヨキイリヒコ・中臣氏と尾張氏・阿倍氏の対立 
 関東平野の南部も勢力下に入り、東山道と黒潮ルートに加えて東海道が開通したことから、朝廷の直轄地である東国(関東地方と東北地方南部)は朝廷の財政を支える地として重要性を増していきます。

 崇神天皇は3人の后を持ちます。木(紀)国造アラカハトベ(荒河刀辨)の娘トホツアユメマクハシヒメ(遠津年魚目目微比賣)はトヨキイリヒコ(豊木入日子)とトヨスキイリヒメ(豊鉏入比賣)の一男一女、尾張氏のオオアマヒメ(意富阿麻比賣)はヤサカノイリヒコ(八坂の入日子)、ヌナキノイリヒメ(沼名木の入比賣)など二男二女、オオビコ(大毘古)の娘ミマツヒメ(御眞津比賣)はイクメイリビコイサチ(伊玖米入日子伊沙知。垂仁天皇)など三男三女を生みます。

 治世48年、崇神天皇はイクメイリビコイサチを跡継ぎの皇太子、腹違いの兄トヨキイリヒコを東国の統率者と決めました。トヨキイリヒコの母は紀伊国造家の出身ですから、イクメイリビコイサチの母よりも身分が低く、穏当な選択と言えます。

 東国に移住したトヨキイリヒコは下野の宇都宮に拠点を置いて、東国を統括するようになりますが、東国の利権を巡って、阿倍氏・尾張氏とトヨキイリヒコ一族との対立が強くなっていきます。

 阿倍氏は四道将軍として、オオビコが北陸から、息子が東山道から会津に至る街道を進軍したいきさつから、東国の利権は自分たちのものと見なしていました。

 尾張、丹波と北陸地方に勢力を張る尾張氏も阿倍氏よりも先に房総半島に進出した自負がありました。
 

 これに対し、東国に拠点を置いたトヨキイリヒコは意富氏、復権した中臣氏、アマツヒコネ族・アマノユツヒコ族、新たに東国に移住してきた出雲人を取り込んでいくと、阿倍氏・尾張氏に対抗しうる一大勢力となります。



6.伊勢神宮の建立(大和支配体制の象徴)
 
 伊勢神宮の成立については、伊勢地方に元々から太陽信仰があった、など諸説紛々としていますが、

阿倍氏・尾張氏とトヨキイリヒコ・中臣氏・意富氏の対立の構図の中で誕生した、とするのが自説です。

東国は大和王室の直轄地として、王室を支える財政的な基盤です。
そこを押さえることが垂仁天皇体制を支える阿倍氏と尾張氏の政治的な狙いとなります。


 アマテラスの斎宮となっていたトヨキイリヒコの妹トヨスキイリヒメはアマテラスを祀る場所を探して、紀伊の奈久佐浜宮、吉備の名方浜宮、丹波の与佐宮と西日本を巡りますが、垂仁25年に、アマテラスの斎宮は垂仁天皇の皇女ヤマトヒメに引き継がれます。

 ヤマトヒメは大和から伊賀、近江(米原付近)、美濃、伊勢と巡りますが、この地域は安倍氏と尾張氏の領域にあたります。


 ヤマトヒメはアマテラスを祀る場所として、東国統括の出発点に位置する伊勢の五十鈴川を選びますが、背景には阿倍氏と尾張氏の意向があります。

平安時代に編纂された延喜式で規定された「神宮」は伊勢神宮、東国への入り口に位置する常陸国の鹿島神宮と下総国の香取神宮の3社しかなかったことも、東国統括が大和朝廷にとって重大であったことが分かります。


 伊勢神宮と結びつきが深い氏族に渡会(わたらい)氏がいます。
 渡会氏は伊勢神宮外宮の豊受大神宮の禰宜家ですが、祖である大若子(おおわくご)は垂仁天皇の時代に越国の賊を退治し、その封地を伊勢神宮に寄進し、その見代わりで伊勢国造になり、弟が伊勢神宮の神主になります。

 渡会氏は尾張氏系で、丹波と丹後の境にある元伊勢籠神社の海部氏も尾張系です。   あらら・・・


 垂仁朝から百数十年後の雄略天皇の時代に、元伊勢籠神社に祀られていたトヨウケが外宮に迎えられることも、尾張氏との結びつきの強さを語っていると言えます。



*************************

http://kn2006.blog66.fc2.com/?mode=m&no=379


    三河と遠江
  2007/06/18 00:00


そのように美濃国の開拓を進めつつ、次に大和王権と尾張氏の連合が目指したのは尾張国の東方に広がる土地でした。
こちらも美濃国に劣らず、広大な平地と丘陵地帯を有した土地であり、また出雲系氏族など、土着の豊富な人口を抱えていた地域でした。

また、先述の葛飾北斎の富嶽三十六景の中には、「尾州不二見原」という画があり、尾張国からも東方の富士山は見えたのだということが分かります。
いや、そもそも尾張氏や大和王権に縁の深い伊勢神宮近くの二見浦の夫婦岩の間からも富士山は見えていたのです。
遥か東方に巨大な火山を有した土地があるということは認識されていましたし、
富知六所浅間神社の社伝によれば、
3世紀前半のミマキイリヒコ時代に既に四道将軍の1人で東海担当の建沼河別命が富士山の麓の富士市まで到達しているのです。
東国への関心が高まる状況にあったといえるでしょう。


3世紀後半の頃になると、濃尾平野の干潟地帯も北のほうは陸地化するようになり、尾張氏が根拠地としていた真清田神社のある一宮市のあたりは海に直接接しないようになり、交易の面などで不便になりました。


そこで尾張氏は根拠地を南下させて、干潟地帯の東南端にあたる熱田の地を根拠地とするようになっていきました。
そして、それが尾張氏や大和王権の東方への志向を更に強くさせるようになったのでした。


この熱田の地にあるのが熱田神宮ですが、熱田神宮の祭神は熱田大神であり、ご神体は草薙剣であり、熱田大神は草薙剣の神霊であるとされています。

4世紀初頭にヤマトタケルがオオタラシヒコ大王の命を受けて東国征討に出かける途中に伊勢神宮に立ち寄った際、叔母のヤマトヒメから伊勢神宮に保管してあった草薙剣を受け取り、それを帯同して東国を巡り、最後に尾張に戻ってきて尾張氏の娘のミヤスヒメと結婚し、その後、草薙剣をミヤスヒメに預けたまま伊吹山に出向き、そこで伊吹山の神の祟りを受けて病に倒れてしまうのですが、残されたミヤスヒメは草薙剣を熱田の地に祭祀するようになり、それが熱田神宮の始まりで、熱田神宮の宮司は代々、尾張氏が務めることとなったのです。



この熱田大神の正体については、天照大神であるとかヤマトタケルであるとか言われていますが、熱田神宮の相殿には天照大神もヤマトタケルも既に祀られているので、これらはいずれも熱田大神ではありません。

この熱田の地にはもともと土着の神が祀られていたとも言われ、だとするならそれは出雲系の神であった可能性はあります。



そもそも草薙剣は出雲の神宝であり、出雲系氏族の王権の証である「蛇の剣」であり、それがイクメイリヒコ時代に出雲から大和王権へ、大和王権連合加入の証として献上されていたのです。

それがイクメイリヒコの娘であるヤマトヒメの手に託されて伊勢神宮に置いてあったのです。


伊勢神宮は大和王権の東方進出の拠点であり、草薙剣は東方に住む出雲系氏族に対して大和王権の正統性を示すシンボルのような意味合いを持っていたのです。



そこでヤマトタケルの東国征伐ということになるのですが、これに関する日本書紀の記述などを読むと、これは軍事行動というよりは外交使節か偵察のような感じで、東国の国々を巡って大和王権への参加を口説いて回ったというのが実態ではなかったかと思われます。

その際に草薙剣が有用であったので、ヤマトヒメはヤマトタケルに草薙剣を託したのでありましょう。



これが首尾が上々で、東国の多くの国々が大和王権に友好的になったのでしょう。

もちろん日本書紀にあるように服属したというわけではなく、東海、関東、東北に至るまでの諸勢力が畿内の大和王権に好意的となり、交易などを行っていくことになったということなのでしょう。

大和王権にとってはこれだけでも十分、西国の諸勢力に対する際の後ろ盾にはなるのであったので満足のいく結果であったでしょう。

実際に東国を開拓し進出していくのは、その後徐々に進めていく予定だったのでしょう。


そこで大和王権は東国進出の拠点を伊勢神宮から熱田神宮まで前進させて、熱田神宮に出雲族の神宝である草薙剣を祀ることにしたのです。

ヤマトタケルにしても、別に剣を置き忘れたというわけではなく、熱田という地を指定したかどうかはともかく、尾張氏にこの地で草薙剣を祭祀して東国進出の拠点とするようにという意味で託したのでしょう。


なぜ熱田の地が選ばれたのかというと、
尾張氏の本拠地であったからというのもあるでしょうけれど、
出雲系氏族の王権の象徴である「蛇の剣」を祀る場所は、もともと出雲系の蛇身の神を祀っていた場所がふさわしいのであり、尾張氏の北の本拠地であった一宮の真清田神社とオオモノヌシを祀る大神神社が対になって一宮とされたのと同じように、この尾張氏の南の本拠地である熱田神宮においても出雲系の蛇神であったオオモノヌシ、あるいはオオアナムチなどが一緒に祀られた可能性は高いといえます。


それはもともとこの地で祀られていた出雲系の神なのか、あるいは畿内から分霊を持ってきたものなのか、詳細は不明ですが、とにかく熱田神宮における主祭神であり草薙剣(蛇の剣)の神霊である熱田大神というのは、おそらくオオアナムチやオオモノヌシのような出雲系の蛇神であったのではないかと思えるのです。


ヤマトタケルの東国への移動は海路で行われたようで、日本書紀の記述では尾張国のすぐ東の三河国や遠江国へヤマトタケルが立ち寄った記述はありません。

ただ、熱田神宮から知多半島の付け根部分を南東へ20km.ほど進んだ地点、三河国西端にある知立市の知立神社の社伝によれば、東国征討の出発前にヤマトタケルがこの地で皇祖神へ東国平定を祈願し、後にそれを無事終えてこの地へ戻ってきた際にこの地に皇祖神を祀ったのが神社の始まりであるとされています。


そういうわけでこの知立神社の祭神はウガヤフキアエズ、ヒコホホデミ(山幸彦)、タマヨリヒメ、イワレヒコなどなのですが、相殿にこの地の開拓神である青海首命を祀っていることから、おそらく元来は青海首命を祀っていた神社でヤマトタケルが皇祖神への祈願を行ったのでしょう。


この地は岡崎平野の西部にあたりますが、岡崎平野は古代においては南半分は海、北半分には干潟が広がっていたと思われるので、この知立神社も水路を通って船で乗りつけられるような位置にあったのでしょう。おそらくヤマトタケル一行も東へ向かう前にここに立ち寄ったのでしょう。

つまり、この岡崎平野の干潟地帯はヤマトタケルが来た時点では既に大和王権の勢力圏であったということになります。

おそらく3世紀後半にはこの地は大和王権の勢力下には入っていたのでしょう。



岡崎平野の西端を流れる境川によって尾張国と三河国は隔てられており、岡崎平野の真ん中には矢作川が流れて知多湾に注ぎます。そして岡崎平野の東には木曽山脈南端の恵那山から更に南西方向に延長してきた丘陵地帯があり、そこを水源として岡崎平野の干潟地帯に注いでいたのが男川でした。そしてこの木曽山脈の延長である南西に細長い丘陵よりも南東には豊橋平野が広がり、そこには豊川が流れて三河湾に注いでおり、豊橋平野の東には諏訪湖から赤石山脈の西を走ってきた中央構造線の延長が走り、その東に接して細長い丘陵地帯を発達させていました。



尾張国から見て、国境の境川よりも東方に流れる矢作川、男川、豊川という三本の川の流れる地域、つまり岡崎平野と豊橋平野のある地域を「三つの河のある国」という意味で「三河国」と、尾張国の人達は呼んだのです。

      へえ〜

そしてその中でも現在は一般には岡崎平野エリアのほうを西三河、豊橋平野エリアのほうを東三河と呼びますが、

古代においては当初は西三河地方のみを「三河国」とし、

東三河地方を「穂の国」としていた時期もありました。


「穂の国」というのは「稲穂の多い国」というような意味でしょうか。



これは、もともと豊橋平野方面に大和王権とは別の「穂の国」と呼ばれる勢力が存在し、その後、大和王権側が尾張国から岡崎平野方面へ進出して徐々に「三河国」の勢力を広げていき、最終的には「穂の国」の領域も併せて「三河国」としたのだということです。



そして、どうやらこの東三河の「穂の国」のほうが西三河のほうよりも栄えていたらしく、三河国の統一後はその中心地は「穂の国」の旧エリアである東三河地方に置かれるようになったのです。


例えば、三河国一宮の砥鹿神社は豊橋平野北部で豊川の下流沿いにあるのです。

もっとも古代においては現在地の北にある本宮山の山頂に存在したのであり、おそらく古代においては豊川の下流域も干潟化しており、この山頂からその干潟地帯を見下ろしていたのでしょう。


この砥鹿神社の祭神はオオアナムチであり、
この「穂の国」では出雲系氏族がオオアナムチを開拓神として祭祀していたと思われます。

豊川を遡って長篠で注ぐ支流の宇連川の最上流部は天竜川の支流の相川に乗り換えることが出来ますから、科の国から諏訪湖、天竜川を下ってこの豊橋平野の「穂の国」まで出雲系氏族がやって来て開拓していたのでしょう。



そして、そのような「穂の国」のオオアナムチ祭祀が大和王権の勢力下に入っても継続し、

それどころか後には三河国の一宮の扱いを受けているわけです。


ちなみに先述の皇祖神をズラリと祭神に揃えた知立神社は二宮に甘んじています。

それだけ大和王権の三河国の統治が先住の土着氏族と協調的に行われたということを示しているといえます。



この「穂の国」のあった豊橋平野の東端を南西方向に中央構造線が走り、そのまま渥美半島を縦断し、伊勢湾の出口の伊良湖水道を突っ切って伊勢を通り、櫛田川に沿って西へ向かいます。この中央構造線の豊橋平野の東に細長い丘陵があり、そこより西が三河国で、そこより東が遠江国ということになります。
三河国からこの丘陵を越えた向こう側の土地を眺めた時、最初に目に入るのが浜名湖です。


浜名湖は現在は遠州灘と繋がった汽水湖ですが、

これは15世紀末に起きた大地震による地盤沈下によって湖面が下がり海水が入ってくるようになったからであって、

古代においては浜名湖は海面よりも高い位置にあり、完全な淡水湖でした。



そういうわけで、三河国から国境を越えたこの地を見た大和王権の人々はここを「淡海の国」と呼んだのですが、

「淡海国」ならば既に琵琶湖のある近江国で使われている名前ですので、

それと区別するために「遠くにある淡海の国」ということで「遠淡海国(とおつおうみのくに)」と呼ぶようになり、それが「遠江国(とおとうみのくに)」となったのです。



この浜名湖を西端として、赤石山脈が南へ延長した丘陵と大井川によって東へ行く道をさえぎられるラインを東端とした、天竜川が真ん中を南北に流れる東西に広がった平野と丘陵地のエリアが「遠江国」の範囲ということになります。


だいたい現在の都市としては浜松、磐田、袋井、掛川、菊川が含まれ、遠州灘に面した地域ということになります。


この地域には天竜川を中心とした内陸水路が浜名湖も含めて発達しており、科の国から天竜川を下ってやって来た多くの出雲系氏族が弥生時代からこの地を開拓して住み着いていたと思われます。


遠江国の一宮は遠江国北東部の丘陵地帯を流れる一宮川のほとりにある小国神社ですが、この神社の祭神もオオアナムチで、一宮川は内陸水路を乗り換えていくと天竜川の支流の二俣川に連絡しますから、天竜川を下ってきた科の国由来の出雲系氏族がこの地の開拓神としてオオアナムチを祀ったのでしょう。



また、社伝によれば、最初に小国神社の祭祀が行われたのは現在地の北方にある本宮山の標高549m.の山頂であったとのことですが、ここは二俣川の水源にあたり、そのまま天竜川水系からアクセスできる地であり、科の国からやって来た出雲系氏族によるオオアナムチ祭祀の場としては適切であるといえるでしょう。とにかく天竜川の本流のほうは暴れ川であったので、本流の近辺はあまり開拓に適した土地ではなかったようで、支流やそれに連絡する河川、そして浜名湖の周囲などが主に開拓されたのではないかと思われます。



そして、その出雲系氏族によるオオアナムチ祭祀がそのまま遠江国の一宮となっているのも三河国の場合と同様であり、

後に進出した大和王権勢力が先住の出雲系氏族の既存の共同体を温存し共生して、祭祀を共有することで大和王権の連合を拡大していったということが見て取れます。



このような三河国や遠江国への進出に関連のある記述がヤマトタケルの東国遠征記には見えないのであり、記紀のこの時代の年月日の記述をそのまま信用するのもどうかとも思いますが、ヤマトタケルが伊勢神宮に行って草薙剣を受け取ったのが10月7日で、その年の間には駿河国に達していますから、途中の三河や遠江で敵と戦うなどの手間が発生していたとしたらこの行程には無理があるでしょう。



おそらく、三河や遠江の平地や丘陵地の出雲系氏族は
3世紀末までには大和王権に親和的な関係を構築していたのではないかと思われます。


この三河と遠江を合わせて「三遠」といいますが、

3世紀後半の奈良盆地における纏向遺跡の出土土器などには三遠地方の特有の型のものが非常に多く、

これら地域と大和王権はこの時期から密接な関係があったのだと推測されるのです。



そういうわけですから、4世紀初頭のヤマトタケルの東国遠征の際には、この三河国や遠江国へは立ち寄らず、知立神社での皇祖神への祈願の後は船で伊良湖水道を通過して伊勢湾を出て、富士山を目印に遠州灘を東へ向かい駿河国へ向かったのではないかと思われます。


この4世紀初めの時点で遠江国までは大和王権にとって友好的な地であったとするならば、
どうやらヤマトタケルの任務というのは糸静線より東の東北日本の領域の諸勢力との交渉や視察であったのではないかと思えるのです。



実際、日本書紀にあるこの後のヤマトタケルの行程は駿河、相模、上総、陸奥、常陸、甲斐、武蔵、上野、信濃という順番であり、いずれも糸静線より東の領域であり、最後に神坂峠を越えて美濃国に出てきたところで任務終了という感じなのです。つまり、この時点で美濃国は大和王権の勢力圏であったということなのでしょう。


信濃国に関しては、大和王権の勢力圏のほうからのアプローチとしては、遠江国の山側の丘陵地帯から更に北へ進むと木曽山脈と赤石山脈の険しい山岳地帯が始まり、その間を天竜川が流れることになりますが、遠江国から天竜川を遡っていって、その山岳地帯の入り口である茶臼山(木曽山脈南端)と光岳(赤石山脈南端)を結んだラインより北に遡っていくと、途端に峡谷部の急な坂を上っていくことになります。それで茶臼山と光岳より北の天竜川流域の地域を「急な坂の国」という意味で「科の国」と呼ぶようになったのでしょう。



この天竜川流域というのは南信地方のことで、信濃国の一部に過ぎないのですが、4世紀初めのヤマトタケルによる探検以前の段階では、大和王権側にとっては「科の国」というのは茶臼山より北の天竜川上流の山岳地帯全般を指す漠然とした概念でしかなく、上野国から碓氷峠を越えて軽井沢から科の国へ進入したヤマトタケルが科の国のあちこちを巡った後で諏訪湖に達し天竜川を下り、恵那山の北の神坂峠を越えて美濃国に到達したことによって初めて「科の国」の全域の全貌が明らかになったのです。



その全貌とは、天竜川を遡って諏訪湖に達した後も今度は八ヶ岳山系から千曲川や犀川などが流れ落ちる「急な坂」が続くという意味でやはり「科の国」が北へと続いて、北方で「越の国」と境を接しているということでした。


ちなみに「越の国」に関しても、ヤマトタケルの遠征以前はその全貌は大和王権側にとっては不明であったのですが、ヤマトタケルは上野国で部下の吉備武彦と二手に分かれ、自分は碓氷峠を越えて科の国へ行き、吉備武彦には越の国の視察に行かせています。吉備武彦はおそらく草津の北から中津川で中越地方に出て、そこから上越地方、そして富山平野に出てから神通川を遡り、高山盆地で飛騨川に乗り換えて美濃加茂に至り、ここで神坂峠を越えて木曽川を下ってきたヤマトタケルと落ち合ったのでしょう。これはつまり、飛騨川と木曽川の合流点である美濃加茂には大和王権の拠点があったということになります。


こうして4世紀初頭のヤマトタケル一行によって、「科の国」と「越の国」の全貌は判明することになったのですが、ここからやっと大和王権によるこの両地域へのアプローチが始まるのであって、実際に大和王権がこれら両地域に勢力を広げていくのは4世紀後半以降のこととなります。


結構面白かったです。
[38]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月16日 10時50分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 尾張氏と海人の話、古墳の話、垂仁天皇の話、伊勢の話、三河国の話、小

国神社の話、科の国の話等々歴史の理解が飛躍的に進みます。本当にすごい

と思います。熟読いたします。


 とり急ぎ御礼まで。

                          丸に三つ柏の服部

[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月17日 06時52分40秒 ) パスワード

ウッカリお江の夫の2番目を徳川秀忠にしてしまいました。


2番目は秀吉の姉の息子の秀勝でしたね。
豊臣秀次の弟。
2番目の夫はきっとお江が好きで結婚した唯一の夫だったかも。



3番目が秀忠ですね。


はからずも3人も夫を持ったその心理状態をいろいろ考えるのは好きですが

因幡尾張氏の流れに佐治さんがいるとは
いろいろ空想が働きます。
因幡尾張の佐治さんと尾張の佐治さんは元は同じなのかなと。

結論はハッキリしませんでした。



以下コピペ:

佐治氏


本姓   尾張氏
     称・桓武平氏

家祖   佐治道貞

種別   武家

出身地  因幡国八上郡佐治郷

主な根拠地(つまり有名どころという意味だと思う)  尾張国知多郡西部(尾張佐治氏)

著名な人物  佐治一成(尾張佐治氏)  この人がお江さんの御主人ですね。
                    でも近江出身の佐治氏のようです。


**********************


1)因幡国の尾張佐治氏   あはは


佐治氏(さじし)は、日本の氏族のひとつで、因幡国八上郡佐治郷の国人領主。


歴史[編集]

本姓を尾張氏といい、八上郡司の尾張氏の一族で代々、佐治郷司を務めていた。

初代を佐治四郎道貞といい、佐治郷の在地領主として佐治谷の本格的な開発を行った。
在地名の「佐治」を苗字として名乗るようになった佐治氏は、
佐治重貞の代に鎌倉幕府御家人の地位を得て、佐治郷地頭に任じられた。

佐治氏は佐治川を境に「北方」と「南方」と呼ばれる行政区分を設けて佐治郷の支配を行った。

鎌倉時代後期になると分割相続による所領の細分化が進行したため、所領を巡る一族内の争いによって内紛状態が起こっていたが、訴訟などを通して事態の収拾が図られた。


鎌倉幕府滅亡後は南朝に属していたが、建武3年(1336年)の湊川の戦いの後、北朝に帰順したため本領が安堵された。

文和4年(1355年)の神南合戦には山名時氏傘下の国人として「佐治但馬守」の名が見えるが、
応仁・文明の乱以後、佐治氏は史料上に現れなくなり、
江戸時代には小泉友賢によって「書籍ニモ載ラズ、言ヒ伝ヘモ無ケレバ、何ノ武士タル事モ考ヘ難シ」(『因幡民談記』)と記されている。



佐治郷の開発と支配[編集]

開発領主である佐治氏は刈地(現・鳥取市佐治町)を基点に佐治谷の開発を行ったとされる。

『因幡志』によれば刈地村を「一ノ小屋」、加勢木村を「二ノ小屋」と呼ぶのは開発進行の順序を示しているという。


佐治郷を南北に分けた佐治氏は大井村に屋敷を構え、群佐羅山城を築城し、佐治郷支配を行った。

また、佐治氏は郷一宮の群佐羅大明神を篤く奉ることで郷民に対しての宗教的な権威も兼ね備えていた。

応永20年(1413年)付けの「佐治南方大井知行分目録」によれば、刈地などの地域に2町7反240歩(うち、1町2反240歩は免田)の知行分を有していたことが分かっている。

なお、この目録内には「添弐夕」、「成庭」といった他では見られない公事夫役の呼称が見られる。


********************


2)尾張国の佐治氏

有名どころはお江の夫だった佐治一成で、この尾張佐治氏は、知多半島の大野を中心とする西海岸地域を領する一族で、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いていた。


歴史

佐治氏は甲賀郡佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。
甲賀は近江国甲賀郡の地をいい、伊賀と並んで忍者のことが思われる。


戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。
そのなかでも佐治氏は、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。


佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。


    謎:何に対して「小佐治氏」か?
      因幡の佐治氏に対して?


その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。


そして、業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。

以後、佐治氏は佐治郷にあって激動の中世を生きたのである。



知多大野に勢力を築く


近江佐治氏の分流の一家に、尾張の知多半島に勢力を張った佐治氏が知られる。


そもそものはじめは、佐治氏の一族という佐治備中守が、一色氏の重臣に迎えられたことにあるという。

一色氏は室町幕府将軍足利氏の一族で、鎮西管領、若狭・三河守護職にも補されるなど幕府の有力者であった。
十四世紀の中頃、知多半島へ進出した一色氏は青海山に大野城を築き、大野湊を中心に伊勢湾の海運を手中におさめ知多半島の実権を掌握した。

ところが、十五世紀のはじめ、一色氏は将軍足利義教と対立し守護職を奪われ、次第に勢力を失墜していった。

さらに、応仁・文明の乱を経て戦国時代になると、家督をめぐる一族の内訌もあって没落の運命となったのである。


その一色氏の内訌に乗じて勢力を拡大したのが、佐治氏と田原城主の戸田宗光であった。


一色氏にとって代わった佐治氏は、大野・内海を拠点に知多半島西部を掌握した。


一方、知多に勢力を振るった佐治氏の初代は、
室町時代後期、近江国から移住してきた佐治駿河守宗貞とする説もある。

                   ↑
                別系統の佐治さん?



すなわち、一色氏に仕えた駿河守宗貞は、主家の内訌をついて勢力を拡大、ついには一色氏を逐って大野城主となったというものである。

そして、その領地は三万石とも六万石ともいい、ひとかどの戦国大名といえる存在となった。

駿河守宗貞のあと、上野守為貞(為景とも)、八郎信方(為興とも)、与九郎一成と続いた。

そして、佐治氏は緒川城の水野氏と知多半島を二分するほどの勢力を持ち、大野衆と呼ばれる佐治水軍の将として伊勢湾全域の海上交通を掌握したのである。


やがて、尾張の織田信長が台頭してくると佐治氏は信長に属し、
信方は信長の妹である於犬の方を正室に迎えた。

しかし、天正二年(1574)、信長に従って伊勢長島の一向一揆攻めに出陣した信方は、一揆方の反撃に遭って討死した。

二十二歳という若さであったが、於犬の方の間に与九郎一成と久右衛門秀休の二人の男子をもうけていた。

信方が戦死したのちは、為貞が幼い一成を補佐して家政を取り仕切った。


へえ〜


**********************


3)【佐治氏】  ← 丹波国出身の佐治さん!

中世後期の武家。

《太平記》によれば建武年間(1334‐38)に佐治孫三郎某が丹波に住したとあり,

おそらくその本貫地は氷上郡佐治(現,兵庫県氷上郡青垣町)と考えられる。


南北朝時代の観応の擾乱(じようらん)のころ,高師直の一族,師詮が丹波・丹後の守護に就任し,
佐治氏と高氏との被官関係が成立したと推定され,以後佐治氏は高氏の内衆として活動する。

1404年(応永11)1月,高師英が山城守護に就任すると,佐治守直はその守護代に登用され,11年まで山城国内各荘園の遵行・打渡しに当たっている。



古代豪族の尾張氏には因幡国にも丹波国にも近江国にも分家があったってことでしょうか?
これだとスンナリですが。



茂さん

もっといろいろ話題を振ってくださいね。
[40]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月17日 13時08分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 「尾張」「名張」にどうもひっかかるものがございまして、昨日からず

っと蔵書・各種サイトを調べておりましたので、レスが遅れました。


 佐治氏と聞いてまず浮かんだのは、古代史研究家の佐治芳彦氏であります。

大野の佐治氏とは関係はないかも知れませんが。


 物部、海部、尾張、水軍関連のテーマでしばらくは集中してみたいと思い

ます。


 それにしても、尾張と名張について常識的解釈でない解釈を追求していま

すが、なかなかスッキリとはいきません。でもいくつかヒントは得られてい

ます。しかしながら、論理として成り立つかどうか、もうしばらく時間が

かかかりそうです。


 歴史には見えないアンダーグランドの部分がありますので、それを見付け、

新たな発見をするというのが一番の醍醐味ですね。

 
                           丸に三つ柏の服部
[42]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月17日 23時38分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 せっかく1時間ほどかけて打ち込んだものが操作ミスにより消えてしまい

ました。そろそろ眠くなってまいりましたので、明日打ち直します。


                           丸に三つ柏の服部
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月18日 06時26分38秒 ) パスワード

名張と尾張の関係について考え中です。
まだ納得のいく情報に出会っていません。


わたくしは、画面にいくつかサイトを出していてアッチコッチしている内に
  肝心な平熱が行方不明になって
慌てたりします。

結構再現が出来るようになりましたが、今でもたくさん書いてウッカリ消した時はホントにガッカリします。



そういうのはやはり疲れから失敗をするのだと思いますから
焦らず、頑張ってください。


ではもう暫くウロウロ捜してみます。


人間には足がありますし、移動しますから、先祖達はアチコチに足跡を残して現代の我々を翻弄しますね。
その上に名字は変わるし名前も替えるし。

それは途中経過を我々が知らないからなわけですが、ホントに迷路に入り込んでしまいます。


でも、ま、頑張っていろいろアチコチ読みに行きますね。


それにしても尾張氏系の佐治さんのように、突然、歴史に躍り出て来る子孫がいれば
御先祖は嬉しいでしょうね。

やはり子孫はたくさん残すものですね。
にっこり
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月18日 08時34分55秒 ) パスワード

http://folklore.office-maeta.jp/010.htm
古代豪族の紹介サイト


これによると秦氏の「はた」とは古代朝鮮語で「海」のことだそうです。

■ 秦氏(はたし)【渡来系豪族・新羅系】
# ルーツ: 弓月君(ゆづきのきみ)
# 拠点: 山背国(山城国)
# 特徴: 土木技術に長けた開拓氏族
# 役職: 財政や外交に関与
・ 本拠地: 山背国葛野(かどの)郡
・ 弓月君が百済出身一族120県を率いて渡来
・ 秦(ハタ)は古代朝鮮語で海の意味。秦氏が建てた、広隆寺、松尾大社、伏見稲荷、平野神社。



■ 阿倍氏(あべし)
# ルーツ: 武渟川別(たけぬなかわわけ)、大彦命の子
# 拠点: 大和国十市郡    しかし!
# 特徴: 強固な外戚関係を築くが没落
# 役職: 上級官僚→陰陽職
※ 孝元天皇の皇子の大彦命(おおひこのみこと)を祖とす。


・ 大和国十市郡安倍を本拠としたと言われているが、伊賀国阿拝郡から移動してきたようだ。

  伊賀国一宮は敢国(あへくに)神社。

  従って、阿倍氏は伊賀の出ではないかと言われている。

  つまり、大和国十市郡安倍をルーツとして阿倍氏ができたわけでは無く、阿倍氏が本拠地にしたことにより大和国十市郡安倍という地名ができた。


【結論】阿倍氏は、伊賀国阿拝郡・名張郡から大和国の宇陀郡に移り住み、
    後に十市郡の地を本拠地として、その地が安倍と呼ばれるようになった?

        ↑
      逆転思考ですね。


*********************************


素人向けの面白いのがあんまり無くて、ま、こんなところかなというのをいくつか:


http://www17.ocn.ne.jp/~minami55/matikadoiga.htm
天武天皇と名張の職能集団の話などたくさんあります。
藤堂の忍者は名張者とか。


喰代ほおじろの百地三太夫の先祖は東大寺の荘園だった黒田荘の悪党大江一族?
                            え?ビックリ!


3.「壬申の乱」と主な人物

   *当時の伊勢湾は物部王国   (つまり尾張氏とか?)

  壬申の乱に活躍した人物の多くが美濃出身、新羅系渡来人。地縁、身内同族意識
  身毛君広        美濃関市。舎人
  村国連男依       美濃各務原市鵜沼地区。舎人
  尾張大隅        私邸を行宮として提供した。(軍資金の提供も行った)。大海氏の同族
  和珥部臣君手     舎人。尾張氏の海部氏の系統
  朴井(物部)連雄君  舎人。美濃で大友皇子の徴兵活動を目撃、急報する。
  大伴連吹負       倭古京を制圧
  民直大火        高市皇子とともに積殖山口に
  三宅連石床       天日槍の後裔、伊勢国司 軍兵500 鈴鹿で合流
  三輪君子首       大物主神を始祖・美濃の三輪氏
  紀臣阿閉麻呂     東道将軍
  阿部普勢臣御主人  キトラ古墳の被葬者か(直木孝次郎氏)
  小子部鉗鉤       尾張で徴発した2万の兵士を率いる←天智の山陵造営のために徴発
                尾張大隅らに説得されるー古い同族関係をネタに




5.「壬申の乱」後の天武の動き

 @天皇、伊勢神宮・斎宮、国号「日本」の三点セットー「神」としての存在
 A世情の動揺
   律令制度の導入、良賎制の成立は権力の必要不可欠な政策課題
      天下大解除(681年) 年号「朱鳥」 飛鳥淨御原宮、
      八色の姓(やくさのかばね)ー真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置
 B処罰
  ○畿内の隠評(名張)が東国(伊賀)の名張に。
   天武13(684)年の「八色の姓」に「名張臣」が見えない。
  ○死罪は8人 右大臣中臣連金など
  ○流罪
   左大臣蘇我臣赤兄、蘇我臣果安(自決)の子。
   大納言巨勢臣比等、右大臣中臣連金の子。
    謎は、小子部鉗鉤が自害したこと。また実在しなかった人物か

6.東国政策
  ○不破の関の整備
    大海人皇子は、安八摩評の湯沐邑の民衆をはじめ美濃の兵士の動員と尾張、伊勢の兵士、
    これらを中心に体制を整え、大友皇子方に対して勝利した。
    「天武」後の「天智」側ー持統、藤原不比等の課題は、反乱者を畿外勢力と結合させないこと。
    「乱」後、「持統」になって不破の関を拡充している。
  ○夏見廃寺ー黄金の廃寺に秘められた謎ー  
    東国の鎮護を祈願か。南面の伽藍。南西方向に飛鳥浄御原宮、藤原宮を望む



*********************



伊賀国古代豪族夏見氏(夏身氏)
http://www.city.nabari.lg.jp/ct/other000014700/119000850-sisi-2.pdf


名張と朝鮮    〜渡来系古代豪族夏見氏〜


しんせんじょうじろく
新撰姓氏録

平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。

京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」「神別」「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、

氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものであるが、

主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。



後述するように、記載氏族が限られているとはいえ、日本古代氏族あるいは日本古代史全般の研究に欠かせない史料である。


現存する『新撰姓氏録』は、目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、

所々にその残滓が認められるとともに、若干の逸文が知られている。


なお、本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており、
また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。


なお、書名に「新撰」とつくのは、企画倒れで終わった『氏族志』のやりなおしという意味であって、
『新撰姓氏録』以前に『姓氏録』なる書が存在していたわけではない。  笑 あ、そう。


             ココね
              ↓ 

「諸蕃」の姓氏とは、
渡来人系の氏族で、秦、大蔵など326氏が挙げられている。


諸蕃氏族は、さらに5分類され、「漢」として163氏、「百済」として104氏、「高麗」(高句麗を指す)として41氏、「新羅」として9氏、「任那」として9氏がそれぞれ挙げられる。


        
      註:諸蕃氏とは「異国の人々の末」ということね


この一覧をどうやって読むのかさえ見当がつかない。

           ↓


後漢光武皇帝の後裔/靈帝の後裔/高貴王=始めて日本に渡来。

倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖〔大蔵・東漢直(東韓直とも)

ここから25氏が書かれているらしい:区切りも分からない。


・大蔵山木直(民忌寸・檜原宿禰・平田宿禰・平田忌寸・栗村忌寸・小谷忌寸・

伊勢国菴藝郡民忌寸・軽忌寸・夏身忌寸・韓□忌寸・新家忌寸・門忌寸・蓼原忌
寸・高田忌寸・
               ↑
            ココに伊賀国の豪族夏見氏の先祖が
            当時は伊勢国だったのね

以下略




*************************


名張の歴史:http://planet-tree.com/nabari2.htm

名張の歴史:夏見の人のサイトのようです



名張の政治的立ち位置

大化の詔によると、この名張を流れる川(横河)が畿内と畿外を分ける川であると定められています。 

『大化2年(646年) およそ畿内(うちつくに)は、東は名墾(なばり)横河まで、・・』

名張の地は、伊勢神宮あるいは斎宮との関連が深く、大来皇女の次に斎王となる当耆皇女(=託基 たきのひめみこ=父・天武 母・宍人臣カジ媛娘)も夏見郷に墾田を持っていたことが伝えられています。


また、奈良時代に入りますが、やはり斎王となる酒人内親王が名張郷に栗林持っていたとされています。

斎王になる皇女達の御料地としての存在も考えさせられます。


また、名張の夏見に含まれる地には、伊勢神宮領(多良牟六箇山=たらむむこやま)が広大な面積を持って存在していたことが知られています。 



美旗古墳群(みはたこふんぐん)

名張市内最古の遺物は一万年前の石器ですが、名張川の南岸、下川原遺
跡からは縄文時代後期の集落が発見され、たくさんの土器とともに、

      東国の住居スタイルの柄鏡形住居も見つかってます。     ← へえ〜


名張は古くから大和文化が流入し、各地に数多くの遺跡などが残ってます。 

名張川支流の小波田川上流右岸の標高200mの台地上に、伊賀地方で最大規模の古墳群が造営されました。

 
     ということは古代伊賀国では名張が中心だった?


夏見廃寺(なつみはいじ)

夏見廃寺は名張川右岸の夏見男山南斜面にある古代寺院跡で、出土遺物から 7世紀の末から8世紀の前半に建立されたと推定されてます。

醍醐寺本薬師寺縁起に「大来皇女、最初斎宮なり、 神亀2年(725)を以て浄(御)原天皇のおんために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。もと伊賀国名張郡に在り。」と記載された個所があり、

その昌福寺が夏見廃寺と考えられてます。

天智天皇の子大友皇子と天皇の弟大海人皇子(天武天皇)の間に 皇位継承をめぐって壬申の乱(672年6月)が起こり、

大海人皇子が吉野で秘かに挙兵し、美濃国不破関に向かう途中、夜半に名張に着きます。
駅家に立ち寄り「天皇、東国に入ります」と告げますが、これが、これまでの「大王」が「天皇」と呼ばれた最初であるという説があります。


戦いに勝った大海人皇子は、3か月後に飛鳥に帰りますが、その前夜名張に 一泊してます。
往復とも夏見のあたりを通り、名張川を渡ったと思われ、天武天皇にとって出陣と凱旋の地、名張を終生忘れられなかったと思われます。


夏見廃寺は、7世紀末から8世紀前半に建立され、10世紀末頃に焼失した寺院です。

発掘調査で金堂建物が奈良県桜井市の特別史跡山田寺跡と同じ身舎(もや)と廂(ひさし)がともに間口3間、奥行き2間という特異な建物であることや、金堂跡を中心に各種のせん仏が多量に出土したことで、大和の中央勢力との深い結びつきを物語る貴重な寺院跡であるとして、平成2年3月8日付で国の史跡に指定されました。


東大寺の荘園時代

墾田永年私財法の施行以降、東大寺の荘園として人口の増加が始まり集落として発達しはじめた。

その後自治勢力が武装し「黒田の悪党」と呼ばれ荘園支配から逃れようと地主に対抗したことで中世日本史に名を残す地域である。

荘園支配に抵抗してはいたが、実際に東大寺との関係は深く、年中行事であるお水取りでは当地で伐採された木材が使用されるなど名残を残す。


*************************


これ、面白かったですよ
http://www2.plala.or.jp/cygnus/e2.html

『日本書紀』は、   「古人大兄皇子」=「大海人皇子」   というからくりを隠していた。

     とかね。笑


8.尾張宿禰大隈2   とかね。


  最後に『日本書紀』が「大隅」について、一切語っていない理由を考え
 てみたい。

  とは言うものの、一切というのは少しばかり正しくない。

  実は、『持統紀』十年五月八日のこととして、次のように記されている。


  「直広肆の位を、尾張宿禰大隅に授けられ、合わせて水田四十町を賜っ
 た。」


  この一行が唐突に、しかも何の脈絡もなく記されている。これだけでは、
 水田四十町の理由がわからないが、すでに述べてあるとおり、『続日本紀』
 にはその理由が記されていた。
  「大海人」が東国に逃れたとき、「大隅」は私邸を行宮として「大海人」
 を出迎え、さらに軍資までも提供したということである。
  従って、水田四十町が『壬申の乱』の功績に対する恩賞であることは、
 誰の目にも明らかであろう。

  四十町と言っても、ピンとこないかもしれないが、
  600sはかなりの良田であろうから、一反400sとすれば、一町で
 4000s。四十町にもなれば、なんと160000sとなる。
  年間成人一人が接種する米の量は、約64sだというから、実に二千五
 百人の兵力が養えることになる。

  こんな計算は無意味だが、個人の土地所有を認めない律令制度下では、
 おおよそ考えられない恩賞であり、「大隅」は特別待遇を許されるほどの
 功績があったわけだ。



持統は文武天皇に譲位後、自らは太上天皇に就いたが、『続日本紀』大
 宝二年(702)十月十日の


  「太上天皇が参河国に行幸された。」


  から始まり、約一月半かけて「尾張」・「美濃」・「伊勢」・「伊賀」・
 「参河」を行幸している。
  その後の十二月二十二日亡くなっているが、この行幸が原因となって病
 気になり亡くなった、と考えられるが、死期を悟って行幸にうってでたと
 も、考えられる。このとき五十八歳であった。

  年齢から考えても、かなり無茶な行幸であったと思われる。

  天皇・太上天皇時代を通じて、一度も行われていない「参河」行幸を決
 行した理由は、普通に考えては見えてこない。
  しかし単なる旅行であったはずがなく、命の尽きるのを一月後に控えた、
 まさに命を懸けた行幸であったとすれば、そこは理由を考えなければなら
 ない。

  第一に、訪問先はすべて『壬申の乱』の戦勝国であったということであ
 る。「参河」は『壬申紀』に記されていないが、「尾張」の勢力が「参河」
 をも、含んでいたと考えることに無理はない。
  そうするとこの行幸は、『壬申の乱』の功績を讃えるためであったこと
 になろうか。一説には、『壬申の乱』の「大海人」に加勢した地方を訪ね、
 天皇の権威を示すためだ、との見解があるが、同じような持統六年の「伊
 勢」行幸は、中納言直大貮「三輪朝臣高市麻呂」(みわあそんたけちまろ)
 の再三の


  「農繁の時の行幸は、なさる物ではなりませぬ。」


このときの「参河」行幸は太上天皇自ら、おみやげを持参してのことで
 ある。湯治のためでもなく、薬の調達だったわけでもない。これでは、ど
 ちらが格上なのかわからない。通説で言われている東国との関係は、大和
 朝廷に対して東国は属国である。
  しかしこれでは、朝廷が頭を下げて訪問したことになり、実際の関係は、
 対等かそれ以下であったことになる。

  そう考えないと、「参河」行幸の真の理由は見えてこない。

  『続日本紀』の大宝二年十二月十三日に


  「持統太上天皇の病が重くなられたので、平癒を祈願して全国に大赦を
 した。」


  とあるが、この一文から推察すると、持統は「参河」行幸の以前より、
 病気だったに違いない。
  おそらくこの行幸は、自ら命がそう長くないことを、予知していたので
 はないだろうか。

中略

  『壬申紀』巻末近くに、


  「これより先、尾張国司少子部連鋤鉤は、山に隠れて自殺した。」


  とある。これより先とは、いつのことだかわからないが、彼こそ天智が
 めざした新体制と、豪族支配の旧体制の狭間の犠牲者である。
  「尾張」という外国にいながら朝廷に雇われた「鋤鉤」は、その命によ
 り徴兵したが、大王「大隅」には逆らえなかった。それは朝廷への裏切り
 行為であった。裏切っても「大海人」に付いたのだから、と思われるだろ
 うが、トップが変わっても大和朝廷は大和朝廷のままであるから、役人も
 役人のままである。

  いずれ、臆病な天武から猜疑の目が向けられることであろう。

  律儀な「鋤鉤」は、そうなる前に名誉ある死を選んだのだろう。



**********************

いがのくに【伊賀国】

旧国名。伊州。現在の三重県西部にあたる。

【古代】
東海道の西端に位置する下国(《延喜式》)。

当初は伊勢国に属し,680年(天武9)に4郡を割いて分国したと伝える。

《和名抄》によれば,阿拝(あえ),山田,伊賀,名張の4郡18郷からなり,田数は4051町1段41歩。国府は上野市印代の東部に比定され,国分寺址はその約3km南の同市西明寺に残る。


一宮は上野市敢国(あえくに)神社。

律令制以前より大和南部の磯城,泊瀬から名張を経て伊勢に出る交通路が開かれていたが,平城遷都後は奈良から山城国相楽郡を経て伊賀の新居,柘植(つげ)を通り伊勢に向かう通路が重視された。


お〜なるほどね、それで夏見氏は伊勢に入ってるのね。


そして伊賀は大友皇子の母の出身地。


ま、こんなところでしょうか?
[45]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月18日 13時49分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 いつもながらサプライズです(表現できるボキャブラリーが少なくなって

来ました)。


 名張の話、持統天皇の話、どれも今ままでになかった情報でさすがあを様

と驚いています。


 名張については、わたくしは2〜3回車で通過しただけ、伊賀には2回行

っただけで、土地勘的な把握ができておりません。


 「名張(なばり)」と「勿来(なこそ)」は国の境界的な意味で相通じるとこ

ろがあるのではと予感がしております。いわゆる東国的な境。


 それにしても「なばり」という言語になんともいえぬ霊的な感覚を覚え

るのですが・・・結界のような。


 本日中に、名張、尾張、海部についての解釈をまとめます。


 名張、尾張、海部・・・やはり深いものがありそうです。


                         丸に三つ柏の服部


 

 
 

 
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月18日 14時25分34秒 ) パスワード

はい
名張は「隠」という字を当てて結界のような感じですね。


上記の茂さんのレスを読んでいた時、
確か、<44>のレスの中のURLにも  名張=隠 とか出てました。


昔っから伊賀国は「隠し国」という表現があったと思います。


   でも、茂さんのようにヒトコトで  「結界」 という言葉は思い浮かびませんでした。恥



http://genki3.net/?p=20770
名張市『江戸川乱歩でめぐる、旧「隠(なばり)町」』




http://genki3.net/?p=26102

名張市を紹介するキャッチフレーズの中に『万葉の昔から』という部分があります。

これは万葉集の中で、
『我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の隠(なばり)の山を今日か越ゆらむ』
と謳われているからなんです。

それほど昔からあった地域なんですね。


この歌で。名張の枕詞として『沖つ藻』という言葉が使われていることから、
名張では『沖つ藻』という言葉自体が一つのブランドになり、
現在では商品名などにも使われています。


また、名張の表記が万葉集では『隠』の一文字で『なばり』と読ませていますね。

     『隠』=『忍者』で忍びに結びつきます。


もともと『伊賀忍者』は伊賀だけでなく名張も地域に入っていますので、
赤目滝などの山岳仏教や修験道とともに発展していったんでしょう。




また、名張市は江戸川乱歩が生まれたところでもあるんですね。
名張駅の東口には、江戸川乱歩の全身像があります。
『ひやわい』と呼ばれる細い路地に入ると乱歩の生誕地。



名張は茂さんお書きのように

   >>「名張(なばり)」と「勿来(なこそ)」は国の境界的な意味で相通じるところがあるのでは
   >>と予感がしております。
   >>いわゆる東国的な境。


名張から東が東国。
そんな感じですね。


ではごゆっくりアップなさってくださいね。



ひとりごと
   そうか・・・名張は隠なのか。
   古代豪族の秘密基地だったのか?
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月18日 14時46分15秒 ) パスワード

おきつも‐の 【沖つ藻の】

1.


[枕]沖の藻が波になびくところから「靡(なび)く」にかかる。「―なびきし妹(いも)は」〈万・二〇七〉



2.

おきつもの【沖つ藻の】



( 枕詞 )



@

沖つ藻が波に靡(なび)くさまから,「靡く」にかかる。 「 −靡きし妹は/万葉集 207」


A

沖つ藻が隠れて見えないことから,「隠(なば)り」と同音の地名「名張」にかかる。 「 −名張の山を今日か越ゆらむ/万葉集 43」 〔「おくつもの」とする説もある〕



3.

おき−つ−も 【沖つ藻】


名詞
海底に生えている海藻。


え?
   本来は海底に生えてる海草のこと?
   なんで山の中の名張の枕詞に?


4.

おき‐つ【沖つ】とは?


     [連語]《「つ」は「の」の意の格助詞》沖の。沖にある。



おきつうみ【沖つ海】

海の沖のほう。沖合の海。
「―みなそこ深く思ひつつ裳引き馴らしし菅原の里」〈夫木・三一〉


おきつかい【沖つ櫂】

沖をこぐ船の櫂。
「―いたくな撥(は)ねそ」〈万・一五三〉


おきつかぜ【沖つ風】

沖を吹く風。また、沖から吹いてくる風。
「若の浦に白波立ちて―寒き夕(ゆふへ)は大和し思ほゆ」〈万・一二一九〉


おきつくに【沖つ国】

沖のかなたの遠い国。黄泉(よみ)の国をさすかともいう。        ← ココ ちょっと面白い
「―領(うしは)く君が塗り屋形丹塗りの屋形神が門渡る」〈万・三八八八〉


おきつしまもり【沖つ島守】

沖にある島の番人。
「わが髪の雪と磯辺の白波といづれまされり―」〈土佐〉


おきつしまやま【沖つ島山】

滋賀県の琵琶湖にある沖島(おきのしま)の古称。[歌枕]
「近江(あふみ)の海―奥まけてわが思ふ妹が言の繁けく」〈万・二四三九〉


おきつしらなみ【沖つ白波】

沖に立つ白波。
「なごのうみの霞の間よりながむれば入る日をあらふ―」〈新古今・春上〉

[補説]沖の白波が「立つ」ところから「立田山」の、また、白波の「しら」と同音であるところから「知らず」の序詞ともなる。
「海(わだ)の底―竜田山」〈万・八三〉

「近江の海―知らねども」〈万・二四三五〉


おきつたまも【沖つ玉藻】

沖の美しい藻。「靡(なび)く」の序詞として多く用いられる。
「わたつみの―のなびき寝む」〈万・三〇七九〉


おきつとり【沖つ鳥】

[枕]

1 沖にいる水鳥の意から「鴨(かも)」にかかる。
「―鴨といふ舟の帰り来ば」〈万・三八六六〉

2 沖にいる水鳥「䳑鴨(あじがも)」と同音であるところから、地名の「味経(あぢふ)」にかかる。
「―味経の原に」〈万・九二八〉

3 沖つ鳥の首を曲げて胸を見るようすから「胸(むな)見る」にかかる。
「黒き御衣(みけし)をま具(つぶさ)に取り装ひ―胸見る時」〈記・上・歌謡〉


おきつなみ【沖つ波】

[名]沖に立つ波。
「―来寄する荒磯(ありそ)をしきたへの枕とまきて寝(な)せる君かも」〈万・二二二〉

[枕]波の動く状態から「競(きほ)ふ」「頻(し)く」「高し」「立つ」「撓(とを)む」などにかかる。
「―撓む眉引(まよび)き」〈万・四二二〇〉

「―たかしの浜の」〈古今・雑上〉


おきつみかみ【沖つ御神】

沖を支配する神。また、沖または沖の島を神格視していった語。
「珠洲(すず)の海人(あま)の―にい渡りて」〈万・四一〇一〉


おきつもの【沖つ藻の】

[枕]沖の藻が波になびくところから「靡(なび)く」にかかる。
「―なびきし妹(いも)は」〈万・二〇七〉





なんだか  海部人  関係の言葉でしょうか?
半島と日本の関係を示しているのかな?と連想が行きました。



5.

http://genki3.net/?p=26102

名張は現在、大阪や奈良のベッドタウンとして83000人の方が住んでいます。
うち、53000人がほかに地域からの転住者ということが、それを如実に表していますね。


またここは東を西を分ける結界ともなっているんですよ。       ← ココ


それを表すものとして、名張に蛭子神社では2月の7,8日に『八日戎』という市が立つのですが、そこでの名物が『ハマグリ』なんです。


山の中なのに不思議でしょう?


もともと蛭子神社には倭姫の伝承がありまして、倭姫が天照を従えて伊勢の地に赴くまでに諸国を回ったのですが、その時に名張の市来宮に滞在したんですね。

この宮は『市(いち)』を守る神社だったので、その話のできた鎌倉時代には、すでに市があったことがわかります。


初瀬街道自体が参宮街道であり、名張が東の国と西の国の境という結界的な意味を持っていたため、山の幸と海の幸の交換場所になったのではと考えられています。


名張からは『植木』を出したようですが『植木市』が廃れてしまい、今はハマグリしか残っていません。



何か分かったような分からないような。

名張の結界って  お伊勢さんのために張った結界  ということなのか?

出雲国の神代の時代の大国主命の国引きなんかも言葉の裏に隠されているのかなとか

大和朝廷の結界なのか?

やっぱりワケが分からなくなりました・・・
[48]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月18日 16時08分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 またまたマーベラス(今後はどう表現すればいいか)!

 江戸川乱歩が出てくるとは、さらに「けはい」がしてきましたね。

 そうすると明智(土岐氏・・・ずっと古代では何か縁があるかも)ですか。

 深い深い底流でつながっている。古代より徳川まで(とりあえずは)。

 おもしろくなって来そうです。

                         丸に三つ柏の服部
[49]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月18日 16時39分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ちょっとレスがすれ違いました。

 万葉集についてのご指摘・・・これは柿本人麻呂の謎につながります。

 これもテーマとして考えたいと思っています。

                           丸に三つ柏の服部
[50]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月18日 22時09分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 まずは海部郡について、『尾参遠郷土史論』によると、


 「尾張に海部(あまべ)郡と云うのがありますが、それは海部という部族が

 居た土地です。此の郡、前には海部東郡・海部西郡となって居たのである

 が、余り長いから略して海東郡・海西郡となった。海東郡と申すと海の東

 の郡となって、一向海部の事が分かりませぬ。殊に美濃では、海西郡と石

 津郡とが合併して、海津郡となったが為に、海部の意味は全く失われまし

 たが、尾張では当局者が気が利いて居られた為に、もとの海部郡に復せら

 れました。此の海部郡といふのは、海部といふ一種の部族が居った所であ

 ります。」


  また、海部郡に関して、小林久三氏は『聖徳太子はどこから来たか』の

 中で、鉄と関係があったことを次のように指摘している。

 「鉄の歴史の研究家の窪田蔵郎氏は、『鉄の民族史』の中で―イブキは息

 吹きであろうが、多多羅のような物をさした名詞ではなく、燃焼を助ける

 ための作業を表現する言葉である―と言っている。」

  また、

 「―用字をみるとこの伊吹が多く、『和名抄』に出てくる大和や安芸国の

 伊福がこれに次ぎ、伊富岐、伊夫岐などと表現されている場合もある。

 美濃国辺にも多く、ついで近江に集中しているが、愛知県海部郡七宝町の

 伊福もあり、遠く長崎五島列島中央部多々良島より西方六キロの樺島にも

 福江市に属する伊富貴がある―」


ということで、海部郡に海部氏(尾張氏)の集団が住み、海運とまた産鉄にも

関与していた・・・たぶん産鉄族の息長氏と関係があったいうことが推測さ

れる。

 また、大きな古墳も近くにあり、星辰信仰の神社も多く、尾張氏(物部氏)

の豪族達がいたものと思われる。


 海部氏についてはここで切ります。


                          丸に三つ柏の服部
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月19日 04時35分53秒 ) パスワード

鉄生産と三重県の関係でたくさん面白い記事をみつけました:イブキと息長もレスにありましたから

1.
筆ケ崎西遺跡:鉄滓が多数出土 鍛冶職人が多数居住か 18日、現地説明会−−四日市・小牧町 /三重

毎日新聞 2014年01月16日 地方版


県埋蔵文化財センターは15日、四日市市小牧町の筆ケ崎西遺跡から、鉄を加工する際に出る残りかす「鉄滓(てっさい)」が多数出土したと発表した。

既に「鍛冶炉」が確認されており、集落に鉄素材を製品加工する鍛冶職人や関係者が多数住んでいた可能性が高まった。18日午後1時から現地説明会を開く。


見つかった鉄滓は約10センチから親指大までの大小32個で、飛鳥〜奈良時代のものとみられている。

集落跡のごみ捨て場から、鍛冶で使うふいごの先端「羽口」や、欠けた土器などと共に出土した。

発見された鉄滓は今回分を含め約60点になった。


2011年度調査では、鉄素材に熱を加え農具や工具にする鍛冶炉(長さ40〜50センチ、幅25〜30センチ)が竪穴住居の床面から出土。

現場からそのまま切り出されており、今回の現地説明会で初めて披露される。



隣りの筆ケ崎古墳群と合わせ、新名神高速道路などの建設に伴って11年度に始まった発掘調査は今年度末で終了予定。



2.
四日市市小牧町の筆ヶ崎古墳群(ふでがさきこふんぐん)

標高55〜60mほどの緩やかな南向きの斜面に約10基の古墳(直径10m前後の円墳)が見つかっているが、未調査のままとなっていた。

9月から2基の発掘調査を行い、古墳時代の終わり頃から飛鳥時代に造られた横穴式石室の古墳だったことが判明した。

人頭大の川原石を積んで造っているのが特徴。

木曽川流域の古墳などと共通し、石室を造る技術の広がりが分かるとしている。


銅に金箔を施した「金環(きんかん)」と呼ばれる珍しい耳飾りが石室内から出土した。

谷を挟んだ南側丘陵上には、現在発掘を進めている中野山遺跡や北山A遺跡があり、筆ヶ崎古墳群と同じ時期の集落が見つかっているため、筆ヶ崎古墳群には周辺の集落の有力者が埋葬されていると考えられる。

[参考:読売新聞、2011,11,26伊勢新聞、三重県HP]



*****************************

>鉄の歴史の研究家の窪田蔵郎氏は、『鉄の民族史』の中で
>―イブキは息吹きであろうが、多多羅のような物をさした名詞ではなく、
>燃焼を助けるための作業を表現する言葉である―と言っている


「いぶき」とは「ふいご」かな?と思い検索してきました。でも間違っているかも。

こんな記事がありました:


天秤ふいごとは:


機能・用途 炉へ風を送る道具
年代 江戸時代後期まで


解説
中国山地で「たたら吹き製鉄」が盛んだった江戸時代後期に使用された、製鉄炉内に風を送る「天秤ふいご」と呼ばれる道具。
たたら吹き製鉄は、三昼夜、または四昼夜不眠不休で操業する大変きつい仕事でした。
「番子(ばんこ)」とよばれる職人が天秤ふいごに上がり、一人ないしは二人で交替しながらふいごを踏みました。

交替することを「代わりばんこ」といいますが、その語源は天秤ふいごの番子さんから来ていると言われています。


たたら製鉄は砂鉄と木炭を原料とする日本で発明された製鉄法です。


日本で製鉄が始まった時代は、発掘調査などにより古墳時代後期(約1400〜1500年前)までさかのぼることができます。

この長い製鉄の歴史の中で改良を重ね、17世紀後半に「天秤ふいご」が発明され、鉄の生産量は飛躍的に増えましたが、明治以降西洋の製鉄方法が導入され、たたら吹き製鉄も衰退していきました。



************************


伊吹とは:
伊吹山。
そもそも伊吹とは霊気を息吹く山を意味しているとのこと。



伊吹の「伊」とは霊威のある状態、のことだそうです。
すっごい風が冬に吹くので、昔の人は神の力を感じたんでしょうね。




伊吹山と日本武尊:

やまとたけるのみこと『日本書紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命と記されている。

第12代 景行天皇(けいこうてんのう)の子として誕生。

伊吹山に住む荒ぶる神の征伐に向かう時、妃の宮簀姫(みやすひめ)に草薙剣(くさなぎのつるぎ)『正式には天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と言う』を預けて出かけたのが大誤算、神の化身である牛のような白い大猪『古事記では白猪だが日本書紀は大蛇となっている』と戦い大怪我をして退散、醒ヶ井に流れる地蔵川の湧き水「居醒の清水」で傷を癒すがその時の怪我が元で能褒野のぼの(三重県亀山市能褒野)で亡くなる。

日本武尊の伊吹山での戦いには色々な説がありますが、
それだけ神の霊気が強く息吹く山であり、               ← ココ
古代から荒神が住む山としての伝説があります。


    日本武尊が「大氷雨」(霰や雹)に打たれて気を失ったという話には
    ***つまり地方勢力=伊吹おろし=に天皇の皇子=日本武尊=が負けたという意味もあるようです。

    ***また、大和政権に対して地方豪族が一矢を報いた、という意味もあるようです。


山頂に祀られている日本武尊の石像は明治45年6月に建てられ、亡くなった伊勢の方角を向いております。


また伊吹山の西側山麓には息長広媛陵があり、このあたりには古墳も多く、古代豪族「息長氏」の伝説が残る。

「伊吹山」の「息」と古代豪族「息長氏」の「息」が共通する。

息長広媛は敏達天皇の皇后であり舒明天皇の祖母であり天智天皇には曾祖母になる。

息長氏は米原一帯を拠点とする豪族であり、6世紀には継体天皇との関わりが深かった。


ということで日本武尊の話は息長氏の勢力のほどをさらっと書いているのではないか?



伊吹山
(いぶきやま) 1377m   滋賀県   
本州の最も狭まった所に位置し、冬の季節風の影響を受けやすく、時としてドカ雪に見舞われる。

その吹きおろす風が息吹く山から伊吹山となったのではないかと言われている。


古くから霊峰とされ、日本書紀においてはヤマトタケルが東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されている。

日本書紀では「五十葺山」あるいは「膽吹山」などのように記され、
古事記では「伊服阜能山」と記述される。


藤原実方が「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」と和歌に詠み、
後拾遺和歌集および小倉百人一首に収録された。

この和歌を元に「伊吹山」は古来より歌枕として用いられ、
「伊吹百草(もぐさ)」が育つ薬草の山として知られていた。


濃尾平野では、冬季に北西の方角から吹く季節風を「伊吹おろし」と呼ぶ。



672年壬申の乱
大海人皇子は10km東の野上行宮に滞在して美濃などの東国の兵をまとめ
東8kmにある金生山の製鉄を管理下に置き
西を向いては「息長横河の戦い」など都へ侵攻する軍に指示を送った


673年 - 天武天皇により麓に三関のひとつである不破関が置かれる。


平安時代 - 日本七高山(近畿地方の7つの霊山)の一つに数えられる。


712年(和銅5年) - 古事記の景行記に、伊吹山にまつわる日本武尊の伝説が記される。


1558年(永禄元年)- この年から1570年(永禄13年)の間に、織田信長が南蛮人から入手した薬草を栽培する菜園を伊吹山に作らせる。その菜園には、ポルトガル人が自国で用いていた約3000千種のハーブが移植されたといわれている。

   ***これは実際には「薬草」ではなく、信長は「蓬から火薬」を作っていた
      という意味ではないかという説もあり
      実際に加賀藩が大量生産をして儲けているそうです。
      
      ハーブでないだろうというのは、信長公記にも書かれていないし
      該当する南蛮人宣教師の日記にも記録が無いからだそうです


**********************


http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101354_50.html
ふいご(吹子、鞴)


砂鉄や鉄鉱石を木炭によって還元し、鉄を取るには温度を高くしなければなりません。1000℃以下でも還元できますが、非常に時間がかかり、しかもできた鉄は海綿鉄(スポンジ)状で、もう一度半熔融状態に加熱しなければ鍛造が困難です。能率的に鉄を取るには還元性雰囲気の中で砂鉄の熔融温度(約1400℃)以上に長時間保つことが必要です。それには人工的に風を送る吹子が不可欠なのです。

我が国で記録に初めて現れる吹子は、「日本書紀」にある天羽鞴(あまのはぶき)という皮袋の吹子(皮吹子)です。これは真名鹿の皮を全剥(うつはぎ)にして作ったとされています。この皮吹子は、もともと中国から朝鮮半島を経由して日本に伝えられたと考えられています。中国では漢代の出土品に上から吊った皮吹子のレリーフが描かれており、後漢書には水排、すなわち水車に連動する吹子で鉄を得て、農具を作ったことが書かれています。
朝鮮ではBC1〜2世紀と考えられる京畿道の冶鉄住居址から、鼓風管、つまり羽口が発見されています。製鉄のごく初期の段階では、小さな炉を山の谷あいなど風通しの良いところに作り、自然通風により鉄を作ったと考えられていますが、我が国では自然風の利用が想定される大形羽口は例外的で、ほとんど吹子が用いられたようです。おそらく天羽鞴のような皮吹子だったと思われます。

930年代の『倭名類聚抄』では鞴の訓を『ふきかわ』としており、これが後に変化して「ふいご」となったとされています。我が国では冶金技術の伝来と同時に吹子も伝わって来たのではないでしょうか。また、『倭名類聚抄』では皮吹子と区別して踏鞴を挙げ『たたら』のこととしています。鉄のような融点の高い金属を作るには皮吹子では力が弱く、十分ではないので製鉄用として踏吹子が発達したと思われます。

村上英之助氏によれば、世界の吹子の歴史をみると、古代オリエント、インドを連ねる南方文化圏の皿吹子と北方種族を中心とする古代北方文化圏の皮吹子の二つの流れがあり、中国中原地域は後者に属する。これに中国南部からインドシナ半島にかけての越文化圏では皮吹子に竹文化を取り入れたポンプ吹子が発達し、これが吹差吹子へ発達したのではないかと想定しています。ともかく我が国では古代において皮吹子から踏吹子へと製鉄用の吹子が変化しますが、中世になると吹差(ふきさし)吹子(箱吹子)による製鉄が主流を占めるようになりました。しかし、鉄山によっては近世に至るまで踏吹子を用いた所もあり、製鉄用としては、17世紀末に天秤吹子が発明されるまで踏吹子と吹差吹子が併存していました。

図は18世紀中頃に書かれた『日本山海名物図絵』のたたらの図で、6人の番子が踏吹子を踏んでいます。構造は側面と底を粘土で固めた皿状の本体を中央で二つに仕切り、各室に吸、排気用の弁をつけ、これにぴったり入る大きさの嶋板を乗せ、この嶋板を踏んで風を送る仕組みになっています。室町時代に大鋸や台鉋が登場して、大きく長い板が作られるようになると、本体側面が板張りになり、風力も増して、広く普及したと思われます。

吹差吹子は鍛冶道具として知られる代表的な吹子です。図に示すように気密性の高い箱構造で、特に箱底部に特殊な工夫を加えて、風の分配を均等にするほか、柄を押しても引いても常に風が送り続けられるようになっています。吹差吹子の始まりは明確ではありませんが、鎌倉初〜中期ごろで、普及するのは板が安価に作られるようになる15世紀以降と言われています。

吹差吹子は大形のものでも運搬しやすく、また2〜4台と連結して送風能力を増すことができました。天秤吹子の出現により銑生産が急激に伸び、銑を加工する大鍛冶、小鍛冶作業が多忙になると、鍛冶用の吹差吹子の需要が急速に高まり、大坂天満のような特定の生産地が成立することになります。また、幕府の鉄座が1700〜1787年まで設けられ、鉄の問屋、仲買が大坂に集中したことも大坂の吹子を全国の鉄山や鍛冶屋に結び付けることになりました。吹子を使用するのは鉄山師、鋳物師、鍛冶屋、金銀銅山の床屋、飾り職、鋳掛け屋などありますが、彼らは年一度、旧暦11月8日に鞴祭りを行い、それが現代まで引き継がれています。

天秤吹子は吹子を踏む番子を大幅に省力し、たたらの生産力を飛躍的に高めたもので、中国地方で特徴的な発達を示しました。伯耆(鳥取県西部)では天和、貞享(1680年代)のころ踏吹子から天秤吹子へ、出雲、安芸(広島県)では元禄年間(1690年代)、石見(島根県西部)では享保年間(1710〜1730年代)にそれぞれ吹差吹子から天秤吹子へ移行し、それに伴って高殿たたら(永代たたら)体制が確立します。天秤吹きたたらの成立により鉄の生産能率は吹差吹子(2個付き)付きたたらの2倍、踏吹子たたらの約4倍に増大し、温度も上昇してズク押し、ケラ押しと言った近世たたら製鉄法が確立することになるのです。
天秤吹子の構造は、図のように踏吹子の嶋板を中央から切断して二つの部分に分け、その支点である軸を板の前後の両端に移し、左右二枚の嶋板の運動を司るための桿杆をつくり、天秤構造としたもので、一方の嶋板を踏めば他方の嶋板が上がるようになっています。天秤吹子には一人踏みと二人踏みがありますが、明治期にはほとんど一人踏みになっていたようです。なお、奥羽地方では踏吹子や天秤吹子はあまり使われず、大型の吹差吹子である大伝馬が主として使われていました。

吹子を動かす番子の労働の苛酷さは、次第に番子不足を招くようになり、動力として水車動力が使われるようになりました。中国地方で水車吹子が使われるようになったのは明治になってからです。日本で初めて水車吹子を用いたのは安政4年(1857年)、大島高任が築造した釜石の洋式大橋高炉です。中国では既に漢代に水車吹子が使われていたのに日本での使用が約1900年も遅れたのは何故でしょうか。
[52]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月19日 07時02分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 またまた値千金の情報ありがとうございます。まずは、じっくり読ませて

いただきます。

                          丸に三つ柏の服部
[53]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月19日 16時44分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 「尾張」の由来・語源についての諸説について


 もともと漢字が正式に使用されるようになったのは、大化の改新後から

であり、それまでは文字としては統一されていなかった。但し口語として

の音はあった。


 「おわり」が漢字で表記された、たぶん最初の文字の組合せは、日本書紀

の歌謡の中に見出せる。


 @[歌謡27]『烏波利珥〜』(尾張に〜)・・・ヘブライ語訳:「すなわち」
 
  [歌謡29]『袁波理邇〜』(尾張に〜)・・・  〃   :「 〃  」

 このヘブライ語訳については意訳のようではっきりとはわからない。

                    ─『古代日本と七大天使』参考

 『和名抄』では「乎波里」と訓じる。


 要するに当て字も一貫していない。


 もっともらしいのは、

 A「風土記に云はく、日本武尊、東夷を征ちて當国に還り至り、帯ばせる劍

を以て熱田の宮に蔵(おさ)めたまひき。其の劍は、原(もと)八岐(やまた)の

巨蛇(おろち)の尾より出でたり。依りて尾張の國と号す。

                   ─『和漢三才圖會會七十一』参考 

 その他に、

B─大蛇の尾から出た「尾羽張剣(草薙剣)」が奉納された地─


 C─「草薙の剣」が尾を割って出たことから尾張の地名になった─


 D─大和の葛城山は尾根が発達した山で、「尾張」と呼ばれており、葛城

 高尾張邑を本貫としていた尾張連が移住したことによる─

  
 そう言えば東三河に「弓張山系」というのもある。


 E─「尾張」は「小治・小墾」で「ヲ(接頭語)ハリ(開墾地)」の意とする─


 また、当時の日本語は主としてヘブライ語とポリネシア語(マオリ語)、そ

してアイヌ語も混じってつかわれていた。ポリネシア語については環太平洋

言語として、ヘブライ語より先に入っていたかも知れない。そのマオリ語で

解釈するとということで、WEBの iris.dti.ne.jp/~muken/timei17.htmでは、

 F「オ・ワ・リ」、O-HA-RI(o=the place of,ha=breathe,ri=bind)

 すなわち、呼吸をする(潮の干満に応じて川や湿地帯の水位が上下する。
 (交通を)阻害する土地(国。地域)

「オワ・リ」、OWHA-RI(owha=oha-great・bundant,ri=screen,protect,bind)

 すなわち、広い・(交通を)阻害する土地(湿地帯がある。国。地域)

と解せるとの解説があった。


 G大和から見ると東国の「終わり」の国(とってつけた解釈のよう)

 
 いずれにしても、諸説ある中でどれが本当かは確証のあるものがない。

 さらに、深く探る必要がありますね。


 本日はこれにて。次回は「名張」についてアップします。


                          丸に三つ柏の服部
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月20日 07時23分56秒 ) パスワード

「尾張」というのは難解のようですね。
でも、面白い点がいくつかありました。


マオリ語には  R音があってL音は無いです。
ハワイ語には  R音は無いです。その代わり L音 です。


中国語と韓国語は L音 で  日本語が R音 というのが
ハワイ語とマオリ語の違いでとても説得力がありました。



註:日本語の「いろいろ」という音は
  前の「ろ」  と  後ろの「ろ」では  「舌の場所が違う」
  つまりLとRの違いが有る、と読んだことがあります。



***************



尾張国の「尾張」の語源はいろいろあるんですねえ。
確定、というのが、やはり無いようですね。


名字としての尾張姓:
現愛知県である尾張国造、尾張宿禰、
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、
宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫。平城天皇の子孫ともいわれる)など様々な流派がある。

尾張姓にこんなにいろいろあるとは思ってもいなかったです。
ということは「うちは最近の尾張ですよ」には  半島の「張さん一族出身」とは限らないということになりますね。



尾張の語源は、「お」は接頭語か、小さい開発地の意味で、「はり」は開拓のこと。

地名としては、茨城、長野、愛知、鳥取、岡山、徳島などにみられる。

へえ〜



***************************

古代尾張氏について

前にコピペしたのを再び書いておきます:http://www2.plala.or.jp/cygnus/k5.html


   真説日本古代史 本編 第五部


   崇神系王朝と応神系王朝


    1.開拓者としての尾張氏


さて、ここからしばらく続くストーリーは、『日本書紀』には全然書かれていない。本誌の主題でもある、「尾張氏」のその後の動向である。


大和を去り、一旦は丹波地方に落ち着き、丹後王朝(と思われる)の先駆けとなった「尾張氏」も、同族のヒコイマスオウが、原大和朝廷と同盟を結んだことにより、丹波地方を後にした。

おそらく、二手に分かれ、一方は新潟へ、もう一方は「近江・美濃」を経て「尾張」へと向かったのだと想像する。

尾張地方へ向かった「尾張氏」は、それこそ「尾張」の本宗家であるが、新潟へ向かった別動隊は、弥彦山を聖地と仰ぎ、この地方の開拓の先駆者となったらしい。これは、新潟県西蒲原群弥彦村にある「越後」の一宮・彌彦神社の伝承から推測するものであるが、海路よりやってきたアメノカグヤマは、この地に上陸し、携えていた杖を地中に挿すと、芽を出し根を張って大木になったというから、日本海の巨木文化との強い関係をうかがわせる。

そういえば、長野の諏訪大社の御柱祭も巨木である。祭神は、タケミナカタであるが、出雲神であるイセツヒコと同一神であろうことは、前述している。この地方の安曇族も海人であったことは、よく知られているが、水上交通の巧みな海人たちは、巨木の扱いは手慣れたものであったのだろう。現在でも、貯木場は運河である。

また同族には海人族の勇の証である「大海」あるいは「凡海」(ともにおおあまと読む)の名乗りや「五百木」・「伊福」(ともにいほきと読む)の名乗りがある。

また、「尾張氏」を始めとする海人族らが住み着いた地域が、海部であり、「海部氏」の名乗りになったことは容易に判る。住吉大社の宮司家であった「津守氏」も、「尾張氏」とは同族であるが、まさに港の灯台守の名乗りである。 

尾張地方をなぜ「尾張」というのだろうか。『熱田国風土記逸文』には、ヤマタノオロチの尾を割って見つけた剣が『草薙剣』であったから、尾張の語源となったように記しているが、これは、まあこじつけであろう。

想像するにこの地方は、大和朝廷の支配の及ばない東国地域、まさに終わりの地域であったのだと思う。大和からみれば、尾張地方は、鈴鹿山脈という自然の要害を越えなければ、たどり着けない終わりの地域であったのだと思う。

ただ、この私見では、「葛城」の高尾張邑についての説明ができない。

「尾張」の名乗りに関しては、前述の歴史言語学者・加治木義博氏が、まことに興味深い説を展開している。

「『尾張=オワリ』は、倭国人も日本国人も双方とも元沖縄・鹿児島からの移住者だったことを考えると、その発音は『オワリ』ではなく、『ウワイ』で『倭』と同じである。このウワイは、・・・『憂婆畏』という女性仏教徒国およびその支配者をさす代名詞なのだから、尾張が倭国女王のいたところということになる。」
 
     『謎の天存降臨と大和朝廷の秘密』(KKロングセラーズ)

これだけの文だけでは理解しにくいだろうが、加治木氏のいう「尾張」は、尾張地方のことでは無く、十世紀に「源順」(みなもとのしたがう)の書いた『倭名類聚鈔』に記載されている、「安宿郡」(あすかべ郡、大阪市羽曳野市飛鳥)を構成する三つの村、「賀美」(かみ)・「尾張」・「資母」(しも)の「尾張」ことである。

また、倭国人と日本国人についてであるが、『旧唐書日本国伝』にある一文で
 「あるいは云う。日本は旧小国。倭国の地を併せたり、と。」とあるが、日本が倭の地を統一する以前は、「日本国」と「倭国」とが、並立していたという。この説は、おおむね賛成であるが、「倭国」とは、私見では「奴国」の将来である。

「憂婆畏」は「うばい」・「うぱい」と発音するらしく、「賀美」=上「資母」=下であるらしい。「尾張」は「憂婆畏」の訛った発音の当て字であることになる。

さて、その「憂婆畏」が、女性仏教国とその支配者をさす意味であるならば、「邪馬台国」は女王・ヒミコの統治する仏教国であったことになり、事実、加治木氏は、そう述べられている。

そこで、加治木氏の説に私見を交えて修正させていただくと、次のようになる。

「女王・ヒミコの鬼道とは原始仏教であり、アメノカヤマはヒミコの側近(『魏志倭人伝』のいう男弟)であったことから、女王国の支配者層である。そこで、アメノカヤマ一族は、「憂婆畏」すなわち「尾張」を名乗り、定住先を「尾張国」とした。」

これでいくと、「尾張氏」は初めから「尾張」を名乗っていたことになり、葛城の高尾張邑の語源も説明ができるが、別姓同族の説明ができなくなってしまう。

これらのことを総合して考えると、これまで「尾張氏」という単一氏族で考えてきたが、実は、血縁で結ばれた氏族ではなく、「尾張氏」や「津守氏」・「五百木氏」などといった、ホアカリを神祖とする複数の海人族の氏族集団であったことになる。また、ここでいうホアカリも、神ホアカリであったり、人間ミケヒコであったりするわけだ。

そして、「尾張氏」は「邪馬台国」時代より、「尾張」を名乗っていたことになるわけだが、「尾張氏」が最終的に定住した先が、偶然、大和からみて終わりと呼ばれていた地域であったことになる。

それは、完全な同音では無く、また大和側から見て蔑んだ呼称だったのかも知れないが、音韻が近かったことを利用した、一種の洒落ではなかったと思われる。

「尾張のやつらが、終わりの地へ逃げていった。」

とでも言って、笑いものにしたようなものと想像する。

その、「尾張氏」が尾張地方に定住してからは、単一氏族の「尾張氏」なのだが、それ以前は、ホアカリ族とでもすべきだったのかも知れない。

ただ、これらことは、「尾張」の語源の由来を記述する、『熱田国風土記逸文』ですら、明確な答えを用意できていないので、結論には到底到達できないが、「尾張」の意味は、『憂婆畏』と言われた女王統治の仏教国徒または支配者であった、という加治木氏の説は重要である。

また、その仏教は原始仏教であるとしたが、現代でいう仏教や、欽明天皇の時代に、「百済」から伝わったと言われる、「蘇我氏」がもたらした仏教とは異質なものであろう。

本来、「釈迦」が説いた仏教とは、人形(ひとかた)を崇高せず、仏閣を必要としない、どちらかと言えば古神道に近いものであった。

そこには、神・仏の区別は無かったと思う。欽明天皇の時代に、今で言う仏教が伝わり、美術・建築を伴って伝わったため、その対抗上、神道が社を有するようになったのである。

従って、それ以前の古神道は自然との、原始仏教は自然摂理との共存であり、説く者の有無こそあれ、平たく言えば同じなのである。

話が、横道にそれてしまったが、「尾張氏」は、尾張地方に定住したが、いわゆるホアカリ族は、「尾張」から伊勢湾を渡り、伊勢地方にまで及んでいる。



   2.縄文人と「尾張氏」


実は海上交通を考えた場合、「尾張」よりも「伊勢」のほうがより便利なのである。それは東国経営をも、もくろんだものであったことだろう。

現在の伊勢内宮には、宇治橋を渡り、御手洗場(みたらし)から参道にもどるすぐ右手に、石畳の上に「瀧祭神」という石神を祀っている。社殿はなく、御垣と御門だけが存在している。延暦二十三年(804)の『皇大神宮儀式帳』にも社殿がないと記載があることから、社殿など初めからなかったのであろう。鎌倉時代には、五十鈴川の対岸にあって、この神こそアマテラスの前身とされていたらしい。

その「瀧祭神」であるが、現在でこそ別宮に準じた奉祭がされているが、古代では、重要な祭りに先立って祀られる社であり、これこそ、伊勢神宮が大和朝廷により奉際される以前の姿であろう。

ここに祀られていた神こそ、ホアカリであることは容易に想像がつく。

海人たちにとって、海は交通の難所などであるはずがなく、むしろ、大量運搬を可能にする交通手段であった。

陸路を移動するよりも、何倍も早く大量に物資を運ぶことができる。また、尾張氏系ホアカリ族は、国力の充実を東国経営に求めたに違いない。

そのためには、濃尾平野に東国経営の軍事拠点を置くよりも、伊勢においたほうが、ずっと有利なのである。

例えば、伊勢から遠州灘に達するには、まず渥美半島に渡るために、約10Kmほど伊勢湾を横断するだけでよく、その後は、海岸伝いの海路を運航すればよいが、名古屋からは、50Km以上伊勢湾を縦断しなければならない。

後の大和朝廷が東国支配のために「伊勢」に目を付けたことも、当然なのである。後の時代の、強大な九鬼水軍もこの地方であった。

「尾張氏」が政庁を置いたのは、もちろん尾張地方であるが、この土地が「愛智郡」(あいちごおり)と呼ばれていたことがわかるる。また、この地方に伝わる文献や伝承には、「年魚市潟」(あゆちがた)との記録もある。現在の愛知県の県名の由来のように思うが、愛を知るなんて、なんとも日本一ロマンチックな県だと思っていたら、「尾張氏」を調べていくうちに、その語源はどうやら違っていることがわかってきた。
  
     ↓
    ここね

大和朝廷の古代の関所に「三関」と呼ばれるものが『日本書紀』・『続日本紀』に記されている。「壬申の乱」で天武天皇が「三関」を越え、東国の救援を受けたことは有名だ。「三関」と呼ばれる理由は、三つの関所であるからなだが、文献上のその位置は、岐阜県不破郡関町付近・福井県敦賀市南部の旧愛発村付近・三重県鈴鹿市関町付近である。愛発の関と不破の関は、発掘により確認されているが、一般的には、謀反人が東国へ逃れるのを阻止するためであるとか、東国へ使者を送って東国の挙兵を未然に防ぐためとか言われている。そして、1974年から始まった、不破の関の発掘調査の結果、不破の関は畿内に向けて設置されたものであることが確認された。

簡単に述べると、関の東側は無障害なのに対して、西側は堅固な地形的障害線であるのだ。換言すれば、西国からの侵入を阻止するために設置したとも言える。

  しかし、その設置年代は、はっきりしていない。

ここで問題にしたいのは、「愛発」という地名である。これは、“あちら”と発音する。滋賀県に「愛知川」・「愛知郡」が存在し、こちらは、“えち”と発音する。そもそも、「あいち」・「あち」・「えち」は、同音韻であったと思われる。越の国も越前・越後と書けば、「えち」と発音する。「えち」・「こし」と呼ばれていた地方に「越」の文字が当てられたのだろうと思う。

そもそも、「越」とは、高句麗族が住み着いていた土地であったからこそ、付いた地名であったのだが、この地方を「えち」と呼んだ民族が、後に移住してきたと思われる。「越後」の一宮である「彌彦神社」に、主祭神としてアメノカヤマが祀られており、しかも開拓者であるとの由来があことから、「越国」に移住してきたのは、「尾張氏」に間違いない。

「越」の文字を国語辞典で調べてもらいたい。

それは、「渡り移る」とか「経過する」などと訳されているはずだ。これを「こし」と発音すれば高句麗族が移り住んだ意味になろうし、「えち」と発音すれば「尾張氏」が移り住んだ土地の意味になると思われる。いずれにしても、後世ではその語源が失われ、ともに「越」の文字が当てられたと考えている。
 
そして「尾張氏」が移動を始めた最初の土地が、「愛発」(あちら)であり、移住先を「越」(えち)・「愛知」(あち)・「愛智」(あいち)と呼んだのである。もちろん。これらは本来、同音韻であったのであるが、時間の経過とともに、訛ったものと推測する。

「尾張氏」は、各移住先で土着の豪族らと血縁関係を結びながら、後の継体王朝の基礎を築いていったのであろう。さらに、濃尾平野から、海を渡り「伊勢」に移り住み、先住の「磯部氏」と結びついた氏族が、「度会氏」なのである。

1998年1月10日の新聞記事で、三重県安芸郡安濃町の大城(だいしろ)遺跡から、「奉」と読める刻み目のある、二世紀中頃の土器片が発掘されている。ほど近い嬉野町片部遺跡からは四世紀代の「田」文字のある土器も発掘されている。

土器は、東海地方特有の山中式で、「邪馬台国」以前の二世紀に、漢字を有する文化があったこと自体驚きだが、「秦」の「始皇帝」の時代(紀元前219年)に、不老長寿霊薬を求め、東海の蓬莱山を目指してやってきたという「徐福」伝説と微妙に重なり、まことに興味深い。

             ↑
            徐福

この地方にも、「邪馬台国」と同じ頃か、それ以前からホアカリ族やスサノオ族による先進文明がもたらされていたのであろう。

尾張氏系ホアカリ族は、伊勢湾を渡った伊勢地方で、同族に巡り会うのである。

度会とは、「渡り来る」あるいは、「渡り相う」の当て字であると思われる。「渡会氏」と「磯部氏」の関係は、『続日本紀』によれば、元明天皇の和銅四年(711)三月六日に「伊勢国の人、磯部祖父・高志の二人に渡相神主の姓を賜った」とあることで証明できる。

高志は「こし」であり、「えち」であるから、「伊勢」も尾張氏系「ホアカリ族」の移住の地であったことは、疑いないと思われる。

ところで、この「尾張氏」の移住ルートは、神社伝承学によって解明している、タケミナカタの出雲から諏訪までの逃亡ルートに奇妙にだぶっているのである。
  
最終的な移住先は、「諏訪」と「尾張」との違いこそあるが、全然関係ないとは言い切れない何かがある気がしてならない。

神社伝承学で解明したタケミナカタの逃亡ルートは、「出雲」から能登半島の入口、石川県羽咋市に隣接する志雄町付近に逃げ、さらに日本海を北上し、「越後」から信濃川伝いに内陸に入り、長野−松本−塩尻を経て「諏訪」まで落ち延びている。

ところが長野県上伊那郡辰野町にある、矢彦神社にもタケミナカタ伝承が残っている。

この神社の伝承によれば、オオナムチがコトシロヌシ・タケミナカタを従えて、この地のやってきたというものである。しかし、コトシロヌシがこの地にやってきたとは、到底考えられず、『古事記』を題材にした創作であると思われるのだが、タケミナカタについては見過ごせない伝承だ。

主祭神は、タケミナカタであるのだが、並んでアマノカグヤマが祀られている。しかも神社名が矢彦神社だ。「矢彦」は「彌彦」であろうから、神社伝承学的に言えば、タケミナカタ=アメノカグヤマである。

タケミナカタとアメノカグヤマとの共通性は、これだけではない。タケミナカタの母親は、「越」の「沼河姫」である。アメノカグヤマの母親は、アメノミチヒメであるが、ここでは「越」を重視したい。

また、長野県松本市の北に位置する安曇郡は、安曇族に由来する地名であるが、南安曇郡穂高町にはある穂高神社には、「『安曇族』は海神系の宗族として北九州に栄え、大陸とも交渉をもち文化の高い氏族であり、四国・中国・近畿・中部に移動し信濃国を安住の地と定め、安曇のを開拓、稲作文化を普及させた。」との伝承がある。この神社の祭神は「穂高見命」であるが、穂高町は細長い湖であったのを、タケミナカタが干拓し、水田にしたと伝えられているところから、「穂高見命」はタケミナカタの別名であろう。

アメノカグヤマもタケミナカタもそれぞれの地方の開拓者として祀られているのである。

「安曇族」の祖は「海神」であるというが、同じ祖を持つ氏族に「凡海連」がいる。「凡海」とは「大海」(おおあま)であるが、『新撰姓氏録』は、「凡海連」をホアカリの末裔としている。「安曇」族も「尾張氏」と同族でありホアカリ族であるのだ。穂高神社の伝承は、まさに、ホアカリ族の移動の歴史であると言えるのではないだろうか。

タケミナカタ=アメノカグヤマを結論づける、決定的な証拠は発見できなかったが、「尾張氏」と「安曇族」が同祖であることは絶対間違いない。

このようにしてみると、中部・北陸は「尾張氏」とその関係氏族で占められたことになり、「三関」をはさんで、東西二国の様相となっている。

ただ、この時代に、「三関」が成立していたかどうかは、定かではないが。

『尾張国熱田太神宮縁起』は、「尾張氏」が「尾張国」に定住したのは、崇神天皇の時代で、「乎止与命」(おとよのみこと、以下オトヨ)が「尾張国」の初代国造であるように、記しているが、国造制度はもっと後世になってからで、この時代にはありえない。この場合は「一国王」であり、 『日本書紀』編纂時に崇神天皇時代から、中央集権国家が成立していたように捏造されたものである。

そして、西国からの侵入を拒む形で設置されている、不破の関の構造から考えてみても、本来「三関」は、東国側が設置したものであり、東西が統一された後、大和朝廷が管理するものとなったと考えるほうが無理がなく、「三関」の東側に位置する「尾張氏」が、大和朝廷に属していたとはとうてい思えないのである。

むしろ、「三関」を挟んで対峙していたのではないか、という推論に達してしまう。つまり、「三関」は「尾張氏」らに設置されたものなのだと思う。

この時代より以前の日本列島の人口分布は、西低東高であったことは、よく知られているが、西から起こったの稲作文明の東進により、急速に平均化している。この頃が、三世紀後半〜四世紀初頭と言われており、大和に前方後円墳が出現するのと、ほぼ同時期である。稲作文明は、組織力をいっそう強固にし、開墾ための鉄器は武器へと変化していく。持てるものと持てないものの貧富の格差を生じさせた時期であり、その頂点に位置したのが、天皇家であったのだろう。

「尾張氏」の東国入りも、東国に稲作文化をもたらす結果となったのであるが、関東にまでに稲作文明がもたらされるには、さらに時代が必要であった。稲作文明は中部・北陸まででいったん停滞しているのだ。

近畿地方に水田稲作農耕がもたらされたのは、弥生時代前期であり、弥生時代前期後半から中期にかけて尾張地方に伝播したものの、関東地方に稲作が伝わったのは、弥生時代後期であるとされている。

濃尾平野より東は落葉樹林帯であり、食料となりうる植物や昆虫、あるいは、それに群がる動物などが豊富であった。つまり、東国は狩猟採集民族と言われる、縄文人の住み着く地域であったのだ。

狩猟採集民族というと、野蛮人であったように聞こえるが、縄文人が弥生人と同等以上の文化圏を形成していたことは、今や定説となっている。

それどころか、縄文時代の遺跡である富山県の桜町遺跡から出てきた木組みは、凹型・凸型の組み合わせにより、クギなしで組み合わせるようになっていたのである。これを「わたりあご」と言うが、この技術は、法隆寺が歴史の上限であり、弥生時代の遺跡からは、未だ発見されていないのである。

弥生人と縄文人との差は、単に、その食料調達方法と大規模組織力によるものにすぎない。それに、狩猟採集民族と言えども、定住して畑作に従事していたことも判っている。

この頃の海岸線は、現代よりもずっと内陸よりであったことから、極地の氷山が少なかった時代であろう。東国と言えども、現代よりもずっと温暖であったのである。

「尾張氏」は、稲作技術を伝播しながら北陸から尾張地方にかけての開拓者となっていったのである。特に濃尾平野は、水に恵まれた肥沃で広大な平野である。稲作にはもってこいと言えるであろう。

すべてが平和にというわけではないだろうが、先住民族である縄文人と尾張氏一族は、互いに融合していったのだろうと思われる。

海人族である「尾張氏」は稲作技術を携えていたとはいえ、航海漁撈民族であり、狩猟採集民族である縄文人との結びつきは、容易であったと思われる。特に、海人族の特権とも言える製塩技術は、歓迎されたことと推測できる。

こうして、中部・北陸地方は急速に弥生化していったのであるが、尾張地方よりさらに東国は、まだ縄文文化圏のままなのである。従って、東国への稲作伝播は、文明の進行上からみて遅れたのではなく、弥生文化の侵入がなかったため、伝わらなかったというのが正解だと思う。

さて、濃尾平野に定住することになった「尾張氏」・オトヨは、おそらく、土着の縄文人の族長であろう「尾張大印岐」(『先代旧事本紀』尾張氏の系図より、オワリオオイキ)の娘、「真敷刀俾」(マシキトベ)を妃にしている。

マシキトベは、熱田神宮の境内摂社・「下知我麻神社」の祭神であるが、古くから旅行安全の信仰があり、獲物を求め猟場へ旅する、狩猟採集民族の姿が想像できよう。

そして、オトヨとマシキトベの二人から、『先代旧事本紀』で丹波国国造とされる「建稲種命」(たけいなだねのみこと、以下、タケイナダネ)が生まれているのであるが、この人物も『古事記』で重要な位置に記述されながら、『日本書紀』には、全然、記されない謎の多い人物である。

「尾張氏」と縄文人の結びつきは、大和朝廷にとって大変な脅威であったに違いない。『日本書紀』が、「蝦夷」と記述するのは、まさに彼らのことではないだろうか。

「尾張氏」とその関係氏族で占められた濃尾平野が、近畿の文化とは異質であり、それこそ、対峙していたと思われる遺跡が発掘されている。

それは、岐阜県養老郡養老町で発掘調査された、象鼻山古墳一号墳である。

この地域は、合計62基もの古墳からなる一大古墳群であるが、その中でも、象鼻山古墳一号墳は最大規模で、濃尾平野を一望できる最高所を選地している。

詳しい調査報告は別頁に譲るが、出土した土器は甕型土器で東海独特の形式だが、高坏は畿内系であるらしく。「尾張氏」が畿内からの移住者であったことの傍証にもなろう。

  (象鼻山古墳一号墳調査報告書)

しかも、前方後方墳は東日本に多く、東海地方に特に多い。調査報告書では、「狗奴国」を尾張地方に比定する考えを記しているが、当たらずとも間違ってはいないことは、「尾張氏」が、旧奴国王・ミケヒコの流れを汲む一族であったことを証明している。

      ↑
     「狗奴国」を尾張地方に比定する考え、は新聞で読みました


また、調査報告では、「前方後方墳の出現契機は、日本列島中央部に広く存在しているが、それが成長して他地域に情報発信した地域は、東海地方であることは疑いない。」としている。

「尾張氏」が、東日本経営を視野に入れて尾張地方に定住したことは、前方後方墳の地域分布から容易に想像でき、東国・縄文人の族長らと手を結んで、勢力を増していったものと思われる。

そして、畿内勢力の進入を拒むための三関を設置し、関ヶ原以東に大和朝廷に属さない、「尾張王朝」を形成していったのではないだろうか。

小椋一葉氏は、著書・『伝承が語るヤマトタケル』の中で、「日本武尊の今度の遠征で最大の鍵を握っているのは、なんと言っても尾張氏の動向であった。陸軍の方は、吉備武彦、大伴武日をはじめ多数の雄将が出動しているので強力だったが、水軍の方は尾張氏と穂積氏に頼らざるをえない状態で、特に伊勢湾東部一円に、圧倒的な水軍を擁する尾張氏が快く応じてくれるかどうかが、東征の正否を大きく左右することになる。」と記している。

「日本武尊」(やまとたけるのみこと、以下、ヤマトタケル)の実在性に関しては問題があろうが、『崇神紀』の十七年秋七月一日に、「船は天下の大切なものである。いまだ海辺の民は船がないので献上物を運ぶのに苦しんでいる。それで国々に命じて船を造らせよ。」という一文を記載しているが、大和朝廷にはそれ以前、船さえも無かったのだ。何ともお粗末な朝廷であったのだろう。



   3.日本列島における勢力分布と朝鮮半島



ここで、日本列島の様子を簡単に整理してみたい。時代は、垂仁天皇の活躍していたと思われる四世紀初頭である。

まず、原大和朝廷のある「新奴国」であるが、この当時には「出雲」や「丹波・丹後・但馬」の三丹と「近江」を含めた地方、そして「吉備」も「新奴国」の協力国であったはずなので、軍事・政治的には引っくるめて一国と考えたい。

そして、「越・尾張・諏訪・伊勢」など「三関」以東の「ホアカリ族連合国」があり、さらに東の、関東・東北・北海道などにも、それぞれの地方に王国があったことは間違いない。

九州には、「旧奴国」が健在である。四国にも族長クラスの率いた王国らしきものは、当然存在していたことだろう。

政治圏的には、九州、本州西日本、中部・北陸、関東以東と大きく四つに分けても、差し支えないと思う。

朝鮮半島では、313年から翌年にかけて、中国(西晋)の出先機関であった帯方群と楽浪郡が「高句麗」に滅ぼされてしまい、316年、中国は五胡一六国の時代に入る。まもなく、「西晋」は滅びてしまうのであるが、この中国の国力の低下をきっかけとして、朝鮮半島南部の「馬韓」・「辰韓」・「弁韓」は、それぞれ、「百済」・「新羅」・「伽耶」として独立していく。「伽耶」は『日本書紀』で「任那」と記されている国のことである。

また、「六伽耶国」とも言われており、小国家連合体であったらしいが、562年に「新羅」に吸収されてしまう。

「百済」は、「馬韓」の王権を「扶余」の亡命貴族が乗っ取って建国した国であることは前に説明してあるが、実は、「高句麗」も「扶余族」による国家なのである。

余談ではあるが、第二部で、スサノオの出身地を「伽耶」であると説いたが、『日本書紀』編纂時に「伽耶」は存在しないので、スサノオが「新羅」から来たとする『日本書紀』の記述も、こじつけではあるが、あながち間違いではないし、アメノヒボコについても、『日本書紀』は新羅王の子としているが、スサノオの孫に当たるので、新羅王の子でも間違いないことになる。

この時代までに、倭の地に存在していた氏族らを、以降に来訪した「渡来者」と区別するために、あえて、「倭人」と呼ぶことにする。

ここでいう「倭人」とは、これより過去に朝鮮半島や南方海上の国などから来訪した氏族や、その氏族と融合した先住氏族、大昔からの土着の氏族、縄文人など、この時代までに日本列島に住んでいたすべての者のことである。

例えば「尾張氏」の祖は、南方系の氏族と北方スサノオ系氏族との結びつきによったものであり、明らかに「渡来者」なのだが、この時代に日本列島に定住しているので「倭人」である。

このうち「伽耶」については、その諸国の全部ではないにしろ「百済」「新羅」とは、毛色が違っていたようである。

例えば「百済」・「伽耶」の位置について、『後漢書』は次のように記載している。

百済・「その北は楽浪と、南は倭に接し、辰韓は東にあり」
伽耶・「その南また倭と接す」


『三国志』でも同様に、 
百済・「南は倭と接す」
伽耶・「倭と境を接す」
と記している。

『後漢書』・『三国志』に記された「百済」・「伽耶」は、それぞれ、「馬韓」・「弁韓」であるのだが、これらの四つの証言からすると、中国から「倭」と認識されている国が、後の「百済」・「新羅」・「伽耶」に挟まれる形で存在していたということになる。

これこそ「任那」だったのではないだろうか。つまり、「伽耶」=「任那」ではなくて、「任那」は「伽耶」として独立する際に、伽耶連邦に参加した一小国であったのではないかと思う。

そして、その小国こそ、『日本書紀』に云う「任那日本府」だったのかもしれない。(後述するが、時代からみて考えにくい。)



   4.創られた神功皇后


こうした、朝鮮半島の情勢をふまえた上で、『応神紀』を見てみたい。

景行・成務・仲哀の三天皇は、後述することにしたい。

応神天皇を語る場合、どうしても応神の母・神功皇后の実在性についてふれなければならない。

『日本書紀』では、神功を「邪馬台国」のヒミコに比定しようとしているのである。神功の三十九年・四十年・四十三年に『魏志倭人伝』の一文を掲載しているのである。

「三十九年、この年太歳己未−魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至 り、洛陽の天子に、お目にかかりたいといって貢ぎをもってきた。大守の・夏は役人をつき添わせて洛陽に行かせた。」

「四十年−魏志にいう。正始元年、建中校慰梯携らを遣わせて詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。」

「四十三年−魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。」

「難升米」が、初めて「魏」の帯方郡に朝貢したのは、239年(景初三年、私見では238年の景初二年とする)であるので、それが神功皇后の三十九年であるとするならば、神功=ヒミコ説は、絶対に成り立たない。

なぜなら、ヒミコは遅くとも248年には亡くなっている。

この年は、神功の四十八年に相当するが、神功は六十九年に亡くなっていると『日本書紀』が証言しているのである。

さらに神功の四十六年には、「百済」の「肖古王」が登場するが、「肖古王」は、166年から213年までの、48年間が在位期間であると伝えられており、神功の四十六年には、亡くなっているのである。

ましてや、この年代には「百済」は建国されていない。

では、この本当の年代はいつ頃かというと、実は、『日本書紀』にそのヒントが隠されている。

「五十二年秋九月十日、久氏らは千熊長彦に従ってやってきた。そして、七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。」

石上神宮に現存している「七枝刀」が、この時のものと言われているが、その銘文を判読すると、だいたい次のようになるらしい。

「東晋の泰和四年(369年)四月十一日に、百済王とその太子が、倭王のために鋳造して壬申の年に献上する。」

鋳造されたのが369年ならば、その次の壬申の年は372年に当たり、『日本書紀』は七枝刀の年を252年としているので、実際とは120年の隔たりがあることになる。

120年という数字は干支二運(干支一運は60年)であり、一度同じ干支が巡ってくるので、干支年は変わらない。

『日本書紀』では、120年くり上げることによって、ヒミコを神功にしたてあげ、『魏志倭人伝』の記述と抵触しないように、捏造しているのである。

この神功が造作である証拠を、『日本書紀』は残している。

それは、前述した七枝刀は372年に献上されたものであったが、この時の百済王が、「肖古王」であると『日本書紀』は記していることだ。

『三国史記』によれば、第五代「肖古王」も第十三代「近肖古王」も、「肖古王」である。まぎらわしいので第十三代を「近肖古王」として区別しているのであろうが、二人の「肖古王」は明らかに造作である。


「近肖古王」の在位が345〜375年であることから、『神功紀』は「近肖古王」の時代に当たる。

ちなみに第六代と第十四代に「仇首王」が記されているが、同じように第十四代を「近仇首王」と呼んでいる。

『神功紀』では「肖古王」の孫として「枕流王」を登場させているが、彼は「近仇首王」の息子とされているので、ここでは第五代「肖古王」は該当しないことになる。

仮に『日本書紀』の記述通り七枝刀が252年に献上されたものだとしよう。

それにしてみても「肖古王」の時代ではありえない。この時の百済王は「古爾王」である。

しかし、神功が架空であるからといって、『神功紀』に記述されている朝鮮半島との外交関係の記述まで、否定してしまうことはどうかと思う。

神功に直接関わりのない外交記事まで捏造したのでは、『日本書紀』は諸外国から歴史書として認められないばかりか、大和朝廷の信用も無いものになってしまう。

従って外交関係の記述は、信用に値する記録とみて差し支えないと思われる。
 
さらに「新羅」侵攻に関してだけ言えば、けっしてでたらめではない。

以下は、『三国史記』に記された「倭」の「新羅」侵攻の記録と、その時代の王の在位年代である。


  倭の侵攻記録         三国史記の在位年

  南解王11年*        西暦4〜24年
  脱解王17年         西暦57〜80年
  祇摩王10〜11年      西暦112〜134 年
  奈解王13年         西暦196〜230 年
  助賁王3〜4年        西暦230〜247 年
  沾解王3年          西暦247〜261 年
  儒礼王4・9・12年*    西暦284〜298 年
  訖解王37年         西暦310〜356 年
  奈勿王9・38年       西暦356〜402 年
   (実聖元年 倭国に未斯欣を人質として差し出す)
  実聖王4・6・14年     西暦402〜417 年
  訥祇王2・15・24・28年 西暦417〜458 年
  慈悲王2・6・19年     西暦458〜479 年


  上記記録の*に関しては、より具体的な記述になっている。


「南解十一年、倭人が兵船百余艘を遣わし、海辺の民戸を掠む。六部の勁兵を発して以てこれを禦ぐ。」

「儒礼十二年春、王、臣下に謂て曰く、倭人度々我が城邑を犯す。百姓安居するを得ず。吾、百済と謀りて、一時に、海に浮かび、入りて其の国を撃たんと欲す。舒弗邯弘権対えて曰く、吾人水戦に習ず。」

ただし、『三国史記』の在位年代も『日本書紀』と同じように、より昔へと繰り上げようとしているので鵜呑みにはできないが、「新羅」の初代王である「赫居世」(『三国史記』在位年、前57〜4年)の即位年を、「邪馬台国」以降と考えているので、三世紀後半になると思う。

事実、『三国史・魏志東夷伝・韓の条』には、「邪馬台国」時代の「新羅」について「辰韓」十二カ国を記すのみであり、「百済」も「馬韓」五十四カ国の一国として記されているだけである。

年代繰り上げの証拠として、次の記録を掲載したい。またこの記録の原典こそ、ヒミコをモデルに神功を生み出す原因になったと思われる。

「阿達羅二十年夏五月、倭の女王卑弥呼が使者を送って来訪させた」

『三国史記』による「阿達羅王」は第八代新羅王であり、在位年154〜184年であるが、実際には四世紀中以降の人物であろう。

『三国史記』の記録で注目すべきは、「実聖元年 倭国に未斯欣を人質として差し出す」の部分である。これに呼応する記事が『神功紀』に見られるのである。

『神功紀』九年冬十月三日の条に「新羅王の波沙寝錦(はさむきん)は、微叱己知珍干岐(みしこちとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅・かとり絹を沢山船にのせて軍船に従わせた。」とある。

このあたりの年代は七枝刀の献上年からみても、とりわけ整合性がみられ、「倭国」の「新羅」攻略は史実と思われる。

しかし、この「倭国」は当時の政権勢力、つまり原大和朝廷ではない。

応神を即位させた勢力であると思っている。

『神功紀』は、応神の出自に問題があったからこそ、捏造せざるをえなかったものだと思う。なぜなら応神天皇を即位させた勢力とは「尾張」の勢力だったからである。

         ↑
        へえ〜



   5.応神天皇の謎


応神の出生秘話は、『日本書紀』の『神功紀』、『古事記』の『仲哀記』に記されている。

『記紀』によれば、応神の父は仲哀天皇であり、母は神功である。神功に神懸かり、新羅を討てという神のお告げを信じられなかった仲哀は、熊襲を討ったものの敗れて死んでしまった。

神功は、お告げ通り「新羅」に出兵し勝利するのだが、この戦争の時、既に臨月であり、腰に石を巻いて約二ヶ月出産日を延ばしたという。

そして、神功は自ら斧鉞(おのまさかり)を手にして、戦場に赴き最前線で戦闘に参加した。いわゆる三韓征伐であるが、実際に討ったのは「新羅」だけであり、「百済」・「高麗(高句麗)」は、自ら降伏してきたのである。

これだけでも、神話としか言いようがないのであるが、さらに、『応神紀』には、割り注として気になる一説を紹介している。

「上古の人は、弓の鞆のことを、『ほむた』といった。ある説によると、天皇がはじめ皇太子となられたとき、越国においでになり、敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)にお参りになった。そのとき大神と太子と名を入れ替えられた。それで大神を名づけて去来紗別神(いざさわけのかみ)といい、太子を誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名づけたという。それだと

大神のもとの名を誉田別神、太子のもとの名を去来紗別尊ということになる。けれどもそういった記録はなくつまびらかでない。」

この記述を信じれば、応神の元の名は「去来紗別尊」ということになるのだが、なぜ名を入れ替えなければなかったのだろうか。

このあたりに応神の出生の秘密があるような気がしてならない。

現在の気比神宮(けひじんぐう)は、福井県敦賀市曙町にあって、「伊奢紗別命」(いざさわけのみこと)を主祭神としているのだが、その摂社に角鹿神社(つぬがじんじゃ)がある。

角鹿神社の祭神はツヌガアラシトであり、この地を「敦賀」と呼ぶようになったのは、ツヌガアラシトの「ツヌガ」に由来しているらしい。

ところが、地名に名を残すほどの人物にも関わらず、気比神宮の主祭神が「伊奢紗別命」では、どうにも納得がいかない。

本来、気比神宮の主祭神はツヌガアラシトであり、例えば『日本書紀』成立事情から、摂社格に落とされたのではないだろうか。つまり、祭神の入れ替えがあったのではないか。

祭神の入れ替え・すり替えの件は、信じにくいかも知れないが、現代でも有名な例がある。

東京都千代田区神田・湯島台にある神田神社では、昭和59年5月14日午後7時から、将門公をあらためて主祭神として迎えるための、遷座祭が執行されたのである。

この時の事情を『毎日新聞』朝刊・東京版は次のように記していた。

「明治7年、明治天皇の同神社参拝のとき、明治政府は『将門公は朝廷に抵抗した』として格の低い末社に降ろし、代わりに少名彦命を迎えた。」

神田神社といえば、神田明神である「平将門」を祀っているものと、誰しも思っていたにもかかわらず、密かに祭神が入れ替えられていたのである。

このような事実は、神社を調べればいくらでも存在し、気比神宮にしても例外ではないと思われる。

ツヌガアラシトと言えば、アメノヒボコと同一人物であるらしいことは、既に証明済みである。しかも、アメノヒボコ=ホアカリ=神武天皇だ。

『日本書紀』の記述に従えば、応神と名前を交換した者は、アメノヒボコであったことになるのだが、時代的に見てもあり得ない。

しかし、アメノヒボコ系の人物と何らかの関係があったのではないか、という推論はかまわないであろう。

この件に関して『日本書紀』は、これ以上のことを語っていない。ところが『古事記』は、さらに興味深い記述をしている。

『古事記』には、「品陀和氣命」(『日本書紀』では「誉田別尊」)が、「品陀眞若王」(ほむだまわかおう)の三人の娘を娶ったと記している。

その三人の娘とは、「高木之入日賣命」・「中日賣命」・「弟日賣命」である。(順に、たかぎのいりひめ・なかひめ・おとひめです。)さらに割り注が挿入されており、「この女王等の父、品陀眞若王は、五百木之入日子命、尾張連の祖、建伊那陀宿禰の女、志理都紀斗賣を娶して生まれる子なり。」とある。

       ↑
     あらら・・・


「五百木」姓が「尾張氏」と同族であることは、既に述べてきているのだが、ホムダマワカ王がイホキイリヒコの子であり、ホムダマワカ王の娘が応神の皇后になったということは、この時代が婿取り婚であることを考えれば、応神はホムダマワカ王の養子になった言い換えることができる。

ホムダマワカ王は、この系譜から尾張族であることは疑いない。ということは、応神も尾張族に吸収されたことになろうか。

崇神朝が「物部氏」系の王朝であったのに対して、応神朝は「尾張氏」系の王朝であったという推論が成り立たないだろうか。

『古事記』の証言が真実ならば、応神は王朝の交代により天皇に成り得た人物であろう。

ところが、応神が王朝の交代により即位できた天皇であったとしても、『日本書紀』が応神の出自を神話にしてしまった謎は解けない。

この謎を解明するためには、もう一度『垂仁紀』まで遡って考えなければならないのだが、そこには意外な事実が隠されている。


 
   6.「誉津別命」


『垂仁紀』では、垂仁の第一皇子として「誉津別命」(ほむつわけのみこと)が登場しているが、「誉津別命」は第一皇子にもかかわらず、次期皇位に着くことができなかったばかりか、非常に不当な扱いを受けている。

次期天皇の景行は、垂仁の第三子で、しかも、後妻である「日葉酢媛命」の子である。

なぜ初めの皇后であった「狭穂姫」の第一皇子である「誉津別命」が皇位を嗣ぐことができなかったのか。

正当な皇位継承権を有する者は、第一皇子である「誉津別命」であることは誰の目にも明白であろう。

それは、「誉津別命」の母方の「狭穂姫」が崇神朝以前の王朝、すなわち葛城王朝の出身であるからとも、兄「狭穂彦王」が謀反をはたらいたからとも考えられるが、どうやらそれだけではなさそうだ。

    神代の時代のスキャンダルですね!

「誉津別命」の原像は、『記紀』によりある程度の異同があるが、『古事記』の記述が詳しいので、抜粋させてもらうと、「反乱軍の将・『狭穂彦王』の燃える稲城のなかで誕生する。」

「八拳髭が胸の先に至るほどの大人になっても、物を言わぬ唖(おし)であった。」

「白鳥の泣き声に反応し、はじめて口を動かして声をだすものの、まだ物は言えない。」

「唖の原因は、出雲大神の祟りであった。出雲詣でを決行し、道中、皇子の名を残すために誉津部を定め、出雲大神を礼拝した後、突然物を言うようになった。」

「肥長比売」と一晩すごすが、彼女の正体が蛇であることを知り逃げ帰る。」


    確かに正体が蛇ならズンドウだったでしょうね(笑


このように神秘的色彩の強い人物であるのだが、このあとは『記紀』ともに、まったく記されていない。『日本書紀』によれば、この時30歳であるという。

垂仁の第一皇子・「誉津別命」は、その消息すらわからなくなってしまうのである。

出雲詣での道中には、「誉津別命」の名を残そうと誉津部を定めているほどの人物であるのだが、何か秘密があるとしか思えない。

ところが、この謎は上古代において既に解明されているようであり、そのことを伝える文献が『釈日本紀』であるらしい。

1994年4月号の『歴史読本』に掲載、篠原幸久氏の『古代英雄の神話的性格』という小論文において、「誉津別命」について次のように記している。

「ホムツワケ物語は、原初この人物が“大嘗祭神話”の主人公である、王権を担う偉大な聖者として現れる過程が語られていた形跡を感じさせる。

彼に関して注目すべきは、推古朝遺文とされる『上宮記』逸文(『釈日本紀』所引)にあって、応神天皇の名に『凡牟都和希』(ホムツワケ)がみえることである。これは最終的に記紀に結実する七世紀以降の王権の統一的修史事業(王権史の固定化)が完成に近づく以前には、応神の名として各々ホムタワケ・ホムツワケを主張する伝承、伝承者が並存していた段階があったことを示す。このホムツワケはホムタワケと基本的属性においては同様に結像されながらも、伝承加担氏族の政権内における位置・利害関係にもとづき、ある程度ホムタワケとの間に乖離が進行していた可能性があろう。・・・・《中略》・・・・彼は天皇であることを否定され、その後半生が描かれず後裔ももたない存在として、垂仁の皇子に据えられた。

同時に彼は年を重ねても幼児のごとくであり、唖であるとされるように、天皇の資質を欠くべき存在にも化さねばならなかった。応神に残る英雄の”王者登場”を語る神話は、その影を引きずりながらも王者になれなかった人物の物語に転じていった。」

『釈日本紀』の主張する「誉津別命」=「誉田別尊」が真実ならば、葛城王朝の後裔である「狭穂姫」の子「誉津別命」は、応神と同一人物になり、応神の出生が神話的であることも、「誉津別命」の後半生が描かれていないことも、一気に説明がついてしまう。

正当な皇位の継承者であった「誉津別命」は、その血統のまずさから皇室を追われた形に陥ったのだろう。

気比の大神と名前を交換したという『日本書紀』の証言は、「誉津別命」 =「誉田別尊」であることを隠すための記述ではないかと疑ってしまう。

事実は、尾張族のホムダマワカ王と結びつき、政権交代の機会をねらっていたのではないだろうか。

応神の時代に「葛城氏」が活躍することも、これなら納得がいくのだが。



   7.「武内宿禰」


さらに、『日本書紀』は垂仁朝の最後を克明に記述している。

『神功紀』には、山城国に攻め入ろうとする神功と「武内宿禰」に対して、仲哀の皇子・「かご坂王」と「忍熊王」(おしくまおう)が相対する場面が見られる。結局「かご坂王」は赤い猪に喰い殺されてしまい、「忍熊王」ただ一人が軍を率いて宇治に陣取るのだが、「忍熊王」は、「武内宿禰」の策謀により琵琶湖で亡くなってしまう。

仲哀の実在性は、検討しなければならないものの、この二人の皇子が、正当なる皇位の継承者であろうことは想像できよう。

しかも、応神を率いた「武内宿禰」の軍隊は、畿内を攻めているのだから、畿内を制するものが実権を握ることができたのだろう。

さて、この場面には何の前触れもなく、ある一人の人物が二人の皇子の後見人のように記述されている。

「五十狭茅宿禰」(いさちのすくね)である。しかも「忍熊王」は死を確信したとき、「五十狭茅宿禰」を呼んで歌を詠んでいる。

    「率吾君五十狭茅宿禰・・・《後略》」

読み下せば、「さあ我が君、五十狭茅宿禰・・・《後略》」となるのだが、一見すると何でもないようなこの歌の中に、重要な意味が込められていると思う。

この時代の氏姓は「臣」・「君」・「連」・「宿禰」などがあるが、このうち「君」は、渡来人によくみられる姓である。しかし、「我が君」と称する場合は天皇家に限られてくるのではないだろうか。

「忍熊王」が君と呼びかける「五十狭茅宿禰」は、「忍熊王」以上の皇族となる。

「五十狭茅宿禰」は、これ以外の場面では全く登場しておらず、謎の人物と言えるであろう。

ところが、垂仁の和風名が、「活目入彦五十狭茅天皇」なのである。

これを分解すれば「活目入彦」・「五十狭茅」・「天皇」であり、「五十狭茅宿禰」とは垂仁その人ではないかと思われるのだ。

ただし、この時は四世紀半ばであり、垂仁が生存しているはずがない。

従ってこの記述は、「忍熊王」が垂仁直系の皇子であることを、強調しているのではないかと疑ってしまう。

「誉田別命」=「誉津別命」が垂仁の実子であり、「忍熊王」が垂仁の直系であるならば、「誉津別命」は垂仁が、かなりの老齢になってからの子で、「武内宿禰」に引率されて畿内に侵攻してきた応神もまた、この時既に老齢であったことになる。もっとも『日本書紀』のどこをみても、そんな記述はいっさいないのであるが。

ただ「五十狭茅宿禰」の素性は、判らないこともない。「忍熊王」についた者は、「五十狭茅宿禰」の他にもう一人いる。「倉見別」(くらみわけ)である。

  この名にある「別」を持つ者は、「大足彦忍代別天皇」(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)すなわち景行の皇子であると、ちゃんと、『景行紀』に記されている。もちろん、景行の皇子の中には「倉見別」は記されていないが、『景行紀』がそう語っているのである。我が君と称される「五十狭茅宿禰」もまた、景行に血縁的に近い関係と考えられよう。

『古事記』によれば、「かご坂王」・「忍熊王」は景行の娘・「大中比賣命」(おおなかつひめみこと)が母であると記している。

「誉田別命」=「誉津別命」にしても、『垂仁紀』として記述されているものの、その実、景行の子であるかもしれない。そうであれば、年代的なつじつまが合ってくる。

応神の出自を曖昧にするために、『日本書紀』編纂者等が、意図的に、『垂仁紀』として記述した可能性は十分にあると思うが、垂仁の実子であるものとする。

従って、応神は「忍熊王」の弟などでは断じてない。叔父・甥の関係となろう。

もっとも、景行の和風名である「大足彦忍代別天皇」の「忍代別」は、名前らしきものを感じさせるが、仲哀・成務天皇に至っては、それぞれ、「稚足彦」(わかたらしひこ)・「足仲彦」(たらしなかつひこ)であり、美辞名だけで構成されている。これでは架空の天皇としか言いようがない。

景行にしても、『日本書紀』は熊襲を平定したように記しているが、記述に従えば仲哀は熊襲に討たれており、とても平定したとは思えない。

崇神が扶余族の力を借りて、一旦は連邦国家的な統一が見られたと思う西日本であったが、垂仁の死後、そのまとまりは崩壊しつつあったのではないだろうか。

垂仁の死後、景行がなんとか大王として立ったものの、邪馬台国時代からの官であった崇神・垂仁と違い、大王としての資質が乏しかったのかもしれない。


さて、この項も終章にさしかかってきたが、応神朝以降しばらくの間、王朝は大和を離れ河内に基礎を築いていく。

俗に言われる河内王朝であるのだが、大和の残存勢力を嫌ったためとみることもできる。

その河内の大王がパートナーに選んだ豪族こそ「葛城氏」である。

これなどは、応神の出自の謎を考えた場合、むしろ当然であろう。


応神については、次章のテーマでもある「倭の五王」の項で言及していくつもりなので、ここではこのあたりで終わりにしようと思うが、応神朝に至って、「物部氏」が政界より追放されていく様子を、示唆していると思われる記述が『日本書紀』にみられる。

『崇神紀』・『垂仁紀』では、アマテラスを宮廷外に出し笠縫邑に祀った後、諸国を回され伊勢地方に落ち着いたという記述こそ、「尾張氏」没落を匂わしてあったのだが、『応神紀』では「武内宿禰」の弟・「甘美内宿禰」(うましうちのすくね)が、「武内宿禰」は天下をねらう野心があると天皇に讒言してからの一連の行動が、それではないかと思われるのである。

この結末は、罪なきことを弁明する「武内宿禰」が、「甘美内宿禰」と探湯(くがたち)をして勝利するのであるが、「甘美内宿禰」が「物部氏」の祖・ウマシマジと発音がそっくりなので、「甘美内宿禰」=「物部氏」であることは容易に想像がつくが、「武内宿禰」はと言うと、これが何とタカクラジの言い換えであり、タカクラジ=アメノカヤマを祖とする「尾張氏」の例えであると考えている。

もっとも「武内宿禰」は、「葛城氏」の祖であると『日本書紀』が証言しており、「葛城氏」は単一氏族ではなく、かつての葛城王朝を構成していた複数氏族の総称であろうことから、「尾張氏」を含んだ旧葛城王朝系豪族の復活であると言って良い。

「武内宿禰」は、孝元天皇の孫として生まれながら、活躍次期は六代後の仲哀天皇からなので、年代的にみてもまるで当てにならないし、実在性も疑わしい。

『記紀』には記述されていないが、「武内宿禰」の母親が実は「尾張連」の娘であったという説もあるらしく、「武内宿禰」という人物は架空であろうが、その事績は応神天皇の義父・ホムダマワカ王のものであった可能性は充分あると思われる。

応神がホムダマワカ王の入り婿となることにより、尾張以西の日本列島は政治的に統一されたことになる。

それは、かつての「旧奴国」勢力によって達成されたものなのであるから、まさにスサノオの「統一奴国」の復活である。



   8.歴史年表


 253年頃 磯城地方を大和(首都)と定め、「奈良」(新奴国)の自治
       権を行使した崇神朝ではあったが、先住民から反乱・反逆に
       遭い政治活動は困難を窮めた。

 254年頃 「物部氏」の政策により、宮廷内に祀られていたニギハヤヒ
       を、先住民らの崇める神・オオモノヌシとして三輪山に祀り、
       さらには、「日本大国魂神」と名を変えてまで祀る念の入れ
       ようであった。これらは、神威により奈良を納めようとした
       ものであったが、同時に宮廷内のアマテラスは、笠縫邑の小
       さな祠に移された。

 255年〜 「物部氏」との政治抗争に敗れた「尾張氏」は、アマテラス
       とともに大和を離れ「丹波国」に逃走する。土着の豪族らと
       連合し「ホアカリ系連合国家」(丹波・但馬・丹後の三丹連
       合国家)を成立させる。

 259年〜 崇神天皇の「奈良」は、朝鮮半島西北部の遼東郡の覇権争い
       に疲れていた扶余の貴族らの亡命を約束、軍事応援を取り付
       ける。
       扶余の亡命貴族の軍事応援により畿内はまり、「奈良」は日
       本列島最大規模の軍事国家となっていく。葛城族の孤立。

 四世紀初頭 「吉備国」・「三丹連合」と連合を結んだ「奈良」は、さら
       に勢力の拡大を図り、「出雲国」の内戦に関与していく。
       「奈良」は西出雲勢力に加担し、東出雲を制圧する。この結
       果、「出雲国」も連合に参加することになり、九州・四国・
       東日本を除く西日本連合国(大和朝廷)を成立させていく。
       「尾張氏」らホアカリ系氏族は、「近江」・「越」・「諏訪」
       「伊勢」・「尾張」地方などに分散定住し、それぞれ国を形
       成していく。
       崇神天皇死す。旧邪馬台国の官・「伊支馬」立つ。(垂仁天
       皇)

 四世紀前期 葛城王朝最後の王・「狭穂彦王」が、大和朝廷転覆を謀るが
 後半    失敗、「狭穂彦王」の妹で垂仁天皇の后である「狭穂姫」と
       ともに自殺。皇子・「誉津別命」のみ生還するが皇位継承権
       の剥奪と追放に遭う。
       垂仁天皇死す。景行天皇立つものの国力は著しく低下する。

 362年  景行天皇、九州遠征を決行。熊襲(旧奴国)征伐を企てるが
       返り討ちに遭い戦死。

 四世紀後期 西日本連合国の完全崩壊。

 中頃    密かに「誉津別命」を傘下に加えた旧奴国勢力は、一挙に東
       征し「奈良」の王・「忍熊王」を討ち、河内に新王朝を形成
       する。
       東征した「旧奴国」勢力は「誉津別命」を大王とし、東国の
       代表・ホムダマワカ王と同盟することにより、尾張以西の日
       本列島はほぼ統一されることになる。


                     2000年1月 第5部 了



すごい!

神代の時代はとにかく人名がややこしいし、謎々がちりばめてあるし、それでいて現代に繋がる勢力争いもあって
面白かったです。

[56]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月20日 14時11分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 いわゆる出雲の国譲りの時代は肝心であるがややこしいですね。

 天孫族、邪馬台国、卑弥呼もからんでくる。いろいろな情報があり、どれ

がより真実に近いのかについて判断するには、相当な知識の蓄積が必要です

ね。そこまではなかなか我々素人にはできませんので、氏族については、

「その氏族は何をやった氏族なの」くらいな把握ができればと思います。


 ところで、尾張氏って何をやった、残した氏族なの?と言われると、困っ

てしまいますね。熱田神宮に関係する氏族ぐらいの知識しか持ち合わせてい

ない。というよりも有名人がいない。秦氏と同じで、どこへ消えてしまった

のか・・・? この考え間違っていますか?


 尾張氏については今後さらに探求するとして、いよいよ「名張」について

述べたいと思います。


@ まずは直感によるものですが、ハワイアンソングの中に「アカカの滝」

という素晴らしい曲がありますが、その中の一節に「ナバリ」と聞こえる部

分があるのですが、ハワイ語はいわゆるポリネシア語で古代の日本の言葉の

中にも随分と入っていますので、ひょっとしたらと思いまして質問をさせて

いただきます。

 歌詞カードを見ると、正確には「LELE HUNE HUNE MAI LA INA PALI」の

「INA PALI」→「いなぱり」→「なばり」。ものすごい推論だと

 思いますが、いかがでしよう。


 「アカ」というのは日本でも「水」を意味しますので、「アカカ」も根底

部分では水に通じているのかなと思います。


 いずれにいたしましても、ハワイアンソングにはラブソング(どちらかと

いうと悲恋)が多いですが、想像するとロマンが広がり余計に感じ入ります。


A これもまた直感によるものですが、物部氏族、尾張氏族、また関係氏族

は星辰信仰でした。そこで次の一節を読んだ時、ひょっとするとつながるか

もと思いました。それを以下に記します。舟場俊昭氏の『消された物部氏 

天津甕星(あまつみかぼし)の謎』からです─


 「中国では、北方にただひとつ不動のまま輝く北極星が信仰を集めた。と

同時に、北極星の近くで独自の形で輝く北斗七星も信仰されるようになって

いった。


 司馬遷の『史記』には、─天帝の御車で、四方に臨んで制して治め、陰陽

を分かち、四時をたて、五行の気を等しくし、季節を移し、もろもろの法則

を司るものである─と記され、森羅万象の決まり事を運ぶ車に見立てられ、

人の運命を司る神として信仰された。この北斗七星を神格化したのが北斗星

君であり、この神の対極概念として生まれたのが、南斗六星を神格化した南

斗星君である。


 二・は人間の生死、寿命、富貴、貧賤をコントロールしている。それぞれ

が相当するものが違い、北斗星君は人間の死後を司り、南斗星君は生者の生

命を司る。


 ある伝説によれば、孝行者の若者が、仙人に自分の寿命が残りわずかと教

えられた。仙人はこの孝行者の若者を哀れに思い、延命の方法を教えると、

干し肉と酒を持たせて、碁を打っている北斗星君と南斗星君のところへ行か

せた。碁を打つのに夢中になっていた北斗星君と南斗星君は、若者の差し出

した干し肉を食べ、酒を飲んでしまう。仕方がないので、二・は若者の寿命

「十九」歳の上に「九」をつけ、「九十九」歳に変えて寿命を延ばしてやっ

たという。


 また、三国志で有名な蜀の軍師、諸葛亮孔明も自分の死期が近いことを知

り、延命のため北斗七星に祈祷したという話も残っている。


 孔明の行った祭事は、まず帳(とばり テント)を張り、その周りを黒い旗

を持ち、黒い衣を着た兵士49人(7×7)に守らせる。帳のなかには、自ら

の手で壇を整え、壇上には北斗七星を象徴する7つの大きな燭台を飾り、そ

の周囲に49個の小さな燭台を配置する。そして寿命を延ばしたい当人が剣

を持って7日間祈願するのである。」

 この「帳」及び関係する数字「7」から「なばり」は導き出せないだろう

か。そんなシチュエーションは渡来族・大王ならあり得るのではなかろうか。

場所もまた伊勢に近い。


 ということで、直感による「名張」の由来について述べてみました。

 その他の名張の由来に関しての諸説については、次回にアップします。


                          丸に三つ柏の服部




  
 
[57]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月20日 17時21分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 『ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源』
 
  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/index.html

には、膨大なデータが入っていて参考になります。是非一度見て下さい。

                         
                          丸に三つ柏の服部
[58]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月20日 23時45分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 『ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源』の中に

「名張」の語源が書いてありましたので下記に記します。


「a 名張市

 三重県の西端、伊賀盆地南部に名張市があります。市域の大半は山地で、

木津川市上流の名張川と宇陀川の合流点に形成された狭少な低地に旧市街地

が立地しています。


 『日本書紀』天武紀元(672)年6月24日の条に「隠(なばり)駅家」

とあり、古代から南大和と伊勢を結ぶ街道の宿駅でした。


 この「なばり」は、

 (1) 古語で「隠れる」意(本居宣長)、 

 (2) 「ニヒ(新)・ハリ(開墾地)」の転などの説があります。


 この「なばり」は、マオリ語の

 「ナ・パリ」、NA-PARI(na = belonging to ; pari = cliff)、「崖の多い

土地」の転訛と解します。」

 
 同じく、このサイトのなかで、高知県の安芸郡の「奈半利(なはり)川」の

ことについて、


 「ナ・パリ=NA-PARI(na=belonging to;pari=flowing,flw over,cliff,
upstanding)

溢れるように流れる(川)または崖のような場所(を流れる川)」


と解説しております。



その他の解釈として、


 @名張の地形が山間の底に隠れて目立たないことから、「隠れる」という

 意味がある、古語の「名張(なば)る」「名張(なばり)」が転じた。



 A初瀬より山の中へ入り、三本松辺りの高地から名張を望むと、一大盆地

 が開け晴々した気持ちになることから、原始林などを開墾するという意味

 がある、新墾(にいばり)が転じた。」


 これらは前項の名張市の解説にもあった。


 さらに、

「B古くから名張の地が、鮎の縄張り的な習性、あるいは鮎漁猟者間の縄張

 りが転じた。


 C名張臣の居住地であったことにちなむ。


 D名張は名張川の東岸の低地から高台にかけてあることから、蝦夷語で

 ナィ パ リ(川 岸 高)と名付けた。


 Eなばり=nwa-mwa-ri=本当に丸いものが並んでいる所=輪を並べたよ

 うに(川が)曲流するところ。」

       @からBまではサイト「伊賀の国」
       CDはサイト「伊賀の生活情報誌『いわネット』」
       Eはサイト「伊賀路往来、伊賀・名張」より引用しました。

以上のような解説がありましたが、本当の所はわかりません。もっと秘密が

あるのかも知れませんし、そう望みたいです。


 それでは本日はこれで。
 
 (追伸)
過去のレスで書きましたが、星辰信仰についての知識が不足していま
 す。現実的には物部氏やどんな氏族がどんな祭祀をしてどんな神を祭った
 のか、わかりましたら教えていただけませんでしょうか。



                          丸に三つ柏の服部


[59]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月21日 14時02分14秒 ) パスワード

勉強中です・・・
しばしお時間をくだされ。

スパッと分かり易いサイトが見つかると良いのですが。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月22日 09時03分30秒 ) パスワード

尾張氏の存在意義とは
・海運力を背景にした古代豪族
・天皇即位(応神天皇と継体天皇)に関わる立役者
・大和朝廷に従わない蝦夷(縄文人)を影で操った?


   応神天皇とは母が息長氏出身の神功皇后で、子は仁徳天皇。
   つまり存在が確実な日本の最初の天皇。

   応神天皇の4代おいた子孫が継体天皇。


こんな感じ?笑
************************


「LELE HUNE HUNE MAI LA INA PALI」の  INA PALI  がイナバリに聞こえるというのは

英語を話す人々は 
母音と母音の間の子音が濁音化=有声化する
ので  いなぱり がイナバリに聞こえるということです。

    ina Pali → ina B ali   Pが有声化して Bになった  ということです。


    日本語でも 豊田 というのは  とよた が とよだ と発音されるみたいなものです。  



******************************



>「アカカ」も根底部分では水に通じているのかなと思います。

ハワイ語のアカカは 「裂け目」「割れ目」「隙間」 という意味で
「割れる」「裂ける」の方で

そこから水「 wai 」が飛び出て来る方の意味だと思うので
   アカカ=水ではなくて
       水が出て来るところ、の意味の方が合ってると思います。


現在ハワイ語の勉強中で、昨日、ハワイ語入門の本を買ってきました。


***********************


天津甕星
(あまつみかぼし)

ウイキより
日本神話に登場する星の神である。
別名、天香香背男(あめのかがせお)、星神香香背男(ほしのかがせお)、香香背男(かがせお)。

概要[編集]

『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。
本文では、経津主神・武甕槌命は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)建葉槌命(たけはづち)を遣わし懐柔したとしている。

第二の一書では天津神となっており、経津主神・武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている[1]。

平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。

星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。

これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。

全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。
茨城県日立市の大甕神社は、天津甕星を服従させた建葉槌命を祭神としている[2]。

社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。
大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。


葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。


**********************


>舟場俊昭氏の『消された物部氏  天津甕星(あまつみかぼし)の謎』



これ、面白かったです:

http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-242.html
星神「天津甕星」誅殺神話の真相


「そこで二神は、もろもろの従わない神たちを誅せられ、――あるいは言う。二神は邪神や草木・石に至るまで皆平らげられた。従わないのは、星の神の香香背男(カカセオ)だけとなった。そこで建葉槌命(タケハツチノミコト)を遣わして服させた。

そこで二神は天に上られたという。――そして復命された。

 一書(第二)にいう。天神(アマツカミ)が経津主神(フツヌシ)・武甕槌神(タケミカツチ)を遣わされて、葦原中国を平定させられた。ときに二柱の神が言われるのに、「天に悪い神がいます。名を天津甕星(アマツミカホシ)といいます。またの名は天香香背男(アマノカカセオ)です。どうかまずこの神を除いて、それから降って、葦原中国を平げさせて頂きたい」と。

このとき甕星を征する斎主(イワイ)をする主を斎(イワイ)の主(ウシ)といった。この神はいま東国の香取の地においでになる。

 (〜中略〜)

 だから経津主神は、岐神(フナトノカミ)を先導役として、方々をめぐり歩き平定した。従わないものは斬り殺した。帰順する者には褒美を与えた。

 (以上、『全現代語訳 日本書紀 上(神代下)』 宇治谷孟 講談社学術文庫P58、P64)」



以下ブログ主の内容割愛分:



この星神誅殺神話には、謎深まるいくつかのポイントがある。

1.
『記紀』に言う「まつろわぬ神」とは、ふつうは天神に従わない国津神のことを指す言葉だが、この天津甕星=天香香背男は文字通り「天」の神である。と言うことは、高天原の天津神とは別系の天津神が居たことになる。

別系の天津神という意味では、先着の天孫である饒速日尊=邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)との関連も考慮してみたいところだ。


2.
日本には星神神話というものがほとんどない。よく親近性が指摘されるギリシア神話などと比べても、この点ではあまりにも異質である。世界的に見ても、日・月・星(金星)の三位一体が古代信仰のスタンダードだったらしく、その後、様々な変遷を経るも、日本ほど星信仰が抹消されている国も珍しいだろう。
 多湿な気候風土のため星が観察しづらかったとか、農耕定住民のため移動のための方位方角の目印となる天体にあまり意識がむかなかったとか、学者さん方のもっともらしい理屈付けはあるが、本当にそれだけだろうか。建国神話のナショナリズムとは関係のない、庶民の童話・民話などでは、案外ありそうな気もするし(たとえば輸入ものではあるが、七夕の織り姫と彦星の物語などはポピュラーなものとして定着している)、神社庁で格付けされるようなメジャーな神社ではないにしろ、星宮神社、星神社、妙見社などに代表される星信仰関連の神社が、列島各地に点在していることもなによりの物証だろう。
 ひょっとすると、有史以後の日本の神様界を政治支配する勢力は、外宇宙に対してえらく閉鎖的な、地球鎖国政策の、「閉鎖系の和」の神界だったのではないか。わずかに『書記』に1〜2箇所だけ見られる、このミカボシ誅殺の神話が、出雲や東北の蝦夷(エミシ)以上に隠蔽されてきた古代信仰の前史を暗示してはいないだろうか。


3.
榎本出雲/近江雅和共著『消された星信仰』(彩流社)によると、このミカボシ信仰は夜空の星一般ではなく、金星を特定するものだったらしい。

 仏教との習合後、この金星信仰は虚空蔵菩薩に置き換えられた。(密教の行法である虚空蔵菩薩求聞持聡明法が金星と関連づけられているからだろうか)
 もう一方では、大陸の天帝の思想である北極星信仰とも交わり、これは仏教の垂迹説で妙見菩薩へと転じる。

⇒☆星辰信仰とは?☆ http://www.geocities.jp/benedict_abb/intro.html


 天の中心という壮大な発想は、(おそらくは明治の神仏分離以後?)『古事記』の初発神、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)にこじつけられ、ここで神道回帰を果たすこととなる。

 しかし、地方のひなびた寺社にひっそりと祀られる虚空蔵菩薩や妙見菩薩や天之御中主が、はたして額面どおりの神仏への信仰であったのか、はなはだ疑問ではある。おそらくは忘れ去られた天津甕星の残影を、どこかで引きずっていたのではないだろうか。


4.
金星を悪神と断じる発想は、魔王ルシファーを明けの明星(金星)になぞらえた聖書⇒西洋神秘思想の伝説を想起させるものがある。

⇒ルシファー http://www.angel-sphere.com/fallenAngels/list/Lucifer.htm

 ただ、霊学的・霊感的に言って、ミカボシがルシファーの同類であったとするのは飛躍のしすぎの気がして、私は賛同しかねる。

 しかし、金星オーラの霊性文化という大きな括りで見るならば、何らかの雑居的なシンクロニシティはあるのかもしれない。この括りにはギリシア神話のアフロディテ(ヴィーナス)や、そのルーツであるメソポタミアの女神イシュタルのような、美と性愛と戦闘の女神も含まれるだろうし、釈迦や弘法大師が悟ったときの聖なる光のファクターとも通じそうだ。

⇒明けの明星 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E3%81%91%E3%81%AE%E6%98%8E%E6%98%9F


5.
中国系の陰陽道や占星術では金星を「太白星」と呼び、方位の吉凶を司る「大将軍神」とも呼ばれていた。特に戦勝祈願のための素戔嗚(スサノオ)信仰と習合して、日本の武家や権力者にも珍重されていた時期がある。

⇒スサノヲとニギハヤヒの日本学(日本文化考)妙見と虚空蔵、北辰と明星、破軍星と太白星 - livedoor Blog(ブログ) http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045218.html
⇒王城鎮護・大将軍神社 http://www.genbu.net/zatu/zatu001.htm

 古代スタンダードである日・月・星の三位一体を記紀神話の三貴子に照らし合わせて、日:天照、月:月読(月夜見)とするなら、もしかして星(金星):素戔嗚という見方もできるのかもしれない。

 一方、この太白星は徹底的な殺伐や腐敗をもたらす祟り神として恐れられてきたふしもあり、これはどこか日本の方位占いで言う鬼門(艮=東北)を想起させる。出口ナオ&王仁三郎の大本に言う「艮(ウシトラ)の金神(コンジン)=国常立尊」も、このラインのきわめつけだが、しかし、その本性は破壊のための破壊ではなく、生命の創造と再生(建て直し)がためであり、裏を返せば「悪や偽善の滅び」と「起死回生の逆転再生」の両義性を持つ最終審判的な隠れ神である。


 また、菊池展明著『エミシの国の女神』(風琳堂)では、伊勢の地を追われた禊と水流の古代神、瀬織津姫(セオリツヒメ)も、この中国系ネーミングの「太白」に近い語感の「天白神」として、東国〜東北各地に信仰の命脈を保ってきた形跡があるとしている。そして、この瀬織津姫は、一般に知られている伊勢内宮の女神アマテラスよりも以前の、先住大和の女性最高神の本流であり、同様に先住大和の男性最高神であった(男性アマテラスである)天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)と陰陽一対の神でもあった。
 
 国津神の帝王である国常立尊(艮の金神)、闘神の総帥である素戔嗚尊、陰陽一対の最高神であるアマテル神と瀬織津姫、どうやらこのラインは、心優しき祟り神として裏でがっちりスクラムが組まれていたようだ。

 が、それが天津甕星の金星信仰と、どの程度の繋がりがあったのかは、いまひとつ不明瞭である。(上記のビッグネームの中で最も消されてきた名前は瀬織津姫だろうが、それでも天津甕星よりはポピュラーである。ここに何がしかの歴史的必然があるのだろうか)


6.
この甕星の古代史ロマンは、一部の神話マニアには根強い人気を誇っていて、天津甕星が祀られている茨城県日立市の大甕倭文神社(実際の祭神は天津甕星を服従させた敵方の建葉槌命)を訪ねて、その紀行文を載せている個人ブログも多く見かける。

そこで皆、異口同音に述べる感想は、古代の神々(部族?)の闘争の遺恨というものが感じられないというのだ。

天津甕星のことも、建葉槌命のことも、ことさら悪く言う神官がいない。穏やかな口調で「悪神などではありません」と言う。実は私も、先日、大甕神社を訪ねたのだが、これと同様の体験をした。

⇒「大甕倭文神社 〜 まつろわぬ天津神の潜む常陸国@ 〜」 http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-54.html


 前出『消された星信仰』によると、遠祖を同じくする物部系の部族のはち合わせであったため、徹底的な殺戮は行われなかった。
戦ったふりをして、折衷したり、棲み分けたりしたという説になる。


 まだ近畿地方に大和政権が成立しない弥生時代に、大陸から船でやってきた
人々は、産業人集団・物作りの職人集団・戦いを主としない集団であった。この集団を「物の部」と呼びたい。それに対して「物部氏」とは、300年後半頃に百済から渡来してきた、応神・仁徳朝の有力戦闘集団と考えるのである。この軍事集団の物部氏が各地に進出して、先住の物部の上に乗っている。先に渡来してきている物部も、後から乗った物部氏も、元を尋ねればいずれも大陸の満州・蒙古地方にいた人々で、風俗習慣が似ていることから、あまり摩擦もなく融合したのではないかと想像される。

(『消された星信仰』P90)

 カカセオを祭神とする星の宮が茨城県に多いということは、要するに、藤原氏の常陸制圧戦で一応勝ったことになっているが、実際は妥協したということを物語っているのである。というのは、この戦争で東国の物部は潰されずに残っているからである。
(同P92)

 私の直感では、穏やかな国譲りとされる出雲のほうが、実はよほど陰惨な殺戮劇が繰り広げられたのだ。30年くらい前に神在月の出雲に一人旅した時には、胃が縮むような陰鬱な波動を感じた。10月=神在月というのは、実は出雲の敗戦記念日ではなかったのかと空想した思い出がある。(現在では、その波動はだいぶ和らいでいるはず)


7.
やや本題とは外れるが、ミカボシ=カカセオと同様、出雲において天孫族に最後まで反抗した神としては、諏訪大明神である健御名方神(タケミナカタノカミ)も有名である。が、これは出雲の直系ではないという説がある。

 吉田大洋『謎の出雲帝国』(徳間書房)による富家(出雲王族の子孫)の伝承では、健御名方の戦闘的性格は出雲神族のものではなく、傍流であるとしていた。

 「だが」と、富氏は言う・

「出雲神族の血脈は、戦いには向いていない。われわれの祖先は、武力ではなく高い文明で諸国を支配したのだ。武士化した諏訪氏が没落したのは、当然なのだ」
(『謎の出雲帝国』P113)


 また、出雲の豪勇タケミナカタと天孫の刺客タケミカヅチの、神族の命運を賭けた決闘は、後世のフィクションであり、タケミカヅチ(鹿島大明神:建御雷=武甕槌)の存在自体が藤原氏のでっち上げであるとする説も近年有力になっている。


 「藤原氏は帰化人だ、とわが家の伝承にある。彼らは氏素性を高めるために、どうしても天つ神の系譜が欲しかったのだろう。そこで、最初は天コヤネノ命を祖神だとし、次にタケミカヅチをかつぎ出したのだ」と、富氏は言う。

一般に中臣氏(藤原氏)の祖神は天コヤネとされる。ところが不思議なことに、奈良の春日大社では、第一殿にミカヅチ、第二殿にフツヌシ、第三殿にコヤネ、第四殿にヒメ神を祀っている。コヤネのランクはくっと落ちるのだ。
(中略)
社家では祖神のコヤネを藤原氏に奪われたが、その権力に抗することができず、黙殺したのかもしれない。一方、藤原氏はコヤネを祖神としたものの、さして重要な役割を演じた神ではなかったため不安を感じ、さらにミカヅチに手を伸ばしたのだ。


鹿島神宮の宮司・東実氏はこう書いている。

「いつの頃か東国へやってきた中臣氏が、鹿島神の神系と婚姻関係を結び、やがて鹿島神宮の宮司となり、この神を崇めるようになったのだろう」

鹿島神と藤原氏は本来、関係なかったし、ミカヅチは作り出された神であった。

記紀に載せられたことにより、鹿島神宮も後世タケミカヅチを祭神としたに過ぎない。
(『謎の出雲帝国』P101〜102)


 はじめ中臣は物部の下に付いていたのだから、春日大社は香取系であり物部系である。大和の春日神社はもともとワニ系の中の、春日氏系海人族の神社だった。さらに前は春日氏の榎本の神だったが、それを金で買ったのが藤原の春日神社である。春日神社は春日氏から譲ってもらったという記録もあり、そのとき榎本の神は春日山から隣に移ったが、また帰りたくなったのでので返してくれといって、戻ってきたといういきさつがある。今でも春日神宮には榎本神社があるのは。このような経緯があったからである。
(『消された星信仰』P174)


 このような説はひそひそ話として語られるマイナーなものかと思っていたら、かなり以前から堂々と述べられていたらしく、講談社の新書版の『古事記』(1977)にも、健御名方と建御雷の力比べは無かったとする解説が添えられている。

もともと諏訪地方にあった伝承からのパクリで、中央の権威づけのための演出だというのだ。
  
 しかしタケミナカタノ神の物語は、『日本書紀』には記されていないし、『古事記』の大国主神の系譜にもタケミナカタノ神の名は見えていない。

これによっても、タケミナカタの物語は、後に加えられたものであろうと思われる。

 二神の力競べの物語の原型について、松前健博士は、諏訪大社に伝えられた神事相撲(農作を予祝し、または占うための神事儀礼)が母胎となっているのであろう、といわれた。

この神事相撲の縁起として語られた諏訪の伝承が、中央の神話に採り上げられるとき、タケミナカタは劣敗者とされ、中臣氏の氏神であるタケミカヅチが勝利者とされたのであろう、と推定されている。
(次田真幸『古事記 上 全訳注』講談社学術文庫 P165)

 なかなか説得力ある説だが、但し、鹿島神宮の神威・霊威自体が空疎なのではなく、中臣・藤原の祖神としてでっちあげられたタケミカヅチがフィクションだというお話である。

 私の母方の先祖が諏訪大社の大祝をしていたことは以前にも述べたが、初めて鹿島神宮にお参りしたときも、祖神の仇敵の神とはどうしても思えない、魂の底からの懐かしさと畏敬の念が沸き起こってきた。

それは諏訪大社の上社本宮で感じる波動と、非常に近いものでもあった。

(最近は森林の樹勢が衰えてきているらしく、以前ほどのマイナスイオンは感じられないが)

「鹿島神宮の社殿内陣の構造(神座の位置など)は、出雲大社とそっくりなのである」「となりの香取神宮(フツヌシが祭神)では、出雲の“亀甲”を神紋としている」「『宮下文書』ではミナカタをミカヅチとフツヌシの兄とさえしている」(『謎の出雲帝国』P100)
との指摘もあるし、
「フツヌシ(経津主命)という神は、『出雲国風土記』にも伝承のある神で、その神が出雲の神として東国に赴いたと考えられるのです。また、「ヌシ」とは、出雲系の神につけられる尊称で、この語は「竜」・「蛇」を意味する語、したがって水神であり出雲の水神信仰と関係のある尊号である」
とする水野祐氏の大胆な論考もある。


 五世紀頃の話として
「この香取神としての経津主命(フツヌシ)の物語は、大和国家の東国平定に、出雲系の勢力が、大和国家の遠征軍の先鋒となって活躍したという事実を反映しているものと解される」
という、出雲の東征加担(敗走ではなく?)という逆説史観にはいささか首肯しかねるが、
⇒古代出雲『いくつもの出雲』の謎(その2「東国」) - いずものこころ - Yahoo!ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/38950769.html
大和朝廷側:天孫族の刺客とされていたミカヅチとフツヌシの両神が、実は出雲系の国津神や、ミカボシのような別系天神の出自ではなかったかという傍証としては、おおいに歓迎したいところだろう。


8.
私が気になるのは、天津甕星の“甕”の文字が、征服者側とされる武甕槌の「甕」(『古事記』では建御雷)とダブっていることである。

詩で言えば韻をふんでいるということであり、この意味では、敵対者のはずの諏訪神:健御名方と鹿島神:建御雷も、“建御”で見事に韻をふんでいる。

ここに“隠れ”レジスタンスの編集職人の、隠された意図がなかったかと勘ぐってしまう。実は同族だ、という暗示をこめたかったのではないか。

 『記紀』で「甕」の字を探ると、伊弉諾=伊邪那岐(イザナギ)が火神:迦具土=軻遇突智(カグツチ)を斬り殺した時に生じた神として、甕速日(ミカハヤヒ)が挙げられる。
⇒古事記研究所第二分室(火の神「迦具土」) http://www.geocities.jp/tomasanjp/kojiki2.html

 この時に剣の鍔からしたたる血から生まれた神の順が、甕速日神(ミカハヤヒノカミ)⇒熯速日神=樋速日神(ヒハヤヒノカミ)⇒武甕槌神=建御雷之男神となっていて、故に「甕速日神は武甕槌神の先祖である」と、『書記』はごていねいにも但し書きしている。

 また、剣の先からしたたる血が岩に付いて生まれた神が、磐裂神(イワサクノカミ)、根裂神(ネサクノカミ)、磐筒男神(イワツツオノカミ)などの石神であり、こちらは経津主の先祖神であると念を押している。ところが、この磐裂・根裂などの神名もやはり、甕星=香香背男の隠し名として、東国各地の神社に祀られている形跡があるのである。

 剣から生まれた一連の武神の系譜に、ミカボシもいたのではないか。

もうひとつは、甕速日神や樋速日神の“速日”が、饒速日の“速日”と韻をふんでいることも見逃せない。

『記紀』の神々の系図としてはかなり世代が離れているが、この記紀神話以前の男性太陽神である饒速日も、この一連の剣神・武神としてのつながりで、甕星=香香背男とは縁戚関係にあったのではないか、などと空想は広がっていく。

以上



**********************


>『ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源』
>   http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/index.html

ありがとうございます。
お気に入り、に入れました。
にっこり


昨日は博物館に行って、古代ハワイ人がタヒチとハワイを往復してた話を聞いてきました。

   でも”北方向が頭の後ろで、左手側が東で右手側が西”の基準での説明はこんがらがって
   結局はワケ分からずに帰宅しました。


       日本人には「北方向は目の前で、右手側が東で左手側が西」が分かり易いですよね?謎



北が後ろ=北を背に=というのは古代中国思考でもありますね。


*********************


http://mujaki666.seesaa.net/article/226106387.html

何故、アレクサンドロスが反キリストの元祖かというと、スサノオの語源となる「スサの王」になったからで、実際に世界を征服したからである。

また、アレクサンドロスはエジプトでファラオに即位し、太陽神アメンの子を名乗った。

アメンは牛神アモン(バアル)であり、バアルは日本神話でいう「スサノオ」である。

                        ↑
                      そうなの?笑


アメンはルシファーでもあり、その子を名乗るという事は「反キリスト」だという事である。

それ以前に、アレクサンドロスは自分を、ギリシア神話の「ヘラクレス」の子孫だと信じていた。

9つ頭の蛇ヒュドラを退治したヘラクレスは、日本神話で言うヤマタノオロチを退治した「スサノオ」である。

                              ↑
                           ああ、なるほどね



そのアレクサンドロスの「スサの王」の肩書きを継承したのが出雲族のスサノオで、終末に於けるスサノオ(黙示録の獣=反キリスト)は日本から登場する事になる。


スサノオは「艮の金神」と呼ばれ、東北に封印された鬼である。

鬼とは「まつろわぬ者」の意だが、実際のスサノオ(フツシ)は出雲族の大王として島根県で崩御している。

つまり、「フツシ=艮の金神」とは言い難い事になる。


フツシの継承者のニギハヤヒも「大和の偉大な王」として崩御したので、「艮の金神」とは呼べない。

もちろん、霊的にはスサノオ・ニギハヤヒが「艮の金神」として封印されている訳だが、人間界の歴史ではそれは違う。

ニギハヤヒの継承者であるイスケヨリヒメは、日向族のイワレヒコと結婚して今の天皇家の起源となっている為、その系統も「艮の金神」ではない。

ニギハヤヒの系統で、出雲族の族長として最後まで(日向族支配の)大和朝廷に対抗し、まつろわぬ者(鬼)として東北方面で封印された者……

それは、日本神話で唯一「悪神」として記述されている「天津甕星」である。
                          
                            ↑
                          ジャジャジャジャ〜ン



つまり、人間界に於いては、天津ミカ星こそが「艮の金神」なのだ。
その証拠に、天津甕星は「金星」の意であり、別名の天香香背男の香香背(カカセ)は「蛇」の意で、いずれも「ルシファー」の象徴である。
それを裏付ける等式が以下の通りである。


「スサノオ=艮の金神=国常立尊=ルシファー」

よって、スサノオの御魂を持った反キリストの予型である王仁三郎が、大東亜共栄圏完成の雛型経綸を実演している。

王仁三郎は、満州・蒙古・中央アジア・中近東に至る広大な地域に、世界統一政府の予型である「ミロク神政王国」を建設しようとした。

その時の不思議な因縁について、次のように語っている。


「大正13年にいよいよ来年の素志を決行したのであります。
その時ちょうど蒙古に偉いラマがおって、昔ジンギスカンが蒙古に兵を挙げてから六百六十六年目に日出づる国から弥勒仏が出て蒙古を救うという予言があったのであります。

それがちょうど、大正13年が六百六十六年目に当たっておったのであります。

しかもこの蒙古を救う人は年五十四歳と言うのでありましたが、当時私は五十四歳であったからこれも符合したのであります」


だが、果たして、アジアから孤立している日本が、アジア諸国のリーダーになる事など出来るのだろうか……。

まず、アメリカの破産は早かれ遅かれ現実のものとなり、それと同時に日本も没落し、中国が世界の大国となる。

そうなると、日本は必然的に中国の支配下に入る事になるだろう。
もっと言えば、日本は中国の州の1つのような形になるかも知れない。
中国は日本を必要とし、日本は中国を必要とする関係にある。


王仁三郎は五行説を持ち出して、次のように述べている。

「中国は土、日本は木、中国と手を結ばなければ日本の繁栄はない」


現在、日本がアメリカの属国となっているように、最初は中国の属国という形になるかも知れない。

だが、日本には「天皇」という世界の最高権威が君臨し、日本人には「大和魂」と「言霊」と「技術」という三大超兵器が存在する。

更に、中国は龍神を信仰する国だが、それはまさに日本列島である。
「龍神=国常立尊=ルシファー」であり、中国を中心とするアジア連邦「大東亜共栄圏」を支配する反キリストは、日本から現れる事になる。
それは、日本が大東亜共栄圏のリーダーとなる事を意味する。

日本が中国に乗っ取られたとしても、日本が中国の頭脳として首都機能を果たす事になるはずであり、裏を返せば日本が中国を支配するという事になるのだ。

中国の分裂を予測する研究家もいるが、まずないだろう。

神も科学も医学も……今までの世界の各分野はあらゆるものが分裂し、細分化する事で発達してきた。


西洋医学と東洋医学、科学と宗教……それらの発達が頂点を極めた今、あらゆるものが統合に向かっており、神々も人々も国々も例外ではない。
その中で、中国が分裂するとは考えにくい。
中国共産党が解体すれば、それも有り得るだろうが、その社会システムによって経済大国・軍事大国に発展している中国共産党が解体される事も考えにくい。

そのような内部分裂の動きはあったとしても、中華思想を持つ中国が世界の覇権を握れるチャンスを放棄する訳がない。

また、一党独裁のシステムだからこそ偉大な指導者が現れる訳で、中国共産党が解体すればノストラダムスの予言は外れる事になる。
もっと言えば、その偉大な指導者である日本の反キリストが活躍する場を失う事になり、大東亜共栄圏や文明転換の実現も海の藻屑となる。
それは、日月神示や黙示録、ノストラダムスなどが予言する「ミロクの世」「至福千年王国」「黄金の世紀」が実現しない事を意味する。


そもそも、日月神示や黙示録、ノストラダムスの予言の中に、中国の分裂を示唆する記述は見当たらない。

もし、分裂の危機があれば、偉大な指導者である「反キリスト」が問題を解決するだろう。

問題は、大東亜共栄圏が実現したとしても、日本をリーダーとして認めるかどうか…である。
それについては、西欧の「闇の権力」によって仕掛けられた歴史の誤解が解ければ解決するだろう。

また、古代日本の封印された事実が公開されれば、世界中が日本を世界の盟主として受け入れる事になるだろう。

また、ソロビヨフやノストラダムスが予言した反キリスト(シーレン)は、世界の諸問題を解決する思想によって人々から絶大な支持を受けるという。

その思想とは、「反キリスト」の名の通り、イルミナティと同じく「キリスト教を破壊する」東洋思想であるはずだ。

何故なら、物質主義・科学万能主義による環境破壊や戦争を生み出している西洋文明は、キリスト教に立脚して発達した文明だからである。

それは、イエスが説いた教えが間違っている訳ではない。
イエスの教えの真意を歪めた教義を構築したのが、キリスト教なのだ。

イルミナティはその事を分かっていた。

彼らはグノーシス主義者(霊主体従主義者)であり、イエスを善神ルシファーの受肉だと考えていた。

その思想を提唱するのが反キリストだが、それはルシファー(国常立尊)の肉体である日本列島から現れる事になる。

かのイルミナティは解散後、残党がフリーメーソンに入会した事で、イルミナティの思想はフリーメーソンに受け継がれている。

それを支配するユダヤ財閥はルシファーを崇拝している訳だが、彼らは物質主義・拝金主義により、グノーシス主義が説く悪神(ルシファーの暗黒面)を崇拝しているのだ。

天皇が世界の王となるのは、ロスチャイルドが鍵を握っている。

『日月神示』が「イシヤと手を組め」と説いているのは、経済や技術など様々な面での意味があるが、要約すれば日本を世界政府の中枢にする為のシナリオなのだ。

詳しい事は今は話せないが、中国がキーになっているという事を覚えておいて頂きたい。


世界中のプレートが4枚重なっている位置に富士山があり、それが富士山に向かって集まって来ている。

これは、日本を中心に世界が統合される事を暗示する。

その過程で、日本列島がユーラシア大陸と再び繋がれば、四方を海で囲まれた「封印」から解かれた事になる。

最初的に、ユーラシア大陸を1つの超国家と見なせば、必然的に日本がユーラシア大陸の首都となる。

ムー大陸の再浮上……それは、日本列島がユーラシア大陸に繋がる事を意味するというのが私の見解である。

だが、日本列島が朝鮮半島に繋がるには、かなりの天変地異が伴うはずである。
そこで、まず考えられる事は、琉球古陸の浮上である。

沖縄と台湾は元々、陸続きだった事が分かっている。

その陸の大半が沈没してしまっているが、それを琉球古陸と呼び、与那国島の海底遺跡などもその一部である。

それは比較的浅い水深で、再浮上したとしても日本列島が壊滅する程の大災害は起こらないだろう。

「日本はお土が上がる」という予言通り、日本列島全体の底上げと共に琉球古陸が再浮上し、日本列島が台湾と繋がる事が考えられる。
それによって、日本列島はユーラシア大陸と合体し、それを「ムー大陸」と呼ぶのが理に叶っている。

太平洋に沈んだというムー大陸の話は創作ではあるが、「ムー」という名前が付けられたら事には意味がある。

それがどのような意味で名付けられたのかは知らないが、「無有」と当て字する事が出来る。

つまり、無から有を生み出すという意味である。
ここからはコジツケ話だが、無から有を生み出すというのは「物質化現象」である。

物質化現象とは、空間(無)に充満する素粒子を物質に構成するという事である。
それが言霊のエネルギーで、神々は言葉によって天地を創造した。
言霊の力を真に活用できるのが日本語であり、日本語は天地創造の道具である。
その無から有を生み出す日本語の言霊エネルギーの活用が、「ムー文明」のテクノロジーではないだろうか。
その意味でも、日本はムー大陸(ユーラシア大陸)の首都機能を果たす事になるだろう。

かつて、伝説のムー帝国(ノアの大洪水前のパンゲア大陸のムー文明)では、絶対神ナラヤナが信仰されていたと言われているが、その姿はまさに7つ頭の蛇「ルシファー=国常立尊」である。


***************


この国常立尊って何?と思って検索したら秦氏と出口王仁三郎に繋がってしまいました。


国常立尊と稲荷神





 一般的に稲荷神と言えば、狐の神じゃないかの声があります。確かに稲荷山に行きます
と、狐像だらけです。この狐は稲荷神の眷属とされるわけです。


 伏見稲荷大社の御祭神は、伏見稲荷大社の公式ホームページを見られても書かれては
いないようです。


 一応、文献などでは宇迦之御魂大神を主祭神とし、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大
神、四大神となっているのですが、伏見稲荷山に上がって見ると解りますが、白菊さん、青
木さん、末広さん、権太夫さんなどとなっていて、伏見稲荷大社の神官に聞いても、その違
いの説明はしてくれないでしょう。古来から言われているで終わるでしょう。


 残された記録の上では深草の秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲
荷神を奉鎮したとあります。だが、それ以前からあったようです。


 この秦一族が京都に下る前、どこを拠点にしていたかと言うことが解らないと、完全には
掴みきれないかも知れません。





 稲荷信仰をする方達の中では、首座神の宇迦之御魂大神は伊勢外宮の「豊受」さまの
ことであるとされます。





 最近、一部で伊勢外宮の豊受様は、国常立尊様の神のラインであると説かれるようにな
っているようですが、以前から伊勢外宮の社家である度会神道では言っています。


 それ以外にも、稲荷神信仰をしている者であるならば、稲荷大神秘文で知っているので
す。





【稲荷大神秘文祝詞】


それ(夫)神は唯一にして、御形(みかた)なし、虚にして、霊有り


天地(あめつち)開闢(ひらけ)て此の方 国常立尊を拝し奉れば


天(あめ)に次玉(つくたま)、地(つち)に次玉(つくたま)、人に次玉(やどるたま)


豊受の神の流れを宇迦之御魂命(うがのみたまのみこと)と、生出給(なりいでたま)う


永く 神納(しんのう)成就なさしめ給えば


天に次玉(つくたま)、地に次玉(つくたま)、人に次玉(やどるたま)


御末を請(うけ)、信ずれば 天狐地狐空狐赤狐白狐・・・


以下略。





 稲荷大神とは宇迦之御魂命(うがのみたまのみこと)ですが、豊受様でもあられます。そ
してその元は、日本書記で創造神とされる国常立尊様ですよとなっています。


 その国常立尊様とは、日本書記では西洋で言う唯一神ですと説かれているのです。ま
た、人に宿る玉として魂の存在も説かれています。


 稲荷講に所属している者であれば、この唯一なる神は国常立尊様。人には魂があるは、
解りきった教えと言えます。


 何も知らない人は、稲荷はきつねだきつねだと言っておられますが、解っている者なら
ば、ここまで解っているのです。





 明治25年、京都府の片田舎綾部町(現在は綾部市)で、出口なおさんと言う老婆に神懸
かりが起きて、その神はウシトラ金神と言いました。このウシトラの金神は国常立尊様であ
るとして、大本教が開教されました。


 そして2代目教主補として、出口王仁三郎という宗教巨人が世に出ました。そして、国常
立尊様の世の立替を大宣伝しました。


 その大本教で聖典とする霊界物語の中に、世の立替にあたって白狐は下郎の役で奉仕
するがあります。


 この内容は非常に奇異に取られたようです。一部には、国常立尊様とは白狐の総帥かと
いう説も出たようです。どうして、万物の創造神とされる国常立尊の手による立替に、白狐
が下郎の役で奉仕するのだとなります。伏見稲荷大社を見ても国常立尊様など奉ってい
ません。?となってしまいます。


 白狐の総帥を国武彦命様と言います。国常立尊様の分身的な存在で、稲荷名としては
豊川稲荷さんと申し上げています。ですから、白狐は国常立尊様の世の立替に当たって
は下郎の役で奉仕するになるのです。また、豊川稲荷さんは鬼で知られる大江山の鬼獄
稲荷さんなのです。


 この稲荷の仕組み、大本教という宗教が出て来ないと解らないことでした。




ここらあたりでアップしますね。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月22日 10時13分31秒 ) パスワード

>現実的には物部氏やどんな氏族がどんな祭祀をしてどんな神を祭ったのか、
>わかりましたら教えていただけませんでしょうか。


NHKの「卑弥呼」でやってたのは
長寿のシンボルの桃の実をたくさん供えてました。
麻の実も出て来たので  要するに  マリファナを焚いてラリってたようですね。
それから銅の鏡も出土していることから太陽の光で威厳を高めていたのでしょう。


一般的には先祖崇拝でしょ?

    長寿と子孫繁栄。

神への祈りと願い。

    穀物がよく実るようにとか動物がたくさん狩れるようにとか
    生活に対する感謝とか願いの針供養とか馬頭信仰とかもありますね。

1年の豊作を感謝して、そして、翌年もよく育つようにとの感謝と祈願。

それから殺した相手の霊を鎮めるとか。
 

もっともっと前の時代は岩とか川とか滝とか山とか、人間の力を超えるものへの畏敬かな?


と、参考にならない事を書きまくったので、真面目に書きますね、
これらの本は参考になるかも:図書館で捜してみてください

   *大隅清陽「氏社」(『日本史大事典 1』(平凡社、1992年)ISBN 978-4-582-13101-7)
 
   *『氏神事典 あなたの神さま・あなたの神社』戸矢学(河出書房新社、2009年 ISBN 978-4-309-22508-1)



例:
物部氏の神社(日本全国ものすごい数です)

物部神社は、古代日本の物部氏に由来する神社。
この名前を持つ神社は東日本から西日本にわたる広い範囲にわたって分布している。

その多くは、物部氏の初代の宇麻志摩遅命や祖神である饒速日命を主祭神としている。


愛知県だけでも40を越えます。
http://kamnavi.jp/mn/monomap-higasi.htm

静岡では

遠江榛原 水川神社「饒速日命」榛原郡中川根町水川540
遠江周智 山名神社「物部山無媛連公 or 饒速日命」山梨村 白鳥下21
        論社 山名神社「素盞嗚命 配 應神天皇、菊理姫命」静岡県周智郡森町飯田2950
        論社 山名神社「素盞嗚尊、伊弉冉尊、豐受大神」静岡県袋井市上山梨389

遠江佐野 己等乃麻知(ことのまち)神社「美麻知命」現在の社名と祭神は事任八幡宮[ことのままはちまんぐう]「應神天皇、玉依姫命、神功皇后」静岡県掛川市八坂642

遠江磐田 入見神社「印岐美命:イカガシコオの子」白鳥下30
        論社 岩田神社「大國主命 配 武甕槌命、經津主命、天兒屋根命、姫大神」静岡県磐田市勾坂中425
        論社 府八幡宮「足仲彦命、祭神不詳」静岡県磐田市中泉112-1

遠江引田 須倍神社「合 宇麻志麻治命」浜松市都田町   ←要するにスサノオですよね
駿河駿東 見目神社「高倉下命」裾野市麦塚120

***********************


http://asukanokaze.blog71.fc2.com/blog-entry-42.html

古代大豪族たちの信仰は、今でも多くが神社という形で残っています。

物部氏系の石上神宮や河内の弓削神社、矢作神社など。
鴨氏の賀茂別雷(上賀茂)神社、賀茂御祖(下鴨)神社。
秦氏は松尾大社など京都や大阪に多くの神社を残していますし、
    意外にもあの伏見稲荷大社は秦氏分家の氏神と言われています。

そして藤原氏の春日神の神社(奈良・春日大社、大阪・枚岡神社など)。

その他葛城氏や平群氏など、例をあげればきりがありません。


我氏系の神社はと言えば、実は無いわけではありません。
蘇我入鹿を祀った入鹿神社は別として、
奈良県橿原市に宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこ)があります。


蘇我氏と言えば、やはり仏教のイメージがありますね。
しかし伝来当初の仏教は、宗教と言うよりは最新の学問や文化色が強かったのではないでしょうか。

奈良の歴史ある主な寺には、今でも墓地がありません。
学問をする場所という性格が、今も色濃く残っているのだそうです。
薬師寺の僧が説教で「奈良のお寺ははかない寺です」とシャレながら
学問所としての寺の話をされていたことを思い出します。


          そうか、仏教は「学問所」だったのか。
          そして、神道は「先祖を祀る」か。




氏神について:


氏神(うじがみ)は、日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のこと。同じ氏神の周辺に住み、その神を信仰する者同士を氏子(うじこ)という。現在では、鎮守(ちんじゅ)ともほぼ同じ意味で扱われることが多い。氏神を祀る神社のことを氏社という。


氏神[編集]

本来の氏神は、古代にその氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かった[1]。


例として、
中臣氏は天児屋根命、
忌部氏は天太玉命を祀った[1]。
また、中臣氏と関係の深かった武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)を、藤原氏が春日大社に祀るなど特殊な例もあった[1]。





中世以降の例としては、
源氏の八幡神(八幡宮)、
平氏の厳島明神(厳島神社)などが挙げられる。

皇祖神アマテラスを祭った伊勢神宮は、本来は天皇家の氏神であるが、明治維新以後、物心両面で天皇を中心とする国家体制が築かれていく過程で、日本人全員の総氏神であることを主張するに至った。



鎮守[編集]

鎮守(ちんじゅ)は、その土地に鎮まりその土地やその土地の者を守る神のことである。平安時代以降になると荘園制が形成され貴族や武士、寺院などの私的領地が確立され、氏族社会が崩壊し氏神信仰も衰退するが、荘園領主達は荘園を鎮護する目的でその土地の守護神を祀るようになる。これが鎮守であり、室町時代の頃に荘園制が崩壊すると信仰は衰退し、氏神に合祀され今日に至っていることが多い。


産土神[編集]

産土神(うぶすながみ)はその者が産まれた土地の神であり、その者を一生守護すると考えられている。生涯を通じて同じ土地に住むことが多かった時代は、ほとんどの場合産土神と鎮守は同じ神であった。ただし、現在は転居する者が多いため産土神と鎮守神が異なる場合も多い。



この氏神信仰は七五三などで見ることが出来るが、
子供のお宮参りは本来氏神にお参りして、
その土地の一員になることを認めてもらうための儀式の一つだった。

            えっ、そうだったの?!



氏子[編集]

通常、氏神と氏子という関係は、生家の氏神や地元にある神社にて氏子入りをすることにより生じる。お宮参りが産土神(うぶすながみ)という、生まれた土地の神に対して行われる様に、多くの場合において、産土神を氏神とすることが多い。お宮参りと氏子入りの儀式は必ずしも同一ではないが、前述の通り、氏神と産土神の区別がなくなって以降、お宮参りが氏子入りを意味する場合が多くなった。よって、お宮参りにおいて、氏子である証明の氏子札を授与されることが一般化している。一方で代々に渡って氏神を崇敬したり祭事に従事したりする家系でない者は、お宮参りをただ慣例的に行っている場合が多く、氏子の意識や自覚を持たない場合も多い。


また、婿入りや嫁入りにより、改めて婚家の氏神に氏子入りの儀式をする場合も多い。最近では、祭事に従事する人口も高齢化し、祭事に加わる氏子も減っているためか、氏子の務めである神事祭事と崇敬への取り組みも形式的となっているが、神棚に神璽や氏子守を納め、家中でお供えすることに留めることも多い。



脚注[編集]
1.^ a b c 日本史用語研究会 『必携日本史用語』 実教出版(原著2009年2月2日)、四訂版。ISBN 9784407316599。『氏神事典 あなたの神さま・あなたの神社』戸矢学(河出書房新社、2009年 ISBN 978-4-309-22508-1)


参考文献[編集]
『日本のしきたり』(主婦と生活社) ISBN 978-4-391-135268
日本史用語研究会 『必携日本史用語』 実教出版(原著2009年2月2日)、四訂版。ISBN 9784407316599。


役に立つと良いのですが。

*********************


昨日博物館に行って古代ハワイの「死刑」の様子の絵を見て来ました。
死刑には、絞首刑とか棍棒で殴り殺すとかあって

絞首刑については普通は木の枝に吊るすというのが我々の考える絞首刑ですが
ハワイの木は椰子の木ですから、
ものすごい高さから吊るすことになってコレはコレで大変なので

罪人を椰子の木にくくりつけて
首に紐を巻いて2人の人間で引っ張って首を絞める
というものでした。

   人力絞首刑だったの?とビックリしました。
   罪人の体重で吊るす引力式の方が楽だなと思いました。
[62]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月22日 13時38分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 
 ただ今外出から帰ってきたところです。さっそく開いて見ています。


 たくさんの貴重な情報、すばらしく、感嘆符+余韻です!。エンドルフィン


が湧いてきております。あを様に感謝です(また今回はお疲れ様でした)。


 これからゆっくり読ませていただきます。


 また改めてレスいたします。


                          丸に三つ柏の服部
[63]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月22日 23時40分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 今回は読みごたえがあり、また「アレクサンドロス」や「ムー」が出て

きましたので、なんというシンクロニティかとビックリしています。

 但し「ムー」と「アトランティス」の違いはありますが。


 ムーについてはまた別の機会に探究したいと思っていますが、アマゾン

でさえ、雨季と乾季で川の水位が10メートル位違うそうです。


100メートル位の水位の差は、古代と現代であったようです(海進から

海退へ)ね。この問題も一度探究したいと思っています。


 氷河期と間氷期の環境下では水位の差は当然あるし、また小惑星が海洋

に激突すれば、300メートル位の津波もあり得る。

「ムー」も沈降したり、破壊されたりしてしてしまったというのはあなが

ち嘘ではないような気がします。


 星の信仰についてはあをさまのおかげで、今回かなり理解が進みました。

 「ジャジャジャ〜ン」ですね。感謝申し上げます。


 但し、生き残っている体制が、今後どう展開して行くかは、近未来の話

でありますので、なんとも言うことができませんが・・・たぶん新たな秩序

に向かって進んで行くのでしょう。


 物部氏・尾張氏・蘇我氏・中臣氏・秦氏等の豪族の話については、さまざ

まな課題とからみますので、今後一度整理して問題点を抽出してみたいと思

っています。


 いずれにしても、今回壮大なる情報をいただき、余韻にしたっておるとこ

ろでございます。論究につきましては、頭の中をもう一度整理し直し、焦点

を絞りたいと思います。ありがとうございました。


                         丸に三つ柏の服部
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月23日 03時46分30秒 ) パスワード

10年ぐらい前、星宮神社の画像を見せてもらって驚きました。
見せてくれた人はキリスト教徒です。


境内の中に、本殿があって木があって、という普通の神社の画像でしたが
見えたのです。
眷属が。


天狗とか、そういうのです。数種類写ってました。
   眷属は低級霊だから見ない方が良いと聞いているので  ウヘッと思いました。


そしたら、このキリスト教徒の友人も共通の友人もわたくしが挙げたものの他に
XXX(つまり 玄武)や △△△  も見えると言ってました。



星宮神社 (佐野市) - 栃木県佐野市大蔵町鎮座
星宮神社 (下野市) - 栃木県下野市下古山鎮座 ⇒ 下古山星宮神社
星宮神社 (栃木市平柳町) - 栃木県栃木市平柳町鎮座 ⇒ 平柳星宮神社
星宮神社 (栃木市小野口町) - 栃木県栃木市小野口町鎮座
      星宮神社(竜ケ崎市)- 栃木県竜ケ崎市鎮座   これです。龍ヶ崎は茨城県と思いましたが  謎
星宮神社 (飯能市赤沢) - 埼玉県飯能市赤沢鎮座
星宮神社(飯能市上名栗)- 埼玉県飯能市上名栗鎮座
星宮神社 (郡上市) - 岐阜県郡上市美並町高砂鎮座


************************


星宮神社(竜ケ崎市)

常陸国太守平貞盛ゆかりの神社で、北斗七星や北極星が名前の由来になっている。

正面鳥居のしめ縄には「男山」と書かれた酒樽がぶら下り、境内奥には「平貞盛の駒止めの石」が残されている

http://www.tsukubapress.com/ryugasaki.html

星宮神社

祭神は天御中主大神。

924(延長2)年、肥後国八代郡八代(現在の熊本県八代市)の神社から分霊を勧請した。

941(天慶4)年、平貞盛が社殿を建立した。

1869(明治2)年、星大明神から星宮神社に改める。

1882(明治15)年、村社。


現在の社殿は江戸時代の再建で、1989(平成元)年、修復及び改築を行った。



************************



星宮神社に纏わる伝説


駒止の石

平将門の乱の時代、平貞盛の乗った馬が石の前で突然動かなくなった。不審に思った貞盛が周囲を見渡すと、星大明神の祠があった。そこで、この祠を懇ろに参詣すると馬は再び動き出した。以後この石は「平貞盛の駒止の石」と呼ばれ、今でも星宮神社境内に残っている。



この伝説の関連として、 平貞盛の父、国香の言い伝えが残っている。

星宮神社から2kmほど離れた川原代の安楽寺付近で、平将門軍と激しく戦かった国香。不幸にも激戦のすえ戦死した国香の供養塔に纏わる言い伝えが、次のように。

平国香の墓(供養塔)には刀傷がついている。
昔ある人が、この墓石の付近を通ったら、石の影から亡霊が現れた。恐怖に慄きその亡霊を切りつけたところ、ふとその墓石を見ると、真新しい刀傷がついていたという。



病気快癒祈願

若柴では病気になったら、星宮神社の椎の木に藁の人形を作って杭で埋めてお祈りすると治ると云われている。更に病気が重く、危篤の場合はこの神社でお百度参りをした。境内にある石碑、道緑神様(ドウロクジンサン)にお祈りすると足の病気が治ったと云われている。

ものもらいにかかった時は、近所の家に行ってオムスビを貰うと治ったそうです。



うなぎを食べない村

若柴では決してうなぎを食べない、それは若柴の鎮守、星宮神社の神様の使いが、うなぎだからだと言う。ある人がその禁を犯し、うなぎを食べてしまった。するとその人は病気になり三日三晩苦しんだという。

この言伝えは代々語り継がれ今日でも若柴の人々はうなぎを食べない。しかし、最近ではこの禁句を守っているのは高齢者のみで、若者は地区外なら食べてもよかろうと考えている。



土地決めの伝説

佐貫と若柴の土地決めのお話

佐貫と若柴の土地決めは話し合いでまとまらず、ついに矢で決めることになりました。若柴の高台から矢を射て落ちたところまでが若柴の土地という事にしました。佐貫と若柴の境界線が入り組んでいるのはその為だと言われている。



馴馬と若柴の土地決めのお話

昔、若柴と馴馬で境をめぐって争いがおこった。そこで大きな羽の弓矢を射て、羽矢の落ちたところを境にすることにした。落ちたその場所はその後、大羽谷津(大きな羽の落ちた場所という意味)と呼ばれるようになった。



鬮(クジ)神社の伝説

若柴ではかつて、殆どの家が屋敷の一隅に氏神様を祭っていた。ご神体は、自然石であったり、石の祠であったりする。

この祠はT家の氏神様で、地区の人々から鬮(クジ)神社と呼ばれている。



断片的だが下記の言い伝えがある、

クジ神様はT家の氏神様で、クジ(運)の神様だった。

昔、徴兵検査などのかけごとの、願掛けに参りに来たという。

昔、佐倉惣五郎が隠れたという。そこには杓文字があって、これを借りてご飯をよそると「メシトル」といって風邪が治るという。


現在でも、地元の人々からクジ運の神様と信じられ、受験生たちが、「〜〜高合格」と、杓文字に願い事を書いて奉納している。



***********************

妙見信仰

妙見信仰は、古代バビロニアにはじまり、インドを経て、中国で仏教と道教と習合し、仏教と共に日本に伝来したという。

すごい




妙見(ミョウケン)信仰とは、一般には仏教でいう北辰妙見菩薩(ホクシンミョウケンボサツ)に対する信仰をいうが、その原姿は、道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰である。

 道教では、北天にあって動かない北極星(北辰ともいう)を宇宙の全てを支配する最高神・天帝(太一神ともいう)として崇め、その傍らで天帝の乗り物ともされる北斗七星は、天帝からの委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされた。そこから、北辰・北斗に祈れば百邪を除き、災厄を免れ、福がもたらされ、長生きできるとの信仰が生まれ、その半面、悪行があれば寿命が縮められ、死後も地獄の責め苦から免れないともされた。

 この北辰・北斗を神格化したのが『鎮宅霊符神』(チンタクレイフシン)で、それが仏教に入って『北辰妙見菩薩』と変じ、神道では『天御中主神』(アメノミナカヌシ)と習合したという。

 この北辰・北斗信仰がわが国に入ったのは推古天皇のころというが、その真偽は不明。

ただ、奈良・明日香の高松塚古墳の天井に北斗七星が、
北壁に北斗の象徴である玄武像(ゲンブ、亀と蛇とがかみついた像)が描かれ、

            ↑

           龍ヶ崎の星宮神社に「玄武」が見えた、というのがひっかかります

また正倉院御物にも金泥・銀泥で北斗七星が描かれた合子(ゴウス)があることなどからみると、
奈良時代に知られていたのは確かである。



※天御中主神

 アメノミナカヌシとは、古事記冒頭の天地開闢に際して、混沌のなかから最初に成り出でた造化三神(アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒ)の中心となる神である。ただ、


     へえ〜
      ↓

この神は開闢の冒頭に登場するもただちに身を隠したため何らの事績もなく、
古社のなかでこの神を祭神とする社はなく、
この神の後裔を名乗る氏族もないという不思議な神で、
重要な神でありながら中心から身を引いた神といえる。



しかし鎌倉以降、特に江戸時代になって記紀神話の再解釈や神道思想の高揚とともに、この神を天地創造の主宰神・世界を創造し支配する最高神とする思想が生まれ、神仏習合の進展ともあいまって妙見菩薩や鎮宅霊符神と習合していったといわれる。

 この神が鎮宅霊符神と習合したのは、両者ともに宇宙を創生した最高神とされることが大きな要因であろうが、この神について、記紀神話に何らの記載もないことから、後世の神格形成に際して自由度が高かったことからともいえ、それはキリスト教におけるマリア信仰と同じである。



※妙見信仰の現在
 江戸時代までの妙見信仰は、仏教の北辰妙見信仰と道教の鎮宅霊符信仰、そして神道の天御中主信仰などが入り交じった複雑なものであった。しかし現世利益を求める庶民からすると、そこに祀られている神仏の神格・由来など関係ないことで、ただありがたい神仏として祈ることと引き換えに、求めるご利益さえ与えてもらえば良しとしたのが実態で、それは現在にも引き継がれた庶民の信仰である。

 いま鎮宅霊符神を表に出している社寺は少なく、ミョウケンボサツを主尊とする寺院とアメノミナカヌシを主祭神とする神社に別れている。

これは明治初年の神仏分離によって、鎮宅霊符神が邪神として排除されたためである。
                        ↑
                       邪神?
                       気の毒
[65]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月23日 11時47分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様



 引き続いての重要な情報、ありがとうございます。


 いずれにしても、北辰・北斗・天御中主神は高松塚の系統とは違った

氏族の流れにより排除されて来たのではと思われます。


 高松塚にはラピスラズリが使われており、シルクロード・アフガン・ペル

につながっている。高松塚に埋葬されている人は誰か。これが従来の氏族の

流れで、その後この氏族の系統は隠蔽され排除され続けたと推測できる。


 いろいろ核心部分にふれる証左なので、更なる探求をしたいですね。

 それにしてもマリア信仰まで出てくるとは、そのシンクロニティに驚き

です。エンドルフィンが湧出しております。


 よく考えてまとめてみたいと思います。とりあえずはこれにて。


                         丸に三つ柏の服部
[66]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月23日 23時59分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 シンクロニティの不思議さというのは、自分では意図を持たないのに、

関連性のある事象がほぼ同時に起ったり結びついたりするということ。

それは意識の世界における偶然なのか、それとも無意識下の必然なのか。

偶然と言うには余りにも不思議な一致・・・。


アレクサンドロス、ムー(アトランティス)、マリアの他に報告し忘れた

シンクロニティが一点ございました。

 それは、青様のレスの中で「男山」の酒樽の話が出ましたが、私はおと

といの夜、たまたま「男山」の酒(ほとんど買って飲んだこともない)を

偶然にも買い飲んでいました。

 何と言う偶然の一致だろう、これを一笑に付していいものかどうか・・・

私にはわかりませんが、例えば「一卵性双生児」があるように「一卵性

双生霊」(今、作った造語)もあってもいいのではないか・・・そんな気

もいたしております(霊というより霊団といった方がいいのかも)。


 尾張氏の繁栄と流転を追いかけてみて、あを様のご指摘の「服織神社」

が「出雲」と「諏訪」の祭神を祀っているのは、秦氏よりも尾張氏との

関係の方が深いのかなあと推理しています。

 尾張氏と秦氏の関係はいったいどんな関係だっだのだろうか・・・?


頭の中と情報の両方を整理しています。


                         丸に三つ柏の服部


                        
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月24日 14時20分55秒 ) パスワード

>尾張氏の繁栄と流転を追いかけてみて、
>あを様のご指摘の「服織神社」が「出雲」と「諏訪」の祭神を祀っているのは、
>秦氏よりも尾張氏との関係の方が深いのかなあと推理しています。
>尾張氏と秦氏の関係はいったいどんな関係だっだのだろうか・・・?


本当にどういう関係だったのでしょうね?


歴史の闇というか  歴史という絨毯の下に掃き込まれた  負けた側の謎
知りたいですね。


物部氏が中央で負けたとはいえ地方では今に至るも神社がアチコチに存在を続けている秘密
知りたいですね。


服織神社が出雲と諏訪の祭神を祀っているのは、安曇氏がらみなのか?物部がらみなのか?尾張氏がらみなのか?
知りたいですね。


秦氏はどうなっちゃったんでしょう?
知りたいですね。


また時間が出来たらチョコチョコ調べます。
[68]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月24日 14時49分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 尾張氏・海部氏の最終結論として─


 尾張氏(尾張大國霊神社)・海部氏(籠神社)は、賀茂氏に乗っ取られてしま

ったというサイトがありました。私もこれしかないと思っています。


 そのサイトは、「封印された天津甕星と尾張氏の謎」です。

  http://messiah666.seesaa.net/article/220001411.html


 また、尾張氏の出自・その後の経緯について良くまとめられているサイト

がありましたのて゜記します。「尾張氏考」です。

  http://www17.con.ne.jp/ 〜kanada/1234-7-8.html

です。


 ついでですが、倭大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)も気になりま

すので一度下記サイトを見てもらえましたら幸いです。

  http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/43341154.htm


 物部氏関連の論理をまとめるのには時間と長い説明が必要となりますので、

今回はつい手間を省いてしまいました。お許しを。


                         丸に三つ柏の服部

 
[69]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月24日 14時58分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスすれ違いました。

下記サイトに一部誤記がありましたので修正してみました(大文字の〜

がはいっておりました)。
  

   httm://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-8.html


以上
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月25日 04時02分14秒 ) パスワード

ありがとうございます。

とりあえず
尾張氏(尾張大國霊神社)・海部氏(籠神社)は、賀茂氏に乗っ取られてしまったというサイトから:

「封印された天津甕星と尾張氏の謎」
http://messiah666.seesaa.net/article/220001411.html

2011年08月13日


封印された天津甕星と尾張氏の謎

天津甕星や尾張氏と言っても興味がないかも知れないが、
獣の正体と尾張の仕組み(東海地震)についても言及しているので目を通して頂きたい。


『失われた日本ユダヤ王国「大邪馬台国」の謎』のまえがきで、飛鳥昭雄氏は次のように述べている。



正直、物部氏にはまいった。
秦氏と神武天皇の謎解きが終わった時点で、
物部氏の正体など、すぐにでも解明できると思っていた。

そもそも、神武天皇の取材で籠神社を訪れ、
極秘伝「多次元同時存在の法則」を知った時、
もはや答えを手にしていた気分になっていたのだ。

ところが、どっこい。実際は、さにあらず。
文字通り、迷宮である。
調べれば調べるほど、知れば知るほど、わけがわからなくなる。



物部氏が秦氏に見えてきたかと思えば、天皇家そのものにも見えてくる。


縄文人だという人あれば、典型的な弥生人だという人あり、渡来人だという人、さらには騎馬民族だという人、



実にさまざまな説が、それこそ百家争鳴状態となっている。


名のある学者の論文でさえ邪馬台国論争以上に諸説入り乱れているのだ。


日ユ同祖論というジャンルにおいても、そうだ。
古代イスラエル人の日本渡来という視点から見ても、
物部氏がいったい失われた10支族なのか、
秦氏と同じユダヤ人原始キリスト教徒なのか、
それとも全く違う経路でやってきたイスラエル人なのか、

説得力のある説に出会ったことは一度もない。

言葉は悪いが、みな肝心なところでごまかしているか、そもそも全くわかっていないのだ。

なぜか。かくも混乱しているのは、それなりの理由があるはずだ。



一流の学者を巻き込んで答えが出ないのは、そこに仕掛けがあるからだ。
答えが簡単に出ないようなトリックを仕込んだ連中がいるのだ。
筆者を含め、物部氏を探求する者は、全て何者かによって作られた迷宮を彷徨っているのである。



で、ヤタガラスから物部氏の謎を解く鍵を手に入れ、           ←ヤタガラス
物部氏と秦氏、そして天皇家の三本柱が並び立つことで生み出されるイリュージョンのカラクリが分かったという。



だが、獣が読んだ感想としては、参考になる部分も多いが、指摘したい部分も多く、根本的な間違いをしている感が否めない。

言葉は悪いが、賀茂氏の罠に掛かっているようにしか見えない。



しかし、歴史は至ってシンプルであり、トリックが仕掛けられているというような大袈裟なものではない。

難しく考えるから迷宮を彷徨う事になるだけで、ポイントさえ掴んでいれば、改竄部分は必然的に浮き彫りとなる。そして、最後に残る「封印」の謎も、自ずと氷解する事になる。



『日本書紀』によると、経津主神・武甕槌命が、天津甕星を誅してから葦原中国平定を行うと言っているが、これは明らかに藤原氏の欺瞞である。


経津主神は『出雲国風土記』で「布津怒志命」と記されている通り、スサノオ(フツシ)の父「フツ」である。


よって、経津主神が藤原氏の祖神とされているのは明らかに嘘である。


飛鳥昭雄氏も述べているが、物部氏を封印したのが藤原氏だからである。   ← 物部 < 藤原



そもそも、藤原氏は天皇家と表裏一体のエスタブリッシュメントであり、封印された出雲族・物部氏の系統である訳がない事は明白である。


フツシの継承者であるニギハヤヒの長男ウマシマジの系統が「物部氏」とされ、フツ(経津主神)は物部氏の祖である。

また、武甕槌命の別名は「建布都神」であり、それは「経津主神」と同一神という事になる。



事実、『古事記』で「建御雷之男神」の別名は「建布都神」である。


だが、『日本書紀』では、「経津主神」と「武甕槌命」の2つの名前が出てくる以上、別モノだということになる。

そもそも、神名をわざわざ変えてまで、香取神宮と鹿島神宮の主祭神にするのも変な話である。


では、武甕槌命とは一体何者なのか……。

それは「建雷命」とも表記される事から、上賀茂神社の主祭神「賀茂別雷大神」と同一神だと考えて良いだろう。

その正体は、スサノオの継承者「ニギハヤヒ」である。


では、藤原氏が「経津主神=フツ」を香取神宮の主祭神とし、「武甕槌命=ニギハヤヒ」を鹿島神宮の主祭神としているのは何故か。



それは賀茂氏の常套手段と全く同じ構図である。

                            大事ね
                             ↓

藤原氏の黒幕が秦氏で、
秦氏の中核が賀茂氏であり、
「藤原氏による物部氏の封印」は「賀茂氏による出雲族の封印」と同じだ。



                      ↓
                    賀茂氏のウソ

賀茂氏の拠点である

下鴨神社には、賀茂氏の祖である「賀茂建角身命(神武天皇を先導したヤタガラス)」が祀られている。

だが、上賀茂神社は「賀茂別雷大神=ニギハヤヒ」を主祭神とし、賀茂氏の祖神とされているが、

これも当然ながら欺瞞である。


                      ↓
                   藤原不比等の陰謀


話を戻すが、経津主神(フツ)や武甕槌命(ニギハヤヒ)の子孫が天津甕星であり、『記紀』の記述は明らかに史実を改竄したものである。

恐らく、藤原不比等の仕業であろうか。


経津主神(スサノオの父フツ)・武甕槌命(スサノオの子ニギハヤヒ)は出雲族の大王であり、日向系の賀茂氏や藤原氏の祖神ではない。


尚、藤原氏の前身である中臣氏は、忌部氏と共に祭祀を司った一族で、忌部氏と同じくユダヤ教レビ族の末裔だった可能性もある。


賀茂氏や藤原氏が出雲族や物部氏の系統であるように見せているのは、カモフラージュであり欺瞞なのだ。


賀茂氏や藤原氏がフツやスサノオ、ニギハヤヒを祀っている理由は、祟りを鎮める為であると同時に、その力を利用する為だと考えられる。

但し、初代天皇(真の神武天皇)ニギハヤヒの名前は隠されている。


また、ヤタガラスは出雲族の象徴数「八」を冠する名称だが、その正体は日向族の象徴数「三」本足のカラスである。


「八」という数字を使う事で自らの正体をカモフラージュし、スサノオ及び出雲族の力を利用しているのであろう。



ここで、1つ興味深い話がある。

神武東征において、建御雷神が神武天皇に刀を与えたとされる。
よく読めば分かる事だが、これは明らかに建御雷神が神武天皇より高位の存在である事を如実に示している。

もうお分かりだろう。

これはニギハヤヒが神武天皇に刀を授けたという事なのだ。


厳密に言えば、日向族のイワレヒコが、ニギハヤヒの跡を継ぎ、二代目天皇に即位した事を示しているのだ。

つまり、「建御雷神=ニギハヤヒ」「神武天皇=イワレヒコ」だが、初代天皇(真の神武天皇)はニギハヤヒなのである。


しかし、実際にはイワレヒコが大和入りした時、ニギハヤヒは既に崩御していたようなので、ニギハヤヒの刀を次男の高倉下がイワレヒコに与えたのだろう。

その刀が、布都御魂(経津主神の魂)が宿る霊剣で、その霊力は大和の平定に大いに役立ったという。


正確に言えば、布都御魂は剣の名前で、それに宿る布都御魂の霊を「布都御魂大神」という。


現在は、石上神宮の御神体及び主祭神として祀られているが、何故その布都御魂大神(経津主神)を藤原氏が祀っているのか……。

その霊力によって日本を支配する覇権を掌握する為だったのだろう。



封印とは、征服の歴史の隠蔽であり、祟りの力の抑圧を意味する。そう考えれば、殆ど全ての矛盾や疑問が解消する。


「フツ―フツシ(スサノオ)―ニギハヤヒ」の血を引く天津甕星は最後まで日向系大和王権に対抗し、文字通り東北の方角に封印されたまつろわぬ者(鬼)となった。
                          ↑                                 天津甕星の悲劇


そして、天津甕星(天香香背男命)がフツとフツシ(スサノオ)の系統である事を示唆する神社が各地に点在する。


石川県鳳至郡穴水町上唐川カ15の経津主神社の祭神は「天津甕星命、經津主命」

三重県阿山郡阿山町大字馬場951の陽夫多神社の祭神は「健速須佐之男命、合香香背男神ほか」

三重県阿山郡大山田村大字平田699の植木神社の祭神は「健速須佐之男命、櫛名田毘賣命 配香香脊男命」

愛知県幡豆郡吉良町大字富田字殿海戸87の富田神社の祭神は「建速須佐之男命、天香香背男命ほか」

静岡県焼津市小土67番地の小土神社摂社津島神社の祭神は「須佐之男命、香香背男命ほか」

和歌山県伊都郡高野町細川826の八坂神社の祭神は「素盞嗚命、奇稻田姫命、天香香背男神ほか」



さて、出雲地方に上陸したスサノオ一族を「出雲族」と呼び、スサノオの王位継承者ニギハヤヒも当然ながら「出雲族」である。

だが、大和地方に東遷して初代天皇となったので、「大和の大王」という呼び名が定着している。

そして、二代目のイワレヒコからの歴代天皇は全て日向系となり、それが後に「大和朝廷」と呼ばれるようになった。


ニギハヤヒはミカシギヒメとの間に二男一女を設けたが、末子継承という掟の為、ニギハヤヒ(神武天皇)の後継者は末娘のイスケヨリヒメとなった。



つまり、女王という事になるが、イスケヨリヒメはまだ幼かったようで、長男のウマシマジが代行で政治を行なっていたらしい。

そこで、マクモニーグルの透視が絡んでくるのだが、この仮説は改めて発表する。


尚、大和国は『魏志倭人伝』の邪馬台国ではない。



話を戻すが、イスケヨリヒメが適齢期になった頃、日向国(邪馬台国)のイワレヒコが、養子に入る為に大和入りをした。

そして、イスケヨリヒメと婚姻関係を結んだイワレヒコが「二代目天皇」として国を治める事になった。

それは征服ではなく、大調和による「出雲族」と「日向族」の和合で、「大和」という漢字がそれを表している。



                 物部氏の誕生と衰退    
                     ↓

そして、ウマシマジの系統を「物部氏」と呼び、物部氏は大和政権で重要なポストに就き、初代天皇であるニギハヤヒも篤く祀られていたという。

だが、忌部氏が賀茂氏の力を借りて施した呪術が、それを許さなかった。
やがて、大和政権の中枢に君臨していた物部氏は衰退していった。



だが、ニギハヤヒの後継者は現天皇家に受け継がれている事になる。

現天皇家は事実上、出雲族のニギハヤヒ(天照大神)を祖とする正統な皇位継承者の血筋だと言える。


                 秦氏と藤原氏の陰謀
                      ↓

しかし、秦氏や藤原氏はその歴史を封印し、イワレヒコを初代天皇「神武天皇」として記録したのである。

更に、ウマシマジの血統である「物部氏」の封印を施した。

呪術的な封印や歴史の封印だけではなく、武力抗争によっても征討していった事は歴史的事実である。


ここまでの流れを見ると、天津甕星は物部氏だったようで、
(獣は読んでいないが)実際にそのような本も出ている。


      天津甕星は物部氏の噂?実は尾張氏!そして東国へ
                ↓

だが、本当にそうなのか……。

ニギハヤヒの次男に高倉下命(タカクラジノミコト)がいる。
タカクラジには「天香語山命」という別名があり、
尾張氏の祖だとされているが、ここれはほぼ間違いない。

天津甕星の別名「天香香背男命」は、「天香語山命」の子孫である事を暗に示している。
また、尾張氏はその名の通り、尾張国を平定した豪族である。


そして、尾張氏の総社である尾張大國霊神社(国府宮)の神職は、「天背男命の子孫」を名乗る国司が明治維新まで代々務めてきた。

これは、天津甕星(天背男命)が尾張氏だった事を物語っていると判断して良いのではないだろうか。

尾張氏が美濃・尾張を平定し、その延長で天津甕星が駿河国や筑波国を平定しながらも大和政権に迫害され、東国へと亡命して行ったのではないだろうか。



そして、天津甕星は「悪神」として封印されたが、尾張氏が封印されたという話は聞いた事がない。

そこに最後のトリックが仕掛けられていた・・・

という事が、今回の「美濃尾張の御用」で分かった。


出雲族の最後の封印は「尾張氏の封印」であり、最後(終わり)の封印解除も「尾張」が鍵を握っている。


そして、尾張大國霊神社の神職を代々務めてきた久田氏の子孫に封印を解く使命があるという確信を持った。

言わずもがな、それは獣の事なのだが、
その協力をしてくれたのも獣姓のルーツである総裁だった。



今まで誰も気づかなかったほど巧妙に仕組まれていた「尾張の封印」を暴く事でアカシックが大きく修復される。

だが、それは獣にとって先祖の功績を破壊する行為となる。
反キリストは先祖の功績さえも破壊するのか!!
功績と言っても、それは「御用の悪による封印」であり、時期が訪れたら子孫によって開封されるべき事である。
従って、公開について獣は何の躊躇いもない。



「祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ」(日月神示)

「日向の血を受け継いだものが、この本を読み三四五の封印の知恵を得たら、
四の辺上にあるたった一つのポイントに直観で気づき、自らそこへ行くだろう」
(アリオン)



物部氏の祖は「ニギハヤヒ」だと言われる事があるが、それは真実に目を向けさせない為の罠である可能性がある。

物部氏の祖は、飽くまでもニギハヤヒの長男「ウマシマジ」の氏族である事を明確にしておく必要がある。

どういう事かと言うと、ニギハヤヒが物部氏の祖だというなら、尾張氏や現天皇家の祖もニギハヤヒだからである。

整理すると、ニギハヤヒの長男「ウマシマジ」から物部氏が誕生し、次男「タカクラジ」から尾張氏が誕生し、王位を継承した末娘「イスケヨリヒメ」がイワレヒコと結婚して現天皇家が誕生した。

その事と次の事を理解しておかないと、
秦氏(自ら?)が仕掛けた迷宮から絶対に抜け出す事は出来ない。



                    秦氏の陰謀
                      ↓

まず、日向族(忌部氏・賀茂氏・秦氏・藤原氏)が、出雲族(スサノオ・ニギハヤヒ・物部氏・尾張氏など)を封印したという構図を認識しておく必要がある。

そして「尾張氏の封印」が岩戸開きのマスターキーになっている。


繰り返すが、封印された天津甕星は、タカクラジの系統の尾張氏だった可能性が高い。

だが、尾張氏が封印されたという話は聞いた事がない。


そこで、誰が考えてもおかしな事実が存在する。



尾張氏は封印されたどころか、文字通り、尾張国を平定した豪族として名高い氏族である。

その総社である尾張大國霊神社の宮司を代々務めて来たのが、賀茂氏なのだ。

しかも、彼らは「天津甕星」の子孫を名乗っていた。
天津甕星を封印した日向族系の賀茂氏が、出雲族系の天津甕星の子孫を名乗って、尾張氏の総社の神職を担って来たのである。

もちろん、彼らは「賀茂氏」である事を公にはしておらず、中島姓―久田姓を名乗っていた。

それが何を意味するかは、もうお分かりだろう。



それと同様の事例を、もう1つ紹介しておく。

それと同様の事例を、もう1つ紹介しておく。
元伊勢の籠神社の社家・海部氏によると、「海部氏は鴨族(賀茂氏)」だという。
これも普通に考えて有り得ない。

海部氏は尾張支族であり、ニギハヤヒを祖神としている。
尾張氏はニギハヤヒの次男のタカクラジをルーツとする。
つまり、海部氏はニギハヤヒ―タカクラジの系譜なのだ。


賀茂氏の祖はイワレヒコを先導したヤタガラスである。

早い話、海部氏は出雲族系であり、賀茂氏は日向族系なのだ。

では、「海部氏が鴨族」というのは、一体どういう事なのか。
もし本当に「海部氏=鴨族」が一面的にでも事実であれば、これは非常に巧妙な欺瞞である。

それは、尾張大國霊神社の宮司を代々奉じてきた久田氏(賀茂氏)についても同じ事が言える。



久田氏は天津甕星の子孫を名乗る尾張氏で、海部氏と同族である。

尾張氏(海部氏)は断じて賀茂氏ではないが、久田氏は賀茂氏であり、海部氏も賀茂氏だという。

話が複雑になるので整理しておこう。


                  賀茂氏の詐称(尾張氏詐称)
                       ↓
@尾張氏は賀茂氏ではない
Aよって、海部氏も賀茂氏ではない
Bだが、海部氏は賀茂氏だと主張し、「ニギハヤヒの子孫」を名乗っている
Cそして、賀茂一族の久田氏も尾張氏になりすまし、「天津甕星の子孫」を名乗っていた



だが、尾張氏が迫害された記録や封印された形跡は見られない。

強いて言えば、大國霊神の正体が明確にされていない事である。

恐らく、その正体は尾張氏の祖である「タカクラジ」だが、封印した「天津甕星」も含まれていると考えて良いだろう。

また、別宮の「大歳神之御子」も名前を公開していない所を見ると、これも「タカクラジ」の封印の一種だと考えて良いだろう。

その別宮には、社名も祭神名も一切書かれておらず、普通の人には何が祀られているのか全く分からないようになっている。


また、大國霊神社の人に場所を尋ねて行かない限り、そこが大國霊神社の別宮だという事さえ分からない謎の神社なのだ。


              籠神社(海部氏を詐称する賀茂氏)
                       
                      ↓

一方、籠神社は長い歴史の中で弾圧を受けて来たが、海部氏が現在に至るまで守り続けている。

だが、その海部氏が「賀茂氏と同族」だと発言しているのである。


結論を述べると、尾張氏(海部氏)は賀茂氏に乗っ取られていたのだ。


久田姓を名乗った中島連は、鴨神社から派遣されて尾張大國霊神社の宮司となった。

それは、尾張氏の大國霊神社が賀茂氏に乗っ取られた事を意味する。
同じように、海部氏の籠神社も賀茂氏に乗っ取られていたのである。



717年、主祭神「火火出見尊」が「天火明命」に名称変更され、社名は「籠宮」に改められた。

まず、祭神名の変更については、「火火出見尊」が神武天皇の諡号と同じである事が理由だったらしい。

神武天皇と同じ名前の神が籠神社に祀られていると、朝廷側にとって不都合な事があったのだろうか。

もちろん大有りで、真の神武天皇は「ニギハヤヒ」だからだ。

                      ↑
            神武天皇の秘密  実はニギハヤヒだった?  すり替え
                      ↓ 

祭神名が「火火出見尊」から「天火明命」に変えられたが、どちらも「ニギハヤヒ」である。

ニギハヤヒは初代天皇「神武天皇」として即位したが、二代目のイワレヒコが初代天皇「神武天皇」として記録されたのだ。

つまり、初代天皇「神武天皇」の人物像のすり替えである。



そして、「籠」という字は竹で龍が封印されている事を表し、「籠もる」とは龍が竹で封印されている事を示しているのだ。


龍は国常立尊(ルシファー)で、「スサノオ―ニギハヤヒ―天津甕星」のエネルギーであり、竹は日向族の象徴である。



日向族(忌部氏と賀茂氏)が龍(出雲族)の力を封じる為に、日本列島のパワースポットに封印を施した事と一致する。


尾張氏の支族である海部氏が自分でそのような事をするはずがなく、
また「籠神社」という名前を付けるはずがない。


通常、被征服者側の名前や記録を改竄したり封印したりする。
ところが、それをせずに、尾張氏(海部氏)を乗っ取った賀茂氏は、
尾張氏(海部氏)に成り代わったのだろう。

                      ↑
                賀茂氏、尾張氏海部氏に
                      ↓

考えられる事は1つ……賀茂氏は尾張氏(海部氏)の養子に入る事で、一族そのものを乗っ取っていたのだ。


残念ながら証拠が隠滅されている為、証拠を提示できないので仮説の域を出ないが、小さな根拠はいくつか存在する。


             籠神社御神体=真名井の壺行方不明事件の真相
                      ↓

籠神社奥宮の真名井神社の御神体だった真名の壺は、戦後のどさくさで盗難に遭って行方不明になったという。

それが伊勢外宮の地下に隠されたという噂が広まり、飛鳥氏によるとヤタガラスはその事を暗に認めているという。



つまり、マナの壺はヤタガラスが窃盗したという事になる。
果たして、ヤタガラスがそんな事をするだろうか……。
全国の物部系神社を乗っ取ってきた賀茂氏ゆえに、それくらいの事は平気でするとも考えられる。

だが、伊勢外宮に隠されたという噂を誰が広めたのだろうか。
また、籠神社の社家の海部氏はどのように思っているのだろうか。


この一連の出来事について獣が思う事は、「盗難に遭った」というのは創作である。
やはり、海部氏そのものが賀茂氏に乗っ取られており、「伊勢外宮に移された」というのが正しいと思われる。


では、何故「盗難に遭った」というデマを流す必要があったのか。
結局、賀茂氏が海部氏を乗っ取っている事を隠す為だと考えられる。


この乗っ取り説は、獣が最近になって唱え始めた仮説だが、もう1つ裏付ける根拠がある。

それは、籠神社の裏神紋が六芒星だという事である。
六芒星は「ダビデの星」と呼ばれる通り、ユダ族の王「ダビデ」を象徴するユダヤ人のシンボルである。

           
                      ↑                              籠神社とユダヤ=賀茂氏の関係



だが、出雲族がイスラエル10支族であれば、ニギハヤヒを祖神とする海部氏は10支族のガド族の末裔である。

故に、籠神社の裏神紋が六ぼう星という事は、ユダヤ人すなわち「賀茂氏」に乗っ取られている事を意味する。

そして、第82代目宮司の海部光彦氏の爆弾発言・・・・

           「海部氏は鴨族です」

               ↑
              あらら・・・


獣がこの説を発表した事でアカシックが修復される事だろう。
それは「尾張の仕組み」の型が出されたという事である。


『日月神示』には次のように示されている。

「尾張の仕組も型早よう出して呉れよ。
型済んだらいよいよ末代続くまことの世直しの御用にかからすぞ。雨降るぞ」



「尾張の仕組み」は「江戸の仕組み」に続く終りの仕組みで、
「梅」で開いて「松」で治める最終章だと言われている。

封印解除はルシファー(マグマエネルギー)の解放であり、
巨大地震を伴う終わり(終末)の合図である。


だが、誤解してはいけない。


「神の申すこと違ったではないかと申す臣民も今に出てくるぞ。
神は大難を小難にまつりかえているのに判らんか。
えらいむごいこと出来るのを小難にしてあること判らんか。
ひどいこと出て来ること待ちているのは邪の身魂ぞ。
そんなことで神の臣民とは申されんぞ。
臣民は神に、悪いことは小さくしてくれと毎日お願いするのが務めであるぞ」


そこに、今回の獣の「尾張の御用」の真の意味がある。




2010年8月8日から「尾張の仕組み」の時代に入ったという説があるが、
偶然にも獣の「尾張の御用」はそのちょうど1年後の8月8日だった。

白峰聖鵬氏によると、愛知県の瀬戸で開催された「愛・地球博」の本当の主催者は、物部氏だったという。


愛知県は尾張(終わり)、瀬戸は瀬戸際で、今まで封印されてきた真の初代天皇ニギハヤヒが、表の世界に現れる型示しだったのだ。

当然ながら、ニギハヤヒの子孫である尾張氏の最後の悪神天津甕星の封印解除による「善悪逆転」とも連動している。



愛・地球博は2005年3月25日から開催されたが、獣が平安京から愛知県に遷座した時期と重なったのもシンクロである。

厳密に言うと、獣は16日に移転し、ニギハヤヒの象徴数である「9」日後の25日に愛・地球博が開幕したのだった。



これはまさに運命を感じるが、獣が興味のない歴史の世界に入ったのも、ちょうどその頃からだった。

結局、何が言いたいのかと言うと、「スサノオ―ニギハヤヒ―天津甕星」の系統の尾張氏に婿入りした賀茂氏が、獣のルーツだったという事だ。

賀茂氏の中でも、忌部氏(真の闇帝王)の血を引くヤタガラスだと思う。


その根拠は、久田氏が忌部氏の血を引く織田氏と密接な関係にあり、
また、久田姓を名乗った賀茂氏の中島連の氏族は、
後に裏天皇の子・安倍晴明と深い縁を持っているようだからだ。


そもそも、尾張氏や海部氏の養子に入る時点で、天皇に限りなく近い一族であったはずである。

かつて獣は、前ブログの初期の記事で次のように書いた。

「反キリストはヤタガラスから出てくると思っている」



獣自身はヤタガラスではないが、幼い頃から賀茂系神社やカラスと深い縁があった為、ヤタガラスの血を引いているかも知れないという事も書いてきた。

そして、王仁三郎の予言と合わせると次のようになる。


「本物の反キリストは美濃尾張のヤタガラスの血統から出てくる」


それが、まさしく獣自身だったという事に改めて思いを馳せた。
ちなみに、最近、知人からヤタガラスの心霊写真が送られてきた。
獣にはよく分からなかったが、とにかくヤタガラスらしい。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月25日 08時38分09秒 ) パスワード

倭大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)


同じブログの ココ ↓ 面白かったです。
http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/folder/1587336.html

http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/49473737.html
にも倭大國魂神社がちょっと書かれていました。


以下コピペ:

不思議の徳島
<阿波国と伊倭国 阿波国と伊倭国 3>

阿波国と伊倭国 2     2009/11/18(水)


伊和神社

兵庫県宍粟市に鎮座する、
播磨国一宮 延喜式内社 名神大社 伊和神社(いわじんじゃ)。

御祭神は、『播磨国風土記』に描かれる「伊和大神」(大己貴神)です。

有名な「大国主命」の別名ですが、「大国主」が後世の忌み名であるのは明白で、
古事記には、

 大國主(おほくにぬし)神、
 亦の名は 大穴牟遲(おほなむぢ)神     と謂ひ、
 亦の名は 葦原色許男(あしはらしこをの)神 と謂ひ、
 亦の名は 八千矛(やちほこの)神       と謂ひ、
 亦の名は 宇都志國玉(うとしくにたまの)神 と謂ひ、  あはせて五つの名あり。

と記されます。



大国主命は、もちろん阿波の神。
大国主命を御祭神とする式内社だけを見てもこれだけあります。(論社含む)

 八桙(やほこ)神社    阿南市長生町   八千矛神  
 勝占(かつら)神社    徳島市勝占町   大己貴命
 大御和(おおみわ)神社  徳島市国府町   大己貴神
 宇志比古(うしひこ)神社 鳴門市大麻町   大己貴命
 八十子(やそこ)神社   美馬郡貞光町端山 八千矛命
 倭大國玉神大國敷(やまとおおくにたまのかみおおくにしき)神社 美馬市美馬町重清 大己貴命  ←コレ

 

大国主命は、『日本書紀』よればスサノオノ命の子。
『古事記』、『日本書紀』の一書、『新撰姓氏録』によれば、スサノオノ命の六世孫です。

建速須佐之男命は、父、伊邪那岐命から海原を治めるように命じられますが、根の国へ行くことを熱望したために、怒りを買って追放されます。

挨拶のため訪れた高天原では乱暴を働き、また追放。

八俣遠呂智を退治した後、櫛名田比売と須賀の地に住みました。

これは、隣接する「名田河」の姫を娶って神山町「須賀」に住んだということである、という岩利大閑説を既に紹介しました。



徳島には、いくつかの地名が県内に複数存在するのですが、その一つがこの「須賀」です。

調べた範囲で書き出してみましょう。

 名西郡神山町阿野字 (須賀)
 徳島市川内町 (竹須賀)
 徳島市八万町 (沖須賀)
 徳島市(西須賀)町
 徳島市方上町(中須賀)
 小松島市江田町字 (沖須賀)
 阿南市上大野町 (須賀)
 阿南市羽ノ浦町古毛 (大須賀)(中須賀)(小須賀)(上須賀)(下須賀)(前須賀)
 阿南市見能林町 (沖ノ須賀)
 阿南市長生町 (寿嘉)
 阿波市市場町伊月字 (前須賀)
 阿波市吉野町西条字 (東須賀)
 阿波市市場町大野島字 (前須賀)
 吉野川市鴨島町粟島字 (前須賀)
 吉野川市鴨島町牛島字 (先須賀)
 吉野川市川島町児島字 (東須賀) (西須賀)
 吉野川市山川町(北須賀)(中須賀)(大須賀)
 美馬市穴吹町穴吹字 (市ノ須賀)
 美馬郡つるぎ町貞光字 (大須賀)(中須賀)

まだあるかもしれません。
こんなものだろうと思いながら、他の調べで地図を眺めていると「あ、ここにもあった!」と書き足した「須賀」が上にも2〜3あります。


イメージ 2
徳島県内の「須賀」

地図が小さくて分かりづらいかもしれませんが、一つの例外もなく全て水辺です。

川のほとり、海辺。

水辺といえば、これまでも書いたことがあります。
ひとつは、「滝の宮」。

「滝宮」の名がつく地名・神社は全て川辺にあり、「滝宮神社」また「滝宮」にある神社には必ず「須佐之男命」が祀られています。


またひとつは、「蛭子」。

事代主神社 阿波市 に書いた「蛭子」の地名をマーキングしてみました。
上は「大国主命」と、その御子「事代主命」(えびす)を祀る式内社です。

「須賀」「蛭子」の地名と、「須佐之男命」「大国主命」「事代主命」の血脈の痕跡は、ほぼ一致しています。

「須賀」の地名にしても、まったく偶然に名付けられたものではなく、理由と法則性があるらしいことがわかるでしょう。


鮎食川沿い、神山町の「須賀」には「名田河」が隣接するため、須佐之男命が「わが心すがすがし」と名付けた須賀の地と云われますが、吉野川沿いにも「名田」の地名が見えます。

すぐ近くには「須賀」の地名が見当たりませんが、吉野川沿いは須賀だらけといった感じです。

見づらくなるので、上の地図には全ての須賀を書き入れてはいません。
また、頭の「○須賀」の部分は途中からカットしました。


須佐之男命は、ヤマタノオロチを退治した後、須賀の地に宮を作ったのですが、そのオロチは『古事記』に

    高志之八俣遠呂知

と書かれています。



諏訪大社の元宮は徳島にあった!? に書いたように、「高志」は阿波の地名。

大国主命と「高志」の「沼河比売」の間に生まれたのが「建御名方命」で、上の地図で「諏訪」と書いた場所で、式内社・阿波國 「名方」郡 「多祁御奈刀弥神社」の御祭神となっています。

その北、吉野川対岸に「高志」。その下流に「名田」。


八俣遠呂知の正体は、吉野川かもしれません。           ← へえ〜
        「やまたのおろち」とは川の治水工事のことだったのかも、ですか



「須賀」、「滝宮」と、須佐之男命に関連する地名が全て川辺にあることを考えると、
八俣遠呂知退治の話は、よく言われるように川の治水の物語なのでしょう。



「事代主」とあるところが、異母兄弟「事代主命」を祀る式内「事代主神社」。

「勝占」と記入した場所の、式内「勝占神社」の御祭神は、大国主命で、事代主命も配祀されますが、『道は阿波より始まる』によれば、事代主命の神陵とのことで、私も参りましたが、社殿の裏側の山が古墳に見えました。


これらの地図に示される範囲、阿南市から海辺を北上、吉野川河口両岸(徳島市・鳴門市)から、
上流へ上り「ミマ」岐のあたりまでが、大国主命の勢力範囲だと考えられます。

まさにその境目に「倭大國玉神大國敷神社」が在ります。

             ↑
            ココね


この大国主命が、「伊和大神」なのです。

古代、徳島は、北部の「アワ」と南部の「ナガ」に分かれていたと云われますが、正しくは「イワ」と「ナガ」だったのでしょう。

そして西部(須賀や蛭子の地名が途切れた先)にはもうひとつの国があった。
私が仮説を立てた「イミ」です。


その南には「イヤ」もありますから、もしかしたら、阿波で四国でしょうか?
つづく


続きが見当たりませんが


式内社(倭大國玉神大國敷神社)

比定@ 倭大國魂神社 美馬市美馬町 2008/7/24(木) 午後 5:58徳島の神社徳島県 ナイス!0mixiチェック はてなブックマーク 日本一社 延喜式式内社 阿波國美馬郡 倭大國玉神大國敷神社二座 (論社) 倭大國魂神社

鎮座地 徳島県美馬市美馬町重清字東宮上3

御祭神 大國玉命 大己貴命 (徳島県神社誌による)

神紋 三つ柏                ← 徳島なのに三つ柏?


創祀年代は不明。
鎌倉時代(1185年頃-1333年)には隣接する重清城の小笠原氏に崇敬されていたとある。

また、隣接する「八幡古墳群」「大国魂古墳群」は、6世紀のもので、この一帯は古代から栄えた土地であることがわかる。



誰の説のどの部分から話したとしても、話が遠大過ぎて、整理して書くことなど出来ません。
思い出したり、目に付いた部分から、一つ一つ書いていきます。


複数の人が、古事記の神話の舞台が徳島である、と考えることの根拠の一つとして「神社」の存在を上げます。
これについては、また別に詳しく書かなければいけません。


その神社のひとつに、 延喜式  神名帳(927年)に登載された、
日本で唯一「倭」の国名を冠した「大国魂神社」である式内社(上記『延喜式』巻九・十に記載された「官社」)

      阿波国美馬郡倭大國玉神大國敷神社二座

があります。


「大國玉神」とは、都の地の産土神です。

「倭」の国の「大國玉神」を祀った神社があるということは、その地が倭の国の都だったということになるのです。



倭大國玉神大國敷神社に比定されている神社は2社あり、
ひとつは徳島県三好市池田町の「医家神社」、
もうひとつが美馬市美馬町の「倭大國魂神社」です。

つまりどちらにせよ、徳島の吉野川沿いの中西部に「倭」の「都」があったということになります。


奈良には「大和坐大国魂神社」、それを勧請したとされる「大和大国魂神社」が淡路島にあります。

国名を冠さない「大国魂神社」は他県にも何ヶ所かありますが、ほとんどが「出雲大社」を勧請したもののようです。


「倭」「大和」と国名のつくものは徳島、淡路島(江戸時代までは徳島の一部・アワジとは阿波への路の意)、奈良にしかありません。

淡路島の大和大国魂神社がそうであるなら、
徳島の倭大國玉神大國敷神社も奈良の大和坐大国魂神社からの勧請ではないのか?
という指摘はありえると思います。


現在の一般的な常識では、倭=大倭=大和=奈良県、で昔日の日本の中心地。
無名でド田舎の阿波の神社なんて、そこから勧請されたものに決まっている、と思うのも無理ないからです。

しかし、本当にそうでしょうか?

それならば、何故、阿波(淡路島)にだけ勧請されたのか?
わざわざ海を越えなくても、周辺にも大和を囲んだ国がいっぱいあります。
また何故、阿波には「倭」という違う字が当てられているのか?
という疑問も起こります。


「四国など、大和朝廷とは何の関わりも無い」という先入観があるから、当然想起されるそういった疑問を、誰一人「考えてみよう」とさえしないのです。

そもそも古事記の国生み(これも後述)を見てください。
淡(阿波)から始まり、淡路島〜四国全体〜北九州〜、と平定されていくのです。

「高天原」は「空の上」で、九州や出雲や諏訪など地上のあちこちに降りたり飛んだりすると考えるほうが無理があるのです。

実際のルーツは「国生み」の順番通りなのです。


またこれも別の機会に書きますが、倭国と大倭国は別、というのが古事記徳島説の研究者たちの、ほぼ一致した意見なのです。

「倭国」が徳島で、「大倭国」(大和国)が奈良ということです。

さらに「倭」の読みは「イ」で、徳島は元は「イ」国、同じ字を後に「ワ」とも「ヤマト」とも読んでいるとします。

阿波の「倭」が畿内へ進出し「大倭」になったという意見です。
そもそも、大倭をヤマトと訓むのは無理があり、古文献ではオオヤマトと訓まれています。

どちらにせよ「倭」と「大和」という国名を冠した式内社「大国魂神社」は、日本全国に徳島と奈良にしかないという事実があります。
そしてそれは「産土神」なのです。
続く

続きがどこにあるか分かりません。



日本一社 延喜式式内社 阿波國美馬郡 倭大國玉神大國敷神社二座 (論社) 倭大国敷神社

鎮座地 徳島県美馬市脇町脇町字拝原2404

御祭神 倭大國魂命 大國敷命 (徳島県神社誌による)

創立年代不詳。
倭大國玉神大國敷神社の比定社としては「医家神社」(池田町)、「倭大國魂神社」(美馬町)があるが、『徳島県神社誌』では医家神社を有力視しているようである。

しかし、その根拠は書かれていない。


『阿府志』の「倭大國玉神大國敷神社二座俗に医家大明神と号す、祭紳二座大己貴尊少彦名命・・」という記載の紹介だけがあるので、それを拠り所としているようだ。

『阿府志』とは江戸時代の史料である。


地図をながめていて当社を発見したのだが、何故ここが倭大國玉神大國敷神社の比定社になっていないのか、さっぱりわからない。

で、私の個人的判断で論社としてここに紹介した。


上記三社のうち、御祭神が「倭大國魂命」「大國敷命」となっているのは当社のみである。

「倭大國玉神大國敷神社二座」という式内社の読み取り方には注意が必要である。

「神社」は現在一般的に「じんじゃ」と読むが、本来は「かみやしろ」「かみのやしろ」である。

現代の感覚で読むと、

 倭大國玉神 大國敷 神社 二座
と区切ってしまいがちだが(徳島県神社誌での御祭神名を見ても)、

正しくは、   倭 大國玉神 大國敷神 社 二座  である。


        倭(国の) 大國玉神(並びに) 大國敷神(之) 社   なのである。


すなわち、正確な御祭神名は、倭大國玉神と、倭大國敷神、である。


隣の美馬町には吉野川の川中島「中鳥」に式内論社伊邪那美神社が(元)鎮座し、その北東数百メートルの位置に倭大國魂神社が在る。

この倭大国敷神社もその下流の川中島「舞中島」の同論社伊邪那美神社の北東に鎮座する。

それぞれの位置関係と距離はほとんど同じである。
とても偶然とは考えられない。


この点から見ても、式内社倭大國玉神大國敷神社は池田町の医家神社ではなく、美馬町の倭大國魂神社か当社であり、いつの時代にか二座の神社を分社して隣町に移したと考えるものである。


もう1つのサイトから
一部重複しています。


日本一社 延喜式式内社 阿波國美馬郡 倭大國玉神大國敷神社二座 (論社) 倭大国敷神社

御祭神 倭大國魂命 大國敷命 (徳島県神社誌による)

創立年代不詳。
倭大國玉神大國敷神社の比定社としては「医家神社」(池田町)、「倭大國魂神社」(美馬町)があるが、『徳島県神社誌』では医家神社を有力視しているようである。

しかし、その根拠は書かれていない。


『阿府志』の「倭大國玉神大國敷神社二座俗に医家大明神と号す、祭紳二座大己貴尊少彦名命・・」という記載の紹介だけがあるので、それを拠り所としているようだ。


地図をながめていて当社を発見したのだが、何故ここが倭大國玉神大國敷神社の比定社になっていないのか、さっぱりわからない。
で、私の個人的判断で論社としてここに紹介した。
上記三社のうち、御祭神が「倭大國魂命」「大國敷命」となっているのは当社のみである。

「倭大國玉神大國敷神社二座」という式内社の読み取り方には注意が必要である。
「神社」は現在一般的に「じんじゃ」と読むが、本来は「かみやしろ」「かみのやしろ」である。
現代の感覚で読むと、

 倭大國玉神 大國敷 神社 二座

と区切ってしまいがちだが(徳島県神社誌での御祭神名を見ても)、正しくは、

 倭 大國玉神 大國敷神 社 二座

である。

 倭(国の) 大國玉神(並びに) 大國敷神(之) 社

なのである。
すなわち、正確な御祭神名は、倭大國玉神と、倭大國敷神、である。

隣の美馬町には吉野川の川中島「中鳥」に式内論社伊邪那美神社が(元)鎮座し、その北東数百メートルの位置に倭大國魂神社が在る。
この倭大国敷神社もその下流の川中島「舞中島」の同論社伊邪那美神社の北東に鎮座する。
それぞれの位置関係と距離はほとんど同じである。
とても偶然とは考えられない。

この点から見ても、式内社倭大國玉神大國敷神社は池田町の医家神社ではなく、美馬町の倭大國魂神社か当社であり、いつの時代にか二座の神社を分社して隣町に移したと考えるものである。



鳥居の扁額には「大国敷神社」となっており、「倭」の一字が無い。

そのせいか、地図や地図ソフトにも大国敷神社と記載されている。

ところが、神社関係の様々な資料には「“倭”大国敷神社」と記載されているのである。

『徳島県神社誌』を見ても同じだった。

何故、鳥居では「倭」の字を省略したのか、これも不明だ。
これも岩利大閑氏の言う「土民之を知らず」の類だろう。


境内には合祀されている祠が4社ほど見られるが、どのような神々かわからない。

五角形の地神塔がここにもある。                  ← 五ぼう星に関係?

阿波独特の祭祀形態だそうだが、香川でも所々見かけるし、一部の他県にもあるようだ。
そのうち詳しく調べて紹介したい。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月25日 08時56分21秒 ) パスワード

尾張氏考
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-8.html


9.尾張氏考

1)はじめに

 古代豪族で最も長く続いた豪族は何氏かと聞かれたら、天皇家を別にすれば、系図がはっきりしているのは、尾張氏であると答えざるをえない。

前記した物部氏は、奈良時代までは歴史上色々出てくるが、尾張氏は平安末期の源頼朝まで絡んでくるさらに長い系図と歴史的活躍が記録に残されている。

勿論物部氏も尾張氏もさらにその累孫は現在まで続いていることであろうが、あくまで公知にされている系図文献などでの世界の話である。


1992年京都府宮津市にある籠(こも)神社に伝わる「籠名神神社祝部氏系図」と「籠名神宮祝部丹波国造海部直等之氏系図」なるものが、国宝指定され、全文が公開された。


籠神社の社家は、現在も海部(あまべ)氏である。


そこで、前者を「海部氏本系図」後者を「海部氏勘注系図」と呼ばれている。

系図が国宝に指定されたのは、初めてのことである。



「勘注系図」は平安時代の885年ー889年に海部直稲雄によって収録され、江戸時代初期海部直千代によって書写されたものとされている。

これが国宝指定されたのは、現存する系図の中で日本最古のものであることが証明されたからである。

しかも公的機関により認定された一種の公認系図であることが分かっている。

但し、公開することは諸事情により堅く禁じられていたようで誰にもその存在は分からなかったものである。


これが、尾張氏の系図とその元祖から10数代に亘って一部重なることがはっきりした。


尾張氏の系図は、従来は記紀に一部があるが、大部分は平安時代に造られたとされる「先代旧事本紀」が知られている。

これとは全く異なる目的で、ほぼ同じ頃に旧事本紀そのものではない資料に基づき造られた系図である。


記紀にも旧事本紀にも含まれていない多くの情報が記されているとのことである。



既に「物部氏考」の項で述べてきたように、現在では一般的には、物部氏と尾張氏は天孫族である「天火明(あめのほあかり)命」即ち「饒速日(にぎはやひ)命」を始祖とした、同族とされている。

尾張氏は物部氏に比し歴史上影が薄い存在であることはいなめない。

しかし、欠史八代から記紀にも登場する天皇家への后妃供給氏族であった。

その最期が26継体天皇の妃尾張目子媛であった。
27安閑天皇、28宣化天皇の母である。


この後、天武天皇の壬申の乱の時、天武天皇が一番頼りにしたのが尾張氏であったとされている。


これ以降平安時代を通して、熱田神宮大宮司家として都での公家暮らしをしていたものと思われるが、はっきりしない。


平安末期尾張氏はどんな理由かは、はっきりしないが、夢のお告げとされているが、娘婿であった藤原南家流の貴族に大宮司職を譲ってしまった。



尾張氏としての嫡子はあったのにである。
ここで正式には尾張氏は歴史の舞台から退いたとされる。



前述の籠神社の現神主は、初代から海部氏としての血脈を嗣ぎ、82代目だそうである。物部氏系にも似たような神主家が東北の方にあるようだが、正に天皇家並の血脈である。

こちらの方は、海部氏から分家したのが尾張氏である。と主張されているとか。(一般的には尾張氏から分かれたのが海部氏であるとされている。)

少なくとも1700年近く脈々と続いた訳である。
驚くべきエネルギーである。


鳥取県に因幡一宮宇倍神社がある。ここの社家は伊福部(いおきべ)氏であった。

ここに「因幡伊福部臣吉志」という古系図が残されている。
これも過ってより、歴史家の研究対象であったが、伊福部氏も饒速日命から流れた物部系の一族とされている。

しかし、これも複雑で五百木部(いおきべ)氏は本来、尾張氏の流れとされ、同族ではないかとの議論が古来からある。


この因幡伊福部氏系図では、ニギハヤヒは出雲系の大己貴神の子孫であると明記されている。
これは意図的改竄が行われているとの説もある。


尾張氏の元祖に関しては、
@天孫系火明命の流れでニギハヤヒとは関係ない。
A火明命とニギハヤヒは同一人物で物部氏、尾張氏は同族である。
Bニギハヤヒは出雲系の人物で尾張氏とは関係ない。など、非常に謎に包まれている。


本稿は、基本的には先代旧事本紀に基づき述べることにする。


それに記紀、勘注系図などの情報、最近の各種情報も考慮して、尾張氏の全貌解明の糸口を論考したい。



2)尾張氏人物列伝

 先代旧事本紀に準拠して記す。併せて国宝「海部氏系図」及び記紀その他各種情報に基づく記事をも載せた。

2−1)天火明命(?−?)神世

@父:天忍穂耳命 母:栲幡千千姫(高皇産霊尊娘)

A妃:天道日女(屋乎止女・高光日女:大己貴神娘)子供:天香語山 

佐手依姫(市杵嶋姫・息津嶋姫・日子女神:素戔嗚尊娘)子供:穂屋姫

三炊姫(御炊屋姫:長髓彦妹)            子供:可美真手(宇麻志麻治)兄弟:邇邇芸尊

B呼称:あめのほあかりのみこと     別称:ニギハヤヒ

古事記:「天火明命」 日本書紀:「火明命」

別名:天照国照彦火明命(日本書紀)ーーー天照御魂神

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(日本書紀:神武天皇東征以前に大和で王として君臨

「物部氏」祖と明記。但し天火明と同一神とは明記されてない)

饒速日命(にぎはやひ)と天火明命は同一神と明記してあるのは「旧事本紀」である。

但し、「海部氏本紀」には「饒速日尊亦名天火明命」の記述がない。ところが子供には

饒速日の子供とされている可美眞手命(宇麻志麻治)の名が明記されている。

C尾張氏の始祖。同時に物部氏の始祖(旧事本紀)となっている。

古来尾張氏は、天孫と記紀にも明記されているが物部氏はその辺りがぼかされており、新撰姓氏録にも物部氏は、天神の項に入れられた。現在もこの辺りの議論はつきないようである。

D古事記では天忍穂耳命の子供となっているが、日本書紀ではニニギ尊の子供となっており、一書の記述の中に上記の記述あり。子供「天香語山」となっている。

記紀の記述的には殆ど登場しない人物である。

E各地の天照御魂神社で祭神として祀られている。太陽神



2−2)天香語山命(?−?) 神世ー現世

@父:天火明 母:天道日女

A妃:穂屋姫 子供:天村雲

大屋津姫 子供:熊野高倉下(海部氏系図)

B別名:高倉下(旧事本紀)

C高倉下の神武東征時の熊野の段で登場。神剣「布都御魂」を用いて活躍する話。吉野へ先導した話。など

尾張氏遠祖。

この時に葛木高尾張から愛知県の尾張に移り中部地方に勢力を張ったという説もあるが、実際は「建稲種」の頃からではと言われている。

D新潟県「弥彦神社」祭神。



2−3)天村雲命(?−?)

@父:天香語山 母:穂屋姫

A妃:日向阿俾良依姫 子供:天忍人、天忍男

丹波伊加里姫 子供:倭宿禰(椎根津彦、天御蔭命:海部氏系図)

子供:葛木出石姫(母:伊加里姫?)忍日女(母不明)

B籠神社奥の宮「真名井神社」の創始者。

Cニニギ尊ー火明命ーニギハヤヒ命ー天香具山命と記す系図もあるようだ。



2−4)天忍人命(?−?)

@父:天村雲 母:阿俾良依姫

A妃:葛木出石姫 子供:天戸目

B 結果的に尾張氏本流となる。

C豊玉姫の弟「振魂命」の子供「天前玉命」と同一神とも。

 

・天忍男命(?−?)

@父:天村雲 母:阿俾良依姫

A妃:葛木劔根娘「賀奈良知姫」子供:瀛津世襲(葛木彦)世襲足姫(日置姫)建額赤


・瀛津世襲(?−?)

@父:天忍男 母:賀奈良知姫

A5孝昭天皇の后に妹「世襲足姫」がなり6孝安天皇の外戚的存在となり、孝昭天皇朝大連との記録もある。尾張氏として初めて記紀記述ある。別名「葛木彦」尾張氏祖とされている。



・世襲足姫(?−?)

@父:天忍男 母:賀奈良知姫

A夫:5孝昭天皇 子供:天足彦国押人(和邇氏祖)6孝安天皇

B尾張氏として初めて天皇妃となった。(記紀)



・建額赤

@津守氏(住吉神社神主)始祖。

A妻:葛木尾治置姫



2−5)天戸目(?−?)

@父:天忍人 母:葛木出石姫

A妻:葛木避姫 子供:建斗米 妙斗米(六人部氏祖)  別名:天登米(海部氏系図)



2−6)建斗米(?−?)

@父:天戸目 母:葛木避姫

A妻:中名草姫(紀伊国造智名曽妹)

 子供:建田勢(丹波国造・但馬国造祖) 建宇那比

子供:建彌阿久良(大分国造家)建手和邇(身人部氏祖)建多乎利

    宇那比姫(大倭姫・日女・竹野姫・大海靈姫:海部氏系図)など

・宇那比姫こそ卑弥呼であるとの説あり。

別名:建登米(海部氏系図)



2−7)建宇那比(?−?)

@父:建斗米 母:中名草姫

A妻:節(草)名草姫(城嶋連祖) 子供:建諸隅 

大海姫(葛木高名姫、大倭姫:海部氏系図)

B建宇那比と建田勢は同一人物説あり。

C7孝霊天皇時代の人物か。



2−8)建諸隅(?−?)

@父:建宇那比 母:節名草姫

A妻:諸見己姫(葛植祖大諸見足尼娘)子供:倭得玉彦 

B別名:由碁理(海部氏系図)

C記紀にも記述ある人物。10崇神天皇の命により、出雲の神宝を献上させるため、出雲につかわされた矢田部造遠祖として登場。



・大海姫

@父:建宇那比 母:節名草姫

A夫:10崇神天皇 子供:八坂入彦、淳名城入姫、十市瓊入姫、大入杵など

   この流れから12景行天皇、13成務天皇、15応神天皇、16仁徳天皇に繋がる。B記紀にも記述ある人物。



2−9)倭得玉彦(?−?)


@父:建諸隅 母:諸見己姫

A妻:谷上刀婢(淡海国)大伊賀姫(伊賀臣祖大伊賀彦娘)

子供:弟彦、日女、玉勝山代根古、彦与曽、置部与曽、など

B崇神の御世日子坐王に従い陸耳御笠を討つ。(丹後風土記残欠)



2−10)弟彦(?−?)

@父:倭得玉彦 母:不明

A妻:不明 子供:淡夜別?


2−11)淡夜別(?−?)

@父:弟彦 母:不明

・ここは彦与曽の子供小縫が嗣いだとの系図もある。



2−12)乎止与(?−?)

@父:小縫? 母:不明  父は「建斗米」の子供「建多乎利」とする系図あり。

A妻:真敷刀婢(尾張大印岐娘) 子供:建稲種

子供:美夜受比売(倭建妃:多くの物語伝承あり)

Bこの代から尾張国造家となる。



2−13)建稲種(?−?)                  
@父:乎止与 母:真敷刀婢

A妻:玉姫(邇波県君祖大荒田娘)

子供:尾綱根、真若刀婢(志理都紀斗売)、金田屋野姫

B娘を天皇家に妃として嫁がせ、15応神天皇、16仁徳天皇に繋げる

C丹羽氏は、尾張氏以前に尾張地方を治めていた豪族。この婚姻により、尾張氏がこの地方の実権を握ったと考えられている。

D尾張国熱田太神宮縁起に稲種の出生地は、愛知郡氷上邑とある。死んだのは駿河の海

である。としている。日本武尊の東征に従った。



2−14)尾綱根(?−?)

@父:建稲種 母:玉姫

A妻:不明 子供:尾張弟彦

B別名:尻綱根 応神大臣



2−15)尾張弟彦(?−?)

@父:尾綱根 母:不明

A子供:金、岐閇など

B応神天皇の時、尾治連姓を賜り、大臣大連となった。

・岐閇の子供「草香」の娘「目子姫」が26継体天皇の妃となり、27安閑天皇、28宣化天皇を産んだ。



16)金 17)坂合 18)佐迷 19)栗原 20)多々見
 

2−21)尾張大隅(?−?)

@父:多々見 母:不明

A妻:不明 子供:稲置

B壬申の乱で天武天皇方に味方し功臣となった。尾張宿禰姓を賜り、熱田大神宮宮司。



2−22)稲置(?−?)

@父:大隅 母:不明

A妻:不明 子供:稲興

Bこの代から熱田神宮大宮司家となる。              ←  熱田神宮大宮司家祖

C別名:稲公。



2−32)員職(?−?)

@父:員信 母:不明

A子供:季宗、季員、職子ら多数。

B夢のお告げによりこれ以降は、熱田神宮の大宮司家は娘職子の婿である藤原南家流れの藤原実範の息子「季兼」(1044−1101)に嗣がすことが決まった。これより以降は熱田神宮大宮司家は、藤原姓を名乗ることになった。この流れから、女性経由で、将軍源頼朝、摂関家九条道家など多数の歴史上重要人物が輩出されることになる。

C元々の尾張氏の血脈は絶えることなく続く。但しこれ以降歴史上有名人物はこちらからは出なかった模様。

D大宮司家を最終的に嗣いだのは藤原季範の息子「範信」の流れの「千秋氏」であるとされる。  ←千秋氏

 

3)尾張氏系図

尾張氏系図を先代旧事本紀に準拠して記す。平安時代以降は尊卑分脈、熱田神宮系図などを参考にして繋いだものである。総て公知である。参考として海部氏勘注系図の一部も載せた。系図の形での公知のものは少なく、本系図は、色々な文章記事を参考に筆者が作成したものであり、誤解、間違いがあるかも知れない。その段は、ご容赦願いたい。異説も多数あるので本系図に関しては、筆者創作系図とする。







4)系図解説・論考
 尾張氏の出自に関しては、記紀の神武紀で登場する「高倉下(たかくらじ)」であるであるとされ、系図的には「ニニギ尊」の兄「天火明命(あめのほあかりのみこと)」、又はニニギ尊の子供天火明命が、その父親とされており天孫族であることは明記されている。

これに対し物部氏については、記紀で「ニギハヤヒ」の存在は認めたものの、ニギハヤヒと天火明が同一人物とは記してない。

但し、日本書紀には、「天照国照彦天火明櫛玉饒速火尊」の名前は記されている。

天火明命は、「天照国照彦火明命」と日本書紀に記されている。
確かにそっくりである。
神武紀などの記述などからも、ニギハヤヒは天孫族であると物部氏側は思っていたが、平安時代初期「新撰姓氏録」に、普通の「天神族」として記録されてしまった。

落ちぶれたとはいえ名家を誇っている物部氏一族は反発し、「先代旧事本紀」なる本を出しニギハヤヒと天火明とは同一人物で、そこから発生した「尾張氏」と「物部氏」は同族であると主張した。

「物部氏考」の中でも述べたように、現在ではこの本はそれなりに信憑性ありと評価されており、通常は尾張氏と物部氏を同族として考えている。

ところがここに「海部氏勘注系図」なるものが国宝指定され公開された。

元来この系図は秘系図とされてきたものである。

その理由は色々議論されているが、記紀に記された正規の日本の歴史を、場合によっては否定しかねない事項が記載されてあった、からだと言う説。

記紀編纂時多くの豪族・神社の系図提出が求められが、海部氏は、それを免れた(余りに大和の地から離れていたから?)か、無視されたか、写しをとったのかは判然としない。
旧事本紀が参考にしたであろうと思われる尾張氏元祖付近の古系図か、その写しの類を有していた模様である。

この系図は、物部氏については何ら記載がないので、海部氏(尾張氏)だけのものである。

旧事本紀は、この原典と、物部氏側に伝わっていた物部氏系図を併せて記録したものであろう。と考えられている。

それ程この2者の系図は似ているのである。細かくは色々異なる。これは後述する。

旧事本紀の方は、神世、天皇家、も含め体系的に記されているので、筆者は基本はこれに従うものとする。

但し尾張氏側に立つ人は、現在も物部氏との関係を否定するとのことである。

神社関係者の間では色々利害が関係するのだろうか。

いずれにせよ「天照御魂神社」は本式には、ニギハヤヒを祀っていないらしい。

「2天香語山」は一般的には、「高倉下」と同一人物と考えられている。
ところが「海部氏勘注系図」では、高倉下は、天香語山の子供とされている。

高倉下は神武紀に登場する人物であり、色々年代などを推察する上で興味ある事項らしい。

「3天村雲」辺りから神世を離れたと考えれば良いと思うが、勘注系図でも旧事本紀でも登場する各人物の妃が、出雲神話の世界の人物ばかりである。
一人「三炊媛」だけが大和の媛である。

これは一体何を暗示しているのか。

天村雲の妃に日向出身の人がいるが未だ神世の名残なのか。

この後数代が、旧事紀と勘注系図は異なる。筆者の調査したところでは、尾張氏系図としては、一般的には旧事紀の方が認知されているようである。

海部氏系図では、急に倭宿禰(椎根津彦)が登場することに違和感がある。前述したように、倭宿禰は記紀にも登場する人物であり、一般的には「倭氏又は大倭氏」と呼ばれている。神武紀に登場するし、系図も公知のものがある。

さらなる検討がいるであろう。

次ぎに記紀に登場するのは「瀛津世襲」と「世襲足姫」兄妹である。

欠史八代5孝昭天皇の后として、突如尾張氏の娘が登場するのである。

それまでは磯城氏系の妃が沢山名を連ねていたのに、何故ここで尾張氏なのか。

この時兄瀛津彦は「葛木彦」と呼ばれ5孝昭天皇の大連となったと旧事紀には記されている。

この媛の流れから「和邇氏」が発生し「彦坐王」が出ることになる。

明らかに王朝の女系統の流れがここで変わったとされている。

ということは王朝のパトロンが替わったことを意味しないか。
又別稿でこの辺りは触れることにするが、尾張氏はこの時はこちら(天忍男流)が本流であったと思う。

事実葛木彦のことを尾張氏祖と記紀では記している。

参考であるが葛木彦の弟とされる「建額赤」の流れから住吉大社宮司家「津守氏」が産まれる。
この系図も詳しいものがある。

その意味では物部氏は石上神宮、尾張氏は熱田神宮、津守氏は住吉大社、海部氏は籠神社と現存する大きなお宮こそ超長寿命血脈が残されたと考えられる。

政治権力を握った者は、どこかで必ず滅ぼされた。そこから一寸はずれたところで血脈が保たれているようである。

尾張氏は、この時代「葛木高尾張邑」付近にいたものと思われる。いつ頃までいたかは意見が分かれるらしい。(海部氏は、丹後半島に拠点があった)

この系図で天忍男の妃とされているのは劔根娘であるが、「劔根」は、本シリーズ「葛城氏考」でも記したが、記紀神武紀で「葛城国造」とされた人物である。

同じく神武紀で「倭国造」とされたのが前述の「倭宿禰」である。何故この2人だけが国造に任命されたかは定かでない。

海部氏勘注系図のように、この倭宿禰がもし尾張氏(海部氏)だとすると、記紀系図はかなり変わったものになるのではないか。

「椎根津彦」と「宇豆毘古」は古来同一人物とされている。

宇豆毘古は、大倭氏祖であり、吉備海部直祖となっており、記紀に登場する「市磯長尾市宿禰」(崇神天皇により「倭大国魂神」を「大和神社」に祀ったとされる人物)の祖に位置づけられてきた。

「豊玉毘売」の弟「振魂命」の息子に「武位起命」がおり、その子が「宇豆毘古」とする系図が公知である。

武位起の兄に「天前玉」という神がおり、これが「天火明」と同一人物とされている。

非常に近い関係が見えてくるが、一寸合わない。

しかし、吉備海部直祖となっており、何かしら海部氏と倭氏が関係していたことは窺える。ここいらも今後の検討が進められることを期待したい。

旧事紀と海部氏系図はこの数代が異なる。

「建田勢」と「7建宇那美」は同一人物とも言われているようなので、次ぎの「8建諸隅」では両者は合致する。

その妹に「大海姫」という記紀にも登場する女性がいる。

この媛はその後の天皇家では非常に重要な位置にいることが分かる。

記紀にも登場する「13建稲種」娘らと大海姫の血脈を引く皇族が複雑に絡んで15応神天皇の子供「16仁徳天皇」を産んでいる。

この系図を信じれば、仁徳天皇の半分は尾張氏の血である。     ←仁徳天皇の半分は尾張氏

ところが、この時尾張氏が政治の表舞台に出た形跡はない。

仁徳天皇の時、前述葛城氏が政治の表舞台に急遽登場するのと対照的である。

「12乎止与」の時、尾張氏は「尾張国造」となったとされる。

この子供が「ヤマトタケル尊」と結ばれる「美夜受比売」である。

この時「草薙劔」が登場する。この草薙劔を神宝として美夜受媛が祀ったのが熱田神宮の始まりとされている(景行天皇の時代)。

「13建稲種」の時には、尾張国を手中におさめている。

但し尾張国へ居住してたかどうかは不明。

少なくとも建稲種の娘等は皇族と婚姻関係にあり大和にいたと考える方が妥当。

「熱田神宮宮司」とはっきり記されたのは、ぐっと下って「21尾張大隅」辺りからである。(熱田神宮系図でもそれ以前不明)

建稲種以降は海部氏系図と尾張氏系図は大きく異なってくる。

恐らくこの辺りで海部氏と尾張氏が分離したものと思われる。

ここまでを海部氏とするか尾張氏とするかは、見解が分かれるところだが、常識的には尾張氏で良いと判断する。

さてこれ以降は、尾張氏が歴史上登場するのは、「尾張草香」の娘「目子媛」である。

26継体天皇の妃として急に現れる。           ← 継体天皇妃

尾張本流では18佐迷・19栗原辺りである。

「15尾張弟彦」が応神天皇時の大臣だったとの旧事紀の記述は、時代的にはほぼ整合性ありである。

「壬申の乱」に尾張氏は天武天皇方に味方し、その功により「尾張宿禰姓」を賜り、この頃から熱田神宮の宮司、大宮司職に就いた模様である。


それまでは何氏がやっていたのだろうか。

以後平安時代も延々と宮司を続けるが、「32員職」の時、娘婿である藤原南家の「季兼」に大宮司職を譲り以降は大宮司家は、藤原氏を名乗った。

この流れは日本の歴史を替えることになる。

系図に示したのは、ほんの一部である。
歴史上の重要人物が、関連系譜に次々登場してくるのである。

その筆頭が「源頼朝」である。この熱田神宮大宮司の娘なくして頼朝の出世も鎌倉幕府の成立も無かったとされている。

それ程この藤原氏の威力があった訳で、これは従前の尾張氏では、望むべくもなかったこととされている。

尾張氏嫡系もその後も存続したことは事実。

熱田神宮大宮司家は、「藤原範信」の流れが「千秋氏」と名乗り、存続した。

ここまではオーソドックスな解説である。



何しろこれだけの人物が記録されているが、公式記録上で、その生没年が分かる人物が一人もいないのである。

それほどこの氏族は、マイナーな氏族だったのでしょうか。

最近、丹波王国説、邪馬台国丹波説、などが提案され、色々な発掘調査の成果も出てきて、丹波、丹後、若狭、但馬付近が賑やかになっている。

丹後半島には大型の前方後円墳が発掘され、この付近が並のレベルでない文化、経済の中心があったものと推定され始めている。

ここに登場する人物が、卑弥呼、壹与、由碁理、彦坐王、丹波道主、日葉酢媛、天御蔭命彦湯産隅命、豊受大神、素戔嗚尊、大国主など古代史を賑わかす、面々である。

これが、前述の国宝「海部氏勘注系図」の公開を契機に、過去に推定された人間模様を書き直さざるをえないような、展開が始まっている。

例えば、尾張氏系図に「6建斗米 」の子供として記されている「宇那比姫」こそ「卑弥呼」であり、崇神天皇妃「大海姫」又は開化天皇妃「竹野姫」は卑弥呼宗女「台与(とよ)」であり、「8建諸隅 」が「由碁理」である。

など籠神社の系図に付されている説明が匂わせている日本古代史の秘部(これがあるから秘系図とされたらしい)が、大きな波紋を投げかけているのである。

これら文献と各種の発掘調査の照合が楽しみである。

ひょっとすれば「卑弥呼の墓」が丹波・丹後で見つかるかも知れないと期待しているマニアもいる。

専門家は未だ正式見解を出していない。

筆者はこれらの新説に関しては、未だ勉強不足でコメント出来るレベルにないのであるが、

敢えて海部氏系図に準拠した筆者創作系図を参考系図3)として載せた。

理解不足があることはご容赦願いたい。

これについて解説したい。

@旧事紀と先ず異なるのが、天村雲の子供で「伊加理姫」との間に出来た「倭宿禰」を海部氏の3代目にしていることである。

倭氏と海部氏が関係ありそうなことは記紀からも想像出来るが、余りに直接的なのに驚いている。

これが数代後から旧事紀の尾張氏と同一人物に繋がる訳だから、難解である。

「建田勢」と「建宇那比」は同一人物との説もあるので、この辺りでどちらかが猶子相続したのではなかろうか。

「伊加里姫」は、日本書紀神武紀に登場する吉野首祖「井氷鹿」と関係していることは間違いない。

井光、伊伽利、猪刈など色々な記述であるが、皆同一。

舞鶴市「笠水神社」が丹後にある、その本拠地のようである。

吉野にも「井光神社」があり、どうもこの両地は、水銀採掘の関係で結ばれているようである。

笠水神社は、倭宿禰の子供「笠水彦」を祀ってある。(この辺りの筆者の調査不十分)

伊加里姫の娘が葛木出石姫(角屋姫)であり、天忍人の妃であり、以後の旧事紀でいう尾張氏となっている。

また倭宿禰の亦名を「天御影命」としている。

これは理解出来ない。「天御影神」は古来その出自がよく分からないが、これでは神武紀辺りになり参考系図4)に示した息長水依比売の父と余りに時代が離れ過ぎている。

何を意味するのであろうか。



尾張氏の本当の本流は、倭宿禰・天忍人どちらか不明。
少なくとも海部氏は、倭氏本流と主張するであろう。


海部氏と尾張氏は同祖であるが一緒になったり離れたりしているのかもしれない。

尾綱根以降は間違いなく別々。


A「笠津彦」の子供か、建斗米の子供かは、分からぬが建田勢(建宇那比)の妹に「宇那比姫」がいる。

この姫が「卑弥呼」に比定されるとの説がある。        ←  卑弥呼

旧事紀には、名前だけしか記されてないのでよく分からぬが、海部氏系図では多くの亦名が記されており、これが邪馬台国女王「卑弥呼」を匂わせているわけである。

B「建諸隅」は亦名「由碁理」と記されており、この名は記紀共に記述あり。

開化天皇妃竹野姫の父としてである。

となると2)系図のような流れが考えられるが、4)一般記紀系図に示したように「丹波道主」は彦坐王の流れであるとの説もある。

C由碁理の妹又は従妹と思われる「大倭久邇阿禮姫」が記されている。

記紀とはこの姫の出自は異なるが、孝霊天皇の妃となり、「倭迹迹日百襲姫」を産んでいる。

この姫も「卑弥呼」に比定されている人物の一人である。    ← もう1人の卑弥呼

D前述の「竹野姫」にも多くの亦名が記されており、魏志倭人伝の「台与」であることを匂わせている。

E「丹波道主」は記紀では有名人である。

その妃として記紀では「丹波川上摩須郎女」と記されている。

海部氏系図では、倭得魂の亦名を「川上麻須」と記してある。

よってこの人物の妹又は娘が「麻須郎女」である。

この間に産まれたのが有名な「日葉酢姫」であり、垂仁天皇の后となり12景行天皇を産んだとなる。

F記紀及び旧事紀には、「建諸隅」妹とされる崇神天皇妃「大海姫」は海部氏系図では分かりにくいが、倭得魂の子供と判断して本系図を作成した。

建諸隅の子供かも知れぬ。妹ではなさそうである。

建諸隅は記紀登場人物である。

G「川上麻須」の流れに「建振熊」なる人物が登場する。

この人物は「難波根子建振熊」と同一人物ではないのか。

記紀では「和邇氏」の大人物として活躍している人物である。

どうもこれと重なる。

勿論この人物は尾張氏系図には登場しない。難解である。

以上のようなことが記された系図が、国宝として認定されたのである。

これをそのまま見ると邪馬台国丹波説または大和説になる。

いずれにせよ、この頃大和と丹波は非常に密な関係があったことが窺える。

記紀が隠したとされる、「魏志倭人伝」記載の邪馬台国・卑弥呼・台与などの記事。

倭氏の本当の出自。それに「彦火明」に関する事項(記紀ではほとんど記述なし)など、持統天皇・不比等などには都合の悪いことが書かれてあったのであろうか。それとも海部氏が公開することを憚った、もっと日本の歴史を覆すような事項が記録されていたのであろうか。未だ筆者などにはその本当の真相は理解出来ない。

 最後に、古代氏族である、尾張氏・津守氏・海部氏・伊福部氏・掃部氏・安曇氏・倭氏・大倭氏・吉備氏・賀茂氏・葛城氏などは、古い時代血脈が繋がっていると考えていることを付け加えたい。

         ↑
     古代豪族はみんな親戚


それが後の歴史上で微妙に影響していると思わざるをえない。

逆にあれ程同族を主張している物部氏が、尾張氏と婚姻も含めた具体的な、明確な関係を何故持たなかったのか、が不思議である。


・筆者の主張                筆者の結論

@尾張氏は、天皇家・物部氏と変わらぬ歴史・系譜を有する古代豪族である。

A尾張氏は、天皇家を除けば最も長い系図を残している古代豪族である。

B尾張氏は、天皇家と婚姻関係(天皇妃などの供給)を通してその時代毎に重要な役割を演じてきたことが窺えるが、尾張氏自身が歴史の表舞台に出ることは決してなかった。

C尾張氏と海部氏は同祖ではあるが、その居住地の関係がはっきりしない。尾張氏は、葛木高尾張邑出身で乎止与・建稲種時代には尾張国を掌握していたと思われるが、そこに居住していたかどうかは不明。

D尾張氏(海部氏)の祖が「魏志倭人伝」の「邪馬台国」に関係していたかどうかは不明。未だ史料不足。今後の発掘調査との整合必要。

E国宝「海部氏勘注系図」が、従来からの日本史に何等かの変更を迫るインパクトを与えていることは間違いない。



参考文献

・「古代物部氏と先代旧事本紀の謎」 安本美典 勉誠出版(2002年)

http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon

http://hw001.gate01.com/sangatu/tango.htm

など
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月25日 10時04分35秒 ) パスワード

http://messiah666.seesaa.net/article/197756107.html

2011年04月28日


獣の神武西征伝説(2011.4.21-4.23)

3月23日から「アカシックの修復」について書き始め、
神武天皇に関する記事を書き終えたと同時に、
神武天皇(イワレヒコ)をなぞって熊野から大和に入り、
真の神武天皇であるニギハヤヒが葬られた三輪山に登りたいと思った。

4月4日には、マクモニーグルが透視した卑弥呼の話について書き、
「封印解除によるアカシックの修復が必要である」という内容の日記を書いた。


中略


ヤタガラスとは、天照大神(獣)の御使いである。
いつから獣(ブログ主)が天照大神になったのだと思う人がいるかも知れないので、
一応再説明しておこう。


自叙伝にも書いたが、獣は29歳の時、天照大神の生命体を導入し、
その日から天照大神となった。

その後、雷(スサノオ)が宿ったのだが、スサノオも天照大神である。

スサの王となったアレクサンドロスは、エジプトでファラオに即位する時、
太陽神アメンの子を名乗ったが、その前に太陽神の御使いである
3本足のカラスに先導されている。

    そうなの?



つまり、スサノオは天照大神であり、スサノオ(フツシ)の後継者である
ニギハヤヒも天照大神なのだ。



但し、これは「多次元同時存在の法則」とは全く意味が違う。
「多次元同時存在の法則」が如何に暴論かは、度々説明している通りだ。
「多次元同時存在の法則」を真に受けている人が多いが、
これを信じる人が多くなれば「アカシックの修復」は難しい。


次に、熊野本宮大社旧社地・大斎原に寄った。
http://messiah666.seesaa.net/article/197733687.html

そして、熊野本宮大社に登った。
http://messiah666.seesaa.net/article/197741685.html


そこで、謎の赤い光が写真に写り込んだ。


これは太陽光の加減ではなく、陰性の低級霊でもなく、
赤を象徴とするスサノオ(ルシファー)のエネルギーである。



ルシファーを本尊とする玉置神社に行った。
http://messiah666.seesaa.net/article/197815889.html


大和入りにあたって、世界平和と神恩感謝の祈祷を受けた。


次に、天の川沿いにある天河弁財天に立ち寄った。
http://messiah666.seesaa.net/article/197827618.html

次に、我が社である八坂神社に立ち寄った。
http://messiah666.seesaa.net/article/197828875.html

次に、丹生川上神社下社に立ち寄った。
http://messiah666.seesaa.net/article/197864905.html

そして、先日、鬼将軍が行ったという吉野山に登った。


吉野山には社寺が点在するが、全てを巡幸する余裕はなかった。


まずは、後醍醐天皇の吉野神宮に立ち寄った。
http://messiah666.seesaa.net/article/197868414.html

次に、吉野山の中心である金峯山寺に立ち寄った。
http://messiah666.seesaa.net/article/197875340.html


金峯山寺の初代は天海和尚らしい。
「天海和尚=明智光秀」があるが、ある人がそれを研究している。
ある人とは、ユダヤ研究のパイオニアの右腕で、
実際には共著で本を出版しているらしい。

その人と御父が今一緒に仕事をしていて、神仙組も読んでいるらしい。


だが、神仙組には、そのユダヤ研究家のことを高く評価していない。
「○○氏はこのように述べているが、それは明らかにおかしい」とか書いている(笑)
で、獣に興味を持ち、「息子さん(獣)と会わせてくれ」と言われているそうだが、
外見の問題で御父が接触させてくれない。

御父は「お前はその髪の毛のせいで損をしている」と言うが、
向こうは「会わせてくれ」と言っている訳だから、
獣に損をさせているのは御父以外の何者でもない。


で、「天海=明智光秀」について、獣がどう思うか聞いてくれとの事で、
次のように答えた。

「天海=明智光秀」説は否定しないと同時に、「千利休=明智光秀」説もある。
千利休は秦氏で忍者だったという説もあり、            ← 初耳
家康との関係、
そして王仁三郎が説く内容を総合判断すると、「天海=明智光秀=千利休」だと答えた。

それを聞いた御父は「それは違う」と全否定して、話は終わった(笑)
御父は学歴のある人間の話は信じるが、獣の話をまるで信じない(笑)
獣から言わせれば、学歴のある研究家は視野が狭くて柔軟性に乏しい傾向にある。


談山神社に立ち寄ったが、閉まっていたので外から参拝した。
http://messiah666.seesaa.net/article/197966439.html

談山神社は藤原氏の祖である藤原鎌足が祀られているが、
獣姓も藤原直純という瀬戸内海を支配した海賊の支族だという。

また、聖母の御父の家系も四国の舟奉行(海賊)だったという。
知り合いの霊能者にそのような話は一切していないのに、
聖母は次のように言われたという。

「あんたの父親の家系と旦那の家系は深い因縁で結ばれとる。
それで、両家の武家因縁を長男の獣が全部背負っておる」

もちろん、獣は先祖カルマの解消もほぼ終了しているが、
宇宙カルマは万民共有であると同時に、全責任は獣にある。
藤原氏も物部氏を封印した勢力だが、当然ながら獣の責任だ。


そして、鳥見山に行ったが、いくら探しても入口が発見できずに2日目は終了。

三輪駅の近くの天理教敷島大教会と通った。


そして、三輪山の麓に近い宿に泊まったが、
この日も次々と料理が出て来て暴飲暴食をしてしまった(笑)


食事をすると高次元と意識の波長が合いにくくなるが、
獣には必殺の神霊術があるので、この日も感謝しながら食事を摂り、
刺身やカニ、卵(茶碗蒸し)、お茶などの厳禁食品も食べた。

獣にとっては量が多過ぎて、まさに食事が「我が闘争」だった(笑)
だが、それも運命で決まっていたことだと思って受け入れ、
嘔吐や下痢もなく何事もなくて済んで良かった。

3日目の朝、日本で最高位の石上神宮に参拝に行った。
http://messiah666.seesaa.net/article/197979650.html


石上神宮は獣に宿る霊的祖先が祀られている神社で、
「スサノオ=ルシファー」、人間界では「スサノオ=反キリスト」である。


ここは石上神宮の横の田んぼ道だが、
向こうに見える一連の施設が天理教である。

残念ながら石上神宮では何も感じなかったが、
この田んぼ道で白い幽霊を目撃した(笑)

そして、天理教の会館を通過したが、凄過ぎて絶句した(笑)


この辺り一帯は古墳だらけだが、
この森のようなものを見た瞬間に「箸墓古墳」だと思い、
後で地図で確認すると正解だった。


さて、獣の大和入りの目的は神武天皇(イワレヒコ)の再現だったが、
真の目的は三輪山に登る事でもあった。

だが、朝から雨が降り、三輪山は山全体が濃霧に包まれていて、
三輪山はその姿を完全に隠していたので撮影できなかった。

朝から雨が降っていて、天気予報でも雨だったが、
獣は雨が止む確信があり、三輪神社に到着すると晴れてきた。
これを「天皇晴れ」という。


大神神社の御神体が三輪山で、アリオンによると、
三輪山は円錐形のピラミッドで、ニギハヤヒが葬られているという。

獣の研究の結果、三輪山は縄文人が建設した人工ピラミッドで、
縄文時代から山岳信仰・磐座信仰が栄えていた。

そこに日向族の一派が三輪王朝を樹立していた。

「三」は日向族の象徴で、ニギハヤヒに仕えたナガスネヒコも日向族で、
ニギハヤヒと結婚したナガスネヒコの妹の名前は「三炊屋媛」である。



厳密な話をすると、当時はまだ「ヤマト」という地名はなく、
ニギハヤヒは三輪王朝と出雲王朝の連合大王になったのである。
その地に大和王朝が樹立されたのは、ニギハヤヒが崩御した後、
イワレヒコが「神武天皇」として即位してから以降の事である。

大和を「ヤマト」と読むのは完全に読めない当て字だが、
恐らく秦氏がアラム語の神の民「ヤ・ウマト」を地名にしたのだろう。

      ヤマトとは 秦氏がアラム語で 神の民=ヤ・ウマトを地名に




そして下山し、中腹の磐座で再びニギハヤヒに挨拶をした。
だが、何故か啓示のようなものが全く降りて来ない。

連日の暴飲暴食のせいだろうか…と思っていたが、
地上に降臨するまでの間に泉の如くインスピレーションが湧き出てきた。

あまりの量の多さに内容を覚え切れなかった(笑)

要点だけは覚えているが、それは「言霊」に関する事だった。


『日月神示』の言う「一厘の秘密」が言霊だが、
アリオンによるとアマ族は「言挙げせぬ民」だったという。

獣はその意味(霊体一致=内外一致)をほぼ完全に理解し、
既にそれを理解して活用していた事を知らされた。

それが5次元の入口から入る内宇宙での超神道の神霊術だが、
その時に閃いた数々の叡智は、記憶が蘇り次第、記事にしたい。

ニギハヤヒが最初に降臨したのが「鳥見の白庭山」だった。

だが、この日もナビや地図を駆使しても鳥見山の登山口がなかなか発見できず、
人に聞いても墓地に辿り着いたり、人が通れない茂みで行き止まりを食らった。
墓地では黒い霊の姿を目撃した。

どうやら獣は招かれざる客のようなので、鳥見山に登るのは諦めようと思い、
鳥見山麓の等彌神社だけ参拝する事にした。

ところが、地図通りに行っても等彌神社を発見できず、
鳥見山の周囲を何周も回っても、
狐か狸に化かされているかのように等彌神社に辿り着けなかった。

ようやく等彌神社を発見すると、雨が降ってきた。

等彌神社に鳥見山の登山口を発見して登り始めると、大雨になってきた。
マクモニーグルによると、卑弥呼も鳥見山に居城を構えていたという。
だが、マクモニーグルが透視する卑弥呼は「魏志倭人伝の卑弥呼」ではない。


魏志倭人伝の卑弥呼は、アリオンの言う「アマテラス」で、
スサノオと政略結婚をさせられた日向族の娘である。

           ↑
         卑弥呼2人
           ↓

その事は歴史言語学者の加治木説とも一致し、
マクモニーグルが透視する卑弥呼の正体は、恐らく「下照姫」である。



下照姫はアマテラスの後継者で、日向族の女王であり、「ヒミコ」という
肩書きを継承していた可能性はあるが、どうしても附に落ちない事がある。

それは、ニギハヤヒのみならず、「邪馬台国」や「卑弥呼」の名前も
『記紀』から抹消され、その存在が隠蔽されている事である。


京都を山城国と言うが、平安京遷都プロジェクトの黒幕が秘密結社
「山背(やましろ)派」で、飛鳥説によるとその黒幕は秦氏だという。

うずまさに「太秦」という漢字を当てたりするところを見ると、
やましろに「山背」という当て字をする連中は渡来人である可能性は高い。



通常、やましろは「山代」と書くが、何故「山背」と書くのか……。
山代は「やまだい」とも読める。

つまり、山背派は邪馬台国の影の支配者の末裔であり、
彼らは自分たちの出自と正体を隠しているのだ。

それは秦氏そのものではなく、アマテラス(卑弥呼)の義弟たちである忌部氏で、
後に渡来した秦氏と同盟を結んだ事で同族となったと考えて良い。
                   ↑
               新勢力秦氏と忌部氏


アリオンは「アマテラスの義弟たちは四国に潜伏した」と言っているが、
それがまさに四国に根付いている忌部氏である。


だが、忌部氏は四国だけに根付いている訳ではなく、
鳥見山の近くにも「忌部」という地名がある。

彼らは常に邪馬台国(日向族)の影の支配者であり、
マクモニーグルが透視する卑弥呼(下照姫)も背後から操っていたに違いない。

彼らは日向族の影の支配者ゆえに、日向国から東征(実際には東遷)に来た
神武天皇(イワレヒコ)とも同族である。

               ↑
            忌部氏と神武天皇



            ヤタガラスとは秦氏
               ↓

その時、イワレヒコの大和入りを導いたヤタガラス(秦氏)が、
忌部氏が、同じ祭司集団「レビ族」として結託したと考えられる。
故に、山背派の裏の裏の真の黒幕は、
アリオンが「真の闇帝王」と呼ぶ忌部氏であろう。


改竄され、隠蔽された歴史の記録、及びその人々の認識によって、
誤った過去が形成されている。
過去・現在・未来の同時存在の法則からすると、
その誤った記録の過去は現在進行形で実在する事になる。


そこで「アカシックの修復」が必要となるのだ。

獣が鳥見山に登った目的は、まさに「アカシックの修復」である。
アカシックの修復の過程に於いて、今まで隠されていた物事が噴出する。
鳥見山の登山口の発見に苦労した事や、大雨に見舞われたりしたのは、
獣の侵入(アカシックの修復)を阻止する霊的な力
(真の闇帝王の呪い)が、働いていたからだと思われる。
だが、今回の獣は神武天皇(イワレヒコ)の再現でもある。

鳥見山は、神武天皇(イワレヒコ)が皇祖天神を祀った山でもある。


そして、獣は鳥見山で即位した(笑)
続きは下記ページをご覧いただきたい左斜め下
http://messiah666.seesaa.net/article/198009349.html



その後、橿原神宮への道程も難航したが、
「右後ろに行け」という啓示を受け、その方角に向かうと橿原神宮に出てきた。
で、入口は左だというインスピレーションを得て左に曲がると入口があった。
http://messiah666.seesaa.net/article/198015030.html


次に神武天皇陵に向かったが、
この時も真っ直ぐ行けば左手に見えてくる事が分かった。
どうやら、イワレヒコは獣の即位を認めてくれたようだった。
http://messiah666.seesaa.net/article/198016242.html


だが、獣の即位は、単なるイワレヒコの即位の再現ではない。
イワレヒコは東征して大和入りしたが、
獣はイワレヒコの合わせ鏡のように西征して大和入りした。

そして、獣は真の神武天皇である「ニギハヤヒ」として即位したのである。
この雛型経綸は「反キリストの任務」であり、
非常に重要な意味を持つ型示しだったと思っている。


次に、神武東征を導いたヤタガラスの本拠地(葛城王朝)で、
京都の上賀茂・下鴨神社のルーツである鴨都波神社と高鴨神社に降臨した。
http://messiah666.seesaa.net/article/198021075.html
http://messiah666.seesaa.net/article/198023132.html


高鴨神社と同じ葛城王朝を更に登っていくと、
高鴨神社の宮司が兼務する高天彦神社がある。
尚、高天原を「タカマガハラ」と読むケースが多いが、
『日月神示』によると正しくは「タカアマハラ」で、
言霊的に重要なので正しい読み方をして頂きたい。


神話ではスサノオが高天原で反乱を起こして追放されたが、
ルシファーが天界で反乱を起こして追放されたエピソードと符合する。
ところが、スサノオは地上でヤマタノオロチを退治する。



これを聖書に対応させると、スサノオはルシファーを倒したミカエルとなり、
ヤマタノオロチがルシファーという逆転現象が起きる。

更にこれは予型になっていて、黙示録の終末予言で同じ事が繰り返される。
この「善悪逆転」を理解する為には、神仙組2を読むしかない。



高天原に降臨するも、残念ながら天照大神は不在だったが、
この地にタカミムスビを祀る神社に降臨したことで、
真の闇帝王の実像が浮き上がり、歴史の流れを読むことが出来た。

こんな凄い話を知る事が出来るブログは他にないであろう左斜め下
http://messiah666.seesaa.net/article/198163263.html


そして地上に堕天、いや、降臨する時に地上の風景を撮影すると、
雲には隠れているが、天照大神が獣の訪問を祝福してくれていた。

尚、雲に隠れた太陽は「出雲の天照大神=ニギハヤヒ」を暗示する。


ニギハヤヒは天の磐船で斑鳩に降臨した後、鳥見の白庭山に遷った。
それに対して、獣は鳥見山で即位後、ニギハヤヒ降臨の地に訪れた。
その地を記念して建立された磐船神社が獣の西征の最終地点だった。
http://messiah666.seesaa.net/article/198196708.html

ニギハヤヒは、そこに流れる天野川を下って来たのだろうか。



平城京から平安京に遷都した桓武天皇をなぞっているかのようだ。
この時の遷都の黒幕は山背派、即ち「ヤタガラス」だが、
獣も引き続きヤタガラスに先導されて京都入りを果たした。
         ↑
     ブログ主の友人のこと
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月25日 10時14分50秒 ) パスワード

重くなって来たので新しくスレッドを立ててくださいね。
[76]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月25日 16時45分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日・明日とイベント関係でバタバタしております。

 頭脳天気予報曇りです。早く快晴にしたいと思っております。


 情報量が多いのと諸説ありで、一定の納得状況までたどりつくのに時間

がかかりますね。1つの仮説で180°根底から変わってしまいますもの

ね、古代史は。聖徳太子、秦氏、藤原不比等、忌部氏、賀茂氏・・・ある時

は被害者(?)、ある時は加害者(?)・・・いったい本当のところは?


 情報を整理し、自分なりの判断をして行きたいと思っています。

 とりあえず、本日はこれにて。


 「長上郡の服部氏族X」のスレッドを追加しましたので、次回からはそち

らでお願いをいたします!

                          丸に三つ柏の服部
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.