[1] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月14日 09時37分47秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
昨日の調査進捗状況をお伝えいたします(^・^)
(あまりにも沢山の情報が登場してまとめる事が出来ずにいました)
まず、こちらの記述をご覧ください
球磨郡誌 - 130 ページ より googleブック検索
右衞鬥蒹・は良岑大納言安世の後裔平川師澄(師澄の遣筠は本文五八頁釋迦岳にあ寺井、(佐贺郡新北村か未詳)、等の各地を領するに及び相良氏の. ... 中衛の諸村(未祥)豊前國菊郡(企救郡か未詳)肥^の國相真全領地兹に於て相良の領は、肥後球麻 ...
★平川師澄・・遣筠?が釋迦岳にあ寺井、(佐贺郡新北村か未詳)、等の各地を領するに及び・・
釈迦岳・寺井・佐賀郡新北村
そこで今回、上記の情報以外にも
@弓削田貞行は田川の弓削田庄の地頭であった可能性がある
A筑前・筑後・豊前・薩摩 などに関係性を疑う情報が残っている
これらの事を踏まえ、調査範囲を九州全土に広げて、まず「師澄」の痕跡をさがしました。
すると
藤原氏族系図 - 52 ページ より
直澄より幸澄にいたりて六代の間常陸国に潜居し、平氏となりて相馬を称し、家紋も繋ぎ馬を用うという。註当社刊桓武 ... 同清漫へき師澄に作る。左衛門太郎。 ... ここに於て直澄従五位下、遠江権守に叙任し、肥後国藤これを上御霊社に併祀す。且詔して其族 ....
★直澄より幸澄にいたりて六代の間常陸国に潜居
★平氏となりて相馬を称す
★清漫へき師澄に作る。左衛門太郎
★直澄従五位下、遠江権守に叙任し、肥後国藤これを上御霊社に併祀す。
直澄・師澄・幸澄 という人物を手掛かりすると・・解りました
「藤原純友」に繋がっています。
日本の苗字七千傑様の【藤原氏長良流】姓氏類別大観 を拝見しました
純友 → 諸純 → 直純 → 師純 → 永純 → 清純
そして、こちらは「有馬氏」と「大村氏」に繋がっています。
★有馬氏は、以前、「平川家について10-1」コメント10でご紹介した、実家近くの庚申塔に「有馬」の名が残っていて、何故?ここに?と・・
ただ、最初にご紹介した 「藤原氏族系図」との記述とは若干異なるようで、こちらでは「常陸国に潜居し、平氏となりて相馬を称し」となっています。
九州中世社会の研究より
長谷場三氏は、それぞれ直澄が大村、高来、鹿児島に来住したとする系譜を作成してしたその庶家であることが明らかにされている。 ... なお「長谷場系図」は直純について、直澄―師澄―永澄―清澄ー行澄―経澄―朝澄としているが、『長谷場系譜』はややこれと ...
島原半島戦国史: 高陽史譚
本郡が大村氏の治下に磨せしこ亡を盃詔せん亡するものあり 0 夫に就ての解詑は後に譲る。大村氏は直澄の後を子師澄緯ぎ、師澄の後は永澄。清澄。娃澄等子孫相博へて幸澄に至る。大村氏家系藤原鎌足|不比等|房前|其楯|内麻呂|冬嗣|長良|遼網|良範コ.
しかし
寛永諸家系図伝: 索引を見たのですが
「有馬氏」「大村氏」それぞれに「師澄」の名は記述されていませんでした。
「師澄」この方はどこに行かれたのでしょうか?
藤原純友 寛平5年(893年)? - 天慶4年6月20日(941年7月21日))
系図で言うと「師純(師澄)」は曾孫にあたります。
平河の「師澄」が球磨の記述に登場したのが1063年。
平河の「師澄」と関係はないのかもしれませんが
九州全土に「師澄」の調査を広げた結果、「藤原純友」の曾孫「藤原師澄」
この方の情報がありました。
ただ、最初にご紹介した
平川師澄・・遣筠?が釋迦岳にあ寺井、(佐贺郡新北村か未詳)、等の各地を領するに及び・・
★佐賀県です・・・?
そして、昨日は、平河の系図にあった「貞時」についても調べたのですが、偶然かもしれませんが、「藤原純友」と同じ時代に生きた別の方へ繋がっていきました。
では<(_ _)>
[2] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月14日 10時51分49秒 ) | パスワード |
追記
あの・・・・・記憶がよみがえりました。
私は、子供の頃、俳優の「緒形拳」さんを先祖様と勘違いをしていた時期がありました。(笑わないで下さいね(+_+))
だから、「緒形拳」さんはずっと大好きでした。
勘違いをした理由は、その当時、ずっと祖母と見ていた大河ドラマです。
祖母は「このドラマには○○(私)の先祖様が沢山出ているとよ」と言ってなにやら難しい事を教えてくれました。(内容は残念ながら覚えていません)
そして、何方かに対して「○○(私)の先祖様よ」と教えてくれました。
何方かの役に対して「先祖様」と祖母は言ったのに私は勝手に「緒形拳」さんが先祖様と勘違いをしたのでしょう。
ドラマの内容は全く覚えていません。(多分、小さすぎて解らなかったのだと思います)
中学生くらいの時から、はたまた、思い違いをしてそのドラマを「平家物語」と思っていました。
そして、その記憶さえ完全に忘れていたのですが・・
ウィキの記述を読んでいて、はっきりと記憶が蘇りました。
その大河ドラマのタイトルは「風と雲と虹と」です。
「風と雲と虹と」というタイトルを見つけた時には何故か懐かしくて嬉しくて涙が出てきました。
そして、「風と雲と虹と」で「緒形拳」さんが演じたのは「藤原純友」です。
(今、確認しました。全く憶えていませんでした。)
ただ、私が、大好きだった「風と雲と虹と」の中の人物は
「平将門公」でした。しっかりと記憶が蘇りました。
祖母は、このドラマの中の「何方を」「先祖様」と呼んだのか?
昨日「貞時」という名で調査している時に偶然「平将門公」に繋がる「平貞時」という人物を見つけて、その時に「平将門公」に対して、すごく暖かい感情が湧いてきて、「何故だろう、何かドラマで見たような?」と思っていたばかりでした。
私の先祖は大河ドラマ「風と雲と虹と」に関係しています。
これだけは「はっきりとした事実」です。
きっと祖母は「やっと思い出した(^・^)」と思ってくれている事と思います、
では(^・^)
[3] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年05月14日 20時11分06秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>「平将門公」でした。しっかりと記憶が蘇りました。
西の純友、東の将門と同時代なので双方が呼応したとの与太話も有りますが、無関係でしょう。
旧来から藤原長良後裔が有力説ですが、紀国造族の大村直裔の直澄が何らかの理由で平姓に改称して肥前大村氏という説も有り。
平氏清盛流矢上氏も純を通字としており、有馬/大村の各系図も錯綜しているので真相は闇の中。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01209b2.htm
[4] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月14日 23時43分54秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
「有馬/大村の各系図も錯綜しているので真相は闇の中」
そうなのですね。
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良将流】姓氏類別大観 を拝見しました
朝、私がコメントした「直澄より幸澄にいたりて六代の間常陸国に潜居、平氏となりて相馬を称す」という記述は「相馬」すなわちこちらを指していたのですね。
でも、実際は、無関係。
やっと、「師澄」について、繋がる記述が出てきたかな?と思ったのですが、
でも、めげずにがんばります。
しかし、私の記憶に残る、祖母が「この人は先祖様」と言った人物は誰だったのか?でも、「風と雲と虹と」であったと思うのです。まず、興味が無い事は殆ど記憶に残らない、私が、タイトルを覚えていたという事は・・?
ただ、球磨郡誌の記述がやっと出ましたので、これを手掛かりに調査してみます。
では(^・^)
[5] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月15日 06時44分43秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
今朝は、一つ勉強いたしました。
「依高」を調査していると偶然「依」繋がりで(ネット検索の為)、このような記述が出て参りました。
ウィキより 景徳王に関しての脚注
『三国史記』新羅本紀・景徳王即位紀には、王妃は伊飡(2等官)の順貞の娘とあるが、王の2年(743年)4月に舒弗邯の金義忠の娘を王妃としたことが記される。『三国遺事』王暦においては、先の妃として三毛夫人、後の妃として依忠角干(1等官)の娘の満月夫人(諡されて景垂王后、または景穆王后)と記す。「義」と「依」とは同音(의)。また、『三国遺事』紀異・景徳王忠談師表訓大徳条には、「景徳王には子がなかったので王妃を廃して沙梁夫人とした。後の妃は満月夫人といい、景垂太后と諡された。依忠角干の娘である。」としている。
★「義」と「依」とは同音
そうなのですね(゜-゜)
と言う事は 依高 は 義高 ともなる・・・・そうか(・_・)
勉強できました(^・^)
偶然、出て来た新羅の王「景徳王」の記述の脚注で、「依」と「義」の字について、理解する事が出来たとは・・
こじつけかもしれませんが、やはり、肥後は新羅・百済との関係が深いと言う事ですね。文字の「音」まで、理由があったとは。
でも、少し気が楽になりました。
「依高」という名が全く見つからなかったので、これからは「依高」は「義高」という発想も含めて調査いたします。
ただ、書籍によれば「平河義高」も「義隆」・「義孝」・「義方」と分かれていますが、この事は、以前、日本の苗字七千傑様にご教示頂いていたので、理由は理解できています(^・^)
では、がんばります(^・^)
[6] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月17日 09時02分26秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
昨日は、図書館へ行き、発想の転換も必要かと一日色々な種類の本を読んでいました。
そして・・・
今朝、ある手がかりを見つける事が出来ました。
「良峯依高は荒田寺別当であった」
「平河師高は有智山万福寺を創建」
こちらをキーワードに情報探していると以下の記述を見つけました。
人吉市史 - 第 1 巻 - 282 ページ googleブックより
須恵庄阿蘇山平等寺釈迦堂再興長禄三年(一四五九)再興されたが、寺の創建は、
相良氏入国前、永厳上人で、仁平元年(一一五一)八月十四日入寂、後弘安年中円パン上人中興、同上人は、有智山万福寺、荒茂勝福寺の塊基である。
★有智山万福寺 深田内山
★荒茂勝福寺 深田荒茂
★永厳上人・・・同上人は、有智山万福寺、荒茂勝福寺の塊基である。
美術史論集 - 201 ページ 変貌する須恵村: 社会文化変化の基礎的研究 - 51 ページ より 同文
開山ヲ永厳ト云。然二其前モ永厳京都醍醐寺修,ノ後当郡二下テ平等寺ヲ造立シテ住ス。其節右ノ如来モ守来ノ本尊也。当寺過去帳ヲ考フル二開山永厳上人ハ仁平元年^八月十四日寂ス。寿七十歳ト云。凡願成寺二代ノ先師弘専成秀勢秀、夫ヨリ勢尊勢勝等 ...
永厳が醍醐寺から帰ったのを40歳前後と仮定すれば、平等寺の開山は仁平元二一五二年を遡ること約30年、保安(一一二 0 ) . ... 胸・腹・膝にかけて流麗な平行線を描く衣紋は典型的な藤原様式を物語つており、永厳上人守来の記事に符合するのである。
★醍醐寺 永厳上人 について
「醍醐寺過去帳」の分析 - 東京大学 より
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/shinichi/kako.htm
★ページをスクロールしていくとこれらの記述が見つかりました。
小野流と並んで真言のもう一つの大きな流派である広沢流の僧侶はきわめて少なく、ほとんど同宗とは意識されていないようである。広沢流全体の祖である益信(66)と、広沢六流と称される代表的な法流の祖である信証(88)、覚鑁(132)、永厳(159)、寛遍(347)等の名が記されている。また、仁和寺真光院の禅海(323)が見えるが、禅海は中山孝親息で、寛済の祖父中山親綱とは兄弟、すなわち寛済から見れば大叔父にあたる。よって、むしろ俗縁によって加えられたと見られる。
★続けて「醍醐寺過去帳」より
159 平等房法印永厳 仁平1/8/14 1151 東寺長者、広沢流、保寿院流祖
変貌する須恵村: 社会文化変化の基礎的研究に記述されていた
「当寺過去帳ヲ考フル二開山永厳上人ハ仁平元年^八月十四日寂ス。寿七十歳ト云。」
★一致しました。
すなわち、球磨にて須恵庄阿蘇山平等寺を創建した「永厳上人」は「醍醐寺過去帳」にある東寺長者、広沢流、保寿院流祖の「永厳上人」と同一人物です。
そして、平河師高は有智山万福寺を1151年着工、3年の年月をかけて1154年完成させた・・という事です。
★「永厳上人」について調べました。
ウィキより 真言宗 こちらに「永厳上人」について記述があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97
広沢流[編集]
特徴は、儀軌を重んじる。寛朝が建立した京都市右京区嵯峨広沢にある広沢池の南にある遍照寺の所在地名が語源となっている。
広義では、東密事相を2分した場合、小野流の対をなす法流。狭義では、広沢流内の法流、仁和三流、広沢三流をあわせて広沢六流と称する。しかし、六流に属する法流は一定しておらず、観音院流・仁和御流系の北院流・慈尊院流などを入れる説もある。保寿院流・仁和御流・西院流(にしのいんりゅう)を仁和三流と称し、華蔵院流・忍辱山流(にんにくせんりゅう)・伝法院流を広沢三流と称する。
★寛朝が建立した京都市右京区嵯峨広沢にある広沢池の南にある遍照寺の所在地名が語源となっている。
「遍照寺」です。 祖母が実家に貼っていた「遍照寺」の御札。
私が、毎年、祖母から貰っていた「遍照寺」の御札・・
広沢流系流派略系譜
仁和御流略系譜(派祖・覚法) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-覚法
西院流略系譜 (派祖・信証) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-信証
★保寿院流略系譜(派祖・永厳) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-永厳
華蔵院流略系譜(派祖・聖恵) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-聖恵
忍辱山流略系譜(派祖・寛遍) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-寛遍
伝法院流略系譜(派祖・覚鑁) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-覚鑁
★保寿院流略系譜(派祖・永厳) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-永厳
永厳上人 コトバンクより
永厳 ようごん
1075−1151 平安時代後期の僧。
承保(じょうほう)2年生まれ。真言宗。寛助(かんじょ)の法をつぐ。東寺にはいり,保延(ほうえん)元年権(ごんの)少僧都となる。天養2年東寺三長者,6年法印。仁和寺に保寿院をひらき保寿院流の祖となる。著作に「図像抄」(一説に原撰者は恵什(えじゅう))など。仁平(にんびょう)元年8月14日死去。77歳。俗姓は平(たいら)。字(あざな)は平等房。通称は下野法印。「えいごん」ともよむ。
★俗姓は平(たいら)。字(あざな)は平等房。通称は下野法印。
群書類従 4(補任部) 仁和寺諸院家記より
永厳法院 號 平等房下野法印 下野守 平師季息 寛助僧正入室付上足
東寺三長者 長承元年五月廿七日任。権律師。保延元年五月廿四日轉。権少僧都。久安元年正月十四日加任三長者宣下。七十一 同二月廿・・
以下、プレビュー不可になっていました。
★下野守 平師季息
後ほど「平師季」この方について調べます。
ここまでをまとめると
須恵庄阿蘇山平等寺を創建、有智山万福寺、荒茂勝福寺の塊基でもある「永厳上人」。
「永厳上人」は東寺長者、広沢流、保寿院流祖であり、40歳前後に醍醐寺から球磨に帰って平等寺を創建した。
俗姓は平(たいら)。字(あざな)は平等房。通称は下野法印
下野守 平師季息
と言う事です。
群書類従 4(補任部) 仁和寺諸院家記はgoogleブックでは、プレビュー出来ない個所がありました。
必ず、続きを確認したいと思っています。
一旦アップして「平師季」そして続けて「永厳上人」の調査を行いたいと思います。
では(^・^)
[7] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月17日 10時39分38秒 ) | パスワード |
皆様、平師季についての進捗情報です(^・^)
下野守 平師季 で検索すると
系図研究の基礎知識: 家系に見る日本の歴史 - 83 ページ より
神社などに近い遠敷市場(いまの小浜市遠敷で国分寺があった)の北にひろがる荘園で、平安時代の後期に長田下野守平師季の私領であった。この師季は『尊卑分脈』に見える平・棟の玄孫親信(参議修理大きの子武蔵守行義-その子東宮大進範国の弟師季に ...
★東宮大進範国の弟師季
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏高棟王流】姓氏類別大観を拝見しました。
行義 → 範国 → 師季 → 行親 ・・・
ありました(^・^)「師季」です!
うん?あれっ?はっ(?_?)
「行親」? ああああああああああああっ 「行親」!! 日記の方?
以前、この方調べました!!
肥後の「平河」に関係する人物として記述されていた「行親」。この方!!
以前調査した時は、球磨の平河との繋がりが全く見えなかったので、調査は中断してしまいました。
「師季」の弟が「行親」?
一日、頭を冷やしたら、今日、急展開です\(◎o◎)/!(久しぶりに登場)
下野守 「平師季」の子が「永厳上人」。
永厳上人は「然二其前モ永厳京都醍醐寺修,ノ後当郡二下テ平等寺ヲ造立シテ住ス。」と言う事で京都醍醐寺から球磨に帰ってきて(別の記述ではこのように帰って来たと書いてありました?)平等寺ヲ造立してそこに住んだ・・
「平師季」の弟が「行親」。
何だか、やっと繋がったようです(・_・)
まだまだ、調査、がんばります(^・^)
[8] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月17日 14時08分07秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
現在の進捗状況です。
「平師季」「行親」「範国」は兄弟です。
そして父は 平親信
平親信
父は 平真材 そして祖父は従三位中納言 平時望
では平時望 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E6%9C%9B
系譜
父:平惟範
母:人康親王の娘
妻:藤原元姫(藤原菅根の娘)★ここです(・_・)
男子:平珍材(?-?)
生母不詳の子女
男子:平真材(900-968)
女子:平寛子(?-?) - 典侍、冷泉天皇乳母
妻の藤原元姫(藤原菅根の娘)
★藤原菅根とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%8F%85%E6%A0%B9
藤原 菅根(ふじわら の すがね、斉衡3年(856年) - 延喜8年10月7日[1](908年11月3日)は、平安時代前期の貴族・学者。藤原南家、右兵衛督・藤原良尚の四男。官位は従四位上・参議、贈従三位。
★藤原良尚の四男。
\(◎o◎)/!藤原良尚は・・・・
★球磨の久米氏。市房神社を創建した、「藤原真宗」と兄弟です\(゜ロ\)(/ロ゜)/
簡単にまとめると
「永厳上人」の曾祖母は、藤原良尚の孫であり
藤原良尚と球磨の久米氏こと「藤原真宗」は兄弟という事です。
「永厳上人」の本名を調べているのですが、尊卑分脈を見ても「平師季」からの系図が無く、今の所、私が記述で確認できたのは、群書類従 4(補任部) 仁和寺諸院家記 だけで、こちらには「永厳上人」の本名は書かれていませんでした。
では
がんばります(^・^)
[9] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月17日 17時20分57秒 ) | パスワード |
球磨あさぎり町(旧須恵村)阿蘇の平等寺について、全く理解していなかったので情報を捜しました。(^・^)
熊本県公式ページ
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/asosyaka.html
須恵氏の氏寺
そもそも、「スエ」という地名は、古墳時代に伝わった須恵器と関係しています。この須恵器生産を統括して経済力をつけ、勢力をつけた豪族が須恵氏です。錦町西には、「尼ヶ土手」とよばれ須恵氏の館跡と推定されている遺跡があり、錦町一武の下り山古窯跡群を中心とする須恵器窯、瓦を焼いた深田村の高山窯跡も須恵氏のものとされています。中世には、須恵氏の所領は球磨郡最大であり、球磨郡司または西村・東村郷司であったと考えられています。須恵氏は、古代から中世にかけて球磨郡一帯で勢力を振るっていましたが、相良氏の入国以降次第に勢力を失っていきました。
平等寺と釈迦堂
この須恵氏が檀那として平安時代の末期に建立されたであろうとされているのが平等寺です。平等寺は、現存していませんが、「変貌する須恵村」( 牛島盛光ミネルヴァ書房 1971年 )では、「平等寺最盛期の寺域は、寺山を含めると、西端の薬師堂から東に約400m、南北約600mにわたる広大なもので、この中に本堂を中心にして七堂伽藍が建ちならび、裏山2箇所の墓地に約250基に及ぶ五輪、板碑が整然と並び立ち、槇などの巨木が堂宇をおおった境内には、阿蘇川から引かれた清水が池に満ち、「当郡真言ノ元祖」にふさわしい雰囲気を呈していたであろう。」と記されており、壮大な力をもっていたことがうかがえます。
この、平等寺の本堂が現在の場所に移転されたもの(前述「変貌する須恵村」によると、明治初年から明治8年の間といわれる。)が、釈迦堂だと考えられます。現在の釈迦堂は、前述の通り、瓦葺きの建物ですが、創建当初は、藤原時代浄土信仰の阿弥陀堂建築の様式で建てられていたようです。
★平等寺最盛期の寺域は、寺山を含めると、西端の薬師堂から東に約400m、南北約600mにわたる広大なもので、この中に本堂を中心にして七堂伽藍が建ちならび、裏山2箇所の墓地に約250基に及ぶ五輪、板碑が整然と並び立ち、槇などの巨木が堂宇をおおった境内には、阿蘇川から引かれた清水が池に満ち、「当郡真言ノ元祖」にふさわしい雰囲気を呈していたであろう。
そうか〜(・_・)
では(^・^)
[10] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月18日 08時32分22秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
今朝の情報は、偶然とはあるものだな〜という内容です(・_・)
昨日、球磨に関係した「永厳上人」の情報をお伝えしたのですが
ウィキに記述されていた真言宗 広沢流系流派略系譜の中の
忍辱山流略系譜(派祖・寛遍) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-★寛遍
伝法院流略系譜(派祖・覚鑁) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-★覚鑁
「寛遍」「覚鑁」この方々はどのような方々だったのかな?と思いまして(不思議と興味がわきまして)確認したのですが・・
「寛遍」 ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E9%81%8D
寛遍(かんぺん、康和2年(1100年) - 永万2年6月30日(1166年7月28日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は大納言源師忠。尊勝院大僧正・忍辱山大僧正とも称される。
★父は大納言源師忠 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%B8%AB%E5%BF%A0
源 師忠(みなもと の もろただ、天喜2年(1054年) - 永久2年9月25日(1114年10月25日))は平安時代後期の公卿。村上源氏、右大臣・源師房の四男。官位は正二位・大納言。壬生大納言または沢大納言と号した。
系譜
父:源師房
母:藤原頼宗の娘
正妻:橘俊綱の娘
男子:源師親(1083?-1111)[1] ★
女子:輔仁親王室[2]
妻:源俊長の娘
男子:源師隆(1075-1134) ★
妻:藤原良綱の娘
男子:源師長
妻:源政長の娘[3]
男子:寛遍(1100-1166)
生母不明
女子:染殿
女子:源師時室 ★
養子女
男子:源師俊(1080-1142) - 実は源俊房の子
師忠・師隆・師親・師時 ・・・ 平河の系図にある名と同じ名の方がこの系譜だけで4名いらっしゃいます。
「平河」の先祖はこちらの方々の名を知っていてまるで「真似」をしたかのようで・・(「師」の付く名はパターンが決まっているのかな?(ー_ー)!!現代的な発想はいけませんね)
そして、母:藤原頼宗の娘。
藤原頼宗の妻は藤原伊周の娘。藤原伊周は菊池氏の祖と言われる藤原隆家の兄弟ですね。
それから源師忠の正妻は橘俊綱の娘。
橘俊綱は藤原家光の父で・・
藤原家光の子が須恵小太良こと藤原家基。
あれっ?須恵氏に繋がりました。? きっと偶然でしょう(・_・)
続けて
「覚鑁」この方についてです。
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E9%91%81
覚鑁(かくばん、嘉保2年6月17日(1095年7月21日) - 康治2年12月12日(1144年1月18日))は、平安時代後期の真言宗の僧。真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。
諡号興教大師(こうぎょうだいし)。肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分)生まれ。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘。
★父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘で肥前国藤津庄生まれ。
伊佐氏はスレッド「平川家について8」で、「家は家紋が橘紋ではなく丸に剣片喰」という話から、中村氏を調べていて少しは勉強しました。
抜粋して転記します
天永2年(1111年)、藤原北家山蔭流、参議・藤原安親の孫で、従四位下・越前守、藤原為盛の子[2]藤原定任の長男藤原実宗が常陸介に任じられ、下野国芳賀郡中村荘に住し、中村氏を称した事に始まり、平安時代末期に中村朝宗[3]が中村城を築く。文治5年(1189年)中村常陸入道念西[4]が、源頼朝に従い奥州合戦に従軍し石那坂の戦いで戦功を得る。これにより伊達郡と信夫郡を賜わり、同地に住し伊達氏を称した。中村城は中村常陸入道念西三男[5]中村資綱が跡を継ぎ、次に朝定が継いだ。[6]
★中村常陸入道念西・・あれっ? 入道念西? 今、気がつきました。
「浄心寺」の塔 にあった名も「念西」。 ・・きっと偶然でしょう(ー_ー)!!
中村朝定の源義経の遺児伝承
中村朝定、幼名経若。出自については栃木県真岡市の遍照寺古寺誌に中村朝定は源義経の遺児経若であるとの伝承がある。古寺誌によると源義経の遺児経若が伊佐為宗によって養育され成人後、中村蔵人義宗と名乗り後に改め、中村佐衛門慰朝定と名乗る[7]。年代から見て中村常陸入道念西三男資綱の跡を継いだと見られる。
★遍照寺古寺誌によると源義経の遺児経若が伊佐為宗によって養育され成人後、中村蔵人義宗と名乗り・・・
そうでした。こちらでも「遍照寺」・・・でした。
この時に、日本の苗字七千傑様より常陸大掾氏についてご教示頂きました。
姓氏類別大観《常陸大掾氏》を拝見しました。
あっ!伊佐兼元は伊佐為宗の甥?!
覚鑁・・父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘・・・?
母は橘氏の娘。生まれは現在の佐賀県鹿島市。
宮原の祖である「橘公長・公業」とは年代が異なるでしょうし、関係は解りませんが、「伊佐氏」と「橘氏」は婚姻関係があったという事が、こちらの記述で解りました。
でも、何だか、偶然が重なるものです・・??
と言う事で、真言宗 広沢流系流派略系譜 「寛遍」「覚鑁」についてのお話でした。
では(^・^)
[11] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月19日 08時33分50秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。(^・^)
この話をすると、きっと、日本の苗字七千傑様より、ヨタ話だと、お叱りを受けるかもしれませんが、そのヨタ話が何故か、「不思議な偶然の一致をしている」と言う事をお伝えします。
先日から、コメントしています「永厳上人」。
この方の父は「下野守 平師季」でした。
そして、先日、肥後との関係そして球磨との関係をコメントした平貞能。
平貞能の父、「平家貞」。
この「平家貞」の父は ウィキの記述によれば「平家房(季房)、または平範季」となっていました。
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏貞季流】姓氏類別大観を拝見すると平家貞は「季房」の子となっています。
では、「永厳」について、こちらの記述をご覧ください。
日本仏教人名辞典 - 104 ページ より googleブック検索にて
國覚印圄下野阿闍梨 8 自証房画下野守平季房(師季)の子圃永厳團 1132 年東寺の定額僧となる. 38 年仁和寺保寿院の兄永厳に伝法灌頂を受け.高野山に覚証院を創立した.付法の弟子に心覚がいる.圈印鈔 5 巻,随聞記 2 巻,諸口伝集 1 巻,事相料簡 1 冊 ...
★こちらの記述では「下野守平季房(師季)の子圃永厳團」
上代文学と漢文学 - 23 ページ より
下野阿闍梨自證房と稱し、應保二年(一ニハ二)には常喜院心覺に付印權少佾都永厳の弟子となり、保延四年(一一三八)四十二歳の折に、仁和寺保壽院に於て傳法灌頂を受け、眞言宗覺印は、下野守平師季(一に季房と傳へる)の息として、承・元年(一〇九七) .
★下野守平師季(一に季房と傳へる)の息として・・
史料大徳寺の歴史 - 86 ページ より
若州名田庄田村下村文#目お^然ミ勅裁一通森口善海名事実治啣率お I ^一通須忠野村事隆長卿^季房朝臣等奉:一通和田多村河手等事季房光顕朝臣奉【わ门 0 ノ一巻安堵綸 13 元弘三 ... 貧案、庁法印封衷給之、一通同法印永厳文書在所注給内々状.
★季房朝臣・・
「永厳」この方の父については「平師季」との記述は確かに群書類従 4(補任部) 仁和寺諸院家記にもありましたし、他にも様々な書籍での記述があります。
しかし、先ほどご紹介した以外にも多数の書籍で「平季房」の子または師季(または季房)の子、といった表現が使われているのです。
★平貞能の父「平家貞」の父は「平季房」
★「永厳」の父は「平師季」または「平季房」
平貞能は源平の合戦後、球磨にその痕跡を残し、父、「家貞」は球磨の古文書にて、記録があり・・・
平貞能の妻は「原高春」の娘(良峯氏)
そして・・
★「永厳」は球磨郡須恵の平等寺を創建して、平河師高および平河一族(良峯氏)が建立した有智山万福寺、荒茂勝福寺の塊基である。
★永厳は広沢流「保寿院流の祖」であり、「広沢流」は寛朝が建立した京都市右京区嵯峨広沢にある広沢池の南にある遍照寺の所在地名が語源となっている。
★永厳は仁和寺に保寿院をひらいた。
★遍照は良峯宗貞であり、仁和寺は丹羽氏と深い繋がりをもっている。
偶然なのでしょうか?でも、その偶然をもって「永厳」「平季房」「平家貞」「平貞能」「原高春」「平河師高」が繋がりました。
上記とは別件ですが、「永厳」という名の方と「依」という字について気になる記述を見つけました。
難波宮から大坂へ - 133 ページより googleブック検索
早い時期の確実な史料はみられないため、複数の系図類からの検討で、遠藤氏系図中に渡辺氏を中傷し遠藤氏を上位に ... 位置づけ、遠藤系図が依成の父為方段階で宇治から渡辺に移住し、為方息の一人永厳段階で一文字輩が渡辺に移住し、永厳の娘が伝 ...
中世公家と地下官人 - 34 ページ より
しかし、為方は不明だし、依成,永厳等は十一世紀末頃の人物で、年代的に合わない。系図に作為があると思われる。永厳の娘は伝に嫁したようであるし、息為清は天永二年(一一 I 一)宮中で扣撲を行なっており、「藤井ノ為清、字遠藤、津ノ国渡辺ノ住人」と記 ...
Review of International Buddhist University, Faculty of ... より
天王寺永頌と号したこと、十郎房永厳が豊岛郡筇田の里から渡辺の里に来往し総官となったことを記している。このの十男を挙げているが、このうち、六男の大六郎頼恒が大夫と称し総官を継いだこと、八郎依成の子為依が出家して「遠藤系図」は、この為方の ...
★上記の記述には「永厳」「依成」「為依」という名の方が記述されています。
鎌倉時代に「永厳房」という方がいらっしゃったようなので、そちらの記述か?とは思いましたがとても気になりました。
「遠藤氏」とありますので、日本の苗字七千傑様の【藤原氏式家百川流】《遠藤氏》姓氏類別大観 を拝見しました。
「為方」の子に「永厳」という名の方があります。
永厳の娘が伝 ...という記述はこちらの系図にある嵯峨源氏「渡辺氏」の「伝」こちらの方になるのですね。
そして、「為方」の子に「依成」。
ご紹介した書籍には「八郎依成の子為依が出家して・・」とありました。
遠藤為方の祖父「藤原忠文」この方を調べました。
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%96%87
藤原 忠文(ふじわら の ただぶみ、貞観15年(873年) - 天暦元年6月26日(947年7月16日))は、平安時代前期から中期にかけての貴族。藤原式家、参議・藤原枝良の三男。官位は正四位下・参議、贈正三位・中納言。宇治民部卿とも呼ばれる。
天慶3年(940年)関東で反乱を起した平将門を追討するため、右衛門督・征東大将軍に任じられ、68歳の高齢ながら将門追討の責任者となる。しかし、忠文が関東に到着する前に将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれていた。翌天慶4年(941年)今度は瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を追討するため征西大将軍に任ぜられている。
(・_・) あの・・・・大河ドラマ「風と雲と虹と」・・・?
藤原忠文の父は「藤原枝良」
藤原枝良の父は藤原春津 母は紀御依女。「紀氏」。そして「依」ですね・・
遠藤氏の系図にある「永厳」。この方の周囲には「依成」「為依」「紀御依」
球磨の平等寺を創建した「永厳」。そして「良峯(平河)依高」
こちらもやはり「偶然」なのでしょうか?
そして、もう一つの偶然が・・
遠藤氏について調べていたらこのような記述を見つけました。
http://ameblo.jp/keizu-roots/entry-10794216963.html
【藤原氏式家百川流】《遠藤氏》以外に
藤原南家工藤氏流の遠藤氏
工藤為憲の後裔・相良維兼が、遠江守に任ぜられ遠藤氏を名乗ったことに始まる。
★工藤為憲の後裔・相良維兼・・・今度は相良氏が登場です。
これまでに発見した「偶然」をまとめます。
★平貞能の父「平家貞」の父は「平季房」
★「永厳」の父は「平師季」または「平季房」
★平家貞は球磨の「良峯妙阿」に関して記述された古文書に、その名の記録がある。
★平貞能は源平の合戦後、球磨の高寺院(たかでらいん)に痕跡を残した。
★平貞能の妻は「原高春」の娘(良峯氏)
★「永厳」は球磨郡須恵の平等寺を創建して、1151年に亡くなる。
★平河師高および平河一族(良峯氏)は1151年に有智山万福寺創建に着工。1154年に完成。建立した有智山万福寺、荒茂勝福寺は「永厳」の塊基である。
★永厳は広沢流「保寿院流の祖」であり、「広沢流」は寛朝が建立した京都市右京区嵯峨広沢にある広沢池の南にある遍照寺の所在地名が語源となっている。
★永厳は仁和寺に保寿院をひらいた。
★遍照は良峯宗貞であり、仁和寺は丹羽氏と深い繋がりをもっている。
★藤原氏式家百川流】《遠藤氏》系図、「為方」の子に「永厳」「依成」。そして依成の子が「為依」
★遠藤為方の祖父「藤原忠文」。祖母は紀御依女。 紀氏であり「依」の字が。
★平河師高の父は平河(良峯)依高。
★藤原忠文は平将門を追討するための、右衛門督・征東大将軍であり、藤原純友を追討するための征西大将軍である。
★大河ドラマ「風と雲と虹と」を見て、祖母は何方か?に「この人はあなたの先祖様」と言った。
★「遠藤氏」は【藤原氏式家百川流】《遠藤氏》以外に藤原南家工藤氏流の遠藤氏があり、工藤為憲の後裔・相良維兼が、遠江守に任ぜられ遠藤氏を名乗ったことに始まる。 (他 桓武平氏千葉氏流の遠藤氏 越智氏流の遠藤氏などがある。)
ここまでの調査で上記の「偶然?」を見つける事になりました。
なんだろうな〜(・_・) 偶然というのはこんなにも重なるものなのでしょうか?
今は、この調査が「偶然」ではなかったと言う事を心から願うばかりです。
では(^・^)
[12] | 白石さんからのコメント(2014年05月21日 00時37分32秒 ) | パスワード |
こんばんは
以前 熱田神宮を調べていたとき 平忠文が神宮に立ち寄ったと太田氏の辞典にあったと思います。
ネット検索で 平忠文と藤原忠文は 民部卿。
将門の乱の平定と同じ内容がでます。
[13] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月21日 11時03分12秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
白石様、お久しぶりです。お元気でしたか?(^・^)
ご教示、本当にありがとうございます。
藤原忠文と平忠文は同一人物?と言う事でしょうか?
平忠文と言えば、「大和物語」が。
大和物語(二十一)「良少将、兵衛のすけなりけるころ」です。
解りやすく、訳しているサイトがあります。
http://blog.goo.ne.jp/87108/e/907b72edf9df10bf8d886b1e13c6c5cd
もちろん、物語ですので、真相は全くわかりませんが・・
良少尉と監命婦の恋の物語です。
登場人物の研究では
監命婦の監とは「平忠文」監命婦とは「平忠文」の娘。
良少将とは「良峯義方」もしくは「良峯仲遠(仲連)」と言われていて・・
「良峯仲遠」は・・・じつは「藤原尹文」でした!
「平川家について」スレッド10でご紹介しています。転記します。
王朝文学の考証的研究 - 23 ページ より
二十二段の良少将は良岑仲連であると断じてよいのではなかろうではなく、大和物語一本の勘物にも「良峯仲速、参木衆樹男、天慶 ... もっともこれは第者の単なる想像が衆樹の子であるのを見る時、仲遠(仲連)は義方の兄ではなかったかと想像されるのである, ...
國語と國文學 - 第 49 巻 - 20 ページ より
彼等は蔵人の故に献耿したのであば、蔵人が層をなしており、仲連と尹文は逆だが他は蔵人の年労順である。特に、二巻本では尹文以下、よ ... また、「蔵人補任」の良峯仲遠は良峯藤原尹文、「ありもち」は有用でなく藤原,であろう。「すくら蔵人にその人がいる。
★良峯仲遠は良峯藤原尹文
ただし、良少将は「良峯義方」であると言う説もあり、様々です。
大和物語諸注集成 - 109 ページ より
侍ける時遗しける監命婦かしは木の歌此物語に同しかへし僧正遍昭とありて耿又此物語に異なる事なし勅撰に如此惜に作者の名を出されたるうへは此物語の良. ^ :なる事無疑にや(錦)抄云良少将は一字不違本云良峯義方承平六年右少将天慶三年蔵人八年中将天暦元年卒云々この物かたりのおくに良少将とあるは宗貞也^ |これは別人也夏蔭按こ X にいふ良少将は義方也といふ説よろし下文六十八段に監命柵平忠文か子にあひか ...
★監命婦については「平忠文か子にあひか」
他の書籍でも
國文註釋全書 - 第 3 巻 - 50 ページ より
ておもいあや古今辩後拾逛どもに此條の耿をどりのせて良峯宗ふどいふこどみゆさらは宗貞にては時代叶はす・し下文六十八段に監命婦平忠文か子にあひかたら夏蔭按こゝにいふ良少將は義方なりどいふ說よろは別人也たりのおくに良少將どあるは宗貞也 ...
★監命婦平忠文か子にあひかたら・・
と言う事で、物語では
良少將・・・「良峯義方」または「藤原尹文」もしくは「良峯宗貞」は
監命婦・・・「平忠文」の娘?
と恋に落ちていたという事です。
でも、その先は・・・?
他にも、この様な記述を見つけました。
海燕 - 第 10 巻、第 1〜2 号 - 348 ページ より
347 ページ
監の命婦のもとに中務の宮〔醍糊帝の第六皇子式明〕おはしまし通ひけるを、方のふたがれば今宵はえなむまうでぬとのたまへりければ、その御返り事に、あふことのかたはさのみぞふたがらむひとよめぐりの君〔一世巡りの君、世界全鉢を巡り歩く方の意だらう〕
348 ページ
それ以前にその息子と、命婦は愛人同士だったので、馬の餞に心のこも 0 年)、ともに離京し、東国の金を都に運ぶ役を負はされた参議藤原忠文が征東大将軍に任ぜられて赴任する際(九四七十段には別のかの女の素描がある。はかの女をモデルとする人物画
★ここでは藤原忠文ですね・・
350 ページ
宇多天皇の醸位後仕へ、雅源清蔭〕宰相におはしける時〔九二五年乃至九三八年〕、京「故源大納言〔陽成院の第七子、男子としては ... 女らしくて押しのっよいたちだ監の命婦や女房大和はたしかに風変りで、一方は男のようたのではないかと思はれる位である。
しかし・・・
何がどうなっているのか?「永厳上人」を調べていたら、ぐるりんぐるりんと色々な方々や色々な話に繋がってしまって・・。
もしかしたら、この時代の方が、現代よりも、数段スキャンダラスな出来事が多く起きていたりして・・・
頭が混乱しそうです。
例えば、今まで調べてきた情報を「情報A」「情報B」「情報C」と仮定します。
「情報A」には、関連する人物が繋がっています。「情報B」「情報C」にも其々同じ状況です。
ただし!!
この「情報A」「情報B」「情報C」の関連性が全く解らない(ー_ー)!!
こんな感じですね(+_+)
「情報A」「情報B」「情報C」は全て関連していました\(◎o◎)/!
となれば、大正解なのですが・・・
中々・・そうは・・・(*_*)
地道に調査致します。(*_*)
ただし・・
紀御依。 日本古代史人物事典を読んだ所、
この方の父は「大伴御行」。
大伴御行 父は孝徳右大臣長徳。安麻呂の兄となっていました。
妻は 紀音那。
「依」という字の付く名がこの方の裔に多くありました。
この方と、丹羽臣躬依に、何か関係は?と気になります。
大変御忙しい所申し訳ありませんが、日本の苗字七千傑様にお伺いしたい事があります。
日本の苗字七千傑様の【多 氏】《印波国造》姓氏類別大観を拝見しました。
こちらにも「大伴氏」が見えます。
しかし、紀御依は日本の苗字七千傑様の《大伴氏》姓氏類別大観の方に見えました。
【多 氏】《印波国造》の大伴氏と、「御依」の名がある 大伴氏にはどういう繋がりがあるのでしょうか?
大変、申し訳ありませんが、どうぞ、お教え下さい。
よろしくお願い致します。
[14] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年05月21日 20時07分42秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>【多 氏】《印波国造》の大伴氏と、「御依」の名がある 大伴氏にはどういう繋がりがあるのでしょうか?
道臣命裔の大伴氏が有名だが異流の大伴氏も夥しく多く、ほとんどは無関係。
類例として「加賀美氏の全ては加賀美遠光の裔か」も参考に。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kagami.htm
ただし大伴氏は全国的にひろがり、源平藤橘を始め多くの氏族との縁戚は数限りない。
あまり苗字や名前にこじつけると、多くの仮冒系図と同じ道を辿るので厳重注意。
[15] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月21日 22時35分07秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、御忙しい中、ご教示本当にありがとうございます。
ご質問させて頂いた大伴氏の繋がりについては、殆ど無関係なのですね。
少しでも、「丹羽臣躬依」に近づければ・・とあせりすぎました。
「真実」を知る為には着実な裏付けが必要ですね。
違う道を辿ってしまえば、先祖に叱られますから。
注意致します。
ありがとうございました。
[16] | 白石さんからのコメント(2014年05月22日 01時33分10秒 ) | パスワード |
平川子孫10より>簡単に言いますと藤原尹文(良峯仲遠)の妻は藤原義孝(良峯左近少尉義孝)の母である恵子女王の叔母と言う事です。
藤原伊文
||ーーーーーーーー藤原義孝(良峯左近少尉義孝)
恵子女王の叔母
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
恵子女王をけんさくすると
代明親王の子孫たち - 平安夢柔話 - Gooブログ
のブログが目に留まりました。
ここでは
恵子女王は花山天皇らの母となる懐子(かいし)を生んでおり、
代明親王の子孫が 現在の天皇家につながっているとのことです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このブログでは 所生を書生としているなど 少し ?の部分がありますが、
大きく 花山天皇への筋がわかるかな?と 思います。
天皇の近くに義孝はいた の ですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
伊文は ただふみ とも 読むのですね。
丹羽とのことではないのですが、
ちょっと気になったので・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ところで
夢に おもしろい 気になる夢を見ました。
どなたか 夢ときをする人はおられないかな?と。
池のほとりの花がたくさん咲き乱れているところに 子供が10人くらいしゃがんで 思い思いに 遊んでいる中に
さる 高貴な方(現代でもこういう表現は通用すると思いますが)が おられ、
私は 言葉を交わすわけではなく その様子をそばで見る(これも表現はそうなってしまいますが そばにわたくしがいるわけです。)
その方の 皮膚の感じ 息遣いもわかって 髪も一本一本わかって お化粧はしておられないけど 美しく 目が澄んで おそばにいていいのかしら?と とまどい お話はしないけど 気持ちよく そばにいられました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ただ それだけですが
そして 意味合いを持たせる必要はないとは思いますが、(心が幸せに満ちて 気持ちよく目覚めたので)、なんだか 自分の欲なのか この夢は どういうことを 暗示しているのかなあ と 思うのです。
[17] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月22日 22時55分33秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
白石様、ご教示ありがとうございます。
本日は、朝早くから外出していて、コメントが遅くなりましてすいませんでした。
ご紹介頂いた「代明親王の子孫たち - 平安夢柔話」拝見しました。
こちらのブログは当時の状況を、現代風に解説してあるので、こんな私にでも、とても解りやすかったです。
白石様の、夢のお話ですが・
とても、素敵な光景ですね。
お話を読んだだけで、私も、心が穏やかな気分になりました(^・^)
白石様のご先祖様ではないですか?
「心が幸せに満ちて気持ち良く目覚めた」という事は、とても良い事だと思います。(^・^)
私は、今日、気分転換に、香春町・田川市・大任町を散策してきました。(^・^)
以前は、仕事で頻繁に行っていた場所なのですが、この頃、行く機会がなくなったので、暇を見つけては出かけています。
遠くに見える英彦山を眺めると心が穏やかになるのです(^・^)
香春町に以前から、気になる場所があり、「あそこは・・?」
と思いながら、行ってみると香春町の「鶴岡八幡神社」でした。
行って見てびっくり!
約850年前に鎮西八郎為朝が勧請したといわれている神社様でした。
http://blogs.yahoo.co.jp/drfcr421/24324773.html
近くを車で通りながら、とても強いパワーを放つ森だな〜とは思っていたのですが、由緒ある神社様でした。
北九州に住んでいる間に、未だ行った事のなかった場所にこれからも出かけて行きたいと思います。
では(^・^)
[18] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月23日 08時45分48秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
昨日、福岡県筑豊地区散策のコメントをさせて頂きましたが、実は先日、豊前地区(行橋市)にあるとても素晴らしい神社にお参りをしました。
豊前方面へドライブに出かけた帰り、「ぼたん園」の看板を見つけて、案内通りに進むと、その「ぼたん園」は行橋市の今井行須佐神社の境内下にありました。
こちらの神社がある森は、国道10号線より遥か遠くに見え、こちらも、物凄いパワーを放っていて、以前から「あの森(小さな山?)にはいったい何があるのだろう?」と思っていた場所でした。
「ぼたん園」を探していて、偶然、そちらに辿り着いた訳です。
とてもとても、長い、高い階段を登ると、そこには本当に今まで見た事がない景色が広がっていました。
見上げると目の前にまるで要塞の様な、城の城壁の様な建物と回廊が現れました。
驚いて、息を飲むような光景でした。
時代を一気に遡ったような、まるで、遠い先祖のすぐそばに自分がいるような気がしました。
写真を取りたかったのですが、その時は何故かやめました。(心に焼きつけようと・・)
ネットに、情報が載っていましたのでご紹介します(^・^)
http://kazenoyadori.seesaa.net/article/139968599.html
境内には「大きな槍」が立ててありました。先が三つ又に分かれた槍です。
そして、その時あれっ!?と気がつきました。
祖父の兜の飾りの槍。先が三つ又に分かれた槍です。同じような形をしていました。
お参りをして帰り道、神社の麓に「今井地区」について説明があり、当時の地頭は中村氏であったと書かれていました。(中村氏?と思いましたが、多分偶然だと思います)
所で、このコメントを書きながら、あらためて祖父の兜を目に浮かべたのですが、あの兜は単なる軍刀掛けではなく、もっと別の意味を持っているのではないのかな?と考えました。
祖父が、私達に残してくれたメッセージのようなものでは?と。
兜は軍刀掛けにする為に、祖父が修繕を頼んだと聞いています。
その時に様々な飾りを施したのでは?と。
あの兜には・・
中央に金色の「丸に剣片喰」の家紋。
兜の周囲には「違い鷹の羽」の紋と「丸に剣片喰」の紋が交互に施されています。
そして中央の家紋の上に、三つ又に分かれた槍の飾りがついています。(この槍は取り外しが出来ます)
あと、もう一つ、気になる「紋」?マークの様なものが施されていたのですが・・
何の形だったのか、しっかりと記憶していません(*_*)
実家に帰ったら、もう一度、確認したいと思います。
(父は私に兜の写メを送る事が出来ないので・・(+_+))
ここまで、書いて、またまた、頭の中に実家の光景が浮かんだのですが・・
以前、コメントしたように、私が子供頃過ごした実家の風景は、私にとっては当たり前の光景で、何処の家でも同じだと思っていましたが・・
大人になって実際は、違った事がわかりました。
(兜のある家ってあまり無いという事は高校生の時に知りました(*_*))
同じ地区に住んでいる友達は、何も言わなかったのに、高校で知り合った他の町の友達が家に遊びに来た時に「なんで?」と聞いてきて、私も「なんでかな?」と思った次第です(*_*)
他には・・
❁祖母が毎年頂いて、家に貼っていた「遍照寺」の御札。
❁仏壇とは別にもうけられていた「観音様」の間。
あとは・・そう!
大黒様です。大きな大黒様があります。(かなり古い)
そう言えば、私が、掃除をしていて、大黒様を拭いて磨こうとしたら祖母から「ダメ(ー_ー)!!」と叱られた記憶があります。
他に・・
ガスコンロの所には神様の御札がありました。
祖母はかまどには神様がいらっしゃると言っていました。(私は「火」の神様と言っていたような・・??)
とりあえず、「火」の神様・「水」の神様と色々、厳しく教え込まれました。
いつも感謝して、綺麗にしておかなければいけないと言われていました。
ですから、数年前に「トイレの神様」という歌が流行った時は、まるで、子供の頃の私みたいだな〜と思って聞いていました。
でも、これは田舎には良くある風景なのかも知れませんね(^・^)
とても懐かしく思います。
ついでにですが・・
子供の頃、お盆は大変でした。
肉・魚など一切食べさせてもらえませんでした。
球磨弁で「ひえくさい」(生臭い)物は食べてはいけません(ー_ー)!!という感じです。
だから、お盆の食事は憂鬱でした(*_*)
でも、近年は、祖母も変わっていましたヨ。
お盆に私が子供を連れて里帰りをすると、「刺身」だのレストランで「ハンバーグ」だの、普通に私の子供達と食事を楽しそうにしていましたから(^・^)
きっと、時代がそうなったのでしょう。
後、正月も今思えば??と言う事がありました。
(今年も、父や親せきと同じ話をしたのですが・・)
何故か、元旦にはお風呂に入ってはいけなかったのです(?_?)
私が、子供の頃、家のお風呂は蒔きで火を焚いて沸かす風呂だったのですが(すごいレトロです)
元旦は、「火」の神様にお休みをして頂かなければいけないと言われていたような?(ふた従兄も同じだったと言っていました。)
今は、何処の家もガス風呂や電気で沸かすタイプなので、もうそのような事は無いと思いますが・・
(でも、祖母は、家がガス風呂に変わってからもそのポリシーは変えませんでした・)
きっと古い時代からの風習には、「意味」があったのだと思いますが、今や、その「意味」も忘れ去られているのでしょうね・・(私は特に(*_*))
今朝は、とりとめのないコメントになりました。すいません。
時折、子供の頃がむしょうに懐かしくなります。
とは言いながら、今日も、普通に音楽を聴きながら掃除をして、好きな時に好きな物を食べて・・と「現代を生きる」私なのでした。
では(^・^)
[19] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月23日 09時42分10秒 ) | パスワード |
追記
コメントしていたら、次々に思い出してきました。
又、忘れないように、ここで、書き込んでおこうと思いまして。(メモではないですよね(ー_ー)!!<(_ _)>)
以前にもコメントしたと思いますが・・
十五夜には宮麓地区では、綱引きをした後に何故か?「相撲」を取っていました。
家では祖母がお団子を作って、ススキと一緒に飾っていました。(蝋燭も灯していました・・)
でも、中学を過ぎた頃から、「女の子はお月さまをあまり見てはいけません(ー_ー)!!」と言われていました。
あと・・
城跡のある山には行ってはいけないと言われていたとコメントしましたが、要は、黒原山には女の子達だけでで入ってはいけない(ー_ー)!!という事だったと思います。(山の神様がお怒りになると言われた記憶があります)
白髪岳の林道を友達とドライブした事がバレタ時は火がついたように怒られました。「あれだけ、女の子だけで山に行ったらいかん!と言ったのに(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」と。でも、その時、実は友達の彼氏も一緒でした(^O^)/。それを言ったらもっと怒られると思って黙っていたのですが、結局「女の子だけ」ではなかった訳です(ー_ー)!!(^・^)
他に「えんのぎょうじゃさま」のお話を良く聞かされました。でも、お名前はしっかりと記憶しているのに内容はさっぱり覚えていません(*_*)
あと・・
家にザクロの木があって、いつも実がなったら食べなさいと言われていましたが、あまり、好きではありませんでした。ザクロの木を見ながら、鬼子母神様のお話を聞いた事があります。祖母は鬼子母神様は子供を守って下さるありがたい神様だと言っていました。
あっ?! 具合が悪い時は、「せんぶり?」と「げんのしょうこう?」とかいう物を煎じた苦い苦い物を飲まされていました(*_*)
そして・・
小学校の時にはやった、遊び(占いのような)は絶対にしてはいけないと言われました。似たような遊びが流行っても、大人になっても私はしてはいけない(ー_ー)!!と約束させられました(*_*)
そして、最後に・・
子供の頃からずっと言われていた事は
「出来ればよその、ばあちゃんが知らない土地の人と結婚せんでね。ばあちゃんが解らない家?にお嫁には出させんよ。ばあちゃんが知っとる家の人と結婚して、うちの家を継いでくれたら、ばあちゃんは嬉しかね〜(^・^)」
と言っていました。
私は祖母のこの願いを完全に裏切ってしまった訳です。
でも、以前にもコメントしましたが、出会いは縁ですから、きっと、前夫とも縁があったのだと思います・・
ホントだらだらとコメントしてしまいました<(_ _)>
では、早速、調査開始です(^O^)/
では(^・^)
[20] | 白石さんからのコメント(2014年05月24日 21時01分57秒 ) | パスワード |
平川子孫11 10にある定方
先日のブログやウィキより
☆藤原定方 (873〜932)
父・藤原高藤(左大臣冬嗣の孫) 母・宮道列子(宮道弥益の女) 醍醐天皇の母、藤原胤子は彼の同母姉です。
醍醐天皇の皇子に、中務卿代明親王(904〜937)という方がいらっしゃいます。ちなみに親王の母は醍醐天皇更衣藤原鮮子(藤原氏魚名流)です。
藤原高藤(冬嗣孫)
||・・・・・・・・・藤原定方《定方と藤原胤子は同父母きょうだい》
宮道烈子
宇多天皇
||・・・・・・・・・醍醐天皇(定方と母方でいとこ)
藤原胤子
醍醐天皇
||・・・・・・・・・代明親王
藤原鮮子(魚名流)
親王の邸宅は桃園親王と呼ばれた★貞純親王の邸宅で、 後に★源保光(桃園中納言)、★藤原師氏(桃園大納言)、藤原近信、★藤原伊尹家へ移り、 ・・・
☆源 保光 (924〜995) 中納言
娘・藤原義孝室
保光は桃園に邸宅があったので「桃園中納言」と呼ばれていました。
彼の娘の許には藤原義孝という貴公子が通ってくるようになります。そして、この二人との間に生まれたのが能書家として有名な藤原行成です。行成は祖父補光から桃園の邸宅を相続し、邸宅内に寺(世尊寺)を建立しました。
また、行成は、上で紹介した明理と大変親しかったと伝えられています
代明親王は、妻・藤原定方女との間に、重光、保光、延光(以上の3人の男児は、臣籍に下って源姓を賜りました)、荘子女王、厳子女王、恵子女王の6人の子女をもうけています。
★貞純親王
清和天皇の第六皇子。母は棟貞王の娘。王子に 経基王・経生王
清和天皇
||・・・・経基王・経生王
葛井親王 棟貞王女子
||・・・棟貞王・・・神祇伯になる
( )
★棟貞王
葛井( ふじい)親王の王子。桓武(かんむ)天皇の孫。従四位上。次侍従をへて貞観(じょうがん) 18年(876)神祇伯となる。王子が神祇伯となった初例。のち武蔵権守(むさしのごんの かみ)。
★
桓武天皇
||・・・・・・・・・・・葛井親王(ふじい・かどい)
坂上田村麻呂の娘・春子
経基王
母源能有女子
源能有
父:文徳天皇
母:伴氏
六孫王経基ー多田満仲ー源 頼親ー
源頼親
源満仲の次男。母は藤原致忠の娘。大和源氏の祖。河内源氏の租・源頼信とは同母兄弟にあたる。
源頼房
大和守源頼親の 次男。兄弟に頼成、頼遠、頼基がある。頼俊、親宗、為房、清仁親王室の父。
清仁親王
花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家)の祖となった清仁親王
延信王
花山天皇皇子の清仁 親王と源頼房(大宰府長官)の娘の子。賜姓源氏。寛徳2(1045)年に神祇伯(神祇官の 長官)に任命され,子の康資王もこの職を受け継いだ。
↓
白川王家へ
なんだか 前から 平川に見え隠れして 白石・高岡・佐田は 出てくるなあ と 思っていましたが、上の関係の時、よく見えてきます。
私のことですが、子孫様のご調査のおかげで 少しはっきりしてきました。
ありがたいことです。
夢のことですが
現代におられる方です。
子供の時 日の丸の旗を打ち振りに行った時のことや テレビなどでお見かけしているうちに 意識に入り込んだものか
それにしては あまりにも はっきりしていました。
[21] | 白石さんからのコメント(2014年05月25日 02時37分20秒 ) | パスワード |
こんばんは
平安夢柔話
藤原魚名とその子孫たちhttp://blog.goo.ne.jp/erika2672-t/e/252cf31d0bd3cbe7f84679635ba1ebb3
2006-10-26 14:38:34
を続けて読んでいます。
藤原頼通以降の摂関家の人々と、後一条天皇以降の天皇は、すべて定方の子孫
平川子孫4 39
平忠度公に繋がるキーマンは平河(平・良峯)良貞公
平忠度公 → 良峯( 母 原高成の女)
平河良貞 → 良峯
平川子孫4 54
そして記述に合った子供の一人「寂超」(平忠度公の母と呼ばれる方の兄弟)
俗名は藤原 為経(ふじわら の ためつね)
妻:美福門院加賀 - 藤原親忠の娘。のち藤原俊成室、美福門院のち八条院女房
この (美福門院加賀は 美福門院得子に仕えていた。藤原定家の母) も 魚名の子孫
子孫様のお話も 時々 読み返してみると つながってきて 楽しいです。
[22] | 白石さんからのコメント(2014年05月25日 03時29分49秒 ) | パスワード |
平川子孫より
遍照(俗姓・良峯氏)
A良峯寺と★花山天皇
天台宗 元慶寺の始まりは、
清和天皇の第一皇子、貞明親王(陽成天皇)の誕生の翌年、
貞観十一年(869)僧正「遍照」の発願により親王の母藤原高子(多治比氏・十市が関与する。十市 と 中原同族 つまり 佐田に関与する)が創建した花山寺を、元慶元年(877)に陽成天皇によって定額寺に列せられて年号寺、元慶寺と改めました。
別称 「花山寺」と呼ばれる。
良峯寺
寺は、長元2年(1029年)、源算(俗姓・★大中臣氏)が創建。「『往生要集』」
長元7年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。
さらに八年後には、東山の★「鷲尾寺」の本尊であった千手観音像(安居院仁弘法師作)を当寺に移 して本尊とするようにとの後朱雀天皇の綸旨があり、千手堂を建てて像を安置しています。(鷲尾も中原・十市同族)
善峰寺の北隣にある三鈷寺は、「百人一首」と大変関係が深いのです。
★ 藤原定家に 百人一首の元になったとされる 小倉山荘色紙和歌を依頼した人物が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)で、彼が当寺の堂宇(宇都宮は中原)
★定家の父は藤原俊成で、葉室家に養子に入り藤原(葉室) 顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り改名
[23] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月25日 08時11分30秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様、沢山のご教示ありがとうございます。
一昨日の昼ごろからちょっと具合が悪くなり、久しぶりの頭痛で、寝込んでいました(*_*)
病院から処方された薬を飲んで、頭痛もよくなり復帰です!!(^・^)
ご教示は読ませて頂いていたのですが、コメント出来なくてすいません。
あらためて、今まで、調査していた内容を、白石様に検証して頂いてとても嬉しいです。
ありがとうございます(^・^)
そうですよね・・!?
私、「藤原為経」についてコメントしていたのですよね・・
あの時は、別の方向から見ていたので、やはり理解出来ていませんでした(*_*)
私の、調査が白石様のご先祖様に繋がって行く・・・
ここにも、実際は「謎」が隠されているのかもしれません。
所で・・・
昨日、寝ながら、スキャンしていた、「山江村誌」に記述されていた、平河に関する古文書を読んでいたのですが、私、大変な「見落とし」をしていました。
「平河道照申状案」を読んでいた所・・
平河道照申状案には13通2巻に及ぶ副進が添えられています。
その中に
★当国図田帳要禄状 建久八年 建保四年 2通
★承久・暦仁目録 預所代并地頭加判由事 2通
★貞永元年九月十一日 領家方所進 師長等良署状案 1通
★御下知状 弘安六年七月三日 法光寺殿御代被成一門六十余人中畢 1通
★領家返抄状 年貢所済事 一巻
などがありました。
建久八年の図田帳では
★預所 は 大江広元 となっていました。
今まで、領家が解らなかったのですが、上記により
★領家方所進 師長等良署状案 ・・・「師長等」
すなわち、「師長」という名の方他「等」が領家側であったという事です。
「師長」・・・
ここまでの調査により、推測出来る方を調べたのですが
「藤原師長」の可能性もあるかと。
藤原師長 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E9%95%B7
藤原 師長(ふじわら の もろなが)は、平安時代末期の公卿。左大臣・藤原頼長の長男。
当時の執政である左大臣・頼長の息子であったことに加えて、祖父・忠実の猶子となったことで、早くから伊予権守、右近衛中将などを歴任する。師長の生母と異母弟である兼長・隆長の生母は同じ源師房の曾孫であるが、受領(源信雅)の娘の所生である師長と権中納言(源師俊)の娘の所生である兼長・隆長とは立場的に格差があった。だが、頼長は師長を「大殿」忠実の猶子にして、その後ろ盾によって摂関家の嫡子に相応しい身分を保証した上で、3人の息子を競わせて後継者を選択しようとした[1]。
仁平元年(1151年)には14歳の若さで参議として公卿に列し、久寿元年(1154年)には権中納言に昇進する。しかし保元元年(1156年)に父の頼長が崇徳上皇と手を結んで保元の乱を起こし敗死したため、連座して師長は官位を剥奪されて土佐国(一説には同国幡多郡)に流罪に処された。配流される直前、養父にあたる祖父・忠実に出家の意思を打ち明けるが、「世の中何が起こるか分からない」と説得されて翻意されたとされる。
長寛2年(1164年)6月に罪を赦されて京都に戻り、閏10月には本位(従二位)に復す。その頃、頼長の所領は没官領とされて後白河法皇の所領となっていたが、法皇は師長をそれらの土地の預所に任じることで彼を側近として取り込もうとした[2]。その後、法皇の後ろ盾により仁安元年(1166年)権大納言、仁安3年(1168年)左近衛大将、安元元年(1175年)内大臣に任じられると、父に仕えていた家司(あるいはその子弟)が師長の元に再び集まるようになり、近衛基実の死後混乱する摂関家を横目に勢力の巻き返しを図るようになる[3]。 安元3年(1177年)には左大臣・大炊御門経宗、右大臣・九条兼実を飛び越えて従一位・太政大臣に昇進する。なお、師長が太政大臣になった当時、まだ父・頼長の謀叛の罪は赦免されていなかった[4]。 このため、師長を太政大臣に補任する太政官符の文案作成を命じられた大内記が「其父謀叛人也、其身被罪人也」と主張して、太政官符に必ず記されていた「累代奉公」の4字を記入することを拒否する事件が起きている[5]。
だが、近衛基通との確執が表面化するに従い、基通を支援する平家との衝突を招き、治承3年(1179年)に平清盛のクーデター(治承三年の政変)が起こると、清盛によって関白・松殿基房とともに解官された上、師長は尾張国に流罪に処された。その後、師長は配地で出家して理覚と号する。3年後に帰京を許されて建久3年(1192年)に55歳で薨去した。
続きを読んだのですが・・
近年になって師長は摂関の地位を狙い、実際の行動に出ていることが明らかになっている。仁安2年(1167年)、正室であった藤原顕頼の娘を突然離別して、近衛基実の未亡人で摂関家領の管理者であった平盛子との再婚を画策し、それまで居住している顕頼旧宅を出奔して平経盛[6]の邸宅に移っている[7]。師長は盛子と結婚することで摂関家の地位を取り戻そうとしたとみられるが、最終的には失敗に終わっている。
そうか・・・(・_・)
と言う事で
是永(永吉)は
領家 藤原師長 他
預所 「建久八年」の段階では 大江広元
地頭 平河氏
であった可能性が見えてきました。
別件ですが、
日本の苗字七千傑様の中原氏《親盛流》姓氏類別大観を拝見しまして、「竹迫氏」に「師実」「師光」「師種」という方が見えます。
「師実」「師光」「師種」は平河の系図にある名でもあります。
今後とも、地道な調査をがんばります(^・^)
今日は、友人の娘さんの運動会なので、応援に行ってまいります(^・^)
★もちろん、体調には気をつけます(・_・)
では。
[24] | 白石さんからのコメント(2014年05月26日 21時07分24秒 ) | パスワード |
こんばんは
お体大丈夫ですか?
>師実は平河の系図にある名でもあります。
中原から出てくる師実。
かぶっているのかどうか?
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師実は養女の賢子(源顕房の娘)を白河天皇に入内させると、賢子は天皇の寵愛を受け 、さらに長男・敦文親王を産んだことから中宮に冊立され(敦文親王は早世するが、後に 善仁親王(後の堀河天皇)を産む)、師実の後宮政策は成功した。
永承2年(1047年)祐子内親王の御給により叙爵。同年に元服して従五位下に叙される。侍従・近衛中将を経て蔵人頭に補任され、後冷泉天皇に6年にわたって近侍した。1061年(康平4年)参議に至る。1083年(永保3年)兄左大臣俊房と並んで右大臣に任じられる。娘の賢子が白河天皇との間に生んだ善仁親王が天皇に即位する(堀河天皇)と、★村上源氏の主流となった。なお、顕房は久我に別荘を造営したことから、その後の久我家の家名の由来となった。
※このあたりに 佐田とのかかわりが?
村上源氏の系の北畠家が 佐田を名乗っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・相良氏は藤原冬嗣(母飛鳥部奈止丸女子・百済永継)公の子孫
藤原良門
生没年:父:贈太政大臣正一位 藤原冬嗣正六位上内(良門の妻):(父:飛鳥部名村)利基(利基流へ)
妻:高田春子(父:高田沙弥麿)838-900 高藤(高藤流へ)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
飛鳥部氏が母の系は 利基流へ
高田が母の系は高藤流へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高田は わたくしの故郷の萩というところに ありました。
父・高岡の生家 永田 田中 と一緒にありました。
親世代は村長をしていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高田を7000傑様の系でみますと 高麗国人の末に高田があります。勿論いろいろ他にも系があるのですが、
赤松がでてきて 他に 宮本武蔵の名が このページにあります。
前に 武蔵をおいかけ テレビで 人吉・球磨に武蔵の二本のの木刀を伝えている家が二軒あって 興味がありましたが
意外なところで 武蔵とつながってきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
脱線しましたが、高藤流には高田から 利基流には 飛鳥部からみたいですね。
高麗 百済がまわりにいる。
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藤原為経
藤原為忠の子。母は橘大夫の娘 初名は盛忠 出家して寂超
為経は藤原北家長良流
ウィキの藤原北家で検索すると
長良流(法性寺流)に 寂超がおり 高子の名もみえます。(嵯峨天皇女御)
また 時康親王(後の光孝天皇)の第七王子・定省王(後の宇多天皇)を猶子とする淑子もおります。
表題をみていたら 長良流の高倉家もありました。
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良門流・勧修寺流・利基流で紫式部も出てきて
この人は源氏物語を書いた人で
絶世の美男子・光源氏を書いた人でしょう?
物語といえど こういう発想は 周りに そういう人がいた とも 思えます。
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子孫様
少しもまとまらなくて ごめんなさい。
子孫様のように明晰な頭脳がほしいです。
[25] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月27日 00時13分47秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
白石様ご教示、ありがとうございます。
御心配をおかけ致しました。すいません。体調は、もう大丈夫です(^O^)/
昨日は、数年ぶりに運動会の応援をして、一日太陽の下にいましたので、光合成(植物か!)のお陰かと。
子供たちの、一生懸命な姿にパワーをもらいました。
本当に可愛かったです(^・^)
あっ!!白石様。
(ー_ー)!!イヤイヤ、私の頭脳は、まるで、ぐちゃぐちゃになっているルービックキューブの状態です。
どうすれば色が揃うのか・・(・_・)
所で(^・^)
竹迫氏について調べました。
竹迫城 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%BF%AB%E5%9F%8E
竹迫城(たかばじょう)は、現在の熊本県合志市上庄にある城址。合志城とも呼ばれ、その他に蛇尾城・穴の城・上庄城の別名もある。市の史跡。
鎌倉時代初期から戦国時代末期までの約400年間、肥後国合志郡における政治・軍事の中心であった。築城から戦国時代初期までを竹迫氏、それ以降は合志氏が居城とする。
鎌倉時代はじめの建久年間(1190年 - 1198年) - 合志郡の地頭職に任じられた中原師員(竹迫氏初代・竹迫輝種)によって築城される。
1337年(延元2年/建武4年) - 南北朝の争いが九州に及び、北朝方の合志幸隆が守る竹迫城を、南朝方の菊池武重が攻める。
1510年(永正7年) - 竹迫氏第15代の竹迫公種が豊後へ移転。
1511年(永正8年) - 竹迫氏に代わって合志隆岑が城主となる。
1551年(天文20年) - 菊池義武に与し大友義鎮の攻撃を受けるも落城せず・・
★中原師員の築城なのですね。
城主 竹迫氏 → 合志氏
合志氏について
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/gousi_k.html
肥後の戦国時代における国人領主のひとりとして知られる合志氏は、宇多源氏佐々木氏流と伝えられている。しかし、合志氏の場合、藤原姓菊池氏流合志氏、中原姓竹迫氏流合志氏、そして佐々木氏流合志氏の三つの系統があったと『合志川芥』に記されている。
藤原姓菊池氏流合志氏からは、岡本氏・永里氏があり、旧岡原村(宮原村と岡本村が合併)が故郷である、私には、とても身近な感じなのですが、こちらの合志氏は中原姓竹迫氏流合志氏と言う事ですね。
しかし・・三池氏も中原氏から・・こちらも旧岡原村でした。
藤原姓菊池氏流合志氏と中原姓竹迫氏流合志氏には、関係性があるのでしょうか?
余談ですが、「宮原城」も「岡本城」も今は、普通に「山」へと戻って?しまいました。
あとは、のどかな田んぼが広がり・・
きっと、この時代の方が人口も圧倒的に多かったのでは?と思います。
白石様のご教示にありました「高麗 百済がまわりにいる」
「百済」「新羅」「高麗」・・肥後とは強い繋がりがある訳ですね・・
所で、以前、コメントしました「宇佐大鏡」の平河師貞の記述の件ですが。
大分県国東半島にある、長安寺にも「師貞」の形跡が残っているようです。
しっかりと調査してコメントさせて頂きます。
あっ!!光源氏ですが・・
私、子供の頃から、思っていたのですが、当時の美男子とはどういう顔だちをされていたのかな〜?と。
今の「美」の基準とは、若干異なるのかも?
情報を調べていると「容姿美麗であったとの・・」などという記述がある方をかなり沢山見かけるのですが・・どんな御顔?かな?と??
これは、個人の想像の範囲に止めておいた方が良いのかも知れませんね。(^・^)
脱線しました<(_ _)>
では(^・^)
[26] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月28日 18時02分23秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2014年06月03日 09時05分08秒
[27] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月29日 10時25分26秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。(^・^)
先日から、お話していた、宇佐大鏡および諸県郡図田帳そして大分県豊後高田市長安寺太郎天像結縁交名衆銘文についてご説明致します。
@宇佐大鏡について
以前も「平川家について11」コメント87でもご紹介致しましたが宇佐大鏡に平河師貞・須恵小太良・伊勢弥次郎に関する記述あり。
A諸県郡図田帳(日向)に平河師貞・須恵小太良・伊勢弥次郎に関する記述あり。
上記に関しては以前ご説明致しましたが・・「多良木町史」 および「肥後における集落の展開と祭祀」 において
大分県豊後高田市長安寺太郎天像結縁交名衆銘文にも紀平次(平河師貞?)須恵小太良・伊勢弥次郎の名が記されているとの記述を見つけました。
球磨と豊前・豊後。繋がりが深いという事でしょうか・・
【長安寺太郎天像】に関して
長安寺について詳しく記述されたPDFを見つけました。
http://www.kyuhaku-db.jp/docs/049/049master/Q002c69835_2.pdf
私は以前から、大分県国東半島六郷満山が大好きで、本当に暇を見つけては心を休めに行っていたのですが、とても素敵な場所です。
6月に入ったら、宇佐神宮と六郷満山を巡りたいと思います。もちろん長安寺にも伺います。
続けて・・別件です。
平河の系図に関して、平河道照申状案13通2巻の副進の中に「系図」が一通あったようです。
その系図に私の知りたい全てが記述されているのだと思うのですが、副進の「系図」は「山江村誌」には記載されていませんでした。
おそらく、これが、「国の管理」となっている系図だと推測します。
そこで、「山江村誌」に記述されていた「平河伝授巻」「求麻外史」「熊風土記」(平河氏系図)は球磨に至るまでの内容が全て異なる(安則・師澄・師康の順番が異なっていたり、安則の記述が無かったり・・と)わけですが、ただし、全ての系図に共通なのは「良峯左近少将義孝」なのです。
やはり、ここからの調査が原点なのかな・・と思いまして。
昨日、あらためて「藤原義孝」からの流れを調べたのですが・・・
私はここでも「大きな見落とし」をしていました。
「藤原義孝」から6代裔の「藤原伊行」についてです。
藤原伊行 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E5%B0%8A%E5%AF%BA%E4%BC%8A%E8%A1%8C
系譜
父:藤原定信
母:不詳
妻:夕霧(太神基政の娘) ★ここです
女子:藤原伊子(建礼門院右京大夫)(1157?-?)
生母不明:
男子:藤原伊経(?-1227)
男子:藤原行家
男子:尊円
女子:大夫局
女子:
妻:夕霧(太神基政の娘)
太神基政とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%9F%BA%E6%94%BF
大神 基政(おおが の もとまさ、承暦3年(1079年) - 保延4年9月8日(1138年10月13日))は、平安時代後期の楽人。右近衛将監・大神惟季(是季)の養子。子に基賢・夕霧がいる。官位は従五位下・左近衛将監。
石清水八幡宮の童子であったが、大神惟季に才能を見出されて彼の養子となり、「皇帝破陣楽」などの秘曲を伝授される。なかんずく横笛に長じ、惟季はその著書『懐竹抄』の中で、管弦の心得を知悉しており、卓越した演奏をする人物として基政を絶賛している。
★大神惟季に才能を見出されて彼の養子となる。
こちらの「大神惟季(是季)」は楽書「懐竹抄」の著者とされる方なのですね。
日本の苗字七千傑様の《楽家大神氏》姓氏類別大観を拝見しました。
大神基政より「山井氏」となるのですね。
そして・・
藤原伊行と妻夕霧(太神基政の娘)との女子
藤原伊子(建礼門院右京大夫) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E7%A4%BC%E9%96%80%E9%99%A2%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%A4%AB
承安3年(1173年)高倉天皇の中宮建礼門院平徳子に右京大夫として出仕。藤原隆信、平資盛と恋愛関係にあり、資盛の死後、供養の旅に出たという。建久6年(1195年)頃後鳥羽天皇に再び出仕した。
家集に資盛との恋の歌を中心とする「建礼門院右京大夫集」がある。
★本当に愛されていたのですね・・。
平資盛は平重盛の子息。
この方も今まで何度も調べていますね・・・
平資盛 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%87%E7%9B%9B
★この方の周囲に「伊藤忠清」「平貞能」が家人としていらしたのですね。
そして・・ 続けます
同年12月、資盛は備前国児島で源範頼と戦い敗北(藤戸の戦い)。元暦2年(1185年)3月24日、平氏は壇ノ浦の戦いで敗れ、滅亡に至った。資盛は一人残った弟の有盛と、従弟の平行盛とともに壇ノ浦の急流に身を投じて自害した[3]。享年25(もしくは28)。ただし『醍醐雑事記』の死亡者には資盛の名はない。
そうか・・・(・_・)
遺言[編集]
平氏一門の都落ち直前、密かに建礼門院右京大夫と会っていた資盛は、日頃からの口癖として彼女に以下のような事を言い残している。この頃の資盛は心の余裕のない様子だったという。
こういう世の中になったからには、自分の身が儚くなるであろう事は間違いないだろう。そうなったら、あなたは少しくらいは不憫に思ってくれるだろうか。たとえ何とも思わなくても、あなたと親しくなって長いつきあいだから、その情けで、後世を弔ってほしい。もし、命が今しばらくあったとしても、今はいっさい昔の身とは思わないと心に堅く決めている。そのわけは、それが不憫であるとか、名残が惜しい、あの人の事が気がかりなどと考え始めたら、思うだけでもきりがないであろうから。心弱さもどのようであるかと我ながら自信がないから、今後は何事も思い捨てて、どこの海にあってもあなたのところへ手紙を出したりするまいと決心しているので、おろそかに思って便りもしないとは思わないで下さい。万事、もう今から死んだと同じの身になったと心を決めたはずなのに、やはりともすれば以前の気持ちになってしまいそうなのが、とても口惜しい。
この方も藤原伊子を本当に愛していらしたのですね・・
そして藤原伊子は平資盛の供養の旅に出た・・。
藤原伊行と妻夕霧(太神基政の娘)・藤原伊子(建礼門院右京大夫)・平重盛の子息、平資盛 についてをお伝えしました。
せつなくなりました(゜-゜)
(・_・) <(_ _)>
[28] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月30日 12時20分03秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。(^・^)
ところで・・
平河に関する数点の系図「平河伝授巻」「求麻外史」「熊風土記」(平河氏系図)から、今まで、調査した「名」に相良氏と関係する人物が多数登場した事は以前よりコメントさせて頂いていました。
遠い先祖の本当の気持ちは私には解りませんが、しかし、今年の正月に親戚や父が言った言葉「相良さんは良くして下さった」この言葉の意味がとても気になりまして・・
そこで、今朝は「相良長頼」以降の歴代相良家当主および関係者について、ウィキを利用して、調べていたのですが・・
★相良氏歴代当主 10代「相良堯頼」そして11代「永留長続」この方々について
相良堯頼 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E5%A0%AF%E9%A0%BC
相良 堯頼(さがら あきより、永享5年(1433年) - 文安5年3月28日(1448年5月1日))は、相良氏の第10代当主。第9代当主・相良前続の子。幼名は虎寿丸。
父の前続が嘉吉3年(1443年)に急死したため、13歳の若さで家督を継ぐ。 しかし文安5年に上相良氏の多良木頼観・多良木頼仙兄弟が外越地頭の桑原一族を始めとした国人達及び、蓮花寺などの山伏ら500余人、雑兵700余人を率いて人吉城を夜襲。不意を突かれた堯頼は菱刈氏を頼って落ち延びた。
これに対し、肥後国球磨郡の山田城主である永留長続が、多良木兄弟を討ち取って人吉城を回復する。堯頼は長続から帰城するよう求められたがこれを辞退し、長続に家督を譲るとしたが長続もこれを固辞した。そのためやむなく城に戻ったともされるが、戻っていないともされ判然としない。
同年3月、堯頼が予てより愛玩していた子牛を遊牧中に股を牛の角に突きたてられ、その疵が元で菱刈の地にて16歳で亡くなった。一部に、堯頼の帰城を望まない者による謀殺とする説もある。
遺体は菱刈郡小苗代の永福寺に葬られた。法名は悦山大喜。
★肥後国球磨郡の山田城主である永留長続。
では永留長続について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E7%B6%9A
相良 長続(さがら ながつぐ)は、相良氏の第11代当主。
肥後国球磨郡の山田城を領していたが、文安5年(1448年)に上相良氏の多良木頼観・多良木頼仙兄弟が相良氏第10代当主・相良堯頼を追放した後[1]、長続は薩州島津氏・豊州島津氏らの支持を受け、菱刈氏らの協力も得た長続は、直ちに多良木兄弟を雀ヶ森で討ち取って人吉城を支配下に置き[1]、堯頼を復帰させることで上相良氏と下相良氏で分裂していた相良氏を、下相良氏のもとで統一することに成功した。そして堯頼が亡くなると、家督を継いで第11代当主となった[1]。
★あの・・・・(・_・) このページの凡例が・・
別名 藤五郎(通称)[1]、永留長重[1](初名)
★この方、改名しているのですね・・・
初名は 永留長重 ながしげ?
通称は 藤五郎 ふじごろう?
それに・・山田城城主・・?
偶然とは思うのですが・・・
平河の系図に 「長重」という名があります。 この方は続きが書かれていません。
そして、平河の系図は「長重」以降が、先日からお話しているように「暗号」みたいなのです・・・?
系図の中にも藤五郎 とあります・・???(?_?)
まあ偶然でしょう(ー_ー)!! (なんかもやもやしますけど・・(・_・))
日本の苗字七千傑様の《人吉相良氏》 姓氏類別大観を拝見しました。
永留氏 「長続」に※マークが付いていますのですぐに解りました。
そうか・・・(・_・)
でも、平河の系図の「長重」と「藤五郎」・・・
(ー_ー)!!
藤五郎は結構使われている通称かもしれません(^・^)
他にも平河の系図には
相良弥三郎頼貞 ・ 相良藤三郎長貞 という名もありましたから(^・^)
多分、偶然でしょう(^・^)
先入観は良くないですから。(でも、本当はかなりもやもやしていますが・・・(ー_ー)!! ダメですね。イカンイカン(ー_ー)!!)
さて!気を取り直して調査調査っと!
では(^・^)<(_ _)>
[29] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月31日 00時27分04秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
昼、コメントした、相良長続(永留長重改名長続)この方について少し調査をしました。
そして、「永留氏」と「平河」に関する事で一つ情報を確認する事が出来ました。
「山田大王神社」についてです。
創建は「永留長滋」です。創建時は平河藤高一人を祀っていました。
そして「永留頼連」によって平河藤高の父義高を合祀。
「大王」とは鎌倉時代に山田の地頭職にあった平河氏に対する尊号とされる。
という記述もありました。
「永留氏」が山田城に居城していた関係なのでしょう。
相良氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html
乱世の予兆
前続は嘉吉三年(1443)に死去し、そのあとは十一歳の堯頼が継いだ。堯頼を若年と侮った多良木相良頼観、頼仙兄弟が桑原一族を味方にして、文安五年(1447)、人吉に押し寄せてきた。不意をつかれた人吉勢はたちまち崩れて、城を脱出した堯頼は菱刈に落ち伸びた。人吉城陥落の報に接した永吉庄山田城主永留相良氏の長続は、ただちに兵を発すると人吉城を攻め、多良木相良頼観・頼仙兄弟を追放した。
人吉城を制圧した長続は、菱刈にいる堯頼の帰城をうながしたが、堯頼は長続が城主になるように勧め動こうとはしなかった。そのうち、堯頼は不意の事故によって負った傷が悪化して急死してしまった。ここに至って、相良惣領を継いで人吉城主となった永留長続は、頼観・頼仙兄弟を誅伐し、その一族・与党を滅ぼした。ここに、本来の相良氏の惣領であった上相良氏は滅亡し、長続は一挙に球磨郡を統一、さらに葦北の所領も手中に収めたのである。
長続の相良惣領家継承に関しては、上相良氏の人吉城攻撃がきっかけになったとはいえ、相良氏庶流永留氏による宗家乗っ取りであったと見られている。すなわち、永留相良長続は薩州島津氏・豊州島津氏らの支持を受けており、堯頼を保護していた菱刈氏らも永留相良氏に協力した。長続は人吉相良庶子家を一揆として結集し、自らの基盤としていたが相良惣領となるやこれを解体している。とはいえ、結果としてこの内訌は、相良氏が戦国大名として変質を遂げる重要な画期となった。
★長続の相良惣領家継承に関しては、上相良氏の人吉城攻撃がきっかけになったとはいえ、相良氏庶流永留氏による宗家乗っ取りであったと見られている。
同様の見解が、多数の書籍に記述されていました。
相良氏について、全く理解していませんでした・・・
では<(_ _)>
[30] | 子孫よりさんからのコメント(2014年05月31日 16時16分55秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
もしかしたら・・平河の永吉庄をめぐる訴訟・越訴の中心人物である「近衛中将実春朝臣」この人物が解ったかも知れません。
以前、コメントしていた「徳大寺実春」。
この方を再度調べたのですが・・
徳大寺実春の父は「徳大寺公国」そして母は「大江広元」の娘です。
大江広元が外孫の「近衛中将実春朝臣」に永吉庄預所の権限を譲ったという事と一致します。
そして、何故、「徳大寺」なのに「近衛」となるのか。
徳大寺実春の兄「徳大寺実光」(母は実春と同:大江広元娘)について詳しく記述したサイトがありました。
摂家 近衛家 こちらの別系 藤原北家閑院流徳大寺庶流を見て下さい
http://www.geocities.jp/okugesan_com/settsuke.html#konoe2
近衛家 別系藤原北家閑院流徳大寺庶流
徳大寺実能の孫実家(川原流)の孫実光を祖とする。
という事です。
徳大寺実春が争論の対象であったとすると・・・
続きがあります(・_・)
徳大寺実春の祖父 徳大寺実家について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E5%AE%B6
藤原 実家(ふじわら の さねいえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿・歌人。徳大寺公能の次男。藤原俊成は母方の伯父にあたる。
★藤原俊成は母方の伯父・・と言う事は・・
系譜[編集]
父:徳大寺公能
母:藤原豪子(藤原俊忠の娘)★ここです
妻:藤原憲方の娘(?-1185)
長男:藤原公国(1163-1218)
次男:藤原公明(?-1218)
妻:藤原朝方の娘
妻:不詳(生母不明の子女)
男子:公仙
男子:公仁
女子:
★母:藤原豪子(藤原俊忠の娘)
この方には、今までの調査で何度も繋がりましたがあらためて<(_ _)>
藤原俊忠 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E5%BF%A0
系譜を見て下さい。
女子:藤原豪子 - 徳大寺公能室(実定母)
女子:藤原俊子 - 藤原顕長室(長方母)
藤原長方 何度調査した事でしょうか。とりあえずあらためてウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%96%B9
藤原長方
妻:藤原通憲(信西)の娘
妻:藤原師高の娘
という事でこうなりました<(_ _)>
平河良貞・平河師時の永吉庄をめぐる争論の相手 大江広元の外孫、近衛中将実春朝臣。
徳大寺実春(大江広元 外孫)の祖母(藤原豪子)と藤原長方の祖母(藤原俊子)は姉妹。
よって二人は「ふた従兄」と言う事です。
以前より、ず〜っと「藤原長方」この方が気になっていたのですが・・
ここで具体的に繋がりました。
争論は
平河 【良貞・師時・「道照・道我(二階堂氏)」等 】対「近衛中将実春朝臣」他 であり・・
しかし、結果
永吉預所職 および 西村地頭職を
「豊前前司入道景資」こと少弐景資が得る事となり、一旦落ち着いたが・・
少弐景資が亡くなった事により「備前前司入道」が拝領。
所が、代官の「行性」こと「竹井二郎右衛門入道」が永吉地頭職までも「横領」した事により、再び「平河道照」は訴訟を起こした。
と言う事です。
越訴の時点では、争論の対象は「備前前司入道」・代官の「行性」こと「竹井二郎右衛門入道」に変わったという事ですね。
しかし、その後・・時代が変わり「少弐頼尚」が豊前前司入道景資跡を所領した・・
やっと全体が見えてきました。(私、理解力が乏しいので、めちゃくちゃ解りづらかったのです(+_+))
では(^・^)
[31] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月01日 01時18分38秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^) 今、すでに真夜中になっていました。
今まで、色々調べていたのですが・・
進捗があります。
徳大寺実春の父「藤原公国」ですが・・
「藤原公国」の室は・・西園寺公経の姉妹です。
西園寺公経の父「藤原実宗」について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E5%AE%97
系譜を見て下さい。
妻:持明院基家の娘
男子:西園寺公経(1171-1244)
生母不明
女子:藤原公国室
すなわち・・・
徳大寺実春の父「藤原公国」
室:藤原実宗 娘(西園寺公経 姉妹)
妻:大江広元 娘
と言う事です。
西園寺公経・大江広元・徳大寺実春 この方々は全て球磨に繋がっていた・・
これで、やっと理解できました。
私が今まで行ってきた調査が何故ぐるぐる回って繋がってしまっていたのか。
私は、領家・預所・現地の地頭 この関係をぐるぐる調査していたのでしょう。
そして・・・
近衛中将実春の妻は「北条泰時の娘」
北条泰時の兄弟である「北条重時」の甥が「平河師里」
何故、そうなるのか・・?
しっかりと調査したいと思います(・_・)
では(^・^)
[32] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月04日 07時05分15秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。(^・^)
歴史に関して、全く無頓着な私が、去年から本日まで行ってきた先祖「平河」の調査。
「平河」については、殆ど進展してはいません。
しかし、その調査によって、知った情報は、もしかしたら、歴史の教科書には載っていない「裏側の部分」だったのかもしれないという事にやっと気が付きました。
「山江村誌」の記述にあった面々の中に未だ調査を行っていない人物に気が付きました。
「中原清業」です。
球磨に関わりを持った非常に重要な人物であったにも関わらず、私は単純に「平頼盛」の家人?位にしか考えていませんでした。
まず「山江村誌」より
人吉庄は球磨庄の本家(蓮華王院)、領家(八条女院)預所(平頼盛 → 光盛、後見として中原清業)の権利を保障する形で成立したといえる。
★上記の事について詳細が記述されていました。
領家は八条女院で、鳥羽院皇女・子内親王である。預所は対馬前司中原清業で、平頼盛の後見侍であり、大隅守・備後国目代・播磨国目代・大宰少弐などを歴任した、史大夫である。
それだけに「球磨臼間野庄」から「人吉庄」の成立まで積極的に係わった一人である。
又、私は重要な見落としをしていたようです。
中原清業について調べました。
中原清業 (なかはらのきよなり)コトバンクより
平安後期-鎌倉時代の官吏。
平頼盛(よりもり)の郎従。元暦(げんりゃく)2年(1185)大隅守(おおすみのかみ)(のち対馬(つしまの)守)。後白河法皇の院分国である備前(岡山県)と播磨(はりま)(兵庫県)の目代をつとめた。
そして、こちらの書籍(歴史小説)にこの様な話が記述されていました。
★平家秘録
頼盛家の家政は、武官の弥平兵衛宗清と、文官の史大夫中原清業によって分担されていた。
宗清は頼盛と同じ年。武骨一徹で、平家一門であることに生き甲斐を感じていた。
一方の清業は、父親史大夫中原清貞が忠盛に仕えていた関係から、頼盛とは 幼い頃から一緒に遊んだ仲で、頼盛は五歳年少の清業を弟のように可愛がってきた。
中略・・清業はこれと思ったことは必ず成し遂げてしまう不思議な能力を備えていた。
現に頼盛が太宰大弐で鎮西に下った時に同行し、筑前国香椎庄、筑後国安富領・三原庄、肥後国球磨臼間野庄を家領とし、また八条院領の筑前宗像庄等の獲得に力を発揮してきた。
★上記の記述に関してまでは、「球磨」に関係したという話の「中原清業」についてですが・・
以下は違います。
歴史にお詳しい皆様であれば御存知であった事でしょうが・・
私は、勉強不足でした・・
中原清業は「後白河上皇 側近」であったのですね・・・
長くなりましたので、次のコメントで続けます。
では <(_ _)>
[33] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月04日 14時44分44秒 ) | パスワード |
検証を続けます(・_・)
重要なカギを握るのは
@ 藤原実定
A 藤原季兼の子息・子女
B 藤原家成
C 藤原師長
D 鹿ケ谷事件
E 中原清業
こちらのサイトをご覧ください。
平清盛(平ノ清盛)・重盛の家臣団と軍団、平家・平氏の領地国
〈清盛の敵対者〉という見出し以下の複数の人物は、私が今まで調査を重ねた方々でした。
http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi57.htm
記述を転記させて頂きます。
★および※マークは、今まで私が「平河」を調査してきた中で確認してきた内容です。
かなり、長くなりますが、これが「事実」です<(_ _)>
では・・・
●藤原基房 (1145〜1231)「松殿」・太政大臣。藤原忠通の息。反平家。兄・藤原基実の死により、兄の子・藤原基通を差し置いて「藤原長者」。平ノ盛子・重盛の遺領を収公して清盛と対立。1179年11月清盛の武力により関白を罷免される。太宰権帥に左遷される。1183年上洛した木曽義仲を婿に迎える。息に師家。
●藤原兼実 (1149〜1207)九条兼実・右大臣・太政大臣。藤原忠通の息。異母兄に近衛基実、「松殿」基房。1166年関白・近衛基実の死後、その遺領を巡り藤原邦綱の後援する基実の室・平ノ(白河殿)盛子と対立。反平家、のち反後白河。源ノ頼朝により1186年摂政・藤原氏長者。
★★藤原兼実の妻は藤原顕輔の娘です。
藤原顕輔は藤原家保と兄弟であり、藤原家成の伯父にあたるというわけです。
★藤原家成については、後ほど詳しく記述致します<(_ _)>
★藤原兼実と妻:藤原顕輔の娘の子に「良円」。
続けます(・_・)
※★★キーマンが登場します
●藤原実定 (1139〜1192)徳大寺実定・左大将。公能の息。藤原俊成の甥。藤原定家の従兄弟。藤原(九条)兼実の同盟者。1186年源ノ頼朝の推挙により左大臣。姉妹が後白河、近衛、二条天皇の室。
★★藤原実定は先日コメントした徳大寺実春の祖父「藤原家実」の兄弟です。
★★調べた結果、藤原実定の妻は・・・
★@藤原長方(信西娘・藤原師高娘を妻とする)の姉妹。
★A藤原師長の娘。
※平河道照申状案に添えられていた13通2巻の副進の一つ「貞永元年九月十一日 領家方所進 師長等良署状案」 ここに「師長」等との記録があります。
★B上西門院女房備後
※上西門院女房備後とは・・・
Kokubungaku kaishaku to kyōzai no kenkyū googleブック検索より
上西門院女房であったことの明らかな人物は、他の資料にも散見される 。待賢門院中納言を高野山に訪ねる案内を西行に請うた帥は、『たまきはる』の女房名寄に「備後の前司季兼の女」と注され・・・
★備後の前司季兼の女・・・藤原季兼。藤原敦兼(あつかね)の次男。母は藤原顕季(あきすえ)の娘。正四位下,備後守(びんごのかみ)。家芸の管弦,とくに篳篥(ひちりき)にすぐれていた。源資賢(すけかた)とともに,後白河天皇の初期の今様(いまよう)の師。
★★藤原季兼は熱田大宮司 「藤原季範」の父であり、娘は・・二階堂行政の母でした。
すなわち・・
藤原実定の妻「上西門院女房備後」・二階堂行政の母・藤原季範は兄弟(姉妹)であったと言う事です。
平河道照申状案の中に「平河師高」は平河良貞・平河師時・道照・道我等の先祖と記述されていました。
「道照」とは鎌倉幕府引付頭人二階堂和泉守行方の法名。
二階堂行方の祖父が「二階堂行政」となります。
「道我」とは鎌倉幕府政所執事二階堂出羽守行藤の法名
そして、藤原季範の三女:由良御前(源義朝室) - 源頼朝の母
★続けます(・_・)
●後白河法皇 (1127〜1192)第77代天皇。鳥羽天皇の息。1155年近衛天皇の死により即位。1158年二条天皇に譲位。1174年建春門院とともに厳島参詣。1177年「鹿ケ谷の陰謀」事件。1179年清盛の軍事的クーデターにより幽閉される。息に二条天皇、以仁王、高倉天皇。
(後白河上皇 側近衆)
●藤原成親 (*〜1179)新大納言・越後中将・執事別当。藤原家成の息(3男)。後白河上皇の側近。「平治の乱」に藤原信頼に協力。平ノ重盛の仲介により、清盛に赦免される。1179年「東山鹿ケ谷事件」に備前に配流。のち誅殺される。<異母兄弟に藤原隆季。><忠盛の正室・池禅尼は父・家成の従兄弟。>
★★藤原家成の子息。そして、家成の養子となった西光(藤原師光)とは兄弟となります。
★★藤原成親の娘は「藤原師長」の妻です。そして藤原師長は藤原成親の子「藤原成宗」を養子にしています。
※★永吉庄および西村は鎌倉幕府成立後は「鎌倉御領」。永吉庄地頭職は「平河師高」の子息平河師貞に安堵された。鎌倉御領五百丁の内訳は平河師貞が三百五十丁。残り百五十丁が須恵小太良こと「藤原家基領」となる。
そして永吉庄は鎌倉御領となる前は三善、それ以前は是永と呼ばれ「藤原師長」が領家であった・・と言う事です。
●藤原師光 (*〜1179)藤原西光・入道西光・西光法師。阿波出身。藤原信西の家人。後白河上皇の側近に抜擢され、院の執事。1179年「東山鹿ケ谷事件」に誅殺される。息に師高、師経。
※★★ 藤原師光(西光)は麻植為光の子であり、藤原家成の養子となった。
★藤原師光の兄弟である藤原成親の娘は「藤原師長」の妻。
★藤原師長は球磨「是永」の領家。現地において、平安末期まで「平河師高」が治めていた。
※★★藤原師光の養父である藤原家成について
【藤原家成】
★娘は平重盛の正室。
★平頼盛(人吉庄領主)の母「池禅尼」は従姉にあたる。
★藤原家成の伯父「藤原顕輔」の娘は「藤原兼実」の妻。
★藤原家成は、球磨の須恵小太良こと「藤原家基」の伯父「藤原忠宗」の妻の兄である。
★※?偶然にも球磨の合志九郎こと藤原季隆(季高)と同名の藤原長実の子「藤原季隆」と藤原家成 はふた従兄。
では続けます(・_・)
●基仲 (*〜1179)後白河上皇の側近。1179年「東山鹿ケ谷事件」に誅殺される。
★近江入道卜部基仲ですね。
★近江入道卜部基仲の娘は白川仲資王(しらかわ・なかすけおう)の妻となり、子に業資王と資宗王とありました。
●中原基兼 (*〜1179)山城守。後白河上皇の側近。1179年「東山鹿ケ谷事件」に誅殺される。
●⇔中原清業 (*)対馬守・前対馬守。平ノ頼盛の家人。後白河上皇の代官。1190年太宰少弐。
★★人吉庄預所:対馬前司中原清業。
★★山江村誌には「球磨臼間野庄」から「人吉庄」の成立まで積極的に係わった一人と記述されていました。
?????非常に疑問を感じます。
この方は一切「鹿ケ谷事件」には関係していないのでしょうか?
そして中原清業がいたからこそ、「人吉庄は球磨庄の本家(蓮華王院)、領家(八条女院)預所(平頼盛 → 光盛、後見として中原清業)の権利を保障する形で成立したといえる」のではないのでしょうか。
●惟宗信房 (*〜1179)宗・判官。後白河上皇の側近。1179年「東山鹿ケ谷事件」に誅殺される。
●平ノ資行 (*〜1179)新平ノ判官。後白河上皇の側近。1179年「東山鹿ケ谷事件」に誅殺される。
●⇔平ノ康頼 (*〜*1179)中原康頼・左衛門尉・入道聖照・判官。検非違使。中原頼季の息。元・平家の家司。のち後白河法皇「北面の武士」。後白河上皇の側近。1179年「鹿ケ谷事件」の首謀者。喜界島に配流される。
●俊寛 (*〜1179)源ノ・法勝寺執行・僧都。木寺法印・寛雅の息。後白河上皇の側近。1179年「東山鹿ケ谷事件」に誅殺される。
●藤原光能 (1132〜1183)蔵人頭・参議。藤原忠成の息。後白河上皇の側近。高倉天皇派と権力闘争。下野、丹波守護。<神護寺に伝わる肖像画は、光能ではなく足利高氏の一門の誰かの肖像らしい。>
●藤原定能 (1148〜1209)蔵人頭・権大納言・入道定阿。藤原季行の息。母は藤原宗能の娘。後白河上皇の側近。高倉天皇派と権力闘争。播磨、加賀、丹後守護。
★★藤原季行の息。
藤原季行の娘は九条兼実(藤原兼実)の妻。藤原定能とは兄弟と言う事です。
★そして藤原定能の祖母は藤原顕季の娘。
すわなち藤原家成の父「藤原家保」・「藤原顕輔」「藤原定能の祖母」は兄弟と言う事になります。
かなり長くなりましたので、一旦アップ致します。
続けて「平家一門の後白河派」について検証します。
では<(_ _)>
[34] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月04日 15時11分43秒 ) | パスワード |
追記
先ほどのコメント最後に書いた内容を追加致します<(_ _)>
藤原家成の父「藤原家保」・「藤原顕輔」「藤原定能の祖母」そして・・・
★藤原実定の妻「上西門院女房備後」・二階堂行政の母・藤原季範 この方々の父である藤原季兼の母。
兄弟(姉妹)です。
藤原家成の父「藤原家保」・「藤原顕輔」・「藤原定能の祖母」・「藤原季兼の母」はすべて「藤原顕季」の子だったのです。
では<(_ _)>
[35] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月04日 16時41分02秒 ) | パスワード |
皆様へ<(_ _)>
平家一門の後白河派の検証に入る前にここまでの調査の結果で得た「平河」に関係する情報についてまとめます・・・
永吉庄をめぐる訴訟では、永吉庄を先祖代々開発の地とし、開発に携わった「平河師高」は、平河良貞・平河師時・道照・道我等の先祖であると、預所を譲られた大江広元の外孫「近衛中将実春」と争論が起きました。
道照・道我は「二階堂行政」の裔である二階堂和泉守行方・二階堂出羽守行藤。
近衛中将実春(徳大寺実春)は「藤原実定」の兄弟である「藤原実家」の孫。
先ほどコメントしたように藤原実定の妻「上西門院女房備後」と二階堂行政の母は姉妹でした。
争論の対象となった「永吉」そして「西村」はそもそも「藤原師長」が領家であったわけです。
藤原師長の妻は「藤原成親の娘」。藤原師光は伯父にあたります。
藤原成親と藤原師光は鹿ケ谷事件によって亡くなりました。
球磨に話を戻すと、「平河師高」は、球磨よりいずれかに向かい、その後の消息は解りません。記録が全く残っていないという事です。
鎌倉幕府成立後、源頼朝より、平河師高の子息である平河師貞に永吉庄は安堵されました。
源頼朝は「平河師高」は冤罪であったと、暇を取り天に遣わされたと師高の子孫に伝えました。
そして、球磨の伝承・記録には「平河義高」が登場します。
ところで・・
皆様は覚えて頂けていますでしょうか?「平川家について8」での私の調査を・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101343_94.html
鎌倉遺文より
寛喜3年4月6日
四位侍従公綱(藤原)朝臣・刑部大輔義高朝臣等入滅、 民経記
記録では「疾病と聞いている?」(云々)となっていたのですが、でも二人の名前が同時に記録されていて、なおかつ「等入滅」とは、まるで、同じ所で、何人も疾病で同時に入滅した?というような書き方で・・・と疑問を持った話です。
あらためて、確認します。
四位侍従公綱(藤原)朝臣とは「藤原公綱」
徳大寺公能の息 徳大寺実定の子。
そして
刑部大輔義高朝臣(藤原義高)とは「菅原義高」
父 :大学頭 菅原在茂・・文章生 文章博士 大学頭 正四位下
母 :(父:刑部卿 藤原家基)★母は藤原家基の娘
「菅原義高」は須恵小太良こと「藤原家基」の孫と言う事です。
寛喜3年4月6日
四位侍従公綱(藤原)朝臣・刑部大輔義高朝臣等入滅
球磨に関係した二人の人物そして「等」と言われた方々は同じ疾病で同日に亡くなったと記述されているわけです。
真実は私には解りません。
平河一族が相良長頼にせん滅されたと言われる戦いは「寛喜年間」となっていました。
先入観を持ってはいけませんので、あくまでも「偶然」調査をおこなっていた「徳大寺実定」と「藤原家基」の親族に関する情報が見つかっただけと・・・
平家一門の後白河派の検証は明日あらためてコメント致します。
では<(_ _)>
[36] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月06日 11時45分30秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
昨日は、色々私用がありまして、コメント出来ませんでした。<(_ _)>
一昨日の続きを・・と思っていた所に今朝、父から「元気か〜」との電話がありまして、少しだけ、話を聞く事が出来ました。
私の祖母の実家、平川の「祖母の祖母」・・・何と呼んだら良いのかな?
私のひい曾祖母?ですね。(私から4代前なので何時代かしら?)
ひい曾祖母?は永田家から平川に嫁いで来られていました。
永田家は武士であり、なお且つ代々「相良家」の医者であったと父から聞きました。
そして明治に入り、湯前に「永田医院」を開業したという事です。
とっ言うか完全に忘れていました(+_+)
そうです「永田医院」は親戚でした。
でも、何故親戚なのかは子供の頃聞いたきりで・・・忘れていたのです(+_+)
遊びに行った事も何度もあるのに・・・こんな自分が悲しいです(*_*)
長田家は親戚ですが「永田家」も親戚だったという事です。
相良家の医者?この時代は何と呼んでいたのかしら?
ちなみに子供の頃に遊びに行くと、めちゃめちゃ今で言う所の「レトロ」な洋館だったので、しっかりと思い出しました。
今はどうなっているのか気になってネットで検索した所、ありがたい事に建物を気に入った方が、ネットに写真を公開して下さっていました。
私のひい曾祖母の実家である「永田医院」の建物を皆様にもご紹介させて頂きます(^・^)
http://yamatoongaku.fc2web.com/kamikumaminami.htm
画面をスクロールすると、「永田医院」が出てきます(^・^)
では<(_ _)>(^・^)
[37] | 白石さんからのコメント(2014年06月06日 23時45分20秒 ) | パスワード |
こんばんは
とうとう大阪も梅雨入りしてしまいました。
あじさいがきれいに咲いています。
先日から家の中がざわざわと・・・娘が帰省してきて、息子と二人で家のそう片づけをしてくれ、(二人で 私の子育ての歴史の残骸を断舎離して)
クーラーを替え、パソコンに何やら外付けをして性能アップして 部屋の衣替えをしてしまいました。
政権交代です。
職場でぐちったら 老いては子に従えですよ と・・・
そして
性能アップしたパソコンで、同級生から以前送ってもらっていた人吉の案内を中原丈雄がしている画面を見ました。
もうひとつは 宮崎美子さんの分。
なつかしい故郷の風景でした。
中原さんは 湯前出身のようです。以前スレッドに書いたことがある人吉の旅館の息子さんの親せきと 伺ったような気がしています。お知り合いだったかな?
画面の中で 人吉の老舗旅館の若女将が出ていました。
富田さん と ・・・
なので その旅館は 富田さんだと思うのですが、
富田には
姓系辞典に 高岡は富田進士か? とあります。
その旅館とうちの高岡がつながっていくのかどうかは?わかりませんが
永田という苗字は 免田に製材所があり 今は木の需要が落ち込んでいますが
姉が嫁ぐまでそこで事務をしていました。
また 平川の男子も、そこに努めていました。結構ひろく永田はひろがっているようです。うちの集落にも萩に永田という同級生がいました。
ところで
平安時代の人の美意識。
岡目にひょっとこ だと 前に本で読んだことがありますが・・・源氏物語絵巻などにも 顎が しもぶくれした人がかいてありますよね。
本当に どんなひとたちだったのだろうと思いますが、
旅館の若女将のお顔は 現代風で
小顔に見えました。美人だと 私は思います。^^
ひょっと見た画面のことの 話でした。
[38] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月07日 07時24分14秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様、コメントありがとうございます(^・^)
お家の片づけをお子さんがして下さって、とっても、うらやましいです。
本当にお優しいお子さん方ですね。
私の息子は自分の用事が無い限り、電話もしてくれません(*_*)
所で、俳優の中原丈雄さんは湯前出身だったのですね。
私も、以前、ネットで見てびっくりしました。
確かにあの御顔立ちは、球磨・人吉の男子の顔だちですね・・
福岡で活躍している、タレントの男性も人吉出身との事ですが、中原丈雄さんの御若い頃の顔だちに何だか似ているようで・・
以前から地元に帰るといつも思っていたのですが、人口が少ない割には、ハンサムさんは多い様な気がします。
(畑仕事をしている人が顔を上げると「あれっ?!ハンサム(●^o^●)」みたいな・・・脱線しました<(_ _)>)
それから・・・
白石様、すいませんでした<(_ _)>
以前から「永田」家についてコメントを頂いていたのに、私、すっかり親戚の事を忘れていました(*_*)
(何だか、いつもの事との合唱が聞こえてきたような気がします)
白石様のご実家近くにも「永田」さんがいらっしゃるのですね。
そして・・
平安時代の人の美意識ですが、やっぱりしもぶくれしたお顔が「美」だったのでしょうか?
時代によって「美」の意識は違いますからね〜・・・
白石様のご実家「高岡」家。
私の親戚は宮崎の「高岡」町から養子に来られているとの事で・・・
家は「地名」なので、良く解りませんが、何か偶然の御縁を感じました。
(親戚に関するコメントは一応削除しました。父に叱られそうで・・(*_*))
「富田」。私の母方の祖母は宮崎県佐土原町の「富田」家です。
先日、母と会った時に母は、「家はね、源氏のほうだったのよ。これは、お母さんが子供の頃から、何度も聞いているから本当よ(^・^)」
と言っていました。
「家(母方)が源氏で球磨の方が平氏だから先祖が合わなかったとずっと思っていたの・・」とも言っていました。
でも、何だか、そういう問題では無い様な気はします。
ところで・・
娘が結婚を致しまして、お婿さんのお父様の御好意で、記念の写真を撮る事が出来ました(^・^)
二人は結婚式は挙げずに「結婚報告会」を後日行うそうです。
私の弟がすぐに見れるように、携帯で撮った写真をブログにアップ致しました(^・^)
娘が結婚するまでは、頑張ろうと心に決めて今まできましたので、これで、やっと私も心おきなく、球磨に帰る事が出来ます。(^・^)
よろしければ、ご覧ください(^・^)(親ばかですね<(_ _)>)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11872586797.html
先祖も喜んでくれていると思います(^・^)
それから・・
今、行っている検証で、とても気になる事が解りましたので、後ほどコメントしたいと思っています。
では<(_ _)>(^・^)
[39] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月07日 13時51分50秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
このコメントは、先祖の直接の調査報告ではありません。
あえて言うならタイトルは
「豪族と祖母」(平川のスピリッツ)とでもしておこうとおもいます(^・^)
祖母の話はこちらのスレッドで何度かご紹介致しましたが、これだけは言えるのですが、私の祖母は決して「おしとやか」な大人しい人ではありませんでした(ー_ー)!!
お茶・お花・日本舞踊と何でも出来る人でしたが、はっきり言えます
決しておしとやかな穏やかな人ではありませんでした(ー_ー)!!
平川の伯父(みなみのじいちゃん)の御嫁さんである、伯母は緒方家(尾形?)から嫁いで来られていましたが、とてもおしとやかな穏やかな方でした。
でも、平川に生まれた祖母は違います。
とても、活発で、気性はどちらかと言うと「激しい」人でした。
オトコマサリの言葉がぴったりと合う人でした。
私が子供の頃は「農協婦人会」の会長をしていて、「米価値下げ反対!」と東京での集会に出かけていました。
今年の正月に従兄弟からのコメントですでに御存知かとは思いますが・・
カミングアウトしますと・・
実は、私が子供の頃は「国会議員」「県会議員」「市長・町長・村長」「市会議員・町会議員・村会議員」と親戚関係が多数いまして・・
祖母は、親戚が何らかの形で出馬すると、必ず、選挙活動に参加していて、四六時中動き回っていました。
だから、選挙運動が始まると、実家には沢山の人が集まり、祖母も殆ど外出していて、「うるさかったり」「寂しかったり」と、とても嫌だった事しか思い出にはありません。
私が、宮崎から岡原に転校してきて、冷やかした男子生徒と初日に喧嘩をしまして・・・(*_*)
その時、学校の先生から祖母は「さすが、○○さんの孫さんです!」と言われたそうです。(今年の正月もその話で親戚は盛り上がっていました)
でも、そのような活発な激しい祖母でしたが、私に対しては、周囲の人がビックリする程、とても優しく穏やかでした。
先日、父と電話で祖母の話をしている時の事です。
父は幼い頃から祖母より
「うち(平川)は豪族だった!!」といつも聞いていたそうです。
そして・・
「ここ(宮原)よりずっと前から、球磨の豪族やったと!!」と豪語していたそうです。
父は、幼い頃から、自分自身は「宮原の後継ぎ」と自覚していたので、祖母からそう言われると、とても「複雑な気持ち」だったと言っていました。
「豪族!」と言う言葉をショッチュウ聞いていたそうです。
そして・・・
私も、子供の頃、祖母から「平川は豪族だった」と聞かされて・・
その時、私は、とても活発な祖母からの言葉だったので・・
「豪族」を山賊と勘違いをしまして・・
とても怖い感じがしたのです。(本当です)
学校で勉強して初めて「豪族」は「山賊」ではない事が解りました(*_*)
鎌倉遺文の研究書に「平河(良峯)妙阿・阿夜」が残した「書」に対して、当時、女性が残した数少ない訴状と書いてありました。
やっぱり・・・これは・・!?
私が高校生の頃の話です。
父に買ってもらった当時流行りのウィンドブレーカー(ジャケット)を、生意気だと先輩に取られてしまった事がありました。
それを父に言うと、烈火のごとく怒りまして
「お前はハムラビ法典を知っているか?!目には目を歯には歯をだ!喧嘩してでも取り返してこい!!」と。(怖い(-_-)/~~~ピシー!ピシー!)
そこで、私は本当に喧嘩して取り返してきました(それも怖い)
その話を正月に父に話すと、父から
「お父さんは子供の頃から、平川のじいちゃんや親戚の伯父さんに、『やられたら、絶対にやり返せ』と言われてきたからな〜」と言っていました。
(やっぱり、怖い(+_+))
でも、ふと、思うのですが、これこそが本来の平川のスピリッツではないのかな?!と。
球磨に来るまでの「平河」は未だ、はっきりと解明出来ていませんが、
「豪族」の魂は、今に残っているのかな〜と思います。
ですから、先祖の残した系図に京都の公家関係の名が出てきても、本当は私、ピンとこないのです。
やっぱり、「豪族」の荒々しさがピッタリときます。
と言う事で、脱線致しましたが、(先祖から叱られるかな?)
「豪族魂」という話でした。(^・^)
では<(_ _)>
[40] | 白石さんからのコメント(2014年06月08日 04時50分10秒 ) | パスワード |
おはようございます。
富田を日本の苗字7000傑様で見ていました。
人吉の富田さんの出自など知る由もありませんが、年寄世代は四浦についてなつかしみ?みたいなものを感じていたようです。
他のスレッドで俳優の中原さんとご親戚かな?と記憶しているおうちは おじいさんの代で天草から来ておられるそうで、
交流がないのが不思議ですね と 書いておられました。そうだろうなあ とは思います。
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人吉の富田さんの出自を知る由もないのだけど
日本の苗字7000傑様のサイトで富田を検索すると
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏季衡流【2】・・・平姓服部氏・平姓富田氏
隠岐氏へ戻る - 日本の苗字7000傑・・・・・・・・・・・・隠岐氏・佐々木氏
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏清盛流【5】・・・重盛流・織田信長
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 大伴氏/伴氏【3】・・・・三河伴氏・富永氏
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 橘氏【5】・・・・・・・・伊予橘氏・紀姓池田氏・柏原氏
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏秀郷流【19】・・・小山・藤井・平野
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 有道氏/児玉党【1】・・・物部氏・安芸児玉氏の中の女子からつながる村上源氏奥平氏・小幡氏をクリックすると奥平貞興という人が良峰姓丹羽氏になる。
クリックして
良峰姓丹羽氏をみると 日下部姓朝倉氏 良峰安世の系と合流したか 又は 児玉党(称村上源氏)の系と合流したか・・二本松丹羽家になる筋がある。
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏良文流【19】・・・杉本系三浦氏・佐原氏・福島・近藤・
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏良将流【1】・・・相馬・大葦原氏・黒田・
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 大江氏【3】・・・・・・毛利氏・桂小五郎・志道氏
が出る。
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と 大体 前から名前が挙がっている苗字が出ます。
富田 または 高岡を軸に 考えると出そろってきます。
富田進士には 家助のことばがあり、これは 家康のまわりにみられます。
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[41] | 白石さんからのコメント(2014年06月08日 10時17分39秒 ) | パスワード |
久留里藩主黒田家の系譜 佐々木哲学校/ウェブリブログのぶろぐより抜粋
前に免田は黒田と書きましたが
また どのようにつながっていくのか?ですが
寛政重修諸家譜』によれば久留里藩主黒田家の家系は、戦国末期の大橘定綱(信濃守 )に始まり、定綱の子広綱のとき黒田氏に改めたという。 ... 尉」と名乗り、また嫡子信高 も従四位下信濃守叙任以前には平九郎を名乗っており、伊勢平氏富田進士家助(家資) の子孫とも考えられる。 ... 直常の妻は水野越中守忠久女である。
久留里藩主黒田家の系譜
一般に宇多源氏佐々木氏庶流黒田氏というと外様大名の筑前福岡藩主黒田家が有名だが、実は譜代大名である久留里藩主黒田家も先祖が近江出身であり、宇多源氏佐々木氏庶流黒田氏の子孫の可能性がある。
黒田久綱というひとがおり、熊谷氏の娘婿。
綱の女子には富田一白室と近藤康用妻がある。
富田一白(生年不詳〜1599)は近江出身で、『寛政重修諸家譜』によれば隠岐佐々木泰清の三男富田義泰の子孫と伝える。
富田進士の子孫である伊勢梅戸氏は、六角高頼の末子高実を養子に迎えており、一白もこの伊勢富田氏の一族であった可能性がある。
彼がのちに伊勢国安濃津城主になった
多度津藩主高慶の子に福岡藩主黒田治高(母側室林氏)がいる。黒田治之の末期養子に入った。福岡藩主黒田家と久留里藩主黒田家が結ばれたことになる。
日本の苗字7000傑正木氏を尋ねれば
桓武平氏良文流正木氏・杉本系三浦氏・佐原氏
とぐるりとまわって先に出た 佐原氏がでる。
子孫様
お嬢様のご結婚おめでとうございます。
ブログ拝見いたしました。
ご主人も お嬢様も 俳優同士のような組み合わせですね。^^
末永いお幸せをお祈りいたします。
わたくしごとですが
ごみとして捨てられたものを ひとつ 二つと持ち帰り
ああ 私も 話に聞く 年寄の行為をしているのだ
などと 思いながら 屋根裏に持ち込んだのでした。
こういうことが 10年単位くらいで 繰り返され
本当に老いていくのでしょうね。
小さい家だから 子供たちにすれば いろいろと 物があれば 一緒にいるのがうっとうしいのだ ・・・と 頭ではわかっているのですが。
[42] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月09日 00時08分00秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
白石様、ご教示、本当にありがとうございます。
朝から外出していまして、コメントが遅くなりまして、すいませんでした。
富田進士。
恥ずかし事ですが、私、白石様のご教示で初めてこの方を知りまして・・
吾妻鏡入門というサイトを確認しました。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma03-08.htm
元暦元年(1184)八月大二日戊午
富田は、三重県四日市市富田(とみだ)。参考進士は、律令制で官吏登用試験合格者、合格者の文章生。
忠・法師は、伊藤上總介忠・で富士川の合戰の侍大将。息子に謡曲景・の悪七兵衛景・、永福寺造営中に頼朝暗殺がばれて処刑された上総五郎忠光あり。
確かに、今まで、調べた人物も記述されています。
富田家資は、伊勢平氏の首領・平信兼の子
平信兼 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%85%BC
平 信兼(たいら の のぶかね、生没年未詳)は平安時代末期の武将。桓武平氏大掾氏の一族で、父は平盛兼。子に源頼朝挙兵で最初の標的とされた山木兼隆(山木判官代)のほか、兼衡、信衡、兼時がある。大掾信兼とも呼ばれる。官職は出羽守または和泉守。
伊勢国鈴鹿郡関を本拠とする。保元元年(1156年)の保元の乱に際しては、惣領(宗家)の平清盛とともに後白河天皇方として参戦。その後、清盛の立身と平氏政権の樹立の過程でその配下に組み込まれる。検非違使や河内国、和泉国、出羽国の国司を歴任し、位階は正五位下に至った。
治承・寿永の乱では養和元年(1181年)、伊勢・志摩に乱入した熊野山の僧兵と二見浦で戦い、これを撃退した(『吾妻鏡』同年正月21日条)。寿永2年(1183年)7月の平家の都落ちには同行せず、伊勢国に潜伏する。
信兼の京都の家地は「楊桃南朱雀西」にあり、平家没官領として京都守護の役割を与えられた義経の沙汰とされたが、義経没落後は一条能保・中原親能の支配下となった。
★義経没落後は一条能保・中原親能の支配下となった。
他にも こちらのサイトでは
http://www.akatsuki.ed.jp/topics_kayojyoshiwa.html
富田家資を祖とする梅戸、春日部、南部は、北勢の三大勢力の系譜を形作っていましたが、なかでも萱生の春日部氏がもっとも大きな権勢を保持していたようです。富田家資、詳しくは富田信士平家資といゝ、平家の一門でしたが、寿永年間に大内惟義のために殺害されましたので、一時富田城下の荘園は、院の御領として工藤祐経が管理したことがありますが、やがて元久頃(一二〇四)には、富田進士基度が居城し、後、南部頼武の領有するところとなりました。
★一時富田城下の荘園は、院の御領として工藤祐経が管理した
とありました。
まだまだ、富田氏については理解不足ですので、今後も勉強させて頂きます。
「富田氏」を調べると白石様のおっしゃる通り、今までの調査に関係する人物に繋がっていきますね・・
上記のお話、球磨の富田家との関係は・・・よそのお家の事ですが気になりますね・・(゜-゜)
もちろん、母方の祖母の実家「富田」は全く関係はないと思いますが。
(何せ、平川・宮原の先祖と合わなかったと言う事ですから・・)
あっ!それから、白石様・・
娘達ですが俳優同士などとそんなとんでもないです(*_*)
お婿さんはとても優しくて、しっかりした人でありがたいのですが、娘はまだまだポワ〜ッとしていますので・・
昨日も、娘と二人で戸畑区の夜宮公園と言う所に菖蒲を見に行ったのですが、菖蒲祭りが開かれていまして、屋台の「綿がし」を欲しがっていました(+_+)
(かく言う私も、後でゆっくりソフトクリームを食べようと楽しみにして、菖蒲を堪能して、屋台の所に戻ったら閉店していまして・・しょんぼりしていたら娘に笑われましたが・・(+_+))
ただ、私の事で、娘には子供の頃から、寂しい思いや辛い思いをさせてきたので、これからは、幸せになってくれる事を心から祈っています。
両親揃って結婚を祝ってあげる事が出来なかったのは、私の責任でもありますので、申し訳ないと思っています。
それから・・
物を大切に取っておかれるのは、やさしいお気持ちの表れだと思います。
捨てるのはもったいないし、何より、物がかわいそうですよね(^・^)
私も、実は、娘が子供の頃に大事にしていた、「ぬいぐるみ」を今だに、自分の部屋に飾っています(^・^)
娘からは・・「捨てて」と、笑われています(^・^)
そんなものですよね(^・^)
では<(_ _)>(^・^)
[43] | 白石さんからのコメント(2014年06月10日 06時09分34秒 ) | パスワード |
おはようございます
子孫様 くわしいお話ありがとうございます。
わたくし こういう部分が わからなかったのだと おもいます。
母からは 自分の生まれた家は今の家のありようじゃなか もっと もっと 勢いがあったと
系図も長い長いものがあって ひらいたら こっちから あっちまで 部屋のはしまで ざあーっと ひろがったと ばあ様が いってた
と 話に聞くばかり・・・
戦後の生活に追われて その頃は どこも おんなじくらいだったと 父も言っていて 苦しいのが当たり前になっていました。
長じて うちは 嫡流ではなく 枝分かれした家だということで、土地などわけてわけてすれば小さくなり また 兄弟も下になれば 一から財を築くのだということで 頑張らなければ 財を成すこともできない。
戦後の民主化で 財産を平等にわけるようになり、 税を払えなければ家土地も処分しなければならず
つまりは 大きな家土地などすくなくなったと思います。
子孫様 子孫様のところのように 昔ながらの建物が残っているのは 素晴らしいことですね。
[44] | 白石さんからのコメント(2014年06月10日 06時17分28秒 ) | パスワード |
工藤氏は 南家。
ぽつりぽつりとですが
私が 高丘は 熱田神宮で 北家閑院流と教えていただいたけど、辞典では南家と公表されている という 疑問に
以前 7000傑様から教えていただいた南家というお話に つながってくるようです。
前から 苗字が変わっているので ・・・ と よくは わからないながらも 思っていたことも 子孫様のお話と 微妙に重なりながらも 追いかけると あれっというところに 出ていくのも
なんとはなく わかります。
[45] | 白石さんからのコメント(2014年06月11日 00時14分02秒 ) | パスワード |
こんばんは
平清盛(平ノ清盛)の年表と、平清盛の家臣団と軍団をみていました。
少し 他のブログの検索結果も混じりますが
松本盛光 (*〜1204)伊勢国人。朝明郡の豪族。1204年富田(平ノ)基度の反乱に参加。鎮圧軍の平賀朝雅に敗北し戦死。<会津の芦名(三浦)家とその重臣・松本氏との関係が、ここらへんと関連があるのか気になるところです。
富田基度(松本盛光ときょうだい)―○―○ー平親真(忌部 親真・織田親真・三郎権大夫。覚盛)・・・織田氏・津田氏の祖。平資盛の子。
平経盛は平重盛の子であり平清盛の孫にあたる。 つまり平親真自身は平清盛の曾孫 となる。
と 親真は 経盛の子で その子が 親真のようである。
また 太田氏は
一説 松本三郎は家康の父と書いている。
松本盛光(富田基度ときょうだい)
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日本の苗字7000傑芦名氏を尋ねれば 先日出た 以下のサイトにつながる。
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏良文流【19】
姓氏類別大観. 《杉本系三浦氏》 佐原氏へ戻る. 【三浦氏】【鮎川氏】【長井氏】【宮田氏】【 走水氏】【馬孔氏】【芦名氏】【福島氏】 【近藤氏】 ※美作の三浦貞広の裔は【三船氏】を 称する。 《正木氏》 佐原系三浦氏へ戻る. 【正木氏】【三浦氏】【中川氏】【垣屋氏】【粕屋 ...
[46] | 白石さんからのコメント(2014年06月11日 01時00分40秒 ) | パスワード |
伴ノ家次 (*〜1207*)富田(平ノ)基度の娘婿。1207年潜伏していた山城で捕縛される。鎌倉に送られた。<伊勢富永氏の祖か。>
伴の家次で 検索をかけたら 伴の子孫で 鳥取 ・ 北海道に関与する方々に 大正天皇ご生母の姉君の系というブログがありました。
以前から 富永という言葉が 頭にやきついていましたが、(地域にあるけど うちとは関係なさそうで 中村という家とつながるみたいですが)
えーっ ほかにも 堀川とか いろいろ 何か 昔にさかのぼれば 宮中で聞かれた苗字だなあ 富永もかしら?と 思った次第です。
つまり わたくしの故郷の集落自体が 前から いつかの時代から すぽんと歴史から落ちたという感じをもっていましたが、子孫様のお話をいろいろ伺っているうちに 大分 様子が分かったという思いです。
また 地域に 平家城があった という 伝承も
平家にゆかりの 人たちがいた のでは ないか?という考えにも 少し ちかづいたか?と 思います。
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大正天皇ご生母は柳原愛子。なので この方の姉君だから 柳原のはずだけどブログでは 東原になっていました。
柳原姓も 地域にあります。
[47] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月11日 08時08分34秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様、ご教示ありがとうございます。
折角、コメント頂いていたのに、お返事が遅くなりまして、本当にすいません。
とても詳しく調査して頂いて本当にありがとうございます。
平家家臣団との関係から、白石様の故郷・地域に関連のある方々に繋がりが出てくるのですね・・
例えば、大きくまとまった一族で、そちらに来られたという可能性もあると言う事ですね。
先日から、「平家一門の後白河派の検証」をとお伝えしていたのですが、未だに遅くなっています。
「人吉庄は球磨庄の本家(蓮華王院)、領家(八条女院)預所(平頼盛 → 光盛、後見として中原清業)の権利を保障する形で成立したといえる。」
この記述を読んだ時に、私は根本が全く解っていない事をあらためて痛感したのです。
蓮華王院は 開基 後白河天皇 創建年 長寛2年(1165年)
「もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。」
すなわち、後白河天皇 開基の蓮華王院が「球磨庄」の本家と言う事です。
建久3年3月13日(1192年4月26日)に崩御されていらっしゃいますから、人吉・球磨の荘園整理で、中原清業が奔走されている時には、御存命であったと言う事です。
先日、コメントしたように、中原清業は「後白河上皇 側近衆」であり平頼盛の家人。後白河上皇の代官。1190年太宰少弐。そして「鹿ケ谷事件」での罪は問われず、後白河上皇 側近衆の中でも、数少ない、言葉は悪いですが生き残った方でした。
ですから、球磨に後白河派であった他の人物の名跡があるのは、むしろ当然の事だと理解します。
そして・・
領家(八条女院)
・子内親王 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B2%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
・子内親王(あきこないしんのう、保延3年4月8日(1137年4月29日) - 建暦元年6月26日(1211年8月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、「八条院」と号した[1]。
鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院(皇后・藤原得子)。近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄にあたる。ほかに母を同じくする姉妹に、早世した叡子内親王と二条天皇中宮となった姝子内親王(高松院)がいる。
★近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄にあたる
終生、未婚であったが、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。以仁王は八条院の猶子であり、王が八条院女房三位局との間に儲けた子女のうち、男子は東寺長者・僧正となった安井宮道尊であり、女子は三条姫宮と呼ばれた。九条良輔は2歳、昇子内親王は生後3ヶ月ほどで、いずれも幼くして八条院の養子女となり、その著袴・元服などは女院御所で行われた。
★九条良輔(兼実の子)を養育。
★以仁王は八条院の猶子であり、王が八条院女房三位局との間に儲けた子女のうち、男子は東寺長者・僧正となった安井宮道尊。
★球磨にて須恵庄阿蘇山平等寺を創建した東寺長者、広沢流、保寿院流祖の「永厳上人」 東寺との繋がりも以前からあったという事です。
続けます<(_ _)>
保延6年(1140年)、わずか4歳の時に父・鳥羽法皇から安楽寿院領などを譲与され、その後に生母美福門院から相続した所領、および新たに寄進された所領をあわせて、全国に二百数十箇所に及ぶ荘園があった。これらは女院の管領下にあって八条院領と呼ばれ、中世皇室領の中枢をなす一大荘園群をなした。
★良峯依高が球磨にて荒田寺を建立したのは1141年です。
続けます<(_ _)>
異母兄である後白河法皇の院政を影から支えており、平清盛でさえも彼女の動向を無視することは出来なかった。二条天皇が彼女を准母として自らの正統性を示し、後白河院も幾度となく八条院御所へ御幸していることからも、彼女の存在が重く見られていた事実がわかる。
治承4年(1180年)、猶子である以仁王が反平氏の兵を挙げた(以仁王の挙兵)。この際、八条院が密かに支援しているのではと言われ、実際、八条院は以仁王の子女(生母は八条院女房)を自身の御所で匿っていたが、清盛も社会的な反響を恐れて結局は以仁王の男子を出家させることを条件に女院の行為を不問にせざるを得なかった。だが、全国各地にあった八条院領には「以仁王の令旨」が回されて現地の武士団による反平氏蜂起が促されていった。以仁王が発した平家追討の令旨を各地に伝達したとされる源行家は八条院の蔵人であり、また別の八条院荘官も源頼朝と連絡を取っていた。また、池大納言平頼盛(清盛の異母弟だが、仲が良くなく、独立行動が目立つ)も八条院乳母子を妻として女院の官人となっていた。八条院自身の立場はさておき、彼女の周辺には、反平家の人々が集っていた。
★平頼盛は八条院乳母子を妻として女院の官人となっていた。
★彼女の周辺には、反平家の人々が集っていた。
★【九条良輔】父:九条兼実 母:八条院女房三位局(高階盛章の娘)
そして兄弟に僧「良円」。
「人吉庄は球磨庄の本家(蓮華王院)、領家(八条女院)預所(平頼盛 → 光盛、後見として中原清業)の権利を保障する形で成立したといえる。」
「平河」を血縁から調査する事は難しいのかもしれません。
「平河」という名跡を残した方々・・
その人達は、同じ思想を持ち、時には姻戚関係等を結んで、一族を(一般的な血縁関係だけではない)広げていった。
政治的な背景を抜きにしては、調査進展はありえないと思います。
(今頃?!遅い(-_-)/~~~ピシー!ピシー!との声が・・・)
以前、ご教示頂いていました。
平 → 白 ・・・ ひら → しら
ところで、この様な記述を見つけました。ぜひ、こちらの書籍を読みたいとおもいますが、とりあえず、googleブックより<(_ _)>
荘園公領制の成立と内乱 - 89 ページ
88 ページ
工藤敬一 と、・・それより前、平河師高は「謀反他に勝る」として没官処分を受けていたが、文治三年(一一八七)六月の関と書かれていた ... また当時鎌倉にあって後白河院の没官領目録に載せられている分以外についてもる段階であり、この時点で平家勢力の強い・・
89 ページ
東御教書で「其身を安堵され」、それを施行した鎮西奉行天野遠景状には、「下球磨御領
可早任御教書被安堵平河三郎身事」とあっ ... ちなみに同年三月十三日後白河法皇が
没し、七月十二日には頼朝は征夷大将軍に任じられ、その間の六月三日にはいわゆる・・
★後白河法皇の崩御と没官領。源頼朝よりの「安堵の御教書」。
平河師高は「謀反他に勝る」として没官処分を受けていた。
私がどうしても解らないのはこの「謀反他に勝る」という言葉です。
おそらく、年代から推測するに没官処分を与えたのは「平清盛」。
源頼朝からは「冤罪であった」と言われた「平河師高」。
安堵を受けたのは「師高子息字平紀平次こと平河師貞」
先ほども述べましたが、「政治的な背景」を詳しく調査していきたいと思います。
しかし・・
「荘園」の仕組みを理解するのは本当に難しいです。
本を何度読んでも、すぐには理解できません。
調査をしながら、登場する人物の繋がりを見つめなおして、あらためて「そういう事か・・」と。この繰り返しです。
しかし、「人物」の調査は決して無駄ではない事がこの頃ようやく解りました。
その事がなければ、私の頭ではすぐに書籍に書かれているような、「荘園の仕組み」「政治的背景」は理解する事が出来ないからです。
非常に長くなりましたが、今は、先祖の調査と言うよりは「平安時代〜鎌倉幕府成立」にかけての、「勉強」を行っている私でございます。<(_ _)>
では (^・^)
[48] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年06月11日 20時59分16秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>「人吉庄は球磨庄の本家(蓮華王院)、領家(八条女院)預所(平頼盛 → 光盛、後見として中原清業)の権利を保障する形で成立したといえる。」
>「荘園」の仕組みを理解するのは本当に難しいです。 本を何度読んでも、すぐには理解できません。
荘園は現代の企業ヒエラルキーと同じです。
本家=持ち株企業
領家=持ち株企業傘下の大企業
預所=大企業の子会社
荘官(地頭)=下請け企業
現地に居るのは地頭、預所以上は遙任(多くは京都か鎌倉に在住)で配当(年貢)が取れれば現地に対しては無関心。
新補地頭が現地に下向しても、前任者が居座り所領紛争が多い。
仕方なく、京都や鎌倉に赴くが解決は長期化しがち。
特に九州や西国は平家没官領が多く、室町時代まで実効支配が困難例が多い。
年月と共に地頭の力が増し地頭同士が戦い戦国時代に突入。
その頃は預所以上に年貢も届かなくなった。(荘園も自動消滅)
球磨地域の場合は相良氏が圧倒的優勢となり戦国大名へ上昇。
古文書も良いが、京都や鎌倉に関する記事が圧倒的に多く参考にならない。
なるべく郷土史や古寺、古社の調査を行うべし。
[49] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月12日 00時30分17秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
「荘園は現代の企業ヒエラルキーと同じです。」
とても解りやすく説明して頂けて、本当にありがとうございます。
「配当(年貢)が取れれば現地に対しては無関心」
平川家について10-1 コメントNo21・No66で調査していた内容ですが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101345_94.html
コメントNo21より
永吉はかって三善と呼ばれ、それは球磨荘安富領=球磨御領と呼ばれる関東御領の一部であったことが知られる。関東御領の成立はおそらく平河師高の没官に伴うもので、それ以前には師高の所領は、球磨郡全体に一郡的な広がりをもつ王家領荘園球磨荘の一部を構成していたものとみられる。
以上によって、永吉荘という荘名の成立は、建久三年八月以降〜建久八年閠六月以前という事になる。
その後の預所と地頭の関係は、それが関東御領である事から、あたかも惣地頭と小地頭の関係のごときものとなり、建永二年(1207年)三月十四日には、広元は平河師忠に下文を下し、目良生(もくろう)・永池等の三ヶ村を別納とする事を認めているし、貞永元年(1232年)当時は、中神村地頭「平河良高」・目良生村地頭「平河師瀬」・平野村地頭「平河師久」というように平河一族が村毎に地頭職を知行し、領家年貢も地頭請所となっていた。
コメントNo66
「鎌倉領御領」永吉庄の預所の任じられた大江広元なのですが、何故か、永吉庄地頭平河師貞の弟「師忠」を惣領すなわち「師貞」の支配体制から独立させているのです。
「これは惣領の現地支配権が及ばない「別納」の村を設定し。庶子の分村独立を速めた事を意味する。」とありました。
★別納について
大江広元は「師忠」に対し、目良生・永池以下三カ村を「別納」として「御年貢以下別当御得分臨時課役」を「京庫」(京都にある倉庫)に直接納入させた。
そして、領家年貢は地頭平河氏の請所納入であった。これは、領家が年々の豊凶のいかんに関わらず、毎年一定額の年貢を地頭に請け負わせる方法で「地頭請所」と呼ばれている。
この請け負わされた一定の年貢を「請料」という。
地頭にとっては、一定の年貢を納める以外はすべて、地頭の得分ができた。
また、本所・領家側の荘官が荘に在住する必要もなくなり、永吉庄の支配はすべて地頭平河氏の委ねられていた、考えられる。
「講座 日本荘園史 四国・九州の荘園 」そして「山江村誌」からの転記でしたが、上記の記述から大江広元は現地地頭である平河師忠に対して、かなり有利な経営を許していたという事ですね。
★領家が年々の豊凶のいかんに関わらず、毎年一定額の年貢を地頭に請け負わせる方法で「地頭請所」と呼ばれている。
現在でしたら、例えばフランチャイズのコンビニエンスストアの中にこのような契約を行っている会社がありますね。(売上いかんによっては、リスクも伴う経営ではありますが・・)
今まで、永吉庄にしか視点を置いていなかったのも私の問題でした。
都道府県别日本の中世城館調查報告書集成: Kyūshū chihō no chū より
入吉荘の場合、徳治二年預所が中央势力である中原盛通から在地势力の平河師種に代ったことは、相良氏が在地势力を ...
東アジアと日本 - 第 2 巻 - 110 ページ より
なお嫌倉末期には良峯師種が人吉荘の預所、南北朝期には平河師里が日向国馬関田荘の預所職として見えている。次に須恵小太良領百五十町は、建保四年(ニニ六)の図田帳には「西村百五十町須恵小太良家基領」と書・・・
鎌倉末期において・・平河(良峯)師種が人吉荘の預所
南北朝期には・・平河師里が日向国馬関田荘の預所職
荘園自動消滅前の時期に、平河は「人吉荘」「馬関田荘」の預所職についています。
永吉庄での経営権?は失っていますが・・
現在でしたら、どこの会社でも社長交代は頻繁に起こる事ですが、永吉は社長は交代したけれども「会社名」は存続していた・・。
その名を継いだのが「少弐氏」であり・・という風に考えると理解しやすいです(^・^)
所で、上記に記述されていた「平河師種」→「平河師里」そして →「平河師門」は平河伝授巻では系図に「名」がありません。
しかし、求麻外史・熊風土記の良峯氏系図には記述があります。
ちなみに「平河師門」は球磨郡久米郷(奥野等)を所領していました。
奥野は実家のすぐ隣の地域です。
相良氏は「経営統合」を行い、結果、「戦国大名へ上昇」と言う事ですね。
しかし、11代「長継」よりは惣領家の流れでは無くなった・・
お伺いしたように、今後は「郷土史や古寺、古社の調査」を重点的に行っていきます。
ありがとうございました。
では(^・^)
[50] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月14日 01時15分10秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。(^・^)
調査、進捗状況をお伝え致します。まず表題?は
@ 良峯依高が別当であった「荒田寺」(現荒田観音堂)の「木造釈迦如来坐像」について。
A 東寺と藤原友永
でございます。
では早速<(_ _)>
「荒田寺」(現荒田観音堂)の「木造釈迦如来坐像」について
錦町公式ページより
荒田観音堂内にあり、県下で三例目の墨書きで胎内腹部前面に「奉造立釈迦如来像天台僧林与 保延7年2月14日」の銘文が書かれています。本像は彫眼、彩色像で像高86.5cm。カツラ材一木造で、頭、体部は耳の後方で前後二材に割矧ぎ、膝前は横一材を寄せてあります。平安末期に造られた本像は、表情が穏やかで端正な気品を見ることができ、年代の重みが十分うかがえます。
ここで登場した「天台僧林与」という方。
「天台僧林与」に関しては、多良木町に以前あった(現在熊本市川野氏所蔵)の釈迦如来坐像には「(在銘仏として)川野林与保延七年一一月十四日」と墨書で記されているとの記述がありました。
「保延七年」(1141年)。荒田観音堂の木造釈迦如来坐像 「天台僧林与」と「川野林与」。
同一人物だと推測されます。
そして仏師は九州の平安時代後期の彫刻家、信国氏。
荒田寺別当 良峯依高
木造釈迦如来坐像に残された手掛かりによって
「天台僧林与」こと川野林与
平安時代後期の彫刻家、信国氏 とここまでは解りました。
今後も調査続行致します(^・^)
続けて「東寺と藤原友永」について
球磨にて須恵庄阿蘇山平等寺を創建した東寺長者、広沢流、保寿院流祖の「永厳上人」 。
何故、東寺長者の永厳上人が遠く離れた球磨の地に・・?
この、謎を紐解くカギが「藤原友永」にありました。
すでに、ご紹介していますように藤原友永は「人吉次良」であります。
藤原友永は藤原伊勢人の子であり豊前守でした。
大宰府古代史年表: 付官人補任表 - 120 ページ googleブックより
また藤原興邦を筑前介に、仲嗣王を肥前守に、高階峯緒を肥後守に、大原真室を肥後介に、藤原友永を豊前守に、石川宗継を豊後守に、藤原穎基を日向守に任命する(日本文徳天皇実録)。一月一一八日伴宗、没する。宗は大宰明法博士を務めた(日本文徳 ...
父の藤原伊勢人は東寺を建立した人物です。
藤原伊勢人 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E4%BA%BA
延暦15年(796年)、かねてから一堂を建て観音を祀りたいと祈願していたところ、霊夢の託宣により鞍馬山に導かれ、同地に毘沙門天像が祀られているのを発見。さらに再度の霊夢により、観音と毘沙門天の同一なることを告げられ、これに深く感銘を受けて同地に伽藍を建立した。これが現在の鞍馬寺の起源となったと伝わる。また同年、桓武天皇により造東寺長官に任命され、東寺を建立したともされている。
そして、藤原友永についてはこのような記述がありました。
Kyōto Seika Gakuen kenkyū kiyō - 第 17〜19 号 - 86 ページ
草創期の鞍馬寺をめぐる人々六七この話は伊勢人の孫峯直の時になっている。しかし、『扶桑略記』では東寺草創に関連して鞍馬寺の縁起を引用してい掲焉、蛇"令運二棄静原山奥,畢、仍号-其処一云
... のは伊勢人の後裔である。友永以降代々が、鞍馬寺の別当を任命する権限を有していたことが、真字本縁起が延暦二十二年( ...
藤原友永は「佛寺修造」も行っているようです。
と言う事で、人吉次良こと「藤原友永」は東寺および鞍馬寺と深い繋がりをもっていたようです。
後世において東寺長者である「永厳上人」が球磨郡須恵庄阿蘇山平等寺を創建したと言う事は、東寺と球磨・人吉の繋がり(縁)は続いていた・・という事ですね。
所で・・・
実は昨日は相良家文書の調査も行っています。
一度、読んだ事がある文書でも、今回読み返すと、かなり興味のあるものが沢山出て参りました。
明日は、こちらの調査についてコメントさせていただく予定です(^・^)
では(^・^)
[51] | 白石さんからのコメント(2014年06月17日 04時25分19秒 ) | パスワード |
こんばんは
藤原友永
平川子孫12−50に関係して
>すでに、ご紹介していますように藤原友永は「人吉次良」であります。
藤原友永は藤原伊勢人の子であり豊前守でした
公卿類別譜南家巨勢麻呂流をみると
南家武智麻呂四男巨勢麻呂764亡
巨勢麻呂―伊勢人―友永―仁道(従五位下)
(759年生) ┗ 峯直 ━ 快穎 ━ 俊宗 ━ 長能(伊賀守)
伊勢人ー友永ということばが見えるので この系があてはまるかと思います。
>伊勢人の後裔である。友永以降代々が、鞍馬寺の別当を任命する権限を有していたことが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーー
伊勢人とは人の名前だけど、なんだか 伊勢の人だから伊勢人と呼ばれたのか?という感じがします。
で、
伊勢俊継とその一族というブログをみると
wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/ise-shi1.htm
新編岡崎市史20(総集編)』によると、『滝山寺縁起』に伊勢前司藤原俊継がおり、伊勢 氏の先祖とありますが、伊勢前司藤原俊継及び、その父の肥前々司藤原俊経について 見解を賜れればと思います。 (川部正武様より 11.1.4受け). (樹童からのお答え).
俊経の弟・相模法★橘円辰
円辰の子・大進法眼増恵(1238亡)二人とも滝山寺僧侶
★中央の記録には見えない伊勢氏の起源に関して、『滝山寺縁起』は貴重な所伝を遺したと考えられる。
[52] | 白石さんからのコメント(2014年06月17日 04時33分24秒 ) | パスワード |
玉置峯直
峯直は時代が違うようで 他人のようだけど、
霊峰 玉置山大百科/玉置神社・玉置古文書 - Ne
玉置文書 熊野之奥宮 玉置之事実 諸書ヨリ抜粋 伊予国和気郡山城村 社司 玉井河内 次子 玉井数馬春枝. 録ニ 玉置峯直ハ天邇芸速日命ノ孫、天手栗彦命ノ後ナリ。玉置峯 ハ天手栗命ノ平居スル所。 此ノ命ハ、神倭磐余彦天皇ガ此ノ東州ヲ征シ給フノ時
玉置峯直ハ天邇芸速日命ノ孫、天手栗彦命ノ後ナリ
尾張連ノ遠祖
邇芸速日命ノ御子 天香語山命又ノ名ハ手栗彦命、亦ハ高倉下命ト申シ、物部連ノ遠祖ナリ。
世降リテ後、氏ヲ玉置ト号ク。布都乃御魂剣ヲ守護リテ、熊野ノ山ニ住居ス。後村上天皇に仕ヘ奉ル。又楠正勝ヲ育ス。
中略
大行事ナリ其子地平符将軍。其子漢司符将軍。鎮西彦山ニ於テ上津河原大明神ト号ス 新宮ニ於テ牛鼻大明神ト号ス本地毘沙門其子三大明神者榎本直俊本地
不動、宇井基成本地大日、鈴木基行本地毘沙門天王也。 (中略)
玉置 - 本地垂迹資料便覧
則漢司符将軍之妻室。三大明神之母也。権現之御氏人千与定子。嫡子雅顕長者。次男 長寛長者ハ今飛鳥大行事ナリ其子地平符将軍。其子漢司符将軍。鎮西彦山ニ於テ 上津河原大明神ト号ス 新宮ニ於テ牛鼻大明神ト号ス本地毘沙門 其子三大明神者榎本 ...
本地垂跡の理によつて玉置の両部大日は伊勢内宮・外宮の本地
白山権現については『玉置山縁起』には聖観音と云つているが『玉置山権現縁起』には「伊弉諾・伊弉冊尊垂跡熊野同体也」と記し熊野との関連を思わしめ、三狐神については「三狐神本地之事有極秘口伝」と記してその霊験の特殊性を閃めかしている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
前に 栗 栗と思って 葉栗命と手栗命を勘違いして 高倉下がでたことがありますが
高倉の言葉は 白石に 関与していることもあり
なんだか 平川と通じているようにも思います。
[53] | 白石さんからのコメント(2014年06月17日 04時46分37秒 ) | パスワード |
高岳親王(高岡親王)の母も 伊勢老人の女子・継
3日目 というブログには
sky.geocities.jp/harusan66a/yosino3.html
飛鳥寺
平城京遷都とともに奈良市内に移転し,元興寺と名を変えた。
年代のわかる現存の仏像では日本最古のものと言われる金銅仏の釈迦如来像が飛鳥大仏と呼ばれ、推古天皇が止利仏師に作成させたものだという。
飛鳥寺の創建は、588年に百済から仏舎利が献じられたことにより,蘇我馬子が寺院建立を発願し,596年に創建された日本最初の本格的な寺院で法興寺・元興寺ともよばれた。百済から多くの技術者がよばれ,瓦の製作をはじめ,仏堂や塔の建設に関わった。瓦を製作した集団は,この後豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わっていく。さらに,これらの技術を身につけた人たちやその弟子たちが全国に広がり,各地の寺院造営に関わるようになるのである。
藤井寺
河内文化が飛鳥時代・奈良時代にかけて発展した時、葛井寺も、百済王族「辰孫王」の子孫王仁氏一族の葛井給子が当時の天皇の仏教興隆政策に協力し、国家のためと称して創建された。
永正7年(1510)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による、2km四方の七堂伽藍の建立で、絵図によると、金堂・講堂・東西両塔を備えた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えらる。
古子山葛井寺の勅号を受け、落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。その聖武天皇が春日仏師に命じて千手千眼観世音菩薩を完成させ、神亀二年(725)3月18日入仏開眼供養のため藤原朝臣前卿を勅使に、行基菩薩を御指導師として勤められた。行基菩薩によって開眼せられた後、大同元年(806)平城天皇の皇子阿保親王が勅を奉じて伽藍の修復を次いで親王子息の在原業平朝臣、★真如親王等その一族によって諸堂をつぎつぎと造営された。永長元年(1096)大和明日香の軽里、藤井安基が当時の荒廃を歎き、伽藍の大修理に尽力した事により安基の姓をとり、藤井寺ともいう。藤井寺の地名の元でもある。
真如親王が高岡親王。
空海の弟子になり、東寺の仏像の修復に関わり、(だったはず。この部分は記憶です)西域に赴いて死亡。しかし、仏教辞典には 夢信ずるなかれ と 書いてある。
[54] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月18日 09時28分58秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます。
またまた、コメント遅くなりまして申し訳ありませんでした。
実は、相良家文書を読みながら、鎌倉後期以降、南北朝時代にかけての「平河」と「宮原」の繋がりがある程度見えてきまして・・
しかし、内容がかなり日本の広範囲(秋田など)にわたってしまう事となり(足利氏・佐竹氏・橘佐渡公好<宮原>・吉成氏 等々)、決定的な情報とは行かず、もやもやした感じで、コメントまで行きついていませんでした。
白石様に頂いたお話で
「伊勢前司藤原俊継及び、その父の肥前々司藤原俊経について」ですが
「伊勢俊継とその一族」私もこちらのサイトを拝見しましたが足利氏被官となっていました。(球磨において、実名の解らない多良木を所領していた伊勢弥次郎の名がありますね・・)
やはり「足利氏」ですか・・・・(後ほど・・)
藤原俊経について コトバンクより
永久元年生まれ。藤原顕業(あきなり)の次男。母は大江有経の娘。文章博士(もんじょうはかせ),左大弁などをへて寿永2年(1183)参議となり,翌年正三位。近衛(このえ)天皇の尚復,高倉天皇の侍読をつとめた。建久2年1月22日死去。79歳。号は六角。日記に「俊経卿記」。
そして・・・
藤原顕業の養子すわなち藤原俊経の兄弟「藤原俊憲」。
藤原俊憲は、実は藤原通憲(信西)の長男でした。 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E6%86%B2
藤原 俊憲(ふじわら の としのり、保安3年(1122年) - 仁安2年4月10日(1167年4月30日))は、平安時代後期の公家・学者。藤原南家、少納言・藤原通憲(信西)の長男。藤原北家真夏流、参議・藤原顕業の養子。官位は従三位・参議。
★系譜を見て下さい
•父:信西(藤原通憲)
•母:高階重仲の娘
•妻:藤原公教の娘 ★
•男子:藤原基明
•妻:藤原顕頼の娘 ★
•男子:藤原範房
•生母不詳の子女
•男子:信憲
•男子:観俊
「妻:藤原公教の娘 ★」
藤原公教 ウィキより(もうすでに何度もコメントしていますが・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E6%95%99
母方の祖父藤原顕季の引き立てで13歳で鳥羽天皇の侍従となった公教は、天皇が寵愛する従兄弟の美福門院(顕季の孫娘)との関係を利用して31歳の若さで参議として公卿に列した。退位して院政を開始した鳥羽法皇も公教の質実で勤勉な態度を高く評価して院庁の執事別当として裁判・行政の中枢を任せた。
★母:藤原顕季の娘 です。
系譜を見ると、今まで、何度も調査してきた方の名がずらりと・・
またもや「藤原顕季」に繋がりました・・??
あの・・・余談なのですが、(日本の苗字七千傑様からマタマタ(―_―)!!とお叱りがあるかな・・?)このような記述があります。
藤原 顕季 ウィキの記述 脚注を見て下さい<(_ _)>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E5%AD%A3
実の父は系図上の兄に当たる無位無官の師隆であり、父が無官であるため、顕季を祖父隆経の子としたという説もある(竹内理三『日本の歴史 6 武士の登場』中公文庫、1973年、197頁)。
系図上の兄「藤原師隆」が実の父かもと・・・??
「ふじわら もろたか」?ですね・・?
実はこの記述ずっと気になってはいたのですが・・時間軸が合わないのかな?と・。
平河には二人の「よしたか」がいたわけですから、二人の「もろたか」も存在していたりして・・・・(・_・)・・<(_ _)>(―_―)!! 失礼しました。
と言う事で白石様からご教示頂いた「伊勢前司藤原俊継及び、その父の肥前々司藤原俊経について」というお話を調査すると・・・
藤原俊経の兄弟、「藤原俊憲」は、実は藤原通憲(信西)の長男であり、藤原俊憲の妻は藤原顕季の孫であった・・と言う事です。
先入観を持たずに調べても、結局、同一人物・同じ一族に繋がると言う事は、やはり、偶然ではなく、「何かがある」のかな・・?と感じ始めています。
所で、最初に「やはり足利氏ですか・・・」と言った理由についてですが・・
平河ではなく「宮原」と足利氏との繋がり(主従関係とでも言いますか・・)が具体的に、相良家文書およびネットに公開されていた「景観にさぐる中世:変貌する村の姿と荘園史研究」という東京大学の学位論文(著者:服部英雄氏 論文審査委員 主査:東京大学 教授 五味文彦氏 他)で解りました。
ちなみに、こちらは書籍にもなっていました。
そして・・
球磨の「宮原(橘)」を理解する事で「平河」が少しずつ見えてきたのです。
関係する「相良家文書」をブログにアップする予定で今準備をしています。
橘佐渡公好(宮原)についての情報も現在まとめています。
皆様、もうしばらくお待ちください<(_ _)>
では(^・^)
[55] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月21日 14時33分31秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
相良家文書の中で、現在、私が必要とした情報のみをピックアップしてブログにあげました。
どうぞ、ご覧ください<(_ _)>
相良家文書について1
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11881599183.html
相良家文書について2
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11881619848.html
相良家文書について3
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11881641444.html
上記の文書の中から、まず、最初に、球磨の橘薩摩・橘佐渡について、次のコメントで調査した内容を記述させて頂きます。(^・^)
では <(_ _)> (^・^)
[56] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月22日 00時40分54秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
まず、コメントが非常に長くなりそうなので、最初に表題を箇条書きでご紹介しておこうと思います。
1.相良家文書について
2.橘薩摩・橘佐渡について
3.橘公業と球磨久米郷の久米三郎こと藤原家宗の関係について
となります。
では、早速<(_ _)>
1.相良家文書について
私のブログ「相良家文書について2」をご覧ください。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11881619848.html
D【一色範氏軍勢催促状】
この中に橘佐渡弥八(公好)が登場します。
内容は「橘公好ヲシテ相良経頼等ヲ撃タシム」と言うものです。
続けて
E 【相良定頼申状案1】
この申状案より橘佐渡弥八(公好)と橘佐渡八郎の敵対の模様がわかります。
F 【相良定頼申状案2】
北朝方 橘佐渡弥八(公好)の記述があります。
G 【相良定頼申状案3】 南朝方 橘佐渡八郎の記述があります。
上記【相良定頼申状案2】【相良定頼申状案3】の情報より、北朝方であった橘佐渡弥八(公好)が南朝方であった、「相良経頼・須恵・永里・岡本・奥野」そして「橘佐渡八郎」以下凶徒等と戦ったという記述です。
すなわち、球磨において橘佐渡弥八(公好)と橘佐渡八郎は一族の中で敵対していたという事です。
2.橘薩摩・橘佐渡について
★球磨においての「橘佐渡」について調査を行いました。
(以前、公忠公の末裔様より、球磨の橘は「公綱」以降は「橘佐渡」と理解した方が良いのではとコメントを頂いていました。)
そして・・
先日お話したように「橘薩摩」「橘佐渡」について詳しく記述されている論文を見つけました。
東京大学学位論文(著者:服部英雄氏 論文審査委員 主査:東京大学 教授 五味文彦氏 他)
「景観にさぐる中世:変貌する村の姿と荘園史研究」
(こちらは書籍にもなっています。)
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/21647/5_%E7%AC%AC%E2%85%A2%E9%83%A8-2.pdf
★470ページより、「第六章肥前国長嶋庄と橘薩摩 一族」となります<(_ _)>
「橘薩摩」「橘佐渡」に関係する内容をピックアップさせて頂きます。
(平河にも関係する可能性がある記述がありますが、まずは宮原(橘)と直接関係のある記述のみを取り上げます<(_ _)>)
「長嶋庄入部までの橘護摩氏」481ページよりをご覧ください。
1 出自
橘薩摩氏の出自−「小鹿島文書」と「吾妻鏡」の記述の差異 次に地頭橘薩摩氏の長嶋庄入部以前の在り方をみておく。橘薩摩氏の出自について「吾妻鏡」は藤原純友の乱に功のあった(伊予国警固使)橘遠保の後裔で、橘公業に至るまで代々伊予国宇和郡に居住したと記している。ところが「小鹿島文書」の中の公業譲状には、
自 故右大将家(源頼朝)賜 宇和郡地頭職
と記されているため、「吾妻鏡」の記述を虚偽とみる見解もある。しかし、私は信用してもかまわないと考えているが、その理由を説明する為には橘一族の在り方をみておく必要がある。
★平家物語の橘右馬允公長
橘右馬允公長辻平氏の家人であった。『平家物語』巻十一、大臣殿被斬には生捕りとなっていた内大臣平宗盛を斬首した人物として公長が登場している。 ・・・以下略章
★「吾妻鏡」「吉記」にみる橘氏
『吾妻鏡』の治承四年(1180年)十二月十九日条によると、平家知盛家人であった橘右馬
允公長、その子橘太公忠、橘二公成(公業)がこの日源氏の幕下に参じた事が知られる。一方「吉記」(同年十一月八日条)によると、その1カ月程前。馬允公言なる人物が追討使平維盛が富士川合戦に敗れて入京するまでの経緯を吉田経房に報じている。
公長、公言、おそらくは同族であろう。ともに、初期には平家家人として行動していたが、公長親子は源氏方となったのである。
★橘・馬允で公を通字とするものたち
平安末期の古記録には、馬允公盛、その子右馬允橘公清、また左馬允橘公景、右馬允橘公定、左馬允橘公里、橘公俊、右馬少允橘公基、左馬允橘公頼等、橘姓で「公」を通字とし官も左右の馬允であった人物が散見されるが、彼らが同族であり互いに同族意識を持っていた事は間違いなかろう。
彼らは在京型の武士団で、平氏政権下では大半が平氏方に加担していたと考えたい。そしておそらく公長流を除いては平氏に従い没落したのであろう。以上のように考えると「吾妻鏡」虚偽説の根拠である公業譲状中の「自 故右大将家(源頼朝)賜 宇和郡地頭職」という記載は、実は没官された一族分も併せて安堵された事を意味するものであって、公業本貫地が宇和郡であることまでを否定するものではあるまい。
ここで( ..)φメモメモ
★@橘姓で「公」を通字とし官も左右の馬允であった人物が散見されるが、彼らが同族であり互いに同族意識を持っていた事は間違いなかろう。
★A彼らは在京型の武士団で、平氏政権下では大半が平氏方に加担していたと考えたい。
★B没官された一族分も併せて安堵された事を意味するもの
と言う事ですね。
続けます<(_ _)>
★御家人橘薩摩公業 「長門守護・薩摩守・下野守公業」
公長とその子橘太左衛門尉公忠、弟橘次左衛門尉公業、橘三(公清カ)、橘五(公仲カ)、橘六公久等の活躍は『吾妻鏡』『明月記』、「相良家文書」等にみるところである。
特に公業はは既に元暦元年(1184年)九月に讃岐国御家人指揮権(守護の前身) を与えられ、兄公忠を閣いて重用されており、承久三年(1221年)七月には長門守護となる。一方安貞元年(1227年)十月五日には臨時徐自により薩摩守となり、寛喜二年(1229年)正月廿四日の懸召除自聞書には下野守としてみえている。
彼が、「小鹿嶋」氏と呼ばれたのは文治五年(1189年)奥入合戦の勲功地として得た所領、出羽国秋田郡小鹿嶋(男鹿半島)の経営にあたったからであり、「橘薩摩」を称したのは薩摩守に任ぜられていたからである。
★宇和郡の代替としての長嶋庄
嘉禎二年(1236年)二月、伊予国知行国主であった関東申次西園寺公経の望みにより、幕府は公業の宇和郡領掌を止め、西園寺氏に付している。のち鎌倉幕府滅亡直後に橘薩摩氏が建武新政府に対し、宇和郡訴訟を起こしていることからすれば、公業一党にとっては了承し難い処置であったはずであるが、その代替として与えられたのが肥前国長嶋庄であった。かくして下り衆として橘薩摩一族の、長嶋庄入部が行なわれたのである。
★おわかりの通り、この時に球磨郡久米郷東方下分も替地として与えられたという事です。
ここまでは、今まである程度理解していた所もあります。
では、その後の橘薩摩についてです(^・^)<(_ _)>
★五 地頭橘薩摩一族による村々の支配 508ページ
・・・即ちこの系図にみえる一族中、官途を有するものはそれ程多くはない。一族の始祖とも言うべき公義、公員の名乗りも十郎。与一である。ただ系図では公業の長子公益について「右衛門尉」と記す。公益自身の古文書への登場はないが、その子公助は右衛門次郎、孫公村は右衛門二郎三郎を名乗っていることが文書で確認できる。同じく系図は公義の子らのうち、公村にのみ「左衛門尉」と記しているが、その子公遠が左衛門次部を称したこともまた、文書によって確認できる。
渋江系図の全体の史料批判は今できないが、かなり正確な情報を含んでいるといえそうである。さて公業は長嶋庄経営の史料を残していないので、その子余一公員、十郎公義からみていくこととする。 ★1 公員流
公員は余一、公義は十郎を称していたから、公義が兄で十男、公員が弟で十一男ということになろうか。
この両名は「吾妻鏡』にも散見されるが、末子栢続として公員が嫡子に定められており、嘉禎四年(1238年)十丹廿八日、上村と惣検非違所(惣地頭職に付属すると考えたい)が公員に譲られている。
上村とは河上村、大崎村、大渡村をさした。(但し後述するように上村にはもう一つ別の概念がある。)下村は、志保江(渋江)、中村、牛嶋等今日の橘町一帯であり、最初後家に譲られるが、後公義が知行する。
★この後、公業死去後、公員知行の上村が収公されるという事態がおきますが、大渡村には公員宛ての安堵下文が出され、大崎村をめぐる正安三年(1301年)の相論(公義との)では公員とその子公綱の大崎村知行が承認されています。
★肥後球磨郡の公員流 510ページ
公員は正応元年年(1288年)肥後国球磨郡内久米郷半分地頭職を得ている。
一方永仁七年(1299年)の「相良文書」中の肥後球磨郡人吉庄に関する鎮西探題召文の宛先に「橘薩摩左馬大夫」が登場する。公員の子公綱が、左馬允であった事は正安三年(1301年)の資料によって確認出来る。したがって、球磨郡の左馬大夫こそは公綱であろう。
つまり、公綱は永仁頃には左馬允のまま五位となり、左馬大夫を名乗ったと思われる。左右の馬允が橘氏の世襲の職であったことも想起されよう。
一族内にあっては依然嫡流相当の位置にあったように思われる。
以上から公員流のうち公綱流については、肥後球磨郡久米郷に根拠を置きながらも京都でも活動していたことが考えられる。系図によれば公綱は「八郎、左馬丞、佐渡守」とあり、佐渡守の受領を得たと思われるが、この一族にあって受領であったものは、ほとんどいない。
卓越した存在だったといえよう。そしてその後裔として長嶋庄にも球磨郡にも「橘佐渡」を名乗るものが多くでる。
★ここで、「橘佐渡」の登場です。
ところで・・
★先ほど記述しましたように、大崎村をめぐる正安三年(1301年)の相論(公義との)では公員とその子公綱の大崎村知行が承認されています。
そして、519ページには 大崎村「橘佐渡四郎公高」そして「弥八跡夜叉童丸」の名があります。★ここが非常に大きなポイントです<(_ _)>
では続けます<(_ _)>
523ページ 大崎村について
まず橘佐渡四郎公高であるが、南北朝内乱初期の「小鹿島」・「橘中村」両文書中には軍勢催促状がきわめて少なく、前者に建武・暦応期のものが3通あるにすぎない。
そして、実はその宛先は3通ともに「橘薩摩佐渡四郎」なのである。このことは南北朝動乱初期には、足利政権が佐渡四郎公高が嫡流であると認識していたことを示していよう。
次に弥八跡夜叉童丸についてであるが「橘佐渡弥八公好」という人物がいる。先に述べたように、橘佐渡守公綱(左馬大夫)肥後球磨郡での行動が確認できたが、橘佐渡弥八公好の基盤も球磨郡である。
(●^o^●)ここで、やっと「橘佐渡弥八公好」の登場です。
続けます<(_ _)>
彼が最初に登場するのは、実は京都であった。建武元年(1,334年)九月、足利尊氏が後醍醐政権の内部にとどまっていた時期に、賀茂社行幸に供奉した尊氏の隊列の中に公好の名を見出すことができる。つづいて建武三年(1336年)、京都での合戦に敗れて足利尊氏が九州に下向した際には。公好は四月二十日に球磨郡を出発し、尊氏の上洛に供奉した。
四月二十二日の八代庄における合戦では、他族である相良氏の親類・若党らの討死や疵までを公好が注進しているから、公好が大将格であったことは間違いない。
但し公好は菊池武重や阿蘇惟澄らとの合戦に敗れて討死している。
★ここからですよ・・・
なお同じ橘佐渡氏の中でも公好と敵対した人物として橘佐渡八郎の名が見える。
また、観応擾乱時に直冬党として活躍した人物に橘遠江入道々公がいるが、彼は八郎の系譜を引く人物であろう。
また「祢寝文書」には正平廿四年(1369年)頃、佐渡守公頼、永和三年(1377年)に橘公冬がいるが、佐渡守を称したのは公綱流における嫡流意識のあらわれといえる。
以上球磨郡における橘佐渡氏の行動をみたが、公員−公綱流、即ち大崎一族の主要な拠点が実は肥前長嶋庄からは遠く隔った球磨郡にあったことが確認できた。また弥八公好が建武四年に戦死していることから、弥八跡と記すこの年欠文書・村立事の作成上限をこの年に置く事ができた。
村立に参加した人数は少ないが、課品が高く位置づけられている村は大崎村、大渡村等であった。この両村は仁治から正安にかけて公員−公綱流に譲られた村々だった。
公員は公業が嫡子に認定した人物である。したがって公員流には出羽男鹿嶋の地もかなりの部分が譲られていたはずである。長鳴庄・塚崎庄に関する村立に大崎・大渡の村の参加者が少なかった理由は、おそらく彼らが肥後や出羽に拠点を有していた為であろう。
彼らにとっての村立は、嫡子該当人物、ないしその代官が少数参加し、高い課品を得ればよかったのである。
以下略章・・・
東妙寺文書(『南北朝遺文』九州一二六九)に、「宮裾三郎公明子息道勝」の名が見えるが、公明は宮裾兵衛三郎と同一か、その子と考えられる。
渋江系図では公員の孫、公綱の甥に公明の名を記している。また先述した西山蓮照も系図では宮裾氏の一族であった。
したがって公員流には肥後球磨郡や出羽男鹿鳴を本拠とするものもいたが、一方では長嶋庄の西山村や宮裾を拠点として行動するものもいたことになる。
★以下、よろしければ、他「公員流」の各氏をご覧ください<(_ _)>
<(_ _)> まず、ここまで、転記いたしました。
フゥ〜コピーが出来ないので入力しましたから、もしかしたら、どこかで、変換ミスを起こしているかもしれません(*_*;
★公員−公綱流の拠点は球磨・そして出羽であった。
この時代の情報を調査していると、何故か出羽(秋田)に繋がる・・・その理由がここにあるのではないかと感じました。
宮原(橘)との姻戚関係が、平河の系図では、確認出来ます。
★今後は「佐竹氏」との関係も検証を進めていきます(゜-゜)
そして・・・
公員・公綱そして橘公好は、京都での活動も行っていました。
非常に長くなりましたので、一度アップ致します。
最後の表題、3.橘公業と鎌倉時代の球磨久米郷の久米三郎こと藤原家宗の関係について は次のコメントで。
<(_ _)>
[57] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月22日 01時12分13秒 ) | パスワード |
では <(_ _)>
3.橘公業と鎌倉時代の球磨久米郷の久米三郎こと藤原家宗の関係について
全くの無関係と思われていた上記の二人の人物は、実は繋がっていました。
橘公業の祖父、橘公光の兄弟「橘政光」。
橘政光の娘は藤原経宗の妻でした。
藤原経宗 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%AE%97
藤原 経宗(ふじわら の つねむね)は、平安時代末期の公卿。大炊御門家の初代の藤原経実の四男(あるいは五男)。同母姉に贈皇太后・懿子(二条天皇の生母)がいる。
系譜をご覧ください
父:藤原経実
母:藤原公子(藤原公実の娘)★藤原公実の子は、三条・西園寺・徳大寺の三清華家の共通の祖となっています。
妻:藤原清隆の娘
男子:藤原頼実(1155-1225)
妻:橘政光の娘★
男子:大炊御門師経(1175-1259)★ここです。
生母不明
男子:宗源
女子:三条実房室
女子:藤原兼房室
猶子:藤原通成 - 藤原清隆の子
猶子:平宗実(1168-?) - 平重盛の子
猶子:藤原経子 - 藤原家成の四女、平重盛の正室、高倉天皇乳母
★この系譜には今までの調査で登場した方々の名前が・・本当に多数の名前があります。
橘政光(公光の兄弟)娘は大炊御門師経の母です。
そして・・
大炊御門師経は異母兄弟である藤原頼実(大炊御門頼実)の養子となりました。
藤原頼実 ウィキより(何度、この方を紹介したことか・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E5%AE%9F
★建保4年(1216年)1月28日に出家して顕性と号した。承久3年(1221年)に勃発した承久の乱に際しては、後鳥羽院の幕府打倒計画に反対したとされる。嘉禄元年(1225年)7月5日死去。享年71。大炊御門家は、二十歳年少の異母弟である師経が、頼実の養子という形で相続した。
★橘政光の孫、大炊御門師経は「大炊御門家」当主となったという事です。
そして・・
藤原頼実の系譜をご覧ください
父:藤原経宗
母:藤原清隆の娘
妻:藤原兼子(卿二位) - 藤原範兼の娘
妻:藤原隆子 - 藤原定隆の娘 ★藤原定隆は木綿川(球磨川)の詩歌を詠みました。(夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊しつらむ)
女子:大炊御門麗子(陰明門院)(1185-1243) - 土御門天皇中宮
妻:藤原伊行の娘 ★藤原義孝(良峯義孝)の末裔です
長男:大炊御門家宗(?-1211) - 従三位 ★球磨郡久米郷の久米三郎と呼ばれていました。
妻:平時忠の娘
次男:鷹司頼平(1180-1230) - 正二位中納言
母不詳
男子:実智
男子:実昭
養子:大炊御門師経(1176-1259) - 藤原経宗の子・頼実の異母弟
★橘公業のふた従兄、大炊御門家当主「大炊御門師経」と鎌倉時代における球磨郡久米郷の久米三郎こと藤原家宗(大炊御門家宗)は義兄弟。正確に言いますと・・
藤原家宗(大炊御門家宗)は大炊御門師経の甥です。
★橘公業・大炊御門師経・藤原家宗(久米三郎)は繋がっていたという事です。
かなり、以前、コメントしていたと思いますが・・
寛喜年間、相良氏に平河惣領がせん滅されたとほぼ同時期に久米氏も衰退。そして、その後、西園寺公経と橘公業は替地を行い、公業は球磨郡久米郷東方下分(宮原)を所領する事となりました。何か、関係があったのでは?と・・。
あの時は、全く、その「何か」は解りませんでした。しかし・・
球磨の久米氏と橘公業は繋がりがあったのです・・・
私には、橘公長までの流れの複数の意見はよく解りません。
しかし、先入観をもたずに、ただ調査した結果が上記の事であったという事です。
そして、今までの調査で何度も本当に何度も何度も何故かあがっていた方々の名が、今回の調査でも「多数」記述されていました。
しかし、今まで行ってきたのは宮原ではなく「平河」の調査です。
偶然ではないと確信しました。
「宮原(橘)」と「平河」を両方調査する事が「真実」を見つけるカギだと思います。
では<(_ _)> (^・^)
[58] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月25日 16時55分59秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
先日コメントした「宮原(橘)」と「平河」の関係は今、調査継続中です。
やはり、橘を調査すると、今まで私が「何だか気になる?!」といつもの不思議な「感」で調査していた所に((―_―)!!マタマタとの声が・・)多数繋がっている事がわかりました。
この件は、後日、ご報告致します<(_ _)>
でっ!本日は、コレマタ、いつもの不思議な感が導き出した、お話をさせて頂きます。
(でも、これが、何故か具体的な話に結びついていたのです?)
実は、先日からこの件は調査を続けていたのですが・・でも、どうしてもこの話は通らなければいけない問題だとおもうので・・
表題をつけます<(_ _)>
@源氏物語と平川淀姫神社
A源師忠の子「師澄」について
B村上源氏と平河
C肥前宗像社と平河
D肥前宗像社と三浦泰村について
では早速<(_ _)>
@源氏物語と平川淀姫神社について
「平河伝授巻」によると、平河の先祖は球磨に来る以前に「山本郡」に居住していたという事で、以前からとても気になっていた、熊本県菊池郡大津町の「平川淀姫神社」について調べました。
大津町公式ページより
http://www.town.ozu.kumamoto.jp/product/kanko/siseki/nanbu_hirakawa/yodohime.html
転記します<(_ _)>
菊池から阿蘇への古来の交通ルート上に位置する平川には、古くから多くの神社やお寺があります。中でも、この神社には、次のような伝説があります。
「平安の初め、肥前(佐賀県)川上に「玉かづら」という有名な美女がいたが、ある時豊後(大分県)からとも、阿蘇からとも言われている忍びの者たちが、この美女を盗み出し、平川まで逃げてきました。「玉かづら」は、信仰する淀姫神に一心に助けを祈りました。すると、百騎ばかりの侍が現れて、忍びの者たちから「玉かづら」を救い出しました。そこに、姫の一族の者たちが追いつくと、百騎の侍はいなくなりました。これは、淀姫神のお助けであろうと、すぐに宮を建て淀姫宮と名付けました。また、侍たちの消えたところを百騎帰(杉水)といいます。」(『合志川芥』より)
淀姫神社は佐賀県に多く分布し、淀姫(=与止日女・世田姫・豊玉姫)を祭神とする神社です。ここの淀姫神社は『菊池郡神社誌』によると、戦国時代に創建されたそうです。当時、この地域一帯は広く肥前の龍造寺勢力と豊後の大友勢力との対決の舞台となりました。伝説も、ここを舞台に肥前の勢力と豊後・阿蘇との関わりを示しています。9月の「願成祭」で子供相撲の奉納があります。11月の秋祭りには、平川合志神楽と浦安の舞が奉納されます。現在、地域の5つの地区が、交替で祭りのお世話をしています。また、一宇太鼓がここを拠点に活動しています。
★ここに記述されていた「玉かづら」という有名な美女。
この方を調べたのですが・・・
源氏物語に繋がりました(゜-゜)
玉鬘(たまかずら) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%AC%98_ (%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E)
夕顔の遺児玉鬘は母の死後、4歳で乳母一家に伴われて筑紫へ下国し、乳母の夫太宰少弐が死去した後上京できぬまま、既に20歳になっていた。その美貌ゆえ求婚者が多く、乳母は玉鬘を「自分の孫」ということにして、病気で結婚できないと断り続けてきたが、中でも有力者である肥後の豪族大夫監の強引な求婚に困り果て、ついには次男・三男までもが大夫監に味方し、乳母一家は二つに分裂。長男の豊後介にはかって船で京に逃げ帰った。しかし京で母夕顔を探す当てもなく、神仏に願掛けし、長谷寺の御利益を頼み参詣の旅に出たが、椿市の宿で偶然、元は夕顔の侍女で今は源氏に仕える右近に再会した。右近から「源氏の大臣が自分の事のように、心配して探している。」と知らされ、夕顔が亡くなった時のいきさつを聞いた乳母一家は、驚く。右近の報告に源氏は玉鬘を自分の娘というふれこみで六条院に迎え、花散里を後見に夏の町の西の対に住まわせた。豊後介は六条院の家司になり、「これで妻子を呼び寄せることが出来る。」と安堵する。年の暮れ、源氏は紫の上とともに、女性らに贈る正月の晴れ着選びをした。
★4歳で乳母一家に伴われて筑紫へ下国・・やはり九州に関係していた方ですね・・?
続けます<(_ _)>
玉鬘は頭中将と夕顔の間に生まれた娘で、幼名は瑠璃君といった。母夕顔は頭中将の正妻に脅され姿を隠していた時に源氏と出逢い、逢瀬の途中に不慮の死を遂げる。しかし乳母たちにはそのことは知らされず、玉鬘は乳母に連れられて九州へ流れる。そこで美しく成長し、土着の豪族大夫監の熱心な求愛を受けるが、これを拒んで都へ上京。長谷寺参詣の途上で偶然にも夕顔の侍女だった右近に再会、その紹介で源氏の邸宅・六条院に養女として引き取られる事となった。
源氏の弟宮である蛍兵部卿宮をはじめ、髭黒、柏木(実は異母兄弟)など多くの公達から懸想文を贈られる。源氏の放った蛍の光によって蛍宮に姿を見られる場面は有名。「行幸」で裳着をすませ、実父内大臣(頭中将)との対面を果たす。冷泉帝へ尚侍としての入内が決まるが、出仕直前に髭黒と突然結婚。その後髭黒との間に男児(侍従の君)、大君(冷泉院女御)、中君(今上帝尚侍)をもうける。田舎で生い立ちながら母よりも聡明で美しく、出処進退や人への対応の見事なことよと源氏を感心させた(なお「竹河」で玉鬘の後日談が語られる)。
★あの・・・物語なのですが・・しかしですね・・
確かに玉鬘は乳母に連れられて九州へ流れる。そこで美しく成長したと言う事なのですね。
そして「柏木(実は異母兄弟)」・・かしわぎ?
平河義高の家臣の名は「柏木覚左衛門」・・・なんだろうな・・?偶然?
そして夫となった「髭黒」。太古で言ったら「毛人」?想像するとわが故郷「球磨」の代名詞「熊襲」のイメージが・・
髭黒 について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%AD%E9%BB%92
玉鬘に求婚する貴公子の一人として登場する。登場時の官位は右大将。右大臣を父に、承香殿女御を妹に持つということから血筋には何ら問題はないものの、髭が濃く、色黒な外見(「髭黒」の通称はこれに由来する)や、すでに兵部卿宮の正妻の長女(つまり紫の上の異母姉にあたる)を妻にしており、その妻との間に子もいることなどから玉鬘も養い親の光源氏も乗り気ではなかったが、玉鬘付きの女房をうまく手引きさせて強引に玉鬘を自分のものにしてしまう。
★呼称を見て下さい(゜-゜)
「髭黒」という呼称は源氏物語の本文中には現れない。髭が濃く、色黒なことに由来する後世生まれた通称である。平安時代末期の成立と見られる九条家本古系図には「髭黒大臣」との呼称が見られる。その他この人物は「野路大臣」と呼ばれることがあり、紫明抄によれば行成卿自筆本には「野路太政大臣」という記述があったとされているが、この「野路大臣(のぢのおとど)」という呼称については本文中にある「後の大臣(のちのおとど)」を写し誤ったのではないかとする説がある。
★九条家本古系図には「髭黒大臣」との呼称が見られる。・・えっ?実在した??
源氏物語は創作話と思っていたので、驚きました。確かに・・「うつほ物語」や「やまと物語」でかなり、先祖の本名が見えてはきてたのですが・・・?
と言う事で、もうこうなれば何でもアリだっ(―_―)!!と思いまして、「源氏」の調査をしたのですが・・ここで
A源師忠の子「師澄」について でございます<(_ _)>
とても、気になる情報がありました。
「師澄」という人物についてです。
平安時代の球磨に記述に登場する「平河師澄」。
今まで、「師澄」と言う名前をかなり調査していたのですが、中々、確信できるものは見つかっていません。
でも、源氏の「師澄」さんを見つけてしまいました。
系図にも載っていない「師澄」さんを・・・
國文大觀 にありました。
http://books.google.co.jp/books?id=94rSKGyjzOcC&pg=PA175&dq=%E6%BA%90%E5%B8%AB%E6%BE%84&hl=ja&sa=X&ei=NlGqU9ajDMzQkwX1yoHgAg&ved=0CBsQ6AEwAA#v=onepage&q=%E6%BA%90%E5%B8%AB%E6%BE%84&f=false
(表示出来るかな?639ページです)
源師澄 源師忠の子なり。源師親の兄なり(今鏡)
源師忠 源顕房の弟 母は藤原頼宗の女たり。 源師澄の父たり。(今鏡)
★何度も源師忠について系図やウィキなどを見たのですが・・・無かった!?
サイド源師忠をウィキにて<(_ _)>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%B8%AB%E5%BF%A0
確かに
源師忠 源顕房の弟 母は藤原頼宗の女たり。・・・合っています
源師親・・・合っています。
でも「師澄」はありません(?_?)
★源師澄 源師忠の子なり。源師親の兄なり
と言う事は「母」は・・橘俊綱の娘。
橘俊綱は「藤原家光」の父。
ウィキより(何度めだろう?)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E4%BF%8A%E7%B6%B1
そして、須恵小太良こと藤原家基の祖父・・・あれれっ!また繋がりました??
なんで???なんでだろうっ??と。
所で橘俊綱の養父 橘俊遠は「肥前守」でして
橘俊遠の子、俊綱の義兄弟、橘俊經は「肥後守」なのでした・・。
ここで「橘」ですね・・・?コリャマタ?
と言う事は!!
源師澄が実存していたとして
源師澄の祖父は「橘俊綱」となり、須恵小太良こと藤原家基と「師澄」は従兄弟となって、なお且つ、伯父さんの橘俊經は「肥後守」という事になります。
めちゃくちゃ怪しいぞっ!!「源師澄」さん!!
源師忠は「村上源氏」。と言う事で「村上源氏」と「平河」で調査しました所・・・
しょっ!!衝撃の記述を発見しました\(◎o◎)/!(久しぶりです)
では表題の
B村上源氏と平河 についてです
★荘園公領制の成立と内乱 工藤敬一氏 googleブック検索より418 ページ(索引の様です)
武藤〔少武)氏宗形氏綱村上源氏守・(平河) 173 146,147 115,123,124 85 やや
いごめの五郎 372 薬師寺僧行信 13,184 安田義定 262, 330 山木兼隆 225 山鹿氏(筑前) 277, 279 山鹿秀遠 34 , 266, 267, 278, 298, 305, 335 山鹿氏(肥後) 120 山鹿
★ぎゃおおおおおおおっ〜〜〜〜!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
村上源氏守・(平河) なんだこれは!!
むっむらかみげんじもりたか(平河)
守・はあの、城をめちゃくちゃにされた平河守高でしょう。
あの・・実は、こちらの画面は以前、表示したことが何度かあったのです。
でも、その時は「宗像氏」と「平河」の関係を調べていたので、この「村上源氏」という記述に対して全く「気に留めて」いませんでした(+_+)(*_*;
(というか、ここまで調査してやっと「村上源氏」と言う言葉の意味が理解出来たのでございます(@_@))★歴史を知らないとは・・あんたはアホカっ!!との声が・・合唱が!!
と言う事で「平河淀姫神社」を調べたら「源氏物語」に繋がって、「村上源氏」までを調査しました(^・^)というお話でした。
いいわけですが・・・(・_・)
だって・・平河はあまりにも色々あってですね・・(@_@)
本姓「良峯」だし、伝授巻には「藤原」も出てきて・・「橘」にも繋がっているようだし・・
それに平河師貞は「字平紀平次」だし・・
まさか「村上源氏」にも繋がっていようとは・・
混乱いたします(@_@)
つづいての
C肥前宗像社と平河
D肥前宗像社と三浦泰村について
については、もう少し調査をして、明日にでもご報告致します。(@_@)
では<(_ _)>(+_+)
[59] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月25日 17時00分21秒 ) | パスワード |
皆様、すいません(@_@)
荘園公領制の成立と内乱
村上源氏守高(平河)と表示されています。
http://books.google.co.jp/books?id=ObIzAAAAMAAJ&q=%E5%AE%97%E5%BD%A2%E6%B0%8F%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%B0%8F&dq=%E5%AE%97%E5%BD%A2%E6%B0%8F%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%B0%8F&hl=ja&sa=X&ei=UZupU7qzE8eB8gW1_IDQAQ&ved=0CDEQ6AEwBQ
です。
[60] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月28日 14時53分07秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
この数日間、村上源氏について調べたのですが、平河には到達できず・・(+_+)
荘園公領制の成立と内乱 の記述も索引が表示されただけなので、全く関係ないのかもしれません。すいません<(_ _)>(+_+)
しかし・・・
先日、日本の苗字七千傑様より、なるべく郷土史や古寺、古社の調査を行うようにとご教示頂けて、地元(旧岡原村)の神社・郷土誌(湯前町)により新たな情報を得る事が出来ました。
私の故郷、球磨郡あさぎり町(旧岡原村大字宮原宮麓)の切畑地区に以前鎮座していた切畑大明神についてです。
明治時代に、他の神社と合祀されて「岡原霧島神社」となっています。
切畑大明神は大同年中に鎮座となっています。806年から810年までの期間を指します。この時代の天皇は平城天皇です。
御神体は阿蘇神社同体
神社記の中で康平六年(1063年)の記述に登場したのが・・平河師澄でした。
切畑大明神についての記述から球磨の「平河師澄」についての情報が得られていたとは全く知りませんでした(@_@)
そして・・切畑大明神は何度か再興・修復が行われています。
永萬元年乙酉、池大納言平頼盛により切畑大明神再興。(1165年)
延文年中修復(1356年から1360年までの期間)
天正十三年 藤原忠房公御願として藤原重興 再興。 ★おそらく相良忠房
天正十八年藤原頼房公及び家門の祈願 ★おそらく相良頼房
・・・・「神社記」および「星原内記」(補) より
実は鎌倉時代に入り御祭神としてあらたに祀られた方がいらっしゃいます。
平景清(藤原景清)の母君です。
(私、このお話も全く知りませんでした(@_@))
以前、コメントした事があるのですが、切畑地区は、明治に入るまで、湯前の飛び地領になっていました。(イメージが湧きませんよね(@_@)・・湯前と切畑地区の間には多良木の「久米地区」があります)
宮原(橘)が入部した時にはおそらく、宮原領内にあったのではないか?と求麻郷土研究会「郷土」には記述されていました。
南北朝動乱の際に領土を失ったのではないか?とも書かれていました。
ちなみに、切畑には宮原の出城であった可能性のある「切畑城」があったそうです。
宮原城とは470メートル離れているとの事でした。
「橘氏が宮原に入部して最初に築城したのが切畑城であったのかもしれない。後年橘氏は勢力を拡大し、有力国人に成長し、今までの切畑城では手狭になり、南側すぐ近くの宮麓の山上に今の宮原城前身の新城を築き、ここを本城とし、切畑城は出城としていたのではないか」と記述されています。
切畑地区には平景清姫のお墓もあります。
切畑大明神を代々お守りして来られた宮司様の家が、以前、白石様がコメントして下さった、桜の木で地元や観光客で有名な「宮原家」です。
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/higansakura.html
宮原家と彼岸桜
宮原家は、平安初期から代々切畑神社の宮司を務めてきました。この彼岸桜は、切畑神社が建てかえられたとき植えられたもので、樹齢は400年〜500年といわれています。 この彼岸桜の近くには、平景清の息女の墓が祀られています。平安時代末期、源平の合戦に敗れた平家の一門は、この付近に落ち延びてきたといわれています。平景清の息女は、父景清を追って岡原村にたどりつきましたが、その父の死を知り、自害されたものといわれています。宮原家では代々この墓を管理維持され現在に至っています。
★平安初期から代々切畑神社の宮司を務めてこられた「宮原家」
と言う事は「橘」が入部するずっと以前からと言う事です。
ワ〜オ(゜-゜)と言う事はこちらの宮原家が球磨の久米郷「宮原」の元祖と言う事ですね・・\(◎o◎)/!
そこにやってきた「橘」も「宮原」を名乗ったという事か・・( ..)φメモメモ
実は、こちらの「宮原家」は・・私の同級生のお家です(●^o^●)
いや〜彼はとてもとても真面目な人でした。(かっこ良かったから女子からの人気者でした)
そして、この調査のお陰で謎が解けました(^・^)
子供の頃に祖母に「ばあちゃん。宮原君と私は親戚?(●^o^●)」
と聞いた所、祖母は「切畑の宮原さんと、うちの(宮原)は遠~い所で、また別とよ。」と言われたのです。
私は「なんでかな?と」。何だか残念だった記憶があります。(小さな恋のメロディー♪きゃほっ(●^o^●))
しかし・・宮原君(切畑)のお家はすごいなあ〜!!だってですよ、平安初期からって・・
本当にワ〜オです。
ドオリデ、あのプライドのめちゃくちゃ高い祖母が(実は本当です(+_+))が、一目置いていたお家だったんだ〜(ばあ〜ちゃんは、球磨にどれだけ長く住んでいるかが、何かを決める基準だったりして・・?)
ちなみに平河は記録上では「1063年」。・・・なるほど(゜-゜)
所で、「星原内記」とありましたが、切畑にも「星原家」があります。
多良木町史に記述されていました。古文書に
「社人同右社人宮原庄右衛門社人同右社人星原久左衛門(注)社人宮原庄吉社人同右社人宮原甚左衛門社人黒木伝六社人黒木長兵衛(以上中島与) (注)久米古城下の天満天神は切畑与に属している。」
とあるようです。
上記の「黒木家」は平川代々の親戚です。近い所では、曾祖父の姉妹が平川から嫁いでいます。その「黒木家」と切畑の「宮原家」は代々親戚です。
(何だか、ややこしいぞ(゜-゜))
私の祖父の姉(実は従姉妹)お公(きみかと言います)伯母さんが宮原から養女に入っていた「星原家」は宮原城の登り口にある、通称「門前」と呼ばれる地区にあります。
宮原一人息子の祖父と祖母が中国に渡る事になったので、「お公」伯母さんは、星原を名乗ったまま、宮原の全てを継いだのです。
祖父の実家、「宮原家(星原家)」ですが、私が子供の頃は「蚕」を飼っていました。
敷地内に工場があって、人を雇っていた事もこの頃思い出しました。(何で忘れているのだろう・・本当に悲しいです(+_+))
全く、関係ないのですが・・先日のコメントで「左右の馬允が橘氏の世襲の職であった」という記述を転記しました。
そう言えば祖父は、親戚縁者・地域の方々の前で「私は、大陸で馬族の長になる!!」と言ったそうですが・・「橘」と「馬」って、何かあるのかな?と。(男のロマン??)
(―_―)!! 脱線しました。
しかし・・・
故郷、旧岡原村宮麓の事を、私は全く解っていませんでした。(今でも少しだけ解っただけですけど・・)
故郷に大同年中に鎮座の神社様があったとは・・・
この基本となる部分さえ、全く解っていない私が、先祖の調査を順調に進める事など出来ませんよね(+_+)
ちなみに御近所さんの岡本地区(岡麓)は三池氏が所領していたという事で・・
旧岡原村は、色々ありそうです。
もっと、後の世代に語り継いでいかないと、地元の人は知らない人も多いと思います。
あっ!!そうか、語り継ぐ代わりに、岡原小学校では運動会で「炭坑節」を全員で踊るのか!
「月が出たっで〜た♪月が〜出た〜三池炭鉱の〜上に出た〜♪」
って(@_@)・・(―_―)!! ダメです。これでは何も解りません(―_―)!!
旧岡原村宮麓、通称「侍村(まちむら)」と呼ばれる実家の地区の家々の「名」も以前書いたと思いますが、やはり、何軒か忘れていました(@_@)。
「別府さん」・「畠山さん」・「赤池さん」「皆越さん」を書いていません<(_ _)>
一人暮らしをされていたお年寄りのお家もあったから、今はどうなのかな?と思いますが。
この頃、先祖の調査をしていて、色々登場する「姓」を見て「あっ!忘れてた!」と・・
トホホ・・・っ(@_@)
でも、何でだろう?侍村(まちむら)には、調査で見かける姓が沢山あります??
何でだろう??(゜-゜)
この謎も段々解明されていければ良いな(^・^)と思っている次第です。
では<(_ _)>(^・^)
[61] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年06月28日 21時25分12秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
村上源氏は名和氏のことだが、相良氏の攻勢で八代から宇土へ移動。
肥後の宮原と言っても、阿蘇郡、菊池郡、求麻郡、玉名郡、山本郡、八代郡にあるから混同しない様に。
球磨郡の宮原村は岡本村と合併して岡原村の合成地名。
岡本氏は相良氏族上村氏支流。
[62] | 子孫よりさんからのコメント(2014年06月29日 01時07分01秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
肥後の宮原の混同は気をつけます。
祖母からも、「家の宮原とはまた別だから」と言われていましたから<(_ _)>
「村上源氏は名和氏のこと」
名和氏の調査はしていませんでした。(やっぱり駄目ですね(@_@))
本当にありがとうございます。調べてみます。
「岡本氏は相良氏族上村氏支流」
相良忠房の祖父、相良晴広は上村氏から養子にはいられているのですよね。
★天正十三年 藤原忠房公御願として藤原重興 再興
なるほど・・そう言う事ですね・・・
所で、故郷シリーズ?ですが・・
宮原観音堂に関しても興味深い記述を見つけました。
相良三十三観音を特集したサイトです。
http://tsubame-taxi.co.jp/staff_blog/index.php?page=2
スクロールして頂くと宮原観音堂について記述されています。
その中に井口武親そして時代が下って井口美辰の御詠歌があります。
人吉藩士・井口武親によって選ばれたとされるのが「相良三十三観音」と言われています。
〇露のみや 野はらにおくと 詠ふらし うき身も終の 宿ぞここなる(武親)
〇秋草の 葉すへにむすぶ 露のみや のはらのかぜに 明日も散りなん(美辰)
あの・・・とても気になるのですが、私、和歌は全く解らないのですが
「露のみや」と「のはら」という言葉が重なっています。
そこで「露のみや」とは??と・・
調べました(^・^)
偶然かもしれませんが物語の主人公が見つかりました。
「朝顔の露の宮」と消えし蜻蛉
http://d.hatena.ne.jp/yt076543/20100710
省略・・宮は丹後を越えて嵯峨に出て、備前、備中、備後をたずね、安芸の国から長門を通り、筑前の博多の津へと船は着く。安楽寺にて祈念ののち、大隅、薩摩、日向を過ぎ、豊後の浦より四国に渡る。伊予、讃岐、阿波、鳴門の沖から淡路島、明石では、八月半ばの空の月、やがて紀の国熊野に籠る。
「露の宮」は恋人を探して色々な場所に行かれています。
露のみや 野はらにおくと 詠ふらし うき身も終の 宿ぞここなる
秋草の 葉すへにむすぶ 露のみや のはらのかぜに 明日も散りなん
何だかロマンがあります(^・^)
でも、「露のみや」とは、本当に何でしょうか??
所で・・
サイトの中にお池さんが紹介されていたのでビックリしました。
この、お話は、本当です。
でも代々、その「お家」に継承されているとは知りませんでした。
「名」は明かせませんが、どちらの「お家」かは知っています。
実家にはとても近いお宅です。
でも、こう考えてみると・・
やはり、故郷は不思議な場所でした・(゜-゜)
では(^・^)
[63] | 白石さんからのコメント(2014年07月03日 07時07分48秒 ) | パスワード |
おはようございます。
今日も激しい雨の恐れ。植物にとってはうれしい天の恵みです。
ところで 子孫様 いつものように 今あがっているお話とは全く違うことで 恐縮ですが
この頃 韓流ドラマの中で 百済義慈王の母が 新羅の善徳女王の妹と知りました。同時代 金ゆしん 金春秋 けべく 鬼室福信 などなど 白村江の戦いで百済が滅亡する年代のこと。
このころには 日本にはすでに 天皇家は存在しており この人たちが日本で生きて祖先になった とは 言い難いけど
義慈王の 母は 新羅の人。
義慈王は「平河」の先祖の母方の人。
子孫の百済永継の系は 百済三松系図にある。
【百済王姓 三松氏系図】31代百済王・義慈王の子・善光の子孫に百済永継(藤原冬嗣母)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
では
この 義慈王に関して
【(推算)百済 扶餘系図】では
先祖に 武寧王の子・聖明王がおり
武寧王(462-523)の母は ★恩率贏高軌の女子
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
恩率贏高軌の先祖は【贏姓 高丘氏系図】により 秦王室・恵文王
秦の恵文王の子孫・高陵君顯の子孫「高穆」は同22年(217)伯済國に遷す。
系図の中に見える恩率とは 【一大率・難升米の読み方と白日別の意味】
【魏志倭人伝の「一大率」と古代朝鮮半島における「大率」】より
達率、恩率、徳率、杆率、奈率 (北史百済伝)
大率、恩率、徳率、杆率、奈率 (隋書東夷伝)
竃セ石書店発行「古代朝鮮語と日本語」
より
にその言葉が見える。
つまり 伯済國にいるころ 百済王と結婚した女性がおり、その子孫が日本の天皇と結婚した。そこから 藤原北家にも その血が入った。南家にも・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
皆様はすでに ご存じなのだと思いますが
私の あら 知らなかった は
義慈王の母が 新羅の人で 新羅女王・善徳の妹だった ということです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
問題の中心は 天皇の子供に発するという 平川。
でも 子孫様はそれより前 平川を名乗っていたのではないか?と考えている。というところですよね。ちがっていたらごめんなさい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私も前から 苗字が先か?姓が先か? ということを書いている本などを見て こういう考え方もあるのだ と 思っていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[64] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月04日 00時59分27秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
白石様、お久しぶりです。お元気でしたか?(^・^)
ご教示、ありがとうございます。
まず、ご質問の「それより前 平川を名乗っていたのではないか?と考えているのでは?。」というお話ですが・・
すいません<(_ _)>私、嘘をついたり、取り繕う事の出来ない性格なのではっきりとお答えしますと・・
実は、私、何も、考えていません(@_@)
何も自分自身解っていませんと言う方が良いのかもしれませんね。
ただ、知りたいのは、球磨に最初にやってきて「平河(平川)」を名乗ったその人物はいったい誰だったのか?ここからです。
鎌倉以降は名跡を継いだ「平河(平川)」を名乗る人物が沢山出てくるので・・
★私、とんでもない見落としをしていたのです。(*_*;
平川家について10-1 コメント21 永吉荘について
略章・・師高の曾孫にあたる良貞と師時は訴訟を起こし、弘安六年(1283年)七月の関東下知状で「永吉地頭并名主職」の返付が認められた。この際春実の預所職も改替されたようで、預所職は武藤(少弐)景資に与えられた。
しかし景資は弘安八年十一月の岩門合戦で没し、その跡は備前々司入道(北条一門の佐介朝房であろう)に与えられた。
彼は預所職のみでなく、永吉西村を一所とみて地頭職を知行した。平河道照はその回復に努力したが、奉行人明石民部大夫行蓮が北条氏の意を迎えて取り上げず、事実上完全な北条氏領と化し、鎌倉幕府滅亡にいたった。
建久二年末、足利尊氏は九州下向に先立ち少弐頼尚を筑前・豊前・肥後の守護に補し、永吉荘は山鹿荘とともに守護領とされた。少弐頼尚は観応擾乱で佐殿(足利直冬)に与同して解補されたが、それは相良定頼并一族等所領注文(「相良家文書」)に「一所 肥後国 玖磨郡永吉庄半分百七十五町五百石三百貫 平河左近允頼尚跡」と見えている。
★建久二年末、足利尊氏は九州下向に先立ち少弐頼尚を筑前・豊前・肥後の守護に補し、永吉荘は山鹿荘とともに守護領とされた。
筑前・豊前・肥後の守護・・・永吉荘
ということは(゜-゜)
肥後の守護であれば名跡を継いで「平河○○」と名乗っていても、おかしくないと言う事です(@_@)
だから、このあたりを調べていると、「ありゃ??同じ名の人がいる??」となっていた訳ですね。(今頃気が付くなんて・・悲しい(@_@))
でも、調べていると、上記の理由だけではなく何かの「縁」があったような気はしています。
所で、白石様のご教示にあった
「百済義慈王」のお話ですが、私、この方の事も全く知らなかったので(@_@)、今、少しだけ勉強いたしました<(_ _)>
百済王(くだらのこにきし)氏 ウィキより(いつもの事ながら)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E7%8E%8B%E6%B0%8F
百済王(くだらのこにきし)氏は、百済最後の王である義慈王の子である善光[1]を始祖とする日本の氏族。持統朝に百済王の氏姓を賜与された。
氏として「百済」を称する氏族は複数ある(百済朝臣、百済公、百済連、百済宿禰)が、王という特殊な姓の示すとおり、かつての百済を象徴する存在であったと思われる[2
★王という特殊な姓の示すとおり、かつての百済を象徴する存在・・そうか・・(゜-゜)
そして、何だかとっても気になる記述がありました(゜-゜)
奈良時代末期には俊哲が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使などに任じられ、武鏡は出羽守となるなど、敬福以来東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続した。
★★陸奥守・出羽守 秋田県も含まれますね・・・
何だろうな〜今の所の調査では「宮原」だけではなくどうも「平河」もこちら方面と関係がありそうなのですが・・
続けます(゜-゜)
平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の和氏出身であったため天皇の外戚とみなされ[6]厚遇を受けた。一族の娘を桓武天皇・嵯峨天皇らの後宮の宮人とし、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。本貫地河内国交野への天皇遊猟の記事は桓武朝以降、国史に多数見られる。
百済王神社の旧神主家である三松氏は百済王氏の後裔を称した。
三松氏は・・平河の系図にあった藤原義孝の娘は「三松氏」に嫁がれていますね・・(゜-゜)
肥後・そして球磨は百済との縁が深い事は、今までの皆様からのご教示により、知る事が出来ました。
白石様からのご教示で、「百済義慈王の母が 新羅の善徳女王の妹」と伺う事も出来きました。
と言う事は具体的に「新羅」との縁も見えてきたと言う事ですね。
所で・・百済と言えば・・
以前、コメントした事なのですが、宮原(橘)の先祖と言われている橘則光の母、すなわち「橘敏政」の妻である「右近尼 - 花山院乳母」良峯美子。
この方の事を調べたのですが・・
沢山の書籍に記述されていました・・
良峯義方の娘でした。
良峯義方は良岑衆樹の子。良岑衆樹は良峯安世の孫。
父は良岑晨直。肥後守の良岑晨茂とは兄弟です。
良岑衆樹についてとても気になる記述を見つけました。
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E5%B2%91%E8%A1%86%E6%A8%B9
逸話[編集]
50歳になるまで微官に留まっていた衆樹は、ある時、雨の中苦労して坂を登って石清水八幡宮に参詣した。その際、神社の前に橘の老木が茂っていたの見つけ、この橘の木のように自ら(衆樹)も老いてしまった、との趣旨の和歌を詠んだ。これを聞いた八幡神が哀れんで、その情けにより、橘の木は茂り栄え、衆樹も栄職である蔵人頭に任官されたという(『大鏡』[3])。
玄理の子孫である為通から「橘為通」と「橘」を名乗っていますね・・
何だか、「橘」とは縁が深そうです。
というか・・
何はともあれ、私は祖母方も祖父方も「百済」とは縁が深いと言う事です。(ありゃ!?)
そして、とてもくだらない事を(シャレじゃありません(ー_ー)!!)考えました。
平河の系図ですが、何故か・・?
良峯安世 → 良峯宗貞 → そして「義方」となっているのですが・・
ず〜っと何で「宗貞」から「義方」??と思っていたのです。
そこで・・ありゃりゃ〜〜??と。
平河は宮原と室町期あたりから姻戚関係を何度か結んでいます。
系図が出来たのは江戸後期。
ということは・・・? はっ(?_?)!!
もしやもしや・・あの系図・・!?
宮原の血縁関係を平河の系図にミックスしていないかな・・??!と。
ありゃりゃ〜!!?
(ー_ー)!!ダメですね。憶測が過ぎました<(_ _)>
でも・・・・(・_・)(?_?)\(◎o◎)/!・・(ー_ー)!!
お話は変わりますが・・
今、自分に課している「宿題」を調査中でございます。<(_ _)>
コメント出来る状態まで、しっかりとまとめていきたいと思っています。
では(^・^)
[65] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年07月04日 13時15分57秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>良峯安世 → 良峯宗貞 → そして「義方」となっているのですが・・
ず〜っと何で「宗貞」から「義方」??と思っていたのです。
何か勘違いされているのでは?
良峰安世裔で4代続いたのは義方。
玄理は丹羽姓から椋橋姓への改姓で、良峰姓は称していない。
玄理が宗貞の養子か猶子の可能性はあるが?
良峰姓への復姓は季光からだが、子は橘姓に改姓。
義方以降が平河に繋がるかは疑問。
平河氏は、肥後と尾張に地縁のある多臣族丹羽姓の後裔が妥当と考えます。
[66] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月04日 15時30分07秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
昨日、コメントした
良峯安世 → 良峯宗貞 → そして「義方」についてですが
平河伝授巻・平河氏系図(熊風土記)・求麻外史・良峯姓先祖書 全てがどこかしら異なっていまして
良峯安世 → 良峯宗貞 → 「義方」この流れは良峯姓先祖書にありますこちらの記述になります。
平城天王御子大納言正三位良峯朝臣安世任武蔵守
桓武天王ノ孫長岡ノ御子良峯蔵人頭宗貞四位両少将宗貞トモ云、御子両九郎義方、御母七郎
荒田寺別当依高、御子四人
荒田太郎盛高 有智山寺建立之叓
山田次郎東高 仁平元未辛十月十八日卯時柱立三年
惣領 平河三郎師高 久壽元年移ル、師高建立也、
横瀬四郎高実
以上
良峯(花押)
ただし、求麻外史では
安則の後、三郎師康、師澄と続き、康平六年(1063年)に球磨に下向。
その後両九郎義孝(または義方)、三郎貞時と続いてる。となっています。
どれも内容が違うのです・・・
全部、信憑性に問題が・・・
しかし
事実は、少しずつ、何処かにヒントを隠しているのでは?と思いまして・・
(中々、難しいです(@_@))
「多臣族丹羽姓」
わたくしですね・・・
今まで、調査した球磨の神社「青井阿蘇神社」「市房山神宮」「王宮神社」「切畑大明神」をトータル(こう言う表現は不適切かな)して考えた時に、ある事を感じ取る事ができました。
祖母の事をこの頃、客観的に書かせて頂いていましたが、あらためて、祖母の気持ちを考えた時に、祖母は「権力」や地位とかは関係なく、祖母の誇りであったのは・・・
日本の苗字七千傑様のサイトにあったこの言葉ではないのかな?と思い始めています。
【多 氏】
最古の皇別であり神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔が多姓を賜うに始まる。
★日本最古の皇別
ここに、球磨の豪族であった「平河」に対する祖母の誇り、スピリッツがあるのでは・・と思う次第です。
★(ー_ー)!!じゃあないと、「宮原」の後継ぎである父に対して
「ここ(宮原)より、うち(平川)の方が古い?」何て発言はしないのでは・・
(しかし、本当に、ばあちゃんたら・・・(*_*;)
脱線しました<(_ _)>
祖母の気持ちはあくまでも私の「推測」ですから、祖母が天国で「違う(ー_ー)!!」と言っている可能性もありますが・・・
それはそれ、これはこれ!として、私は、これからも事実を探して参ります。
では(^・^)
[67] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月04日 23時27分01秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
調査中に偶然表示された「太宰府圈の歌: 万葉の国筑紫」という書籍に、不思議な記述を見つけました。
googleブック検索より 190ページ
それから球磨川の岸ぞひの長い谷を経て球磨地方の中心部に入る。古代も今もこ の峡谷づたひに球磨に入る交通路に変りはない」として政治上文化上極めて重要な地域球磨に到る港として佐敷は極めて重要な土地だったとする。而して現在の佐敷太郎を ...か、或は筑前守筑後守などに任ぜられて赴任せしをいふか。然れども赴任 ...
★政治上文化上極めて重要な地域球磨に至る・・
万葉の時代においての記述でしょうか?
とても、興味のある内容で、ぜひ、この書籍を読んでみたいと思いました。
しかし、何故、球磨が・・???
佐敷太郎?
調べたのですが、現在佐敷太郎峠という古来からの難所が芦北にあるようです。
「津奈木太郎峠と赤松太郎峠とともに三太郎峠と呼ばれている」とありました。
「政治上文化上極めて重要な地域球磨に到る港として佐敷は極めて重要な土地だった」と言う事は・・・
「港」? 航路にて何れかの土地から、球磨に行く為に「佐敷」は極めて重要な土地だったという意味ですね。
こちらの書籍は「太宰府圈の歌: 万葉の国筑紫」だから、太宰府や筑紫からの?と言う事でしょうか?
その当時、球磨が「政治上文化上極めて重要な地域」と言われていた理由は何なのか?
とても、興味が湧いてきました。
平安時代以前の球磨に関する情報は殆ど残っていないとの記述を以前、見た事があります。
なのに・・何故?
これは、大宰府・筑紫国について、調査してみるべきなのかな?と感じています。
では(^・^)
[68] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年07月05日 10時12分04秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>「港」? 航路にて何れかの土地から、球磨に行く為に「佐敷」は極めて重要な土地だったという意味ですね。
芦北郡佐敷は、恐らく沖縄の麻部族である佐敷氏が来着した地点と思われます。
沖縄の佐敷間切佐敷が本貫でしょう。
現在、佐敷氏は熊本県にも存在しますが、沖縄県、岐阜県などに比較的多い。
また左治木、桟敷などの表記のサジキさんも多い。
[69] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月05日 11時20分14秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
「芦北郡佐敷は、恐らく沖縄の麻部族である佐敷氏が来着した地点」
何だか、鳥肌が立ってしまいました。
本当に、ビックリしています。
麻部族・・・と言う事は、「求麻」(くま)の伝説にも想像が膨らみます。
とても、興味が湧いたので、私も少し調べてみたのですが、沖縄と芦北佐敷は古代以降、後世においても交流が行われていたようです。
http://napoleone.my.coocan.jp/Kyusyu/Okinawa/Sashiki/Sashiki.html
佐敷城は尚思紹・尚巴志親子により築かれたとされる。尚思紹の父・鮫川大主はもとは肥後国八代の名和氏の出であり、「佐敷」の地名も葦北の「佐敷」に由来するという説がある。尚巴志は与那原港で明との貿易を盛んに行い、購入した鉄から作った農具を領民に配ることで民心を得たとされる。
\(◎o◎)/!とても、おもしろいです。
しかし、沖縄と球磨の交流とは、壮大なロマンで・・
日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました。
[70] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月05日 15時24分03秒 ) | パスワード |
皆様、マタマタこんにちは(^・^)
っと言うか・・・今は本当は冷静ではありません(ー_ー)!!
ちょっと叫ばさせて下さい<(_ _)>
では!!
僧・僧・そう・・お坊様なら名前がわからないはずでーす!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
ふ〜っ!!少し落ち着きました。
では(゜-゜)
新しい情報が見つかりました。
今朝、夢で(マタマタ(ー_ー)!!と言う声が・・でも聞いて下さい)「謀反とは何か?」と尋ねられたのです。
私が「わかりません」と答えると、「それを調べなさい」と。
「謀反他人に勝る」この言葉の意味を私は未だ理解出来ていません。
とりあえず、調べたのですが・・
こちらの記述を見て下さい
御家人制の研究 googleブック検索より
そこで展望されて 文治勅許にもとづく国地頭制は、義経の九国地頭、行家の四国地頭に対抗し、これを止揚するものであったが、直 ... 一旦身柄を関東におくられた平河師高の身を安堵し、球磨御領を知行せしめたものであつた。( ? ^ )弘安六年七月三日関東下知状案(平河文書)所引の文治三年十二月三日の天野遠景下文は、「謀反他人に勝る」として宇野御厨小値賀島地頭職に補任したものであるが、かかる事例の典型的なものである。
★御厨小値賀島地頭職に補任??
ものすごく気になったので続けて検索すると
荘園公領制の成立と内乱より googleブック検索
知状案(平河文書)所引の文治三年十二月三日の天野遠景下文は、「謀反他人に勝る」として宇野御厨小値賀島地頭職に補任したものであるが、かかる事例の典型的なものである。(お)建久七年七月十二日前右大将家政所下文(青方文書)は、僧尋覚と松浦十郎 ...
★やっぱり「謀反他人に勝る」として宇野御厨小値賀島地頭職に補任したと記述されています。\(◎o◎)/!
このような記述は今まで確認出来ていませんでした。
御家人制の研究には続けてこのような記述がありました。
文治三年十二月三日の天野遠景下文は、「謀反他人に勝る」として一御厨小値賀島地頭職に補任したものであるが、かかる事例の典型的なものである。へ^ )建久七年七月十二日前右大将家政所下文(青方文書)は、僧尋覚と松浦十郎連の相論で、尋覚に理ありとして肥前国宇野州史学会 ...
★僧尋覚と松浦十郎連?
僧尋覚を調べました。
ウィキより 青方氏 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%96%B9%E6%B0%8F
青方氏(あおかたし)は日本の氏族。中世期には豪族として肥前国神崎荘を本拠とした。東大寺の僧、玄城房尋覚を始祖とする。母が肥前国宇野御厨内小値賀島の本領主、清原是包の妹であった所縁から平安時代末に肥前国五島へ渡り、小値賀島と浦部島を譲られ、土着した。その後建久7年(1196年)に小値賀島地頭職に補任され、御家人となった。
玄城房尋覚の次男・家高がはじめて青方氏と号した。元寇の勲功の賞として、肥前国神崎荘の配分を受ける。南北朝時代には松浦一族とも称している。
戦国時代に入ると五島氏(宇久氏)の家臣となり、一時太田氏を名のったが青方の旧領を安概され青方姓に復した。江戸時代は五島藩(福江藩)の家老職を務めた。
★東大寺の僧、玄城房尋覚。
★母が肥前国宇野御厨内小値賀島の本領主、清原是包の妹
★父が「藤原家忠」・・・えっ!! \(◎o◎)/!
藤原家忠 ウィキより (私の調査で何度も登場されています)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E5%BF%A0
尋覚の父は藤原家忠で・・・・
藤原家忠の養子は・・・藤原家光 - 橘俊綱の子 すなわち・・
須恵小太良こと藤原家基の父です。 あれーーーーっ!!
何だか、調査の全てがここに繋がります。
しかし、謀反の「む」の字もありません。
でも、建久7年(1196年)に小値賀島地頭職に補任・・となっています??
実は、こちらの記述を見つける前に、朝から文治2〜3年頃に謀反の嫌疑をかけられた人を調べたのですが、この時期の「謀反」の対象は源義経に係わる方々が多く見受けられました。
しかし源頼朝は平河師高の謀反の嫌疑に対して「冤罪であった」と・・
そして、暇をとり天に遣わされたと・・
天野遠景に対しては「急ぎ、師高子息師貞に安堵をつかわすように」と指示まで行っているのです。
このような事実があるにも関わらず、歴史上この「謀反の嫌疑」について、一切記述が残っていないのがとても不思議でなりませんでした。
そこで、ふと「師高」という名ではない、「謀反の嫌疑がかかり」そして「一旦関東(鎌倉?)に身柄を送られて」さらに「天に遣わされている」という「人物X」の記録は無いか、調べました。
そして、もちろん関係はないかもしれませんが、とても気になる人物を発見いたしました。
吾妻鏡での記述を読んだのですが、ウィキにも解りやすく記述されていたのでご紹介致します
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BC%98
聖弘(しょうこう、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の興福寺の僧。聖弘得業、周防得業(すおうのとくごう)聖弘とも称される。
『吾妻鏡』によれば、文治2年(1186年)2月、源頼朝と対立し、都を落ちのびた源義経を匿った事により、翌文治3年(1187年)3月8日、鎌倉に召し出されて頼朝の尋問を受ける。
聖弘は義経と師檀の関係であり、平家追討の際には義経の依頼によって祈祷を行っていた。その縁により都落ちの際に南都に逃れてきた義経を一時匿い、頼朝と和解するように諫めて下法師らを付けて伊賀国へ送り出し、その後は音信不通となったという。
謀反人の義経を匿い、祈祷を行った事を詰問する頼朝に対し、聖弘は師弟のよしみで頼ってきたので迎え入れたものであり、祈祷は義経を諫めて逆心をなだめるもので、何ら罪になるものではないと答えた。また、そもそも今の関東の安全は義経の武功によるものであり、讒言によりその奉公を忘れ、恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然であり、予州(義経)を召し返して兄弟で水魚の交わりをする事が国を治める方法というものである。これは義経を弁護するものではなく、天下静謐を求めてのことであると答えた。
この聖弘の態度に感心した頼朝は、勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を行うよう命じている。
★上記の記述よりは、かなり厳しいものがあったようです。
大変くわしく「聖弘」の記録が記述された(義経記)のサイトを見つけました。
http://santalab.exblog.jp/20402910/
こちらは上記の内容のシリーズが1〜17まで記載されています。
★聖弘は死を覚悟して鎌倉に移送されました。
鎌倉について、その身を預かったのが「小山朝光」(私は以前、この方の母宛に送られた頼朝の下文についてコメントしていました)
★佐原十郎(義連)が初めて奉行([それぞれの職掌により政務を担当し執行するもの])を命じられて、大御堂の造営を指揮し、勝長寿院(かつて現神奈川県鎌倉市にあった寺)の裏に桧皮([檜ひのきの樹皮])の山荘を造り勧修坊(聖弘)を入れられた・・とありました。
しかし・・
http://santalab.exblog.jp/20403301/
秀衡(藤原秀衡)他界の後嫡子である本吉冠者(藤原高衡。秀衡の四男。なお嫡男は秀衡の次男泰衡)の企てにより、文治五年(1189)四月二十四日に判官(源義経)が討たれと聞いて(義経を討ったのは次男泰衡)、勧修坊(聖弘)は「誰のために今まで鎌倉にいたのだ。こんなにも情けのない鎌倉殿(源頼朝)には別れの挨拶も不要ぞ」と申して、急ぎ上洛しました。院(第七十七代後白河院)もなお深く尊んで、東大寺(現奈良県奈良市にある寺)に帰り、この度の合戦で廃れた所を造営し、人が訪ねて来るのも煩わしいと、閉門したままでしたが、自筆で二百二十六部の経を書いて供養し、判官(義経)の菩提([死後の安楽])を弔い、我が身は水食([飲食])を止めて、七十余りで往生を遂げました。
というお話でした。
最後は「東大寺」で迎えられたのですね・・・
そして・・
偶然ですが、東大寺の僧、玄城房尋覚は小値賀島地頭職に補任された。
聖弘上人については、全く先祖との関係は無いかもしれませんが・・
しかし「尋覚」については・・??
ともかく、今まで平河を調べていて全く登場してはいなかった情報
平河文書より「文治三年十二月三日の天野遠景下文は、「謀反他人に勝る」として宇野御厨小値賀島地頭職に補任した。」
という内容が見つかったという事です。
早速、明日図書館に行ってまいります。
では<(_ _)>(^・^)
[71] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月06日 18時59分06秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
本日、図書館に行くつもりだったのですが、体調が悪くなり、微熱が出てしまいまして、こちらはどしゃ降りの雨だったので、外出は控えました。(@_@)
あの・・・何か変なのです(@_@) もちろん体調も含めてですが(゜-゜)
外出を控えたので、家で少し調べました。
尋覚についてですが・・・
尋覚は藤原家忠の子です。藤原家忠は、康平5年(1062年) - 保延2年5月14日(1136年6月15日))すなわち、74歳で亡くなっています。
長男の藤原忠宗は(1087-1133) 1087年生まれです。
養子の藤原家光に至っては父の橘俊綱が1094年に亡くなっていますから、大体の年齢や誕生年月日は想像の範囲ですが・・
尋覚は松浦党関係史料集を見ると、1209年までは、少なくともお元気です。
と言う事はもし、藤原家忠が亡くなる前に出来た子供だと考えるとその時点で73歳です。
藤原家忠さんは、とってもお元気だったのかな?(●^o^●)とも考えられますが・・
でも、何か気にかかります。?
そして松浦党関係史料集から尋覚の名が解りました。
「宗房」でした。
そこで、正確な年齢とか何か解らないかな?と思い、「藤原宗房」で調べたのですが・・・
偶然、一人同姓同名の方がいらっしゃったのです・・
その人は
藤原長方の孫「藤原宗房」です。父は藤原宗隆(母は信西の娘)
藤原長方の妻は「藤原師高」の娘でした。
しかし・・こちらの藤原宗房は1189年生まれなので、やっぱり関係ないかな(゜-゜)と。
まあ偶然「藤原宗房」だったのだと思います(^・^)・・ちょっとダケ気になりますが・・
所で・・
昨日からちょっと考えました。(だから熱が出たのかな?)
荒田寺別当であった良峯依高。
この方は、私も多分、多氏丹羽姓の良峯氏であった可能性が高いのではと思います。肥後と尾張の「多氏」を介した繋がりであったと思うのです。
しかし、その他の方々ですが・・何か・・何か秘密があるのでは?と。
(もう、こうなれば本心を。そうしないと頭が混乱してしまします(@_@))
よくある系図の偽装?とかではない、何かが隠されているようで・・
真実が全く見えてきません(@_@)
そう考えないと・・
鎌倉時代の地頭職をめぐる、訴訟の文書や、関係者との繋がりが全くわからないのです。
昨日も「冤罪であった謀反」について調べたのですが、どうもふにおちません。
訴訟の文書では、師高がおってしまった謀反という冤罪に、親族・関係者、一族が、何十年も苦しんだという言葉に繋がらないのです。
一族は、十分、忠義を果たしたとまで書かれていました。
それと・・領土の没官についてですが、調査では「文治元年(1185年)」となっていました。
これは、平家領没官にあたるのではないでしょうか?
平河師貞が安堵を受けたのは「文治3年(1189年)」。
しかし、とても不思議なのは「平河義高」が建久9年(1198年)12月に、相良長頼の人吉入城を手伝っている事です。
平河義高は木上城の城主でした。
資料によれば、義高が球磨に来たのは相良氏より18年前となっています。
ここから、完全に?????です。
まるで、二つの流れの「平河」が球磨にあったかのようです。
今までの調査は、全て、「須恵小太良」こと藤原家基と久米氏こと「藤原真宗」そして、久米三郎こと藤原家宗そして藤原友永に繋がっていました。
特に、平河の訴訟に関係した方々を調査すると、全て、「藤原家基」に繋がってしまいます。
他に一例をあげると、以前コメントしましたが
藤原家成の父「藤原家保」・「藤原顕輔」「藤原定能の祖母」・藤原実定の妻「上西門院女房備後」・二階堂行政の母・藤原季範 この方々の父である藤原季兼の母。
全て兄弟(姉妹)です。
すべて「藤原顕季」の子供。
「藤原家基」「藤原家成」「藤原長方」「藤原頼実」「徳大寺実春」他多数
ついには橘公長までもが繋がってしまって・・・
訴訟に関する事を調べているのに、私は平河の、いえ、球磨の何を調べているのだろう?!と頭が混乱してきます。(*_*)
平河の真実はいったい何処にあるのでしょうか。
すいません・・・・・
つい愚痴ってしまいました<(_ _)>(*_*)
めげずに、真実に向かって調査を進めていきます。
では。<(_ _)>
[72] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年07月06日 23時26分26秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>平河の真実はいったい何処にあるのでしょうか。
やはり、寺社関係を調べることでしょうね。
中世はの権力は建前上からは朝廷や幕府にあるが、現実には寺社勢力。
荘園にしても貴族や武家の荘園領主もわずかには有るが、ほとんどは寺社領。
皇室領でさえ、長講堂領や八条院領などの寺社領なのだから。
その寺社勢力は、藤原信西の後裔や宇多源氏佐々木氏の流れを汲むものが比較的多い。
肥後なら阿蘇大・宮、尾張なら熱田大神宮が筆頭でしょう。
地頭にしても、何らかの縁戚や地縁に基づくものが領有権を追認されただけ。
鎌倉幕府の御家人にしても、多くは武功だけで地頭に補任されたわけでは無い。
武功だけで下向したものは、遠国では実効支配まで二百年以上かかる例が多い。
この辺を念頭に置かないと、何故所領紛争が起こるか不思議に思うだけでしょう。
また肥後の阿蘇大神宮は、大宮司が三人並立して争った時期もある。
蒙古襲来時に勇敢に戦った竹崎季長などは、無高(所領ゼロ)だったからね。
教科書的歴史から脱却しないと真実は掴めない。
[73] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月07日 14時00分39秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
日本の苗字七千傑様、ご教示を拝見して、気持ちが落ち着きました。
本当にありがとうございます。
寺社関係をしっかり調べていきます。
以前もコメントしましたが、祖父が残した兜から受けるメッセージ。
兜の周囲を家の家紋である、丸に剣方喰と、そして何故か「違い鷹の羽」の紋が囲んでいます。
「違い鷹の羽」は阿蘇神社の神紋でもあります。
祖母の言葉や、私が、会った事はない早くに亡くなった祖父の行動、残した言葉に心の耳を傾けると、やはり、全てはここにあるのでは?と思うのです。
これからの調査でも、きっと「あっ、又、○○に繋がった(*_*)」と言う事はあると思いますが、私は、真実を必ず見つけたいと思います(^・^)
所で、先祖の調査には全く関係ないのですが、非常に面白い記述を見つけました。
古田史学会報 天子宮は誰を祀るか
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou82/kaihou82.html
この中に“球磨地方の天子地名”という記述がありました。
少し転記します。
伊倉VII “大津町の天子宮”でとりあげた『九州古代王朝の謎』(海鳥社)において、著者の荒金卓也氏は球磨地方の天子地名についてもふれておられます。
「熊本県北部(大津町など)だけでなくて南部の球磨地方にも天子宮が複数祀られています。さらに驚いたことに、球磨地域には、お宮だけでなく地名に「天子」の名がついている所もたくさんあるのです。」『九州古代王朝の謎』(海鳥社)
以下、荒金氏は一九八七年発刊の『球磨村史』を探られています。
「天子の地名の場所として、『上村史』には次の二三ケ所があげられています。(略)そして、景行天皇との結びつきには初めから疑問をもって来た者の一人であった圭室諦成先生は、『天子の神というのは本来やはり雷神だったのではあるまいか・・・・・・』と述べておられます。」(『球磨村史』上)
ちなみに中略部分の「二三ケ所」の天子の地名の分布とは、つぎのとおりです。
上村 榎田の八十別府と中別府。塚脇。麓。石坂。
錦町 一武の寺村。西村の京カ峰。木上の平良。平川にニカ所
人吉市 大村の芦原。中原の中神と原田。
山江村 山田の合戦峯。万江の城内。
相良村 柳瀬の三石。
深田村 草津山。
免田町 久鹿。
多良木町 黒肥地の大久保・熊山。多良木の牛島。
湯前町 東方。
岡原村 天子水流。
この数はただごとではありませんね。新旧の球磨郡中が天子だらけといっても過言ではないでしょう。まさしくここは「天子」のですよね。」
実際、高密度の分布ですが、私の印象としては、球磨川などの川そばの要地、湧水地などに集中しているように思います。
荒金氏も現地の伝承といったものを探られていますが、残念ながらさほどの収穫はなかったようです。著書では免田町久鹿の天子神社を取上げられています。私も郷土史家であり地名研究者でもある上村重次による『字図でみる球磨の地名』で上記の地名を調べましたが、免田町の久鹿はクシカと読むこと、偶然ですが、久鹿に隣接して荒金という字がある程度で、これまた大した発見はありませんでした。
ここでは、人吉盆地の球磨川流域に天子地名が存在するということ、肥後を中心に、肥前(佐賀県の西部)、薩摩(肥前については荒金氏はふれられていません)とある程度の天子宮などがあることを確認できれば良いと思います。
また、荒金氏が取上げられていない天子宮として、ネット上には福岡県夜須町、熊本県津奈木町などに数例ありますが、夜須町に関しては友人の古田史学の会メンバーの調査によると除外するべきとの報告を得ています。私は現地を踏査していませんので、現段階では保留しておきます(その後現地を踏みましたがこれはどうも新興宗教の施設のようでした)。
荒金卓也氏は天子宮に祀られている人物を九州王朝の大王、多利思北孤(八世紀)に比定されました。もちろん、私には異論を唱えるほどの素養はありません。少なくとも倭の五王(五世紀)を含む歴代の九州王朝の大王全体、もしくは、そのうちの誰かが祀られているのではないかと考えています。
ただ、私が興味を持つのは、どうしてもその背景になってしまいます。これについては思考の冒険以外に探る手段を持ちませんが、元々、九州王朝の版図全域に存在していたものが、(1)実害のない一部の辺境にその痕跡を留めたと考えるか、(2)六六三年の白村江の敗戦以降、九州王朝の唐、大和への抵抗派が立て篭もった領域に色濃く残った。と考えるかはあると思います。
以下省略・・<(_ _)>
「天子」という地名は、子供の頃から、日常に溶け込んでいて、実は私、全く意味を知りませんでした(@_@)
景行天皇の球磨に関する詳しい記述についても、白状しますと・・・
つい、去年あたりに知りました\(◎o◎)/!
(-_-)/~~~ピシー!ピシー!(ナンタルコトカ!!と先祖の声が・・・)
実は、先日、父からこう言われました。
「お前が、全く、故郷の事や先祖の事に興味を持たない事に関して、ばあちゃんと話した事があってね。その時にばあちゃんが、『きっと、いつか、先祖様が、あの子に教えてくれる』と言ったとよ。本当やった(^・^)」と。
私も、ずっと気にはなっていたのですが、本当に「今、知りたい!」と思ったのが去年でした。
そして、皆様にありがたいご教示を頂ける事が出来るようになりました。
心から感謝いたします。
さあ!!気持ちを切り替えてめげずに頑張ります(^・^)
では。
[74] | 白石さんからのコメント(2014年07月07日 21時19分05秒 ) | パスワード |
こんばんは
尚氏→名和氏 (ウィキより 名和氏→村上源氏)
こちらへ来てから知り合いになった人が 自分の家の家紋はあまり好きでない 目玉のおようだから というので どんなもんか教えてもらったら
二つ巴でした。
そして もともとは どこの代に来たかは知らないが もともとは 沖縄なのだ というのです。
それで 家紋を見てみたら 沖縄王家の分家と ありました。
はからずも 今 村上源氏につながるのだと知り、
あら 私の佐田の方からもつながる 北畠と 同祖にあがっていくのだ と思って
やはり たくさんの人の中から 親しくさせていただく人は なにかしら DNAでつながって ひきつけあうのかしら?と 思いました。
その人の息子さんはピアノを習っていて 家族の趣味は 演奏会などに出かけて楽しむのだそうで
なんでしたっけ 二胡の演奏で有名な人(名前も知らず はずかしい)の演奏会など楽しみなのだそうです。
スケートの織田選手と息子さんは同学年?とかで お知り合いなのだそうです。
[75] | 白石さんからのコメント(2014年07月07日 21時50分29秒 ) | パスワード |
南北朝期 天野氏など 沖縄の方に行っていますよね。
沖縄 佐田に関する村上源氏 サダ
佐田彦は 母系を 神魂神とする。
有 の 言葉に関与していて
海人族の色合いが 濃い。
神武天皇の母方は 海神。
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話がいったん きれますが
沖縄あたりは 昔は 琉球と いっていて
うるま とも いっていて
岡山に発する
漆間氏 は 神武天皇のお兄様(稲氷命)の筋で
法然上人(勢至丸)に 過去 調べたとき つながったことがあります。
前は 本をたよりだったので しかとは いえませんが・・・清原氏も この稲氷命から 漆間氏の筋に 妻として 血が入っていて
今 漆間時国をみたら 母・秦氏となっていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
話がまとまりませんが
時国は 平時国のようです。
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[76] | 白石さんからのコメント(2014年07月07日 21時53分14秒 ) | パスワード |
新羅は 昔は 今の半島にあったのではなく
地名辞典では 琉球 台湾あたりだったそうです。
[77] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月08日 06時24分04秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございました(^・^)
やはり、人の出会いは遠い古からの縁なのですね。
とても、不思議な事です。
「南北朝期 天野氏など 沖縄の方に行っています」とのお話ですが、
相変わらずの勉強不足で、私、何も知りませんでした(@_@)
教えて頂いてありがとうございます(^・^)
現代人が思うより(私だけかな?)、当時は航路を利用しての、離れた土地どうしの交流が盛んだったのですね。
全く、関係ないのですが・・
以前、仕事中に、システム(全国オンライン)の情報から「球磨」に関する簡単なトラブルが発生しているのが解り、現地に連絡をする事になったのですが、そのトラブルを発見した同僚が・・
「えっ??この地名何?球磨(たまみがく)って何処??沖縄?」と叫んでいました。
その人が言うにはイメージが「琉球」だったと言っていました。(「球」しかあっていませんが(ー_ー)!!)
私の故郷だと伝えると「何だか、現代の地名ではないみたい」とも(ー_ー)!!
「何か秘宝が隠されている場所?」とも言っていました(ー_ー)!!
(そう言われればおもしろい!(゜-゜))
聞きなれている故郷の地名も、知らない人が聞くと「別の感覚」になるのですね。
説明するのもちょっと面倒なので(゜-゜)そのまま聞き流していました(^・^)
しかし・・・古を思うと
球磨 = 高い険しい山に囲まれた、陸の要塞 のようなイメージだったのですが
佐敷を「港」として、海を利用していたとは・・・
免田の古墳や、岩城跡周囲にある遺跡などからも、海外との交流の形跡が沢山見つかっています。
平安・鎌倉と言った時代より、ず〜〜〜っと以前から、「港」を利用して、海外との「取り引き?」を行っていたのでしょうね。
確かに山からは「金」やその他の鉱物も取れていた訳ですし・・麻も栽培していたし・・良質な材木も豊富にあるし・・
想像が膨らみます(^・^) ・・こういう調査は楽しいな〜(ー_ー)!!おっと!イケナイ<(_ _)>
では。(^・^)
追記
台風が近づいていますが、甚大な被害が起きないように祈るばかりです。
[78] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月08日 13時35分44秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
地元の寺社調査の前に、「神社」にまつわるこちらのお話から<(_ _)>
先日、「後日、記述します」と書いた
【肥前宗像社と平河】についてです。
まず、こちらをご覧ください。
史學雜誌 - 第 93 巻、第 1〜6 号 - 74 ページ googleブック検索より
関東御領考〔筧)七(さ九)要段によって知られるのであるが、その日付は建久三年八月であって、平河氏が地頭として安堵されたと覚しき文治三年所因幡大夫判官」が存在するゆえにほかならぬ。 ... さきの盛時奉じく平家没官領であった筑前宗像社に対する頼朝の安堵が、この年の八月に為されている事実が想起 ... あるいはここで、おなからすれば、球磨郡内にもとから有していた権限が地頭職というかたちで安堵されたに過ぎぬ。
74 ページ
この所職設定のかたちは、球磨御領や宗像社等幕府直領に限置して幕府の意志を代行する、第 I 一の地頭職とでも表現さるべきで ... た筑前宗像社に於いても顕著なか蛾設置の真の目的は、地頭平河氏の勢力を漸次吸収してゆくことにあったと言えるであろう。
74 ページ
〈 2 〕いずれも「平河弘氏所蔵文甞」所収。球磨^にかんする本稿の記述において両者から引用を試みた場合、特に註は施さなかった。すでに石井進. ... たとえば「吾妻痛」建永元年三月二日条中世宗像神社文書」建長八年正月大宫院庁下文なお球磨! ^預所を佐嘉 ...
★筑前宗像社に於いても顕著なか蛾設置の真の目的は、地頭平河氏の勢力を漸次吸収してゆくことにあったと言えるであろう。
????何だ?これは?となりまして・・・
早速、調べたのですが、宗形氏と球磨の関係でこのような記述を見つけました。
宗像市史: Kodai, chūsei 1 - 469 ページ googleブック検索より
468 ページ
連署書状〕^宗像大社文 8 御札之旨、委細承候了、抑宗像宮領所課造宇佐宮用途沙汰之間事、今年六月 可令早領知肥後國球磨郡人吉庄南方内経・ 將軍家政所下藤原・俊法師「將軍響き所下さ 21 醜^文書南方内経徳名一松延名に宗形女子分が見える
★経(つぐ?)徳名一松延名に宗形女子分が見える
????「宗形女子」って・・経徳名一松延名に見える女子の名は「良峯女子」ではなかったでしょうか?
★すいません「経」としていますが本当は「つぐ」という糸辺の漢字です<(_ _)>
南九州の中世社会 - 88 ページ googleブック検索より
更に惣領彦得の女子分所領への濫妨を抑制はしているものの、そこには嫡子単独相続制への路線後家良峯氏、女子二人分が入っている。その場合においても「まこっる一この-ちは」惣領支配にと一期相続制名、同間村新田同庄松延名の地頭職を彦得と孫鶴の二人に等分に分けており、その中には子息彦鬼、養子彦 ... まこっる女子たりといえとも定親之依為娘」って経徳、常楽両広は「元弘の変」に博多に参上のため、定頼と同行した。
上記に記述されている「名」は
「彦得」「後家良峯氏」(女子二人分)「孫鶴」「子息彦鬼」「養子彦・・」(おそらくこれは彦石ですね)「定親」「経徳」「常楽」「両広?」「定頼」・・
これは、私がブログにアップした「相良家文書」に関係しているようです。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11881599183.html
B【平河観覚書状2】および 文書No52 【相良頼廣譲状】
C【相良頼廣譲状つづき・後家良峯女・養子等の記録あり】
を見て下さい。
やっぱりそうです\(◎o◎)/!(?_?)
人吉南方 経徳名一松延名に関係しているのは「良峯女子」です。
でも、何故「宗像市史」では「宗形女子」になっているのでしょうか?
最大のミステリーが発生しています(?_?)
ちなみに、肥前国宗像大社領の預所および肥前神埼庄は承久の乱の恩賞として「三浦奏村」が地頭職を得ています。
このように計らったのは「西園寺公経」だと、書籍「相模三浦氏とその周辺史」に書かれていました。(偶然、図書館からこの本を借りていました\(◎o◎)/!)
相良家文書は「正慶」すなわち1332年から1333年5月25日までの期間。
承久の乱は承久3年(1221年)。
相模三浦氏とその周辺史には
宗像氏業は、三浦奏村の非法を幕府に訴えたが、幕府の実力者には歯がたつはずはなく「愁訴、達せず」のままであった。
氏業が積年の恨みを晴らしたのは、宝治元年六月(1247年)宝治の乱で幕府側に付き、三浦氏惣家奏村を滅ぼした時である。
三浦奏村の滅亡後、宗像社領と神埼庄は後嵯峨院の御領となり、新たに関東申次となった中納言西園寺藤原実氏が領家となっている。
ところが、なぜか三浦奏村の代官常村が生き残り、地頭と称して対かんし、そのため謝国明の子息が呼び出され建長四年七月ようやく小呂島の押領事件の決着を見ている。
この常村の名は三浦系図には見えないが、実名の「村」から三浦義村・奏村父子の系譜に繋がる人物とみられる。
三浦氏が滅びても代官常村が生き残っていたという事は、彼は宝治の乱で北条氏に与したと考えられる。
と書かれています。(転記しました。ふぅ〜)
ネットを見たら、公開されていました。ありゃ(*_*)
「相模三浦氏とその周辺史」
http://books.google.co.jp/books?id=MFJI9SU6RaAC&printsec=frontcover&dq=%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%B0%8F%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E5%8F%B2&hl=ja&sa=X&ei=lW-7U_Mxkt3wBZrXgYAC&ved=0CCYQ6AEwAA#v=onepage&q=%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%B0%8F%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E5%8F%B2&f=false
宗形氏・良峯(平河)・三浦氏・・・何かありそうです( 一一)
しかし・・宮原(橘)に関係していて・・平河(良峯)を調べていても・・
「西園寺公経」。この方の名はよく登場しますね( 一一)(゜-゜)
しかし、このような記述も見つけたのです・・
まず・・
宗像市史: 通史編, 第 2 巻 より
大和宗像神社( ^良県お片巿)の外交が重要であったとはいえ、特別八世紀初頭
に限定されるものではない。この時期、特に宗形氏と中央権力との特別な関係を求めるならば、それは高市 5 子の存在である。二宗形氏の中央進出大和国 0 現奈良県桜井
★高市・・?
そして
平安時代の神社と祭祀 - 71 ページ より
高階氏の祖は天武天皇と胷形君徳善の女尼子娘との間に生まれた高市皇子に始まるが、皇子生母(宗像氏)の家の祭祀を継ぎ、「 ... 杜本社の氏人を良峯氏と想定するならば、この杜本社は良峯氏始祖安世の母方百済宿禰と関連が出てくるのではなかろうか。
次ぎに・・
平安時代の国家と祭祀 - 13 ページ より
杜本社の氏人を良峯氏と想定するならば、この杜本社は良皇子生母(宗像氏)の家の祭祀を継ぎ、「太政大臣浄広^高市皇子命、 ... 杜本祭の奉幣使として参向した良峯經世は、『尊卑分脈』などの系図に記載はないが、安世の第三子清風の官位-事歴ている。
どうも、宗像氏と良峯氏は関係があったようです(?_?)
あの・・・
今日のコメントで、ご紹介した「南九州の中世社会」は書籍の説明として
30年にわたる南九州中世史研究の集大成。鎌倉幕府の基礎構造をなした御家人制度の動揺は、幕府崩壊の一因となっていく。当時、大隅半島南端で勢力を維持した豪族・禰寝氏を中心に、古代的性格を多分に有した南九州特有の支配構造の変遷を解明、さらに中世寺社の止上神社や台明寺、大隅と日向とを結ぶ古代官道などについて考察する。
と記述されていました。
私は先祖を調べる為に「古代的性格を多分に有した南九州特有の支配構造の変遷を解明」を理解しなければいけないようです(*_*)
こうなれば「チンプンカンプン」です。
どなたか「タイムマシーン」を御持ちではありませんか?
貸して下さい(*_*)
では(゜-゜)<(_ _)>
[79] | 白石さんからのコメント(2014年07月09日 03時17分55秒 ) | パスワード |
子孫様
こんばんは
台風も気がかりですが、少し 進路をそれてくれそうで 心悪いことですが やれ ありがたや の 気持ちです。
過去に 風速25メートルくらいのとき 自転車を押して 踏切を渡ろうとしたら 自転車ごと線路に落ち込んだことがあるのです。
ところで
またまた 関係もないことを書きますが
前に 相良清兵衛が 津軽に預けられ 85歳くらいの 長寿を全うした という話を 書きました。
津軽の津軽氏に預けられたかは 詳しく覚えていませんが
稲氷命の末裔は 新羅氏
ここからは 単純に本で覚えていたことですが
新羅王家は 金姓。
島津も 細川も 津軽も サダで
サダは アジア辞典に 金姓。
こういう つながりで 覚えていたのですが
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子孫様の 顕季 という コメントで ふと 思い出しました。
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津軽氏は 近衛の庶流とも 言っている。
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近衛基信の子孫
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[80] | 白石さんからのコメント(2014年07月09日 03時40分12秒 ) | パスワード |
藤原景綱 とは - コトバンク - Kotobank
- ?−? 平安時代後期の武将。★藤原基信の子。藤原忠清・忠直の父。伊勢(いせ)平氏の郎党で,★伊藤氏を称した。
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藤原師信 - Wikipedia
父:藤原経輔; 母:藤原資業の娘; 妻:藤原頼宗の娘. 男子:藤原公衡(?-?) 妻:藤原良綱の娘. ★男子:藤原基信(?-?) 妻:増秀の娘(または増守). 男子:藤原経忠( 1075-1138). 妻:不詳. 男子:春円(または春国)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
藤原忠通
妾,★ 藤原基信女. 妾, 加賀局(藤原仲光女)(1124)〜久寿三年二月(1156/2). 名, 生母. 男, 恵信(興福寺別当) 永久二年(1114)〜嘉応二年(1170), 藤原基信女. 男, 覚忠 長谷 前大僧正 宇治大僧正(大僧正、天台座主、三井寺長吏)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
花山院 師賢(かざんいん もろかた)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。内大臣★花山院師信の二男で、母は僧恵一(五辻忠継の子)の女である。
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師信自身は正四位上に留まり公卿に昇っていないが、子の経忠や孫の忠能を始め、多くの公卿が出ている。また、★坊門家や羽林家の水無瀬家、さらに支流として七条家、町尻家、桜井家、山井家など、多くの堂上家を輩出した。
私の父の生家の高岡の嫁方のひとつに 「山井」があり、地域的に相良氏子孫の話があるが
山井には こういう 筋もあるのですね。
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[81] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月10日 15時49分00秒 ) | パスワード |
皆様こんにちは(^・^)
白石様、ご教示ありがとうございます。
コメント遅くなりましてすいませんでした。
台風が近くにあると、どうしても、体調が悪くなり、今回は頭痛と吐き気に苦しみました(*_*)
もう、大丈夫です(^・^)
父に連絡をしたのですが、球磨・岡原の実家も大丈夫のようでした。
実は、白石様にご教示頂いた藤原景綱→藤原師信→藤原忠通→花山院 師賢
こちらの流れを私も、偶然ですが以前見ていました。
白石様の御親戚に繋がっていくという事でしょうか。
きっと何かあるのかもしれませんね(^・^)
所で、先日お話した「宗像市史」ですが、北九州中央図書館にありました。
でも、館内閲覧のみと言う事で、コピーをとってきました。
もう少し、体調が良くなったら転記したいと思います(__)
それでですね・・・・
上記の内容を調べる為に、相良家文書をあらためて、見ていたのですが・・
またまた、別の内容で「あれっ?」というものを見つけてしまいました。(*_*)
(見つけてしまった・・というのは、コレマタややこしい内容でして(*_*))
ブログにアップしていた中にありました良峯妙阿の譲状なのですが・・
内容は、良峯(平河)妙阿が相良頼俊に「釈迦堂前の土地」を譲るというものでした。
この「釈迦堂前の土地」とは、某書籍では須恵の「平等寺観音堂」を指すのでは?という記述があり、私も「そうなんだ〜(・_・)」と思っていたのですが・・・
どうも違うようです(?_?)(ー_ー)!!
相良家文書の中に相良頼俊が妙阿から譲られた「釈迦堂前の土地」を「宇葉伊路」に譲渡したとの文書がありました。
そこにあったのは・・・
「鎌倉 釈迦堂前の地」・・となっています。
ええっ!!鎌倉?! か・ま・く・ら??
ぜひ、皆様にもご覧いただきたく、毎度の事ながらブログにアップ致しました。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11891911666.html
@良峯妙阿の譲状
A相良頼俊譲状
B頼俊からの宇葉伊路への目録 1
C頼俊からの宇葉伊路への目録 2
の順でご覧ください<(_ _)>
釈迦堂前の土地が
良峯(平河)妙阿 → 相良頼俊 → 宇葉伊路
と言う流れで譲られているのが解ります。
ただ・・
どう、考えても、球磨の何れかの「釈迦堂前の地」ではなく
鎌倉の「釈迦堂前の地」だと思うのですが・・?
そこで、コレマタ??と。何故、「鎌倉??」となりまして・・?
妙阿は相良長頼の娘で(ここにそう言えば疑問符がついていたのは確かですが・・)良峯(平河)に嫁いで娘「阿夜」を産んでいます。
しかし、妙阿には謎が多く以前にもコメントしましたが「比企尼妙阿」と言われていました。(牛御前とも)
鎌倉の釈迦堂とは?(何も知りませんので(*_*))調べました。
あの・・・
鎌倉釈迦堂とは「北条泰時が父北条義時の為に建てた・・今は祠しかない」とありました\(◎o◎)/!
ありゃっ?!
今さらながらもう一度「北条奏時」をウィキで<(_ _)>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E6%99%82
改名 金剛、頼時、泰時、観阿
前もご紹介しましたが・・平河家文書や訴訟状の中に「観阿」の名があります。??
そして・・
父母 ★父:北条義時、母:阿波局
兄弟 ★泰時、朝時、重時、有時、政村、実泰、竹殿、一条実雅室、他
妻 ★正室:矢部禅尼
継室 ★安保実員の娘、他
子 ★時氏、時実、公義、三浦泰村夫人(三浦泰村室)、足利義氏室、北条朝直室、他
そうでした・・
この方の正室は矢部禅尼。三浦義村の娘でした。
そして矢部禅尼は北条泰時と離婚して・・その後、三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子「蘆名光盛・加納(三浦)盛時・新宮(佐原)時連」を産んでいます。
佐原時連の法名が「観蓮」
そして・・・平河三郎入道観蓮<俗名良貞> ・・・やっぱりこれは何か変です。
そして・・
北条奏時の子は「三浦奏村室」・・ありゃぁっ!!!
先日コメントしましたが・・
肥前国宗像大社領の預所および肥前神埼庄は承久の乱の恩賞として「三浦奏村」が地頭職を得ています。
でも・・三浦奏村は「非法」を行っていたようですね・・・( 一一)(?_?)(*_*)
当時の世間はごまかせても・・
子孫の目はごまかされませんよー!! \(゜ロ\)(/ロ゜)/
なんちゃってーですが・・(*_*)
何かがきっと隠されていると、確信・・してもいいでしょうか??(弱気な発言ですが・・(*_*))
しかし・・
「宇葉伊路」って?この方どなた?でしょうか?
色々調べたのですが「謎の人物」のようです。一説には「女性」とも・・?
そして・・・
鎌倉釈迦堂で検索して解ったのですが・・
この土地は、「比企一族」の土地だったのですね。
比企谷と呼ばれていたという事でした。
妙本寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%9C%AC%E5%AF%BA
鎌倉釈迦堂前の土地を
比企尼妙阿こと良峯(平河)妙阿が相良頼俊に譲り・・文永6年(1269年)
相良頼俊が宇葉伊路に譲った・・・正応3年(1290年)
あの・・・もう一つ
比企谷と言う場所は「平貞能」が幽閉されていた場所でもありました・・
コメントを書いていて、途中までは威勢よく意気込んでいたのですが・・
調査を進めて色々読んでいたら、気分が・・かなり沈んでしまいました。
何だか悲しい気持ちになっています。
もし、上記の事に「平河」が関係しているのであれば・・
先祖は私に何を伝えようとしているのかなっとふと考えました・・
だけど・・
良峯依高。この方に繋がるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。
では(゜-゜)
[82] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月10日 16時03分25秒 ) | パスワード |
追記
お詫びと訂正です。
コメント78
相良家文書は「正慶」すなわち1332年から1333年5月25日までの期間。
と書きましたが、間違っていました。
年代は「正応」です。1288年から1292年までの期間です。
すなわち
相良家文書は「正慶」すなわち1288年から1292年までの期間。
承久の乱は承久3年(1221年)。
となります。
すいませんでした。<(_ _)>
[83] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月12日 10時12分40秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
先日は、毎度の事ながら頭がちょっと「混乱」致しまして・・
変なコメントで終わってしまいまして、すみませんでした<(_ _)>
冷静に考えると・・(あたりまえな事でして・・)
相良長頼にしても、平河にしても、当時きっと「妻」は一人ではないわけで・・
子供も沢山いるわけですから、色々な家と姻戚関係にあっても、全くおかしくないと言う事ですね。
現代の家族の姿を基本に考えると当時の事は、解らなくなってしまう事がようやくわかりました。
(遅い(-_-)/~~~ピシー!ピシー!との声が)
でっ!それはそれ!これはこれ!として前に進むしかありません。
きっと、先日発見した事は、後で何かに繋がっていくのだと思います。
前進あるのみで、調査をした結果・・・
何だか、マタ「発見!!」してしまったかも!です\(◎o◎)/!
相良家文書に関係してですが・・
何度かご紹介している内容で、相良長頼(蓮佛)の譲状についてです。
こちらは、今後、ブログにアップする予定です。(何せ、ダウンロードした情報をアップできる情報に変換したりと作業に時間がかかるもので・・<(_ _)>)
まずは、こちらをご覧ください。
廣島大學文學部紀要 - 第 21 巻 - 234 ページ googleブック検索より
... 頼氏に、人吉荘が弟頼俊,頼員.頼貞,娘妙阿それに平永綱というものに分割讓与された
ここに記述されている方々の中にある「平永綱」
この方は蓮佛譲状では「藤二永綱」になっていました。
「平永綱」という表記は他の書籍にもあるので、研究の結果と言う事なのかな?と思います(゜-゜)
★あの・・妙阿 この方は「紀藤・・なんとかと・・」これはよく解らないので、ブログに今後アップしますから、皆様、ご覧ください<(_ _)>・・?
所で・・!!
「平永綱」で調べても「藤原永綱」で調べても該当者が今まで見つからなかったのです。(藤原永綱という方は実在したのですが、年代が合いませんでした(@_@))
がっ!!しかし、今回の調査で偶然、本名を「永綱」という名の藤原氏を発見しました。
相良家文書の「平永綱」と同一人物かどうかは解りませんが、ご報告致します。
発見!?のきっかけは「皇后宮肥後」という人に興味を持った事から始まります。
調べたのですが「皇后宮肥後」とは
★肥後守藤原定成の娘。常陸守藤原実宗の妻でした。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/higo.html
肥後守藤原定成。この方を調べました。
藤原氏北家 師尹子孫〔小一条流〕
http://www.geocities.jp/okugesan_com/hujiwara6.htm#kza
藤原実方 ⇒ 朝光 → 定成 と続きます。
藤原定成 父は藤原朝光 母は藤原通経の娘
定成から画面をAに進むと・・
子「定仲」から数代の後に「朝房」。
「朝房」 → 「宗房」 そして子に「行親と季房」
こちらの・・
「季房」の本名は・・「永綱」出家して「静心」となっています。\(◎o◎)/!
と言う事は・・・藤原永綱です。
ありゃぅ!!・・・???兄弟が兄弟の名が「行親」です。(ここは・・冷静に)
でも、何故「平永綱」?と思ったところ・・
このような記述が・・あくまでも「鳥居家」についてですが
華族類別録に従い分類したが、鳥居家譜〔明治期の呈譜〕・寛政重修諸家譜・系図纂要によると、 平氏ということになっている。 紀伊国熊野別当鳥居法眼平重氏の後裔という。
華族類別譜には、次のような系図が掲載されている。
実方→泰●→定成→泰救→快真→長快→長範→行範→忠氏 ⇒
寛政重修諸家譜・系図纂要は、忠氏の父を重氏とし、重氏以降を系図に掲げている。
との記述もありました。
なにはともあれ・・
藤原季房の本名は「藤原永綱」と言う事がわかりました。
ちなみに、先ほど記述した方の中にあった
藤原定成 父は藤原朝光 母は藤原通経の娘・・・★ここですが
藤原通経は源氏物語の「夕霧」のモデルになった方だそうです。
いくつか記述がありましたが、こちらをご紹介致します。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/murasaki-sikibu/people/itizoku/uncle/mititune.htm
源氏物語の「夕霧」と言えば・・・あれっ?!そう言えば・・
(ー_ー)!! まあ、今後何か出るかも知れません。こだわらない拘らない(ー_ー)!!
所で、本日、ご紹介した調査内容なのですが、コメントしながらとても気になっていたのですが・・
藤原永綱は熊野別当家と同族となるのでしょうか?
あの・・以前からとても気になる記述を見つけていました。
日本婚姻法史 googleブックより
ぶノて、嫁した場合、離別された後においても、これを知行すべき旨判決されていることによって、少なくとも並一娘於頼重母堂也、 ... て後夫に嫁しており、また相良家文書一、第五号寛元元年」行快僧都之妻、後嫁薩摩守平忠度朝臣、忠度於一谷被誅戮之後、
何だこれは?と思い調べたのですが
愛知: 史蹟鄉土史 - 385 ページ
別当湛快はこれを行快僧都へ嫁した娘に譲った。娘はさらに平忠度と再婚したので忠度の領地となった。しかし平家滅亡とともに没官領となってしまうので、娘は先夫行快に願い、その子に譲ることを誓って、熊野山領として安堵してくれるよう嫌倉に願いを出させ ...
このお話は後日詳しく記述しようと思っていたので、今は簡単に<(_ _)>
平忠度の妻は熊野別当湛快の娘。
この方実は、再婚で、以前は「行快」と結婚していて子供もいました。
湛快は娘に土地を与えていたのです。
娘はさらに平忠度と再婚したのでその土地は忠度の領地となりました。しかし平家滅亡とともに没官領となってしまうので、娘は先夫行快に願い、その子に譲ることを誓って、熊野山領として安堵してくれるよう嫌倉に願いを出させた・・
というお話です。
この前夫「行快」は、実は鳥居家、系図の「行範」の子です。
でも、気になるのは何故「相良家文書」が関係してくるのか?なのですが・・
これは、また、今後調査致します(゜-゜)
ところで・・締めくくろうとした所今頃気が付いてしまいました\(◎o◎)/!
「皇后宮肥後」とは
★肥後守藤原定成の娘。常陸守藤原実宗の妻
藤原実宗ってどなた??と思った所・・
なんだ〜っ!!
西園寺公経の父ではありませんか!! ありゃ〜〜〜っ!!
藤原実宗 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E5%AE%97
さっさいおんじ!西園寺公経さんが私に付いてまわられますぅ〜〜(+_+)
では(?_?)<(_ _)>
[84] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月12日 17時17分50秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
遠い、平安や鎌倉の時代の事ばかり調べていたので、ちょっと気分転換をします。
先日、白石様から頂いたコメント79の
「相良清兵衛が 津軽に預けられ 85歳くらいの 長寿を全うした」というお話ですが、改めて、私も調べてみました。
相良清兵衛こと犬童頼兄 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84
文禄2年(1593年)、深水一族で頼蔵派である竹下監物とその嫡子らの知行が、太閤検地により真先に召し上げられた際に、監物はこれを頼兄の計略と訝ったため深水一族600人は湯前城に籠城する事態が起きた。これは頼房の命で監物ら数名が切腹して沈静化したが、この頼兄(犬童氏)と頼蔵(深水氏)の対立は明治を迎えるまで打ち続く人吉藩の藩内抗争へと繋がっていく。
何だか、このページには、私の親戚一族の話が載っていますよ(゜-゜)
というか深水一族600人。わぁ〜曾ばあちゃんの先祖様一族も湯前城に籠城したのですね・・(*_*)
そして犬童の伯父さんの先祖様一族と抗争を続けたと・・
ちなみに、あさぎり町の以前の町長、上村の「犬童氏」は、「椎葉のばあちゃん」こと椎葉家とは、かなり近い親戚関係でございます<(_ _)>
(あっ!言っちゃった(-_-)zzz 寝たふり)
ウィキの記述を続けます<(_ _)>
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは相良氏は西軍についたが、9月15日の本戦で西軍が大敗すると、頼房に東軍に寝返るように進言し、相良氏の存続を成し遂げた。これらの功績から頼兄は筆頭家老として国政を任され、人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられた。
頼房の死後は相良頼寛に仕えたが、頼寛とは折り合いが悪く、寛永17年(1640年)、頼寛が「頼兄は専横の家臣である」と江戸幕府に訴えたため、頼兄は幕命により津軽へ流刑に処された[2](相良清兵衛事件)。頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれたが、そこで火災が起こったために鏡ヶ池の畔に移り住んだ。なお、現在の青森県弘前市相良町は頼兄の流刑地であり、屋敷があったことに由来している。
明暦元年(1655年)、津軽で客死。享年88。法名は天金本然大居士。
なお、頼兄流刑の頃には嫡子・頼安は死去し、その子である相良頼章は実母が島津家久の娘である縁から薩摩国島津氏預かりの身となり、子孫は島津家臣として仕えた。また『人吉市史』によれば、頼兄の流刑先に同行した従者の1人である印藤(犬童)九郎右衛門が実は頼兄の子で、その子である四郎右衛門長矩が小姓として津軽藩に仕え、後に田浦の姓を与えられたとする説を記述している。
相良清兵衛屋敷について
頼兄の屋敷は相良清兵衛事件の際に、頼兄の養子である田代半兵衛(半兵衛の母の再嫁先が頼兄)が火を放ったために焼失したが、後にその遺構から地下室が発見された。絵図によると、屋敷内にあった2階建ての「持仏堂」と書かれた位置から発見されている。
地下室の構造は、石積みの階段、踊り場、長方形の井戸、黒い小石敷き、その下にスギ板が敷かれていたが、これとほぼ同じものが、嫡子・頼安の屋敷内の蔵に当たる位置からも発見されている。井戸を持つ地下室の発見例は世界的に例がなく[3]、またこの地下室が作られた目的はいまだ解明されていない。
ただ・・・
相良清兵衛事件(お下の乱)では、相良清兵衛こと犬童頼兄の一族全員121名が亡くなっています・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9#.E3.81.8A.E4.B8.8B.E3.81.AE.E4.B9.B1
そして・・
相良清兵衛の墓碑(供養塔)は人吉とそして、実は旧岡原村岡本岡麓地区にあるのです。
「宮原家」を調査して下さった、求麻郷土研究会の「郷土」に記載されていました。
転記します。
平成17年5月、人吉市田町富ケ尾墓地調査を行った際に人吉文化財保護委員・益田啓三氏によって、清兵衛の墓碑(供養塔)である事が確認された。
球磨郡あさぎり町岡原南岡麓地区の岡本城址麓の諏訪神社鳥居右側に供養塔が3つ並んであり、その中の一つが、清兵衛の戒名である「天金本然居士」と同一の碑名である事を平成15年8月に確認した。
ここに、二つの墓碑(供養塔)がある事が判明した。
相良清兵衛が岡本に滞在した期間は、寛永13年(1636年)より寛永17年(1640年)の4年間であり、この時の相良藩主は相良21代頼寛公の時代である。
岡麓地区の供養塔は何時誰が建てたのか不明であるが、当時地元の有志が、相良清兵衛の4年間の恩恵に対し、供養念仏したものと考察する。
とありました。<(_ _)>
相良清兵衛が津軽へ流刑に処されたのは寛永17年。
岡本城に居城していたのは寛永17年まで・・・。
そういう事なのですね・・・。
「実家から岡本城址が見えます」と以前コメントしましたが、何せ高層建築が全く無く、家も殆どなくて、田んぼしかないので、家の窓を開けたら500メートルほど先は岡本城址の山。 とても、絵になる風景です。
しかし、色々な出来事が起こった場所なのですね。
歴史を理解すると、あの景色が違って見えてきそうです。
では(゜-゜)<(_ _)>
[85] | 白石さんからのコメント(2014年07月13日 13時50分18秒 ) | パスワード |
相良 岡本
日本の苗字7000傑より為憲流に岡本
系図上 頼寛 永留長続が見え
私の故郷の地域にある 苗字
山井 山北 内田 上村 犬童 西 愛甲(系図には小野姓横山党)とある。
など 同じものがある。
清兵衛に関わって 島津が出て
恒松も 関わっていて その 姓も 地域にある。
ので 相良氏に 関わる山井と 思っていましたが 花山院関係にも筋があったということです。
相良氏も結構大きな広がりを持っていたようですね。
[86] | 白石さんからのコメント(2014年07月13日 14時27分11秒 ) | パスワード |
豊前宇都宮氏流にも岡本はあり
この流には 中原→佐田もいる。
そして 祖先の枝分かれに 三宅・児島高則もいる。徳川家康に関与している筋があった。
平城天皇子孫・美男で名高い阿保親王流の在原業平が代表的人物で、この子孫が 後世まで栄える。 関ヶ原東軍の総大将徳川家康の祖松平氏は、在原姓荒尾氏の裔とする。
阿保親王の子孫が熱田神宮に養子に入り、出て、愛甲郡を経て毛利に養子に入った。阿保親王の兄弟に高岳(高岡)親王がいる。
在原姓には 長谷川氏もおり 讃岐局の名がみえるので ウィキでこれかしら?と検索したのが
出自は出雲横田荘地頭の三処氏[2]。
最初は鎌倉幕府の将軍家に仕えた[1]。宝治2年(1248年)に(北条)時頼との間に庶長子である時輔を生んでいる[1]。文永9年(1272年)に時輔が殺害されると出家して妙音と名乗った[1]。そして横田荘岩屋寺で余生を過ごした[2]。
若いころ(実家が)長谷川という女性と知り合いになりました。京都西陣の織元の娘だといっていました。まあ それこそ まつ毛が一センチどころか 大変長くて 目が黒めがちで 遠目にも人目を引く人でした。
顔のことに すぐ 話が行くのですが やはり 目が大きいそれほどでも とか人目を引く顔立ちとかは 記憶に深く刻まれるものです。
[87] | 白石さんからのコメント(2014年07月13日 14時46分57秒 ) | パスワード |
阿保親王の母が 葛井氏。祖先・白猪氏。 また 王氏。
半島でからみ 日本に来た?
百済氏=館王室坂上氏=東漢氏=和漢氏
百済氏と からむ 秦王室子孫
王室を分解して単独の族にして 先祖をさかのぼれば 封禅の儀式を行っていた古代中国の王朝にいきつく。
くりくりお目目が どうかしら? とは 思うのだけど、
殷王朝と目が大きいと結びつくのでは? と それこそ 先入観ですが ・・・
少し 話が 飛びすぎましたね。
[88] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年07月13日 22時33分31秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>殷王朝と目が大きいと結びつくのでは? と それこそ 先入観ですが・・・
殷は別だが、漢土の王朝でシンの音を持つ王朝は同じでシンナ(秦那)の英語読みはチャイナとなっている。
古代から漢土は秦・晋・新・前秦・後秦・西秦・西晋・東晋・清と字は違えど音はシン。
半島では辰・辰韓(秦韓)(秦帝国の亡命者と倭族の連合国家)が有った。
地祇族を除く多くは漢土・半島から来たのだが、記紀が神話化しただけ。
最多の辰韓系の八幡様が記紀に登場しないのは何故だろうかね?
全てがシン族では無いが、王朝滅亡で半島経由来朝がお決まりコース。
古いのは紀元前5世紀来着の呉王太伯後裔の松野連で、魏に対して倭王を僭称して家系の人物は陳寿作の魏志倭人伝のネタに使われている。
また魏と倭は、鬼と人の違いで国名まで類似。
[89] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月14日 00時38分17秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。
古代、中国の歴史に関しまして、私は全く勉強不足でありまして(日本の歴史も解っていませんが)、これからも、どうかご教示よろしくお願い致します。<(_ _)>
白石様からのご教示にあった「封禅の儀式」。
全く解らなかったので(お恥ずかしい(*_*))勉強致しました。(でも・・ウィキですが・・(*_*))
封禅(ほうぜん)は帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式である。
始皇帝以前には72人の帝王がこの儀式を行ったと『史記』には伝えられている。その歴史は三皇五帝によって執り行われたのを最初としているが、伝説の時代であるため詳細は不明である。始皇帝以後では、前漢の武帝や北宋の真宗など十数人が、この儀式を行ったと伝えられている。
禅の儀式は、封と禅に分かれた2つの儀式の総称を指し、天に対して感謝する「封」の儀式と地に感謝する「禅」の儀式の2つ構成されていると言われている。
司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書第六)の注釈書である『史記三家注』によれば、
「正義此泰山上築土為壇以祭天,報天之功,故曰封.此泰山下小山上除地,報地之功,故曰禪.(『史記正義』には、泰山の頂に土を築いて壇を作り天を祭り、天の功に報いるのが封で、その泰山の下にある小山の地を平らにして、地の功に報いるのが禅だ、とある。)」
『史記三家注』では続いて『五経通義』から「易姓而王,致太平,必封泰山,(王朝が変わって太平の世が至ったならば、必ず泰山を封ぜよ)」という言葉を引用している。
『史記』その物には、斉の桓公がこれを行おうとして、管仲が諫める場面があり、管仲が古来封禅を行った帝王を列挙して説得するという記述で、これが前述の始皇帝以前の封禅の有無を推論する際の論拠となっている。
とありました。・・・難しいです(*_*)
ただ・・「泰山」という地名は初めて聞いた訳ではないのですが(何処で聞いたかは覚えていませんが(*_*))、とても「神聖な場所である」という事がわかりました。
日本の苗字七千傑様、「最多の辰韓系の八幡様が記紀に登場しないのは何故だろう」という事ですが、何かの意図が働いて「隠された」と言う事ですか?
「紀元前5世紀来着の呉王太伯後裔の松野連」
呉王太伯後裔・・やはりとても興味があります。
日本の苗字七千傑様のサイトを拝見すると
呉王太伯の舎弟仲雍の後裔夫差は子慶父忌と共に筑紫に来たり、肥後国菊池郡山門里に住する。
子孫筑前国怡土郡に居り評督となり、推古朝、筑紫国夜須郡松岟野に住して松野連を称姓。
と記述されていました。
以前にもご教示頂きましたが、「菊池」が始まり・・という事ですね。
「推古朝」という言葉で、驚いたのですが、実は、球磨の神社を調べていて、
【麻群神社私考】というサイトに「川辺嚴島神社」について記述されていたのですが、「創立:推古天皇の御宇建立。創立者不詳。」とありまして・・
この記述を見た時に、推古朝に建立された神社が球磨にあったのか!!と本当に驚いたのです。
【麻群神社私考】
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.591323467651017.1073741868.269261349857232&type=3
川辺嚴島神社
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.604802342969796.1073741870.269261349857232&type=3
以前、私がご紹介したサイト
神社伝承・中国文献・考古学的事実の照合
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-01yayoijidai.htm
日本側資料にも松野連に伝わる系図と言うのが存在している。中国の史書には「周の元王三年、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記されている。「松野連系図」によると、この夫差の子「忌」が、生まれ育った江南地方を離れ、日本列島にやってきたと伝わっている。この系図によると「忌」のところに「孝昭三年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」と記されている。孝昭3年は皇紀ではBC473年に当たる。これは記紀の年代に合わせて挿入したものであろう。系図は以下のようになっている。
夫差→忌→順→景弓→阿岐→布怒之→玖賀→支致古→宇閉→阿米→熊鹿文→厚鹿文→宇也鹿→(子)→謄→讃→珍→済→興→武→哲→満→牛慈→長提→廣石→津萬→大田満呂→猪足
「日本書紀・景行紀」には「厚鹿文」「?鹿文」が登場する。景行天皇によって暗殺された熊襲の王である。また、忌の住んでいたという火の国山門(菊池郡)は熊襲の本拠地である。また、宇閉のとき、漢の宣帝に遣使した(BC68年)と記されている。この系図は熊襲王系を示しているようである。
この系統に倭の五王とされている讃→珍→済→興→武が記されている。「讃」は古代史の復元では仁徳天皇であると推定しているので、「謄」が応神天皇となる。正史では応神天皇は仲哀天皇と神功皇后との間に誕生した天皇となっているが、仲哀天皇の崩御から応神天皇の誕生まで10カ月となっており、不自然な点も多い。応神天皇は仲哀天皇の子ではない可能性を秘めている。しかし、当時熊襲は仲哀天皇の敵であり、神功皇后にとっては夫の仇でもある。熊襲の系統とは考えられない。この頃熊襲は大和朝廷に服属しており、後に挿入したものではないかと思われる。
BC473年呉が滅亡したのを機会としてその子「忌」は東シナ海に出て、現熊本県玉名市近辺の菊池川河口付近に到達し、菊池川を遡って現在の菊池市近辺に定住したものであろう。一族はそこを拠点として繁栄し、後の球磨国(狗奴国)となったと推定される。
★あの・・ここまで書いて気が付いたのですが
コメント73でご紹介した「天子」という地名と球磨に関する情報に
中略・・著書では免田町久鹿の天子神社を取上げられています。私も郷土史家であり地名研究者でもある上村重次による『字図でみる球磨の地名』で上記の地名を調べましたが、免田町の久鹿はクシカと読むこと、偶然ですが、久鹿に隣接して荒金という字がある程度で、これまた大した発見はありませんでした。
とありましたが、これは大した発見ではありませんでしたとありますけど・・
★免田町の久鹿はクシカと読む・・鹿?
偶然かもしれませんが、
日本の苗字七千傑様の「松野氏」姓氏類別大観を見ると「鹿」という字が沢山見受けられます。字名が「鹿文」?でしょうか?
それと、免田町久鹿の天子神社は「鹿」が出るような(現在ですが)山の中ではありません。???
盆地の中心地ですね・・・??
今日、久しぶりに「松野連」で検索したのですが
邪馬台国論 松野連姫氏系図(古代九州王朝歴代の系譜)というサイトを見つけました。
http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-2/2-1-2.pdf
最初に書かれている
だが「熊襲」とは一体何者なのか。辺境の野蛮人なの
か。記紀からはその人物像が浮かび上がらない。・・・・
やはり「記紀」ですね・・・
最後に
実は、子供の頃球磨の祖母と一緒に住み始めて、学校で「熊襲」という言葉を聞いて、おきまりの「絵本」などでヤマトタケルの話を読み、「熊襲」が日本における、何だかそれこそ上記にあった「辺境の・・・」のようなイメージを持ってしまい、悲しい気持ちになった事がありました。
私は、今、そんな気持ちになった事をとても恥ずかしく思います。
今後、もし、人から「故郷はどこですか?」と聞かれたら、胸を張って
「熊襲の球磨郡です!!\(^o^)/」と大きな声で答えたいと思います。
では<(_ _)>(^・^)
[90] | 白石さんからのコメント(2014年07月14日 02時46分19秒 ) | パスワード |
7000傑様こんばんは
ありがとうございます。
呉王太伯後裔の松野連
子孫様のスレッドが進んでいて このことを忘れ果てていました。
鹿児島神宮に関与していましたよね。
翰苑所載の魏略逸文に「倭人は自ずから太伯の子孫という。」
松野連系図を見ると
その始まりのころ 呉へ至る系と 周に至る系と枝分かれしていて
熊野の三つある伝説のひとつにある 周の太子・しんか?という言葉。
たしか この筋は 王氏。魏の司空・鬼谷先生などいて 王辰邇につながっていたはず。
一方 霧島神宮を久米城主市房が勧請して建てたのが 「市房神宮」で
この神社と 同体なのが
「若狭彦神社」「若狭姫神社」
トヨタマヒメは海神・豊玉彦命の娘。玉依毘売命の姉。日子穂穂手見命と結ばれ鵜葺草葺不合命を生んだ。
若狭彦大神は(彦火火出見尊)で 山幸。
祭神は 玄松子の記憶より
若狭彦神社の系に至るのが 「贏姓 高丘系図1」で
この系図を下へおりると 眞華姫がおり 百済の王と結婚。子孫・若狭彦神社神
主家へ
高陵氏は 我が国に来る前 百済にとどまっていたという。
和氏などは 高野新笠が 天智天皇の孫・光仁天皇と結婚。桓武天皇を生む。
和和氏(やまとうじ/し)は、「和」を氏とする日本の渡来氏族。倭・養徳とも記される。もともと和史姓を名乗っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
サダには 尾方とともに 金姓というアジア辞典に乗る姓がある。
島津・津軽・細川などは サダで 金姓と紀姓のからまりは 中国何千年のぼうぼうたる歴史に入っていく。 と 島津・津軽・細川などは サダだと書いている本に書いてあった。
奈良時代の日本書紀の講義の時 講師が 天皇家の姓を 姫 だと いったという。(確かこういう内容だったと思います。今このことを記録したものがすぐ出てきません。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
母の法名に 「和徳」とあり ん 珍しいな と思って 和徳の意味をしらべたことがあり、(後妻だったので 単純に皆と和をもち その徳を称える という意味かも?)
ただ
お寺様の苗字が 川津で
これは 歴史の初めころ 川津姫などがおり 昔の サダの筋を込めてくださったのかも ? とも 思います。
ーーーーーーーーーーーーーー
[91] | 白石さんからのコメント(2014年07月14日 04時08分14秒 ) | パスワード |
ともあれ 和徳
和徳将軍がおり 崇神天皇の子供ともいう。
投稿日:2012年03月07日 23時37分03秒 パスワード
お名前:笠井
三枝家、笠井家などについて
に 道氏のことが書いてあり 熊本の高橋神社に
続日本紀の「道君首名」の系譜
道氏一族について
熊本・「高橋東神社天社宮 由緒書きに★道君首名は大彦命の後胤と書かれている。」
大彦命 10代嵩神(すじん)天皇時代の武人。
嵩神天皇の命により、北陸の乱を鎮める。
・丹波道主命は崇神天皇の兄彦湯産隅命の息子で、崇神天皇の甥である。
・「道公首名」は663年に北陸の道君一族に生まれ、新羅大使や筑後守を経て兼任肥後守に就任した。『続日本紀』には首名の系譜や生涯などと優れた業績を記録した「卒伝」があり・・・彼は大宝律令の撰修にも関わった偉人
天智天皇と道君一族の越道君伊勢羅都売(こしのみちのきみいらつめ)の間に生まれた「志貴皇子」が光仁天皇の父であり、『続日本紀』編纂期の天皇と血縁にあったことも影響していると考えられる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なかなか すっきりはっきりと 整理ができませんが
良峯朝臣は 「劉姓」と 本に書かれていたことが気にかかっていて
漢王室と 姻戚関係にあった サダは 後 清王朝をたて
アイシーン
清がほろんだ時 その財宝は 台湾へ移されたと これも 本で見ました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
百済と秦の他に 百済と漢もからんでいたのではないか?
海の神
海神の子供 八木氏
桓武平氏 家系図5/平正度〜・平家(平清盛 等)・伊勢平氏 - 家系図の倉庫
平川景家・ 八木盛定
八木は 振魂命につながる筋がある。
ところで
関盛治をクリックすると 徳川家康に関与する筋があり 北条早雲がいる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
海神 ・・・ 尾張熱田神宮・・・祭神をにぎはやひから 振魂命に変えられている。・・・熱田氏・・・本姓・安曇
新撰姓氏録」では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」
神武天皇のおじ と いわれる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
子孫様
私の浅い学で 勝手に つなぎまくりましたが
高丘(高岡)と 平川は 血の一滴まで一緒とは いいませんが
どちらかといえば 佐田と近いと 思っていますが
はるか 昔 夫婦になった人の それぞれの祖先(高姓と劉姓として)
漢王室祖・劉邦の母は 劉温 父が 蓋太上皇父と 書かれる。
劉氏はもとは 母系。夏の 劉氏は 結婚した相手が男系だったので 姓を変えたという。
海人族は母系。
ここらあたりから 平川・高岡のからまりは あったのではないか?と 思うのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
全くの余談ですが
ケイ素水というのを このごろ知りました。
水晶から つくるのだそうです。
水晶玉は 魔法使いのおばあさんが 見通す力として使いますが、
もしかしたら
水晶の貴重さ を 昔から 知っていたのではなかろうか ?と 思うのは かんぐりすぎでしょうか?
糖尿病他 いろいろ 体の不調に効くのだそうです。
水晶は火山にも関係しているようです。
前に子孫様のコメントで
きらきら きらきら という言葉がありましたが
なんだったのでしょうね。
サダ − アイシーン − 金
金は 火山に関係あるとは 知らないのですが・・・
[92] | 管理者 aさんからのコメント(2014年07月14日 15時27分19秒 ) | パスワード |
90を超えましたので新しくスレッドを立ててください。
まもなくこのスレッドは閉めます。
[93] | 子孫よりさんからのコメント(2014年07月14日 16時15分51秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
新しいスレッド平川家について13を立ち上げました。
今後とも、ご教示の程、どうかよろしくお願い致します<(_ _)>
平川家について13
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101358.html
に続きます<(_ _)>(^・^)
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