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 投稿番号:101322 投稿日:2013年09月09日 06時54分48秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
古地図:養老元(717)年に描かれた尾張国

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

ときおさんから頂いたURLをこちらにも:


http://okarutojishinyogen.blog.fc2.com/blog-entry-4184.html


水没の可能性のある世界の都市に
日本からは名古屋のみがリストされたのがどのような事情か
この古地図から良く分かると思います。


尾張の殆どが海の中だったとは。
知ってたけど、ここまで、海の中だったとは。


津嶋や長島が本当に「島」だったとは。

[1]アカコッコさんからのコメント(2013年09月09日 11時53分44秒 ) パスワード
URL=http://www.alpha-net.jo/aakokoco.

青様御無沙汰いたしております。
見てきました。津島が港町とは知っていましたが、島だったとは、以前から島がつくので不思議に思っていました。古地図で納得いたしました、有難うございました。
津島が出てきたところで下記を現在名古屋にお住まいの江戸中期に分家した元京都にお住まいだった川口家よりのお知らせ・コピーご送付により、判明しました。
津島図書館所蔵の‘大橋家文書‘の複写巻なら利用可能を。
大橋家のことをお調べでしたら、上記図書館の『尾州雑志』(名古屋市蓬左文庫蔵)の第十巻をご覧下さい。
目次によれば、津島壮年行事(七二巻)・津島社年中行事(七三巻)津島産人物(第七十七巻)・大橋家系図(大橋源三右衛門・武左衛門)他:堀田略系図、服部氏など多数の略系図などが収録されております。

[2]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月09日 12時39分13秒 ) パスワード

アカコッコさん


お久し振りでございます。

本当に現在の姿からは想像も出来ないほど土地って自然に人的に変わるものなんですねえ。



信長の時代、津嶋が港町で交易が盛んで尾張の商業活動に寄与してた
と説明されても
(海に近いからね)
と思いつつ、実際には、ピンと来なかったのですが
本来が「島」だったとは。


確かに「津」+「島」で「津嶋」という地名になったのが分かりましたが
自分の心に思い描いていたイメージと余りにもかけ離れていて
ちょっと立ち直れないです・・・



大橋本家については広島大学にもあるそうです。
http://www.hiroshima-u.ac.jp/upload/0/houjin/shiryoudemiru/lib-h07-010.pdf
[3]箱柳永田さんからのコメント(2013年09月10日 18時11分54秒 ) パスワード

  空の青 様
  三日位寝込みそうな、絵を紹介します。
  (本来の使用方法は!効率的に古墳を見つける!)
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/kowr_mgw.htm
 衝撃的な地図です(人為的に標高3m迄 青色着色)尾張古代の海岸線

 >http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/katudansou/aichi.htm
  愛知県の活断層 
 図より 猿投断層と養老断層の間に濃尾平野が広がっています。
 猿投断層東側と養老断層西側は、隆起を繰り返してきました、
 濃尾平野は、、、沈むのね。で、堆積物で肥沃な耕地が出来る。
 三河等の隆起する場所では、表土が流れて、痩せた土地が出来る。
 
 三河の貧乏は、こんな所からも知る事ができる。
  この様な地にシガミツクと、、、大久保彦左衛門が量産される?のかな。
   
    
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月10日 22時04分05秒 ) パスワード

箱柳永田さん


ホントに寝込みそうですね。



美濃は昔は「三野」と書いたのかもですね、
   三野前・三野後
   の表記から。


沖積平野って、なるほど、地盤が弱いはずだと思いました。
[5]箱柳永田さんからのコメント(2013年09月11日 18時41分12秒 ) パスワード


  空の青様
 大浜熊野大神社の境内の松などは、風に吹かれて少し曲がると、
 奥深くまで細砂ですので、支え切れなくなって、、切られてしまうのね。
  大きな石灯篭も補強がしてあります。
 >http://gudagudagekki.blog.so-net.ne.jp/2012-01-05#more
 byあらい さん  愛知中心に神社巡りのHP

   噂では、10m掘っても砂だそうで、横から崩れてくるので
  怖くて止めたらしい、、、ほんとかいな?という伝承があります。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月11日 22時35分03秒 ) パスワード

すっごい話ですね・・・


碧南もそうなんですか
名古屋はちょっと掘ると、ちょっとなんか掘らなくても、スグに海水が出て来ます。



我が家は井戸があって
   これは海水の出る井戸でした。
ホントは真水の井戸が欲しかったんですが。
激笑
[7]carrotcakeさんからのコメント(2013年12月06日 17時19分50秒 ) パスワード

この古図は信ぴょう性に乏しく各部に矛盾もあり、誰が何のために
描かれたものかも知れません。尾張の大部分が太古に東海湖や熱田海
であったことは否定しませんが少なくとも養老元年頃は縄文海進も終わり
寒冷期であり、現在の海岸線に近い状態であった(埋め立てによる
海岸の前進は考慮しない)筈です。
ネタモトのはっきりしないものを鵜呑みにして載せないように!
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月06日 22時47分50秒 ) パスワード

>ネタモトのはっきりしないものを鵜呑みにして載せないように!


唯一賛同できるとしたら
「尾張図会・・・」の部分が
昔は文字を  右から左へ   書いたんじゃないか?  です。


それとも当時も  左から右へ  書く場合もあったのか?


*************



反論レスの場合

     >尾張の大部分が太古に東海湖や熱田海であったことは否定しませんが
1.   >少なくとも養老元年頃は縄文海進も終わり
2.   >寒冷期であり、
3.   >現在の海岸線に近い状態であった(埋め立てによる海岸の前進は考慮しない)
 
*    >>>>筈です。<<<<


では1から3のあなたの書いた話を証明するものをココにアップしてください。


ココを読む人は、両者を比べて
「名古屋が日本から唯一水没する可能性のある都市として選ばれた」理由について合理的に考えるでしょう。


また  <<<*>>>の部分
「筈です」って?


この「筈」で、あなたの書き込みも
「 ネタモトのはっきりしないものを鵜呑みにして載せないように! 」
に該当しますね。


註:
「筈」:事が当然そうあるべきだの意を表す語。予定。道理。
   :あした着くーーだ。そんなーーはない。

        この2つの用例の背景を考えてみてください。


あした着く「筈」だと思っていても、実際には着かないかも知れないし

あした着く筈だったのに、なんで?あした着かないの?そんな「筈」はない。
え?本当に?あした着かないのか・・・


**********************


「ネタモトのはっきりしないものを載せるな」とバッサリ言ってしまうと
  
   (そんな大昔から2013年の今日まで生きてる人がいるわけないし、
    伊能忠敬だって当時はまだ生まれてないし、
    当時の人の測量技術だって稚拙だったし、
    当時は航空写真だって無いし)

爆笑


と日本のすべてが、いえいえ、地球上のすべての「ネタモト」が吹き飛びますよね



********************


このスレはこれで良いんじゃないですか?

世界の水没の可能性のある都市に名古屋が日本から唯一選ばれたニュースの参考にあの地図が出て来たわけで

あれが偽物なりアヤシイものと言うなら、じゃ、当時の地形を描いた「本物」をココに紹介してくださいよ。


そして津嶋や長島がなぜ「島」という地名が付いているのかも御紹介ください。



******************


>>>現在の海岸線に近い状態であった(埋め立てによる海岸の前進は考慮しない)

この書き込みからすると、地元を知ってる人じゃないでしょ?



>ネタモトのはっきりしないものを鵜呑みにして載せないように!

お互い様、ということで。



とにかく当時の本物の地図をアップしてください。
よろしくね
[9]carrotcakeさんからのコメント(2013年12月09日 17時38分22秒 ) パスワード

必死の反論www
愛知県埋蔵文化センターの発掘調査では弥生から古墳時代にかけての
貝塚や墳墓群が清須市から春日井市にかけて広く分布していることが
報告されてるので、少なくともその辺りは海ではなく養老元年には陸地に
なっていたと言える。が何か?
彼の図(絵)は江戸時代に猿投神社の増改築時に発見され伝えられたと
言うがはっきりしていない。誰が何のための図か?も大学・博物館などの研究者の間では不明とされているし、多くの研究者は少なくとも年号は間違っているか捏造と断定している。又図そのものを否定している研究者も多い。
だから鵜呑みにするなと言っている。
ちなみに春日井市の玉井神社にも似た図が伝えられているとし、やはり尾張古図と言われている。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月09日 22時56分49秒 ) パスワード

あら
ありがとうございます。


>ちなみに春日井市の玉井神社にも似た図が伝えられているとし、やはり尾張古図と言われている

 あの地図と同じようなものが他にもあったのか 


へえ〜
にっこり





[11]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 02時13分48秒 ) パスワード

ジムでちょっと(ほんの2時間ちょっとですが)走って来ました。


carrotcakeさんから教えて頂いた春日井の玉井神社の尾張古地図というのです。
http://www.library.city.nagoya.jp/img/oshirase/2011/hoshi_201112_2.pdf
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 02時24分48秒 ) パスワード

以下コピペ:全文はURLへ


一説には養老元年(717年、養老年間とも)のものといわれる尾張古図をご存知でしょうか。

はじめてこの古図を見た方は、ちょっとドキッとするかもしれません。

尾張古図には現在の濃尾平野にあたる部分が描かれていますが、その濃尾平野の大部分が海中に没していて「中島郡」や「津島」、「ビハシマ」など、地名に“島”とつく地域などがわずかに島として海面から顔を出しているように描かれているのです。


例えば、尾張の90箇所の名所を銅版画で描いた明治時代のガイドブックともいえる『尾張名所圖繪』(宮戸松斉/著 明治23年)の巻頭にある「尾張古圖」もその写しの一つと考えられていますが、やはり濃尾平野の大部分が海湾として描かれ、現在の名古屋辺りには「浪越」、「アツ田」、「ゴキソ」、「八マン山」などの地名が見えます。



@尾張古図は猿投神社あるいは玉井神社に伝わるものである。
A尾張古図というのは総称で異なるものがいくつかある。
  (「写し」という形で複製が作られて伝わったと考えられますが、その過程で地名や島などが加筆・省略されたためでしょうか)
B偽図という説もある、とのことです。

[13]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 02時29分39秒 ) パスワード

以下コピペ:


尾張古図には2つの系統があることがわかります。


一つは猿投神社から出たとされているものと、もう一つは玉井神社から出たとされているものです。


猿投神社のものは「中島郡」が大きな島として描かれているのに対して、玉井神社のものは「中島郡」部分が大きな島ではないこと、知多地域が半島として描かれている点に特徴があるようです。

(ただし、阿部直輔氏は『明治随筆』で両者を同じ図だとしています。もともとは同じ図だったものが後の加筆・省略により上記のような違いが生じた可能性もあります。)
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 02時42分30秒 ) パスワード

尾張古図には「ハザードマップ説」というのもあって
   「水没の可能性のある日本の都市では名古屋が挙げられる」
というのと呼応してて面白い。


以下コピペ:全文は上記URLへ


奥村得義は尾張古図が作られた理由について“開闢を談ずる”こと、さらに“後世を指南”することにあったのではないかという見解を示していますが、


開闢とは歴史のはじまり、すなわち濃尾平野の辺りに人が住みはじめた頃のことで、尾張古図はその太古の大昔を議論するために作られ(→@)、

さらに大昔には濃尾平野の大部分は海であったのだから水害の際には充分に気をつけるようにと後世に教えるためのもの(→A)

だったと解釈することもできるのではないでしょうか。



尾張古図がBの被害状況の想像図であった可能性についてはどうでしょうか。

例えば、『大日本地名辞書』の志賀重昴の長い序文の中で尾張古図ともに言及されている越後の寛治6年(1092)古国図というものがあります。

この古図について“世俗に伝わる寛治の古図は、中世に洪水によって水があふれた状態を絵図にしたもので(中略)『扶桑略記』の「寛治六年八月三日、大風諸国洪水、高潮之間、民煙田畠多以成海」の際の絵図ではないか”

(前述の『地名の巨人吉田東伍』の現代語訳からの引用)とする説について書かれています。(ただし、この説について吉田東伍は“附会ノ巧言、弁護ニスギズ”と述べています。)


改めて『扶桑略記』(『国史大系 第12巻 新訂増補』(吉川弘文館 1999年)所収)を確認してみると、前述の引用部分に続けて伊勢神宮の被害の記述がありました。


したがって、寛治6年8月3日の諸国に洪水をもたらした“大風”は濃尾平野にも大きな影響を及ぼした可能性があります。

もちろん寛治6年の大風と尾張古図をすぐに結びつけることはできませんが、尾張古図が“洪水によって水があふれた状態を絵図にしたもの”である可能性も完全には否定できません。


以下略



ということは  大型台風で名古屋が水浸しになった  図  ということかも知れない?


今年の超大型台風  30号? ハイアン? が名古屋を襲ってたら 尾張古図のようなありさま?


非常に面白い!


今から歯医者の受診です。
残りは後で読みます。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 05時07分34秒 ) パスワード

クリーニングから戻りました。



玉井神社のは偽物らしいけど猿投のは・・・という話の続き:
                     全文はURLに

前置:

    天保9年(1838)閏4月3日に海東郡の諸桑村でビッグニュースがあった。
    (→『佐織町史 通史編』(佐織町 1989年)に詳しいです。)

    それは、諸桑村の満成寺裏から長さ24メートル余、幅約2.2メートルというとても大きな古船(丸木舟)が発掘されたという事件でした。

『尾張名所図会』によると、船の中からは“古瓦古銭その余異形の珍器”が、付近からは“木仏像”も発掘されました。そして、なぜこのような古船が地中に埋まっていたのか、その理由について大昔はこの辺りは海でそこに船が沈んだものか、あるいは、大昔はこの辺りまで川で川船が沈んでいつのまにか埋まったものではないかと述べられています。




   近藤利昌や津田正生が偽図としたのは玉井神社のもので、
   猿投神社のものについての言及している資料は確認できませんでした。


状況証拠から考えると、諸桑村の古船の発見により尾張古図が再び見直されることとなったときに、名古屋丂間町三丁目の指物師文左衛門が作ったことが明らかにされている玉井神社のものでは具合が悪いため、猿投神社のもののみが注目されることとなり、その後は猿投神社より出たとされた尾張古図が流布することになったのではないでしょうか。

鶴舞中央図書館の蔵書の中で見つかった尾張古図も猿投神社のものが多かった理由もそのあたりにあるかもしれません。
   
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 05時30分21秒 ) パスワード

続き:全文は上記URLへ(地図も載ってます)



噂の真相がどうであれ
『名古屋市史資料地図集』で見つけた「尾州古圖」はさらに気になる存在と言えます。


尾張古図には濃尾平野が描かれていますが、
尾州古圖には名古屋近郊のみが描かれており、

地理的には尾張古図の部分図という位置関係になります。


尾張古図と尾州古圖はともに何らかの水害をイメージさせますが、
よくよく見てみると両者では大きく異なる点があります。


尾張古図では浪越(名古屋)から熱田にかけて陸続きに描かれていますが、
尾州古圖では名古屋部分と熱田部分が「古渡」辺りで寸断されていてそれぞれが島のように描かれているのです。


つまり名古屋部分にのみ注目すると、
尾州古圖は尾張古図に比べてさらに水位が上昇した地図のようにも思えます。

また、尾州古圖には地名だけでなく名古屋部分に「天王」・「若宮」・「藏王権現」・「泥江八幡」の文字と鳥居の絵が描かれているという特徴があります。


この尾州古圖は名古屋市史編纂係による明治43年7月の写しですが、その原図がいつ頃作られたものでのどのような由来のものなのかとても気になりますが、残念ながら詳しいことはわかっていません。



*************************

>名古屋部分と熱田部分が「古渡」辺りで寸断されていてそれぞれが島のように描かれている

古渡は信長が育った所で、古渡城跡があります。柱には「那古野城跡」って書いてあった。
   (田嶋宮内庁長官の尾張のお屋敷も目と鼻の距離)
このあたりは古くからの地層で・・・古渡辺りで分断されてたというと・・・
といろいろロマンが広がります。  
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 05時35分49秒 ) パスワード

続き:



次は浪越伝説の解明です。


「名古屋」という地名の由来については諸説ありますが、
一説に“古へは島山にして海近ければ、浪高きときは、山の頂をも浪の越ゆる事度々なりし故に、浪越(なごや)と呼ぶ”(『名古屋市史 地理編』)とあります。


また、尾張古図にも名古屋部分に「浪越」の文字が示されています。(ただし、C.『金城温古録』の系統のものには浪越など名古屋に相当する地名の文字はありません。)


「浪越」という文字自体が水害を連想させますが、名古屋近郊について尾張古図のような地形であれば確かに『名古屋市史』で述べられている“古へは島山にして海近ければ”という記述と一致します。そうであるならば“浪高きときは、山の頂をも浪の越ゆる事度々なり”ということも十分にありえたのではないでないでしょうか。



高力種信(猿猴庵)著の『尾張名陽図会 巻之五』にある「浪越舊跡」です。

この絵図には海からの波が山を乗り越えて滝のように流れる様子と、その水が流れこんだ池で布をさらしている人たちの様子が描かれているのですが、なんと、この絵図の説明書きには名古屋の地名の由来のことだけでなく、浪越の跡の場所についても書かれているのです。


“初めの巻に出だせし名古屋という地名の条にあらはせしごとく、名府出来ざる以前大古のいにしへは、東北は大海の由。その波の高くあふれし時は、山の頂を浪の越えし故浪越山と呼ぶ。その後名古野と書きうつり替りて名古屋の文字とすといふ。その浪越の跡は今の建中寺前なる由。ここを越えし波下へ流れて落ち留まりたるが大きなる池となりて、布をさらせし由、今の布が池これなり。布さらし池を略して呼ぶ名なり。その布問屋の家は建中寺水道先の町にて、その跡有りとかや。”(『日本名所風俗図会6』(角川書店 1984年)』の活字翻刻より引用)


高力種信によれば、名古屋には太古の大昔に「浪越山」と呼ばれる山があり、その山を越えて流れこんだ水が留まった場所が建中寺の前の「布が池」であるということです。


まずは布が池の場所を調べてみましょう。再び名古屋市図書館作成の“なごやりさ〜ち”シリーズの「尾張の地誌・地名を調べる」で紹介されている資料を調査してみます。地名の五十音で調べられる資料としては『角川日本地名大辞典23 愛知県』(角川書店 1989年)があります。同書によると明治4年〜昭和56年まで「布池町」という町名があり、“町名は当地にあった布ヶ池に由来する”とのことで、現在の葵1〜3丁目・代官町・筒井1〜3丁目にあたることがわかりました。布ヶ池の変遷についても次のように書かれています。


“布ヶ池は往古広大な池で、御下屋敷添地の頃には泉水ともなったが、延享年間頃北西から次第に埋め立てられ田となり、寛政年間には南東の隅に池が少し残っていた(蓬州旧勝録)。のちすべて埋め立てられ、田地に步家屋敷が増えた。その間を東西に通る道筋を新道と称している。(尾府全図)”



***********************

あらら
布池まで出て来ました。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 05時46分34秒 ) パスワード

コピペ:


浪越山について調べてみます。


浪越=名古屋と考えると、
「浪越山」以外にも「那(名)古屋山」や「那(名)古野山」と表記されているものも調査対象となります。


“むかしは名古野山とて深山なり。岑に登り谷に下る道もさがしく人家も稀なる所なりしを、慶長年中清洲より御遷府の砌、御城御普請の御手伝として西国の諸大名衆その功を励る中にも、加藤主計頭清正は、かの名古野山のけはしき深林に入りて、山をけづり谷を埋みて今のごとき高低もなき平均の地とはなさる。”
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 05時55分58秒 ) パスワード

最終コピペ:疲れた〜


『愛知県の気象』(名古屋地方気象台/編集 気象協会名古屋支部 1962年)の災害年表を調べてみると、

明和2年8月(1765年9月)に「大雤」があり、
“2日、3日、7日の大雤に依りて熱田、名古屋の市中一面に水に浸り、
本町筋の町屋も床板を撤するに至れり、
而して東は奥田町より浜街道に至り、
西は佐屋街道より津島に至る間一時皆水中に没す。”

   (首藤柳左衛門日記)という記事がありました。


明和3年頃には伝承や過去の経験を元にこの地域の地形について考え、さらに水害の被害(予想)について将来に伝えようという意識があったと言えます。


改めて「木曽川流域濃尾平野水害地形分類図」や国土地理院の“地形の特徴を知り防災に役立てる”ための主題図のいくつかを眺めてみると、それらにはっきりと「松巨嶋」らしき地形や熱田台地の北側が低くなっている様子を読み取ることができます。

推測になりますが、現在よりも海面が高く四方を海に囲まれた松巨嶋があったとき、あるいは松巨嶋があらわれるような大規模な水害がおこったとき、そのときには高力種信のいう名古屋山を波が越える「浪越」もあったと考えてもおかしくはないのではないでしょうか。皆さんはどう思いますか。


最後になりますが、
今回の名古屋なんでも調査団の活動を通じて入手することとなった

国土地理院の
「1:75,000地盤高図 濃尾平野(旧)」(1975年)
「1:50,000地盤高図 濃尾平野(新)」(1990年)
「1:25,000デジタル標高地形図 名古屋」(2006年)
「1:25,000デジタル標高地形図 濃尾平野西部」(2008年)を並べたものと

尾張古図を対比してご覧いただくと、
さらに「尾張古図と浪越伝説」の展示をお楽しみいただけると思います。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 06時25分49秒 ) パスワード

大雤  って  集中豪雨のような「大雨」のことか。


>明和2年8月(1765年9月)


明和2年に集中豪雨があって尾張は水浸しになったということですか。


養老元年 または その前に  尾張が水浸しになったことがあって
その時の様子を記したのが
    http://okarutojishinyogen.blog.fc2.com/blog-entry-4184.html
これかも知れないわけか。


2011.3.11の津波の反省のように
名古屋が水没した時、古地図があったのに、と再び脚光を浴びるかも。


今年の9月の初めも名古屋は水害で大騒動だったけど、小さい洪水で済んでなによりでした。


********************


古地図探検話。
面白かった〜

「布池」の名前の由来は意外だったな〜
あんな所まで水が来る?
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 10時27分38秒 ) パスワード

いろいろグダグダ書いてたら、次々と面白い地図のサイトの御紹介に預かりました。

「平熱」の古くからのお付き合い仲間の友情に感謝!



http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/special/267_data/index47.html

名古屋の現状・海進1m・海進3m・海進5m・海進7mを見られるサイトです。


尾張南西部は今でも本当に土地が低いんですねえ。
マイナス海抜だものね。

長島温泉が温泉を引っ張り上げると回りは地盤低下するばかり。

   家々は傾いちゃうな、と改めて気の毒になります。


源義朝が美濃から小舟で柴の下に隠れて尾張の知多に逃れたところは今は車が走ってはいるけど
豊かな田園地域は大雨が降ったら稲は全滅か。


海進7mにもなると知多半島は紐だねえ。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 10時50分08秒 ) パスワード

名古屋の現状や1mの海進で古代の海岸線が予想出来ますね。



また、この「列島沈没地図」で岡山も土地が低い場所だったと分かりますね。

ものスゴイ数の島々に驚くとともに、古代の水軍の活躍も忍ばれます。
古代吉備人の活躍が脳裏に迫ってきます。
こういう土地を知らないと古代のロマンは半減ですね。



http://www.geo-fujita.jp/okayama/anaumi.html
「吉備の穴海」を参照してください。


   一部コピペ:

     約6,000年〜7,000年前の岡山平野は海でした。

     約2万年前のウルム氷期(最終氷期)が終わり、地球が温暖になってくると
     地球の両極に分布していた氷床は溶け始め、海水面が上昇し始めました。

     その後、今から約6,000〜7,000年前には縄文海進期と呼ばれる現在よりも温暖な気候となり、
     海水面が現在よりも数m高かったことが知られています。

     当時の岡山平野はその大部分が「吉備の穴海」と呼ばれる内海で覆われ、
     河口付近では扇状地をなしていますが、
     そのほかの大部分は非常に軟弱な海性の粘土が堆積していきました。


     その後、気候の寒冷化による海水面の低下と、古代からのタタラ製鉄による砂鉄採取のため、
     山を崩して土砂を川に流したことによる非常に緩い砂の堆積、
     江戸時代以降の干拓によって中国地方最大の平野が作られていきました。

  
     従って、以前海であったところを陸地にすることで、人々の生活範囲が広がっていきましたが、
     その足下には非常に軟弱な地層が数m〜十数m分布しています。
 

     イラストは過去海であったと思われる地域を、フジタ地質の資料から作りました。

     またイラストで海として示されていない場所においても、後背湿地や湿原の分布により
     軟弱な地層が分布していることが多く見られます。




岡山は「高梁川」ですか。

愛知は木曽三川による沖積作用ですから、「吉備の穴海」の沖積作用の比では無いでしょうね。


やっぱり名古屋は日本の水没する都市の代表ですね。
[24]carrotcakeさんからのコメント(2013年12月10日 11時34分57秒 ) パスワード

長文大杉!!!
台風・集中豪雨時の高潮による水没の、縄文海進後初の温暖化による大規模海面上昇更に人為的温暖化によって更なる海進助長、地震による津波
・・・クワバラクワバラww
あの尾張古図の妙なところは他にもあって、愛知県の地質図において
砂礫層の範囲があの図の海に相当し、符号していること。
砂礫層は先述の古代木曽三川や庄内川などを含む古代主要河川が熱田海に
堆積して生まれたと考えられていて更に縄文海進後のゆるやかなる海岸線の
前進による砂浜が尾張の平野に広がったのだが、これは水没の危険以外にも
地震による液状化現象、建物のサンドクイックによる被害・・・明治時代の
濃尾地震では震源からかなり離れた枇杷島、名古屋市西区にも大きな被害
をもたらしたのはひとえに尾張の大部分の地質によるもとされている。
尾張平野は危険だらけでつ!
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 14時01分55秒 ) パスワード

尾張は本当に厄介な地域です。


尾張は台風がよく来る所で、伊吹山系と鈴鹿山系の間を通る風も強いし、あ、養老山地かな?
東京の家にいると東京は名古屋に比べて、台風も来ないし雨も少ないし、暮らし易いな、と。



以下、濃尾地震の反省から?子供の時から聞かされてる話:


1.
「地震が起きたら戸板を持って逃げろ」
と明治生まれの祖母から母へと伝わっています。
    みんなで角を持って走れば1枚の雨戸で数人が乗れるか、と。

2.
それから  「竹林に逃げ込め」  というのもあって
近所に笹は生えてる所はあるけど  竹林は無い  !  
残念


3.
「砂が吹き上げてくる」という話も聞いています。
    これだけは最近納得しました。「液状化現象」という言葉は知らなかったけど。
    
ま、名古屋は遠浅の海だったから?それで砂が吹き出て来るのかな?と。


4.
地盤が弱い、というのは小学生の時からしょっちゅう聞かされていることで
うちの「町の家」(笑)は伊勢山に在って、ここは名古屋でも地盤が固い、と言われている所で
巨大地震や富士山が爆発しても、この家で避難生活を送れば良い、と言われてちょっと安心してたけど

   さてさて。


友人宅は熱田神宮の近くに「町の家」があって
熱田も大丈夫そうです。

   でも、謎。


***************


実際に3・11のような地震と津波が来てみなきゃ、ホントのところは分からない。

一応、近年、濃尾地震と三河大地震があったから、当分、大丈夫かな?と。
[26]carrotcakeさんからのコメント(2013年12月10日 15時05分19秒 ) パスワード

>友人宅は熱田神宮の近くに「町の家」があって
熱田も大丈夫そうです。

俗に言う名古屋台地と呼ばれる名古屋城を北西端とし南東方向に
広がる微高地は地質が砂礫では無いので比較的浅い深度に
岩盤やN値の高い地層があるので液状化などが起きにくい。
しかしながら建物の耐震性とは関係が無いのでむしろ直接的に建物に
地震力が伝わるので安心してはいられない。
www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/kikikanri/ekijouka-map/q-and-a.html
[27]carrotさんからのコメント(2013年12月10日 21時05分52秒 ) パスワード

>1.「地震が起きたら戸板を持って逃げろ」
   と明治生まれの祖母から母へと伝わっています。
   みんなで角を持って走れば1枚の雨戸で数人が乗れるか、と。
戸板は逃げる際屋根瓦などの落下物から防御し、子供や老人を載せる蓮台代わり、その後は負傷者や遺体を運ぶ担架代わりになる。

>2.それから「竹林に逃げ込め」というのもあって近所に笹は生えてる所
    はあるけど竹林は無い!残念
竹やぶは根張りが強く幹はよく撓って地震によって飛んでくる物、落下物から
衝撃を吸収し藪内は安全地帯になる。

>4.地盤が弱い、というのは小学生の時からしょっちゅう聞かされている
   ことでうちの「町の家」(笑)は伊勢山に在って、ここは名古屋でも
   地盤が固い、と言われている所で巨大地震や富士山が爆発しても、
   この家で避難生活を送れば良い、と言われてちょっと安心してたけど
   さてさて。
前述のとおり名古屋台地上では建物の転倒や傾斜の心配は少ないが、直接的に建物に地震力が伝わるので建物が許容応力以上の地震力に見舞われると
倒壊(つぶれる)してしまう危険があるので安心は出来ない。
耐震補強や免震改造しないとね!
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月10日 22時46分51秒 ) パスワード

>戸板は逃げる際屋根瓦などの落下物から防御し、
>子供や老人を載せる蓮台代わり、
>その後は負傷者や遺体を運ぶ担架代わりになる。


へえ〜、そんなに用途がありましたか。
結局は  祖母 → 母 → 私 に伝達する間にかなり「知恵」が空中分解してたのか。

戸板はせいぜい「地割れ」が起きた時に「挟まれなくて」済む、という感覚でした。



負傷者や死者を運ぶ、という役割までは考えてなかったです。
ありがとう〜



昔の人の知恵は本当にあなどれないです。

   祖母からは「(名古屋では)台風の時、窓が破れたら反対側の窓を開けよ」と言われてて
   「でないと、屋根が飛ぶから」と聞いてます。

   ま、戦後の安普請で建てた家ということもあって(建ててくれた伯父の奥さんには申しワケ無い)
   台風の時は家が壊れるんじゃないか、というぐらい揺れます。

       勢力をどんどん増して名古屋に来るから。
       

   雨戸を閉めても窓が破れたら反対側の窓なんて私の力で開けられるのかなと(謎)でした。



   東京の家では台風の力はかなり弱まって来るので全然そんな心配は無く
   また雨も(日頃の雨量も)たいしたことないし


   名古屋はホントに住むのに大変な所です。


1979年の秋頃だったか富士山が噴火するという噂が出て
その時に伊勢山なら大丈夫という話を聞きました。

富士山が噴火する前は  数日間(東京では)変な振動が感じられ
その後、2週間、火山灰が降り続けるから、
   灰で目や喉をやられるから
外に出ないように、など。かな?   今はテフラってギリシャ語で呼ぶのかな?科学的に。


白っぽい埃  (こんな形 →  ~~~  ) は火山灰だから  
花粉症対策のようにしっかり目と鼻と口を覆うように、と。

   ガラス質だからね。


ま、風の向きがあるから、富士山の火山灰は名古屋では大丈夫でしょう。
   東京は大変だけど。


結局は先人の知恵は 3・11 の時のように役には立たないでしょう。

私は当たらず遠からずで記憶しているのだなと carrotcakeさん  の御指摘で深くまで考えてなかったのが分かったし。 


今は高層マンションの高層階に住んでいるので(37階)
大きな地震が来たらスッゴク揺れるのをどう対処しようかと
日頃考えてはいますが  とにかく  気持ち悪い揺れだそうで  
いやそれより、窓が割れて外に放り出されるんじゃないか?という恐怖がつきまとってます。

海の近くなので津波は分かっていて(エレベーターと水が停止するな)と。


   水については、風呂桶に貯めた水が揺れで零れたそうで、だから、たくさんの水は風呂桶に貯めるなと。


なんか、だんだん怖くなって来たな。 
[30]carrotcakeさんからのコメント(2013年12月11日 12時38分17秒 ) パスワード

現在の建築(構造)設計は建物が破壊して人の生命を脅かすことが無いように
するのが第一義でその次は建材や設備への影響を最小限にすることを念頭に
していて地震時の快適性や住人の(精神)衛生までは保障出来ていない。
最新鋭の免震高層マンションやアクティブ制震装置付きでも十分できていないのが現状。窓やドアに関しては免震専用のものが使用されていると思うので
硝子が割れて外へ放り出される危険は少ない筈です。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月11日 22時54分13秒 ) パスワード

carrotcakeさん


ありがとうございます。
ぺこり


>現在の建築(構造)設計は建物が破壊して人の生命を脅かすことが無いようにするのが第一義


はい。

地震について安心しました。


窓から落ちる可能性は、まず無いだろう、とこれまでの不安が否定出来ました。



また何か役に立つ情報があったら書いてくださいね。
よろしくね。
ぺこり
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2013年12月13日 03時06分22秒 ) パスワード

新たに頂きました。
濃尾平野の干拓の歴史が書いてあります。


御紹介の時にいただいた説明の一部:

   公的機関でも、洪水の可能性の存在する、低地地帯で有ることを認識している事を意味しますね。

   吉備の穴海の岡山平野と同じように、
   平安時代では低湿地の地帯や弥生・古墳時代の遺跡も存在する
   微高地地帯も混在していたと考えるのが自然だと思います。
   


http://www.city.nagoya.jp/kankyo/cmsfiles/contents/0000009/9270/47Jhyoka_05_01_03.pdf


4ページ目の(図としては3枚目)の上の方に「一宮氾濫原」という文字が見えます。

   一宮は中島に見える場所ですが
      「氾濫原」
   なるほどねえ。



  「蟹江三角州」という名称も初めて目にしました。


P51
「奈良時代以降に陸地化していった・・・」
   コピペできないのが残念。


P53
面白い
竜泉寺ってあんな所にあったのか。

南区も埋め立て地とは知ってたけど
1560年頃の合戦を考えると桶狭間の戦いのイメージが狂います。
信長軍はココを駆けて行ったのかなとかね。
うちの先祖は大高城に兵糧を運ぶのに、この海路を進んだのかな、とか。
岐路、逃げ帰る途中で熱田で暴れたのは、このルートだったのかな、とか。

桑名もあんな位置関係だったの?と。


P56も面白い。


P59の名四国道
分かってたはずだけど、こんな図を見たら恐ろしくて走れないよ。
津波が来たら伊勢湾に流されてそのまま太平洋ひとりぼっちになってしまう。

    3.11で車が海に流されていった記憶が新しいだけに、恐ろしい。


P60の自然生物
これも面白い。


なかなか興味深いレポートでした。
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