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筑前山崎氏
平成26年度のNHK大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」が1月5日より放送されます。黒田氏が豊臣秀吉から豊前6郡を、その後徳川家康より筑前一国を賜り、その際播磨国より御用職(黒田氏お抱えの職人集団)を引き連れて築城を行なっています。
その中の一人瓦師山崎権右衛門の出目と家系を調べており、皆さんの情報やご意見をお願いします。
これまでの文献調査や関係者のお話しから下記のように考えています。
筑前山崎氏の出目は赤松則村(円心)の子氏範で、則村が正平5年(1350年)に死去すると観応の擾乱で3人の兄たちは北朝方に加担し、もともと不仲であった氏範は南朝方に味方したが敗れ、一族は自害してしまう。
しかし末子乙若丸が薩摩に逃れ、子次郎が山城国山崎邑に居住して山崎氏を名乗っている。
この子孫から、越前山崎氏を始めとする武士や播磨国で仕官を諦め瓦職人になった播磨山崎氏がいる。瓦職人山崎権右衛門は天正5年頃、播磨に在陣する中国攻めの黒田官兵衛に出城や陣屋の普請に駆り出され、その後武士ではなく瓦師として官兵衛に仕え姫路城下に住んだ。
官兵衛が中津を賜った時には瓦師として山崎権右衛門や正木親子、喜多村甚左衛が移住し、福岡の際には石高など大規模なので権右衛門は子小二郎(のちの新左衛門)と権右衛門の弟思われる彦兵衛を呼んでいる。
瓦師は集団で御用地の博多瓦町に住み、藩に功績もあって特に優遇されていた。瓦町の山崎氏からは旧櫛田前町の別家や祇園下町の分家があり、職業も陶工、べっ甲クシ細工師、石工などで近代では山崎朝雲らの彫刻家、洋画家を輩出している。又家紋については越前山崎氏の本家は小槌紋で、分家は角内小槌、菱内小槌を用いており播磨山崎氏、筑前山崎氏は武士を捨てた折に小槌紋をなくして丸に菱(丸に中陰菱)に変えている。
また、播磨より同行した正木親子(仁右衛門と岩松)からは博多人形の始祖といわれている正木宗七もおり、旧瓦町の山崎家と正木家は明治以前まで親戚であった。
今回、皆様のお話を伺いたくて「彦熱」から移動して来ました。
いろんなご意見待っています。
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