キーワード:武蔵七党 横山党 小野氏 大友氏 コメントの種類 :書籍・文献
パスワード
彦島出身で、日子の島にも何回か投稿したことがあります。
わたしの姓「古庄」のことを調べているうちに、ある検索文書を探り当てました。「波多野氏」についての文書で、その文書の出所は「平家物語を熱く語る」でした。そのタイトルに、「あれ聞いたことがあるなあ。ひょっとして」とこちらのHPを開いたところ、はたして予想通りに「日子の島・平家物語を熱く語る」でした。
「波多野氏」は、武蔵の名族で、武蔵武士団「横山党」に所属していました。横山党の盟主、横山氏は、小野氏の流れをくむという伝承があります。
ところで、私の住む奈良市内の富雄川流域は、小野篁の荘園とされ、近くにある
霊山寺(りょうせんじ)の創建にも小野氏が係わっているとされています。
私は今、地元の博物館でボランティアをしているのですが、収蔵品の仏像ガイドの関係から運慶についていろいろ勉強する中で、三浦半島の芦名にある浄楽寺の阿弥陀三尊像に行きつきました。
阿弥陀三尊やそれを守護する四天王のひとつ毘沙門天像、さらに不動明王像の胎内から銘文が発見されました。銘文には、「大願主平義盛芳縁小野氏」とありました。平義盛は和田義盛のこと、芳縁とは妻のことで、横山党小野氏出身ということを示しています。
横山党は、和田義盛と北条氏が争った「和田合戦」で全滅します。しかし、横山党の中にいた古庄(近藤・大友)能直は、幕府に重用された中原親能の養子となっていたことから、生き延びて豊後守護、大友氏として戦国末期まで繁栄することになります。
大友氏の直系宗家が、豊後守護として赴任する以前に、代官として豊後を攻略したのが、大友能直の弟、古庄重能(しげよし)でした。この古庄能直は、豊後の古い豪族、朽網(くたみ)氏を滅ぼし、その家を継ぎます。
朽網郷は、記紀神話の景行天皇の土蜘蛛討伐の話にも登場します。景行天皇が、土蜘蛛征伐の成否を占って、大岩を蹴り上げます。「征伐が成功するならこの大岩は宙に浮き上がるだろう」と予言します。はたせるかな、岩は宙に浮きます。
この大岩は、「帝踏石」という名前で、日豊線朽網(くさみ)駅まえの住宅街にあります。しかし、同じ「朽網」という地名ですが、一方は、豊後大分の山奥の「朽網(くたみ)」。一方は、豊前(福岡県小倉南区)の「朽網(くさみ)」です。
実は、わたしの実家は今、彦島から引っ越して小倉南区の朽網(くさみ)近くにあります。両朽網の関係は、単なる偶然なのか、関係があるのか不明ですが、なんともさまざまな縁が連なった「奇縁」の数々に、不思議な巡り合わせを感じています。
|