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 投稿番号:101313 投稿日:2013年05月21日 03時38分29秒  パスワード
 お名前:もみじ
伊賀絣と伊賀忍者の関係3

コメントの種類 :質問  パスワード

弊立神宮の五色人
私の顔は赤ら顔ですが、娘の一人は白磁の肌というか 白いのです。化粧が要らないと喜んでいます。
トルコだったかに旅行に行ったとき、子供たちが寄ってきて 日本人か?と聞くので、イエスというと オリジナルか?と聞くので、イエスというと きれい と言ってくれたといっていました。このあたりは 親ばかもいいところだと笑ってください。

ところで こういう肌は 北欧か ロシアではないか?と思うのですが、根拠はないのですが、又 そういう地域の人を知っているわけではないのですが、画像で見たり 昔見た本の人の顔を思い出したりしています。

私のご先祖様にも 結構あちこちの血が入っているのだろうと思っています。
肌のことだけで顔立ちではないですけどね。

[1]もみじさんからのコメント(2013年05月22日 02時59分10秒 ) パスワード

私はあごの下に 一本だけひげが生えています。
ある日 ふっと気づいて そして いつの間にか 抜けているけど、また生えてきています。
母も 生えていました。そして 抜いてはいけないよ 宝のひげだから なんぞと言っていました。龍のひげだって(^O^)

敗戦ですってんてんになり、前妻の子を三人も引き受けて 苦労して 辛酸を嘗め尽くしているのに 宝のひげねえ
と 思っていましたが、
グチグチ言っている時もありましたが、まあまあ世間並みの暮らしが出来、夫婦で86歳の天寿を全うし、子孫も残したので やはり 宝のひげかしらん と 思っています。

私に当てはめて思い起こしてみると、運気が盛んなときに 出ているようにも思います。あまり これに 頼ってはいけないと思うけど、
私自身 苦しいときがあったけど 父母の支えで立ち直ることが出来、今も少しは気がかりがあるけど、他のパート仲間と話をする機会があり、

私は何と恵まれているのだろうと 気づかされるときがあります。

娘の色白は母系のようなのですが、
母は佐田で、山本との濃いつながりがあります。
いろいろのことから 
伊勢にも あごひげがあって 色白の人がいるのではないか? と思うのですが、
どうでしょうか?

現代はあちこちから人の流入があるとは思いますが、
前から思っていたので 質問してみようと思います。
 
[2]もみじさんからのコメント(2013年05月23日 01時47分25秒 ) パスワード

娘の肌は化粧品屋さんで聞くと、赤みがなく 緑が入っているといわれたそうです。

山本と佐田のセットで思い起こすのは

猿田彦の子孫の椿と山本(古くにいた人たち・猿田彦は国常立尊ともつまりはもともとわが国にいた人)
伊勢神宮の土地を提供したのは 猿田彦の子孫の大田氏だそうだけど、

山本とは 今年の大河ドラマ・新島八重の生家の苗字
山本五十六
西川布団屋さんで 山本が出てきた

近くの和菓子屋さんの紋が葵の紋を使っているので、何故か?尋ねると自分は山本というが、親戚に伊予県知事をしている(聞いたのは随分前です)家があり、自分は紀州徳川の子孫の家に養子に入った と 言って、分厚い 本(一族の写真など載っている)を 出してきて見せてくれました。

維新がなり 戦後も随分前のことになれば こういう近くにいるのだなあ と思いながら 甘いものは控えなければ生けない身体なので、せっせと買うことも出来ずにいるけど、健闘しておられます。

アイヌ文化を守る運動をしている人に 山本さんが いた。
ウィキに 山本多助と言う人のことが書いてあり、アイヌの人で言語学者。
妹の★伊賀ふでの娘に、アイヌ文様刺繍家で有名なチカップ美恵子

熊襲は 球磨族・曽於族として別れており、八代の景行天皇の熊襲征伐のみぎりの碑には 球磨族・曽於族と書かれているという。

山とは
埼玉苗字辞典や条に詳しく出ている。
神武天皇の兄は新羅の祖になったと。

私が言わんとするのは 出自云々ではなく 東北の方に 砂の上に石を置いて伝言したという話があり、

伊賀餅の上に もち米を置き 色?置く位置? などで 暗号にしていた ということにつながるのではないか? と 思っていることです。

ひのはやひのみこと の 子孫の服部氏。物部氏。
なんにしても 言葉には 規則性が必要で、こういうことにも すぐれたDNAがかかわってくるのではなかろうか?と 思うのです。







[3]さなえさんからのコメント(2013年05月24日 09時46分25秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年05月27日 05時39分06秒
[4]もみじさんからのコメント(2013年05月25日 01時43分28秒 ) パスワード

背中の鬣
毛深いということなら 昔 寮生活をしたとき 一人 女性なのに 体全体に密集していて(十日町出身)本当に10センチくらいはえているのですよ。
顔だけ つるんとしているのです。

でも みんな そんなことは なんともなくて 普通に接触していて 無事(?)結婚もしましたが、

紬が有名だといっていました。

伊勢神宮の月読宮と同じところにいざなぎ・いざなみがまつられているのですよね。
確か 前に 本で読んだと思っているのですが。




[5]もみじさんからのコメント(2013年05月25日 03時15分29秒 ) パスワード

伊勢神宮の五部神道書では、伊勢神宮外宮豊受大神の本体が天之御中主神であるということで、渡会氏が外宮の優位性を言っていると言う事ですが、

天之御中主神・・・弊立神宮
渡会・・・・・・・川辺
日本の苗字7000傑度会より
【度会氏】 伊勢神宮外宮の禰宜家で天牟良雲命の後裔。
《神皇産霊尊裔氏族 ... 【川辺氏】

私の故郷には川辺川があり、川辺姓は 父方・高岡の嫁方にある。
などから 親近感があるのですが、

ネットでみた表題の拾い集め
元の伊勢の眞名井神社
養老三年(719年)以前の本宮がこの『眞名井神社』で、本殿の裏に縄文晩(2,500年前)からそのままの形を残す磐座(いわくら)[社殿が造られる以前の・・・

この 神社には自然の巨岩からなる磐座があり、付近から、弥生時代の石斧と古墳時代の 土師器、滑石製品などの祭祀遺物が出土している。 .... 幅約一〇センチの砂脈も 見つかり、福井平野が縄文時代中期初頭(約四〇〇〇年前頃)にも地震に見舞われた ことがわかった。

『丹哥府志』
【真名井神社】(一宮の西北、祭九月十五日)
倭姫世記云。『豊受皇』降臨之地與佐比沼真井原云。蓋豊受皇者開闢元始之神『国常立尊』是也。

豊受大神が天降られ、五穀と養蚕を丹波地方に伝えられた。
この真名井は『天叢雲命』が天上から水種を移した井泉といわれる。

スサノオ尊がヤマタノオロチを切ったときに使った剣を『天叢雲剣』というが、
スサノオはアマテラスの弟とされる人。

鶺鴒(せきれい)石が神社にある。巨石。

豊受皇は国常立尊で、天御中主之神で、古い古い時代の人たちで、
古代出雲臣の子孫という向家の人は 神武天皇は『天叢雲命』のことだといっておられる。

熊本で 神武天皇を祀る神社は天草に多い。天草も江戸時代には大きな地震があり、確か1200人くらい死んだという。郡誌でみたのだけど、あとでネットでみたらもっと多い人が亡くなっていた。

私の母方の佐田(さだ)
猿田彦に通ずるらしい。猿田彦は国常立尊ともいわれる。

平家は清盛に発する一族だけど、私の故郷にも平家城が昔あり、
平家落人伝説のところにある『五本の矢』は、熊野にもあり、
変な話だけど 
昔昔からいた人たちがいる地域に 平氏の地盤があるのも 不思議な符合だと思う。

そして 
アイヌの山本さんのほうの 伝説異説には 義経が出てくるのだけど、

私の母方の佐田と山本の濃いつながり から 推考するのに
源氏・平氏は 天皇からの枝分かれというが、
もとだったのではないか?と思う。




[6]さなえさんからのコメント(2013年05月25日 08時26分09秒 ) パスワード

トヨウケノカミさんが、アメノミナカノノヌシである・・・との説、いろいろ読んだことはありますが・・・、確証はなかったい気がします。衣食住をつかさどる神と、大宇宙の創造神とでは、次元・性質違うからと感じます。

また、猿田彦さん(地元ではこう呼ぶ)は、護衛と案内人と聞いており、国常立尊と同義とは、思えません。

大黒さん=大国主=国常立尊=大貴巳尊(オオナムチ)と言うのは、聞きますが・・・途中で神仏習合などもあり、混ざってしまったかもですね。大黒さんも、出雲族も渡来系ですよね。

でもでも、人類の祖先がアフリカで起こったとの説も本当とするなら、日本人はみな渡来系なんで・・・侵略の勝者が敗者になったとき・・・何か言うんでしょうし。勝者はすべてを抱き込んで、都合で編纂されているかもですね。

しかし!!いろいろな角度から、いろいろな説を、知り考えることは、いいことですよね。そうして、知らなかったことや、本当のことが見えてくる気がします。しかも、おもしろいから・・・。

ちなみに、元伊勢なんていわれているところいろいろあるようですが・・・。私は、「瀧原宮」良かったな。あまり観光地化してほしくないので、内密ですが・・・なんてね。

マナイ神社は、その名の通り、マナイの壺から来てるンですってね。なんて、真実はともかく、おもしろくないかしら?
[7]さなえさんからのコメント(2013年05月25日 08時35分45秒 ) パスワード

もみじさんへ

以前、スクナヒコナ(少彦名?)と猿田彦さんと同義・・・と聞いたことあるなと思って、ウィキペディアしたけど、わかりませんでした。でも・・・何か隠されているかもと思いカキコミました。
[8]さなえさんからのコメント(2013年05月25日 11時57分56秒 ) パスワード

[6]の訂正 正しくは 大己貴命(オオナムチ命)みたいです。 
[9]もみじさんからのコメント(2013年05月26日 03時22分44秒 ) パスワード

神代の神を細かくわけるのでなく、流れが同じという感覚で私はみています。

豊受は外宮にいる。外宮は渡会氏。遠祖を神魂尊としている。神魂尊の遠祖は天御中主尊とされている。

サルタビコの遠祖は母方で 神魂尊につながる。
はるか昔のことなんか どうでもいい のです。私の中では。
尊 命 神 など いろいろの表記は おなじにとらえています。どんなにかいてあってもよろし みたいな・・・

私は 神道家ではないので あまり 些事にはこだわらないし、 
又 国土をとった とられた みたいな 話になっていくのも 
何か 変ね みたいな 気にもなります。現代に近くなっても政権交代はあったし、
家のつながりや 住んでいるところの字などから こんな話 あんな話がでてくるわ みたいなことなので・・・

サルタビコとスクナ彦
日本書記ではスクナ彦は高御巣日神の子供として、古事記では神魂神の子供として書かれる人。

大和大神神社で祀られる神

大国主の国土経営に協力した人として海原のかなたからやってきた。
サルタビコも海にもぐって 貝に手を挟まれ 溺れ死んだ。
などの話から 同じく 海神族ととらえている。というくらいの 幅広いとらえかたです。

それと 親近感ということで 
猿田彦大神= 佐田大神

こういう部分などは 自分が 佐田でなければ 感じないことかもしれないけれど・・・

http://www1.ocn.ne.jp/~r.okabe/mananotubo.html
マナの壷
出雲の向家の方は 3000年以上前には 日本にきていた と しておられます。
釈迦より キリスト・モーゼより ずっとずっと昔。

九鬼文書には 神代の神様の出自が詳しく書かれているといい、
枝分かれした先に 釈迦やキリストが書かれている。

私の家は キリスト教ではないし
宗教などとは 血統は無縁ではないか?と思っています。ただ 人が変わったのではない、宗教がかわったのだ ということは ありうるかも。

物部氏の祖の海部氏の祀る丹後一宮の籠神社の奥宮には真名井神社があり、服部と物部とはひのはやひの神でつながり、何か 源流が同じのところからくるものがあるかも。

鞍馬寺だったかには魔王護法尊がおられ、
650万年前に金星からやってきた といい、
弊立神宮の主祭神は神漏岐命・神漏美命【かむろぎのみこと・かむろみのみこと】である。両神は古事記で有名な天照大御神よりかなり以前の神で人類の平和を願い火の玉に移ってここ幣立の地にご降臨された宇宙からの神なのだという。

二つは宇宙からやってきたという点で 同じ。
鞍馬は義経も預けられた。義経つながりで 兵庫あたりの鷲尾家に伝わる資料では 義経は チンギス・ハーンになったとしており、

神武天皇は 神魂尊からつないである。

鷲尾は佐田・中原でもあり

鷲尾は相良氏にも関与する。
相良頼完
寛延2年(1749年)、羽林家公家の大納言・鷲尾隆熙の子として生まれた。 宝暦12年(1762年)に第8代藩主・相良晃長が死去する。鷲尾家と相良氏は縁戚関係に当たることからその後釜として藩主に擁立され・・・

こんなところからも 親近感があります。


  

[10]さなえさんからのコメント(2013年05月26日 23時34分40秒 ) パスワード

一つの考えとして、お返事させていただきます。

太古の時代から、戦争(領土争い)があったのは、事実なので、それを話さなかったり、美化したりするのはおかしいかな、と思います。

それよりも、そこに隠された人々の思いとかを感じたいし知りたいのです。

また、日本の歴史を語る上で、神話の世界とか朝廷とかに関係の深い日本神道を(うちは神道でないからと)無視することはできないとおもいます。

仏教や道教、景教やキリスト教もしかりです。

私は、今の宗教というもののあり方には、はなはだ疑問を持ちますし、「パワースポット」の流行にも疑問を持ちますが・・・
やはり、いいものはいいと思う自分の感覚(霊感・直感)は、大切にしたいし、そのための日々の精進は欠かせないなと思っています。

そして、時々先祖をふりかえり、大宇宙までさかのぼり、また自分に帰ってくる楽しく壮大な旅を

この「平熱」で、させていただいて・・・

大変ありがたく、幸せですね〜。ありがとうございます。
[11]もみじさんからのコメント(2013年05月27日 02時01分16秒 ) パスワード

>日本の歴史を語る上で、神話の世界とか朝廷とかに関係の深い日本神道
大事な部分だと思います。ただ、うちには系図がないので祖先をなんともいえない。地域にある話 親戚のつながりなどから こうみたい と いう筋はありますが・・・そして、私なりに 古い時代の歴史を形作った人たちをつかんではいますが、では そうだと 私がいっても それが納得できない人たちもおられるだろうと 思います。

姓系辞典では 父方・高岡の祖先は  天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の神裔となっています。この人の系の 物部氏は 神道の家筋だったといいます。

又 嬴姓高丘系図も今出されています。
秦王室の系になります。

藤原北家23家のうち 4家は特殊で 坂上一族だといい、その中に 高丘家があります。

阿智使主と高姓の人たちは 檜前に住んだそうです。

卑弥呼の頃 漢王室では 阿弥陀の研究がされていたと 本で読んだことがあります。

今現在 私の家は 神道ではありません。
しかし 祖先を遡り遡りしていくと 神道だったかもしれません。

そして ご先祖様が 連凧のように 私に似た顔で 空に連なって キリストや釈迦以前の はるか 昔に遡っても 父母がいた と 思うのです。

上記には 
皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の頃 わが国に大恐慌が起こり、為に皇軍が物資を援助してまわった。と書いてあると読んだことがあります。

古い時代のことは まだ わからないことがあるようです。
[12]もみじさんからのコメント(2013年05月29日 02時05分34秒 ) パスワード

ヤフーのホームページで、ふと左側を見たら履歴のところに
神戸信孝(三好信孝)というのが目に入り、開いた記憶がなかったので開いてみました。
http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi78.htm
さむらいたましい
神戸や三好は 前に 何かのスレで書いたことがあったなあと思い、北畠一門の系図に神戸がついていたことを思い出して、北畠氏一族の系譜 - 扶桑家系研究所http://www.kakeiken.com/report009.html を見てみました。
1−2具盛(神戸盛遠)
3−1佐田   が 見える。

次に 瀧原宮も前にネットでみたけど・・・と思いながら、ふと北畠氏も伊勢だと思って、北畠氏と瀧原宮で打ち込んでみると ウィキより
・瀧原宮は内宮(皇大神宮)別宮
・室町時代には北畠家の所領
・若宮(わかみや)神社には神体を入れる御船代を納める御船倉(みふなぐら)が併設されているが、御船倉を持つ別宮は瀧原宮のみである。
などが目を引きました。

内宮の宮司には 佐田氏がいた。
私の母方は佐田といい、父方の方では 護良親王に味方した勢力があった地域に父が養子に入った家があった。

北畠氏の女子は護良親王の妃になっている。
父方の方は 神武天皇やご先祖様を祀る神社があるし、よくよくご縁があるなあと思いながら 宮を見ました。静かな雰囲気のところですね。伊勢神宮に行ったときには知りませんでした。
川島神社 詳細は不明のようだが、川島皇子を思い出させる。天智天皇の皇子。淡海朝臣の祖。子供に高丘王がいる。
[13]もみじさんからのコメント(2013年05月29日 03時29分21秒 ) パスワード

漢風諡号の生みの親 淡海三船(天智天皇の玄孫)
又ウィキの淡海三船を検索したら、大友皇子の曽孫とある。
正妃:十市皇女(天武天皇皇女)
葛野王 - 淡海真人・朝臣の祖(→淡海三船)
大友皇子 伊賀皇子ともいう。母・伊賀采女宅小娘

十市皇女の母は 額田王
額田王の親は鏡王

https://www.google.co.jp/search?q=%E9%8F%A1%E7%8E%8B&ie=utf-8&oe=utf-8&aq=t&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&client=firefox-a
鏡王女王忍阪墓 - 奈良に住んでみました

http://small-life.com/archives/11/08/0818.php
女流歌人が静かに眠るお墓『鏡王女王忍阪墓』@桜井市
・鏡王女は山階寺(後の興福寺)を建立。藤原氏の氏寺。夫が藤原鎌足。
・鏡女王の墓は、現在は「談山神社」が管理しているそうです。
万葉女流歌人として有名な人のようですね。
万葉時代ってあこがれるなあ。
[14]もみじさんからのコメント(2013年05月29日 04時06分47秒 ) パスワード

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=49
 采女となるには、『日本書紀』や『養老律令』によりますと、「郡の少領以上の姉妹及び子女の形容端正(かほきらきら)しき者を貢(たてまつ)れ」とあ り、『古事記』や『日本書紀』に伊勢の国の采女の話がしばしば出てくるところを見ますと、古代の三重県は美女の多い土地柄であったと言えるかもしれませ ん。


http://www.ict.ne.jp/~sueda/oyamada.htm
伊賀大山田を紹介します で 山本さんという苗字を見て、クリックしたけど、残念 出ませんでした。

大山田とは また 私の父方の集落は 萩というのだけど、山田と言う地域に嫁入った親戚の女子がおり、山田の葉木と言うところは、良峯朝臣の系の平河氏の霊社があったと伝えるところ。

父の生家の高岡から平川へ婿養子。

良峯朝臣の系は 丹羽氏(二本松)になり、
藤堂高吉‎
丹羽長秀の三男で、羽柴秀長、次いで藤堂高虎の養子となった。
羽柴は木下藤吉郎(豊臣秀吉)が関与する。
木下は平川に嫁に着た尾方がある 川向にあり、父の義兄弟の家。

以前 他のスレッドでいただいたコメント
Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!-服部 藤堂高虎
[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年10月01日 10時17分52秒 )
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

藤堂氏は江州中原氏(舎人親王裔、旧説は崇峻天皇裔)。
治景の代に藤原に改姓、景盛の代から藤堂を称する。
 
詳細系図は、姓氏類別大観(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )を参照のこと
江州中原氏 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213c.htm
三井氏/藤堂氏 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004c.htm

系の中で、毛利家になる森家があり、
母方の佐田のひいおばあさんは 毛利様から院号を頂いたとおばが言っていた。
よく 枝分かれしている系をみれば あらら 三井家がある。

佐田は又 中原とも関与する。
そして 高岡とともに 古代へ。





[15]箱柳永田さんからのコメント(2013年05月29日 17時40分54秒 ) パスワード

 お菓子の好きな方に

http://www.katch.ne.jp/~anjomuse/books/25.3.26/kiyou.pdf
    『いがまんじゅう』と『いが餅』について
  〜三河における三月節供菓子を中心に〜
     遠山佳治さんの論文があります。 研究紀要 第3号 平成7年 
 
  
 岡崎でも矢作地区は伊賀饅頭が主ですが、おこしもの も作って居ました。
 (今は伊賀饅頭ですら、購入しますので戦後から暫らくと考えてください)
  米粉に砂糖を入れ、食紅で彩色し、蒸して作ります。
 食べる時は焼いて食べます。
  研究紀要 16号 平成20年に 平岩里張さん 
  オコシモノを作る〜安城における聞き取り調査より〜
この二文を読めば、分布を確認できそう、両方作る家庭はそんなに多く無い。
   (怠け者のモノサシで測っています)
 
 最近では、大手メーカー(フジパン、敷島パン)もスーパーに出していますので、県内では両方見かける と思います。
 (逆に老舗の菓子店は、昔ながらの品ぞろえですので、調査は何時頃から
 作っているか、も重要な質問で有ると思っています)
 半田市で伊賀饅頭を見た時、少しびっくりしました、
 一個の饅頭の上に3色の米が乗っていた。
矢作川文化圏?て伊賀饅頭の分布で見ると半田まで行くのかな。
[16]もみじさんからのコメント(2013年05月29日 20時38分04秒 ) パスワード

さなへさん
みましたか?
http://www.katch.ne.jp/~anjomuse/books/25.3.26/kiyou.pdf をあけてみました。
神谷という人が 作者名にありました。どこの人でしょうね。それに 今さらですが、神谷はこうや と 読むのでしょうか?

オコシモノって どんなもの?とおもって
三河 オコシモノ で 検索→ 涅槃団子とそっくり とあり
http://blog.goo.ne.jp/ki9ma/e/b35e081a82be261c6d8e722f16d299fc
和菓子の「からすみ」 - ふりかえれば…まろ - Goo ブログ
オコシモノは 色とりどり涅槃団子とそっくり。手作り 福井・地蔵院、釈迦命日にまく

他の表題をみていくと
涅槃団子は、2月15日のお釈迦様の命日にちなんで北陸地方の曹洞宗の寺院で作られるものです。

福井 の 方にまで いってしまいました。

和菓子街道 伊勢街道 津 玉吉餅店
www.trad-sweets.com/wagashikaido_14/pg125.html‎
多気郡にある長新の「まつかさ餅」は、「けいらん」にとてもよく似た菓子だが、ただ、表面につけられた米が染色されていないだけだ。余談ではあるが、筆者の故郷愛知県三河地方では、「伊賀餅」「花餅」「雛餅」などとも呼ばれ、桃の節句の時に作られる菓子である
[17]さなえさんからのコメント(2013年05月29日 23時07分18秒 ) パスワード

箱柳永田さま、こんばんはです〜。

以前調べた時、安城市の刊行物の上記の論文を知った記憶はあったのですが・・・歴史や由来はわからないだろうと・・・読んでもいませんでした。箱柳永田さんは、お読みになりましたか??

お雛様のお供えには、主人の家(旧・幡豆町)では「油菓子(小麦粉・砂糖・卵を練って棒状にし、油で揚げた物)」と「お膳(ちらし寿司・蛤の汁・わけぎの箸)」を、必ず3月3日のお昼にあげなければいけない!のですが・・・わたしは(必ず〜しなければと言われることが多くて・・・かなり苦痛・あせっ)

西尾市のほうのスタンダードは、「いが饅頭」と「ひなあられ」と思っていましたが・・・「おこしもん」もあるのでしょうか?

「おこしもん」は、きんさん・ぎんさんが作っていて知りました。だから、名古屋のものと思っていました。でも、おいしそうだな・・・と。「ういろう」より素朴な味わいを想像しましたが、「ういろう」と原料似ていませんか?

ご近所の、岡崎から幡豆に来たお嫁さんが「おこしもん」を作ったら・・・「なんだこれ?」って言われて・・・そりゃひどいな〜って話は聞きました。それぞれ良さと美味しさと伝統があるんですものね〜(^^)。

箱柳さんのほうでは・・・、率直にどうなんですか?

ちなみに、もう一つ私が引っかかっていたのは、当地域では「いがまんじゅう」に「伊賀」の字はつかわれていなかったことなんです。だって「伊賀まんじゅう」であれば、なんらかの伊賀の関係を感じるのに・・・あえて?使わないみたいなものでしょう?いわれもあって・・・「いがぐり」に似てるから・・・なんて、少しこじつけっぽくて・・・。逆に怪しいみたいな〜ですね。

関係ないけど、伊賀上野のご当地キャラクターは「いがぐりお」くんです。最近のご当地キャラのたくさん出てくるCMに一瞬ですがセンターに写るので、娘たち喜んでます。


もみじさんへ

私たちは「はなもち」や「ひなもち」また「いがもち」ともいいませんよ。確か前にわたしが「いがまんじゅう」にそっくりな「伊賀餅」を伊賀で見たと書きましたし、呉とか蔵王ににたものがあるらしいと・・・書いたと思います。でも、人の移動(結婚や仕事の都合など)とともに、呼び名も変わってきているかもしれないし。私だけの情報では、確証はできません。

それから、「神谷」は「かみや」と読みます。
[18]さなえさんからのコメント(2013年05月29日 23時18分44秒 ) パスワード

「けいらん」と「まつさか餅」は、初めて知りました。

これほどまでに、名前を変えると・・・、やっぱり「意図的」な線も、考えちゃいます。
[19]さなえさんからのコメント(2013年05月30日 06時49分09秒 ) パスワード

最近、もみじ様が気になっておられる、神名(トヨウケ、クニトコタチ、サルタヒコ)やマナイ神社のことなど・・・

中矢伸一著の「ミロクの暗号」に、ことごとく出てきます。真偽・賛否はともかく・・・おもしろい読み物と思います。字は大きめで、難しい漢字に読み仮名もあり読みやすいですよ。

物部氏で、私の気になること・・・

天理にある「石上神宮」とフツヌシのカミのこと・・・です。一度、行ってみたいところです。
[20]もみじさんからのコメント(2013年05月31日 02時11分41秒 ) パスワード

石上神宮
維新がなったとき、明治天皇はどの神社より真っ先にこの神宮にごほうこくにいかれたそうです。本で見たことですが。

さなへさんは 本当にパワーがありますね。
確か お体がすぐれないときがあってのでは?・・・私の記憶違いかしら?

話がそれていくけど 玄松子さんの記憶 の 作者が 時々 僕は とかいておられるので、男性かしら?と 思うのですが、
さなへさんも なんか 男性かしら?と 思うくらい パワーがあるなあ と思います。

異本物部系図では 
国常立尊につながる布都御魂
諱伊都雄羽佐利都留岐

ウィキでは
神武の治世にあっては、物部氏の祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭ったが、崇神天皇の代に至り、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の手によって
石上神宮に移され、御神体となる。

祖先へのつながりが 他にも あるようだが

父方 母方の伝承ではないか?と思っています。

海神族は母系だったというので・・・

石上正面 参詣門の正面には出雲の剣の御霊である「出雲建男神」が祭られる。
まさしく出雲の鉄と物部の関わりを示す摂社であろう。

奈良に住んでいる同級生がちょこちょこ大阪に来るので、
私の記憶では 奈良までなど 一時間以上かかるのでは?と思って 元気やねえというと 20分位でこれるのだといいます。住んでいるところにもよるのだろうけど、生駒です。






[21]箱柳永田さんからのコメント(2013年05月31日 17時35分14秒 ) パスワード

さなえ様
  読んだ事は無いのです、これらの本からの出典と紹介後、地域の食文化の例としていが饅頭や 起こし物(木型に入れて作る、からの名らしい)季節の茶菓子(茶席)等の講演会での受け売りが大半です。 母親が矢作西小エリアですので両方作る家が多いのです。岡崎市では、いが饅頭だけの家が大半で、一度に両方作れるのにオカシイと、言っていた母親の安城の友人たちは 
 起こし物 しか作らないらしい。(臼と杵の準備は大変なようです
 我が家も一式揃っていますが、、、ずっと電動餅つき機です)
労力もそれ程では無いとも言っていました。
  (雑学)旧矢作町は岡崎に編入後、一部の柿崎・宇頭茶屋等を安城市に分割編入していますので、江戸からの文化交流が混然としている所です。
 この辺の事情は旧幕藩体制時にどの藩に所属していたか?橋や、渡し船の場所?等を人の流れを中心に考えてみたら豊田市上郷付近は、岡崎の文化圏で(老人達との会話での実感)伊賀饅頭が普通で起こし物は余裕が有ると作るとか、矢作地区と同じ様な事が聞けます。
 豊田市北部では起こし物ばかりらしいです(舞木町での伝聞・雑談より)。
  人の交流による文化の移動は、興味が有るのですが古い伝承が対象で、
 話しを読み取るのが難しいのです、で、古い家での伝聞としておきます。
http://group.ameba.jp/thread/detail/V772FmRbz4Lc/CedxHVw0ow3J_cOTuCoBWm/   参考になるかな?(若い人の意見ですので、学術上は疑問が少しある)
 >http://waga.nikkei.co.jp/play/kiko.aspx?i=MMWAjq001010032009  
 >http://waga.nikkei.co.jp/play/kiko.aspx?i=MMWAjq001017032009
http://waga.nikkei.co.jp/play/kiko.aspx?i=MMWAjq000024032009
  雛祭りのお菓子 全国版?で、傾向がわかる?かな。
 >http://www.kureweb.com/JIRI/jiri1.html
  日本いが餅研究所 真面目なサイトです、その真面目さが少しだけ
 笑いを誘ってしまいますが、赤飯饅頭が端午の節句でも食べたくなる。
[22]もみじさんからのコメント(2013年05月31日 22時30分55秒 ) パスワード

 >http://waga.nikkei.co.jp/play/kiko.aspx?i=MMWAjq001017032009 より
>いがまんじゅうは全国に分布してたんですね。ずっと三河だけのものと思ってました。

前に葵のご紋を使う山本さんところで聞いた話では 大阪には 伊賀餅はない とのことでした。

http://waga.nikkei.co.jp/play/kiko.aspx?i=MMWAjq001010032009
松山市の郷土菓子「りんまん」
りんまんには最大の謎があります。全国に分布する「いがまんじゅう」とまったく同じなのです。朝鮮半島から林さんが伝えたという伝承あり。
[23]もみじさんからのコメント(2013年05月31日 22時32分38秒 ) パスワード

このりんまんで こけちゃったのだけど、
私には どうしても 不思議があります。
うちの平川のおばが 集落の林のことを 屋敷といっていたこと。勿論 敷地も広く あったけど、それだけではなかったような 感じでした。

わが国の文化を国風文化にしたのは良峯朝臣(球磨では平河)と林 ほか 全員で12名。良峯朝臣は百済氏(坂上氏・東漢氏)

伊賀餅からはなれるけど
林さんは 苗字だけから 蘇我氏 林臣 鞍作り

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55161722.html
蘇我氏と木・・木氏・林臣氏/門脇説の再考1 - 民族学伝承ひろいあげ辞典
『日本書紀』の木・(羅)氏登場関係資料年表
●1 神功紀49年(己巳(きし)・249)条春三月
「★荒田別、鹿我別を将軍とし、久氐(くてい)らと兵を整えて、卓淳国に渡り、百済の將・木羅斤資(もくらこんし)、沙々奴跪(ささぬく)らに命じ、新羅を撃ち之を破りつ。よって比自烽、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳、加羅の七国を平定す。」
  ● 良峯朝臣は球磨郡では墓に荒田の言葉が刻んである。良峯朝臣は平河でもある。時代がずれるが 平河の零社があった山田葉木には 千人塚(円墳・古墳時代前期)がある。

『新撰姓氏録』は蘇我氏は葛城氏と同族で武内宿禰を祖とすると書く。
日本の苗字7000傑より
高皇産霊尊の末裔【林氏】【葛木氏】【荒田氏】

[24]もみじさんからのコメント(2013年05月31日 22時34分01秒 ) パスワード

http://www.asuka-tobira.com/sogashi/sogashi.htm

蘇我稲芽の先祖に「高麗」の字が見える。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55161722.html
巨石文化
福井から継体が擁立され、しばらくはまだ朝廷内外では紛争があり、それでも大古墳はまだ造られている。その石棺に多く使われたのはなぜか★阿蘇の菊池川凝灰岩や阿蘇ピンク石である。この石に関わる九州氏族は★吉備王族出身の★火の葦北国造である。磐井の乱を境に継体の勢力は絶頂期。大伴氏に代わって物部氏が大側近となっていく。ところが継体とその太子が突然死去すると『百済本記』は書いたことを継体紀が引用している。安閑の腹違いの欽明が代わって登場する。ここからが飛鳥時代である。
蘇我氏四代目蘇我馬子と厩戸皇子の時代である。
[25]もみじさんからのコメント(2013年05月31日 22時35分10秒 ) パスワード

阿蘇 火の国 平 埼玉苗字辞典ひ 参照 羅
吉備氏 贏姓 高丘系図1より 笠氏 
  若狭彦神社(福井県小浜市、上社は龍前、下社は遠敷) ※若狭国一の宮
祭神 上社:若狭彦神(彦火火出見尊)、下社:若狭姫神(豊玉毘売命)
    遠敷明神・「白石大明神」
とも
祖神 鴨別命
社家 笠氏

[26]さなえさんからのコメント(2013年06月01日 00時15分47秒 ) パスワード

箱柳さま

岡崎や安城のこと、近いし同じ西三河だし・・・と思っていたら大きな間違いでした。確かに・・・岡崎あたりは、東海道でも重要な地域(関所などで、人の流れが制限されている)で、河川にも囲まれているから・・・、もっと、細かく地域性や文化圏を見る必要があったのかもしれませんね。

しかしながら、岡崎も安城もどんどん発展していて、人の流れも激しいでしょうから、昔(江戸や明治さえも)を知っている方もどんどん・・・難しいですね。もう、足で、調査しかありませんね。あ、インターネットも。

それから、そうそう「りんまん」というのもありましたね。これが、また怪しい・・・。何故?これほどまでに、名前を変えるのか!!って、思いません?怪しい、なんかある。と思うのは、私だけかしら? 忍びの秘密の暗号、または、伊賀者であることを隠すため・・・?

ちなみに、フジパンやパスコは、地域をどのように区切って、「いがまんじゅう」を販売しているのか、気になりますね。山崎パンのはあったかしら?



もみじさん

いろいろなタイミングで渡来した人々がいた、というのはわかるんですが・・・、朝鮮半島のことは、良くわかりません。ごめんなさい。多くの人々が、朝鮮半島を、中継点にしていた、というのもわかるんです。だけど、なんかしっくり(今の私には)と来ない。

今より、国境がもっと曖昧だったころ、行き来も(近いし)自由であったらしく(そりゃそうだと思う、国土や土地の所有者なんて、一部の力のある人間の決めたことだから)、朝鮮半島に住み着いて仕事をする日本国で生まれた人や、その逆もあったと聞いています。

つまり、私が言いたいのは、当時のことを、今の韓国や北朝鮮の国や人種と断定して考えるのは、狭すぎると思うのです。そして、当時の朝鮮半島の人々や文化と、今の朝鮮半島の人々の人種や文化、そして、その人びとは、どこから来たのかまで、考えたくなっちゃうのです。

朝鮮人(ほかの言い方が見つかりません、差別ではありません)とその文化圏も、戦前は、今のモンゴルやロシアの一部まで広がっていたと、聞いたことがあります。

しかし、南方系のアジア人と、あきらかに違う感じもするのです。検討お願いします。
[27]さなえさんからのコメント(2013年06月01日 00時35分35秒 ) パスワード

もみじさん、話がわかりにくく書いてしまってごめんなさい。

わたしが、高句麗とか百済とか新羅とか、無知なんです。それで、もっと良く知りたいのです。どこから来て、どこへ行ったのか。

また、太古は朝鮮半島も、日本だったのでしょうか?

[28]ときおさんからのコメント(2013年06月01日 14時04分45秒 ) パスワード

さなえさん、ご無沙汰です。
インスプレーションも時として大切な味方に成ってくれますね。でも、正史が
間違っていたらせっかくの味方も台無しですね。以下のこと見てくださいね。

半島の歴史で、私たちが習った教科書歴史は偽物だったようです。
旧日本軍の諜報部門と帝大の御用学者によって改竄されています。また遺物を
有らぬ箇所に移動させて偽装しているようです。
ましてや、現半島人の歴史観はひどいもので、空想を教科書の歴史にしていま
す。
残った者が言い訳をすることができる(前任者を極悪非道の者にしてしまい、
抹殺さえしてしまう)。と言った間違った儒教精神によって自己保身と政争を
繰り返した両班達の歴史です。ですから、歴史そのものが保全されていないの
ですよ。
それのファンタジーを引用したらとんでもないことになりますね。


http://www.youtube.com/watch?v=4PybWxLb2kI を視聴してみて下さい。
「 山形明郷先生講演会A 28:06 」 の1:20〜2:00の辺りはストレ
ート過ぎる
表現をして居ます。吹き出してしまいました。

@〜Dまで有ります。視聴をお勧めいたします。
お国言葉で訛って早口に聞こえますけどね。

いくつかの要注意名称が有ります。数個だけ上げておきます。
長白山地域 と 長白山  は別物です(別の場所)。「長白山」は中朝国境
の山になります。卒本=は高句麗最初期」の首都です。 古代中国では「句麗」
で「クリョ」と読んでいたようですね。次の首都が「平壌城」。けっして、今
の北朝鮮の「平壌」では有りません。日本が作った偽歴史での話です。

いまの朝鮮・韓国・高麗は古代国家とは無関係と言うわけです。高麗王朝が明
の皇帝「朱元璋」から授かったのが「ちょうせん・朝鮮」の国名ですからね。
所縁も血縁も無い古代中国の一国家名をもらって名乗っただけですからね。高
麗・コウライも自称ですからね。いまの韓国もカン=ハンも自称ですからね。
日本が作った偽の歴史=朝鮮南部の三韓からの「韓」でう。古代中国「韓でも
ないです。」古代の百済も新羅も、いまの朝鮮・韓国とは無縁と言うわけです。

[29]もみじさんからのコメント(2013年06月01日 23時55分03秒 ) パスワード

山形先生のもの 2つほど みました。私にも勉強になります。横からお邪魔してすみません。その中で 卑弥呼は公孫氏だとおっしゃってました。
11・6・27  [564-365] 平家物語を熱く語る白石平賀武内
43卑弥呼は公孫氏
他の部分は 若干違うかもしれませんが、考えの筋道があっていると思っています。

蓋馬(やまたい国といわれている 字がでないのですみません)
蓋 

笠氏と平氏 564−365 11/10/08 ●34 12/09/09 笠井氏と平氏考察
百済とからまる嬴姓高丘氏
清和源氏・桓武平氏・良峯安世・大内氏・藤原氏の血に入る百済氏。
贏姓 高丘系図1(秦の末期、項梁東阿に起こり西北に定陶に至り再び秦軍を破る。)その先 蓋(解・穢)
百済系図(高丘系図の百済蓋鹵王をクリック)

若狭彦神社 
山幸につながる






[30]もみじさんからのコメント(2013年06月02日 00時55分38秒 ) パスワード

卑弥呼は靺鞨だといっておられました。

神武天皇を祀る神社は熊本に多い。
私の故郷にも3つほどあり、宮司は尾方。
母の佐田は 古い時代の神社にその言葉が見える。

サダ 尾方は アジア辞典に 女真族。靺鞨の別名。
蒙古族。女直は対外用の言葉。金。
サダは契丹でもあり、突厥でもある。サダ突厥は漢王室とか唐王室と姻戚関係があり、漢が滅んだ後 後 清(後金)を建てる。尾方は元(チンギス・ハーンの国)をたてる。
私たちは子供の頃お尻に青い痣(蒙古斑点)を持つ。お相撲さんでもこの頃モンゴルから来ている人などおられるが、直近でその方たちとご親戚と言う方は、まずおられないだろうと思うけど、遠いご先祖様と同じ血を分け合っているのだろう と いう感覚、そして 半島の人達とも そういう感覚での 親しみはあります。

庶民の家でも 嫁がAの家から来て ずっとずっとそれが続くと血はAの血が圧倒的に多くなる。藤原からずっとずっと入っていると 藤原天皇とも言える。

そして 神武天皇又祖先と思われる人や周りにいた人について
★成化7年辛卯季冬、申叔舟が序に云く、
「密かに国を見るに 東海の中におる者一にあらず。而して 日本最も久しく 且つ 大なり。その地は 黒竜江の北に始まり、わが済洲の南に至り、琉球と相接す。その勢甚だ長し。その初めに処々の保聚各自国を為る。
●周の平王48年● その 始祖 狭野 、兵を起こして 誅討し、初めて州都を置く。大臣は各 文治を 占む。尚 中国の封建の如し。甚だしく統属せず。習性強得にして 剣槊(けんさく)に精しく、舟楫(しゅうしゅう)に慣う。我と海を隔てて相望む。之を撫するにその道を得れば即ち朝聘するに礼を以ってす。その道を失えば則ち輒ち(すなわち)肆(し)に剽窃(ひょうせつ)す。

桓檀古記 は 36世 檀君賣勒の「●甲寅38年●狭野候・幋命を遣わし往きて海上を討たしむ」と述べ、狭野候はソシモリの子孫だとしている。

「北倭記・契丹古代史書」第25 26章は
武伯山軍 南に跳破するに当たり、たまたま寧義騅 その 船師 及び 弩旅を以って 渝浜に会す。・・・武伯追って夏莫且を獲、寧義騅 これを 斬って 以って 徇う。
第20章はこれを 寧祺ひ(田と比)にとるものは 和義・娰嬀・猶隗なり

三世壇君嘉勒は陝野候の遠祖・そしもりについて次のように述べる。
●戊申10年● 豆只州の濊(かい・わい)邑が叛した。余守己に命じて其の酋・素尸毛犁を斬った。
これより其の地を素尸毛犁という。今 転音して 牛首国という。
その後孫の陝野奴(・幋命)は海上に逃れ、三島によって天王を僭称した。
★この記録は 北倭記(契丹史)とは逆に、韓(かん)氏族の立場からのもの。

馬韓世家 
甲辰 子・弓忽立つ。甲寅 陝野候に命じ、戦船500艘を率い、往きて海島をうち、倭人の叛を定めしむ。弓忽薨ず。子・東祀立つ。東祀薨ず。
★複数の書が 神武天皇の名・狭野という人について 書いている。
★ 『宋史』卷四百九十一 列傳第二百五十 日本傳
?瀲第四子號神(じん)武(む)天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮即位元年甲寅、當周僖王時也。甲寅 前六〇七年。

★★ソシモリ→陝野候・幋命→穢王
★・は長い衣のさまが語義で、裴の本字で、嬴(えい)氏の 支族の姓。
★通志 士族略に・氏は 嬴(えい)姓。伯益の後。秦非子の孫なり。
 悲の下 口 巴 郷に封じられ、因りて以って氏となす。
 六代の孫・陵 周僖王のときに当たり、封じて解邑の君となる。
すなわち邑を去って衣に従う。又 西域に 裴氏あり。

出雲向家の方は3000年以上前にやってきたインド人といっておられ、
荒木田家嫡流の人は 祖先を周。伊勢神宮で祀っているのは斉王とその王子たち。神武天皇は春秋時代の人。それくらい古くからいたのに 日本人でないというのもおかしいと思います。

後に 半島から入った人達にしても
一昔前までは ほとんどの日本人が 源氏だ 平氏だ やれ 藤原だとしていたし、藤原にいたっては 網の目のごとく親戚関係で あちこちつながっていて、大げさにしても 2〜3軒に一軒は藤原の血が入っている。祖先がわからなければ藤原と言えばよい とは 若い頃本で見た話です。

日本書記などは 一緒に曰く 又 一書に曰く と 書かれ
万多親王などは 祖先の順序が逆だろうが 少々筋が違おうが かまわず 大きくとらえて 新選姓氏録をつくった と言う意味のことを 表文に書いているそうです。

神武天皇以前にも 人がいたことは確かで、その又先にも いたことは確かで、その人達もどこからかやってきているのも不思議ではないことなので、前にいた人、後から来た人、立場が違えばいうことが違うのは当然で、大きく捉えて 筋道をつかむことが大事と思います。

日本と言う国号を使うようになった 以前から 日本に住んでいる 日本人です。





[31]もみじさんからのコメント(2013年06月03日 05時53分49秒 ) パスワード

他に おもしろいな と 思ったのが、 吉宗の母が、忍者だった。? というもの −−−巨勢氏なのだと。 
巨勢氏は武内宿禰にでる。後裔は 大神神社社家
紀州徳川家属旗本家 2家(武家)などがある。

武内宿禰からは 林や 田中が 出てくる。ので 興味を持っているのですが、
もうひとつは (鞍作)止利仏師・・・司馬達等の孫で、鞍部(くらつくり)多須奈の子

http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/hidanotakumi.htm 飛騨の匠 では 止利は鼻はカラス天狗のようにまがってとんがり、赤毛でぎょろ目、まるで鳥のような子どもだった という。しのぶ と言う母がそうだったのか? 

武内宿禰の子孫に 鞍部がないので、つながりがわからないけど 林臣=鞍作=蘇我氏 で なんらかの つながりがあるのだろうと思うし、
阿智使主がつれてきた 7姓の漢人に鞍作はいる。

蘇我氏はローマ人だった という ものも 興味がありました。

前に戻って 天狗の正体は古代イスラエル人だった とか
日本のルーツはイスラエル とかも おもしろかったです。
このあたりは さなえさんの 興味もおありではなかろうか? と 思いながら見ていました
又 猿田彦は 高鼻としても 描かれているので 同じく興味があるところです。ただ 私は 鼻は高くありません。
娘は そこそこ 鼻筋が通っていますが・・・いわゆる 小鼻がある。

むしろ 尾方 のほうが 鼻は高いです。尾方先生がおられたが、すばらしく高い鼻を 記憶しています。





[32]さなえさんからのコメント(2013年06月03日 13時25分54秒 ) パスワード

ときおさん、ありがとうございました。

ちょっとだけ、ひっかかっていたものがとれた気がします。おもしろく、興味深いお話ですね。

邪馬台国のお話ですが・・・、ヤマトの国(当時日本人が想像するような国家が複数あったとしてもおかしくない)が、愛知県豊橋(瑞穂の国)にあった説も、おもしろくて好きなので、ううう・・・ってなりました。


もみじさん[30]難しい漢字やら、名前で・・・わかりましぇん。すんません〜。



[33]さなえさんからのコメント(2013年06月03日 13時59分20秒 ) パスワード

私は、「伊賀忍者渡来人説」を「お、かこいいじゃん」と思ってしまうし、「服部=ハタトリブ=ユダヤの末裔説」も「ちょーかっこいい!」って思ってしまう人です。外人さんも魅力的に思っているし、特に金髪で、目の青いイギリス人さんとか、すてきだなって思います。

それとは別に、

近しい先祖様から、遠い遠いご先祖様までの、ご苦労や努力を感じ取ったときの、自分の中からおこる、感謝の気持ちと、何とも言えないすがすがしい気持ち(成仏した?)が好きです。(それは、ココ平熱のおかげです)

自分で前世がとっても多い気がしていましたが、
「親鸞聖人の頃に生きてた」とか「尼僧の時がある」とか「常磐御前(自分でいうのは恥ずかしいぐらいなので、常磐御前のような境遇の人としておきます。当時はそういう方多かったでしょうからね)だった」とか・・・さかのぼって、「イエスキリストの弟子(の弟子?)のなかにいた」とか・・・言われても、そうかもなあ〜〜〜、そうだったとしてもおかしくない気がする〜〜って思ってしまいます。

どんな境遇でも、社会に絶望しようとも、そこから最善の道を選び行動し、一生懸命生きたのだから、後悔はないし、これからもそうだと思って、生きる勇気が湧いてきます。だからこそ、ご先祖の方々のこと気になるのかと思います。

脱線のお話でした。
[34]もみじさんからのコメント(2013年06月03日 16時01分26秒 ) パスワード

31小鼻は 小骨です。すみません。獅子鼻になってしまいますね。
鼻のつけねに少し段があるのです。

難しい感じ ごめんなさい。
ここらあたり 全体に 流してください。自分で書いて いて なんですけど。

[35]もみじさんからのコメント(2013年06月03日 16時03分37秒 ) パスワード

30
難しい漢字 です。
昼寝から覚めたばかりで ぼうーっとしています。
[36]さなえさんからのコメント(2013年06月03日 17時40分03秒 ) パスワード

[31]あたり、

私も、以前から、天狗や赤鬼のモデルって・・・鼻の高くて、色白(日焼けで真っ赤っか)の長身の外人さんだったりして・・・って思ってました。単純な人は(理屈なしで)そう思いますよね?

朝鮮人とか女真(初めて知った)族とか調べてみて・・・ツングース言語族というのを知りました。少し、アイヌにも似てるけど、(アイヌでは、ヨーロッパ人のような彫りの深い鼻高の方もいますが・・・)と思いました。

そして・・・

あらやだ、ツングース人の身体的特徴、ほぼ家の主人じゃない!と、気づきました。前から、「私と全然違う、北方系ね。」とは言ってたんですですけど、全部ぐらい当たってます。???

満州とかあっちの方をかんがえると・・・日露戦争のひいおじいちゃん。それから、どうしても、出口大仁三郎と大本教を思います。

しんたい

[37]もみじさんからのコメント(2013年06月03日 19時22分39秒 ) パスワード

>家の主人じゃない
ははは さなへさんの 特徴は 主人の妹夫婦の間の子と そっくりです。
ほんの少し 茶褐色で 目鼻立ちが際立っています。
結婚式のスピーチに イタリア人かと思いました?と いわれていました。

背も高く スポーツが大得意で テニスのインストラクターをしていました。

その子が生まれたとき 真っ黒だったので、義母から 私が 「カルシュームを取ったがよい」といったので、カルシュームをごくごく飲んでたら 真っ黒になったのだ と言われました。しばらくしたら 近所の人が 
あら ●●ちゃん(義妹)の ベビーのときそっくり 
と 言った と 義母が言っていましたが・・・

おおきくなったら 適度に肌色もうすくなり きれいになりましたが・・・

イタリア人の画像を検索してみましたら 肌は白のようにみえますが・・・

忍者は 高度な知識 技術 瞬間の判断力 が 必要
織物は 九九がわからないと出来ないそうです。九九は昔は貴族の間でしか教えられなかったと 本で見たように思っていますが・・・

こそこそと 隠れて 動くのでなく
伊賀忍者は スペッシャリストで 単独行動
甲賀忍者は 会社組織で請け負い集団
いまでいう 調査官みたいなものだったのではなかろうか?と 思います。







[38]さなえさんからのコメント(2013年06月03日 22時42分51秒 ) パスワード

残念ながら・・・色は黒いし、目も大きいと言われるけれど、体つきや口元は、やっぱりペルー人(マチュピチュとかすごいですよね。ペルーの人はどこから来たの?)とか、フィリピン人とか・・・?です。子供のころはコンプレックスでしたが、今は慣れました。私は暑いのへーきで、寒さに弱いのだけれども・・・主人は、暑さがダメでもって、皮下脂肪のたくさん着く高カロリーの食事を好みますね。

娘は、赤ちゃんのころ「外人?」と言われたこともありましたが、今は全く違う何かになりました(笑)。

最近、余計なことを書きすぎていて、怒られそうですね(^^)。
[39]もみじさんからのコメント(2013年06月04日 01時18分31秒 ) パスワード

先週スーパーで 安倍川もちを売っていました。
表の説明を見ると 徳川家康が 来たときに 地元の百姓(だったか)が餅にきな粉をまぶして 献上したところ、とても喜ばれ それから 安倍川もち と言うようになったそうです。

説明をもっとよく見ようと思って、行ったけど、もう ありませんでした。

ネットでみたら 他にも説があるようです。
昔からあるものは 商標権などなかった頃のことなので、由来がわからないようですね。

いが餅って もともと 忍びが 暗号に使った? ということが 本当なのでしょうか?

それだったら 大阪にも 武田がいた辺りにも ありそうに思いますが。
[40]もみじさんからのコメント(2013年06月04日 01時40分33秒 ) パスワード

表題を改めてみると 私 絣と餅と間違っていますね。コピーで写したと思っていましたが・・・
絣の字なので、それから 源流を遡って さぐっていましたが・・・
住んでいた人達が つくりだしたもの と まず 考えますものね。

いとこの嫁は 名古屋市内ですが、遊びに行った回数は少なかったけどそういうものをつくっているところは 見たことがなかったような・・・

いが饅頭 伊賀餅 
[41]もみじさんからのコメント(2013年06月04日 05時57分52秒 ) パスワード

源流を探って は 正解だったような。
http://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui1/chap2/04hushicho.html で伊賀平氏のことが書いてありました。
すでに しらべつくされているとは思いますが、あれ うちの祖先をたどっていけば やはり かすっているような 
と 思いました。

伊賀に残る数々の平氏の風習
(21)北伊賀には姓を服部と改め、二本矢の紋所に変えた一門の将士が盛んに武を練り、名張には大江一族が頭角を現わし、その歴史を辿ると阿保親王に繋がる。
南北朝時代に入ると河内の楠木と協力して活躍した観世一門を始め、次々に精強な伊賀忍者軍団が誕生する。

などのことばがみられました。

うちは 一般庶民。 なんらかの政治活動をしておられるおうちとか 有名なおうちとか 又まったく逆の 徒党を組んでのところとのつながりは ないので 祖先が何の何某と いえませんが

日本の苗字7000傑 伊予橘氏→楠氏→山本氏→西尾氏
やはり 山本がいる。
西尾氏と高岡氏はかすっている。直結していないけど南北朝期など近くにいたかも・・・
日本の苗字7000傑 武内宿禰紀国造→紀音人→長子から長谷雄へ
末子から益子氏へ・・・ここから高岡になるみたい

摂州多田院御家人 高岡系図をのぞくと高岡の先祖が書いてあり、池田と同祖。池田奉貞は、継男子無くして源姓馬場下野守仲政 の四男奉政を養して氏を継がしむ。兄弟が源頼政。
http://www2.harimaya.com/sengoku/plus/plus01.html に源頼政の後裔・英保氏のことが書いてある。本姓中原氏としている。母方佐田が中原のとき 祖先がからまってくる。

C高岡源四郎入道
(46)養子實池田奉永四男というところがあり

クリックすると 紀長谷雄の系図がでる。
楠氏系図を下へスクロールすると楠正行がおり庶子の佐正を池田数正が養子にする。

故郷の方で 護良親王に味方した地域があり、
高岡 坂本 白石 平川 尾方 高田 などの 家が 菊池の侍帳についていたが、(菊池は懐良親王を守る)

人吉相良氏は北朝に味方しており そちらにも うちの家のつながりは 固まりとしてでてくるけど 又 山田村が両朝の地域の戦いの地に選ばれたけど
狭いところで 南北朝に分かれて戦っているので 同じ苗字の家で 北朝南朝に味方していることもある。

宗良親王に味方したのは 服部氏
服部氏と宗良親王で検索すると
http://www.amano-ya.com/news/kakei9.html
天野屋傳兵衛(服部家家系図)がでました。

何だか 同じ目的で 動いたように思えます。 


[42]さなえさんからのコメント(2013年06月04日 12時34分41秒 ) パスワード

もみじさん、またいろんなのが出ましたね〜。

[39]について

五色米(五色の米粒・古代米{赤米・黒米・緑米}なのか染色した米粒なのか、両方なのかわからない)を暗号に使ったというのは、伊賀上野の忍者博物館?にも、イメージですが展示されていまして。きっと昔の忍術書あたりに書いてあるんじゃないかと・・・。暗号の仕方まで書いたら、バレルのでもちろん書いてないから、謎なんです。

そこから、伊賀餅(全国に分布したいがまんじゅうに似たもの)より、インスピレーションをえて、
ときおさんお薦めの「鬼の太平記・まんじゅう伝来記」を読んだとき、饅頭売りをする人の絵が・・・忍びの姿と重なって・・・・  

だから、「饅頭で暗号を伝えた」というのは、だれも立証できないであろう、私の想像です。ロマンですよ。
[43]もみじさんからのコメント(2013年06月04日 19時46分33秒 ) パスワード

忍者って 実際にこの人 って 見てないから、謎ですね。
そこで 住んで 活動していても では どの人が そうか って わからないのでしょう?

さりげなく 饅頭を売って 情報収集に励んでいたかも・・・東京の方はやはりいが饅頭に似たのがあるのでしょうか?関東にいる人に聞いてみたけど私の方は収穫無しでした。

というか 私の知っている人は 九州なので、いがまんじゅう?ん なに それ という感じです。

で ネット検索では やはり 埼玉でした。これは もうわかってますよね。
私は塩あんぴん に ひかれました。

いがまんじゅう & 塩あんびん
行田のご当地和菓子。
行田界隈に伝わるこの2つを、いち早く商品化したのが「金沢製菓」です。
「いがまんじゅう」は赤飯の中におまんじゅうが入ったお菓子。かつてお米が貴重だった江戸時代に中身をまんじゅうにして見栄え良くした祝い菓子。栗のイガに似ていることから命名されました。
「塩あんびん」は一見普通の大福ですが、小豆に加えるのは塩だけというほんのり塩味の大福。甘味がない分、より豆の風味が引き立ちます。食べるときは砂糖をちょっとつけるのが行田流です。

田舎では あんこ餅(もち米)ですが、こちらなら食べられそう。だって私の田舎は 塩をつかっていたのだもの。 今は違いますよ。

http://kuyoukuroneko.blog100.fc2.com/?tag=%E3%81%84%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%86 九曜博物誌いがまんじゅうに面白いこと書いていました。山口県岩国市、広島県呉市、山形県蔵王 岩国はおばがよく錦帯橋にいったことを 話してくれました。でもおばがいがまんじゅうをつくっていなかったのが不思議だけど。
[44]もみじさんからのコメント(2013年06月05日 22時34分24秒 ) パスワード

山口県岩国市がでたところで、母方は佐波郡(防府市)で、ヤマトタケルが熊襲の征伐に船出したところだったし、
そうそう 私の父は戦時中 都濃郡に住んでいたと思い出し、
私の母方の佐田に養子に入ってきた人は 武田の血を引く真木姓で、
広島の浅野の殿様からこの姓を頂いたことが墓の内側にほりつけてあったという。
気が向いたら 平家の知行国・荘園・家人をのぞいてみてください。
[45]もみじさんからのコメント(2013年06月06日 18時53分57秒 ) パスワード

天野屋傳兵衛服部家家系図で検索
★紀★ノ武内宿禰の弟の(平群)★紀★木莬宿禰
木莬のいわれ・・・子供の名を取り替えた話
http://blog.oo53.com/?eid=1010588
仁徳天皇が生まれた日、産屋に木莵(ツク、ミミズク)が飛び込んできた。応神天皇は武内宿禰を招いてその吉凶を問われた。 ...武内宿禰のところにも 同じ日に子が生まれ、こちらにはささぎがとびこんできた。ともに鳥が飛びこんできたとはきっとめでたいことであると考えた天皇は、鳥の名を取り替えて子供たちにつけることに。こうして仁徳天皇はサザキ、宿禰の子はツクと名づけけられた。

日本の苗字7000傑紀氏を検索
[46]もみじさんからのコメント(2013年06月06日 19時56分43秒 ) パスワード

紀氏族概要で
武内宿禰と壱岐真根子の娘と結婚して、木莵が出来る。

気が向いたら
http://www5.ocn.ne.jp/~tukiyomi/kousitu.html 皇室と壱岐氏で検索してみてください。近世 有栖川家のことも書いてあります。服部と直接関わっていないけど 武内と関わって 歴史の沿革みたいなものがわかると思います。

http://www.urabe-roots.net/urabegenryu.htm
雷大臣は、百済に使いしたとき、土地の女を娶り一男をもうけたという。中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ) 或いは、『続日本紀』の伊賀都臣と同一人物で、中臣氏の先祖とされている。又、『新撰亀相記』には天児屋命(あめのこやねのみこと)の12世の孫であり、 東国にある卜部の姓は、皆この後裔であるとの内容が書かれている。中臣氏と卜部氏の関係については諸説ある所だが、《津速産霊尊裔氏族綱要》の系図が流れ を知るのにわかりやすい。
( webサイト・日本の苗字七千傑>姓氏類別大観>中臣氏/大中臣氏>)
注)別ウィンドウでひらきます
二.対馬・壱岐から中央へ
一方、★雷大臣の子、真根子★は壱岐島に留まり卜部を名乗ったといわれている。★壱岐(壱伎)氏★は、その末裔という。

吉田流と平野流


[47]もみじさんからのコメント(2013年06月06日 20時00分07秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E6%96%87%E6%9B%B8
竹内文書 平群真鳥 竹内巨麿 熊澤天皇

南朝に味方した方を追っかけてるもんでね。

[48]もみじさんからのコメント(2013年06月06日 21時03分59秒 ) パスワード

 投稿番号:101309 投稿日:2013年03月21日 14時55分33秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
ヘブル語と日本語の共通点と秦氏

津嶋の雲居寺さんが★伊賀守宗純公★の1429年代創建の曹洞宗のお寺だった

天野屋傳兵衛の系のお寺は日蓮宗妙国寺を菩提寺としている。

曹洞宗だと 涅槃饅頭がでるので わくわくなのだが・・・・

[49]さなえさんからのコメント(2013年06月06日 22時29分50秒 ) パスワード

今日は、ラッキョウの皮をむきながら・・・服部から・・・いろいろなこと思ってました。

ラッキョウ3sは、なんとか漬け込むことができました。

途中、息子が学校の友達関係で、また、やらかしてくれたので(やられる方)友達と友達のお母さんが謝りに来たり、先生から電話があったり・・・
でも、私はうまくいくように祈りながら、ラッキョウを剝き続けました。
結果、うまくおさまりましたが、先生は「学校で話したい」とおっしゃっていました。それがいいかはわかりませんが、先生がいいようにとお願いしました。ラッキョウのおかげで、取り乱すこともありませんでした。

主人は、自分のご飯のことしか関心ありません。さすがです!!


ところで・・・
芸能人の「加藤なつき?」は、日本人離れしていて整形か?と思い・・・ネットで検索してみましたら、どうやら子供の時からあんなお顔です。

代わりに、「秋田県に美人が多いわけ(秋田出身らしい)」とあり、理由が・・・北方白人系民族(コーカサス人)の血が混じっているらしい・・・ですって。血液型も北方系に多いO型・B型が多いんですって。

そうかもね!って話でした。秋田ならありえますものね。
[50]もみじさんからのコメント(2013年06月08日 01時23分17秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101217_102.html
球磨郡 の 採物舞 と 出雲 の 佐田神社
47
白巣氏(シュメール系初期エジプト族)黒巣氏(インドに南下したシュメール系 ドラヴィダ族) が移動を始め、この4氏族の長である苗族とナーガ族が真っ先に移動を 開始。 彼ら苗族&ナーガ族は高地、コーカサス山脈に行き、(ネットより)

出雲向家の方は 古代の出雲臣はインドのドラビダ族だといっておられた。
天穂日命は娘婿になって出雲臣をなのるようになったといっておられる、

49
沖縄の那嘉氏はのちに尚氏という王家を作ったが、その同族は契丹の王妃族蕭氏になっている。尚も蕭もシシュナガ族を表わしたものである。
因みに、契丹王族の耶律氏は匈奴チュルク族の支派であった。北支で中山国をたてたシャキィ族の昔氏とナガ族の朴氏を鮮虞といい、
かれらがのちの奇子朝鮮を作り、その朴氏がチュルク族の匈奴冒頓部と混じて鮮卑となり.、のちに契丹の王族と王妃族になったのである。(ネットより)

日本人の祖先の血には ほかにも いろいろ入っているだろうと思うし、私も自分の家のつながりのところだけみても ようけ からんでるなあ と思うし、どれかひとつだけ追いかけても ご先祖様はこれ とは でてこないと思う。けど コーカサスに行った人のひとつの候補は 以上にかいた人達。

それに このあたりは キリストに関係しているのですね。

  



[51]もみじさんからのコメント(2013年06月09日 21時21分38秒 ) パスワード

さなえさんのお話から3つほど
五芒星
今日八重の桜を見ていたら、奥羽越列藩同盟の旗印がこれを連想させるなあと思いました。北白川宮を盟主にしたそうですね。

http://www.geocities.jp/soleilmaster/bbt888s.html のスレッドで岩手日高見る国の話、古代日本の話など書いてありました。
作者の顔は 本当の写真だろうか?とも思いますが、顔立ちは私の子供たちとは少し違いますね。こんな 俳優さんみたいに整ってはいません。
岩手日高見国
丸子寛仁 =千田寛仁 

毎日新聞6月8日(土)朝刊に
大阪府八尾市で2400年前の石製 11点
亀井遺跡で30年前に発見された弥生時代前期の石製11点が天秤用の分銅とみられることがわかった。

原の辻遺跡(長崎県壱岐市)の中国製とみられる青銅製分銅より500年以上さかのぼり国内最古。

2の累乗倍。
インダス文明などでも2の累乗倍になる古代の分銅が見つかっていた。

韓国の茶戸里(紀元前2〜3世紀)で出土した青銅製分銅も2の累乗倍になっている。

古代オリエント博物館の部長は
分銅と見て間違いない。計量制度が確立していた中国との交易の中で技術が伝わったのではないか
と推測している。

マチュピチュ インカ
アメリカ大陸を発見したのは 実は フェニキア人だと読んだことがあるのですが、彼らの星が北極星。
文字を持たなかったことで有名。

ソロモンはダビデの子。シヴァの女王との話が有名か?

あっちもこっちも勉強しなければならないことがでてきて、この頃身辺忙しくなってきました。













[52]もみじさんからのコメント(2013年06月09日 21時54分05秒 ) パスワード

太宰府天満宮と平家:鐘ヶ江氏・垪和氏というスレッドが出ていたので、読んでみたら 隈さんのことが 出ていました。高良山社家。隈さんには大友氏の血がはいっている。

http://happy.ap.teacup.com/sakura-labo/231.html
高良玉垂命ってどんな神さんだろう | 上々生活記

http://lunabura.exblog.jp/13396106/
高良大社 (高良玉垂宮) (U)
こうらたいしゃ  (こうらたまたれぐう)
玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神  
高良山にはカペラの伝承があった
天御中主命

海神 物部 なども出て 真偽はともかく 物部は高御産巣日尊の系とも書いてある本など見たことがあり、

海に関与する猿田彦(サダ)との もともとのつながりがかいまみえました。

天御中主命は幣立神宮にも 関与してましたね。


[53]もみじさんからのコメント(2013年06月09日 21時57分59秒 ) パスワード

隈さんの母方の系に 服部 三好などのことばがあったのを 他のスレで知っていました。

岡山からきた 服部さんがいて、そのことが 確か 墓にほりつけてあったということでしたが、

岡山の服部氏の系図には 服部宗純がついています。
投稿番号:101200 投稿日:2010年09月27日 16時10分05秒 隈さんへの頃は 高岡系図で検索をかけると 天野屋傳兵衛系図がでたのですが、今はでません。


7 8 宗純の子孫 岡山へ

宗純の子孫が岡山へ動いているのには 
その上の おおきな動きに 連動しているのでは ないでしょうか?

[54]もみじさんからのコメント(2013年06月11日 02時15分08秒 ) パスワード

白石 平賀 竹内 76
(南朝の忠臣)皃島高徳 と 新田 と 佐田 と 徳川家康 の関係
義助(脇屋)室高徳女子徳子ー脇屋義治(政義女子脇屋義治室)
義明(妻は佐田義久(脇屋義治の末子)の娘) 義隆.

家時(新田源太郎)ー満義ー政義女子脇屋義治室 
(源)新田義重ー義季(得川四郎)ー頼氏(世良田)ー教氏ー家時ー満義ー政義ー親季ー…松平清康━広忠ー徳川家康




[55]もみじさんからのコメント(2013年06月11日 02時49分45秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101241.html
白石 平賀 武内
74  高徳に至る系
佐々木盛綱男加地信実─時秀─東郷胤時─甥子児島高徳
佐々木盛綱流佐々木加地一族 信実には、系図上で九人の男子がいたことが確認される。冷泉宮を備後国豊岡荘児島の地に流すとこの警固を命じられている。
佐々木盛綱の子加地信実ー 武田ー逸見冠者清光ー逸見重氏盛綱女婿三宅定心ー玄孫家長ー紀家弘女婿児島範長ー女頼宴室ー児島高徳

後鳥羽上皇─冷泉宮頼仁親王(児島宮)室佐々木信実室母北条時政女─東寺長者道乗──頼宴室児島範長女母紀家弘女─高徳

佐々木盛綱の子加地信実女ー道乗ー頼宴ー児島高徳

伊予の守護、河野通信の長男通俊が鎌倉初期(十二世紀初期)土地の名前をとり得能を氏とした

得能四郎太夫通俊の子深厳也 家勝子紀家弘後継タリー深厳

越智姓)【河野】通信──【得能】通俊──深厳

備後氏(紀臣族 兼清ー兼信ー琳光(備後三郎、
祠官)
飽浦胤泰東郷胤時子加地時秀孫信実曾孫十郎左衛門. 信胤胤泰子三郎左衛門佐々木薩摩
延元頃. 信清美作. 行胤胤泰子左衛門 ... 基泰東郷胤時子七郎. 新発田長綱飽浦行胤子.
長経. 経綱. 治綱. 長綱. 能敦源次郎. 綱貞

【加地】盛綱─信実─時秀─【東郷】胤時─【飽浦】【東郷氏】
【加地】盛綱信実─【佐々】氏綱─景綱景綱【佐々氏】─宗綱
【加地】盛綱信実─【佐々】氏綱─経綱─宗経─氏宗【佐々氏】

紀家弘室の父東郷胤時ワ云エリ、家弘婿ワ、児島範長デ、範長ワ、今木
範俊ノ子ナリトテ、大平記ニ児島し河野は一族ニテ、児島祖六代孫ヲ今木備後高長トアリ

児島盛綱後継ぐ婿逸見冠者清光子重氏(号ス定心)子李房(相模国三浦郡和田邑ニ住み和田号ス)此レ母は和田義盛女也故、
児島盛綱ー信実ー時秀ー東郷胤時ー女紀家弘室ー女児島範長ー女頼宴室ー児島高徳トゾ

児島範長と紀家弘と母 ... 東郷胤時甥 子児島高徳 紀家弘の女は足利尊氏の男に嫁し、三代将軍足利足利義満となる。
三代将軍足利足利義満となる。
高徳とはいとこにあたる。
紀家弘 後光厳天皇の第二皇子。母は、広橋兼綱の娘、藤原仲子。仲子の姉妹の紀良子は足利義満の母で、後円融天皇と義満は母系


[56]もみじさんからのコメント(2013年06月11日 03時07分11秒 ) パスワード

55 児島範長と紀家弘
児島範長と紀家弘と母 ... 東郷胤時甥 子児島高徳 紀家弘の女は足利尊氏の男に嫁し、三代将軍足利足利義満となる。
三代将軍足利足利義満となる。
高徳とはいとこにあたる。

智泉聖通 【ちせん・しょうつう】
順徳天皇の孫の四辻宮尊雅王の娘。
石清水八幡宮の社家善法寺了清(通清)に嫁ぎ,足利義詮 の妻で義満, 満詮の母である紀良子を含め数人の子を生む。

四辻 善成
順徳天皇の曽孫。尊雅王の子。 四辻宮家に生まれる。妹に石清水社祀官・紀通清の妻となった智泉聖通がおり、その娘・良子が足利義満・満詮の生母となる。


[57]もみじさんからのコメント(2013年06月11日 03時16分57秒 ) パスワード

山口県防府市(母の実家があったところ)のまわりには 四辻 高倉などの地名が見える。四辻 高倉などからは 高丘へ養子が入っている。



[58]もみじさんからのコメント(2013年06月11日 03時35分28秒 ) パスワード

天野屋傳兵衛に関して 紀氏が出ていた。平群氏。

公卿類別譜 紀氏では
※菊大路〔文書〕記録等では、大人は、★平群真鳥★の子。
音人の曾孫・船守の妹・橡姫。施基親王后。光仁天皇母 とする。




[59]さなえさんからのコメント(2013年06月12日 17時05分07秒 ) パスワード

朝鮮半島のことが もっと知りたい と思って・・・

「朝鮮半島写真」で検索してみました。

「(日韓併合前後) 朝鮮半島写真館」というのが出てきて・・・

正直、怖くなりました。あまりに・・・当時の日本国と違っています。
今の韓国の言い分とも、かなりくいちがっているのがわかります。
[60]もみじさんからのコメント(2013年06月12日 19時47分20秒 ) パスワード

山形先生のお話は古朝鮮や韓のころのこと(ウィキの右の方の年表でわかる)ですね。
私の家のつながりからでるのは 古出雲族 ・夏もあるけど・殷・周や斉・秦・漢の頃の人達が 中には半島で一度からまり 日本にやってきたようだということ。

阿智使主などは 一族や連れてきた人達が 百済・新羅にわかれちれり。その人達を呼び集めたい と 言ったそうです。
物部氏の高向氏などは それ物部は住んでいるところを名に負っているもので、今 韓物部といえば、人の目をそばだたせる。先に来ていた自分たちと後から来た人たちとわかりづらくなっているので、名を高原に改めたい と言ったそうです。

嬴氏高丘系図1 にも 高陵氏は百済にとどまっていたそうで、女子が百済の王と結婚。これも400年代位。半島をとおってきているわけです。

なので、どんなに遅くとも 日本に来たのは 季氏朝鮮以前のように思います。
あまり 近世の出来事に結び付けなくても・・・

私は昨日 ウィキで 季氏朝鮮を見ていました。
季氏は関氏(みんし)だそうです。

埼玉苗字辞典ででる 関氏は もっと前と思います。平井 平江からたどる。
天日鉾はもっと前です。半島と関係する 直近では 愛新覚羅氏と結婚した方(嵯峨氏)が日本から行かれた。

私たちが耳にした 古きよき時代などの言葉も 明治の頃をさすときがあるけど、どの時代でも 良いところとは 一部ではないでしょうか?

昭和30〜40年代に上阪した頃、寮でだされる食事の 大御馳走に思えたこと、会社は立派なビルで カシミアの生地の制服 舗装された道路 もしかしたら低い給料なのを知らなかっただけかもしれないけど、それでも 貯金が出来て家にいた頃とは断然違う生活に喜んだこと。

だけど、 町に出かけて ちょっと裏町に入ると おじさんたちが路地でふんどし一丁で将棋をさしていたり、おばさんたちが 半裸の格好で 食事洗濯をしていたり ・・・道に寝転がって 一升瓶を握り締めている人や 

余りにも違いすぎる生活に とまどったことを思い出します。

私は政治向きにはうといし、たんたんと 祖先の足跡探しをしようと思います。
キリスト教や 忍者がでてきたことに えっという気持ちですが・・・いろいろなところに 枝葉がわかれているのだな と 思います。
 
[61]もみじさんからのコメント(2013年06月12日 20時34分45秒 ) パスワード

http://otozaemon.exblog.jp/18240148
元祖キリン堂万歳 伊予吉田町 愛媛県 宗純餅(わらび餅)があるので由来をしらべようとしたけど、わかりませんでした。キリン堂の祖もわからず。吉田のことば 宗純のことばがめをひきました。

[62]もみじさんからのコメント(2013年06月12日 20時38分42秒 ) パスワード

http://otozaemon.exblog.jp/18240148
元祖キリン堂万歳 伊予吉田町 愛媛県 宗純餅(わらび餅)があるので由来をしらべようとしたけど、わかりませんでした。キリン堂の祖もわからず。吉田のことば 宗純のことばがめをひきました。

ほんまもんのわらび餅らしいです。この間から溝口のお茶やら 西川(山本)の布団やら 大川の家具(関・真田に関与してきた)ほんまもんをつくるところによくいきあたって うれしいです。

溝口は亀田ともいうらしく、真田十勇士の三次青海入道は亀田とも本に書いてありました。
[63]もみじさんからのコメント(2013年06月14日 02時48分39秒 ) パスワード

天野屋傳兵衛から日本の苗字7000傑紀氏を検索。
平群氏の方から出る服部のはなしをしていましたが(宗良親王の味方)、

護良親王の味方をする北畠親房の方の話を
武内宿禰の子・波多八代から

私の父方の高岡には姓系辞典に
八田氏の族という高岡がある。

常州高岡氏(藤姓)

此家門是貫於日本國常陸州。本姓是藤原氏。出自★八田知家★流小田知重支流、太祖高岡泰重之一族。(泰重仍是八田知家之孫。小田知重之子也)。

高岡・佐田(中原のとき)ともに ニギハヤヒ子孫をいう系があり、
佐田(中原)には
豊前宇都宮流佐田氏(もと中原を称した)があり、毛利・大友・黒田・細川などに仕え戦国の世を乗り切った。

畑氏の謎より
朝廷方(承久の乱)についた武士の中に、宇都宮宗房(中原宗房)の妻が土御門通親の叔母にあたるという関係から、宗房の弟.朝綱が鳥羽院武者所に、同★知家★の男.知尚が鳥羽院北面となっています。又、土御門通親の孫.雅家が南北朝期、南朝の柱石とうたわれた★北畠氏の祖★になります。「北畠氏はまた畑ともいう」と『姓氏家系大辞典』にあります。

伊勢北畠一族の系譜で佐田が書いてあるのも不思議ではない。

又、吉田経房の系統は、土御門通親の祖父長信の兄、長家から出ています。・・・吉田経房の用語解説 - 平安末・鎌倉初期の公卿。藤原光房と藤原俊忠の娘の子。洛東吉田に別邸を営み,吉田と号した。勧修寺流藤原氏出身

46に書いた壱岐真根子の壱岐氏は卜部であり、吉田流・平野流にわかれた。


[64]もみじさんからのコメント(2013年06月14日 07時02分09秒 ) パスワード

63の略系
宇都宮宗房(中原宗房)
||
●●通親のおば
土御門通親はおいー●―通親の雅家・・・・北畠氏の祖

勧修寺流と壱岐から言葉が出る吉田
つまり 高岡 佐田 は 武内宿禰を通じて むすびついてくる。
勧修寺流
勧修寺流は藤原高藤にはじまり、娘・胤子の夫であった光孝天皇の第七皇子・源定省は宇多天皇になった。・・・宇多天皇の子孫から宇多源氏佐々木氏。

胤子は宇多天皇の妻となりのちの醍醐天皇をもうけます。

後世
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4182383.html
公家の勧修寺家の当主「勧修寺顕道」に嫁ぎます。
そして跡継ぎの「勧修寺経逸」を産みます。
その「勧修寺経逸」の娘「勧修寺ただ子」が、第119代天皇である光格天皇に女官として仕え、後に光格天皇の子供を産みます。
その子供が第120代天皇になった仁考天皇です。









[65]もみじさんからのコメント(2013年06月14日 21時16分08秒 ) パスワード

48津嶋の雲居寺さんが★伊賀守宗純公★の1429年代創建の曹洞宗のお寺だった
曹洞宗 道元のこと
通親と藤原伊子との間に生まれた六男である。幼くして両親の死に遭遇したその少年は出家して道元と名乗る。

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここで一回区切って 
熊本県人吉市に「永国寺」という曹洞宗のお寺があります。
うちの白石は この寺のながれの院によっています。

さらに うちの祖父は 長男だったけど 両親に早く死に別れ 家をでて 新しく家を建てた。

永国寺と曹洞宗で検索→ウィキの永国寺を見る。→大本山総持寺の直末寺
横浜の総持寺には 毛利・ 松田聖子さんとこのお墓・石原裕次郎のお墓があるそうな。

後醍醐天皇の霊廟がある

石原裕次郎の墓があることで有名ですが、 歴史ファンには、後醍醐天皇の霊廟や、 尾張徳川家の屋敷を移築した建物などが 興味あるんじゃないでしょうかw 横浜市鶴見区鶴見2-1-1  と。

毛利と畠山と宗円 (小島は児島高徳と関係あるか?)
恵眼寺は山号は円通山、曹洞宗總持寺派の寺院です。
古くは海前山宗円寺と称し、畠山家の開基で瑞岩が開山といわれています。
同祀されている延命地蔵尊は伝教大師の作といわれ畠山家に伝えられていましたが、一夜畠山の城主に「小島村宗円寺に移りたい。」との霊夢があって、当寺に祀られたといわれています。
寺は、上杉謙信の来攻で焼失したのを前田利光(利常)の母東丸女(千代保・寿福院)が深くこの地蔵に帰依して再建され、その頃現在の寺名に改称したといわれています。
本堂玄関に掛けられている山号額は海前山のものを利用していて由緒の古さが知られています。本堂には数多くの掛額の他、総持寺管長奕堂の筆になる、願王殿・鎮護国の殿号額があります。
(説明看板などより)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
涅槃饅頭なんてうちのほうでつくっていたかしら。
 



[66]もみじさんからのコメント(2013年06月16日 04時40分30秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑紀氏の波多氏に関与してくる人達
曹洞宗 道元のこと
通親と藤原伊子との間に生まれた六男である。幼くして両親の死に遭遇したその少年は出家して道元と名乗る。

http://zipangu.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/34_d789.html
源通親の妻・藤原 (高倉) 範子さんの次の奥様は、道元をこの世に送り出した藤原伊子さん。
伊子の父は関白・松殿基房。源義仲の正室で、後に源通親の側室となり道元を生んだとされる。

白石 平賀 武内 9
木曾義仲の養い親は中原兼遠
比企氏の姓は、武蔵国比企郡に由来する。
その比企郡に勢力を拡大して、館を構えたのが、武蔵秩父党の次郎大夫重隆と、その娘婿である「帯刀先生源義賢」である。
(義賢は 木曽義仲の父。義賢の館を「大蔵の館」といい、京都嵐山松尾大社あたりにあった大蔵は 山口からたどれた。
この義仲の養い親が「中原・本姓 金刺 

武蔵秩父党の次郎大夫重隆の女子
 ||      藤原(高倉)範子
 ||      ||
|| 源通親
|| ||・・・道元
 ||      藤原伊子
 ||      ||
帯脇先生源義賢―木曾義仲
     (義仲の養い親は中原(金刺)兼遠)

ぷらす 64の略系図


[67]もみじさんからのコメント(2013年06月16日 22時11分10秒 ) パスワード

55
佐々木盛綱の子加地信実ー 武田ー逸見冠者清光ー逸見重氏盛綱女婿三宅定心ー玄孫家長ー紀家弘女婿児島範長ー女頼宴室ー児島高徳

で児島高徳は南朝の忠臣

紀家弘の名がみえるので、日本の苗字7000傑紀氏検索
紀家弘をさがすと、音人の系から長谷雄へ そこをクリックすると家弘がいる。多分これだろうと思いますが、

そうすると 佐々木盛綱は近江源氏(宇多源氏)。
宇多源氏 高岡系図で検索をかけると

【讃岐 高岡氏系図】. 【始祖】高岡伊豆守尉源宗範 【本貫】讃岐國木田郡高岡 【世系】讃岐高岡氏は宇多源氏出雲佐々木支流富田氏に出づ。

姓系辞典の高岡は富田進士か というのは この筋か?とおもい 出雲高岡系図で検索。高岡市左衛門の左クリック→摂州多田院御家人高岡系図→貞望の上クリック→池田氏系図 ここは 相良・徳川・島津などと関与していて、昭和天皇内親王・厚子様が嫁入ったところ。









[68]もみじさんからのコメント(2013年06月16日 22時27分56秒 ) パスワード

宇多天皇(867-931)→)敦實親王(892-966)・・・この親王の系は道長と結びついたほうは貴族になっていき、京極と結びついたほうはどんどん武士化していった。

雅信の系に佐々木源三がおり、秀義のこと。
その孫に盛綱 高綱 義清(母澁谷重國女)

 |隱岐太郎    
(47) 政義(1208-1290) がいる。

その下 鹽冶三郎左衞門がおり、頼泰(母葛西清親女

きょうだいに 高岡八郎左衞門
宗泰(1255-1326) 母葛西清親女と続く。


出雲風土記は えんや氏がつくった と 書いた本を前に観たことがあったので検索をかけたら以下のものが出てきました。
鹽冶神社
えんやじんじゃ
[島根旅行] 島根県出雲市上塩冶町1749−1
http://www.genbu.net/data/izumo/enya_title.htm

神紋 五三の桐
当社は大国主命の御孫神である 塩冶毘古命と其の妻神である 塩冶毘賣命を主祭神として御祭り しております。御創建の年代はあま りにも古く、詳しくは判りませんが 地名として塩冶(出雲風土記では 夜牟夜、止屋)の字が始めて用いられ たのは神亀三年(西暦七二六年)で あります。

単純に
高岡系図と打ち込むと 出雲高岡系図
           摂州多田院御家人 高岡系図
がでて、どういうわけか
紀宗純 摂州多田院御家人高岡系図がでます。

また 
服部宗純と紀氏 摂州多田院御家人高岡系図 も でました。

つぎに やってみたら もう でませんでしたが・・・

摂州多田院御家人 高岡系図をひらくと、説明文のところに 物部氏で池田と同祖。紀姓の人がついで、紀姓。後源姓の人がついで、源姓。

トップの紀六をクリックすると 紀長谷雄がでる。
日本の苗字7000傑紀氏で 平群氏や波多氏と同じく武内宿禰の子供からでる。

紀長谷雄の子孫・正行が楠系図にスライドして、庶子の佐正が池田へ養子。

その孫からの枝分かれが 島津・徳川・相良などから養子を入れている。



[69]もjみじさんからのコメント(2013年06月19日 21時59分41秒 ) パスワード

宗良親王の母をしらべてみました。
宗良親王
宗 良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、1311年(応長元年) - 1385年9月14日(元中2年/至徳2年8月10日)? )は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は★【二条為子】★。一品中務卿。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義 良親王(後村上天皇)など。信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。法名は尊澄法親王。名前の読みが二種類あることにつ いては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。
[70]もみじさんからのコメント(2013年06月19日 22時08分19秒 ) パスワード

辞典に佐田は紀氏か? 二条か?
と書いてあったのを思い出して
二条為子は佐田為子 と 打ち込んでみたら
大覚寺統の表題が見えました。
要するに 山本の言葉 志貴皇子のことばがでてきたということですが

大覚寺統
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/nancho.html
天皇家大覚寺統

志貴氏の祖先もいろいろあるようだが、こだわらず
志貴正玄 和田盛仲子正遠子? 楠木正俊養子張雲斎
正意

朝氏
★山本正景★====1333★【志貴正玄】子★
正尹
正英正景子
正富
正篤
正秋

ここで 佐田=中原のとき 師木 磯城 十市 多 鷲尾 他いろいろ
私の母の実父は 山本。
[71]もみじさんからのコメント(2013年06月19日 22時27分30秒 ) パスワード


http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101275_107.html
志貴皇子
[27]
続日本紀の「道君首名」の系譜
道氏一族について

熊本・「高橋東神社天社宮 由緒書きに★道君首名は★大彦命★の後胤と書かれている。」
大彦命 10代嵩神(すじん)天皇時代の武人。
嵩神天皇の命により、北陸の乱を鎮める。

大彦命を祖とする氏族は★道氏,★阿部臣,膳(かしわで)臣,★阿閇(あへ)臣,★狭狭城山君,筑紫国造,★伊賀臣 「新撰姓氏録」

天智天皇と道君一族の越道君伊勢羅都売(こしのみちのきみいらつめ)の間に生まれた「志貴皇子」が光仁天皇の父であり、『続日本紀』編纂期の天皇と血縁にあったことも影響していると考えられる。

志貴皇子と紀氏の関係
施基皇子(志貴皇子)と紀朝臣橡姫(側室)との間に出来た第六子が白壁王(709-781)。
白壁王は49代天皇で漢風諡号は光仁天皇
↑日本の苗字7000傑紀氏 
紀音人―国益―諸人―橡姫
               ||―――光仁天皇
     天智天皇―施貴皇子
http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/nigihayahinomikoto2.htm
このネットでは 楠木正玄―山本正景 としている。最終的に天照国照彦天火明櫛玉饒速日命にいきつく。

高岡も佐田(中原)も 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の子孫とする系がある。



[72]もみじさんからのコメント(2013年06月23日 01時32分33秒 ) パスワード

義勝坊成尋の子の家長は知家の養子となった
※ 成尋=義勝坊成尋で、挙兵当時から★頼朝に従った★僧兵・修験者。子の家長は八田知家の養子となった。
★知家の妻は成尋の妹★で頼朝の乳母の一人。

義勝坊成尋
?−? 平安後期-鎌倉時代の武士,僧。
中条(なかじょう)家長の父。武蔵(むさし)七党のひとつ横山党の出身。治承(じしょう)4年(1180)石橋山の戦いで源頼朝にしたがい,御家人となる。幕府南門の建立,後白河法皇一周忌千僧供養などの奉行をつとめた。俗姓は小野。号は義勝房。

63
私の父方の高岡には姓系辞典に
八田氏の族という高岡がある。
知家は小野氏の系の成尋の子・家長は知家の養子になった。
家長と義理のおじ・おいの関係
              義勝坊成尋の妹   
               ||    
              八田知家ー小田知重ー高岡泰重
                  |家長
 孝昭天皇子孫ー小野氏ー義勝坊成尋 ー
[73]もみじさんからのコメント(2013年06月23日 20時12分43秒 ) パスワード

72知家は小野氏の系の成尋の子・家長は知家の養子になった。

小野氏の系の成尋の子・家長は知家の養子になった。
です。

橘に関与している人を抜粋すると
公業
公業は右馬允公長の子で、はじめは父とともに★平清盛の子知盛に仕えていた★が、治承四年(1180)、鎌倉に下って源頼朝に仕えることになった。

★親鸞上人★
仲遠女徳子(?−1011):一条天皇乳母。従三位。太宰大弐藤原有国室。橘三位と称された。
子供:日野資業(988−1070) この流れから親鸞上人が出る。
★実綱ー有信ー有範ー親鸞(1173−1263)★

★蒲池氏★
公頼(877−941)
@父:広相 母:博風王娘
A子供:敏貞(相模守)、敏通らたすう。
B927年ー936年従三位参議、中納言、太宰権帥。60醍五天皇ー61朱雀天皇
C藤原純友の乱で純友の弟純乗の城筑後蒲池城を討った。よってこれ以降公頼の子孫がこの地を治めたとされる。蒲池氏

2−8)公材(?−?)
@父:広相 母:博風王娘
A子供:好古
B従四位上文章博士  但馬守

広相女義子(?−?):宇多天皇妃、 子供:斎世親王、斎中親王
この斎世親王の妃に菅原道真娘がなり、皇位継承問題絡みで道真左遷の原因となった、とされる。

宇多天皇の皇子・敦美親王は醍醐天皇と同母。この親王の系は道長と結びついたほうは貴族になっていき、京極と結びついたほうは武士化した。宇多源氏・近江源氏。佐々木氏。

橘広相
 ||ーーー義子
 ||   ||−−−斎世親王、斎中親王
博風王娘 宇多天皇   ||
           菅原道真女子



[74]もみじさんからのコメント(2013年06月23日 20時55分10秒 ) パスワード

[54]
(南朝の忠臣)皃島高徳 と 新田 と 佐田 と 徳川家康 の関係
義助(脇屋)室高徳女子徳子ー脇屋義治(政義女子脇屋義治室)
義明(妻は佐田義久(脇屋義治の末子)の娘) 義隆.

家時(新田源太郎)ー満義ー政義女子脇屋義治室 
(源)新田義重ー義季(得川四郎)ー頼氏(世良田)ー教氏ー家時ー満義ー政義ー親季ー…松平清康━広忠ー徳川家康

地域の本棚 - 香川県立図書館
問 吉野朝時代の忠臣脇屋義治の墓について (香)
答 大人名辞典によると「脇屋義助は伊予で死に、その子義治 (1323〜) は足利尊氏と戦い破れ、終わるところを知らず」と記されているが、丹生村今昔物語には大川郡大内町「丹生の西端に一つの小山あり、その森の中に淨淋居士脇屋君の墓と銘せる古代色つける塔あり、これぞ脇屋義治の墓である」とあり、「その子義長家を継ぎ子孫繁栄す」とある。
  
また、古今讃岐名勝図絵と大川郡誌には次の脇屋家伝 (漢文) を記している。
義治ー義長(掃部)ー義信(民部)ー徳光弥助兵衛ー義則(善助)
○ 丹生村今昔物語 P7〜P8 古今讃岐名勝図絵 P42
  大川郡誌 P271   日本伝説 讃岐の巻 P197〜P198

http://23.pro.tok2.com/~freehand2/frame-500.html
児島高徳と脇屋義助
新田義貞の傘下で戦い、義貞死後は弟の脇屋儀助にしたがって四国征伐に赴き、義助の死後はその子・義治を擁し京都で再挙を計画したが功ならず、正平七年(1372年・南朝年号)摂津の天王寺に行宮せられた後村上天皇に召されて「関東に下って兵を集めよ」との勅命を受けて新田氏・宇都宮氏・小山氏などの協力で兵一万騎を京都に向わせるなど、新田氏との深い関係を保ちました。児島高徳はその後も義助の子・義治を助けて北朝側と戦ったが利あらず、建徳二年(1371)に新田荘に近い佐貫荘古海(大泉町)の古海太郎広房を頼って定住した。その後は剃髪して備後三郎入道★志純義晴★と名乗り、弘和二年(1382)に医王山延命院高徳寺(群馬県大泉町古海2209・地図)に隠棲し72歳で没したと伝わる。

高徳寺の200mほど南の利根川近くに墓が残されているが全国に多くの諸説もあり、定かではない。

建徳二年(1371)、上野国新田荘に御滞在中の宗良親王の許へ使いしたのを契機としてこの地古海に隠棲し軍中守護神だった摩担利尊像を安置し宗良親王に仕えたり南朝の再建にも苦慮した。永徳二年(1382年・南朝年
号)11月24日享年72歳でこの寺で永眠されました。


[75]もみじさんからのコメント(2013年06月23日 21時35分26秒 ) パスワード

村上師清は脇屋義治とその一族に大島内の稲井城を与えた。義治は安住の地を与えられたことを喜んで姓を稲井に改めた。
 
しかし、師清もすでに幕府の軍門に降り再起の力はなく、義宗、義治の温泉郡湯の山日浦に蟄居させて、土居・得能氏に保護を依頼した。
やがて、義宗・義治は宇和郡に送られたが、義宗の三男と娘、義治の次男の3人を村上師清は引取り、自分の子として末長く養育することを約束した。

その後、まもなく師清は亡くなり、村上氏宗家を継承した長男義顕は、父の遺言をよく守り、3人の幼児を舎弟として養育し、成長すると新田義宗三男を村上義久、脇屋義治次男を村上義俊と名乗らせた。
そして、村上義久には自分の妹を嫁がせ、村上義俊には自分の姪を嫁がせた。新田義宗の娘・好姫は義顕の三男左馬太夫の嫁とした。

※※私の母方の佐田の家の関係で 一人は 毛利氏と同格の村上水軍の姫が建てた寺に入っていると母から聞きました。  
[76]もみじさんからのコメント(2013年06月23日 22時05分49秒 ) パスワード

75は
謎その43 脇屋義助の子孫はどうなったのか? - しまなみ人より

『浪合記』は(天野信景の著書とされる)
清水昇『消された一族』によれば、政親の娘の子・脇屋義則(新田義宗を父とする)が世良田の名跡を継いだという。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E9%A1%95 ウィキ新田義顕
義和(義一)?、天野顕政


『筑後佐田新田系図』によると、義顕は義和(義一、よしかず)という子がおり、子孫を残したと記されているが、真偽の程は不詳。また、安芸国の天野氏に養子に入り、後に「天野顕政」と名乗った子が居たとされる[要出典]。

ここで 私は 混乱しているのだけど、
とに角 『浪合記』は(天野信景の著書とされる)が、この書に「伊賀の守宗純」がついている。

天野はウィキでは 藤原南家為憲の子孫で、相良氏と同族。
相良氏は故郷の藩主で、我が家は 相良氏本系がつかった 山井や相良氏族の丸目という苗字の家などとも姻戚関係がある。

天野はさらに遡って 丹生の祝の家で 『豊耳』と仲がよく、神功皇后が墓を見て合葬か?といったといい、

高岡の家に お寺の内仏の間に似たり という部屋があり、天野宗主の家のつくりに似ている という。

豊耳は日本の苗字7000傑紀氏族綱要でうじひこの後についている。

古代に遡ると 近い関係にあったのではないか?






[77]もみじさんからのコメント(2013年06月26日 06時09分12秒 ) パスワード

もうずっと以前に父方との姻戚関係にある山井が相良氏に関与している苗字だということから、相良氏をしらべたときのメモ書きが出てきました。

養家との両家系を接続したものだろう。
藤原南家工藤氏流
為憲・・・光頼
左衛門尉〔伊東〕祐光の二男・相良右京大夫周頼の養子となり家督。

というものですが、工藤氏→相良氏 と 思えます。

http://keizu.masa-mune.jp/kudou.html で検索
工藤周頼 工藤維頼の子
      工藤光頼 工藤周頼の養子
       相良頼寛 工藤光頼の子

工藤光頼がわからなかったのですが、

藤原光頼で検索をかけると、
藤原光頼 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/藤原光頼‎
藤原 光頼(ふじわら の みつより、天治元年(1124年) - 承安3年1月5日(1173年2月18日))は平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流の出身で、権中納言藤原顕頼の長男。正二位・権大納言。葉室大納言入道、桂大納言と称す。葉室光頼とも呼ばれる。

葉室家は 通親とも関係してくる。このことで、高岡・佐田とも近い関係になってくる。

葉室宗頼
藤原光頼の四男

建久七年の政変で(九条)兼実は失脚するが、政治の主導権を握った土御門通親は宗頼の実務能力を高く評価して厚遇し
・・・宗頼と通親は個人的にも提携を強め、宗頼は通親の義妹・卿局を妻に迎え、通親の嫡子・通光を婿とした。

[78]さなえさんからのコメント(2013年06月26日 15時33分47秒 ) パスワード

今日

イザべラ・バード(著)の「日本紀行 上・下」と「朝鮮紀行」を手に入れました。文庫にしては、少々高い本でありますが・・・、彼女の無邪気な感性による文章は、大変楽しみであります。

日本紀行 下 には、アイヌのことたくさん書いてあるので、それも楽しみです。

1878年の日本と、1894年の朝鮮の滞在記録です。
[79]もみじさんからのコメント(2013年06月26日 19時00分43秒 ) パスワード

こんばんわ
さなえさんは 本がお好きですね。吸収できるうちにたくさん本を読まれるといいですね。年いくと なかなか・・・興味はあるのですが。

維新後すぐの頃の北海道。
私の田舎も負けず劣らず の 生活ぶりだったと思います。
小学生くらい(昭和30年くらい)まで、ちょうちんを持って夜道を歩いていました。生活格差などというものが 出来たのは もう少しあとで、その頃は 川でとれるもの 鶏を飼って 食べ、生活に必要なものを 得たら、それ以上はとらない のどかなものでした。

洋服を着ていても 江戸時代のような生活。
今でも思い出すのは 托鉢に来られたお坊様に、母が出かけているので、お米を袋に入れて差し上げたこと。この頃は 托鉢をされる人も見かけなくなり、その頃はそうしてお寺の修復の為に回っておられたのでしょう。お寺などが生活に密着して身近な頃でした。

北海道には片倉小十郎も渡ったようで、「白石神社」に関与しているようですね。祭神 神倭磐余彦(神武天皇)
白石は 幣立神宮にも 白石の集落などがあり、天御中主命から神武天皇の頃に関与して出てくるので、興味があります。

北海道には又 榎本武揚も渡っており、アジアに行く岩本に 
「高岳親王」の墓を探せ と言ったと 本で読んだことがあり、
たかおか に 関して ある話として こちらも 興味があります。









[81]もみじさんからのコメント(2013年06月28日 01時40分53秒 ) パスワード

北摂のグルメ情報誌に北摂ゆかり紀行という欄があり、
こちらの近辺の歴史など紹介してあるのですが、

1889(明治)22年2月大日本帝国憲法発布
鉄道は10年ほど前 大阪ー京都間が開通しており、停車駅は大阪ー吹田ー茨木ー高槻ー京都だった。
当時の新聞は、京都方面にいる東軍が、大阪を攻めようとしている西軍を攻める為、大阪に向かう途中、道祖本から太田のあたりで交戦するという設定だった、と報じている。(新修茨木市史年報第3号)
今 一面の住宅地が広がる、東西から大軍勢が押し寄せてぶつかりあう原野など、想像もつかない。
日清戦争は7年後、日露戦争は17年後のこと。

この原野が広がる地に、1887年(明治20年)2月 軍事演習を視察に明治天皇が来られた。
1852−1912 14歳で即位、16歳で皇后を迎えられた。

私が住んでいるところも、40年位前までは 高槻駅まで一面たんぼだらけだったというところで、藤原の荘園だったといい、ため池があちこち名残にあります。

大工をしていた同級生など、たぬきがいるやろ 何ぞと言って、失礼ね、都会よというと、自分が家を建てに行っていた頃は 周りは林だらけで、狸がいたんやと言っていました。

今の感覚で昔を考えてもダメですね。

平清盛 寝殿造り と 高穴住居

中央と地方と 急激な変革の中で起こる 生活の違い

季氏朝鮮(関氏王朝・みんし)の頃、
http://melma.com/backnumber_78763_5339993/
申淑舟「海東諸国紀」ウィキペディアより引用として、
「海東諸国全図、西海道九州図、壱岐島図、対馬島図、琉球国図、朝鮮三
浦図などの地図が冒頭に掲げられている。本文は「日本国紀」、「琉球国
紀」、「朝聘応接紀」に分かれ、それぞれの歴史、地理、支配者、言語な
どを詳細に記す。また当時朝鮮を訪れていた日本の地方支配者(大名)使
節の接遇方法も詳細に記されている。日本史、琉球史の重要資料であるだ
けでなく、日本語史でも見逃せない資料を提供している。」

 新井白石がこの本を研究し、朝鮮通信使招聘時に生かしたのは有名。
 岩波文庫本に新井白石の研究が紹介されています。
「田中健夫訳注 『海東諸国紀 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』」

北海道のこと(のころ・渡島とかいっていた?)がないのが、残念ですが、

松浦武四郎 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/松浦武四郎‎
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。 ... 松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。 ... 明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。



[82]もみじさんからのコメント(2013年06月28日 22時49分19秒 ) パスワード

大正天皇の生祀は1911年(明治44年)北海道日高国門別村に、昭和天皇の生祀は1923年(大正12年)北海道十勝国本別村義経山上に、成立した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もとにもどって
日本の苗字7000傑の紀氏
八田知家のまわりのこと


藤原光頼の四男・葉室宗頼は通親の義妹・卿局を妻に迎え、通親の嫡子・通光を婿とした。というのがある。

又 工藤光頼は
光頼
左衛門尉〔伊東〕祐光の二男・相良右京大夫周頼の養子となり家督。

工藤周頼 工藤維頼の子
      工藤光頼 工藤周頼の養子
       相良頼寛 工藤光頼の子

日向伊東氏の祖の祐光
日向伊東氏は飫肥藩五万石余の大名

飫肥藩・岡田藩伊東家の家譜によれば、 武智麻呂十四代久須美四郎大夫入道寂蓮家継嫡男祐家の末流とあるが、 尊卑分脈では、家次の子祐家は、実者久津見入道寂蓮子となっている。

寂蓮で検索
俗名は藤原定長

藤原定長で検索
勧修寺流藤原氏の出で,兄の吉田経房,藤原光長と吉田経房などがでる。

藤原 宣孝は紫式部の夫で、藤原高藤(観修寺流祖)とは母方でいとこどおし。
藤原北家高藤流、権中納言・藤原為輔の子。紫式部の夫。

藤原 光頼
藤原北家勧修寺流の出身で、権中納言藤原顕頼の長男。正二位・権大納言。葉室大納言入道、桂大納言と称す。葉室光頼とも呼ばれる。

工藤光頼と関係あるとはどこにも書いてないようだが、つながってくる。

又 吉田経房は母方の系で 
母:藤原俊忠の娘
    |
藤原北家御子左流、大納言藤原忠家の次男。
    |
父:藤原忠家
母:藤原経輔の女[1](あるいは藤原敦家の女[2])
    |
父・藤原隆家の次男。母・源兼資の娘
    |
父・藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)。

※※藤原隆家の後裔に 池の禅尼・宗子がいる。







[83]もみじさんからのコメント(2013年06月28日 23時10分13秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑紀氏の表を上と下とくるんと丸めて メガホンのようにした形は 歴史の流れにそっている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
貞明皇后の生祀は1913年(大正2年)広島県広瀬町に、
昭和天皇、香淳皇后の生祀は1928年(昭和3年)広島市広瀬町に成立した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
広瀬町とは 中区の地名 

うちの佐田に養子に入ってきた人(佐田の血が濃い)の家が白島にあったので白島を検索。、広島県を流れる太田川の河口部に位置していて、元々は「箱島」と呼ばれた小さな島であった。
白島は昔、箱島とよばれ、広島が五箇庄といわれていた寒村の頃に、現在の太田川デルタはほぼ海中であり、現在丘の部分がデルタに点在していた島々であった。
「広島」の由来は「白島(しろしま)」?

広島は16世紀末から、太田川河口を埋め立てて建設された人工都市であるが、その地名の由来は、現在でも定説が無い。現在ではほとんど取り上げられないが、「白島は、かつて”しろしま”と読み、これがなまって”ひろしま”になった」という俗説が、かつてあった。


[84]もみじさんからのコメント(2013年06月29日 07時12分43秒 ) パスワード

今日29日の毎日新聞に江戸時代の長屋の安普請のことが書いてありました。
庶民の暮らしは どこも ここも あまり変わらずだなあ と思いました。

一方 目黒の秋刀魚の話のように、庶民が当たり前にしていることが、殿様にはなかなか手に入らない ように、何が幸せ 不幸せか わからないことも結構あったのではなかろうか?

そういう観点から見れば アイヌ アイヌと今の感覚でいうことも、すこしかんがえなおさなければ と 思うのです。

確かに 昔 確か 武内宿禰の進言により 
国広く 美味し国あり。 討ちて取るべし と して、東国の平定が行われたけど、その前には坂上一族が開発に入っており、そのはるか前には 熊野権現の左右の翔になってついてきた ういさん すずきさん の 遠祖なども 丸子におさむ として 東北にいたように 思っています。

このあたりのことは
本をみながら 書かなければいけないけど・・・

http://ameblo.jp/jke/day-20110720.html
丸子寛仁(千田・廣島)本名かどうか 顔写真も本当かどうか知りません。
何故 丸子を しっているか に なりますが・・・三輪に関係しておられるようなので ご先祖様のことを ご存知なのだろうと 思います。

曹洞宗の人のようにも 思えますが・・・お寺一覧に 名前があります。
別人かも知れません。

曹洞宗なら 涅槃饅頭つながりに なってくるかもなあ と 思います。

父の丸子忠男で検索すると もう少し よくわかるようです。



[85]もみじさんからのコメント(2013年07月02日 01時00分14秒 ) パスワード

http://ameblo.jp/jke/page-29.html
神武天皇と藤原鎌足公の菩提所としての妙楽寺

藤原鎌足公の陵墓は、多武峰の頂、御破裂山です。三木押忍辺家に匿われていた中大兄皇子を天智天皇として押し上げた我が国唯一の大織冠内大臣藤原鎌足公。

現在日本国では天智系歴代天皇の位牌を弘法大師空海上人開基月輪大師開山の京都泉涌寺で御祀りしています。
天武系統を外してある(天武系天皇持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳。九人の位牌が無い。天智天皇からいきなり九代光仁天皇となっている。
※ 日本の苗字7000傑紀氏より
紀大人の系 女系で 光仁天皇
又 益子氏や 越智氏もついており、我が家のことについて 考察の糸口になると思う。
そして 空海につき 空海に関与する隋心院は京都小野にあり、 八田知家の養子になる家長の先祖・小野好古は小野氏で一族の小野小町は京都小野のあたりの人
というように、服部と呼び名を変えている人達との関係についても 宇都宮氏からの考察の糸口になると思う。宇都宮と越智氏
南都と京都北部

天智天皇以前の天皇の位牌は無い)とのことで、南都に対して別けて考えている模様です。古事記日本書紀よりサヌノミコト神武天皇を初代と定義してきた日本国南都において、春日興福寺と談山妙楽寺で神武天皇の位牌を巡って中世に争っていました。神武天皇の位牌は、笠村竹林寺より談山妙楽寺へ遷されました。興福寺はこの腹いせに笠山の仏塔を焼いていきました。神武天皇の位牌は談山妙楽寺で幕末まで護持されてきましたが明治初年の廃仏毀釈によって妙楽寺は絶えました。

その後、明治天皇により明治23年西暦1890年4月2日に官幣大社として橿原神宮が創建され、神武天皇が御祀りされています。橿原神宮と言えば、戦前はここに祈りを捧げて帝国の兵隊が出征していたことからも判るように、明治政府そのものの中心的神社でした。敗戦後には伊勢神宮へと権威が移りました。現代、寺院として神武天皇を祀る南都の寺が絶えてしまったことには深く悲しみを覚えます。今拙僧は戸籍上の鎌足公の長子藤原定慧上人(孝徳天皇子息)に始まるこの妙楽寺の歴代住職の位牌を御祀りしています。

[86]もみじさんからのコメント(2013年07月02日 01時27分33秒 ) パスワード

http://ameblo.jp/jke/page-34.html
神社という概念は、東北や北陸の風習であり、西日本には無かった。
また、高度な航海技術等を有していた。

ようするに神社そのものが蝦夷の習慣だということだ。
物部とはつまり和邇氏(丸子)である。

これは大山祇すなわち三島溝杭の本性が海神族、和邇すなわち丸子であることに根拠する。この丸子の皇子秋津彦すなわち登美明国の妹秋津姫すなわち活玉依姫を皇后としたのが大物主天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊であり、物部氏は彼の皇子宇摩志麻治命を高祖としている所以からである。尚現代神道では活玉依姫をミカシヤ姫と呼んでいる。

ユダヤ人をソグドと呼んでいるが、日本では蘇我と書くわけだね。

http://ameblo.jp/jke/page-66.html
日本国最古 三輪坐恵比須神社(えびすは大倭と)
竹内久司宮司

この竹内氏は武内巨麿なのか?と思いますが、とに角 嵩(多賀)。

古代出雲臣という出雲向家はインド・ドラビダ族といっておられるので、
我々のご先祖様が いろんなところからこられた という 三つがはっきりしていますね。
伊勢神宮の荒木田家嫡流の人(今伊勢神宮にはおられない。)は祖先を周。祀っているのは斉王とその王子たちとしておられる。
出雲向家の方は 本当は さひめ を 祀っていたという。

[87]もみじさんからのコメント(2013年07月03日 23時11分09秒 ) パスワード

ネットからの情報 児島高徳についていろいろ伝承があるだろうけど
紀氏の系図・ 波多氏から出てくる話で児島高徳関係
白石 平賀 竹内 のスレッド 76

(南朝の忠臣)皃島高徳 と 新田 と 佐田 と 徳川家康 の関係

義助(脇屋)室高徳女子徳子ー脇屋義治(政義女子脇屋義治室)
義明(妻は佐田義久(脇屋義治の末子)の娘) 義隆.

家時(新田源太郎)ー満義ー政義女子脇屋義治室 
(源)新田義重ー義季(得川四郎)ー頼氏(世良田)ー教氏ー家時ー満義ー政義ー親季ー…松平清康━広忠ー徳川家康
55から57に詳しく書いてある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
伊東・佐々木の方からみる児島高徳
             佐々木氏|
伊東ーーー上沢(中条家長)女子ーーー佐々木の養子・閉伊氏を名乗る。
        ||             和田備後守・範長女
      北條時政女       上沢氏女  ||ーーーーーーー『児島高徳』
       ||ーーー女子     ||ーーー頼宴
       加治信実 ||ーーー東寺長者道乗
            頼仁親王
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
家長は このスレッドの72に出る人で、義勝坊成尋の子
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kojima&dd=22&re=584
児島高徳と中条氏

東寺長者道乗妻は上沢、中条家長(後の稗貫氏)上沢氏女
上沢家の先祖について上沢家に伝わるところによると、本姓は伊東といい、九州より兄弟二人で落ちてきたという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

              佐々木氏|
伊東ーーー上沢(中条家長)女子ーーー佐々木の養子・閉伊氏を名乗る。
        ||             和田備後守・範長女
      北條時政女       上沢氏女  ||ーーーーーーー『児島高徳』
       ||ーーー女子     ||ーーー頼宴
       加治信実 ||ーーー東寺長者道乗
            頼仁親王      

閉伊氏の祖は佐々木十郎光幸といい、閉伊郡に所領を得て閉伊頼基を名乗った。
頼朝の口添えで佐々木四郎高綱女の養子
―ーーーーーーーーーーーーーーーー
鎌倉初期、久慈郡や糠部郡は鎌倉幕府の最有力者である北条氏の所領であった。ここにも、佐々木、加地信実との関係が出ている。
北条時政の女が、加地信実の妻になり、生まれた女が、頼任親王にとついで、生まれたのが東寺長者道乗で、
この道乗が上沢氏の娘を娶って六子を生み、
その第二子頼宴が和田備後守範長の娘を妻として生まれたのが児島高徳である。

ーーーーーーーーーーーーーーー

加地信実─時秀─東郷胤時─甥子児島高徳、逸見重氏児島盛綱女婿逸見重氏(法名定心)家長幼少ニツキ逸見重氏盛綱女婿三宅定心
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
稗貫氏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/稗貫氏‎
稗貫氏(ひえぬきし)は、陸奥国稗貫郡を支配した豪族である。 ... 稗貫氏は奥州藤原氏滅亡後の建久8年(1197年)、伊達氏の始祖である伊達朝宗の4男(3男とも)・伊達為家の子・伊達為重が稗貫郡に下向し、その地名を姓にして稗貫為重と名乗ったのが始まり

又 近年では中条であると
伊達→白石
中条→佐々木(高岡)
養子関係?
[88]もみじさんからのコメント(2013年07月07日 13時30分48秒 ) パスワード

87中条家長と児島高徳 伊東(相良氏と同族)と佐々木氏
87(南朝の忠臣)皃島高徳 と 新田 と 佐田 と 徳川家康 の関係
82観修寺流と隆家流
中条(小野)家長の叔母は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家を生んだ女性

高岡と佐田
通親の伯母(右大臣正二位、源雅定の女)は宇都宮信房(正四位上、右近衛中将)の母なのです。宇都宮信房は宇都宮宗綱の男中原宗房の男であり、小田氏の祖八田知家は宗綱の弟で、信房の叔父になります。

|中条家長のおば
   ||−−−−ー八田知家               
|宇都宮宗綱ー中原宗房ー宇都宮信房(豊前宇都宮流佐田氏は信房の頃から佐田           /        の名乗りが使われた)
|−源雅定女子−−−/
|ー●ー(久我・土御門)通親
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
源通親のまわりをよく見ると

源 在子(みなもと の ざいし、承安元年(1171年) - 正嘉元年7月5日(1257年8月15日))は、第82代後鳥羽天皇の妃で第83代土御門天皇の生母。父は法勝寺執行能円で母は★藤原範兼の女藤原範子★。源通親の養女。同母弟に久我通光、土御門定通、中院通方 .


     (源・土御門・久我)通親の養女・在子。同母弟に久我通光、土御門定通、中院通方
                    ↑            
         法勝寺執行能円    ↑
             ||ーーーーー源 在子
(藤原南家貞嗣流)藤原範兼の女藤原範子  ||ーーー第83代土御門天皇
                   第82代後鳥羽天皇








[89]もみじさんからのコメント(2013年07月07日 14時05分00秒 ) パスワード

白石と隆家流(山口)と佐田・高岡

藤原 (高倉) 範子さんの元の夫は法勝寺執行 能円。
 法勝寺は京都市左京区岡崎にあった寺。
 白河天皇建立六勝寺の一つ。
執行 (しゅぎょう) は寺事務仕事のトップの方。
 1179年、鹿ヶ谷の謀議でメジャーな俊寛も法勝寺執行でした。
 能円の母は、藤原家範のお嬢さんで、彼女の
 夫、 平時信との間に   平時子 (1126〜1185) 清盛の奥様
                  平時忠 (1127〜1189) 平大納言
 次夫、藤原顕憲との間に  能円 (1140〜1199)
 達をこの世に送り出しています。
(藤原家範は藤原北家隆家流、右中弁・藤原師家の子。)

能円は1183年7月、平家都落ちの際に単身で京を去ります。
 能円と藤原(高倉)範子さん (?〜1200) との間には、
 後に後鳥羽天皇 (在位 1183〜1198)(1180〜1239) の奥様に
 なり土御門天皇 (在位 1198〜1210)(1195〜1231) を
 誕生させた、在子 (1171〜1257) お嬢さんをもうけています。
 能円都落ち後、藤原範子さんは源通親と懇 (ねんご) ろになり、
 彼の奥様に。在子お嬢さんは通親の養女と云う事に相成ります。
 彼女は、母の名を取れば、藤原在子で養父の名なら源在子に。

          
         源通親(土御門・久我)
          
          ||    |−−−範子の連れ子・通光(久我家祖)
          ||    |−−−在子は異父姉・定通(土御門定通)
          ||    |−−−中院通方
          ||ーーーーーーーー養女・(藤原・源)在子
        藤原 (高倉) 範子
                                                                ↑
                                                                ↑         
  平時信
  ||ーーー清盛妻・時子や時忠     藤原 (高倉) 範子       
藤原家範女子(北家隆家流)          ||ーーーーーーーー在子
  ||ーーーーーーーーーーーーーーーーー法勝寺執行 能円     
 藤原顕憲
[90]もみじさんからのコメント(2013年07月07日 14時20分30秒 ) パスワード

伊達氏は魚名子孫といい、四条と同祖。伊達氏は白石。久我は佐田。
平清盛の子孫 ttp://hikoshima.com/bbs/heike_slink/101195_8.html
西園寺実氏と鷲尾貞子との間にうまれた姞子が両院並立のもとになる後深草天皇と亀山天皇を生みます。
藤原魚名の子孫の藤原隆房は平清盛の娘と結婚し、隆衡が出来ます。隆衡の娘が(四条)鷲尾貞子です。
つまり 両天皇は清盛娘の玄孫になるのです。貞子の兄弟に藤原(四条)隆親という人がいます。隆親の娘は大納言典侍と呼ばれ、後深草天皇の乳母でした。そして、彼女と源(久我)雅忠との間に産まれたのが、
「とはずがたり」の作者後深草院二条です。

四条貞子(北山准后.1196〜1302.107歳)は
『とはずがたり』巻3「北山准后九十賀」に、
「俗姓は鷲尾(わしのお)で、大納言隆房の孫、隆衡卿の娘である とある。

さて 鷲尾は 中原から 出ます。後嵯峨天皇の里内裏である冷泉万里小路殿は後深草院二条の祖父四条隆親(1203〜1279.77歳)の邸宅である。

(久我・土御門)通親は平清盛の弟平教盛の娘婿である。清盛と近いところにいる。

後 源頼朝は九条

兼実と袂を分かち、 故法皇が寵愛した★丹後局とその子宣陽門院の別当源通親★に近づいて、大姫入内を画策した。

『島津氏正統系図』や『島津国史』は、島津家初代当主・島津忠久(1179〜1227年)の父を頼朝、母を丹後局としています。
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