【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101333 投稿日:2013年11月13日 19時23分10秒  パスワード
 お名前:子孫より
平河家について(続5)

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、白石様、ごど様、ご教示ありがとうございます。
実は、朝、お礼のコメントをさせて頂こうとアップしたのですが、
エラーが何度も出てしまい(4回ほど全部消えました(*_*))、最終的にアップ出来ませんでした。
今気付いたのですがコメントがすでに99に・・・
すいません。うっかりしていました。

新しいスレッドを立てさせて頂きました。
今後ともよろしくお願い致します。<m(__)m>

今朝、皆さまのご教示でとても大事な事に気づきましたので、
今度は、必ずお伝え出来るように致します。

では、後ほど<m(__)m>

[1]ごどさんからのコメント(2013年11月13日 21時23分36秒 ) パスワード

こんばんは。
今日も寒い日であり
冬も本格的になりそうです。

ところで
忘れないうちに
書いておきたいのが
えーっと、秦のことを
書こうとおもっていますが・・・

秦が禾の字を使っていて
なぜかこの(ジ)が
国字なのではないか
という気すらします。

禾といえば
ノギマレスケ

トルコのイメージ。

もしかしたらですが
秦の遠戚は
100万といわず
300万をはるかにこえるのかと
考えています。

きょうは早きに失礼します。

皆々様、ご自愛ください。。
[2]子孫よりさんからのコメント(2013年11月13日 21時44分05秒 ) パスワード

皆さま、あらためまして今晩は。<m(__)m>
新しくスレッドを立てましたので、これからも、どうぞよろしくお願い致します。

日本の苗字七千傑様、昨晩のご教示ありがとうございます。
ネットでの検索は、今後、同音の漢字に気をつけてキーワードを入力していきます。

所で、ご教示の中にあった
”比良と言えば比良神社(白鬚神社)に到達する。祭神は猿田彦。”
”白=シラ=ヒラ=枚=比良=平”
このお言葉を読みながらはっと!しました。

球磨の上村にある白髪岳(しらがたけ)しら・シラ

標高1417メートルで、横に広がった、まるで壁のような山です。
以前、父と市房山の話をしていた時、神様の話になって父が「お父さんは市房山もそうだけど、白髪岳の方がとても気になる」と言っていました。
例の「感」は私より数段父の方が鋭いので(後日お話します)私も、父がそう言うのだから、やはり何かあるのかな?と思っていました。

数年前の霧島新燃岳噴火の際は、白髪岳の頂上付近より上に噴煙が見えていたと父が話していました。そして、「白髪岳がもし無かったら、球磨も火山灰などの大変な被害が出ていたかもしれない。」と言っていました。
白髪岳は球磨を守る壁のような役割をしていたのです。

白髪岳について、何も調べた事がなかったので早速検索した所、
大変気になるサイトを見つけました。

http://www.ntt-west.co.jp/kumamoto/nototo/meisui/rekisi/index.html

このページの中で
”「古代の『肥後風土記』からの引用として崇神天皇が土蜘蛛という賊を討つため建緒組という人を遣わした時、八代郡白髪岳に至ると夜虚空より火が降りこの山を焼いたので驚いて奏すると天皇はこの国を『火の国』と名づけしめたとあります。”
という記述がありました。
そこで、八代・五木の白髪山を調べたのですが???
何だか位置的におかしいな?と。
山を燃やす火山とは阿蘇の事を指すのだと思うのですが、ここの白髪山は阿蘇を背景にそびえている訳ではなく、もちろん、近くに火山などありません。
きっと、麓から見ても山が降り注いだ火の粉で燃えるなど考えられない場所なのです。?
もし、過去の人が、この話に出てきた「白髪岳」を他の山と勘違いをしていたのであれば・・・・
そして、降り注いだ火とは噴火した火山からの物であり
その火山が阿蘇ではなく霧島であったのなら・・・

霧島の噴火で火の粉が降り注ぎ燃えた山があったのであれば、そして、その火山の噴火により夜空が燃えたように見え、それが山を燃やしているように見えたのであれば、古代の人が見たその「白髪岳」はもしかしたら・・・!!

球磨の白髪岳の先は霧島そして天孫降臨の地高千穂の峰があります。

私は故郷の山が現代の人々に送っていた重要なメッセージを見落としていたのかもしれません。

わたくし、宮原(橘)の先祖は、霧島の霧島神宮を再興しました。
そして、球磨の黒原山の宮原城の麓にある霧島神社とも深く関係しています。
さらに、八代「氷川」の宮原城に居城した事もあった訳です。
宮原(橘)は宗教に深く関係していた・・そう考えれば何らかの役割が与えられていたのではないでしょうか?

そして、祖母の平川。私は以前より宮原と平川は繋がりがあったと思いますと
お伝えして来ましたが、その繋がりは平安・鎌倉と言った時代よりもっと先・
古代へ繋がっているのではと考えました。

白髪岳と言う山は球磨以外にも・・・
兵庫県に丹波富士とも称される白髪岳があるのですね。

球磨 白髪岳
丹波 白髪岳
丹波 丹羽(たんば,たんわ,にわ,には,なわ)
尾張国丹羽郡  前野家(良峯)
峯 ・ 峰 ・ 嶺 ・ 岑 (みね)

ごど様がおっしゃったように口に出して読む事が大変重要である事が
良く解りました。

そして気が付いたのです
良峯の「峯」は山の事ですよね。
その山は、何処の「峰」なのでしょうか?

先にもお話しましたように
霧島の高千穂の峰は 天孫降臨の地

そして、白髪岳はその霧島火山から 「くま」を守る為の良き峰であると。

果てしない遠い時代を想像しながらお話させて頂きました。
<m(__)m>








[3]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年11月13日 23時03分36秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫よりさん へ

水俣矢筈岳からの統治権表示方向を示す多くの国見山が点在しますが、白髪岳も二つあり部族守護山岳表示の役割。
この色が重要なのです。
 
赤−安曇系統の漁族で和人、近海漁族。
黒−アイヌ系黒目(久米)族、漁猟。
白−辰韓系、白色系の衣類・服装を尊重。
青−農耕和人の曽の部族。
 
肥後に白木の地名が多いが、白部族の城柵の意。
肥後区域には冠岳が一つあるが、豊国の帝位権を示し、高岳は熊国王の上位統治権を優先表示。
この辺りは「古代日本領土の起源」を熟読すると彷彿と理解されてくる。
[4]子孫よりさんからのコメント(2013年11月14日 06時58分26秒 ) パスワード

皆さま、おはようございます。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

白髪岳 部族守護山岳表示の役割
白 は 辰韓系、白色系の衣類・服装を尊重。

すなわち 白髪岳は辰韓系部族の守護山岳 という事なのですね。

平河家文書の中にあった 先祖代々開発の地 と言う言葉には辰韓系部族が
開発を行ってきた土地という意味も含まれるのではと思いました。

山(岳)が権力を表しそして部族を守護する。

九州から北上を続けて、最終的に最も高い権力を表す山(岳)となりうるのは
やはり、富士山でしょうか。

そう言えば、先日ごど様から頂いたコメントに
「越の国と山梨を筆頭に北条、今川、武田の治めていたところに共通するものが
あるのでは」
というお話がありました。
それは「富士山」という事でしょうか?。
・・・何か見えてきたかも。

以前、「阿蘇山は大噴火を起こす前には、エベレストに匹敵するような高い山であった」と聞いた事があります・・・

日本の苗字七千傑様ご教示の「色」に関するお話に戻ります。
私の故郷あさぎり町の岡原(岡原は岡本村と宮原村が合併して岡原となりました)には黒原山があります。

黒−アイヌ系黒目(久米)族、漁猟。

黒原山から多良木よりに下った場所が多良木町久米。

白髪岳と黒原山は尾根続きに行けるはずです。
(高校を卒業してすぐに、免許取り立ての友人の運転で山道(とても険しい林道)をドライブして白髪岳に行ったはずが何故か黒原山に抜けていました。★祖母に話したらめちゃくちゃ怒られました(*_*) 脱線しました<m(__)m>)

この地域では黒目(久米)族と辰韓系部族が共存していたわけですね。
ううん?でも、何故、宮原の先祖はここに霧島神社を建てたのかな?
元々あった神社を再興した可能性の方が高いですが。

話はそれますが、私の先祖・宮原(橘)は行く先々で神社に関わっていますね・・??
古代との繋がりという点では宮原(橘)が建立した又は再興した神社に祭られている神様を調べる事が、とても重要なのだと思います。
あっ!!白石様の「オイオイ(ー_ー)!!今頃!!」という声が遠くから
聞こえてきたような・・・<m(__)m>
今風に言うと私の先祖は日本全国に何かのマークを付けて来たと・・
そのマークを付けるのが、宮原の役割だったりして・・・

では、復習します
白−辰韓系、白色系の衣類・服装を尊重。
”白=シラ=ヒラ=枚=比良=平”

そう言えば熊本には白川が流れています。
http://www.ajkj.jp/ajkj/kumamoto/hakusui/kanko/shirakawasuigen/shirakawasuigen.html

白川水源!!何も知らずに去年行ってきました!!
「白川は南阿蘇を流れ、北側の阿蘇盆地を流れる黒川と立野付近で合流して熊本市へと向かう。白ナイルと青ナイルのように合流点ではそれぞれ水の色が違う」

あ〜!!ここでも白川・黒川!!
ものすご〜く面白くなって来ました\(~o~)/
山だけではなく川の名前も!川の名前も単純な意味では無かったのですね\(~o~)/

あ〜(*_*)
解って来たらすごく楽しくなって来たのですが・・・
仕事に行かなければいけません・・・

では、行ってきます(^O^)/
今朝はとても寒いですね。皆様、風邪をひかれないように
お身体にはお気を付け下さい。(^・^)








[5]白石さんからのコメント(2013年11月14日 21時54分08秒 ) パスワード

こんばんは
今日は寒かったです。でも あちこちで紅葉がきれいに色づいて今年は暑さ寒さのめりはりが効いて 紅葉鑑賞には良かったようです。

白 契丹の白
青の行方 
青 東大寺の修二会の青衣の女人 西王母の女官の青 中臣藍の連(大阪の阿為神社の社伝によれば藤原鎌足の勧請で創建されたと伝えられる古社。「新撰姓氏録摂津神別」に中臣藍連同神(天児屋根命)十二世孫大江臣之後也とあり、中臣藍氏がその祖神を祀ったもの。 明治5年(1872年)村社に列す。)

http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hokusetu-ai.html
(藍連は中臣氏系の氏族で、当地の辺で★藍の栽培に係わったという。
ただ大江臣について、中臣★伊賀都臣が神功皇后の世に百済に使いし、彼の地の女性との間に生まれたという二子の兄ではないかという説があり、とすれば、渡来系の人々との関係が出てくる。
 また大江臣にからむかどうは不明ながら、古く渡来系の先住氏族がいて、中央から三島に進出した中臣氏がこれらを支配融合し、のちに中臣藍連や中臣★大田連(式内・大田神社に係わる支族)と呼ばれる中臣支族が形成されたのではないかとの仮説もある(日本の神々3)。

大田については この近くの畑の中に案内板があり 後の江戸城を建てた太田道灌につながると・・・

継体天皇の陵も近くにある。

中臣(藤原)鎌足も近くに住んでいた。

シラムレン河をおりてくる 白い牛に乗った 青い服を着た人。

私の同級生に 宮原から黒田に姓が変わったという人。黒田は免田のことだった。私はこのことが 気になると 前に書きました。
黒田は 中臣鎌子に黒田の言葉が。
そして その 宮原さんは 名簿ではそうだけど、私は その人が菅原さんと呼ばれていた記憶があるのです。
そして 五木のほうには 菅原が走ってきている。

伊賀都臣
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/fujiwara.htm
「近江国風土記逸文」に、烏賊津使主(いかつおみ・伊香刀美・雷大臣命・伊賀津臣命)の、余呉湖(琵琶湖の東北端)を舞台とした、白鳥天女の伝説が載っています。いわゆる「天の羽衣伝説」ですが、この烏賊津使主さん、神功皇后の審神者(さにわ・神託の意味を解く人)なのです。卜部氏や中臣氏のご先祖ですが、「烏賊」なんて変な名前ですよね? 弟に鯛身命(たいみのみこと)なんて名前の方もいて、どうも海人系の匂いがしますし、お母さんは津守氏の度美媛命です。

大中臣祭主藤波家の研究 - Google ブック検索結果
books.google.co.jp/books?isbn=4797107782
國學院大學日本文化研究所 - 2000 - ‎Shin prieststo
伏乞、蒙賜中臣栗原連。於是子公等男女十八人也。伊賀郡臣、神功皇后御世、使於百済、便娶彼土女、生二男。名日本大臣、小大臣。遥尋本糸、帰於聖朝。時癸酉。右京人正六位上栗原勝子公言、子公等之先祖伊賀都臣、是中臣遠祖天御中主命廿世之孫。

壱岐の神功皇后伝説
www.ikishi.sakura.ne.jp/ikizingukougou.html‎
壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)は、雷大臣(いかつちのおうおみ)の子どもです。 三韓出兵に父親と一緒に行き、帰国後、壱岐にとどまって、三韓に対する守りをしました。 「直」は古代の氏姓制度の姓(かばね)の1つで、主として地方豪族の国造や郡司などが ...
中臣氏・大中臣氏考
www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-23.html‎
2−12)雷大臣(いかつおおみ). @父:臣狭山 母:不明. A子供:大小橋 ・真根子(壱岐卜部氏・津島氏). ・日本大臣(栗原連祖)・弟子 別名:跨耳命・烏賊津使主. 妻:百済女性? 武内宿禰妹? B卜部姓始祖?亀卜に優れ卜部姓を授けられたとも言われている。
紀氏のルーツ - nifty
homepage2.nifty.com/ihmm/sub11-5.html‎
香椎宮の社家系図には武内宿が壱岐真根子の娘=豊子と結ばれたとある。 ..... 香椎庄」 ・郡名:糟屋郡 福岡市東区 立花山西麓〜香椎川流域 ・領家:平家没官領→石清水八幡宮領・大宰府領 ・平頼盛領→・蓮華王院領・皇室領 ・史料村郷名:不詳 ・明治村字: ...

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01209.htm
紀氏
[6]子孫よりさんからのコメント(2013年11月14日 23時51分25秒 ) パスワード

皆さま、今晩は。
白石様、お体は大丈夫ですか?
お身体の具合がお悪いのではと心配していました。

ご教示ありがとうございます。
Google ブックを活用されているのですね。
やはり、白石様の神様のお話を伺うと、その後の歴史に繋がりが見えて来て
とても勉強になります。

いかつおおみ いか・烏賊 完全に海を想像しますね。

それと、やっとこの頃理解出来たのですが、平家没官領はやはり百済に関係する土地なのではと・・
平家 へいけ と漢字で書けばイメージが湧かないのですが
平を ひら と読めば ひら → しら → 白 で
色を理解すると本当に面白いです。

”シラムレン河をおりてくる 白い牛に乗った 青い服を着た人。”

想像力を働かせようとするのですが、・・・難しいです。
もっと勉強して理解できるようにならなければ。

所で、私も、相良家文書の中に、???という物を見つけました(^O^)/(?_?)

平河観覚書状 というもので、嘉歴2年5月10日 となっています。
相良六郎三郎入道殿(長氏)  宛てになっていまして・・・

この平河観覚さんの注釈には
平河宮内左衛門入道観覚と同一人物であるとの言葉が記されているのです。
成富名の手紙状3通内・・・(後は読めません(ー_ー)!!)
どうも、差出人がそれぞれ別の人の3通の手紙を受け取りましたよ。といった内容なのですが(転記すれば良いのですが、何せ明日は心臓の精密検査なので無理が出来ず・・・)
問題は!!この 平河宮内左衛門入道観覚 さんなのです!!
私はてっきり球磨の平河かと思っていたのですが、検索したら・・・
宮内左衛門入道観覚さんとは 極楽寺重時 → 北条重時(北条義時の息(3男)。母は比企姫前。)と・・・????

相良家への書状なのですが・・
なんで? 北条重時公が平河宮内左衛門入道観覚と名乗っているのか??

北条 と 平河 ??
今まで、北条氏は全くスルーしていました。
本当にあれれっ?です。 
手紙の最後は サインのように 観覚 と書かれていました。

間違ったかな?と検索しても唯一出て来る「入道観覚」は 北条重時公 なのです。
そう言えば、以前にも 入道観覚 という名前は見たような気が・・
その時は「観覚」としかキーワードを入力しなかったので、お寺とか僧の方の名前しか出なかったのですが・・・

北条氏は関係は無いとなぜか思っていたのです。
なのに 平河を名乗っているので・・・   そういえば球磨には北条領が
ありました??

しつこいですが、何でだろう??
でも、北条氏については何も調べていないので、ちょっと頑張って
調べて見ようと思います。
しかし・・??です(?_?)


 



[7]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年11月15日 01時08分46秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>でも、北条氏については何も調べていないので、ちょっと頑張って調べて見ようと思います。

一般的には北条と言うと伊豆と反応するが、平姓北条(伊豆)と越智姓北条(伊予)は源氏を介して結びついている。
伊予の三島と伊豆の三島も偶然ではないだろう。
神紋も折敷に三文字紋で同じ。
河野水軍が源氏方について瀬戸内の制海権を失ったのが平家滅亡の因。
ここでも平家の赤旗(赤部族)と源氏の白旗(白部族)の対立。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01112f.htm
[8]子孫よりさんからのコメント(2013年11月15日 16時23分23秒 ) パスワード

皆さま、こんにちは。
病院から帰って参りました(^O^)/
検査結果は、大丈夫でした。ご心配をおかけしてすいませんでした。
ううん?早いと?
そうなのです、血管造影剤を使っての検査は・・・・
アレルギーが酷過ぎて、行わなくても良くなりました・・
というか、他の検査(付加検査や心エコーもろもろ)を行って、今までと殆ど変りが無かったので(心臓に先天性の奇形?があるのと、筋ジストロフィーの影響は解っていたので)リスクを伴う検査を今日する必要は無いとの事で・・
やったあ〜\(~o~)/

そこで、問題が・・先週より検査結果がかなり良くなっていて、先生が「???先週、何か身体にかなりの負担をかけるような事していませんでしたか?」
と聞かれたので「あれれ〜っ?!そうだ、10日ほど睡眠時間が3時間くらいだったような・・・。そう言えば徹夜もしたし・・・」と思い
「あまり、寝ていませんでした\(~o~)/」と言うと
「それはダメです(ー_ー)!!」と・・・・。
一般の人に比べて無理が出来ない心臓なのに・・無理は絶対にダメですね。
反省しています。

それと、かなりの体重増加も原因の一つで、心臓に負担がかかると・・・

4カ月で実は5キロ太りました。(*_*) (ー_ー)!!

先祖の調査を行っていると夜中にお腹がへるな〜とボリボリボリ・・・
生活習慣病のリスクも他の方より数段高いので気を付けるようにと(ー_ー)!!

全ては私自身が招いた事です。
皆様にもご心配をおかけしてすいませんでした。

今後は、ちゃんと睡眠を取りながら、先祖の調査を行います。
(こんな子孫だったら先祖も喜びませんよね)

では、また後ほど。<m(__)m>




[9]子孫よりさんからのコメント(2013年11月16日 08時13分38秒 ) パスワード

皆さま、おはようございます。

昨晩は、検査の疲れがどっと出て、「今日はゆっくり本を読もう(^・^)」と
”古代日本の領土の起源”を読んでいました。

じっくり読んでいるので読み進んだページはまだまだなのですが、中に
あれっ?!
歴史に関してド素人の私ですが、とても気になる記述が・・・
(日本の苗字七千傑様、転記がもし、不適切な行為でしたら、おっしゃって下さい。ただ、この記述が私にはとても要訳出来る内容ではなくて、すいません)

★峯の国の王を根の子、根子とよび、火の国の王を火子という。

猫が岳はそのような根子の守護山でありヒコネは火と根子の略称である。・・・半島系の種族のみは結局、この根の神(峯の神)を奉じなかった★

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
景行朝、吉備津彦命の子三井根子命が葦北国造に任じられる。

三井根子命 ・・・根子という名前がついています・・ 峯の国の王 根子

最初のスレッドで日本の苗字七千傑様より頂いたご教示にあった

★大伴金村が百済に派遣した達率日羅(葦北国造阿利斯登の子)。
百済は苗字にも地名にも存在して一般的にはクダラと読まれるが、それは日本発祥の地名久多良木に由来するからである。
肥後国葦北郡久多良木(現:熊本県八代郡坂本村久多良木)は、上古の火葦北国の本拠地と推定される。
日羅は百済王に重用されたが、敏達天皇は日羅を召喚して任那回復策を上奏させたが百済使に謀殺されている。
その後、百済日羅の妻子らは河内の百済帰化族居住地の石川百済村の移住したとの記録がある。
河内百済氏の血を引く良峯氏が地頭になるのは地縁があるからなのです。★

本に記述されていた
「半島系の種族のみは結局、この根の神(峯の神)を奉じなかった」

だからこそ、日羅は百済に派遣されたのですか?

「百済日羅の妻子らは河内の百済帰化族居住地の石川百済村の移住」

この事によって、古代からの半島系の種族は、河内百済氏の血が入った、根の神(峯の神)を奉じ得ざるをえなくなったという事でしょうか?
(飛躍しすぎですか?)

でも、そうなると・・
今まで、根の神(峯の神)を奉じなかった半島系の種族の住む場所に、根の神(峯の神)を奉じる場所(神社)を建立していかなければいけませんよね・・?!

「火と峯の二つの神の加護をうける国王をヒコ・ネコという」

そう言う事は・・・国王・ヒコ・ネコが誕生した訳ですね。\(◎o◎)/!

いや違います。マダマダ(ー_ー)!!ダメです。やはり、まだまだ勉強不足です。
だって、火の国の王・火子の血が・・・

ううん(-_-)とても奥が深いです。

ただし!!わたくし、声を大にしてお伝えします。

わたくしがきっと生まれてからこの歳に至るまで、無意識に探し求めていた本は
こちら、「古代日本領土の起源」だったのだと思います。
1996年に発行されたのですね。

日本の苗字七千傑様、から 古代日本領土の起源をご教示頂いたのも
何かの運命!!(大げさだと言わないで下さい。それだけ、今まで自分が興味を持ってきた事が書かれているのです。)


あ〜図書館にあと1週間で返さなければ(福岡県には1冊だけでした(*_*))

買います!!私、絶対に買います。食費を削っても買います!(しつこい)
早速、今日、書店で予約してきます。

手元に置いて離したくありません!(本に恋をした?(*^。^*)・・(ー_ー)!!)

では、皆さま、 また 後ほど<m(__)m>












[10]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年11月16日 15時42分18秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

「古代日本領土の起源」を熟読すると、見えてくるのは天照大神と素戔嗚尊の対立、大和政権と出雲政権の対立、源平の抗争は全て赤部族(馬韓系)と白部族(辰韓系)の対立です。

神別総括系図(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/029/02900.htm )を見ると、天御中主尊以来馬韓系が連綿と続いているように思われますが天照大神は生涯独身(卑弥呼に似ていますね)なのです。
天照大神が素戔嗚尊との抗争に負けたので辰韓系から天忍穂耳尊が養子に入ったのです。(その神聖条約締結地が沖津宮(沖ノ島))
神武天皇の皇兄稲氷命は辰韓系の初代新羅王となる。
神武帝閨閥図参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222.htm#001
馬韓系が本格的に勢力を回復するのは藤原氏や百済氏が勃興した桓武朝以降です。
 
しかし源平抗争では、最終的に辰韓系が逆転復活しました。
源頼義の長男は八幡太郎義家、次男は賀茂二郎義綱、三男は新羅三郎義光、四男は三島四郎義清。
兄弟の字から辰韓系が見え隠れします。
新羅(辰韓)の別称である海原は次の三カ所です。
伊予国風早郡浅海原邑、豊後国大分郡海原邑、肥後国下益城郡常海原邑。
中でも新羅初代赫居世はカクイヨで伊予を暗示しています。
伊予と言えば三島四郎義清で、辰韓系挽回の遠因となっています。
[11]子孫よりさんからのコメント(2013年11月16日 22時14分12秒 ) パスワード

皆さま、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
赤部族(馬韓系)と白部族(辰韓系)の対立。

それぞれの部族は、日本に来られて、天孫降臨を果たした後は、ずっと対立していたのですね。
源平の抗争も根底にその対立があったとは。

まだまだ、「古代日本領土の起源」はさきが長いですが、ページごとにワクワクしながら読んでいます。

最終的に、日本を統一出来たのは徳川幕府となるわけですが、徳川は赤部族(馬韓系)と白部族(辰韓系)のどちらになるのでしょうか?
本を読み進めて行くと見えて来るのでしょうか。
ネットでも調べてみます。

所で、「古代日本領土の起源」を読んでいて、古代の人々は文字を使用せずに、地形を利用して領土を示したりという事を行っていた事は解ったのですが、何より古代の人が「ものすごい記憶力」を持っていたのだろうと推測すると、とても驚いています。

文字が無い世界で、国家が成り立っていたとは!
本に書かれている事でどのようにして治安を維持してきたかといった事は理解出来るのですが、日常生活においてなど、記憶力が無かったら、到底、生活は難しいのではと。
人の名前もそうですし、何処に誰が住んでいるなどといった住民?の管理などどうしていたのでしょうか。
記憶力が優れていた人々の中で、より優れた能力を持った人が代表として様々な事を記憶していったのでしょうか?まるで、語り部のように。

そして、球磨の平河の調査に関してですが、先日、
北条重時公が平河宮内左衛門入道観覚と名乗っている というお話をさせて頂きましたが、「赤部族(馬韓系)と白部族(辰韓系)の対立」を背景にした源氏と平家の抗争と考えると、日本の苗字七千傑様、からご教示のあった「平姓北条(伊豆)と越智姓北条(伊予)は源氏を介して結びついている。」・「伊予と言えば三島四郎義清で、辰韓系挽回の遠因となっています。」
伺った内容から、北条氏をもっともっと調べていこうと思っています。
<m(__)m>
[12]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年11月17日 11時20分35秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>文字が無い世界で、国家が成り立っていたとは!
 
無文字社会の国境画定と地権管理は、4000年前から存在する環状列石である。
英国のイングランド西部にある環状列石も同様な役割で、中でもストーンヘンジの環状列石は見事で一見の価値がある。
ユーラシアの東端と西端に同様な領土画定標識が多く存在することは偶然か。
 
隷書体の漢字は3世紀(三国時代)には一部の階層に伝来していたものと思われる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a5.htm#041

従って既に伊邪那岐尊時代には漢字が使われ、記紀編集の元になった旧辞・帝紀が存在した。
言わば古事記はこれらの写本であるが、紀年延長の為に一部変造された。
記紀では伊邪那岐尊時代以前と欠史八代の記事が異常に少ない。
伊邪那岐尊時代以前は無文字社会だったからである。
欠史八代と歴代天皇の寿命を除き、概ね正しく記述されている。
旧辞・帝紀は記紀編纂後、変造事実隠滅の為に焼却されたことであろう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a5.htm#041
 
>徳川は赤部族(馬韓系)と白部族(辰韓系)のどちらになるのでしょうか?
 
仮にも清和源氏の後裔を名乗ることから白部族(辰韓系)でしょう。
神社では八幡神社、八坂神社(祇園社)は秦韓(辰韓)系でしょう。
誉田八幡宮、石清水八幡宮 → 清和源氏
鶴岡八幡宮 → 源頼朝
[13]子孫よりさんからのコメント(2013年11月17日 13時01分36秒 ) パスワード

皆さま こんにちは。

今日は、先日からどうしても気になっていた地名について調べて見ました。

それが 京都府城陽市平川大将軍 です。
今まで、この地名に行きついた事は無かったのですが、先日から「漢字ではなく読みを基本に」この考えでひらがなで「ひらかわ」と入力して検索した所出てきた地名です。

京都府城陽市は
「城陽市(じょうようし)は、京都府南部に位置する市で、京都市と奈良市のほぼ中間に位置する。
正道官衙遺跡(国の史跡)や久世神社、水度神社(いずれも本殿は国の重要文化財)などの歴史的建築物を擁する。
とあり、山城の国 久世郡・綴喜郡・相楽郡

前スレッドの17にも書きましたが 古文書に書かれていた地名で
久世郡 → 平河
相楽郡 → 山田
賀茂・観音寺・賀茂福知 → 相楽郡  相楽はさがらと読みます。

すなわち、この時に書いた久世郡の平河と現在の平川は同じ場所という事です

城陽市平川地区には沢山の国の史跡や文化財そして古墳があります。
http://城陽市観光協会.jp/html/kankou/rekisi3.html#33

平川廃寺跡(ひらかわはいじあと)は
寺の西側には、5世紀後半に築かれた赤塚(あかつか) 古墳(直径22.5m、円墳)があります。平川廃寺の築地(ついじ)が赤塚古墳を避けるように造られていたことから、古墳を壊さずに寺の造営を行ったことがわかりました。

赤塚古墳   →  赤 (馬韓系)

そして、ここは
平川廃寺跡  場所・平川古宮  法隆寺式古代寺院跡  奈良後期〜平安
となっていました。火災で焼失して復興されなかったそうです。

では、最初に書いた 京都府城陽市平川大将軍 ですが

大将軍は たいしょうぐん と読み 本来の意味を説明したサイトを見つけました。
http://blog.livedoor.jp/ezorider/archives/54357563.html

大将軍八神社

陰陽道で方位の吉凶を司る八将神の一つが大将軍です。建築や転居、旅行などに強い影響力をもつ金星の神で、3年毎に居場所を移すのが特徴です。大将軍の居る方位は万事凶とされ、これを犯すと災いを招くとして恐れられました。五行思想の喜怒哀楽怨の五情では怒りを表し、魔王天王とも呼ばれます。

この方位神の霊力の強さから、平安京建都の際、都を悪疫から護る神として桓武天皇が東西南北の四隅に大将軍堂を設けました。このお宮もその一つで、西北の「天門」を守護しています。現在あるほかの大将軍社は、東は岡崎神社と東三条大将軍神社、南は藤森神社、北は今宮神社と西賀茂大将軍神社です。素戔嗚と習合したことから、社の数が増えたのかもしれません。 

明治の神仏分離令のため、古代中国からの渡来神で唯一神の大将軍を廃し素戔嗚を祭神とします。室町期に祇園社(八坂神社)の管轄下にあり、神格が似通っていたためと伝わります。信仰に裏打ちされた歴史を無視し、神社を国家の管理下に置こうとした明治政府のやり方は無理がありますね。それでも「八神社」の名前は吉凶を司る八将神と素戔嗚の御子八神を重ねているそう。御朱印にあるように大将軍の歴史性は今日まで息づいています。

地名が残っているという事はこの久世・平川にも大将軍神社があったという事なのか?と思い、近隣の神社を調べてみました。

御霊社 (荒見神社 境内) 富野荒見田 登録文化財 桃山
もとは長池の東方山中の「五社ケ谷(ごしゃがだに)」にありましたが、室町時代に現在地に遷されたといわれています。
  長池  →  ながいけ  →  永池

久世・平川地区の神社一覧が載ったサイトがあります
http://城陽市観光協会.jp/html/kankou/rekisi4.html#43

特に平川廃寺跡(ひらかわはいじあと)に近い神社は
旦椋神社(あさくらじんじゃ)高倉宮以仁王(たかくらもちひとおう)を祭神とする。

高倉宮以仁王とは・・以仁王(もちひとおう)・・・何故この場所に?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B

邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。

★球磨の平川を調べている時に三条という言葉があったのですが、スルーしていました。もう一度確認します。

八条院・子内親王の猶子。山城国相楽郡(さがら)南山城加幡河原にて死去となっていますが・・・・
しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が巷に流れた。
そして・・
新潟県長岡市(旧小国町)には、以仁王が平氏から逃れる際に越後国小国郷に辿り着き、そこで生活したという言い伝えがある。

長岡小国町 → 越後小国郷 → おぐに

おぐに(小国)は肥後・阿蘇にもあります。 阿蘇と言えば・・

阿蘇流北条氏(あそりゅうほうじょうし)
北条氏の祖である北条時政以来、代々継承された肥後国阿蘇社領の預所・地頭両職を時定が継承し、苗字を阿蘇と呼ばれる。

阿蘇と北条氏の関係は、私は北条時定の時代からと思っていたのですが、実は北条時政の時代から深い繋がりがあったのですね。

かなり、長くなりました。

最初は京都府城陽市平川から始まったのですが・・・

赤部族(馬韓系)と白部族(辰韓系)の対立。そして、以仁王
「ひらかわ」 という言葉を調べると、様々な事が出てきます。

大将軍神社。
「明治の神仏分離令のため、古代中国からの渡来神で唯一神の大将軍を廃し素戔嗚を祭神とした。」・・・このような神社が多数あるのですね。

今日は、また、新たな事を知ることが出来ました<m(__)m>





 





 
[14]人吉宮原家さんからのコメント(2013年11月17日 13時08分20秒 ) パスワード

子孫よりさんへ
はじめまして、昨日よりこのサイトを拝見しています。
私も5年前より先祖探しの旅をしています、おかげ様で八代の宮原町で宮原町郷土誌と出会い宮原家の家系図を探す事ができました。
それと宮原家の除籍謄本及び人吉藩家臣の先祖附により橘公忠より数えて代19世で有る事が証明できました。又最近人吉田町の了清院墓地で先祖の墓地(10世〜14世)が発見され、公忠を除きその他の墓票が不明です。
もしかすれば、子孫さんの先祖の方かもしれません、宮原縫殿助公久の時に始めて人吉に移住とあります。
家系図には、宮原公忠(橘出雲守)⇒公久(筑前守)⇒公重(次郎大夫)⇒公家(十郎)松橋宮原家へ分かれる⇒頼真(縫殿允)⇒頼重(玄番允)⇒公久(縫殿助)⇒公時(四郎兵エ)⇒公遠(又兵エ)⇒公智(浅右衛門)10世〜⇒公継(浅右衛門)15世※先祖附と宮原町郷土誌記載家系図と一致しています。
尚、宮原公忠の法名:摩利支天正位橘公忠大兵士といい実は隠れキリシタンです、浜崎献作氏の「かくれキリシタン信仰の証」P303に記載有り。
明治よりの信仰は人吉カトリック教会に席がありました。
何かとりとめのない話をしましたが、何か参考になればいいのですが?
わたしもあさぎり町の宮原城跡をさがしてみます。
追伸、佐賀県橘町に橘のルーツが有ります、潮見神社や梅宮神社は橘の家紋が屋根に有ります、一度行かれたらいいと思います。
それでは又きかいが有れば投稿します。
[15]子孫よりさんからのコメント(2013年11月17日 14時28分31秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、人吉宮原家様、ご教示ありがとうございます。
私が、長々とコメントを書いている間にお二人からのご教示が上がっていました。
本当にありがとうございます。

日本の苗字七千傑様
漢字が無かったと言われていた時代でも、すでに、海外からの文字は一部の階級には伝わっていたのですね。
そう言えば、門司や彦島のペトログラフ。セム語系(シュメール、バビロニア文字)と北方ツングスのエニセイ文字系のものが入り混じったものである。
とありました。

そして、イングランドのストーンヘンジ。
以前、テレビで見て、「絶対に行ってみたい!!」と思った場所です。
「ユーラシアの東端と西端に同様な領土画定標識が多く存在することは偶然か。」
すいません<m(__)m>いつもの私の例の感ですが「絶対に何かある」と思います。マタマタとおっしゃらないで下さいね。
実はイングランドのストーンヘンジの映像を見た時に、全身に鳥肌が立ってそして、頭の中で何とも言えない音が響いてきたのです。だから、絶対に行ってみたいと思ったのですが・・・ 脱線してすいません。

徳川家は白部族(辰韓系)だったのですね。
基本となる事が理解出来ていませんでした。
と言う事は最終的に日本を統一したのは白部族(辰韓系)であったという事ですね。もし、未だに赤部族(馬韓系)と白部族(辰韓系)の対立が続いていたら、日本はどうなっていたのでしょうか。
どちらにしろ、統一出来て良かった(*^。^*)
あっ?でもそう言えば、明治に至るまでの激動期。もしかしたら、また関係があったのでしょうか?・・・・

人吉宮原家様、初めまして。
コメントありがとうございます。
うちは祖父と祖母が戦時中に韓国・中国に渡る際に、全て、祖父の姉の星原家に任せて出国したそうです。
祖父は帰国後、すぐに亡くなりましたので、祖母は実家である平川家に頼っていたようです。もちろん、星原の方とも深い親戚関係は続いています。
ですから、宮原の祖については良く理解せず今に至っていました。
あさぎり町の宮原城は旧岡原の宮原(以前は宮原村)の今は星原家の所有する先祖代々の山にあります。
岡原霧島神社の裏手の山です。
子供の頃、城跡にこっそり探検に行くと、大きな池があり(多分、庭のような場所かな?)その周囲に五輪の塔のようなものがあった記憶があります。
でも、行った事が友達の口からばれると祖母から「ご先祖様がゆっくり休んでいらっしゃる場所だから、行ったらいかん!」といつも怒られていました。
「宮原公忠の法名:摩利支天正位橘公忠大兵士といい実は隠れキリシタンです」
驚きました。そうだったのですね。 氷川の宮原妙見宮にも本当は何かの秘密が隠されているのかもしれませんね。
もしくは、本来の宮原の役割と個人の信仰は別と言う事でしょうか。

了清院墓地で見つかった墓標はとても気になります。
先にも申し上げたように、祖父が早く無くなった事もあり、私は古い先祖の供養を行っていないのではと・・・

人吉宮原家様は松橋宮原家となられるのですか?
私は先祖は八代から戻り、あさぎり町(旧岡原の宮原)に居城したと聞いています。
と言う事は何処かで宮原が分かれたという事ですね。

今は、北九州に住んでいますが、いずれかは故郷球磨に戻り、家を継がなければいけませんので、その前にしっかり私も人吉宮原家様のように、先祖の事をきちんとした形で調べていきます。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。


[16]公忠公の末裔さんからのコメント(2013年11月17日 15時50分25秒 ) パスワード

約一か月ぶりのコメント失礼します。
もう(続5)までいってたのですね^^;

子孫より様へ。

橘薩摩と良峯安世流の関係ですが
申し訳ありませんがよく分かっていません。

私も、良峯安世流と書かれているものは存じていたのですが
何故ここに良峯安世流と書かれているのだろう?と不思議に思っていました。

橘薩摩氏自体、元皇族の橘諸兄に繋げていますが
それは仮冒で実際は藤原純友討伐に勲功のある橘遠保の後裔である可能性が高いと思います。

網野善彦氏の著書を読んでいると
橘薩摩氏について書かれている箇所があり

この一族は海の交通に深い関心を持っていたようです。

橘薩摩氏は橘公業の時代に西園寺公経の我儘により
伊予国宇和郡の所領を奪われ、替わりに肥前国長島荘などを得ます。

他に男鹿島にも所領を持っていたのですが
これも計算があって意識的にもらった可能性があるようです。

実際、男鹿半島から肥前の石鍋が出ているようで
地図をみると遠く離れていて関係性が薄い印象がありますが
海上交通で肥前と出羽は結びつきがあったようです。

私達が思っているより、昔の人々は広域的に活動していたのでしょうね。




>”宮原寅蔵” ですが、実は私の曾祖父が留蔵(”留”すいません確かこの字だと・・)・祖父が石蔵でして、そして祖父の姉が公佳 たぶん”宮原寅蔵”は先祖ではないかと思います。


子孫より様の家筋も「〜蔵」とつく方が居られたのですね。
実は、宮原源吾(私の6代前の御先祖)の長男が「宮原石蔵」という名前で
戸籍では弘化元年(1844年)生まれと書かれています。

あと、石蔵の長男(高祖父)も「宮原熊蔵」という名前で
これまた「〜蔵」です^^

この〜蔵というのは諱ではなく通称だったのでしょうかね?

先祖に強い関心を抱いているのは私ぐらいなもので
父も祖父も近い親戚も、武士だったという事と

「戦国時代に城を持っていて地頭だった」
「宮原は偏屈者が多かった。『右を向けと言われれば左を向く』」
「石蔵という人は、川辺川で鮎を刀で刺してとっていた」
「寅助火事があり、相良村に移った」
「当初は広い屋敷に住んでいたそうだが、途中から少し小さな屋敷になった」
「周囲は藁葺の家ばかりだったが、宮原は瓦葺の立派な家だった」
「戦中に鉄の供出があったが、刀を最後まで守り抜いた」

という言い伝えは聞いた事がありますが
先祖自体に、あまり関心を抱いた事はないそうです。

家紋は「丸に並び鷹の羽」なので
無給郷士が多い人吉藩において
天保年間の分限帳に扶持取として載っているので

天保より少し前に本家筋から分かれたのかなと考えていますが。

私の家筋は、球磨郡相良村の川辺という所に架かる橋の近くに
土地と小高い山を持っていたと聞いています。



父が若い頃に、熊蔵の三男筋に譲ったり
村に寄贈したりしたそうで、今は先祖の遺骨などは

福岡県に移しています。

私自身、本籍は福岡県で
原籍は熊本県球磨郡相良村なのですが

京都生まれの京都育ち。
生粋の京都府民です。

祖父がいる福岡県には幼い頃からよく行き来していましたが
二十余年の人生で球磨郡には一度も行った事がありません・・・。

機会があれば、いつか球磨郡に行ってみたいと思っています。
[17]子孫よりさんからのコメント(2013年11月17日 21時33分07秒 ) パスワード

皆さま、今晩は。
公忠公の末裔様お久しぶりです。(^・^)
コメントありがとうございます。
公忠公の末裔様のご先祖にも石蔵さんがいらっしゃったのですね。
びっくりしました。そして、やはり宮原繋がりで、とても嬉しいです(^・^)

あの、コメントにあった
「宮原は偏屈者が多かった。『右を向けと言われれば左を向く』」
この話ですが・・・偏屈者の件、私も聞いたことがあります\(◎o◎)/!

あれれっ!?(^・^) 
やはり、同じ先祖に繋がる訳ですから、・・でも、本当に面白いですよね(^◇^)

ちなみに私の祖父もかなりの偏屈者だったようですよ。
以前、祖父が高校生の時に書いたノートを見つけたのですが、英語でなにやらビッシリ色々な事を書いていました。
戦前ですから、その行為自体、田舎では変わっていますよね。
それと、我はなんとか・・・とか、ちょっと思い出せませんが・・
それと、祖父は高校生の時に、ストを行ったと聞いています。
当時ですよ!かなり・・・。でも、その後は東京の陸軍士官学校に行ったので
ううん??多分、時代に対する葛藤があったのかな?と孫としては思います。

それと!球磨に里帰りした時に、高速バス停より父の車で実家に向かっている途中、それこそおっしゃった「球磨郡相良村の川辺という所に架かる橋の近く」で、父が「このあたりに遠い遠い親戚があるはずバッテン。お父さんが小さい頃に行ったっきりで何処だったか覚えとらんな〜」と言っていました!!
もしかしたら・・・!!
祖父は軍人でしたが、中国で負傷して東京に戻りその後役所に勤める為に再度、中国に渡りました。その時祖母も一緒に行ってそして、父と伯父が生まれました。終戦となり、家族で引き上げてきたのですが、祖父はその数ヵ月後に亡くなったので、もし、「球磨郡相良村の川辺という所に架かる橋の近く」の遠い親戚に伺ったとすれば、多分その間の出来事では!
と言う事は68年程前ですね。
その当時公忠公の末裔様のおじい様は球磨にいらっしゃいましたか?

もしかしたら!!
そうであればめちゃくちゃ嬉しいです。きっとそうでありますようにと祈ります(^・^)

公忠公の末裔様は京都に住んでいらっしゃるのですね。
このスレッドをお読みになってご存じかとは思うのですが、私は、祖母の実家平川家について調べています。
平川は良峯氏と言う事は解っているのですが、球磨には何処から来たのか調べているのです。
今日、もしかしたら京都府城陽市平川に関係があるのでは?と思ったのですが、京都についていろいろお伺いする事があるかも知れません。
どうぞ、よろしくお願い致します。でも、本当に心強いです(^・^)

それと、宮原と平川は本当は密接な関係があったのではと思っていたのですが、球磨の私の実家(あさぎり町旧岡原)でも、宮原家と平川家はとても近い距離だったのです。
そして、伺った公忠公の末裔様の球磨の宮原のお家は相良村の川辺川の近く。そこにも平川家があるはずです。そして、宮原家。

「網野善彦氏の著書を読んでいると橘薩摩氏について書かれている箇所があり
この一族は海の交通に深い関心を持っていたようです。」と伺いましたが、
どうも、平川も船(舟)に関係しているようです。

もしかしたら、平安とか鎌倉といった時代ではなく、やはり、もっともっと先からの結びつきかもしれませんね。

でも、同じDNAを持った宮原軍団?が現代において、こちらのサイトで繋がる事が出来て、私たちの先祖は喜んでいるでしょうね(^・^)

では、これからも、どうぞ、よろしくお願い致します<m(__)m>(^・^)








[18]子孫よりさんからのコメント(2013年11月17日 23時46分01秒 ) パスワード

皆さま。
寝る前に、神社?と考えた時に私自身が全く調べていなかった神社が球磨にあったと思い立ち・・・
それが、青井阿蘇神社です。

緒方家とは親戚関係(深水家を介し)にあるのですが、全く調査していませんでした。
そして、気が付いたのです。

ではご説明します。
青井阿蘇神社のページをご覧ください。
http://www.aoisan.jp/top_kami.html
鎮座地・・・四神(霊獣に選ばれた土地) ここを読んで下さい


「南方の池は神様の姿を写すであろう、北方は人々の騒がしい生活を阻むであろう、東方の高く聳える城郭は猛族の進入を阻むであろう、西方にひろがる林は暴風や火災を防ぐであろうからこの場所は神を祀るに最もふさわしい場所なのである。」と、古い棟札に記されています。また別の見地から、風水思想の「四神相応(ししんそうおう)の地」として考えることができます。
四神とは、青龍(せいろう)・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)という霊獣で、この四神に護られた池こそ富に恵まれ子々孫々まで繁栄する「未来永劫の吉祥の地」であるという考え方です。
 東方を守護する青龍は川に棲み、南方を守護する朱雀は池に棲み、西方を守護する白虎は道に棲み、北方を守護する玄武は山に棲むとされていますので東に川、南に池、西に道、北に山で囲まれた地こそが四神に護られた地、すなわち四神相応の地なのです。
平安京の都は東に鴨川、南に巨椋池、西に大路、北に北山と四神相応の地につくられました。それから間もない12年後の大同元年に、東に球磨川・山田川、南に蓮池、西に大路、北に村山と平安京にも似た地形の場所に神社が創建されたのです。
1200年前に都と人吉球磨の考え方に差が無かったとうのは驚きです。

平安京がつくられて間もない12年後に青井阿蘇神社が創建された。
★1200年前に都と人吉球磨の考え方に差が無かったとうのは驚きです。
とあります。

そして 「四神とは、青龍(せいろう)・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)」

すなわち 青 赤 白 黒

これを球磨・人吉の其々の氏に変えると

青 白石様のご教示で 大江氏 は
青 東大寺の修二会の青衣の女人 西王母の女官の青 中臣藍の連(大阪の阿為神社の社伝によれば藤原鎌足の勧請で創建されたと伝えられる古社。「新撰姓氏録摂津神別」に中臣藍連同神(天児屋根命)十二世孫大江臣之後也とあり、中臣藍氏がその祖神を祀ったもの。
すなわち 大江氏は青です

そして 赤 相良・良峯(百済)となりますか?

さらに 白 ★ここが問題なのです。源 そして「ひらかわ」ひら → しら→ 白 で良いのでしょうか?でも、平川は良峯でもあるし・・・?

黒  黒目・久米  久米氏

こうなると球磨に其々の「色」の部族が集まる事になります。

すいません。どうしても赤と白の区別が未だよく解っていないようです。
大変、勉強不足です。もう一度しっかり確認します。

ただ、やはり、何かの意図がきっとあると確信しました。
<m(__)m>





[19]白石さんからのコメント(2013年11月18日 04時46分45秒 ) パスワード

皆様 こんばんは そして 始めましての方も おられ、久しぶりにのぞいたらメンバーが増えていて 楽しく読ませていただいております。

相良村川辺 あたりにも 話がいっており、やはり 川筋に おられたのだなあ と 思っています。
そこを 上流に遡っていったところに 同級生の宮原がいて、
八代から早くに入ってきたか?
球磨の子孫が 住み着いたか?
相良の外城のひとつがあったあたりに住んでいた人。
黒田を名のるようになり、私は 菅原さんと 記憶している人。

川辺は 私の故郷の 川下にある 大きな集落。
朝倉という家もありましたよ。今あるかどうか?
 
[20]白石さんからのコメント(2013年11月18日 05時14分11秒 ) パスワード

下益城郡に腹違いの姉の母の実家があり、
このあたりは 8世紀頃の肥後の 国府があったところ。

木原に雁回山があり、源為朝の話、また 伊勢新九朗も来ている。

そして 城南町も旧下益城郡に含まれており、塚原古墳群には
約500基の古墳が集る国指定史跡。方形周溝墓、方墳、円墳、前方後円墳など、200年におよぶ古墳の変遷を一度に見られるのが特徴。

子孫様の青赤白黒が勢ぞろいの形は もしかしたら こういうところにも現れているかもしれませんね。

そして
宮崎の 江田の地に イザナギの三貴子が生まれるが、
下益城郡江田船山古墳とこちらも 江田の言葉が・・・

前に 一直線という 言葉で ぬけぼし山と 上村あたりを見ましたが、
古代 まだ 多少 水位が高かった頃
ここらと 宮崎も 舟で 突き出ている小山を目指して 一直線に行き来していたかも知れませんね。

この間 楊貴妃伝説の天草の地名が(楊貴妃は唐の時代の人)
元鹿児島の地名だったことや
はるかはるか古代は 球磨川は 天草あたりを流れていた ということなので、
現代のように 車で サアーッと走って の 感覚とは 地理的感覚が違い、

あちこちに 結構容易に 拡がって言ったかもしれませんね。

姉の母の家は 平江といいます。
あのあたりは 木原 平江が多いところで、庄屋をしていた といいますが、跡取りももう亡くなりました。
[21]白石さんからのコメント(2013年11月18日 05時50分53秒 ) パスワード

平江 平井
ひら
埼玉苗字辞典に 
平 ヒラ 百済・伽耶地方の古名を阿耶(あや)、阿羅(あら)と称す。阿はクマとも称し、阿(くま)ノ国、熊(くま)ノ国、肥(くま)ノ国と云う。肥ノ国は別名を肥(ひ)ノ国、火ノ国、日ノ国と云う。ヒは火神にて鉱山鍛冶神なり。金、即ち鉄(くろがね)の産出する国を火ノ国と云い、王族を始め住民の多くは金(きむ)氏である。国は羅と称し、火羅、日羅、肥羅の渡来人は佳字の平(ひら)を用いる。二字の制度により平井、平江とも称す。ヒ、ヒノクマ、アヤ、クマ条参照。浦和、与野、戸田、草加、朝霞、新座、入間、熊谷等に存す。タイラ参照。
平井は 関東平氏へ
枚岡は 
姓氏録河内神別に「平岡連。津速魂十四世孫鯛身臣の後也」。津速魂命―市千魂命―居々登魂命―天児屋根命(中臣、藤原の祖)の後裔なり。

鯛身臣は烏賊都臣とともに 出た人(前に書いたと思う)で 名前からして 海人系のようです。

新羅の王は もと 百済の人といい、
新羅や百済は あとで いいはじめた国名で 
多婆那国の人が 新羅の王になった。昔氏。
脱解尼師今 - Wikipedia
多婆那国が熊本にあったのかどうか?は検証していません。

この人は 舟に乗せられて いた
といい、海人族のようです。

私は
日本人が 古代 陸続きの頃大陸から歩いて来た か?
もしくは まだ 向こうの陸が 近かった頃 舟で 突き出ている小山をめざしてわたってきたか ?
どちらにしても
最初の血の一滴は 大陸から来た と 思っていますので、
半島とごちゃまくれの祖先の記憶を持っていることには 抵抗を感じていません。

それが
金色の髪 青い目 白い肌 の ローマあたり かも 知れなくても です。



[22]子孫よりさんからのコメント(2013年11月18日 06時39分30秒 ) パスワード

皆さま、おはようございます。
白石様、お久しぶりです。
私の、身体の事でご心配をおかけいたしましてすいませんでした。
白石様はお元気でしたか?
今朝はご教示頂けて安心しました。(^・^)

日本の苗字七千傑様より、新羅(辰韓)の別称である海原として「肥後国下益城郡常海原邑。」のお話を伺いました。
白石様からも下益城郡のお話が出てきたので、やはり新羅(辰韓)には深い繋がりがあるのですね。

源為朝公は下益城に来られていたのですか?
源為朝公と言えば三丁礫の紀平次! ??あれれっ?

やはり、気になります。(^・^)
そして
「平 ヒラ 百済・伽耶地方の古名を阿耶(あや)、阿羅(あら)と称す。阿はクマとも称し、阿(くま)ノ国、熊(くま)ノ国、肥(くま)ノ国と云う。肥ノ国は別名を肥(ひ)ノ国、火ノ国、日ノ国と云う。ヒは火神にて鉱山鍛冶神なり。金、即ち鉄(くろがね)の産出する国を火ノ国と云い、王族を始め住民の多くは金(きむ)氏である。国は羅と称し、火羅、日羅、肥羅の渡来人は佳字の平(ひら)を用いる。二字の制度により平井、平江とも称す。ヒ、ヒノクマ、アヤ、クマ条参照。浦和、与野、戸田、草加、朝霞、新座、入間、熊谷等に存す。タイラ参照。」
このお話ですが・・

という事は 平河はくまの国のかわ  → くまのかわ → くまかわ → 球磨川 \(◎o◎)/!
ひのくにのかわ

そう言う事になるのでしょうか。

そして、上記のご教示の中に平井という言葉がありましたが、
昨日、お話した 久世の神社に平井神社がありました。

昨日のページはリンクが貼れないようになっていてすいません(*_*)
http://城陽市観光協会.jp/html/kankou/rekisi4.html#

これで見れると思います。

そして、サイトの中に
久世神社は、旧久世村の産土神(うぶすながみ) で、江戸時代には「華霊天神社」(かりょうてんじんしゃ)でありましたが、明治初期に「久世神社」 と改められました。

とあり、華霊天神社 とは何だろうと思い検索したのですが・・・
何だか、占いや霊能力の話ばかり出て来て・・・

?????まさか???? いやいや まさかです。

でも、宮原という名前も古代はそういう事に関係していたと聞いた事があるし・・ ここでも(平川に関係する場所で)・・
父・私・息子 科学では証明出来ない 何かがあるような気もするし・・


すいません(*_*)脱線しました<m(__)m>

今日も、寒くなりそうですが、皆さまお身体にはお気を付け下さいね(^・^)
では、仕事に行ってきます。


[23]白石さんからのコメント(2013年11月18日 22時19分22秒 ) パスワード

こんばんは
華霊天神社で検索してみました。
http://4travel.jp/travelogue/10620194

日本の旅 関西を歩く 京都府城陽市の久世神社と「久津川古墳群」
と、久世神社が出て、

あとランダムな検索ですが
ja.wikipedia.org/wiki/栗隈王‎
栗隈王(くりくまのおおきみ、生年不明 - 天武天皇5年(676年)6月)は、日本の飛鳥時代の皇族。栗前王とも書く。旧仮名遣いでの読みは共に「くりくまのおほきみ」。敏達天皇の孫(曾孫か)、難波皇子の子(孫か)、美努王の父。★橘氏の祖である。

山城の式内社/旦椋神社(宇治市)
www3.ocn.ne.jp/~tohara/kyou-asakura.html‎
その成立は古く、日本書紀にも“栗隈県”(クリクマノアガタ)の地に在ったと伝えられていますが、この社は天文19年(1550・室町 .... 祭祀氏族 当社にかかわる古代氏族について、宇治市史は 「栗隈県の管掌には栗隈氏があたっており、後には久世郡の郡司となっ

城陽市の久世神社は旧久世村の産土神で、祭神は★日本武尊(やまとたけるのみこと)。華霊天神若王社と称したが明治初年、久世神社に改めている。

日本書紀によると山城地方には栗隈氏という県主の名があり車塚古墳は栗隈一族の墓と考えられている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヤマトタケルは平川の荒田から出た。
栗隈王は橘氏に関与する。宮原は橘。
二つの接点はここ?


[24]白石さんからのコメント(2013年11月18日 23時29分56秒 ) パスワード

また 
神武東還時 高倉下に経津の御霊が下された。
高倉下は 手栗彦命ともいう。尾張氏の祖先。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
栗のつく神社 
おもしろいことに 奈良県にある
穴栗神社というところの祭神は 天太玉命(伊栗大神) 高皇産靈神(穴栗大神)という。神代の頃の人達。
古代の食料に栗が重用されたことと関係しているのか?

また
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/kyou-sakuri.html

山城(久世郡)の式内社/雙栗神社

京都府久世郡久御山町佐山双栗
祭神−−天照皇大神・素盞鳴命・事代主命
    品陀別尊・比・大神・息長帯日・命・大雀命


葉栗氏の祖先
彦国葺命/『前賢故実』より. 彦国葺命(ひこくにぶく の みこと、生薨年不詳)は、古墳時代の人物。 和邇氏の祖。

6世紀頃に春日山山麓に移住し、春日和珥臣となる。

 新撰姓氏禄(815)には
 「左京皇別 葉栗臣 和安部朝臣同祖 彦姥津命三世孫建穴命之後也」
   左京皇別 和安部朝臣 大春日朝臣同祖 
   左京皇別 大春日朝臣 出自孝昭天皇皇子天帯彦国押人命(=天押帯日子命)也
 「山城国皇別 葉栗 ★小野朝臣同祖 彦国葺命之後也」
   山城国皇別 小野朝臣 孝昭天皇皇子天足(帯)国押人命之後也
の2氏がみえ、当社に関連する葉栗氏(羽栗氏)は後者の流れであろう。
 系譜としては、孝昭天皇−−天押帯日子命(天帯彦国押人命)−−和邇日子押人彦命−−彦姥津命−−彦国葺命−−建穴命となる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%8F%A5%E6%B0%8F

★和珥臣の始祖は観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)の長男の天足彦国押人命。天足彦国押人命の母は孝昭天皇の皇后の世襲足媛[2](尾張連の遠祖★瀛津世襲の妹)。孝昭天皇の崩御の後、同母弟の日本足彦國押人尊が即位した(孝安天皇)。
と、秦の瀛が見える。

小野は小野好古がいる。

前に見た本では 高藤の子・胤子の母方には 和邇氏の血が入っている と書いてあった。
前から しきりに 高藤にからんで 飛鳥戸や高田が出ていたけど、まわりに 平川に関与した人達がいたのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



[25]白石さんからのコメント(2013年11月18日 23時43分51秒 ) パスワード

西王母は 楊氏。
西王母  セイオウボ
女仙人のボス。食べたら不死になるという仙桃を管理している。慈愛の聖母のような姿として描かれる反面、山海経では化け物扱い。
姓は緱(コウ)氏または楊氏。名は回、字は婉衿(えんきん)、婉於(えんう)、太虚(たいきょ)など、色々。
娘が五人居ると言われている。華林(かりん)、媚闌(めいらん)、青娥(せいが)、瑶姫(ようか)、玉邑(ぎょくゆう)。
瑶池金母、九霊太妙亀山金母、太霊九光亀台金母、金母元君、王母娘々、西華至妙娘々、龍堂金母

ここに出る 金は 蒙古の金。ひら の 金。に通ずるのか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
白起 王翦 列伝 - FC2
gongsunlong.web.fc2.com/hakkiousen-r.pdf‎
四十六年、秦、韓の★緱(コウ)氏・藺を攻め、之を抜く。 四十七年、秦、左庶長王齕をして韓を攻めしめて、上黨を取る。上黨の民、. 趙へ走る。趙、長平に軍し、以て上黨の民を按拠す。四月、齕は因りて趙. を攻む。趙、廉頗をして将たらしむ。趙軍の士卒、秦の斥 ...

では 韓の緱(コウ)氏というのがいるように、時代を 遡った頃にも この 氏がおり、韓は周の枝分かれ。

殷の王亥は 西王母のところへ行く途中 食料がつき 丈夫国?困民国?(どちらも王亥が関与する)になった という伝説があり、困民国の子孫は嬴民、摇民になった。字は違うけど、伝説では殷の姓は こう勾。

王亥が死ぬ時、その背から 2人の男子が生まれたといい、この国は男系のように見える。西王母の国は女子国のように見える。

夏は もとは 女系だったように見える。夏の子孫に勾呉。
 
[26]子孫よりさんからのコメント(2013年11月19日 16時06分42秒 ) パスワード

皆さま、こんにちは。今日は、調整休です。
白石様、昨晩は、ご教示ありがとうございました。

「くりくま」・・・くぜ・・・・この言葉が平川にも宮原にも関係しているようですね。(?_?)

西王母  セイオウボ
こちらの、お話なのですが、子供の頃西遊記のドラマが大好きで毎週見ていたのですが、何かとても似たお話があったように記憶しているのです。
もちろん西遊記は逸話とは知っていますが、やはり、日本と同じで過去の出来事や人物をモデルにするのでは・・と。 何だかワクワクします。

「高藤にからんで 飛鳥戸や高田が出ていたけど、まわりに 平川に関与した人達がいたのだろう。」

古代からの結びつきが後世にも繋がっているのですね。

では、ここで、重大発表を?します。(^O^)/

googleブックで検索をした所、なんと33冊もの球磨の平川に関する本が見つかりました\(◎o◎)/!

というか、今まで、表示されても5〜6冊だったのに!
何故?!!

全て、全文は表示出来ない本ばかりだったのですが、平川に関する内容だけまとめました。

まとめていたら、私が見つけた古文書に関する内容が沢山載っていて、訳されているのもありました。
現時点で解っているだけで33冊!先祖は沢山の方々からすでに研究して頂けていました・・・当たり前か! (@_@。でも、自分で調べたい!と思って頑張ってきたのです。(*_*)
・・・・・(-_-)あなた、今まで寝ないで毎日なにやってたの?!(ー_ー)!!
という、沢山の声がこだまのように聞こえてきます(*_*)
★でも、今まで、殆どでてこなかったのですよ(?_?)(@_@。

驚きの研究が沢山あったので、次のコメントでご紹介します。
<m(__)m>





[27]子孫よりさんからのコメント(2013年11月19日 17時21分56秒 ) パスワード

では<m(__)m>

まず、球磨の平河家は鎌倉時代の文献から多く取り上げられていたので平河師高からの球磨在というイメージが(固定観念)が私にあったのが問題でした。
それに気付いたのが
相良氏入国前の球磨
http://kuma.atukan.com/rekisi/bangai/zengo.htm

この中で「康平6年(1058)、平河三郎帥澄が求磨郡(球磨郡)臼麻荘を領しているという記録もあります。このあたりが球磨で最古の支配情勢の記録でしょうか。このほか久寿元年(1154)、平河氏が深田村に万福寺を建立しています。」
とありました。

そうです。平河(良峯)義高公は相良氏が人吉に来られる18年前から球磨に来られた。
ここで登場する平河(良峯)義高公は、元々球磨にいた平河が分かれて何処かに行かれてそして、子孫となる義高公が帰って来られたという事になります。

では、元々球磨に居た平河家とは何者か?というと
天台學會 早田大學出版部 から出版されている傳教大師硏究, 第 2 巻には
「守高は師高で、木上の平川にいてそこを姓とした平西諸縣郡司の子孫であろう。」 とあるのです。


平西諸縣郡司の子孫。?????すいません勉強不足で・・西諸縣(宮崎?)平西諸縣郡司ってどなたでしょう。(*_*)

で!なぜ、そういう話が出たのかと言うと
Historical journal of Japan - 第 87 巻、に

平河師重は真幸院にも所領を得ているが、真幸院領主であり、平河氏は先に草部貞倫と敵対した。守高(平河師高)重(良峯氏)がみえる。

真幸院は ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B9%B8%E9%99%A2

真幸院(まさきいん)は、宮崎県(旧日向国)南部山沿い地域の旧名。現在のえびの市、小林市、高原町の総称。

そして、この草部貞倫さんとの対立は様々な文献・本に載っていたのですが・・
草部貞倫・・・草部氏
http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage11.html
このページで「草部」で検索すると沢山出てきました。
私が解り易かった所だけピックアップすると・・

『草部吉見神社』にまつわる「伝説」等はネット上に詳しく紹介されているが、『草部氏』は、通常『日下部(くさかべ)氏』と表記され、宮崎県西都市妻の「都万神社」や、福岡県久留米市の「高良大社」の神官家にも名を連ねる。
日下部氏』について「新撰姓氏録」は『阿多御手犬養同祖 火闌降命之後也』ともあり、『隼人と同族』としてある。

草部 → くさかべ → 日下部 → 隼人 → 宮崎 → 日向・・・??

日向日下部(隼人)・・・???あ〜〜〜〜〜〜っ\(◎o◎)/!

おかあさ〜ん!!\(◎o◎)/!
母は宮崎の岩切家・・日向日下部 いや〜〜〜〜〜〜〜\(◎o◎)/!
平川のじいちゃまから聞いた、父と母の摩訶不思議な離婚原因
「先祖同士が合わなかった!!」

遠い昔・・平河と草部(日向日下部)は敵対していたのです。
それも、沢山の本に書かれているくらい、とてもとても敵対!!していたのです。
父と母が離婚するかどうかとなっていた時に、宮崎に平川のじいちゃまが来られて、岩切の祖父母と長い長い話をしていた事がありました。
「子供は入って来てはならん!!」と言われ、障子の隙間から弟と覗いていた記憶が・・・・

そんな古代の話をされてもねぇ〜と。でもやっぱり重要だったのかな?
弟の病気が判明した後だったし・・・
父も母も何も知らずにダンスパーティーで出会ったのですから。
ものすごい運命です。

さて、私の父と母の摩訶不思議な離婚原因が判明した所で、次のコメントに向けて準備をします。

次は平河(良峯)と相良と北条のビックリするような関係をご紹介いたします。
自分の先祖の事なのに、めちゃくちゃ面白くなって来ました。
映画が作れそうです。(^◇^)(-_-)/~~~ピシー!ピシー!(沢山の先祖から怒られますね)
<m(__)m>



[28]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年11月19日 19時51分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>遠い昔・・平河と草部(日向日下部)は敵対していたのです。
 
そりゃそうでしょう。
ここでも馬韓系と辰韓系の対立なのだから。
以下の系譜を見れば明らか。

境部氏(隼人族) http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02152f.htm
日下部氏(隼人族) http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02153f.htm
田部氏 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/04/04005f.htm

中でも田部直亥宿禰は宇佐八幡宮の総弁官なのだから、秦韓(辰韓)系でしょ。
[29]子孫よりさんからのコメント(2013年11月19日 22時21分06秒 ) パスワード

皆さま、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

私の両親の離婚までも、馬韓系と辰韓系の対立が関係していたのですね(*_*)

あの、父は私より、何かの能力(例の感)がするどいとお話させて頂いたと思うのですが、実は、私が子供の頃色々ありまして・・
多分、今考えると住んでいた場所が・・日向新富。妻のすぐ近くなので・・
そして、ある日突然父に異変が起きました。夜寝ていた時に突然、全く見た事のないような人の顔になり「岡原の家の前に湯川(小川)が流れているが、わしの墓がその橋に使われておる。子供の頃○○(父の名前)がわしの背中に座り小魚を取っておった。早く、墓を元の場所に戻してくれ」と。
私と弟はびっくりしてとっても怖くなって。
朝、起きると父は全く何も覚えていませんでした。
このような事が毎晩続くので、早速、祖母と平川のじいちゃまが宮崎に来て。
そして、岡原に戻り、橋に使われていた大きな大きな切り石を親戚一同でひっくり返した所、800年以上前の年号とお名前が刻まれていたのです。
今はそのお墓はちゃんと祀ってあります。
その後、今度は毎晩ものすごい形相で母に向かって「おぬしとは一緒にはおれぬ!」と叫びはじめました。まるで、さむらいになったかのように・・
そしてある日・・その日はとても優しい表情で、私に向かって「怖がらせてすまぬな。姫はとてもとてもわしには可愛くて大事な宝じゃぞ。」と。そして母に「あなたが悪い訳ではない。あなたはとても、やさしくて良い人じゃ。○○(父)もあなたをとても好いておる。だが、本当にすまぬが、二人は一緒になってはいけなかった。本当にすまない。」と泣かれていました。
★父の事を書いているのにおかしいと思われるでしょうが、その時のその方はあきらかに父ではなかったのです。顔も変わっていましたし、声も父ではないのです。。子供でしたが、その時の事は、私だけではなく弟もしっかり今でも覚えています。

そして、父と母は離婚しました。
離婚後は父にはあの時のような事は全く起こってはいません。
ただ、いろいろ解るようですが、私以外の人にはそのような事は話しませんし。歳を取って感が鈍ったとよく言っています。

脱線しましたが、もしかしたら、父・私・そして息子にある、何かとても不思議な感は先祖に関係しているのかな?と今日、改めて感じました。
<m(__)m>

気持ちを切り替えて
本日解った事を後ほどコメントさせて頂きます。<m(__)m>
[30]子孫よりさんからのコメント(2013年11月19日 23時16分30秒 ) パスワード

では、お伝えした平河・相良・北条の関係を。

まず、この記述を見て下さい。

美術史論集 - 413 ページ

彼むすめあや女は良峯(平河)氏に嫁し女阿夜を生んでい^みかたとらおか,うる。この申状によると、南方の刁岡名の地頭し. ?職は父蓮仏が妙阿に譲ったもので、それを永代にわたつて息女阿夜に讓ることを記している。阿夜は一人娘であろう。娘に対する愛情が ...

良峯氏(平河)女阿夜という言葉が古文書で頻繁に登場していたので、ずっと気になっていたのですが・・

では、ご説明を まず 阿夜さんのお母さんは妙阿さん。
そして妙阿さんの父上は蓮仏  ではこの蓮仏さんは・・・・
蓮仏(相良長頼) \(◎o◎)/! そうです 相良長頼公です!!

という事は、平河と相良は最初から姻戚関係にあったという事です。

そして、途中からの記述になりますが

史學雜誌 - 第 89 巻、第 7〜12 号
やはり平河氏の一支流が伝えた平河文書(多良木町岩河内平河弘氏所蔵)と好一対をなす文書群といえ平河氏が相良氏よりその姓を拝領したものである。即ち永池文書は良峯姓平河氏の一支流、後に永池氏を称する家に伝来状。他の五通は応永から天正に到...

「平河氏が相良氏よりその姓を拝領したものである。」

他にも同様の記述があったので・・なんと平河と相良は婚姻関係を結んだ事により、中には記述上、「相良○○となっているけど本当は平河○○でした」又は逆!という家が出てきたようなのです。\(◎o◎)/!

その他
史學雜誌 - 第 89 巻、第 7〜12 号 には(飛び飛びの記述になっているので解り辛いと思います。すいません<m(__)m>)

阿夜に文にみえる平河又三郎師里は平河宫内左衛門入道観覚の甥にあたる相一一九 ★この名前は後ほどご説明します。
観覚は人吉庄南方永富名にかかわりをもちしたもので、良峯氏は助広の妻であろう。
以上のように相良氏、平河氏間には婚姻によるつながりがあった。また所領注ともに ...

また前掲の平河観覚(四頁)が永富名の訴陳状(三問三答状)他を受領したものもある。
例えばこの同じ月、長頼女尼妙阿の代官道観は三通の案文を副えて良峯氏(阿夜、妙阿の女)の人吉庄南方刁岡名地頭さて傍線 1 が示すようにこの地頭職安堵の申請を行なった ...  ★むむっ これは先日私がコメントした内容です!

まず、
「平河又三郎師里は平河宫内左衛門入道観覚の甥にあたる」

コメント6で取り上げました
平河宮内左衛門入道観覚 とは 極楽寺重時 → 北条重時(北条義時の息(3男)。母は比企姫前。)

すなわち、平河又三郎師里は北条重時の甥です\(◎o◎)/!
という事は!!、北条義時の孫! 北条政子の甥です。\(◎o◎)/!

そして、平河又三郎師里は・・・・
コメント6で書いた事をあらためて

「相良家文書の中に、???という物を見つけました(^O^)/(?_?)

平河観覚書状 というもので、嘉歴2年5月10日 となっています。
相良六郎三郎入道殿(長氏)  宛てになっていまして・・・」

お解かり頂けましたでしょうか。
平河又三郎師里 は 相良六郎三郎入道 です。

というか 史學雜誌 - 第 89 巻、第 7〜12 号では、すでに研究発表されていたという事で・・・・

やっぱり、正月に里帰りしたら、親戚一同から「あら?ナンバ今さら言いよっと?」と言われそうで・・・
いーや(ー_ー)!!私は、自力で祖母からの言葉を理解する事をもう一度
宣言します。(^O^)/

まだまだ、色々出てきましたが、本日はここまでで。
失礼いたします。<m(__)m>

[31]子孫よりさんからのコメント(2013年11月20日 06時45分18秒 ) パスワード

皆さま、おはようございます。

昨晩、書いた
平河又三郎師里 は 相良六郎三郎入道 です。
ここは、色々考えたのですが、間違えているかもしれません。

良く意味が解らないのが現状で。
ただ、
史学雑誌 170 ページ にはこう記述されています

その師忠が預所から命ぜられた内容は「御年貢以下所当御得分ことからみても、明らかに永吉地頭平河氏の一族である。代々の惣領地頭が「三郎」を字としているやにも思われるので永吉名内三箇村の沙汰を預所から認められた良四郎師忠なる人物は、良峯氏 ...

★代々の惣領地頭が「三郎」を字としているやにも思われるので・・・さぶろう? 
良四郎師忠なる人物は・・・ → この名前が解りません

その他このような記述も 史学雑誌
四十余年のあいだに、永吉地頭蛾はいくつかの村単位に分割され、惣領地頭とも言うべき師良の下に何人かの村地頭が・・

「さぶろう」さんは、平河(良峯)地頭職を行っている地域のリーダーという意味でしょうか?

そして、殆どの書籍では平河家ではなくて平河一族と記載されています。


あと、もう一人どなたか解らない人物が。
昨日のコメントに書いた  史學雜誌 - 第 89 巻、第 7〜12 号より
「観覚は人吉庄南方永富名にかかわりをもちしたもので、良峯氏は助広の妻であろう。」
この、助広さんは誰でしょうか?
良峯(平河)からお嫁さんをもらった助広さんの事を今日は調べて見ようと思います。


いろいろ解ってきたのですが、あまりにも頭が混乱するような内容で・・・

では、仕事に行って参ります。<m(__)m>




[32]白石さんからのコメント(2013年11月20日 23時20分56秒 ) パスワード

子孫様 皆様こんばんは。
子孫様の精力的な調査力に 感服しています。

私の頭は いろいろな言葉が踊りはねていて 整理がつかず・・・の状態です。

永吉庄から
前に島津(佐多)から、小松帯刀(平朝臣小松帯刀清廉)をしらべたことがありました。
本姓は平氏(平維盛入婿により建部氏より改姓)。家系は禰寝氏(根占氏)嫡流で小松家当主。

建部氏始祖・稲依別王
(日本武尊の王子)

小松は肝付兼善の四男で名は正式な名は兼戈である[4]。母は島津久貫(又左衛門)の娘である

島津久貫
http://simaduke.gozaru.jp/simadu/k_simadu.html 島津系図
下のほうへスクロールして 永吉家をみると久貫がいる。(年代が出ていないけど。)

薩摩藩家臣 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/薩摩藩家臣‎
薩摩藩の家臣団の家格は正徳元年までに整備され、御一門(4家、私領主)、一所持(21家 私領主)、一所持格(約20家)、寄合、寄合並(寄合、 ... 薩摩藩は77万石の大藩の割には支藩は佐土原藩1つのみであった。 .... 永吉島津氏(薩摩永吉(現日置市)領主).
‎----------------------
永吉島津氏(薩摩永吉(現日置市)領主)

★島津家久−豊久=忠栄=久雄−久輝=久貫−久馮−久芳−久寛−久輔−久明−久陽=久敬

島津氏とゆかりの深い神社・鹿児島五社の筆頭として 諏訪神社は現在は南方神社として鹿児島市の清水町にある。

★家久の母が あさぎり町の千手の局
 相良33観音 19番札所 内山観音 - 健康的で 明るく 笑顔のたえない ...
blogs.yahoo.co.jp/npohowto21/30143355.html‎
実のところ、「千手の局」(島津家久の母)は、薩摩の当地では「橘姫」「少納言」の尊称でよばれていて、没年はわかりませんが、鹿児島県伊集院町の破鞋庵(はけあん)跡というところに「貴久後室花室清忻大姉(たかひさのこうしつのかしつせいきんだいし)」という・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日置族
www1.ocn.ne.jp/~hekizoku/‎
また、長州の毛利氏は山城国の日置族大江広元の四男李光の子孫であり、薩摩藩主の祖. 島津忠久は武蔵国の日置族比企禅尼の長女丹後局の子(ほかに比企禅尼の甥鎌倉御家人. 比企能員の娘説あり)ですから、薩長連合による明治維新は日置族が起こし ...

毛利広元の系は
前に葛井道依など関与していた 平城天皇皇子・阿保親王の子孫が熱田神宮へ養子に入り、再び出て、毛利へ養子に入った。その系から毛利広元(中原広元・大江広元)。又 子供の在原業平は 絶世の美男子といわれた。

毛利 比企 ヤマトタケル(彼も女装して見破られなかった)と 続く家系はハンサム続出。 

北条重時 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/北条重時‎
北条 重時(ほうじょう しげとき)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門。鎌倉幕府2代執権北条義時の3男。母は正室で比企朝宗の娘姫の前。初代執権北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥にあたる。極楽寺流の祖。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鬼丸神社(前に鬼丸ということばが出たと思いますが)
祭神は禰寝家16代右近太夫重長である。重長は大隅地方に勢力を振るい剛勇の聞こえ高く、善政を布いたため慕われたという。その子重張は小根占から吉利領主に移封されたのでここに鬼丸神社を建立して父の霊を祀った。

六代木像
吉利3017-2(清浄寺)
平維盛の長男六代の木像で、高さ40cmの大きさで現在吉利の清浄寺に安置してある。維盛は平清盛の孫なので六代は清盛の曾孫にあたる。六代の子次郎が、吉利禰寝家(後に小松と改姓)の初代清重と伝えられている。





[33]子孫よりさんからのコメント(2013年11月21日 07時13分19秒 ) パスワード

皆さま、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございました。(^◇^)

感服だなんて、とんでもありません。
偶然、出てきただけです。
でも、今まで、検索しても出て来なかった内容(本・文献)が次々と出て来るので、正直驚いています。
日置族・・
私も、同じ所が気になっていました。

平河又三郎師里は北条重時の甥となると(この記述だけで、なんなんだ〜!(?_?)となりましたが・・)問題は、北条重時が平河を名乗っていたという事で・
そうなると、北条重時の母方が「平河」?となりますが、実際は比企姫前ですよね。そうなると日置族・・となる訳ですから。

ただ、もっと前の段階で「平河」が関係している可能性もありますし・・

なんというか・・・平河はこうなると、もう何でもアリ!!なので、こっちがドン!と構えていないと、驚いてばかりでは身体が持ちません(-_-;)
ただ、ありがたい?事に私が、歴史に疎いお陰?で、登場する名前に対し最初から\(◎o◎)/!とならずに、(^◇^)・・・(?_?)だれ?・・とここから始まるので、心臓への負担は軽減されているようですが・・・
「毛利 比企 ヤマトタケル(彼も女装して見破られなかった)と 続く家系はハンサム続出。」・・わ〜お(^◇^)

顔か〜。ううん?そう言えば親戚一同特に男性陣は、鼻は日本人離れして高いし目もくっきりでキリッとしている。皆、背も高いですね???
息子が役者になったと知ると、其々が「自分に似ている」「いや!俺に似ている」「いいやおれだ!!」と豪語していました。
ただ、年齢を重ねる毎にヘッドがピヨピヨピヨ(*^。^*)ポワポワっと(うわぁ〜怒られる〜)
息子が、3歳くらいの頃、正月に親戚の集まりに行って帰って実家で寝る時に「おかあさん。ぼくもおとなになったら、みんなみたいな、あたまになるの?」とぽろぽろ(@_@。と泣いた事がありました。
今の所はまだ、大丈夫です(^◇^)
そう言えば、私の好みとしてはヘッドは気になりませんね・・?
でも、髭と筋肉はかかせません。(えぐざいるさん達のような(^・^))
それと、沢山の馬に乗った武将が草原を駆け抜ける映像(ドラマや映画)とか見るとゾクゾクワクワクします。
究極は、中国や韓国の映画で出て来る、武将達が山や草原を沢山の馬で駆け抜けるシーンかな〜(^◇^)・・??一体これは何の血(DNA)なのでしょうか??
すいません<m(__)m>脱線しました。
あの・・たまに脱線しないと頭がもちません(@_@。

実は、昨日、初めて出てきたものがありまして。相良家文書で、データ化されていないものが見つかり(原本)、その中に?????となる記述があったのですが、夜、ずっと読んだのですが、訳がわからなくなって・・
今晩、コメントしようと思っていますが、簡単に言いますと、相良家文書の阿夜の話の前後に何故か宗尊親王・惟康親王(他、多数の方)の系譜が記録されていて、最後に一人だけ、そうなぜか最後に付録とあり、相良六郎三郎入道(長氏)の生い立ちのような物が書かれていて、そこに、「惟康親王が亡くなったから剃髪して仏門に入った」といった様な、内容が書かれているのです。
何せ、漢文なので??と。読める所だけでもと思い読んだのですが、変なのですよね。
相良氏の系譜の中にある記述ではなく、先に書いたように皇子系譜とあって、最後に付録として一人だけ「相良六郎三郎入道(長氏)の生い立ち」ですから・・。
意味が全くわからずに・・・

だから、今朝は脳をリフレッシュと思い脱線した訳です(^◇^)(ー_ー)!!

では、仕事に行ってきます(^O^)/


[34]白石さんからのコメント(2013年11月21日 22時04分04秒 ) パスワード

こんばんは
私の不思議は 
惟康親王 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/惟康親王‎
惟康親王(これやすしんのう)は、鎌倉幕府第7代征夷大将軍。6代将軍宗尊親王の嫡男。 ... 初めは親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、征夷大将軍に就任したのちに臣籍降下して源姓を賜与され、★源惟康と名乗る(後嵯峨源氏)。

皇子が呼び捨てになる ことがあるのですよね。当然でしょうが・・・
経世 ・・・う〜ん?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
他の話です。
またまた迷走しますが 
@http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02023b.htm
日本の苗字7000傑藤原南家
一条能保と坊門姫
池禅尼と平頼盛その女子と持明院通基
尾張氏に藤原南家男子が入り婿これより 熱田大宮司の系は藤原へ移る。日本の苗字7000傑でもその先は藤原氏。

彼らの初めのつながりは小さな範囲で結ばれている。つまり濃い関係といってもよい。

A藤原南家
武智麿の五男巨勢麿に始まる。江戸時代、薮家、中園家、高丘家が堂上家に列する。とあり、薮家、中園家、高丘家は属閑院家というが、その血流から南家にわけられると 前に7000傑様のご教示をいただきました。
[35]白石さんからのコメント(2013年11月21日 22時06分18秒 ) パスワード

A 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 尾張氏【1】
www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02116.htm‎
【尾張氏】 天火明命の後裔で、崇神朝頃までは大和国葛城郡高尾張邑を本拠とする。 以後は美濃、飛騨などに移居するが、14世孫乎止与命が尾張国造となる。尾張国造の末裔は熱田大宮司となるが、後に藤原南家巨勢麿後胤の季兼が系嗣する。【尾張氏】【馬淵氏】【押田氏】【額田氏】【大喜氏】【大原氏】【江崎氏】【田島氏】 【馬場氏】【 ...

熱田尾張神社の遠祖は 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命だったが、20年ほど前? 振魂命にかえられた。振魂命は安曇の祖先。

上に 大喜氏がいるが、
[36]白石さんからのコメント(2013年11月21日 22時08分46秒 ) パスワード

田光神社 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/田光神社‎
熱田神宮の真東の鎌倉街道沿いにあり、熱田神宮の遙拝所であったと伝えられる。かつては神宮寺、高座宮とともに熱田神宮関連の神事が行われていた。 延久年間(1069年-1074年)、守部第十九代彦正が八幡社を勧請した。守部氏(大喜氏)は大碓命の子孫 ...

B大喜氏は 田光神社で 守部氏(大喜氏)は大碓命(ヤマトタケルの兄)の子孫とある。
[37]白石さんからのコメント(2013年11月21日 22時13分01秒 ) パスワード

C美濃の関氏http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/seki1.htm

武儀郡(現関市・美濃市)を中心領域とした美濃古族の牟義都国造身毛君一族後裔という色彩が、関氏には濃厚である。高野の南隣の武芸川町八幡には、武芸谷十ヶ村の総社であった武芸八幡があり、身毛君の始祖とされる大碓命を祀っている。

『日本書紀』は身毛氏は景行天皇の子である大碓命の後裔であるという。

身毛君・守君の両氏は、実際には三野前国造(崇神天皇の弟・彦坐王の子の神骨を初代とするという系譜を称するが、実は鴨県主一族)の同族

ムゲ国造の領域に鴨県主一族と同様に笠神を祀ることにも留意される。

幕藩大名の関氏・森氏は美濃古族の流れを汲むことはまず疑いな・・・
[38]白石さんからのコメント(2013年11月21日 22時26分46秒 ) パスワード

C鴨県主 笠氏
【八咫烏】より
…また大和の土豪兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)平定のさいはこの烏が使者に立っている。ヤタガラスは山城の鴨(賀茂)県主(かものあがたぬし)の先祖とされている(《日本書紀》《古語拾遺》)。同氏は主殿の職を世襲したが,その職掌のうちには〈車駕行幸供奉〉(《延喜式》),大嘗祭における〈秉燭照路〉(《北山抄》)ということがあり,神話と祭式の対応関係を示すものと考えられる。…

【主殿寮】より
…令制前には,★上毛野(かみつけぬ)氏の一族の車持氏は,天皇の乗物の挙行(くるまもち)に奉仕し,★笠取氏は行幸の際の蓋の挙持に奉仕し,★日置氏は灯燭等に奉仕した。★鴨氏は山城の葛野(かどの)の県主(鴨県主)で,《下鴨系図》には舒明・皇極朝に久治良が〈殿寮〉に出仕したこと,主水司水部に多数出仕したことが記されている。鴨県主は,葛野の山地から薪炭や氷室の氷を貢納し,一族の者を殿部や水部の前身の伴(とも)として天皇に近侍させたのである。…

log.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/27419332.html
上賀茂神社の境外社@大田神社(北区・上賀茂本山)

大田神社は、恩多社と呼ばれたこともあり、
上賀茂神社よりも古くから鎮座していた、
渡来系の先住民の氏神が祀られていた神社です。


先住民の氏神は、★壬生、★丹生、★小野などの氏族の祖神ともいわれ、
★白鬚社、百大夫社、福徳社として今も境内にあります。

このことから大田神社の天宇受売神(あめのうずめ)、白鬚社の猿田彦、
百大夫社の船玉、福徳社の福徳神の四柱が御祭神ともされています。

その後、上賀茂神社に近いこの地も、沼沢の池の開墾にかかわった賀茂族の影響が及び、
賀茂社の摂社になりました
[39]白石さんからのコメント(2013年11月21日 22時37分04秒 ) パスワード

上毛野朝臣
三重県神社庁教化委員会 » 坂本神社
kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/坂本神社/‎
2012/07/31 - 当社の創始については詳らかではないが、『新選姓氏禄』左京皇別下に「上毛野坂本朝臣 上毛野同祖。豊城入彦命十世紀孫★佐太公之後他」とあり、一説に当地に来た佐太公の子孫である坂本朝臣の氏人等が自らの氏号を以て村名とし

葦北の坂本
確か 日羅の話があった と 思うのですが・・・
日羅
安曇日羅 武内日羅
三井根子命 横尾
[40]白石さんからのコメント(2013年11月21日 23時33分59秒 ) パスワード

中原と太田  
源頼政は以仁王(後白河天皇の第三皇子)に加担。鷲尾氏は頼政系にもあり、中原でもある。又豊前宇都宮流佐田氏は中原を称していた。中原は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の子(尾張氏遠祖)。事代主の長男からでるという。

【多良木町】太田家住宅(おおたけじゅうたく):肥後国 くまもとの歴史
yumeko2.otemo-yan.net/e363961.html‎
2010/09/08 - 【多良木町】太田家住宅(おおたけじゅうたく). 太田家住宅(おおたけじゅうたく) 熊本県球磨郡多良木町多良木字★中原447-1(地図) 国指定重要文化財太田氏は相良家の家臣として人吉に住んでいたが、後に多良木村に移り農業と酒造業を営んだ。

武家家伝_太田氏
www2.harimaya.com/sengoku/html/ota_k.html‎
太田氏は清和源氏の末流といわれている。伝によれば、源三位頼政の後裔資国が丹波国太田郷に住し、太田氏を名乗るようになった。資国は同国上杉郷の地頭上杉重房に仕えることになったが、このつながりが関東管領上杉氏と家宰太田氏との結び付きの ...

太田氏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/太田氏‎
太田★資清が扇谷上杉氏に仕え、その子の★資長(太田道灌)は武蔵国豊島郡江戸城(東京都千代田区)を築き、上杉定正の執事として活躍したが、定正に殺されたことから、道灌の子資康は山内上杉氏に仕え、後の江戸太田家となった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

武家家伝_太田氏
岩付系は道灌の養子資家の子孫で、江戸系は道灌の実子資康の子孫である。新井白石の『藩翰譜』は岩付系を太田氏の嫡流としている。道灌のあとの岩付城主は資家であった。資家の事蹟は明らかでないが、岩付城に拠って時代によく対応したことは間違い ・・・・

このスレッドの5にある 中臣藍連 太田 につながっていくようだ。

[41]子孫よりさんからのコメント(2013年11月22日 00時33分19秒 ) パスワード

皆さま、今晩は。
朝、コメントした内容ですが、私、とんでもない勘違いをしていました。
あらためて、昨日見た古文書を確認したのですが・・・

これは、相良家文書ではありません。
表題 後醍醐天皇紀 嘉歴9年8月 とありました。(東大史料)

この文書は1ページごとを一つのファイルに変換してあり、文字データにはなっていません。
手書きの文書です。
全部で51のファイルから構成されていて、ファイルNO47で、

増珍公の記述の後に
紹運録ト皇親系ト親王諸子ノ排行を異ニス未だ孰(いずれ)カ是ナルヲ知ラズ
とあり、
そして附録とあって、今朝お話した長氏相良六郎三郎入道の生い立ちのような物が書かれていて、内容はウィキの相良長氏について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E6%B0%8F

と殆どかわらないようですが、ウィキでは第3代当主・相良頼俊の次男となっていますが、古文書(後醍醐天皇紀)では長氏頼俊第一子となっています。
またウィキでは
「延慶4年(1311年)、剃髪して蓮道と称した。また同年、相良一族の心得や家法のようなものを記した長文の置文を記している。
嘉暦元年(1326年)、7代将軍・惟康親王の薨去に伴い、家督を子の頼広に譲って隠居した。」
となっていますが、後醍醐天皇紀では
嘉歴元年十月前征夷大将軍惟康親王薨、長氏聞悼剃髪、自號蓮道、是歳授於世子頼廣。
となっています。
すなわち、嘉暦元年(1326年)、7代将軍・惟康親王の薨去に伴い、剃髪して蓮道と称した。そして家督を子の頼廣に譲って隠居した。

となるわけです。ウィキと似ているようで違います。イヤ!似ていると言ったらいけません(ー_ー)!!
剃髪した理由が全く違います。本当は惟康親王の薨去に対しての追悼を表す剃髪だったのです。

何故、意味を変えてネットでは公開されているのかな?と不思議です(?_?)

そして、後醍醐天皇紀では続けて 阿夜のお話が出てきます。
ファイルNO49
内容は、以前書いた通りで
(長頼公妻)相良妙阿領其子阿夜ニ譲リ安堵御教書ヲ幕府ニ請フ
とあり、内容を要約すると良峯氏字阿夜に人吉領南方の岡名(ここがよく読めません)地を請け渡す。
という事のようです。
人吉領南方の岡名(?)は元々長頼公の土地であったが、それを良峯氏阿夜が幕府から請け賜ったような事が書いてあります。­嘉暦元年(暦は読めるのですがその前の字が?)­嘉暦二年という記述で最後に相良六郎三郎の名前がありました。


???相良長氏(相良六郎三郎)は、そう言えばウィキに。「建武元年(1334年)、祖父・長頼の時代に没収された人吉庄北方の所領を取り戻している。後にこの領地を孫の定頼に譲った。」とありました。
でも、ウィキでは人吉庄北方で建武元年 後醍醐天皇紀では人吉南方領で嘉暦元年
でも、共に、相良長氏(相良六郎三郎)に関する話です。
★後醍醐天皇紀では、良峯氏字阿夜のお話なのに最後に相良六郎三郎の署名がありました。??
ちょっと待って下さい!!
所領を請けたのは良峯氏阿夜!!
あれっ!!!!\(◎o◎)/! 

これはっ!!やっぱり、良峯氏(平河)の何方かと相良長氏(相良六郎三郎)は、同一人物!!\(◎o◎)/!という事ですか!!

この話が史學雜誌 - 第 89 巻、第 7〜12 号に載っていたのだと思います。

でも、なぜ、ウィキでは混乱するような記述に変わっているのでしょう。
元の文書と内容を変えて記載しています。ナゼ何故なぜ???

何か世に出て困る事でもあったのかな??
でも、子孫は別に困らないのですが?? 
やっぱり、よく解りません(ー_ー)!!
<m(__)m>

 





[42]子孫よりさんからのコメント(2013年11月22日 00時39分10秒 ) パスワード

白石様、今晩は、今、コメントをアップして、確認したら、ご教示を頂けていました。
まずはお礼にと<m(__)m>

ではゆっくり読ませて頂きますね。

では(^O^)/
[43]子孫よりさんからのコメント(2013年11月22日 00時43分59秒 ) パスワード

追記

最大の謎はなぜ後醍醐天皇紀の最後の数ページが全て
良峯氏字阿夜と相良長氏(相良六郎三郎)★平河(良峯)のミスターX
の特集?だったのか?という事です。

?????(@_@)????????
[44]子孫よりさんからのコメント(2013年11月22日 06時35分35秒 ) パスワード

皆さま、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます。

「一条能保と坊門姫
池禅尼と平頼盛その女子と持明院通基
尾張氏に藤原南家男子が入り婿これより 熱田大宮司の系は藤原へ移る。日本の苗字7000傑でもその先は藤原氏。
彼らの初めのつながりは小さな範囲で結ばれている。つまり濃い関係といってもよい。」

私、考えたら、前にこのあたりの事をしばらく探っていたのですよね。
その後に、これまた色々出て来て、又、違う所を探っていって・・
やっぱり、何処かで繋がっているのでしょうか。

でも、その繋がりを大きな輪で考えたらやはり、馬韓系と辰韓系が関係してくるのですよね・・・

弟の病気が解って、その後両親がいろいろな所に行って、私も付いて行ってたのですが、子供なので良く意味が解らなかったのですが、「ごうをせおっている」という言葉をよく聞いた記憶があって、ずっと「ごう」って重たいのかなと思っていました。
でも、思春期になった頃「ごう→業」と理解出来るようになって、「何の業?」と思ったのですが・・・

ハイ!
気持ちを切り替えして、さあ、仕事に行ってきます!。




[45]子孫よりさんからのコメント(2013年11月23日 09時29分57秒 ) パスワード

皆さま、おはようございます。

昨日、何とか糸口を見つけようとしていて、色々な文献を見ていたのですが、特に助広さんと良峯(平河)の関係がつかめなかったのですが・・

朝、そういえば以前、助広ではないけど「すけひろ」さんは確かにあったぞ!と思いだし(記憶力の低下がかなり進んでいます(@_@。)・・

あ〜(@_@。私は本当のマヌケです。
すでに、「すけひろ」さんの事やっぱり調べていました。
パンドラの箱をパカ〜ンと開けて答えが見えてきていたのに気づいていなかったのです。現代人に特有な漢字主義?がわざわいしました。
古代の人ならすぐに解ったと思います。(@_@。

平川家について続4 コメント19  ★内容を転記しました。

暦応3年8月11日 進上 御奉行所     良峯氏女代廣安軍忠状

相良十郎三郎助廣・その他親類縁者が築地原にての戦いにて討ち死にした事に関しての訴状です。
内容は相良孫三郎経頼と佑長・伊藤八郎以下が凶徒となって、襲ってきたと。
木上城・村山城が襲われたとの内容らしきものが見え、そして、彼ら(凶徒)は山田城に籠城したと・・・・
同様の訴状が、沢山の人から出されています。
もっと記述は続いているのですが、さすがに明日仕事なので少しは寝なきゃと・・   ★11.23 注 寝なくて体調壊したのに、もう忘れていました(@_@。 
良峯氏女代廣安軍忠状というタイトルにはビックリしました。
でも、内容は平河とは関係ないとは思いますが・・  ★11.23 注 関係していました。(^O^)/ 
ただ、書かれている事が、何だか、平河義高公の話に似ていませんか?
私、何故か、昨日から、平河の球磨での話に???となって来ているのです。
要は、木上城の城主は相良十郎三郎助廣。
その人の為に、何故、良峯氏女代廣安が訴状を書いたのか?
親類縁者も襲われたと・・・

また、パンドラの箱をパカ〜ンと開けたかな?・・で終わったのですが!

やっぱり、パンドラの箱をパカ〜ンと開けていた訳です。(-_-)

という事で
助広  →  すけひろ  →  助廣 (^◇^) <m(__)m>

そうです。木上城の城主 相良十郎三郎助廣

とう事で、またまた、相良 でした\(◎o◎)/!
ううん??相良?平河?どっちと言ったら良いのでしょう??
え〜い!<(`^´)>もうめんどくさい!!どっちでもイイ!<(`^´)>

良峯氏女代廣安という事は阿夜さんよりは後の相良・平河(こう呼びます(-_-))という事になります。
すなわち、相良と平河はいつの時代でも仲良く婚姻関係を結んでいたという事で・・・・・ふぅ〜(-_-)
また三郎さんです。
さぶろう? ちょっと脱線します<m(__)m>

実は、私の可愛いかわいい猫たん♡の名前は「三郎」です。
超偶然です。先祖には全く関係ありません(ー_ー)!!平河家に三郎さんばかりだなんて全く知らない時に生まれました。(ー_ー)!!
もうすぐ、7か月です♡シャム猫の雑種です。
名前の由来は鼻の穴の所に黒いマークのようなものがあり、まるで、演歌歌手の北○三郎さんのようだったので「三郎」と名付けました。
ちなみに、風邪をひいて動物病院へ行くと「宮原三郎ちゃ〜ん」と呼ばれています。★ よかった〜名字が宮原で。祖母の方の名字だったら大変な事になっていました。 ふぅ〜〜(-_-;)
ちなみに、三郎(猫たんですよ)は双子で(あたりまえか(ー_ー)!!)お兄ちゃん(どっちが弟かわかりませんが)は、目の上にお公家さまの「まゆげ」のような模様があるので、名前は「まろ」とつけています。
この子は病院で「宮原まろちゃ〜ん」と呼ばれています。ふぅ〜あぶないあぶない(-_-;)
何度も言いますが、先祖の事を理解する前に名前を付けましたから(-_-;)

名前と言えば・・・??
今朝、いつものように平河(良峯)に関する古文書の検索を行っていた所、またまたドンドン新しいお名前が出てきました。

入田  小槻  阿保  大中臣  ???

何せ、歴史に疎いので・・・???(-_-)
また、後ほど調べます。

では、また後ほど<m(__)m>




[46]子孫よりさんからのコメント(2013年11月23日 14時16分56秒 ) パスワード

皆さま、こんにちは。

今日は、休みなので、ちょっとゆっくり頭を休めようかな〜と思っていたのですが、そうは、いかなくなりました。(-_-)

朝、起きて、それからちょっと二度寝と思って寝ていたら、本日の夢は一人じゃ〜なくて豪華キャストで、いろいろな格好?の男性も居れば、同じく女性もいて(何だかそれぞれ時代が違うような姿でした)、皆、仲良く笑いながら「解ってきたネ」と何故か球磨弁で聞かれたので、この頃の先祖(祖母方、平川)の事で、な〜んだ?!<(`^´)>と思っていたので「もう!!ごちゃごちゃしすぎて、わからんデス(@_@。<(`^´)>」と言ったら「そう言えば、うちも見つけてくれとらんバイ」「あ〜ら、うちもデスよ〜」と、ワイワイガヤガヤ・・ 悲しくなって、泣きながら「先祖さん達、もう、うるサカ(@_@。」と言ったら、皆さん、静かになって「ごめんごめん。もぞかもぞか。ヨカヨカ。」と。そして、一人の男性が「○○(私の名前)は、北条の事ば、あんまり好いとらんごたるケド、かなしかタイ。何処どこは良くて、何処どこは好かんじゃなくて、み〜んなお前の先祖バイ」とちょっと悲しそうな顔で言われました。
私は、申し訳なくなって、「すいません」と言うと他の人が「仕方なかタイ」と・・。そして、「調べますネ」と言うと、皆さん仲良く何処かに帰って行きました。

父の時の先祖はいかにも武士!!という形で現れて来られましたが、私の時は、こんな歳になっているのに、何処かのじいちゃん・ばあちゃんが孫を可愛いと思って下さるようなみんな優しい表情です。

そして、目が覚めて、気持ちを切り替えて「先祖さん達、見つけますよ〜(^・^)」と思いながら、googleブックで検索したら(キーワード 北条 平河)出ちゃいました!!

多分、皆さま方がえっエエエエエっ!!とおっしゃるかも知れない内容がついに見つかりました。

では、次のコメントで<m(__)m>


[47]子孫よりさんからのコメント(2013年11月23日 16時17分20秒 ) パスワード

では、ご報告いたします。

まずは、先に、このお話を
平河師高は、以前お伝えしましたが、草部氏(日向日下部)と争いそして一度、城をぐちゃぐちゃにされてしまいました。

中世成立史の基礎的研究: 九州の視座から

元暦年中をさかのぼること四十年、隣の肥後国球磨郡で、っぎのような事件
が起こった。久万郡(球磨郡)の住人貞倫と弟重平等(★草部氏)が、同郡の住人守高(師高、同郡木枝の平河に住んだ平川〔良峯氏)を追い掃い、守高(師高)の城内に押し入って種々の雑物や ...
129 ページ
すなわち、「謀反他人に勝る」という理由で、いったんは没官となった師高は、「早く御教書に任せ、平河三郎身を安堵せらるべき事」とあるようにその「身」を安堵され、「鎌倉殿御領」(建久図田帳)の「地頭良峯師高」となっている。

では、わかりやすく説明します。
「謀反他人に勝る」すなわち草部氏に城を取られてしまった。平河師高は所領が没官されてしまったわけです・。

そして、何処に行かれたかというと

荘園公領制の成立と内乱 - 348 ページ より(これまた飛び飛びの文書ですいません<m(__)m>)

.. 五〇町のうち四〇町を沽却しいつたん身柄を関東におくられた平河師高の身を安堵し、球磨御領を知行せしめたものであった。 ... に緣座していったん地頭職を改易されたのちの事態、つまり元久元年(一二〇四)の後任地頭北条時政と領家近術はなかろうか。

飛び飛びで解り辛いですが、ようするに平河師高は「いったん身柄を関東におくられた」という訳です。
でも、今までのコメントでお分かりのように「球磨御領を知行せしめたものであった」すなわち、球磨の土地は取り戻す事ができました。めでたしめでたし・・・ では。終わりません(ー_ー)!!

上記の記述を見て下さい!
元久元年(一二〇四)の後任地頭北条時政   

お解かり頂けますでしょうか?平河師高の永吉庄後任地頭の流れに北条時政。
もう、この時点で、皆さま多分、私と同じ???ナンデスト!!状態だと思います。多分永吉庄は 平河(良峯) → 平河(良峯)○○ → 良峯△△・・・では?と 北条時政がなぜここにと?
すでに、上記の記述には何度も時政の名前が出ていますよね!

それでは 私の頭の復習をします。

永吉三百五十町、地頭良峯師高子息平河平二(師貞)
平河師高が草部氏と戦い、城を取られて(すぐに取り返したようですが)、何十年後かに、源頼朝公より、永吉領の地頭を請けたのは平河師貞(そうです。紀平次とついていた人です)

<付文治五年>奉御判在者、平河次郎師貞為勤京大番、所令上洛
★ここで、私は平次さん(師貞)さんは京都にお仕事に行かれました。と書いていました。単純に、お城の番かな〜と思っていました。

では、本日見つかった最大のヘェ〜〜〜〜〜!!を御紹介いたします

北条時政に関する記述です。

鎌倉時代の社会と文化 - 183 ページより (毎度の事ながら飛び飛びですいません)
注(ァ)これは二月二二日北条時政が肥前围神崎庄の兵甩米の件を大宰府宣に任せて沙汰するよう天野遠景に指-小し、また、鎌倉 ... (カ)弘安六年七月三日の関東下知状案(「肥後平川文書」、『鎌禽遗文」 20 一四八九八号)に「曾祖父平河三郎師高右大将家御・・・

ううん??あれれっ?? 目をゴシゴシううん?? ま・さ・か!ええっ?!
曾祖父平河三郎師高右大将家御・・・
北条時政の曾祖父は・・・平河三郎師高・・・ぎゃおっ(+_+)
さすがに気は強く持っていますが、ちょっと意識は遠のきました。

確かに私は、通常言われている、球磨の平河の系譜はおかしい・変だと何度も??言ってきましたが、時代が合わないとも言ってきましたが・・・あっりゃ〜

確かに、後世の北条に関して調べて見ても「平河」という字はあちらこちらに付いていましたが・・江戸城の平河門とか、よく解りませんが東京の地名とか。
あの、皆さま、ふざけて書いていると言わないで下さいね。
こうしないと精神状態が・・ふわ〜っと。

ううん?でも、何で良峯なのだろう?(そっちカイ!!と言わないで下さい)

では、また後ほど<m(__)m>

追記 全ては平河と草部の敵対から始まったわけです。
そりゃあ、本当に、父と母が先祖の血が合わずに離婚するわけです・・はぁ〜(-_-)





[48]白石さんからのコメント(2013年11月23日 23時15分51秒 ) パスワード

こんばんは
どんどん研究が進んでますね。^^

昨日北条時政を私も見ていましたが、閉じたら あれれ どうやって出したのだろうとわからなくなりました。

でも
菊池に関与する藤原道隆。この人の女子が一条天皇の中宮・定子でその兄が伊周。

伊周に関して
宗像氏、藤原氏
www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage13.htm‎
豊後大神氏流緒方氏の家紋が「三つ鱗(三つ鱗杉)」であった。
豊後大神氏は、宇佐八幡宮の大宮司であった 大神氏の一族で、祖大太(惟基)は高知尾明神の神子、あるいは祖母嶽大明神と堀河大納言伊周(藤原伊周)の女との間に生まれた 神子となっている。
※堀川も私の故郷にいた。

豊後の山
www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-Bungo.html‎
また「大神氏系図」によると、
★藤原伊周が九州流罪になったとき、その娘も一緒に下向し、娘は豊後国(一説では日向国)の塩田大太夫なる人物の下に預けられた。
この娘のところに通ったのが、嫗岳大明神という蛇神で、生まれた子に大明神が大神という姓と、大 ...

http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-Bungo.html
久住長者原・朽綱長者、朝日長者、餅的、白鳥伝説
祖母山(嫗岳)・「神婚説話」蛇体の神と娘が交わる

大神氏
この大太郎には、のち五人の子供ができ、嫡男を三田井太郎政次、二男★緒方三郎惟秀、三男植田七郎惟衡、四男★大野八郎基平、五男三江九郎とある。

又 前に書いた 丹羽氏
系譜・丹羽の二派
http://www.gokuh.jp/ghp/keifu/keifu_02.htm
 
児玉の・丹羽長秀の系譜 編 ・・・良峯安世に始まるというが確証はない。
丹羽長秀の死後は長重が継ぐ。その子・光重の代に陸奥国に本松に転封。陸奥国白川十万七百石・・・とあるが

ここにも 伊周が出てくる。

伊周・・・丹羽
  ・・・大野(前に出ている。尾方が関与)・緒方


 

[49]子孫よりさんからのコメント(2013年11月24日 01時20分44秒 ) パスワード

皆さま、こんばんは。
白石様、ご教示ありがとうございます。
本当は、一人で考えてすご〜く寂しかったです。
だから、白石様のご教示が入っていたのを見て、めちゃくちゃ嬉しかったです。(*^。^*) ありがとうございます。

実は、私も大神氏を見ていたのですよ。
青井阿蘇神社と市房神社。800年代の球磨で、平安京が作られたすぐ後に二つの神社が創建された訳ですから。
絶対に、何かあると思いまして。
藤原伊周は以前、自分の中で、気になる人物というリストを作った時点ですでにピックアップしていました。
そして、やはり、ここで大きく登場してきたわけです。
白石様も、同じ人物を注目されていたという事は、やはり何かありますね。
(@_@)
平河に関する事を調べていて、とても強く感じる事があるのです。
どんな、古文書・文献でも同じなのですが、平河は良峯氏である事にとても誇りを持っていたようです。
それは、桓武天皇の血筋であるとかとは何か別のような。
だって、平家・北条も同じ、桓武天皇の血筋ですよね。
もちろんその事に誇りを感じ尊敬を持っていた事はわかるのですが・・

私は良峯の母方、百済永継の子孫である事に、特別な気持ちがあったのではと思うのです。
そうです。桓武天皇と百済永継の子供である良峯安世の子孫であると言う事を、平河はとても大事にしていたのだと思います。
だから、何故、良峯氏なのかを知る事は、やはり、私にはとても必要な事なのです。
これからも、どうか、ご協力をよろしくお願い致します。
それと、皆さま、コメント30で「私は、自力で祖母からの言葉を理解する事をもう一度宣言します。(^O^)/」と言ったのは、研究されている事のみを読んで理解すると言う事ではなく、先祖が残した言葉・祖母が伝えたかった事をこの目で確かめながら理解していくという意味です。
なんだか、言葉足らずで、まるで、自分だけでなんでも出来るみたいな表現になっていたのではと、とても気になっていました。

皆さまのご協力なしでは、私、一人では何も出来ません。
どうか、今後もよろしくお願い致します。<m(__)m>

[50]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年11月24日 11時12分44秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>児玉の・丹羽長秀の系譜 編 ・・・良峯安世に始まるというが確証はない。
 
丹羽氏の出自は諸説有るが、良峰姓説は下記の通り。
姓氏類別大観【良峰氏】
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217f.htm
 
良峰姓原氏から立木田氏をクリック。
林−小弓−児玉を経て丹羽忠長/長政へ。
児玉党は物部姓有道氏だが、女系は藤原伊周に繋がっている様だ。
全般的に言えることだが、男系で連綿と続いている家系の方が少ないということは多くの家系で当たり前でしょう。
系線上は実子だが、現実は養子のことが少なくない。
厳密に男系を追求すれば、織田氏は忌部姓、豊臣氏は物部姓、徳川氏は賀茂姓なのだから。
[51]白石さんからのコメント(2013年11月24日 20時31分43秒 ) パスワード

こんばんは
とうとう2連休も終わりました。また明日から頑張ろう っと!!

北条時政
なかなか まとまりませんでしたが、
子孫の時宗(得宗家)への流れと、 河内源氏の方と 何だかつながっているなあ と思い集めてみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F#.E9.8E.8C.E5.80.89.E5.B9.95.E5.BA.9C.E6.BB.85.E4.BA.A1.E5.BE.8C.E3.83.BB.E5.AD.90.E5.AD.AB
ウィキ 北条氏
鎌倉幕府の執権を世襲した氏族について記述しています。戦国期の関東を拠点にしていた北条氏については「後北条氏」

ということで
桓武平氏高望流の平直方の子孫を称し、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族である。現在伝わる北条氏系図は、いずれも時政以前の系譜は系図により全て異なる。
時政の祖父が時家、父が時方(または時兼)という点は諸系図でほぼ一致しており、時家の『尊卑分脈』傍注には「伊豆介」とある。上横手雅敬は、土着した ... 8代執権北条時宗
平氏で 時宗にいたる 系です。
一方

日本の苗字7000傑藤原伊周流
惟康の系統は、大森氏族
旧説で伊周流とされている児玉党 は、外戚関係により有道姓から藤原姓に改姓

と 伊周流

http://www.gokuh.jp/ghp/keifu/keifu_02.htm
丹羽の二派・岩崎の丹羽右近/児玉の丹羽長秀 (下)で良峯安世 藤原伊周などから つないでいる 系がある。藤堂が関与してくる。
と 伊周に関して こういう系もありました。前に書いていると思います。


大森氏http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E6%B0%8F
駿河大森氏。 伊予大森氏。 常陸大森氏。

北条早雲=★伊勢新九朗=伊勢盛時=伊勢 宗瑞

大森親家の子供に盛時

【高橋荘領主】
・★高橋惟康(伊勢新二郎、藤原季兼の妹の息)→高橋親康→★高橋親家(大森親家、初代大森氏)→長田忠致(源義朝を暗殺)






[52]子孫よりさんからのコメント(2013年11月24日 20時55分36秒 ) パスワード

皆さま、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

藤原伊周については調査を続けていこうと思っています。
「男系で連綿と続いている家系の方が少ないということは多くの家系で当たり前でしょう。」
そうなのですね。古文書をみると養子に入ったといった内容なのかな?と(何せ、漢文が難しいです)読みとれる内容がよく出てきます。

平河と良峯の関係ですが。康平6年(1058)、平河三郎帥澄が求磨郡(球磨郡)臼麻荘を領しているという記録があるとの事ですから、もし、この時点で平河が良峯を名乗っているとすれば関係性はかなり遡ってしまうので、その時代の良峯氏族も含めて調査していきたいと思います。





[53]子孫よりさんからのコメント(2013年11月24日 21時34分04秒 ) パスワード

追記
白石様、ご教示ありがとうございました。

北条時政   曾祖父平河三郎師高右大将家御・・・

今まで、平河師高は球磨で、平河一族を根付かせてくれた、球磨の沢山の平川の祖のような方。と親しみがすごくあったのですが・・
上記の記述を見てから、ずっと「あなたは誰なのですか?」と、そういう気持ちで、名前を見てしまっています。

だって、平河宮内左衛門入道観覚
平河観覚  この方も 北条重時であった訳ですから・・・
もし、古文書で情報に気づいていなかったら、平河観覚という名前だけでは
きっと、「ううん?球磨の何処に居た方なのかな?」で終わっていたはずです。
平河師高という名前を球磨に残したこの方は本当は歴史上でいうところの「誰?」なのか。
でも、ほんとうは、平河師高さんが遠くに離れたようで、ちょっと寂しい感じがしています。(そんな甘い事を言っていたらこの平河の謎は解けないぞ!!との声が聞こえてきたような<m(__)m>)

でも、平河という名前も、良峯同様、北条に名前が変わっても、皆さん大事に思っていたのだな〜とは思います。それは、後世で平川家から嫁いできた祖母の事を考えるとやはり、嬉しいですね。

では、調査調査!!がんばります(^O^)/




[54]白石さんからのコメント(2013年11月26日 22時17分05秒 ) パスワード

こんばんは
今日も寒かったです。紅葉した葉も何だか本格的な冬の訪れの前の寒々しい景色の中で寂しげです。

今日は
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/kudamimakeizu.htm
百済王三松氏系図に関する論考・史料紹介 宝賀寿男

を読んでいました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
百済永継(継)と桓武天皇→良峯安世
子孫・平河師高・・・良峯氏子孫。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
三松系図をのぞいたけど
系図のことは 一応おいといて
上の書のなかで
『法華験記』には「仁和四年常州★飛鳥貞成」、『元亨釈書』29にも「仁和中、常州飛鳥貞成、其家富贍」とあり、「★飛鳥部宿祢の後にして、其の後裔を★浅井氏と云ふ」とも記述される。

常陸府中の在庁官人で代々税所職・健児所職を世襲した百済氏(苗字としては税所・★平岡両氏)がいる。その始祖は、吉田文書等から仁平元年(1151)四月八日の留守所下文に見える散位★百済貞成であり、・・・

★平岡氏
日本の苗字7000傑平岡氏
姓氏類別大観. ★【平岡氏】 中臣氏と同族。津速産霊命十三世孫★鯛身命の孫田男宿祢の末裔が平岡連姓を賜姓される。 後裔は枚岡神社の神職を世襲して後に大中臣姓を称して水走氏、鳥居氏などに分かれる。
※平岡はいろいろあるけど、前からいかつおみ などとともに 出ていたので、これだろうと思います。
※5にいかつおみが出ます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
浅井氏は
玖珠の白鳥神社に近江の浅井氏がおり、
昔枝分かれした?子孫の浅井長政とお市の間に出来る三姉妹は有名。






                                            
[55]子孫よりさんからのコメント(2013年11月27日 06時42分14秒 ) パスワード

皆さま、おはようございます。
白石様ご教示ありがとうございました。

百済王三松氏系図に関する論考・史料紹介 宝賀寿男
を読ませて頂きました。

記述にあった貞連というお名前なのですが、私が見てきた平河に関する様々な文書・記録の中にこのお名前が出て来ていたと思うのです。
どの文書だったか、記憶していないのですが、もう一度、確認します。
そして、「伯耆守」なのですが、確かに、平河師高か師澄・義高このいずれかを調べている時に「伯耆守」という言葉が頻繁に出ていました。

伯耆国とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E8%80%86%E5%9B%BD
同じ鳥取県に含まれる因幡国よりも島根県に含まれる出雲国と、古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多いため、雲伯という地域区分がある。
とありますが、覚えて頂いていますでしょうか。以前、私がコメントした内容で、(いつもの脱線内容の中)で、「松本清張の小説「砂の器」の中で、出雲なのに、東北の方言(ズーズー弁)を話す地域があって、私は、その後の小説の展開より、(もうしわけありませんが)その事が気になって(何故か)仕方ない」と書いた事を。
それが「雲伯」この地域だったのです。今、記述を見てびっくりしました。
この数日、「伯耆」が気になっていた所に、白石様のご教示から「伯耆」がまたまた登場しました。
もしかしたら、私が、気になっていたのはズーズー弁より、この地域であったのかもしれません。もちろん知識は全く無かったので、多分、いつもの感だと思います。(マタマタって言わないで下さいね)
そして、この伯耆国に、かって久米郡があり
上記の
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E8%80%86%E5%9B%BD
の中間あたりに記述されている 久米郡をクリックして下さい。
上北条村 (倉吉市及び湯梨浜町)
中北条村・下北条村 (北条町 → 北栄町)

北条という地名が出ました。
私、今、鳥肌が出て止まりません。
(このコメントはものすごく伯耆国が気になってきたので、同時進行で調査していました。)

そう言えば、久米なのですが、今、思いだした事が、平河に関する本・文書・文献にスルーしてしまっていた記述があって・・
あり得ない(ー_ー)!!と勝手に決め付けていた事がありました。

この、コメントをアップして、もう一度調査して、再度お話させて頂きます。

(今日は。今週の土曜日勤務の代休です)
[56]子孫よりさんからのコメント(2013年11月27日 07時51分35秒 ) パスワード

先ほどのコメントでお話した事をお伝えします。
(いつものように飛び飛びですいません)

変貌する須恵村: 社会文化変化の基礎的研究 - 81 ページ

さて次の攻撃目標は平河義高その人である。平河伝授巻に「伝に曰く、義高その前は河辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して、以上両人これある由、又、下もは平家御代官所にて候処、蓮仏公(長頼法名)御下向遊ばされ、義高を御頼み、矢瀬殿を 御 ...

お解かり頂けますか、上記の記述に
義高その前は河辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して
久米殿と称した・・・・・称した!!
私は、この記述を読んだ時、「称したって、じゃあ久米殿は平河?マタマタ(ー_ー)!!」と思ってスルーしたのです。

でも、今朝、伯耆国 → 久米郷 → 北条 と繋がったので、上記にある「久米殿」はもしかしたら、いいえ、やはり、「平河・良峯の一族」だったのかと!

私の球磨の実家は以前からお話していますように、久米のすぐ隣。
今は多良木町久米とあさぎり町(旧岡原村・宮原地区)ですが、多分、この地域は、平安時代またはその以前であれば久米に含まれていたのではないかと思います。
もちろん、祖母の実家「平川」も同じ地区にあります。
宮原はこの地に城を持ち、祖母の平川もこの地に土地や山があります。
良く考えて見たら、全く無関係の土地に、部外者が突然来て、城を築いたり、土地を所有したり出来るのかな?と。
もちろん、他の地ではありえるかも知れませんが、ここは球磨。
そこに元々そこに住んでいた人々は、古代は狗奴国に住み、その後は熊襲と呼ばれた人々の末裔。
そうそう簡単に、部外者に古代から引き継いで来た先祖代々の土地を請け渡したり、又は、その部外者の支配下にはいる事などはしないのではないかと思うのです。(球磨の人をめちゃくちゃ頑固者のように書いてしまいましたが、良く考えると、私自身にも、そう言う所があるのでは?と、昔の球磨の人の気持ちになって考えてみました)
あっ!!だから、相良氏が来られた時に、球磨の人々を納得させる為にも、平河義高公が協力したのでは・・・
伯耆国と球磨の結びつきは、とても強力だったのではないでしょうか。
球磨の人々の先祖はそれらの土地を行ったり来たり・・飛躍しすぎかな?
でも、あのキーワードである?「だんだんナ〜」も出雲地方でも使う言葉という事でしたよね??そう言えば京都でも??(今は違うかもしれませんが)

球磨・伯耆国・久世(その他宮崎・日向の西諸県郡)・・平河に関する土地がどんどん見えてきたようです。
まだまだ、調査を進めます。(これは、決め手となる文書・記述を見つけなくては)(^O^)/

追記
実は一昨日から猫の「まろ」の体調が悪く、とっても心配で、コメントも出来ませんでした。今朝は、やっと、水も飲んだし、ご飯もちょっとだけど自分で食べれました。まだまだ、子猫なので、心配で心配で(@_@。
もしかしたら、皆さま、私の体調を御心配下さったのではと思い・・
どうも、すいませんでした<m(__)m>

[57]白石さんからのコメント(2013年11月27日 21時01分41秒 ) パスワード

こんばんは
まろちゃんのこと 心配ですね。物言わぬので、おろおろするばかりの様子 良くわかります。うちの犬も 調子が悪いとじっと身体を寄せていたり、何だか訴えかけるようにして、言葉がいえたらなあと思うときがあります。

主人は 速攻で医者に連れて行きます。
私の調子が悪い時は 自分ばかり弁当を買って食べる人が・・・^^

前に日本の苗字7000傑様のご教示の
大久米氏の子孫と中臣の系との間の子が中臣鎌足だった。
久米氏は渡会氏と同じく神魂尊の子孫。
渡会氏は伊勢神宮外宮。
河辺がいる。

社家 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/社家‎
歴史的に著名な社家には以下のようなものがある。 伊勢神宮. 祭主 - ★藤波家; 宮司 - ★河辺氏; 内宮祀職 - 荒木田氏; 外宮祀職 - 度会氏 · 籠神社 - 海部氏 · 猿田彦神社 - 宇治土公氏 · 鹿島神宮・香取神宮・春日大社 -- 中臣氏・大中臣氏 · 宇佐神宮 - 辛嶋氏・大神 ...

伊勢神宮は内宮・外宮とも 出雲の方から移ってきたのですよね。


[58]子孫よりさんからのコメント(2013年11月27日 23時31分25秒 ) パスワード

皆さま、今晩は。
白石様ご教示ありがとうございます。

朝は、勢いよくコメントしましたが、一日中、色々な物を読んだのですが、平河に繋がるものは見つかりませんでした。

ううん。でも、何で「久米氏と称して」なのでしょうか??
そこが解らないからドンドン迷宮に入り込んだようで。

所で
まろの御心配をおかけしてすいません。

すこ〜しは良いようですが
本当にしゃべってくれたら嬉しい限りです。
でも、とても苦しそうです。(@_@。

では、明日も風が、かなり冷たいようですが、皆さま、お体には十分お気を付け下さい。
[59]白石さんからのコメント(2013年11月28日 04時18分58秒 ) パスワード

こんばんは
先ほどは地震があったみたいですね。目が覚めてしまいました。地震のせいではなくいつもどおりですが。

大田亮氏は
久米は須恵と書いていたように思っていますが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.yumechiyo.jp/yatsushiro/hitoyoshi2.html
中世の球磨1 というブログに
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

平河氏

本拠:球磨郡木上平河
良峯安世流
球磨郡多良木町
1197(建久8)年

平河文書、永池文書

※平河氏が何故良峯安世流なのだろう?は前に書いておられましたね。
 平河・永池は良峯子孫でしたよね。

 平河が先か?姓がさきか?平河はいっぱいいて、その中の一人が桓武天皇と結婚して出来た子が良峯を名乗ったということか?

 ひらは百済だった。又 しろに通じていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
久米氏
久米郷東方
1197(建久8)年
蓮華王院領、八条院領
相良家文書、平川文書、久我家文書

※久米は須恵だと 大田亮氏は書いておられた。
ここに 久我家文書とあるが、辞典では久我は古閑に通じていると。

古閑は 劉だと。
確か そう 姓系辞典に書いてありました。
又 朴でもあり、武田に通じており、

このあたりのことは 又 図書館に行かなければ・・・・と 思っていますが、この頃機動力(自転車のこと)が発揮できず、グズグズしています。
動け、動けと自分で自分に言っているのですが・・・時々頭が受け付けなくなります。子孫様の精力的な調査がうらやましいです。
本当に若い時だと思います。

それと
一日中家にいて、5分も食事が遅れると、たちまち 不機嫌を爆発させる主人のこと。だんだん 年食ってくると ひどくなりますね。

良峯氏は 劉姓と 昔読んだ本に書いてあった と 前に書きました。
木上で義方が倒れた後、窪田越後が地頭になるが、窪田は武田の子孫が名乗っている。

しかし、
武家家伝で見ると、
武家家伝_三枝氏
www2.harimaya.com/sengoku/html/k_saegsa.html‎
その後の三枝氏は★甲斐源氏の属将とり、三枝守継は★於曾氏を名乗り、その分流も能呂(野呂)・石原・立河・石坂・★窪田・沓間などの姓を名乗って、三枝一族は甲斐国内に隠然たる勢力を保持した。しかし、戦国時代にいたるまでの三枝氏の動向は必ずしも詳らか ...

と 三枝が出る。三枝も 日下部に関して出ましたよね。
又 武田は 金春 の 言葉も出てくる。
能ですね。
ここらあたりは また 古代からわあっとひろがる話があって それをひとつにしぼろうとすれば、 劉 で 繋がってくるのではないか? と 私は思います。この 劉が 漢王室なのか 古代の 夏の劉なのか?
夏の劉なら 呉か 越か?

劉は 古代は女系。後 男系の人と結婚して、カクレンボツボツと名を変えたと。劉邦出自も 母は劉温というが、父は蓋太上公父と。大陸の人は 女性は結婚しても苗字は変わらないし、同族とは結婚しないというから、母も劉・父も劉はありえないと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

相良氏
西遷御家人
遠江国榛原郡相良郷

相良家文書、平川文書、
久我家文書

ここにも 久我が。
そして
西還御家人と。
相良は 平河の言葉も出ていた。
良峯が球磨へ来たのも 昔からの 百済木の下地があったから。

葦北は 坂本でもあり、坂本と 共通しているのは 佐田との言葉の 崇神天皇子孫の 毛野氏。

相良氏は 遠祖は 冬嗣に いたったのですよね。
安世と同母。

そして 南家流武智麻呂は 女性のほうは蘇我氏。

文書自体を見つけることが私には出来ないので、歴史の中のこの時点で平河=久米だよとはいえませんが。
又 
久米と称して・・・だから 久米と結婚して とも とれますね。久米に住んでそう名のって とも。

子孫様の調査が進むことを期待しています。
地震があってから大分時間が過ぎました。
その間 もたもたと 書きました。−−


[60]子孫よりさんからのコメント(2013年11月28日 07時48分58秒 ) パスワード

皆さま、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます。
中世の球磨の領を一つ一つ分析して下さって本当にありがとうございます。
実際には、名前は違っても、其々の家は繋がっているという事ですね。

私などは、名前が違うとすぐに「あっ違う」と思い込んでしまうので、
やはり、調べて見ないと本当の所は解らないと言う事ですね。

桓武天皇の考え?が大きく影響しているのは確かでしょうね。
青井阿蘇神社・市房神社の創建も、平安京が出来てすぐとの事でしたから。

平安京が出来てすぐに・・・・
もう、その時点で、良峯の何方かが球磨に来られていたとは考えられませんかね?・・・・あまりにも飛躍しすぎでしょうか?

今日は、この冬一番の寒さとの事です。
皆さま、風邪をひかれないようにして下さい。
私は、まろの事が気になって仕事に行くのに後ろ髪を引かれっぱなしです。
では、行ってきます。<m(__)m>
[61]白石さんからのコメント(2013年11月28日 19時47分20秒 ) パスワード

こんばんは
昨夜はひどい雷でこわかったです。

桓武天皇の考え・・・桓武天皇は薬子がべたべたと平城天皇に近づいているのをにがにがしくしていた。と 本で読んだことがありますが、これも人が書いたことでよくわからないことです。ただ 薬子の変のあと 尚侍の制は廃止されたとか・・・

平城天皇は心を病んでおられたとか 書いてあるのを見たことがありますが、又この頃は 人心改まり、世の中粛然としていた と 書いてある本をみたこともあります。

昔のように 刃物を身に帯びていた頃など 天皇であれ自分の考えを押し通すことは出来なかったのではないだろうか ・・・

何も自分の考えがとおらなければ おかしくなるのは当たり前ではないか?などといろいろ思います。

それにつけても 陽成天皇 この方も 問題児扱いですが、
(天井の梁の上に蹴鞠がのるまで足の甲が破れるのもかまわず練習されたとか)今なら オリンピック選手並みですよね。
ほとんど一日中椅子にしばりつけられて、大臣たちのああでもない こうでもないの議論につきあわされて、自分のしたいことも出来なければ どこかへ行こうとしても前を無言の壁にふさがれれば いやですよ。

まわりが おかしくさせたのではないのか? と 思います。

そして それにつけても と また おもいだすのは
狐目と かかれた 方の マスコミの書き方で、周りを監視して と かいてありましたが、(もうずいぶん前ですが) ネットの動画で見てみましたが、そんなことはなく 穏やかでやさしいお顔をしておられました。

かいてあることばかりが残って 本人は抗弁することも許されず ・・・ということではなかったか? と 昔の人のことを考えます。

平安の都が1000年続いて 桓武天皇は 当然称えられる方で、周りも 力がある人がいたと思いますが、

桓武天皇が崩御されて 天皇の遺体にうじが沸くのも構わず 誰があとをつぐかもめにもめた とも 書いてあるのを見たことがありますが、おいたわしいのと同時に 当時の政局の混乱というか しのぎあいのきつさ が あったのではないか? それぞれのまわりにいた 人達はどんな人達だったのだろうか? と 思います。 

[62]子孫よりさんからのコメント(2013年11月28日 22時21分58秒 ) パスワード

皆さま、今晩は。
白石様、ご教示ありがとうございます。
今日は、仕事から帰って、Mさんに運転してもらい、まろを病院に連れて行ってきました。
風邪をひいていたようで、熱はもうだいぶ下がっていました。
注射をしてもらう時に、私の顔を「ママ、たすけて(@_@。」と言うような表情で、見つめて、かわいそうでした。でもまろくんは泣きませんでした。強い男の子です。家に帰ると三郎がとても心配していてまろのそばを離れませんでした。今も、ぴったり寄り添って寝ています。

白石様のご教示を読んでいて、つくづく思ったのですが、人間は本当に驕りたかぶり、自分の欲の為に他の人を傷つけて・・・
言葉がしゃべれるかどうかの違いで、心は動物、例えば犬や猫の方がずっと純粋で、相手の事を思いやり、見ていて、自分を省みると反省する事しきりです。
桓武天皇は遣唐使を通じて仏教を日本に広め、人としての在り方を人々に伝えたいと思われたのでしょうか。
そして、良峯安世は経国記によって、儒教の教えを人々に伝えた。お二人とも、人の心の平穏を願っておられたのではと思います。

様々な願いはあったと思いますが、その後の子孫は同じ血をひく者同士で大きな戦いを繰り返してきた訳ですね。
これは、日本だけではなく、世界中の人々いえ人類は同じ事の繰り返しで現代まできたのですよね。
でも、その事によって、今、自分がここにある。
今日は、まろの病気から様々な事を考えました。
今から、少し調査をして明日にそなえます。

本当に寒い一日でした。皆さま、風邪などひかれないようにお気を付け下さい。

[63]子孫よりさんからのコメント(2013年11月29日 23時49分42秒 ) パスワード

皆さま、こんばんは。
今日も、一日寒かったですね。

所で、本日は、マタマタ、ある事に私がスルーしてしまっていた事に気づきました。
それは、相良氏入国前の球磨
http://kuma.atukan.com/rekisi/bangai/zengo.htm

このサイトで
康平6年(1058)、平河三郎帥澄が求磨郡(球磨郡)臼麻荘を領しているという記録もあります。このあたりが球磨で最古の支配情勢の記録でしょうか。このほか久寿元年(1154)、平河氏が深田村に万福寺を建立しています。

この話は以前もご紹介したのですが、その記述の下にスルーしていた内容があったのです。

深田村の勝福寺は、平河氏が平重盛の菩提を弔うために建立されたものといわれ、本尊の木造毘沙門天立像ほか7立像が現在も残されています。

平河氏が平重盛の菩提を弔うために建立
他にも同様の内容が 多良木町史 - 1051 ページ
平重盛菩提のため、深田村荒茂山勝福寺毘沙門天が彫作される。

とあります。
平重盛。平河とこの方との関係を全くスルーしてしまっていたのです。
平重盛 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B

平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。

ウィキの記述の中で、私がとても気になったのが 、丁度中段くらいにあった
「右大将、内大臣就任」なのです。
平河師高に関して、様々な文献・文書で見てきたのが
河三郎師高右大将家御・・・
この右大将を源頼朝と説明されているのを見て、ずっと、右大将は源頼朝と思ってきたのですが、もしかしたら平重盛、この方を指しているのではと。
これを見て下さい
八代相伝開発之地也  而会祖父平河三郎師高右大大将(源頼朝)家御時、文治三・・・・
六日<付文治三年>奉書案者、平河三郎師高謀反勝他人之由、有其・・・・
上記の(源頼朝)との説明書きがついていたのですが、私が調べた限り、源頼朝が権大納言・右近衛大将に任じられたのは建久元年(1190年)そして、その時は頼朝は辞退しています。と言う事は上記文書の<付文治三年>(1187年)!!合わないのです。
平河三郎師高謀反勝他人之由 この事件は文治三年より前に起こっている訳ですから・・・平河三郎師高右大大将家御時 ・・・右大将家とは
もしかしたら、 平重盛 この方ではないでしょうか?

皆さま、どう思われますか?
私の思い違いでしょうか?

またまた、謎が・・・

でも、右大大将家御時って?その方に仕えていたという意味でしょうか??
ううん????

(?_?) <m(__)m>
[64]白石さんからのコメント(2013年11月30日 07時12分46秒 ) パスワード

おはようございます。
川辺川東は良峯の所領。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
47
「謀反他人に勝る」すなわち草部氏に城を取られてしまった。平河師高は所領が没官されてしまったわけです・。

そして、何処に行かれたかというと

荘園公領制の成立と内乱 - 348 ページ より(これまた飛び飛びの文書ですいません<m(__)m>)

.. 五〇町のうち四〇町を沽却しいつたん身柄を関東におくられた平河師高の身を安堵し、球磨御領を知行せしめたものであった。 ... に緣座していったん地頭職を改易されたのちの事態、つまり元久元年(一二〇四)の後任地頭北条時政と領家近術はなかろうか。

北条時政の曾祖父は・・・平河三郎師高・・・ぎゃおっ(+_+)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

藤原盛国ー藤原邦綱

邦綱は4人の娘を六条・高倉・安徳の三天皇および高倉天皇中宮・平徳子の乳母とし、白河院政(関白基実室)の後見をつとめた。基実が没すると多くの摂関家領を盛子に相続させた。

平盛国
父は(平正度の子)平盛康、または平盛遠(『平家物語』)、平季衡(『尊卑分脈』)など諸説あるが、平正度に連なる一族と見られる。
平 正度(たいら の まさのり、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。伊勢平氏の始祖平維衡の長男(あるいは次男とも)。



維衡、正度らの活動によって確固たる勢力を築いた伊勢平氏は、やがて後世において平清盛が出て一大権門に発展していく。また、季衡の子孫は伊勢氏と称して室町時代には代々政所執事として幕政の中枢を担ったほか、その支流の備中伊勢氏から戦国大名北条早雲(伊勢盛時)を出している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
すみません。今から仕事です。
帰ってからもう一度見てみようと思いますが、
盛国のまわりが なにやら 平家中心部と密接につながっているようで、つまり 平河が ・・・
[65]白石さんからのコメント(2013年11月30日 07時15分11秒 ) パスワード

おはようございます。
川辺川東は良峯の所領。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
47
「謀反他人に勝る」すなわち草部氏に城を取られてしまった。平河師高は所領が没官されてしまったわけです・。

そして、何処に行かれたかというと

荘園公領制の成立と内乱 - 348 ページ より(これまた飛び飛びの文書ですいません<m(__)m>)

.. 五〇町のうち四〇町を沽却しいつたん身柄を関東におくられた平河師高の身を安堵し、球磨御領を知行せしめたものであった。 ... に緣座していったん地頭職を改易されたのちの事態、つまり元久元年(一二〇四)の後任地頭北条時政と領家近術はなかろうか。

北条時政の曾祖父は・・・平河三郎師高・・・ぎゃおっ(+_+)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

藤原盛国ー藤原邦綱

邦綱は4人の娘を六条・高倉・安徳の三天皇および高倉天皇中宮・平徳子の乳母とし、白河院政(関白基実室)の後見をつとめた。基実が没すると多くの摂関家領を盛子に相続させた。

平盛国
父は(平正度の子)平盛康、または平盛遠(『平家物語』)、平季衡(『尊卑分脈』)など諸説あるが、平正度に連なる一族と見られる。
平 正度(たいら の まさのり、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。伊勢平氏の始祖平維衡の長男(あるいは次男とも)。



維衡、正度らの活動によって確固たる勢力を築いた伊勢平氏は、やがて後世において平清盛が出て一大権門に発展していく。また、季衡の子孫は伊勢氏と称して室町時代には代々政所執事として幕政の中枢を担ったほか、その支流の備中伊勢氏から戦国大名北条早雲(伊勢盛時)を出している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
すみません。今から仕事です。
帰ってからもう一度見てみようと思いますが、
盛国のまわりが なにやら 平家中心部と密接につながっているようで、つまり 平河が ・・・邦綱は4人の娘を六条・高倉・安徳の三天皇および高倉天皇中宮・平徳子の乳母とし、白河院政(関白基実室)の後見をつとめた。

基実は平氏政権下建てられた関白で、木津川あたりに住み、普賢寺殿と呼ばれた。観音信仰ですね。
[66]子孫よりさんからのコメント(2013年11月30日 22時32分36秒 ) パスワード

皆さま、今晩は。
白石様、ご教示ありがとうございます。
お仕事お疲れ様です。<m(__)m>
私も今日は仕事でした。まろはお陰さまで回復いたしました。(*^。^*)

北条が出て来て混乱していましたが、元をただせば全て平(たいら)。
その中で、分裂して結果源平の戦い、と繋がっていったと言う事ですよね。

その中で、平河が思いもよらない形で登場してきて・・・

全く、関係ない話しですが、この時代の事を私なりに理解しやすいバラエティ番組を見ました。
竹下登元首相のお孫さんDAIGOさんが島根の竹下氏の実家に里帰りをするという番組だったのですが・・
現在、実家を継いでいらっしゃるのは竹下氏の弟三郎さんでした。
「ここも、実家を守るのは三郎さんなんだ〜」と思いながらふと感じたのが、
どんな時代でも、先祖代々の土地は誰かが守らなければいけないのだな〜と。
そして、中央にはその家の代表者が出て行く。
それが、今の政治家と考えたら、平安・鎌倉など、どの時代も同じだったのでは?と。
選挙の時にどこどこ選挙区から出馬と言ったニュースをみて「この人はここが故郷・先祖の地だったんだ〜」とよく思っていたのですが、考えてみたらそれと同じ事が当時でも行われていたのかと。
まあ極端かもしれませんが、そう割り切って考えると、もっと冷静に平河の事を調べる事が出来るかも?そう思うようになってきました。
ところで、竹下氏の故郷は島根県の雲南市。あれれっ?でした。

今、このコメントを書きながらまたフツフツと疑問が・・・
平河依高の長男は誰??と。
古文書・文献では盛高は二男とあります。???では長男は何処にいったのかな?と。 またまた、名前が違うのでしょうか?

実は、先日から球磨・人吉の寺院と伊豆においての北条に関して気になる記述があったので、また後ほど御報告いたします。
<m(__)m>





[67]白石さんからのコメント(2013年12月01日 04時07分17秒 ) パスワード

おはようございます。
二つ上の
白河院政(関白基実室)の後見をつとめた。
は 白河院盛子でした。

そうですか。
DAIGOは 竹下元首相のお孫さんでしたか。^^
背が高そうなので そして DAIGOさんは目が大きいような・・・でもお2人ともほっそり という 感じですよね。

島根に雲南市って あったんですね。
雲南といえば アジアのしたあたり。
すぐ あちらとこちらと くっつけようとするけど・・・でも 古代に関係はなかったのかなあ?と 思います。

すぐにどこかの土地名につなげて いくのは わたしばかりではないのですよ。
もう 随分 前の話ですが、仕事先で誰かと話をしていたとき、阿南という言葉が出てきて、相手が
そういえば 高知に阿南というところがある と 言っていましたから。
それから 
佐伯につながっていって 厳島神社の佐伯さんだったかな?
あっちにこっちに 話が飛んでいって盛り上がっていましたが・・・

DAIGOのさくらちゃんは 元気にしているのでしょうかしらね?
この頃 テレビはご無沙汰だったけど 続編が見たいな と 思っています。




[68]白石さんからのコメント(2013年12月01日 04時46分49秒 ) パスワード

熊本県球磨郡のあさぎり町の「荒茂の毘沙門天さま」の胎内に書かれた 平安時代の年号「久寿三年」

万福寺
黄檗宗大本山萬福寺をつい連想してしまうのですが、川筋にも昔万福寺というのがあって(廃寺)、
私の故郷の集落の尾方という家の主人はお寺からこられている と 聞いており、(もう 故人になられて 当人から聞くことは出来ないなあと思いますが、家紋はうちと同じ橘)
それで 目が 毘沙門天にいって あさぎり町の広報をみました。

あさぎり町の広報にもどって
今回、発見された墨書銘には、木造毘沙門天立像を、いつ、だれが、何の目的で作ったのかが判明しました。その内容は、「当郷の領主の藤原家永が、藤原氏の災いをなくし、命を延ばし、福寿を増長することを目的とし、勧進にあたった僧は源与で、仏師は僧の経助で、この地にて成就し、多治治助ならびに藤原氏の一家の平安を願って久寿三年(1156年)四月二日に安置した」ということが書かれています。久寿3年の年は保元元年にあたり、あの源平モノの大河ドラマなどではよく耳にする「保元の乱」という事件がおこった年です。「藤原家永」という人は、先ほど述べた『図田帳』の「藤原家基」の一族に強い関わりがあると思われます。
 さらに、仏師名と勧進僧名や平安時代前期に皇室と関わりがある「多治氏」の名前もあることから、球磨郡の平安時代をさらに問題提起をしています。

とあり、家永 図田帳 僧の名 多治氏 など いろいろ あらら と 思う言葉がありました。

家永は魚名流
伊達氏もそうで、
お寺の天井にあるむかで
百足紋を使う 武将

百足 は 毘沙門天の使い
武田信玄の近習衆には、ムカデ差物衆という一派が居ました。伊達政宗の従兄弟である、伊達成実も兜の前立デザインに使用しています。
使用例としては、日戸氏、本橋氏、粟津氏、白石氏などの各家が挙げられます。

菊池氏の家紋はといえば、「二枚並び鷹羽」として知られるが、もともとは「日足」紋を用いていたという。

上杉謙信が毘沙門天の生まれ変わりと信じていた。
むかでつながりでも これまでに出てきた家の名がありますね。

又 広報では 須恵氏も出てきますが、
大田氏は須恵は久米と書いておられた。久米は藤原のもともとの母方にある。

そして  以前 他のスレッドで コメントを頂いていた おばあさん だったか が 須恵氏だった という方。目をわるくしておられて この頃 途絶えていますが・・・須恵氏のご子孫は おられるようです。



[69]子孫よりさんからのコメント(2013年12月01日 08時01分51秒 ) パスワード

皆さま、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうござま〜〜〜〜〜〜〜す!!

しっしっしらいしさま〜〜〜\(◎o◎)/!
今朝のご教示で、糸口が見つかったようです\(◎o◎)/!

他の文献では万福寺は平河が建てたとあり・・・
藤原家永 魚名流 多治氏
事あるごとに、いずれかの名前・表記が出ていてとっても気になっていた所だったので、やっぱり!!何かある!!と確信してgoogleブックで
多治氏 良峯 で検索した所

Kokugakuin zasshi: - 第 77 巻 - 62 ページ(飛び飛びですいません・・)
そのほか女^であった多治比豊继と坂上又子を愛されて皇子女を儲けた。 ... また延暦四年良峯驚取(北家魚名の子)の娘夫人藤原小屎とし、前者では従三位として延暦七年茨田(万多)親王を生んだ女性は『一代要記』『紹迚録』に年に夫人に立てられ、中期以後・・・

延暦四年良峯驚取(北家魚名の子)の娘夫人藤原小屎
出ました!!藤原魚名の子は良峯驚取

そっそして!!藤原魚名 ウィキより
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AD%9A%E5%90%8D
川辺左大臣藤原魚名 正二位、左大臣。川辺大臣と号す。

川辺・・・・・\(◎o◎)/!川辺川!!

これは、多分、偶然ではないと思います。

実は、平河に関する様々な文書に「魚」と言う字がよく出ていたのです。
何せ、漢文なので読めずにてっきり川で魚を・・・とかいう風に(ー_ー)!!思っていました。

ウィキには
しかし光仁天皇の死後まもなく、左大臣を罷免された上、大宰府へ左遷された。息子たちも同時に左遷されている。

とあります。すなわち、九州に一族は・・・・
藤原魚名の三男 藤原 末茂は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9C%AB%E8%8C%82

肥後守 → 日向介に左遷されてしまう。その後その後赦されたらしく・・
でも、何で
藤原驚取は良峯驚取なのでしょうか?????????(?_?)

あれれっ??
延暦四年良峯驚取(北家魚名の子)の娘夫人藤原小屎
ううん?ちょっと待って下さい。この文章はおかしいです(ー_ー)!!

藤原小屎のお父さんは、まぎらわしいですが
藤原 鷲取(ふじわら の わしとり) 文書を転記する時に間違えたのかな?
藤原 驚取(ふじわら の たかとり) 兄弟でも紛らわしいですね・・まるで狩人のような(^◇^)・・(?_?) 狩り・・・?どこかで狩りの話を見たような?? 後で調べます<m(__)m>

所で藤原 鷲取(わしですよ)の二男が藤原 藤嗣。
そして藤原 藤嗣の三男が藤原 高房(ふじわら の たかふさ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AB%98%E6%88%BF

備後・肥後・越前等の守に任ぜられ、地方官として治績を上げるが・・
この方も 肥後守です。
そして、身長が6尺(約180cm)という長身で、人並み外れた膂力の持ち主であった。
平安時代に身長が約180cm\(◎o◎)/! すごいです。
平成の世で私の従兄が195cm。(関係ないか(^◇^)(?_?) 遺伝?)

この時代は名前が皆さんコロコロ変わったりしますよね。
高房さんは背が高くなったから高房になったのだったりして・・・(ー_ー)!!

今日の目標がきまりました(^◇^)
平安時代の球磨です。 あっ 球磨と言えば、
球磨は平安時代に 臼麻荘 と呼ばれていて、この呼び名をくまのしょうと言い、様々な古文書で熊野(くまの)と臼麻荘(くまの・しょう)がごっちゃになってしまっている可能性があるとの指摘を見かけました。
ホントかな??
では、今日は休みなのでがんばります。(*^。^*)










[70]子孫よりさんからのコメント(2013年12月01日 17時02分04秒 ) パスワード

皆さま、こんにちは。
白石様、朝のご教示がどんどん繋がってきました(^O^)/

古文書等を調べてきた中で、名前は出るけど、何故、平河と繋がっているのかさっぱり解らない人達が沢山いらっしゃったのですが、その中のお一人との繋がり?が判明しました。\(^o^)/

では、発表致します。じゃじゃ〜ん!その方は 三条公茂 さんです。
時代は1300年初頭なので、なんで三条家??と思っていたのですが・・(?_?)(^◇^) 解りました。\(^o^)/

では御説明を<m(__)m>
やはり、藤原家永 藤原家長 この方がキーマンでした。
藤原家長の子供 藤原隆雅 この人は 藤原忠雅の養子になります。
そして・・藤原忠雅は藤原隆雅(家長の子)以外にもう一人養子が・・
その方が 藤原行雅 - 実は藤原公行の子

藤原公行・・・三条 公行(さんじょう きんゆき)は、平安時代末期の公卿。三条実行の次男。  ここで三条家に繋がったわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%B6

下の歴代当主の中に 三条公茂 名前があります。
では、古文書の内容に戻ります。
この三条公茂さんの事を 鎌倉遺文では

伊勢少掾藤井松永内竪頭目良峯充村 <中宮大夫藤原朝臣>となっています。

良峯充村・・・三条公茂・・・中宮大夫藤原朝臣・・・(同一人物)
と言う事です。

良峯が出ました。と言う事は
藤原 鷲取(ふじわら の わしとり)良峯鷲取
藤原 驚取(ふじわら の たかとり)良峯驚取
この時代から
藤原魚名の流れは 実は 良峯 を名乗っていた!!と言う事ですか!!

私が見落としていたのかな?名前が藤原とか平とか源とか色々で(すいません)気づいていなかったのかな??
でも、もしかしたら、こっそり名乗っていたりして・・(ー_ー)!!
でも、平河は 「家は良峯です」と名乗っていますよね。??
でも、平河!!がメインの?名前です。

桓武天皇・藤原魚名の時代に何かあったのかな??
うん??例の事件でしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E4%B8%8A%E5%B7%9D%E7%B6%99%E3%81%AE%E4%B9%B1

この時は、主謀者周囲の人は 伊豆・隠岐・日向に流されていますね。
藤原魚名も大宰府に左遷されています。その事が理由で途中藤原魚名は病気で亡くなっています。
その後、子供たちは後赦された・・・

何か、ものすごく奥が深いような気がしてきました。
伊豆・隠岐・日向・・・伊豆・・・
そう言えば北条が何処にも出て来ていません。

中に出てきた人物「山上船主」船が付いているので物凄く気になって(平川家文書・道照等先祖開発私領也 道照・・船連ふねのむらじ)ネットで調べていたらこのサイトにこういうものが出てきました。
http://members-abs.home.ne.jp/bamen/souke1.htm

川継は死一等を減じて伊豆国三嶋へ配流とされ、不破内親王と川継の姉妹は淡路国へ流罪とされた。川継の流された三嶋は、父・氷川塩焼の流された地でもある。

伊豆国三嶋(三島)・淡路国。そして「正五位上山上朝臣船主」を隠岐守
隠岐は島根県。
北条に関係する地が次々と出てきました。

これは、どういう事でしょうか。
氷上川継の父の名は氷川塩焼  氷川です。・・・・氷川・・・
魚名は名誉を回復しましたが、それ以外の関係者(流された方々)はどうなったのでしょうか。

平河を調べてきて、とんでもなく奥の深い部分に遂に足を踏み入れてしまったかもしれません。

全ての点と線はこの事件から始まっているような気がします。
<m(__)m>








[71]子孫よりさんからのコメント(2013年12月01日 18時31分37秒 ) パスワード

追記
三方王・弓削女王は日向国へ、山上船主は隠岐国への配流とされた。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/mikata.html
妻弓削女王と共に日向国に任国配流に処せられる。以後の消息は不明。
消息が不明とは。

<m(__)m>
[72]白石さんからのコメント(2013年12月01日 22時48分25秒 ) パスワード

こんばんは
どんどん解明されているのですね。^^/

藤原★魚名の孫・藤原★鷲取の二男が藤原藤嗣で、妻★紀氏の子・三男・藤原高房(795-852)

★高房の子が、藤原★山蔭(824-888)で、孫娘の時姫が藤原★道長の母。
前に大阪茨木の総持寺縁起で この人は出ましたね。

藤原山陰は京都吉田神社も建てたといい、このあたりは百済の人がいたという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
三条
閑院家流
閑院流藤原氏は、三条・西園寺・徳大寺家および西園寺家庶流の今出川家が摂家に次ぐ家格の清華家、三条家庶流の正親町三条家および三条西家がそれに次ぐ大臣家となって公家中に重きをなし、他にも羽林家として19家があって一門繁栄した。

★堀河も確かそうですよね。近世明治天皇の弟君の母も堀河氏だったはず。
★高丘も属閑院家。
★高倉も藪と変え属閑院家。
三条氏は★武田信玄の正室ですね。

三条の方(さんじょうのかた、大永元年(1521年)? - 元亀元年7月28日(1570年8月29日))は、甲斐国の戦国大名である武田信玄の継室である。左大臣・転法輪三条公頼の次女。姉には★細川晴元室、妹には★顕如の妻の如春尼がいる。子には武田義信、黄梅院★(北条氏政室)、海野信親、信之、見性院(穴山梅雪室)がいる。本名は不詳。一般には三条の方、三条夫人などと称される。

川辺の言葉をたどりたどれば 伊勢神宮外宮にあり、四門の筋だけど、祖先に天牟良雲命がいるのですよね。

出雲の 前にお話した 向家の方は 神武天皇を天牟良雲命といっておられ、
外宮の遠祖は神魂尊で、

神戸の鷲尾家では 神武天皇を神魂尊につないでいる。
鷲尾は 中原でもある。
こういう部分は 今の話題では 飛躍しているかも知れませんね。

武田には竹田川辺 大伴竹田 の言葉があり、武は 菌(金)の 字も つかわれる。(菌田)昔の人の名は 字の表記も違うことがある。
うちの方の竹田さんの目が大きい話も前にしましたね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
魚名子孫(四条家・奥州藤原氏・山内家・大友家他)
伊達氏は、藤原氏の山陰流で鎌倉期の安達氏とは"遠い"同族に成ります。 大友宗麟の大友氏は奥州藤原氏の千種流に成り、此の血縁集団は、西行・佐藤兄弟・少弐氏・結城氏・大石内蔵助と縦にも横にも相当に大きいと言う事に成るかと思い ・・・※これをさらに遡れば 中原になる。

伊達氏と奥州藤原氏はこちらはこちらでつながってきます。
伊達にも 白石の言葉が。
ーーーーーーーーーーーーー
ところで
勲章の話ですが、私の白石の祖父も子供の頃両親をなくして苦労して育ちましたが、(農高に勤めて)

父も早くに両親をなくし、苦労して育ち、
海軍にいました。甲種合格だといっていました。
それで
家に 小さな勲章がありましたが、多分 兄が持っているのだと思います。
一度だけみたことがあるのですが
従五位下 と 書いてあったようです。

子供ですから 小さいし、旭影(多分こういうのだろう)の形のものにリボンがついていました。が、ふ〜ん と いう程度だったと思います。
父が命を懸けて頑張っていただいたものだけど、もしかしたら 当時は 勲章乱発かな?とか 思っていました。

この頃 昔の人の位階などを 見る機会が増えて 
藩主クラスの人でも 従四位なのをみて 父も大分頑張ったのだなあ と 思います。

[73]子孫よりさんからのコメント(2013年12月02日 00時36分33秒 ) パスワード

皆さま、今晩は。
白石様、ご教示ありがとうございます。
白石様、お父様、今、きっと白石様のお言葉を聞かれて喜ばれていらっしゃると思います。(^・^)

ところで・・・またまた、見つけてしまいました。\(^o^)/
平安時代から鎌倉時代にかけての球磨の領を治めていた其々の人の本名?が解りました。

熊本県の歴史 - 36 ページ
郎、永吉荘三五 0 町は平河師高がそれぞれ地頭に補せら平家没官領のことで,西村の・・・ 須恵荘一五〇町は須恵小太鎌倉殿御領とは(藤原季隆) .久米三郎(藤原真宗) ,藤原茂綱,尼西恵小太郎(藤原高家)は政所となって荘務を処理し.合志次郎(藤原友永)が下司 ...

整理します。
須恵小太(郎?)・・・藤原季隆
久米三郎・・・・・・・藤原真宗
合志次郎・・・・・・・藤原友永
尼西恵小太郎・・・・・藤原高家・その他・藤原茂綱

全ての方をまだ調べていないのですが・・
良いですか!なんと久米三郎・・藤原真宗
見て下さい!!
http://www.geocities.jp/japanischekonigsfamilien/japan/56-koi5.html

藤原真宗女(ふじわらのまさむねのむすめ)
夫     清和天皇
第十皇子  貞頼親王

久米三郎 (藤原真宗)は 貞頼親王のお爺様です\(◎o◎)/!

私、間違っていないか??と思い色々見たのですが

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/huziwara.html

■肥後の藤原氏
菊池氏の人は古くより藤原姓と載せ、又、相良文書球磨郡田数領主目録に「人吉庄下司藤原友永、政所藤原高家、地頭藤原季高、(藤原茂綱、藤原真宗)、藤原真家、藤原家基」等を載せたり。

やっぱり、間違っていないようです。

もう、この頃は球磨に関しては何が出てきてもそうそう驚かないぞ!!と思ってきたのですが・・やっぱり、びっくりしました\(◎o◎)/!
どうやら、平河も藤原と関係ありそうだし(でも、平重盛公もとても気になります)
もう、こうなれば、平河の調査ではなく球磨の調査をした方が、すんなり平河に繋がっていくのでは?と思い始めました。
では<m(__)m>


[74]子孫よりさんからのコメント(2013年12月02日 07時05分15秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

球磨の調査を続けました。
では
合志次郎(人吉次郎ともありました)・・・・・・・藤原友永
藤原 伊勢人(ふじわら の いせんど)の子供
藤原 伊勢人 は藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の七男 です。

須恵小太郎・・・藤原季高
藤原有季 4男 曾祖父が藤原敦光 でその父が藤原明衡そして・・・
その父が藤原敦信 \(◎o◎)/! やった!!繋がりました。
藤原敦信の妻は良峯氏でした。
私、平河の事を調べていたのに、何故か球磨の他の家の事を調べていたようです。

おや?まてよ??
藤原敦信は肥後守なので、その奥さんとなった良峯氏とは何処の良峯から嫁がれたのかな?? まさか?!

今朝はここまでとします。
球磨の様々な時代の方々が見えてきました(^◇^)
 


[75]子孫よりさんからのコメント(2013年12月02日 23時40分15秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
朝の続きを。

藤原真家・・・藤原行家の子
甥の左衛門尉薩摩守 経国の娘は藤原 顕綱(ふじわら の あきつな)の妻となったが、禎子内親王の乳母であった関係から後三条天皇に近く、次男の有佐は実は後三条天皇の落胤であったと伝えられている。

藤原家基・・・藤原家光の子供
藤原家基の娘は・・・尾張局(皇嘉門院尾張)

そして、今までの話には出てきていない名前が別にでていました。
それが尼西妙。この方どなた?と思って調べたら
北条義時の妻でした。


しかし、名前を用いて調査する事の難しい事・・・
だって、久米三郎 が 藤原真宗 ですよ<(`^´)>
元の名前から想像もつかない名前なのです。(@_@。

本当に、参りました。
<m(__)m>




[76]白石さんからのコメント(2013年12月03日 00時29分21秒 ) パスワード

こんばんは
今まで 来春の同級会の出欠とりまとめの葉書を作っていました。
年も年になってきたら 元気一杯の人 及び腰の人 さまざまです。
女が多い集まりなので、ピーチクパーチク賑やかになりそうです。
前回も 長い時間店で座りこけて、出てからまたコーヒーなどのんでいつ果てるともない楽しい時間が持てました。

子孫様 いろいろな名前が出てきますね。
合志次郎   確か菊池系図に載る 合志九郎は相良氏と大田亮氏は書いておられたような。
次郎の兄弟でしょうか?
[77]子孫よりさんからのコメント(2013年12月03日 06時13分19秒 ) パスワード

皆様おはようございます。
白石様、同窓会の準備おつかれさまです。(^・^)
でも、とても、楽しそうで(*^。^*)いいですね。
そういう時間は絶対に必要ですよね。(^・^)
私も、来年は同窓会に行ってみようかな。

合志次郎・合志九郎・・・・ううん?よくわかりませんが、多分違うのではないでしょうか。
時代が異なるのではと思います。
なんて、偉そうに言いましたがやっぱりわかりません。調べて見ます(^O^)/

それと、調べていて思うのですが、鎌倉時代以前に球磨を治めていた人達に血縁関係は無いのではと。(婚姻関係はよくわかりませんが)

ただし、かなり重要な関係性を持っているのでは?とは思います。
そうか、やはり赤部族(馬韓系)や白部族(辰韓系)といった所に繋がっていくのかな・・・
もともと菊池も藤原・相良も藤原。
でも、どの本にも、平河は平河のままなのです??
だから、平河の調査だけが前に進まないのです。
尼西妙は平河か?という話をみつけて「やった〜」と思って調べたら、やはり北条だったので・・・
北条氏が世に出て来る前から、平河は球磨に居た訳ですから(康平6年(1058)、平河三郎帥澄が求磨郡(球磨郡)臼麻荘を領しているという記録)それに西諸県縣郡司というのもよく解りませんし。
平河師貞の名前には平(たいら)と紀が入っていて・・・・
あ〜ここだけ堂々巡りです。

合志・久米・須恵・人吉と言った方々が誰だったのか解っているからここで一気に\(^o^)/と思ったのですが・・・

でも、きっと
平河三郎帥澄とはこの人でした〜\(^o^)/と言えるようにがんばります。
<m(__)m>


[78]子孫よりさんからのコメント(2013年12月04日 23時54分02秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
球磨の事。祖母方の平河の事を調べながら、今日は、ふと、「そう言えば、宮原と平川の接点はいったい何処からなのかな?」と思い、宮原(橘)の祖でもある橘 公業について、もう一度調べてみようと思い立ちました。
早速ウィキを見たのですが・・・

平河と北条の関係を理解していなかった以前は全く気付かなかった事が!
ウィキより橘 公業
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%85%AC%E6%A5%AD

承元3年(1209年)12月、御家人の美作朝親の妻と密通していたことから、朝親との間で合戦となり掛ける事態となり、実朝の命を受けた北条時房の仲介により事なきを得るという騒ぎにまで発展している。

あれっ。密通ってぽっ(*^。^*)ご先祖様ったらもう(*^。^*)ダメじゃないですか(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
合戦に発展しかけたとは・・・なんと言う事でしょうか。

ううん?仲介をしたのは・・あっ! 北条時房!
宮原(橘)の先祖・橘 公業は祖母の実家平川(平河・北条)の北条時房に助けてもらったと言う事です。
そして、橘 公業は
嘉禎2年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡[1]を西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ、子孫は肥前国を中心に広がることとなり、かつて所領とした小鹿島の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。

そうです。肥後国球磨郡久米郷を与えられ・・。これが多分今の私の球磨の実家辺りだと思います。
そして、祖母の実家、平川も同じ地区にあるのです。(同じ地区★侍村<まちむら>地区ですが、田舎なので其々の土地はめちゃくちゃ広くて、でも御近所!みたいな感じですが)
これは、もしや恩返し??(単純すぎるかな?)
それか、平川が持っていた土地(領)のいくらかを宮原(橘)が請たか??
旧宮原村の時代には村長は宮原で助役が平川でした。ううん??

伊予。本領であった伊予国宇和郡。あれっ?伊予と言えば伊予北条氏。
越智姓・河野氏の庶家・・・越智に繋がっていた!!
日本の苗字七千傑様からコメント10でご教示頂いた

新羅(辰韓)の別称である海原は次の三カ所です。
伊予国風早郡浅海原邑、豊後国大分郡海原邑、肥後国下益城郡常海原邑。
中でも新羅初代赫居世はカクイヨで伊予を暗示しています。
伊予と言えば三島四郎義清で、辰韓系挽回の遠因となっています。

このお話でも伊予国風早郡浅海原邑。

宮原(橘)・平河(平川)<良峯であり平であり北条でありなお且つ紀でもある)
根底にある共通点は ・・ 白部族(辰韓)

私自身は偶然にも、越智の血が流れる人と結婚して、子供が生まれたと言う事ですね。
偶然とはいえ・・・本当に不思議です。

さて、明日は休み(有休消化)なので、本腰を入れてがんばります。
<m(__)m>




[79]白石さんからのコメント(2013年12月05日 00時15分00秒 ) パスワード

こんばんは
お元気ですか?

北条時継 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/北条時継‎
北条 時継(ほうじょう ときつぐ/北条 為時 ほうじょう ためとき、安貞2年(1228年) - 没年未詳)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府の六波羅探題北方・連署である北条重時の長男。母は正室で★苅田義季の娘・荏柄尼西妙(えがらのあまさいみょう)。

(北条義時の三男・北条時政の孫)(北条政子の甥)北条重時
||-----------------------北条時継(苅田時継)
正室で苅田義季の娘・荏柄★尼西妙・・・この人でしょうか?

武家家伝苅田氏で検索

和賀氏(苅田平右衛門尉の一男は和賀三郎兵衛尉義行)
稗貫氏(近年の研究ではその本姓は中条氏であった)
  稗貫氏は『伊達世臣家譜』などにの記録により、伊達氏から分かれたとするのが説が流布されていた。

頼朝の旗揚げに際して成田太郎成綱と弟の中条義勝房法橋成尋

成尋の嫡男家長は八田知家の猶子となり、本姓藤原氏を称して中条藤次家長を名乗り中条氏の祖となった。

稗貫氏とともに陸奥の中世史に足跡を残した和賀氏は源頼朝の後裔と称しているが、家長の弟苅田平右衛門尉義季の子義行が和賀を称したことに始まるという。


鎌倉時代から戦国時代に至るまでは苅田経元の子孫である白石氏
白石氏の家譜によれば、家祖・刈田経元は藤原経清の子で、奥州藤原氏初代・藤原清衡の同母兄弟であるとしている。

奥州藤原氏と伊達氏は微妙にからんでいる。伊達氏の片倉。片倉にも白石。

余りこのあたりは調べていないのですが、苅田には 坂上田村麿の父・坂上苅田丸の言葉もある。

ばくぜんとしているけど、白石が出てくる。
[80]白石さんからのコメント(2013年12月05日 00時41分00秒 ) パスワード

中条家長は
61から65平川家子孫続き2の新堀家にからんでいる?

又新堀家は
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kojima&dd=22&re=635
635.東寺長者道乗室、上沢家長(『中原家長』『中條右馬允家長』
に関係している?
私の家にも関係してくるようなのだけど もやもやして・・・
小山 白石 佐田 高岡 小野 など うちのほうは 簡単な苗字なので・・・

八田・・・高岡 ・ 佐田が関与してきます。姻戚関係でからまっているようです。

佐田は猿田彦・・白鬚明神 白石は安陪郡磐井郷があり、磐井を名のった。高岡は八田。
子孫様の調査力に期待しています。
[81]子孫よりさんからのコメント(2013年12月05日 09時03分37秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございました。

苅田義季の娘・荏柄尼西妙(えがらのあまさいみょう)
この方だと思います。
東大の鎌倉遺文にも名前がありました。尼西妙
何方かの、お婆さん(祖母)という表記でした。
ア〜こんなに見ているのに漢文も相変わらず解らないし、古文書では名前じゃなくて、例えば、何とかの守とかういう表記にしかなっていないので、さっぱり?この何とかの守さんは誰?状態です。

ただし、現代の本の中には尼西妙は平河か?という記述があって、ううん?やっぱり北条か・・と。
でも、何度も言いますが、北条氏が世に出て来る前から平河師澄と言う名前は球磨の古文書には有った訳ですから本当に?????です。
それに、古文書では平河は良峯氏と記述されているのですが、北条の話には良峯は登場して来ないのですよね??
もしかしたら北条では「家は平河だけど良峯は名乗らないもんね<(`^´)>」という頑固なまでの拘りがあったのかな?(ド素人の考えですが何かあるかもと)☆ この内容は皆様気にしないで下さい(ToT)/~~~

中条氏ですが・・
この名前も調べていると、出て来るのです。??
もしかしたら?ですが、平河の血はいろいろな所に入っているのではないでしょうか?

そして、私が今まで、全く触れていなかったのが中原氏。
平河を調べている時に、あまりにも頻繁に出て来る中原の名前だったので、逆にスルーしていました。???

私の頭の中も興味がドンドン湧いて来て、収拾がつかない状態で、整理しなければと思うのですが、例の感がこの時ばかりはじゃまをして(もう!!)、次々に動こうとするのです。(他人事のように言ってしまいました)

そして、今、特に聞こえて来るのが、「江戸城・江戸城」の声。(マタマタ(ー_ー)!!との声が・・)
北条が平河を名乗っていたので、平河御門などの名前が付いているんじゃあないの?(ー_ー)!!とは思うのですが・・
何でしょうか?これは?
まあ、声に従って調査してみます。(一応です(-_-;))
★皆様、あまりにも先祖の調査が進まずに私の脳が変になっている?と思わないで下さいね。(@_@。頭は冷静です(-_-;)ただ、例の感が・・何方か科学で解明して下さらないかな〜切実に願います(@_@。
でも、例の感で、須恵小太郎(藤原季高)・・・藤原明衡そして父藤原敦信が繋がった訳ですから、自分でもちょっとだけ信じてみようかなっと思ってきました。

それに、どの家も同じかと思うのですが、家・土地(領)を守るのは一人でも良い訳ですから(特に球磨は荘園であり、自分で領土を増やす訳にはいかない場所ですから)、じゃあ他の人は何処に行ったのかな〜と。
そう考えた時に、何処か他の土地に行った平河の人?にコレマタ宮原の誰かが付いて行っていないかな〜とも考えます(?_?)

それと、白石様。
御迷惑?かも知れませんが、どうもやはり、白石様のご先祖様と私の先祖は深い関わりがあったと思います。
同時進行で解明出来たらいいな!と思います。
微力ですが、一生懸命がんばりますね\(^o^)/


[82]子孫よりさんからのコメント(2013年12月05日 14時14分01秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

朝の宣言通り?今日は、原点に戻り(平河安則・義高が肥後山本庄に居たという事実と、そこは大江広元の領であった事。そして、球磨においても、大江広元が領を管理されていたという事を振り返り)中原氏と平河の繋がりについて調べて見ようと思ったのです。

早速、日本の苗字七千傑様のサイトを拝見しました。
順番に画面を見ていた所、有象系中原氏に「師」のついた名前が続いていたので気になってそのまま「大外記中原氏」のリンクをクリックして「あれっ?師が付いた方がいっぱい!?」と。(相変わらずです。すいません)
皆様から、なんの根拠にもなっていない!とお叱りをうけるのは覚悟の上ですが、この「師」の付いた名前の方々がとても気になって目で追っていくと・・
「師澄」という名前の方が二人いらっしゃいました。
いろいろなサイト・文書を見て来て、中々「師澄」と言う名前が出て来なかったのにこの画面には二人もいらっしゃるのです!?
何だろうか(すいません)この「師澄」さんがめちゃくちゃ気になります。
でも、お二人ともその先がないのです。ううん??
時代も解らないし、名前が一緒だからと言ってうかつには物は言えないし。

もう少し、調査いたします。<m(__)m>


[83]子孫よりさんからのコメント(2013年12月05日 23時59分32秒 ) パスワード

皆様、今晩は。ここまでの御報告です。
北条氏と中原氏の繋がり、まずは、
北条時政の娘 は中原季時室となっていました。
その方以外に同じく娘の竹殿は京都守護 大江親広および土御門定通室。
中原と大江に北条時政の娘は嫁いでいると言う事です。

ちなみに中原季時(すえとき) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%AD%A3%E6%99%82
ところがこの方と父は、情報が入り乱れています。
父中原 親能(なかはら の ちかよし)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E8%83%BD

明法博士・中原広季(貞親流・貞親の曾孫)の子で大江広元と兄弟であるとする説と、参議・藤原光能の三男で中原広季の養子になったとする説がある。後者は大友氏系図にあるものだが、親能が後に中原姓から藤原姓に改姓していることの反映と思われる。
藤原に改姓と言う事で
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E8%83%BD
同姓同名の人が沢山出てきました。

中原季時は中原氏の系譜には出てきません?。
そこで、藤原季時 と検索すると・・・コメント74で書いた
須恵小太郎・・・藤原季高
藤原有季 4男 曾祖父が藤原敦光 でその父が藤原明衡そして・・・
その父が藤原敦信
この藤原季高の従兄?に同姓同名の藤原季時が・・??
しっかり調べないとどうなっているのか良くわかりません。

そして、この事を調べている時に一体誰だろうと思っていた人が思わず見つかりました。
北条義時の子供 北条泰時の娘 閑院流 藤原実春室 

平河家文書より
住当所畢、不及尋例於他所者也、依実春朝臣之押領、良貞乍帯御下

藤原実春が平河家文書の実春朝臣だと思います。そして「領を平河良貞が請けた」という事でしょうか?

藤原実春と言う方は、ネットで検索しても、出ません。
大井実春と言う人は出て来るのですが、藤原では無いし??
この方に関する記述を見たのですが、よく解りません。紀氏でした。

いつも、ここは!!と言う時にこのような事になるのですよね(@_@。
めげずにがんばります。<m(__)m>








[84]白石さんからのコメント(2013年12月06日 02時51分38秒 ) パスワード

おはようございます。
中原親能・毛利広元(中原・大江)あたりは 彼らの母方(中原)のつながり。
前にここらあたりを大友能直などとしらべたファイルが なんとしたことか、コンピューターが動きが悪いので古いファイルを整理した時 凍結してしまったのですが、う〜ん 復元が・・・

やりかたを 教えていただけないでしょうか?
復元したら現在のものが 消えないのか?と心配です。

中原は紀につながっていくし・・・これは あれも佐田、これも佐田という目でとらえると じょろじょろと浮かび上がってくるグループがあり、それは 漢王室と姻戚関係を持っているサダ突厥がいるという目でとらえると私には わかりやすいのですが。

http://www.geocities.jp/okugesan_com/hokana.htm
公卿類別譜中原 を見れば
善村 ━ 善良 ━ 善岑というところがあるのですが、名前が苗字になったのか?
自分で見つけていうのもなんですが、こういうのがあるわ と言うくらいです。わけがわからないところにとりついているより こんなのがある 位で、毛利と大内、大友 伊達 などのつながりですよね。

大友・大内・毛利は母方中原つながり。
鎌倉将軍家のあたりの一萬丸などにも前に見た本で 中原のことばがありました。





[85]子孫よりさんからのコメント(2013年12月06日 05時50分12秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます。
「漢王室と姻戚関係を持っているサダ突厥がいる」
白石様、お願いがあります。
今までにも、何度か教えて頂いていたのでしょうが、私、全く理解していませんでした。
この、漢王室との姻戚関係のお話をもう一度ご教示いただけませんでしょうか。

実は、何度も見かけたのです。多分「漢王室」に関する情報を。
でも、意味が解らないし「あ〜これは偶然出てきたのだから(ToT)/~~~」と全部無視をしてきました。
中国には平河と呼ばれる川があるのかな??と。(?_?)
でも、やっぱり気になります。
簡単で結構ですから、大筋を教えて頂ければとても参考になります。
どうぞ、よろしくお願い致します。


[86]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年12月06日 21時00分03秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>中原季時は中原氏の系譜には出てきません?。
 
中原氏閨閥図を見れば明解。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213_002.gif

季時とは淵名季時のこと、一般的な系図では実態が解らない。
本姓藤原だが、父親能が中原広季の養子になったから自動的に中原季時に。
中原氏そのものも遡れば尾張氏(熱田大宮司一族)から養子が入った。
源頼朝も熱田大宮司家と姻戚関係。
北条氏嫡流も鎌倉幕府滅亡後は尾張姓(熱田大宮司一族)横井氏へ系は移る。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01112_001.gif
幕末の横井小楠は、この系統だね。
親戚には徳冨蘇峰、蘆花あり。
 
鎌倉幕府と言うのはね、中原氏を連結家系として惟宗/藤原/大江/源/北条/越智が繋がり、九州守護の名族島津/大友が頼朝後裔を称して鎌倉居住(いわゆる遙任)、いづれも下向したのは三代目以降。
現地の平氏没官領には代官が送られたが、現地旧勢力が手強く実効支配が確立したのは室町時代以降だから、古文書で教科書的な解釈をしても無意味なことも念頭にいれておいて下さい。
 
劉姓だからと言って漢王室と短絡してはいけない。
南匈奴の末裔も漢王室との姻戚で劉姓を称している。
例えば九州久留米に多い劉姓古賀氏は、南匈奴の後裔と思われる。
欽明朝に来朝した和薬使主などは典型的。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03028f.htm
[87]白石さんからのコメント(2013年12月07日 00時54分05秒 ) パスワード

こんばんは
いよいよ12月も残り少なくなって、何だか気ぜわしくなってきました。

子孫様
昨日でしたか話しました 凍結させてしまった中に昔調べたものが入っていて、ネットなどからの知識になりましたが、図書館の少し古いアジア辞典にサダ・尾方などのことが書いてあります。

@鮮卑と契丹は同祖・・・つまり楊氏とサダは同祖。
Aよりもその祖先はさらに遡るけど(神農氏(赤帝・炎帝))
A沙陀族 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/沙陀族‎
沙陀族(さだぞく、さたぞく)は、8世紀から10世紀頃まで、華北-オルドス-山西近辺の地域で繁栄したテュルク系民族・突厥の一部族
※チュルク系に関与してくるのが 朴氏
B後漢(五代の)・・・建国者は突厥沙陀族の劉知遠で、劉姓であることから国号を漢とした
C又 匈奴王族のレンタイ氏は漢名で劉姓持ってたし漢王室と婚姻関係結んでたやん.(ネット投稿から)
Dアイシーンは西の方にいた雑種で、後董氏を名のる。董氏・竇氏は漢王室皇后にある。
E或いは云う。突厥の祖先は索国の出で、匈奴の北に在った。(ウィキより)
F辰国は多数の小国に分裂して、馬韓[54ヵ国:爰襄国ㆍ牟水国ㆍ桑外国ㆍ小石索国ㆍ大石索国ㆍ優休牟涿国ㆍ ...(いにしえララバイのブログ - Yahoo!ブログより)
G倭人の地域国家群の形成の進展 - Hi-HO
www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/11.htm‎
扶余の始祖王「東明」はより北方の「索離国」(後漢書扶余伝)(他の史書ではトウリ国とか高離之国とか様々です)から川沿いに逃れて扶余国を建国していますので、扶余族は、嫩江(ノンコウ)河口域すなわち黒竜江南岸から大興安嶺の北部にかけて、居住し ...
H劉累 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/劉累‎
劉累(りゅうるい、紀元前1734年 - 紀元前1692年)は、夏王朝の重臣。帝堯の子孫。劉邦の123代前の先祖。劉氏の始祖ともいわれる。「新唐書」によると祁氏・杜氏も劉累の子孫という。 拳竜氏という龍を飼い慣らすことができる一族から龍の飼い方を学んで
I劉累は家族を伴って魯陽(今の河南の魯山)に逃れた。これが河南劉姓の起源とされる(一説には、劉累の故地・・・
J劉邦?は公主の夫で良い人間に劉姓を与えた。

ピシパシとかけなくてごめんなさい。
 
[88]子孫よりさんからのコメント(2013年12月07日 00時55分37秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
中原季時とは淵名季時のことだったのですね。
淵名氏は藤原魚名の裔となるわけですね。

ご教示頂いた鎌倉幕府の繋がり
中原氏を連結家系として惟宗/藤原/大江/源/北条/越智
全て、私が意味が解らない状態で、球磨の平河を調べていた時に出てきた家々です。私は偶然に平河という一つの入り口からその繋がりをグルグル巡って調査していたと言う事がわかりました。

実は、お話の中にあった惟宗氏は、球磨の歴史・平河についてを研究した本の数々に頻繁に登場していました。
古文書で見た時は、姓だと解らずに、何方かの名前かと思っていました。
球磨においては惟宗氏と平河はかなり深い繋がりがあったのかと思います。
でも、本も一冊を買って読んだ訳ではなく、ネットで断片的にしか見ていないので、全く理解していないのと等しい状態でした。
明日は、休みなので図書館や・書店を廻って見ようと思っています。

ちなみにネットで見つけた記述にこのような事が書かれていました
肥後における集落の展開と祭祀 - 204 ページ
しかし『平川文書』の「建保四年当国惣図田帳」には、「永吉三百五十町地頭良峯師高子息平河平二」次に先の「田数領主等目録写」の鎌倉殿御領五百丁のうち永吉三百丁にっいて「地頭良峯師高子息 ... 惟宗氏に代わった日向の田部氏と同族であろう。 2 米之 ...

惟宗氏に代わった日向の田部氏と同族

コメント28で日本の苗字七千傑様からご教示頂いた
田部氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/04/04005f.htm
「中でも田部直亥宿禰は宇佐八幡宮の総弁官なのだから、秦韓(辰韓)系」

この田部氏がついに出てきました。
平河はこの田部氏と同族ではないかとの記述です。
検索するワードを変えるとここまで情報が出て来るものかと、本当に驚いています。

きっかけを頂いて本当にありがとうございます。
惟宗と田部 こちらの繋がりも勉強していきたいとおもいます。
<m(__)m>


[89]子孫よりさんからのコメント(2013年12月07日 01時41分45秒 ) パスワード

白石様、ご教示ありがとうございました。
遅い時間まで手間を取って頂いて本当にすいません。

平河を調べている時に漢王朝の話が出て来て意味が解らなかったのも一つですが、興味を持った一番の理由が、やはり、祖父と祖母の行動にあったからです。

確かに祖父は陸軍では士官だったのですが、何より、宮原の後継ぎであるにも関わらず、全てを祖父の姉に託して、家族共に大陸に渡った事に何か重要な意味があったのでは?と思います。
祖父は、沢山のノートを書き残していましたが、何かを調べていたような感じでした。
以前は、内容を見ても全く意味が解らなかったのですが、少しは歴史を調べてきて、もしかしたら、今度ノートを見る時は何かを私自身が見つける事ができるかも?と思っています。

このお話を書いていて思い出したのですが、祖母が亡くなる前に、一緒に戦前・戦中をテーマにしたドラマを見ていて、女性のスパイ(名前を忘れました)の役の人が出てきた時に、「ばあちゃん、この人好かんかった。じいちゃんとパーティーに出かけた時、この人、じいちゃんにものすごく馴れ馴れしくしてきて、色目を使ったから、ばあちゃんはこの人大嫌いになった。」とついこの前の話のように怒っていたので、私もびっくりした事を覚えています。
祖父がどのような仕事をしていたのか良く解りませんが、直感的に、すごく重要な仕事だったのかな?とは思いましたが・・

脱線しますが、自分の祖父ながら、写真を見てもかなりかっこいい、今で言うとイケメンでしたね(^・^)。それで、祖母はヤキモチをやいたのかな?
でも、あの女性スパイと呼ばれていた人は誰だったのかな?

なにはともあれ、二人は大陸に何か大事な事を見つけたのかも知れません。
だから、家の事全てを託して渡ったのかな?と孫としては思うのです。

かなり前の政治家で園田直外務大臣という方がいらっしゃいましたが、祖母とはとても親しくして頂いていたようです。(私は子供だったので、お会いしても意味が解らず、テレビに出ていらしゃるお姿を見て、てっきり俳優さんか芸能人だと思っていました。ばあちゃん、芸能人のお友達がいてすごいな!と(ー_ー)!!)
この方は中国との国交回復に尽力をつくされたと言う事は後で知りました。

あ〜また、祖母に対しての反省が・・いっぱい伝えたかったのでしょうに・・

でも、皆様のご協力で、沢山の事がわかってきました。
本当にありがとうございます。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。<m(__)m>


[90]管理者 aさんからのコメント(2013年12月07日 02時15分47秒 ) パスワード

レスが90になりました。
早めに次のスレッドに移行してください。


このスレッドはお知らせ無く「99」になりましたら閉めます。



次のスレッドにはこの「お知らせ」は書きません。
よろしく
[91]子孫よりさんからのコメント(2013年12月07日 06時37分10秒 ) パスワード

新しいスレッドを立ち上げました。
皆様、今後ともどうかよろしくお願い致します。

平川家について6
http://hikoshima.com/bbs/heike/101337.html
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.