[1] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月04日 00時06分52秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様。来年度の消費税増税は、やはり、この期を全て理解した上での政策なのでしょうか?
昔は政治の事を祀り事と言っていましたが。ちゃんとした意味があったのですね。
朝から深く考えました。「金座」の時期に何かが起こると・・ではなぜ、先人は易をおこなったのかと。
すでに起こりうる事が想定できた場合、防ぐ事が出来ないのであれば(回避する事が出来ないのであれば)・・その時に最大限の努力をして被害を少なくする。これは、人間の力で今からでも出来ますよね。
もちろん、何も起こらないように祈る事も大事かもしれません。ただ、先人の意図は「起こりうる事(情報)はしっかりと伝えた。ここからは、今(その時)を生きている人達が、しっかりと事実を受け止め、皆で考え、力を合わせて、極力、被害を少なく出来るように努力しなさい」そういう事ではないのでしょうか?
例えば・・巨大南海地震はとても恐怖です。でも、多分大多数の人は「でも、まさか。ずっと先の事でしょう」と真剣に受け止めていないかもしれません。でも、これからの私は、先人の言葉、宇宙からのメッセージをしっかりと受け止めて、地震が起こった時はどのようにすれば良いのかを、理解して(避難場所等)安全に的確に動けるように努力します。このような意識をだれもが持てるようになれば・・・
古代の方々は、子孫となる私たちにとてもありがたい情報を残して下さったのですね。<m(__)m>
[2] | 管理者 aさんからのコメント(2013年10月04日 06時21分18秒 ) | パスワード |
このスレッドは『平川家について(続)』http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101324.html
の続編です。
[3] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月04日 06時42分27秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
早いもので、もう金曜日です。\(~o~)/
今朝は、白石様からご教示して頂いたスレッド”84”の「馮 弘」の渡来について関するサイトの文章を読み返していました。
河内・飛鳥と深い関係がある事もあらためて理解出来ました(^○^)
ううん??河内・飛鳥・・・ 前スレッドで、香春町の河内王陵に触れましたが、あの時ウィキで ”河内王は長親王の第一子”とあって、長親王は飛鳥の”キトラ古墳の被葬者とする説も存在している。”とありました。\(◎o◎)/! 河内・飛鳥
皆様から頂いた今までの沢山のご教示は、全て最初の疑問は別の内容から始まっていたのですが、こうして見ると、繋がっていて・・・!!
古代から現代に至る歴史。日本の苗字七千傑様・白石様のお陰で本当に面白くて(ご教示なのに、すいません)仕方ありません(^○^)。いや、新たな謎が出てくるとワクワクします。 あ〜もっと早くに目覚めていたならば〜(*_*)
学生の頃、数学の応用問題を解くのが大好きで、問題を見たとき普通は答えを出すという観点から進むのでしょうが、私は”謎を解く”??→\(◎o◎)/!→(^○^) このような感じで・・ワクワクしていました。だから、当時の歴史の勉強は、もうすでに答えが解っている事をただ暗記するといったイメージで本当は・・・(-_-)(-_-) ・・
でも!!!!まったく違っていました。謎が謎を呼び・・様々な事柄が繋がって、本当に楽しくて仕方ありません。\(~o~)/
これも、全て日本の苗字七千傑様・白石様のお陰です。
あらためて、ありがとうございます。
[4] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月04日 21時36分54秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>日本の苗字七千傑様。来年度の消費税増税は、やはり、この期を全て理解した上での政策なのでしょうか?
九星気学では五黄土星が中宮に回座する年は重大な転機や事件発生確率高し。
1941年 太平洋戦争勃発
1950年 朝鮮戦争開戦
1959年 キューバ革命
1968年 ソ連東欧五カ国軍チェコ侵攻
1977年 香港返還
1986年 チェルノブイリ原発事故
1995年 地下鉄サリン事件
2004年 尖閣列島不法上陸事件/自衛隊イラク派遣
2013年 TPP参加決定/消費税増税決定
対中強硬姿勢は太平洋戦争開戦意思決定と同じですが、今回は米国との海洋国家連合なのが違い。
[5] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月05日 00時05分36秒 ) | パスワード |
今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
世界規模なのですね・・。戦争・事件・国家における転機
そうですね。世界というよりこの地球にとってと言った方がよいのかも知れません。考えてみたら、宇宙の中では何処どこの国とかは言いませんね全て星が単位。だから、”地球”にとっての、重大な転機の発生確率が高い・・
今はまだ10月。あと3カ月は残っているわけです・・。
九星という事で同じ星のめぐりは9年毎となるのでしょうか?
来年は2014年。9年前2005年に国内では何が起こったのかな?と調べてみると、郵政民営化の賛否を国民に問うとして、衆議院を解散した(郵政解散)そして郵政民営化法案 可決。今ではもう耳慣れてしまった”日本郵便株式会社”もこの法案により生まれた訳ですよね。
そして、以前、このスレッドでも書かせて頂いた”福岡県西方沖地震”
誰も近年発生するとは想定すらしていなかった場所で発生した地震で、福岡県だけでなく九州全域を大きな揺れが襲いました。
そして、”九星気学では五黄は大凶の星であり、五黄と相対する方位も凶とされる。と・・ただエネルギーは他の星の3倍以上はあると・・・
この時期に消費税増税決定 → 成功した場合の効果をあげるために今年?・
日本の苗字七千傑様。私ごとですが、おかげで重要な事を思い出しました。
亡くなった祖母が私に渡してくれていたお札、そしてお守り。
白星で良かったとか黒星だから気をつけなさい、とか半黒だからと・・毎年、とても気遣ってくれた祖母の優しさ・・でも、その優しさにあまり感謝もせずに・・そして、あ〜罰当たりでした。離婚する前に、住んでいるマンションから両手にもてる荷物だけで飛び出した時に洋服と一緒に持って来た、祖母の形見・祖母からの贈り物を入れたドレッサーケースの中のポーチを思い出して開けてみたら、私の星(八白土星)のお守り”が入っていました。
そういう事だったのか・・・。私も星に見守られていたのです。
八白土星〔山〕
山は不動産をあらわしているところから、八白土星は 「相続星」とか「不動産星」と呼ばれ、 宿命的に相続する傾向がとくに強い。
びっくりしました。相続・・若気の至りで、祖母・父の言う事を聞かず、さっさと結婚して、失敗して名前が宮原に戻って・・。でも、最初から運命づけられていたのかも。
ただ、結婚は失敗しましたが、大事な私の宝・子供二人を生む事が出来たので後悔はしていません。
う〜ん。ここまで一度も顔文字を使っていない。いつもの私じゃあナイぞ!と皆様に言われてしまいますね。
大丈夫です。(^○^)私は元気です。(^◇^)
[6] | さなえさんからのコメント(2013年10月05日 08時01分10秒 ) | パスワード |
おはようございます。(いろいろ見せてもらってます。)
そこで、ぼやき・・・
私の星は、五黄土星ですが・・・何か・・・(笑)。
逆境に強いです。がんばります〜。では、(仕事に今日も)行ってきます。
嫌味じゃないです。自分の星に、ウケました。
[7] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月05日 10時28分10秒 ) | パスワード |
さなえ様。
はじめまして。コメントいただきありがとうございます。
九星気学をちゃんと理解もせず、適当な事書いてしまって、本当に、すいませんでした。
心からお詫びします。
五黄土星〔砂漠〕生物/帝王
九星の中で、この五黄土星だけは特異な存在である。 他の八星は、自然八象意(水、大地、雷、風、天、沢、山、火)を司っているのだが、 その自然界に後天的に出現した『生物』を象徴しているのが五黄土星であり、この生物とは人間そのものを指す。
五黄土星は「帝王の星」ともいわれエネルギーは他の星の三倍以上はある。
皆様、本日はとても反省しています。
傷つけてしまった方、申し訳ありません。
ただ、このスレッドを、日本の苗字七千傑様、白石様以外に、見て下さっている方がいらっしゃった事は、本当にびっくりしました。\(◎o◎)/!
ありがとう、ございます。
でも、そう考えると、きっと、皆様”変な人が世の中にはいるものだ〜(-_-)”と思っていらっしゃるでしょうね(*_*)
あなた!???と思われている皆様も、よろしければコメント頂けませんか?
以前も、書かせて頂いたのですが、人の縁というのは不思議な物です。そして、とてもありがたい事ですから。
よろしくお願い致します。<m(__)m> (^○^)
[8] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月05日 13時49分12秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>九星という事で同じ星のめぐりは9年毎となるのでしょうか?
「九星気学」や「四柱推命」等それなりの利用は可能だが、世の中はそうは単純では無い。
「皇極経世書」によれば、
時・日・月・年・世・運・会・元の時間を使う。
一時は二時間(江戸時代の一刻は現在の二時間)
一日は12時間、一月は30日、一年は12月、一世は30年、一運は12世、
一会は30運、一元は12会(つまり12万9600年)。
現代は、庚午会のご姤運に当たる時代、本年は十年卦の未卦の最終年で竜巻、爆発、水災が多発したわけだ。
東日本大震災をはじめ世界震災多発の2011年の年卦は剥卦でズバリ。
「皇極経世書」は夏王朝から北宋までの暦年の事象を記述。
※現在「皇極経世書」は中国語(簡字体)版しか入手できない。
http://www.frelax.com/cgilocal/getitem.cgi?db=book&ty=id&id=HJJS204176
内容は異なるが「皇極経世新解」が日本語で読める。
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Daps&field-keywords=%8Dc%8B%C9%8Co%90%A2%90V%89%F0
宇宙一元消長数は167億9616万年、平成25年(2013)で83億9490万年9039年経過したとしている。
ガモフ理論ではビッグバンを137億年前と推定しているが、ことによると30億年先に我々の宇宙は消滅するのかも知れない。
[9] | 白石さんからのコメント(2013年10月05日 18時51分33秒 ) | パスワード |
こんばんは。この間から 易のおはなしになって えっ 私なにもわからない と思いながら 読ませていただいていました。
奥が深い。昔の人は 今の私たちに劣らず 物事を深く理解していたのでしょうね。
とすると
古代の神様などの歳を 一万何千歳 などと 書いてあるのは この易の考え方からきているのでしょうか?
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私は 先日話題になった 天武天皇の系の皇子のことから
橘氏と藤原氏とのはじまりのことを 考えていました。
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橘嘉智子は 美貌といわれ、娘・光明子は 光り輝く女性といわれたそうです。
聖武天皇の后にあがるとき、皇族系だった 長屋王の反乱。
橘諸兄は 藤原四子が次々と倒れる中 異父きょうだいの 光明子を支えて 国政をとった。
長屋王の 父の 武市皇子の母方の 宗像氏(アマテラスとスサノオの天の安河原の誓約で生まれ、スサノオの子とされた三女神の子孫とする。)
子孫の 高階氏 菊池 池禅尼 継子に清盛 平頼盛 八条院 球磨
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敏達天皇後裔・美努王
||ーーーーーー橘諸兄(葛木王・葛城王)
縣犬養橘美千代
||ーーーーーー武智麻呂・房前・宇合・麻呂・宮子・光明子(皇后)
藤原不比等 (安宿姫)
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藤原武智麻呂(680年 - 737年)(藤原南家開祖)・・・相良氏遠祖
藤原房前(681年 - 737年)(藤原北家開祖)
藤原宇合(694年 - 737年)(藤原式家開祖)
藤原麻呂(695年 - 737年)(藤原京家開祖)
武智麻呂・房前・宇合は同母兄弟、麻呂は異母兄弟である。なお、聖武天皇の母の藤原宮子と聖武皇后の藤原光明子はともに異母姉妹にあたる。
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麻呂
母:五百重娘(不比等の異母妹) - 元 天武天皇夫人
妻:当麻氏
女子:藤原百能(720-782) - 藤原豊成室、尚侍
※前スレッドの92の7000傑様のご教示・当麻氏を参考にしながら、
まだ 少し 当麻(曽於)の展開がつかめていません。ここらの周りをしらべていると大麻のことばがありました。これも たいま と 呼ぶのかもしれないと思いました。
豊成は
藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の長男。
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房前
母:蘇我娼子 - 蘇我連子の娘・・・娼子は藤原をとおして蘇我の血を伝えた。
正室:牟漏女王 - 美努王の娘
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美努王
子孫・橘嘉智子は嵯峨天皇皇后
藤原四きょうだいがあいついで病に倒れた後、光明皇后を助けて政を行った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
県犬養三千代と美努王は天武朝で順調に出世していた。彼らの親族は皆、親天武派であった。
たとえば県犬養三千代の親族のひとりは、壬申の乱で大海人皇子(おおあまのみこ)の東国行きに同行した数少ない舎人の中に入っている。美努王の一家も、壬申の乱に際し体を張って大海人皇子に加勢している。彼らは、壬申の功臣として、天武朝で厚遇された人々であり、それゆえ、県犬養三千代は信頼され、天武朝の後宮(こうきゅう)で活躍できたのだった。
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[10] | 白石さんからのコメント(2013年10月05日 19時53分40秒 ) | パスワード |
光明子について
法華寺http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/hokkejinoohanasi.htm
臣下出身の皇后には
皇族側の代表である長屋王の反対が予想され、起きましたのが有名な「長屋王の変」であります。また、娘の阿倍皇女は女性皇太子の第一号でありました。
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法華寺
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/hokkejinoohanasi.htm
中臣
藤原不比等
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その伽藍復興の歴史は、南都焼討ちの東大寺
を大勧進となって復興に努めた「俊乗坊重源」の鎌倉年間の復興、
西大寺の中興の祖と崇められた「叡尊上人」による建長年間の復興、さらには、
慶長年間に
「豊臣秀頼」の母「淀君」の発願で「片桐具元」が建築奉行として復興いたしましたのが現在の伽藍であります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://ameblo.jp/jke/entry-10565043117.html
http://ameblo.jp/jke/entry-10919507454.html 鎌足の子孫
http://ameblo.jp/jke/entry-10919141779.html
http://ameblo.jp/jke/entry-11622535993.html
千田寛仁のブログ
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[11] | 白石さんからのコメント(2013年10月05日 19時55分56秒 ) | パスワード |
貞観時代の傑作と言われる「十一面観音像」が本尊
本尊は美貌の光明皇后の姿を写したとい
う「十一面観音像」です。
この妖しげな持ち方と言えば「法隆寺百済観音像」を思い出
します。百済観音像も宝瓶を親指と中指で摘まんでおります。
頭上の「化仏」の顔はエキゾチックでインド人らしい風貌です。
異国的な雰囲気を感じる像にまつわる言い伝えでは、この像はインドの仏師が光明
皇后をモデルにして刻んだ像
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平安時代から十一面観音が本尊となる寺院が建立されるようになりました
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※※長屋王の祖母の系には 宗形徳善(胸形氏)がおり、宗像三神の系だという。
天武 嬪:尼子娘 - 胸形徳善女
第一皇子:高市皇子(654-696) - 長屋王・鈴鹿王父、高階真人・ 高階朝臣等祖
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高階貴子は藤原道隆と結ばれ、菊池の祖ともいう。
一条天皇の皇后定子や内大臣伊周,中納言隆家を生んだ。
道隆の系から平頼盛母・清盛継母・池禅尼(宗子)が出る。
平頼盛所領が球磨にあり、良峯師高
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://yumeko2.otemo-yan.net/c4034456.html
山田大王神社 に 平頼盛が八条院を頼ったことが書いてある。
この神社の屋根の茅拭きが 阿蘇神社になにかしら 似ている。
そして 光明子の法華寺http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/hokkejinoohanasi.htm
この 本堂も 茅拭きにすれば 山田大王神社に似ている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー本尊は美貌の光明皇后の姿を写したとい
う「十一面観音像」です。
頭上の「化仏」の顔はエキゾチックでインド人らしい風貌です。
この像はインドの仏師が光明皇后をモデルにして刻んだ像
光明子を模したという 観音様のお顔は 少し がっしりしていますね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B
長屋王
天智天皇の系に 施基皇子 −−桓武天皇ーーー
天武天皇の系に前スレッドで出た河内王
>香春町の河内王陵はどちらのお墓なのでしょうか?
宮内庁の認識している通り、天武天皇の皇孫、長親王の子。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
縣犬養橘三千代は 持統天皇の頃まで仕えたというので、まだ この頃は健在したはず?
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光明皇后の娘の阿倍皇女が天皇になれたのは 東北の潤沢な黄金のおかげだったとか・・・
金 金 金座 あれれ 安陪
[12] | 白石さんからのコメント(2013年10月05日 20時02分09秒 ) | パスワード |
藤原・中臣・大中臣
霧島神宮を勧請して建てられた、市房神宮を建てた久米城主市房。
大来目命ーーー山辺赤人ーーー
子孫様スレッドはじまりの分97
山部氏は天津久米命の裔
山部連を賜姓された小楯は播磨国司で阿蘇には存在しない。
孫の那爾毛古比売は中央政界の中臣可多能祐の妻、子は中臣御食子、国子で御食子の子は有名な中臣鎌足。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
豊 宇佐 ヤマトタケル 牟礼神社祖・大中津彦
前スレッド66から
★中臣氏発祥の地・豊前国中臣郷仲津郷付近。
★★中臣祖種子と 豊前国 兎狭津姫と結婚★★したことを伝え、中臣系図がその子を宇佐津臣としている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本の苗字7000傑山部赤人検索
渡会氏と同じ神皇産霊尊を祖とする大来米命の後裔と伝える。
子孫の那爾毛古比売
||ーーーーーーー(子)御食子ーーー(子)鎌足
中臣可多能祐 国子
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本の苗字7000傑紀氏
紀氏族綱要へ
紀音人椽姫
||ーーー光仁天皇・・・現天皇家へ と いう
天智天皇ーー施基皇子
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
紀国造・天道根命子孫・宇遅比女
||ーーーーーーーーーー武内宿禰
屋主忍男武雄心命 ||ーーー平群氏
★壱岐真根子・ 女子
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02109.htm
中臣・大中臣
雷大臣命ー真根子ーーー五世孫後 忍身命→★卜部・壱岐氏
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02111.htm
平野社家や「徒然草」で有名な兼好法師は後裔である。
堂上家としては、吉田家、萩原家、錦織家、藤井家、の4家がある。
忍見命に始まる壱岐卜部氏の末裔は、松尾社家(月読社長官)として系を伝える。
雷大臣命ー壱岐真根子ー忍見命ー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
阿部氏と壱岐
http://www5.ocn.ne.jp/~tukiyomi/abesi.html
月神・日神を中央に仲介した氏族・上代屈指の豪族阿部氏
任那に使いした 安閉臣事代 に 月の神・日の神が神がかった。
月・日の神は 高御魂巣日神の子孫といっている。
顕宗天皇三年、遣任那使・安閉臣事代を介して造化三神の一つ、高皇産霊神のために神地を献れと、前条では★尊の後という月神が託宣したので、山背国葛野郡の歌荒州田をたて献り、壱岐県主の先祖、押見宿禰が壱岐から遷居して侍祀し、後条では、同じく★尊の後という、日神が託宣したので、大和国「磐余に田、十四町を献り、対馬下県直が侍祀したというのである。
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http://www5.ocn.ne.jp/~tukiyomi/kousitu.html
皇室と壱岐氏
霊元天皇は後水尾天皇の御子です。霊元天皇には松室7流の中に女房になっておられる方があります。松室重敦の娘ー伊勢の局ーで、この方が有栖川職仁(よりひと)親王をお生みになり、この親王が有栖川宮の第5代となられましたが、その先代、正仁(ただひと)親王にお子様がなかったので、この職仁(よりひと)親王から松室の血が続くのであります。 ということは現在の天皇家にまで続いていることになるのです。
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http://ameblo.jp/jke/entry-10919507454.html
はっきり言ってしまうと、藤原京家以外の藤原さんは鎌足の血を引いていない。
[13] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月05日 21時57分34秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>大和国「磐余に田、十四町を献り、対馬下県直が侍祀したというのである。
対馬の特殊性に着目しなければいけない。
六十余州の地名は、本土(畿内)に近い方が上/前で半島側が下/後が原則。
対馬も朝鮮側が下島、九州側が上島(厳原がある島)。
しかし対馬が豊国領となると、朝鮮側が上県、九州側が下県となり上・下が混乱。
豊国の宗主国が馬韓にほかならないからです。
また中臣氏や卜部氏が馬韓系であることを示唆。
そこで豊国と葦原国は対馬・壱岐と特別区として壱岐島における統治方位線を停止して東触、西触、南触などの地名を相互に抵触するように配置。
壱岐の地図を見れば不思議な地名配置で明白。
詳細は「古代日本領土の起源」を参照のこと。
[14] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月05日 22時48分28秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。
白石様、昨日、お話を伺う事が無かったので、お身体の具合でも悪いのでは?(*_*)と心配していました。 今日、コメント頂いて、安心致しました。(^・^)
今日は、楽しみにしていた土曜日だったのですが・・・(-_-;)
「やっと土曜日だ〜!」とワクワクしながら起きたのですが・・ううん(*_*)頭が痛い?背中も・・あれっ?全身が何だかだるい・・?咳も・・熱は?・・あるっ!(*_*) と(*_*)(グスン)
昨日まで、仕事にちゃんと行って頑張ってきたのですが、気が張っていたのかな?休みだと思ったらコレです。今日は図書館行きをあきらめて身体を直して明日行こうと思い、薬を飲んで寝ていたら、信じられない時間まで爆睡していました。(今日の休みは、殆どが夢の中でした(*_*))
と言う事で明日図書館に行ってきます。<m(__)m>(^O^)/
日本の苗字七千傑様。私、また、思い込みで暴走しました。申し訳ありません。九星気学はそんなに単純では無い事が理解出来ました。
”30億年先に我々の宇宙は消滅するのかも知れない。”もちろん、とてつもなく先の事ではあるのですが、私、消滅する恐怖もありますが、それ以上に、消滅した後(無)の状態を想像すると、とても怖くなり鳥肌がたちました。
以前も、コメントしましたが、子供の頃から、お化け?などより、ビッグバンの前どうなっていたのか(無)の状態を想像するのが一番の恐怖です。
白石様。
私ですね。先祖は橘→宮原と名乗った。とここまでは理解出来ていたのですが、その前が未だよく理解出来ていないのです。(*_*)
ですから、本日のご教示本当にありがとうございます。(まるで、私の心の中が見えていたような\(◎o◎)/!)
祖母方は 良峯 → 平川 (百済の地縁で球磨に来られた)理解しました。(^◇^))
母方 日下部 → 岩切 (薩摩隼人 →そうだったのか・・謎は残っているけど(^◇^))
宮原 橘 → 宮原 (妙見信仰に深く関わりがある。フムフム 旧宮原村の宮原城に居城。フムフム・??氷川の前は??宮原村の前は??あれっ??!相良氏と一緒に球磨に来られたのは解るけど・・その前は??(?_?)何処から来られたの?)と。
後を継がなければいけない肝心の宮原家がまだまだ謎を残していたわけです。(*_*)
祖父の声が「おいおい!最初に調べたいって行ってたでしょう!!」(-_-)/~~~ピシー!ピシー!と聞こえてきます。
<m(__)m>
[15] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月05日 23時57分28秒 ) | パスワード |
あの・・
またまた、脱線してしましますが皆様お許し下さい。
「九星気学」や「四柱推命」等の易学では、誕生日というのは大きな意味を持っているのでしょうか?
何度も言ってしつこいですが、平川の曾祖父・曾祖母の命日と私の子供の誕生日が一緒。実はこれだけではないのです。
今年の正月、実家に帰った時に、戦前・戦中に祖父に送られてきた手紙や辞令などを初めて私が虫干していて、そこに亡くなった祖父の誕生日が書かれていたのですが・・(祖父は、32歳で亡くなっています。父は当時5歳で、祖父の誕生日は知りませんでした。もちろん私もです)
8月27日・・!! 実は私の弟の誕生日も 8月27日!!
え〜っ!\(◎o◎)/!と叫んでしまいました。父も驚いていました。
こんなにも偶然が重なるものでしょうか?
以前、私の誕生日は建国記念日 2月11日 とお話しましたが実は、亡くなった祖母の誕生日は一日違いの 2月10日。
そして、白石様のご教示にあった千田様のページを見ていてあれっ?!と・・
千田様の誕生日は 2月12日 ! \(◎o◎)/!
2月10日 2月11日 2月12日 そろっちゃいました。\(◎o◎)/!
ううん?偶然ですが・・・やっぱり偶然です・・こじつけ見たいになりますよね・・・(^◇^)→(^○^)→(?_?)→(@_@)・・偶然です偶然・・・?
[16] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月06日 00時35分08秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>後を継がなければいけない肝心の宮原家がまだまだ謎を残していたわけです。
橘姓にこだわると解らなくなりますよ。
橘公光 → 妙見信仰 → 宮原大宮司 → 南朝 がキーワード
南朝だった肥後蜂須賀氏や名和氏の文献に宮原大宮司の名が顕れる。
肥後の南朝関連資料を徹底的に調査の必要あり。
特に八代方面。
[17] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月06日 06時54分15秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
日本の苗字七千傑様。宮原のルーツを探るキーワード。ありがとうございます。
早速、”橘公光”公から調べ始めたのですが、早々”橘公長”公の名前が出てまいりました。
そこに”平頼盛”公のお名前が!
以前、相良長瀬公の情報を見たときの内容を思い出してもう一度見てみると
”建久9年(1198年)12月、源頼朝の命を受け人吉に下向し、平頼盛の代官である矢瀬主馬助に人吉城の明け渡しを迫ったが主馬助が拒否したため、木上城主の平川義高の協力を得て大晦日にこれを胸川に誘い出して滅ぼし人吉城に入城した。”
あ〜!朝から早速ゾクゾクしてきました。この内容に、源頼朝公・平頼盛公・相良長瀬公・そして平川義高公 と・・・
球磨に繋がってきました!。宮原を調べているのに祖母方の平川義高公の名前も・・!!
平頼盛公から八条院の言葉も出てきました・・。
★余談ですが、ウィキで久しぶりに”相良氏”と検索したら、右端の支流、分家の中に、平川の曾祖母の実家”深水家”があって!あ〜気づいて無かった(*_*)
深水家はなに?くらいにしか考えていませんでした。深水のご先祖様ごめんなさい<m(__)m>
ところで・・”橘公長”公は・・あの・・(*_*)
こちらのサイトは ”平家物語を熱く語る”ですよね(*_*)
とてつもない事情があったのだと思いますが・・複雑な心境で・・
でも、岡原の親戚には平景清姫も来られていたわけで・・何がどうなっているのか、今のところ良く解らず、混乱しています。(*_*)
でも!!私は、宮原のルーツを調べる事を決めたのですから、ここで、迷わずに(立ち止まらずに)頑張ります。(^O^)/
妙見信仰 → 宮原大宮司 → 南朝 このキーワードを引き続き、探っていきます。(^O^)/
[18] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月06日 11時15分06秒 ) | パスワード |
(*_*)(*_*)(*_*)
皆様、こんにちは(^○^) (*_*)
行き詰っています。(*_*)
何時間もパソコンに向き合っているのですが・・????
南朝と宮原(橘)の関係が全く解らず・・・
ただ、懐良親王が、八代の妙見神社にいらっしゃったのは解ったのですが(日本の苗字七千傑様・白石様。エエ〜ッいまさら(-_-;)とおっしゃらないで下さいね。(*_*))
八代妙見神社も気になるのですが、もっと気になるのが八代霊符神社で(すいません(*_*)いつもの感が・・)でも、ここに出てくる話は”永正11年(1514年)に、宮原城主・橘公忠が建物を改築”とあり、このご先祖は、南朝よりずっと後で・・。 南朝をキーワードとしての宮原大宮司とは全く関係なさそうで。
八代霊符神社は”百済(くだら)国の聖明(せいめい)王の第三王子琳聖太子(りんしょうたいし)が八代に渡来の折に伝えられ、肥後国八代郡白木山神宮寺に鎮座したのが日本最初の霊符神とされています。”とあるので百済が関係しているのは確かなのです。
そして、一つ勉強したのが大宮司という言葉。私、神社の宮司さま(^○^)くらいにしか思っていなかったのですが・・
”宮は皇族の住まいを指し、宮司は春宮・中宮などの宮につかえる官のことを指した” 懐良親王に仕えた・・?
ただ、全く無勉強だった南北朝時代の事を少しずつ、理解してきたら、あ〜きっと平川・宮原の先祖は、懐良親王をお守りしたいとの一心だったのかな・・と考えました。
う〜ん?でも、以前のスレッドでもお話しましたが、何故か妙見神社から直線上の岡原に宮原の先祖は城を築いているのですよね〜?(@_@)まあ、周囲には平川家もありますが・・・。
いかんいかん(ー_ー)!!感では事は進まない。事実あるのみ(^O^)/
続けて調査致します。(^O^)/でもネットじゃ限界がありますね。本を読まなきゃ。φ(..)メモメモ
[19] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月06日 11時54分34秒 ) | パスワード |
あ〜またまたですが、ちょっと脳を一休み。
あの、実は平川の祖母と宮原の祖父はお見合い結婚じゃあないのです。
\(◎o◎)/!
小さい頃から知っていたそうですが、ある日・・
多分祖母が小学校高学年か中学に上がったばかりの頃だと思います。(多分)
妹と遊んでいた平川のひ〜様は、おてんばだった為転んでしまいました。
そこに、宮原の若き若殿が通りがかり、足を怪我した、ひ〜様を、ひょいと抱えて、平川家までおんぶしていったそうです。(きゃ〜じいちゃんかっこいい)平川のひ〜様は「おろして!おろして!」と言ったそうですが、宮原の若殿は「怪我しとる。歩けんタイ」と。農作業をしている人達も時代が時代であり超びっくり\(◎o◎)/!「あああ!宮原家の息子さんが〜みなみのひ〜様をおんぶしとるバイ!!」と大騒ぎ!!
平川家の当主の曾祖父(ひ〜じいちゃん)は、怒る事もなく、「ありがとう」とお礼を言ったとの事で。ただ、その後は平川のひ〜様は、「女子がおてんばしてどうするか!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」とこっぴどく叱られたとの事です。 これは、祖母の妹(多良木のば〜ちゃんと呼んでいました)から聞いたおはなしです。(^・^)
祖母は「じいちゃんが、ばあちゃんの事を好きで好きで!ばあちゃんじゃなかったら嫁はもらわん!って言ったとよ(*^。^*)」とよく言っていましたが、父からは「ば〜ちゃんがじいちゃんを好きで好きで・・」??と聞きました。
ちなみに祖父はめっちゃくっちゃ男前でした。軍服姿の写真が多いのですが、う〜ん今に通じるイケメンです。私も好み(*^。^*) あっ!ばあちゃん(祖母)に怒られる・・・
さー気持ちを切り替えて、調査開始(^O^)/
[20] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月06日 14時25分35秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>南朝をキーワードとしての宮原大宮司とは全く関係なさそうで。
南朝や平家は便宜的な区分に過ぎず、固定概念ではダメですよ。
南北朝時代とは、延元元(1336)年8月15日〜明徳3(1392)年閏10月5日の僅か56年間に過ぎないのだから。
以降は北朝側に鞍替えしたむきが大半。
徳川幕府の旗本や諸藩の藩士だって、鎌倉・室町幕府時代の名族のオンパレードなのだから。
うまく鞍替え出来なかったむきが、いわゆる郷士や庄屋というわけ。
さらに古代豪族の末裔は神官が多いのも現実。
公知されている事実はネットで間に合うが、与太話も多く世の中ネットだけでは真相は不明。
多くが見向きもしない書籍に重要な情報が眠っている。
まあ閲覧困難な書籍も多いが。
[21] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月06日 18時04分49秒 ) | パスワード |
皆様、こんばんは。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
今、図書館から帰ってきました。
残念ながら「古代日本領土の起源」は小倉中央図書館にはありませんでした。(*_*) でも、福岡県では1冊だけ、筑紫野市の図書館にあったので、予約してきました。(^O^)/
とっても楽しみです。(筑紫野市ってう〜ん置いてある場所が古代と言う感じです)
ただ、熊本県の歴史に関する本は殆どなくて・・残念でした。
今度は古書の店に行ってみようと思います。
そうか・・固定概念ですね。走り過ぎていました。
画面の見過ぎで目が真っ赤です。図書館で本を読んでいる時の方が、ずっと楽で、頭にもす〜っと入ってくる感じで・・。やはり、本は良いですね。(^・^)
では、もうひと頑張りしてみます。
[22] | 白石さんからのコメント(2013年10月07日 07時34分45秒 ) | パスワード |
おはようございます。
宮原氏の動き
どうなのでしょうね。
こういうところは よそ様のことになり わかりづらいですね。
私の方は 地域に 内田 山北などの 苗字があり、山北は 市房神宮のお鏡を預かる家の集落にあり、
父の生家の女子が 八代に住んでいるので 相良氏の方の動きを 見ていました。
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もしかしたら 相良氏について八代に行き、後 再び 岡原へ行ったかもしれない でも よそのことだから はっきり わからないけど ・・・ と 思いながら。
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相良氏 橘薩摩氏 は 多良木あたりにいて、その後 八男を残して 相良氏本系は 八代へ行ったといいます。
※つまり 一度 上球磨にいて 八代へ行った。後 菊池との争いなどあり 岡原へ行った。 かも 知れない。
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本系の考え方は 今の人は 最終的に人吉相良氏が 残ったので そちらを 本系と いうようですが、
明治くらいの人は 上球磨の相良を もと に とらえていたようです。
なので 地で 話すとき 混乱するかも・・・あっちが もとばい などと。
武家家伝相良氏では
長頼の父頼景は多良木四ヶ村を領し、そのあとは長頼の子頼氏が継いで上相良氏とよばれて惣領となり、人吉は頼俊(長頼三男)が継承して下相良氏とよばれた。さらに宗頼(長頼弟)は山鹿郡泉荘内田村に住して内田相良を称し、頼平(頼景)は玉名郡山北郷を領して山北相良氏を称した。
最終的に 人吉相良氏の永留氏が残ったが、ここは 庶流。
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又
先の大戦の敗色濃厚になった時、時の皇太子を五家荘か 宇都宮あたりに隠そうという動きがあった。
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今 車で さあーっと 日帰りで 動いて
わあーっ 秘境だ と いうけど 昔の人は あっちに行き、こっちに行き
百姓から見れば 流れ者同然。でも 気にならない。勝てばそれこそ 官軍ですから。
先にも書いたけど
山岳ルートがあり、歩き方は今とは違っており
帰るつもりもなければ 野宿も平気な時代なら
又 五家荘から いかだ流しが出来る頃なら
川下りで岡原へ行けるので 八代と行き来があったと 考えるのが 自然だと思います。
勿論 水俣から船もあり でしょうけど。
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相良氏は 開発領主というけど、(もとは百姓だった)、入り口を川につけているのは その 性格を あらわしている という。これは ネットより 前 小さな冊子に書かれていた。
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あと まる子ちゃんの ぶろぐで 私 今まで 知らなかった ということ
白山 徳川家康 山本(母の実父の苗字・こことは関係なさそうだけど はるか 昔に分かれたかも)他 ちょこっと
よく見ると 著作権は手放していませんと あるので、どうしたら いいのかわからず
前に メールを入れていただいた 方から
ネットの アドレスを 入れますね。
今から仕事に行きますから
あとで ・・・
[23] | 白石さんからのコメント(2013年10月07日 14時24分52秒 ) | パスワード |
相良頼平は 頼景三男です。
[24] | 白石さんからのコメント(2013年10月07日 20時20分56秒 ) | パスワード |
こんばんは
メールを入れておきました。
本がなかなか 手に入りそうにないので、手っ取り早くネットでどうにかならないか?と 悪戦苦闘していました。
古代日本領土の問題 桜井 で 打ち込んだら
日本古代 干 家連合の領土規定が 出ました。
千家 !!
でも 本文は 私のパソコンの性能が落ちているせいか、入らず 強制的に終了になりました。
何度やっても 同じです。
[25] | 白石さんからのコメント(2013年10月07日 21時35分02秒 ) | パスワード |
http://1st.geocities.jp/seiryuuenngetuto/muromati4.html
に足利系の宮原氏の系図が出ています。
大正の頃もあるので、家の戸籍に 同じ人の名がないか?念のためしらべられたらと思います。
[26] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月07日 22時47分32秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
ご教示、本当にありがとうございます。
昨日は、南北朝時代に関する本を借りてきて呼んでいたら、朝から、悩み過ぎた脳と図書館までママチャリをこいで行った(片道30分ほど。バスで行けば良かった(*_*))事による体力低下の為かいつの間にか爆睡していました。
ご心配おかけしているのにすいません。
白石様!!頂いていたコメントを読んでいて あっ!!と気付きました。
橘薩摩氏 → 薩摩 ああああっ!!
私、もしかしたら調査の出発点を間違えたかも。
ちょっと・・ウィキを見ます・・・・・
(・・・時間がだいぶ経過しました。)
昨日のコメントに書いた通り、橘公光公から調査を開始したのですが、その後、橘公光公から”平頼盛”公の名前が見えた事で”橘公長”公を次のキーワードにして、調査を始めていたのです。
そうした事で、氷川の宮原城に居城した”宮原公忠”に中々繋がらず、迷走していたのですが・・・そうです!!固定観念!!
”橘公長”公の子供”橘公業”公!!
”橘公業”公の子孫は = 小鹿島氏 と思い込み、対象外 と考えてしまい・・がっしかし・・ウィキを今読み返したら
”嘉禎2年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡[1]を西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ、子孫は肥前国を中心に広がることとなり、かつて所領とした小鹿島の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。”
出た!出ました!肥後国球磨郡久米郷!!
宮原城は久米城のお隣! いや、宮原村と久米はすぐお隣。
そもそも、宮原村は私の先祖が黒原山の麓に居城して(宮原城)その後地名が宮原村になったわけですから・・あれれっ!近い??
何だか、もしかしたら視点がずれていたかも。
早速検証してみます。
問題は!宮原村はそもそも、宮原氏(先祖)が来る前は何と言う地名だったのか??です。
あっ!!それから、白石様。メール着ていませんでした。(*_*)
よろしければもう一度お願い致します。
[27] | 白石さんからのコメント(2013年10月07日 23時07分14秒 ) | パスワード |
あらら 届きませんでしたか?
もう一度 挑戦します。
相変わらず ちょっと ながかったかな?^<>^
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http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/higansakura.html
あさぎり町の宮原家の彼岸桜というのがありました。見事ですね。景清姫の墓などの言葉もあるので そうだろうと 思います。
肥後の民話と伝説 - 熊本国府高校
このサイトに 景清公の姫の話があり、切旗→切畑 あさぎり町岡原字切畑
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知覧の方で 宮原直二(知覧町長)の言葉があったので、安政〜大正くらいの人なので こちらも 戸籍から 突合せが出来るのではないか?と 思います。
http://books.google.co.jp/books?id=_T8QGY4oeTIC&pg=PA38&lpg=PA38&dq=%E6%8A%98%E7%94%B0%E5%85%BC%E8%87%B3&source=bl&ots=Ypxad1CQ4v&sig=T7C7nrxpX6_JK-kNxuMlxPVftoM#v=onepage&q=%E6%8A%98%E7%94%B0%E5%85%BC%E8%87%B3&f=false
鹿児島近代社会運動史
折田兼至(国会議員・民権運動)と宮原直二(後知覧町町長)
36ページ 宮原直二の業績は知覧村政の基礎を築くほど・・・
38ページ 折田には 宮原直二の妹が嫁いだ
長谷場澄孝との関係も 宮原家がからむ
40ページ
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島津家老相良藩800石などの言葉も見える
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折田は安政から大正の人なので、宮原直二も戸籍から 見て 同じなの人がいないか しらべること 可能ではないか?
と思います。
[28] | 白石さんからのコメント(2013年10月07日 23時26分07秒 ) | パスワード |
今送りました。
皆様ごめんなさい。
わたしばかり しゃべって・・・
[29] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月07日 23時29分31秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>白石さん へ
こちらの文献も読むと良いでしょう。
古代の宗像氏と宗像信仰(亀井輝一郎 著)
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_18_file.pdf
この文献は宗像三女神誕生(ウケヒ)を神話的解釈に留めているが、奥津宮(沖ノ島)を重要なポイントと捉えている。
奥津宮は豊国(宗主国:馬韓:天照大神)と葦原国(宗主国:辰韓:素戔嗚尊)の神聖連合条約の締結島なのです。
平成の現代でも尖閣列島と同じく上陸禁止。
上陸は通常毎年5月27日に日本海海戦を記念して開かれる現地大祭の時に限定。
上陸できるのは事前に申し込みを行った中から抽選で選ばれた200人のみ(女人禁制であるため男性のみ)。
豊国の政府はズバリ宗像神社。当然、出雲政権(葦原国)の総督府が監視。
素戔嗚尊の子である天忍穂耳尊が天照大神の養子となるのです。
言ってみれば高天原(馬韓)への人質なのです。
以降は豊葦原国は対等条約にかかわらず実質的に出雲政府の支配となる。
その後、旧豊国系が出雲政権からの脱却を目指したのが瓊瓊杵尊の天孫降臨なのです。
神話的解釈に太安万侶は墓場の中でほくそ笑んでいることでしょう。
[30] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月08日 00時29分22秒 ) | パスワード |
皆様、ご教示ありがとうございます。
白石様メール届きました。ありがとうございます。(^O^)/
実は、今日、次回の土曜日出勤の代休で。パソコンと本をにらめっこしていたら、いつも、一緒に出かけてくれる人も休みで、頭を一度切り替えたらとドライブに誘ってくれて、何処に行くのかな?と思ったら、長門市の青海島でした。 初めて船で島を見る事が出来て、途中、船のガイドさんが、「ここから素戔嗚尊が今の韓国に行かれた事があるのですよ」と言われて・・ええっ!と。すごい!!地元の人は、古代に素戔嗚尊が海外を行き来されていた事を普通にしゃべってるって驚きました。\(◎o◎)/!
その後、黄波戸の千畳敷に行き、素晴らしい景色を見ました。ここは海抜333メートルの海に面した山。海の水平線向こうは遠く中国や・韓国に繋がって、遠くに見える半島は須佐町。 古代にタイムスリップしたみたいでした。
私が連れて行ってと言う訳ではありません。一緒に行ってくれたこの人こそ、私が宇佐や豊前方面や長門方面(その他様々)に興味を持ったきっかけを作ってくれた人で、最初にそれらの場所に行った時も全て、「景色を一緒にみたくなった」と、場所の選択はその人なのです。(歴史はまったく興味は無い人なのですが) 何故だろう?ただ言えるのはきっと先祖が何処かで繋がっているような気がしている事だけです。それも、1000年とか前じゃなくて、もっと先のような気がしています。
お話がそれましたが・・
中世の球磨の資料に
久米氏 → 久米郷東方 (蓮華王院領・八条院領)
橘薩摩氏 → 久米郷東方
三池氏 → 久米郷西方
となっていました。
”橘公業”公と”橘薩摩”はどう繋がっているのか?いえ、繋がりはあるのか?
あの(*_*)皆様、すいません。そもそも 橘薩摩とは何なのでしょうか?(*_*)
ごめんなさいです。<m(__)m>
実はネットを見たけど意味が全く解らなくて・・
どうか、お教えください。<m(__)m>
[31] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月08日 00時43分33秒 ) | パスワード |
追記
白石様。サクラの名所の宮原家は家の遠い親戚です。(^O^)/
でも、ネットに出ているとはビックリしました。
それと、もう一つビックリしたのが切畑神社!知らなかった〜!!??
それと!霧島神社!そうです。
家の近くには神社があります。神社の裏山をずっと進むと宮原城跡。
あれっ!
何か、見過ごしていたかも・・??
まだまだ、調査を続行致します。(^O^)/
[32] | 白石さんからのコメント(2013年10月08日 05時41分08秒 ) | パスワード |
おはようございます。
台風のせいか 風がきつく うるさいです。
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7000傑様 ご教示ありがとうございます。
古代の宗像氏と宗像信仰(亀井輝一郎 著)をすこしばかり見ました。
前に毎日新聞に おきつ島(字が思い出せない)には 新羅のものがある と書いてありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古くから海のかなた と 私たちは思っているけど、案外 昔の人は 大きく動いていたのですね。
>素戔嗚尊の子である天忍穂耳尊が天照大神の養子となるのです。
そして 耳尊の系が 皇統になる。
嵯峨天皇は その前世代 スサノオにつながる父系をとらえ スサノオはわが国の本主ぞ と いわれた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次の文はネットから 拾ったのですが
宗像の奥津宮にます神、タキリ姫の命は大国主の命と結婚して、
生まれた子はアヂスキタカヒコネの神。
次にイモタカヒメの神、亦の名はシタテル姫の命。
このアヂスキタカヒコネの神は今、カモの大御神といいます。
と かもに つながってくるようです。
[33] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月08日 06時11分41秒 ) | パスワード |
おはようございます。
あまりにも風がすごいので何だ??と思いニュースを見てビックリ\(◎o◎)/! た!台風が!巨大っ台風が!来ている\(◎o◎)/!
あの〜、一昨日から、パソコンと本とお出かけと、又パソコンと本とで全くテレビを見ていませんでした。今日の午後は北九州殆ど直撃です(@_@)
ここまで、書いて、皆様きっとええっ!!?と思われたでしょうね。
子供の頃から台風が近づくと、遠くにあっても喘息が出ていたのですが(気圧の変化だと思います)ご存知の通り、土曜日から咳が出ていて・・でも、知らなかった(*_*) 今からベランダを片付けます。(遅い!!)
私、ものすごい雨女なのです。それも、異常なほど。出かけたら、数時間から1日後にその場所はとんでもない事になる事がショッチュウで(*_*)
去年の、九州北部豪雨の時は耶馬渓に行ったその翌日にあの雨。(*_*)
今年は、平尾台に登っておもいっきり背伸びをして、山を降りた時に突然の豪雨。今年最初にゲリラ豪雨と呼ばれて、テレビで、小倉のマンションの駐車場が水没したり車が水没した映像が出たあの雨です。(*_*)
何年か前の博多の豪雨の時は博多駅にいました。(*_*)
偶然にしてはあまりにも・・・
妙見 → 辰 → 雨乞い?? いいや(ー_ー)!!そんな事はない。偶然偶然。
昨日は・・・あ・・大丈夫かな?絶対に被害が出ないように祈っておきます。
ふざけているわけではありません。本当に被害が出ないように祈ります。
皆様もお気を付け下さい。
宮原のルーツ調査、頑張ります。(^O^)/<m(__)m>
[34] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月08日 06時34分47秒 ) | パスワード |
追記
雨は降るのですが、逆に雨が降っている時に出かけたら、目的地に着いたときだけ上空にそこだけ青空が出て、ぴたっと雨は止むのです。
一緒に行ってくれる人がものすごい晴れ人間で、今まで、何処か行っても、目的地で傘をさして歩いた事は殆どありません。絶対に雨が止んでそこだけ晴れるのです。(?_?) この人のお爺さんの法事に伺った時、親戚の方が、お爺さんがびっくりするほどの晴れ男だったと言われているのを聞いて「あれっ!遺伝?かな」と思いました。
宮崎の高千穂神社でも、すごい雨だったのにピタッと雨が止んで・・
駐車場の人が「わ〜こんな事は初めてじゃ。神社の上だけ青空がでとる!!」と言われて・・・。この人の影響か、娘と娘の彼氏と私の三人で宇佐神宮に行った時も同じ事があったので、(この人に車を借りました)???何故と・・
先ほどのコメントに書いた事はふざけてではありません。
実際に被害が出たら本当に心苦しくて。今まで、周りの人しかこの事実を知らなかったのですが。やっぱり不安で・・
本当に被害が出ないように心から祈ります。
[35] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月09日 00時15分28秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
今、家の周りは風がビュービューゴーとふいています。
所で、私の宮原家について、かなり解ってきました。
ただし、相良藩内での事ですが・・
慶應義塾大学 所蔵古文書検索システムにおいて、相良家に関する文書がデータベース化されており、検索したところ・・
(島津家臣町田久倍書状)〔忠房家督承認〕
作成者:(町田)久倍(花押) 切紙
宛先 :高橋中務少輔殿、宮原縫殿允殿、蓑田信濃守殿 御報
(島津家臣伊集院忠棟書状)〔忠房身体保証〕
作成者:(伊集院)忠棟(花押)
宛先 :高橋中務少輔殿、宮原縫殿允殿、蓑田信濃守殿 御返報
という文書が出てきたのです。(他にも宮原宛ての文書が沢山\(◎o◎)/!)
そこで、私は、ここに保管されている全ての文書の中で、先祖の名前がいつから出て来たのか調べた所
相良家の文書に最初に私の先祖が登場したのが!!!
(相良家老中契状案) 永正14 1517年 06月 09日
作成者:相良修理進長住、吉牟田外記少輔重宗、相良玄番頭長通、相良右京亮長歓、簗瀬蔵人佐忠将、恒松源左衛門尉貞棟、深水右馬助長命、犬童兵庫允重照、丸目兵庫允長将、宮原治部太輔公忠、相良大蔵太輔長城
宛先 :皆吉修理進殿、河田新左衛門尉殿、則元右京亮殿、蜂須賀対馬守殿、布施五郎左衛門尉殿、内河右衛門尉殿、河北右衛門尉殿、三谷美濃守殿、内河備後守殿、加悦但馬守殿 御宿所
やっやりました〜!!\(~o~)/
”宮原治部太輔公忠” 初めまして?ご先祖様やっとお会いできました\(~o~)/
他の皆様のお名前は良く解りませんが(^・^)何だか沢山の方々の・・・
文書の内容も何て書いてあるのか良く解りませんが(^◇^)
でも、やっと見つけました。愛しの先祖様。ハグしたい気持ちです♡(^○^)
他の文書では先祖の事を宮原筑前なんとか・・と書いてありました。(喜び勇んでデータが解らなくなりました。後でもう一度みます。 筑前・・??なんで?)
ものすご〜く嬉しいです。家の山にある城跡は、遺構というのですか?いろいろ残っていて、友達とこっそり遊びに行くと祖母から「ご先祖様がゆっくり眠っていらっしゃるけん行ったらダメ」と怒られていました。
ジブリのアニメに出て来るような・・
本当に嬉しいです。
ううん?でも??名前じゃまだ解らないのかな?
日本の苗字七千傑様。申し訳ありませんが、見つけた文書に、先祖が相良藩に来る前の何か手掛かりはありませんでしょうか。<m(__)m>
橘家と言う事は間違いないのですが・・
どうぞよろしくお願い致します。
[36] | 白石さんからのコメント(2013年10月09日 02時45分10秒 ) | パスワード |
おはようございます。
台風はこちらは 明日あたりか?
宮原家
随分進展しているのですね。
ご先祖様が間近に!!
7000傑様に期待しましょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
多良木あたりで
橘薩摩氏が相良氏を支配していた地域がある。
豊前宇都宮流佐田文書に 橘薩摩氏が肥後の守護職であったことが書いてある。
うちの白石は 祖父の代くらいは 明治の頃 村役場がおかれた 寺によっており、今も 本家をとった家は そこにあるけど、
祖父は幼い頃両親に死別。おじ夫婦?に育てられ、本家長男であったけど、家を出て一家を構え、寺も変わっています。
その お寺様によれば
島津様におさえられたもんで・・・
ということで、
後の世で島津氏 相良氏 大友氏 菊池氏 阿蘇氏などの ことばがあるけど
橘薩摩氏は 全体に滅亡はしないけど、衰退したようです。
しかし、これは 考えようによっては
栄えた家は 虚飾粉砕の系図をつくるけど
そうでなければ 昔のままに残っているのではないか?
という 期待もあります。
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慶應義塾大学 所蔵古文書検索システムにヒントを得て
うちのことが熊本大学の方に何かないか?と思って 宇都宮信房の建久図田帳というのに 検索をかけてみました。
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何故宇都宮?というと
うちの佐田の家紋は 三つ巴。同じ紋の同じ字を使う家に
国史辞典に豊前宇都宮流佐田氏がおり 佐田家文書があることが書いてありました。
毛利 大友 黒田 細川と仕えて戦国時代をのりきった とのこと。
もう 随分前に見つけたのですが、
かかれてあった住所(県名だけですが)と うちの家に養子に入ってくれた人の出身地が同じなので、
電話をかけてみました。
そしたら
現在澄んでいるところも違っていましたが、
調べた先生が 熊本大学 法政大学の先生ということで、
熊本大学に電話したら 今は 福岡博物館に勤務しておられる と 教えていただいたのです。
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それで 福岡博物館の方の 収穫と言えば 館長が白石だということ でした。
我が家は 史料らしきものは何もないので 第三者にいっても わからないだろうと 思います。
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伊予に下向してきた橘薩摩氏は西園寺実氏と所領争いをして、幕府の外戚であることを威にする実氏に負けたということで、伊予の方も随分調べましたが 名前が違っているので、くわしくはわかりませんでした。
西園寺実氏
西園寺金経の子供・西園寺実氏 妻・四条(鷲尾)貞子・・・父は四条隆衡) 西園寺公経は平頼盛の曾孫 源義朝━坊門姫(一条能保室)━一条全子(西園寺公経 室)━西園寺綸子(九条道家室)━ 九条頼経(鎌倉幕府四代将軍)━頼嗣(五代将軍)
実氏と鷲尾貞子の間の女子が、両院並立のもとになる天皇を産む。
又 四条隆衡の方には 平清盛の女子がからんでくる。
鷲尾は 相良氏に嫁入ってくる 人がおります。この鷲尾が中原でもあり、
豊前宇都宮流佐田は中原でもあり、毛利・大友・大内は 母方の関係で中原であります。
今回の 図田帳の収穫は
義経に加担していた 河辺平太通綱が どうやら 平をつかっていて 平家・平氏のように思えるということでした。
喜界島へ逃げた河辺を追った 天野遠景・宇都宮?
相良氏 那須氏は 屋島の合戦で 義経配下にいた。
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川辺川筋にある 私の故郷は 平家城跡があり、川辺姓も父の生家の姻戚関係にあります。
河辺子女は 女子は小柄。男子はすらっと長身でしたよ。
顔もこづくりで面高。
大阪へ来て 杉原女子・此部女子と知り合ったけど こちらも 小柄。細面で杉原は 卵形の 御所人形のようでした。
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建久図田帳のほうには いまのところ 宮原の苗字は出てませんでしたが、見落としがないか 何度か目を通してみたいと思います。
黒田が 免田だったということ
も いまひとつ うちの宮原が黒田に姓を変えたということで
結構ひろがりを 見せているのではないか?と 思います。
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それにしても
橘薩摩氏って 何故 そういうのでしょうね。
[37] | 白石さんからのコメント(2013年10月09日 03時16分00秒 ) | パスワード |
橘薩摩氏は渋江で 小鹿島で 小鹿島文書を持つ。東北にいたことを忘れないためにこの小鹿島にしたという。
★郷土資料 - 秋田県
★男鹿地頭・橘公業
文治五年(1189)七月、頼朝は自ら二十八万四千騎を ...
随兵の一人として頼朝の側近橘公業は薩摩守を受領し、源頼朝の随兵一千騎に加わっ て出陣した。 二十八歳の時である。 橘公業 ... 秋田城をとりまく豊巻、百三段(ももさだ) 、湊、柳田(ともに秋田市内)等、それに男鹿半島全域 八郎潟西岸の諸村落及び大川
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http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/sagara.html
相良家家臣団に 犬童清兵衛や公忠が載っていました。
清兵衛のその後は 津軽に預けられ云々と書いてあります。子孫もいるようです。
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余談ですが
五木の子守唄は 犬童球渓が つくったもので、 もとは 五木で 100以上位さまざまな 唄われ方をしていました。
子守奉公の苦しさをうたったもの ということですが、
平家落人は 旦那衆だったといいます。
又 人吉は 武士身分の比率が高い。
相良は 外城が 三つくらいあった。
私の故郷は 奉公人が一人もいない 珍しい村として 紹介されていました。
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島津は 佐多 なのだけど、
伊達に関与してくる 伊作 の 言葉がみられ 伊作は 長崎あたりにも みられたと 記憶しています。
伊達は 片倉などから 白石のことばがみられ
又 片倉は 北海道にも 渡り
このあいだの メールの 山本など と ぼんやり 関与してくるように思っています。
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[38] | 白石さんからのコメント(2013年10月09日 03時22分40秒 ) | パスワード |
36の実氏は 公経でしたね。すみません。
家事をしなくていいので ひまにまかせて 書きましたが、また 寝ます。
[39] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月09日 06時54分05秒 ) | パスワード |
おはようございます。(^・^)
ご教示ありがとうございます。
白石様!!(*_*)
ごめんなさい。(最初にお詫びします)
今まで、白石様から頂いていた沢山のご教示の中にすでに、何度も宮原の先祖に関する言葉があったのにまったく理解していませんでした。(*_*)
今回、自分なりに色々なサイトや本を読んで、伺ってきた家の名前が沢山出てきて、その都度「あれれっ?白石様のコメントにこのお名前あったぞ!!?」と。例えば渋江家。何度もコメント頂いていました(*_*)小鹿島氏。こちらもです。 秋田県は遠いな〜くらいでした。(*_*)
そして、私の、最大のおとボケは・・・
橘薩摩。薩摩の人と思っていました。(@_@)う〜ん家は薩摩の人ではないよな〜と・・・(?_?)(えっええええっ!?と思われたでしょう(*_*))
薩摩守とか筑前守とか・・・意味が解りましたよ〜(^○^)
(白石様・日本の苗字七千傑様のあぜん!としたお顔が目に浮かびます。ごめんなさい(*_*))
日本の苗字七千傑様から頂いた、八代方面を調べなさいとのアドバイスも、調べて出て来る言葉の意味が解っていなかったので・・混乱していました。(*_*)
お城を持っていたのに何故解らない?と・・ヘトヘトだったのですが、言葉の意味が解ったらアレレそういう事かと・・・。
だいたい氷川に居城していたのははっきり解っていたのに、迷走していた訳です。(*_*)
氷川(宮原)の方々は、今でも、私の先祖をとても大事に思って下さってとってもありがたいです。当の後継ぎがこれですから、氷川(宮原)の方々には申し訳ないですよね(*_*)
実は!!前の会社にいた時に、担当していた事業所のマネージャーが八代の宮原町出身で、私の名前に「わ〜僕の故郷と同じお名前ですね!\(~o~)/」と、ものすごく懐いてくれて、里帰りした際は名物のおまんじゅうと、宮原三宮の写メを見せてくれていたのですが、「おまんじゅうが美味しい(^・^)」くらいでした。(*_*)彼はもう辞めましたが、めちゃくちゃ縁があったのに申し訳ないな〜と今頃反省しています。一度、里帰りから帰って来たばかりの彼から「宮原さんは球磨郡の何処出身ですか?」と急に聞かれたので「岡原よ〜!!先祖の名前を取って、実家は宮原という地域よ〜(^・^)。」と答えたら「えっ!今度、ゆっくり話しませんか?」と言われたのにスルーしてしまっていました。
★おばさんの妙な勘違い?からスルーしてしまった訳です(おバカです)
脱線しました。すいません<m(__)m>
日本の苗字七千傑様・白石様。私は歴史に関しては幼稚園児並みの知識しかありません。これからも、沢山勉強させて頂きたいと思っています。
どうか、今後も、ご教示どうぞよろしくお願い致します。
[40] | 白石さんからのコメント(2013年10月09日 20時39分10秒 ) | パスワード |
こんにちは
台風の影響も 風雨が ひどいなあ と思ったら もう 通り過ぎてしまいました。あとは むしむしして います。
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歴史を完全に理解している人など いないでしょうね。
私の故郷でも わはは と 笑い飛ばされます。
それなのに
年寄り世代が生きていた頃は
寄り合いなどでは 自然と 座る位置が 決まっていたものです。
その地に行かなければ わからないことが 多々 ありますよね。
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宮原ではないのですが
多良木あたりで 橘薩摩氏が相良氏を支配していた地域があった
ということで、多良木の宮原をけんさくしたら 医院があり、そしてなぜか熊本の重要文化財という表題が出ました。
検索をしたら http://www5e.biglobe.ne.jp/~minjamin/m-kumamoto.htm
★井芹家住宅 というのがでました。
こちらは 菊池隆家流なので 宮原ではないのですが、元だんな様も確か山崎に関係していて、山崎も菊池一族でしたよね。
菊池は 懐良親王に関与していた。
宮原は大宮司だった。
近い関係で 歴史を降りてきたかもしれない。井芹家の方の史料・お寺関係などから山崎が出て、宮原も出るかもしれない と 思って書いています。
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検索に検索を重ねて
八代 宮原 国重要文化財 井芹家は ★光永へ改姓。
電通の光永。
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氷川町(ひかわちょう)は、熊本県中部にある町。八代郡に属する。2005年10月1日に八代郡竜北町と宮原町が合併し、発足した。
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光永星朗でウィキに検索
★「野津村」の言葉がある。他の村と合併して 竜北町になった。
↓
宮原だけど 野津村の方に 史料が書かれているかも ? という 推測
↓
井芹家を日本の苗字7000傑で検索
↓
隆家流・・・菊池ですね。
子孫様の 元 だんな様は 山崎?
もう 頭が混乱して ごちゃごちゃに なりましたが、確か 菊池の一族の言葉に 山崎が あったような。
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まったくの 余談ですが、
同級生に牛島さんというひとがいました。
つながりは どうか知りませんが 牛島中将っていましたよね。
ネットで見ていたら
肥後の牛島は 橘氏だそうです。
このひとこそ 小柄 細面 絵に描いたように きゃしゃな感じで、バレーを習っていて 小学校に入った頃 教室で踊って見せてくれて 驚いたことを覚えています。
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http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/syousen.html
釈峯山慈照寺勝専坊(しゃくほうざんじしょうじしょうせんぼう) 氷川町
土御門天皇と朝倉氏の女子の子
子孫様ゆかりの方の菩提寺がこのお寺に関与していなかったか?
[41] | 白石さんからのコメント(2013年10月09日 20時47分19秒 ) | パスワード |
球磨と相良氏の歴史・近世5 肥後・相良藩の礎 - 球磨の部屋
関ヶ原の戦い後生き残った相良氏。20代・頼房(長毎)は、母親を江戸に送って幕府へ 忠誠を誓い、肥後・球磨の大名・相良藩と ..... 元禄4年、★★★家老の宮原右衛兵門★★★が造築 したが、幕府への申請許可に問題があったらしく、宮原右衛兵門は隠居を命じられて いる。
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同じサイトに
加藤藩は相良藩の事情を理解。材木と引き替えに八代・植柳に舟仮屋(※3)設置を許可してます。
相良藩もかつて戦国時代には八代を拠点に、国内から海外(琉球を含む)にまで交易をおこなっていましたが、★★★島津氏に八代を割譲★★★して以降途絶えていました。
どこまでも 出てくる島津氏
私の故郷も 八代だったり 白川だったり 宮崎だったり
ややこしいのです。
[42] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月09日 22時54分43秒 ) | パスワード |
今晩は。
本日も沢山のご教示本当にありがとうございます。
先祖は、相良家の家老だったと言うのは父からも聞いているので、幕府の申請許可に・・・の宮原は私の先祖だと思います。(^・^)
やっぱり・・私は子孫ですね(^○^)時たま申請書類に問題があり(私の場合はおっちょこちょい)戻ってきます。(先祖様に怒られる(-_-)/~~~ピシー!ピシー!)
でも、今回、痛感したのは、昔からの言葉はすごいな!という事ですね。
何百年も前の事なのに、ちゃんと「八代にいて・城があって」と。
あっ!祖母のお友達(私が子供の頃)で毎日のように家に来られていたのが、”牛島”のおばちゃんです。!親戚だったのかどうかはよく解らないのですが、いつも、家に来られていて、祖母がいない時は牛島のおばちゃんと一緒にテレビを見ていました。今回、私もビックリしたのです。牛島氏は橘とあってそこで、牛島のおばちゃんの事を思い出しました。
それと、橘の系譜を見ていてこれまたあれっ?!と。”公”の字。祖父の姉さんが”お公(きみ)おばちゃん”です。たしか”きみか”と言う名前で”か”の字がわかりませんが、祖母は”お公しゃん”と呼んでいました。
宮原家にはお公おばさん(長女)が生まれてずっと子供が出来ずに、跡取りをお公おばさんにと考えていた所に祖父が生まれたそうです。
お公おばさんは、その後星原家に養女に行ったのですが・・・
祖父が陸軍の将校となり、中国で負傷した後、東京に戻り、そして何故か?今度は祖母も一緒に今の韓国へ。そこでは、軍ではなく、役人となって公の仕事に就いたのです。
祖父は、もう、日本に帰るつもりはなかたようで(これも不思議なのですが)お公おばさんに全てを託して、祖母と韓国に向かったようです。
祖母から聞いたのですが、当時の家は水洗トイレが付いていたと\(◎o◎)/!何人ものお手伝いをして下さる方々もいたと聞いています。
祖父は韓国から、今度は中国に移動。父と伯父(弟)の名前は、道知事とか県知事のような方が付けて下さったと聞いています。父の名前は地名から取ったと聞いたのですが、私が「えっ!地名!単純(^○^)」と笑ったら父は「馬鹿!由緒ある地名らしいぞ(`´)」と怒られました。父が生まれたのは韓国なのか中国なのかはよくわかりませんが・・・(祖母から色々な地名を聞いたのですが何せ外国の地名だし・・覚えていません。最後にいたのはハルピンとかハルなんとか言ってたような??」今、思えば、祖父は韓国か中国に宮原(平川)を残そうとしたのかな?と・・ううん・・解らない(?_?)
しかし・・それから、ソ連の侵攻・・終戦と後は悲惨だったそうです。・・・
命からがら引き揚げてきた家族は岡原に帰える事が出来て。でも、これからという時に、祖父は引き上げの数ヵ月後に亡くなりました。
祖母は、いつも、韓国の方々、中国の方々皆さんにとても親切にして頂いたと感謝していました。お友達も出来たと言っていました。
今日は、1900年代前半〜1940年代の宮原家のお話をさせて頂きました。<m(__)m> 脱線してすいません。
[43] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月10日 00時41分05秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
宮原にこだわると、宮原が見えなくなりますよ。
橘公業は、公成とも表記される。
また橘公業は小鹿島を称するが、橘広相の後裔説と伊予橘姓説が存在する。
公業の後裔は、渋江、大崎、大村、牛島、中村、三隈、野副、片峰、中橋など。
中央の大族宮原宿禰は百済帰化族で摂津宮原発祥だが、肥後各地に宮原の地名が異常に多いのは敏達朝に百済と関係の深かった日羅の影響で宮原宿禰の後裔が肥後に移住して地名遷移したものと考える。
芦北郡久多良木浦は、日羅以来の百済との航路が開けていたと思われる。
芦北衆である蜂須賀系図の家親の項に宮原氏の記述があるようだから肥後蜂須賀系図や芦北郡誌は必読だろう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01014c.htm#004
[44] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月10日 07時48分39秒 ) | パスワード |
おはようございます。
日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございます。
実は、相良氏のもとでの宮原は見えてとても嬉しかったのですが、ううん?何故、橘 →宮原となった?とそこが全く見えずに、ここから進まず、本当はまたまた迷走していました。
私の発想はすぐに一直線に突進してしまうのでうまくいかないのですね。(*_*)
百済・・・そこに何かがあるかもしれません。
昨日の祖父と祖母の話を書きながら、私も、祖父が韓国にこだわったのは祖母に関係するからだけじゃないような気がしていたのです。
芦北の調査、頑張ってみます。
ありがとうございました。
[45] | 白石さんからのコメント(2013年10月10日 18時47分31秒 ) | パスワード |
こんばんは。
7000傑様のコメント 簡潔で的確ですね。
いよいよ 核心に迫ってきたような気がします。
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ところで
子孫様
戸籍は 父方母方取れる限りのものをとっておられるでしょうか?
親が離婚していても 子供はどちらの血筋にもなるので 父方母方除籍謄本も含めて 一切合財出してもらっておくほうが良いと思います。
戸籍も 原戸籍? なんたらかんたら いって 3つも4つもだしてきます。
あらかじめ役場で とに角 繋がっている人の すべてがほしいといって やり方をおしえてもらわないと、
用紙に書いてくださいといわれて わからぬままに 出すと 少ししか出てこないことがあります。融通が利かない役場だと 何を言っても書類に書いてくださいといってお金を取られて、これこういうものがわかるものはありませんか?といえば それは こうだから この用紙に書いてくださいと
まったく ひとつのことをするのに 無駄な出費を重ねます。
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つながりが ない(戸籍に入っていない人)ときでも
こうこうで 親から 聞いている。または書いたものをもっている
というと
書類ではないけど 手がかりになる 名前を書き付けたものをくれたりすることがあります。
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あと
菩提寺に聞くと お寺は戒名(法名)しかわからないけど、何代かお世話になっていると この人はどこそこから こられている とか 経緯などを しっておられることがあります。もとはどこそこから とか。
どちらも 結構物入りしますけど、子孫様のように 知りたい気持ちが強い時は
果たしておかれたほうが すっきりすると思います。
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戸籍は 80年もすれば 処理されるのだそうで、
今は電子処理されていて こちらは 20年だったか 結構早く なくなっていくのだそうです。
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私の故郷も皆 早く できる限りの祖先を調べてみたらよいのに・・・とか思いながら 、よそ様のことだから 何もいえません。
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夕べは 牛島氏のブログを見ていました。
[46] | 白石さんからのコメント(2013年10月10日 19時38分24秒 ) | パスワード |
夕べ整理していて眠くなり、起きて投稿しようとしたら7000傑様のが入っていました。
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日本の苗字7000傑橘氏より
伊予橘氏 橘公成 薩摩氏
ウィキより
橘公業=小鹿島公業=橘公成
橘公長の次男であるため通称を橘次といった。
兄は 公忠
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http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%90%83%E7%A3%A8%E3%81%AE%E8%8D%98%E5%9C%92%E3%80%80%E6%A9%98%E6%AC%A1&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=mozff&x=wrt
肥後山上三名字、牛島氏は橘氏の末裔:牛島稔太のblog
2013年6月26日 - また、肥前国の荘園地図には、武雄の長嶋荘もみられたが、佐賀郡(佐賀市)には牛島 荘がみられた。 .... (内田は)三名字の一にして、人吉の相良氏と同祖、藤原鎌足より出づ、相良《 長頼》ナガヨリは建《久》きゅう9年肥後球磨郡の地頭職となり人吉 .... 《北肥》ホクヒ戦誌 」巻16に「塩見城主渋江家の祖先を如何にと尋ぬるに橘次公業といふ。
★★★橘朝臣《公重》キミシゲ★★★の代に肥後国に移る。
武家家伝で検索 公業から5人目くらいの人物がそれか?
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よそでは 系図は 2つか 3つ それらしいつながりのところを 用意しているそうです。
下からつくっていく。
ブロックごとに整理して つながりは わからないところは 点線で つないで
・・・
どこか と 自分とこのすぐ 近くの先祖と 同じところが見つかったら それとつないで 古いほうの先の先祖を追っていくとよさそうです。
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それと 家の宗派は 役に立ちそうです。
お寺が変わっている時は 最初のほうのお寺が 自分の家の性格を現しているようです。
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ありていに言って、状況証拠だけでは ダメということらしいです。
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【越智宿禰姓 河野氏系図】
37宮原四朗五朗為永 が ついています。
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彦狭島命は 児島高徳に関与してくる人みたいです。
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候補のひとつとして ブロックで 保存しておくといいみたい。
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余談ですが
【越智宿禰姓 拝志(林)氏(伊藤氏)系図】
70に伊藤博文がついています。こちらは 林家のことですが。
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[47] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月10日 20時46分00秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
白石様、記録の整理法、ご教示ありがとうございます。
私も、色々なサイトを見ていてあれっ?と気になる所があると探っていたのですが、途中で、他の情報を見たら、その前のが解らなくなったりと、・・だから後で、何処かで見たようなと思っても思いだせなくなってしまい・・
でも、これからはサイト名なども点で繋いで関連のある名前が無いか見直す法をとってみます。
戸籍は今まで取った事はありません。一度、取り寄せてみます。(^O^)/
相良家の文書に最初に先祖が登場したのが(相良家老中契状案) 永正14 1517年 06月 09日 この年をスタートとして、今から、年代をさかのぼって色々な角度から調べて行きます。
あっ!そうだ、すごく気にはなっていたけど、スルーしていた事が。
先日、中世の上球磨(久米や岡原付近)の事を調べた時に
橘薩摩氏 → 久米郷東方そして ”良峯流”とあったのです。
良峯?その時は平川の良峯(良峯安世公)末裔のイメージしかなく完全に(ー_ー)!!スルーしたのですが、日本の苗字七千傑様様のご教示を読んでいる時に
気がついたのです。良峯安世(桓武天皇・百済永継)!!百済永継!
表示されていた 良峯流とは 百済永継流?の事ではないのかな?と。
もちろん間違っているかもしれませんが、気になっていてスルーしていた事がとても重要な事かもしれないと思い、調査してみます。( ..)φメモメモ
[48] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月10日 22時48分14秒 ) | パスワード |
宮原の先祖(芦北方面調査)をしていて、神社を見ようと、検索したら、熊本県新道青年会のページがあり・・・
沢山の情報の中に偶然見つけたのが
平川淀姫神社 熊本県菊池郡大津町平川
平川?大津? そうです旧山本郡。あああ〜っ!!\(◎o◎)/!
平川家 の平川(平河)は、球磨の川の名前ではなく最初から使っていたみたいです。\(◎o◎)/!
宮原を調べていたのに・・
そして!・・宮原を調べているのに平川の曾祖母の実家 深水家 が出て来る出て来る\(◎o◎)/!。曾ばあちゃんがめちゃくちゃ自己主張されています。
私の体には深水の血も、もちろん流れている訳ですから・・
深水のご先祖様。深水家の事理解出来てきましたよ〜(^○^)
おっと脱線。本題の宮原調査再開です。(^O^)/
[49] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月11日 00時31分09秒 ) | パスワード |
あの・・皆様、とてつもない不思議が・・・・
急に、橘にこだわる前に何故か、平川(良峯)と宮原は最初からペア?だったのではと思い・・・
何故かというと、相良家では宮原は出てくるけど、平川の名前が出て来ない。
でも、平川はずっと氏族だった。(相良藩の領地に住んでいるのに誰に仕えた??)そして、宮原城の麓に平川の家がある。
宮原家と平川家はすぐ近く。(300〜500メートルの距離)
平川の家を宮原家は敬っていた。????????
そこで、良峯 宮原 とキーワードを入れ検索した所、中に
今昔物語集 卷第十九 が出て来て
”良峯 のよしみね 宗貞と云ふ人むねさだ 有けあり り、大納言 や す よ 安世と ... 宮原 の娘みやばら 也ける人をなり め 妻として、 極く哀れにいみじ 難去く思ひ さりがた 通してかよは 過ける程に、すぎ な ん し 男子一人・ に よ し 女子一 ...”
全体を読みたいのですが、サイトが現在繋がらず、朝にでも他のサイトで読めたらなっと思っています。
そして、改めて、前のコメントで書いた”橘薩摩”の情報を見た所、やはり橘薩摩 良峯安世流 となっていました。\(◎o◎)/!
何だか、とんでもない事に気付いたかもしれません。
[50] | 白石さんからのコメント(2013年10月11日 00時56分10秒 ) | パスワード |
平川合志神楽
合志氏は いろいろ ルーツが紹介されていますが、
宇多源氏佐々木氏流のとき 大津と からんで
山本がでると 思います。
河内多田の館でうまれたのが 頼朝。
大津多田の館でうまれたのが 義経。
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この間テレビで
奈良の岸本家というところの 系図が 紹介されて
宇多天皇にはじまり
義経がついていました。
この 宇多天皇の筋と 清和天皇の筋は 少しの事例だけど 混じっているように思うのです。
私の故郷に 溝口がおり、この 苗字も 相良氏へ養子 または 相良から養子の関係があり
これは 小笠原氏で 清和となっているのですが、
ネット検索では 宇多源氏でもあるようです。
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将軍系図には 義経のところに
枇杷殿 八条院に候
確か この部分だったと思うけど
松浦水軍を育てた
と ありました。
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まる子ちゃんの メールの方の ブログにも 義経は 載っていましたね。
山口の私の母の戸籍の印をおしてくれている人も
山本 松浦
私の故郷でも
深水は 皇室領 川下にあり
平川には 父のいとこが 入り婿
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子孫様のところは 家の中で 一大連合軍ですね。^^
平川淀姫神社のあたりに
宮本とあるのも 目に付きました。
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そして 大津町真木には 真木大神宮が・・・
山口県のほうではわからない 平河の 子孫様との つながりが ・・・
何とか ・・・
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佐敷城 (肥後国) - Wikipedia
1581年(天正9年)、島津義久は相良義陽と水俣で戦ってこれを降し、★★葦北郡を割譲させ て家臣の★★宮原景種★★を佐敷城代とする。
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ウィキの 八代市 八代郡の合併の過程を見ていたら
五家荘(泉村)と 氷川は 地理的に 近い関係にあるのですね。
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五家荘に 葉木があり
球磨郡山田の山田大王(平河)の あたりに
葉木明神があり
葉木は佳字をもって 萩と書かれる。
球磨郡の萩の集落に 父の生家があった。
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萩には高田もあり 八代にもある。菊池には 高田牧宰の言葉が・・・
宮地の地名が見られるが
宮地は宮道に通じ ヤマトタケルの系がある。
坂本もあり
私のほうも わあーっと 出てくる出てくるです。
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宮原の調査 進むといいですね。
ところで
宮原って 苗字のいわれは 何でしたっけ?
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【帰り新参・犬童頼安】相良氏、義陽編11 - 九州戦国ブログ〜室町末期
1545年・6月15日、相良一族の治頼(はるより)が家臣に唆されて謀反を起こす。
この謀反に犬童頼安と★★宮原玄蕃★★が加担した。
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http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%AE%AE%E5%8E%9F%E7%8E%84%E8%95%83&ei=UTF-8&fr=mozff
加藤家家臣団 宮原玄蕃
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何だか あっちこっちに いるみたい。
[51] | 白石さんからのコメント(2013年10月11日 01時37分04秒 ) | パスワード |
表題だけですが
遍昭(遍照) 千人万首
大納言良岑朝臣安世の八男。素性法師は在 ... 【参考歌】作者未詳「万葉集」巻十浅緑 染めかけたりと見るまでに春の柳は萌えにけるかも 伝大伴家持「家持集」 青柳の糸より ... 山風よ。 【補記】古今集の作者名は「よしみねのむねさだ」と在俗時の名を記している ので、若年期の作であろう。 ... 因みに布留の近辺には遍昭の母の家があり、また遍昭 は石上神宮の神主の家の出である布留今道(ふるのいまみち)と親交があった。布留は 作者 ..... (藤原有家) いまこむといひてわかれし雁がねの思ひ出でてや月に鳴くらむ( 宗良親王
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遍昭(遍照)は善峯寺(元慶寺)で 書きましたね。
確か 鷲尾の土地?
布留は それ
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命に行き着く人で
越智氏考で彦狭島命の母・蠅伊呂杼
http://www.geocities.jp/nara_yamato010/Nara/WA-page/sonota/003annei.html
に この人の ことが 書いてあります。
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師木津彦から 中原が でるけど
中原 多 十市 磯城 みな 同族。
中原は事代主の長男の筋とも いいます。
事代主とは 女子が神武天皇の后になった人。
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このあたりのことは また あとで ゆっくり 解きほぐしたほうがよさそうですね。
私は 自分のルーツに 関わってくることなので 非常に興味があるところですが。
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橘薩摩氏は 東北に行った。
良峯も 秋田城司だった。
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その前は どちらも 尾張にいた。
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そして
球磨にいた。
動いた軌跡をみると 何か つながりがあったと 思えますね。
[52] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月11日 05時56分25秒 ) | パスワード |
おはようございます。
白石様。朝から鳥肌が立っています。(@_@)
私、良峯が秋田城氏だったとは知りませんでした。\(◎o◎)/!
というか、視野が球磨だけにあって、今までよく考えたら全国を見渡していなかったのです。(皆様があれだけヒントを与えて下さっていたのに<m(__)m>)
そうですよね。現代以上に、当時は、どの家も全国を飛び回って?いたわけですから!
白石様のコメントに、私の中にある例の変な感がウズウズしていた名前がずらりと出ていて”合志氏”(中世中球磨にいらっしゃった)”中原”
他に私、”佐々木”家も何だか気になって・・・
でも、やっぱり、どう考えても、宮原と平川は何故か遠い昔からペアだったような気がしてならないのです。
平川の曾祖父や宮原の曾祖父あたりまでは周知の事だったのかも・・?
もしかしたら、宮原の祖父も何か知っていたのでは・・(祖母で記憶が途切れた可能性もあります。でも、祖母は知っていても、言わなかっただけかもしれません。姫様で育った割には考えが物凄くグローバルな人で。実は、私の従兄はオーストラリア人の奥さんをもらって、今はオーストラリアに住んでいるのですが、結婚したいと言った時に親戚中が大騒ぎした中、祖母の一言「よかた〜い。(^・^)ばあちゃんの血が世界に広がって。ばあちゃんうれしか〜(^○^)」で決まりました。話がそれました。<m(__)m>)
本題に戻ります。<m(__)m>
宮原・平川 両方に共通なのが”百済”で。
祖父母二人は戦時中に、韓国へ行き(どうみても、帰ってくるとは二人とも考えていなかったようで・・)
私があまりに悩むので二人が「なんばしよっとね〜(^○^)(^・^)」とヒントを与えてくれたような気がしてなりません。
さ〜まだまだ調査開始(^O^)/( ..)φメモメモ
[54] | 公忠公の末裔さんからのコメント(2013年10月11日 18時35分21秒 ) | パスワード |
私は宮原公忠公の子孫の者です。
ふとネットで検索していると、こちらに辿り着きました^^;
自分のルーツに興味があり
今まで少しずつですが調べてきました。
私が分かっている範囲で宮原氏について書いていきます。
相良藩士の宮原氏は辿ると「橘公忠(宮原公忠)」にまで遡れます。
宮原公忠公については「八代郡史」にも書かれています。
その中の略系図の部分だけですが引用です。
-------------------------------------------------------------------
第四編 史蹟及び名勝 第六章墳墓
宮原公忠の略系図
橘諸兄 正一位井手左大臣橘氏の始祖也母圓命婦従三位
┃
(中略)
┃
公業 橘薩摩十郎剃髪公蓮と稱す久安五年生ル
┃
公員 稱與一 法名公阿
┃
公綱 初八郎従五位下 法名公圓
┃
公資 宮原彦次郎是より宮原氏を冐す法名公稗
┃
公高 四郎
┃
公次 但馬守 法名素秀
┃
公忠 橘氏出雲守宮原城主法名摩利支天正位橘公忠大兵士治部少輔と稱す
┃ 公忠八代妙見霊符七十二道を信じ版を修す以て相良氏の府に納と云ふ
公久
┃
公重 橘相良治部大輔薩摩にて戦死
┃
公家
┃
以下略
-------------------------------------------------------------------
とあり、橘姓であったようです。
これを見ると宮原を名乗ったのは
橘公資からと書かれていますが
別項で橘公忠が肥後国宮原の地頭に任ぜられ
宮原城の城代になった時に宮原氏を名乗ったとも書かれているので
どちらが正しいのかまでは分かりません。
また、この略系図には橘諸兄の後裔のように書かれていますが
私は「吾妻鏡」嘉禎二年条にある
-------------------------------------------------------------------
(前略)
就中に 遠江掾 遠保 勅定 を承り、當國賊徙純友を討ち取りて以來、
當郡に居住し、子孫に相傳令め年久し。
-------------------------------------------------------------------
という記述から
承平・天慶の乱の際、藤原純友を討った橘遠保の後裔だと見ています。
ちなみに、橘"薩摩"を称しているのは
橘公業が安貞元年(1227)十月五日に薩摩守に任ぜられた事に始まっているようです。
余談になりますが
佐藤光昭 編集 「肥後国相良藩士分限帳」には
宮原という者が多く散見しているのですが、そこに載っている
-----------------------------------------------------------------
12 間村
天保元年 二人 宮原源吾
安政年間 二人 宮原寅蔵
-----------------------------------------------------------------
の 相良藩士宮原源吾は
我が家の謄本にも載っており
私の6代前のご先祖に当たります。
話によると、私の曽祖父の代に
実家を次男筋に任せて、福岡に移り住んだそうです。
私自身は、流れ流れて近畿地方におりますが・・・。
本当に勢いだけで
突然のコメントしてしまいました。申し訳ございませんでした^^;
[55] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月11日 21時12分02秒 ) | パスワード |
公忠公の末裔様、初めまして。
本当に驚きました。そして、ありがとうございます。
宮原の家系図よくお調べ頂きました。大変なご苦労だったと思います。
私も公忠公より先に行きつかず、この数日は迷走状態になっていまして、もう、こうなれば実家に里帰りるしかないなと半端あきらめかけていました。
頂いたご教示の中に出てきた ”宮原寅蔵” ですが、実は私の曾祖父が留蔵(”留”すいません確かこの字だと・・)・祖父が石蔵でして、そして祖父の姉が公佳 たぶん”宮原寅蔵”は先祖ではないかと思います。
私の”宮原”は八代より球磨郡に戻り、岡原村(旧宮原村)に居城していました。今でも、城の遺構は残っていますよ(^・^)そして、明治に入り、宮原村の村長をしていました。
しかし、本当に偶然です。まさか、遠い昔に血が繋がっていた方とこうしてお知り合いになれるとは。どうぞ、これからもよろしくお願い致します。
(^・^)
所で、橘薩摩が何故、球磨の古文書では良峯安世流となっているのかお解りになりますか?
私はその謎が不思議でしかたありません。
もう、このスレッドをお読み頂いてご存じかと思いますが、宮原に嫁いで来た私の祖母が平川家(桓武天皇・百済永継の子 良峯安世末裔)でして、なぜ、橘薩摩が 良峯安世流なのかが・・・?
私なりに今調べています。もしご存じでしたらご教示よろしくお願い致します。
でも、本当に嬉しいです。ありがとうございます。
[56] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月11日 23時29分00秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
子孫よりさん へ
橘公業の曾孫公資が宮原氏祖ということが判明して良かったですね。
公忠公の末裔さん へ
貴重な情報を有り難うございます。
姓氏類別大観の橘氏(小鹿島)の項を増補しますので、宜しくお願いします。
[57] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月11日 23時47分29秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。(^・^)
公忠公の末裔様よりのコメントで、かなり、宮原の系譜が見えてまいりました。
白石様ともこのスレッドでお知り合いになれて沢山のご教示を頂いて。そして、南朝の平川と北朝の平川がやっと一つになれましたし、今回は宮原を調べていて”公忠公の末裔様”とお知り合いになる事ができました。
そして、日本の苗字七千傑様。沢山のご教示を頂いて、系譜以外の私の最も関心のある古代の日本についても、様々なお話を伺う事が出来、本当にありがとうございます。
現代におけるネットの世界で不思議な縁で皆様にお会いできたのもご縁だと思います。これからもよろしくお願い致します。<m(__)m>
本題ですが・・
やっぱり、気になる、昨日の”今昔物語集 卷第十九”。とりあえず元システムエンジニアのマル秘テクニックで読めるようになりました。(良いのかな?(^○^))
これから解読?します。\(~o~)/
ところで、このスレッドの第1章(勝手に名づけました(^・^))60話?でお話した「平川の曾祖母は 深水家 から嫁いできました。宮原の曾祖母は 新堀家 から嫁いできました。」の新堀家。今まで登場していませんでしたが、突然現れました!\(◎o◎)/!
相良家家臣団の上相良家 家臣に 新堀家 があったのです。\(◎o◎)/!
あれ〜っ!!?? 身体の中に又新たに新堀家のDNAまでウズウズと・・・
ウィキに載っていました。 ううん?何故、気付かなかったのだろう??
あ〜皆様の マタマタいつもの事でしょう(ー_ー)!!との声が聞こえてきます。
やっぱり、おっちょこちょいです。(さて、どの家にこういう人がいたのでしょうか??(^◇^))
では、まだまだ調査をすすめます。(^O^)/( ..)φメモメモ
[58] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月12日 00時24分45秒 ) | パスワード |
公忠公の末裔様。
本当に本当にありがとうございました。
うれしくて、涙が出てきました。
スレッドをご覧になられてお解かりかとは思いますが、とってもおっちょこちょいでぽわーっとしている私ですが、どうぞ、今後とも、血の繋がった遠い親戚と思われてよろしくお願い致します。<m(__)m> (^・^)
日本の苗字七千傑様。公忠公の末裔様のお陰で”宮原家”がやっと線で繋がりました。日本の苗字七千傑様から頂いた橘公光公からの出発点。このご教示がなかったら、きっと、私は公忠公の末裔様にこのスレッドを見つけて頂く事が出来なかったと思います。本当にありがとうございます。
橘氏(小鹿島)の項を増補、とても楽しみにしています。
きっと、宮原の先祖は大喜びだと思います。
改めて、ありがとうございます。
白石様。橘公業=小鹿島公業=橘公成からの白石様の推理。大正解でした。\(◎o◎)/! 東北!!このキーワードも大正解。
ありがとうございます。 白石様のこのキーワードも忠公の末裔様がネットで私を見つけて下さるきっかけになったと思います。<m(__)m>
皆様、本当にありがとうございます。
[59] | 白石さんからのコメント(2013年10月12日 05時23分18秒 ) | パスワード |
おはようございます。
解明できてよかったですね。まずは 乾杯ですね。
あるものですねえ。系図がちゃんと残って・・・
相良藩士 とか 公忠公よりの系
これが ひとつ の ブロックですね。
そして
子孫様 自分の記憶(こうだと思います)ではダメですから 本当に戸籍の取り寄せを すすめます。まだ しらべれば 安政のころなどの 戸籍もあるはずです。
>”宮原寅蔵” ですが、実は私の曾祖父が留蔵(”留”すいません確かこの字だと・・)・祖父が石蔵でして、そして祖父の姉が公佳 たぶん”宮原寅蔵”は先祖ではないかと思います。
この 部分です。
万万万が一 つながらないときでも
自分の戸籍からわかる範囲 と 公忠公の子孫様 の かたまりと ブロックにわけ
点でつないでおくのです。
わかったときに つなぐ。
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そして
こどもがいるから 子供からみたら 父方 母方は 子孫様とは別に 元夫のかたの系も 関わってきますから
ご子息が 成人されているようなので 子供の名で 元夫の方の方の請求は可能と思います。自分が 結婚していたのだから あちらの 正式な住所がわかりますので・・・
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私の夫の場合も
もう 祖先など どこへやら
父親は 子供の頃 親を亡くして 養子に出されたんや
親戚は議員をしていて うるさい うるさい
で おしまい。
子供が大きくなったら 知りたいというかも知れんよ と
息子が生まれたので、教えていただけないでしょうか?と
私が 聞いた限りのことを 岡山の父の出所へ 問い合わせたら
ちゃんと
宗派が一度途絶えて 後 復活した時に 墓から拓本を取って もっていた という 写しまで送ってもらえました。あとは 書いてあった系や 戸籍から かなり昔のものにまで たどり着きました。
可愛そうな親の境遇もですが、物言うは 我が家の史料ですものね。
私の場合は 夫のほうもさることながら
父母みな おさなくして 親をなくしただの
戦争中のどさくさで あっちにうろうろ こっちにうろうろ
母など 跡取り娘なのに 山口から熊本まで飛んで行き
と どうしたら いいの という 中から はじめたので
でも 家のつながりなども 役場で話したら
それだけ しっかりしていたら きっとわかりますよ
と 言って下さって もう ずいぶんになります。
大分わかっては きましたけど・・・今度は 範囲が広すぎて・・・^^
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夫の方の お寺は三つ変わっており
前のお寺は廃寺になっていますが
皆同じ宗派です。今度も 親が亡くなったあと 母の方の 菩提寺へ変わり
もう なにやってるの?そうやって わからなくなるんや と思いますが あちらの ことだから 黙っています。
その 宗派から その昔の 筋が わかります。
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お元気なうちに どうぞ。
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それにしても
本当に良かった。私にも随分参考になりました。
同級生の家(宮原→黒田)は うちとは 親戚関係になく 我が家の父方のつながりが 皆橘紋だということで 漠然としていましたが(長島・永島までいるのです。)なんだか 大きな柱が建ったような気がします。
同級生(宮原→黒田)とは 祖先はなんだろうか? などという 話は したことが なかったので、私の方から は あなたの家はこうよ とは いいませんが
同級生が住んでいたあたりにも 相良の外城があったので
なんらかの つながりは あったのでしょう。
[60] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月12日 07時47分31秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2014年04月08日 14時25分12秒
[61] | 白石さんからのコメント(2013年10月12日 19時08分02秒 ) | パスワード |
こんばんは
7000傑様おすすめの古代領土の起源の本を 借りてきました。
3週間で 返すとのことで
読み通せるかしら? デジカメに一度写しておけば どうかしら? などと考えていますが、
びっしり 書いてありますね。
622 葉木国野 朝倉 荒田 佐田 田川 香春 などが 目を引いています。
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宮原の曾祖母は 新堀家
陸奥のお城の新堀を見られたろうと それは 割愛して
新堀氏は
『瀬川稗貫系図』では広秀の三男光家を祖とし・・・と 稗貫氏という。
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[62] | 白石さんからのコメント(2013年10月12日 19時15分21秒 ) | パスワード |
武家家伝 稗貫氏
藤原北家山陰流
稗貫氏・・・近年の研究ではその本姓は中条氏
成田太郎成綱と弟の中条義勝房法橋成尋
成尋の嫡男家長は八田知家の猶子
南北朝期の中条時長は、南朝方として活躍したことが知られている。
などの 言葉があり、
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宇都宮氏 - SANNET
www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/utunomiya.html
宇都宮氏の祖は、関白藤原道兼の孫の兼房の子、宗円とされる。宗円が関東に下向し、宇都宮(下野一宮)の神職を獲得、まず常陸八田に本拠をおいたという。二代宗綱が次男知家(小田氏祖)を八田に残して嫡子朝綱とともに本拠を宇都宮に移した。
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八田宗綱 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/八田宗綱
宇都宮宗綱、中原宗綱とも呼ばれる。父である宗円と同様、詳細な血縁関係は不明な部分も多い。一説に、宗綱は八田(常陸国、現在の茨城県下館市八田)を政治基盤としていたといわれる。これは、宗綱自身が八田を称していたことはもとより、諸氏系図で父・・・・
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義勝坊成尋の子の家長は知家の養子となった
http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/1181.html
治承五年(1181年)の年表
成尋がこの指示を下総国御厩別当宛の書面にした。
※ 佐野忠家の素性は上明。藤姓足利俊綱か佐野基綱の係累と思われる。
※ 義経を家臣として扱う頼朝と源氏一族としての処遇を求める義経の溝が生まれている。
ちなみに頼朝は文治元年8月16日の除目で清和源氏の下記6人を国司に任命して「御門葉」とし、他の者には公式の場で源氏を名乗る事を許していない。
山名義範・ 大内惟義・ 足利義兼・ 加賀美遠光・ 安田義定・ 源義経
ただし除目の時点では義経との関係は険悪となり実質的に御門葉から除かれている。
その後御門葉に追加...武田信光・ 源広綱・ 源有綱・ 平賀義信
実弟の範頼や全成は含まれず、血縁関係の近さではなく忠節度が優先されている。
※ 成尋=義勝坊成尋で、挙兵当時から★頼朝に従った★僧兵・修験者。子の家長は八田知家の養子となった。
★知家の妻は成尋の妹★で頼朝の乳母の一人。
義勝坊成尋
?−? 平安後期-鎌倉時代の武士,僧。
中条(なかじょう)家長の父。武蔵(むさし)七党のひとつ横山党の出身。治承(じしょう)4年(1180)石橋山の戦いで源頼朝にしたがい,御家人となる。幕府南門の建立,後白河法皇一周忌千僧供養などの奉行をつとめた。俗姓は小野。号は義勝房。
義勝坊成尋|家長
八田知家---養子・中条(小野)家長・・・時泰
63
私の父方の高岡には姓系辞典 高岡条に
八田氏の族という高岡がある。
義勝坊成尋の妹
||
八田知家ー小田知重ー高岡泰重
|家長
孝昭天皇子孫ー小野氏ー義勝坊成尋 ー
[63] | 白石さんからのコメント(2013年10月12日 19時26分06秒 ) | パスワード |
武家家伝_中条氏
横山義孝の孫成任は北埼玉郡成田を領有して成田大夫を称し、嫡男の成田太郎成綱は保元元年(1156)の保元の乱に際しては源義朝に従って大炊御門口の戦いで奮戦した。つづく平治元年(1159)、平治の乱に敗れた義朝が殺害されたのち、伊豆に流された頼朝に対して変わらぬ態度で接したという。
治承四年(1180)、頼朝が旗揚げをすると、成綱は一族とともに馳せ参じ、安達盛長とともに頼朝の側近として活躍した。(小野)成綱の弟成尋は中条義勝房法橋を称し、甥の盛綱とともに武蔵国北埼玉郡中条保に住していたが、兄成綱とともに頼朝の旗揚げに加わり石橋山の合戦で奮戦した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
家長の叔母は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家を生んだ女性で、頼朝の乳母の一人としても知られる近衛局であった。八田知家は成田成綱らと同様に、流人として伊豆で不遇をかこっていたころの頼朝に忠勤を励み頼朝から厚い信頼をえた。家長は父成尋が僧であったことから八田知家の猶子となり、本姓藤原氏を称して中条藤次家長を名乗った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
武家家伝_渋江氏
渋江氏(橘薩摩氏)
の伝えによれば、藤原純友を討ったのは橘好古となっている。しかし、当時の記録などから藤原純友追討のために派遣されたのは小野好古であり、橘好古ではなかった。
冷泉天皇967の中納言に橘好古。
村上天皇963の参議に小野好古。
[64] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月12日 19時31分50秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。(^・^)
日本の苗字七千傑様。
宮原の名前が小鹿島の項にありました。\(~o~)/
そして!!良峯安世裔として平河の名前も!!
うれしくてうれしくて、涙が出ています。宮原・平川の先祖も大変喜んでいる事と思います。
本当に、ありがとうございました。
白石様、ついについに本を手に取られているのですね(^・^)
いいな〜(^・^)
私もあと3週間の辛抱です。
それと、えっ?新堀家も何か載っているのですか?(?_?)
私、例のごとくポワーッとしていてウィキに載っているのを気づいたのが何せ昨日ですから・・・(これがいけないのですね(ー_ー)!!ダメダメ)
皆様、このような私ですが、今後ともご教示よろしくお願い致します。
それと、たまに不思議話もすると思いますが、ハイハイ(ー_ー)!!って聞いて下さい。<m(__)m> ご勘弁を願います。<m(__)m> (^○^)
[65] | 白石さんからのコメント(2013年10月12日 20時13分03秒 ) | パスワード |
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kojima&dd=22&re=584
児島高徳と中条氏
東寺長者道乗妻は上沢、中条家長(後の稗貫氏)上沢氏女
上沢家の先祖について上沢家に伝わるところによると、本姓は伊東といい、九州より兄弟二人で落ちてきたという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
佐々木氏|
伊東ーーー上沢(中条家長)女子ーーー佐々木の養子・閉伊氏を名乗る。
|| 和田備後守・範長女
北條時政女 上沢氏女 ||ーーーーーーー『児島高徳』
||ーーー女子 ||ーーー頼宴
加治信実 ||ーーー東寺長者道乗
頼仁親王
閉伊氏の祖は佐々木十郎光幸といい、閉伊郡に所領を得て閉伊頼基を名乗った。
頼朝の口添えで佐々木四郎高綱女の養子
―ーーーーーーーーーーーーーーーー
鎌倉初期、久慈郡や糠部郡は鎌倉幕府の最有力者である北条氏の所領であった。ここにも、佐々木、加地信実との関係が出ている。
北条時政の女が、加地信実の妻になり、生まれた女が、頼任親王にとついで、生まれたのが東寺長者道乗で、
この道乗が上沢氏の娘を娶って六子を生み、
その第二子頼宴が和田備後守範長の娘を妻として生まれたのが児島高徳である。
ーーーーーーーーーーーーーーー
加地信実─時秀─東郷胤時─甥子児島高徳、逸見重氏児島盛綱女婿逸見重氏(法名定心)家長幼少ニツキ逸見重氏盛綱女婿三宅定心
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言葉の羅列で ややこしいですが
中条⇔新堀と考えると 南朝方
で 宮原 とも 関係していたかも 知れないですね。
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勿論 子孫様の 新堀家が 球磨のどこのおうちと つながるかは 知りませんが・・・
宇都宮の建久図田帳 宇都宮流佐田氏の佐田文書に 橘薩摩氏が肥後の守護職
と 書いてある 新田の脇屋義助は 佐田
など 熊本にも佐田が きており、
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義助(脇屋)室高徳女子徳子ー脇屋義治(政義女子脇屋義治室)
義明(妻は佐田義久(脇屋義治の末子)の娘) 義隆.
家時(新田源太郎)ー満義ー政義女子脇屋義治室
(源)新田義重ー義季(得川四郎)ー頼氏(世良田)ー教氏ー家時ー満義ー政義ー親季ー…松平清康━広忠ー徳川家康
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何だか ややこしいけど
新堀 宮原 平河 南朝方 児島高徳 南朝方 徳川家康 星の宮神社 と だんだん ちいさなわっかに なってくるようです。
[66] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月12日 21時43分52秒 ) | パスワード |
白石様、様々なご教示ありがとうございます。
新堀も関東より北部、東北まで視野に入れたら見えてくるのですね。\(◎o◎)/!
ちなみに曾祖母の実家は湯前で氏族。父に聞いたら、相良家に仕えていたとの事ですから、ウィキの上球磨の相良家家臣 新堀氏は曾祖母の新堀家に間違いないと思います。
でも、先ほどもお伝えしたように、何処からとなると全国を視野に入れないといけないのですね。(宮原の先祖を探った事で本当に痛感しました。)
おっしゃる通り南朝方に仕えた可能性はあると思います。
いつ球磨に来たのかは不明ですが、今までの平川・宮原の流れからいうと、やはり、平安末期から鎌倉・南北朝時代と考える方が良いのかな・・?
(エヘッ(^−^)偉そうにですよね。でも、白石様・日本の苗字七千傑様のご教示のお陰と本を読み始めた事で少しは?、歴史の言葉を理解できるようになりました。(^◇^))
でもマダマダ全然ダメですので、勉強勉強( ..)φメモメモ
では<m(__)m>
[67] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月12日 22時20分08秒 ) | パスワード |
ギョギョえ〜っ!!(すいません今こんな感じです(@_@))
あの、今までの流れで全ての先祖が何か繋がりがあるようで、そう思い立ち、
何だかマタマタ気になり橘公業公のウィキで情報を最初から読んでいたら見落としていた言葉が・・・
承久3年(1221年)、長門国守護となる
長門!?? あれ?今週月曜日に、宮原の先祖を調べていて迷走して混乱してきた頭を、ちょっとリフレッシュしようとドライブ。行った場所は・・・長門・・\(◎o◎)/!
縁のある土地に私行っていた訳です。(?_?)下関経由 → 菊川 → 豊田 →長門! そう言えば青海島に初めて行った時「やっと来る事が出来た〜と初めての場所なのに何故か懐かしさがこみ上げて来て・・」とコメントした事があったかと・・(?_?) アレレッ そう言えば くるそん山付近で頭がズンズンゴーって・・・ええっ??!!帰りは豊浦の海を見ながら帰ってきて・・
何なのでしょうかコレは?? DNA(記憶のDNA)の研究がもっと進んだらぜひ私を研究対象に入れて頂きたいくらいです。
脱線しました。<m(__)m> すいません。
[68] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月13日 00時14分59秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>承久3年(1221年)、長門国守護となる
正確には承久3年7月から9月の2ヶ月間の短期間。
下関の地名変遷は、
赤間関 → 赤馬関 → 馬関 → 下関
赤間関は平家物語でお馴染み。
馬関は馬関戦争で有名、赤間関市は下関市の旧称。
赤間とは、赤の部族(漁業和人の海人族または海人見族)が支配することを神々が守護する地域という意味。
古代の豊浦地域の宗主国は馬韓だったから、赤馬韓の語呂合わせも考えられる。
[69] | 白石さんからのコメント(2013年10月13日 03時24分48秒 ) | パスワード |
馬韓は 後の 百済に 重なっている地域ですね。
百済の祖先? は フェルガーナあたりにいた と 中国の本にかいてある と本で見たことがありますが・・・
汗血馬がいる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本は 519から615あたりまで 読んだところで
まだまだ 一気には 頭に入りませんが
豊国 に 神倭伊波礼毘古命(のちに 神武天皇といわれた)が いた とあります。
神武天皇は 大和に東還され その際 うましまじ命の服や矢を見て 同族だと認識された と いうことで、
時代が降りて 百済の血をひく人達が 天皇家や藤原と 通婚したのも
はるか 昔に 下地があったから でしょう。
また 佐田彦も 金の羽羽矢の 伝承を持つ。
佐田彦よりも
むしろ 神魂尊 伊勢神宮外宮にまつられる人
この人の乳母と いうことになっている 白山菊理姫
国生み神話に出る いざなみ
彼らは 海人族だったのでは ないか ?
いざなみの住むという 根の国に 行きたい と だだをこねた スサノオの子は 後 天皇家へ。
アマテラスの 子は 宗像三神として 海上の守護神へ。
いざなみ の 死後うまれたという 三貴子と住吉の神。
海人族(山ノ神海の神はきょうだいという)から出る后たち。
皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の后・木花咲夜比売 豊玉比売のかわりに来る玉依姫
このあたりに
前には 火中出産は 産後の体の回復 と 書きましたが、
子貴母死 の 風習が あったのでは? とも思えますが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
子孫様 ごめんなさい。
私の勝手な興味で 混乱させて・・・
源氏平家 南北朝 ですよね。
[70] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月13日 06時22分41秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
ご教示、ありがとうございます。
日本の苗字七千傑様。私、下関の赤間神宮の”赤間”ってどういう意味なのだろう??とず〜っと知りたかったのです!。
やっと意味がわかりました。(^○^)ありがとうございます。
馬韓が関係していたとは・・びっくりしました。
白石様。 混乱なんてしていません。とっても楽しいです。(^○^)
だって、私、前にもお話したように、紀元前や、西暦500年くらいまでの時代に、以前から(多分、子供の頃からかな)とっても興味があって、だから、学校で教わる歴史の時、その時代がササ〜ッと終わった時に、「エエ〜ッ(@_@)」と悲しくなりました。
ですから、この時代のお話が出ると何故かワクワクします。(^○^)
先週、長門に行った時のお話をしましたが、あ〜見て頂きた〜い!!
千畳敷の高台から見た風景。海の向こうに出雲地方が遠く霞んでに見えて・・
多分、ここは古代においても何らかの意味があった場所だと思います。
台風の前でずっと曇っていたのですが、急に青空が出て、何と虹までかかったのですよ!!思わず両手を広げて空を仰ぎました。
管理等の係の人は私を「ううん??」と不思議そうに見ていました。
・・・・・時間経過
今、マタマタ久しぶりにブログに写真をアップしましたので、ぜひ見て下さい。白石様の中に流れるご先祖様のDNAもウズウズされるかもしれません。
(^○^)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11635380289.html
このスレッド 平家物語の熱く語る の意図とは外れるかも知れませんが、今後も古代の話題よろしくお願い致します。<m(__)m>(^○^)
[71] | 白石さんからのコメント(2013年10月13日 10時36分43秒 ) | パスワード |
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E6%96%B0%E5%A0%80&tdfk=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C
熊本県に新堀さんは63人 | 同姓同名探しと名前ランキング
に 新堀さんの 分布がありました。
湯前には いなくて 多良木に21人 あさぎり町に 4人 相良村に5人いました。他 ・・・
近いところの どこかに ご先祖様の枝分かれの子孫の方がいる可能性がありますね。
又
相良氏庶流らしいけど、それが 東国にいた頃からか不明
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
薩摩藩士今村家について教えて下さい。分限帳によると、島津斉興の時代 ...
(表題だけです)
この相良氏の一族が今村氏です。 他にも★★相良氏庶流★★として愛甲・上村・★★新堀★★・瀬戸山氏 などが鹿児島県には在ります。 グレード ... 戸沢村や相良村の名前は戸沢氏や相良氏と 関係がありますか?現在の山形県最上郡戸沢村と熊本県球磨郡
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
市町村変遷:静岡県 - nifty
相良町 55.11.1 白井* →榛原町. 静波町,細江村,勝俣村,道場村,仁田村, 川崎町 かわさき, H06 川崎町, 川崎町, 55.3.28 榛原町 はいばら ... 家山村,抜里(ぬくり)村, 葛籠(つづら)村, 下川根村 しもかわね .... 松原村,梅山村,★★新堀村★★,初越村, 東浅羽村
↓
新堀村から豊田郡竜池村へ
新堀村から山名郡東浅羽村へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宮城県(陸奥)で 新堀村が志田郡になっていました。
[72] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月13日 11時23分52秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^○^)。
今日は、折角今昔物語の19章をダウンロードしたので読んでみようと頑張ったのですが、何せ古文なのでチンプンカンプン?で。
良峯宗貞公のお話ですが、
”宮原の娘なり也ける人を妻として、極く哀れに難去く思ひ通して過ける程に、男子一人・女子一人をなむ産せたりける。”
とあって・・そこで、略して訳しているページを見つけたので載せます。
http://www.ogurasansou.co.jp/site/heian/48.html
読んで頂くと解るのですが、とっても気になるポイントがあって
@上記に書いた宮原の娘を妻として男子一人女子一人の子供がいた。
Aもう二度とまみえることもないであろう、愛すべき家族たちが霧の中へすっかり消えてしまってから、 宗貞は声をあげて男泣きに泣きました。
この部分なのです。
ウィキで見ても妻の名前は無いし、なおかつ宗貞公の系譜に載っている弘延・由性・素性・椋橋玄理 この方々の中に今昔物語で書かれていた”男子一人”が含まれているのかが解りません??
もちろん今昔物語は逸話でもあると言われているので、100%真実かどうかは解りませんが・・
もし、この後、家族が本当に離れ離れになったとしたら子供たちを育てたのは誰?どの家?と・・・ ううん謎です。
[73] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月13日 11時50分39秒 ) | パスワード |
ああっ!!白石さんすいません。コメント頂いていたのですね。
ううん?ううん?と謎を考えていたらかなり時間がたっていました。
新堀家ですが、父に聞いたら、「ば〜か!新堀は一応多良木よ。溝を挟んで、そこから先が湯前!!」と言われました。<m(__)m>(*_*)
すいません。子供の頃に行った記憶が湯前だったと勘違いしていたみたいです。(*_*) 溝を挟んでだから、久米と湯前の境界に近い所だったと言う事かな?
でも、相良氏と新堀は、球磨に来る前から繋がっていたようですね。\(◎o◎)/!
殆どの氏族が別の土地から来られているのに、球磨弁は独特ですよね。私は大好きですけど・・
でも、子供の頃に、近所のおじいちゃん・おばあちゃん方が遊びに来られた時、私がお茶をどうぞと出すと(小学校の頃から祖母に仕込まれていました。(-_-)/~~~ピシー!ピシー!)皆さん「だんだんな〜(^○^)」と言われて、最初はダンダンナー(ゴダイゴのガンダ〜ラ♪みたい??)と思っていたのですが、祖母も「だんだんな〜」と言うので、聞いたら「ありがとう」という意味と言われて????
で、ある日ダンダンナーって何語?と聞いたら祖母から「馬鹿にしちゃいかんとよ(ー_ー)!!だんだんなーは、もともと京言葉やけんね。(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」と言われて・・ほ〜っ!!誰か京都の人が引っ越ししてきて皆、真似したのかな?と子供心に思ったのでした。((ー_ー)!!違う違う)
でも、やっと解りました。皆さん京都(奈良)などから全国に広まり、そして球磨に集まって来た人々であったのダ〜と。<m(__)m>
球磨弁にはもっと面白い、それこそ京都どころではない百済語?のような言葉が残っているかもしれません。\(◎o◎)/!(^○^)
[74] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月13日 12時48分06秒 ) | パスワード |
あの、皆様。今昔物語の謎の続きです。
息子さんのお名前見つけました。
今昔物語19巻1章をもっと丁寧に解説しているページを見つけたのですが
http://home.kobe-u.com/lit-alumni/hyouronn13.html
そこに、
やがて僧侶として大成した彼は、当時はまだ貴族出身の僧侶が珍しかったこともあって貴族社会に重用され、僧正遍照(「遍昭」とも書く)の名は一世を風靡した。しかしこの場面は、そういう彼の閲歴とは関係なく、愛執を断って出家する人間に共通の、最も基本的な苦悩を訥々と語った話として心に残る。先に紹介した顕基の出家譚でも、出家者として悟りすましたはずの彼が、大原の庵に尋ねてきた宇治殿頼通に「俊実は不覚の者に候ふ」と、わが子(俊実)への思いをぽつりと漏らすところに感動の中心がある。
わが子(俊実)
あれっ?でも 延・由性・素性・椋橋玄理 ない 名前が無い??俊実
あ〜また謎がでました。
俊実様は何処に行かれたのでしょうか??
でも、どうしてこんなに気になるのか・・自分でも不思議です。(?_?)
[75] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月13日 13時50分11秒 ) | パスワード |
あの・・こんなに気になって・・自分とは関係ないと思うのですが、だから皆様に馬鹿じゃないの?と言われるのを承知で調べています。
大原の庵に尋ねてきた宇治殿頼通に「俊実は不覚の者に候ふ」と、わが子(俊実)への思いをぽつりと漏らすところに感動の中心がある
の宇治殿頼通公が気になって、調べたらこの方は藤原 頼通と言う名前で・・
次にこの方の子供さんの名前を見たら藤原 師実(ふじわら の もろざね)公がいらっしゃって(師??師??)この方の兄弟に”橘俊綱”公。ううん?橘?と思ってその先をクリックして見たら、”讃岐守・橘俊遠の養子とされる”とありました。??
その他
摂関家の子弟にもかかわらず、尾張守・丹波守・播磨守・讃岐守・近江守・但馬守と地方官を歴任し、位階は正四位上にとどまった。
とありました。(”俊”がいっぱい)
で、戻りますが、
藤原 師実(ふじわら の もろざね)公の長男が藤原忠実(今度は実がいっぱい)
”忠実は個々荘園の拡大も行った。代表的な例として、平季基が開発し頼通の時代に摂関家に寄進した島津荘(薩摩国)がある。これは当初数百町歩しかない小規模なものであったが、忠実の代になって大隅国に約千五百町歩の新たな出作地を獲得している。”
調べて行くと、良峯宗貞公の子息、俊実公の名前に何だかよく似た名前(俊がついたり・実がついたり)が出て来て、”師”の付く方も出て来て ・・・?????
何でこんなに気になるのかが本当に解りません??
馬鹿って言わないで下さいね。(*_*)
[76] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月13日 14時25分25秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>もし、この後、家族が本当に離れ離れになったとしたら子供たちを育てたのは誰?どの家?と・・・ ううん謎です。
謎じゃありません。当たり前ですよ。
当時は女系伝領で「男三界に家無し」の招婿婚(夫の通い婚)だから子供は元服するまで妻の実家が養育するのが当たり前。
北条政子は死ぬまで平政子、鎌倉将軍家は実家同士の争いで滅亡。
鎌倉時代から徐々に嫁入婚に移行していった。
それでも妻の実家の姓や苗字を名乗る例が少なからず存在した。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a1.htm#007
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a2.htm#017
しかし江戸時代中期になっても実家傾斜の嫁が多く、貝原益軒先生が「女大学」を刊行したのです。
平成の現代でも、かかあ天下の家が多いのが現実でしょう。
[77] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月13日 14時25分29秒 ) | パスワード |
あの・・・度々すいません(*_*)
何だか藤原 頼通(ふじわら の よりみち)公は重大なキーマンのような気がしてならないのです。
なぜなら、この方、色々な方を養子に迎えていらっしゃって・・・
何だか私、開けてはいけないパンドラの箱をパッカリンコと開けてしまったような気がしてなりません。
ちなみに、今昔物語はいつもの変な感で気になって・・その後 良峯宗貞公の子息俊実公は その字が・・・・
離婚した元夫の名前に”俊”が付いていて、娘の婚約者にも何故か偶然”俊”がついていて・・”俊”の字に以前から縁があるな〜と思っている時に”俊実”公の名前が登場したもので・・・あれれっ????
これは、何かのお導き??かと・・・
皆様のマタマタ(ー_ー)!!が聞こえて来るのですが、今回は手が震えるほど何かが反応しているのです。(*_*)
所で、今から、母の所に行ってきます。何だか具合が悪いそうで・・(*_*)
では、行ってきます。(^・^)
[78] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月13日 23時26分00秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
やっぱり”俊実”公は私の勘違いです。<m(__)m>
本朝皇胤紹運録を見たら、由性・素性 と二人の方のお名前が入っていました。
と言う事は”由性”が、今昔物語に書かれている良峯宗貞公の男一人の子息なのでしょうか? でも、名前が変わっている可能性もある訳ですよね。
何も出てきません(*_*)
ただ、便利なページを見つけました。
KULINE検索 - 京都大学KULINEです。もう、皆様ご利用になっていますよね。(*_*)今日、一日、うううん??と悩んだ結果の成果はこれだけです。(*_*)
今昔物語に拘ったのは本当に何故だろう??でも、何の成果もないわけですから意味がありませんでした。(*_*)
[79] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月13日 23時50分53秒 ) | パスワード |
追記
母は、大丈夫でした。何も食べたくないと言った後で、「でもね、パンなら食べられる。昨日、全国放送で紹介されていたシロヤのサニーパンが食べたい(^・^)」と・・・・
えっ?テレビ?なんの事やら・・とシロヤ(地元の人しかわかりませんよね。昔からのパン屋さんです。)にいったら・・・ゲゲゲ〜ッ!と。人が人が・・!!お店の前に黒山の人だかりで、通りが通れなくなっていて、何々?とやっとの事でお店の人にサニーパンを注文したら「今、品切れです」えっ?何で今までそんな事一度も無かった??今度はいつ買えますかと聞いたら1時間30分後との事で母に電話。「ううん・・(*_*)でも食べたいな。食べたら元気がでそう(*_*)」と・・え〜っ!(*_*)まあ仕方ないと時間を作って指定の時間にいったらこれまた人だかり!やっとの事で買えました。
母はサニーパンを食べる時のうんちくを語りだしたので、なぜ、今までそんな事、言いながら食べてた?と思ったら、「昨日、スマップのシンゴちゃんと藤木何とかいう人が言ってたの。(^・^)1位よ1位。このパン全国1位\(~o~)/」うれしそうにテレビで聞いたように食べていました。
メニエールの発作だったようですが、パンを食べたら少し回復?していました。
ついでだったので、高鍋のお墓の敷地にある姫様のお墓はどこの姫様?と聞いたら「どこのって、家のよ。遠い遠い昔の家の姫様よ」と。???
現代に生きる日向日下部の末裔のお話でした。<m(__)m>
(脱線しました。<m(__)m>)
[80] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月14日 00時04分05秒 ) | パスワード |
またまた追記です。 すいません(*_*)
今日の収穫は何も無かったと書きましたが一つだけ???と。
藤原家には何故か”師”の付く名前の方が沢山いらっしゃいました。
”師”・・・???!!!ううん?
何だろう?何か気になります。(?_?) <m(__)m>
[81] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月14日 00時10分16秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>本朝皇胤紹運録を見たら、由性・素性 と二人の方のお名前が入っていました。
良峯宗貞以降の系図は諸説あり。
椋橋玄理は良峰宗貞の子では無いとしている系図もあり。
その場合、宗貞の子は弘延(権律師)、素性(権律師、俗名玄利)、由性の三人。
玄理と玄利が似ていることから良峰氏を仮冒したのではないかとの疑い。
>今昔物語に拘ったのは本当に何故だろう??
今昔物語により、平貞盛の養子15人のうち5人が確認出来るので価値あり。
史料に100%を求めるのが幻想。
少しでも解れば成果は大きい。
また、他の史料を探せば良いだけ。
[82] | 白石さんからのコメント(2013年10月14日 01時02分49秒 ) | パスワード |
こんばんは
お母様は お元気でよかったですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
橘俊綱の女子のこと
@橘俊綱の女子は 村上源氏・源師忠と結婚した。師房ー師忠ー北畠師親 ・・・・・・孫・北畠師重(きょうだいに護良親王を生む親子)ー南朝の柱石 ★★北畠親房★★「神皇正統記」を書く。
Aさらに 師親の子・ 師重きょうだいの親子(ちかこか?)は ★★護良親王★★を生む。
藤原道長
↓
頼通
↓
通房、きょうだいに★橘俊綱(讃岐守・橘俊遠の養子)、覚円、定綱、忠綱、寛子、★★師実他〔子・家忠〕
↓
A)橘俊綱http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/nigihayahinomikoto.htm に俊綱の祖先の系譜が載っています。個人がつくっているものですが・・・
妻:源隆国の娘
男子:藤原家光 - ★★藤原家忠の養子
生母不明
男子:橘兼長
女子:鳥羽天皇藤壺女御
女子:源師忠室・・・・@へ
師忠父・源 師房(資定王)(寛弘5年(1008年) - 承保4年2月17日(1077年3月14日))★村上源氏の祖。★村上天皇 の皇子★具平親王の子。★中院流祖。従一位・右大臣。★土御門右大臣と号した。幼名は万寿宮。
源師忠の
父:源師房
母:藤原頼宗の娘
正妻:橘俊綱の娘
男子:源師親(1083?-1111)・Aへ
角田文衛.後宮の残照 - So-net
護良親王を産んだ源親子は、権大納言・源師親(北畠家)の娘で、『権大納言典侍集』を遺した歌人であった。親子は、初め亀山天皇の後宮であった。
源師親(1241〜1315.75歳)の子に師重(1270〜1322.53歳)と親子がいて、師重の子が親房(1293〜1354.62歳)である。つまり護良親王と親房は従兄弟の関係にある。(ただ、親子の年齢等に関して不審な点もある。)と。
妻:源俊長の娘
男子:源師隆(1075-1134)
妻:藤原良綱の娘
男子:源師長
妻:源政長の娘[2]
男子:寛遍(1100-1166)
生母不明
女子:輔仁親王室
女子:染殿
女子:源師時室
養子:源師俊(1080-1142) - 源俊房の子
[83] | 白石さんからのコメント(2013年10月14日 01時53分40秒 ) | パスワード |
花山院家
俊綱の系は結局 この 花山院家では とまってしまうけど
藤原家光は橘俊綱の子 母:源隆国の娘 藤原家忠の養子としてついています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
花山院家は その後
中山家につながり 中山局へ
花山源氏は王氏
ーーーーーーーーーーーーー
上の方の大きなつながりが
球磨のつながりにも 関係してくるのではないでしょうか?
上球磨は 護良親王に味方しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
又
中山局が関与してくる 中山寺の白鳥伝説 などから
うっすらと
ヤマトタケルが浮かんでくる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
地縁血縁の頃のことですから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
だんだんなあ
は 出雲でもいうみたいです。
前に 方言を調べたときに 書いてありました。
そして
球磨神楽は 出雲の神楽にも 通じているようです。
[84] | 白石さんからのコメント(2013年10月14日 02時15分39秒 ) | パスワード |
一方
橘佐為の子孫の 春成の女子は 葛原親王の三男高見王の子・高望王の(親王の子とも) 母〔他にも説がある〕。
この子孫が 伊勢平氏になる。
[85] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月14日 10時28分19秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
昨日は本当はちょっといじけてしまい(*_*)(子供じゃないのだから(ー_ー)!!)すいませんでした。
日本の苗字七千傑様。お言葉ありがとうございます。
1日でくじけるなんて・・・
私は、甘いです(ー_ー)!!(自分に怒っています)
今まで、皆様、様々な情報を元に研究されてこられて、一つ一つ積み重ねて来られて、大変なご苦労があるのに。私は、皆さんの成果をちょこちょこっと見て、それに、文献をみても漢文難しいな〜なんて甘い目線で情報を確認して。
それで、いじけて・・もってのほかですよね。
すいませんでした。反省しています。<m(__)m>
気になる事は何かある!!調査あるのみです!!
白石様。ご教示ありがとうございます。
あの・・・。私、入口(俊実公)は間違えたかも知れないのですが、入った洞窟?(穴?)はもしかしたら・・・・と思ったのです。
今朝の(ううん午前0時は今朝か?)、白石様のご教示(スレッド82)のお話、実は昨日、私も自分で色々見ていて確認しながら、あれっ?!と。とっても気になっていたところなのです。
と言う事は、白石様も私も同じ部分(流れ)が目にとまり、気になったと言う事ですよね。・・・・・・!!??!!
結果、南朝が見えてきた。・・・???!!!
怪しいです。( 一一)
私も引き続き調査します。(^O^)/
ところで。
日本の苗字七千傑様・白石様には、ご親切に親身になって、私の全ての先祖の事をくわしくお調べ頂いきご教示頂いた事に本当に深く感謝致しております。
本当に、ありがとうございます。
ですから、今日は、今までお二人にお話ししていなかった、最大の不思議(謎)をお話する覚悟ができました。
この話をすると、お二人、いや全国の人から、「なんて、大それた事を!宮原(平川)子孫は気が狂っている、馬鹿か!!」と言われそうで、ずっと秘密にしていたのですが・・
今からお話する事は多分違うと思いますので話半分で聞いて下さいね。(気が狂ったと思わないで下さいね(*_*))
祖母から聞いた事です。
祖母からはこの話を私が子供の頃に1度聞いた事があったのですが、亡くなる前にも言ったのでとっても気になっていました。
祖母は私に、
「ばあちゃんが小さい頃まで、家(平川)には三種の神器があったとよ。見たらいかんと言われとったけどね。他に、平川の先祖に関する家系図もあった。絵巻物も沢山あって、その中の一つは物凄く大事な物と聞いた事があるとよ。ばってん、火事で殆ど焼けて、残ったものは、あんたの曾爺ちゃんと伯父さん(祖母の兄)が戦時中にどうかされて、今はもう無いとよ。」
私は祖母からこの話を聞いた時に「ばあちゃん、何て大それた事を言うのかな(ー_ー)!!。ボケた?(ばあちゃんごめんなさい)」
と思いました。
今年の正月に父にこの話をしたら、私と同じように「ばあちゃんは、亡くなるまで物凄くしっかりしていたけど、やっぱりボケとったとかな?」
と言っていました。
でも、このスレッドで、祖母と祖父のお話をさせて頂いて、いろいろ解って来て・・・
この話は・・・
祖母が亡くなった年の正月に祖母と二人だけの時に聞きました。
最初のスレッドでお話した、祖父が負傷した時の事。その話を祖父に宛てて送られてきた軍上層部や華族の方々からの手紙・頂き物を見せてくれながら祖母は懐かしそうに話してくれました。その後に突然、先ほどの子供の頃の話をしたのです。その時は私もえっ!何ばあちゃん突然!!(ちょっと・・??)と思ったのですが・・・
でも、祖母は亡くなるまで本当に言葉は悪いですがボケていたとは思えません。オーストラリア人の奥さんをもらった従兄の結婚式にも出ています。
でも、亡くなったのはその年の4月2日。 ずっと元気だったのですが突然の死でした。
今日、非難を浴びるような大それた話をしたのは重々承知です。
でも、やはり気になって。三種の神器(本当に大それています。すいません)の何が?家にあったとは言わなかったのですが、曾祖父と伯父(祖母の兄)が関係した物と言えば、刀(太刀?)かな?と。でもこれは伯父は親戚に「ドウダヌキだった!」と言っていますし・・(でも、誰も見た事はありません)
その刀を伯父は、戦時中に韓国の何方かに差し上げているのですよね・・(?_?)
でも、今までの皆様のご教示で韓国は百済。百済は・・・
と理解出来ているので・・・
でも、本当に今日は、何度も言いますが大それた話をしてしまい、
申し訳ございませんでした。<m(__)m>
[86] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月14日 12時19分03秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>家(平川)には三種の神器があったとよ。
三種の神器は皇室特有のものではなく、「支配者」一般の象徴であったと考えらるから平川家にあってもおかしくない。
恐らく倭族の支配者の象徴だったのでしょう。
倭族とは雲南で稲作をしていた部族で、次第に長江下流に進出して一部が山東半島に北上。(古代の日本米の分布状況から明白)
春秋時代の呉滅亡(前473)を契機として朝鮮半島の中・南部に亡命した。
前漢時代(前202-8)の朝鮮半島中・南部に辰国を建国、後漢時代(25-220)に馬韓・辰韓・弁韓に分立する
一方、長江流域にいた倭族は呉王一族とともに筑紫に来たりて稲作開始。
やがて熊国王となり、漢土に対しては倭国王を僭称して朝貢をおこなったことは後漢書から確認出来る。
熊国とは邪馬台国なのですよ。
興味があれば、下記URLを参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/yamataikoku.htm
[87] | 白石さんからのコメント(2013年10月14日 13時18分56秒 ) | パスワード |
こんにちは
明日まで休みで、夕べは なべ・今日のお昼は かす汁・夜はおでん・と 楽ちんメニューのオンパレードで、おでんももうつくっています。
ゆっくり ねむれました。^^
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
子孫様
100パーセントうそだとは 思いませんよ。
若い頃読んだ本に
南朝と北朝は交互に 三種の神器を もつことにしていたけど、
南朝は北朝に騙し取られた。
しかし、渡した神器は 本物ではなかった。
ということを 書いた本を読んだことがあります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして
その席に臨んだのは 三好・三善だったと・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここで 7000傑様にお教えいただきたいな と 思うのですが、
三善は 良峯 または 平川だということ。
確か かっこで そう書いてあったと 記憶しているのですが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして
三好という言葉には 溝口から 亀田(三好)。
うちの 方の 溝口がある家のすぐ上に 平川があり
いつごろかまでは 一緒に行動していたかもしれない。免田の方にいた溝口はうちの白石の祖母にそれは よくしてくれていたそうです。明治の初め頃の人は昔のつながりを記憶していたのではないか?
溝口は 新発田藩主 相良氏と 養子関係がある。
うちの方の 溝口は やはり 日本刀を持っていると 親世代はいっていました。戦時中供出に 他の刀を だした?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
護良親王は 上球磨に来られた。そして 勢いをもりかえして 京へ馳せかえった。(南北朝期は 五摂家も 真っ二つに別れて争ったもので、片田舎でそれだけの勢いをとりかえすには 号令をかけると おうっと こたえる 何かの 組織があったのでは?と 思います。)
敗戦の色濃いいとき 五家荘に皇太子を隠そうとする 動きがあった ことを 考え合わせると、(五箇庄は八代)
目に見えない 力の存在を感じます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
橘には 勿論 有名な 楠正成が おりますよね。
よしんば おばあちゃんの 記憶を もう少し 明治の人の意識に置き換えて
南朝がもつべき神器なのだということを
うちにあった と いったのだと しても
平川が それを お預かりしているべきと いう 意識は 当たり前ではないか?と 思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
話がかわりますが
夫の母のこと
おばあさんが 頼りなくて 自分が子供の頃 実家の巻物らしきものを ゴミ箱に捨てていた。大事なものじゃ ないかいなあ と思っていたけど・・・
で、弟(当主・故人)が 京都の神社まで行って 教えてもらってきたんや。と言っていました。
そして 私も私で ふんふん という調子で聞いていたのです。
なにせ 義母と義父は それこそ 子孫様のところのように
先祖の血が お互いに強すぎたとよ という ようなもので
しょっちゅう どちらが 上にたつか
それこそ 犬もくわぬけんか とも いえないのですが、やっていたもので、話がどんどんふくらんで・・・と 思っていたのですが。
夫は どっちも おかしいわ と 取り合っていませんでしたが、
「樺井」というのです。
義母は 田辺が 田辺が と 言っていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして
この頃 http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/konoshima-jinjya.htm 木嶋神社
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/konoshima-jinjya.htm 水主神社のブログを見て、本当だ と 思うようになったのです。
樺井神社がありました。綴喜郡にあり、田辺村があったのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私の母方の祖母のこと
長い長い系図を見た と 母に言っていたそうです。
母方は 佐田で 南朝方をとおるとき 北畠家は 佐田です。
いったいに 父方は 北朝方・閑院流西園寺が濃く出て
ゆれるところです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
菊池をみれば 懐良(かねなが)親王で南朝方。
しかし
菊池が相良と戦い負けた後 白石は 相良に仕える様になった という話もあり、白石本家(本当はうちの祖父が当主)は 明治の頃村役場が置かれた という寺によっており、そこは 人吉永国寺のながれで、相良家中。
何だか すべてを 包括しているようです。
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子孫様
いろいろな お話を 忘れず 又 どなたかに 話して 伝えてあげてください。
きっと お話にあうことが 見つかります。
[88] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月14日 14時23分09秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>三善は 良峯 または 平川だということ。
話が混乱しているようですよ。
三善姓平川氏は居るが、良峰姓平河氏(平川氏)とは関係なし。
肥後には他に異流の頼盛流平川氏(薩摩から進出)や佐々木氏族平川氏も居るから、さらに勘違いするむきも多い。
また三善姓は百済王裔ということになっているが、後漢献帝裔錦織村主裔もしくは応神帝裔錦部姓とも伝える。
百済王から克興に至る系譜は不明なので、仮冒の可能性も高い。
[89] | 管理者 aさんからのコメント(2013年10月14日 14時32分23秒 ) | パスワード |
レスが90になったら新しくスレッドを立ててください。
99になりましたら閉めます。
[90] | 子孫よりさんからのコメント(2013年10月14日 22時04分45秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、白石様。ご教示、本当にありがとうございます。
お二人のお言葉で、祖母が亡くなる前に言った事は夢物語でも、祖母の空想でもなかったのだと思ったら、とってもうれしくなって、また涙が出てきました。 ありがとうございます。
祖母の話は、祖母が亡くなってずっと気にはなっていたのですが、祖母が亡くなってすぐに、家庭の事やら仕事の事やらで自分自身がいっぱいいっぱいになって、記憶の隅に置いていました。
3年半前に、今の仕事に就いてからは、休みも規則正しく取れるようになり、自分自身の生活にゆとりが出て来て(金銭面ではありません心のです(^・^))ふっと、思い出す事があり、祖母は何を言おうとしていたのかを知りたくなったのです。
祖母と話をした正月、「ばあちゃんの兄弟は皆亡くなってしまった。だから、あんたにはもっと話しときたい事がいっぱいあるけん今度はいつ帰ってこれる?」と聞かれて、多分3月の末と答えたら、「ううん、ばあちゃん、楽しみに待っとくけんね。」と。そして、やっと帰る事が出来るようになった3月28日。その日、高速を球磨に向けて運転している時に、祖母が脳梗塞で倒れたと父から電話があり、ビックリして、祖母の入院している病院に行ったら、意識はありましたが、でも口がマヒしてしまっていて・・。私の顔を見て祖母は動かない口で一生懸命「遅い・もう遅い・ばあちゃん話せんごとなった」と。気丈な祖母が私の手を取り泣いていました。
その晩、眠たそうだったので、「もう寝たら?」と言うとニコッと笑って私の手をしっかりと握りながら寝たのですが・・寝入ったと思って寝顔を見ていたら、急に口が開いたまま、次の呼吸がなくて・・。そのまま、意識が戻らず4月2日に亡くなりました。
ずっとずっと祖母が何を言おうとしていたのか知りたかったのです。
そして、このスレッドを見つけました。平家をテーマにしたスレッドですが、どなたかが、きっと祖母が私に伝えたかった事を導いて下さるのではと思いコメントを入れました。そして、日本の苗字七千傑様・白石様にご教示を頂ける事が出来るようになり、ここまでこれたのです。
お二人には本当に感謝しています。 ありがとうございます。
どうか、これからもよろしくお願い致します。
それと!もうレスが90です。\(◎o◎)/!はやい!!(^○^)
早速、新しくスレッドを立てますね。
[91] | 管理者 aさんからのコメント(2013年10月15日 06時56分32秒 ) | パスワード |
続きは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101327_1.html
平川家について(続3)へどうぞ。
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