[1] | アカコッコさんからのコメント(2013年02月06日 08時18分05秒 ) | パスワード |
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岡本様はじめまして。
何もわかりません。私が以前調べた岡本家についてコメントいたしますが、お役にたつかまたは関係ないかも知れません。以下・・・・
【宮野善七郎】
あるいは善忠と号す参河国額田郡寺津の城主大河内左衛門佐元綱の女、於満の母尾張国の住人宮野善七郎の女なり、於満は隠れなき美人なりければ外祖父膳七郎養女として(徳川清康君に奉る(清康より年ましなりとぞ)彼君横死した給ひし−後水野右衛門太夫忠政に嫁して惣兵衛忠重と数子をうめり、忠政卒去の後菅沼藤十郎に再嫁し、又、川口久助の妻となり老後に尼となり、大河内源三郎が駿府の宅にて永禄三年死去法名を華陽院玉桂慈仙と云よし「松平尾陽雑記にみえたり」。(宮氏は尾張人なれど其居地今知かたし当郡東裏のあたりに住まいし人なるべし);歴史図書社「尾張志」より
*この宮の善七とは尾張の熱田庄、宮の城主だとも言われ、本名を岡本善七秀成と言い、後に関係してくる尾張津島の大橋家の一族だともいわれている。このことが事実ならば華陽院殿の身近にいたことになり十分に可能性がある、以前、同じ区内の岡本氏よりお手紙をもらったが津島四家七苗字党の岡本氏の末裔だと言うが善七郎とは関係ないとのことでした。
[2] | 岡本さんからのコメント(2013年02月06日 23時36分52秒 ) | パスワード |
アカコッコさん、はじめまして。
コメント頂きありがとうございます。
宮野善七郎、という方のお名前は初めて知りました。
今は関係が見えませんが、つながる可能性もありますよね。
キーワードとこれから勉強をすすめていきたいと思います。
どうもありがとうございます。
[3] | アカコッコさんからのコメント(2013年02月08日 08時10分34秒 ) | パスワード |
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浪合記というHpがありますが、津島四家/七苗字党の岡本氏の姓名が詳しく記載されております。
アドレスはhttp://homepage1.nifty.com/sira/n_index.html です。
吉野から供奉して来た武士
大橋修理大夫定元 岡本左近将監高家
山川民部少輔重祐 恒川左京大夫信規
(あるいは朝祐)
この四人を、新田家の四家という。
吉野から供奉して来た公家庶流
堀田尾張守正重 平野主水正業忠
服部伊賀守宗純 鈴木右京亮重政
真野式部少輔道資 光賀大膳亮為長
河村相模守秀清
この七人を七名字と号する。
また武家家伝の岡本姓を読むと大橋家=宇都宮家と関係が深いみたいで、今迄しらなかった。(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hag_okam.htm )
岡本家の系図も記載があります。
[4] | 岡本さんからのコメント(2013年02月10日 11時38分30秒 ) | パスワード |
アカコッコさん
こんにちは。
浪合記のHPを拝見させていただきました。
内容はこれから時間をかけてになると思いますが
読ませて頂きます。
情報をありがとうございます。
[5] | アカコッコさんからのコメント(2013年02月13日 07時57分11秒 ) | パスワード |
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私のコメントはお役にたつとは思いませんがかえって違う方向に,向かってしまいすみません。岡本姓について目につくものを書き並べているだけですが、あくまでも 参考になれば。
◎羽柴秀吉の配下に伊勢衆の一武将として岡本良勝、小島民部、の名前が見出せます
◎高麗(季氏朝鮮:天正二十年)渡海陣立ての中にも岡本下野守重政の名前が。
両方とも歴史読本「天下統秀吉軍団の野望」より。
余談になりますが、「元禄快挙碌」(岩波文庫)を何気なく読んでいましたら、京都・丸山重阿弥で開かれた赤穂の義士、大石蔵之助をはじめ、堀部安兵衛など猛進派の面々その中に*『岡本治郎左衛門』と言う名を見出しました。
*ウイキより:同氏は大阪留守居400石。円山会議後に脱盟
[6] | 姫沙羅さんからのコメント(2013年02月14日 00時11分22秒 ) | パスワード |
岡本さん、どうも初めまして。
山口県民の姫沙羅と申します。
アカコッコさん、お久しぶりです。(^^)/
やはり山口県でヤタガラス紋は珍しいですよね。
そこで、どこから来たのか考えると・・・ヤタガラスといえば、熊野大社。
「八咫烏紋」で検索したら、やはりそうでした。
家紋Worldさんより;
http://www.harimaya.com/kamon/column/karasu.html
熊野大社の宮司・鈴木家の家紋ですね。一族で有名なのが、鈴木孫一=雑賀孫一。
もしや雑賀党と関係が・・・と思い、「雑賀 岡本」で検索したら、いらっしゃいました。
http://kurofune67.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-cadf.html
雑賀党の末裔の岡本さんだそうですよ。
このお家がヤタガラス紋かどうかまでは分かりませんが。
確認できると良いですね。
紀州雑賀党といえば、戦国時代の鉄砲傭兵部隊で有名ですね。
彼らはその腕を買われ、全国各地の大名に仕えるために散らばっていったそうです。
もし岡本さんのご先祖様が雑賀党の一族なら、やはり鉄砲の名人として
毛利家に仕官したのかも?
[7] | 岡本さんからのコメント(2013年02月14日 20時06分04秒 ) | パスワード |
アカコッコさん
私は関西在住でして、今日は岡本下野守重政の流れをくむ岡本太右衛門の系図も含まれている図書(新修岡本家歴代記)が大阪の中之島図書館にありましたので見てきました。この岡本家は関西から岐阜へ移動しているのですが、津島四家に関わりがあるようです。
私にとってはこれだ!という情報は今日は見つけることはできませんでしたが、岡本家歴代記でも「定」という字が代々引き継がれています。うちも定五郎を代々継いでいっていますので、何かしら関係がないものか、それとうちのどこかの親戚が言っていたどこかのえらい人が日本に来た時の家臣だった、という情報もあり、まだまだ調べる余地がある、と思っています。
いろんな情報を頂けて助かっています^^
[8] | 岡本さんからのコメント(2013年02月14日 22時32分08秒 ) | パスワード |
姫沙羅さん
はじめまして。
山口でヤタガラスは珍しいのですね。
雑賀党の末裔の岡本さんのサイトを拝見しました。
やはり熊野から、となりますよね。
雑賀一族をちょっと掘り下げていきます。
下関では江戸屋の商号で遊女置屋をしているというのがわかっていました。
「雑賀屋 岡本」でも検索をし、次に何気なく「江戸屋 岡本」で検索していましたら、熊本の岡本家住宅というのにヒットしました。
これがもしかしたら関係がありそうなので、まずやっつけたいと思います。
****
http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/284929/www.pref.kumamoto.jp/education/hinokuni/tuushinkumamoto/no.18/no18_6.html
●岡本家住宅
年 代 天保11年(1840)ほか
所有者 岡本定廣
答申年月日 平成11年9月7日
概 要
岡本家は、大友家の家臣を祖と伝え、その後帰農し幕末に細川藩の士族となった家で、明治になると近郷の地主でした。住宅は、主屋、馬屋、三階の倉、南の倉、表門、裏門、外便所、堀、石橋、浄化槽の10棟がほぼ完璧に残されています。在郷武士、旧地主層の屋敷の構えが残されていて、貴重な建造物となっています。
****ここまでコピーしました。
もともと千之丞が開作のためにきた下関市新地町は細川宮内の領地でした。
下関のお墓には肥前松浦郡淵上村の医師、田村良益という人のお墓も並んでありますが、岡本家との関係がよくわかっていません。肥後、肥前関係してくるのか
どうなのか。
岡本家住宅所有者の岡本定廣さんというお名前にもびっくりです。
定もそうですが、廣という字を名前に使っている先祖もいますのでがんばって調べてみます。
どうもありがとうございます。
[9] | アカコッコさんからのコメント(2013年02月15日 08時24分44秒 ) | パスワード |
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隈さん御無沙汰しております。
佐久間ランキング47位の岡本姓は十五万人と言われており、ルーツをたどるのはなかなか難しい、隅さんあのおっしゃるとおり、ヤタガラス紋で検索すれば、よかったかと思います、ヤタガラス紋といえば、私なんか御日本サッカー協会が使用しているぐらいしか、思いつきませんでした。隅さんさすがですね、これで一歩近づいたみたいですね。
「8」のコメントを手懸りに検索したら『肥後細川藩拾遺』の中に「有碌氏族基本帳」に岡本姓が二十余名の姓名が書かれておりました。アドレスは以下・・・http://www.shinshindoh.com/yuuroku-index.html
なかなか読み甲斐のあるhPでした。
また市史編纂室 (貴方のご先祖様の家がみつかるかも)のコメントもありました。
[10] | 姫沙羅さんからのコメント(2013年02月15日 11時21分14秒 ) | パスワード |
>山口でヤタガラスは珍しいのですね。
そうですね。今までのところ、私が出会ったことはないです。
もちろん、たとえば下関に局地的に分布している可能性もありますが。
調べてみたところ、八咫烏紋は紀州鈴木一族の独占紋なのだそうです。
通常家紋からルーツを辿るのは難しいのですが、
岡本さんのケースは姓よりも家紋があまりポピュラーではない分、
有力な手掛かりになるかも知れないですね。
ネットでざっと見たところ、雑賀党の拠点だった和歌山市には岡本姓のお家も多いようなので、
もしも和歌山の岡本姓で八咫烏紋使用のお家があれば、
「合わせ技で」同族の可能性が高くなると思います。
ちなみに日本サッカー協会のシンボルマークは、
その昔日本のサッカー普及に尽力された方が那智勝浦かどこかのご出身だったことから、採用されたのだとか。(^^)
[11] | 岡本さんからのコメント(2013年02月17日 02時10分14秒 ) | パスワード |
アカコッコさん
肥後細川藩拾遺はすごいサイトですよね。
岡本姓の方についても今のところは確定できませんが
探すのにとても役に立つと思います。
肥後の岡本氏は相良氏の一族であるともいうのも
資料で持っていますので、(熊本県球磨郡岡原村発祥)
そのあたりも合わせて探しています。
昨日からずっとインターネットで検索して、ついつい他のことを
調べだしたりしてあっという間に時間が過ぎていっています。
[13] | 岡本さんからのコメント(2013年02月17日 03時15分23秒 ) | パスワード |
(12は文を訂正するために削除しました。)
姫沙羅さん
>調べてみたところ、八咫烏紋は紀州鈴木一族の独占紋なのだそうです。
独占紋でしたらかなり絞られますね^^
和歌山市でしたら日帰りでも資料が見に行けますし引き続き調べてみます。
細川藩との関わりで見ていきますと納得がいくことが多く見られまして
仮説を立てることができました。
・熊本肥後藩の豪族の人で、細川氏の支配下におり命を受けて新しい下関の新地町の開拓の支配を任された。地代は細川領へ納めていた。
(岡本家住宅の岡本氏?)
(相良氏一族の岡本氏?)
・3代目での時点で下関でかなりの負債を抱えていたことは萩藩の古文書で残されている。
・4代目で大阪へ移動してきているが、屋敷を構えた場所が江戸堀で、現在の肥後橋の近くであるということ(除籍謄本に明治19年に家督相続したことと住所の記載あり・江戸堀にいつからいるのかは不明・近くに肥後細川藩の蔵屋敷もあった)
・4代目の兄弟に近衛文麿公の御典医(岡本家から医師の田村家へ養子に出している)をしたものがいると伝えられていること。
細川家と近衛家が関係が深いことを昨日知りました^^;
・5代目(祖父の世代にあたります)に高野山に住んでいるものがいたということ。
(除籍謄本に記載あり)
総持院が細川家・相良家ともに所縁があるとのことなのでこれから調べます。
細川藩との関係をネットでザッと調べただけでもどうして?と思っていたところの説明がつくため、この説についても資料を探す作業をはじめようと思います。
こちらに書き込ませて頂いたおかげで、大きなきっかけができました。
アカコッコさん、姫沙羅さんありがとうございます。
また随時わかったことは報告させていただきます。
[14] | 隈さんからのコメント(2013年02月18日 10時01分05秒 ) | パスワード |
岡本さん
私の話で、何だか却って混乱させてしまったでしょうか・・・(^^ゞ
とりあえず、新しい手掛かりが分かって良かったですね。
頑張って下さい。(^^)
[15] | 岡本さんからのコメント(2013年02月18日 22時36分37秒 ) | パスワード |
URL=http://sennojyo.exblog.jp/ |
隈さん
いえいえとんでもないです。
手がかりが見つかって本当に助かっています。
親戚から聞いていることって「本当なの??」と眉唾な話が多い・・・です^^;
山口県の郷土史は関西の図書館へ貸し出しをしてもらえるものと無理なものがあり、下関へのお墓参りとともに山口図書館と長府図書館へも行かねばならないかなと思っています。
山口図書館(文書館)と下関図書館は一度行きましたが、やはり地元の図書館で調べるのが一番だと思いました。
もう山口図書館へはもう行かなくて済むかなと思っていましたが、以前にはなかった関係ありそうな古文書が検索で出てきていますので、実物を確認せねば^^;です。
[16] | 姫沙羅さんからのコメント(2013年02月19日 10時32分57秒 ) | パスワード |
あ・・・すみません、
昨日出がけに急いで書き込んだら、古いハンドルネームで投稿してしまいました。(^^ゞ
毛利家は家臣の由緒書きを提出させてまとめたりして、
山口県には結構古文書が残っているので、調べる側としても有難いですよね。
>親戚から聞いていることって「本当なの??」と眉唾な話が多い・・・です^^;
調べていくと、案外事実だったりして・・・
当たらずとも遠からず、ということもありますし。(^^)
度々山口まで出向くのが大変なら、レファレンスサービス
(図書館職員に調査を依頼して、送っていただく→コピー代・郵送料を支払う)
をお願いするという手もありますよ。
特に、調べたい資料がある程度絞り込まれている時などにはお薦めです。
やり方は各図書館のHPを参照して下さい。
[17] | 岡本さんからのコメント(2013年02月20日 22時09分45秒 ) | パスワード |
姫沙羅さん
同じ方、と判断してよかったのですね^^
山口県の古文書が多く残されていて本当に助かっています。
山口図書館のレファレンスサービスは既に複数回お世話になっていて^^;
とても親切にして頂きました。
山口県文書館で確認したい資料は決まっていますので、コピーなどを頂けるか
問い合わせてみます。
でもやっぱり現地の図書館で「うわー見放題、探し放題だ〜!」
っていうウホウホ感をもう一度、と思っています(笑
[18] | 姫沙羅さんからのコメント(2013年02月22日 11時47分01秒 ) | パスワード |
>同じ方、と判断してよかったのですね^^
はいそうです、どうも失礼しました。m(_ _)m
>山口図書館のレファレンスサービスは既に複数回お世話になっていて^^;
とても親切にして頂きました。
そうですか、それでは既にかなり詳しく調べられているのですね。
私も家庭の事情があって自由には遠出できないので、何度か利用しています。
>でもやっぱり現地の図書館で「うわー見放題、探し放題だ〜!」
っていうウホウホ感をもう一度、と思っています(笑
はい、そのお気持ち、すごく分かります(笑)
そのうえ史料でご先祖様の名前を発見した時には、天にも登る気持ちになりますよね。(^^)
楽しみつつ気長に手がかりを集めていれば、きっといろいろな事が繋がってくると思います。頑張ってくださいね。(^^)/
[26] | 清水さんからのコメント(2013年09月02日 01時43分59秒 ) | パスワード |
京都上賀茂 岡本家は上賀茂神社の古代から明治維新までの間、賀茂十六流賭して宮司を輩出していた、神に連なる社家です、賀茂七家賭して天皇の祭事を行っていたわけです、上記七家は八咫烏の子孫として引き継がれ、現在も上賀茂社家町として京都に残っています。
http://inisienohyakei.blogspot.jp/2010/02/blog-post_3671.html
---社家と一族---
賀茂七家
松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本を賀茂七家と呼ぶようです。明治時代まで、神主、禰宜(ねぎ)、祝(はふり)・権禰宜・権祝など、九職を務めていたようで、今も健在のようです。歴史は、古くは、賀茂氏人の中から、選んでいたが、鎌倉時代以降、後鳥羽天皇の長子と言われる、氏久の系統につながる家々が、勤めるようになったようです。江戸時代には、275軒の社家が存在したそうです。
関東グループ - 賀茂県主同族会ホームページ
kamoagatanushi.or.jp/Kantou_Branch.html
第6回賀茂県主同族会関東グループ総会開催. 日 時 : 2005年9月24日(土) 13:30〜 場 所 : きゅりあん(品川区立総合区民会館)6F 中会議室 式次第 : @開会 岡本清孝支部長 A同族会会長挨拶「同族会近況」 西池成晃理事長(代読) B議題 平成16年度 ...
このページに 2 回アクセスしています。前回のアクセス: 13/09/01
[38] | 相良四郎さんからのコメント(2023年03月09日 13時12分16秒 ) | パスワード |
勉強になると思ったので上げさせて頂きます。
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